瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:霊山・修験道・廻国行者・高野聖 > 伊予の修験者たち

仙人窟は、『一遍聖絵』にも描かれていて、修験者たちが岩籠もりや祈りの場としていた行場のひとつと考えられてきました。しかし、実際にここが調査対象になったことはありませんでした。ユネスコ登録に向けた霊場調査で、この窟も発掘調査の手が入ったようです。その報告書を見ていくことにします。テキストは、「四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺発掘調査の成果(仙人窟:58P)2022年3月 愛媛県教育委員会」です
まず澄禅の四国遍礼霊場記に「仙人窟」がどのように書かれているか見ておきましょう。

岩屋寺 仙人窟と仙人堂
 
①不動堂(現本堂)の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。②鉦鼓を持っている阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。③阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、④飛来の仏と呼ばれている。近くに⑤仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。

ここからは、次のようなことが分かります。
①不動堂(本堂)の岩窟には銅製仏像が安置されていること
②この仏像は鉦鼓を持っているのに阿弥陀如来とされていること
③これに対して、澄禅は懐疑的であること
④誰が安置したか分からず、飛来の仏とされていること
⑤阿弥陀窟の左側に仙人窟があり、「法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所」とされていたこと。
ここで確認しておきたいのは、現在の仙人堂と仙人窟は別の窟であることです。
岩屋寺 仙人窟と仙人堂2
岩屋寺 仙人堂と仙人窟

仙人窟の位置を最初に確認します。

①金剛界峰から南面して、阿弥陀堂に並んで開口
②本堂からの比高は約4m、奥行は最大で約2,9m、幅約4、3m、高さは約2、1m。
③岩壁沿いに細い行道が10mほど続いていて、通路のようになっている
岩屋寺 仙人窟への行道跡
岩屋寺仙人窟への行道

金剛界峰の裾部からは、かつての山林修行者の行道が一部残っているようです。この山全体が「小辺路」で行場だったことは以前にお話ししました。そのような行道の中のひとつの窟が仙人窟のようです。

発掘調査の結果、仙人窟からは次のような遺物が出てきています。

岩屋寺 仙人窟の遺物2
1 8世紀の須恵器の壺蓋
2・3 中世後期(15~16世紀代)の土師器質の皿
4 鹿角製の竿(完形品) 
5 大量のこけら経・笹塔婆
岩屋寺 仙人窟の遺物
岩屋寺仙人窟からの出土品

これらの遺物から何が分かるのか、順番に見ていくことにします。
遺物1は、須恵器の壺蓋です。
上図の黒い部分で全体の4分の1ほどが出ています。つまみ部分がありません。これについて研究者は次のように記します。

外面の3分の1より上は回転ヘラ削りにより器面が整えられ、天井部付近はケズリ後ナデが施されている。外部外而3分の1よリ下と内面は回転ナデによって調整される。口縁部径は復元で14。3㎝、高さは残存部で4。5㎝を測る。天井部から体部にかけての屈曲は鈍角で緩やかで、口縁端部はやや尖り気味におさまり、接地面はわずかに平坦面を有する。内外面ともに浅黄橙色を呈し、胎土は混和剤が少なく、精良である。時期は8世紀代に属するものと考えられる。 

2・3は土師質土器の皿です。
造りは精良で、全体に歪みがない。復元口縁部径は13。2㎝、底径は5。8㎝、器高は3。2㎝で小型。内外ともに横ナデによって器面が整えられ、底部は回転糸切り痕が明瞭に残る。時期は、松山平野の土器との比較から中世後期(15~16世紀代)のもの

4は鹿角製竿(さお)の完形品です。
全長16。3㎝、最大幅1。95㎝、最大厚0。6㎝で、上端と下端が薄く、中ほどが厚くなっています。全体が良く磨かれて丁寧に仕上げられています。時期の特定は難しく、同時に出土した土器年代から古代~中世と幅を持たせています。

遺物1はⅣ層1面、 2はⅢ層、3は表面採集、4はⅣ層からの出土になるようです。このほか、Ⅲ層からは大量のこけら経と笹塔婆が出土しています。これを次に見ておきましょう。

岩屋寺 こけら経出土状態
岩屋寺のこけら経出土状態
仙人窟からはこけら経・笹塔婆2421点が出ています。その内訳は、次の通りです
①経典を書写したこけら経が505点
②六字名号などを書いた笹塔婆415点
③内容不明等の墨書などの断簡1501点
④残存状況は、完全系60点、頭部407点、下部57点、断片1897点
岩屋寺こけら経1
岩屋寺出土のこけら経

こけら経・笹塔婆については元興寺極楽坊から発見されたものが有名です。
「水野正好先生の古稀をお祝いする会2003年8月2日発行】15頁の「経木・経石発掘」には、次のように記します。
 (-前略-)『大乗院寺社雑事記』には、こうした柿経書写の様子をこと細かく「春菊丸の追善のために柿経5670本つくり供養。うち5550本は文明9年5月14日の誕生日から当年(明応元年)7月25日死去の日まで、春菊丸がこの世にあった日数の柿経、120本は当年3月25日より死去の日まで、病に臥せた120日間分。柿経に書写した経は法華経は8巻・・・地蔵本願経3巻、阿弥陀経・・・。柿経は曽木200枚余、6切に5本ずつとる」と書きのこしてくれている。
死者の追善供養としての柿経の写経であり、在世の日数に病
臥の日数を加えて法華経以下の経を写しているのである。
敦賀市のこけら経: 一乗学アカデミー
こけら板墨書  妙法蓮華經  富森冬永奉納  一束(箍外れの3枚を含む)
・時代 室町時代1498年(明応七年十一月十一日)銘
・直径 約21.5㎝(こけら板1枚の長さ約26.3㎝ 幅 約1.6㎝ 厚さ 約0.03㎝)
・説明 薄く剥(は)いだヒノキの板約2,000枚に墨で1行17字の妙法蓮華經を書写したもの。重ねて、巻末を中心にして円筒形に巻き込み、上・下を竹の箍(たが)で締めつけているが、下の箍は現在は銅線で補修されている。
法華経は8巻4,091行あり、このこけら経は、2束1セットの1束と見られる。

元興寺極楽堂の天井裏に、はかつて柿経を納めたカマスがあったようです。

岩屋寺の仙人窟から出てきた笹塔婆を見ておきましょう
世良田諏訪下遺跡出土の笹塔婆等 附 出土土器一括 - 太田市ホームページ(文化財課)
笹塔婆は仏の名前や短い仏教の文言を書いて供養やまじないに用いた木簡です。岩屋寺出土の笹塔婆には
①「南無阿弥陀仏」の六字名号
②「大日如来」「勝蔵仏」などの阿弥陀仏以外の名号
③「キリーク・ナン・ボク」「キリーク・サ・サク」
などの梵字が書写されています。圧倒的に多いのは「南無阿弥陀」です。また「キリーク・ナン・ボク」は、阿弥陀如来の梵字種子に「南無仏」を梵字化した「ナン・ボク」を付加したものと研究者は考えています。そうすると「キリーク・サ・サク」の阿弥陀三尊梵三種子と合わせて、この洞窟のとなりに祀られている「洞中弥陀」との関係があったことがうかがえます。どちらにしても、阿弥陀信仰の色合いが強いことを押さえておきます。
岩屋寺のこけら経・笹塔婆は、
いつころ奉納されたものなのでしょうか?

岩屋寺 こけら経分類
岩屋寺 こけら経編年表

上の分類・編年表に岩屋寺こけら経・笹塔婆の分類を照会すると、「松浦・原旧分類」のIa類とⅦa類に対応するので、15世紀後半~16紀頃のものと研究者は判断します。また、それを補強するものとして、岩屋寺のこけら経や笹塔婆の多くが片面写経であること、字体が近世まで下らないことがあります。
以上からは中世後期のこの岩窟では、士師質土器皿を持ち込んで、宗教的行為や柿経・笹塔婆の奉納などに活発に岩窟を利用していたことがうかがえます。
それでは、8世紀代の須恵器が仙人窟に持ち込まれていることを、どう考えればいいのでしょうか?
岩屋寺は、長く第41番札所大賓寺の奥之院とされてきました。そのため岩屋寺の縁起は、ほとんどが江戸時代以降のものです。最も古いものは鎌倉時代に描かれた『一遍聖絵』の詞書になります。そこには、空海以前には、地主神として仙人が生活していたとと、次のように記します。

「仙人は又土佐国の女人なり、観音の効験をあふきてこの巌窟にこもり…(中略)・…又四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十二所の霊嘱あり。斗藪の行者霊験をいのる砌なり」

 ここからは岩屋寺が創建される以前より、土佐国出身の女性の仙人が修行を行う霊地であったと伝わっていたようです。こういう伝えが残されていることは、岩屋寺周辺の岩窟では、行者らの修行が岩屋寺創建より前から行われていたことがうかがえます。
 また、この岩窟は生活するには不便な場所です。床面は水平ではなく、斜めに傾いています。その上、開口部以外は天井は低く、狭いので日常的な生活の場には適さない空間です。しかも水場からは遠く離れています。以上から、今回出土した須恵器は、日常的生活用ではなく、岩窟内での宗教的行為のために持ち込まれたものと研究者は考えています。
ここから出土した8世紀の須恵器の器種は壺の蓋です。
形から見て頸の短い短頸壺とセットとなる蓋で、その用途は日常生活の貯蔵容器として用いられる他に、この時期には蔵骨器として用いられていたと研究者は指摘します。その用例は愛媛県でも何例かあるようです。
岩屋寺 松山市の骨蔵器

上図は松山市かいなご3号墳周辺から出土した蔵骨器で、完全な形で、8世紀~9世紀中葉のものとされています。仙人窟の須恵器土器も蔵骨器として使用されていたと研究者は推測します。それを補強するのが『一遍聖絵』の詞書「仙人利生のために遺骨をとゝめ給ふ」という記述です。ここからは、古代~中世の岩屋寺では何らかの形で遺骨が祀られていたことがうかがえます。8世紀に蔵骨器として使用されたものとすれば、霊窟での祖先供養と結びついて考えることができます。
最後に、鹿角製竿について見ておきましょう。
先ほど見たように、中世後期の仙人窟では、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われていたことが想定できます。しかし、その際に鹿角製竿がどのように使われていたのかというのは、よく分かりません。他でもこけら経と竿、土師質土器と竿を用いた祭祀行為の例はないようです。廻らなくなった頭を叩いて無理矢理に出してみると「行者などの人々の出入りが比較的多かったので、修行などの際に鹿角製竿を落とした」くらいしかおもいつきません。しかし、仙人修行の地である神聖な霊窟に落とし物をしてそのままにする修験者がいるでしょうか。しかも、これは完形品で、廃棄されたとも考えられません。
 一方、8世紀代には須恵器の壺蓋が蔵骨器として用いられていた可能性があることは見てきた通りです。
ここからは、鹿角製竿も人骨とともに蔵骨器内に納められた副葬品であると研究者は推測します。熊本県益城町阿高の「阿高貝塚」の古墳から出土した蔵骨器には、骨製の竿が副葬されているようです。ここでは「鹿角製竿は蔵骨器の中に入れられた副葬品」説をとっておきます

以上から、仙人窟で行われてきた宗教儀式を年代順に追ってみるると次のようになります。
①奈良時代8世紀に、死霊の赴く山として骨蔵器に骨が納められ埋葬された
②空海以前には、土佐出身の仙人が住み、観音信仰の霊地や行場とされていた。
③そこに熊野行者が入り込み、大那智社・一の王子・二の王子などを勧進した
④その後、高野聖がやってきて阿弥陀信仰をもたらし、祖先供養の霊地にした。
⑤高野聖は、高野山の守護神である丹生社や高野社を勧進するとともに、弘法大師信仰を拡げた。
⑥同時に祖先供養のために、こけら経の奉納や土師質土器を用いての宗教的供養が行われた
⑦戦国時代16世紀の岩屋寺は、山林修行者の行場であると同時に、高野聖(念仏聖)たちによって里人の祖先供養の霊場の性格を強め、人々の信仰を集めた
⑧高野聖の活躍による弘法大師信仰の高まりを背景に、建立されたのが大師堂である。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「発掘調査の成果(仙人窟) 四国88ヶ所霊場詳細調査報告書 第45番札所 岩屋寺(58P) 2022年3月 愛媛県教育委員会」
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金光山仙龍寺
金光山仙龍寺は、四国八十八箇所の札場霊場ではありません。しかし、17世紀に書かれた澄禅「四国辺路日記」、真念「四国邊路道指南』、寂本「四国霊場記」などにも紹介されています。プロの宗教者である修験者たちの行場にあった山岳寺院は、近世になると「四国遍路」となり、札所寺院廻りに姿を変えていきます。それにつれて、山の奥にあった霊場は里山に下りてきます。そして、行場は「奥の院」と呼ばれるようになり、訪れる人は少なくなっていきます。ところが仙龍寺は現在に至るまで、多くの参拝者を集め続けている「奥の院・別院」なのです。それを示すのが、かつては400人が泊まった大きな宿坊です。これだけの施設を作り出していく背景は、どこにあったのでしょうか。
仙龍寺宿坊
仙龍寺の宿坊
図書館で最近に出版された三角寺と仙龍寺の調査報告書を見つけました。今回は、その中に紹介されている仙龍寺の絵図を見ながら、その歴史を追いかけて行きたいと思います。
テキストは「今付 賢司  仙龍寺「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」について 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」です。
奥之院仙龍寺】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
仙龍寺堂内入口

  弘法大師信仰が高まりを見せるようになると、善通寺の弘法大師御影のように、その遺品には霊力があり、何事も適えてくれると説かれるようになります。こうして弘法大師の遺品が人を惹きつけるようになります。
  澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)は、仙龍寺の弘法大師遺品について次のように記します。
 峠から木の枝に取付テ下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院(仙龍寺)は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。ここに弘法大師が18歳の時に、自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
 
 ここからは仙龍寺は大師自作の弘法大師像が本尊で、鈴や硯も宝物として安置されていたことが分かります。中には、三角寺にお参りすることが目的ではなく、仙龍寺の「自作大師像」にお参りすることが目的の人達もいたようです。そのためには法皇山脈のピークの平石山(標高825m)の地蔵峠(標高765m)を越えて行かねばなりませんでした。これが「伊予一番の難苦」で、横峰寺の登りよりもしんどかったようです
報告書には仙龍寺の景観を描いた両帖、絵図類が以下の6つ紹介されています。
①寛政12年(1800)「四国遍祀名所図会」の図版「金光山」
②江戸時代後期、西丈「中国四国名所旧跡図」収録の直筆画
③弘化元年(1844)松浦武四郎「四同遍路道中雑誌」
④明治2年(1869)半井梧奄『愛媛面影』の図版「仙龍寺」)
⑤明治時代後期「伊予国宇摩郡奥之院仙龍密寺境内之略図」
⑥大正~昭和時代頃「金光山奥之院仙龍寺」
仙龍寺 三角寺奥の院1800年
①の「四国遍礼名所図会」1800年 (個人蔵)
これは、阿波国阿南の豪商河内屋武兵衛(九皐主人)の遍路記を、翌年に書写したとされるもので仙龍寺の挿絵がはいっています。ここには、仙龍寺への参道として次のようなものが描き込まれています
①三角寺からの地蔵峠
②雲辺寺道との分岐点となる大久保村
③仙龍寺まで7丁の地点にある不動堂
④そこから急勾配の難所となる後藤玄鉄塚
⑤道の左右に見える護摩窟、釈迦岳、加持水、来迎滝、道案内の標石、手洗水
などが細かく描き込まれ臨場感あふれる景観になっています。
山道を下った仙龍寺の境内では、懸造の本堂と庫裏、蟹渕(橋下の川)、鎮守社、阿弥陀堂、仙人堂などが並びます。崖沿いに建てられた高楼造りの仙龍寺本堂を中心に、深山の清滝、三角寺からの険しい奥院道の景観まで、江戸時代後期の仙龍寺の景観をうかがい知れる貴重な絵画史料と研究者は評します。
「四国遍礼名所図会」の本文は次の通りです
  是より仙龍寺迄八十町、樹木生茂り、高山岩端けはしき所を下る。難所、筆紙に記しがたし。庵本尊不動尊を安置す、是より寺迄七丁、壱町毎に標石有り。後藤玄鉄塚道の右の上にあり、護摩窟道の左の下、釈迦岳右に見ゆる大成岳なり、
加持水 道の右にあり、来迎滝橋より拝す、蟹渕 橋の下の川をいふ也。金光山仙龍寺 入口廊下本堂庫裡懸崖作り、本堂本尊弘法大師。毎夜五ツ時に開帳あり、大師御修行の霊地なり、本尊自作の大師也。大師四十二歳時一刀三礼に御作り給ふ尊像也、一度参詣の輩ハ五逆十悪を除給ふとの御誓願也。終夜大師を拝し夜を明す、阿弥陀堂 庫裡の上にあり。仙人堂 廊下の前に有り。
意訳変換しておくと
  三角寺から龍寺までは八十町、樹木が生い茂り、高山の岩稜が険しい所を下っていく。難所で筆舌に尽くしがたい。不動尊を安置する庵から仙龍寺までは七丁、1町毎に標石がある。後藤玄鉄塚は、道の右の上にある。護摩窟は、道の左の下にある。釈迦岳の右に見えるのが大成岳。
加持水は、 来迎滝橋より参拝できる。蟹渕は、橋の下の川のこと。
 金光山仙龍寺の入口廊下と本堂・庫裡は懸崖作りである。本堂本尊は弘法大師で、毎夜五ツ時(8時)に開帳する。ここは大師修行の霊地なので本尊は、大師自作の大師像である。大師が42歳の時に、この地を訪れ―刀三礼で作られたという尊像である。一度参詣した人達は、五逆十悪が取り除かれるという誓願がある。終夜大師を拝して夜を明す。阿弥陀堂は、庫裡の上にあり。仙人堂は、廊下の前にある。
ここで私が注目するのは、次のような点です。
①それまで大師18の時の自作本尊弘法大師像が42歳になっていること
②8時開帳で終夜開帳され、参拝者が夜通しの通夜を行っていること
①については「厄除け」信仰が高まると、「厄除け大師」として信仰されるようになったようです。そのため大師の年齢が18歳から42歳へと変更されたようです。
②については参拝者の目的は、本尊「大師自作の大師像」にお参りするためです。その開帳時刻は、夜8時だったのです。そのためには、仙龍寺で夜を過ごさなければなりません。多くの「信者の「通夜」ために準備されたのが宿坊だったのでしょう。それを無料で仙龍寺は提供します。これは参拝者を惹きつける経営戦略としては大ヒットだったようです。以後、仙龍寺の伽藍は整備され宿坊は巨大化していくようになります。それが絵図に描かれた川の上に建つ懸崖作りの本堂や宿坊なのでしょう。仙龍寺は、本尊の弘法大師像の霊力と巧みな営業戦略で、山の中の奥の院でありながら多くの参拝客を近世を通じて集め続けたようです。

仙龍寺23
大和国の仏絵師西丈が描いた彩色画帖「中国四国名所旧跡図」
(愛媛県歴史文化博物館蔵)
この絵図は一番下に「与州三角寺奥院金光山仙龍寺図」とあり、東西南北の方位が表記されています。城壁のような岩壁の上に横長の楼閣のような白い漆喰壁の建物(本堂、通夜堂、庫裏)が並び立ち、まるでお城のような印象を受けます。その廊下の四つの窓には全部で9人の人物が見えます。
その奥に瓦葺入母屋の屋根の大きな建物が二軒あります。張り出した岸上に瓦葺人母屋の屋根の漆喰塗り連子格子窓の建物があります。
 渓流の向こう側の西の文字のある左側の場面には岩場が広がり、さらに一段上がった崖上の端には、桧皮葺入母屋屋根の社のような建物があります。これがかつての行場の象徴である仙人堂なのでしょう。その前に小さな小屋があります。西側崖と東側崖の間には川があり、上流から水が勢いよく流れ、手前には屋根付き橋の大鼓橋が掛っています。川沿いには石垣をもつ瓦葺の建物が建っています。奥にも屋根のない太鼓橋が掛り、橋のたもとには石塔が建っています。

仙龍寺 松村武四郎

松浦武四郎「四国遍路道中雑誌」1844年(松浦武四郎記念館蔵)
 松浦武四郎は雅号を北海道人(ほっかいどうじん)と称し、蝦夷地を探査し、北海道という名前を考案したほか、アイヌ民族・アイヌ文化の研究・記録に努めた人物です。彼も仙龍寺にやって来て、次のような記録とスケッチを残しています。
金光山遍照院仙龍寺
従三角寺五十六丁。則三角寺奥院と云。阿州三好郡也。本尊は弘法大師四十弐才厄除之自作の御像也。夜二開帳する故二遍路之衆皆此処へ来リー宿し而参詣す。燈明せん壱人前拾貳銅ヅツ也。本堂、客殿皆千尋の懸産二建侍て風景筆状なし易からず。大師修行之窟本堂の東二在。此所二而大師三七日護摩修行あられし由也。其時龍王:出て大師二対顔セしとかや。中二自然の御手判と云もの有り。是を押而巌石の御判とて参詣之人二背ぐ、尚其外山内二いろいろ各窟名石等多し。八丁もどり峠の茶屋に至り、しばし村道二行て金川村越えて内野村越而坂有。
意訳変換しておくと

金光山遍照院仙龍寺は、三角寺より五十六丁で、三角寺奥院と云う。阿波三好郡になる。本尊は弘法大師42才の時の厄除の自作御像である。夜に開帳するので、遍路衆は皆ここでー宿して参詣する。燈明銭として、一人十二銭支払う。本堂、客殿など懸崖の上に建ち風景は筆舌に表しがたい。 大師修行の窟は本堂の東にある。ここで大師は三七日護摩修行を行ったという。その時に龍王が出て大師と向かい合ったという。この窟の中には、大師の自然の御手判とされるものもある。この他にも各窟には名石が多い。八丁もどって峠の茶屋に帰り、しばらく村道を行くと金川村を越えて内野村越の坂に出る。

 松浦武四郎は、仙龍寺について「阿波三好郡にあり」としていますが、伊予新宮の間違いです。この地が阿波・讃岐・伊予の国境に位置し、他国者にとっては分かりにくかったようです。他に押さえておきたいことを挙げておくと
①本尊は弘法大師42歳の厄除け自作像であること、18歳作ではないこと。
②夜に開帳するので「遍路之衆」はみなここで1泊すること
③照明代に一人12銭必要であること

三角寺道と雲辺寺道の分岐点となる大久保村付近から仙龍寺までの険しい山道の様子、清滝、崖沿いの舞台造りの諸堂が簡略なスケッチで描かれています。描画はやや詳細さに欠けるが、仙龍寺の全体の雰囲気をよく捉えていると研究者は評します。

仙龍寺 明治2年
幕末期の地誌である半井梧巻『愛媛面影』(慶応2年(1866)
ここには図版とともに、次のように記載されています。。

仙龍寺 馬立村にあり。奥院と名づく。空海四十二歳の時の像ありと云ふ。山に依りて構へたる楼閣仙境といふべし。

左手に切り立つ崖沿いの懸造りの建物(本堂、通夜堂)と深い渓谷がに描かれています。空からの落雁、長い柱の上に建つ舞台から景色を眺めている人物なども描き込まれ、まさしく深山幽谷の地で仙境にふさわしい仙龍寺の景観です。
仙龍寺 『伊予国地理図誌

明治7年(1874)『伊予国地理図誌』
ここにも仙龍寺の記述と絵があります。仙龍寺図には、渓谷に掛かる橋や懸造の建物、そして反対側には清滝が描かれ、次のように記されています。
馬立村
仙龍寺 真言宗 法道仙人ノ開基ニシテ嵯峨天皇御代弘仁五年空海ノ再興ナリ 険崖二傍テ結構セル楼閣ノ壮観管ド又比類無シ 本堂十四間六間 客殿十二問四間 境域山ヲ帯デ南北五町東西九十間
清滝 仙龍寺ノ境域ニ在リ
明治末の仙龍寺について、三好廣大「四国霊場案内記」(明治44年(1911年)を見てみましょう。この小冊子は、毎年5万部以上印刷されて四国巡拝する人に配布されたもので、四国土産として知人に四国巡拝を推奨してもらうために作成された案内記だったようです。その中に仙龍寺は次のように紹介されています。

 奥の院へ五十八丁、登りが三十二丁で、頂上を三角寺峠と云ふて瀬戸内海は一視線内に映じ、山には立木もなく一帯の草原で気も晴々します、峠から二十六丁の下りで、此の間の道筋は石を畳み上八丁下ると不動堂のある所に宿屋あり。こヽまで打戻りですから荷物は預け行くもよろしいが、多くの人は荷を寺まで持て行きて通夜することとする。寺には毎夜護摩修行があり、本尊の御開帳があり、住職の御説法があります。寺には風呂の設けもありて参詣者に入浴を得させます
  奥の院 金光山 仙龍寺(同郡新立村)
本尊は大師四十二歳の御時、厄除祈願を込めさせられ、一刀三祀の御自作を安置します。昔高野山は女人禁制でしたが、当寺では女人の高野山として、女人の参詣が自由に出来ました故、今に女人成仏の霊場と伝へて、日々数多の参詣通夜する人があります。御本尊を作大師と申されまして、悪贔退散厄除の秘符を受くる者が沢山あります。
ここには奥の院道の三角寺峠から見た瀬戸内海の眺望や草原風景の素晴らしさ、石畳道、打戻りの地点の不動堂にも宿屋があったことが記されます。また、打戻りの際に荷物を宿屋に預けず仙龍寺まで持参せよとアドヴァイスしています。
 注目したいのは、毎夜に本尊弘法大師像の御開帳があり、そこで護摩修行が行われること、入浴接待が受けられ宿泊費用は無料であったことなどです。そのため百十年ほど前の明治末になっても仙龍寺で通夜する遍路が多かったことが分かります。
明治10年(1877)に幼少期の村上審月は、祖父に連れられて四国遍路を行っています。その時の様子を後年に「四国遍路(『四国文学』第2巻1号、明治43年(1910)に次のように綴っています。

三角寺の奥の院で非常な優待を受けて、深い谷に臨んだ京の清水の舞台の様な高楼に泊らされたが其晩非常の大風雨で山岳鳴動して寝て居る高楼は地震の様に揺いで恐ろしくて寝られず下の仏殿に通夜をしていた多数の遍路の汚い中へ母等と共に下りて通夜をしたことがあつた。

三角寺奥の院にある高楼に通されたのですが、晩に大風雨となり、地震のように揺らぐ高楼で寝られません。そこで多数の遍路と仏殿で通夜したことが記されています。高楼の宿泊部屋とは別に、階下の仏殿で通夜する遍路が数多くいたことが分かります。仏殿は無料の宿泊所である通夜堂として遍路に開放され、いろいろな遍路がいたことがうかがえます。

 番外札所の仙龍寺であったが多くの参拝者を集めている理由をまとめておきます。
①本尊弘法大師像が大師自らが厄除祈願を込めて自作されたものであること
②毎日夜に本尊を開帳し、参詣者に仙龍寺での通夜を許したこと、
③通夜施設として、大きな宿坊を準備し無料で提供したことや、風呂の接待も行ったこと
④「女人の高野山」として女人の参詣ができたこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「三角寺と仙龍寺の歴史 四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年」      

四国霊場の三角寺と、その奥院とされる仙龍寺建立の母胎になったのは、熊野行者であることは以前に次のようにお話ししました。
①阿波に入った熊野行者は吉野川を遡り、旧新宮村の熊野神社を拠点とする。
②さらに吉野川支流の銅山川を遡り、仙龍寺を行場として開く
③そして、三角寺を拠点に妻鳥(めんどり)修験者集団を形成し、瀬戸内海側に進出していく。
これらの動きを史料で補強しておきます。

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熊野神社(旧新宮村)

①の旧新宮村の熊野神社は「四国第一大霊験権現」とされ、四国の熊野信仰第一の霊場として栄えました。旧新宮村の熊野神社は縁起によると、大同2年(807)に紀伊国新宮から勧請されたと伝えます。熊野信仰拡大の拠点と考えられる神社です。
新宮の熊野神宮に残された棟札を見ておきましょう。
永禄5年(1562) 「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵」、
慶長15年(1610)「大阿閣梨三角寺□処」、
元禄2年(1689) 「遷宮導師三角寺阿閣梨倉典」
宝永7年(1710) 「遷宮導師三角寺権大僧都法印盛弘」
延享3年(1746) 「遷宮導師三角寺大阿閣梨瑞真」
天明2年(1782) 「遷宮導師三角寺現住弘弁」
天明6年(1786)「遷宮導師三角寺現主一如」
文化14年(1817)「三角寺当職一如」
文政7年(1824)「遷宮導師三角寺上人重如」
嘉永2年(1849)「遷宮師三角寺法印権大僧都円心」
熊野神社の棟札には、遷宮導師として三角寺住持の名前があります。
  遷宮とは、新築や修理の際に一時的に神社の本殿などご神体を移すことで、その導師をつとめるのは最高責任者です。ここからは神仏分離以前には、新宮熊野神社は三角寺の社僧の管理下に置かれ、社僧(修験者)達によって運営されていたことが分かります。近世の旧新宮村や阿波西部の三好郡の社寺も山川村も同じような状況にあったことが推測できます。これは、多度津の道隆寺が多度津から荘内半島、そして塩飽に至る寺社の遷宮導師を務め、備讃瀬戸エリアを自己の影響下に置いていたのと同じような光景です。三角寺は「四国第一大霊験権現」である新宮の熊野神社を管理下に置くことで、広い宗教的なネットワークや信者を持っていたことがうかがえます。
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熊野神社(旧新宮村)
『熊野那智大社文書』の「潮崎稜威主文書」永正2年(1505)3月20日には、次のように記されています。
「熊野先達は妻鳥三角寺、法花寺、檀那は地下一族」

「米良文書」にも「熊野先達には妻鳥三角寺、法花寺」と記されています。ここからは、三角寺は熊野信仰の先達をつとめたいたことが分かります。

1三角寺 文殊菩薩 胎内名

近年、三角寺の文殊菩薩騎獅子像の胎内から墨書が発見されたことは以前にお話ししました。
この像は、文禄2(1593)年に三角寺住僧の乗慶が施主となり、薩摩出身の仏師が制作したものです。研究者が注目するのは、この墨書の中に「四国辺路之供養」の文字があることです。ここからは、かつて熊野先達として活動していた妻鳥三角寺の修験者たちが16世紀後半には「四国辺路」を行っていたことが分かります。かつての熊野先達を務めていた修験者が、巡礼先を「四国辺路」へと換えながら山岳修行を続けている姿が見えてきます。そのような修験者たちが三角寺周辺には数多くいて、彼らが旧新宮村から山川村周辺の熊野信仰エリアを影響下に置いていたということになります。

