瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:天空の村のお堂と峠 > 美馬市のソラの集落

木屋平村絵図1
木屋平分間村絵図の森遠名エリア

前回は、「木屋平分間村絵図」の森遠名のエリアを見てみました。そこには中世の木屋平氏が近世には松家氏と名前を変えながらも、森遠名を拓き集落を形成してきたプロセスが見えてきました。今回は、この地図に描かれた修験道関係の「宗教施設」を追っていきたいと思います。この絵図には、神社や寺院、ばかりでなく小祠・お堂が描かれています。この絵図の面白い所は、それだけではありません。村人が毎日仰ぎ見る村境の霊山,さらには自然物崇拝としての巨岩(磐座)や峯峯の頂きにある権現なども描かれています。木屋平一帯は、「民間信仰と修験の山の複合した景観」が形成されていたと研究者は考えています。
 修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていました。
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の中間に位置する境界が「お山」というイメージです。この場合には、神や仏は山上の空中に、あるいは地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。
「異界への入口」と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰、
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道とされ、
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
 これらの①~⑤の「異界への入口」が、「木屋平分間村絵図」には数多く描かれているのです。その中には,村人がつけた河谷名や山頂名,小地名,さらに修験の霊場数も含まれます。それを研究者は、次の一覧表にまとめています。
木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観一覧表

この表を見ると、もっとも描かれているのは巨岩197です。巨岩197のある場所を、研究者が縮尺1/5000分の1の「木屋平村全図」(1990)と、ひとつひとつ突き合わせてみると、それが露岩・散岩・岩場として現在の地形図上で確認できるようです。絵図は、巨石や祠の位置までかなり正確にかかれていることが分かります。

描かれた巨石(磐座)の中で名前のつけられたもの挙げてみると次のようになります。
①三ッ木村葛尾名の「畳石(870m)」(美馬郡半平村境付近),
②南開名の「龍ノ口」(穴吹川左岸),
③川井村大北名の「雨行(あまぎょう)山(925m)」の頂直下の「大師ノ岩屋」・「香合ノ谷」・「護摩檀」
④名西郡上分上山村境の「穀敷石(950m)
⑤木屋平村の「谷口カゲ」の「権現休石(410m)」
⑥那賀郡川成村境の「塔ノ石(1,487m)」
⑦美馬郡一宇村境の「ヨビ石(881m)」
⑧剣山修験の行場である「垢離掻川(750m)」北の「鏡石(910m)」
 これは異界への入口でもあり、修験行場の可能性が高いと研究者は考えています。
ここでは③の天行山の大師の岩屋を見ておきましょう。
木屋平 天行山
天行山(大師の岩屋や護摩壇などかつての行場) 
川井トンネルから北西に天行山(925m)があります。
木屋平天行山入口

この山腹の岩場に「大師ノ岩屋」・「護摩檀」・「香合ノ岩」などの行場が描かれています。そして絵図では「雨行大権現」が天行山頂に鎮座しています。現在は「雨行大権現」は、頂上ではなく、「大師ノ岩屋」の上方にあり,地元では「大師庵」と呼ばれているようです。
木屋平 川井村の雨行大権現 大師の岩屋付近
天行山の大師の岩屋
明治9年(1876)の『阿波国郡村誌・麻植郡下・川井村』には、次のように記されています。
「大師檀 本村東ノ方大北雨行山ニアリ巌窟アリ三拾人ヲ容ルヘク少シ離レテ護摩檀ト称スル処アリ 古昔僧空海茲ニ来リテ此檀ニ護摩ヲ修業シ岩窟ノ悪蛇を除シタリ土人之ヲ大師檀ト称ス」

意訳変換しておくと
「大師檀は、川井村東方の大北の雨(天)行山にある。人が30人ほど入れる岩屋があり、少し離れて護摩檀と呼ばれる所がある。かつて僧空海がここに来て、この檀で護摩修業して岩窟に住んでいた悪蛇を退散させたと伝えられる。そのため地元では大師檀と呼ばれている。

