瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 讃岐のため池

満濃池パンフレット 図書館郷土史講座JEPG

まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、7月は綾子踊りについてお話ししました。10月は近世の絵図に満濃池がどのように描かれているのかを見ていくことにします。興味と時間のある方の来場を歓迎します。なお、会場が狭いので事前予約が必要となります。

満濃池 讃岐国名勝図会
満濃池(讃岐国名勝図会11巻)

満濃池 象頭山八景鶴舞図(1845)

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)


ブログ内の満濃池関連文書
https://tono202.livedoor.blog/archives/cat_30002.html
グーグル検索 「満濃池をめぐって」 












 

 前回は戦後の満濃池土地改良区が財政危機から抜け出して行く筋道を押さえました。今回は土器川右岸(綾歌側)の土地改良区がどのように、用水確保を図ったのかを見ていくことにします。テキストは「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」です。

土器川と象頭山1916年香川県写真師組合
土器川と象頭山(1916年 まんのう町長尾)

土器川は流路延長42㎞で、香川県唯一の一級河川ですが、河川勾配が急なため降雨は洪水となって瞬時に海に流れ出てしまいます。そして扇状地地形で水はけもいいので、まんのう町の祓川橋よりも下流では、まるで枯川のようです。
飯野山と土器川
土器川と飯野山(大正時代)
しかし、これはその上流の「札ノ辻井堰(まんのう町長尾)」から丸亀市岡田の打越池に、大量の用水を取水しているためでもあります。近世になって開かれた綾歌郡の岡田地域は、まんのう町炭所の山の中に亀越池を築造し、その水を土器川に落とし、札ノ辻井堰から岡田に導水するという「離れ業的土木工事」を成功させます。これは土器川の水利権を右岸側(綾歌側)が持っていたからこそできたことです。左岸の満濃池側は、土器川には水利権を持っていなかったことは以前にお話ししたとおりです。

土器川右岸の水利計画2
「亀越池→土器川→札の辻井堰→打ち越池」 
土器川は綾歌の用水路の一部だった 
 第3次嵩上げ事業の際に満濃池側は、貯水量確保のために綾歌側に土器川からの導水を認めさせる必要に迫られます。そのための代替え条件として綾川側に提示されたの、戦前の長炭の土器川ダム(塩野貯水池)の築造でした。それが戦後は水没農家の立ち退き問題で頓挫すると、備中地池と仁池の2つの新しい池の築造などの代替え案を提示します。こうして綾歌側は、土器川の天川からの満濃池への導水に合意するのです。今での事業案を土器川左右両岸に分離し、次の2つの事業として実施されることになります。
左岸の満濃池側の事業を「県営満濃池用水改良事業」
右岸の綾歌側の事業を「県営土器川綾歌用水改良事業」
こうして右岸(綾歌側)のために策定されたのが「香川県営土器川右岸用水改良事業計画書」 (1953年)です。この計画によると

満濃池右岸水系
①「札ノ辻井堰」を廃止してそのすぐ上流に「大川頭首工」を新築
②あわせて旧札ノ辻井堰から打越池や小津森池、仁池につながっている幹線水路を整備
③さらには飯野地区までの灌漑のために飯野幹線水路を整備
 しかし、大川頭首工の新設と幹線水路の改修だけでは綾歌地区2200㌶の灌漑は、賄いきれません。必要な用水量確保のために、考えられたのが次の二つです
④亀越池のかさ上げ
⑤備中地池と仁池の2つの新しい池の築造
備中地池竣工記念碑
備中地池竣工記念碑 1962(昭和37)年

この右岸地区の用水計画を行うために作られたのが、「亀越池土地改良区 + 飯野土地改良区 + 羽間土地改良区」など8つの土地改良区の連合体で構成された香川県右岸土地改良区連合(以下連合)のようです。
 土器川右岸用水改良事業は、次のように順調に進んでいきます。
1954(昭和29)年度 打越池幹線水路改修、
1956(昭和31)年度 仁池幹線水路改修
1957(昭和32)年度 小津森池幹線水路改修
1959(昭和34)年度 大川頭首工建設
1962(昭和37)年度 備中地池新設
1963(昭和38年)度 飯野幹線水路改修
一方、亀越池の嵩上げ工事は、用地買収が難航して着工できない状況が続きます。そんな中で昭和38年度末に連合の事業は全面ストップしていまいます。
亀越池
亀越池
  順調に進んでいた工事がどうしてストップしたのでしょうか?
土器川右岸用水改良事業の資金は、国・県が75%、地元25%の負担率でした。地元負担金は各土地改良区から徴収する賦課金でまかなわれることになります。定款によれば、賦課金のうち備中地池や大川頭首工など水源地事業は、全事業費を各土地改良区の受益面積で按分し、水路事業は事業費20%を全土地改良区で負担、残りの80%は関係土地改良区が負担するというルールになっています。そのため幹線水路の改修工事の場合、当幹線水路の土地改良区が賦課金を負担できないと、工事は進められなくなります。
 そうした中で、1955(昭和30)年に飯野村が丸亀市に合併されると、飯野土地改良区からの賦課金の徴収が滞るようになります。さらに1960(昭和35)年には羽間土地改良区が連合を脱退することを決め、以降賦課金を納入しなくなります。こうして連合全体の財政が悪化し、ついに事業そのものを続けることが出来なくなります。
 そうした中で農林漁業金融公庫に対する償還金が支払えずに未払い分がふくれ上がっていきます。
対応策として連合は1965(昭和40)年12月、降賦課金を納入しない飯野、羽間の両土地改良区連合と丸亀市に対し訴訟を起こします。これに対して、高松地方裁判所は裁判による決着をさけ、県当局に調整を依頼します。たしかに飯野土地改良区の賦課金滞納、羽間土地改良区の賦課金未納は法律違反です。しかし、羽間土地改良区側には次のような言い分もありました。
①大川頭首工が建設されたために羽間地区の水源である「大出水」が枯渇したこと
②羽間池導水路工事に対する連合の助成が不履行であること
 また、丸亀市も次のように主張します。

「これまで飯野村が助成してきた飯野土地改良区の賦課金は、合併以降は丸亀市が代わって助成する約束になっていると、飯野村はいうけれど、市当局の認識はそのような合意は明文上成立していない。それに事業受益地の末端にある飯野地区では、亀越池のかさ上げが実現していない現状では、幹線水路を改修しても、事業の用水増強効果はほとんど期待できない。」

さまざまな事情を考慮した結果、裁判所は和解による解決の途を奨めます。
和解は1973(昭和48)年8月になってようやく成立します。この間、連合は両土地改良区の受益地に対して用水供給のための措置を講じる一方で、1966(昭和41)年3月には、総会において事業の打切りを決定します。そして亀越池かさ上げに代わる水源に、香川用水を宛てることにします。土地買収が必要な亀越池かさ上げでは1立方メートル当たりの水価 220円に対し香川用水では60円ですむ計算が出されています。香川用水の方が1/3以下も安いのです。こうして香川用水に頼って、自前による用水確保(亀越池嵩上げ)を放棄することになります。これは賢明な決定だったようです。この年には、香川用水建設規成会が設立されます。翌年に早明浦ダムの本体工事に着手して香川用水の実現も間近という背景がありました。
   前回もお話ししたように土地改良区の財政悪化問題は、綾歌や満濃池土地改良区にかぎったことではありませんでした。ある意味では全国的現象でした。その背景には高度経済成長期以降における農民層の階層分化という歴史的変化があったと研究者は指摘します。高度経済成長下の農村からは大量の人口流出が進みます。その反面で、兼農家が増え続けたことはよく知られています。生産意欲が高く土地改良などに積極的な専業農家層に対し、兼業農家は「土地持ち労働者」と呼ばれました。つまり農地に対する資産保有的意識が強いけれども、土地改良投資などには出し惜しみをする農家層だとされます。嵩上げ事業や用水路整備などの土地改良事業は、兼農家層には大きな負担や重圧になります。土地改良区の財政的弱体化の根底には、このような 兼業農家の激増という日本農業の構造的変動があったと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①戦前に策定された満濃池第3次嵩上げ事業は、戦時下の食糧生産増強という国策を受けて、土器川両岸の改良計画であった。
②しかし、戦後の計画では目玉となる「土器川ダム」が頓挫し、土器川から満濃池への導水については、右岸(綾歌)側の強い反発を受けるようになった。
③そこで県は新たな貯水量確保手段として「備中地池・仁池の新築 + 亀越池嵩上げ」を提案し、綾歌側の合意を取り付けた。
④こうして土器川右岸(綾歌側)は、独自の計画案で整備計画が進められるようになった。
⑤しかし、一部の土地改良区からの賦課金未納入や脱退が起こり、整備計画は途中中止に追い込まれた。
⑥この背景には、計画中の香川用水を利用する方が経済的に有利だという計算もあった。
⑦こうして綾歌地区は亀越池の嵩上げ工事に着手することなく、香川用水の切り替えを行った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「辻 唯之 戦後香川の土地改良事業と満濃池   香川大学経済論叢18」


かつて「弥生期=ため池出現説」が出されたことがありました。讃岐において、これを積極的に展開したのが香川清美氏の「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)でした。香川氏は弥生式遺跡とため池の立地、さらに降雨時の洪水路線がどのように結びついているかの調査から、丸亀平野における初期稲作農耕がため池水利へと発展した過程を仮説として次のように提唱しました。まず第一段階として、昭和27年7月の3回の洪水を調査し、丸亀平野の洪水路線を明らかにします。この洪水路線と弥生式遺跡の立地、ため池の配置を示します。

丸亀平野の水系

 ここから次のようなことを指摘します
①弥生遺跡は、洪水路線に隣接する微高地に立地
②ため池も洪水路線に沿って連なっている
③ため池は「うら成りひょうたん」のように鈴成りになっており、洪水の氾濫が収束されて最後に残る水溜りの位置にある。
④これらのため池は、築造技術からみると最も原始的な型のもので、稲作農耕初期に取水のための「しがらみ堰」として構築されたもので、それが堤防へと成長し、ため池になったものと推測できる。
⑤水みちにあたる土地の窪みを巧みに利用した、初期ため池が弥生時代末期には現れていた。
この上で次のように述べます。
 日本での池溝かんがい農業の発生が、いつどのような形で存在したかは、まだ充分な研究がなされておらず不明の点が多い.いまここで断定的な表現をすることは危険であろうが、稲作がほぼ全域に伝播した①弥生の末期には、さきに述べたような初期池溝かんがい農業が存在し、その生産力を基盤にして古墳時代を迎え、その後の②条里制開拓による急激な耕地の拡張に対応して、③本格的な池溝かんがいの時代に入ったと考えられる.このことは、④中期古墳の築造技術とため池堤防の築造技術の類似性からも推察されることである。あの壮大な古墳築造に要した労働力の集中や、石室に施された精巧な治水技術からみて、中期古墳時代以降では、かなりの規模のため池が築造されていたと考えられる。

要点しておくと
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
讃岐のため池(四国新聞社編集局 等著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

以上を受けて『讃岐のため池』第一編は、丸亀平野の山麓ため池と古代遺跡の関係を次のように記します。

  丸亀平野の西端に連なる磨臼山・大麻山・我拝師山・天霧山の山麓丘陵地帯は、平形鋼剣・銅鐸の出土をはじめ、多くの弥生遺跡が確認されている。その分布と密度からこの一帯は、讃岐でも有数の弥生文化の隆盛地と考えられる。(中略)同時に磨臼山の遠藤塚を中心に、讃岐でも有数の古墳の集積地である。この一帯の山麓台地で耕地開発とため池水利の発生があった

 1970年代に『讃岐のため池』で説かれた「弥生期=ため池出現説」は、現在の考古学からは否定されているようです。
どんな材料をもとに、どんな立論で否定するのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
 最初に丸亀平野の稲作は、どのような地形で、どのような方法ではじまったかを見ておきましょう。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割 四角部分が対象エリア

 丸亀平野でも高速道路やバイパスなどの遺跡発掘が大規模に進む中で、いろいろなことが分かってくるようになりました。例えば初期稲作は、平地で自然の水がえやすいところではじめられています。それは土器川や金倉川・大束川・弘田川など作りだした扇状地地形の末端部です。そこには地下水が必ずといっていいほど湧き出す出水があります。この出水は、稲作には便利だったようで、初期の弥生集落が出現するのは、このような出水の近くです。灌漑用水は見当たりません。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵場遺跡

 また、善通寺の旧練兵場遺跡などは、微高地と微高地の上に集落が建ち並び、その背後の後背湿地が水田とされています。後背湿地は、人の力で水を引き込まなくても、水田化することができます。静岡の登呂遺跡も、このような後背湿地の水に恵まれたところに作られた水田跡だったようです。そのため田下駄などがないと底なし沼のように、泥の中に飲み込まれてしまいそうになったのでしょう。
登呂遺跡は当初は灌漑施設があったとされていましたが、それが今では見直されているようです。
登呂遺跡の場合、水田のまわりに木製の矢板がうちこまれ、水田と水田とのあいだは、あたかも水路のように見えます。そのため発掘当初は、人工的に水をひき、灌漑したものとされました。しかし、この矢板は、湿地帯につくられた水田に泥を帯りあげ、そのくずれるのを防ぐためのものだったというのが今では一般的です。矢板と水路状の遺物は、人工的な瀧漑が行なわれていたことを立証できるものではないというのです。そうすると、弥生期の稲作は、灌漑をともなわない湿地での水稲栽培という性格にとどまることになります。

『讃岐のため池』の次の主張を、現在の考古学者たちがどう考えているかを簡単に押さえておきます。
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。

②については、かつては条里制は短期間に一気に工事が推し進められたと考えられていました。
そのために、急激な耕地面積の拡大や用水路の整備が行われたとされました。しかし、発掘調査から分かったことは、丸亀平野全体で一斉に条里制工事が行われたわけではないことです。丸亀平野の古代条里制の進捗率は40%程度で、土器川や金倉川の氾濫原に至っては近代になって開墾された所もあることは以前にお話ししました。つまり「条里制工事による急速な耕地面積の拡大」は、発掘調査から裏付けられません。 
 ③の「灌漑水路の整備・発展」についても見ておきましょう。
丸亀平野の高速・バイパス上のどの遺跡でも、条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小川や出水などの小さな水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものばかりです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。 「大規模な溝(用水路)」が丸亀平野に登場するのは平安末期なのです。
   ここからは古代の満濃池についても、もう一度見直す必要がありそうです。
大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」とされますが「大きな溝」が出現しない限りは、満濃池の水を下流に送ることはできなかったはずです。存在したとしても古代の満濃池は近世のものと比べると遙かに小形で、現在の高速道路付近までは水を供給することはできなかったということになります。
   
④中期古墳の築造技術は、ため池堤防に転用できることから古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
 これについてもあくまで推測で、古代に遡るため池は丸亀平野では発見されていません。また丸亀平野の皿池や谷頭池などもほどんどが近世になって築造されたものであることが分かっています。「古墳時代後期にかなり規模のため池が築造」というのは、非現実的なようです。
高速道路・バイパス上の遺跡からは、江戸時代になって新たに掘られて水路はほとんど見つかっていません。
その理由は条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になっています。つまり従来の地割に、付け加えられるような形で整備されたことになります。これが現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。
丸亀平野の灌漑・ため逝け

 以上をまとめておきます。
①丸亀平野の初期稲作集落は、扇状地上の出水周辺に成立しており、潅漑施設は見られない。
②善通寺王国の首都とされる旧練兵場遺跡には、上流の2つの出水からの水路跡が見られ、灌漑施設が見られる。しかし、ため池や大規模な用水路は見られない。
③古墳時代も用水路は弥生時代に引き続いて貧弱なもので、大量の用水を流せるものではなく、上流の出水からの用水程度のものである。
④律令国家の条里制も一度に行われたものではなく「飛躍的な耕地面積の拡大」は見られない。
⑤用水路も弥生時代と比べて、大規模化したした兆候は見えない。用水路の飛躍的な発展は平安末期になってからである。
⑤ため池からの導水が新たに行われたことをしめす溝跡は見当たらない。
⑥新たに大規模な用水路が現れるのは近世以後で、満濃池などのため池群の整備との関連が考えられる。
⑦この際に新たに掘られた用水路も、既にある用水路の大型化で対応し、条里制遺構を大きく変えるものではなかった。
以上からは「弥生期=ため池出現説」は、考古学的には考えられない仮説である。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)。
  『讃岐のため池』
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」

                                
前回は今から90年前に香川県を襲った大干魃の様子を見ました。今回は、これをローカル紙であった香川新報がどのように報道しているかを見ていくことにします。テキストは、「辻 唯之  讃岐の池と村 香川大学経済論叢第68巻 第 4号 1996年 3月」です。 

1934年の旱魃 香川県
1934(昭和9)年の降水量(多度津測候所)

1934年の降水量比較 香川県
1934年の降水量比較
まず復習として1934年の降水量を見ておきましょう。上表からは次のような事が分かります。
①冬場に雨が少なかったため、春先になっても、各ため池は満水状態ではなかったこと
②4月には例年並の降水量があったが、満濃池などを満水にすることはできなかったこと
③6月20日の県の調査によると2割以上のため池が、貯水量が半分にも達しなかったこと。
④5月6月の空梅雨と水不足のため、田植えができないところがでてきたこと
⑤7月末から約1ヶ月、雨が降らず猛暑が続いたこと。

讃岐の大干魃新聞記事 昭和9年
干ばつを報じる香川新報(1934年)

1934(昭和9)年7月1日の香川新報は次のように記します。
「もう梅雨は明けてしまった」
香川県では十二日の入梅以来、潤雨のあったのは十六日と十九日午後から二十日迄と二十四日午後一寸降ったくらいだった。例年のような雨が一切なく梅雨明けという半夏生も後三日で如何様にも雨が少ないので田植えのまだ出来て居らぬ田地も多く。…」
水不足で田植えができない水田が多いと伝えています。このころから香川新報の紙面には、次のような旱魃の記事が目立ちはじめます。
 7月 6日
 県の農務課の調査によれば、田植えの終わった水田は県全体の水田のほぼ半分で、大川郡の相生村など17の町村では水源が枯渇し植え付け不能。
 7月 7日 
県当局は緊急干害対策協議会を開催、満田県農事試験場長は農会の技術指導員などに対し、仮植えでもいいからとりあえず苗代の苗を本田に移しかえるよう督励した。しかし、本田自体が水がなく乾いているから、仮植えをしてもその干害対策が大変である。同じく県農事試験場長から四五寸に切断せる藁稗其他之に類するものを株下一面に散布し、日光の遮断をし、地面の乾燥を防ぐこと、稲田の乾燥甚だしくて枯死に瀕せむとする場合には、井水其の他を利用し土瓶又は杓を以て少量宛にでも根元に濯水すること」などの注意事項が披露された。
 7月9日 
満濃池の水位が55尺から30尺に減じた。あと10日雨がなければ「証文ユル」の実施も止むなしという。もし実施されれば、大正2年以来のことになる。
 7月 10日
 栗林公園の池の水を譲り受けて灌漑されている高松市宮脇町の水田は、池水の減少とともに旱魃がいちじるしく、農民たちは県の公園課に一層の池水の流用を陳情、高松市農会長も木下知事に窮状を訴えた。
 7月 13日 
仏生山署は香南14ヵ町村の田植えの進行状況について、一宮、多肥、大野の3ヵ村では田植えがまだ半分も終わっておらず、一宮村では314町歩の水田のうち田植えの終わった水田はわずか100町歩しかないと報告した。

このような中で、7月13日夜半から14日早朝に「恵みの雨」が降ります。
雷鳴をともなったはげしい雨で、乾き切っていた水田は息を吹き返します。遅ればせながら田植えも、数日でほぼ完了の見とおしが出てきます。7月14日の香川新報は、田植えのはじまった田園の光景を入れて、大見出しで次のように報じます。
降った降った黄金の雨、もう農村は大丈夫」

 しかし、雨はこれっきりでした。その後は雨ふらないまま7月が終わります。8月に入っても晴天が続き、雨は一向に降りません。こうして盆前には、7月段階よりさらに深刻な水不足に襲われます。
8月18日の香川新報の見出しは、
「農村の惨状 目も当てられず旱魃非常時 学童から老人まで総動員で濯水作業に汗みどろ」
「天はまだ疲弊の農村に恵みを投げず、雨を見ざることここ1ヶ月余りに亘り、ジリジリと油照りの炎天つづきで、農村には恐る可き大早魁が予想され、農民は唯だ雲の動きを望んで青息吐息に萎れている。いづれを見ても田園には砲列のように濯水車がならんで涸れなん水に空車がきしる。殊に水不足の香川郡多肥、太田、一の宮方面では小学児童から爺さん婆さんまで総出動の活動で、眼前に楽しい孟蘭盆を控えて今はみぐるみ団子になりそうである。村の青年少女等がこの分では憧れの盆踊りも物にはならずとはいへ、皆々一言の不平も云わずに一心不乱で稲の看護、汗みづくとなりコトコトと濯水車を踏んでいる。」
と、盂蘭盆を前にしてもその準備もできず、濯水車を踏む人々の姿が報じられています。
足踏み揚水機
足踏揚水機(灌漑水車)

以後、旱魃記事が連日、次のように続きます。
8月21日
旱魃の被害田、三豊郡内耕地七千六百町中、亀裂枯死四百町歩、水不足で白田一千町歩、惨状目も当てられずか(白田は、涸れて稲が白くなること)
8月 22日
旱魃依然ノ農村の危機、県下の被害回一万町歩、ここ一週間で稲の運命の黒白を決す 木下知事、東に西に干害実況を視察。
8月24日
牢晴恨し、渇水地獄編、西讃七千の溜池全部サッパリと底を払ふ 東讃一万三千の池、一合平均に貯水、満濃池も足が立つ惨状。
8月26日
挺子でも動かぬ炎帝、雨に耳をかさぬ 無水地獄に農民なく 県下の被害回二万町歩、枯死一千町歩に上がる 今後七日間雨なき場合の枯死、三千町歩、けふ県の正式発表。
8月28日
大満濃池も気息奄々  砂漠のような姿で近く大戸の閘も抜、もはや、この8月末の時点における旱魃の稲作への影響は決定的というべく、県当局が8月29日現在の被害状況について発表したところによると、稲の枯死した水田は 23日時点の1000町歩からその5倍の5000町歩へと一挙に広がった。このまま事態が推移すれば、水田の半分近くがダメになると予想される。
                       (下図)


1934年の旱魃 香川県被害状況

そんな中で8月31日の夜半から9月1日の早朝にかけて、雨が降ります。
「潤雨、万霊を潤す 生気萌立つ県下農村」

と9月2日の香川新報は報じます。この雨で一部の水田では立ち枯れ状態だった稲が立ち直りますが、最終的には表 4にみるとおり、香川の稲作は惨たんたる状況でした。
1934年の旱魃 香川県被害状況2
1934年の香川県の稲作の干ばつ被害状況
この年の収穫高 76万石は前年の 107万石に対して約 30%減
となっています。
被害を大きくした要因の一つに研究者が挙げているのが、ため池の貯水機能の低下です。
当時は大正の小作争議で、地主たちの農業ばなれの傾向が強まっていました。つまり、地主達の農地に対する管理意欲が低下して、地主が今まで行ってきたため池の維持管理がなおざりがちになっていたと云うのです。
 この点について前年の県会で県当局に対して、ため池の施設改善を求めた議員の発言が残っています。

「県内耕地五万町歩に対する使命を持っている溜池が一万七千有余もあるようでありまするが、この溜池が一割及至二割位は土砂の堆積で水量を減退して居るものが殆どと言うても宣かろうと思ひます。多きは三割及至四割位減水をして居る所も往々あるのであります」

ここには、浚渫(泥さらえ)が長く行われずに放置されていて、貯水量が低下しているため池が多数あることが指摘されています。ため池の浚渫を長く怠ってきたことも、水不足に拍車をかけたようです。

文庫 百姓たちの水資源戦争 江戸時代の水争いを追う | 渡辺 尚志 | 絵本ナビ:レビュー・通販

干ばつになると、水争い(水論)が各所で激化するのが讃岐の常です

枯れていく稲を、眼前した村人たちは、雨乞いをします。その一方、我が村、我が部落に少しでも多くの水を確保するために「我田引水」の水争いを行うようになります。それが香川新報の紙面に登場するのは、7月のはじめのころからです。前回紹介できなかった記事を、時系列に並べて見ておきましょう。

昭和9年香川県水論一覧表1
1934(昭和9)年の香川県の水争い一覧(7月・8月前半)

7月 3日
(三豊の)大谷池は 6月 21日にユルを抜き、池掛かりは全区域とも水田の6分を見当にして、第 1回の田植えを開始した。ところが上流の萩原村は、上流という地勢上の優位を利用して次々に田植えをすすめ、さらに水路を堰止めてしまった。そこで、下流の中姫村とはげしい水論となった。
7月 7日
香川郡多肥村の田井部落の出水は、木田郡の林村にも水掛かりがある。田井部落の農民たちは旱魃にそなえて、出水の周辺に数個の堀割りを新設した。そのため日ごとに細まりつつあった出水の水はさらに細まって、ついに林村に水が来なくなった。新設の堀割りを埋めるよう田井部落に掛け合ったが入れられそうになく、林村は県に陳情するつもりであるという。