今日の本題に入ります。
三角寺の由来となった「三角」とは、何を表しているのでしょうか?
 三角寺の縁起は、次のように伝えます。

弘法大師が巡錫、本尊十一面観音と不動明王像を彫刻し、更に境内に三角の護摩壇を築き、21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して降伏護摩の秘法を修行。三角の池はその遺跡で、寺号を三角寺と称するようになった

 修験道や密教では、護摩祈祷を行います。普通は四角に護摩壇は組まれます。これは「国家の安泰と万民の福祉を祈念」するためのものです。ところが、弘法大師はここでは「三角の護摩壇」を築いています。これは、呪誼や降伏など、悪いものを鎮め、封じ込めるときのもので、特別な護摩壇です。

三角寺 三角護摩壇
護摩壇各種
何を封じ込めるために空海は三角護摩壇を築いたのでしょうか。『四国偏礼霊場記』の三角寺の挿絵を見てみましょう。

三角寺 四国遍礼霊場記
『四国偏礼霊場記』の三角寺
 
三角寺背後に竜玉山(龍王山)があります。龍王山と言えば「善女龍王」の龍の住む山です。龍はすなわち水神です。水源神として龍王がまつられ、その本地を十一面観音とします。龍王は荒れやすく「取扱注意」の神なので、これを鎮めるための三角の護摩壇が作られた。その結果、水を与え、農耕を護る水神(龍)となったという信仰がもともとあったのでしょう。これが弘法大師と結びついて、この縁起ができたと研究者は考えています。
 そうすると三角寺の縁起には、弘法大師が悪い龍を退治・降参させて、農民のために水を出しましょうと約束させたという処が脱落していることになります。それを補って考えるべきだと研究者は言うのです。
三角寺 三角護摩壇2
三角寺 三角池の碑文

 『四国偏礼霊場記』の挿絵をもう一度見てみましょう。本堂の前に「三角嶋」があります。これが三角の護摩壇に由来するようです。しかし、現在はここには龍王ではなくて、弁天さんを祀られています。現在の三角寺の弁天さんからは、龍(水神)につながるものは見えて来ません。
1三角寺の護摩壇跡
三角池に祀られた弁天(三角寺)

  それでは龍神信仰は、どこに行ったのでしょうか?
龍王山の向こう側にあるのが仙龍寺になります。

仙龍寺 三角寺奥の院
仙龍寺
遍路記でもっとも古い澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)で、三角寺と仙龍寺を見ておきましょう。
此三角寺ハ与州第一ノ大坂大難所ナリ。三十余町上り漸行至ル。
三角寺 本堂東向、本尊十一面観音。前庭ノ紅葉無類ノ名木也じ寺主ハ四十斗ノイ曽也。是ヨリ奥院ヘハ大山ヲ越テ行事五十町ナリ。堂ノ前ヲ通テ坂ヲ上ル。辺路修行者ノ中ニモ此奥院へ参詣スルハ希也卜云ガ、誠二人ノ可通道ニテハ無シ。只所々二草結ビノ在ヲ道ノ知ベニシテ山坂ヲタドリ上ル。峠二至テ又深谷ノ底エツルベ下二下、小石マチリノ赤地。鳥モカケリ難キ巌石ノ間ヨリ枯木トモ生出タルハ、桂景二於テハ中々難述筆舌。木ノ枝二取付テ下ル事二十余町ニシテ谷底ニ至ル。扱、奥院ハ渓水ノ流タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向二在り。大師十八歳ノ時此山デト踏分ケサセ玉テ、寺像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方二岩ノ洞二鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣二御所持ノ鈴在り、同硯有り、皆宝物也。寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。昔ヨリケ様ノ無知無能ノ道心者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハー日モ堪忍不成卜也。其夜爰に二宿ス。以上、伊予象国分十六ケ所ノ札成就ス。
  意訳変換しておくと
三角寺は伊予第一の長い坂が続く大難所である。ゆっくりと30町ほど登っていくと到着する。
三角寺の本堂は東向で、本尊は十一面観音。前庭の紅葉は無類の名木である。寺主は四十歳ほどの僧侶である。ここから奥院は大山を越えて50町である。堂の前を通って。坂を上がって行く。辺路修行者の中でも、奥院へ参詣する者はあまりいないという。そのためか人が通るような道ではない。ただ所々に草結びの印があり、これを道しるべの代わりとして山坂をたどり登る。峠からは今度は深し谷底へ釣瓶落としのように下って行く。小石混じりの赤土の道、鳥も留まらないような巌石の間から枯木が生出ている様は桂景ではあるが、下って行くには難渋である。
 木の枝に取付て下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。こここには弘法大師が18歳の時に、やって来て自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
 寺は、巌上に建つ懸崖造りである。ここには乗念という本結切の禅門僧が住持している。昔ながらの無知無能の道心者のようで、「六字ノ念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は、堪忍ならず」と、言って憚らず、阿弥陀念仏信仰に敵意をむき出しにしている。その夜は、ここに宿泊した。以上で伊予国分十六ケ所の札所を成就した。

ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀中頃には、三角寺から仙龍寺への参道を歩く「辺路者」は少なく、道は荒れていた。
②弘法大師の自像・鈴・硯などが安置され、早い時期から弘法大師伝説が伝わっていたこと。
③御影堂は「石上の二間四面」で、伽藍は小規模なものであったこと
④住持は禅宗僧侶が一人であり、念仏信仰に敵意を持っていたこと
⑤伽藍全体は小さく、住持も一人で、この時期の仙龍寺は衰退していたこと
ちなみに作者の澄禅は、高野山の念仏聖で各札所では念仏を唱えていたことは以前にお話ししました。「念仏禁止令」を広言する仙龍寺の禅宗僧侶を苦々しく思っていたことがうかがえます。
三角寺奥院 仙龍寺 松浦武四郎
仙龍寺 

 ここからは奥院が辺路修行の霊場で、修行者は仙人堂で滝行や窟寵りをしていたことが分かります。そして、仙龍寺には弘法大師伝説が早くから伝えられていました。そして仙龍寺の経営者達は、最初に見たように熊野行者であった妻鳥修験者たちです。彼らは時代が下ると、仙龍寺までは遠く険しいので、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本尊十一面観音を下ろします。これが三角寺へと発展していくようです。
 こうして生まれた三角寺には最初は、「三角嶋」が作られ空海による龍王封じ込め伝説が語られたのかも知れません。しかし、もともとは仙龍寺を舞台とした伝説のために三角寺では根付かなかったようです。三角嶋は、いまでは善女龍王にかわって弁天さま祀られていることは前述したとおりです。
三角寺 奥の院仙龍寺
仙龍寺 
一方、行場の方も仙人堂を仙龍寺として独立します。
そして、谷川の岩壁の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化します。仙龍寺の大師は、今は作大師として米作の神となっているのは、水源信仰の「変化形」のひとつと研究者は考えています。

以上をまとめておくと
①吉野川の支流銅山川一帯には、古くから熊野行者が入り込み新宮の熊野神社を拠点に活動を展開した。
②銅山川上流の行場に開かれて仙龍寺には水神信仰があり、それが弘法大師伝説を通じて龍神信仰と結びついた。
③そのため仙龍寺には、弘法大師が三角の護摩壇で龍神を封じ込めたという言い伝えが生まれた。
④その後、本寺が仙龍寺から里に下ろされ、三角寺と名付けられたが、龍神を封じ込めた三角護摩壇という言い伝えは、伝わらなかった。
⑤そのため現在の三角寺には「三角嶋」はあるが、そこには龍神でなく弁天が祀られている。
参考文献
三角寺調査報告書 愛媛県教育委員会2022年

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塩塚高原展望台
阿波の小歩危から白川谷川沿いに原付スクーターで、林道を詰めて塩塚高原までやってきました。
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展望台より東方 剣から三嶺への稜線も望める 下は駐車場
この日は快晴。東は三嶺から剣山に続く稜線、西は手箱や筒上山まで姿を見せています。ここでおにぎりの昼食。
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塩塚高原
ススキの塩塚高原を走り抜けていきます。
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愛媛県川の四国中央市新宮町の田之内集落に下りてきました。
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積み上げられた石垣の上に白壁の土蔵が建ちます
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田之内集落
家の周りを緑濃いお茶畑が囲みます。その向こうには法皇山脈の山脈(やまなみ)が東西に走ります。ここで生産された茶葉の買付に、仁尾から商人たちが入ってきていたことが史料からは分かります。
 丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡に入り、剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。仁尾商人たちは、塩を行商で伊予や土佐・阿波のソラの集落に入り込み、その引き替えに質の高い茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたことは以前にお話ししました。お茶が栽培されているソラの集落のエリアが、仁尾の行商人たちの活動エリアでした。
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ぽつんぽつんとある家を見ながら下りていくと、前方に空色のお堂が見えて来ました。お堂が「おいでおいで」と呼んでいます。
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田之内集落のそばに建つお堂のようです。
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田之上堂
正面に立って眺めてみます。空色の屋根で壁があって閉鎖型です。羽根を広げて飛び立ちそうで、軽みがあって格好いいお堂です。周囲には、庚申塔は見つけられませんでした。
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田之内堂の内部
扉が開いたので中に入って、光明真言を唱えてお参りさせていただきます。そして、ここに導いていたことに感謝。

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田之内堂の鐘
 その後、外の縁台に腰掛けて、ボケーとします。こんな時にいろいろな思いが湧いてきます。この時間を大切にしたいと思っています。

グーグルにでている「大西神社」を探しながら林道を下りていきます。
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旧西庄小学校入口(新宮町)
すると現れたのが、この建物です。それまで地図上では、小学校があることに気づいていなかったので、一瞬驚きました。神社に行くにしても、校庭を通らないと行けないようです。坂を下りていきます。
鳥居の前には、こんな光景が広がっていました。

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旧西庄小学校と狛犬
神社の境内と校庭が「共有化」されています。狛犬が校舎を守っているようにも見えました。秋の日差しをあびて、校舎が輝いています。
今でも子ども達の声が聞こえてきそうです。

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旧西庄小学校講堂と稲茎(大西)神社拝殿
鳥居から見ると、拝殿と講堂が仲良く並んで建っています。
ソラの集落をめぐっていると郷社的な神社の近くに、小学校が建てられているのを目にしますが、これは典型的な「小学校校庭=神社境内」の例です。そして、美しく調和しています。手入れも良くされているので見ていても気持ちがいいです。ホクホクした気分になれます。
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  下にある二階建ての建物が校舎なのでしょう。教室が3つ上下に並んでいます。

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上が講堂なのでしょう。
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校舎と講堂は、渡り廊下で結ばれています。木の香りがいまでもしてきそうです。
神社にお参りにいきます。

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稲茎神社
拝殿は、明治になって周囲の小社を合祀した際に建立されたものなのでしょうか、近代的な雰囲気がします。お参りした後で、後の本殿に廻ります。
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素樸ですっきりとした流造本殿です。
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その横には、合祀された摂社が大切に祀られています。
明治の神仏分離以前には、この神社も別当寺の社僧によって祀られていたはずですが、その別当寺がどこだったのかは私には分かります。ただ気になったのは、グーグルにはこの神社は大西神社と記されています。
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しかし、鳥居や拝殿の扁額は「稲茎」神社と記されています。大西神社は、摂社です。稲茎神社は、前々回に紹介した新宮町上村の安楽寺の隣にもありました。「状況証拠」から推測すると、安楽寺が両方の稲茎神社の別当寺であったことがうかがえます。そして、上村には神社と安楽寺がセットであり、すぐ近くに寺内小学校がありました。神社と小学校の「併設」という点でも似通っています。

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校舎の入口には、こんなモザイク絵が掲げられていました。閉校時に子ども達が、制作したものなのでしょう。この小学校と神社は、私の印象に強く残りました。

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伊予新宮上村のハゼ
 熊野行者の痕跡と庚申塔を求めて、阿波山城から伊予新宮へのソラの集落めぐりを続けています。その中で出会った新宮の木造校舎を2つ紹介したいと思います。ひとつは、四国中央市新宮町上山の安楽寺を目指せして原付スクーターを走らせていた時に出会った校舎です。
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           伊予新宮上村の寺内
あじさいの里から天日川沿いに森を抜けて行くと、棚田が現れ、収穫の終わった稲藁が「ハゼ」にして干されています。コンバインで刈り取ってしまう中では、もう見られなくなった風景がありました。すこしワクワクしながら坂を登ると、突然現れたのがこの建物です。
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旧寺内小学校
門碑には「寺内小学校」とあります。安楽寺の「寺内」という名称なのでしょう。バイクを下りて、運動場から拝見させていただきます。

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旧寺内小学校
石垣の上に赤い屋根の校舎が長く伸びます。教室が6つあるようなので、1年生から6年生の教室が一列に並んでいるようです。里山の緑と赤い屋根がよく似合います。
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旧寺内小学校
正面に廻ってみます。校舎のすぐ裏側を町道が抜けています。
はい忘れ物やで、と母親が道路側の窓から忘れ物を渡すようなシーンが思いかびます。
グーグルで見ると「新宮少年の家 寺内分館」と記されています。今は、少年の家の施設として使われているようです。手入れも行き届いています。
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こんな素敵な雰囲気の中に身を置いていると、ここで子ども達が元気に活動していた頃のことを、想像せずにはいられません。しばし、いつものようにボケーとしていました。
ここを訪ねたのは、この上にある安楽寺にお参りするためです。
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安楽寺
山門の向こうに本堂が見えます。
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安楽寺本堂
近づいて気づいたのは、軒下に一面の彫刻があることです。何が彫られているのでしょうか?お参りを済ませた後に、拝見させていただきます。
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軒下に彫られた雲龍

龍と雲です。四方の軒下を龍がうねっているのです。
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東側軒下
ゆっくりと四方をめぐって、龍の動きを見ます。
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正面
宮大工の真剣さと遊び心が随所に感じられます。この時の宮大工は、楽しみながら彫っているのもよくわかります。腕が進みすぎて怖かったのではないでしょうか。
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説明版を見てみると、幕末の作品のようです。住職からの依頼に応えたのか、自ら申し出て住職が快よく許したのか、持てる力を存分に発揮しています。決して精緻で技術的に高いとは云えないかも知れませんが、その表現意欲は伝わってきます。見ていて気持ちのいい作品です。こんな思いもかけない「宝物」に出会えるので、ソラの集落の寺社めぐりは止められません。縁台に腰掛けて、のんびりと雲龍を眺めてポットに入れたお茶を飲みます。私にとっての「豊かな時」です。

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さて、本来の業務に戻ります。庚申塔捜しです。本堂の前には、いくつものお地蔵さんなどの石仏が並んでいます。しかし、ここにはありません。
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本堂前の庚申塔(一番右側)

ありました。境内の一番外れになります。
庚申塔の説明
庚申塔
庚申塔は、青面金剛が三猿の上に立つ姿が刻まれています。
 青面金剛が邪鬼を踏みつけ、六臂で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で、頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いています。また、どくろを首や胸に掛けたりもします。彩色される時は、青い肌に塗られます。青は、釈迦の前世に関係しているとされます。そして青面金剛の下には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像がいます。

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安楽寺の庚申塔

 庚申塔があるということは、ここで庚申の夜に、寝ないで夜を明かす庚申待が行われていたことになります。60日に一度訪れる庚申の日に、集落の人達が庚申待をおこなっていた証です。今は、地蔵さんに主役を奪われていますが、2ヶ月に一度やって来る庚申待は、集落にとっては大きな意味のある行事でした。ここで光明真言が何千回も唱えられ、その後にいろいろなことが語られ、噂話や昔話なども伝わっていったのです。

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隣の泉田集落の庚申塔

 この庚申信仰をソラの集落に広げたのが修験者たちだったと、私は考えています。
修験者たちは、庚申講を組織し、庚申の日にはお堂に集い光明真言を唱える集会をリードすることを通じて、集落そのものを自分の「かすみ(テリトリー)」としていきます。こうして修験者たちの密度が高かった西阿波や伊予宇摩地方は、今でもお堂が残り、その傍らに庚申塔も立っていることが多いのです。安楽寺にも庚申塔はありました。
 では、讃岐ではお堂や庚申塔をあまり見かけないのはどうしてでしょうか?
それは浄土真宗の広がりと関係あると私は思っています。浄土真宗は、他力本願のもと六寺名号を唱えることを主眼としますので、庚申待などは「邪教」として排除されます。江戸時代になって、寺院制度が固まってくると、浄土真宗の教えが民衆レベルにまで広まるにつれて、讃岐では庚申信仰は衰退したと私は考えています。
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安楽寺の隣の茎室神社
安楽寺の隣には、大きな銀杏と拝殿が見えます。道一つ挟んで神社が鎮座しています。
立派な拝殿です。後にまわりこんで社殿にお参りします。

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近代以後のものでしょうが、手の込んだ細工が施されています。社殿の周囲にはいくつかの小さな摂社が並びます。

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この神社と安楽寺の今に至る経過を、私は次のように推測します。
①吉野川沿いに張り込んだ熊野行者が、この周辺の行場で修行を行い、定着してお堂を構えた。
②谷川の水量が豊かな土地が開かれ、そこに神社が勧進され、周辺の郷社へ成長した。
③有力な修験者が村から招かれ、安楽寺が建立され、神社の管理も行う神仏混淆体制が形成された。
④安楽寺の歴代住職は密教系修験者で、「熊野信仰+修験道+弘法大師信仰」の持ち主でもあった。
⑤彼らは代々、三角寺や雲辺寺、萩原寺などの密教系寺院とのつながりを保ち、大般若経写経などにも関わっていた。

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こんなことを考えながら「寺内」の里を離れました。岡の上から振り返ると、お寺と神社と学校が合わさった場所であることが分かります。小学校をどこに建てるのかは、地元の関心が高く政治問題化します。その中で宗教的・文化的な地域のセンターであった寺内が選ばれたのでしょう。郷社的な地域の中核寺院のそばに小学校が建てられているというパターンは、ソラの集落ではよく見かける光景です。
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寺内地区の上は、茶畑と白壁の家
 これで寺内ともお別れだと思っていると、もうひとつ驚きが用意されていました。
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泉田の高灯籠
目の前に現れたのがこの建物です。まるで燈台のようです。今まで見てきたソラの灯籠の中では、最大のものです。どうして、ここにこんな大きな灯籠が作られ、灯りを灯したのでしょうか。それは、ソラの集落の燈台の役割を果たしたのではないでしょうか。寺内はお寺があり、神社のあるところですが谷状になっていて、外からはよく見えません。
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泉田からの眺望
しかし、ここは尾根の先端部で周囲からはよく見えます。「心の支えとなるお寺と寺院があるのは、あの方向だ、灯りが今日も灯った、神と仏に感謝して合掌」という信仰が自然と湧いてきたのかもしれません。

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泉田の棚田

 ちなみにこの上には、和泉集落のお堂があり、庚申塔もありました。泉田集落の人々の心を照す燈台だったのかも知れません。
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ここにも刈り入れを終えたばかりの藁束が吊されていました。
こんなことを繰り返しながらソラ集落めぐりを原付バイクで行っている今日この頃です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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江戸時代に、村々で踊られた風流踊りや盆踊り、あるいは村祭りの獅子舞などをプロデユースしたのは山伏であったという話を以前にしました。今回は、宇和島藩で山伏たちが宗教活動以外に関わっていた文化活動や芸能活動を見ていこうと思います。テキストは
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
篠山権現

 篠山は「篠山権現」が祀られ、土佐と宇和の両方から信仰を集める霊山でした。
ここを、さまざまな山伏たちが聖地として、宗教活動を展開していたようです。その中に宇和地方で踊られていた「はなとり踊」があります。旧一本松村正木のはなとり踊は、篠山権現を中心とした行事でした。
オヤびんの記憶 -篠山 (1065ml:高知県宿毛市・愛媛県南宇和郡愛南町)

その由来を埜仲伊太郎氏の筆記は、次のように記します。

 そもそもはなとりの由来は、花賀という悪者がでて集落を荒して困ったのを、花踊戦術をつかって打取ったことに始まる。ところがその後、火災や不幸が続いて人々をを不安におとし入れた。それを、占ってもらったところ花賀の災とわかり、篠山に十一面観世音として祭り、毎年旧十月十八日花踊を踊って花賀の霊をなぐさめるようになった。これが一本松村正木の花とり踊の由来である。

 踊は、早朝一番に篠川で禊ぎして、それから篠山に登ります。

そして、天狗堂前で踊り、中店屋(ナカデンヤ)のお堂・オドリ駄場・御在所クラモト(山本真一郎元山伏家)宅庭・蕨岡庄屋前の五ヵ所で踊を奉納していました。それが後には、正木集落の権現堂・観喜光寺・庄屋前の3ヶ所に簡略化したようです。御在所の山本家は、元篠山山伏です。昔は山本家の修験者を中心に二人の修験者による「さやはらい」行事が行なわれていました。

はなとりおどり・正木の花とり踊り
正木のはなとりおどり
その後に謡われるはなとりの歌は、次のようなものでした。
    ここ開けよ、やあまん(山伏)おとうり。
    さぞや開けずば、
    上り踏ねこす。
  念仏
    いんよう
    なむおいどう
    なむおみどんよ
    なむおい            ‘’
   ぜんごぜ
   ぜんごぜは万のてききよ
  I さぞや松より
   前に之を書く  (以下略)
「ぜんごぜ」は旧城辺町中大堂智恵光寺旧跡大堂にあったゼソゴゼ松と関係があるとされます。内容自体は、山伏とゴゼの問答と伝えられています。また、はなとり踊は、視点を変えると刀と鎌との武術の習練をかねた民俗芸能ともされます。
ムトウーフリムクイーサカテーウチコンーオリシキクルマーエフリーツキアゲーネジキリ

などの踊の手は、そのまま武道の型ともされ、山伏の指導で武術修練を行なっていたという伝えもあるようです。とすると、山伏は武術指南も行っていたことになります。本当なのでしょうか?
はなとりおどり・正木の花とり踊り
増田のはなとり踊

 旧一本松村増田集落のはなとり踊は、山伏問答の部分「さやはらい」が近年まで原型で残っていたようです。
「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、増田集落では修験者がやっていたと云います。恐らく他地区のはなとり踊りでも、「さやはらい」は必ず修験者が勤めていたものと研究者は考えています。山伏と民俗芸能の関連を解明する史料になるようです。
「さやはらい」の部分は大体次の通りです。
善久坊  紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。
南光坊  同じいで立ち、ただし鎌をさしていない。まず南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっと睨んで声をかける。
南光坊  おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。
善久坊  おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼にかった者。
南光坊  おう某は寺山南光院、’今日高山尊神の御祭礼の露払いにかった者、道あけ通らせ給え。
善久坊  急ぐ道なら通り給え。
南光坊  急ぐ急ぐ。
 南光坊行きかける。善久坊止める。両者青竹をもって渡り合う。鉦・太鼓の囃子、青竹くだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて斬りむすぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にした時、[さやはらい]一段の終りとなる。

この後、はなとり踊へと移っていきます。この問答からは、次のようなことが分かります。
①登場するのは大峰山の善久坊と宿毛・寺山の南光院で
②両者が高山尊神への祭礼の露払いへ出向く途上での鞘当て事件
③最初は、青竹での武闘のやりとり
④最後は太刀と鎌での立ち回り
これを見ると登場するのは山伏で、はなとり踊が山伏の宗教行事であることが分かります。昔は法印(山伏)の行なっていた清めの式では、般若心経と次のような清めの言葉を述べられていました。
  きわめてきたなきものよ
  つみとがけがれをはらい玉え
  きよめ玉え
  六根清浄・六根清浄
ここには六根清浄と、山伏お決まりの言葉がでてきます。
  ここに出てくる増田の高山尊神の敵は、石鎚権現で、石鎚山に詣ると死ぬと地元では云われてきたようです。ここからは石鎚の蔵王権現に対抗的な山岳信仰の道場が、このエリアにはあったことがうかがえます。これをさらに突っ込んで推測すると増田の斎払いは、本山派(天台系)と当山派(真言系)の対立を表しているのかもしれません。また、青竹の打ち合いは、土佐の神事「棒打ち」の影響がみられ、踊りの刀は破邪の剣、平常嫌う逆さ鎌は破魔除災を表しているともされるようです。どちらにしても、あっちこっちに山伏の影響が見えます。
 さいはらいに出てくる寺山南光院は、石鎚権現の対抗候補の有力寺院です。
この山伏寺は、宿毛市の四国霊場39延光寺の奥の院になります。南光院のについては以前にもお話ししましたが、ここ出身の宥厳は、長宗我部元親の讃岐侵攻に従軍し、無住となった松尾寺(金比羅さん)を、讃岐統治の総本山にするために預けられ修験者です。後の史料では、この寺は当山派の四国惣元締め的な山伏寺院であったと自称しています。確かに、当時は属する修験者も多かったようで、幡多地方の最有力寺院であったようです。この寺の歴史も古く、南光院流秘法によって諸病封じの祈祷も行なっていたようです。

また、はなとり踊りの休憩中に希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打ってさいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。

  この行事の全体を眺めても、この踊りをプロデュースしたのは山伏だったことがうかがえます。
里人の不安に応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは山伏たちだったとしておきます。この視点で、讃岐の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りを見てみると、行列の先頭にはホラ貝を持った山伏が登場します。行列が進み始めるのも、踊りが踊られ始めるのもホラ貝が合図となります。また太刀払いも登場し、「さいはらい」を演じます。これらを考え合わせると、讃岐の雨乞い踊りにも山伏が関与していたことが考えられるようです。

もうひとつ綾子踊りと共通するものが宇和地方にはあります。
 伊勢踊りです。これは旧城辺町僧都の山王様の祭日(旧9月28日に)に行なわれる踊りです。男の子供6人が顔を女のようにつくり、女の長儒絆を着て兵児帯を右にたらし、巫子の姿をして踊ります。これも山王宮の別当加古那山当山寺の瑞照法印が入峯の時に、伊勢に参宮して習って来て村民に伝えたといわれています。
「男子6人の女装での風流踊り」という点が、綾子踊りとよく似ています。それを、村に導入したのが、山伏であると伝わります。綾子踊りも、このようなルートが考えられるのではないでしょうか。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
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江戸時代の村々の動きを見ていると、山伏の動きが視野の中に入ってきます。盆踊りや風流踊り、雨乞い、獅子舞などを村に持込プロデユースしたのも、山伏だったようです。時には、神社の神主の役割も果たしています。村役人の庄屋さんの相談相手でもあったような感じもします。村々で山伏は、どんな役割を果たし、待遇を受けていたのかについて興味を持っています。そのような中で、宇和島藩での山伏について記した文章に出会いましたので紹介します。
テキストは「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」です 

宇和地方では山伏のことを「お山さん」と親しみを込めて呼んでいたようです。
それでは、宇和地方には、「お山さん」がどのくらい、どこに住んでいたのでしょうか。明治3年6月宇和島藩戸口調査(宇和島図書館蔵)によると、宇和地帯における修験・山伏は、宇和島藩だけで880人になります。これは神官・僧侶の人数よりも修験・山伏の方が多かったようです。各村落における分布状況は、宇和島図書館蔵の「天保五年午二月津島組宗門人高」によると、山伏は家数112軒に1人の割でいたことが分かります。比較のために土佐を見ると、江戸時代の初めには250人、幕末には150人位の修験者がいたことが史料から分かります。宇和島藩のお隣の土佐幡多郡を見ると、修験者の数は
本山派の龍光院に属する40人
当山派の南光院に属する20人
です。土佐藩と比べると石高や人口からしても、宇和島藩の880人は非常に多いことになります。どうして、こんなに多くの修験者たちが村々にいたのでしょうか。山高く、海深い宇和地方では、自然崇拝に根ざした山岳信仰の信者が多かったとしても、その比率が高いように感じます。その背景を、研究者は次のように推察します。
①宇和地方は、密教系寺院が領主祈祷寺院として栄えたこと
②対岸の九州国東半島の六郷満山寺院群の影響を受けて、それに匹敵する仏教文化地帯となっていたこと
③中世以来、土佐からの熊野行者の流入が見られ、修験者文化が根付いていたこと
それでは、宇和地方の修験者たちが、どのような形で地域に定着し、根付いたのか、また何を生業にして生活していたのか、山岳信仰の布教方法はどんなものだったのかなどを見ていきます。

愛媛県日吉村(現 鬼北町) 上鍵山 日吉神社の祭り 牛鬼 五ツ鹿踊り 東雲写真館
鬼北町の日吉神社
最初は、鬼北町の日吉神社の別当を勤めていた金蔵院です。
 日吉神社は、道の駅「日吉夢産地」の北1㎞ほどの小高い丘の上に鎮座します。日吉の氏神として古くからの信仰を集めてきた鎮守さんです。もともとの元宮は、下鍵山の大神山山腹にあったと伝えられます。大神山はこのエリアの交通の要衝であったようで、近世初めに日吉神社は、日吉の地に下りてきたようです。日吉神社の神主は、神社の下にある山本家で、屋号は宮本(ミヤモト)というようです。旧九月二十日秋の大祭のヨイ祭の夜には、神主の家で大神楽がう舞われます。そのためこの家は、床も天井も神楽堂式で高く、とりはずし自由という珍しい構造だったようです。
愛媛県 日吉村 牛鬼(うしおに) 2007.11.11 : すう写真館
日吉神社の牛鬼
 一方、別当職にあったのが金蔵院の松岡家でした。

つまり、日吉神社の神官は山本家、山伏は松岡家という関係だったようです。金剛院も神職の家と同じように、日吉神社の下にあったようです。
「天保十五年四月上鍵山村仏閣修験世代改帳」には、次のように記されています。
  一、堂一軒
    但一丈四方            
    天井仏壇前格子戸二枚 杉戸二枚
    後板囲芽葺           
    宝暦元(1751)年建之
中略
  一、本尊
   弘法大師 座像石仏・長一尺
   千手観音 立像木像・長八寸         ・
   不動明王 立像木仏・長五寸
   庚申立像石仏・長七寸
   鰐口 一個

