瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:天空の村のお堂と峠 > 東三好町のソラの集落

 アオバト飛来 大磯町・照ヶ崎海岸:東京新聞 TOKYO Web
塩分補給のために深山から岩礁に飛来するアオバト
 四国山脈の奥に棲むアオバトは、塩水を飲むために海の岩礁に下りてきます。野鳥観察が趣味だったころに、豊浜と川之江の境の余木崎にやってくるアオバトたちを眺めによく行きました。波に打たれながら海水を飲むアオバトを、ハラハラしながら見ていたのを思い出します。アオバトと同じように、人間にとっても塩は欠かせないものです。そのため縄文人たち以来、西阿波に住む人間はアオバトのように塩を手に入れるために海に下りてきたはずです。弥生時代の阿波西部は、讃岐の塩の流通圏内だったようです。その交換物だったのが阿波の朱(水銀)だったことが、近年の旧練兵場遺跡の発掘調査からわかってきたことは以前にお話ししました。
 つまり、善通寺王国と阿波の美馬・三好のクニは「塩=朱(水銀)」との交換交易がおこなわれていたようです。阿讃の峠は、この時代から活発に行き来があったことを押さえておきます。
 7世紀後半に丸亀平野南部に建立された弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺の白鳳時代の瓦は、同笵瓦でおなじ版木から作られていたことが分かっています。ここでも両者の間には、先端技術者集団の瓦職人集団の「共有」が行われていたことがうかがえます。以上をまとめると次のようになります。
①弥生時代の阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていた
②善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が運ばれ、加工・出荷されていた。
③丸亀平野南部の弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われている。
 このような背景の上に、中世になると阿波忌部氏の西讃進出伝説などが語られるようになると私は考えています。 
 そのような視点で見ていると気になってきたのが国の史跡となっている三加茂の丹田古墳です。今回はこの古墳を見ていくことにします。

丹田古墳 位置
           三加茂の丹田古墳
 三加茂から桟敷峠を越えて県道44号を南下します。この道は桟敷峠から落合峠を経て、三嶺ふもとの名頃に続く通い慣れた道です。加茂谷川沿の谷間に入って、すぐに右に分岐する町道を登っていきます。
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丹田古墳手前の加茂山の集落
 加茂山の最後の集落を通り抜けると、伐採された斜面が現れ、展望が拡がります。そこに「丹田古墳」の石碑が現れました。
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           丹田古墳の石碑 手前が前方部でススキの部分が後方(円)部 
標高220mの古墳からの展望は最高です。眼下に西から東へ吉野川が流れ、その南側に三加茂の台地が拡がります。現在の中学校から役場までが手に取るように分かります。この古墳から見える範囲が、丹田古墳の埋葬者のテリトリーであったのでしょう。

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丹田古墳からの三加茂方面 向こうが讃岐山脈

 この眺めを見ていて思ったのは、野田院古墳(善通寺市)と雰囲気が似ていることです。
2野田院古墳3
     野田院古墳 眼下は善通寺の街並みと五岳山

「石を積み上げて、高所に作られた初期古墳」というのは、両者に共通します。作られた時期もよく似ています。彼らには、当時の埋葬モニュメントである古墳に対してに共通する意識があったことがうかがえます。善通寺と三加茂には、何らかのつながりがあったようです。

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帰ってきてから「同志社大学文学部 丹田古墳調査報告書」を読みました。それを読書メモ代わりにアップしておきます。
丹田古墳調査報告 / 森浩一 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

丹田古墳周辺部のことを、まず見ておきましょう。
①丹田古墳は加茂山から北東にのびる尾根の先端部、海抜約220mにある。
②前方部は尾根の高い方で、尾根から切断することによって墳丘の基礎部を整形している。
③丹田古墳周辺の表土は、丹田の地名が示すように赤土である。
④丹田古墳南東の横根の畑から磨製石斧・打製石鏃・打製石器が散布
⑤加茂谷川右岸・小伝の新田神社の一号岩陰からは、多数の縄文土器片が出上
 丹田古墳とほぼ同じ時期に築かれた岩神古墳が、加茂谷川の右岸高所に位置します。丹田古墳と同じ立地をとる古墳で、丹田古墳の後継関係にあった存在だと考えられます。前期古墳が高い所に作られているのに対して、後期古墳は高地から下りて、流域平野と山地形との接触部に多く築かれるようになります。すでに失われてしまいましたが、石棚のある横穴式石室をもった古墳や貞広古墳群はその代表です。貞広古墳群は、横穴式石室の露出した古墳や円墳の天人神塚など数基が残っています。
 以上から三加茂周辺では、初期の積石塚の前方後円(方)墳である丹田古墳から、横穴式石室をもつ後期古墳まで継続して古墳群が造られ続けていることが分かります。つまり、ひとつの継続した支配集団の存在がうかがえます。これも善通寺の有岡古墳群と同じです。

