瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:霊山・修験道・廻国行者・高野聖 > 讃岐の修験者たち

聖心女子大学の図書館のデシタルライブラリー「讃岐国地図」で、長尾氏の西長尾城周辺を見ていました。https://livedoor.blogcms.jp/blog/tono202/article/edit?id=33654434

長尾・城山 綾歌三山
讃岐国地図 西長尾城(まんのう町)周辺
右(西側)を流れているのが土器川です。土器川の東側の打越池から綾歌(青山)三山と呼ばれる城山・猫山・大高見峰が東に伸びていきます。城山は、長尾氏が山城を築き、その後に長宗我部元親によって大規模改築された山城遺構が残っています。ところが、この絵地図で城山を探しても見つからないのです。もう少し、拡大して見ます。デジタルアーカイブは、自由自在に拡大ができて便利で重宝しています。
城山は権現山
             讃岐国地図 城山はなく、あるのはオカダ 大権現」
①城山があるべき所には、「オカタ(岡田)大権現」とあります。大権現とは、修験者(山伏)たちが開山した霊山で、周辺には行場が拓かれることが多いことは以前にお話ししました。②は、今も猫山です。③は今は大高見峰ですが、この時の表記は「大高山(おおたかぼうさん)」です。地元では、この山のことを今でも「たかんぼさん」と親しみを込めて呼んでいます。もともとは「大高坊山」だったことがうかがえます。そうすると、この山も「大高坊」という修験者(山伏)と祀る権現山だった可能性があります。この地図でもうひとつ押さえておきたいのは、②の猫山と③の大高坊山の間に黒い実線が通っています。これが鵜足郡と阿野郡の郡境線になります。現在も、丸亀市と綾川町の境界となっています。

綾歌三山 猫山 高見峰2 
              綾歌三山(城山 猫山 大高見峰)
 大高見峰の頂上直下には、今も高見坊神社(権現)が鎮座しています。

高見峰神社6
             大高見(坊)神社(権現)
その拝殿にお祀りされているのは・・

高見峰神社8
               天狗信仰の大高見(坊)神社 
ここには天狗の面や絵馬・額など天狗に関するものが数多く奉納されています。天狗信仰のメッカであることが分かります。途中の登山道には天狗岩もあります。

大高見山前の天狗岩
大高見(坊)神社の登山道にある天狗岩
ここも天狗になろうとして修行を重ねた修験者たちの行場のひとつでしょう。城山から大高見峰は、修験者たちの行場エリアであったと私は考えています。それは、郡境の山脈によって阿讃山脈の龍王山や大滝山、そして大川山などの霊山に続いていたのでしょう。

高見峰神社5
            坂出・綾歌方面に展望が開ける大高見(坊)神社
高見峰の綾歌側からの登山口が勝福寺になります。

勝福寺からの大高見峰
               勝福寺から見える大高見峰

しょう高見峰登山口 

この登山口の入口には、次のような説明版が立てられています。
高見峰と天狗伝説

ここには次のように記されています。
①山岳修験者の霊場となり、その統率者の大高見坊の名前が山の名前になった
②ここは讃岐四大天狗伝説の聖地(白峯相模坊・象頭山金毘羅の金剛坊・五剣山中将坊)
③修験行者ルートが、大鉢山や竜王・大滝山へ伸びていた。
また福成寺(まんのう町)に残る天狗に関する古文書には、次のように記されているようです。
天文十三年(1544)年3月18日の六代住職が勤行の妨害をしたとして、天狗の腕を切り落とした
この背景には、16世紀初頭の永世の錯乱以後、阿波三好氏が土器川沿い讃岐に進出し、長尾氏など讃岐の国衆を配下に置くようになります。その後を、三好氏の保護を受けた美馬の安楽寺も、阿讃山脈を越えて浄土真宗興正寺派の教線ラインを土器川沿いに北上させることは以前にお話ししました。その結果、まんのう町の各地に真宗の道場が開かれます。その流れの中で、真言系修験者の中にも浄土真宗に改宗する者が現れます。浄土真宗に改宗した僧侶に対して、妨害活動を行った修験者に対して「天狗の腕を切った」として記録に残ったことが考えられます。
 大高見峰に天狗信仰の権現さんが、どのようにして現れたのかを簡単に推察しておきたいと思います。
① 古代 霊山大川山信仰と、遙拝所としての山林寺院中寺廃寺の登場  
② 中世 中寺廃寺の退転と、それに代わる金剛寺の登場 → 霊山大川山の遙拝所
③ 鎌倉 末法思想の聖地として経塚群と、坊集落「金剛院」の形成
綾歌三山の修験者の活動を考える時に、大きな意味を持つのが金剛寺(まんのう町長炭)です。
この説明板には次のように記されています。


金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。 

金剛院集落 坊集落
         金剛院集落に残る宗教的用語(四国の道説明版)
坊集落金光院の仏縁地名 満濃町史1205P
金剛院周辺の仏縁地名(満濃町史1205p)
これを見ると丸亀平野からの峠には、「法師越」「阿弥陀越」があります。また、仏教的用語が地名に残っていることが分かります。そして各戸がそれぞれ①から⑧まで「坊名」を持っています。ここからはこの地が修験者たちによって拓かれた坊集落であることがうかがえます。

坊集落金光院の性格

金剛院では鎌倉時代中期頃には、写経し経典を奉納する経塚が作られ続けています。彼らは、写経するだけでなく行場でも修行も行いました。その行場が綾歌三山であったと私は考えています。

④ 綾歌三山の行場化と聖地化 多くの修験者の活動 
⑤ 室町 天狗信仰の拠点地化と、長尾氏の保護 → 金剛院と長尾氏の結びつき
⑥ 近世初期 天狗信仰による金毘羅信仰の隆盛 → 周辺の修験者の天狗行者化

大川山 金剛院
金剛院集落 後ろの山が経塚
金剛院を拠点に活動する修験者たちを保護していたのが長尾氏と私は考えています。
長尾氏の山城である長尾城は、背後の猫山や大高見峰が修験者たちの行場であり、霊場であったことになります。
西長尾城概念図3
長尾氏の西長尾城の背後の峰が修験者の行場となっている。

長宗我部元親は修験者たちを、メッセンジャーとしても情報収集者としても活用しています。天霧城を拠点とする香川氏は、弥谷寺を菩提寺として、修験者たちを取り込んでいました。長尾氏も金光院の修験者たちを配下において、三好氏との情報のやりとりおこなった可能性があります。彼らの活動ルートは、大滝山や龍王山へと伸びていたのは先ほど見たとおりです。その向こうは阿波です。

鷹丸山(たかまるやま)387.2mからの城山
長尾の鷹丸山から望む城山 左手は象頭山、その奥が善通寺五岳
 長宗我部元親の侵入から生駒氏の来讃までに、長尾氏は没落していきます。長尾氏の生き残り戦略として、浄土真宗の道場の主人となり、寺院の住職として勢力を温存するという方法が取られたことは以前にお話ししました。
 それでは天狗信仰を持つ真言系修験者たちは、どのようにして生き残ったのでしょうか。ひとつは金比羅行者となって、全国に金比羅信仰を拡げるために散っていったことが考えられます。もうひとつの道として、滝宮牛頭天王社(別当・龍燈寺)の社僧として、牛頭天王のお札を配ったのではないかと私は考えています。滝宮牛頭天王社は、周辺の村々からいくつもの念仏踊りが奉納されていました。それは坂出の阿野北平野や、飯山の坂本念仏踊り、多度津の賀茂念仏踊り、那珂郡南部一帯の七箇村念仏踊りなです。滝宮に来れた野踊りが奉納されるということは、これらの地域を信仰圏に置いていたことになります。それは午頭天皇のお札を配る、そしてその奉納金を集めるという形で行われていました。つまり、ミニ伊勢御師のような存在が必要でした。それをつとめていたのが社僧(修験者)でした。そのため滝宮周辺のお堂や神社には、多くの修験者たちがいたことが推測できます。そして、修験者には、行場が必ず必要です。行を行わないと高い験は得られないのです。滝宮牛頭天王社などの修験者たちが行場としていたのが綾歌三山の霊山ではないかと私は考えています。

綾歌三山の権現開山と行場化(仮説)

 想像がふくらみすぎたようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
聖心女子大学の図書館のデシタルライブラリー「讃岐国地図」https://livedoor.blogcms.jp/blog/tono202/article/edit?id=33654434
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本日の授業

中寺と大川山に登って、上のような「授業」を行いました。その5時間目を報告します。
中寺展望台で昼食後に、大川山へ向かいます。

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大川神社前の紅葉(11月16日)
モミジとイチョウが紅葉で迎えてくれました。真っ青な秋のソラが赤や黄色を際立たせます。参加者からの歓声の声が上がります。まさに天からのプレゼントです。

大山神社1
大川山頂上の大川神社
大川神社の鳥居の前で、大川神社のお話しをします。まず、現在の大川神社が、どのように語られているのかを説明版で確認します。

大山神社2 2025 11月11日
大川神社の由来
 この説明版には大川神社の由来を次のように記します。
大川神社には木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)と大山津見命(おおやまみのみこと)が祀られています。『古事記』や『日本書記』によると、木花之佐久夜毘売命は、花が咲いたに美しい神とあり、邇邇芸命(にぎのみこと)に嫁ぎました。説話では、火が燃えさかる産屋の中で火照命(海彦)、火須勢理命、火遠理命(山彦)の三人の男の子をつぎつぎに生んだそうです。
 このことから、後世、安産の神様として信仰されてきました。また、火を噴く山の神霊を鎮めるため、かつて活火山であった富士山や、浅間山にも祀られ信仰されています。
 大山津見命は木花之佐久夜毘売命の父君といわれ、山の神様として、また農耕の神様として信仰されてきました。社伝によると聖武天皇の頃、天平四だいかんばつ年(七三二)に大旱魃があり、時の国司が大川神社に恵みの雨を祈ると、一天にわかにかき曇り大雨が降ったそうです。それ以来、祈雨の神様として歴代国主の信仰厚く、讃岐、阿波はもとより四国中からも尊崇されてきたということです。
 そして、大川神社では旧暦六月十四日、大川念仏踊りが行われています。
ここには古事記や日本書紀で出てくる神々と、その神話だけが書かれています。これでは、中世や近世の大川山については何も知ることが出来ません。古代の大川山は、霊山として人々の信仰を集めていたことは、1時間目にお話ししました。その信仰を担ったのは密教系の修験者で、霊山大川山の遙拝所として登場したのが中寺でした。つまり、明治以前には大川山は修験者(山伏)たちの管理下に置かれていたのです。それでは、江戸時代には大川山は、どのように紹介されていたのでしょうか。

讃岐国地図 大川山権現
大川山権現 讃岐国図(髙松藩が幕府に提出した絵図)
讃岐国図には、独立峰であることを強調する姿で「大川山権現」と表記されています。「権現」は、修験者たちによって開山され、そこに彼らの信仰する神や仏が祀られた霊山であったことを表します。ここからは、大川山が修験者の山として認識されていたことが分かります。ちなみに、西側の「篠田尾」は1時間目にお話しした「笹ケ田尾(タオ=鞍部)」のことです。

江戸時代後半に書かれた増補三代物語には次のように記されています。

①大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、②大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 ③祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。
④かつては
天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。⑤大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。

大川神社に奉納された雨乞い用の鉦
尾池玄蕃が寄進した鉦鼓

 寛永年間に、⑥生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで⑦承応二年に(高松藩主)先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。⑧元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。
⑨宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、⑩雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。

ここからは次のような情報が読み取れます
①社名は「大山大権現社」で、修験者の霊山である大権現を名のっていたこと
②山神や竜神を祀る神社で、雨乞いの霊山として信仰されていたこと
③社の前に小池があり、子蛇が現れると雨が降ると「善女龍王」伝説を伝えること
④かつては天台宗の別当寺が神社を管理していたこと(中寺廃寺の伝承)
⑤大川は、もともとは大山で、伊予の大山祇神の山であること
⑥生駒時代に尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したこと
⑦髙松藩の歴代藩主によって修理・再建が行われてきたこと

これくらいの予備知識をもって、山伏たちの痕跡を探しにいくことにします。
大山神社神域
大川神社の宗教施設
まずは、拝殿の裏側の①本殿を直接に参拝させていただきます。

大山神社 本殿 2025年
大川神社の本殿
本殿は近年に改修され、覆屋ができて直接に見ることは出来なくなりました。以前の写真がこれです。

大川神社 本殿東側面

この本殿が先ほど見たように髙松藩の歴代藩主によって改修が行われたものになるようです。それでは、この本殿は、いつころ建てられたものなのでしょうか?。本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立と、同時期に建立されたものと研究者は考えています。

それでは、この本殿にはどんな神様が祀られているのでしょうか。

大川神社の神々

先ほど説明版で見たように、現在祀られているのは上表下側の神々です。しかし、明治以前には大川山権現とされていました。権現と名が付く山々では、石鎚山などのように蔵王権現と役行者が祀られていました。
権現とある山は、修験者によって開かれ霊山で修験者の修行の山です。大山大権現の別当寺・新宮寺の役割を果たしたのが中寺廃寺でした。中世になって中寺廃寺が退転した後は、修験者たちは炭所の金剛院などに坊集落をひらき定住します。そして、行場としての大川山(権現)を守っていきます。そうだとすれば石鎚山と同じように、もともとここに祀られていたのは、修験者が教祖としていた役業者や蔵王権現がもっとも相応しいことになります。 

石鎚 蔵王権現
石鎚山山頂に運び上げられる蔵王権現

高越山 役行者
阿波 高越山の役行者

修験道の成立と蔵王権現の登場

 明治維新の神仏分離で金毘羅大権現のように大川山からも権現たちは追放されました。これに換わって迎え入れられたのが紀記に登場する神々です。大川神社では、修験者が信仰した権現たちが追放された後には、上記の2つの神々が迎え入れられ現在に至っていることを押さえておきます。
 次に見ておきたいのが本殿の後側の石垣と玉垣で高く築かれた神域です。

大川神社3
            緑の屋根が本殿の覆屋 その手前のふたつの燈籠が並ぶ所
高い石垣を組んだ方形の区画があります。正面に立ってみます。
大川神社 松平家御廟
髙松松平藩の霊廟
階段がないので上れません。登れない聖域なのです。先ほど見たように本殿は高松藩の支援で改修が行われます。髙松藩との結びつきを目に見える形で示すために社殿横に霊廟が作られたことが考えられます。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、大川山権現のランクを高める物になったでしょう。
 次に見ておきたいのは、神域の西北隅にある小さな神社です。

大川神社 秋葉神社2
           大山神社の神域の玉垣(明治28年 日清戦争の戦勝記念?)
玉垣の北西隅に鳥居があります。

大山神社 秋葉神社3
鳥居には秋葉神社とあります。
秋葉大権現は、火防(ひよけ)・火伏せ(火伏せ)の神様として信仰される神仏習合の神です。もともと秋葉山にいた修験者「三尺坊」に由来します。神通力を得た三尺坊が天狗となり、火生三昧(かしようざんまい)を修して火災を鎮めたという伝説から、火の神として広まりました。特に静岡県浜松市の秋葉神社が総本宮として有名です。火災消除の御利益があるとされ、江戸時代には「秋葉講」が全国的に組織されました。
 秋葉大権現の三代誓願は次の通りでした。
第一我を信ずれば、失火と延焼と一切の火難を逃す。
第二我を信ずれば、病苦と災難と一切の苦患を救う。
第三我を信ずれば、生業と心願と一切の満足を与う。
真言オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワカ
アンティーク 秋葉山 秋葉寺 秋葉三尺坊大権現 秋葉権現 天狗 白狐 紙
秋葉大権現
 その姿は飯縄権現や愛宕権現と同じように白狐に乗り、剣と羂索を持った烏天狗姿で描かれました。飛行自在の神通力を持ち、観音菩薩の化身(本地仏)ともされます。ここからは天狗信仰の修験者に担われて秋葉大権現が大川山に勧進されたことがうかがえます。これは金毘羅大権現と金光院の天狗信仰と同じです。 しかし、この秋葉神社が鎮座する位置は微妙です。

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大川神社神域の外に鎮座する秋葉神社
横から見ると、鳥居は神域の玉垣の内側ですが、社殿は石垣の外側に鎮座しています。これをどう考えればいいのでしょうか? 大山大権現の火伏せ・火除けの守護神として招来したのなら内側にあるのが当然です。しかし、どうみても玉垣の外にあります。

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              大川神社の玉垣の外に鎮座する秋葉神社
 もともとは神域の中にあったのが明治維新に「秋葉大権現」なので「秋葉神社」と改名し、その後に神域の外に追いやられたことが考えられます。その時期は、玉垣が整備された日清戦争後のことでしょう。しかし、もともとの信者たちの抵抗で、鳥居と入口は神域内に残されたのではないかと私は推察しています。そうだとすれば大川山周辺には、秋葉大権現を信仰する人達が数多くいて、講組織を作っていたことがうかがえます。その背景として考えられるのが、ソラ(山間部)の焼畑です。焼畑では、火を使います。火をコントロールし、最後にはきちんと鎮火させることが大切です。その火伏せのために秋葉信仰が修験者たちによってもたらされたことが考えられます。ここでは火を扱う焼畑の神様として、ソラの集落の人々の信仰を集めていたとしておきます。これも山伏たちの残した痕跡です。

神輿蔵の裏側に、ふたつの石造物が残されています。

 大川神社 魔除寺蔵と不動明王
            大山神社神域の石造物 魔除地蔵と不動明王(?)
 左が魔除け寺蔵です。地蔵信仰は、足利尊氏が帰依したために室町期に盛んになったとされます。これを広めたのも廻国の修験者や高野の聖であったとされます。右は不動明王のようです。