さらに松岡正志氏所蔵の「松岡家系」による松岡家由緒には、次のように記されています。
 藤原秀郷御在関東之時常州松岡留廉洸其子孫相続住手彼地意外松岡為氏後年至元亀天正之間天下大乱於干戈之中松岡氏族悉敗当此時数氏之家譜等悉之失矣。于時長院志学之歳也。漂泊而来遊手当国惣拾弐器学修験号増長院住于下鎗山村里人其才器推之為村長不得止許之爰有芝氏女迎之室生三男子及老年遂於下鏑山村終士人呼其地長院家地云又呼墓基長院之伝墓跡今猶在同村峠云所
意訳変換しておくと
 藤原秀郷が関東を支配していた頃、常州松岡には廉洸やその子孫がいて、その地を支配相続してきた。元亀・天正年間になって天下大乱となり、松岡一族は戦乱の中で敗者となり、家は途絶えた。この時に長院は十歳を超えたばかりであった。漂泊・来遊し修験者となった長院は、修行のために当地の下鎗山村にやってきた。里人は彼の才器を見て村長になることを求め、長院はこれを受けた。こうして長院は芝氏の娘を嫁に迎え、三男子を得た。老年になっては下鏑山村の終士人と呼ばれた。そして、この地は長院の土地と云われるようになった。長院の墓は今も村峠にあるという。

 ここからは、関東からやって来た修験者が村人に迎え入れられ、土地の有力者の娘を娶り、村の宗教的な指導者に成長していく過程が記されています。そして、次のような後継者の名前が記されます。
  元祖    昌院  年月日相知不 中侯                       
 二代実子 光鏡院  年月日相知不申候一
 三代実子 本復院  年月日相知不申候                        
 四代実子 大宝院  年月日同断
 五代実子 金蔵院安重 権大僧都大越家 延宝四(1677)年七月十九日滅
 六代実子 天勝院  官位同断 元禄十四年五月一日滅
 七代実子 金蔵院  官位右同断 享保五年一月十五日滅
 八代実子 天勝院大徳  官位右同断 元文元年七月十六日入峯 明和八年十月二十七日滅
 九代養子 光徳院安勝  官位右同断 寛延四年七月十六日入峯 寛政七年五月十八日滅
 十代実子卜大龍院安定  官位右同断 天明元年七月十六日入峯 寛政八年十一月二十七日滅
 十一代養子 光鏡院安隆  官位右同断 享和三年七月十六日入峯 嘉永六年六月二十四日滅
 なお十二代以降は他の資料によると次の通りである。
 十二代 天正院安経  天保十一年七月十三日入峯
 十三代 金蔵院安伝  万延元年七月十六日入峯 明治三十九年十一月八日滅
 十四代 真龍院安臭  大正三年一月二十日滅
ここからは松岡家が、金蔵院(鬼北町日吉)を守りながら17世紀末から大正期まで山伏を業としていたことが分かります。
 五代金蔵院安重は、権大僧都とあるので大峯に33度の峯入を果たしています。この地区の修験者(真言僧侶)の指導的な地位にあったことがうかがえます。その長男嘉右衛門は。母方の家系をつぎ上鍵山村庄屋職を勤めていますが、母方の姓芝氏を後に松岡姓に改めているようです。三男某は、吉田に移住して同じく松岡を名乗り、俗に吉田松岡を名乗り、吉田の名家となっています。
 日吉村の金蔵院が庄屋芝氏と縁故関係をもち、後には長男が芝氏を継いで、芝氏を松岡姓に改め、兄は庄屋職、弟は山伏職を世襲したことが金蔵院の史料から分かります。庄屋の家から嫁を貰うということからも、当時の山伏の社会的地位の高さがうかがえます。

外部からやってきたよそ者を、こんなふうに村の人たちはリスペクトを以て受けいれたのでしょうか?
  お隣の土佐は、遊行宗教者や戦いに敗れたり、種々の事情で放浪の生活に入らざるをえなかった人が訪れて定着することが多かった土地です。俗聖などの中にも土佐で、生を終える者も多かったようです。やってきた聖をまつったり、御霊神の類にも遊行者をまつったものがあります。また、熊野聖・山伏・比丘尼をはじめとする遊行者が、土地の土豪達と結んで熊野権現をはじめとする諸社を勧請するのに、大きな役割をはたしています。そのような影響が宇和にも及んでいて、熊野行者や高野聖など定着をリスペクトをもって迎え入れたとしておきましょう。


    次に法性院(旧城辺町字緑中大道 土居氏)を見てみましょう。
 一、大本山聖護院末 寛文三(1663)年正月十五旧 清徳開山             
 ニ、境内一三畝一歩  但年貢此高 一斗四升五合
 三、祈祷檀家 三百十二軒                            
 四、由緒 真宗寺末山称名寺は延宝年中廃寺となっていたが、本尊を智恵光寺に移したものを、後檀家の農夫市之助が一寺創立した。
 五、世代(城辺町真宝寺蔵過去帳による)                      
   龍泉寺殿前吏部良山常清大居士 寛永六年三月二十四日寂
   権大僧都清徳法印 享保六(1721)年七月二十八日
  同権大僧都海見法印 延享二年四月二十三日           
  同権大僧都義寛法印 宝暦十一年七月十五日
  同権大僧都義海法印 文化二年五月十四日
  同権大僧都義顕法印 天保三年九月一日
  同権大僧都義徳法印 安政五年十二月二日         
  同権大僧都法性院義快法印 明治三十一年十月九日
  同権小僧都法蔵院清胤 大正六年九月十五日
17世紀後半に開山された本山派の聖護院に属する山伏寺院のようです。320戸の檀家を持ちます。18世紀前半には権大僧都の位を得ているので、活発な修験活動が行われていたことがうかがえます。

観音岳(愛南町)再訪20191022 / KIRINさんの篠山の活動データ | YAMAP / ヤマップ
観音岳(斗巍山)

 このお寺のあった御荘平野の北に、どっしりとした山容でそびえるのが観音岳(斗巍山)です。

この山は「北斗信仰」の霊山だったようです。その信仰を担っていたのが法性院を中心とした修験者たちで、御荘平野周辺では相当の信者を持っていたようです。法性院に伝わる「斗巍(観音岳)権現由来記」には、次のように記されています。
 抑此斗巍山ノ由来ヲタズヌレバ何レノ時 何ノ人乃開基卜云フコトヲ知ラ不。世俗二云フ戸木山モコヘ阿ルベケレドモトギノ音ヲ以ツラツラ考フル 爾斗巍ハ字茂ルシ如印トナレ。斗北斗ナリ。論給フ日北辰又大文志二日北極是也。
 巍ハ高キナリ。集韻二高ク大ナル見ヘリ。此峯二観世音ヲ安置シテトギ山一云フヲ以ツテ見口口、往昔開運ヲ祈ルニ此峯二北斗ヲ勧請シ奉ルニ北辰日星ノ擁護ヲ蒙ハ志願ヲ遂ケソナルベシ。北斗垂迫ノ感徳広大ナルヲ以ツテ御本地観世音菩薩ヲ安置シ奉ルナルベシ。
 経二日夕観世音菩薩威神シカ巍々如是卜。是ハ観音ノ威神カハ広大円満ナリテ無膜大悲心ナル義也。然ハ則北斗尊星ノ加護力与観音ノ大悲カト共二巍4トシテ広大ナル事斗巍ノ文字能ク当ルナルベシ。
 北斗星垂述アルヲ以ツテ権現ノ義亦可【口】因茲自今以後斗巍権現卜奉崇然シテ微運ノ人ハ正心滅意ニテ開運ヲ祈ラバ感応アルコト疑ナシ。尤感応ノ成否ハ信心ノ厚薄二依り利益ノ遅速ハ渇仰ノ浅深二従フ事ナレバ疎略ニシテ神仏ヲノ疑フベカラズ
 開運ヲ祈ル法
 何レノ処ノ人モ此ノ山ノ方二向ツテ毎朝早朝二清浄ノ水ニテ中水ヲ遣フ時
 開運印
定メ 大指ヲ伸恵ノ五指ヲ以ツテ左ノ大指ヲ握り指頭ヲ少シ出シ是ヲ北斗尊星ニナソラヘテ額二当テー心二販命北斗尊星予が運ヲ開カセ玉ヘト心ノ内ニテ至心二念ジテ左ノ掌ノ内二在ル滴ヲ戴テ嘗ル也已上
意訳変換しておくと
 斗巍山(観音岳)の由来については、いつ、だれが開山したかについては分からない。しかし、世間に伝わる話をつなぎ合わせて考えると「斗巍」という文字は「茂」という如印となる。これは「北斗」のことである。
 ある書には「北辰は北極也」と記されている。「巍」は高いことである。集韻には高くとは「大」とも見える。この高峯に観世音菩薩を安置して「巍山」と呼ぶ。往昔から開運を祈る時には、この峯に北斗を勧請して奉まつると北辰日星の加護を受けて、志願を遂げることができると云われる。北斗の感徳は広大であるので、本地観世音菩薩を安置するべし。
 2日後の夕に観世音菩薩は威神を巍々如是と発揮する。これは観音の威神で、広大円満で無膜大悲心である。さあ、北斗尊の加護力と観音の大悲カを共に受け、広大な斗巍の文字を受け止めるべし。
 北斗星の垂述が権現の来訪である。そして今ここから斗巍権現となって微運の人にも正心滅意に開運を祈れば効果疑いなしである。もっとも感応のあるなしは、信心の厚薄による。利益の遅速は渇仰の浅深によるものであれば、効果がないと神仏を疑ってはならない。
 開運を祈る法
 この山の方角に向かって、毎朝早朝に清められた水で中水を行うときに、開運印を決めておき大指を五指で左の大指を握り指頭を少し出して、これを北斗尊星になぞらえて額に当てー心に「北斗尊星よ 私が運を開かせたまえ」と心の内にで念じて、左の掌の中にある滴を戴くこと。以上

ここからは、当時の山伏達が北斗信仰を、どのようにひろげていったのかが分かります。夜空にかがやく北斗星と、その真下に高く大きくそびえる霊山・観音岳。霊山と観音信仰とを結びつけて、そこに「行とまじない」のスパイスを隠し味にして、民衆の信仰心を刺激した山伏達のやりかたはあざやかです。とくに「開運印」などという特殊な印を教えたことも民衆にとってはたまらなく魅力的におもえたでしょう。
天文編 | 知恵ブクロウ&生きものハンドブック | シリーズ | ECOZZERIA 大丸有 サステイナブルポータル
最後に、旧一本松村で研究者が見つけた資料から、山伏の活躍を見ておきましょう。
歴メシを愉しむ(63)】<br>今年の「夏越の祓」~アマビエと鱧で疫病封じ | 丸ごと小泉武夫 食マガジン

 夏越祓は6月26日に行なわれていたようで、期日の入った夏越祓護符が残っています。また歯痛には揚枝守を出しています。これは揚枝守と朱印した護符内に、木製の揚枝を入れてあります。歯痛のときは、この揚枝で痛い歯をつつくと歯痛がとまるといって配布していたようです。諸病安産にも、守札を出しており、山伏たちは阿弥陀信仰も盛んに弘めていたことが推測できます。

旧城辺町の加古那山当山寺の記録には、次のように記されています。
    中用 庄や 又惣 あげ日まち事
  一、山日待
  一、家祈祷 二体分  蔵米引おこし 壱典
  一、ふま 六升六合
  一、札米 一斗二升
        (以下略)
    五人組 清八・幸助・五郎・伝六
     役人  団右衛門
     横目  孫左衛門
        永代売渡証文
   申年十一月 日
     僧都村 正応院
     同   五人組岩治郎
     甲子講御世話方

「あげ日待」「山日待」について、歴史事典には次のように記されています。
「御日待」のことで、前夜から身を清めて、寝ないで日の出を待って拝むこと。「まち」は元来神のそばにいることであったが、のち待つに転意した。日を祭る日本固有の信仰に、中世、陰陽道や仏教が習合されて生じたもので、1・5・9・11月に行われるのが普通。日取りは15・17・19・23・26日。また酉・甲子・庚申など。二十三夜講が最も一般的。講を作り部落で共通の飲食をします。

これは庚申信仰とも重なり、庚申講として組織されることもあったようです。村々で行われていた、御日待や甲子講にも山伏たちは関わっていたことがこの史料からは分かります。
市民ハイキング 篠山 ( 1065m 高知県宿毛市・愛媛県愛南町) 2014年4月25日(金) 晴れ しらかわ 記 天気予報では一日中晴れ。  早朝5時30分に丸亀を出発。 松山自動車道、宇和島道路、R4を通り、篠山トンネルを抜けて直ぐ左折し、狭い車道を ...

篠山は、土佐と伊予の両方から信仰を集めていた霊山でした。

 旧一本松村正木では、篠山権現に6月1日から8月1日まで「篠山権現の日参詣り」といって毎日登拝していました。部落の中から交替で、毎日二人が五穀豊熟・家内安全のため登山します。大きな杓子をかついで行き、「ナンマイドーナンマイドー(南無阿弥陀仏)」唱えながらとリレーします。2ヶ月の期間中に、2~3回は廻ってきたようです。そして、最後の日の8月1日に当たった人は火縄をもって登り、篠山神社神官から火をもらい下山して、各部落に火を分けます。部落では、タイマツにその火をともし各家に分け、最後にタイマツを焼いて終りです。これを火送り行事といいます。
 城辺町緑では8月1日に二人組で代参して、篠山の火を貰って、その火で村中を松明を持って廻っていたと云います。篠山権現も山伏が管理運営していたのです。篠山
篠山稜線上の国境碑
  以上をまとめておくと 
①宇和藩には幕末には880人の山伏がいて、さまざまな宗教活動を行っていた。
②中には、吉野や熊野での修行を積んで修験者として高い地位にある者もいた。
③山伏として高位の位を持つ者は、村社などの神社の別当を勤め、村でも有力者になっていた。
④ある山伏寺では、観音岳を「北斗信仰」の聖地として霊山化し、多くの信者を得ていた。
⑤篠山権現は、宇和地方の人々を集めた霊山で、ここを管理していたのも山伏寺であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献「松岡実  宇和における山伏の活躍  大山・石鎚と西国修験道所収」
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参考文献 愛媛県史

 


 
三角寺(65番)さんかくじ | マイカーお遍路

 四国八十八ヶ所霊場第六十五番札所の三角寺(四国中央市)の文殊菩薩騎獅像には、胎内に「四国辺路」の言葉があるようです。この像は文禄二年(1592)造立なので、早い時期の四国辺路の字句になります。この像が造られた時期の三角寺や四国辺路を研究者は、どのように考えているのでしょうか見ていくことにします。テキストは「武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程所収」  です
1三角寺 文殊菩薩 胎内名

文殊菩薩像について、研究者は次のように報告します。
本像は獅子に来る文殊菩薩像、いわゆる騎獅文殊像で、像高八〇・センチメートル、獅子の高さ六八・二センチメートル、体長八八・四センチメートルである。まず像容をみると、頭部に宝冠(欠失)を戴き、右手を前に出し、何か(剣か)を握るようにし、左手も前に出して同じく何か(経巻か)を執るように造られ、右足を上に結珈践坐する。

三角寺 文殊菩薩騎獅子像
文殊菩薩騎像(三角寺)
上半身には条錦を着け、下半身には裳をまとうが、条錦を右肩に懸けており、着衣法は通例とは異なる

三角寺 文殊菩薩坐像の獅子像
騎獅文殊像の獅子像(三角寺)
獅子は四肢を伸ばし立つ。口を開け、大きく両日を見開き、頭部にはたて髪が表されている。文殊苦薩像の構造をみると、体部は前後に矧ぎ合わせ、これに両層から先を矧ぎつけるが、両手とも肘の部分で矧ぐ。頭部は差し首とし、面部の前面部を別材で矧ぎつけ限や日を彫る。膝前は横に一材としている。獅子は胴部、前脚部、後脚部、頭部の四つに大きく分けられる。
研究者は、文殊菩薩像・獅子ともに造形的にはあまりすぐれたものとはいえず、着衣法にも問題点があることなどから地元で造られた像とします。そして、専門の仏師の手によるものではなく、修験者などによって彫られたものと考えているようです。しかし、お宝は胎内から見つかりました。

三角寺 文殊菩薩騎 体内jpg
騎獅文殊像の胎内銘文

次に胎内から見つかった銘文を見てみましょう。
                              
丈殊像の胸部内側と膝部の底部に、次のような墨書を研究者は見つけます。
蓮花木三阿已巳さ□□名主城大夫
かすがい十六妻鳥の下彦―郎子の年
             同二親タメ
四国辺路之供養二如此山里諸旦那那勧進 殊辺路衆勤め候
(梵字)南無大聖文殊師利菩薩施主本願三角寺住仙乗慶(花押)    四十六歳申年
先師勢恵法印 道香妙法二親タメ也 此佐字始正月十六日来九月一日成就也。仏子者生国九州薩摩意乗院 其以後四国与州宇摩之郡東口法花寺
おの本                                佐意(花押)
  意訳変換しておくと
この像が造られたのは四国辺路の供養のためである。造立に当たっては、この里山(三角寺周辺地域?)の諸旦那が勧進した、特に辺路衆が関与した。施主本願は、 三角寺の僧である乗慶(四十六歳)で、先師の勢恵法印、道香妙法二親のためであり、正月に始めて9月1日に成就した。仏師は薩摩の意乗院の出身で、その後に伊予国宇摩郡東口の法花寺に住した佐意である。

ここからは次のようなことが分かります。
①この騎獅文殊像が四国辺路供養のために作れたこと
②寄進者は三角寺周辺の檀那たちで、辺路衆(修験者)が勧進活動を
行った。
③施主は三角寺住持の乗慶で、その師である勢恵と道香に奉納するものであった。
④仏師は最初は薩摩の意乗院で、その後は法花寺の佐意が引き継いだ。
③の「勢恵」は、新宮村の熊野神社の永禄5年(1562)の棟札(『新宮村誌』歴史・行政編1998年)に「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵修之」とみえます。ここからは、三角寺住持が新宮熊野神社の遷宮の導師を勤めていたことが分かります。銅山川流域では熊野信仰と三角寺が深い関わりを持っていたことを研究者は指摘します。

仏師の佐意が住持を勤めた法花寺は、現在はないようです。
しかし、三角寺の東麓ある浄土真宗東本願寺の西向山法花院正善寺の縁起には、次のようなことが記されています。

当寺開来之儀は、日向国延岡領、右近殿御内、山川刑部大輔五郎左工門国秀と申す者、永禄年中当地へ罷越し候節、同人檀檀寺の永蔵坊と中す者、秘仏を負い四州霊場順拝の発心にて、五郎左エ門と同道にて、自然当地に住居と相成り候て、右永蔵坊儀始めて当寺を取立て申候儀に御座候申し伝へ云々。

これを先ほどの胎内墨書と比べて見ると、次の点がよく似ていることに気づきます。
①仏師の佐意の出身地が「薩摩と日向」、建立した寺院が「法花院と法花寺」のちがいはありますが、
②三角寺に近いことや、四国辺路のことが書かれていて内容が似通っている
三角寺 文殊菩薩騎 体内墨書jpg

胎内銘の残り部分を見ておきましょう
阿巳代官六介  同寿延御取持日那     丑年四十一 如房
同奥院慶祐住持                同お宮六歳子年
同弟子中納・同少納吾五郎大夫
本願三角寺住呂    為現善安穏後生善処也
文禄二季 九月一日仏子佐意   六十二歳辰之年
ここには、奥院の住持慶祐や、その下には弟子の中納言・少納言が登場します。ここに出てくる奥院というのは、仙龍寺のことです。
以前にもお話したように、この仙龍寺は本来の行場に近く、古くから弘法人師の信仰がみられる所です。承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記』のなかにも詳しく記されていて、札所寺院ではありませんでしたが、四国辺路にとっては特に重要な寺であったようです。そのためか澄禅もわざわざここを訪れています。そして、ここでは念仏を唱えることはまかりならんと、山伏の住持から威圧されたことを記しています。ここからは澄禅が訪れた頃には、仙龍寺では他の霊場に先駆けて、「脱念仏運動」が展開していた気配が感じられます。

四国別格13番 仙龍寺

 仙龍寺の本尊である弘法人師像は、南北朝時代~室町時代にまで迎るものとされ、弘法大師が自ら彫刻したと伝えるにふさわしい像と研究者は指摘します。また弟子の名前として出てくる中納言・少納言という呼称も、いかにも山伏(修験者)らしい雰囲気です。仙龍寺が里の妻鳥修験集団の拠点であったことがうかがえます。
最後に文禄二年(1593)九月一日、仏子(師)佐意、六十三歳とあります。ここからは、この像が文禄二年の戦国時代末期に作られたことが分かります。秀吉が天下を統一し、朝鮮半島に兵を送り込んでいた時代になります。
仙龍寺 クチコミ・アクセス・営業時間|四国中央【フォートラベル】

「四国辺路」という言葉が最初に出てくるのは鎌倉時代になってからです。

先例としては弘安年間(1278~)の醍醐寺文書や正応四年(1291)神奈川県八菅神社の碑伝があります。
室町時代後期になると次のような例が出てきます。
永正十年(1513) 讃岐国分寺の本尊落書
大永五年(1525) 伊予浄土寺の本尊厨子落書き
永禄十年(1567) 伊予石手寺の落書き
天正十九年(1591)土佐佐久礼の辺路成就碑
以上のように中世にまで遡れる「四国辺路」の例は、多くはありません。三角寺の文殊菩薩騎獅像は、これらに続くものになるようです。

 澄禅『四国辺路日記』の三角寺の項には、文殊菩薩騎獅像について何も記されていません。
しかし、澄禅より三十数年後の元禄二年(1689)刊の真念『四国遍礼霊場記」には
「もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢、竜王等種々の宮堂相並ぶときこへたり」

とあるので、かつては三角寺に文殊堂があったようです。この像は、その文殊堂に安置されていたことになります。では、どうして文殊菩薩は祀られたのかを研究者は考えます。今のところは、それを解く鍵は見つかっていないようです。ただ、この像が造られた16世紀後半は、秀吉の天下から家康の天下へとおおきく世の中が変わっていく時代です。そのようななかで、四国辺路もプロが行う修行的な辺路から、アマチュアが参加する遍路への転換期でした。「説経苅萱」「高野の巻」のように、四国辺路に関する縁起が作られ、功徳が説かれ始めた頃です。このような中での新たな取り組みの一環だったのではないかと研究者は考えているようです。
Ο χρήστης 奈良国立博物館 Nara National Museum, Japan στο Twitter:  "【忍性展】重要文化財「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」般若寺のご本尊に期間限定でお出ましいただきました!後醍醐天皇の護持僧、文観の発願による文殊像です。展示は8/11まで。  #鎌倉 #奈良 #仏像 ...
「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」重要文化財
いままで信仰してきた神や仏に変わって、新しい時代の神仏の登場が待ち望まれるようになります。それは、讃岐の金比羅(琴平)を、とりまく状況と変わらなかったのかも知れません。新たな「流行(はやり)神」の創出という庶民の期待に応じて、宥雅は金毘羅神を創造しました。それは当時の四国辺路をとりまく僧侶や修験者(山伏)の共通課題だったのかもしれません。
 世の中が安定してくる元禄時代になると、庶民が四国遍路にやって来るようになえいます。三角寺の文殊菩薩騎獅像がつくられるのは、その前史に位置づけられるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程

  小豆島霊場の真言宗のお寺では、今でも日常的に護摩祈祷を行っています。そこで用いられるのは四角い護摩壇です。ところが三角の護摩壇もあったようです。これは特別なもので、悪霊や邪悪なものを鎮めてしまう時に用いられたようです。その三角の護摩壇が寺の名前になっているのが三角寺のようです。どんな悪霊を鎮めたのでしょうか?
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四国偏礼霊場記』は三角寺の歴史について、次のように書いています。
此寺本尊十一面観音、長六尺二寸、大師の御作、甲子の年に当て開帳す。今弥勒堂を存ず。慈尊院の名思ひあはす。もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂相並ぶときこえたり。社の前、池あり。嶋に数囲の老杉あり。大師の時、此池より龍王出て、大師御覧ぜしとなん。庚嶺はもろこしの梅の名所也。此所も本、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

意訳変換しておくと
①この寺の本尊は十一面観音で、大きさは長六尺二寸。大師の御作で、60年毎の甲子の年に開帳する。
②今は弥勒堂があり、これにちなんで慈尊院と云うのだろうと思い当たる。
③もともとは阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂が並んでいたという。
④社の前に池があり、その中の嶋に大きな老杉がある。弘法大師も、この池から龍王が出て行くのを見たという。
⑤庚嶺は、もろこしの梅の名所となっている。ここももともと、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

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ここからは次のような事が分かります。
①②については、弥勒菩薩は慈悲の仏だといわれているので「慈尊」は弥勒のことになります。それで慈尊院という名前がおもい合わされると、『四国偏礼霊場記』は書いているようです。この「お寺のもともとの本尊は弥勒菩薩だったのが、後から十一面観音を移して本尊としたと研究者は考えているようです。
③には、阿弥陀堂がありますので、ここが熊野系の念仏聖の拠点だったようです。周辺に真言念仏の信者達がいたことがうかがえます。
④社前の池で弘法大師は三角護摩壇で祈祷を行い、龍王を追い出した。ここから三角寺と称したのだと解釈しています。
三角形の護摩壇の跡 三角の池 - 四国中央市、三角寺の写真 - トリップアドバイザー
雨沢龍王

 ③に挙げられる緒堂の中の「雨沢龍王」を見ておきましょう。
これは龍王山の龍王です。これを調伏するために三角の護摩壇がありました。「社の前に池あり」の「社」とは、雨沢龍王の社伝を指します。その前に池があったようです。今は、龍王ではなくて、島の中に弁天さんが祀られています。かつては善女龍王を祀っていた社が、庶民の信仰変化を受けて弁天さんに取って代わられているのと同じ現象です。今は龍王は、奥の院の仙龍寺でまつっているようです。
③には「大師御覧ぜしとなん」と書いていますが、由来には
「龍を追い出した、あるいは調伏して水を出すことを誓わせた」

とされています。つまり、弘法大師がここで龍王を調伏した。それがこの池に設けられた三角護摩壇だということになります。しかし、三角寺の縁起には、悪い龍を弘法大師が追い詰めたら降参して、農民のために水を出しましょうと約束したということが脱落しています。

三角寺(四国第六十五番)の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載
三角形の護摩壇跡 今は池になっています

 この寺の起源は龍王の水源信仰にあるようです。
龍はすなわち水神です。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地を十一面観音としたけれども、龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための三角護摩が焚かれて、その結果、水を与え、農耕を護る水神となったという信仰がもとになって、縁起ができているようです。旱魃に苦しむときには里の人々は、三角寺の僧侶(修験者)に護摩祈祷を依頼したのでしょう。
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奥の院 仙龍寺

  それでは、その水源はどこにあるのでしょうか。
三角寺周辺には、それらしきところが見当たりません。
それは龍王山の反対側の山向こうの谷にあります。そこには龍がいるということから、現在は仙龍寺という名前になっています。これが三角寺の奥の院でした。仙龍寺は何故か、四国霊場全体の総奥の院とも称しています。
 実は昔の奥の院は、現在の仙龍寺のもっと上にあったようです。旧奥の院跡としておきましょう。これが仙龍寺と三角寺の共通の奥の院になります。そこが水源信仰の聖地だったようで、その水源神として祀られていたのが雨沢龍王です。その本地仏は十一面観音でした。雨沢龍王は龍王山の龍王になります。龍王は荒れやすい神です。それを鎮めるための護摩が焚かれて、いつしかそれが水を与え、農耕を護る水神へと姿を変え今に伝わる縁起ができたと研究者は考えているようです。 四国・愛媛】龍が棲む山 仙龍寺 | 備忘録

今度は三角寺の奥の院仙龍寺の歴史を見てみましょう
①里人は里から望める龍王山を龍の住む霊山として崇めた
②そこに弘法大師(熊野系修験者)がやってきて龍王を調伏した
③そして旧奥の院に、水源神として雨沢龍王やその本地物・十一面観音が祀られた。
④旧奥の院の下流の行場には、多くの行者が滝行や窟寵りをするために訪れるようになった
⑤そこに仙人堂を建てられ、仙龍寺として独立し、後には舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化した
⑥仙龍寺の大師は「作大師」として米作の神とされるのは、旧奥社以来の水源信仰を受けているから。
 この仙龍寺や宿坊の運営に関わったのが地元の「めんどり先達」と呼ばれる熊野先達たちでした。彼らは旦那を熊野詣でに誘引すると同時に、仙龍寺やその宿坊の「広報活動」を展開したようです。仙龍寺の信者達が中国地方や九州からもやって来ていたのは、そのような背景があるからだと私は考えています。

澄禅の「四国辺路日記」には、65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

昔ヨリケ様ノ(中略)者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
昔から住み着いた住持が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①仙龍寺の住持が、念仏信仰者に対して激しい嫌悪感を示していること。
②それに対して、澄禅は厳しく批判していること。ここから彼自身は念仏信者であったこと
③澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたこと
④しかし、17世紀後半の仙龍寺では念仏排斥運動が起こっていたこと
⑤一方、三角寺には阿弥陀堂が建立され、念仏信仰が保持されていたこと
この時期に修験者たちの間には、念仏排斥運動が起きていたのかもしれません。
1三角寺~仙龍寺 遍路地図

三角寺は、いつ、どのように姿を見せたのでしょうか
中世の辺路修行者は、行場で修行するために霊場を廻っていました。しかし、近世の遍路はアマチュアで辺路修行は行わず、納経と朱印が目的化します。彼らにとって険しく不便な山の上の札所に行く必要はないのです。そのため札所寺院は、遍路の便を図って里に下りてくるようになります。
 仙龍寺が札所では、平石山を超して遍路はやって来なければなりません。仙龍寺には、瀬戸内側の平石山の北麓に、弥勒菩薩を本尊とする末寺の慈尊院がありました。ここを新しい札所にすることにします。こうして、雨沢龍王の本地仏であった十一面観音は旧奥の院から慈尊院に下ろされて本尊とします。そして、龍王を調伏するための三角の護摩壇が作られたり、雨沢龍王などのお宮やお堂が並ぶようになります。こうして、今までの慈尊院が三角寺と呼ばれるようになります。
つまり、仙龍寺も三角寺も旧奥の院から「里下り」したお寺さんなのです。ところが、後に仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、現在では関係が断ち切られているようです。その原因は、三角寺が弘法大師信仰に転換してから起きたようです。それはまた別の機会にして・・。
65番札所 三角寺遍路トレッキング - さぬき 里山 自然探訪&トレッキング

