瀬戸の島から

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カテゴリ:阿波の歴史と天空の村のお堂と峠 > 吉野川水運

 
筏流し 第十樋門
吉野川第十樋門附近を下る筏
  前回は、吉野川上流の材木が白地周辺の「管(くだ)流し」職人によって、徳島に流送されていたことを見ました。しかし、これは明治になって以後のことで、阿波藩は19世紀になると「管流し」や筏流しを原則禁止としていたようです。その辺りの事情を今回は見ていくことにします。テキストは「池田町史上巻504P 土佐流材」です。
 中世後半には吉野川は木材流しに利用されたと私は考えています。阿波藩時代の初期には、文書で木材流し行われていたことが次の文書から分かります。
今度祖谷御村木筏之御下シ被成候ニ付□
いかたのり(筏乗り)拾人仰付二付其□
いかたのり無御座候所我等共方へ御屋
右拾人之いかたのり我等共方今頤より□
此ちん銀之儀百五拾目ニ相定外二後□
御公儀樣より御下侯舍右銀之内七□
只今湖取申侯 残る八拾目御公儀□
被下候筈若御公樣八抬め(目)□
ハ百姓方より百五拾目之通可被仰
加様ニ相定拾人分請取申上候此儀ニ付
六ヶ敷儀出来侯共我等共罷出御断申
□毛頭六ヶ敷儀かけ申間敷候為□□
書付取遣加件
延宝二(1674)年六月廿六日                            太刀野村弥六 同村宅□

花還村庄屋半兵衛殿 
同村五人案百姓方へ
(三野町長谷均所蔵)
 この文書は下部が欠落しているので、不備な点もありますが、次のような情報が読み取れます。
①阿波藩が祖谷御木材を筏にして流すことになり、筏乗りの人数を各村に割当てたこと。
②花還村(現・三野町花園)に割り当てられた十人が用意できないので、代わって太刀野村の弥六などが引き受けたこと
③その際の賃金についての花還村との契約書であること
ここからは阿波藩が祖谷山の木材を筏流しによって、下流に運んでいたいたことや、筏流しの専門的な職人がいたことがうかがえます。
 江戸前半期の木材輸送は、土佐の業者が吉野川上流で木材を伐り出し、川岸に積み、洪水のとき吉野川に放流して下流で拾い集めるという少々荒っぽい方法でした。これは陸送に比べて輸送費がほとんどかからず、木材業者にとっては魅力的な輸送方法でした。しかし、弊害が出てきます。新田開発が進み吉野川流域に耕地が拡大します。そうすると洪水と共に流れてくる流木が、堤防を壊し、田畑や家屋に大きな被害を与えるようになります。特に、天明の大洪水のときは流材による被害が大きかったようです。そのため天明8(1788)年に、西林村の農民達から木材の川流し禁止が次のように申請されています。
『阿波藩民政資料』
阿波郡西林村 土州材木之義に付彼是迷惑之后願出候に付去る正月別紙添書を以各様迄被出候處共儘打過恢付狗亦其後も願出候1付追願紙面添書を以申出侯共節坂野惣左衛門台所へ罷出居申候 付右願迷惑之義に候得は土州御役所懸合侯得は可然を惣左衛門へ被仰聞惣左衛門より委曲承知仕候に付右迄紙面添書之共節伏屋岡三郎指引有之由御座候然所此節尚又別紙之通願出候土州村木に付村方迷惑有之候へは不相當義に候得は何卒急々御設談被遣度此上相延候は興惑可仕候て先而願書宮岡相指上申候                                          以上
天明八年 正月                                         江口仁左衛門
片山猪又樣 
内海一右衛門様
右之通
御城に而片山猪又殿懸合侯處被申出段致承知候併土州材木台件之儀は御断被仰義に候然此度差下之村木之義は残材木に候最早切に而後に無之后被申聞侯事
二月三日
ここには前段で、木材流し禁止を願い出たが御返事がいただけないので、早急に結論を出してもらいたいという再度の願いたてが記されています。後段は役所からの返書で、現在行われている木材流しが終了すれば、禁止すると記されています。

こうして天明8年以後は、吉野川の材木流しは「原則禁止」となります。
寛政年間に禁裏修築用木材の吉野川流送の申出がありましたが、阿波藩では実状を訴えてこれを断っています。さらに享和年間には、取締りを強化するために吉野川流木方を新設しています。吉野川の上流三名村から山城谷までを三名士、池田村から毛田村までは池田士に取締りを命じ、洪水時の祖谷分は喜多源内、徳善孫三郎、有瀬宇右衛門にも応援させ、川沿の庄屋五人組にも流木方の指揮に従い油断なく取り締ることを命じています。
 「取り締まり強化=犯罪多発」ですから、天明8年の以後も、秘かに木材流送が行われていたことがうかがえます。川岸や谷々に積まれた木村が洪水の度に散乱し、これが吉野川に流れ出て、既成事実としての流送が黙認されていたようです。
 取締りが強化されると、今度は土佐藩からの流送許可を求める運動が繰り返されるようになります。
これは土佐からの交通路にあたる三好郡の組頭庄屋や庄屋を通じて行われます。
A  文化12年(1815) 白地村庄屋三木晋一郎が藩へ報告した文書には、次のような点が指摘されています。
①土佐流材の許可が阿波と土佐の両国に便利・利益をもたらすこと
②阿波藩の流材禁止が撤回されない時には、土佐藩は吉野川上流を堰き止めて流路を替えて土佐湾に流す計画があること、
③そうなると吉野川の水が一尺五寸も減って平田舟の往来にも困るようになること
B 文政5(1822)年には、佐野村組頭庄屋の唐津忠左衛門が「春冬の三か月の平水のときのみにして流してはどうか」という提案を藩に提出しています。これは 土佐の大庄屋高橋小八郎、長瀬唯次の要請を受けて阿波藩に取り次いだものです。その要旨は次の通りです。

「天明のころの大被害は、木材を増水時を見はからって流したので、洪水で決壊した護岸を越えて材木が散乱して起こった。だから①増水の時節は除き、春冬の平水のときに②筏を組んで川下げすればよいのではないか」

これに対して、西山村組頭庄屋の川人政左衛門、他六人の組頭庄屋が連名で、調査結果をもとにして次のように禁止継続を訴え出ています。長くなりますが見ておきましょう。

隣国が仲良くしなければならない事も良くわかり、材木流しが土州阿州の両方に利益があることも良くわかる。それで、郡々の川筋を実際に見分し、村々の趣もよくたしかめ相談してこの訴えを決めた。

材木流しを「二月より山へ入り、五・六月ごろまでに筏流し、六・七月ごろより九月まで谷へ出し、十月より三月まで川下げを許可する」という提案について。

A まず、土佐境か山城谷の川までは約五里、この間は岩石が多く、平水のときは流せないので、ちょうど良い増水を見はからって流すのであろう。ところが天気のことでいつ大水になるかもわからない。そうなると池田でいったん取り上げて置くなどとうていできない。天明年中の災害のときを考えてもはっきりしている。あれは正月下旬のことであったが、阿波部西林村岩津のアバ(網場)が平水から四、五尺の増水で岸が切れ、材木が散乱、村々の堤防へつき当てて破損した。
 川幅広く流れのゆるやかな岩津でもこうであるから、池田あたりではもっとひどい。土佐から川口までは、山間二、三町の谷筋を流れ出るので、洪水時には山の如く波立ち、どんな坑木も役立たず材木が散乱する。特に六、七、八月に谷に材木を置くと、台風などの大雨が降ればどんな方法でも材木を留めて置くことはできない。また、池田村の往還は川縁より四、五尺から三余も高い所にあるが、それでも水が乗る。材木を引き揚げて水の乗らない遠方まで移動させるには費用がかかり過ぎる、いろいろあって、とても材木の川下げを認めることはできない。


B 吉野川は、祖谷山西分、山城谷、川崎、白地、その他から年貢の炭・娯草・椿などの品、徳島や撫養から塩・肥料等を乗せた平田船が多く行き交っている。特に十月から三月は一番多い時期である。材木を流したら池田・川口間の船が通れなくなって、年貢収納にも差支える。天明の洪水では、岩津から川口までの漁船が止って大変難渋したことは老人は皆知っている。

C 先年の増水のときには、村々へ流れ込んだ材木を人村役を雇って川へ出した。この度も賃銀で人夫を召使う予定のようだが、材木を担ぎ出す費用は各村々の負担となる。田畑は崩れ、川に成り(川成)、川除普請もかさむ上に、そのような負担まで課せられたらやっていけない。

D 天明、寛政の洪水では、下流の方でも木材が川の曲った所へ突き当り、岸が崩れるなど至るところで大損害を受けている。(中略、具体的に各所の状況説明)
先年の大災害は天災ではあるが、深山の諸木を伐払い水気(水分)を貯えることができなかったからだと今も言い伝えられている。その後、流木御指留(禁止)によって、近年洪水もおこっていない。私達の相談の結果をさし控えなく申しあげた。
これを受けて阿波藩では材木川下しを禁止し、唐津忠佐衛門からも土州大庄屋へ、徳島藩の流材禁止の方針を伝える文書を送付しています。なお、この文書の中で天明の禁止は、大阪鴻池善右衛門を通じて土佐へ通されたことが分かります。ここからは材木川下し復活運動には、大坂商人が介在していたことが分かります。
このような中で天保9(1838)年、江戸城西ノ丸の用材を吉野川よって搬出したいという申し入れが土佐藩からあります。阿波藩はこれに対しても実状を説明し、幕府の了解のもとで川下しを断って陸送されることになります。またこの時に、土佐藩が本山郷木能津村へ集材し、陸送の予定にしていた材木が、4月25日の大雨で、約800本が吉野川へ流れ込んでしまいます。この時には幕府の水野越前守が仲介し、その処理案を次のように決めています。
①阿戸瀬(山城町鮎戸瀬)まで流れ着いた材木約30本は陸送で土佐境まで運んで土州に引き渡す。
②阿戸瀬より下流に流れ着いた材木は陸送で、撫養まで送り土佐藩の役人へ引き渡す。
 ここからは阿波藩は、下流の村々を護るために土佐材は一本も吉野川を川下しさせないという方針を貫いたことが分かります。江戸城修復のための木材流送を、こうした形で処理した徳島藩は、天保9年11月6日に「吉野川流訓道書」を出します。この中には次のように記されています。

幕府の用材さえ川下しを拒否したのであるから、今後他国の者が過分の御益を申し立てて許可を求めて来ても絶対に相手にしてはいけない。若し背く者は厳しく罰する

こうしてこの流材問題は決着し、明治になるまで禁止されることになります。
以上を整理しておきます。
①中世以来、吉野川は土佐や阿波の木材搬出のために使用されてきた。
②その方法は、筏を組まずに一本一本を増水時に吉野川に流し、河口付近で回収するというものだった。
③そのため輸送コストが格安で、これが畿内での阿波・土佐産の木材の価格競争力となった。
④この木材運送と販売で、財政基盤を整えたのが中世の三好・大西氏、近世の蜂須賀氏であった。
⑤しかし、吉野川流域の新田開発が進むと、洪水時の「管流し」は流域の被害を拡大させた。
⑥そのため19世紀の大災害を契機に高まった農民達の「管流し」廃止運動が高まった。
⑦それを受けて、阿波藩は吉野川の材木流しを廃止し、取り締まりを強化した。
⑧これが復活するのは明治になってからである。
ここで押さえておきたのは、木材流しが禁止されるのは19世紀になってからのことで、それまでは行われていたこと、もうひとつは池田周辺の網場(あば)で筏に組まれるのは、明治になって始まったことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「池田町史(上巻504P) 土佐流材」
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徳島高速道路の美濃田SAは吉野川の美濃田の淵に面しています。ここの吉野川は、いままでの瀬から瀞へ流れが変化し、ゆったりと流れます。ここは網場(あば)で、木材が筏に組まれて吉野川の流れに乗って下流に輸送されていたことは以前にお話ししました。しかし、それに関わっていた筏師たちの輸送集団については、分からないままでした。池田町史を読んでいると、「最後の木材流し」というタイトルで、これに関わった人の回想が載せられていました。今回はこれを見ていくことにします。
テキストは、「池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと」です。
  まずは、池田町史上巻837Pで、吉野川を使った木材の流送を押さえておきます。
吉野川による木材の流送は、藩政時代に始まったとされますが、私は中世の大西氏の時代には行われていたと思っています。吉野川が木材輸送に使用されるようになったのは、元和年間に土佐藩が幕府への木材献上と藩財政建直しのため、吉野川上流の藩林の伐採を行い、流送したのが始まりとされます。そして19世紀になるまでは、盛んに木材の川流しが行われていました。しかし、新田開発などで流域の開発が進むと村々を護るために、徳島藩は天明年間に木材流しを禁止します。
 それが再開されるのは、明治期になって徳島・高知の両県の間に協定が成立してからです。
明治30年代以降になると徳島の木材商人は、高知県の本山周辺の国有林のモミ・ツガを買付け、徳島市場へ流送するようになります。大正期になると人工林の「小丸太」が新たに出回るようになり、官材の購入ができなかった地元の業者が買付けるようになります。

