タイムトラベル 近世の村 帝国書院 中学校社会科歴史教科書
経済活性化とは、働く機会(人手にかかる事)が増え、多くの人が職を得ている状態です。輸入に頼れば国の支出ばかり増えるが、自分たちで働いて布を織り上げれば、国内で人を豊かにできる、と考えていました。彼の考える豊かさとは、いつでも仕事があり、汗水流して働き、多くの人が収入を得られるというものでした。
河内の綿織物業者と買付問屋
河内では豊かな百姓が、問屋(商人)と結びつき、問屋から原料や道具などを借りて、家内で手工業による綿織物をつくるようになります。木綿の問屋制家内工業の形成です。上図には、農家に織機をおき、織物を織っているところや綿織物を買いに来ている商人が描かれています。
ここには東海道が貫く江戸時代の村が描かれています。秋の収穫の終わった村では、アで米の脱穀・選別が行われ、それがウの庄屋の屋敷に運び込まれています。計量後に俵に詰め換えられて白壁の土蔵に一旦納められています。そして決められた日時に、藩の蔵に搬出されることになります。そのはるか向こうには、海が見えます。帆を上げて出港していく船が描かれています。
テキストは「田中裕子 カムイ伝講義 小学館」です。

新田開発で生まれた塩田と綿花畑
手間の塩田では、多くの人夫が働いています。この塩田も干拓によって新しく作られたものでしょう。。そこで作られた塩を積み込んで、帆船は出港していきます。その手前(ウ)には白い花のような作物が育ています。これが綿花畑です。今回は、江戸時代の綿花栽培について見ていくことにします。テキストは「田中裕子 カムイ伝講義 小学館」です。

「ポン」「ポン」「ポン」と、あちこちで花が開く。その様子を、一方で百姓たちが、別の方向からは穢多たちが、見つめている。花は開いてワタになった。畑一面、白いワタの色で次々と被われてゆく様子が想像できる。「正助、「よくやった」と父親が言う。百姓たちが思わず駆け出す。穢多たちも駆け出す。そして抱き合う。
江戸時代に入って、綿花の真っ白な花が日本中でみられようになります。
綿花は室町時代に国産化が始まっていましたが、それが拡がるのは江戸時代になってからです。そして、明治になると消えていきます。つまり、日本で綿花が大量に栽培されたのは江戸時代だけのことになるようです。「江戸時代=綿花の時代・木綿の時代」であったことを押さえておきます。
綿花は室町時代に国産化が始まっていましたが、それが拡がるのは江戸時代になってからです。そして、明治になると消えていきます。つまり、日本で綿花が大量に栽培されたのは江戸時代だけのことになるようです。「江戸時代=綿花の時代・木綿の時代」であったことを押さえておきます。
江戸時代に農民が種から実験を繰り返し、肥料を試し、さまざまな種類を作り出し、糸を紡ぎ、機械を改良してゆき、機織りの技術を向上させていったのです。かつて村は、加工技術を含む「木綿づくり」の現場だったことになります。工業が農村から分離したのは明治になってからです。開国と同時に、安価な綿布が入ってきます。さらに、トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎の父である豊田佐吉 が動力織機を発明します。これをきっかけに、各地でいろいろ改良され力織機が普及するようになります。すると、国内産綿花は追いやられてしまいます。機械で紡ぐのに適していたのは、繊維の長い綿や細い外国産の綿花でした。国内産綿花は、外国産に比べて繊維が短く、糸が太いため機械で紡ぐことには適していなかったのです。そのため明治30年代には、各地の綿花地帯は姿を消してしまいます。日本で大規模に綿花が栽培されたのは、明治前半までなのです。
江戸時代の農書「綿画要務」で綿花栽培の過程を見ていくことにします。
江戸時代は、農民が積極的に農業技術マニュアル書き、技術を共有しようとした時代でした。大蔵永常は前回紹介した『農具便利論』の著者でもあります。町家に奉公していた大蔵は、天明の大飢饉に苦しむ農家を目のあたりにして、暮らしの安定には換金作物の普及が重要と感じて農学を志したと云います。彼の農業への関心のスタートは、実家で祖父が行っていた綿の栽培でした。祖父は、町家でありながら農業にくわしく、なかんづく綿花栽培に優れた知識と経験があり「わが子を育てる心で臨んだ」と本書冒頭の「惣論」には書かれています。大蔵永常が力を入れた商品作物のなかでも、綿はとりわけ思い入れの深いものだったようです。
二葉が出たときに、綿の根元へ穴をあけ、菜種油やごま油の油かす、干鰯を入れるからです。これは高価なものでした。さらに、約2週間後に、鍬で筋を引き、人糞尿を薄めた「水肥」をやります。これを夏までに3回、施肥しますが、早くしないと葉だけ茂って実のつき方が少ないと言われました。
綿花は、肥料のやり方で収穫に大きな差が出たようです。それだけに栽培に知識と経験が必要でした。
間引きもする必要がありました。
まず種蒔きです。
綿の種は麦を刈った後に、その場所に蒔くのがいいとされました。まだ麦を刈り取っていないなら、麦の根によせて蒔く。そのために、まず麦を蒔くときの畦の作り方を、道具まで示して具体的に示しています。
種まき 大蔵永常の農業便利論
秩序正しく蒔いた麦は、その種の位置の通りに麦の穂が出ます。その麦の根に寄せて、綿花の種を蒔くのです。これは手間がかかりますが、麦と同時栽培を行うためには必要です。土や養分との関係で、作物どうしの組み合わせにも、経験的なノウハウがあったのかも知れません。

