瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐中世史 > 讃岐中世の港と船


港湾施設が港に現れる時期を、研究者は次のように考えています。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
このように「石積護岸 + 川港」が現れるのは、中世後半になってからとされてきました。
川西遺跡 船着き場
徳島市川西遺跡
前回に見た徳島市川西遺跡は、日本最古の「石積護岸と川港」で、鎌倉時代に石積護岸が現れ、川港施設は室町時代に整備されています。このようにして、中世から戦国時代に川港の施設が各地で整備されていきます。その集大成となるのが、秀吉が伏見城築城とセットで行っわれた宇治川太閤堤の石積護岸と川港でした。これは天下普請だったので、いろいろな大名達が参加し、各地域の治水護岸技術の集大成の場となり、技術交流の機会となります。そこで学んだ技術を各大名達は国元へ持ち帰り、築城や土木・治水工事に活かすというストーリーを研究者は考えているようです。確かに讃岐でも、生駒氏の高松城築城には天下普請で養われた技術や工法が活かされています。また、藤堂高虎の下で天下普請に関わった西嶋八兵衛も、讃岐で治水工事やため池築造を行いますが、これもその流れの中で捕らえることができます。今回は、宇治川太閤堤の影響を受けた「石積護岸 + 川港」の例を高知県の仁淀川河口の遺跡で見ていくことにします。  テキストは「平成 21年度 波介川河口導流事業埋蔵文化財発掘調査 現地説明会資料」です。

上の村遺跡 地図
仁淀川河口の上の村(かみのむら)遺跡
位置は仁淀川河口から2㎞ほど遡った上の村遺跡です。
ここは仁淀川と波介川の合流点でもあり、弥生時代から水運の拠点として繁栄してきたことが発掘調査から明らかにされています。

上の村遺跡 地図2
上の村遺跡の周辺遺跡
上の村遺跡 中世
中世の上の村遺跡復元図
復元イメージを見ると分かるように、新居城の麓には、倉庫的な建物が並んでいたようで、仁淀川と波介川流域の物資の集積センターとしての役割を果たしていたことがうかがえます。ここからは、川港も近くにあると考えられていました。それが平成21年度の発掘調査で出てきました。

上の村遺跡 調査エリア
 
石積護岸が出てきたのは上の村遺跡から南(河口側)で、かつての仁淀川跡(波介川)が流れていたようです。ここには使われなくなった古い堤防があり、地元で「中堤防(1次堤防)」と呼ばれていました。それを、内部調査のため断ち割ると中から石積みの堤防(2次堤防)が出土しました。「ハツリ」加工した石を積み上げ、内部には拳よりやや大きめの川原石を選んで詰めています。上部は断面ドーム状に仕上げられており、このような造りと形のものは全国的にもめずらしいようです。石の積み方等から大正〜昭和期のものと研究者は判断します。今のところ記録等が発見されておらず、工事の経緯は分かりません。
上の村遺跡 護岸比較表
 石積み護岸遺構」と「近代石積み堤防遺構(2次堤防)」の比較表

この堤防遺構の下部を調査していると、地中からさらに石積みが出土しました。担当者はこれを「石積み護岸遺構」と呼んで、堤防遺構は「近代石積み堤防遺構(2次堤防)」と区別しています。石積み護岸遺構は地中から出土していること、近代石積み堤防遺構と上下で交差している部分もあることから、石積み護岸遺構の方が古く、江戸時代初期のものとされます。
 石積み護岸の特徴として、自然石をそのまま積み上げた「野面積み」であることを研究者は指摘します。
近代代石積み堤防のつくり方とは大きな違いがあり、江戸時代初期頃の特徴を示しています。その他、石積みの傾斜や、築石の大きさ(表参照)、内側に礫をほとんど詰めていないことも近代石積み堤防と異なる点です。
上の村遺跡 護岸突堤.2JPG

 石積み護岸遺構のもうひとつの特徴は、平場や突出部分などの付属施設があることです。

仁淀川護岸施設
仁井淀川石積護岸と船着場
平場は護岸遺構の中ほどに造られていて、幅は約7,6 m、長さ44m、その端からのびる突堤状遺構は長さ40mほどで、さらに下流側には「捨石」部分があります。これは、私にはどう見ても川港にしか見えません。

上の村遺跡 仁淀川1
船着き場部分と石積護岸

川港説を裏付けるのは、以下の点です
①長宗我部地検帳で川津(川の湊)関連の地名がみえること
②近年まで「渡し」があったことから、舟着きに関わる機能があったこと
③石造りの台状遺構や、「石出し」と呼ばれる突出部などの付属施設が各所にあること。
宇治川太閤堤築堤 石出し

石積みの堤防が始まる上流端部分は、凹地に堤体内部と同じ川原石を厚く敷き詰めた基礎を造り、その上に堤防本体を築いていまる。基礎構造には「木枠」で堅牢にしている。
⑤2次石堤の外側にも、土を盛り付けて堤防を維持・拡大した様子が断面調査で観察でき、洪水とのたゆまぬ戦いが繰り広げられていたことがうかがえます。
上の村遺跡 護岸突堤

仁淀川河口の集積センターに出現した石積護岸を持つ川港の復元イメージを見ておきましょう。
上の村遺跡 石積護岸

白く輝く石積みは、古墳時代の古墳の積石を思い出させます。どちらにしても、山内藩による統治モニュメントの一種と捉えることもできます。今までにないモニュメントを、宇治川太閤堤の天下普請で学んだ技法で作り上げたことがうかがえます。

護岸遺構で、確実に江戸時代以前といえる石積み護岸は、全国でもごく限られています。
それが前回に見てきた徳島市の川西遺跡や京都宇治川の太閤堤です。宇治の太閤堤には、「石出し」と呼ばれる突出部が使われていました。仁淀川河口のこの石積み護岸遺構の延長は250mにも及び、さらに工区外へ延びています。このように大きな石材を使用する工事は、大工事で大きな労働力と高い技術が必要です。しかし、この遺構について記した文献や、土佐藩の開発事業を指揮した野中兼山との関係を示す史料も見つかっていません。
 しかし、高知県下には当時築かれたとみられる石積み遺構が各所に残っています。また、石積み技術の集大成といえる城郭の石垣をみれば、高知城には野面積みも多くみられます。城郭と治水用の護岸工事の石積みは工法的には類似しており、近接した形で同時進行で行われていた例もあることは以前にお話ししました。どちらにしても、「石出し」などは宇治川太閤堤とよく似ています。天下普請として行われた「太閤堤」などの技術が、このような形で地方に移転拡大していったと研究者は考えています。
 この川港と新居城の勢力との関係を見ておきましょう。
この川港から見える小さな山が、中世の山城である新居城跡です
この山城の裾からは縄文時代から江戸時代の遺構・遺物が連続して出土しています。それを発掘順に上から見ていくことにします。
①江戸時代では井戸跡等が出土。井筒は桶の側部分を重ねたもの
②室町時代の遺構では、箱形の堀形を持った大きな溝跡を確認。新居城の山下部分をコの字状に区画していた可能性があり。集落の中心は川寄り・川下方向にあった?
③平安〜鎌倉時代では、断面 V 字状の溝跡2条や多数の柱穴等を検出。遺物出土量はこの時代が最も多く、集落が一定のピークを迎えていた。遺物は、近畿産の「瓦器」や中国産青磁・白磁が多数出土していて、活発な交易活動を展開。
④奈良〜平安時代では、方形堀形の柱穴や完全な形の土器(杯)3個と赤漆皿、銅銭などが入っていた土坑・掘立柱建物跡4棟。掘立柱建物跡の柱穴は一辺1mほどの方形で、丈夫な建物で倉庫群と想定。遺物は多量の素焼き食器や煮炊き用の土器の他、京都近郊でつくられた「緑釉陶器」も出土。河川に近接した立地や大型の柱穴、出土遺物からみて水運に関連する役所的な施設の一部である可能性あり。
⑤古墳時代は、一辺約4mの溝に囲まれた1間×1間の掘立柱建物跡を確認。通常の方形竪穴住居跡と異なり、周りを溝で囲まれることや炉跡を確認できないことから特殊な性格を持つ建物跡。琴や衣笠などの出土例から祭祀関連の遺構の能性も考えられます。
⑥弥生時代では、溝状土坑を伴う掘立柱建物跡1棟、住居跡1棟と溝状土坑などを確認。瀬戸内地域の影響を強く受けた「凹線文」で装飾された弥生時代中期末の土器も出土。特に注目されるのは、多数の鉄製品がこの時期の諸遺構から出土。
 
 以上からは、上ノ村地区には川津の性格を持った集落が早くからあったことが分かります。またこの遺跡を考える際には、河口に近く、仁淀川、波介川の合流地点である立地から水運に関わる重要な拠点という視点が大切なようです。弥生時代以後、県外産の遺物が多く出土しているので一貫して外部からのモノと人の受入拠点であり、物資の集積センターとして機能してきたことがうかがえます。
最後に、この石積護岸の石材はどこから運ばれてきたのでしょうか?
私は、河口に転がる川原石を使ったと単純に考えていました。しかし、仁淀川河口に行けばすぐに分かりますが、河口には大きな石はありません。流れ下ってくる間に、小石になっています。中世の河川工事では、石材は近くにあれば使うけれども、近くになければ使わないというのが自然だったようです。そのため、石材を用いない治水施設の方が多かったことが予想できます。そんな中で、天下普請の宇治川太閤堤では、現場上流の天ヶ瀬付近の粘板岩が用いられています。前回見た徳島市の阿波の園瀬川護岸施設では、鎌倉時代から室町時代にかけて増築が繰り返されていました。その際には、周辺から結晶片岩は運び込まれています。そしてそれは、時代とともに大型化します。この仁淀川護岸施設の石材も川原石ではなく、周辺から運搬されたもののようです。ここからは、中世から近世にかけては、護岸工事に適した石材を多少離れた地点から運び込むことが行われていたことがたことが分かります。
小さな川原石はいっぱいあるのに、わざわざ石材を遠くから運んだ理由は何なのでしょうか。
この石積護岸に用いられた石材は角張ったものや、ある程度大きく偏平な割石などが数多く使われています。このような形や大きさが河川工事に適していると、当時の技術者は考えていたことがうかがえます。例えば、紀ノ川護岸施設では、運び込まれた片岩は法面に、川原石は裏込めにという使い分けがされています。使用用途によって、使う材料(石)を使い分けていたようです。これも土佐の技術者が天下普請から学んだことかもしれません。同時に、先ほども触れたように、これは山内藩という新勢力出現を庶民に知らしめる政治モニュメントの役割を持たせようとする意図があったと私は考えています。そのためには川原石ではなく、白く輝く葺石が求められたと思うのです。
 以上を研究者は次のようにまとめ、課題を挙げています。
①江戸時代以前に遡る河川護岸遺構は、全国でも非常に僅少。
②「平場」や突堤状(石出し)の部分は、同時期の他例がない。
③水制機能(護岸本体を水流から守る)だけでなく、舟運との関係を考えることが必要。
④構築の目的、「何を護ったか」が課題。
④石積護岸の埋没・廃絶時期は江戸時代中期(18世紀)頃。
⑤廃絶要因は、野中兼山による吾南平野の開発後、仁淀川水系から高知城下町方面への舟運が、土佐市対岸の新ルートに変わったこと?

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
上の村遺跡 調査報告書

「平成 21年度 波介川河口導流事業埋蔵文化財発掘調査 現地説明会資料」

 川西遺跡3

 川西遺跡から河川の石積み護岸としては、国内最古のものが出土しています。川西遺跡は、国道192号を徳島市内西部の循環道として整備するための事前調査で見つかったようです。

川西遺跡4
              徳島市川西遺跡
位置は徳島市の眉山の南を流れる園瀬川が、その流れを北から東に変える川西地区です。現在の園瀬川は遺跡よりも南側を流れていますが、近世までもう少し北まで入り込んで流れていたようです。

上八万盆地の園瀬川の古流路
旧園瀬川の流路(青色) 川西で大きく東へ蛇行している
川西でU字に流れを変えるので、岸の浸食をおさえるために次のような護岸工事が鎌倉時代以後に行われてきたようです。

川西遺跡 護岸工事変遷


①第1段階 鎌倉時代から室町時代にかけて川岸斜面を東西45m、南北10mにわたり、重さ2kg程度の結結晶片岩(青石)で石積みして護岸。
②第2段階 13世紀に重さ15kg前後の青石をその上に積んで、補強。
③第3段階 13世紀後半に石敷き護岸上に直線状の築地状の石積護岸施行
④第4段階 14世紀中葉から砂礫が堆積した中洲に向けて、東西幅5m、南北の長さ15の突堤を設置し、川港化
⑤第5段階 14世紀後半に、築地状の石積護岸と、突堤の西側接合部分を水流から保護するために、縦杭・添え木・横木を組み合わせた複数の柵設置。
⑥その後も補強・増築が行われて、石積みに加え盛土をしたり、捨石と石留め杭で堅固化
ここで私が注目するのは、④の中洲に向けて作られた石積みの上に盛土で覆った突堤です。河川立地の遺跡で、このような突堤構造を採用する遺構は、中世以前には類例がなく、初めての出土になるようです。
 港湾施設が港に現れる時期を、再度押さえておきます。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀
③階段状雁木は18世紀
確かに「石積護岸 + 川港」としては、全国で最も古いものになるようです。
川西遺跡 船着き場

川西遺跡 船着き場2

ポイントをまとめると、
①河川の石積み護岸としては、国内最古の鎌倉時代の護岸施設。
②そこに室町時代に川湊が設置されたこと。
鎌倉時代から室町時代前半の約250年間にわたり、この地区を大規模な洪水から守ってきたことになり、現代の河川護岸の原型とも云えます。また、突堤状の遺構は、船着き場である川湊(=川津)であったと研究者は考えています。
 どうして、ここに整備された川湊が開かれていたのでしょうか
川西遺跡の石積み護岸施設の前の川跡からは、大量の木製製品が出土しています。
川西遺跡 木製品

 斎串(いぐし)や人形(ひとがた)などの祭祀具、将棋の駒、カタカナ文字が書かれた木簡、仏具「独鈷杵(どっこしょ)」の鋳型祈祷などです。その他にも漆器椀、折敷(トレーのようなもの)など食膳にかかわるものや、櫛、下駄、扇など装いにかかわるものもあります。呪術や祭礼に使われた土器は穢れを嫌い、そのまま川へと捨てたようです。そのため無傷なままの土器が大量に出土しています。木製品の中には製作途中のものや木屑もあります。ここからはこの遺跡周辺で、漆器椀などの木製品の生産工房や建築木材の加工場があったことが推測できます。
 木製品が大量に出土する場所は、鎌倉時代の西日本にあっては、寺院であることが多いようです。 それを裏付ける物として、寺院建築の存在をうかがわせる平安末期の軒平瓦や軒丸瓦も出てきています。

川西遺跡 瓦
12世紀末~13世紀前半の瓦 左流水巴文(?)

つまり、川西遺跡周辺に木工工房を持つような有力な寺院があったことがうかがえます。木製品の生産工房や建築木材の加工場を管理統括する寺院が、製品の出荷や原材料などの物資を集積するために、この川湊を築造したと研究者は考えています。以前に、讃岐大内郡の与田寺には増吽によって組織された工房があって、仏像や神像・版木を制作する一方、大般若経書写センターなども兼ねていたことをお話ししました。その工房とイメージがダブってきます。
    那賀川などのように、園瀬川流域でも木材が切り出され、河口に運ばれていたこと、その管理機能を持つ寺院が周辺にあったとしておきましょう。
川西遺跡 西光寺

その寺院とは、どんな寺院だったのでしょうか? 地元の村史には次のように記します。
①川西地区は「道成寺」や「大徳寺」という時期不明の寺があったと、
②近くに「西光寺」の地名が残り、バス停にもなっている。
③約2km東には、2002年に約3700枚の埋納銭(注1)が出土した寺山遺跡(徳島市八万町)がある。
④その近くには、平安末期創建の「金剛光寺」(注2)という大きな寺があったとされる。
④の「金剛光寺」について「八万村史」(1935年)は、次のように記します。
八万村史(徳島県名東郡)昭和10年刊復刻(八万村青年団編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
「境内の広きこと、上八万村の北方より下八万の西方にまたがり、園瀬川屈曲して境内を流れ……」
「七堂伽藍建ちてその宏壮(こうそう)美麗は丈六寺に拮抗せり」
寺山の西隣の小山には、平安時代に建立された金剛光寺があった。寺が栄えた鎌倉時代には境内に閼伽池(あかいけ)と称する庭池があった。この池が昔の園瀬川の流路の一部であったと云うのです。それが天正年間(1573~92)に侵攻した長曽我部元親に焼き払われたとされます。
 寺山遺跡と川西遺跡には、土器の出土状況などに共通点もあるようなので、金剛光寺の工房が川西にあった可能性もあります。

川西遺跡 石積み護岸2
川西遺跡 石積護岸
以上から、次のような仮説を出しておきます。
①鎌倉時代から250年間にわたって木材供給などで大きな利権を持っていた寺院があった。
②その寺院は川西に木工工房を持ち、そこで仏像や版木などが制作されていた。
③同時に、園瀬川の浸食を防ぐために石積護岸が作られ、背後にあった木工工房を護った
④室町時代になると、中堤防が作られ川港が姿を現す。
⑤これは、このエリアが河口と上流を結ぶ河川交通の中継地として重要な役割を果たしていたことを物語る。

以上からは阿波の川港には、室町時代には川西遺跡と同じような護岸と川港を持った施設が各地に姿を見せていた可能性があります。そして、その川港も瀬戸の港のように、寺院の管理下にあったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 畑 大介 利水施設と蛇籠の動向 治水技術の歴史101P
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中世叡尊教団の全国的展開 | 剛次, 松尾 |本 | 通販 | Amazon

前回は、次のような事をみてきました。
①古代の官寺の僧侶は高級国家公務員で、死体の埋葬などに関わることはなかった。
②それは死体が汚れたもので、死穢として近づくことが許されなかったためである。
③そのような中で、律宗の遁世僧の中には戒律を守っているので、穢れも病原体も関係ないという考えが出てくる。
④こうして律宗は他宗に魁けて、死者を葬り、冥福をいのるという葬式儀礼を作り出していく。
⑤について、律僧が葬送に従事することで、律僧によって独自の「死の文化」が創られていくようになります。それが五輪塔、宝筐印塔などの石塔(墓塔・供養塔)、骨蔵器の登場です。これは葬送儀礼と呼ばれるもにになります。今回は、律宗によって生み出された「葬送儀礼」を見ていくことにします。 テキストは「松尾剛次    躍動する中世仏教 律宗教団と社会活動   142P」です。

伊勢の五輪塔、叡尊の弟子の作か/山形大教授が発見 | 全国ニュース | 四国新聞社
弘正寺五輪塔
最初に、伊勢市楠部の弘正寺跡五輪塔を見ておきましょう。
 楠部五輪塔はこれまで15世紀末のものとされ、廃寺となった律宗寺院「弘正寺」にあったため注目されてこなかったようです。それが2008年に、松尾剛次山形大教授(日本宗教史)の調査で次のような事が分かっています。
①楠部五輪塔が、奈良の西大寺を復興した高僧叡尊(1201-1290年)の弟子が造ったこと。
②鎌倉時代の律宗の五輪塔では最大級であること、
 五輪塔は、墓として律宗僧が建立を始めます。その際に葬られる僧侶の地位が上がるほど、その五輪塔も大きいという相関関係があるようです。奈良の西大寺にには叡尊の五輪塔がありますが、これが最大です。そして、楠部五輪塔の高さは約3,4mで、これと同格です。 五輪塔は弘正寺址に建っていること、五輪塔の形、年代、石の削り方などからみて、叡尊上人のお墓ではないかと考えられます。恐らく弟子が叡尊上人のお墓を建て、分骨したのではないかというのです。

律宗五輪塔
弘正寺跡五輪塔(叡尊の五輪塔)

 研究者が注目するのは、五輪塔の「水輪」の球体部分です。加工技術の特徴が、叡尊の弟子が造った極楽寺(神奈川県鎌倉市)の五輪塔などと一致します。そこから制作時期を、鎌倉時代後期から末期の制作と推察します。形から見ると、重厚感のある感じ、全体のバランスからみて鎌倉の忍性五輪塔によく似ています。
律宗五輪塔.2
弘正寺五輪塔
弘正寺五輪塔は、花崗岩製で、高さ3,4mもある巨大五輪塔です。伊勢弘正寺は、現在は廃寺ですが、叡尊が開山し、弘安3(1280)年に律寺として建立(再興?)された寺で、伊勢地方の筆頭寺院でした。この五輪塔は、大きさが、西大寺奥の院の叡尊塔と一致します。

巨大五輪塔!西大寺奥の院に眠る叡尊上人/毎日新聞「やまと百寺参り」第25回 - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

 叡尊教団では、その高さは僧侶の身分に比例するとされていたので、弘正寺五輪塔は叡尊の分骨塔かもしれないと研究者は判断します。五輪塔は、五つの石を積んだ墓塔、あるいは供養塔です。下から方形の地輪・球形の水輪・三角の火輪・半球形の風輪・団形の空輪からなります。平安後期に密教系の塔として現れ、後に宗派を超えて流行するようになります。
 五輪塔は、特に律僧によって数多く制作されました。
 2mを超える巨大五輪塔は、全国で70ほどありますが、ほとんどが叡尊教団の律僧の手によるもので、その寺の開山者の墓所である場合が多いようです。用いられている石材はそれまでは軟らかくて加工しやすい砂岩製が多かったのですが、律僧の五輪塔は硬い花崗岩や安山岩製です。堅い岩石を加工する新技術を持った中国からの石工集団を配下に組織して、般若寺十三重石塔をはじめ新しい石造物を創り出していったことは以前にお話ししました。
般若寺(はんにゃじ)十三重石塔
般若寺十三重石塔

古墳や古代寺院の登場と同じように、新たな宗教的なモニュメントは、新たな宗教ムーブメントの上に姿を現します。当時の人達にとっては、目に見える形で現れた大きな石造物は畏敬の念を抱く対象だったようです。五色台の白峰寺・十三重石塔も、奈良の西大寺律宗の布教活動と深い関係があると研究者は考えていることは以前にお話ししました。
白峰寺 十三重塔 第五巻所収画像000010
白峯寺石造十三重塔

五輪塔が墓所な時には、地輪の下に骨蔵器に入った火葬骨があります。
額安寺五輪塔(鎌倉墓)|金魚とお城のまち やまとこおりやま(一般社団法人 大和郡山市観光協会公式ウェブサイト)
額安寺の忍性五輪塔
額安寺(大和郡山市)の忍性五輪について、見ておきましょう。
忍性(にんしょう)は、建保5年(127)に大和国城下郡屏風里(奈良県磯城郡三宅町)で生まれました。早くに亡くなった母の願いをうけて僧侶となり、西大寺の叡尊(えいそん)を師として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済に惜しまぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話には、慈悲深く意志の強い人柄がうかがえます。後半生は拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興と社会事業を展開しす。人々の救済に努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈しています。
額安寺(大和郡山市)の忍性五輪について「ふるさと大和郡山 歴史事典」には、次のように記されています。
   昭和34年3月23日重要文化財(建造物)。
額安寺の北西にある石造五輪塔群で、この辺りは俗に「鎌倉墓」とも言われている。指定な受けた8基の五輪塔は、敷地の西側に東面して5基、北側に南面して3基が鍵の手に並んでいる。東端および南から4番目のものに、永仁5年(1297)の銘があり、他のものも無銘ではあるが、このころ造立されたものと思われる。
昭和57年の解体修理の際行われた地下調査によって、南端の忍性墓のみが建立当初の位置を保っていることが判明している。また、忍性墓の骨蔵器等は、中世の高僧の墓制を知る上で貴重な発見となった。
額安寺(がくあんじ)五輪塔群(1)
忍性塔(額安寺)