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菅流し 那賀川
那賀川の管流しの再現 

伐り出された木材は「どば」からばらで流し、一本木に乗って、とび口で上手に体をあやつりながら瀬を下ります。大歩危小歩危を越えて流された木材は白地渡しの上流の流れの緩やかなところで、網場(あば:木材を止めるために張った木をつけたワイヤー)に集められて筏に組まれます。敷ノ上の川原には、袋のような「止め」がつくられてあって、増水によって流された木材は、ここに流れ込んで山のように集められます。そして敷ノ上の渡し附近で筏に組まれました。

筑後川の網場
土場 木材の集積地

 こうした仕事を協力して行うために、大正から昭和のはじめにかけて、白地木材労働組合が結成されます。会長には、祖父江勘平や山西崎歳らが就任し、組合員も40名近くいたようです。戦前の白地・三繩は、木材送の根拠地でした。

昭和初期のトラック 阿波池田通運

 それが昭和の初めころからトラック輸送が始まります。さらに高知県に森林軌道が敷設され、越裏門以西の伐採木はすべて軌道輸送に切り替えられます。そのため吉野川流送の木材輸送量は減少します。明治大正を通じて平均年間11万石前後が流送されていたものが、昭和期戦前には数万屯規模に半減しています。
 1回あたり「一山一五万石」が標準で、40人グループの人夫で上流(本川)より、池田まで30日前後で流してきます。流送期間は11月から3月までの冬期で、これ以外の時期には県の許可が必要でした。
以上を押さえた上で「池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと」を見ていくことにします。
終戦になって、遊んでもいられないので、川向いにあった野田村の工場長から日給二円四十銭ぐらいで来ないかと誘われました。従兄で、流材をやっていた影石涼平に相談に行きましたら「せっかく製材へ入るんなら、本川(吉野川)へ行って村木流しをしたり、寸検もしたり、すべて終えてから入っても遅うはないぞ。」と言われ、食い捨てで日給十円ぐらいになるというので、本川の材木流しに行くことに決めました。
 昭和20年11月9日、大霧の朝、大杉の駅まで行って、トンネルを抜けて大槌へ流してきよるところへ行きました。小笠原という人が庄屋でした。
「庄屋」というのは、山の所有者(秋田木材など)で親方から一切を任された責任者で、仕事の段取りをはじめとして、全てを掌握する役です。一万石なら一万石の山を、親方から庄屋が詰負います。
これを流すために、次のような組を作ります。
「会長」は賃金の会計経理を預かります。「味噌会長」というのは、毎日の味噌とか、じゃことかとかを「人夫」から聞いて「炊き」に指示する役でした。「炊き」は、飯炊きで「人夫」25人に一人の割りで、女もいますが男も構わんので、25人の飯を炊いて、現場へ届ければ、男の一人前と同じ賃金をくれるわけです。

菅流し

現場の組織は、大材(国有林物で何万石というもの)の場合は、70人から80人ぐらい、小さい材木量の場合は、30人前後で「木鼻(きばな)」「中番」「木尻(きじり)」に分かれ、それぞれに各一名の「組長」がつき、これを束ねる役が「会帳」です。「組長」の下に「日雇」(人夫)がつくわけです。
 日雇は「目先ビョウ」「ムクリビョウ」「セキセイビョウ」など呼ばれる人に分かれていました。「目先ビョウ」というのは頭を働かせて、「この中石のところを通すよりは、こちらを回ったのがええとか、この石をいっちょうダイナマイトかけたら、ツゥーと通るから、こりゃすか」とか、頭を使う日雇いです。
「ムクリビョウ」というのは、言われたとおり仕事をする人夫でした。
「セキセイビョウ」というのは、足元の軽い(身の軽い)日のこと
「木」には「日先ビョウ」や「セキセイビョウ」が道をつけていくわけです。
「ムクリビョウ」は、「トンコの先でもお山を返すわ」というんで「突いとれ、突いとれ」 で材木を突いて流すという風な人夫で「中番」に多いわけです。
「セキセイビョウ」は、「木尻」におって、足元が軽く、一本木に乗って、スースーと、どこへでも行けるので、どんどこどんどこ追いかけてくるという風なことで流すわけです。「木鼻」(先番)「中番」「木尻」という組を作って、「日番」と「ムクリ」を混ぜていくことで一つの流れになるんです。

木材 管流し2

「庄屋」にだれがなるかは、山から伐り出した材木が大川に出たところで決められるんです。今度の山は、大体一万石(七二寸二分五厘、八寸五分の二間材で一石)とか五千石とか、三千石とかいうことで、庄屋が決まります。まあ、あいつにやらしてみたらというようなことで、組長しよったのが抜擢で庄屋になるわけなんです。一万石以上のようなものは、影石涼平のような大物がおって、庄屋しよった奴が組長に格下げみたいな調子になるわけです。
 人夫の中にはお年寄りもいました。            
弁当負うて、次はどこそこの河原で茶沸かしとけとか、豊かな経腕が物を言うことも多かっです。白地の涌谷政一さんは、元老と呼ばれ、天気予報の名人で、重宝がられていました。絶えず空を眺めて、親父どうぜよって言うたら、これはおいとけ、明日の朝は降るぞって言うてな。無理して押し込んどいたら、ようけ流れ出て、陸へ打ち上るで、中半な水だったら平水の時分に流しよるやつが、パァッと水が出て、打ち上げられたら、また、引っぱり込むの大変だから、今日はおかんかという風なことでおいたり、いろいろそういう相談役みたいな元とクラスの人が六十前後、七〇でも元気な人が二、三人はおりました。「ムクリ」は、二〇代から三十四、五歳まででした。
材木流しにも角力界のような厳しい掟が、自然にできていました。  
村木流しになるには、庄屋に対する誓いの言葉があるんです。
「本川煙草のドギツイ奴を、桐の木胴乱しこたま詰めこみ、越裏(えり)門、寺川、大森、長沢、猪、猿、狸のお住いどこまでついて行きます。」というのです。本川煙草というのは、ものすごく辛いんです。私らが持っているのは、黒柿の胴乱なんですが、桐の木胴乱ていうのは、水に浸かっても蓋がビッシャリしとるけん、煙草が湿らんのです、川へ落ちても心配ないわけです。とにかく、猪、猿、狸の住家までもついて行くわけで、これで親分子分の盃を交すんです。
 上下の規律は厳しくて、庄屋とか何とか役職がつくと、個室をくれるんです。旅館でも、組長とか、「トビ切り」の質をもらうものは、個室で、布団もちゃんと敷いてくれるし、お膳も猫脚のついた高膳で、酒も飲み放題なんです。「トビ切り」以上は箔仕がつてくれるが、上質取りになると、脚のないお膳で、自分でついで食べる。一番貨、二番賃やいうものになると、ちょうど飯台の上にレール倣いとりまして、木で作ったトロッコみたいなものに鉢をすえて、「おいこっちへ回してや」と、押して持って来て食べるわけです。
 そのほかに、味噌会長が「コウさん飯八台、じゃこ二〇円とか、味噌何匁」とかいう場合は「モッソウ」という木の丸いもんに入れて計り飯ですわ。そのときでも、「トビ切り」になるとお茶碗でした。本山へ着きますと、別館と本館があり、上質以上は新館、一番貨以下は旧館で寝るわけです。
管流し4
.修羅出し
 木材を運び出すのは大変な力のいる仕事で、集材地点までの、木集めの代表的なものが、修羅(シュラ)で、 丸太を滑り落とす桶のような設備。

昭和2年 木材を木馬で運ぶ様子 天龍木材110年
木馬出し
 一週間おきぐらいに「スズカケ」じゃ、「大瀬」じゃ、「荒瀬」じゃという瀬があります。
その瀬を乗り切ると「切り紙」ちゅうて、小さいお銭を書いた切り紙をくれるんです。いわば辞令みたいなもんですな。「太郎殿十一円五〇錢、次郎殿十一円二〇錢」という風に、賃金で三十銭、五十銭と違うわけなんです。ほしたら、ゆうべまでは次郎が先へ風呂へ入りよっても、太郎が十銭上へあがると、太郎の方が「ちょっとお先に」というわけなんです。
 寝床も上質取りは、一人一つの布団ですが、一番貨、二番賃になると、二人ずつ、ニマクリ、茶沸かし、日になると雑魚寝というわけです。厳しい上下の規律があり、実力によってどんどん変わるわけです。
賃金を決めるのは、組長の下に「不参回り」というのがあって、みんなの仕事ぶりを見ているんです。あれは仕事しょらなんだ、あれは仕事はしよったが、水に落ちこんで火にあたりよったとか、詳しく見ているわけです。
 前にもちょっとふれましたが、野田製材の工場長が、日給二円四十銭ぐらいのとき、材木流しは、食い捨てで一〇円が上質でした。飲み食い全て親方持ちで一〇円ですから「ヒョウさんかえ神さんかえ」ちゅうぐらいだったんです。私のやめた昭和二十五年の暮、池田通運の方が月一万円取るときに、私など、食うて二万円ぐらいもろうていました。本山で言えば河内屋とか伊勢屋とかいうところに芸者はんがようけおりまして、そこで飲食したりするのは自弁でした。才屋で泊って、才屋で飲み食いする分には全部親方持ちでした。

 庄屋は、名義人というか、親方代人と言っていて、流送許可願に署名するのは庄屋で、秋田木材株式会社親方代人影石涼平と言ったものです。親方から請け負った金で庄屋が差配していたわけです。
材木 管流し3
                  鉄砲堰(テッポウゼキ)
昭和13年 川狩りで川をせきとめている様子 天龍木材
               堰をつくる 左が上流
水量の少ない川で水を溜めて、これに集材し、堰を開けて一挙に流します。

