瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金刀比羅宮の歴史 > 金毘羅参拝記

 
金毘羅参詣名所図会
暁鐘成(あかつきかねなる)の「金毘羅参詣名所図会」弘化4(1847)

以前に幕末の「讃岐国名勝図会」(嘉永7年(1854))の出版までの経緯をみました。今回は、それよりも少し早く刊行された「金毘羅参詣名所図会」を見ていくことにします。  テキストは「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要」です。

 『金毘羅参詣名所図会』の出版は、弘化4(1847)年です。
作者の暁鐘成は、幕末の大坂の出版界では最も人気のある戯作者で、浮世絵絵師でもあったようです。その出版分野は、啓蒙書、名所図会、洒落本、読本、有職故実、随筆、狂歌など広範囲で、博覧強記ぶりが知られます。彼が40歳という脂ののりきった時に、取り組んだのが「金毘羅参詣名所図会」ということになります。これは、今では香川県立図書館のデジタルライブラリーで見ることが出来ます。その序文には、次のように記します。

今年後の皐月のはじめなりけん、たまもよし狭貫なる象頭山にまうで、みな月の末までかの国わたりにあそび、名くはしき海山けしきあるところどころ、あるは神廟・仏室のたぐひ、あるは宮闕のあと、古戦場など、人のまうでとはんかぎり、玉鉾の道をつくし、夏草のつゆもらさず、その真景を画にうつさせ、かつ古歌・旧記および土人の口碑も正しきは摘みとり、すべてことのさまつばらにかきのせ六巻となし、金毘羅参詣名所図会と号く。(中略)
弘化三とせの長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
  意訳変換しておくと
今年の5月始めに、讃岐の象頭山金毘羅山に詣で、6月末まで讃岐国中を巡った。名所と云われる海山や神廟・仏室の類い、あるいは古戦場などまで、人の行きそうな所のかぎりまで、夏草の梅雨まで、その景色を絵に写させた。また、古歌・旧記や現地の碑文なども正しく読取り、すべてのことを子細に載せて六巻にまとめ、金毘羅参詣名所図会と名付けた。(中略)
弘化三年長月 植松修理権太夫源雅恭朝臣 雅恭しるす 
ここからは、次のようなことが分かります。
①暁鐘成は弘化3(1846)年の閏5 月から6 月末までの2ヶ月間、画家の浦川公佐を連れて讃岐国を訪れて現地調査をおこなったこと。
②名のある海や山などの景勝地、神社仏閣、宮城跡、古戦場を名所として取材した。
③古歌や古典籍類の記述や、土地の人の話・伝承なども正しいものは記載した
 現地調査を行った旧暦6月は、現在の7月にあたり、猛暑に苦しめながらの取材旅行だったようです。現地踏査と絵師の絵をまとめて、出版に漕ぎつけたのが翌年の春になります。その第一巻冒頭に、次のように記します。
①「円亀の津に渡るハ多くハ詣人浪華より船にて下向なすにより先船中より眺望の名所を粗出せり」
②「摂播の海辺ハ先板に詳なれバ、是を省き備前の海浜より著すなり」
意訳変換しておくと
①「丸亀港に渡る参詣人の多くは、浪華から船で向かう者が多いため、まずは船中からの眺望の名所を載せた」
②「摂津・播磨の海辺については既に出版されたものに詳しく記されているので、この図会では備前の海辺から著すこととした」
金毘羅参詣名所図会 「浪華川口出帆之図」
「浪華川口出帆之図」(金毘羅参詣名所図会)
こうして、1巻冒頭には「浪華川口出帆之図」、つまり大坂の河口を発した船出図からスタートします。そして、その次は備前国の歌枕である「虫明の迫門」に一気に飛びます。それを目次で見ておきましょう。

金毘羅参詣名所図会 第1巻目次
金毘羅参詣名所図会第1巻目次

目次の「各名勝」を、谷崎友紀氏が地図上に落とした分布地図です。
金毘羅参詣名所図会 第1巻分布地図
赤点が1巻に出てくる名所分布位置です。大坂にひとつぽつんと離れてあるのが先ほど見た「浪華川口出帆之図」になります。そして、次が「虫明の瀬戸」です。そのほとんどが備前沿岸部か島々になります。そして、船からみた湊や島の様子が描かれていて、船上からの移り替わるシークエンスを追体験できるように構成されています。これまでにない試みです。

虫開の瀬戸 金毘羅参詣名所図会第1巻
虫明の瀬戸 金毘羅参詣名所図会
2巻以後の巻ごとの名所色分けは、次の通りです。
金毘羅参詣名所図会 名勝分布地図
2巻 橙色 丸亀 → 金毘羅 → 善通寺
3巻 黄色 善通寺→ 弥谷寺 → 観音寺
4巻 黄緑 仁尾 → 多度津 → 丸亀 → 宇多津
5巻 緑  坂出 → 白峰  → 高松
6巻 青  屋島

2巻の名所は橙色で、丸亀湊から金毘羅大権現を経て善通寺までです。
丸亀港 金毘羅参詣名所図会
丸亀港(金毘羅参詣名所図会)
冒頭は、丸亀湊への着船から始まります。備讃瀬戸上空から俯瞰した構図で、金毘羅船が丸亀港に入港する様子や、その奥にある町と城の様子が描かれています。そのあとは、上陸した参拝客がたどる金毘羅街道沿いの名所が取り上げられています。そして、目的地となる金毘羅大権現と境内の建物が取り上げられます。ここからは以前にお話ししましたので省略します。 
3巻は、分布地図では黄色で、善通寺近くの西行庵から始まります。それから西に向かい弥谷寺、三豊の琴弾八幡宮や観音寺のほかに、伊吹島、大島といった讃岐国西部の島々が取り上げらます。
4巻は黄緑で、讃岐の三豊の仁尾の浦(三豊市)から始まります。

仁尾の港 20111114_170152328
仁尾の浦(金毘羅参詣名所図会)
ここでは、島々のほかに海中にみえる特徴的な奇巌なども取り上げられています。それから海岸沿いに東へ向い、海岸寺、多度津、宇多津などが紹介されます。さらに、飯野山を経て、崇徳天皇の過ごした雲井御所の旧跡(坂出市)までが記載されています。
 5巻が緑で冒頭が、綾川です。
白峯寺や崇徳天皇陵の記載がみられる。さらに東へ向かい、札所である国分寺・根来寺などを経て、鷲田の古城(高松市東ハゼ町)までが取り上げられています。
 最終6巻は青で、石清尾八幡宮から始まり、高松城、屋島が取り上げられます。
岩瀬尾八幡 讃岐国名勝図会
石清尾八幡宮(金毘羅参詣名所図会第6巻)
屋島では、源平合戦にまつわる旧跡が紙面の多くを占めています。この巻は、平家一門が逗留したとされる六萬寺(高松市牟礼町)で終わっています。

屋島山南麓、古高松、吉岡寺、鞍懸松img35
屋島山南麓(金毘羅参詣名所図会)

『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所の地理的範囲を、整理しておきます。
①「金毘羅参詣名所図会」という書名ではあるが、金毘羅大権現以外の名所も取り上げている
②瀬戸内海沿岸の名所を中心に記載している
③金毘羅・善通寺以外では、内陸部の名所は取り上げていない
④屋島から東部は取り上げられていない
⑤四国霊場札所がよく取り上げられている
①については、丸亀に上陸した金毘羅参詣客は、金毘羅山だけでなく善通寺・弥谷寺・海岸寺・道隆寺という「七ケ寺参り」を行っていたことを以前にお話ししました。十返舎一九の弥次さん・喜多さんもそうでした。ついでに何でも見てやろうという精神が強かったようです。そのため観音寺や仁尾などの海沿いの名勝地も含めたのかもしれません。
④については、『名所図会』の作成段階では、続編を作るつもりだったようです。冒頭に次のように記しています。

「其境地を妄失して朧気なるハ、図を出さず。且炎暑の苦熱に労れて碑文など写し得ざるあり。則ち雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石の類ひなり。是等ハ再回彼土に渡海し、委く写して拾遺の編に詳かにすべし」

意訳変換しておくと
「各名所を訪ねたが記憶が曖昧なところ、炎暑のために碑文などが写せなかった所がある。それは、雲井の御所の碑、太夫黒の碑、花立碑、宝蔵一覧の記、霊験石などである。これらについては、再度訪問し、写して拾遺編(続編)で詳細にするつもりである」

 しかし、続編が出版されることはありませんでした。
 各名所には、どこが選ばれているのでしょうか、また。その「選考基準」は何なのでしょうか? 谷崎友紀氏は、次のような表を作成しています。
金毘羅参詣名所図会 名所属性
金毘羅参詣名所図会の名所属性別分類表
A 最も多いのは③「堂塔伽藍 196ヶ所」、その次が②「神社仏閣 90ヶ所」で、寺社関係の名所が多い
B その次に多い④「旧跡 90ヶ所」には、源平合戦の古戦場などが含まれる。
 上位3つは③②④が圧倒的に多いことをここでは押さえておきます。『金毘羅参詣名所図会』に取り上げられた名所は、寺社と旧跡が中心だと研究者は判断します。
 
下表は研究者が、構図を近景から超遠景の4 つに分類したうえで、名所の属性別に集計をしたものです。
金毘羅参詣名所図会 名所構図

ここからは次のようなことが分かります。
①伝承と寺社が突出して多いこと
②3番目に多いのが和歌関係、4番目が旧跡
③構図をみてみると、最も図絵の多い伝承は近景・中景の構図で描かれている
④寺社は、すべて遠景で描かれている。
④の寺社を遠景で描くのは、『都名所図会』で秋里籬島が最初に用いた手法と研究者は指摘します。鳥瞰図のように俯瞰的な視点で描くことで、堂塔塔頭を含む寺社を1枚の絵におさめることができるようになりました。
伝承は、旧跡にまつわる過去の様子を想像で描いたものです。
例えば、丸亀の光明庵で法然が井戸を掘ったという伝承や、屋島合戦で那須与一が扇を射る様子がこれに当たります。鐘成自身が取材に訪れて目にした名所の様子ではなく、伝承上の場面を近い視点から描いています。
『金毘羅参詣名所図会』を見ると、海辺の風景が多いのに気づきます。
海上からの風景は1巻、陸上からの風景は 3・4 巻に多く載せられています。大坂から丸亀へ向かう1巻では、実際に船上からみた風景が描かれています。
img000038小下津井
下津井 金毘羅参詣名所図会第1巻

また西讃(現在の観音寺市・三豊市)の名所を取り上げた3・4巻では、海岸からみた風景が描かれています。
鰆網 20111115_054301812
鯛網(金毘羅参詣名所図会)
とくに海上からの風景には、海や山といった自然景のほかに、湊の様子、家々が建ち並ぶさま、停泊・航行している船、塩浜で塩をつくっている人々の生活といった人文景・生活景が描かれています。

このような図絵の上部には和歌が添えられています。

筆の山 第三巻所収画像000010
善通寺五岳 筆の山(金毘羅参詣名所図会)

名所として描かれた風景に和歌を付けるのは、『都名所図会』からの伝統のようです。しかし、金毘羅参詣名所図会の風景は、自然景と人文景・生活景が入り混じった風景で、少し色合いが異なるようです。
以上見てきたように描かれた対象は,伝承と寺社が多く,信仰的な要素が強いようです。しかし、「新しい風景の見方の萌芽」が見られると研究者は指摘します。歌枕と旧跡をもとめて旅をしていた旅人たちは,伝統的な風景観から脱却し,自然の景観を美しい風景としてもとめるようになります。
 その萌芽が「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」だと谷崎友紀氏は指摘します。

金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022
「下津井ノ浦ノ後山扇峠より南海眺望之図」(金毘羅参詣名所図会)

 鷲羽山の扇の峠からみたもので、「近代的な風景観の萌芽」とも云えます。ほかにも,海上から湊を望む図絵には,停泊する船や建ち並ぶ家々といった人文景と,塩浜の製塩業や漁業の様子といった生活
景が描かれており,ここでも和歌に表象された風景ではなく,実際の風景が名所として描かれていた。

以上を整理しておくと
①「金毘羅参詣名所図会」は、弘化4(1847)年に、大坂の暁鐘成によって出版された
②彼は、出版のために絵師を伴い約2ヶ月間、讃岐を現地調査した。
③備前からはじまり 丸亀 → 琴平 善通寺 → 観音寺 → 庄内半島 → 多度津 → 丸亀 → 坂出 → 高松 → 屋島の順に、讃岐の名所をセレクトして6巻の絵図とした
④しかし、屋島以東や内陸部は取材対象とはならず、名勝も描かれいない
⑤名勝に選ばれたのは、「神社仏閣・堂塔伽藍・旧跡」が多い。
⑥しかし、美しい自然の景観や、シークエンスを描くなど、伝統的な名所旧跡紹介から抜け出そうとするものもある。

この「金毘羅参詣名所図会」の公刊の数年後に出版されるのが「讃岐国名勝図会」になります。

讃岐国名勝図会表紙

讃岐国名勝図会は、金毘羅参詣名所図会が取り上げられなかった屋島以東の名勝からスタートします。そして、西讃の名所については出版されることはありませんでした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「谷崎友紀  近世讃岐の名所と金毘羅参詣に関する基礎的な研究 ~『金毘羅参詣名所図会』を題材に~ せとうち観光専門職短期大学紀要
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瀬戸内海航路 伊予沖
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 鞆からは備中・備前側の備讃瀬戸北航路をたどるルートと、塩飽に立ち寄ってからさらに東を目指す航路がありました。しかし、ここではそのどちらも取らずに、讃岐多度津に渡ります。
金毘羅船 航海図宮島
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箱御埼(三崎:荘内半島)は、讃州の西端にあって、荘内村大字箱浦に属す。備中国所属の武嶋(六島)と向き合うこと、二海里余(約4㎞)の距離である。塩飽諸島は北東方に碁石を打ったように散らばり、栗島が一番近い島である。三崎(荘内)半島の先端には海埼(みさき)明神の祠がある。
 この岬は、西北に伸びて、十三海里で備後津に至る。その間に、武嶋(六島)、宇治島、走島がある。(中略)
水路志には、次のように記されている。
 三崎半島は、讃岐の西北部にあって、塩飽瀬戸と備後灘とを分ける。東方より航走してきた船は、ここで北に向かうと三原海峡、南に行くと来島海峡に行くことになる。
ここからは次のようなことが分かります。
①荘内半島は備讃瀬戸から鞆・尾道・三原に向かう航路と、来島海峡に向かう航路の分岐点であったこと。
②海埼(みさき)明神の祠があったこと、

江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と
    米田松洞一行を乗せた千代丸は、鞆を出て多度津に向かいます。
晴天  多度津着 
十二日今朝六半時分出帆 微風静濤讃岐タドツ之湊二着船夕ハツ半時分也。風筋向イ雨ヲ催シ 明日迄ハ此処二滞在之由 御船頭申候。左様ナラバ明日昆(金)比羅二参詣すべしと談し候得者 三里有之よし 隋分宜ク阿るべし卜申候 明日船二残る面々ハ今晩参詣いたし度よし申候二付任其意候野田一ハ姫嶋伝 内門岡左蔵林弥八郎此面々今晩参詣 夜二入九ツ時分帰る
 意訳変換しておくと 

十二日の早朝六半(午前7時)頃に出帆 微風で波も静かで、讃岐多度津港に夕刻ハツ半(4時頃)に着船した。明日の天気は、向風で雨なので多度津に停船だと船頭が云う。そうならば明日は、金毘羅参詣をしようと云うことになる。金毘羅までは三里(12㎞)だとのこと。船の留守番も必要なので全員揃っての参拝はできない。そこで船の留守番のメンバーは今晩の内に参詣するようにと申しつけた。それを受けて野田・姫嶋伝内・門岡左蔵・林弥八郎の面々は今晩参詣し、夜中の夜二入九ツ(12時)時分に帰ってきた。

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金毘羅参詣名所図会 下津井より南方面合成画像000022

下津井からの丸亀方面遠望(塩飽の島々と讃岐富士)

十三日今朝小雨如姻 五ツ過比占歩行二て昆比羅へ参詣 一丁斗参候得者 雨やむ道もよし已 原理兵衛御船頭安平十次郎尉右工門 同伴也 供二ハ勘兵衛 澄蔵白平八大夫又右工門仲左工門なり 兼て船中占見覚候 讃岐ノ小富士トテ皆人ノ存シタル山アリ 此山之腰ヲ逡り行扨道筋ハ上道中ノ如ク甚よし 道すがら茶屋女多ク 上道中同前二人ヲ留ム銭乞も多し 参詣甚多し 

意訳変換しておくと
十三日の朝 小雨に烟る中を 五ツ過(7時)頃に歩行で金毘羅参詣へ向かう。少し行くと雨も止んだ。同伴は原理兵衛・御船頭安平十次郎・尉右工門、供は勘兵衛・澄蔵・白平八大夫・又右工門・仲左工門の8人である。船中からも望めた讃岐小富士や象頭山の全景がよくが見えてきた。この山腰を廻って多度津街道を進む。その道筋ハ東海道中のように整備されている。道すがらには茶屋女が多くいて、銭乞も多い。参詣者の数が多く街道は賑わっている。 

多度津街道参拝図2
多度津ー金毘羅街道

多度津ー金毘羅街道は、善通寺を経由しますが、ここでも善通寺については何も触れられていません。当時の善通寺は金堂は再興されていましたが五重塔などはなく、弘法大師伝説も今ひとつ庶民には普及せずに旅人にとって魅力ある寺社という訳ではなかったようです。それに対して善通寺が五重塔再興などの伽藍整備に乗り出すのは、19世紀になってからのことのようです。この時点では、米田松洞一行は、行きも帰りも善通寺は素通りです。