弘法大師伝説と結びつけられていますが、ここが行者たちの行場であったことがうかがえます。
木屋平 天行山の石段
大師の岩屋への石段 「大師一夜建鉄立の石段」
大師の岩屋には「大師一夜建鉄立の石段」と伝わる結晶片岩でできた急な石段が続いています。頂上直下の岩屋に下りていくと岩にへばりつくように大師庵が見えてきます。
木屋平 大師庵
天行山窟大師

「護摩檀」の横には、「大日如来」像が鎮座します。その台座には、明治9年3月吉日の銘と、「施主 中山今丸名(三ッ木村管蔵名南にある麻植郡中山村今丸名)中川儀蔵と刻まれています。台座に刻まれた集落名と人をみると,世話人の川井村5人をはじめ,三ッ木村4人,大北名3人,管蔵名1人,今丸名13人,市初名(三ッ木村)1人,上分上山村9人,下分上山村3人,不明2人の41人で,近隣の村人の人たちが中心になって建立されたことが分かります。

木屋平 天行山3

 「大日如来」像の横には「大正十五年十二月 天行山三十三番観世音建設大施主當山中與開基大法師清海」と刻まれた33体の観世音像が鎮座しています。ここからは、この岩場は「修験の行場 + 周辺の村人の尊崇の対象となった民間信仰」が複合した「宗教施設」と研究者は推測します。これを計画し、勧進したのは修験者だったことが考えられます。かつては、雨行大権現として頂上に祀られていたお堂は、今は窟大師として太子伝説に接ぎ木されて、大師の岩屋に移されているようです。
 このような「行場+民間信仰」の場が木屋平周辺にはいくつも見られます。

木屋平 三ツ木村・川井村の宗教景観
三ツ木村と川井村の「宗教施設」
次に権現を見ていきます。修験者たちは、仏や菩薩が衆生を救うために権(かり)に姿をあらわしたものを「権現」と呼びました。
絵図に権現と記されている所を挙げると次のようになります。
⑨木屋平村と一宇村境の「杖立権現(1,048m)」
⑩三ッ木村と半平村の境の「アザミ権現(1,138m)」
⑪東宮山(1,091m)西斜面の「杖立権現」
⑫川井村と上分上山村境の「雨行大権現」と「富貴権現(970m)」
⑬三ッ木村・川井村境の「城之丸大権現(1,060m)」
⑭岩倉村境の霊場「一ノ森(1,879m)」の「経塚大権現」・「二森大権現」,
⑮剣山山頂(1,955m)にある「宝蔵石権現」
⑯木屋平側の行場にある「古剣大権現(1,720m)」
⑰祖谷山側にある「大篠剣大権現(1,810m)」
⑱丸笹山頂付近の「権現(1,580m)」
⑲川井村麻衣名の「蔵王権現(現麻衣神社,600m)」
木屋平 宗教的概観
木屋平村西部の「宗教施設」
地図で位置を確認すると分かるように、隣村と境をなす聖なる霊山に多く鎮座しているのが分かります。これらの権現を繋ぐと霊山を繋ぐ権現スカイラインが見えてきます。天上の道を、修験者たちは権現を結んで「行道」していたことがうかがえます。「権現」は、剣山修験の霊場や行場に鎮座しているようです。
山津波(木屋平村 剣山龍光寺) - awa-otoko's blog
旧龍光寺(木屋平谷口)
 中世以来、木屋平周辺の行場の拠点となっていたのが木屋平村谷口にある龍光寺だったようです。
 龍光寺はもともとは長福寺と呼ばれ、忌部十八坊の一つでした。古代忌部氏の流れをくむ一族は、忌部神社を中心とする疑似血縁的な結束を持っていました。忌部十八坊というのは、忌部神社の別当であった高越寺の指導の下で寺名に福という字をもつ寺院の連帯組織で、忌部修験と呼ばれる数多くの山伏達を傘下に置いていました。江戸時代に入ると、こうした中世的組織は弱体化します。しかし、修験に関する限り、高越山の高越寺の名門としての地位は存続していたようです。
 長福寺(龍光寺)は、木屋平を取り巻く行場の管理権を握っていました。それは剣山の山頂近くにある剣神社の管理権も含んでいました。しかし、近世初頭までの剣山は著名な霊山や行場とは見られていなかったようです。高越山などに比べると霊山としての知名度も低く、プロの修験者が檀那から依頼されて代参する山にも入っていません。
  近世になると長福寺は、それまでは「一の森とか、立石、こざさ権現、太郎ぎゅう」と呼ばれていた山を「剣山」というキラキラネームに換えて、一大霊場として売り出す戦略に出ます。同時に、寺名も長福寺から龍光寺へと変えます。そして、「剣山開発プロジェクト」を勧めていきます。そのために取り組んだのが、受けいれ施設の整備です。それが絵図には、下図のように記されています。