P1290012
                大山神社の不動明王
不動明王は修験者が守護神として大切にした明王です。小さな不動明王像を持ち歩き、行場に入るときには安置して外敵や己の弱い心を打ち砕いたとされます。大山神社に残る秋葉神社や魔除地蔵・不動明王などは、ここで活動していた修験者の痕跡と私は考えています。
 
大川神社 龍王社
大川神社の龍王堂
本殿の東側に、東面して建っているのが龍王堂です。
どうしてここに龍王堂があるのでしょうか。それは龍王が雨を降らせる神様とされたからです。空海祈雨伝承では京都の神仙苑の池で、空海が小さな蛇(善女龍王)を呼び出し、雨を降らせるとされてきました。これが近世になって讃岐にも拡がるようになります。そうすると、雨乞いが行われる山には、修験者たちによって龍王神が祀られるようになります。こうして大川山も雨乞いの霊山として信仰を集めるようになります。もともとは山頂に小さな池があったというのも、そこが善女龍王の住処であったことを暗示しています。ここに龍王神が祀られているのは納得できます。それを主導したのも、芸能伝達者としての修験者たちであったと研究者は考えています。彼らが、近世後半になると風流踊りを雨乞踊りにアレンジしていきます。これは滝宮念仏踊りや、佐文綾子踊りと同じ流れです。その背後には、修験者の姿が見え隠れします。
以上見てきた大川神社の境内にある宗教施設を登場順にあげると、次のようになります。
①本殿    蔵王権現?  修験者の信仰本尊
②龍王社   善女龍王   雨乞い伝説
③松平御廟  高松藩による関連堂舎の整備建立
④松葉神社  火伏せ神としての守護神
明治維新後の神仏分離によって①は廃仏毀釈で排除されます。そして②③④と民間信仰としての安産信仰が残ったのではないでしょうか。これらの施設は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。それではこの聖域が作られてのは、いつなのでしょうか。玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備されたことが分かります。現在のレイアウトは、約130年前の明治になってからのものであるようです。その整備時に、小蛇の棲むとされた小池も埋め立てられたのかも知れません。
 
中寺廃寺 Bゾーン2025
中寺廃寺の遙拝殿跡から望む霊山・大川山
最後に中寺が衰退した後の大川山権現が歩んだ道程について考えておきます。
古代国家によって建立された山林寺院は、中世になって国衙の保護を失うと急速に衰退します。しかし、人々の大川山信仰が失われたわけではありません。中寺に替わる勢力が、大川山を行場として活動するようにます。それが備中児島の五流修験だと私の師匠は考えています。それを仮説として最後にお話ししておきます。
  五流修験は、紀伊の熊野神社の修験者の亡命集団と称します。それが、熊野神社の社領のあった備中児島にやってきて分社したのが五流です。そのため「新熊野」とも呼ばれます。修験者の開祖とさえる役行者の5人の弟子が開いた寺院が中心になっているので五流です。この修験者集団にとって泣き所は、近くに行場がないことでした。山林寺院は行場の近くに開かれるのが普通ですが、社領の児島に分社されたので高い山(霊山)がないのです。そこで彼らが開山したのが伯耆大山や石鎚・大三島・宮島などです。後には小豆島も行場化します。さらに熊野水軍の船に乗り込み、瀬戸内海や九州にも布教活動を展開します。そのような中で、彼らは対岸の丸亀平野にもかすみ(テリトリー)を形成するようになります。その教線ラインは土器川・金倉川沿いにまんのう町にものびてきます。そして古代末には衰退した中寺に代わって五流が大川山を影響下にいれたようです。その痕跡を地名で見たのが次の表です。

霊山大川山と五流修験

大川山の北側の麓には「吉野」、南側に勝浦の集落があります。吉野修験のコリトリ場として天川(てんかわ)が有名です。これは造田に天川神社としてあります。ここで身を清めて大川山に参拝したのでしょう。これらは熊野や吉野にある地名です。また、山伏たちが開いた坊集落が炭所の金剛院です。中寺が中世に衰退した後は、五流修験のネットワークの中に大山大権現は組み込まれていたと私は考えています。
本日の授業

 以上で、本日の授業を終わります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
大川神社の紅葉 2025 11 11
大川神社の玉垣と紅葉(2025年11月11日)
参考文献
 大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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中寺・大川山でお話しした時間割です。

本日の授業


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中寺展望台での1限目授業
1時間目の中寺展望台では、こんなお話しをしました。

山林寺院の役割

 仏教伝来以前には、死者の霊は里から見える神奈備(かんなび)山に集まり漂い、時間をおいて天上世界に帰っていくと考えられていたと民俗学は云います。里から見上げられるおむすび型の甘南備山は、死霊が集まり漂う所です。例えば、善通寺の大麻山や五岳、三豊の弥谷さん・七宝山などです。そこには後になると山林修行者がやってきて、死霊を供養するようになります。同時に、彼らはそこを拠点として行場を開いて行きます。こうして死霊の集まる山は、山林修行者の集まる霊山や行場へと成長して行きます。その際に、霊場になるには麓からよくみえる山であることが条件でした。そういう意味では、丸亀平野一円から見える大川山は、霊山に相応しい山でした。
霊山では、修行の折り目折り目に、山頂で大きな火が焚かれました。

富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
富士山頂の柱源護摩供(はしらもとごまく)
これが密教に取り入れられると護摩祈祷になります。古代の山林修行者は、修行が一区切り終わると夜に山頂で周囲の木を切ってバンバン燃やしたようです。燃える焔は神秘的で、その山が特別視されるようになります。徳島の霊場・焼山(しょうざん)寺や、五岳の火山、火上山・護摩山などの山名は、頂上で大きな火(護摩)が焚かれたことに由来するとされます。焼山寺の火は紀伊からも見えたようです。大川山で焚かれた火も、讃岐一円から見えたことになります。それが霊山の信仰エリアとなります。
③3番目は、前回に見たとおり、里が見渡せる国見山として戦略的な意味を持つこと
④4番目は平安時代になると山林資源をどのように囲い込むのかが課題になります。
その管理拠点の役割を担ったのが山林寺院です。この尾根の西側の尾根には尾背寺があります。尾背寺の由緒には、空海の実家佐伯直氏の氏寺で、善通寺建立の際の材木を提供した山林寺院と書かれています。つまり、佐伯氏が森林確保の役割を含めて尾背寺を保護したことがうかがえます。このように、古代の山林寺院は、宗教的役割の他にも経済的・軍事的な役割を担って登場してきたことを押さえておきます。 
 若い時代に空海が行った修行とは、どんなものだったのでしょうか?
若き日の空海は、平城京の大学をドロップアウトして山林修行者になり、大滝山や室戸で修行を行ったと記します。当時の山林修行者が行っていた修行とは、次のようなものでした。

空海が行っていた修行

①まず巌籠(いわごもり)です。魑魅魍魎の現れる異界の入口である洞窟に一人で座り込み、生活するというのは勇気の要ることです。そこで五穀を断ち、草の根などを食べます。洞窟などが生活空間となり、その周辺に庵や寺院が現れます。
②次に行道です。これは奇岩や聖なる樹木の周りを歩くことから始まります。伊吹山の行道の行場は、行道岩が訛って、今は平等岩と呼ばれるようになっています。この岩の周りを百日回り続けるのが百日行です。チベットのラマ教とは、聖なる山カイラスの廻りを五体投地をしながら何日もかけて廻ります。これも行道です。ここでは、この中寺と大川山を回る行道が行われていたと私は考えています。

誓願捨身2 高野空海行状図画
空海の誓願捨身行 五岳の我拝師山にて (弘法大師行状絵詞)

4 どうして、こんな厳しい修行を行ったのでしょうか。

山林寺院出現の背景

それは朝廷や貴族に仕える僧侶が求められたのは、高尚な仏の教えだけでなかったからです。旱魃の時に、雨を降らしたり、病気を治したり、祟りや呪いを追い払うことが求められます。そのためには修行で「験(げん)」を積むことが必要です。今風に云うと、ボスキャラ退治のためには、高いパワーポイントが必要で、それがダンジョンでの修行だったということでしょうか。
 ③こうして、東大寺などの中央の官寺や、地方の国分寺などでも山林修行をおこなう僧侶が出てきます。④これに応えて、中央政府や地方の国衙も山林修行の拠点としての寺院建立を始めます。⑤こうして姿を見せた山林寺院は、国境警備や森林資源保護センターの役割を果たすようになります。山野を駆け回る山林修行者は、国衙の警備や山林保護の任務も担うことになります。ここでは空海が山林修行を始めた頃に、中寺は山林寺院として姿を現し始めていたことを押さえておきます。
 これで一時間目の終了です。2時間目は、B祈りゾーンです。移動します。

中寺廃寺 3つのゾーン2


上地図で現在地点の展望台を確認してください。
①東への稜線沿いに30m下げ鞍部が「きた坂
②北阪から南東尾根、左手は平坦地 20m下げた尾根の突端部がBゾーン
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           Bゾーン(祈りの空間) 尾根先端の盛土と、その向こうに大川山

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見上げると大川山
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2時間目の始まりです。教室は、大川山を見上げる割拝殿跡です。
この空間の持つ意味を、次のようにお話しをしました。
神社の建物ができる前は、山自体が信仰対象でした。神社という建物ができると、それに向かって拝むようになります。今では祈りの対象が山から、神社の建物に替わってしまっています。しかし、山が信仰対象であったことを思い出させてくれる場所があります。例えば、石鎚山のロープウエイ側の成就社です。
石鎚山が礼拝対象 
成就社からの石鎚山
ここは本殿に入ると、祭壇の向こうに石鎚山です。ここから石鎚山にお参りします。 横峰寺の場合だと、星ヶ峯の遙拝所に石鎚山を拝む方向に鳥居があります。鳥居の間から、石鎚山が見えます。明治維新の神仏分離以前は横峰寺や前神寺などの山林寺院が信仰の中心で、神仏混淆の空間でした。社僧たちが、朝に夕に、石鎚山に祈りを捧げていたのです。これと同じ空間が、このBゾーンと云うことになります。
 ここで山林修行者たちは、朝夕に大川山への祈りを捧げるだけでなく、金剛界と見立てた大川山と、胎蔵界と見立てた中寺を、一体化するために往復行道を毎日、何度も行っていたと私は考えています。その中に若き日の空海もいたかもしれません。B地区は大川山への遙拝所ということで、「祈り」のエリアと名付けられました。それを裏付けるものが発掘調査で見つかっています。

この割拝殿前の広場から出てきた青銅器の破片です。

三鈷杵と柵状の破片

これは古い密教法具の破片であることが分かりました。左は三鈷杵といい、山林修行者を外敵から守ると共に、修行者の弱い心を打ち砕くとされる仏具です。右が錫杖の一部です。

飛行三鈷杵との比較

左の空海が唐からもたらしたとされる三鈷杵と比べると、古い様式のものだと研究者は指摘します。つまり、空海が唐から持ち帰る以前のモデルだというのです。ここからは、割拝殿や僧坊が建てられる前から小屋掛け生活して、「修行」をしていた山林修行者がいたことがうかがえます。壊れた密教法具の破片は、激しい修行を繰り広げていた僧侶の格闘の日々を物語っているようにも思えます。そして、こわれた破片を大切にここに埋めたのでしょう。その中に若き空海の姿もあったかもしれません。そんなことをイメージできる雰囲気がここにはあります。

この基壇からは、次のような礎石が並んで出てきました。

中寺廃寺 Bゾーン割拝殿4
Bゾーンの割拝殿と広場、その下の僧坊

ここには柱跡が何本ありますか、その間は? 8間×3間の長い礎石建物であるようです。特徴的なのは、中央に通路があるように見えることです。そこで、研究者は次のように復元しました。

割拝殿とは・・
Bゾーンの割拝殿
ここから霊山大川山を仰ぎ見て祈りを捧げる拝殿ということになります。

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そして、中央に通路があって分かれているので「割拝殿」と呼ばれます。

そして、割拝殿の下の斜面を平らにして造られた僧坊跡を見ます。

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2限目 中寺廃寺 Bゾーンの僧坊跡にて
ここからは柱穴から変わった瓶が出てきました。
中寺廃寺Bゾーン 僧坊の多口瓶出土状況
いくつもの口があります。これは日常生活に使われるものではなく、仏事に使われたものです。これを復元すると下のようになります。

中寺廃寺 Bゾーン多口瓶
現在の考古学では、土器編年体表が整備され、いつどこで作成されたかが専門家には分かります。
多口瓶(屋島寺・法勲寺)
中寺周辺の寺院から出てきた多口瓶の類例

この多口瓶が物語ることを整理しておきます。
①多口瓶は仏具なので、この建物が僧坊であったこと
②この多口瓶が播磨の工房でつくられたもので、類例品のない特注品であること
③この多口瓶は普通の人間には手に入らない高級品で、威信財だったこと。
④中寺で修行する僧侶が、財力や地位をもった高僧であったこと
⑤見方を変えると、中寺は高級僧侶が修行する山林寺院だったこと

最後に1・2限目のまとめを行っておきます

割拝殿 祈りの場

①大川山は仏教伝来以前から霊山で信仰の山であった。
②そこに山林修行者がやってきて中寺に遙拝所を開いて活動を始めた。
③その痕跡が、古いタイプの三鈷杵や錫杖の破片である。
④その後、割拝殿や僧坊が姿を見せるようになる。
⑤僧坊から出てきた多口瓶からは、高い地位の僧侶が修行していたことがうかがえる。


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中寺の建造物の出現期(Bゾーンの仏堂は割拝殿のこと)
⑥割拝殿空海以前から大川寺を霊山として活動する山林修行者がいた。
⑦8世紀末に割拝殿や僧坊が中寺で最初に建築物として出現する
⑧空海が平城京の大学をドロップアウトして山林修行の道に入ったときには、Bゾーンは存在していた。
⑨9世紀半ばになって、讃岐国衙や国分寺の保護を受けてAゾーンの仏教施設が現れる。

ここからは、中寺で活動をはじめたのは山林修行者であったこと、その信仰の中心はBゾーンであったことが分かります。佛教的要素は、それに遅れて入ってきたことになります。また、若き空海が中寺で修行を行った可能性が生まれてきます。

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2限目終了です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
上原真人(京都大学) 中寺廃寺跡の史的意義 まんのう町調査発掘報告書第3集(2007年)
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前々回に、伊予の四国霊場八坂寺について、次の点を押さえました。
①熊野十二社を勧進し、熊野先達業務をおこなっていたこと
②周辺に広い霞(信者テリトリー)をもち、広範囲の檀那を擁していたこと
それが近世になって熊野詣でが衰退すると、石鎚詣での先達に転進して活躍するようになり、信者を再組織していきます。これが八坂寺の中世から近世への変化に対する生き残り策であったようです。
 今回は、山伏(修験者)たちが、中世から近世への時代変化に対して、どのように対応して生き残っていったのかをを見ていくことにします。テキストは「近藤祐介  熊野参詣の衰退とその背景」です。

熊野詣での衰退要因については、研究者は次のように考えています。
熊野詣での衰退と対応

16世紀における戦乱の拡大は参詣者の減少をもたらし、さらに戦乱による交通路の不通によって、熊野先達業務は廃業に追い込まれた。15世紀末以降、熊野先達は檀那であった国人領主層の没落などを受けて、新たに村々の百姓との結びつきを深め、彼らを檀那として組織するようになった。しかし、戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化していったと考えられる。

 それでは熊野先達業務が不調になっていく中で、先達を務めた来た山伏たちは、生き残る道をどこに見つけたのでしょうか。それについて修験道研究では、次のような事が指摘されています。
①戦国期には山伏の村落への定住が始まったこと
②そして山伏が庶民への呪術的宗教活動を盛んに行うようになったこと
 つまり、近世の山伏たちは、生活圏を町場から村へと移し、檀那(信者)もそれまでの武士領主層から村々の百姓へと軸足を移したというのです。それでは山伏は新たに住み着いた村々で、どんな「営業活動」を行ったのでしょうか?

