周防大島の姿は、頭を西にして、尾っぽを東に振る金魚に例えられるようです。二つに分かれる下側のちぎれた尾っぽの先にくっついているのが沖家室島です。この島は、九州諸大名の参勤交代のときの寄港地で、海の荒れたときには御座船がここに船を着け、泊清寺を宿所にしたといいます。泊清寺は、海の本陣だったことになります。そして、幕末の頃には、千軒近い民家のある賑やかな浦だったようです。今回は、「宮本常一 私の日本地図 周防大島」に導かれて、沖家室を訪ねて見た報告です。
島の南側の車道を走ってくると、島にかかる橋が見えてきました。
これを要約しておくと①沖家室島は阿波からの一本釣り漁法をはやくから取り入れ、浦(漁港)として発展してきたこと。②さらに九州の諸大名の参勤交替の御座船の寄港地ともなり、津(交易港)としても成長したこと③そのために毛利藩は、沖家室島に船番所を設置して、公用船を常備させ行き交う船の管理監督を行ったこと④18世紀のサツマイモの普及によって、幕末には人口が十倍に増え3000人近くになったこと⑤そのため集落背後には、山の上までサツマイモ畑が開墾され「耕して天に至る」光景が見えたこと
こうして沖家室は、瀬戸内海屈指の漁村で、家室(かむろ)千軒といわれるようになります。
ここには早舟が常備され、火急の時には対岸の地家室や、本土の大畠まで海上を漕いで知らせたと書かれています。この港が毛利藩の重要拠点であったことが分かります。
それでは、中世の沖家室はどうだったのでしょうか?
戦国時代後半の16世紀終り頃には、ここは無人島でした。それが伊予河野氏の滅亡によって、その家臣(海賊衆)たちがこの島に「亡命」して来て住むようになります。本浦の泊清寺(はくせいじ)は、寛文三(1664)年頃の創建ですが、よく整理せられた過去帳がのこっていて、家々の系譜を正しくたどることができます。それは年代別だけでなく、家別のものも作られているからです。伊予からこの島に渡って来た古い家には、石崎・友沢・柳原などがあります。
地図を見ると島には、本浦と洲崎の二つの集落(地下)があります。文字の通り、本浦の方が早く開けます。上の地図を見ると、本浦の山裾がほぼ等間隔に海岸から山に向つて分けられ、段々畑が重っています。いまは、自然に帰って畠は見えませんが林の中には、段々畑の跡が残っています。近世初期には、この縦割の数と同じだけの人家があった、つまり、初期には移住者に均等に土地が配分されたと研究者は考えています。これは、以前にもお話ししましたが瀬戸の島々の初期開墾時には良くみられる光景です。その区画を数えると40少々なので、はじめは40戸足らずの人家によって開墾がはじまったと研究者は推測します。
それでは近世初期以前には、この島には人はいなかったのでしょうか?
伝承では、昔は海賊がいたと伝えられます。実際に、古い墓が本浦の家の上の畑の隅にあるようで、研究者は五輪搭のかけらをいくつも採集しています。この中には「国東塔の変形」のようなものもあると研究者は指摘します。さらに石質は凝灰岩で国東半島から来たもので、年代的に見れば江戸時代より古いものだと考えています。そうだとすれば、沖家室島は、中世には国東塔を残すほどの勢力を持った者がいたこと、そして国東半島と深い関係をもっていたことが推測できます。それがいつの頃かに、無人島になったようです。浮島とおなじように、厳島合戦のとき陶氏に属し、敗れて毛利氏によって島を追われたという説を研究者は考えています。そうだとすれば、それから50年ほど経って、江戸時代になって平和な時代になってから伊予からの河野氏や村上氏の海賊衆の末裔が住み着くようになったのかもしれません。
無人島となっていたこの島に、まず畑作農業のために人々が住み着き本浦を開きます。その後、島の中で阿波の堂浦へいって、一本釣の漁法を習って来て一本釣をはじめる者が現れます。沖家室の南は千貝瀬・小水無瀬島・大水無瀬島などのよい漁場にめぐまれていて、漁浦として発展します。こうして、本浦の西に洲崎という漁民の浦が現れます。
