天霧石造物とは、天霧山・弥谷山の石材(天霧石)で製作された石造物のことです。地元では十五丁石とも呼ばれています。弥谷寺を中心とする石造物の時代区分については、以前に次のように紹介しました。
今回は、1期の鎌倉時代についてより詳しく見ていくことにします。テキストは「松田朝由 鎌倉時代後期の天霧石石造物 四国中世史研究第10号(2009年)」です。
今回は、1期の鎌倉時代についてより詳しく見ていくことにします。テキストは「松田朝由 鎌倉時代後期の天霧石石造物 四国中世史研究第10号(2009年)」です。
鎌倉時代中期以前の天霧石石造物について
天霧石石造物の出現は、多度津町海岸寺層塔、善通寺市禅定寺(奥の院)層塔の二例から古代まで遡れるようです。しかし事例が少なく、これらは生産が本格化する前段階と研究者は考えています。それが鎌倉時代に入ると数が増加して、善通寺市犬塚、善通寺利生塔、善通寺市旧持宝院層塔(現在、京都府自沙村荘所在)などが姿を現します。


善通寺利生塔
善通寺利生塔は足利尊氏の利生塔とされますが、そのスタイルや形から鎌倉時代のものと研究者は指摘します。

鎌倉時代の石造物の中で研究者が注目するのが犬塚です。

旧持宝院十一重塔(現在は京都府自沙村荘所)
この利生塔と似ているのが、旧持宝院十一重塔です。時宝院(染谷寺)は、善通寺市与北町谷の地、如意山の西北麓にあったお寺で、現在は墓地だけが林の中に残っています。そして層塔は現在は京都府自沙村荘所に移されていることは以前にお話ししました。鎌倉時代の石造物の中で研究者が注目するのが犬塚です。
笠塔婆の犬塚
犬塚 大日如来を表す「バン」という梵字が刻まれている
犬塚は国立善通寺病院の東北の仙遊寺の近くにあります。徳治2(1307)年の『善通寺伽藍井寺領絵図』の中に描かれているので、13世紀以前のものと推測できます。高さ約2,5mの大きな天霧石で作られた笠塔婆(かさとうば)で、四方仏に大日如来を表す「バン」という梵字が刻まれています。笠塔婆は、塔婆の一種で、角柱状の塔身に屋根(笠)をのせたもので、仏像や梵字、名号などが刻まれ、側面に造立の願主や年号などが刻まれたもので、讃岐では東讃に多い石造物です。その中で年号が確認できるものを挙げてみると次の通りです。
犬塚は国立善通寺病院の東北の仙遊寺の近くにあります。徳治2(1307)年の『善通寺伽藍井寺領絵図』の中に描かれているので、13世紀以前のものと推測できます。高さ約2,5mの大きな天霧石で作られた笠塔婆(かさとうば)で、四方仏に大日如来を表す「バン」という梵字が刻まれています。笠塔婆は、塔婆の一種で、角柱状の塔身に屋根(笠)をのせたもので、仏像や梵字、名号などが刻まれ、側面に造立の願主や年号などが刻まれたもので、讃岐では東讃に多い石造物です。その中で年号が確認できるものを挙げてみると次の通りです。
①文永7(1170)年 筒野八面笠塔婆②弘安6(1283)年・9年(1286)の長尾寺笠塔婆③永仁3(1295)年 新川の笠塔婆④応安5(1372)年、永和2(1376)年の西教寺六角笠塔婆⑤応永8年(1401) 下り松庵の六地蔵笠塔婆
弘安6(1283)年の長尾寺笠塔婆
15世紀以降になると年号銘を確認できないようですが、製品は多く残っていて16世紀頃まで造られていたことが分かります。これに対して、香川西部では単製の笠塔婆はほとんどなく、善通寺の犬塚が唯一のものと研究者は指摘します。犬塚が造られた鎌倉時代中期の天霧石の工房では、その独自性が出来上がっておらず、東讃の石造物のコピーを作ったものと推測します。善通寺利生塔や旧持宝院層塔も同じように、天霧石造物のオリジナリテイーはまだ見えません。また、この時期の流通範囲も、多度津町、善通寺市など天霧山の生産地の周囲に限られていて、広域流通はしていないことを押さえておきます。 鎌倉時代後期における天霧石石造物について
それが鎌倉時代後期(13C末~14C初頭)になると、様相が変わってきます。年号が記されたものが一挙に増えます。特に1210~20年代に大きく増加します。それらを、五輪塔、宝塔、層塔、宝鐘印塔に分けて見ていくことにします。
この時期の五輪塔としては、次の4つがあります。
A 多度津町高見島五輪塔B 伝横尾時陰五輪塔C 善通寺市三帝廟D 岡山県笠岡市正顔五輪塔
①地輪は低く、水輪は荘重感があり、きれいな円形にならない。②火輪は軒が厚く外側にやや傾斜する③最も特徴的なのは空風輪で、空輪と風輪が分割成形で、一石でつくられないこと④空風輪を分割成形する地域として愛媛県松山市を中心に展開する凝灰岩(伊予の白石)の五輪塔があり、その時期は鎌倉時代中期からであること。
ここからは、天霧石石造物が伊予の白石の影響を受けたことが推測できます。しかし、その他の属性は異なるので、影響は一部に留まると研究者は考えています。ここで注目しておきたいのは、天霧石の石切場跡である弥谷寺の磨崖五輪塔と次のような共通点があることです。
①真反で外方にやや傾斜する火輪の軒、大きな空風輪が共通すること②火輪の軒が外方に傾斜する点は香川東部の石造物とも共通すること
この時期の天霧産の宝塔は、次の3つです。
A 丸亀市中津八幡神社B 多度津町光厳寺C 善通寺市三帝廟

