瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐の武将

香西氏と
香西寺の「天正年間香西氏居城古地図」には、香西氏の勢力下にあった城館が次のように描かれています。
勝賀城周辺の城

隅櫓を溝え土塀を巡らした勝賀城の城郭
東麓に堀を巡らす佐料城
岬状に突出した柴山城
天神川沿いの小山に藤尾城と作山城
内間城(香西氏累世の要城)
北麓庄吉川をのぼって植松城(加藤兵衛)
南方に連らなる袋山の鬼無城(香西兵庫)
これらを見回すと、香西氏の関心が平野部よりも、むしろ海に向かって開かれていたような気がすることは前回お話ししました。今回は、その中から佐料城跡を見ていくことにします。
佐料城は勝賀山築城の時に、山麓の居城として同時期に築かれたと伝えられます。
「詰の城」の勝賀城に対し、佐料城は里城の役割をもっていて、日常の居館の構造形式を備えていたと研究者は考えています。天正3 (1575) 年に、18代佳清が藤尾城を築き、移り住むまで約350年間、香西氏の拠点であったことになります。

佐料城周辺図
香西氏の居館 佐料城跡周辺図

城跡は、鬼無町佐料にあって、旧国道11号線から250ほど西に入った佐料公会堂の北側一帯にあたります。ミカン畑の一角には堀跡が残り、周辺にも城跡の名残りがあります。地形的には、新池に向かって下ってきた尾根が平地に至る尾根先端部にあたります。南北側は緩い谷状で、微高台地の上に位置します。
城の痕跡を地図で見ておきましょう。
1の「城の内」には人家があり、 堀跡を「内堀」と呼ばれます。「内堀」は明治初期の佐料地引図面(高松市役所鬼無出張所蔵)にも記されています。
2の北西隅に「北堀」の屋号を持つ家。
3の北東角は「御屋敷」「せきど」)
4の公会堂横に「城の本家」の屋号の家
8の南東一角には「城の新屋」の屋号の家
5は「城の内」から北へ200mほどのミカン畑の中にある「城の台」
6は、西へ200m の貴船神社で、その北側の谷あいが「馬場の谷」
7は東へ200mの、 国道11号線に接して「東門」の屋号の家
さらに南へ200mの市道交差点が「泉保池」で、城で使用する水がここで確保されたと伝えられます。
以上の古地名や屋号からは、ここに中世の武士居館があったことを示します。

佐料城地籍図
佐料城の縄張復元を見ておきましょう。
香西氏佐料城跡 内堀

①「城の内」 の堀跡は、幅4~5m、長さ約 80mで L字形に折れた形状
②「城の内」周辺の細長い地目と一段低い地形、「北堀」などからもともとは正方形状に囲む形
③「城の内」は65m前後四方の広さ。
④南東隅に「南海通記」の著者・香西成資の父植松吉兵衛時蔭の募碑(慶安 2・1649年)
⑤その近辺に来歴不明の社祠2基

勝賀城 佐料城 黄峰城 十河城 前田城 由佐城 神内城 余湖

以上のような情報から佐料城跡の縄張を研究者は次のように考えています。
①「城の内」は堀を伴う方形館な形状
②主要部の郭と前面の郭、連接した2郭の複郭式館跡、
③2郭を堀が巡っているので、単堀複郭式の縄張形式
城の要 - 岡山県ホームページ


中世前半期の方形館は、約1町の規模が普通です。佐料跡は、それより少し小さく見えますが、南の1郭を加えると120×130 mになるので、見劣りするものではないと研究者は考えています。

飯山国持居館1
中世の武士居館モデル

 単郭方形館から複郭式方形館への推移期は、鎌倉末~室町初頃とされます。この城跡の縄張形式が示す年代もほぼその時期に当てはまります。累代の居館となって何度かの改築、再改築が加えられたのでしょう。
 最後に佐料城跡をもう少し具体的にイメージするために、西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)の中世居館を見ておきましょう。
 
中世武士居館 「西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)
西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)は、東大寺領木本西庄だったところで、弥生時代から江戸時代にかけての遺構や遺物が確認されているようです。1977(昭和52)年の発掘調査によって、鎌倉時代後期から室町時代にかけての住居の遺構が発見さました。約15m×10mと大きい基壇を持つ、堀立柱建物跡が出てきています。 中世にこれだけの規模の建物を造れるのは、武士をおいてほかにいません。これを武士居館と研究者は考えています。周辺には、井戸や馬場、柵・墓などもあります。佐料城跡も、このような武士居館に近かったのではないかと私は考えています。
 戦国大名は山城を居城化することが多いのですが、日常的に暮らす平地に設けられた館の構成は基本的に同じであることが分かって来ました。
勝瑞城館跡
阿波海瑞城復元図
越前の一乗谷朝倉氏館、豊後の大友氏館(豊後府内)、阿波の勝瑞(三好氏館)などで発掘調査で、分かってきたのは池のある庭園を持った共通の構造であることです。岐阜城の麓にある織田信長の館でも、大規模な庭園があったことが近年の発掘調査で分かってきました。ここでは、信長が安土城を築いて、天守に象徴される近世城郭モデルが普及するまでは、「花の御所」モデルの室町幕府の館が規範スタイルであったことを押さえておきます。戦国期までは、幕府に連なること、そして武士の頂点である将軍と同様の館を築くことが、在地領主としてのステイタスシンボルだったようです。そう考えると、国衆レベルの香西氏の佐料城(居館)も西ノ庄Ⅱ遺跡(和歌山市)と共通するところが多かったと私は考えています。ちなみに「勝賀城調査報告書2022年」には、佐料城以外の周辺城館については次のように記されています。
2.藤尾城跡
 藤尾城跡は、勝賀山東麓に所在する。城跡は標高約20mで、神宮寺山から北東に延びる尾根の先端に位置する。現在は宇佐八幡神社によって改変されており、縄張り等の構造は不明である。 『南海治乱記』には、天正3(1575)年に香西氏が藤尾山にあった八幡宮を遷し、築城したと記されている。発掘調査が行われたが、中世の遺構は検出されておらず、近世~近代の遺構が 確認された(高松市教委編2008)。包含層から中世に遡る丸瓦が出土したが、藤尾城跡と比定できるものではなく、他にも13~14世紀の遺物が包含層から出土していることから、藤尾城築城前後の八幡宮に伴うものである可能性も考えられる。

3.作山城跡  
作山城跡は、勝賀山東麓に所在する。城跡は標高約16mで、薬師山から北東に延びる丘陵 の先端に位置する。現在は開発によって破壊されており、縄張り等の構造は不明である。発掘 調査が行われたが、中世の遺構は検出されておらず、近世~近代の遺構が確認された(高松市 教委編2008)。
4.芝山城跡  
芝山城跡は、勝賀山の北側、標高44mの芝山の山頂部に位置する。山頂部の南端は芝山神 社によって改変されており、中世山城の遺構として可能性があるのは、山頂部中央にある約 30 ×20mの方形状の削平地のみである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
勝賀城跡 1979年 髙松市教育委員会
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HPTIMAGE

勝賀城が国の史跡に登録されました。そのための準備作業として調査報告書が刊行されています。第三巻は総括報告書(考察篇)で、以下のような内容です。

勝賀城調査報告書 目次

ここには香西氏をとりまく情勢だけでなく、讃岐全体を視野に入れた記述がされています。例えば、天霧合戦や元吉合戦などについても、従来の南海通記などの軍記ものに頼らない歴史叙述です。これは20世紀後半から歴史家たちが目指してきた方向です。それが、ある意味で実現しています。讃岐中世史叙述の新たな展開ともいえる出版物だと私は思っています。この調査報告書を読書メモとしてアップしていきます。今回は、香西氏の瀬戸内海へ乗り出していく過程を見ていくことにします。テキストは「勝賀城跡Ⅲ 総括報告書(考察篇)18P 髙松市教育委員会2022年」です。 

ヤマト政権以来の中央政権は、瀬戸内海交通路を押さえることが重要な政治戦略の一つになります
そのためいろいろな対応をとってきました。例えば、ヤマト政権は吉備や讃岐の有力勢力と結びつくことで、瀬戸内海の権益を確保し、それが古代の国家形成につながっていきます。また、平清盛以後も瀬戸内海交易路の確保のために、次のように伊予に拠点を確保しようとしています。

瀬戸内海航路の掌握2

瀬戸内海の有力者を巧みに利用して、瀬戸内海を確保するという政治的戦略を実現していきます。中央政府が備讃瀬戸確保のために利用されたのが香西氏だという見方も出来ます。そういう視点から香西氏の備讃瀬戸進出を見ていくことにします。

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勝賀城周辺4
 勝賀山の北麓に瀬戸内海に面して海浜集落がいくつかありました。これが香西浦です。その中に本津川の下流域の河口を利用する湊が形成されます。兵庫北関入船納帳の讃岐の湊中に「香西」や「幸西」と表記された船が出てきます。この香西浦を支配したのが佐料城を居城としていた香西氏です。香川氏や安富氏のように香西氏も香西浦を拠点として、瀬戸内海に進出することで経済的基盤を固めていきます。
香西氏が海に出ていくきっかけを要約しておくと次のようになります。

香西氏の瀬戸内海進出のきっかけ

①平安時代末期になって国家の支配体制が弛緩し、瀬戸内海で海賊が横行
②海賊追補の下知が出されるも成果は挙がらず
③そこで中央政府は、有力豪族を追補使に任命して、鎮圧をはかりる
④これを契機に平氏は西国へ勢力を伸ばし、瀬戸内海の在地武士と結びつき、政権基盤強化
⑤日宋貿易と瀬戸内海交易で、平清盛は巨大な富を築き、平家全盛へ
⑥平氏を滅ぼした源氏は鎌倉に幕府を開くが、西国に基盤を持たないため、瀬戸内海地域では海賊がまたも横行
⑦鎌倉幕府は西国沿岸の地頭に海賊を召し捕るように命じた。
⑧寛元 4(1246)年 3 月、讃岐国御家人の藤左衛門尉は海賊を搦め捕り六波羅探題へ送った(『吾妻鏡』寛元 4 年 3 月 18 日条)。
⑧の吾妻鏡の記述を『南海通記』(1719年)は、次のようにフォローします。

藤ノ左衛門家資は香西浦宮下に勢揃いし、手島比々より押し出し捕虜百余人を六波羅探題へ送った。その功績により讃岐諸島の警護役に任じられ、直島と塩飽に息子を置いて統治した。これが、直島の高原氏、塩飽の宮本氏の祖と伝える(『南海通記』巻廿一)。

ここでは吾妻鏡に、海賊退治に活躍した藤左衛門尉が、香西家資とされています。そして、香西浦の宮下から船を出して海賊盗伐に出陣したこと、その功績によって「讃岐諸島の警護役」に任命されたとあります。『南海通記』は享保 4(1719)年に香西成資が古老からの聞き書きを基に著した書です。祖先の香西氏の功績を過大評価するなど、史料的に問題があることはこれまでにもお話しした通りです。

讃岐綾氏から羽床氏へ

 吾妻鏡に出てくる「藤左衛門尉」は、古代綾氏の流れを汲むという讃岐藤原氏の一門のようです。それが香西家資だと云うのです。「古代の讃岐綾氏 → 讃岐藤原氏 → 羽床氏 → 香西氏」という流れを南海通記は強調します。ここでは香西氏が香西浦を拠点にして、備讃瀬戸にでていくのが鎌倉時代の海賊盗伐が契機になったという説を押さえておきます。
それから約200年後のことです。
応永 27(1420) 年に、李氏朝鮮の官人宗希璟が回礼使として日本を訪れます。
その紀行文『老松堂日本行録』に、瀬戸内海の海賊が出てきます。海賊衆は海賊行為を行わない代わりに海上警固と称して、酒肴料・中立料などの名目で警固料をとっていました。宗希璟が京都からの帰途、備前沖を過ぎる時に護送の一員であった謄資職が乗船してきて酒を飲んでいます。これは酒肴料を支払ったことを示すものです。「謄資職=香西資載」のことで、当時の香西浦付近を航行する船の警固衆だったというのです。そうだとすると、香西氏は塩飽・小豆島を含む備讃瀬戸一帯の通航権を握っていたこと、その基地が香西浦にあったことになります。以上を整理しておきます。
①鎌倉期から香西氏は目の前の備讃瀬戸一帯へと勢力を伸ばした
②その拠点となるのが香西浦だった
③香西浦は軍港と商港を兼ね合せた湊で、船が多数係留されていた
④船と水運に関わる人々によって形成された集落が早い段階から香西浦に出現していた。
 ここからは香西氏が、備讃瀬戸一帯に勢力を伸ばし、交易や海上輸送を行う一方で、警固役と称して警固料を徴収するなどして莫大な利益をあげていたことがうかがえます。その拠点となる香西浦にも、多数の軍船や輸送船が停泊していたということになります。
 
   南海通記の「香西氏が塩飽を支配下に置いていた」という説に対する疑問
しかし、史料的には香西氏が塩飽や小豆島を支配下に置いていたと云うことを裏付けることはできません。史料が語るのは次のようなことです。
①管領細川氏は、従来は宇多津と塩飽の管理権を、西讃守護代の香川氏に与えていた。
②文安2年(1445)に、宇多津・塩飽の港湾管理権を、香川氏から安富氏に移管させた。
③文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家へ、兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるようにとの通達が送られている。
④ここからは塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、安富氏の管理下に置かれていたことが分かる。
香西氏が浦代官を派遣し管理権を握っていたのは仁尾なのです。塩飽は安富氏の管理下にあったことは以前にお話ししました。
 以上からは南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということをそのままは信じることはできません。時期を限定しても15世紀後半以後は、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。そして、南海通記は香西氏が仁尾の管理権を持っていたことについては何も触れていません。 

塩飽の支配権推移

   その後の塩飽をめぐる管理権を見ておきましょう。
 香西氏によって管領細川政元が暗殺されます。これによって細川氏内部での抗争が展開し、「永世の錯乱」という大混乱に陥ります。その中で台頭してくるのが周防の大内氏です。永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。大内義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権を握ろうとします。そのために、海賊(海の武士団)村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。
   永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         (細川)高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から能島村上氏へと移ったのです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここでは16世紀初頭には、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させ、塩飽は村上水軍の管理下に置かれたことを抑えておきます。ここでも香西氏による塩飽支配は認められません。
 村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえます。香西氏は、このような中で大伴氏と結び、村上水軍に従う形で瀬戸内海や東アジア交易で富を獲得していたとしておきます。

惣村形成背景

 室町期になると、産業経済の発展に伴い、各地の特産物などの多くの物資が瀬戸内海を利用して輸送されるようになります。香西湊へも周辺地域から物資が集積され、畿内へ輸送されるとともに、各地へと出向きその地の特産物などを輸送する輸送船が活動するようになります。

中世の瀬戸内海交易の持つ重要性が史料として見えるようになったのが『兵庫北関入舩納帳』の発見でした。

3兵庫北関入船納帳3.j5pg
 
『兵庫北関入舩納帳』は、東大寺が摂津国に設置した兵庫北関の通行税徴収台帳です。ここには文安 2(1445) 年 の約 1 年余りの入関船の記録が記されています。この史料の研究が進むにつれて、瀬戸内海の人とモノと富の動きが見えてくるようになりました。例えば讃岐については、西讃守護代を務めた香川氏が多度津を拠点にして、交易活動を行い、大きな富を得ていたこと。それが戦国大名への脱皮の原動力となっていたこと。また東讃守護代の安富氏も宇多津や小豆島などの備讃瀬戸東部の交易を通じて富を得ていたことは以前にお話ししました。つまり、讃岐の有力武士団は、瀬戸内海への進出拠点(湊・浦)を持ち、瀬戸内海や東アジアとの交易活動を通じて富を得ていたことになります。それが武士団成長の原動力でもあったのです。それでは、香西浦はどうだったのでしょうか?
兵庫北関入船納帳 讃岐船の港分布図
                兵庫北関入船納帳の讃岐の湊分布図

兵庫北関1
兵庫北関に入港して関税を納めた讃岐船の船籍と、その数が示されています。ここからは次のような事が読み取れます。
①讃岐からは17の湊の船が入港していたこと。船籍地の数は、播磨国に次いで第 2 位。
②入関回数は合計237 回で、摂津・備前・播磨に次ぎ第 4 位
③香西(幸西)湊の入港数は1年間で6隻、一番多い宇多津船は47隻
それでは、讃岐の船は何を積んでいたのでしょうか?

兵庫北関入船納帳 積荷一覧表
横欄が讃岐の各湊一覧、縦が積載品目(全30品目)と積載量です。一番多いのは宇多津です。
讃岐船の積載品は 30 品目ですが、積荷の8割が塩です。讃岐船は、「塩船」だったことになります。
左から7番目が香西です。塩がどのように表記されているのかを見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地毎の塩通関
讃岐船の積荷で一番多いのは・・塩
讃岐の欄の下から2番目に香西湊があります。4回の入港の際の積荷が「詫間2・方本1・小島1(児島)」と見えます。これはすべて塩で、生産地名で呼ばれています。これを「地名指示商品」と呼ぶようです。他の船の積荷の「地名指示商品」を見ると、詫間・方本が当時の塩の主要生産地だったことが分かります。讃岐各地の船が、詫間や方本に出向いて塩を積んで畿内に輸送しています。面白いのは香西船は備讃瀬戸対岸の小島(備前児島)で生産された塩も運んでいることです。香西氏をつうじての関係があったことがうかがえます。船乗りたちにとって、海は隔てるものではなく、船で結びつけるものだったのです。
兵庫北関入船納帳には、入港した船の積載量も記されています。
兵庫北関入船納帳 讃岐船の規模構成表
兵庫北関入船納帳 船籍地別の入港船規模一覧
ここからは次のような情報が読み取れます。
①300石以上の大型船は、30隻で全体数の1/8。
②大型船は塩飽・嶋(小豆島)・方本などに多く、塩専用船であった。
③100石以下の小型船は、137隻で、過半数を占める。
④香西には、50石未満1隻、100石未満4隻、300石以上1隻の6隻が入港している。

香西船だけを取り出して、入港日と積荷を見てみましょう。
兵庫北関入船納帳
 5月15日の便は、タクマ350石とあります。これは詫間産の塩350石を運んだということです。研究者が注目するのが、米に混じって「赤米」とあることです。『入舩納帳』全体で赤米輸送は 10 船で、そのうちの77 船が讃岐船です。これは赤米が讃岐の特産物であったことを示すと研究者は考えています。赤米はは西讃地方に多かったようですが、高松周辺では香西船だけが輸送しています。このことから香西周辺で赤米が栽培されていたことがうかがえます。赤米は貧弱な土地でも栽培できます。また、米の輸送量からみると、香西では稲作が盛んに行われていたとは考えにくく、香西周辺は決して豊かな穀倉地帯ではなかったことがうかがえます。

DSC03842兵庫入船の港
    「兵庫北関入船納帳」記載の船の動き 香西湊がひとつの拠点となって機能している

赤米など本津川流域で生産されたものが、河川水運を利用して河口の香西浦に集められ、湊から積み出されたとしておきます。このように『入舩納帳』からは、15世紀半ばの香西浦が讃岐の湊の一つとして機能していたことが分かります。

問丸から問屋へ2

 次に讃岐の各湊の問丸を見ておきましょう。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
下から6番目が香西湊で、問丸は「道観」とあります。「道観」の名前は志度にも見えます。更に一族と考える道祐・道念などの名があります。彼らはあるときには競合しながらも、ネットワークを結んで、情報を共有しながら交易活動を展開していたことが考えられます。瀬戸内海交易ネットワークの一端に香西湊もあったことを押さえておきます。

 それでは香西浦の湊は、どこにあったのでしょうか?
  幕末の讃岐国名勝図会の香西浦を見てみましょう。

香西浦 2

①勝賀山の裾野に寺社が東西に建ち並んでいます。
②中央の小高い岡の上に藤尾八幡が鎮座し、中宮寺などが囲んでいます。ここが藤目城跡です。
③手前に愛染川が流れ、髙松街道にかかる橋の北側から広くなります。
④ここには多くの船や、川をさかのぼって行く川船が描かれています。
⑤ここが香西浦で、加茂明神が鎮座しています。

2香西合戦図2b
香西浦周辺

明治期の「笠居村之内字香西地引図面」を見ておきましょう。
香西氏 藤尾城と湊

①「舩入川」とあるのが愛染(あいぜん)川。船が入ってきていたことが分かる。
②舩入川の岸に沿って家屋が並んでいる。
③湊から町中への通路は迷路化していて、袋小路・かぎ形の様相を呈している。
④江戸時代には、漁業基地として多数の漁民が集住していた。
⑤「香西の町はむきむき」と称されるように、多数の民家が勝手な方向を向いて立ち並んで繁栄していた。
⑥平時は漁業に従事していたが、参勤交代の際には臨時御用として水主役が課せられた。

以上から、「愛染川=舟入川」で河口部に舟入があり、漁民たちなどが密集した集落を形成していたようです。現在の香西港も愛染川の河口部にあって、いまもそこには多くの漁船の船溜まりがあります。以上の史料から、愛染川の河口に湊があって、香西氏はこの湊を水運・水軍の拠点として、備讃瀬戸へ勢力を伸ばしたとしておきます。
 また藤尾城は、天正3(1575) 年に築城されたといわれています。湊は城のすぐ北に位置するので、藤尾城の築城は湊と連携する地を選んだことがうかがえます。

最後に当時の香西浦の地形復元を見ておきましょう。

北山氏は、地形図や現地踏査を行って中世の香西浦を次のように復元しています(北山 2009年)。

香西氏 藤尾城と湊2

本津川の河口に東西に伸びる砂堆があり、その内側に港湾機能をもつ入江があった姿で復元されています。しかし、これについては次のような異議が出されています。
①精密地図で見ると、北山氏が砂堆とする場所は微高地にはなっていない
②髙松平野の扇状地形成過程からみても本津川が運んだ堆積物によって香西浦は陸地化していて、砂堆があったとは考えにくい
③北山氏が入江とした部分からは、中世の遺構が出土している
そして、次のような復元図を示しています。
HPTIMAGE.jp2g
香西浦の海岸線復元図(黒太実線)
 これだと愛染川に河口にあって、すぐ海に出られたことになります。本津川流域で生産されたものが、河川水運を利用して河口の香西浦に集められ、湊から積み出すには最適な場所だったようです。

以上を整理して起きます。
①佐料城を拠点としていた香西氏は、香西浦を勢力下に置いて備讃瀬戸への進出を計った。
②それは海賊盗伐や瀬戸内海航路の安全確保など中央政府の意向に沿うものでもであった。
③香西氏は、塩飽や小豆島を権益下を置くことによって備讃瀬戸警護の役割を担った。
④兵庫北関入船納帳には、香西浦が瀬戸内海交易ネットワークのひとつの拠点として機能していたことを示す。
⑤瀬戸内海交易や情報は、香西氏に経済的利益をもたらし、これが京都で活躍する財政基盤となった。
⑥香西湊は愛染川河口にあり、後にはその近くにあらたな拠点である藤尾城を築城した。
⑦これは瀬戸内海交易への積極的な進出を示すものと考えられる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「勝賀城跡Ⅲ 総括報告書(考察篇)18P 髙松市教育委員会2022年」
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 長宗我部元親の阿波侵攻1
守護小笠原時代の大西氏

 細川・三好氏の讃岐侵攻、その後の長宗我部元親の讃岐侵攻を追いかけていると、白地城の大西氏の果たした役割を見逃すわけにはいかなくなります。大西氏がどのようにして勢力を拡大したかについて見ておくことにします。テキストは「白地城大西氏の繁栄    池田町史上巻140P」です。
大西氏は、田井ノ荘の庄官として京都からやってきた時には近藤氏を名乗っていました。
それが、次第に武士化していきます。その過程を、まず追いかけます。
建武二年(1335)年7月12日付で田井ノ庄(三好町と井ノ内谷以西の三好郡)は西園寺家が管領することになり、庄官として近藤氏(後の大西氏)が派遣されます。〔阿波国徴古雑抄所収西園寺家所蔵文書〕
 田井ノ荘の本家である京都の西園寺家は、承久の乱で大きな権力を獲得し、その影響は田井ノ荘にも及んだことが考えられます。例えば、小笠原氏が守護として池田大西城に入ったときにも、田井ノ荘に対してはむやみに手をつけることはできなかったと研究者は推測します。当時は守護・地頭の荘園押領は日常茶飯事のことだったので、田井ノ荘にとってはプラスに作用したでしょう。そのうちに小笠原氏と縁組みなどにより親類関係を結び、その一族として協力関係を作り上げていったのでしょう。
 建武中興によって西園寺家が衰えると、武士の荘園侵略が横行しはじめます。その頃には小笠原氏の支援を受けて、田井ノ荘を自領として確保したのでしょう。南北朝時代になると京都の西園寺家は名目だけの本家として、わずかばかりの貢租を納めるだけになっていたことが推測できます。
正平4年(1349)の紀伊国の野川氏所蔵文書に、「南朝方の野川氏ヘ田井ノ荘の年貢の内30石を宛下さる」とあります。この内容からも西園寺家の田井ノ荘支配は名目的になっていたことがうかがえます。
 南朝方に付いていた大西氏は、小笠原氏とともに康永2年(1343)に、細川氏に降ります。そして、小笠原氏が三好と改姓して勝瑞に移ります。これ以後は、近藤氏(大西氏)が池田城を管理するようになり、次第に大西氏を名のるようになります。

池田大西城
池田の大西城

一方三好氏は、細川氏の下で阿波の統治権を握るようになります。そして、阿波全域に広がった軍事動員権を通じて己の基盤を強化していきます。例えば、応仁の乱では、細川成之は8000騎を率いて東軍の中心として戦っています。この時に三好氏は従軍しています。三好氏の一族であり、被官でもある大西氏も従軍しているはずです。 応仁記には「細川の陪臣」と記されています。大西氏が三好氏の軍団に属して海を渡り、応仁の乱に参戦したことが分かります。
馬場の佐々木家には、応永9年の日付のある呪法(?)の秘伝の巻物、室町期の銅銃などともに、佐々木家の系図が伝わっています。

大西家一族 佐々木家の系図
鳥坂城主の流れを汲む系図で、遠祖は源氏の出で詳しくその事情が書かれています。その真偽は別として、系図の終末が戦国末期で終わっていることに研究者は注目します。つまり、この系図は戦国時代に近いころに書かれたもので、その附近の記述は相当正確でないかと考えられるからです。この佐々木系図には、応仁の乱に参戦したことが記述されています。内容は、もちろん出陣し功名をあげたという記述です。この系図の記述も「応仁記」の記述と相応ずるものです。ここからは応仁の乱に際して、大西氏も従軍し、それに伴って田井ノ荘の人たちは兵士として駆り出され、戦傷や戦死者がでたことがうかがえます。遠征のための戦費も当然、農民の肩にかかって来ます。一面、農民は自ら視野を広め、農耕の技術を見間する機会とし、新しい中世の農民の社会や文化を形づくる契機となったかもしれません。

大西氏が畿内に遠征したことが分かるのは、大永7(1527)の桂川原の戦いの時です。

              大永7(1527)の桂川原の戦い
三好元長に従軍して、大西元高が戦死したことを記す文書を見ておきましょう。
去十九日従泉乗寺一取二出於西院口自身手砕則切崩遊佐   弾正忠阿部大西如百餘人討捕之趣忠節無二比類・候或討死  或被庇之族且者感悦者愁歎候弥可被励軍功事尤候恐々 謹言
(年月日なし)        細川道永 (高国)
朝倉太郎左衛門殿
意訳変換しておくと
去る19日に泉乗寺より出撃して、西院口で敵軍を切崩し遊佐弾正忠や阿部大西など百餘人を討捕えた武勇は忠節無比で、感悦する働きであった。この軍功を認める。恐々謹言
(年月日なし)        細川道永 (高国)
朝倉太郎左衛門殿
細川道永とは細川高国の剃髪後の号で、細川氏の敵対者でした。その高国が朝倉氏に対して、遊佐氏や大西氏を撃破したことに出した感状です。この時に敗れた側が細川晴元方の阿波屋形の細川氏であり、三好氏でした。大西氏は三好氏に従軍していました。上の布陣図では青軍になります。両軍は大永7年にも何回か戦っていますが、越前の朝倉太郎左衛門教景が高国側について、三好元長が西院に陣したのは年も押しつまった12月のことです。この戦いに、大西元高が戦死しています。この戦いに参加したのが大西元高とする根拠は、元高の死亡が大永七年であることです。
池田町白地の八幡寺には、この時に戦死した大西元高の位牌がまつられています。

白地八幡寺の大西元高の位牌
この位牌には次のように記されています。

「享坤院天恵祖芳大居士  千時大永七亥天 三位乙暦十一代維遠後胤 七月初八日 故藤原大西出雲守元高 当院中興開基大壇越、

意訳変換しておくと
「享坤院天恵祖芳大居士  大永七(1527)亥天 三位乙暦 十一代維遠  七月初八日
 故藤原大西出雲守元高 は当院中興・開基の大壇越である、

ここからは次のような情報が読み取れます
①大西元高の死亡は大永7(1527)年7月8日であること。
②大西元高の姓が藤原氏であること
③白地の八幡寺は大西元高が中興・開基した寺院であること
先ほど見たように三好元長が応仁の乱で、京都の西院で敗死したのは12月です。この位牌の死亡日時との間にはズレがあります。しかし、元長と高国の戦いは、大永7年の2月ごろから断続的に続いているので、元高の戦死はそうした一連の戦いの中で戦死したことがふたつの史料からはうかがえます。史料には残っていませんが、三好氏の遠征に大西氏がほとんど加わっていたと研究者は考えています。ここでは、大西氏は三好氏の一族であり、忠実な被官であったことを押さえておきます。

白地 八幡寺
白地八幡寺
大西氏は畿内への出兵以外にも、阿波国内や讃岐への遠征にも三好氏に従軍したことが分かります。
次の古文書は、大西氏の被官である佐野氏が三好義賢からおくられた感状です。
「三好郡佐野村百姓卵兵衛所蔵文書 
坂東河原合戦之剋、敵阿助被討捕之、特自身手柄之段、神妙之至候、猶敵陳無覚束候、弥可抽戦功之状如件
八月十九日             義賢 墨印 
佐野次郎左衛門尉殿」 (『阿波国徴古雑抄』所収)


三好氏系図.4jpg

阿波三好氏系図(池田町史上)

三好元長(長基・海雲)が堺で憤死したとき、三好長慶(千熊九)はわず14歳でした。その後、臥薪嘗胆し着々と勢力を増し、父の仇を討つ機をねらっていました。白地城大西氏は頼武の時代になっていましたが、上の系図のように長慶の妹を妻とし、長慶の重臣として深い関係にありました。大西頼武は三好氏の重臣として、勝瑞にあり、さらに長慶に従って畿内で活躍したと研究者は考えています。細川氏も三好氏も阿波と畿内に分かれて「二重生活」で活躍したように、白地城大西氏も、三好氏の被官として勝瑞や畿内で頼武が活躍します。白地城では、弟の元武が幼主大西覚用を補佐して四国中央部で勢力を拡大します。この間も田井ノ荘の人たちは、細川・三好氏に動員され、阿讃や畿内に転戦し、敗れれば大西へ帰って疲れを癒し、また、動員されて出征するという苦しい試練に飲み込まれていたのかもしれません。讃岐の中世武将たちが管領家の細川氏に動員されて、畿内で戦って「細川家四天王」と称されたように、阿波の大西家も阿波細川氏に従軍して畿内で活躍したことを抑えておきます。
大西家系図 池田町史
大西家系図(池田町史)

 大西頼武が勝瑞や畿内で活躍しているころ、白地城では頼武の弟元武が幼主大西覚用(輝武)を助けて、 白地城大西氏の勢力を拡げていました。
もともと大西氏は、西園寺家の荘園田井ノ荘の庄官の出であったことは最初に見ました。そのスタートは、山城地域を拠点にした開墾地私有領から出発し、その範囲も、山城・西祖谷・佐馬地・三縄の一部でした。それが元高のころから、細川・三好氏の畿内転戦に従軍し、軍功を重ね、三好氏の勢力伸張に大きな貢献をするようになります。それと併行して留守をあずかる元武や覚用等は、周辺に勢力を拡げて行くようになります。その方法は、三好氏にならって一族を周辺に配置して勢力拡大の手段にすることです。例えば、次のような拠点が育っていきます。
①頼武の弟の源兵衛を井之内に住まわせ、井之内地方一帯を固める
②田野を井川に住まわせ、井川荘(湯川荘)の中に勢力を植えつける。
③大西田野は、氏神の白地八幡神社の分霊をまつって井川の鎮守とする。これが井川町中村の八幡神社
④池田へは宗安を住まわせたのが、現在の「宗安通り」

「故城記」の勝瑞屋形218家の中には、大西氏の家紋である鳳凰と雁を使用している家が七家あります。
武家家伝_大西氏

「故城記」に記載されているので、三好氏の有力な一員であったことがうかがえます。この七家は大西氏の一族と推測できます。「故城記」所載の七家は次のとおりです。
一、片穂殴 鳳凰 
一、中務殴 鳳胤 
一、大西角用殴  鳳凰・雁
一、忠津川殿
一、片山殿 昼間・雁 
一、大谷殿 池田・雁
一、宗安殿
この七家について、研究者は次のように推測します。
①最初の片穂、中務の館がどこにあったかは分かりません。
②忠津川は、志津川の草書体の写し誤りで、漆川の古名志津川はここから来ている。
③片山については、州津と昼間の境に片山の地称が残っているが、片山殿の館跡は場所不明
④宗安ついては、池田の「宗安通り」あたり

次に大西氏が創建・再建した神社仏閣や、寄進した仏像などを見ていくことにします。
  A 報恩寺創建 
報恩寺銘瓦の拓本が三好郡志に載せられ、現物も田村家に保存されているようです。
「文明癸巳歳十一月吉日 大檀那 藤原之高」 (文明五年(1473) 元高との説あり)

山城梅宮神社

 B 山城梅宮神社創建


山城梅宮神社創建並再建棟札2 大西覚用

B 山城梅宮神社創建・再建棟札

大西家に関わる最古の棟札です。「永正十□酉年」は永正十年癸西年(1513)で報恩寺瓦から30年後のものです。元高が京都で戦死したと言われる大永七年は、さらに14年後になります。「大施主並女大施主藤原□□」とは何者なのでしょうか? 大西氏のことなのでしょうか? 国司やその要(娘)が名目だけに名をつらねたのでしょうか。私には分かりません。彼らが藤原性を名乗っていることを押さえておきます。
  ここには次のような大西覚用の棟札もあります。 
「奉建之梅宮五社大明神御宝殿 天正二(1574)年甲成十二月十二日 大西覚用
 阿波国郡村誌には「梅宮神社天正三(1575)年甲戊十二月十二日 大西覚用祀之」
 
徳島県 四所神社】銅山川沿いの総氏神三好市 山城町
四所神社(山城町大月名)
C 四所神社(山城町大月名)の棟札には、次のように記されていたとされます。

 「…大檀那大西覚用公 大願主大月寺(現長福寺)現住金智」

この棟札は、安永年中紛失と「古事書上帳」に記されていて今はないようです。四所神社は、大西覚用が大西氏の菩提寺として大月寺(現長福寺)を建立したとき、その守護神として建てたものとされます。大月寺と四所神社は、神仏混淆下では、大月寺の社僧が管理していたはずです。この下を流れる銅山川を遡っていくと、新宮の熊野神社があり、この辺りの熊野信仰の拠点であったことは以前にお話ししました。新宮の熊野神社の別当寺が四国霊場の三角寺でした。この辺りは中世には熊野行者や密教系修験者の活動が色濃く残るところであることは以前にお話ししました。
D 四所神社の別当寺大月寺(現長福寺:山城町大月名)も大西覚用の建立とされます。
「古事書上帳」には大檀那大西覚用の名が正朱で記されていたとします。やはり安永年間に紛失しています。
長福寺の大銀杏
長福寺(大月寺)の大銀杏
現在長福寺には大西覚用が植えたと伝えられる大イチョウが県指定の天然記念物となっています。 なお、覚用自筆の法華経が寄進され、伝えられています。
川崎三所神社の棟札 

山城梅宮神社創建並再建棟札 大西覚用

左の棟札が所蔵されています。三所神社は小笠原長経の創建と伝えられます。それを永禄5年5月1日に「藤原(大西)元武」が再興したということになるのでしょうか。この神社には応永年間の般若心経六百巻が伝わっています。ここからは、この神社が郷社的な存在であったことがうかがえます。
大西覚用系図
 D  中西一宮神社(池田町三繩)には、次の棟札があります。

「上棟一宇大明神天正三乙亥 小春初日 大檀那覚用居士藤原頼武

大西氏の系図は、混乱をきわめ、頼武と覚用が同一人物とするものもあります。しかし、この棟札には、両名の氏名の間に「並」の文字があります。ここからは二人が別人であることが分かります。
一宮神社には、「嘉暦三年(1328)、城主宇清藤太夫信幅宝納」と朱書した鎌倉時代の面(五作の面)が伝えられています。城主についてはよく分かりませんが、これも大西氏の一族でしょう。
   
紫雲山 願成寺 « 紫雲山 願成寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

昼間願成寺へ薬師如来寄進 
「天文十六(1547)丁未六月十七日、当寺住職五叔等川木願三蔵大檀  那(大西)元武

この他にも、雲辺寺鰐口(現在紛失)や、西山密厳寺般若心経20巻なども白地城の大西氏の寄進と伝えられています。このように大西氏は周辺の拠点に、新たに神社や寺院を建立・中興し、自らの支配を根付かせていったことがうかがえます。これらの信仰活動の中心となったのが、熊野行者や真言密教系の修験者たちであったと私は考えています。それは、伊予新宮の熊野神社や、土佐の豊前寺と修験道ネットワークで結ばれていたようです。それが近世になると、箸蔵寺などに姿を変えていくのでしょう。このような濃厚な修験者たちの存在が、美馬安楽寺の浄土真宗興正寺派の教線が三好郡に及んでくるのを妨げたのかもしれません。

 大西覚用は、吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達に熊野参詣の費用を支出しています。
白地城城主の大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げた文書「大西覚用熊野三山御師え渡日記(仙光寺文書)」からは、次のような先達と檀那の「詩壇関係」が見えてきます。

檀那 大西覚用 → 十川先達 → 御師 → 熊野大社

このときに、大西覚用自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって代参したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石=5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは現在の米価格に換算すると約4000万円ほどになります。これは、熊野の御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。ここからは、大西覚用は大西一族の棟梁として、このくらいの「参拝料」を収める経済力があったことがうかがえます。同時に、大西覚用が熊野信仰を持っていて、熊野行者や修験者を保護していたことも見えて来ます。
 その他の古文書、古記録等より、大西氏の領地、石高、経済力などを見ておきましょう。
伊予西条藩が藩の儒学者日野和煦に命じて編纂した地誌「西條誌」は、次のような記述があります。

西條史 
『西條誌』(伊予西條藩編集)

「大西備中守元武の氏は小笠原氏にて阿州三好郡白地の城主たり。五代の祖左衛門亮勲功あり。足利将軍より阿予の内にて五万石を賜わり、当国宇摩郡桑鳥村にも五百石の領地あり」

ここには大西氏が足利将軍より「阿伊の内にて五万石を賜り」とあります。これはそのまま信じるわけにはいきません。「故城諾将記」には「大西出雲守(頼武)の領地三百貫」と記します。中世の武家の知行高で、一貫は約田畑十石です。三百貫は三千石となり、『西條誌』の「五万石」とは大きな隔たりがあります。しかし、大西氏の領地が、伊予、土佐、讃岐にまたがり、四国中央部を占めていたことは推察できます。また、その領地は石高では測れない「山野の財」を産出したのではないかと私は考えています。それは、古代以来の銅や水銀などの鉱山資源や、木材、木工製品などが考えられます。
 領地を伐り取り、勢力を広めてゆく状況は、「大西軍記」(元武功徳明視録、金記、馬路記)に詳しく述べられています。
大西軍記
大西軍記
『大西軍記』は、大西元武の武勇伝を中心にした軍記物語で、元武の五代の孫武政が元禄時代に、現地を調査して書きあげたものです。軍記ものなので、すべてが史実ではありません。ただ伊予の金川で書かれているために伊予のことは正確で、阿波のことには誤りが多いとされています。元武が、戦いに継ぐ戦いで、最後に、 一族の裏切りに会って戦死するまでの生涯を描いています。
一部を紹介しておきます。
  「大西軍記   巻の六
宇摩郡松尾城合戦斯くて大西備中守源の元武は、竊かに忍ひを以て 土佐守か振舞を探り聞くに、岩倉の城にあつて日ならすして土州へ帰陣の由告け来らは、是れ必す虚実 の計事ならむ、急に当国へ寄来るへし(と)衆臣を 集めて曰、思ふに元親阿州に出張し必す土佐帰陣は 空虚ならん、此時山中の小路より土佐へ討て出、急 に責め立つれは大に利を得む、若元親急に進めは臨機応変の処置し、或は引或は進み、二、三度土佐勢をなやまさは終には勝利となるへし、林密計を語る 所に人あつて当国の諸将残らす変心の由告けゝれ は、元武大に驚き其故を尋るに、真鍋左衛門佐土佐勢の強勇なるを恐れ、義を破り諸将をして元親に一 味同心のよし進めけると聞けれは、備中守大に怒 り、左衛門佐臆病なれは、彼壱名の去就何そ怖るゝ に足らむ、然れ共、衆将を引分る事奇怪なり、不意 に押寄彼れを責取、向後東に帰らむと出陣の用意し けれ共、未夕痛み頻りなれは志摩守を差し向けらる へきよし申しけれは、衆評是非に及はす、急に兵を 調へ松尾の城江押寄せける、其勢弐百五拾には過き さりける、抑伊予国松尾城と申すは、後は大山峩々として山 の流れを切開き尾上に櫓をかけ、東西は谷深ふして 大手斗りの責口と見へにけり、さしもの一城要害は 堅固にして中々容易に落かたく備へたる城なれは、 志摩守の勢をはかつて責寄せける、城中にも兼而存 する事なれは、兵三百余騎を一手になし、城外四、 五丁出てゝ陣を取り待ちかけたり

久米田の戦い…三好長慶が弟の三好実休を失い、三好氏凋落のきっかけとなった合戦 - YouTube


白地城大西氏は、頼武が義兄長慶に従って畿内で活躍しました
その最後の参戦は、三好義賢(実休)が戦死し、三好氏衰亡のきっかけとされる久米田の戦いでした。『南海通記』には「大西出雲守(中略)等七千余人」と記されますが、 この戦いから頼武が白地城に帰ってきたときは、相当の老年になっていて隠退の時期を迎えていたはずです。久米田の戦い以後は、大西氏は三好氏の被官というよりも、独立した戦国大名として動き出すことになります。
 それが三好氏と距離を置いて、毛利氏に接近しながら讃岐への勢力拡大を図ろうとする動きだったようです。ここでは戦国末期の大西氏は、三好氏の意志にも反して行動するようになっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
白地城大西氏の繁栄    池田町史上巻140P
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   「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

今回は、上の視点から長宗我部元親の讃岐侵攻を見ていくことにします。 
伊予・讃岐・阿波への要となる白地城を大西覚用から手に入れた長宗我部元親は、ここを拠点にして四国平定戦を進めていきます。その手足となって働くのが、大西覚用の弟ともされる大西上野介です。彼によって、周辺国衆への調略工作が行われたようです。そのひとつが阿讃山脈の向こうの藤目城(豊田郡紀伊郷)の斎藤下総守師郷です。1577(天正5)年、斉藤師郷の縁者である大西上野介を通じて師郷を説き、師郷はその孫を人質に出して、元親に従うことになります。元親は、家臣の浜田善右衛門を斉藤師郷に添えて、共に藤目城を守らせます。

讃岐戦国史年表3 1570年代

長宗我部元親讃岐侵攻図


  以下について、南海通記に基づいて「満濃町誌200P」は次のように記します。
これに対して三好家の総帥となっていた①十河存保は、天霧城主香川信景と聖通寺城主奈良太郎兵衛に命じて、藤目城を奪還させようとした。香川信景は、この命に従わなかったが、②奈良太郎兵衛は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔など那珂・鵜足・阿野の兵3000を率い、藤目城を攻めてこれを奪還した。奈良太郎兵衛は、新目弾正を城主として城を防衛させた。③元親は、今度の藤目城攻撃に香川信景が加わらなかったのを見て、時機至れりと考えて財田城に進出した。
 財田城は、藤田城の東南の三野郡大野郷財田にあって、阿波の自地に最も近い讃岐の要衝である。財田城主財田和泉守は、香川信景の救援を求めたが得られず、土佐軍に囲まれて奮戦した。④200余名の部下を激励し、死戦を試みて生を得ようと、囲みの一角を破って打って出たが果たさず、部下と共に討死した。
 財田城が占領されたので、藤目城の運命も定まった。城主となっていた。⑤新目弾正は歴戦の勇士で、土佐軍700人を討ち取ってなお奮戦を続け、500に足りない城兵は、最後まで戦って城主以下全員討死した。藤目城は土佐軍によって確保され、元親は、斉藤下総守を入れて城を守らせた。

①については、天霧城香川信景が三好氏の従属化にあったという認識を南海通記の作者は持っていたことが分かります。しかし、香川氏は「反三好」を貫き、天霧城陥落後は備中に亡命し、毛利氏の傭兵として活動していました。それが毛利氏の支援で帰国できたのです。香川氏は反三好の急先鋒で、三好氏の配下になったことはありません。三好氏が香川氏に出陣命令が下せる体制ではなかったことを押さえておきます。
DSC05470藤目城(粟井)
藤目城(大野原粟井)
②には「奈良太郎兵衛は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔など那珂・鵜足・阿野の兵3000を率い、藤目城を攻めてこれを奪還」とあります。
聖通寺山城の奈良氏に関しては「謎の武将」で、管領細川氏の「讃岐の四天王」のひとりとして、名前だけが一人歩きしています。史料を見る限り、讃岐では存在感がありません。一部の史料では、「奈良氏=長尾氏」としているものもあることは以前にお話ししました。どちらにしても、戦国末期のこの時点で、奈良氏が那珂・鵜足・阿野の兵3000を率いることはできなかったと研究者は考えています。さらに、その配下に長尾氏や羽床氏が加わることは、当時の軍事編成としては考えられません。例えば奈良氏の配下に入って従軍して、恩賞はどうなるのかという問題が発生ます。出陣を命じるというのは「恩賞」とセットなのです。恩賞付与権が奈良氏にはありません。この体制では、羽床・長尾氏は従軍しないはずです。「郷土防衛戦」という意識は、当時の武将達にはありません。さらに、西庄城の「香川民部少輔」というの武将は、南海通記だけに頻発して登場する人物で実在性が疑われていることは以前にお話ししました。
 前年に戦われた毛利氏との元吉合戦に従軍している讃岐国衆のメンバーを見ると「元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口」とあます。ここにも香川氏の名前はありません。そして讃岐国衆を率いているのは、三好安芸守です。備中遠征の時には篠原長房が率いています。ここでは配下に置いた讃岐国衆を率いるのは、三好氏であったことを押さえておきます。以上から「奈良氏が国衆を率いて、藤目城を奪取」というのは、そのままは受けいれられない記述と研究者は考えています。