種を蒔く前に、綿で数珠つなぎになった種をばらばらにする作業から始まります。綿の繊維は丈夫で、それを分けるのは一苦労です。そのために使ったのが小便と薬灰です。灰を小便で溶き、それを種にまぶしてもむと、種はきれいに分かれる、と記します。小便と灰という組み合わせは、肥料の役目も果たすと記します。
そして水やりです。
綿花の成長には大量の水が必要でした。そのために水やりは欠かせません。たんごを担いでの水やりは重労働でした。その際に水を無駄にしないための用具が開発されます。
そして水やりです。
綿花の成長には大量の水が必要でした。そのために水やりは欠かせません。たんごを担いでの水やりは重労働でした。その際に水を無駄にしないための用具が開発されます。
綿花への水やり作業 大蔵永常の農業便利論
「小生(こおい)の綿に底穴桶(そこあなおけ)をもて水をかくる図」と記します。桶ひとつに水 15 リットル程度入れています。その底から布が垂れているのが見えます。別の挿絵を見てみましょう。 ・図版□ 底ぬけタンゴの桶 大蔵永常の農業便利論
これが底抜けタンゴ桶です。大蔵永常の農業便利論には、その使用方法と制作方法が絵図入りで紹介されています。これを見て底抜けタンゴを作って使用した人もいたはずです。それが技術伝播を早く、広くします。
堺市石津(1958年) 底抜けタンゴの底板の穴を棒で持ち上げ、効率よく散水する。
綿花は肥料にお金がかかりました