 金比羅からの道標
金毘羅より各地への距離(金毘羅参詣名勝図会)
四ツ時過二本町二着 是二而足ヲ洗イ衣服ヲ改ム 町筋之富饒驚入候 上道中本宿之大家卜同前二て候 作事甚美麗ナリ 商売物も萬也 遊君も多し 旅人行代候林真二京都の趣也 
則丸亀公之御領分也 夫占坂二かかるル坂殊之外長クして急なり 何レも難儀二て甚夕おくれ候
拙者ハ難儀二少も不覚呼吸も平日之通リニ有之候 十次郎先二立参候がやがて跡二成候 山中甚広シ本社迄ハ暗道ニテ幾曲モまがる甚険ナリ 社内桜花甚見事目ヲさます已 今不怪賞シ被申候 鳥井赤金張ナリ金色朧脂ノ如し 見事なる事也本社ハ不及申末社迄も結構至極扨々驚人事也 絵馬も甚よし 真言寺持也 寺も大キ也 是亦佳麗可申様無之候拝シ終り夫占社内不残巡覧ス 何方とても結構之事驚大候 
意訳変換しておくと

DSC01351坂下と芝居小屋
元禄期の大祭寺の金毘羅 上部が内町から坂町への参拝道。下部が芝居小屋や人形浄瑠璃小屋が描かれている。
 四ツ時(10時)過に金毘羅本町に到着。
ここで足を洗って衣服を改める。町筋の富貴は驚かされる。東海道の道中の本宿と同じような大家が並び、しかも造りが美麗である。商売物も多く、遊女も多い。旅人も多くまるで京都の趣がする。ここは丸亀公の御領分(実際は、朱印地で寺領)である。
 本社までの坂は長く、急である。拙者は、少しも難儀に感じることはなく、呼吸も平常通りであったが、十次郎は先に立っていたが、やがて遅れるようになった。
 境内は山中のようで、非常に広い。本社までは森の中の暗い道で、いくつもの曲がりがある。社内の桜が見事で目を楽しませてくれる。 
 さらに境内の建物類も素晴らしい。鳥居は金張で、金色に光り輝いて、見事なものである。本社は言うに及ばず末社に至るまで手の込んだ物が多く人を驚かせる。絵馬もいい。金毘羅大権現は、真言寺であり、寺の建物も大きく立派で、佳麗でもあった。参拝が終わり 社内を残らず巡覧したが、どこを見ても結構なことに驚かされる。
金毘羅本社絵図
金毘羅本社(金毘羅参詣名勝図会)
当時の旅人の視点は、街並みの立派さや建物の大きさ、豪壮そうに目が行きます。「わび・さび」を指向する感覚はありません。そして、京都や東海道と比較して、ランク付けするという手順になります。生駒氏や松平頼重の保護を受けて整備されてきた社殿群が、遠来からの参拝客の目を楽しませる物になっていたことがうかがえます。逆に言うと、地方でこれだけの整備された社殿群や伽藍を持っていた宗教施設は、当時は稀であったことがうかがえます。それが、賞賛となって現れているのかも知れません。
 そうだとすれば、他の宗教施設は「目指せ! 金毘羅」のスローガンの下に、伽藍や社殿を整備し、参拝客を呼び込もうとする経営戦略を採用する人達も現れたはずです。それが讃岐では、善通寺や弥谷寺・白峰寺・法然寺などで、周辺では阿波の箸蔵寺、備中の喩伽山蓮台寺などかもしれません。
観音堂 讃岐国名勝図会
金毘羅観音堂
 又忠左工門事ヲ申出ス 山ヲ下り本之町屋へ立寄候得者早速昼飯ヲ出ス 是亦殊之外綺麗ナリ 酒取肴等二至マテ上品ナリ 是ハ上道中二十倍勝レリ
酒も美ナリ 宮仕之女も衣服綺麗ナリ 湊占是迄百五拾丁之道程也 食餌等仕舞帰路二向フ雨も今朝之通二てふらず よき間合也 暮前ニタドツニ帰ル 夫占少々ふり出し候 
扨江戸大火之よし 則丸亀之御飛脚江戸占早打二て参慄よし 里人共申慄驚大慄 然共たしかの
儀不相知 一刻も早ク室二到可致承知卜出船ヲ待 風よく明日ハ出帆のよし 御船頭申候 太慶ス
意訳変換しておくと
 山を下て門前に立寄って昼飯をとる。この料理も殊の外に綺麗で、酒や肴に至るまで上品である。これは、東海道の街道筋の店に比べると二十倍勝っている。酒もうまく、宮仕女の衣服も綺麗である。多度津湊までは、150丁の道程である。昼食を終えて、帰路に着く頃には、雨も止んでいた。いい間合だ。暮前には、多度津に帰ってきたが、それからまた雨が少々降り始めた。
 多度津で江戸大火のことを聞く。丸亀藩の江戸からの飛脚早打の知らせが届き、町人たちは驚き騒いでいる。しかし、詳細については知ることが出来ない。一刻も早く室津に向かおうと出船を待つ。そうしていると、明日は風もよく出帆できるとの知らせがあった。太慶ス
4344104-39夜の客引き 金山寺
夜の金毘羅金山寺町 客引き遊女たち
金毘羅大権現の名を高めたのは、宗教施設だけではなかったようです。門前の宿の豪華さや料理・サービスなども垢抜けた物を提供していたことが分かります。さらに芝居小屋や富くじ、遊郭まで揃っています。富貴な連中が上方を始め全国からやってきて、何日も金毘羅の宿に留まって遊んでいます。昼間は遊女を連れ出して、満濃池に散策し、漢詩や短歌を詠んでいます。金毘羅は信仰の街だけでなく、ギャンブルや遊戯・快楽の場でもあったのです。熊本藩の中家老は、金毘羅門前に泊まることはありませんでした。そのため夜の金比羅を見ることはなかったようです。

江戸の大火
明和の大火の焼失エリア(赤)
 多度津に帰ってみると「江戸大火」の知らせが丸亀藩の飛脚によってもたらされていました。
 この時の大火は「明和の大火」とよばれ、江戸の三大大火とされている惨事です。明和9年2月29日(1772年4月1日)に、目黒行人坂(現在の目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれ、出火元は目黒の大円寺。出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火です。真秀は火付盗賊改長官・長谷川宣雄の配下によって捕縛され、市中引き回しの上で、小塚原で火刑に処されています。
 金毘羅船 航海図C10
晴天十四日
朝五ツ時分占出帆 無類之追風也 夕飯後早々室之湊二着船 御船頭安平を名村左大夫方二早速使二遣シ江戸大火之儀を間合 慄処無程安平帰り 直二返答可申由二て 直二側二参申候ハ目黒行人坂右火出桜田辺焼出虎御門焼失龍口へかかり御大名様方御残不被成候よし上野仁王門焼候よし風聞然共此方様御屋敷之儀如何様共不承よし大坂二問合候得共今以返飼申不参候

  意訳変換しておくと
晴天十四日朝五ツ(8時)頃に多度津港出帆 無類の追風で、夕飯後には早々と室津に着船した。早々に、船頭の安平を室津の役人左大夫の所に遣って、江戸の大火之について問い合わさせた。安平が聞いてきた情報によると、目黒行人坂が火元で、桜田辺から虎御門の龍口あたりの大名屋敷は残らず燃え落ちたとのこと。上野の仁王門も焼けたという。風聞が飛び交い、当藩の屋敷のことについてもよく分からない。大坂屋敷に問い合わせたが、今だに返事を貰えないとのこと。
 明日の出帆について訊ねると「順風です」とのこと。そこで明日、灘に渡ってから対応策を考えることにする。

  多度津までは、街道や海道の桜を眺めてののんびりとした旅模様でした。ところが多度津以降の旅は、江戸の大火を受けて対応策を考えながらの旅になります。そのため桜や周囲の景色についてはほどんど記されることがなくなります。

  以上をまとめておくと
①17世紀後半に、髙松藩初代の松平頼重によって整えられた金毘羅の社殿や伽藍は、その後も整備が続けられ、19世紀には近隣に類のない規模と壮麗さを兼ね備えるようになった。
②それを受けて、九州の大名達の参拝や代参が行われるようになった。
③さらに九州と上方や江戸を行き来する家中や商人たちも、金比羅詣でを行うようになった。
④その際の参拝スタイルは多度津港に船を留めて日帰りで参拝するもので、多度津や金毘羅の宿を利用することはなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』について

 前回は延岡藩の大名夫人である充真院の金毘羅参拝を見ました。その中で、多度津港に入港後にどうして港の宿に入らないのか、また、どうして日帰りで金比羅詣でを行うのか、金毘羅門前町の宿を利用しないのかなどの疑問が湧いてきました。そこで、90年ほど前の熊本藩の家老級の人物の金比羅詣でと比較して、見ておこうと思います。
テキストは「柳田快明   肥後藩家老金毘羅参拝『松洞様御道中記(東行日録)』です。
 肥後藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を残しています。
この旅行の目的は、松洞が江戸詰(家老代)に任命されての上京でした。まず米田松洞について、事前学習しておきます。

□肥後物語 - 津々堂のたわごと日録
肥後物語

米田松洞は、享保五年(1720)11月12日生で、「肥後物語」には次のように記します。
「少きより学問して、服部南郭を師とし、詩を学べり、器量も勝れたる人(中略)当時は参政として堀平太の政事の相談の相手なり」

また『銀台遺事』には
「芸能多識の物也、弓馬軍術皆奥儀を極、殊に幼より学問を好て、詩の道をも南郭に学び得て、其名高し」

彼は家老脇勤方見習・家老脇など諸役を歴任し、寛政9年(1797)4月14日78歳で死去しています。金比羅詣では52歳のことのようです。
それでは『松洞様御道中記』を見ていくことにします。   
晴天2月25日 朝五時分熊本発行新堀発
晴天  26日 五半比 大津発行 所々桃花咲出桜ハ半開 葛折谷辺春色浅し 
晴天  27日 朝六時分 内牧発行 春寒甚し霜如雪上木戸ヲ出し 九重山雪見ル多春山ヲ詠メ霊法院嘉納文次兄弟事ヲ度々噂ス野花咲乱レ見事也
晴天  28日 朝五時分 久住発行 途中処々花盛春色面白し 

旧暦2月末ですから現在の3月末あたりで、桜が五分咲き熊本を出立します。
肥後・豊後街道
熊本から大分鶴崎までの肥後街道
そして、阿蘇から九重を突き抜け、豊後野津原今市を経て、大分の鶴崎町に至っています。この間が4日間です。

今市石畳
野津原今市

熊本藩は「海の参勤交代」を、行っていた藩の一つです。
『熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図』には、江戸から帰国した熊本藩主の船が豊後国鶴崎(大分市)の港に入港する様子が描かれています。
熊本藩の海の参勤交替
熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図
 ひときわ絢爛豪華な船が、藩主が乗った波奈之丸(なみなしまる)で、細川氏の家紋「細川九曜」が見えます。こうした大型の船は、船体に屋形を乗せたことから御座船(ござぶね )と呼ばれていました。熊本藩の船団は最大で67艘、水夫だけで千人にのぼったとい説もあります。いざという時には、瀬戸内海の大きな水軍力として機能する対応がとられていたようです。出港・入港の時は鉦(かね)や太鼓に合せて舟歌を歌ったと云いますから賑やかだったことでしょう。
 一説によると、加藤清正は、熊本に来る前からどこを領地にもらおうか、目安をつけていたと云います。「秀吉さまの大阪城へ出向くときに、便利なように」という理由で、天草とひきかえに、久住・野津原・鶴崎を手に入れたと云います。その後一国一城令で鶴崎城は廃城とされて、跡には熊本藩の鶴崎御茶屋が置かれ、豊後国内の熊本藩所領の統治にあたります。宝永年間(1704〜)には細川氏の藩船が置かれ、京都や大阪との交易地としても繁栄するようになります。

大分市東鶴崎の劔八幡宮(おおいた百景)
鶴崎の剣神社

 鶴崎には、細川氏建立の剣神社があり、先ほど見た「細川船団」の絵馬「波奈之丸入港図」や絵巻物がまつられています。"波奈之丸"とはいかなる大波にもびくともしない、という意味で航海の無事を祈願してつけられたようです。 ここでは、熊本藩が大分鶴崎に、瀬戸内海への拠点港を持っていたことを押さえておきます。ここをめざして、米田松洞は阿蘇を超えてきたのです。

晴天  29日 朝六時分 野津原発行 今日益暖気 鶴崎町 今度乗船二乗組之御船頭等出迎。直二寛兵衛宅へ休夕飯等馳走 寛兵衛父子も久々二て対面 旧来之事共暫ク咄スル

 鶴崎に着いた日は晴天で、温かい日だったようです。野津原から到着した一行を、船頭などの船のスタッフが迎えます。その後、馴染みの家で夕食を世話になっていると、江戸参府を聞きつけた知人たちが「差し入れ」をもって挨拶にやってきます。それを一人ひとり書き留めています。宿泊は船だったようです。

夕飯 右少雨六ツ比二乗船 御船千秋丸十三反帆五十丁立
右御船ハ元来丸亀二て京極様御船ナリ 故アリテ昔年肥後へ被進候 金具二者今以京極様御紋四目結アリ 甚念入タル仕立 之御船也 暫クして鏡寛治被参候 重田治兵衛も被参候 緩物語二て候熊本へも書状仕出ズ今夜ハ是二旅泊

意訳変換しておくと
今回乗船するのは千秋丸で十三反帆五十丁の規模の船である。この船は、もともとは丸亀の京極様の船である。故あって、肥後が貰い受けたものなので、金具には今も京極様の御紋四目結が残っている。念入に仕立てられた船である。しばらくして鏡寛治と重田治兵衛がやってきて歓談する。その後、熊本へも鶴崎到着等の書状を書いた。今夜は、この船に旅泊する。

千秋丸は、以前には丸亀京極藩で使われていた船のようです。
 それがどんな経緯かは分かりません肥後藩の船団に加えられていたようです。十三反帆とあるので、関船規模の船だったのでしょう。
薩摩島津家の御召小早 出水丸
薩摩島津家の御召小早 出水丸(八反帆)

上図の島津家の小早船)は、帆に8筋の布が見えるので、8反帆ということになります。千秋丸は十三反帆ですので、これより一回大きい関船規模になるようです。

十二反帆の関船
12反帆規模の関銭

 鶴崎に到着したときに出迎えた千代丸の船頭以下の乗船スタッフは次の通りです。
  御船頭   小笹惣右工門       
  御梶取   忠右工門
  御梶替   尉右工門
  御横目   十次郎
  小早御船頭 恩田恕平
  同御船附  茂太夫
  彼らは船の運航スタッフで、この下に水夫達がいたことになります。また、この時には、関船と小早の2隻編成だったようです。
ところが出港準備は整いましたが、風波が強く船が出せない日が続きます。
一度吹き始めた春の嵐は、止む気配がありません。それではと小早舟を出して、満開の桜見物に出かけ、水夫とともに海鼠をとって持ち帰り、船で料理して、酒の肴にして楽しんでいます。その間も、船で寝起きしています。これは、航海中も同じで、この船旅に関しては上陸して宿に泊まると云うことはなかったようです。
 六日目にようやく「風起ル御船頭喜ブ此跡順風卜見へ候」とあり、出港のめどがたちます。このように海路を使用した場合は、天候の影響を受けやかったようです。そのため所用日数が定まらず、予定が立ちません。これでは江戸への遅参も招きかねません。そのため江戸後期になると海の参勤交代は次第に姿を消していくようです。

ようやく晴天になって出港したのは3月8日(新暦4月初旬)のことでした。
晴天 八日
暁前出帆 和風温濤也 朝ニナリ見候ヘハ海面池水ノ如シ 終日帆棚二登り延眺ス。御加子供卜咄ス種 海上之事共聞候 夕方上ノ関二着 船此間奇石怪松甚見事也 已今殊ノ外喜二て候花も種々咲交り面白し 
意訳変換しておくと
晴天八日
夜明け前に出帆 和風温濤で朝に見た海面は、おだやかで湖面のようであった。終日、船の帆棚に登って海を眺望する。水夫達といろいろと話をして、海の上での事などを聞く。夕方に周防上関に着く。その間に見えた奇石や怪松は見事であった。また、桜以外にも、種々の花が咲いていて目を楽しませてくれた。
旧暦3月8日に大分を出港して、そのまま北上して周防の上関を目指しています。ここからは18世紀後半には、上関に寄港する「地乗り」コースですが、19世紀になると一気に御手洗を目指す「沖乗り」コースが利用されるようになるようです。

5
江戸時代の瀬戸内海航路
晴天九日暁 
前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁 
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
瀬戸内海航路 伊予沖

上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。
上関 → 大津浦 → 加室 → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗

瀬戸内海航路と伊予の島々

この間、潮待ちのために港へと、出入りを繰り返しますが旅籠に泊まることはなく、潮の流れがよくなると夜中でも出港しています。
万葉集の額田王の歌を思い出します。
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
現代語訳(口語訳)
熟田津で船に乗ろうと月が出るのを待っていると、潮の流れも(船出の条件と)合致した。さぁ、今こそ漕ぎ出そう。

 潮が適えば、素早く漕ぎ出しています。以前にお話したように、江戸時代の瀬戸内海の寄港地は、すぐに潮の流れに乗れる所に開けている。室津や鞆を見ても分かるように、広い湾は必要なかったのです。それよりも潮流に近い湊の方が利用価値が高く、船頭たちからも好ま
れたようです。