 行儀作法もやかましかったもんです。   
まず服装ですが、「わしゃ一生懸命しよるのに、賃金が上がらんぞ、どしたんぞ。」と言うと、
「お前そんな格好でや駄目じゃ」ちゅうことですな。
「一円も二円も違うんだったら、これ縫てもろた方がましじゃ」ということで、きりっとしたズボンをみんなが履くようになったんです。大膝組んだりしても賃金が上がらん。
「お早うございまおたぐちす」「お疲れさまでした」という風なことも口に出さなんだら「あれは半人前じゃから」ということでバッサリ下がる。中には酒飲んで包丁ふり回したり、鳶口でけんかしたり、いろいろあるんですが、これは放逐ということになります。放逐されると、半年なら半年、どこの庄屋も使わんわけです。親分の義理があるから、なんぼ手が要っても使わんのです。
 私が初めて現場へ行ったときは、影石源平の従弟だというので大事にされて、大槌から大田口まで十六日で着きました。十六日で金百六十円、その上に影石の親父にとドブ酒二升と小遣い五十円もらって、影石涼平に報告に行きました。すると、奥へ行けというので、大田口に着いて土場祝いがすむと、一番奥の田の内へ行ったんです。二回目からは厳しくなり、従兄が来てからはもっと厳しくなったんです。もうやめようかと思いましたが、従兄と一晩酒を飲んで、わしの顔に泥を塗らんといてくれと気合を入れられました。その後、一人前にしてやるというので、鴬の引き方、つるの張り方など相当教育されました。もともと川で泳ぐのは達者でしたから、なぁに負けるものかという気持ちでがんばり、昭和二十二年の二月末か、三月ごろから、こんまい川の庄屋か、先前の組長かで、上賃トビ切りということになりました。脚のついた高膳で得意になったものでした。
 (中略)
今は架線で飛ばしますけれど、その当時は、スラガケとかセキ出しというもんで大川(吉野川本流)へ入ってくるわけです。 大川へ入ると、大川入りというお祝いをします。 その大川入りとか泥落しとかを区切りに、古くは越裏門、寺川、大森、長沢から流していたのですが、現在は日ノ浦にもダムができて、流木溝ちゅうて、材木を飛ばす水路が別にあるわけです。それから、高薮の発電所の水路を十二キロほどずっと流して、沈砂池でもある程度足場こしらえて調整し、田之内の発電所へついたとき、流木濤へつっこんで、そこから水といっしょに飛ばすんです。水といっしょに飛ばすんと、空で飛ばすんとでは村木のみが相当違います。我々も、日ノ浦から請け負うて流したのですが、トンネルの中で詰ったり、いろいろしたことがありました。結局、中番、木尻が協力して流してくるわけです。
 途中、高知県にも「渡し(渡船場)」が相当ありまして、「渡し」には上賃取りを二名つけて、舟には一切あてないという条件もあるんです。例えば、「ジヶ渡し」は「今晩夜遅うになっても、こまわりをかけよ」と言うんです。ここまでという請け負いをさせることを「こまわりをかける」と言います。知人の組長に「こまわりをかけて、トキ渡しは切れよ」と言ったら、流して来よる過程でトキ渡しだけは木尻を切って、ここを過ぎたら今日の上質とか、三台つけてやれという風に、こまわりかけてでも、渡しだけは切って行くという風なことでやっておった訳です。

 白地までは(一本一本)バラで流すわけですが、木の上に乗って下るんです。
早明浦(今のダムより上流、橋のあるあたり)の下流、今のダムのある付近を、中島とか大淵と言っていました。その大淵にアバ(網場)をかけて、いったん大水では止める。大水が出ると一万石と三〇〇〇石の木が一緒になるので、それを選り分けつつ流すわけです。早明浦の橋までは筏に組まず、バラ木で来るんですが、村木の浮き沈み(大きい小さい)によって二人で乗って、あっちへ行ったり、こっちへ来たりする場合もあります。一本に一人ずつ乗るのが普通なんです。
早明浦を越えると四本を縄でくくって筏にし、その筏であっち行き、こっち行きして流すのが普通です。大歩危小歩危も四本で下るわけです。豊永の駅の前に大きな瀬があり、雨でも降れば一本になります。あれがビヤガ、カナワ瀬と言うんです。いちおう、本山から下流になりますと、舟を一杯つけるんです。一丈八尺ある舟を一船つけるんです。
 本山から下には、ワダノマキとかクルメリとか言いまして、材木が流れ込むと舞う渦がありまして、絶対に出ない。このときは、舟で引っぱって出すわけです。それで本山から下は、舟を一杯つけ、筏は二杯三杯に増やすわけです。

筏 本川への合流

 流すシーズンは、正規の許可は十月一日から五月末までで、六月になれば徳島県の許可がいりますし、七月以降は絶対禁止でした。鮎釣りの漁業組合との関係もあったのでしょう。ですから十
月初めまでに伐らないと、木の皮がむけんのです。そのため皮をつけたまま来るわけです。ただし、重いので流送賃が高いんです。けれども、伐りだちは皮をつけて放り込まんと、皮をむいたら沈むんです。三〇〇石とか、五〇〇石の少ない場合や、急ぐ場合、注文材だったら皮をつけたまま流してくるんです。その場合はアクがあるというのか、艶が違うんです。

 いちおう秋伐りでも、お盆越えたら伐り初めます。お彼岸を過ぎると杉の皮をむいて使っていた時代です。杉の皮がもとまむけなくならないよう、三尺の元だけむいておくとか、苦心したものです。その当時一坪の杉皮が六十円か八十円もしましたから、杉皮むきは奥さんが、木伐りの方で親父さんがもうけ、夫婦で共稼ぎっていうのが相当いたんです。ぜいたく物も米版と味噌とじゃこぐらいでしたが、一般の家よりは米飯であるだけ贅沢だったかもしれません。

 流材の仕事に従事していたのは、主として大利、白地、川崎の人々でした。
川崎、白地、大利あたりでも250人くらいが従事していたのでないかと思われます。 尼後、石内、松尾、宮石から百五十人から二百人ぐらい行っきょったと聞いています。その中には、川崎の原瀬大作さんや西林さんなど今でも名を語り伝えられた人もいます。大作さんは、お宮へいろいろ寄付したり、小学校へピアノを寄付したりで、不幸な生まれで苦労したそうですが、帰省するときは、村長さんが迎えに出たほどだったと言われています。

本格的な筏流しは三繩や白地・池田から始まります。
そのため筏師の親方が、この辺りに何人もいたようです。昭和8年の三縄村役場文書には「筏師九名、管流し百名」と記されていることがそれを裏付けます。この管流しの百名は、ほとんどが白地と中西(三繩)出身だったようです。つまり、中西や白地には大きな「木材輸送集団」がいたことになります。「大作さんは、お宮へいろいろ寄付したり、小学校へピアノを寄付」と記されています。ここからは彼らの信仰を集めていたのが周辺の寺社ということになります。

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管流しの網場(あば:木材集積場)だった猫坊

三縄駅南の猫坊は、吉野川が大きく屈曲して大きな釜となり、下流で流れが緩やかになります。
ここは当時は、網場(アバ)と呼ばれ、村木の流失を防ぐために張る縄が張られていました。アバに集められた木材が筏に組まれる筏場(土場)でもありました。そのため多くのモノと人が集まって周辺は栄えていたようです。そこで三繩の漆川橋と山城谷村猫坊の商人が渡船を共同経営で運営していました。利用者は、船(渡)賃を支払っていた。しかし、昭和3年に三好橋が開通すると利用者が激減し、昭和9年ごろ廃止されています
 ここで池田や白地周辺の神社と木材流しの関係を探っておきます。
池田町上野の諏訪神社は、小笠原氏の氏神として創建されましたが、小笠原氏がこの地を去ると、氏子を持たない神社として退転します。これを復興させたのが商人や水運関係者たちです。諏訪神社は、池田の港から見上げる所に鎮座します。船乗りたちは、水の安全を守る神として信仰するようになります。更に、池田町が刻煙草の町として発達するようになると、氏子の数も増え神社は繁栄を取り戻します。諏訪神社の再建がいつのことなのかは、よく分かりません。ただ屋根瓦・彫物などに舟や魚に関するものが多くみられるので、舟運に関係する人々によって17世紀に再建されたと研究者は考えています。石燈籠や寄付者の氏名を刻んだ石柱などにも、船頭中や刻煙草商人が名を連ね、正面の絵馬にも船頭中の名が見えます。

漆川二宮神社 三好市
漆川二宮神社
 幕末ごろには一万数千人の信者が集まったと言われる漆川二宮神社も見ておきましょう。
この神社は先ほど見た猫坊の奥に鎮座します。吉野川から離れていますが、網場(あば)であった猫坊の筏運送者のから水上安全の神として信仰を集めたようです。そのためかこの神社は、山間部の神社とは思えない壮大な構えをして、本殿前の広場も広大で祭りには大勢の人々が集まっていたようです。この神社も船頭・木材流しなど、林業や運輸に関係する商人たちの寄進によって建立されたものと研究者は考えています。極彩色の花流しの絵馬がその名残を留めています。
 また一宮神社にも「船頭中」と刻まれた手洗いが残されています。箸蔵大権現も、この地域の煙草業者や、船頭など舟運関係者も水上(海上)安全の神として信仰を集めていたようです。それを示すのが本殿前の巨大な燈籠に、「烟草屋中」と「船頭中」の文字が筆太に彫られています。  
 ここでは、池田周辺の大きな寺社は水運関係者や木材流しの信仰をあつめ、多額の奉納を受けていたことを押さえておきます。回想を続けて見ていきます。

 10月から5月末まで働くと、夏に遊んでいても、かなり裕福にいけたのでないかと思います。池田辺の普通賃金の四倍ぐらいが材木流しの賃金で、木馬引きで七人前というのが、常用としての基本賃金だったのです。賃金が高い原因は、ひとつは寒さです。鳶棹が、川につけて出すとすぐ凍ってしまいます。本川なんかでは、猪が飛び込んで、氷が厚いためによう出んと、水を飲んで死ぬというくらいの寒さです。「寒い日あいの言づけよりも、金の五両も送ればええが」と言うくらいですが、寒さはものすごかったものです。

賃金が高いもうひとつの理由は危険な仕事だったことです。
戦前は、ひと川流すごとに三人、五人と亡くなったこともありました。中石へモッコといって材木がひっかかっているときなど、一本木で乗り込んだりすると、前の方へ乗っているので、ずうっと潜水艦みたいに沈みこんで行って、着いたとき、チラチラッと向うへ走って行く。これが間違うと木の下へ潜って出てこれなくなる。
 吸い込まれたら相当泳ぎの達者な者でも、村木の下でお参りしてしまうわけです。だから、落ちこんだら、精一杯下まで行って、材木のない所まで行って頭をあげないと、材木の下になって死んでしまうんです。そういう命がけの仕事でした。
 朝一番に、ドブ酒を一台か二合飲んで仕事をする。唐辛子を焼いて闇に浮かして、ぐっとやる。加減を知らんと飲み過ぎてドブンと落ち込んでしまう。戦前に、ひと川で「今年は二人で済んだのう。三人ぐらいだったのう」というようなことで、今の交通事故みたいな死に方をしていたらしい。土地の人を「地家の人」と言いますが、一本木に乗るようなことはようしなかったもんです。
 大木のときなど、材木が狭い川の中で詰ってしまうと、バイズナというシュロの三分ぐらいにのうたやつで人間をくくって、岸の両岸から人間をつり込むんです。材木を崩しとるのを上流から村木が押しかけて来たら、両方からしゃくりよったが、あばら骨がばりばりっと言いますよ。「とび切り」という者が、そうした命がけの仕事をやるのです。そうした仕事を見ていて賃金を決める不参回りの制度などは、現在の会社などにも取り入れられると思います。

 朝、夜が明ける時分には現場へ行って火をたいて、夜が明けたら仕事を始めるんです。
日が暮れての先が見えんようになったら「届ぬかのお」というて帰る。朝は三時半に起きて、行って、火をたいて、鳶の先とかトンコの先とかツルの先を鍛治屋代わりに自分でやって、夜が明けるのを待って仕事にかかる。今の労働基準法みたいなことはなかったです。賃金は、だてにもろうとるのでないというのは、常に頭に置いとったです。
 夜の夜半に、ちょうど手ごろな水じゃけん、何とかせんかとか、それに発電所がある関係で、水が、材木流す手ごろなときが夜の場合と昼の場合と、また春先と冬とも違うんです。どんなに昼のカンカン照りの良い天気で、仕事をしたいと思っても、四花(四国電力)さんが断水しとったら水の流れが少なくで仕事になりません。その時には、昼寝しょっても良い。ところが夕方とか、朝早くでも、ダムから水が出た場合は、どんどん流さないかんという具合です。


