瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金毘羅信仰と琴平 > 金毘羅信仰の拡大

  日本海に浮かぶ佐渡には、畿内や瀬戸内海の港町との交流を考えなければ理解できないような民俗芸能が沢山残っています。そして、古くからの仏教遺物も多いようです。磨崖仏などは、小木町と相川町には、全国的にも優秀で、鎌倉時代と年代的にも比較的はやいころの遺品が見られます。これらの遺物は、古くから中央文化と結ばれていたということであり、それをうけいれる素地が中世から佐渡にはあったことになります。ある意味、佐渡は海によってはやくから先進文化をうけいれた、文化レベルの高い土地だったといえるようです。
 そこへ近世になって、相川の金山が幕府の手によってひらかれます。それは大坂と直接結ばれる西廻り航路の開拓によって、さらに加速されます。そこに、金毘羅信仰ももたらされ現在は遺物として残っているようです。今回は佐渡に残る金毘羅信仰を見ていくことにします。テキストは「印南敏秀 佐渡の金毘羅信仰  ことひら」です。
  
佐渡 小木港

佐渡の小木港

小木港は佐渡の西南端にあり、本土にもっとも近い港です。
小木港は、城山を挟んで西側の「内ノ澗」と東側の「外ノ澗」に隔てられた深い入江をもち、風を防ぐことのできる天然の良港です。しかし、港の歴史はそれほど古くはないようです。近世に入って、小木は金の積み出し港として、また、佐渡代官所の米を積み出す港として、次第に発達してきます。寛文年間(1661~70)に西廻航路が開かれ、能登と酒田を結ぶ大型船の寄港地として指定されたのが発展の契機になります。こうして、小木港には多くの廻船がおとずれるようになり、船乗りたちを相手にした、船問屋や船宿が建ち並ぶようになります。そして、これといった産業もなく、耕地にも恵まれない小木の人々は他国からおとずれる廻船に刺激され、船乗や船持ちとして海上運送に進出し、廻船業の拠点ともなります。

小木漁港(第2種 新潟県管理) - 新潟県ホームページ
小木港漁港

  小木の西端の町はずれに、琴平神社がまつられています。
もとは背後の高台に建っていたが道路拡張工事で、今の位置におろさたようです。それ以前のことを『南佐渡の漁村と漁業』(南佐渡漁榜習俗調査団・昭和五十年刊)には、次のように記します。

 この社は、維新まで世尊院境内の観音堂にまつられており、今でも、琴平神社のことを「広橋の観音さん」と年寄りは呼んでいる。


佐渡には金毘羅さんが数多く祭られていて、今でもグーグル地図で検索すると出てきます。そして、金比羅(金刀比羅)社は、真言系の修験と深く関わりをもつところが多いと研究者は指摘します。ここからは、醍醐寺の当山系の真言系修験者(金比羅行者)の活動がうかがえます。       
 讃岐の金刀比羅宮も、明治以前は神仏混淆であり、本堂の横には観音堂(現在の三穂津姫社)が建っていました。そして、観音さまが金毘羅さんの本地仏だとされてきました。観音は、現世利益の仏として様々な信仰をうけますが、熊野信仰の中では海上安全の仏とされてひろく信仰された仏です。小木の金毘羅さんが観音と関わりがあるのも、頷けることかもしれません。世尊院・観音堂に、いつごろから金毘羅さんがまつられたのかは、よく分からないようです。
現在の社殿前に建つ一対の石燈寵の竿には、次のような銘が彫られています。
  「文政元年」(1818年)
  「金毘羅大権現」
  「七月吉日建之」
  「塚原□□」
ここからは19世紀はじめころには、世尊院観音堂には金毘羅神が祀られていたことが分かります。
昭和初期の「遊里小木」には、和船時代の船乗りたちの小木への上陸の様子を次のように記します。
 船が小木へ着くまでに船方は幾日かの海上の荒んだ生活を続けるので、まげもくずれひげも伸びている.碇を下ろすとまず船頭は船員に髪を結ってもらい頬にかみそりをあてさせる.船上の神棚と仏壇に灯明を供え礼拝をすませると、一同そろって伝馬船に乗る.船頭は着衣のまま櫨に立つが、船員はどんなに寒くとも禅一本の真っ裸になって擢を漕ぐ.船が波止場に着くと一同着物を着る.
 船頭はまず問屋へ寄って商売の事務をすませて小宿へ行く.船員は各々権を一挺ずつ持って小宿又は付け舟宿へ行き、それを家の前に立てかけて置き、金毘羅神社、木崎神社、正覚寺に参詣をした。
ここに出てくる小宿は船頭が遊ぶ宿で、船乗りたちの遊ぶ宿が付け宿です。船乗りは、荒海を命がけで航海し、一刻も早く女を呼んで緊張した体と心を解きほぐしたいと躰と心は勇みます。しかし、それを無秩序にほとばしらせるのではなく、定めに従った作法と衣装があり、航海の無事を感謝するために神仏に祈ったことが分かります。

佐渡 木崎神社
木崎神社(小木町)
木崎神社は小木町の鎮守です。船乗りたちは港々の氏神に、参拝していたようです。小木には、問屋や船宿が建ち並んで繁栄していました。しかし、地元の船持は、宿根木、深浦にいたようです。特に、宿根木(しゅくねぎ)は佐渡全体でも一番船持ちの多いところだったようです。 
宿根木(観光スポット・イベント情報):JR東日本
 宿根木
宿根木も、北前船の寄港地として発展した港町です。
この街並みは、船大工によって作られた当時の面影を色濃し、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。この港は、宝暦年間に佐渡産品の島外移出が解禁になると、地元宿根木の廻船の拠点として繁栄するようになります。
  家屋の外見は質素ですが、北前船で財を成した船主たちが贅を尽くして豪華な内装仕上げになっています。当地の大工たちの作った船箪笥は、小判等の貴重品を隠すために使われた「からくり構造」の箪笥としても有名です。

とんちゃん日記

 さて宿根木の金毘羅さんです。
ここでももともとは、称光寺境内に熊野権現、住吉明神などとともに金毘羅社も祭られていました。それが神仏分離のときに、称光寺の鎮守である熊野をのこして、金毘羅社は氏神の白山神社に移され合祀されたようです。
佐渡市宿根木の白山神社(にいがた百景2)
白山神社
そのため現在は、金毘羅の社はなくなっています。ただ『南佐渡の漁村と漁業』には次のように記します。

十月十日に金毘羅さんのお祭りが行われており、近世末のある日記には金毘羅講が民家で行われ、金毘羅社へ参寵することがあった。

 宿根木の金毘羅信仰がさかんであったことは、記録や数多くの遺品によっても分かります。
例えば、讃岐の金刀比羅宮に佐渡から奉納された石燈寵は六基あります。その中の五基は小木町からの寄進で、このうち三基は宿根木、1基が深浦からのものです。この内で年代的が分かるのは明治5年、佐藤権兵衛が奉納したものだけです。形式などから、他のものも同時期のものと研究者は考えています。佐渡における金毘羅信仰が19世紀以後に盛んになることを押さえておきます。
 宿根木の船主たちは、自分の船に乗って讃岐金毘羅さんに参拝したり、船頭に参拝を命じていたようです。それは船主の家には、金毘羅の大木札が七十数枚も祀られていたことからも分かります。
初めての佐渡② たらい舟の小木、歴史的な街並みの宿根木 「バス旅」』佐渡島(新潟県)の旅行記・ブログ by あおしさん【フォートラベル】
小木歴史民俗資料館
それらは、宿根木の小木歴史民俗資料館で見ることができます。
宿根木の船主である佐藤家に保存されていた大木礼と大木札を納める箱もあります。大木札は、金毘羅さんから信者に授けた、高さ1mほどの木札です。形態は二種あり、先端が山形になったものと、平坦のものがあります。これは、金毘羅大権現のものと、神仏分離後の金刀比羅宮になってからのものです。木札の年号は、文政四(1828年)のものが一番古く、明治40(1907)年のものが最後になります。ここからも19世紀前半から20世紀までが、宿根木での金毘羅信仰の高揚期だったことと、宿根木廻船の活動期だったことがうかがえます。
 これは最初に見た小木の琴平神社の石燈寵と同じ時期になります。
 大木札には祈願願望が記されています。45枚に記された字句を分類してみると次の通りです。
家内安全  28枚
海上安全・船中安全7枚
講中安全   6枚
諸願成就   2枚
病気平癒   1枚
「金毘羅さん=海の神様」という先入観からすると家内安全が断然トップに来るのは不思議に思われます。ここからも、金毘羅信仰にとって、近世の「海上安全・船中安全」というのは二次的なモノで、近代になって海軍などの信仰を得ることから本格化したのかもしれません。

金刀比羅宮木札
金刀比羅宮の大木札

また最初の木札が登場してから短期間で、その枚数が急激に増えるようです。ここからは、宿根木における金毘羅信仰の広がりが「流行神」的に急激なものであったと研究者は推測します。

金毘羅大権現 箸蔵寺
箸蔵寺の金毘羅大権現
宿根木資料館には、箸蔵寺の大木札も3枚あります。
 箸蔵寺は金比羅から讃岐山脈を越えた三好郡池田町にあります。ここは修験者たちが近世後半になって開山した新たな山伏寺でした。その経営戦略は、「金毘羅さんの奥の院」と称しとして、金毘羅さんと箸蔵寺さんの両方に参拝しなければ片参りとなって御利益を得ることができないと先達の山伏たちは説きました。そして、幕末にかけて爆発的に参拝者を増やします。その勢いを背景に伽藍を整備していきます。この時に整備された本殿や護摩堂などの建物は、現在では全て国の重文に指定されています。当時の経営基盤を感じさせてくれます。
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箸蔵寺の金毘羅大権現本殿
 小木の船乗りのなかには、讃岐の本社より奥の院箸蔵寺のほうが御利益があるといって、金毘羅参拝のときにはかならず箸蔵寺にも参詣しなければならないといわれていたといいます。そのお札が残されていることになります。

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箸蔵寺本殿には山伏寺らしく天狗面が掲げられている
さて、現在の小木町で金毘羅信仰はどうなっているのでしょうか。
個人的にはお祀りしている家もありますし、金毘羅講も残っているようですが、実態としては活動停止状態になっているようです。この背景には、金毘羅信仰が西廻航路の船乗りや船主を中心とした人々によって支えられてきたことがあるようです。20世紀になって、北前船が姿を消すとそれに伴って、金比羅信仰を支えていた人達も衰退していきます。そして、社や祠は管理者を失い放置されていくことになります。
曹洞宗 龍澤山 善寳寺(山形県)の情報|ウォーカープラス
善宝寺

 現在佐渡で、海の神さんとして信仰を集めているのは、山形県西郷村の曹洞宗竜沢山善宝寺のようです。
善宝寺は竜神信仰の寺で、航海や漁業に霊験があるとされ、海に関係する人々から信仰を集めています。氏神である木崎神社にも、社殿の下に真新しい善宝寺さんのお札がたくさん置かれています。新しいお札を受けてきたので、古くなったお札をおたきあげしてもらうために神社にもち込んだのでしょう。
 佐渡は竜神信仰のさかんなところで、善宝寺信仰が秋田・山形の廻船によってもち込まれさかんになるまでは、宮島(広島県)に参拝していたともいいます。もっとも、善宝寺信仰が盛んになるのはは幕末以後のことです。その当時は、小木町でも金毘羅信仰がさかんで、善宝寺信仰は入り込めなかったのかもしれません。金毘羅さんの木札がなくなる明治末になると、衰退していく金毘羅信仰に換わって善宝寺信仰が入り込んでくると研究者は考えています。
 明治になって天領米の輸送もなく、相川の金は減少して久しくなります。
明治中頃もすぎると、鉄道線路が全国展開するにつれて、陸上輸送が中心となり、それに対応して、船は大形・機械化します。そうなると風待ち・潮待ちのためにわざわざ佐渡の小木港に寄港する必要がなくなります。それまでは廻船で、大坂まで年に数度おとずれていた船主や船頭たちにとって、讃岐金毘羅はその途中の「寄り道」で身近な存在でした。そして名の知れた遊郭などがある男の遊び場でもあったのです。その機会がうしなわれます。こうして讃岐の金毘羅さんは佐渡からは遠い存在になっていきます。
 廻船に乗っていた船乗り、廻船を相手にしていた商人たちも大きな打撃をうけます。
「港町小木の盛衰」(「佐渡丿島社会の形成と文化」地方史研究協議会編・雄山閣)には、次のように記されています。
 明治も中期を過ぎる頃には、港町小木の繁栄をささえていたすべての要素を失ってしまった。その頃のものと思われる記録に、「小木町の戸数六百戸、うち失業戸二百戸、その内訳は廻船問屋、貸座敷、仲買商その他」とある。かつて小木町の繁栄にもっとも力を貸した業者など三分の一世帯が失業してしまった。

瀬戸の港町と同じような道を歩んでいくことになるようです。
最後に押さえておきたいのは、金毘羅信仰が佐渡にもたらされたのは近世も終わりになってからの19世紀ことで、特に幕末にかけてその信仰熱が高揚したこと、を押さえておきます。ここでも北前船の登場と共に、近世前半に金毘羅信仰が北陸や東北の港町に広がったということではないようです、
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

土佐燈籠 牛屋口
牛屋口の土佐灯籠(まんのう町佐文)
金刀比羅宮へ通じる土佐伊予街道の牛屋口には69基もの石灯籠が並んでいます。これらの石灯籠は『金毘羅庶民信仰資料』(第二巻)にも載せられていて、以前に次のようにまとめておきました。
①刻まれた寄進者名から、ほとんどが土佐の人たちによる奉納であること
②明治6年から明治9年までの4年間に集中して建立されていること。
③高知の各地の講による寄進が多い。その中でも伊野の柏栄連のものが一番多い
燈籠を見ていて気付くのは伊野町の「柏栄連」と刻まれたものが多いことです。
「柏栄連」と刻まれた燈籠は12基あります。さらに調査書をみてみると 「土佐国伊埜沖 柏栄連」と記録されているのもあり、これを加えると13基になります。土佐全体からみると13/69が伊野の柏栄連によるものです。これは土佐の城下町の講よりも多い数になります。それだけの信仰心と、経済力を持つ人たちが伊野にはいたことがうかがえます。
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 さらに柏栄連の燈籠の建立年を見ると、明治7年1月と10月の2回だけなのが分かります。寄進人名は講元(世話人)が延べ39人、寄進者が延べ172人となります。
 牛屋口に13基の燈籠を寄進した伊野の当時の背景を見てみることにします。テキストは「広谷喜十郎  土佐和紙の伊野町と金毘羅庶民信仰 ことひら53 H10年」です。
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土佐灯籠(牛屋口)
伊野町には「紙の博物館」や紙すき体験ができる工房もあり、土佐和紙の本場だったことは以前から知っていました。この町が「和紙の町」として有名になるのは、土佐七色紙を生み出した地だからのようです。江戸時代後期にまとめられた『南路志』には、次のように記されています。
 戦国時代末期の頃、土佐和紙の祖といわれた安芸家友と養甫尼とが、七色紙を考案して、慶長六年(1601)に土佐に入国した親藩主山内一豊に献上したところ、以後「御用紙」として指定された

 しかし、なぜかこの製紙法を教えた恩人である伊予の旅人新之丞の名前は出てきません。この製紙法が藩外にもれるのを怖れ、彼を惨殺したという伝承が今も語り継がれています。彼が惨殺されたとされる仏が峠には供養のための古びた石仏とれた「紙業界之恩人新之丞君碑」が建てられています。
伊野町 紙業界之恩人新之丞君碑
紙業界之恩人新之丞君碑
江戸時代初期から、伊野町を中心にして製紙業が発展するようになります。七色紙を考案した安芸家友は、藩庁から給田一町と成山の総伐畑(焼畑)を支給され、御用紙方役に任命されます。24人の紙漉人に江戸幕府への献上紙や藩主用の御用紙を漉かせます。彼らは特別の保護をうけ、田畑を与えられ、紙の原料を藩内全域から強制的に集めることができ、藩有林(御留山)の薪を自由に燃料として伐採する権利も得ていました。
  ある意味、藩は官営マニファクチャーを組織して、その運営を安芸家友にまかせたとも云えます。そのため安芸家は、藩のきびしい監督下におかれ、製品を他に販売したり、紙漉人が国外へ旅行することも禁止され、縁組にまで干渉されるという徹底した管理下に置かれます。「紙=お上」で「御用紙」の荷物がさしかかると、武士でさえ道を譲って敬意を表し、庶民たちはこれを見かけると低頭して見送ったとも伝えられます。
土佐七色紙 —養甫尼伝— (季刊文科コレクション) | 青木 哲夫 |本 | 通販 | Amazon

 七色紙とは「黄色」、「紫色」、「浅黄色」、「桃色」、「柿色」、「萌黄色」、「青土佐(朱善寺紙)」の七種類の色紙です。
やがて各地に製紙業が発達していくと、藩は宝永六年(1709)に「御用紙」、正徳四年(1714)に「御蔵紙」を設定して、紙の専売制の強化をはかり藩の財源を確保しようとします。いわゆる重商主義による制限がかかります。財政窮乏になやむ藩庁は、紙の専売制をさらに強化しようとして宝暦二年(1753)に国産方役所を設け、国産問屋を設置します。
 ところが、宝暦五年(1755)の津野山騒動にみられるように農民たちのはげしい抵抗にあいます。このしっぺ返しの結果、宝暦十年(1760)に専売制を廃止して、藩へ割当て分を納入した後は、残った分を「平紙」として自由に販売することを認めるようになります。この結果、自由な生産・販売権を手にした業者達の生産意欲は上昇し、平紙の生産はますます盛んになります。そして幕末には、土佐全体で製紙業者が一万五千戸余り、年産出額が七百万束にも達し、上方市場では長門国の紙の生産に匹敵する地位をえて、土佐和紙は全国的な地位を築きます。

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製紙業の発展につれて、伊野町は和紙の集散地の在郷町として発展します。
明治初年には、この町では県下の約二割の和紙を生産し、県全体の販売量の半分を占めるようになていたようです。明治末期には、仁淀川筋に散らばっていた原料扱いの商人や紙問屋も現在の伊野町の問屋坂に集まってきます。業者集中の生み出した効果は大きく、その経済力は一段と高くなり、工場生産を展開する業者も現れます。
 この時期に御用紙づくりの伝統的な技術を受け継いでいた吉井源太は、紙漉き用の桁を大型化すると共に、笙員を精巧なものにすることによって、土佐和紙の品質と能率の大巾な向上を実現しました。彼が取得した新案特許は28種類に及ぶといわれ、彼の著書『日本製紙論』に、その技術が詳しく記されています。
かげろうの羽と呼ばれる修復和紙!土佐典具帖紙について
「土佐典具帖紙」

 「土佐典具帖紙」は、はじめは岐阜県で作られた薄紙でした。これを吉井源太が笙貝桁に工夫して、「かげろうの羽」ともいわれる世界で最も薄い紙を作り出します。この紙は昭和48年には国の重要無形文化財(記録選択)に指定されています。
 土佐の薄葉雁皮紙は、七色紙の伝統的製紙法による土佐和紙の一つですが、薄葉で墨汁ののりがよく、染み込みません。その特性から騰写印紙、版画用紙、日本画用紙など多方面に利用されることになります。この紙は昭和五十五年に県の無形文化財に指定されています。こうして幕末から大正時代にかけて伊野は和紙の町として大きく飛躍したのです。
伊野町 琴平神社
伊野の琴平神社

土佐電伊野駅の前を愛嬌のある狛犬に迎えられ鳥居をくぐって階段を登っていくと、伊野の琴平神社が鎮座しています。
「神社明細帳』によると、次のように記されています。
「天保十三年二月坊ヶ崎へ宮殿を建築し、十月遷座す。坊ヶ崎は伊野村の町入口にある。この神社の出来た天保十三年から金毘羅宮と蔵王権現の遥拝所を神社の近くに定めた」

「伊野、琴平神社の金石文」にも、次のように文言があるようです。
「遥拝所土地開発称石築頭取」
「森木重次右衛門自建之七十七中又」
「弘化二年乙巳二月九日成就」
ここからは琴平神社が建築されたのが今から約200年前の天保13年(1816)で、その約20年後の弘化二年(1845)に、神社本殿前の広場を遥拝所として整備したことが分かります。また、同時に勧進されたのが蔵王権現ですから、修験道山伏の手によって行われたことがうかがえます。
 境内にある手水鉢には
「嘉永四(1857)年辛亥十月吉日 御用紙漉伝右工門 同源二郎三輪屋瀬助 仙代屋梶平 徳升屋金次郎 高岡村石工文次作」

