前々回に、伊予の四国霊場八坂寺について、次の点を押さえました。
①熊野十二社を勧進し、熊野先達業務をおこなっていたこと②周辺に広い霞(信者テリトリー)をもち、広範囲の檀那を擁していたこと
それが近世になって熊野詣でが衰退すると、石鎚詣での先達に転進して活躍するようになり、信者を再組織していきます。これが八坂寺の中世から近世への変化に対する生き残り策であったようです。
今回は、山伏(修験者)たちが、中世から近世への時代変化に対して、どのように対応して生き残っていったのかをを見ていくことにします。テキストは「近藤祐介 熊野参詣の衰退とその背景」です。
熊野詣での衰退要因については、研究者は次のように考えています。
16世紀における戦乱の拡大は参詣者の減少をもたらし、さらに戦乱による交通路の不通によって、熊野先達業務は廃業に追い込まれた。15世紀末以降、熊野先達は檀那であった国人領主層の没落などを受けて、新たに村々の百姓との結びつきを深め、彼らを檀那として組織するようになった。しかし、戦乱の拡大と交通路の不通などにより、檀那の熊野参詣は減少し、熊野先達業務は次第に低調化していったと考えられる。
それでは熊野先達業務が不調になっていく中で、先達を務めた来た山伏たちは、生き残る道をどこに見つけたのでしょうか。それについて修験道研究では、次のような事が指摘されています。
①戦国期には山伏の村落への定住が始まったこと②そして山伏が庶民への呪術的宗教活動を盛んに行うようになったこと
つまり、近世の山伏たちは、生活圏を町場から村へと移し、檀那(信者)もそれまでの武士領主層から村々の百姓へと軸足を移したというのです。それでは山伏は新たに住み着いた村々で、どんな「営業活動」を行ったのでしょうか?
北条家朱印状写の中の「年行事古書之写」を見ていくことにします。これは永禄13年(1585)に、小田原玉瀧坊に対して後北条氏から出された「修験役」に関する文書です。玉瀧坊が後北条氏から定められた修験役は次の通りです。
〔史料五〕北条家虎朱印状写34)(「本山御門主被定置○年行事職之事丸之有ハ役ニ立たさる也 十一之御目録」一、伊勢熊野社参仏詣一、巡礼破衣綴一、注連祓・辻勧請一、家(堅カ守)一、釜注連一、地祭一 葬式跡祓一、棚勧請一、宮勧請一、月待・日待・虫送・神送一、札・守・年中巻数右十一之巻、被定置通リ、不可有相違候、若不依何宗ニ違乱之輩有之者、急度可申付者也、注連祓致陰家ニ(ママ)者有之者、縦令雖為真言・天台何宗、修験役任先例可申付者也、仍而定如件、永禄十三(1570)年八月十九日長純「○時之寺社奉行与申伝ニ候」玉瀧坊
近世に書写された史料ですが、ここには近世初頭の山伏の年間行事が挙げられています。
このことから修験者の役割は、次の4つに分類できそうです。
①伊勢神宮・熊野三山や各種巡礼地への参詣者引率行為、
②家や土地の汚れを祓(はら)う行為③葬送儀礼・神仏勧請といった加持祈祷行為、④守札等の配札行為、
一番目に「伊勢・熊野社参仏詣」とあります。これが、伊勢や熊野への先達業務です。ここからは、戦国時代になっても山伏が伊勢・熊野などの諸寺社への先達業務を行っていたことが分かります。ここで注意しておきたいのは、「伊勢・熊野」とあるように、熊野に限定されていない点です。その他の有名寺院にも先達を務めたり、代参を行っていたことがうかがえます。
しかし、残りの活動を見てみると「注連祓」「釜注連」「地祭」「宮勧進」などが並びます。これらは村の鎮守の宗教行事のようです。また。 「葬式跡祓」とあるので、山伏が村人の葬儀にも関係していたことが分かります。
「月待・日待・虫送・神送」は、近世の村の年中行事として定着していくものです。
ここで私が気になるのが「月待」です。これは庚申信仰につながります。阿波のソラの集落では、お堂が建てられて、そこで庚申待ちが行われていたことは以前にお話ししました。それを主催していたのは、里に定着した山伏だったことがここからはわかります。虫送りも近世になって、村々で行われるようになった年中行事です。それらが山伏たちによって持ち込まれ、行事化されていったことが、ここからはうかがえます。
ここで私が気になるのが「月待」です。これは庚申信仰につながります。阿波のソラの集落では、お堂が建てられて、そこで庚申待ちが行われていたことは以前にお話ししました。それを主催していたのは、里に定着した山伏だったことがここからはわかります。虫送りも近世になって、村々で行われるようになった年中行事です。それらが山伏たちによって持ち込まれ、行事化されていったことが、ここからはうかがえます。
「札・守・年中巻数」は、護符や守り札のことでしょう。
これらも山伏たちによって、村々に配布されていたのです。こうして見ると、近世に現れる村社や村祭り・年中行事をプロデュースしたのは山伏であったことが分かります。風流踊りや念仏踊りを伝えたのも、山伏たちだったと私は考えています。
ここでは、山伏は、「イエ」や個人に依頼され祈祷を行うだけでなく、近世になって現れた村の鎮守(村社)の運営や年中行事などにも関わっていたことを押さえておきます。
越後国高田の本山派修験寺院である金剛院に伝わる「伝法十二巻」を見ておきましょう。
越後国高田の本山派修験寺院である金剛院に伝わる「伝法十二巻」を見ておきましょう。