管流しは、漆川の猫坊の浜がひとつのゴールでした。
ここに集められて筏に組まれます。川幅百mあまり両岸の岩にはローブをくくる太い留め金跡がいまも残ります。管流しの木材を受けとめるため、両岸の留め金の間にロープが張られ、そのローブに沿って村木が一列に結びつけられます。これが網場(アバ)です。筏師は網場の中で材木を集めて筏に組みます。11月から3月までの間の作業で、朝の寒い日でも筏師たちの勇ましい掛け声が猫坊の川から流れてきたと伝えられます。
私らの仕事は、バラ流しとか管(くだ)流しとか言って、その後は白地や猫坊などで筏を組んで徳島へ流すわけです。大体は、材木を流して来た者が、夏仕事に筏流しをやんりょったです。水量がありますと二日、穴吹で泊って行くんです。ちょっと水が出たら一日で徳島へ着きよったです。筏を宵に組んどいて、朝ちょっと早よ出たら一日でした。ハイタというて、端寸の板で、手元持ってこいで行ったんです。白地が主体です。筏流しは、中西、白地など三好橋から下が筏流しというわけですが、猫坊辺の人も行っとったです。

網場での筏組
網場での筏組
 集材組合っていうのがありました。あれは、大水に流れた流材を集めて保管して、拾得賃(保管料や用地費)を取る組合でした。
流村主は金を払って、また川へつけて流していく。自動車の入る所は自動車で積んでいったものです。一例をあげると「一本ここへかかっとるから損害十円払いましょう。」と言うと、「そりゃ困る、うちは十円もらいとうてしとるんじゃない。一晩中かけまいとして、つき放しつき放ししょったんじゃけど、力つきて帰んて来た後へかかったんじゃ。つき流した一晩の賃金をくれんかったら渡さん。」ということになる。
 材木を買うた方が安くつく場合もあるが、刻印を打ってあるので会社のメンツで受け取るということになる。河原にソネという名の石グロがあるが、あれが集材組合がこしらえたものです。集材の収入を白地のお宮へ寄付したとも聞いています。(中略)
  管流し中に洪水で木材が漂流した時には、どうしたのでしょうか?
その時には、所有者は流れた木材を取得した人に収得料を支払って引き渡してもらいます。
明治41年の三縄村役場文書によると、受渡しには世話人があって、出水の高低により取得料が定められています。収得料には一定した標準はなく、低水には長さによって一本につき一五銭より、中位は20銭前後、最高位は30銭ぐらいと記されています。沿岸住民は、このため出水時には夜を徹し、時には組を作り、舟を出して漂流木材を拾いをして稼ぎとしたようです。

筏流し 第十樋門
吉野川第十樋門
附近を下る筏(徳島県立文書館蔵)
 私が最後に池田まで流送したのは、昭和24年でした。
そのころから、時代が変わりはじめ、早明浦に橋がかかり、どんどん道路が吉野川の奥に伸びていきました。これでは陸送に勝てん、村本流をしょったんでは食えん時代だなと考え、昭和25年の暮からトラックの助手をして、26年に自動車の運転免許をもらいました。
 一日に二万円ももらっていたのに、三〇〇〇円のトラックの助手になったのは大変なことでしたが、やはり流送というものの見通しが全く立たなくなったからでした。それに、年齢のいかないうちに免許を取っておかないとと考えたわけです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻1127P  最後の材木流し 三縄地区材木流しのこと
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大具の渡しと三好大橋.2jpg
大具の渡し 三好大橋の完成と渡り初め(1958年12月6日) 
三好大橋ができる前までは、大具の渡しが人と車を渡していました。その船頭を務めていた人の回顧が池田町史下巻の「町民の歴史」に載っていましたのでアップしておきます。

大具渡し 3
大具渡し跡の説明版
大具の渡しの説明版
上の説明版を整理しておきます。
明治22年(1889)三好新道(R32)の開通で、非営業渡船から営業渡船へ
明治28年(1895)4月に県営となり、船頭には俸給が支給され、運賃無料化。
大正3年(1914)4月1日 岡田式渡船を導入し、大型化し輸送量増大。
昭和33年(1958)三好大橋の完成で廃止
それでは回想を見ていきます。
前略
昭和24(1949)年、大具(おおぐ)渡しの船頭になったんです。(池田町史下巻895P)
大具浜船場は県営になって、池田土木出張所の管理下にありましたが、請負い制度でした。箸蔵小学校の横の茶園清蔵さんが元締めになっていました。正式な職名は船夫だったんでしょうが船頭と言っていました。船頭は四名で、後に五名になりました。常時二名が勤務につき、二名は待機しているわけです。
船は岡田式が一隻と普通の舟が一隻で、人は小さい方の楫取(かんどり)で渡しました。
楫取りは漁の船を渡船に使ったときに言われたんで、渡船は楫取りではなかったが、小舟だったんでそう呼ばれたんです。県営ですから渡し賃は無料でした。昭和25年から請負い制度が廃止になり、県の直営になり、私たちも県職員になりました。今まで元請けからもらっていた賃金も、県から支給される給料になりました。このころ、警察予備隊(のちの自衛隊)に入りたいという気持が強かったんですが、母が年をとっていたので果たせませんでした。

岡田式渡船2
岡田式渡船

岡田式渡船
 岡田式というのは、川の両岸に高い柱を立て、この間をワイヤでつなぎます。
このワイヤに滑車で連絡した、少し細いワイヤを船の舷側前寄りの金具に掛けるようになっています。船は、人間なら定員50人という大きな船になっています。船を少し沖へ押し出すと、流れの力で自然に向う岸へ着くようになっています。岡田式は、昭和2年に、白地と大具で同時にできたそうですが、それまでは、猫車でも荷物を一たん降ろして船に積み、また向う岸で猫車に積まないかなんだんです。ところが岡田式では、大八車・四つ車はもちろん、乗用車、四トン積みのトラックや三論も乗せることができました。三輪は酒積んだまま大丈夫ですが、四トン車の場合は、荷物を積んだままでは無理でした。
大具渡し 1
大具の渡し(岡田式渡船)
 四つ車(大八)に七百才ぐらい原木を積んで、馬一頭乗せて渡すこともあります。この車を乗せるにはコツが要るんです。二人で手木持って、馬車引きは大きな止め持って、船頭が「よっしゃ」と言ったら、両方のタイヤを止めで止めるんです。船はパシャッとあおぐんですが、その後から馬を乗せて、船の平均は馬の位置で調節するんです。失敗して落としこむこともあります。
 四トン車も船の幅より長いんで、乗せるのに技術が要ります。長いあゆみ板を置いて、前車が船の上からはずれて水の上へ出るようにせんと乗らんのです。これを下駄をはかすといいます。
美濃田の渡しと橋の渡り初め
美濃田大橋の開通と渡し
 昭和25年ごろには、手木の三崎が一日十数台ぐらい、乗用車が十台前後というところでした。それでも自動車でも運べる船ということで、高知県や香川県、京阪神方面からも見学に来たもんです。説明役を私がやりました。一時は観光の役も果たしとったんです。
 渡船の寿命は五年ぐらいですが、岡田式の船が最初は8000円でしたが、5年後には、9万円になっていました。そのころのインフレの様子が思い出されます。
 戦争中ですが、無理して乗って牛や人が流れたことがありました。
船はワイヤでつないどるんで流れんのですが、船がずいろに入る(潜水する)と、上に乗っとるものは、人も牛も車も全部とばされてしまうんです。遠足の子供さんを乗せるときや箸蔵祭りのときなどは、定員以上絶対乗せんようにしていました。
青石渡し
青石の渡し
 一番苦しかったことは洪水のときでした。ときには一秒間に15mも水が増してくるんです。それもたいてい夜中です。船を流すまい、小屋や桟橋を流すまいと必死でした。一度桟橋を流しました。後から探しに行ったところ、一八枚のうち六枚が、三野町の太刀野に掛っていて、取ってきたことがあります。洪水や風、雪のときなどは大変ですが、春日のホカホカしたときなど八割履いて、小唄で、のん気にやったもんです。岡田式で力もいりませんので、暖かい天気のときはいいもんです。

 昭和33年、三好大橋ができるのと同時に、大具渡しは廃止になりました。私は、池田財務事務所へ転勤になっていました。昭和51年まで勤務し、いったん退職し、五五年の三月まで、徳島県土木監視員を勤めました。

大具の渡しと三好大橋
         大具の渡し 背後は建設中の三好大橋の橋脚(昭和33(1958)年

白地の私から見た三好大橋

大具渡船場も何回か事故があったようです。徳島毎日新聞は次のように報じています。

大具の渡し 大正の沈没事故

大正12(1923)年5月1日に池田尋常小学校の児童が遠足からの帰途、130名が一遍に乗り込んで転覆事故を起こしています。この時には、引率教員3名が着衣のままで川に飛び込んで、子ども達をすくい上げています。幸いにも一人の溺死者も出さなかったようです。犠牲者を出さなかったのは、箸蔵大権現の「おかげ」と、翌年5月1日には、お礼の遠足を行っています。定員が50名に130名を載せたことになります。これを教訓にして「定員厳守」「安全運転」が徹底されたのでしょう。

大具渡し 2


大具の渡し跡

背後の赤い橋が三好大橋。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻893P 岡田式渡船の船頭
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「講座 麻植を学ぶ(歴史篇)」を読みながら考えたことをまとめるために、実際に現場に行ってみることにしました。三頭トンネルを越えて、吉野川の堤防を東へ東へと走る原付ツーリングです。
まず立ち寄ったのが岩津橋です。

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吉野川の岩津橋 中世に遡る川港があった
地図を見れば分かるように、このあたりが吉野川扇状地の起点になるようです。それまでの瀞と瀬が繰り返してきた吉野川が緩やかになる所です。そのため河口から岩津あたりまでは、風を利用した川船の遡行ができました。

吉野川の川船IMG_4161
吉野川の平田船
そのため岩津は吉野川河川交通の重要拠点として栄えたようです。それは中世に遡ると研究者は考えています。
その根拠である「岩津港=惣寺院」説を見ておきましょう。
①岩津は麻植郡川田村と阿波郡岩津の間にある吉野川沿いの重要な川港であった
②吉野川は撫養など河口から三好郡川田(三好市山城町)まで船が遡行可能であった。
③岩津は河口から川田までの中間地点に位置し、古野川船運の重要な港になっていた。
④江戸時代には岩津に関をおき、関銭をとっていた。
⑤『阿波国絵図』(徳島大学付属図書館蔵・元禄年間作成)には、「東川田村之内岩津村」とあり、川筋に「岩津船渡」と記されている。
⑥麻植郡地誌である『川田邑名跡志』(18世紀)には、「惣寺院」は中世においては川田村・川田山の寺をすべてをまとめるおおきな寺院であったと記す
⑦川田村の「市久保」には六斎市が開かれていた交易拠点でもあった。

14世紀半ばの『兵庫北関入船納帳』は、兵庫港(神戸)に瀬戸内海や紀伊水道からこの港を通って難波や京都などに入っていく船から関銭をとるために作成されたものです。そこには船籍地(船の出発点)、船の大きさ、積み荷の品目と数量が記載されています。瀬戸内海・紀伊水道沿いの諸国から畿内にどのような品物が入っていたのか、その一端が分かります。阿波船の船籍地と積載物品を一覧化したのが次の表です
兵庫北関入船納帳 阿波船の船籍と積載物