 7月8日
小田池の末流に位置する円座村は上流の川岡村と交渉の結果、7月 4日から 3日間、田植え水の配水をうけることとなった。が、乾き切った水田は水を吸うばかりで田植えはいっこうにすすまず、そこで円座村は配水期間の延長をもとめて再度の交渉をもった。しかし、交渉が難行し要求が入れられないとみるや、円座村の農民たちは大挙してトラックで交渉の現場に急行、あわや大乱闘という寸前に仏生山署の警察官が駆けつけ、ひとまずその場はおさまったという。

 7月 10日
7月8日の夜中、実光寺池の水を発動機で引き揚げようとしていたひとりの男を、実光寺池掛かりの農民たちが大勢で袋叩きにしているところを、瀧宮署の署員が発見。この男を連行して取り調べたところ、この男は篠池掛りの農民で、枯死しつつある自分の回の稲を見るに忍びず、つい盗水におよんだとのことでした。。

 7月14日に慈雨が降ったことは、先ほど見たとおりです。この雨で、水争いのことはぴたりと紙面から見えなくなります。それが8月になっても雨が降らないと、再び水争いの記事が紙面に溢れるようにでてきます。それは前回に紹介しましたので、ここでは省略します。

昭和9年香川県水論一覧表2
1934(昭和9)年の香川県の水争い一覧(8月後半)

 1934年の香川県を襲った旱魃については、以上に見てきた通りです。ところが5年後の1939年に、これを上回る「想定外の大旱魃」を経験することになります。
1939(昭和14)年の降水量676ミリは平年の半分です。そして米の収穫高も、前年の半分まで落ち込みます。そして深刻な影響を、香川の農村にあたえたのです。旱魃対策に無為無策では、社会不安をもたらし、県の指導者に対する批判にもつながります。こうして県は、干ばつ対策の目玉政策として、満濃池の第3次嵩上げ工事に取り組むことになります。そういう意味では、1934年と39年の大干魃が、満濃池の第3次嵩上げ工事を後押ししたといえるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
辻 唯之  讃岐の池と村 香川大学経済論叢第68巻 第 4号 1996年 3月

満濃池堰堤の石碑
満濃池の3つの石碑
満濃池堰堤の東側に建っている石碑巡りを行っています。
 ① 長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記    (明治 8年)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
前回は①について、長谷川佐太郎が満濃池再築の功績により、朝廷から藍綬褒章を賜ったのを機に建立されたものであることを見ました。忘れ去られようとしていた長谷川佐太郎は、この石碑によって再評価されるようになったともいえる記念碑的なものでした。
今回は、②の「真野池記」です。この石碑は、神野神社に登っていく階段の側に建っています。昨日見た①の長谷川翁功徳之碑が大きくて、いかにも近代の石碑という印象なのに対して、自然石をそのままつかった石材に、近世的な感じがします。しかし、当時の人達には「大きいなあ」という印象を与えたはずです。
   この石碑は明治3年の満濃池再築を記念して建立されたものです。
 幕末に決壊した満濃池は、14年後の明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で再築されます。これを記念して建立された石碑になるようです。そういう経緯からして、この石碑も長谷川佐太郎顕彰碑的なものと、私は思っていました。実際に見ていくことにします。

P1260747

弘仁八年旱自四月抵八月郡懸奏之僧空海暮蹟也平時京寓十二丑三月命於是乃甘臨民乙己成霊汪元暦元五月朔洪淵涌天破堤而謂池内村寛永三夏九十五日不雨生駒高俊臣西嶋之尤廓度之五歳創貴鋪八辛未果編戸歓賞文化十季丈為猪辰豹変水啼之嫌囃恟後指役先寇攘丁械摸五表拾克騏羅霧集上下交征利讃法庫有信直者厭夥粍訴請冑以庵治石畳方欲傅無疆嘉永二秋経始明春半済同五継築頻崩潰至七寅春梢畢菊以石泰之不能釘用嘗庸水候雷流井読潜瓜洞出而樋外漫滑布護豊囲同白七月五日格九日肆陳渫漑ド大残害黎首琥泣荒時信直幄轄反側将再封因九合三藩丸亀多度津失三為垂戻故木移浹辰為赤地笙涌気浚井設梓夙夜橘挽妻夫汲々老稚配分炎熱如燃汗如沸希水臍疲渇望洽祈雨燎矩奉百神偶甘雷堪憐田如鰐口剖然則何益矣慶唐二八月七日蕩々森漫懐山資丘琴平屋橋落雨町暴浦老弱男女暁眺泣血漣如溺回計家財大木乏々詠連典北邨旋陀羅鳩漂流越市郷為空動浩魅浅襲穀深為諸坪允巨妃莫比農商歎憚不逞書契焉明々陣頼總朝臣在屯之初九陽徳兼玄黄元々如父母思服如衆星共之三田深田木崎障溜三新池.欲使萬湖穿岩壁先寒川郡使兼勒沼試可最元吉松崎祐敏慨然以一手欲経営之遭戎東愈労働十七暦明治二九月谷本信誼督発旱工既成者翌稔也壬申大膜源泉混々拝穂之瑞敞閉復蘇踊躍不焉余環匝徴徹塞尾張有人鹿池沈波及八万石云雖然械浸吐繕同州甲費也如十市者天下一懸高五万石育磐石防聊数十間双沃欧昔昔空海不究勲天乎命平君地平悠遠省國等賞鴻恩均乾坤公俊徳尖被六合嗚呼可謂累緒不朽神功者也矣
千秋来暦萬濃池為野為原嘉永時百姓傷心将廿載天成磐賓不窮乖鳳鳥翻東海雛離万里嗚仁人民父母親去子何行真野乃池者池之大王動無石械示早流水能白憧
 明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建
意訳変換しておくと 
①弘仁八年(817)旱魃は4月から8月まで続いたので、国司は朝廷に大池を築くことを奏上した。よって、池を築いたのは僧空海の業績である。この時に、彼は都に住んでいたが3月に、朝廷からの命を受け讃岐に帰り、人民たちに接した。人々は子が親を慕うように働くこと七か月、弘仁十二年(822)に立派な池が完成した。

②元暦元年(1184)5月1日に大洪水があって天まで水が届き、堤は破壊された。(その後、池跡は開墾され村が出来たので)、この地を池の内と言う。

③寛永三年(1626)夏、95日間に渡って雨が降らない。丸亀城主生駒高俊は、家来の西嶋之尤に、満濃池再築を命じ、五年にして完成させた。りっぱな鍬を創作し、辛未には新しく戸籍を作る。民はその治世を賞賛した。

④文化十年(1813)は旱魅と洪水とがともに襲ってくる恐ろしい災難の年であった。もっこで土を運ぶか運ばない内に、雨で土が削り取られて流されてしまう。池の配水口の所に五基の功績を表わした碑を誇らしげに建てた。しかし、修復に集まった人々は上下こもごも自分たちの利益に目先を奪われ、修復が遅々として進まない。このため改修を官に請願し、庵治石を畳のように敷き詰める工法を採用した。

⑤嘉永二年(1849)、農閑期の秋から工事を始めて来春になると休む。これを繰り返して嘉永五年(1852)まで工事を続けたが、七度崩壊した。そのため、遂に底樋を石で造ることにした。(底樋石造化工法の採用)。ところが石なので釘を用いることができず、配水口に敷き瓦を並べたりすることで石同士を接合し、樋の外側が滑らないように布で護ったりした。しかし、7月5日から9日に、この装置が水で洗われ、ぶっつかり合って堰堤は崩壊した。そのため池の水が大流出し、下流に人きな被害をもたらした。大民たちは泣き叫び、田畑は荒れ、転々と寝返りをうって転げ回り、安んじて生活ができない。

 ⑥(満濃池が再建されず放置されたままなので)、高松・丸亀・多度津など三藩は、旱魃と水害によってしいたげられた。満濃池の水が来ないので、樋を造り、井戸をさらえて朝早くから夜遅くまで夫や妻は、つるべで水を汲む。老人や子供は暑い中で汗を流し、また雨が降るように神々に明々と燈明をあげ雨乞いをしている。神を憐んで大雨が降った。しかし益はなかった。
 慶応二年(1866)8月7日、大雨で濁流となった水は山を包み丘に登り、琴平の鞘橋を越て、各町に流れ込んだ。老若男女は泣き叫び、血を流し溺れる人の数を知らない。また大木も浮かび連なって流れて行く。洪水は村々に拡がって穀物を襲い土橋を越えて流れて行く。
 ⑦この時の高松藩主の源頼総朝臣(高松藩主松平頼総)は、人の行うべき九つの徳を構え、民衆から子の父を慕うように心服されていた。彼は三田と深田と木崎の三箇所に取水堰を新に造った。また池の配水口のため岩盤に穴を開ける案を計画し、寒川郡の弥勒池で試させた。
松崎祐敏は、ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ。苦労は17年間続き、明治2年9月谷本信誼の監督のもとに完成した。混々と流れ出る水は、稲田を蘇生させた。
 ⑧私が池の周囲を見回ってみると水面に高々と水門(ゆる)の装置が見える。尾張の国に入鹿池という八万石を潤す池があるというけれども、この十千池(とおちのいけ)とも呼ばれる万農池は池懸り五万石で配水口は岩盤を穿ち、石が堤防数十間に敷き詰められ肥沃な土地を造る日本一の池である。
 空海が功績を独占せずに天が君の徳に応じて与えたものである。悠然として国の土木工作に従事したことは天地の深い恵みと貴公の高い徳によるものであって、全世界に神の功績として不朽である。千年来の万濃池を野のため原のために、また清き水思う百姓の心になりて二十年の長き間、打盤
を穿ち続けたことよ。おおとりのひなを離れて万里の空を天翔る如く人民の父母と慕いし徳高きあなたは今何処に行かれる。真野池は池の大王なり、岩盤に流れ走る水は白き大のぼりなり。
碑文の内容を整理しておきます。
①前文で、空海の満濃池再築の業績を語り。
②それが平安末期に決壊した後は修復されず、池跡は開墾され「池之内村」ができていたこと
③江戸時代初期に生駒藩主高俊が西嶋八兵衛に命じて満濃池を再築させたこと。
④文化十年(1813)の災難の年に「庵治石敷詰め工法」を行ったこと
⑤嘉永二年(1849)の底樋石造化工法の採用経過と、地震による決壊
⑥満濃池決壊後の旱魃と大水の被害
⑦高松藩主松平頼総の立案と命を受けて、執政松崎渋右衛門祐敏が弥勒池で岩盤に底樋を通したこと
⑧十市池(真野池)への賛美

この内容には、いろいろな誤謬や問題があるように私には思えます。それを挙げておきます。
①②③は、満濃池の由来を記す史料がどれも触れるもので、特に問題はないようです。
④の「庵治石敷詰め工法」については、「満濃池史」などにも何も触れていません。これに触れた史料が見当たらないのです。また、香川県史年表などを見ても、この年が旱魃・大水の「災難の年」とはされていません。2月27日に金毘羅代権現金堂起工式行われたことが「金刀比羅宮史料」に記されているのが、私の目にはとまる程度です。この記事自体が、疑わしいことになります。
⑤の嘉永二年(1849)の底樋の石造化工法の採用経過については、それまでの木造底樋がうまくいかないので、途中から工法を替えて石造化にしたとあります。これも事実認識に誤りがあります。この時の工事責任者である長谷川喜平次は、当初から石造化で工事をすすめていたことは以前にお話ししました。
⑥の満濃池決壊後の状況については、治水的機能を果たしていた満濃池が姿を消すことで、洪水が多発したことは事実のようです。
⑦については、当時の高松藩主の善政を賞賛し、底樋石穴計画も藩主の立案と命であったとします。そして池の復旧に奔走したのは、執政松崎渋右衛門で「ひとりで満濃池再築の難事業に挑んだ」と記します。これは誤謬と云うよりも、長谷川喜平次の業績をかすめ取る悪意ある「偽造」の部類に入ります。
⑧ そして最後は、激情的な「十市池(真野池)賛美」で終わります。
満濃池 長谷川佐太郎
長谷川佐太郎
これを読んで最初に気づくのは、長谷川佐太郎の名前がどこにも出てこないことです。
この時の満濃池再築の立役者は、長谷川佐太郎です。彼が立案・陳情し、私財を投じて進めたことが残された史料からも分かります。ところがこの碑文では、長谷川佐太郎を登場させないのです。この石碑を長谷川佐太郎顕彰碑と思っていた私の予想は、見事に外れです。意図的に無視しているようです。心血を注いで満濃池を再築した後に建立されたこの碑文を見て、長谷川佐太郎はどう思ったでしょうか? 立ち尽くし、肩を落として、唖然としたのではないでしょうか。そして、深い失意に落ち込んだでしょう。
 前回に満濃池再築後の長谷川佐太郎は「忘れ去られた存在だった」と評しました。別の視点から見ると、長谷川佐太郎を過去の人として葬り去ろうとする人達がいたのかもしれません。そのような思惑を持つ人達によって、この「真野池記」の碑文は建立されたことが考えられます。この碑文が満濃池再築の最大功労者の長谷川佐太郎を顕彰していない記念碑であることを押さえておきます。
それでは、これを書いたのはだれなのでしょうか?
石碑の最後には、次のようにあります。
明治八年歳次乙亥秋九月 矢原正敬撰兼題額男正照書并建

ここからは失原正敬の撰文、題額は正敬の染筆、碑文の染筆と碑の建立は、正敬の子息正照と記されています。失原正敬と、その息子正照とは、何者なのでしょうか?
矢原正敬(まさよし 1831~1920)のことが満濃町誌1069Pに、次のように記されています。
矢原家はその家記によると、讃岐の国造神櫛王を祖とし、その35代益甲黒麿が孝謙天皇に芳洒を献じて酒部の姓を賜り、797(延暦十六)年から那珂郡神野郷に住み、神野山にその祖神櫛王を奉斎したと伝えている。
その子正久は矢原姓を称し、808(大同三)年に神野社及び加茂社を再建した。また、弘仁年間に空海が満濃池築池別当としてその修築に当たった際、この地方の豪族としてこれに協力した。
52代正信は、1371(応安四)年に向井丹後守・山川市正と共に神野神社を建て、1393(明徳4)年に神野寺を再建した。
その後裔、矢原又右衛門正直・正勝らを経て、69代正敬となった。正敬は、初めは赤木松之助と称したが、のち矢原家に入籍して矢原理右衛門正敬と改め、西湖又は雲窓と号した。正敬は資性鋭敏で文学を好み、漢学に通じ、詩歌・華道をたしなみ、土佐派の絵を能くするなど多趣多芸の文人であった。
 1902(明治35)年から明治41年まで神野村村会議員を勤め、また仲多度郡郡会議員も勤めた。大正九年八月十七日、八十九歳で没した。
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池の下の矢原邸(讃岐国名勝図会)
  ここに書かれているように矢原家は、古い家系を誇る家柄のようです。
満濃町誌や満濃池史などには、矢原家のことが次のようなことが記されています。
①神櫛王の子孫であること
②古代の満濃池築造の際に、空海は矢原家に逗留したこと
③中世には、満濃池跡地にできた池之内村の支配者で、神野神社や神野寺を建立したこと
④近世には、生駒家の西嶋八兵衛による満濃池再築に協力し、その功績として池守に就任したこと
⑤しかし、天領池御料設置で代官職が置かれると、その下に置かれ、17世紀末には池守職を離れたこと。
①の神櫛王伝説自体が中世に造られた物語であることは、以前にお話ししました。つまり、神櫛王の子孫と称する人達は、中世以後の出自の家系になります。矢原家を古代にまで遡らせる史料は何もありません。よって②については、そのままを信じることは出来ません。
 矢原家が史料によって確認できるのは近世になってからです。そこで矢原家は満濃池の密接な関係を主張し、池守であったことを誇りにしていました。その当主が、長谷川佐太郎の業績を全く無視するような内容の碑文を刻んだ理由は、今の私には分かりません。
 ただ以前にお話ししたように、底樋の石造化を進めた長谷川喜平次の評価が分かれていたように、長谷川佐太郎についても、工事終了時点では評価が定まっていなかったことは考えられます。そのような中で、矢原家の当主は長谷川佐太郎の業績を記さず、記録から抹殺しようとしたことは考えられます。しかし、その後朝廷からの叙勲を長谷川佐太郎が得ます。
「勲章を貰った人を、地元では粗末に扱っていると云われていいのか」
「真野池記」には、長谷川佐太郎のことは何も書かれていないぞ、あれでいいのか」
「満濃池再築に、尽力した長谷川佐太郎を顕彰する石碑を建てよう」
という流れが生まれたのではないかと私は考えています。
そういう意味では「① 長谷川翁功徳之碑」は、「② 真野池記」を否定し、書き換える目的のために建立されたものと云えるのかも知れません。

以上をまとめておきます。
①明治3年に、長谷川佐太郎の尽力で満濃池は再築された。
②しかし、直後に建立され「② 真野池記」には、長谷川佐太郎の名前は出てこない。
③意図的に長谷川佐太郎の業績を無視するような内容である。
④この碑文を起草者は、かつての満濃池の池守の子孫である矢原正敬とその子・正照である。
⑤明治29年に長谷川佐太郎は朝廷から叙勲を受けるが、これを契機に彼に対する評価が変わる。
⑥そのような機運の中で満濃池再築の最大の功労者である長谷川佐太郎を正当に評価するために、新たな石碑が建てられることになった。
⑦それが「① 長谷川翁功徳之碑」である。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
参考文献
満濃池史398P 真野池記 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代


満濃池 現状図
 
昨年の12月に、2つの団体を案内して「ミニ満濃池フィルドワーク」を行いました。その時に、たずねられたのが堰堤の石碑に何が書いてあるかです。石碑の内容を一言で、説明するのはなかなか大変です。そこでここでは、敢えてその全文と意訳文を載せておくことにします。
満濃池の堰堤の東の突き当たり附近には、3つの碑文があります。

満濃池堰堤の石碑

右から順番に記すと次の通りです。
 ① 松坡(しょうは)長谷川翁功徳之碑(明治29年以降)
 ② 真野池記(明治3(1870)年以降)
 ③ 松崎渋右衛門辞世の歌碑碑文
まず①の石碑から見ていきます。
この碑は明治29(1896)年11月に長谷川佐太郎の功績を讃え、朝廷より藍綬褒章及び金五十円を賜ります。これを機に、長谷川佐太郎への再評価の機運が高まります。その機運の中で建立されたと碑文の最後尾に記されています。明治の元勲・山縣有朋が題字、子爵品川彌二郎の撰文、衣笠豪谷の書になります。それでは全文を見ておきます。
P1160061
            長谷川翁功徳之碑
  長谷川翁功徳之碑 
          従一位勲一等候爵山鯨有朋篆額

壽珊道禰於徳依於仁遊於蔡蓋長谷川翁之謂也翁名信之字忠卿琥松披称佐太郎讃岐那珂郡榎井村豪皇考練・和似姚為光氏翁為大温良有義気好救人急 夙憂王室式微輿日柳燕石美馬君田等協力廣交天下郎藤本津之助久阪義助等先後来議事文久三年有大和之挙翁奥燕石整軍資将赴援聞事敗奉阜仲小に郎来多度津翁延之姻家密議徹夜高杉晋作転注来投翁血燕石君田等庇護具至既而事覚逮櫨菖急使者作揮去燕石君田下獄翁幸得免替窺扶助両家族 及王政中興翁至京都知友多列顕職勧翁仕會翁固辞面婦素志専在修満濃池池為國中第一巨浸自古施木閉毎年歳改造為例嘉永中変例畳雑石作囃隋漏生蜜水勢蕩蕩決裂堤防漂没直舎人畜亘数十村田時率付荒蕪爾来十四年旱潜瑛萬民不聊生翁恨肺計奎修治屡上書切請明治三年正月得免起工高松藩松崎佐敏倉敷懸大参事島田泰夫等克輔翁志朧閲川告竣単工十四萬四千九百九十六人荒蕪忽化良田黎民励農五稼均登藩侯賞 翁功許称姓帯刀且購米若芭翁撰為区長後為満濃池神野神社神官廿七年叙正七位翁多年去庫國事頗傾儲蓄且修満濃醜蕩粛家産遂為無一物亦隅踊焉洋洋焉縦心所之楽書書好徘句不敗以得襄介意尚聞義則趨聞仁則起可謂偉矣廿八年満濃池水利組合贈有功記念章於翁且為翁開賀宴會者三百五十鈴大寄詩歌連徘頌翁嫡片亦無笑廿九年十一月朝廷賞翁功賜藍綬褒章及金五拾圓云郷大感懐仁慕義青謀建碑請文予乃序繁以斟
 明治廿九年 従二位勲二等子爵品川輛二郎撰 衣笠豪谷書
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長谷川翁功徳之碑

意訳変換しておくと
人の志は道により、徳は仁において、遊は芸による。長谷川翁の名は信之、字は忠卿、号は松披佐太郎と称す。讃岐那珂郡榎井村の豪農である。いみ名は和信、母は為光氏。翁の人となりは、温良義気で、よく人の危急を救った。
特に幕末の王室の衰微を憂い、日柳燕石・美馬君田等と協力して広く天下の士と親交を結んだ。松本謙三郎・藤木津之助・久坂義助らが前後して琴平にやって来て、密議をこらした。文久三年の大和の天誅組の義挙に際しては、燕石と共に軍資を整えて、大和に行こうとしたが、時既に遅く果たすことができなかった。桂小五郎が多度津にやって来た際には、親戚の家に迎えて、夜を徹して話し合った。後に、高杉晋作が亡命してくると、燕石や君田らと共に疵護した。これが発覚し、晋作は逃亡させたが、燕石・君田は捕えられ高松で投獄された。翁は幸に逮捕をまぬかたので、ひそかに両家族を扶助した。
 明治維新になると、京都に上って顕職を求める知友もいて、翁に仕官を勧める者もいた。しかし、翁は固辞して故郷に帰った。その志は、満濃池の修築にあった。池は讃岐第一の大池であったが、木製の底樋のために三十年に一回は改修工事が必要であった。さらに嘉永中(1854)底樋の石材化工事が行われた際に、工法未熟で漏水を生じた上に、宝永の大地震のために堤防が決裂した。そのため民家人畜の漂没するものが数十村に及び田畑は荒れるに任かせた状態になっていた。以来14年旱魃になっても水はなく、作物はできず人々は苦労していた。翁は慨然として、再築計画を何度も倉敷代官所に上書請願した。明治3年正月になってようやく政府の免許が下り、起工した。高松藩の松崎佐敏・倉敷懸大参事島田泰夫などが、翁の志を支援して五か月竣工人夫十四万四千九百九十六人荒地は良田と化し、零細農民に至るまで五穀等しく稔った。藩は翁の功績を賞し、姓を与え帯刀を許し、且つ賜米若干包を下賜した。
こうして、翁は撰ばれて区長となり、後には満濃池神野神社の神官となった。そして明治27年に正七位に叙せられた。翁は多年に渡って国事に尽力し、自分の財力を傾けて満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。また義におもむき仁に立つなど偉大というべき人物である。
 明治28年、満濃池水利組合は有功記念賞を贈り、翁のため祝賀会を開いた所、参加者は350人を越えた。翁の徳を讃えた29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。
本文の内容を整理しておきます
①段目は、長谷川佐太郎の出自と人なりです
②段目は、勤王の志士としての活動で、特に日柳燕石とともに高杉晋作の支援活動
③段目は、満濃池再築に向けての活動
④段目は、再築後の隠居生活

現在の視点からすれば②段目は不要に思えるかもしれませんが、戦前では「勤王の志士」というのは、非常に価値のある言葉でした。戦前の皇国史観中心の歴史教育の中で、華々しく取り上げられたのは「皇室に忠義を尽くした人々」です。その中で、南北朝の南朝の楠木正成や、幕末の薩摩の西郷隆盛や長州の高杉晋作は、功労者として教科書に取り上げられます。これに倣って、各県の郷土史教育でも「忠信愛国」の郷土の歴史人物が選定されていきます。その中で香川で取り上げられるのが琴平の日柳燕石です。「高杉晋作を救って、そのために下獄していた」というのが評価対象になったようです。また、戊辰戦争中に戦死しているのも好都合でした。その人間が生きている内は、なかなかカリスマ化できません。こうして日柳燕石についての書物は、伝記から詩文にいたるまで数多く戦前には出版されています。彼の裏の顔である「博徒の親分」というのは、無視されます。その燕石と活動をともにし、獄中の燕石を支援したというのは、書かずにはおれない内容だったのでしょう。
③段目の満濃池再築については、記述に誤りはありません。
④段目には「満濃池を修築し、家産をなくし無一物となるとも一人静に心に従って俳句を好むなど、貧乏を意に介さなかった。」とあります。区長とありますが戸長です。しかし、長谷川佐太郎はこれを、すぐに辞退しています。そして、「家産をなくし無一物となるとも、一人静に心に従って俳句を好む」生活を送っていたのです。長谷川佐太郎は忘れ去られていたのです。それが明治27年に正七位に叙せられ、その2年後には藍綬褒章を受賞します。これを契機に周囲からの再評価が始まるのです。その出発点として、姿を見せたのがこの碑文だと私は思っていました。ところが裏側に刻まれた建立年月をみて驚きました。