DSC06256本篠城(財田)

財田本篠城
③には「元親は藤目城攻撃に香川信景が加わらなかったのを見て、時機至れりと考えて財田(本篠)城に進出」とあります。
香川氏が「反三好」であることは、長宗我部元親は以前から知っていました。「兵力温存=調略優先」を基本戦略とする長宗我部元親は、早くから香川信景の調略に動いていたはずです。ちなみに近年の秋山文書等の分析から香川氏については「天霧城陥落 → 香川氏の10年あまりの亡命 → 元吉合戦を契機に毛利氏の支援を受けて帰国」説が受けいれられるようになっています。帰国してすぐの香川氏にとっては、支配基盤も戦闘態勢も整っていません。土佐軍と戦うという選択肢はなかったと思われます。そのことを見抜いた元親は、早くから香川氏への調略活動をおこなっていたと私は考えています。だから、土佐軍の侵入に対して香川氏は動かなかったのです。
④⑤については、「新目弾正は歴戦の勇士で、土佐軍700人を討ち取ってなお奮戦を続け、500に足りない城兵は、最後まで戦って城主以下全員討死した」とあります。
ここには讃岐武将の奮戦ぶりが軍記ものらしく描かれます。しかし、何度も言いますが長宗我部元親の基本戦略は「兵力温存=調略優先」です。山里の小さな城に、700人の犠牲者を出す戦法をとることは考えられません。長期戦になっても「兵力温存」が第一なのです。これは、以後の讃岐での攻城戦を見ても分かりますが、徹底的な抗戦を行ったのは十河城だけです。あとは、調略で戦う前に降伏させています。南海通記には「戦った・抵抗した」とあるのも、そのまま信じることはできません。

天霧城3
天霧城

天霧城の香川信景の降伏について、満濃町誌(201P)には次のように記します。
元親は、西讃に進入するのに先だって、大西上野介(大西覚用の弟?)と謀り、土佐国分寺の西の坊を使僧として、香川信景の舎弟で観音寺景全の家老香川備前守を説き、香川氏が長宗我部氏に味方することを求めた。信景は、織田信長に通じてその一字を承けて信景と称していたのであるが、長宗我部軍の進撃が領内に迫ったので、ついに長宗我部氏に通じ、藤目城にも出陣せず、財田の救援にも兵を動かさなかった
天正七年春、信景は岡豊城に元親を訪い、元親への服属を誓った。元親は信景を厚く馳走して、五日間にわたって歓待した。その年の冬、元親の次男親和が、香川信景の娘の婿として香川家に迎えられた。かくして元親は、藤目・財田・天霧の諸城を制して、中讃への進入の時機を待った´
ここには、観音寺景全の家老香川備前守を通じて、香川信景を味方に引き入れたとあります。そして、長宗我部元親は次男の親和を養子に入れて、香川家の跡継ぎとします。こうして香川信景は、元親の同盟軍として讃岐平定に加わります。ちなみに、香川氏の影響力のあったエリアでは、寺社は焼き討ちされていません。そのために観音寺や国宝の本山寺本堂も残っています。すべての寺社を焼き払ったというのは、後世の軍記ものの「長宗我部元親=悪者」説に由来することは以前にお話ししました。

長宗我部元親の基本戦略をもういちど振り返っておきます。

   阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

1579(天正七)年4月、元親は1、3万の兵を率いて丸亀平野に侵入します。
 土佐軍の本隊は、白地から曼陀・六地蔵を越えて藤目城に集結し、香川信景の家老三野菊右衛門の兵800余を先導として出陣します。元親に服属した東予の金子・妻収・石川などの連合軍3500は、自ら求めて先陣を勤め、競い立って丸亀平野の南部に進入してきます。
待ち受ける羽床伊豆守は、一族郎党合わせても1000人の動員力しかありません。これに長尾大隅守の兵力を加えても、その数は土佐軍の約1/5に過ぎません。なお、長尾氏は羽床氏に従軍する立場であったと記します。
この時の戦いの様子を、後世の軍記ものに基づいて書かれた満濃町誌(203P)には次のように記します。
 4月28日、土佐軍の先鋒となった①東予軍は、櫛梨山の南方から高篠一帯にかけて布陣した。②羽床方が寵城して戦うものと思い込み、何の備えることもなく夜を迎えた。③羽床軍は闇に紛れて敵に接近し一斉に鉄砲を打ちかけ、突撃して東予軍を打ち破った。東予軍は退勢を立て直し、29日の早朝から激戦を続けて昼に及んだ。昼過ぎ元親の本隊が戦線に加わり、羽床伊豆守はこの本隊と戦ったが破れ、土器川を渡って退却した。土佐軍は、羽床軍を追って一気に城を落とそうとして、土器川器川の西岸に達したが、対岸の安造田・中津山一帯に有力な部隊が陣を張っているのを見て、あえて攻撃しなかった。④羽床方の留守部隊であった老人や子供が後詰めとして出陣し、擬陣を交じえて陣を張っていたのである。

 ⑤西長尾城の長尾大隅守は、土佐軍が攻め寄せて来るのを見て、城を出て土器川を渡り対岸でこれを迎え撃った。戦いは混戦となり、長尾方の部将で炭所西村の国侍であった片岡九郎兵衛が、土佐方の勇将大山孫九郎を討ち取った。土佐軍は兵を返して櫛梨山付近に集結した。その夜、長尾大隅守は、土佐軍の陣営に夜討ちをかけたが、敵陣の警成が厳しく充分な戦果を挙げることができなかった。
 ⑥長尾方の部将片岡九郎兵衛は、聞の中の戦いで湿田に馬を乗り入れ、流弾を受けて討死した 今も大歳神社の北東の本田の中に、片岡伊賀守の墓が残っている。
仲南町の今田家に伝わる「今田家系図」に、今田景吉と今田掃門丞が西長尾城の落城の時に討死したと記されているのも、この日の戦いのことであろうと思われる
①②③からは、先陣をつとめる東予軍は櫛梨山の南方に無防備に布陣し、それに羽床軍は夜襲をかけたと記します。しかし、ルート案内から布陣までを手引きしているのは、同盟軍の香川氏なのです。入念な調査を行った上で布陣させているはずです。また、櫛梨山は前々年に元吉合戦が戦われたところで、毛利軍によって要害化されていました。毛利氏の讃岐撤退の後は無傷で残っていたようです。ここには5000の兵を収容する能力も防備力もありました。香川氏は迷うことなく、櫛梨城(元吉城)に毛利軍を導いたと私は考えています。そうだとすれば、羽床氏による夜襲は考えられません。
④については、太平記の楠木正成の軍略に出てくるような子供だましの記述です。こういうことが書かれること事態が、虚構であったことがうかがえます。
⑤には「西長尾城の長尾大隅守は、土佐軍が攻め寄せて来るのを見て、城を出て土器川を渡り対岸でこれを迎え撃った」とあります。しかし、先ほども見たように「長宗我部軍13000VS 羽床・長尾軍2000」で、圧倒的な兵力差があります。これに対して、城を出て突撃するのは無謀な戦いです。戦国時代の武将達は、このような戦いはしません。負けると分かっている戦いに対しては、逃げるか、降参するかです。ここにも南海通記の作者である香西成資の軍学者として「美学」が紛れ込まされている気配を感じます。
私は羽床氏も、長尾氏も戦っていないと思っています。理由はいくつかありますが、ここでひとつだけ挙げておくと、一度刀を抜き合って血を流し合った一族は、相手を許すことはありません。「敵討ち」は武将の誉れでもありました。自分の一族を殺した武将たちを仲間内に迎えることはできません。降伏するのなら血が流れる以前に、軍門に降る必要があります。一度血が流れた後で降伏しても、配下に加えられることはありません。そのときは命を取られず落ちのびていくことを許されるのみです。つまり籠城はあっても、羽床氏も長尾氏も、城を討って出て戦うことはなかった、最初から籠城で挑んだと私は考えています。
羽床城縄張り図
羽床城(綾川町羽床)
南海通記には、その後の羽床氏と長尾氏の取った選択を次のように記します。

⑦長尾大隅守と羽床伊豆守は、それぞれの城に籠って戦おうとした。土佐軍は、那珂地方の南部の麦畑を「一畝隔てに薙ぎ払って」、夏以後の軍糧を脅かすと共に、農民に恩情を示して民心を得ようとした。

籠城した羽床城を長宗我部勢が包囲したことについては、次の史料が裏付けます。
この史料は、長宗我部元親が羽柴秀吉に宛てた全八カ条からなる書状(写)です。
【史料⑥】「東京大学史料編纂所架蔵「古田文書」(括弧内は条数を示す)
雖度々令啓達候、向後之儀猶以可得御内証、態以使者申人候、(中略)
一(3)先度従在陣中如令注進候、讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、
一 名東郡一宮之城を取巻候之条、十河・羽床搦手にハ対陣付置、一宮為後巻至阿州馳向候処、此方備まちうけす敵即敗北候、追而可及一戦処、阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計、先謀叛之輩共、或者令誅伐、或令追討、勝瑞一所に責縮、方角要々害・番手等堅固中付、(後略)
                                                             長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
柴筑前守(秀吉)殿人々御中
意訳変換しておくと
度々の報告でありますが、今後のこともありますの使者を立て以下のことを連絡いたします。(中略)
一 先日、注進したように、(A)讃州の十河・羽床両城を包囲中です。さて、石山本願寺を退城した牢人たちが紀州・淡路の者どもと共に、海を渡ってきて、阿波の勝瑞へ籠城しました。
一 さらに名東郡一宮城を取り囲む勢いです。我々は十河・羽床城攻撃のために出陣中でしたが、阿波に転進して一宮を取り巻く勢力を敗走させました。それを追ってなお一戦しました。阿州南方には新開道善など雑賀に与するものがいて、なかなか手強い相手でしたが、これを誅伐・追討することができました。そして残る勝瑞に迫りました。
(A)からは、天正8年11月24日には、長宗我部勢が二手に分かれて、讃岐の十河・羽床両城を攻囲中だったことが分かります。包囲中に、大阪石山本願寺を退城した紀州雑賀衆や淡路の門徒が三好氏の勝瑞城に集結したために、それを討つために羽床城の包囲を解いて、阿波に転戦したと記します。
南海通記は、羽床氏と長尾氏の降伏を次のように記します。

⑧元親は、香川信景を通じて羽床氏に降伏を勧めた。羽床伊豆守は、情勢を判断して、実子係四郎を入質として降伏した。長尾大隅守も、信景の扱いで元親に降伏した。

この後に、羽床氏と長尾氏は長宗我部元親の先陣として活動しています。ここからは城は取り囲まれたが、刃を交えることはなかったことがうかがえます。

元吉城 地図1
元吉城 丸亀平野の南部
それでは、櫛梨山の南方では戦いは何もなかったのでしょうか?
実は、「櫛梨山城=元吉城」で、前々年に元吉合戦が行われた所なのです。小早川隆景に元古合戦の詳細を報告した連署状を見ておきましょう。

急いで注進致します。一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。①攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた我々警固衆は山を下り、(金蔵)川を渡り、一気に敵に襲いかかりました。②敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)


元吉城 縄張図
元吉城
  ここからは、元吉城(櫛梨城)を攻めた讃岐国衆が大敗し、多くの戦死者がでたことが記されています。戦いの後に櫛梨城の南側の地帯には、多くの供養塔や塚が建立されたことが考えられます。そのひとつがの「長尾方の部将片岡九郎兵衛」の慰霊碑でないかと私は考えています。つまり、元吉合戦の際の戦死者が、長宗我部元親と長尾氏の戦いの時のものと、後世の歴史書では混同したという説になります。
毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦
 
元吉合戦の毛利方の戦略的な目的は次の2点でした。
大坂石山戦争の石山本願寺への戦略物資の運び込みのために備讃瀬戸南航路を確保する
備中に亡命していた香川氏を讃岐に返し、毛利氏の西讃支配の拠点とする
このため毛利氏には、丸亀平野に対する領土的な野心はなかったようで、元吉合戦の後は三好氏と和平工作がトントン拍子で進められます。

元吉合戦後の11月20日付の小早川隆景の書簡には、和睦条件が次のように記されています。
史料「厳島野坂文書」
追而申入候、讃州表之儀、長尾・羽床人質堅固収置、阿州衆と参会、悉隙明候、於迂今阿・讃平均二成行、自他以大慶無申計候、(中略)
(天正五年)十一月二十日             (小早川)隆景(花押)
棚守方近衛将監殿
同左近大夫殿御宿所
  この史料からは次の情報が読み取れます。
①11月20日以前に毛利氏と三好氏の和睦が成立したこと
②その条件として、讃岐惣国衆の長尾氏・羽床氏から毛利方に人質が差し出されたこと
③この和睦によって毛利氏は、阿波・讃岐を平定したとの認識があったこと
私が分からないのは、元吉城を攻めた讃岐惣国衆は「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守」でした。ところが和睦交渉で人質を差し出したのは長尾氏と羽床氏しか記されていません。香西氏や奈良氏の名前がないのはどうしてなのでしょうか。どちらにしても羽床氏と長尾氏が人質を出しているのは、元吉合戦後の毛利氏に対してです。

元吉合戦のことは、南海通記にはでてきません。それは西庄城の香川氏と混同されて書かれていることは以前にお話ししました。つまりは、南海通記が書かれた頃には、元吉合戦のことは忘れ去られていたのです。そのため元吉合戦の時の慰霊碑や墓碑が長宗我部元親の侵攻時のものと混同されるようになってきたとしておきます。

以上をまとめておきます。
①長宗我部元親の四国平定戦の基本戦略は「兵力温存=調略優先」で、味方についた適地の有力者の協力を得て平定と支配を進めた
②讃岐侵攻でも香川氏を凋落し、「同盟関係」を結ぶことで兵力や戦略物資の調達をスムーズに進めた。
③征服軍としての土佐軍の前には、同盟軍としての香川氏がつねに存在したことを念頭におく必要がある。
④南海通記に書かれていることは、疑ってみる必要がある。
⑤南海通記には、元吉合戦のことは忘れ去られていたようで何も出てこない。
⑥元吉合戦と長宗我部軍と羽床・長尾軍が交戦したという櫛梨山南方の戦場は一致する。
⑦後世の軍記ものは、これを混同して記述している。
⑧羽床・長尾氏は、毛利氏とは元吉合戦でったかっているが、長宗我部元親に対しては戦うことなく軍門に降った可能性が高い。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 長宗我部元親の讃岐進出 満濃町誌200P
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讃岐戦国史年表2

1563年に天霧城陥落し、その2年後以降は、香川氏の発給文書が途絶えます。代わって三好氏の重臣・篠原長房・長重父子の発給した禁制が萩原寺の地蔵院などの各寺に残されています。ここからは三好氏による讃岐支配が固まり、天霧城を追われた香川氏は備中に亡命し、毛利氏の傭兵部隊として活動しながら讃岐帰国のチャンスをうかがっていたと研究者は考えるようになっています。三好氏の讃岐制圧によって、讃岐の土地支配権は阿波三好家のものとなりました。その結果、三好家に従って戦った阿波の国人たちが、讃岐に所領を得ることになります。篠原氏の禁制を除くと、阿波国人が讃岐で知行地を得たことを直接に示す史料は今のところは見つかっていません。しかし、その一端を窺うことができる史料を以前に見ました。今回は、阿波白地城の大西氏が、三豊にどのような利権を持つようになっていたかを見ていくことにします。テキストは「中平景介 阿波大西氏に関する長宗我部元親書状について   四国中世史研究NO12 2013年」です。
まず、天霧城退城後の香川氏の発給文書を香川県史の年表で押さえておきます。
1563年8月7日
A 香川之景・同五郎次郎、阿波勢の攻撃を受けて天霧城を退城した時の秋山藤五郎の奮戦に対し感状を発する(秋山家文書)
8月18日 
B 香川之景・同五郎次郎が、三野菅左衛門尉に、天霧籠城と退城の時の働きを賞し、本知行地と杵原寺分を返付することを約する(三野文書)
C 12月6日 帰来秋山氏、財田で阿波の大西衆と戦う(帰来秋山家文書)
1564年2月3日
D 香川五郎次郎、秋山藤五郎が無事豊島に退却したことをねぎらう(秋山家文書)
E 3月~  三好の重臣篠原長房、豊田郡地蔵院に禁制を下す(地蔵院文書)
5月13日 香川之景・同五郎次郎、三野勘左衛門尉に、鴨村の作原寺の領有分を返却
 1565年6月28日 
F 香川之景、秋山藤五郎に、三野郡熊岡・上高野御料所分内の父秋山兵庫助の所領分を安堵し、家弘名を新恩として宛行う(秋山家文書)
1568年 
G  篠原長房、讃岐国衆を率いて備前児島に出陣し、毛利軍と戦う。
この年表からは次のような情報が読み取れます。
①A・Bより1563年8月に、三好氏との攻防戦の結果、香川氏は天霧城を退城したこと。
②C・D・Fから、香川氏はその後も約2年間、三豊を拠点に三好氏に抵抗を続けていたこと
③1565年6月28日を最後に、香川氏の発給文書が途絶える。これは香川氏が讃岐から備中に亡命したことを示す。
④Gから三好氏の重臣篠原長房の備中遠征に、讃岐国衆は従軍し、毛利軍と戦っている。

上の年表のC帰来秋山家文書の感状を見ておきましょう。
A 閏年永禄6年(1563)の香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言閏十二月六日   五郎次郎(花押)
             香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。
謹言閏十二月六日

ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること

同じような内容の感状が、翌年の3月20日も香川五郎次郎から発給されています。ここでは、天霧城落城の後も財田方面で「大西衆」と香川氏の戦闘が続き、従軍していた帰来善五郎が軍功を挙げていたことを押さえておきます。
 香川氏の抵抗は2年ほど続きますが、1565年には篠原長房の圧迫を受けて、毛利氏を頼って備中に落ちのびます。そこで傭兵活動を行いながら臥薪嘗胆の時期を送ります。西讃の香川氏の領地は、阿波の武将たちに論功行賞として与えられたのです。この文書に登場する大西衆が、阿波白地城の大西覚用を中心とする一族だったようです。彼らが西讃地方に領地や権益をを確保するようになったことがうかがえます。
阿波大西氏は、阿波三好郡の白地城を中心に讃岐豊田郡・三野郡・伊予宇摩郡・土佐長岡郡にまで勢力を持ったとされる国人とされます。
阿波大西氏についてのまとまった研究としては、以下の2つが挙げられます。
A 田村左源大「阿波大西氏の研究」(1937)
B 池田町史 上巻(1983年、132P~183P)
池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

しかし、史料不足のために詳しいことは分かりません。
大西覚用系図
阿波大西氏系図
例えば系譜については、系図・軍記によって違いがあります。大西出雲守頼武と覚用については、親子関係が逆転していたり、同一人物として扱われるなど混乱しています。『池田町史 上巻」は、頼武を親、覚用を子とします。なお、覚用の母は三好元長女(実休妹)とされているので、覚用は三好長治・存保の従兄弟になります。また、大西覚用の妻は三好長慶の妹とされます。三好氏と何重もの婚姻関係を持ち、深いつながりがあったことがうかがえます。

戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
天正年間の当主である大西覚用について、ウキの前半部には次のように記します。
「大西 覚用(かくよう)- 天正6年(1578年))は、阿波国の国人領主。出雲守と称す。俗名は輝武。父は大西元高、子は大西頼武(親子が逆転している)
①大西氏は鎌倉時代に荘官として京都より派遣されていた近藤氏が土着・改姓したもの。
②承久の乱で功のあった小笠原長清の子小笠原長経が、守護代として阿波池田に赴任してきた際に小笠原氏に属した。
③南北朝時代には大西氏と小笠原氏は南朝方として戦っていたが、南朝方が不利になると小笠原氏は細川氏と和議を結びこの地を離れ三好と改姓。これを契機に大西氏は小笠原氏より独立、戦国時代には阿波西部の最大勢力となっていた。
④大西覚用は三好長慶の妹を娶り、三好家と密接な関係を築きあげ、白地城を拠点に阿波・讃岐・伊予の辺境地帯を支配した。
⑤阿波国における三好氏の勢力が後退し、土佐の長宗我部氏が台頭すると、四国の中央に位置する白地城は四国統一を目指す長宗我部元親の攻勢にあう。

①~④までについては、軍記ものに書かれている内容で、これを裏付ける史料はありません。しかし、①では、大西氏も従来は近藤氏と名乗っていたとします。
④からは婚姻関係を通じて三好家と大西家は強く結ばれていたことが分かります。三好氏の讃岐制圧戦の先陣を切って、大西覚用が西讃の丸亀平野や三豊平野に侵攻し、領地を確保したことがうかがえます。それをうかがわせる史料が冒頭の財田合戦に出てくる「大西衆」です。

大西覚用の西讃侵攻の「相棒」となったのが二宮・麻の近藤氏です。
中世の近藤氏については、以前にも触れましたのでここでは省略します。

大水上神社 近藤氏系図

近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えています。この背景には、永世の錯乱によって、阿波細川家と讃岐細川氏が対立し、阿波勢力が讃岐に侵攻してきたことが背景にあります。その先兵が三好氏でした。三好氏の讃岐侵攻は東讃地方では、十河氏を中心に進められたことは以前にお話ししました。それに対して、西讃については三好氏の侵攻制圧過程が史料からは、なかなかたどれません。そのため、南海通記ばかりを見ていると、西讃は天霧城の香川氏の配下にあったと思えてきます。しかし、長尾氏や奈良氏・羽床氏・滝宮氏なども三好氏に従属していたこと、また香川氏は1573年に天霧城を退城後は、備中で毛利軍の「傭兵部隊」として10年近く活動していたことが分かっています。そして、讃岐国衆の安富氏や中讃の滝宮氏などは、三好氏の重臣と婚姻関係を結び、三好氏の遠征に従軍するようになっていたことは以前にお話ししました。そのような流れの中で、三豊の近藤氏を捉える必要があります。
 
三好氏の近藤氏への懐柔策の一つが「近藤国敏は、阿波の三好婦楽の娘を妻に迎えた」という婚姻政策でしょう。
そして、生まれるのが国雅で、大永二(1522)年のことです。国雅の代になると、三好氏との連携強化が進みます。三好氏から見ると西讃制圧が進み、讃岐の国人衆を配下に入れで動員できる体制が整ったといえます。こうして近藤氏は、阿波三好氏に従軍しして動くようになります。これに対して、反三好を旗印とする天霧城の香川氏は、織田信長や長宗我部側につこうとします。こうして次のような関係ができます。
信長と三好氏の対立
         織田信長=天霧城の香川氏 VS 阿波三好氏=麻・二宮近藤氏

永禄三(1560)年、麻や二宮周辺で小競り合いがあったことが秋山家文書から分かります。天霧城主の香川氏から秋山氏に戦功を賞する書状や知行宛行状が残されていることは先ほどお話ししました。麻口合戦とあるので、高瀬町の麻周辺のことだと思われますが、よくは分かりません。この戦いで近藤国雅が永禄三年に討死しています。三好氏の侵攻が天霧城をめざして、じりじりと迫っていることがうかがえます。近藤氏は、この時点で大西覚用と同盟関係にあったことがうかがえます。

次に近藤氏の一族(?)である大平氏を見ておきましょう。
麻口合戦で討ち死にした国雅の跡を継いだのが国祐です。国祐を取り巻く肉親関係は少々複雑です。国祐は大平氏を名乗ります。母親は阿波白地城の大西長清の娘と伝えられ、弟が出羽守国久です。とすると、近藤氏は、当主の嫁を三好氏に続いて、大西家から迎え入れていたことになります。近藤氏の阿波勢力とのつながりが深化していることがうかがえます。

大西覚用が讃岐において何らかの権益を得ていたことは次の史料から分かります。
 次の史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が、備後亡命中の香川信景に讃岐に帰国し、反三好的な行動を起こすことを求めたものです。
「【史料3】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿

上洛してきた香川氏に対して反三好的な軍事行動を起こすなら「大西跡職」を与えるとあります。「大西跡職」というものがなんのことか私にはよく分かりません。ただ大西覚用が西讃に持っている権益を香川氏に与えると読み取れます。そうだとすると、大西覚用は三好氏から恩賞として、なんらかの権益を讃岐に持っていたことになります。以上からも篠原氏、高品氏、市原氏、大西氏といった三好氏に近い阿波国人たちが、讃岐に所領を得ていたことがうかがえます。三好氏による讃岐侵攻に従い功績を挙げたため、付与されたと考えられます。一方で、天正年間に入ると阿波三好家は、三好氏に与力するようになった讃岐国人に知行地を与えるようになります。この中には近藤氏も含まれていたことが推測できます。こうして阿波三好氏による讃岐平定は着々と進められて行きます。奈良氏・長尾氏・羽床氏も三好氏の配下となり、香川氏追放後の西讃は三好氏の氏配下にあったことを改めて押さえておきます。そういう視点から見ると、これまでの南海通記に基づいて書かれてきた歴史は辻褄があわなくなってきます。

讃岐戦国史年表3 1570年代

例えば1574年10月に「大西覚養(用)が香川氏を討つために那珂郡へ侵入」とあります。しかし、香川氏はこの時点では亡命中です。そして、奈良氏や長尾氏は三好氏へ従属しています。大西覚用は、二宮や麻の近藤氏と婚姻関係を結び、同盟軍として動いています。すでに10年前から讃岐国衆は三好配下にあるのです。そこに大西覚用が「讃岐侵入」するはずがありません。ここにも南海通記の時代認識の誤りが見られます。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 このような中で三好氏の讃岐支配をひっくり返す動きが起こります。それが次の2つの事件です。
A 毛利軍の支援による香川氏の天霧城復帰と元吉城占領
B 長宗我部元親による阿波侵攻
長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親は、阿波や讃岐でも懐柔策を進めます。『祖谷山旧記』には、次のように記されています。

「土佐国長曽我部宮内少輔元親、四国分国之節、私共六代之曾祖父菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介三人旗下二加り、土佐并御当日・伊予・讃岐二而知行給候」

意訳変換しておくと

「土佐の長曽我部元親は、四国分国の際に、私どもの六代曾祖父である菅生孫一郎、久保源次郎、西山主殿介の三人が長宗我部元親の旗下に加り、土佐や阿波・伊予・讃岐に知行を得ました」

ここにはいち早く長宗我部元親に帰順した祖谷山衆が、四国各地で知行を得ていたことが記されています。祖谷山間部の土豪を、豊永の豊楽寺の信仰集団に組織し、見方に引き入れた土佐軍は、吉野川上流から大西覚用の白地城に近づきます。そのような中で、長宗我部元親が栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。
十一月二十三日長宗我部元親書状

雖未申入候、令啓達候、
貴国が今不昇平御心
遣令察候、自今以後
別而可得御意候条、於御
入魂者可畏存候、就中
大西方・三好安藝守方
和睦
之儀、此中申試候
殊被添御情由大慶至候、
重而使者差越申義
候之間、双方納得之御助
言所仰候、傷御太刀一腰
馬一疋進覧之候、卿
表御祝儀計候、猶
委山口上含候可得御意候、
恐慢謹言、
十一月廿三日       元親(花押)
栗野殿人々御中

意訳変換しておくと

今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方の納得を得れるように助言していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、
恐慢謹言、
十一月廿三日       元親(花押)
栗野殿人々御中

内容を次のように整理して起きます。
①長宗我部元親から栗野氏への初信で、阿波国内の混乱に言及した上で、今後の従属を求めています。
②阿波大西氏と三好安芸守の和睦を試みていることについて喜び、重ねて調停の使者を派遣するため双方が納得するような助言を求めています。

ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。

白地城周辺
阿波白地城と栗野屋敷

白地城から西へ1㎞ほどにある池田町白地字井ノ久保には栗野屋敷という城館跡があり、栗野大膳を祀った塚があります。この栗野氏は白地城主の一族ともされます。この栗野氏の三好郡内における立場がどんなものだったのかはよく分かりませんが、阿波山間部の南朝年号文書に見える南朝武将の中には、粟野三位中将が出てきます。三好部内に子孫を称する家が多数あると「池田町史 上巻115P」には記します。しかし、南朝年号文書については近年は、近世の偽書の可能性が指摘されていて、そのまま信じることはできません。
 ここでは栗野氏が、阿波大西氏・三好安芸守の懐柔に影響力を持つ人物と元親は見ていたことがうかがえます。この後の天正5年に、大西氏・三好安芸守は帰順します。

ウキには、大西覚用の後半部が次のように記されています。
⑥城主の大西覚用は、一族の大西頼包(弟?)を人質として一旦は長宗我部元親に従属した。
⑦しかし、三好氏が織田氏と同盟し、長宗我部氏に対し対決姿勢を鮮明にすると、大西覚用は三好笑岩の求めに応じ三好側に寝返った。
⑧それに対して元親は、天正5年(1577年)白地城の支城・田尾城をわずか2日で攻め落とし、覚用は讃岐国麻城の近藤氏のもとへ逃げ延びた。
⑨天正6年(1578年)には麻城も落城し、覚用は元親に厚遇されていた頼包の勧めに応じて降伏した。
⑩阿波に戻った覚用は、三好方に服属している重清城城主で娘婿の重清長政を頼り、長宗我部への降伏を勧めるも拒否されたのでこれを謀殺した。
⑪覚用は元親より重清城の守備を任せられるが、程なくして三好方の十河存保の反撃を受けて敗死した

この時期の大西覚用の動向を、一次史料と『元親記』『昔阿波物語』「三好記』などの軍記でもう少し詳しく見ておきましょう。
    ⑥については「元親記(上)」には、次のように記されています。(要約)

天正四年(1576)、前年に阿波南部に侵攻を果たした長宗我部元親は大西入りを評議した。当時、大西覚用は土佐の寺院の住持だった兄を通じて元親と音信を交わす関係にあった。このため元親は、覚用を調略し、覚用は甥の大西上野介頼包を元親への人質とした。しかし、その後覚用は三好長治に寝返り頼包を見捨てた。しかし、元親はその後も人質の頼包を重用した。

「大西覚用の兄」については、「芝生大西系図」「阿波志」六に覚用の弟として土佐野根万福寺の僧である了秀の名が記されています。長宗我部元親は修験者をブレーンとして重用して、情報収集や凋落などの外交交渉にも当たらせていたことは以前にお話ししました。ここにも、その一端が見えてきます。

⑦については、元親から離反する前の大西覚用の動向を次のよう史料で確認できます。
この史料は、大西覚用・高森が毛利氏の重臣「御四人」に宛てたものです。
小早川左衛助殿参
吉川駿河守殿御宿所        
先度同名越前守以書状申人候之虎、御懇報畏悦存候、如仰就御入洛之儀、去年以来今村紀伊守方申談候之筋目、隣国(讃岐)表第一申合候、無相違御才覚専用候、猶於時宜者日上申候之条、暉被成御尋候、恐々謹言、
  二月廿七日       (大西)覚用(花押)
                  高森(花押)
吉川駿河守(元春)殿
福原出羽守(貞俊)殿
口羽下野守(通良)殿
小早川左衛門助(隆景)殿
参 御宿所
この史料は、大西覚用・高森が毛利氏重臣「御四人」に宛てたものです。大西越前守からの書状に対する毛利氏の返信を受けての書状で、覚用らが足利義昭の入洛について前年より今村紀伊守と相談し、隣国表(讃岐)を第一とする申し合わせをしていることを伝え、毛利氏にその了承を求めています。内容からは、元吉合戦のあった天正五(1577)年のものと研究者は判断します。
  ここからは前年の天正四(1576)年に、大西覚用が、毛利氏の進める義昭の入洛(織田氏に対する軍事行動)に従軍していたことが確認できます。毛利氏と長宗我部元親の間には不戦条約的なものがあり、準同盟的な関係にあったと研究者は考えています。この頃の毛利氏は「海陸行」と称される対織田氏の大規模な軍事行動を計画していて、大西氏の讃岐への侵攻計画もその一環と研究者は考えています。なお、毛利氏の軍事行動は2月に実施され、讃岐では7月に元吉合戦が戦われています。大西覚用は、天正四年から義昭人洛について協議し、翌5年には毛利氏と連携した讃岐への軍事行動を予定していたようです。しかし、これは長宗我部元親の侵攻で頓挫します。
「元親記』上には、長宗我部氏の大西攻めは、大西頼包の先導によって行われ、在地領主の離反にあった覚用は讃岐三野郡麻城に逃亡したと記されています。西讃府志には、麻城主は近藤出羽守国久で、国久は大平伊賀守国祐の弟と記されています。大平国祐の母は、先ほど見たように大西備前守長清女とされます。その関係で大西覚用は縁戚関係にあった近藤国久を頼って麻城に逃れたようです。なお、覚用弟の長頼も覚用敗死後に麻城に逃れたと西讃府史は記します。

この大西覚用追放の功績で、頼包は元親より白地城の領地を認められます。さらに三好郡西部の馬路を得て、三好郡東部の足代を攻略します。この長宗我部氏の大西侵攻については、一次史料によって4月頃であったことが分かります。

長宗我部元親文書の中に、大西覚用や弟たちが登場するものがあるので見ておきましょう。

長宗我部元親 【史料②】十月十三日長宗我部元親書状
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【史料②】十月十三日長宗我部元親書状 拡大

【史料2】十月十三日長宗我部元親書状
「 (墨引)   長宮
三式少御宿所  一九親」
尚々虎口之様林具
可示給候、脇上・太丹へも
此由申度候、
先度至南方被示越
即御報中候き敵動之事、頓而
引退之由御飛脚日上之間、
乗野方之儀も堅固申付、

為番手昨日打入候、然者又
自勝瑞十日二相動候由大西方
注進候、ホ今居陣候欺、於事
実者加勢之儀不可移時日候、
将亦大西之儀覚用下郡被取
組之由候、大左・同上此方無別
義趣共候、乍去彼邊之事
弥承究機遣緩有間敷候、
定而敵表之儀為指事雖
不可在之候、御手前堅固御武
略肝要候、猶追々可申入候、恐々
謹言、
拾月十三日  元親(花押)
三式少
御宿所
意訳変換しておくと
①三好式部少輔が阿波南方(勝浦郡以南の地域)に対して連絡をとった際に、返事が出された敵の動きについて、まもなく撤退したという南方からの飛脚の口上があった
②そのため那東郡桑野についても堅岡に命じ、十月十二日に番手を配置した。
③勝瑞から十月十日に岩倉表へ軍事行動があったと大西から注進を受けた。
④現在も居陣しているのか、事実であれば早期に加勢を派遣したい。
⑤大西の動向について、大西覚用が下郡と戦闘に及んでいるとのことである。
「太左」「同上」は、長宗我部氏に別儀ない様子である
⑦敵の動きは大したことはないだろうが、三好式部少輔の堅固な武略が肝要である。
⑧虎口の様子を詳しく知らせて欲しい。
⑨「太丹」「脇上」へもこの旨を伝えたい。
宛所の「長宮三式少 御宿所 」は美馬郡岩倉城主の三好式部少輔(三好康長の一族?)にとされます。ここからは長宗我部元親と式部少輔の間で阿波国内の戦況についての連絡が交わされていたことが分かります。書かれていることを、もう少し詳しく見ておきましょう。
①については「御飛脚」と敬意を表していることから、「南方」とは阿波南部で阿波三好氏と敵対していた阿波守護家細川真之を指すと研究者は考えています。
この史料の中で注目したいのは、⑤の大西覚用とともに文中に出てくる⑥の「太左」「同上」です。
⑥のふたりは覚用の弟たちで、(A)大西左馬頭長頼と(B)大西上野介頼包と研究者は考えています。
(A)「太左」=大西左馬頭長頼については、次のように考えられています。
(1)「善正寺系図」(三豊郡史 1921年、328P)では、讃岐三野郡麻城主
(2)「芝生大西系図」(大西徹之「阿波大西氏明視録(その四)」『宇摩史談」八八号)では、讃岐豊田部不二見城主
(3)「日本城郭大系』第15巻160頁は、讃岐三野郡麻口城を「大西左馬守長頼の居城」(典拠不明)
麻口城は、高瀬町史などでは讃岐では麻近藤氏の居城とされています。そこが大西覚用の弟たちの城だったというのです。それほど近藤氏と大西覚用の一族は関係が深かったと言えるのかもしれません。ただ、大西覚用の弟たちが讃岐の城主として活動していることは押さえておきます。
(4)「太左」については、『阿波志』六は、阿波三好郡漆川城主とある大西左衛門尉の可能性もあると研究者は指摘します。
(B)大西左衛門尉は、人質として長宗我部元親に出されていた人物ともされます。
(5)「漆川村大西鎮一所蔵系図」では「大西七郎兵衛 後上野守」、「阿波志」六では「頼包 称上野介」として記され、いずれも覚用の弟とされます。
(6)「元親記」上は「上野守」として覚用の甥、「みよしき」「昔阿波物語」「三好記」では「七郎兵衛」と見え、覚用の弟とします。
⑨の「太丹」「脇上」は、三好式部少輔重臣とされる大島丹波守と岩倉城に程近い美馬郡脇城主の武田上野介信顕と研究者は考えています。いずれも三好式部少輔に近い人物で、式部少輔とともに長宗我部氏に服属し、阿波三好氏と敵対していたようです。

内容としては、次のような事が分かります。
①元親が阿波南方の「敵動(三好勢の動き)を受けて桑野城の守備を命じ、番手を配置したこと、
②勝瑞(三好氏本拠)から当月十日に軍事行動があったことが大西(三好郡の大西覚用?)から注進があり、現在も三好勢の居陣の事実があれば、すぐに加勢をすることなど。以上からは、三好勢と長宗我部勢との間には、南方や上郡で交戦状態にあったことが分かります。
③大西氏の動向に関しては「大西之儀、覚用下郡被取組之由候」とあり、大西覚用が「下郡」(三好勢)に与していることに対して、「太左・同上此方無別儀趣共候」とあることから、弟の大西左馬頭長頼と大西上野介頼包は、長宗我部方であったことが分かります。
④元親は、岩倉城主三好式部少輔に対し堅固な武略を求めるとともに、「虎口之様躰」についての教示を依頼しています。
史料⑤の年次については、勝端の三好氏の軍事行動から判断して天正6年と研究者は判断します。
 内容を整理すると、次のようになります。
A 長宗我部元親が三好式部少輔に対して、阿波三好勢の侵攻があった阿波南方の状況を伝えている。
B 同時に、大西より三好勢侵攻の注進があった岩倉表の状況について問い合わせ、大西覚用ら阿波大西氏の動向についても知らせたもの
この史料は「史料綜覧』巻11に天正四年十月十日条の「阿波三好長治、其将大西覚泰の長宗我部元親に降るに依り、之を攻む」の出典として挙げられているものです。

以上をまとめておきます。
①三好実休の時代には、東讃は十河一存を中心に三好氏の勢力浸透が行われた。
②一方、西讃においては白地城の大西覚用などが三豊地域への進出を行う
③その際に大西覚用は、二宮・麻の近藤氏と婚姻関係を深めながら進出を計る。
④近藤氏の麻口城は、阿波の大西覚用の進出拠点として機能した
⑤そのため周辺では、天霧城の香川氏配下の秋山氏などとの小競り合いが多発した。
⑥しかし、三好氏の重臣篠原長房の西讃制圧によって、香川氏は備中への亡命を余儀なくされた。
⑦以後は、香川氏の領地は阿波国衆に配分され、大西覚用も西讃に領地や利権を得た。
⑧このような中で1577年に、元吉合戦と同時並行で毛利氏支援による香川氏帰国が実現する。
⑨一方、長宗我部元親に従属していた大西覚用は寝返り、白地城を追われ麻口城に落ちのびてくる。
⑩大西覚用と近藤氏は、長宗我部元親の西讃侵攻に対して徹底して抵抗する。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中平景介 阿波大西氏に関する長宗我部元親書状について   四国中世史研究NO12 2013年
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2018年6月に、三豊市の真鍋家の「文化四丁卯二月箱浦御番所」と書かれた箱のなから16点の古文書が見つかりました。その中に戦国期の古文書が二通ありました。真鍋氏は秋山氏と共に甲斐から臣従してきた伝承があります。ただ戦国期の真鍋氏については、いつどのような経緯で香川氏の臣下になったのかは分かっていません。 生駒家分限帳には「真鍋某」の名があります。戦国末期の戦乱の中で、主君をうしなった国人の中には、三野氏のように生駒氏に仕えた者が何人かいます。この真鍋氏も同じようにで生駒氏に仕え、生駒氏転封の後には丸亀藩主に仕え庄内半島の「箱浦御番所」の役人として地域に根付いていたようです。それは、明治初期の戸籍簿からも裏付けられようです。
 真鍋家の戦国時代の文書2通は、天霧城主香川氏が河田氏に宛てたものです。
これと同じようなタイプのものが秋山家文書の中にも残されています。今回はこの二つを比較検証することで、当時の香川氏をとりまく情勢を見ていきます。テキストは、  「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」です。
真鍋家の2通の新出文書は次の通りです。
A 永禄六年九月十三日の香川之景・五郎次郎連署状(折紙)
B 年末詳正月十一日の香川之景書状(折紙)

真鍋家文書 香川之景・五郎次郎連署状(折紙)
真鍋家文書A   永禄六年九月十三日の香川之景・五郎次郎連署状(折紙) 二人の花押が並ぶ
    同名与五郎無別儀
        相届候ハゝ彼本知之
        内真鍋三郎五郎かたヘ
        惜却之田地令扶持
        候此旨於相意得可申候
        恐々謹言
永禄六(年)九月十三日     五郎次郎 (花押)
                                   (香川)之景 (花押)
河田猪右衛門尉とのヘ
ここからは次のようなことが分かります。
⓵香川五郎次郎と之景の連名で出されていること
⓶あて先は河田猪右衛門尉で、河田氏が三野氏と同様に、香川氏の重臣的存在であったこと
③内容は川田氏と与五郎の届け出ている本知行地の内、真鍋三郎五郎へ売却した田地を扶持することを川田氏に命じています。
④「同名与五郎」という宛名の河田と同姓を指しているのかどうか、よくわからない人物。
⑤三野平野に秋山氏や河田氏・真鍋氏の知行地が散在していたこと

真鍋家文書 B 香川之景書状(折紙)
真鍋家文書B 年末詳正月十一日の香川之景書状(折紙)
同名与五郎舎弟
跡目被申付可被作
奉書候忠節之儀
候之条四人真鍋之内
両人之分可扶持候
但河人三郎兵衛尉二令
扶持之内総六郎
依無案内申付候哉
自然於其筋目者
可加異見候柳
不可有別儀候何も
長総折紙候者
令披見可分別候
只今目録以下
無之条先如此候
何も河人二堅令
異見不可有相違候
此旨可申聞候也
謹言
正月十一日              香川 之景(花押)
河田猪右衛門尉殿
  意訳変換しておくと
同名(河田?)与五郎の舎弟に跡目を申しつける奉書を与える。ついては忠節を励むように。
四人の真鍋家の内、両人分を扶持することと
但し河人三郎兵衛尉の扶持については、総六郎に案内なく申し付ける。
これについて異議が出された場合には、長総の折紙を参考にして判断するように
以上について目録に記したようにすべきで、河人に意見して相違無いように申し聞かすこと
以上のような内容の執行を、香川之景が河田伝右衛門尉に命じています。

ここには、真鍋氏や河田氏・河人氏などさまざまな人物が登場してきますが、その立場がどんなものだったのかはよく分かりません。そのため内容もよく分かりません。ぼやっとわかるのは、与五郎の知行地と跡目をめぐる争いが起きたこと、その紛争に香川氏が介入して、このような処置を出したことは分かります。よって、登場人物は香川氏配下の国人衆と研究者は考えています。
  ふたつの文書に共通して登場するのは、同名与五郎・真鍋某・真鍋三郎五郎です。Bの真鍋某は三郎五郎と研究者は推測します。宛名の河田猪右衛門尉は、天霧城代の河田伝右衛門尉の一族でしょう。香川氏の発給文書には、このような役目を担う者としてに河田姓がよく登場します。  発行時期については文書Aは永禄六(1563)年9月で、香川氏が天霧城籠城から退去した後で、香川之景の単独発給です。
  
比較のために秋山文書の永禄四年の文書を見ておきましょう。これは香川之景が秋山良泰に賞として、所領の給付を行ったものです。

1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」

1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

    意訳変換しておくと
今度の合戦について、辛労について感謝する。ついては、三野郡高瀬郷水田分内の原・樋口の三野掃部助知行分と、同分守利名内の真鍋三郎五郎の買徳した田地の両所を知行地として与えるものとする。恐々謹言
永禄四(1561年)正月十二日             (香川)之景(花押)
秋山兵庫助(良泰)殿
御陣所
秋山兵庫助に高瀬郷水田分のうち、原・樋口にある三野掃部助知行分と守利名内真鍋三郎五郎買徳地を与えています。「真鍋三郎五郎買徳地」というのは、真鍋氏が秋山氏より金銭で手に入れた土地名のようです。最初に見た真鍋家文書Aにも出てきました。この他にも真鍋氏は、土地を購入していたことが分かる史料があります。香川五郎次郎の唯一の単独発給文書である年未詳二月二日付けの秋山藤五郎知行宛の書状にも次のように出てきます

(前略)
於国吉扶持分事
一 三野郡打上之内国ケ分是者五郎分也
一 同郡高瀬之郷帰来分内 真鍋三郎五郎 売徳七反小有坪かくれなく候也
一 同郡高瀬之郷内武田八反、是も真鍋三郎五郎買徳有坪かくれなく候
右所々帰来(秋山)善五郎二令扶持候、全可知行者也
永禄六(年)六月一日
河田伝右衛門尉殿

帰来善五郎は、香川氏の家臣である秋山氏の一族で、高瀬郷帰来を拠点としたことからから帰来秋山と称するようになったことは以前にお話ししました。帰来分内の土地は真鍋三郎五郎に売却されていましたが、それが全て秋山善五郎へ宛行われています。これらは真鍋氏が「買徳」によって手にいれたものです。
これらの史料には、真鍋三郎五郎が高瀬郷内で多くの買徳地を持っていたことが分かります。この背景には、高瀬郷はもともとは秋山氏の本貫地でしたが、分割相続で秋山氏本家が衰退、一族の分裂によって所領を手放していき、それを真鍋氏が買徳したと研究者は考えています。真鍋氏も秋山氏と同じ様に高瀬郷内に居住していた国人なのでしょう。 しかし、真鍋氏からすれば「買得」によって手に入れた土地を、他人に宛がわれたことになります。その背後に何があったのかは分かりません。
 真鍋は高瀬郷内で多くの田地を買徳していたことは、先ほど見た通りです。真鍋氏が土地を集積するだけの経済力を、どのようにして持っていたのかはよく分かりません。三野湾の製塩・廻船業などが思い浮かびますが、それを裏付ける史料はありません。