無人島となっていたこの島に、まず畑作農業のために人々が住み着き本浦を開きます。その後、島の中で阿波の堂浦へいって、一本釣の漁法を習って来て一本釣をはじめる者が現れます。沖家室の南は千貝瀬・小水無瀬島・大水無瀬島などのよい漁場にめぐまれていて、漁浦として発展します。こうして、本浦の西に洲崎という漁民の浦が現れます。
元禄11(1698)年になると、この島には鼠が異常発生して畑作物を食いあらし、島民が飢餓に襲われます。そこで庄屋の石崎勘左衛門は、紀州(和歌山県)からイワシ綱を招いてイワシをひいて飢をしのぐ方策を実行します。この計画はうまくあたります。こうしてこの島は「農業+漁業」のミックスした島として成長していくことになります。これに拍車をかけたのが、この島が九州諸大名の参勤交代のときの寄港地になったことです。海の荒れるときなど大名は、ここに船を着け、泊清寺を宿所にします。泊清寺は、「海の本陣」の役割を果たすようになります。
沖家室島の案内図
本浦の泊清寺に行って見ることにします。
泊清寺
港からの坂道を登るとすぐに見えて来ました。泊清寺の井戸
大きな石垣の上に境内はあります。その下にはしっかりとした井戸が見えます。瀬戸の港にとって、井戸は最重要なものでした。これを制する者が地域の有力者です。寄港する船もきれいな水を求めます。それを提供できる勢力が船乗りにとっては、第1の交渉相手となることは古代以来の定めです。この井戸を見るだけで、この寺の果たした役割がある程度はうかがえます。泊清寺山門
泊清寺本堂
今の視点からすると周防大島の中でも辺境の地にあるお寺にしては立派と思ってしまいます。しかし、瀬戸内海が海のハイウエーであった時代は、人とモノの流通路にこの港はあり、多くの富も出入りしたようです。泊清寺
本堂横には「参勤交替本陣跡」の石柱が建てられていました。「海の本陣」としての格式を備えた寺院だったようです。この港が大名の御座船の潮待ちの際の寄港地だったことを裏付ける史料を見ておきます。肥後熊本藩は「海の参勤交替」を行っていたことは以前にお話ししました。阿蘇を越えて大分から船で瀬戸内海を渡っていました。藩中老職の米田松洞が安永元(1772)年に、36日間かけての江戸へ出向いた旅日記を以前に見ました。彼の乗る船は、桜満開の旧暦3月8日(新暦4月上旬)に大分を出港して、そのまま北流する潮の流れに乗って、周防上関に入ります。そして、満潮で東流する潮に乗って、周防大島周辺を以下のように航海していきます
晴天九日暁前出帆和風静濤松平大膳大夫様(毛利氏)御領大津浦二着船暫ク掛ル 則浦へ上り遊覧ス。無程出帆加室ノ湊二着船潮合阿しく相成候よし二て暫ク滞船 此地も花盛面白し 夜二入亦出帆 暁頃ぬわへ着船
意訳変換しておくと
晴天九日暁
出帆すると和風静濤の中を松平大膳大夫様(毛利家)の御領大津浦に着船して、しばらく停泊する。そこで浦へ上って辺りを遊覧した。しばらくして、出帆し潮待ちのために加室(沖家室)の湊に入る。潮が適うまで滞船したが、この地も花盛で美しい。夜になって出帆し、夜明けに頃にぬわ(怒和島)へ着船
上関を出航後、周防大島の南側コースをたどって、潮待ちのための寄港を繰り返しながら、伊予の忽那諸島の怒和島を経て御手洗に着きます。寄港地をたどると次のような航路になります。
上関 → 大津浦 → 加室(沖家室) → ぬわ(松山市怒和島)→御手洗
この時は沖家室には、潮待ちのために入港し滞船しただけで、
上潮を待って夜中に出港しています。しかし、非常時には上陸し、その際には泊清寺が本陣として使用されたようです。
この本堂の隣に建っているのがフカ地蔵堂です。この地蔵さまは、いろいろの伝説があります。その一つを紹介すると
昔、下関に山形屋庄右衛門という商人いた。その娘と船で上方から戻って来る途中、沖家室の沖で船がとまって動かなくなった。よく見ると大きなフカが船底についている。これは船に乗っている者をほしがっているのではないかと人々はささやきあった。そこで誰をほしがっているのかそれぞれ手拭を海にうかベてみた。すると山形屋の娘の手拭が沈んでしまった。親子は大変おどろき、かなしんだ。船に乗っている人の一人が、「沖家室にはフカ地蔵といって霊験あらたかな地蔵様がある。その地蔵様に祈ってみてはどうか」と言った。そこで親子の者は 心になって祈り、「命を助けて下さるなら、孫子の代まで代々地蔵様を造って寄進します」といった。するとフカが船からはなれ、船は動き出した。そこで親子は、泊清寺のフカ地蔵にお礼参りして、下関へ帰ってからから石地蔵を送り届けた。そして代の変るごとに地蔵の寄進が続いたので、、いまは五体ならんでいる。最も新しいものは昭和14年5月とある。地蔵様は、真中のものが一番大きい。だんだん小さくなっているのは信仰心のうすれてきたのかもしれない。と島の人達は噂しているといいます。