 この忍性塔は塔高276㎝ある巨大五輪塔です。忍性は、嘉元元(1303)年に死去し、叡尊教団の鎌倉における拠点・極楽寺で火葬されます。そして、忍性の骨は分骨され、極楽寺(塔高308㎝)と竹林寺(大和郡山市、塔は破壊)にも五輪塔が立てられ金銅製の骨蔵器に入って納骨されています。こうして、骨蔵器という新たな葬儀用具が登場します。これは叡尊教団の「死の文化」創造の遺品と研究者は評します。
忍性骨臓器
額安寺の忍性骨蔵器

水輪に穴を開けて、水輪にも骨蔵器が納入される場合もあります。

西方院(唐招提寺 子院) そして今週のNHK歴史秘話ヒストリア | タクヤNote
唐招提寺西方院の證玄塔

唐招提寺西方院の證玄塔は、塔高が238㎝もある巨大五輪塔です。昭和44(1969)年6月の修理の際に、地輪の下から次のような金銅製の骨蔵器が出てきました。
律宗の骨臓器(証玄塔水輪)
唐招提寺西方院の證玄塔から出てきた骨臓器

図8のように水輪部に穴が開けられ、図9のような追葬された骨蔵器も出ています。ここからは律宗では、高僧の墓所として五輪塔を立て、骨臓器を埋葬していたことが分かります。

研究者が注目するのは、西方院が地域住民の墓所の中核となっていることです。
律僧たちが境内墓地や地域の惣墓を生み出し、その周辺に地域の有力者達が墓石を立て始めるのです。そして墓域を管理するのは律宗僧でした。ここからは、律宗僧侶の五輪塔が核となって、地域の墓所へつながっていく道が見えて来ます。
以上をまとめておきます
①葬送に関わるようになった律宗僧は、五輪塔を葬儀モニュメントとして建てるようになる
②最初は、開祖や高弟のもので大きさと功徳は相関関係にあるとされた。
③分骨された五輪塔が各地に姿を現し、以後門弟達は、その周辺に自分の五輪塔を建てた。
④五輪塔の石材は、それまでは堅くて加工が難しかった安山岩や花崗岩であった。
⑤それを可能にしたのは東大寺再興のために中国から呼ばれた石工集団であった。
⑥彼らは律宗の求めに応じて、石造十三重塔などを各地の末寺に建立した。
⑦それは瀬戸内海に伸びゆく律宗西大寺の教勢拡大のモニュメントでもあった。
⑧その一例が、五色台・白峰寺の十三重塔(東塔)である。
⑨この時期、讃岐国分寺の再興を行ったのも律宗西大寺の僧侶であった。
⑩高瀬の謎の石塔とされる威徳院勝造寺層塔(八百比丘尼塔)も、このような文脈の中で考える必要がある。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

DSC03968仁尾
燧灘に開けた仁尾(昭和30年代)

  仁尾浦住民とその代官とが「権利闘争」を展開していることを以前にお話ししました。その経過をもっと分かりやすく紹介して欲しいという要望を受けましたので、できる限り応えてみようと思います。
今回は史料紹介はなしで、経緯だけを追っていくことにします。テキストは「国人領主制の展開と荘園の解体  香川県史2 中世 393P」です
仁尾浦は、南北朝期頃までは鴨御社社領でした。
それが15世紀初めに讃岐守護細川満元によって、社家の課役が停止されます。そして仁尾浦は「海上の諸役」という形で守護細川家に「忠節を抽ずべき」とされます。早く言えばパトロンが京都賀茂神社から細川京兆家に替わったということです。「仁尾浦の神人に狼藉をなすものは罪科に処す」と命じているのは細川氏です。ここからは仁尾浦の統治権限は細川氏が握っていたことが分かります。言い換えれば、仁尾浦は細川氏の所領になったと云えます。しかし、細川氏は自分で所領経営を行うことはありません。代官を派遣します。仁尾浦代官を任されたのが香西氏です。15世紀前半までには、仁尾浦の代官を香西氏が務めるようになっていたことが史料から分かります。
香西氏は、代官として次のような賦課を行っています。
①兵船微発
②兵糧銭催促
③一国平均役催促
④代官親父逝去に伴う徳役催促。
①は細川氏所領として義務づけられている「海上の諸役」です。
②は代官香西氏が「和州御陣」に参加した時に2回微収されています。一回目は1438(永享10年ごろ、20余貫を「御用」として納めています。2回目は翌年に50貫と「使者雑用以下」として10余貫文計60余貫文を納めています。2回目の時には「厳密にさた在らば」「以前の徳役の事はし下さるべきなり」という条件が付けられているので、この時の兵糧銭は代官の恣意的課役だったようです。
③は本来は守護代香川氏が課税するものなのでしょうが、仁尾浦では代官の香西氏が賦課しています。そして「浦人は精一杯御用をつとめている」と述べています。②③は合わせて「役徳」・「徳役」と称されるもです。
④はまさに香西氏の恣意によって課された「徳役(役得?)」で20余貫文を納めさせられています。

ふらここ。。。 - 日本史で 習ったかなぁ - Powered by LINE

事の起こりは、嘉吉の乱への守護代香川氏からの用船調達命令でした。長くなりますが、その経緯を追って行きます。
 仁尾浦は「今度の御大儀(「嘉吉の乱勃発に伴う泉州出兵)」のために、西方守護代香川修理亮方から「出船」の催促を受け、船二艘を仕立てます。これに対して代官香西豊前方は、それは「僻事(取り違い)」であると制止します。そして対応処置として船頭と船を抑留します。香川方への船と水夫の提供については「御用」に従って、追って命令があるまで待て、と香西五郎左衛門は文書で通知します。そのため仁尾浦では船の準備をやめて指示を待っていました。

仁尾賀茂神社文書 1441年
讃岐国仁尾浦神人等謹言上(仁尾賀茂神社文書9

 ところが、守護代香川氏からは手配を命じた船がやって来ないので「軍務違反」の罪で取り調べを受けることになってしまいます。結局、仁尾浦は代官香西方と守護代香川方の両方から「御罪科」に問われることになります。徴用された船の船頭は、追放されて讃岐へ帰ってきますが、すぐに父子ともに逐電してしまい、その親族は浦に抑留されます。
 また、 香西方に「止め置かれた船(塩飽で抑留?)」については、何度も人を遣わした末に取り返します。そうする内に今度は、香西氏から「船を仕立てて早急に参上するべき」との命令を受けます。そこで「上下五十余人」を船二艘に乗せて参上し、しばらく京都にとどまることになります。その機会に幕府に対して、今回のことについて何回も嘆願します。しかし、機能不全に陥っている室町幕府からはきちんとした返事は得られません。ついには「申し懸ける」人もなくなり、なす術がなくなってしまいます。

 以上からは、用船について代官香西氏と守護代香川氏が仁尾浦に対して、違う指示を出していたことが分かります。
もしかしたら香西氏と香川氏は半目状態にあったのではないかとも思えてきます。どちらにしても命令系統が一本化されておらず、両者の間には相互連絡や調整もなかったようです。そのため仁尾浦は2つの違う命令に応じて、次のような無用の出費を費やすことになります。
①守護代香川氏の命で兵船を仕立てるために40貫文
②香西方の命で船を仕立てるために100貫文
挙句のはてに「御せっかんに預かる」という始末です。そしてすべての責任と経費を仁尾浦側が負うことになってしまいます。しかし、仁尾浦の神人を中心とする浦人たちは黙って泣き寝入りをしません。次のような抵抗運動を展開します。
①香西氏の代官改易要求の訴え
②仁尾浦住人の逃散
③徳役50貫文催促拒否
 そして、この仁尾浦住民の訴えは、幕府に受けいれられます。「(香西)豊前方の綺いを止められるべきの由」の「御本書」を得ることに成功し、京より帰ってきた神人たちは「抵抗運動勝訴」を兼ねて「九月十五日、当社の御祭礼」を執り行おうとします。
 そこを狙ったように香西氏は「同所陸分の内検」を強行しようとします。
これは仁尾の田畠を掌握して、新たな課税を行おうとするものでした。香西氏の制度改革や新税に対して、神人等は仁足浦が「御料所」「公領」であることを根拠として代官の改替を改めて要求します。同時に、「浜陸一同たり」という特殊性を主張して浦代官香西氏の「陸分内検」を認めません。そのためにとった反対運動が「祭礼停止」です。代官の非法に対して、住人は鴨大明神の神人として団結し、抵抗運動を行います。その神人集団の代表者的存在が新兵衛尉こと原氏でした。
香西氏は仁尾浦住民の反発が予想されるにもかかわらず、次のような新たな賦課を課そうとします。
①「一国平均役」 → 本来は守護側が課すべき賦課
②守護代香川氏の催促を無視して行われた「兵船催促」
③住人逃散に対して行われた「陸分内検」
これは、守護細川氏の家臣であるという地位を利用した課税と支配の強行とも云えます。
 守護の代官による御料所支配は、荘園の代官職請負のように明文化された契約に基づいて行われれていたのではないようです。守護細川氏は、自分の家臣を代官に任命して、一任しています。そのため浦代官は慣行を無視できる立場でした。香西氏は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。これは、守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいが考えられる事は以前にお話ししました。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制

経済的に見ると浦代官になることは、国人領主が財政基盤を固め次のスッテプに上昇するためのポストでもあったようです。
 例えば、髙松平野東部に勢力を持つようになった十河氏は、古高松の方(潟)元湊の管理権を得ることで、財政基盤を高め有力国人へと成長して行きます。また、多度津湊で国料船の免税特権の運行権を持っていた香川氏も、瀬戸内海交易を活発に行っていたことは以前にお話ししました。香西氏も香西湊を拠点に、塩飽方面にも勢力を伸ばし、細川氏の備讃瀬戸制海権確保の一翼を担っていたともされます。  そのような中で、伊予や安芸との交易拠点となる仁尾浦を管理下に入れて、支配権を強化し財政基盤強化につなげるという戦略をとろうとしたことが考えられます。それは細川京兆家の意向を受けたものだったかもしれません。

  最後に、これを進めた仁尾の浦代官は誰だったのかを見ておきましょう。
史料には仁尾浦代官の名前が次のように見えます。
1441(嘉吉元)年10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。(「仁尾賀茂神社文書」(県史116P)
1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門初見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)
この史料からは1441年10月に死去した「香西豊前の父」は、「丹波守護代の常建の子だった元資(常慶)」と研究者は判断します。香西氏のうち、この系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。また、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。
 この史料には、「香西豊前」とともに「香西五郎左(右)衛門」が登場します。つまり、この二人は同時代人で、別人ということになります。ここからも香西氏には2つの系譜があったことが分かります。整理しておくと
①15世紀には香西常健が丹波守護代に補せられ、細川家内衆としての地盤を固めた。
②その子香西元資の時代に丹波守護代の地位は失ったかが、細川家四天王としての地位を固めた。
③細川元資の後の香西一族には、仁尾浦の浦代官を務める「豊前系」と、陶保代官を務める「五郎左(右)衛門尉」系の2つの系統があった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  国人領主制の展開と荘園の解体  香川県史2 中世 393P」
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原氏は「仁尾浦鴨大明神」の惣官として15世紀を中心に活動しています。

仁尾の港 20111114_170152328
仁尾浦からの燧灘(金毘羅参詣名所図会) 

1481(文明十三)年の沙門宥真勧進状には次のように記されています。(意訳)

仁尾の鴨社の西方には「漫々たる緑海を望み」そこを通過する「客帆」は孤島を模したようである。東方には峨峨たる青山がある。仁尾浦には神殿仏閑が廃興をくり返し、その景趣は他にないもので、「道俗福貴の地」であり、「尊卑幸祐の岐」である。すなわち、仁尾は海と高山の間の狭小な土地であるが、神社仏閣が多く、沖には多くの船が行き通い、海上運輸あるいは商業、さらには宗教的にも繁栄している。
 
 仁尾には土地の売券や譲状などがいくつか残されていることは以前にお話ししました。
1352(観応二)年5月の僧定円田畠等譲状には、家・牛・田畠・荒野・山がセットにされて嫡子徳三に譲与されています。これは農業生産において個人が自立していたと考える材料になります。これに対して農業用水については「池は惣衆の修理たるべし」とあります。池は「惣衆」の共同管理の下にあったようです。
 仁尾浦は京都賀茂神社へ神饌を捧げるための社領として成立し、特権を得た神人達によって運営されていました。それが室町時代になると、パトロンを賀茂神社から細川京兆家へと鞍替えしていきます。そして国役の代わりに「兵船」の役をつとめるようになったことは以前にお話ししました。
 しかし、温和しく指示のままに動いていたわけではありません。浦代官となった香西氏の不当な要求に対しては、神人が共同で訴訟を起こして抵抗しています。このように「惣衆」がいて、神人の団結で仁尾浦は運営されていました。
仁尾賀茂神社
仁尾賀茂神社
仁尾浦の中心が「当浦氏社鴨大明神」(賀茂神社)で、その惣官の地位にあったのが原氏です。
原氏は代々「新兵衛尉」を名のっています。「新兵衛尉」の登場する文書を見ておきましょう。
1391(明徳二)年の相博契約(土地の交換)が行われた時に、「所見」という一種の保証を行った6人の中に「しんひやうへのせう(新兵衛尉)」の名が見えます。
1399(応永六)年 源助宗が 一段の田を「鴨大明神九月九日」に寄進していますが、実際は惣官の新兵術尉の所に付せられています。
ここからは新兵衛尉は原氏のことで、鴨社の代表者として神人たちの上位に位置していたことがうかがえます。また、土地相博の証人も務めるなど信望も得ていたようです。しかし、6人の「所見」人の一人でしかありません。この時点では浦全体の上に立つような存在ではなく、神人の有力指導者の一人という存在だったようです。
県史は、浦人の神人としての特徴を「仁尾浦神人等謹言上」事件から捕らえています
 仁尾浦は、守護細川氏によって京都鴨神社の課役を停止され、代わりに守護細川氏に対して「海上諸役」をつとめることになっていました。細川氏の代官である香西氏は「兵糧銭催促」「一国平均役御催促」の臨時課税を行います。それが讃岐西方守護代の香川修理亮からの出船催促と食い違い、結果的に二重に課役を負担し、しかも手違いを責められ「御せつかん」を受けることになります。さらに「香西方親父逝去之折節」「徳役の譴責」や「陸分内検」など浦代官香西氏の「新政」による制度改革が強行されます。香西氏にしてみれば、仁尾は、東側に拡がる燧灘の拠点港で、伊予・安芸方面への戦略港になります。細川京兆家の戦略の一つは、瀬戸内海交易権の確保でした。吉備と讃岐と、その間の塩飽を押さえて、それは実現できます。次に仁尾を直接的に支配することで、戦略的な価値を高めようとしたことが考えられます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
燧灘に向かって開かれた仁尾湊
 この制度改革や新税に対して、神人等は仁足浦が「御料所」「公領」であることを根拠として代官の改替を要求します。同時に、「浜陸一同たり」という特殊性を主張して浦代官香西氏の「陸分内検」を認めません。そのためにとった反対運動が「祭礼停止」です。
 代官の非法に対して、住人は鴨大明神の神人として団結し、抵抗運動を行います。
その神人集団の代表者的存在が新兵衛尉こと原氏でした。しかし、原氏は俗生活上では、先ほど見たように「所見」を行う一人で、「惣衆」の一員でしかありません。これが前回に見た水主神社の水主氏と違うところです。水主氏の地位は『大水主人明神和讃』で、「水主三郎左術円光政」が水主に水をもたらした大水主社祭神百襲姫命の「神子三郎殿」であると讃えられています。つまり、信仰上、水主氏は神と住人を結ぶ媒介者とされ、信者集団の上に立つ存在とされていました。しかし、仁尾の原氏には、そのようなあつかいは見えません。
 仁尾浦は海上運輸や後背地の三豊平野や阿波との交易を生業とする個人が成長し自立化が進んでいました。
水主のような水の管理に伴う共同体規制を受けることは少なかったようです。そのような港町の条件を前提として「惣衆」結合があって、神人集団があったのです。同じ惣官であっても水主氏が宗教上、社領内住人の上に立っていたのに対して、原氏は神人の代表者的地位でしかなかったと研究者は指摘します。
 三好長慶の大阪湾岸の港湾都市とのつきあい方を見ておきましょう。
 四国から畿内に勢力を伸ばそうとしていた三好氏にとって,大阪湾の流通を支配することは最重要課題のひとつでした。しかし,三好氏単独で,流通の結節点となっている自治的都市を支配下に置くのは力不足でした。後の高松城のような城下町建設し、そこに港も作って流通を把握するというスタイルは、まだまだ先の話です。こうした中で,三好氏が採用した対港湾都市戦略は「用心棒」的存在として,都市に接するのではなく,法華宗寺院を仲立ちとした支配を進める方法です。法華宗の寺院や有力信者を通じて,都市共同体への影響力を獲得し,都市や流通ネットワークを掌握しようとします。やげた三好氏は法華宗を媒介とした支配から脱却し,都市共同体に直接文書を発給するようになります。こうした三好氏の大阪湾支配のあり方は,織豊政権の港湾都市の支配の先行モデルとなります。仁尾での香西氏の「新法」による浦代官の権限強化策もこのような方向をめざしていたのかもしれません。しかし、あまりに無骨だったために原氏などを中心とする神人集団の抵抗を受けて頓挫したようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 仁尾の港町としての発展については、以前に次のようにお話ししました。
  白河上皇が京都賀茂社へ 仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島を、御厨(みくり、みくりや)として寄進します。 御厨とは、「御」(神の)+「厨」(台所)の意で、神饌を調進する場所のことで、転じて領地も意味するようになります。そこに漁撈者や製塩者などが神人として属するようになります。漁撈・操船・製塩ができるのは、海民たちです。
 もともと中央の有力神社は、近くに神田、神郡、神戸といった領地を持っていました。それが平安時代中期以降になると、御厨・御園という名の荘園を地方に持つようになります。さらに鎌倉時代になると、皇室や伊勢神宮、賀茂神社・岩清水八幡社などの有力な神社の御厨は、全国各地に五百箇余ヵ所を数えるほどになります。
  今回は、視点を変えて仁尾を御厨として支配下に置いた山城国賀茂大明神(現上賀茂神社)の瀬戸内海航路をめぐる戦略を見ていくことにします。テキストは「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」です。
まず、賀茂社・鴨社の「御厨」・「供祭所」があったところを見ておきましょう。
賀茂神社が
摂津国長洲御厨
播磨国伊保崎
伊予国宇和郡六帖網
伊予国内海
紀伊国紀伊浜
讃岐国内海(小豆島)
豊前国江嶋
豊後国水津・木津
周防国佐河・牛嶋御厨
賀茂社の場合は、
紀伊国紀伊浜御厨
播磨国室(室津)
塩屋御厨
周防国矢嶋・柱嶋・竃門関等

さらに、1090(寛治4)年7月13日の官符によって、白河上皇が両社に寄進した諸荘を加えてみると次の通りです。
①賀茂社 
摂津国米谷荘、播磨国安志荘・林田荘、備前国山田荘・竹原荘、備後国有福荘、伊予国菊万荘、佐方保、周防国伊保荘、淡路国佐野荘。生穂荘
②鴨社 
長門国厚狭荘、讃岐国葛原荘(多度津)、安芸国竹原荘、備中国富田荘、摂津国小野荘


ここからは、賀茂社・鴨社の「御厨」・「供祭所」が瀬戸内海の「海、浜、洲、嶋、津」に集中していたことが分かります。逆に言うと、瀬戸内海以外にはあまり見られません。これらを拠点に、神人・供祭人の活動が展開されることになります。
 神人(じにん、じんにん)・供祭人については、ウキには次のように記されています。
古代から中世の神社において、社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった下級神職・寄人である。社人(しゃにん)ともいう。神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並んで乱暴狼藉や強訴が多くあったことが記録に残っている。このような武装集団だけでなく、神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、やがて、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されるようになった。彼らは神人になることで、国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。

上賀茂神社・下賀茂神社の御厨に属した神人は供祭人(ぐさいにん)と呼ばれ、近江国や摂津国などの畿内隣国の御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、琵琶湖沿岸などにおける独占的な漁業権を有していた。

石清水八幡宮の石清水神人は淀の魚市の専売権水陸運送権などを有し、末社の離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を有していた(大山崎油座)。

神人・供祭人には、次のような特権が与えられました。
「櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)の通い路、浜は当社供祭所たるべし」
「西国の櫓・悼の通い地は、みなもって神領たるべし」
意訳変換しておくと
(神人船の)櫓(ろ)・悼(さお)・杵(かし)が及ぶ航路や浜は、当社の供祭所で、占有地である」
西国(瀬戸内海)の神人船の櫓・悼の及ぶ地は、みな神領である」
そして「魚付の要所を卜して居住」とあるので、好漁場の近くの浜を占有した神人・供祭人が、地元の海民たちを排除して、各地の浜や津を自由に行き来していたことがうかがえます。同時に、彼らは漁撈だけでなく廻船人としても重要な役割を果たすようになります。御厨・所領の分布をみると、その活動範囲は琵琶湖を通って北陸、また、瀬戸内海から山陰にまでおよんでいると研究者は指摘します。

1250(観応元)年には、鴨社の「御厨」として讃岐「津多島(蔦島)供祭所」が登場します。
 最初に分社が置かれたのは、大蔦島の元宮(沖津の宮)です。こうして、海民たちが神人(じにん)として賀茂神社の社役に奉仕するようになります。それと引き替えに、神人は特別の権威や「特権」与えられ、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。力を貯めた神人たちは14世紀には、対岸の仁尾浦に拠点を移し、燧灘における海上交易活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地として発展していくことになります。
ここで注意しておきたいのは、「御厨では漁撈に従事して魚類の貢進を行い、周辺沿岸における独占的な漁業権を有していた。」という記述です。ここからは、御厨の神人・供祭人となったのは「海民」たちであったことがうかがえます。船が操船でき、漁撈が行えないと、これは務まりません。
また「魚類の貢進」の部分だけに注目すると、全体が見えてこなくなります。確かに、御厨は名目的には「魚類の貢進」のために置かれました。しかし、前回見たように「漁撈 + 廻船」として機能しています。どちらかというと「廻船」の方が、重要になっていきます。つまり、瀬戸内海各地に設置された御厨は、もともと交易湊の機能役割を狙って設置されたとも考えられます。それが上賀茂神社の瀬戸内海交易戦略だったのではないかと思えてきます。
①上賀茂神社は、山城の秦氏の氏神であること
②古代の秦氏王国と云われるのが豊前で、その中心が宇佐神宮であること
③瀬戸内海には古代より秦氏系の海民たちが製塩や海上交易・漁撈に従事していたこと
以上のようなことの上に、上賀茂神社の秦氏は、瀬戸内海各地に御厨を配置することで、独自の交易ネットワークを形成しようとしたとも考えられます。各地からの御厨から船で上賀茂神社へ神前に貢納物がおさめられる。これは見方を変えれば、船には貢納物以外に交易品も乗せられます。貢納物献上ルートは、交易ルートにもなります。それは「朝鮮・中国 → 九州 → 瀬戸内海 → 淀川河口 → 京都」というルートを押さえて、大陸交易品を手に入れる独自ルートを確保するという戦略です。この利益が大きかったことは、平清盛の日宋貿易からもうかがえます。そのために、清盛は海賊退治を行い、瀬戸内海に自前の湊を築き、航路を確保したのです。これに見習って、上賀茂神社は「御厨ネットワーク」で、独自の瀬戸内海交易ルートを形成しようとしたと私は考えています。ここでは「御厨は漁撈=京都鴨社への神前奉納」という面以外に、「御厨=瀬戸内海交易拠点」として機能していたことを押さえておきます。
7仁尾
中世の仁尾浦復元図
 仁尾浦は、室町時代になると守護細川氏による「兵船」の動員にも応じて、「御料所」としての特権を保証されるようになります。
そのような中で事件が起こるのは1441(嘉吉元)年です。仁尾浦神人は、嘉吉の乱(嘉吉元年、播磨守護赤松満祐が将軍足利義教を拭した事件)の際に、天霧山の守護代香川氏から船2艘の動員命令に応じて、船を出そうとします。ところが浦代官の香西氏が、これを実力阻止します。そして船頭を召し取られたうえに、改めて50人あまりの水夫と、船二艘の動員を命じられます。そのために、かれこれ150貫文の出費を強いられます。さらに、香西氏は徳役(富裕な人に課せられる賦課)として、50貫文も新たに課税しようとします。