             兵庫北関入船納帳の阿波船の船籍と積載品一覧

ここからは次のようなことが分かります。
①阿波の船は、南部の那賀川・海部川の河口か、吉野川河口から出発している
②積荷として圧倒的に多いのは「樽」と「木材」で、阿波南部の港から積み出されている
③土佐泊など吉野川河口からは胡麻・藍・麦が出荷されている。
④全体として多様な商品が畿内に向けて積み出されていた
ここで研究者が注目するのは船籍地一覧に出てくる「惣寺院」です。
この港については、どこにあったのか分かっていません。しかし、先ほど見た『川田邑名跡志』には、「惣寺院」は川田村・川田山の寺をすべてをまとめるおおきな寺院があったと記されていました。ここから「惣寺院=岩津」港説を研究者は考えています。

兵庫北関入船納帳の阿波港町
兵庫北関入船納帳に出てくる中世阿波の港
以上から、川田には「惣寺院」という大寺院があり、その周辺では「市」がたっていた。この「市」は川港の物資集積地「川田」「岩津」という地理的な条件があったから開かれていた。『兵庫北関入船納帳』に出てくる「惣寺院」という港は、麻植郡川田村の吉野川沿いの岩津という川港であったとしておきます。
「惣寺院=岩津」だとすると岩津や川田は、阿波でただ一つの内陸部の吉野川沿いの川港であり、船で直接に近畿とつながっていたことになります。また、上郡と呼ばれる美馬郡・三好郡と下郡と呼ばれる吉野川下流域の中継港として、さらには麻植・阿波・名西諸郡の平野地帯や山間部からの産物の集散地として、定期市もたつ繁栄した港町だったとされてきました。
 表の中には積載品として藍があります。
ここからは15世紀半ばには藍が近畿に向けて積みだされていることが分かります。近畿にまで出荷されているので、麻植郡などでは室町中期には藍が相当な規模で栽培されていたようです。これに加えて江戸時代になると川田周辺で急速に発展してくるのが和紙産業だったことは前々回にお話ししました。宝永三年(1706)に徳島藩は、麻植・美馬・三好諸郡の山間部の庄屋に触書をだして和紙を藩の専売にすることを通達しています。ここからは18世紀初頭には、和紙生産が古野川流域の山間部の村々に広がっていたことが分かります。このように繁栄する川田や岩津の人達の信仰のシンボルが高越山であり、高越寺であったということになります。高越寺の住職が和紙産業の人々を信者に組織するために、天日鷲神(忌部神=麻植神)を祭るようになったことが、忌部神社の復活につながったことはこれまでに見てきた通りです。
 そのような和紙産業の勃興と共に、
天日鷲神(忌部神=麻植神)は「和紙の始祖」とされ、美馬郡の貞光や、麻植郡の山崎・川田は和紙の集積地として繁栄するようになります。そして、彼らは共に天日鷲神を祭り、「忌部神社」の本家争いをするようになります。その争論の中で、阿波藩が本家としたのが川田の種穂神社でした。つぎに向かうのは岩津から始まる尾根の上に鎮座する種穂神社です。

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                岩津橋から下流の眺め
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岩津橋の袂に座って、和紙や藍を積んだ船が緩やかなながれとともに吉野川河口に進んで行く光景をイメージしていました。そして浮かんできたのが美馬市郡里の安楽寺です。

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                    美馬市郡里の安楽寺
安楽寺は、千葉から政治亡命してきた千葉氏が守護小笠原氏の保護を受けて、建立した浄土真宗の寺です。その後、三好氏の保護を受けて急速に寺勢を拡大していきます。下図は17世紀後半の安楽寺の末寺分布図です。
四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布
               17世紀後半の安楽寺の末寺分布図
 この分布図からは阿波の末寺は、吉野川流域沿いに集中していて、東部海岸地域や南部の山岳地帯には末寺はないことが分かります。この背景として考えられるのは
吉野川より南部は、高越山などを拠点とする修験道(山伏)勢力が根強く、浸透が拒まれた
②経済的な中心地域である吉野川流域の港町を拠点に、真宗門徒を獲得した
安楽寺は、吉野川流域でどんな人達への伝道に力を入れたのでしょうか? その際に参考になるのは、瀬戸内海の港町での布教方法です。そこで最初に真宗に改宗したのは「わたり」と言われる移動性の強い海運労働者(船乗り・水夫)だったといわれます。吉野川でも、川船の船頭や港湾労働者などが初期の改宗対象ではなかったのかというのが私の想像です。
 どちらにしても瀬戸内海の交易では、寺院が港湾の管理センター的な役割を果たしていました。そのため各宗派は、瀬戸の港町に寺院を建立して交易の利益を確保すると共に、そこを布教拠点ともします。安楽寺も三好氏の保護を受け、吉野川沿いに道場を開き、海運業者の信者を集めた、それが寺院へと発展したという仮説になります。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山 幸彦 麻植郡と小杉𥁕邨 講座麻植を学ぶ
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前回は高越山の麓にあった中世の川輪田荘は、かつての吉野川の川中島(輪中)であったので「河輪田」と呼ばれたとこと、その後の吉野川の流路変更で、姿を消したという説を紹介しました。こうして見ると吉野川は、現在の流路に至るまでに何度もの流路変更を行ってきたことが窺えます。それを今回は美馬周辺で見ていくことにします。テキストは「森重幸・川島信夫・金沢浩生   地名「喜来」の考察   郷土研究発表会紀要第28号」です。

原付バイクで吉野川の堤防の上をよく走ります。川面を見ながら、東西に連なる阿讃と四国の山脈(」やまなみ)を見上げてのツーリングは心地よいものです。三頭山などから見ると吉野川は、一直線に東西に伸びているかのように感じますが、地図を見ると中流域では蛇が這うように蛇行して流れているのが分かります。その要因を研究者は次のように指摘します。
A 南からの四国山脈の尾根が伸びてきたところでは、尾根の先を廻って北側に入り込んで蛇行。
B 北側の阿讃山脈の谷川が流れ込んで三角州を形成するところで、南側に蛇行。
これを、美馬周辺の地図で見ていくことにします。

吉野川河道 美馬1
美馬周辺の吉野川
A 南からの尾根の張り出しは④⑤⑥
B 北の讃岐山脈からの流れ込みは
③「河内谷(こうちだに)」(芝生)
②「高瀬谷(こうぜだに)」
①鍋倉谷川
ここからは次のような「情報」が読み取れます。
1 JR江口駅から⑤の尾根あたりまでは、南岸山地の尾根が北に張り出して、圧迫された吉野川が今よりも北に流路を取っていたこと。
2 その流路は、⑦現在の「四国三郎の里」や⑧川北街道(県道12号)附近の「谷口」・「沼田」地区に進入し流域としていたこと。
3 その下流では①鍋倉谷川によって南岸に押された吉野川が「貞光川」によって、再び逆に北に押し上げられていた形跡が見えること。

吉野川美馬 中島
             吉野川の旧河道(三好市三野町 四国三郎の里あたり)
以上をもう少し詳しく見ていくことにします。上の写真は1970年代の航空写真で見た三好市三野町あたりです。こうして見ると、JR江口駅附近から北に流れ込んだ吉野川は現在の材木センターや四国三郎の里あたりの北側を流れ下っていたこと、そして、ここには大きな「川中島」である「清水」や「中島」があったことがうかがえます。それが現在は木材センターや四国三郎の里として整備されているようです。

吉野川三野町中島
                 吉野川の旧河道(半田あたり)
吉野川半田周辺2

また、半田の対岸の「谷口」・「沼田」や、その下流の「宗重(むねしげ)」・「小長谷(おばせ)」の低地帯も旧河道であったようです。1975年に池田ダムが完成するまで、洪水の遊水地帯が必要でした。そのため川幅を広く取って、北側の流れも確保していたようです。その結果、広い遊水池や低湿地が至る所にあったようです。もう少し下流も見ておきましょう。
郡里廃寺2

美馬市郡里の郡里廃寺と段の塚穴古墳

  郡里の寺町や郡里廃寺跡は、段丘の上に乗っています。
寺町の安楽寺の下まで、かつては川船が着岸できた気配がします。そうだとすれば、寺町の寺院は吉野川の河川交通の拠点だったことになります。浄土真宗興正寺派の安楽寺が三好氏の保護を受けて、急速に教線を伸ばしていくのも、吉野川の河川輸送を掌握したからではないかと私は考えています。

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段の塚穴古墳の下に拡がる美田 洪水時にはこの下まで冠水していた?
 また段の塚穴古墳の真下まで、洪水の時には水が押し寄せてきていたことになります。この下に美田が生まれるのは近代になってからではないのでしょうか。段の塚穴古墳が造られた頃は、葦の茂る湿原だったかもしれません。そうだとすると、被葬者の経済基盤は農業生産ではなかったことになります。「地形復元」をしていると、いろいろな想像が膨らみます。

吉野川 小長谷
                     「小長谷」

  野村谷川が吉野川に合流する「小長谷」の低地帯は、現在も湿田となっています。もともとは、船着場だったという伝承もあります。

吉野川 貞光町飛び地

また、南岸「貞光町太田(おおた)」の飛び地が北岸にあり、今は小山北工場が立っています。以上からは、このあたりも吉野川が南に移動し、新たに生まれた湿原を開拓して生まれた水田と云うことになります。それがいつ頃のことだったのかは、今の私には分かりません。
以上をまとめておきます
①吉野川は南からの尾根の張り出しと、北の阿讃山脈を下ってくる川の形成する三角州に押されて蛇行しながら東に流れていく。
②両者の力関係は南からのベクトルの方が強かったために、今よりも北に押されて流れ下っていた。
③また、池田ダム完成以前は洪水時に供えて遊水池を確保する必要があり、広い低湿地や湿原が各地にあった。
④そこには、分流した吉野川が流れ込み川中島や輪島を形成していた。
⑤それは洪水の度に姿を変えたり、分断されたりして、村々の境界が分断されることもあった。
⑥近世・近代になって治水コントロールが可能になると、湿地は開拓され耕地化されるところも出てきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
森重幸・川島信夫・金沢浩生   地名「喜来」の考察   郷土研究発表会紀要第28号
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                      平田船
吉野川の平田船
少し前に半田の川港のことを紹介しました。すると井川町の辻にも川港があると教えられました。しかも、「川港跡」ではなく現役の港として機能していること、その港の管理センターや船の修復所まであって、管理センターには要員まで待機しているというのです。ホンマかいな?と思いましたが、実際に確認しに行ってきました。その報告書です。
 吉野川の川港
吉野川の旧川港 辻の浜は⑧

 吉野川の旧川港地図を見ると、確かに辻には港があったことが分かります。それでは、どのくらいの川船がいたのでしょうか。
三好・美馬郡の平田船数

近代の川船(平田船)の所属表を見てみると、東井川村(辻)は、35艘とあります。これは池田や白地よりも多く、最も多くの川船が母港としていたことが分かります。ここからも、辻が人とモノの集まる経済的な集積地であったことがうかがえます。その繁栄の源が何であったかは後で見ることにして、さっそく原付バイクを走らせます。

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美濃田大橋
猪ノ鼻トンネルを越えて美濃田大橋まで30分でやって来てしまいました。新猪ノ鼻トンネルの開通で、まんのう町から池田方面は本当に近くなりました。雰囲気のある大好きな美濃田大橋を渡って、辻の旧道に入っていきます。
 辻の町は旧道沿いにはうだつの上がった家が並びます。個性を主張する独特な家もあり、見ていて楽しくなります。
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三階建ての木造母屋 奥が深い町屋作り

 辻は、半田や貞光・穴吹に比べても面積は狭いのですが、江戸時代から祖谷や井内などの後背地を持ち、その集積地として栄えてきました。

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讃岐からの塩などが昼間を通じて、祖谷や井内に入っていく交易拠点で、モノと人が行き交う要衝でした。近世後半の辻の発展は、刻み煙草によってもたらされます。井内など周辺のソラの村で収穫された煙草が、辻に集積されるようになります。それが明治になり、営業の自由が認められると煙草工場がいくつも立ち並び、煙草専売化前には70の工場があったようです。それらが辻の川港から平田船で積み出されていきます。一艘分の煙草荷で一軒の家が建つと云われたそうです。それでは、煙草を積んだ船が出港していった港を見に行きましょう。

