瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > まんのう町のソラの集落

水主神社による熊野信仰の髙松平野へ伸張

髙松平野とその丘陵部の東西の植田町には、熊野神社が数多く分布すること、その背景として、中世に屋島寺や大内郡の水主神社の熊野行者の活発な活動があったことを以前にお話ししました。熊野行者の痕跡は、香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」として報告されています。この中には、熊野信仰の道と「平家落人の道」・「義経がきた道」が重なりあっていることが指摘されています。今回は、これを見ていくことにします。
 髙松平野から塩江に至るルートには、次のような熊野信仰の痕跡が残されていることを以前にお話ししました。
①松縄町の熊野神社(熊野大社別当・熊野湛増の子孫の建立)
②元山町の熊野神社(元山権現) 大熊氏(熊野湛増の子孫)の建立
③十川西町佐古の熊野神社(吉田神社と同居)
④ヒジリ(聖)の墓  熊野神社をつなぐ街道沿いには、修験者の痕跡
⑤トンボ越 修験者の聖地
⑥城池 植田美濃神の戸田城 山伏池と祠
⑦戸田城の守護神宝(熊野)権現           
⑧菅沢町の熊野三所権現
⑨塩江の熊野権現
「松縄 → 植田 → 菅沢→ 塩江」までは熊野行者の活動拠点が点々と続きます。これに県史14巻に載せられている平家落人伝説を重ねていきます。
まず②の「かまとこ寺蔵」からみていくことにします。 
 春日川の上流、神村(こうのむら)には、かまとこ地蔵が祀られてある。
平家の落人がここまで逃げてくると馬の足音がする。 追手が来た、とまだ火を入れていない炭焼窯にかくれたところ、源氏の兵たちはその炭焼窯を土でふたをしてしてしまった。それから後、さまざまの怪異が起きたので、源氏でもない平家でもない地元の人たちは炭焼窯の床に地蔵を祀った。窯の床に祀られた地蔵のそばに、桜の古木が植えられてある。
炭焼き窯に隠れた兵への落人を供養して地元の人たちが、その窯の床に寺蔵を祀ったというお話しです。続いて大石には「平家ばあさんの木」の話が伝わります。ここには姫君と乳母の塚があり、木を切るとたたりがあるとされます。桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿、こんなことわざとともに、平家ばあさんの木を切ることを諫めています。
黒岩神社 植田町
黒岩神社 髙松市西植田町
黒岩では平家の宝刀が埋められていると伝えられます。祈願を黒岩神社にこめたところ、病が治ったのでお礼に剣を埋めたと云います。
落人ではありませんが祇王(ぎおう)祇女が隠れ住んだという下谷も近くにあります。 妓王は「平家物語」に登場する白拍子のことで、ふたりとも 平清盛に寵愛されますが、仏御前に寵愛が移ると冷遇され、屈辱から自害を決するが母に止められ出家します。そして二人を追って仏御前もやってきたというのです。そして、それが次のような地名になっていきます。
①仏を背負って越えた峠が仏坂
②祇王たちが住んだ近くの山は祇王山
③これら迷いの多い女たちが煩悩を解脱したのが生枯(はえがらし)
④「もえ出るも枯れるも同じ野辺の草いずれか秋にあわれはつべき」と彼岸に達したところの地名が生枯
こんなストーリーを語るのは、行者や聖が得意とするところでした。全国を廻国して仕入れた情報や話題が「還元」されていきます。
 平家の女人伝説はさらに、綾上町前山に続きます。この周辺には姫塚伝説が各所に残ります。
都が見えるところ、すなわち海が見える高地へ葬られた塚とされます。さらに琴南町雨島にも姫塚があります。姫塚は、どこも屋島から逃れてきた足弱な姫君がみまかったところとされます。今は、山桜の古木が枝を広げています。景色の良い山の上に石組みの塚が造られていたことがうかがえます。それが姫塚として、平家落人伝説に結びつけられていきます。
 しかし、民俗学者は「姫塚」の別の用途を次のように述べます。

卯月八日の「山遊び」は山の神を迎えるため
山の神を迎えに、人々は春の山に登って、積善のために石を積んだ。

「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔(塚)」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、山桜の咲く頃に、豊作祈願や国見を兼ねて見晴らしの良い山に登ります。そこで積善のために石が積まれたのです。以前にお話ししたように、中寺廃寺のCゾーン(祈り)の石組みも、春の「山遊び」の際に積まれた石組み(塚)と研究者は考えています。讃岐の景色のいい山の頂上近くや川原にも、このような塚が積まれたことがうかがえます。それが後世になって用途が分からなくと、修験者が落人伝説と結びつけて「姫塚」と呼ぶようになったと私は考えています。
中寺廃寺Cゾーン 石組み
中寺廃寺Cゾーンの石組み(まんのう町) これが姫塚とされた?

 屋島から矢が飛んできたという岩、平家の落人と地元の兵たちが戦った弓取橋など、名もない塚などはすべて落人の塚として今に伝わっています。

大滝山 龍王山から大川 讃岐国図2
                  江戸時代初期の讃岐国絵図 
山田郡の下司 → 塩江 → 貝の脵川 → 堂床 → 雨島 → 横畑というルートが見えてくる
   美合村(まんのう町)横畑集落の宮本家に伝わる平家落人伝説について、香川県史14巻民俗編540Pは、次のように記します。
屋島の源平合戦に敗れた平久盛以下数十人の集団は海上へ逃がれることができずに、屋島の津から山へ山へと入りこんだ。春日川沿いを上流へ上流へとさかのぼる。途中、①高松市西植田町あたりに、馬切りだとか平家落人の塚というのが点在する。さらに川沿いの道は谷に入りこむ。炭焼窯に身を隠して果てた落人を祀ったと言う②かまとこ地蔵、③平家乳母の塚、落人ゆかりの伝説がいくつか語り残されている。春日川上流の峰を越えると香川郡香川町、さらに山道は綾歌郡綾上町仲多度郡琴南町へと一直線上にけもの道が隠されている。 
ここからは横畑への落人の道は、次の2つのルートがあったようです。
A 塩江町から貝股川沿いに、浅木原を越えて、横畑へ入りこんだルート
B 綾上町柏原から西谷川沿いに郡境を越えて、まんのう町の雨鳥の郡境尾根から浅木原→横畑というルート
大滝山 龍王山から大川 讃岐国図

そしてこれらのルート途中には、次のような落人伝説があるようです。
雨島に平家落人の塚
前の川に四方塚
長谷に、体の弱った兵たちがはぜの木にまけたという地名由来
雨島峠4
           綾川方面からの美合への入口となった雨島峠

こうしてみると、どちらのルートにも落人伝説が散在しています。これは、熊野行者や高野聖などの修験者が、このエリアを行場や霞として通ってきていたからだではないでしょうか。それが横畑の宮本家に残る平家落人伝説につながることは以前にお話ししました。

雨島峠の寺蔵
雨島峠に建つ「二界万霊」地蔵
 香川県史14巻468Pには、通説のルートとは違うもうひとつの「義経が来た道」紹介されています。それは吉野川をさかのぼり、まんのう町勝浦を越えて来たというルートです。それを最後に見ておきましょう。
 勝浦(かつうら)とは縁起のよい地名だと勇みたった義経軍は、通る道が二つ分かれた、右するか左するか、ええい、真ん中を通るべしと野原の中央を通る。中通(なかと)と現在呼ばれる地点である。流れの激しい渕では馬を休める、渕の石には義経の馬のあとが岩にきざまれる。駒が淵を通り、物見の兵が山へあがる。雨島の遠見山である。平家姫君の塚がある山である。日が暮れて道がよくわからないので、松明に火を点じたところ、牛の尾に火がついて山の木立が燃えはじめた。このあかりで峠を越える。これが焼尾峠、琴南町から綾上町へ抜ける峠道である。
 
 山が燃えたので雨が降り出した。しぼり谷でぬれた衣をしぼったものの兵たちに生気がない。そこで義経は牛の子堂に祈願をこめる。「勝利に導きたまえ。我にお力添えをいただけるのなら、あかしを見せ給えと。そのとき山上から赤い子牛が下りてきて、先へ先へと歩いてゆく。木が茂り曲がりくねったところも牛に続いて歩けば道は開ける。曲木(もじき)・開(ひらき)と呼ばれるところ。萩戸から菖蒲を通り、四歩市、九十谷へ来たとは、いつの間にか牛が九〇匹となり、千疋へ来たときは牛が千匹にもなっていた。矢坪で矢の用意をし、牛の角松明をつけて屋島へと向かった。義経弁慶石のあるあたりは柴折り神さんとなり、柴を折って手向ける。
 東谷には、義経の馬の病気を治したという神職の話も残されている。
これらの話も、大川神社の別当を務めていた山伏たちが祭りや庚申講の時に夜を徹して話したことが伝わったものでないかと私は考えています。「平家落人伝説の影には、山伏あり!」です。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 
香川県史14巻民俗編第8節「髙松市東植田地区」461Pに「熊野信仰の道」
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IMG_6877炭焼き
美合の炭焼き窯(まんのう町教育委員会提供)
 まんのう町アーカイブス写真の中に、炭焼きを記録したものがあります。今回は、美合でどのようにして炭焼きが行われていたのかを見ていくことにします。テキストは、琴南町誌855Pです。

美合産の木炭の立地条件として、琴南町誌588Pは、次のように記します。
①自然森林が多く、木炭の原木が豊富であること、
②山間僻地で他の産業があまり盛んでなく、労働力が豊かであること
木炭の生産スタイルは、どんなものだったのかを見ておきましょう。
木炭の生産は、山請け親方が山持ちから一山いくらかで請け、人夫を雇って炭窯を造り炭を焼きました。人夫は、一窯当たり2・3人で、山に宿泊して焼きます。白炭で二週間、黒炭で10日ぐらいかかります。出荷は、山から二俵ずつ肩に担いで小出しして林道まで出します。その後、猫車に載せて道路まで運びだします。販売は家庭用は、坂出・琴平・高松方面に仲介人が売りさばきました。工業用とか、大量に出荷する場合は、森林組合を通じて出荷しました。単位価格は、 一俵400~500円程度でした。
次にどのようにして木炭が作られたのかを見ていくことにします。
①まず初めに炭焼き窯を造ります。炭焼き窯の土は赤土が一番とされました。そのため赤土がなければ遠いところまで赤土を掘りに行きます。赤土は粘土質で、粘りがあって火にあってもなかなかひび割れしません。
炭焼き窯 石積み
ドイフミ (写真は【共生の里 さゝ郷】)
②周りに石を置き、窯の形に積み上げていきます。これが「ドイフミ」です

炭焼き窯 壁

炭焼き窯 内壁
炭焼き窯の内側
③その石積みを透き間がないように粘土を、ヒラヅチ(ヨコバイ)でたたいて締めつけていきます。

炭焼き窯 6

炭焼き窯断面

④横壁ができると木材を積み込みます。最初の時は天井がありません。

炭焼き窯の天井
ツベハリ(天井はり)
⑤一番難しいのはツベハリで、ツベというのは炭焼き窯の天井のことです。この時には何人もの人に加勢に来てもらいます。天井が落ちないように、ニガリを混ぜた土を使って何度も何度もヨコバイでたたきます。
⑥出来あがると「ツベハリの祝い」をします。それはツベ(天井)とヒジリに御神酒・イリコを供えての宴会です。
炭焼き窯には、住吉さまや弘法大師が祀られていたようです。弘法大師が祀られる由縁は、次のように伝えられています。
昔は、窯の後ろに煙出しの穴がなく、炭がうまく焼けなかった。それを弘法大師がやって来て穴をつくることを教えてくれた。それからうまく焼けるようになった。

 出来た初めの窯はアラガマ(新窯?)と呼びます。アラガマの炭は悪いが、三度目からはよい炭が焼けるといいます。炭焼き窯の大きさは、高さ十尺、奥行き七、八尺のものが多かったようです。

炭焼き窯2

いよいよ点火です

    燃焼室に燃えやすい小枝などを入れておき、別の場所でおこした火を投入します。燃焼が確認できたら、薪を次々と投入していく。この時点で、投入口を石、レンガなどで狭める。
 炭化の始まり
窯の中が一定温度になれば、炭材が熱分解して炭化が始まる。煙突口から白い煙が勢いよく立ち昇る。
炭化の進行
窯内では、天井の方から窯底へと炭化が進行していく。炭化の速度は、煙突口(煙道口)の開口面積で調整する。最初は開いているが、炭化が進むにつれ徐々に塞いで最後には閉めてしまう。
炭焼きする木は、樫・ほうそ・くぬぎ・くるまみずきなどで、あとは雑木です。