仁尾 中世復元図2
仁尾浦中世復元図

 これに対して「代官香西氏の折檻(更迭)」のため神人たちがとった行動が、一斉逃散でした。
そのため「五、六百間(軒)」ばかりもあった「地下家数」が20軒にまで激減したとあります。ここからは次のようなことが分かります。
①仁尾浦の供祭人は、守護細川氏の兵船動員に応ずるなどの海上活動に従事していたこと
②「供祭人=神人}の海上活動によって、仁尾浦は家数「五、六百軒」の港町に成長していたこと
③仁尾は行政的に「浜分」と「陸分」に分かれ、海有縄のような「海」を氏名とする人や、「綿座衆」などの住む小都市になっていたこと。
④守護細川氏の下で仁尾湊の代官となった香西氏の圧政に対して、団結して抵抗して「自治権」を守ろうとしていること
   最初に見たウキの神人に関する説明を要約すると、次のようになります。
①神人は社頭や祭祀の警備に当たることから武器を携帯しており、僧兵と並ぶ武装集団でもあったこと
②神社に隷属した芸能者・手工業者・商人・農民なども神人に加えられ、神人が組織する商工・芸能の座が多く結成されてこと。
③神人になることで、国司や荘園領主、在地領主の支配に対抗して自立化を志向した。
これは、仁尾浦の神人がたどった道と重なるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「網野善彦   瀬戸内海交通の担い手   網野善彦全集NO10  105P」
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 瀬戸の港 室津
    室津は古代以来の重要な停泊地でした。
1342(康永元)年には、近くの東寺領矢野荘(兵庫県相生市)に派遣された東寺の使者が、矢野荘の年貢米を名主百姓に警固をさせて室津に運び、そこから船に積み込んで運送したことが「東寺百合文書」に記されています。室津が矢野荘の年貢の積出港の役割を果たしていたことが分かります。
 「兵庫北関入船納帳」(1445年)には、室津舟は82回の入関が記録されています。これは、地下(兵庫)、牛窓、由良(淡路島)、尼崎につぐ回数で、室津が活発な海運活動を展開する船舶基地になっていたことが分かります。室津船の積荷の中で一番多いのは、小鰯、ナマコなどの海産物です。これは室津が海運の基地であると同時に漁業の基地でもあったことがうかがえます。いろいろな海民たちがいたのでしょう。
 室津には、多くの船頭がいたことが史料から分かります。
南北朝期の『庭訓往来』には、「大津坂本馬借」「鳥羽白河車借」などとともに「室兵庫船頭」が記されています。室津が当時の人々に、兵庫とならぶ「船頭の本場」と認識されていたことがわかります。当時の瀬戸内海には、港を拠点にして広範囲に「客船」を運航する船頭たちがいたことを以前にお話ししましたが、室津も塩飽と同じように瀬戸内海客船航路のターミナル港であったようです。 そして、室津は多くの遊女達がいることで有名だったようです。法然上人絵伝の室津での出来事は、遊女が主役です。その段を見ておきます。

室津の浜
室津の浜辺と社(法然上人絵伝34巻第5段)

室津の最初に描かれるシーンです。浜に丘に松林、その中に赤い鳥居と小さな祠が見えます。中世の地方の神社とは、拝殿もなく本殿もこの程度の小さなものだったようです。今の神社を思う浮かべると、いろいろなものが見えなくなります。
室津の浜と社(拡大)
神社と浜部分の拡大

 神社の下が浜辺のようですが、そこには何艘もの船が舫われています。ここも砂浜で、港湾施設はないようです。
 浜辺の苫屋から女房が手をかざして、沖合を眺めています。
「見慣れない船が入ってきたよ、だれが乗っているのかね」。
見慣れない輸送船や客船が入ってくると真っ先に動き出す船がありました。それが遊女船です。

第5段    室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。
室津
       室津(法然上人絵伝34巻第5段)
室の泊に着き給うに、小舟一艘近づき来る。これが遊女が船なり。遊女申しさく「上人の御船の由承りて推参し侍るなり。世を渡る道区々(まちまち)なり。如何なる罪ありてか、斯かる身となり侍らむ。この罪業重き身、如何にしてか後の世助かり候べき」と申しければ、上人哀れみての給はく、「実にも左様にて世を渡り給ふらん罪障(ざいしょく)真に軽からざれば、酬報又計り難し。若し斯からずして、世を渡り給はぬべき計り事あらば、速やかにその業を捨て給ふべし。若し余の計り事もなく、又、身命を顧みざる程の道心未だ起こり給はずば、唯、その儘にて、専ら念仏すべし。弥陀如来は、左様なる罪人の為にこそ、弘誓をも立て給へる事にて侍れ。唯、深く本願を馬みて、敢へて卑する事なかれ。本願を馬みて念仏せば、往生疑ひあるまじき」由、懇ろに教へ給ひければ、遊女随喜の涙を流しけり。
後に上人の宣ひけるは、「この遊女、信心堅同なり。定めて往生を遂ぐべし」と。帰洛の時、こゝにて尋ね給ひければ、「上人の御教訓を承りて後は、この辺り近き山里に住みて、 一途に念仏し侍りしが、幾程なくて臨終正念にして往生を遂げ侍りき」と人申しければ、「為つらん /」とぞ仰せられける。
意訳変換しておくと
室の泊(室津)に船が着こうとすると、小舟が一艘近づいてきた。これは遊女の船だった。遊女は次のように云った。「上人の御船と知って、やって来ました。世を渡る道はさまざまですが、どんな罪からか遊女に身を落としてしまいました。この罪業重い身ですが、どうしたら往生極楽を果たせるのでしょうか」。
上人は哀れみながら「まったくそのような身で渡世するのはm罪障軽しとは云えず、その酬報は測りがたい。できるなら速やかに他職へ転職し、今の職業を捨てることだ。もし、それが出来きず、転職に至る決心がつかないのであれば、その身のままでも、専ら念仏することだ。弥陀如来は、そのような罪人のためにこそ、誓願も立ててくださる。ただただ、深く本願を顧みて、卑しむことのないように。本願をしっかりと持って念仏すれば、往生疑ひなし」ち、懇ろに教へた。遊女は、随喜の涙を流した。
後に上人がおっしゃるには、「この遊女は、信心堅くきっと往生を遂げるであろう」と。
流刑を許されて讃岐からの帰路に、再び室津に立ち寄った際に、この遊女のことを尋ねると、「上人の御教訓を承りて後は、この辺りの山里に住みて、一途に念仏し臨終正念にして往生を遂げた」と聞いた。「そうであろう」とぞ仰せられける。
室津の遊女
        室津(法然上人絵伝34巻第5段)

この場面は、遊女が法然に往生への道を尋ねに小舟でこぎ寄せたシーンと説明されます。

⑥が法然、⑤が随行の弟子たち ④が梶取り? 船の前では船乗りや従者達が近づいてくる遊女船を興味深そうに眺めています。
この場面を、私は出港していく船に追いすがって、遊女が小舟で追いかけてきたものと早合点していました。なんらかの事情で法然の話を聞けなかった遊女が、救いの道を求めて、去っていく法然の船に振りすがるというシーンと思っていたのです。しかし、入港シーンだと記します。すると疑問が湧いてきます。わざわざ小舟で、こぎ寄せる必要があるのか?
 兵庫浦のシーンでは、法話の場に遊女の姿も見えていました。室津でも法話は行われたはずです。小舟でこぎ寄せる「必然性」がないように思えます。しかも海上の船の上ですので、大声で話さなければなりません。「往生の道」を問い、それに応えるのは、あまり相応しくないように思えます。
法然上人絵伝「室津遊女説法」画 - アートギャラリー
室津船上の法然(一番左 弟子たちには困惑の表情も・・) 
そんな疑問に答えてくれたのが、風流踊りの「綾子踊り」の「塩飽船」の次の歌詞です。
①しわく舟かよ 君まつは 梶を押へて名乗りあふ  津屋ゝに茶屋ャ、茶屋うろに チヤチヤンー
②さかゑ(堺)舟かよ 君まつわ 梶を押へて名乗りあふ  津屋に 茶屋ャァ、茶屋うろにチヤンチヤン`
③多度津舟かよ 君まつわ 梶を押へて名のりあふ 津屋ヤア 茶屋ヤ 茶屋うろにチヤンチヤンチヤン
意訳変換しておくと
船が港に入ってきた。船乗りの男達は、たまさか(久しぶり)に逢う君(遊女)を待つ。遊女船も船に寄り添うように近づき、お互い名乗りあって、相手をたしかめる。

ここには瀬戸の港で繰り広げられていた、入港する船とそれを迎える遊女の船の名告りシーンが詠われているというのです。港に入ってきて碇泊した船に向かって、遊女船が梶を押しながら近づきます。その時のやりとりが「塩飽船」の歌詞と研究者は指摘します。

室津の遊女拡大
      室津の遊女船(法然上人絵伝34巻第5段)
  当時の港町の遊女たちの誘引方法は「あそび」といわれていました。遊女たちは、「少、若、老」の3人一組で小舟に乗ってやってきます。後世だと「禿、大夫、遣手」でしょうか? 
①の舵を取ているのが一番の年長者の「老」
②が少で、一座の主役「若」に笠を差し掛けます。
③が主役の若で、小堤を打ちながら歌を歌い、遊女舘へ誘います
遊女たちの服装は「小袖、裳袴」の姿で、「若」だけは緋の袴をはいて上着を着て鼓を持っています。一見すると巫女のようないでたちにも見えます。このように入港してくる船を、遊女船が出迎えるというのは、瀬戸の大きな湊ではどこでも見られたようです。

ここで兵庫湊(神戸)の場面に現れた遊女達の場面をもう一度見ておきましょう。

兵庫湊2
      兵庫湊の遊女船(法然上人絵伝34巻第3段)

左手の艫のあたりを楯で囲んだ一隻の船が入港してきました。そこに女が操る小舟が近づいていくと、若い二人の女が飛び移りました。傘を開いて差し掛けると若い男に微笑みながら、小堤を叩きながら「たまさか」の歌を歌いかけています。「 綾子踊り」の「たまさか(邂逅)」の歌詞を見ていくことにします。
一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露 ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて 寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ

二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが  アラシャ

三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに  たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが   アラシャ

意訳変換しておくと
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ

一番を「解釈」しておきましょう。
「おれ」は中世では女性の一人称でした。私の思いはつたえたのに、あなたの心は「芋の葉の露 ふりしやり」のようと比喩して、女が男に伝えています。これは、芋の葉の上で、丸い水玉が動きゆらぐ様が「ぶりしやり」なのです。ゆらゆら、ぶらぶらと、つかみきれないさま。転じて、言い逃れをする、男のはっきりしない態度を、女が誹っているようです。さらに場面を推測すると、たまに気ままに訪れる恋人(男)に対して、女がぐちをこぼしているシーンが描けます。
兵庫湊の遊女
兵庫湊の遊女船(拡大図)
「たまさかに」は、港や入江の馴染みの遊女たちと、そこに通ってくる船乗りたちの場面を謡った風流歌だと研究者は考えています。

なじみの男に、再会したときに真っ先に話しかけたことばが「たまさかに」なのです。そういう意味では、恋人や遊女達の常套句表現だったようです。こんな風にも使われています。

○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば  わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)

この歌は何気なく読んでいるとふーんと読み飛ばしてしまいます。しかし、その内容は「たまさか(久々ぶり)にやって来た愛人と、若宮に籠もって・・・」となり、ポルノチックなことが、さらりと謡われています。研究者は「恐縮するほど野趣に富んだ猛烈な歌謡である」と評します。当時の「たまさかに」という言葉は、女と男の間でささやかれる常套句で、艶っぽい言葉であったことを押さえておきます。
こういうやりとりが入港してきた船の男達と交わされていたのです。その後に、遊女達は旅籠へと導いていくのです。
      
ここで押さえておきたいのは、次の通りです。
①遊女船が入港する船を迎えに出向くという作法は、どこの湊でも行われていたこと。
②その際に、遊女は3人1組で行動していたこと
③出迎えに行った遊女は、相手の船に乗り移って、「塩飽船」などの風流歌をやりとりし、遊郭に誘ったこと。
④そのシーンが法然上人絵伝にも登場すること

遊女達を代弁すると、決して、船の上から大きな声でやりとりをするという下品なまねを彼女らはしません。相手の船に移ってから、歌を互いに謡い合い、小堤をたたい優雅に誘うのです。
 以上から、船上から遊女に往生の道を説いたという話には、私は疑問を持ちます。事情をしらない後世の創作エピソードのようにも思えます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   参考文献 小松茂美 法然上人絵図 中央公論社 1990年

法然が讃岐流刑の際に立ち寄った港町を、「法然上人絵伝」で見ています。今回は高砂です。

法然上人絵伝 34巻第4段 
播磨国高砂の浦に着き給ふに、人多く結縁しける中に、七旬余りの老翁、六十余りの老女、夫婦なりけるが申しけるは、「我が身は、この浦の海人なり。幼くより漁を業とし、朝夕に、 鱗(いろくず)の命を絶ちて、世を渡る計り事とす。物の命を殺す者は、地獄に墜ちて苦しみ堪え難く侍るなるに、如何してこれを免れ侍るべき。助けさせ給へ」とて、手を合はせて泣きけり。上人哀れみて、「汝が如くなる者も、南無阿弥陀仏と唱ふれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生す」べき旨、懇ろに教へ給ひければ、二人共に涙に噎びつゝ喜びけり。上人の仰せを承りて後は、昼は浦に出でて、手に漁する事止まざりけれども、国には名号を唱へ、夜は家に帰りて、二人共に声を上げて終夜(よもすがら)念仏する事、辺りの人も驚くはかりなりけり。遂に臨終正念にして、往生を遂げにける由伝へ聞き給ひて、「機類万品なれども、念仏すれば往生する現証する現証なり」とぞ仰せられける。

意訳変換しておくと

多くの人が結縁(けちえん:仏道に縁を結ぶこと。未来に成仏する機縁を作ること。)する中に、70過ぎの老翁と、60余りの老女の夫婦が次のように問うた。「我たちは、この浦の海人(漁師)で、幼いときから漁業を生業として、朝夕に 鱗(いろくず)を獲って生業としてきました。生けるものの命を奪う者は、地獄に墜ちて耐えがたい苦しみ受けると聞きました。これを逃れる道はないのでしょうか。どうしたらいいの、どうぞお助けください。」と、手を合はせて泣きます。
 上人は、「あなた方のような者も、南無阿弥陀仏を唱えれば、仏の悲願で浄土で往生できます。と優しく教え導きました。二人共に涙にむせび、歓びました。上人の教えを聞いてからは、昼は浦に出でて、漁することを止めることはできませんが、常に口に名号を唱へ、夜は家に帰って、二人共に声を上げて終夜(よもすがら)念仏しました。これには、辺りの人も驚くばかりでした。そして遂に往生を遂げます。これを上人は伝へ聞いて、「機類万品なれども、念仏すれば往生する現証なり」とおっしゃいました。

高砂
高砂の浜 法然上人絵伝 34巻第4段
高砂の浜に着くと近くの家に招かれます。ここでも「法然来たる」という情報が伝わると多くの人がやってきました。
①が法然で経机を前に、往生への道を説きます。僧侶や縁側には子供を背負った母親の姿も見えます。④は遠巻きに話を聞く人達です。話が終わると②③の老夫婦が深々と頭を下げて、次のように尋ねました。
「私たちは、この浦の海民で魚を漁ることを生業としてきました。たくさんの魚の命を殺して暮らしています。殺生する者は、地獄に落ちると聞かされました。なんとかお助けください」

法然は念仏往生を聞かせた。静かに聞いていた夫婦は、安堵の胸を下ろした。
私が気になるのが浜辺と船の関係です。ここにも港湾施設的なものは見当たりません。
砂浜の浅瀬に船が乗り上げて停船しているように見えます。拡大して見ると、手前の船には縄や網・重石などが見えるので、海民たちの漁船のようです。右手に見えるのは輸送船のようにも見えます。また、現在の感覚からすると、船着き場周辺には倉庫などの建物が建ち並んでいたのではないかと思うのですが、中世にはそのような施設もなかったようです。
  当時の日本で最も栄えていた港の一つ博多港の遺跡を見てみましょう。博多湊も砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。

「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは博多港ですら砂堆の背後の潟湖の静かな浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったことを押さえておきます。河口にぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないとかんがえているようです。ある歴史家は「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」と云っています。

野原の港 イラスト
   野原湊(高松城跡)の復元図 船着き場に建物はない  

  船着き場周辺に建物が立ち並ぶようになるのは、13世紀末になってからのようです。それは、福山の草戸千軒遺跡や青森の十三湊遺跡と同時期です。この時期が中世港町の出現期になるようです。それまで、港は寂しい所でした。高松城を作るときに埋め立てられた野原湊も、同じように建物跡はでてきていないようです。
 しかし、法然上人絵図には、高砂の湊のすぐそばに家屋が建っています。ちなみに、法然上人絵伝が描かれたのは14世紀初頭です。その頃には、高砂にも湊沿いに家屋が建ち並ぶようになっていたのかも知れません。しかし、法然が実際に立ち寄った13世紀初頭には、このような家はなかった可能性が強いようです。
    石井謙治氏は、近世の港について次のように述べています。
今日の港しか知らない人々には信じ難いものだろうが、事実、江戸時代までは廻船が岸壁や桟橋に横づけになるなんていうことはなかった。天下の江戸ですら品川沖に沖懸りしていたにすぎないし、最大の港湾都市大坂でも安治川や本津川内に入って碇泊していたから、荷役はすべて小型の瀬取船(別名茶船)や上荷船で行うよりほかなかった。(中略)これが当時の河口港の現実の姿だったのである。       (石井謙治「ものと人間の文化史」

野原 陸揚げ作業イラスト
野原湊(中世の高松湊)の礫敷き遺構の復元図

それでは、港湾施設が港に現れるのはいつ頃からなのでしょうか。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀、
③階段状雁木は18世紀

私がもうひとつ気になったのが船の先端に乗せられている⑤や⑥です。
高砂漁船の碇

これと同じものが高松城が作られる前の野原湊跡から出土しています。それが木製の碇です。中世の漁船は木製碇を使っていたようです。
野原の港 木碇
高松城跡出土の中世の木製碇

また船着場からは杭と横木が出てきています。杭を浅い潟湖に打ち込んで、横木で固定し、その上に板木を載せていたようです。この板木と礫石が「湾岸施設」と言えるようです。「貧弱」とおもいますが、これが当時のレベルだったようです。

参考文献

   参考文献 小松茂美 法然上人絵伝 中央公論社 1990年

法然上人絵伝表紙

   法然上人絵伝は、法然(1133-1212年)が亡くなった後、約百年後の1307年に後伏見上皇の勅命で制作が開始されます。そのため多くの皇族達も関わって、当時の最高のスタッフによって作られたようです。
法然上人行状絵伝 | 當麻寺奥院

また、全48巻もある絵巻物で、1巻が8-13mで、全巻合わせると約550mにもなるそうです。これも絵巻物中では「日本一」のようです。今回は法然の「讃岐流刑」に関する次の①から④区間を見ていきたいと思います。3月16日に京都を出立してから、3月26日の塩飽の地頭宅までの10日です。描かれた場面は次の通りです。
①京都・法性寺での九条兼実と法然の別れ
②京都出立
③鳥羽より川船乗船
④摂津経の島(兵庫湊=神戸)
⑤播磨高砂浦で漁師夫婦に念仏往生を説く
⑥播磨国室(室津)で、遊女に念仏往生を説く
九条兼実を取り巻く状況を年表化すると次の通りです。
1202年 兼実は、法然を師に隠遁生活後に出家
1204年 所領の譲状作成。この中に初めて讃岐小松荘が登場
1207年 法然の土佐流刑決定。3月16日出発。しかし、前関白兼実の配慮で塩飽・小松庄(摂関家所領)へ逗留10ヶ月滞在で、許されて12月に帰京。兼実は、この2月に死亡。
1247年 後嵯峨天皇による九条家の政治的没落

法然上人絵伝中 京都出立
         法然上人絵伝 巻34第1段
三月十六日に、花洛を出でゝ夷境(讃岐)に赴き給ふに、信濃国の御家人、角張の成阿弥陀仏、力者の棟梁として最後の御供なりとて、御輿を昇く。同じ様に従ひ奉る僧六十余人なり。凡そ上人の一期の威儀は、馬・車・輿等に乗り給はず、金剛草履にて歩行し給ひき。然れども、老邁の上、長途容易からざるによりて、乗輿ありけるにこそ、御名残を惜しみ、前後左右に走り従ふ人、幾千万といふ事を知らず。貴賤の悲しむ声巷間に満ち、道俗の慕ふ涙地を潤す。
 彼等を諌め給ひける言葉には、「駅路はこれ大聖の行く所なり。漢家には一行阿閣梨、日域には役優婆塞、訥居は又、
権化の住む所なり。震旦には白楽天、吾朝には菅丞相なり。在纏・出纏、皆火宅なり。真諦・俗諦、然しながら水駅なり」とぞ仰せられける。
 さて禅定殿下(=九条兼実)、「土佐国までは余りに遥かなる程なり。我が知行の国なれば」とて、讚岐国へぞ移し奉られける。御名残遣方なく思し召されけるにや、禅閤(兼実)御消息を送られけるに、
振り捨てヽ行くは別れの橋(端)なれど。踏み(文)渡すべきことをしぞ思ふ
と侍りければ、上人御返事、
 露の身は此処彼処にて消えぬとも心は同じ花の台ぞ
意訳変換しておくと
三月十六日に、京都から夷境(讃岐)に出立した。信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、御輿を用意して、僧六十余人と馳せ参じた。法然は、馬・車・輿等に乗らずに、金剛草履で歩いて出立したいと考えていた。けれども、老邁の上、長途でもあるのでとの勧めもあって、輿に乗った。名残を惜しんで、沿道には前後左右に走り従う人が幾千万と見送った。貴賤の悲しむ声が巷間に満ち、人々の慕い涙が地を濡らした。彼等に対して次のような言葉を贈った。
「駅路は、大聖の行く所である。唐国では一行阿閣梨、日域には役優婆塞、訥居は又、権化の住む所でもある。震旦には白楽天、我国には菅丞相(菅原道真)である。在纏・出纏、皆火宅なり。真諦・俗諦、然しながら水駅なり」と仰せられた。
法然と禅定殿下(=九条兼実)の別れの場面
  法然と禅定殿下(=九条兼実)の法性寺での別れの場面 庭には梅。
この度の配流、驚き入っています。ご心中お察し申す。
 禅定殿下(=九条兼実)は、「土佐)国までは余りに遠い。私の知行の国の讚岐国ならば・・」と、配所を土佐から讃岐へと移された。名残り惜しい気持ちを、禅閤(兼実)は次のように歌に託された、
振り捨てヽ行くは別れの橋(端)なれど、
   踏み(文)渡すべきことをしぞ思ふ
これに対して上人は、次のように応えた、
 露の身は此処彼処にて消えぬとも
   心は同じ花の台ぞ
そして3月16日 法然出立の日です。
出立門前
京都出立門前と八葉車(法然上人絵伝 巻34 第一段)
門前に赤い服を着た官人たちと八葉車(はちようくるま)がやってきています。法然を護送するための検非違使たちなのでしょうか。