三角寺に残された古い仏像を見てみましょう
①本尊は平安時代前期、十世紀前半の十一面観音立像で、四国内でも屈指の古像
②毘沙門天立像は足下に地天が置かれた兜跛毘沙門で、平安時代後期十一世紀の制作
③不動明王も平安時代末期12世紀の古像
④本堂には平安時代後期11世紀の聖観音菩薩立像
⑤別の御堂には、朽ち果てた尊名不明の大きな像(平安時代後期以前)
 ここには、平安時代後期の仏達がそろっています。
以上からある研究者は三角寺を、次のように高く評価します
「四国霊場の中でも、屈指の古い歴史を誇り、特筆すべき重要な寺院」

現在の本尊とされている①の「十世紀前半の十一面観音立像」ですから、同じ時期には三角寺も現在地に建立されたものと私は考えていました。ところがそうともいえないことは、先述したとおりです。近世になって三角寺が旧奥の院から里下りしてきたときに、移されたもののようです。残念ですが三角寺には古代・中世の史料がないので、詳しい寺歴が分かりません。その姿が見えてくるのは16世紀末期になってからです。

三角寺 本堂 - 四国中央市、三角寺の写真 - トリップアドバイザー

 本堂内に安置されている騎獅文殊像には胎内銘が記されます。それを要約すると、次のようになります。
①文殊像の造立には四国辺路の供養のため、里山(三角寺周辺)の諸旦那や辺路衆が参加した
②施主は三角寺の乗慶、仏師は薩摩出身で、法花寺に住した佐意
③三角寺奥院(仙龍寺)の慶祐と、その弟子も助力して
④文禄二年(1593)に造立された
 これに関連して三角寺の麓にある東本願寺末の正善寺の縁起は、次のように伝えます
⑤日向国出身の山川刑部大輔五郎左工門国秀が、永禄年間(1558~70)中に当地に来た。
⑥そして、この土地の永蔵坊とともにふたりで秘仏を背負い四国霊場を巡拝した
⑦やがてこの地に住み着いき、水蔵坊が正善寺を開いた
ここに登場する五郎左工門国秀や永蔵坊は、廻国聖か山伏のような修行者だと研究者は考えているようです。二人は秘仏を背負って「四国辺路修行」を行っています。これがすぐに②の胎内銘の法花寺の仏師佐意と直結するものではないかもしれません。
しかし、次のような事は分かります。
①この文殊苦薩像は四国辺路衆が関与したこと
②三角寺奥院(仙龍寺)には、中納言や少納言と名乗る僧がいたこと
③仏師が九州薩摩から移り住んだ山伏か廻国聖とみられる人物であったこと
ここからは戦国時代頃の三角寺も、廻国性の強い修験者や聖達を受けいれやすい雰囲気に包まれた寺院であったようです。
その後、寛文十三(1673)に本堂(観青堂)が建立されます。
その棟札からは、次のような事が分かります。
①発起人は山伏の「滝宮宝性院先住権大僧都法印大越家宥栄」と「奥之院の道正」です。
②本願は「滝宮宝性院権大僧都宥園と奥之院の道珍」
③勧進は「四国万人講信濃国の宗清」
④導師は地蔵院(萩原寺)の真尊上人
 このうちで①の「大越家」は当山派で大峰入峰三十六度の僧に与えられる位階で、出世法印に次ぐ2番目の高い位になるようです。宥栄は当山派に属する修験者たちの指導者であり、本山の醍醐寺や吉野の寺寺へ足繁く通っていたことが分かります。江戸時代初期の三角寺や奥の院には、それ以前にも増して山伏や勧進聖のような人物が数多くいたようです。
 気になるのは③の「四国万人講信濃国の宗清」です。四国万人講とは、どんな組織で、活動内容はどんなことをしていたのでしょうか。四国辺路をする人々に勧進を行っていたのかもしれません。これらの人物は、三角寺住持の支配下で勧進など、さまざまな宗教活動していたのでしょう。それが本堂再建(創建?)の原動力になっていたはずです。そして、ここには藩主の寄進や保護はみられません。

④の導師を勤めているのが萩原寺(観音寺市)の真尊上人であることも抑えておきたい点です。
萩原寺は、雲辺寺の本寺にも当たります。ここからは、三角寺は萩原寺を通じて雲辺寺とも深いつながりがあったことがうかがえます。高野山の真言密教系の僧侶のつながりがあるようです。もちろん彼らは弘法大師信仰の持ち主で、その信仰拡大のために尽力する立場の人たちです。
次いで貞享四(1687)年には、弥勒堂が建されます。
これは、四国における弘法大師入定信仰の拡がりを示すものだと研究者は考えているようです。弘法大師入定信仰と「同行二人」信仰は、深いつながりがあることは以前にお話ししました。
このように江戸時代初期前後の三角寺は「弘法大師信仰+念仏信仰+修験道」が混ざり合った宗教空間であったようです。
現在の四国霊場の形成史を研究する人たちは、霊場の起源を熊野信仰に求めようとしています。
霊場の多くが熊野権現を鎮守としていることから、霊場の開山は熊野行者によって行われたと考えるのです。その後に、若き日の空海のような沙門たちや、行者達がやってきて、行場として賑わい、そこに庵ができてお寺へと成長して行くという物語になります。
 その寺院は、ときどきの流行の仏教信仰に刻印されます。高野系の念仏僧によって、阿弥陀信仰の拠点になったり、弘法大師信仰が高まるとそれを受けいれたり、同時に弥勒信仰を受けいれたりしていきます。そのため霊場に伝わる仏教思想は重層的です。いろいろな痕跡を見せてくれます。三角寺も、雨乞い信仰=龍神信仰、熊野信仰、阿弥陀信仰、弘法大師信仰、弥勒信仰などの痕跡がお堂や残された仏像から見えてきます。

三角寺に残る熊野信仰の痕跡を見てみましょう
熊野に残る「熊野那智人社文書」には、次のような伊予の旦那売券があります。
永代うり渡□旦那之事芋
合八貫九百文
右彼旦那ハいせの国高野之宮成寺円弟引、
同いよのめんとり先達 
同法華寺、何も地下一族ニ 依有用々
永代八貫九百文二廓之坊へうり渡申処実正也(後略)
永正二年三月二十日        山城
廓坊                      助能(花押)
「伊与国もれ分先達之事」
一、めんとり先達三角寺法花寺の坊
一後略)
意訳変換しておくと
熊野先達の旦那権利について、八貫九百文で永代売り渡すことについて
伊勢国高野の宮成寺円弟が保持していた伊予の旦那権を、伊予のめんとり(妻鳥)先達の三ヶ寺と法華寺に永代譲渡する。以後は、地下(じけ)によって旦那権を管理する
この永代権を八貫九百文で廓之坊へ譲渡する(後略)
ここからは次のような事が分かります。
①永正二年(1505)三月二十日に伊勢の先達から伊予のめんどり先達が伊予の旦那権を購入したこと
②「めんとり先達三角寺法花寺の坊」とあるので、めんとり(妻鳥)先達と総称される中に、三角寺と法花寺も含まれていること
③したがって三角寺や法花寺の寺中に、熊野先達として活動した人物がいたこと。
以上からは、16世紀初頭から戦国時代にかけて、 三角寺周辺の旦那達が、これらの先達に率いられて熊野に参詣していたことがうかがえます。そして本堂に安置される四国辺路供養の文殊菩薩像に銘文にある三角寺と法花寺とは、このニケ寺になると研究者は考えているようです。
  このように三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が活発な活動を行っていたことが分かります。

最後に、三角寺周辺の熊野行者はどのようなルートでやって来たのでしょうか。
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新宮の熊野神社(四国中央市)

   伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。その意味で新宮の熊野神社は、宇摩地方の熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。そのため次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
参考文献
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰

2愛媛霊山 皿が嶺jpg

 久万町の皿ヶ嶺山頂には、竜神の池があり雨乞いの聖地となっていました。
松山市窪野町から皿ヶ嶺・井内峠を経て石鎚山に至る行者道には、三六王子の石像が置かれています。ここも熊野行者の行場の一つだったようです。上畑野川の宝作にある大岳・中岳・小岳・権現岳も霊山で、大岳には行者のこもったという洞穴、権現岳には石鎚権現が祀つられています。

 旧広田村の豊峰権現山(440m)は「西の石鎚」とも呼ばれます。
2愛媛霊山 豊峰権現山2

石鎚山をまねて「一の鎖」「二の鎖」「三の鎖」が付けられ、山頂に豊峰神社(蔵王権現)が祀られています。石鎚信仰の行者たちが講員を組織して、地元につくた行場ゲレンデのようです。近くの白糸の滝は、冬の「寒垢離」の行場となっています。ここは石鎚講の先達を務めた山伏たちの修行ゲレンデもあったようです。
 
1 熊野信仰 出石寺3

 長浜町の南にそびえる出石山(金山-820m)について、

『伊予温故録』は
「世人は此出石寺山を矢野々神山なりといふ説多し 元と此山も矢野郷の内にして往古は此山に神を祭りたる故に矢野々神山とは稱せしなるへし 後ちには神祭も衰へ社殿も朽ち果てたる折柄 佛法の盛んなる世となり遂ひに此寺を建立する。」
意訳すると
「この山は、かつては矢野々神山と呼ばれていたという。矢野郷の神を祭っていいたので矢野々神山と云われたが、次第に神祭も衰へ社殿も朽ち果てた。仏教が盛んなる世となり、ここに寺院が建立されるに至ったという。

 この山も、もともとは霊山であったところへ、真言密教の修験者がやってきて出石寺が建立されたようです。そして山名も矢野々神山から出石寺山へと代わったようです。

1 熊野信仰 出石寺1

 この寺のもう一つの由来は、『宇和旧記』所収の「出石寺縁起」で、
養老年間に磯崎浦(現保内町)のひとりの漁師(翁)が、突然大地からわきでた千手観音、地蔵菩薩の像を見つけて、出石寺を創建したとというものです。また弘法大師修行の地ともされ、出石寺は信仰の霊域として山上に大伽藍を擁するようになります。

  なぜ、こんな山の上に寺院が建立されたのでしょうか。
①古代以来の霊山で、庶民の山岳信仰を集めていたこと
②古代以来の瀬戸内海南航路の要衝であること。
③空海伝説があるように真言系の山岳宗教の行場であったこと
徳島の四国霊場の焼山寺や大瀧寺などは、修行のために山上で大きな火を定期的に燃やしたと伝えられます。火を焚かないことには修行にならなかったようです。それは、海ゆく船からは「灯台」の役割を果たすようになり、紀州の水運関係者の信仰を集めるようになっていったことは以前にお話ししました。ここでも同じようなことが起こったのではないかと私は考えています。
1 熊野信仰 出石寺2

 つまり、瀬戸内海南航路を使って、九州に渡って行く場合に、この地は三崎半島の付け根にあたり航路上の要地になります。そこを押さえるという戦略的な価値は大きかったはずです。そして、九州へ渡る船を誘導し、九州からの船を迎え入れる「海運指揮センター」としての役割を中世の出石寺は持っていたのではないでしょうか。

 出石寺の観音様の縁日は、四月と八月の一八日でした。
出石寺の望める地の人たちは、出石講を作って多くの人がお参りしたようです。大洲地方には
「おすなや つくなや おいづし詣りのべんとがしゃげらや 梅ぼしはだかで 飛び出さや」

というの民謡があるそうです。お弁当持参で人々は山を登ってきましたが、大洲市上須戒の打越部落の人は、やってくる参拝客に湯茶・杖・草履の接待をしました。
 
南予の山の名で多いのは、権現山です。
地図を見ると、南予には至る所に「権現山」が見えます。それだけ山伏たちの活動が活発であったことを物語っているようです。霊山とされていた権現山を列挙しておきます。
① 大洲市の神南山は古来、神南備山(かんなび)ともいい、文字どおり神の鎮座する霊山とされてきたようです。霊山は、修験者の行場となり、山岳寺院が現れ山岳信仰の拠点となっていきます。
② 大洲市森山の拝竜権現は、毎年三月三日に人身御供をしなければ、村にタタリをなすと伝えられます。
② 八幡浜市向灘地区の権現山(364m)は、天明六年(1786)に石鎚権現を勧請した西石鎚神社があり、雨乞いに霊験があるとされます。
④ 瀬戸町三机丸山の権現山(360m)にも蔵王権現の分霊を祀る石鎚神社があります。
⑤ 宇和町田之筋の大判山も石鎚権現を祀ります。
7月1日山麓にある窪部落の人々は、酒一升と煮豆を持って山頂に登り、石鎚権現を拝んでおこもりする。この大判山には、天狗が住み、月の1・15・28日に登ると難にあうといわれます。
⑥ 宇和島市の薬師谷奥の権現山に山高神社(大山積命、須之男命など合祀)があり、かつて麓の薬師谷の岩戸滝あたりで禊ぎをして登ってきたようです。宇和島市には大浦の権現山や三浦半島にも権現山があります。
⑦三浦半島の権現山(489m)は、嶽山とか嶽権現ともいい、その山頂に嶽神社が祀られます。
1 熊野信仰 三浦半島嶽神社

もともとは、明星寺と呼ばれていたようです。
貞和二年(1346)、九州の英彦山から一宮が電光のように飛来し、梨浦保福寺に入ったと寛永11年(1634)の棟札の裏に記されています。九州の修験道場英彦山の修験者たちの布教活動の跡がうかがえます。海を通じて、九州からの修験者も入り込んできているようです。
 一方、ここでも平家の落人伝説としてのオタケジョロの伝承があります。嶽山の祭りは今は廃れましたが、「嶽相撲」は近年まで残っていました。ふもとにある三浦大内、下波結出、津島町北灘国永の三地区が毎年、会場を廻り持ちで準備し、旧正月に開かれていたと云います。近世には、周辺の漁師達が漁事祈祷などを嶽山で盛んに行ったようです。漁師達にとって、この山は「山立て」でもあったのす。その祈祷を行っていたのが修験者(山伏)たちだったのでしょう。
 西海半島にも権現山がそびえています。この山には大蛇とか角のない山牛という怪獣が棲むと伝えられます。この山も漁民の霊山です。

 四国西南地域の山岳信仰のメッカは、篠山権現のようです
1 熊野信仰 篠山1

1065mの篠山にある篠山神社・観世音寺(現在廃寺)には、鰐口鐘の銘が伝わっています。そこには正長~応仁の年号があって、篠山信仰が中世からのものであることが分かります。
 伽藍開基記には「山上設(二)熊野三所権現廟(一)」

とあります。麓の正木御在所登山口の石燈籠に「篠山三所大権現」と刻まれているので、熊野系の山岳信仰であったこと分かります。
1 熊野信仰 篠山2

 明治初年の神仏分離で廃止された観世音寺は、態野系山伏の拠点だったようです。一方、山頂の篠山権現は、正木村(現一本松町)庄屋の蕨岡家が神職を勤めていました。篠山権現は、別当寺の観世音寺が明治2年に廃寺となったあと、篠山神社(祭神は伊弉冉命・事解之男命・速玉之男命等)と称して存続します。
 篠山権現の創始伝承は、次のような話が伝わっています。
 あるとき、熊野権現の神火が飛来し、蕨岡家の庭の老樟に輝いたので、その神を篠山にお祀りした。その老樟に篠山に棲む天狗がきて、蕨岡家の当主助之丞をからかった。助之丞がおこり天狗の翼を射落として、隠した。こまった天狗は、翼と引き換えに永代庄屋の家を盗難から守るという約束をして山にかえったという。これから当家には盗賊が入らず。「戸たてず庄屋」と呼ばれるにいたった。

ここからは次のような事がうかがえます。
①「熊野権現の神火」「天狗」などから、熊野行者の活動が篠山方面まで及んでいた
②蕨岡家自体が熊野行者出身か、
③あるいは蕨岡家が熊野行者との密接な関係があり「先達ー檀那」関係にあった可能性
④篠山先住の天狗(地神)を退治して、熊野信仰が取って代わったこと。
ここには、天狗にみたてた篠山の修験者(山伏)と蕨岡家の交流のありさまが描かれています。
1 熊野信仰 篠32

この伝承については、次のような別の話もあるようです。
弘法大師が蕨岡家に滞留し篠山権現で修行を行った。長逗留になったので、大師のたびたびまたいだ敷居には大師の霊が宿った。そのためこの敷居をまたいで盗みに入るものはいない。そこで「戸たてず」となった

 ここには、弘法大師伝説が付け加えられています。弘法大師が四国で流布されるようになるのは近世になってからです。四国遍路は、中世の修験者たちのプロの行場をつなぐ「辺路修行」から、近世の素人による札場巡りの四国巡礼に発展変化していきます。篠山も足摺から南予へ抜けていく四国遍路道のコースに入ったことによって、弘法大師一尊化の波が及んだことがうかがえます。

1 熊野信仰 篠山6

篠山を地元の人たちは、オササゴンゲンと親しみを込めて呼びます。
火災除、盗難除、農作病除、漁業・海上の守護神として庶民の信仰を広く集めました。3・6・10月の各18日には「オササマツリ」が開かれ、多くの登拝者がやってきたようです。
3月は正木村の蕨岡氏と土佐の山北村庄屋が主催して、観世音寺を開帳します。(安政五年の田原明章の篠山紀行)。6月は、火縄で神火を持って帰り虫送りを行います。ふもとの正木地区では6月1日から2か月間は、輪番で二人ずつが篠山日参をし五穀豊穣を祈願していたといいます。10月は、花取り踊りが奉納されました。
 年末には蕨岡家から三升一臼の鏡餅とお神酒が神社に献上されたようです。
 篠山山麓では、石鎚山と同様に産の忌みが厳しく守られ、お産後12日間火を別にし、一般家人の立入りを禁止していたようです。10月に行われる花取り踊りの関係者も9日間、別火、水垢離を行って参加しています。修験の行場で管理体制がしっかりしていた篠山では、こうした忌みやタブー(禁忌)の伝承が濃くまといついているようです。

赤星山のウマシ(美し)美
里から見る赤星山

 伊予の瀬戸内海から見える霊山は、水神・竜神や農業神を祀る山岳信仰の対象となっていることが多いようです。これに対して南予地域の宇和海側は、漁場から目印(アテという)となるべき山々に、山伏たちが熊野系や石鎚系などの権現サマを祀っていることが多いと研究者は指摘します。以前に石鎚信仰についてはお話しましたので、石鎚以外の霊山を東から見ていくことにしましょう。
  霊山巡礼に出かける前に、霊山とはどんなところなのかを確認しておきましょう。
山は、里人に稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されました。山から流れる水は飲み水としても、用水としても里人にとって命の源でした。こうしたことから山にいる神を水を授けてくれる水分神として崇める信仰が生まれます。水分神の信仰は、竜神とされることも多く、蛇や竜がその使いとして崇められることもあります。
 漁民たちも山の神を航海の安全を守ってくれるものとして信仰しました。これは山が航海の目標になったからです。このように里や船から姿を仰ぎ見える山は霊山として、古代から信仰の対象になりました。そして、霊山は聖なるエリアの「不入山」で里人が普段は入れない山であったようです。そこに入ることを許されたのは、行場で修行を行う「聖(ひじり)」だけでした。

中世に成ると真言密教と山岳信仰が結びつき、修験者たちが行場を求めて山に入るようになります。
彼らにとって霊山は、天上や地下にあるとされた「聖地への入口=関門」でした。天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。そして、神や仏は山上の空中や、地下にいるとされました。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝
これらは天界への道とされました。一方、地下の聖界への入口は
④奈落の底まで通じるかと思われる火口や断崖
⑤深く遠くつづく鍾乳洞、風穴
このような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、人々におそれられてきた所です。ところが修験者たちは、こんな場所を行場としました。なぜならここが聖域への関門であり、異界への入口だったからです。
 聖界の入口には番人として、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などがいるとされました。狐・蛇・猿・狼・鳥などの人里の身近かな動物も、神霊の世界と人間の世界をむすぶ神使として崇めおそれられたのです。
 境界領域である霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったのです。そのような場所に分け入って、修行をおこなう修験者(山伏)は、人々から畏敬の念を持って見られたのです。 それでは東から伊予の霊山を見ていきましょう。

 東予地域の霊山
 瀬戸内海に面して中央構造線沿いに東西に伸びる法皇山脈・赤石山脈の盟主の山々は、古くから甘南備山として宇摩郡内の人たちの信仰対象となってきたようです。
2愛媛霊山 愛媛の霊山信仰No1 豊受山

 法皇山脈の一番東に位置する豊受山(1247m)は、オトイコサンと親しく呼ばれ、もとは豊岡山と呼んでいたようです。

この山は、その名の通り豊受姫(伊勢の外宮に祀る五穀の神)を祀っていて、宇摩地方の人々から穀物の神さまとして崇敬されてきました。もともとは、水神を祀り五穀豊穣を祈る山であったのが、伊勢信仰が近世に入ってきて「豊岡山 → 豊受姫」に山名が変えられたようです。祭儀を行う主が神社名や山名を変えるのは良くあることのようです。石鎚山や剣山という名前も近世になっての名前のようです。

2愛媛霊山 豊受神社
豊受山の豊受神社

しかし、祭礼や祈願する内容は代わりません。民衆にとって、神社の名前などはどうでも良いことだったのでしょう。旧暦六月と九月の一三日の夏祭と秋祭の二回は、小さな丸団子(春は小麦団子、秋は米団子)を供えて、豊作を祈り、感謝します。
2愛媛霊山 豊受山風穴
豊受山の風穴

この山の頂上の奥社の西側には、長さ65mもの風穴があります。ここからは夏でも冷たい風が吹き出しています。やまじ風はここから吹き出すと信じられ、そこに団子を投げ入れて風が吹き出ないように祈願しました。団子の数は、一年の日数と同じ365個が供えられました。これをホカイに納めて一荷とします。
 この風穴も先述したように「洞窟・風穴は地下の聖界への入口」です。修験者たちの行場であったことがうかがえます。以前は九州、中国地方からも、このやまに参拝者があったと云います。この山が見える宇摩郡内では西は土居町中村から、東は伊予三島市東寒川、南は同市富郷の広範囲にわたって、多数の氏子があり、参拝者も多く、七荷半もの供物があがったようです。
2愛媛霊山 赤星からの豊受山
赤石山から豊受山への稜線

 祭礼に、里の信者を山に導いてくるのは先達です。
彼らは里にいた山伏たちです。遠く九州や中国地方からも参拝者があったというのも、そこから信者を誘引してくる先達の存在があったからこそなのです。石鎚講のような組織があったことがうかがえます。

伊予三島市史には、次のような「豊受さんと翠波様の伝説」が紹介されています。
豊受山に坐す豊受姫は、宇摩地方の人々から穀物の神さまとして崇敬されていた。東の翠波峰には、水波之女神がお住まいになり、水の神さまとして信仰されていた。豊受山には里の人たちが夏と秋に登り、盛大なお祭をして参拝者が後を絶たなかったが、翠波峰は旱のときに雨乞祭をするほかは参拝者がなかった。翠波峰の神さまは何かと寂しくなり、作物が良く出来ているのは私が水を授けているからなので、私の方が力があるのにと、豊受山の後ろの穴の風の神に話をした。
それを伝え聞いた豊受の神は、寒川から西の方ではたくさんの谷川が流れていて、翠波の神に世話になることなどない、とご立腹になり、それを翠波の神さまに申し入れた。そのため、お二人の仲は悪くなり、いつしか冷たい風が吹き始めた。
しかし、豊受山と翠波峰の中間の鷹取山に鷹取彦命という美男の神がおられ、お二方の対立を心配して仲裁されたので、女神たちは元のように仲良く暮らすようになった。
というハッピーエンドの話です。
しかし、これには別バージョンもあります。
それは豊受神と翠波神が戦い、豊受神は敗れ、焼き殺されたというのです。しかし、その時、豊受神は村中に雨を降らせたので、村人は亡くなった日を命日と定め、豊受山で雨乞いをしたと伝えられ、以来雨乞い踊りをすることになった、と「愛媛県の地名」に書かれているようです。こちらは、雨乞いの山として由来を伝えています。

 豊受山の西の赤星山では、明星の神を祀る祭礼が旧六月一日に行われていました。
カタクリ・ アケボノツツジ | nagiのブログ
赤星山頂手前の石祠
    山頂手前の石祠には、星の紋を付けた赤星大権現が祀られています。山岳信仰の修験者たちは、仏や菩薩が仮(=権)に姿を変えて日本の神として現れた姿を権現と呼び山の頂などに祀りました。権現が祀られてること自体が、山岳修行の行場であったことを示しています。
境内に祀る新仏像 | 九州石鎚大権現社公式サイト
石鎚蔵王権現

 伝説では、次のようにその由来が伝えられています。
宇摩郡の大領越智玉澄が大山祇神を勧請しようとしました。
しかし、やまじ風が吹き、船が遭難しそうになります。
その時に、この山の頂に星が輝き、海にその明かりが映ります。すると荒れた海が鎮まった。以来この山を赤星山、海を火映灘(燧灘)と呼ぶようになった

 法皇山系はやまじ風が吹き下ろし、沖行く船はこれに悩まされたようです。先ほど見た豊受山ににも風穴神社がありましたが、赤星大権現は風を鎮める神だったのでしょう。近世後半以後に金毘羅大権現が海の神様として「海難防止」の霊験を独占化するまでは、各地に航海安全を祈る山があったのです。

高縄半島の霊山には、熊野信仰の影響を受けた黒滝神社があります
2愛媛霊山 黒滝神社遙拝所
里の黒滝神社遙拝所

東三方ケ森(1233m)の峰つづき、東面する丹原町田滝の権現山にある黒滝神社は、戦争の弾丸除けとか徴兵除けの神として道前地方の人たちの密かな信仰を集めてきた山です。雨乞踊りとしての御簾踊りも伝わっています。この社に泊まると夜半に、笛、太鼓の音(カミカグラ)が聞こえてくると云います。

 この黒滝サンと石鎚サンが石の投げ比べをした話は、広く知られています
黒滝サンの投げた石は、石鎚山の頂上にまで届いたが、石鎚サンの投げた石は田滝まで(あるいは田野の綾延神社の馬場まで)しか達しなかった。

というのです。このような二つの山の争いが伝わる背景には、その山を霊山とする修験者たちの勢力争いが背景にあることが多いようです。黒滝神社の氏子である田滝の人は、石鎚山には登らないというしきたりが伝わっていたようです。近世以後の石鎚信仰と熊野信仰の対抗関係が反映した伝承と愛媛県史は記しています。

 熊野信仰は紀伊水軍の活躍と共に、古くから瀬戸内海沿岸に広がっています。大三島の大山祇神社にも中世には、熊野行者の活動が見られる事は以前にお話ししました。芸予諸島を拠点に高縄半島にも多くの熊野行者が入り込んで定着していたようです。

高縄半島の重信町山之内の雨滝龍神社は、雨乞の神として知られています。
雨滝龍神社 (愛媛県東温市山之内 神社 / 神社・寺) - グルコミ
もともとは明神ケ森の山上に鎮座していましたが文明四年(1472)に現在地に下りてきたと云います。ここも近くの俵飛山福見寺とともに熊野修験道の行場でした。

 玉川町の楢原(奈良原)山(1042m)も、修験道場でした。
楢原山・古権現山へ行こう!

  この山は、丹原の西山興隆寺と北条の高縄山を結ぶラインの中間ほどに位置します。丹原の興隆寺から、田滝の黒瀧神社と東三方ヶ森と楢原山を経由し、高縄寺に至る山道は、修験者の修行の道だったようです。山頂の奈良原神社は、もともとは古権現と呼ぶあたりに奈良原権現として鎮座していたと云います。

2愛媛霊山 楢原(奈良原)山jpg

 この山には長慶天星の潜行伝説があります
南朝の長慶天皇(後村上天皇の第一皇子)が、北朝軍に追われたときに、牛(黄牛)や馬に乗りついで千疋峠を越えて楢原山に落ち延びてきたと云うのです。熊野は南朝方について戦い敗れます。平家の武者伝説がるところには、不思議と熊野神社が勧進されています。
『愛媛面影』によると、
「嶺上に蔵王権現を祀り、牛馬を護らす神也とて農民信仰して詣人多し」
とあり、その神像は
「人間が牛に後向きに乗った姿」
「衣冠束帯を着けアベ牛の背に跨らせ給ふ」
という姿と伝えられます。この伝説から近世には「牛馬の守護神」としての農民たちの信仰を集めるようになったようです。
美人の湯と神秘の森をもつ楢原山で古をめぐる旅/愛媛県今治市 ...