修験者の里定着の方法

北条家朱印状写の中の「年行事古書之写」を見ていくことにします。
これは永禄13年(1585)に、小田原玉瀧坊に対して後北条氏から出された「修験役」に関する文書です。玉瀧坊が後北条氏から定められた修験役は次の通りです。
〔史料五〕北条家虎朱印状写34)(「本山御門主被定置
○年行事職之事丸之有ハ役ニ立たさる也 十一之御目録」
一、伊勢熊野社参仏詣
一、巡礼破衣綴
一、注連祓・辻勧請
一、家(堅カ守)
一、釜注連
一、地祭
一  葬式跡祓
一、棚勧請
一、宮勧請
一、月待・日待・虫送・神送
一、札・守・年中巻数
右十一之巻、被定置通リ、不可有相違候、若不依何宗ニ違乱之輩有之者、急度可申付者也、注連祓致陰家ニ(ママ)者有之者、縦令雖為真言・天台何宗、修験役任先例可申付者也、仍而定如件、
永禄十三(1570)年八月十九日長純
「○時之寺社奉行与申伝ニ候」
玉瀧坊
 近世に書写された史料ですが、ここには近世初頭の山伏の年間行事が挙げられています。

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このことから修験者の役割は、次の4つに分類できそうです。
①伊勢神宮・熊野三山や各種巡礼地への参詣者引率行為、
②家や土地の汚れを祓(はら)う行為
③葬送儀礼・神仏勧請といった加持祈祷行為、
④守札等の配札行為、
一番目に「伊勢・熊野社参仏詣」とあります。これが、伊勢や熊野への先達業務です。ここからは、戦国時代になっても山伏が伊勢・熊野などの諸寺社への先達業務を行っていたことが分かります。ここで注意しておきたいのは、「伊勢・熊野」とあるように、熊野に限定されていない点です。その他の有名寺院にも先達を務めたり、代参を行っていたことがうかがえます。
 しかし、残りの活動を見てみると「注連祓」「釜注連」「地祭」「宮勧進」などが並びます。これらは村の鎮守の宗教行事のようです。また。 「葬式跡祓」とあるので、山伏が村人の葬儀にも関係していたことが分かります。
 「月待・日待・虫送・神送」は、近世の村の年中行事として定着していくものです。
ここで私が気になるのが「月待」です。これは庚申信仰につながります。阿波のソラの集落では、お堂が建てられて、そこで庚申待ちが行われていたことは以前にお話ししました。それを主催していたのは、里に定着した山伏だったことがここからはわかります。虫送りも近世になって、村々で行われるようになった年中行事です。それらが山伏たちによって持ち込まれ、行事化されていったことが、ここからはうかがえます。
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「札・守・年中巻数」は、護符や守り札のことでしょう。

これらも山伏たちによって、村々に配布されていたのです。こうして見ると、近世に現れる村社や村祭り・年中行事をプロデュースしたのは山伏であったことが分かります。風流踊りや念仏踊りを伝えたのも、山伏たちだったと私は考えています。
ここでは、山伏は、「イエ」や個人に依頼され祈祷を行うだけでなく、近世になって現れた村の鎮守(村社)の運営や年中行事などにも関わっていたことを押さえておきます。

Amazon.co.jp: 近世修験道文書―越後修験伝法十二巻 : 宮家 準: 本
越後国高田の本山派修験寺院である金剛院に伝わる「伝法十二巻」を見ておきましょう。
これは金剛院空我という人物によって著された呪術作法集で、寛文年間(1661~73)に、書かれたものとされます。その内容は、喉に刺さった魚の骨を取る呪法や犬に噛まれない呪法などの現世利から始まり、堂社の建立や祭礼、読経、託宣な169の祈祷作法が記されています。 当時の村に住む山伏が、村人の要望に応えて多種多様な祈祷活動をしていたことが見えてきます。村人から求められれば、なんでも祈祷しています。それは、歯痛から腰痛などの痛み退散祈祷からはじまって、雨乞い、までなんでもござれです。このような活動を通じて、山伏たちは、村の指導者たちからの信頼を得たのでしょう。こうして山伏の村落への定住は、彼らに新たな役割をあたえていきます。

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例えば、丸薬などの製法を山伏たちは行うようになります。漢方の生成は、中国の本草綱目の知識と、山野を徘徊するという探索能力がないとできません。これを持ち合わせたのが山伏たちであることは、以前にお話ししました。彼らは、疫病退散のお札と供に丸薬などの配布も行うようになります。それが越中富山では、独特の丸薬販売へと発展していきます。

 天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
「安房修験書上(37)」

ここには、それぞれの修験寺院について、所在する村、村内で管理する堂社や寺地などについて詳しく記されています。

ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと
②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。そして伊予では、熊野詣から石鎚参拝に転化したことは、以前にお話ししました。その背景について、考えておきましょう。
 近世の熊野参詣は、参加者が数人程度の小規模なものになっていきます。
伊勢詣では多額の銭が必要でした。それが負担できるのは中世では、地頭クラスの国人領主層でした。経営規模の小さい近世の名主や百姓たちにとって、熊野参詣は高嶺の花だったはずです。また熊野参詣は、何ヶ月にも及ぶ長旅でした。村の有力者といえども、熊野参詣に赴く経済的・時間的余裕はなかったようです。それに加えて、戦国時代は、戦乱によって交通路の安全が保証されませんでした。これらの要因が熊野詣でを下火にさせた要因としておきます。

こうした中で、新たな熊野参詣の方法が採られていくようになります。
天正16年(1588)に古河公方家臣の簗田氏の一族・簗田助縄という人物から、武蔵国赤岩新宿の修験寺院大泉坊に対して出された判物を見ておきましょう。
簗田助縄判物諸社江代官任入候事
一、大峯少護摩之事
一、宇佐八幡代官之事
一、八幡八幡代官之事
一、伊勢へ代官之事
一、愛宕代官之事
一、出雲代官之事
一、熊野ヘ代官之事
一、多賀へ代官之事
一、熱田へ代官之事
右、偏任入候、来年ハ慥ニ一途可及禮候、尚鮎川可申届候、以上
   戊子六月廿一日 助縄(花押)
大泉坊
ここには「諸社江代官任入候事」とあります。ここからは、簗田助縄が大泉坊に対して、こららの寺社への代参を依頼していることが分かります。吉野の大峯から、豊後の宇佐八幡宮まで全国各地の有力神社へが列記され、その中に熊野神社の名前もあります。この時期、武将達は「代参」という形で地方の有力寺社に祈願していたのです。これを研究者は、次のように指摘します。
①「大泉坊が民間信仰の総合出張所=地域の宗教センター的役割を果たしていた
②大泉坊に代参を依頼した背景には、簗田氏というよりは、むしろそこに集う民衆の要請があった
ここでは、戦国期には直接参詣に赴くことができない信者の要請を請けて、山伏が代参という形で地方の諸寺社を参詣するということが行われていたことを押さえておきます。人々の熊野に対する信仰は、代参という形に変化したも云えます。
以上をまとめておくと
なぜ中世後期に熊野参詣が停滞・衰退したのか、
①15世紀末(戦国期)ころから山伏たちは、村々への定着とともに、村人を檀那とするようになった。
②山伏は、村人の要請に応えていろいろな祈祷や祭礼を、行うようになった。
③一方で熊野参詣は、村人の経済的理由や戦乱、交通路の問題などにより実施が困難になっていく。
④その対応策として山伏は、熊野先達業務を放棄し、代参という新しい形での参詣形態を生み出した。
⑤代参は熊野だけでなく、全国の有力神社が対象で、熊野はそのなかのひとつにすぎなくなった。
⑥その結果、熊野参詣の停滞・衰退が生みだされた

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  近藤祐介  熊野参詣の衰退とその背景
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綾子踊|文化デジタルライブラリー
綾子踊り 棒振と薙刀振り(まんのう町佐文 賀茂神社)

綾子踊りは、踊りが始まるまでは、次のような流れで進められて行きます。
①踊り役が入場する前に、龍王宮を祭り、左右に榊をもって露払をする
②台傘持が入り、幟持四名が続き、その後唐櫃、龍王の御霊、柱突、棒振、薙刀振、山伏姿の法螺貝吹、小踊、芸司、太鼓、鼓、笛、地唄、側踊の順に入場して、それぞれの位置につく。
③初めの位置取りは、棒と薙刀が問答を行うため、地唄、警固などが神前定位置に進み、その他は神社の随身門を入ったところに、社前に広場を作る。
④棒振と薙刀振の所作(棒振が進み出て四方を払い、中央で拝して退くと、薙刀振が出て中央で拝し、薙刀を携えて西東北南と四方を払い、再び中央を払い、また四方を払う。薙刀の使い方には、切りこむ形、受けの形、振り回す形などがある。)
⑤棒振と薙刀振とが中央で向かい合い、掛け合いの問答をする
⑥台傘持が来て、棒振と薙刀振の頭上に差掛けると、二名は退場。

綾子踊り 薙刀
綾子踊り 薙刀振り
③④⑤の棒振と薙刀振によって行われる問答は次のようなものです。
棒 暫く暫く 先以て当年の雨乞い 諸願成就 天下泰平 国土安穏 氏子繁昌 耕作一粒万倍と振り出す棒 は 東に向かって降三世夜叉 
薙 抑某(ソモソレガシ)が振る薙刀は 南に向かって輦陀利(ぐんだり)夜叉 
棒 今打ち出す棒は 西に向かって大威徳(だいいとく)夜叉 
薙 又某が振る薙刀は 北に向かって金剛夜叉
棒 中央大日大聖不動明王と打ち払い 薙 切り払い 棒 二十五の作物 薙 根は深く
棒 葉は広く 薙 穂枯れ 棒 虫枯れ 薙 日損 水損 風損なきように 
棒 善女龍王の御前にて 悪魔降伏と切り払う薙刀 柄は八尺 身は三尺 
薙 神の前にて振り出すは 棒 礼拝切り 薙 衆の前は 棒 立趾切り 薙 木の葉の下は 
棒 埋め切り 薙 茶臼の上は 棒 廻し切り 薙 小づまとる手は 棒 違い切り 
薙 磯打つ波は 棒 まくり切り 薙 向かう敵は 棒 唐竹割り 薙 逃る敵は 
棒 腰のつがいを車切り 薙 打ち破り 棒 駈け通し 薙 西から東 棒 北南 薙 雲で書くのが 棒 十文字 薙 獅子奮迅 棒 虎乱入 薙 篠鳥の 棒 手を砕き 雨の八重雲 雲出雲の 池湧きに 利鎌を以って 打ち払い 薙 切り払い 棒 今神国の祭事 薙 東西 棒 南北と振る棒は 陰陽の二柱五尺二寸 薙 ヤッと某使うにあらねども 棒 戸田は 薙 三つ打ち 棒 自現は 薙 身抜き刀軍 古流五法の大事 命

問答の最初に登場するのは、東西南北の守護神と不道明王の五大明王たちです。これらは、修験者たちの崇拝する明王です。続く問答も、山伏たちの存在が色濃くします。
小仏】東寺形五大明王セット 柘植 金泥仕様

宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」を見てみましょう。
「はなとり踊り」には、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に増田集落では修験者がやっていたと伝えられます。山伏と民俗芸能の関係を考える際の史料になるようです。
増田はなとりおどり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
    はなとりおどり(愛南町増田)
「さやはらい」の問答部分は次の通りです。
善久坊  紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。
南光坊  同じいで立ちだが、鎌はさしていない。南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっと睨んで声をかける。
南光坊  おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。
善久坊  おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼にかった者。
南光坊  おう某は寺山南光院、’今日高山尊神の御祭礼の露払いにかった者、道あけ通らせ給え。
善久坊  急ぐ道なら通り給え。
南光坊  急ぐ急ぐ。
 南光坊行きかける。善久坊止める。両者青竹をもって渡り合う。鉦・太鼓の囃子、青竹くだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて斬りむすぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にした時、[さやはらい]一段の終りとなる。
 ここからは「さやはらい」に登場するのは山伏で、はなとり踊が山伏の宗教行事であることが分かります。はなとり踊りの休憩中に希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。

  行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは山伏だったことがうかがえます。
里人の不安に応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは山伏たちだったのです。この視点で、讃岐の佐文綾子踊りを見てみると、行列の先頭にはホラ貝を持った山伏が登場します。行列が進み始めるのも、踊りが踊られ始めるのもホラ貝が合図となります。また棒振と薙刀振が登場し、「さいはらい」を演じます。これらを考え合わせると、綾子踊の誕生には山伏が関与していたことがうかがえます。

山伏(修験者)武術と深く関わっていた例を見ておきましょう。
 幕末に、まんのう町の公文の富隈神社の下に護摩堂を建てて住持として生活していた修験者がいました。木食善住上人です。上人は、石室に籠もり断食し、即身成仏の道んだことでも有名です。
  また上人は修験者として武道にも熟練して、その教えを受けていた者もたくさんいたといいます。特に、丸亀藩・岡山藩等の家中に多く、死後には眼鏡灯(摩尼輪灯)2基が、岡山藩の藩士達が、入定塔周辺に寄進設置されています。このように山伏の中には、薙刀や棒術、鎖鎌などに熟練し、道場的な施設を持つ者もいたのです。そういう視点から見れば、山伏たちが雨乞い踊りや風流踊りをプロデュースする際に、踊りの前に武術的な要素をお披露目すすために取り入れたのかも知れません。
市指定 お伊勢踊り - 宇和島市ホームページ | 四国・愛媛 伊達十万石の城下町
伊勢踊り
もうひとつ綾子踊りと共通するものが宇和地方にはあります。
 伊勢踊りです。これは旧城辺町僧都の山王様の祭日(旧9月28日に)に行なわれる踊りです。男の子供6人が顔を女のようにつくり、女の長儒絆を着て兵児帯を右にたらし、巫子の姿をして踊ります。これも山王宮の別当加古那山当山寺の瑞照法印が入峯の時に、伊勢に参宮して習って来て村民に伝えたといわれています。
「男子6人の女装での風流踊り」という点が、綾子踊りとよく似ています。それを、村に導入したのが、山伏であると伝わります。綾子踊りも、このようなルートで導入された可能性もあります。

綾子踊|文化デジタルライブラリー
綾子踊り 6人の子踊り
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

IMG_0009綾子踊り由来
佐文綾子踊 入庭(いりは)
参考文献
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
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十返舎一九 四国遍路表紙 200004214_0022_00001

十返舎一九の『金草蛙』第14篇には、四国辺路のことが記されています。
『金草蛙』は文政四年(1831)に初めて刊行されましたが、主人公は千久良坊と延高という2人連が白山などの各地の名所霊場を廻るさまを、その土地の方言を交えながら面白おかしく紹介する旅行記です。その中に四国辺路もあります。
十返舎一九 四国遍路 丸亀入港路
金比羅船で大坂から船で九亀に上陸 十返舎一九「金草」の挿絵

 七十八番道場寺(郷照寺)から四国辺路を始め、時計回りに巡礼し、最後は多度津の道隆寺で終えます。この本には多くの挿図があり、江戸時代の四国辺路のことが描かれています。これが絵図史料として価値を持ちます。

十返舎一九_00006 六十六部
上の絵図は、遠くの民家の屋根の間にひときわ大きな屋根を見せているのが80番の讃岐国分寺のようです。遍路道を向こうからやって来る人物が描かれていますが、特徴的な風体です。大きな笈を背負い、右手に錫杖を持ち、腹前に鉦を付け、頭には大きな天蓋のようなものを被っています。これが六十六部のようです。これだけ大きな笈を背負っているとよく目立ったでしょう。

十返舎一九_00009 六十六部
讃岐の88番大窪寺から阿波の1番霊山寺へ越えたあたりでは、甘酒屋に集まる四国遍路たちが描かれています。ここにも大きな笈を背負い、天蓋のよう帽子を被った六十六部が描かれています。

四国遍路を廻っていた六十六部とは何者なのでしょうか
 御朱印の歴史(1)御朱印の起源-六十六部 | 古今御朱印研究室

「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。その縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」で、次のように説きます。
 北条時政の前世は、法華経66部を全国66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けた。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世も、六十六部廻国聖だ。つまり我ら六十六部廻国聖は、彼らの末裔に連なる。

 六十六部廻国については、よく分からず謎の多い巡礼者たちです。彼らは、次のような姿で史料に出てきます。
①経典を収めた銅製経筒を埋納して経塚を築く納経聖
②諸国の一宮・国分寺はじめ数多の寺社を巡拝して何冊も納経帳を遺す廻国行者
③鉦を叩いて念仏をあげ、笈仏を拝ませて布施を乞う姿、
④ときに所持する金子ゆえに殺される六部
しかし、西国巡礼や四国遍路のようには、六十六部の姿をはっきりと思い描くことができません。まず、彼らの納経地が固定していませんし、巡礼路と言えるような特定のルートがあったわけでもありません。数年以上の歳月を掛けて日本全土を巡り歩き、諸国のさまぎまな神仏を拝するという行為のみが残っています。それを何のために行っていたのかもはっきりしません。

 六十六部とは - コトバンク

分からないのは体系的な紙史料がないためです。
残されているのは、彼らの遺した納経帳や札、そして全国津々浦々に点在する供養塔です。特に供養塔(廻国供養塔・廻国塔)は、全国で万を超える数が残っています。その中には、願主の子孫や地域によっていまも祭祀が続けられているものもあります。しかし、大半は、路傍や堂庵の傍ら、墓地の一角で風化に耐えています。六十六部の理解するためには、これらの碑文を一つ一つ訪ねあて、語らせ、その声を書き留める作業が必要でした。
六十六部廻国供養塔 「石に聴く」宮崎県の石塔採訪記/長曽我部光義/著 押川周弘/著 本 : オンライン書店e-hon

それが、近年各地で少しずつ進められてきたようです。今回は、六十六部と四国遍路の関係を見ていくことにします。テキストは「長谷川賢二 四国辺路と六十六 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」です
1六十六部の笈
六十六部の笈

徳川幕府の寺請制度のもとでは、原則的には自由な移動は禁止されました。しかし、行者は特定の会所に所属し、その支配下に入ることで、ある程度諸国を自由に巡礼する特権を得ることができていたようです。六十六部行者も、東京寛永寺、京都仁和寺、空也堂などが元締となり、その免状を得ることで廻国巡礼を行っていたようです。具体的には、六十六カ国をまわるというよりも、西国巡礼や各国の国分寺などをまわっています。中には四国遍路を廻っていた六十六部行者もいたようです。
18世紀後半以後になると、六十六カ国をすべて回り終えると結縁記念に石造供養塔を建立するようになります。この供養塔が四国遍路の霊場の境内や遍路道にもあることが、近年の調査で分かってきました。
1 札所の六十六供養塔