木屋平 富士の池両剣神社
 富士の池坊と両剣前神社
  龍光寺は、剣の穴吹登山口の八合目の藤(富士)の池に「藤の池本坊」を作ります。登山客が頂上の剱祠でご来光を見るためには、前泊地が山の中に必用でした。そこで剱祠の前神を祀る剱山本宮を藤の池に造営し、寺が別当となります。これは「頂上へのベースーキャンプ」であり、これで頂上でご来光を遥拝することが出来るようになります。こうして、剣の参拝は「頂上での御来光」が売り物になり、山伏たちが先達となって多くの信者たちを引き連れてやって来るようになります。この結果、龍光院の得る収入は莫大なものとなていきます。龍光院による「剣山開発」は、軌道に乗ったのです。
  この結果、藤の池までの穴吹川沿いのルートや剣山周辺行場だけに多くの信者が集中するようになります。それでも、それまで行場として使われていた巨石(磐座)や権現は、修験者たちによって使われ続けたようです。それが19世紀初頭に書かれた村絵図に、巨石(磐座)や権現として描き込まれていると私は考えています。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「羽山 久男 文化9年分間村絵図からみた美馬市木屋平の集落・宗教景観 阿波学会紀要 

 秋の杖立峠を訪ねて
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穴吹の奥の内田集落の家屋を見て、さて次はどこへ向かおうか考えます。
この庭から見える綱付山から正善寺への稜線を見ていて、杖立峠に行ってみることにします。

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最後の集落である田之内を超えて車を走らせます。
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このあたりの道路は幅もありますし、カーブも適度なので快適な山岳ドライブが楽しめます。振り返ると、いま登ってきた渓谷が深くV字を刻んでいます。そして、田之内集落が、その向こうに見えているのは半平山の稜線でしょうか。

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30分足らずも走ると稜線が近くなってきました。
この地区は友内山、八面(やつら)山、綱付山、正善山、奥野々山、高越山など1,000m を超す高い山々で囲まれています。
かつて修験者達は、各地からこの山々を越えてを剣山をめざしました。口山の閑定滝前にある昭和3年(1928)建立の
「剣山道 是よりお山へ十里 龍光寺八里」
と刻まれた高さ3m、幅1.1m、厚さ40cm の道標や、
古宮の石尾(いしお)神社の鳥居横の
「剣山大権現 明治三十三年(1900)三月建之」
本殿横の「安政五午年(1858)三月吉日」
などに、かつての痕跡がうかがえます。
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稜線が明るく輝いてきました。峠に近づいたようです。
稜線上の広葉樹は、色づき秋の気配です
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林道の開通記念碑が建っています。
杖立峠1080m(つえたて)峠は、剣山への参拝道としてよく使われた峠です。
古老の話では、昔は先達さんに連れられて村の若者達の多くがこの峠を越えたそうです。その時に登りの時に使った杖を、この峠に刺し立てて木屋平へ下って行きました。そのためこの峠は「杖の森」とも「杖立峠」とも呼ばれていたといいます。
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この峠は、平成5年(1993)3月に完成した林道杖立線の工事で、昔の面影はなくなりました。ちいさな祠がかすかにその当時のことを伝えるだけです。
この峠は剣の前衛峰として西から東に、八面山 → 綱付山 → 杖立峠 → 正善山と連なる嶺峰が続きます。かつて、私もテントや寝袋の入った重いキスリングザックを背負って、この辺りを徘徊したことがあります。当時は、ここに車道はなく奥深い峠でした 
 