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 旧道に青石で囲まれた共同井戸に、赤い鉄板が被せられています。もう使われていないようです。井戸があった場所は、町のポイントになります。ここから港に下りていく道があります。この道が浜の坂とよばれ、両側には料亭や飲み屋が軒を並べていたと云います。
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真っ直ぐ進むと、国道と線路の下をくぐります。振り返るとこんな感じでした。

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すると視界が開けて、すぐ目の前を吉野川が流れています。
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辻の川港跡
上流を眺めると空色の高速道路の橋が見え、すぐ上流で瀬が北岸にぶつかって流れを変えて流れの速い所です。ここは井内谷川との合流地点のすぐ下手で水深が深く流れの静かな淵になっています。ここが辻の川港跡です。

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 入江を見ると、今も鮎船が浮かんでいます。

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それに監視センターもあります。
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川船の保管庫もあります。確かに現役の川港と云えなくはありません。
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この椅子に座って、想像力を羽ばたかせると、棹さして川の流れに乗って出港していく平田船のイメージが湧いてきます。吉野川の旧川港の中で、一番保存状態がいい所かもしれません。
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辻の浜を守る会の活動日

管理センターの張り紙をみると、多くのボランテイアの活動でこの光景が維持されていることが分かります。感謝。
吉野川の川船IMG_4161

吉野川には多くの帆かけ船(平田船)が行き来していました。
帆にいっばいの東風を受けて、三隻・五隻とつらなって吉野川をさかのぼっていったと回顧されています。上流に消えたかと思うとやって来るといった具合に、古野川には帆かけ船の通行が絶えなかったといいます。
上流からは、たばこ・木炭・薪・藍その他、山地の産物
下流からの積荷は、塩などの海産物・肥料・米・衣料・陶器。金物・その他雑貨日用品など。
吉野川の川船輸送は、時代とともに盛んとなり、明治24年頃が最盛期でした。その後、道路の改修、牛馬車の発達、鉄道の開通によって河川交通は陸上交通にその役割をゆずっていきます。特に大正3年(1914)に鉄道が池田まで延長されると、川船はほとんどその姿を消すことになります。
吉野川にて渡し船で六田に渡る 1896
奈良の吉野川にて,渡し船で六田に渡る 1896年 パーソンズの日本記
 それならこの港に人影は絶えたのかというと、そうではないようです。
美濃大橋が出来るのは、戦後のことです。さきほど見たように、明治になって煙草工場が数多くできると、そこで働くために、北岸の人達は渡舟で辻にやってきていました。通勤のために利用したのが辻の渡場になります。さらに、大正3年(1914四)徳島線が池田まで開通し、辻駅が設置されると、人とモノの物流の拠点は辻駅になります。北岸から鉄道を利用する人々は、辻の渡場を利用して、辻駅で乗り降りするようになります。三好高等女学校、池田中学校(旧制)へ通学する昼間・足代の人たちも渡船の利用者でした。

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美濃田大橋
 辻の渡場は、この港から200mほど下流にあります。行ってみましょう。
赤と白のストライプの美濃大橋を眺めながら川沿いの道を歩いて行きます。そうすると岩場がコンクリートで固められた所が出てきます。

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辻の渡し跡
これが渡場の桟橋だったようです。向こう岸の昼間側にも露出した岩場があります。


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美濃田大橋からの辻の渡場 左が辻側、右(北岸)のオツゲ岩
 大正15年に、南岸は岩場を掘り抜いた道が新設されます。それに併せるように、北岸の渡場も岩盤を削りとり、両岸ともに立派なコンクリートで固めた船着場ができます。ただし、北岸は荷車以外は、それまで通り、川原の大きな「オツゲ岩」のところから渡し船で往来したようです。北岸川岸の大きな岩が「オツゲ岩」のようです。

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美濃田大橋からの北岸の辻の渡し場
辻の渡しは、古くは宮の下(滝宮神社)の渡しともいわれ、辻町の中心部と昼間を結ぶ重要な渡し場でした。
ここは先ほど見たように、すぐ上流で瀬が終わり、美濃田の瀞場の始まりになるところで、流れもゆるやかになる所です。上流で流された流木が、この瀞場で回収されて筏に組まれて、ここからが筏氏たちが下流まで運んだことは、以前にお話ししました。そのため渡船を渡すには安全で、出水時にも、かなりの増水でも渡船できたようです。
池田町大具渡し
三好市池田町大具の渡し 1958年三好大橋完成まで運用
渡場には多くの事故が起きています。辻の渡場で最も大きな事故では、17名の若人が溺死しています。
明治42年(1909)年4月7日午前7時のことです。前夜からの雨で、吉野川は増水し勢いを強めていました。渡し船に乗ったのは官営になったばかりの煙草刻工場へ通勤する工員たちで、すべて北岸の者ばかりでした。出勤時間前なので、工場に急ぐ工員たちが、昼間側から定員一杯に乗りこみます。辻側の岸に着くや否や、先を争て舟の縁を踏み切って跳び出します。その反動で船が大きく揺れ、濁水が底をすくって転覆します。本流が南岸に近く、増水していたので、17名が濁流に飲まれて尊い命を落としました。

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昼間側の岡の上に建つ地蔵さん

このような惨事を見守り続けた地蔵さまがいらっしゃいます。
辻渡船場北岸の旧渡場が見下ろせる民家の屋敷内に立派な地蔵さんが座っています。碑文には次のように記します。

「三界萬霊、天保五甲午歳  1834)二月、世話人・泰道・正圃・武之丈・昼間村・東井川村・西井内谷・足代村・東井谷・東山村講中」

北岸の村々の人々によって、約190年前に建立されたお地蔵さまです。渡船場での水の事故はつきものだったので、多くの人々が水の犠牲になっています。この地蔵さんは、水難事故で亡くなった人々の霊を慰めるとともに、渡船の安全守護を祈願して建てられたのでしょう。

美濃田の渡しと橋の渡り初め
美濃田大橋の完成と消えゆく渡し船
昭和34(1959年に、美濃田大橋が完成します。そして、渡船場は廃止されます。お地蔵さまもその使命を終えたかのように、今は吉野川の流れを見守りながら庭先にぽつんと立っています。

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  以上、辻の川港の調査報告でした。確かに、川港の雰囲気を最も伝える環境が残されていました。監視小屋の前に置かれた椅子に座って見える、吉野川の姿も素晴らしいものがありました。紹介していただいたことに感謝。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     吉野川の水運        三好町史歴史編 772P    
 菖蒲・土居町内会小誌 三好町史地域編  71P
関連記事

前回に続いて、吉野川の船と港について見ていくことにします。テキストは  「小原亨 川船と小野浜の今昔 郷土研究発表会紀要第38号」です。
吉野川に、どのくらいの川港があったのでしょうか

吉野川の川港

上図の吉野川川港の分布図からは、次のようなことが分かります。
A 一番奥の港は、阿波池田を越えた①の阿波川口までで、ここまで川船は入り込んでいたこと
B 吉野川には、30近い川港が分布しており、その地域の物流拠点となっていたこと。
C 下流終着地点は、撫養や城下町徳島で、そこからは廻船で大坂や瀬戸内海の各港とつながっていたこと
この他にも、芝原の浜・中の島の浜・江ノ脇の瀞・轟の浜・足代の東浜なども川港として機能していたようです。
平田船
吉野川の平田船
 吉野川にはどのくらいの数の川船が運航されていたのでしょうか?
まず三好郡の集計を見ておきましょう。
三好郡の川船
次に阿波国郡村誌・郡史(誌)・町村史(誌)の情報を基にして研究者がまとめたのが下表になります。


平田船港別就航数一覧

ここからは次のようなことが分かります。
①吉野川就航の川船は750~1000隻程度であった。
②川船所属数ベスト5の川港は、半田50・脇40・佐間地(白地)36・池田31・白地29で 下流部よりも上流部の美馬郡・三好郡に多かったこと
②について、上流部の川港に所属する船が多かったということをどう考えればいいのでしょうか? これは、また後に考えるとして、先に進みます。

 当時の船運の状況が、『阿波郡庄記』三好郡の条に次のように記録されています。

「芝生村南北加茂村の内に、江口と云う渡場あり。讃州金比羅へ参詣の節帰りには当村へ出かけ船数艘下りあり。3月・10月・10艘または15艘、人ばかり乗船夥敷く宿多く御座候。(中略)
半田小野浜にも船頭多く乗船客も多く、明治末期~大正初期の半田小野浜~船戸(川田から鉄道)間の船賃は3銭5厘」


徳島日々新聞…明治28年2月23日の記事は、次のように記します。

「吉野川筋貨物を積載上下する船数150隻・1か年の往復回数2万回・物資品目・藍玉・藍草・すくも・玉砂・砂糖・塩・石灰・鯡粕・米麦・煙草大豆・木炭・薪・雑貨・陶器・物資総重量200万貫・船客用の船50隻・利用船客6~7万人・内・県外客10分の1、時期は9月から翌年5月の間が多い。

高瀬舟と平田船



 吉野川の浜(津)を結ぶ川船は、平田船・比良多船・平駄船とも表記されています。

大言海は、次のように記します。
「平板の約と略して、ひらだ・薄く平たくして長き船。倭名抄11船類に、艇薄而長者曰く・比良太・俗用平田船・また石を運送する船・段平船。昔々物語(享保)に(涼みのため平田船に屋根を造りかけ是れを借りて浅草川を乗り廻し。)とある。

阿波志には
「船長2丈5尺許広さ6尺底平板厚舳」

14世紀の頃は田船として利用され、慶長(1596~1615)の頃、大坂で上荷船として大型化され、寛永時代(1624~1644)は樽前船、北前船の荷物の揚げおろしや河川の物資輸送に利用されるようになります。
 吉野川には、この他に「エンカン」・「イクイナ」と呼ぶ船もあったようです。
エンカンは、長さ7間・巾6尺。8反帆、40石積と、少し小型でした。イクイナは、エンカンよりせまく、舳が2岐の角状になっていて、その岐の間に櫂を差し込んで漕ぐことができたために、半田川や貞光川の支流に入ることができました。
 川船の帆は、松右衛門という純綿の厚い織物作りで、そこには、□上(かたがみ)・臼(かねうす)などと親方(船主)の家印を入れていました。
帆で登る遠賀川の平田船 出典:『筑豊石炭鑛業要覧』
 帆で登る遠賀川の平田船 出典:『筑豊石炭鑛業要覧』
平田船は、どんな風に吉野川を行き来していたのでしょうか?
笠井藍水の回想記「帆かけ舟」には、次のように記します。

「春夏は川に沿って東風が吹くので帆かけ船が上って来る。夏・水泳に行くと大きな帆(8反帆)をかけた平駄船が後から後から船首に波をけって上って来るのを面白く眺めた。また、秋冬は・西風となるので帆は利用できず2~3人の船頭が綱で船を曳いて上る。脇町の対岸の河原の水辺を綱を肩にかけ身体を前に屈めて船を曳く景物をよく見た。帆かけ船は全国何処の川にもあっただろう。しかし吉野川の如く巨大な帆を使用した処は他にあまりなかっただろうと思う。吉野川の帆かけ船は日本一であったかも知れぬ。とにかく吉野川の風景に興趣をそえるものであった。……」

北上川の平田船
復元された北上川の平田船
吉野川船運の特徴は、春・夏は東風が吹くことです。
この風を利用して帆を建てて上ることができました。追い風を受けてゆたりと上流に上っていく川船が、夏の風物詩でもあったようです。これは楽ちんです。一方、秋・冬は西風が吹くので、帆は利用できません。そこで友船と2艘をつなぎにして、1人が楫をとり他の船頭は綱を引いて川岸を登ることが行われていました。