P1260755
松坡長谷川翁功徳之碑の裏面
   【碑文 裏】
 昭和六年十月吉祥日建之
    滿濃池普通水利組合管理者
     地方事務官齋藤助昇
       建設委員 田中 正義
        仝   谷 政太郎
        仝   塚田 忠光
        仝   三木清一郎
        仝   三原  純
  香川県木田郡牟礼村久通
  和泉喜代次刻

   碑文表の最後には「翁の徳を讃えて明治29年11月、朝廷は翁の功を賞して藍綬褒章(金五十円)を賜う。これを知った地元の人達は、翁の義を慕い石碑建立を相謀り、私に請文を依頼した。」とあります。碑文は、その前後に建立されたはずなのですが、現在の石碑の裏側には、「昭和六年十月吉祥日建之」とあります。そうすると、この碑文は2代目のもので再建されたものなのでしょうか。この辺りのことが今の私には、よく分かりません。ご存じの方がいれば、教えて下さい。
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最後の詩文の部分です。
 入賓始築萬農池 弘仁奉勅空海治 寛永補修雖梢整
 嘉永畳石累卵危 安政蟻穴千丈破 慶唐旱僚萬家飢
 松波老叟振挟起 壹為國土借家貨 章懐底績農抹野
 承前善後策無遺 曽悼亡友管祠宇 趨義拒肯畏嫌疑
 人富居貧率天性 蓋忠報國心所期 不侯櫨傅遭顕達
 山来天爵大宗師
意訳変換しておくと
 大賞年間に始めて満濃池を築き、
弘仁年間に時の天皇の勅を承って空海が手を入れ直し、
寛永年間に補修を加えて漸く整備されたけれども、
嘉永年間に石を畳んだものの崩れやすく、極めて危険な状態であり、
安政年間には堅固な堤防も蟻のあけた小さな穴がもととなり崩れてしまい、
慶応年間の日照りと長雨による洪水によって多数の人々は食物を得られずひもじくなった。
松披老翁が袂を振るって一大決心をして満濃池の修治に起ち上がったのは、
偏(ひとえ)に国のためであり、どうして家の資産を使用することを惜しむことがあろうか。
深く懐の底に思いをいたして事にあたったので農民達は野で手を叩いて喜び、
前を引き継いで善後策にも遺す所がなく、
かつて亡友を悼んで神社を営み、
義に趣いてそのためには嫌疑を畏れることはなかった。
富を去って貧に居るという天性に従い、
国のために忠義を尽すことは心に期す所であり、
世間の評判や立身出世を待たなかったことは、                   
生まれつきの徳に由来する大宗師といえよう。

長谷川佐太郎顕彰碑
        満濃池と松坡長谷川翁功徳之碑
碑文前の台石には、現代文で次のように記します。

  P1160062
        【台石】 松坡長谷川翁功徳之碑
 長谷川佐太郎は松坡と号し幕末から明治にかけて満濃池の再築に家財を傾けて尽力した人である。榎井村の豪農の家に生まれ勤王の志士日柳燕石と交流し幕吏に追われた高杉晋作を自宅にかくまうなど幕末には勤王運動にも挺身している
 一方、安政元年に決壊した満濃池は、その水掛かりが高松・丸亀・多度津の三藩にまたがり一部に天領も含まれていた。このため復旧には各藩の合意を必要としたが意見の一致を見ないまま十六年のあいだ放置されていた。この間長谷川佐太郎は満濃池の復旧を訴えて、倉敷代官所や各藩の間を奔走するが目的を果たせないままやがて幕府は崩壊する。
 彼は好機到来とばかり勤王の同志を頼って上京し維新政府に百姓たちの苦難を切々と訴え早期復旧の嘆願書を提出した。この陳情が功を奏し、高松藩の執政松崎澁右衛門の強力な支援のもとに明治二年着工にこぎつけ同三年に竣工した。この間彼は一万二千両にも及ぶ私財を投入し晩年には家屋敷も失い清貧に甘んじている。この碑は彼の功績を称え 明治の元勲山形有朋が題字を、品川弥次郎が撰文したものである。扇山
3つの碑文の内の最初に長谷川佐太郎のものを紹介しました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
讃岐人物風景 8 百花繚乱の西讃 四国新聞社 大和学芸図書 昭和57年

後日の補足
後日に、讃岐人物風景8の「長谷川佐太郎」には、次のように記されているのを見つけました。

このように私財をすべて投入し満濃池修築に献身するとともに動皇家としても立派に活動した。二面の顔を持つ佐太郎は、明治五年(1872年)香川県第五十八区戸長に任ぜられた。数カ月後に辞し、同年八月には松崎渋右衛門の祠を建て松崎神社とした。その後、神野神社の神官に任ぜられ、明治二十七年(一八九四年)には正七位が贈られた。
 明治二十八年(1895年)には満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈られて、三百五十人の参加で慰労の宴が催された。毎年五十円ずつを佐太郎に贈りその労をねぎらうことになった。翌二十九年(一八九六年)七十歳のとき、藍綬褒章が授与されたのである。
 大正四年(一九一五年)人々は佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀し、昭和六年十二月六日佐太郎頌徳碑を池畔に建立し永遠にその徳をたたえている。
 国と郷土に私財をなげうって奔走した佐太郎も晩年は不運のうちに生涯を閉じた。しかしその心意気は末永く人々の心に残り生き続けている。
 子孫と称する人が大阪、奈良、東家から丸尾家を訪れたのも数年前のことであり、佐太郎の妹が多度津へ嫁いだ先は薬局を営んでいたともいわれる。
 佐太郎は、明治三十一年(一八九八年)一月七日、七十二歳で象頭山下のふるさとで没し、いまもこの地で眠り続けている。 
これらを年表化すると次のようになります。
①1894(明治27)年 正七位が贈呈。
②1895(明治28)年 満濃池水利組合の推薦で有功記念章が贈呈
③1895(明治28)年 第1次嵩上げ工事実施
④1896(明治29)年 70歳のとき、藍綬褒章が授与
⑤1898(明治31)年 1月7日、70歳で没。
⑥1915(大正 4)年 佐太郎の功績をたたえ松崎神社に合祀
⑦1930(昭和 5)年 第2次嵩上げ工事
⑧1931(昭和 6)年 12月6日 佐太郎頌徳碑を池畔に建立
⑨1941(昭和16)年 第3次嵩上げ工事
 ここからは次のようなことが分かります。
A ③の第1次工事の直前に、水利組合が褒賞していること。しかし、石碑は建立されていないこと。
B ⑦の第2次工事直後に、石碑は建立されたこと。
ここからは、嵩上げ工事が行われる度に、長谷川佐太郎の業績が再評価されていったことがうかがえます。それが1931年の石碑建立につながったとしておきます。長谷川佐太郎に藍綬褒章が授与されて、すぐに建立されたのではないことを押さえておきます。別の見方をすれば長谷川佐太郎の業績褒賞を、嵩上げ工事推進の機運盛り上げに利用しようとする水利組合の思惑も見え隠れします。
参考文献 
満濃池史391P 松坡長谷川翁功徳之碑 
満濃池名勝調査報告書73P 資料近代

                              
 以前に幕末の満濃池決壊のことについてお話ししました。

P1160035
満濃池の石造底樋(まんのう町かりん会館前)

 木造底樋から石造物に、転換された工事が行われたのは、嘉永五(1852)年のことでした。しかし、石材を組み立てた樋管の継ぎ手に問題があったこと、2年後の嘉永七年に大地震があったことなどから、樋管の継ぎ手から水が漏れはじめて、満濃池は決壊します。高松藩の事件などを記した『増補高松藩記』には、「安政元年六月十四日地震。七月九日満濃池堤決壊。田畝を多く損なう」と、簡潔な記述があるだけです。
P1160033

 そんななかで私が以前から気になっていた記録があります。
決壊から約60年後の大正4(1915)年に書かれた『満濃池由来記』(大正四年・省山狂夫著)です。
ここには、決壊への対応が次のように記されています。
七月五日
午後二時ごろ、樋外の石垣から濁水が出ているのを池守が発見。榎井、真野、吉野村の庄屋たちが現地で対策を協議。漏水が次第に増加したため、各村の庄屋に緊急連絡。
七月六日
三間丸太で筏を組み、古蚊帳に小石を包み、水中に入れて漏水口を探る。
一番ユルと二番ユルの間に漏水穴を発見。午後二時ごろ、フトンに石を包み穴に入れ、土俵六十袋を投入するも漏水止まらず。
七月七日 
夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。終日作業を続けるも漏水止まらず。
七月八日
夜十時ごろ堤防裏から水が吹き上げ、直径三メートルほど陥没。阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。陥没が増大。
七月九日 
高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。二隻の船で土俵三百袋を投入。水勢やや衰えたとき、大音響とともに堤がニメートルほど陥没。全員待避し、下流の村々へ危険を知らせ、緊急避難させる。このとき神野神社の神官。朝倉信濃はただ一人避難せず、ユル上で熱心に祈とう。足元のゆらぎに驚き、地上へ飛び下りると同時に、ユルが横転水没。午後十時ごろ決壊。
この時の破堤の模様について、「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚鼈(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」

  この記述を見ると気がつくのは、対応の記述内容が非常にリアルなことです。
   「土俵六十袋・直径三メートルほど陥没・二隻の船で土俵三百袋を投入」などの具体的な数字が並びます。時代がたつにつれて、記憶は薄れて曖昧な物になっていきます。それなのに、昨日に見てきたような情景が、後世の記録に叙述されるのは「要注意」と師匠からは教えられました。「偽書」と疑えというのです。比較のために、同時代の決壊報告記録を見ておきましょう。
 
【史料1】
 六月十四日夜、地震十五日暁二至小地震数度、十五日より十二日二至、京畿内近江伊勢伊賀等地大二震せしと云
   ( 中  略 )
九日満濃池陽長四十間余決潰、那珂郡大水二て田畑人家損傷多し、木陽六十間余之所、両方二て七八間計ツヽ残り中四十間余切れ申候、金毘羅大水二て さや橋より上回一尺計も水のり橋大二損し、町々人家へ水押入難義致候、
尤四五日前より追々陽損し、水漏候間、郡奉行代官出張指揮致、水下之人家用心致候故、人馬怪我無之、折節池水三合計二て有之候二付、水勢先穏なる方二有之候由
  意訳変換しておくと
 6月14日夜に大地震、15日暁には小地震が数度、京畿や近江・伊勢・伊賀などで大地震が起きたという。
   ( 中略 )
7月9日に、満濃池堰堤が長さ四十間余りに渡って決潰、そのため下流の那珂郡は大水で田畑や人家に大きな被害が出ている。堤は六十間余の所が、両方から七八間だけが残って、真ん中の四十間余りが切れている。金毘羅は大水害で、鞘橋の上に一尺ほども水が流れ、橋は大きな損傷を受けている。町々の人家へも水は流れ込み、被害が出ている。もっとも水漏れ発見後に、郡奉行代官が出張指揮して、下流の人々へ注意を呼びかけていたので、人や馬などに怪我などはない。また、貯水量が満水でなく無之、4割程度であったので水の勢いも小さく被害は少なく終えた。
ここには決壊への対応については、何も出てきません。
決壊中の満濃池
決壊した満濃池跡を流れる金倉川
  【史料2 意訳のみ】
一 四日頃より穴が開いて、だんだんと大穴になって、堰堤は切れた。堰堤で残ったのは四五拾間ほどで、池尻の御領池守の居宅は流された。死人もいるようだ
一 金毘羅の榎井附近の町屋は、腰まで水に浸かった。金毘羅の阿波町も同じである
一 鞘橋はあやうく流されそうになったが、なんとか別条なく留まった。
一 家宅は、被害が多く出ている
一 田んぼなどには被害はないようだが、川沿いの水田の中には地砂が入ったところもある。
一 晴天が続いていた上に、田植え後のことで池の貯水量が4割程度であったことが被害を少なくした。
ここでも記されるのは、危害状況だけで堤防の決壊を防ぐために何らかの手当が行われたことは、何も記されていません。

ほぼ同時代に書かれた讃岐国名勝図会は、決壊経過やその対応について次のように記します。
満濃池 底樋石造化と決壊
讃岐国名勝図会 満濃池決壊部分
7月4日に、樋のそばから水洩が始まった。次第に水漏れの量は次第に増えて、流れ出し始めた。池掛りの者はもちろん、農民たちも力を尽して対応に当たった。池の貯水量は、満水時の四割程度であったが、水勢は次第に強くなり、為す術ない。決壊が避けられないとみて、堤が切れた時には、そばの山の上で火を焚き太鼓を打って、下手の村々に合図をすることにした。見守るしか出来ないでいるうちに、水勢はますます強くなる。多くの人々は池辺の山に登って、堰堤を息をこらして見つめていた。
 九日の夜半になって、貯水量が半分ほどになった水面から白雲が空に立のぼると同時に、白波が立ち起こった。こうして二年の工事によって設置された石の樋は、一瞬にして破壊され、堰堤は足元から崩れ去った。その水は川下の田畑一面に流れ出て、一里(4㎞)ほど下流の金比羅の阿波町・金山寺町などの家屋の床の上まで浸水させた、さらに五条村・榎井村の往来の道にあふれだし、家を丸亀町口(丸亀市中府町)まで流し去ったものもあったという。
 あふれ出た水勢の激しかったことは、底樋として埋めた石がながされて、行方不明となってしまったことからもうかがえる。ここからも満濃池の廣大さと貯水量の多さが知れる。
 P1160039
満濃池決壊で流出した底樋の石材
 ここでも決壊後の具体的な対応については、何も触れられていません。ただ「見守るしか出来ないでいるうちに・・」とあります。当時の人達は、為す術なく見守るしかなかったと考える方が自然なようです。
仲多度郡史 - 歴史、日本史、郷土史、民族・民俗学、和本の専門古書店|慶文堂書店

1918年(大正7)年1月に、仲多度郡が編集した『仲多度郡史』(なかたどぐんし)には、満濃池の崩壊が次のように記されています。
満濃池は寛永年間、西島之尤、之を再築して、往古の形状に復し、郡民共の恵沢に浴せりと雖も、竪樋、底樋等は累々腐朽し、爾後十五回の修営ありしか、嘉永二年に至り、又もや樋管の改造を要せり。此の時榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と議り、官に請ふて樋替を為すに当り、石材を用ひて埋樋の腐朽を除き、将来の労費を省かむとし、漸くにして共の工事を起し、数年を費して、安政元年四月竣工を告けたり。然るに同年六月地震あり。是より樋管の側壁に滲潤の兆ありしか、間もなく池水噴出するに至り、百方防禦に尽し、未た修理終らさるに、大雨あり。漏水増大して遂に防く能はす、七月九日の夜堤防決潰し、池水底を抑ふて那珂、多度両郡に法り、数村の緑田忽ち河原と変し、家屋人畜の損害亦彩しく、 一夜にして長暦の昔の如き惨状を現はし、巨額の資金と数年間の労苦は、悉く水泡に帰したり。是歳、十一月四日大地震あり。
家屋頻に傾倒するを以て、人皆屋外に避難せり。翌五日綸ヽ震動を減したるも、尚ほ車舎を造りて寝食すること十数日に渉れり。而して此の地震は、翠年の夏に命るまて、時々之を続けたり。当時民屋の破壊せしもの数千月にして、実に讃地に於ける未曾有の震災と云ふべし。
意訳変換しておくと
満濃池は寛永年間に、西嶋八兵衛之尤が再築して往古の姿にもどし、郡民に大きな恵沢をもたらすようになった。しかし、竪樋、底樋等は木造なので年とともに腐朽するので、交換が必要であった。そのため十五回の修営工事が行われてきた。嘉永二年になって、樋管の交換が行われることになった。この時に榎井村の庄屋、長谷川嘉平次は、郡民と協議して、幕府の代官所に底樋に石材を用いて、以後の交換工事をしなくて済むように申し出て許可を得た。こうして工事に取りかかり、数年の工事期間を経て、安政元年四月に竣工にこぎ着けた。ところが同年六月に大地震があり、樋管の側壁に隙間ができたようで、間もなく池水が噴出するようになった。百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し、池水は那珂、多度両郡に流れ込み、数村の水田をあっという間に河原とした。家屋や人畜の損害も著しく、一夜にして惨状を招いた。こうして巨額の資金と数年間の労苦は、水泡に帰した。(後略)
 
水漏れ後の対策については「百方防禦に手を尽したが、修理が終らないうちに大雨があり、漏水は増大して止めようがなくなった。ついに7月9日の夜に堤防は決潰し・・・」とあるだけです。ここにも具体的な対応は何も記されていません。「漏水は増大して止めようがなくなった」のです。ただ「百方防禦に手を尽した」とあるのが気になる所です。これを読むと、何らかの対応があったかのように思えてきます。そうあって欲しいという思いを持つ人間は、これを拡大解釈していろいろな事例を追加していきます。ありもしないことを「希望的観測」で、追加していくのも「歴史的な偽造」で偽書と云えます。

そういう視点からすると『満濃池由来記』の次のような記述は、余りに非現実的です。
「土俵六十袋を投入・
「夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。」
「阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。」
「高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。」
「二隻の船で土俵三百袋を投入。」
同時代史料には、何も書かれていない決壊時のいくつもの対応記事が、非常に具体的にかかれているのです。また『満濃池由来記』と、ほぼ同時代に書かれた仲多度郡史にも、「決壊対策」は何も書かれていません。
以上をまとめると
①満濃池の漏水が始まった後に、決壊対応措置をとったことを記した同時代史料はない
②公的歴史を叙述した大正時代の仲多度郡史にも、何も書かれていない。
③大正時代に書かれた『満濃池由来記』だけが、具体的な対応策を書いている。
④作者もペンネームで、誰が書いたのか分からない。
以上から、私は『満濃池由来記』の記述は「何らかの作為に基づく偽証記事」と考えるようになりました。所謂、後世の「フェイクニュース」という疑いです。
それならば作者は、何のためにこのような記事を書いたのでしょうか?
  そこには、幕末の満濃池決壊の評価をめぐっての「意見対立」があったようです。この決壊に対して、地元の農民達は、工事直前から「欠陥工事」であることを指摘して、倉敷代官所へ訴え出ていたことを以前にお話ししました。そのため決壊後も工事責任者である長谷川喜平次に対する厳しい批判を続けたようです。つまり、水利責任を担う有力者と農民たちが長谷川喜平次の評価を巡って、次のような論争が展開されます。
①評価する側 
農民達のことを慮って、木造底樋から石造化への転換を進めたパイオニア
②評価しない側 
底樋石造化という未熟な技術を採用し、満濃池決壊を招いた愚かな指導者
①の立場の代表的なものが、前回見た讃岐国名勝図会の満濃池の記事の最終部分です。そこには次のように記されていました。(意訳変換済み)
  もともと、満濃池の底樋は木造だったために、31年毎に底樋とユルの付替工事が必要であった。そのために讃岐国中から幾萬の人足を出し、民の辛苦となっていた。それを或人が、嘉永年中に木造から石造へ転換させ、萬代不朽のものとして人々の苦労を減らそうとした。それは、一時的には堤防決壊を招いたが、その厚志の切なる願いを天道はきちんと見ていた。それが今の姿となっている。長谷川喜平次が忘眠・丹誠をもって行った辛労を、天はは御覧であった。彼が計画した石造化案が、今の岩盤に開けた隧道の魁となっている

②の農民の立場からすると、彼らは倉敷代官所に次のような申し入れをしていました
長谷川喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。

 それに応ぜずに工事を継続した長谷川喜平次の責任は重い。にも関わらず責任を取って、止めようともしない。話にならない庄屋という評価です。こうした分裂した評価が明治になっても、引き継がれていきます。そして、満濃池の水利組合の指導部と、一般農民の中の対立の因子の一つになっていったようです。それが農民運動が激化する大正時代になると、いろいろな面に及ぶようになったことが考えられます。
  作者の「省山狂夫」が、どんな人物なのかは分かりません。
名前からして本名ではないようです。本名を隠して書いているようです。分かることは、彼が庄屋たち管理側が決壊に際して、できる限りの対応を行ったことを主張したかったことです。それが、このような記事を彼に書かせた背景なのだと私は考えています。
 長谷川喜平次をめぐる評価は、その後の周辺町史類にも微妙な影響を与えています。ちなみに満濃池土地改良区の「満濃池史」や満濃町史は、もちろん①の立場です。それに対して「町史ことひら」は、②の立場のような感じがします。

江戸時代後期になって西讃府史などの地誌や歴史書が公刊されようになると、この編纂の資料集めをおこなった庄屋たちの間には、郷土史や自分の家のルーツ捜し、家系図作りなどの歴史ブームが起きたようです。そんな中で、自分の家の出自や村の鎮守のランクをより良く見せたりするために、偽物の系図屋や古文書屋が活動するようになります。その時に作られた偽文書が現代に多く残されて、私たちを惑わしてくれます。


 以前にもお話ししたように、江戸時代の椿井政隆という人物は、近畿地方全域を営業圏として、古代・中世の偽の家系図や名簿を売り歩いた、偽文書のプロでした。彼の存在が広く知られるようになる前までは、ひとりの手で数多くの偽文書が作られたことすら知られておらず、多くが本物と信じられてきました。
  椿井政隆は、地主でお金には困っていなかったようですが、大量の偽文書を作っています。その手口を見てみると、まずは地元の名士、といっても武士ではない家に頻繁に通い、顔なじみになって滞在し、そこで必要とされているもの、例えば土地争いの証拠資料、家系図などを知ります。滞在中に需要を確認するわけです。それで、数ヶ月後にまたやってきて、こんなものがありますよと示します。注文はされていなくて、この家はこんなもの欲しがっているなと確認したら、一回帰って、作って、数ヶ月後に持っていきます。買うほうもある程度、嘘だと分かっていますが、持っていることによって、何か得しそうだなと思ったら地主層は買ったようです。
 滋賀県の庄屋は、椿井が来て捏造した文書を買ったことを日記に書いています。自分のところの神社をよくするものについては何も文句を言わずに入手しているのです。実際にその神社は、今では椿井文書通りの式内社に位置づけされているようです。こうして、地域の鎮守社を式内社に格上げしていく試みが始まります。このような動きはの中で、満濃池の池の宮の「神野神社」への変身と、式内社化への動きもでてくるようです。歴史叙述には、自らの目的で、追加・書き換えられるものでもあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「満濃池史」110p 幕末の満濃池決壊











 生駒騒動によって、生駒藩が転封になったあとは、讃岐は次の東西2つの藩に分割されます
①寛永18年(1641)9月 山崎家治が西讃5万石余を与えられて丸亀藩主へ
② 翌19年(1642)2月、松平頼重が東讃12万石を与えられて高松藩主へ
そして、満濃池の管理のために天領・池御領が置かれることになります。池御領は、二つの藩の境目と金毘羅神領に接した那珂郡の五條・榎井・苗田の三村領(天領)と、満濃池周囲の幕府領七ケ村領を含みます。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
満濃池水掛村々之図(明治)
上図では、以下のように色分けされています
黄色 天領池御領(五条・榎井・苗田の三村)
赤  金毘羅大権現 金光院領
桃色 高松藩領
草色 丸亀藩領
白色 多度津藩領
この絵図からは次のような事が読み取れます
①土器川を越えて、高松藩領が丸亀平野に伸びていること
②高松藩と丸亀藩の藩境は、金倉川であったこと
③丸亀城の南側は高松藩領で、満濃池の最大の受益者は高松藩であったこと
④天領3村が、金毘羅寺領に接する形で配置されていること
⑤同時に、天領3村が高松藩と丸亀藩に挟まれる形になっていること

P1240826
天領池御領(黄色)と金毘羅寺領(赤)

どうして、この3つの村が池御料に指定されたのでしょうか。

それには、次の2つの説があるようです。
一つ目は「東西領検地等の打ち余り(余り領地)によって設けられた」という説です。しかし、これは俗説です。
以前にお話したように、幕府は讃岐を東西に分割する際に、現地に派遣した担当老中に「東西=2:1」で分割せよという指示を出しています。そして、指示を受けた老中は、生駒騒動の前に本国・伊賀の藤堂藩に帰国していた西嶋八兵衛を讃岐に呼び出して、旧知の庄屋たちと綿密な打合せさせた上で「線引き」をしたことは以前にお話ししました。  
「高松藩政要録」には、天領設置について次のように記します。

右池(満濃池)成就の後、歳も経るまま費木も朽懐て、同(寛永)十八年修造を加へんとせしかど、生駒家国除の後なれば、木徳村の里正四郎大夫といえるもの、幕府へ訴え出でけるに台命ありて、五条・榎井・苗田を池修補の料に当てられける故に、今、此の村を池御料といいしなり
  意訳変換しておくと
満濃池が完成してから、年月が経過して底樋やゆる木も痛み、生駒家の転封直後の(寛永)18年(1641)に修築願いを、木徳村の里正四郎大夫という者が幕府へ訴え出た。そこで幕府は、五条・榎井・苗田を池修理基金にあてるようにした。これを今では池御料と呼んでいる。

