
民家検労図の烟草(たばこ)
煙草畑(阿波池田)
わが家はもともとは農家で、私の生まれる前は煙草葉を作っていたようです。わが家の主屋の横には使われなくなった煙草の乾燥小屋が倉庫代わりに建っていました。
明治37年頃の煙草乾燥小屋の構造
天井が高くて涼しくて、夏には縁台を出して昼寝をしていたことを覚えています。ソラの集落を原付ツーリングしていると、煙草の乾燥小屋が残されているのに気づきます。それも次第に消えつつあります。煙草小屋が残っていると云うことは、その農家がかつては煙草葉の栽培をしていたことを物語るものです。ソラの集落で煙草葉が、どのように作られていたかに興味があります。そんな中で出会ったのが「池田町史下巻 939P 町民の歴史 箸蔵の煙草農家」です。栽培していた当事者による回想というのは、なかなか出会えません。貴重な資料だと思うので見ていくことにします。私の家では、私の生まれるずっと前から煙草が中心の農家だったんです。
小さいときから煙草摘みや煙草のしは、よくやらされました。兵隊に行くまでは、家族の者と一緒に煙草を作り、大正10年に善通寺へ現役兵として入隊しました。シベリア出兵の留守部隊だったんです。(中略)
除隊後、戦時体制が厳しくなった昭和18年、大政翼賛議員に推薦されて村政にもかかわりました。それから、終戦後、池田町の合併までずっと村会議員をしました。合併のときは、横野太郎さんが村長で、私が議長でした。 箸蔵村は、小さい村で、中学校建てたり、坪尻の駅をしたりしよるうちに赤字になって弱ったんです。そのうち、国から、町村合併せえといわれ、箸蔵村は指定町村になったんです。赤字も大きいし、合併を議決したんです。
(中略)
煙草作るのには、まず土を作らないけません。 939P戦前の徳島農業校の急傾斜地実習肥草はたくさん刈らなんだら煙草はできんので、鎌で一つひとつ刈りましたわ。草刈りができたのは最近です。刈ったのを乾かしといて、また、運びだす。今開拓しとる付近は共同の草刈り場じゃったが、普通は自分の山を刈ったんです。共同の草を刈るには金がいったんです。刈った肥草は、みそ肥という、みそのような村の肥土に苗は、自分で落葉集めて、角な苗床つくって、一日おきぐらいに水やって、上へふご張って、寒いときにはテント張って養成するんです。苗が大きくなったら、苗床広げて、間隔広げて植えて、葉が七枚ぐらいついたら本甫へ植えるんです。今は、農協が苗を育てて植える前に送ってくれるようになりました。
次は、虫の防除です。今では楽でするが、昔は薬がなくて、山のカワラ樫ちゅう大きな葉のある木を刈ってきて、そこへ竹串を立てたりして方々へ配置するんです。それに虫が晩に入るんですわ。深い玉網みたいなのを用意して、揺すって蛾を取る。それでもわくときは、手で一匹一匹取ったもんです。煙草のニコチンが好きな虫がいるんです。取っても取ってもわいてきて、虫取りに苦労しました。現在でも、最低三回は薬で消毒します。その虫取りがすまんうちに、下から土葉(どば)というあか葉ができて、もう収穫せないかんのです。
熟れとるかどうかは、葉の様子を見ればわかる。葉がきちんと上を向いている間は熟れてない。熟れれば葉がひねくれてくる。葉がねじれたよなると熟れている。土葉、中葉、本葉といくんですが、最近は、天葉を先に採る。昔は下から上へ順に採りよったが、今では下から採り上から探りして、全部採ってしまう。土葉をかぎ始めるのが7月の20日ごろで、8月下旬には収穫が終わってしまう。一か月の間ですが、暑い盛りの作業ですから、朝、暗がりで起きて、採って帰って、お昼過ぎまで後始末する。それから吊らないかんきん、ようけ採ったら一日かかる。縄に順々にはせていくんです。たばこ葉の天日干し(まんのう町教育委員会蔵)葉煙草の共同乾燥(琴南町誌)