と刻まれています。それに、「永代月燈」には「百姓伊三郎 百姓藤次 百姓貞次(略)安政四巳五月令日」の銘があります。もう一つの「永代月燈」には「慶応三(1867)丁卯十月令日」とあり、北山・枝川地区の農民によって明治直前に寄進されたものであることが分かります。
これらの石造物から岡本健児氏は、伊野の琴平神社の発展を次のように記します。
「安政四(1857)年、慶応三(1867)年の永代月燈は琴平神社建立以後の神社の拡張を物語るものであり、その信仰が伊野から周辺の農民に及んだことを示している。さらに、その後狛犬、鳥居、玉垣など造成され、特に狛犬は「明治十三辰年六月令日塚地村石工井上五平次」とあり、琴平神社の信仰が農民層から町民層へと広く波及したことがわかる」
 これらは讃岐の金毘羅本社の発展の軌跡とも符合します。金毘羅が全国的なブームになるのは、19世紀になってからです。このような発展ぶりから琴平神社は、明治12年に村社になっています。近年、発見された神社の棟札には「明治四拾三(1910)年二月 本殿葺替 葺」と記されています。ここからは長岡郡五台山村(高知市)の大工を雇用して粉(こけら)葺に葺替えをしていることが分かります。

 琴平神社の境内は、句碑の庭としても整備されています。
伊野町 琴平神社2

俳聖松尾芭蕉の句碑を含めて十基もあり、県下最大の句碑群です。松尾芭蕉の句碑は、嘉永五年(1852)に地元の俳人仲間が芭蕉を慕い

「春の夜はさくらに明けて仕舞いけり」

の句を刻んで建立したものです。
伊野町 琴平神社3
伊野町琴平神社

 芭蕉の句碑の古いものは文化、文政年代に建てられています。これらの句碑は、芭蕉の遺徳を偲んで「社中」とか「連」とかの俳人仲間の組織が資金を集めて建立されたものが多いようです。幕末期は、各地在郷浦町が経済的に急成長した時期で、経済的に裕福になった商人たちを中心にして、俳句吟社がつくられ、俳句人口が急速に増加していった時期でもあるようです。伊野町の場合も、先ほど見たように製紙業が急成長していきます。それにつれて、俳句人口も増加して、数多くの句碑が建立されるようになります。またこの神社の境内には、明治時代から昭和初期にかけての紙業功労者の大きな記念碑が8つも建っています。まるで「碑林」のような光景です。
  以上から伊野の当時の状況を考えて見ると次のようになります。
①19世紀初め以後、伊野では伝統的な和紙産業が着実に成長し、関係業者が成長し富裕層を生み出していた
②明治初年には、伊野は県下の約二割の和紙を生産し、県全体の販売量の半分を占めるようになった。
③すぐれた技術力を活かし、他の生産地に先駆けて大型化や大量生産化への取組みも始まった。
つまり、牛屋口に13基もの燈籠を寄進した伊野町の「柏栄連」の講員172名にとっては、商売や稼業がうまくいき未來に希望がもてる環境の中にいたことがうかがえます。
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 明治7年という年は、ある意味エポックメイキングなとしでもありました。
1 金刀比羅宮蔵 講社看板g

金毘羅崇敬講社が設立された年でもあるのです。崇敬講社については以前にお話ししましたが、「取次定宿制度」で、参拝者が安心して宿泊できるように講社が定めた宿が指定され、金比羅詣でが安全で便利に行えるようになりました。ここで燈籠勧進までの過程を物語り化しておきましょう
④伊野の琴平神社の整備とともに、讃岐本社の金比羅講である「柏栄連」の講員も増えた。讃岐の金毘羅本社への参拝熱が高まってきた。
⑤明治になって移動の自由が保障され、金毘羅崇敬講社も整備され、讃岐への道は心理的にも経済的にも近くなった。
⑥こうして「柏栄連」の講員の中から集団での金毘羅参りが行われることになった。
⑦土佐伊予街道を歩いて参拝する中で、道標や燈籠のほとんどが伊予の人たちによって寄進されたものであることに気づき、土佐人のプライドが高まる。そんな中で牛屋口までくると、土佐の燈籠がいくつか建立されていた。これを見て、講員に呼びかけて、ここに「柏栄連」と刻んだ燈籠を寄進することが提案された。帰って講員に計るとほとんどの人たちの賛同を得て、燈籠寄進が行われることになった。
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土佐灯籠(牛屋口)
 3年後の明治10年にも組織的な参詣がおこなわれています。
この時の記録は、地域名しか記されていないので詳しくは分かりませんが、伊野周辺の30ケ村から参詣団になっています。ここからは伊野の琴平神社を中心して、周辺部の農村にまで金毘羅信仰がひろがっていることがうかがえます。このような土佐の集団参拝は、漁村にも波及します。そして、かつお船団の船員が漁の始まりや終わりに参拝に訪れ、そして花街で派手な精進落としを行うようになっていきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「広谷喜十郎  土佐和紙の伊野町と金毘羅庶民信仰 ことひら53 H10年」

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安井金毘羅宮

京都市東山区の建仁寺の近くにある安井金毘羅宮は、今は縁切り寺として女性の人気を集めているようです。
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しかし、30年ほど前までは、縁結びと商売繁昌祈願の「藻刈舟(儲かり舟)」の絵馬に人気がありました。流行神(商品)を生み出し続けることが、寺社繁栄の秘訣であるのは、昔も今も変わりないようです。
 安井金毘羅宮はかつては「商売繁昌 + 禁酒 + 縁結び」の神とされていました。祇園という色街にある神社ですから「商売繁昌と禁酒と良縁」を売り物とすることは土地柄に合ったうまい営業スタイルです。それでは現在の「縁切り神社」は、どんな由来なのでしょうか。そこで登場するのが崇徳上皇です。崇徳上皇は、全ての縁を絶って京都帰還を願ったということから、悪縁を絶つ神社と結びつけられているようです。これは断酒の場合と同じです。酒を断つという願いから悪縁を絶へと少しスライドしただけかも知れません。。
 今回は、安井金毘羅と崇徳上皇と讃岐金毘羅大権現の関係を見ていきたいとおもいます。テキストは 「羽床正明  崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  ことひら53 H10年」です。
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 安井金毘羅宮の近くには「都をどり」の祇園歌舞練場があります。その片隅に崇徳上皇御廟があります。これは明治元年に坂出の白峰から移されたものとは別物です。それ以前からこの御廟はありました。
安井金毘羅宮と崇徳上皇のつながりを見ておきます。
 崇徳上皇は保元の乱という政争に巻き込まれ、讃岐に流され不遇の内に亡くなりますが、その怨念を晴らすために生きながら天狗になったされるようになります。この天狗信仰と安井金毘羅宮は関係があるようです。
 保元の乱に敗れ、崇徳上皇は讃岐に流されます。上皇は6年間の流人生活の後、長寛二年(1164)8月、46歳で崩御し、その亡骸は白峰寺のほとりで荼毘に付され、そこに陵が営まれて白峰御陵と呼ばれるようになります。これについては以前にお話ししましたので省略します。
『保元物語』には、次のように記されています。
 讃岐に流された崇徳上皇は「望郷の鬼」となって、髪も整えず、爪も切らず、柿色の衣と頭巾に身をつつみ、指から血を流して五部大乗経を書写した。その納経が朝廷から拒否されたことを知ると、経を机の上に積みおいて、舌の先を食い破ってその血で、「吾、この五部の大乗経を三悪道に投籠て、この大善根の力を以て、日本国を滅す大魔縁とならむ。天衆地類必ず合力給へ」という誓状を書いて、海底に投げ入れた
「此君怨念に依りて、生きながら天狗の姿にならせ給ひけるが」
ここには崇徳上皇が死後、天狗になったとする説が記されています。
7崇徳上皇天狗

これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。
謡曲「松山天狗」の舞台は,崇徳上皇が亡くなった讃岐の綾の松山(現坂出市),白峯です。崇徳上皇と親しかった西行法師が讃岐松山のご廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。

7 崇徳上皇松山天狗
松山は草深い里でした。西行は,山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行きますが,道はけわしく,生い繁げる荊は旅人の足を拒みます。そこへ一人の老翁(実は崇徳上皇の霊)が現れ「貴僧は何方より来られたか」と訊ねるのです。
西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者,新院がこの讃岐に流され,程なく亡くなられたと承り,おん跡を弔い申さんと思い,これまで参上した次第。 何とぞ,松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞います。
 やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い,苔の下道」に足をとられながら,ようやくご陵前にたどりつきます。しかし、院崩御後わずか数年にもかかわらず,陵墓はひどく荒廃し、ご陵前には詣でる人もなければ,散華焼香の跡さえ見えません。西行は涙ながらに、院に捧げた次のような鎮魂歌を送ります。

よしや君むかしの玉の床とても叡慮をなぐさめる相模坊かからん後は何にかはせん

 老翁は「院ご存命中は都のことを思い出されてはお恨みのことが多く,伺候する者もなく,ただ白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは参内する者もいない」と言い,いつしか木影にその姿を消してゆきます。
 ややあって何処からともなく「いかに西行 これまで遙々下る心ざしこそ返す返すも嬉しけれ 又只今の詠歌の言葉 肝に銘じて面白さに いでいで姿を現わさん・・・・・」
との院の声。御廟しきりに鳴動して院が現れます。
院は西行との再会を喜び,「花の顔ばせたおやかに」衣の袂をひるがえし夜遊の舞楽を舞う。
こうして楽しく遊びのひと時を過ごされるが,ふと物憂い昔のことどもを思い出してか,次第に逆鱗の姿へと変わってゆきます。その姿は,あたりを払って恐ろしいまでの容相である。
  やがて吹きつのる山風に誘われるように雷鳴がとどろき,あちこちの雲間・峰間から天狗が羽を並べて翔け降りてきます。
7 崇徳上皇相模坊大権現
模坊大権現(坂出市大屋冨町)の相模坊(さがんぼう)天狗像

「そもそもこの白峯に住んで年を経る相模坊とはわが事なり さても新院は思わずもこの松山に崩御せらる 常々参内申しつつ御心を慰め申さんと 小天狗を引き連れてこの松山に随ひ奉り,逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し仇敵を討ち平げ叡慮(天子のお気持ち)を慰め奉らん」と,ひたすら院をお慰め申しあげるのである。
 院はこの相模坊の忠節の言葉にいたく喜ばれ,ご機嫌もうるわしく次第にそのお姿を消してゆく。
そして,天狗も頭を地につけて院を拝し,やがて小天狗を引き連れて,白峯の峰々へと姿を消してゆく。
以上が謡曲「松山天狗」のあらましです。
実際に西行は白峰を訪れ、崇徳上皇の霊をなぐさめ、その後は高野の聖らしく善通寺の我拝師山に庵を構えて、3年近くも修行をおこなっています。時は、鎌倉初期になります。ここからは崇徳上皇の下に相模坊という天狗を頭に数多くの天狗達がいたことになっています。天狗=修験者(山伏)です。確かに中世の白峰には数多くの坊が立ち並び修験者の聖地であったことが史料からもうかがえます。
謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説 相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がりました。

安井金毘羅社と崇徳上皇御廟の関係を『讃岐国名勝図会』は、次のように記します。
京都安井崇徳天皇の御社へ参詣群集し、皆々金毘羅神と称へ祭りしによりて、天皇の御社を他の地へ移し、旧社へ更へて金毘羅神を勧請なしけるとなん。

意訳変換しておくと
京都安井崇徳天皇御社へ参詣する人たちが崇徳上皇陵を金毘羅神と呼ぶようになったので、天皇の御社を他の場所へ移して、そのの跡に安井金毘羅神社を勧請建立したという

ここからは安井金毘羅神社の現在地には、かつては崇徳上皇陵があったことが分かります。
秋里籠島の『都名所図絵』には、安井金毘羅社の祭神について次のように記されています。
奥の社は崇徳天皇、北の方金毘羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし、崇徳帝金毘羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ云云。

奥社に崇徳天皇、北に金毘羅権現、南に源三位頼政が祀られているが、京都の人たちはこれを併せて「安井の金毘羅」と呼ぶ。参拝する人々の絶えることはなく、崇徳帝と金毘羅神は同一体である。

と記され、金毘羅権現が北の方の神として新たにつくられたので、崇徳天皇の社は移転して奥の社と呼ばれるようになったことが二の書からは分かります。どちらにしても「崇徳帝=金毘羅」と人たちは思っていたようです。
「崇徳帝=金毘羅」説を決定的にしたのが、滝沢馬琴の「金毘羅大権現利生略記』です。
世俗相伝へて金毘羅は崇徳院の神霊を祭り奉るといふもそのよしなきにあらず。

と、馬琴は崇徳帝と金毘羅権現を同一とする考えに賛意を表しています。
7 崇徳上皇讃岐院眷属をして為朝を救う図
歌川国芳の浮世絵に「讃岐院眷属をして為朝を救う図」(1850年)があります。最初見たときには「神櫛王の悪魚退治」と思ってしまいました。しかし、これは滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』(1806~10年刊行)の一場面を3枚続きの錦絵にしたものです。この絵の中には次の3つのシーンが同時に描き込まれています。
①為朝の妻、白縫姫(しらぬいひめ)が入水する場面(右下)
②船上の為朝が切腹するところを讃岐院の霊に遣わされた烏天狗たちが救う場面(左下)、
③為朝の嫡男昇天丸(すてまる)が巨大な鰐鮫(わにざめ)に救われる場面
ここに登場する巨大な|鰐鮫は「悪魚」ではなく主人公の息子を救う救世主として描かれています。以前にお話しした「金毘羅神=神魚」説を裏付ける絵柄です。

神櫛王の悪魚退治伝説

  また、ここでも崇徳上皇は天狗達の親分として登場します。
 『椿説弓張月』が刊行された頃は、「崇徳上皇=金毘羅大権現}であって、崇徳上皇は天狗の親分で、多くの天狗を従えているという俗信が人々に信じられるようになっていたことが、この絵の背景にはあることを押さえておきます。その上で京都では、崇徳帝御社があった所に、安井金昆羅宮がつくられたということになります。

研究者がもうひとつ、この絵の中で指摘するのは、この絵が「海難と救助」というテーマをもっていることです。
金毘羅宮の絵馬の中には、荒れ狂う海に天狗が出現して海難から救う様子を描いたものがいくつもあります。もともとの金毘羅は天狗信仰で海とは関係のなかったことは、近年の研究が明らかにしてきたことです
船絵馬 海難活動中の天狗達
海に落ちた子どもを救う天狗達(金刀比羅宮絵馬)

「海の神様 こんぴら」というイメージが定着していくのは19世紀になってからのことのようです。その中でこの絵は、金比羅と海の関わりを描いています。絵馬として奉納される海難救助図は、このあたりに起源がありそうだと研究者は考えているようです。

  今度は讃岐の金毘羅さんと天狗との関係を見ていきましょう
7 和漢三才図絵

江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

と記されます。
また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
松尾寺に伝わる金毘羅大権現 蔵王権現のようにも見える

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰に凝り、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、金比羅は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。
江戸前期の『天狗経』には、全国の著名な天狗がリストアップされています。
7 崇徳上皇天狗

これらが天狗信仰の拠点であったようです。その中に金毘羅宮の天狗として、象頭山金剛坊・黒眷属金毘羅坊の名前が挙げています。崇徳上皇に仕えたという相模坊もランクインされています。ここからも象頭山や白峰が天狗=修験者の拠点であったことがうかがえます。宥盛によって基礎作られた天狗拠点は、その後も発展成長していたようです。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現のもとに集まる天狗(山伏)達 別当寺金光院発行

知切光歳著『天狗の研究』は、象頭山のふたつの天狗は次のような分業体制にあったと指摘します。
①黒眷属金毘羅坊は全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗
②象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する天狗
そのため②は、金比羅本山で、①は、それ以外の地方にある金毘羅社では、黒眷属金毘羅坊を祭神として祀ったとします。姿は、象頭山金剛坊は山伏姿の天狗で、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の仲間の鳥天狗として描かれます。また、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の家来とも考えられました。他に、象頭山趣海坊という天狗がいたようです。
この天狗は先ほどの「讃岐院眷属をして為朝を救う図」にも出てきた崇徳上皇の家来です。

文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集があります。その中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、ついに天狗となったものだと語ったと記されています。。

金比羅には象頭山から南に伸びる尾根上に愛宕山があります。
C-23-1  象頭山12景
右が象頭山、左が愛宕山
この山がかつては信仰対象であったことは、今では忘れ去られています。しかし、この山は金毘羅さんの記録の中には何度も登場し、何らかの役割を果たしていた山であることがうかがえます。この山の頂上には愛宕山太郎坊という天狗がまつられていて、金毘羅宮の守護神とされてきたようです。愛宕系の天狗とは何者なのでしょうか?

7 崇徳上皇天狗の研究
知切光歳著『天狗の研究』は、愛宕天狗について次のように記されています。
天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗
とあって、狐に乗りダキニ天を祀る天狗が、愛宕・飲綱糸の天狗だとします。全国各地の金毘羅社の中には天狗を祭神ととしているところが多く、両翼をもち狐に跨る烏天狗を祀っていることが数多く報告されています。金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕・飯綱系の天狗と結ばれていたようです。
7 金刀比羅宮 愛宕天狗dakini
ダキニ天

以上から「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えが江戸時代には広く広がっていたことがうかがえます。ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があったようです。皇国史観に見られるように歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は葬られていくことになります。しかし、「崇徳上皇=金毘羅」説は別の形で残ります

以上をまとめると、こんなストーリーが考えられます
①江戸後期になって安井金毘羅宮などで崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説が広まった。
②金毘羅本社でも、この思想が受け入れられるようになる。
③明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、世俗で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用された。
④こうして祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられ、明治21年には白峰神社が建立された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

引田 新見1
 新見の荘から倉敷→塩飽→引田→兵庫→淀を経ての帰路

以前に永禄九(1566)年に「備中国新見庄使入足日記」を紹介しました。そこには、新見にあった京都・東寺の荘園の役人が、都へ帰って行くときの旅費計算記録が載せられていました。彼らは新見から高梁川を荘園専用の川船で、河口の玉島湾まで下っていました。
 今回はそれ以後の高梁川の高瀬舟の活動を見ていきたいと思います
高梁川3

高瀬舟といえば、川舟の一種で森鴎外の小説「高瀬舟」に登場してきます。「高瀬」は辞書では、「川の瀬の浅いところ、浅瀬」とあります。高瀬舟の名前の由来も川の浅瀬に対応できるように、舟底が浅く平らであり、いわば浅瀬舟のイメージで「高瀬舟」と呼ばれるようになったという説が一般的です。
 一方、平安時代の百科辞書「和名類聚抄」では、高瀬舟の特徴は「高背たかせ(底が深い)」とあり、川漁などする当時の小舟と比べて、やや大きくて底の深い舟であったとする説もあります。
高瀬舟模型 勝山歴史博物館

 慶長12年(1607)角倉以子(すみのくらりょうい)が、高瀬川・大堰川に、川舟を浮かべたことから、高瀬舟と呼ばれるようになったと云われます。しかし、備中の高梁川や吉井川には、それ以前から川舟が数多く往き来していたことは史料から分かります。
角倉了以は、慶長九年(1604)安南(ベトナム)航海を終えて帰国した際に、高梁川に浮かんでいる川舟を見て、このような形の舟であれば、どんな急流でも就航が可能であることに気付き、備中から舟大工や船頭をつれて京都に帰り、高瀬舟を作り、大堰川を開いて、丹波国から洛西の嵯峨へ物資を運ぶ舟を通わせたとされます。高梁川の川船が高瀬舟のモデルになったようです。
高瀬舟(京都) 船曳
京都の高瀬舟 曳舟
  
 私も何回かカヌーでこの川を下りました。今はダムが上流にあるため水量が少なくなり井倉洞あたりでは水深も浅く、場所によってはカヌーの底をこするような所もありますが、流れはゆるやかで初心者にやさしい川下りゲレンデを提供してくれます。
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高梁川

 高梁市の市街地をゆったりと流れていると、かつての川船の船頭になった気分で鼻歌まで出てきそうな気がします。成羽川と合流すると水量も一気に増えて、大河の片鱗が見えてきます。今でも川船が舫われ、川漁が行われていることがうかがえます。
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川岸に舫われた高梁川の川船

かつての川湊らしき所が見えてきます。この川は室町時代以前からも、新見の荘園の物資や鉄などを積んだ川舟が往き交い、幕末のころには、その数130隻にも及んだといいます。
DSC08308

  グーグルで見ると、備中を北から南に流れる高梁川は、奥深い中国山地にその源を発し、瀬戸内海の水島湾に注いでいます。逆に見ると、高梁川の河口、倉敷市の水島港から川を登ると総社市、高梁市、新見市とへ中国山地の源流地帯へと続きます。この川筋を辿って新見までやってくれば、山陰地方の人たちも、高梁川を上下する高瀬舟で、倉敷へ舟で下って行くことができたことになります。高梁川は、川筋の平野を潤すとともに、人やモノの移動の動脈だったことが分かります

 「幹流高梁川船路見取図 大正六年八月調査」井上家文書 
 新見市には、高梁川沿いに、かつての船着場が保存されています。
高梁川高瀬舟船着場
新見市の船着場跡

船着場には寺院が有り、川船の管理センターの役割を果たし、荘園管理も行っていたのでしょう。新見荘には、鎌倉時代の文永八年の「検注目録」に、船人等給が出てきます。ここからは新見の荘には、何人かの河川交通の専門家、船人がいたことが分かります。また、新見の「市」のたったところは、中洲という地名です。これは、新見の町が川の中洲にできた町が起源だったことを示していると研究者は指摘します。
高梁川1
高梁の川湊と高梁川
私は新見が川船のゴールだと思っていましたが、さらに奥まで行っていたようです。津山や勝山や広島県の三次からもカヌーで下ったことがありますが、吉井川や高梁川、旭川、江ノ川のように、河口の拠点湊から奥地の内陸部の川湊まで、大小の川を体内の血管のように川が交通路として機能していたことが分かります。
DSC08347
現在の高梁市と高瀬川