これは金剛院空我という人物によって著された呪術作法集で、寛文年間(1661~73)に、書かれたものとされます。その内容は、喉に刺さった魚の骨を取る呪法や犬に噛まれない呪法などの現世利から始まり、堂社の建立や祭礼、読経、託宣な169の祈祷作法が記されています。 当時の村に住む山伏が、村人の要望に応えて多種多様な祈祷活動をしていたことが見えてきます。村人から求められれば、なんでも祈祷しています。それは、歯痛から腰痛などの痛み退散祈祷からはじまって、雨乞い、までなんでもござれです。このような活動を通じて、山伏たちは、村の指導者たちからの信頼を得たのでしょう。こうして山伏の村落への定住は、彼らに新たな役割をあたえていきます。
例えば、丸薬などの製法を山伏たちは行うようになります。漢方の生成は、中国の本草綱目の知識と、山野を徘徊するという探索能力がないとできません。これを持ち合わせたのが山伏たちであることは、以前にお話ししました。彼らは、疫病退散のお札と供に丸薬などの配布も行うようになります。それが越中富山では、独特の丸薬販売へと発展していきます。
例えば、丸薬などの製法を山伏たちは行うようになります。漢方の生成は、中国の本草綱目の知識と、山野を徘徊するという探索能力がないとできません。これを持ち合わせたのが山伏たちであることは、以前にお話ししました。彼らは、疫病退散のお札と供に丸薬などの配布も行うようになります。それが越中富山では、独特の丸薬販売へと発展していきます。
天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。そして伊予では、熊野詣から石鎚参拝に転化したことは、以前にお話ししました。その背景について、考えておきましょう。
近世の熊野参詣は、参加者が数人程度の小規模なものになっていきます。
伊勢詣では多額の銭が必要でした。それが負担できるのは中世では、地頭クラスの国人領主層でした。経営規模の小さい近世の名主や百姓たちにとって、熊野参詣は高嶺の花だったはずです。また熊野参詣は、何ヶ月にも及ぶ長旅でした。村の有力者といえども、熊野参詣に赴く経済的・時間的余裕はなかったようです。それに加えて、戦国時代は、戦乱によって交通路の安全が保証されませんでした。これらの要因が熊野詣でを下火にさせた要因としておきます。
伊勢詣では多額の銭が必要でした。それが負担できるのは中世では、地頭クラスの国人領主層でした。経営規模の小さい近世の名主や百姓たちにとって、熊野参詣は高嶺の花だったはずです。また熊野参詣は、何ヶ月にも及ぶ長旅でした。村の有力者といえども、熊野参詣に赴く経済的・時間的余裕はなかったようです。それに加えて、戦国時代は、戦乱によって交通路の安全が保証されませんでした。これらの要因が熊野詣でを下火にさせた要因としておきます。
こうした中で、新たな熊野参詣の方法が採られていくようになります。
天正16年(1588)に古河公方家臣の簗田氏の一族・簗田助縄という人物から、武蔵国赤岩新宿の修験寺院大泉坊に対して出された判物を見ておきましょう。
簗田助縄判物諸社江代官任入候事一、大峯少護摩之事一、宇佐八幡代官之事一、八幡八幡代官之事一、伊勢へ代官之事一、愛宕代官之事一、出雲代官之事一、熊野ヘ代官之事一、多賀へ代官之事一、熱田へ代官之事右、偏任入候、来年ハ慥ニ一途可及禮候、尚鮎川可申届候、以上戊子六月廿一日 助縄(花押)大泉坊
ここには「諸社江代官任入候事」とあります。ここからは、簗田助縄が大泉坊に対して、こららの寺社への代参を依頼ていることが分かります。吉野の大峯から、豊後の宇佐八幡宮まで全国各地の有力神社へが列記され、その中に熊野神社の名前もあります。この時期、武将達は「代参」という形で地方の有力寺社に祈願していたのです。これを研究者は、次のように指摘します。
①「大泉坊が民間信仰の総合出張所=地域の宗教センター的役割を果たしていた②大泉坊に代参を依頼した背景には、簗田氏というよりは、むしろそこに集う民衆の要請があった
ここでは、戦国期には直接参詣に赴くことができない信者の要請を請けて、山伏が代参という形で地方の諸寺社を参詣するということが行われていたことを押さえておきます。人々の熊野に対する信仰は、代参という形に変化したも云えます。
以上をまとめておくと
なぜ中世後期に熊野参詣が停滞・衰退したのか、
①15世紀末(戦国期)ころから山伏たちは、村々への定着とともに、村人を檀那とするようになった。
②山伏は、村人の要請に応えていろいろな祈祷や祭礼を、行うようになった。
③一方で熊野参詣は、村人の経済的理由や戦乱、交通路の問題などにより実施が困難になっていく。
④その対応策として山伏は、熊野先達業務を放棄し、代参という新しい形での参詣形態を生み出した。
④その対応策として山伏は、熊野先達業務を放棄し、代参という新しい形での参詣形態を生み出した。
⑤代参は熊野だけでなく、全国の有力神社が対象で、熊野はそのなかのひとつにすぎなくなった。
⑥その結果、熊野参詣の停滞・衰退が生みだされた
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近藤祐介 熊野参詣の衰退とその背景
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