ここには「五条・榎井・苗田を池の修理基金」とするために天領にしたと記されています。それでは、なぜこの三村が選ばれたのでしょうか。江戸幕府は、大名の改易や領地替えで藩の境界を改める時には、藩境に楔を打ち込む形で、藩境の重要地帯を天領とするのが常套手段でした。満濃池は「戦略的な要地」で、この池からの水で丸亀平野では米作りが行われています。その運用権を幕府が握っている限り、丸亀藩や高松藩は幕府には逆らえません。天領・池御領は、丸亀藩と高松藩の間に打ち込まれた「楔」であり、満濃池管理という戦略的意味も持っていたと、研究者は考えています。

決壊中の満濃池
   讃岐国那珂郡満濃池近郷御領私領図(香川県立ミュージアム)
     (緑が高松藩・黄土色が丸亀藩・白が池御領)
高松藩と丸亀藩との藩境の決定には、細かい政策的配慮が払われていことは以前にお話ししました。
  例えば、丸亀平野の南部(まんのう町旧仲南地区)では、次のように細かい分割が行われています。
①七ケ東分の久保・春日・小池・照井・本目と福良見の東部を高松藩領七ケ村(上図緑色)
②七ケ西分の新目・山脇・追上・大口・後山・生間・宮田・買田を、丸亀藩領七ヶ村
③七ケ東分の帆山と福良見の西部を加えて丸亀藩領七ケ村として、七ケ東分を二分
④さらに福良見村を三分している
福良見と帆山
福良見と帆山(まんのう町)

この線引きを行ったのが、藤堂藩から呼び返されていた西嶋八兵衛であることは、以下でお話ししました。


彼は、満濃池築造と同時に用水路を建設して、その水配分にまで関わっていました。その際に旧知となった庄屋たちから意見を聞いて、今後に問題を残さないように、野山(刈敷)の入山権利に至るまで一札をとっています。このような綿密に計算されて上で藩境は決定されているのです。池の領が「東西領検地等の打ち余りによって設けられた」というは、それらの「遠望思慮」が見えない人達の風評と研究者は評します。

満濃池から塩入2
満濃池西部の高松藩と丸亀藩の藩境・七箇村周辺絵図

 池御料の設置は、灌漑上の重要ポイントある満濃池と、その水掛かりの重点である三村を天領として抑えて置く、という幕府の常套的政策であったことを押さえておきます。

新たに設置された天領・池御領を管理したのは、だれなのでしょうか?
寛永19年(1642)に池御料が置かれてから、元禄三年(1690)まで49年間、守屋家が代官として池御領を支配することになります。
  幕府は、この時期になると新しく天領にした所では、現地のやり方や支配関係を継承して、急速に改めることを避けるようになります。「継続・安定」を重視して、在地の土豪を代官に任命するやり方をとりました。池御領の代官についても、まずは地元の最大の有力者である金光院主に代官就任を請います。しかし、金光院主の答えは「大恩ある生駒家の不幸を考えると受諾することができない」というものでした。そこで那珂郡の大庄屋で、金毘羅大権現の庄官でもあった与三兵衛を代官に任命します。
 与三兵衛は、守屋与三兵衛と名を改め、苗田村に政所を置いて、幕臣として満濃池の管理と池御料の統治に当たることになります。

守屋家代官所跡


代官となった与三兵衛に課せられた職務は、次の通りです
①満濃池の維持管理と配水
②池御料三か村の治安の維持と勧農
③豊凶を確かめて年貢高を決定し、徴収した年貢を勘定奉行に納める
こうして幕臣となった守屋与三兵衛は、従来よりも遙かに多くの責務を担い込むことになります。このため周囲の金光院や他の庄屋たちからは、「代官になってから高慢な態度をとるようになった」と非難を受けるようになります。また、金毘羅大権現の金光院からも氏子としての勤めを十分に果たさないと批判されるようになります。

 正保2年(1645)9月に、高松藩江戸家老彦坂織部から、金光院宥睨(ゆうげん)に宛てた手紙には、次のように記されています。

会式(えしき)の時分、随分よき様に成さるべく候、江戸元へ池守子五右衛門参り候間、御手前へ少しも如在申さず会式の時分も様子もよく親子共に申し付くべき由、急度申し付け候間、其の御心得有るべく候、四条の政所も如在致さず候様にと申し遣わし候、御手前よりも五右衛門万事能く申し付けくれ候様にと仰せらるべく候、拙者方よりも御手前へ申越候と仰せらるべく候、池領弥無(いよいよ)左法仕り候はば、おや子共流罪に申し付くべき由重ねて申し渡し候間、様子もよく候はんと存じ候 
            琴陸家文書「御朱印之記」
 
意訳変換しておくと
(金毘羅大権現の)会式(えしき:法会の儀式の略称で10月12・13日)の頃で、盛大な儀式が行われたことであろう。江戸の私の所へ「池守子」の守屋五右衛門がやってきたので、御手前(金光院)のことについては、何も触れずに、会式についての協力・参加するなど金毘羅大権現の庄官としての勤めを果たすよう要望した。四条の政所についても、金光院に対して従順でない態度を改め指すように申し伝えた。御手前から五右衛門のことについて、「注意指導」を行って欲しいとのことであったので、以上のように申し伝えたことを、知らせておく。
 また池領のことについては、代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつけるまで云ってある。   琴陸家文書「御朱印之記」

ここからは、次のようなことがうかがえます。
①金毘羅大権現の荘官としての勤めを果たない池御料代官の守屋与三兵衛に対して、金光院主は日頃から不満を持っていたこと。
②その不満を高松藩江戸家老に、常々伝えて「指導改善」を求めていたこと。
③その意を受けて江戸家老は、訪ねてきた守屋与三兵衛に対して、「代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつける」とまで、云ったこと
④江戸家老は「池守子」五右衛門と蔑称した表現を手紙の中で用いていること。
⑤金光院主と江戸家老が懇ろな関係にあり、両者の守屋与三兵衛に対する評価が低いこと
このような「指導」をうけたためでしょうか。

正式な起請文の例
正式な牛王起請文
守屋与三兵衛は、正保4年11月10日に、次の記請文を金毘羅大権現に奉納しています。
敬白起請文の事
一  満濃池修覆料として高二一二九石四斗九升弐合の所、外に酉(とり)の年より百姓共改め出しの高四四石五斗五升、共に私支配仰せ付けられ候条、万事油断なく精出し申すべく候
一 満濃池用水掛りの郡村中、先規の如く分散仕り、贔員偏頗(ひいきへんば)無く通し申すべき事
一  池御料御勘定の儀は、高松御役所、山崎甲斐守殿御奉行御両所へ御手短を以て、五味備前守殿へ毎年入用の勘定仕るべく候
一 右違背せしむるに於ては、梵天帝釈四天を始め奉り、惣じて日本六十余州大小神祗、殊には伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、別しては氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
  意訳変換しておくと
一  満濃池修繕費として、天領年貢収納石高2129石ばかりの収入がある外に、酉(とり)年よりの百姓共改出約44石を、私は万事油断なく精出していく立場にある。
一 満濃池の用水掛りの郡村は、ひろく分散しているが、贔員偏頗(ひいきへんば)なく、用水を分水する。
一  池御料の収支決算については、高松藩や山崎(丸亀)にも説明協議を行いながら、五味備前守(幕府の奉行職?)殿へ収支決算を行う。
一 これに違背した場合には、梵天帝釈四天を始め、日本六十余州大小神祗、加えて伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、さらには氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年(1647)霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
 この起請文は、日付と署名の箇所は牛王誓紙で、書判・印判血判が据えられています。
牛王法印
牛王法印
先ほど見た江戸家老の彦坂織部の書簡と、この起請文とは互に関連しているようです。つまり、幕府の代官となった守屋与三兵衛の態度が不遜になって来たので、高松藩と金毘羅当局で、それを抑える考えから、起請文を納めさせたようです。この起請文からは、代官守屋家は、金光院院主と高松藩から睨まれていて、基盤も脆弱であったことがうかがえます。
琴平町苗田天領代官所跡
天領代官所跡(守屋家 琴平町苗田)
苗田村の守屋家は、古くから金毘羅祭に奉仕する世話役である庄官の家筋でした。
守屋家一門の与三兵衛も、代官就任前の寛永八(1631)年や同十五年には子供の卯太郎・安太郎を頭人に立てるなど勤めを果しています。しかし池御料代官になってからは頭屋勤めから離れるようになったようです。そのため寛文八(1668)年十月には、榎井・五条・四条・苗田の各村の庄屋仲間から、来年は是非勤めをするようにとすすめられ、翌九年には子どもの権三郎を頭人に立てています。
 しかし、代官守屋家は結局は、次のように「失脚」してしまいます。
寛文11年(1661)与三兵衛義和が二代目を継職
貞享2年(1685)  助之進義紀が三代目を継職
元禄3年(1690)  助之進義紀が代官職を罷免
この「失脚」は、将軍綱吉の「代官に対する綱紀粛正政策」によるもののようです。代官は年貢の決定権を握っており、年貢米の一部を売却して幕府の勘定奉行に納める義務があります。その際に、百姓の年貢の未進分は代官の責任とされていたので、不正が多かったようです。綱吉は、この時に全国の代官の半数に近い三十数人の土豪的代官を罷免して、幕臣を新しい代官に任命しています。
  以後の池御領は、短期間の内に、京都町奉行所・松平讃岐守(高松藩)・大坂町奉行所・倉敷代官所などの「預り所」として移り替わっていきます。これについては、また別の機会に見ていくことにします。
私が気になるのは、生駒藩の下で満濃池池守となっていた矢原家がどうなったのです?
諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
      讃岐国名勝図会に描かれた矢原邸(満濃池の下手)

 寛永八年(1631)に生駒藩時代に再築された満濃池の池守には、西島八兵衛に協力した豪族矢原又右衛門が任命されました。 生駒家の下では、矢原家は満濃池管理の実質的な最高責任者でした。ところが天領が設置され、守屋与三兵衛が代官(幕臣)として、就任することになったのです。守屋家と矢原家の関係は、生駒藩の下では、次のような関係でした。
矢原家 満濃池池守 扶持(50石)
守屋家 造田村庄屋
つまり、矢原家の方が上にあったはずです。
それが、天領・池御領設置で、どう変化したのでしょうか?
その関係が垣間見える史料があります。延宝六年(1678)の春から夏にかけて、満濃池用水の管理について、池御料代官守屋与三兵衛が池守の矢原利右衛門に宛てた、指図書の写しです。
その中の六通には、次のように記されています。(満濃池旧記)
① 四条村の内ふけ・らく原水これ無く、苗代痛み申し候間、うてへの水少しはけ候て遣さる可く候、念を入れらる可く候
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
① 四条村の内ふけ(福家)・らく原には、水が不足し、苗代の苗が痛んでいるとという申し入れがあった。うめて(余水吐け)への水を少し落として、水を送るように、念を入れること
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
② 手紙にて申し入れ候、昨日揺落し候様に申し遣わし候、又々抜き申す様に申し入れ候、下郡より右の通りにわけ三度申し入れ候、今朝下郡より最早水いらぎる由申し来り候間早々揺差し留め下さる可く候、少しも油断なされ間敷そのためかくの如く候以上
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
② 昨日、手紙にて、ユルを落とし、水を止めるように指示したが、又々、ユルを抜くように申し入れる。今朝になって、下流域の郡から水を送るように三度申し入れがあった。いずれ、下郡よりまた水は不用との連絡が来るであろうが、その時には、早々にユルを落として水を止めて欲しい。少しの油断もできない状態にある。
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
③ 手紙にて申し入れ候、然れば上の郷(かみのごう)水これ無く、植田痛み申し候由、断りこれ有り候間ゆる四合斗り抜き落し下さる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
④ 吉野桶樋(おけどい)掛りの田、大貝・黒見水これ無く候由、断りこれ有り候間、其の元見合に遣わさる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿一日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑤ 上の郷、水これ無く田痛み申す由、断りこれ有り候間、ゆる見合にぬき落し下さる可く候、委細はこの者口上にて申し上ぐ可く候以上
七月十五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑥ 公文高篠より水上り参り候間、早々ゆるさし留め下さる可く申し入れ候、そのためかくの如くに候以上
八月八日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
ここからは、満濃池の管理については、苗田の守屋家の代官が指示を出して、それに従って池守・矢原家が、ユルの扱いを行っていることが分かります。つまり、守屋家が上、矢原家はその下、という上下関係になります。天領設置で、両者の関係が逆転したのです。

  矢原又右衛門の子利右衛門が貞享三寅年(1686)12月に病死して後、矢原家は池守職を離れます。
こうして、矢原家は満濃池との関係を失って行くことになります。代官・守屋家の失脚は、この4年後になります。それまでの代官と池守が去ったあと、満濃池と池御領は、どうなっていくのでしょうか。それはまたの機会に・・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
町史ことひら(近世編)20P  池御料の成立と統治    













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神野神社 満濃池堰堤の背後の岡に鎮座
満濃池の堰堤の背後の岡に、神野神社が鎮座します。この神社の古い小さな鳥居からは眼下に広がる満濃池と、その向こうに大川山が仰ぎ見えます。私の大好きな場所のひとつです。

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神野神社からの満濃池と大川山
 この神野神社は延喜式の式内神社の論社(候補が複数あり、争論があること)でもあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴 象頭山八景(1845年)

この神社は、上の絵図のように戦後までは満濃池の堰堤の西側にありました。江戸時代には「池の宮」、明治当初は「満濃池神」と呼ばれてきたことが残された資料からは分かります。神野神社と呼ばれるようになったのは、明治になってからのようです。どうして、神野神社と呼ばれるようになったのでしょうか。そこには、式内社をめぐる争論が関わっていたようです。

P1160049 神野神社と鳥居
神野神社の説明版
 神野神社について満濃町誌964Pには、次のように記されています。
①伊予の御村別の子孫が讃岐に移り、この地方を開拓して地名を伊予の神野郡に因んで神野と呼び、神野神社を創祀したという。②これに対して神櫛王又はその子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社であるともいわれている。二つの説は共にこの神社が、この土地の開拓に関係のある古社であることを物語っている。③更に神野神社は、満濃池地の湧泉である天真名井に祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社であるという説がある。
 ④808(大同三)年に矢原正久が、別雷神を現在地の東の山上に加茂神社として祀ったのは、満濃池地を流れていた金倉川の源流を鎮め治めるためであったと思われる。821(弘仁十二)年に空海によって満濃池の修築が完了したので、嵯峨天皇の恩寵に感謝した村人が、嵯峨天皇を別雷神と共に神野神社の神として祀ったと伝えられる。
 ⑤その後「讃岐国那珂郡小神野神社」として、式内社讃岐国二十四社の一つに数えられるようになった。『三代実録』によると、正六位上の位階を授けられていた萬農池神が、881(元慶五)年に位階を進められて従五位下になっている。満濃池築造後は、祭神はすべて池の神として朝廷の尊信を受けたのである。
⑥1184(元暦元)年に満濃池が決壊して後も、この地の豪族であった矢原氏の歴代の人々が、山川氏の人々と共に神野神社を崇敬して社殿の造営を行ってきた。現在、神野神社の社宝として伝えられている金銅灯寵の笠(第二編扉写真参照・室町時代に作られた)にその期間の歴史が刻み込まれている。
⑦1625(寛永二)年、生駒氏の命によって満濃池の再建工事に着手した西嶋八兵衛は、まず「池の宮」の神野神社を造営し、寛永八年に満濃池の工事が完成して後は、神野神社もまた「池の宮」としての威容を回復したのである。
⑧その後、1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われ、
⑨1953(昭和28)年の満濃池の大拡張工事で、池の堤に近い山の上の現在地に移転したのである。
⑩その間に、1869(明治二)年からの満濃池再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門と、榎井村庄屋長谷川佐太郎の二人を祀った松崎神社を、神野神社の境内に建立した。
⑪現在の神野神社は満濃池を見下ろす景勝の地にあって、弘法大師像と相対している。
社前には、1470(文明二)年に奉献された鳥居(扉写真参照)が立っている。
神宝として伝えられている宗近作の短剣は、宝暦十一年の幕府巡見使安藤藤三郎・北留半四郎・服部伝四郎の寄贈した大和錦の鞘袋に納められている。
以上から読み取れることを要約しておくと次の通りです。
神野神社の創建については、次の3説が紹介されています。
①伊予からの移住者が伊予の神野郡にちなんで神野と呼び、神野神社を建立した
②神櫛王の子孫である道麻呂が、天穂日命を祀ったのが神野神社
③満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社

①の「神野」という地名については、古代の郷名には登場しないこと
②神櫛王伝説は、綾氏顕彰のために中世になって創作されたもので古代にまで遡らないこと。
以上から③の民俗学的な説がもっとも相応しいものように私には思えます。

④空海の満濃池改築以前に、矢原氏が賀茂神社や神野神社を建立していた
⑤「神野神社」が古代の式内社であった
⑥中世の「神野神社」は。矢原氏によって守られてきた。
⑦江戸時代になって生駒藩の西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された。
⑧堰堤改修に合わせて池の宮も改修が行われてきた。
⑨1953年の昭和の大改修で、現在地に移された
⑩明治の再築工事に功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門や榎井村庄屋長谷川佐太郎などが合祀された

以上をみると、満濃町史に書かれた神野神社の由来は、別の見方をすれば矢原家の顕彰記でもあることが分かります。
④⑤⑥では、満濃池築造以前から矢原氏がいたこと、古代から矢原氏などの信仰を受けて神野神社が姿を現し、式内社となっていたとされます。
ダムの書誌あれこれ(17)~香川県のダム(満濃池・豊稔池・田万・門入・吉田)~ 2ページ - ダム便覧
満濃池史22Pは、空海と矢原氏の関係を次のように記します。

空海派遣の知らせを受けた矢原氏は空海の下向を待った。『矢原家々記』によると、空海は弘仁十一年四月二十日に矢原邸に到着している。空海到着の知らせを受けた矢原正久が屋敷のはずれまで空海をお迎えに出たところ、空海は早速笠をとり、「お世話になります。池が壊れてはさぞお困りでしょう。工事を早く進めるつもりです。よろしくお願いします」そう丁寧に挨拶をされたという。正門も笠をとってから入られたということで、それ以来、矢原家の間をくぐるときは、どんなに身分の高い方でも笠をとってから入ることになったという話が伝えられている。空海が到着したとき、築池工事は既に最後の段階に近づいており、川を塞き止めて浸食谷の全域を池とする堤防の締切工事だけが残っていたと考えられている.
 
 ここでは後世に書かれた『矢原家々記』の内容を、そのまま事実としています。ここから読み取れることは、矢原家が空海との結びつきを印象付けることで、自分たちの出自を古代にまでたどらせようとしている「作為」です。古代に矢原氏がこの地にいたことを示す根本史料は何もありません。後世の口伝を記した『矢原家々記』を、そのまま事実とするには無理があります。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
満濃池下の矢原家住宅と諏訪明神(讃岐国名勝図会)
矢原氏は、近世の満濃池池守の地位を追われた立場でもあります。そのため満濃池の管理権を歴代の祖先が握っていたことを正当化しようとする動きがいろいろな所に見え隠れします。そのことについて話していると今日の主題から離れて行きますので、また別の機会にして本題に帰ります。
まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 寛永年間(1624~45年)
池の宮が最初に登場するのは、上の絵図です。
これは1625年に西嶋八兵衛が満濃池再築の際に、描かれたとされるものです。ここには、堤防がなく、④護摩壇岩と②池の宮の間を①金倉川が急流となって流れています。そして、堰堤の中には「再開発」によって、⑤池之内村が見えます。②の池の宮を拡大して見ます。
池の宮3
            満濃池営築図の池の宮
よく見ると②の所に、入母屋の本殿か拝殿らしき物が描かれています。鳥居は見えません。ここからは由緒には「西嶋八兵衛による満濃池再築にも矢原氏が協力し、池の宮が再築された」とありますが、池の再築以前から池の宮はあったことになります。
 ③には由来の一つに「満濃池の湧泉である天真名井仁祀られていた水の神(岡象女命)を池の神として祀った神社」とありました。中世に再開発によって生まれた「池之内村」の村社として、池の宮は「水の神を祀る神社として、中世に登場したのではないかと私は考えています。それが満濃池再築とともに「満濃池神」ともされます。こうして、満濃池の守護神として認知され、満濃池の改修に合わせて、神社の改修も進められるようになります。それを由緒は、「1659(万治二)年、1754(宝暦四)年、1804(文化元)年、1820(文政三)年と池普請の度毎に社殿の造営が行われた。」と記します。しかし、近世前半に満濃池が描かれた絵図は、ほとんどありません。絵図に描かれるようになるのは、19世紀になってからのことです。満濃池が描かれた絵図を「池の宮」に焦点を当てながら見ていくことにします。

金毘羅山名勝図会2[文化年間(1804 - 1818)
満濃池 (金毘羅山名所図会 文化年間1804~19)
この書は、大坂の国文学者石津亮澄、挿絵は琴平苗田に住んでいた奈良出身の画家大原東野によるものです。『日本紀略』や『今昔物語集』を引用し、歴史的由緒付けをした上で広大な水面に映る周囲の木々や山並み、堰堤での春の行楽の様子を「山水勝地風色の名池」と記します。上図はその挿絵です。東の護摩壇岩と西側の池の宮の間に堰堤が築かれ、その真ん中にユルが姿を見せています。その背後には、池面と背後の山容が一体的に描かれます。添えられた藤井高尚の和歌には、次のように詠われています。

 「まのいけ(満濃)池の池とはいはじ うなはらの八十嶋かけてみるこゝちする」
 金毘羅名所図会 池の宮
満濃池池の宮拡大 (金毘羅山名所図会)
池の宮の部分を拡大して見ると、堤防から伸びた階段の沿いに燈籠や鳥居があります。その後に拝殿と本殿が見えます。こうして見ると、
本殿や拝殿の正面は、池ではなく、堰堤に向かって建っていたことが分かります。ここでは、滝宮念仏踊りの七箇村組の踊りも、滝宮に行く前に奉納されていたことは、以前にお話ししました。


満濃池遊鶴(1845年)2
象頭山八景 満濃池遊鶴(1845年)
この時期の金毘羅大権現は、金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石畳や玉垣などが急速に整備され、面目を一新する時期でした。それにあわせて金光院は、新たな新名所をプロデュースしていきます。この木版画も金堂入仏記念の8セットの1枚として描かれたものです。 これを請け負っているのは、前年に奥書院の襖絵を描いた京都の画家岸岱とその弟子たちです。ここには、堤の右側に池の宮、その右側には余水吐から勢いよく流れ落ちる水流が描かれています。満濃池の周りの山並みを写実的に描く一方、池の対岸もきちんと描き、池の大きさが表現されています。後の満濃池描写のお手本となります。ちなみに、次の弘化4年(1847)年、大坂の暁鐘成の金毘羅参詣名所図会は、挿絵作家を連れてきていますが、挿絵については上の「象頭山八景 満濃池遊鶴」の写しです。本物の出来が良かったことの証明かも知れません。 
img000027満農池 金毘羅参詣名所図会
 金毘羅参詣名所図会 弘化4年(1847)
この絵からは、やはり鳥居や本堂は堰堤に向いているように見えます。そして地元の出版人によって出されるのが「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)です。

満濃池(讃岐国名勝図会)
満濃池「讃岐国名勝図会」嘉永7年(1854)
梶原藍渠とその子藍水による地誌で、1854年に前編5巻7冊が刊行されますが、後は刊行されることなく草稿本だけが伝わることは以前にお話ししました。俯瞰視点がより高くなり、満濃池の広さが強調された構図となっています。これを書いたのは、若き日の松岡調です。彼は明治には讃岐の神仏分離の中心人物として活躍し、その後は金刀比羅宮の禰宜となる人物です。
 次の絵図は嘉永年間の池普請の様子を描いたものです。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池普請図(嘉永年間 1848~54)
この時の普請は、底樋を石材化して半永久化しようとするものでした。しかし、工法ミスと地震から翌年に決壊して、以後明治になるまで満濃池は姿を消すことになります。右の池の宮の部分を拡大して見ます。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(池の宮) - コピー
満濃池普請図 池の宮拡大部分 嘉永年間
ここにも燈籠や鳥居、そして拝殿などが見えます。同じ高さに池御領の小屋が建てられています。この後、堤防は決壊しますが
  次に池の宮が絵図に登場するのは、明治の底樋トンネル化計画の図面です。
軒原庄蔵の底樋隧道
満濃池 明治の底樋トンネル化図案
底樋石造化計画が失敗に帰した後を受けて、明治に満濃池再築を試みた長谷川佐太郎が採用したのが「底樋トンネル化案」でした。それまでの余水吐の下が一枚岩の岩盤であることに気づいて、ここにトンネルを掘って底樋とすることにします。その絵に描かれている池の宮です。
長谷川佐太郎 平面図
明治の満濃池 長谷川佐太郎によって底樋が西に移動した
ここでは、それまで堰堤中央にあった底樋やユルが、池の宮の西側に移動してきたことを押さえておきます。
大正時代のユル抜きの際の3枚の写真を見ておきましょう。