高梁川の支流の成羽川の難所を開墾して河川を開いた、律宗の僧侶で実専という人がいます。
彼の記念碑が「笠神文字石」という自然石の石碑として高梁市備中町にはありました。徳治二年(1307)に、成羽善養寺の僧尊海と、西大寺の奉行代実専が中心になって、成羽川の10ヵ所の瀬を笠神船路のため開削したと刻まれています。ここに石切大工として名前が刻まれている伊行経は、鎌倉時代初期に東大寺の再建のため招かれた南宋の石工、伊行末の一族とされます。現在は新成羽川ダムのため水没してしまいました。河川交通整備のための努力が中世から続けられてきたことが分かります。
高梁川高瀬舟 井倉洞
高梁川の井倉洞付近をいく高瀬舟

山本剛氏「高瀬舟と船頭並びに筏渡船」には、高梁川の川船のことが記されています。
その中に川船で瀬戸内海を渡り、金毘羅詣りをした話が載せられています。
高瀬舟といえば底の浅い川舟です。川船で海を越えるというのが驚きです。その話を見ていくことにします。守田寿三郎翁は、次のように語っています。
「明治30年頃、村長であった父瞭平が、川口石蔵さんの新造船で金昆羅詣りに招待された。帰りには、玉島から強い南風を帆いっぱいに受けたので、玉島を朝出て昼頃には水内に着いた」

高瀬舟の進水祝いに金毘羅詣でに出掛けたようです。高梁川の河口から出港し、海を越えているようですがどこの湊に入ったかは分かりません。帰りは玉島港からは、折りから吹き始めた南風を受けて川を上ったことが分かります。

高梁川高瀬舟 金毘羅詣で

 別の船頭は、次のように語っています。
「高瀬舟で四国へ渡るには、潮が引き始めると、潮に乗って玉島を出港した。追手風が吹くときに帆を揚げて、本舵操縦して渡った。途中、本島へ着くと潮待して、潮が満ち始めると、潮に乗せて舟を出し、追手風が調子よく吹くときには潮待しなくても渡れるときもあった。風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半くらいで渡ることができた。潮待ちして海を渡るときは、丸亀まで六時間、多度津へは七時間くらいかかった。
 昼間、海を渡っていて、突風にさらされ、もうこれまでと絶望したことが幾度かあった。その時は、 一番近い島影に退避して、風の治まるのを待った。昼間は突風が起きる危険があるので、穏やかな風の吹く夜を選んで渡ることが多かった。風の強く吹く時には「風待ち」といって、港や島影で、二日でも三日でも風の静まるのを待った」

ここからは次のようなことが分かります。
①引潮にのって玉島を出て本島で潮待ちして、満ち潮になると丸亀をめざした
②追風だと潮待ちなしで坂出まで2時間半
③潮待ちして本島経由だと丸亀へ6時間、多度津へ7時間
④昼間の突風を避けるために、穏やかな風の吹く夜が選ばれた。
⑤強風の時には「風待ち」のために、何日でも待った

潮待ちに本島(塩飽)に立ち寄っています。
そういえば「備中国新見庄使入足日記」の東寺の僧たちも、本島で長逗留していたことを次のように記していました。
廿八日 百五十文 倉敷より塩鮑(塩飽)迄
九月晦日より十月十一日迄、旅篭銭 四百八十文 十文つゝの二人分
十二日 十二文 米一升、舟上にて
  高山を朝に出て高梁川を下り、その日のうちに倉敷から塩飽へ出港しています。倉敷より塩鮑(塩飽)迄の百五十文と初めて船賃が記されます。そして、塩飽(本島)の湊で10月11日まで長逗留しています。これは、上方への便船を待っていたようです。本島が潮待ちの湊として機能していたことがうかがえます。
ここで疑問なのは、「風が調子よく吹いてくれると玉島から坂出まで二時間半」とあり、坂出も寄港対象となっている点です。多度津・坂出は金毘羅船の帰港地として栄えていましたが、坂出がでてくるのがどうしてなのか私には分かりません。
備中松山城 城と町家と武家屋敷
高梁川の高瀬舟(高梁市)
高梁川で使っていた舟の大きさは、全長五十尺(約15m)、幅七尺(約2m)で舟底は浅いものでした。
いくら穏やかな瀬戸内海とは云え、風が吹けば波が立ちます。特に突風に会うと転覆する危険がありました。平底の川舟で波や風のある海を渡るのは、細心の注意が必要だったようです。高瀬舟の船頭たちは、遥か海上から金毘羅さんに向かって手を合わせ、航行中の安全を祈願してから船を出したと云います。そこまでして自分の船で、海を渡り金毘羅さんへの参拝することを願っていたのでしょう。金毘羅信仰の強さを感じます。
まにわブックス
旭川の高瀬舟
 高梁川は備中松山城の城下町である高梁から上流は川幅も狭くなり、落ち込みの急流もあって、危険箇所がいくつもあったようです。それが慶安三年(1650)藩主水谷勝隆が新見まで舟路を整備し安全性が増します。そのため輸送量が増えるとともに、山陰地方の人々が、新見まで出てきて、高瀬舟で瀬戸内海に出るというコースも取られるようになります。金昆羅詣りに使われた記録も残っています。
高梁川 -- 高瀬舟

 上流には難所と云われる船頭泣かせの急流もありました。そのため舟の安全航行を願って、金毘羅信仰を持つ船頭が多く、お詣りも欠かさなかったようです。彼等の間では、高梁川の支流・成羽川の流れに、薪を削って「金毘羅大権現」と墨書して投げ入れ、これを拾った者が、金毘羅さんに奉納するという風習があったようです。それでも、長い歴史の内には、高瀬舟の転覆事故が発生しています。
高梁川の上流に一基の慰霊碑が残っています。
寛政七年(1795)6月8日、新見から高梁川を下った舟が、阿哲峡の広石で転覆し、金毘羅詣りの乗客15人が溺死しています。碑には、遭難した人の出身地と名が刻まれているが、その中には、地元の人以外に、雲州(島根県)の人が6人含まれています。これらの人々は山道を歩いて、新見にやってきて、ここの舟宿の高瀬舟に乗り込んだのでしょう。定員30名の客船だったようですが、阿哲峡の難所を乗り切れなかったようです。
 高梁川の中流、総社市原には、昭和20年ごろまで、高瀬舟の造船所が残っていたようです。市原には、船大工、船元、船頭、船子たちが集落をなして住居していて、殆んどの者が室町時代からの世襲であったといいます。毎日、30隻近くの高瀬舟が荷物や船客を乗せて上り下りしていました。昭和3年10月25日に国鉄伯備線が全面開通します。高梁川沿いを走る伯備線の登場は、それまでの運輸体系を一変させます。昭和15年には高瀬舟は、その姿を消してしまいます。
高梁川高瀬舟と伯備線
伯備線の開通と高瀬舟
   
高梁川を行き交う川船の船頭達の間には、いつしか金毘羅信仰がひろがりました。そして、金毘羅参りに自分の川船を操って海を渡っていたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 妹尾勝美 高瀬舟で金毘羅参り ことひら52 H9年
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金毘羅犬2

金毘羅大権現には、江戸時代には「金毘羅狗」という代参スタイルがあったようです。これは飼い主が自分に代わって、犬に金毘羅参りをさせる「代参」です。今回は金毘羅狗(犬)について見ていこうと思います。テキストは「  豊島和子 犬の金毘羅参りをめぐって  ことひら48 H5年」です。
『金刀比羅宮崇敬史』には「金毘羅狗」のことが次のように記されています。
飼い主は「金毘羅参り」と書いた札に、自分の住所・氏名を書いて、この札と道中費用の入った財布を犬の首に結び付けて、往来に放します。東海道を上る旅人たちがこの犬を見つけると、自分の目的地まで連れて行き、その地で再び犬を放ちます。するとまた別の民衆がその犬を連れて、目的地まで連れ歩きます。

金毘羅犬5

こうして数人から十数人の手を経て、瀬戸内海を渡る金毘羅船にも乗って、犬は目的地の琴平に到着します。その間、旅人達は犬の財布から実費分のみを取り、餌を与えています。また「代参犬」を受け取る金毘羅大権現では、社僧がその財布から「初穂料」を取り、厳重に包装した「御守札」を犬の首に掛けます。帰りは行きと同じように、各地域の人たちに順送りに連れられ、犬は無事飼い主の元に戻ってくるというシステムです。
 この風俗は、特に関東地方で行われていたようで、自分では金毘羅参詣ができない民衆の篤い信仰心と、遠隔地巡礼への願望が結びついた苦肉の策とも云えます。
金毘羅信仰は近世後期には全国的な広がりを見せ、19世紀前半の文化文政の頃になると、「一升に一度の伊勢参りと金毘羅参り」と云われるようになります。関東地方の民衆は、伊勢詣と共に一生に一度の金毘羅詣を念願していたようです。

金毘羅犬6

文化十二年(一八一五)頃の奥羽の『陸奥国信夫郡・伊達郡風俗間状答』には次のように記されています。
「伊勢参宮、江戸・京・大坂・大和、近年は金比良迄、一代に一度参る。三度参る者は稀なり」

とあり、奥羽からも参詣者が少なからず金毘羅大権現を訪れていたことがうかがえます。このような金毘羅信仰の高まりを背景にして、人々は金毘羅参りの犬を見ると、仏教的にいえば功徳を積むために喜んで世話をしたのかもしれません。
 これは金毘羅参りだけでなく四国遍路の「接待」や伊勢参宮の施行などの「おもてなし」も同じかも知れません。遍路を向かえる四国の人々には、死者供養や、他の人々へ施行を行うことが自他の滅罪と説かれていました。

金毘羅犬3

『金刀比羅宮崇敬史』には、明治末期の「讃岐琴平の犬」の図が収められています。
金毘羅犬4

門前町に琴平土産の一つとして、「金毘羅狗」を記念して縫いぐるみの犬が売られていたと云います。しかし、私の記憶にはありません。

犬の代参は、金毘羅参りだけではありませんでした。伊勢参りでも行われていたようです。
お伊勢さん代参犬】江戸時代、旅が出来ない人の代わりに、犬にお金を持たせて「お伊勢参り」を頼み、  参拝をさせてお札(ふだ)をもらうことが流行りました。「おかげ犬」です : まとめ安倍速報 | 犬, 浮世絵, 旅
伊勢参り犬

群馬県北群馬郡吉岡村に残されていた『人馬継立帖』に、嘉永二年(1849)、上州勢多郡富田村の伊勢参り犬が銭350文持たされて小倉村からやって来たことが記されているようです。
文化期の戯作者、十返舎一九も『翁丸物語』(文化丁卯春刊)の発端に「代参犬」をとりあげて、伊勢国一志郡藤潟村において、
「首におびたゞしく鳥目を繋ぎ打かけたる」大神宮への参詣犬が、往来稼ぎの人足らしい四、五人の男たちにその銭を奪い取られようとしている様子を描いています。その結末は、「仁恵」深い志井源太兵衛なる郷代官の助けによって無事窮地を逃れていますが、「されやむかしも今も、犬の参宮すること其例少からず、往来の人是をたすけて、銘々散銭を貫ざしに繋ぎて、かれが首に打かけ興へ行く故に、後には数百の銭を負て通行すること粗証あり」と記しています。ここからも、文化年間以前から伊勢参り犬はいたことが分かります。
お伊勢まいりの代参犬 : あるちゅはいま日記

 津軽地方にも伊勢参り犬の記録が戸川幸夫氏の著書『イヌ・ネコ・ネズミ』に、次のように記されています。
「犬の参宮というのは、慶安三年ごろから明治の初めまで続いたお蔭参りや抜け参りに付随して起こった奇習であると聞いていたが…」あります。
文政13年(1830)の「文政度御蔭群参之図」には、「剣先祓」という伊勢神宮の大麻(お祓い札)を頭にさした伊勢参り犬の姿が描かれています。。同じ文政十三年の「お蔭参り」の情景を描いた浮世絵、「宮川渡しの図」にも伊勢参り犬が見えます。
金毘羅犬と伊勢参り犬

犬の「代参」については、次のような疑問が出てきます。
①なぜ犬が特に「代参」に選ばれたのか。
②なぜ関東以北の地方にのみ犬の「代参」が見られるのか
①②の疑問点について、『金昆羅庶民信仰資料集 年表編」には、次のように記されています。
昭和11年頃の「横浜市大倉精神文化研究所の原政男より金毘羅犬について照会あり、原氏宅には祖父母代に羽黒三山に参詣した犬がおり、この犬がのち金毘羅へも参詣したことを祖母から聞かされている、貴宮に奥州より参詣した犬の絵がある由、植木直一郎より聞かされたが、その犬がもしや生家の犬ではないかと思われる」

  一世代を30年とすればこの金毘羅犬が参拝したのは60年前のことになります。およそ幕末から明治初期の伝承のようです。驚くのはこの「代参犬」が奥州の修験道霊山である羽黒山にも代参していたことです。ここから研究者は「代参犬」は関東地方の民俗信仰と何か関わりがあるのではないだろうかと推論します。
日本の山岳信仰に動物は、重要な位置を占めています。
例えば、狐、鹿、熊、兎、狼などは神の使い(替族)とされたり、あるいは神自身がこれらの動物の姿で現れると考えられてきたことは以前にお話ししました。そのうち狼は「態野の山言葉では山の神」といわれ、また中部地方の南部では山の主とされるなど、広く各地で信仰されてきました。狼は「オオイヌ」または「オオイン」と呼ばれ、犬と同一視されることが多いようです。
三峰神社オオカミ

埼玉県秩父郡に位置する三峰山は18世紀以降、山岳宗教、修験道の道場として展開し、秩父三霊山の一つとされるようになります。

この三峰山頂にある三峰神社は、大山祗神(おおやまづみのかみ)を守護神とし、眷属を大(狼)としています。調査報告書には「神社では、山犬、狼をオイヌサマ、ゴケンゾクと呼び、山の神、神社の使い、神そのものとして扱っている」と記されます。

三峰神社の狛犬でなくオオカミ

三峰神社の鳥居と大神(おおかみ)
 三峰神社の鳥居をくぐると、狛犬のかわりに狼の石像が左右に安置されています。狼を扱った社蔵の文化財も多く、左甚五郎作と言われる「御神犬像」などが伝えられています。秩父地方に狼をお犬さまとして眷属として祀る神社は十社をくだらないようです。その中心は三峰神社です。
三峰山のお犬信仰の由来については「御替俗拝借の心得」(社務所発行)に、次のように記されています。
「当社に奉祀せる大山祗命は、伊非諾、伊非舟二尊の生み給いし山神におはしますによりて、山狼の猛気を神使とし給ふ。されば当山に於ては、往古よりこれを大口真神と崇め、御眷属と称している。火災盗難或いは鳥獣妖魅の禍等を除く為、擁護を祈る輩には神霊を御版符(とくふ)に封じ、御主神三柱の御前に祈願を軍めて、これを一ヶ年間願人に拝借せしめるのであって、日本武尊甲州より当山に越え給いし時、狼其の道案内申上げたと言ふ神話にもある程に古より伝はり、霊験の顕著なることは、普く世に知られた処である」
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 三峰山と狼とのつながりを、神社側では古代神話の時代にまでさかのぼらせています。これに対して研究者は「果たしてそうなのかどうか、大いに疑間である。むしろ三峰山の山の神の化身、あるいは眷属神としての狼の性格を神格化している」と指摘します。

狼-7 お札になったオオカミ

三峰神社の狼の神札の由来については、次のように伝えられています。
享保十二年(1727)9月13日三峰山主日光法師が山上の庵室に静座中、どこからともなく狼の大群が現れたため、深く心に感づるところあり、狼の神札を信者に分けたとあります。ここからはお犬信仰が近世中期頃から始まったことが分かります。
三峯神社 【日本武尊・御眷属様(オオカミ)】 ~ 秩父遊歩

 信者はお犬の神札を三峰山から拝借し、これを竹にはさんで田畑に立て、害虫駆除としたり、家の戸口や土蔵の入口に貼って盗難・火難除けとしたようです。この布教方法を展開したのは修験山伏たちです。彼らの手によってお犬信仰は、関東を中心に中部から東北地方まで拡められ、各地に三峰講が結成され、代参か盛んに行われるようになったようです。
奥秩父で目撃情報 ニホンオオカミは生きている 幻のニホンオオカミを追って…その1  ゴールデンウィークの1日,開通したばかりの国道140号線「雁坂トンネル」を通って,奥秩父にある三峰神社に出かけた。秩父から雲取山へと続く三峰山の山頂に鎮座し  ...

昭和41年調査の秩父宮記念三峰山博物館資料には、県別講社数は埼玉、茨城、千葉などの関東を中心に、東北、北海道から畿内の滋賀まで分布しています。三峰信仰の拡大がうかがえると同時に、そのエリアが江戸よりも北に偏っていることを押さえておきます。関東以北に見られた犬の「代参」は、三峰信仰の勢力圏と重なり合います。両者には、何らかのつながりがあったようです。
 三峰信仰が広がったエリアでは、犬の参詣というスタイル自体に、何ら不思議な感覚はなかったでしょう。むしろ「神の遊幸」と自然に受けいれられたのではないでしょうか。そこに「お蔭参り」や「ええじやないか」などの風潮が高まると、三峰のお犬さまが代参として金毘羅や伊勢などのはるか遠くの巡礼・参詣霊場へ向かうことになったのではないかと研究者は考えているようです。

   以上をまとめておくと
①江戸時代後期には、犬による代参が伊勢参りや金比羅参りで行われるようになった
②金毘羅犬の出身地をみると江戸以北に限定されている
③これはオオカミをお犬として信仰する埼玉県秩父の三峰神社の布教活動と関係がある。
④三峰神社のお犬信仰は修験山伏により関東から東北にまでひろがった。
⑤三峰神社のお犬信仰圏の信者にとって、お犬様が聖地に巡礼するということは自然に受けいれられ、「お蔭参り」や「ええじやないか」などの抜け参りの風潮を追い風にして広まった。
このため近世後期には、金比羅参りにやってくる金比羅犬の姿が浮世絵などにも描かれることになったようです。この「金毘羅狗」も、鉄道が整備される頃には廃れていったようです。犬は汽車には乗れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
豊島 和子  犬の金毘羅参りをめぐって   ことひら48 H5年

       
3根室金刀比羅宮 地図

コロナ流行の前に北海道・道東の木道廻りと称して、岬の先端や砂州の背後の湿地に設けられた木道をいくつか歩いて廻りました。その時に、気づいたのが金比羅神社が道東の各漁村に鎮座していることです。特に根室半島周辺には、濃厚な分布度合いを感じました。どうして、道東にはこんなに金毘羅さんが鎮座しているのだろうかという疑問が沸いてきました。
そのような中で出会ったのが「真鍋充親   根室金刀比羅神社の建立由来と高田屋嘉兵衛について  こんぴら所収」です。これをテキストに、根室周辺の金毘羅さんを見ていくことします。
3根室金刀比羅宮
根室の金刀比羅神社

根室に一泊し、早朝に根室港の高台に立つ金刀比羅神社を訪ねます。
広い神域を持ち、近代的な社伝を持つ立派な神社です。展望台からは、港が眼下に広がり、海が見えます。そして、そこには大きなる展望台高田屋嘉兵衛の銅像がオホーツク海を見つめて立っています。高田屋嘉兵衛とこの神社は深いつながりがあるようです。

3根室金刀比羅宮 高田屋嘉兵衛PG

この神社の由緒については「金刀比羅神社御創祀百八十年記念誌」や「参拝の栞」に次のような年表が載せられています。
宝暦四年(1754)納沙布航路開かれ、根室に運上屋を置く
安永三年(1774)飛騨屋久兵衛、根室場所請負う
天明六年(1786)最上徳内・千島を探検
寛政四年(1792)露使節ラックスマン根室に来航し、通商を求む
寛政十年(1798)近藤守重が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
寛政十一年(1799)高田屋嘉兵衛が択捉航路を開く。幕府東蝦夷地を直轄す。
 文化三年(1806)高田屋嘉兵衛、根室に金刀比羅神社を創祀
文化八年(1811) 露艦長ゴロウニンを国後で捕える。高田屋嘉兵衛送還され、ゴロウニンの 釈放に尽力、九月解決す。
天保八年(1837) 藤野家にて金比羅神社を祭祀す。
天保九年(1838) 社殿改築。
天保十年(1839) 山田文右衛門漁場請負。
弘化元年(1844) 浜田屋兵四郎、白鳥宇兵衛漁場請負う。
嘉永二年(1849) 藤野嘉兵衛再び漁場を請負い社殿修築す。松浦武四郎択捉島を探険 石燈龍奉納(納者柏屋船中藤野屋支配人)
安政元年(1854) 日露和親条約締結
明治二年(1869) 蝦夷を北海道と改称。開択使役所設置する。
明治五年(1872) 根室病院創設。温根沼に渡船場開設。
明治六年(1874) 根室本町へ遷宮
明治九年     咲花小学校開校。
明治十年     西南戦争勃発。根室一円の氏神として崇敬。
明治十一年    根室、函館聞の定期航路開設。
 明治十四年  琴平丘新社殿に遷宮。社格が御社。
明治十五年  開拓使を廃して、根室、函館、札幌県をおく。
明治十九年  本殿新築。拝殿修管。
大正七年   県社に昇格
大正十年   鉄道開通、国鉄根室駅開業。
 
 この年表には、根室金刀比羅神社の創建は文化3年(1806)のこととされています。この年に高田屋嘉兵衛が漁場請負権を得た際に、海上安全・漁業、産業の振興などを祈願して、祠宇を今の松ヶ枝町に建立し、金刀比羅大神を奉斉したとあります。
しかし、当時は神仏混交で金比羅さんは「金毘羅大権現」で権現さんです。金刀比羅というのは、明治以後の神仏分離後に使われるようになった用語です。ここでは金毘羅大権現としておきます。明治十四年に「琴平丘新社殿に遷宮」とあるので、それ以前は別の所に鎮座していたようです。高田屋嘉兵衛が創建したときの祠はどこにあったのでしょうか?