遠賀川の船曳
遠賀川の船曳

なかでも難所は、岩津橋下流のソロバン瀬だったようです。
ここでは300mもある長綱で船を引っ張らなければなりません。引綱は、60~100尋(100~200m)もある細長い綱(日向産)です。これを足中草履(あしなかぞうり)をはいて、石を拾うように体を前に傾けて引きあげた。まさに「船曳」の重労働です。
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淀川の船曳図

  このソロバン瀬を見下ろす南岸にあるのが「忌部十八坊」のひとつ福生寺です。
「福」という文字がついているので、高越山を拠点とする忌部修験道の関わりが想定できます。瀬戸の拠点港に、各宗派が寺院を競って創建したように、吉野川河運の難所に立っているこの寺は、私にとっては気になる存在です。吉野川流通の管理・安全センターのような機能を果たしていたのではないかと思います。
 船頭たちは、暴風雨や洪水にあったときは、下流の芝原・覚円・川島・岩津・猪尻の浜などに錨を下ろして、水流が和らぐのを待って、上流にある母港を目指したようです。
川舟には次の3種類がありました。
A ヒラダ(長さ16m、幅2m、十二反帆)
B エンカン(長さ14m、幅1,9m、八反帆)
C イクイナ(エンカンと同じ大きさ、特長のある船型で脚が皮の間にを差込んでこぐ)
大きさや形は違っていますが、平田舟の一種でどれも底が平たく浅い船です。
 船頭は二人か三人で、船主が船頭を務めることが多かったようです。

平田船と千石船

吉野川上流から~徳島間の往復には、どれくらいの日数がかかったのでしょうか?
カヤックで阿波池田の川港を出港すると、水量にもよりますがゆっくりのんびと漕いでも一日で美馬市(穴吹)あたりまでは行きます。池田から徳島までの日数は、下りは三日間、上りは春夏は東風を利用して帆を張りますが風のないときはひき舟をしたり、風待ちをするので、1~2週間はかかったようです。そのため一往復15日ぐらいで、月2回ぐらいの運行ペースでした。
 明治時代までは、平田舟の船主は、舟一隻をもっておれば、水田一町歩を耕作する農家に匹敵する収入があったとされます。そのため、相当裕福な生活ができたようで、船頭は米ばかりで麦飯は食わなかったと云います。
 行先は、徳島・撫養が中心です。しかし、多くの船が上流の池田まで上がってきています。池田周辺が上流からの集積センター的な機能を持っていたことがうかがえます。
 増水時は、第十堰を越えて徳島に下りますが、平水時は第十堰から大寺へ廻り、高房から古川を下り、新町川(徳島)に入っています。航路としては、次のような徳島航路・撫養航路の上り下りがあったようです。
 徳島航路
 A 航路…川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-覚円-第十名田-新町川-徳島
 B 航路…川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-第十-大寺-三つ合-今切川-榎瀬川-吉野川-新町川(徳島)
 撫養航路
 川口池田-辻-小野-脇-穴吹-岩津-第十-大寺-旧吉野川-三つ合-新池川-撫養 
遠賀川の平田船
遠賀川の平田船
どんなものが吉野川を下って運ばれたのでしょうか
下り船 木炭、たきぎ、木材、煙草、藍、まゆ、しゅろ皮、みつまた、かじ等
上り舟 米、塩、いりこ、わかめ、干魚、肥料、綿布類、せともの、雑貨日用品
筏流し 第十樋門
吉野川第十樋をいく筏
まず木材です。中世の阿波の最大商品は、木材でした。三好氏の堺での活動を見ても、木材取り引きで巨額の利益を上げていたことがうかがえます。県南部地域と並んで、吉野川上流も木材の産出地でした。木材は筏に組んで吉野川を流されました。上流で流された木材の集積地が美濃田の淵であることは、以前にお話ししました。ここで再度、筏を組み直して下流へと運んだようです。近代まで撫養川下流には木材集積場がありました。

藍の葉

 江戸時代に後期には藍葉が主要商品になります。

新川と藍蔵
徳島市新川の藍蔵と川船
吉野川中流では、藍・゙煙草、砂糖を生産し、主として大阪、江戸、遠くは北海道まで積み出すようになります。瀬戸内を抜け日本海に出て、浜田港、北陸小浜港、東北酒田港、そして松前江差まで運ばれています。木材を中心に、米穀、薪炭、楮紙、鰹節など、土佐の主要産物も阿波の廻船は運んでいます。廻船の多くは帰路には、鯡粕や鰯粕、その他の物資を積み込んで帰路に就きます。

明治30年代の輸送物品(上荷・下荷)について、『山城谷村史』には次のような表が載せられています。
山城谷村 移入移出品

山城谷村(旧山城町)は、川船の最奥部の阿波川口港がある所です。山間部なので板材や木炭・楮皮(こうぞかわ)・三股皮など山林産の商品が多いようです。そのなかで三股皮の商品価値の大きさが注目されます。
 また、煙草関係の商品比重が多いのが注目されます。山川谷村は、1612年に修験者の筑後坊が長崎から最初に煙草の種を持ち帰って蒔いた所と伝わります。これが徳島産葉タバコ(阿波葉)の起源とされ、近隣町村と共にタバコの一大生産地になります。それが、川船によって下流に運ばれていることが分かります。
  次に中流域の貞光町の港の出入り積荷を見ておきましょう。

貞光町移入移出品

ここからは次のようなことが分かります。
①葉煙草や葉藍などが主要な積荷で、徳島までの1隻の輸送賃が8円程度であったこと
②徳島からの上り船には、穀物・塩など生活必需品が主であること。
③上り船には石灰や肥料など、農業資料がふくまれること
②の塩については、讃岐の塩入(まんのう町)などから昼間などに、塩が峠を越えて運ばれていたとされます。貞光より西部には、川船でも塩が運ばれていたようです。しかし、先ほど見た山城の上り舟には、塩はありませんでした。貞光と池田あたりが、讃岐産塩との移入境界線になりそうです。

 『山川町史』には、川船の積荷について次のように記します。

「吉野川は常に帆かけ船の航行で賑わっていた。寛政10年(1789)の頃、タデ藍の製造に使う玉砂だけでも輸送量は1500石・トラック950台分ぐらいあった。これは、わずか1部で、肥料・藍玉・米麦・雑貨・薪・炭・塩等も含めると吉野川流域で動く物資のほとんどが川船に積み込まれていた。…後略…」

 以上から、当時の吉野川輸送の積荷をまとめておきます
移出物品は
煙草・木材・樵木・薪・木炭・三椏・楮・葉藍・藍玉・すくも
移入物品は、
米・裸麦・小麦・大豆・小豆・食塩・種油・柿原の和砂糖・魚類・半紙・洋紙・唐糸・木綿・織物・鯡粕・鰹節・陶器・畳表ござ・肥料・石灰
阿波藍 | 公益社団法人徳島県物産協会 公式ホームページ あるでよ徳島

川船船頭の収入について「吉野川の輸送船」(「阿波郷土会報」11号)には、次のように記します。

「50貫の石を抱えて歩く。35貫のニシン肥1俵をくるりと担ぐ。穀物5斗俵1つなら片手で肩に乗せるのが普通であるが、そのうえ川幅の狭い急流や渦さきを熟知して他の船や障害物に衝突しないように進んで行く「ケンワリ」を心得えている荒シコの給料が半期(6か月)で30円・「ケンワリ」を知らない5斗俵ひとつを片手で担ぐだけの能無しは、15円(食事船主持)船は男世帯、船主のほか船頭2人乗る。」

 大正初期の小野浜(半田)~徳島間(標準が1往復10日間)の労働収入は、3円銭程度であった。ただし、船頭が船主でもあり仲買商を兼ねての物資の上荷・下荷の運送取引を行う場合は別である。川船1艘の船主は、少なくとも水田1町歩の農家に相当する収入があったと言う。(「阿波河川の歴史的変遷過程の研究」小原亨著)
 
 田んぼ1町歩(1㌶)というのは、中農規模の裕福な百姓に属します。かれらが資本を蓄えて、問屋業や半田では素麺製造業に転出していくのは、前回見たとおりです。

池田町」ちょこっと歩き(徳島県三好市) : 好奇心いっぱいこころ旅

 吉野川の船運は、明治の中期(明治30年代)が最盛期だったようです。
明治後半になると、陸上交通路の整備改修が進められ、道幅が広く平になり牛馬車・大八車・トラックヘと輸送能力の高い車種が登場してきます。それは、河川交通から陸路の時代への転換でした。
 川船に大打撃を与えたのが、鉄道です。明治33年に徳島鉄道が徳島~船戸(川田)間に鉄道を敷設し、大正3年3月には池田まで延長されます。これは川船に致命的な打撃を与えます。大正5年には、川船は吉野川から姿を消していきます。

高瀬の渡場

   以上をまとめておくと
①吉野川の川船運航の、最上流の港は阿波川口で、ゴールは撫養(鳴門)や城下町徳島であった。
②この間に約30余りの川港が散在し、それが各エリアの物資の集積地点となっていた。
③川船は、約750隻ほどが運航しており、半田や池田など美馬・三好の川港に所属する船が多かった。
④運航方法は、下りに2日~3日、上りに7日程度で、一往復10日間で、月に2回ほどの運航回数であった。
⑤下流からの帰路は、春・夏は追い風に帆を上げての順風満帆であったが、冬場は逆風で過酷な
船曳作業を伴うものであった。
⑥下りの積荷は、木材製品や木炭、藍・煙草関係のものが主であった。
⑦上りの積荷は、穀類や塩・日常雑貨や農業用肥料など多様なもので、村の生活を豊かにするものも含めて、多くのものが川船に載せられて運び挙げられていた

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


2016 ラフテングプレ世界大会 徳島県吉野川

吉野川を見ながら樹上散歩を楽しんでいました。

10月10日(月)来年、吉野川で開催予定の世界ラフテング大会の国内選考会を兼ねた大会がありました。
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スタート視点は大歩危のウエストウエスト。大会期間中は展望台が無料開放されていました。
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快晴の吉野川に、ラフテングが集められ13:30分のスタートに向けて準備が整えられています。
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ここにはモンベルのお店も入っています。ラフテングやカヤックの受付も行っています。私もカヤック講座受講の際にはお世話になりました。
今回新しくこんな施設も登場していました。
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樹間に張られたロープの上をゆらりゆらり。歓声が谷に響きます。
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すぐそばは吉野川。
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踏み出す足に緊張感が張り詰めているのが分かります。
父親と楽しむ子どもの姿が多かったように思います。体験型のスポーツのひとつといえるのかもしれません。いい経験してるなと感じました。
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その前をアンパンマン列車が通過していきます。

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 スタートまでの時間を、吉野川の流れを眺めながら過ごしました。


高梁川下り

吉野川 カヌーで下る水運の歴史 NO4

美濃田の淵の川に浮かぶ「石庭」を過ぎると、吉野川は三加茂台地にぶつかり、流れを大きく北東へ変える。そして見えてくるのが青い橋。さんさん大橋だ。
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さんさん大橋
私はこの名前を「SUNSUN Bridge」と連想し、なかなか遊び心があってGOODと思っていた。しかし、旧三好町と旧三野町を結ぶので「三三大橋」と名付けられたようだ。この縁から両町は合併することになる?