御手洗3
御手洗
そして、芸予諸島では地乗りの拠点港である三の瀬(下蒲刈島)ではなく、18世紀になって新たに拓かれた沖乗り航路の拠点である御手洗(大崎下島)に寄港しています。
晴天十日
今朝 出帆微風ナリ 山々節奏盛ナリ甚見事 夜五ッ比御手洗へ着船 十日温風微瀾暁前出帆 朝飯後華子瀬戸二至ル 奇石怪松甚面白シ 此瀬戸ヲ俗二はなぐり卜云実ハ華子卜云 此地海上之様二無之沼水の趣ナリ 殊二面白シ処 桜花杜鵠花筒躊花其外種々の花咲乱レ見事成事共也 潮合呼しくなり候間暫ク掛ル 其内二洲二阿がり花前二て已 今理兵衛御船頭安平恕平十次郎同伴二て酒ヲ勤メ候 嘉平次も参候そんし懸なき処二て花見ヲ致候 已号殊之外面白がり二て候 上二八幡社アリ是二参詣ス宜キ 宮造ナリ湊も賑ハし昼過比潮宜ク候 由申候二付早速本船へ移り 其まま出帆 暮頃湊二着船
意訳変換しておくと
晴天十日
ぬわ(怒和)を早朝に出帆。山々が新緑で盛り上がるように見える中を船は微風を受けて、ゆっくりと進む。夜五ッ(午後8時)頃に御手洗(呉市大崎下島)へ着船
十一日、温風微瀾の中、夜明け前に出帆し、朝飯後に華子瀬戸を通過。この周辺には奇石や姿のおもしろい松が多く見られて楽ませてくれた。 華子瀬戸は俗には、はなぐり(鼻栗)瀬戸とも呼ばれるが正式には、華子であるという。この辺りは波静かで海の上とは思えず、まるで湖水を行くが如しで、特に印象に残った所である。桜花杜鵠花筒躊花など、さまざまな花咲乱れて見事と云うしかない。潮待ちのためにしばらく停船するという。船頭の安平恕平十次郎が酒を勧め、船上からの花見を楽しんだ。この上に八幡社があるというので参詣したが、宮造りや湊も賑わっていた。昼過頃には潮もよくなってきたので、早速に本船へもどり、そのまま出帆し暮れ頃、に着船。
はなぐり瀬戸

来島海峡は、当時の船は魔の海域として避けていたようです。そのため現在では大三島と伯方島を結ぶ大三島大橋が架かるはなぐり(鼻栗)瀬戸を、潮待ちして通過していたようです。この瀬戸の南側にあるのが能島村上水軍の拠点である能島になります。

風景 - 今治市、鼻栗瀬戸展望台の写真 - トリップアドバイザー


 難所のはなぐり瀬戸で潮待ちして、それを抜けると一気に鞆まで進んで夕方には着いています。鞆は、朝鮮通信使の立ち寄る港としても名高い所で、文人たちの憧れでもあったようですが、何も触れることはありません。
江戸時代初期作成の『西国筋海上道法絵図』と

 さて、前回に幕末に延岡藩の大名夫人が藩の御用船(関舟)で、大坂から日向に帰国する際に金毘羅詣でをしていることを見ました。
そこで疑問に思ったことは、次のような点でした。
①御用船の運行スタッフやスタイルは、どうなっているのか。
②どうして入港しても港の宿舎を利用しないのか? 
③金比羅詣でに出かける場合も、金毘羅の本陣をどうして利用しないのか?
以上について、この旅行記を読むとある程度は解けてきます。
まず①については、熊本藩には参勤交替用の「肥後船団」が何十隻もあり、それぞれに運行スタッフや水夫が配置されていたこと。それが家老や家中などが上方や江戸に行く時には運行されたこと。つまりは、江戸出張の際には、民間客船の借り上げではなく藩の専用船が運航したこと。
②については、潮流や風任せの運行であったために、潮待ち・風待ちのために頻繁に近くの港に入ったこと。そして、「船乗りせむと・・・ 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」で、潮流が利用できる時間がくれば、即座に出港すことが求められたこと。時には、「夜間航海」もすることがあったために、宿舎を利用すると云うことは、機動性の面からも排除されたのかもしれません。
 また、室津などには本陣もありましたが、御手洗や上関などその他の港には東海道の主要街道のような本陣はなかったようです。そのために、港では御座船で宿泊するというのが一般的だったのかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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           充真院
   桜田門で井伊大老が暗殺された後、幕府は治安維持の観点から大名の妻子を本国に移すように政策転換します。井伊直弼大老の実姉で、日向の延岡藩・内藤家に嫁いでいた充真院も64歳で、始めて江戸を離れ、日向への長旅につきます。充真院は当時としては高齢ですが、好奇心や知識欲が強く、「何でも見てやろう」精神が強くて、旅の記録を残しています。彼女は、金毘羅さんに詣でていて、その記述量は帰省中に立ち寄った寺社の中で、他を圧倒しています。それだけ充真院の金毘羅さんへの信仰や関心が高かったようです。前回は、金毘羅門前町の桜屋までの行程を見てきました。今回はいよいよ参拝場面を見ていくことにします。テキストは  神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」です。

幕末大名夫人の寺社参詣

内町④にある桜屋で休息をとった後に、本社に向かって出発です
   金毘羅に参詣するためには、今も昔も坂町からの長い階段を登らなければなりません。運動不足の64歳の大名夫人に大丈夫なのでしょうか、不安に覚えてきます。充真院は「初の御坂は五間(900m)もあらん」と記しています。まず待ち構えていたのこの五間(900m)の坂道です。

金毘羅全図 1860年
金毘羅全図(1860年)
充真院はこの坂道のことを次のように記します。

「御山口の坂は、足場悪くてするするとすへり(滑り)、そうり(草履)ぬ(脱)けさるやういろいろ、やうよう人々にたすけられ、用意に薬水杯持しをのみ、やすみやすみて・・」

足元がすべりやすいため草履が脱げないように、御付に助けられながら登り始めます。すべりやすい坂道を苦労して登ることは、高齢で歩くことに不慣れ充真院にとって苦難だったようです。準備していた水を飲んだり、立ち止まったりしながら登ります。
ここで押さえておきたいことは、次の2点です。
①1863年段階の坂町の坂は、石段化されておらず、滑りやすい坂道であったこと。
②参拝用の「石段籠」を使っていないこと。石段籠は、まだ現れていなかった?
坂道を登りきると次は石段が続きます。幾折にも続く石段を見上げて「石段之高き坂いくつも有て」と記します。そのうちに、「行程々につけて気分悪く、とうきしけれと」とあるので、気分が悪くなり、動悸までするようになったようです。「高齢 + 運動不足」は、容赦なく襲ってきます。しかも、この日は6月半ばといっても蒸し暑かったようです。気分が悪くなったのは、無理もないことです。

金毘羅伽藍
金毘羅伽藍図 本坊が金光院

しかし、ここからがながら充真院の本領発揮です。

「ここ迄参詣せしに上らんも残念と思ひ」

と、せっかくここ迄やってきて、参詣できないのは残念である、体調不良を我慢して石段を登り続けるのです。タフなおばあちゃんです。
「かの鰐口有し御堂の前には、青色の鳥居有」
「近比納りし由にて、誠にひかひか(ぴかぴか)して有り」
と、あるので御堂の青色の鳥居の所まで、ようやくたどりつきます。
しかし、ここまでで充真院は疲れ切っていました。

「生(息)もた(絶)へなんと思ひ、死ひやうく(苦)るしく成」

と、息が出来なく成りそうな程であり、死んでしまうのではないかと思うほどの苦しさだったと記します。それでも諦めません。
「さあらは急にも及ぬる故、少し休て上る方よし」  
「とうろう(灯籠)の台石にこしか(腰掛)け休居」
方針転換して、急ぐ必要はないので少し休憩してから登ろうということにして灯籠の台座の石に腰掛けて休みます。休んでいる間も「マン・ウオチング」は続けています。盲目の人が杖にすがりながら降りてくるのが見えてきます。それを見て、体が不自由な人も信心を持って参拝しているのに、このまま疲れたからといって引き返すのは「残念、気分悪い」と充真院は思います。そして、次のように決意するのです。
「御宮前にて死度と思、行かねしはよくよくノ、はち(罰)当りし人といわれんも恥しくて、参らぬ印に気分悪と思へは猶々おそろしく」
「夫(それ)より、ひと度は拝し度と気をは(張)り」
「又々幾段ともなく登り」
「死ぬのなら御宮に参拝してから死にたい、参拝しなければ罰当たりであると人に言われるのは恥ずかしい、参拝せずに気分が悪いというのはなおさら畏れ多い。とにかく一度は参拝しようと固く決意したのだ。頑張ろう」と自分にむち打ちます。そして再び登り始めます。

金毘羅本社絵図
金毘羅本社
 こうして、充真院は御堂(本社)にたどりつきます。
「御堂の脇に上る頃は、め(目)もく(眩)らみ少しいき(息)つきて」
「御堂のわき(脇)なる上り段より 上りて拝しけれと」
本堂に到着する頃には目が眩み息が少し荒くなっていました。それでも、本堂の横の階段から本堂に上がり参拝します。その時に、疲れ切っているのに、御内陣を自分の目で確認しようとしています。
「目悪く御内神(陣)はいとくろう(暗く)してよくも拝しかねしおり、やうよう少し心落付しかは薄く見へ、うれしく」
「御守うけ度、又所々様へも上度候へ共」
「右様成事にて、只々心にて思へる計にて御宮をお(下)りぬ」
意訳変換しておくと

日頃から目が悪く、物が見えにくいことに加えて、本堂内が暗いのでよく見えなかった。が、心が落ちついてからは薄っすらと見えてきた。目が暗さに慣れたからであろう。薄くでも見えたのでうれしかった。お守を授与されたり、他の御堂にも上がって拝みたいと思ったけれど、疲れが甚だしく、さらに目の具合も悪いので、希望は心に留め置いて、本堂を退出して下山することにした。

観音堂 讃岐国名勝図会
本社横の観音堂

下山路の石段の手前には観音堂があります。案内の人から観音堂に上がって拝むかと聞かれますが、「気分悪く上るもめんとう(面倒)」なので外から拝むに留めます。苦しくても、外から拝んでいるところが、信心の深さかもしれません。充真院が御付に助けられながら下山していることは、金毘羅側にも伝わります。
「本坊へ立寄休よと僧の来たりて、いひしまゝしたかひて行し所」

社僧がやってきて、本坊にあがって休憩するよう勧めたようです。その好意に甘え本坊に上がりで休息することになります。

金光院 表書院
金毘羅本坊(金光院)の表書院
本坊とは金光院表書院のことです。充真院は金光院側が休憩するために奥の座敷に通されます。その際に、途中で通過した部屋や周囲の様子を、詳しい記述と挿絵で残しています。

表書院5

まず、玄関については次のように記します。

「りっは(立派)成門有て、玄関には紫なる幕を張、一間計の石段を上り」

図1のように挿絵で玄関先の造り石段、幕、その横の邸獨の植え込みと塀を描いています。挿絵には「何れもうろ覚ながら書」と添え書きをしていていますが、的確に描写です。

金毘羅表書院玄関
          表書院玄関
 玄関には社僧らが充真院を出迎えに出てきています。
そこから一間(180㎝)程の高さの箱段を上り、次に右に進み、さらに左に進むと一間半(270㎝)程の箱段を上がると書院らしい広い座敷があるところの入側を進む。この右へ廻ると庭があり少し流れもあり、植木もあり、向こう側では普請をしています。

金刀比羅宮 表書院4
 表書院
 ここで体むのかと思うと、さらに奥に案内されます。そこに釣簾の下がる書院がありました。これが現在の奥書院のようです。ここには次の間と広座敷があり、広座敷には床の間と違棚がついています。さらに入端の奥から縁に出て右に曲がると箱段があります。ここを上り折れて進むと、板張りの廊下があり直ぐ横の二間(360㎝)程の細長い庭のところに小さな流れがありがあり、朱塗りの橋が二つ架っています。この流れは、表座敷に面した庭に注ぎます。その向いに立派な経堂、さらに段を上り奥へと導かれ、十二畳程の座敷も通り過ぎ、ようやく休憩の部屋にたどり着いています。

5年ぶりに金刀比羅宮の奥書院公開!! | 観光情報 | ホテルからのお知らせ | 琴平リバーサイドホテル【公式HP】
奥書院
その部屋は大きな衝立や台子の有る上座敷で、
「立三間、横二間も座敷金はり付、其上之間之中しきりにはみすも掛け」、

とあるので、縦は三間(540㎝)、横が二間(360㎝)の広さで、周囲を金箔で装飾した豪華な部屋で、座敷の中仕切りとして御簾がかけてあったようです。その隣の上座敷にも釣簾が掛り、畳が二枚敷いてあった。その部屋の向こうには入側があり、庭が広がります。その向こうに讃岐富士が借景として見えてきます。
「庭打こし、海之方みゆる、さぬき富士と云はあの山かと市右衛門尋しかは、左也と云」

庭に出て海の方向を眺めると山が見えたので、市右衛門があの山は讃岐富士かと寺の者に尋ねたところ、その通りとの答えが返ってきます。
第57話 神の庭(奥書院)と平安・雅の庭(表書院) | 金刀比羅宮 美の世界 | 四国新聞社
奥書院の「神の庭」

庭にはよく手入れを施した植木や石灯籠が配してあります。丸い形に整えた皐月は折しも花盛りであった。上段を通りその向こうは用所、左側に行くと茶座敷と水屋が設けてあります。それをさらに行くと次の間があり、向いに泉水や築山がある庭という配置です。
 このように充真院が書いた記録には、書院の間取りが詳しく書かれています。
さっきまで苦しくて抱えられて下りてきていた人物とは思えません。「間取りマニア」だった充真院が、好奇心旺盛に周囲を珍しそう見回しながら案内される様子が伝わってきそうです。充真院は周囲を見た後に「座に付は、茶・たはこ(煙草)盆(出)し候」と、ようやく部屋に座り、出された茶や煙草で一服します。それから「気分悪く少し休居候」と体を横たえて休息をとっています。
「枕とて、もふせん(毛氈)に奉書紙をまきて出し候まゝ、よくも気か付て趣向出来候とわら(笑)ひぬ」
「ねりやうかん(練羊羹)と千くわし(菓子)出し候、至て宜敷風味之由」
金光院側が枕に使うようにと毛離をおそらく巻くか畳んで、奉書紙をかけて整えたものが用意してあるのを見て、充真院は良く気がついてくれたうえ趣向があると、うれしく愉快に感じ笑っています。さらに、と、練り羊羹と千菓子も用意してくれてあり、たいへん美味しかったと記します。疲れ果てた体に甘いお菓子はおいしく感じたようです。
下図2が休憩した部屋の挿絵です。


裏書院4

上が部屋とその周囲の間取り図で、下が休憩した部屋を吹き抜け屋台の視点で立体的に描いたものです。建物の間取観察は、充真院の「マイブ-ム」であったことは以前にお話ししました。「体調不良」だったというのに、よく観察しています。記憶力もよかったのです。上の間取り図には金光院側が用意した茶椀や菓子皿、煙草盆までが描き込まれています。この辺りは、現在の女子高校生のノリです。
 充真院が休憩している間に「八ツ比(午後2時)頃になっていました。御付の者たちは、充真院が体調不良となり、その対応に追われたので、昼食も摂れていません。そこで充真院は
「皆々かわリかわりに下山してたへん」
「そのうちには私もよからん」
と、御付たちに交代しながら下山して食事を摂るように勧めています。その言葉通りに、しばらくして充真院は気分が良くなったので、桜屋に戻ることとになります。
 金光院は、門前に駕籠を待機させます。それに乗って下山します。そのルートについては、次のように記します。
「少し道かわり候哉、石段もなく、初之たらノヽ上りの坂に出、桜やに行く」

ここからは、上りの道とは違った石段のない坂道を下って、桜屋に向ったことが分かります。
以上から私が気になった点を挙げておきます
①充真院参拝についての金毘羅側の対応が鈍いこと。
大名参拝や代参などについては、事前の通知があり、そのための使者の応対マニュアルに基づいて準備します。しかし、この記録を見ると、金毘羅側は本宮に充真院一行が現れるまで、やって来ることを知らなかったような気配がします。大名夫人の参拝と分かってから本坊の表書院に案内したように見えます。前日に、お付きの女中が先行したのは何のためだったのでしょうか。
②どうして金毘羅門前町で一泊しないのか?
早朝夜明け前に、多度津港に係留した関舟からスタートして、夜8時を過ぎて船に帰ってきます。
どうして金比羅の桜屋に泊まらないのでしょうか。宿場の本陣と違って、大名専用貸し切りなどが出来ず、一般客との同宿を避けるためでしょうか。それとも、幕末の藩財政難のための経費の節減のためでしょうか。多度津でも、町の宿には泊まっていません。当時の大名も御座船宿泊で、港には潮待ち・風待ちのために入港するだけだったのでしょうか。この辺りのことは、今の私にはよく分かりません。今後の課題としておきます。

また、善通寺の知名度が低いのも気になることです。充真院の旅行記には善通寺のことが出てきません。門前を通過しているので、触れても良さそうなのですが・・・。東国では、金毘羅と善通寺では知名度に大きな差があったようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
     神崎直美「日向国延岡藩内藤充真院の金毘羅参り」

    金毘羅船 4
金比羅船
延享元年三月(1744)に、「金毘羅船」の運行申請が大坂の船問屋たちから金毘羅大権現の金光院に提出されます。その結果、「日本最初の旅客船航路」とされる金毘羅船が大坂と四国・丸亀を結ぶようになります。以後、金毘羅信仰の高揚と共に、金毘羅船は年を追う毎に繁昌します。こうして、金毘羅船をめぐって、船舶・船宿・観光出版・お土産店など新たな観光産業が形成されていくようになります。 
金毘羅船 苫船
「大阪道頓堀丸亀出船の図」(金毘羅参詣続膝栗毛の挿入絵)

19世紀初め出版された弥次喜多コンビの金比羅詣では、大坂の船宿で金比羅船の往復チケットを購入しています。その際には、どこで買っても同一料金で、原則は往復チケットになっていました。行きも帰りも同じ船に乗ることが原則だったようです。また、大坂の船宿で、金比羅チケットを購入したときに、丸亀や金毘羅の提携宿も決まるシステムだったのは以前にお話ししました。
 こうして増える参拝客をめぐる攻防戦が船宿や指定宿・お土産店屋で繰り広げられるようになります。その際の広告媒介が航路案内図であり、丸亀から金毘羅への参拝案内図であったようです。