 高田屋嘉兵衛が根室にやって来た当時は、根室や国後、択捉島海域は北方漁業の宝庫として着目され始めた時でした。同時に、ロシア国との間に北辺緊急を告げていた時でもあったことは司馬遼太郎の「菜の花の丘」に詳しく描かれています。
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幕府は根室を直轄して、その開発と警備に当ったることにします。そして幕命により漁場を請負った高田屋嘉兵衛は、北方海域における航路の開拓と、漁業振興に心血を注ぎ、その安泰と繁栄を祈り、祠宇を建て金毘羅大権現を勧進したようです。そして、又弁天島(旧大黒島)には市杵島神社を建立したと記されます。もともと弁天島はアイヌの聖地であり、信仰を集める島でもあったようです。
3根室金刀比羅宮6
港の沖の弁天島(旧大黒島)に鎮座する市杵島神社
 
安政元年(1854)村垣範正が残した東蝦夷の巡視日記には、次のように記されます。
「弁天社及び金毘羅大権現は、文化三年高田屋嘉兵衛、当場所請負を命ぜられ、漁業満足祈願のため、社殿を箱館に於て切組み、当地に着するや、直ちに建立せしものなり」

とあります。建立当時の社殿は函館で材木が整えられて、船で根室まで運ばれて、組み立てられたようです。
 高田屋嘉兵衛によって建てられた金毘羅大権現の祠は、どのように引き継がれていったのでしょうか。
年表には「天保八年(1837) 藤野家にて金比羅神社を祭祀す。」とあります。高田屋嘉兵衛の後を受けて、漁場請負権を得たのが藤野嘉兵衛です。彼が高田屋嘉兵衛が約30年前に創建した社殿改築を行ったようです。極寒の地なので、30年毎位で改築する必要があったことがうかがえます。改築の翌年・天保10年には、藤野嘉兵衛は肴場請負を山田文右衛門に譲り、根室を去っています。
3根室金刀比羅宮syuinn 3

年表にはありませんが、明治3年の文書には、次のように記されています。
「明治三年四月に、藤野家の根室人である蛯子源之助及び妻ハツの両氏は、信仰篤く、数年の立願を以て、黄金三十八両を献じて、讃岐に於て、御神像を奉製し、金刀比羅宮にて入魂式典を執行し、藤野家の手船「宗古丸」に奉乗して、同年五月本殿に奉鎮する」

 ここからは廻船業を営む藤野家の一族で根室に住む蛯子源之助とその妻ハツが讃岐の金刀比羅宮に参拝し、そこで「神像」を作り、自社の手船に載せて持ち帰えり、社殿に祀ったことが分かります。幕末から明治初期には廻船業者などの富裕な信者によって、社殿が維持されていたようです。
3根室金刀比羅宮 高田屋嘉兵衛2PG
高田屋嘉兵衛(根室金刀比羅神社蔵)

  高田屋嘉兵衛については「百八十周年記念祭記念誌」に、次のように記されます。
「高田屋嘉兵衛(1769~1827) 
明和六年淡路国都志本村に生まれる。兵庫に出て水主となり、苦労の末、寛政八年辰悦丸を新造し。船持船頭となる。その後北方漁場の重要さに着目し、函館に進出し、遂に幕府の信用を得て、蝦夷地御用船頭となり、文化二年(1805)には根室漁場を請負い、その卓越した識見と、商魂を以て、当地方の漁業振興に力を尽した。
 文化九年(1812)択捉島よりの帰途、国後島泊沖で露艦ディアナ号に捕えられ、カムチャツカへ連行され、幽囚の身となるも、常に日本の外交に心を尽し、露国の信用を得て、当時日露間の大きな問題となっていた、ゴローニン釈放等に奔走し、協定成立に努力す。
 文政元年家業を弟に譲り、淡路に隠退。文政十年病歿、享年五十九才。彼は当神社を創始した信仰深い人であったばかりでなく、北方漁業開発の偉大な商人でもあり、根室の礎を築いた功労者でもあった。」
高田屋嘉兵衛は、地元では「北方漁業開発の偉大な商人でもあり、根室の礎を築いた功労者」としてリスペクトされているようです。この神社に彼の銅像があるのが納得できます。
高田屋嘉兵衛の銅像建立趣意書も見ておきましょう
 この地方の開拓には、まことに多くの人々の尽力があった。然し高田屋嘉兵衛が活躍した当時は、鎖国と封建制の厳しい体制下であり、露国の南下、原住民とのあつれきが続いた厳しい時でもある。
遠隔寒冷の未知の北海に帆船を進めての開拓は、嘉兵衛の高邁な勇気と才覚、練達せる航海技術に加えるに徳実で誠実溢れる人柄、開拓にかける大きな使命感と責任感がこれをなさしめたものといえる。
 択捉島航路の開拓と産業開発に就て見ると、宝暦二年(1754)から寛政年間にかけて、北海道周辺は、外国船の出没が続き、また原住民の和人襲撃騒動などがあり、幕府としてその対策に努力している。そして寛政十年、幕府は180名からなる巡察隊を二手に分けて派遣したのもその一策といえる。
 根室、国後、択捉島に渡って「大日本恵登呂府」の標柱を建て、更めて旧来の領土である事を宣言した。露国勢力は度々択捉島に迫り、我が国としては、同島を「日本領土」として明示する事は急を要していた。然しそこには一つの大きな障害があった。それは国後島と択捉島との間に流れる海峡であった。この海は「魔の水道」と呼ばれ、濃霧に覆われる事多く、潮流は荒れ狂い、原住
民の小舟は度々遭難し、その為に開拓に必要な人員や物資の大量輸送は不可能になった。
 寛政十一年函館に進出した嘉兵衛は「蝦夷地御用船頭」を命ぜられ、根室、国後島、厚岸で交易を始めていた。前年択捉島を調査した近藤重蔵は、嘉兵衛の優れた航海術に着目し、厚岸に於て嘉兵衛に会い、状勢の緊迫と、択捉島開拓の緊急を説き、大型船による択捉島航路の開拓を要請した。嘉兵衛は快くこれを承諾し、重蔵と共に、根室から国後島に渡り、同島のアトイヤ岬から、潮の流れを観察し、苦心の結果、三筋の海流が、狭い海峡で一筋となり、択捉島ベルタルベの突端に激突する事をつきとめ、安全な航路を見究め、自ら約十屯の宜温丸を操船し渡海に成功したのであった。
同島に上陸した彼は、詳に調査し、国後島に待つ近藤重蔵に報告した。この安全な航路の開拓は、幕府のその後の同島警備と開発に大きな進展を見せたぱかりでなく、高田屋の事業発展にも大きく連なっていった。
 択捉島航路開拓に成功した嘉兵衛は、幕府直轄制下にも拘らず、択捉島場所請負を命ぜられた。
翌寛政十二年三月、手船「辰悦丸」他五隻の船に、米、塩、衣類等をはじめ、漁場開設に必要な漁具、漁網、建築資材、大工労働者、更に医者、医療具を乗せ、幕吏近藤重蔵外数十人と共に、択捉島に渡り、上陸した彼は、海岸各地を調べて、十七ヶ所に漁場を設け、原住民達に漁具を与えて、日本式漁法を教え、その漁獲量に応じて生活に必要な物資を与えたので、彼等の生活水準は上り、渡島当初八百余人だった原住民の人口は、時と共に増え、。噂を聞いて渡島してきた者を合せると千二百人にもなった。
 嘉兵衛の下に、喜んで稼動し、それまでは日露両国の勢力の狭間に置かれていた原住民の不安と苦悩は消え、日本国民としての自覚を持つ様になった。原住民達も、日本式漁法に慣れるに従い漁狭量も飛躍的に上昇した。主なる商いは海産物であり、海獣皮、熊皮、狐皮、鳥羽などがあげられた。享和三年(1803)のサケ、マスの漁獲量は一万八千石に上り、内七千五百石は塩蔵、他は魚粕、魚油として内地に運送した。殊に魚粕は肥料として増産に寄与した。
 択捉島開拓は当初露国勢力の千島列島南下に対抗する最前線基地として、警備と原住民の撫育に重点がおかれたが、嘉兵衛の活躍によりその目的は達せられ、更に同島の豊富な資源の開発は、高田屋の事業を進展させ、幕府の財政に大きく寄与する事となり、根室や函館のその後の発展にも連なった。

  これを小説化したのが「菜の花の沖」なのでしょう。
そして根室の金刀比羅宮は、県社として周辺漁港に分社・勧進されていきます。根室周辺に金毘羅社が多いのは、この神社の「布教活動」の成果でもあるようです。
3 納沙布金毘羅大権現 4
納沙布岬の金刀比羅神社
そして、敗戦までは根室は「最果ての港」と云うよりも、千島列島の島々への拠点港として機能します。そのため北方領土の島々にも、金比羅神社を始め多くの神社が分社・勧進されることになります。敗戦時には次のような神社が鎮座していたようです。
 国後島 近布内神社
  り  老登山神社
 志発島 東前金刀比羅神社
  り  稲荷神社
 水晶島 金刀比羅神社
 多楽島 金刀比羅神社
     市杵島神社
     大海龍王神社
 色丹島 色丹神社
 これらの神社の御神体は敗戦後は、根室の金刀比羅神社に祀られているようです。
3根室金刀比羅宮2

以上をまとめておくと
①高田屋嘉兵衛によって根室に金毘羅大権現が勧進された
②その後、金毘羅大権現は根室の氏神様として信仰を集めるようになった。
③そして明治以後には、金刀比羅宮が周辺漁村へも勧進されるようになった。
④千島列島の島々にもかつては金刀比羅宮が勧進され祀られていた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献

    「真鍋充親   根室金刀比羅神社の建立由来と高田屋嘉兵衛について  こんぴら所収」

 
土佐湾は九十九洋(つくもなだ)とも呼ばれ、数多くの漁業資源を昔から人々に提供してきました。その中でも「いうたちいかんちゃ おらんくの池にや、潮吹く魚がおよぎよる、ヨサコイ、ヨサコイ」とヨサコイ節で歌われているように、昔から鯨の回游エリアでもありました。土佐西部の足摺半島には「鯨野郷」という古代村落があったようで、沖合いにやって来る鯨からこの地名がつけられたのでしょう。

2土佐捕鯨1

 天正十九(1519)年、秀吉に仕えることになった長宗我部元親は、浦戸湾内に入り込んできた大きな鯨を、そのままの状態で、関白豊臣秀吉のもとに贈り、大阪の人びとを大いに驚かせたと『土佐物語』では伝えています。派手で人々を驚かすことが好きだった秀吉も喜んだことでしょう。秀吉の目指す「劇場都市国家」作りを、長宗我部元親は理解していたようです。
 今回は土佐の捕鯨と金毘羅信仰を探って見ることにします
以前に、土佐の捕鯨に関わる人たちが讃岐の金毘羅大権現の石段整備に寄進をしていることを見ましたが、今回は土佐側の背景を見ていこうと思います。テキストは
「広谷 喜十郎 土佐の古式捕鯨と金毘羅信仰 ことひら49号」です。
 
土佐の古式捕鯨は、寛永初(1624)年に安芸郡津呂浦の庄屋多田五郎右衛門が捕鯨組をつくり、藩庁の許可を得たときからはじまるとされるようです。五郎右衛門は、そのために紀州の熊野灘でおこなわれていた突取り式の捕鯨技術を習い受けています。そして鯨船十三艘を作って、室戸方面の沿岸で捕鯨をはじめます。創業5年目の寛永五年には、200人ほどの鯨取り漁師を養えるようになったようです。順調な滑り出しだったようです。
2土佐捕鯨3
 ところが次第に鯨がやってこなくなったことや技術力不足のために捕獲量が少なくなり、寛永十八(1641)年には捕鯨中止に追い込まれます。
それから10年後の慶安四(1651)年に、家老野中兼山は、他国の捕鯨団を招き捕鯨再開を計ります。

2土佐捕鯨 津呂港

野中兼山は室戸岬の先端近くに津呂の港を開きます。この港は室津港と同じく、掘り込み港です。港口を塞ぐように3つの大きな岩が海中にあったのを、『張扇式の堤』により取り囲み、中の海水を抜いてから大鉄槌やのみで砕いたと伝えられています。今、見ても雰囲気のある港で、非常に印象的でした。これは土佐から畿内方面への航路上で風待ちする港として重要な機能を持つようになります。同時に、新たに作られた港を捕鯨の拠点とするために、他国から捕鯨集団を招聘したようです。
 その時に六艘の船団を率いて、やって来たのが尾張国の尾池四郎右衛門です。彼は、室戸岬の安芸郡浮津浦と足摺岬の幡多郡佐賀浦の2ヶ所で捕鯨をはじめ、佐賀浦の沖で13頭の鯨を捕獲しています。それを記念した鰐口が作られて、佐賀浦の鹿島神社、室戸市の八王子宮や南国市の伊都多神社に奉納されています。しかし、これも長続きはしなかったようです。6年後の明暦三(1657)年には、尾池組は故郷・尾張に引き上げています。
 突取り法は、鈷だけにたよるきわめて原始的な捕獲法だったために捕獲量が上がらなかったようです。
このような中で、先進地の紀州では網で鯨を捕らえる方法が開発されます。新たに開発された網取捕鯨を学ぶために紀州に渡り、それを土佐に持ち帰り操業が開始されるのが天和三(1681)年のことです。この網による捕鯨方法の採用によって、土佐の捕鯨業は軌道に乗っていくようです。そして、津呂港(現室戸岬港)を拠点にふたつのグループが操業を行うようになります。
①津呂組 多田吉左衛門  →  奥宮氏
②浮津組 宮地武右衛門
が経営に当たり、以後、土佐での捕鯨は東の室戸方面、西の幡多郡窪津浦を基地として展開されていきます。

 津呂組は元禄六年から正徳二年の20年間に412頭を捕獲しています。年平均にすると20頭前後の捕獲になります。また、天保八(1839)年には、浮津組の宮地家が捕獲した鯨が千頭になったので、鯨を供養するために大きな位牌と梵鐘をつくり慰霊しています。

2土佐捕鯨 鯨位牌

それが宮地家の菩提寺である浮津の中道寺には、今も残っているようです。位牌は高さ約60㎝と大型で、「南無妙法蓮華経鯨魚供養」と大書されています。
2土佐捕鯨 鯨位牌2

室戸の発展の原点は津呂港にあるようです。
津呂に港が出来る前は、人家のまばらな寂しいところだったようです。近世になって、ここに港ができ捕鯨を中心とした漁業が盛んになるにつれて人家も増えます。二代藩主忠義が最蔵坊に津呂の港を掘ることを命じ、津呂権現の宮(王子宮)と屋敷を与え、津呂沖を往来する船の安全を祈願するように命じたとも伝わっているようです。
2土佐捕鯨4

古式捕鯨のスタイルについて
捕鯨組の当初は
勢子船十二艘
網船四艘
持双船二艘
市艇二艘の計二十艘で一団を構成していました。
後に網船十三艘、勢子船十五艘へと船を増やしています。

2土佐捕鯨 勢子船4
勢子船

勢子船一艘分に十二人、網船八人、持双船に約十人の乗組員が必要でしたので、全体では300余りの漁民たちが、海上で游泳している鯨を取り囲み、激闘を繰り広げたことになります。
 それだけではありません。何よりも鯨を発見し、知らせる「早期警戒システム」が必要になります。そのためには山見小屋に見張番を常駐させておかなければなりません。
2土佐捕鯨 山見小屋4
山見小屋

鯨発見の「しるし旗」が揚がると一斉に動き出せるように待機しておく必要もあります。沖合いの捕鯨船の合図に応え、沿岸にいて鯨納屋に連絡する人びと、陸上げされた鯨を解体する人びと、鯨納屋で鯨肉を取引きする人びとなどを数えると、大変な数の人びとが捕鯨業に参加していたようです。
2土佐捕鯨 鯨解体3

鯨肉の入札には、商札を持つ商人だけが参加できたようです
多い時には商札が177枚が発行されています。数多くの商人の参加があったようです。鯨肉や皮はそのまま塩漬されて大阪市場へ送られました。その運送船が「鯨五十集」といわれる船でした。
 「鯨一頭捕獲すれば七浦が賑わう」
といわれていたように、鯨肉は食用に、鯨油は灯火用や農薬用として利用価値があり、骨は細工物に、骨粕と鯨の血は肥料用に利用されてきました。骨粕は砂糖キビ畑の肥料として、九州方面に売られていたこともあったようです。

2土佐捕鯨 鯨解体4

 鯨は経済的に非常に高い価値をもっていました。

しかし、沖合いを泳ぐ鯨は捕まえることはできません。ただ沿岸に近づいた鯨を、網代に追い込んで捕獲するだけでした。それも百発百中というわけにはいかなかったようです。捕鯨人には、給与として米と酒は充分に支給されていたようです。そのため
「酒は水なり、米は砂と思え」

と、捕鯨人たちは鯨を捕獲したといえばすぐに宴席を設けて祝い、不漁といえば酒宴を張って景気づけをしています。彼らにとっては酒は欠かすことのできないものであったようです。
 特に不漁時の「神さまや仏だのみ」は欠かすことのできない重要な行事だったのです。まさに神頼みしかなく、捕鯨従事者は信心深い人びとにならざる得なかったのかもしれません。

室戸市にある土佐捕鯨創始者の多田家の墓地には、地蔵さまの形をした大きな墓が七基あります。
これは鯨供養の意味を込めてつくられたようです。また、鯨供養のためにつくられた地蔵が、もうひとつの捕鯨基地であった足摺岬の幡多郡窪津浦の海蔵院にもあります。
海蔵院の「鯨供養地蔵」
ここには
「へんろみち 文化九(1812)壬申 津呂組 為鯨供養也 施主鯨方当本 奥宮正敬立之」

と刻まれています。室戸の網元奥宮三九郎正敬が建てたことが分かります。奥宮家は、季節を変えて室戸と足摺の二つのエリアで操業していたようです。この窪津の鯨納屋のあった場所には、現在でも豊漁を祈願するための戎神社があります。その石灯龍には
「文化六(1809)己巳春建之 鯨場所中常夜燈 鯨方当本 元村住奥宮三九郎正敬
 
「法界萬霊 土州安喜郡元村住 施主奥宮三九郎正敬 文化十発酉年(1813)十一月吉日」

と刻まれています。窪津浦には、この他にもいくつかの常夜燈が捕鯨関係者によって寄進されているようです。これ以外にも
①文政十五(1832)年に奥宮三九郎は大きな石灯龍二基を寄進
②文政九(1826)年には安芸郡浮津浦商人の谷伴蔵が世話人になり、室津浦や浮津浦の鯨方商人の数人と共に琴平宮の手洗鉢を奉納。

窪津の戒神社脇の「法界萬霊地蔵」文化10(1813年)に奥宮正敬氏建立。

このように室戸の捕鯨網元奥宮正敬は、土佐の室戸や足摺の捕鯨エリアに鯨供養の灯籠などをいくつも寄進していることが分かります。
このような彼の寄進活動の一環が金毘羅さんへの石段整備だったのかもしれません。
四段坂の石段整備の石碑には下のように彼の名前が残されています。 

5 敷石四段坂55

この四段坂の銘文に見える宮地十太夫元貞と奥宮三九郎正敬は、二人だけで三段目の石段を全て奉納しています。それは文化8(1811)年のことです。こうしてみると、奥宮正敬は灯籠などを毎年のように、室戸か足摺か金毘羅さんに奉納していたことになります。土佐の捕鯨網元の信仰心の厚さを感じます。