讃岐の霊場に残された廻国供養塔の一覧表です。
観音寺、弥谷寺、道隆寺、屋島寺、八栗寺、志度寺、大窪寺などに残されているようです。境内に記念碑を建立することが認められるには、それだけの貢献があったはずです。例えば堂舎の勧進活動です。また辺路道沿いの廻国供養塔は、廻国行者と地元の人々との間に、深い関係がなければ建てられるものではありません。四国廻国の途中で地域の人々に祈蒔や病気治癒の施しを行い、小庵などに住み着き宗教活動を行ったことも考えられます。日本の各地を廻国し、多くの情報を持つ、廻国行者の存在は四国の寺院や地域住民にとって、大きな利益を得たのかも知れません
1善通寺中世伽藍図
中世の善通寺伽藍図(一円保絵図)
 善通寺五重塔と六十六部の勧進活動
75番善通寺は、古代以来の敷地に七堂伽藍が甍を並べます。しかし、五重塔は焼け落ち、姿が消えていた期間の方が長かったようです。現在の塔は、明治35年に建立されたものですが、その前の塔は、文化元年(1804)の建立になることは以前にお話ししました。
その経緯については「善通寺大搭再興雑記」に、次のように記されています。
先是有唯円者承光歓僧正、志願而留錫伽藍西門内小庵募縁十方其疏幾度千冊以託来請人、或使令(中略)
合力州里既而所集銭穀以擬営建出貸隣人、借者未及返之債之而不獲馬、其余雖非無虚費之謗於幹事共勉也。(中略)
 唯縁所出募縁之疏至今時々自遠方還来、非無小補因記之
「唯縁(円)勧進用此序」
唯縁武州豊嶋郡浅部本村新町遍行寺弟子、号順誉、回国行者、享保十二来年二月九日始勧進事、至享保二十一甲寅年凡経十年孜々勧誘、先是勧進建豊田郡小松尾寺二王門、共事就後始当寺造塔勧進募勧有信檀越造立一箇宝塔之序
(本文は略す)
維時享保第八龍集炎卯初冬穀旦
讃陽多度郡善通寺現住沙門光歓謹誌
  意訳変換しておくと
(五重塔の再建については亨保八年(1723)、これより先に唯円が光歓僧正に勧進を願い出た。唯円は伽藍の西門の内に小庵を建てて、勧進活動を進めその募縁状を十方の参詣の人々に託し、千冊を超える勧進を得た。(中略)
   勧進で集めた銭を穀物を隣人に貸出し、借りたものが返済しても、債権回収に応じないことあった。そのため非難を受けたり虚費の謗うけ、幹事が共に弁済したこともあった。(中略)
 唯円の勧進については、遙か昔のことではあるが、五重塔の再建事業においては小さな事ではないので、あえてこれを記し残すことにする。
「唯縁(円)勧進用此序」
唯円は武州豊島郡浅部本村新町の遍行寺の弟子で、順誉と号した廻国行者で、享保12年2月9日から勧進を始め、同21年まで、およそ十年の勧進を行った。この勧進活動の前には、讃岐豊田郡の67番小松尾寺(大興寺)の仁王門の勧進を行っていた。その後、善通寺の五重塔の勧進活動をはじめ、その造立の基礎を打ち立てた。
以上からは、次のようなことが分かります。
①光歓が亨保八年(1723)に「募勧有信檀越造立一箇宝塔序」を作成し、印刷したこと
②その後、唯円が伽藍の西門の内に小庵を建てて、その募縁状を十方の参詣の人々に託した
③約10年で、若干の金額も集まったが、隣人に貸出して返済に応じず、虚費の謗も受けた
④唯円は、善通寺大塔の勧進前には、67番小松尾寺の仁王門の勧進を行っていた

関東からやってきた廻国行者が小松尾寺の仁王門建立の勧進を行い、それを終えて善通寺境内に庵を造り、そこを根拠にして大塔の勧進に10年も携わったというのです。この時の五重塔が完成するのは、文化元年(1804)十月になります。計画から約80年余の月日を要したことになります。
十返舎一九 四国遍路 郷照寺
十返舎一九「金草」の挿絵 丸亀上陸

  勧進聖と土木・建設などの勧進活動の関係は?
「勧進」のスタイルは東大寺造営を成し遂げた行基に始まると云われます。彼の勧進は
「無明の闇にしずむ衆生をすくい、律令国家の苛酷な抑圧にくるしむ農民を解放する菩薩行」

であったとされます。しかし、「勧進」は見方を変えると、勧進聖の傘下にあつまる弟子の聖たちをやしなうという側面もありました。行基のもとにには、班田農民が逃亡して私度沙弥や優婆塞となった者たちや、社会から脱落した遊民などが流れ込んでいました。彼等の生きていくための術は、勧進の余剰利益にかかっていたようです。次第に大伽藍の炎上があれば、勧進聖は再興事業を請負けおった大親分(大勧進聖人)の傘下に集まってくるようになります。東大寺・苦光寺・清涼寺・長谷寺・高野山・千生寺などの勧進の例がこれを示しています。経済的視点からすると
「勧進は教化と作善に名をかりた、事業資金と教団の生活資金の獲得」
とも云えるようです。
 寺社はその勧進権(大勧進職)を有能な勧進聖人にあたえ、契約した堂塔・仏像、参道を造り終えれば、その余剰とリベートは大勧進聖人の所得となり、また配下の聖たちの取り分となったようです。勧進聖人は、次第に建築請負業の側面を持つことになります。勧進組織は、道路・架橋・池造りなどの土木事業だけでなく、寺院の堂宇の建設にも威力を発揮しました。善通寺の五重塔再興を請け負った唯縁は、建設請負集団の棟梁であり、資金集めの金融ブローカー的な側面も見えてきます。少し横道にされたようです。六十六部の勧進スタイルを追いかけます。

小松尾寺(大興寺)の仁王門横に大きな石碑が建立されていますが、そこには次のように刻まれています。
本再興仁王尊像並門修覆為廻国中供養
寛政九年己酉十月 十方施主 本願主長崎廻国大助
ここからは唯円が勧進して建立した仁王門を、約70年後の寛政元年(1789)に、長崎の廻国行者の大助が勧進修復したようです。小松尾寺の仁王門は、建立も修復も廻国行者の手によることになります。このように地方有力寺院は、堂宇の改修には勧進というスタイルを採用せざるえない状態にありました。それを取り仕切れる勧進聖は、寺院から見て有用で、使い道があったようです。
65番札所 三角寺遍路トレッキング - さぬき 里山 自然探訪&トレッキング

続いて65番 三角寺の観音堂の建立についてみてみましょう。
寛文十三年(1672)八月吉日の本堂(観音堂)建立棟札からは、次のようなことが分かります。
①発起人は山伏の「滝宮宝性院先住権大僧都法印大越家宥栄」と「奥之院(仙龍寺)の道正」
②本願は同じく「滝宮宝性院権大僧都宥園と奥之院の道珍」
③勧進は「四国万人講信濃国の宗清
④導師は地蔵院(観音寺市大野原町の萩原寺)の真尊上人
 このうちで①の「大越家」は当山派で大峰入峰三十六度の僧に与えられる位階で、出世法印に次ぐ2番目の高い位になるようです。宥栄は当山派に属する修験者たちの指導者であり、本山の醍醐寺や吉野の寺寺へ足繁く通っていたことがうかがえます。江戸時代初期の三角寺や奥の院(仙龍寺)には、それ以前にも増して山伏や勧進聖のような人物が数多くいたようです。
④の導師を勤めているのが萩原寺(観音寺市)の真尊上人であることも抑えておきたい点です。萩原寺は、雲辺寺の本寺にも当たります。ここからは、三角寺は萩原寺を通じて雲辺寺とも深いつながりがあったことがうかがえます。高野山の真言密教系の僧侶のつながりがあるようです。
十返舎一九_00010 吉野川沿い
十返舎一九「金草」の挿絵 吉野川を見下ろす

次いで貞享四(1687)年には、弥勒堂が建されます。
これは、四国における弘法大師入定信仰の拡がりを示すものだと研究者は考えているようです。弘法大師入定信仰と「同行二人」信仰は、深いつながりがあることは以前にお話ししました。
このように江戸時代初期前後の三角寺は「弘法大師信仰+念仏信仰+修験道」が混ざり合った宗教空間で、「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が活発な活動を行っていたことがうかがえます。
 気になるのは③の「四国万人講信濃国の宗清」です。
四国万人講とは、どんな組織で、活動内容はどんなことをしていたのでしょうか。四国万人講を主催する宗清なる人物は、三角寺住持の支配下で勧進など、三角寺の活動を下支えしていたしていたのではないでしょうか。勧進と称しているので、諸国を廻国して勧進を行う念仏行者のような人物と研究者は考えているようです。「四国万人講」という組織は、四国辺路の参詣者を対象にした勧進講としておきましょう。
 その後、この宗清が六十八番観音寺にも姿を見せます。
『弘化録』の延宝四年(1676)の項に、次のように記されています。
「八月に宝蔵一宇を建立した。本願は米谷四郎兵街、大工は荻田甚右衛門である。十月に再興の本願は宗清である。」

ここに出てくる宗清は年代的にみて、三角寺棟札の宗清と同一人物と研究者は考えます。三角寺の観音堂の完成後、今度は讃岐の観音寺で勧進活動をしているのです。つまり、三角寺の観音堂の完成から三年後には、観音寺に移り宝蔵を再興しています。宗清の出身は信濃国ですから、彼もやはり廻国行者の一人だと云えます。
観音寺境内図1

観音寺には、勧進僧を受けいれやすい何かがあったのでしょうか。
「弘化録』には、次のような勧進常夜灯の記録が記されています
観音尊常夜の覚
一、銀札八百五拾目なり
古は長崎より生国筑前の者、小林万治と中す者、廻国に参り、観音寺に逗留仕り候にして暫くの間、隔夜を打ち、ならびに本加なども相加え左の銀子調達仕り、観音尊へ常夜灯寄進致したき宿願に付き、有の銀子預け申したしの段申し出候に付き、観音寺八ケ村のその節の役人相談の上にて、観音寺中国川入目銀の内へ借り請けにして、毎年観音寺御用の入目所より立割五歩の利銀百弐拾七匁五歩宛油代へ払い仕り中し来し候。(以下略)
意訳変換すると
一、銀札850目なり
古くは長崎から筑前生まれの者で、小林万治と申す者が、廻国参りにやってきて、観音寺に逗留するようになった。そして、隔夜修行を行うようになり、その成就の際に奉加で得た銀子を、観音堂の常夜灯費用として寄進したい旨を申し出た。この銀子の寄進を受けて、観音寺八ケ村の代表と役人で相談した上で、観音寺中国川入目銀の内へ借り請け金として入れて、毎年観音寺御用の入目所から五歩の利子銀百弐拾七匁五歩を油代として支出することとした。(以下略)
ここからは小林万治という九州の廻国行者が六十八番観音寺に、しばらく逗留して隔夜修行など修行しながら、奉加なども加えて銀札850目を調達して、観音菩薩の常夜灯を寄進したいと申し出たことが分かります。隔夜修行とは、以前にお話ししましたが、ここでは六十六番雲辺寺と六十八番観音寺を夜間に一日ごとに念仏を唱えながら往復して修行する念仏行です。彼以外にも、観音寺に逗留しながら、この行に挑んでいた信者がいたことが他の史料からも分かります。
 小林万治という廻国行者は、 観音寺にしばらくの間、逗留して修行することが許されていたようです。そのお礼の意味もあっての銀子の寄進であったようです。
 以上のように、札所寺院には、六十六部廻国行者や念仏行者などが入り込み修行を行っていたことがわかります。観音寺と雲辺寺は、隔夜行者の修行ゲレンデであり、七宝山は修験者たちの行場でもあったのです。その行場センターを観音寺は果たしていたことになります。そのために、堂宇再興などの際には、御世話になった行者や聖達が勧進ネットワークとなって、多くの財を集めるマシーンとして機能したのでしょう。
志度寺縁起 阿一蘇生部分
志度寺縁起に描かれた志度寺

廻国行者が係わって堂字を建立した例は、86番志度寺にもみられます。
志度寺所蔵の棟札には、次のように記されています。
一、米三十穀、大旦那国主雅楽頭御内方さま教芳院殿也、本願円朝上人総州住人也、今者志度寺部屋二住也、大工ハ備前国山田村住人、藤原大工七右衛文勤之
一、讃州志度寺観音堂、本願円朝法印(花押) 迂慶長九年甲辰十月十三日、寺家衆花厳坊、常楽坊、西林坊、林蔵坊、窄円坊、教円坊為弐親成仏
一、慶長九年甲辰十月十三日志度寺観音堂本願者不思議成以縁、当寺住関東上総大台住人堅者円朝法印(花押)
意訳変換しておくと
一、米三十石、大旦那は藩主の生駒親正の奥方さま教芳院殿、本願は円朝で上総州住人である。
円朝は志度寺部屋棲、大工は備前山田村住人の藤原大工七右衛文が勤めた
一、讃州志度寺の観音堂、本願は円朝法印(花押) 慶長九年十月十三日、寺家衆は花厳坊、常楽坊、西林坊、林蔵坊、窄円坊、教円坊が参加した
一、慶長九年十月十三日志度寺観音堂 本願は不思議な縁を以て、当寺住関東上総大台住人堅者円朝法印が行う(花押)

中世には志度寺縁起の寺として隆盛を極めた志度寺も、戦国時代には疲弊していたようです。慶長期になって、ようやく、生駒氏の援助でようやく再興が始まります。その手始めとして行われたのが観音堂の再興だったようです。
①大旦那は、生駒親正の夫人
②本願は円朝法印
③寺家衆も花厳坊・常楽坊・西林坊などで、まだ塔頭寺院というには、ほど遠い小さな坊庵の段階のようです
そして本願の円朝は、関東上総国の出身で「不思議の縁をもって、志度寺の部屋に住むようになった」というのです。ここからは、志度寺には定まった住職もいないほど退転していたところに、円朝という関東の廻国僧が訪れ、何らかのの縁を得て、定着したことがうかがえます。
四国霊場の寺院ではありませんが『宇和旧記』の白花山中山寺の項には、次のように記されています。
一、慶長十一年再興、是は奥州二本松産意伯上人、六十六部廻国の時、発起の由、棟札あり、予州宇和庄多野村、白花山中山禅寺仏殿、奉再興、本願奥州二本松産意伯上人、同行重円坊、意教坊、大工者多田村七右衛門也、殊御給人衆、並大小檀那、致進一紙半銭以諸人所集功力如是成就者也、
(中略)
惟時慶長十二暦戊申一月中旬。意伯上人
(後略)
意訳変換しておくと
当寺は慶長十一年に再興された。その経緯は奥州二本松の意伯上人が、六十六部廻国で諸国回遊の際に、発起人となったことが棟札に記されている。予州宇和庄多野村、白花山中山禅寺仏殿なども、意伯上人の本願で行われ、同行重円坊、意教坊がこれを助け、大工は、多田村の七右衛門が勤めた。御給人衆は大小檀那衆で、一紙半銭の寄進で多くの信者の功力で成就した。
(中略)
惟時慶長十二暦戊申一月中旬。意伯上人
ここからは、奥州の六十六部の意伯上人が、廻国の途中で中山禅寺の再興を発起したことが分かります。同行者が二人いたようで、彼らも六十六部廻国行者で、勧進に協力したのでしょう。この例のように、志度寺の円朝法印や寺家衆の七坊も、伊予中山寺と同じように六十六部廻国行者であったと考えることもできそうです。戦国時代から50年余り経ってを経て、慶長年間頃にはこんなプロセスを経て、各地の寺院は復興されていったのかもしれません。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「長谷川賢二 四国辺路と六十六 四国辺路の形成過程所収 岩田書院」

  修験道と山岳信仰の歴史を読書ノートとして、残しておきます。
テキストは   宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収です。
民俗学者は山岳信仰と宗教を次のように説明します。
生活の場所である「里」に対して、「お山」は「別の空間」で「聖なる空間」と、古代の人たちはとらえてきた。そして、どこに行っても山岳が見られる我が国では、山を聖地として崇拝する山岳信仰が昔からあり、それが、神道、仏教など影響を与えてきた。さらに山岳信仰を中心とする修験道も生み出してきた。
1出釈迦寺奥の院
善通寺市我拝師山
 
「お山」が崇拝の対象となるための条件とは何なのでしょうか?
それは、里から仰ぎ見られる場所にあることがまずは必須の条件だったようです。里の遠くかなたに見られるコニーデ型の美しい山、長く続く山系、畏怖感をひきおこす異様な山、噴煙をあげる火山などが、俗なる里に住む人々から聖地として崇められたのです。
DSC08033
丸亀市八丈池からの飯野山

そうだとすれば丸亀平野には、飯野山をはじめ善通寺の五岳山、大麻山、城山、讃岐山脈の大川山など甘南備山がいたるところにあります。
 また里近くの小高い丘、こんもり茂った森山も崇拝の対象とされたようです。山の尾根が平野に下りてくる端に位置する小丘を端山(葉山)と呼んで拝んだりもしています。

1高屋神社
観音寺市七宝山稲積山
お山への信仰は、生活のあらゆる面に浸透していました
誕生の際の産神としての山の神、四月の山あそび、そして死後は死霊として山岳に帰り、浄よって祖霊からさらに川神になっていきます。
年間の行事をとって見ても、
正月の初山入り、
山の残雪の形での豊凶うらない、
春さきの田の神迎え、
旱魅の際山上で火を焚いたり、
山上の池から水をもらって帰る雨乞、
盆の時の山登りや山からの祖霊迎え、
秋の田の神送りなど、
主要な年中行事はほとんどお山と関係していたことが分かります。山岳やそこにいるとされた神霊は、里人の一生や農耕生活に大きな影響を与えていたのです。
「お山」は、稲作に必要な水をもたらす水源地として重視されていました。
山から流れる水は、飲料水や濯漑用水として里人にとって大切なものでした。こうして山にいる神は、水を授けてくれる水分神として崇めるようになります。以前にお話しし三豊市・二宮川上流の式内社・大水上神社(二宮)は、水分神の住処がどんなところであるのかを、教えてくれる神社です。
DSC07605
大水上神社の奥社
 水分神に代表される水の神は竜神とされ、蛇や竜がその使いとして崇められることが讃岐では多かったようです。これは善女龍王信仰として真言密教に取り込まれて寺院でも儀式化され、善通寺では藩主の要請で雨乞いが行われていくようにもなります。
5善通寺
善通寺境内の善女龍王社

 山岳の山の神は農民のみでなく、山中で仕事を行う木こり、木地屋などにも信仰されました。木こりは春秋二回、山の神にオコゼを供えて山仕事の安全などを祈りました。
漁民たちも山岳の神を航海の安全を守ってくれるものとして崇拝します。
これはお山が航海の目標(山立て)になるとこともありました。北前船の船頭達が隠岐の焼火山や、中国や琉球への航路の港としてさかえた薩摩の坊津近くの開聞岳などは航海の目標として崇められた山です。瀬戸内海にも船頭達が目印とした山が数多くありました。讃岐のおむすび型の甘南備山は、航海の目印にはぴったりでした。金毘羅大権現が鎮座した象頭山(大麻山)も、そのひとつとされます。

