「寺々由来」の成立時期を探る手掛りを、研究者は次のように挙げていきます。
この書には、松平家の御廟所法然寺のことが書かれていません。前回もお話ししたように仏生山法然寺は那珂郡小松庄にあった法然上人の旧蹟生福寺を、香川郡仏生山の地に移したものです。建設は寛文八(1668)年に始まり、2年後の正月25日に落慶供養が行われています。その法然寺がこの書には登場しないので、寛文十(1670)年より前に成立していたと推測できます。ところが、ここで問題が出てきます。それはこの時に創建されていたはずの寺でも、この書には載せられていない寺があるのです。それを研究者は次のように指摘します。
①「仏生山條目」の第23條に「頼重中興仁天令建立之間、為住持者波為報恩各致登山法夏可相勤之」と定められた浄上宗の國清寺・榮國寺・東林寺・真福寺。②頼重が万治元年に寺領百石を寄進し、父頼房の霊牌を納め、寺領三百石を寄進して菩提寺とした浄願寺③明暦四年に、頼重が百石寄進した日光門跡末天台宗蓮門院④頼重が生母久昌院の霊供料として寛文八年に百石を寄進した甲州久遠寺末法花宗廣昌寺
このように頼重に直接関係する寺々が、この書には載せられていないのです。これをどう考えればいいのでしょうか? その理由がよく分りません。どちらにしても、ここでは、法然寺の記載がないからと言って、本書成立を寛文十年(1670)以前とすることはできないと研究者は判断します。
結論として、本書の成立は寛文十年よりやや遅れた時期だと研究者は考えているようです。
その根拠は、東本願寺末真宗寒川郡伝西寺の項の「一、寺之證檬(中略)十五代常如上人寺号之免書所持仕候」という記述です。ここに出てくる常如という人物は、先代琢如が寛文11年4月に没した後を受けた人になります。(「真宗年表」)。そうすると、この書が成立した上限は、それ以後ということになります。また下限は、妙心寺末禅宗高松法昌寺は延宝三年十一月に賞相寺と改められます(「高松市史」)。しかし、この書には、法昌寺の名で載っています。また、延宝四年に節公から常福寺の号を与えられて真宗仏光寺派に属した(「讃岐国名勝国合」)絲浜の松林庵が載っていません。ここからは延宝2年頃までに出来たことが推測できます。
その根拠は、東本願寺末真宗寒川郡伝西寺の項の「一、寺之證檬(中略)十五代常如上人寺号之免書所持仕候」という記述です。ここに出てくる常如という人物は、先代琢如が寛文11年4月に没した後を受けた人になります。(「真宗年表」)。そうすると、この書が成立した上限は、それ以後ということになります。また下限は、妙心寺末禅宗高松法昌寺は延宝三年十一月に賞相寺と改められます(「高松市史」)。しかし、この書には、法昌寺の名で載っています。また、延宝四年に節公から常福寺の号を与えられて真宗仏光寺派に属した(「讃岐国名勝国合」)絲浜の松林庵が載っていません。ここからは延宝2年頃までに出来たことが推測できます。
鎌田博物館の「諸出家本末帳」と「寺々由来書」を比較してみて分かることは?