参考文献「広谷喜十郎 土佐の古式捕鯨と金毘羅信仰 
ことひら49号」

 江戸時代も半ば以後になって、金毘羅の名が世間に広がると、各地で金毘羅の贋開帳が行なわれるようになります。紛らわしい本尊を祀り、札守や縁起の刷物などを売り出す者が次々と現れます。別当金光院は、高松藩を通じてその地の領主にかけ合って、すぐ中止させるように働きかけています。しかし、焼け石に水状態だったようです。そこで宝暦十年(1763)には「日本一社」の綸旨をいただきますが、それでも決定的な防止策にはならず贋開帳は止まなかったようです。

DSC01156日本一社綸旨
金毘羅大権現「日本一社」の綸旨

 贋開帳を行っていたのは、どんな人たちなのでしょうか。
多くは修験系統の寺院や行者だったようです。
「金刀比羅宮史料」から贋開帳を年代順に見てみましょう。
①明暦2年、讃岐丸亀の長寿院という山伏が、長門(現山口県)で象頭山の名を馳ったので、吟味のうえ、以後こういうことはしないという神文を納めさせた。
②享保6年4月、江戸谷中の修験長久院で、金毘羅飯綱不動と云って開帳したので、高松藩江戸屋敷へ願い出、御添使者から寺社奉行へ願い出て停止させた。
③寛保2年11月、伊予温泉郡吉田村の修験大谷山不動院で、金毘羅の贋開帳。
④天保6年10月、阿波州津村箸蔵寺が、金毘羅のすぐ隣りの苗田村長法寺で、平家の赤旗など持ち込み、剣山大権現並びに金毘羅大権現といって開帳。11月には、箸蔵寺で金毘羅蔵谷出現奥の院といって開帳した。翌7年6月、箸蔵に出向いて調べた使者の報告では、神体は岩屋で、別に神像はなかったとのこと。
⑤同15年、箸蔵寺で贋神号事件が再度発生、
弘化2年4月、贋縁起札守版木など、郡代役所から引渡され、一応落着。嘉永4年、箸蔵寺、再度贋開帳。
⑥安政4年、備後尾道の修験仙良院、浮御堂において開帳、札守を出したので、同所役人に掛合い、金毘羅の神号の付いたもの一切を受取り、以前の通り神変大菩薩と改めさせた。
⑦安政5年4月、京都湛町大宮修験妙蔵院、京都丸亀屋敷の金毘羅へ毎月十日、諸人が参詣の節、開帳札のよりなものを指出す由の注進があった。
⑧同年十月。泉州堺の修験清寿院で開帳、同所役に掛合い、神体、札守の版木など、早速に引渡される。
贋開帳事件の中でも、箸蔵寺は執拗で事件が長期にわたったようです。
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箸蔵寺山門
箸蔵寺がはじめて金毘羅へ挨拶に来たのは、宝暦12(1762)年のことです。
「箸蔵寺縁起」は、それから間もない明和6(1769)年に、高野山の霊瑞によって作られています。
「当山は弘法大師金毘羅権現と御契約の地にして」
「吾は此巌窟に跡を垂る宮毘羅大将にして北東象頭の山へ日夜春属と共に往来せり」
 ここでは、空海が金毘羅さんの奥社として箸蔵山を開いたとします。そして、金比羅神は箸蔵寺から象頭山へ毎日通っていると縁起では説くのです。
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箸蔵寺山門
  箸蔵寺については、本尊薬師如来の信仰が古くからあったこと、江戸初期には多少の土地が安堵されていたことより外、ほとんど分かっていないようです。しかし、「状況証拠」としては、周辺には数多くの修験者がいて、近世後半になって台頭する典型的な山伏寺のようです。成長戦略に、隆盛を極めつつあった金毘羅大権現にあやかって寺勢拡大を計ろうとする意図が最初からあったようです。箸蔵寺は、次のような広報戦略を展開します。
「こんぴらさんだけお参りするのでは効能は半減」
「こんぴらさんの奥社の箸蔵」
「金比羅・箸蔵両参り」
 そして、10月10日の金毘羅祭に使われた膳部の箸が、その晩のうちに箸蔵寺へ運ばれて行くという話などを広げていきます。それに伴って人々の間に「箸蔵寺は金毘羅奥の院」という俗信仰は拡大します。

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 箸蔵寺山門の大草鞋
 そして先に見た通り箸蔵寺は、金毘羅大権現の贋開帳を行うようになります。そのため何度も本家のこんぴらさんに訴えられます。その都度、藩からの指導を受けています。記録に残っているだけでも贋開帳事件の責任をとって、院主が二度も追放されています。しかし、それでも贋開帳事件は続発します。嘉永二年には、箸蔵の大秀という修験者が、多度津で銅鳥居の勧進を行っていた所を多度津藩によって、召捕えられています。
 このような「箸蔵=金毘羅さん奥の院」説を広げたのも箸蔵寺の修験者たちだったようです。それだけ多くの山伏たちが箸蔵寺の傘下にはいたことがうかがえます。

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箸蔵寺参道に現れた天狗(山伏)
財田町史には、箸蔵の修験者たちが山伏寺を財田各地に開き布教活動を行っていたことが報告されています。彼らは財田から二軒茶屋を越えての箸蔵街道の整備や丁石設置も行っていたようです。
讃岐の信徒を箸蔵寺に先達として信者を連れてくるばかりでなく、地域に定着して里寺(山伏寺)の住職になっていく山伏もいたようです。このような修験者(山伏)は、金毘羅さん周辺にもたくさんいたのでしょう。彼らは象頭山で修行し、金比羅行者として全国に散らばり金毘羅信仰を広げる役割を果たしたのではないかと私は考えています。 
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箸蔵寺本堂
贋開帳を行う人たちに、なぜ修験者が多かったのでしょうか?
まず考えられることは、金毘羅神が異国から飛来した神と伝えられたことにあるようです。
金比羅神は天竺から飛来した神であり、象頭山の神窟に鎮座し、その形儀は修験者であり、権現の化身であると説かれました。金比羅神が、どのような姿で祀られていたのかを、3つの記録で比べてみましょう
 ①天和二年の岡西惟中「一時軒随筆」
金毘羅は.もと天竺の神 飛来して此山に住給ふ 釈迦説法の守護神也。形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也 巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也 本地は不動明王也とぞ 二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也
意訳すると
金比羅神は、もとは天竺インドの神である。飛来して、この山に住むようになった。釈迦説法の守護神で、形は頭に頭巾をつけ、左手に数珠、右手に檜扇を持つ。頭巾は五智宝冠と同じで、数珠は羂索、扇は剣を意味し、本地物は不動明王とされる。伎楽、伎芸という二人の脇士を従える。これは金比羅と勢陀伽権現の化身である。
 
「一時軒随筆」の作者である岡西惟中は、談林派の俳人として名高い人物です。彼は、この記事を当時の別当金光院住職宥栄から直接聞いた話であると断っています。それから150年経った時期に、金光院の当局者が残した「金毘羅一山御規則書」にも、まったく同じことが記されていることが分かります。
②延享年間成立の増田休意「翁躯夜話」
 象頭山(中略)此山奉二金毘羅神(中略)
此神自二摩詞陀国一飛来、降二臨此山釈尊出世之時為レ守二護仏法‘同出二現于天竺(中略)
而釈尊入涅槃之後分二取仏舎利 以来ニ此土 現在二此山霊窟矣 頭上戴勝、五智宝冠也(中略)
左手持二念珠縛索也、右手執一笏子利剣也 本地不動明王之応化、金剛手菩薩之工堡 左右廼名一及楽伎芸 金伽羅制哩迦也
②の「翁躯夜話」は、高松藩主松平頼恭によって「讃州府志」の名を与えられたほどですから、信用は高い書物とされます。これらの2つの資料が一致して
「生身は岩窟に鎮座ましまし、御神鉢は頭巾を頂き、珠数と檜扇を持ち、脇士に伎楽・伎芸がいる」
と記します。
  ③「金毘羅一山御規則書」

抑当山金毘羅大権現者、往古月支国より飛来したまひて
(中略)
釈迦如来説法の時は西天に出現して於王舎城仏法を守護し給ふ(中略)其後仏舎利を持して本朝に来臨し給ふ 生身は山の岫石窟の中に御座まし(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 優婆塞形也 但今時之山伏のことく 持物者 左之手二念珠 右之手二檜扇を持し給ふ 左手之念珠ハ索 右之手之檜扇ハ剣卜中習し侯権現御本地ハ 不動明王
 権現之左右二両児有伎楽伎芸と云也伎楽 今伽羅童子伎芸制吐迦童子と申伝侯也 権現自木像を彫み給ふと云々今内陣の神鉢是也
 意訳変換しておくと
そもそも当山の金毘羅大権現は、往古に月支国より飛来したもので(中略)釈迦如来説法の時には西天に出現して、王舎城で仏法を守護していた。(中略)
その後に仏舎利を持って、本朝にやってきて生身は山の石窟の中に鎮座した。(下略)
「象頭山志調中之翁書」
 その姿は優婆塞の形である。今の山伏のように、持物は左手に念珠、右手に檜扇を持っている。左手の念珠は索、右手の檜扇は剣と伝えられ、権現の御本地は不動明王である。
 権現の左右には、両児がいて伎楽と伎芸と云う。伎楽は伽羅童子、伎芸は吐迦童子と伝えられる。権現は自から木像を彫み作られた云われ、今は内陣の神鉢として安置されている。

3つの史料からは、金毘羅大権現に祀られていた金毘羅神は、役行者像や蔵王権現とよく似た修験の神の姿をしていたことが分かります。また「飛来した神」ということからも、飛行する天狗が連想されます
 各地の修験者たちにとって、このような金毘羅神の姿は「親近感」のある「習合」しやすい神であったようです。それが、数多くの贋開帳を招く原因となったと研究者は考えています。
 どちらにしても、金比羅神を新たに創り出した象頭山の修験者たちは、孤立した存在ではありませんでした。当時の修験者ネットワークの讃岐の拠点のひとつが象頭山で、そこにインドから飛来してきたという流行神である金比羅神を「創造」し、宥盛の手彫りの像と「習合」したようです。

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箸蔵寺本堂に掲げられた天狗絵馬
 その成功を見た山伏ネットワーク上の同業者たちが、それを金毘羅さんの「奥社」とか「両参り」を広告戦略として、その一端に連なろうとします。当然のように、贋開帳もおきます。また別の形としては讃岐の金比羅神を地元に勧進し、金毘羅大権現の分社を作り出していく動きとなったようです。全国に広がる金比羅神が海に関係のない山の中まで広がっているのは、山伏ネットワークを通じての金比羅行者の布教活動の成果のようです。「海の守り神 こんぴらさん」というイメージが定着するのは19世紀になってからです。それまでの金毘羅山は全国の修験道者からは、山伏の運営する天狗信仰の山という目で見られていたと研究者は考えています。
参考文献 松原秀明 金毘羅信仰と修験道


 金刀比羅宮は、明治まで神仏習合の金毘羅大権現のお山で修験道の山岳寺院としてスタートした由来があります。そのため本宮は、標高524㍍の象頭山中腹に鎮座しますので、そこまで登らなければなりません。そこで整備されたのが石段です。
こんぴらさん」の本当の魅力は、長い長い石段を登らないと分からない ...
 金刀比羅宮の石段は、旅館がつづく内町一ノ坂口から大門、大門から本宮、さらには樟やカゴノキ・樫などの常緑樹のに繁る森の間を登り、象頭山8合目に建つ奥社まで続きます。
それぞれの段数は
 内町から大門まで   三六五段
 大門から御本宮まで  四二一段
 御本宮から奥社まで  五八二段
で、合計は1368段になります。以上は上りの参道ですが、本宮から三穂津姫社にまわり旭社に下る下向道も石段です。
  三穂津姫社から旭社までの下向道 一六三段
    旭社の前            九段
以上計1540段の石段は、すべて信者からの奉納です。この中で、重要有形民俗文化財の指定をうけた石段は本宮前の四段坂と睦魂神社前の石段の二ヶ所です。
  本宮前の四段坂の石段は、いつだれが奉納したのでしょうか
5 敷石四段坂1

 闇峠から本宮に登る最後の急坂につくられた石段には(P-1~5)の記号が付けられています。坂の途中にひと息つくために三つのおどり場があり、石段が四段に別れているので「四段坂」と呼ばれています。この階段の「記念碑」を見ると一度に造られたのではなく、4回に分けて作られたようです。

  一番古い一番上段四二段(P-5)の奉納碑文を見てみましょう。

 
5 敷石四段坂2

奉納碑文裏面(左端)に寛政十年(1798)十月吉日とあります。大祭に合わせての奉納だったようです。大坂世話人に但馬屋の名が見えます。正面には「傘の下に中」の記号があり、江戸・上州・京都・奥州・大坂の宰領中からの奉納であることが分かります。
さて宰領とは?
国史事典を引いてみると
荷物を運送する人夫を支配・監督する人々のこと、飛脚問屋仲間をさす。民間の町飛脚が出来るのは江戸時代初めの寛永頃で、当初は、各々の店ごとに書状や荷物の運送を請負った。それが、上方商人が江戸に進出するにしたがって仕事量が増大し、飛脚屋が組合をつくって、相対で営業するようになっていく。寛文四年(1664)には、三都(江戸・大坂・京都)の飛脚屋によって、三都間を毎月三回決まった日に往来する三度飛脚もはじまった。町飛脚がはじまる以前から幕府の経営する継飛脚や、大名が領国と江戸間の連絡をとるための大名飛脚があったが、やがて町飛脚に託するようになっていく。このことは、飛脚屋や御用をうけ、飛脚網が全国にはりめぐらされていたことを示すものである。
 
 どうやらこの石段は全国の飛脚組合のメンバーが、道々の安全を願って奉納されたもののようです。 同時に、この奉納を通じて各地に点在する仲間内の結束を強める狙いもあったのでしょう。
 まとめ役としては、大坂の津国屋十右衛門と江戸の嶋屋佐右衛門が世話人となっています。二人は相仕の飛脚問屋で、大坂・江戸という東西の中心地にあったことから代表者として取りまとめをしたようです。
 この石段は、金毘羅さんの参道で最初に石段化されたエリアだと考えられます。現在に続く石段の起点となる記念碑的なものかもしれません。それが、地元からの奉納ではなく全国的な飛脚ネット組合からのものであったというところが、その後の金毘羅さんの境内整備の方向を示しているようにも思えます。

二番目は、上から二段目の二六段の石段(P-3・4)です。
5 敷石四段坂5

記念石版を見ると、文化八年(1811)6月に土州(高知)から奉納されています。奉納者には、室戸岬の先端に近い、室津浦・浮津浦・吉良川津(現室戸市)の8人の人たちです。
 二段目の石段(P-2)も土佐室戸からの奉納です。

5 敷石四段坂55

上のP3と同じ年の文化八年(1811)十月に奉納されています。
奉納者は先の石段と同じ土州の室戸市の宮地十太夫と奥宮三九郎の二人です。P3とは同年ですがこちらは2人だけでの奉納です。
当時の土佐の捕鯨業のことを調べてみると、次のようなことが分かりました。
江戸時代の初めころから津呂(室戸市)などで行なわれていたが、紀州の熊野浦や西国から捕鯨船が集まってくるようになり、地元の捕鯨業は一時衰退した。そこで、津呂浦の郷士多田吉左衛門は紀州に出向き、網取り法という新しい捕鯨技術を学び、津呂組をつくる。冬は椎名(室戸市)と窪浦(土佐清水市)、・春は津呂浦沖での捕鯨を再興した。この津呂組から分かれたのが浮津組で、宮地武右衛門が管理するようになる。そして津呂組も寛政三年(1792)元浦(室戸市)の庄屋奥宮四郎右衛門があとをついだ。

 この石段の銘文に見える宮地十太夫元貞と奥宮三九郎正敬は、二人だけで三段目の石段を奉納しています。土佐の捕鯨業に大きな足跡をのこした宮地氏と奥宮氏ゆかりの人たちだと研究者は考えているようです。
  時代は下りますが明治20年の「捕鯨事務日誌」の12月12日の条に
「当津呂村神官本日より琴平神社二於テニ夜三日間漁猟海運ノ祈祷ヲ為ス」
とあり、十五日には
「当日ヨリ足摺山へ日参ヲ始ム、是旧来ノ慣例于ンテ本日ヨリ十五日間水陸夫等更ル々々参詣スト云フ」
とあるように、津呂村の琴平神社と、足摺山の金剛福寺を参詣して、捕鯨祈願をしています。津呂村には琴平神社が勧進されていて、安芸郡室津浦の鯨方商人と思われる阿波屋菊之丞が元文五年(1740)に建てた石碑と、文化十五年(1818)に鯨方網元の奥宮三九郎の寄進した石灯龍11基、それに、文政九年(1826)に安芸郡浮津浦や室津浦の鯨方商人の数人が奉納した手洗い鉢があるようです。
  この安芸郡の鯨方網元の奥宮三九郎は、琴平町の金刀比羅宮に石段を奉納した人物なのでしょう。このようにみてくると、土佐の捕鯨の盛んな浦々にはた金比羅宮が、漁業信仰の対象として建立され大漁祈願のために参詣していたことが分かります。 
 奥宮氏は、この11年後の文政5年に、睦魂神社前の石段も奉納しています。
5 敷石四段坂6

これも金毘羅の旅籠の主人桜屋が取次をしています。また安政二年(1855)には、網取り法による捕鯨の光景がみごとに描かれたの大絵馬も奉納しています。それらの奉納のスタートがこの石段だったようです。

最後に最下段の51段の石段(P-I)の記念石版を見てみます
5 敷石四段坂7

これも土州からで文化九年(1812)三月の奉納です。この上段の翌年と云うことになります。
 奉納者の浦々の羽根浦(室戸市)は鰹船の根拠地、野根浦(安芸郡東洋町)・佐喜浜(室戸市)も漁港で、すでに述べた津呂浦・浮津浦・室津浦・吉良川浦を含め、みな室戸岬周辺の漁浦からの奉納です。土州寄進津呂浦(現室戸岬港)の奉納者の名前は、
 四手井又右衛門
 笹屋善
 堺屋達
 戎屋文
と、漁師町らしい名前が並びます。
4 敷石 羽裏敷石桜の馬場1

 吉良川の松屋紋平は二番目の石段の奉納者銘にも名前があります。また浮津浦の扇子屋・大津屋など同屋号の人々もいます。さらに、土州世話人の蔦屋平左工門は、三番目の石段の世話人でもあります。ここからはこんなストーリが想像できそうです。
「金毘羅さんにお参りして、海の安全をお願いして、ついでに本宮前の石段を奉納してきたぞ」
「おまえらもお願いして、石段を奉納してきたらどうじゃ。海の神様云うけんに効能は抜群じゃ。わしが世話してやるわ」
という話を聞いて、俺たちも遅れを取ってはならじと翌年に奉納しにやってきたというストーリーが描けそうです。
 土州から奉納された石段の当地世話人は、金毘羅内町の宿屋桜屋が全てつとめているようです。桜屋を仲介者として、室戸岬の人々が連絡を取りながらたがいに協力しあって、この四段坂の石段を土佐の鯨取りの手で奉納したのです。
5 敷石 muroto

  以上、四段坂の石段の整備過程をまとめておくと、上から次のようになります
①寛政十年(1798)江戸・京都・奥州・大坂の飛脚問屋奉納
②文化八年(1811)室戸岬周辺の室津浦・浮津浦・吉良川津の網元たちからの奉納
③文化九年(1812)室戸岬周辺の浦々の人々から奉納

    おつきあいいただき、ありがとうございました。

 

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  金毘羅船々
  追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
  廻れば四国は
  讃州那珂郡象頭山 金毘羅大権現
  一度廻れば

この歌が生まれたのは、大阪と地元のこんぴらさんのどちらかはっきりとしないようです。資料的にたどれるのは金毘羅説です。しかし、各地から金毘羅参詣客が集い、そして舟に乗って一路丸亀に向け旅立ってゆく金毘羅船の船頭が歌ったという話には、つい納得してしまいます。
しかし、実際には
   追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
とは船は進まなかったようです。
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西国巡礼者が金比羅詣コースとして利用した高砂~丸亀の記録には、
「三月一日船中泊り、翌二日こき行中候得者、昼ハッ時分より風強く波高く船中不残船によひ、いやはや難渋仕申候、漸四ッ時風静二罷成候而漸人心地二罷成よみかへりたる計也」