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                                丹田古墳の後円部の祠
丹田古墳の東端には、大師の祠があります。この祠作成の際に、墳丘の石が使われたようです。そのため竪穴式石室にぽっかりと穴が空いています。

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石室に空いた穴を鉄編みで塞いでいる

古墳の構築方法について、調査書は次のように記します。
①西方の高所からのびてきた尾根を前方部西端から11m西で南北に切断されている。
②その際に切断部が、もっとも深いところで2m掘られている。
③前方部の先端は、岩盤を利用
④後円(方)部では、岩盤は墳頂より約2、2m下にあり、石室内底面に岩盤が露出している
⑤墳丘は、岩盤上に積石が積まれていて、土を併用しない完全な積右塚である。
⑥使用石材は結晶片岩で、小さいものは30㎝、大きなものは1mを越える
⑦石材の形は、ほとんどが長方形

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墳丘に使用されている石材

⑧くびれ部付近では、基底部から石材を横に5・6個積みあげている
⑨その上にいくに従って石は乱雑に置かれ無秩序になっていく。
⑩墳丘表面は、結晶片岩に混じって白い小さな円礫が見えます。これは、下の川から運び上げたもののようです。築造当初は、白礫が墳丘全面を覆っていたと研究者は考えています。

国史跡丹田古墳の世界」-1♪ | すえドン♪の四方山話 - 楽天ブログ
            白く輝く丹田古墳
そうだとすれば、丹田古墳は出来上がった時には里から見ると、白く輝く古墳であったことになります。まさに、新たな時代の三加茂地域の首長に相応しいモニュメント墳墓であったと云えそうです。

⑪古墳の形状は、前方部先端が一番高く、先端部が左右に少しひろがっている箸墓タイプ
⑫墳形については、研究者は前方後方墳か、後円墳か判定に悩んでいます。
次に、埋葬施設について見ておきましょう。
 先ほども見たように、石室部分は大師祠建設の際に台座の石とするために「借用」された部分が小口(30㎝×50㎝)となって開口しています。しかし、石室字体はよく原状を保っていて、石積み状態がよく分かるようです。
丹田古墳石室
丹田古墳の縦穴式石室

①右室底面の四隅は直角に築かれて、四辺はほぼ直線
②規模は全長約4,51m、幅は東端で約1,32m、西端では約1,28m
③石室の底面は、東のほうがやや低くなっていて、両端で約0,26mの傾斜差
④この石宝底面の傾斜は、尾根の岩盤をそのまま、利用しているため
⑤高さは両端とも1.3mで、中央部はやや低く約1,2m
⑥石室底面は墳頂から約2.2m下にあり、石室頂と墳頂との間は約0,85m
⑦石室の壁は墳丘の積石と同じ結品片岩を使い、小口面で壁面を構成する小口積
⑧底部に、大きめの石を並べ垂直に積み上げたのち、徐々に両側の側面を持ち送り、天井部で合わせている。
⑨つまり横断面図のように合掌形になっていて、 一般的な天井石を用いた竪穴式石室とは異なる独特の様式。
⑩については、丹田古墳の特色ですが、「合掌形石室」の類例としては、大和天神山古・小泉大塚古墳・メスリ山古墳・谷口古墳の5つだけのようです。どうして、このタイプの石室を採用したのかは分かりません。
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ここで少し丹田古墳を離れて、周囲の鉱山跡を見ていくことにします。
①からみ遺跡 海抜1300mの「風呂の塔かじやの久保」にある銅鉱採堀遺跡
②滝倉山(海抜500m)
③三好鉱山(海抜700m)跡
①風呂塔かじやの久保は、奈良朝以前の採掘地と研究者は考えているようです。鋳造跡としては長善寺裏山の金丸山があります。ここの窯跡からは須恵器に鋼のゆあか(からみ)が流れついている遺物が発見されています。
 また三加茂町が「三(御)津郷」といっていたころは東大寺の荘園でした。その東大寺の記録に「御津郷より仏像を鋳て献上」とあります。ここからは加茂谷川の流域には、銅鉱脈があり、それが古代より採掘され、長善寺裏山の鋳造跡で鋳造されていたという推測ができます。残念ながら鋳造窯跡は、戦中の昭和18年(1954)に破壊されて、今は一部が残存するのみだそうです。