この長慶天皇に係わる伝説は、山麓に住む木地師が各地で広めた伝承のようです。松山市の石手川流域の伝説には、落人が追手の目を欺くため牛の背に後向きで乗り、牛を後さがりに歩かせて、水ヶ峠方面から、楢原山へ逃げたという話もあるようです。
この山は蒼社川の水源で、山頂の手前には水分神社があります。
愛媛県今治市玉川-楢原山=奈良原山、鈍川温泉、 : 写真日記

これは奈良県の吉野水分神社を勧請してきたもので、水源の神として祀られたようです。この山は農業、牛馬、水源の神として高縄半島の農民の信仰をあつめ、雨乞い祈祷も山頂で行われてきました。
 別当をつとめた畑寺の光林寺の記録によると、楢原山は鎌倉時代から修験者の行場で、文保年間(1317~19)には、奈良原神社及びその傍らの蓮華寺(光林寺末寺・現在廃寺)には38人の行者が常住していたとされます。厳しい山岳修験道の霊山であったようです。同時に、高縄半島の森林資源を管理・所有する立場にあったことがうかがえます。中世の山岳寺院が広大な伽藍を整備できた経済力の背景は豊かな森林資源を持っていたからだと云われます。上方での戦乱で焼け落ちた寺院や街並みの復興に各地から切り出された木材が瀬戸内海を通じて運ばれていったのです。それを管理所有していたのが山岳寺院だったとしておきましょう。
  ここからは昭和9年(1934年)夏、雨乞いのために社殿周辺の清掃を行っていたところ、盛土が崩れ、開いた穴から二重の瓶に覆われた九輪の塔が出てきました。平安時代末期の全長71、5㎝.の銅宝塔で、他にも青白磁の小壺、銅鏡、中国の古銭などが出土しています。何らかの信仰行事の際に、埋められたものだと考えられています。これだけ貴重なものを大量に埋めて祈願する宗教的な力が、この寺にはあったことが分かります。

参考文献 愛媛県史
2愛媛霊山 奈良原神社経塚碑

中世には「蟻の熊野詣」と言われるほど、多くの巡礼者が熊野三山(本宮・那智・新宮)に参詣したようです。熊野参詣を隆盛に導いた原動力の一つが、地方(在地)の先達(修験者=山伏=熊野参詣の案内人)や、それを支援する檀那の力があったからだと云われます。その中でも中世の伊予国は、全国的にも先達や檀那数は多い地域とされます。
 今回は、先達と檀那の間に結ばれた師檀契約の願文から熊野信仰について迫った研究を見てみることにします。
テキストは「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」です。
まず、最初に中世における熊野信仰の広がりを確認することから始まります。
 熊野信仰は、熊野三所権現の成立した11世紀末以降に盛んになりました。熊野坐神社(本宮)、熊野早玉神社(新宮)に加えて、のちに那智社が成立し、それらが「三位一体化」します。熊野三山は、それぞれが同じ神を祀っていますが、同時にそれらの神が神仏習合化(神仏混淆性)していきます。

1熊野信仰 熊野三尊
 本宮は阿弥陀仏、
 新宮は薬師如来
 那智社は千手観音
を本地とします。そして
①本宮の主祭神の社殿を証誠殿といい、浄土思想の流行と相まって、極楽浄土(西方浄土)を意味するようになりました。
②新宮は東方瑠璃浄土、
③那智は補陀落浄土
とも説明されるようになり、庶民にも受けいれやすく「加工」されていきます。
1熊野信仰 那智神

さらに、仏教でも不浄視されていた女性へも寛容的で、女人禁制の厳しい高野山なとど対照的で、親しみやすい性格だったようです。ただこの点は、後には南北朝末期に高野山側が
「熊野者、他国降臨之神体、男女猥雑之瑞籬也」

と非難、攻撃しているように(「高野山文書」)、熊野信仰は、ややもすれば、品位を欠く点もみられたようです。この点が戦国期から江戸時代にかけて、伊勢信仰、高野山信仰の隆盛にともなって、低調になっていった理由の一つと研究者は考えているようです。
 
熊野三山へ参詣する道(熊野古道)は、紀伊路、伊勢路があり、
紀伊路は大辺路・中辺路・小辺路の3ル━トがありました。中世には主として中辺路が一般的となり、公式ル━トにもなります。熊野参詣道には、多くの王子社(熊野権現の御子神を祀る分社、九十九王子と称せられる)が設けられ、参詣者は道すがらここで奉幣したり、経供養をしたり、法楽の催しをしながら、旅の苦労や愁いを一時なりとも忘れたと云われます。
 熊野参詣は、平安時代、院政期から貴族階級の間に盛んになり、法皇・上皇や女院、院の近臣、女房たちが、難路の苦しみを越えて、大行列で度重なる参詣を行うようになります。四国霊場を歩き通すことが人々に達成感や成就感あたえ、明日に生きていく力を養うことにつながると同時に、そこでの非日常体験や宗教的な霊感が信仰心を高めていきます。同時に、長い参拝はある意味で修行生活で学習の場でもありました。鎌倉時代に入ると、地方の武士たちも「世間を学ぶ」ために貴族たちと同じように、参詣をする者が現れます。そして、熊野詣でを、自分の子どもたちに「通過儀礼」として体験させる者も現れます。こうして 
①平安時代の貴族→ ② 鎌倉時代の武士 ③室町時代の商人 

へと熊野信仰は、広がりと安定した基盤をもつようになります。

幕府が鎌倉に開かれたこともあり、東国武士の間に熊野信仰が広がりを見せます。中部・関東・東北が圧倒的に多く、関西地方は遠くそれに及びません。また、熊野三山関係の社領荘園は、紀伊国や東海地方に多く、四国・九州地方は少ないようです。当然、社領荘園には、熊野の末社が勧請されて、熊野信仰の拠点となっていきます。そのため「熊野神社の末社数=熊野詣で参詣数隆盛」という図式がすぐに考えられますが、どうもそうではないようです。それは熊野詣でが近世の金毘羅詣でと違って、個人参拝ではなかったからです。熊野参拝のシステムは
①参詣者を熊野へと導き、道中を案内する先達(修験者)
②熊野での山内の案内、宿泊施設の提供、祈祷など世話役としての御師
③檀那として御師の経済的支援をする武士
この三者の結びつきで出来上がっていました。
 先達に引率されて熊野にやって来た檀那は、神宮と参拝取次を御師に依頼します。その際に御師との間に師檀関係(檀縁関係)を結び、その名前(個人及び集団中の個々人の名前)や住所を記した名簿(願文)を提出しました。これは神との契約関係で、1回だけでなく一生の通じての契約でした。そのため檀那の名やその在所は、御師の家に大切に文書として保管されていました。
1 熊野信仰 檀那願文

 中世後期になると、檀那を金銭で売買することが一般化します。売券類、譲状、寄進状、借銭状、請取状などの経済関係の文書に見られるようになります。檀那を売買するという行為は、私たちから見ると違和感を覚えます利権として当たり前とされたいたようです。
 伊予国の熊野社と先達寺院を見てみましょう
 先ほども触れましたが中世の伊予国には、ほとんど熊野社領荘園はありません。にもかかわらず伊予は熊野神社が全域に分布しています。それはどうしてなのでしょうか。
  その理由を、先達である修験者(山伏)の活動の多さと活発な活動にあった研究者は考えているようです
 熊野神社の分社は、徳島県82社(寛保神社帳)や高知県69社(長宗我部地検帳)に比べると、少ないようですが全県下に分布していることが表からは分かります。分布特徴としては、山間部に多く、宇和町に集中している点を挙げることができそうです。

1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧1
 伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。
そのため愛媛の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。
その意味で新宮の熊野神社は、熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。また、吉野川を更に遡って土佐方面に向かう熊野行者の拠点にもなったようです。土佐方面への次の拠点は、
①新宮村熊野神社→ ②土佐豊永の熊野神社(定福寺)→ ③大豊町豊楽寺(若一王子神社)→④本山町金剛寺(若一王子神社)

という伝播ルートが考えられ、このルートは土佐の人々の熊野詣でルートであったともされます。
1 熊野信仰 愛媛の熊野神社一覧2

 一方、伊予方面への伝播ルートは、新宮村の熊野神社を拠点にして川之江方面に山を下りていきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(六十五番札所、同市金田町)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達も、新宮の熊野社を拠点に、川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の行場だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
伊予国の先達拠点の特徴を、研究者は次のように指摘します
①真言系の旧仏教寺院(四国遍路の札所になったもの)、
②伊予国の東半分の比較的海岸に近い地域に多いこと、
③石鎚・出石山の二大修験霊場、一宮(三島社)という大社
④主要な寺社(宇摩郡新宮の熊野神社、石手寺の鎮守社)
などを拠点にして、熊野先達たちは活動していたようです。
 この中でも、風早郡の熊野谷権現社(ゆやだにごんげんしゃ)は史料が残っていて、詳細な点まで分かるようです。この神社は熊野谷と書いて(ゆやだに)と読むようです。ここの社僧(修験者)である池内氏(河野氏分流)は、檀那の守るべき社役を定めていますが、その中には次のような条文があります。
「当所より熊野参けいの人ハ、湯屋谷権現へ先参也、ふさた候へハ、道中にてしちありと申しつたへ候」(池内家文書、明応九年九月九日付熊野谷権現社僧勝賢置文)。 
 
とあって「熊野参詣の前には、湯屋谷権現(熊野谷権現)へ、まずお参りし絵から出かけること」と記されています。

三 檀縁関係からみた伊予の熊野信仰
 売買の対象になった檀那(武士)は、
(一)檀那の一族、一門
(二)地域
(三)先達
の3つに分類されています。
(一)と(二)について、研究者は具体例をあげて検討しています。 
 中世の伊予国で最大の武士団を形成したのは、河野氏です。
年不詳の「潮崎氏檀那目録」(近藤喜博著『四国遍路』に引用)に次のように河野氏は登場します。
 同国(伊予国)河野ノ一族十八ケ村、其外トウコ・トウセン一円、並川野ゝ一門十八ケ村々一族ケイツ書立有、代弐拾六貫文分
意訳すると
 伊予の河野一族は、18ケ村の他に、道後・道前一円や川野にいる。講の一門18ヶ村の檀那帳の代金は26貫文である。

ここでは、河野氏一族を「十八ケ村」と一括りにして、檀那を26貫文で売買されています。中世には、「一石一貫(米1石=銭1貫文)」という換算方法があったようです。これで計算すると1貫文は、10万円前後となるようです。26貫文は、260万円で、熊野社の檀那売買としては、かなり高額な値段で売却されているようです。「十八ケ村」で括れない河野氏勢力圏全体という意味で、そんな値段になったと研究者は考えているようです。
 しかし、河野氏一族を「十八ケ村」というのは、あいまいな概念です。これをもとに檀那を売買した檀那権をめぐる先達同士の紛争が起きたことが予想できます。このため一族単位に檀那を売買する方式は、一般的ではなかったようです。

河野氏の有力家臣で、熊野社の檀那として名前が見えるものもいます。
伊予郡大平の天神山城主の森山氏とその一門、
久米郡岩加羅城主の志津川氏、
浮穴郡小田(のち久万の大除城主)の大野氏
などです。
この三氏が共通の先達としたのは医王寺(現東温市)です。
医王寺引檀那注文(新出熊野本宮大社文書)に
「しつ河遠江守殿、森山殿、小田大野殿」
が見えます。


有力な氏族単位を檀那とする形とは別に、地域の小規模な武士集団を檀那とする方式も見られます。
応永元年(1394)正月16日の伊予郡長田郷岡田衆中檀那注文(新出本宮大社文書)には、
①岡田衆という伊予郡の武士集団(小田・町田・長田・東・北・森・向居・田中・大西・安松・重延等諸氏)
②長田郷内の農民や氏族単位の檀那(一家中)もいて、
随明寺僧橋本坊を先達としていたようです。こういう地縁的な結合形態(河野氏の軍事組織でもあったか)を利用した檀那もあったことが分かります。
 次に喜多郡の事例をあげてみましょう。
1 熊野信仰 伊予国喜多郡

この地域は、中世には河野氏の支配領域ではなく、宇都宮氏やその系列の武士をはじめ、比較的規模の小さい領主が割拠していたようです。それが熊野の檀那分布状況にも反映されています。喜多郡八多喜寺が先達であった檀那注文(那智大社文書)によると、
①津々喜谷氏(宇都宮氏家臣、滝之城主、在所は横松)、水沼氏(粟津郷)、上須戒の向居氏、延尾氏、篠尾氏、臼杵氏のグル━プ、
②笠間(宇都宮一族)、土屋、市木のグル━プ、
③下須戒氏(矢野氏流)、
④出海の兵藤氏、
⑤富永氏流の小田大野氏・立花氏・石原氏・宇津氏
など、五つの系列に分かれています。これらは、地縁的、氏族的にまとまりがあります。これらの在地領主らの中には、下野国から移住してきた宇都宮氏とその被官、三河国設楽郡から移りすんだとみられる兵藤氏や大野氏など、他国から伊予国へ来た武士たちも交っているようです。
 グループ毎に先達に引き連れられて、ながい熊野詣でに出かけます。先達は現在のツアーコンダクターに、修験道の師匠を加味したような性格を持ち畏敬の念で見られていたようです。ある意味、旅は「鍛錬」や「学習」の場でもありました。日常生活では見たり聞いたり出来ないことも体験します。それが人間的な成長の糧にもなります。武士団の頭領のような人たちにとっては「社会勉強」の役割も果たします。同時に、長い苦楽を共にした参加者との連帯感を養うことにもなります。各武士団が団結を深めるためにも熊野詣では役だったようです。
 熊野への参拝ルートは2つ考えられるようです。
 ①芸予諸島から熊野水軍の「定期船」で熊野へ
 ②新宮村熊野神社を拠点に、阿波吉野川沿いの熊野神社分社を経由し、撫養から紀州へ
この2つのルートが熊野参拝ルートとして中世以来の利用されていたようです。
喜多郡には先達寺院も多く、伊予国の中でも熊野信仰が盛んな地域でした。
 喜多郡菅田の清谷寺に伝わったという暦応三年(1340)十月十八日付の檀那譲状(「大洲旧記」所収)があります。しかし、この文書は文書様式からみても、譲状ではありません。内容的にも、清谷寺が道後河野氏を始め、喜多郡内の武士たち、宇和郡の西園寺氏、宇和郡須智郷の北ノ川氏など有力な領主を数多く檀那していた記録です。そこには誇大な記載があり、年代的にも疑わしと研究者は考えているようです。江戸時代になると、修験者は、信仰圏(霞という)を誇大に吹聴して、虚勢を張ることが多々あったようです。

このような熊野先達の活動が停滞するのが戦国時代です。
16世紀になると応仁の乱に続く戦乱の拡大は、参詣者の減少をもたらします。さらに戦乱による交通路の麻痺によって、熊野先達の業務は廃業に追い込まれるようになったのが全国の史料から分かります。戦乱で熊野詣でどころでなくなったようです。
 「戦乱の拡大とと交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化した」

と研究者は考えているようです。さらに、檀那であった国人領主層の没落も加わります。
このような状況下で、熊野先達たちは活路をどこに求めたのでしょうか。
熊野先達=熊野行者=修験者=山伏たちは、熊野への先達業務から、新たな業務を「開発」して行かざる得なくなります。サービス提供相手を、新たに村落住人へ変えて、地元村落との結びつきを深め、彼らを檀那としてサービスを提供するようになります。その内容は「代参」から始まって、加持祈祷など様々な分野に及びます。地元の定着し里寺を起こす者も現れます。同時に彼らは、修験者としての霊力を保持するために行場での修行も欠かせません。周辺の霊山や霊場での「辺路修行」も引き続いて行われます。それが中世の古四国遍路の完成につながっていき、その上に近世になって素人による四国巡礼が始まると研究者は考えているようです。
  以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「石野弥栄 中世伊予の熊野信仰について ~地域領主との檀縁関係をめぐって~」
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大山祗神社神域図

大山祇神社の神仏分離前の痕跡である
祖霊社を探して、神域を歩いてみまた。
 宝物館の裏から長い階段が伸びています。上にある建物は見えません。登って行くと入母屋の寺院的な建物が現れます。しかし賽銭箱子もなければ宗教的な雰囲気さえしません。なによりもまわりはフェンスで囲まれて、有刺鉄線も張られています。倉庫のような雰囲気さえ醸し出しています。何が祀られているのか?
 ここが祖霊社と呼ばれる建物です。
祖霊殿3
大山祇神社の祖霊社

『大三島詣で』(大山祇神社々務所)は、この建物ついて次のように記します。
「神宮(供)寺は四国霊場八十八ヶ寺の第五十五番札所・月光山神宮寺(今は今治市南光坊)として殷賑を極めた時代もあったが、明治元年の神仏分離令によって仏像・仏具その他全てが他所に移され」寺は大山祇神社末社「祖霊社」になった

祖霊社と呼ばれていますが、今は何にも使われていない建物のようです。しかし、神仏分離前はここが寺院ゾーンの中心センターだったのです。そして、その他の院坊が現在の国宝館辺りには立ち並んでいたようです。確かに、北側に神社ゾーンがあり、それに並ぶように寺院ゾーンがあった気配はあります。
 ここでも中世は、神仏習合が行われていたのです。
  本地仏の大通智勝仏について
  霊力を低下させた神様は、蛮神の仏に姿を変えて人々を救うとされ、神仏習合が中世には広がります。大山祇神が権化(=変身)したのが「大通智勝仏」という仏様です。人の名前のようで聞き慣れない仏名です。この仏については、後に触れるとして・・・
大通智勝仏
大通智勝仏

大山祇神が権化の本地仏「大通智勝仏」 16人の王子を持ちます
大山祇神社に神宮寺ができるのは保延元年(1135)のことで、当初は「神供寺」と呼ばれていました。「三島宮御鎮座本縁」には
七十五代崇徳院御宇保延元(乙卯)年、天下卒て暗夜の如く、雲靉靆と為し、人民日月光を見ず三日に及ぶ。 時に虚空に軍陣の音隙無く聞へ、其の響き恰も雷霆の如し。 故に人民大に騒動す。 此の時大山積神託宣に曰く、吾諸大地祇を率ひて、これを掃い除く也。 少く頃ありて快晴す。 これに依り諸人奇異の思ひを為しこれを伝へ聞く。 遠近の貴賤当社へ群集参運ころ数日夥しと云云。 此の事叡聞に達し、藤原忠隆を勅使と為し、当社の本宮を始め末社迄悉く造営之宣旨。 
 別て神代巻造化を以て人体に教へ給ふ通り、本社に雷神・高龗を加へ、三社を以て本社に崇むべしとの宣旨これ有り。 此の時に臨み、供僧妙専・勝鑑等国中に進め社の傍に一寺を建立し、神供寺と号す。 外に一宇の堂を建立し、大通智勝仏の像を安置し、大山積の本地と為す。 其の外摂社末社の本地仏を斯の如に調へ、御正体と号し、大通智勝仏の左右に掛け並へ、仏供院と号す。 亦は本寺堂と云。 是れ神供寺の初め也云云。
前半部は暗闇が何日も続く「天変地異」が続いたこと、これを大山祗神が治めたので、朝廷から勅使がやって来て本宮・末社を造営した事が記されます。同時に別当寺が建立されます。さらに
「神供寺のほかに「一于の堂」を建て、そこに大通智勝仏(東西南北四方八方を守護するとされる仏)の像を安置し、大山積神の本地仏とした、また、摂社末社の本地仏も調え、それらを大通智勝仏の左右に並べ、この堂を「仏供院」とも「本寺堂」とも称した、これが大山祇神社の「神供寺」の初めである」
と記します。このようにして、この神社では国家主導の形で神仏習合は進めれたようです。
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。

泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
 
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点であったのでしょう。現在にまで法燈をつないでいるのが、今治市の南光坊(四国巡礼札所)と大山祗社に隣接する東円坊の二坊のみのようです。瀧本坊は、熊野における那智大滝を統括していた坊名です。ここからも大三島における熊野修験者の活動がうかがえます。

大山祗神社3

 神域を歩くと、楠の巨木に何本も出会います。
その中で、もっとも存在感があるのは、境内の中心に聳える「小千命御手植の楠」でしょう。
『大山祇神社略誌』には、次のように紹介されています。
 小千(おち=越知氏の祖先)命は神武天皇御東征にさきがけて祖神大山積神を大三島に祀り、その前駆をされたと伝える。境内中央に聳え御神木として崇められている。

小千命御手植の楠

 そしてもう一本、霊木「能因法師雨乞いの楠」があります。
『略誌』は、この楠について次のように奇譚を述べます。
 伊予守藤原範国の命により祈雨のため大三島へ詣でた能因法師が「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と詠じて幣を奉ったところ、伊予国中に三日三晩降り続いた(金葉和歌集)という。宇迦神社前の古木がこれである。

お隣の讃岐では、国守の菅原道真自身が雨乞祈祷を行っていますが、ここでは霊験のある修験者に雨乞祈願を行わせています。
そのために
能因法師がやって来たのがここです。注意したいのは「幣を奉った」のが本殿ではなく、この大楠であったこと。また、「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」にしても、本殿神ではなく大楠に宿る神への奉納歌であること。ここからは能因法師は、この大楠に大三島の水霊神(雨を司る神)が宿ると認識していたことがうかがえます。
 『略誌』は「宇迦神社前の古木がこれである」と書かれているだけで、その後の説明はありません。しかし、この霊木があるのは宇迦神社の前で、その本尊は龍神のようです。境内の中にも、いろいろな神々が祀られていたことがうかがえます。
大三島詣で』は、宇迦神社について、次のように書いています。
宇迦神社
鎮座地  本社境内(放生池の島
祭 神  宇賀神
例祭日 三月十五日
 木造・素木・流れ造り・屋根銅板葺き。池をはさんで木造・素木・屋根銅板葺きの拝殿。現在の社殿は昭和五十七年十二月新築。
 例祭のほか、本社の例大祭にさきだち、旧暦四月十五日から二十一日までの七日間、大祭期間中の好天を祈る祈晴祭が、当日晴天のときには旧暦四月二十四日に祈晴奉賽祭が行なはれ、その神饌は放生池に投供される。
 古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社として信仰されており、雩の神事には安神山頂の龍神社にお籠りをし、つづいて宇迦神社の放生池(土地の人が、べだいけんと呼ぶ)をさらえ、境内で千人踊りをした。

放生池の中島にまつられる宇迦神社
放生池の中島にまつられる宇迦神社
 宇迦神社は「古来祈雨・祈晴の霊験あらたかな神社」とあります。
このことを知っていたから能因法師は、本殿ではなく宇迦神社の前の霊木の前で、雨乞祈祷をおこなったのかもしれません。ここには、大山祗神と宇賀神が「地主神と客神」の関係にあったのではないかという疑問も沸いてきますが、それはここでは封印しておいて・・・
 ここで見ておきたいのは、中世において院坊が数多く成立し、そこを拠点に熊野系の修験者が周辺への「布教活動」を展開している様子がうかがえることです。大三島周辺の島々への布教を行い、勃興する村上氏などを信仰下に置いて行ったのは、修験者たちだったようです。

それでは大山祗神社の社僧(=修験者)たちが聖地とし、行場としたのはどこでしょうか?
 大山祇神社の神体山はふたつあります。

安神山(大山祇神社の神体山の一つ)

ひとつは、龍神社を山頂にまつる山が安神山です。
もうひとつが、大山祇神社本殿の右後方に聳える山、鷲ヶ頭山です。この山には現在TV塔が建っていて、サイクリストのヒルクライムのトレーニングゲレンデにもなっていますが、ここに立てば絶景が広がります。
 さて、この山の谷にあるのが行場の「入日の滝」です。
研究者は「大三島において、修行・信仰の対象となりうる滝は、この「入日の滝」をおいてほかにはありません。」とまで云います。
滝山寺2
入日の滝

この滝までが、かつては大山祇神社の神域だったのではないでしょうか? 
現在、ここには滝山寺(無住)があり、その本尊は十一面観音です。古い供養塔などがみられ、その鎮守社は小さな祠ですが、祠内には「出雲大社」の神札がみえます。
 大山祇神社一の鳥居の横にある観光案内板は、この「入日の滝」について、
「鷲ヶ頭山の山麓にあり、高さ一六m男瀧女瀧にわかれている。その飛沫が夕陽に映じて美観を呈する夢幻境で俗塵が洗われる。古くから蛍の名所として知られている」
と記すのみです。神仏混淆時代の修験者の活動について、触れる事は当然ありません。

滝山寺本尊
滝寺の十一面観音
 しかし、しかしここの滝神は、先ほど述べたように本地仏を十一面観音とし、出雲大神を滝神と見立てています。この神仏習合関係を研究者は次のように指摘します

「この関係は、熊野・那智と似ています。那智において、大滝の神(飛滝権現)の本地仏は十一面千手観音ですし、熊野那智大社は那智大滝の神を出雲大神としています。また、滝山寺の御詠歌には、「大三島西国第一番台[うてな]の瀧山」とあます。
 これは、熊野那智(那智山青岸渡寺)が西国三十三観音巡礼第一番札所であったことを擬したものでしょう。「入日の滝」の滝神が、熊野那智の滝姫神を投影させたものであることは明らかで、熊野那智の滝信仰が、大三島の「入日の滝」にはまるごと再現されているようです。」

 ここからも大三島周辺で活躍した修験者達が熊野系であったことが推察できます。さらに一歩踏み込むなら、吉備児島の五流修験の流れではないかと考えられます。五流修験は、修験道開祖の役行者が国家からの弾圧を受けた際に、弟子達が熊野を亡命し、新コロニーを児島に打ち立てて「新熊野」を名乗り、瀬戸内海周辺に影響力を伸ばしていきます。その流れがここまで及んでいるようです。

祖霊殿2

参考文献 月の抒情、瀧の激情 http://teamtamayura.blog87.fc2.com/blog-entry-9.html?sp

 

 
大山祗神社1

 大山積神社は芸予諸島の真ん中にあり、一番大きな大三島にあります。古来から瀬戸内海交易ルートのど真ん中にあるで、モノと人が行き交う流通ルートに位置していました。この神社の由緒は古く延喜式内社で、のちに一ノ宮と称せられ、明治時代には国幣大社となっています。この神社には、有名な武将たちが奉納した鎧兜・太刀等が数多くあります。その数量は国宝七点、重要文化財七四点に達し「刀剣・兜の宝庫」ともいわれます。平安初期から鎌倉・室町・戦国・江戸の各時代を通じての、逸品が時代を超えて納められています。
大山祗神社 甲冑1

例えば国宝に指定されている平安期のものを4つ挙げてみると、
①わが国最古の作品といわれる沢潟威鎧兜(国宝)
②源頼朝が寄進したという豪壮華麗な紫綾威鎧(平安末期の制作 国宝)
③源義経の奉納と伝える赤糸威胴丸鎧(平安末期、国宝)
④伊予の豪族河野通信の寄進にかかる紺糸威鎧兜(平安末期 国宝)
  武将が武具類を奉納した背景には、祭神大山祗神が海の守護神であるとの信仰があったようです。
「大山祗神社=大三島神社=海の神様」というイメージを私も、何の抵抗もなくうけいれてきました。しかし、考えて見れば、大山祗神そのものは山の神です。それが、なぜ海の神に「変身」したのでしょうか。そこには、神社をとりまくいろいろな社会事象があったようです。それを今回は見ていく事にします。

大山祗神2
 大山祗神は、もともとは山を祀る神
 この神社の祭神は大山祗神であって、大山積・大山津見とも書き、三島大神・三島大明神とも呼ばれました。今では大山祗と表記しますが、古くは大山積でした。『古事記』によると、大山祗神はイザナギ・イザナミの二神の子です。この神を同書および『日本書紀』の一書では山の神とし、また書紀の一書に火神の分神としています。大山祗とは山津持を意味し、山を持つ神すなわち山を掌る神としています。
大山祗神1
大山祗神
 また古事記では、伊井諾命が十拳剣カグツチ石神を斬った時、オド山津見神・奥山津見神・志芸山津見神・羽山津見神・原山津見神・戸山津見神らの山神が生まれたことを伝えます。本居宣長の説によると、大山祗神はこれらの山神を統轄する神であるとしています。
 ところが、天平二十年(七四八)までに編集されたと思われる『伊予国風土記』逸文のなかに大山祗神に関する異説が記載されています。そこには次のように記されます。

 宇知(越知)郡御島坐神御名大山積神、一名和多志大神也、是神者仁徳天皇御世、此神自百済度来坐而津国坐云々、謂御島者津国御島名也、
この本文のなかの「宇知」は「乎知」(すなわちのちの越智)の当字と考えられます。意訳変換しておくと、
越智郡の大三島に鎮座する大山祗神は、別名を和多志大神と称する。この神は仁徳天皇の時代に百済国から渡来して津国(伊予)に鎮座したという。御島とは伊予の島名である。

ここに書かれる津国の神社とは、式内社の三島鴨神社のことのようです。伊予以外に、由緒の古い三島神社は、伊豆国賀茂郡にもあって、同社の金石文によると天平二年に伊予国から勧請したと記されます。これらの三島神社が賀茂氏と関係が深いこと、また伊予国越智郡内に鴨部郷があるので、はじめは伊予国には賀茂氏の手によって勧進されたと研究者は考えます。
 越知氏が越智郡司となって権勢が強大になると、越智氏は大山祗神を氏神(一族の守護神)として祭祀するようになります。
 風土記逸文のなかに書かれた大山祗神の説話については、次のようないろいろな解釈があります。
その1 仁徳期の朝鮮半島遠征の際に、従軍した越知氏がもたらした説
しかし、仁徳期に、越智氏とよぶ強大な部族の出現は視られません。越知氏の存在が分かるのは7世紀になってからです。この説を研究者は次のように考えています。
「この説話は史実ではなく、恐らく風土記が編集されたころ、大山祗神が百済国から渡来したとの伝承が醸成せられていたのであろう。この説話の背景に、先進国家百済国と関係づけ、その評価を高めようとする考えがひろく存在していたことがうかがえる。」

  その2 越智直が百済救援軍に参加した伝承と深い関係があるとする説
『日本国現報善悪霊異記』のなかに、越智直が百済に出征した際、不幸にして唐軍の捕虜となり中国に拉致され、九死に一生を得て帰国した。朝廷ではその労苦をねぎらうため、彼の要望によって越智郡がつくられた旨を述べています。そこで、彼が帰国した事件を奇縁として大山祗神が百済から渡来したとの説話を生むようになったと解釈する説です。
   霊異記は弘仁十三年(812)に景戒の手によって編集された仏教説話集です。そのため大部分は因果応報物語で、資料的な信憑性について問題があるのは当然です。研究者達は次のように指摘します。
「この説話は史実として見るべきではなく、越智郡の創設された時期を推察する一参考資料として取扱わなければならない」

大山祗神が百済から渡来したとの説話を、霊異記と関係づけて伝承史料とするには、無理があるようです。
 仏教が伝わり、平安時代中期に神仏習合思想がおこり、日本の神々の本地は印度の仏菩薩であり、仏菩薩が衆生を救済するために神の姿で現れると説きます。
大山祗神は、どんな仏が神様に「変身」したものなのでしょうか?
伊予の豪族河野家で編集された『予章記』・『予陽河野家譜』等によると、大山祗神の本地仏は大通智勝仏としています。大通智勝仏は法華経化城喩品の中に登場する仏で、はるか昔に出世した仏となっています。
大通智勝仏
 大通智勝仏
大山祗の本地仏を大通智勝仏としたのなぜでしょうか? 
それは本社を祀った越智氏(のちの河野氏)が、自分の姓の越智すなわち「知慧に越ゆ」ことから出発して、仏教思想に結びつけたからのようです。また平安末期の河野通清・通信をはじめとして、その嫡子たちが名前に通の字を使用したのも、大通智勝仏にあやかったからでしょう。後世の記録ですが『北条五代実記』のなかには、このことについて次のように記します
 抑三島大明神卜申ハ 元来ハ伊予国二御鎮座アリ、(中略)本地ハ大通知勝仏ニテ御座ス、是二依テ彼御神ノ氏人伊予河野ノー門ハ、今二至テ大通ノ通字ヲ名乗トカヤ、越智ノ姓是也、

意訳しておくと
そもそも三島大明神は、もともとは伊予国に鎮座していた。(中略)
その本地仏は、ハ大通知勝仏である。ここにこの神の信者(氏人)の伊予河野ー門は、今にいたるまで大通の通字を名乗るという。越智の姓もそうである。
大通智勝仏の弟子達1
               大通智勝仏の弟子達