「此時風浪悪しくして廿一日七ッ時二船二乗、廿四日七ッ時二丸亀の岸二上りて、三夜三日之内船中二おり一同甚夕難渋仕」
といった記述がみられます。
さらには、高砂から乗船しながら
「四日ハッ時頃迄殊之外逆風二付、牛まど村江舟右上り」
と、
逆風のために船が進まず、途中の牛窓で舟をおりて陸路を下村まで行き、そこから丸亀へ再び海を渡ったこともあったようです。この際に
「四百八拾文舟銭。剰返請取。金ひら参詣ニハ決而舟二のるべからず
と船賃の残額も返してくれなかったようで大いに憤慨しています。
追い風に風を受けてしゅらシュシュであって、向かい風にはどうしようもなかったようです。
IMG_8072難波天保山
大坂から乗船したケースも見ておきましょう。
道頓堀の大和屋弥三郎から乗船した金比羅船の場合です。
「六日朝南風にて出帆できず、是より舟を上り、大和屋迄舟賃を取返しに行
と道中記に記されています。大阪湾から南風が吹かれたのでは、船は出せません。船賃を取り返し、陸路を進む以外になく、備前片上
から丸亀に渡っています。瀬戸内海でも、いったん風が出て海が荒れれば、船になれない人たちにとっては生きた心地がしなかったようです。
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陸路中心の当時の旅において、金比羅船は「瀬戸内海クルージング」が経験できる金毘羅参詣の目玉だったようですが、楽な反面「危険」は常に感じていたようです。少し大げさに言うと、危険きわまりない舟旅を無事終えて金毘羅参詣を果たせたのだという思いが、航海守護の神としての金毘羅信仰をより深くさせたのかもしれません。
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 金毘羅舟が着く讃岐・丸亀港の近くに玉積神社(玉積社)が鎮座します。この神社は
「天保年間新堀堪甫築造の際の剰土を盛りたる所に丸亀藩大坂蔵屋敷に祀りありし神社を奉遷した」
と伝わります。『讃州丸亀平山海上永代常夜燈講』という表題を持つ寄付募集帳には、
「御加入の御方様御姓名相印し置き、家運長久の祈願、丹誠を抽で、月々丸亀祈祷所に於て執行仕り候間、彼地御参詣の節は、私共方へ御出で下さるべく候。右御祈禧所へ御案内仕り、御札守差し申すべく候」
とあって、この神社が「丸亀祈祷所」と呼ばれていたことが分かります。
この玉積社は、なぜ丸亀港の直ぐ近くに鎮座するのでしょうか?
それは、金毘羅詣での参詣者が無事丸亀に上陸できたことを感謝し、そして金毘羅参詣を終えた人々が再び乗船するに際して舟旅の安全を祈る、そんな役割を担っていたのかもしれません。同じ役割を持った神社が大阪にもあります。
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 今は韓国や中国からやってくる観光客にとって人気NO1の大坂道頓堀の近くには法善寺があります。狭い法善寺横町を抜けていくと現れるこのお寺には今でも金毘羅が祀られています。
江戸時代に法善寺の鎮守堂再建の際に「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつけられています。金毘羅大権現の「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。どちらにしても、法善寺が金毘羅神を祀っていたのは間違いないようです。
  それではなぜ法善寺が金毘羅を祀っていたのでしょうか?
19世紀初頭に人気作家・十返舎一九が文化七年(1810)に出版した道中膝栗毛シリーズが『金毘羅参詣続膝栗毛』です。ここでは主人公の弥次郎兵衛・北八は、伊勢参宮を終えて大坂までやってきて、長町の宿・分銅河内屋に逗留して、そこからほど近い道頓堀で丸亀行の船に乗っています。
 道中膝栗毛シリーズは、旅行案内的な要素もあったので当時の最も一般的な旅行ルートが使われていますから、この時代の金毘羅参詣客の多くは、大坂からの金毘羅舟を利用したようです。十返舎一九は『金毘羅参詣続膝栗毛』の中で、弥次・北を道頓堀から船出させています。
しかし、その冒頭には次のような但書を書き加えています。
「此書には旅宿長町の最寄なるゆへ道頓堀より乗船のことを記すといへども金毘羅船の出所は爰のみに非ず大川筋西横堀長堀両川口等所々に見へたり」
つまり、もともとの船場は大川筋の淀屋橋付近だったのが、弥次・北が利用した時代には、金毘羅舟の乗船場はから道頓堀・長堀の方へ移動していたようです。その後の記録を見ると「讃州金毘羅出船所」や「金ひらふね毎日出し申候」等と書かれた金毘羅舟の出船所をアピールする旅館や船宿は、はるかに道頓堀の方が多くなっています。
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法善寺の金比羅堂の大祭
   つまり法善寺のある道頓堀は金毘羅船の発着所に近かったのです。丸亀港の玉積社と同じように金毘羅船に乗る前や、船から下りた際には「航海無事」の祈願やお礼をするために、法善寺に金比羅堂が建立されたと研究者は考えているようです。いずれにせよ、法善寺の金毘羅が讃岐へ向かう旅人達だけでなく、多くの大坂市民の信仰をうけていたこと間違いありません。

金毘羅船 苫船
金毘羅参詣続膝栗毛に描かれた金比羅船
江戸の大名屋敷に祀られた鎮守が流行神化していきます
高松松平家や丸亀京極家は江戸屋敷に金毘羅を祀っていました。これが江戸における金毘羅信仰の発火点になったというのが現在の定説のようです。高松藩や丸亀藩の屋敷では、毎月十日金毘羅の縁日に裏門を開放して一般庶民の参詣を許し、縁日以外の日には裏門に賽銭箱を置いて、人々はそこから願掛けを行なったようです。このような江戸庶民の金毘羅信仰の高まりが、丸亀の新堀湛甫(新港)を「江戸講」という民間資金の導入手法で成功させることにつながったと云えます。
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 それでは大坂の場合はどうでしょうか?
   江戸時代の大坂の祭礼行事一覧で例えば6月の欄を見てみると次のような祭礼が並びます
「宇和じま御屋しき祭」(六月十一日)
「出雲御屋しき祭」(六月十四日)
「なべしま御屋しき祭」六月十五日)
中国御屋しき祭」(六月十五日)、
「阿波御屋しき祭」(六月十六日)
「筑後御やしき祭」(六月十八日)
「明石御やしきご(六月十八日)、
「米子御やしき祭」(七月十九日)
ここからは江戸と同じように、大坂でも各藩蔵屋敷に祀られていた鎮守神が祭日には、庶民に開放されていたことが分かります。
さて10月の蘭を見てみると「千日ほうぜんじ」をあげたあとには、一つ置いて「丸亀御屋しき」・「高松御屋しき」と見えます。『摂津名所図会大成』には、 
金毘羅祠 同東丸亀御くらやしきにあり 
     毎月九日十日諸人群参してすこぶる賑わし
金毘羅祠 常安裏町高松御くらやしき二あり 
     霊験いちじるしきとて晴雨を論ぜず詣大常に間断なし殊に毎月九口十日ハ群参なすゆへ此辺より常安町どふりに夜店おびたゝしく出て至つてにぎわし又例年十月十日ハ神事相撲あり
とあります。ここからは江戸だけでなく、大坂でも蔵屋敷に祀られた金毘羅を毎月の縁日に庶民に開放することで金毘羅信仰がひろまっていたことがうかがえます。しかし、蔵屋敷に祀られた金毘羅は大名のものであり、縁日以外は庶民に開放されませんでした。
ところが、金毘羅信仰の高まると、庶民達はいつでも参拝できる金毘羅を自分たちの力で勧請します。法善寺の金毘羅もその一つと考えられます。『浪華百事談』には、「持明院金毘羅祠」について、次のように記されています。
「生国魂神社大鳥居の西の筋の角に、持明院といふ真言宗の寺あり、其寺内に金比羅の祠あり。其神体は京都御室仁和寺宮より、当院へ御寄附なりしを、鎮守とせしにて今もあり。昔は詣人多き社にて、上の金比羅と称す。当社をかく云へるは、法善寺の内の金比羅を、下の金比羅といひ、高津社の鳥居前にある寺院に祭るを、中の金比羅といひ、此を上の社といひて、昔は毎年十月十日の会式の時、衆人必らず三所へ参詣せしとぞ。余が若年の時も、三所へ詣る人多く、高津鳥居前より此辺大ひに賑はしき事なり。今は参詣人少き社なり」
この史料は大坂には、
上の金毘羅 生玉持明院
中の金毘羅 高津報恩院
下の金毘羅 法善寺
とそれぞれの寺院の中に勧進された金毘羅が上・中・下とならび称されて大坂市中の三大金毘羅として崇敬されていたことを教えてくれます。このような金毘羅信仰の高まりを背景に、金比羅講が組織され、多くの寄進物や石造物がこんぴらさんにもたらされることになるようです。「信仰心信者集団の中で磨かれ、高められていく」という言葉に納得します。

参考文献 北川央 近世金比羅信仰の展開

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伊予土佐街道の一里道標をたどりながらやって来たのは旧山本町役場の前庭。
ここには「こんひら大門まで三里」と刻まれた金毘羅街道の三里道標が建っています。
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その表記の通り、金毘羅さんの階段途中にある大門まで、ここから3里(12㎞)を示します。その下に
「与州松山浮穴郡高井村 新七、弥助、 清次、粂左衛門」
の文字が読めます。伊予松山の南の浮穴郡の人たちが寄進したもののようです。伊予土佐街道の里呈や灯籠は、ほとんどが伊予の人々により建てられています。
 今は、ここにありますが、もとあった場所は、もう少し東へ行ったところで、街道が大きく南へ曲がった角にこの三里道標はあったそうです。おそらく交通の邪魔になり、ここに移転してきたのでしょう。役場に保管し、道行く人に見える場所に置くなど心遣いのあとが見られます。これも私にとっては先人からの「おもてなし」とかんじられます。
 この地域は「辻」と呼ばれる通り、交通の要地で、観音寺へ、伊予へ、こんぴらへ、箸蔵へと刻んだ大きな道標や灯籠が近くにも残されています。

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休憩後に、次の四里道標に向けて旧街道を原付バイクで走りだした。
すぐに祭りの幟が目に入りました。秋の高く澄んだ青い空にはためく幟は、絵になります。
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どこの神社の祭りかなとバイクを止めて仰ぎ見ると・「金毘羅大権現」とあります。
なぜ「金毘羅大権現」なの・・・???
と幟を見上げたまま、ぼけーと考えてしまいました。
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さらによく見ると、その上に描かれているのは天狗さん、そして○金と○箸の文字。ますます、分からなくなりました。頭の中を整理します。
①金毘羅さんから遠く離れた山本町でなぜ「金毘羅大権現」の幟が揚がっているのか?
②神仏分離以後、金刀比羅神社は「金毘羅大権現」を捨てたはずなのにどうして・・?
③幟の一番上の天狗は何を意味するのか?
④○金は金毘羅神社、それなら○箸は、何なのか?
私の明晰な頭は疑問点を以上のようにまとめて、解決に向けての糸口を探ろうとします。視線が向かったのは幟の下の石造物です。
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まず正面の墓石のようなものは何なのか?
○金とありますので、金毘羅信仰に関係するものであるようです。
さらに近づいて見ると、ここにも○金と○箸がなかよく並んでいます。そして、その下には金毘羅さんの御札が入れられているようです。

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ここから私に分かることは、丸亀街道沿の神社の中にあるような「金毘羅さん遙拝施設」ではないということです。そして、金毘羅さんの御札が納められているということは、この石造物自体が「金毘羅大権現」としてお祭りされているのではないかということです。
 怪しげな男がボケーっと立ち尽くしているので、家の中から主人が出てきてきました。
さりげなく挨拶を交わして「ええ幟ですな」と声をかけると、主人は次のようなことを話してくれました。
①この地区の23軒で「山本境東組」という金比羅講をつくってお参りしてきた。
②年に3回、1月10日・6月10日・10月10日には、講メンバーでお祭りをして、ご馳走を食べる。
③その時には、当番が金毘羅さんへ参拝して新しい御札をもらってきて、ここへ納める。
④講メンバーにとって、この石造物が「金毘羅大権現」と思っている。
⑤いつ頃から始まったか分からないが、この石造物には大正の年号が彫り込まれている。
⑥いまはメンバーが減って7軒になって、運営が大変だ
⑦この石碑には3回も自動車が正面からぶつかってきた。それでも壊れなかった
主人の話から分かったことは以上です。
  ここからはこの地区の人たちが金比羅講を組織して、もらってきた御札をここに入れて、信仰対象としてきたようです。推論したとおり、この石造物は「金毘羅大権現」なのです。しかし、「金毘羅大権現」は、明治の神仏分離の際には神と認められずに、金毘羅さんからは追放されました。
なぜ、それなのにここでは「金毘羅大権現」を今でもお祭りしているのでしょうか?
 考えられることは、この信仰形態はそれ以前の江戸時代から行われていたということです。そのため、金毘羅大権現が金刀比羅宮と名前を変えて神道化しても、ここでは以前通りの名前と、祭礼方法が継続されたのではないでしょうか。
 これで疑問点の二つは、推論が見えてきました。あと二つは「天狗と○箸」です。
天狗とはなにか。これは簡単にいうと「修験者」の象徴です。
四国で、天狗達の巣のひとつが象頭山金毘羅大権現でした。江戸時代の初めの金毘羅大権現の創世記に活躍したのは、高野山で学問を積んだ宥盛のような真言宗の修験者達でした。彼は、土佐の修験道のリーダーをリクルートして多門院を開かせるなど、四国の修験者達のリーダーとして活躍し、多くの子弟を育成し四国中に「修験道」ネットワークを形成していきます。
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箸蔵寺の天狗
つまり、金毘羅さんは修験者の集まる山で、行場でもあり、天狗の山であったのです。
近世初頭においては、金毘羅さんは「海の神様」としての知名度はありません。天狗の住む修験者の山の方が有名だったと私は思っています。そして、まだ全国的にも知られていない、地方の小さな権現さんだったのです。それを全国へ広げていくのは、宥盛等が育成した修験者組織なのです。「塩飽の船乗り達が海の神金毘羅大権現をひろめた」というのは、本当だったとしてももっと後のことです。これについては別項の「金毘羅大権現形成史」で、述べましたのでこれ以上は触れません。
 どちらにしても、この地に金毘羅大権現をもたらしたのは天狗で、修験者たちの布教活動の成果だと私は考えます。そして、人々も天狗(修験者=山伏)を受けいれていたのでしょう。

それでは○箸とは、なんでしょうか。
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この先の財田川の長瀬橋のたもとに残る灯籠を兼ねた道しるべです。
ここには「右 はしくら」「左 こんぴら」と刻まれています。箸蔵寺は、讃岐山脈の猪ノ鼻峠を越えた阿波徳島にある山岳寺院です。この寺も近世には、高越山とともに阿波修験道の拠点のひとつとされていました。金毘羅大権現の「奥の院」として「両参り」を提唱して、幕末から明治にかけて寺勢を伸ばしました。讃岐山脈の麓にある各町村の村史や町史を読んでいると、阿波からの山伏が布教定着し、「山伏寺」を村々に立ち上げていた様子が記されています。その拠点が箸蔵寺になります。

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 箸蔵寺本堂

箸蔵寺は明治の神仏分離の際にも神道に転ずることがありませんでした。
そのため今でも「金毘羅大権現」をお祭りしています。本堂の前には大きな子天狗と大天狗のふたつの天狗面が掲げられています。
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また、明治になって大久保諶之丞による四国新道が財田から三好に抜けるようになると、このバイパス沿いに位置することが、有利に働き多くの信者を集めることになります。そのような寺勢を背景に修験者たちは、国内だけでなく植民地とした朝鮮や中国東北部(旧満州)へも布教団を送り込み信者を増やしていったのです。その時期に建立されたのが現在に残る本堂などの伽藍なのです。明治の建物にもかかわらず早くも重要文化財の指定を受けているように、彫り物などは四国の寺院建築物としては目を見張るものがあります。
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また、旧参道の玉垣の寄進者名も朝鮮や中国旧東北部からのものが多く残されています。
このように、幕末から大正時代にかけての箸蔵寺の修験者僧侶の布教活動には目をみはるものがあったのです。これが、讃岐の里へも影響を与えています。金刀比羅街道の標識に「はしくらへ」と刻まれているのは、当時の箸蔵寺の布教活動の勢いを示す物なのです。

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 こうして、○金と○箸がならぶのは、
①この地に「金毘羅大権現」をもたらしたのは、金毘羅さんの修験者たちだった
②しかし、神仏分離で金毘羅さんから天狗(修験者)は追放された
③その空白部へ入ってきたのが、箸蔵寺が組織した修験者集団であった。
④そのために「金毘羅大権現」は、そのままにして○金と○箸が並び立つことになった。
という推論にたどり着きました。
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箸蔵寺の金毘羅大権現 扁額

わたしにはもうひとつ気になる存在が、この地域にはあるのです。
それがこの背後の丘の上に鎮座する宋運寺と天満神社です。両者は、神仏分離以前は一体でした。建立者は山下氏で、金毘羅大権現の別当金光院を世襲していた家の氏寺でした。つまり、金毘羅さんとストレートにつながっていたのです。この地域への金毘羅神信仰の伝播について、この寺の果たした役割については次回、お話しすることにします。
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関連記事 

前回は金毘羅神を江戸で広げたのは山伏(天狗)達ではなかったのかという話でした。今回はそれをもう少し進めて、山伏達はどのように流行神として金毘羅神をプロモートしたのかを見ていきたいと思います。
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まず江戸っ子たちの「信仰」について見ておきましょう。
 江戸幕府は、中世以来絶大な力を持っていた寺社勢力を押さえ込む政策を着々と進めます。その結果、お寺は幕府からの保護を受ける代わりに、民衆を支配するための下部機関(寺請け)となってしまいます。民衆側からするとお寺の敷居は、高くなってしまいます。そのため寺院は、民衆信仰の受け皿として機能しなくなります。一方、民衆は 古道具屋の仏像ですら信仰するくらい新しい救いの神仏を渇望していました。そこに、流行神(はやりがみ)が江戸で数多く登場する背景があるようです。
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江戸っ子達は「現世利益」を目的に神社仏閣にお祈りしています。
 その際に、本尊だけでは安心・満足できずに、様々な神仏を同時に拝んでいくというのが庶民の流儀でした。これは、現在の私たちにもつながっています。
 神社・仏閣側でも、人々の要求に応じて舞台を整えます。氏神様は先祖崇拝が主で、病気治癒や悪霊退散などの現世利益の願いには効能を持たないと考えるようになった庶民に対して、新たに「流行神」を勧進し「分業体制」を整えます。例えばお稲荷さんです。各地域の神社の境内に行くと、本殿に向かう参道沿いに稲荷などの新参の神々が祀られているのは、そんな事情があるようです。地神の氏神さまは、それを拒否せず境内に新参の流行神を迎え入れます。
 寺院の場合も、鬼子母神やお地蔵さんなどの機能別の御利益を説く仏さまを境内に迎えるようになります。
境内には「効能」に応じた仏やいろいろなお堂が立ち並ぶようになります。
このような「個人祈願の神仏の多様化」が見られるようになるのは江戸時代の文化・文政期のようです。つまり「神仏が流行するという現象」、言い換えれば「人々の願いに応じて神仏が生まれ流行する」という現象が18世紀後半に生まれるのです。それを研究者は「流行神(はやりがみ)」と呼んでいるようです。それを流行らせたのが「山伏・聖者・行者・巫女」といったプロモーターだったようです。
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 元禄から百年間の流行神の栄枯盛衰を見てみましょう
百年前世上薬師仏尊敬いたし、常高寺の下り途の薬師、今道町寅薬師有、殊の外参詣多くはやらせ、上の山観音仏谷より出て薬師仏参り薄く、上の山繁昌也、夫より熱村七面明神造立せしめ参詣夥鋪、四十年来紀州吉野山上参りはやり行者講私り、毎七月山伏姿と成山上いたし、俗にて何院、何僧都と宮をさつかり異鉢を好む、
 是もそろそろ薄く成、三十年此かた妙興寺二王諸人尊信甚し、又本境寺立像の祖師、常然寺元三大師なと、近年地蔵、観音の事いふへくもなくさかんなり、西国巡礼に中る事、隣遊びに異ならす、十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る。
ここには元禄時代から百年間の「流行神」の移り変わりが辿られています。
「世上薬師仏 → 上の山観音 → 熱村七面明神 →
紀州吉野のはやり行者講→ 妙興寺 → 西国巡礼 → 金毘羅大権現」
と神様の流行があったとふり還ります。
ちなみに、金毘羅神の江戸における広がりも「十年此かた讃州金比羅権現へ参詣年々多く成る」ことから、元禄から百年後の19世紀初頭前後が江戸における金毘羅信仰高揚の始まりであったことがうかがえます。
 
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流行神の出現を 弘法清水伝説の場合を見てみましょう
 宝暦六年に下総国古河にて、御手洗の石を掘ると弘法大師の霊水が出てきた。盲人、いざりはこの水に触れると眼があいたり腰が立つたという。この水に手拭を浸すと梵字が現われたりして、さまざまの奇蹟があった。
そこで江戸より参詣の者夥しく、参詣者は、竹の筒に霊水を入れて持ち帰る、道中はそのため群集で大変混雑していたという。そもそもこのように流行したのは、ある出家がこの地を掘ってみよといったので、旱速掘ったらば、清水が湧き出てきたのだという。世間では石に目が出たと噂されて流行したと伝えられている。(喜田遊順『親子草』)
 これは四国霊場のお寺によくある弘法清水伝説と同じ内容です。出家(僧)の言葉で石から清水が湧き出したことから、霊験があると巷間に伝えられて流行りだしたといいます。
流行神の登場の仕方には次のようなパターンがあります。
    ①最初に奇跡・奇瑞のようなものが現れる。
    ②たとえば予知夢、光球が飛来する、神仏増が漂着したり掘り出される等。
    ③続いて山伏・祈祷し・瞽女続いて神がかりがあったり、霊験を説く縁起話などが宣伝される。
    こうして流行神が生み出されていきます。 それを宣伝していくのが修験者や寺院でした。流行神の出現・流布には、山伏や祈祷師などがプロモーターとして関わっていることが多いのです。
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修験者(行者・山伏)がメシアになった例を見てみましょう。
彼らはいろいろな呪法を行使して祈祷を行ない、一般民衆の帰依を受けることが多かったようです。霊山の行場で修行を経て、山伏が、ふたたび江戸に帰り民衆に接します。その際の荒々しい活力は、人々に霊験あらたかで「救済」の予感を感じさせます。そういった系譜を引く行者たちは、次のように生身の姿で人々に礼拝されることがありました。
 正徳の比、単誓・澄禅といへる両上人有、浄家の律師にて、いづれも生れながら成仏の果を得たる人なり、澄禅上人は俗成しとき、近在の日野と云町に住居ありしが、そこにて出家して、専修念仏の行人となり、後は駿河の富士山にこもりて、八年の間勤修怠らず生身の弥陀の来迎ををがみし人也、八年の後富士山より近江へ飛帰りて、同所平子と云山中に胆られたり、