丸亀に上陸した参拝客は、ふたたび丸亀から帰路の船に乗ります。そのために手荷物を預かったり、案内図を無料で配布することで、購買客をふやす戦略を採るようになります。この結果。お土産店などが案内図作成を行うようになります。今回は丸亀で配布された金毘羅参拝案内図を見ていくことにします。テキストは「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」です。

丸亀街道 E① 町史ことひら5
E① 「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」クリックで拡大します
E①はタイトルが「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」とあり、このシリーズの初版になるようです。
全体をみて気づくのは丸亀ー琴平の丸亀参拝道だけが描かれているのではないことです。弥谷寺や善通寺が金比羅参拝の「巡礼地」として描かれています。先ほども述べたように、この絵図は丸亀に上陸したときに宿やお土産店などで、参拝客に配布されたようです。参拝者に対しては、丸亀・琴平間の往復ではなく、「金毘羅大権現 + 四国巡礼の七ヶ所廻り」が奨められていたことがうかがえます。丸亀から琴平を目指し、善通寺を経て弥谷寺にお参りし、白方の海岸寺から多度津を経て丸亀に戻ってくると云う周遊ルートが売り出されていたようです。それは、金比羅舟の営業戦略でもあったようです。丸亀で下船したお客を、帰路も乗船させるために、金比羅船は往復チケットを販売します。そのため善通寺・弥谷寺をめぐる周遊ルートが売り出されてのではないかと私は考えています。
E①を、もうすこし具体的に見ておきましょう。
①板元名はない
②丸亀城下の見附屋の蘇鉄が注記されていて、港などは描かれていない。
③丸亀ー金毘羅間の丸亀街道沿いの飯野山などの情報は、何も記されていない。
④金毘羅の門前町から本社までの比率が長く詳細である
⑤桜の馬場が長く広く描かれている。その柵は、木製で石の玉垣ではない
⑥善通寺は五重塔と本堂だけで、周辺の門前町は描かれていない。
⑦弥谷寺は「いやだに」と山名だけ
⑧多度津の情報はなにもない
⑥の善通寺の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月のことです。関東からやってきた廻国行者が善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして10年の勧進活動の後に完成します。建設計画から約80年余の月日を要しています。ここからは、この絵図が書かれたのは、それ以後であることが分かります。ちなみに丸亀福島湛甫が完成するのがその2年後になります。残念ながら絵図には、福島湛甫はエリア外になっています。丸亀街道 E② 町史ことひら5
E② 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E②は、左下欄外に「文化十四(1817)丁丑年 十二月中旬調之 大野」と墨書があるので、それ以前のものであることが分かります。丸亀街道沿いについては、飯野山が描かれ郡家や公文あたりの情報量も増えてきました。それでも左半分は、金毘羅さんのエリアです。
これだと、鞘橋を渡ってすぐに仁王門があることになります。桜の馬場が長すぎます。
 丸亀街道 E③ 町史ことひら5
E③ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
E③は、今までのもととは、俯瞰視点が大きく変わりました。そして家並みなどもしっかりと描き込まれて、情報量も格段に増えました。例えば、左下に「丸亀ヨリこんひらご二り(里) 一ノ坂ヨリ山上下一二十六丁 内町ヨリ善通寺へ七十五丁(以下略)」と各地への里程が書かれています。
 そして、E③には「板本谷一」と板元名が記されます。坂本谷一は、天保初年刊行の「丸亀繁盛記」にも「象頭山・四國巡路の書閲は板本谷一にとどまり」とあるので、当時は有名な絵図屋であったようです。
 描かれた時期は、丸亀に文化三年(1806)に完成した福島湛甫が見えます。また、金毘羅門前町の二本木に小さな鳥居が見えます。ここに江戸の鴻池儀兵衛などによって鳥居が立てられるのは天明七(1787)年のことです。
  また、丸亀のライバル港である多度津港が描かれています。しかし、多度津港新湛甫が完成するのは、天保9年(1838)のことです。まだ桜川河口に船は係留されているようです。
丸亀街道 E⑥ 町史ことひら5
     E⑥ 丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記
 E⑥は、街道が木道のように描かれ、分かりやすくなったことと、丸亀・金比羅・善通寺などの町屋の道筋が描き込まれるようになったのが特徴です。版元は右下に御免板元・吉田屋某と見えます。金毘羅山をみると、金堂が大きくなって描かれています。金堂が完成するのが弘化2年(1845)年ですので、それ以後のもののように思えます。しかし、金堂は瓦葺きのようにも思えます。瓦葺きで葺かれた後に、設計上の問題から銅板葺に改修されています。そうだとすると、1840年よりも前のことになります。以下気づくことをあげておくと次のようなことが分かります。
①多度津街道の終点である高藪に鳥居が描かれていること
②鞘橋を渡った後の内町。金山寺町などが表記されていること
③善通寺は赤門筋が門前町化し、南には街並みはみられないこと
丸亀街道 E⑨ 町史ことひら5大原東野
E⑨

 E⑨はそれまでと「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」とタイトルが変わりました。それまでの絵図と比べると、描写が写実的で細密でレベルがぐーっと上がった印象を受けます。絵師の大原東野は、奈良の小刀屋善助という興福寺南圓堂(西国三十一二所第九番札所)前の大きい旅龍の出身です。京都・大坂で画業活動を行った後に、文化元年(1804)に金毘羅へ移り住み、いろいろな作品を残しています。この人のすごいところは、それだけでなく金毘羅参詣道修理のために「象頭山行程修造之記」を配布して募金活動による街道整備も行っていることです。上方で活躍していた画家が「地方移住」して、残した絵図になるようです。金毘羅周辺の建物構成がきちんと描かれ、後の模範となる作品と評価されます。

この絵図の注目点は他にもあります。タイトルがそれまでの「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」から「金毘羅並びに七所霊場 名勝奮跡細見圖」に変更されています。それに伴い弥谷寺が消えました。善通寺の比重も低くなっているように見えます。うっすらぼやけてこの絵図では本堂も五重塔も見えないようです。実は、文化元年(1804)に再建された五重塔は、天保11年(1840)落雷を受けて焼失してしまいます。5年後の弘化2年(1845)に再建に着手しますが、完成するのは約60年後の明治35年(1902)のことになります。
 一方丸亀港に目を転じると、文化三年(1806)に完成した福島湛甫は見えますが、天保4年(1833)に竣工の丸亀新掘湛甫は、まだ姿を見せていないようです。
丸亀城 福島町3
福島湛甫 (新堀湛甫が姿は見せるのは1833年)

   この絵図には私たちの感覚からすると、金比羅詣案内図に弥谷寺がどうして描き込まれるのという疑問がありました。それが消えたのがこの絵図です。その代わりに登場させたのが「金毘羅並びに七所霊場」です。地元でお参りされた「四国霊場七ケ所詣 + 金毘羅大権現」ということになります。
丸亀街道 E⑩ 町史ことひら5
 E⑩「金毘羅參詣案内大略画」

E⑩「金毘羅參詣案内大略画」は、E⑨と板元が同じ大津屋です。
大津屋は、四国遍路の書物「四國遍路御詠歌道案内」「四國蜜験尋問記」の出版にも関係し、宝暦13年(1762)には「四國遍礼絵図」の板木を買い求めて、文化四年(1807)に、草子屋佐々井二郎右衛門の名で新しく刊行しています。
 丸亀の横開平八郎は、金毘羅参詣や四国遍路のことに強い関心を持っていたようで、大阪の二軒の草子屋と相合版でE⑨・E⑩図を出したことになります。彫工は、どちらも丸亀の成慶堂になっています。なお、この絵図のタイトルは、「金毘羅参詣案内大略圖」です。E⑨を更に進めて、「七ヶ所参り + 金毘羅大権現」から四国辺路巡礼にあたるルートがなくなりました。丸亀街道が、大阪・金毘羅の参詣道最後の道として、大切なものであるとの意識が強くなってきたものと研究者は指摘します。地図の中に描かれた情報は、E⑨と変わりないように見えます。
丸亀街道 E⑪ 町史ことひら5
E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」

E⑪「金毘羅參詣案内大略圖」は標題も板元もE⑩と同じです。
ただ違うのは、丸亀港に新堀湛甫や太助灯籠が描かれています。新堀湛甫の完成は天保4年(1833)のことになるので、E⑩の改訂版と云えそうです。もうひとつ今までと違うところは、左下の枠内の記事のようです。これまでは、ここには丸亀から各地への里程が記されていました。それが金毘羅関係の書物九部の広告が出されています。これは初めての試みです。広告の書物の中には「金毘羅參詣海陸記」も入っています。広告の後には、次のように記されています。

地本弘所書林/丸亀加屋町碧松房/金物屋平八郎(横開平八郎)

  ここからは横開平八郎は房号を碧松房といったことが分かります。金毘羅案内書の名著「金毘羅山名勝図絵」は、大阪の石津亮澄の著作で、大原東野と横開碧松が校者を担当しています。東野は画家なので挿絵担当で、碧松は地理の案内をしたようです。この二人によって、金毘羅参拝絵図にも新風がもたらされたようです。ちなみに別の絵図には、次のように記されています。
「讃岐名産絵図小売おろし所、名物土産舗 丸かめ(丸亀)かや町 金物崖平八郎」

ここからは「地本弘所書林」は「名物土産舗」も兼業していたことが分かります。金物崖平八郎(碧松房)は、観光業の多角経営者であったようです。
丸亀街道 E⑬ 町史ことひら5 
E⑫「金毘羅土産所之圖」       120P
E⑫は仁尾・覚城院の南月堂三の「象頭山金毘羅大権現迢験記」の奥付にある図のようです。もともと、この書は明和六年(1769)、京都の梅村市兵衛・菊屋安兵衛・梅村宗五郎の相合版で出版されました。それを文政二年(1819)12月、丸亀の横闘平八郎が板木を買い取り、自分の名で出版します。その時に、この図を入れ、また丸亀・金毘羅の名物を四ページにもわたって広告します。
当時の金毘羅名物が、飴・湯婆・松茸・索麺・生姜などであったことが分かります。ここでは横開平八郎は「讃岐書堂」と名乗っています。
DSC06659
右側が福島湛甫 左手前が新堀湛甫


以上をまとめておきます。

①18世紀半ばに金比羅船が就航すると、クルージング気分で参拝できる金比羅詣での人気は急速に高まった。
②18世紀後半から19世紀かけて金比羅船関連の船宿・土産物・旅籠・観光出版業なども急成長し、同時に参拝客をめぐる競争も激化した。
③丸亀でも金比羅船にやって来る参拝客に、お土産店などが参拝案内図を無料配布するようになった。
④そのため案内図は、お土産店などが板元になって作成されたものが多くなる。
⑤その案内図の初期のものは、丸亀と金比羅のピストン往復詣ででなく善通寺周辺の四国霊場七ケ所巡りを奨める内容であった。そのため善通寺や弥谷寺が大きく扱われている。
⑥一方、丸亀港のライバルである多度津港の扱いは非常に小さいものとなっている。
⑦19世紀に半ば近くになってくると、弥谷寺や善通寺の比重は次第に低くなり、かわって対岸の備中児島の喩伽山を取り上げる絵図や、阿波の箸蔵寺を取り上げる案内図も出てくる。これも営業戦略のひとつであったようだ。
金毘羅 町史ことひら

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
金毘羅周辺の建造物出現年表
天明2年1782 高藪の鳥居建立。
天明8年1788 二本木銅鳥居建立。
寛政元年1789 絵馬堂上棟。
寛政6年1794 桜の馬場に鳥居建立。多度津鶴橋に鳥居建立。
寛政10年1798 備中梶谷、横瀬に燈籠寄進。
寛政11年1799 丸亀中府に石燈籠建立。
文化元年 1804  善通寺の五重塔完成
文化3年 1806 薬師堂を廃して金堂建築計画。福島湛甫竣工。
文化5年 1808 中府に「百四十丁」石燈籠建立。
文化10年1813 金堂起工式。
文政元年 1818 二本木銅鳥居修覆。
文政5年 1822 十返舎一九撰、「讃岐象頭山金毘羅詣」
文政10年1827 大原東野筆、「金毘羅山名勝図会」。
天保2年 1831 金堂初重棟上げ
天保4年 1833 丸亀新掘湛甫竣工
天保5年 1834 神事場馬場完成、多度津港新湛甫起工。
天保6年 1835 芝居定小屋(金丸座)上棟。
天保7年 1836 仁王門再建発願。
天保8年 1837 金堂二重目上棟。
天保9年 1838 多度津港新湛甫完成。多度津鶴橋鳥居元に石燈籠建立。
天保11年1840 金堂銅屋根葺き終了。多度津須賀に石鳥居建立。
                        善通寺五重塔落雷を受けて焼失。
天保14年1843 仁王門修覆上棟。金堂厨子上棟。
弘化2年 1845 金堂、全て成就。観音堂開帳。
           善通寺五重塔に再建に着手。
弘化4年 1847 暁鐘成、「金毘羅参詣名所図会」。
嘉永元年 1848 阿波街道口に鳥居建立。
嘉永2年 1849 高藪町入口、地蔵堂建立。
嘉永5年 1852 愛宕町天満宮再建上棟。
安政元年 1854 満濃池、堤切れ。
    道作工人智典、丸亀口から銅鳥居までの道筋修理終了。
  高燈籠建立願い。大地震、新町の鳥居崩壊、高藪口の鳥居破損。
安政2年 1855 新町に石鳥居建立。
安政4年 1857 多度津永井に石鳥居建立。
安政5年 1858 高燈籠台石工事上棟。
安政6年 1859 一の坂口鉄鳥居建立。
万延元年 1860 高燈籠竣成。大水、大風あり札之前裏山崩れる。
文久元年 1861 内町本陣上棟。
文久2年 1862 阿州講中、大門から鳥居まで敷石寄付。
慶應3年 1867 賢木門前に真鍮鳥居建立。
武州佐藤佐吉、本地堂前へ唐銅鳥居奉納。
  旗岡に石鳥居建立。
参考文献
    「町史ことひら5 絵図写真篇112P 丸亀からの案内図」
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西高野街道を歩く その4(河内長野駅前~三日市町) | 河内長野おじさんの道楽
高野街道の河内国三日市宿
高野街道の河内国三日市宿は、高野山への参拝客の利用する宿場駅として繁栄してきた街です。ここには金毘羅参拝客をめぐって、紀州加太とライバル関係にあったことが残された史料からは分かります。どうして加太と三日市が対立関係になったのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは 北川央 河内国三日市宿と金毘羅参詣者 ことひら52 H9年です。

河内平野には、四本の高野山への参詣道があります。
まず一番東側には、京都府八幡市の石清水八幡宮を起点に枚方市に入り、生駒山脈の西山麓を南北に真っ直ぐ、交野市・寝屋川市・四条畷市・大東市・東大阪市・八尾市・柏原市と通過し、そこから藤井寺市・羽曳野市・富田林市を経て河内長野市に到るのが東高野街道です。

金毘羅参拝 高野山街道

2番目は西高野街道で、堺市の大小路を起点に、大阪狭山市を通過し、河内長野市の長野町で東高野街道と合流します。
この東高野・西高野の二本の間に、中(上)高野・下高野の二街道があります。中高野街道は、大阪市天王寺区の四天王寺南から奈良へと向かう亀瀬越大和街道(奈良街道)の平野で分岐し、松原市・美原町・大阪狭山市を経内長野市の楠町で西高野街道と合流します。
 このコースの起点である平野は、平安時代初頭に征夷大将軍として覚法法親王が久安四年(1148)六月に高野山を参詣した時に利用した道と推定され、四本の中では最も古くから高野山参詣に利用された道のようです。
最後の下高野街道は、四天王寺を起点として、天王寺区から阿倍野区・東住吉区を経て松原市に入り、堺市・美原町を通過して大阪狭山市の狭山で中高野街道に合流します。もともとは中高野街道の枝道であったと研究者は考えているようです。
河内長野市の長野町で最終的に一本となった高野街道は、紀見峠を越えて和歌山県の橋本市に入り、そこから高野山上へと向います。三日市宿(河内長野市三日市町)は、河内と紀伊との国境紀見峠から三里手前にあり、享和元年(1801)刊行の秋里離島著『河内名所図会』は、その賑いが次のように記されています。
三日市駅
京師・難波よりの高野街道なり。旅舎多くありて、日の斜めなる頃より、出女の目さむるばかりに化粧して、河内島の着ものに忍ぶ染の施襴美しく、往きかふ人の袖引き、袂をとどめて、 一夜の侍女となならはしる事、むかしよりの風俗とかや)
意訳変換しておくと
京都・難波からの高野街道の途上にある。旅籠が数多く有り、日が傾き始めると、遊女達が目が覚めるほどの化粧をして、河内島の着物に忍ぶ染の帯を巻いて、往きかふ人の袖を引く。 一夜の侍女となる習いは、むかしからの風俗だという。

金毘羅街道 高野街道三日市
赤く囲まれたのが三日市町

この賑わいは大阪や京都からの高野山参りだけがもたらしたものではないことが近年明らかになってきました。
三日市には、関東・東北など東国から人たちが押しかけるようになっていたのです。伊勢参りを終えた東国の人たちは、その後に次のようなコースをめぐっているのが分かってきました。
①奈良・大坂・京都の市中見物を行い、中山道を辿る「伊勢参宮モデルルート」と、
②伊勢参宮の後は一番那智山から32番谷汲山まで西国三十三ヶ所の巡礼を行ない、中山道を復路とする「伊勢 十 西国巡礼ルート」