 里から見えるお山は、死霊・祖霊・諸精霊・神々のすむ他界、天界や他界への道、それ自体が神や宇宙というように、人間が住む俗なる里とは別の聖地であると信じられたようです。
日本の聖山ベスト30 修験道・山岳信仰のメッカと鉱物分布・忍術分布など比較して楽しむ 秦秦澄「飛び鉢」伝説 : 民族学伝承ひろいあげ辞典

  どのようにして修験者は登場したのか?
 古代の山麓には銅鐸・銅剣などの祭祀遺物が埋められていることから神霊の鎮まるお山を里から拝んで、その守護を祈るというスタイルがとられていたようです。お山は神霊や魔物の住む所として怖れられ、里人がそこに入ることはほとんどなかったようです。わずかに狩猟者などが山中に入っていくにすぎなかったのです。
 こうした狩猟者の中から、熊野の干与定、立山の佐伯有頼、伯者大山の依道などのように、山の神の霊異にふれて宗教者となって山を開いた者も出てきます。やがて仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って修行をするようになります。彼らが修行した山岳は、一般の里人たちからは、死霊、祖霊、を与えるものとして畏れられていた所です。そこに入り、修行する行者たちは畏敬の念をもって見られ、宗教者として崇められるようになったと研究者は考えているようです。
修験道2

仏教と修験者の混淆
 奈良時代の山岳修行者は、山中で法華経や陀羅尼を唱えて修行することによって超自然力を獲得できると信じていました。お山を下りた後は、その力を用いて呪術的活動を行なうようになります。彼らの大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で政府から公認されぬ私度僧でした。のちに修験道の開祖とされる役小角も、こうした宗教者の一人にすぎませんでした。平安時代に入ると最澄、空海によって山岳仏教が提唱され、比叡山、高野山などの山岳寺院が修行道場として重視されるようになります。

4大龍寺2
阿波太龍寺の行場に座する空海像

    天台・真言の密教僧たちは、山岳に寵って激しい修行を行うようになります。
修行者だけでなく、信者の間でも、山岳で修行すれば呪験力をえ、すぐれた密教僧になることができると信じられるようになります。山岳修行によって験をおさめた密教僧(験者)は、加持祈祷の効果がいちしるしいと信じられもした。験を修めることが修験と呼ばれ、験を修めた宗教者は修験者と呼ばれるようになります。

四国辺路3 

現在のゲームの世界で云うと、ダンジョンで修行しポイントを貯めて、ボスキャラを倒してアイテムを揃えて「験を修め」、霊力を増していくという筋書きになるのでしょうか。
こうして修行のための山岳寺院が各地に建立されるようになります。以前にお話ししたまんのう町の大川山中腹に建立された中寺廃寺も国庁の公認の下に建立された山岳寺院です。ここでも大川山を霊山とする山岳信仰があったようです。
石鎚山お山開き4
 
全国各地の霊山と呼ばれるお山にある寺社には修験者が集まるようになります。
東北の羽黒山、北陸の立山、白山、関東の富士山、大和の金峰山、紀州の熊野、伯香の大山、四国の石槌山、豊前の彦山などはその代表的なものでしょう。これらのお山はそれぞれ独自の開山を持ち、それぞれの地域の修験者の拠点として栄えるようになります。そのなかで全国区の霊山に成長・展開していくのが、熊野と白山です。この二つは、全国各地に末社が勧請されて、全国展開を行います。
修験道 - ジャパンサーチ
修験者

 こうして平安時代に畿内に近い吉野の金峰山や熊野三山には、皇族や貴族たちも参詣するようになります。
中でも藤原道長の御岳詣、宇多法皇をはじめ歴代の院や皇族、公家などの熊野詣は有名です。この際に山中の道にくわしい先達(案内人)が必要でした。これを勤めたのが当時の「スーパー修験者」たちでした。
寛治四年(1090)、白河上皇の能野御幸の先達を勤めた園城寺の長吏増誉が、熊野三山検校に任ぜられます。その後は、熊野三山検校職が園城寺長吏の兼職となます。こうして能野関係の修験者は天台宗寺門派の園城寺が握るようになります。つまり、熊野信仰のチャンネルを天台系の寺院が独占したということです。
 鎌倉時代来になると、園城寺に替わって聖護院が熊野関係の修験者を統轄するようになり、本山派と呼ばれる集団を作りあげます。 

 これに対して、吉野側の金峰山からは、大和の法隆寺、東大寺松尾寺、伊勢の世義寺などの大和を中心とする近畿地方の諸寺院を拠点とした修験者が大峰山を修行の場としていました。これらの修験者は大峰山中の小笹を拠点にして、当山三十六正大先達衆といわれる修験集団を形成していきます。
こうして室町時代末になるとふたつの修験道集団が組織されます
①聖護院を本寺とする本山派、
②醍醐の三宝院と結びつく当山三十六正大先達衆
二つの修験集団は、峰人を中心とした教義や儀礼を次第にととのえていきます。また羽黒山、白山、彦山など地方の諸山も大きな勢力を持つようになります。まさに、中世は修験者が活躍した時代なのです。
当山派と本山派の装束の違い

室町時代末なると修験道は教義・儀礼・組織を整備し、教団として確立されます。
 修験道の教義は、修行道場である山岳の宗教的意味づけや峰人修行による験力の獲得に論理的根拠を与えるためのものでした。金峰山や熊野をはじめ、羽黒山・白山・彦山などにも縁起が作られ、それぞれの起源、開山の伝承、山中の霊所などの説明が行われるようになります。
現在の黒瀬ダム周辺

 お山を阿弥陀、観音、弥勒などのどの浄土とするかなどが絵解きで説明されるようになります。修験者は、本来仏性を持つ聖なる存在であるから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・縁覚・菩薩・仏の十界に分けられ、懺悔、業秤(修行者を秤にかけてその業をはかる)、水断、開伽(水汲みの作法)、小木(護摩木の採集)、穀断などの正濯頂の十種の修行をすれば成仏することができるのだという思想も語られ始めます。彼らは「死」の儀礼ののちに峰中に入り、十界修行をすれば仏として再生しうると信じて修行に励んだのです。
第5節 修験道文化の民俗(t047_049.htm)

仏としての「能力・験力」を身につけた修験者は、それを誇示するために出峰後は「験競べ」を行ないます。
「験競べ」には、火の操作能力や剣の階段を昇って天界に達することを示す刃わたりなどのような奇術めいたものが多かったようです。神霊や魑魅魍魎が住むとされたお山で修行をし、全国各地を渡り歩いてきた修験者は不思議な呪験力を持つ宗教者として怖れられるようになります。当時は「祟り神」が畏れられた時代でもありました。多くの災厄が修験者の邪悪な活動のせいにされます。同時に、修験者の呪力に頼れば、除災招福、怨霊退散などの効果をもたらしうると信じられるようにもなります。
 源平の争い、南北朝時代など戦乱が相続き、人々が不安におののいた時、験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく、政界にも大きな影響を与えるようになります。
修験道とは?天狗を山神に!?【修験道入門編】 | 宗教.jp

さらに修験者は山中の地理にくわしく、敏捷だったこともあって武力集団としても重視されるようになります。

源義経が熊野水軍を、南朝が吉野の修験を、戦国武将が間諜として修験者を用いたのは、こうした彼らの力に頼ろうとしたからだと研究者は考えているようです。
 江戸時代に入ると、修験道の力を警戒した江戸幕府は修験道法度を定め、全国の修験者を次のように分断していきます。
①聖護院の統轄する当山派と
②醍醐の三宝院が統轄する当山派
に分割し、両者を競合させる修験道の分断政策をとります。また羽黒山は、比叡山に直属し、彦山も天台修験別本山として独立させるなど、各勢力の「小型化」を計ります。
さらに幕府は修験者が各地を遊行することを禁じ、彼らを地域社会に定住させようとします。
 自由に全国を回って各地の霊山で修行を行うという「宗教的自由」は制限されます。移動の自由を奪われた修験者たちは、村や街に住み着く以外に術がなくなります。こうして修験者は、地域の霊山を漁場として修行したり、神社の別当となってその祭を主催するようになります。また加持祈祷や符呪販売など、いろいろな呪術宗教的な活動を行い、それらを生活の糧とするようになります。次第に修行をせずに神官化するような修験者も多くなります。
 江戸時代の讃岐の3藩の戸籍台帳を見ていると、どこの村にも修験者(山伏)がいたことがうかがえます。
江戸時代中期以後になって成立した村祭りのプロデーュスを行ったのは、山伏たちだった私は考えています。例えば、以前にお話しした獅子舞などは、山伏たちのネットワークを通じて讃岐に持ち込まれ、急速に普及したのではないと思えます。

明治五年、政府は権現信仰を中心とし淫祠をあずかる修験道を廃止します。
 修験者を聖護院や三宝院の両本山に所属したままで天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり、神官になった修験者も少なくなかったようです。例えば吉野修験は仏教寺院として存続しますが、熊野・羽黒山などは、神社に組織替えします。
 また全国各地の修験者が運営権を握っていた諸山の社寺・権現でも、明治政府の後ろ盾を得た神社に主導権を奪われていきます。こうして教団としての修験道は姿を消します。しかし、全国的な組織の解体を、逆手にとって新たな地方組織として再出発する霊山もありました。それが四国では、剣山の修験組織です。独自の組織を立ち上げ教勢を維持するのです。

梅原猛はこれを「廃仏毀釈という神殺し」と呼んで、次のように述べています。
 仏教は千数百年の間、日本人の精神を養った宗教であった。
廃仏毀釈はこの日本人の精神的血肉となっていた仏教を否定したばかりか、
実は神道も否定したのである。つまり近代国家を作るために必要な国家崇拝あるいは天皇崇拝の神道のみを残して、縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教を殆ど破壊してしまった。
江戸時代までは、・・・天皇家の宗教は明らかに仏教であり、代々の天皇の(多くは)泉涌寺に葬られた。廃仏毀釈によって、明治以降の天皇家は、誕生・結婚・葬儀など全ての行事を神式で行っている。このように考えると廃仏毀釈は、神々の殺害であったと思う。

「縄文時代からずっと伝わってきた神道、つまり土着の宗教」に、最も深く関わっていたのが修験道であり、山伏たちだったのかもしれないと思うようになったこの頃です。

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
宮家準 修験道と山岳信仰 修験道と日本宗教所収
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金毘羅街道百十丁石から望む櫛梨山と公文山

まんのう町公文周辺の丸亀街道と遺跡
公文周辺の旧丸亀街道
  まんのう町の公文山には富隈神社が鎮座します。
幕末に、この神社の下に護摩堂を建てて住持として生活していた修験者がいました。木食善住上人です。上人は、石室に籠もり断食し、即身成仏の道を選びます。当時としては、衝撃的な事件だったようです。今回は、この木食善住上人について探ってみようとおもいます。テキストは「川合信雄   木食善住上人 善通寺文化財協会報」です。

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         まんのう町公文の富隈神社
まずは、現地に行ってみましょう。目指すは、まんのう町公文の富隈神社です。
 社殿の上の丘は、いくつかの古墳があり、埴輪も出土しているようです。櫛梨山から続く、このエリアは古代善通寺王国と連合関係にあった勢力が拠点としたした所なのでしょう。南に開けるエリアの湧水を利用した稲作が早くこら行われたいたようです。中世には「公文」の地名通り荘官がいたようですし、島津家が地頭職を握っていた時代もありました。近世になると、丸亀からの道が金毘羅街道として賑わうようになり、参詣客に「公文の茶室」として親しまれていたようです。
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               富隈神社
金毘羅街道から真っ直ぐに階段が富隈神社に向かって続きます。
 鳥居をくぐり山門に向う参道階段の途中は、金毘羅街道の丁石がいくつか両側に並んでいます。
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金毘羅街道にあったものが、この参道に集められているようです。
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神社にお参りして、さらに上に登っていきます。

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木食善住上人の入定塔への案内板
山頂には、国旗遙拝ポールが立っていますが、ここではありません。
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木食善住上人の入定塔
右手の道に入り込んでいくと、尾根筋に五輪塔が見えてきます。これが木食善住上人の入定塔のようです。「横穴古墳の石室を利用して即身成仏を遂げた」とテキストには書かれています。そうだとすると、この塔は古墳の上に建っていることになります。
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            木食善住上人の入定塔
近づいて文字を確認します。正面に
木食沙門・善住上人・白峰寺弟子
とあります。右側面には明治3年とあります。白峰寺とも関係があったようです。
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左は10月16日と刻まれます。
善住上人は明治3年秋、84歳で入定の業に入り10月15日寂滅します。塔には10月16日と刻まれていますから、翌日には入定塔が建立されたことになります。生前から信徒達によって準備されていたようです。
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台座には「丹後国産」と刻まれています。上人の誕生地である丹後から石が取りよせています。入定中に、準備を進めていたようです。

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木食善住上人は、寛政八年(1796)2月11日、丹後国宮津に生まれています。
24才のときに、金毘羅神に誓って仏門に入ったといいます。名を源心と改め、箸蔵寺・高野山・金剛山等で修業を積み、霊運寺の泰山和尚によって潅頂を受けます。
 修験者として諸国を廻り、嘉永3年(1850)54歳で公文村(まんのう町公文)に、公文の金毘羅街道沿いに護摩堂を建て、不動尊を安置して、諸人のために加持祈語を行います。暇あれば、仏像を彫刻します。名も知れていて、丸亀・岡山両藩からも出入を許されていたようです。

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木食善住上人の説明版
入定塔に手を合わせると、 善住上人のことが知りたくなりました。
残された史料を読んでみます。

善住上人丹後官津之人也、寛政八丙辰二月十一日ヲ以テ誕ス。姓ハ杉浦氏天資猛烈ニシテ好武、十四才ノ冬家ヲ出デ、三都二漂浪シ廿四才ノ春二至り先非ヲ悔ヒ仏門二入り性ヲ全クシ、且ツ多クノ罪悪ヲ贖ハンコトヲ思ヒ、我讚ノ金刀比羅宮広前二於テ祈テ日ク、自今改志向善、神仏二道ノ奥意ヲ発明シ、其術ヲ以テ億兆ノ人ヲ助ケ一天四海二名ヲ揚ゲ天人不ニノ神位二至ラン、伏テ仰願ハクハ、此志願ヲ得サセ給ヘト深ク誓ヒ薙染シテ、阿州箸寺二行テ初門ノ行ヲ修シ名ヲ源心卜改メ、高野山高坂坊ニテ金胎両部ノ大法及ビ不動護  摩供ノ法ヲ修ス。

  意訳変換します
善住上人は丹後の宮津の出身である。寛政八年(1796)2月11日生まれで、姓ハ杉浦氏で生まれながらに猛烈で武を好む性質だった。そのため14才の冬に家を出て、三都の街を漂浪した。24才の春になって、その非に気づき悔い改め仏門に入り、自分の性をただし、多くの罪悪を贖うことを願って、讃州金刀比羅宮の広前で次のよう祈った。これより、志を改め、善に向かい、神仏に道の奥意を発明し、その術で億兆の人を助け、一天四海に名を揚げ、今まで人々がたどり着くことの出来なかった神位をめざす。伏して仰願いますので、この志願をお聞き届けください。
と深く願った。そして、阿波の箸蔵寺で初門の修行を始め、源心と名乗った。その後、高野山高坂坊では、金胎両部(金剛界・胎蔵界)の大法、及び不動護摩を修めた。
この年から稲麦赤白豆黍などの五穀を摂らなくなった。
  14才で丹後の生家を出た少年が、三都の都市で10年間の徘徊・放埒を重ね、24才で仏門の前にたどり着きます。
それが金毘羅さんであったようです。どうして、金毘羅さんだったのでしょうか。想像するなら都市で活動する金比羅修験者との出会いがあったのではないでしょうか。
 当時の金毘羅大権現は、別当寺の金光院院主を領主とする宗教的な領国でした。金光院院主は、もともとは高野山で修行積んだ真言密教の僧侶でもありました。境内では護摩祈祷が行われる神仏混淆の仏閣寺院が金毘羅大権現でした。つまり、運営主体は真言密教僧侶で、彼らは修験者でもあったようです。当時は修験者=天狗とされていましたので、金毘羅大権現はある象頭山は天狗の山としても有名だったようです。そのため全国の修験者たちの聖地でもあったのです。
 江戸時代の「日本大天狗番付表」からは、当時の天狗界(修験者)の番付が分かります。 西の番付表に名前の挙がっている讃岐の天狗を見てみると・・・
横綱   京都 愛宕山栄術太郎
出張横綱 奈良 大峯前鬼・後鬼
大関   京都 鞍馬山僧正坊
関脇   滋賀 比良山次郎坊
小結   福岡 彦山豊前坊
出張小結 香川 白峯相模坊
前頭   愛媛 石鎚法起坊
同    香川 象頭山金剛坊
同    岡山 児島吉祥坊
同    香川 五剣山中将坊
同    香川 象頭山趣海坊
  張出小結には、白峯相模坊(坂出市白峰寺)があります。さらに前頭には「象頭山金剛坊 象頭山趣海坊」の名前があります。ここからは、象頭山が天狗信仰のメッカのひとつで修験者たちが活発に活動していたことが分かります。
善住上人の生まれた丹後は、中世には修験の一大集団の拠点でした。
彼らは独自の経典も持っていて、その中の一つである「稽首聖無動尊経』には、次のように記されます。
「我が身を見る者は菩提心を発し、
 我が名を聞く者は悪を断ち、
 我が説を聴く者は大智恵を得、
 我が心を知る者は即身成仏せん」
 この教えに従い、丹後出身の修験者たちは、多くの木食を生み出し、生きながらにして即身成仏し、入定する道を辿った先達が数多く送りだしています。善住上人も、丹後の先達達の道を辿って、不動明王を守護神として諸人を救済し、最後に即身成仏する道をたどります。それは彼にとっては「自然」な道だったのかもしれません。