窯が家から離れていると、焼き上がった炭を入れておく納屋のほかに、ネゴヤ(寝小屋)なども造らなければなりません。寝小屋について、琴南町誌は次のように記します。
ネゴヤ(寝小屋)に寝泊まりして炭が焼き上がるのを待つことになる。構造は掘っ立てで、萱葺き、周りは萱で囲った。幅一尺半か二尺ぐらいの入口を入ると、そこは土間になっていて、オイエにはムシロを敷いてある。大きさは、横が一間で縦が一間半ぐらいのものが多い。入った奥には、 一間半四方ぐらいの大きさの炉を切ってあるが、天井の桟から竿をつるしてある。ここで煮炊きをする。布団は大抵の場合、隅に積み重ねてある。板で簡単な棚をつくって、箱膳・茶碗。小さい米缶などを置いてある。炭を焼くのに二、三日もかかるし、煙の色で焼き具合を見なければならないので、寝泊まりしているわけである。
 窯に火を入れてから二日ぐらいは焚き、炭になってからは密閉して三日ぐらいおいて熱をさましてから口をあけてかき出す。

炭焼き窯1
これは黒炭の場合ですが、白炭(シロズミ)の場合はまだ赤く焼けているのをエブリで引き出します。そしてアクの中へ埋めます。白炭の方が値段もいいし、堅くて重宝がられますが、造るのも手間がかかります。火が付いたままで引き出すので高温です。そのため木綿の布を何度も何度も継ぎ足してつくったドンザを着て、顔も頭も布で覆います。その上に、水を用意して体に水を振りかけながらの作業でした。
白炭と黒炭については、次のように記します。
白炭はシロスミウバメガシ・アラカシ・ナラ・ホオなどの樹木を 1,000度以上の高温で焼いた硬質の炭のこと。火付きは良くないが、一酸化酸素の発生の少なく火持ちの良いので料亭などで良く使われています。炭の密度が高いので、叩くと金属のような音がします。白炭という名称は、焼きあがった炭に灰と土を混ぜた消し粉をかけて消化するために表面に灰が付着して白っぽくなることからこの名称になっています。ウバメガシの木を原料とする備長炭は白炭の代表格。
黒炭とは、白炭の技術を基礎に日本独自の工夫で完成した炭焼き技術で、低温(約700度)で焼いた軟質な炭です。消火は、釜を完全に密閉してゆっくり消火させます。白炭より軟らかく火付きが良く、立ち消えしないために昔から重用されてきました。炭材になるのは、ナラ・クヌギ・コナラ・ミズナラ・マツなど。
IMG_6875炭焼き荷造り
黒炭の俵詰め作業(美合)(まんのう町教育委員会提供)
IMG_6874炭焼き荷造り2
炭俵の荷造り(美合)(まんのう町教育委員会提供)

木炭の出荷
山からの出荷(美合)

IMG_6873炭焼きの集荷 日通
集荷場からの出荷 日通のトラックに積み込まれている

 かつては炭問屋は皆野と明神にありました。炭が出来るとそこまで持って行ったようです。炭俵は、女たちが農閑期や夜なべに作っていました。炭焼きは一か月に二ハイのペースで焼いていました。一パイで50俵ぐらい生産できます。

木炭需要が多かった頃は、麦をまいてから後の晩秋から冬にかけて炭を焼く煙が琴南の山々に見られたと云います。
農繁期の副業として、いい稼ぎになったようです。木炭は琴南の代表的な産物で、最盛期は戦後(昭和25(1950)年ごろで、香川県全消費量の1/3にあたる15万俵を美合産が占めていました。

木炭生産推移.5JPG
香川県の木炭生産の推移表

上表を見ると、日中戦争開始後に第一次急増期があり、太平洋戦争に突入すると燃料不足から木炭需要が激増していることが分かります。それが戦後には落ち着き、プロパンガスなどが普及するようになるころから急減していきます。琴南町勢要覧には、1955年の3207俵が、1964年には1809俵へとほぼ半減、そして11年後の1977年の『町勢要覧』には、木炭の記述はなくなっています。この間に、木炭生産は姿を消して行ったことが分かります。急速な需要変動で、生活を根底から揺さぶられた人達の困惑があったはずです。
家庭用燃料推移表
家庭用燃料推移表
この表からは次のような情報が読み取れます。
①1955年以後、10年で木炭生産が1/4に激減したこと
②代わって、灯油・電気・都市ガスの需要が高まったこと
③1960年代の「家庭燃料革命」で、木炭は家庭から姿を消したこと。
④琴南の木炭生産も1970年代には、終焉を迎えたこと
美合の年間木炭生産



  炭焼きは姿を消しましたが、炭焼きにまつわる話は今に伝わっています。次のような話が琴南町誌には載せられています。
①初めての窯のときは、必ず入口にチョウナを立て掛けておく。チョウナには三本の筋を掘ってあるので、 マモノが来ても眼三つの妖怪がいるといって、魔よけになるのだという。
②ネゴヤにねずみがやって来たら、お福さんが来たといって喜ぶという。
③家から出掛けに、箸が折れたとか、茶碗が割れたとか、鎌の柄が折れたとか、女房がぐずぐず言ったりしたら、その日は山へは行かない。
④ネゴヤで寝ていると、何物かがやって来て小屋を揺すったとか、向こうの山が燃えたが朝起きてみると何のなかったといったふうな、怪異の話は多い。
⑤来るはずもないのに、夜更けてから我が家で飼っている猫がやって来たという話もある。猫は魔性のものだから、七谷を越えてやってきたのかもしれない。
炭焼き仕事は、山中での仕事なので縁起をかつぐことが多かったといいます。それらを伝える写真資料がまんのう町教育委員会にあることを報告しておきます。

香川県史14巻民俗583Pに、美合で行われていた炭焼きについての聞取り調査報告が載せられていました。長くなりますが載せておきます。
炭に焼く木を決定するバンドウニンは、何年バエの木が何町歩あるから炭は何貫焼けると計算する。目の確かなバンドウニンは狂いがないが、バンドウする人が未熟だと損をする。25年バエ、30年バエと木の育ちぐあいで決定した。決まると、山がオリタ、スミ山に渡した、山をオロスなどと言う。ノサン(共有林)は炭焼きにオロス。共有林は、一戸前のブ(持ち分)がそれぞれ違い、ブにしたがって利益も割る。ブは家によって、半戸ブンとか三戸ブンとかを持っている。ブを持っていないと、利益の配分にはあずかれない。また、ジバイ(個人所有の山)をオロスこともある。個人の山の収益はもちろん山持ちが握る。
 スミ山は木が多い。木はモトギリにする。モトギリにしておくと、後から芽が出て木が茂る。旧暦の3月3日を過ぎると、モトギリをしてはならない。芽が出なくなるおそれがあるので禁じた。切ってから10年もたつと、また炭が焼けるように木が育つ。
 炭焼きにする木は多種類である。
ホウソ・フクロタ・カシ・ナラ・モミジ・クルマミズキ・カワラサシチシの木・リョウブ・クヌギなどでクヌギは歩どまりがいい木、ホウの木の皮は印刷用アルミ版のみがきとしていた。また、塗りものの研ぎとして使用する上等の炭が焼けた。反対に、クリの木は炭には焼けずになってしまう。ウルシの木は炭にすると軟らかいときらわれた。外に、竹炭を焼いたこともある。竹は3年目には切ることができるので自家用の孟宗竹で焼いていた。
 松の木は鍛冶屋、刀鍛冶の炭としてフイゴ炭と呼ばれた。松は、火力が強くて鉱物の精錬には欠せないものだった。鍛冶屋と呼ばれた松災は、鉄や刀を鍛えるとき炭素と鉄とが結合していい刀物になる。刀の切れ味の秘密は災にあると言い、鍛治屋炭はよく売れた。
 炭木の木その他を切ると、東にして運ぶ。山のナルイところはいいが、イシワラや谷を避けて木を集める。
 炭木はドエにかけたりドウマンにして運び出す。584P
 ドウマンというのは、モトギリした木をカズラで固く束ねることで、それを山の上から転がり落とす。簡単といえば簡単だが、途中で東が崩れたり、見当違いの方へ落ちたのでは困る。目的の場所へきちんと転がり落ちるように工夫する。ドエにかけるというのも共通の方法である。
 いい山、ジフクがいい山とは、日あたりがよくて谷が小さく、スミ木のよさはもちろんのこと、木出しにも適したところで、こういう山が喜ばれる。
  木を切るのは、大体二日で切り終る。一窯に焼けるスミ木を二日で切るということになっていた。

 炭焼きはヤキコがあたる。ヤキコは美合在住の人たちで、炭焼きにやとわれてヤキブ(日当)をもらう。炭焼専門なので、木灰にしないで上手に焼き、能率があがった。
 炭焼きの方法には、テントウ焼炭、ロテン焼がある。材料は松の木、60㎝くらいの長さに松の木を切りそろえ、太さも大体同じようなものを選ぶのは小皿のように中央を少し深くする。太い松の木は割っておくこともある。これらを二段三段と積み重ねる。上へは松葉をかぶせて、土を置く。火気が外へ出るのを防ぎながら、盛りあがった中央に出しの穴をあける。火は下からつける。煙が出はじめると最初は黒い煙、だんだん白くなり、薄青く煙の色が変化する。煙の色の変化にともなって、においも変わってくる。
 煙の色の変化により、煙の出る穴を少しずつ小さくする。これを、シメルと呼ぶ。火がついてから一昼夜置き、空気穴も、煙穴もふさいで火を消す。消したはずの火がおきるときもあるので、水の用意も怠らない。こうして鍛冶屋が焼きあがる。
 炭焼窯をつく土は、赤土がもっともよい。粘土質の赤土があるところはいいのだが、ガラ山などは客土を必要とする。ガラガラ山では炭が灰になってしまうし、オンジ土もあまりよくない。
 床も粘土で固め、周りへ石を置く。石と石とのすき間がないよう粘土でふさぐ。炭木は一メートルくらいに切りそろえたものを窯のかたちにたて並べる。炭木を並べた上へ、小枝をかぶせ、さらに薬を敷く。そして、土をおおうわけだが、上手にしないとツベが抜けてしまう。窯のツベハリには手慣れた人が三、四人も加勢に来て共同でハッてもらう。このツベとは天井のことで、赤土を置いてはヨコバイでたたきつける。また、天井の土にはにがりを混ぜた土を使うとひび割れしない。にがりは塩を籠の中に入れ下へ桶をすえて取ったものを使った。
 窯のツベハリは一日仕事で、しっかりシメておかないとツベが抜けてしまうとしっかり土を固めた。そして夜、カメのツベハリまつりをする。炭窯うったらお客をするとも言い、窯のてっぺんとヒジリに御神酒とにぼしかめざしを供えた。
 むかし、炭窯には煙突がなかったが、弘法大師がこられて、窯の後ろへ穴をあけてくれた。それから炭がうまく焼けるようになったという。だから、炭焼窯の火は大切にし、魚などは焼いてはならない。もし焼くと、小屋が焼けてしまうし山火事にもなるという。
 窯に火を入れてから一昼夜、窯の大きさにもよるが、大体、二日焚きくゆらして三日、火を消してからさら三日ほど置いて熱をさます。煙の色は、はじめはホケが出て白くなり、青白く、青くと変化する。煙が薄紫色になると、炭は焼きあがる。炭木は上からになってゆくが、煙突から出る煙に混じって水分も出るので、煙の色を見ていると炭の焼け具合がわかる。
 黒は、焼きあがると火口をふさいで窯の中で火を消す。だが、白は真っ赤に焼けたものを取り出し、アク(アク灰)のなかへ埋めこんで消火する。白炭はちんちんと鳴るので堅とも呼ばれ、高価だった。だが、生木の割合は白より黒炭のほうが率がよかった。

 炭を出すときは、焚き口の奥にある障子を壊して出す。そして、すぐに生木をつめかえておく。これをヌキカエとも言う。ヌキカエて炭木をたてておかなければ、窯がくずれやすいからである。すぐ火を入れない場合には、窯の天井へ薬束などを置き、おおいをして保護していた。炭焼窯は二、三年くらい使い、後はそのままにし炭木のある山へ移って行く。
 炭焼きは、一か月で二杯焼くという。窯の大きさにもよるが、大体一杯で50俵計100俵を焼いていた。
 炭木にする雑木林が相当広くないと炭焼窯はつけなかった。なお、大正時代になり炭焼窯は大幅に改良された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
琴南町誌 588P
まんのう町教育委員会アーカイブ写真 美合の炭焼き

古い写真を集めて、デジタル化して保存していくという動きが各地で進められています。まんのう町教育委員会でも、今までに保存されていた写真のデジタル化を行っています。その一部を見せてもらいました。今回はその中から、天空のそば畑・島ケ峰の変遷を、残された写真で追いかけて見たいと思います。
そばの花見会inまんのう町島ヶ峰 - Manno まんのう魅力発信ポータルサイト - まんのう町

今年も多くの人が訪れそうな「そばの花見会」。頂上附近にはこんな光景が広がります。

島が峰そば
天空に拡がる島が峰のそば畑(まんのう町)

天空の地 島ヶ峰そば畑 2023/10/1 / ウォーキングの写真39枚目 / 国道に下りてきました | YAMAP / ヤマップ

それでは、そば畑になる以前の島ケ峯はどうだったのでしょうか?