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 正善寺に向けての道標が立っています。
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林道もついているようです。この稜線沿いの林道を行けるところまで行って見ることにします。
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峠からの坂を登ると、林道工事で出た残土で埋め立てられた広場があります。植林された唐松が梁のような色づいた葉を落としています。
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林道は、稜線を傍若無人に切り開いて伸びていきます。
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そして、迎えてくれたのが彼女・・・・。
なにしきにきたんな あんた かえりな ここは私の領分で・・・
こちらをにらみつけて(?)逃げようとしません。
どうぞ通して下さいとお願いして通過・・・


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そして行き止まりは、集木作業場になっていました。
JP(ジャンクション・ピーク)まで林道は延びているのかもしれません。
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そして、開けた稜線から北側をのぞむと・・
剣山から天神丸を経て、雲早山に続く四国の背骨に当たる山々が東に伸びています。
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中尾山には「天使の階段」が架かっています。
天使が舞い降りてきているような光景です。
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あの嶺峰が白く染まるのもあとわずか・・・
晩秋から冬の気配を感じる杖立峠でした。
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内田集落の家屋を訪ねて

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剪宇峠から下りてきて、やってきたのは穴吹でも一番山深い内田集落。集落入口にある樫平神社に訪問許可を得るために参拝します。
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境内を道路が通っているのですが、通る人もいなく静です。
手洗石に落ちる水音だけが響きます。

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ここに導いていただいた感謝で参拝を済ませて、拝殿と本殿をみると・・・。
まるで雪深い東北の社のような雰囲気。窓もなく木で囲い込まれています。
冬の厳しさのためでしょうか・・・?イメージ 4

高度を上げていくと手入れされた茶畑が現れました。
その向こうには八面山から綱付山への稜線がきれいに見えます。
かつて調査報告の出されていた古い民家の今を確認しに行きます

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町道から石垣の坂をのぼると、その民家は現れました。
ソラの家屋は、日当たりの良い南斜面に建てられます。この家もそうです。傾斜地でなので、等高線に沿って細長く、谷側に石垣を積み敷地を造っています。順番に東側からお墓、納屋、離れ、浴室・便所、主屋と並べて建てられているようです。 イメージ 9
この主屋の建築年は、明治30年(1897)と調査報告書にはあります。
主屋の屋根は、本は草葺(ぶ)きでしたが、調査された時には既にトタンの小波板で覆われていたようです。オブタもトタンの小波板葺きです。
間取りは平入り右勝手の「中ネマ三間取り」です。
「ネマ」の部分を半間北側に突出させています。
「オクノマ」は、現在床を張っているが昔は土間だったようです。「ザシキ」の西側に少し増築して部屋を取っていますが、昔は収納だけだったようです。
主屋の次に現れるのが、この建物。
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今は、この家屋に暮らしている人はいないようですが敷地周辺のカヤが刈られて軒下に集められています。




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最後が納屋です。
この家の屋号は「ワラベノヘヤ」。
ワラベノは蕨野(わらびの)を示していそうです。
小説の題名を思い出してしまいました。
家紋は「キリノシモン」で、家系図も残っているようです
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敷地の西端から見上げるとかり集められてカヤが乾され集められています。茶畑の下に敷かれるのかもしれません。

家屋調査から20年近くの年月が経ち、どんな姿になっているのか気になっていました。無住にはなっていましたが管理はされています。
もう一軒訪ねて見ましょう。

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さっきの家から少し登ったところにある家屋です。やはり、前に深い谷を見下ろし、背面に山が迫る立地条件です。
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屋号は「ナカ」で、集落の中央という意味らしい。興味深いのは、屋敷神に南光院という山伏を祀(まつ)っていることです。剣周辺で行を積んでいた修験道の指導者の家ではないかと思えてきます。
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 主屋は、1850年ごろに建てられたようですが現在は、建具をアルミに替えたりして、かなり手を加えられています。主屋の草葺き屋根は、昭和初期に葺(ふ)き替えをして、昭和50年代には鉄板で覆われたようです。間取りは、平入り左勝手の「中ネマ三間取り」です。
 昔、「オクノマ」は土間で、「オモテ」と「ザシキ」にはイロリがあり、天井は「竹スノコ天井」だったという。「柱、梁(はり)、板戸などは、重く黒光りしており、当時を物語る趣深い内観となっている。」と報告書には記されています。残念ながらここも管理はされていますが、人は住んではいないようでした。
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庭の前には綱付山から伸びる稜線に紅葉前線が下りてきているのが見えました。