善住上人は24才で、そのスタートを金毘羅さんに求めたことになります。
当時、金毘羅大権現で修験道組織を担当していたのは多門院でした。多門院は、江戸時代初期に金光院宥盛が土佐の有力な修験勢力を招いて定住させた子院です。金毘羅さんの民営部門と修験関係のことを担当したと云われます。江戸時代後半に台頭してきた阿波の箸蔵寺の修験者たちを、金光院に最初に顔合わせさせたのも多門院だとされます。当時の金毘羅大権現の天狗会のリーダーだったようです。
 多門院が管轄する修験ネットワークの中に、若き日の善住上人は飛び込んだことになります。
そして、上人の最初の修行地となったのが多門院と関係の深い阿波の箸蔵寺でした。ここで初門の修行を始め、源心と名乗り、その後、高野山高坂坊に転じていきます。
この年から稲麦赤白豆黍などの五穀を摂らなくなったと記されます。「木食」とは米穀などの五穀を断ち、木の実を生のままで食べる修行をすることで、そのような修行をする僧を「木食上人」と呼びます。彫刻仏で有名な円空も「木食上人」です。同じような修行スタイルと志を抱いていたことがうかがえます。
  しかし、この時点では彼はまだ私度僧(しどそう)です。私度僧というのは、正式な許しを得ずに出家したお坊さんのことです。その後の修行生活を見てみましょう。

夫ヨリ大和、金剛山北原ノ大獄ニテ一千日修行、亦泥川ノ岩谷ニテ一日水浴三度シテ一年念仏修業、次二諸国山々滝々霊社ヲ順拝後、四国霊場四度ノ終リニ東京、深川霊運寺泰山和尚卜共二、亦七度順拝其間恵心刻苦シテ暫クモ怠廃セズ、真言密法ヲ授カリ終り霊運寺二従ヒ行キ、棺観頂壇二入リテ黍皆伝法ス。
意訳変換しておきます

 文政二年(1819)の冬、大和、金剛山北原の大獄で千日修行、また泥川の岩谷で一日水浴(瀧行?)三度の一年念仏修業、さらに諸国の山々滝々霊社を順拝後に、四国霊場を四度巡り終えた。その時に東京・深川霊運寺の泰山和尚と共に、7回の巡礼を重ねた。その間の苦難にも、怠廃することなく真言密法を授かり終えた。そこで霊運寺から棺観頂壇で皆伝を受けた。

  金剛山での千日修行、一年念仏修行の荒行を行い、その後に、四国霊場を11回廻っています。そして、深川の霊雲寺泰山和尚から潅頂を受けています。これで、正式な出家をした得度僧(とくどそう)になります。
実復夕四国へ帰り金刀比羅官へ神仏ノ像、千鉢奉仕ラント誓願、裸銑ニシテ人家ノ内二不宿、火食セズシテ四国十遍拝順、今西讃観音寺少し東二生木ノ不動尊アリ、是ハ上人右樹下二宿セントセルニ不図傍二斧アルヲ以テ一夜二彫刻セシナリ如、此霊異ノ事件枚挙ニ違アラズ。
  後東讃自峰寺而住和尚弟子トナリ善住卜改、
白峰、根来ノ間、南條峰二小庵ヲ作り住シ、毎日水浴数度後干亦諸国修行二出デ紀州那智山ニテ三七火滝行。又同山権現二於テ廿一日断食行ヲ為シ、次二志摩国沖ニテ筏二乗り修行ノトキ俄二大風起り洋中へ吹キ出サレ、筏解ケテ丸太ヲ持チ泳ギ居ル時、神来り給ヒ、紀州孤島へ助ケ給フ干時、七福神委ク顕ハレ給フ也、士人三十六才ノ春也。夫ヨリ讃ノ南條二帰ル、今年大早上人大久保一学公ノ命ヲ奉ジ根来ノ北、ジョガ渕二於テ雨ヲ祈り霊現忽二在り。大久保公ヨリ恩賞ヲ賜ハル.
意訳変換すると
   その後再び四国へ帰り、金刀比羅官へ神仏像を寄進することを誓願した。
そして、人家に泊まらずに、煮炊きしたものを食すことなく、四国巡礼を10回行った。今、西讃の観音寺の東に生木ノ不動尊があるが、これは、上人がこの木の中に宿っていた不動尊を、傍らの斧で一夜の内に掘りだしたものである。このように上人の霊異事件は、枚挙できないほどである。
 
その後、白峰寺の住和尚の弟子となり、善住と名を改めた。
白峰寺と根来寺の間の南條峰に小庵を作り住み、水浴を毎日、数度行い身を清めた。その後、また諸国修行に出た。紀州那智山で三十七火滝行。同山権現で廿一日断食行を行い、次に志摩国沖で、筏に乗って修行中に、にわかに大風が起り、大海に吹き出され、ばらばらになった筏の丸太を持って泳いでいると、神が救い給いて、紀州の孤島へたどり着いた。七福神のすべてが現れ救われた。これが上人36歳の春のことである。
 その後に讃岐南條に帰ると、その年は大干ばつであった。そこで、大久保一学公は上人に雨乞いを命じた。上人は根来寺の北のジョガ渕で、雨を祈りたところ霊現あらたかでたちまちに雨が降った。これで久保公より恩賞を賜わった。
近畿での荒行を終えて帰った後も、四国巡礼を繰り返し行っています。
そして「白峰寺の住和尚の弟子となり、善住と名を改めた」とあります。白峰寺は「先ほど見た全国天狗番付の中に西の張出小結に「白峯相模坊(坂出市白峰寺)」とありました。相模坊という天狗の住処として有名でした。この天狗は、崇徳上皇の怨霊と混淆したと物語では伝えられるようになっていました。ここからも善住上人が修験者の道を歩んでいたことが分かります。入定塔にも「白峰寺弟子」とありました。
 当時の四国霊場は修験者の行場の伝統が残っていたようです。
「素人遍路」は、納経・朱印の札所巡りでした。しかし、修験者の四国巡礼は、奥の院の行場での修行が目的であったようです。 さらに熊野行者の本拠地である那智で滝行、熊野権現で断食、志摩で補陀落渡海行をおこなっています。讃岐に帰ると、雨乞い祈願を根来寺で行い、成功させています。空海以来の善女龍王信仰に基づく雨乞祈祷を身につけていたようです。こうして、武士達支配層からの信心も受けるようになっていきます。

上人南條峰ニテ入定セント三十八才、十一月十三日石室二入定有故、翌年二月、八十二日ニシテ被掘出、根来寺来而警之旬有五日ニシテ更二念陽二適ス、然後益爾密法ヲ研究シテ不惜四十一才ノ五月二十三日ヨリ、高野山紀州ノ大門ヨリ奥院マデ無言断食シテ、 一足三拝ヲ三日三夜二勤ム、抑一足三拝ハ弘法大師御入定後、白河法皇御修行、後之ヲ行フ者在ルコト莫シ。依之野山文人々始メ諸国共ニ木食上人卜唱へ敢テ名ヲ云フ者無シ。後テ備州、岡山帰命院、個リノ住職トナリ四十三才ノ春、同宗十二箇寺見分ニテ、一七日ノ間二不動護摩八万本執行、此後、岡山公及ビ丸亀公ノ命ヲ奉ジ、毎事御武運ヲ奉祈、或ヒハ御城内二於テ護摩供ヲ奉修。実上人従十五才今七十五才入定ノ日至ルマデ、毎水浴不怠、寝ルニ横二伏ルコトナク終夜座シテ読経、自昼ハ勿論又仏像彫刻無巨細一夜二必成、之今年二至テ壱千三百有余射彫刻。以是上人修行円満是足終二真言、秘密両部神道ノ奥義、真面ロヲ発悟、諸人尊敬スルコト日々益盛ナリ。

意訳変換すると
上人は南條峰で入定を願い三十八才の時、十一月十三日に石室に入定すした。しかし、故あって、翌年2月に82日で石室から掘出された。その後は、密法研究に没入し、四十一才の5月23日から、高野山の紀州大門から奥院まで無言断食で、一足三拝の行を三日三夜勤めた。この一足三拝は、弘法大師入定後は、白河法皇が修行した後は、誰も行ったことのない行であった。この行により木食上人の名声は高まった。これより後は、備州・岡山帰命院の住職となった。43才ノ春、同宗十二箇寺の見分で、17日間の不動護摩八万本を執行し、その後は、岡山藩や丸亀藩の藩主の命を受けて、武運奉祈や城内での護摩供を行うようになった。
 実に上人は15才から75才で入定に至るまで、毎日の水浴を怠らず、寝るときにも横になることもなく、終夜座って読経した。昼は仏像を彫刻し、大小にかかわらず一夜の内に作り上げた。
 今年になるまでに1300体を越える神仏像を彫りあげてきた。以上のように上人の修行は円満で、遂に真言、秘密両部神道の奥義を修得した。そして諸人の尊敬を集めるようになった。
ここからは、上人は38歳の時に、一度入定を試みたことがあったことが分かります。故あって、中断されたことが記されます。一度、死んだ身であるという思いは、持っていたのでしょう。そして、いつかは果たせなかった即身成仏を、果たしたいと念じていたのかもしれません。その後は、名声も高まり岡山藩の信頼も得て、岡山で住職を務めました。同時に、人々の幸福を祈り、数多くの神仏像を彫り上げ、求める者に与えたようです。

公文 木食善住上人の釈迦三尊
 金箔の厨子の中に阿弥陀三尊像が立っています。台座には墨書で『元治二乙成丑二月善住刻七十才 林田村(坂出市)中條時次」と記されます
嘉永庚成年春、東讃藩、伊丹秋山氏等卜相謀テ護摩堂ヲ干此建立ス。上人徳益念盛ニシテ諸家争ッテ奉請故二営寺ニアルコト稀也。上人神祗及仏像彫刻且処々二暫時少滞留其霊験及地名猶又上人ノ
御祈徳二依テ武運長久、家業繁栄、無病延命等ノ如キハ別二霊験記有ルヲ以テ略ノ此篇ハ上人修行ノ一端ヲ云フモノ也。
 姦年希願伐就二依テ寺ヲ以テ真言僧二譲り、二月十一日営奥院ニテ入定菩薩如来卜成仏ナシ給ヒ四海泰平衆生度生ヲ守護ナシ給フナリ、余上人ノ霊徳ヲ蒙ルコト不少且旧好ナルヲ以テ柳其梗概ヲ記シ佗日同志卜共ニ相謀リテ上人伝記ヲ著ハシテ以テ営寺二秘蔵セント欲スト云爾
明治三庚午孟夏上院     復古堂 中條澄靖 謹而誌
猶上人ノ作品其他ノ遺品ヲ挙グレバ
一、仏像(上人七十歳作)綾歌郡金山村            善光寺蔵     
一、仏像(上人六十六歳作) 高篠村                  長谷川節氏蔵 
一、位牌       〃                                                片山甚吉氏蔵 
一、書物二部                                                   片山甚吉氏蔵 
一、ノミ及カンナ                                            山内永次氏蔵 
此外多数アル見込ニテ調査中ナリ
意訳変換すると
嘉永庚戌(1850)年の春、高松藩の伊丹秋山氏等と相談して、公文に護摩堂を建立した。上人の徳益は高かったために、多くの人々が争うように上人を招いたので、寺にいることは稀であった。護摩堂にいるときには、神仏像を彫刻した。その霊験は高く、上人の祈徳で武運長久、家業繁栄、無病延命など現れた霊記も残されているので、多くは語らないが、ここでは上人修行の一端だけを記しておく。
 明治3年、かねてからの願いよって、寺を真言僧に譲り、奥院で入定し菩薩如来としてり、成仏され、四海泰平、衆生度生を守護されいと願われました。私は上人の霊徳を蒙ることが少なくなく、古くから交流があったので、上人の概要を記し、同志と共に上人伝記を著わし、寺に秘蔵したいと思う。
明治三(1870)夏    復古堂 中條澄靖 この誌を謹呈する
なお、上人の作品や遺品をあげると次の通りである。
 
金毘羅丸亀街道
金比羅・丸亀街道の富隈神社付近

  善住上人が公文の地に護摩堂を建立したのは、嘉永年間の54歳の時のようです。
名声が高まってから発心の地である金毘羅大権現のお膝元に帰ってきたようです。金毘羅街道のかたわらの公文山松ケ鼻に護摩堂を建て、不動明王を安置し終の棲家としたようです。

公文山 富隈神社

 毎朝、東を流れる苗田川で水浴し、その後は堂の階上で太陽を拝礼して、祈祷と仏像を彫刻するを日課しました。彫刻中は、食を取らず専念従事して一夜彫りで作り上げたます。彫刻した仏像は堂内に、所せましと並んでいたと云います。

公文 木食善住上人の蓮如像
      坂出市林田町善光寺 善住上人七十才作

 各地からお呼びがかかるので、不在にすることが多かったようです。それでも、お堂にいるときには金毘羅参詣者に湯茶の接待を施し、諸人の願いあれば、祈祷や・予言を行いました。それが霊験あらたかなので、ますます信者は増えます。その名は近郷は言うに及ぼず、丸亀・岡山・江戸深川等に響いたと伝記は伝えます。
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富隈神社下の金毘羅街道 地元の人は「旧道」と呼んでいる

公文の谷くさり鎌の使い手で上人と親交のあった谷口嘉太郎氏は、入定の模様を次のように語っています。
明治三年春になって、護摩堂の後山の富隈神社の鎮座する丘の頂にある横穴式石室を入定地に選んだ。ところがこの時には、盗賊のため引き出され、その目的を達せすことができなかった。秋になって、再度入定の業に入った。五穀を断って、そぱ粉を常食とした。それも断ち、水を飲みながらひたすら経文を唱えて身体の衰弱をはかる。さらに、水の量も減らし、 一滴も飲まず十日。そこで入定室に入り、鐘を振り経文を唱えて死を迎えようとする。
 
各地より、信者が多く駆けつけ、入定室の近くに仮の通夜堂を設け善住上人の振る鐘の音に耳を傾ける。上人の唱える経文に和して、しめやかに経文を唱え続けた。入定室からの鐘の音と経文の声は、日がたつにつれて次第に低くなり、幽かになっていった。ついに十月十五日、途絶えてしまつた。
 人々は善住上人の徳を偲びながら入定室を開じた。その入定の姿は見事な最後であった。翌十六日立派な入場塔を建立した。その石は、善住上人生誕の丹後宮津から運ばれてきた石だった。時あたかも明治維新政府による廃仏棄釈の世なれば、佛閣は荒れ、仏像の多くは野に積まれ、又は焼かれるありさまである。この状態に耐えかねて、仏道ここにありと入定したのではなかろうか。
 上人の入定は、地元では大きなニュースとなったようです。
各地からの多くの浄財も集まり、入定塔周辺や富隈神社の境内整備にも使われたようです。また上人は修験者として武道にも熟練していたので、丸亀藩・岡山藩等の家中の人と往来も多かったようです。
公文 灯籠 木食善住上人

現在、善通寺東院境内にある眼鏡灯(摩尼輪灯)2基は、岡山藩の藩士達が、入定塔周辺に寄進設置したもののようです。それが、いつの時代かに善通寺境内に移されたようです。残りの一基は、今は櫛梨神社の参道にあるようです。
丹後からやってた若者が象頭山の天狗に導かれ、修行に明け暮れひとかどの修験者に成長し、即身成仏する姿を追って見ました。その中で改めて金毘羅大権現の当時のパワーを感じないわけにはいきません。ある意味、都会を捨てたIターン若者を受けいれるだけの包容力が金毘羅さんにはあったのでしょう。同時代の人材を見ても、多くの文化人達が、やってきて周辺に住み着いています。その中には、以前にお話したように、金毘羅街道の整備に尽力する画家や僧侶がいました。
 また、国会議員となる増田穣三に華道を教えた宮田法然堂の僧侶も丹波からやってきた僧侶でした。そのような「よそ者」が住み着けるゆとりが金毘羅さんの周辺にはあったような気配がします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
川合信雄   木食善住上人 善通寺文化財協会報
まんのう町誌
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 今から約300年前に起きた宝永の地震は、讃岐にも大きな被害を与えたようです。そのため被害の様子が記録として,数多く残っています。宝永地震を史料から見てみることにします。
四国八十八ヶ所】第八十五番 八栗寺・八栗山・五剣山 香川県 ツツジ ...
八栗寺山門からの五剣山
 高松市牟礼町と庵治町の境にある五剣山は、その名の通り五本の剣が天を突き刺すように並ぶ山容でした。しかし、今は南端(右)の五ノ峰が崩れ落ちて「四剣山」となっています。この五ノ峰を崩れ落ちさせたのが地震のようです。当時の資料を見てきましょう
五剣山1

  現在の五剣山は5つ剣には見えないようです。
それでは地震で、崩れ落ちたのはどこなんでしょうか?
 崩壊前と崩壊後の五剣山の姿を比較できる絵図があります。崩壊前の五剣山を描いた絵図「四国礼場記」を見てみましょう。
五剣山2

    これは地震前の元禄年間に、高野山のエリート学僧寂本が四国をめぐり執筆した霊場誌です。本堂の後に天を指すように五剣山が立ち、そこには洞窟があり峰の頂には社が勧進されている様子が描かれています。北側(左)から順番に一の峰、二の峰と呼ばれていたようです。この絵図で見ると真ん中のひときわ大きい峰が3の峰と思っていましますが、これが4の峰になります。そして、南端(右)の二つに分かれた峰をまとめて5の峰と呼んでいたようです。