ユル抜きと池の宮3 堰堤方面から
大正時代の満濃池ユル抜き
堰堤の西側に拝殿と本殿がつながれた建物があります。あれが池の宮ようです。堰堤には、ユル抜きのために集まった人達がたくさんいて、大賑わいです。

池の宮2
大正時代の満濃池のユル抜き風景
角度を変えて、池の宮の上の岡から移した写真のようです。左側が堰堤で、その右側に池の宮の建物と森が見えるようです。拝殿が堤防に併行方向に建っているように見えます。手前下で見物している人達は笠を指しているので雨が降っているのでしょうか。そのしたに流れがあるようにも見えますが、余水吐は移動して、ここにはないはずなのです。最後の一枚です。

大正時代のユル抜き 池の宮
大正時代の満濃池のユル抜き風景と池の宮
手前の一番ユルに若衆がふんどし姿で上がっています。長い檜の棒で、ユルを開けようとしています。それを白い官兵達が取り囲んで、その周りに多くの人達が見守っています。背後の入母屋の建物が池の宮の拝殿だったようです。明治以後、1914年に赤レンガの取水塔が出来るまでは、こうして池の宮前でユル抜きが行われていたようです。取水塔ができてユルは姿を消しますが、池の宮は堰堤の上にあったのです。それが現在地に移されるのは、戦後のことです。そして、池の宮の後は、削り取られ更地化されて、湖面の下に沈んでいったのです。以上をまとめておきます。
①中世の満濃池は決壊し、池跡には池之内村が現れていた。
②堤防跡に、その水神として祀られていたのが「池の宮」である。
③西嶋八兵衛による再築後は、満濃池の祭神として人々の信仰をあつめた
④池の宮は、堤防改築期に定期的に改修されるようになった。
⑤池の宮では滝宮念仏踊り七箇村組の踊りが、滝宮への踊り込みの前に奉納されていた。
⑥明治になると「神野神社」とされ、式内社の論社となった。
⑦大正時代にレンガ製の取水塔ができるまでは、満濃池のユル抜きは池の宮前の一番ユルで行われていた。
⑧戦後の堤防嵩上げ工事で、池の宮の鎮座していた丘は削り取られ更地化されて湖面に沈んだ。
⑨池の宮は神野神社として現在地に移転し、本殿などが新築された。

今日はこのあたりにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池名勝調査報告書 2019年3月まんのう町教育委員会
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 私の関心のある人物の一人が、満濃池を再築した西嶋八兵衛です。彼は、若くして藤堂藩から生駒藩に家老待遇でレンタル派遣された人物で、讃岐の大恩人ともいえます。しかし、彼の銅像や記念碑は讃岐にはありません。讃岐は西嶋八兵衛の業績を正当に評価しているとは私には思えません。もし、彼が讃岐生まれの人物だったらもう少し、別の評価がされているのではないかと思ったりします。
 最初から話がそれてしまいましたが、西嶋八兵衛を考える際に、彼がどのようにして築城・治水・土木技術を身につけたのかという視点が必要だと思っています。そのために戦国時代から近世への治水技術の変遷を追いかけています。ある意味、「周辺学習」で周りから埋めて本丸に迫ろうとしているのですが、なかなか堀は埋まりません。今回は、戦国大名が治水・築造事業に、どのように関わっていたのかを見ていくことにします。 テキストは畑大介 『家忠日記』にみる戦国期の水害と治水   治水技術の歴史 235p」です。
 まず松平家忠について押さえておきます。

松平家忠とその時代 『家忠日記』と本光寺 - 古書くろわぞね 美術書、図録、写真集、画集の買取販売

松平家忠は深溝松平家の当主で、弘治元年(1555)に西三河の深溝(愛知県幸田町)に生まれています。父伊忠は天正3年(1575)5月の長篠の戦いで、武田方の鳶巣山を攻撃した際に戦死し、その後家忠が20歳で家督を継ぎます。家忠はしばらく深溝に居を構えていましたが、天正18年(1590)8月に家康の関東国替に伴い忍(埼玉県行田市)に移封されます。その後は次の野通りです。
天正20年(1592)上代(千葉県旭市)に移封
文禄3年(1594) 小見川(香取市)に移封
慶長5年(1600) 関ヶ原合戦の前哨戦で伏見城を守り、石田勢の攻撃を受けて戦死
企画展「戦国武将の日記を読む~「松平家忠日記」に見る信長・秀吉・家康~」(2009.11.01~12.18) | 禅文化歴史博物館 | 駒澤大学
家忠日記
日記は家忠個人の私的なもので、自らが行ったことや接したことなどが淡々と書き連ねられています。読んでいて面白いものではありませんが、同時代史料として、信長・秀吉・家康の動向を知る史料として研究者は必携の史料のようです。それを盛本昌広氏は、「家忠の日常生活」という視点で、日記全体を詳細に読み解き『松平家忠日記』を出版しました。
松平家忠日記(森本昌広) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

この結果、いろいろなことがこの日記からは、見えてくるようになったようです。研究者は、日記に出てくる出水・破堤・築堤等の記述を一覧表化しています。その表を見ながら松平家忠の治水への取組を見てみましょう。
家忠日記1

日記が書かれ始めるのは家督を継いで2年目の天正5年(1577)10月からです。天正6年2・3月は、家康の命で新城普請や牧野原普請にかり出されています。表は5月から始まります。5月(新暦では6月中旬の梅雨期)に入って雨が続き、その後10日晩より本格的に降り始めます。大雨による被害を避けるために11日は、「祈祷候 南城坊」とあるので、深溝の近くの大草(愛知県幸田町)にある南城坊の修験者に祈祷を依頼しています。南城坊は信頼する修験者だったようです。しかし、13日に「夜も大雨が降り、なから(永良)堤七八間切候」とあるので、祈祷の祈りは届かず、雨は止まず、永良の堤防が7間ほど決壊します。

深溝城~五代続いた深溝松平氏家の城でしたが、江戸時代初期に廃城になり現在は工場用地となっています。 | 歴史探索
松平家忠の深溝陣屋

 研究者が指摘するのは、14日に「ふかうす(深溝)越候」と記されていることです。ここからは、決壊現場を見守り続け、14日に本拠地の深溝にもどっています。この時の家忠は23歳、治水に正面から向き合う覚悟が感じられます。

15日以降も断続的に雨が降きますが、この時期は決壊現場の永良には足を運んでいません。この時期、家忠は家康から、岡崎に出仕を命ぜられていたようです。

 6月に入っても、雨は降り続きます。1日の夜から4日まで雨です。9日に「永良へ築つかせに候」とあるので、永良の堤工事のために出向き、11日まで現場にとどまっています。そして12日には「中嶋堤つかせ候」とあるので、中嶋へ移動して堤防修復を15日まで行って、16日に岡崎に帰っています。ここからは、永良・中嶋の築堤の際には、家忠は現地にとどまって、工事を監督していたことが分かります。
 日記には、被害地域として出てくるのは永良と中嶋です。

松平家忠 領地図
西三河の永良と中嶋 家忠の居城は深溝 菩提寺が本光寺

永良(西尾市)と中嶋(岡崎市)は矢作川とその支流の広田川に囲まれた隣接地で、家忠の領内では有数の穀倉地域だったようです。そこが洪水常襲地域でもあったのです。出水・破堤等の水害の記述は、天正6年から15年にかけて毎年見られます。
 7月になると横須賀砦普請に従事し、それを15日に完成させて、18日に岡崎に帰っています。その後、21日から断続的に雨が降り続き、8月に入っても雨は続きます。8月2日には牧野番のために岡崎から深溝にもどっていましたが、4日に大雨が降り、所々の川から出水したという情報を得ていますが、自ら現地に赴いてはいません。その日は、深溝松平家菩提寺の本光寺を訪れています。翌5日は浜松城に出仕し、6日には掛川の天龍寺まで進み、7日に牧野城番の交代です。7月27日から8月2日にかけて雨が降り続き、2日に永良で再び破堤します。3日に家康は岡崎を訪れ、翌4日に家康は長男信康を大浜(愛知県碧南市)に退去させています。5日に家忠は家康からの命令で弓・鉄砲衆をつれて大浜に近い西尾(愛知県西尾市)に向かい、7日まで北端城番を務めています。この一件は9月15日の信康切腹事件と発展していきます。これは徳川家にとっての一大事で、家忠にとっても永良の破堤に気を配る余裕はなかったはずです。
 9月になると徳川・北条同盟に基づく武田氏との戦闘が開始されます。この時に家忠は牧野番を務めています。

家忠日記2

天正8年(1580)3月16日(新暦5月8日)からの雨が降り続き、20日に「大出水」とあります。その場所については、どことは記されていません。ただ17日に永良で、18日には中嶋の際福寺で、振舞(接待)を受けているので、その周辺だったことはうかがえます。この時には22日に「ふかうす(深溝)かへり候」とあるので、決壊現場にとどまることはなかったようです。

6月27日には「雨こい(雨乞)連歌之一順候」とあるので、雨乞い祈願の連歌が詠まれています。
ここからは、この年は夏には旱魃になっていたことが分かります。雨乞の連歌は翌28日にも詠まれています。その効果があったのか、未刻から雨が降り始めるのですが、大雨となってで、29日には中嶋で再び破堤とあります。家忠は9日後の7月8日に「中嶋に堤つかせに候」とあります。ここからは自ら中嶋に赴き、10日まで築堤作業をして深溝に帰ったことが分かります。
この年は10月後半から、武田方の高天神城を包囲するための作戦が開始されています。家忠は堀普請に従事しています。この工事は年を越して続けられ、天正9年3月22日に籠城していた武田軍が城から斬って出て高天神城は落城します。家忠が深溝に帰ってきたのは3月25日です。その後、領内で日々を過ごし、6月9日に牧野原番に出かけて晦日に番を終えると、そのまま7月1日に相良に向かい、砦の普請に従事して13日に深溝に帰っています。

天正10年は、家忠は次のように1年のうちの8ケ月は深溝を離れて出陣し、遠征に明け暮れています。
①2月17日から4月14日までは、武田氏追討のための甲州への出陣
②6月26日から12月16日までは信長死後の甲斐国領有をめぐる対北条戦のための遠征
この年は、治水工事に出向くゆとりがないほど戦陣に駆り出されています。そのためか深溝近辺に滞在した期間でも、日記には出水・破堤・築堤等の記事はありません。

この時期の家忠を見ると、築堤期間中は現地に出向いて「現場監督」を行うことを原則としています。
①天正7年7月、永良での築堤作業中に岡崎城に出仕して、用務終了後に永良にたちもどっている
②天正9年8月末からの工事でも、一度深清に帰って用務終了後に再度やて来ている
ここからは若い頃の家忠が「川を治める治水(築堤)」に使命感を持って取り組んでいた姿が見えてきます。
天正11年は、正月10日に「中嶋へ越候」とあります。

家忠日記3

翌日11日には
「つつミ(堤)つかせ候。孫左衛門ふる(振)舞候、大つかより永良池にてあミ(網)引候、取候」

ここからは築堤工事中に、中嶋・永良等に滞在して、永良池で網で魚を獲ったり、岡田孫左衛門尉(中嶋)や、大原一平(永良)から振舞(接待)を受けたことが分かります。前年に被害を受けた箇所を、冬の間に修復しているようです。17日に深溝に帰るまで約1週間の「現場監督」を務めています。
ちなみに、この天正11年は5月(新暦6月)から梅雨末の雨が降り続き、大水が出て田が流されています。
そのため6月26日に中嶋に赴き、27・28日と築堤し、30日に帰還しています。治水対策に追われる中で、家康から次のような指示も受けます。
①7月11日に、8月6日に信州川中島へ出陣に従軍すること
②7月20日に、家康の娘が北条氏直に嫁ぐので、19日に浜松に来ること。

19日の日記には「浜松江日かけニ越候、城へ出仕候、御祝言進上物、いた物二たん」とあるので家忠は指示通りに浜松城に出仕し、婚礼祝として板物二反を進上したことが分かります。ところが翌20日は「五〇年巳来大水ニ候」という大雨洪水で、「御祝言も延候」になってしまいます。気になるのは、領地の状態です。さっそく22日に、深溝に帰って被害状況を確認すると、次のような報告が入ります。
「中嶋・永良堤入之口、皆々切候、三川中堤所々きれ候」
「田地一円不残そん(損)し候、家ひしげ(破損)候」
 28日には「中嶋に水見ニ候、のはより船にて越候」とあるので、家忠は野場(のば)から船で中嶋一帯の被害状況を視察しています。実際に自分で被害状況を確認した上で、翌日29日に「浜松浄清被越候、浜松へ水入候御訴訟ニ人を越候」とあるので、使者を立てて水害の被害状況を浜松の家康に訴えて賦役免除をもとめています。その使者が8月3日に戻ってきて、家康から普請役免除が伝えられます。収穫を間近にして、水田が水に浸かったことで、この年の収穫に大打撃があったことがうかがえます。
 天正11年は大きな災害が繰り返された年でした。5月の大出水にはその日の内に、7月の大出水に対しても、浜松の家康のもとに被害状況を知らせて、普請免除を願いでています。これに対して家康は、これを認めています。通常の出水や破堤では、使者を出していないので、この時の被害が大きかったことがうかがえます。


天正12年2月15日の記述を見ると、この季節に中嶋で護岸工事が始まったことが記されています。
家忠日記5

 近世の満濃池の底樋替えも農民達が農閑期の冬に行われるのが通例でした。家忠も前年被害のあった堤防の復旧工事は、春先に行っています。天正12年2月15日に「浜松より知行之内人足すミ(済)て中嶋へ堤つかせ越候」とあります。これについては、次の3つの解釈を研究者は示します。
①先ほど見た「家康から普請役免除」の成果で、賦役免除となった人夫を堤防工事に投入した
②浜松に派遣していた人足を工期終了後に、築堤のために中嶋に投入した
③守護は家忠で、浜松での作業が終わったので家忠が中嶋に赴いた
どちらにしても4日間の工事で作業を終了しています。その翌日の19日に、家忠は永良・中嶋で振舞を受け、20日に深溝に帰ります。
 この年は小牧・長久手の戦いがあった年になります。そのため家忠は、3月8日から11月17日まで出陣しています。冬には治水工事、春からは戦場へというのが、家忠の年間行事サイクルになっていたことがうかがえます。
天正13年の治水工事一覧です
家忠日記6

 この年も永良や中嶋(崇福寺)の築堤工事を、田植え前の春に行っています。中世において春は「勧農」の季節で、新たな農業生産のための灌漑施設等の整備が行われる時期でした。この流れに家忠も合わせて、堤防修復を行うようになったのでしょう。
 また、天正11~13年の春に、家忠が永良や中嶋へ築堤工事に出向くと、必ずと地元の家臣や寺院から振舞(接待)を受けています。振舞は築堤工事に対する返礼の意味合いもあったようです。それに対して、水害直後の緊急対策的な築堤の場合は、振舞を受ける機会は少なかったようです。緊急対策か予防かは、その後の振舞の有無で判断できるようです。
  
また、天正12~15年になると、出水・破堤と築堤が連動しなくなるケースが増えます。
  これは水害直後の緊急対策的な築堤に、家忠自身がほとんどかかわらなくなったことを示すと研究者は考えています。つまり家忠が現地に行かなくても対処できる体制ができあがったようです。それは、家忠が家康の命で長期出張や遠征を繰り返すようになったこと。それに供えて、技術者の人材育成が進んだことが考えられます
これを裏付けるのが、7月5日の「永良に堤つかせ二候」です。
ここには「越」がありません。家忠は現場監督に行っていないようです。この時期から現場監督を任せられる技術者が育ち、自らが現場に出向く必要が減じた時期だととしておきましょう。

天正17年は、1月28日から4月13日までは、駿府普請に出かけています。
家忠日記7

それが終わって帰ってからは雨乞の記述が見られます。6月10・11日に雨乞の連歌を詠み、その効能があったのか、11日の夜は雷とともに大雨が降っています。それから雨は断続的に降ったために、今度は洪水が気になります。家忠は14日には中嶋に出向いて築堤修復を行っています。それ以前に出水や破堤等の記述がないので、予防的なものだったようです。翌15日は永良・中嶋に滞在し、その日のうちに深溝に帰ります。そして、この年の7月17日から11月10日までは、秀吉の京都・方広寺大仏殿建設への木材供出のために、富士山での木材運搬作業のため出張しています。

天正16・17年になると築堤記述はありますが、出水・破堤はみられなくなります。
所領替えで忍に移る前の天正18年中は、築堤・出水・破堤については何も書かれていません。この時期になると家忠は、深溝を離れることが多くなります。そのため領内では水害はおきていたのかもしれませんが、その対策は家臣や地元の人々が中心となって行われていたと研究者は考えています。
天正13年以降は、家忠が現地に出向いても、滞在は1日だけになっています。実際にはその前後で築堤工事が行われたいたはずです。家忠自身が全工事期間中を、現地に張り付く必要がなくなっていたのでしょう。1日であっても現地に出向いて「現場監督」を果たす。それが河川管理が領主の責務と考えていたのかも知れません。同時に、この時期になると予防的築堤工事が多く、緊急性が低くなっていたこともあるのかもしれません。どちらにしても、現場に出向いて現場監督の任を果たし、地元の接待を受ける。これを長年繰り返すことは、地元との信頼関係を深めることにつながります。支配ー被支配関係を円滑にするには有効な方法だったはずです。
天正18年は、秀吉の小田原攻があった年です。
これに家忠も2月2日から8月5日まで従軍しています。この後に、家康は関東への領地替えを命じられます。家忠も7月20日に国替を申し付けられ、8月29日に忍に到着しています。
以上、天正5年から18年までの松平家忠が三河の領地で、どのように治水に向き合っていたかを彼の日記から見てみました。振り返って気づいた点を補足しておきます。

 築堤工事に従事した人夫達は、どこから動員されたのでしょうか。
このことについては日記には、なにも触れていません。おそらく被害にあった流域の農民達が動員されたのでしょう。また工事の経費負担についても、何も書かれていません。さらに出水・破堤によって耕地や用水路も大きな被害を受けていたはずですが、 日記にはそれらの復旧に関係する記述もありません。ここからは領主の任務は「川を治める治水」で、それ以外の復旧は領主の関与しないことであったと研究者は考えています。逆云えば、それぞれの地元で進められる体制が整っていたとも云えます。

以上の家忠の治水に関わる状況変遷をまとめておきます。
①天正6~9年は、出水・破堤すると家忠自身が現地に赴き、原則全工程期間を立ち会っていた。
②この時期は、梅雨や台風の大雨被害に対する緊急対策的な築堤工事が主流であった。
③それが天正11~16年になると、春に予防的築堤工事が行われるようになった。
④そして、家忠が工事に立ち会うのも全工程ではなく、1日だけとなっていった。
こうして見ると天正10・11年頃が、治水体制の転換点であったことになります。スローガン的に云うと「緊急対策的から予防対策への転換」というところでしょうか。これを別の視点で見ると、家忠自身が現場に出向いて陣頭指揮をしなくても、工事は進むようになったことを物語っています。
 若き領主自らが現場に出て、監督するといのは部下たちにとっては励みになります。主君の願いに応えて、治水技術や土木技術を学ぼうとする技術者が家忠の側近の中から育って行ったことが考えられます。それは、満濃池再築を果たした西嶋八兵衛の姿と重なります。彼は若くして、築城・土木技術の天才と言われた藤堂高虎の側近として仕えます。そこで、高虎が天下普請として関わった二条城や大阪城の築城に参加して、知見を広めて云ったことは以前にお話ししました。
 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事が、どの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。西三河の松平家忠の下で行われていた治水工事でも、『民政臣僚』が現れてきたことが考えられます。

天正18年に移った忍領も1万石ですが、出水・破堤のことは、まったく出てきません。

家忠日記8

築堤について、天正19年3月6日条に熊谷筋堤を50間築いたことが添え書きされているだけです。この工事に家忠が出向いた形跡もありません。ここからは、家忠がいなくても治水工事が可能な体制が整っていたことが改めて分かります。
1年半後の天正20年2月に、家忠は上代へと再移封されます。そして、江戸城普請が命じられます。これが一段落すると、文禄3年2月には、京の伏見普請を命じられます。この間も、出水・破堤・築堤等の記述はありません。京の伏見普請が進む中で、家忠は、淀堤・霞原堤・員木嶋堤の普請を命じられています。これは西三河で培っていた治水工事や護岸工事技術を、秀吉の天下普請で披露する機会になったかもしれません。その技術や工法が、各大名によって持ち帰られ各地に拡がった。そのひとつの例が高知県仁淀川河口の上の村遺跡の石積護岸であり、川港であるという仮説は前回にお話ししました。天下普請は、各地で培われた土木技術や工法の「見本市」の役割を果たしていたことを押さえておきます。

家忠は8月8日には淀堤完成後は、員木嶋堤の築堤を命じられたようで、人夫の移動記録が残っています。その後も、霞原堤普請が割り当てられるなど、周辺の護岸工事をたらい回しにされて、辟易した様子が日記からもうかがえます。
宇治川の天下普請では、深溝時代のどんな経験が生かされたのでしょうか。
8月26日条には、員木嶋堤普請では「川せき道具」が用いたことが記されています。これは川の流れをせき止める資材で、これを使って流路変更が行ったことが推測できます。家忠が、さまざまな治水のための道具や知識を持っていたことがうかがえます。
家忠が取り組んだ治水工事を見てきましたが、実は彼の土木工事の中心は城普請でした。
牧野原城・駿府城・江戸城・伏見城などが代表作で、出陣や城番を務めた間も、築城工事を行っていることが多かったようです。どのような工事に携わったかは分かるものだけを挙げてみると
①天正6年8月の牧野原城では堀普請
②天正8年10月の武田方の高天神城攻略の際は堀普請や塀普請
③天正15年の駿府城では、二の曲輪や本城の堀普請や石積工事
ここからは、家忠は合戦で武勇をふるうタイプではなく、城普請等の土木工事に長け、その点を家康から評価されていたことがうかがえます。
 秀吉の小田原城攻めの準備として、天正18年2月17日から21日は富士川に舟橋を架け、忍期の天正19年4月22日にも橋普請をしています。橋の架橋工事もできたのです。
若い頃に取り組んだ深溝での築堤については、どのような工事が行われたかはよく分かりません。用意された道具や資材についても、何も記されていません。

百姓伝記(全2冊)(古島敏雄 校注) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

岩波文庫に『百姓伝記』という記録が収録されていますあります。
これは西三河の矢作川流域の武士か、前代まで武士的生活をした上層農民によって天和年間(1684)に書かれたものとされます。そこには家忠から約百年後の、西三河の治水工法が記されています。その「防水集」には、堤防の細かな仕様のほか、付設された蛇籠や牛枠類など各種の構造物についても記されていいます。その一部を紹介します。
羽村堰 写真集
牛枠(聖牛)
  堤防で水が当たる所には牛(枠)を設置し、まず水の勢いを弱め、堤防満水になり堤防を越水する際には急いで土俵を並べ、芝を積み、手に手にむしろ・こも・切流しの竹木を持ちここを先途と防ぐこと。昔から大洪水と言えど雨が一日降り続くということはないものだ。10m先が見えないくらいの大雨が六時間降り続けば山と海が一つになると言うが、そのような雨が降り続くことは百歳になる故老も知らぬという。であるから、三日から五日間降り続く雨であっても、大洪水と言うほどの雨の発生確率は小さいのである。ただ6時間ほどの洪水を防げば、危機は逃れられるものである。
  水防で家を壊し、屋敷林を切って堤防の危ないところに資材として積み重ね使っても、堤防を守りその年の作物が救えるなら、飢えに苦しむものは出ない。大河川の流域にすむ人々は、常々の心がけが大事である。綱や縄を分相応なくらいに準備しておき、持っておくことが重要である。堤防近くの林や藪は切らずに残しておき、万一の洪水時に土砂を貯める。さもなくば先祖から受け継いだ田畑や屋敷に土砂が押しかかり放棄することになる。働きが悪ければ妻子ともども命を失う。常の準備が悪ければ堤防を守ることができない。水防活動では、食事のしたくをする時間はないから、米でも麦でも、あるいはアワ、ヒエやキビを行動食として持っていくのが常識である。

このような治水心得や工法は、百年前の家忠の時代から引き継がれてきたのかもしれません。『伝記』の技術・心得は『家忠日記』に記された戦国期の治水の取り組みを継承・発展させたものとしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 畑大介 『家忠日記』にみる戦国期の水害と治水   治水技術の歴史 235p