三加茂町史 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 三加茂町史145Pには、次のように記されています。

かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  つまり、丹田古墳の被葬者が三加茂地域の首長として台頭した背景には、周辺の銅山開発や銅の製錬技術があったいうのです。これは私にとっては非常に魅力的な説です。ただ、やってきたのは「漢民族」ではなく、渡来系秦氏一族だと私は考えています。
本城清一氏は「密教山相」で空海と秦氏の関係を次のように述べています。(要約)
①空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
②泰氏の基盤は土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
③その中には鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
④空海は民衆の精神的救済とともに、物質的充足感も目指していた。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑤空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内にある。
⑥例えば東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神)。これも秦氏を意識したものである。
空海の満濃池改修も、秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑧空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。例えば秦氏族出身の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑨平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が8名もいる。
⑩讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した寺社である。
⑪金倉寺には泰氏一族が建立した新羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係も深い。

2密教山相ライン
  四国の密教山相ラインと、朱(水銀)や銅などの鉱脈の相関性

以前に、四国の阿波から伊予や土佐には銅鉱脈が通過しており、その鉱山開発のために渡来系秦氏がやってきて、地元有力豪族と婚姻関係を結びながら銅山や水銀などの確保に携わったこと。そして、奈良の大仏のために使用された銅鉱は、伊予や土佐からも秦氏を通じて貢納されていたことをお話ししました。それが、阿波の吉野川沿いにも及んでいたことになります。どちらにしても、阿波の加茂や郡里の勢力は、鉱山開発の技能集団を傘下に抱えていたことは、十分に考えられる事です。

丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。

「天平以前の日本人が「丹」字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は「に」と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ「そほ」には「赭」の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう。

丹田古墳の「丹田」は赤土の堆積層をさします。
ここには銅鉱山や、朱(水銀)が含まれていることは、修験者たちはよく知っていました。修験者たちは、鉱山関係者でもありました。修験者の姿をした鉱山散策者たちが四国の深山には、早くから入っていたことになります。そして鉱山が開かれれば、熊野神社や虚空蔵神が勧進され、別当寺として山岳寺院が建立されるという運びになります。山岳寺院の登場には、いろいろな道があったのではないかとおもいます。  
 同時に、阿波で採掘された丹=朱砂は、「塩のルート」を通じて丸亀平野の善通寺王国に運ばれ、そこで加工されていました。善通寺王国跡の練兵場跡遺跡からは、丹=朱砂の加工場がでてきていることは以前にお話ししました。丹=朱砂をもとめて、各地からさまざまな勢力がやってきたことが、出てきた土器から分かっています。そして、多度津の白方港から瀬戸内海の交易ルートに載せられていました。漢書地理志に「分かれて百余国をなす」と書かれた時代の倭のひとつの王国が、善通寺王国と研究者は考えるようになっています。善通寺王国と丹田古墳の首長は、さまざまなルートで結びつきをもっていたようです。
以上をまとめておきます
①阿波の丹田古墳は高地に築造された積石の前方後方(円)墳である。
②すべてが積石で構築され、白い礫石で葺かれ、築造当初は山上に白く輝くモニュメント遺跡でもあった。
③これは、丹田古墳の首長が当時の「阿識積石塚分布(化)圏」に属するメンバーの一人であったことを示すものである。
④特に、三加茂と善通寺のつながりは深く、弥生時代から「塩=鉱物(銅・朱水銀)」などの交易を通じて交易や人物交流が行われていた。
⑤それが中世になると、阿波忌部氏の讃岐入植説話などに反映されてきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳島県教育委員会 丹田古墳調査報告書
三加茂町史 127P 丹田古墳