単誓上人
もいづくの人たるをしらず、是は佐渡の国に渡りて、かしこのだんどくせんといふ山中の窟にこもり、千日修行してみだの来迎を拝れけるとぞ、その時窟の中ことぐく金色の浄土に変瑞相様々成し事、木像にて塔の峰の宝蔵に収めあり、
此両上人のちに京都東風谷と云所に住して知音と成往来殊に密也しとぞ、単誓上人は其後相州箱根の山中、塔の峯に一宇をひらきて、往生の地とせられ、終にかしこにて臨終を遂られける。澄禅上人の終はいかん有けん聞もらす、東風谷の庵室をば、遺命にて焼払けるとぞ、共にかしこきひじりにて、存命の内種々奇特多かりし事は、人口に残りて記にいとまあらずといふ
(『譚海』五)
 ここに登場する単誓・澄禅の二行者は、山岳で厳しい修行を積み、生身の弥陀の来迎を拝んだり、山中の窟を金色の浄土に変ぜしめたりする奇蹟を世に示す霊力を持つようになります。いわば「生れながら成仏の果を得たる人」でした。かれらの出現は、まさに民衆にとってはメシア的な存在で、信仰対象となったのです。
 このように修験者(山伏)の中には、「生き神様」として民衆の信仰を集める人もいたことが分かります。
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一方、山伏たちは、江戸幕府にとってはずいぷんと目障りの存在だったようです。
このことは、寛文年間の次の町触れの禁令の中にもうかがうことができます.
 一、町中山伏、行人之かんはん並にほんてん、自今以後、出し置申間敷事
 一、出家、山伏、行人、願人宿札は不苦候間、宿札はり置可申事
 一、出家、山伏、行人、願人仏壇構候儀無用之由、最前モ相触候通、違背仕間敷候、
 一、町中ニテ諸出家共法談説候儀、無用二可仕事
 一、町中にて念仏講題目講出家並に同行とも寄合仕間敷事
 この禁令からは、山伏、行人たち宗教活動に大きな規制がかけられていることが分かります。一方では、こうした町触れが再三再四出されていることは、民衆が行者たちに祈祷を頼んだりして、彼らを日常的に「活用」していたことも分かります。山伏たちは、寺院に直接支配されない民間信仰の指導者だったのです.
  このような中に、天狗面を背負って金毘羅山からやって来た山伏達の姿もあったのではないでしょうか。四国金毘羅山で金光院や多門院の修験道修行を受けた弟子達が江戸でどんな活動を行ったかは、今後の課題となります。
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  江戸庶民の流行神信仰リストとその願掛けの御供えは? 
因幡町庚申堂にはを備よ
  赤坂榎坂の榎に歯の願を掛け楊枝を備ふ
  小石川源覚寺閻魔王に萄罰を備よ
  内藤新宿正受院の奪衣婆王には綿を備ふ
  駒込正行寺内覚宝院霊像にはに蕃根を添備ふ
  浅草鳥越甚内橋に廬の願を掛け甘酒を備よ
  谷中笠森稲荷は願を掛る時先土の団子を備よ
  大願成就の特に米の団子を備ふ
  小石川牛犬神後の牛石塩を備ふ
  代官町往還にある石にも塩を備よ
  所々日蓮宗の寺院にある浄行菩薩の像に願を掛る者は水にて洗よ
芝金地院塔中二玄庵の問魔王には煎豆と茶を備ふ 此別当は甚羨し 我聯として煎豆を好む事甚し 身のすぐれざる時も之を食すれば朧す
四谷鮫ヶ橋の傍へ打し杭を紙につつみて水引を掛けてあり、これ何の願ひなるや末だ知らず、後日所の者に問はん
 永代橋には、歯の痛みを治せんと、錐大明神へ願をかけ、ちいさき錐を水中に納めん              『かす札のこと下』
文化文政期ごろの江戸庶民の願掛けリストと、その時のお供え物が一覧表になっています。このうち、地蔵、閻魔、鬼王、奪衣婆、三途川老婆、浄行菩薩などは、寺院の境内にある持仏の一つであり、どれも「粉飾した霊験譚」をつけられて、宣伝された流行神ばかりです。同時に、どんな願をかけているのかを見ると「病気平癒」を祈っているのが多いようです。
 その中でもっとも多かっただのは、眼病でした。
よく知られた江戸の眼病の神は、市谷八幡の境内に祀られていた地主神の「茶の木稲荷」でした。『江戸名所花暦』には、
表門鳥居の内左のかたに、茶の木稲荷と称するあり、俗説に当山に由狐あり、あやまって茶の木にて目を突きたる故に茶を忌むといへり、此神の氏子三ヶ日今以て茶をのまず、又眼をわづらふもの一七日二七日茶をたちて願ひぬれば、すみやかに験ありといふ(中略)
と記され、約一週間茶断ちして祈願すれば、眼病は平癒するといわれていました。

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 歯病も眼病と並んで霊験の対象となっていました。
 歯の神として、江戸で名高かっだのは、おさんの方です。西久保かわらけ町の善長寺に祀られた霊神の一つで、寺の本堂で楊枝を借りて、おさんの方に祈願すると痛が治るとされ、楊枝を求めてきて、おさんの方に納めたようです。
 おさんの方は、『海録』によると、備後国福山城主水野日向守勝成の奥方珊といわれます。彼女は一生、歯痛に苦しみ、臨終の時に誓言して、
「我に祈らば応験あるべし」
と言い残したと伝わります。寛永十一(1634)年に流行だしたと史料に残っています。
このリストを見れば、まさに現世利益の「病気治癒」の神々ばかりが並んでいるのが分かります。

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金毘羅神は「海の安全」の神様といわれ始めます
しかし、この時代に「海の神様」というキャッチコピーでは、江戸っ子には受けいれられなかったと私は思います。金毘羅神はこの時期は「天狗神」として、「病気平癒」などの加持祈祷を担当していたのではないでしょうか。それを担当していたのは山伏達たちだった思うのです。

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 前回は金毘羅信仰の高まりが金比羅講の結成につながり、寄進物が増えていく様子を見てみました。その信仰の広がりと高まりの背景に山伏(修験者)達の布教活動があったのではないかということを指摘しました。
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 大坂湊のスタート 天保山
今回は熱烈な金毘羅信仰「ファン」を見てみましょう。
江戸の人山田桂翁が、天保二年(1831)71歳の時に書き上げた「宝暦現来集」には、天明のころ両国薬研堀に初めて金毘羅社を祀った元船頭の金毘羅金兵衛という男のことが載っています。その金毘羅金兵衛という名前からも熱烈な金毘羅信者であったことが想像できます。こう言う人物が何人も現れてきたようです。
 金毘羅山の境内には、金毘羅参拝を何度も行った人の記念碑が建てられています。まず、それを見ていきましょう。
寛政五年(1793)伊予国松山の吉岡屋伝左衛門が100回参詣
天保十三年(1843)作州津山船頭町の高松屋虎蔵(川船の船頭?)が61度の参詣
安政元年(1854)信州安曇郡柏原村から33度の参詣を果たした中島平兵、
万延元年(1860)松山の亀吉は人に頼まれて千度の代参
万延元年 参州吉田宿から30度目の参詣したかつらぎ源治、
文久四年(1864)松山から火物断ちして15度の参詣を遂げた岩井屋亀吉。
金毘羅山に回数を重ねて何度も参拝する「金毘羅山の熱狂的ファン」が出現しています。今でも似たような碑文を、四国霊場のお寺の境内で見ることがあります。一般の参拝客が増える中で、強い信仰心を持ち参拝回数を競うように増やし、それを誇りとして碑文に残しているようです。現在の「ギネス記録に挑戦!」といったノリでしょうか。

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難波湊を出航して
大坂の高額寄進者、廻船問屋西村屋愛助の場合は?
 当時の金毘羅大権現は、薬師堂を金堂に立て替える大規模工事が文化10年(1813)から始まっていました。それに伴い寄進を求める動きが活発化していた時期でもあります。それに応えていく信者の代表が大坂の廻船問屋の西村屋愛助です。
彼の名が最初に見えるのは、江戸と大坂で同志を募って天保十二年春に奉納した銑鉄水溜の銘文の中に刻まれています。しかし、この水溜は、戦時中の戦争遂行のための金属供出で溶かされ、弾薬に姿を変えてしまいました。それ以外で、彼の名前の残るものを挙げてみると
天保13年月 金堂の用材橡105本を奥州秋田から丸亀へ廻送。
天保14年 「潮川神事場碑」の裏に讃岐の大庄屋クラスの人々と名前あり。弘化4年(1847) 五月に100両を、続いて11月に150両を献納
金堂が完成するのは、着工から30年以上経った1845年のことでした。愛助のような熱烈な信者がいたからこそ総工費三万両という大事業であった金堂が完成にこぎ着けることができたのでしょう。全国の金比羅講と共に、裕福で熱心な信者の人々によっても金毘羅信仰は支えられていたことが分かります。
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文人旅行客が残した参拝日記(道中記)から分かることは?
各地での金比羅講の成立と共に、講から送り込まれる金比羅詣での人たちが増えていきます。そして、参拝よりも「旅」に重きをおく「旅行者」も増えます。例えば「弥次さん・喜多さん」のような個人客も混ざってきます。彼らは信仰としての参拝というよりも、物見遊山・レジャーとしての参拝の色彩が強いようです。そして、裕福でゆとりをもった目、何でも見てやろうという好奇心の目で周囲を眺めながら、その様子を日記(旅行記)に記す人が現れます。
 承応二年(1653)の澄禅の「四国遍路日記」や元禄二年(1689)刊の「四国徊礼霊場記」にも
「……金毘羅は、順礼の数にあらすといえとも、当州の壮観、名望の霊区なれは、遍礼の人、当山には詣せすという事なし……」
と記されているように、四国巡礼の人々も善通寺参拝のついでに金毘羅まで足を伸ばすことが多かったようです。当時の人たちにとっては神も仏も関係なかったのです。さて、参詣者の数が増え始めるのは享保年間(1716~)のあたりからです。年表を見ると、この時期に急速に諸堂が整備されていったことが分かります。
享保7年 1722 文殊・普賢像、釈迦堂へ安置。
享保8年 1723 神前不動像、愛染不動像出来る。新町鳥居普請。
享保15年1730 観音堂開帳
享保17年1732 広谷墓地に閻魔堂建立。享保の大飢饉。
享保18年1733 龍王社造立
1730年の33年ぶりの観音堂の開帳に向けての整備計画が行われことが分かります。それが、また人々を惹きつける要因になります。
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東国からの金毘羅参拝者が増えるのはいつから?
文政11年(1828)鹿児島の郷士右田此右衛門一行は、伊勢参宮の途上に金毘羅に参詣し「……参銭の音絶ゆるひまなく・…」と記しています。参拝客の落とす賽銭も増えます。
また、九州の豊前中津藩や肥後熊本藩、筑後柳川藩などの藩士らの出張願いなどには、神社、特に金毘羅への参詣を希望する者が多かったことが史料に残っています。
安政二(1855)出羽の清河八郎は、旅行記『西遊草』に次のように記します。
「……金毘羅は、数年この方、天下に信仰しない者はなく、伊勢の大神宮同様に、人々が遠国から参拝に集まり、その上船頭たちが、大そう尊崇する
……数十年前までは、これほど盛んなこともなかったのであるが、近頃おいおい繁昌するようになった。…金毘羅と肩を並べている神仏は、伊勢を除いては、浅草と善光寺であろう……」と。
  ここには、金毘羅信仰が「数十年前までは、これほど盛んなこともなかった」と述べられています。つまり、18世紀の末頃までは金比羅詣で客は、伊勢神宮などに比べるとはるかに少なかったというのです。
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それでは、いつ頃から伊勢と肩を並べるほどに参拝者が増えたのでしょうか?
 18世紀に書かれた東国発の伊勢神宮への参拝道中記である宝永三年(1706)の「西国道中記」、宝暦十三年(1763)の「西国巡礼道中細記」と享和三年(1803)のを見てみましょう。すると一番最後の19世紀なって書かれた「西国巡礼道中細記」だけが、伊勢参拝後に金毘羅にも参詣しているのが分かります。関東地方からの参詣者が増加するのは、私が思っていた時期よりも遅く文政期以後(1818~)のようです。参拝者の急増を追い風に、金毘羅山の金堂は着工したのかもしれません。
 もうひとつ注目しておきたいのは、金毘羅への単独参拝が目的ではなく伊勢詣や四国八十八霊場と併せて参拝する人たちが多かったことです。残された「道中記」からは奥羽・関東・中部等の東国地方からの金毘羅参拝者の半数は、伊勢や近畿方面へ参拝を済ませて金毘羅へ寄っていることが分かります。
  ここから、「東日本から金毘羅宮へ参詣するようになるのは、19世紀初頭年前後からという結論が出される」と研究者は言います。

113574淡路・舞子浜

 讃岐は巡礼スタンプラリーのメッカ? 
東国の人々が、金毘羅参詣を行うようになってくるのは、19世紀の文化・文政期になってからといいました。それは東国に限らず、全国的に「旅行する」ということが盛んになってくるのが、宝暦から天明ごろだったことも合致します。このころから、「四国八十八ヶ所巡礼」「西国三十三ヶ所巡拝」「伊勢参宮」などの聖域・聖地を巡る人々が増えているのです。讃岐においても巡礼に関する記事が庄屋に残史料の中に見られるようになります
       願上げ奉る口上
 一私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、これに依り二・三ヶ年以来申し合わせ少々の講結び御座候 而何卒道印石灯寵建立仕り度存じ奉り候、則場所・絵図相添え指し出し候間、
願の通り相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、
願上げ奉り候、以上
 文化七午年   香川郡東大野村百姓     半五郎 金七
    政所交左衛門殿
これは、高松の大野村百姓の半五郎と金七が政所(大庄屋)の文左衛門にあてて願い出た文書です。そこには半五郎らの家の近くで、仏生山へ参詣した後に金毘羅へ向かっている遠方からの旅人が、道に迷って困っている事例が多く出てきている。そこで道標・石灯籠を建立したいと庄屋に願い出ています。
 庄屋・藩の許可がないと灯籠も建てられないという江戸時代の一面を映し出していますが、ここで注目したいのは仏生山に参拝した後、金毘羅へ向かう遠方からの旅人が多数いるという内容です。
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四国霊場でもない仏生山に遠方からの旅人が参拝するのはなぜ?
 法然寺へ参詣するという動きは、法然上人の五百五十回忌の宝暦十一年に、法然上人の遺跡として、二十五霊場が指定されます。これ以後、法然信者による聖地巡礼が始まります。高松藩主松平頼重により菩提樹として整備された仏生山法然寺は、その札所の二番目に指定されます。ちなみに最後の二十五番目は京都の大谷知恩院のようです。この時期は、その二十五番霊場巡りが知られるようになり巡礼者も増えていたようです。
紀州加田より金毘羅絵図1

 こんなことを知った上で、当時の瀬戸内海をはさんだ讃岐と山陽道を描いた絵図を見てみると別の見方が浮かんで来ます。讃岐の中には四国八十ハケ所の霊場あり、金毘羅あり、そして法然上人ゆかりの遺跡があり「聖地巡礼」のポイントが豊富な上に変化に富んで存在しています。旅人たちは、手にした絵図を見ながら金毘羅へ、善通寺へ、また法然寺へと参拝を繰り返しつつ旅を続けたのかもしれません。江戸時代の「金毘羅詣」とは、このような聖地巡礼中の大きな「通過点」であったのかもしれません。
 これは現在の印綬を集めての神社めぐりや、映画のロケ地を訪ね旅する「聖地ロケ地」巡りへと姿を変えているのかも知れません。日本人は、この時代から旅をするのが好きな民族になっていったのかもしれません。
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参考文献 旅行者から見る金毘羅信仰 町史ことひら97P

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10 

 前回までに戦国末期から元禄年間までの百年間に金毘羅山で起きた次のような「変化・成長」を見てきました。
①歴代藩主の保護を受けた新興勢力の金光院が権勢を高めた
②朱印状を得た金光院は金毘羅山の「お山の殿様」になった
③神官達が処刑され金光院の権力基礎は盤石のものとなった
④神道色を一掃し、金毘羅大権現のお山として発展
⑤池料との地替えによって金毘羅寺領の基礎整備完了
 流行神の金毘羅神を勧進して建立された金毘羅堂は、創建から百年後には金光院の修験道僧侶達によって、金毘羅大権現に「成長」していきます。その信仰は17世紀の終わりころには、宮島と並ぶほどのにぎわいを見せるようになります。
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今回のテーマは「金毘羅信仰を広めたのは誰か」ということです。
通説では、次のように云われています。
「金毘羅山は海の神様 塩飽の船乗り達の信仰が北前船の船乗り達に伝わり、日本全国に広がった」

そうだとすれば、海に関係のない江戸っ子たちに金毘羅信仰が受けいれられていったのは何故でしょう? 彼らにとって海は無縁で「海の神様」に祈願する必要性はありません。
 まず信仰の拡大を示す「モノ」から見ていきましょう。
金毘羅信仰の他国への広まりを示す物としては
①十八世紀に入ると西国大名が参勤交代の折に代参を送るようになる
②庶民から玉垣や灯箭の寄進、経典・書画などの寄付が増加
③他国からの民間人の寄進が元禄時代から始まる。
 (1696)に伊予国宇摩郡中之庄村坂上半兵衛から、
  翌年には別子銅山和泉屋吉左衛門(=大坂住吉家)から銅灯籠
④正徳五年(1715)塩飽牛島の丸尾家船頭たちの釣灯寵奉納
 これが金毘羅が海の神の性格を示し始めるはしりのようです。
⑤享保三年(1718)仏生山腹神社境内(現高松市仏生山町)の人たちが「月参講」をつくって金毘羅へ参詣し、御札をうけて金毘羅大権現を勧請。この時に建てた「金毘羅大権現」の石碑をめぐって紛争が起きます。高松藩が介入し、石碑撤去ということで落着したようですが、この「事件」からは高松藩内に「月参講」ができて、庶民が金毘羅に毎月御参りしていることが分かります。