 次に二通の文書の宛名の河田猪右衛門尉を見ておきましょう。
彼は河田伝右衛門尉の一族のようです。猪右衛門尉が香川家でどんな役割を果たしていたかは分かりません。しかし、之景の知行宛行は伝右衛門尉を通じて行われています。ここからは彼は所領に関する役職に就いていたことがうかがえます。
 猪右衛門尉の名が出てくる史料が一点あります。それは秋山藤五郎宛の五郎次郎発給文書です。「委猪右衛門可申渡」と、猪右衛門を用いての通達です。五郎次郎の唯一の単独発給文書であることに研究者は注目します。このような形で、猪右衛門を用いることは、五郎次郎(信景)の直属家臣となっていることだと研究者は指摘します。これも天霧籠城を契機に、領主関係が強化された結果かもしれません。最終的には、猪右衛門は五郎次郎付きの家臣となっています。「香川氏は讃岐で唯一、戦後大名化の道を歩んでいた」とされますが、その兆候がこの辺り見えます。
天霧城を退城した後、之景・五郎次郎両名とも毛利領国内へ退去します。天正五年に元吉合戦に合わせて香川氏は讃岐に帰ってきます。そして信景が登場します。これは五郎次郎が家督を相続して信景と名乗ったものと研究者は判断します。
  
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」」
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前回は、天霧城攻防戦後から長宗我部元親の讃岐侵攻にいたる時期の香川氏の動静について次のように整理しました。
香川氏の安芸亡命

①天霧城攻防戦で敗れた香川氏は、毛利氏の下へ亡命したこと、
②その後12年ぶりに毛利氏の支援で、多度津帰還が実現したこと
③翌年に讃岐に侵攻してきた長宗我部元親と「反三好」で一致し、同盟関係を結んだこと。
④香川氏は長宗我部元親の同盟軍として、東讃制圧に参軍したこと

この中で①の「香川氏=安芸毛利氏への亡命」説について、もう少し詳しく知りたいというリクエストがあったので、今回はその辺りに焦点をあてて見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」です。

 最初に香川之景と信景は別の人物であることを押さえておきます。
之景については、従来は信景と同一人物とされてきました。それは南海通記に、次のように記されているためです。

「天正四年二識州香川兵部大輔元(之)景、香西伊賀守佳清使者ヲ以テ信長ノ幕下二候センコトラ乞フ、……香川元(之)景二一字ヲ賜テ信景卜称ス」

意訳変換しておくと

天正四(1576)年に、識州香川兵部大輔元(之)景は、香西伊賀守佳清を使者として、信長の幕下に加わりたいことを願いでた。そこで信長は、香川元(之)景に自分の一字を与えて、信景と称するようになった」

南海通記の「之景が信長の字を拝領して信景と称した」という記述に従って、之景と信景は同一人物とされてきたことを押さえておきます。

香川氏花押
香川之景の花押の変化

しかし、之景と信景の花押を確認した研究者は、素人目に見ても大きく違っているとし、「花押を見る限りでは、「之景と信景は別の人物」と判断します。続柄からすると、之景と五郎次郎は父子で、「五郎次郎=信景」で、亡命から帰還後に五郎次郎が使ったのが「信景」と研究者は考えています。

次に高瀬町史の年表編(22P)で、天霧城攻防戦の前後の香川氏の動静の概略を押さえておきます。

1558年の天霧城攻防戦前後年表 高瀬町史
高瀬町史年表編22P

①1558年10月に三好軍が天霧城を包囲して、その後の和議成立後に陣を置いていた善通寺が燃え落ちたことが記されています。南海通記は、この時に香川氏は三好氏の軍門に降り、以後は従属下に入ったとします。
②注意しておきたいのは、この時に村上水軍が三好実休側について天霧城攻防戦に参加していることです。
③1560年10月になると、帰順したとされる香川氏と三好氏の戦闘が再開されます。これに対して香川之景は、配下の秋山氏などに知行地配分を行い、裏切り防止・結束強化を図っています。


天霧城攻防戦前後の香川氏 高瀬町史23P
                 高瀬町史年表編23P

④1563年8月 これに対して、三好氏は再度天霧城を攻めます。籠城戦の末に、香川之景とその子・五郎治郎が天霧城を退場します。しかし、その後も論功行賞として知行地を宛がっているのでいるので、三野郡の支配権は保持していたことがうかがえます。それは、12月に、喜来秋山氏が、財田方面から侵入してくる阿波の大西衆と戦っていることからも裏付けられます。
⑤ 1564年2月になると 秋山藤五郎が豊島に脱出しています。これがその後の備中脱出の先遣隊の役割を果たしたのかもしれません。
⑥同年3月には、三好氏の実権を握った篠原長房が豊田郡地蔵院(萩原寺)に禁制をだしています。これは、豊田郡が篠原長房の直接支配下に入ったことを意味します。以後も1565年までは、香川之景の発給文書があるので三野郡で抵抗活動を行っていたことが分かります。しかし、それも8月以後は途絶えます。そして以後12年間の発給文書の空白期間が訪れます。この間が謎の期間になります。

次に、この時期の香川氏の発給文書から、香川氏の動静を見ておきましょう。

香川氏発給文書2
香川之景の単独発給のものについて、研究者は次のように指摘します。
⓵永禄元(1558)年から6年6月までは、香川之景の単独発給であること。
⓶永禄6(1563)年8月から7年5月までは、之景と五郎次郎の連署で発給されていること。
③1563年の天霧城籠城戦以前の之景発給文書は、内容が知行宛行・知行安堵に限定されていること.
④これは、家臣への宛行状で、迫る合戦に対して家臣の団結力を高めるために発行された
⑤例外は永禄8年6月28日付の之景単独発給がある。
  一例として、永禄4(1561)年の戦いでの恩賞として、秋山良泰に所領の給付を行っているものを見ておきましょう。
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」

1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2


意訳変換しておくと
今度の合戦について、辛労について感謝する。ついては、三野郡高瀬郷水田分内の原・樋口の三野掃部助知行分と、同分守利名内の真鍋三郎五郎の買徳した田地の両所を知行地として与えるものとする。恐々謹言
永禄四(1561年)正月十二日             (香川)之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
これは香川之景の単独発給文書です。末尾の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高めるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。秋山兵庫助に高瀬郷水田分のうち、原・樋口にある三野掃部助知行分と守利名内真鍋三郎五郎買徳地を与えています。「真鍋二郎五郎買徳地」というのは、真鍋氏が秋山氏より金銭で手に入れた土地名のようです。この時期の真鍋氏は、秋山氏から多くの土地を買い取り、急速に成長して行ったことが、その他の史料から分かります。
 この時期に香川之景が秋山氏・帰来秋山氏などに、知行宛を行ったのは三好勢の侵攻に対して、寝返りを防ぐためと身内の陣営を固めるためと研究者は考えています。天霧城周辺で度重なる小競り合いが続きますが、そのたびに之景は感状や知行宛行状を発給して家臣の統制に努める姿が見えてきます。

天霧城攻防図
天霧城攻防戦(想像図)

次に之景・五郎次郎の連署状についてみておきます。
 五郎次郎が史料に登場するのは、永禄6(1563)年のことです。之景と連署したものが6通あります。これらの内容を検討すると
⓵すべて天霧城籠城に関する内容のものであること。
⓶天霧城籠城戦前後から、初めて五郎次郎の名前が登場すること。
そのなかのひとつを見ておきましょう。
今度者無事二御退大慶此事候、然者人数阿また討死之由、忠節之至無比類候、将亦退城之側同心可申処、不相構俄之事候間不及了簡候ツ、我々無等閑様体具三菊可申候条、中々書状不申候、
恐々謹言
八月七日             五次(五郎次郎) (花押)
        (香川) 之景    (花押)
意訳変換しておくと
今度の(天霧山城攻防戦で)無事に脱出できたことは大慶であった。ただ、数多くの討死者を出してている。これは比類ない忠節であった。退城の働きに対して、論功行賞をすべき所であるが、現状ではそれも適わぬことで、簡略な書状だけに留める。中々書状不申候、
恐々謹言
八月七日              五次(五郎次郎) (花押)
(香川之景) (花押)
この書状からは次のような事が分かります。
①天霧城からの無事に脱出できたことを喜んでいる。→ 天霧城陥落が裏付けられる。
②「人数阿また(数多)討死」とあって、激戦であったことがうかがえる。
③天霧籠城・退城には三野・秋山氏など多くの家臣が従ったこと

ここに初めて出てくる五郎次郎の名称は、代々香川氏の嫡流が名乗った名前です。将来の之景の後継者の意味を持つと研究者は考えています。つまり、籠城を契機に五郎次郎が香川氏の後継者として登場したことになります。三好氏は永禄5年段階で、二人を父子と認識しています。之景の家督は五郎次郎に継がれていったのです。ここでは天霧城落城を契機に、香川氏が之景から五郎次郎へと後継者継承に向けて動き出ていたことを押さえておきます。
之景と、その子である五郎次郎が連署している背景を考えておきましょう。
 天霧籠城戦は香川氏にとっては滅亡の危機でした。そのために、父子のどちらかが亡くなっても存続していける体制を作りだしていくために、五郎二郎の連名で家臣へ対処していったと研究者は推測します。しかし、知行地の権限は、従来通り領主である之景が握っています。例えば永禄8(1565)年6月に秋山藤五郎へ父兵庫助の所領分を安堵し新恩地を宛行っています。

3 天霧山4
天霧城

天霧城籠城戦に破れて、香川氏はすぐに多度津を去ったのでしょうか?
「永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。(意訳変換文)
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労した功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返却する。併せて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
 永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
       (香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
 進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①冒頭に「天霧籠城之砌」とあり、8月10日以前に天霧城で籠城戦があったこと
②香川五郎次郎から重臣の三野菅左衛門にあてた書状で、以下のことを命じていること
③天霧城籠城戦で論功のあった河田七郎左衛門尉に新恩として本知行地と、杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
ここからは香川氏が天霧城退城後も、知行地の割当を行っていることが分かります。この時点では、三野郡に関しては支配実態を伴っていて、統治権を失っていなかったようです。
 これを裏付けるのが、五郎次郎の唯一の単独発給文書である年未詳二月二日付けの秋山藤五郎宛の次の書状です。
尚々、今度之御辛労不及是非候、臆而/ヽ御越有へく候、万面以可申候外不申候、今度之儀無是非次第候、無事其島へ御退、我々茂無難退候事、本日出候、然者御左右不聞候而、千万無心元存もたへ申処孫太夫折紙二申越一段悦入、候雅而/ヽ此方へ可有御越候、万以面可令申候、将又国之儀存分可成行子細多候間可御心安候、両方へも切々働申付候、定而可有其聞候、委猪右衛門可申渡候間不能巨細候、
恐々謹言
二月三日              五郎次郎御判
秋山藤五郎殿
まいる
意訳変換しておくと
   今度の(天霧城落城の)辛労はあまりに大きく、言葉に表し尽くせない。しかし、(秋山氏が)無事に「其島(笠岡神島?)へ退出することができたと聞いて安心している。我々も無事に脱出した。分散した家臣団の再組織を計り、詳細な情報を集め、適切な対応をとっているので安心するように。再起への道を探すためにすでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始している。委細については猪右衛門から口頭で伝える。渡候間不能巨細候、
恐々謹言
二月三日              五郎次郎御判
秋山藤五郎殿
ここからは次のようなことが分かります。
①2月3日に、香川五郎次郎が家臣の秋山藤五郎に宛てた書状であること
②「無事其島へ御退」とあり、秋山氏が天霧城から其島まで落ち延びたこと報告されている
③一方、香川氏は三野郡にとどまり、分散した家臣の再組織を計りながら、豊田郡方面への軍事行動を開始していること
④亡命した家臣団の連絡係として(河田)猪右衛門が行動していること
以上から、香川氏は天霧城退出後も三豊周辺に留まり、ゲリラ的な抵抗運動を行っていたことがうかがえます。
それを裏付けるかのように香川之景は、天霧城退場後も以下の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年6月の秋山藤五郎宛の香川之景の発給文書
③永禄8(1565)年8月には、秋山藤五郎に対して、知行地の安堵、新恩地の給与文書
発給文書が見えなくなるのは、これ以後です。これまでは、文書が発給できる状態であったと考えられるので、香川氏の讃岐脱出は1565年8月以後のことであると研究者は推測します。

これに対して阿波三好側の篠原長房の動きを年表から見ておきましょう。

三好長慶年表3

讃岐・備中方面での活動を追加してみると・・・。
1564(永禄7)年3月  豊田郡地蔵院(萩原寺)に禁制を下す
1567年 6月  鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書)
    6月  備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569年 6月  鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571年 1月  鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書)
    5月  備前児島に乱入する.
 寺社に禁制を出すというのは、そのエリアの支配権を握ったということを意味します。ここからは、64年3月には、篠原長房は地蔵院萩原寺のある豊田郡南部を支配エリアに組み込んだこと、そして3年後には、宇多津も直接支配下に置いて、備讃瀬戸対岸の備中に侵攻し、毛利氏と戦っていることが分かります。こうして見ると1564~65年にかけて三野郡も豊田郡も篠原長房の支配下に入ったことがうかがえます。これは、香川氏の発給文書がなくなるのと同時期になります。つまり、この時期に香川氏は三豊から脱出・亡命したと研究者は考えています。
 また上の年表からは、篠原長房が讃岐・備中・畿内の戦場を駆け巡り、獅子奮迅の働きをしていることが分かります。ここでは篠原長房が制圧した西讃を足場にして、備讃瀬戸を渡って備中に侵攻し、毛利勢と戦っていることを押さえておきます。
天霧城を去ったあとの香川氏の痕跡を史料で見ておきましょう。
1567年9月、西讃を制圧した後に篠原長房は阿讃勢を率いて備前児島に侵攻し、毛利氏と戦います。その際に細川藤賢が備中浅口郡の細川通童に亡命中の香川氏への伝達を依頼しています。ここからは香川之景が、この時期に細川通董と密接な関係を持って、備中で活動していたことがうかがえます。
 実はその4年前の1563年6年6月には、香川氏家臣の帰来秋山氏が「神島」に赴いています。香川氏は、何らかの権益を神島に持っていた可能性があります。それが分かる史料を見ておきましょう。
香川之景が秋山家の分家・帰来善五郎へ神島行の論功に対して、知行地を給付しているものです。
今度帰来善五郎至神島相届候、別而令辛労候之条、帰来小三郎跡職悉為新給令扶持候、井於国吉扶持之所々目録二相加袖判候、全可知行者也、弥相届忠節奉公肝要之旨堅可申付候、恐々謹言
永禄六(年)六月一日            (香川)之景(花押)
河田伝有衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の帰来善五郎の神島(備中笠岡)への遠征について、その労に報いるために、帰来小三郎跡職と国吉の扶持を目録通りに、新たに知行地として与える。よって今まで通り忠節奉公に励むように(帰来善五郎)申付けること、恐々謹言
永禄六(1563年)六月一日            之景(花押)
河田伝有衛門尉殿
 ここに出てくる神島は、西讃の対岸にある備中小田郡の神島のことでしょう。

笠岡 神島 青佐山城
笠岡の神島と青佐山城
神島は、かつては笠岡湾の入口にあった島で、神島神社が鎮座し、古くから備讃瀬戸交易の拠点だった所です。対岸の庄内半島や三野湾とも活発な交易を行っていたことがうかがえます。また神島は、細川通董の居城青佐山城に隣接しています。ここからも、香川氏と細川通董は親密な関係にあったことが裏付けられます。この時期から香川之景は島伝いに備中へ渡り、細川通董の側で活動していたと研究者は推測します。

青佐山城 笠岡
 
香川氏が多度津港を拠点に瀬戸内交易に進出し、大きな利益をあげていたことは以前にお話ししました。それが、香川氏を戦国大名に成長させていく経済基盤になりました。例えば、「兵庫北関入船納帳」からは、多度津周辺の浦々の活発な交易活動がうかがえます。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾

 ここで注目したいのは、上表の右端の多度津の問丸です。
通行税無料の過書船の船頭は紀三郎、問丸は道祐、国料船の船頭・問丸と同じです。一般船も4件の内の2件は、船頭・紀三郎、問丸・道祐です。ここからは多度津の問丸は道祐が独占していたことが分かります。
 室町時代になると、問丸は年貢の輸送・管理・運送人夫の宿所の提供までの役をはたすようになります。さらに一方では、倉庫業者として輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで行う者も現れます。このような瀬戸内海を股にかけて活動する問丸が多度津港にも拠点を置いていたことが分かります。このように戦国時代の多度津は、備讃瀬戸における讃岐側の重要な通称拠点港で、瀬戸内海の各港とつながっていました。特に対岸の備中神島とは、問丸などの関連を通じて、香川氏は何らかの利権を持っていたことが考えられます。そのため三豊脱出後に選んだのが、通称交易を通じて馴染みの深かった笠岡の神島かもしれません。これを裏付ける史料は今のところありません。あくまで仮説です。

神島神社 【笠岡市神島外浦】 | 山陰百貨店―日常を観光する―
神島神社
 天正2年(1574年)段階で織田信長の庇護下にあった細川京兆家の当主・細川信良と、毛利氏の小早川隆景の交渉に香川氏が関わっていた史料があります。これも香川之景が備中にいたこと、小早川隆景の下で活動していたことがを裏付けるものになります。一方で、細川信良は聖通寺城主の奈良氏に対して、三好氏を裏切り、香川氏と協力するように命じる文書も出しています。この時期に、讃岐から備中に、阿讃の兵を引き連れて侵攻していたのは篠原長房でした。篠原長房は天霧城を落城させた憎き相手でもありました。
香川県史の年表には、1571年のこととして次のような記事が載せられています。
6月12日
足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請(柳沢文書・小早川家文書)
8月1日
足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.
9月17日
小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)」
ここからは、香川某氏が足利義昭に働きかけて、小早川隆景や毛利氏の支援を受ける外交交渉を行っていたことが見えて来ます。 
このような香川氏の多度津「帰還運動」が実現するのが1577(天正5)年の元吉合戦です。

1 櫛梨城2

元吉合戦の経過

この戦いについては以前にお話したので詳細は省略しますが、この時に香川氏も毛利氏の支援を受けて多度津に帰ってきたようです。
毛利氏の西讃経営戦略と元吉合戦

毛利氏にとって、この戦いの意味は次の3点です。
A 石山本願寺戦争に対して、戦略物資輸送路として備讃瀬戸の南側の脅威をとりのぞく。
B 信長包囲網の一環として、信長の同盟軍である阿波三好氏を討つ。
C その後の西讃経営のために、香川氏を天霧城に帰し、毛利氏の拠点とする。
つまり、反三好・反信長の拠点として香川氏を「育成」していこうとする戦略だったと研究者は考えています。そのため毛利方は、元吉合戦に勝利したにもかかわらず、年末には兵を引いて西讃から撤退していきます。毛利氏に西讃を任されたのが香川氏ということになります。こうして、12年ぶりに天霧城に復帰した香川氏の動きが活発化します。香川氏の発給文書が再び発給され始めるのも、この年からです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「橋詰 茂  史料紹介 戦国期香川氏の新出文書について 四国中世史研究NO15 2019年」
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    南海治乱記と南海通記   
 讃岐の戦国時代のことは『南海通記』の記述をもとに書かれている市町村史が多いことは今までにもお話ししました。そのため長宗我部元親の讃岐侵攻に際して、西讃守護代である香川氏が救援軍を送らないことに対して、戦前には「郷土防衛戦に際しての裏切り者」というようなレッテルが貼られていた時期もあったようです。今回は「南海通記」が香川信景が戦わずして長宗我部元親に降伏し、その軍門に降ったとすることを、そのまま鵜呑みにしていいのかを検討していきたいと思います。テキストは「橋詰茂 天霧城入城前後の情勢と香川氏の終焉」です。

長宗我部元親の侵攻当時に、香川氏は三好氏に従属していたとされてきました。それは「南海通記」の
天霧城攻防戦の次のような記述を拠り所としていました。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。

ここには、1558年に三好実休が讃岐の惣国衆を引き連れて、天霧城を取り囲み籠城戦の末に香川氏を下し、配下に置いたと記されています。秋山文書の分析などから、次のようなことが分かってきました。
香川氏亡命

①1558年に三好実休は畿内に転戦中で、三好勢力が讃岐に侵攻する余裕はなかった。
②天霧城を包囲したのは、三好氏の重臣篠原長房で、年代は1563年のことであった。
③香川氏は三好氏の軍門に降ったのではなく、天霧城を追われた後も抵抗を続け、最終的には安芸毛利を頼って落ちのびていった。
④香川氏は、将軍足利義昭の支持を取り付け、毛利傘下で、讃岐への帰讃運動を展開した。
⑤それが実現するのが1577年の元吉合戦の際のことであった。
⑥香川氏は、毛利家の支援を受けて反三好勢力として讃岐に帰ってきた。

「香川氏=安芸毛利亡命説」を裏付ける史料が香川県史の年表には元亀2(1571)年のこととして、次のように記されています。
1571 元亀2 6月12日
足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請(柳沢文書・小早川家文書)
8・1 
足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請。なお、三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
9・17 
小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、鞆に亡命してきていた足利将軍義昭が、香川某の帰国支援に動いていたことが分かります。これが事実とすると長宗我部元親の讃岐侵攻時には、香川氏は安芸亡命から16年ぶりに帰還したばかりだったことになります。香川氏とともに帰国し、旧領を得た配下の武将達は領地経営が未整備なままであったことが推測できます。つまり、長宗我部元親軍と戦える情勢ではなかったと私は考えています。それを見透かして、元親は和平交渉を持ちかけてきたのでしょう。香川氏の対外戦略の基本方針は一貫して「反三好」です。それも毛利側についた理由のひとつかもしれません。そして今、三好勢力を駆逐しようとしてる土佐軍は「敵の敵は味方だ」という戦略からすると、手を結ぶべき相手になります。
 「南海通記」以後に編纂された歴史書には、次のような香川氏への批判が出てきます。
「三好配下に従属しながら土佐軍の讃岐侵攻を見過ごした。」
「讃岐国衆が「郷土防衛戦」を戦っているのを見殺しにした。」
これは香西成資の「歴史を倫理」として捉える見方の延長で、事実からは遠く離れたものだと私は考えています。

長宗我部元親の讃岐侵攻を見ておきましょう。

長宗我部元親讃岐侵攻図
長宗我部元親の讃岐侵攻
1575年 土佐国内の統一達成
1576年 阿波三好郡へ侵入し、白地城攻略
1577年 元吉合戦で、毛利軍に三好配下の讃岐惣国衆が敗北 → 香川氏の天霧城復帰
1578年夏 讃岐侵攻開始。讃岐の藤目城主(観音寺市粟井)の斎藤下総守を調略
小説家なら想像を膨らませて、こんなストーリが描けます。
元親は、藤目城を西讃攻略の拠点として情報収集と外交活動を展開します。それを担当したのが、元親のブレーンとして身近に仕えていた土佐修験者たちのグループでした。彼らは熊野業者の参拝ルートなどを通じて、四国の情勢を集める諜報活動も行っていました。天霧城の麓にある弥谷寺は中世以来、修験者や聖の拠点でした。弥谷寺を通じて、香川氏と連絡・密議を重ねます。この結果、土佐軍の侵攻以前に、長宗我部元親と香川信景は「不戦同盟」は結ばれていました。その論功行賞として、修験者グループに与えられたのが金比羅松尾寺です。松尾寺は、長尾家出身の住職である宥雅が堺に亡命し、無住となりました。それが土佐の修験者宥厳にあたえられたのです。金比羅松尾寺は金毘羅大権現として、讃岐平定の象徴寺社に作り替えられていきます。
話が逸れてしまいました、元に戻します。
 長宗我部元親によって三豊に打ち込まれた布石・藤目城に対して、阿波の三好存保は聖通寺城主・奈良勝政に撃退を命じます。奈良氏は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔とともに藤目城を攻め、これを奪回します。これらの讃岐衆は、三好氏の指令で動いていました。讃岐を舞台にして、阿波三好氏と土佐の長宗我部氏が戦っていたことを押さえておきます。
 藤目城を奪い返された長宗我部勢は、秋には目線を変えて三野郡財田の本篠城(財田町)を攻略します。そして、本篠城を出城にして、冬には再び藤目城を攻め、これを再度掌中に収めます。これが元親の讃岐攻略の前哨戦です。

DSC06256本篠城(財田)
本篠城縄張図

これに対して多度津天霧城の香川信景は援軍を派遣しません。
一般的には、次のように言われてきました。

藤目城攻めの際に、香川信景が動かなかったために、元親は信景の舎弟観音寺景全の家老である香川備前守へ使者を遣わし、信景に和親の申し出をした。信景はこの申し出を受け入れ、香川山城守・河田七郎兵衛・同弥太郎・三野菊右衛門の四人の家老を二人ずつ土佐へと赴かした。そして信景も岡豊城へ出仕して元親に拝謁した。こうして信景は元親の支配下に入り、以後西讃岐は長宗我部氏により統治される

 この従来は定説とされてきたことを、研究者は再検討していきます。『南海通記』の内容は『元親記』と、ほぼ同じ内容です。香西成資は『元親記』を参考資料にして『南海通記』を書いたので、これは当然のことです。そこで、研究者は『元親記』を再検討します。

元親記・目録」  清良の庵(きよよしのいおり)
元親記 太閤エ降参以後の目録

香川信景が同盟締結後に岡豊城へ赴いた際の様子を『元親記』は次のように記します。

元親卿の馳走自余に越えたり。振舞も式正の膳部なり。乱舞、座敷能などあり。五日の逗留にて帰られけり。国分の表に茶屋を立て送り坂迎あり」

意訳変換しておくと

元親卿の供応ぶりは盛大であった。その振舞も正式な対応で、乱舞(風流踊?)、座敷能などもあった。五日間、岡豊城に滞在して香川信景は讃岐に帰った。その際に国境まで見送り、茶屋を立て送迎した。

ここから見えてくるのは、服従者への対応ぶりではなく、「盛大な供応」で大切にもてなしていることです。これは次男親和を婿入りさせることにより、香川氏との同盟関係を作り上げるための演出と見られます。

子孫が語る大坂の陣(4)再起のためなら命も乞う「牢人大名」長宗我部盛親 - 産経ニュース さん

この歓待に対する香川信景からの礼状にたいして、長宗我部元親は次のような書状を返しています。
去十四日御礼、昨日十一日に到来、委細令披閲本望候、両度之御状共皆以相届、及御報候き、殊御使者十八日に帰路候之条愚存之趣、一々申達候了、誠年来申談筋目候之間、此節者猶互弥可申合候、御存分在之始末等、得其意候、重畳為可遂入魂、自是も祇今令申候、何篇於御分別者、可為祝着候、委悉用口上候間、不能多老候、恐々謹言
卯月十二日                        元親(花押)
香中(香川信景)御返報
意訳変換しておくと
去る14日の御礼についての使者が、昨日11日に到着しました。委細については書状で拝見しました。御使者が18日に讃岐に帰る際に、私の意向はひとつひとつ口頭で申し伝えました。両者で折衝してきた事項について、この機会に細かいところまで煮詰めて合意に至ったこと、それに対する誠意ある対応について、重ね重ね入魂の極みです。この度の判断について祝着に感じます。詳しくは、使者に口頭で伝えてあります。不能多老候、恐々謹言
卯月十二日                    元親(花押)
香中(香川信景)御返報
この史料は信景が元親の歓待に対して、礼の使者を元親へ遣わしたことに対する返書です。ここでは、元親が信景に対して同盟者として丁重な対応をしていることを押さえておきます。

『長元物語』には、西讃平定後の元親の「仕置き」について次のように記します。
「香川殿領分は、元親公御子息五郎次郎殿養子に御備りゆへ、 一族衆城持、何れも知行等、前体の如く下さるるなり」
「観音寺を初めとし、その外、国持降参の衆は、知行前に替らず下され、年頭歳暮の式礼これある事」
意訳変換しておくと
「香川殿の領分は、元親の次男五郎次郎殿を養子に入れて相続させ、一族や国衆・城持衆なども今まで通りの知行地を保障すした。」
「(元親に降伏した)観音寺を初め、国持の衆についても、従来の知行地を認める。その代わりに年頭歳暮の式礼を欠かさないこと」
ここからは次のようなことが分かります。
①香川氏や一族衆の所領は以前のまま安堵されたこと。
②長宗我部元親の次男・親和が香川家の婿に入り、五郎次郎を称したこと
③早期に降伏した国衆についても、従来の知行地が認められていること
②の「五郎次郎」は、香川氏の家督相続者が代々名乗った名称で、行く行くは、香川家の当主して西讃を統治していこうとする意向の表れと研究者は考えています。
以前にもお話ししたように、讃岐では長宗我部元親は悪役です。讃岐の近世以前の神社は元親によって焼き払われたと、近世後の編纂物は記します。しかし、観音寺や本山寺、金毘羅松尾寺などは焼き討ちされていません。懐柔によって長宗我部元親の味方に付いたエリアの神社は被害を受けていないことは以前にお話ししました。
『元親記』には、次のような史料が載せられています。
猶以去廿四日財田よりの御書も相届申候
去廿六日御書昨日三日到着、得其意存候
一 隣国面々儀、悉色立儀相申趣香中始証人等被相渡、其外之模様条々無残方相聞申候、
是非之儀更難申上候、十河一城之儀も如此候時者可有如何候哉、家中(香川信景)者心底可被難揃と申事候 (中略)
一 牛岐返事此刻調略事候、成相申談相越候 (中略)
十二月四日
            香左(香宗我部親泰)         親泰(花押)
桑名殿ヘ
意訳変換しておくと
去る24日に財田よりの御書も届いた。また26日の御書が昨日三日に到着し、次のような内容が確認された。
一 隣国の情勢について、重要な情報については香中(香川信景)などにも情報を伝え、共有化している。困難な問題は、十河城攻撃の件で、今までの抵抗ぶりからして、家中(香川信景)も困難な闘いになることを覚悟している (中略)
一 阿波牟岐城については、調略よって落城したことが伝えられた(中略)
         香左(香宗我部) 親泰(花押)
十二月四日        
桑名殿ヘ
ここからは次のような事が分かります。
①発信者の香左親泰は香宗我部親泰
②年未詳だが阿波牛岐を攻略したことが記されているので天正7年の12月と推定。
③「財田より御書」は、財田城からの報告が香宗我部親泰に定期的にもたらされていたこと。
④「香中」は香川信景のことで、彼が十河存保の居城である十河城攻撃に一役かっていること

『長元物語』の別の記事では次のように記します。

「財田の城は中内藤左衛門、おなじくその子源兵衛父子共に、組与力御付け入部の事」

ここからは、財田城は長宗我部氏の西讃後略の拠点として機能していたことがうかがえます。ここに集められた情報が長宗我部元親の元へ伝えられる仕組みができあがっていたことがうかがえます。

DSC05414羽床城
羽床城縄張図
信景が元親との同盟を成立させ、三豊地方を制圧した後に、元親は中讃の羽床攻めを行います。
元親は中讃エリアでは力攻めでなく、懐柔策をとります。次の文章は、長宗我部元親が羽床伊豆守の一族である木村又兵衛に和議の仲介を求めたものです。
就長尾和談、当国弓矢有増候、然(羽床)伊豆守踏両城栗熊表令出張妨路次之間、
早速可用斧村之処、同者貴殿以一家之好被入和候者尤目出度候、如何依心底明日可令出陣、
委細八郎左衛門可申候、謹言
長宮
十一月二日             
長宮(長宗我部)元親(花押)
木又二(木村又兵衛)
御宿所
意訳変換しておくと
長尾氏は、讃岐に弓取りの名人は数多くあれども、羽床伊豆守の武勇はよく知られていると云う。ついては栗熊方面への進軍を妨害するようなことがあれば、早速に武力で取り除く。貴殿は羽床氏と一族であると聞く。ついては一族のために一肌脱いで、和睦交渉にあたられんことを心底から望む。明日には出陣予定である。委細については、八郎左衛門に伝えてあるので協議すること、謹言
長宮(長宗我部元親)元親(花押)
十一月二日             
             
木又二 (木村又兵衛)
 御宿所
この結果、羽床氏は元親に降伏します。それを見て、周辺の国人も戦わずして次々と降伏します。中でも長尾大隅守の降伏で得た領域は、元親にとっては東讃攻めに重要な拠点を手に入れたことになります。丸亀平野を南からにらむ要衝の西長尾山に新城を築城します。そこに国吉甚左衛門を置き、中讃の拠点とします。『長元物語』では、甚左衛門を「讃州一ヵ国の惣物頭」と称しています。地図で見ると分かるように、西長尾城は、東讃や中讃へ出兵する際に、阿波白地と結ぶ絶好の地です。阿讃山脈を大軍が越えるため二双越や真鈴越、樫休場、猪ノ鼻越の峠道の整備も行われたはずです。

長尾城全体詳細測量図H16
長宗我部元親によって一新された西長尾城
 ちなみに西長尾城の調査報告書には、この城には土佐式の遺構が随所に見られることが報告されています。そして長宗我部元親によって土佐式に拡張リニューアル化され、一新していることを以前にお話ししました。ある意味では、「土佐様式で作られた新城」と考えた方がよさそうです。讃岐支配の戦略的拠点は新「西長尾城」で、宗教的な拠点が象頭山の松尾寺だったと私は考えています。
 天正十年六月に、西衆と称される東伊予と西讃の軍勢が東讃制圧のための各武将の集結地点となったのも西長尾城です。
 その西衆の総大将が元親次男の香川親和で、その後見役を香川信景が務めるという陣編成です。三豊は三野氏や秋山氏など香川氏の家臣たちが多かった所です。香川信景の人望なくして西讃を統治することができなかったのでしょう。

讃岐戦国史年表3 1580年代
長宗我部元親の東讃制圧

 香川氏が宿年の敵であった阿波三好氏を讃岐から駆逐するためにとるべき戦略が「東西から挟み撃ち戦略」でした。西讃では反三好勢力の急先鋒である香川氏が先陣を勤めます。東讃からは、阿波平定後の長宗我部元親の本隊が阿讃山脈を越えて進撃してきます。めざすは三好氏の東讃の拠点・十河城です。

DSC05358十川城
十河城縄張図
しかし、十河城は守りが堅固で一気には攻め落とせませんでした。元親は、冬が来る前に一時土佐へと帰国します。兵力温存のために無理強いはしないというのが元親の基本的方針です。翌11年元親は再び讃岐へ侵入し、十河城を囲みます。この戦いには、香川信景も西衆を率いて参戦しています。この時にめざましい軍功を挙げたのが秋山氏です。
信景だけでなく元親からも感状が発給されています。この時の秋山文書の中の感状を見ておきましょう。
去十三日敵動之由、従寒川殿御注進昨夕到来候、各以御心遣、城中無異儀、殊敵数多被討捕之由、御勝利尤珍重候、天霧へも申入候、定而可被相加御人数、御普請等芳、猶以無油断可被入御心事肝要候、先任早便令懸候、恐々謹言
十月十八日
石田御当番衆中
御陣所
長宮(長宗我部)元親御判
意訳変換しておくと
13日の敵の情勢については寒川殿からの注進が昨夕に届けられた。各自の働きについて、数多くの敵兵を討捕え、勝利をえたことは珍重である。この勝利を天霧(香川信景)へも伝えた。また占領地については守備兵を増やし、防御施設を増築するなど、無油なきように用心することが肝要である。先任早便令懸候、恐々謹言
十月十八日
石田御当番衆中
御陣所
長宮(長宗我部)元親御判
ここからは次のようなことが分かります。
①「寒川氏から注進」とあるので、十河氏の支配下にあった寒川氏が、この時には元親に服属していたこと
②由佐・寒川氏などの東讃の有力国人は、戦わずしていち早く元親に服属し、先兵として活躍していること
③「御勝利尤珍重候、天霧(香川信景)へも申入候」とあり、信景に逐一戦勝の報告をしていること
④西衆の指揮権は信景の権限下にあったこと
西讃は元親の支配下に入ったとされてきましたが、実質的には香川信景による統治が依然と変わらぬ形で行われていたことがうかがえます。
それを裏付ける資料を見ておきましょう。
これは土佐から婿入りした香川親和の付き人である吉松右兵衛へ三豊の所領を給付したものです。「坪付」とあるので、地域の土地を調査していることが分かります。
① 六町  吉松右兵へ給
同坪付
麻  佐俣  ヤタマセ(?) 原村  大の 十七ヶ所
はかた(羽方) 神田 黒嶋
西また(西股) 長せ(長瀬)
合三町五代
天正九八月十八日
② 同坪付  吉松右兵衛給
一 四十壱ヶ所   中ノ村・上ノ村・多ノ原村 財田
天正十年三月吉日   印
③ 吉松右兵衛給
同打加坪付
一 六ヶ所  財田  麻 岩瀬村
以上六反珊五代
天正十年    ―
五月十八日防抑 ‥
①には、麻・佐股・羽方・神田・長瀬などの地名が見えます。これは高瀬町や神田町の地名で、大水上神社の旧領地になります。かつては近藤氏の所領だった所です。
②は「中ノ村・上ノ村・多ノ原村 財田」とあり、財田川上流の財田町の地名です。
③は、「六ヶ所  財田  麻 岩瀬村」とあり、①②に隣接する地域で、これの旧近藤氏の知行地です。
これらの地域が、土佐から香川氏の婿としてやってきた親和(元親次男)に付けられた家臣・吉松右兵の知行地として割譲されています。それが合計六町(㌶)になります。吉松以外にも土佐から多くの長宗我部氏の家臣が移住してきたはずです。彼らにも知行地が支給されたでしょう。高瀬の仏厳寺は土佐から移住してきた高木一族の創建と伝えられます。

日枝神社 高瀬町
          日枝神社(高瀬町上勝間) 土佐神社が合祀されている
また土佐神社が鎮座していることは以前にお話ししました。ここからは、土佐から移住した人々は、その後も三豊に留まり、寺社が創建され、元親の家臣たちの信仰を集めたことが考えられます。三豊には、生駒家になって急速に、開墾地を増やす郷士層が数多く見られます。彼らは長宗我部元親とともにやってきて、そのまま根付いた人々ではないかと私は考えています。

以上を整理しておきます。
①1565年に三好氏重臣の篠原長房によって天霧城は陥落し、香川氏は安芸毛利氏の元に亡命した。
②元将軍足利義昭は、信長包囲陣形成の一環として、香川氏の多度津帰還支援を毛利氏に働きかけた。
③毛利氏は、石山本願寺への戦略物資輸送確保のために備讃瀬戸の南側の丸亀平野の元吉城を押さえた。
④これに対して三好氏は、讃岐惣国衆に命じてこれを攻めさせた。香川氏の帰還は、自分たちの獲得した既得権利を失うことになるので、讃岐惣国衆は結集して元吉城を攻めたが敗れた
⑤元吉合戦と同時並行で、香川氏の多度津帰還が実現し、香川氏の領地も回復した。
⑥帰国した香川氏は、旧領地に旧家臣団を配備して体制を整えようとした。
⑦元吉合戦の翌年に讃岐侵攻を開始した長宗我部元親は、このような讃岐情勢を見て、香川氏の凋落工作を行った。
⑧香川氏は「反三好」を基本外交方針としており、三好勢力を讃岐から駆逐するために長宗我部元親と手を結ぶことにした。
⑨長宗我部元親は香川信景を同盟者としてあつかい、次男を後継者として香川氏に送り込んだ。
⑩こうして、香川氏は旧来の領地を保証され、東讃制圧の先兵として働くことになった。
⑪一方、領地内では新たに土佐からの入植者を受けいれると共に、土佐からの家臣たちに知行地も与えている。
⑫土佐軍が去った後、生駒時代になっても土佐からの入植者は三豊に定住した。それが土佐神社として今も残っている。
⑬南海通記は「香川氏は長宗我部元親の軍門に降り、西讃はその支配下に置かれた」と記す。しかし、三豊は香川氏が支配権を握り、その武将達の軍事的編成権も持っていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
橋詰茂 天霧城入城前後の情勢と香川氏の終焉
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「秀吉の四国平定」の讃岐侵攻については、「黒田家譜」や「改選仙石家譜』、「森古伝記」などの編纂資料を比較すると、多少のちがいはありますが、その推移はほぼ一致します。それを整理すると次のようになります。

四国征伐・宇喜多軍
           宇喜多軍の進撃ルート 讃岐を通過して阿波へ (黒 毛利軍)

秀吉の四国出兵 讃岐方面

ここからは東讃では、長宗我部方の抵抗はほとんどなく、短期間で軍事行動は終わったようです。宇喜多勢が植田城を放置して阿波に転戦できた背景には、讃岐東部には十河氏や安富氏をはじめとす反長宗我部勢力がいたことがあげられます。放置して通過しても、十河・安富氏がいるから大丈夫と判断したからでしょう。長宗我部軍による東讃制圧から僅かに期間で、地に根を支配体制がまだ出来上がっていなかったと研究者は考えています。
それを裏付けるものとして、秀吉軍の上陸を手引きをした香川郡の横井氏がいます。
横井家家系 丸亀市今津
羽柴軍を手引きした横井氏の系図

横井家の先祖は香川郡東横井村(高松市香南町)に住んで、讃岐守護細川氏の重臣であった尾池氏に従う土豪クラスの武士だったようです。天正年間の長宗我部侵攻の際には、当時の当主がこれ戦ったことが分かる文書もあります。そして秀吉軍の四国侵攻の際には、その手引きをしたことを示す文書も残っていることは以前にお話ししました。そのことが記されているのは天正13(1585)年5月4日付けの横井家当主の丹後守(正元)宛ての羽柴秀吉書状案です。横井家のものは秀吉朱印でなく花押ですが、その内容は「来月三日」の四国渡海による作戦開始を伝え、讃岐の丹後守(横井元正)に具体的な作戦行動を指示したものです。そのミッションとは、小豆島に滞陣する仙石権兵衛の四国渡海の案内手引きをせよということです。ここからは横井氏が小豆島に亡命中の安富氏や十河氏と連絡をとりながら諜報活動等を行っていたことが見えて来ます。横井元正は、この書状を受け取ると同時に、仙石氏の屋島上陸作戦に備えるための行動を開始したことでしょう。そして、長宗我部方の城の情報なども伝えたのでしょう。このような反長宗我部方の土豪たちが東讃には数多くいたようです。ここからも長宗我部元親による東讃支配は不安定だったことがうかがえます。
 こうして屋島に上陸した宇喜多直家軍は、限定的な戦闘だけで阿波に転戦していきます。阿波が主戦場で、讃岐は通過のみのような印象を受けます。このように軍記ものに出てくる秀吉の讃岐侵攻は東讃だけが舞台で、それも植田城を放置しての「通過」として記されています。
書かれていない西讃方面は、どうだったのでしょうか? 
 具体的には、長宗我部氏と親族関係を結び同盟関係にあった天霧城主香川氏に対しては、秀吉はどのような対応をとろうとしていたのでしょうか? 従来は、秀吉の四国出兵の際の讃岐攻めは、東讃だけが想定戦闘エリアとされてきました。つまり、香川氏に対しては、兵力を差し向ける意図もなかったというのです。それに再考を求める【史料】を見ておきましょう。
前回も見た毛利方の吉川元長が国元に送った書簡には、次のように記されています。
毛利軍の天霧城攻撃目標設定史料

意訳変換しておくと

「また阿波方面については、羽柴軍が一宮・岩倉・脇城を取り囲んでいるが、これらも近日中には落城するだろう。そうすれば、(香川氏の居城である)雨霧城にも兵を差し向けることになろう。それで、阿波・讃岐・伊予の三国共に決着することになる。

ここには阿波戦線が片付けば、香川氏の居城雨霧(天霧)城への攻撃も予定されていたこと、そして香川氏を叩いて、四国平定の決着をつけると認識していたことがうかがえます。しかし、天霧城攻めは、それよりも先に長宗我部氏が降伏したために実行されませんでした。それでも和議成立後の8月には、羽柴秀長と小早川隆景が実際に「西讃岐」まで赴いて、香川氏と面会したようです。ここからは秀吉の戦略上の想定に讃岐西部が含まれていたと研究者は判断します。

香川氏の安芸亡命
香川氏は天霧城落城後、毛利を頼って安芸亡命 帰国は元吉合戦の時であった。

それでは香川氏は、羽柴軍や毛利軍の動きをどのように警戒していたのでしょうか?
三野郡の秋山氏に宛てた(香川)四郎五郎の書状を見ておきましょう。
毛利氏の伊予侵攻 香川氏の警戒

意訳変換しておくと
 戦況に対する情報がもたらされたので伝えておく。秋山氏が派兵した兵力について、早々の帰還についてを羽久地(白地)の長宗我部元親にお伺いしたところ、近々に帰還予定とのことであった。なお、油断することなく細心の対応をすること。櫓などの修築なども怠らないこと。観音寺方面の情勢については、油断のないように注視・対応すること、新居・西条あたりからは今朝より、兵火が上がっているようだ。伊予方面の情勢を今後も注意深く見守ること。
 与岐(余技崎)・ミの(箕浦)浦に煙(狼煙)が立ちのぼっているという報告も受けているが、その実態は分からない。観音寺については、主人が留守でであるので、その動向を注視したい。三孫(三野氏)へも、その旨のことを伝え、警固を強化するように指示した。明日にも、柞田・観音寺方面で軍事的な動きが発生することも考えられる。西表之衆(反長宗我部勢力?)が集結し、進軍してくることもありえる。そのために観備(観音寺香川氏)と連絡を取り、協議しておく必要ある。与次兵が帰還して、詫間衆へは連絡がついている。大見(秋山氏?)には番衆を派遣した。 くれぐれも貴所次第被相談候へと被仰候、其御心得候て、可然様御才覚肝要候、西表之事も其分別たるへく可被仰談候、恐々謹言、      
 (天正十三(1585年) 七月十九日                                (香川)四郎五郎(花押)
(秋山)木工御宿所
ここからは次のような情報が読み取れます
①天霧城の香川氏の関係者である「四郎五郎」から、三野の秋山氏(木工)への書簡であること。
②毛利軍の伊予上陸で戦闘が激化し、新居・西条あたりで火災が起きていること
③伊予との国境の与岐(余技崎)・ミの浦(箕浦)からの煙(狼煙?)が上り、三豊地方に軍事的な警戒感が強まっていること
④「三孫(三野氏)」や「観備観音寺(香川)備前守)」を、香川氏配下の自軍の者としてあつかっていること
⑤それに対して、観音寺方面の軍勢を「西表之衆」と呼んでいる
⑥香川氏が派遣した軍勢の帰還に「羽久地(白地=長宗我部元親)」の指示が必要になっていること、