A 丸亀市中津八幡神社の宝塔
特徴は①塔身を空洞に割り抜き、内部に石仏を安置すること。②正面には窓を穿つ例が多いこと③空洞にはしないが、塔身正而を方形に深く彫り窪め、内部に石仏を刻むこと。これは備中東部内陸部の花満岩製宝塔に事例あり。④首部は塔身と別石で組み合わす例が多いこと。これは対岸の岡山県五流尊龍院宝塔や広島県浄土寺宝塔に事例あり。こうしてみると宝塔は岡山、広島の花崗岩製宝塔との関係がありそうです。⑤相輪は伏鉢・請花と九輪から上位で分割成形されていること。この類例は他地域にはないようです。天霧石石造物は近世初頭まで分割成形の相輪が見られます。
層塔は天霧山の工房では、盛んに造立された石造物です
層塔は他の石造物に比べると背が高く、シンボル的な性格が強いものです。分布状況をみると、五輪塔、宝塔は丸亀市、多度津町、善通寺市、三豊市など天霧山周辺に集中しています。それに対して、層塔は高松市から観音寺市の香川西部の広域に点在します。また五輪塔、宝塔では周辺地域の石造物との共通点をもちながら、強い在地性が窺えました。これに対して、層塔は石造物の盛んな関西地域の形態をコピーしたものが多く、在地色が薄いようです。