金毘羅大権現扁額1
金毘羅大権現の扁額(阿波箸蔵寺)
地元讃岐で「金毘羅さん」への信頼を高めたもののひとつが「罪人のもらい受け」です。
罪人の関係者がら依頼があれば、高松・丸亀藩に減刑や放免のための口利き(挨拶)をしているのが史料から分かります。
①享保十八年一月、三野郡下高瀬村の牢舎人について金毘羅当局が丸亀藩に「挨拶」の結果、出牢となり、村人がお礼に参拝、
②十九年十二月高瀬村庄屋三好新兵衛が永牢を仰せ付けられたことに対し、寺院・百姓共が助命の減刑を金毘羅当局に願い出て、丸亀藩に「挨拶」の結果、新兵衛の死罪は免れた。
③寛延元年(1748)多度津藩家中岡田伊右衛門が死罪になるべきところ、金光院の宥弁が挨拶してもらい受けた。
④香川郡東の大庄屋野口仁右衛門の死罪についても、金光院が頼まれて挨拶し、仁右衛門は罪を許された。
このような丸亀・高松藩への「助命・減刑活動」の成果を目の前にした庶民は、金毘羅さんの威光・神威を強く印象付けられたことでしょう。同時に「ありがたや」と感謝の念を抱き、信仰心へとつながる契機となったのではないでしょうか。
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金毘羅信仰の全国拡大は、江戸における高まりがあるとされます。
 江戸の大名邸に祀られた守護神(その多くは領国内の霊威ある神)を、江戸っ子たちに開放する風習が広がり、久留米藩邸の水天宮のように大きな人気を集める神社も出てきます。虎ノ門外の丸亀京極藩邸の金毘羅も有名になり、縁日の十日には早朝から夕方まで多くの参詣人でにぎわったようです。宝暦七年(1757)以後、丸亀江戸藩邸にある当山御守納所から金毘羅へ初穂金が奉納されていますが、宝暦七年には金一両だったものが、約四半世紀後の、天明元年(1781)には100両、同五年には200両、同八年からは150両が毎年届けられるようになったというのです。江戸における金毘羅信仰の飛躍的な高まりがうかがえます。
 天保二年(一八三一)丸亀藩が新湛甫を築造するに当たって、江戸において「金毘羅宮常夜灯千人講」を結成し、募金を始め、集まった金で新湛甫を完成させ、さらに青銅の常夜灯三基を建立するという成果を収めたのも、このような江戸っ子の金毘羅信仰の高まりが背景にあったようです。
この動きが一層加速するのは、朝廷より「日本一社」の綸旨を下賜された宝暦十年五月二十日てからです。
さらに、安永八年(一七七九)に将軍家へ正・五・九月祈祷の巻数を献上するよう命じられ、幕府祈願所の地位を獲得してます。もちろんこれは、このころ頻発し始めた金毘羅贋開帳を防止するためでもありましたが「将軍さんが祈願する金毘羅大権現を、吾も祈願するなり」という機運につながります。そして、各大名の代参が増加するのも、宝暦のころからです。
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しかし、それだけで遠くの異国神で蕃神である金毘羅大権現への信仰が広がったのでしょうか。
海に関係ない江戸っ子がなぜ、金毘羅大権現を信仰したのか?ということです。別の視点から問い直すと、
江戸庶民は、金毘羅大権現に何を祈願したかということです。
 それは「海上安全」ではありません。金毘羅信仰が全国的に、広まっていくのは十八世紀後半からです。当時の人々の願うことは「強い神威と加護」で、金毘羅神も「流行神」のひとつであったというのが研究者の考えのようです。
この時期の記録には、
高松藩で若殿様の庖療祈祷の依頼を行ったこと
丸亀藩町奉行から悪病流行につき祈祷の依頼があった
という記事などが、病気平癒などの祈祷依頼が多いのです。朝廷や幕府に対しても、主には疫病除けの祈願が中心でした。ちなみに、日本一社の綸旨を下賜されるに至ったきっかけも、京都高松藩留守居より依頼を受けて院の庖療祈祷を行ったことでした。
「加持祈祷」は修験道山伏の得意とするところです。
ここには金毘羅山が「山伏の聖地」だったことが関係しているようです。祈祷を行っていたのは神職ではなく修験道の修行を積んだ僧侶だったはずです。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果
天狗面を背負っている修験者は、何を語っているのか?
広重の作品の中には、当時の金毘羅神の象徴である「天狗面」を背にして東海道を行く姿が彫り込まれています。彼らは霊験あらたかかな金毘羅神の使者(天狗)として、江戸に向かっているのかも知れません。或いは「霊力の充電」のために天狗の聖地である金毘羅山に還っているのかも知れません。
  信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。四国金毘羅山で修行を積んだ修験者たちが江戸や瀬戸の港町でも「布教活動」を行っていたのではないかと、この版画を見ながら私は考えています。

天狗面を背負う行者
金毘羅神は天狗信仰をもつ金比羅行者(修験者)によって広められた

 修験僧は、町中で庶民の中に入り込み病気平癒や悪病退散の加持祈祷を行い信頼を集めます
そして、彼らが先達となって「金毘羅講」が作られていったのではないでしょうか。信者の中に、大店の旦那がいれば、その発願が成就した折には、灯籠などの寄進につながることもあったでしょうし、講のメンバー達が出し合った資金でお堂や灯籠が建立されていったと思います。どちらにしても、何らかの信仰活動が日常的に行われる必要があります。その核(先達)となったのが、金毘羅山から送り込まれた修験者であったと考えます。信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
金比羅行者によって寄進された天狗面(金刀比羅宮蔵)

 金毘羅神が、疫病に対して霊験があったことを示した史料を見てみましょう
 願い上げ奉る口上
 一当夏以来所々悪病流行仕り候二付き、百相・出作両村の内下町・桜之馬場の者共金毘羅神へ祈願仕り候所、近在迄入り込み候時、その病一向相煩い申さず、無難二農業出精仕り、誠二御影一入有り難く存じ奉り候、右二付き出作村の内横往還縁江石灯籠壱ツ建立仕り度仕旨申し出候、尤も人々少々宛心指次第寄進を以て仕り、決して村人目等二指し加へ候儀並びに他村他所奉加等仕らず候、右絵図相添え指し出し申し候、此の段相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、以上
   寛政六寅年   香川郡東百相村の内桜之馬場
     十月          組頭 五郎右衛門
      別所八郎兵衛殿
これは香川郡東百相村(現高松市仏生山町)桜の馬場に住む組頭の五郎右衛門が、庄屋の別所八郎兵衛にあてて金毘羅灯寵の建立を願ったものです。建立の理由は、近くの村に悪病が流行していた時に金毘羅神へ祈願したところ百相村・出作村はその被害にまったく遭わなかった。そのお礼のためというものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
京都愛宕神社の愛宕神社の絵馬

 「悪霊退散」の霊力を信じて金毘羅神に祈願していることが分かります。ここには「海の神様」の神威はでてきません。このような「効能ニュース」は、素早く広がっていきます。現在の難病に悩む人々が「名医」を探すのと同じように「流行神」の中から「霊験あらたかな神」探しが行われていたのです。
 そして「効能」があると「お礼参り」を契機に、信仰を形とするために灯籠やお堂の建立が行われています。こうした「信仰活動」を通じて、金毘羅信仰は拡大していったのでしょう。ちなみに、仏生山のこの灯籠は、その位置を県道の側に移動されましたが今でも残されているようです。
 金毘羅信仰は、さらに信仰の枠を讃岐の東の方へ広がり、やがて寒川郡・大内郡へも伸びていきます。そこは当時、砂糖栽培が軌道に乗り始め好景気に沸いていた地域でした。それが東讃の砂糖関係者による幕末の高灯籠寄進につながっていきます。。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に寄進された天狗面

 金毘羅信仰の高まりは、庶民を四国の金毘羅へ向かわせることになります
実は大名の代参・寄進は、文化・文政ごろから減っていました。しかし、江戸時代中期以降からは庶民の参詣が爆発的に増えるのです。大名の代参・寄進が先鞭をつけた参拝の道に、どっと庶民が押し寄せるようになります。
 当時の庶民の参詣は、個人旅行という形ではありませんでした。
先ほど述べたとおり、信仰を共にする人々が「講を代表しての参拝」という形をとります。そして、順番で選ばれた代表者には講から旅費や参拝費用が提供されます。こうして、富裕層でなくても講のメンバーであれば一生に一度は金毘羅山に御参りできるチャンスが与えられるようになったのです。これが金比羅詣客の増加につながります。ちなみに、参拝できなかった講メンバーへのお土産は、必要不可欠の条件になります。これは現在でも「修学旅行」「新婚旅行」などの際の「餞別とお礼のお土産」いう形で、残っているのかも知れません。

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丸亀のふたつの金毘羅講を見てみましょう
延享元年(1744)讃岐出身の大坂の船宿多田屋新右衛門の金毘羅参詣船を仕立てたいという願いが認められます。以後、大坂方面からの金毘羅参詣客は、丸亀へ上陸することが多くなります。さらに、天保年間の丸亀の新湛甫が完成してからは参詣客が一層増えます。その恩恵に浴したのは丸亀の船宿や商家などの人々です。彼らはそのお礼に玉垣講・灯明講を結成して玉垣や灯明の寄進を行うようになります。この丸亀玉垣講については、金刀比羅神社に次のような記録が残されています。
    丸亀玉垣講 
右は御本社正面南側玉垣寄付仕り候、
且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、
戸帳料として当卯年に金子弐拾両 勘定方え相納め候蔓・・・・・
但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、
一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
  当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛
  金刀比羅宮文書(「諸国講中人名控」)
とあって、本社正面南側の長い階段の玉垣と内陣の戸帳(20両)を寄進したこと、この講のメンバーは毎年正月と9月の年に2回、およそ180人ほどで参拝に訪れ、その際の賑やかな様を記しています。寄進をお山に取り次いだのは金毘羅門前町の旅館・余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛です。
 玉垣講が実際に寄進した玉垣親柱には「世話方船宿中」と彫られています。そして、人名を見ると船宿主が多いことに気がつきます。
一方、灯明講については、燈明料として150両、また神前へ灯籠一対奉納、講のメンバーは毎年9月11日に参詣して内陣に入り祈祷祈願を受けること、そのたびに50両を寄付する。取次宿は高松屋源兵衛である。
この講は、幕末の天保十二年(1841)に結成されて、すぐ六角形青銅灯籠両基を奉納しています。灯明講の寄進した灯籠には、竹屋、油屋、糸屋とか板屋、槌屋、笹屋、指物屋という姓が彫られていて、どんな商売をしているのか想像できて楽しくなります。玉垣講と灯明講は、丸亀城下の金毘羅講ですが、そのメンバーは違っていたようです。
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瀬戸内海の因島浦々講中が寄進した連子塀灯明堂をみてみましょう
この連子塀灯明堂は、一の坂にあり、今も土産物店の並ぶ中に建っています。幕末ころに作られた『稿本 讃岐国名勝図会 金毘羅之部』に
連子塀並び灯龍 奥行き一間 長十二間
下六間安政五年十一月上棟 上六間
安政六年五月上棟
と記されています。
「金毘羅宮 灯明堂」の画像検索結果
一ノ坂の途中の左側にある重要有形民俗文化財「灯明堂」で、瀬戸内海の島港の講による寄進らしく、船の下梁を利用して建てられています。当時としては、巨額の経費を必要とするモニュメントです。この燈明堂を寄進した因島浦々講中とは、何者なのでしょうか?
 この講は因島を中心として向島・生口島・佐木島・生名島・弓削島・伯方島・佐島など芸予諸島の人々で構成された講です。メンバーは廻船業・製塩業が多く、階層としては庄屋・組頭・長百姓などが中心となっています。因島の中では、椋浦が最も大きな湊だったようで、この地には、文化二年(1805)10月建立の石製大灯籠が残っていて、当時の瀬戸内海の交易活動で繁栄する因島の島々の経済力を示すものです。
生口島の玄関湊に当たる瀬戸田にも、大きい石灯籠があります。
三原から生口島の瀬戸田へ : レトロな建物を訪ねて

これには住吉・伊勢・厳島などと並んで金毘羅大権現と彫られています。自らの港に船の安全を祈願して大灯籠を建てると、次には「海の神様」として台頭してきた金毘羅山に連子塀灯明堂を寄進するという運びになったようです。経済力と共に強力なリーダーが音頭を取って連子塀灯明堂が寄進されたことを思わせます こうして、瀬戸内海の海運に生きる「海の民」は、住吉や宮島神社とともに新参の金毘羅神を「海の神」として認めるようになっていったようです。
金毘羅神
天狗姿の金毘羅大権現(松尾寺蔵)
このような金毘羅信仰の拡大の核になったのは、ここでも金毘羅の山伏天狗たちではなかったのかと私は思います。
金毘羅山は近世の初めは修験者のメッカで、金光院は多門院の院主たちは、その先達として多くの弟子を育てました。金毘羅山に残る断崖や葵の滝などは、その行場でした。そこを修行ゲレンデとして育った多くの修験者(山伏)は、天狗となって各地に散らばったのです。あるものは江戸へ、あるものは尾道へ。
 尾道の千光寺の境内に残る巨石群は、古代以来の信仰の対象ですし、行者達の行場でもありました。また、真言宗の仏教寺院で足利義教が寄進したとされる三重塔や、山名一族が再建した金堂など、多数の国重要文化財がある護国寺の塔頭の中で大きな力を持っていたのは金剛院という修験僧を院主としています。尾道を拠点として、金毘羅の天狗面を背負った山伏達が沖の島々の船主達に加持祈祷を通じた「布教活動」を行っていた姿を私は想像しています。
 そして、ここでは「海の守り神」というキャッチコピーが使われるようになったではないでしょうか。江戸時代の後半になるまでは、金毘羅大権現は加持祈祷の流行神であったと資料的には言えるようです。
金毘羅神 箸蔵寺
阿波箸蔵寺の金毘羅大権現

参考文献 金毘羅信仰の高まり 町史ことひら 91P
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 江戸時代には、各大名の下屋敷などには、その本国の神々が祀られ、それが流行神として江戸庶民の間に爆発的に広がり出すことがありました。金毘羅信仰もそのなかの「流行神」のひとつです。今の私たちは「金毘羅さん」といえば「海の神様」というイメージが強いのですが、金比羅神が江戸でデビューした当時は、どのように見られていたのでしょうか。そして、江戸や大坂などでどのように受け入れられていたのでしょうか。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

「金毘羅祈願文書」から見ていくことにしましょう
 江戸時代に信州芝生田村の庄屋が、金毘羅大権現に願を掛けた願文を見ておきましょう。この村は群馬県嬬恋村に隣接する県境の地域で、旧地名が長野県小県郡東部町で、平成16年の市町村合併によって東御市となっているようです。
  金毘羅大権現御利薬を以て天狗早業の明を我身に得給ふ。右早業之明を立と心得は月々十日にては火之者を断 肴ゑ一世不用ヒつる
  右之趣大願成就致給ふ
 乍恐近上
  金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
千早ふる神のまことをてらすなら我が大願を成就し給う
   九月廿六日       願主 政賢
意訳変換しておくと
金毘羅大権現の御利益で天狗早業の明を我身に得ることを願う。「早業之明」を得るために月々十日に「火断」を一生行い大願成就を祈願する
   金毘羅大権現
     大天狗
     小天狗  
神のまことを照し我が大願を成就することを
   9月26日       願主 政賢


「金毘羅大権現御利薬を以て、天狗早業の明を我が身に得給う」とあり、「天狗」が出てきます。大願の内容は記されていませんが、「毎月十日に火を断つ」という断ち物祈願です。そして祈願しているのは「金毘羅大権現」「大天狗」「小天狗」に対してです。金毘羅大権現とならんで大・小の天狗に祈っているのです。
Cg-FljqU4AAmZ1u金毘羅大権現
前掲拡大図 中央が金毘羅大権現 右が大天狗、左が子天狗
 この祈願文の「大天狗」「小天狗」とは何者なのでしょうか?

 天狗信仰については、金毘羅宮の学芸員を長く務めた松原秀明氏は、次のように記されています。

金毘羅信仰における天狗の存在について、金毘羅大権現を奉祀していた初期院主たちの影響が大きい。別当金光院歴代住職の事歴が明らかになるのは戦国末期の天正前後であり、その当時の住職には「修験的なものが色濃くつきまとって見える」

ここからは次のようなことが分かります。
①金毘羅大権現の初期の中心は「天狗信仰」だったこと
②天狗信仰は戦国末期に金毘羅大権現を開いた金光院の院主によってもたらされたこと
③初期金光院院主は、修験者たちだったこと
金毘羅神
金毘羅大権現とは天狗?(松尾寺蔵)
 なかでも初代金光院院主とされる宥盛は、象頭山内における修験道の存在を確立します。
『古老伝旧記』に、宥盛は「真言僧両袈裟修験号金剛坊」とあり、「金剛坊」という修験の号をもつ修験者であったことが分かります。ちなみに、宥盛は、厳魂と諡名されて現在の奥社に祀られています。

1 金刀比羅宮 奥社お守り
宥盛を祀る金毘羅宮奥社の守護神は、今も天狗

 修験者たちは、修行によって天狗になることを目指しました。
修験道は、日本古来の山岳信仰に端を発し、道教、神道・真言密教の教義などの影響を受けながらを平安時代後期に一つの宗教としての形を取るようになります。山岳修行と、修行で獲得した霊力を用いて行う呪術的な宗教活動の二つの面をもっています。そして、甘南備山としての山容や、神の住まう磐座や滝などをめぐる行場を辺路修行が行われました。
 さらに農耕を守護する水分神が龍る聖地を、崇拝しました。
金毘羅大権現が鎮座する象頭山は、断崖や葵の滝などの滝もあり、「ショーズ山」=水が生ずる水分神の山であり、修験道の行場として中世以来行者たちが拠点とした場所だったようです。この修験道の宗教的指導者は山伏と呼ばれました。

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奥社の岩壁
 天狗信仰を広めた別当宥盛は奥の院(厳魂神社)に祀られている。彼が修行を行った岩壁は「天狗岩(威徳巖)」とも呼ばれています。


山伏とは?

 山伏は鈴掛・結袈裟・脚絆・笈・錫杖・金剛杖など山伏十六道具と呼ばれる独自の衣体や法具をまとって山岳に入って修行します。その姿は、中世の『太平記』では「山伏天狗」と記されるように山の妖怪である天狗と一体視されるようになります。ここに山伏(修験者)と天狗の結びつきが深まります。
中世末に成立したといわれる『天狗経』には、48の天狗が列挙されています。研究者は次のように指摘します。

「天狗侵攻の隆盛は、修験道の隆盛と時期を同じくする」
「江戸時代の金比羅象頭山は、天狗信仰の聖地であった」
 
つまり、戦国末期から江戸時代初期にかけては、象頭山内において天狗信仰が高まった時代なのです。  そして、その仕掛け人が松尾寺の金光院だったようです。
金毘羅大権現は、どんな姿で表されたのでしょうか?

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天狗として描かれた金毘羅神
金毘羅大権現の姿については、次のような言い伝えがあります。

「烏天狗を表している」
「火焔光背をもち岩座に立っている」
「右手に剣(刀)を持つ」
「古くは不動明王のように剣と索を持ち、
飯綱信仰などの影響をうけ狐に乗った姿だった」
江戸時代の岡西惟中『一時軒随筆』(天和二年(1682)には次のようにあります。
万葉のうち、なかの郡にたけき神山有と見えぬ。
これもさぬきの金毘羅の山成べし。
金毘羅の地を那珂の郡といふ也。
金毘羅は、もと天竺の神、釈迦説法の守護神也。
飛来して此山に住給ふ。形像は巾を戴き、左に珠数、右に檜扇を持玉ふ也。
巾は五智の宝冠を比し、珠数は縛の縄、扇は利剣也。
本地は不動明王也とぞ。
二人の脇士有。これ伎楽、伎芸という也。
これ則金伽羅と勢陀伽権現の自作也。
金光院の法院宥栄らただちにかたせ給ふ趣也。
まことにたけき神山ともよめらん所也。
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金毘羅大権現
  金比羅神は、釈迦説法の守護神で天竺から飛んできた神で、本地は不動明王というのです。不動明王は修験者の守護神です。
当時、人々に信じられていた天狗は二種類ありました。
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それが最初に視た願文中の「大天狗」・「小天狗」です。
「大天狗」とは鼻が異様に高く、山伏のような服装をして高下駄を履き、羽団扇を持って自由自在に空中を飛翔するというイメージです。
「小天狗」とは背に翼を備え、鳥の嘴をもつ鳥類型というイメージです。
でそれでは「金毘羅坊」とは、どのような天狗なのでしょう。
 戦国末期に金光院別当であった宥盛(修験号名「金剛坊」)は、自分の姿を木像に自ら彫りました。彼の死後、この像は御霊代(みたましろ)として祀られていました。この木造について、江戸時代中期の尾張国の国学者天野信景は『塩尻』の中に、次のように記している。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。
いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、
手に羽団(団扇)を取る。薬師十二神将の像とは、甚だ異なるとかや。
その姿は「山伏の姿で岩に腰かける」というものでした。
山伏姿であるところから「大天狗」にあたると考えられます。
安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」に見られる金毘羅行者は、この大天狗を背に負っています。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果

 一方「黒春属金毘羅坊」は
「黒は烏につながる」
「春属には親族とか一族の意味がある」ことから
「黒春属金毘羅坊は金剛坊の仲間の烏天狗として信仰された」とします。
つまり、烏天狗ということは、願文中の「小天狗」になります。
 そして大天狗・小天狗は、今でも金毘羅山を護っているのです。
現在の金刀比羅宮奥の院の左側の断崖絶壁に祀られています。

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 以上のことから、最初に見た願文の願主は、金毘羅信仰の天狗についてよく分かっていたようです。信濃の庄屋さんの信仰とは、金毘羅大権現=「大天狗≒小天狗」への信仰、つまり「天狗信仰」にあったと言えるのかも知れません。
天狗面を背負う行者
天狗面を背負った金比羅行者 彼らが金毘羅信仰を広めた
さらに深読みするならば、この時期の信州では天狗信仰を中心とした金毘羅信仰が伝わり、受けいれられたようです。それが信州における金毘羅信仰の始まりだったのです。ここには「金比羅信仰=海の神様」というイメージは見られません。また、「クンピーラ=クビラ信仰」もありません。これらは後世になって附会されたものなのです。
 
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 江戸時代初期の丸亀藩や高松藩の下屋敷に勧請され、当時の「開帳ブーム」ともいうべき風潮によって広く江戸市民に知られ、その後爆発的な流行をみせた金毘羅信仰。
その信仰の中心にあったものは、航海安全・豊漁祈願・海上守護の霊験と言われてきました。しかし、それは近世後半から幕末にかけて現れてくるようです。初期の金毘羅大権現は、修験道を中心とした「天狗信仰」=「流行神の一種」だったようです。その願いの中に、当時の人々が願う「現世利益」があり「大願成就」を願う心があったようです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3
金比羅行者が奉納した天狗面(金刀比羅宮蔵)
参考文献  前野雅彦 金毘羅祈願文書について こと比ら63号(平成20年)
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