天霧城3
香川氏の天霧城
西方で発生した兵火が新居や西条方面ものであることは、日付からみて金子元宅が籠る高尾城攻めの戦火と研究者は考えています。その根拠は次の通りです。
A 金子氏の高尾城落城は17日夜の出来事である(【史料】「十七日亥刻落去仕候」)
B 翌18日以降にもたらされ伊予東部の異変に関する報告
C その報告への返書が、19日付のこの四郎五郎書状
つまり、この史料に年紀は入っていませんが、天正13(1585)年のものと研究者は判断します。この香川氏の書簡からは、毛利勢が伊予制圧後に讃岐方面に東進してくるのではないかと警戒を強めていたことが分かります。そして、配下の三野氏や秋山氏、「観備観音寺(香川)備前守)」と連絡を取り合いながら、軍勢配置を確認するとともに、防御施設の準備を進め、毛利軍の侵攻に備えています。ちなみに観音寺方面の敵対する軍勢を「西表之衆」と表記しています。これがどのような勢力を指すのかも、今の私には分かりません。
 この史料からは、秀吉の「四国平定(出兵)」が今まで言われてきたように、讃岐東部に限定した作戦でなかったことが分かります。東讃を通過した宇喜多勢は、一旦阿波へ転戦しますが、長宗我部氏の出方次第で、香川氏を攻めるために西讃にやってきて、三豊も戦場となる可能性があったのです。このあたりのことは、南海通記などの軍記ものでは何も触れていません。

 次に、秀吉が戦後の讃岐支配について、どんな指示を出していたかを見ておきましょう。
  8月4日ニ「秀吉は「四国国分」の構想を弟秀長に書状で伝えています。その中で讃岐に関する部分を抜き出したのが次の史料です。
羽柴秀吉朱印状写(部分)「毛利博物館所蔵毛利家旧蔵文書」
一、淡路事ハ心安者を可置候間、野口孫五郎(長宗)儀ハ小六(蜂須賀家政)与カニいたし、只今淡路にて取候高頭辺二弐三千石も令加増、小六与カニ可仕候、其仔細ハ千石(仙石)権兵衛尉二つけて讃岐へ可遣候へ共、さぬきハ安富又(又三郎)・十川孫六郎(存保)両人者為与力、権兵衛二可引廻由申出候、其国ニハ与力類一人も在之間敷候間、担々孫五郎事目をかけ可馳走事、(略)

一、権兵衛可申間儀ハ安富忠切越候間、郡切二いたしいつれの方へ成ともかたつけ安富二遣可申由、前廉に可被申聞候、但於大坂国儀をも聞届、権兵衛安富召寄知行所々可相定事、
意訳変換しておくと
一、淡路については、信頼できる者を配置したい。ついては、野口孫五郎(長宗)は小六(蜂須賀家政)に味方し、淡路の筆頭知行主となっているが、それにさらに高頭辺りに2,3千石を加増して、小六の与力としたい。仙石権兵衛(秀久)には、讃岐を与え、その与力として安富又三郎・十川存保の両人を配する。讃岐には与力となる者が一人も居ないので、孫五郎に目をかけ褒美を取らせること。(略)

一、仙石権兵衛に伝えることは、安富氏は忠節な働きぶりだったので、讃岐のどこかの郡を分割して、安富に知行させることを前廉に申し聞かせておくこと。ただ大坂のことも聞届け、権兵衛が安富氏を召寄て知行するような形をとること。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉が弟秀長に、讃岐のことについて指示を出していること
②讃岐は仙石秀久に与えるが、国衆で信頼できる者が少ないので、安富又三郎と十河存保を与力と育てること
③安富は「忠切(忠節)」であったので、 一郡を与えて知行として与えること
④安富・十河の両氏以外に、秀吉の目から見て信頼できる国衆が讃岐にはいなかったこと

仙石秀久に讃岐を与えることが指示されています。そして、与力として、安富氏と十河氏をつけるとことが記されています。しかし、占領した緒城の扱いなどについては何も触れていません。これについては、各地の城についてまで詳細な指示を出していた阿波の戦後占領方針とは対照的なことを押さえておきます。
 こうして讃岐には秀吉の命を受け仙石秀久が入部しています。仙石氏は、最初は宇多津の聖通寺城に入城し、讃岐東部に拠点をもつ十河氏、安富氏を与力とします。
それでは、無傷のままに接収した天霧城はどうなったのでしょうか?
先ほど見た史料の中に「讃州■吉・雨霧可取懸との由候」とあったように、天霧城攻めが当初の攻撃目標にリストアップされていたことは確かです。しかし、無傷で残った天霧城を、仙石氏が活用したという痕跡はありません。
 ここからは、秀吉の西讃への軍事行動は城主香川氏を標的とした作戦であったと研究者は考えています。その背景には、長宗我部元親の次男が香川氏を継いで、長宗我部元親の同盟軍として讃岐制圧を行ったことへの報復・見せしめ的なものではなかったかと云うのです。それは、前回見た伊予の金子氏と同じ立場であったことになります。そうだとすれば、香川氏は秀吉に降伏しても、厳しい措置が待ち受けていたはずです。その後の仙石氏や生駒氏に登用される道も閉ざされていたことになります。在野に下っても、「長宗我部元親の手先」として厳しい世間の目が待ち受けていたことになります。香川氏が、土佐に亡命するという道を選んだのも納得できます。ここでは、予定されていた天霧城攻撃も伊予東部と同様に、拠点確保ではなく、香川氏を標的とした作戦であったこと。それを知っていた香川氏はいち早く土佐に落ちのびたことを押さえておきます。
こうしてみると秀吉の対讃岐戦略には、東讃と西讃では異なる戦略方針があったことがうかがえます。
東讃では、出兵の前から十河氏や安富氏などの羽柴方に味方する勢力が根強く残っていました。そのため屋島に上陸した宇喜多軍が直面したのは、長宗我部勢を牽制する程度の局地戦にとどまりました。そして、上陸後は植田城を無視して、短期間で阿波の木津城攻めに合流しています。ここからは羽柴軍の当初の戦略は、讃岐よりも阿波の制圧を優先したことがうかがえます。
 一方、長宗我部方の香川氏が支配した西讃については、毛利軍が天霧城攻めが計画していました。そのため元親の降伏が遅れれば、西讃は戦場となり、天霧城をめぐる攻防戦が展開された可能性があったと研究者は考えています。
 平井氏は毛利氏の伊予侵攻について、次のように述べています。

「降伏したい元親と、元親が降伏してくることを確信している秀吉の戦いだったのであり、その結果、本来の降伏条件に、毛利側が求める伊予国没収を追加させる効果だけをもたらしたのである」「秀吉にとっ四国出兵は、毛利輝元に自力で伊予国を奪い取らせ満足させるための戦争であった」

 藤田氏は金子家文書を再検証するなかで、四国出兵について次のように記します。

「四国における秀吉の統一戦は、毛利氏による金子攻撃(高尾城の戦い)と羽柴秀長による三好氏領奪還戦(一宮城・木津城の戦い) を本質としていた」

以上を要約・整理しておきます。
①秀吉は讃岐制圧のために宇喜多直家を大将とする軍を小豆島を拠点に送り込んできた。
②宇喜多軍は屋島に上陸して、最小限の限定的な戦闘だけで阿波に転戦した。
③ここには秀吉とって、四国平定の主戦場は阿波にありと認識されていたことがうかがえる。
④宇喜多軍の屋島上陸で、安富氏・十河氏など反長宗我部の諸勢力が抵抗が活発化して、讃岐は放置しても脅威にはならないと判断したのかもしれない。
⑤一方、天霧城の香川氏の対応については、従来の軍記ものは何も語たらず、土佐に亡命したことだけが記される。
⑥しかし、毛利側の戦略には新居浜・西条制圧後は、東進して天霧城を攻めることが予定されていた。
⑦それは、香川氏が秋山氏に送った書状などには毛利軍の動きと、戦闘準備の対応策が記されていることからも裏付けられる。
⑧しかし、長宗我部元親は早期に降伏し、香川氏は土佐に落ちのびることを選択した。
⑨無傷で残った天霧城は放置され、これを仙石氏や生駒氏が活用した痕跡は見られない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 天正10(1582)5月7日に、信長は四国遠征を決定します。このとき、三男の織田信孝に対して以下の計画を伝えています。
①信孝を三好康長の養子とする。
②讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。
③伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。
こうして5月11日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日に出発する予定を立てました。このような中で、信長の意向を讃岐の国衆ヘ伝達する役割を担っていたのが安富氏でした。今回は、信長の四国平定策が頓挫した後の、秀吉と安富氏の関係に焦点を当てて見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

信長に代わって権力を握った秀吉は、畿内情勢が落ち着くと四国平定に乗り出します。
秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状には、当時の阿波・讃岐の情勢が次のように記されています。

書中令披見候、阿州相残人質共、堅被相卜、至志智被相越候者、尤候、行之様子、委細小西弥九郎(行長)二書付を以、申渡候、能々可被相談候、将亦雑説申候者、沙汰之限候、牢人共申出候者を搦取、はた物二かけさせ候、随而讃州安富人質召連、親父被相越候、彼表行之儀、何も具弥九郎可申候、恐々謹言、
天正九年九月廿四日                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

  意訳変換しておくと
書状は拝見した。阿州の人質の扱いについては、丁寧に取り調べて、志智などを見分したうえで、対応を行うのはもっともなことである。委細は小西弥九郎(行長)に書付で申渡した。よく相談して、雑説を申す者には、沙汰限で、牢人共の申出を搦取、はた物二かけさせ候、讃州の安富の人質を召し連れ、親父でやってきた。讃岐のことについては、いずれも弥九郎に伝えてある。恐々謹言、
天正九年九月廿四日         筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

  ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉に、阿波や讃岐の多くの武将が庇護を求めて、人質を差し出していたこと
②秀吉は人質の才能・人格チェックを行い、使える者は育てて使おうとしていたこと
③出先の黒田官兵衛との連絡役を務めているのが小西弥九郎(小西行長)であること。
④小西行長が秀吉の「若き海の司令官」として、各地を早舟で飛び回っていたというイエズス会宣教師の報告を裏付けるものであること
⑤同時に、黒田官兵衛に対して小西行長と協議した上で進めることとあるように、行長は戦略立案などにも参画していた。
⑥最後に「讃州安富人質召連」と、多くの人質の中で、安富氏を「特別扱い」していること

⑥からは、安富氏の人質は「利用価値」が高いと秀吉が考えていた節があります。
それは、安富氏の持つ海運力だったと研究者は考えています。安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていたことは以前にお話ししました。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えることになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたことになります。これは秀吉にとっては、大きな戦略的意味がありました。こうして秀吉は、戦わずして淡路の岩屋の与一左衛門を味方に付けることで、明石海峡の制海権を手に入れ、安富氏を配下に繰り入れることで、東讃・小豆島の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 秀吉の命で、仙石秀久が河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.
   屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保は逃亡
6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
1585年4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
以上のように秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。ここからは、 讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことが分かります。そして、小豆島・塩飽の領主に任じられていたのが「若き青年海軍将校・小西行長」でした。秀吉の讃岐出兵や後方支援を行ったのは舟奉行の小西行長だったことになります。それだけではありません。③には、秀吉から黒田官兵衛への指示書には、小西行長と協議しながら戦略立案せよとありました。
ここでは秀吉は、東讃守護代の安富氏を配下に置くことで、労せずして東讃・小豆島の港を支配下に置き、播磨灘以東の制海権を手に入れたことを押さえておきます。。

【史料14】羽柴秀吉書状写「十林証文」        89p
急度申候、乃去廿三日調略之以子細柴田打果候、近日其国ハ可令出馬候条、右之趣味方申江可被申遣候、猶千石(仙石)権兵衛(秀久)尉可申候、恐々謹言、
成刻                  羽筑   秀吉(花押影)
三月二十四日     
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
急ぎ知らせる。3月23日に柴田勢を打ち払った。ついては、近日中に四国平定を開始するつもりである。このことを味方に急ぎ知らせるように。なお千石(仙石)権兵衛(秀久)には連絡済みである。恐々謹言、
成刻                  羽筑   秀吉(花押影)
三月二十四日     
安富又三郎殿
御宿所
この書簡は、天正11(1583)3月23日に賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を敗死に追い込んだことを秀吉が安富氏に送ったものです。「右之趣味方申江可被申遣候」と、勝利の知らせを味方に伝達せよとあります。ここからは安富氏は、信長時代に引き続いて四国側の情報喧伝の役割を果たしていたことが分かります。
 ここで研究者が注目するのは、安富氏の宛名にいままでの筑後守がなく「又三郎」となっていることです。ここからは、筑後守は死去するか隠居して、又三郎が安富氏の当主になったことがうかがえます。この頃には前年に中富川の戦いで長宗我部氏に敗れ讃岐に逃れていた十河(三好)存保も羽柴氏に属していました。四国の「味方中」へ連絡することが求められていたのは、存保ではなく安富氏であったことを押さえておきます。

【史料15】羽柴秀吉書状写「改撰仙石家譜」
書状之旨、逐一令披見候、
一、去四日至阿州表讃岐十河(存保)・安富合手、河北不残令放火、則河端城押詰、外構乗崩、首八十余討取被指上、実二安度候、
一、今度於阿州表令忠節面々二対し一札被遣候、忠節神妙二候問可被申聞候、猶以入念無越度様分別尤二候、尚寺木口上二相含候、恐々謹言、
十二月十一日               筑前守(秀吉)直判
仙石権兵衛殿
尚以今度高名之もの共、能々書付候而可被参候、来春我々褒美可申付候間、出馬之刻聞届寺木へ申含候、
意訳変換しておくと
書状について拝見し、次のように申し伝える、
一、去る四日から阿波で讃岐十河(存保)・安富と合力して、吉野川河北地方を残らず焼き払い、河端城に押し寄せ、外構を乗崩して、首八十余を討取ったと報告を受けた。これは実に立派な働きである。
一、今度の阿波での軍功に対して、忠節神妙なので一札入れておく。猶以入念無越度様分別尤二候、尚寺木口上二相含候、恐々謹言、
十二月十一日               筑前守(秀吉)直判
仙石権兵衛殿
なお、今回の功名について、それぞれの書付を持参すれば、来春以後に褒美を取らせることにする。やってくる日時などを寺木へ提出すること。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①天正11(1583)12月となっても、仙石氏と安富氏・十河存保が羽柴陣営下の一員として、阿波方面で侵入してきた長宗我部元親に対して軍事活動を展開していたこと
②阿波での軍功の褒賞を約束していること
しかし、天正12(1584)6月に、讃岐の十河城が長宗我部元親によって陥落させられます。すると、讃岐における反長宗我部方の活動はあまり見られなくなります。この時期の安富氏が讃岐で活動を続けたのか、それとも落ちのびたのかはよく分かりません。分かっているのは、安富氏が反長宗我部・親秀吉の立場を貫いたということです。これが後の秀吉の「安富氏=忠義の者」という好印象につながったようです。

秀吉の四国平定1

 天正13(1585)になると羽柴秀吉は、それまでの守勢から反撃態勢に出ます。
大軍を動員し、三方から四国に侵入し、またたくまに長宗我部元親の防備ラインを突破していきます。こうして降伏した長宗我部氏の領国は、土佐一国となり、残りの三国は没収されます。
秀吉は「四国国分」の構想を弟秀長に述べていますが、その中で讃岐に関する部分を抜き出したのが次の史料です。
羽柴秀吉朱印状写(部分)「毛利博物館所蔵毛利家旧蔵文書」
一、淡路事ハ心安者を可置候間、野口孫五郎(長宗)儀ハ小六(蜂須賀家政)与カニいたし、只今淡路にて取候高頭辺二弐三千石も令加増、小六与カニ可仕候、其仔細ハ千石(仙石)権兵衛尉二つけて讃岐へ可遣候へ共、さぬきハ安富又(又三郎)・十川孫六郎(存保)両人者為与力、権兵衛二可引廻由申出候、其国ニハ与力類一人も在之間敷候間、担々孫五郎事目をかけ可馳走事、(略)
一、権兵衛可申間儀ハ安富忠切越候間、郡切二いたしいつれの方へ成ともかたつけ安富二遣可申由、前廉に可被申聞候、但於大坂国儀をも聞届、権兵衛安富召寄知行所々可相定事、

  意訳変換しておくと
一、淡路については、信頼できる者を配置したい。ついては、野口孫五郎(長宗)は小六(蜂須賀家政)に味方し、淡路の筆頭知行主となっているが、それにさらに高頭辺りに2,3千石を加増して、小六の与力としたい。仙石権兵衛(秀久)には、讃岐を与え、その与力として安富又三郎・十川存保の両人を配する。讃岐には与力となる者が一人も居ないので、孫五郎に目をかけ褒美を取らせること。(略)
一、仙石権兵衛に伝えることは、安富氏は忠節な働きぶりだったので、讃岐のどこかの郡を分割して、安富に知行させることを前廉に申し聞かせておくこと。ただ大坂のことも聞届け、権兵衛が安富氏を召寄て知行するような形をとること。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉が弟秀長に、讃岐のことについて指示を出していること
②讃岐は仙石秀久に与えるが、地侍で信頼できる者が少ないので、安富又三郎と十河存保を与力と育てること
③安富は「忠切(忠節)」であったので、 一郡を与えて知行を確定するように指示している
④安富・十河の両氏以外に、秀吉の目から見て信頼できる国衆が讃岐にはいなかったこと
仙石秀久的軍裝: WTFM 風林火山教科文組織
仙石秀久

こうして安富又三郎は、十河存保とともに仙石秀久の与力に位置付けられることになります。

結果として両氏は、領主の地位を保つことができました。長宗我部元親の侵攻と、その直後の秀吉の四国平定で、讃岐国内は動乱の舞台となり、多くの国人が讃岐からの離国を余儀なくされました。その中で、安富氏と十河氏だけが讃岐では領主として生き残ったことになります。ただし、讃岐一国を代表する地位は仙石秀久です。安富氏は、それまでの讃岐を代表する地位を失うことになります。

戸次川
四国衆の墓場となった戸次川の戦い 仙石・十河の名が見える
翌年、仙石秀久は九州攻めへ出陣しますが、秀久が率いるのは「四国衆」と総称されます。
そして、天正14年(1586)12月の戸次川の戦いで、仙石秀久が島津氏に大敗し、その責任によって改易されます。同時に、十河氏・安富氏も領主として姿を消します。十河存保が戸次川の戦いで戦死したことは知られています。「十河物語」には、安富氏(玄蕃允?)も戦死したと記されています。「十河物語」は作者も成立年代もよく分からない軍記ですが、長宗我部氏の讃岐攻めでは十河氏と安富氏が協働して戦ったことが記されています。こうした状況から一定の事実性を認めてもよいと研究者は評します。ここでは、安富又二郎も戸次川の戦いで死亡し、後継者が不在か幼かったことにより、改易されたとしておきます。

以上を整理しておきます
①信長の四国平定政策を引き継いだ秀吉も、讃岐国衆のまとめ役として安富氏を重視した。
②その後も安富氏は十河氏とともに秀吉側に付いて、長宗我部氏と戦い続け、讃岐を追われた。
③その忠節を認めて秀吉は「四国国分」の中で、仙石秀久の与力として領主の地位を十河氏と共に与えた。
④翌年の九州の戸次川の戦いで安富氏又三郎が戦死し、その地位も失われた。

最後に史料から確認できる安富氏の系図を研究者は次のように考えています。
安富氏系図

安富氏系図
①戦国期の安富氏当主は、元家以来の仮名「又三郎」、受領名「筑後守」を通称として使っている。
②彼らを特定する根本史料はないが、前後の当主は親族関係にある。
③南海通記など軍記ものに出てくる当主名と、一次史料の記述は、ほとんど合わない。
④又三郎や筑後守などの伝統的な通称さえ、南海通記には出てこない。
以上から、安富氏については南海通記の記述からは明らかに出来ない研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
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前回は丸亀平野の元吉城攻防戦が、織田信長と毛利氏の備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争の舞台となったことを見ました。阿波三好氏は、そのどちらに加担するかをめぐって混乱状態となります。それを収拾したのが淡路から帰ってきた十河存保でした。彼によって再興された阿波三好家は、足利義昭や毛利氏を中心とする反織田ネットワークに組み込まれます。このため、阿波・讃岐は織田氏や織田氏と結ぶ土佐の長宗我部氏の攻勢に晒されるようになります。この辺りは分かりにくいところなので、最初に信長と長宗我部元親の関係を整理しておきます。

長宗我部元親と明智家の系図
長宗我部元親 石井家文書の意味

元親の正室は美濃の名門土岐一の石谷頼蔵の妹で、頼蔵は明智光秀の重臣です。
土岐家・明智家、光秀と長宗我部家との関係は古く、元親の正室は、土岐の一族である石谷光政の娘でした。さらに、光秀の家臣である斎藤利三の兄、頼辰は石谷光政の嫡男として養子に入っています。
また、光秀と元親の関係は、信長の上洛の前(1568年)からあり、『元親記』には次のように記されています。
長曾我部氏は、信長公とは御上洛前から交流があった。その取り次ぎは明智光秀殿であった

信長の対長宗我部政策の転換
信長の対長宗我部元親政策の転換背景
元親はこの人脈を頼りに織田信長に接近したようです。そして信長に嫡男の弥三郎の烏帽子親になってもらうことに成功します。信長から一字拝領した弥三郎はこれより信親と名乗るようになります。

長宗我部元親と織田信長、豊臣秀吉、明智光秀らの関係をわかりやすく!
長宗我部元親の外交戦略 信長と組んで阿波の三好を攻める

信長という大きな後ろ盾を得た元親は、二方面から阿波に侵攻し、天正7年(1579)に阿波国岩倉城の三好氏を攻め、三好山城守康長の嫡男の三好康俊を降伏させます。
長宗我部元親の阿波侵攻1
『元親記』によると、元親は天正8年(1580)6月に、弟の香宗我部親泰を安土へ送り、信長から四国は元親の手柄次第でいくらでも切り取ってよいという許しを得と南海通記は記します。しかし、先ほど見た石谷家文書からは、これよりも先に、長宗我部元親は信長に接近していたことが分かります。

1579年の四国を巡る勢力諸関係

当時の四国には長宗我部氏への対抗勢力がいくつもありました。伊予国の西園寺公広や河野氏、阿波国の三好康長、讃岐の十河(三好)存保らです。彼らはまずは秀吉に使者を立て、元親の野心を伝え、その脅威を説きます。秀吉の進言によって、信長は「四国=長宗我部元親切り取り自由」容認政策を転換します。つまり、一度は四国を好きに切り取ってよしという許可を与えておきながら、手のひらを返すように三好康長を支援する立場に変わった信長と戦うことを決意したのです。

長宗我部元親の毛利との連携策

このような中で、それまで三好氏に従ってきた安富氏も独自の判断を迫られるようになります。安富氏が織田権力とどのように関係を持ったのかを見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

麒麟がくる」秀吉に四国盗られた光秀!長宗我部と縁/ご挨拶 - 大河 映画 裁判 酒 愛猫“幸あれ…!!”清水しゅーまいブログ

まず備前の宇喜多直家が、小豆島の領主・須佐美紀伊守に宛てた書状を見ておきましょう。
【史料1】宇喜多直家書状「中野嘉太郎氏旧蔵文書」
先日被対左衛門進、如預御内証下警固雖乗上甲斐々敷儀無之、於千今ハ失手成候、殊急度為御先勢、始羽筑(秀吉)歴々被指下候、大坂之義、大概相澄之条、羽筑申談御注進申上候ハ、可被出 御馬之由、御朱印頂戴、此度中国之儀、相澄可申与存候、此等之趣、雨滝(城=安富氏)へも可頂御伝達候、呉々先日御内証快然之至候、猶左衛門進申入之条、不能審候、恐々謹言、
                          宇泉(宇喜多)  直家(花押)
三月二十四日
      須紀 御宿所
意訳変換しておくと
意訳変換しておくと
先日、左衛門進の働きぶりにを見ましたが、警固や乗馬などかいがいしく勤めている。羽筑(秀吉)の働きで、大坂の石山本願寺については、大方決着がついた。そこで羽筑秀吉から次のような指示が送られてきた。 四国平定について御朱印を頂戴したので、中国平定に片が着き次第、速やかに実行に移す。ついてはこの旨を、雨滝(城=安富氏)へも連絡するように伝達があった。呉々先日御内証快然之至候、なお、左衛門進についての申入については心配無用である。恐々謹言、
                          宇泉(宇喜多)  直家(花押)
三月二十四日
      須紀 御宿所
ここからは、備前の字喜多直家が織田氏の武将・羽柴秀吉からの情報を小豆島の領主須佐美紀伊守に伝え、それを「雨滝」への伝達を命じていることが分かります。
 ここからは次のような情報が得られます
①備前の宇喜多直家が織田氏の武将・羽柴秀吉に配下に組み入れられていたこと
②宇喜多直家は、小豆島の須佐美紀伊守を配下に置いて、人質を取っていたこと
③須佐美紀伊守に対して、秀吉の伝令を雨滝城の安富氏に伝えるように命じていること。
ここからは次のような命令系統が見えて来ます
信長 → 秀吉 → 備前岡山の宇喜多直家 → 小豆島の須佐美紀伊守 →
→ 雨滝城の安富氏 → 讃岐惣国衆
 ここに登場する 宇喜多直家について押さえておきます。

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①美作守護の赤松氏の被官人の浦上氏が前守護代として自立
②浦上宗景(むねかげ)の下で、有力武将に成長し岡山城(石山城)を拠点に勢力拡大
③これが備前福岡などの東部地域から備前中央部の岡山城下へ経済的中心の移動につながる
④主君の浦上宗景(むねかげ)が織田方に付いたのに対して足利義昭の仲介で毛利氏と和議
⑤織田方に付いた備中松山三村元親を、毛利勢と共に攻め落として所領拡大。
⑥さらに主君浦上宗景の天神山城を攻め、美作、播磨まで兵を進めて制圧
⑦下剋上を成し遂げた宇喜多直家は、備前、美作そして播磨の一部を領有する有力大名へ
⑧ところが羽柴秀吉が中国地方攻略に乗り出してくると、直家は秀吉方へ付き、織田方の先鋒として、攻め寄せる毛利の大軍と再三にわたり激戦を展開
この書簡は、直家が秀吉と密に連絡していることや本願寺との交渉を記しているので、天正8(1580)年のものと研究者は判断します。小豆島の領主・須紀(須佐見)を通じて、「雨滝」との連絡が行われていたことが分かります。ここでは1580年には、安富氏は織田方についていたこと押さえておきます。
秀吉の備讃瀬戸・淡路への進出

上の表からは、長宗我部元親の阿波侵攻に対して、篠原氏や安富氏が人質を秀吉に出して保護を求めていることが分かります。秀吉は黒田官兵衛に命じて、篠原氏の木津城や撫養の土佐泊城に戦略物資を容れています。

土佐泊城
撫養の土佐泊城(緑内部)

【史料10】長宗我部元親書状写「土佐国議簡集」
此度申合旨、宜無相違土佐泊之者共悉被討呆旨、安富方同前可被遂御忠儀者、三木郡共外壱郡於隣国可進之候、無異儀御知行候、恐々謹言、
                      長宮 (長宗我部)元親 (花押)      
      九月十六日
篠弾入 御宿所
意訳変換しておくと
この度の約束について以下が相違ないことを明記しておく。土佐泊を討ち取った場合には、安富方の忠儀として、讃岐三木郡とそれ以外の壱郡を知行地として与えることを約束する。恐々謹言、
                      長宮 (長宗我部)元親 (花押)      
      九月十六日
篠弾入 (篠原実長(弾正忠入道)御宿所
ここからは、長宗我部元親が篠原実長に対し、阿波で最後まで抵抗している撫養の土佐泊城を落としたら、讃岐国の三木郡とその他一部を与えることを約束していたことが分かります。篠原実長は阿波三好家の重臣です。その篠原氏を長宗我部元親が調略ができたのは、阿波三好家の内紛で十河存保が讃岐に逃れていた天正8年(1580)のことと研究者は判断します。
 ここで研究者が注目するのは実長に求められるのが「安富方同前」の「忠儀」であることです。ここからは安富氏が長宗我部氏の配下として動いていることが分かります。安富氏は織田方に身を投じながらも、織田氏の同盟者である長宗我部氏と連携していたことがうかがえます。

長宗我部元親の書状です。三好康慶が讃岐の安富氏の居館に下向してくることを伝えています。
【史料11】長宗我部元親書状写(部分)「吉田文書」 

一、三好山城守(康慶)近日讃州至安富館下国必定候、子細口上可申分候、

意訳変換しておくと
一、三好山城守(康慶)が近日中に、讃州の安富氏の居館を訪れる予定である。子細については、使者が口頭で説明する。

この文書には天正8(1580)年11月24日付の書状写の一部とされます。 三好康慶が「安富館」(雨滝城)に下向する予定があると記されます。この他にも、阿波の勝瑞が本願寺の残党によって占拠されていることにも触れられています。こうした状況の中で安富氏の天霧城は、信長勢力の四国での重要拠点としての役割を果たしていたと研究者は考えています。これを裏付けるのが次の書簡です。
【史料12】松井友閑書状「志岐家旧蔵文書」
今度淡州之儀、皆相済申候、於様子者不可有其隠候、就共阿・讃之儀、三好山城守(康慶)弥被仰付候、其刻御人数一廉被相副、即時ニ両国不残一着候様ニ可被仰付候、可被得其意之旨、可申届之通、上意候間、其元□□二□[一、尤専用候、猶追々可中候、恐々謹言、
                    宮内卿法印 友感(閑) (花押)
十一月二十三日
安富筑後守殿
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
今度、淡路平定が完了したので、次の課題となる阿波・讃岐の平定について、三好山城守(康慶)を派遣するので、定められた日時に、定められた兵員数を即時に出兵できるように両国の国衆たちに仰せつけておくように。この申し届けを上意として受け止めた物に対しては、後々に褒美を使わすものである。恐々謹言、
                    宮内卿法印 友感(閑) (花押)
十一月二十三日
安富筑後守殿
安富又三郎殿
御宿所
  送り主の「宮内卿法印友感(閑)」は、信長の側近である松井友閑です。
天正9年(1581)に淡路が羽柴秀吉・池田元助によって平定された後のことで、阿波・讃岐計略について三好康慶が「安富館」(雨滝城)に派遣されること、阿波・讃岐の両国の諸勢が、その指示に従って動くように安富氏に伝えています。この翌年には織田氏は康慶の養子となった信長三男信孝を主将として四国平定を計画します。その計画の初見が、この文書になるようです。
ここに登場する三好山城守(康慶:やすなが)を押さえておきます。

戦国 三好一族 - 探検!日本の歴史
三好康長は阿波三好氏の一門衆で、兄の三好元長が宗家を継ぎ、その子・三好長慶は甥にあたります。畿内で転戦後に、信長の配下となり、阿波に強い地盤を持つ三好一族として影響力を評価され、織田軍の四国攻略の担当に抜擢されます。まず、天正6(1578)年には、淡路の安宅信康に働きかけて自陣に引き込みます。この頃に、三好康長と秀吉は接近しはじめます。秀吉のねらいは、当時交戦中だった毛利氏に対抗するために、三好氏の水軍を味方につけることでした。さらに、康長の子の三好康俊(式部少輔)は長宗我部側にあって、岩倉城主でした。そのため自分の子を織田方へ寝返らせるために、秀吉が送り込んできたようです。その受入口が安富氏の雨瀧城ということになります。天正9(1581年)1月に、康長は雨滝城にやってきて、情報収集や分析を行った後に阿波に入ります。そして長宗我部氏に属していた自分の子の三好康俊を織田側へ寝返らせることに成功します。

信長と長宗我部元親 友好から対立へ


信長の幻の四国平定

 天正10(1582)年2月9日、三好康長に再度「三好山城守、四国へ出陣すべき事」の書状が信長から届きます 。今度は長宗我部元親を討つ四国遠征に先んじて再び阿波に渡たります。5月7日付の信孝宛の朱印状には、次のように記されています。
①信長の三男信孝を三好康長の養子とする。
②讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。
③伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。
『宇野主水日記』同年6月1日条には、このとき康長が信孝を養子とする事も内定していたと記されています。こうして、5月1日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日の出港に向けて準備を進めていました。ところが、6月2日に本能寺の変が起きて信長が光秀に殺されてしまいます。そのため信孝の出征は急遽、中止となります。この時、康長は阿波一宮城と夷山城を攻略中でした。6月3日に知らせを受けると、急ぎ兵をまとめて河内に戻り、上洛します。
 ここでは信長による四国平定の立案責任者が三好康慶であったこと、康慶は安富氏の雨滝城を足場にして阿波に入っていることを押さえておきます。安富氏は阿波・讃岐の親織田勢力のまとめ役を果たしていたことになります。
最後に当時の安富氏の居城とされる雨瀧城を見ておきます。

雨瀧山城 髙松平野での位置
髙松平野の東端に位置する雨瀧城

 「雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」と記されています。室町幕府の最有力家臣は、山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていました。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに通行税を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。その権利を安富氏は持っていたようです。安富氏のもとで、多くの船が近畿との海上交易ルートで運用されていたことが考えられます。
『納帳』には「讃岐富田港」は出てきませんが、富田荘の物資集積や搬入のために、小船による流通活動が行われていたことは考えられます。富田荘の「川港」の痕跡を、研究者は次のように挙げています。

雨瀧山城 城下町富田2 

雨瀧山城 商家町富田 
①「古枝=ふるえだ=古江?」で、港湾の痕跡
②「城前」は、六車城の麓で津田川の川筋で、荘園期富田の中心地。
③「市場」は、津田川の南岸にあり定期市の開催地。
④「船井」は、雨瀧山城の西尾根筋先端にある要地で、船井大権現と船井薬師があり、港湾の痕跡
以上のように津田川沿いには、海運拠点であったと推測できる痕跡がいくつもあります。これらが分散しながら、それぞれに「港」機能を果たしていたことが推察できます。比較すれば、阿野北平野を流れる綾川河口が松山津や林田津などのいくつかの港湾が、一体となって国府の外港としての役割を果たしていた姿と重なり合います。これらの「港」を、拠点とする讃岐富田港船籍の小船が東瀬戸内海エリアで活動していたことが考えられます。つまり、安富氏も瀬戸内海交易の活動メンバーの一員だったのです。
雨瀧城の町場形成に関連する地名には、次のようなものがあります。

「本家」・「隠居」・「南屋敷」・「しもぐら(下倉)」・「こふや(小富屋)」・
「おおふなとじんじや(大舟戸神社)」・「大日堂」

これらの地名がある場所を確認すると、現在の富田神社と旧御旅所・参道を軸線にする両側に散在していることが分かります。。ここからは富田神社の参道を中心軸して、町場が形成されていたと研究者は推測します。

雨瀧山 居館跡奧宮内3
雨滝城 奥宮内居館跡

以上をまとめておきます。
①天正6年(1578)の阿波三好家再興後も安富氏は三好氏に属していた。
②それが1580年頃から羽柴秀吉・宇喜多直家の調略や本願寺が織田氏に屈服したことを受けて織田方として動き始めまる。
③こうした動きは阿波三好家の三好存保(義堅)の指示によるものでなく、安富氏独自の判断によるものであった。
④安富氏は織田方の三好康慶の下向先でもあり、織田氏の意向を讃岐や阿波ヘ伝達する役割を担うなど、信長の四国平定政策の重要な役割を担う一員であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
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 前回は16世紀初頭の永世の錯乱後の安富氏の動きを次のように整理しました。
①永世の錯乱後の中で、在京の安富氏は没落し、細川晴元についた国元の安富氏が生き残った。
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
③この時期の安富氏は讃岐にあって、宇多津の本妙寺の諸役免除を行うなど港湾都市宇多津の支配権を握っていた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
⑤その一方で安富氏の権益下に、阿波の篠原氏の勢力が及んでくるようになった。
⑥同時期に安富氏は細川晴元より、三好長慶の末弟・十河一存を討つ指揮を求められている。
⑦安富氏は江口の戦い後も細川晴元と結んでいたが、讃岐に進出する三好氏勢力への反発が高まった。

今回は細川晴元失脚後の安富氏について見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号」です。
安富氏は、三好長慶が細川晴元を追放したも晴元側についていたようです。しかし、讃岐東部で三好方と反三好方(晴元方)が軍事衝突したことは史料からは確認できません。時間をかけて、安富氏は三好氏の配下に置かれていったようです。
安富氏が反三好を貫き通すことが出来なかったのはどうしてでしょうか?
考えられることは、安富氏との直接的に利害対立していた十河一存と篠原氏の脅威が取り除かれたことです。十河一存は、弘治年間頃に一存の次男が和泉守護代松浦氏の養子となり、一存も和泉の岸和田城を本拠地とするようになります。つまり、脅威であった十河氏の勢力が東讃から消えたのです。
 もう一方の篠原氏について、以前に次のようにお話ししました。
①天霧城攻防戦の攻め手は、三好実休でなく三好氏の重臣篠原長房であったこと。
②時期は1558年ではなく、1563年であったこと(1558年は三好実休は畿内で転戦中)
③つまり、天霧城を攻め西讃岐守護代家香川氏を追放したのは篠原長房であること。
こうして讃岐西部は篠原長房の支配下に置かれるようになります。そして、篠原氏の管轄エリアが西讃エリアに限定され、東讃にその力を及ぼすことがなくなります。篠原氏の脅威もなくなったのです。こうして「一存の畿内転戦 + 篠原氏の西讃岐進出」=「東讃岐における安富氏との競合の一時凍結」という情勢を産み出したと研究者は推測します。これが安富氏が反三好を貫徹しなかった理由というのです。
次に三好氏の下で安富氏が果たした役割がうかがえる史料を見ておきましょう。
浦上宗景書状写「六車家文書」
猶々、当表任存分候ハヽ、向後対御方別而可遂馳走候、近来依無指題目不申入候、貴国静誰之由珍重候、就中当国之義、字喜多(直家)逆心令露顕、去春以来及矛盾候、手前之儀堅日之条毎々得勝利候、可御意安候、然者□々可預御入魂之旨申入候き、此時之条□□ノ覚と云一廉被不留候、□御賢慮所希候様外見合候、而全可遂一左右候、普伝(日門)上人無御等閑候由、委細可為御伝達候、恐々謹言、
五月二十五日              (浦上)宗景(花押影)
安富筑後守殿
まいる御宿所
意訳変換しておくと
「浦上宗景書状写 六車家文書」
こちら備前では、抜かりなく対応をすすめており、近頃は大きな問題もありません。貴国讃岐も平穏に治まっており喜ばしいことです。当国については、字喜多(直家)が逆心を露わにして昨年の春以来、小競り合いが続いています。しかし、これについても我が方が優勢であり、心配をおかけするような情勢ではありません。
   もし、「当表」を任せてもらえれば、こちら(浦上氏)からも「馳走」させていただきます。また、私は普伝(日門)上人と懇意にさせていただいています。その旨を取り次いでいただけるようお願いします。恐々謹言、
五月二十五日              (浦上)宗景(花押影)
安富筑後守殿
まいる御宿所
これは備前の浦上宗景から安富筑後守に宛てられた書状です。年紀がありませんが宇喜多直家が宗景から離反し、春以来交戦しているという状況から、天正3(1575)年と研究者は判断します。

 浦上宗景は元亀年間に三好氏と同盟関係にあり、その支援を受けていたことが史料から分かります。宗景が「馳走」するとする「御方」は三好氏を指すのでしょう。この史料が「三好=浦上同盟」の延長上に位置することが分かります。そこに安富氏の名前が出てきます。安富氏が浦上氏を三好氏に取り次ぐ役割を果たしています。安富氏が重要なポジションにあったことが裏付けられます。

文書の最後に、宗景は「普伝上人=普伝院日門」と親しいことを三好氏に伝えるように依頼しています。
日門は、三好実休などの阿波三好家が帰依した日班と交流がある僧侶で、堺の講会にも参加しています。ここからは、日門も三好氏と交流があったことが推測できます。三好・浦上間の交渉に日門が登場することは法華宗の流通ネットワークが利用されていたことを示す物です。前回見たように港湾都市宇多津の管理権を握っていたのは安富氏でした。そして、特権を与えていた日蓮宗本妙寺は日班が属する法華宗日隆門流の寺院でした。日隆のネットワークの中に宇多津や安富氏が組み込まれていたことがうかがえます。ここでは、安富氏は三好氏に属しながら、三好氏と同盟する周辺勢力との交渉に関係していたことを押さえておきます。

安富氏と三好氏の関係は、もうひとつの史料で見ておきましょう。

【史料七】三好長治書状「志岐家旧蔵文書」
篠原上野介・高畠越後知行棟別儀、被相懸候由候、此方給人方之儀、先々無異儀候間、如有来可被得其意事、肝要候、恐々謹言、
                   彦次郎 (三好) 長治(花押)
十月十七日     
安筑(安富)進之候
この文書も年紀がありませんが「戦国遺文三好氏編」では、天正3年(1575)とします。
三好長治は「篠原上野介・高畠越後知行」の棟別銭がかけられたことについて、こちらからは異議がないので従来通りにするよう安富筑後守に伝えています。筑後守が棟別銭をかけるのを認めたのでしょう。ここに出てくる篠原上野介と高島越後(越後守?)についてはよく分かりません。ただ両人の名字は阿波国人のもので、篠原名字なので、元亀4年(1573)の篠原長房減亡後、篠原氏が讃岐に持っていた権益が安富氏に与えられた可能性があります。どちらにしても、阿波三好家の当主が安富氏に権益を認めている内容です。ここからは両者には主従関係があったことが裏付けられます。

こうして見ると三好長治の時期にも、安富氏は三好氏に従っていたことが分かります。この年・天正元年(1573)には、畿内の三好本宗家が織田氏によって減ぼされます。その結果、2年後には阿波三好家重臣として河内で抵抗していた三好康長(康慶)も織田氏に属服し、その家臣となります。それでもなお安富氏が三好氏に従い続けたことになります。
その理由として、研究者が指摘するのは反三好勢力による香川氏への支援があったことです。
先ほど見たように1563年に天霧城を拠点とする香川氏は、篠原篠原長房によって攻め落とされます。そのため毛利氏を頼って、安芸に亡命中だったようです。その香川氏の讃岐帰国運動を、細川京兆家の当主・信良(晴元の子)は後援し、讃岐国東六郡を宛行っています。信良は実質的な支配力を持っていたわけではないので、この領知宛行は空手形です。しかし、東六郡に勢力を持つ国人たちとっては、香川氏の復帰を後押しする「毛利=細川京兆家=信長」は、仮想敵国と見えます。そのため安富氏ら東讃岐の国人は三好氏に従う以外に選択肢がなかったようです。また以前にお話したように、安富氏は三好氏の重臣・伊沢氏と縁戚関係がありました。こうした関係性が三好氏配下に留まり続けた理由と研究者は考えています。

以上を整理しておきます
①讃岐に侵攻する阿波三好勢力に、当初は安富氏は抵抗したが、最終的には三好氏に属した。
②その背景には、十河一在や篠原長房の脅威がなくなり、安富氏の権益を三好氏が容認したこと。
③三好氏の配下として、畿内や吉備に関わり、利益を得るようになったこと
④その結果、安富氏が三好氏の軍事行動にどう関与したのかはよく分からないが、三好長治が横死するまで三好氏に属し続けた。
⑤香川氏の西讃帰国運動を支援する毛利氏や細川京兆家や信長などは仮想敵国と受け取られた。
⑤そうなると、頼れるのは隣国の三好氏以外に選択肢が無かった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号

戦国時代の讃岐ついては、過去の研究の多くは近世に書かれた軍記物に頼ってきました。しかし、南海通記などの信頼性が失われる中で、一次史料による新たな記述が求められるようになっています。そんな中で、西讃守護代の香川氏については秋山文書などの発掘で、その解明が進み新たな実像が見え始めました。今回は、東讃守護代の安富氏を一次資料で追いかている論文を見つけましたので紹介したいと思います。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

永世の錯乱3
永世の錯乱(1507年)


永正4年(1507)に、細川京兆家の当主政元が、家臣の香西氏によって暗殺されます。これを契機に「永世の錯乱」と呼ばれる権力闘争が細川家内部で開始されます。その余波として、阿波の細川氏が讃岐に侵入し、讃岐はいち早く戦国時代に突入することは以前にお話ししました。この動乱の中に安富氏もたたき込まれていきます。
 当時の安富氏の動きを系図化して見ておきましょう。

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安富氏の系図(一次史料によるもの)
ず安富氏の系図をみながら当主たちを追いかけて見ます。
①の安富元家は細川京兆家の筆頭内衆で、東讃岐守護代でもありました。
政元が「天狗道」に執着して政治に関心を失う中で、京兆家を主導することもあったので、その地位は高かったようです。しかし、文亀三年(1503)8月安富元家は内衆の制御を図る細川政元によって失脚させられ、翌年七月末に死去してしまいます。元家の東讃岐守護代の地位は、廃嫡されていた②長男元治(又二郎)が継承します。ところが元治も、永正元年(1504)9月、摂津守護代薬師寺元一の反乱の中で戦死します。その後は、元治の弟と思われる③安富元顕(新兵衛尉)が東讃岐守護代となります。しかし、これも永正4(1507)年に細川政元が暗殺されると、元顕は細川澄之に与して動き、澄之とともに討たれてしまいます。
 次に登場するのが永正6(1509)には高国方として④安富元運(又三郎)が確認できます。元運は世代や仮名から元治の遺児である可能性があると研究者は考えています。細川高国が澄元を畿内から追うと、高国は守護代クラスの被官を重臣とする体制の復古に動きます。そこに起用されるのが⑤安富元成(又三郎、元運と同一人物?))です。こうして、元成によって、守護代家としての安富氏は復活します。ところが国元の讃岐には、阿波から澄元方の影響力が及び、元成の東讃岐守護代は実質を伴わなくなったようです。元成は永正11(1514)までに出奔していまいます。
 高国は大永三(1513)に嫡男植国付きとして安富又二郎を配して、守護代家安富氏の復活を図ります。ところが、植国が大永5(1525)年に亡くなると、又二郎は出家してしまいます。こうして、守護代家安富氏の復権は挫折します。なお、守護代家・安富氏の傍流として安富家綱が高国に近臣として仕えています。そして、高国方に見える安富氏は享禄3年(1530)七月の安宮(安富)家綱の後継者と思しい又次郎の戦死を最後に確認できなくなります。つまり、在京の安富氏は永世の錯乱に飲み込まれて姿を消して行ったようです。

