塩飽諸島の本島については何回も取り上げてきましたが、その周辺の島々についてはあまり触れていません。坂出市市史(近世上29P)を見ていると、瀬戸大橋沿いの坂出市に含まれる塩飽の島々が載せられていました。これをテキストにして、見ていくことにします。
まず、塩飽諸島の一番北にある櫃石島です。
この島の頂上附近には、島の名前の由来とされる櫃岩があります。古代から磐座(いわくら)として、沖ゆく船の航海の安全などを祈る信仰対象となった石のようです。
櫃石島の磐座 櫃岩 (瀬戸大橋の真下)
瀬戸内海の島々に最初に定住したのは、製塩技術を持った「海民」たちでした。彼らが櫃石島周辺の島々の海岸で、製塩を始めます。櫃石島の大浦浜は、弥生時代の代表的な製塩遺跡です。
大浦浜遺跡(櫃石島)
瀬戸大橋工事にともなう大浦浜遺跡(櫃石島)の発掘調査からは、約20万点にもおよぶ製塩土器や塩水溜・製塩炉が見つかっています。
製塩土器
これは、もはや弥生時代の塩作りとは、規模やレベルそのものが違う生産量です。櫃石島には専業化した専門集団がいて、製塩拠点を構えていたことがうかがえます。この時期が備讃瀬戸の塩作りが最も栄えた時期で、その影響が塩飽諸島の南部や坂出の海岸部にも伝播してきます。これについては、坂出市史古代編が詳しく述べていますので省略します。古墳時代前期の製塩土器出土遺跡の分布
これらの製塩技術が渡来系の秦氏によって担われていたと考える研究者がいます。
西日本の土器製塩の中心地である備讃瀬戸(岡山・香川両県の瀬戸内海地域)周辺の秦系集団の存在が注目される。備讃瀬戸では弥生時代から9世紀前半まで盛んに土器製塩が行われ、備讃Ⅵ式製塩土器の段階に遺跡数と生産量(とくに遺跡一単位当たりの生産量)が増加する傾向がみられる。大量生産された塩は、畿内諸地域の塩生産の減少にともない、中央に貢納されるようになったと推測されているが、備前・備中・讃岐の三ケ国は、古代の秦氏・秦人・秦入部・秦部の分布の顕著な地域である。備讃Ⅵ式土器の出現期は、秦氏と支配下集団の編成期とほぼ一致するので、備讃瀬戸でも、秦系の集団が塩の貢納に関与したとみるべきかもしれない。
秦氏は製塩技術をもって島嶼部にまず定着して、その後に海岸部から内陸部に展開するという形をとることが多いようです。
讃岐の秦氏一覧表
古代讃岐にも秦氏の痕跡が多く見られます。そのなかでも高松の田村神社を氏神とした秦氏は、香川郡の開発に大きな痕跡を残しています。また、阿野北平野や坂出方面へ塩田を拡大しつつ、岡上がりしていく様子がうかがえます。奈良時代の塩作り
「海民」は、造船と操船技術に優れた技術を持ち、瀬戸内海や朝鮮半島南部とも活発な交易を行っていたことは、女木島の丸山古墳に葬られた半島製の金のネックレスをつけた人物からも推測できます。海民たちは、漁業と廻船業で生計を立て、古代から備讃瀬戸周辺を支配下に置きました。そして、時には東シナ海を越えて大陸方面にまで遠征していたこともあるようです。
太宰府流罪の菅原道真を載せた船(北野天満宮絵巻)
島の名前の由来とされる櫃岩には、この下に藤原純友が各地の国府を襲って奪った財宝が隠されているという伝説が残されています。そうすると櫃石島の「海民」たちも純友の組織する海賊(海の武士団)の編成下に入り、讃岐国府を襲ったのかも知れません。どちらにしても海の武士団として組織されるようになった海民たちは、中世になると備讃瀬戸に入ってくる船舶から通行料(関銭)をとるようになります。そのため海賊とも呼ばれました。
しかし、一方では航海術に優れ「塩飽衆」と呼ばれて海上輸送にその力を発揮、塩飽は備讃瀬戸ハイウエーのサービスエリア兼ジャンクションとして機能するようになります。瀬戸内海を行き来する人とモノが行き交い、乗り継ぎ地点としても機能します。塩飽を拠点とする廻船業に、活躍する船乗り達がいろいろな史料に登場します。
一遍上人絵伝に出てくる中世の船
こうして戦国時代になると、瀬戸内海に進出してきた信長・秀吉・家康などの中央権力は、塩飽衆のすぐれた航海技術や運送技術を、その配下に入れようとします。それがうかがえるのが塩飽勤番所に残された信長・秀吉・家康の朱印状です。これについては以前にお話ししました。櫃石島に話をもどします。
白峯寺の東西の十三重石塔(向こう側が櫃石島の花崗岩製)
中世の櫃石島の触れておきたいのは、この島が当時最先端の石造物製造センターであったことです。
中世の櫃石島の触れておきたいのは、この島が当時最先端の石造物製造センターであったことです。