琴南町誌1028Pには、次のように記されています。

この集落の裏山頂上に島ヶ峯と言われる広い平坦地がある。この一帯はもと①川東村の入会の野山であって、共同の柴草刈場であった。明治になりこの地区の農家に分割されたもので、下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきた。昭和十(1935)年ごろ、阿讃自動車株式会社が、ここを②スキー場として売り出そうと宣伝に努めたことがあったが、諸条件が整わず定着するには至らなかった。

ここから読み取れる情報を挙げておくと
①川東村の入会の野山で、共同の柴草刈場であった。
②明治になって農家に分割され下草を刈ったり、炭焼をするのに利用されてきた。
③昭和十(1935)年ごろ、スキー場計画が持ち上がったが実現しなかった。
        
 琴南町では、ここを牧場として畜産振興を図ることを計画し、昭和41年から三か年継続で牧野造成事業を実施し、43㌶を開墾し③牧場を造成した。川奥周辺農家に和牛を導入させ、冬期を除いてここで放牧飼育した。昭和45年ごろは、120頭余の牛が飼育されていた。ところが間もなく牛価の急激な低落により大打撃を受け、ついに昭和47年牧場は閉鎖された。

IMG_6880島が峰放牧場
        放牧場だった島ケ峯(1970年頃) 放された牛が何頭か見える

IMG_6879牛の放牧場
           島ケ峯放牧場の草刈り(写真 まんのう町教育委員会提供)
 
 昭和55年に至り、牧野を再開発してキャベツを作ろうとする周辺地域の人々による共業体がつくられた。それから数年にわたって再開発が行われ、大型機械を使ってのキャベツ生産団地として生まれ変わり、琴南随一の④高冷地集団農場となり、品質のよいキャベツが生産されるようになった。
IMG_6870島が峰キャベツ3
島が峰の高原野菜畑(写真 まんのう町教育委員会提供)

IMG_6871島が峰キャベツ 出荷

IMG_6890島が峰キャベツ3
         島が峰の高原野菜畑(写真 まんのう町教育委員会提供)

④昭和41(1966)年から43㌶を開墾し牧場を造成し、和牛の放牧飼育を開始した
⑤しかし、牛価の急激な低落で昭和47(1972)年に牧場は閉鎖した。
⑥昭和55(1980)年に、高原キャベツ野菜に再開発され、高冷地集団農場となった。
その後、放置されていたのを近年に有志によってそば畑としリニューアルされたという歴史が見えて来ます。
IMG_6872高山キャベツの出荷
島ケ峯のキャベツ収穫風景
 旧琴南地区に、キャベツがどのようにして根付いていったのかを見ていくことにします。
 琴南にキャベツがもたらされたのは、北海道への開拓農民からでした。葛籠野集落の黒川正行の叔父で、北海道旭川に住んでいた黒川嘉之助から、明治末にキャベツの種子が送られてきたのを栽培したのがはじまりとされます。品種は中生サクセッション系で形体が大きく、美味しそうな大きく伸びた鬼葉を食べてなると、とても苦くて食べられたものではなかったようです。そこで手紙で問い合わせたところ、キャベツは玉を食べるものだと知らされ、大笑いしたしたというエピソードが伝えられます。葛籠野のキャベツになるまでには、苦労の連続だったようです。それが軌道に乗ると、周辺の、名頃・大佐古・勝浦・仲野へと拡大します。

IMG_6885下中熊のキャベツ2 1986年11月以前
中熊
下のキャベツ畑

IMG_6893真鈴のキャベツ 1985年頃
真鈴のキャベツ畑
キャベツ作付面積の急速な博大
琴南キャベツ作付面積の急速な拡大 昭和40年代に急拡大している
キャベツ生産が急速に増えた背景について、琴南町誌570Pは次のように記します。
①唯一の換金作物であったたばこ耕作が衰退化し、代替え農作物が求められていたこと
②キャベツが高冷地栽培のため、夏出しキャベツが生産できて、競争力があったこと。
③キャベツに病虫害も少なく、品質と味がよく、高価に販売できたこと
④たばこに比べると、労働力が少なくてすんだこと。
琴南キャベツの出荷先
琴南キャベツの出荷先(琴南町誌574P)

琴南キャベツの当時の課題を、琴南町誌は次のように指摘します。
高冷地栽培として導入したキャベツのメリットは、平地部の産地が高温のため、病虫害その他により高品質のキャベツが生産できない七月に出荷して、高価に販売できることであった。ところが最近は、全国的に品種改良や病虫害予防の研究が進み、平地部においても、その生産が拡大した。そのため美合地区の栽培は、主として八・九月産のキャベツに切り替えた。しかし、連作の問題と、労働力配分の問題などによって、この時期だけの生産にしぼることができず、中熊などで行っているたばことキヤベツの組合せ栽培という方法がとられている。
ここには信州の嬬恋などの高原キャベツとの産地間競争が激化して、苦戦していることが記されています。こうして1980年代になると、病害発生や生産者の高齢化もあってキャベツ生産は廃れていきす。「農地も荒廃して、8ha程あった畑はすっかり草と木に覆われてしまった」と、関係者は回顧しています。そんな中で2016年、旧琴南町の会社などをリタイアされた数人が、この美しい島ヶ峰を次世代に残そうと一念発起し、手持ちの重機と力作業で少しずつ開墾して、約4ヘクタールの見事なそば畑に生まれ変わらせました。この風景を「次世代に残したい」という想いの中から誕生したのが「島ヶ峰そば」です。
島ヶ峰そば - Manno まんのう魅力発信ポータルサイト - まんのう町

天空のそば畑には、先人たちの歴史が刻まれていました。それを目で見える形で残してくれているのがアーカイブに保存された写真資料だと思います。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
まんのう町教育委員会 デジタルアーカイブ
琴南町誌1027P 573P
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真鈴(ますず)峠は、香川県から徳島県への山越えのみち。峠近くの高尾家の屋敷内には、泉があります。こんこんと水の湧き出る泉には、こんな話が語り伝えられています。

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真鈴峠への道
むかし、日照りが何日も何日も続きました。
山の奥、それも少々高所なので水には不自由していました。
とても暑い日に、お坊さまが来られました。
汗とほこりで、べとべとです。

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勝浦の四つ足峠
高尾家のおばあさんは、
「まあ、おつかれのご様子、一体みなさいませ」
と、声をかけ、お茶をさしあげました。
汗をふ拭きおえたお坊さまは、
「すまんことだが、水を一[祢いただけないものかな」
と、おばあさんに頼みます。
「このごろは日照り続きで、水も少ないのだけどお坊さまが飲むくらいの水はあるわな」
「そんなに水が、不自由なのかい」
「はい、峠の下まで汲みに行きます」

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真鈴の民家
お坊さまは、お水をおいしそうに飲んだあと、杖をついて屋敷のまわりを歩きます。
歩きながら、しきりに地面を突いているではありませんか。
何度も杖で地面を突くと、ふしぎなことに水がにじみ出てきます。
「おばあさん、ここ掘ってみい、水が出るぞ」
おばあさんは、水が湧いてくるという地面を、一升ますの大きさくらい手で掘ってみました。
すると、たちまち水はいっぱいになります。
おばあさん、こんどは一斗ますくらいの大きさに土を掘ります。
たちまち水は、いっぱいになってあふれ出ます。
近所の人たちを呼んできて、さらに大きく掘ってみました。
水は、ますますあふれるように流れ出るではありませんか。
「これは、枡水じゃ、増水じゃ」
と、人々はおおよろこびです。
おばあさんは、お坊さまにお礼を申さねばとあたりを探しましたが、お姿は見えません。
「ありがたいことじや、ふしぎなことだ」
おばあさんは、よろこびのあまり水に手を入れてみました。すると、
「ちろん、ちろん」
と、音がします。お坊さまが持っていた鈴のような音がして、水が湧き出てきます。
「ちろん、ちろん…」
と湧き出る水に人々は「真鈴の水」と名付けました。

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真鈴の民家
隣村から、少し水を分けてもらえないかと言ってきました。
おばあさんは、水のないのは不自由なことだと快く承知しました。
隣村といっても県境、阿波から水をもらいに来たのです。
    水を、にないに入れ一荷にして、県境を越えて帰って行きます。
お礼は、蕎麦一升。水と、蕎麦とを交換して、仲良く暮らした山の村でした。
真鈴の水は、今日も、ちろんちろんと湧き出ています。

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真鈴の地名由来には、次の2つの説があるようです。
A 真水と鈴から、真鈴とつけた
B 阿波の大星敷から水が不足すると真鈴に水をもらいに来た。そのお礼に大豆やそばを枡に入れて持って来たので、この地を「枡水(ますみず)呼んだ。それが後に誂って真鈴になった

真鈴の開拓者にも、2つの説があるようです。
C 矢野と名乗るものがこの地に来て開拓
D 長尾氏の子孫・高尾家による開拓
C説は、矢野氏が開き、野鳥野獣の害を防ぐため、建御名方命を勧請して城村神社を建てたと、この神社の社記に記されています。
D説は、西長尾城の長尾大隅守一族が、一族が分散して各地にかくれ、あるいは仏門に入るものもいました。この時に長尾氏一族の長尾高敦が、真鈴の地に入り姓を高尾と改めこの地を開拓したというものです。当時、真鈴には六戸しかありませんでしたが、周囲を開き同族も増え真鈴集落は大きくなっていきます。現在の真鈴の高尾家は、その子孫だと言われ、その本家には近年まで甲冑や武具等が伝えられていました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌

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阿波から嫁入って来た女も、美合で生まれて美合へ嫁入った女も秋の取り入れがすむと必ずおはたの用意をした。お正月までには子ども達の晴れ着も織らなければならないし、年寄りの綿入れも用意しなければと気もそぞろ。
糸はガス糸や紡績糸を買ってきた。
内田の紺屋で染めてきた糸は、祖母ゆずりの縞わりのままに糸の計算をする。
木綿糸の縞のはしにはスジ糸(絹糸)を入れると、縞がきわ立って美しい。
布をのべる日は、風のない静かな日を選び、
四間の戸障子をあけひろげ座敷いっぱいに糸を伸ばして経糸の用意。
四尺ごとにスミをつける、四尺が七ひろあると一反分の布となる。
糸はチキリに巻いてカザリに通すが、カザリロは上手にあけなければならない。
チキリに巻いた糸は機にまきあげて巻く。
オサイレは糸を1すじずつ通してから固定させる。
アゼをつまむのがむつかしいと言うが、丁寧にやればこともない。
緯糸は、竹のクダに巻いておく。
マキフダとも呼ばれる
クダは、おなご竹を十巧打くらいに切り揃え、かわらで絞って水分をぬいておく。
このクダに、ただ糸を巻けばいいというのではないのだ。
ツムノケで糸をまくのだが上手に巻かないとホゼてくるし、巻きすぎると糸がくずれてしまう。

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明日は小学校1年生の長女に織らせてみるつもり
器用ものの長女は見ようみまねで上手に糸をあつかうので、きっといい織り手になることだろう。
夜、しまい風呂で長女といっしょに髪を洗う。
はたを織り始める日は別に決まった日はないが、髪の汚れをとり、ひとすじの乱れもかいように髪を結いあげた。