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      出立の門前(法然上人絵伝 巻34 第一段)

   車の前には弓矢を持った看監長(かどのおさ)、牛の手綱をとる小舎人童(こどねりわらわ)の姿が見えます。そして沿道には、法然を見送るために多くの人々が詰めかけています。その表情は悲しみに包まれています。
「おいたわしいことじゃ 土佐の国に御旅立ちとか・・。」
「もう帰ってはこれんかもしれん・・・」

出立随員
    輿を追う随員達(法然上人絵伝 巻34 第一段)
  「法然最後の旅立ちじゃ、馬にも輿にも乗らず、金剛草履一足で大地を踏みしめていくぞ。それこそが私に相応しい威儀じゃ。」と法然は力んでいました。しかし、信濃国の御家人・角張の成阿弥陀仏が、御輿を用意して、僧六十余人と門前に現れ、こう云いました。
「あなたさまはもう高齢で、これからの長旅に備えて出立は輿をお使いください」
出立輿
      法然の輿(法然上人絵伝 巻34 第一段)
しぶしぶ、法然は輿に乗りました。六人の若い僧が輿を上げます。別れを惜しむ人々の前を、輿が進んで行きます。京大路を南に下って向かうは、鳥羽です。そこからは川船です。
  ここで私が気になるのが僧達の持つ大きな笠です。笠は高野聖のシンボルのように描かれていますが、法然に従う僧達の多くが笠を持っています。
〔巻34第2段〕鳥羽の南の門より、川船に乗りて下り給ふ。
鳥羽の川港
      鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
都大路を南下してきた法然一行は、鳥羽南門の川湊に着きました。ここで川船に乗り換えて、淀川を下っていきます。見送りにきた人達も、ここでお別れです。
鳥羽の川港.離岸JPG
      鳥羽の川湊(法然上人絵伝 巻34第2段)
長竿を船頭が着くと、船は岸を離れ流れに乗って遠ざかっていきます。市女笠の女が別れの手を振ります。このシーンで私が気になるのが、その先の①の凹型です。人の手で堀り込まれたように見えます。この部分に、川船の後尾が接岸されていて、ここから出港していたように思えます。そうだとすれば、これは「中世の港湾施設」ということになります。周囲を見ると②のように自然の浜しかありません。この時期の13世紀には、まだ港湾施設はなかったとされますが、どうなのでしょうか。③には、驚いた白鷺が飛び立っています。この船の前部を見ておきましょう。
.鳥羽の川船jpg
      鳥羽の川船(法然上人絵伝 巻34第2段)
どこに法然はいるのでしょうか?
①上下の船は、上が切妻屋根、下が唐屋根でランク差があります。下の唐屋根の中にいるのが法然のようです。舳先の若い水手のみごとな棹さばきを、うつろな目で見ているようにも思えます。淀川水運は、古代から栄えていたようですが、この時代には20~30人乗りの屋形船も行き来していたようです。


 巻34〔第3段」   法然摂津経の島(現神戸)に到着                     
摂津国経の嶋に着き給ひにけり。彼の島は、平相国(=清盛)、安元の宝暦に、一千部の「法華経』を石の面に書写して、漫々たる波の底に沈む。鬱々たる魚鱗を救はむが為に、村里の男女、老少その数多く集まりて、上人に結縁し奉りけり。

  意訳変換しておくと
摂津国の経の嶋(兵庫湊)にやってきた。この島は、平清盛が一千部の「法華経』を石の面に書写して、港の底に沈めた所である。魚鱗の供養のために、村里の男女、老少たちが数多く集まりて、上人の法話を聞き、結縁を結んだ。

兵庫湊での説法
   法然上人絵伝 巻34〔第3段」   法然摂津経の島(現神戸)
  兵庫湊に上陸した法然を、村長がお堂に案内します。京で名高い法然がやってきたと聞いて、老若男女、いろいろな人達がやってきて、話を聞きます。
①の女性は、大きな笠をさしかけられています。遊女は3人セットで動きます。その一人が笠持ちです。
②背中に琵琶、手に杖をもっているので、盲目の琵琶法師のようです。
③は、黒傘と黒衣から僧侶と分かります。集団でやってきているようです。
④は、尼さん、⑤は乗馬したままの武士の姿も見えます。いろいろな階層の人たちを惹きつけていたことがうかがえます。法然は集まった人達に、「称名念仏こそが往生への道です。かたがた、構えて念仏に励みなさるように」と説いたのでしょう。
お堂の前の前には兵庫湊(現神戸)の浜辺が拡がります。

兵庫湊
法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島の浜辺(現神戸)
 
・馬を走らせてやってきた武士が、お堂に駆け込んで行きます。
・浜辺の家並みの屋根の向こう側にも、多くの人がお堂を目指しています。
私がこの絵で興味を持つのは、やはり湊と船です。
何隻かの船が舫われていますが、港湾施設らしきものはありません。

兵庫湊2
 法然上人絵伝 巻34〔第3段」  経の島の浜辺の続き(現神戸)
つぎに続く上の場面を見ると、砂浜が続き、微高地の向こうに船の上部だけが見えます。手前側も同じような光景です。ここからはこの絵に描かれた兵庫湊では、港湾施設はなく、砂州の微高地を利用して船を係留していたことがうかがえます。手前には檜皮葺きの赤い屋根の堂宇が見えますが、風で屋根の一部が吹き飛ばされています。この堂宇も海の安全を守る海民たちの社なのでしょう。

兵庫湊の遊女

ここで注目したのが左側に描かれている小舟と、3人の女性です。
船に乗って、どこへいくのか。艫のあたりを楯で囲んだ一隻の船が入港してきました。そこに女が操る小舟が近づいていくと、二人の女が飛び移りました。そして、傘を開いて差し掛けると若い男に微笑みながら、「たまさか」の歌を歌いかけています。これが入港してきた船に対する遊女の出迎えの儀式です。これと同じ場面が室津でも出てきますので、そこで謎解きすることにします。

14世紀になって描かれた法然上人絵伝の「讃岐流配」からは、当時の瀬戸内海の湊のようすがうかがえます。それは人工的な港湾施設のほとんどない浜がそのまま湊として利用されている姿がえがかれています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 小松茂美 法然上人絵図 中央公論社 1990年

    讃岐の守護と守護代 中世の讃岐の守護や守護代は、京都で生活していた : 瀬戸の島から
安富氏は讃岐守護代に就任して以来、ずっと京都暮らしで、讃岐については又守護代を置いていました。そのため讃岐のことよりも在京優先で、安富氏の在地支配に関する記事は、次の2つだけのようです。
①14世紀末の安富盛家による寒川郡造田荘領家職の代官職を請負
②15世紀前半の三木郡牟礼荘の領家職・公文職に関わる代官職を請負
香川氏などに比べると、所領拡大に努めた形跡が見られません。長禄四年(1460)9月、守護代安富智安は守護細川勝元の施行状をうけて、志度荘の国役催促を停止するよう又守護代安富左京亮に命じています。ここからは、安富氏が讃岐守護の代行権を握っていたことは確かなようです。一方、塩飽については、香西氏が管理下に置いていたと「南海通記」は記します。安富氏は塩飽・宇多津の管理権を握っていたのでしょうか。今回は安富氏の塩飽・宇多津の管理権について見ておきましょう。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。 
塩飽諸島絵図
塩飽諸島
塩飽は古代より海のハイウエーである瀬戸内海の中で、ジャンクションとサービスエリアの両方の役割を果たしてきました。瀬戸内海を航行する船の中継地として、多くの商人が立ち寄った所です。そのため塩飽には、重要な港がありました。これらの港は鎌倉時代には、香西氏の支配下にあったと「南海通記」は伝えます。それが南北朝期には細川氏の支配下になり、北朝方勢力の海上拠点になります。やがて室町期になると支配は、いろいろと変遷していきます。
讃岐守護であり管領でもあった細川氏の備讃瀬戸に関する戦略を最初に確認しておきます。
応仁の乱 - Wikiwand
細川氏の分国(ブルー)  
当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々でした。そのため備讃瀬戸と大坂湾の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、かつての平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。そのために宇多津・塩飽・備中児島を結ぶ戦略ラインが敷かれることになります。
このラインの拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津と塩飽の管理権を任せることになります。文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、宇多津の港湾管理権が香川氏から安富氏に移動していることを以前にお話ししました。こうして東讃守護代の安富氏の管理下に宇多津・塩飽は置かれます。これを証明するのが次の文書です。
 応仁の乱後の文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家への次の文書です。

摂津国兵庫津南都両関役事、如先規可致其沙汰候由、今月八日御本書如此、早可被相触塩飽島中之状如件、
文明五十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
意訳変換しておくと
摂津国兵庫津南都の両関所の通過について、先規に従えとの沙汰が、今月八日に本書の通り、守護細川氏より通達された。早々に塩飽島中に通達して守らせるように
文明五年十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
細川氏から兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるように守護代の安富氏に通達が送られてきます。これに対して12月10日付で守護代元家が安富左衛門尉宛に出した遵行状です。
 ここからは、塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、塩飽は安富氏の管理下に置かれていることが分かります。
安富元家は、守護代として在京しています。そのため12月8日付けの細川氏奉行人の家廉左衛門尉からの命令を、2日後には京都から塩飽代官の安富左衛門尉に宛てて出しています。仁尾が香西氏の浦代官に管理されていたように、塩飽は安富氏によって管理されていたことが分かります。
この 命令系統を整理しておきましょう
①塩飽衆が兵庫北関へ入港せず、関税を納めずに通行を繰り返すことに関して管領細川氏に善処依。これを受けて12月8日 守護細川氏の奉行人家廉から安富新兵衛尉元家(京都在京)へ通達
②それを受けて12月10日安富新兵衛尉元家(京都在京)から塩飽代官の安富左衛門尉へ
③塩飽代官の安富左衛門尉から塩飽島中へ通達指導へ

文安二年(1445)に宇多津・塩飽の管理は、安富氏に任されたことを見ました。それから約30年経っても、塩飽も安富氏の管理下に置かれていたようです。南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということについては、疑いの目で見なければならなくなります。時期を限定しても15世紀後半には、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。
それでは、安富氏は塩飽を「支配」できていたのでしょうか?
細川氏は塩飽船に対して「兵庫北関に入港して、税を納めよ」と、代官安富氏を通じて何回も通達しています。しかし、それを塩飽衆は守りません。守られないからまた通達が出されるという繰り返しです。
 塩飽船は、山城人山崎離宮八幡宮の胡麻(山崎胡麻)を早くから輸送していました。そのために、胡麻については関銭免除の特権を持っていたようです。しかし、これは胡麻という輸送積載品にだけ与えられた特権です。自分で勝手に拡大解釈して、塩飽船には全てに特権が与えられたと主張していた気配があります。それが認められないのに、塩飽船は兵庫関に入港せず、関税も納めないような行動をしています。
 翌年の文明6年には、塩飽船の兵庫関勘過についての幕府奉書が興福寺にも伝えられ、同じような達しが兵庫・堺港にも出されています。その4年後の文明10年(1478)の『多聞院日記』には「近年関料有名無実」とあります。塩飽船は山崎胡麻輸送の特権を盾にして、関税を納めずに兵庫北関の素通りを繰り返していたことが分かります。
 ついに興福寺は、塩飽船の過書停止を図ろうとして実力行使に出ます。
興福寺唐院の藤春房は、安富氏の足軽を使って塩飽の薪船10艘を奪います。これに対し、塩飽の雑掌道光源左衛門は過書であるとして、塩飽の人々を率いて細川氏へ訴えでます。興福寺は藤春房を上洛させて訴えます。結果は、細川氏は興福寺を勝訴とし、塩飽船は過書停止となります。この旨の奉書が塩飽代官の安富新兵衛尉へ届けられ、塩飽船の統制が計られていきます。
 細川政元の死後になると、周防の大内氏が勢力を伸ばします。
永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権掌握を図り、三島村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。この間の安富氏を通じた細川氏の塩飽支配についてもう少し詳しく見ておきましょう。
香西氏の仁尾浦に対する支配と、安富氏の塩飽支配を比較してみましょう。
①細川氏は仁尾浦に対して、海上警備や用船提供などの役務を義務づける代償に、上賀茂神社から課せられていた役務を停止した。
②そして仁尾浦を「細川ー香西」船団の一部に組織化しようとした
③仁尾町場の「検地」を行い、課税強制を行おうとした。
④これに対して仁尾浦の「神人」たちは逃散などの抵抗で対抗し、仁尾浦の自立を守ろうとした。
以上の仁尾浦への対応と比較すると、塩飽には直接的に安富氏との権利闘争がうかがえるような史料はありません。安富氏が塩飽を「支配」していたかも疑問になるほど、安富氏の影が薄いのです。「南海通記」には、塩飽に関して安富氏の記述がないのも納得できます。先ほど見た「関所無視の無税通行」の件でも、代官の度重なる通達を塩飽は無視しています。無視できる立場に、塩飽衆はいたということになります。安富氏が塩飽を「支配」していたとは云えないような気もします。
永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  就今度忠節、讃岐国料所塩飽島代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申す候、謹言、
高国(花押)
卯月十三日
意訳変換しておくと
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で、海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。高国政権下では御料所となり、政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったようです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここからは、16世紀に入ると、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させこと、その拠点となる塩飽は、大内氏に渡り、村上氏にその代官職が与えられたことが分かります。
 そして村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえ、塩飽を通過する船舶から「津公事」(港で徴収する税)を徴収するなど、その支配を強化させていきます。東讃岐守護代の安富氏による塩飽「管理」体制は15世紀半ばから16世紀初頭までの約60年間だったが、影が薄いとしておきます。つまり、細川氏の備讃瀬戸防衛構想のために、宇多津と塩飽の管理権を与えられた安富氏は、充分にその任を果たすことが出来なかったようです。塩飽は、能島村上氏の支配下に移ったことになります。

次に、安富氏の宇多津支配を見ておきましょう。
  享禄2(1526)年正月に、宇多津法花堂(本妙寺)にだされた書下です。
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
意訳変換しておくと
宇多津法華堂を中心とする本妙寺に対して諸課役令の免除を認める。柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
花押がある元保は、安富の讃岐守護代です。この書状からは、16世紀前半の享禄年間までは、宇多津は安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽の代官職は失っても、宇多津の管理権は握っていたようです。
天文10年(1541)の篠原盛家書状には、次のように記されています。
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富古筑後守折昏、拙者共津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
天文十年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
意訳変換しておくと
本港(宇多津)本妙寺について、惣別諸保役やその他の寺中宿などの賦役について、従来の安富氏が保証してきた権利について、拙者も引き続き遵守することを保証する。   恐々謹言
天文十(1541)年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
夫役免除などを許された本妙寺は、日隆によって開かれた日蓮宗の寺院です。尼崎や兵庫・京都本能寺を拠点とする日隆の信者たちの中には、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭なども数多くいたことは以前にお話ししました。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を支援したようです。
 例えば岡山・牛窓の本蓮寺の建立に大きな役割を果たした石原遷幸は「土豪型船持層」で、船を持ち運輸と交易に関係した人物です。石原氏の一族が自分の持舟に乗り、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくという筋書きが考えられます。このように日隆が布教活動を行い、新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆との間には何らかのつながりのあったことが見えてきます。
 宇多津の本妙寺の信徒も兵庫や尼崎の問丸と結んで、活発な交易活動を行い富を蓄積していたことがうかがえます。その経済基盤を背景に本妙寺は発展し、伽藍を整えていったのでしょう。ある意味、本妙寺は畿内を結ぶパイプの宇多津側の拠点として機能していた気配があります。
 だからこそ、安富氏は経済的な支援の代償に本妙寺に「夫役免除」の特権を与えているのです。安富氏に代わった阿波三好家の重臣篠原氏も引き続いての遵守する保証を与えています。ここからは、1541年の段階で、篠原氏が字多津を支配したこと、本妙寺が宇多津の海上交易管理センターの役割を果たしていたことが分かります。つまり安富氏の宇多津支配は、この時には終わっているのです。
 またこの文書からは、安富氏も篠原氏も直接に宇多津を支配していたのではないことがうかがえます。
これは三好長慶の尼崎・兵庫・堺との関係とよく似ています。長慶は日隆の日蓮宗寺院を通じての港「支配」を目指していたようです。篠原長房も本妙寺や西光寺を通じて、宇多津港の管理を考えていたようです。
 戦国期になると守護細川氏や守護代の安富氏の勢力が弱体化し、阿波三好氏が讃岐に勢力を伸ばしてきます。そうした中で、安富氏の宇多津支配は終わったことを押さえておきます。
 浄土真宗が「渡り」と呼ばれる水運集団を取り込み、瀬戸内海の港にも真宗道場が姿を現すようになることは以前にお話ししました。
宇多津にも大束川河口に、西光寺が建立されます。西光寺は石山本願寺戦争の際には、丸亀平野の真言宗の兵站基地として戦略物資の集積・積み出し港として機能しています。ここにも「海の民」を信者として組織した宗教集団の姿が見えてきます。その積み出しを、篠原長房が妨害した気配はないようです。宇多津には自由な港湾活動が保証されていたことがうかがえます。
 以前に、細川氏から仁尾の浦代官を任じられた香西氏が町場への課税を行おうとして仁尾住民から逃散という抵抗運動を受けて住民が激減して、失敗に終わったことを紹介しました。当時の堺のように、仁尾でも「神人」を中心とする自治的な港湾運営が行われていたことがうかがえます。だとすると、塩飽衆の「自治力」はさらに強かったことが推測できます。そのような中で、代官となった安富氏にすれば、塩飽「支配」などは手に余るものであったのかもしれません。その後にやって来た能島村上衆の方が手強かった可能性があります。

以上をまとめておくと
①管領細川氏は、備讃瀬戸の制海権確保のために備中児島・塩飽・宇多津に戦略的な拠点を置いた。
②宇多津・塩飽の管理権を任されたのが東讃守護代の安富氏であった。
③しかし、安富氏は在京することが多く在地支配が充分に行えず、宇多津や塩飽の「支配」も充分に行えなかった
④その間に、塩飽衆や宇多津の海運従事者たちは畿内の問丸と結び活発な海上運輸活動を行った。
⑤その模様が兵庫北関入船納帳の宇多津船や塩飽船の活動からうかがえる。
⑥細川氏の備讃瀬戸戦略は失敗し、大友氏の進出を許すことになり、塩飽代官には能島村上氏が就くことになる。
⑦守護細川氏の弱体化に伴い、下克上で力を伸ばした阿波三好が東讃に進出し、さらにその家臣の篠原長房の管理下に宇多津は置かれるようになる。
⑧しかし、支配者は変わっても宇多津・塩飽・仁尾などの港は、「自治権」が強く、これらの武将の直接的な支配下にはいることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界 
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仁尾の賀茂神社

仁尾の賀茂神社は、応徳元(1084)年に山城国賀茂大明神(上賀茂神社)を蔦島に勧進したのが始まりとされます。
魚介類を納める御厨を設置して、蔦島やその沿岸海域を舞台として、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として組織します。彼らに「御厨供祭人者、莫附要所令居住之間、所被免本所役也」という特権を与え、賀茂神社周辺を「櫓棹通路浜、可為当社供祭所」などを認めて、魚介類・海産物などを贅として進上することを義務づけます。こうして、賀茂社に奉仕する神人(じにん)を中心に浦が形成されていきます。神人たちは、魚介類を捕るだけでなく、輸送にも従事しました。畿内との交易活動も活発化に行い、さまざまな特権を有するようになります。仁尾浦は、讃岐・伊予・備中を結ぶ燧灘における海上交易の拠点港へと成長します。ここで押さえておきたいのは、仁尾浦が賀茂神社に奉仕する神人々を中核として形成された浦であることです。
延文3(1358)年の詫間荘領家某寄進状に「詫間御荘仁尾浦」とあるのが仁尾浦の初見のようです。
仁尾 初見史料
仁尾賀茂神社文書の詫間荘領家某免田寄進状延文3年(1358)
この文書は詫間荘の領家が仁尾浦の鴨大明神に免田を寄進したもので、「仁尾浦」が見えます。ここからは、14世紀中頃には仁尾浦が姿を見せていたことが分かります。

賀茂神社の別当寺とされる覚城院に残る『覚城院惣末寺古記』の永享二(1430)の項には、この寺の末寺として23ケ寺の名が記されています。末寺以外の寺も建ち並んでいたでしょうから、多くの寺が仁尾には密集していたことがうかがえます。これらの寺社を建築する番匠や仏師、鍛冶などの職人も当地または近隣に存在し、さらに僧侶や神官、神社に雑役を奉仕する神人なども生活していたはずです。
 嘉吉11年(1442)の賀茂神社の文書には、
「地下家数今は現して五六百計」

とあり、仁尾浦に、500~600の家数があったことがわかります。とすれば、この港町の人口は、数千人規模に上ると考えられます。宇多津と同じような街並みが見えてきます。
仁尾 中世復元図
中世の仁尾浦
 管領細川氏は、仁尾浦の戦略的意味を理解して、代官を設置し軍事上の要衝地としていきます。
それまではの仁尾浦は、讃岐西方守護代の香川氏によって兵船徴発が行われていたようです。ところが応永22年(1415)の細川満元書下写には、次のように記されています。
讃岐国仁尾供祭人等申、今度社家之課役事、致催促之処、無先規之由、以神判申之間、所停止也、此上者向後於海上諸役者、可抽忠節之状如件、
応永廿二年十月廿二日    御判
意訳変換しておくと
 讃岐国仁尾の供祭人(神人)から、われわれ社家への課役については「無先規」で先例のないことだとの申し入れを受けた。これに対して、改めて神判をもって、これを停止した上で、今後の海上諸役については、忠節をはげむことを命じる。
 
ここから次のようなことが分かります。
①従来は、仁尾浦が賀茂社領であって、供祭人(神人)として掌握されてきたこと。
②今後は上賀茂神社の諜役を停止し、細川氏の名の下に海上諸役を行うこと
つまり仁尾は、上賀茂神社の諸役を停止し、細川氏の直接支配下に置かれて、海上警固などのあらたな義務を負わされたのです。

 こうして仁尾には、具体的に次のような役割を果たしていたことが史料から分かります。
応永27(1420)年 朝鮮回礼使宋希憬が帰国の際に、その護送兵船の徴発
永享6(1434)年  遣明船帰国の時に、燧灘を航行する船の警護のためら警護船を徴発
 仁尾浦の人々は商船活動を行うだけでなく、細川氏の兵船御用を努めたり警護船提供の活動を求められるようになります。
 こういう文脈上で、応永27年(1430)の次の資料を見ていくことにします。
御料所時御判
兵船及度々致忠節之条、尤以神妙也、甲乙大帯当浦神人等於致狼籍者、可処罪科之状如件。
     応永廿七年十月十七日  御判
仁尾浦供祭人中
意訳変換しておくと
度々の兵船など幾度の忠節について、まことに神妙である。甲乙人帯で仁尾浦の神人たちに狼藉を働く輩は、罪科に処す、御判
応永甘七年十月十七日
仁尾浦供祭人中
ここには「兵船及度々致忠節」とあるように、仁尾浦が「海上諸役=兵船負担」を細川氏に対して度々行っていること。それに応えて、神人に狼藉をなすものに対しては、細川氏が処罰することが宣言されています。15世紀前半において、仁尾浦が東伊予から今治までの燧灘エリアで、細川氏の拠点港湾として機能していたことがうかがえます。それに応えて、細川氏は仁尾の船を保護すると宣言しているのです。
 これは「兵船提供」を行う仁尾浦に対して、細川氏が仁尾の安全保障を約束した文書でもあります。
ここには、仁尾浦が守護細川氏の「水軍」として編成されていく様子がうかがえます。別の視点で見ると、細川氏の「兵船提供」要請に「忠節」を尽くすことで、瀬戸内海や畿内での安全航海の権利を勝ちとる成果をあげているとも云えます。これを上賀茂神社の立場から見ると、「自分から細川氏に仁尾は乗り換えた」とも写ったかもしれません。ここでは、「仁尾供祭人」は、細川氏の権力をバックにして、それまでの上賀茂神社の課役の一部から逃れるとともに、賀茂社と守護細川氏の間に立って、自らの利権の拡大と自立性を高めていったことを押さえておきます。
仁尾 中世復元図2
中世の仁尾