 山と寺の名前の由来を、寂本は次のように記します。
 空海は思いを凝らして七日間、虚空蔵聞持法を修した。明星が出現した。二十一日目に五柄の剣が天から降った。この剣を岩の頭に埋めたことから、五剣山と呼ぶようになった。空海は千手観音像を彫刻して、建てた堂に安置した。千手院と号した。
 この山に登れば、八国を一望に見渡せるため、「八国寺」とも呼ぶ。空海が唐への留学で成果を挙げられるか試してみようと、栗八枝を焼いて、この地に植えた。たちまちのうちに生長した。そこで八栗寺と名を改めた。
 中央の峰に祀られていたのが蔵王権現です。
この峰には七つの仙窟があり、そこには仙人の木像や、五智如来が安置されいたと云います。蔵王権現を祀ることから石鎚山と同じ天台系の密教寺院であったことがうかがえます。中央には、空海が岩面に彫り込んだ高さ一丈六尺の大日如来像があり、そこで空海は求聞持法を行った岩屋があとも記します。  絵図ではひときわ高く太く描かれた真ん中の峰が蔵王権現が祀られた峰にあたるようです。
五剣山3

崩壊後の五剣山を描いた絵図を見てみましょう。

伽藍背後の五剣山を見ると、北側の4つは変わらないようですが南端の五の峰がポキンと折れて、平たくなっているように見えます。ふたつの絵図の比較から姿を消したのは、五の峰だったようです。
五剣山6

 宝永地震は、宝永四(1707)年10月4日未刻(午後2時頃)に発生しました。
規模は、マグニチュード8・6、震度最大6(推定)で、我が国最大級の巨大地震とされます。足摺岬沖から御前崎に至る南海トラフ沿いの全海域を巻き込んだフィリピン海プレートの沈下にともなう海溝型地震とされています。
 この地震による被害は、北陸地方から九州地方まで広い範囲に及んでいて、死者は推定2万人とされます。地震後には道後温泉などの各地の温泉の湯が一時的に出なくなり、49日後には富士山が大噴火し、宝永火口をつくります。讃岐では、この年は3月に地鳴か起こり、8月・9月には大雨や大風が発生、そして10月にこの地震です。この時期は旱魃も続き、社会不安が広がったようです。

五剣山9

  当時の人たちは、どんな記録を残しているのか見てみましょう
  「翁賜夜話」)
  五剣山一峯崩墜 火光如電響驚数里  
「地震発生とともに、五剣山の一峰が崩壊した。その際、火柱が電光のように立ち、数里にわたる轟音が響いた」

  「嘉永七寅年地震記写」
  平水時代右祖父之若盛り二相当り申候 其両八栗山五剣山之内東壱剣崩れ申候と申候
祖父の若い頃のに、五剣山の内の東端の山稜が崩れたと云っていた。この史料が書かれたのは、嘉永七(1854)年の安政南海地震の後に書かれています。宝永地震を体験した祖父からの聞き伝えを記しているようです。地震で崩れた場所は「東壱剣」と具体的な崩落場所を記述しています。

   「消暑漫筆」
   五剣山 一眸崩れ墜たるも此日の事なり
この史料も「嘉永七寅年地震記写」と同じように、後の時代に両親からの聞き伝えで、宝永地震の当日に五剣山の一峰が崩れたとしています。
このように多くの史料が五剣山は、宝永地震の際に、一峰が崩落したと記しています。

   「恵公外記」
   八栗山之嶽三ケ所大石落申候
  「八栗山の嶽の三ケ所が崩落し、大石が落ちた」と、短く記します。その崩落した峰のことには触れずに「三ヶ所から大石が落ちた」とあるので、他の峰でも崩落があったようです。
 
 宝永地震以前にも五剣山は、崩落していた
『讃岐国名勝図会』亘五剣山の記述
  往古 五剣完かりしが元禄十一年五月十一日より雨降同廿一日まで止ざりけるとき 廿日の暁五剣の内一峯北嶽中頃まで倒け其下に 大石ありしを五十間ばかり落し 其谷石に埋れけるされど権現の社は恙なかりける 其後宝永四年十月四日未の刻大に地震して東一峯また折れ北へ落る火光雷のごとく数里へ聞こえ夥しき音しけるとなむ
意訳すると
昔、五剣揃っていた元禄11(1698)年5月11日から21日まで、雨が降り止まず、地盤が緩み、5月20日の早朝にの五剣の内の一峰が北嶽中腹まで倒れ、巨石が落下し谷を埋めてしまった。しかし、権現の社は無事であった。その後、宝永4年10月4日午後2時頃、大地震が起きて東一峰が折れて北へ落ちた。その時には火柱がたち雷のような轟音が数里に渡って鳴り響いた。

 この元禄11年の長雨による崩落のものなのかどうかは分かりませんが、一・ニノ峰の麓にある中将坊の堂裏や、その周辺には上から転がり落ちてきたと思われる巨石がごろごろしています。この史料からは宝永地震の時のものばかりでなく、それ以前に崩れ落ちてきたものもあることが分かります。
 地震により、山崩れが起こり、五ノ峰がなくなったという事は、当時の人々には驚きと強い印象を与えたのでしょう。多くの人たちが記録として残しています。

五剣山8断面図

どうして崩れ落ちたの?
 五剣山・5の峰の崩壊原因を研究者たちは、どのように考えているのでしょうか。五剣山は,火山活動でできた花崗岩を基盤として、その上に凝灰岩、更にその上に火山角礫岩が乗っかっている構造のようです。
そして標高 300mより上は,火山角礫岩が断崖となっています。この火山角礫岩層は,間に凝灰岩層を水平にサンドイッチのように挟む形で、屏風のようにせせり立っていたようです。五の峰は、他の峰が幅があるのに比べて山頂部で 5~7mの幅しかありませんでした。塔のように細くせせりたっていたのです。

五剣山の崩落石
 崩落した巨石は、どこに転がっているのか

五剣山10

 崩れ落ちた岩塊(青い点)は、五の峰の北東側(地点 A右側)と南西側(地点 B左側)に転がり落ちて沢の下で集まっているのが分かります。このうち,地点 Aのものは、五の峰北部から、地点 Bのものは,五の峰北部と南部から落ちてこの地点まで転がってきたと研究者は考えているようです。
五剣山7崩落石

 また、五の峰以外の沢にも、大きな石が転がり集まった場所があります。この時の地震だけでなく、崩落が続いていることがうかがえます。
五剣山崩落イメージ

 どうして五の峰は崩れ落ちたのか?
 先ほどもお話ししたように、五の峰山頂の崩落面は火山角礫岩中を上と下から凝灰岩層が挟むサンドイッチ状態になっていました。長い間の浸食で、凝灰岩層には水平割れ目ができて、上に乗る火山角礫岩は浮石状態になります。それが、巨大地震の揺れで揺さぶられて、崩れ落ちたというシナリオのようです。
 それを裏付けるように、今でも五の峰北部山頂には崩落をまぬがれた東へ転倒した石が残っているようです。
公式Webサイト】五剣山八栗寺とは|第85番札所 五剣山観自在院 八栗寺

以上をまとめると次のようになります
①五剣山の峰は、中新世の火山活動から生まれた火山角礫岩からできている.
②宝永地震で崩壊した五の峰は,他の峰と比べて非常に細く屏風岩のようにせせり立っていた.
③崩壊前の絵図にから五剣山の五の峰には2つのピークがあった
④宝永地震時に、五の峰北部は北方(庵治側),南部は南方(牟礼側)方向に崩落した
⑤五の峰の火山角礫岩層は,凝灰岩層が入り込んで分離面と成り浮石状になっている.
⑥山頂部に残っている転倒した火山角礫岩塊から,峰は墓石が転倒するように崩壊した

見なれた山が大きく姿を変えたことは地元の人たちにとっては、大きな驚きとショックをもたらしたのではないかと思います。また、この山を霊山として修行の場としてしていた修験者たちにとっても、大きな衝撃だったでしょう。しかし、八栗寺や修験者たちの当時の対応を記録した史料は、現在の所は見つかっていないようです。

「巨大地震」という視点で歴史を見直してみると、讃岐も無縁ではないようです。
①宝永地震   宝永 4(1707)年10月4日)
②安政南海地震 嘉永 7(1854)年11月月5日)
③昭和南海地震(昭和21(1946)年12月21日)
約100~150年周期で巨大地震に襲われているようです。早ければ今世紀の半ばには、五剣山の一つの峰を突き崩したような地震に見舞われる可能性があるようです。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香川大学工学部「1707 年宝永地震による讃岐五剣山の山体崩壊 」

   
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 善通寺の西に並んでいる山々を五岳(ごがく)と呼びます。東から香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山のことで、我拝師山はその中央に象の頭のようなどっしりとした山容で聳えています。
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  この山の麓や谷間からは、数多くの銅剣や銅鐸類が出土しています。また、現在の農事試験場から「子どもと大人の病院」に架けては、改築工事で地下を掘る度に遺物が出土していて、この辺りが「善通寺王国の都」があった所と研究者は考えているようです。ここから見上げる五岳は、霊山としては最高です。五岳の盟主である我拝師山が古くから霊山として崇められてきたことは、この山を見ていると納得できます。
3我拝師6

 この山には早くから行者たちが入ってきて修行をおこなっていた気配があります。そして、空海もこの山で「行道」し、「捨身」を行ったという話が伝わっています。

まず、幼い空海(幼名・真魚)の捨身伝説を見てみましょう。
ある日、真魚(まお)は倭斯濃山(わしのざん)という山に登り、「仏は、いずこにおわしますのでしょうか。我は、将来仏道に入って仏の教えを広め、生きとし生ける万物を救いたい。この願いお聞き届けくださるなら、麗しき釈迦如来に会わしたまえ。もし願いがかなわぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に供養する」と叫び、周りの人々の制止を振り切って、山の断崖絶壁から谷底に身を投げました。すると、真魚の命をかけての願いが仏に通じ、どこからともなく紫の雲がわきおこって眩いばかりに光り輝く釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ天女に抱きとめられました。
 それから後、空海は釈迦如来像を刻んで本尊とし、我が師を拝むことができたということから倭斯濃山を我拝師山と改め、その中腹に堂宇を建立しました。この山は釈迦出現の霊地であることから、その麓の寺は出釈迦寺(しゅっしゃかじ)と名付けられ、真魚が身を投げたところは捨身が嶽(しゃしんがだけ)と呼ばれました。
 空海が真魚と呼ばれた幼年期に、雪山(せっちん)童子にならって、山頂から身を投げたところ、中空で天人が受け取ったいう「捨身ヶ嶽」の伝説です。
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4 捨身ケ嶽というのは捨身の行場ということです。
 『日本霊異記』には、奈良時代の辺路修行者が実際に捨身をしたことが、いくつも記されています。本元興寺の稚児が身を投げたという記事が、平安時代の中期ごろに、醍醐天皇の皇子重明親王が書いた『史郎王記』という日記の中にも出てきます。この頃は、盛んに捨身が行われていたようです。そのため養老二年(718)に出された養老律令の坊さんと尼さんを取り締まる「僧尼令」の第二十七条に、「焚身捨身を禁ず」という条があります。
 焼身自殺が焚身、高いところから飛び下りることが捨身です。惜しげもなく命を捨てる修行者が多く出たので、法律で禁止しなければならなくなったのでしょう。
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   今も大峰山で行われている「覗き」の行は、捨身の形を変えたものかも知れません。
 命綱はありますが、突き出されたときにひやっとします。そのときに新しい魂が入って生まれ変わるのだといいます。「覗きの行」は、「捨身」を真似て安全を確保した上で「擬死再生」を体験させているのかもしれません。死んでしまったら元も子もないので、死の一歩手前ぐらいの体験をさせて「生まれ変わった」とするようになったのでしょう。「今日は、これくらいでゆるしてやろか」というところでしょうか。
 死に向き合うという宗教体験をすることによって、今までとは違う自分に気づき、新しい何かを自分のものとすることがあります。現実の見方が変わり「自己確立」への道が開かれるということもあります。
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  さて、事件は現場で起きる、現場を見てから話を進めよという原則に従って、捨身ケ岳に行って見ましょう。まずは、出釈迦寺にお参りします。境内には私の知らない間に、こんな太子像がありました。ここでも空海は、虚空蔵求聞持法の修行を行ったようです。空海の行場であるという事を、お寺は掲げています。

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 この寺は、かつては捨身が嶽の遙拝所でした。それが発展してお寺に成長してきました。
出釈迦寺の本堂から整備されたアスファルトの急坂を30分ほど登ると、我拝師山と中山の鞍部にある奥の院行場・根本御堂に着きます。
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空海からおよそ3世紀後に西行も、ここへやってきて修行を行っています。
彼は鳥羽院に使える武士でしたが、23歳で出家し、高野山で修行を重ねて、真言宗の行者になっていました。西行は、仁安2年(1167)50歳の10月、空海ゆかりの讃岐の地へ修行のためにやってきます。最初に白峯にある崇徳院の墓に参ります、もうひとつの旅の目的は崇徳上皇の怨霊を沈めるためだったようです。その後、この山の麓に庵を結んで2年ほど滞在していたようです。その時に、我拝師山の捨身ケ嶽を訪れています。
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鉄の鎖をつたって登って行くと自然の石を利用した護摩壇があります。
ここからは北側に瀬戸内海が広がります。ここで聖なる火を焚いたのでしょう。
西行の『山家集』によると、捨身が嶽は「曼荼羅寺の行道所」と記されています。
 又ある本に曼荼羅寺の行道どころへのぼる世の大事にて、手をたてるやうなり。大師の御経かきて(埋)うづませめるおはしましたる山の嶺なり。はうの卒塔婆一丈ばかりなる壇築きてたてられたり。それへ日毎にのぼらせおよしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。めぐり行道すべきやうに、壇も二重に築きまはさいたり。のぼるほどの危うさ、ことにに大事なり。かまえては(用心して)は(這)ひまわりつきて   
廻りあはむ ことの契ぞ たのもしき
きびしき山の  ちかひ見るにも
①行場へは「世の大事にて手を立てたる」ようで、手のひらを立てたような険しい山道を大変な思いで登った
②行場には、空海が写経した経典が埋めてある
②高さ3mほどに土を盛った壇が築かれており、空海が毎日登って修行したという言い伝えがあった。
③めぐり行道のために二重の壇が築かれていた二つの壇がある
と記しています。
ここからは西行の時代には、捨身が岳が空海の青年時代の行道修行の遺蹟とされていたことがわかります。

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「登るほどの危ふさ」ときたら大変なものであり「構えて這ひまはり付きて」(這うようにしてしっかりしがみついて)壇の周りを廻ったと記します。
西行も、空海に習って壇の周りを行道していることが分かります。
 廻り行道は、修験道の「行道岩」とおなじで、空海の優婆塞(山伏)時代には、行道修行が行われていたようです。空海も、この行場を何度もめぐっる廻行道をしていたのでしょう。西行は我拝師山の由来として、行道の結果、空海が釈迦如来に会うことができたと次のように記します
 行道所よりかまへて かきつき(抱きついて)のぼりて、嶺にまゐりたれば、師(釈迦)にあはしましたる所のしるしに、塔をたておはしたりけり、 後略
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西行はなぜ我拝師山にやってきて、2年もここで修行するつもりになったのでしょうか?
『山家集』の「善通寺・我拝師修行期」には何度も「大師」(=空海)が出てきます。
先ほど述べたように、西行は、空海が行ったと信じて、3mもの高さの壇に登り、這い回るようにして修行しています。空海が捨身して釈迦如来に逢ったという捨身ヶ嶽に、しがみつくようにして登っています。西行は、空海と自分を重ねることで、空海に対して身体的な共感を作りだし、その境地に少しでも近付こう・理解しようとしているように見えます。それが、真言行者である西行にとって、宗教的修行だったのかもしれません。
 相手に近付く・理解するために疑似体験をする方法は、今の私たちも行っています。福祉教育で行われる車椅子体験などもそうかもしれません。スポーツ等であこがれのプレーヤーに近付くために、同じ練習法を取り入れるというのも同じです。状況を重ね、身体的に何とか共感を図ろうと試みることは、他者を理解し、精神的な距離を近付けるための、ひとつの方法論なのでしょう。
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話がわき道に逸れてしまいました。空海に視点をもどします。
  行道修行は、もともとは洞窟に龍る静的な禅定と、動的な行道を交互にくりかえすものです。
 四国の辺路修行者は我拝師山に来れば、西行のように近くに庵を営んで、静に禅定します。そして、一日に三回から六回の勤行には、鉄鎖をよじ登って捨身行の形をしたり、頂上で塔をめぐったりの行道をしたようです。
 
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 北から見れば平凡な山ですが、西面と南面は厳しい岩稜で霊山で「四国の辺地」の修行所に選ばれたのも納得がいきます。多分、ここでは南面の絶壁に身をのり出して、谷底をのぞく「覗きの行」が行われていたのでしょう。この「覗き」の捨身行があったから、空海七歳の捨身伝説が生まれてきたと研究者は考えているようです。

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 どちらにしろ西行がやってきた12世紀後半は、プロの修験者達が我拝師山で修行をおこなっていたことは確かなようです。そして、行場のルートは、この山から弥谷寺へ、そして七宝山へとのびていたようです。
 以前にも紹介しましたが『讃州七宝山縁起』(徳治2年[1307])には、
「凡当伽藍者、大師為七宝山修行之初宿、建立精舎」
とあます。ここには、大師(空海)が「七宝山修行」を創始した記されています。そして、空海が観音寺・琴弾八幡宮を起点として、七宝山から弥谷寺・五岳の行場を「辺路修行」しながら、山中に設けられた第2~5宿を巡り、我拝師山をもって結宿とする行程が描かれています。大師信仰にもとづく巡礼があったのです。
 このルートは、中世のプロの修験者の辺路修行ルートですから、山の中を行く獣道のような「辺路道」で、近世後半の「遍路」たちが歩いた遍路道とは異なるものでしょう。しかし、道は違ても観音寺 → 本山寺 → 弥谷寺 → 曼荼羅寺 → 善通寺周辺の行場をめぐる修行ルートは存在していたのではないでしょうか。そして、今は忘れ去られた行場がこれらの山中には埋もれていると私は想像しています。