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やや小柄の長女は、機にあがったものの踏み板に足がとどかない。
冬でも素足で機は踏むものなので、長女の素足に木の枕を結びつける。
母さんもこうやっておはたにあがったの、機を踏みきっていると足はほこほこしてきたものだと、長女をさとす。
 布は、織りはじめがすぼまないように藁を1本人れたが嫁入った家では、織りけじめにシンシをはる。竹の両端に針がついているのが伸子なのだが、一寸ばかり織ってばシンシを少しずつずらして打ちかえる。
 トンカラトンカラ、根気のよい長女は上手に布を織りすすめる。
モメンは一日一反、ジギヌは一日四尺しかのびない。
オリコンは、ヒトハ夕で二反分の糸を機に巻き上げて二反続けて織っていた。
 織りしまいには、カザリの開ヘヒが入らなく々るまで織るのだが、ハタセが短かくなって手まりが出来なくなるのが心配で、早く織りじまいにしようとしても、なかなか織りじまいにはしてもらえかかった。

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 師走女に手をさすな という諺のとおり、夜の目もねずにに女は機を織り家族の衣管理を一手に引き受けていた。それでも月のもののときは機にあがらず、糸を巻いたり繰ったりわきの仕事をするのがならいだった。
  お正月がすんでからもハルハタを織った。
縁側などの明るいところで機を織っていると、家のすぐ前の街道が気にとってしようがない。
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阿波から讃岐へ峠を越えてやってくるデコまわし、とりたててにぎにぎしく来るわけでもないのだけど、気もそぞろに機の糸をさってしまう。
細い糸がうまくつなげないと泣き出しそうになる。
そうこうするうちに、デコまわしの一行は通り過ぎてけってしまった。
昼食になり、機をおりると隣の家の苗床でデコまわしが三番叟(さんばそう)を舞うというのだ。
もうお機も昼食も放ったらかして隣家まで、走って行った。
苗床や、苗代のまわり、田植えの早苗を束ねる藁などもご祈祷してもらうと、虫がつかず豊かな稔りが約束されていたのだ。こんなことより、年端のゆかない織り子さんにとって、デコ使いが珍らしくて仕方がなかった。
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 デコまわしが通り、傘売りさんも通った。
夏近くになると借耕牛の群れが、りんりんと鈴を鴫して峠道を降りていった。
雨の日も、風の日も、街道のざわめきを聞きながら女は機を織り続けた。
 戦後、衣生治の変化は急速におとずれ、女の管理下におかれていた機織りも忘れられようとしている。それでも老女は、お正月がくると必ずおはたに鏡餅を供えたとか、
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虫か食いはしめた機は、とうとう川へ流されることになった。
 機は、いわれのあるものだから焼いてはならない。
流れ川に流して七夕さまにお返しするのだという信仰を、
老女はがんとして守り通して、機は流されていった。
 そして、「女はテスキになってしもうて」と、テレビの前に座る老女山背で呟いた。

 北條令子 琴南町美合 民俗探訪日記より 
                                

たぬき5
旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。

そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。
今回は狸と山犬の話を紹介します。
 平成狸合戦のように阿讃の里山でも狸が竹やぶの中、岩のくぼみ、神社の森などで暮らし、人との交流を求めていたようです。
石鎚山今宮4
 
 夜、大きな石が山頂からころげ落ちる音がしたので、翌朝山へ行って見ると何ともない。これは狸の仕業であるという。また、砂ほり狸は自分の流した小便をかくすため、前かきに砂をぱらぱらとかけるのだという。
また、朝もまだ明けやらぬころから稲刈りの音がするので、出かけてみると、稲刈りのあとはない。これも狸の仕業で、見る者は呆気にとられるとかいう。

たぬき1
 狸の嫁入りの話は平野部にも多い。
夜もうす暗くなったころ、嫁入り提燈の行列が連なる。
ことに小雨模様の時にこうした光景がよく見られる。
狸の灯は青い灯に見え、葬列の灯のようであるとも伝えられ、とても明るく家の中では障子の骨まではっきり見えるという。
狸は自分の尻尾につばをつけて振ると、灯がついたように見える。
大きく振ると大きく、小さく振ると小さく見える。
たぬき2
狸は蕗の茎を食べると酔う。
ある男がこの酔った狸を見つけ、足元のおぼつかない狸を捕らえ、それを狸汁にしてしまった。そして仲間を呼んで、その汁を食べたところ、みんな腹の調子をそこねてしまった。
狸を捕らえた男は数日寝込んでしまったという。
いずれにしても酔ぱらいは相手に出来ない。
狸ならなおさらのことだと、自らを省みたという                     
たぬき7

 中熊谷に沿う道、大きな木のある所はタヌキ道だという。
そこを通るとシャリシャリと小豆を洗う音がいる。
だれかいるのか、とのぞくがだれもいない。すると向かい側の谷から叫ぶ声がする。
「おーい、クリの木でくびつりが舞いよるぞ」
「何、首つりとか!。」
 二、三人の男達は鎌をさげて栗の木の下まできたが、首つりなどはいない。
ただぽかんと本の上を見上げている、というしまつである。
たぬき3
 また、ある夜のことである。
今にも降り出しそうな雨気の多い夜、ちらちらと青い灯が見える。
一列に並んで歩いている。嫁入り行列の灯のようである。
すると、向かいの谷から叫ぶ声がある。
 「どこぞ嫁さんが来たのか」
 どこにも祝いごとはない。これも狸の仕業である。
 狸道のやぶの脇に道がある。
ある日のたそがれ時、一人の男が道を通って帰宅を急いでいた。
するとやぶが動く。よくのぞくと赤い髪をふりかざしたおんぼろしゃぐまの大きい奴が現れたので、悲鳴をあげて逃げた。こうしたことから、このやぶをシャグマヤブと呼ぶようになった。

山犬1

    山犬の道案内
 琴南の山村では葉たばこをよく栽培していた。
その収穫は多忙をきわめ、ネコグルマにいっぱい積んで運ぶ。
その仕事が夜半に及ぶこともある。
男は疲れた足どりで、とぼとぼと山道を山の神さんを祀ってある所までたどり着いた。ところがそのあたりから、仕事襦袢の裾をくわえるように山犬がついてくる。別にいたずらをするでもなくついてくる。橋にさしかかろうとすると、山犬は橋のたもとでとどまって見送る。男の家はもう近くに見ることが出来る。山犬は、じっと見送ってくれる。
 この山犬は白い犬でやせ細っている。これは山の神さんのお使い姫の山犬さんである。家にたどり着いた男は素足で土を三回すり、手を合わせてお礼をする。
山犬2

 山中で道に迷った時、こうした山犬さんに助けられ道案内されたという話は多い。
野生のオオカミがこのような話に出てくる時、異常にやさしい動物として登場する。
 あるおおつごもりの夜のことである。
普通山に入ってはならない時なのに、やむなく山へ入った男が、山犬に裾を咥えられて家まで送られたいう話もある。
こんな時にお札の仕方は、足をすって手をあわせるものだという。
山犬3

参考文献 琴南町誌 昭和61年琴南町

  ○ 川女郎の泣き声
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声をひそめるように語る老女は、
爺から聞いたがもうおそろしゅて、はばかりへもたてなかった。
と言いながら記憶をたぐりよせてくれる。
 土器川の上流、清い流れの音が聞えるあたりに住まいを持つ人々は、
四季おりおり川の流れを見て暮らした。
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川女郎が泣いて大声をあげるようになると、川が氾濫するという。
川岸の岩と岩との間へ、川女郎は子をもうけてある。
流れがおだやかな日はいいのだが、水があふれそうになると、
大事な赤ちゃんが流されてしまうと泣くのだという。
まるで、人間が哀しむような泣き声の川女郎はさばえ髪をして、
人にゆき逢うものならさばえ髪の頭でふりかえる。
にっこり笑ったつもりの川女郎の唇からは馬鍬のこのような歯が見えた。
ゆき逢った人は、悲鳴をあげて逃げてゆく。
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あんまりわるさはしなかりた池いう川女郎に、逢った人は意外と多い
「川女郎の赤ちゃんのお父さんは誰なの」
と老女に質問すると
「それは聞かんだわ、今度合ったらきいておくわな」
と老女はスマしている。
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トウダイツノの鹿は大川神社のお使い姫
この川をどんどんのぼっていくと山と山のはざまの谷に至る。
谷川に水を飲みに来る鹿が住んでいった。
狩りをする人のことをセッショウニンと呼んでいたが、
山漁の達人だったおじいさんが炭焼きに行って鹿の尾角を拾ったことがある。
二年叉、三年又の見事な鹿の角が落ちていたと言うのだ。
この鹿の角を拾ってかえり、笛を作る。
手造りの角を吹くと、雄がケンケン寄ってくるそうな。
ケンヶン寄ってくるの雉は雄の雉。
そうすると、落角の笛は雉の雌の鴫き声ということになるのか。
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美合の山では、鹿の夫婦が山々をかけめぐり、恋の季節をたのしむ雉も住んでいた。
しかし、「鹿は、やたらに射るものでない」と、戒められていた。
トウダイツノの鹿は大川神社のお使い姫だとも教えられていた。
 ある日のこと、大川山へ出かけて行った山伏が、灯台角の鹿と出逢った。
これはいい獲物とばかり、鹿を射殺してしまった。
ところが翌朝のこと、鹿を射殺した山伏は野田小屋の桜の木のまたに吊りあげられていたと言うのだ。山伏が吊るされたという桜の古木は枯れてしまったが、古株は残されている。
 そして、野田小屋にある社のご神体はみつまたの灯台角だと伝えられている。
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「相撲をとらんか」とこわっぱが誘う
 峠を越えると山の細道は、下り坂となる。
つんのめるように降りるきんま道は谷川の流れに沿って、ぐんぐんくだる。
谷川の水がより集まって落ちこむところが渕となり、水音が急に高くなる。
山の尾が寄りあい、谷川の水が流れ込む。
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 雨降りあげくの日も暮れかかるころ渕のほとりを通りかかると、
小さな子供が出てきて
  「相撲をとらんか」と、いう。
こわっぱが相撲をとらんか言うて生意気な、
一手で負かしてやろうと相手になるともうおしまい。
へとへとになるまで相撲をとらされる。
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相手になるなと古老に戒められているのに、あんまりこんまい子なので、
つい負かしてやろうと取りはじめて動けなくなった者が多い。
あれは、子供でなくてマモノなのだ。
変化のものなのだと、
雨降り後水かさの増した渕の側はおそろしくて通ることができない
北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より
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まんのう町の旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。そこには、妖怪が住んでいたらしくいくつもの妖怪の話が伝わります。
その中からとっておきの妖怪を紹介します。
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炭焼き小屋を訪ねてくるオオブロシキ
深山の静けさの中にいると、急に燈台角の鹿が現れても不思議がないような木立の茂みだ
このあたり、炭焼き小屋の跡が転々と散在している。
この小屋を訪れる妖怪も多かった。
炭を焼くときには、夜通し山に籠もるので寝起きをする小屋を造る。
小屋の中で茶もわかすし、飯も炊く。
そして腹持ちのよい餅も焼いた
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餅を焼くと芳ばしい匂いが山の隅々へまでただよってゆくとみえ、
人り口に吊るしたむしろを持ちあげてにゅうと、爺が入ってきた。
囲炉裏のほとりで、だまって火にあたって帰ってゆく。
黙って火にあたっているうちはいいのだが、餅を一つおくれとばかり手を出す。

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餅を焼き始めると爺がやってくる。
そして、火にあたりながら金玉をひろげはじめた。
なんぼでも広げる。
こりゃ包まれたら大変と、
山小屋の主はその広げたもの中へ焚木のもえかぶをほうりこんだ。
「キャキャッ」と泣き声をたて、山の奥へ爺は逃げこんでいった。
オオブロシキという妖怪だそうで、
広げたものの中へ人間をつつみこんでしまうともいう。
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炭焼き小屋には、ショウペンノミもやってきた。
小屋の外へたんごを置き、その中へ用を足していたのだが、
その小便をきれいに飲むものがいた。
塩気を欲するオオカミさんだとも言っていたが、
あからさまにしないところがおもしろい。
しかし、オオカミさんがいかって鴫く夜は山小屋で震えあがったと話してくれた。

