讃岐には中世には、凝灰岩の石切場が各地区に分散してあり、それぞれが石造物を生産していたことがこの分布図からは分かります。この中で有力なのは、東讃の火山と、西讃の弥谷寺・天霧山でした。
讃岐の中世石造物については、以前に次のように要約しました。
①第一段階に、火山系凝灰岩で造られた石造物が現れ、②第二段階に、白峰寺や宇多津の「スポット限定」で関西系石工によって造られた花崗岩製石造物が登場し③最後に、弥谷寺の石工による天霧石製の石造物が登場すること④天霧石製石造物は、関西系の作品を模倣して技術革新を行い、急速に市場を拡大したこと⑤その結果、中世末には白峯寺の石造物のほとんどを天霧系のものが占めるようになり、火山産や花崗岩産は姿を消したこと
天霧系・火山系・花崗岩製石造物の分布図
上の鎌倉・南北朝時代の分布図からは、天霧系と火山系の石造物が讃岐を東西に分ける形で市場占有していたことが分かります。その中で、五色台の白峰寺周辺には、櫃石島で作られた花崗岩系の石造物が集中しています。この背景については、以前に次のようにまとめました。
①白峯寺周辺の花崗岩製石造物の石材は、櫃石島の石が使われていること、②白峯寺十三重塔(東塔)などの層塔は、櫃石島に関西からの何系統かの石工たちが連れてこられて、製作を担当したこと④櫃石島の石工集団は近江、京、大和の石工の融合による新たな編成集団で、その後も定着し活動を続けたこと。④櫃石島に新たな石造物工房を立ち上げたのは、律宗西大寺が第1候補として考えられる。そのため傘下の寺院だけに、作品を提供した。そのひとつが白峰寺であった。
このようにしてみると、中世の讃岐の石造物制作の中心は、天霧山・火山・櫃石島の3つで、その中に豊島石は、含まれていなかったことが分かります。それでは、豊島系石工達の活動は、いつからなのでしょうか?県内で年号の確認できる初期の豊島石石造物は次の通りです。
①高松市神内家墓地の文正元年(1466)銘の五輪塔②長尾町極楽寺円喩の五輪塔(1497年)②豊島の家浦八幡神社鳥居(1474年)銘
これらの五輪塔には、火輪に軒反りが見られないので、15世紀中頃の作成と研究者は判断します。豊島石工の活動開始は15世紀半ば頃のようです。しかも、その製品の供給先は高松周辺に限られた狭いエリアでした。それが17世紀前半になると、一気に讃岐一円に市場を広げ、天霧石の石造物を駆逐していくようになります。その原動力になっていくのが17世紀になって登場する「豊島型五輪塔」です。これについては、前回にお話ししたので詳しくは述べませんが、要約すると次のようになります。
①豊島型五輪塔は、今までになく大型化したものが突然に現れること
②それはそれまでの豊島で作られてきた五輪塔の系譜上にはないこと、
③それは天霧系五輪塔を模したものを、生駒氏に依頼されて作成したために出現した
Ⅰ期 豊島型五輪塔の最盛期(17世紀)Ⅱ期 花崗岩の墓標や五輪塔、宝筐印塔の普及により衰退時期へ(17世紀後半)Ⅲ要 かろうじて島外への搬出が認められるものの減少・衰退過程(18世紀)Ⅳ期 造立は島内にほぼ限定され、形態的独自性も喪失した、(18世紀後半)
豊島型五輪塔の分布的特徴を見ていくことにします。
①西は琴平町、東は白鳥町にかけて広域的に分布する②東讃に集中し、三豊地域や丸亀平野には少ない
Ⅰ期に豊島型五輪塔が香川県西部に広がらなかったのは,どうしてなのでしょうか?