徳島県 剪宇峠と豊丈集落のお堂と家屋を訪ねて

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穴吹から剣に向かう国道492号を走るときには、この白人神社に祈願と安全の感謝。台風で被害を受けていた本殿も修復され輝いていました。さあ、とりあえずの目標は剪宇峠です。

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古宮で右折して県道259号に入り、北丈集落を目指します。
県道とは名ばかりの狭い急勾配の道を登っていくと・・

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青い屋根のお堂が迎えてくれました。北丈のお堂のようです。
この日はちょうど観音石像の開眼日で、お寺さんや総代の方がやっってきてお堂が開けられていました。お堂に上がり、町指定の藤原期の阿弥陀仏にお参りさせていただきました。 
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世話役さんから話を伺うと、昭和50・51年の台風災害でこの北又集落の多くの人が里に下りたそうです。それから半世紀近くたって、故郷を顧みるゆとりが出来て観音様を迎えることができたとのこと。このお堂が、散りじりになった人たちの交流の場所になることを願っているとのことでした。お堂が人々を、再び結びつけているのです。こんな風に受け継がれていくお堂もあるのだと教えられました。
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開眼されたばかりの観音様の足下には「ありがとう」の言葉が刻まれていました。
いろいろと御接待を受けてお腹もいっぱいに・・・・感謝イメージ 5

車をさらに上に走らせると最後の家屋が現れました。ここから見えるのが剪宇峠です。大きな二本の杉が目印になります。

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稜線下の県道をしばらく行くっと、道は下り初めそして終点へ。
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ここが剪宇峠直下の「駐車場」になります。
杉木立に囲まれた静かな所です。

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峠には大きな杉が迎えてくれました。地元の人は二本杉と呼んでいます。最大の太さは、幹周りが地上高I㍍で南側のは2・85、北側のは5・65㍍で、遠くから見ると周りの樹木よりもひときわ高く目立ちます。
 杉の根元の小広場には嘉永3年(1850)建立の常夜灯一基と石室内に大師石像が二体鎮座していました。

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向かって右側は明和9年(1772)、左側は弘化4年(1847)とあり、西方の津志嶽に向かって鎮座しています。かつては 旧暦の7月26日に一宇と古宮から大勢の人達が集まって、護摩法要が催され、回り踊りの後、真夜中の2時頃に昇る三体の月を見る行事があったといいます。 
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巨樹の根元に石仏が抱き込まれています。いつの日か木と一体化してしまうのかもしれません。
手水鉢がありますが、これは剪宇の上の戦の窪で落武者狩りがあった時、亡くなった人達を祀った石を巾着に入れて運んだものが大きくなったと伝わり、キンチャク石と呼ばれています。
いろいろな伝説が、深い峠には生まれて消えていきます。
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この峠は、美馬郡一宇と穴吹町古宮の860㍍にある峠で、昔は産業や姻戚間の交流の大動脈でした。峠のいわれは、猪狩の際の解体小屋を宇と呼んでいたところから剪宇峠とついたと言います。
お堂で、話をきいた総代さんも子どもの時分に、畑で積んだお茶の葉を背負って一宇の乾燥場に持って行くために、この峠を何度も越えたと話してくれました。しかし、今は大杉の根元に安置された大師参拝に利用するだけで、訪れる人も少なくなっています。高い杉の梢の先を、秋の風が渡っていきます。イメージ 12

登ってきた北丈の集落が下に見えます。
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しかし、住んでいる人はいないようです。


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剣周辺の山々に、秋がそこまでやってきている気配を感じました。

ソラの集落 穴吹町口山字淵名の古民家を訪ねて
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四国一の清流といわれる穴吹川が東に谷を刻むソラの集落 渕名。
緩やかに張り出す尾根を選んで民家や畑が散在している。

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間近に迫った冬に向けて、畑が耕されている。
ここには、奥行きの狭い土地に対応した間取りを持つ古い民家が数多く残っている。そのひとつを訪ねて見た。

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やってきたのは渕名集落の北のはずれに建つ民家。
家の前の茅場は刈り取られている。