 小さな蜘蛛が人間を捕まえる話。
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 瀬戸の浜辺でとれた塩を峠を越えて阿波に運ぶ塩売さんから聞いた話
里から塩売りさんが渕のほこりの樹陰で一休み、
よほどつかれていたとみえ塩売りさんはうとうとうたたねをはじめた。
すると木の枝からするすると降りてきた蜘蛛が、男の足の親指へ糸をかけはじめた。
行ったり来たり、何度も往復してしっかり糸をからませる。
寝たふりをして見ていると蜘蛛はまだしきりに行ったり来たり、
男は親指の糸を木の伐株にひょいとかけなおした。
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もう十分に糸は掛け終えたものとみえ、
蜘蛛は底のしれない渕のあたりへ降りていった。
と、木の伐り蛛がものすごい音とともに渕の底へ引つぱりこまれた。
塩売りさんは、すっくりと立ちあがり軽々と荷をになって、
すたすたと去って行ったというはなし。
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その他、タオリバアとかタカンボさんとか山の妖怪には限りがありません。
祀られなくなった神の零落した姿が妖怪だといわれますが、よくは分かりません。
山の住人は、こんな妖怪たちにも恐ればかりでなく、
親しみを持って暮らしていたようすが伝わって来ます。
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参考文献
北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より

まんのう町美合に伝わるお堂のお話
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まんのう町の南部の旧琴南町美合は、阿讃山脈の山々に囲まれ、ソラの家々が残っている地域です。
そこには、里では消えてしまったものが、厳しい環境という「宝石箱」に入れられて今に伝えられている所でもあり、専門家に言わせると「民俗学の宝庫」だそうです。
そこに伝わるお堂の話を紹介します。

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阿波から峠を越えてきた旅人が、水にのまれてしまった。
近所の子供が谷川へ落ちそうになった。
しかし、いくら恐しくてもこの道を通らなければならないと、
村人が困りはてているところへ山からまくれ落ちてきたものがある。
ころころ山から落ちてきたのは、石のお地蔵さん。
ありゃ、これは大川のお地蔵さんではないか。
はよ、もとの場所へお返ししとかんと、と村人はもとのところへお返しした。
ところが、翌朝行ってみるとまた一夜のうちにころころまくれ落ちてきている。
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村の人々は、おだやかなお地蔵さまのお顔を見ながら話しあった。
「これは、ここがお好きなのじゃ」
じゃここへお祀りすることにしようと衆議は一決。
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裏のおじいさんは、栗の木を伐ってきた。桜の丸太も持ってきた。
檜の柱も、床を張る杉板も集まった。
藁を一束、繩も
 一往、
竹藪でぼんぼん竹を伐る人。屋根ふきの達者が竹の長さを指図する。
小麦藁で葺いた屋根の厚みが整然と美しい。
茶堂は東向き、二間四面の大和天井、三方開け放しの一方へ、
ころがり落ちてきたお地蔵さんを安置した。
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むかいの婆が縫ってきた赤い前かけが、まるでお地蔵さまの晴れ着のよう。
三方壁なしの茶堂の前で、
だれから山仕事に行く人も、田畑を打ちにゆく人も、たちどまって掌を合わす。
陽ざしがきつい峠道を越えてきた旅人が、一休みして汗を拭く。
谷川の流れで手足を洗い、昼寝をたのしむ人もいる。
あけびを山龍いっぱいつんで帰る悪童が、お地蔵さまの前ヘーつ供えた。
一つ供えたあけび敲をそのままに、水の澄んだ流れに入りこみ魚を追っかけはしめた。
お地蔵さまは、にこにこにこにあけび龍の番。
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手も足も泥だらけの童が板の間へあがりこんで、供物を盗んでも知らぬ顔。
童ばかりか、山から降りてきた小猿も山犬もお供えを無断でいただく。
今年も秋の取り入れが終わるとお地蔵さまの前で‘お接待がはじまる。
めぐってくる遍路の中にはお大師さまがいらしゃるかもしれないと毎年、お接待をかかしたことはがない。
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秋の取り入れがすむと、茶堂でお接待をすることになっていました。
茶堂が、もとのかたちのままで残されたきた背景には、素朴な信仰が根強く生き続けているからのようです。


北條令子
琴南町美合 民俗探訪日記  香川の歴史第三号(昭和57年) より
                                

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島ケ峰のそば畑の展望所で絶景を満喫して、このそば畑がどのようにして現れたのかが気になりました。帰ってきて調べると、琴南町誌1028Pには次のように記されていました。

この集落の裏山頂上に島ヶ峯と言われる広い平坦地がある。この一帯はもと川東村の入会の野山であって、共同の柴草刈場であった。明治になりこの地区の農家に分割されたもので、下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきた。昭和十(1935)年ごろ、阿讃自動車株式会社が、ここをスキー場として売り出そうと宣伝に努めたことがあったが、諸条件が整わず定着するには至らなかった。


島が峰キャベツ2
            島が峰 放牧場から高原野菜畑へ

  琴南町では、ここを牧場として畜産振興を図ることを計画し、昭和41年から三か年継続で牧野造成事業を実施し、43㌶を開墾し牧場を造成した。川奥周辺農家に和牛を導入させ、冬期を除いてここで放牧飼育した。昭和45年ごろは、120頭余の牛が飼育されていた。ところが間もなく牛価の急激な低落により大打撃を受け、ついに昭和47年牧場は閉鎖された。

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島が峰の高原野菜畑(写真 まんのう町教育委員会提供)
IMG_6890島が峰キャベツ3
         島が峰の高原野菜畑(写真 まんのう町教育委員会提供)

IMG_6885下中熊のキャベツ2 1986年11月以前
中熊のキャベツ畑(写真 まんのう町教育委員会提供)

 昭和55年に至り、牧野を再開発してキャベツを作ろうとする周辺地域の人々による共業体がつくられた。それから数年にわたって再開発が行われ、大型機械を使ってのキャベツ生産団地として生まれ変わり、琴南随一の高冷地集団農場となり、品質のよいキャベツが生産されるようになった。

整理しておくと
①もともとは、川東村の入会の野山であって、共同の柴草刈場であった。
②明治になって農家に分割され下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきた。
③昭和十(1935)年ごろ、スキー場計画が持ち上がったが実現しなかった。
昭和41(1966)年から43㌶を開墾し牧場を造成し、和牛の放牧飼育を開始した
⑤しかし、牛価の急激な低落で昭和47(1972)年に牧場は閉鎖した。
⑥昭和55(1980)年に、高原キャベツ野菜に再開発され、高冷地集団農場となった。
その後、放置されていたのを近年に有志によってそば畑としリニューアルされたという歴史があるようです。この絶景の背後の歴史が、ソラの村の開発史のように思えてきました。

島が峰そば
島が峰のそば畑

島が峰のそば畑を見ながら考えました。さてここからはさて、どうするか?
Google地図を見ていると、ここから山越えで直接に葛籠野に下りていく林道があるようです。この林道をたどることにしました。しかし、この林道は廃道寸前状態。原付バイクでないと通行は困難でした。
なんとか葛籠野の一番上の家まで下りてきました。そこに広がる光景は、まさに異次元体験でした。
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葛籠野集落(まんのう町)
葛籠野集落は、海技六五〇㍍以上もある山上に開けた集落で、
周囲は800㍍を超す山に囲まれています。西にだけ開けていますが傾斜は険しく、外部からの侵入を拒むような地形です。集落の中央部に張り出すように小さな尾根が舌状に伸び、その先端が丘になっています。この集落のセントラルゾーンのような印象です。ここには古い大きな椿の木が繁っていて、その下に七つの五輪塔がありました。

伝説によると、源平合戦の戦いに敗れた平家の落武者七人が、この地に逃れて来て、住みついたと伝えられています。その墓が「七人卿の墓」と呼ばれ、この地を開拓した先祖の墓として、子孫の人々が守り伝えてきています。
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葛籠野集落(まんのう町)
 また他にも、東原嘉衛門という武士が落ちのびて来てこの地を開いたとも伝わります。その子孫の東原家は四代前まではこの地におり、その屋敷跡を「お東」と呼んでいます。さらに、ある民家の裏に十数基の古い墓の一つに「六百年昔村先祖の墓 明治廿四年八月廿八日」と刻まれていて、立派な宝篋印塔(ほうきょいんとう)も残っています。 どちらにしても「落人伝説」が伝わるのが納得できるロケーションです。
 
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葛籠野集落(まんのう町)
葛籠野(つづらの)という地名は、四国山脈のソラの集落に数多くある地名です。
由来としては「つづらかずらが生え茂っていた」ところから、つづら野と呼ぶようになったといいます。

カチュー葛籠
葛籠(つづら)
葛籠(つづら)は、もともとは葛藤(ツヅラフジ)のつるで編んだ蓋つきの籠の一種です。植物のつるを編んで作る籠(=つづら)は縄文時代から作られ、正倉院にも所蔵されています。

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葛藤(ツヅラフジ)

 ところが平安時代になって、竹を加工する技術が確立されると、竹の方が幅を一定に揃えやすいので、衣装を保管箱として、竹で四角く作られるようになります。 伊勢貞丈が江戸時代中期(1763年~1784年)に記した『貞丈雑記』には、葛籠に関する記述があり、素材がかつてはツヅラフジで作られていたのが竹に変っていっていると書かれています。そして、竹を使って編んだ四角い衣装箱を葛籠と呼ぶようになります。しかし、元々はツヅラフジのつるが丈夫で加工しやすいことから、つる状のものを編んで作る籠のことを葛籠と呼んでいたのです。材料が竹へ変化しても呼称だけは残り、葛籠という字が当てられ「つづら」と呼ばれるようになりました。
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 葛籠野集落(まんのう町)
 ここはツヅラフジが繁っていたのではなく、それを材料にして葛籠を制作する技能集団がいたのではないかと私には思えます。四国のソラの集落には、木地師や猿飼などの職能集団の名前の付いた集落が数多く残っています。
 
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葛寵野にもかつて大師堂がありました。

昔、一人の修験者が大きなツヅラを背負ってこの地にやってきました。
ツヅラの中は立派な仏像でした。修験者はこの地の草庵に住み着いて、付近の集落を托鉢する日日を送ります。そのうちこの仏像が霊験あらたかで、どんな病気もなおしてくれ、願いごともかなえてくれることが近隣に知れわたるようになります。そのため遠くの村々からも参拝者が相つぎ、葛龍野の急坂に列をなしたというのです。そこで参詣者には、風呂を沸かして接待して大変喜ばれたと地元では言い伝えられています。
 伝説かと思っていると、実際に使われた護摩札が残っています。
文化十一(一八一四)年のものと、文政三(1820)年の年号が入っています。山伏がツヅラに背負って持ってきた仏像もあり、江戸中期の作とされています。実際にあった話のようです。

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 しかし、旅僧は、いずこともなく去っていったといいます。
その堂は朽ち果てて跡地は水田になっていますが、里人たちは集落の入口に小さなお堂をたてて、大師堂と呼んできました。堂の中には、中央に石像の弘法大師像、右脇に木造の小さな大師像、左脇に木造の迦里尊者が安置されています。その横のすすけた護摩札には、次のように記されています。

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 文化十一年石鉄山別当
    梵字 奉修不動明王供家内安全祈
        六月吉日  前神寺上人
        剣山
    梵字 奉修剣大明王護摩供家内安全祈教             
        円福寺
この護摩札から山伏が石鎚・剣山を拠点とする修験者であったことが分かります。江戸時代に、箸蔵寺や剣山の修験者たちが阿讃の山を越えて讃岐側へも布教活動を展開していたことが窺えます。
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猪の肝を献上していた集落

江戸時代に高松藩の庄屋を務めた川東村の稲毛文書に、川東村から毎年十二月末に猪のきも一頭分を郷会所に送り、代金を受け取った領収書が数枚残っています。猪のきもは、鵜足郡の造田・中通・勝浦村からも毎年二頭分のきもを納めています。滋養強壮の漢方薬の一種として使用された貴著品だったのかもしれません。この時代、どのようにして猪を捕まえたのでしょうか。