       
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   金毘羅からの帰りに、狼に食われた男
 東山では明治の中頃まで、節季になると琴平へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて帰ってきたものです。ある年の暮、数名の者が讃岐の塩入部落まで帰ってくると日はとっぷりくれたし、寒さは寒いし腹はへる。そこで一軒のうどん屋に立ち寄って、うどんや酒でしばらく休みました。そのうちの一人が「わしは一足お先に」と帰りを急ぎます。残った者はよい気持ちで、いろいろ話に花をさかせながら遅れてその後を追いました。
 阿讃国境の松の並木道を左右にたどりながら、男山部落の峰のお伊勢さんの祠のあたりに来ると、暗闇ながら数間先に幾匹かの狼が音を立てて何かを食っている気配がします。一行は驚きます。
 「あれは五郎でないか」、一人は「ちよっと待ってくれ」といいながら滝久部落のよく見える峠へ走りでて、「五郎が食われているぞ」と声を限りに叫びます。急を聞いて村人が猟銃を下げて駆け上がってきて、火縄銃でねらいますが、狼はそれらの頭をけって飛び交い、だれ一人仕留めるはできません。人々が慌てふためくなか、狼は一匹去り二匹去りどこかへ姿を消してしまいました。
 後には一片の遺骸と五郎の天秤棒の荷物が残っていました。残骸を集めてもち帰り丁寧に葬りましたが、間もなくその墓は掘り返され悉く食われてしまいます。
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 五郎は神社の周りに畑をもっていて、祭りの時に踏み荒らされるからと何時も祭りの前日に濃い下肥を撒き散らしていました。里人は神罰だと語り合ったそうです。男山を越える峠には、少し畑があってそのあたりに狼がよく出るといっていたそうです。 
(大西ウメさん談)
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●男山集落の「しばおり神様(いおりさん)」
 東山の男山にある新田神社の境内に、いおりさんが祀られています。その世話を古くから大谷家が行ってきました。大谷家は新田義貞の一族で、足利氏との戦いに敗れこの地にやってきたと伝えられます。密かに南朝と連絡をとり再起を計っていたようです。ある日、京都から密書を持っていおりさんという武士が大谷家にやってきます。大谷家では盛大にもてなしますが、この密書には、この書をもってきたいおりさんを必ず切捨てるようにと書き添えてあったのです。いおりさんは字が読めず、密書にそんなことが書いてあるのを知らないで届けたようです。
 命令とはいえはるばる京都から密書を持ってきたいおりさんを哀れみ、柴を折りそこへ丁寧に葬むり、祠を建てしばおり神様として祀ります。さらに、男山の新田神社の境内にもいおりさんとして祀ったと云います。
 しばおり神様は、旅の疲れをいやすため、しばを折りそれを祀ると元気になるといわれ県道丸亀線の脇にある祠には、讃岐に向かう旅人が供えたしばが絶えなかったそうです。 (町史編集委員会資料集)
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●新田神社の話

 戦前まで男山の新田神社では、毎年盆の28日には青年団主催による演芸会や踊りなどを楽しんでいました。その頃は音頭が盛んで、音頭だしなどたくさんいて一晩中語り明かしたそうです。
 ある年、音頭中で仇討ちの場面を語った時、本殿がガタガタゆれ稲妻が光り、雷が落ちたような大きい音がしました。人々は真っ青になり、泣き出したり大人にすがりつく子供もいた。これはきっと新田さんのお怒りに違いない、これからはこんな音頭は語らないようにしようと新田さんにあやまります。新田氏は足利氏との戦いに敗れ、この地に逃れ滅んでいきました。そして、勝負事はきらいな神様で、祭りなどでも勝負事はしないようにしたそうです。

参考文献
 東山の歴史

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東三好町のソラの集落 男山 
 
東三好町の旧東山村には、讃岐山脈から北に張り出した尾根に多くのソラの集落が散在します。このソラの住人たちの生活圏は、車道が整備されるまでは讃岐に属していたようです。吉野川筋の昼間へ下りていくよりは、讃岐との往来の方が多かったと云います。その理由は
①小川谷に沿って昼間へ出る道が整備されていなかったこと
②金毘羅(琴平)が商業的・文化的にも進んでいだこと
そのため阿波藩の所領ですが、経済的には讃岐、特に「天領で自由都市」である金毘羅さん(琴平)との結びつきの方が強かったようです。東山から金毘羅への道は、次のようなルートがありました。
4 阿波国図     5
①内野から法市・笠栂を経て樫の休場(二本杉)から塩入へ
②葛龍から水谷・樫の休場(二本杉)を経て塩入へ
③貞安・光清から男山峰を越えて、尾野瀬山を経て春日へ。
④差山(指出・登尾山)を越えて石仏越で箸蔵街道と合流して財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ
4 阿波国図 15