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 この地域は南北朝時代に当地に来た新田家の一族を先祖とする家が多い。周辺にも、新田神社がある。

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屋号は「上屋敷」
家紋は「五瓜(ごり)に四目菱(よつめびし)」

当家の下にあった庄屋の「大舘」も今は無い。
 
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 江戸時代には藍作をし、その後阿波葉タバコを昭和60年ごろまで生産していたという。タバコは天日干しの後、主屋の屋根裏につり、イロリの煙で茅葺き屋根とともに乾燥させた。


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 主屋の東に並ぶムシヤは、下から火をたき屋根上部の煙出しから排気する構造で、タバコを蒸した。現在ムシヤは内部が改装されて物置になっている。

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 屋敷は、標高440m 程の北斜面にあり、東から倉庫、ムシヤ、主屋・カマヤ・フロ、ハナレ、牛屋、少し離れてキナヤ(木納屋)が並んでいる。
 急傾斜に建つため家屋の配置は、奥行きの狭い敷地に線上に並べる形となる。
そのため住居自体も奥行きが浅く、部屋を線上に並べる「中ネマ三間取り」が代表的な間取りとなっている。

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 北入り右勝手の主屋は「四間取り」で、外壁から半間入った本桁から奥行三間×間口六間をで「サブロク」と呼ばれている。
「オモテ」は竹の天井の上に塗り土を置いたヤマト天井だ。

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建築は1800年ごろといわれるが、大黒柱があることから、もう少し新しいとされる。
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かつての調査時にはかやぶき屋根で「草が生え、こけむした屋根が印象的である」と記されているが現在は、改修されている。

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 展望が開かれた東方面には、流れ行く吉野川とその向こうに淡路島が見えた。

参考文献 徳島県郷土研究発表会紀要第45号     穴吹町の民家

穴吹から天空(ソラ)の集落 渕名・家賀の秋を訪ねて
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やって来たのは穴吹川の西の尾根沿いの中野集落。
ススキが風に吹かれて、おいでおいでをしているように揺らいでいる。
これは耕作放棄で荒れた畑にススキが生えているとも見えるが・・・。

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こちらでは、ススキが刈り取られ、集めて積まれ「コエグロ」にされている。

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ここにも、刈り取られたススキとコエグロ。

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そしてその後から新芽を伸ばすススキの株。
こんな風景がソラの集落では、この時期に到るところで見ることが出来る。

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 納屋や倉庫に「保存」されている茅やススキもある。

ススキはこの後、どのように利用されるのだろうか?
そして、コエグロは何のために作られているのだろうか?

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秋深まる山々と冬支度の進む渕名集落を後にする。

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県道255号の峠を越えてやってきたのは、貞光川沿いの家賀集落。

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翌日11月13日が児宮神社の大祭で、幟が立てられ、祭りの準備が完了していた。

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この神社も趣がある。
「かつては200軒近くの家々があり、下の川からこの上まで続く畑に阿波煙草を植え育てていた。そのお陰で、この本殿も作られたし、祭りも賑やかだった。今は、そこに杉や檜が植林され、山に還ってしまった。」
と祭りの準備を終えた総代さんが呟く。

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ここでも茅場のススキは刈り取られ、コエグロが仲良くふたつ夫婦のように建てられている。
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こちらは剪定が終わったばかりのお茶畑。
そこには石墨の祠が顔をのぞかせる。
生活の中に、祖先神等の信仰が根付いている。

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ここには肥場・肥野・肥山と呼ぶ採草地がある。
秋にカヤ刈りを行い、コエグロを作り保存する。
春が来るとそのカヤを畑に敷いて、土の流出を防ぐ。

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 傾斜がきついソラの畑は、これをしないと土が下へ下への落ちていく。

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 それ以外にもカヤを敷くと、施肥や、雑草防止、保水力、保温力、ミミズなどの微生物などを増やす効果もあるという。

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 ソラの集落では、カヤ(ススキ)は、「コエ」と呼ぶ。
採草地(カヤ場)も、人々は「コエバ」(肥場)、「コエノ」(肥野)、コエヤマ「肥山」だ。そして、カヤ刈りは「コエカリ」だ。
つまり、カヤは金肥や化学肥料に頼らず、身近の自然の中から生み出してきた大切な肥料なのだ。