最初に見たように櫃石島の磐座の櫃石は花崗岩露頭でした。その花崗岩で作られているのが、白峰寺の十三重石塔などの石造物と研究者は指摘します。それでは櫃石島で石造物を制作した石工たちは、どこからやってきたのでしょうか。
白峰寺の十三重石塔 左が花崗岩製で櫃石島製
讃岐の花崗岩製石造物は、白峯寺と宇多津の寺院周辺にしかありません。ここからは櫃石島の石工集団が、白峰寺などの特定の寺院に石造物を提供するために新たに編成された集団であったと研究者は考えています。その契機になったのが、京都の有力者による白峯寺への造塔・造寺事業です。白峰寺は崇徳上皇慰霊の寺として、京都でも知名度を高めていました。そして中央の有力者や寄進を数多く受けるようになります。
そのために花崗岩の露頭があった櫃石島に、関西地域からさまざまな系統の石工が呼び寄せられて石工集団が形成されたと云うのです。
その結果、それまでの讃岐の独自色とは、まったく異なるスタイルの花崗岩製石造物が櫃石島で作られ、白峰寺周辺に設置されたと研究者は考えています。
頓證寺殿の燈籠(花崗岩製で櫃石島製作)
ここでは、関西から新たな技術を持つ石工集団が櫃石島に定住し、白峯寺に石造物を提供するようになったことを押さえておきます。櫃石島は、中世には最新技術をもった石工集団の島でもあったことを押さえておきます。芸予諸島を拠点とした村上水軍が、その地盤を奪われ陸上がりしたり、周防大島の一部に封じ込まれたりして、海での活躍の場をなくしていったのは以前にお話ししました。それに比べると、塩飽衆は戦国時代以来の廻船業を続けていける環境と特権を得ました。それが「人名制」ということになるのでしょう。
江戸時代の櫃石島は、6人の人名(旧加子)がいて、庄屋の孫左衛門(高二石六斗、庄屋給分一石一斗)が治めていました。年末詳の「新開畑高之儀二付返答」(塩飽勤番所所蔵)には次のように記されています。
「櫃石嶋新開畠九反四畝は宮本伝右衛門代々所持仕り罷かり有り候、此儀櫃石嶋百姓得心の上二にて私先祖開作仕り則ち下作人の者共より定麦二石七斗年々私方へ納所仕り来り候処、紛れ御座なく候」
意訳変換しておくと
「櫃石嶋の新開畠九反四畝は、宮本伝右衛門が代々所有する土地で、このことは櫃石嶋の百姓も承知しており、私たち先祖開作の際に、下作人の者たちから麦二石七斗を毎年私方へめることになっていたことに間違い有りません。
ここからは櫃石島が、宮本伝右衛門によって開かれ、その影響下にあったことが分かります。
櫃石島の島の規模は、次のように記されています。
島回り一里五町(約4,6㎞)・東西五町半(約600m)・南北五町(500m)、在所(住居部分)長三六間(約65m) 横21間(約38m)
島はほとんどが山地で、集落(在所)は島の東南部分にありました。
近世の櫃石島の人口・戸数・船数などを史料でみておきましょう。
1676(延宝四)幕府巡見の記録には、次のように記します。
1676(延宝四)幕府巡見の記録には、次のように記します。
田畑高合四拾六石工升五合、家数合三十九軒、人数合百九十二人
、舟数五艘」 (竹橋余筆別集)
1713(正徳三)年の「塩飽島諸訳手鑑」には
家数五七件、水主役十人、人数三百人、船数十九艘)
これを見ると約40年の間に、戸数や人口が大幅に増えていることが分かります。その背景には船数の5艘から19艘の大幅増加がうかがえます。これを別の史料で見ておきましょう。
江戸時代前半には、櫃石島も廻船業務に携わっていたようです。
1685(貞享二)年「船二而他国参り申し候者願書ひかへ帳」「他国行願留帳」には、次のような記事があります。
一 塩飽ひついし九左衛門舟、出羽国へ参り申す二付き加子参り申し候願さし上、八、九月比罷的帰り判消し申すべく候丑二月三口 吹上 仁左衛門八月十一日ニ罷り帰り中し候、
意訳変換しておくと
一 塩飽の櫃石九左衛門の舟が出羽国へ航海予定のために、加子(水夫)として参加する旨の届け出があった。八、九月頃には帰国予定とのことである。丑二月三口 吹上 仁左衛門8月11日に帰国したとの報告があった。
この文書は内容は、櫃石島の廻船に吹上村の水夫が乗船し、出羽国酒田へ行く願書です。
同じような内容のものが、1689(元禄二)だけで6件あります。乗り組んだ船の内訳は、九左衛門の船が3件、三右衛門船が2件、七左衛門船が1件、孫七船が1件です。ここからは最低でも櫃石島から4隻の船が日本海に出港していたことが分かります。
どうして、櫃石島の船に備中吹上村の水夫が乗りこんでいたのでしょうか?