綿花は肥料にお金がかかりました
二葉が出たときに、綿の根元へ穴をあけ、菜種油やごま油の油かす、干鰯を入れるからです。これは高価なものでした。さらに、約2週間後に、鍬で筋を引き、人糞尿を薄めた「水肥」をやります。これを夏までに3回、施肥しますが、早くしないと葉だけ茂って実のつき方が少ないと言われました。
綿花は、肥料のやり方で収穫に大きな差が出たようです。それだけに栽培に知識と経験が必要でした。
間引きもする必要がありました。
15㎝ほとまで伸びたときに1,5mに10本ずつ残して他は捨てます。そして、油かすや干鰯を施肥すします。このように、様子を見ながら手入れを怠らないようにするのが綿作でした。その際に、どんな手入れが必要かを指導するのが農書でした。 江戸時代になると、知識と手間によって収穫量に違いが出てくることや、質の高さが市場を動かすことを農民達は学びます。そして彼らは、努力と知恵が人生を変える、という信念をもった百姓に育って行きます。
いよいよ収穫です。
糸繰り、糸紡ぎまで行う家もあれば、綿花のままで出荷する家もありました。さらに綿布にまで織り上げる集落も、あればそこまでおこなわない集落もあります。 大規模になってくれば、分業もすすんで、関係する人びとも多くなり底辺が拡がります。その広がりを箇条書きにしておきます。
①綿花栽培しかしない家は、綿仲買がやってきて、実をつけたままの綿花を問屋に売る。
②繰屋が多くの人を雇って、繰綿機で実を取り去り「繰綿」にする。その繰綿を問屋に売る。
③綿問屋は海運、陸運を使って各地方に販売する。
④受け取った先の荷主が店で売り捌く。
⑤店から「綿打」に出すと、綿弓で「打綿」にして、篠巻(篠竹に巻くこと)にする。
⑥これを糸に紡いで枠にかけ、「かせ糸」にする。
⑦かせ糸が仲買に売られ、さらに諸地方の織口 (織り人)に売られる。
⑧織口は縞木綿にする場合はこの段階で染め屋に出し、 染め屋からもどってきたものを織る。
⑨仲買が織所をまわって布になったものを買い集め、問屋へおろす。
⑩問屋から呉服屋へ行く。
⑪糸を染めずに織った白木綿は、仲買から仕入れ屋の手にわたり、 そこから染めや絞りなどに出してから、呉服屋へおろす。
①綿花栽培しかしない家は、綿仲買がやってきて、実をつけたままの綿花を問屋に売る。
②繰屋が多くの人を雇って、繰綿機で実を取り去り「繰綿」にする。その繰綿を問屋に売る。
③綿問屋は海運、陸運を使って各地方に販売する。
④受け取った先の荷主が店で売り捌く。
⑤店から「綿打」に出すと、綿弓で「打綿」にして、篠巻(篠竹に巻くこと)にする。
⑥これを糸に紡いで枠にかけ、「かせ糸」にする。
⑦かせ糸が仲買に売られ、さらに諸地方の織口 (織り人)に売られる。
⑧織口は縞木綿にする場合はこの段階で染め屋に出し、 染め屋からもどってきたものを織る。
⑨仲買が織所をまわって布になったものを買い集め、問屋へおろす。
⑩問屋から呉服屋へ行く。
⑪糸を染めずに織った白木綿は、仲買から仕入れ屋の手にわたり、 そこから染めや絞りなどに出してから、呉服屋へおろす。
このような綿花産業には裾野の広がりがありました。水常は次のように記します。
「綿は人手にかかる事十四、五段を経て用をなすもわたといや 綿花栽培のはじまりのなれば、国民をにぎはすの大益あり」
経済活性化とは、働く機会(人手にかかる事)が増え、多くの人が職を得ている状態です。輸入に頼れば国の支出ばかり増えるが、自分たちで働いて布を織り上げれば、国内で人を豊かにできる、と考えていました。彼の考える豊かさとは、いつでも仕事があり、汗水流して働き、多くの人が収入を得られるというものでした。
河内の綿織物業者と買付問屋
河内では豊かな百姓が、問屋(商人)と結びつき、問屋から原料や道具などを借りて、家内で手工業による綿織物をつくるようになります。木綿の問屋制家内工業の形成です。上図には、農家に織機をおき、織物を織っているところや綿織物を買いに来ている商人が描かれています。
綿づくりは、どのくらいの収入があったのでしょうか?
1反(約 0.1ha)あたり 30 ~ 40 貫(約 110 ~ 150㎏)の収穫でした。多くは、そのまま仲買人や操屋(くりや)(綿の種を取り去り繊維だけにする)に売ると、一反あたり、銀 240 匁ほどの売り上げになったようです。これを米に換算すると、ほぼ4石の値段と同じになります。当時は、上田でも一反あたり1,55 石くらいの収穫でした。綿花は米の倍以上の収入がある換金作物だったことになります。綿花栽培にチャレンジしていく意欲的な農民は、富裕になっていきます。一方で、そうでない農家は貧しいままで、村の中で農民の二極分裂が始まります。
綿の普及は江戸時代の経済を変えたとさえ云われます。この意味を最後に見ておきましょう。
綿布は、麻などのそれまでの繊維に比べるとはるかに丈夫でした。その丈夫さゆえに、17 世紀後半になると帆布として用いられるようになります。
松右衛門帆で航行する北前船(復元船)
A 当時の構造船技術の進歩で、大型の帆船が登場します。そうするとそれまでの菰や筵の藁による帆の船に比べて、綿の帆布は横風や逆風に強く、水夫の数も少なくて済み、航海の所要日数を短縮させる効果がありました。北前船などの遠距離航海が可能となったことで、廻船業が発達につながります。
綿布は、麻などのそれまでの繊維に比べるとはるかに丈夫でした。その丈夫さゆえに、17 世紀後半になると帆布として用いられるようになります。

A 当時の構造船技術の進歩で、大型の帆船が登場します。そうするとそれまでの菰や筵の藁による帆の船に比べて、綿の帆布は横風や逆風に強く、水夫の数も少なくて済み、航海の所要日数を短縮させる効果がありました。北前船などの遠距離航海が可能となったことで、廻船業が発達につながります。
B 綿糸は地引き網や船曳網に使用されるようになます。
漁網の改良は、鰯の漁獲量を増加させます。綿の栽培には多くの肥料を要することは、先述しました。地引き網で大量の鰯が獲れて、干鰯に加工され金肥として流通するようになります。綿花栽培と鰯漁は、ウインウインの関係になります。
漁網の改良は、鰯の漁獲量を増加させます。綿の栽培には多くの肥料を要することは、先述しました。地引き網で大量の鰯が獲れて、干鰯に加工され金肥として流通するようになります。綿花栽培と鰯漁は、ウインウインの関係になります。
C 阿波では、藍の生産が飛躍的に増大します。それは木綿の染料として需用が大幅に増加したことが背景にあります。
このように木綿産業の発展が新たな産業を生み出して行くことになり、社会を発展させる原動力になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中裕子 カムイ伝講義 小学館」
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田中裕子 カムイ伝講義 小学館」
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