細川氏はどのような方法で仁尾浦を支配しようとしたのでしょうか?
嘉吉元年(1441)十月の「仁尾賀茂神社文書」には、次のように記されています。
「讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去」

  ここからは、仁尾浦にはこれ以前から浦代官として香西豊前が任じられていたことが分かります。先ほど見た朝鮮回礼使の護送船団編成の際にも仁尾は、浦代官である香西氏から用船を命じられていたのかもしれません。香西氏は代官として、「兵船徴発、兵糧銭催促、一国平均役催促、代官の親父逝去にともなう徳役催促」などを行っています。
そのような中で仁尾浦を大きく揺るがす事件が起きます。

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嘉吉元年(1441)六月、将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱です。この乱に際して、守護代香川修理亮から兵船徴発の催促が仁尾に下されます。しかし、浦代官の香西豊前は、これを認めません。

もともとは、西讃岐は守護代香川氏による支配が行われてきました。守護代の香川氏の権限による軍役賦課がおこなわれていたはずです。そこへ、「仁尾浦は港であり守護料所である」ということで、浦代官が設置され、守護細川氏に代官として任命された香西豊前がやってきたようです。これが香川氏と香西氏の二重支配体制の出現背景のようです。この経過からは、守護細川氏は、香川氏の持つ守護代権限よりも、自分が派遣した浦代官の権利権の方が強かったと判断していたことがうかがえます。どちらにしても仁尾浦には、次の2つの指揮系統があったことを押さえておきます。
① 香川氏の守護代権限
② 香西氏の浦代官の権利
しかし、②の浦代官としてやって来た香西氏の一族とは、うまく行かなかったようです。
その時の様子を伝える史料が「仁尾浦神人等言上案」です。言上状とは、下の者が上級者へもの申すために出された書状です。
ここでは、下級者は仁尾浦の神人たちで、上級者は守護細川氏になります。仁尾浦の神人たちが、香西氏の不法を守護細川氏に訴えている内容です。
仁尾の神人たちの訴えを見ておきましょう。
 上洛のために兵船を出すように守護代香川修理亮から督促があったので船2艘を仕立てた。ところが浦代官香西豊前から僻事であると申し懸けられ船頭と船は拘引された。これ以前に、香西方への兵船のことは御用に任せて指示があるから待つようにと、香西五郎左衛門から文書で通知があったので船を仕立てずに待っていた。しかし今になって礼明・罪科を問われるのは心外である。船頭は追放され帰国したが、父子ともに逐電し、その親類は浦へ留めおかれた。
 一方、香西方に留めおかれた船のことについて何度も人を遣わして警戒しているところに、再度船を仕立てて早急に上洛せよとの命が下されたので、上下五〇余人が船二朧で罷上り在京して嘆願したが是非の返事には及ばなかった。今は申しつく人もなく、ただ隠忍している有様である。
 守護代と浦代官との相異なる命令に、浦住民が翻弄されていることを以下のように訴えています。
守護代である香川氏の命で船を仕立てるに40貫かかったこと。
この金額は住民には巨額で、捻出に苦労したしたこと。
このような中で、浦住民は浦代官香西氏の改易要求の訴えを起こして、逃散という手段にでたこと。そのため500~600軒あった家がわずか20軒ばかりになったこと
この細川氏への訴えは、ある程度受け入れらたようで、住民は帰ってきます。ところが香西氏は、今度は住民の同意のないまま田畑への課役を強行します。
   香西豊前方、於地下条々被致不儀候之条、依難堪忍仕令逃散者也、(中略)

彷今度可被止豊前方之綺之由、呑被成御奉書之間、神人等悉還住仕、去九月十五日当社之御祭礼神人等可取成申之処、香西方押而被取行同所陸分内検候事、已違背御奉書之条、無勿体次第也、彼在所者浜陸為一同事、先年落居了、其時申状右備、(下略)

ここからは次のようなことが分かります。
①9月15日の仁尾賀茂社の祭礼の用意をしていると、「今度可被止豊前方之綺」との細川氏の裁定が出たにもかかわらず、香西氏が「陸分内検」を強行したこと。
②これに対して仁尾浦神人は「陸一同たることは先年決着していて、奉書に違背するものである」とと主張して、浦代官・香西豊前氏の更迭を再度要求たこと
ここから推測されることは、従来から仁尾浦の陸部は浜とみなされ、そこに田畑があっても、その地への課役は免除されていたようです。それに対し、香西氏は陸上部の旧畠を検地して、賦課しようとしたのでしょう。
 ここで研究者が注目するのは、神人たちが自分たちの存在基盤の「浜分」を、「陸分」と「一同」と主張していることです。
この論理で、香西氏の「陸分」支配を排除し、「浜分」の延長領域として確保しようとしていることです。これは、かつて供祭人(神人)たちが、蔦島対岸の詫間荘仁尾村の海浜部を、「内海津多島供祭所」の一部として組み込んでいったやり方と同じです。 これを研究者は次のように述べます。

それは土地に対する「属人主義の論理」であり、その具体的表現である「浜陸為一同」という主張が、詫間荘仁尾村の中から仁尾浦を分立・拡大させる原動力となっていたのである。そのことからすれば、香西氏による「陸分内検」は、仁尾村を詫間荘の一部として把握しようとする属地主義の論理に基づく動きであり、当初から内海御厨の神人たちとの間に不可避的に内包された矛盾であった。


浦代官と神人の対立が、嘉吉の乱という戦況下で突発的に起こったものなのか、それとも指揮系統の混乱であったのかはよくわかりません。ただ、香西豊前は浦代官として、仁尾浦から香川氏の権限を排除し、浦代官による一元的な支配体制を実現しようとしたようです。
 これは、前々回に見た守護細川氏によって宇多津港の管理権が、香川氏から安富氏に移されたこととも相通ずる関係がありそうです。その背景にあるのは、次のような戦略的なねらいがあったと研究者は考えているようです。
①備讃瀬戸の制海権を強化するために、宇多津・塩飽を安富氏の直接管理下へ
②燧灘の制海権強化のために仁尾浦を香西氏の直接支配下へ
③讃岐に留まり在地支配を強化する守護代香川氏への牽制
仁尾 金毘羅参拝名所図会
仁尾 金毘羅参詣名所図絵
以上をまとめておくと
①仁尾浦は、京都上賀茂神社の御厨として成立した。
②上賀茂神社は、漁労・製塩や海運等に従事する海民たちを「供祭人(神人)」として掌握し、特権を与えながら貢納の義務を負わせた。
④14世紀には仁尾浦が姿を現し、燧灘エリアの重要港としての役割を果たすようになった。
⑤管領細川氏は、瀬戸内海の分国支配のために備中・讃岐・伊予の拠点港である仁尾浦を重視し、ここに「水軍拠点」を置いた。
⑥そのために、浦代官として任じられたのが香西一族であった。
⑦しかし、浦代官の権限と強化しようとする香西氏と、自立性と高めようとしていた仁尾神人との対立は深まった。
⑧管領細川氏の弱体化と供に、備讃瀬戸の権益も大内氏に移り、香西氏は後退していく。
⑨西讃地方では、天霧城を拠点とする香川氏が戦国大名化の道を歩み始め、三野平野から仁尾へとその勢力をのばしてくることになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開
            中世讃岐と瀬戸内世界 所収
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古代三野湾1
                
三豊市の古三野湾をとりまく古代史については、以前にお話ししました。改めて確認しておくと
①三野津湾が袋のような形で大きく入り込み、現在の本門寺付近から北は海だった。
②三野津湾の一番奥に宗岡瓦窯は位置し、舟で藤原京に向けて製品は積み出された。
③三野津湾に流れ込む高瀬川下流域は低地で、農耕定住には不向きであった
④そのため集落は、三野津湾奥の丘陵地帯に集中している。
⑤集落の背後の山には窯跡群が数多く残されている。
⑥南海道が大日峠を越えて「六の坪」と妙音寺を結ぶラインで一直線に通された
⑦南海道に直角に交わる形で、財田川沿いに苅田郡との郡郷が引かれた。
⑧郡境と南海道を基準ラインとして条里制が施行されたが、その範囲は限定的であった。
以上のように古代三野郡は、古墳時代の後期まで古墳も作られません。そして、最後まで前方後円墳も登場しない「開発途上エリア」でした。
今回は中世の三野湾について見ていこうと思います。
三野という地名の由来は、古代律令制下の郡名からきているようです。古代の讃岐国には11の郡がありましたが、その内の一つが三野郡です。三野郡は
勝間・高瀬・熊岡・大野・高野・本山・詫間の七郷

からなっていました。現在の三豊市のエリアとほぼ重なることになります。三野湾をとりまく旧三野町は、昭和三十(1955)年に大見・下高瀬・吉津の三つの旧村が合併してできた町でした。大見・下高瀬地区は、高瀬郷、吉津地区は詫間郷に属していたようです。つまり、古代の三野郡と戦後にできた三野町とはまったくエリアが異なることを初めに確認しておきましょう。その上で、旧三野町の大見・下高瀬・吉津の地域を見ていきましょう。
下高瀬は、高瀬郷が二つに分けられた片方です。
鎌倉時代末期の元徳三(1331)年の史料(秋山家文書)に、
「さぬきのくにたかせのかうの事、いよたいとうよりしもはんぶんおは、まこ次郎泰忠ゆつるへし」
漢字に置き換えると
讃岐国高瀬郷の事、伊予大道より   下半分をば   孫次郎泰忠に譲るべし

となります。高瀬郷を支配していた秋山家の当主・源誓が、息子の孫次郎泰忠へ地頭職を譲る際に作成した文書です。ここからは、次のような事が分かります。
①伊予大道が高瀬郷を貫いていた
②「伊予大道より下半分」の所領が孫次郎に譲られた
これで伊予大道を境にして、高瀬郷が上下に区分されたことになります。つまり上高瀬・下高瀬が生まれたようです。上下のつく地名は、各地にありますが、街道や河川を境に分けられた地名のようです。上高瀬は高瀬町、下高瀬は三野町に属していますが、高瀬と名がつけばどちらも高瀬町だと思ってしまいます。

 次に大見地区です。
この地区は、中世には高瀬郷に含まれていました。そのため中世の下高瀬というのは大見地区も含んでいたようです。
 秋山家の源誓が、息子の孫である泰忠に譲った所領は、大半が三野町域にあったようです。例えば、
「すなんしみやう(収納使名)」
「くもん(公文)」
「たんところみやう(田所名)」
は、大見地区に見る砂押・九免明・田所が比定できます。
 最後に吉津地区です。
詫間町の浪打八幡宮の年中行事番を示した南北朝期の史料(宝寿院文書)に、「吉津」の地名が見えます。吉津は、詫間とや比地と同じグループで、詫間郷に属していたようです。
以上から中世と現在の行政地域とは、まったく異なることが分かります。行政区域は、人為的に後世に引き直されることが多々あります。丸亀藩と高松藩の「国境」などもその例かもしれません。人間が勝手に行政区域を設定しても人や物の移動は、地域を越えて行われます。行政単位で見ていると、見落とす事の方が多くなります。

平安時代末の西行の『山家集』には、讃岐を訪れた際のことを次のように記しています。
さぬきの国にまかりてみのつ(三野津)と申す津につきて、月の明かくて ひびの手の通わぬほに遠く見えわたりけるに、水鳥のひびの手につきて飛び渡りけるを

ここからは西行が「みのつと申す津」に上陸したこと分かると同時に、三野に港があったことも分かります。

中世三野湾 復元地図
太実線が中世の海岸線 青字が海岸関係地名 赤字が中世関連地名 
三野町の中世文書より

吉津には「津の前」という地名が残ります。これは港湾施設に関係する地名と研究者は考えているようです。また「東浜・西浜」もあります。これは、この地域が砂浜であったことがうかがえます。津ノ前から東浜・西浜を結ぶラインが、海岸線であったようです。中世の三野津湾の海岸線を示したのが上図ですが、大きく南の方へ湾が入り組んでいたことが分かります。その奥まったところに港が建設されたようです。ここから宗吉瓦窯で焼かれた瓦も藤原京に向けて積み出されていたと研究者は考えているようです。

古代三野湾2 宗吉瓦窯積み出し

私は、津嶋神社のある津嶋に古代の港があったのではないかと思っていたのですが、「津の島」は津(港)に入るための目印の島と研究者は考えているようです。
  
讃岐では古くから塩が作られてきました。讃岐の生産地を見てみると。
①九条家領であった庄内半島の三崎荘
②阿野郡林田郷の潮入新田が開発され塩浜造成
③石清水八幡宮の神事に用いる塩が小豆島肥土荘で生産
④塩飽でも盆供に用いる塩が生産され、年貢として貢納
三野湾でも中世には塩田があったことが史料に見えます。
 秋山泰忠の置文(秋山家文書)の中に、次のように塩田が登場します。
「ははの一こはしんはまのねんく又しをのち志をはしんたいたるへし」
漢字に変換すると
「母の一期は新浜の年貢、又塩の地子をば進退たるへし)」

と、母の供養には、新浜の年貢や、塩の売上金を充てなさいと、指示しています。ここからは秋山氏が「新浜」に塩田を持っていたことがうかがえます。塩の売買という農業収入以外のサイドビジネスを持っていたことは、秋山氏の経済基盤強化には大いに役立ったことでしょう。また、塩の輸送を通じて、瀬戸内海交易への参入も考えられます。
しかし「しんはま」が、どこにあったのかは分かりません。新しい塩浜という意味で、それ以外の海浜ではもっと早くから製塩が行われていたのかもしれません。それが先ほど見た「東浜・西浜」なのかもしれません。
 塩浜があったとすれば、塩作りには燃料となる材木が必要になります。この材木を供給する山を塩木山と呼び、塩浜の近くに確保されていました。東浜・西浜の付近で材本を提供できる山を探してみると、吉津の北に「汐(塩)木山」があります。この山が製塩に使用する材木を供給した塩木山であったと研究者は考えているようです。
 三野湾周辺は、古代後半には開発が急速に進み、宗吉窯や製塩の操業のために燃料となる木材が周辺の山々から切り出されます。禿げ山化した山からは大量の土砂が三野湾に流れ込むようになります。それが急速に三野湾に堆積していったことは以前にお話ししました。古代に環境破壊問題が三野湾には起きていたのです。
もう一度、中世地形を復元しながら三野湾周辺の地名を見てみましょう。
大見地区は砂押・九免明・田所といった地名がありました。これらはいずれも農村から税を徴収する機構や年貢請負人の役職名に由来する地名です。弥谷山系と貴峰山とに挟まれた谷筋を水源として早くから田畑が開かれていたようです。中世では、農地を切り開くにはまず水の確保が必要でした。山間部で、不便と思われる谷筋ですが、湧き水などを確保しやすいので、大きな労働力が組織できない中世では「開発適地」だったようです。谷筋を水源とし、そこから引いた水で山裾の田畑を潤すという灌漑方法です。秋山氏が所領として、開発していったのは大見地区と研究者は考えているようです。大見地区が先進地域でです。
ところで、この水田では、どんな米が作られていたのでしょうか? 
 永和二(1376)年の日高譲状(秋山家文書)の中に、次のように生産米が記されています。
「たうしほふつかつくり候た、にんかうかちきやうせしかとも、ちふんやふれてもたす」
漢字変換すると
「唐師穂仏禾作り候田、日高か知行せしかとも、地文破れて持たす」
とあります。
「唐師穂を作っていたが、日高(秋山泰忠)が所有していたが、土地が崩壊して栽培出来なくなった」
というのです。
唐師穂とはインディカ種赤米のことで「大唐米・とうほし(唐法師)・たいまい」などと呼ばれていたようです。この赤米は旱魃に強く、地味が悪くても育つので、条件の悪い水田で古代から栽培されていました。
赤米

十五世紀中頃の『兵庫北関入船納帳』にも、讃岐船が大量の赤米を輸送していた事が記録されています。赤米は、干害に苦しむ讃岐の「特産物」となっていたようです。この赤米が日高(秋山泰忠)の所有する土地で作られていたことが分かります。耕作地は、「すなんじき(収納使職)」で、すなわち砂押地域のことです。この赤米耕作地が「ちぶんやぶれ」(土地の状態が変化し)たため耕作できなくなったというのです。その理由は分かりませんが、自然災害かもしれません。

今までの情報をまとめて、もう一度、下高瀬地区を見てみましょう。
中世三野湾 下高瀬復元地図

下高瀬は、現在はその真ん中を高瀬川が流れています。しかし、古代・中世は西浜・東浜まで三野湾が入り込んできていたことを先ほど見てきました。現在の本門寺の裏あたりまでは海でした。三野中学校は、海の中だったのです。高瀬川周辺は、塩田・瓦窯の操業に伴う木材伐採で、洪水による氾濫が多発化し、田畑は度々流失したようです。葛の山より北の河口部分は、デルタ地帯で、荒地が多かったと研究者は考えているようです。下高瀬地区が現在のように水田化されるのは、江戸時代になって千拓と灌漑設備が整備された後のことになります。
 高瀬川の河口には塩浜が形成され、製塩業者がいました。また本門寺の創建以降は、その門前には寺に関わる職人や商人が門前町を形成します。大見という地名は、史料上では南北朝期から見えます。ここは、先ほど見たように下高瀬地区に含まれていました。大見村が形成されていくのは近世になってからです。

吉津地区にも「津の前」という地名が示す通り海岸線が入りこんできて、当時は水田はほとんどありません。
中世三野湾 吉津復元地図

七宝山の麓に畑地が形成されただけで、水田は未形成だったと考えられます。ただ、港があったことから海に関わる仕事に従事する人たちがいたようです。「兵庫北関入船納帳』では、仁尾から多量の赤米が輸送されています。三野地域で生産された赤米が七宝山を越えて仁尾まで運搬して積み出したと考えるより、吉津の港へ仁尾輸送船がやってきて、そこで赤米を積み込んで輸送したと考える方が合理的です。仁尾湊の輸送船は、三野地区を後背地にしていたと考えられます。

 大見・下高瀬・吉津の三地区の中で、農業生産力が最も高かったのは大見地区でしょう。しかし、ここでも赤米栽培が行われています。大見以上に劣悪な土地であった高瀬川河田部分や吉津の畑地では、当然赤米が作られていたと研究者は考えているようです。

以上をまとめておくと
①古代・中世の三野湾は南に大きく入り込んで本門寺の裏が海であった。
②大見地区は秋山氏が西遷御家人としてやってきて開発が行われた
③大見地区の新浜では、秋山氏が塩田を経営していた
④伊予大道を境に、高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分けられた
⑤下高瀬には秋山氏の氏寺である本門寺が建立され、門前町も形成され地域の中核となった
⑥吉津は目の前まで海で、中世には水田はほとんどなく畑作地帯であった。
  おつきあいいただき、ありがとうございました。

橋詰茂     中世三野町域の歴史的景観と変遷   三野町の中世文書所収

史料に出てくる讃岐最初の海賊は?
 瀬戸内海は古代から「海のハイウエー」として機能してきました。そこには海賊が早くから出没したようです。海賊は、平安時代初期の史料には見え、末期になると活発化します。鎌倉幕府成立後、西国に基盤を持たない源氏政権を、見透かすかのように活発な活動を展開します。幕府は度々追捕命令を出して、召し捕るように命じています。
 寛元四年(1246)三月、讃岐国の御家人・藤左衛門尉は海賊を捕らえ、六波羅探題へ護送しています。これが讃岐周辺で最初の「海賊討伐」史料のようです。しかし、この海賊がどこを拠点としていたかは分かりません。そのような中で、讃岐の海賊衆の活動がうかがえるのが次の史料です。
   僧承誉謹中
    当寺御領伊予国弓削島所務職間事
    (中略)
 去正和年中讃岐国悪党井上五郎左衛門尉・大蔵房井浅海治郎左衛門尉以下凶賊等、率数百騎大勢、打入当島、致悪行狼籍之時者、承誉以自兵糧米、相具数百人之勢、捨身命、
致合戦、討退彼悪党等、随分致忠節早
    (後略)
意訳すると
鎌倉時代の正和年間(1312年から1317年)に讃岐の悪党・井上五郎左衛門尉と大蔵房井浅海治郎左衛門尉以下の賊党が数百騎を率いて、伊予の弓削島を襲い悪行狼籍を働いた。承誉は、数百勢を率いて防戦し、命を捨てて戦い悪党どもを打ち払った。忠節な輩である。

讃岐の悪党が塩の荘園として有名な東寺の弓削荘を襲っている記録です。ここに出てくる「悪党」は海賊衆でしょう。讃岐から芸予諸島に出向くには、燧灘を越えていかなければなりません。船が必要です。悪党=海賊と考えられます。ここには、讃岐の海賊衆の姿があります。
それから約140年後にも讃岐の海賊は、弓削荘への略奪・押領を行っています。その主役である山路氏のことについて、以前お話ししました。山路氏のその後の歩みについて、今回は見ていきます。

弓削荘の寛正三年(1462)の史料にも山路氏は登場します。
  (紙背)
  弓削島押領人事  公家奉公 小早川小泉方  
  海賊 能島方 山路
  此三人押領也、此三人内小泉専押領也、以永専口説記之
前の史料に出てきた小早川小泉・能島(村上氏)・山路がここでも登場します。小早川小泉は「公方奉公」とあります。後の小早川隆景の配下で活躍する小早川家の有力一族です。能島と山路には「海賊」の注記があります。小早川小泉は海賊でありながら細川氏の奉公衆として仕えていました。そして、能島村上氏は後の村上武吉を生み出す海賊衆です。ここでは、山路氏は能島村上氏と同列に、海賊衆として記されています。山路氏は西讃守護の香川氏の配下に入って行くことになります。その過程を追って見ようと思います。

西讃守護代の香川氏と山路氏の出会いは?
香川氏は天霧城を拠点に、後には領域支配を広げて戦国大名化していきますが、応仁の乱以前においては、あくまで守護細川氏に忠実で支配エリアも狭かったようです。そのような中で、香川氏の活動の一端がみえるのが瀬戸内海の交易活動です。
 文安二年(1445)の『兵庫北関入船納帳』では、国料船の船籍地が変更されています。
国料は寺社などの修造費のために給付された修造料国料の〈国料〉に由来するようです。転じて海の関所通行にあたって関銭免除の特権を持つ船になります。過書による船の特権が1回限りのもので、積荷の品目・数量についても関所でその都度、検査が行われたのに対して,国料船のチェックは緩やかだったようです。
 香川氏が守護代として管理する国料船の船籍は、元々は宇多津でした。それが香川氏のお膝元の多度津に移動しています。香川氏は、多度津の本台山(現桃陵公園)に居館を構え、詰城として天霧城を築いていたと云われます。
 多度郡の港は次のように変遷していきます。
①古代 弘田川河口の白方港
②中世 砂州後方に広がる入江の堀江港 
    港湾管理センターは道隆寺
③近世 桜川河口の多度津港
 香川氏は多度津に居館を築くと同時に、それまでの多度郡の港であった堀江湊から桜川河口に新たな港を開き直接的な管理下に置こうとしたと私は考えています。そして、瀬戸内海交易活動によって経済力を高めるとともに、これを基盤として西讃一帯へ力を広げていくという筋書きが描けます。
それでは、その船の管理運営にあたったのは誰なのでしょうか?
そらが白方を拠点に「海賊」活動を行っていた山路氏だと研究者は考えているようです。燧灘を隔てた芸予諸島の弓削荘への「押領」活動が出来る海上輸送能力を山路氏は持っています。新たに開かれた多度津港に出入りする船の管理・防衛を行うには山路氏は最適です。香川氏にすれば海賊衆を支配下におくことにより、瀬戸内海の海上物資輸送の安全と船舶の確保を計ろうとしたのかもしれません。これは能島村上氏と毛利氏・小早川氏の関係にも似ています。