ここからは庶民たちの信仰心を捉える流行神を作り出す「経営努力」を、この寺が続けていたことや、瀬戸内海の交易ルートの要衝にあって、広域的に多くの信者を抱えていたことがうかがえます。
タイは沖家室の沖にもいましたが、漁期をすぎると、 隧灘の魚島へ釣りに出かけます。そこに鯛が集まり出すからです。中には讃岐の与島まで釣りにいく者もいました。塩飽では6月頃まで釣れるからです。それから宇和島沖へも行きます。戻って来ると盆です。盆から秋祭りまでの一月は島の付近で釣り、祭がすむと北九州へ下っていきます。
本浦港
博多組、唐津組、伊万里組などという組がありました。明治になると壱岐や対馬へも進出するようになります。さらに台湾組というのもできて、台湾の南端ガランピにまで進出し、分村を作っています。明治10年頃からはハワイにも渡って、ホノルルを中心にした漁場は沖家室人が開いたともいわれます。
本浦港
漁師たちは一人前の漁師になるために親方につきます。親方が、こ一人前と見れば漁船を造ってやって独り立ちさせます。とは云っても船代は親方からの借金です。米や薪も親方に借ります。そのため釣って来た魚は、全て親方に渡します。親方は盆と暮れに勘定して釣りあげた魚の価格から貸した金や米塩代を差引いたものを漁師に渡すという流儀です。これにはいかがわしい勘定もあったようで、「搾収」もあったようです。しかし、借金することのできることを誇りに思っていたくらいの風土ですから、漁民たちはあまり苦にせず、問題にもならなかったようです。
沖家室島の本浦港へ帰ってくる漁船
旅することを苦にしない人たちなので、ハワイがよいとなると皆押しかけていきます。そしてホノルルで漁業に従った者もいましたが、甘藷畑で働き、そのままハワイにとどまった人達も多かったようです。それでもふるさととの心の縁はきれないで、ふるさとの寺や神社の修復工事の時には、ハワイヘ寄付を依頼すると、多額の金が送られて来たといいます。
今度は、港を見下ろす所に鎮座する蛭子神社に行ってみましょう。
この島も氏神様のすぐ近くに小学校が作られていたようです。子ども達は神社の境内も含めて遊び場にしていたことでしょう。
本殿にお参りして、港を眺めます。ここから瀬戸内海はいうに及ばず、東シナ海や台湾方面にまで船乗りは出かけ、そこに定住したものも多かったようです。
狛犬が本殿の柱にロープでつながれています。
その礎石には、「高雄沖家室同郷会」と刻まれています。高雄とは、台湾の台北の外港です。戦前には、沖家室の同郷会があり、故郷の鎮守に立派な狛犬を寄進する力があったことが分かります。
本殿にお参りして、港を眺めます。ここから瀬戸内海はいうに及ばず、東シナ海や台湾方面にまで船乗りは出かけ、そこに定住したものも多かったようです。
狛犬が本殿の柱にロープでつながれています。
神社の玉垣にも海外在住者の名前が多いのに驚かされます。敗戦後の物不足の時も、ハワイからいろいろの物を送ってくるので物資には困らず、あり余ったほどだったという話が伝わっています。
沖家室本浦の高札場
沖家室は、お寺や神社をめぐっていても、いろいろな発見がある所でした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「宮本常一 私の日本地図 周防大島」
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最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「宮本常一 私の日本地図 周防大島」
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