 どの道も塩入や財田経て、金毘羅さんへ続きます。「四国の道は、金毘羅さんに続く」の通り、金毘羅さんを起点に、次の目的地をめざしたのです。
金毘羅ほどの賑わいのある町は、吉野川沿いにはありませんでした。
品物も豊富で、金毘羅さんの阿波街道の入口には「阿波町」が形成され、阿波出身の商人達がいろいろな店を出していました。贔屓の店が、ここにあったのです。また。山仕事に必要な道具を扱う鍛冶屋、鋸屋など職人の町でもありました。ここには阿波の人たちによって鳥居が奉納され、大勢の阿波の人達が金毘羅参詣を兼ねて訪れました。東山では明治の中頃まで、年末になると金毘羅の阿波町へ正月の買い物にいき、めざしや塩鮭、昆布、下駄などを天秤棒にぶらさげて、日の明るい内に帰ってきたと伝えられます。
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男山集落

 阿讃越の峠道は、ソラの集落の尾根を登って峰を越えていく山道でした。
尾根道は、最短距離を行く道で、迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかったようです。今でも讃岐山脈の県境尾根の道は広く、しっかりしていて快適な縦走路です。この道を、当時の人たちは、荷物を背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりしたようです。
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 天に近いほど、山の頂上に近いほど、金毘羅にも近いことになります。
つまり、奥地ほど讃岐に近いく便利だったのす。その結果、奥へ奥へと開墾・開発は進められます。それは当時のソラの集落の重要所品作物が煙草であったことも関係します。
タバコの葉っぱ<> | 萩市の地ブログ

煙草は気象の関係から、高いところで栽培された物ほど高く売れたようです。これは髙地の畑作開墾熱を高め、そこへの開墾移住熱をも高めました。そのため、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が開かれていったようです。
 葛尾の集落が街道沿いの集落として、明治までは繁昌していた様子が、残された屋敷跡や立派な石垣からうかがえます。これは、讃岐への交通の要に位置していたからでしょう。
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    男山から昼間への道 打越越えの開通は? 
 昼間の奥の男山は、讃岐に経済的には近かったこと。その要因として、徳島側への道が整備されていなかったことを挙げました。徳島側の拠点となる昼間から東山中心部への往来は、谷と険しい峰に阻まれており、谷に沿って、何回も何回も谷を渡り、河原を歩かなければならなかったようです。 この川沿いの悪路を避けて、尾根沿いに新たな新道が開かれたのは、いつのことなのでしょうか。
それは案外遅く、幕末になってからのようです。
 教法寺の過去帳には、弘化三年(1846)10月24日から11月2日にかけて昼間村地神から東山村貞安小見橋間の道普譜が行われた際の次のような動員文書があります。

 昼間村地神より東山村貞安小見橋まで道お造りなされ候、東山村より人夫千人百人程出掛ヤ御郡代より御配り候て道作り候。普請中裁判人、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門他に三、四人裁判の由にて、霜月の二日に道造直し、御郡代三間勝蔵殿十月二十七日に御見分担戊申事。
意訳すると
 昼間村の地神から東山村貞安小見橋まで、道を作るときに、東山村より人夫1100人程が郡代の命で動員され道作りに参加した普請の裁判人は、与頭庄屋助役佐々水漉七郎・西昼間庄屋高木政之進・五人与甚左衛門・福田利喜右衛門・嘉十郎・東山中野右衛門・恭左衛門の他に三、四人裁判したようで、霜月の2日に道を点検し、郡代三間勝蔵殿が10月27日に御見した。

文中の「裁判」は、人夫を指揮監督することだそうです。この文書からは、郡代による大規模な工事が行われたことが分かります。この工事が新設か改修かは、文書からは分かりませんが、「状況証拠」から新設に近いものであったと研究者は考えているようです。昼間の地神さんを起点として打越を越え、内野までの尾根沿いの安全な道が、幕末になってやっと確保されたのです。