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  空海がここで修行したとすれば、いつでしょうか?
捨身が嶽に登って、ボケーッとしながら考えた「仮説」を最後に示します
平城京の大学に上がる前に、佐伯家の氏寺・善通寺の僧侶(佐伯家一族)から影響を受けて雑密の影響を受け、ここで虚空蔵求聞持法の初歩的な行を行っていた。

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大学をドロップアウトして、その報告のために善通寺に帰省し、僧侶として生きていく事を親族に告げて、ただちに我拝師山で修行に入った。その後、大瀧・室戸への本格修行に出た。

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大学ドロップアウト後に、吉野金峰山で修行し、自分なりの一応のめあすができて善通寺に帰ってきた。そして、我拝師山での修行をしながら一族の同意を取り付け、四国巡礼に旅立った。

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大学ドロップアウト後は、佐伯家とは連絡を絶ち、各地での修行に没頭した。そして、遣唐使の一員になるために僧籍を得る必用があり、この時に善通寺には帰ってきた。遣唐使に選ばれるまでの期間に、生家(佐伯家)の「裏山」である我拝師山や弥谷寺、七宝山までの行場を廻った。
捨身ケ嶽で修行もせずに、ボケーとこんなことを、考えていました。
以上・・
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参考文献 五来重 遍路と行道 修験道の修行と宗教民族
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大滝山5
          
  なだらかに続く阿讃の山脈(やまなみ)は、どれが頂上か見分けのつきにくい山が続きます。その中で一番高い龍王山と相栗峠をはさんで、並び立つのが大滝山(946m)です。この山の北側周辺は、藩政期から高松藩からの寄進を受け、大滝寺のひろい社領として護られてきたために、上部はいまでもよく自然林が残されています。

大滝山2
 大滝山の最高点は神社裏のピーク(946m)です。しかし、残念ながら山頂付近はヒノキが大きく繁り何も見えないので、訪れる人はあまりありません。多くの人が目指すのは、県境尾根を西に進んだ三角点のある城ケ丸です。なだらかで整備された尾根道はには、大きなブナも見えます。讃岐の尾根道で見られるのはここだけではないでしょうか。他にもケヤキ、アカガシ、ヤマザクラなどが茂り、森林浴には最適です。香川県側は「大滝山自然休養林・県民いこいの森」として整備されていますので、森林浴には最適です。

大滝山4
 ここまで書いてきてハイキング案内のようになっていることに気付きました。
今日は、修験道の拠点寺院であった大滝寺について、見ていきたいと思います
ここには現在、山頂に西照神社とその下に大滝山がありますが、明治以前の神仏分離以前は、このふたつは一体の施設で、僧籍を持つ修験者が管理していたようです。
「大滝寺縁起」によると、
①奈良時代に行基菩薩が香川県塩江より来山、この寺を建立したこと、
②平安期の初め延暦十年(791)空海が来山、修行し、
③空海が西照大権現の尊像を彫刻し、法華経出現品を一石毎に一字記し堂の左右に納めた
と記します。
 「行基ー空海」開山というのは、真言寺院の一般的な創建由来ですが、郷土史家や地元の人達の中には、この「空海伝説」を積極的に肯定する人も多いようです。
 というのは、空海の書である
『三教指帰』の中の「阿州大滝岳に求聞の法を修め……」
とある大滝岳を、この大滝山とみなすからです。
縁起は、また天安三年(859)の聖宝の登山を力説します。現在、寺の西方にある高野槙は、聖宝お手植であることや、聖宝にちなんだ男女の厄除厄流の行事が行なわれていることが記されています。

西照神社1
 どちらにしても「聖」伝説が色濃く漂うお寺なのです。
 阿波の美馬町郡里に願勝寺というお寺があります。
古寺で、いくつもの文化財があり、寺独自の記念館も整備されています。
この寺には中世以来、大滝寺と深い法縁関係があったことを示す史料があります。戦国末期の文禄三年(1594)に書かれた「願勝寺歴代系譜」です。この系譜は、当時の住職快盤によって記されたものです。その第六代智由上人の項に、大滝寺に関する記述が見えます。
…後空海上人モ阿波二来り 当福明寺(願勝寺の旧名)二留錫シテ 護摩堂ヲ立テ 本尊不動明王ヲ自作、爾来真言密宗二改ムト云、其比、空海上人 阿波卜讃岐中山ナル大滝ノ峯ニ登り 国土安全ノ祈ヲナスノ処 不思議ノ老翁忽然卜現レ、我是汝が遠祖天忍日命ノ神使也卜。
 空海曰く 其神跡イヅレナルヤ。翁曰 即此処也卜 古塚ヲ七つ其形バ古十墓 変シテ古塚二入テ身ヲ隠ス扨コト故アラ卜此処 一草庵ヲ構 其霊ヲ祭ル 其草庵後 一大滝寺卜改 其神ヲ西照権現ト号ス・智由ノ弟子智信坊ヲ以テ此寺ノ法燈ヲ続カシム
中略……国司藤原道雄西照宮二神田ヲ寄附スト云。
 空海が願勝寺で修行後に大滝峯に登って「老翁」に出会い、西照権現を祀るためにそれまであった庵を大滝寺と改めたとします。ここからは、ふたつのお寺が修験道の流れをくむ寺で密接な関係にあったことがうかがえます。
大滝山3
 もうひとつは、天正三年(1575)の阿波法華騒動です。
これは「中世阿波宗教史 最大の騒動」といわれれます。
騒動のきっかけは、戦国大名の三好長治が日蓮宗に熱烈に帰依して、阿波国内の一般庶民にまで、法華に改宗を強制したことに始まります。彼は堺の妙国寺の僧三百余人を阿波に派遣し、他宗寺院に改宗の折伏を働きかけたのです。この時に、最も果敢に抵抗を示したのが真言山伏たちでした。三千人の山伏達が、三好氏の居城勝瑞の城下で大デモンストレーションを行います。

三好2
「願勝寺歴代系譜」には、その時の様子が次のように記されています
第二十五代快弁上人の項に、
 …又五郎勧メニヨリ長治公(義賢の子息)日蓮宗二帰依シ 同三年(天正三年)ニハ 阿波国中生レ子迄一人モ残ラス日蓮宗ニナシ 法花(華)経ヲ戴カセント泉州堺ノ妙国寺、経王寺、酒塩寺ノ三ケ寺ヲ阿波へ招待シテ 本行寺二住セシメ、法華坊主三百人南方北方手分シテ 士農工商ノ隔ナク残ラス法華経ヲ戴キ 法華宗トナルノ時、滝寺ノ上人ハ 上命辞シ難シト直二改宗シテ法華宗ノ弟子トナル。
 願勝寺快弁ハ 法華坊主ヲ相手トシテ問答ヲナスト雖、時ノ権威二当り難シト弟子三人ヲ連テ其夜二立退キ高野山二登り法華退治ノ計議ヲナス。此時阿波国中二真言坊主ハ願勝寺ノ外ナシト上方迄モ風聞ス。
 快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ。阿波へ帰りテ同意ノ寺院ヲ訪ラヒ密事ヲ談シ、阿波国ノ念行者数多クノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗対シ不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遺ス処、妙国寺普伝上人返答延引、ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト我々三千余人ノ坊主ハ 此度ノ法華ノ為ニスト無鉢二本行寺へ押入り騒動二及フ。
 其魁トナル人々二ハ 大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻植曾川山、牛ノ島ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大粟ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノ至願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大唐国寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮華寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ。
 忌部郷忌部十八坊ヲ始 其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者共ハ 此事二与セズト雖、国中ノ騒動大方ナラス、是事ヲ聞テ三好家ノ大老篠原自遁馳来リ、種々曖ヒニヨツテ妙国寺、経王寺、酒塩寺等ヲ初メ此外三百人法華坊主ヲ森志麻守請取テ船ニテ上方へ送リケレハ、篠原自遁真言宗ノ寺々ヲ呼出シ、夫レ元ノ宗旨ヲ守ルベシトノ厳 命ニヨツテー旦(其騒動治リ……(後略)
 この中の法華教反対運動の中心として活動した寺院の中に、大滝寺の下寺的存在であるお寺がいくつかあるようです。それらの中に、先ほど見た願勝寺や脇町方面からの登山口の岩倉の地にあった白水寺(岩倉の坊)があります。これらの反対運動の背後に、大滝寺があったことがうかがえます。同時に、大滝山が中世の修験道山伏の一中心でもあったことも分かります。

三好氏1

 一方で、修験道でも「忌部十八坊」や「滝寺ノ上人」は、反対運動に参加しなかったようです。これは忌部十八坊が修験道の世界において、大滝山の系統と別系統であり、対立関係にあったことを示しているのではないかと研究者は指摘します。忌部十八坊は「忌部氏」を祀る地方的な修験道であり、中央(高野山)と連がる大滝山とは、相入れない一面をもっていたようです。

大滝山集落1
 ちなみに、大滝修験道と忌部修験道(高越山)には、こんな話が残っています。
大滝山と高越山は仲が悪く、再三にわたり「石合戦」をしたというのです。
高越山から投げた石が大滝寺の床下にあるとか、脇町や隣接の阿波町のあちこちに残っているという話が伝わっています。また逆に、大滝山から投げた石は、高越山まで届かず「拝原」と呼ぶ地にあるとかいわれます。この石合戦の背景には、大滝山と高越山をそれぞれ拠点とする山伏が修験道の世界では属する集団を別にして仲が悪かったということなのでしょう。
 岩倉の白水寺は江戸時代には愛行院と称し、この地方の修験道の一方の旗頭でした。
『阿波志』には
「愛行院、岩倉村に在り白水寺と称す、天文約書に見ゆ。泉あり白くして甘し、優婆塞居る、租及び丁役を除す」
と課役が免じられていたようです。白水寺は「願勝寺歴代系譜」のほか、高越山の概で記した天文約書にも見えているので、中世以降には、大滝寺に代わって修験道の世界で活躍したお寺であったようです。

大滝寺2
  江戸時代の大滝寺は? 
 大滝寺は寺伝によると、江戸時代にはこの地方の支配者稲田氏から禄を与えられます。
その他にも、西照神社の峰より東へ八丁、西へ八丁、それから麓に至るまで寺領として認められたといいます。また、寺の裏手(北側)も高松藩より権現林として寄附されていました。さらに同藩から供米として五十石を与えられていたと記します。
 その結果、山頂の伽藍の建築物としては、登山道には鳥居の数が十八基、寺域には西照大権現一宇、竜王堂・観音堂・不動堂・護摩堂・奥院に熊野十二社大権現などのほか、多数の建物があったと記します。今日に残された自然環境は、この時の寺域のようです。当時の盛大さがしのばれます。
大滝寺3
 
しかし、明治の神仏分離によってお寺と神社は分けられ、お寺は下に下ろされました。そして、多数あったという伽藍の建築物も地に帰り、ケヤキ、アカガシ、ヤマザクラやブナなどの巨木が茂る神域として私たちを迎えてくれます。

参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道
 

 

                                     

近世初頭の金毘羅さんは、どのように見られていたのでしょうか?

「修験道 天狗」の画像検索結果
 
当時の参拝姿を描いた絵図には、ふたのない箱に大きな天狗面を背中に背負った金比羅詣での姿が描かれています。江戸時代の人々にとって天狗面は、修験道者のシンボルでした。
 幕末の勤王の志士で日柳燕石は次のような漢詩を残しています
夜、象山(金毘羅さんの山号)に登る
崖は人頭を圧して勢い傾かんと欲す。
満山の露気清に堪えず、
夜深くして天狗きたりて翼を休む
十丈の老杉揺らいで声有り
 ここにも天狗が登場します。当時の人々にとって、金比羅の神は天狗、象頭山は修験道の山という印象であったようです。

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金毘羅宮奥社 ここには天狗となった宥盛が祭られている
金毘羅神(大権現)を、金光院は公式にはどんな神だと説明していたのでしょうか。
薬師瑠璃光如来本願功徳経には、次のように記されています。
「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。所謂宮比羅大将...」
薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、
「此十二薬叉大将。各有七千薬叉以為眷属。」
金毘羅神は、ガンジス川のワニの神格化を意味するサンスクリットのKUMBHIRA(クンビーラ)の音写で、薬師如来十二神将(天部)の筆頭で、「宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅」と表記されます。十二神将としては宮比羅大将、金毘羅童子とも呼ばれ、水運の神とされていました。つまり仏教の天部の仏のひとつということです。
新薬師寺 公式ホームページ 十二神将
新薬師寺のクビラ大将

それがインドから象頭山に飛来したというのです。ところが金毘羅に祭られていた金毘羅神とクビラ大将とは似ても似つかない別物でした。江戸時代の金毘羅の観音堂近くに祭られていた金毘羅神を見た人たちは、次のような記録を残しています。
「生身は岩窟に鎮座。ご神体は頭巾をかぶり、数珠と檜扇を持ち、脇士を従える」
これは、役行者や蔵王権現など修験道の神そのものです。その金比羅神が象頭山の断崖の神窟に住み着きます。その地は人の立ち入りをこばみ、禁をやぶると暴風が吹きあれ、災いをもたらすと説きます。今日でも神窟は、本殿背後の禁足林の中にあり、神職すら入れないようです。 ã€Œé‡‘比羅ç\žã€ã®ç”»åƒæ¤œç´¢çµæžœ 
金毘羅大権現像
 ギメ東洋美術館

最初にこの金毘羅大権現像を見たときは、びっくりしました。まるでドラゴンボールのサイヤ星人の戦士のように思えたからです。神様と思い込んでいたから戸惑ったので、最初から仏を守る天部の武人像姿と思っていれば違和感なく受けいれられたのかもしれません。
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本殿から奥社に向かう参道の入口

つまり、金光院は金毘羅神について、次のようにふたつの説明を使い分けていたようです。

①幕府・髙松藩などへの説明 インドより渡来したクビラ神②実際に祭られていたのは  初代院主宥盛の自らが彫った自像

金毘羅神が修験者の姿をしていると伝えられたのはなぜ?

 それは山内を治めていた別当・金光院の初期の院主が修験道とかかわりが深かったからです。例えば、現在の奥の院に神として祀られている金毘羅神は、慶長11年(1606)、自らの姿を木像に刻み、その底に「入天狗道沙門金剛坊像」と彫り込んでいます。
 この金剛坊像、すなわち宥盛の像は、元々は現在の本殿脇に祀られていましたが、参拝者に祟るため、観音堂の後堂に祀りなおされ、最終的には奥社に祀られます。
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金毘羅宮奥の院 岩場は修験者等の行場でもあった
奥社は、金比羅信仰以前から修験者の行場として聖地だったところです。列柱岩が立ち並んで切り立っていて行場には最適です。宥盛も修験者として、ここで業を行っていたのかもしれません。

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金毘羅宮奥の院の威徳巌
 神窟の暴風や金剛坊の祟りにみられる神秘的な信仰要素は、修験特有のものです。このように金毘羅信仰の誕生には、山岳信仰や修験道の要素が入り込んでいます。この二つの信仰が合わさって、風をあやつる異形の天狗となり、海難時に現れ救済する霊験譚や海難絵馬に登場するようになったのかもしれません。
五来重(仏教民俗学)は修験道について、次のように述べています。
「天台宗、真言宗の一部のようにみられているけれども、仏教の日本化と庶民信仰化の要求から生まれた必然的な宗教形態であって、その根幹は日本の民俗宗教であり神祇信仰である」
 修験道の解明は日本の庶民信仰(金毘羅信仰を含む)の解明につながるとの思いが託されているようです。

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 磐の上には烏天狗と(左)と天狗(右)がかけられています。
明治の神仏分離で金毘羅大権現を初め、修験道色は一掃された金毘羅さんです。しかし、ここにはわずかに残された修験道の痕跡を見ることができます。  

奥社に祀られる 金光院別当宥盛(ゆうせい)の年譜

①高松川辺村の400石の生駒家・家臣井上家の嫡男として生まれる。高野山で13年の修行後に真言僧
②1586(天正14)年 長宗我部の讃岐からの撤退後に高野山より帰国。
 別当宥巌を助け、仙石・生駒の庇護獲得に活躍
③1600(慶長5)年 宥巌亡き後、別当として13年間活躍 
    堺に逃亡した宥雅の断罪に反撃し、生駒家の支持を取り付ける。 金比羅神の「由来書」作成。金比羅神とは、いかなるものや」に答える返答書。善通寺・尾の瀬寺・称明寺・三十番神との関係調整に辣腕発揮。
④修験僧としてもすぐれ「金剛坊」と呼ばれて多くの弟子を育て、道場を形成。
⑤土佐の片岡家出身の熊の助を育て「多門院」を開かせ院首につかせる。   
⑥真言学僧としての叙述が志度の多和文庫に残る  高野山南谷浄菩提院の院主兼任
⑦三十番神を核に、小松庄に勢力を持ち続ける法華信仰を金比羅大権現へと切り替えていく作業を行う。
⑧1606(慶長11)年 自らの岩に腰を掛る山伏の姿を木像に刻む
⑨1613(慶長18)年1月6日 死亡
⑩1857(安政4)年 朝廷より大僧正位を追贈され、名実共に金比羅の守護神に
⑪1877(明治10)年 宥盛に厳魂彦命(いずたまひこのみこと)の神号を諡り「厳魂神社」
⑫1905(明治38)年 神殿完成、これを奥社と呼ぶ
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金毘羅宮 巌魂神社(奥社)
ちなみにこの厳魂神社を御参りして、記念に私が求めたのは・・・

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このお守りでした。
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天狗が描かれ「御本宮守護神」と記されています。宥盛は神となり守護神として金毘羅宮を守っているのかもしれません。

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