買田池1
   買田池が姿を現す前の如意山と諏訪谷   
丸亀平野の土器川と金倉川に挟まれた小高い丘陵地帯があります。これが如意山と呼ばれ古くから霊山として信仰の対象になっていたようです。それは、この山の谷間から銅鐸や銅剣が出ていることや、南側斜面の櫛梨側には式内社の櫛梨神社が鎮座していることからうかがえます。また、中世にはここに山城が築かれて、ここを占領した安芸毛利軍と讃岐国衆との間で、元吉合戦が戦われています。今回は、この如意山の東側に開いた諏訪谷に築かれた買田池について見ていくことにします。テキストは「田村吉了   買田池と周辺水利史 善通寺文化財報6号 昭和62年(1987)」です。研究者は、買田池を次の4段階に分類しています。
1、諏訪谷池時代と周辺。
2、慶長17(1612)年 買田池誕生と二回の底掘。
3、安政6年(1859)年 底掘と嵩上と万延元(1860)年修復と新揺。
4、明治以後より満濃池土地改良区管理まで。
買田池8
現在の買田池

1617(慶長17)年 買田池の誕生と二回の底掘。
  江戸時代になり世の中が落ち着くと、生駒藩は新田開発を奨励し、開発者に対して有利な条件を提示します。そのため周辺から有力者が入国して、今まで未開発で手の付けられていなかった土器川や金倉川の氾濫原を開発し、大きな田畑を所有するものが現れます。その例が以前にお話した多度津葛原の木谷家です。木谷家は、もともとは安芸の海賊衆村上氏に仕えていた一族です。それが秀吉の海賊禁止令を受けて、讃岐にやって来て金倉川沿いを開発する一方、豊かな財力で周辺の土地を集積していきます。そして、17世紀中頃には、庄屋になっています。このような有力者たちが「開発した土地は自分のもの」という生駒藩の政策に惹かれて、讃岐にやってきて帰農し、土地を集積し地主に成長して行ったようです。
  また三野平野では、生駒藩に家老クラスで仕官した三野氏が大規模な新田開発を行い、それに刺激された高瀬の威徳院などの寺院も新田開発を積極的に進めたことは、以前にお話ししました。しかし、新田ができただけでは稲は育ちません。そこに農業用水がやって来なければ水田にはできないのです。そのためには潅漑施設として「ため池 + 灌漑用水路 + 河川コントロールのための治水事業」が必要になってきます。農業用水確保と水田開発はセットなのです。
ちなみにこの時期に満濃池は姿を消していました。12世紀末に決壊して後は、放置されて旧池跡は開発され池之内村ができていました。灌漑用水の確保は急務になります。新田開発が進んだエリアでは、その上流地域にため池の築造場所を物色するようになります。
木徳町の津島家文書には、次のように記されています。
「慶長十七(1612)生駒正俊の時 この池を拡げ築立て申候、八月二日鍬初めいたし十二月十五日出来中候、御普請奉行北川平衛門、御普請手代森山伊右衛門この両人始末相請け築立申候、この池はもと小さき池にて、諏訪谷池と申し居り候処仲郡東西木徳村、郡家村、梓原村、金蔵寺村、原田村、与北村々相謀り、田地ばかりを右七か村にて買取り、東北へ二町ばかり拡げ申候に付、買田池と名づけ申候」

意訳変換しておくと
「1612年藩主・生駒正俊の時代に、この池の拡張工事が行われた。8月2日に鍬入れが行われ、その年の12月15日に完成した。御普請奉行北川平衛門、御普請手代森山伊右衛門の両人が責任者であった。この池はもともとは、諏訪谷池と呼ばれる小さな池であった。それを仲郡の東西木徳村、郡家村、柞原村、金蔵寺村、原田村、与北村の村々が協議して、用地買収を行って東北へ二町ばかり拡張した。そこで買田池と名づけられた。」

買田池誕生 生駒時代
生駒時代の買田池


ここからは次のようなことが分かります。
①下流の東西木徳村、郡家村、柞原村、金蔵寺村、原田村、与北村の7ヶ村を灌漑エリアとすること。
②もともと諏訪谷池とよばれる小さな池があったのを、大規模拡張工事を行って大型化したこと
③拡張部の敷地が買収で確保されたので「買田池」と呼ばれるようになったこと
こうして真夏から4ヶ月で240間(432m)の築提が行われ、約二町歩の水面が広がる大池が姿を見せたのです。これは西嶋八兵衛の満濃池築造に先駆けること約20年前のことです。
しかし、この池を満水にするには如意山の降雨量では足りません。
 約30年後に西嶋八兵衛によって築造された新満濃池の池掛かりに、買田池は組み込まれ「子池」に編入されていることが1641(寛永18)年の「満濃池之次第」からは分かります。
買田池7
現在の買田池 中央奥が五岳、右奥が天霧山
1703(元禄16)の記録には、「池床底掘り上げる」と記されています。
更に28年後の1731享保16)年には、第二回の掘り上げを行ったとあります。注意したいのは「掘り上げ」としか書かれていませんが、「嵩上げ」を伴うものであったと研究者は推測します。 以前に多度津葛原の木谷家のところでお話したように、江戸時代前期のため池維持の工事は「底ざらえ」が中心で、費用のかかる嵩上げ工事はやっていません。嵩上げ工事が行われるようになるのは、18世紀になってからのようです。天保年間の調査記録では、次のように記されています。
堤高 三間半 (6,3m)
堤長 二白四十間 (432m)
堤巾 二間半 (4,5m)
ここからは、天保年間には嵩上げが同時に行われ、皿池であつた買田池が底の深い溜池に姿を変えていったことがうかがえます。

買田池5 時代比較
  買田池にとって、もうひとつのレベルアップは、元禄年間に高畑正勝が金倉川流水、次に享保年間に土器川の引水に成功したことです。  これについては、また別の機会にします。
DSC04709
櫛梨城跡からのぞむ買田池

ペリーがやって来る前年の 安政5(1853)年に、修築工事を終えたばかりの満濃池が決壊します。

新たな工法としてそれまでの木樋から石樋に換えたための工法ミスとされます。これに対して、多度津藩や丸亀藩からは早期の再建に対しては強い反発が出されて、再築工事着工の目処がつきません。そこで、髙松藩では満濃池に頼らない灌漑システムの構築に動き出します。それが買田池の大規模改修であったようです。
 翌年の1854(安政6)年の秋に、農民から出された底堀上置普請に対する銀60貫目の貸付と、大工、人夫延53000人が計上プランを髙松藩は認めています。これまでにない大規模な改修工事であったことが分かります。この工事に当っても、新たに必要な30石あまりの田地を、七ケ村で買取っています。その結果、西側に内池(上池)と呼ばれる池が姿を見せ、二重池となります。満水の際は、中堤が水面下に沈んで、一面の大池になりますが、減水すると二つ並んだ池となります。
買田池3 安政の嵩上げ
安政の底上げ・嵩上げ工事

 しかし、安政の底掘、嵩上工事は大型化に対して技術が伴わなかったようです。

6年後の1860(万延元)年5月15日の大雨で決漬し、下流田地が押し流されました。その後、復旧では三段櫓が導入され西部の京田、西村方面への配水の速さが向上します。こうして、現在の買田池の原型が成立します。
買田池6 安政とまんえい比較

以上をまとめておきます。
①17世紀初頭の生駒藩による新田開発で生まれた水田の灌漑用水として買田池は作られた。
②その後、新たに築造された満濃池の水掛かりに入ることで用水を確保しようとした。
③それでも農業用水は不足し、水源確保のためにかずかすの施策が採られた。
④そのひとつが底浚いと堰堤の嵩上げであった。
⑤幕末に満濃池が決壊して、再築が進まない状況の中で、髙松藩は買田池の大規模増築を実施する
⑥しかし、これは工事に問題があり短期間で決壊した。現在の買田池の原型はこのときの復旧野中から生まれた。

買田池4 昭和の大改修

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献     田村吉了   買田池と周辺水利史 善通寺文化財報6号 昭和62年(1987)

麻盆地の出口にあたる下麻には、「勝間次郎池」という大きな池があったという話が伝えられています。まずは、その昔話を見ていくことにします。
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下女塚が載っているのは第1集
下女塚 勝間次郎という池の堤に人柱が立てられた話です。
昔、下麻と首山にまたがって、朝日山や傾山や福井山などに囲まれた大きな池がありました。名を勝問次郎といいました。
このあたりで一番大きいのが満濃池で、満濃太郎と呼ばていたのに対して、勝間次郎は、満濃太郎の次に大きい池だという意味です。勝間次郎は、数十の谷から流れこむ三筋の川によって、池はいつも海のように水をたたえていたと言われています.
大きな池には長い堤が必要です。勝間次郎にも、たいへん長い堤防がありました。大きい池は水が多くて重いので、長い堤は切れやすいのです。堤がきれるたびに、海のような水が流れだして、そのたびに家が水浸しになり、たんばやはたけの作物が流されたりして、たいへんな被害がありました。
こんなに被害をもたらす池ですが、旧んぼやはたけの作物には水が必要です。人々はつらい思いをしながら、切れた堤を修理するのです。
麻盆地 
大麻山の西山麓に広がる麻盆地
 その年も、勝間次郎の堤が切れて、たいへんな被害がありました。
堤を修理する工事は、たいへんな苦労で、大勢の人が、何十日も汗を流して働きました。
修理の工事をしているときに、ある人が言いました。
「このようにたびたび切れる池には、人柱を立てると切れなくなるそうだな。東のほうの池で、若い女を人柱を立てたところ、それから堤が切れなくなったということを聞いたぞ」
修理の工事がきびしく苦しいので、賛成する人が何人も出てきました。
「大勢の人を助けるためには、かわいそうだが人柱もやむをえない
「そうだ、そうだ」
「あすの朝、一番にここを通った女の人を人柱にしよう」
「そうだ、女の人をつかまえて切れた堤の中へうめることにしよう」
「うん、それがよい」
こうして、工事の人たちの話し合いは、人柱を立てることに決まりました。
この話は村の庄屋さんの家へも伝わりました。庄屋さんも奥さんもたいへん心配しました。
「村の女の人を死なせることはできないわ」
と、奥さんは思いました。
次の朝になりました。まだ夜が明けきっていません。
  庄屋さんの奥さんは、自分の家で働いているお手伝いの人を連れて、堤の上を通りかかりました。待っていた工事の人びとは、名前を聞くこともなく、
「それっ」
と取り巻いて、二人をとらえました。そして、わけも言わずに、堤の工事現場へむりやりに連れていって、土の中に押し込んで、うずめてしまいました。
後になって、人びとは、むりやりに堤の土の中に押し込めたのが、庄屋の奥さんとお手伝いの人だと知りました。奥さんが自分から人柱になろうとしたことも知りました。
そんな悲しいことがあってから後、しばらくは、災害が起こらなくなりました。村の人々は安心しました。人柱になってくれた二人のおかげだと思いました。
村の人びとは、奥さんが持っていた鏡をご神体として神社を建てました。それが池の宮です。
また、お手伝いの人が持っていた箱をうめて塚を建てました。
それが下女塚です。昔は、お手伝いの人を下女といいました。池の宮は福井山の側に、下女塚は傾山の側に、高瀬川をはさんで、今も建っています。
しかし、長い年月がたつと、人柱を立てたかいもなく、いつの年にか、また堤が切れました。堤は修理ができないほど、ひどくこわれてしまいました。それから、また何年もたちました。水がなくなった池の中に田んぼができて、家が建ちました。そうして、勝間次郎は、あとかたもなくなり、伝説の池になってしまいました。

P1120661
勝間次郎池が広がっていたとされるあたり 左が朝日山
この昔話は次のような事を伝えています
①下麻に高瀬川をせき止めた海のように大きな池「勝間次郎池」があったこと
②長い堤防で幾度の決壊に人々は苦しめられていたこと
③決壊を防ぐために人柱が立てられたこと
④人柱となた庄屋の奥さんと下女の供養のために池の宮神社と下女塚が建立されたこと
⑤その後も決壊を繰り返した勝間次郎池は放置され、池の中は開墾され田んぼとなったこと
 勝間次郎池は、満濃太郎に次ぐ周囲数里の大池で、弘法大師空海の頃に築造され、決壊を重ね中世には廃池となったと伝えられているようです。それが、この池に代わって上流に岩瀬池が築かれ、勝間次郎池のことはしだいに忘れられたと『高瀬町史2005年 151p」には記されています。本当に勝間次郎池はあったのでしょうか?
麻 勝間次郎池 地図
③が勝間次郎池の推定位置
 
今回は伝説の勝間次郎池を見ていくことにします。テキストは「木下晴一 高瀬勝間次郎池を探る  香川地理学会会報N0.27 2007年」です
勝間次郎池があったことについて触れている史料をまず見ておきましょう。
西讃府志 - 国立国会図書館デジタルコレクション

丸亀藩が幕末に編纂した『西讃府志』には、三野郡勝間郷下麻村について、次のように記されています。

「池宮八幡宮 昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ 祭祀八月十五日 社林一段 社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」

意訳変換しておくと

「池宮八幡宮については、この地に勝間二郎という池があったので池宮と呼ばれています。祭祀は八月十五日で、社林一段鮨 社僧は歓喜院祠官の遠山伊賀が務めています。」

西讃府志の地誌部分は、地元の庄屋たちのレポートを元に作成されていることは以前にお話ししました。幕末に「昔勝間二郎卜云池、此地ニアリ因テ池宮トイヘリ」という話が幕末には伝わっていたことが分かります。
麻 池八幡神社2
池八幡神社 高瀬川まで張り出した尾根上に鎮座している

まず、研究者が注目するのは「池ノ宮(池八幡神社)」です。
 池ノ宮は、社名からも池の守護神であることがうかがえます。同じような例としては、依網(よさみ)池と大依羅神社(大阪市住吉区)や狭山池と狭山堤神社(大阪狭山市)などがあり、池の周辺の丘の上に祀られています。
 下の地図を見てみましょう。
麻 池八幡神社周辺
池八幡神社(三豊市高瀬町下麻)と高瀬川
池八幡神社は、象頭山や朝日山などによって囲まれた麻盆地から高瀬川が流れ出す出口に鎮座しています。鬼が臼山と傾山に挟まれた最も谷幅の狭くなる地点になります。

P1120672
池八幡神社
境内には、明和5年(1768)の銘のある鳥居と、お旅所には文政2年(1819)の銘のある鳥居が建てられています。また先ほど見た西讃府志には「社僧歓喜院祠官 遠山伊賀」とありましたので、歓喜院の僧侶が社僧を務めていたことが分かります。

麻 池八幡神社4jpg

 池八幡神社の祭神は、保牟田別命と豊玉姫命です。
八幡については、この神社の西にある歓喜院鎮守堂の八幡神社を分祀したと伝えられています。ここからは、もともとの祭神は豊玉姫命で、保牟田別命(応神天皇)は、後から合祀されたものであることがうかがえます。豊玉姫命がもともとの祭神であったのを、八幡信仰の流行の頃に、社僧を務める歓喜院の僧侶が保牟田別命(応神天皇)を合祀したと研究者は考えています。池八幡神社は、もともとは「池の宮」として建立されていたようです。
 それでは「豊玉姫」とは何者なのでしょうか?
 『日本書紀』(巻第二第十段)や『古事記』には、豊玉姫は海神の娘で、海幸彦の釣り針を探して海神(わたつみのかみ)の宮に訪れた山幸彦と結婚しますが、のち出産の際に鰐(龍)となっているところを山幸彦に見られたことを怒り、子を置いて海神の宮に帰ってしまった説話が記されています。
豊玉姫 | トヨタマヒメ | 日本神話の世界
豊玉姫

 豊玉姫は海の神とされ、讃岐では男木島の豊玉依姫神社などのように海に隣接する神社に祀られることが多いようです。一方で雨乞いや止雨、安産の神としても祀られています。たとえば阿波の豊玉姫を祀る神社には、那賀川沿いにある宇奈為神社(那賀町木頭)、雨降神社(徳島市不動西町)・速雨神社(徳島市八多町)など、立地や社名から雨乞神としてまつられていたことがうかがえます。
 讃岐の木田郡三木町の和年賀波神社には灌漑の神としての性格があると研究者は考えているようですが、これも祭神は豊玉姫です。高松市香川町鮎滝の童洞淵の童洞神社の祭神も豊玉姫命です。童洞淵は雨を祈った淵として有名な場所であることは以前にお話ししました。山幸彦が豊穣を約束された説話が多いように、豊玉姫についても、雨乞いや灌漑など豊穣の対象として信仰されていたことを押さえておきます。

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県道に面する民家の庭先にある下女塚 道の向こうが堰堤跡(?)

下女塚を見ておきましょう。
 勝間次郎池の堤塘復旧の際に、人柱となったのは、庄屋婦人とその下女でした。村人は婦人の鏡や櫛・算(髪飾り)を池ノ宮に、下女の持っていた手箱を塚に手厚く祀ったとありました。下女塚は、高瀬川を挟んだ県道沿の民家の庭先にあります。宝暦4年(1754)の銘のある舟形地蔵と寛政11年(1779)の銘のある供養塔が建てられています。

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下女塚
 人柱については、『日本書紀』巻第十一(仁徳天皇11年)に茨田堤の築造に際に出てきます。
築いてもすぐに壊れて塞ぐことが難しい所に、人柱をたてた話が記載されています。大規模な土木工事の際に古くから行われていたようで、讃岐でも次のような池に人柱伝説があるようです。
平池(高松市仏生山町) 治承2年(1178)築造)
小田池(高松市川部町) 寛永4年(1627)築造)、
一の谷池(観音寺市中田井町) 寛永9年(1632)築造)
吉原大池(善通寺市吉原町) 元禄元年(1688)築造)
夏目池(仲南町十郷)
この中で小田池と一の谷池には、人柱を祀る祠が立てられています。勝間次郎池の堤塘と下女塚の位置関係は、小田池のものと共通すると研究者は指摘します。
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下女塚


勝間次郎池の堤は、どこにあったのでしょうか?
麻 勝間次郎池 余水吐

 池の宮の東側の傾山の裾に形成された断崖の西南端の部分が堤遺構だと研究者は考えています。尾根から突き出すように、池の宮の方向に伸びて、県道工事の際に切断されています。
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堰堤跡とされる部分

これについて研究者は次のように指摘します。
尾根の傾斜とも崖錘の傾斜とも不連続で、頂部は水平であることなどから人為的な構造物である可能性が高いと思われる。池ノ宮との標高もほぼ等しく、平面的な位置関係から勝間次郎池にかかわる堤塘の遺構と考えられる。
P1120687
堰堤跡の上から池之宮方向をのぞむ
神社西側の余水吐跡について、見ておきましょう。
麻 勝間次郎池 地図3
      
研究者が注目するのは、神社の背後(西側)に細長い谷状地形①がみえることです。これは尾根と神社境内との間を完全に切断しているのではなく、途中で切れています。この谷状地形は、昭和60年(1990)の神社の神域整備事業によって埋め立てられたため、今は見ることはできないようです。聞き取りによると、谷状地形の底は数段の棚田で、サコタ(低湿な田)であったようです。これを研究者は勝間次郎池の余水吐だったと推測します。

P1120668
本殿裏手の余水吐け跡

 豪雨によって池への流入水量が急激に増え、堤塘を越えるようになると、堤塘が崩壊するので、ため池には余水吐が作られます。排水量が多くなる大規模なため池では、人工の堤塘上ではなく自然地形を利用して余水吐をつしていることが多いようです。満濃池の余水吐については以前にお話ししました。ここでは、余水が10m近い落差を流れ落ちるために谷頭浸食が起こり、谷が形成されたと研究者は考えています。現地での聞き取り調査からも、地元ではこの谷や堤塘状遺構が勝間次郎池の跡だったと伝わっているようです。これまで勝間次郎池は、朝日山と傾山を堤防で結んでいたと伝わってきましたが、以上から堤塘の位置が推定できます。つまり、勝間次郎池の堤防は、②の堤跡から池の宮を結ぶルートで、その延長線上に余水吐があったという仮説が出せます。それを地図で示すと次のようになります。

麻 勝間次郎池 復元図
勝間次郎池の堤防と位置
  ②から池の宮のある尾根までの距離は約150mなので、そこに堤防を築いて高瀬川をせき止めたことになります。
麻 勝間次郎池 地図43
勝間次郎池 ③が池の面積 ①が池の宮
こうして生まれた勝間郷池は、どれくらいの拡がりを持っていたのでしょうか
 研究者は次のような方法で池の面積を推定しします。 ため池では、満水時の水面は堤頂部より1,5m程度低い位置になります。そこで現地で水準器を立てて、堤塘状遺構の頂部より1、5mほど低い水準で周囲を見渡すという方法をとります。その結果、復元したのが上の池敷きです。ここからは次のようなことが分かります。
①最も狭い部分に堤防を築き高瀬川をせき止めた。
②池の宮の西側には自然地形を利用して、余水吐が作られた。
③堤防の西側の丘の上に、池の宮が建立された。
④池の東側岸は傾山の麓部分になり、現在の県道になる。
⑤東は、高瀬川沿いの光照寺付近まで
⑥北東は、朝日山麓の仏厳寺手前まで
これを計測すると池の面積は約38,5万㎡になるようです。満濃池が約140万㎡で、これには遠く及びませんが、国市池が22,8万㎡なので、それよりは広かったことになります。
 池の堤防は、直線なのかアーチ状なのかは分かりません。地図上では全長150 mほどの規模になります。高さについては、高瀬川の河床高が変化している可能性があるため現時点では不明としています。

勝賀次郎池は、本流堰き止めタイプのため池だった
 この池は高瀬川を盆地の出口で締め切って作られています。讃岐のため池では、近世以前のものは本流をせき止め、流域すべてを集水するため池は、勝間次郎池のほかに井関池と満濃池ぐらいしかないと研究者は指摘します。
 井関池は、観音寺市大野原町の杵田川を締め切るため池で、集水面積は約3000haを越えます。寛永20(1643)年に近江の豪商平田詞一左衛門によって、「大野原台地総合開発」の一環として築造されます。池の東西にふたつの余水吐が設けられ、堤長378 m、堤高約118m、池面積12,1haの規模です。井関池は、「本流堰き止めタイプ」の池だったために、完成後わずかの間にあいだに3回決壊しています。このタイプの池は、大雨による急激な増水に対応しきれないことが多く、維持が難しかったことが分かります。それが最初に見たように昔話の中に、柱伝説を生んだのかも知れません。

勝間次郎池は、いつ築造されたのでしょうか?
 本流堰き止め型の大規模なため池は、愛知県犬山市の入鹿池、大阪府大阪狭山市の狭山池や奈良県橿原市の益田池などがあります。このうち狭山池と益田池は古代に築造されたため池です。
 表は8世紀中ごろから9世紀中ごろの利水・治水にかかわる記事を集成したものです。この表を見ていると、勝間次郎池が弘法大師空海のころに築造されたという伝承も荒唐無稽なものでないような気もしてきます。
 律令国家による主な治水利水事業の一覧年表

722 百万町歩開墾計画をすすめる
723 三世一身法を定める(続日本紀)
  矢田池(大和)をつくる(続日本紀)
731 狭山池(河内)を行基が改修する(行基年譜)
   昆陽池(摂津)を行基がつくる(行基年譜)
732 狭山下池(河内)をつくる(続日本紀)
734 久米田池(和泉)を行基がつくる(行基年譜)
737 鶴田池(和泉)などを行基がつくる(行基年譜)
743 墾田永年私財法を定める(続日本紀)
750 伎人堤(摂津・河内の国境)・茨田堤(河内)が決壊する)
761 畿内のため池・井堰・堤防・用水路の適地の視察(続日本紀)
   荒玉河(遠江)が決壊し,延べ303,700人で改修する(続日本紀)
762 狭山池(河内)決壊,延べ83,000人で改修する(続日本紀)
   長瀬堤(河内)が決壊し,延べ22,200人余りで改修する(続日本紀)
764 大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃岐などに池をつくる(続日本紀)
768 毛野川(下総・常陸)を付け替える(続日本紀)
769 鵜沼川(尾張・美濃)を掘りなおす(続日本紀)
770 志紀堤・渋川堤・茨田堤(河内)を延べ30,000人余りで改修する(続日本紀)
772 茨田堤6箇所・渋川堤11箇所,志紀堤5ケ所が決壊する(続日本紀)
774 諸国の溝池を改修・築造する(続日本紀)
775 伊勢国渡会郡の堰溝を修理する(続日本紀)
   畿内の溝池を改修・築造する(続日本紀)
779 駿河国二郡の堤防が決壊,延べ63,200人余りで改修する(続日本紀)
783 越智池(大和)をつくる(続日本紀)
784 茨田郡堤15箇所か決壊し,延べ64,000人余りで改修する(続日本紀)
785 堤防30箇所(河内)が決壊し,延べ307,000人余りで改修する(続日本紀)
788 摂津・河内両国の国境に述べ230,000人余りで川を掘る(失敗する)(続日本紀・日本後紀)
800 葛野川(山城)の堤防を10,000人で改修する(日本紀略)
811 このころ伴渠(備口)を開削する(日本後紀)
820 泉池(大和)をつくる(日本後紀)
821 このころ空海が満濃池を改修する(日本紀略)
822 益田池(大和)をつくる(日本紀略)
ただ、讃岐の髙松平野や丸亀平野からは、古代の大型の用水路は出てきません。条里制の水路は貧弱で、長距離の潅漑施設が登場していた痕跡もありません。そのため考古学者の中には、満濃池の水が丸亀平野全域を潤していたという説には懐疑的な人も多いことは以前にお話ししました。
以上をまとめておくと
①高瀬の昔話の下麻に勝間次郎池という大きな池があり、決壊に苦しんだ人々が人柱を立てた話が伝わっている
②その供養のために建立されたのが池の宮(池八幡神社)と下女塚とされる。
③池の宮の東対岸にあたる傾山の麓の県道際には、堤防跡の遺構がある。
④池の宮の西側には、余水吐跡の痕跡がある。
⑤以上より、池の宮の尾根から傾山麓へ150mの堤防が築かれ、その丘の上に池の宮が建立されたことが考えられる。
⑥池の広さは、東は朝日山の光照寺や仏厳寺にまで湖面が至っていた
⑦この池の起源は中世から古代に遡る可能性もある。
古代だとすると、この大工事が出来るのは郡司の丸部氏かありません。丸部氏は、壬申の乱で功績を挙げ中央政府とのつながりを持つようになり、当時最新鋭の瓦工場である宗吉窯を建設して、藤原京の宮殿用の瓦を提供したり、讃岐で最初の氏寺である妙音寺を建立したとされる一族です。善通寺の佐伯家が一族の空海を呼び寄せて、金倉川をせき止めて満濃池を築造したと言われるように、丸部氏も高瀬川をせき止めて勝間次郎池を作ったという話になります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「下女塚」 高瀬の昔話 高瀬町教育委員会  2015年