永世の錯乱抗争図3
一方、澄元・晴元方についた安富氏を見ておきましょう。
永世17(1520)、三好之長が細川高国と戦った「等持院の戦い」では、三好方に「安富」の名前が見えます。この安富氏は香川氏と並列されているので、澄元によって東讃岐守護代家に立てられたものと研究者は推測します。
澄九・晴元と高国の京兆家をめぐる争いは、結果として細川家の弱体化を招きます。そのような中で、大永7(1527)、高国から離反した波多野几清・柳本賢治兄弟が晴元と結び、高国を破って京都から追放します。高国はその後は京都を奪還できないまま、享禄4年(1531)に敗死します。このような中で、大永7(1527)年以降に晴元方の安富氏が畿内に出陣したかどうかは分かりません。讃岐在国の安宮氏は、晴元方の安富氏のようです。
なお、安富元家は通称を又二郎、新兵衛尉、筑後守と変化させたいます。
これについて川口成人氏は、この通称を仮名の又二郎は安芸守家のもので、受領名の筑後守は筑後守家のものと推定します。元家の父元綱は安芸守家から筑後守家へ養子に入ったため、元家の通称は安芸守家の仮名から比後守家の受領名へ推移するものとなったとします。そして、元家以降は、又三郎が守護代家の正嫡の仮名として定着していきます。守護代家としての安富氏が分裂しても、元家の通称がその正統性を示すものととされていたようです。
 ここでは、安富元家以降、永世の錯乱で両細川が争う中で、安富氏も在京する高国方と讃岐に在国する澄元・晴元方に分裂していったことを押さえておきます。

在京する安富氏は、高い家格を期待されていました。
しかし、国元の讃岐に影響力を及すことはできなかったようです。そのため軍事動員力が機能せず、その地位は安定しません。やがて、高国やその残党の中から安富氏は姿を消します。細川晴元が優位になるにつれて、安富氏の嫡流は晴元方に一元化されたと研究者は考えています。

安富氏が備讃瀬戸の重要港湾都市の支配権を握っていたことを示す文書を見ておきましょう。

【史料1】安富元保書下「本妙寺文書」
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相違状如件
享禄二(1529)正月二十六日     元安(花押)
宇多津法花堂

【史料2】安富政保奉書「本妙寺文書」
当寺々中諸課役事、元保任御免除之旨、得其意候者也、乃状如件、
享禄二年七月二日        安富左京進  政保(花押)
宇多津 法花堂
史料1は享禄二年(1529)に、安富元保が宇多津の日蓮宗本妙寺(法華堂)の諸役を免除したものです。
研究者が注目するのは諸役免除特権が書下形式で発給されていることです。ここには京兆家当主・細川晴元の諸役免除を前提にする文言はありません。安富元保は自分の判断で諸役免除を行っています。宇多津は、この時期には安富氏が管理権を行使していたことがここからは分かります。

DSC08543
              日隆像(宇多津の本妙寺)
 細川晴元の「堺幕府」樹立の背景には、日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れ利用価値を認め、法華宗を通じて流通システムを握ろうとする考えがあったことは以前にお話ししました。また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」を構想していたと考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして自己の影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもありました。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったというのです。三好長慶は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。そのサテライト拠点のひとつが宇多津の本妙寺ということになります。

史料2は、史料1の「元保書下」を受けて発給された奉書です。
ここに登場するのが「安富左京進政保」です。この人物は、長禄4年(1460)に「安富左京亮盛保」が在国の小守護代として確認できるので、政保は盛保の子孫の可能性があります。元保などの在京の安富氏は、畿内の晴元権力の意思決定には関わることができない存在で、在国の「安富左京進  政保」が国元を動かしていたと研究者は考えています。

本門寺の保護者が安富氏から篠原氏に替わったことを示す文書を見ておきましょう。
【史料三】篠原盛家書状「本妙寺文書」
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富吉筑後守(元保)如折紙、拙者其津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
                    篠原雅楽助  盛家(花押)
天文十(1582)年七月十七日     
字多津法花堂鳳風山本妙寺
          多宝坊
宇多津を支配することになった阿波の篠原盛家が「安富古筑後守(元保)」の折紙を先例として、本妙寺の諸役免除特権を認めています。「安富古筑後守」の折紙とは【史料1】のことでしょう。篠原盛家は本妙寺の諸役免除特権を引き続き認めていますが、これは安富氏の先例を継承するものです。「史料2」も書状形式なので公的な権限に基づくものではありません。
 篠原盛家は阿波守護家の被官で三好氏と深いつながりを持っていました。「右京進」や「大和守」を名乗る篠原氏嫡流と盛家の関係はよく分かりません。しかし天文8年(1529)9月には篠原右京進と盛家が阿波守護家細川持隆の使者となって働いています。ここからは、篠原家の嫡流に近い位置にあったことがうかがえます。またこの文書からは、阿波守護家の被官である盛家が宇多津に進出してきたことが分かります。これは、安富氏にとっては宇多津の伝統的な権益を奪われたことを意味します。安富氏の管轄エリアに三好氏と縁深い篠原氏が進出してきたことは、三好氏への警戒意識を抱かせることになったと研究者は推測します。



【史料4】細川晴元書状「服部玄三郎氏所蔵文書」
去月二十七日砥十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知仔細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及是非候、所詮退治事、成下知上者、安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、恐々、
八月十八日    (細川)晴元 (花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
 意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言
八月廿八日           (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
 宛先人となっている殖田次郎左衛門尉については、よく分かりませんが「山田郡殖田郷」を名字とする国人のようです。
三好長慶と十河氏
三好長慶を支えた弟たち
十河一存は、三好長慶の末弟で讃岐国人十河氏を継いだ人物であることは以前にお話ししました。彼は天文17年(1548)を初見として民部大夫を称するようになります。仮名の孫六郎と書かれてるのでこの文書は、それ以前のものと研究者は判断します。一存が十河城を奪った契機やこの事件がいかにして解決されたかは、史料がないため分かりません。ただ分かるのは、これ以前は十河城は十河一存のものではなかったことです。
一存が十河氏の養子となり相続したという説に疑問符がともります。
【史料4】からは、十河一存の横暴に対して、細川京兆家から命令を受けて対応に当たっているのは安富氏だったことが分かります。
晴元の時代になっても細川京兆家が東讃岐の国人を軍事動員するのは、安富氏が担当していたのです。これは安富氏が東讃岐守護代の地位を細川晴元から認められていたことを裏付ける史料です。その後も十河一存は、細川京兆家のコントロールから離れ、兄の三好長慶側について動くようになります。それを安富氏は次第に制御できなくなります。

細川晴元・三好氏分国図1548年

     【史料5】細川晴元書状写「六事家文書」
為当国調差下十河左介候之処、別而依入魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯考入道(宗轍)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、
四月十二日    (細川)晴元  (花押影)
安富又三郎殿
意訳変換しておくと
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、その方が懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属したので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、
四月二十二日                  晴元(花押影)
安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。

【史料5】については「香川叢書』や「香川県史」は「摂州表之儀過半属本意」に注目して、大永7(1527)年のこととします。しかし、研究者は次の点に注目して異論をだします。
①波々伯部宗徹、田井長次ともに晴元の奉行人であること。
②波々伯部宗徹(元継)が伯守を称し始めるのは天文17(1548)年8月以降であること
以上から、この文書は晴元が三好長慶に敗れ没落する江口の戦い以降の文書とします。

三好長慶の戦い

ここで十河左介が晴元側について活動していることに研究者は注目します。十河左介は十河一存の一族でしょう。江口の戦い後になっても、十河左介は細川晴元に従う武将として三好方と戦い続けていることになります。さらに、安富氏も江口の戦い後も晴元側について動いていたことが裏付けられます。

江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。

そのような中で1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。
そして
長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味すると研究者は判断します。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。これも阿波と讃岐の軍勢が一体化を示す動きです。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていく姿が見えます。
以上をまとめておきます
①永世の錯乱後の中で、在京の安富氏は没落し、細川晴元についた安富氏が生き残った。
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
③この時期の安富氏は讃岐にあって、宇多津の本妙寺の諸役免除を行うなど港湾都市宇多津の支配権を握っていた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
⑤その一方で安富氏の権益下に、阿波の篠原氏の勢力が及んでくるようになった。
⑥同時期に安富氏は細川晴元より、三好長慶の末弟・十河一存を討つ指揮を求められている。
⑦安富氏は江口の戦い後も細川晴元と結んでいたが、讃岐に進出する三好氏勢力への反発が高まり、しだいに反三好勢力となっていった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
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他国からの侵略者について、悪評が残るのは当然のことです。侵略する方は、「天下布武」「四国平定」「大東亜共栄圏建設」などの大義名分を掲げますが、侵略される方からすればそれは受けいれられるものではありません。讃岐でも、江戸時代後半になると長宗我部元親は「悪役」として語られることが多くなります。その背景を以前に次のようにまとめました。
①「長宗我部元親焼き討説」が広がり、「信長=仏敵説」のように語られるようになった、
②江戸時代の僧侶や知識人が「元親=仏敵説」にもとずく記述を重ねるようになった
③「土佐人による讃岐制圧」とが「郷土愛」を刺激し、長宗我部元親への反発心がうみだした。
どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、「元親=悪者説」が多いのです。それは阿波でも同じようです。今回は阿波での「長宗我部元親=悪役」の背景を探って見たいと思います。テキストは「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究NO11 2011年」です

研究者は長宗我部元親の「悪評」記述を次のように挙げます。
住吉神社/ホームメイト
藍住町の住吉神社

①板野郡住吉村(藍住町)の住吉神社に残る「住吉明神由来書」(1793)年

「住吉明神往古ハ余程之大社二候処 長曽我部兵火二焼失仕候」

 ここには、住吉明神は大社であったが元親軍の兵火で焼失したと伝えています。
②『阿波郡風土記」の香美村の項

「十一社が元親の兵火にあった。八幡祠(寛永元年九月再興(祭神三座 誉田別尊・依姫・神功皇后、門守の神像に焼け損じたる像あり。是は土佐虐乱の兵火にかかりしなりとぞ」

③名東郡上八万村(徳島市上八万町)の宅宮神社や四門寺にも元親軍の侵攻で兵火にあった伝承
④名東郡西須賀村(徳島市西須賀町)の神主冨川石見の書状(1793年付け)

「杉尾山神領所と申す候ハ四国御管領細川家御代々之御間は御室御領之比より相伝仕来り候通無相違乱持隆公之御代後迄社領仕居中趣之所人正年中之騒乱二長曽我部元親名東郡下八万村之内蛭子山楯之城二在陣之間勝浦近郷之在家を不残焼払ハセ候」

意訳変換しておくと
「杉尾山の神領所は四国管領の細川家の所領として騒乱も無く相伝してきた。ところが長曽我部元親の侵攻の際に、名東郡下の八万村の内蛭子山楯之城(夷山城)に布陣した際に勝浦近郷の家々はみな残らず焼払われた。」

ここには夷山城攻撃の際に、その南方にあたる勝浦近郊の家々を長宗我部元親が焼き払ったと伝えています。
⑤「忌部系統写」千日太夫の記述

「此時分乱賊多ク、長曽我部元親ノ神領ヲ押領ス。依テ一門社格身振ヲ失ウ」

吉野川市山川町でも長宗我部元親の侵入で寺社が社領を失い、退転したと記します。

⑦『美馬町史』

この時の長宗我部の兵火によって多くの民家が焼き払われ、由緒ある古寺院もまたその厄にあったと伝えられている。郡里字銀杏木の銀杏庵の周辺にその遺跡を残している郡里廃寺(立光寺とよばれていたともいう)のごときも、七堂を備えた白鳳期の大伽藍であったが、長宗我部の兵火によって焼失したとする伝承がある。『願勝寺歴代系譜』の記述にも長宗我部元親による被害が記されている。しかし真実は見極めがたい。

⑧『城跡記』
勝瑞城が陥落して三好(十河)存保が讃岐に逃亡した後も岩倉城は元親軍を防いでいた。そこで

「元親扱ヲ人テ城ヲ請取、城番トシテ長曽我部掃部頭ヲ置、此時当日神社仏閣迄悉ク焼亡ス、不人ノ至哉」

意訳変換しておくと
「元親は兵を派遣した城を奪い取り、城番として長曽我部掃部頭を配置した。その時に、周辺の神社仏閣はすべて焼き払った。この所業は人にあらず」

⑨『矢野氏覚書』の中富川合戦の記述
「さて土佐の軍勢共在家に火をかけ焼払ひ、勝瑞へ押寄、見性寺に陣を取」

ここでも戦闘に先立ち周辺の家々を焼き払ったとあります。

⑩『池田町史 上巻』
長宗我部の侵入の際に、三好郡の神社、仏閣や武士、富裕な農民などの邸宅はすべて焼き払われ、あるいは略奪されたと言い伝えられている。馬場の東福寺、昏石の昏石寺、井ノ久保の大林寺、馬路の明長寺、佐野の最勝寺、野呂内の中蓮寺、大利の真光寺、川崎の安養寺、黒沢の長福寺、新山の法蔵寺、妙蓮寺、州津の奥霊寺等多数の寺々が焼かれたと伝えられている。また、白地城、中西城、漆川城などの城跡周辺には、元親軍との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が点々と残っている。

これらの伝説がどこまで本当のことなのかは確かめようがありません。ただ、板野地区の長宗我部との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が町営住宅の敷地になるため発掘調査されました。そこからは寛永通宝が出土しました。つまり、この塚は天正年間にまで遡るものではなかったのです。この例でもわかるように、「長宗我部元親=すべて焼き討ち」説が事実ではないようです。
 しかし、この長宗我部氏の寺院放火伝説は、土佐軍の侵人占領が、阿波の人々に大きな衝撃を与えたことは事実です。例えば池田地方は、戦国の世になっても大きな戦いの戦場になることはありませんでした。そこへ土佐兵が大軍でやってきて、何年間も軍事的占領し駐留したのです。白地城は常時3000の兵がいたと言われます。この城を拠点として、伊予や讃岐、吉野川下流へと兵が派遣・帰還などが繰り返され、池田地方はざわめき立ったことでしょう。食糧や物資の徴発、人夫の強制などは、池田地方の人々の負担となり、のしかかってきたはずです。征服者としての異国の土佐兵の常駐は、あっちこっちで問題を起こしたことが推測できます。八年間にわたる占領下の苦しみが土佐兵に対する憎しみとなり、長宗我部放火説へと転化していたのかもしれません。

『小松島市史 上巻』には、四国八十八番札所の恩山寺について、次のように記します。

「立江寺にも恩山寺にも長宗我部侵攻の際に兵火にかかったと言う伝説がある。新居見には長宗我部軍の職を五月職と見違えたために不運にあったことから、今も五月職の吹流しはつけない風習が伝えられている。新居見城の山麓の清浄寺池には焼いていた途中に襲来したために、半焼の魚がいると伝えられたり、更に清浄寺の坊さんが鐘をかぶって清浄池に飛び込み白なまずになつたとか、いろいろの話が伝えられている」。

阿南市桂国寺(長生町会下)の由緒には、次のように記します。
桂國寺庭園 ― 上田宗箇作庭…徳島県阿南市の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
庭園で有名な桂国寺

桂国寺は、応永20(1413)年に周防国鳴滝から阿波にやってきた泰雲寺の全庵一蘭が隠居所として創建したことにはじまる。永禄年間に兵火によって焼失したが、本庄城主安芸守によって再建された。しかし、天正十(1583)年、長宗我部元親の侵攻によって再び焼失した。天正13年、阿波国に入部した蜂須賀家政は、翌14年に丈六寺の描笑春賀に命じて再興させたと伝えられる。近世初期、牛岐城番で家老賀島家の保護を受け、以後賀島氏の菩提所となったという。

その他、阿波国に近接する阿讃山脈北麓に位置する讃岐国の大窪寺などでも元親の侵攻によって焼失したという伝承があります。
これに対して野本氏は次のように記します。

「元親は四国内の宗教諸勢力の力にも目を付け、国境を越えて教線上に点在する寺院を利用した。曹洞宗の場合、阿波の丈六寺を土佐予岳寺の末寺としたり、伊予の古刹龍沢寺を巧みに土佐の末寺元享院(津野領)の影響下に置くといった事例は、宗派別教線の支配という元親の外交戦の一端を垣間見せる。他にも、一向宗・法華宗などで元親の干渉を推察できる史料がある。彼が阿・讃・予の寺社の大半を故意に焼失させたという伝承の何割かは再検討が必要である」

以上のように、長宗我部元親の侵攻伝承の実態を検討しておく必要を述べています。

そういう目で、文久元(1862)年8月の「箸蔵寺旧記聞伝覚書』の「箸蔵寺由来」を見ていくことにします。
箸蔵寺本殿・護摩殿ライブカメラ | 徳島県三好市池田町 | ライブカメラJAPAN FUJIYAMA
一、上之堂与申者昔長曽我部宮内少輔(長宗我部元親)土州より打出大西家落城迄者箸蔵寺此処二有之候。其砌兵火に焼失仕夫より夜々山中に光りを見付、長曽我部一類之者尋来り樹下に霊像あり、見連バ、当山、権現本尊薬師如来諸眷属火中より出残り深く感歎し、是を宿因とし、右霊像を祭りしが凡三十ケ年にも堂寺無之、庵を結び日を送る
(中略)
一、先代蓬庵公巡国是砌、小庵ニ隠者有之候由、聞召、御登山被為遊候節住持申上候其時々之御領―様、是道者権現本尊江御供田被下置来り、殊更御祈祷、所二相成候義与奉申上虎御高之義ハ不被下候得共、山内七十七町七反四畝被為下置御證文御制札御書判被為仰付、御祈祷所並二御取立二相な有之候本社あり(下略)
意訳変換しておくと
一、上の堂と云うのは昔、長宗我部元親が土州から侵入し、大西城が落城するめで箸蔵寺があったところである。兵火で焼失した後に、夜が来ると山中で光りを発するものを見つけた。長曽我部の家臣が捜し訪ねていくと、樹下に霊像があった。見ると、当山箸蔵寺の権現本尊薬師如来が火中から現れていた。これに深く感歎し、宿因とし、この仏像を祀ったが、凡十ケ年にも堂寺は建立できず、庵に安置されていた。
(中略)
一、先代の蜂須賀家の蓬庵公が巡国の際に、仏像が安置されている小庵に隠者がいることを知って、呼び寄せ住持とした。その時に寺領を拝領し、道者権現の本尊御供田とした。さらに祈祷などに優れた効能があったので、山内に七十七町七反四畝の寺領の證文と制札を下さされるように仰せつかった。この祈祷所と取立の証文は本社(箸蔵寺)にある。

ここには、前半部で長宗我部軍の兵火による箸蔵寺の焼失が、そして、後半部に蜂須賀藩による保護復興と寺領寄進が記されています。これは、長宗我部元親と蜂須賀家を意図的に対照的にかき分けていることがうかがえます。これについて、研究者は次のように指摘します。

これには、藩主蜂須賀家の威徳を奉ると共に、蜂須賀氏との関係を強化・維持しようとする地域社会の動向のなかから生み出されたきた侵攻伝承ではないかと思わせる

ちなみに、元親侵攻と同時代を生きた二鬼島道知の『昔阿波物語』などには長宗我部軍による兵火のことは何も書かれていません。
阿波国海部郡への侵攻に関して『元親記』は、次のように記します。

元親卿、其春の異夢を神主左近合申所の任神慮阿波入を思立、早速得利運たりじ併氏神八幡大菩薩之加護なりとて、帰陣の後社参し給ひて、種ゝ神楽を備へ、神社十十二疋社進し被通夜たり。

  意訳変換しておくと
長宗我部元親は、その春の異夢を神主の左近合が語る所の「神慮が阿波侵攻」求めているという言葉を思い出し、早速に神運がめぐってきたと解釈した。これぞ氏神八幡大菩薩の加護だと云って、帰陣した後に氏神に参拝して、様々な神楽を備へ、神社に奉納した。

ここからは元親が八幡大菩薩を信仰し、その加護を深く信じていたことがうかがえます。
「長宗我部氏掟書」にも「一、諸社神事祭礼等、従先年如相定、不可有退転事」とあります。ここからも社寺の祭礼に気を配り、保護に努めていることが分かります。戦国武将は神仏に保護を加え、その加護を求めるのが普通でした。元親も丈六寺など寺社勢力の掌握にも努めています。寺社に対して、無制限に焼き討ちを行った痕跡はありません。
その他、『阿州足利平島伝来記』は次のように記します。

「長曽我部元親、天正五年阿州へ責来ル時、桑野二陣取テ居ケル時、桑野梅谷寺卜云僧二池田長兵衛卜云者ヲ指添、義助方へ尊公御領分ハ、全異儀御座有間布候トテ、細矢卜名付ル駿馬ノ馬土佐紙等ヲ添テ送、同天正十年ノ秋、元親又当国へ打入、勝瑞三好正安ヲ責シ時モ、夷山二在陣、八万村丹光寺卜云出家二西守腎齋卜云法師武者ヲ相添、引廻ヨキ故二名ヲ小鋸卜云ル馬二、土佐布杯ヲ添テ被送ケリ」
意訳変換しておくと
「長曽我部元親が、天正5(1577)年に阿波に侵入したときに、桑野に陣を置いた。その時に、桑野梅谷寺の僧に池田長兵衛を遣って、そちらの寺領については、すべてを今まで通りに認め保護する旨を伝え、「細矢」卜いう駿馬を土佐紙とともに贈った。また天正10(1582)年の秋に、勝瑞の三好正安を攻略するときには、夷山に陣を敷いた。その時も、八万村丹光寺に西守腎齋という云う法師武者を遣って、「小鋸」という馬と、土佐布を奉納している。

ここからは、長宗我部元親が阿波の拠点寺院を選択的に保護していることがうかがえます。
研究者が注目するのは、次の『長元物語』の記述です。

三好殿家老衆大将ニテ、人数六千余打出テ、岩倉ノ城近邊在々、池田・ヒルマ(昼間)其邊焼働シテ

ここには長宗我部軍に攻めたてられた三好方が、岩倉城周辺や池田・昼間の家々を焼き払ったことが記されています。
『昔阿波物語』には次のように記します。

十河(三好)存保の家臣木村新丞なる人物が「城のうちを出て、勝瑞の町を一間も不残焼払ひ候」

ここには海瑞攻防戦に先立って、三好方の武将が勝瑞の人家をすべて焼き払ったことが記されています。
  戦闘前には家々を焼き払うのが常套戦術でした。三好方の放火もあったもことが分かります。

寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺

美馬市美馬町の『願勝寺歴代系譜』二六代快全上人の項には、次のように記します。

「天正年中土州長曽我部元親ノ兵火二罹り一端無住同断ノ地トナリケルヲ快全上人焦心尽カシテ当寺ヲ再興シ、天正十三年大守蜂須賀家政公御入国以来種々古来ノ由緒ヲ申立先規ノ如ク被仰付御墨附迄拝領シ上郡大地ノ一寺トナルハ是快全ノ功労也」

意訳変換しておくと
「天正年間に土佐の長曽我部元親の兵火を蒙り、一時は無住の寺となった。それを快全上人が尽力して再興した。、天正13年に蜂須賀家政が入国した際に、古来からの由緒を申立てて、従来通りの特権などの御墨附を拝領した。これによって上郡の有力寺院となることができた。これは快全上人の功績である。」
 
ここには長宗我部元親の焼き討ちで退転した願勝寺を、快全上人が復興したことが記されています。そして、それを保護・支援したのは、蜂須賀家初代の家政です。

蜂須賀家政 – 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins)
蜂須賀家初代の家政
この文書は長宗我部侵攻からさほど時間の経過していない文禄三(1594)年の奥書をもつことから、信憑性が高いとされてきました。しかし、この年は蜂須賀家の家老稲田氏から願勝寺が郡中出家取締の役に命じられた年に当たります。蜂須賀家から墨付きを拝領したた願勝寺の立場として、蜂須賀家への「お礼」の思いから書かれた可能性を研究者は指摘します。 さらに『願勝寺歴代系譜』の成立時期については、長谷川賢二氏が式内社忌部神社をめぐる争論に際して、その所在地を美馬郡内とするために明治期にかけて偽作されたものという見解も出されていることは以前にお話ししました。

前々回には、祖谷山衆が長宗我部元親にいち早く帰順し、阿波侵攻の先兵として働いたことを見ました。
ところが後世に書かれた『祖谷山旧記』には、祖谷山衆と長宗我部元親の関係については何も触れられていません。あるのは蜂須賀家との関係だけです。ここにも作者の「取捨選択」が働いていることがうかがえます。このように阿波の寺社の近世後期に書かれた「由緒」の多くは、蜂須賀家を称揚し、阿波藩との関係を維持・強化しようとする意図で書かれたものが多いと研究者は指摘します。ここでは、その意図が長宗我部元親を悪者として貶めることで、蜂須賀家の藩祖を神格化・カリスマ化しようとする意図があったことを押さえておきます。

戦国時代の阿波の支配者三好氏についても、同時代に生きていた人々はその権力を肯定的に捉えていました。
例えば、『朝倉宗滴話記』には次のように記します。
日本に国持人つかひの上手よき手本と可申人は、今川殿義元・甲斐武田殿晴信・三好修理大夫殿・長尾殿・安芸毛利殿・織田上総介殿、関東には正木大膳亮殿、此等之事
意訳変換しておくと
統治者として上手な手本としては、今川義元・甲斐武田殿晴信(信玄)・三好修理大夫殿(長慶)・長尾(謙信)殿・安芸毛利殿・織田上総介(信長)殿、関東には正木大膳亮殿、此等之事

統治上手な武将として、三好長慶が挙がっています。
『信長公記」でも「三好修理大夫(長慶)、天下執権たるに依つて」とあります。三好長慶が幕府の実権を握り、京都を差配していたと記されています。
ところが阿波では、三好長慶も江戸も半ば以降になるとその評価が急落します。
その背景にあるのが、藩主蜂須賀氏の治世に対する何らかの配慮が働くようになったからだと研究者は推測します。その背景として考えられるのが幕府による家康の神格化の広がりです。18世紀も半ばを過ぎる頃から家康と同じように、各藩では藩祖を祀る行為が広がり始めます。藩祖の神格化・カリスマ化のために、三好長慶や長宗我部元親などの評価が貶められていくのです。その一例が阿波の寺社に対する「長宗我部元親=焼き討ち説」の記述の増加です。こうして、長宗我部元親にはマイナス評価が固定化されていくと研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①讃岐や阿波では「長宗我部元親=悪役」説が広く流布している。
②その背景にあるのが、近世後半の寺社由緒に長宗我部元親が焼き討ちしたことである。
③しかし、同時代史料からは長宗我部元親が無分別に無差別的な焼き討ちを行った事実は見られない
④当寺は、戦場の建築物を焼くのはひとつの戦術で、これは三好方も行っている。
⑤「長宗我部元親=悪役」の背景には、近世後半の藩祖神格化がある。
⑥藩祖の神格化・カリスマ化のために、同時代の三好氏や長宗我部元親を悪役化された節がある。
⑦寺社の由緒書きの長宗我部元親や三好氏の記述については、マイナス評価された側面があるので取扱に注意することが必要である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究NO11 2011年」
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                  長宗我部元親の阿波侵攻1

長宗我部元親は天正5(1577)年には、海部郡や祖谷山を支配下に収め、さらに池田城主の大西覚用の籠絡にも成功します。大西覚用は元親に甥の上野介を入質として差し出しますが、後に元親を離反し三好方につきます。そこで元親は香宗我部親泰に大将を命じて4月末には池田城侵攻を行っています。その時には、人質であった大西上野介が先導役を勤めています。覚用は敗れて讃岐に逃れ、元親は戦後処理として白地城を築き谷忠兵衛に守らせ、上野介には馬路城を与えます。

白地城

白地城 吉野川水運の終点
この白地の地は、「土佐の豊永と云ふ在所より道のほど二里、讃岐堺(境)なり」(『長元物語』)とされ、土佐国から阿波国に入る玄関口にあたり、吉野川水運の終点でもあり、伊予や讃岐への分岐点で交通の要衝地でした。
天正6年には重清城を陥落させ、翌年の天正7(1579)年には岩倉城を攻略して阿波国西半を手中にします。
岩倉城2
岩倉城(脇町)
   岩倉城は、美馬市脇町の田上にあった城で、文永4年(1267年)に守護としてやってきた小笠原長房が居城としていたとされます。戦国時代に入ると三好康俊が城主となり、脇城と連携して、この地方一帯を支配していました。徳島自動車道の建設に伴う発掘調査では、空堀状の溝や犬走状の遺構が出てきています。本丸曲輪は東西約17m・南北約39m、北側に幅約9mの堀切があります。本丸の周辺には、観音坊や丹波ノ坊など六坊と呼ばれる6つの出城が配され、防御を固めています。城跡北側の真楽寺(真言宗大覚寺派)は、岩倉城廃城後に六坊の1つである北ノ坊に建立されています。

天正7(1579)年のこととして『元親記』には、次のように記します。

「大西の下郡へ打出でらるる処、三好も大西の下、重清と云ふ城まで打出で、川越に戦あり。大西上野守・久武内蔵助先陣して川を渡り、三好方の武者、川へ下り入りて、鎗を合す処に、猛勢に追立てられ数人討たるなり。重清の城へも籠らず、下郡さして敗軍す。その儘重清の城を乗取り、この競を以て則ち下郡岩倉表へ発向すべしと、人数を差向けらるる処、岩倉城主式部少輔の老、大嶋丹波と云ふ者御礼に罷出る。是も実子を召しつれ人質に進る。この度にて上郡二郡分相済み、先づ帰陣ありしなり」
 
意訳変換しておくと
「大西城の下郡へ陣を進めていくと、三好方も重清城までやってきて、川越で戦いとなった。大西上野守・久武内蔵助が先陣として川を渡ると、三好方の武者も川へ入り、鎗を合せた。
しかし、猛勢に追立てられ数人討たれると三好方は、重清城を捨てて下郡へ敗走した。そこで、重清城に入城し、この勢いで岩倉城を目指すべし、軍勢を差向けようと準備していた。すると、岩倉城主の式部少輔の老、大嶋丹波と云ものが使者とやってきた。そして実子を人質に差し出した。こうして上郡二郡を占領下に置いて帰陣した」

康俊と脇城の武田信顕は、長宗我部元親に降ります。そして、三好勢を岩倉城に誘き出し、土佐勢とともに、三好方の多くの武将を脇城下で殲滅します。これが岩倉合戦(脇城外の戦い)です。これによって、天正7(1579)年には岩倉城のある美馬郡まで、土佐軍の占領下に置かれます。

徳島県 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の拠点だった勝瑞城

勝瑞城は「阿州表之儀、重而被申越候、勝瑞弥堅固之由尤候」と言われていました。
ところが天正10(1582)年の本能寺の変を境に、長宗我部氏の侵攻を受けて、にわかに風雲急を告げます。この時期の三好氏をめぐる動向について、藤田達生氏は次のように述べています。(要約)
⓵天正3年10月に、信長が嫡子信親の烏帽子親となり、以降は明智光秀が取次として信長と元親を結びつける。
⓶ところが瀬戸内海での水軍掌握に努めることになった秀吉が、淡路水軍をつかさどる安宅信康に働きかけるとともに三好氏にも接近する。
③そのため、秀吉は三好康長に阿波旧領の回復の助成を行った。
④天正9年6月、秀吉は信長に対しても元親との関係を見直す四国政策の変更を決定させた。
⑤この直後、元親は伊予の金子氏と軍事同盟を結び、讃岐天霧城で毛利氏とも同盟を結び反信長の姿勢を鮮明にしていく。
⑥天正10年8月に中富河の戦いで長宗我部元親は十河(三好)存保を破り、9月に勝瑞城を陥落
藤田氏が「元親は本能寺の変と連動して軍事行動をおこない、短期間で四国統一を実現しようとした」と評価します。
中富川合戦記3
中富川の合戦
中富川の合戦から勝瑞の陥落、三好氏の讃岐敗走にいたる経緯を『南海通記』は次のように記します。
天正十年八月初に、土州元親二万三千の兵を挙げて、阿州牛岐の城に着陣す。同国勝瑞の城主三好存保は、後援信長公莞じ玉ひて、孤独と成て援けなけれども、責め我が一人の上に受けて、撓む気色もなく、勝瑞に住しける。
  凡二万三千余人の着到にて、親泰が居城牛岐に馳集まり、五日の評定有て、八月十六日に打立ち、其日一の宮・夷山両城の間を押通りて、早淵に至る。城より足軽を出し、鉄砲を打ちかくる。天正十年八月廿八日、中富川の戦に元親勝利を得て、直に勝瑞の城に取かくる。此城は上代より屋形構なれば、方一町にして土居堀一重なり.其内に楼十四、五掻双て、僅に五千余人を以て相守る
  (中略)
勝瑞の城は二万余の大兵を以て昼夜とり囲み、攻戦ふ処、六、七日過ぎて大雨ふり、雷動して山を崩す。世人みな、久しく相続したる屋形を攻崩す故に、天の咎かと恐る。元親は一里引取り、黒田原に陣を居へ、存保は勝瑞の城を明けて、九月十一日の夜、東讃岐へ退去す。元親即ち勝瑞の城を破却せらる。  撫養の内に、本津山城には篠原肥前人道自遁が居城なり。いまだ元親にも服せず、三好にも同心せずして、自立の志あり。其後は信長を後盾にて居たりしが、信長崩じ玉ひて後、元親力を得て、四国に横行する故に、城を明捨て、淡州へ退去す。

  意訳変換しておくと
天正10(1582)年8月初に、長宗我部元親23000の兵力で、阿波の牛岐の城を囲んだ。本能寺の変で同盟関係にあった信長の支援が受けられなくなった勝瑞城主の三好存保は、勝瑞を動こうとしない。  23000余人の軍勢が牛岐に結集し、5日に評定。8月16日に出陣し、一の宮・夷山両城の間を押通って、早淵に至る。両城からは足軽がでてきて、鉄砲を打ちかけてくる。天正10年8月28日、中富川の戦に長宗我部元親は勝利して、ただちに勝瑞城の後略に取りかかる。この城は細川氏や三好氏の屋形であったため、方一町で土居堀に囲まれていた。その中には楼十四が建ち並び、五千余人で護っていた。
  (中略)
  勝瑞城を土佐軍二万余の大兵が昼夜とり囲み、攻戦が行われた。六、七日過ぎて大雨が降り、雷動して山が崩れた。これを世人は、長く続いた屋形を攻崩ことへの天の怒りと噂した。 そこで、元親は一里ほど陣を下げて、黒田原に着陣し、城を明け渡すことを求めた。これに対して、存保は勝瑞城を明けて、9月11日の夜、東讃岐へ退去した。そこで元親は勝瑞城の破却を命じた。
  撫養の本津山城は、篠原肥前人道自遁のが居城であったが、元親にも服せず、三好にも就かずに、自立志向であった。そのため信長を後盾にていたが、信長が亡くなった後は、城を打ち捨てて、淡路に退去した。
中富川合戦記2
紫色が土佐軍の動き(二方面から侵攻) 水色が三好方 

以上を整理しておくと
① 1582年 長宗我部元親軍は牛岐城(富岡城)で作戦会議を開いた。
②8月26日 夷山城・一宮城を経て、勝瑞城を目指し、翌27日全軍を集結させた。
③二手に分け、香宗我部親秦が約3千兵を率いて中富川の南岸へ着陣した。
④これより前に十河存保は一宮、夷山の両城を放棄して、勝瑞城に兵力を集中させていた。
⑤28日長宗我部元親は全軍に出撃命令を下し、先陣の香宗我部親秦隊は北岸へ突入した。
⑥十河存保軍はこれに対して勝瑞城を本陣とし、矢上城を先陣とした。
⑦矢上城大手付近に約2千兵、後陣として約3千兵を配して防塞を築いた。

中富川合戦記 

⑧香宗我部親秦隊が中富川を渡り始め、長宗我部本隊が南東より、香宗我部親秦隊は南西より進み両方から攻め立てた。
⑨元親と和讓を結んでいた一宮城主小笠原成助、桑野城主桑野康明らが6千の兵を率いて中富川へ押し寄せた。
⑩十河軍の激しい反撃にあい、元親軍は一時怯んだが、大軍で数の力で勝瑞城まで追い詰め包囲した。
⑪9月5日に大雨が5日間降り続き、後方の吉野川本流と中富川が氾濫。板野平野一帯が大洪水となり戦略は一時休止。
⑫水が引いた後に、中富川を挟んで戦闘が始まり、勝瑞城の内外でも両軍の入り乱れで乱戦となり多くの死傷者がでた。
⑬三好勢の形成は不利で、矢上城主矢野虎村、赤澤、七条、寒川氏らの多くの戦死者を出した。
⑭勝瑞城の明け渡しを条件に讃岐への退去を十河存保は許された。
⑮両軍の死者数の合計は約1500名、重軽傷数はこれらをはるかに上回った。

  中富川合戦で三好方の戦死した城主一覧

矢上(矢上虎村)、下六条(三好何右衛門)、板東(板東清利)、七条(七条兼仲)、板西(赤沢宗伝)、保崎(馬詰駿河)、西条(西条益太夫)、北原(北原義行)、知恵島(知恵島重綱)、南島(甘利奥右衛門)、乗島(乗島来心)、高畠(高畠時清)、第十(第十拾太夫)、日開(鎌田光義)、徳里(白鳥左近)、下浦西(田村盤右衛門)、鈴江(鈴江友明)、櫛淵(櫛淵国武)、長塩(長塩六之進)、大寺(大寺松太夫)、野本(野本左近)、大代(大代内匠)、佐藤須賀(佐藤長勝)、瀬部(瀬部友光)、高志(高志右近)、讃岐・大内(寒川三河守)、讃岐・宇多津(奈良太郎左衛門)、飯尾(飯尾常重)、中島(片山重長)、角田(角田平右衛門)、湯浅(湯浅豊後守)、福井(芥川宗長)、大潟(四宮光武)、古川(古川友則)、市楽(石河吉行)、中庄(中庄主膳)、新居(堀江国正)、原(原田信綱)、香美(香美馬之進)、吉田(原田小内膳)、姫田(姫田甚左衛門)、由岐(由岐有興)【長宗我部に味方した阿波の城主】牛岐(新開道善)、一宮(一宮成助)、夷山(庄野兼時)、桑野(東条関之兵衛)【その他】木津(篠原自遁)」      

中富川合戦の戦士将兵の墓石集積(愛染院)
中富川合戦の墓石群(愛染院)
この戦死者名を見ると、板野郡の武将に集中していると研究者は指摘します。
その背景には中富川合戦の段階で、長宗我部元親に敵対するのは勝瑞のある板野郡に限られていたことがうかがえます。つまり、阿波国内の他地域の武将の多くは、この時すでに元親の傘下にあったことになります。
中富川合戦後、反元親の十河(三好)存保は9月21日、三好康俊は10月10日にそれぞれの居城である勝瑞城・岩倉城を明け渡して阿波から撤退しています。富岡城主新開道善は9月16日に、一宮城主一宮成助は11月7日に夷山城で虐殺されます。

十河(三好)存保を讃岐に追放して、阿波のほぼ全域を支配下においた元親は、服属した阿波の諸将に所領の宛行を次のように行っています。
今度及検地内参百町進之候、右之外於河北式千貫、申合之旨、不可有相違候、恐々謹言、
天正十一(1583)年二月十九日
                        長宗我部宮内少輔 元親(花押)
                        長宗我部弥三郎  信親(花押)
一宮民部少輔殿
御宿所へ
これは一官民部少輔に「河北式千貫」を宛行ったものです。その他、戦功のあった諸将を以下のように
配したことが『長元物語』に次のように記されています。
阿波一ケ国元親公御仕置ノ事
牛岐城ヘハ、御舎弟香宗我部親泰入城有テ、阿波一ケ国諸侍物頭二仰付ラルゝ
一ノ宮ヘハ先手物頭ノ江村孫左衛門入城ニテ、組与力此所ニヲイテ知行給ル
岩倉ノ城ヘハ、長宗我部掃部頭入城組与力此所ニテ知行給ル
海部ノ城ハ、香宗我部親泰根城
吉田ノ城ヘハ、北村間斎入城ス
宍喰ノ城ヘハ、野中三郎左衛門人城ス
二ウ殿、東条殿、其降参ノ国侍、歴々ノ城持、前々持来ル知行無相違仰付ラレ、年頭歳末ノ御礼有之事
主要な城主を挙げておくと次のようになります
牟岐城に香曽我部親泰
一宮城に江村孫左衛門
岩倉城に長宗我部掃部頭
古田城に北村問斎
宍喰城に野中三郎左衛門
この書状は天正11年のものとされ、長宗我部元親が阿波国内をほぼ制圧して以後のものです。
元親が阿波一国を征服たのかどうかについては、研究者の意見の分かれる所のようです。
例えば次のような秀吉の書状があります。
八木弐百石、あわとさとまり(阿波国土佐泊)の篠原甚五
はりましかまつにて可相渡者也、
天正十弐
十月十六日     秀吉(花押)
弥ひやうヘ
もりしまのかみかたへ、
この秀吉の書状が示すように天正12年10月の段階で、秀吉は阿波国土佐泊城に籠もる篠原甚五・森志摩守村春に支援を行っています。こうした動きは天正九年の頃から始まっています。

阿波土佐泊城
秀吉からの支援を受けて、長宗我部元親に抵抗を続けた土佐泊城

土佐泊城
撫養港の入口に位置する土佐泊城

同年10月の黒田官兵衛宛ての秀吉書状には、次のように記されています。

木津・土佐泊兵糧之事、申付相渡候、右両城玉葉事、先度書付候分、是又申付候」

ここからは秀吉が三好勢を支える木津や土佐泊の篠原・森両氏への兵糧支援を、この時期にも黒田官兵衛に命じていたことが分かります。そのため長宗我部元親の土佐泊城攻略は、讃岐虎丸城とともに困難をきわめます。ここからは元親は、阿波や讃岐の完全攻略には成功していないと研究者は考えています。
 従来の通説では次の通りでした。

「小牧・長久手の戦いの最中であった天正11(1583)年6月に長宗我部氏が十河勢力を掃討したことで阿波と讃岐を掌中におさめた。」

これに対して津野氏は次のように疑問を呈します。

「実際には秀吉の支援をうける十河勢力が讃岐虎九・阿波土佐泊を拠点に抵抗しており、それは長宗我部氏が同盟者金子氏に加勢を要請するほどの攻勢をとりさえした」

長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏の見解を再度挙げておきます。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

以上をまとめておくと
①元親は、土佐から他国への軍事行動について、地理的に困難が伴うことを熟知していた。
②そのため土佐軍による単独の軍事的侵攻を極力抑えていた節がある。
③その方策として、日和佐氏と同盟関係を結んだり、豊楽寺を通して祖谷山衆を傘下に組み込んだりしている。
④侵攻に至るまでに充分な事前の工作と準備を行っている。
⑤このような情報収集や外交交渉を行ったのが長宗我部元親に仕える修験者ブレーンたちであった。

 伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~(前編)@ブラタモリ - メランコリア
伊勢御師
 以前に冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」を紹介しました。この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成されたものが、約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。その内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと
 その後、三重県史編纂過程で発見されたのが伊勢御師の白米家に伝わる三豊や多度・那珂郡の檀那名簿です。その文書が白米家に伝来するにいたった経緯を見ておきましょう。
 寛永十六年己卯五月讃岐国旦所(檀那名簿)、福井勘右衛門より代黄金九枚二買得、取置有之證文如左永代沽渡申御道者之事在所者、讃岐国我等持分一円、村数家数ハ賦日記相添進之候、右之御道者、我等雖数代持来候、依有急用、黄金九枚二永代沽渡申候処実正明白也、右賦日記之外二他国他所二御入候衆も不依上下、一人なり共御家付次第二其方御知行可有候、則本文書相添進之候、此御道者二借物少も無御座候、若以来六ヶ敷義出来候ハ我等罷出相済可申候、縦天下大法之政徳行候共、堅申合候間、至子々孫々不可違乱者也、仍為後日沽券證文如件
寬永十六己卯年五月吉日 福井勘右衛門書判
互すあい(仲介人) 加兵衛
       仁右衛門
白米弥兵衛尉殿
超意訳変換しておくと
寛永16年(1639)5月、福井勘右衛門が、数代持ち来った讃岐国の道者一覧を「本文書」を添えて黄金9枚で白米弥兵衛尉へ売り渡した。このときの売買の対象となったのは「讃岐国我等持分一円」で、その「村数家数」を記した「賦日記」が白米弥兵衛尉に渡さた。

「賦日記」とは、伊勢御師が諸国の道者(旦那)に伊勢の大麻やそのほかを配り、初穂銭等を受け取るときの記録です。いわば「道者台帳」になります。今回は、伊勢御師白米家から発見された「讃岐国檀那一覧」の三豊分を見ていきます。テキストは、「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。
 この文書に、天文20年(1551)2月から10月にかけての間に讃岐・相模両国の持ち分の道者を売買した際に添付された賦日記や證文の一部です。ここには讃岐国の三豊・多度・那珂郡・鵜足郡の道「かすみ(テリトリー)」が次のように記されています。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺冒頭部
伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)NO1
 
最初に「讃岐国山本郷一円」とでてきます。山本郷にお札配布の拠点があったのかもしれませんが、よく分かりません。範囲は、山本郷周辺だけでなく、ほぼ三豊全域に及んでいます。記されている里名を見ていくことにします。①山本郷一円の最初に記されるのは、上河内(山本町河内)、常本・中村・辻・原などです。

伊勢御師の讃岐檀那リスト3
讃岐国山本郷一円の伊勢道者(檀那)とその分布エリア

続いて、中田井・池の尻、小松尾・西光寺、仁尾、などが続きます。財田や三野など、空白地帯もあります。ここには讃岐国豊田郡山本郷とその周辺、一部は山本郷を出身地とする人々で旦那となっている人々の名前が記されています。彼らは御師と、毎年音信する国人たちであったこと、国人らが、周辺の里や村のとりまとめ役をしていたと研究者は考えています。研究者は注目するのは、その中に混じって「寺家 こまつを(小松尾)」が出てくることです。これは、四国霊場の小松尾山不動光院大興寺のことです。後にその子坊が出てきます。これは後に触れることにして、先を急ぎます

2 「いんた(隠田 → 一ノ谷)」は、「香西氏の紀伊・続木殿の知行」
3 あわい(粟井)の里は、四良兵衛殿子孫の知行。その在所は曽根越州殿
  ここから多度郡に飛びます。
4 あまぎり(天霧)城のふもとの中村は、九郎右衛門殿の子孫の知行で、在所は余所。

伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺4
      伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる奈良氏・高井氏・細川氏

奈良氏の部分を意訳変換しておくと

 讃岐のなら(奈良)殿は、檀那であるが近年は音信がない。奈良氏の先祖(本家)は、昔からの檀那で、田宅の奈良殿とは今も音信がとれて檀那であるが、京の奈良殿(摂津守護代系統の一族)とは音信不通になっている。