もうひとつ山路氏の活躍する場面が考えられます。
応仁の乱後の讃岐武士団の動きを年表で見てみましょう。

1467 寛政8・26 細川勝元,西軍の将一色義直を攻め,応仁の乱はじまる
   6・24 讃岐西方守護代香川五郎次郎と東方守護代安富盛保,上洛し合戦参加
   10・3 安富元綱,相国寺合戦において西軍に討たれる
1477 文明9 11・11 応仁の乱,終わる
   1・2 香川氏,一条家領摂津国福原荘の代官をつとめるが,年貢納入を果た
       さ ぬため興福寺より催促をたびたび受ける
1487 長享1 足利義尚,六角高頼を討つため近江坂本に布陣する
     12・7 香川元景・安富元家・安富与三左衛門尉・香西五郎左衛門尉ら,細
        川政元に従い近江六角攻めに参加する(蔭涼軒日録)
1489 延徳18・12 香西・牟礼・鴨井・行吉ら,香西党としてその勢力が京都に
        おいて注目される
 1491 延徳3 香西元長・牟礼次郎・同新次郎・鴨井藤六ら,細川政元の奥州遊覧
        に随行する
   5・16 香川元景・安富元治,細川政元邸での評定に参加する
   8・- 安富元家,足利義材より近江守護代の権限を与えられる
1492 明応13・28 香西五郎左衛門尉,荘元資とともに備中守護細川勝久と戦う
       が敗れ切腹する.
この戦で, 讃岐の軍兵の大半が討死する
   9・21 安富元家,帰京し,近江より四国勢を帰国させる.
1493 明応26・18 京都の羽田源左衛門,讃岐国は13郡,西方は香川が東方は安富が統治し,
小豆島は安富が管理していることなどを蔭涼軒主に伝える

年表からは次のような事が分かります。
①応仁の乱に、香川氏・安富氏など讃岐武士団が細川方の主力として上洛参戦している
②讃岐武士団は、京都で常駐し、その勢力が注目を集める存在になっている
③しかし、1492年の備中守護細川勝久との戦いに敗れ,讃岐の軍兵の大半が討死し、讃岐武士団の栄華の時代は終わる。
 この年表を見て気がつくのは、香川氏は細川氏の招集に応じて、京都に向けて大規模な軍事行動を応仁の乱も含めて2回行っています。
 畿内への出陣には、輸送船や警護のための兵船も必要でした。それを担ったのも山路氏ではなかったのでしょうか。山路氏は、香川氏の支配下に入り、香川氏の畿内出陣への海上勢力となったと研究者は考えているようです。
 晴元が政権を掌握した後には、西讃岐の支配は香川氏によって行われるようになります。
「讃岐国は13郡あり,西方は香川が、東方は安富が統治し,小豆島は安富が管理する」

という「蔭涼軒日録」の記述にあるように、生き残った香川氏の一族は、領国支配への道を歩み出すことになります。 その香川氏の配下についたのが山路氏や高瀬の秋山氏のようです。
 なぜ、山路氏は香川氏の配下に入ったのでしょうか。
その背景には、能島村上氏による瀬戸内海の制海権掌握が考えられます。能島村上氏は、16世紀になると管理エリアを拡大し、塩飽や小豆島までも直接的な支配下に置くようになります。謂わば村上水軍による「海の平和」が一時的にせよ、もたらされたのです。この体制下では、巨大な海軍力をもつ村上氏に楯突くことはできません。弱小海賊衆は海賊行為もできないし、警固衆として通行税の徴収もできなくなります。つまり、弱小海賊衆の存在意義が失われていったのです。
そのような中で山地氏が生き残りの活路を求めたのは、戦国大名に脱皮していく香川氏です。
  山路氏は、海賊衆から陸地の武士へと転換せざるを得なかったようです。そして、香川氏の方にも海賊衆山路氏を支配下に収めることにより、新たな領主の道を歩もうとします。両者の思惑が一致します。それが讃岐の海賊衆の終焉でもあったようです。

香川氏は、細川氏の一族抗争による衰退後は、独自の領域支配を行うようになります。
それは戦国大名化していく道でした。それに応じるように山路氏は香川氏の下で、海から陸への「丘上がり」を果たしていきます。
その姿を追ってみましょう。
  次の史料に見えるのは、香川氏が長宗我部元親に下り、その先兵として東讃侵攻の務めを果たす山路氏の戦闘姿です。それは海ではなく、陸の戦いでした。「天正十一年の香川信景の感状」です。
 去廿一日於入野庄合戦、首一ッ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也
  天正十一年五月二日      
                 信景
     山地九郎左衛門殿
これは大内郡入野庄の合戦での山地九郎左衛門の働きを賞した香川信景の感状です。当時の情勢は、長宗我部元親は阿波から大窪越えをして寒川郡に入り、田面山に陣を敷きます。そして、十河勢の援軍として引田浦にいた秀吉方の仙石秀久軍を攻めます。この入野での戦いで、長宗我部勢の先兵であった香川氏の軍の中に山地氏がいて、敵方の田村志摩守の首を取ったようです。その際の感状です。
 この文書の奥付には、後世に次のように追記されています。
「右高知山地氏蔵、按元親庶子五郎次郎、為讃州香川中書信景養子、後因病帰土佐、居豊岡城西小野村、元親使中内藤左衛門・山地利薙侍之、此九郎左衛門ハ香川家旧臣也、利奄蓋九郎左衛門子乎」

とあり、意訳すると
この文書は高知の山地氏が保管していたものである。元親の次男五郎次郎が、讃岐の香川信景の養子となったが、後に病で高知に帰ってきた。岡豊城の西の小野村に居を構え、元親の家臣となった内藤左衛門・山地利薙侍は、この感状に名前のある九郎左衛門は、香川家の旧臣であり利奄蓋九郎左衛門の子のことである。
この文書からは次のような事が分かります。
①山地九郎左衛門は、香川信景の家臣として参陣している。
②山地九郎左衛門の子孫は、長宗我部元親が土佐一国に領土を削減された際に、香川氏と共に土佐に亡命し、元親の家臣となっていた
さらに研究者は、山地氏について史料的に次のように裏付けます
  『讃陽古城記』香川叢書二
一、三木池戸村(三本松)中城跡  安富端城也、
後二山地九郎右衛門居之、山地之先祖者、山地右京之進、
詫間ノ城ノ城主
ニシテ、三野・多度・豊田三郡之旗頭ノ由
一、三野郡詫間村城跡 山地右京之進、三野・多度・豊田三郡之旗頭ナリ、後香川山城守西旗頭卜成、息山地九郎左衛門、三木郡池戸村城主卜成、香川信景右三郡之旗頭卜成、生駒家臣三野四郎左衛門先祖也
意訳すると
三本松の池戸村の中城跡は、かつての安富城の枝城で、後に山地九郎右衛門が居城とした。山地氏の先祖は、山地右京之介で詫間城の城主で、三野・多度・豊田三郡の旗頭役であったという。

三野郡詫間村の城跡は、山地右京進の城で三野・多度・豊田三郡の旗頭で、後に西讃守護代の香川氏の配下になった。息子の山地九郎左衛門は三木郡池戸村の城主となり、香川信景の旗頭であった。これが生駒家の重臣三野四郎左衛門の先祖である。

ここからは三本松・中城の城主・山地九郎右衛門は、海賊衆山路氏の末裔であったことが分かります。そしてもともとは詫間に城を持っていたといいます。
 どうして、海賊衆であった山路氏が詫間城主となり、その後三木郡へと移動したのでしょうか。
『西讃府志』に、その謎を解く記述があるようです。
 詫間弾正居レリト云、古城記二ハ 甲斐国山地右京進細川氏二従テ来リ、此城二居テ多度三野豊田等ノ三郡ノ旗頭夕リ、(中略)
旧ク詫間氏ノ居ラレシコト明ナリ、山地氏ノ居リンハ、恐ラクハ此後ノコトニテ、香川氏二属テ、詫間氏ノ城ヲ守りシナドニヤ、又兎上(爺神)山ニモ詫間弾正ノ城趾アルナド思フニ弾正ノ時二至り、細川氏二此地ヲ奪レ、兎上山二移りシナルヲ、ヤガテ山地右京進二守モラシメシガ、其子九郎左衛門二至り、故アリテ池戸城二移サレツルナルベシ
西讃府志は、同時代史料ではありませんが、そこに書かれていることをまとめておきましょう
①甲斐国から細川氏に従って、讃岐になってきた山地氏は詫間城に拠点を構えた。
②しかし、もともとは詫間城は詫間弾正の居城であったものを守護・細川氏に奪われ
③詫間弾正は高瀬の兎上(爺神)山に逃れて、そこ拠点として新城を築いた
④その後に、守護代・香川氏は、山路氏を支配下に収めると、西讃支配を強化のために山路氏を詫間城に入れた
⑤白方から詫間へと山路氏は移動するが、詫間の港も併せ管理運用するようになった。
⑥詫間の南の高瀬郷は、同じ西遷御家人の秋山氏が香川氏のもとで領域を拡大しつつあった。

疑問点としては、甲斐からやって来た御家人がどのようにして「海賊」になって、弓削島まで荒らすようになるのかは分かりません。どちらにしても山地氏は、守護の細川氏と深い繋がりがあったようです。
 そして守護・細川氏が衰退していく中で、戦国大名への変身を遂げる香川氏の勢力下に山地氏も組み込まれていったようです。香川氏が領域支配の拡大をするにつれて、山路氏は海賊衆から陸地の領主へと性格を変えていきます。そのような中で長宗我部氏に配下に下った香川氏は、東讃平定の先兵の役割を担わされることになります。
 その先陣を勤めたのが山地氏です。入野合戦の戦功により、城を与えられたのが「中城」なのでしょう。『讃陽古城記』に「安富端城」とあるように、もともとは安富氏の出城でした。ここに山地氏を入れることにより、東讃攻略の拠点とします。東讃攻めのために十河氏を包囲する戦略的な要地です。香川信景は長宗我部勢の一隊として戦いに参陣しています。石田城攻めにさいしては、秋山杢進(一忠)も信景から次のような感状を受けています。
 今度石田城行之刻、別而被抽粉骨、鑓疵数ヶ所被蒙之由、誠無比類儀候、無心元存候条、為御見廻、此者差越候、能々御養生専一候、委細任口上候間、不及多筆候、恐々謹言
 中
 二月廿八日  
               信景(花押)
     秋山杢進殿
           まいる
このように、香川氏に率いられて西讃の国人たちが東讃へと参陣している姿が見えます。そして、論功行賞は、長宗我部元親ではなく香川氏が行っています。これは讃岐における軍事指揮権や支配権限を香川信景が元親からある程度任されていたのではないかと研究者は考えているようです。
それを窺わせる次のような元親の書状があります
「敵数多被討捕之由 御勝利尤珍重候、天霧へも申入候 定而可被相加御人数」
意訳すると
敵の数は多かったが撃ち捕らえることができ、勝利を手にしたのは珍重である。「天霧」へも知らせて人数を増やすように伝えた」
「天霧」とは、香川氏の居城天霧城のことでしょうか、あるいは戦場にいる香川信景自身を指しているのかもしれません。わざわざ天霧城へ連絡するのは、長宗我部氏にとって香川氏が重要な地位を占めていたことを示します。元親は次男親和(親政)を信景の養子として香川氏と婚姻関係を結んでいます。讃岐征服には、香川氏の力なくして成功しないという算段があったようで、香川氏との協力体制をとっています。そして「占領政策」として、香川氏の権限をある程度容認する方策をとったと研究者は考えているようです。
 山地氏を詫間から三木の池戸へ移したのも、香川氏の東讃攻略の一つかもしれません。入野合戦の際には、山地氏はこの池戸の城から出陣したはずです。その際の姓が「山路から山地」へと改名されています。これは単なる「誤読」ではなく、海賊衆から陸の武士への変身に合わせて改称したとも思えます。山地となることにより、香川氏の家臣団の組織に組み込まれたことを示すと同時に、山路氏の海賊衆からの「足洗い」の意思表明だったのかもしれません。
以上をまとめてみると
①讃岐白方を拠点とする山路氏は、芸予諸島の弓削荘に対して海賊行為や押領を行っていた
②山路氏は海賊であり「海の武士団」として備讃瀬戸の海上軍事力勢力であった
③その力を西讃守護代・香川氏は活用し、交易船や軍事行動の際の軍船団として使った
④能島村上氏の備讃瀬戸への勢力拡大と共に、讃岐の弱小海賊は存在意味をなくしていく。
⑤このような中で山路氏は、香川氏の配下で詫間城を得て丘上がりする
⑥さらに長宗我部元親の東讃平定時には三本松の城主として、戦略拠点の役割を果たした。
⑦長宗我部の土佐撤退時には香川氏と共に土佐に「亡命」した。
おつきあいいただき、ありがとうございました。

   橋詰 茂    讃岐海賊衆の存在     瀬戸内海地域史研究8号2000年

    
 船乗りたちにとって海は隔てるものではなく、結びつけるものでした。舟さえあれば海の上をどこにでもいくことができたのです。海によって瀬戸内海の港は結びつけられ、細かなネットワークが張り巡らされ、頻繁にモノと人が動いていたのです。中国の「南船北馬」に対して、ある研修者は「西船東馬」という言葉を提唱しています。東日本は陸地が多いから馬を利用する、西日本は瀬戸内海があるため船を利用するというのです。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg
     「兵庫北関入船納帳」にみる大量海上輸送時代の到来
 室町時代になると、商品経済が発達してきます。そこで一度に大量の荷物を運ばなければならないので海運需要は増え、舟は大型化することになります。「兵庫北関入船納帳」を見ると400石を越える舟が讃岐でも塩飽と潟元には3艘ずつあったことが分かります。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
  「北関入船納帳」には、どんなことが書かれているのか

3兵庫北関入船納帳
①入船月日
②舟の所属地
③物品名 
⑤関税額(文)と納入日時 
⑥船頭名 
⑦問丸名
の7項目が記されています
    具体的に、宇多津の舟を例に見てみましょう。 
②宇多津
③千鯛 
 甘駄・小島(塩)  ④百石  
 島(小豆島)    ④百石     
⑤一貫百文  
⑥橘五郎     
⑦法徳
   六月六日
北があれば当然南もあります。これは兵庫関所のある宇多津舟の項目です。当時は奈良春日大社の別当であった興福寺が南関所を管理していたようです。明治維新の神仏分離で、文書類は春日大社の方へ移されました。
②一番上に書いている宇多津、これが船籍地です。
港の名前ではなく船が所属している地名です。現在で船には必ず名前が付いています。その船の名前の下に地名が書かれています。その地名が船籍地です。ですから、その船に宇多津の船籍地が書かれていても、すべて宇多津の港から出入りしているわけではありません。
③その次に書かれている干鯛は、船に積んでいる荷物のことです。
備讃瀬戸は鯛の好漁場だったので干した鯛が干物として出荷されていたようです。その次の小島は「児島」です。これは、これは地名商品で、塩のことです。「島」は小豆島産の塩、芸予諸島の塩は「備後」と記されています。ちなみに讃岐船の積み荷の8割は塩です。
④次の廿駄とか百石というのは塩の数量です。
⑤その下の一貫百文、これが関税です。関料といいます。
⑥橘五郎とあるのは船頭の名前です。
⑦最後に法徳とありますが、これが問丸という荷物・物資を取り扱う業者です。六月六日と書いているのは関料を納入した月日です。
  実物の文書には、宇多津の地名の右肩に印が付けられているようです。その印が関料を収めたという印だそうです。この船は五月十九日に入港してきて、関料を納入したのは六月六日です。その時に、この印はつけれたようです。
「北関入船納帳」には、17ヶ国の船が出てきます。
そのうち船籍地(港)名は106です。入関数が多いベスト3が
①摂津②播磨③備前で、第四位が讃岐です。

国ごとの船籍地(港)の数は、播磨が21で一番多く、讃岐は第二位で、下表の17港からの船が寄港しています。
兵庫北関1

その17港の中で出入りが一番多いのが宇多津船で、一年間で47回です。一方一番少ないのが手島です。これは塩飽の手島のようです。手島にも、瀬戸内海交易を行う商船があり、問丸や船乗り達がいたということになります。

3 兵庫 
  積み荷で一番多いのは塩        全体の輸送量の八〇%は塩
塩の下に(塩)の欄があります。これは例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、塩の産地を示したものです。地名指示商品という言い方をしますが、これが塩のことです。瀬戸内海各地で塩が早くから作られていますが、その塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。「塩輸送船団」が登場していたようです。そして、塩を運ぶ舟は大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。

中世関東の和船

 通行税を払わずに通過した塩飽船
兵庫湊は関所ですから、ここより東に行く舟はすべて兵庫湊に立ち寄り、通行料を支払わなければならないことになっていました。しかし、通行料を払いたくない船頭も世の中にはいるものです。どんな手を使ったのでしょうか見てみましょう。  
 摂津国兵庫津都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく償旨 讃州塩飽嶋中へ相触らるべく候由なり、冊て執達くだんのごとし
   (文明五年)十二月八日   家兼
      安富新兵衛尉殿
 応仁の乱の最中の文明五年十二月八日付けで、家兼から安富新兵衛尉宛への書状です。家兼は室町幕府の奉行人、受取人は讃岐守護代の安富新兵衛尉です。内容は、兵庫関へちゃんと関税を払うように塩飽の島々を指導せよ内容です。この時期に税を払わず、関を通らないで直接大坂へ行った塩飽の船がいたようです。この指示を受けて、2日後の十二月十日に元家から安富左衛門尉へ出したのが次の文書です。
 〔東大寺文書〕安富元家遵行状(折紙)
 摂津国兵庫津南都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく候由、今月八日御奉書かくのごとく、すみやかに塩飽嶋中へ相触れらるべしの状くだんのごとし
 文明五年十二月十日      元家(花押)
   安富左衛門尉殿
なぜ幕府から讃岐守護代に出された命令が2日後に、塩飽代官に出せるのでしょうか。京都から讃岐まで2日で、届くのでしょうか?
それは守護細川氏が京都にいるので、守護代の安富新兵衛尉も京都にいるのです。讃岐の守護代達やその他の国の守護代達も上京して京都に事務所を置いているのです。言わば「細川氏讃岐国京都事務所」で、守護代の香川氏・安富氏などが机を並べて仕事をしている姿をイメージしてください。幕府から届けられた命令書を受けて、京都事務所で作成された指示書が塩飽の代官に出されているようです。
 室町幕府役人(家兼) → 
 讃岐守護代 (京都駐在の安富新兵衛尉)→ 
 塩飽代官  (安富左衛門尉)→
 塩飽の船頭への注意指導
 という命令系統です。同時に、この史料からは塩飽が安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽と云えば私の感覚からすると丸亀・多度津沖にあるから香川氏の支配下にあったと思っていましたが、そうではないようです。後には安富氏に代わって香西氏が、塩飽や直島を支配下に置いていく気配があります。
 話を元に戻して・・・
「入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます
国料とは、関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である十川氏と香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。それは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。
   もう一つ過書船というのがあります。
これは積んでいる荷物が定められた制限内だったら税金を免除するというしくみです。塩飽船の何隻かは、この過書船だったようです。しかし税金を支払いたくないために、ごまかして過書船に物資を積み込んで輸送します。しかし、それがばれるようです。ごまかしが見つかったからこんな文書が出されるのでしょう。「行政側から「禁止」通達が出ている史料を見たら裏返して、そういう行為が行われていたと読め」と、歴史学演習の授業で教わった記憶があります。塩飽船がたびたび過書船だと偽って、通行税を支払わないで通行していたことがうかがえます。
 次に古文書の中に出てくる讃岐の港を見ていきましょう。
 
7仁尾
中世仁尾の復元図
 まず仁尾湊です 仁尾には賀茂神社の御厨がありました。
海産物を京都の賀茂神社に奉納するための神人がここにいました。海産物を運ぶためには輸送船が必要です。そのために神人が海運業を営んでいたようです。残されている応永二十七年(1420)の讃岐守護細川満元の文書を見てみましょう。
【賀茂神社文書】細川満元書下写
兵船及び度々忠節致すの条、尤もって神妙なり、
甲乙人当浦神人など対して狼籍致す輩は、
罪科に処すべくの状くだんのごとし
  応永廿七年十月十七日
                    御判
    仁尾浦供祭人中
 「兵船及び度々忠節致すの条」とは、細川氏が用いる輸送船や警備船を仁尾の港町が度々準備してきたとのお褒め・感謝の言葉です。続いて、賀茂神社の「神人」に狼藉を行うなと、仁尾浦の人々に通達しています。これも「逆読み」すると、住民から「神人」への暴行などがあったことがうかがえます。住民と仁尾浦の管理を任されている「神人」には緊張関係があったようです。「神人」は、神社に使える人々という意味で、交易活動や船頭なども行っているのです。
 ちなみに、この文書が出された年は、宋希璋を団長とする朝鮮使節団が瀬戸内海を往復した年です。使節団員が一番怖れていたのは海賊であったと以前お話ししましたが、その警備のための舟を出すように讃岐守護の細川光元から達しが出されています。仁尾はいろいろな物資を運ぶ輸送船以外にも、警備船なども出しています。そういう意味では、細川家にとって仁尾は、備讃瀬戸における重要な「軍港」であったようです。

6宇多津2135
中世宇多津 復元図 
讃岐にやって来た足利義満を細川頼之は宇多津で迎えた
〔鹿苑院殿厳島詣記〕康応元年(1389)
ゐの時ばかりにおきの方にあたりて あし火のかげ所々に見ゆ、これなむ讃岐国うた津なりけり、御舟程なくいたりつかせた給ぬ、七日は是にとゝまらせ給、此所のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり、ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり、磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ、すこしひき人て御まし所をまうけたり、
鹿苑院殿というのは室町幕府三代将軍足利義満のことです。康応元年(1389)3月7日 将軍足利義満が宇多津に引退していた元管領の細川頼之を訪ねてやってきます。訪問の目的は、積年のギクシャクした関係を改善するためで、厳島詣を口実にやってきたようです。二人の間で会談が行われ、関係改善が約されます。その時の宇多津の様子が描かれています。
「港の形は、北に向かって海岸線に沿って人家が並び、東は尾根が北に長く伸びている。港の海沿いには古い松並木が続き、多くの寺の軒がほのかに見える。」
 当時の宇多津は、元管領でいくつもの国の守護を兼ねる細川頼之のお膝元の港町でした。
「なぎさにそひて海人の家々ならべり」と街並みが形成され、
「磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ」と、海岸沿いの松並木とその向こうにいくつもの寺の伽藍立ち並ぶ港町であったことが分かります。しかし、守護所がどこにあったかは分かっていません。義満と細川頼之の会談がどこで行われたかも分かりません。確かなことは、細川頼之が義満を迎えるのに選んだ港町が宇多津であったことです。宇多津は「北関入船納帳」では、讃岐の港で群を抜いて入港船が多い港でもありました。
 その宇多津の経済力がうかがえる史料を見てみましょう。
 〔金蔵寺文書〕金蔵寺修造要脚廻文案
 (端裏書)
「諸津へ寺修造の時の要脚引付」
当寺(金蔵寺)大破候間、修造をつかまつり候、先例のごとく拾貫文の御合力を預け候は、祝着たるべく候、恐々謹言
 先規(先例)の引付
  宇多津 十貫文
  多度津 五貫文
  堀 江 三貫文
資料③は、大嵐で金蔵寺が大破したときに、その修造費を周辺の3つの港町に求めた文書です。
 宇多津は十貫文(銭1万枚=80万円)、多度津が半分の五貫文、堀江が1/3の三貫文の寄付が先例であったようです。今でも寺社の寄付金は、懐に応じて出されるのが習いです。そうだとすれば、宇多津は多度津の倍の港湾力や経済力があったことになります。