 大山祇神社の創建については、『予章記』などの郷土史料に次のような「創建説話」があります。

越智玉興が海路により伊予国に帰る途中、備後国の沖で飲料水の欠乏に苦しんだ時、霊験によって潮中に清水を得て、苦難をまぬかれた。そこで玉興はこの奇瑞を朝廷に報告し、勅宣によって大三島に社殿を造営し、大山積大明神と称した
 
創建説話とは別に、確実な史料によって本社の変遷をたどってみましょう。
『続日本紀』天平神護二年(七六六)四月の条に、大山祗神に神階従四位下と神戸五戸があてられています。
天平神護二年夏甲辰、伊予国神野郡伊曾乃神、越智郡大山積神、井授従四位下、充神戸各五戸、

この記事によってすでに奈良時代には本社が存在し、地域の尊崇をうけていたことが分かります。さらに大同一年(八〇六)に神封五戸があてられ(『新抄格勅符抄)承和四年(八三七)に明神に列しています(『続日本後紀』)。

大山祗神社3

 延長五年(九二七)に『延喜式』の編集が完成し、その神名帳のなかに、本社が国幣大社として記載されています。神名帳に登載された神社は、延喜式内社と呼ばれ、古くから朝廷の尊崇をうけ、祈年の頒幣に預かった官社でした。その中でも神祇官の祀る神社を官幣社、国司の祀る神社を国幣社と称しました。国幣社に指定されていたという事は、この神社が特別な厚遇をうけ、また国との関係も深かったことが分かります。
 天慶三年(九四〇)九月に封戸が施入されますが、これには藤原純友の乱討平の祈願がこめられていたようです。その後も幾たびかの火災に遭いながら現在の本殿および拝殿が再建されたのは、応永年間(一三九四~一四二八年)のことです。

大山祗神社2

さて、この神社を神仏混交時代に管理していたのはどのような人たちでしょうか
 この神社には早くから塔頭が置かれ僧侶が勤務していたことが『大山積神社文書』によって分かります。また大三島の『神原文書』からは、大三島の十六坊が16世紀初頭の文亀年間にはあったことも分かります。ここからも神仏習合の下に、社僧による神社の管理が行われていたことがうかがえます。そして社僧の多くは熊野系の山岳修験者であったようです。

越智氏の台頭と大山祗神社の関係は?
大山祗神社の保護者であった越智氏は、古代末期に風早郡河野郷に移住して河野氏と称するようになります。河野氏はどんな一族だったのでしょうか?また、どのような過程をたどって武士化したかのでしょうか。
 越智氏の出自については、古くからいろいろの説があります。
①孝霊天皇の子伊予親王から出た説(『予章記』・『予陽河野家譜』による)
②武内宿禰から出た説(一条院坊宮内侍原刑部卿家蔵本『河野系図』による)
③大山祗命から系統を引く説(『三島系図』および『水里玄義』による)
④伊予御村別の祖先である武国凝別命から出た説(『和気系図』・『与州新居系図』による)
 これらの説に対し考証がすすめられた結果、現在ではニギハヤヒ命から出た小致命の子孫とする説(『天孫本紀』・『国造本紀』による)が妥当なものと研究者達は考えているようです。
 越智氏は、はじめ伊予国の中枢部に位置する越智地区を本拠としていました。
『国造本紀』によると応神天皇の代に大新川命の孫の小致(おち)命が国造に任ぜられています。その後、越智郡が設置されると、その子孫は越智郡司に任命されます。したがって、越智氏は国造→郡司のコースを歩んだ地方豪族のようです。

 越知氏が郡司であったことを物語る史料は「正倉院文書」の「正税出挙帳」です。
これは天平八年(七三六)に伊予国から政府へ提出された正税に関する報告書で、次のように記されますある。
   郡司 越知直広国 主政越知東人
  「?」税穀「?」千伍栢弐拾肆餅玖斗陸升参合
  頴稲肆万伍仔陸俗五拾漆束捌把
  出挙壱万弐千束
  借貸壱万「?」
  「?」伍拾漆東捌把
この記録には、大領の越智広国と主政の越智東人らの名が見えます。さらに『続日本紀』の神護景雲一年(七六七)二月二十日の条によると、大領の越智飛鳥麻呂が「あし絹」および銭貨を献納した功によって、外従五位下に叙せられています。

神護景雲元年二月庚子、伊予国越智郡大領外正七位下越智飛鳥麻呂、献絶二百舟疋銭一千二百貫、授外従五位下。

当時は物資を献納して叙位されることはよく行われていました。ここからは越智氏が開発領主として大規模な農地経営に乗り出して経済的な成長を背景に位階を高めている様子がうかがえます。
 海賊討伐と越智氏の武士化
 古代律令体制の傾きとともに、瀬戸内には海賊が横行するようになります。伊予国も彼らの震源地となります。治安の維持のために警備増強が求められるようになります。しかし、海賊の横行は激しくなるばかりで官物を強奪し、人の命を奪うので瀬戸内海の交通も途絶えがちになります。『日本紀略』『本朝世紀』・『扶桑略記』等には、朝廷が各国府に対し山陽・南海の両道の海賊を逮捕するように命令し、諸社には海賊鎮圧の祈願をさせた記事が載せられています。
 このような中で伊予では、藤原純友が瀬戸内の海賊をまとめて、宇和郡日振島を拠点にして反乱をおこします。越智郡司であった越智氏も、政府の討伐指令に従って動いたはずですが、正史のなかにその名を見出すことはできません。
信頼できる史料によって、それ以後の越智氏の活躍を追ってみましょう。
『貞信公紀抄』によると、越智用忠が海賊の平定につくしだので、天暦二年(九四八)七月にその功労を賞するために、国衙から叙位を申請しています。
天暦二年七月十八日、伊予国申、越智用忠依 海賊時功、可叙位解文等、
令公輔朝臣奏之、加用忠貢書即還来、伝仰可被叙之状、
この海賊がどこのものであるかは解りませんが、純友の一軍だったものかもしれません。
また『権記』によると、長保四年(1002)に越智為保が伊予追捕使に任ぜられています。
 長保四年三月十二日戊申、(中略)伊予追捕使越智為保任符、
奉送前守許、依有彼守之所示、令労成也、
さらに『除目大成抄』によると、
治安三年(1023)に越智時任が大目に(『江家次第』)
永久五年(1117)に越智貞吉が大徐に任ぜられている(『除目大成抄』)
越智氏はもと武官ではありませんでした。しかし、在庁官人の地位を長く占める事で、中世の混乱かの中で在地土豪化し武装化するようになったようです。そして「海賊討伐」などを通じて地方の兵権に関わり、彼ら自身が武士集団化するようになります。当時の愛媛の在庁官人層は精神的な拠点として大山祗神社を重視し、その祭祀に務めていました。
大山祗神社6重文宝塔

 越智郡を本拠とした越智氏は、親清の代に風早郡河野郷に移ります。
そこで中世には姓を河野氏ともよばれるようになります。越智氏一族の移動した時期は、十二世紀の前半期のようです。河野氏は道前と道後との境にある髙縄山(986㍍)に城砦を築きます。
河野氏は武士団を結成するにあたって、越智郡から風早郡にわたる地域の中小領主層を多く従え、家臣団を組織していきます。その間、家臣による私有田経営も行なわれ、また荘園の開発も積極的にすすめられたようです。こうして河野氏一族の所領は、伊予国の各地域に拡大されていきます。
 一方河野氏は、引き続き大山祇神社を氏神として奉祀します。
また風早郡内の式内社である国津彦神社・櫛玉姫神社も尊崇します。これらの神社を本所とし、みずから領家となった荘園も出てきます。
大山祗神社5

  大山祗神は武士団の団結を誓う聖地へ
 源平の争いである保元・平治の二大乱(1156・1159)の結果、西国に根拠地を持つ平氏が源氏の勢力を圧倒して、一門の極盛時代を迎えます。河野氏は源氏に親しかった関係から、平氏の制圧をうけて失意時代を経験することになります。しかし、それも長くは続きませんでした。治承四年(1180)八月に、源頼朝が平氏討伐の兵をあげると、河野通清・通信父子はこれに応じ(『吾妻鏡』・『源平盛衰記』)高繩山城に兵を集結させます。
 さらに源義経が四国に上陸すると、その指令によって屋島・壇の浦海戦に舟師を率いて活躍しました。また義経の死後、頼朝は奥羽の藤原泰衡を討って、全国の統一をはかりますが、この奥州征伐に河野通信が従軍したことは『吾妻鏡』に詳細に記述されています。ここからは河野通信は頼朝に非常に近かったことがうかがえます。そのため河野家は頼朝亡き後の北条氏政権に素直に従えないところがありました。
 こうして上皇方に加担した河野氏は敗軍となります。
通信は伊予国に帰り、高縄山城によって抗戦しますが、幕府の征討軍によって陥落し、通信は傷ついて捕えられ、奥州平泉に配流されます。
 『築山本河野家譜』・『予陽河野家譜』には、承久の変のまえにして、通信は大山積神社に参詣し神託を請うたところ「幕府に応ずべし」とあったにかかわらず、神慮に背いて上皇側に味方したと書かれています。
 これは家譜の編者が承久の変における結果論から「創作した説話」とも考えられますが、その背後に大山祗神に対する崇敬心の厚かったこともうかがえます。

大山祗神社117

 承久の変によって、河野家は衰微の過程をたどります。これを再建したのは通信の孫通有です
彼は元寇で功績をたてます。通有は文永の役(1274)の後、幕命によって防衛のために九州に出動することになります。その際に『八幡愚童記』によると、大山祇神社に参詣し
「一〇年以内に蒙古が来襲しなかった場合、異国に渡って戦いを敢行する」
との起請文を神前に捧げ、これを焼きその灰をのんで武運の長久を祈願したという話を載せています。
 この後に、弘安の役(1281年)に通有は、博多湾内の志賀島の海戦に大きな功を挙げます(『八幡愚童記』・『蒙古襲来絵詞』)
 このエピソードからは、河野氏が大山祇神を深く信じていたことが分かります。
また河野氏にとって、大山祗神社が一族の精神的な精神的拠点であり、危機的事案が乗じたときには一族で、ここに集まり協議し、祈願したのです。そのため、この神社の神事費用は一国平均役として調達されたようです。これらの史実・伝承からは、河野氏が軍事的に海上に活躍する際には、お山の神様である大山祗神に海上の守護神の性格を習合していたことが見えてきます。

大山祗神社52

 長々と大山祇神社と越知氏(河野氏)の関係を述べてきましたが、ゴールにたどり着いたようです。武士化した越知氏、河野氏にとっては、戦いは海上戦を伴うものでした。そこでその戦いの勝利をもともとは「山の神様である大山祗神」に祈るようになったのです。
 こうして大山祗神社は、一族的な団結を図る聖地として機能すると同時に「海の神様」としての信仰を集めるようになったようです。

 

石鎚山お山開き6
   「お山迎え」 石鎚から帰って     
お山開きの山上での興奮を胸にして、講員達は里に帰ってきます。石鎚参りに行った人たちを、村の人たちはどのように迎えたのでしょうか。
石鎚講ではお山から帰ってくる人たちを迎えることを「お山迎え」といったそうです。
 まずは、出発するときに無事をお祈りした氏神やその他末社に、お礼参りをします。また村人の加持祈祷をして廻る事もあったようです。各地の事例を見てみましょう。
 今治市北新町などでは、石鎚登拝からもどるとその足でまず大浜八幡神社か吹揚神社に参拝しました。その後、浅川海岸で家族たちの出迎えを受けました。そこで「お山迎え」の酒盛りをして解散する習いだったようです。

石鎚山お山開き5
越智郡菊間町では、氏神加茂神社の秋祭のお供馬の鞍を付けた飾り馬で、今治まで出迎えたと云います。参拝者達が帰ってくることを知らせる法螺貝が鳴ると、村人も出迎え、一行からお加持(祈祷)をしてもらったり、土産をもらったと云います。
 石鎚登拝に門注連をして出発することは以前に述べましたが、帰ってくるとこれを取り外したようです。門注連を外さないと足の疲れがとれぬと伝えられました。
石鎚大権現2
 石鎚登拝者は村に帰ってくると、神社参拝にお礼参りをして、それから村内の祈祷をして廻っています。その際には、草履を脱がないで、そのまま座敷口から上がり、裏口に通り抜けると、家が清められ悪事災難を退散させると信じられていたようです。神社と、村周りの祈祷が終わった後で、酒宴をして解散するのが一般的でした。
 小部では、氏神に家族がご馳走を運び、ここで登拝者一同が酒盛りをしました。これを「精進落し」と云いました。伊予郡砥部町川井では、先達の家で「お別れ講」をしたといいます。
石鎚山蔵王権現5
以上、出発から帰村までをまとめてみると
 1 出発時に必ず氏神に参拝して行くこと。
 2 帰村時にも氏神に参拝し、村人の加持祈祷をして廻ること。
 3 特定の場所(親戚、神社、先達家、村境)まで食物を用意して出迎え、そこで共同飯食すること。

お山参りの効力は?
  修験者は加持祈祷によって、いろいろな願いを叶えられるパワーを持つ「天狗」というイメージを生み出してきました。しかし、そのパワーは里で暮らしていると次第に低下してきます。パワーを上げてレベルアップしていくためには、神聖な行場での修行が不可欠とされました。そこからは、行場から帰ってきたばかりの修験者が一番パワーポイントが高くて「成就力」もあると考えられるようになります。こうして江戸などでは、修行帰りの修験者が聖者視され「流行神」として崇められる例が数多く現れました。

石鎚山数珠1
このような風潮の中で、霊山石鎚に参拝登山してきた人たちにも霊力があると云われるようになります。
そのため登拝者を聖者として出迎え、里人がこれに跨いでもらったり、加持祈祷や家の清祓をしてもらったりするようになります。例えば登拝者がお山がけした草履にも呪力があるとされるようになります。その草履をはいたままで田の畦を踏んでもらうと作物がよくできるとか、オゴロ(もぐら)除けになる、種蒔きするとよいと伝わります。また草履で身痛いところを撫でたり、出入口に吊して悪病災難除けの呪物とした家もあるようです。面白いのは、お山に登った草履を履けば、水虫が治るという伝えまであるのです。

石鎚山修験者1
石鎚土産と呪物は?
 このように参拝登拝者や身につけていたものが効能があるとすれば、石鎚山の御札だけでなくありがたいお土産も買って帰ろうとするのは、自然の成り行きです。
石鎚土産としては、「お山柴」と「助け猿」が定番だったようです。
お山柴はシャクナゲのことで、登拝者は必ずこれを土産に持ち帰り、神札とともに竹に挾んで田畑に立てました。これが虫除けになります。家の出入口に吊すと魔除けになったようです。
石鎚山お土産お助猿
 助け猿
助け猿は、縫いぐるみの小猿で子どもの背につけたり、家の出入口に吊して災難除けとしたようです。伊予郡中川原では、男の子が生まれると、十五歳になれば登拝すると願掛けして、この猿を石鎚山より請けてもどり、願解きのときに倍にしてもどしていたといいます。ちなみに猿は石鎚山のお使いだと言う人もいます。
 お助猿は戦後になってもお土産として人気があったようで、石鎚山近くの学校に通っていた人の作文には
「その時期が近づくとお猿さんの形をしたお守りの『助け猿』をたくさん作って、小遣い稼ぎをしていた」
と書かれています。『病気が去る』とか『魔除け』として、買って帰る人が多かったようです。参拝した人々が、自分の腰に三つ、四つ、助け猿を付けて歩いているのを覚えていると云います
石鎚山朱印1
 また、当時の石鎚登山の拠点であった伊予小松駅周辺で戦後に売られていたお土産については、次のような記憶が書き留められています
 「お山開きのときには、駅前通りの店舗のほとんどが、土産物売場を設置していましたし、出店もたくさん並んでいたことを、よく憶えています。出店の前を通った男の子が、『おいちゃん、ニッケ(クスノキの樹皮を乾燥させてつくった飴)ちょうだい。』とねだっていた光景が思い出されます。

 漢方薬もお土産として売られていました。
 陀羅尼助とは、俗にオヤマダラスケとかダラスケと呼んで胃腸薬、強壮剤、痛みどめの漢方薬だったようです。黒っぽい塊で、修行僧が長ったらしい陀羅尼経文を読むときに、口に含んで睡魔を追い払ったところから言われだした名前だと云います。ここには、お寺や先達が漢方薬を作り販売していたことがうかがえます。そして、その漢方やニッケの材料を集め、お助猿を作っていたのは、今宮や黒川などの石鎚街道沿いの集落の人たちだったようです。
山伏信仰1
 山伏の中には、元禄期の別子山村に来た南光院快盛法印のように病人に薬草を施して治癒するものもいました。
 また、南予の一本松町では、歯の痛みに「楊枝守」と朱印した護符内に木製の楊枝を入れたものを山伏が売っていました。歯が痛むとき、この楊枝で痛い歯をつつくと歯痛が止まるというのです。
 山伏がよく口にする呪文に「アビラウンケンソワカ」があります。久万町直瀬では、子どもが虫歯で泣くと、お婆ちゃんがまじないにいに
「秋風は冬の初めに吹くものよ、秋すぎて、冬の初めの下枯れの霜枯れ竹には虫の子もなしアビラウンケンソワカ」
とか呪文を唱えたようです。
 また、まむしが多い山に入るときには
「この山に錦まだらの虫おらば、奥山の乙姫に言い聞かすぞよ アビラウンケンソワカ」
という呪文もあったようです。何か、こんなのを聞いていると楽しくなってきます。物語の世界に入って行けそうです。
登山口となる石鎚神社本宮
  戦後になると、小松駅前で下山してきた修験者の中には札を売る者もいたようです。
「修験者は見物人の最前列にいた私に小さな木のお札を示して、『このお札を身に付けていると何が起こっても守ってくれる。』と言って、その木札をタオルで私の額に巻きつけました。そして突然『ヤーッ』と大きな気合いとともに手刀で私の頭を打つまねをしました。私はびっくりして身を縮めて固く目を閉じてしまいましたが、恐る恐る目を開けてタオルを取ってもらうと、額に挟んでいた小さな木札が真っ二つに割れていました。私が唖然としていると、修験者は、『お札があなたを守ったんですよ。』と言いました。見物していた大人たちは納得したのかどうか分かりませんが、お札はどんどん売れました
      以上のような聞き取りが残されています。「データベース『えひめの記憶』えひめ、昭和の記憶 (平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業) 第1章 昭和の町並みをたどる」より

1 石鎚信仰が石鎚講を通じて、そのネットワークを広げて信者を増大させていくシステムを確立したこと
2 明治の神仏分離の混乱を乗り越えて、大正期には予讃線開通もあり、より広くからの信者をあつめるようになったこと
3 地域に根ざした石鎚講は、宗教的な側面だけでなく社会的なボランテイア活動も行い地域を支えたこと
そんなことが見えてきました。 
IMG_6636


参考文献 森 正史 石鎚信仰と民俗 大山・石鎚山と西国修験道所収
                                       

 


       
現在の黒瀬ダム周辺
           「伊豫之高根 石鎚山圖繪」(昭和9年発行)
 各地から集まった石鎚参拝をめざす講員は、里前神寺(現石鎚神社)や香園寺を基点にして、いろいろなルートで常住(成就)社をめざしました。どのルートをとっても最終的には西条川上流の河口(こうぐち)集落へと集まってきます。ロープウエイができるまでは、ここが登山バスの終点で、ここから成就社に向けて歩き始めました。
石鎚古道 今宮道と黒川宿の入口の河口
水祓所、三碧橋が架かる前の河口橋 ここが今宮道と黒川道のスタート地点
河口からは
  ①西条藩領である尾根を登る今宮道と(前神寺・極楽寺信徒)
  ②小松藩領である黒川の谷筋を登る黒川道(横峰寺信徒)
のどちらかをたどって常住(現在の成就社)に向かいました。
さて、お山開きに集まってきた参拝者たちは、どこに泊まったのでしょうか。
最初に見たように、12000人近くの参拝者が三日間で山頂を目指しているのです。宿泊所は成就にいくつかの宿坊があるだけです。 これを引き受けたのが「季節宿」だったようです。いわばお山開中の「民宿」です。

石鎚古道 今宮道と黒川宿の繁栄様子がはっきり記されている
 季節宿が開いたのは、今宮・黒川登山道筋の黒川と今宮部落です。
 各地からやってくる講中は泊まる宿を決めていて、毎年決まって定期的に訪れるので、宿の入口に講札を打ちつけて目印にしていました。宿になる民家は、有力者の家で石鎚参りの宿にふさわしく、間取りも三間並列型で、襖を取り払えば大広間に一変するような家でした。宿に到着した講中は、旅装を解くとオツトメにかかります。会符・鈴・法螺貝・数珠・もば(海藻)などを床の間(権現様を祀る)に置き、先達の唱導にて勤行をなし、その後に白衣を脱いで休息します。

石鎚山今宮3
今宮の大きな廃屋
 民宿は米持参で昔から「一山八合」といわれます。一泊して登拝をするに必用な分量です。一人四食分で一食1,5合で二合余ります。これが宿へのお礼米になりました。水田のない黒川や今川では、この余米が貴重でした。食事は一汁一菜の簡素なものだったようです。
石鎚山今宮2
 ちなみに、今宮・黒川の季節宿はその後も参拝者達を迎え続け栄えます。もっとも賑わった大正8年には今宮集落では、「全戸数36戸(人口178人)中,11軒の宿屋があった」とあり,小学校の分校もあったようです。そしてお山開き中の10日間に1万人を越える宿泊者があったといいます。
石鎚山黒川集落1
 私が最初に、この登山道を通ったときに、今宮は廃墟になっていました。そして不思議に思ったものです。こんな山の中に、どうしてこんな大きな家があったのだろう?と、
しかし、交通ルートの変更があった場合には沿線の商業施設は大きな影響を受けるのは、歴史が示すとおりです。東の川から成就へのロープウエイ開設が、人の流れを大きく変えました。歩いて成就を目指す参拝客は、ほとんどいなくなったのです。そして、今宮の家屋は自然に帰っています。
石鎚山お山開き2
江戸時代の石鎚山のお山開き お上りとお下りとは?
  お上りとは、冬の間、里前山寺に下りていた本尊の蔵王権現を頂上に上げるて開張することです。旧五月晦日に前神寺から仏像三鉢を唐櫃に納めて、成就社に遷します。そして翌日の朝に弥山に奉安するのです。このとき信者たちは、仏像を奪い合い熱狂的な信仰世界を山上に展開するのです。

蔵王権現
 石鎚の本尊だった蔵王権現

 仏像奉遷は道中奉行が差配しましたが、土佐の信者が供奉して行なうのが古式の慣行でした。また道中奉行は、石鉄山御用会符一号を所持する伊藤家(天徳院)が世襲していました。
 弥山に開帳された蔵王権現(石鎚権現)を前にして、大自然の中(天上に近い霊域)で、心ゆくまで加護を直接的に請けられるのです。信者にとっては、何にも代えがたい空間に身を置く喜びを感じる瞬間です。
石鎚山お山開き8
  お山開きの最終日のお下り行事(下山)は、仏像を弥山から本寺に遷す行事です。
仏像が里前神寺の山門に到着すると、長い参道に信者たちは土下座して「走り込み」を待ちます。仏像を納めた唐櫃が信者の頭上を通り抜けてゆくと、そのとき信者は合掌念仏をして、奉迎します。この前神寺お山開き行事は、形を変えながらも神仏分離後の石鎚神社に継承されているようです。
石鎚山お山開き4

「お上り」を体験した俳人の坂上羨鳥は、『花橘』に、次のように記しています。
一七日の精進清火の前行を修め奥前神寺(成就)に通夜
晦日は塔の禅定方百町斗南ノ嵩二行、高サ十六丈余の岩窟の塔、大師(空海)暫時祈玉ふて湧出となり。頂に苔むす諸木露にしやれ魔風昼夜をはかず。此外密所数多を詣る。
極楽を汲か岩洩る苔清水 羨鳥 
朔日前宵丑ノ刻、別当先達貴賤ともに白衣を着し、かけまくも縄の厚、続松手毎に燈、一同高音に御名を唱。空天に響、気も魂もそぞろくるはしく、木の根菅の根取付くなど所々の王子に読経。弥山間近き小笹原、夜明しとこそ云ル 岩戸原明を待って、ものいはじと臍る数十丈の鉄の鎖掌に冷て南無南無南無を観念せしは何にたとへん。
やんごとなく頂上に禅定宝殿御尊像を拝し、空澄渡る朝気色所々の山海雲下にミゆ。つみもむくいもただ消然たる心の底如意満足しかならむ。
此涼し現未新に無垢世界 羨鳥
 この文章を見ると、上りの前々日に成就の奧前神寺の宿坊に泊まっています。お上りに参加するためには、成就社の近くに前泊しなければならなかったのです。それが今宮や黒川の季節宿が繁盛した理由でした。
翌日は空海が修行した「塔の禅定」の下の「岩窟の塔」を訪れています。これが石鎚三十六王子のひとつでもある天柱金剛石のことでしょう。
石鎚山 天柱金剛石
言葉を添えて意訳してみると
「お上り」当日である。夜明け前、別当先達貴賤を問わず白衣を着た多くの信者が縄でつながれた本尊を高みへと誘っていく。暗闇の中、松明を持ち、高く真言を唱える声が、天空に響く。
気持ちが高揚し、魂が揺り動かされる。行く道の神木の根に鎮座する王子にその都度、読経しながら隊列は進む。
空が白み、弥山(石鎚)が間近に見えてくる笹原に出た。ここが夜明け峠だ。
そして、覆い被さるような岩稜に架けられた数十丈の鉄鎖を登る。手は冷やされるが、心は熱く南無南無南無」を唱えるのみ。この瞬間を何に喩えられようか
無事に安置された蔵王権現に祈念し、そして空澄み渡る朝の冷気の中から雲下に見える山海をながめる。罪も報いもただ消えゆき、心の底には満ち足りた思いで満たされる。
 羨鳥は熱心な仏教信者で深く仏道に帰依していたようです。石鎚登拝を「補陀落」と感じています。「雪解る高根の方か補陀落か」(『高根』元禄十四年刊)の句を残している事からも分かります。
石鎚山開山3

 石鎚山上の自然の「大劇場」で展開されるドラマは、非日常的で宗教的な情熱を沸き立たせるものだったのでしょう。この興奮と感激は忘れがたいものとなったはずです。だから、信者となり、そして先達として、この霊山に通い続ける人々を生み続けたのでしょう。
 こうして、石鎚は劇場化するとともに霊山としての神秘性を高めて云ったのかも知れません。
石鎚山お山開き9

次回は、石鎚参拝登山から帰った人たちを待っていたものは何かを見てみようと思います

参考文献 森 正史  石鎚信仰と民俗  大山・石鎚と西国修験道 所収
絵図は「
旅する石鎚信仰者https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-12225893233.htmlからお借りしたものを使わせていただいています。

 

   
石鎚山お山開き

 霊峰石鎚山の山開きは、現在は七月一日から十日までの十日間です。
でも、もともとは旧暦の旧六月一日からの三日間だけでした。お参りする場合は、大和の大峯山や伯者の大山と同じように、六月一日から三日までの間に登らなければなりません。その間が山開きです。その三日問を除いては、山を閉ざしたのです。それが江戸末期になって旧暦五月二十五日より六月三日まで十日間開くようになりました。

石鎚弥山
どうして「お山開き」の期間が延長されたのでしょうか?
 ペリーがやって来た4年後の安政四年(1857)六月三日の『小松藩会所日記』の記録に、
石鉄(石鎚)祭礼出役(中略)
参詣大夥敷、先は廿ヶ年来参詣と相唱候由。
五月廿五日四千五十人、其前後千人或は千五百人位、朔日二百人計、大凡一万二千五十人もこれあり。廿三日前にも少し登候趣、横峯寺も別条なく珍敷参詣人の趣、委細承之。
とあり、参拝者が大幅に増えていることが分かります。幕末のこの時期は、伊勢参りや金毘羅詣でも参拝者が急増して、それが「おかげまいり」へ暴走していく時流につながります。
 今までにないこの参拝登山客の急増に対応して、西条藩でも藩士を派遣して取締りと保安に当たらせています。しかし、その混雑ぶりは、お山のオーバーユース問題を引き起こします。この対応のために、山開きの期間を三日から十日に大幅に広げたようです。幕末には今までないほどの多くの人が山開きには石鎚を目指すようになっていたのです。
今回は石鎚参拝者の出発から帰宅までの動きを追ってみようと思います。

1石鎚山登山衣装
なぜ人々は、石鎚山を目指したのでしょうか。
 石鎚参拝は個人や家族で、登山するレクレーションではありませんでした。石鎚講という組織に属して、そのメンバーを先達(修験者)が引率・指導して行く集団登山でした。メンバーの中には毎回参加する人もいれば、初めて参加する少年もいました。

山伏装束1
どうして少年が参加したのでしょうか?
 「この山に登ったら一人前」と云われる霊山が各地にあります。村には若者組があって村祭りや芸能、公共事業などに奉仕しました。彼等は力石、俵持ちなどをして日頃から体力を鍛え、技量の練磨に励みました。それは「一人前」と云われるためでした。
 伊予では、石鎚登拝と四国遍路の体験が男一人前のひとつの前提条件になっていたようです。「石鎚は一度は来ても二度は来な」と云われ、村里では一度は体験すべき「山」と目されていたのです。