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こうして樫の休場越は、それまでの阿波の三加茂・芝生・足代方面からのルートに加えて、
昼間 → 打越峠 → 男山 → 葛籠 → 樫の休場

という新ルートが加えられ、ますます利用者が増えます。讃岐側では
「塩入 → 春日(七箇村) → 岸上 → 五条」 

を経て金毘羅阿波町に至るので。七箇村経由金毘羅参拝阿波街道とも呼ばれるようになります。
 明治になると「移動の自由」「経済活動の自由」が保証され、人とモノの動きは活発化します。
讃岐の塩や鮮魚・海産物などと、阿波の薪炭・煙草・黍などとの取引が盛んに行われるようになります。特に煙草・藍などの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また借耕牛の行き来も盛んになります。
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樫の休場から望む満濃池 手前が塩入集落

 こうして、樫の休場では、二軒の茶屋が営業をはじめるようになります。讃岐側の塩入は、塩や物産の中継基地といて賑わいを見せるようになり、うどん屋や旅人宿ができ宿場化していきます。明治年代の地形図からは、街道沿いに街並みが形成されているのが分かります。
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東山峠越の新道建設へ
 このような背景を受けて、以前にお話ししたように明治28年(1895)ごろから塩入と阿波の男山を結ぶ新たな里道工事が始まるのです。この工事の際に、里道(車道)としては、男山まで道路改修が進んでいました。そこで、峠はその上部に作られることになります。これが現在の東山峠の切通です。阿讃の物資は大八車で、東山峠で行き交うようになります。その結果、樫の休場越は次第に寂れていきます。
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東山峠の切通 ここで阿波の里道と讃岐からの里道は結ばれた
 
   ソラの集落への「猫車道」の開設は
 大正初期に書かれた『東山の歴史』に、ソラの集落への道路開設の様子がどのように進められたかを見ていきましょう。。
   葛籠線 
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葛籠は男山から樫の休場への途中にある集落です。
それまでの道は、男山谷に沿って入っていくので大変険悪だったようです。また、谷を9回も渡らなければならないので、洪水の時には男山峰からの迂回路を取るか、危険を冒して「引綱」を頼りに渡るしかなかったと云われます。
 明治33年(1900)に、幅六尺(約180㎝)の新道建設が始まり、東山の各部落から夫役の無償供与を受けて完成しています。猫車を押して通れるようになったのでこれを「猫車道」と呼んだようです。
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 男山線 
男山新道は、男山西浦から始まって二本栗でで塩入線に接続します。大正元年(1912)に起工し大正四年に完成しています。これも各部落からの夫役寄付で工事が行われました。当時は、半額が国・県負担で、残りの半額は「地元負担」でした。そのため自分たちの道は、自分たちで作るという気概がリーダー達にないと、造れるものではありませんでした。
 このように明治末から大正初年の新道開設は、ようやく普及し始めた猫車による運搬に対応するためのものだったようです。それが戦後まで利用されます。

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 戦後の高度経済成長が始まると「軽四トラック」が里の村には走り始めます。
そのため、ソラの集落も軽四トラックが通れるように道を広げることが悲願となります。この時代になると国や県も山間部の道路整備にも補助金を出すようになっていました。こうして各部落の道路が改良・整備され、農家の庭先に軽トラックの姿が見られるようになります。
 そうなると買い出しは、トラックで昼間のスーパーに行った方が便利になります。しかし、今でも東山の人たちは讃岐との関係を持ち続けて生活している人が多いようです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 三好町史 民俗編309P   讃岐への道

 「三好町史」を原付バイクに詰め込んで、東山詣でが続く。
 
今日のミッションは「葛籠から樫の休場(二本杉)を経て大川山までの林道ツーリング」だ。まんのう町塩入から入り、県道4号(丸亀ー三好線)を財田川の源流沿いにツーリング。原付はスピードが出ないために、いろいろなものをゆっくりと眺められるし、考えられる。狭いソラの集落の道にも入って行きやすい。最適だ。