   この「なら殿(奈良殿)」の第一候補が、坂出の聖通寺山城の奈良氏です。奈良氏は武蔵国の鎌倉御家人で、南北朝期に細川氏の被官となり、讃岐にやって来ます。管領細川氏の摂津守護代を務めるなど有力家臣でした。讃岐では鵜足郡宇多津に所領を得て、応仁の乱の時期には、元安が細川勝元の元で、香川元明・香西元資・安富盛長とともに細川京兆家の四天王と称されます。「南海通記』では宇多津聖通寺山に居城を築き、那珂・鶏足二郡を領し、長尾・新目・本目・山脇氏などを配下に置いたと記されています。そうだとすれば、ここに出てくる奈良殿は元安の子元信かその子元政に当たると研究者は考えています。奈良氏は、守護代香川氏の勢力が戦国大名への道を歩むようになると、次第にその勢力を弱めていきます。この日記が書かれた1551年段階では、畿内の奈良氏とは音信不通になっていたようです。どちらにしても、奈良氏は長く伊勢御師の檀那であったことが分かります。

 続いて登場するのが高井入道殿です
讃岐国人で豊後入道と称する出家武人であったようです。「西讃府志」には、山本町辻に高井下総守信昌が高井城主としていたことが記されています。下総守信昌は天正年中長宗我部元親の讃岐攻めにより戦死し、高井城は落城します。墓は大辻にあったと記しますが、この下総守の一族のようです。下総守の父親の可能性もあると研究者は考えています。
以下続きますが、この檀那一覧表は別の機会に追いかけるとして、ここからは、この檀那名簿が

その下に「にほ(仁尾)の 進上細河(川)土佐守殿」とあります。
「全讃史』の仁保城の項目に次のように記されています。
「仁尾浦にあり。今の覚院の地これなり。細河(川)土佐守頼弘、これに居りき」

この仁尾城主の細川頼弘が第一候補ですが、彼はその後は文献には現れません。頼弘は天正六年(1578)長宗我部元親の讃岐侵攻の際、仁尾城に立て籠もって抗戦、ついに落城したとされます。時は3月3日、これ以後落城の日を忘れないように、仁尾では桃の節句をしない風習がありました。ここで見る土佐守が天正年間の頼弘であるかどうかは、はっきりとしません。現在、仁尾の金光寺に細川土佐守頼弘と称す人物の墓がありますが、「西讃府志」には次のように記します。

「金光寺に細川土佐守の墓あり、此のいかなる人か詳ならず、・・・武家平林に源頼義の一族に讃岐守賴弘言う人見ゆなれど永禄十年丁卯十月三日薨ずとあれば此の人にはあらず」

西讃府志は、死亡日時からこの墓が土佐守頼弘とするのはおかしいと判断しています。しかし、仁尾に細川土佐守がいたことは確かなようです。長宗我部元親侵攻時の仁尾城の主人は細川土佐守の可能性が高くなります。

伊勢御師の讃岐檀那リスト 大平氏
        伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる大平氏

最初に「大平三河守殿国人」の名前があります。
この人物は「西讃府志』の大平氏系図の国祐の三代前に国匡(参(三)河守)と記されています。

大水上神社 近藤氏系図
麻の近藤氏の系譜(近藤氏と大平氏は一族)

その後国敏・国雅・国祐と続きます。国祐は和田村の獅子ヶ鼻城(和田城)の城主で、香川氏の家臣として活躍しています。「大平氏系図」によれば、大平氏は藤原秀郷の五男千常の子孫と言われ、千常の子は近藤氏を名乗るようになります。七代目の国平は正治元年(1199)讃岐守護に任じられ、国平の子国から大平姓を名乗り、頼朝より土佐にて所領を給付されたとします。その後、国有の時に三野郡大野村を拝領し讃岐に土着したようです。その四代後がこの国匡になります。
 一方、別の史料では、永禄5年(1562)に国祐は、長宗我部元親に攻められ香川氏を頼って讃岐へ来て、多度郡中村に居住し、のち和田村を領したとも伝えます。しかしこの内容よりも前記のほうが妥当性があると研究者は考えています。ここでは「西讃府志」に見える国匡としておきます。しかし、一族の麻や神田の近藤氏は出てきません。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 詫間氏
     伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる詫間氏
たくま将監殿とあります
 監天文九年(1540)の「浪打八幡宮遷宮奉加」に「詫間将監三貫文」と出てきます。他に詫間姓の者が多数出てきますが、五百文から二貫文の奉納です。それに対して、詫間新次郎の五貫文に次いで多く奉納している人物です。詫間一族の中でも有力者であったことがうかがえます。
 詫間氏は、藤原氏三井家を祖とし、14世紀に讃岐へ配流されます。三井信行は詫間城主の海崎大隅守元高から三野郡に所領を賜って、海崎氏が西長尾城(まんのう町)に本拠を移すと、詫間城番となり、詫間氏を称するようになります。以後、詫間地域を領有していました。「西讃府志」では詫間城主は詫間弾正とあります。その後、山地氏が入り、荒神城へ移り城主となりますが、天正6年(1578)長宗我部元親の攻撃を受け、敗北して滅亡したとされます。「奉加帳」に弾正の名はないので、弾正の父がそれに準ずる人物と研究者は考えています。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺4
       伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる西光寺と大興寺

  上段には、中田井→宗安→池の尻に続いて、西光寺が出てきます。「西光寺」は、今は辻地区の字名となっていますが、もともとは三豊中学校運動場北の畑が「西光寺屋敷」と呼ばれていたと『新修山本町誌』は記します。財田川の左岸に建立された寺院だったようです。

下段後半には、國(柞)田、鋳物師原、原野、しうらく(十楽寺)と続いて、小松尾の坊名が並びます。「新坊」「せしやう(殺生?)坊」「同中ノ坊」「同さいりん(西林)坊」「同とうりん(東輪)坊」です。これらは先ほど見た大興寺(小松尾寺)の坊だったようです。
 大興寺蔵「寺格昇格進之序』には次のように記します。

「下坊三六坊ありし霊剰にして猶寺名伝え有り、東林坊・蓮花坊・三味坊・大円坊等之れなり」

この外、新坊、中之坊があり、これらは大興寺山内に近接してあったようです。太興寺の坊の数は、九坊が確認できることになります。 さらに「寺格昇格進之序」や大興寺蔵「小松尾山不動光院大興寺遺跡略記」(寛文11年以降成立)などには、大興寺には真言系24坊、天台系12計の計36坊があったと記されています。大興寺周辺に地名伝承として残るものと大野の須賀神社に伝来した「大埜村両社記』(貞享五(1688年成立)は、次のような宗教施設があったと記します。
大興寺付近に、 東連坊・普門院、辻東側の十輪寺
大野には 八幡下の円坊、天皇下の円結び知坊・廻向坊・安楽坊・地蔵坊と西之村の智蔵坊
これらが「三十六坊」とされていた宗教施設と研究者は考えています。

6大興寺周辺の字切地図 
四国霊場大興寺周辺の坊跡

 さらに、「いん田」が「隠田」で、それが訛って「一の谷」になったとすれば、大興寺に接続したエリアになります。そうすると、そこにあった行識坊も三十六坊のひとつに数えられます。以前に見た「太興寺調査報告書」にも触れていましたが、この周辺には坊が集中していたようです。ここからも、大興寺が修験者などの山林修行者の拠点であったことが裏付けられます。
 髙松周辺の御師のお札配布活動でも、無量寿寺の各坊の僧侶達が檀那として名前が挙がっていました。彼ら伊勢信仰のお札配布の拠点になっていました。三豊でも大興寺(小松尾寺)の各坊の修験者(聖)の中には、伊勢講の先達となっていた者達がいたのかもしれません。

   末尾に「此衆へ毎年御状を以て音信申し候」とあります。
毎年、ここに出てくる三豊の檀那と伊勢御師が連絡を取り合って、伊勢お札の配布を行っていたことが分かります。また冒頭に「四国の日記讃岐の分」とあります。ここからもこれらの文書が「賦日記」であることが裏付けられます。ません。なお、證文に見える「すあい」とは口入と同じ、仲介者のことだそうです。

以上をまとめておくと
①16世紀半ばに伊勢御師が三豊郡の有力者を檀那に得て、伊勢のお札を配布していたこと
②そのテリトリーは、財田や三野・詫間などには及ばないこと
③四国霊場の大興寺は多くの坊を抱え、院主たちが伊勢お札の配布に関わっていたこと。
④奈良氏や高井氏・大平氏など有力国人層含まれているが、近藤氏・三野氏・秋山氏などは出てこないこと
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」

 阿波国守護の細川氏の拠点としては、勝瑞が有名です。それ以前は秋月に拠点がありました。しかし、「秋月」については守護館跡をはじめ、町場跡や梵光寺跡などの位置が分かっていません。

秋月城4
          秋月城跡 かつては細川氏守護館跡と考えられていた
かつては「秋月城跡」(土成町秋月)を細川氏守護館跡とする説が定説化していました。
ところが発掘調査の結果、秋月城跡からは守護館跡に関連する遺構や遺物が出てきませんでした。その結果、「秋月城跡が守護館跡である可能性なし」との結論に至っているようです。考古学による「通説否定」の上にたって、「秋月」の空間構成を研究者がどのように考えているのかを見ていくことにします。テキストは「福家清司 「秋月」の空間構成  四国中世史研究17号 2023年」です。

秋月 細川氏拠点2JPG

まず最初に研究者が確認するのは「秋月」の領域は、古代和名抄郷「秋月郷」の「秋月荘」の荘域全体に及んでいたことです。そして、守護館・町場跡・梵光寺跡を次のように比定します。
A【守護館】 山野上城(伝細川隠居城・仏殿城・阿波市市場町大野島王子前)

山の上城跡 細川氏守護所跡候補
山野上城跡 細川氏の守護所候補地
秋月城跡が否定された後、新たな守護館候補として研究者が考えるのが「山野上城跡」です。この城は、阿波市市場町大野島の王子神社の北東200mの一帯にあります。中世山城・居館という視点から次のように評されています。

「南側の平野部に突き出した比高5mほどの土手状地形を利用して築かれたもので、東側には小川、西側には切通しの道路が通っており、これによって区画された東西50mほどの部分が城であったようだ。内部にはわずかな段差があり、3つの区画が想定できるが、後世の改変もあり、旧状がこの通りであったかどうかは分からない。」

という評価であまり特徴があるようには見えません。
しかし、明治初期編纂の「阿波郡風土記」は、細川氏の守護所について次のように記します。

「(秋月城には)射場という処もあり。此処は細川阿波守和氏の住まれし古址なるなり。按ずるに、此所分内小際にして北山に迫れり。大国の府城を営みし址とは見えず。「阿波物語」に秋月を守護所と定めらるとあるは此所にはあらで、山の上村成るべし。」

意訳変換しておくと
「秋月城には射場という所もあり、ここは細川阿波守和氏の拠点古址とされる。しかし、ここは後に山が迫り狭い。大国の府城を置いたところとは思えない。「阿波物語」に秋月を守護所と定めるとあるのは、秋月城ではなくて、山の上村であろう。」

『阿波郡風土記』の編者(近藤忠直・浦上利延)は、「射場(的場)=秋月城跡)」を守護館とするには、あまりにも小さく狭いとして、「山野上村の屋形跡=守護館」説を唱えています。「秋月城」説が発掘調査によって否定されたので、「山野上村の屋形跡」説についても改めて検討する必要が出てきます。研究者がこの説に注目するのは、次の3つの理由からです。
①吉野川の段丘を利用した立地条件
②仏殿庵の所在であること
③仏殿庵には「梵光寺観青御宝前」と彫り込まれた寛文4(1644)年の手水鉢があること
③については、仏殿庵は「梵光寺」にあったと伝えられます。梵光寺は秋月荘や守護所の鎮守社である秋月八幡宮別当院で、「秋月」にとって最も重要な寺院です。その梵光寺を「鬼門鎮護の守り」としているのが山野上村の「屋形跡」です。ここから梵光寺が守護する館こそA守護館の可能性が高いと研究者は判断します。

B【補陀寺〈ふだじ):安国寺〉】(秋月城跡周辺)を見ておきましょう。
日本歴史地名大系 「補陀寺跡」には、次のように記されています。
御嶽(おみたけ)山南麓、秋月城の近くに位置した臨済宗寺院。
南明山安国補陀禅寺・安国補陀寺などと称され、阿波国の安国寺とされたほか(光勝院縁起略)、諸山の寺格も与えられた(扶桑五山記)。近接して光勝(こうしよう)院・宝冠(ほうかん)寺が建立された。光勝院は当寺の後身ともいわれ、のち板野郡萩原(現鳴門市)に移されて同地に現存している。
阿波州安国補陀寺仏殿梁牌(夢窓国師語録拾遺)に「阿波州安国補陀寺仏殿」とみえ、暦応二年(一三三九)八月に足利尊氏が造立し、開山は夢窓疎石とされている。しかし夢窓疎石は招請開山で、実際には細川和氏が秋月府内南明山に建立し、和氏の五男、細川頼之の猶子笑山周を開山としたという。また足利尊氏の保護を受け、同年阿波国の安国寺に指定されたとされる(光勝院縁起略)。ただし「夢窓国師語録」「阿波志」は翌三年の創建と伝える。安国寺とともに建立された利生塔は切幡(きりはた)寺に建てられた(贈僧正宥範発心求法縁)。康永元年(一三四二)夢窓疎石の招聘により大道一以が入寺し(禅林僧伝)、以後、黙翁妙誡・大岳周崇・鉄舟徳済・観中中諦などが住持となったという(「夢窓国師語録」「阿波志」など)。出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について
補陀寺は阿波初代守護和氏が夢窓礎石を開山に招いて創建した禅宗寺院で、和氏の墳寺でした。和氏は尊氏の側近として活躍したことから、創建に際しては尊氏からも寄進が寄せられ、後に阿波安国寺に指定されます。補陀寺は夢窓派の重要寺院として、夢窓派の僧侶が住持として派遣され、四国内では唯一の十刹寺院でした。通説では秋月が勝瑞に移転した時に、光勝院と合併して萩原の地に移転されたとされています。しかし、萩原に移転したのは光勝院のみで、補陀寺は守護所移転後も引き続き戦国期に至るまで、秋月にあって法灯を伝えたと考える研究者もいます。

C  切幡寺に建てられたという「利生塔」を見ておきましょう。
 
切幡寺の安国寺利生塔礎石

足利尊氏は全国66ヶ国へ利生塔を建てます。そのねらいは、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための警察権行使の拠点置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。その利生塔が、阿波安国寺の補陀寺に建立されることになります。その際に供養導師を務めているのが善通寺誕生院の宥範です。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、これは事実ではないようですが、切幡寺や善通寺の利生塔は、全国的に見ても早い時期に建てられていることを押さえておきます。当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。ただ「八幡町史」は、利生塔造立地は現在の切幡寺境内ではなく、字観音の「西堂(りじどう)」と呼ばれる地点とします。
D 【守護創建寺1 梵光寺】(阿波市市場町山野上)を見ておきましょう。
秋月には補陀寺以外にも守護創建の十院がありました。その代表的寺院が梵光寺です。しかし、この寺は今となっては、どこにあったのかも分からなくなっています。そんな中で戦前に「再発見」されたのが「秋月荘八幡宮鐘銘」です。この古鐘銘について 阿波学会研究紀の「市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号」は次のように記します。

昭和13(1928)年頃、松山市弁天町の善勝寺に日切地蔵尊の釣鐘として使われていたが、少しヒビが入ったので撞かずにしておいた。当時、戦争のため物資が不足し、各寺院では、国防資材として不用のものを供出する運動が起り、この釣鐘も競売してその代価を献納することになった。競売の結果、同市新玉町の古物商亀井季太郎氏の手に落ちた。ところがその釣鐘の銘文を調べてみると、室町時代初期の鐘銘があり、道後湯之町岩崎一高氏が再調査したところ、準国宝級のものとの噂が高まった。そして、これが阿波国八幡の八幡宮の古鐘であることがわかった。この鐘が、どうして善勝寺に入ったかを調べると、昭和13年頃から70・80年前に善勝寺の先々代の稲岡上人が讃岐で買入れたものとわかった。(中略)
 この由緒ある古鐘は、流れ流れて現在は広島県豊田郡瀬戸田町の耕三寺の博物館の所蔵となっており、銘の拓本取りどころか、なかなか細かな調査もできなくなっている。 

以上を整理・要約しておくと、
①幕末の1850年前後に、松山市の善勝寺の住職が讃岐で古鐘を手に入れた。
②日中戦争が激化して金属物の供出運動が起こり、古物商の手に落ちた。
③銘文を改めて調べてみると室町時代初期の阿波国市場の八幡神社の古鐘であることが分かった

 銘文は、4区の面にタガネ刻で次のように刻まれています。
 第1区奉鋳造
   ①大阿波国秋月庄八幡宮
   大檀那
    梵光寺  ②守格
    右京大夫 (細川)頼元
    兵部少輔 義之
第2区右奉為
   金輪聖皇天長地久御願
   円満天下奉平国土豊饒
   殊者大檀那御息災安穏
   増長福寿家門繁栄 并
   結縁奉加之衆現当二世
 第3区願望成就乃至鉄囲沙界
   之情非情悉利益平等敬白
    応永二暦乙亥八月十二日
    勧進沙門金対資頼業敬白
   神主 宇佐輔景宗
   大工 伴左衛門正光
 第4区奉再興
   明月山梵光寺住持②比丘尼守久
   神主 沙弥盛宗
   永享七年(1435)乙卯六月廿九日
   願主 内藤元継敬白
  一打鐘声 当願衆生
  脱三界苦 得見菩提
 この史料からは次のようなことが分かります。
①梵光寺が秋月八幡宮の別当寺であったこと
②住職として「守格」「守久」の名前があること。
③「守格」は細川頼春の子で、梵光寺の開山者。「守久」は頼有の子で、「守格」の後継者として梵光寺に入ったこと。
④守久は尼僧であるので、梵光寺は尼寺だったこと。
⑤大檀那京太夫頼元は阿波国守護の細川頼春の三子で頼之の弟。
⑥義之は細川詮春の次子で、応安3年(1370)官軍の菊池武政を長門で破った武将
阿波市場の八幡神社 
              市場の八幡宮

郷土研究発表会紀要第25号は、続けて次のように記します。
              

市場の八幡宮には、寛永17(1636)9月吉日の棟礼があり、その中に秋月五カ庄、日開谷、尾開、切幡、秋月、日吉、成当、大野島、山野上、浦池、粟島、伊月とあり、秋月郷の郷社であった。

 鐘銘にある梵光寺は、八幡宮の別当で山野上の仏殿庵が鐘銘の梵光寺である。この敷地からは、南北朝時代の古瓦が多く出土して、その中に阿波細川系の寺院特有の青梅波文様の軒平瓦があり、敷瓦も多く発見されている。仏殿庵は、現在敷地が9畝11歩あり、細川頼春の位碑「光勝院殿故四洲総轄宝洲祐繁大居士」の戒名を記したもので、頼春の持仏の如意輪観音菩薩像が祀られていたというが、現在所在不明である。

「観中和尚語録』永徳元(1381)年8月6日条には「秋月捻分八幡霊祠」として出てくるのが八幡神社です。守護所が置かれた秋月荘の鎮守社でした。それが近世になっても郷社として、周辺の村々の信仰の中心となっていることが分かります。

 また市場の八幡神社には、次のような梵光寺の銘文のある手洗鉢が本堂の前に残っています。

梵光寺の銘文のある手洗鉢 
この手洗鉢は砂岩製で、横巾55cm、高32cm、厚36cm。
 正面に
  寛文四(1644)甲辰年
   梵光寺
  観音御宝前
   手洗鉢
  願主  山上村八左衛門
   六月十八日造立
寛文4年(1644)の江戸時代には神仏混淆下にあり、別当寺の梵光寺の社僧達の管理下にあったことが分かります。

D【守護創建寺院2 光勝院については、一般的には次のように云われています。
 南北朝時代の歴応2年に阿波細川家の祖となる細川和氏が居城とした秋月に夢窓疎石上人を勧請開山に南明補陀寺として創建された。和氏の5男で細川頼之の猶子笑山周念上人が開山に迎えられた。その後、足利尊氏、義直兄弟が阿波国安国寺に当て、安國補陀寺と改称し幕府の保護を受ける官寺として諸山の寺格を与えた。
貞治2年に幕府管領細川頼之が父頼春(光勝院殿)の13回忌に普明国師を開山に迎えて安國補陀寺の南に光勝寺を創建し、応安年間に頼之の弟詮春が居城を勝瑞に移すと安國補陀寺と光勝寺を合併し現在地に移転して安國補陀寺光勝院と改称し、室町時代の文明18年に十刹に列した。
光勝院は守護頼之が、亡父頼春の十一回忌に際して創建した禅宗寺院です。通説では秋月のBの補陀寺に隣接して建てられたとされています。しかし、研究者の中には補陀寺境内に建てられた仏堂とする説もあります。これも「寺々注文」に出てくる寺院ですが康暦の政変後に、頼之によって板東郡萩原の地に独立移転されたという説もあります。

秋月 細川氏拠点2JPG

E【菩提寺参道】
かつての「大道」とされる旧川北本道から補陀寺山門まで南北方向には、直線的に延びる道です。守護が書提寺補陀寺参詣のために開いた参詣道とされます。
F【大道】
藩政期の川北本道と重なる「大道」です。山野上城跡の市側の河岸段上直下も吉野川沿いの街道とともに中世の守護所設置時期にはすでにあったと研究者は考えています。
H【町場(含む市庭)
秋月八幡宮の周辺に広がる「八幡町」は、近世初期には「郷町」で町場でした。つまり、蜂須賀氏入国以前に町場が成立していたことになります。その起源は補陀寺などの寺院の門前町が町場化したことが考えられます。さらに、町場の起源は、守護所が置かれていた時期まで辿ることができるようです。以上から近世の郷町「八幡町」を守護所に伴う町場の発展型と研究者は考えています。
なお、周辺には「市の本」(阿波市市場町山野上)、近世初期の「古市付」(現在の阿波市市場町市場・香美)があります。「市の本」は古野川水運(地名「渡」)を核として成立した市庭の発展型と考えられます。
秋月荘は古野川に面していたので、当然川湊があったことが推定できます。
その地点は、その後の吉野川の流路変更で、特定することは難しいようです。敢えて探すとすれば、秋月八幡宮から南に直進した地点や市場町香美渡付近あたりが考えられます。

J【外港 引田港】(香川県東かがわ市)
引田 大内郡 正保国絵図
           引田と周辺地域 正保国絵図
「秋月」から最も近い海港は、讃岐国の引田港などになります。引田港は以前にお話したように、中世においては大坂峠を越えて阿波もヒンターランドとしていて、畿内・瀬戸内方面への拠点港となっていたしまた。また阿讃山地沿いに東進すると、撫養港(鳴門市撫養町)に出て、阿波国南部への航路と接続が可能でした。

以上から研究者は「秋月」の空間構成を次のように考えています。
① 守護所エリアは秋月荘全域。
② 守護所空間は大きく三ケ所
 A 守護役所〈館・被官屋敷等〉空間、B 寺院空間、C 鎮守・町場空間)の空間を核として、有機的に結節。
③ 守護所に付随した町場は秋月八幡宮周辺や古市など吉野川北岸域に成立。
④ これまで守護所とされてきた秋月(旧秋月村)は隣接する切幡(旧切幡村)も寺院空間に含む

こうして見ると、「秋月」は吉野川北岸の街道「大道」沿いの約1㎞の範囲内に「守護役所等」「鎮守社」「町場+市庭」「川湊」などが集中しています。そしてそのエリアから約1㎞北に隔てた山麓部に菩提寺・利生塔を配する寺院空間(奥津城)が配置されています。ある意味で集中性の高い空間構造であったことが見えて来ます。ここからは逆に、細川氏が阿波国守護になった後も国府地域へ進出せずに、引き続いて秋月を守護所としたのはどうしてか?という問題にも答えることができそうです。
 
 阿波国守護細川氏は、和氏・頼春ともに守護職在職当時は阿波国以外での活動に多くの時間を割かざるを得ない状況にありました。
阿波細川氏年表1
阿波細川氏の年表
 瀬戸内海・畿内方面への軍事的移動を考えると、その外港は南海道を利用した引田港になります。引田港へは阿讃山脈越えになりますが、大坂峠は低い峠道で古代以来南海道として整備されており、短時間で引田港へ出ることができます。そういう点からすれば、秋月の地は、阿波国府地域よりも瀬戸内海方面への軍事力の移動などにははるかに有利だったと研究者は考えています。
 頼春が観応の擾乱によって京都市中で戦死した後を受けた頼之と、頼之が管領として上洛した後を受けた頼有もまた、阿波一国だけでなく、四国の他国や中国地方の守護などを引き続き兼務していました。そのために「秋月」から守護所を移すことはありませんでした。要するに「秋月」は阿波国守護所であると同時に、瀬戸内海・中国地方での活動などを含めた広域守護細川氏にとっての活動拠点としての適地であったと研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家清司 「秋月」の空間構成  四国中世史研究17号 2023年
阿波学会研究紀 市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号
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秋山氏

以前に秋山氏のことは上のようにまとめておきました。
今回は、上表で⑥と⑦の間に位置するころの「秋山氏の鷹贈答文化政策」を見ていくことにします。
テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。
香西元長による管領細川政元暗殺に端を発する永世の錯乱(1507年)は、「讃岐武士団の墓場」と呼ばれ、多くの讃岐武士団の凋落をもたらします。同時に、中央での細川氏同士の争いは、阿波細川氏の讃岐への侵攻をもたらします。その結果、讃岐は他国に魁けて戦国時代に突入したと研究者は考えています。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この時期に秋山源太郎は、細川澄元や淡路守護家細川尚春(以久)に接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元の後継者の最右翼と源太郎は考えて、秋山家の命運を託そうとしたのかも知れません。 
 この時期の城山文書からは次のような事がうかがえます。
①高瀬郷内水田跡職をめぐって秋山源太郎と香川山城守が争論となった時に、京兆家御料所として召し上げら、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなっていたこと。
②この没収地の変換を、秋山源太郎が細川尚春に求めていたこと。
③そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせていたこと
④淡路守護家に臣下の礼をとり、尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けていたこと。
⑤その淡路守護家からの礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されていること。
⑥ここからは、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来が見えてくること。
この文書については、以前にお話ししました。それを一覧化したものを見ておきましょう。

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧

秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
     秋山源太郎への淡路細川尚春(以久)やその奉行人からの書状一覧
①一番上が日付 
②発給者の名前に「春」の字がついている人物が多いので、細川淡路守尚春(以久)の一字を拝領した側近
③一番下が秋山源太郎からの贈答品です。鷹・小鷹・鷂(ハイタカ)・悦哉(えっさい:ツミ)が多いのが分かります。
鷹狩り

鋭いかぎ爪でハト襲うハイタカ 繰り返された野生の攻防 沖縄・名護市 | 沖縄タイムス+プラス
            鳩を捕らえたハイタカ(牝)

鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサ・ツミ(愛玩用?)が用いられたようですが、秋山源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカが多いようです。
ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
文書の中に贈答品として、鷹がどんな風に登場するかを見ておきましょう。
(年欠)7月5日付 秋山源太郎宛 細川氏奉行人薬師寺長盛書状 
「就中、重寶之給候」
(年欠)10月29日付 細川氏奉行人 春綱書状
「就之儀、石原新左衛門尉其方へ被越候、可然様御調法候者、可為祝着之由例、諸事石原方可被申候間、不能巨細候」
調教済みの鷹を贈られたことへのお礼が述べられています、
同11月9日付 細川氏奉行人 春綱書状
「なくさミのためゑつさい所望之由」
なぐさめ(観賞用)の悦哉(ツミ)を、細川家の奉行人が所望しています。
同12月27日付 細川氏奉行人 春綱書状
「鷂(ハイタカ)二居致披露候處祝着之旨以書札被申候」
秋山氏から鷂が贈られてきたことへの細川氏奉行人の春綱書状お礼です。用件のついでに、鷹の進上への謝辞をさらりと入れています。
 今度は、淡路守護細川尚春から秋山源太郎へ書状です。                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、鷹廿居尋ねられ給うべく候、子細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言          以久(淡路守護細川尚春)花押
九月七日
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か! 非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる。子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は「永世の錯乱」後に、細川政元の養子となっていた「澄之・澄元・高国」による家督争いが展開中でした。澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に淡路守護細川尚春が秋山源太郎に宛てて出された書状です。 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことに怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後一転してハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
それから3ヶ月後の淡路守護細川尚春からの書状です。
鵠同兄鷹(ハイタカ)給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
           (細川尚春)以久 (花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ20羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズのものを秋山氏が贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。
 ここからは、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りがハイタカ20羽で帳消しにされたことがうかがえます。鷹の価値は大きかったようです。細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたのです。

 ところで秋山氏の所領がある三野郡に、これだけの鷹類がいたのでしょうか?
 私もかつて日本野鳥の会に入っていて、鷹類の渡り観察会に参加していました。阿波の鳴門や伊予の三崎半島の突端には、東から多くの鷹たち(多くはサシバ)がやってきて、西へと渡って行きます。鷹柱になることもあります。それらを見晴らしのいい高台から眺めるのは気持ちのいいものでした。香川県支部タカ渡り調査グループの調査記録によれば、荘内半島近辺は、春に朝鮮半島へ向かう鷂が集まりやすい地形で、秋には差羽(サシバ)、雀鷹(ツミ)・鷂(ハイタカ)なそが岡山県側から備讃瀬戸の島伝いに南下してくることが報告されています。秋山氏の所領の高瀬郷付近は、春と秋に渡り鳥が飛来する適地であったようです。
 鎌倉時代の関東からの西遷御家人によって、西国に東国の鷹狩り文化が持ち込まれたと云われます。元寇後に讃岐にやって来た西遷御家人でもある秋山氏も、東国で行っていた鷹狩りを讃岐でも行うようになった可能性はあります。贈答用のハイタカは庄内半島周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春のもとで仕えていた秋山新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

どうして上級武士達は鷹狩りに熱中したのでしょうか?
古代の鷹狩は「遊猟」と書き、「かり」「みかり」と読まれる神事・儀式だったようです。
遊猟(鷹狩) は「君主の猟」といわれ、皇族や貴族に限られ、庶民が鷹を飼うことは厳禁でした。その背景には、鷹が「魂の鳥、魂覓(ま)ぎの鳥」と見なされていたことがあります。中世でも鷹は仏神の化身として、神前に据える「神鷹」の思想へと受け継がれていきます。このように古代から支配者の狩猟活動は、権威のシンボル的意味を持っていたことは、メソポタミアの獅子刈りがそうであったように世界の古代帝国に共通します。その中で鷹狩(放鷹)は、調教した鷹を放って鳥や獣を捕える技で、天皇・皇族が行う遊猟とみなされてきました。そのため鷹狩はレクレーションではなく、国家権力行使の一部と見みられます。こうして鷹の雛採取の権利は、山林支配権とも結びつきます。それは天皇家から武家政権にも継承されます。今でも「鷹の巣山・大鷹山、鷹山(高山)」などの山名を持つ山は、この系譜に連なっていた可能性があるようです。その一大イヴェントが源頼朝が建久4年(1193)に富士の裾野で大規模で行った巻狩です。これは軍事演習であると同時に、統治者としての資格を神に問うものでもありました。

源頼朝の富士裾野の巻狩り
源頼朝の富士の裾野の巻狩図
「一遍上人絵伝」を見ていると、武家屋敷主屋の縁先に鷹が描かれています。中世武士と鷹との関係は日常的なものだったようです。
 室町期には、狩野永徳の「洛中洛外図屏風」等に嵐山渡月橋近くを行く鷹匠一行が描かれています。鷹狩が定着すると、室町幕府は公家の放鷹や諏訪流鷹術を学んで大名・守護の鷹狩を公認するようになります。その一方で、幕府への鷹の進上を大名・守護に求めるようになります。これはドミノ理論のように、将軍家の鷹献上のために、守護は被官たちに鷹の進上を求めるようになります。自分で鷹狩りをするためだけでなく、鷹が贈答品としての大きな価値を持つようになったのです。だから、守護の中には幾種類何十羽の鷹を飼育し、専業者を雇い入れる者も出てきます。
 そのような中で出されたのが6代将軍足利義教の時の鷹・猿楽統制令です。
これは鷹狩と猿楽は室町殿だけに許される芸能として、他のものには許認可制とするものです。鷹狩と猿楽を権力の象徴として、室町殿の管理下に置こうとする動きと研究者は考えています。その後、三管領等の有力大名から、年頭に将軍に「美物」が献上されるようになります。「美物」として挙げられているのが次のものです。(室町幕府政所代蜷川親元の日記『親元日記』文明17年(1485)

「白鳥・雁・鴨・鶇・青鷺・五位鷺・菱食・鴫・初雁・水鳥・鷹」

こうして室町時代には、鷹の献上・下賜儀礼品化が進んでいきます。
後の信長や秀吉も、この先例を引き継ぎます。こうして戦国期には鷹狩が大流行し、織田信長は大名や家臣から鷹を献上させます。それでは満足できずに、鷹師を奥羽に派遣して逸物の鷹を手に入れ、朝廷に「鷹・雁・鶴」を献上します。それだけでなく「鷹」を家臣団をはじめ安土城下の町民にも下賜しています。
 続いて豊臣秀吉は、全国の鷹を居ながらにして獲得できる鷹の確保体制を築き上げます。
そして、朝廷と武家の儀礼を融合した独自の贈答儀礼を創りだします。天正16年(1588)5月には、鷹狩の獲物が献上品となり、朝廷へは白鳥が、大名には鶴・雁が献上されるようになります。こうして家臣や従属下にある領主から献上させる場合には「進上」という言葉が使われるようになります。これは単なる贈与ではなく、従属関係にあることをはっきりとさせたものです。それだけにとどまりません。それは次のような2つの政治的意図がありました。
①鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
②村落内の小領主は、棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を獲得
秀吉のやり方は、見事です。村落は鷹を進上することで山野の利用権(野山入会権)を設定し、村落内の小領主も鷹を進上することで、彼らの既得権を維持させたのです。

最後に秋山氏以外の讃岐における国人・土豪層の鷹狩文化を見ておきましょう。
①明応元年(1492) 香川備中守息の香河五郎次郎が鷹野に往っている(蔭凉軒日録)。
②明応6年(1497) 山城国守護代となった香西元長は、翌年に南山城で鷹狩実施。
新しく守護代となって支配者の特権である鷹狩権を山城で行使しています。これは自らの支配権を目に見える形で行使するデモンストレーションでもありました。
③永正元年(1504) 主君細川政元から東讃守護代安富元家に対して「自御屋形鷹二・鳥十・鯛一折、被送下候、祝着畏入候」とあり、鷹・鳥・鯛が下賜。(『細川家書札抄』(高松松平家蔵)
④阿波の三好長治が元亀3年(1572)冬に、山田郡木太郷で讃岐諸将(多度津雅楽助・大林三郎左衛門)を召集して鷹狩実施(南海治乱記)。
これも三好氏による讃岐占領地である山田郡での支配者としての示威行動ともとれます。
⑤『玉藻集』には「阿波の屋形へ羽床伊豆守より白鷺を指上る」とあり、羽床伊豆守政成が「今度於綾川ニ、盡粉骨白鳥一羽生捕畢。進上之如件」(綾川で取れた白鳥(白鷺)を進上)という宛状を調えて、「屋形様 御近習衆中」宛てに送っています。ここからは、白鳥が「美物」であったことが裏付けられます。
⑥「多田刑部は西郡に住す。代々鷹の道をよく知ると云々」とあり、讃岐西部の香川氏家臣多田刑部が「鷹の道」に通じていたこと。ここからは西讃には秋山氏以外にも鷹匠的技能をもつ武士たちがいたことが分かります。彼らが近世になると大名の鷹匠へと招聘されていくのかも知れません。
以上をまとめておきます
①日本には古代の天皇の放鷹にみる「鷹狩する王」(狩る王)の系譜があった。
②中世にはその伝統が在地武士の小領主の間にも広がり、
③鷹はその小領主権を象徴し、鷹の献上は服属の儀礼を意味するようになった
④秀吉は、それを逆手にとって鷹の上納を一元化することで、小領主が持っていた山野支配権を否定
⑤その代償として、村落内の小領主に対しては棟別銭免徐と竹林伐採禁止の特権を与えた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図 冒頭が神櫛王(讃留霊王)の悪魚退治伝説
綾氏系図

①香西氏は「綾氏系図」(『続群書類従』第七輯上・武家部)には、鳥羽院政期に讃岐国に知行国主であった中納言藤原家成の子章隆に始まる讃岐藤原氏の子孫と記されます。その氏祖は承久の乱頃の鎌倉御家人香西資村と記します。香西の地名は、平安時代後期の郡郷改編で香川郡が東西に分割されて成立した香西郡のことです。『兵庫北関入船納帳』の文安2年(1445)5月15日条に「香西」と見えるのが初見のようです。同文書の同年9月13日条には「幸西」との表記もあるので、「こ-ざい」と古くから呼ばれていたことが分かります。また、香西の名字は、『実隆公記』紙背文書(続群書類従完成会)の明応6年(1497)10月5日の女房奉書に「かうさいのまた六」(香西又六元長)と見え、地名の香西に因んでいたことが分かります。 香西氏は資村のあと中世を通じて勢力を伸ばし、南北朝期には足利尊氏方に付き、その後讃岐守護となった細川氏との結び付きを強めていきます。
香西氏に関する史料を年代順に並べて見ておきます。
建武2年(1335)11月 細川定禅(顕氏弟)に率いられて、香西郡坂田郷鷺田庄で挙兵 (『太平記』の諸国ノ朝敵蜂起ノ事)
建武4年(1337)足利尊氏方の讃岐守護細川顕氏に従った(西野嘉右衛門氏所蔵文書)

香西氏の成長2


室町期の香西氏は、管領細川京兆家の内衆として在京し、その分国丹波国の守護代や摂津国住吉郡守護代を務めています。(『康冨記』応永19(1412)年6月8日条)。また、讃岐では細川氏所領香西郡坂田郷代官や守護料所三野郡仁尾浦代官、醍醐寺領綾南条郡陶保代官を務めた。
『南海治乱記』『南海通記』等には、香西氏の系譜について次のように記します。
香西氏系図 南海通記
南海通記の香西氏家譜
A 細川勝元より「元」字を与えられた①香西元資は、香川元明・安富盛長・奈良元安とともに「細川ノ四天王」と呼ばれて細川家内で重きをなした。
B ①元資の後、②長子元直とその子元継は丹波篠山城にいて上香西と呼ばれ、
C ③次子元網(元顕)は、讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれた。
D ④香西氏は、在京と在国の一族分業体制を採っていた
しかし、これらの内容は残された史料とはかみ合わないことは以前にお話ししました。南海通記の記述は長老からの聞き書きに頼っているようですが、その時点で香西氏の家譜については、記憶が失われていたようです。ただ室町~戦国時代の香西氏には、次の2系統があったことは史料からもうかがえます。
A 豊前守・豊前入道を名乗る豊前守系統と
B 五郎左(右)衛門尉を名乗る五郎左(右)衛門尉系統
Aは嘉吉年間、讃岐国仁尾浦代官職・春日社領越前国坪江郷政所職を務めた豊前(豊前入道)と、醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保代官職を務めた美濃守とに分かれたようです。応永21年(1414)12月8日に細川満元が催した頓證寺法楽和歌会に、香西豊前入道常健は、のち丹波国守護代となる香西豊前守元資とともに列席しています。「松山百首和歌」にそれぞれ2首、1首が載せられていることから裏付けられます。香西氏が京兆家細川家の内衆として現れるのは、満元時代の常健が初見となります。
Bの香西氏について年表化しておきます
①嘉吉元年(1441) 仁尾浦神人等言上状に香西豊前とともに香西五郎左(右)衛門が見えるのが初見
②万嘉吉3年6月1日条 里小路時房の『建内記』に、香西五郎右衛門尉之長が京兆家分国摂津国住吉郡守護代であったこと
③文明18年(1486)『蔭凉軒日録』11月27日条 香西五郎左衛門が初めて登場し、細川政元の使者をしばしば務めていること
④長享元年(1487)12月 将軍足利義尚の近江六角氏追討に際して政元の伴衆に加わる政元の内衆の1人として登場
⑤長享3年(1489)8月13日の政元主催の犬追物に香西又六元長とともに射手を務める
⑥文明17年(1485)から永正4年(1507)の間、香西彦二郎長祐が、細川政元邸で開催される2月25日の「細川千句」の執筆役を務めていること。
こうしてみると香西氏は細川京兆家に仕えて、和歌・連歌・犬追物活動に従っていたことが分かります。 

香西氏と
                  勝賀城と佐料城

讃岐における香西氏の拠点は、ランドマークともいえる勝賀山に築かれた大規模な山城(勝賀城)と山麓館(佐料城)のセットでした。以前にお話したように天正5年(1577)に藤尾城に移るまでは、佐料城を拠点とします。
佐料城周辺図
          佐料城周辺 勝賀山城発掘調査報告書1979年 より

佐料城地籍図
佐料城跡

佐料城跡は一辺約65mの方形区画溝をもつ屋敷地だったようです。周辺には「城の内」「内堀」「北堀」「御屋敷」「せきど」「城の本家」「城の新屋」「城の台」「馬場の谷」「東門」等の屋号が残ります。 
 香西氏の文化活動としてまず挙げたいのが夢想礎石の招聘です。
夢窓疎石(むそうそせき)という鎌倉時代から室町時代に活躍した枯山水の庭師・作庭家 - 枯山水めぐり

暦応5年(1342)に夢想礎石が阿波国丈六寺釈迦像開眼の導師のために阿波に渡ってきます。入仏の式を終えた後、礎石は讃州七観音霊地の巡礼を望みます。讃州七観音霊地とは「国分寺 → 白峰寺 → 根来寺 → 屋島寺 → 八栗寺 → 志度寺 → 長尾寺」で、この観音霊場巡りの「中辺路」が、後の「四国遍路」につながると研究者は考えています。
『香西雑記』には、この時のことを次のように記します。

「平賀近山来由景象記」には「常世山其名殊に霊也。・・・往昔神仙の地也と謂いて、其名有といへり。・・・昔麓に常世山宗玄寺と云禅林有て、有時夢想国師の止宿を香西氏奔走せられし旧跡也。・又曰、往昔細川頼之阿国勝浦邑に梵宇を建、丈六の釈尊の像を刻彫し、夢想国師を請して開眼の導師とせられ、当地に 来られ常世山宗玄寺に止宿の時、城主香西氏奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲て喫茶を促。国師此名水を賞して、則泉房記を書れり、香西氏得之て大に悦寵賞せられしとなり」

意訳変換しておくと
「平賀近山来由景象記」には次のように記す。「常世山は、まさに霊山である。・・・往昔は神仙の地とされ、この名がつけたらたと云う。昔はその麓に常世山宗玄寺と禅寺があって、夢想国師が来訪したときに香西氏が宿として提供した旧跡である。また次のようにも記す。その昔、川頼之が阿波の勝浦邑に梵宇を建立し丈六の釈尊像を刻彫し、夢想国師に開眼の導師を依頼した。その際にこの地にやってきて常世山宗玄寺に止宿した。城主香西氏は奔走して、佐料城南泉房泉の清水を汲んで喫茶で接待した。国師はこの名水を賞して、泉房記を香西氏に与えた。香西氏はこれを手にして大に悦んだという」

ここからは香西氏の居城である佐料城近くに常世山があり、そこに宗玄寺という香西氏と関係の深い禅宗寺院があったことが分かります。
礎石はその禅寺に止宿したとあるので、宗玄寺にも旦過寮または仮宿院・接待庵にあたる宿泊施設があったことがうかがえます。中世後期には、国人領主の城館の周辺には重臣の館や迎賓館的禅宗寺院が姿を見せるようになります。そして日常的な居所は山城に移転し、麓の居館 (公務の場)と城下に2分されるようになります。宗玄寺も香西氏の迎賓館的性格を持った禅宗寺院ではなかったかと研究者は推測します。ここからは香西氏が禅宗の学僧との接触を通じて、詩賦の教養を高めたていたことがうかがえます。
室町時代の讃岐では、守護細川氏の保護もあって、臨済宗、特に五山派の受容が広がっていました。
例えば、細川顕氏は父頼貞の菩提を弔うために宇多津に長興寺を建立して無德至孝を招いています。細川頼之は夢窓疎石や絶海中津を讃岐に招いています。五山派が守護の保護を受けたのに対して、林下は守護代や国人クラスの地方武士に積極的に取り入り、仁尾に常徳寺を開くなど教線の拡大を図ります。一方、曹洞宗も寛正年中(1460~1466)に細川勝元によって大内郡東山の宝光寺が再興され、讃岐禅門洞家の最初の道場としたといわれています。禅宗の地方展開は、このような地方有力武士と名の知れた禅僧との特別な関係だけではないようです。法系図に名前が残されていない「参学ノ小師」とされる無名の禅僧と、それを庇護した中小の在地武士や土豪層に支えられていた面も大きかったと研究者は指摘します。 
室町~戦国時代の武士にとって戦いの中で生み出された怨霊を鎮魂し、安穏をはかることは欠かせない行為でした。『足利季世記』には、次のように記されています。

「かの法師を陣僧に作り、廻状を書て彼の陣に送りける」

ここからは、陣僧と呼ばれる従軍僧が軍団の中に多数いことが分かります。陣僧とは右筆的性格や使僧的性格だけではないようです。大橋俊雄氏は次のように指摘します。

「仏の教えを説き、戦陣にある将兵たちに生きるささえを教え(中略)、ときに死体処理にもあたった『従軍僧』というのが実際の姿に近かったのではないか」

ここからは陣僧には、従軍医的側面もあったことがうかがえます。そのため易学・兵学中心の講義が行われた足利学校の卒業生(軍配者)たちは、軍師として各地の大名に招かれることが多くなり、そのブレーンとなケースも出てきます。
 
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 禅僧は、戦闘はしなくても合戦の行程を管理して「頸注文」のような報告書の作成にも関与していました。
南北朝時代から軍忠状には、寺院は祈祷と具体的な合戦における死者手負が列挙されるようになります。室町時代の『蔭凉軒日録』には「分捕頸注文」と呼ばれる戦果報告書群が数多く記載されています。これは合戦の大将に提出する軍忠状の一種で、大将や軍奉行の承認を受けて、後日、恩賞の給付や安堵を受ける際の証拠資料となるものです。
 延徳4年(1492)4月1日の「頸注文」には、次のように記されています。