それは西讃にはライバルの石工達がいたからだと研究者は指摘します。天霧石を使う「碑殿型五輪塔」を制作する石工集団です。戦国末の戦乱で西讃守護代の香川氏が滅亡した際に、弥谷寺の石工達も四散したようです。近世になって、生駒氏が藩主としてやってきて、弥谷寺を菩提寺として保護するようになると、新たに天霧山東山麓の碑殿町の牛額寺奥の院に新たな石切場を開かせたようです。そして、生駒氏の求めに応じて石造物を提供するようになります。その代表作品が弥谷寺の生駒氏の巨大な五輪塔です。こうして香川県西部では、天霧石を使った近世五輪塔が今でも、多度津町、善通寺市、琴平町、豊中町などに数多く分布しています。これらの石材は、天霧山東麓の善通寺市碑殿か、高瀬町の七宝山の石材が使われたと研究者は指摘します。
碑殿型五輪塔も紀年銘がないものが多くて造立年がよく分かりません。そのため年代確認が難しいのでが、次の点から17世紀の作品と研究者は推測します。
碑殿型五輪塔も紀年銘がないものが多くて造立年がよく分かりません。そのため年代確認が難しいのでが、次の点から17世紀の作品と研究者は推測します。
碑殿型五輪塔(天霧石)
①火輪の形態から弥谷寺にある17世紀初頭の生駒親正墓の系統上にあること②この頃に多く現れるソロバン玉形をした水輪の形
つまり、17世紀初頭には、碑殿型五輪塔が西讃地方の五輪塔市場を押さえていたために、競合関係にあった豊島型五輪塔は西讃への「市場参入」が阻まれたという説です。豊島型五輪塔が西讃市場に入っていくのは、碑殿五輪塔が衰退した後のⅡ期以後になります。
弘憲寺生駒親正の墓
火輪の形態からは碑殿型五輪塔の系譜は、弘憲寺生駒親正の墓が想定されます。一方、豊島型五輪塔は志度寺生駒親正墓が想定できます。両者ともに生駒家関係の五輪塔になります。ここにも豊島五輪塔の出現には、生駒氏の関与がうかがえます。
豊島五輪塔の系譜
①分布の中心は東讃にあるが、高松地区や三豊地区にも拡大。②一方で、Ⅰ期に比べると造立数は大幅に減少。②丸亀平野には、見られない。
近世墓標の型式
それは花崗岩製の墓標の登場です。
姥ケ池墓地の墓標では、花崗岩製墓標は1640年代から確認され、60年代年代になると数を増します。そして、元禄期の1690年代には一般的に普及するようになります。こうして、18世紀には石材は、ほとんど花崗岩が用いられるようになり、豊島石の墓標は1割程度になります。つまり、この時期に五輪塔から墓標へ、豊島石から花崗岩へと主役が交代したのです。高松市法然寺の松平家墓所には多くの近世五輪塔がありますが、これらは全て花崗岩だと報告されています。
18世紀のⅢ期の終わりになると豊島五輪塔は、豊島の外には提供されることはなくなります。
島外に提供された最後の製品とされるのが、長尾町の極楽寺歴代住職墓地と寒川町蓮井家墓地に10基ほどの豊島製五輪塔です。一方でこの墓地には、花崗岩製の墓石も多く立っています。ここにも豊島製五輪塔から花崗岩製の墓石への転換がみえます。
極楽寺歴代住職墓では、44世宗栄の墓は豊島型五輪塔です。しかし、49世堅確(1737年没)以後の墓は花崗岩製の五輪塔に替わっています。ここからは、豊島型五輪塔が使われたのは18世紀前半までで、それから後は花崗岩製の五輪塔になったことがうかがえます。
蓮井家墓地を見ておきましょう。
蓮井家は1568年に土佐から讃岐に移り、寒川町の現在地に住んで、江戸時代には大庄屋を務めていた大富農です。蓮井家墓地は11基の豊島型五輪塔があります。家系図と照らし合わせると初代元綱(1603没)から4代家重(1711年没)までは、それぞれの墓標は見つからないようです。墓標があるのは、5代章長(1732)年没、6代孝勝(1768年没)の墓からで、これには砂岩製の宝筐印塔が使われています。7代孝澄(1816年没)以降は砂岩製の墓標になります。ここからは、墓石の見つからない初代から4代までは豊島型五輪塔が用いられた可能性があると研究者は考えています。