高松藩で一番古い寺院一覧表①「御領分中寺々由来書」を観てきましたが、これと「兄弟関係」にあるのが鎌田共済会図書館の②「諸出家本末帳」です。この書は昭和5年2月、松原朋三氏所蔵本を転写したことを記す奥書があります。しかし、原本が見つかっていません。この標題の下に「寛文五年」と割書されているのは、本文末尾の白峯寺の記事が寛文五年の撰述であるのを、本書全体の成立年代と思い違いしたためで、本文中には享保二(1717)年2月の記事があるので、その頃の成立と研究者は判断します。成立は、「由来書」についで、2番目に古い寺院リストになります。両者を比べて見ると、内容はほとんど同じなので、同じ原本を書写した「兄弟関係」にあるものと研究者は考えています。両者を比べてみると、何が見えてくるのでしょうか? まず配列について見ていくことにします。
由来帳と本末帳の各宗派配列
上が①の由来書、下が②の本末帳で、数字は所載の寺院数です。①大きい違いは、「由来書」では浄土・天台・真言・禅・法華・律・山伏・一向の順なのに、「本末帳」では、一向が禅宗の次に来ていること。
②真宗内部が「由来書」では西本願寺・東本願寺・興正寺・東光寺・永応寺・安楽寺の順なのに、「本末帳」では興正寺・安楽寺・東光寺。永応寺・西本願寺・東本願寺の順序になっていること
これは「本末帳」は一度バラバラになったものを、ある時期に揃えて製本し直した。ところが欠落の部分もあって、元の姿に復元できなかったと研究者は考えています。
③掲載の寺院数は、両書共に浄土8・天台2・律12・時宗1・山伏1です。真言は105に対して59、禅宗は7と5、 真宗は129に対して121と、どれも「本末帳」の方が少いようです。
④欠落がもっとも多いのは真言宗で、仁和寺・大覚寺とも「本末帳」は「由来書」の約半数しかありません。これも欠落した部分があるようです。
「由来書」と「本末帳」の由緒記述についての比較一覧表が次の表3です。
「由来書」と「本末帳」の由緒記述の比較
上下を比べると書かれている内容はほとんど同じです。違いを見つける方が難しいほどです。ただ、よく見ると、仁和寺末香東郡阿弥陀院(岩清尾八幡別当)末寺六ヶ寺の部分は配列や記述に次のような多少の違いがあります。①の円満寺については「由来書」にある「岩清尾八幡宮之供僧頭二而有之事」の一行が「本末帳」にはありません。
③の福壽院について「本末帳」には、「はじめ今新町にあり、寛文七年、中ノ村天神別当になった」と述べていますが「由来書」には、それがありません。
⑤の薬師坊について「由来書」には「原本では記事が消されている」と断書しています。「本末帳」では、そこに貼紙があり、「消居」というのはこの事を指すようです。
⑥の西泉坊については、「由来書」には記事がありますが、「本末帳」にはありません。
全般にわたって見ると、多少の違いがありますが、内容は非常ににていることを押さえておきます。
研究者は表4のように一覧化して、両者の異同を次のように指摘します。
①志度寺の寺領は江戸時代を通じて70石でした(「寺社記」)。ところが「由来書」は40石、「本末帳」は50石と記します。「由来書」成立の17世紀後半頃は、40石だったのでしょうか。
②真言宗三木郡浄土寺の本尊の阿弥陀如来について「由来書」は安阿弥の作と記します。「本末帳」は「安阿弥」の三字が脱落したために「本尊阿弥陀之作」となってしまっています。
④法花宗高松善昌寺について、「由来書」は「日遊と申出家」の建立、「本末帳」は「木村氏与申者」の建立と記します。建立者がちがいます。
⑤真宗南条郡浄覚寺は「由来書」は「開基」の記事だけですが、「本末帳」では「開基」とともに「寺之證檬」とあります。
⑥の真宗北条郡教善寺(「本末帳」は教専寺)、⑦の真宗高松真行寺の例を見ても、真宗寺院の記事は、ほとんど例外なく「開基」と「寺之證拠」の二項があります。
⑧真宗高松覚善寺、⑨の徳法寺ともに「本末帳」では「寺之證拠」が貼紙で消されています。なお真宗の部で、「由来書」では例外なく「一、開基云々」とあるのを「本末帳」では「一、寺開基云々」とし、また「由来書」では「以助力建立仕」を「本末帳」では「以助成建立仕」という表現になっています。以上から、州崎寺の本は鎌田図書館本の直接の写しではないと研究者は判断します。
以上をまとめておくと
①「御領分中宮由来」と「御領分中寺々由来書」は、寛文九(1668)年に高松藩が各郡の大政所に寺社行政参考のために同時期に書上げ、藩に提出させたものとされてきた。
②法然寺が載せられていないので、法然寺完成以前に成立していたともされてきた。
③しかし、法然寺完成時には姿を見せていた寺がいくつか記載されていない。それは、松平頼重に関連する寺々である。
④以上から法然寺完成の1670年以前に成立していたとは云えない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「松原秀明 讃岐高松藩「御領分中寺々由来(ごりようぶんちゆうてらでらゆらい)の検討 真宗の部を中心として~四国学院大学論集 75号 1990年12月20日発行」
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