「頸五十余、名が判明するもの  十二名、 未詳のもの  四十余り、 死者 三百余人、 安富筑後守元家方の負傷者   安富修理亮・三上与三郎 討死」

同年4月4日付の「頸注文」には、3月29 日巳~午の刻合戦分として「安冨筑後守元家  手勢が討ち取った頸六十七」と記されています。
これらの首見分や死体処理に携わったのも従軍僧侶(陣僧)です。彼らは、戦争のときには、まず先に調伏祈祷行為を行い、南北朝時代には和議の斡旋にも関わり、和議が破れた際には両者の間に立って調整に務めます。戦国時代になると、自ら軍師となったり、陣僧と称して軍陣において敵味方の間を往復周旋して和平交渉を務める者も出てきます。
 一方で、血まみれになり修羅と化した武士達に、心の平安をもたらしたのが従軍を厭わない禅僧たちであったのです。こうして陣僧達は武士の心を摑みます。武士が禅僧を保護するようになるのには、こんな背景があるようです。そういう流れの中で、香西氏も氏寺として禅寺を建立し、迎賓館として整備し、そこに賓客として夢想礎石を迎えたという話になります。

香西氏の和歌や連歌などの文化活動を年表化してみます。
・応永21年(1414)12月8日 讃岐守護細川満元が、法楽和歌会を催して詠んだ百首及び三十首和歌を讃岐国頓證寺(白峰寺)へ奉納。この中に香西常建と香西元資が詠んだ歌が載せられている。
文明17年(1485)2月25日、香西彦二郎長祐は細川政元の「北野社法楽一日千句連歌」に参加、以後永正4年(1507)2月25日まで政元の命により御発句御脇付第三の執筆担当
長享3年(1489)7月3日   細川政国主催の禅昌院詩歌会に飛鳥井雅親・細川政元・五山僧侶らとともに香西又六・牟禮次郎が列座
延徳3年(1491)3月3日    細川政元は馬の買い付けのために香西又六元長や冷泉爲広らを同行して奥州へ出発。その途中の3月11日に、加賀国白江荘で細川政元が道端の桜を見て歌を詠み、それに続いて冷泉爲広・香西元長・鴨井元朝も続けて歌を詠んでいます。ここから細川京兆家内衆の歌に対する関心は、非常に高かったことがうかがえます。
明応元年(1495)8月11日 香西藤五郎元綱が歌会主催。この歌会には『松下集』の作者である僧の正広も参加。
明応5年(1496)2月22日、香西元資が勧進して東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って連歌会を主催。「神谷神社法楽連歌」1巻を神谷神社に奉納。端書並びに端作には「明應五年二月廿二日」「神谷社法楽」「賦三字中畧連歌」とあり、神谷神社法楽を目的として巻かれたものです。
香西元資は、細川勝元の家臣で、連衆は、安富元家・同元治など29名です。神谷神社所蔵の鎌倉期古写の『大般若経』600巻のうち、巻591は享徳4年(1455)に宗安、巻593は同じ年に宗林、巻451 は文明13年(1481)に祐慶法師が補写されています。ここからは、宗堅・宗高・宗勝など「宗」の字を持つ人物や、「祐」の字を持つ祐宗らのうち何人かは神谷神社の神官や僧侶ではないかと研究者は推測します。
 また、年代不明ながら身延文庫本『雑々私用抄』及び『甚深集』の紙背文書に、香西又六元長の連歌会での百韻連歌懐紙の名残りの折に、句上げを掲げて次のように記されています。

「元長二、元秋一、元能一、方上一、内上一、筑前一、禅門一、宗純一、氏明一、秀長一、泰綱十二、元堯七、(7人略)長祐十二、業祐一」

ここからは、香西又六元長を筆頭とし彦六、元秋、孫六元能(孫六元秋、彦六元能か)、4人おいて、真珠院宗純と香西兄弟が上位に並び、長祐は香西彦二郎長祐の順で座っていたことがうかがえます。

犬追物

犬追物
 管領細川政元と香西孫五郎との親密な関係がうかがえるのが犬追物の頻繁な開催です。
犬追物は、40間四方の平坦な馬場に150匹の犬を放ち、36騎(12騎が一組)の騎手が決められた時間内に何匹犬を射たかを競う競技です。射るといっても犬を射殺すわけではなく「犬射引目」という特殊な鏑矢を使います。ただ当てればよいというわけではなく、打ち方や命中した場所によって判定が変わる共通ルールがあったようです
それが細川政元の時代になると、次のように頻繁に行われるようになります。
1484年3月9日   細川政元邸の犬追物で香西孫五郎・香西又五郎・安富與三左衛門尉らが射手を務める(『萩藩旧記雑録』前編)。
1488年正月20日  細川政元が犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎が参加(『後鑑』)
1489年正月20日  香西又六元長が細川政元の犬追物で射手を務める(小野均氏所蔵文書)。
1489年8月12日  細川政元邸の犬追物に備えて京に香西党300人程が集まり注目を集める。牟禮・鴨井・行吉等は香西一族(『蔭凉軒日録』)
1490年8月13日 細川政元、犬追物を行い、香西又六・牟禮次郎・安富又三郎・安富與三左衛門尉・安富新兵衛尉・香西五郎左衛門尉・奈良備前守が参加(『犬追物日記』)。
1493年7月7日 細川政元亭の犬馬場で犬追物があり、「天下壮観也。・・・香西又六、牟禮次郎十二騎」と記される(『蔭凉軒日録』)
1493年8月23日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎らが参加し「天下壮観也」 (『蔭凉軒日録』)。
1493年11月16日 細川政元亭の犬追物興行に香西又六・牟禮次郎が参加(『犬追物日記』)

1491年に実施されていないのは、先ほど見たように細川政元が香西又六元長や冷泉爲広馬とともに奥州へ馬の買付に出向いていたからと思われます。1492年は吉備での戦争従軍のためのようです。それを除くと、年に1回だったのが2回へと増え、1493年には3回になっています。
蔭凉軒日録』長享3年(1489)8月12日条には次のように記します。

「塗師花田源左衛門尉来る。雑話剋を移す。勧むるに斎をもってす。話、京兆(政元)の件同に及ぶ。来る十三日三手の犬大義なり。二百匹過ぎ一献あり。一献おわりてまた百匹。三十六騎これあり。(中略)また香西党はなはだ多衆なり。相伝えて云く。藤家七千人。自余諸侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」

塗師の花田源左衛門尉が依頼品を収めに来て、いつものように讃岐の情勢を話して帰る。話は京兆家の細川政元のことに及んだ。13日の犬追物では、3回に分かれて行われた。1回目が二百匹あまり、2回目が百匹。これを36騎で追った。(中略)
中でも香西衆は数が多い。伝え聞くところによると、讃岐藤家は七千人という。他の侍これに及ばず。牟禮・鴨井・行吉等また皆香西一姓の者なり。只今また京都に相集まる。則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」


ここからは、細川政元邸の犬追物に備えて讃岐から京に香西党300人程が集まって犬追物がおこなわれたことが分かります。300騎というのは軍事集団で、ある種の示威行動でもあり、人々から注目されています。讃岐では香西氏が属する讃岐藤原氏は7、000人もいて他の侍はこれに及ばず、香西氏は集団からなる党的武士団であるとされています。京都の人々から「天下壮観也」と表されています。香西氏一門の名を誇示する場となっていたがうかがえます。こうして香西又六元長は、政元の寵愛をうけることで、京都の警察力を握り権力中枢に最接近していきます。そして、己の力を過信して永世の錯乱を招くことになると私は考えています。
以上をまとめておくと
①香西氏は細川氏の内衆として、丹波など畿内で守護代をつとめるなどいくもの傍流が存在した。
②その中で、讃岐に拠点を置いた香西氏は勝賀城と佐料城を拠点に、阿野北平野方面まで勢力を伸ばしていた。
③香西氏が建立した宗玄寺は迎賓館的性格を持った禅宗寺院で、禅宗の学僧との接触を通じて、教養を高めようとしていた。
④香西元資は、東讃守護代の安富元家・元治や在地武士・僧侶・神官・愛童等を誘って神谷神社で法楽連歌会を開催し、一族や幕下との連帯強化を図っている。
⑤香西孫五郎は、細川政元の寵愛を受けて一族で犬追物に参加し、最有力の内衆となり、京都の警察権を握った。
⑥それが細川政元の後継者問題への介入につながり、永世の錯乱へ続き墓穴を掘ることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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武士に求められた諸要素
 
前回は東讃守護代の安富氏が連歌や和歌などの文化力を政治的に活用していたことを次のようにまとめました。
①細川家主宰の連歌会などの重要なメンバーとなることで政治的な地位を高めたこと
②国元の讃岐でも連歌師を呼んで連歌会を開いて、文化的な伝達役を果たしていたこと
③それが一族や家臣団の意志疎通や団結など政治的にプラスの役割を果たしたこと
④法楽連歌などを神前で開いて、奉納することで有力寺社とのつながりを強めたこと
今回は、猿楽能と田楽がどのようにして讃岐に定着していったのか、その際に細川氏の被官達が果たした役割がなんだたのかを見ていくことにします。テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。

室町幕府の勧進猿楽のモデルは、永享5年(1433)に6代将軍足利義教が音阿弥に命じて京都の糺河原で勧進猿楽を興行したことに始まるようです。

貞秀「東山殿猿楽興行図」
貞秀「東山殿猿楽興行図」 
                 東山殿猿楽興行図
これをモデルにして、文亀 3年(1503)に11代義澄は猿楽興行を定例化します。その背景には、義澄が管領の細川政元との関係修復させ、政元の幕政参加で政治基盤の安定化をはかろうとする政治的意図があったと研究者は指摘します。足利幕府の支持基盤である諸勢力の結束を強めて、幕政運営体制を維持・強化しようとして行った政策の一環として猿楽能興行が取り上げられたというのです。
 合戦や政変後の猿楽興行には、戦乱や政変の終焉を告げることや、戦後の権力者の序列を示して幕政体制を安定化させ再構築するという意味もあったようです。
猿楽興行は、新たな政治的ランク付けを目に見える形で提供する秩序構築の場でもあったのです。これは、郷村における神社の祭礼の宮座の座席位置が、その人のランク付けとして機能していたことと通じるものがあります。
  中世の武士は、自らの実力によって所領保全に努めました。
しかし、室町時代にはそれだけでなく室町殿とのつながりを求め、その支援を得て所領保全を図ろうとする地方武士も多く現れます。中央権力とのつながりを持った地方武士たちの中には、室町殿の邸宅を模した屋敷や文芸を催すための会所を造り、そこで室町殿と同じような儀礼を行うようになります。また、中央・公家文化の担い手を国元に招いて京都と同じことを催すようになります。そのねらいは、地域社会に対して自らが室町殿と直結していることやその文化的な優越性を誇示することでした。それが自らを権威づけ、一族や家臣団の求心力を高めることに気がつくのです。 

 15世紀後半の将軍や管領細川氏の主宰した田楽・猿楽を年表化してみます
1465年正月23日 細川右京大夫勝元亭への御成があり、能が催され(『親元日記』)
1465正月26日  室町殿では諸大名が召されて田楽を拝覧(『大乗院旧記』)
1466正月8日   細川殿・右馬頭・安富勘解由左衛門尉が旧例によって相賀し、猿楽を行って歌舞献賀を行った(『蔭凉軒日録』)
1470年3月23日 細川被官人共が猿楽で相交わり(『大乗院旧記』)
1490年5月5日  細川政元亭で田楽(観世太夫能)
1490年5月12日 京兆第で猿楽が興行(『蔭凉軒日録』) 
このような京都での田楽・猿楽の流行が在京細川家被官を通じて、次のように讃岐にも伝えられます。
1353年3月5日  三野の秋山泰忠は置文で、一族子孫に本門寺御会講を心一つにして勤め、白拍子・猿楽・殿原で懇ろにもてなすよう命じている(秋山家文書)
1460年12月 讃岐守護細川勝元の「讃岐国一宮田村大社壁書之事」において、猿楽・ 白拍子の舞を奉納(田村神社文書)
1480年9月8日 石清尾八幡宮の猿楽(能)面作成(『石清尾八幡宮関係資料』)、
1497年正月 小豆島で利貞名ほか5名が共催して相撲・流鏑馬・放生会・後宴猿楽を実施(赤松家文書) 
こうして見ると15世紀後半には、讃岐でも猿楽や白拍子などが寺社の祭礼などで演じられるようになっていたことが分かります。
田楽という言葉は、田植え行事に関わる芸能の総称で、田楽法師とは法体姿の田楽専門芸能者でした。

第16回日本史講座まとめ③(院政期の文化) : 山武の世界史

中世は「芸能の世紀」といわれ、中でも田楽はその代表的な芸能で、鎌倉末期から室町時代にかけて猿楽を凌駕して人気がありました。それが讃岐にも及んでいたことは残された地名から推測できるようです。中・近世期において流鏑馬・競馬・獅子舞等の寺社芸能に出演の芸人には、禄物が支給され、その財源のために免田が設置されていたことは以前にお話ししました。このうち田楽法師を招く経費に充てられた田のことを田楽田と呼びました。讃岐にも「踊り田・放生田・さるが田・神楽田・神子田」などの芸能に関係した字名が数多く残っています。この土地からの収穫物が芸能奉納費用に充てられていたのです。ここからも社寺祭礼行事で芸能が盛んに行われていたことが裏付けられます。

奈良・春日若宮おん祭での田楽座
奈良・春日若宮おん祭での田楽座

江戸時代後期の高松藩領『東讃郡村免名録』(鎌田共済会郷土博物館蔵)には、山田郡西前田村滝本免の中 に「田楽」の字名が見えます。

宮處八幡宮と田楽と前田氏
宮處八幡宮と前田城

前田地区の「田楽」地名の由来は、前田氏が在地支配の一環として行った宮處八幡宮の祭礼諸行事での田楽奉納にあります。その経費のために田楽田が設けられます。それがやがて「田楽」と省略されたようです。前田氏は讃岐国山田郡内を名字の地とする国人で、宮處八幡宮の参道先には前田氏が築いた前田城跡があります。室町時代には細川京兆家の被官となっていて、応永22年(1415)には管領細川満元の使者として前田某 が見えます。(『兼宣公記』)。
宮處八幡宮と田楽と前田氏2

宮處八幡宮
その頃、京都では勧進田楽・猿楽が盛んに行われていました。
応永29年(1422)には細川満元が、永享5年(1433)には細川持之がそれぞれ将軍が観覧するための桟敷の管理を任されています。前田氏も上・在京して桟敷管理の任に当たり、田楽や猿楽に触れた可能性があります。前田地区の在地領主であった前田氏が、地域の氏神的存在であった宮處八幡宮の祭礼行事を氏寺宝寿寺を通じて主宰することになったのでしょう。それは領域内における前田氏の支配権と祭祀権を確立しようとする政治的なねらいがあったとしておきます。
 
室町時代の放生会には獅子舞と田楽がセットで興行されたようです。
当時の神事渡物は、次の3部門で構成されていました。
①通常神輿・神官・御幣等の神事
②一物・獅子舞・神楽・田楽・猿楽等の芸能集団
③競馬・流鏑馬・相撲等の競技集団
『年中行事絵巻』に描かれた田楽法師(国立国会図書館所蔵)
 「年中行事絵巻」に描かれた田楽法師(国立国会図書館所蔵)
このうち②に属する田楽師の姿は、もともとは水干に指貫姿で綾藺笠を被り、太鼓の伴奏でビンザサラを使って、円陣や相対しながら躍動的でシンメトリックな動きをする踊りだったようです。それが次第に獅子舞や競馬・相撲等と一緒に一連の祭礼行事の一部分となっていきます。そして風流化して、華美な花笠や異形な被り物で顔を隠したり、緩慢な動作で踊りの隊列も変化に富むようになります。宮處八幡宮の祭礼行事も、室町時代に行われていた仏教系の放生会行事が、江戸末期の神仏分離思想の影響で収穫感謝の秋祭りに変わったようです。

   松岡調の『新撰讃岐国風土記』(多和文庫蔵)には、次のように記されています。
「宮処八幡神社の大祭に、氏子地四箇村より当人とて、童子に潔斎させ、白の直衣を着せて御輿の前に立ち行くに、それが前に大なる団扇を指立て、練り行くなり。これ他村にせぬ供奉なり」
意訳変換しておくと
「宮処八幡神社の大祭には、氏子である四箇村より当(頭)人として、童子を潔斎させて、白の直衣を着せて、御輿の前を歩かせて行く。その前に大きな団扇をさしかかて練り歩く。これは他村にはない供奉である」

 これは近世になって現れたものではなく中世の田楽や猿楽の流れを汲む祭礼行事でした。そのため近隣の村社には見られないものだったのでしょう。近くの滝本神社では競馬が行われています。この獅子舞や相撲・競馬等は中世の神事である渡物の名残です。童子にさしかけた蓋は風流の象徴としておきます。
1田楽と能
猿楽と田楽 伴信友写『職人歌合画本』(天保9年)国立国会図書館デジタルコレクション

最後に前田氏について見ておきましょう。
前田氏は讃岐国山田郡内の前田を名字の地とする国人で、室町中期には細川京兆家の被官となっています。史料には次のように登場します。
応永22年(1415)  管領細川満元の使者として広橋兼宣のもとに赴いた「前田某」が細川氏被官としての初見(『兼宣公記』)
文安元年(1444)6月 万里小路時房は伝聞として次のように伝える。
香西の子と前田の子15歳が囲碁の対局中に、13歳の細川九郎(勝元)が香西の子に助言した。それを遺恨に思った前田の子は、一旦退出の後に舞い戻って休息中の勝元に切りかかった。父が四国に在ったため親類に預けられ、一族の沙汰として切腹させられた。
 この時に前田一党に害が及ぶことはなかったようです。(『建内記』)。香西の子と前田の子は、成人すればそれぞれの家を担っていく者たちです。主家の細川惣領家に幼少時から仕えることで主従関係を強固なものにしようとしたこと、武士の教養として囲碁を学んでいたことがうかがえます。 
文安4年(1447)「細川内前田宿所」が火災に遭ったこと((『建内記』)
享徳元年(1452)京兆家犬追物に前田次郎右衛門尉が参加(『犬追物手組日記』)
永正元年(1504)8月4日条 「細川被官前田五郎左衛門」
永正4年(1507)8月朔日条、「讃岐武士の墓場」とされる永世の錯乱で香西元長が討死する際の記事に「又六カ与力ニ讃岐国住人前田弥四郎ト云者」とある。ここからは、元長に代わって彼の具足を着けて前田弥四郎が討死したことが分かります。讃岐国住人の前田弥四郎は、もともとは京兆家被官でしたが、この時点では香川元長の寄子となっていたようです。
前田氏の本拠は、現在の香川大学医学部の北西で、十河氏の拠点は、香川大学の南側で隣接する位置になります。
十河氏の細川氏支配体制へ

前田氏と十河氏の関係はどうだったのでしょうか?
応安 4年(1371)地頭十河千光が蓮華王院領十河郷半済所務職を請け負い
文安 2年(1445)十河氏が安富氏の管理下にあった山田郡の庵治・片本の港の管理権を讃岐守護兼管領の細川勝元から与えられる
こうして十河氏は、15 世紀半ばには山田郡における最も有力な国人領主に成長しています。『南海通記』によれば、前田氏はこの十河氏の支族で、十河存春(景滋)の弟宗存が分家して前田頼母宗存と称して文明年間(1469~87)に前田に本拠を構えたのに始まるとされています。そして、その後に子の前田主殿頭宗春、孫の前田甚之丞宗清と 3代続き、天正11年(1583)に長宗我部軍に滅ぼされたと伝えます。ここではじめて十河氏が前田氏を名乗ったとされています。

十河氏1

しかし、実態は十河氏が前田氏の名跡を継ぐ形をとってこの地区に進出してきたのではないかと研究者は考えています

十河氏の背後に阿波の三好氏がいたように、前田氏の場合も三好氏の讃岐戦略の中に組み込まれていったというのです。研究者は前田氏を、次のように前後期に区別します。 
前期前田氏 十河氏に取って代わるまでの前田氏
後期前田氏 国人領主十河氏が分家し、前田氏の名跡を継ぐ形で前田氏を名乗ってから以後を後期

以上をまとめておきます
①15世紀後半に、室町幕府や猿楽や田楽を公式行事として行うようになった
②猿楽・田楽の興行は幕政運営体制を維持・強化しようとする政策の一環でもあった。
③衆軍の代替わりや合戦や政変後の猿楽興行には、戦乱や政変の終焉を告げることや、戦後の権力者の序列を示して幕政体制を安定化させ再構築するという意味もあった。
④京都での田楽・猿楽の流行は在京細川家被官を通じて、讃岐にも定着された。
⑤それは「踊り田・放生田・さるが田・神楽田・神子田」などの芸能に関係した字名が数多く残っていることから裏付けられる。
⑥この土地からの収穫物が芸能奉納費用に充てられていた。
⑦中世に讃岐に伝わった田楽・猿楽は風流化し、獅子舞や競馬・相撲等と一緒に祭礼行事の一部分となって受け継がれていく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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武士に求められた諸要素
  
中世後期になると武士の領域権力化には、次のような要素が求められるようになります
①軍事力(ハードパワー)
②文化力(ソフトパワー)
③それを支える経済力
④それらを総合した政治力(外交力を含む)

これらの要素を総合的に備える武士団が生き残り、戦国大名へと成長して行くようです。そのような中で、讃岐で②の文化力が最も高かったのが東讃守護代を務めた安富氏のようです。今回は安富氏のどんな点が評価されているかに焦点をあてて見ていくことにします。テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。

まずは安富氏の出自と讃岐定住までを押さえておきます。

安富氏2

讃岐安富氏は、下総国の民部太夫照之が祖と伝えます。鎌倉時代の幕府奉行人の中に安富氏が見えるので、下総の安冨氏の一族から室町時代に細川氏の近臣安富氏が起こったようです。室町幕府右筆方奉行人の中に安富行長等幾人かの安富氏一族の名があります。『西讃府志』には、細川頼之に従って応永年間(1368~74)に讃岐に入部し、三木・寒川・大内3郡18か村を領して、後継のいなかった三木氏に代わって平木城主になったと記します。安富氏が細川氏の被官として史料上にあらわれるのは『相国寺供養記』で、明徳3年(1392)の相国寺落慶法要に際して、細川頼元の「郎党二十三騎」の1人として安冨安芸又三郎盛衡が供奉しています。その後、安富氏は讃岐の守護代に任じられ、応永16年(1409)には安芸入道盛家が又守護代の安富次郎左衛門に施行状を下しています。
 以上から14世紀後半に細川頼之に従って来讃した安富氏が15世紀初頭には東讃守護代のポストを得ていることを押さえておきます。

近年の研究で、安富氏は鎌倉時代に六波羅探題をはじめ関東や鎮西探題でも活躍した奉行人だったことが明らかにされています。
建長2年(1250) 六波羅奉行人には安冨五郎左衛門尉・安冨民部大夫、同3年には安冨民部太夫
建治3年(1277) 関東では安富民部三郎入道(泰嗣・法名行位)が引付奉行人に補任
正和5年(1316) 安富行長、文保元年(1317)には安冨兵庫允が補任。
ここからは、安富氏は吏僚としてのスタートを六波羅奉行人から始め、鎮西探題が発足すると鎮西引付奉行人として活躍したことが見えて来ます。特に正和5年(1316)に六波羅奉行人になった安富行長は、室町幕府にも仕え、足利尊氏の側近として彼の右筆を務めた人物として知られています。 
佐藤進一氏は、室町幕府開創期の六波羅探題と室町幕府との連続面に注目して、六波羅評定衆や同奉行人の多くが室町幕府に再出仕していた事実を明らかにしました。室町幕府は六波羅探題の発展型であるということです。それは西国の政治・社会情勢に明るかった六波羅奉行人・在京人の多くは、そのまま足利高氏に掌握され、開創期の室町幕府の主要構成員となったという事実に基づいています。ここでは、室町幕府の諸機関の多くは、鎌倉的幕府秩序の維持者としての性格をもち、その構成員もまた、それぞれの機関の性格にあった階層の文士・武士によって占められていたことを押さえておきます。
安富氏のように前代奉行人の家の出身と推測される者は次の通りです。
足利直義の執政機関の康永3年(1344)の編成表に、1番の安冨孫三郎、2番の安冨進三郎、
貞和5年(1349)の編成表には、4番に安冨三郎左衛門尉の名があります。 
一方、在京人で六波羅探題下に属していた香川氏は、正嘉元年(1257)の新日吉社小五月会の流鏑馬や乾元2年(1303)の幕府御的始において、それぞれ香川新五郎光景、香川五郎が射手を勤めています。こうして見ると安富氏や香川氏は鎌倉時代には洛中警固を主な任務とした武士(武官)としての系譜を持っていました。これが後の讃岐国守護代としての在地支配の在り方や性格にも少なからず影響を与えたのではないかと研究者は考えています。

 15世紀初頭に、東讃守護代として登場してくるの安富宝蜜・宝城兄弟です。
『顕伝明名録』では「宝蜜=周防守入道」で「宝城兄」としています。亡父の追善和歌の勧進等でも宝蜜が主導していることなどから、宝蜜が宝城の兄であるようです。両人の文化的な活動を年表化して見ていくことにします。
絵本太閤記 7 2版にある「光秀連歌の図」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
絵本太閤記 7 2版にある「光秀連歌の図」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

①応永21年(1414)4月17日、讃岐守護の道歓細川満元邸で催された「頓証寺法楽千首和歌」

頓證寺法楽続百首和歌
                  頓證寺法楽続百首和歌
前年が崇徳院250 年遠忌に当たっていたので、その慰霊のための法楽の催しだったようです。詠者の中には、道歓、梵燈、重阿、堯孝、正徹等の他に、満元の被官であった安富宝密・安富宝城兄弟が参加しています。このうち安富周防入道宝蜜は、崇徳院御影堂に掲げる額の字の揮毫を、道歓を介して将軍義持に願い出ています。これに対して将軍は、仙洞の御小松院に執奏して「頓証寺」の勅額を賜っています。(白峯寺)院主御坊宛の宝蜜書状には、次のように記します。

「(前略)百首法楽申候、当座卅首共に一貫にあすかゐ殿遊させ候て、また屋形法楽候一日千首も、此筑後殿に進之候、いつれも箱に入て候、此まゝ御奉納あるへく候」

ここからは、後に催された「頓證寺法楽続百首和歌」「頓證寺法楽当座続三十首和歌」と一緒に、同年12月に「松山法楽一日千首短冊帖」(金刀比羅宮寶書84号)として頓証寺(白峰寺)に奉納されたことが分かります。その橋渡し役を果たしたの東讃守護代の安富氏だったことを押さえておきます。

頓證寺法楽続百首和歌3

頓證寺法楽続百首和歌2
頓證寺法楽続百首和歌

「頓證寺法楽続百首和歌」「頓證寺法楽当座続三十首和歌」(白峯寺蔵)は、飛鳥井宋雅筆と伝えられます。
両者を合わせて1巻として法楽のために頓證寺(白峰寺)奉納されています。この「続百首」の成立は、応永21年(1414)12月8日で、「続三十首」も同じ日に詠まれたようです。「続三十首」の詠者18 名の内、善節1人を除く17名までが「続百首」の作者46名の中に入っているので、おそらく「続百首」の披講を終えた後、その日の出席者のみで「当座三十首」の会がもたれたと研究者は考えています。「当座三十首」の 歌人は、宋雅(飛鳥井雅縁)・雅清(飛鳥井雅世の初名)の飛鳥井家の歌人を筆頭に、道歓(細川満元)・持元・持頼・持之等の細川一族が中心的な位置を占めています。他に(安冨)宝城・(安冨周防入道)宝密・(横越)元久・(秋庭)元継等の細川氏の被官と、正徹・堯孝・梵灯等の歌僧が参加しています。彼らが 細川家の文芸を担った代表的な人物のようです。
②応永22年(1415)9月に成立した「詠法華経品々和歌一巻」(白峯寺蔵)
これは安富宝蜜・宝城兄弟による亡父の追善が目的でした。応永21年4月の「一日千首和歌」、同12月の「法楽百首」「当座三十首」、応永22年9月頃の「詠法華経和歌」の4つすべてに顔を見せているのは、道歓・宝城・之重・宝密・堯孝・正徹・梵灯の7名だけです。彼らは細川道歓の歌壇と深い関係を以ていたことがうかがえます。
 安富宝城は東讃守護代でもあり、連歌を嗜み「北野万句連歌」にも出座するなど、細川歌壇の中で最も文芸を長けた人物の1人だったようです。常建・元資は東寺百合文書に、それぞれ丹波国守護代香西入道・香西豊前守とあり、共に細川京兆家被官の丹波系の香西氏です。之重は、寒川氏のようです。
ここでは15世紀初めには、細川氏参加の讃岐武将の中に連歌を巧みにする者達が登場していたこと、その中でも安富氏は、管領細川家の文化的な中心メンバーであったことを押さえておきます。

安富氏15世紀

 安富氏は東讃の守護代に任じられていましたが、細川氏の身近に仕えるために讃岐を離れ、ほとんど京都に常駐していたことは以前にお話ししました。そのため中央政治においては重要なポストを得て活躍しますが、東讃支配という面では香西・寒川・植田氏などの反抗を受けて戦国大名化を進めることができませんでした。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から

この時期の安富氏の文化的活動を見ていくことにします。
①1454年「細川持之十三年忌引品経和歌」、1458年の「細川満元朝臣三十三回忌品経和歌」に讃岐守護代安富智安が参加。
②1455年 守護代の安富盛保が和爾賀波神社(三木町)に「三十六歌仙扁額」6 枚を奉納
     ここでは社家奉行も兼ねる安富盛保が三木郡の式内社和爾賀波神社に三十六歌仙の扁額を奉納しています。和爾賀波神社は、三木郡井戸郷に鎮座する古社で、貞観2 年(860)に京都男山八幡を勧請したので八幡社と呼ばれていました。末社75を数え、延喜式内讃岐国24社の神として信奉されます。特に室町期には讃岐守護細川勝元の信仰が厚く、その庇護を得て毎年正月の参拝や戦勝祈願参拝にも訪れています。安富氏が来讃した時には、最初は三木郡の平木城主でした。その初期の本貫地にあった、この神社を在地支配の拠点にしようとしたようです。「扁額歌仙絵で社殿の荘厳化を図るなどした、室町後期における中央文化伝播の好例」と研究者は評します。有力寺社に恩を売って、在地支配を浸透させていく宗教政策がとられていたようです。
③1460年「讃岐国一宮田村大社壁書之事」は、讃岐守護細川勝元が同社関係者に対し守るべき事項を26箇条にまとめて奉納。安富筑後入道智安、社家奉行安富山城守盛長、同林参河入道宗宜、同安富左京亮盛保を通じて周知。その14条に法楽千句田に関する規定があり、運営資金調達方法も整備されていたことが分かる
④1463年3月27日、「賦何船  連歌百韻」(香川県立ミュージアム蔵)には、讃岐守護細川勝元が亭主となって、守護代安富智安らの細川京兆家被官や歌人として名高い長谷川正広、連歌師専順などの名が連なる。
⑤1464年 安富盛長が興行した「熊野法楽千句」には細川氏やその重臣が多く参加し、彼の政治的地位や経済力を確認できる。勝元(細川)はこの会の主客として参加。
⑥1485年 管領細川宗家(京兆家)を中心に行われた2月25 日の聖廟千句「細川千句」の連衆の中には、讃州座の守護代安富元家が発句を、香西彦二(次)郎長祐が執筆。
⑦1486年 守護代職を安富智安から引き継いだ元家は、自邸で和歌会が開き、「細川道賢十三回忌品経和歌」に参加。 
⑧1496年 香西元資主宰の法楽連歌会には、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちが参加しています。連衆として、宗堅、宗高、(安富)元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、(安富)元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
ここからは15世紀後半になると讃岐でも、法楽連歌が国人衆の手によって開かれるようになっていたことが分かります。こうしてみると安富氏は、細川京兆家被官の中でも早くから和歌や連歌などに通じていた一族であったことが分かります。
その背景や要因を、研究者は次のように挙げます。
①安富氏の出自が鎌倉幕府及び室町幕府の奉行人という文人官僚の系譜を持っていたこと
②安富氏は、単なる武力のみを誇示する家系ではなかったこと
③細川氏の内衆として京都在京期間が長く、王朝古典文化や在京文化人に触れる機会も多かったこと
応永・永享期の北山文化時代は、室町将軍御所で月次の歌会や連歌会が開かれるようになります。
参加者達は歌の出来具合を互いに競争し刺激し合います。そして修練のため各自の邸宅で月次の歌会を催したり、王朝古典の書写に力を入れる者も出てきます。北山文化時代の歌・連歌の詠み手は大名・守護たちでした。それが応仁の乱後の東山文化時代になると、大名・守護に代わって守護代層が登場するようになります。さらに国元の国人層も中央文化を吸収することに努めるようになり、京都からの文化的情報に絶えず気を配るようになります。 その文化的情報の媒介者となったのが応仁の乱などの戦乱を逃れて、各国の国人層等から招かれて地方へ下向した公家・禅僧・連歌師・猿楽師等でした。彼らの活動拠点にしたのが「別所」などを持つ白峰寺ではなかったのかと私は考えています。

    戦乱の続いた中世に武家が熱心に和歌を詠み続けたことを知ったときには、私は何か意外で違和感を持ちました。どうして、武家が連歌や和歌にのめり込んでいったのでしょうか。それは、一門や家臣との結束を図り、また合戦を前に神仏と交流することや、他国との交渉などに和歌や連歌が有効であったからだと研究者は指摘します。

14世紀頃の連歌会の様子
連歌会
 連歌会は多くの人達が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸です。
参加者同士が新たな人間関係を結ぶコミュニテイ形成のツールでもありました。そこでは、連帯感や同じ価値観を共有することを認識・確認し合う場にもなりました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なことともされました。 
 中世は知識情報は偏在していて、京都とか寺社にいる知識人に会いに行かなければ、知識情報を得ることはできませんでした。今風に云うと「インテリジエンス」を得るためには情報伝達者が不可欠でした。情報伝達者としての連歌師は、地方の守護や国人衆の依頼を受けて、京都在住の能筆公家に書写・校合の依頼をしたり、また、人物の紹介や書状・金銭の伝達、寺院寄進・荘園返還の交渉、合戦の和睦交渉までさまざまな情報伝達を行っています。

職人尽歌合」に見る中世の職業・職人・商人《第二》【みんなの知識 ちょっと便利帳】 さん
連歌師

 連歌師は連歌を教授し、連歌会興行を行うために地方に出向く機会が多く、諸国の事情に精通しその土地の事情に詳しい人物もよく知っていました。当時、連歌師は中立の立場で、敵対する勢力の領国でも通行できる特権を持っていたようです。それは、国境まで双方の勢力に護衛されて送られていることからもうかがえます。このように廻国する連歌師は、情報の伝達者であって高いコミュニケーション能力が必要とされ、公家と武家との斡旋役や、地方に来訪した歌人や連歌師等の文化人を接待する文化的接待役も務めました。
こうして見ると安富氏は早くから在京して、貴族や禅僧、歌人や連歌師、在京する他の武士等との交流の中で、京文化を学び、身に付けていたことが分かります。
安富が讃岐に帰讃することは、文化の担い手が京都から讃岐に移動することを意味したのです。例えば細川頼之が一時的に失脚し、宇多津で生活したことは、宇多津が讃岐の政治・軍事の拠点であるにとどまらず、文化活動の中心となったことを意味します。細川氏や安富氏は、上洛在京中に公家衆と交わり和歌会に列席し、連歌師を招いて連歌会を開き、五山禅僧を訪ねて治国の要を聞き、また能を鑑賞し、蹴鞠の会にも姿を見せていまします。また、讃岐にあっては、中央文化人を積極的に呼び文化摂取に努めています。特に応仁の乱以降は、公家は地方の有力武士を頼って地方へ下り、禅僧・連歌師、芸能人もまた地方へ分散します。それが経済と文化の交流を産みだし、中央文化を摂取・吸収して在国に地方文化圏を成立させていったと研究者は考えています。そのような目で、細川氏や安富氏の動きを見る必要があるようです。

応仁の乱後の明応2年(1493)頃に、細川政元政権下で「守護代・国人体制」が成立したとされます。
守護代・国人体制2

実権を握っていた細川政元の下で細川氏有力内衆によって構成された9~10 名からなる評定衆によって政権運営が行われるようになります。安富氏は一時的には、その評定衆の中で筆頭格的地位を占め、その統括を行うようになります。しかし、その地位は絶えず繰り返される内衆間の抗争で不安定なものでした。その結果、細川高国政権成立後には内衆の再編が行われ、安富氏は畿内からその姿を消し、四国に限定されてしまいます。それまでが安富氏の最も輝いた時期になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
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前回見たように滝宮氏の初見史料は、次のA・Bのふたつです。
A  1458年5月3日
 瀧宮実明,賀茂別雷社領那珂郡万濃池の年貢6貫600文を納入する(賀茂別雷神社文書)
B 1458年7月10日
 瀧宮実長,善通寺誕生院領阿野郡萱原領家方代官職を請け負う(善通寺文書)
同じ年の文書で、Aが京都の賀茂別雷社領の満濃池跡の池之内の請負契約書で、Bが善通寺誕生院領の萱原領家方代官職の契約書です。同じ滝宮氏が請け負っていますが、請負人の名前がAが「実明」、Bが「実長」です。ここからは二つの滝宮家があったことが分かります。南海通記によると、滝宮氏には2つの流れがあり、居館は次の通りです
Aが本家(実明系)で、松崎跡で滝宮豊後守
Bが分家(実長系)で、滝宮城を拠点
今回は滝宮氏の2つの居館跡を見ていくことにします。讃岐中世の居館を見る際に私が愛用している「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」を、テキストにします。

香川県中世城館跡詳細分布調査報告 - 古書店 氷川書房


まず、Bの滝宮城跡ですが、これは今は滝宮神社や天満宮の社地となっているようです。

滝宮城
滝宮城

 西側に綾川が入り込む深い谷があり、その上に拡がる広い微高地に立地していたようです。周辺の地形観察等から研究者は次のように指摘します。
①綾南警察署から100m南で幅の広い谷が川から入り込み、またこの東延長上も堀切状となっている。
②この入江は川港の役割も果たしていた可能性がある。
③滝宮天満宮正面の東西の道辺りに空堀があったと伝えられる。
④滝宮神社を中心とした南北200mx東西150mの台状地形を復元できるが、城域とするには広い。
⑤遺構は未確認である。
⑥A地点で行われた試掘調査で、滝宮城跡と同時期とされる柱穴群・土師器・瓦が確認
次に、滝宮城の北方1kmの松崎城(柾木城)跡を見ていくことにします。

松崎城 2滝宮氏

松崎城
松崎城は県道184号線沿いにある松崎バス停付近に築かれていたようです。伝承地を地形復元すると綾川に流れ込む南と北の谷に囲まれた段丘状の解析台地上に立地します。府中湖の低地に突き出た舌状地形になっています。古代の綾氏は、陶に最先端の須恵器工場群を造って、水運を通じて綾川河口から畿内へ運び込んでいたとされます。綾川は重要な交通路でした。その綾川を見下ろす丘にお城は築かれいたことになります。また、川港としても利用されていたことがうかがえます。どちらにしても、戦略的な要衝で城を築くには好適の地です。ただ、西側の谷の付け根には堀切の痕跡はないようです。

松崎城 滝宮氏
松崎城跡周辺 綾川に面した入江の上に立地する
天正年間に松崎城主として『南海通記』などに登場する滝宮豊後守は、実長の後裔とされます。そこには、次のように記されています。

松崎城主の滝宮豊後守安資は、羽床城主羽床伊豆守資載の女を妻にしていた。ところが同じく羽床伊豆守資載の女を妻に迎えていた勝賀城主香西伊賀守佳清が、天正6年(1578年)に、これを離縁した。これに憤激した羽床氏と香西氏の間で争いが始まり、羽床伊豆守の嫡男羽床忠兵衛が軍勢を率いて柾木城を攻めてきた。滝宮豊後守の軍勢が羽床忠兵衛を討ち取ると、伊豆守が大軍を率いて押し寄せてくるのを恐れ、松崎城から香西氏の勝賀城へ逃れた。

 南海通記については、その内容に誤りや作為が多くてそのままは信じることができないと研究者は考えています。しかし、敢えてこれを事実を伝えているとすると、次のような事が読み取れます。
①滝宮氏は、羽床氏と深いつながりがあった
②しかし、羽床氏と香西氏の抗争がはじまると、松崎城主の滝宮豊後守は香西方についた。
③その結果、羽床氏の攻撃を受けて、松崎城を退いて香西氏の勝賀城に身を寄せた。
④一方、滝宮城の滝宮弥十郎は羽床氏に従い、松崎城を攻め勢力を拡大した。
⑤滝宮城の滝宮氏は、その後も羽床氏に従い、長宗我部元親に降伏後は東讃制圧の先兵として活動した。
⑥秀吉の讃岐侵攻後には長宗我部元親に従って土佐に引き上げたとも伝えられるがよく分からない。
 
羽床城縄張り図
羽床城縄張図 滝宮氏の居館と比べると格段の相違

ここには、滝宮氏が香西氏と羽床氏にの抗争に巻き込まれ、一族同士が相争う状態になったと記されています。そういう点からすれば、羽床氏も香西氏も讃岐綾氏の同族の流れを汲む名門武士団です。それが、時の流れの中で相抗争していることになります。
 しかし、この記事が本当かどうかは分かりません。私は疑いの目で見ています。
その根拠は、当時の讃岐が阿波三好氏の氏配下にあったという視点がないからです。前回お話ししたように、当時は阿波三好氏の讃岐支配が進展し、讃岐国人の裁判権を三好氏が握っていました。それをもう一度確認しておきます。「阿波物語」第二は、1570年代のこととして三好氏の有力武将であった「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」が次のように出てきます。

伊沢殿の遺恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)のことである。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、これは伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に伊沢越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

年代的に見てここに出てくる「滝宮豊後殿」は「1458(長禄2)年に善通寺から讃岐国萱原の代官職を預かっていた滝宮豊後守実長の子孫で、当時の松崎城の主人と研究者は考えています。
ここからは滝宮氏と阿波・伊沢氏との関係について次のようなことが分かります。
①滝宮豊後守は三好氏を支える有力者・伊沢氏と姻戚関係を結んでいたこと。
②滝宮豊後守と讃岐国人の争論を、阿波の三好長治が裁いていること
③争論の結果として、讃岐の滝宮豊後守は一度は切腹を命じられたこと
④しかし、親戚の阿波の伊沢氏の取りなしで切腹が回避されたこと
⑤ちなみに、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったこと。
 こうして見ると滝宮氏は、三好氏の有力家臣伊沢氏と婚姻関係を結んでいたことが分かります。また阿波三好家は、16世紀後半には讃岐の土地支配権・裁判権を握り、讃岐国人らを氏配下に編成し軍事動員できる体制にあったことも分かります。言い換えれば、讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっていたことになります。こうした中で、三好氏が傘下に置いた羽床氏や香西氏の軍事衝突を許すでしょうか? 
丸亀平野の元吉(櫛梨)城をめぐる合戦について毛利方史料には次のように記します。
天正五(1577)年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、
猶浄念二相含候、恐性謹言、
意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人ほどです。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。
 そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここには、阿波三好氏の指示で讃岐国衆の「長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人程」が元吉城に攻めかかってきたと記されています。羽床氏と香西氏は、三好配下にあって元吉攻めに従軍していたことが裏付けられます。ここからも南海通記の記録は、そのままは受け取ることはできません。

滝宮氏が去った後の滝宮城はどうなったのでしょうか。
それがうかがえるのが幕末の讃岐国名勝図会に載せられた「滝宮八坂神社・龍燈院・天満宮」です。

龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(讃岐国名勝図会)
ふたつの神社に挟まれた龍燈寺が別当寺で、この社僧達がこれらの宗教施設を管理運営いました。神仏混淆下にあって大いに栄えていたことがうかがえます。この繁栄の基盤は中世の滝宮氏の時代に作られ、それが生駒・松平の保護を受けながら、この絵図の時代に至っていたようです。それが明治の神仏分離で龍燈寺が姿を消して行くことになります。

 祇園信仰 - Wikipedia
 最後に江戸時代の人々が、滝宮牛頭天王社や龍燈寺をどのように見ていたのか昔話から探っておきます。
綾川シラガ渕
山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。
さて、奈良時代のことです。
島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。
祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。
おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。
すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。
白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。
龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。
しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。
大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。
ここからは次のようなことが推測できます。
①滝宮神社は牛頭天王社であったこと
②牛頭天王社の祭神は白髪老人で牛頭龍王であった
③牛頭天王に灯を捧げたのが龍王で、その場所が龍灯石であったこと
④別当寺龍燈院のいわれは、「龍灯石」であること
⑤牛頭天王が現れるみたらが渕は霊地として信仰されていたこと

滝宮(牛頭)神社
滝宮神社に奉納された牛 牛頭天王信仰の痕跡
以上をまとめておきます
①滝宮氏には、本家分家の2つの流れがあった。
②本家は、松崎城を居館とする滝宮豊後守
③分家は、滝宮城を居城として牛頭天王を奉り、氏寺として龍燈院を建立していた。
④両秋山氏の居館は、古代以来から河川水運として利用されていた綾川沿いに立地する。
⑤周辺の陶は、平安期まで須恵器などの讃岐窯業の中心地で、これらは古代綾氏によって整備された
⑥藤原氏は古代の綾氏が武士団化したものとされるが、その流れを汲むのが滝宮氏や羽床氏だったと推測できる。
⑦南海通記には、天正年間になると両滝宮氏は、香西氏と羽床氏の抗争に巻き込まれ、一族同士が相争うようになったと云うが、それには疑問が残る。
⑧滝宮氏が去った後の滝宮城跡には、牛頭天王社・龍燈院・天満宮が並び立ち、神仏混淆下で牛頭天王(蘇民将来)信仰の拠点となった。
⑨龍燈寺の社僧達は、蘇民将来などのお札を周辺の村々に配布し、牛頭天王信仰を拡げると供に、風流念仏踊り等も村々に伝えた。
⑩牛頭天王社の大祭には、中世の郷単位で構成された踊り手達が「踊り込み」奉納を行った。
⑪それが現在の滝宮念仏踊りの源流である。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札
         龍燈院が配布していたお札 「牛頭天王」とみえる


滝宮神社(旧牛頭天王社)の布教戦略

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」
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滝宮念仏踊りのシステム

 滝宮念仏踊りの原形は、滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)へ奉納するために周辺の村々の信者達から奉納されていた風流念仏踊りであると私は考えています。その牛頭天王社を庇護下に置いていたのが滝宮氏ないかと思うようになりました。それは滝宮神社が、滝宮氏の居館に隣接してあったとされるからです。ある意味、滝宮牛頭天王社と別当寺龍燈院は、滝宮氏の氏神・氏寺的な性格ではなかったのかという仮説です。その検証のために、滝宮氏に関することをメモ書きとして残しておこうと思います。