石鎚登拝は、普通十五歳が初山だったようです。
 親が出生のときに
「無事に育ちますように、元気に育てばお山にお参りさせます」
と願掛けしておいて、十五歳がくると「願ほどき」に登らせるケースが多かったと云われます。頂上の「のぞき」と呼ばれる岩場から断崖絶壁の谷を覗かせたり、宙吊りして誓約を誓わせたりすることが、石鎚でもかつては行なわれていたようです。この冒険的体験が「一人前の男」になれたような誇らしさを、そだてる契機になったのかもしれません。これに対し、四国遍路の体験は「世間を知って、見聞を広める」という「自己拡大」の方に意義があったようです。
 大峯山には、山からもどると洞川あたりで女遊びをし、若い精気を発散させる精進落しがありました。しかし、石鎚の場合はその気配は資料的には見えません。でもなかったともいえません。例えば新居浜市大島では、若衆組に加入すればまず石鎚をやり、ついで讃岐の金毘羅参りをして「女郎買いをしてもどると一人前」と見るふうがあったと云いますから・。
石鎚登坂
さて、今なら石鎚に登るのに、持って行くものを準備し、ザックに入れておけば前日の夜にビールを飲んでいても大丈夫です。しかし、霊山への参拝登山はそうはいきません。
まず、登拝者は7日前から「精進潔斎」をしなければなりません。
これは海、川などで沐浴して垢離(コリ=穢れ)をとり、魚肉を断ち、殺生を慎しみます。蚤や蚊も殺さないように気をつけたようです。海から遠い地域でも、出発前日は潮垢離(コリ)を行う所が多かったようです。この時には参加する人たちが連れ添って行き、帰りには海藻を持ち帰ったり、登拝の宴銭を清めてもどったりします。
石鎚の最古の文献『日本霊異記』は、
  「その山高く峙ちて、凡夫は登り到ることを得ず、ただ浄行の人のみ登りて居住す」
と記されています。「浄行の人」だけが登拝できる険阻高峻の霊峯なのです。不浄者は山の天狗に放られると信じられていました。
石鎚講2
 各地の石鎚登拝者の精進ぶりを見てみましょう。
八幡浜市川上地区では、氏神の社殿に寵って別火生活をしながら七日間の垢離をとりました。出発は夜半で、途中は婦女子に会わぬよう心掛けた。登拝中は家族も精進潔斎して家業の漁業も休業し、虫一匹も殺さず、もし万一組内や親類に不幸があってもお山参りがもどるまでは弔問もしなかったと云います。
 越智郡波方町小部地区の漁村地帯は、昔から石鎚信仰の篤い地域でした。
十五歳で初山を踏む少年は、二十一日間の精進生活を行ったと云います。座敷口の土間に白砂を敷き、門注連を立てて座敷に寵り、ここに竃を構えて別火し、かつ食事毎に一日三回の潮垢離をとります。

山伏信仰2
 温泉郡中島町では、満潮時の潮で清めた藁で注連縄をない、これを先達の家に張ったり、ある家に張ってそこにお龍りします。登拝中は家族の者が潮汲みをし、頂上に到着した頃を見計らって行をします。登拝者の家に門注連を張ることは各地に共通しているようです。今治付近には、登拝中の頃合いを見て、この注連竹を少し抜きかけにしたといいます。これをアシヤスメ(足休め)と云い、参拝中の当人の足が軽くなるというのです。
 頭髪をすくことも遠慮したようです。髪をすくと登拝者の弁当にそれが入っていたり、頭が疼くなったりするというのです。

石鎚大権現2
  また登拝中の豆いりはタブーになっていたようです。足に豆ができるというのが理由です。まるで洒落のようで、ここまでくると微笑ましくなります。
 出発前からの本人の精進も大変ですが、家にいる家族もそれを支えるためのタブーがいくつもあって大変です。別の見方をすると、個人でお山に登っているのではない、家族と一緒に登っているという強い連帯性が要求されていたようです。これらのタブーのひとつひとつを、初めて登る少年達は先達や先輩の講員から学んでいったのでしょう。厳しい緊張感が伴う参拝だったことが、私にも少しずつ分かってきました。これは、レクレーションでありません。
  さて石鎚講の参拝者が先ず目指したのは、先達の属する石鎚信仰の拠点寺院でした。
江戸時代には伊予側からは、前神寺と横峰寺がその拠点となっていました。

前神寺1
少し横道にそれて、前神寺について見ておきます。
  現在、四国霊場六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として独立寺院になっています。この寺は神仏分離前までは、石鎚山の別当寺として石鎚信仰の中心的役割を担ってきました。
石鎚山お山開き7
上社は弥山、つまり石鎚の頂上にあります。
現在は露坐の石上大神三体が立っています。昔は銅の祠の中に三体の蔵王権現がまつられていたという記録があります。それが石土大神の本地仏だったようです  

1成就社から石鎚山
  中社(奧前神寺)があったのが「常住」です。
今は成就と改名されています。中社は石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので「前神」と称するようになります。同時に、これが石鎚山別当職を確保する要因になります。前神寺は、もともとはここに成立したお寺ですが、後に里に下社を作り庫裡を移し、そちらを里前神寺と呼ぶようになります。

前神寺1
  下社(里前神寺)は、現在の石鎚神社本社の場所にありました。
ところが明治時代の神仏分離で、頂上に祀る蔵王権現が仏体であると否定され、明治8年(1875)に一辺の通達で廃寺とされます。そして、里前神寺の権現神殿が神社となったのが石鎚神社(下社)です。神仏分離・廃仏毀釈の嵐は「前神寺がスクラップ、石鎚神社がビルトアップ」という現象を、石鎚信仰の上にもたらしたことになります。
 前神寺は、その後の檀家による復興運動が功を奏して、末寺の医王院があった現在地に前寺の名称で再建が認められます。そして各地の先達達の支援・協力もあって、長い時間をかけて復興し再び石鎚山修験道の中心地となり、南北に長い境内地の中に多くの伽藍が建ち並ぶようになりました。伽藍は明治以後の建物と空間配置なので近代的な感じを受けます。それも、このお寺のたどった歴史の所以なのでしょう。

石鎚山お山開き3
   ちなみに里前神寺は、江戸時代も納経所でした。
 前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国偏礼霊場記』には、ここにお参りした場合は、上(成就)まで登らなければいけない
と書いています。蔵王権現が前神寺の本尊なので、成就社まで行かないと参拝したことにはならない。前神寺は「庫裡」であった、本堂ではないという考え方があったようです。
 これが当時の霊場の実際の姿でした。江戸時代に入ってから、山岳信仰のお寺は本堂を建てて寺の体裁を整え、行場や山頂から庫裡は里に下りていきます。しかし、もともとはお山の上の権現が霊場です。そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていたのです。だから奥の院に参らなければ意味がないと考えられていたようです。そのため四国巡礼のお遍路さんも成就までは登る人が多かったようです。

蔵王権現
石鎚山頂に祀られていた蔵王権現  

さて、ふもとのお寺までやって来たところで今回は終了、お山への道はまた次回に・・
石鎚信仰3

参考文献 森 正史  石鎚信仰と民俗  大山・石鎚と西国修験道 所収
                                       
 

 


 
石鎚山と石土山(瓶が森)
前回は笹ヶ峰・瓶が森・石鎚の3つの霊山が開山され、それぞれのお山に権現が勧進され、それを里の別当寺が管理し、山岳信仰がそれぞれのエリアで展開される鼎立状態にあったことをお話ししました。しかし、中世から近世にいたる中で、他を圧倒するようになったのが石鎚だったのです。今回は、近世の石鎚信仰を見ていきたいと思います。
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 中世の石鎚山 役小角伝説が広がり
中世期になると、吉野や熊野では役小角伝説が広がり、彼を開祖にした修験集団が発展していくようになります。それに少し遅れて、地方の修験霊場も役小角やその門弟を祖とする「修行伝説」を生み出していくようになります。この結果、どこの修験者も開祖は役小角となってしまいます。
 鎌倉時代の「金峰山創草記」には、
役小角が仏法流布の地を求めて三本の蓮花を東に向って投じたところ、一本は伊与国石辻に、一本は大和国弥勒長に、残る一本は伯者国三徳山に落ちたとの「三徳山縁起」の伝承がのせられています。
こうして「伊与国」の石鎚山も、中央の修験集団の間では「役小角有縁の地」として受けとめられるようになります。また、石鎚山側もこれに応えるかのように、室町時代以降になると役小角が弟子の石仙などの案内で石鎚山を開いたとの伝承を広げるようになります。
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 中世の石鎚山に関しては、いくつかの遺物が知られています。
年代順にこれらをあげて見ると、
興国五年(1344)の銘のある前神寺梵鐘
建徳二年(1371)の銘文がある横峯寺鰐口
元中三年(1386)沙門亮賢が勧進して作製した「大般若経経函」
応永十四年(1407)福島真守が奉納した「石鉄山」の神額
今に残るのは「大般若経経函」(讃岐・水主神社所蔵)だけですが、十四世紀末には石鎚周辺では、修験者が活発な山岳信仰活動を行っていたことがうかがえます。
  室町時代末の文明九年(一四七七)の年号が入った石鎚山の弥山山上の御宝殿の扉の銘書には次のように記されています。
扉右側に願文として
啓白帰命頂礼蔵王権現、奉造立赤銅金繰之御宝倉 右依造立功徳 
金輪聖皇御願円満 国郡泰平庄内安穏真俗繁昌 
諸人快楽一切善願悉皆成就殊奉念願処如此、
于時文明九年丁酉三月十二日
大願主として、別当権少僧都良真 俗姓当国朝倉住人長井弾正忠之息男・大工・小工六の名称が記され、左側には「奉 遷宮導師吉祥寺住侶権少僧都円意」の他大檀那の源勝久・越智通直・同通春・同通生・同重秀・同通重・藤原久永・奉職 吉辰若・勧進聖の澄順・秀範・義通・宥円・円良・法印の慶通・広勢・基因の名が記されています。
 ここからは、別当の前神寺・良真の発願で、勧進聖や法印の努力と、領主の源(細川)勝久や越智(河野)通朧ら越智氏の一族などの保護のもとに宝殿を完成させたことが分かります。そして前神寺と近い関係にあった吉祥寺住職の手で遷宮の法要がいとなまれています。
  この頃に前神寺別当良真が、金剛蔵王権現を本尊とし、石仙を開祖にいただく、石鎚山の信仰を地元の有力者の保護を受けながら、協力関係にある寺院の手を借りて展開していたことがうかがえます。
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石鎚山は河野家の外護と別当前神寺の努力で繁栄していたようです。
 その後、前神寺は戦国末期の混乱をうまく乗り切り、寺領を維持していきます。そして、天正15年(1587)に新領主として入国してきた福島正則の信心を得る事に成功します。正則は深く石鎚権現を信仰し、前神寺に宿坊を建てて参拝したと伝えられます。さらに、慶長14年(1609)豊臣秀頼は、正則を普請奉行として常住に神殿を建立するのです。こうして、前神寺はどんでん返しが多発した戦国末期において「危機管理」に成功し、寺勢を伸ばすことになります。
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 近世の石鎚山
 江戸時代に入ると石鎚信仰は、西条藩の保護と別当前神寺の展開する積極的な布教が功を奏して広く庶民に広がって行くようになります。
 例えば西条藩の保護政策を挙げると
①明暦三年(1657) 藩主一柳直興による里前神寺の堂宇建立
②寛文十年(1670) 紀州藩徳川出身の松平頼純による石鎚山社への寄進状
③元禄八年(1695) 石鉄山別当前神寺に殺生禁断の制札
④吉宗以降の将軍家の祈願を石鉄山社と伊曾乃神社が行う決定
こうして権力者からの保護と寄進を受けて、寺社(ハードウエア)の整備が進みます。
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しかし、参拝者を増やすためには、ソフトウエアが必要でした。
当時の石鎚参拝は今と違って、個人でお参りするものではありません。中世の熊野詣でと同じで、先達が地域の信者達を伴って集団でやってくるというスタイルです。そのため先達達を増やす事が、参拝客増加の重要なポイントでした。石鎚信仰PRと石鎚講普及のために前神寺は、独自の「先達制度」を調えていきます。
 
前神寺に『先達所惣名帳 金色院』という記録が残されています。
延宝四年(1676)辰五月廿九日のものです。ここには、道前道後の寺院、堂庵六四ケ寺院、村名、先達名が記されています。前神寺は、ここに記録された先達所を拠点にして。地域の講組織を作り上げていったようです。これを「先達所分布図」にしてみるといろいろなことが見えてきます。

石鎚山先達分布図
明和六年の「先達惣名帳」に載っている各地の先達分布図からは次のようなことが分かります。
①この時点では、先達はほぼ伊予の国に限られています。
②道後が43、道前が22と道後の方が多くなっています。これは石鎚講が地元の西条よりも道後平野を拠点にして組織されたことを示しているようです。
③高縄半島に分布が少ないようです。これは、熊野行者の存在があって、彼らは石鎚には参拝しません。
④この先達所の分布は、後の安永九年の鎖奉納の先達や講中と一致する所が多いようです。これらの講から先達達が信者を連れて参拝にやって来るとともに、いろいろなものを寄進し、登山道なども整備されていったのでしょう。
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こうして石鎚山が世間に知られるようになると、延宝五年(1677)には、木喰が石鎚山に登って「夢想記」を書いて紹介したり、正徳三年(一七一三)に刊行された寺島良安の『和漢三才図会』にも石鎚山や里前神寺、横峯寺が紹介されるようになり、伊予以外からの参拝者達も増えてくるようになり、石鎚信仰はレベルアップしていきます。
石鎚修行の目玉でもある「大鎖」が講によって設置されるのも、この頃のようです。
安永八年(1779)弥山の大鎖が切れると翌年に、作りかえた時の記録が残っています。これによると、前神寺が勧進帳を出し、尾道で鎖を作り、4月に西条本陣にはこび、5月前神寺で銘をきざみ、5月5日に極楽寺、6月奥前神寺と運ばれ、開山にあわせて7月に山上にかけています。
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その銘文には、次のように刻まれています。
「奉再興石鉄山 大悲蔵王権現 御鎖大小二筋 
施主 予州松山城下弁道後七郡及諸国当山信心講中、
安永九年庚子二月吉日 石鉄山別当前神寺住持仁岳記」とあり、
奉納者の名前が続きます。
勧化頭取の予州松山三津浜俗先達の木地屋市左衛門・同和田屋信八郎、
御鎖用掛の予州松山城下大唐人町、河野平治右衛門、越智義篤、
世話人の唐人町講中、大先達の和気寺・得誉廓山居士の名前があげられ、
予州の松山城下・同三津浜、温泉・伊予・和気・久米・浮穴・風早・越智の各郡、予州久万山・芸州広島領、備後の尾道・福山・松永及び諸国の講中、
御鎖をあげる人夫の費用を寄付した予州新居郡O講中、
治工の尾道鍛冶町の佐渡屋七良兵衛の名が見えます。
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気になる事を挙げると
①山名は石鉄山で、祀られているのは大悲蔵王権現です。石鎚という文字はありません。「石鎚」が使われるのは神仏分離以後です。
②勧進頭取は地元の西条藩ではなく松山の三津浜の先達二人です。
③鎖を作った治工は尾道鍛冶町の職人です。それが舟で西条に運ばれています
④この時期になると伊予以外の芸州広島領、備後の尾道・福山・松永にからの講が拡大しています。
 ちなみに、鎖の掛かえに功労があった木地屋市左衛門は、その年に一番活躍した先達として「先達絵符」が与えられました。これが現在の先達絵符制度のはじまりと云われます。こうして、先達達の活動に報いると共に、先達のランキング制を調え競争心も刺激していくシステムに「改善」していきます。これは先達のやる気を育て、数を増やすことにもつながります。18世紀末には土佐、宇和、備前にも石鎚登拝の講が作られていきます。信者や講のエリアを広げているのは、その成果なのでしょう。
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   石鎚常夜灯について
讃岐の金毘羅大権現につながる旧金毘羅街道(伊予街道)を歩いていると「金・石」の文字が刻まれた常夜燈によく出会います。
「金」は金毘羅大権現、「石」は石鉄山の略記のようです。
石鎚講は、集めた資金で石鎚参拝だけでなく自分の住んでいる所に、石鎚山遥拝所や、常夜灯を建てるようになります。○石=「石鉄(鎚)山」と○金=金毘羅大権現を刻んだ常夜灯が金毘羅街道沿い増えていくのは18世紀末からです。今風に言うと石鎚参拝という「集団登山」の中で養われた信仰心や一体感、帰属意識を「地域貢献」のために活用していると言えるのかも知れません。石鎚講は、地域では積極的に社会ボランテイア活動も行っていたようです。
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 それでは石鎚講の地域での日常活動は?
毎月、集まり「月並祭」を行う講が多かったようです。その日は、宿元に集まり、オツトメ(勤行)して、会食します。
 松山市東野の石鎚講では、
昭和初年まで十戸位で講をつくり、正・五・九月に各自が米、野菜、食器を持ち寄って宿元で会食していたそうです。その日は必ず入浴して集まることが決まりだったといいます。宿元の床の間に、不動権現の軸物を掛け、供物を供え、大数珠繰りをします。先達が「六根清浄」と言えば、講員が「ナンマイダンボ」と唱和します。始めは左廻しに数珠を繰り(これは石鎚に登る意という)、終わると反対に右廻しに繰(下山の意)ります。数珠廻しが終わるとこの数珠で先達が加持祈祷します。次いで会食し、解散する。これが松山地方における石鎚講勤行の一般的パターンだったようです。
 温泉郡重信町では、講員が常夜燈の場所に集まり、
石鎚山を遙拝の後で、組中を巡回してから当元で勤行していたといいます。そして各戸から米を集めて廻り、それで会食します。この会食を常夜燈の所で行いオツヤをする所もあったようです。
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 伊予郡松前町中川原では12月に代参者と宿元を決めます。
宿元は神床に注連縄を張り、海藻をつけます。石鎚不動明王の軸物を掲げ、供物をします。その日講員は入浴し、潔斎してから宿元に集合します。宿元の家の入口では、口を漱いでから家に入ります。まず会食があって、終わってから再び外に出て口を漱ぎ、改めて次の勤行を先達に従って行います。①懺悔文 ②礼文 ③登り念仏 ④詠歌 ⑤不動寄せ ⑥般若心経 ⑦不動真言 を唱える。この間、法螺貝が吹き鳴らされたようです。
 広島県竹原市福本講中は石鎚講の古いスタイルを伝えるといいます。
 福本講中では、大祭中の石鎚登拝に先立ち、講員は講元宅に参集して「幟起し」の行事を行います。幟は一本で講元宅の庭に立てます。終わって直会があります。講中で石鎚登拝をするのを「マイリ講」といい、毎月の月並祭は「コウマワシ」と呼ぶようです。
 出発にあたっては精進料理で直会をします。この直会の席で、船のコースや潮流について講元・先達・元老格の三者で協議してコースの決定と舵取りを行う者を決めます。また出立に先立ち、講元宅で力餅をまきます。祭壇に蔵王権現、弘法大師、不動明王の三幅の掛軸をかけ、その前に供物や奉納品を供えます。この祭壇前で講員一同でハナガタメ(直会)をします。それは(石)印付きの箱膳にご馳走を並べた大盤振舞の直会だったようです。
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  このように石鎚講は「参拝登山」の一時的なものでなく、地元の講組織に属することで日常的な社会的・宗教活動も伴っていたことがわかります。
現在の四国霊場巡礼団のように知らない人たちが集まって一時的に形成されるものではなかったのです。また先達は「ツアーコンダクター」ではないということです。これは、中世の熊野詣の「檀那と先達」の関係に近い要素を残しています。「お客(参拝者)にサービスを提供する」というものではありません。どちらかというと「先達=導者」的で、師弟関係的な要素が多分にあったようです。
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 以上のように、前神寺は「先達所」を決定し、また村落の指導者層を俗先達に任命してそれに「講頭補任状」や「院号、袈裟補任状」を発行してきました。それは石鎚講の組織化を図るためでした。このソフトウエアがうまく機能したために、前神寺は石鎚講というソフトウエアを組織することによって他藩にまで布教拡大策が行えたようです。
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参考文献  森 正史 石鎚信仰と民俗 大山・石鎚と西国修験道
  

 

                                     

   
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 瓶が森は、今では全面舗装されUFOロードを走れば、お手軽に行ける山になりました。
かつて、重いキスリングザックを背負い面河から石鎚に登り、土小屋から山肌を切り崩した林道に毒づきながら、ここまでたどり着いた時の印象は忘れられません。山頂の西側に広がる氷見(ひみ)二千石原は、天上の楽園のように思えました。緩やかなササ原が広がり、アクセント付けるように、ウラジロモミの林、白骨樹が点在し、かなたには石鎚の姿がドーンと見えます。笹野原の中に幕営し、石鎚に落ちる夕日をながめた記憶は忘れがたいものでした。
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瓶が森からの石鎚

 この時に、子持ち権現の鎖場にも登ったのですが、その時には「石鎚の修験者の行場テリトリーの一部」としか考えていませんでした。しかし、その後に段々分かってきた事は、
石鎚山系には古くは、次の3つの霊場エリアが並立していたということです。
①石鎚山
②瓶が森 + 子持ち権現
③笹ヶ峰
 
今回は霊峰 瓶が森について見ていきたいと思います。
 瓶が森は石鎚山、二ノ森に次ぐ愛媛県内第3位の高峰です。この山は、山頂よりもその下の笹の海の方に目が奪われがちですが、よく見ると山頂は南北の双耳峰です。北側が三角点のある女山、南側が石土蔵王権現を祭る男山です。権現を祀るので霊峰であるが分かります。昭和初期頃までは「石土山」とも呼ばれていたようです。
石鎚山と石土山(瓶が森)

この山は、古くは石鎚山と互いに競いあっていたようです
 山麓の西の川の人々は石鎚山を権現さまとよび、瓶が森と子持権現の山を一緒にして子持ち権現さまとよんでいました。子持権現は瓶が森の西方に岩稜の峰で、切り立った岩壁で、鎖がなくては登れません。ここも大事な行場です。西の川の人の中には、瓶が森と子持権現を一つにして石土山とよんでいる人もいました。
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瓶が森から見た子持ち権現
 麓から見れば石鎚山と瓶・子持は、どちらも力高くて神秘にとざされた山で、両方ともに信仰していたようです。そういう山が並び立つ場合には、山争いの伝承が生まれてくるのが全国的な傾向のようです。ちなみに、早くから開けたのは地元に近い瓶が森のようです。地元では、その頂上には寺の趾があると言ったり、石鎚山は瓶が森が西へ飛んでいって今の山ができたなどという伝承があるようです。

1石鎚古道 瓶が森・子持ち権現
そしてこれには、次のような役行者の伝説がくっついています。
役行者は石鎚山を探しに行ったが、なかなか見つけることができない。途中に一人の老人がハツリをといでいるのに出会った。ハツリとは斧のことである。役行者が老人に一体何をしているのかと聞くと、老人はこのハツリをといで針にするのだという。ずいぶん気の長い話だと思ったが、やはり何事も辛抱が大事なのだと役行者は再び探しに出かけた。
 そこでオトウ(中腹の一地名)の奥の岩穴で修行をしていると、大きい石が割れた。それから二町ほど登ったら穴の薬師があって、その中で石鎚山は大蛇になってこもっていた。そこで、役行者がそこでは参詣者が行きにくいと言えば、石鎚山は飛んでいって今のところに納まったのだという。
 ここからは、
①瓶げが森が地元の人たちにとっては信仰の山であったこと
②しかし、結果として瓶が森が石鎚山に「吸収併合」されたこと
③「吸収併合」や移動させたのは外来の修験者(山伏達)だったこと
が分かります。
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 瓶が森から望む石鎚
別の伝説(西条誌)には、
石鎚権現はもと瓶ヶ森(笹ヶ峰ともいう)に祀られていた。それを西之川の庄屋高須賀氏の先祖が、今の石鎚山に背負って遷した。それで石鎚山祭礼のときは、庄屋は裃をつけ、帯刀して人の背に負われて上席に着く慣例になった。

というもので、これも「瓶が森 → 石鎚」移動説をとります。どちらにしても、今でも地元の西の川や東の川の人達は、両方とも信仰しているようです。
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瓶が森

 さて、中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということでした。その勧進の主役は修験者達でした。その結果、権現を管理することになるのは里の別当寺でした。

別当寺を設立の古い順に並べて見ると次のようになります
1 正法寺(新居浜市) 常仙(上仙)  笹ヶ峰
2 天海寺                              瓶が森(石土山) 
3  前神寺と横峯寺         石仙               石鎚 
 ちなみに、正法寺は古代の瓦が出土する古代寺院です。この寺は秦氏の氏寺で、その一族の上仙(常仙)によって開かれたとされます。また、上仙は、修験者で寂仙法師とも呼ばれ、石鎚、笹ヶ嶺、瓶ヶ森等の霊山を開山したとも伝えられています。しかし、歴史的にこのお寺が主張してきたのは、笹ヶ峯の「石鎚権現」の別当なのです。
2石鎚山と石土山(瓶が森)
   それでは瓶が森を行場とし、その権現を祀っていたお寺はどこなのでしょうか?
 瓶が森の「石土(蔵王)権現」の別当を主張したのは山麓にあった天海(河)寺でした。天海寺は瓶ヶ森中腹の「常住」には坂中寺があり、山頂のそばには弥山がもうけられていたといいます。
 今の石鎚は、神仏分離後はロープウエイ終点の「常住」は「成就」となりました。しかし、瓶が森では、神仏分離以後も「常住」と書かれていました。ここは瓶・子持権現を遥拝するにふさわしいロケーションです。石鎚山中腹の成就社と同じように、人がここまで参拝に来ると、神が下りてくる信仰があったのでしょう。かつては、ほんの小屋掛け程度のものがありましたが今は廃墟となっています。瓶が森・子持権現の信仰者が、神のまぼろしを見るのにふさわしい場所だったのでしょう。このように、天海寺は西の川から瓶が森・子持ち権現エリアを行場とする霊域をもっていたのです。
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瓶が森 
そこに中世になって新しい勢力が未開発地に入ってきます。それが前神寺です。
 その行場テリトリーは法安寺から横峯寺、常住の奥前神寺、山頂・天柱石(お塔岩)などを霊地を含みます。なお横峯寺は、かつては天海寺の末寺であったともいわれます。東西に向いあうように対をなしていたこの両寺には。いずれも杉の大木があったと伝わります。
前神寺には、永祚二年(990)の紀年銘のある阿弥陀仏、横峯寺には平安時代末といわれる大日如来や金剛蔵王権現がありますから、平安時代末には、2つのお寺は成立していた事が分かります。そして、このふたつを中心とする石鎚と、天海寺を別当とする瓶が森の東西の霊域が競合していく事になるのです。
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 それが「石鎚山は瓶ヶ森より、扇子の要だけ高い」とか、西条市の伊曽乃神社祭神との神婚説話の「石鎚神の投げ石」の伝説として残っているのでしょう。この話は、その後の石鎚山の信仰上の優位性を、しめす意図から作られた伝承といえます。言い換えれば、瓶が森から石鎚山に信仰が集約されて行く過程で作り出されたものなのでしょう。
  「笹ヶ峰・瓶が森・石鎚の三山は、鼎立して殆ど同時に開け、同様に信仰の標的となったものであるが、中世末期か江戸初期に笹ヶ峰が衰微し、次に瓶ヶ森が衰微したものと思われる。」
と研究者はいいます。
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  そして近世になると石鎚にひときわ強い光が当てられるようになり、四国の霊山としての輝きをますようになるのです。
絵図は「旅する石鎚信仰者https://ameblo.jp/akaikurepasu/entry-12225893233.htmlからお借りしたものを使わせていただいています。

 

    前神寺-もともと常住(成就)にあった寺で奥社は石鎚山

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 現在、六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として一派をなし、独立寺院になっています。しかし、明治以前の神仏分離前までは石鎚信仰の中核的なお寺でした。
 お寺も、現在のロープウエイを下りた成就に中社があり「常住」と呼ばれていました。そこに常住僧がいたのです。
 神仏分離で、石土という名前は仏教的な要素が入っていると言うことで石鎚神社と呼ばれるようになりました。仏教から分離しようとしたからです。
 その後に石鎚神社は、前神神社の中社の上に新たな神社を作りました。それが現在の成就社です。ちなみに、前神寺は西条の里に下りて、現在地に新たな境内を整備しました。

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御詠歌は
「前は神後ろはほとけ極楽の よろづのつみを砕くいしづち」です。
「いしづち」の「つ」は「の」、「も」は霊ですから、石の霊です。石鎚山はほとんど木の生えない岩峰です。 歴史をさかのぼって、もとは何であったかということを究めてから論じるとすれば、奈良時代の『日本霊異記』は「槌」という字を使って、「石槌神」がこの山にいると書いています。
 また『日本霊異記』では、寂仙菩薩が石鎚山を開いて修行したとされています。
 寂仙菩薩は聖武天皇のころの人だと書かれているので、弘法大師から見れば五十年ぐらい先輩に当たります。そういうものを追って、弘法大師は辺路の修行をしました。
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 石鎚山は西日本随一の名山ですから、特別の修験道が発達しました。
上社は弥山、つまり石鎚の頂上にあります。
現在は露坐の石上大神三体が立っています。
昔は銅の祠の中に三体の蔵王権現がまつられていたという記録があります。
それが石土大神の本地仏だったわけです。  

中社のある「常住」は、今は成就へ

 中社は、先ほど述べたようにロープウエイの成就駅の標高1450㍍のところにあります。石鎚頂上から約500㍍ほど下ると、あとはずっと平地が続いて、常住からまた急に下がりますから、いちばん北の端にあるのが常住です。
江戸時代から成就という字が書かれていますが、もともとは常住です。
 石鎚山の山頂は、冬は雪に閉じ込められて住めませんから、常住に留守居の坊さんがいて、お経を読んだり、花を上げたりして、山頂の神様をおまつりしていました。こういう坊さんを常住僧あるいは山龍僧と呼びまして、その場所がすなわち常住です。山岳寺院の成立の事例を見ると、中腹の中社がいちばん先にできています。

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 下社は現在の里前神寺の権現神殿といわれるものです。

神仏分離以後、成就の前神寺の境内にあった権現神殿が石鎚神社になって、戦後、その上のところを整地して現在の石鎚神社ができました。
那智神社と青岸渡寺が後ろ表になっているのと同じように、もとは神社と寺院は全く相接していたわけです。  
前神寺は石鎚権現社の別当職を勤めました。
明和六年(一七六九)の『石鎚山先達惣名帳』 に六十二の先達を支配した連名があるので、江戸時代の中ごろには前神寺が石鎚修験の先達を支配していたことがわかります。そのころは里前神寺が霊場になっていますが、本来、前神寺は石鎚修験の中心的な神社でした。
 同時に、里前神寺は納経所であって、前神寺に遍路の札を打つと、石鎚山に登ったことになります。『四国偏礼霊場記』も、ここにお参りした場合は上まで登らなげればいけないと書いています。

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お参りする場合は、大和の大峯山や伯者の大山と同じように、六月一日から三日までの間に登らなければなりません。その間が山開きです。その三日問を除いては、山を閉ざしたのでした。
 現在は七月一日から十日間のみ山開き、それ以外は山を閉ざしています。石鎚山に登るときぱ、夜中に松明をともして、峰の間を「ナムマイダソボ」という掛け声をかけて登りました。それより上は無言で登ります。