 多度津は西讃岐の守護代香川氏の居館が現在の桃陵公園にありました。
山城は天霧城です。港は、桃陵公園の下の桜川河口とされています。西讃守護代の香川氏の港です。守護の細川氏から京都駐屯を命じられた場合には、この港から兵を載せた輸送船が出港していたのかもしれません。その時の舟を用意したのは、白方の山路氏だと私は考えています。山路氏については、前回見たように芸予諸島の弓削島荘への「押領」を荘園領主から訴えられていた文書が残っています。海賊と「海の武士」は、裏表の関係にあったことは前回お話ししました。
   もうひとつが堀江津です。聞き慣れない港名です。

3 堀江
堀江は、中世地形復元によると現在の道隆寺間際まで潟(ラグーン)が入り込んで、そこが港の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。その港の管理センターが道隆寺になります。このことについては、以前紹介しましたので省略します。ちなみに古代に那珂郡の郡港であったとされる「中津」は、港町の献金リストには登場しません。この時代には土砂の堆積で港としての機能を失っていたのかもしれません。
 宇多津の経済力が多度津の2倍だったことは分かるとして、金蔵寺の復興になぜ宇多津が応じるのでしょうか?金蔵寺と宇多津を結ぶ関係が今の私には見えてきません。

3 塩飽 tizu

    キリスト宣教師がやってきたシワクイ(塩飽)
「耶蘇会士日本通信」(永禄七年)には塩飽のことが次のように書かれています
 フオレの港(伊予の堀江)よりシワクイ(塩飽)と言ふ他の港に到りしが、船頭は止むを得ず回所に我等を留めたり。同所は堺に致る行程の半途にして、此間約六日を費せり。寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり、今日まで日本に於て経験せし寒気と比較して大いに異れるを感じたり。
 シワクイに上陸し、我等を堺に運ぶべき船なかりしが、十四レグワを距てたる他の港には必ず船があるべしと聞き、小舟を雇ひて同所に行くこととなせり。此沿岸には賊多きを以て同じ道を行く船一隻と同行せしが途中より我等と別れたり。我等は皆賊の艦隊に遭遇することあるべしと思ひ、大なる恐怖と懸念を以て進航せしが、之が為め途中厳寒を感ずること無かりしは一の幸福なりき。
我等の主は目的の地に到着するごとを嘉みし給ひ、我等は堺に行く船を待ち約十二日同所に留まれり。
フオレとは伊予の堀江、シワクイが塩飽のことです。伊予の堀江から塩飽まで六日間かかった。塩飽は堺へ行く途中の港だというように書いています。堺へ行く舟は、必ず塩飽へ立ち寄っています。これは風待ち・潮待ちをするために寄るのですが、目的地まで直行する船がない場合、乗り継ぐために塩飽で船を探すことが多かったようです。以前紹介した新見の荘から京都へ帰る東寺の荘官も倉敷から塩飽にやってきて、10日ほど滞在して堺への船に乗船しています。
宣教師達が最初に上陸した港には、堺への船の便がなく、「十四レグワを距てたる他の港には必ず船がある」と聞いて小舟で再移動しています。 レグワについて『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のようにあります
   レグアは、スペイン語・ポルトガル語圏で使われた距離の単位である。日本語ではレグワとも書く。古代のガリア人が用いたレウカ(レウガ)が元で、イギリスのリーグと同語源である。一般に、徒歩で1時間に進める距離とされる。現在のスペインでは5572.7メートル、ポルトガルで5000メートル。距離は国と時代によって異なるが、だいたい4キロメートルから6.6キロメートルの範囲におさまる。
 14レグワ×約4㎞=56㎞
となります。これは塩飽諸島の範囲を超えてしまいます。最初に着いた港は塩飽諸島にある港ではないようです。「寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり」というのも讃岐の風景にはふさわしくない気がします。近隣で探せば、赤石や石鎚連峰が背後に控える今治や西条などがふさわしく思えます。そこから14レグワ(56㎞)離れた塩飽に小舟でやってきたと、私は考えています。

「此沿岸には賊多き」と海賊を怖れているのは、朝鮮からの使節団も同じでした。宣教師達も海賊を心配する様子が克明に記されています。また「日本の著名なる港」との記述もあり、塩飽の港が日本有数の港であったことが分かります。塩飽という港はないので、本島の泊か笠島としておきます。

 以上をまとめておくと
①北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されている
②讃岐船の積荷の8割は「塩」で、大型の塩専用輸送船も登場していた。   
③兵庫湊の関税は、守護や守護代の積荷を運ぶ舟には免税されていた。
④免税特権を悪用して、兵庫港を通過し関税を納めない舟もあった。
⑤仁尾は賀茂神社の「神人」が管理する港で、細川氏の「軍港」の役割も果たしていた。
⑦讃岐にやって来た将軍義満を細川頼之が迎えたのは宇多津の港であった
⑧金蔵寺の修繕費の宇多津の寄付額は、多度津の倍である
⑨中世の中讃地区には、堀江湊があり道隆寺が交易管理センターとなっていた
⑩九州からやってきたキリスト宣教師は、塩飽で舟を乗り換えて上洛した
⑪塩飽は「海のハイウエー」のSA(サービスエリア)でありジャンクションでもあった。
おつきあいいただき、ありがとうございました。


6宇多津1
香川県立ミュージアムの特別展『海に開かれた都市~高松-港湾都市九〇〇年のあゆみ~』で提示された一五世紀~一六世紀前半の宇多津の景観復元図を見ていくことにしましょう
この復元のためには、次のような作業が行われているようです。
①幕末の『讃岐国名勝図会』・『安政三年奉納宇夫階神社に七』・『網浦眺望 青山真景図絵馬』から町割など近世後期の景観を復元する
②そこから延享二年(1745)頃に作られた古浜塩田、浜町・天野新開を消す
③塩田工事と同時に行われた大束川河口部の付替工事を、それ以前の景観にもどす
④伊勢町遺跡発掘調査から近世前期にできた形成を消す
⑤大足川を近世以前の位置にもどす
これらの作業を経てできあがった14世紀の復元図を見てみましょう。
6宇多津2
①青ノ山北麓と聖通寺山北端部を突端部とし、大きく湾入するように海域が入り込む
②その中央付近に大束川が流れ込む。
③河口入江には東と西に突端した砂堆がある(砂堆2・3)
④大束川河口部をふさぐように砂堆が細長く延び(砂堆I)、先端付近では背後に潟がある
⑤砂堆Iの海側には遠浅地形が広がっていた
⑥居住可能なエリアは、青ノ山山裾とそこから海際までの緩斜面地と砂堆、
⑦平山では聖通寺山と平山の山裾の狭陰な平坦地
                
宇多津地形復元図
中世宇多津の復元図
宇多津の中心軸(道路)の  両端には宇夫階神社と聖通寺が鎮座します
①宇多津の中心軸は、西光寺がある砂堆Iの真ん中を東西方向伸びる道路である。
②河口部は、深く入り込んだ入江に沿って聖通寺山の麓の平山まで続く。
③内陸部へ伸びる南北道路は、砂堆1の付根で東西道路と交差し東西・南北の基軸線となる。
④東西道と南北道の交差点付近に港があり、海上交通と陸上交通の結節点となり最重要エリアになる
④東西軸は丸亀街道、南北道路は金毘羅街道へと継承されていく主要路である。
宇多津の東西に位置する聖通寺と宇夫階神社を見ておきましょう
聖通寺の建立時期の古さは何を物語るのか?
 大束川の河口は深く入り込んだ入江となっていて、宇多津と聖通寺山とは湾で隔てられています。その山裾に修験道の醍醐寺開祖・理源大師と関係が深いとされる聖通寺(真言宗)があります。寺伝では貞観10年(868)の創建、文永年間の再興を経て、貞治年間に細川頼之の帰依を受けて復興したとあります。創建時期が、宇多津の諸寺院よりもはるかに古いこを研究者は指摘します。
  聖通寺には、長享二年(1488)に常陸国六反田(茨城県水戸市)六地蔵寺の僧侶が聖通寺で書写したという記録が残っています。
ここからはこの寺が、各地の僧侶が集まる様々な書籍や情報を所蔵した「学問所」であったことがうかがえます。理源大師も若い頃に、この寺で学んだと伝えられます。道隆寺や金蔵寺なども学問所であったと云われ、諸国からの修験者たちがやってきたお寺です。この寺も奥の院は、聖通寺山の山中にあり、大きな磐座(いわくら)が聖地となっていたようです。同時に、この地域には沙弥島・本島・聖通寺山・城山と理源大師に関係の深い「聖地」が残っていて、修験者が活発な活動を行っていた形成がうかがえます。
宇夫階神社も勧請時期は古く、聖通寺の同じ時期に従五位に叙せられています
この神社は、産土神として古くから宇多津の総鎮守的な存在です。復元地図で見ると、大束川を挟んだ宇多津の領域の両端に宇夫階神社と聖通寺が鎮座していることになります。ここからも宇多津における両者の重要性がうかがえます。九世紀後半の宇多津において、この両者が登場してくる「事件」があったのかもしれません。
6宇多津2135
 宇多津の中世集落は、どのあたりにあったのでしょうか
①東西・南北道路が交差する場所(集落I・現西光寺周辺)
②郷照寺の門前周辺で砂堆1と砂堆3が形成する湾入部の一番奥の付近(集落2)、
③砂堆Iの背後の潟周辺で、長興寺(安国寺)の門前周辺(集落3)、
④宇夫階神社の門前で、砂堆3の付根(集落4)
の4つに分かれて集落があったようです。伊勢町遺跡の調査報告書には、各集落が港湾施設(船着場)を伴っていた可能性が高く、『兵庫北関入船納帳』にある「中丁」「西」「奥浜」という三つの集落の存在との対応関係」があることを記しています。

宇多津
宇多津(讃岐国名勝図会)
そして、さらに次のように推論しています
①「中丁」は集落I、
②「西」は集落2ないし4、
③「奥浜」は集落3ないし2
に当たると研究者は考えているようです。
 内陸・海上交通の結節点になる集落1が、宇多津の中心集落のようです。『兵庫北関入船納帳』に出てくる船頭の「弾正」は、ここを本拠地に活動したのかもしれません。さらに、集落1の発掘調査からは、次のような集団がいたことが分かっているようです。
①鍛冶屋等の職人がいたこと
②大規模で多様な漁労活動を行っていた集団がこと
③いち早く「灯明皿」を使うなど「都市的なスタイル」を取り入れた「先進的生活」を送っていた人たちが生活していたこと
このように4つの港湾施設をもる集落が複合体として、宇多津という港町を形成していたと研究者は考えているようです。

6宇多津2213
中世の船着き場の変遷 
中世宇多津の港(船着場)は、どんなものだったのでしょうか?
伊勢町遺跡からは、14世紀初めの石を積み上げた護岸と、16世紀の礫敷きが出てきました。石積み護岸は絵画資料では『遊行上人縁起絵』など、15世紀の室町期になって描かれるようになります。この遺跡も15世紀頃のものなのでしょう。研究者が注目するのは、海際の集落が港湾施設を持ち、それが石材を用いて整備されている点です
6宇多津2
  宇多津への寺社勢力の進出の背景は・
 青野山の山裾や、南北道路の高台、砂堆Iの背後の潟(河口部)に各宗派の寺院が立ち並んでいます。このような景観は『義満公厳島詣記』や文献資料からも見えますし、今でも同じ光景を見ることが出来ます。
宇多津に多くの宗派の寺院がそろっているのはどうしてなのでしょうか。
 まず挙げられるのは、港町宇多津の経済力の高さでしょう。各寺院の瀬戸内海の港町への布教方法を見ると、そこに住む人びとを対象とした布教活動とともに、流通拠点となる港町に拠点をおいて円滑に瀬戸内海交易を行おうとする各宗派のねらいがあったことが分かります。僧侶は、中世の荘園を管理したように、港町の寺院を「交易センター」として管理していたのです。
6宇多津の寺院1
各宗派の進出状況を時期別にまとめると、次のような表になります
①鎌倉期には真言宗寺院、
②南北朝~室町前期には守護細川氏と関連が深い禅寺、
③室町後期にも細川氏の帰依を受けた法華宗寺院、
④戦国期には浄土真宗寺院
が年代順に建立されていて、各宗派の寺院が段階的に進出したことが分かります。一度に姿を現したのではないのです。このことは13世紀後半~16世紀代を通して、宇多津が成長し続けたことを物語ると同時に、各時代の歴史的なモニュメントとも言えます。
本妙寺(法華宗)の建立については以前も取り上げました。
宇多津本妙寺
本妙寺
この寺はの開祖日隆は、細川氏の保護を受けて瀬戸内海沿岸地域で布教活動を展開し、備前牛窓の本蓮寺や備中高松の本條寺、備後尾道の妙宣寺を建立します。いずれも内海屈指の港町で、流通に携わる海運業者の経済力を基盤に布教活動を展開したことがうかがえます。細川氏が本妙寺を保護していたことは、守護代安富氏が寺中諸課役を免除したことからも分かります。(『本妙寺文書』)。
戦国期には青ノ山南東麓にあった寺院が、西光寺と名前を変えて町内に移転してきます。
 西光寺は、それまでの寺院が青ノ山の山裾に建立されていたのに対し、河口の港のそばに寺域を設けます。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
宇多津の西光寺 港のそばに立地
その背景には、浄土真宗寺院の海上流通路掌握といった動きがうかがえます。西光寺は石山合戦に際して本願寺顕如の依頼に応えて、物資を援助をするなど、経済力も高いものがあったようです。
これらの14世紀後半期の法華宗寺院、15世紀後半期における浄土真宗寺院の動きは瀬戸内海各地の港町と同時進行の動きで、当時の瀬戸内海港町で共通する動向だったようです。
宇夫階神社の担った役割は?
宇多津では、このように多くの宗派が林立したために、住民がひとつの寺院の下に集まり宗教活動を行い結集の機会を作り出すことはありませんでした。集落や諸宗派・各寺院の檀家といったレベルのちがう単位がモザイク状に並立した状況だったのです。こうしたある面でばらばらな集団単位を結びつける役割を担ったのが宇夫階神社だったようです。

utadu_02 宇夫階社・神宮寺・秋庭社・神石社:
産土階神社(宇多津)

この神社は、祭礼をとおして複数の集落や単位を統合させる宇多津の重要な核として機能します。そのことは、宇多津の中心軸である東西道路の西端正面に鎮座する立地が示しています。総鎮守的な単一の神社であるを宇夫階神社は宇多津の大きな求心力として機能していたようです。
領主勢力は、直接的に宇多津を支配していたのか?
 宇多津には守護所が置かれたと云われますが、これについては研究者は慎重な態度のようです。『兵庫北関入船納帳』にみる国料船や本妙寺・長興寺・普済院・聖通寺等守護細川氏との関わりが深い寺院の建立・再興などに、守護勢力の影はうかがえます。しかし、宇多津町内に城郭があった形成はありません。封建勢力が港町宇多津への直接的支配権を持っていたとは云えないようです。
 守護所跡と考えられる円通寺・多聞寺、南隆寺の城郭的施設も領主勢力の居城としては、根拠が弱いのです。集落内にも領主の平地居館は、見当たりません。つまり、守護を中心とした領主勢力の宇多津への直接的な関与はあまり感じられないのです。それよりも寺社勢力や「弾正」や「法徳」などの有力海運業者を通じて間接的に関与していたと研究者は考えているようです。

宇多津地形復元図

隣接する港町 平山の役割は?
 湾内を隔てて、聖通寺山の麓にある平山も港町だったようです。『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てきます。宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。自立した港ですが、機能面では連動した相互補完的関係にあったと研究者は考えているようです。
平山の集落は砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近(集落5)、
聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近(集落6)
が想定できるようです。
 『兵庫北関入船納帳』の記載からも平山に本拠地を置く船主の姿がいたようで、小さいながらも港町が形成されていたことが分かります。また、宇多津よりも沖合いに近い立地や、広域的な沖乗り航路とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。


川津と宇多津の関係は?
 一方、宇多津は後背地となる大束川流域の丸亀平野に抱かれていました。それは、高松平野と野原の関係と同じです。大束川の河口の東側には「角山」があります。近くに津ノ郷という地名があることなどから考えると、もともとは「港を望む山」で「津ノ山」という意味だったと推察できます。角山の麓には、下川津という地名があります。これは大束川の川港があったところです。下川津から大足川を遡ったところにある鋳物師屋や鋳物師原の地名は、この川の水運を利用して鋳物の製作や販売に携わった手工業者がいたことをうかがわせます。さらに「蓮尺」の地名は、連雀商人にちなむものとみることもできます。

連雀商人

連雀商人
連雀商人の活動と衰退
連雀商人の衰退要因

このように宇多岸は、海に向かって開けた港であるばかりでなく、大足川を通じて背後の鵜足郡と密接に結び付いた港であったと研究者は考えています。
 坂出市川津町は、中世の九条家荘河津荘でした。そうすると尾道のや倉敷のように、宇多津も荘園の倉敷地の役割を果たす港町の機能も持っていたのかもしれません。そして広いエリアからの集荷活動を行い、備讃海峡ルートと瀬戸内海南岸ルートが交錯する塩飽を背景に活かした中継交易を行っていたと研究者は考えているようです。

4344102-42宇多津海側
宇多津の海側(讃岐国名勝図会)

     江戸時代になっての宇多津は?
 天正期には豊臣配下の仙石氏が平山に聖通寺山城を築きます。しかし、それも一時的でその後にやって来た生駒親正は、讃岐支配の新たな拠点として高松と丸亀に城を築城し、城下町を開きます。その際に、宇多津や平山からは多くの寺院、町が高松と丸亀に移転させました。港町宇多津は重要な機能を失うことになります。その背景には商人の街である港町宇多津が、新たな領主にとっては解体すべき対象であったのでしょう。同時に、宇多津から「引抜」いていかないと、新たな城下町として高松や丸亀の建設は難しかったとも考えられます。
 大足川の埋積作用は河口部や砂堆前面を着実に埋没させて行きました。讃岐を代表する港町宇多津は、政治的経済的な中心性だけでなく、港湾機能も奪われていくことになり、やがて地方的な港町になっていきました。
江戸期になると高松藩米蔵が設置され、新たな展開をむかえます。
髙松藩米蔵一覧

高松藩米蔵は、東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に置かれますが、宇多津は他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。これにともない現在の地割が整備されていきます。

宇多津 讃岐国名勝図会2
大束川沿いに置かれた米蔵(讃岐国名勝図会)
 しかし、大束川の堆積作用は、港に深刻な状況をもたらします。それを克服するため18世紀前半には、他の港町に先駆けて湛甫形式の港湾施設を完成させ、港湾機能の維持に努めます。しかし、やがては金比羅詣での船が寄港するようになった多度津や丸亀にその役割も譲ることになります。
  参考文献
Amazon.co.jp: 中世讃岐と瀬戸内世界 (港町の原像 上) : 市村 高男: 本
   中世讃岐と瀬戸内世界 所収    中世宇多津・平山の景観 松本和彦

   
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江戸時代の讃岐を描いた絵図は、北の岡山県上空あたりから俯瞰する視点で描かれたものが多いようです。この地図も、そのパターンで下側(北)に、瀬戸内海やそこに浮かぶ小豆島が細長く描かれています。その上(南)が屋島・志度になるようです。そして、一番東(左)にある湊町が引田になります。引田が「讃岐の東の端」と云われる所以でしょう。
 しかし、それは高松を中心とした見方です。引田は北に播磨灘が開け、沖には淡路島・鳴門海峡が眺望できる位置にあります。視点を変えると、近畿圏に一番近い湊町なのです。その地の利を生かして、古くから海運業が盛んな土地柄だったようです。
 おきゆく船がこの港には、立ち寄らなければならない理由がありました。
4讃岐国名勝図解 引田絵図

讃岐国名勝図会の引田
 幕末の「讃岐国名勝図会」には引田のことを、
当国東第一の大湊にして大賈大船おびただしく漁船も多し、諸国の船出入絶すして、交易、士農工商備れり」
と記します。江戸時代は引田浦は「当国東第一の大湊」で、廻船業や漁業が発達し、上の絵図のような街並みや立派な神社仏閣並ぶ湊町でした。引田の廻船は、瀬戸内海はもちろん江戸・九州・北国へ讃岐の特産品の砂糖や塩などを運んでいたことが分かってきています。
「名勝図会」を見ると、手前に大きな寺院があり、その向こうに密集する家並みと帆を下ろして停泊する廻船が描かれています。海運と結びついた引田浦の姿をよく描かれています。もうひとつ見逃してはならないのが港の向こうの山の上にある引田城跡です。この城の城下町として現在の引田の街並みが整備されたことは前回お話ししました。今回は、引田港の繁栄の背景を探ることです。
5c引田
 瀬戸内海南航路における引田が重要な港であった理由は?
 ペリーがやって来る約10年前の江戸末期に、引田港を利用する諸国入船の船主などから波戸を築いてほしいとの要望書が出てきます。これを受けて引田浦の商人たちにより波戸工事が計画されます。この頃に行われた丸亀藩や多度津藩の港湾整備などの「公共事業」は、藩主導ではなく富商が中心になって講を組織して行うのが一般的になっていました。「民間資本」の導入なしで、藩単独では大きな公共事業は行えない時代になっていたのです。幕藩体制は行き詰まり、未来を切り開く公共建築物を作ることもできないほど藩財政は行き詰まりを見せていたようです。引田の波戸工事も「民間資金導入による建設」が行われることになり、資金集めのための趣意書が廻されます。
  「讃州引田浦湊普請御助情帳」には、波止建設の必要性を次のように記しています。
「(前略)其向ふ名高き阿波の鳴門にて、諸国の船々此鳴門を渡海いたさんとする時、則此山下に繋て、潮時を見合すに随一の処也」
とあり、引田港は鳴門海峡を抜けるための「潮時を見合すに随一」の港で、重要な潮待港であることが強調されています。この「募金活動」に対して、屋島西岸の浦生や寒川郡津田浦、阿波国の大浦・撫養・粟田村、大坂砂糖会所や大坂砂糖問屋など讃岐国・阿波国・大坂の大坂への航路を中心とする地域からの寄付が集まっています。寄付のあった地域が引田浦の商人・廻船業者の商業取引のエリアであり、特に砂糖に関わる主要取引先であったようです。同時に、海上交易活動に携わる人たちにとって引田の「潮待ち港」としての重要性がよく認識されていたことも分かります。

5鳴門海峡地図.1jpg
近代に入っても引田の潮待ち・風待ち港としての重要性は変わらなかったようです。
『香川県引田港調書』の「引田港ノ現状及将来」の項には、引田港と鳴門海峡の関係が次のように記されています。
 瀬戸内海ノ関門タル鳴門海峡渡航セントスル船舶ハ、海上静カナルトキト雖モ必ズ引田港湾二潮待チ又ハ潮造り卜称シ、仮泊セザルベカラズコトニナレリ(鳴門潮流干満ノ関係上)、況ンヤ天候険悪二際シテハ、避難寄港スベキハ引田港ヲ除キテ他二求ムルコトヲ得ザルナリ、