この東西ふたつの塔については、以前に次のようにお話ししました。
①東塔(左)が弘安元年(1278)櫃石島産の花崗岩で作られたもので、頼朝寄進と伝来②西塔(右)が元亨4年(1324)天霧山凝灰岩製で、弥谷寺(天霧山)石工によるもの
中央の有力者が櫃石島の石工集団にに発注したものが東塔です。西塔は、それから約40年後に、東塔をコピーしたものを地元の有力者が弥谷寺石工に発注したものと研究者は考えているようです。ふたつの十三重石塔は、造立年代の分かる讃岐では貴重な石造物です。天霧の石工集団が畿内の先進石工の技術を真似て凝灰岩製の十三重の塔を作れるまでにレベルアップしていく姿がうかがえます。
一方で、西塔には次のような天霧石造物の独自性も見られます。
①は笠の一部と塔身、基礎の内部を空洞にしていること②これは、五輪塔、宝塔など天霧石石造物でも見られる特徴。③内部空洞化は室町時代以降も行われていて、岡山県西大寺層塔などにも見られ、天霧石石造物に多い特徴であること④観音寺市神恵院層塔の塔身や多度津町多聞院多宝塔には扉の表現が見られる。⑤その他、層塔は塔身の銘文、四仏の種子に独自性があるが、形態には在地色はあまり見られない。
次に宝医印塔は、天霧工房では室町時代以降は盛んに作られるようになります。
しかし、南北朝時代以前は他の石造物に比べてるとあまり作られていません。事例として京都府白沙村荘と善通寺市三帝廟になります。京都府白沙山荘宝医印塔については、以前に紹介しましたので省略します。ただ塔身に陽刻の月輪とその上位に縦連子が彫られています。これが室町時代後期以降の天霧石宝掟印塔になります。一方、三帝廟宝僕印塔の塔身には銘文、種子がありません。このような事例は室町時代以降の宝策印塔には見られないもので、「異質な事例」と研究者は評します。
基礎側面の三方には中心飾付格狭間があります。これは宝鐘印塔の他に宝塔、層塔、多宝塔の基礎にも見られる天霧石石造物に特徴的な文様です。このデザインが流行した背景は、木彫資料、建築資料との影響があるのではないかと研究者は推測します。
以上を整理しておくと
天霧石石造物は、五輪塔の空風輪は伊予の白石、宝塔塔身は岡山、広島の花崗岩製宝塔、層塔は関西地域の石造物との関わりがあったことが見えて来ます。つまり天霧石石工集団は、周辺の石工集団との交流があったということです。その中で研究者が特に注目するのは畿内の石工集団(中でも大和)との関わりです。
次のような大和の石造物の模倣品が天霧石石造物にあることを先ほど見ました。
A 高松市、坂出市に所在する摩尼輪塔(白峰寺)B 善通寺市三帝廟C 白峯寺十三重塔
Aの摩尼輪塔は高松市国分寺町新居や坂出市白峯寺にあります。これは正面に「下乗」の刻字がある摩尼輪塔で特徴的な姿をしていて、年号銘は元応2年(1321)と刻まれています。

これら摩尼輪塔の基になった作品として奈良県談山神社の摩尼輪塔があります。月輪状の円盤を正面に付けた笠塔婆であり、他に類例がありません。そのためこの石造物には直接的な関わりがあったと研究者は考えています。談山神社摩尼輪塔には乾元2年(1303)の年号があります。天霧石の白峯寺摩尼輪塔よりも18年古いことになります。ここからは天霧石摩尼輪塔は談山神社摩尼輪塔をコピーしたものという可能性が出てきます。しかし、請花、宝珠を分割成形する手法は天霧石石造物の特徴で、細かな部位は天霧石石工の個性が出ていると研究者は評します。

白峰寺摩尼輪塔
これら摩尼輪塔の基になった作品として奈良県談山神社の摩尼輪塔があります。月輪状の円盤を正面に付けた笠塔婆であり、他に類例がありません。そのためこの石造物には直接的な関わりがあったと研究者は考えています。談山神社摩尼輪塔には乾元2年(1303)の年号があります。天霧石の白峯寺摩尼輪塔よりも18年古いことになります。ここからは天霧石摩尼輪塔は談山神社摩尼輪塔をコピーしたものという可能性が出てきます。しかし、請花、宝珠を分割成形する手法は天霧石石造物の特徴で、細かな部位は天霧石石工の個性が出ていると研究者は評します。
善通寺三帝廟は後嵯峨、亀山、後宇多の三帝の供養塔で、五輪塔、宝慶印塔、宝塔の三基が並んでいます。