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 三十六の行場は、最近ではほとんどなくなってしまいました。
石鎚神社で調査したものが『石鎚山旧跡三十六王子社』に出ているので、かなり厳しい行をしながら登ったことがわかります。『四国偏礼霊場記』は、これをしないと本当は前神寺の札を打つたということにはならないと書いています。   

奥の院にこそ四国遍路の意味があります。

それを江戸の時代の中ごろから忘れてしまいました。
王子、王子でなんらかの修行をしながら、山頂から海を拝してくるのが本来の修行であり、遍路の原形でした。石鎚山の山麓には、石鎚信仰に関係のある寺がたくさんありました。ことに西条市北川(喜多川)の法安寺と大生院の正法寺は、灼然または上仙(常仙)を開基とする古代寺院です。そのほか、大保木の天河寺、樫原の極楽寺、古坊の横峰寺がありました。天河寺は現在はありません。極楽寺は石鎚山口にあります。

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 石鎚山別当職を確保したのは、常住にあった前神寺でした。

これは石鎚山山頂にいちばん近いところにあったので、前神と称したからです。したがって、奥前神寺が里に下って里前神寺になると、ほかの寺も別当を名のるようになりました。それで江戸時代には訴訟などもあったようです。
 
  『四国偏礼霊場記』を見ると、権現さんが前神寺の本尊です。
ここでいう寺は庫裡のことで、本堂ではありません。それが霊場の実際の姿だとおもいます。江戸時代に入ってから、それぞれ本堂を建てて寺の体裁を整えますが、もともとは権現が霊場です。そのほかのものは納経を受けたり、宿坊となって霊場が成り立っていました。したがって、奥の院に参らなければ意味がないわけです。

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   最後に三十六王子の話をいたします。

①福王子は、現在はわかりまぜん。
②檜王子は、現在でも檜という地名が残っているので、そこにあったことがわかります。
③大保木王子は、扇王子だったかもしれません。現在も地名が残っています。
川の上の断崖から下をのぞく「覗き」の行がありました。
魔除げとして扇を上げる行は、どこの山にもあります。
④綾掛王子。⑤細野王子は、逼割禅定かありました。
⑥子安場王子には、覗きの行と元結掛かありました。
大峯の石休場は、石の上に腰をおろして休むことができるところですから、小休場ではないかとおもいます。元結掛というのは、山に登るときに元結の注連を首にかけて参って、下りに木に掛けることです。

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⑦黒川王子⑧今宮王子。黒川という集落も今宮という集落も山先達の村で、黒川と今宮が主導権を争った時代があります。もとぱここに山案内人がいたわけです。
黒川王子も今宮王子も覗きの行と垢離行がありました。このように、王子ごとに行をします。 登山道にかかると、非常に急坂になります。
⑨四手坂王子は女人禁制の権現堂があります。
四千坂というので、幣を立てたのだとかもいます。少豆禅定王子には小豆の数取りによって念仏を唱える行があったのだろうとおもいます。禅定は苦行のことです。
⑩今王子はわかりません。
⑩雨乞王子。⑩花取王子は常磐木を取って神に捧げる行があったところです。花とは常磐木をいうのです。⑩矢倉王子の修行形態はわかりません。

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 成就に近いところに行くと、

⑩山伏王子と女人結界の⑥女人返王子があります。
⑩杖立王子は、もっていった金剛杖を立てて帰るところです。
成就には⑩鳥居坂王子と⑩稚子宮鈴之巫女王子があります。ここは巫女がいたのだとおもいます。西之川集落のもう一つの登り口には、⑥吉几王子、⑩恵比寿王子、⑩刀立王子、⑩御鍋の岩屋王子があります。これは脇道になります。

 登山道を登る途中で、夜明峠から左に折れると、天柱石の下に⑤お塔石王子があります。おそらく昔は、天柱石という高い柱のような石に抱きついてめぐる行道があったと考えられます。
天柱石には窟の中に⑩窟の薬師王子があるので、窟に龍る行もあったようです。
祈滝王子には滝行がありました。登山道に戻ると、八丁坂王子、前社ヶ森王子(現在は禅師ヶ森)、大剣王子、小剣王子、古森王子、早朧王子(天狗)をへて、夜明峠王子となります。
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ここで夜を明かしてご来光を仰いで登ったといわれています。
 ここから一の鎖、二の鎖、三の鎖を修行して、弥山頂上に登り、来迎谷の裏行場王子で「水の禅定」があるといいますが、その方法はわかりません。最後に、天狗岳王子で危険な行があったということが調査によってわかっています。

吉祥寺 石鎚信仰の担い手の一つだったお寺

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 六十三番の古祥寺も町の中にあるのであまり霊場らしくありません。
が、もとは本格的な霊場でした。このお寺には奥の院といわれるものが二つあります。その一つの柴井という泉あとのもので、古い奥の院は坂元山にあります。
国道から坂元に入って、三六ハメートルの山を越えたところが石鎚の登山道です。
現在は前神寺から、福王子、檜王子を通って石鎚山に登りますが坂元山から入ると海岸から一直線に南に登れます。そういう意味では、石鎚山信仰の山伏の本拠になったところが坂元山だとかもいます。

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   『四国偏礼霊場記』は縁起について次のように記しています。
当寺むかしは今の地より東南にあたり、十五町許をさりて山中にあり。
堂塔輪奥として梵風を究む。天正十三年毛利氏当所高尾城を攻るの時、
軍士此寺に濫入し火を放ち、此時本堂一宇相残り、仏具典籍一物を存せず哉撤す。
それより今の地に本尊を移し奉る。本尊毘沙門天坐像、大師の御作なり。
寺を去事一町許上に、柴井と号し名泉あり。大師加持し玉ひ清華沸溢る。
村民大に利とす。
 お寺の本堂の屋根や塔がそびえているのを「輪奥」といって、滅びたお寺を形容するのに使われる言葉です。
「梵風を究む」は、仏教的な風格があるということです。
 吉祥寺は小早川隆景が高尾城を攻めたときに、放火によって焼けました。
このとき移された場所は、大師堂のあった場所だとおもいます。
坂元山にあったときの本尊毘沙門天坐像がここに移されました。
「清華」は清らかな泉という意味です。柴井という名泉があったと書いていますが、現在でも柴井の信仰が残っています。
水がないときは柴の青葉を取って手をもむと清められるというので、柴手鉢といっていますが、槙尾山にも弘法大師の柴于鉢があります。

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山門の左に大師堂、天神、毘沙門堂、右に庫裡があります。

吉祥寺ですから、もとは毘沙門天ではなくて坂元山にあった山岳寺院の吉祥天を本尊としただろうとおもいます。しかし、現在は毘沙門天を本尊として、脇侍に吉祥天と善賦師童子を配しています。
 弘法清水の場所に建てられた大師堂と吉祥天・毘沙門天をまつった吉祥寺が合体して、現在地にお寺の伽藍を営んだものと考えられます。
 坂元山が奥の院ですから、現在は遺跡等は何もなくて、みかん山になっています。
このあたりは、瀬戸内海の島々が一望のもとに見えて、海を信仰の対象とする辺路信仰のお寺があったことを再認識できる場所です。
 ところで国道に洽って坂元という集落がありますが、そこではなくて、南にニキロほど山に登った長谷という集落のみかん山になっているところが坂元山です。海岸からほとんど一直線に登りまして、標高は三六ハメートルです。
 この山を越えると黒瀬峠に出て、前神寺・石鎚神社から石鎚山に登る登山道と交わります。ですから吉祥寺は、石鎚系の修験の寺であったといって差しつかえないとおもいます。
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 山内には二十一坊もあったようですが、現在の旧址はそれほど広くありません。
寺伝では小早川隆景に焼かれてのちの江戸時代の万治二年に、末寺檜本寺と合併したと伝えています。檜木寺は、石鎚山登山道の檜王子を管理する寺であったとおもわれます。
 
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ここには成就石があります。

成就石は高さ1メートルぐらい、真ん中に10センチほどの穴があいていまして、目をつぶって金剛杖を突いて歩いていって、うまく穴を通れば願いがかなうという庶民信仰です。
 目隠しをした人が歩いている絵が「一遍聖絵」に出てきますから、目をつぶって歩いて、石に抱きつくことができると願いがかなうという信仰があったようです。
 吉祥寺にも成就石があることから、このような信仰が遍路の寺にもあったことがわかります。

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吉祥寺の本尊が毘沙門天ですから、毘沙門さんのお話をいたします
室町時代になると、鞍馬寺の毘沙門天が福の神になり、その信仰を受けていたるところで毘沙門天が福の神になったようです。さらに、毘沙門天と吉祥天、あるいは毘沙門天と弁財天が夫婦だといわれるようになって、七福神の中に毘沙門天と弁財天が加わったという過程が考えられます。
 じつは七福神は日本の神様二体・インドの神様二体・中国の神様二体ですから、六福神です。日本は恵比寿と大黒天、インドは毘沙門天と弁財天、中国は布袋と福禄寿です。福禄寿は寿老人とも呼ばれたので、福禄寿と寿老人ぱ一体の神様です。
 平等に二体ずつ取ったのに、福禄寿と寿老人が別になって七福神になってしまいました。その中に毘沙門天と弁財天が入るのは、鞍馬寺の毘沙門天の福神信仰からきたものと考えられます。

香園寺の本堂は二階

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香園寺という寺名は、「栴檀は双葉より芳し」の栴檀山という山号からきたものと考えられます。香園寺となったのは、教王院の「きやうわう」が「けうわう」から「けんをん」となり、「香苑」と変おったわけです。教という宇は、かかしは「けう」と読みました。教王は大日如来です。大日如来を本尊としていることから、教王院という名前が出たのだとおもいます。

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「後の世をおもへば詣れ香園寺 とめて止まらぬ白滝の水」
という御詠歌の中に「後の世」とありますが、栴檀の林でお釈迦様を火葬にしたら煙が非常にいい香りがした、その栴檀が山号になったというのが「後の世」の意味でし太う。そのあたりを考えないと、四国霊場のお寺の名前の意味はわかりません。
 「とめて止まらぬ白滝の水」と詠んだのは、
  このお寺の奥の院が白滝不動というお不動さんのあったところだからです。
奥の院の白滝不動から登って、横峰寺に上がります。
途中まではハイキングできますが、先はちょっと道が細くなります。逆に横峰から下ってくると白滝不動に出ます。ここは、奥の院に行ってみないと霊場はわからない、ということが実感できる非常に幽逞なところです。
 
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香園寺はモダンな建物でして、三階建ての二階が本堂で、
二、三百の椅子席、三階が五百名収容可能な宿坊となっております。
しかし、奥の院はじつに幽遼な昔ながらの感じがします。
ここには滝の水の信仰があって、広島や岡山からも信者が来るので、昔の遍路さんは奥の院まで行ったのだとおもいます。滝の水で手を清めると、お参りした実感がしみじみと湧いてきます。

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 縁起では、弘法大師がここを通りかかったときに栴檀の香りがしたので、大日如来を安置して教王院と号しかとなっています。ただ、この寺がもとあった場所は奥の院ではなくて、奥の院の反対側の海岸です。いまも予讃線の線路を越した北側に大日という地名が残っていて、お寺はそこから移ったという記録があります。
 そこにあった大日堂が、白滝不動で修行する人たちの納経所になって、やがて大日如来を本尊とするお寺になり、大日如来だから教王院と称し、現在の香園寺になったわけです。

 『四国偏礼霊場記』は、その他の縁起はわからないと書いているので、書いた方はもとはどこに寺があったかということを調べなかったようです。大日という場所は中山川の下流のデルタにあるので、昔は大日あたりまで水が来ていたのかもしれません。
 
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  ところが、だんだん北に向かってデルタが延びたために、現在は大日と民家の間はIキロぐらい離れています。全部草原ですから、あとがら延びてきたデルタであることがわかります。したがって、海岸にまつられていた大日如来が辺路信仰者の信仰を得て、白滝不動に合わさっていったのだろうとかもいます。

 御詠歌にある「白滝の水」は奥の院の「白滝不動」ですが、ここを奥の院とするのは、石鎚山の別当だった横峰寺との関係を示しています。昔は六十一番香園寺で札を打つということは、白滝不動で滝垢離をとることだったようです。いまでは香園寺から約ニキロ山に入った白滝不動に車で入れるようになりました。

 六十四番の石鎚山前神寺の明和六年(一七六九)の『石鎚山先達惣名帳』に香園寺の名が見えます。それ以外にお寺の記録を残した文献はありません。古くは苑という字が使われますが、明和六年には園という字が使われています。
 中世の海岸の辺路修行は、のちに山岳宗教の修験道に吸収されたかたちとなりました。山岳修行が山の神様を拝かのに対して、辺路修行は海の神様を拝みます。海洋宗教である辺路修行と山岳宗教の修験道が結合したかたちを最もよく示しているのが香園寺だとかもいます。

 また香園寺には、弘法大師がこの地に巡錫されたときに、難産に苦しか女を見て加持したところ安産できた。それで「子安大師」と呼ばれて、安産祈願の寺になったという寺伝があります。そうして全国に子安講ができて、非常に賑わっていたことが今日のお寺のすがたに関連しているとみるべきでしょう。

四国霊場60番 横峰寺 奥の院は石鎚山 

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 六十番横峰寺の奥の院は西日本随一の高峰の石鎚山(1982㍍)ですから、奥の院に参拝しようとすれば石鎚山に登らなげればなりません。石鎚信仰がよく残っている霊場の一つが横峰です。
 横峰寺の縁起には、役行者が星ヶ森で練行中に石鎚山頂に蔵王権現を見た、
蔵王権現の尊像を、行基菩薩が大日如来の胸中に納めて寺を建てた、
と書かれています。本尊の大日如来の胸の中には役行者が刻んだ蔵王権現があるので、山頂本尊は吉野蔵王堂と同じ三体の蔵王権現です。修験道には、本尊を複数でまつる性格があって、いまでも過去・現在・未来の三体をまつっています。

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 神仏分離以後の前神寺の蔵王権現も三体蔵王権現です。

 もとは山開きのときは、常住まで三体蔵王権現が上がりました。
神仏分離以後は、神社のほうは別に石土大神をまつるようになりましたが、じつは石土大神のほうが古いわげです。石土といったのは、この山が木の生えない岩峰だったからです。「いしづち」の「つ」は「の」という助詞、「ち」は霊のことですから、石の霊が龍る山だという意味です。 
なぜ現在は石鎚神社と呼ばれているかといいますと、
石土という名前は仏教的なことが伝えられているというので、仏教から分離しようとしたからです。仏教的な石鎚信仰が奈良時代の説話を集めた『日本霊異記』の最後の説話と、「六国史」の中の『文徳天皇実録』に出ています。

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   まず『日本霊異記』のほうから見ていくことにいたします。
 伊予国神野郡部内に山あり。名づけて石鎚山と号す。
是れ即ち彼の山に石槌神あるの名也。
其の山高節にして、凡夫登り到ることを得ず。
但、浄行人のみ登り到りて居住す。
昔諾楽宮廿五年天下治しし、勝宝応真聖武太上天皇の御世、
又同宮九年天下治しし、帝姫阿倍天皇(孝謙女帝)の御世、
彼の山に浄行の禅師ありて修行す。其の名を寂仙菩薩となす。其の時世の人、
道俗、彼の浄行を尊む。故に菩薩と美称す。
 ここにみえる「登り到ることを得ず」とは、登れないという意味ではなくて、登らせないという意味です。ただ、浄行人として承認を得た人だけが登りました。この文章によると、すでに弘法大師より前に寂仙菩薩という方がこの山で修行していたことがわかります。 
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帝姫天皇の御世、九年宝字二年歳の戊戌に次れる乍、
寂仙禅師、命終の日に臨んで、録文を留めて弟子に授げて告げて言はく
「我命終より以後、廿八年の間を歴て、国王の子に生まる。名を神野となす。
是を以て当に知るべし。我寂仙なることを」云々といふ。
然るに廿八年を歴で、平安の宮に天下治しし山部天皇(桓武天皇)の御世、
延暦五年歳の丙寅に次れる年、則ち山部天皇皇子(嵯峨天皇)を生む。
其の名を神野親王と為す。
嵯峨天皇の親王時代の名前と石鎚山のある場所の郡名が偶然にも一致したので、生まれ変わりだということになりました。 
 
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次に『文徳天皇実録』を見ることにいたします。

  
故老相伝ふ。伊予国神野郡に、昔高僧、名は灼然なるものあり。
  称して聖人と為す。弟子、名は上仙なるものおり。
  山頂に住止して精進練行すること、灼然より過ぐ。諸鬼等皆順指に随ふ。
  上仙嘗て従容として、親しか所の檀越に語って云く、我もと人間に在り。
  天子と同じき尊にあつて、多く快楽を受く。その時是の一念を作す。
  我れ当来(将来)に生まれて天子と作ることを得んと。
  我れ今出家し、常に禅病を治するに、余習遺るといへども、気分猶残る。
  我れ如し天子とならば、必ず郡名を以て名字と為さんと。
  其の年上仙命終す。是より先、郡下の橘の里に孤独の姥あり。
  橘の躯と号す。家産を傾け尽して上仙に供養す。
  上仙化し去るの後、競に審に問ふを得れば、泣俤横流して云く。
  吾れ和尚と久しく檀越と為る。
  願くば来生にありて倶会一処にして相親近することを得んと。
  俄に躯亦命終せり。其の後幾ばくならずして天皇誕生す。
  乳母の姓神野と有り。
  先朝の制、皇子生まるるごとに、乳母の姓を以て名と為す。
  故に神野を以て天皇の譚と為す。後に郡名を以て天皇の譚と同じ。
  改めて新居(新居浜)と名づく。このとき夫人、橘夫人(檀林皇后)と号す。
  いはゆる天皇の前身は上仙是なり。橘の躯の後身は夫人是なり。
 この文章から、弘法大師より前にすでに石鎚山が霊場として知られていたことがわかります。弘法大師も『三教指帰』という自叙伝の中で、尼さんの話を出したりしていますから、石鎚山で修行した弘法大師はそのことを知っていたとおもいます。
こういう話が伝説になって伝えられていたわけです。

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横峰のいちばんの霊場は星ヶ森です。

 横峰寺は前神寺と別当を争っていました。
どちらかというと、横峰のほうが登りやすかったようです。役行者の話が出る星ヶ森という奥の院を信仰の対象にする場合は星ヶ森を通り、弘法大師を信仰の対象にする場合は石鎚山を通ることになります。
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『四国偏礼霊場記』は、上仙を石仙菩薩という名前にして、石仙菩薩の開基だと述べています。 
当山縁起弥山前神、三所同本を用ゆ。
 此縁起、石鉄権現の事、役の行者の事、井に石仙の
  事を書たり。其文神奇孟浪なり。
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「弥山」は石鎚山の頂上のことです。
御山と書いて「ミセソ」と読んでいたのを、須弥山に合わせて「弥」という字を使うようになったわけです。「孟浪」は、でたらめという意味です。
『四国偏礼霊場記』では、弥山(石鎚山)の縁起も前神寺の縁起も横峰寺の縁起も同じ本を用いている、いろいろでからめなことを書いたのは縁起の筆者の累(嘘を言った罪)であると書いています。
 『四国偏礼霊場記』の筆者は、『日本霊異記』や『文徳天皇実録』にも上仙のことが書いてあるのを知らなかったようです。縁起のほうが、むしろ正しいといわざるをえないようです。

参考文献 五来重:四国遍路の寺
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延命寺-宝冠の不動明王

 
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五十四番の延命寺は、五十三番の円明寺と同じ名前だったといわれています。
明治以後に同じ名前では困るというので、延命寺と直したとことがはっきりしています。
 今治から北のほうに半島が延びており、その半島と大三島の間が難所の来島海峡です。延命寺の奥の院は、眼下に来島海峡を望む山の上にあります。現在は山全体が公園になっており、車で楽にあがれますが、頂上の旧跡のあるあたりへは入れません。一歩一歩ふみしめて登ると、辺路の代表的な所だと思われてくる場所です。

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  延命寺の山号を近見山といっているのは、奥の院のある山が近見山だからです。
「くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうっすものかな」
という御詠歌の「鏡の縁」は、弧になってずっと見えている海岸線をさしているのかもしれません。ここからすべての景色が見えるということを、詠んだものかとおもいます。
 薬師如来を拝むお寺であれば、鏡に罪・機れ、病気を移して薬師様に受け取ってもらって治してもらうということで、病気平癒のために鏡を納めることがしばしば行われています。鏡と薬師如来が結びついていることはわかりますが、延命寺の本尊は不動明王です。ただ、もう一つ薬師さんがあるので、あるいはそれかもしれません。
 本堂の左手に薬師如来をまつる含霊堂(位牌堂)があるので、ぞれが御詠歌の鏡だとすれば、非常に古い御詠歌になります。
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 薬師如来を考えるならば、山の上から見ると、海岸が鏡の縁のように見える、海も山も海岸も全部、影が映って見えるという意味かとおもいます。難所を通る場合、月明りのない夜は航海が非常に困難ですから、おそらくこのお寺の常夜灯は、来島海峡を通る船の目印になった重要な灯台ではなかったかとおもねれます。

 そのために、このお寺はもとは円明寺と呼ばれました。

 薬師如来の円と燈火の明を結んで円明寺だったとおもいますが、五十三番の円明寺と混同するので、延命寺と改めたのです。本堂の左手にある含霊堂がまつっている薬師如来示おそらく奥の院の本尊です。これが辺路の寺と薬師の関係です。
 そうすると、含霊堂も山上から下ったわけです。
  
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 このお寺の本尊は宝冠の不動明王です。

 大日如来と合体した宝冠の阿弥陀如来はたまにありますが、宝冠の不動はめったにありません。それが延命寺の本尊になっています。山伏などが「大日大聖不動明王」と称えて行をするのは、大日如来と不動明半が一つになっているわけです。
 したがって、大日如来の宝冠を不動さんがかぶっているというかたちをとっているのだとかもいます。
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ここの伝承を総合すると、近見山の周りに非常にたくさんの堂があったようです。
 周りの堂舎は、もっぱら学僧だもの勉強の場でありました。その証拠の一つは、鎌倉時代に東大寺の高僧凝然が留錫して『八宗綱要』を書いたといわれていることです。「八宗綱姿」は、比常山でも高町山でも、昔の坊さんが勉強するときは、かならず素読をさせられた名著です。仏教の知識を得るのはこれを読むことから始めるのがいちばんいいのですが、漢文ですから、仮名で書いてあるものなら『沙石集』のような簡単なものを読むのがいいとかもいます。
 凝然は、たくさんの著書を残しています。
ここで『八宗綱要』を書いたということは、凝然が勉強をしている坊さんたちに講義した講義録とも考えることができるのです。そういう場所の中に、不動さんを本尊とする不動院がありました。阿弥陀様を本尊にする支院とか弥勒さんを本尊にする支院など、支院がたくさんあって、その一つの不動院の建物が比較的しっかりしていたために、長宗我部氏支配のころ焼かれたときに本尊をここに収容することになったのだとおもいます。
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南光坊ー大山祗神社の別宮

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南光坊は大通智勝如来という非常に珍しい仏様を本尊にしています。
法華経にはある上子様が非常に仏教に帰依していて、難行苦行の末に過去七仏というお釈迦様の前の仏様のひとつである大通智勝仏になったと書かれています。これが大三島の大山祗神社の本地仏であったために、大山祗神社の別宮の南光坊にまつられたのだとおもいます。
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明治に神仏分離以前は、納経受付は神社がしていました。
別宮そのものがやっていたので境内に神社と坊が共存していたことになります。
しかし、神仏分離以降、大山祗神社の別別宮と南光院の間には道路が通されて分けられてしまいました。かつて光明寺と太子堂は、それぞれ独立の建物だったようです。大山祗神社にお参りすることが札を打つことだったので、光明寺は札所として関与しなかったのが最初の姿です。今は光明寺と太子堂がいっしょになって南光坊を称しています。
大山祗神社は武蔵坊弁慶の頚鎧や義経の鎧があったりして、武具の美術品の所蔵で有名です。ここも遍上人にとっては先祖の地ですから、晩年になって、ここを訪ねて大念仏をしています。  

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大山祗神について『四国偏礼霊場記』は次のように書いています。 

聖武天皇の御平天平五年に顕はれ玉ふ。
伊豆の国賀茂郡摂津国嶋下郡及び当郡、おのおの社あり。
三所は共に一神なり。当社より愕豆のくにへ移り給はらん。
神道史の研究者は、大山祗神は本花開耶姫のお父さんで、山の神様だ、その親子関係で最初は九州にあったのだろうと説明しておりました。が、最近の民俗学の立場では、山の神はすべて大山祗神だと考えています。どこの山にも山の神がいるので、特定の神様ではなくて、山の神の総称が大山祗神です。「やまつみ」の「つ」は「の」、「み」は神様です。それに美称として大を付けているのです。 

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大山祗神は山の神であるけれども、同時に海洋安全の神様でもあるのです。
島にある山の神は海を守ります。山の神も海洋神です。
したがって、別宮の札所であるということは、もとは大三島まで渡って札を打っていたと考えられます。『四国偏礼霊場記』は別宮は非常に古いように書いていますが、おそらく河野氏が非常に盛んになる鎌倉時代だとかもいます。
 それ以前は辺路修行ですから、島に渡る一つの辺路修行を示していると考えられます。大三島にあった二十四坊のうち八坊だけが別宮に移ります。そのころは宮司も別宮に近いところに屋敷をもっていて、大三島で行事があるときに渡っていったといわれています。
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  三角寺-三角の護摩壇と龍
 
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 呪誼で、悪いものを鎮めてしまう壇が三角の護摩壇です。これが三角であることをご記憶いただきたいとかもいます。三角寺の発祥については、『四国偏礼霊場記』の挿絵を見ないと、その理由がわかりません。 

なぜ三角かなのか?

龍王山の反対側に奥の院があって、龍がいるということから、現在は仙龍寺という名前になっています。ところが、仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、奥の院と里寺との関係を断ち切ってしまいました。
 さて、その龍のことですが、三角寺の縁起には悪い龍を弘法大師が追い詰めたら降参して、農民のために水を出しましょうと約束したということが脱落しています。

 御詠歌は、「おそろしや三つの角にも入るならば 心をまろく慈悲を念ぜよ」です。「三つの角」は三角寺という意味です。三角の中に入ったら恐ろしいから、角が立たないように心をまろくして、人に慈悲を施すように念じなさいということです。ただ、古い時代は「慈悲を念ぜよ」が「弥陀をたのめよ」となっていたようです。
 縁起は、聖武天皇の勅願で行基菩薩の開基、弘仁六年(八一五)だと書いています。高野山を開いたのが弘仁七年ですから、それより古いということでしょうか。
 弘法大師がここにやってきて、十一面観音と不動明王を作ったと書いていますが、不動さんは奥の院でまつっていました。ここに出てくる十一面観音が、三角寺の現在の本尊の十一面観音です。
 
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『四国偏礼霊場記』は三角寺の歴史について、次のように書いています。
此寺本尊十一面観音、長六尺二寸、`大師の御作、甲子の年に当て開帳す。今弥勒堂を存ず。慈尊院の名思ひあはす。もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂相並ぶときこえたり。社の前、池あり。嶋に数囲の老杉あり。大師の時、此池より龍王出て、大師御覧ぜしとなん。庚嶺はもろこしの梅の名所也。此所も本、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

「甲子の年に当て開帳す」とあるので、六十年に一度、開帳したようです。
 弥勒堂があるということについて、三角寺には弥勒堂と弥勒仏があって、分離するときにすでにあった弥勒を本尊とするお寺に十一面観音を移して本尊にし、三角の修法壇があったので三角寺と称したのだと解釈しています。もとあったのは弥勒を本尊とするお寺だと考えないといけません。そこに下りてきて、三角寺ができました。
 弥勒という仏様は慈悲の仏だといわれているので「慈尊」は弥勒のことです。それで慈尊院という名前がおもい合わされると、『四国偏礼霊場記』は書いているわけです。 
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 雨沢龍王は龍王山の龍王です。

これを調伏するための三角の護摩壇がありました。いろいろなお宮やお堂が並んでいるという評判であると書いています。雨沢龍王の神の前に池がありました。いまは龍王ではなくて、島の中に弁天さんをまつっています。龍王は奥の院の仙龍寺でまつっています。
 「大師御覧ぜしとなん」と書いていますが、見ただけではない、龍を追い出した、あるいは調伏して水を出すことを誓わせた、ということを補って考えてください。
 いまは山号の庚嶺山の「庚」という字を「由」と変えています。しかし、『四国偏礼霊場記』は痩せた嶺の山だと解釈して、「庚嶺はもろこしの梅の名所也」といっています。幽霊山と書いたものがあるのは、庚嶺山をなまって「ユウレイ」といっていたのを幽霊と書いてしまったのだとおもいます。
 つまり、ここに出現した龍王を調伏したという話から、本寺はもとの奥の院にあって、水源信仰があったことが推定されます。龍はすなわち水神です。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地を十一面観音としたけれども、龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための護摩作焚かれて、その結果、水を与え、農耕を護る水神となったという信仰がもとになって、縁起ができたわけです。
  
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ところが、弘法大師信仰に転換してから、このお寺の奥の院は二分されました。

  現在の三角寺の奥の院は、龍王山の反対側にあって龍がいるということから仙龍寺という名前になっています。仙龍寺は、四国霊場全体の総奥の院とも称しています。しかし、現在の仙龍寺のもっと上には奥の院址があります。ここがもともとは仙龍寺と三角寺の共通の奥の院でした。共通の奥の院には、水源信仰があったことが推定されます。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地は十一面観音でした。雨沢龍王は龍王山の龍王です。けれども龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための護摩が焚かれて、いつしかそれが水を与え、農耕を護る水神へと姿を変え今に伝わる縁起ができたと考えられます。


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旧奥の院がもとの辺路修行の霊場で、行場はもっと下の現在の仙龍寺辺りにあり、そこまで行者は滝行や窟寵りをしていました。
  そして次第に、行場も仙人堂を建て仙龍寺として独立して、さらに谷川の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化していきます。いま仙龍寺の大師は作大師として米作の神となっているのは、旧奥社以来の水源信仰があったからです。
時代が下ると、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、北側山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本地仏十一面観音を下ろします。そして、龍王を調伏するための三角の護摩壇が作られいろいろなお宮やお堂が並ぶようになります。こうして、今までの慈尊院が三角寺と呼ばれるようになります。
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つまり、仙龍寺も三角寺も旧奥の院から独立し、里下りしたお寺さんなのです。
ところが、仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、奥の院と里寺との関係を断ち切ってしまいました。


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