さらに金毘羅信仰が高まる19世紀になると、これに金毘羅や安芸の宮島を加えた次のようなコースも登場するようになります。
③「伊勢 十 西国巡礼ルート + 金毘羅大権現」
④「伊勢 十 西国巡礼ルート + 金毘羅大権現 + 宮島」
西国巡礼をともなうコースは、西国巡礼の途中で四国に渡り、金毘羅参詣を行います。そして、再び西国巡礼の旅に復帰するというコースを設定する必要があります。そのため四国への渡海地としては、播磨国の高砂、室津、あるいは備前国児島半島の下津丼、下村に限られていたことが分かっています。
金毘羅船 航海図C13

 一方、西国巡礼を行わない場合は、児島半島の下村・田ノロの他、備前の片上や、大坂から乗船するケースが多かったようです。西国巡礼をおこなうにしても、行わないにしても三日市宿を利用していたのです。そのため伊勢参りや金比羅参りが増えれば増えるほど三日市を利用する客も増えたのです。

ところが19世紀半ばになると様子が変わってきます
新たな金比羅参拝ルートが開かれるのです。それが紀州加太~阿波撫養ルートです。このルートによって三日市宿は、大きな打撃を受けるようになったようです。それを示す史料を見てみましょう
 嘉永五年(1852)2月16日付で、河州錦部郡三日市駅の駅役人武兵衛と庄屋五兵衛・安右衛門の二人が連名で大坂西町奉行所に次のような願いを提出しています

一、当駅之儀者過半旅籠屋井往来稼仕候而、往古から御用向相勤来候駅所二御座候、外二助成二可相成儀一切無御座候、然ル処、東国筋から伊勢参宮、夫から大和名所を廻り、紀州高野山から大坂江罷出、讃州金毘羅江参拝仕候旅人者、悉く先年から当駅ヲ通行仕候処へ、近年高野山から紀州加太浦、夫から阿州むや江新規之渡海船ノ持、四国路から金毘羅江之道法取縮メ、又当駅大坂江掛り、播州路江之本道之道法者相延し、判摺招之絵図面・道中記を新規二諸国江相弘メ、右二付、西国・中国・四国路之旅人も、金毘羅からむ・かた浦江渡り、高野山、夫から大和名所廻り・伊勢参宮仕、京・大坂江仕道、播州路から国元江罷帰り申候、右様諸国参詣仕候旅人之向者、多分新規之閑道江罷通り、高野山本道之当駅者御用通り而己二相成、実々困窮仕詰、難渋之駅所ニ成候、乍恐御憐察奉願上候、

意訳変換しておくと
 三日市駅は、ほとんどの者が旅籠屋や往来稼で暮らしています。古くから駅として御用を勤め、嘆願などをしたことはありませんでした。かつては、東国からのお伊勢参りの人たちは、大和名所を廻り紀州高野山から当駅を通って大坂へ出て、讃岐金毘羅へ参拝していました。ところが近年になって、紀州加太浦と阿州撫養に新たに渡海船が開設され、撫養から金毘羅までの道のりを短く宣伝し、当駅から大坂や播州路への本道の距離を長く記した絵図面・道中記を新規に摺って諸国に広める始末です。そのため西国・中国・四国路の旅人までが、金毘羅から加太浦へ渡り、高野山から大和名所廻りや伊勢参りを行い、京・大坂を通って播州路から国元へ帰るコースを取るようになってしまいました。このように、諸国参詣の旅人が新規の閑道を利用し、高野山本道である当駅を通らないようになって、誠に困窮しております。つきましては・・・

ここからは次のようなことが分かります。
①三日市宿は、かつては東国から伊勢参りを終えた人たちが、奈良や京都の名所巡りをしたのち高野山に詣で、それから大坂に出て金毘羅参詣に向かうコースの駅として大きな賑いがあった。
②ところが、19世紀になって紀伊の加太浦から阿波国撫養へと向かう渡海船が就航し、金比羅参りの新ルートが開かれた。
③加太浦ルートの業者は、撫養と金比羅間の距離を実際より短く記し、逆に三日市コースを実際の距離よりも長く刷り込んだ絵図・案内記を使って、全国に宣伝し、利用客を拡大した。そのため三日市を利用する旅行者が激減し、大きな打撃を受けている。

ここからも三日市ルートが本道で、これに後から加太ー撫養コースが新規参入してきたことが分かります。無料で配布されたという絵地図を見てみましょう
金毘羅船 高野山より紀州加田越四國札所本道筋並

 「高野山より紀州加田越四國札所本道筋並二讃州金毘羅近道順路」です。高野山から紀州加太からの金毘羅への参拝案内で「近道順路」と記されています。初期の金毘羅絵地図のパターンで、左下が大坂で、下側が山陽道の宿場町です。従来の金毘羅船の航路である大坂から播磨・備前を経て児島から丸亀へ渡る航路も示されています。
この地図の特徴は、大坂から右上に伸びる半島です。半島の先が「加田(加太)」で、その前にあハじ島(淡路島)、川の向こうに若山(和歌山)です。この川はどうやら紀ノ川のようです。加田から東に伸びる街道の終点はかうや(高野山)のです。加田港からの帆掛船が向かっているのは「むや」(撫養)のようです。撫養港は徳島の玄関口でした。
 確かに、この地図を見ると山陽道を進むよりも撫養からの四国道を進んだ方が近そうです。また、風待ち船待ちで欠航や大幅な遅れのあった大阪からの金毘羅船よりも。加太ー撫養間の航路の方が短く、船酔いを怖れる人たちにとっては安心できたかも知れません。
 この絵図を発行しているのは、西国巡礼第三番札所粉川寺の門前町の旅籠の主である金屋茂兵衛です。彼や粉川寺の僧侶達のプロデュースで「加太ー撫養」振興計画が展開されていたようです。
さらに時代を経て出された「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻並播磨名勝附」です。
金毘羅航海図 加太撫養1

表題から「近道」がなくなりました。「行政指導」があったのでしょうか。これも「加田(加太)」が金毘羅へのスタート地点となっています。そして、四国の撫養に上陸してからの道筋が詳細に描き込まれています。讃岐山脈を越えて高松街道を西へ進み、法然寺のある仏生山や滝宮を経て、象頭山の金毘羅へ向かいます。それ以外にも白鳥宮や志度寺、津田の松原など東讃岐の名所旧跡も書き込まれています。 屋島がこの時点では陸と離れた島だったことも分かります。この絵を見ていると、四国遍路も意識していることがうかがえます。「加太=撫養」コースは、金毘羅詣でや四国遍路達によって利用されるようになっていきます。
 江戸時代のも新興観光地(霊場・名勝)と、既存の観光地の旅行客の争奪戦が展開されていたことが分かります。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  北川 央 河内国三日市宿と金毘羅参詣者  ことひら52 H9年


  金毘羅 町史ことひら

大坂の金毘羅船の船宿は、乗船記念として利用者に金比羅参拝の海上航路案内図や引き札を無料で渡したようです。航路案内図は、印刷されたものを購入し空白部に、自分の船宿の名前を入れ込んだものです。そのために、時代と共にいろいろな航路案内図が残されています。参拝者は、それを記念として大事に保管していたようです。それが集められて町史ことひら5絵図・写真編(71P)に載せられています。今回は金毘羅船の海上航路図を見ていくことにします。
金毘羅船 航路図C1

 左下に「安永三(1774)甲午正月吉日、浪花淡路町堺筋林萬助版」と板元と版行の年月があります。延享元年(1744)に、大阪の船宿が連名で金毘羅船を専門に仕立てたいということを願いでてから30年後のことになります。宝暦10(1760)年に、日本一社の綸旨を得て、参詣客も年とともに多くなってくる時期に当たります。
 表題は「讃岐金毘羅・安芸の宮島 参詣海上獨案内」です。
 ここからは、新興観光地の金毘羅の名前はまだまだ知られていなくて、安芸の宮島参拝の参拝客を呼び込むという戦略がうかがえます。
 構図的には左下が大坂で、そこから西(右)に向けてひょうご・あかし(明石)・むろ(室津)・うしまど(牛窓)と港町が並びます。金比羅舟は、この付近から備讃瀬戸を横切って丸亀に向かったようですが、航路は書き込まれていません。表題通り、この案内図のもうひとつ目的地は宮島です。そのため  とも(鞆)から、阿武兎観音を経ておのみち(尾道)・おんどのせと(音戸ノ瀬戸)を経て宮島までの行程と距離が記されています。ちょうど中央辺りに丸亀があり、右上にゴールの宮島が配されます。この絵図だけ見ると、丸亀が四国にあることも分からないし、象頭山金毘羅さんの位置もはっきりしません。また、瀬戸内海に浮かぶ島々は、淡路島も小豆島も描かれていません。描いた作者に地理的な情報がなかったことがうかがえます。
 重視されているのは上の段に書かれた各地の取次店名と土産物です。
大阪の取次店して讃岐出身の多田屋新右ヱ門ほか二名の名があり、丸亀の船宿としては、のだ(野田)や権八・佃や金十郎など四名があり、丸亀土産として、うどんがあるのに興味がひかれます。金毘羅では、飴と苗田村の三八餅が名物として挙げられています。印象としては、絵地図よりも文字の方に重点を置いた初期の「案内図」で、地理的にも不正確さが目立ちます。ここでは、まだ宮島参拝のついでの金毘羅参りという位置づけのようです。

金毘羅船 航海図C3
1枚目 丸亀まで
 二枚続きの図で、画師は丸亀の原田玉枝です。玉枝は天保15五年(1844)に53歳で亡くなっています。この図の彫師は丸亀城下の松屋町成慶堂です。この図も1枚目は下津井・丸亀までで、2枚目が鞆から宮島・岩国までの案内図になっています。

金毘羅船 航海図宮島
2枚目 鞆から宮島まで

 東国・上方からの参詣者が金毘羅から宮島へ足を伸ばす。あるいは、この時期にはまだ宮島参拝のついでに金毘羅さんにお参りするという人たちの方が多かったのかも知れません。淡路でも金毘羅と宮嶋は、一緒に参拝するのが風習だったようです。そんな需要に答えて、丸亀で宮嶋への案内図が出されても不思議ではないように思います。
   ここで注意しておきたいのは、大坂からの案内図は、最初は宮嶋と抱き合わせであったということです。大坂から金毘羅だけを目指した案内図が出るのは、少し時代が経ってからのことになります。

 構図的には、先ほど見たものと比べると文字情報はほとんどなくなって、ヴィジュアルになっています。位置的な配置に問題はありますが、淡路島や小豆島などの島々や、半島や入江も書き込まれています。山陽道の宿場街や、四国側の主要湊も書き込まれ、これが今後に出される案内図の原型になるようです。航路線は描かれていませんが。点々と描かれた船をつなぐと当時の航路は浮かび上がってきます。それはむろ(室津)から小豆島を左に見て備讃瀬戸を斜めに横切って丸亀をめざす航路のように見えます。この絵を原型にして、似たものが繰り返し出され、同時に少しずつ変化していくことになります。
金毘羅船 航海図C4
 C④「大坂ヨリ播磨名所讃州金毘羅迪道中絵圖」        

この絵の特徴は、3つあります
①標題は欄外上にあり、右からの横書きになっていること
②レイアウトがそれまでとは左右が逆になっていて、大坂が右下、岡山は左上、金毘羅が左下にあること。この図柄が、以後は受け継がれていきます。
③宮島への参拝ルートはなくなったこと。金比羅航路だけが単独で描かれています
 前回にお話しした十返舎一九の「金毘羅膝栗毛」の中で弥次喜多コンビは、夜に道頓堀を出発し、夜明け前に淀川河口の天保山に下ってきて風待ちします。そして早朝に追い風を帆に受けてシュラシュラと神戸・須磨沖を過ぎて、潮待ちしながら明石海峡を抜けて室津で女郎の誘いを受けながら一泊。そして、小豆島を通りすぎて、八栗・屋島を目印にしながら備讃瀬戸を横切り、讃岐富士を目指してやってきます。つまり19世紀初頭の弥次喜多の航路は、下津井には寄らずに、室津から小豆島の西側と通って丸亀へ直接にやってくるルートをとっています。
 しかし、この絵には室津と田の口が航路で結ばれ、下村や下津井と丸亀も航路図で結ばれています。五流修験の布教活動で、由加山信仰が高まりを見せたことがうかがえます。
   また、高松など東讃の情報は、きれいに省略されています。関係ルート周辺だけを描いています。絵図を見ていて、違和感があるのは島同士の位置関係が相変わらず不正確なことです。例えば小豆島の北に家島が描かれています。一度描かれると、以前のものを参考しにして刷り直されたようで、訂正を行う事はあまりなかったようです。
金毘羅船 航海図C7
この案内図には標題がありません。特徴点を挙げておくと
①右上に京都のあたご(愛宕山)が大きく描かれて、少し欄外に出て目立ちます。
②大坂は、住吉・さかい(堺)を注しています。
③相変わらず淡路島や小豆島など島の形も位置も変です。
④室津から丸亀への航路が変更されている。
以前は、小豆島の西側を通過して高松沖を西に進むコースが取られていました。しかし、ここでは牛窓沖を西へ更に向かい日比沖から南下して備讃瀬戸を横断する航路になっています。この背景には何があるか分かりません。
金毘羅船 航海図C10

  C⑩には右下に「作壽堂」とあり、「頭人行列圖」を発行している丸亀の板元のようです。この案内図で、研究者が注目するのは「むろ」(室津)からの航路です。牛窓沖を西に進み、そこから丸亀に南下する航路と、一旦田の口に立ち入る航路の2つが書き込まれています。そして、初期に取られた室津から小豆島の西側を南下し、高松沖を西行するコースは、ここでも消えています。考えられるのは、喩迦山の「二箇所参り」CM成果で、由加山参りに田の口や日々に入港する金毘羅船が増えたことです。田の口に上陸して喩迦山に御参りした後に、金毘羅を目指すという新しい参拝ルートが定着したのかもしれません。

金毘羅船 航海図C13
C13
 よく似た図柄が多いのは、船宿が印刷所から案内図を買い求めて、自分の名前を刷り込んだためと研究者は考えているようです。C13には大阪の船宿・大和屋の署名の所にかなり長い口上書が添えられています。欄外右下には「此圖船宿よリモライ」と墨の落書きがあったようです。ここからも乗船客が、船宿からこのような絵図をもらって大切に保管していたことがうかがえます。


以上の金毘羅船の航路案内図の変遷をまとめっておきます
①大阪の船宿は利用客に航路案内図を刷って配布するサービスを行っていた。
②最初は宮島参拝と併せた絵柄であったが、金比羅の知名度の高まりととに宮島への航路は描かれなくなっていく
③18世紀後半の航路は、室津から小豆島を東に見て高松沖を経て丸亀至るにコースがとられた。
④19世紀前半になると、日比や田の口湊を経由して、丸亀港に入港するコースに変更された。

③から④へのコース変更については、由加山信仰の高まりが背景にあるとされますが、それだけなのでしょうか。次回はその点について見ていこうと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました

参考文献 町史ことひら5絵図・写真編(71P)

明治元年に、阿波の若者が金毘羅さんに「武者修行」にやってきています。
『慶応四(1868)辰のとし 無神月 箸蔵寺金毘羅参詣道中記並に諸造用ひかえ』と記され記録が、麻植郡美郷村東山の後藤田家に残されています。金毘羅さんの参拝ついでに、讃岐の道場を訪ねた記録です。見てみましょう。

6 阿讃国境地図
 無神月廿三日早朝出立、
川又(美郷村)より川田(山川町)通りにまかりこし 
市久保(山川町西川田)にてわらじととのえ、岩津(阿波町)渡し(吉野川の渡し)越す、このころ時雨にあいおおいに心配いたし九ッ(正午)ごろより天気晴れ安心いたし候。
それより脇町を通り新馬場より塩田荏大夫に出合い川原町まで同道いたし候、川原町追分、南がわの茶屋にて支度いたし候、さいはふくろさよりなり、おかかふとりよるもの、子供三皆女なり。
 それより郡里へ通、沼田原に山頭山御祭、かけ馬、角力おおはずみ、それより昼間光明寺にて紙を買う代壱匁(銀銭単位)なり、それより箸蔵山へ登り候、ふもとにて日暮れにあい及び候、箸蔵寺へ着いたし、上の間十枚敷へ通り、岩倉村人、土州人、くみあわせ弐十人ばかり、なかに岩倉の娘、穴ばち摺ばち取りまぜ六人はなはだぶきりょうものなり
  意訳すると
慶応4年10月23日の早朝に美郷村東山を出発。
川田(山川町)を抜けて、市久保(山川町西川田)で草鞋を整えて、岩津(阿波町)の川渡場で吉野川を越える。このころまで時雨も上がり、九ッ(正午)には天気も晴れてきた。脇町を通り、新馬場で塩田荏大夫に出合い川原町まで一緒に同道した。川原町追分の南がわの茶屋で食事をとった。おかずは「ふくろさより」で、おかみは太っていて、子供3人はみんな女であった。
 ここから郡里へ入ったが、沼田原で山頭山の御祭に出会った。草競馬や、角力で大賑わいであった。さらに昼間の光明寺で紙を買った。代は壱匁(銀銭単位)であった。 昼間から箸蔵寺へは登りになるが、ふもとで日が暮れて、暗くなって箸蔵寺に就いた。案内されたのは上の間の10畳ほどの部屋で、ここに岩倉村や土佐の人たち20人ほどの相部屋となった。岩倉村の娘達は不器量であった。
 この剣士(?)は、城下町に住む武士ではないようです。田舎で剣術を習っている若者のようですが年齢などは分かりません。食べ物と女性への関心は強そうなので、まだまだ人間的にも修行中の若者のようです。
さて、初日の記録からは次のような事が分かります。
①旧暦の9月に慶応は明治に改元されています。出発日は慶応4年10月23日と、記されていて明治の元号を使っていません。ちなみにグレゴリオ暦では1868年10月23日が明治への改元日になります。どちらにしても、明治になったばかり激動の時代の金毘羅さん詣りです。どんな変化が見られるのか楽しみです。