乾燥させた葉を、今度は一枚一枚のすんです。のしと選別のした葉をクロ(積み重ねた杉)にして、発酵させ、それをしわいて、また積みなおして充分発酵させる。そして今度は選別する。のすのも一枚一枚、へぐのも一枚一枚です。一貫目の葉が五千枚ぐらいはある。それを手でのして、一枚一枚、また、へぐんです。のすのは、南(南風、空気がしめる)をみて、前がしたらしめるんで、そのときおろして、むしろかぶせておいて、のすんです。本葉になったら水をかけてのす。昔は噴霧器がなかったので、ほうきに水をつけて振ったもんです。
納付が、また大変でした。 941P
それでも、畑の作としては煙草にかなうもんはありません。今は、苗は農協が作ってくれるし、消毒は薬があるし、のすことはなし、選別も機械にかけて葉が流れとるのをひらうになっとる。五人組で、優等ひらう、一等ひらう、二等ひらう、三等ひらう、四等、五等は下へ流してしまう。一枚一枚へいで選別したことを考えたら、今は楽なもんです。
池田町史の回想録の中には、戦後混乱期の煙草の闇売りについて語られたものがあります。
次の「煙草葉の闇市場(抜け荷)」は、公的な記録には触れられませんで、これも貴重な記録だと思います。
次の「煙草葉の闇市場(抜け荷)」は、公的な記録には触れられませんで、これも貴重な記録だと思います。
戦地から帰ってから煙草を中心に農業したんです。 1157P
反別は少なかったんですが、煙草耕作組合の千足(せんぞく)山貝の総代をおおせつかりました。煙草耕作組合の下に各部落の総代があり、総代の下に五人組がありました。総代の役目は、煙草を作る申請や納付の世話です。専売所から組合へ来た連絡事項は、総代が五人組の組長に知らせるのです。煙草の闇は、お互いにせられんことを隠れてするんじゃから、「せえ、すな」(しなさい、するな)ですわ。戦後直後は煙草があったら、何でも必需品が交換できた。金で買えんものでも手に入った。たばこの抜け荷は、どこの家でも程度の差はあってもみんなしょったが、総代の私はできなかった。
①「苗床作りについて」(2月17日)②「植付けについて」(5月29日)煙草収納所から講師がきて役場二階で講演。③5月24日苗床検査④6月19日植付け検査⑤8月18日第1回葉数検査⑥8月28日第2回葉数検査⑦9月7 日第3回葉数検査
専売所の検査は、「植付検査」、成長したときは「量目査定」があり、総代立会いで査定をしたもんです。横流しが多くなったから、今度は「葉敬査定」になった。葉のつき方が八枚とか十六枚とか査定して、全部で何万何千枚と決められる。作る者もへらこいから、ええ所抜いて、ワキ芽を伸ばしてそれを収穫した。それも見つかればやられる。本木延長といって普通は、ワキ芽の出たやつは全部とらないかんのです。特別にできの悪い、黒い煙草ができたような場合には、本木延長も認められているんですが、かくれて葉数を増すために、もう一べん芯を止めるんです。そのワキ芽を乾して三枚なり五枚なりをよけ取るわけです。
あんまり葉数が足らなんだら理由書がいる。理由書は、闇に流したと言えんから、虫が食うてのせんとか、雨風におうて腐ったとか言うのです。廃楽処分は収納所へ持って行ってせよということになっていたんです。収納の金額は一貫二千円くらいで、闇が五千円くらいでした。
(抜け荷)煙草の運び出しには苦労したらしいです。立番をして晩に山越しで負うて運び出すわけです。昼間でも、いろんなもんに包んで車に載せて出るのもあるし、山越しに歩いて出したらしいです。祖谷の方からは、相当負い出したらしいです。闇の全盛は三、四年だったでしょうか。当時大分金もうけた人もありました。
そのころの煙草作りは、一反作るのに百二十工ぐらいかかりました。今は、その半分の六十工ぐらいですみます。特に煙草のしは、雨降りとか、外の仕事のできんとき、ほとんど夜業で老人や子供も動員したんで、子供は勉強どころではなかった。何組のしたら幾らやろうということで、子供
にもどうせ小遣いやらないかんしな。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻 939P 町民の歴史 箸蔵の煙草農家
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