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冬がもうそこまで感じられるソラの集落だった。




紅葉が山々から下りてきて、ソラの集落までやって来ている。



(肥場

美馬市穴吹町 中野・渕名の天空(ソラ)のお堂を訪ねて、その起源を考える。 
 端山霊場巡礼を一巡したので、その周辺の天空(ソラ)の集落とお堂めぐりを開始。今回は清流穴吹川の西側の尾根の集落を訪ねてみることにした。

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穴吹町から小学校の上の道を登っていく。
中野集落にある仏成寺に御参りして、ここから上へ伸びる道を歩く。

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家の前のカヤ場(肥場・肥野・肥山)と呼ばれる採草地から、カヤが刈り取られ、コエグロが作られている。冬の準備が進められている。

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茅場の向こうに赤い屋根のお堂が見えてきた。

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消防屯所の上の丘に、中野集落のお堂はあった。
登ってみよう。

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オレンジ色の屋根が青い空に映える。
お堂は誰が、何のために、いつ頃から立て始めたのだろう?
貞光のお堂が寛政5年(1793)の夏、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が祖谷を旅行した時の紀行文に出てくる。(意訳)
26日、朝、貞光を出て西南の高山にのぼった。その山は険しく岩場もあり、足を痛めた。汗をぬぐいながらようやく頂上に着いたが、そこには五間四方の辻堂があった。里人に聞くと折々に、人々が酒さかなを持って、ここに集り、祈りを捧げたあとに、日一日夜一夜、詠い舞うという。万葉のいわゆる筑波山歌会に似ている。深山には古風が残っているものだと思った。 
ここからは集落の人たちが氏堂に集まり酒食持参し、祖霊の前で祈り・詠い・踊るという。祖霊と交歓する場としてのお堂の古姿が見えてくる。

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吹き抜けのお堂からは、吉野川の河口付近を経て淡路島も望めるようだ。
 氏堂の発生については
最初は、景観のよい所を先祖の菩提所として、いろいろな祈りを捧げていた。やがて草葺小堂が建てられ、日ごろからお祈りしている石仏の本尊が安置される。さらに先祖への祈願の建物としてお堂が現れる。

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 江戸時代のキリスト教禁制とセットになった仏教保護政策とからんで、阿波藩は庶民のお堂建立を奨める。その結果、修験者や僧侶の指導で、経済的に安定してきた元禄時代頃より各集落で建立されるようになった。お堂の棟札からも裏付けられるという。

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 大きな集落では複数建てたり、7、8戸の小部落でも建てている。競うように各集落で建てらた風潮があったようだ。
 当時の庶民負担は大きかったはずだ。にもかかわらず修築、屋根の葺替等が世代を超えて引き継がれてきた。里のお堂が姿を消す中、ソラの集落では今日に到るまで神社とならぶ信仰施設として健在である。

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中野堂近くの民家では、庭先に干し柿をつるす作業が始められていた。

 お堂を維持する力となったのは祖霊への信仰心。
中祖谷地方では、旧盆のゴマ供養が今に続いている。
那賀郡沢谷では盆には「火とぼし」の行事が行われ、念仏供養をしている。いまはすたれているが戦前までは、お盆にはお堂の庭で「まわり踊」が行われ先祖の霊の供養をしていたという。

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次にやって来たのは西山集落のお堂。
ここからの展望も素晴らしい。

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 山村を旅行する場合、宿のない所ではお堂に泊って旅をしたという。現在でいえば無料宿泊所のような役割をはたし、村人もこれを認めていたという。

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 ソラのお堂めぐりをしていて気付くのは、庚申信仰の影響が見られること。庚申塔や光明真言を何万遍唱えたことを示す碑文が数多く残る。しかし、庚申講を今でも開いている集落は殆どない。

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このお堂に導いてくれたことに感謝を捧げる。

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いろいろなことを考えながら煩悩まみれのお堂巡りが続く。


参考文献 
荒岡一夫         お堂の発生について 松尾川流域の庶民信仰の一端
徳島県郷土研究発表会紀要第18号
  
 




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