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この橋を越えた左岸(旧足代村)にも「東の浜」と呼ばれた川港があったと三好町誌には書かれている。
北岸の国道沿いの道の駅を見上げながらカヌーは吉野川の流れに任せて進んでいく。流れが止まったあたりが角浦。ここは南岸の中の庄と北岸の大刀野を結ぶ渡しがあった。明治42年発行の国土地理院の地形図には、「角浦渡」が船のマークとともに記載されている。さらに上流から渡場が 辻 → 下滝 → 不動 → 角浦 → 江口 とあったことが分かる。

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角浦渡には、後に沈下橋が架けられる。そして、その下流に立派な青い橋が架かっている。新大橋が完成後は沈下橋は撤去された。吉野川の沈下橋も少なくなっていく。沈下橋の下をくぐるのは、川下りの楽しみの一つでもあるのだが・・・
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この橋を抜けると、長い瀞場が続く。東風が強くパドルを漕がないとカヌーは前には進まない。この東風を受けて、かつての川船は上流を目指したのだろう。

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三加茂町史には、吉野川の水運についてこんな記述がある。

 加茂町では、長さ九メートル未満の小型廻船が多く用いられて航行していた。これは積載量は少ないが航行が容易で、船足か速かったので、一般に早船とも呼んでいた。徳島へ下るには約2日を要した。上りは真夏の候は東風を利用しで帆を使ったが、帆の利用ができない季節には徳島から一週間もかかったという。
吉野川をさかのぼる際に、いくつかの難所がある。毛田も難所の一つである。ここでは三隻~五隻の舟がたがいに助けあっで航行したという。
 船主には運送業専門もあったが、仲買い商人を兼ねた人か多かった。下りは買入れた物資を自船に積み、徳島で問屋にその商品を売る。上りは仕入れた物資を積んで帰える。
吉野川沿岸の船着き場を「はま」と呼んた。三好郡では、江口(加茂町)辻(井川町)州津(池田町)川崎(池川町)川口(山城町)は主要な船着場であった。
このほかに小型廻(早船)の積みおろし場があった。本町では、毛田、角、不動、赤池がそれである。
 吉野川か上下する川舟輸送は、明治25五年ごろから、35年までが最盛期であった。本町の川舟輸送業者は、明治5年には13人であったが、明治9年21人となり、同15年には、小廻船が30隻を越え、舟乗労務者も80人を数えるようになった。
 川舟による貨物運賃は舟によっで、まちまちであった。大正元年―月になると、加茂村では、川舟は三艘あっで、その巡行は、一人一里に付七銭、物資は10貫目1里に付3銭であった。
 明治33年8月、徳島ー船戸(川田)間の鉄道開通によっで、麻植郡以東の物資輸送は順次陸上へと移った。平田船(ひらだぶね)が帆に東風をうけて、上流へ消えてゆくかと思うとまた下流から現われて、次々と川上の方へのぼってゆく。こんなのどかな情景を、明治生れの人はみな記憶にとどめていることであろう。

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 美濃田大橋

  美濃田大橋から長い瀞場になる。同時に景色が大きく替わる。
県の名勝・天然記念物に指定されている美濃田の淵にさしかかるのだ。北岸に高速道路のサービスエリアが設けられ、付属する施設も充実し「吉野川中流域の景勝地」として知られるようになった。

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美濃田の淵
 しかし、ここはかつては「網場」であったという。最初聞いたときには、鮎を捕るための仕掛網の設置場所かと思ったが、大外れ。
 三好町誌には次のような記載がある

 網場と筏流し

 明治11年ころの美濃田の渕の見取図には千畳敷岩の上の岩に「アバカケ岩」の名が記されている。水かさが増えると、丸太を結び付けた太いワイヤーを岩間に渡し川をせく。鰹つり岩からは、黒川原谷の谷尻まで斜にワイヤーを渡し、川の北側をせいたという。
 上流からは出水を利用して木材を流出する。この流材をせき止め、筏に組んで下流へ運ぶのである。 これを筏流しといい、それを操る人を筏師といった。足代村には筏師が7、8人いたようである。一艘が約一万才(当時の木運家屋1戸分の木材)で、腕の良い筏師は一度に二艘運んだとのことである。これを一週間かけて徳島の木材市場へ運ぶのである。
 山から切り出され、荷車や馬車で川まで運ばれてきた木材や洪水にのって流れついた木材を集めて、これも筏にした。小山の西内には大量の木材が流れ着いたとのこと。流木を集める組合のようなものがあったようである。また、流木を集める世話人がいて流木を拾った人にはいくらかお金を渡して引き取っていた。
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美濃田の淵

流れのない美濃田の淵は、上流で流した木材を集積し、筏に組んで下流に運んでいく木材集積地の機能を果たしていたようだ。
もうひとつ川を下っていて気になったのがこれ。河の上に立つ橋脚跡。かつての鉄橋の跡かなと考えていた。しかし、この橋脚にも物語が隠されていた。

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「まぼろしの美濃田観光大橋」について

 終戦直後、吉野川を渡る橋が美濃田の渕に計画され、期成同盟会が結成された。
当初は延長一五〇メートル・幅員二・九メートル・工事費四五〇万円の鉄橋であった。後には観光兼人道橋に変更している。
 美濃田の渕の川中の岩に橋台を建て、現在の三加茂町加茂西町に至るつり橋にして、開通後は工事に要した経費の立替金の支払が終わるまで「賃取橋」にする計画であった。
 橋脚工事は発注され、昭和二十八年の秋に着工している。
 起工式には早期架橋を願って美濃田・小山地区の全戸が出席した。
北岸の橋台が完成し、中央の橋脚が岩の上に雄姿を現した時は、開通した橋を想像し胸をおどらせ、地域の発展を期待したものである。
 しかし、工事半ばにして資金難に陥り、加えて施工主が病に倒れ、役員はハ方手を尽くし努力したがままならず、勤労奉仕で労力を提供した小山地区の人たちの願いもむなしく、資金が全く絶えるとともに工事は中止となった。
 一六〇余万円を投じたといわれているが、残ったのは北岸と中央の橋脚と負債であった。役員は負債の返済に大変な苦労をしたとのことである。
  美濃田の奇勝をめでる観光と吉野川南北の生活道として計画された「観光大橋」があったこと。その痕跡が河に建つ橋脚であるようだ。
現在の美濃田大橋は、その数年後の1969年に完成している。

ゆるやかにゆるやかに流れはカヌーを運んでいく。

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阿波池田の親三好大橋の上流からから出港。
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三好大橋下の落ち込みをなんとか通り抜けて、鉄橋と高速の橋をくぐる。
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吉野川鉄橋を土讃線の普通列車が通過していった。

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昼間の長いザラ瀬抜けると最後に落ち込みがあり、宮下の台地にぶつかり大きく流れを変える。そして正面に見えてくるのが美濃田大橋。
この橋が1960年竣工。上流にあった三好大橋より1年若く「56歳」
ここから長い瀞場が始まる。
プールがなかった1970年頃までは、この付近は川原が広がり遠浅であったので、子供の楽しい水泳場であったようだ。夏休み中は、PTAの監視下で水泳が行われたという。

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「上陸」してみると、こんな石碑が建てられていた。
昼間と辻を結ぶ「辻の渡し」とある。
この渡場について三好町史にはこんな記述がある。
 「明治から大正・昭和の戦後まで、辻地区は面積は狭いが、井内谷・祖谷谷という後背地を有し、特に刻み煙草で繁盛しており、人家が密集し商店が軒を連ねた。特に渡し場上がりの浜地区には、大きな商店や、料理店まであり、その賑やかさは北岸の比でなかった。こうした状況から、北岸から南岸へ渡る人は増加していった。」

 明治四十四年(1912)ごろに、中屋から辻渡船場への道も道路改修が行われた。大正三年(1914)徳島線が池田まで開通し、辻駅が設置されるにいたって、人はいうに及ばず、物資輸送もこの駅が起点となった。北岸の昼間側からの利用者は急増し、特に朝夕の通勤・通学時には非常に混雑した。
 大正十五年現在の町道・昼間中屋線(通称新道)が完成し、同時に南岸は岩場を掘り抜いた道が新設され、北岸も岩盤を削りとり、両岸ともに立派なコンクリートで固めた船着場ができた。
 昭和三十四年、美波田大橋の架橋で廃止となった。船頭さんの逸話、施与米、賃取、昭和二十三年県営化、借耕牛、カンドリ舟、転覆の惨事など、悲喜・哀歓の長い歴史を両岸の岩場に残して、幕を下ろした。
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美濃田大橋から上流をながめた風景。
向こう側(南岸)の井内谷川の流入点とこちら側(北岸)を渡し船は結んでいたという。渡場につながると思われる道路は残っているが、ここが上陸点という地点は分からない。

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 現在では早明浦・池田ダム等による香川用水等への取り込みによるものかこの当たりの吉野川の水位はニメートル以上低くなっているという。地理や風景も大きく変わっている。
 56歳の美濃田大橋が「遠い昔のことだよ」と呟いた気がした。
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吉野川の川船IMG_4161

吉野川はかつて多くの川船が行き来した川。
吉野川を池田からカヌーで出発。その痕跡を探してみました。
まずは、阿波池田の川港跡へ。

諏訪神社下の千五百河原にあった川湊
対象頃の池田の川港 諏訪神社の鳥居に向かって階段が伸びている
船頭達が航海の安全を祈った神社へ長い
石段が残っています。
ここから池田への人と物が荷揚げされ、積み出されていきました。
池田の旧街道もこの港を起点に発展したようです。

阿波池田の川港の灯籠

川船の安全を祈願して建立された灯籠が今も建っています。
ここから出港です。馬10頭分の荷物を満載した川船(平田船)も、出港していきました。

遠賀川の平田船
遠賀川の平田船
穀物・薪炭・足代桐・藍・まゆ・野菜などを積んで徳島まで下り、
帰りは塩や肥料・海産物・日用雑貨品などを運んできました。
下りは3日程度。登りは、風向きのよいときは帆を張り、一週間ほどだったといいます。

遠賀川の船曳

船には船頭の他に丘船頭が乗って艪や櫂の使えない浅瀬に来ると、川へ飛び込んで船を進ませたそうです。

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三好大橋

出港から30分。赤い橋が見えてきました。
三好大橋です。
吉野川に架かる橋としては創生期の鉄橋です。1968年竣工ですからもう50歳になろうとしています。この橋が出来る前は、どうやって川を渡っていたのか?

池田町大具渡し
三好市池田町大具の渡し 1958年三好大橋完成まで運用
この日は梅雨の中休みで真夏日。
蒼い空と白い雲と赤い橋を川が映していました。

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三好大橋の下流、三好高校の下あたりの風景です。
今回の「航行」では一番危険な瀬です。流れや地形は当時と変わっているのかもしれません。でも、ここを平田船で下るのも登るのもたいへんだったと思います。

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一番の難所を過ぎると、鮎師さんの立ち並ぶザラ瀬の向こうにみえてくるのがこの風景。
東みよし町昼間(左側)と三好市井川を結ぶ鉄橋と高速道路がクロスしているように見えます。
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鉄橋は讃岐琴平からの列車に阿波池田に至るため架橋されたもの。
昭和の初めのことです。阿讃のトンネルを抜けてきた蒸気機関車が誇らしげにこの鉄橋を渡って行ったのでしょう。
 この鉄橋のあたりにも、井川と昼間を結ぶ渡船場があったようです。布屋渡と呼ばれていました南岸を通る伊予街道と北岸の撫養街道を結ぶ渡船場として、地域の人たちには大切な渡しでした。

 この渡しの下流に土讃線の鉄橋ができた「影響」を三好町史(775P)は、こんな風に紹介しています。
 この渡しを通っていた人たちの中には、鉄橋に付けられている保線のための側道を歩いたり、自転車を押したりして通る者ができた。もちろん、国鉄当局からは通行を禁止されていたので、当局の者の目を逃れて、秘かに通っていた。


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 高速道路の橋のたもとの風景です。
かつての瀬戸の港のような「雁木」構造のように見えます。
この当たりが昼間の川港だったようです。
今は鮎船の係留場として利用されています。

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下流から昭和初期と平成に登場した2つの橋を振り返ってみました。
ザラ瀬をカヌーは下っていきます。

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ザラ瀬が終わると赤い橋が見えてきました。
美濃田大橋です。
この橋のたもとにも渡場があったようです。その話は次回に・・



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