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県史14巻民俗篇587Pには、美合で行われていた「猪狩り」について次のように記します。
山深い集落には、殺生人と呼ばれる猟師が何人もいたようである。炭焼きをしている人が猪を見つけて猟師が追いはじめた。一週間もかかって追いつめて仕とめた。
 シシオトシも作る。猪が水を飲みに来るのをねらって、落とし穴を掘っておく。大きさは10mあまり、深さは3m。穴の上へは枯木などで囲いをしておく。水場の周りをして、落とし穴の上を通らなければ水場へ近づけないようにしておく。豬が落とし穴へ落ちると昔は弓で射たこともあった。葛野(かずらの)にはシシオトシの跡が残っている。
 猪は水を飲むと必ず小便をする。水場のほとりで小便をし、そのにおいのする水で全身をぬらす。小便の混じった水を全身に浴びるのである。ニタバ、ノタウチ場では猪がノタうっていた。
猫の毛の間にダチ(ダニ)がつくので、それを払い落とそうと湿地の泥のなかで全身をのたうたせる。そして、全身をぶるぶるとゆすって泥を払い落とす。泥と一緒にダチをふるい落とすわけである。そのあと、松や樅など樹脂の出る木に全身をこすりつけて毛を固める。そうする鉄砲の弾も通らなくなると言う。
   野田小屋という地名があるが、ここはかってがノタっていたところだと伝わる。
 猪の肉は山くじらと呼ばれているが、肉を売りに行く時は必ず緒の足一本をつけていた。チャンで、指を捕えることもある。チャンとは、鉄製で大鋸の刃のようなものが向かい合った頑丈なものである。踏めばの刃が閉まって足をはさむ。豬は山の尾から尾へ走るので、チャンを仕かけておいた。ハシリをしかけるのは、猪は冬眠中のハミ(蝮)を掘って食べるので出没するところは察知することができると言う。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①殺生人(セッショウニン)と呼ばれる猟師が何人もいた。
②葛野(かずらの)などではシシオトシという大きな落とし穴を掘って捕まえた。
②猪は、沼場(ノダバ)で全身をのたうたせ、泥と一緒にダニを落とす
③猪が集まるノダバがあったところは、野田小屋・野田院などと呼ばれ、狩猟ポイントだった。
④猪の肉は「山くじら」と隠語で呼ばれ、売買されていた。

葛寵野集落の背後に、猪の「のだ場」というところがあるそうです。
ここは一面ゆるやかな草原で、浅い谷あいになっています。谷あいには水があるため、春先になると猪はここにやって来て水を飲み、草原の上でのだうちまわり毛の虫をとります。猟師はそこに目をつけ、このすぐそばに深い穴を掘り、その上に木の枝をわたし、シバを置いて落とし穴をつくって捕まえていたと伝えられています。こうして捕まえた猪の肝が高松藩に献上されていたのかもしれません。

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中熊集落へ

葛籠集落から国道に下りてきて、明神の谷川うどんで昼飯後のうどんを食べて一休み。食後に、この前から道が分岐する中熊へ原付バイクを走らせます。中熊は、ソラの集落としては開発にはもっとも条件がよい場所で、早くから開かれた集落だとされています。

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山熊神社参道(まんのう町中熊)
「中熊開発史」が書かれるとすれば、まず登場するのは①平家落人伝説でしょう。
そして、次に「造田氏」が現れます。
 造田氏は、造田地区の中世武士集団で造田に居館・山城を持っていました。長宗我部の侵入の際に、落城し城主は「首切り峠」で自刃したと伝えられています。その一族がこの地に落ち延びて、この地の開発と進展に大きくかかわってきたと言われています。造田家は屋号を「土居」といい、中世に土居屋敷に住んでいた豪族であったことを伝えます。同家の墓地には家祖の「志摩助の墓」をはじめ、数十基の古い墓が立ち並んでいます。
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安産の神 山熊神社 
階段を登っていくと老木に覆われた社叢の中に山熊神社があります。
この神社はお産の神として古くから崇敬されてきました。大山権現も安産の神とされてきました。同じ流れをくむ修験者の活動がうかがえます。妊婦がこの神社に詣で、社殿にある紐を目をつぶって引き、これを腰に巻き出産すると安産疑いなしと伝えられています。その紐が赤系統であれば女子、そうでなければ男子ともされています。出産後は二本の色紐を持ってお礼参りを行う習わしだそうです。この話も山伏たちが拡げた安産説話として、全国にいくつも見られます。

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        山熊神社(まんのう町中熊)
 境内には、玉砂利を敷き玉垣を巡らしている「ご廟」と呼ばれる所があります。
「昔、里人が朝早く通りかかると、赤い振袖を着た可愛い女の子が二人仲よく手鞠をついて遊んでいるのを見かけたところだということで、それはこの世のものとは思われないほど美しい姿であった。それからここを神聖な場所として玉垣をめぐらした」

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山熊神社の「お廟」
 この玉垣の中の石をいただき、お守りとして戦争に持って行くと、必ず無事に帰国することができたといいます。太平洋戦争に、この石を持って行った人は山熊神社の加護によって無事に帰還することができたと伝えられています。
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        山熊神社(まんのう町中熊)

まんのう町川東中熊の山熊神社の「祭礼変革」で見てみましょう。
中熊地区は「落人の里」と呼ばれるように山深い地にあります。その中にある造田家の文書によると、この神社はもともとは造田一族の氏神として創建されたと伝えます。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。まさに造田氏の氏神だったのです。

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まんのう町中熊の山熊神社
ところが江戸時代の中ごろから、高持百姓が力を持ち始めると造田氏の特権を縮少させる動きを見せ始め、たびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し裁定を下します。
 結論からいえば、この裁定で造田氏の棟札特権は認められなくなります。棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼の時の桟敷も全廃されるのです。造田氏に認められたのは祭礼の儀式の上で一部分が認められるだけになります。「宗教施設や信仰を独占する有力貴族に対する平民の勝利」ということになるのでしょうか。結果的には、この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「変身」を遂げたと言えるのかもしれません。それが江戸時代後半の「村社の宗教改革」だったのです。

さらに中熊集落の奥へと原付バイクを走らせていきます。


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ソラに一番近い民家の前には、手入れの行き届いた畑が広がり、高原野菜が青々と育っていました。
その道すがらに「観音堂」という道しるべを発見。しかし、なかなかたどり着けません。
地元の人に聞くと、「民家の庭先を突き切って森の中を歩いたらあるわで」とのこと。その通り最後の民家の庭先を突き切り、森の小道を500㍍程進むと・・・
林の中に青い屋根のお堂が見えてきました。

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法然ゆかりの観音堂(まんのう町中熊)

 法然は建永元(1206)年12月、専修念仏禁止で土佐に流されることになります。しかし、保護者の九条兼実の配慮で、讃岐の九条家の荘園小松荘にあった生福寺に入ります。法然の讃岐滞留は八か月余りでした。七五歳の老齢であった法然は、生福寺を中心にして各地で念仏の教えを説いたと伝えられています。

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中熊の観音堂
 その法然の活動を伝える次のような話が、この地にも残っています。 
法然上人は大川権現に参詣した折に、中熊というところは仏道にゆかりの少ない辺境の地であることを聞き、遥かに山奥のこの地を訪ね、廃庵のようになった観音堂に身を寄せ、この地の人々を救うため一心に称名念仏による救いの法を説いた。この時、上人のお越しを「ガキマチ」に村人が集まってお待ちした。法然上人は、一刀三礼の阿弥陀如来の三尊仏を刻んで、観音堂に、後世のために残された。
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                    中熊の観音堂
 天明二(1782)年には「法然上人弥陀堂餓鬼摂化御旧跡」という石碑が建立されています。この碑は、谷川うどんから中熊へ少し入った町道の脇に今はあります。
 観音堂の前には、大きな銀杏が枝を広げ先端から色づき始めていました。 この観音堂については、中熊上の佐野家の弘化二(1845)年の記録にその由来が、次のように記されています。
     口上
一、中熊寺の前庵に奉納せる弥陀観音勢至三尊仏と申すは、法然上人御直作にて、大川宮別当十二房の内、房久保に御鎮座し、その後土洲長曽我部元親乱入の節、僧房焼き払われ候瑠り、住僧右三尊仏を負い奉り、当所へ引寵り、庵一宇を建立仕り納め奉り御座候処、
その後、仏生山法然寺を御建立の後、右三尊仏を仏生山へ御納めあらせられたき由にて、御役所へ指出し侯様仰せ聞かされ候え共、当免場の義は、山中草深き土地にて寺院へも遠路の義につき、老若男女仏法の便りを取り失い候様相成り侯につき、その段御嘆き申し出で侯ところ、御聞き届け下され、右三尊仏の内、阿弥陀如来一仏御召し上げ、観音勢至の二菩薩は仏法結縁のため御残し置き下させられ候由申し伝え、御尊慮の程有難く存じ奉り、今に免場の者共惺怠なく参詣仕り、誠に霊験あらだなる二尊像にて、只今まで、この土地に悪病など流行も仕まつらず、その余段々御利生少なからず、是まさしく二菩薩の御蔭と一同有難く拝上罷りあり侯。かつ又およそ三拾ケ年ばかり以前、仏生山御役僧の由両人罷り越し、右二菩薩法然寺へ相納めくれ侯様、左候えば当庵は法然寺末庵に取り立て、相応に庵地も寄附致し侯間、何様和談の上、所望致し度き由にて、いろいろ相談御座侯え共、先年一仏御召上げに相成り候義も、至極残多(残念)に存じ奉り居り申す儀につき、強いて断り申し述べ候義に御座侯。然る処、又々此の度右二菩薩御所望の由にて、達々御相談下され侯え共、前願の通り仏生山御開基の瑠り是迄御断り申し上げ御座侯義に付、何様此の度御引寄の義は、偏に御断り申し上げ度存じ奉り侯。左侯えば二菩薩御名染みの私共一同有難く存じ奉り、尚後代迄仏法の結縁と罷りなり侯義に御座候間、此の段よろしき様頼み上げ奉り侯。             以上
                 阿野郡南川東村中熊
  弘化二年                   観音堂惣講中
     十一月

意訳変換しておくと
     口上
一、中熊寺の前庵に奉納されている弥陀観音勢至三尊仏は、法然上人の自作の仏たちである。大川権現の別当十二房の内の房久保に鎮座していた。ところが土佐の長曽我部元親の乱入の際に、僧房が焼き払われしまった。そのため住僧がこの三尊仏を背負って、当所へ避難させ、庵を建立した。その後、(初代高松藩主の松平頼重が)仏生山法然寺を建立して、この三尊仏を仏生山へ奉納せよと命じられたことがあった。その際に、当免場(中熊)は、山中草深き土地で寺院へも遠路で、老若男女が仏法の便りを取り失うことになります、何とぞご勘弁をと請願したところ、御聞き届け下さました。ただ三尊仏の内の、阿弥陀如来は御召し上げ、観音勢至の二菩薩は仏法結縁のためにこの地に留めるようにとの達しであった。この尊慮を有難く受け止め、今にこの地の者たちは怠りなく参詣しています。誠に霊験あらだなる二尊像のおかげで、今までこの土地に悪病など流行はありません。その他にも、さまざまな利生がありました。これまさしく二菩薩のお蔭と一同ありがたかう拝んでいます。約30年ほど前、仏生山のふたりの役僧が参って云うには、残りの二つの菩薩を法然寺へ納めれば、当庵は法然寺末庵に取り立て、相応の庵地も寄附するであろう。この申し出に対して、いろいろ相談した結果、先年阿弥陀如来を召上げになったことについて、至極残念に思っているので、強いてお断りすることにしました。ところが再度、二菩薩所望のお話しがありました。これについても、仏生山開基の時にも御断りしているとおり、お受けすることは出来ない旨を伝えました。このように二菩薩については、私共は名染みの仏で、深い信仰心を持っています。この後も仏法の結縁として、この二つの仏を護っていくように、後世に頼み上げ奉り侯。             以上
                    阿野郡南川東村中熊
  弘化二年                  観音堂惣講中
     十一月

ここからは次のような情報が読み取れます
①この仏像は法然自作で、もともとはの阿弥陀観音勢至三尊仏で、中熊寺の庵に安置されていた。
②それが長曽我部元親の侵攻の際に、僧房が焼き払われて、現在地に避難させ、庵を建立した。
③大川権現には別当寺が十二房あり、中熊寺もそのひとつであった。
④初代高松藩主の松平頼重が仏生山法然寺を建立した際に、法然寺の寺格を上げるために、各寺から古い由緒のある仏像を集めた。
⑤その際に、この三尊仏も仏生山へ奉納せよと命じられたが陳情の結果、阿弥陀仏だけを奉納し、両脇の観音像は奉納せずに済んだ。