 戦後の『引田町勢要覧』(昭和27年〈1952)でも、前年の引田港には年間貨客船1795隻(汽船274)隻・機帆船(1521隻)、漁船10552隻(機帆船3816隻・無動力船6736隻)、避難船285隻(機帆船60隻・無動力船225隻)の入港を記録しています。戦後直後には漁船の6割は無動力船であったことに注意してください。
5鳴門海峡地図.221jpg

南海道に通じる瀬戸内海南航路と鳴門海峡
 鳴門海峡は両側は瀬戸内海と紀伊水道で、干満の差によって大きな渦潮が発生するため「海の難所」として船乗りには恐れられてきました。しかし、潮の流れをうまく利用すれば「海のハイウエー」にもなり、古くから重要な交通路として利用されてきました。
   鳴門海峡の潮待ち港という役割は、古墳時代に瀬戸内海南航路が開かれて以来、引田が果たしてきたことかもしれません。吉備勢力のテリトリーである瀬戸内海北航路を使わずに瀬戸内海を通過するルートを開くことは、ヤマト勢力の悲願でした。その先陣を果たし、南航路を切り開いたのは紀伊を拠点とする紀伊氏であったようです。紀伊氏は日向勢力と協力しながら讃岐・愛媛・豊前・豊後の勢力を懐柔し、この航路を開いていきます。津田古墳群の勢力もその先兵か協力部隊であったのかもしれません。このルートを通じて、朝鮮半島で手に入れた鉄が畿内に運ばれていったのでしょう。吉備方面を通過する瀬戸内海北航路と同じく、讃岐沖から鳴門海峡を抜けて紀伊や摂津に抜ける南航路も重要な役割を果たしていたようです。どちらにしても、早くから鳴門海峡を通過する瀬戸内海南航路は開かれ、この航路をなぞるように「南海道」は整備されたと私は考えています。
5鳴門海峡地図6

中世の瀬戸内海航路が分かる資料としては朝鮮の高申叔舟が成宗二年(文明三年(1471))に著した『海東諸国紀』があります。ここには載せられた「日本本国之図」には、播磨灘と紀伊水道を通る海路として次の3つの航路が描かれています。
①和泉・紀伊と淡路を結ぶ二つの海路、
②讃岐から淡路島西岸を経て兵庫に通じる海路、
③阿波から淡路島東岸を経て兵庫へ通じる海路
ルート②は、淡路島西岸を通る航路のため秋から冬にかけては、強い北西の季節風が吹くため、安全面で問題がありました。昭和になっての動力船の時代にも、引田と大阪と結ぶ定期航路の客船は、春・夏は淡路島の西岸各港に寄港しながら北上しますが、北西の季節風が強く吹く秋から冬にかけては、ルート変更して淡路島の東岸を航行していました。つまり、ルート②は春から夏までの季節航路で、それ以外の季節はルート③の鳴門海峡を抜けるコースに、季節的な使い分けが古くから行われていたようです。もちろん、畿内を結ぶ瀬戸内海のルートで最も一般的なのは、山陽沿岸の瀬戸内海北航路ですが、四国北岸から鳴門海峡を通る瀬戸内海南航路もサブルートとして使用されていたのです。
5鳴門海峡地図.21jpg
ちなみに鳴門にはふたつの海峡があります。
ひとつは渦潮で有名な「大鳴門」です。これに対して大毛島・高島・島田島と対岸の撫養の間には100~500mの水通のような小鳴門海峡(小鳴門)があります。小鳴門海峡は大鳴門ほど潮流が速くないので、古代から小鳴門も海路として利用されてきました。
 引田の船乗り達は、は鳴門海峡を通過することを「鳴門をおとす」といい「何時ごろおとす(何時ごろ通る)」や「大鳴門おとすんかヽ小鳴門おとすんか(大鳴門を通るのか、小鳴門を通るのか)」と表現していたそうです。動力船で引田から鳴門まで約一時間くらいの距離であったようです。
5鳴門海峡地図

船はどのようにして鳴門海峡を越えていたのでしょうか?
 引田の元船大工や元船員は次のように話しています。
①満潮のときに紀伊水道から瀬戸内海に流れ込む海流にのって入り(南から北への流れ)、
②干潮のときに、瀬戸内海から流れ出す海流に載って紀伊水道に出る(北から南への流れ)。
③満潮の上、北西の風であれば海が荒れるが、北西の風でも干潮であれば逆に追い風となる
など、潮流や風により航行が大きく左右されたようです。

5鳴門海峡地図.221jpg
 高松方面から鳴門海峡を通過するのは干潮のときで、それまで船は引田港で潮待ちすることになります。志度や津田、三本松などの港もありますが、引田ほど天然の入江が発達した潮待ち・風待ちに格好の港はないと船乗り達は云います。四国(特に東讃地方)の北岸を通ってきた船が、潮待ち・風待ちした港が鳴門海峡から海上の直線距離で約25㎞のある引田港だったのです。昭和三〇年代まで引田で潮待ち・風待ちをしている船の船員が、買物や飲食する姿が多くみられ賑やかだったといいます。
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 中世の瀬戸内海航路はどうだったのでしょうか?
 中世の瀬戸内海を行き来する交易船は、順風であれば帆走し、風が悪ければ漕ぎ、暴風雨に遭えば船を港に引き上げて避難する、そんなことを繰り返しながら海を進んでいきました。まさに、潮まかせ、風まかせのために潮待ち、風待ちのために、多くの湊に寄港しながらの航海だったのです。
 動力船が普及した1960年代でも、激しい流れに逆らって海峡を乗り切るのは難しく潮待ち・風待ちを必要とした船もありました。鳴門海峡は「阿波の鳴門か、銚子の口(千葉県銚子市)か、伊良湖渡合(愛知県渥美半島)の恐ろしや」と、船乗りに恐れられた全国有数の海の難所だったのです。
 その難所を抜けるには、引田港で潮待ちして情報やアドバイスを得てから鋭気を養って出港していく必要があったのでしょう。
参考文献 
萩野憲司 中世讃岐における引田の位置と景観  
中世讃岐とと瀬戸内海世界 所収

                                
 「兵庫北関入船納帳』(文安二年〈1445〉には、中世讃岐の港町として、引田・三本松など17の港町が記されています。これらの港町について、中世の地形を復元した作業報告が香川県立ミュージアムから出版されています。復元されている港町を見ていくことにします。
その前に、準備作業として「中世港町の要素」とは何かを押さえておきましょう。
 中世港町を構成する要素としては、次の六つです。
  ①船舶が停泊できる場所……   繋留岸壁、桟橋等
  ②積荷の積み下ろしのできる場所…… 荷揚げ場
  ③船舶の港湾周辺での航行の目標…… 寺社、城郭等
  ④港湾内施設の管理事務所……   寺社、居館、城郭等
  ⑤港町を横断もしくは縦貫する街路
  ⑥内陸部へのアクセス方法……    道路、船舶
 作業の手始めとしては、後世の干拓や埋立地を地図上で取り去り、現地でわずかな起伏等を観察します。それを地図上に復元していく根気の要る作業です。その結果、見えてきたことは、讃岐の中世港町は、次の2つがあるところに成立していたことが分かってきたようです
入り込んだ内湾する浜
②それに付随する砂堆(小規模な砂丘)
 穏やかな瀬戸内海とはいえ、天然の波止的な役割を果たす砂堆は港には有り難い存在だったのでしょう。砂堆は、海浜部の波が運ぶ砂が堆積するものと、河口部の河川が運ぶ砂が堆積するもののふたつがあります。内湾する浜と砂堆と、周辺に展開する集落について「復元地図」を見ていくことにしましょう。
 1 引田
3引田

 引田は「兵庫北関入船納帳』文安二年(1445)以下「人船納帳」)には、この港の積荷としては、塩・材木などの記載が見えます。景観地図からは大きく内湾した浜の北西部に突き出た半島の付け根あたりに中世の港が復元できます。現地踏査の結果、現在の本町周辺から北の城山に向かって、砂堆状の高まりが確認できるようです。この砂堆は、本町周辺では狭い馬の背状になっていたことがうかがえるようです。また、砂堆の北端の誉田八幡神社付近には安定した平坦地が広がります。
DSC03875引田城
 戦国時代末期に讃岐に入封した生駒氏が最初に城を築いた城山は、北西からの季節風を避ける風よけとしては有り難い存在です。こうしたことから中世の港湾施設は、現在の引田港付近にあったと研究者は考えているようです。また、この港の管理権は誉田八幡神社が持っていたと推測しています。
港からのアクセスについては、砂堆を縦断する街路を南に抜け、南海道へ接続していたようです。
また、誉田八幡神社の北から西にかけては、近代以前には、塩田が広がっていたこと、現在も水はけの悪い水田が広がることなどから、当時は、干潮時に陸地化する潟湖のような状態であったと考えています。さらに本町周辺の砂堆の西側にも低湿地が広がっていたようで、「入船納帳」に見られる積荷の塩は、このあたりの低湿地で生産されていた可能性が高いようです。
  引田は、古代から細長い砂堆の先に伸びる丘陵が安定した地形があって、その上に土地造成と町域の拡大が進められてきたようです。それは住民結合の単位としての「マチ」の領域、本町一~七丁目などに痕跡がうかがえます。このように中世の引田の集落(マチ)の形成は誉田八幡神社周辺を中心に、砂堆中央から基部に向けて進みますが「限定的」だったようです。つまり狭すぎて、これ以上の発展の可能性がなかったとも言えます。そのために戦国末期に讃岐にやって来た生駒氏は、最初に引田城に着手しますが、後には丸亀・高松に新城を築くことになるようです。
 引田は瀬戸内海を睨んだ軍事拠点としては有効な機能をもつものの、豊臣大名の城下町建設地としてはかなり狭く線状都市です。大幅な人工造成を行わなければ近世城下町に発展することはできなかったようです。
 三本松
3三本松
 三本松は、湊川河口と与田川河口との間でJR三本松駅周辺に中世の港があったようです。現地を詳細に観察すると、次のような事が見えてきます。
①三本松駅の北側に大きな砂堆1が確認できる
②現在の三本松港の東側の海岸線に、砂堆状の高まりが二つ(砂堆2・3)ある
③砂堆2・3の後背地はかなり地割が乱れているので、湊川に連続していると考えられる
④当時は湊川の河口部が現在よりもかなり東西に広がっており、河口部の縁辺に砂堆2・3が形成された
⑤砂堆2の後背地は、砂堆Iとの切れ目につながり、砂堆1の東側に大きく湾入した部分がある。
⑥この付近(現在の西ノ江付近)に港湾施設があった
⑦集落は、砂堆Iを南北に横断する街路(本町筋)とそれに直交する街路(中町筋)に沿って広がっていた。
 港湾施設へのアクセスについては、砂堆Iの後背地にも河川状の低地があり、阿波街道(南海道)からは離れているので、内陸部との交通は不便だったことがうかがえます。しかし、河川水路の利用という点から見れば、湊川上流には水主神社があり、与田川上流には与田寺などの有力寺社があります。三本松湊は、これらの寺社が管理をおこなっていたと研究者は考えているようです。

 3 志度
3志度
 志度は、海女の玉取伝説で有名な志度寺付近が、港として考えられています。
現在の弁天川やその支流の流域は浅い入江や低湿地であったようで、一番奥は現在の花池あたりまで深く入り込んでいました。入江の入口は弁天川の河口付近で、そこにはランドマークとして弁天島があったことになります。今では埋め立てられて陸地化して、ただの丘ですが、この島は「志度道場縁起」などでは、島として描かれています。また、河口付近の低湿地では、製塩が行われていたようです。
 志度寺が位置する大きな砂堆の海側に広がる浜が、港としての機能を果たしていた
と研究者は考えているようです。ここでもその中央部の志度寺が、港を管理する役割も担っていたのでしょう。港湾施設へのアクセスについては、西側から砂堆の中央部を縦断するように街路2が志度寺へ通じているので、これが主要アクセスとなっていたのでしょう。
 4 宇多津と平山
3宇多津
 宇多津は、中世においては細川氏の拠点として讃岐国における政治・経済の中心地でした。
この港町は、坂出市の綾川河口にあった松山津が、綾川の堆積作用で古代末期に港として機能しなくなったのに代わって台頭してきたようです。港の位置は、青ノ山の裾部あたりから東側の大束川河口にかけて、現在の西光寺周辺に小規模な浜が想定されています。
 平山は、聖通寺山の西側、大束川の河口の東側に広がる入江を港として利用していたと考えられます。平山と宇多津は、それぞれ丘陵を背後に持ち、丘陵にはさまれた大束川の河口は、波や風の影響が少なくいい港だったようです。特に宇多津は、中世から続く寺社が多く集まって、中世は讃岐の文化的な中心であったことは、以前紹介した通りです。
仁尾                                       
3仁尾
仁尾は燧灘に面して、いまは夕日が美しい町として有名になりました。
かつては 「兵庫北関入船納帳』には「仁保」とも書かれていたので広島県の仁保とされていましたが、その後の研究で、三豊市仁尾町であるとされるようになりました。この港は、平安時代に賀茂神社の「内海御厨」として設定されるなど、古くから栄えており、近世では、「千石船が見たけりや、仁尾へ行け」とまでいわれるほどの繁栄ぶりだったようです。
 現在の仁尾は、干拓や埋立で海岸線が大きく海側へ移動していますが、中世ごろは賀茂神社境内から南へ延びる街路付近が海岸線だったようです。当時の港としては、古江と呼ばれている北側の入江から海岸線に沿った場所が考えられます。南側は、江尻川河口付近まで延びますが、この川は河口から少し内陸部に入ったところで、大きく屈曲しているので、河口から北側に大きな砂堆があったことが推測されます。この砂堆の中央を縦断するように伸びる街路Iが主要な街路として機能していたようです。
 仁尾については、北側に賀茂神社、南側の江尻川河口付近に草木八幡神社があり、それぞれの別当職である覚城院、吉祥院などの寺社が多く残ります。かつては、この両社は対立・拮抗を関係にあったようで、両社の勢力範囲の境界付近には「境目」という字名も残っています。

中世讃岐の港町を類型化してみると
1 類型I(松山津・三野津)
 氾濫を繰り返す河口部が大きく入り込んだ入江に港湾機能をもつ港です。砂堆は小規模で、元々はは河口奥に港湾機能があったのが、堆積作用で河口が埋没し、次第に船の出入りに支障をきたし、衰退していった港です。古代の港に多く見られ、松山津や三野津があてはまります。松山津は讃岐国府、三野津は宗吉窒跡との密接なつながりありました。しかし、古代末期の内陸部での完新世段丘崖の形成など、大規模な地形環境の変化で、河口部の埋積が急速に進み、港としては姿を消していきました。
3綾川河口復元地図
2 類型Ⅱ
 小さな河川の河口部に位置し、大きな砂堆の内側の入江に港湾機能を持っていた港です。砂堆や内湾部の入江の状況により、3つに細分化しています。
Ⅱの①型 砂堆の上に集落が広がり、内湾部に港湾機能をもつ港です。三本松・方本(屋島)・観音寺などがこれにあたります。
3観音寺

Ⅱの②型 砂堆が波止の役割を果たし、砂堆上には集落がないもの。その多くは、後背地に山を控え、海との間の狭い平地に集落が展開します。そのため、内陸へのアクセスが難しい港になります。庵治・佐柳島などがこれにあたります。

3庵治
Ⅱの③型 大きく内湾した入江に砂堆が付随し、河川の河口部に港湾機能をもつ港です。砂堆の外側にも船舶の停泊機能があり、複合的な港湾施設になり、その後の発展につながった港です。宇多津・野原(高松)がこれにあたります。

 以上を見てきて、改めて気付いたことをまとめておきます。
①見慣れた現在の港を基準に、中世の湊をイメージすると見えてこない
②河口やその周辺には砂堆が形成され、それが港の機能を果たしていた。
③港は港湾関係者や船乗り、交易者・商人などが「混住」する異空間を形成する
④港を管理するのは、管理能力のある僧侶達で寺院や神社が管理センターの役割を果たす
⑤中世後期には、交易ルートが布教ルートとなり各宗派の寺院が進出してくる
⑥政治的な勢力は港を直接支配下には置けていない
こんなところでしょうか。
 参考文献  北山健一郎 中世港町の地形と空間構成 「中世讃岐と瀬戸内世界」所収
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        中世の高松は、「野原」とよばれる村でした。

HPTIMAGE高松

中世の「野原」が今と違うのは第1に香東川の流れです。今は香東川は岩瀬尾山の西を流れていますが、近世に西島ハ兵衛によって高松を洪水から守るために流路変更工事が行われるまでは、石清尾山塊を挟んで分流して、現在の高松市内には香東川の一方の流路が複数に分かれて瀬戸内海に注いでいました。二本の河川に囲まれた河口デルタの島が「八輪島」 と呼ばれた「野原」村でした。
野原にあったとされる集落を挙げてみると
①「八輪島」の北側の海に面した所に「野原なかくろ里」(野原中黒里)、
②その南西に「野原てんまの里」(野原天満里)、
③その南に「野原中ノ村」(野原中村)があり、
④川を隔てた西側の海岸部には、「野原はまの分」(野原)と「にしはま」(野原西浜)とがありました。
高松野原復元図
まずは、現在の高松城周辺にあった「野原なかくろ里」を見てみましょう。
 ここには、真言宗の古刹無量寿院があり、複数の末寺や塔頭を持っていたとされてきましたが、高松城発掘調査の歳に、この寺の刻印がある瓦が出てきました。その結果、無量寿院の存在が確認されると同時に、場所も二の丸跡付近に建っていたことが分かりました。このお寺は、中世野原のシンボル的な寺院だったようです。また、高松城跡東側からは中世の港湾施設(荷揚場)も出てきているので、「野原なかくろ」が港町でもあったことは間違いないようです。

高松市地形図 旧流域入り
 野原天満里は、 香川県庁南方の中野天満神社周辺と考えられています。
前回に続いて「一円日記」を見てみましょう。この史料は、戦国時代の永禄8年(1565)に伊勢神宮の御師・岡田大夫が、自分の縄張りである東讃岐に来訪し、各町や村の旦那たちから初穂料を集め回ったときに、返礼品として「帯・のし・扇」などの伊勢土産を配った記録です。ここには野原郷を始め、周辺の集落と、そこに居住する多くの人々・寺庵の名が書き留められています。
 例えばこの野原天満里には、その中に「さたのふ殿」「すゑのふ殿」の名前が見えます。このうち「さたのふ殿」は、初穂料として米五斗を御師に渡し、土産として帯・扇・斑斗一把・大麻祓が配られています。また、その一族「左衛門五郎殿」と「宗太郎殿」も標準以上の初穂料を出し、多くの土産を配られています。このお土産の多さは、一般の信者との「格差」を感じます。ただの信者ではなく、香西郡を本領とする有力国人香西氏(勝賀城が主城)の家臣と研究者は考えているようです。つまり、ここには香西氏の臣下団が住んでいたということになります。
DSC03863高松 旧郷東川
 野原中村は「八輪島」最大の集落で、現在の栗林町周辺にありました。
「一円日記」には「時久殿」「やす原殿」の二人の信者と、「宮ノほうせん坊」など五力坊の寺庵が記されています。「宮ノほうせん坊」=法泉坊は現在の玉泉寺の前身となる寺院であり、脇ノ坊とともに「宮ノ」を頭に付けていることから石清尾八幡宮の供僧のような存在と考えられるようです。
 他の信者を見ると、
時久・安原氏のほか、
「さいか宗左衛門殿」の雑賀氏、
「さとう五郎兵衛」ら佐藤氏一族五人、
香西氏の庶流で冠綴神社の神官の先祖「ともやす殿」、
「せうけ四郎衛門殿」ら「せうけ」氏二人、
「よしもち宗兵衛殿」ら「よしもち」氏二人、
「時里殿」、「有岡源介殿」、「なりゑた殿」、「くす川孫太夫殿」
ら姓持ちで武士と見られる者がほとんどです。このうち雑賀・佐藤氏は香西氏の城持ち家臣として「南海通記」にも登場します。その中でも雑賀宗左衛門・佐藤五郎兵衛・同左衛門尉は初穂料が多く、配られ伊勢土産も飛び抜けて多いようです。土産の量と初穂料と地位は相関関係にあるのです。ここに名前がある人たちは、おそらくは香西氏の家臣団の一角を占めていた人々で、野原中村はその居住区になっていたことがうかがえます。ここから野原中村が野原中黒里とともに「八輪島」の中核集落であったことはまず間違いないと、研究者は考えます。
野原・高松・屋島復元図
 
 また、野原中村は、その西南に香西氏の拠点勝賀城の支城室山城がありました。
そのことを考えるなら野原中村が室山城の城下集落として形成されたところかもしれません。室山の南にある「さかたのといの里」も、そうでしょう。おそらく香西氏は、この室山城とその城下に住む家臣団を通じて、河口にあるなかぐろ集落の港湾掌握を行っていたとも考えられます。中村集落が二筋の河川に囲まれて海に近いところから見て、川湊を通じて海と一体的な関係をにあった可能性があります。
 以上の二本の河川に囲まれた「八輪島」にある集落に対して、海岸部に並ぶ野原浜・野原西浜はかなり様相が違っていたようです。
 発掘調査で明らかになった浜ノ町遺跡が地区の一角にあり、13世紀末以降、町屋や複数の寺院を持つ特別の海浜集落として発展していたことが分かっています。野原浜の西の野原西浜にも、15世紀初頭には「野原西浜極楽寺」があったことが史料からも分かります。(大報恩寺蔵「北野経王堂一切経」)。
 また発掘調査によって大量の土錘が出土し、畿内産の良質の砥石や土器・瓦器・瓦質土器、吉備産の陶器・土器等が多く出土しています。ここから大規模な漁業を営む海浜集落であると同時に、「瀬戸内海を介して高松平野外と平野内陸部を結ぶ、物資の流通拠点」であり、中世港町と評価できる海浜集落であると研究者は考えています。

DSC03842兵庫入船の港

 中世の野原郷にあった集落について、まとめておきましょう
①無量寿院を核とした寺院群と商人宿・船宿を営む武装有力商人らからなる港町=野原中黒里、
②汝魚川(拙鉢谷川)河口を挟んでその西に広がる野原浜・野原西浜という二つの部分からなる港町、
③室山城の城下集落としての性格を持つ野原中村(川湊を伴っていた可能性が高い)
④それとの密接な関係が予想される野原天満里、という構成を取っていたことになる。
このように、性格の違う4つの集落が集まって出来ていたのが「幻の港町」=中世の野原集落の実態のようです。
   
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生駒氏は高松城を、何もない海浜に築造したのか?
 かつて武蔵の江戸は一面の蘆の原であったが、徳川家康によって城下町建設が進められ、現在の東京の基礎が作られたと云われてきました。同じように、東北の仙台も伊達政宗以前は何もないところであったとされ、土佐の高知も山内一豊によって造られたとされてきたのです。そして、生駒氏以前の高松も似通ったイメージで捉えられてきました。
 しかし現在では、江戸は中世から東京湾岸屈指の都市であったことが明らかにされ、仙台も伊達氏以前の留守氏時代から東北中部の拠点の一つであったことが知られるようになり、高知にしても長宗我部氏時代に基礎が築かれたことが分かってきました。そして、高松も「野原」という讃岐有数の中世港湾の上に築かれてきたことがようやく明らかになってきたようです。
高松城江戸時代初期

参考文献  市村高男 中世讃岐の港町と瀬戸内海海運-近世都市高松を生み出した条件-
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