善通寺三帝廟
この三基について研究者は次のように指摘します。
①天霧系石造物にはない反花式基壇が見られ、諸属性も在地品と異なる点が多い②特に五輪塔水輪は最大幅を中位にとる整った円形で、壷形、筒型の多い天霧石五輪塔とはタイプが異なる。③整った円形の水輪は、大和の特徴なので、これらも大和石造物のコピーである可能性が強い④宝掟印塔の笠からも大和との関わりが推測される⑤しかし、大和の石造物そのものではなく、五輪塔空風輪、宝塔塔身などに天霧石の独自性が見られる
以上から善通寺市三帝廟の石造物も大和石工集団の技術やデザインを学んだ天霧石工集団の手によるものとします。
最後に白峯寺西院の東西二基の十三重塔を見ておきましょう。
この二つの塔については、東塔が弘安元(1278)年の花崗岩製で、大和の石工の手によるものとされます。それと並んで建つ西塔は天霧石製で(元享4(1324)年の銘があります。之については先ほども述べたように先に姿を現した花崗岩製のものを、天霧石工達がコピーして作ったものと研究者は考えています。以上のようには、天霧石工達は、大和の石造物の模倣を通じて技量を高め表現の幅を拡げていったことがうかがえます。改めて確認しておきたいのは、大和の石工がやってきて天霧石を用いて製作したのではなく、天霧石工集団によって製作されたことです。
モデルになった大和の石造物については、談山神社摩尼輪塔は近くに花崗岩製層塔があり、伊行元の石工銘が残っています。この層塔の造立年は永仁6(1298)年で談山神社摩尼輪塔と年代的に近いものです。ここからは談山神社摩尼輪塔も伊行元によって作られた可能性があります。
花崗岩製層塔が瀬戸内海各地に広がりを見せるのは1290年代以降のことです。
白峰寺に花崗岩製の十三重塔が姿を見せるのは、弘安元年(1278)年のことなので、それよりも10年以上早いことになります。他に先駆けて登場しているのです。一方で、大和・山城の層塔を見てみると、同じ時期(弘安元年)の層塔には京都府法泉寺十三重塔があり、そこには猪末行の石工銘が記されています。白峯寺の花崗岩製十三塔に大和石工が関わっていることをうかがわせるものに最上段の壇上積基壇を研究者は指摘します。壇上積基壇のある石造物は大和石工が好んで採用したものです。ここから研究者は「白峯寺花崗岩製十三塔は大和石工によって出張製作されたもの」と推察します。
白峰寺に花崗岩製の十三重塔が姿を見せるのは、弘安元年(1278)年のことなので、それよりも10年以上早いことになります。他に先駆けて登場しているのです。一方で、大和・山城の層塔を見てみると、同じ時期(弘安元年)の層塔には京都府法泉寺十三重塔があり、そこには猪末行の石工銘が記されています。白峯寺の花崗岩製十三塔に大和石工が関わっていることをうかがわせるものに最上段の壇上積基壇を研究者は指摘します。壇上積基壇のある石造物は大和石工が好んで採用したものです。ここから研究者は「白峯寺花崗岩製十三塔は大和石工によって出張製作されたもの」と推察します。
ここでは、天霧石石工が模倣したお手本は、大和の石造物であったことを押さえておきます。

次に大和の石造物を模倣した天霧石石造物の造立背景を見ておきましょう。
今見てきたように、摩尼輪塔・十三重塔は白峯寺と、三帝廟は大覚寺統善通寺と関わる石造物といえます。 白峯寺は崇徳上皇の墓所であり、中央要人達の信仰を集めるようになっていたことは以前にお話ししました。そうすると、大和の石造物の模倣は天霧石石工の好みではなく、造立依頼者が天皇家をはじめとする中央要人達で、その好みに応えるために大和石造物の模倣が行われた可能性があります。
香川の畿内色の強い石造物として宇多津町円通寺の五輪塔があります。この五輪塔は花崗岩製で銘文はありませんが形やスタイルから鎌倉時代後期の造立と推測できます。
宇多津町円通寺の五輪塔
円通寺の花崗岩製五輪塔
最下段には壇上積基壇があり、白峯寺花崗岩製十三重塔と同じ様に大和石工によって出張製作された可能性があります。円通寺は細川氏の守護所とされてる寺院で、中央との繋がりがうかがえます。
以上を整理してまとめておきます。
①鎌倉時代中期の白峯寺と円通寺は中央と深いつながりがあった②そこには大和石工が出張製作した花崗岩製の石造物が造立された③このような香川と大和の石造物・石工の関わりを背景として、14世紀初頭になると地元の天霧石石工は大和石工の製作した石造物を模倣して畿内風の石造物を製作するようになった。
参考文献
松田朝由 鎌倉時代後期の天霧石石造物 四国中世史研究第10号(2009年)」
参考文献 「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」
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参考文献 「松田 朝由 弥谷寺の石造物 弥谷寺調査報告書(2015年)」
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