②箸蔵までのルートは次の通りです。
美郷川又 → 山川 → 岩津で渡船 → 脇町 → 郡里 → 昼間 → 箸蔵寺

岩津の渡船で吉野川を渡り、撫養街道を西へ進んで行き、夕暮れに箸蔵寺に着いています。脇町方面からだと郡里から三頭越えで美合に下りた方が近道だとおもうのですが、箸蔵経由のコースを取っています。 
③これは箸蔵寺が参拝者へのサービスとして、宿を無量で提供していたことがあるのかもしれません。この日も20人ばかりの人たちが、箸蔵寺の用意した部屋を利用しています。その中には娘達もいたようです。娘達の旅とは、どんな目的だったのか気になります。
箸蔵街道をたどる道 3 | みかんやさんのブログ

 箸蔵寺は、江戸時代後半になってから
「金毘羅さんの奥社・金比羅詣での両詣り」

をキャッチフレーズに、金比羅詣客を呼び込むための経営戦略を打ち出し、急速に寺勢を伸ばします。その際に活躍したのが、箸蔵寺周辺を拠点としていた修験者(山伏)たちです。彼らは先達として、参拝客を誘引すると共に、箸蔵街道の整備や勧進活動も行います。その結果、
箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 石仏越 → 財田・山脇

をたどる箸蔵街道がこのエリアの阿讃峠道の主要ルートになります。それが明治の猪ノ鼻峠を越える四国新道につながっていきます。
4 阿波国図 15

10月24日前半 箸蔵寺から金毘羅さん参拝までへ
翌日廿四日出立いたし、土州もの三人連れ同道にて荒戸様を下り、荒戸越え道の左手に小さき池あり、いちえん、はちす(蓮)なり、その池に十八、九の娘、米を洗い候、彼(彼女の意)に、この蓮根に穴あるやと尋ね候えば甚だ不興の鉢(体)なり。
 それより同処ヒサノヤ利太郎宅にて休足(休息)いたし候、ゆべし(柚餅子)にて茶をくれ候、さいは白髪こぶ、竹わ、ふ、なり、小皿つけなり、おかか随分手取り(やりて)なり。
半道(一里の半分)行き追上村小さき茶屋あり、川より西、小百姓とおぼしき南に弐拾五、六女、同年ほどの男だんだんくどきを言い甚だ困り入り候おもむきにあい見え候。

 彼所より拾丁ばかり参り候えば小さき菓子物みせに三拾ばかり夫婦あり、この所にてわらじ弐足代壱匁三分にて買い求め、それより阿波町へ指しかかり象頭山参詣(金毘羅まいりのこと)方々拝見広大なり。
 それより榎井、土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ西山豊之進殿宅参り内室(奥さん)申出には豊之進、土州様出張所へまかり出るにつき夕方にも、まかりかえるのほどあいはかりがたくにつき、御気の毒にはござ候えどもと申すにつき、しからば山神権吉様宅へ参上つかまつるおもむきに申し候へども最早、剣者も壱人ばかりにてはあまり少なく思い、
意訳すると
翌日24日に箸蔵寺を出発する。途中は昨夜同宿した土佐の三人連れと同道して、山脇集落から荒戸に下った。荒戸越えの道筋の左手に小さな池があり、一面に蓮が咲いていた。その池に十八、九の娘が米を洗っていたので「その蓮根に穴はあるのか」と尋ねると、不機嫌そうな仕草をした。
 荒戸のヒサノヤ利太郎宅で昼食休憩し、ゆべし(柚餅子)と茶を飲んだ。おかずは白髪こぶ、竹輪、ふ、なり、小皿つけであった。女将は随分のやり手だった。
 半道(2㎞)ほどいくと追上村に小さな茶屋があった。そこから川より西側で、小百姓らしい身なりの25歳前後の女が、同じ年頃の男に言い寄られて、困っている様子に見えた。
そこから10丁程進むと小さな菓子物店を、30歳ほどの夫婦が経営してた。ここで、わらじ2足代壱匁三分で買い求めた。そこから金毘羅さんの阿波町へ入り、象頭山参詣(金毘羅まいり)を果たした。いろいろなところを拝見したが広大である。
ここでも女性に、ついつい目が行ってしまうのを止められないようです。金毘羅への道は
箸蔵街道を 箸蔵寺 → 二軒茶屋 → 山脇 → 荒戸 → 追上 → 樅の木峠 → 買田 → 阿波町

を経て、阿波街道のゴールである阿波町に入っています。金毘羅参拝の報告については、極めて簡略です。江戸時期の庶民の残した旅行記の大半は、途中までの行程は記しますが、その神社や寺社の内部を詳しく記す物はほとんどありません。それがどうしてなのか、私にはよく分かりません。
 旧高松街道 Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
10月24日後半 高松街道を金毘羅さんから栗熊まで
 それより榎井、土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ西山豊之進殿宅参り内室(奥さん)申出には豊之進、土州様出張所へまかり出るにつき夕方にも、まかりかえるのほどあいはかりがたくにつき、御気の毒にはござ候えどもと申すにつき、しからば山神権吉様宅へ参上つかまつるおもむきに申し候へども最早、剣者も壱人ばかりにてはあまり少なく思い、
髙松街道 高篠 祓川から見坂峠2
はらい川(土器川)周辺の髙松街道

それより八栗寺へこころざし参り候ところ、はらい川を越え候ところ五十ばかりの男、道連れになり、いろいろ、はなしいたし、それよりなごり坂(残念坂)へさしかかりこの坂、名残坂とは如何して言う、いわくこの坂、名残坂と申すは諸国の人々、金毘羅内金山寺町等にて段々、がいに狂いいたし帰るさいに、この坂より見返り、この坂、越え候得ば一向あい見え申さず候故なりという

 それより少し行く道のこの手に木村と申す太家あり、それより栗熊村へ指し懸り山路岩太郎と申す剣者の内へまかりいで あいたのみ候えば十七、八の前髪たちいで父、岩太郎居合わさず候故、ことわり申され、それより三丁半東、同村桜屋吉郎内へ参り泊り候処、
加茂村の者老人下駄商用に参り泊り合わせ申し候。
 その夜、村中の若もの四、五人参り、色々、咄(はなし)さいもん、あほだら経、ちょんがり、浄るり、色々あるにあられぬたわむれ。おもしろしく 
さて桜屋ふとんうすく小さし、
 当春、最明寺の某氏うたなり
  桜屋のふとん小さき夜寒むかな
意訳すると
 それより榎井に入り、土佐占領軍の駐屯地を過ぎ、西山豊之進殿宅へうかがった。内室(奥さん)が出てきて云うには道場主の豊之進は、土佐の駐屯地へ詰めていて、夕方に帰ってくるかどうかも分からないとのことで、御気の毒に存じますとのこと。それならばと山神権吉様宅へうかがうことを告げると、剣者が1人いるだけとのことで諦めることにする。
残念坂からの象頭山 浮世絵
狭間の残念坂からの象頭山金毘羅

 狭間の残念坂を越えて、高松の八栗寺へ向かおうと、はらい川(土器川)を越えた所で五十歳ほどの男と道連れになり、いろいろな話をした。それによると、今から登る坂をなごり坂(残念坂)と呼ぶのはどうしてか知っているかと聞かれる。男が云うには「この坂を名残坂(残念坂)というのは、諸国の人々が金毘羅の色街・金山寺町で精進落としと称し、酒に酔い、大いに羽目を外して、帰る際に、この坂より今一度金毘羅さんを見返りる。しかし、この坂を越えれば平素の顔にもどっている。だから残念坂というそうだ。
打越坂 見返坂 残念坂.jpg金毘羅参詣名所図会
     見返坂(残念坂)金毘羅参詣名所図会
 
狭間より少し行くと木村という大きな家がある。さらに行き栗熊村の山路岩太郎という剣者の家を訪ね、手合わせを頼むが出てきたのは十七、八の前髪の若者で「父、岩太郎は不在です」と断られた。仕方なく、三丁半東の、同村桜屋吉郎の宿に泊る。加茂村老人で下駄商用も泊り合わせたので、その夜、村中の若もの四、五人がやってきて色々、咄(はなし)さいもん、あほだら経、ちょんがり、浄瑠璃などで戯れ時を過ごした。桜屋のふとんは薄く小さい。そこで一句
 当春、最明寺の某氏うたなり
  桜屋のふとん小さき夜寒むかな
  当時の琴平は、土佐軍占領下にあり土佐兵が、天領だった榎井に進駐していました。新時代の情勢変化などに興味を持つ者であれば、その辺りのことも記録に残すと思うのですが「土州様御出張成られ候所を打ち過ぎ」と通り過ぎるだけです。この辺りが武士ではないので当事者意識がなく、緊張感もないのかなあと思えてきます。
 当時の金毘羅をめぐる情勢を見ておくと、
この年の初めには、土佐軍が金毘羅を軍事占領し、土佐軍の支配下に置かれます。そして金毘羅金光院に軍用金差出を命じます。そして、戊辰戦争、鳥羽伏見の戦い、江戸城開城・高松藩征伐と続くのです。土佐藩軍政下の金毘羅の様子を知りたかったのですが、そのことには一切触れられません。ノンポリのようです。ちなみに金毘羅が土佐藩鎮撫から倉敷県管轄となるのは、翌年のことです。
 彼は榎井の道場を訪ねていますが、榎井だけでも2軒の道場があったようです。幕末には武士だけでなく、庶民にも武道熱が高まり、城下町の道場以外の郡部にも道場があったことが分かります。この日は3軒の道場を訪ねますが、手合わせは適いませんでした。夜は栗熊の宿で、同宿者や村の若者と若者らしく他愛もないものに興じて時を過ごしています。④以外は、私は初めて見るものです。
① 咄(はなし)さいもん、
②あほだら経
③ちょんがり
④浄瑠璃」を楽しんだといいます。
辞書で調べてみることにします。
①は浪花節のことのようです。「江戸末期、大坂に起こった、三味線を伴奏とする大衆的な語り物。明治以降盛んになった。説経祭文(さいもん)から転化したもので、ちょんがれ節、うかれ節などとも呼ばれていた。語られる内容は多くは軍談・講釈・伝記など」と記されます。当時の流行のはしりだったようです。③も浪花節の変種のようです。
②は江戸時代中期に、乞食坊主が街頭で行なった時事風刺の滑稽な俗謡。「ちょぼくれ」ともいわれ、ほら貝などを伴奏にし,戸ごとに銭を請うたとあります。
  旅の目的が道場巡りから演芸交流になっているようで、他人事ながら心配になってきます。

10月25日はいか(羽床)村。
上総琵之助先生方へ参りあい頼み候ところ、おりよく兄弟両三人居合わせ段々取り持ちくれ御業(わぎ)つけくだされ兄弟稽古いたしくれ、また御茶漬くだされ色々御留めくだされ家内壱統、情深き人々なり、それより滝宮参詣いたし、
それより未(陶)村不慶丈太夫先生へ参り、是は高松領随一短槍名人なり、おりあしく居合わさずそれより五丁ばかり北山手に上田四郎兵衛先生方へ参り候処、居合わせ候得共  ??   」』と、以下紙が敗れ造用ある。
意訳すると
配香村(羽床村)の鞍馬一刀流 上総荏之進先生の道場を訪ね、お手合わせを頼むと折良く、兄弟3人が在宅で、稽古をつけてくれた。また稽古の後はお茶漬けまでいただくなど、情け深い家族であった。その後、滝宮神社の参拝後に、陶村の不慶丈太夫先生の道場を訪ねた。先生は高松領随一の短槍名人だが不在であったので、そこから五丁ばかり北にある上田四郎兵衛先生方を訪ねた・・・・・・』

ここまでで「以下紙が敗れ造用」とあります。記録はここまでのようです。この旅で訪ねた道場を挙げると、次のようになります。
讃州那賀郡金毘羅榎井町   西山豊之進
              山上権六
        栗熊村   山路岩太郎
配香村(羽床村)鞍馬一刀流 上総荏之進
              上総辰之助
              津田久之助
  未(陶)村 直神影流  不慶丈太夫
     同        上田四郎兵衛
幕末の讃岐にも郡部には、これだけの道場があり庶民が武術に腕を磨いていたことが分かります。しかし、明治維新の政治的な変動や緊張感は伝わってくるものがありません。阿波や讃岐の庶民にとって、明治の激動は遠い世界の事だったのかもしれないと思えてもきます。
 後藤田氏は、5年後の明治6年にも金毘羅まいりを行っています。その良きに残した記録には、
「こうしておまいりができるのは、一つには天の助け、二つには先祖恵みの功によりなりあがたき仕合わせに存じ奉り候』
と結んでいます。

参考文献       
猪井達雄       阿波吉野川筋からのこんぴら参り古記録  ことひら39号 昭和59年

 西遊草 (岩波文庫) | 清河 八郎 |本 | 通販 | Amazon

    前回は幕末の志士清川八郎が母親と金毘羅大権現を参拝したときの記録『西遊草』を見てみました。しかし、まだ金毘羅さんの山下までしか進んでいません。今回は階段を上って、境内に入っていきましょう。早速、『西遊草』本文を読んでいきましょう。

4344104-36大門前
大門(仁王門)手前の石段 (讃岐国名勝図解)
原文 
 市中より八丁ばかり急にのぼり、二王門を得る。いわゆる山門なり。「象頭山」といふ額あり。是まで家両岸に連れり。是よりは左右石の玉垣にて、燈篭をならべ、桜を植をきたり。
 壱丁余のぼりて右のかたに本坊あり。金毘羅の札をいだすところにて、守を乞ふもの群りあり。実にも金銀の入る事をびただしく、天下無双のさかんなる事なり。吾等も開帳札を乞ひ、夫より石段をのぼり、いろいろの末社あり。
意訳
  麓から8丁(800㍍)ほどの急な上りで仁王門に着く。山門で「象頭山」の額が掲げられている。ここまで階段の両側には店が連なっている。しかし、この仁王門から先は、左右は石の玉垣で、灯籠が並び、そこに桜が植えられている。
  一丁ほど行くと右手に本坊(別当寺の金光院、現在の表書院)がある。ここで金毘羅の札をもらう人たちが大勢詰めかけている。これだけの人が求めるので、金銀の実入りも大したものであろう。私たちもここで開帳札をいただく。本坊を後にして石段を登ると、いろいろな末社が迎えてくれる。
1 金毘羅 伽藍図1

①幕末の時点で、仁王門(現大門)まで、石段と玉垣の整備されていたようです。さらに仁王門から先の平坦地には、すでに桜が植えられていたことが分かります。現在では、ここを桜馬場と呼んでいます。桜馬場の右手には、金光院に従って金毘羅領を統治する各坊が現在の大門から宝物館に架けて並んでいました。そして、一番上にあるのが「お山の領主サマ」の陣屋=本坊(金光院)です。
1 金毘羅 伽藍図2

②金毘羅の札も本殿ではなく本坊(金光院=表書院)で、取り扱っていたことが分かります。清川八郎もここで御札を求めています。本坊(金光院)は、神仏分離後は社務所となります。

4344104-33金光院
金光院本坊 讃岐国名勝図解

17世紀までの参道は、金光院の所で右折していました。それが18世紀になると参道は左折するようになったようです。その参道をさらに行くと、大きな建物が前方に姿を現します。現在の旭社(旧金堂)です。
  
4344104-31多宝塔・旭社・二王門
薬師堂(金堂:現旭社)と多宝塔
原典 
壱丁ばかりにして、左の側、山にそひ、薬師堂(現旭社)あり。高さ五重塔の如くにて、結構を尽せし事いわんかたなけれども、近年の作りし宮ゆへ、彫ものなど古代のものに比すれば野鄙なる事なり。されど金銀にいとわず建立せしものと見へ、近国にて新規の宮の第一といふべし。前に参詣のもの休み廊下あり、是より参宮下向道と分る。
   中門あり。
至て古く見ゆ。天正甲申の年、長曾我部元親の賢木を以て建しものとぞ。少しはなれ、右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。是より左右玉垣の中に讃岐守頼重公累代奉納の燈篭並びあり。夫外土佐侯、または京極侯の奉納あり。
意訳
一丁ばかり行くと左の山裾に薬師堂(金堂)が現れる。高さが五重塔ほどもあって、技術の粋をあつめたもののようだが、近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る。しかし、お金に糸目をつけずに建立したものだけあって、この付近で近年に作られた寺社建築としてはNO1のできばえといえるだろう。この薬師堂の前に、回廊が参拝者のための休憩所として提供されている。ここで、往路と帰路が別れる。
  往路を行くと中門がある。かなり古い建物に見える。長宗我部元親の寄進した木材で建てられたと云う。少し離れて鐘楼がある。これは生駒氏が寄進したものである。その他にも鼓楼や清少納言の塚がある。それから先には、高松藩祖の松平頼重が5回に分けて寄進した灯籠が並ぶ。他には土佐山内氏や丸亀京極氏の灯籠も見られる。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

①本坊(現表書院)から階段を上っていくと、大きな建物が現れてきます。これが現在の旭社です。
  「近年に作られた建物なので、彫物などは古代のものと比べると野卑で劣る」

と、古代の彫刻や建築物の方が雅で優れいるという清川八郎の美意識がうかがえます。本居宣長的なものの見方をもっています。そのため金毘羅大権現の「経営方針」などにも批判的な見方が所々に現れてきます。  しかし「近国にて新規の宮の第一といふべし」と、建物のできばえは評価しています。八郎は、この建物を「薬師堂」と記していますが実は、これは観音堂です。以前は薬師堂が建っていました。2年前に観音堂として完成したばかりでした。
「金堂上梁式の誌」には、次のように記されています。

「文化十酉より天保八酉にいたるまて五々の星霜を重ね弐万余の黄金(2万両)をあつめ今年羅久成して 卯月八日上棟の式美を尽くし善を尽くし其の聞こえ天下に普く男女雲の如し」