満濃池が丸亀平野に、どのように灌漑用水を送っていたのかを見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治3年(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。この絵図は、幕末に決壊し放置されたままになっていた満濃池を再築するに当たって、水掛かりの村々とそこに至る水路を確認し、課役を取り決めるために作られたものです。これを見ると、灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じのようです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。この地図を、じっくりと眺めることからはじめましょう。
 この絵図からは、満濃池からの水路がどのように伸びていたかが分かります。また、満濃池の水掛かり範囲、つまり給水エリアを知ることも出来ます。
まず幹線水路を見ておくことにします。
満濃池①は、金倉川をせき止めて作られたものなので、池から流れ出した水は、金倉川②を下ります。しかし、それもつかもまです。③の地点で、金倉川から分水されます。③は、水戸大横井堰(まんのう町吉野下)で、「水戸」と地元では呼ばれているところです。美味しいパン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に、堰はいまもあり、民家の間を抜けて北流します。

満濃池 水戸大横井

 以前にお話したように、丸亀市史には次のように記されています。
「この北流する水路は、もとは旧四条川の流路であって、ここに堰を設けると同時に、本流を西に流して金倉川を新しく人工的に作った」(要約)

と記します。確かに金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという狙いです。

DSC04908
現在の③水戸大横井関 金倉川に堰が設けられ水門方向に流される

 ③から以西の金倉川は「水路」とは、当時は認識されていなかったようで色分けも白色になります。また③からの以西の河床は、それまでと比べると非常に浅くなり、天井川になります。これも、近世になって新しく人工的に作られた川という説を補強します。金倉川は⑥の生野町の堰まで分水口はありません。金倉川は、「方流路」で水路ではなかったことがうかがえます。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大1
赤が金毘羅領 黄色が池の御領(天領) 桃色が高松藩領
それでは、今度は満濃池の真の水路を追いかけてみましょう。
それは、③の吉野下の「水戸」で分岐した用水路です。

 グーグル地図でも、丸亀幹線水路は追うことができます。水路は、満濃中学 → まんのう町役場を経て西高篠④で2つに分かれます。ローソン西高篠のすぐ西になります。
DSC04865
西高篠の分水地点 右が丸亀幹線 左が櫛梨を経て善通寺・多度津へと伸びる。ここには分水点には阿弥陀堂が建っている

ここから櫛梨に向けて西(左)に延びる水路は、天領の苗田村と高松藩の公文村の村境となっていることが色分けから分かります。この水路以前には、ここに旧四条川が流れていたことの裏付け資料にもなります。四条川は、近世初頭には「自然村境ライン」でもあったようです。
 地図で見ると④で西に分岐した水路は、⑤で金倉川に落水しています。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2

現在は、どうなっているのでしょうか。
DSC04823旧四条川合流点
右が金倉川、左が旧四条川 ふたつの川の合流点

そして、そのすぐ下流の生野の堰で善通寺多度津方面に取水されます。
これが善通寺・多度津幹線です。この水路は、現在の善通寺市役所を北流し、農事試験場(旧練兵場遺跡)をまわりこむようにして、子どもと大人の病院の北で大束川に落水し、西白方まで伸びていきます。その手間で東西方向に流れを変えますが、その区間でいくつかの分水地点を設け、丸亀平野北部への水路を派生させます。その最終地点の村名をを金倉川から西へ並べると 下金倉村・鴨村・多度津・青木村・東白方・西白方となります。これらの村が、善通寺・多度津幹線の末端の村々になるようです。ここで、今挙げた村々のエリアが、地図上で、どんな色で色分けされている注目すると茶色(白?)です。
①茶色   多度津藩
②草木色    丸亀藩
③桃色   高松藩
④赤色   金毘羅大権現寺領
⑤黄色   池の御領(陵満濃池管理のための天領)
こうしてみると多度津藩の満濃池水掛かりは、最末端にあることがよく分かります。旱魃時には、なかなかここまでは水がやってこなかったはずです。負担は同じなのに、日照りの時に水はもらえないという不満を多度津藩の農民達が抱いたのも分かるような気がします。彼らは自己防衛のために、独自でため池を増やし、幕末には池掛りからの離脱の道を歩んだことは以前にお話ししました。
 丸亀平野における各藩領地の割合を見ると圧倒的に多いのは桃色の高松藩です
⑥で分岐され用水が供給されるのは高松藩の領地になります。私はうかつにも、かつては土器川が高松藩と丸亀藩の国境と考えていたことがありました。また、那珂郡と鵜足郡の境が国境と思っていた時もありました。もう一度「満濃池水掛村々之図」の各藩領地の色分け図を見ると大間違いなことに気づきます。大ざっぱにいうと、高松藩と丸亀藩の国境は金倉川なのです。丸亀城は、丸亀平野の高松藩領土の上にちょこんと首だけ乗っているようにも見えます。丸亀城の天守閣から殿様が南を見たときに、そこに開ける水田は自分の領地ではなかったのです。丸亀の殿様は、どんなおもいだったのでしょうか。
 この絵図を見ると、高松藩が満濃池に一番強い利害関係を持っていたことが理解できます。土器川以西の灌漑用水供給という点で、②の「水戸」の堰の分水地点は、高松藩にとっても非常に重要な地点であったことを押さえておきます。ここに堰を構えることによって、満濃池の水は高松藩の水田にやってくるのです。これがなければ、そのまま金倉川方面に下っていってしまいます。
 もうひとつ、満濃池の用水路を見ていて感じるのは、直線的なことです。これは、条里制以来の水路が活用されたためと、私は思っていました。しかし、それだけでは説明できないようです。それは、これらの用水が整備される前には、このエリアには四条川という川が流れていたからと丸亀市史は云います。

 絵図に書かれた幹線水路の多くは、近代以降の改修工事を経ながらも現在まで大きくは変化していないようです。
そこで、現在の幹線水路と丸亀平野の条里地割に重ねてみましょう。それが次の地図になるようです。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
A赤色が「讃州那珂郡分間画図」や「満濃池水掛村々之図」に描かれた近世の水路
B緑色が近・現代に新しく作られた水路
C水色が土器川と金倉川
①吉野下の大横井堰
②西高篠分水
③生野堰
こうしてみるとAの近世に作られた水路は、そのルートが今もあまり変化することなく踏襲されていることが分かります。また、基本的に条理地割の上を通っています。それが直線的になったことの一つの要因のようです。この地図上でも水路を辿っておくことにします
A先ず金倉川の大横井堰①で取水され、土器川に平行するように那珂郡を北流する(現丸亀幹線)。
B②西高篠分水で西流する「多度水路」は、金倉川に落水した後、善通寺市の生野堰で再び取水され、左岸側の多度郡域へ流下する。
つまり「金倉川の治水を前提として灌漑システムが構想された」と研究者は考えているようです。これらの路網の途中の微高地上に「皿池」と呼ばれる貯留用のため池の築造が進み、安定的な灌漑網が形成されていくことになるようです。
満濃池掛かり 那珂郡分間画図
以上を仮説も含めてまとめておくと、
①古代の満濃池決壊後には、那珂郡と多度郡には金倉川と四条川が網の目のように流れていた。
②満濃池再築にあたって、西嶋八兵衛は満濃池用水路の確保のために四条川の付け替え工事をおこなった。
③それを四条川を西流させ「金倉川」とし、象頭山の麓を北流させることであった。
④丸亀平野中央部に、水路を条里制ラインに沿って掘削し、北流させた。
⑤同時に、四条川跡の櫛梨方面へも水路整備を行った。
⑤金倉川から取水された善通寺・多度津幹線は、西は西白方、東は下金倉村までをカバーする役割を担ったが、旱魃の際には水路末端まで用水を提供することが出来ず多度津藩農民の不満は高まった。これが幕末の満濃池池掛かりからの離脱を生むことになった。
⑥満濃池水掛かりの最大の受益者は高松藩であった。そのため高松藩は、倉敷代官所へも必要な意見具申をおこなっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸亀市史 金倉川と旧四条川
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書
関連記事


金倉川 土器川流路変遷図

土器川はまんのう町の長炭付近で平野に出ると扇状地を形成して、流路を西から東へと変えながら次のような河道変遷を経て、現在の流れになったようです。
①一番西側の①紫ルートで現在の金倉川や大束川の流域にも流れ込んでいた
②善通寺生野町・吉田町が堆積物で埋まってくると、与北町付近で、右岸に流路を変えて②橙コースになった
③さらにまんのう町祓川橋付近から東に流路を変えて、法勲寺から大束川に流れ込んで④の緑ルートになった。
④さらに長炭橋から東へ入り込み、長尾・打越を経て岡田方面から大束川に流れ込む④の緑点線ルートの時代もあった
岸の上遺跡 土器川流路⑤

確かに衛星写真を見るとまんのう町の吉野付近から打越池を経て、大窪池にかけては、U字状の谷が見えます。これが流路④の緑点線河道になるという根拠のようです。そうだとすれば大窪池は、まさにその窪みの谷に作られたため池になります。
 地形図に丸亀平野の扇状地を落としてみても、旧河道が何本か浮かび上がってくるようです。

岸の上遺跡 土器川扇状地
④が岸の上遺跡 ①が善通寺 ②が郡家の宝幢寺池

丸亀平野の大部分は扇状地で、それは土器川が西から東へと河道を変えていく中で生まれてきたようです。最初に聞いたときには、信じられずに半信半疑で聞いていました。しかし、考古学的な発掘が進み実際に調査が行われ、その「土地の履歴書」が示されるようになると信じないわけにはいかなくなります。今まで疑いの目で見ていたものが、別のものに見えてくるようになりました。
  例えば生駒時代の中西讃の絵図を見てみましょう。
生駒時代絵図 土器川流路

①古城とあるのが廃城となった丸亀城
②その西側に善通寺の奥から流れ出してきているのが金倉川のようです。
③問題は古城と白峰寺の間の入江に流れ出している川です。
西側の支流は長尾から流域が描かれています。
これは、土器川なのでしょうか、それとも大束川なのでしょうか。
一方東側の支流は、滝宮神社(牛頭神社)付近から流路が描かれています。これは綾川のようです。土器川と綾川が合流して林田港へ流れ込んでいることになります。
 この絵図をみても、近世以前の河川の流れは、私たちの想像を超えていることがうかがえます。これを見たときも、讃岐のことを知らない生駒藩の侍たちの地理的な情報・知識不足と、鼻で笑っていました。しかし、先ほどの土器川の流路変遷図を見ると、笑ってはいられなくなります。実際に、土器川は大束川に流れ込み、さらに綾川と合流していた可能性もあるようです。
 岸の上遺跡 イラスト
  それでは本題の丸亀市飯山町の岸の上遺跡を見てみましょう。
ここからは大きな発見がいくつもありました。その中でも大きな意味を持つのは次の2つです。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。
岸の上遺跡 正倉群
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。これは郡衙以外の何者でもありません。鵜足郡の郡衙発見ということだと私は理解しているのですが、研究者達はあくまで慎重で、「鵜足郡の郡衙と南海道発見!」などというコピーは、報告会では出なかったようです。
 もうひとつ、この遺跡の報告書で驚いたのが、下の地形復元図です
飯山岸の上遺跡地形復元

①が岸の上遺跡です。バイパス工事のための調査ですから道路上に細長い区画になります。
②位置は、飯山高校に西側の交差点周辺です。
③北側には目の前に甘南備山の飯野山が鎮座します。
④西側には下坂神社があり、鎮守の森の中には今も湧水が湧きだしています。
そして、地図上の水色の部分が土器川の支流だというのです。一本の流れとはならずに、何本もの網の目状になってながれていたことが分かります。
飯山岸の上遺跡グーグル

確かにグーグル地図をよく見てみると、飯山高校周辺を旧河道が網の目のように流れていたことが分かります。この河道によって堆積した中州状の微高地上に、丸亀平野の古代のムラは成立していきます。

飯山居館跡

以前に、この北の飯野山の麓で河道跡に囲まれた中世武士の居館跡を紹介したことがあります。その河道も土器川の氾濫河道になるようです。
飯山国持居館3グーグル地図

  旧土器川が現在の河川になったのは、いつからなのでしょうか?
最初に見た生駒藩の絵図には、土器川は大束川と一緒に描かれていました。近世はじめまでは、飯野山の南側の流路は、このような編み目状だったようです。それではいつ変えられたのでしょうか。そこにはやはり西嶋八兵衛の影があるようです。
西嶋八兵衛60x1053

 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。高虎は、この時に側近の西嶋八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
それは、藤堂藩と生駒藩の密接な関係にあったようです。このことについては以前にもお話ししましたので省略します。
 自然災害に苦しむ生駒藩のために、八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。満濃池の再築に伴い、四条川を消し、金倉川を作りだしたことも以前にお話しした通りです。そして、土器川の流路変更も西嶋八兵衛によって行われたというのですが、その根拠になる資料を私は見たことはありません。
大束川旧流路
飯山町付近の土地利用図 旧土器川の流路跡が幾筋も見える

 西嶋八兵衛によるものかどうかは別にして、飯山高校の北側には、平安時代以降に激しく流れていた東西方向の旧河道が残っています。そして「北岸」「南岸」「岸の上」という字名もあります。この旧河道は度々氾濫を起こしていて、発掘エリアからも、氾濫で堆積したと砂層がでてきているようです。その遺物から7世紀の中頃と12 世紀頃に大きな洪水が起き、遺跡が土砂に埋まったことが分かるようです。この河岸丘に建物が建ち始めるのは7世紀中頃からで、南海道が伸びてくるのは8世紀初頭頃からになるようです。 次回は、この前の道がなぜ南海道と言えるのかを探ってみようと思います
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

その後、1995年の川津二代取遺跡の調査報告書の中に、大束川流域の地形復元を行った資料を見つけました。ここには丸亀平野の土器川扇状地の詳細等高線が示されています。ここからは土器川が金倉川や大束川へ流れ込んでいた痕跡がうかがえます。

土器川 流路等高線

さらに、次のような旧河道跡も1995年の時点で指摘されていたようです。
土器川 旧河道(大束川)

ここからは現土器川から東に向かって流れ込む流路や、飯野山にぶつかってから流路を東に取る流路がはっきりと示されています。また、②の大窪池から流れ込んだ時期もあったことが分かります。 
 つまり現場の考古学の研究者は20年前から土器川が流路を替えていたこと、それが弥生や古墳時代以後のことであったことを理解していたようです。知らぬは素人ばかりということのようです。
それでは、いつまで土器川は大束川方面に流れ込んでいたのでしょうか。言い方を変えると現在の流れになったのはいつのことなのでしょうか。それは又の機会に
参考文献

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ペリーがやってきて幕末の動乱が始まるのが嘉永六(1853)年です。この年、讃岐満濃池では底樋を初めて石材化する工事が終わります。ところが翌年、ゆる抜きも無事終え、田植えが終わった6月14日に強い地震が起こります。それから約3週間後の7月5日昼過ぎに、修築したばかりの満濃池の底樋の周辺から、濁り水が噴出し始めます。 そして7月9日、揺(ユル)が横転水没し、午後十時ごろ堰堤は決壊します。
 この時の破堤の模様について、史料は次のように記します。
「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚龍(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」
とあり、下流の村々は一面が泥の海となりました。特に金毘羅市街は大きな被害を受けました。
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決壊後の満濃池 池の中を金倉川が流れている 
このことについては以前に「満濃池の歴史NO6 幕末の決壊は工法ミスが原因か?」で触れましたので省略します。
 今回はその後。十数年にわたって満濃池が決壊したまま放置されたのはどうしてかを見ていこうと思います。別の言い方をすると、どうして満濃池は、再築できなかったのかということになります。
   満濃池決壊後、長谷川喜平次は普請失敗の責任を問う声にひるむことなく復旧を計画します。2年後の安政三年(1856)に竪樋と櫓の仕替普請について、倉敷代官所の許可を得ています。それを受けて10月には、竪樋十一間半(約21㍍)の入札を大阪で行い、
材料費銀十六貫七百匁、
大工手間賃銀一貫百十三匁
丸亀港から普請場までの運搬
人足賃銀四貫七十九匁四厘
合計二十一貫八百九十二匁四厘
を灘屋吉郎右衛門が落札しています。しかし、この普請計画は実行に移されることなく立ち消えとなっていきます。
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立ち消えになった背景を考えたいと思います。
まず見ておきたいのは、以前紹介した嘉永六(1853)年の工事終了後に、天領の榎井村の百姓惣代が、榎井村の興泉寺を通じて倉敷代官所へ出した文書です。ここには次のように願い出ています。
 A、石樋変更後は、水掛りの村々だけで行う自普請になる予定であった。しかし、四年前の普請で行った石樋への箇所が、折れ損じている事が判明した。そのため材木を加え補強したが、不安であるので、もし折れ損じる場所が出てきた場合は、自普請ではなく従来通り国役で普請を行ってほしい。

 B、喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。
 他にも破損した石樋の様子や、その後の対処についてより詳細に記載し、工法の問題点を指摘している次のような文書もあります。(直島の庄屋である三宅家の文書)
1 石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していたことが判明した。これは継口の部分だけで、さらに奥の方はどのくらい破損しているか分からない。
2 さらにその後、蓋の上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置くも、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい崩れるであろう。
 新工法への不安と的中
 このように普請中から新工法へに対して関係者や工事に携わった百姓達からは
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」
という風評が出ており、人々が心配していた事が分かります。つまり、木樋から石樋に変えた画期的な普請は、工事終了後には関係者の間では「不良工事」という認識があったのです。
それなのに長谷川喜平次は「万代不易」の銘文が入った石碑を建立」しようとしている。これをやめさせて欲しいと、地元の榎井村の百姓総代から嘆願書が出されています。工事に不備があることを長谷川喜平次が知っていた上で、「丈夫に皆出来」と代官所に報告していたのなら責任を追及されるのは避けられないでしょう。百歩退いても、当時の榎井村の百姓達は喜平次に対して、不信感を持ち反発していたことは、この嘆願書からうかがえます。指導者と百姓の間に、すでに亀裂ができていたのです。
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 実際に満濃池が決壊し、下流域に大きな被害をもたらします。特に琴平市街は鞘橋や多くの家屋が流されるなど大惨事となります。こんな時に「不良工事」の責任者として、喜平次は指弾されたでしょう。その喜平次が再び音頭をとって満濃池修築すると云っても、池の領や金毘羅領をはじめとする地元の目は冷たく見放すだけだったようです。地元は大きく割れました。
 現代の世論なら
「決壊原因を明らかにし、工事責任者が責任をとるのが先決。その上で新たな体制で、新たな指導者の下で工事を始めるべき」
という声が出てきそうです。つまり、長谷川喜平次に代わる指導者が現れないと、満濃池再築は進まないという状況になったようです。ある意味、「世代交代」が必要だったのです。それには時間が必要でした。

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長谷川喜平次は那珂郡榎井村に生まれ、通称倉敷屋喜平次と呼ばれました。
里正(庄屋)を務める一方、雨艇と号し、俳句にも才を発揮しています。底樋を石製にするアイデアを出し、実行に移した喜平次の夢は実現したかのように思えましたが、わずかで崩れ去り、復旧を見ずに失意のまま世を去りました。文久二年(1862)67歳の生涯でした。
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長谷川喜平次については、後世の評価は2つに分かれるようです。
ひとつは、水利組合関係や公的機関のパンフレットの立場です。ここには「新たな工法にチャレンジしたパイオニア」として、満濃池修築史の重要人物として描かれます。地元の「満濃町誌」や残された記念碑も、この立場です。
もうひとつは、批判的な立場です。
これは地元榎井や金毘羅領に残る記録に多いようです。特に、決壊の被害が大きかった金毘羅(琴平)では、その責任を問う声が強かったことが背景にあるようです。
 復興が進まなかったもうひとつは、多度津藩の動向です。
多度津藩は、この時期に陣屋・新港の建設などで経済的な活況を呈するようになり、軍備の近代化を最優先課題として、丸亀藩からの自立路線を歩むようになります。藩内での改革気運の高まりを背景に、従来の満濃池の水掛かりに慣習に対する不満が爆発します。
 丸亀平野の西北端に位置する多度津藩は、満濃池の水掛かりではありましたが、水配分では不利益を受けていました。負担は平等に求められるのに、日照りの際などには水は届きません。

  多度津藩領奥白方村の庄屋であった山地家には、満濃池決壊翌月に書かた嘆願書があります。これには、容易に満濃池普請に応じる事はできず、何年か先に延ばしにしてほしい旨が嘆願されています。前回普請からからわずかでの決壊でまた普請となれば、連年の普請となります。それは勘弁してくれ。というホンネが聞こえてくるようです。そして多度津藩は、この機会に満濃池の水掛かりから離脱する方向に動き始めます。この影響を受けて丸亀藩も、早期復興には動けなかったようです。
丸亀藩領今津村の庄屋である横井家に残された史料には、今津村の満濃池普請に対する意見が次のようにはっきり述べられています
普請からわずかで決壊したことと、普請が続き疲弊していることを述べ、はっきりと「迷惑」と書き、再普請に対して露骨な嫌悪感を表しています。さらに場合によっては、多度津藩と同様に満濃池水掛りを離れる事を藩に願い出ています。
 一方、高松藩は早期の修築を当初は考えていたようです。
ところが天領や多度津・丸亀藩の動きを見て早期復興は無理と判断します。安政五年(1858)には那珂郡内の小池を修築し、干ばつに備えることを優先させます。
 例えば、嘉永七年の大地震で堤防の一部が決壊した買田池の改修です。底掘普請に銀六十貫目を貸し付け、三十余石の田地を与えて池敷を増し、水掛かりを3000石から8500石にする大改修を、53000人の人夫を動員し、藩の郷普請として行います。また吉野村の木崎に新池を築き、深田の大池を移築し、七箇村の三田池の増築も行います。(『満濃池記』)
 このように決壊直後の史料から、満濃池復興に対しては、前回の工事を巡っての対立や、各藩領内それぞれの思惑が異なっている様子がうかがえます。このような状態では復興のめどは立たちません。
 もうひとつは、幕末の混乱期に突入したということです。
多度津藩はすで財政改革を行い富国強兵・兵器の近代化を進め、動乱に備える体制をいち早く形作っていきます。そのような中で丸亀・高松藩も満濃池再築の優先順位は低くなります。結果として幕末の混乱期に満濃池は、決壊したまま放置されることになったようです。
 満濃池が再び姿を見せるのは、明治維新で維新政府という中央政府が成立して以後のことになります。そして、それを進める新たな人物達が地元に登場してくるのを待たなければならなかったようです。それが喜平次の遺志を受け継ぐ長谷川佐太郎でした。
参考文献   満濃池史所収 江戸時代の満濃池普請


多度津・千代池の改修工事はどう進められたか

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千代池からの大麻山と五岳

前回は金倉川の付け替えによって廃河跡が水田として開発され、
河道を利用してため池が次々と作られたこと、
その開発リーダーが多度津・葛原村の庄屋・木谷家であった
という「仮説」をお話ししました。

今回は、築造された千代池を木谷家が、どのように維持改修したかを見ていくことにします。今回は仮説ではありません。

木谷家には代々の家長が残した記録が「萬覚帳」として残されています。これを紹介した「讃岐の一豪農の三百年」によって眺めていきます。その際に、江戸時代前半と、後半ではため池改修工事の目的が変化していくことに注意しながら見ていこうと思います。
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多度津の旧葛原村には、今でも千代池、新池、中池、上池の四つのため池があります。これらは旧四条川の河道跡に17世紀後半に築造されたものです。その中でも千代池は広さ五㌶、貯水量90万㎥と、多度津町内のため池の中では最大級の池です。  

ため池には、メンテナンス作業が欠かせませんでした。

特に腐りやすい木製の樋管、排水を調整するか水門(ゆる)やそれを支える櫓などは約二〇年おきに取り替える必要がありました。
また粘土を突き固めただけの堤もこわれやすく
「池堤破損、年々穴あき多く、水溜まり悪しく、百姓ども難儀仕り候」

と藩への願書がくりかえし言うように、修理が常に求められたのです。これを怠ると水が漏れ出し、堤にひびが入り、最悪は決壊ということもありました。
「ため池 樋管」の画像検索結果
現在のため池の樋官

それでは、江戸時代のため池改修はどんな風に行われたいたのでしょうか?