特に③について私は注目します。大山権現には、別当寺が12坊あり、その修験者たちによって大川権現は運営されていたことを押さえておきます。
参考史料 琴南町誌 1008P

まんのう町「ソラ」の集落を行く 浅木原・中野・島ゲ峰

沖野の川上神社から川沿いの旧道をたどって浅木原に登ってきました。しかし、県道が新しくなってからは旧道を通る人はいないようで倒木、流れ石などで道は荒れていて一苦労。原付バイクだからこそ通過可能です。 

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     浅木原は阿讃山脈の最高峰龍王山にもっと近い集落で、県境尾根の稜線上の電波塔が目の前に広がります。山を開き畑作をする場所としては日当たりも良く、水も得られるとすればいい場所だったのかもしれません。しかし、ここは人里からは本当に遠い場所です。

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 今は1,5車線の県道が川奥からここまで整備され、15分程度で登ってくることが出来ます。県道は行き止まりですが、閉じられた柵の向こうには広い広場が広がっています。何に使っているのか興味が湧きます。
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 百年前の大正時代には7軒の集落でしたが、今は誰も住んではいないようです。しかし、畑や家屋が手入れはされています。里に下りても、定期的にやって来ては管理をしているのでしょう。
 浅木原に山主社があると聞いていたので探してみました見つけることが出来ません。
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誰もいなくなった広場に、庚申塔がポツンと立っています。

青面金剛と三猿二鶏が彫られたものです。ここでも庚申講が行われ、庚申待ちの日には夜通し寝ないで、光明真言が唱えられていたのでしょう。盆の十五日には、この庚申塔前で踊りが催され、近在の人々三、四十人が集まって賑やかだったそうです。
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7軒の集落が、信仰という絆に結ばれて厳しい自然と向かい合いながら生活していたのでしょう。

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  紅葉には少し早い阿讃県境尾根付近です。帰りは県道を下りていきます。
途中に沖野の家々がぽつりぽつりと散在します。
道沿いに手入れされた茶畑が広がります。

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その中に見つけたのがこれ

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 明治5年の年号が入った庚申塔が茶畑の隅にひっそりと立っています。この塔は浅木原のものより新しいようですが同じように青面観音と三猿二鶏が彫られています。阿波の集落から伝わった庚申講が、ここでも行われていたのでしょう。

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 この集落や浅木原への道は戦前は幅1㍍程度の里道だけで、すべて荷物は肩に担いで運ばれていたといいます。明神方面へ出るには、大部分の人は中の谷へ下り、川奥の川沿いの道を下りました。株切や沖野の人々は、島ケ峯を通って葛龍野へ出て、それから林へ下りる道を通っていたようです。また東へ出るには、日開谷の上を通って、それから貝の股を通り塩江に出る道と、尾根伝いに雨島の上を通り、戸石に出て高松へ行く道が利用されていました。徳島へは寒風越、三頭越を往来したそうです。

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沖野から中野集落へ上がっていきます。

南斜面に畑が広がり、その一番上に民家が集まっています。
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その中で、畑の田舎にポツンと廃屋が・・。
しかし鐘が吊されているようです。行って見ます。
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土壁が落ちて、今は廃屋となっています。
帰ってから琴南町誌で調べてみると、こう書かれていました。 
この庵は、明治の中期に黒川勇吉(明治三十五年三月没)が説教場として建てたもので、黒川説教場とも呼ばれていた。敷地内には黒川勇吉の墓と、故黒川菊蔵が明治三十二(一八九九)年に建てた菩提塔がある。また、この庵には近くの畑二反余が寄進されており、近年まで庵守りの僧がいて、近在の人々の教化に当たり、信仰を集めていたが、今は無住となり、寂しく戸を閉ざしている。
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 ソラの集落には山伏や修験道者など宗教的な指導者であった人たちが定住することも多く、宗教的な情熱を強く持つ人がいたことが分かります。

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中野集落から株切集落まで上がってきました。

道路に「島が峰そば畑」を案内する看板が現れました。行って見ることにします。
深い林の中を林道は縫うように走り、高度を稼ぎますが展望はありません。

そして突然に視界が開けました。ここが島ケ峰のようです。

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ここはそば畑として管理され、南に広い視野が開ける展望台になっています。テーブルが置かれ簡易トイレや水場が整備されています。最高の景色を独り占めしながらの昼食タイムとなりました。
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この一帯は、江戸時代は川東村の入会の野山で、共同の柴草刈場だったようです。
明治になりこの地区の農家に分割され、下草を刈ったり炭焼をするのに利用されてきました。
 高度経済成長期に旧琴南町では、この一体の四三㌶を開墾し牧場を造成します。川奥の周辺農家は和牛を、ここで放牧飼育しました。昭和四十五年ごろには、一二〇頭余の牛が飼育されていたようです。しかし、牛肉自由化等により価格が低落。大打撃を受け、わずか2年後に牧場は閉鎖されます。
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残ったのは、牧場造成と同時に行われた各集落から牧場までの道約10㎞。
これが後の地域開発の足がかりとなります。それから10年後、牧野を再開発して大型機械を使ってのキャベツ生産団地として生まれ変わり、高冷地集団農場となります。そして、いまは蕎麦が栽培されています。ここは、牧場から高原キャベツ、そして蕎麦栽培と姿を変えてきた高原なのです。

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今回はここ島が峰のそば畑まで、続きは次回に・・・・

まんのう町のソラの集落を行く (川奥・沖野)編  

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   まずやって来たのは美霞洞渓谷の竜神社です。

エピア美霞洞温泉の手前のトンネル前の駐車場から清流沿いに整備された遊歩道を歩くと、行き当たりがここです。
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 拝殿の背後の雄渕・雌淵が雨乞の聖地で、清流が響きます。
「龍」と言えば空海の「善女竜王」で、ここでも雨乞祈祷が行われました。干魃の時には、この淵に船を浮かべて雨を祈る神事を行うと必ず雨が降ったと伝えられています。山の雨乞聖地が大川山とするなら、川の雨乞聖地だったということになります。
 身を清め、心を清めコリトリ修行と思うのですが、もう秋の気配で水は澄み切り冷気を感じます。思うだけで実行なし・・・

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次にやってきたのは、阿波街道の三頭越入口の太子堂です 。

 国道の北側の久保谷橋のたもとに、二間四方のトタン葺の大師堂があります。
祭壇の中央に阿弥陀如来を祀り、その右側に寄木造りの大師座像と左側に舎利仏像が祀ってあります。舎利仏像の厨子には
「安政七庚申二月吉日厨子一具 発起人 美馬郡猿坂長江善太」
と書かれています。安政の大獄のあった幕末のものです。

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 戦前まではこの太子堂に、金毘羅堂も隣接してありました。

正面に金毘羅さんを祀り側面右に舎利仏像、
左に善光寺石仏が安置されていました。
踏み込みの土間に沿って、広い縁があり板張りの座の中央のいろりには大きな茶釜がかけられていたそうです。
 阿波から険しい峠を下って来た人や、これから峠道を登ろうとする人々にとって格好の休み場でした。接待された茶を飲みながら旅の話に花を咲かせ、阿讃の情報交換を行なっていたのです。
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 しかし、鐡道建設や他の峠道整備もあって、三頭越えを越える人々は年々少なくなり金毘羅堂も荒れて老朽化がひどく、戦後には取り払われました。今は金毘羅社の小祠が往時の繁栄をしのばせるのみです。

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太子堂境内には三頭越えに続く道沿いに古い記念碑があります。

 ここから三頭越までの峠道を開くために、献身的に活躍した智典法師の業績を称えるものです。彼は街道建設と併せて道中安全を願って、久保谷から三頭神社までに西国三十三か寺の石仏を建てました。それが今も、この峠道を歩く人々を見守っています。ここは重要な交通の要衝で、阿波金毘羅街道の通行の安全にかけられた人々の思いと、峠道を行き来する旅人の様子をしのばせるものが一か所に集められています。
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太子堂の目の前を、土器川の支流が流れ、その上には三角(みかど)集落の家々が見えます。秋も少しずつ里に下りてきて、木々が色づき始めています。

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国道の下をくぐって川奥へ川沿いに登って行きます。
かつては川奥は三頭越街道の通る川奥中の久保谷が山間部の入口でした。しかし、明治になって学校が川奥上の明神川原に置かれてから、川奥地域の中心が川奥上に移動したようです。その川奥小学校跡に行ってみましょう。
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大きな杉が迎えてくれました。

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境内には、鳥居が小さく見える「杉王」が起立しています。
この神社の18世紀前半の棟札には「三種大明神」とあり、それが50年後の棟札では「杉王大明神」となっています。境内のこの大杉にあやかって、神社名を変更したようです。
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かつての小学校の運動場は今でもきれいに整備されています。
そして、その敷地には、かつての小学校の建物と思われるものがポツンと・・
川奥集会場を後にして・・川沿いをさらに上っていくと・・

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沖野集落の川上神社を目指します。
沖野集落の祖先の中には、もともと山田郡に住んでいましたが寛永12年(1635)に神内池が築造の際に立ち退きになり、この地に移った人もいた伝えられます。そして、川の源流に近い聖地に神社を創建し、川上大明神と呼ぶようになったと伝えられています。

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少し荒れた川沿いの道をたどると社殿が現れました。川沿いの深い森に囲まれ、日も届かない幽玄な雰囲気です。
 この神社にはかつて、寛永年間(1624~44)の棟札があったと伝えられていますが、今は残っていません。今ある棟札からは、本殿は天保9年(1838)頃、拝殿が明治21年(1888)に棟上げしたことが分かります。

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境内には、町指定自然記念物の「朴の木」の大木があり歴史を感じさせてくれます。そのホオノキの根元にはキノコが一杯出ていました。
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かわいらしい小ぶりな二の鳥居が迎えてくれます。
その向こうが拝殿。
ここまで迎えていただいたことに感謝し礼拝。
そして、この神社の私の一番見たかったのは・・・裏に回ると

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 この社殿は小規模ながら、他には見られないいくつかの特徴があります。

①拝殿の向拝の位置が、拝殿建物全体の中心線からずれていること。
②本殿には、珍しい腰紐が設けられ、三手先腰組で拳鼻が取り付けられていること。

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③丸桁の上に地垂木が使われず、厚板に雲文が彫られた板軒になっていること。
この板軒の工法は、全国的にも珍しく、香川県内では金刀比羅宮の旭社など、数例しか見られない工法です。
④前面両脇柱正面で、向拝の海老虻梁の下に立てられ、脇障子柱に高欄、登高欄が取り付いたユニークな配置構造なこと。

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以上から、川上神社本殿及び拝殿は、腰組、獅子鼻、龍の彫り物も見事であること、拝殿の軸線のずれ、本殿脇障子の立ち位置、板軒は、他に類を見ないなど特徴を持つ貴重な建物といえます。
いい仕事を明治の宮大工は残しています。
 
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 しばし、ぼけーとこれらの彫物を眺めていました。
いいものに出会わせていただいたことに感謝して、再度礼拝

 さて、次は浅木原へ向かう予定なのですが・
・・・・それはまた次回に

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八峰方面からの勝浦
まずは「琴南町誌 958P」で予習
「下福家は、土器川の源流勝浦川と真鈴川にはさまれた標高350~550mぐらいの阿讃山脈の緩斜面に開けた集落である。その東側を「東ら」と言い、西側は「西ら」と呼ばれる。突出した丘陵の中段に扇状に人家が散在している。「東ら」は家の近くに比較的広い水田が聞かれている。「西ら」は伝説では神櫛王の家臣の子孫である福家長者がこの地を開き、天安元(857)年、ここに社を建て神櫛王を祀ったという。後に、この神社を福家神社、その地を下福家と呼ぶようになった。福家長者の子孫については、不詳であるがこの福家神社を中心に集落は拓けた。」
まんのう町下福家と四つ足茶堂
下福家集落
さて、これだけの情報を頭に入れて、土器川源流に近い勝浦地区の下福家へ原付ツーリング開始
琴平方面から国道438号を南下し、まんのう町明神にある「谷川うどん」の上にある信号を右折し、県道108号線の「滝の奥」方面へに入る。

DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺
勝浦から下りてきた現在の長善寺の伽藍を右手に見ながら更に進み、勝浦集落への入口も越えて行く。

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しばらくすると「下福家バス亭」が見えてくる。ここから下福家集落に入っていく。
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旧長善寺跡
かつての長善寺の伽藍跡を左手に見上げながらさらに坂を登る。この寺は、阿波郡里の安楽寺のサテライト寺院として、丸亀平野への浄土真宗興正寺派の布教センターの役割を果たした寺院で、阿波と讃岐に多くの門徒を抱えた大寺院だったようだ。

DSC00796長善寺破れ本堂
取り壊される前の旧長善寺本堂
かつての茅葺きの本堂は、その面影を残していた。

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旧長善寺の鐘楼
鐘楼には、大きな石がぶら下げられて重しとなって揺れていた。今は、更地となってそれもない。寺から更に道を詰めて、沢が滝のように落ちていくのを見ながら急勾配の細い坂道を登ると、深い木立の中に福家神社が鎮座する。
DSC00855勝浦福家神社鳥居
福家神社鳥居
拝殿には「福家神社のもうひとつの由来について」と題して、町史に書かれていない神社由来が貼り付けられていた。一部紹介すると
「前略 崇徳上皇が崩御されて帰る行き先が無くなったお供の公家達は、阿讃の山奥に住み生活の糧に木材を土器川に流して下流の地で商いをして富を得たので、村人達はその一団を福(富)の家長者と呼んでいた。その後も公家達は京都の縁者と連絡を取っていた模様で源平の戦いに敗れた安徳天皇を密かに招いた地は現琴南町の造田の横畑地区と思われる。(通称:平家の落人部落)
そこで公家達は相当の逃走資金を献上して阿波祖谷に逃げさせた。(以下略)」

 ここには、神櫛王に発し、崇徳上皇、安徳天皇に連なる誇り高き神社であることが、記されている。 満濃町誌には、下福家の人々がこの神社の宗教行事を通じて結束を保ってきたことを、次のように記している。 

下福家は、全戸で二九軒(東8軒、中6軒、下8軒、西7軒)であるが、福家神社を中心に生活してきたことが、福家神社の正月の行事をみると明らかである。正月の元日の宮まいりは、大晦日の十二時が過ぎると氏子の者は皆神社に参るが、どの家も「おごくさん」を炊いて、ヘギに盛って持って来て祀る。
DSC00853福家神社鳥居
福家神社参道 


福家神社の年間行事 勝浦
福家神社の年間行事(まんのう町勝浦)
一月七日に的射の行事があるが、各戸から持ち寄った紙を張り合わせ、五尺四方の的をつくる。もちろん、弓も矢も手造りである。まず宮司がお祀いをして三本射ると、続いて氏子の者全員が交替に二、三本の矢を射る。これが済むと、この的を境内中引きずり回して、めちゃくちゃにこわしてしまう。これで悪魔を射払い、一年の無病息災を祈念るのである。最後に、お神酒が出て、重箱の「おごくさん」をいただく。それは、「手のひら盆」といって、手の甲に受けていただくもので、古いしきたりがそのまま残っている。
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福家神社

  福家神社の横の道を登っていくと、家の周りに棚田が重なる風景が見えてくる。一番高い民家から勝浦・明神方向をながめる。幾重にも山々がひだのように重なる。(以下追加 2025/08/27)
福家神社から500mほど山に登ると見はらしのよい丘に龍王社が鎮座します。
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社といっても石積みがあるだけで、社殿はありません。お祭りの日(八月四日)には、朝早く頭屋の者がここに登り、付近にある萱や小木を切り取り、これで石積みの壇上に、高さ70㎝、幅60㎝ほどの小さな祠を造ります。新しい祠ができると大川宮(大川山)から龍王が天狗に乗ってここに降りて来るのだと信じられている。磐境に設けられた神聖な社に龍王が降臨されるという信仰形式が今に伝えられています。ここからは次のようなことが読み取れます。
①空海の「善女龍王」信仰から雨乞の龍王社が祀られている。
②大山権現から龍王が天狗に乗って下りてくるというのは、天狗信仰(修験者)の存在

準備が出来ると、集落の人々は思い思いにおごくさんや、お神酒を持って来て供え、長老が祝詞をあげます。神事が終わると参拝者はお供物をいただく。秋の祭りには、獅子が奉納される。人々はこれで今年も雨の心配がないと安心するのです。
千ばつの時は、この龍はん(ごりょうはん)に雨乞いをしたことが次のように記します。
金毘羅さんに参詣し神火を火縄に受け、約28㎞の道を歩き、四つ足にある「はこぶち」に着くと、その淵の水を汲み、そこで108の松明に神火を移し、この松明をかざして行列をつくる。各人が「なんまいだ、なんまいだ」と称えながら山を登る。
「龍はん」に神火と水を供え、三日二夜の間徹夜の祈願をする。雨乞い中は洗濯物や千物は一切しないで水を大切にして風呂さえも休んだ。神前に大火を燃やし、29戸の講中の者が、思い思いの日を紙片に書き箱に入れ、榊の葉でかきまわすと、紙片が一つだけついてくる、この紙に書かれた日には必ず雨が降ったという。 「大川さんから白い雲の帯が下りて来て龍王の祠を結ぶようになった時には、必ず雨が降る」
そして、使いの天狗がとまっていたという天狗松と呼ぶ老木もありました。今では日照りがしても、龍王さんに祈願をすることもなくなったが、毎年二回の龍王祭は欠かしたことはないといいます。。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌 950P 

原付バイクで旧琴南町下福家をフィールドワーク中に見つけたのが

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谷を越えた勝浦方面に大きな建物を発見

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旧長善寺(まんのう町勝浦)

石垣と白壁に囲まれた要塞のような印象。そして屋根が茅葺き?
早速行ってみることにします。

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旧長善寺
やってきました。勝浦の長善寺です。
帰ってきて調べると琴南町誌802Pには、次のように記されていました。

長善寺は十五世紀の開基といわれる由緒ある寺である。勝浦本村の中央の山辺に、城郭を想わせる高い石垣を築き、自亜の上壁に囲まれた境内に、総茅葺の本堂の偉容が見られる。石垣の下に近づくとその中央に数十段の石段があり、上を仰ぐと茅葺の鐘楼が頭上に立っている。

正面の階段を上ると・・茅葺きの鐘楼がありました。

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長善寺鐘楼 鐘がない!
しかし、つり下がっているのは大きな石材です。鐘はどこへ行ったのでしょうか?
この鐘楼は、簡素であるが四天柱は八角で珍しく、足元にふんばりがある。軒の出がやや浅いが、腰貫、飛貫、頭貫があり、台輪木鼻付、組物出三斗、中備平三斗、軒一軒角半繁垂木、妻飾り木連格子である。万延元(1860)年の棟札があるが、様式的には十八世紀末ころのものである(「香川県の近世社寺建築調査報告書」)
本堂は、痛みがひどくなっています。

DSC00796長善寺破れ本堂
旧長善寺本堂
本堂は桁行14mもある大型の仏堂で、茅葺の大屋根は独特の風格を持っている。正面中央間に大虹梁を架けて間口を五間とし、前面に一間の向拝がつく。内部は内陣、左右の余間及び外陣からなる。外陣は奥行四間と広く、内陣・余間境筋に計四本の角柱が建つのみで大虹梁を架けて内部柱を省略している。
 建立年代は、宝暦六子(1756)年という記録があり、絵様や蟇股などの形式からも、十八世紀中ころの建立と思われる。なお、来迎壁裏面に寛政五年の記のある法要定式、縁板裏面に安政六年の修理時の墨書がある。後世の修理も少なくほとんど当初のままを残し、保存のよい総茅葺本堂として極めて価値が高い(「香川県の近世社寺建築調査報告書」
長善寺は、勝浦地区の政治・文化・宗教センターとして機能してきたお寺のようです。
この寺の由緒には、勝浦を拓いた勝浦権右衛門の三男が出家して南都興福寺に台密を学び、帰って天台宗寺院を開いたとします。その後、永正3(1506)年に、了道が浄土真宗に改宗したとします。長善寺は、阿波美馬の安楽寺の末寺でした。本山の安楽寺は、三好氏の保護を受けて、阿讃山脈を越えた讃岐方面に教線を伸ばしていきます。それは三好氏の丸亀平野への進出と重なります。三好氏が長尾氏などの讃岐国衆を従えた所では、安楽寺に対して「布教の自由」が認められます。そこへ安楽寺で鍛えられた僧侶がやってきて、人々の心をつかんでいきます。村々に「道場」が開かれ、それが後には浄土宗興正寺派の寺院に成長して行きます。長善寺や尊光寺、寶光寺などの大きなお寺も安楽寺の末寺でした。そういう意味では16世紀初頭の永世の錯乱後の三好氏の讃岐進出は、阿波人の入植と、浄土真宗興正寺派の教線拡大ということをもたらしたことは以前にお話ししました。
 この寺は、中世からの開発によって多くの土地を所有していたようです。
勝浦地区の水田は、野田小屋や勝浦に横井を作って水をひくことから始まりました。
潅漑施設を作り、独占的に占有します。野田小星川の横井は、長楽寺が開設したので寺横井、勝浦川横井を酒屋(庄屋の佐野家)松井と呼んでいます。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有しています。
 長善寺の檀家は千戸を超え、その半分は阿波の門徒と言われました。茅葺き屋根の葺き替えの時には、多くの門徒が藁を担いでやってきたといいます。もともとは阿波にあった寺院が、勝浦に進出してきたことがうかがえます。
 昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝者が阿波からもやってきて、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のそき芝居」などもあって門前市をなす盛況だったようです。確かに勝浦は、真鈴峠や二双越えによって人とモノが移動する阿讃交流の道の上にありました。峠を越えた交流の舞台が長楽寺だったようです。
 長善寺から50mぐらい下の道路上に観音堂があります。長善寺にあった阿弥陀像を、政所(庄屋)佐野家が譲り受けてお堂を建てて祀ったものとされます。それから地元民の信仰の場として受け継がれてきました。今も新たなお堂を建て地区の集会場として維持されています。

長善寺の下にあるのが庄屋佐野家です。                         
 勝浦五郎左衛門明久は、もともとは阿波三好家一族の者でした。それが故あって、この地に来て住みつき勝浦家の養子となります。。その曽孫次郎左衛門高甚は、曽祖父の里方の姓をとり佐野に改姓します。そして、寛永十九(1642)年、高松藩に召し出され祐筆役となり、禄百石を得ます。助右衛門の死後、その子は幼年で跡目相続ができず退官して勝浦村に帰ってきます。その子・次郎左衛門高家は、浪人身分でしたが、元禄15(1702)年に政所役を仰せ付けられます。そして明治になるまで、政所や庄屋を代々務めます。(佐野家系図)

天保六(1835)年2月26日の冬、藩主松平頼恕公は、阿讃国境視察と、大川山参拝のために高松を出発して七箇村を経て28日には大川権現に参詣しました。その日は勝浦村庄屋佐野佐蔵宅で宿泊し、翌二十九日には川東村円勝寺で御昼休みをして、焼尾で御芝立の後、羽床村を通り、二月一日帰城されている。焼尾付近では鷹狩が行われ、近在の猟師も召し出されて手伝っています。名目は鷹狩りですが、実際の目的は讃岐と阿波との境の警備などの視察であったようです。このための道の修理とか準備に召し出された村民は、川東村だけでも1404人にものぼったことが庄屋文書に記録されていることは、別の機会にお話ししました。

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門前にはこんな言葉が掲げられていました。
「生きることはすばらしい
しかし いつまでも生きられないことを知ったとき
それはさらにすばらしい」
この言葉を繰り返しながら境内で「哲学」(?)しました。
DSC00820長善寺全景

もうひとつ不思議だったのは、「廃墟」ではないのです。
境内は綺麗に手入れされています。
庫裡には人も住まわれている気配。
それと、あの鐘はどこに・・
その答えは帰路に分かりました。

長善寺
現在の長善寺

旧勝浦小学校前に突然現れた新寺。
これは本勝浦にあった長善寺が「移転」してきたものなのです。
そして、鐘もここへ移されているようです。
その後、本堂や鐘楼も撤去されていまは更地になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
改訂版 2025/09/01
参考文献 切畑の多かった村 勝浦 琴南町誌 949P 



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