DSC04048旭社

 今は旭社と呼ばれていますが文化3年(1806)の発願から40年をかけて仏教寺院の金堂として建立されました。そのため、建立当時は中には本尊の観音菩薩像を初めとする多くの仏像が並び、周りの柱や壁には金箔が施されたといいます。それが明治の廃仏毀釈で内部の装飾や仏像が取り払われ、多くは破棄・焼却され今は何もなくがらーんとした空洞になっています。金箔も、そぎ落とされました。よく見るとその際の傷跡が見えてきます。柱間・扉などには人物や鳥獣・花弄の華美な彫刻が残ります。これを八郎も見上げたのでしょう。
 この後には清水次郎長の代参のために森の石松がやってきます。
この金堂に詣って参拝を終えたと思い、本殿には詣らずに帰つたという俗話が知られています。確かに規模でも壮麗さでも、この金堂がこんぴらさんの中心と合点しても不思議ではなかったようです。
  金堂前の空間には灯籠が立ち並び、その下の空間には大きな多宝塔もあったことが当時の配置図からは分かります。まさに、旭社周辺は「仏教伽藍エリア」だったようです。それを、清河八郎は少し苦々しく思いながら本殿に進んでいったのかもしれません。
金毘羅山旭社・多宝塔1

  旭社から往路を進むと門をくぐります。戦国時代に土佐の長宗我部元親が寄進した門と伝えられます。明治になると「賢木(さかき)門」と呼ばれるようになり、寄進者の元親を貶めるエピソードと共に語られるようになります。後に、松平頼重によって仁王門が寄進されると、そちらが大門、この門が中門(二天門)と呼ばれるようになります。
  「右に鐘楼あり。生駒侯のたつるところなり。鼓楼、清少納言の塚などあり。」

とあります。現在の清少納言塚は大門の外にありますので、明治になって移されたようです。

i-img1200x900-1566005579vokaui1536142

金毘羅大権現本殿  原文
 本殿は五彩色にして小さき宮なれども、うつくしき事をびただし。殊に参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり。本殿の左より讃岐富士、また海、山、里などを一目に見をろし、景色かぎりなく、暫らく休み、詠めありぬ。本殿の側に銅馬、其他末社多くありて、さみしからぬ境地なり。
 殊に金毘羅は数十年已来より天下のもの信崇せぬものなく、伊勢同様に遠国よりあつまり、そのうへ船頭どもの殊の外あがむる神故、舟持共より奉納ものをびただしく、ゆへに山下より本殿までの中、左右玉垣の奇麗なる事、外になき結構なり。数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、
近頃追々ひらけたるは、神も時により顕晦するものならん。いまは天下に肩をならべる盛なる神仏にて、伊勢を外にして浅草、善光寺より外に比すべき処もなからん。

神威のいちぢるしき事は、また人のしるところにして、金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。
 夫より備前やに帰り、一杯をかたむけ、象頭山のかたわきを七拾丁歩みて、山のうらにて善通寺にいたり、ハツ頃に山門の前なる内田や甚右衛門にやどる。
 
4344104-39夜の客引き 金山寺
4344104-07金毘羅大権現 本殿 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現本社 讃岐国名勝図解
意訳
  本殿は五色に彩られ小さな建物ではあるが、美しいことには限りない。しかし、参拝者が多く群がり、開帳を忽疎(おろそか・なおざり)にしてすぎているように思える。本殿の左からは讃岐富士、海・山・里が一望できる素晴らしい景色が広がる。しばらく休息し、詩句などを作る。本殿の側には銅馬や、摂社が多く立ち並ぶ。

4344104-08観音堂・絵馬堂 讃岐国名勝図会
金毘羅大権現 観音堂
  金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、伊勢神宮と同じように遠くから参拝者が集まるようになった。特に水上関係者の信仰が厚く、船主の奉納品がおびただしい。そして、麓から本殿まで玉垣が途絶えることなく奇麗にめぐらされている。このような姿は、他の神社では見たことがない。
 数十年前まではそれほど参拝客が多いわけでもなく、建物も未整備であったのが近頃になって急速に台頭してきたのは、神様の思し召しなのであろうか。今では天下に肩を並べる神社としては、伊勢は別にしても、江戸の浅草か長野の善光寺くらいであろうか。
  神威については、世間の人々がよく知るところで金毘羅の入口にも、朝川善庵(松浦侯儒官。名は鼎、宇は五鼎、号は善庵。江戸の人。古学派)による由緒が大きな碑文に刻まれていた。神の縁起を詳しく知らないので、ここには記さない。荷物を預けた備前屋に帰り、精進落としに一献傾けてから善通寺に向かう。象頭山の山裾を70丁(約7㎞)あるいて、善通寺に八つ頃(午後3時)についた。宿は山門前の内田屋甚右衛門にとった。

ここでも建物や眺望は褒めながらも、寺社の運営については「参詣のもの多く群がりて、開帳も忽疎(おろそかである。なおざりにする。)にしてすぎたり」と批判的に書かれています。数多く押し寄せる参拝客への対応が粗略に感じられたこともあるのでしょう。
IMG_8056
本殿よりの丸亀平野や瀬戸内海の眺望 讃岐富士がおむすびのよう

 その後の金毘羅大権現の発展ぶりについて
「数十年前までは格別盛なる事もなかりきに、近頃追々ひらけ・・・」
金毘羅は数十年程前から全国の人々から信仰を集めるように、」
と記されている点が興味深いところです。金毘羅は数十年ほど前まではたいしたことはなかったのに、突然のように全国から人々が参拝に訪れるようになったといいます。そこには、金毘羅は、古くからの神ではなく数十年前から全国に広まった「流行神」であると認識していたことがうかがえます。その流行神の急速な発展ぶりに、驚いているような感じです。

4344104-13鞘橋 潮川神事と阿波町
金刀比羅宮 鞘橋を渡る頭人行列

「金毘羅入口に朝川善庵の文をかきたる大石の碑にしたあめあり。神の縁記を委しくしらざれば、ここにしるさず。」

には、そのまま素直に受け取れない所が私にはあります。流行神として勃興著しい金毘羅に対して、批判的な目で眺めている八郎です。その彼が「神の縁記(由緒)を委しくしらざれば、ここにしるさず。」というのは素直には受け取れません。彼の知識からすれば書きたくない内容の由緒であったのではないかと穿った見方をしています。

DSC01390善通寺
  善通寺(当時は五重塔はない)
   善通寺は弘法大師の誕生の地にして、至ってやかましき勅願所なり。されども宮は格別誉むべきほどの結構にもあらず。本堂の前に大師衣かけ松あり。三本の中にいづれも高大なるふりよき松なり。松の下に池あり。御影の池といふ。古しへ大師入唐せんとせし時、母のなげきにたへず、法を以て此池水にその身の影をのこせし池とぞ。善通寺といふももと大師の父善通(よしみち)の宮居せし処ゆへ、名づくるとぞ。その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ
意訳
 善通寺は弘法大師の生誕の地であり、勅願所である。しかし、伽藍はさほどたいしたことはなく立派でもない。本堂の前に大師の衣架け松があり、3本とも高く枝振りもいい。松の下には池がある。御影池という。弘法大師が入唐の際に母の悲しみや心配・不安を除くために、この池の水面に自分の姿を写し残したと伝えられる。善通寺という名前も、もともとは大師の父善通からとられたものだという。その他に名所と云われるところはあるが、たいしたことは無いので省略する。
 
1丸亀金毘羅案内図1

当時は丸亀港にやってきた金毘羅参拝客は
「丸亀 → 金毘羅 → 善通寺 → 曼荼羅寺(出釈迦寺が後に独立) → 弥谷寺 → 海岸寺 → 道隆寺 → 金蔵寺 → 丸亀」

と巡礼していたようです。これは、もともと地元の人たちが行っていた「七ヶ寺参り」を、金毘羅参拝客も巡礼するようになったようです。ここには、地元の「地域巡礼」を全国区の巡礼エリアにグレードアップするための仕掛け人がいたはずです。それについては、以前お話ししましたので省略します。
 




八郎は国学的な素養をベースにした教養人ですから仏教寺院については、どちらかというと辛口に評価する傾向があるようです。善通寺についても、空海の生誕地であることのみで「その外名処もあらんなれど、さある事もなければ略しぬ」といたって簡単です。

 この後に、母子は新しく完成したばかりの多度津新港から宮島方面に向けて、出港していきます。清河八郎が幕末の激流の中に飛び込んでいく前の母との「思い出旅行」だったのかもしれません。しかし、記録をのこしてくれたおかげで170年後の私たちは、当時のことを知る大きな手がかりとなります。感謝

1 清原八郎
 藤沢周平の「回天の門」の主人公 清河八郎について
「回天の門」中で、幕末の尊攘派の志士であり儒学者であった主人公の清河八郎を、藤沢周平は次のように記しています
「清河八郎は、故郷清川を家出という形で上京し、何の後ろ盾もない中、高い志のもと、人との繋がりを大切にし、類まれなる説得力で、幕末の数多くの同士をまとめていった。」

 藤沢周平は恩師が記念館の館長であった縁もあって、2年をかけて記念館に足を運び、展示資料を読み解くなどして、八郎の生涯を調べたそうです。この中で幼少の日々から、志半ばにして討たれるまでの八郎の行動と、彼を取り巻く人物たちを、史実に基づきながら丁寧に追っていくことで、八郎の人物像が描かれていました 
 その清河八郎が、安政二年(1855)26歳の時に、母親を連れて金毘羅さんにやって来ています。
母を連れての大旅行の出発のきっかけは?
  安政2年正月下旬、八郎が26歳の時です、神田三河町の清河塾が開塾3ヶ月にして延焼してしまいます。八郎は失意のまま山形の実家に帰ってきます。ぽっかりとあいた時間と心を埋めるために、母親の亀代が望んでいた伊勢詣でに出ることになったようです。下男の貞吉を連れて、春先の雪が残る3月20日に山形の清川をスタートします。まずは伊勢を目指します。しかし、当時の「伊勢詣で」は、伊勢だけにあらず・・」でした。その参拝ルートを見てみましょう。
①最上川を川船で下って、酒田港へ
②酒田から北前船で越後へ
③越後から北国街道で、善光寺詣で
④女人禁制の福島の関を避けながら木曽道を行き、
⑤途中伊那谷から大平街道を通り、中山道、追分、伊勢街道で伊勢詣
⑥奈良・京都・大阪・兵庫、播磨の「西国三十三ヶ寺巡礼」
⑦姫路書写山にお参り後に、岡山から四国に渡って丸亀へ
⑧讃岐の金毘羅・善通寺に詣で、
⑧多度津から船で瀬戸内海をクルージングしながら宮島
⑨さらに周防岩国の錦帯橋を渡って
⑩帰路に、残りの三十三ケ寺巡礼
という欲張り旅行は、半年を越える大旅行でした。今の私たちからするとびっくりするような長旅です。しかし、当時の東国からの人たちは
「善光寺 + 伊勢参り + 西国三十三ヶ寺 + 金毘羅 + 宮島 」
というのが基本的な伊勢詣でプランだったようです。一生に一度の「伊勢参り」ですから、ついでに「何でも見たやろう、参っておこう」的な巡礼パターンが一般化していたのです。日本人の好奇心・旅行好きはこの当たりからもう形作られていたのかもしれません。おそるべし、ご先祖様です
紀州加田より金毘羅絵図1
 清河八郎は、旅先の風俗を細やかに観察した旅日記を『西遊草』と題して残しています。その記録の意図を次のように記しています。
  我記するところの事を案じ、一世に一度は必ず伊勢いたさるべきなり。されども道中の労をしのび、孤燈のもとにて思ひのままをしたためたる此『西遊草』なれば、大人見識の見るに供するにあらず。但児童、小婦の伊勢参ばなしに、旅中のあらましをさとさんために、しるしおくのみ。

ここでは「想定読者」を「世の中の大人に見せるものではない」とし、後日、弟や妹が伊勢参りをする際、旅中のあらましをさとすため」の私的な作であると断っています。
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その「丸亀・金毘羅・善通寺」の部分をのぞいてみることにします
(安政二年)五月十五日
 丸亀は讃州にて京極氏の城下なり。
城は築きたての山城にして、楼櫓列なり、しもより眺みるに、美事なる事いわんかたなく、あたかも村上の城に類して、またはるかに念の入りたるなり。町家も多く、殊に金毘羅渡海の港なれば、客船の往来たゆる間もなく、実ににぎわひの地なり。且金毘羅とは百五拾町へだてたり。されども象頭山は僅目の前に見ゆれども、路のめぐりめぐりするゆへ、遠迂になるなり。
 舟より直になはやなる家にて衣類をととのへ、且朝食をなしぬ。是日もやはり入梅の気にして、晴雨さだまらず。時々雨衣を被りき。此辺西南にひらけたる事かぎりなく、且四国富士といふ小山、路よりわづか壱里ばかりへだて、突然として景色あり。「常に人をのぼさず。七月十七日頃に一日群がりのぼる」と路中の子供はなされき。
 すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。時々雲霧に顕晦いたし、種々の容体をなせり。
意訳 
丸亀は讃岐の国にあり、京極様の城下町である。
城は山の上に築かれた山城で、楼閣が列を成して並び下から眺めると、その見事さは言い表せないほどで念が入った造りだ。町家も多く、金毘羅船の終着港でもあり、そのため客船の往来は絶えることなく、殷賑をきわめている。丸亀と金毘羅は150町(15㎞)ほど離れている。見た目には、象頭山はすぐ近くに見えるが、道はまわりめぐり続くので案外遠い。。
 金比羅船から下船し「なはや」という店で衣服を整えて、朝飯をとる。天気はこの日も梅雨入りに近いためかはっきりとしない。時々、雨具をつけて丸亀街道を進んでいく。このあたりは西南に方面に広く開けた地形で、「四国富士」という小山が街道から一里ほど向こうに突き出た山容を見せている。
  「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」
と、付近の子どもが教えてくれた。
この当たりには高い山はなく、摺鉢をふせたような山がぽつりぽつりと見える。そして、山には木々が生えていない。その山々が時々、雲に隠れてまた現れ、様々な姿を見せてくれる。
岡山の児島からの船で丸亀港に着きます。船を下りて朝食をとっていますので、潮時の関係で夜に備讃瀬戸を渡ってきたようです。金毘羅参拝後に丸亀に引き返してくる場合には、十返舎一九の「弥次喜多」のように荷物を宿に預けてお参りにいきます。しかし、この母子は多度津から宮島へ行く予定なので荷物を持って、旅姿に着替えて丸亀街道を歩むことになります。
289金毘羅参詣案内大略図

 道中に「四国富士」(讃岐富士)が出てきます。
  「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」
と、土地の子ども達が教えてくれたと云います。
 ここからは、当時は年に一度しか登ることが許されていなかったことが分かります。霊山として「禁足」された聖なる山だったようです。「讃岐富士禁足」に触れた史料に、私は初めて出会いました。
 この時代の旅行記と今の旅行案内を比べると、大きく違うこととして私が思うのは
①宿の名前は必ず記すが、その善し悪しの評価はない
②食事も、内容や味には触れない
③街道の道案内記事はない。
考えて見れば筆で合間に記録するとすれば、それほど多くの情報を残すことは出来ないという制約もあったのでしょう。
230

 金毘羅までやって来ました。
金毘羅参詣のもの群がりて道中にぎにぎしく、やすらひながら昼頃に金毘羅麓にいたる。
 入口に金鳥井あり。夫より石燈篭並びあり。勿論昨年の洪水にて余程損じたるとて、いまだ全備せざりき。金毘羅の町は賑ひいわんかたなく、市中に屋根の付たる橋(鞘橋)を渡し、夫より両端旅篭や軒をならべ、いづれも美事なる家ばかりなり。
 空腹に及しかば、備前やなるにて午食をいたし、荷物をあげをき、参詣する。吾は再びなれば(八郎は7年前の嘉永元年に詣でている。)案内よく覚ゆ。金毘羅山は実にも名の如く象頭に異ならずして、草木まれなり。唯々宮の安置する処は、吾国の仙人林の如く草木繁りあり。いと森々たるありさまなり。 
意訳
 金毘羅街道をいく参拝者は数多く、道中は賑わっていている。休みを取りながら昼頃に金毘羅の麓に着いた。
 町の入口に鉄の鳥居(現高灯籠付近)があり、そこからは灯籠が並ぶ。昨年の洪水で大きな被害を受け、完全に復興していないと云うが金毘羅の町の賑わいは凄まじい。屋根の着いた橋(鞘橋=一の橋で参道に当時は参道に架かっていた)を渡ると、そこからは両端に旅籠が軒を並べる内町だ。見事な造りの家ばかりである。
 お腹も空いたので備前屋という店で昼御飯をとり、そこに荷物を預けて参拝する。私は初めてではないので、案内はよく覚えている。金毘羅山は、その名の通り象の頭ようで、草木もない。しかし、神社があるところは山形の仙人林(郷里清川の仙人堂をめぐる杉林)と同じように木々が茂り、大きな森となっている。
  丸亀から琴平まで4里(16㎞)足らずです。
DSC01118
その一里塚の大きな松が、かつては現在の高灯籠付近にはあったようです。そこにあった鉄の大きな鳥居は、現在は美術館横の石段に移されています。灯籠の一部はJR琴平駅前広場に移されていますが、一部は今でも交番付近に並んでいます。
 ここで注意しておきたいのは
「昨年の洪水で大きな被害を受け、完全に復興していない」
と出てくる「昨年の洪水」です。これは、以前にお話しした満濃池の決壊による被害のことのようです。
この時には鞘橋をはじめとする琴平の橋が殆どながされています。
DSC01211