蓮井家墓地の墓石変遷は、極楽寺住職墓と同じように次のようになります。
16世紀前半までは豊島型五輪塔18世紀中頃からは砂岩製の宝筐印塔19世紀からは砂岩製の墓標
長尾町と寒川町のふたつの墓地からは18世紀前半に豊島型五輪塔から花崗岩か砂岩の墓石への変化があったことが分かります。そして18世紀中頃以降は、花崗岩よりも安価な砂岩の普及によって、豊島型五輪塔の販路は絶たれるようです。 そしてⅣ期になると、島外からの注文がなくなった豊島型五輪塔は、豊島内にだけのために作られます。しかし、豊島の石工達は五輪塔や燈籠の製作からは手を引きますが、その他の新製品を開発して販路を確保していきます。
「日本山海名産名物図会」に紹介されている豊島の作業場
その様子が「日本山海名産名物図会」(1799年刊行)に紹介されている豊島の作業場の姿なのです。ここでは「水筒(⑤⑧⑨)、水走(⑥)、火炉、へっつい(小型かまど④)などの類」の石造物が作られています。そして燈籠③は一基だけです。五輪塔や燈籠生産から日常生活関連の石造物生産に営業方針を切り替えて生き残っていたのです。以上をまとめておきます
①中世の墓石として、畿内は花崗岩製、阿波や土佐は板碑や自然石塔婆が用いられたが、讃岐では墓石として凝灰岩の五輪塔が主に用いられた。
②特に東讃の火山石と西讃の天霧石製が代表的な五輪塔であった
③その中で、生駒氏の保護を受けた天霧石の石切場が新たに牛額寺奥の院に開かれ活動を開始した
④そこでは生駒氏の求めに応じて巨大化したものが作成されるようになった。
⑤高松に作られた生駒氏関係の五輪塔を任された豊島系石工たちは天霧山の五輪塔を参考に、大型の五輪塔を造り出すようになった。これが豊島型五輪塔である。
⑥豊島型五輪塔の最盛期は17世紀で、この時期は墓標の出現期と重なり、墓制史において重要な画期であること
⑦17世紀中頃から五輪塔に替わって墓標が登場するが、それは花崗岩を用いたものだった。讃岐で最初の墓石は、花崗岩製だった。
こうしてみると、豊島型五輪塔とは中世以来の凝灰岩を用いた讃岐の伝統の中で、最終期に登場したものと云えるようです。凝灰岩の使用を中世的様相、花崗岩の使用を近世的と色分けするなら、中世的様相の最終場面での登場ということになります。
最後に墓制史として墓域(墓地)との関わりを見ておきましょう。
①豊島型五輪塔は、多くが墓地の中に建っている。②中世五輪塔は、今では墓地機能を失った所に残されていることが多い。
これをどう考えればいいのでしょうか
高松市の神内家墓地では、中世段階の墓域と近世以降の墓域では場所が違います。豊島型五輪塔は、近世以降の墓域の中に建てられています。さらに二川・龍満家の墓地では豊島型五輪塔を中心にして、次世代の近世墓標が形成されています。ここからは豊島型五輪塔が近世墓地の形成の出発点の役割を果たしていると研究者は指摘します。そういう意味では、豊島型五輪塔は中世的性格と、近世的性格を併せて持つ過渡期の五輪塔とも云えます。
そして、中世五輪塔とくらべるとはるかに大きく大型化します。その背景には五輪塔が個人や集団のシンボルとして受け止める墓への観念の変化があったようです。さらに、刻銘が重視される墓標の出現に向かうことになります。現在の墓標が登場する前の最後の五輪塔の形が東讃岐では、豊島型五輪塔だったとしておきます
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
松田朝由 豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討 香川県立埋文センター研究紀要2002年
東かがわ市歴史探究ホームページ 香川県の中世石造物の石材