東山峠から一気に男山の小川谷に架かる橋まで下る。ここから葛籠集落の入口までは広い農道が整備されている。

葛籠集落の道沿いには、行き交う人々の安全を祈ってかお地蔵さんがいくつか見受けられる。ここは東山峠越の新道が整備される明治40年までは、樫の休場を越える塩入街道の宿場的役割を果たしていたという。
葛籠が繁昌していた「気配」は、今は残された屋敷跡の立派な石垣くらいしか感じることはできない。

傾斜した畑の中に「山祗神社」が鎮座する。 祭神は大山風命
祭礼には獅子舞が奉納される。この集落も大川神社の祭礼に参加するが、香川県から多数の獅子舞がやってくる。そこで「文化的交流」が行われてきたために獅子舞は、讃岐との流れをく んでいると言われる。大川神社の信仰を通じての阿讃の交流の一コマかもしれない。
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 集落の南側は「前山」が立ちふさがり、昼間方面との交通を難しくしてきた。
明治になって昼間から東山まで新道が整備されて、葛籠から樫の休場経由の塩入街道は繁盛する。今では、それも残された屋敷跡の立派な石垣からしか察することができないが・・・

集落を抜けてさらに高みに林道を上ると、眼下にいま抜けてきた葛籠集落 
そして小川谷川の向こうに貞安が見えてくる。 
ここも天空に通じるソラの集落だ。

葛籠林道の終点。
ここから大平までは「林道 樫の休場線」が阿讃山脈の稜線の阿波側を走っている。
右へ行くと馬瓶 → 田野々 → 仲野 → 太刀野山へと吉野川へ下りて行く。。このルートも塩入街道のひとつだった。
ここを左に曲がり、樫の休場へ。
中蓮寺山の枝打ちされた明るい杉林の中を抜けていくと・・・
樫の休場に飛び出した。

北側の讃岐の眺望が開ける。
眼下に塩入集落。
その向こうに満濃池が広がる。

この峠には6本の杉が立っている。これが讃岐方面から見ると2本の大杉が並んでいるように見えるので、讃岐側の地元の人たちは「二本杉」と呼んできた。
つまり地図などの公式文書には「樫の休場」、
讃岐の地元の呼称は「二本杉」ということになろうか。
最期に、三好町史の塩入街道「樫の休場」についての記述を紹介したい。
三好町史 民俗編 309P
  東山では、北へ行くにも南へ行くにも峰を越さなければならず、東へ行くにも西へ行くにも谷を渉らなければならなかった。そこでは、道を整えて人が通ったのではなくて、人が通った足跡が自然に道としての形を整えていったと思う。

 東山からの道は、まず讃岐へ通じ、人も物資も吉野川筋へ山入するよりも讃岐へ往来したと思われる。それは小川谷に沿って昼間へ山たり、峰を越えて昼間へ山ることが地勢から見て困難であったことにもよるが、それよりも、琴平や丸亀が商業的にも、文化的・情報的にも進んでいだことによると思う。江戸時代以峰、行政的には阿波藩に属したが、それでも吉野川筋への往来が讃岐への往来と並ぶという程ではなかった。
 讃岐への道は、
① 内野から法市・笠栂を経て水谷・二本杉(旧称・樫の休場)から塩入へ。
②葛龍から水谷・二本杉を経て塩入へ。
③貞安・光清からは男山峰を越えて塩入へ。
④差山(指出)の峰を越えて財田へ。
⑤滝久保からは峰伝いに塩入や財田へ出ていた。
どの道も塩入や財田を径て琴平・善通寺・丸亀をめざすものであった。足が達者であった昔の人は、一日で琴平へ往復できたようである。
これらはいずれも徒歩の道であって、それぞれの集落の尾根を登って峰を通る道であった。尾根を経て峰を行く道は、最短距離を行く道であって迷うことも少なく、雪に埋まることも少なかった。
 また耕地を損ずることも少なし利点があった。が、それだけに急坂が多かったし、つづら折りに曲がってもいた。足掛りだけの徒歩の道であった。荷物は背負ったり、前後に振り分け玉屑に加けたり、天秤棒にぶら下げて運んだりした。
現在とは異なり、琴平・善通寺・丸亀等の商業圈に属していた。どの集落も奥地ほど讃岐に近いので便利であり、開化の土地であった。昔は、葛龍の奥にもなお人家があり、男山の奥にも「二本栗」・「にのご」と集落が続いていた。

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