「屋根の着いた橋(=鞘橋)」を渡ったとありますので、この時点では復興していたのかもしれません。どちらにしても、洪水の被害を受けながらも、金毘羅には多くの参拝客が訪れ賑わっていたことが分かります。鞘橋を渡った内町の旅籠外の家並みも美しいと褒めています。
讃岐の里山は、はげ山だった?
次に私が気になるのが
「金毘羅山は実にも名の如く象頭に異ならずして、草木まれなり。唯々宮の安置する処は、吾国の仙人林の如く草木繁りあり。いと森々たるありさまなり」
の部分です。
丸亀街道から周囲の山々をみた時にも
「すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。」
とあります。山は
「象頭に異ならずして、草木まれなり」
「いづれも草木不足なり。」
で、宮宮の鎮座する所は
「吾国の仙人林の如く、草木繁りあり」
なのです。これは、何を表しているのでしょうか?
  思い当たるのが象頭山の浮世絵です
1 象頭山 浮世絵

清川八郎が母親と金毘羅さんにやって来た同じ年の安政2年(1855)に、広重によって描かれた  の「讃岐 象頭山遠望」です。岡田台地からの「残念坂」を上り下りする参拝者の向こうに像が眠るように象頭山が描かれています。
 山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?
最初は、「赤富士」のような「絵心」で、彩りを美しく見せるために架空の姿を描いたものなのかと思っていました。しかし、だんだんと、これは当時のそのままの姿を描いているのでないかと思うようになりました。
 向かって左側は、金毘羅大権現の神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
ここからは私の仮説です。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。しかし、右の善通寺側は、伐採が行われ「草木不足」となり、山が荒れている状態を描いているのではないでしょうか?
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歌川広重の「山海見立相撲 讃岐象頭山」を見ると、山が荒れ、谷筋が露わになっているように見えます。背景には、以前お話ししたように田畑に草木をすき込み堆肥とするために、周辺の里山の木々が切られたことがあります。この時期に芝木は大量に田畑にすき込まれ肥料にされました。里山の入会権をめぐって、周辺の村々が互いに争うようになり、藩に調停が持ち込まれた時代です。それが戦後まで続きます。

1952年三原沖の島々ははげ山だった。
三原沖の島々ははげ山化(1952年)

 そして、瀬戸の島々も「耕して天に至る」の言葉通り、山の上まで畑が作られ森が失われていった頃と重なります。
島の木々は、製塩のための燃料として切り尽くされはげ山になっていきます。その後が畠にされて、「耕して天に至る」という景観が現れます。白砂青松の松林の背後の山は、禿げ山化していたのです。

聖通寺山 1952年 はげ山
     聖通寺(坂出市)の突端と向こうに見えるのが沙弥島 ともにはげ山(1952年)

残った緑も薪や肥料に伐採されたのです。ある意味、山が木々に覆われた光景の方が珍しかったのかもしれません。だから、浮世絵師たちは好んで木々の緑の神域と、はげ山のコントラストのある光景を描いたのかもしれません。もし、当時のこの場所に立って、周りを見渡すと見える里山は、丸裸のはげ山だったのかもしれません

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象頭山眺望野図
4344102-34飯野山と飯神社
                飯野山(讃岐国名勝図会)
 以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

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「象頭山祭礼図屏風」に描かれた遍路達が物語るものは?
 「象頭山祭礼図屏風」は、十月十日の金毘羅大会式の当日を描いた六曲一双の大きな屏風です。神前に出仕する上頭・下頭の行列が、参詣客の詰めかけた境内の諸堂、芝居・見世物等で賑わう町方の様子とともに描かれています。元禄年間の17世紀末に描かれたもので、文献の乏しい時代の絵画史料としては、かけがえのないものです。研究者によると、この中に遍路姿の参拝客が合計で10人描かれているといいます。
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 戦国時代の荒廃からまだ立ち直っていない承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳が綴った『四国遍路日記』には、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録があります。
 それから約30年後の元禄二年(1689)版行の『四国遍礼霊場記』には
「金毘羅は順礼の数にあらずといへども、当州(讃岐)の壮観、名望の霊区なれば、遍礼の人、当山に往詣せずといふ事なし
とあります。ここからも金比羅詣でにやってきた人たちが、善通寺や弥谷寺・海岸寺の「七箇所参り」=「ミニ版の四国巡礼」を行っていたように、遍路たちも金毘羅大権現にお参りに来ていたことが分かります。元禄年間に、金比羅さんの大祭に四国遍路の姿が描かれていても不思議ではないようです。今でも、金比羅さんでは歩き遍路の姿を時々見かけます。

大祭5
西国巡礼者は金毘羅大権現にもお参りしていた
 四国遍路が西国巡礼の影響をうけて笈摺を着用することになったのもこの頃のようですから、「象頭山祭礼図屏風」に四国八十ハケ所を巡拝する遍路が描かれていても不思議ではないようです。
 さて、西国巡礼者達がその巡礼の途中で金毘羅に立ち寄るようになるのは19世紀初頭前後からのようです。そして金毘羅参詣が西国巡礼中の一つのコースとして定番化します。西国巡礼の途中で、足を伸ばして四国に渡り金毘羅にも参っていくようになるのです。
IMG_8108象頭山遠望
江戸時代の巡礼者達は、札所から札所へと番付順に忠実に巡礼を続けるだけでなく、危険を回避するためにたとえ番付が逆になろうとも迂回をしたり、巡礼途中で高野山等の有名な寺社へ立ち寄ったりします。さらには、大坂市中で芝居見物して長逗留する人たちまでいました。私たちが考えるようなストイックな遍路姿とは異なる、非常に生き生きとした貪欲な巡礼者像が見えてきます。
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 東国からやってきた伊勢・西国巡礼の社寺参詣ルートは?
①「伊勢 十 西国巡礼ルート」
往路東海道を伊勢神宮に向かい、一番青岸渡寺より順次西国三十三所霊場を巡り、中山道を復路とする
②「伊勢参宮モデルルート」
往路東海道を伊勢神宮に向かい、伊勢より奈良・大坂・京都の社寺を巡り、中山道を復路とする
の二つが基本コースだったようです。これに次のようなオプションルートが加えられます。
③金毘羅参詣を加えた「普及型」、
④安芸の宮島、岩国の錦帯橋見物を加えた「拡張型」
  ここからは東国からの参詣旅行者が伊勢神宮や西国札所、あるいは高野山・金毘羅・善光寺等の有名諸社寺を一つの巨大ルートとして旅していた分かります。これらのルートの中に金毘羅や四国遍路も入っていたのです。
z金毘羅大権現参拝絵図 航海図

西国巡礼者の道中記から金毘羅参詣ルートを見てみると
9割以上が金毘羅までやってきているようです。西国巡礼者の金比羅詣でのコースは、播磨の高砂の船宿の用意した金比羅船で丸亀へ渡り、丸亀からは丸亀街道を金毘羅へと向かいます。その場合も金毘羅参詣だけ済まして四国をあとにしたのはわずかです。多くは空海の生誕地で四国霊場の聖地善通寺や弥谷寺をも併せて参拝し再び丸亀に戻っています。
13572十返舎一九 滑稽本 絵入 ■金毘羅参詣 続膝栗毛

以前お話しした十返舎一九の弥次喜多コンビの歩いたコースです。これは「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷寺道案内図」と題された道中案内図が何種類も残っていることとからも裏付けできます。
 
230七箇所参り
喩伽山蓮台寺と金毘羅大権現の両参り
 丸亀に戻った巡礼者達は、再び船に乗りこみます。
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向かう港は、児島半島の下津井・田ノロや牛窓・赤穂、そして室津が多かったようです。この中で特に多いのが児島半島へ渡っている西国巡礼者が多いのです。児島半島に彼らを引きつけるものがあったからです。それが楡伽山蓮台寺でした。金毘羅に参った西国巡礼者の半分は、行きか帰りかいずれかに喩伽山に参詣しています。

IMG_8098由加山
喩伽山蓮台寺は、心流修験と称された修験道本山派内の有力集団が、その本拠児島半島に勧請した熊野三山のうち那習山に比定された寺院で、ここも金毘羅さんと同じく修験者達のメッカでした。彼らは
金比羅参詣だけでは「片参り」に過ぎず、金毘羅参詣者は必ず楡伽山へも参詣せねば本当の功徳は得られぬ
と喧伝するようになります。
 この「両参り」用の道中案内図が「象頭山楡伽山両社参詣道名所旧跡絵図」です。こうした宣伝が効いたのか、多くの金毘羅参詣者か行きか帰りに必ず児島半島を通過して行くようになります。後には、これを見て阿波の箸蔵も「金比羅さんの奥社」を称え「両参り」を宣伝するようになり、参拝客を急増させることに成功したことは、以前にお話ししたとおりです。
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 東国からの西国三十三所巡礼者は、その巡礼の途中で四国に渡り金毘羅参詣を行っていたことをお話ししました。彼らは播磨の高砂からコースを外れて讃岐丸亀に渡った訳ですが、金比羅詣が終われば、西国巡礼ルートに戻らなければなりません。
それではどこで「巡礼ルートに復帰」したのでしょうか? 
それは西国巡礼で一番西の札所になる第二十七番札所書写山円教寺です。児島半島の蓮台寺に「両参り」を済ませた後には、姫路の書写山へと足を進めました。東国からの西国巡礼者のルートを確認しておくと次のようになります。
①東海道で伊勢神宮へ
②高野山へ
③西国巡礼ルート開始 
④高砂から丸亀へ金比羅船で金毘羅大権現へ
⑤善通寺七ケ寺巡礼
⑥丸亀から児島半島の蓮台寺へ
⑦山陽道を経て姫路・書写山へ
という回遊ルートを巡っていたようです。 
また、西国巡礼を行わずに金比羅詣でや四国遍路を行う人たちもいました。彼らのとったコースは以前紹介したように和歌山から阿波の撫養に渡り、金毘羅をめざしたようです。
紀州加田より金毘羅絵図1
どちらにしても、私たちが現在行っているひとつの目的地を目指す短期間旅行とは、スタイルがちがうのです。四国遍路にしても札所だけを訪れるのではなく周辺の神社仏閣を、貪欲に訪れていることが分かります。現在の「旅行」感覚で見ていると、見えてこないものがいっぱいあります。
参考文献 北川央 近世金比羅信仰の展開

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「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」と題される絵地図です。大坂から金毘羅船でやって来た参拝客に丸亀の旅籠や土産店屋が配ったと云われます。時代とともに数多くの種類が刷られて、それを歴史順に並べて比較すると、建物や鳥居に違いがあって金比羅街道の移り変わりが楽しめます。
少し、見方を説明しておくと、
230
①右下が丸亀湊で、ここには福島湛甫が描かれているので19世紀半ばのものであることが分かります。
②双六で云えば、丸亀湊をスタートにこまを進めていく事になります。ランドマークタワーでもある丸亀城に見送られ、讃岐富士を左手に、一番左奥の象頭山へと丸亀街道を南へ足を進めていきます。
③丸亀街道は、丁石が150あったと云われるので約15㎞。江戸時代の人にとってはゆっくり歩いても3時間足らずの道程だったのではないでしょうか。この手の絵図は、その道程は大きく省略しています。
④そして、大きな鳥居(現高灯龍)をくぐると高松街道と合流して、金比羅の街並みに入って行きます。
230七箇所参り

  さて、最初にこの絵図を見たときの私の疑問は題名が「金比羅参拝絵図」でないことです。
「丸亀より金比羅・善通寺・弥谷寺案内図」
なのです。大阪からやって来る人たちは、こんぴらさんを目指してやって来ているのだと思っていました。ところが、そうとは言い切れなかったようです。それが、この絵図の題名にも現れています。
 弘法大師信仰が広まった江戸期には、その生地とされる善通寺や、学問・修行に励んだとされる弥谷寺も「聖地」とされ人気が高かったようです。弥次郎兵衛と喜多八のコンビも金比羅・善通寺・弥谷寺をめぐっています。
DSC01390善通寺
五岳を背景にした善通寺(拡大図)
 これについても、金比羅詣でのついでに善通寺に詣でているのだと思っていたのですが、そうとばかりは言えないようです。
善通寺参りのついでに、金毘羅山に参っていた信者の話です。
主人公は酒井弥蔵という阿波の商人です
金毘羅信仰が高揚期を迎える19世紀初頭に阿波国半田村で商家を営んでいた父・武助と母・お芳の子として生まれました。半田町は吉野川中流にある町で、素麺が有名な所です。彼の父は、俳人でも有り、その影響から弥蔵も俳諧をたしなむ一方、易・相撲・芝居などにも興味を持って注解書を書くほどであったようです。また神仏への信仰心も篤く、亡くなる明治25年(1892)までの間に、伊勢始め高野山など数多くの参詣旅行をしていたことが、彼が残した参拝記録や日記から分かります。
 しかし、彼の旅は参拝だけでなく、仕事上の旅もありました。彼の商売記録である『大福帳』には、半田の大きな薬屋の代行として、目薬の商品入れ替えのための旅もあったようです。富山の薬売りをイメージしますが、そのため旅慣れていたようです。
  そんな彼が最も多く訪れていたのが、お隣の讃岐でした。
弥蔵の住んでいた半田からは、吉野川を渡り箸蔵寺を通って、二軒小屋を越えると讃岐の山脇集落に降りていけます。健脚な彼は、一日でこんぴらさんや善通寺に詣でる事はできたでしょう。
 そのため、弥蔵も讃岐へは頻繁に旅をしています。

233善通寺 五岳
善通寺から弥谷寺への道
さて、平蔵はこんぴらさんに何回くらいお参りしているとおもいますか?
 研究者が彼の参詣記録をまとめた一覧表によると、生涯を通じて200回以上も参拝しているようです。 弥蔵の金毘羅参詣記録から研究者は次のようなことを指摘します。
「特定の日の参拝回数が極端に多い」というのです。
特定の日とは、3月21日と10月12日です。
なぜ酒井弥蔵は、この日を選んで金毘羅参詣に行ったのでしょうか。まず、3月21日が、どんな日であったかを見てみましょう
 こんぴらさん側のことを調べても分かりません。これは善通寺と関係があるのです。
善通寺は空海の生誕地とされ「弘法大師信仰」の高まりの中で、信者達からは「聖地」とされてるようになりました。弥蔵も弘法大師信者であったようです。彼は、生涯を通じて50回以上、善通寺に参詣をしています。そして、善通寺を同参拝した日には、46回もこんぴらさんにも参拝しているのです。しかし、これだけだとこんぴらさんにお参りしたついでに、善通寺にも参拝したとも言えます。
IMG_8068善通寺五重塔
ところが参拝日が集中している3月21日は、善通寺に特別な行事があった日なのです。
この日は弘法大師が入定した日です。真言系の寺院にとっては特別詣の日に当たります。高野山では弘法大師の古くなった御衣を取り替える「御衣替」が行われます。そして、善通寺でも「百味講」という講が行われていたようです。では、この「百味講」とは、どのようなものなのでしょうか?

IMG_8067善通寺
 『毎年三月正御影供百味御膳講之記』には、「百味講」について次のように記します
讃岐之国善通寺は弘法大師第一の旧跡たる事、皆人の知る処にして、其昔より毎年三月二十一日信心の輩 飲食を奉る事久し。一度其講中に縁を結ぶ者は真言をさづかり又七色の御宝のおもひ出此事にして、現当二世安楽うたがひなきと、言事を物を拝し奉りて有がたさの数々短き筆に印しがたし。誠に此世 人々に進る者也。
 ここからは百味講が、3月21日に信徒が百味(いろいろな飲食物)を奉納し、善通寺に伝わる「七色の御宝物」を拝見する講だったことが分かります。弥蔵の『散る花の雪の旅日記』によると開帳される「七色の御宝物」とは、
一 泥塔    大師七歳之御作
一  五色仏舎利 八祖伝来
一 水瓶    大師の御所持
一 木鉢    同断
一 一字一仏法華経文字 大師尊形御母君
一 二十五条袈裟 祖師伝来
一 閻浮檀金錫杖 同断
の七つの宝物であったと記します。弥蔵の百味講最初の参加は『散る花の雪の旅日記』の中で、 
「斯講中を結びて、大師の霊場に参詣に趣事、去年今年両度なり」
とありますから弘化二年のことのようです。それ以降、毎年のように百味講に参加しています。
IMG_8069善通寺誕生院
 どうして弥蔵は百味講に参加するようになったのでしょうか?
百味講は、単に宝物開帳の場であっただけでなく、先祖供養の場でもあったようです。弥蔵が最初に参加した弘化二年には、祖父・孫助や父・武助を始め合計15名の供養を行っています。また文久三年の百味講では、母や妻など五名が加えられています。ここから弥蔵が百味講に毎年参加するようになったのは、先祖供養を行うためだったことがうかがえます。
 以上から三月二十一日は、先祖供養のために善通寺での百味講参加するために讃岐にやってきて、その途上にあるこんぴらさんにお参りしたようです。彼にとって、この日は善通寺が主であり、こんぴらさんは従だったのかもしれません。
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 この参拝絵図は和歌山の沽哉堂から出された『象頭山参詣路紀州加太ヨリ讃岐廻並播磨名勝附』です。左下が大坂で、紀州加太から播磨を経由して金毘羅へ参詣するための経路が描かれています。
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この中にも、弘法大師誕生の地である善通寺や、八十八ヶ所霊場の弥谷寺なども描かれています。高野山をお参りする参拝者にとって「弘法大師生誕地・善通寺」という地名は、彼らを惹き付ける魅力的な聖地であったのでしょう。そして、実際に和歌山から舟で阿波に上陸した参拝客には「この機会にこんぴらさんにもお参りしよう」という意識が強くなって行ったのかも知れません。
 こんぴらさんの幕末の賑わいは、善通寺や四国霊場、或いは法然をめぐる巡礼などの聖地巡りの渦の中から生まれてきたのかも知れないと思うようになってきたこの頃です。
289金毘羅参詣案内大略図
    さて、もうひとつの疑問であった酒井弥蔵の金毘羅詣が10月12日に多いのはどうして?これについては、また次回に・・・
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参考文献 
  鬼頭尚義 寺社参拝の意識 酒井弥蔵の金毘羅参詣記録から見えてくるもの 京都精華大学紀要44号

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