同じような内容のものが、1689(元禄二)だけで6件あります。乗り組んだ船の内訳は、九左衛門の船が3件、三右衛門船が2件、七左衛門船が1件、孫七船が1件です。ここからは最低でも櫃石島から4隻の船が日本海に出港していたことが分かります。
どうして、櫃石島の船に備中吹上村の水夫が乗りこんでいたのでしょうか?
1673(寛文十二)年の河村瑞賢による西廻り航路整備によって大阪・江戸と酒田が航路が開かれます。
この際に河村瑞賢は幕府に次のように進言しています。
「北連の海路は鴛遠、潮汐の険悪はまた東海一帯の比にあらず、船艘すべから北海の風潮に習慣せる者を雇い募るべし、讃州塩飽、直島、備前州日比浦、摂州伝法、河辺、脇浜等の処の船艘のごときは皆充用すべし、塩飽の船艘は特に完堅にして精好、他州に視るべきにあらず、その駕使郷民主た淳朴にして偽らず、よろしく特に多くを取るべし」(新井白石「奥羽海運記」)
意訳変換しておくと
「北前航路は迂遠で、潮汐の厳しさは東海の海とは比べようもない。使用する船は、総て北海の風潮に熟練した者を雇い入れること。具体的には讃州塩飽、直島、備前州日比浦、摂州伝法、河辺、脇浜などの船艘を充てるべきである。特に塩飽の船は丈夫で精密な作りで、他州の追随をゆるさない。その上、郷民たちも淳朴で偽りをしなし。よって(塩飽の船や水夫を)を特に多く採用すること」(新井白石「奥羽海運記」)
この建議にもとづいて、年貢米輸送の役目を主に命じられたのが塩飽の船乗りたち(塩飽衆)でした。こうして塩飽衆は、幕府年貢米(城米)の独占的輸送権を得ます。幕府からの指名を受けて塩飽船の需要は急増します。そのため船数の需要が多すぎて、水夫(加子)不足という事態が起きます。そこで塩飽船の船頭達は、周辺の下津井・味野・吹上、田ノ浦などの村々の港に、「水夫募集」を行ったようです。こうして塩飽船には、多くの備中の水夫達が乗りこむことになります。
櫃石島船への吹上村などからの乗船記録は、次の通りです。
1690(元禄 三)年 9件1694(元禄 七)年 4件1699(元禄十二)年 2件1700(元禄十三)年 3件1701(元禄十四)年 1件1702(元禄十五)年 なし
これらの船の行き先は出羽国酒田や、越中や能代でした。ただ、この期間の出航数をみると次第に減少しています。この背景には、元禄年間(1688~1704)から正徳年間(1711~16)にかけて、塩飽廻船の海難が増加と、幕府の政策転換があったようです。この時期に、塩飽側は幕府に次のように訴えています。
「西国北国筋より江戸江相廻候御城米船積之儀、残らず塩飽船仰せ付けさせられ船相続仕り候処に近年は御米石高の内少分仰せ下させられ候、之れに依り塩飽の船持共過半明船に罷かり成り困窮に及び船相続罷かり成らぎる次第に減り嶋中の者至極迷惑仕り候」(塩飽勤番所所蔵文書)
意訳変換しておくと
「西国や北国筋から江戸への城米船の運行について、かつては総て塩飽船を指名されていました。ところが近年は運送米石高の内の一部だけの指名となりました。そのため塩飽船の半分は荷物のないまま運行することになり、困窮に陥り、操業が続けられなくなって、塩飽の者たちは、大変迷惑しています」(塩飽勤番所所蔵文書)
塩飽の年寄り達は「塩飽廻船の城米船独占復活」を幕府に訴えています。しかし、「規制緩和」で「競争入札」し塩飽の独占体制を許さないというのが当時の幕府の方針ですから、受けいれられることはありません。こうして、18世紀になると、独占的な立場が崩れた塩飽廻船の苦境が始まることになります。
そんな中で、櫃石島のひとたちは、どんな道をたどったのでしょうか?
それが、それまでは人名達が手を出さなかった漁業のようです。高松城下町での魚の需要が増加すると、坂出沖の金手などの漁場へ出て行くようになります。また、廻船製造技術を活かした船大工としての活動も活発化しいきます。それはまた別の機会に。
そんな中で、櫃石島のひとたちは、どんな道をたどったのでしょうか?
それが、それまでは人名達が手を出さなかった漁業のようです。高松城下町での魚の需要が増加すると、坂出沖の金手などの漁場へ出て行くようになります。また、廻船製造技術を活かした船大工としての活動も活発化しいきます。それはまた別の機会に。
以上、櫃石島についてまとめておきます。
①弥生時代後期には、「海民」が櫃石島の大浦遺跡などに定着し、大規模な製塩をおこなっていた。
②中世になると海民たちは造船と操船に優れた技術を持ち、備讃瀬戸の通航権をにぎり海賊(海の武士)として活動を始めるようになった。
③また盤石「櫃石」は花崗岩で、畿内から送り込まれた石工集団が白峯寺の層塔などの石造物製作をこの島で行った。
④櫃石島の廻船業は近世になっても続き、幕府の城米船として活動する船が元禄時代には数隻以上いたことが記録から分かる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。