江戸時代前半は「木製の樋竹・水門・櫓などの修理」に重点

 江戸時代前半期の修築工事は、丸亀藩の意向もあったのか、朽ちた木製の樋竹・水門・櫓などの修理に重点が置かれています。堰堤の補修や補強にはあまり力を入れた形跡がありません。
 木谷家に残る江戸時代前期の資料からは、当主四代、ほぼ六〇年間に行われた計27件の池普請に使われた労働力の内訳が記録されています。それを見ると大工99人、木挽き79人など木製品に関わる職人数が多く、堤の補修にたずさわる人足は延べ604人に過ぎないのです。
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丸亀藩の補修工事には「郷普請」と「自普請」ありました。
前者はため池の水を利用する村(水掛り村)が複数ある場合で、藩が工事を直接指揮監督しました。後者は水掛り一村のみで、藩の援助は無く費用も労力(人足)も、その村が単独で負担しました 
葛原村の池普請は、すべて後者でしたから藩の援助はありません。
その場合でも村役人は大庄屋・代官を通じ藩に、その計画・実施を願い出、許可を受ける必要がありました。そのため「萬覚帳」には、享保(1726)から文政元年(1818)の92年間に計34件の池停請が申請文書が残されています。村にある4つの池で、3年に一度はどれかの池で修築工事が行われていたことになります。
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旧河道に架けられた橋

 木谷小左衛門の試みは、貯水量を増やすこと       

 江戸時代後半になると、村の周囲はほぼ水田化され耕地を増やす余地がなくなってきます。そんななかで、米の収穫量を増やす道は、乾燥田への給水確保以外になくなります。つまり、ため池の貯水量の増量という方法です。そのためには堤防のかさ上げが、もっとも手っ取り早い方法です。
 この「要望」に、対応したのが江戸時代後半に木谷家当主となる木谷小左衛門です。彼は天明八年(1788)に庄屋となると、ため池補修の重点を、池全体の保水量を増やすため、堰堤のかさ上げや側面補強などに移します。彼は、堰堤を嵩上げする作業を「萬覚帳」に「上重(うわがさね)」と記しています。その方法手順は、
1 まずに工事現場に築堤用土を運び上げ、堤敷に15㎝の厚さに撒き、
2 それを大勢の人足が並んで踏みつけながら、突き棒で10㎝ぐらいまでに突き固め、
3 めざす厚さまで何回も積み重ねる
4 そして池底の浚渫・掘り下げです。晩秋、すべての農作業が終わった後、池を空にして底土を堀りおこし池の深さを確保する。
こうして貯水量を増やそうとしたのです。
この工事成否は投入される人足の数にありました。
 小左衛門は寛政三年(1791)から文政元年(1818)まで、28年間に計7件の池普請を願い出ています。
そのうち最も人掛かりなのは寛政7年の千代池東堤(長さ282㍍)の嵩上げと前付け、さらに南・北堤(合わせて長さ430㍍)の前付け・裏付け(両側面補強)に池底の一部(1700㎡)の掘り下げなどを加えたものです。
 これらの工事に投ぜられた人足数は延べ6699人に達しています。先ほど見た江戸時代前期の改修工事の延べ人足数が600人程度であったのに比べると10倍です。このほかの6件も樋・水門・水路などの従来型補修のほかに、堤の嵩上げ、補強、池底掘り下げなどを含む規模の大きな工事です。それらには計13400人の人足が動員されています。結局、全7件の人足総数は延べ2万人を超えました。

「ため池 å·\事」の画像検索結果
人足は、賦役として動員された「ただ働きの人足」だったのでしょうか?
「萬覚帳」によれば、池普請で働く人足一人には一日あたりし7合5勺の米が扶持として給されています。その総量は150石余(375俵)になります。自普請の場合、この費用は名目上は、村が負担しましたが、実は村の納める付加税の四分米(石高の四パーセント)がこれにあてられました。葛原村にとって、それは一年につき38石=95俵になります。
 これは藩にとり付加税収入の減少を意味します。もちろん池普請は毎年あったわけではありませんが、財政窮迫に悩む多度津藩にとって、決して好ましいことではなかったはずです。 
藩の意向にさからってまで、池普請で村を豊かにしようと努めた小左衛門は新しいタイプの庄屋と言えるのかもしれません。
 
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別の視点から池普請を見てみることにしましょう。

 労働力市場から見ると人口800人ばかりの村にとって、農閑期の三、四か月間に参加すれば一人当り米七合五勺を支給される冬場の池普請は、貧しい水呑百姓や賎民たちには「手間賃かせぎ」の好機として歓迎されたようです。今で云う「雇用機会の創出」を図ったことになります。ピラミッドもアテネのパルテノン宮殿も、大阪城も、「貧困層への雇用機会の創出という社会政策面」を持っていたことを、近年の歴史学は明らかにしています。そして、これをやった指導者は民衆の人気を得ることできました。
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こうして、千代池は川下の堤防だけだったのが、周囲全体に堤防が回る現在の姿に近づきました。近年には散策路や東屋も作られ、散歩やジョッキングする人たちの姿を見かけるようになりました。

幕末の満濃池決壊は工法ミス?
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底樋の石造化工事を描いた嘉永年間の絵図

 満濃池はペリー来航の翌年、嘉永七(1854)年7月に決壊します。この決壊については「伊賀上野地震の影響説」と「工法ミス説」があります。通説は「地震影響説」で各町史やパンフレットはこの立場です。ただ『町史ことひら』は、当時の工法上の問題が決壊に大きく影響しているとしています。さてどうなんでしょうか?

満濃池底樋と 竪樋

満濃池底樋と 竪樋(文政3年普請図)
長谷川喜平次の提案で木樋から石樋へ 

満濃池の樋管である揺(ゆる)は、木製で土の中に埋めます。
そのため数十年ごとに交換する必要がありました。この普請は大規模なもので、讃岐国全土から人々が駆り出されました。そのために「行こうか、まんしょうか、満濃池普請、百姓泣かせの池普請」というような里謡が残っています。
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 このような樋管替えの労苦からの負担軽減のため、嘉永二(1849)年からの普請では、榎井村庄屋の長谷川喜平次の提案で、木製の樋管から石材を組み合わせ瓦石製の樋管を採用することになりました。普請に使用する石は、瀬戸内海の与島石や豊島石が取り寄せられました。上の絵図には、この時の大きな石材が運ばれているのが描かれています。
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満濃池の底樋石造管(まんのう町かりん会館前)
当時の図面が残っていないので、石造樋管の詳細な構造はわかりません。しかし、嘉永六年(1853)の底樋管の後半部(長三十七間)に使用した工事材料が記録としています。それには、次のような規格の石や資材が使われたことが分かります。
底持土台石102本(長六尺×一尺角=1,82㍍ × 30㎝)
敷甲蓋石 408本(長六尺×一尺角)
両側石  216本( ?・ )
二重蓋石 204本(長六尺×一尺×五寸)
松丸太111本
石灰148石
ふのり二四貫
苧すき七二貫
塩11石
また、この石材が金倉川の改修工事でいくつか出てきました。
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      満濃池の底樋石造管(まんのう町かりん会館前)

これらの資材から推測して、研究者は次のような工法を推測します。

①基礎に松丸太を敷き底持土台石を並べ、
②その上に敷甲蓋石と両側石で樋管を組み立て、
③石と石の隙間に、ふのりに浸した「苧すき」(いら草科の植物繊維からむしで編んだ縄)を目地代わりに、詰め込む。
④底樋の周りを、石灰・赤土・砂利などに塩を混ぜ、水を加えて練り固めた三和土(たたき)でつき固める
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満濃池の底樋石造管 

動員人夫数は
①嘉永二年の底樋前半石樋仕替の場合は約25万人
②嘉永五年の底樋後半石樋仕替の場合は37,6万人
 底樋を石樋に替える普請は、石樋部分が嘉永五年(1852)12月に終了し、上棟式が行われました。しかし、堤防の修復はまだ半分残されています。翌年の嘉永六年(1853)11月に後の普請が終わり、人々は大きかった揺替普請の負担からやっと解放された。

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嘉永の改修時に底樋に使われた石材(まんのう町かりん会館)
 底樋の石材化=恒久化という画期的な普請事業の完成に長谷川喜平次らは、倉敷の代官所に誇らかに次のように報告をしています。 
七箇村地内 字満濃池底樋六拾五間之内 一底樋伏替後之方長三拾七間内法 高弐尺弐寸 横四尺弐寸 壱ヶ所 模様替石樋 此石坪石三坪六合
    ( 中  略 )
 右者、讃州満濃池底樋後之方三拾七間、此度、為冥加水掛村々より自カヲ以、伏替御普請、奉願上書面之通、丈夫二皆出来候、依之出来形奉差上候以上
 佐々井半十郎御代官所
       讃岐那珂郡七箇村兼帯
       榎井村庄屋
       御普請掛り役   長谷川喜平次
 底樋を石造化して「丈夫に皆出来」と報告し、難事業を完遂させた長谷川喜平次の自信に満ちた様を見る事ができます。
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しかし一方で、榎井村の百姓総代からは倉敷代官所へ次のような書状も出されています
。  
 乍恐以書付訴状下奉願上候
当御代官所讃岐国那珂郡榎井村百姓一同、惣代百姓嘉左衛門、小四郎より同村庄屋喜兵次江相掛り、同郡七箇村地内満濃池底樋之儀者、往古より木樋二御座候而樋替御普請等私大体年限国役を以仕来候儀二御座候得共然ル処、去ル嘉永弐酉年中、新二石樋二相改メ候得共、忽普請中、石樋折損等も御座候二付、又候材木等を差相加へ候由、左候而者、及後年無心元、心配仕罷在候間、其段御願奉申上候処、早速同村庄屋喜平次、御召出之 材木等差加へ候而、(後略)
 この史料は榎井村の百姓惣代が、榎井村の興泉寺を通じて当時、池御料を支配していた倉敷代官所へ出した文書です。要点は2点です。
 A、石樋に変更して今後は、水掛りの村々だけで行う自普請の予定であった。しかし、四年前の普請で行った石樋への箇所が、折れ損じている事が判明した。そのため材木を加え補強したが、不安であるので、もし折れ損じる場所が出てきた場合は、自普請ではなく従来通り国役で普請を行ってほしい。
 B、喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。

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 他にも破損した石樋の様子や、その後の対処についてより詳細に記載し、工法の問題点を指摘している次のような文書もあります。(直島の庄屋である三宅家の文書)
1 石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していたことが判明した。これは継口の部分だけで、さらに奥の方はどのくらい破損しているか分からない。
2 さらにその後、蓋の上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置くも、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい崩れるであろう。

 新工法への不安と的中

 このように普請中から新工法へに対して関係者からは
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」
という風評が出ており、民衆が心配していた事が分かります。つまり、木樋から石樋に変えた画期的な普請は、工事終了後には関係者の間では「不良工事」という認識があったのです。
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    嘉永七年七月九日 満濃池決壊

 嘉永六(1853)年11月普請がようやく終ります。
翌年のゆる抜きも無事終え、田植えが終わった6月14日に強い地震が起こります。そして、それから約3週間後の7月月5日日昼過ぎ、池守りが腰石垣の底樋の周辺から、濁り水が噴出しているのを発見します。池守りから注進を受けた長谷川喜平次ほか、池御料の庄屋たちは急きょ堤防に駆けつけ、対策を協議しました。
 このときの決壊の様子が『満濃陵由来記』(大正四年・省山狂夫著)に記されています。この資料は同時代史料ではないので注意して取り扱う必要はありますが次のように記します。

 七月五日 
午後二時ごろ、樋外の石垣から濁水が出ているのを池守が発見。榎井、真野、吉野村の庄屋たちが現地で対策を協議。漏水が次第に増加したため、各村の庄屋に緊急連絡。
 七月六日 
三間丸太で筏を組み、古蚊帳に小石を包み、水中に入れて漏水口を探る。一番ユルと二番ユルの問に漏水穴を発見。午後二時ごろ、フトンに石を包み穴に入れ、土俵六十袋を投入するも漏水止まらず。
 七月七日 
夜明けを待って丸亀港で漁船二隻を購入。船頭十人、人夫二百人をやとい、満濃池へ運ぶ。終日作業を続けるも漏水止まらず。
 七月八日 夜十時ごろ堤防裏から水が吹き上げ、直径三メートルほど陥没。阿波国から海士二人を雇い入れたが、勢い強く近付けず。陥没が増大。
 七月九日 高松、丸亀両藩から人夫四百人を集め、土俵を作らせる。午後二時ごろ筏に青松をくくり付け、畳を重ねて沈める。二隻の船で土俵三百袋を投入。水勢やや衰えたとき、大音響とともに堤がニメートルほど陥没。全員待避し、下流の村々へ危険を知らせ、緊急避難させる。このとき神野神社の神官・朝倉信濃はただ一人避難せず、ユル上で熱心に祈とう。足元のゆらぎに驚き、地上へ飛び下りると同時に、ユルが横転水没。午後十時ごろ決壊。
 この時の破堤の模様について
「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚龍(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」

堤防が決壊したのはその夜十時ごろで、下流の村々は一面が泥の海となりました。当時の様子を史料からみると


九日満濃池陽長四十間余決潰、那珂郡大水二て田畑人家損傷多し、木陽六十間余之所、両方二て七八間計ツ、残り中四十間余切れ申候、金毘羅大水二てさや橋より上回一尺計も水のり橋大二損し、町々人家へ水押入難義致候、
尤四五前より追々陽損し、水漏候間、郡奉行代官出張指揮致、水下之人家用心致候故、人馬怪我無之、折節池水三合計二て有之候二付、水勢先穏なる方二有之候由
 この史料には、40間に渡って堤が切れ、那珂郡一体の田畑人家に被害が出ている事が記されています。大水となり放出した満濃池の水が、金毘羅の鞘橋を直撃し、さらに金毘羅の町内にも水が押入り、被害を与えています。しかし、このような決壊に際し、堤に水漏れが発見された後、即座に役所に通報され、それを受けて役人が被害箇所の現場確認を行っています。また満濃池の流れ口付近の住民に注意を呼びかけていた為、人馬に怪我等の被害が無かったとあります。また、田植え後で、池の水が少なかったため水の勢いが穏やかであり、被害が少なかったともあります。

決壊中の満濃池
満濃池決壊後の周辺地図
 再興の動きが鈍かったのは、どうしてでしょうか?
 満濃池が決壊した後、長谷川喜平次は早々に復旧計画に奔走しますが、幕末の動乱期であり、高松・丸亀・多度津三藩の足並みもそろわず難航します。また長谷川喜平次への批判も大きかったようです。
欠陥工事を行った当事者がなにをいまさら・・
という声が広がっていたからです。
そのような空気を伝える資料が多度津藩領奥白方村の庄屋であった山地家にあります。
決壊翌月に書かた嘆願書です。これには、容易に満濃池普請に応じる事はできず、二・三年先延ばしにしてほしい旨が嘆願されています。前回の普請からからわずかでの決壊で普請となれば、連年の普請となります。それは勘弁してくれ。という声が聞こえてくるようです。

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決壊後の満濃池(池の中に流れる金倉川)

  さらに丸亀藩領今津村の庄屋である横井家に残された史料には、次のように記されています。
   口上之覚
   一満濃池大損二付、大造之御普請相続、迷惑難渋仕候間、両三ヶ年延引之義、御歎奉申上候得共、御評儀茂難御約候趣二付而者、多度津御領同様、水掛り相離候様仕度御願奉申上候、宜被仰上可被下候、以上
 今津村の人々は、満濃池再普請に反対の意見をはっきり述べています。普請からわずかで決壊したことと、普請が続き疲弊していることを述べ、「迷惑」と書いて再普請に対して露骨な嫌悪感を表しています。さらに場合によっては、満濃池水掛りを離れる事を藩に願い出ています。注目すべきは最後に「多度津御領同様」と記されている点です。多度津藩領内の村々で満濃池水掛りの離脱を決めている事がこの史料からわかり、またその影響が周辺に広がっている事がわかります。
 このように決壊直後の史料から、満濃池復興に対しては、各藩の領内それぞれの思惑が異なっている様子がわかります。このような状態では復興のめどは立たちません。
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 満濃池が復興されるのは、明治を待たなければなりませんでした。長谷川喜平次に代わり、次世代の新しいリーダとして和泉虎太郎・長谷川佐太郎らの復興運動と軒原庄蔵等による岩盤掘抜技術により復興されるのです。それは決壊から十六年の歳月を経た明治三(1870)年のことになります。
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満濃池年表
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
820年讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池修築を伺い、築池使路真人浜継が派遣され修築に着手。
821年5月、復旧難航により、築池別当として空海が派遣される。その後、7月からわずか2か月余りで再築。
852年秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852年8月、讃岐国守弘宗王が万農池の復旧を開始し、翌年3月竣工。
1022年 満濃池再築。
1184年5月、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1628年 生駒藩西嶋八兵衛が満濃池再築に着手。
1531年 満濃池、再築
1649年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋前半部を石製底樋に改修。
1653年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋後半部を石製底樋に改修,
1654年 6月の伊賀上野地震の影響で、7月5~8日、満濃池の樋外の石垣から漏水。8日には櫓堅樋が崩れ、9日九つ時に決壊。満濃池は以降16年間廃池。

参考文献 芳渾直起 嘉永七年七月満濃池決壊  香川県立文書館紀要第19号

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国市池と爺上山

国市池(くにち)池の誕生については、次のような話が伝わっています。
江戸時代のはじめころの話です。武士たちは、戦の練習をかねて、タカ狩りということをしました。山などで、タカを飛ばせて、ウサギやイノシシなどの動物を見つけ、大勢の武士たちが戦のときのように大声をあげながら、追いかけて獲物を補らえるのです。お殿さまは、狩りのじょうずなタカをもとめていました。

あるとき、村の庄屋さんから、
「タカを捕らえて差しだした者には、お殿さまからほうびをくださる」
ということが、お百姓さんたちに知らされました。
しばらくして、ある日、笠岡のお百姓さんで、じさえもんという人が、タカを捕らえて、庄屋さんの家へ持ってきました。そして、
「山でタカをつかまえたんじゃ。お殿さまに差し上げてくだせえ」
    「タカを捕らえて差しだした者には、お殿さまからほうびをくださる」
ということが、お百姓さんたちに知らされました。

「どれどれ、おお、元気のよいタカじゃ。お殿さまも喜ばれるじゃろうて」
そう言って、庄屋さんは、タカを持って、お城へ行きました。

それから、しばらくして、ある日、じさえもんさんは庄屋さんのところへ呼ばれました。
庄屋さんがじさえもんさんに言いました。
「喜びなされ、じさえもんさん。お殿さまからほうびとして土地をくだされたぞ。五丁池の下のところに、まだ田んぼにしていない土地がある。そこを田んぼにして米を作りなさい、というお知らせじゃ」
「ありがとうごぜえます」
と、お礼を言って、じさえもんさんは、庄屋さんの家を出ました。

「まだ田んぼにしてないっちゅうたら、どんな土地じゃろか」と、気になりましたから、五丁池の下のところの土地を見に行きました。そして、おどろきました。そこには小さな池がいくつもあって、とても田んぼにできるような土地ではありません。
じさえもんさんは、急いで庄屋さんの家へもどって、言いました。
「庄屋さま、せっかくじゃけれど、あの土地はもらってもこまります。いま見てきたんですが、わしがひとりの力で田んぼにでけるような土地ではないですけん。お返しでけるんじゃったら、返したいんでごぜえますが……」
「そうかあ。しかし、困ったことよのう、せっかくくださったものをお返しするのは。まあ、おまえがそういうのだから、お城へ取りついでみよう」
そう言って、庄屋さんはお城へ行き、じさえもんさんの気持ちを伝えました。
それからまた、しばらくして、ある日、じさえもんさんは庄屋さんのところへ呼ばれました。
「お城からお知らせがあったぞ。おまえには別の土地をくださることになった。あの土地は大きな池にして、新名や下高瀬のほうの田んぼまで水を引けるようにするそうじや」
まもなくして、庄屋さんが言ったように、お城から役人がやって来ました。その役人の指図で、小さな池を取りこんで大きな池に作りなおす工事が始まりました。

そういうわけで坊主池・新名池、上池、盆の池などの小さな池を取りこんで大きくしたのが今の国市池です。なぜ、国市池という名がついたのかですって?

それは、そのあたりの池の世話をしていたのが国市さんという人だったのです。それで国市池と呼ばれるようになりました。   
   高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会平成15年
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国市の誕生物語を、史料で見ておきましょう。
国市池は3段階を経て現在の姿に成長しています。
 
戦国時代も終わりを迎えようとする慶長年間  1597年
焼け落ちた柞原寺の再建が進められる中、讃岐の大名としてやってきた生駒親正です。彼は戦乱の世が終わったことを示すために、大土木工事を讃岐各地で進めます。代表的な土木工事が丸亀城の築城と大池の築造です。
三豊では柞原寺西側に大池を作ることになりました。
10国市池形成図

その際に、堤防をこの丘からまっすぐに西に伸ばすため、新名池の半分は切り取られてしまいました。新名池を切り取って西に延びた堤防は、現在の1/3程度の長さでした。これが、国市池の東半分の誕生プロセスです。国市池の向こうに、4つの池(坊主池 下池 上池 古池)は、そのまま残りました。
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        冬の国市池 (西香川病院から)
この時に出来上がったのが、現在の国市池の東半分です。
仮に、これを旧国市池と呼ぶことにします。この時は国市池の西側には、4つの池(坊主池 下池 上池 古池)が残りました。つまり、旧国市池と併せて5つの池がモザイクのように並んでいたのです。

 生駒騒動で生駒藩が取り潰された後に、丸亀藩主としてやってきたのが京極氏です。丸亀藩の課題は、財政安定化のための大規模な新田開発でした。そのため三豊では、三野湾の干拓と大野原の灌漑工事が行われます。こうして、三野湾を水田に姿を変えていく大工事が進められます。三野津・吉津などから高瀬川河口に至る海が、広大な水田となります。平和になり明るい未来が見えてくる。希望の星の工事。人々が望んでいたことです。しかし問題は農業用水の確保です。どこから引いてくるのか? どうするか頭を抱えていたところ・・。
解決の糸口を示すこんな記録が残っています。

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国市池堤防の法華石

鷹を献上した褒美にいただいた土地が国市池の拡大用地に・・
「笠岡村七尾原の治左衛門は触れに従い、鷹狩り用の鷹を捕らえて献上した。その褒美として、比地中村五町池下の未墾地が与えられた。しかし、そこは作付けもできないほどの悪田だったので、返上申し上げた。
それを聞いた殿様が調べさせ、その地形。地勢が分かると・
『それでは、そこに池を築き吉津・下高瀬・松崎新田の用水とせよ』といわれた。こうして国市池増築は、藩の難局打開の事業と位置づけられ進められた。
こうして堤防が吹毛の山まで伸ばされていくことになります。
同時に堤防のかさ上げ工事も進みます。工事の結果、以前にあった4つの池は、池床や用水路に変わりました。。低地に住んでいた農家十数戸も、移住させられました。(中村古事記)。
新しく出来た大池の恵みを受ける村は、比地中村・新名村・下高瀬村・吉津村・松崎村の広域にまたがりました。新しく開かれた三野干拓の水田は、国市池からの水があったからこそ豊かな実りを実現させることができたのです。

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満々と水を満たす国市池を見て、
「その水未釣れば、13162坪(三四町三反8畝二二半)という大池となり、周囲一里余り、まさに海をみるようである」

と書き残されています。そこからは、この大池を作り上げ遠く三野の新田を潤すシステムを作り上げ完成させた喜びの賛歌が聞こえてくる気がします。

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さて、この大池のネーミングには、こんな話もあります。

 満濃池は高松藩に属します。丸亀藩内で、一番の大池であることから「国一池」と呼ばれることになりました。この名称は明治まで約200 年にわたって使われました。しかし、明治になって「国で一番ではない」とのことで、少しへりくだって「国市池」と改めたというのです。どちらが正しいのか、私に判断する材料はありません。

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21世紀の国市池

400年以上に渡って大切な水をため続けた国市池
香川用水が利用できるようになり、少しづつその役割も変わってきました。大池の一部を埋めて公共スペースとして利用しようとする動きが進みます。まず、
西香川病院
そしてB&G
そして、高瀬高校の野球グランド、陸上部の第二グランド
これらは国市池の池を埋め立てて利用しているものです。
そして、池の周囲の道は散策路として整備され、ウオーキングを楽しむ人々の姿が増えている国市池です。
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国市池と爺神山(高瀬高校前より)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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