滝宮氏は、讃岐武士団最大の讃岐藤原氏の分流とされます。

讃岐藤原氏系図1

古代の綾氏が武士団化したのが讃岐藤原氏で、その初期の棟梁は羽床氏であったとされます。そして羽床氏の傍流が滝宮氏と云うのです。しかし、これも南海通記に軍記的話としては登場しますが、史料的に裏付けされたものではありません。滝宮氏がいつ、どのようにして滝宮に拠点を構えたかについてはよく分かりません。
香川県史の年表で「滝宮氏」を検索すると、登場してくるのは次の5回だけです。
A  1458年5月3日
 瀧宮実明,賀茂別雷社領那珂郡万濃池の年貢6貫600文を納入する(賀茂別雷神社文書)
B 1458年7月10日
 瀧宮実長,善通寺誕生院領阿野郡萱原領家方代官職を請け負う(善通寺文書)
C 1484年10月11日
 瀧宮実家,弟又二郎を南御所の被官とすることで,南御所領阿野郡南条山内徳珍名の代官職を請け負う。ついで,同月20日,65貫文で請け負う(宝鏡寺文書)
D 1490年10月20日 瀧宮実家,南御所領阿野郡南条山西分代官職を100貫文で請け負う(宝鏡寺文書)
E 1491年7月・ 近衛政家,細川被官の求めにより阿野郡瀧宮へ三十六歌仙を書く(後法興院記)

滝宮氏が史料に出てくるのは15世紀後半以後であることを押さえておきます。
①については、「瀧宮新三郎」が荘園主の京都の上賀茂神社に提出した年貢請負の契約書で、次のように記されています。(京都の上賀茂神社の「賀茂別雷神社文書」)
 讃岐国萬濃池公用銭送状送り参らす御料足事 合わせて六貫六百文といえり。ただし口銭を加うるなり。右、讃岐国萬濃池内御公用銭、送り参らすところくだんのごとし。                    
                    瀧宮新三郎
長禄二(1458)年五月三日            賓(実)明(花押)
      賀茂御社
  意訳変換しておくと
讃岐国の萬濃池の領地を請け負いましたので、その年貢として銀6貫600文を送金します。ただし「口銭」料(手形決済の手数料)を差し引いています。

ここからは次のようなことが分かります。
①この時代には、すでに手形決済が行われていたこと
②手形手数料を差し引いた金額が、滝宮新三郎実名から荘園主の賀茂神社に送付されたこと
③古代末に決壊した満濃池跡地が開発されて荘園となって「池内(いけのうち)」と呼ばれていたこと
④15世紀半ばには、荘園主が亀山上皇から上賀茂神社に変わり、請負者も泰久勝から瀧宮新三郎に変わっていること
Bは、満濃池跡の管理権を得た2ヶ月後の7月10日のもので、次のように記します。
預り申す。萱原領家方御代官職の事
長禄二年戊宙より壬午年まて五年あつかり申候。大師の御領と申天下御祈格料所の事にて候間、不法榔怠有る可からす候。年に随い候て、毛の有色を以て散用致す可く候。御領中をも興行仕り、不法の儀候はすは、年月を申定め候とも、尚々も御あつけあるへく候。仍て頂状件の如し。        
長禄二年成寅七月十日                        瀧宮豊後守 実長(花押)
(善通寺)誕生院
  意訳変換しておくと
長禄二(1458)年から5年間、滝宮豊後守実長が(善通寺誕生院から)萱原領家方代官職をお預かりします。弘法大師の御領で天下御祈格料所の荘園ですので、不法なことがないようにいたします。年貢の納入については、毛の有色(作物の出来具合)に応じて決定いたします。また預かる期間については5年とありますが、不法なことがなければ、期間を超えてお預かりします。仍て頂状件の如し。        
長禄二年成寅七月十日                        瀧宮豊後守 賞長(花押)
誕生院
滝宮豊後守実長が善通寺誕生院の萱原領家方代官職を預かるという内容です。先ほど見た文書は「実明」でしたので、滝宮氏にも複数の勢力があったことがうかがえます。
預り状として一応契約のかたちをとっていますが、次の点に問題があります。
①年貢の納入は、「毛の有色」つまり作物のでき具合を見て故用=算用する
②所領を預かる期間も、不法のことがなければ延長する
これでは実質的な無期限契約で、押領化への道を開くものです。代官職を得て、押領を重ねることで勢力を確実に蓄えていた時期かもしれません。ここでは次の二点を押さえておきます。
Aの1458年の史料からは、滝宮氏の勢力が丸亀平野南部の満濃池跡の池内方面に伸びていたこと。
Bの史料からは、善通寺誕生院が阿野郡萱原に持っていた領家方代官職を実質的に押領してたこと。

 Cの1484年に、登場する瀧宮実家は,Aの「実明」の孫にあたる可能性があります。
阿野郡南条山内徳珍名の代官職を65貫文で請け負っています。着実に周辺の代官職を得て、勢力を拡大しています。

Dの延徳 2年(1490)10 月には瀧宮実家が南御所の料所である南条山西方代官職を請け負っています。
 C・Dについては香川県史の中世編(405P)に、書かれていることを要約すると次のようになります。
1484年に、実家は「南御所」の「料所」である「讃岐国南條山内徳診名」内の年貢公事等納入を請け負っています。 この時、実家の弟の又二郎が南御所の「御被官」となっていました。それを受けて2年後の1490年10月に実家は、「惣荘御代官職」であるということで「南御所」「御料所」「南條山西方政所土居丼びに拾式名」の年貢・公事等の納入を請け負うことにになります。また、これと同年月日付で実家は「南條山西分代官職」も請け負っています。請負条件は詳細です。公用は毎年100貫文の「請切」とあるので、所領経営を完全に任されていたようです。もし公用が果たせない場合は実家が別に知行する「摂津州平野内下司職参分壺」を当てるとあります。さらに「請人(保証人)」をも設定されています。
瀧宮実家が代官職請負契約を結んだ「南御所」は、「尼五山の一」とされる宝鏡寺と並ぶ尼寺です。この寺は、将軍足利義教から所領安堵を受けていました。南條山西分も永享2年(1430)に義教から安堵されています。15世紀後半には将軍足利義政と火野富子との間の女子が南御所に入っていて、父義政が「人事」の時には「親しく相公の病席に侍」しています。その女子も延徳2年(1490)10月10日に死亡し、「光山聖俊尼」と称されています。しかし、南御所の組織は継続していたようです。 南御所が将軍に非常に近い立場にあったからでしょう。その所領は「料所」と称されています。代官職請負契約の内容を見ると、先ほどの善通寺誕生院のものと比べると遙かに厳格です。請負者は「御被官」と称され、「毎年参洛してて御礼を致」し「本公」することが約束させられています。つまり、毎年京都にやってきて挨拶を欠かすなということです。この「御被官」という立場は、将軍の御家人たる「奉公衆」に近いと研究者は評します。そういう意味では、滝宮氏の家格がぐーんと上がったことになります。細川京兆家の本国ともいうべき讃岐国に将軍の縁者である南御所の料所があって、請負者がその被官であることは、細川氏にとって重要であったと研究者は指摘します。同時に、滝宮氏にとっても大きな意味があったはずです。ところが細川政元の下で香西氏が権勢を握るようになると、その代官職を明応2年(1492)に香西仲兵衛尉長秋に取って代わられます。そして滝宮氏は天文11年(1542)頃には、香西氏の幕下となったようです。これについては、後に詳しく見ていくことにします。
Eの『実隆公記』明応5年(1496)7月18日条には、次のように記します。

讃州滝宮丗六人歌仙源公忠朝臣・忠峯・平兼盛・中務四人板也、歌依細川被官人所望染筆了」

ここからは三条西実隆に、細川家(管領細川政元)の被官人から讃州滝宮社に奉納する三十六歌仙扁額に源公忠朝臣・忠峯・平兼盛・中務の四人の歌を書いて欲しいとの依頼があったことが分かります。
扁額は9面36人の板額だったようで、実隆の担当分担は1面4歌仙であったようです。残り8面32人分は他の人物に依頼したようです。これは、康暦年間(1379~80)に細川頼之が再建した滝宮社の社殿に掲げるためのものだったのでしょう。依頼人は「細川被官人」とだけ記します。
この背景を理解するために、東讃守護代を務めていた安富氏の宗教政策を見ておきましょう。
安富氏は、応永21年(1414)に崇徳院御陵に建立された頓證寺への勅額依頼や守護細川満元の法楽連歌の奉納を安富宝蜜と同筑後守(のち筑後入道智安)が取り次いでいます。有力寺社に恩を売って、在地支配を浸透させていく宗教政策がとられていたようです。その一環として享徳年間(1452~55)には、社家奉行安富盛保が三木郡の式内社和爾賀波神社に三十六歌仙の扁額を奉納しています。和爾賀波神社は、三木郡井戸郷に鎮座する古社で、貞観2 年(860)に京都男山八幡を勧請したので八幡社と呼ばれていました。末社75を数え、延喜式内讃岐国24社の神として信奉されます。特に室町期には讃岐守護細川勝元の信仰が厚く、毎年正月の参拝や戦勝祈願参拝にも有力者が訪れています。安富氏が来讃した時には、最初は三木郡の平木城主でした。その初期の本貫地にあった、この神社を在地支配の拠点にしようとしたようです。「扁額歌仙絵で社殿の荘厳化を図るなどした、室町後期における中央文化伝播の好例」と研究者は評します。
 それを滝宮氏も真似ているようです。滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に掲げる扁額の依頼を京都の三条家に管領細川氏の被官人が依頼しています。この時期の将軍は「天狗になろうとして修験道に夢中だった細川政元」です。政元の厚い信頼を得て、京都の警察権を握っていたのが香西氏でした。それでは扁額を求めた「細川被官人」とは誰なのでしょうか? 
① 讃岐国東方守護代を務めた安富元家
② 同年 2月に神谷神社法楽連歌を奉納した香西元資
③ 滝宮氏自身
 第3は可能性が薄いでしょう。当時の政治情勢からすれば権勢が最も高まっていた②の香西元資の可能性が高いように私には思えます。どちらにしても、この扁額は享徳 4年(1455)に細川氏の社家奉行安富盛保が奉納した和爾賀波神社扁額と同じように中央で制作された作品で、「中央文化における歌仙絵扁額の流行が地方普及の潮流の中で現出」したものと研究者は評します。 細川頼之が再建した滝宮社の社殿の荘厳に相応しいものでした。中世末期には滝宮氏は、滝宮牛頭天皇社を在地支配の拠点としていたことを押さえておきます。同時に、滝宮神社は周辺からも名の知られた存在になっていたことががうかがえます。
 下の縄張図からは、滝宮神社や天満宮は、滝宮城の中に鎮座していることが分かります。
滝宮城
           滝宮神社と天満宮が滝宮城跡
明治の神仏分離までは、滝宮神社と天満宮の間に、別当寺の龍燈寺があって社僧達が牛頭天王を奉っていました。それを伝えるのが下の絵図です。

滝宮念仏踊りと龍王院
滝宮(八坂)神社と龍燈寺と天満宮 讃岐国名勝図会(1853年)

この絵の註には「八坂神社・菅神社・龍燈院」とあります。菅神社は菅原道真をまつる滝宮天満宮です。それでは八坂神社とは何でしょうか。これは当時の滝宮が京都の八坂神社の分社と称していたことが分かります。何故かというと、この神社は、八坂神社と同じでスサノオを祀る牛頭天王社だったのです。
祇園信仰 - Wikipedia
牛頭天王=素戔嗚尊(スサノオ)=蘇民将来=京都の八坂神社
スサノオは蘇民将来ともいわれ、その子孫であることを示すお札を家の入口に掲げれば疫病が退散するとされて、多くの信仰を集めていました。その中讃における牛頭信仰の宗教センターが滝宮牛頭天王社だったのです。そして、この神社の管理運営を行っていたのが別当寺の龍燈院滝宮寺でした。

滝宮神社(旧牛頭天王社)の絵札

 神仏分離以前の神仏混淆時代は、神も仏も一緒でした。そのため龍燈院参加の念仏聖(僧侶)たちが、蘇民将来のお札を周辺の村々に配布しました。龍燈院は、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰を丸亀平野一円に拡げる役割を果たしました。同時に彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。こうして7月下旬の夏越しの大祭には、各村々の氏神に踊りが奉納された後に、滝宮に踊り込むというパターンが形作られます。そして、これらの宗教施設の背後には滝宮氏がいたことになります。これは滝宮氏の庇護下にあったことを物語ります。そして、滝宮氏が戦国末期に衰退した後に、その城跡にこれらの宗教施設が建てられた
のかもしれません。
滝宮氏の本家とされる羽床氏は、古代綾氏の流れを汲むという讃岐藤原氏の嫡流でした。
羽床氏は讃岐在庁官人として在地支配権を拡大する一方で、荘官としても武力を蓄えて武士団化していきます。源平合戦では、早くから源氏皮に加勢して御家人として勢力を拡大しますが、その後の承久の乱では敗者側の上皇方について一時所領を失い衰退します。その後南北朝期になると、羽床政成が幕府方として参陣し、楠木正成を攻めて討ち死にするなど忠功を積んで復活したようです。しかし、そのころまでには、庶家の香西氏に一族の本流の地位を奪われてしまいます。滝宮氏も羽床氏と行動を供にしながら、次第に滝宮を拠点に勢力を拡大したようです。
 それでは滝宮氏と羽床氏・香西氏の関係はどうなっていたのでしょうか?
 南海通記には、三好長慶と敵対した細川晴元を救援するために、天文18年(1549)に香西氏が摂津中島へ出陣したとして、その時の軍編成が記されています。これについて研究者は、「この年、讃岐香西元成が細川晴元支援のため摂津中島へ出陣したことはありえないことが史料的に裏付けられいる」と出陣を否定します。この記述については、著者香西成資の「誤認(創作?)」であるようです。しかし、ここに書かれた香西氏の陣編成については、事実を伝える物があるのではないかと研究者は考えています。南海治乱記は、香西氏は次のような武将を招集したとは記します。
  我が家臣として
新居大隅守・香西備前守・佐藤五郎兵衛尉・飯田右衛門督。植松帯刀後号備後・本津右近。
  幕下として、
羽床伊豆守、瀧宮豊後守・福家七郎右衛門尉・北条民部少輔、其外一門・佗門・郷司・村司等」
そして、留守中の領分防衛のために、次のような武将を讃岐に残しています。
①東は植田・十河両氏の備えとして、木太の真部・上村の真部、松縄の宮脇、伏石の佐藤の諸士
西は羽床伊豆守・瀧宮豊後守・北条西庄城主香川民部少輔らの城持ちが守り、
③香西次郎綱光が勝賀城の留守、
④香西備前守が佐料城の留守
⑤唐人弾正・片山志摩が海辺を守った。
出陣の兵将は、
⑥香西六郎。植松帯刀・植松緑之助・飯田右衛門督・中飯田・下飯田・中間の久利二郎四郎・遠藤喜太郎・円座民部・山田七郎。新名・万堂など多数で
⑦舟大将には乃生縫殿助・生島太郎兵衛・本津右近・塩飽の吉田・宮本・直島の高原・日比の四宮等
     以上から、戦国期の香西氏の軍事編成を、研究者は次のように考えています。
A 執事の植松氏をはじめとする一門を中核とする家臣団を編成するとともに、
B 周辺の羽床・滝宮・福家など城主級の武士を幕下(寄子)としていた
ここで注目しておきたいのは、滝宮氏は羽床氏と供に「城持ち」で「幕下」というあつかいであることです。この時に羽床氏は香西氏は「押さ」へで遠征軍には含まれていません。16世紀中頃には、羽床氏や滝宮氏は、香西氏の「幕下」として参陣する立場にあったことを押さえておきます。

次に、阿波三好氏の讃岐支配が進展した時期には、どうなったを見ておきましょう。
「阿波物語」第二は、三好氏の有力武将であった伊沢氏が三好長治から離反した理由を次のように記します。
伊沢殿意恨と申すは、長春様の臣下なる篠原自遁の子息は篠原玄蕃なり、此弐人は車の画輪の如くの人なり、然所に自遁ハ長春様のまゝ父に御成候故に、伊沢越前をはせのけて、玄蕃壱人の国さはきに罷成、有かいもなき体に罷成り候、折節讃岐の国に滝野宮豊後と申す侍あり、伊沢越前のためにはおち(叔父)なり、豊後殿公事辺出来候を、理を非に被成候て、当坐に腹を切らせんと申し候を、越前か異見仕候てのへ置き候、この者公事の段は玄蕃かわさなる故なれ共、長春様少も御聞分なき故に、ふかく意恨をさしはさみ敵となり候なり、

意訳変換しておくと
伊沢殿の遺恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)のことである。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、これは伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に伊沢越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

ここに出てくる「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」は何者なのでしょうか?
年代的に見て1458(長禄2)年に善通寺から讃岐国萱原の代官職を預かっていた滝宮豊後守実長の子孫で、滝宮城の主人と研究者は考えています。
ここからは滝宮氏と阿波・伊沢氏との関係と、当時の情勢について次のようなことが分かります。
①滝宮氏は三好氏を支える有力者・伊沢氏と姻戚関係を結んでいたこと。
②滝宮氏と讃岐国人の争論を、阿波の三好長治が裁いていること
③争論の結果として、讃岐の滝宮豊後守は一度は切腹を命じられたこと
④しかし、親戚の阿波の伊沢氏の取りなしで切腹が回避されたこと
⑤ちなみに、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったこと。
 こうして見ると伊沢氏は、中讃の滝宮氏・東讃の安富氏という讃岐の有力国人と姻成関係を結んでいたことになります。伊沢氏は、婚姻関係を通じて讃岐国人たちとつながりを強め、対吉備方面での外交・軍事活動を進めていたことになります。ここでは阿波三好家は、16世紀後半には讃岐の土地支配権・裁判権を握り、讃岐国人らを氏配下にに編成し軍事動員・外交を行えるようになっていたことを押さえておきます。言い換えれば、讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっていたことになります。こうして三好氏の讃岐支配が進むにつれて、滝宮氏はそれまでの香西氏から伊沢氏へと重臣を移していったことがうかがえます。
以上、滝宮氏の動きをまとめておきます。
①滝宮氏は、中世の讃岐武士団で最大勢力集団であった讃岐藤原氏に属した。
②讃岐藤原氏の棟梁羽床氏は、源平合戦でいち早く源氏方に加勢し、その結果御家人として論功行賞を得て、これが一族雄飛のきっかけとなった。
③しかし、羽床氏は承久の乱で敗者側の上皇について、棟梁の地位を失い衰退する。
④代わって讃岐藤原氏の棟梁の地位に就いたのは香西氏であった。
⑤その後、羽床氏や滝宮氏は綾川上流の地域で荘園の代官職を得て押領を繰り返し、勢力を拡大していく。
⑥そして香西氏の「幕下」として香西氏を支える立場にあった。
⑦しかし、三好氏によって阿波勢力による讃岐支配が進展すると、阿波伊沢氏と婚姻関係を結ぶなど、香西氏から伊沢氏へと重心を移していた。
⑧長宗我部元親の讃岐侵攻では、羽床氏と供に軍門に降り、その後には土佐軍の先兵として東讃制圧に活動した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」

讃岐綾氏のことを以前に次のようにお話ししました。

讃岐綾氏の活動
 
今回は奈良時代の同時代史料から讃岐綾氏について、何が見えてくるのかを追ってみようと思います。
  テキストは「渡部明夫  考古学からみた古代の綾氏(1) 一綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年  」です。

讃岐綾氏が文献に登場するのは「続日本紀」の延暦10(791)年9月20日条で、次のように記されています。
「讃岐国阿野郡人正六位上綾公菅麻呂等言。己等祖。庚午年之後O至于己亥年。始蒙賜朝臣姓。是以。和銅七年以往。三此之籍。並記朝臣。而養老宍五年。造籍之曰、遠校庚午年籍。削除朝臣。百姓之憂。無過此甚。請捺三此籍及菌位記。蒙賜朝臣、之姓。許之。」

意訳変換しておくと
讃岐国阿野郡の豪族であった綾公菅麻呂らが朝臣の姓を賜わりたいと次のように願いでた。自分たちの祖先は、庚午年籍が作られた天智9(670)年の時には朝臣の姓を持っておらず、文武3(703)年になってはじめて朝臣の姓を賜った。ところが養老五(721)年の戸籍改製の際、庚午年籍に拠って、朝臣が削られたため、一族は嘆き悲しんでいる。そこで再び朝臣の姓を願い出た。この申請を受けて許可した。
この申請が認められ他のは、平城京から長岡京に遷都して8年目にあたる791年のことで、空海が大学をドロップアウトして山林修行中だった時期になります。ここに登場するの阿野郡の豪族・綾公菅麻呂については、これ以外のことは分かりません。ただ、彼の位階は「正六位上」であることは分かります。これを研究者は、讃岐にやってきていた国司と比較します。
①延暦9年7月24日に讃岐守に任じられた宗形王は従五位上
②延暦8(789)年2月4日に讃岐守に任ぜられた百済王教徳が従五位下
 ちなみに、「続日本紀」には奈良時代の讃岐について12例の任命記事があります。そこで任命されているのは、従三位から従五位下までの貴族です。ここからは讃岐守は、従五位までの役職だったことがうかがえます。ちなみに、讃岐の任命記事は13例あり、従五位下の役職だったようです。 綾公菅麻呂は「正六位上」でしたから、守や介に続くNO3の位階を持っていたことになります。

官位12階

  次に、地元の有力者と比較してみましょう。奈良時代の讃岐の郡司で、同時代史料にでてくるものは6人です。
「東寺百合文書」の山田郡司牒の天平宝字7(763)年10月29日付の讃岐国山田郡にあった川原寺の寺田検出には、讃岐の当時の郡長の名前と官位が次のように記されています。
①「復擬主政大初位上 秦公大成」
②「大領外正八位上 綾公人足」
③「少領従八位上 凡□」
④「主政従八位下 佐伯」
⑤「□□上 秦公大成」
⑥「□□外少初位□秦」、「□□下秦公□□」
復元しておくと
③の「少領従八位凡□」は「少領従八位上 凡直」
⑤の「□□上秦公大成」は「復擬主政大初位上 秦公大成」
⑥の「二外少初位口秦」は「主帳外少初位下 秦」と復元されています。
ここには秦氏や綾氏(阿野郡)・佐伯(多度郡)・凡直などの馴染みの名前が出てきます。彼らの官位を見ると、「外正八位の上か下」であったことが分かります。こうして見ると、菅麻呂の位階は「正六位上」ですから讃岐では異例の高さです。
  空海を生み出した多度郡司の佐伯直氏と比べて見ましょう。

1 空海系図52jpg

空海の戸長であった道長が「正六位下」です。空海の兄弟や甥たちよりも高い官位を綾公菅麻呂は持っていたことが分かります。つまり、讃岐の豪族の中ではNO1位階保持者だったことになります。全国的に見ても、奈良時代の郡司の官位は、正六位上が最高であったようです。以上から綾公菅麻呂は、讃岐守には及ばないものの、讃岐介と同格か、それに次ぐ位階をもち、他の郡司よりもはるかに高く、讃岐では最有力な人物であったとことを押さえておきます。
 「続日本紀」には菅麻呂の官職名が記されていないので、どこで・どんな役職に就いていたかは分かりません。
上京して京で生活していたことも考えられます。もし讃岐にいたとしても、『続日本紀』の記載からすると、延暦10(791)年9月には、国府の主要官職や郡司の職にはついていなかったと研究者は考えています。
ちなみに、讃岐で最も高い位階を得ているのは、三野郡出身の丸部(わにべ)明麻呂で従四位上です。
平安時代の初め頃の「続日本後紀」嘉祥2(849)年10月丁亥朔条には、彼が18歳の時に都に入り、功績を認められて三野郡の大領に任じられたとあります。丸部氏は、以前にお話したように壬申の乱で功績を挙げ、その後は三野の宗吉に最先端の瓦工場を誘致して、藤原京に瓦を提供したとされる一族とされます。その功績も合って、中央で官人として従四位上を手に入れたのかもしれません。
 綾氏についても、中央で活躍する人物が次のように見えます。
A 宝亀3(772)年10月8日付「造峡所造峡注文」の東大寺写経所造紋所の内竪大初位上綾君船守
B 嘉祥2(849)年2月23日には内膳掌膳外記位下綾公姑継、主計少属従八位上綾公武主等が本居を改めて左京六条三坊に貫附記事。
ここから、綾氏の中には讃岐を離れ、中央で活躍する者もいたことが分かります。空海の弟や甥たちも中央で活躍し、改姓を機会に本貫地も平安京に移したことは以前にお話ししました。

 これ以外に讃岐の豪族が戸籍を中央にもつ例を挙げておきます。
①承和3(836)年に寒川郡の讃岐公永直が右京三条二坊に、
②山田郡の讃岐公全雄らが右京三条二坊に、
③多度郡の佐伯直真継・長人が左京六条二坊に
④嘉祥3(850)年に佐伯直正雄が左京職
⑤貞観3(861)年に佐伯直鈴伎麻呂・酒麻呂らが左京職
⑥貞観4(862)年に刈田郡の刈田首安雄・氏雄・今雄が左京職に
⑦貞観5(863)年に、多度郡の刑部造真鯨らが左京職
⑧貞観15(873)年に三木郡の桜井田部連貞・貞世が右京六条一坊
⑨三野郡の桜井田部連豊貞が右京六条一坊に
⑩元慶元(877)年に香川公直宗・直本が左京六条に
⑪寒川郡の矢田部造利大が山城国愛宕郡
⑫仁和元(885)年には几直春宗等男女9人が左京三条口坊に本貫移動
 このように9世紀になると、綾氏や佐伯直など讃岐の豪族の中には、改姓申請とともに戸籍を中央に移す者が現れるようになります。その背景には、遙任国司制によって郡司の役職に「中間搾取のうまみ」がなくなったことがあります。この時代の地方貴族は生き残りのために、改姓して本願を京に移し、中央の貴族の一端に加わろうとします。この流れの中で多くの古代豪族が衰退し、姿を消して行きます。
  綾氏や佐伯直氏などの讃岐の豪族が本貫を中央へ移すのは、平安時代になってからです。
綾公菅麻呂については「続日本紀」に「讃岐国阿野郡人」と記されているので、このときには本籍はまだ讃岐にあったようです。当時の綾氏は阿野郡を拠点としていたとしておきます。綾公菅麻呂の改姓申請からは、綾氏は遅くとも7世紀後半頃には有力な豪族であったという誇りが読み取れます。   
 このことを裏付けるのが「日本書紀」天武天皇13(乙酉、685)年11月戊申朔条の「(前略)車持君・綾君・下道君(中略)、凡五十二氏、賜姓日朝臣」の記事です。これは天武朝の八色の姓の制定に際し、綾君など52氏に朝臣の姓を与えたものです。「日本書紀」には綾君の住居地等を記していませんが、綾君を名のる古代豪族は讃岐以外にはいないので讃岐国阿野郡の綾氏と研究者は考えています。
 この時に朝臣の姓を賜った52氏の中で、畿内やその周辺(近江・紀伊・伊賀)を除く地方に出自をもつ豪族は、綾君を含めて、上毛野君(上野)・下毛野君(下野)・胸形君(筑前)・下道臣(備中)・笠臣(備中)のわずか6氏です。そして、いずれもが有力な地方豪族なので、綾君が本拠地で大きな勢力を持つと共に、中央でも重視された存在だったことがうかがえます。「日本書紀」と「続日本紀」の内容は、よく似た内容が記されているので、7世紀後半から8世紀にかけて讃岐国阿野郡で、綾氏が大きな力をもっていたことが裏付けられます。
 綾氏は阿野郡だけでなく、山田郡や香川郡にも一族がいたようです。これについては、また別の機会に見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

    
阿波守護家(讃州細川家)から三好氏へと、阿波勢力による讃岐支配がどのようの進められたかを何回かに分けて見てきました。最後に、「阿波勢力による讃岐支配の終焉」への道を見ておきましょう。テキストは「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」です。
三好氏系図3


三好実休の子・長治の下で阿波・讃岐両国が統治されるようになることは、先に見てきた通りです。しかし、1576(天正4)年11月になると細川真之・一宮成相・伊沢越前守が長治に造反し、長治は横死に追い込まれます。
三好長治墓石
三好長治の終焉の地
そして阿波三好家は、次のように分裂します
①毛利氏と連携する矢野房村や三好越後守らの勝瑞派
②織田氏との連携を志向する一宮・伊沢らの「反勝瑞派」

この対立の中で「勝瑞派」の讃岐への関与を示すのが次の史料です。
【史料1】三好越後守書状 法勲寺村史所収奈良家文書」
御身之儀、彼仰合国候間、津郷内加わ五村進候、殿様(三好義竪?)へ之儀随分御収合申、似相地可令馳走候、不可有疎意候、恐々謹言、
                   三好越後守
天正五年二月朔                 □円(花押)
奈良玄春助殿
御宿所
意訳変換しておくと
【史料1】三好越後守書状 法勲寺村史所収奈良家文書」
御身に、津郷(津之郷)の内の五村を知行に加える。殿様(三好義竪?)への忠節を尽くせば、さらなる加増もありうるので、関係を疎かにせつ仕えること、恐々謹言、
               三好越後守 □円(花押)
天正五年二月朔                 
奈良玄春助殿
御宿所
「勝瑞派」に属する三好越後守は天正5年2月に、香川氏と行動を共にしていた聖通寺山城主の奈良氏に知行を宛行っています。同月には香川氏が讃岐での活動を再開していて、勝瑞派一はかつて讃岐から追われた反三好派国人らとの融和・連携を図っていることがうかがえます。これは「勝瑞派」の戦略が反織田信長なので、織田氏にそなえて讃岐方面での有力武将の支持を取り付けるための方策と研究者は考えています。またこの史料からは、三好越後守が「殿様(三好義竪?)」と、奈良氏をつなぐ役割を果たしています。長治に代わる当主が登場していたことがうかがえます。

戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
戦国時代の阿波・讃岐の武将割拠図
しかし、反三好勢力の頭目であった香川氏との妥協・復権は、それまで阿波三好家に従っていた香西氏や長尾氏などからの反発を生んだようです。このような中で5月に「勝瑞派」は、伊沢越前守を殺害します。先述したように、伊沢氏は滝宮氏や安富氏などの姻戚関係を持つなど、讃岐国人との関係が深かった人物です。その影響力を削ぐために標的とされたと研究者は考えています。
 これに対して伊沢氏と姻戚関係にあった安富氏は「反勝瑞派」の一宮成相との提携を目指して阿波の勝瑞に派兵します。ところが同時期に、毛利氏が丸亀平野に侵入してきます。そして7月に元吉城(琴平町)を確保し、備讃瀬戸通行権を確保します。これは石山合戦中の本願寺への戦略物資の搬入に伴う軍事行動だったことは、以前にお話ししました。
元吉合戦の経過

 丸亀平野中央部の元吉城に打ち込まれた毛利勢力の拠点に対して、安富氏、香西氏、田村氏、長尾氏、三好安芸守ら「讃岐惣国衆(讃岐国人連合軍)」が攻め寄せます。このメンバーを見ると、天霧城攻防戦のメンバーと変わりないことに気がつきます。特に東讃の国人武将が多いようです。私には東讃守護代の安富氏が、どうして元古城攻撃に参加したのかが疑問に感じます。

元吉城 縄張図
元吉城
これに対して、研究者は次の2点を挙げます。
①安富氏と伊沢氏は姻戚関係があり同盟関係にあったこと
②「勝瑞派」による香川氏復権許容に伴う知行再編への反発があったこと

元吉合戦で「讃岐惣国衆」は、手痛い敗北を喫します。
そしてその年の11月には毛利氏と和睦が結ばれ、「阿・讃平均」となります。阿波三好家は三好義堅が当主となることで再興され、讃岐も阿波三好家の支配下に戻ります。
三好氏 - Wikipedia
三好義堅

細川真之は一時的には「勝瑞派」と提携することもありましたが、三好義堅が当主となると「反勝瑞派」や長宗我部氏と結んでおり、讃岐へ影響を及ぼすことはなかったようです。
【史料2】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、
三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
  意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                  細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
この史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が守護代の香川信景に反三好行動を求めたものです。味方につくなら香川氏に「大西跡職」を与えると餌をちらつかせています。大西氏は西阿波の国人ですが、その知行を守護代家の香川氏に与えるというものです。ここからは天正期になっても細川京兆家に讃岐守護家の地位が認められていたことが分かります。つまり阿波三好家は正当な讃岐の公的支配を担うことはできなかったことになります。そこで擁立されたのが十河一存の息子義竪ということになります。この背景には、阿波と讃岐を統合できるのは三好権力であり、讃岐の十河氏を継承していた義堅こそが阿波三好家の当主としてふさわしいと考えられたと研究者は推測します。
【史料3 三好義堅感状「木村家文書」
於坂東河原合戦之刻、敵あまた討捕之、自身手柄之段、神妙之至候、猶敵陣無心元候、弥可抽戦功之状如件、
八月十九日              (三好)義堅(花押)
木村又二郎殿
  意訳変換しておくと
坂東河原の合戦において、敵をあまた討捕える手柄をたてたのは誠に神妙なことである。現在は戦陣中なので、戦功については後日改めて通知する。如件
(天正6年)八月十九日                     (三好)義堅(花押)
木村又二郎殿
この史料からは天正6(1578)年かその翌年に、阿波国内の坂東河原の戦いに讃岐国人の由佐氏や木村氏ら讃岐国人を、三好義竪が動員し、戦後に知行を付与していることが分かります。義堅が讃岐の広域支配権を握っていたことがうかがえます。

脇城および岩倉城とその遺構の実測調査

岩倉城
しかし、その翌年の天正7(1580)年末の岩倉城の合戦で矢野房付や三好越後守ら「勝瑞派」の中核が戦死します。その結果、義堅の権力は不安定化し、義堅は勝瑞城を放棄し十河城に落ちのびることになります。このような阿波の分裂抗争を狙ったように、長宗我部氏の西讃岐侵攻が本格化します。
 これに対して、天霧城の香川氏は長宗我部氏と結んで、その先兵と讃岐平定を進めます。
その結果、天正8(1581)年中には安富氏が織田氏に属すようになり、十河城の義堅に味方するのは羽床城のみという状況になります。天正9年に、義堅は雑賀衆の協力を得て勝瑞城への帰還を果たします。しかし、その後の讃岐国人は個別に織田氏や長宗我部氏と結びます。こうして阿波三好家による讃岐国支配権は天正8年に失われたと研究者は考えています。
以下、阿波三好氏の讃岐支配についてまとめておきます。
①細川権力下では讃岐は京兆家、阿波は讃州家が守護を務めていて、その権限は分立していた
②讚州家(阿波)の被官が讃岐統治を行う事もあったが、それは京兆家が讃州家の力を頼んだ場合の例外的なものであった。
③ただし、細川晴元時代には阿波・讃岐両国の軍勢が「四国衆」の名の下に編成され、讃州家の氏之が西讃岐支配を後援するなど、讃州家の讃岐への影響が拡大した。
④三好長慶の台頭で江口合戦を機に晴元権力は崩壊に向かうが、讃岐では晴元派が根強く、阿波勢の動きを牽制していた。
⑤しかし、三好氏の力が強まると、東讃岐の国人らは徐々に三好氏に靡いていった。
⑥水禄年間になると三好実休・篠原長房による西讃岐の香川氏攻めが始まった。
⑦香川氏が駆逐されると讃岐は阿波三好好家の領国となり、阿波・讃岐国人に知行給付を行った。
⑧その結果、阿波三好家は讃岐国人を軍事動員や外交起用、讃岐国人に裁許を下すなど統治権を握った。
ここで注意しておきたいのは、①の細川時代と⑦三好時代では、讃岐への介入度合いが大きくちがうことです。細川権力下では、京兆家の意を受けた奉書と守護代による書下が併存して讃岐が支配されていました。ところが阿波三好家では当主か重臣が文書発給を行っています。これは讃岐が守護権力によらない支配を受けたと研究者は評価します。つまり、「細川権力と三好権力の間では政治主体・手法の断絶が存在した」と云うのです。これと同じ統治体制が、南河内です。南河内も阿波三好家が由緒を持たないながら公的な支配権を握ったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」

1560年代に三好氏は、天霧城の守護代香川氏を讃岐から追放します。これ以後、香川氏の発給する文書が途絶え、変わって三好氏の重臣・篠原長房・長重父子の発給した禁制が各寺に残されていることがそれを裏付けます。軍事征服によって讃岐の土地支配権は阿波三好家のものとなりました。それは阿波三好家や篠原氏に従って戦った阿波の国人たちが、讃岐に所領を得ることになります。篠原氏の禁制を除くと、阿波国人が讃岐で知行地を得たことを直接に示す史料はないようです。しかし、その一端を窺うことができる史料はあります。それを今回は見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」です。

  【史料1】三好義堅(実休)書下「由佐家文書」
就今度忠節、安原之内経内原一職・同所之内西谷分并讃州之内市原知行分申付候、但市原分之内請米廿石之儀ハ相退候也、右所々申付上者、弥奉公肝要候、尚東村備後守(政定)□□候、謹言、
八月十九日          (三好)義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の忠節について、安原内経内原の一職と同所の内の西谷分と、讃州の市原氏の知行分を併せて論功行賞として与える。但し市原氏の知行分の請米20石については、治めること。この上は、奉公が肝要である、東村備後守(政定)□□候、謹言、
八月十九日             (三好)義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
三好義堅(実休)が戦功をあげた由佐長盛に対し、讃岐の知行を宛行っています。その中に「讃州之内市原知行分(高松市香川町?)」とあります。市原氏は三好氏の被官で、これ以前には阿波国人の市原氏の所領だったことになります。阿波国人に讃岐での所領を与えています。
三好氏系図3
三好氏系図

  【史料2】三好長治書状「志岐家旧蔵文書」
篠原上野介・高畠越後知行棟別儀、被相懸候由候、此方給人方之儀、先々無異儀候間、如有来可被得其意事肝要候、恐々謹言、
 十月十七日       (三好)彦次郎(長治)花押
  安筑進之候(安富筑後守)
意訳変換しておくと
篠原上野介・高畠越後の知行への棟別料の課税を認める。この給付について、先々に異儀がないように、その意事を遵守することが肝要である。恐々謹言、
              (三好)彦次郎(長治)花押
十月十七日                
   安筑進之候(安富筑後守)
この史料は、三好長治(実休の長男)が守護代の安富筑後守に対し、阿波国人衆の篠原上野介・高畠越後の知行分への課役を認めたものです。これらの知行分は、安富氏の勢力圏で東讃にあったはずです。つまり、阿波国人である篠原氏や高畠氏の知行地が讃岐にあって、それを守護代の安富氏に分配していること分かります。

 ちなみに、三好長治(みよし ながはる)は、阿波を治めた三好実休の長男です。1562(永禄5年)に、父・実休が久米田の戦いで戦死したため、阿波本国の家督を相続します。しかし幼少のために、篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導で政治は行われます。

【史料3】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、
三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
  意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
この史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が守護代の香川信景に反三好行動を求めたものです。味方につくなら香川氏に「大西跡職」を与えると餌をちらつかせています。大西氏は西阿波の国人です。その知行を西讃の守護代家の香川氏に与えるというものです。深読みすると、三好方への与力の恩賞として、大西跡職が讃岐にいる大西氏に与えられていたことになります。
以上から篠原氏、高品氏、市原氏、大西氏といった三好氏に近い阿波国人たちが、讃岐に所領を得ていたことがうかがえます。三好氏による讃岐侵攻に従い功績を挙げたため、付与されたと研究者は考えています。

一方で、天正年間に入ると阿波三好家は、三好氏に与力するようになった讃岐国人に知行地を与えています。
阿波三好家は河内にも進出しますが、河内で活動する三好家臣に讃岐国人はいないようです。また、阿波でも讃岐国人が権益を持っていたことも確認できないないようです。ここからは阿波三好家は讃岐国人に対しては、讃岐国内のみで知行給付を行っていたことがうかがえます。
讃岐が阿波・三好家の統治下に入ると、それにつれて讃岐国人の軍事的な編成も進みます。

三好長慶と十河氏

十河一存は、養子として讃岐国人の十河氏を継承します。彼は長慶・実休の弟で、三好本宗家・阿波三好家のどちらにも属しきらない独自な存在だったようです。しかし、一存が1561(永禄四)年に亡くなり、その子である義継が長慶の養嗣子になると、立ち位置が変わるようになります。十河氏は三好実休の子である義堅が継承し、十河氏は阿波三好家の一門となります。これは、別の見方をすると阿波三好家が讃岐の支配権を掌握したことになります。

【史料4」「阿波物語」第二】は、伊沢氏が三好長治から離反した理由を説明したもので次のように記します。

伊沢殿意恨と申すは、長春様の臣下なる篠原自遁の子息は篠原玄蕃なり、此弐人は車の画輪の如くの人なり、然所に自遁ハ長春様のまゝ父に御成候故に、伊沢越前をはせのけて、玄蕃壱人の国さはきに罷成、有かいもなき体に罷成り候、折節讃岐の国に滝野宮戦後と申す侍あり、伊沢越前のためにはおちなり、豊後殿公事辺出来候を、理を非に被成候て、当坐に腹を切らせんと申し候を、越前か異見仕候てのへ置き候、この者公事の段は玄蕃かわさなる故なれ共、長春様少も御聞分なき故に、ふかく意恨をさしはさみ敵となり候なり、

意訳変換しておくと
伊沢殿の意恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)である。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

ここに出てくる「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」については、1458(長禄2)年に讃岐国萱原の代官職を預かっている滝宮豊後守実長が「善通寺文書の香川53~54P」に出てきます。「滝野宮豊後」は実長の後裔で、滝宮城の主人と推測できます。
ここには次のようなことが記されています。
①阿波三好氏を伊沢氏と篠原氏が両輪のように支えていたが、次第に篠権力を権力を独占するようになったこと
②伊沢氏は讃岐の滝宮氏(讃岐藤原氏一門)と姻戚関係があったこと。
③次第に、伊沢氏と篠原氏の対立が顕著化したこと
  
両者の動きを年表化して、確認しておきます。
1573(元亀四)年 三好長治が篠原長房を討とうとした際には阿波南部の木屋平氏からの戦功が伊沢右近大輔と篠原長秀を通じて届いており、伊沢氏と篠原長秀が組み合わされていることが確認できる。
1575(天正3)年 備中の三村元親が三好氏に援軍を要請した際には、讃岐の由佐氏を通じて伊沢氏に連絡が寄せられている。伊沢越前守は右近大輔と同一人物かその後継者と見なせるので、篠原長秀とともに長治を支えている。ここからは伊沢氏は、滝宮氏などの讃岐国人と縁戚関係を持ち、これを擁護する役割があったことが裏付けられます。
この中で研究者が注目するのは讃岐国人の相論を、三好長治が裁いていることです。
その内容は分かりませんが、結果として讃岐の滝宮豊後守は切腹を命じられ、その猶予を願いでたのが阿波の伊沢氏です。こうして見ると、裁判権は全て阿波側が持っていて、讃岐側にはなかったことになります。また、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったされます。安富筑後守は天正年間に備前の浦上宗景と阿波三好家の交渉に関与していて、由佐氏とともに阿波三好家の対中国地方交渉を担う存在でした。そうすると伊沢氏は、中讃の滝宮氏・東讃の安富氏という讃岐の有力国人と姻成関係が結ばれていたことになります。伊沢氏は、讃岐国人と人的つながりを強め、その統治や外交を支えていたと研究者は推測します。
 こうしてみると阿波三好家は、讃岐の土地支配権・裁許権を握り、国人らを配下に編成し軍事動員・外交を行えるようになっていたことがうかがえます。讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっています。そして、元亀四年に、西讃岐侵略を主導した篠原長房が粛正されると、その後は阿波三好家による直接的な讃岐支配が進展します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」
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「細川両家記」によると、江口合戦に際し、阿波・讃岐勢は三好長慶を支持したと記します。しかし、阿波の細川氏之・三好実休が畿内に軍事遠征することなかったようです。三好長慶が求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除でした。そのため四国からは長慶の下剋上ではなく、京兆家の内紛として中立を維持したとも考えられます。

三好長慶の挙兵
三好長慶の挙兵 
江口合戦後の讃岐国人の動きを見ることで、彼らの行動原理や四国情勢を読み取りましょう。まず阿波三好氏の讃岐支配の拠点となったという十河氏を押さえておきます。

十河氏の細川氏支配体制へ

十河氏2

しかし、これらの動きは南海通記など近世になって書かれた軍記ものによって、組み立ててられた者です。ちなみに一存が史料に最初に登場するのは1540(天文9)年です。その時には「三好孫次郎(長慶)弟」「十河孫六郎」と記されています。三好氏から讃岐の十河家に養子に入って以後のことです。そのため十河一存は、十河家当主として盤石な体制を当初から持っていた、そして細川晴元ー三好長慶ー十河一存という臣下関係の中にいたと私は思っていたのですが、どうもそうではないようです。
  【史料1】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」
去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言
八月廿八日              (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
  意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言
八月廿八日           (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
一存が十河城を不当に奪収しようとしているということは、それまで十河城は十河一存のものではなかったことになります。また、後の晴元陣営に一存に敵対する十河一族がでてきます。ここからは一存は十河氏の当主としては盤石な体制ではなかったことがうかがえます。十河一存が、足下を固めていくためには讃岐守護家である京兆家の支持・保護を得る必要がありました。そのための十河一存のとった動きを追いかけます。
  【史料2】細川晴元書状「大東急記念文庫所蔵文書」
就出張儀、其本働之儀申越候之処、得其意候由、先以神妙候、恩賞事、以別紙本知申会候、急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、
八月十八日          晴元(花押)
十河民部人夫殿
意訳変換しておくと
この度の出張(遠征)について、その働きが誠に見事で神妙なものだったので、恩賞を別紙の通り与える。急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、
天文17(1549)年8月18日 
            (細川)晴元(花押)
十河民部人夫(一存)殿
1549(天文17)年8月頃から主君晴元と兄長慶が対立するようになります。このような情勢下で、十河一存は細川晴元に味方し、「本知」を恩賞として認められていることがこの史料からは分かります。ところが、一存は翌年6月までには兄長慶に合流しています。
つまり、細川晴元方だったのに、兄三好長慶が担いだ細川氏綱方へ転じたのです。

細川晴元・三好氏分国図1548年
細川晴元と三好長慶の勢力図(1548年)
①次弟・三好実休率いる阿波三好は江口の戦いには参戦しなかった。
②十河一存は細川晴元側にいたが、長慶が氏綱方と結んだのを契機に氏綱方へ転じた。
ということになります。その背景を研究者は次のように考えています。当初の三好長慶が細川晴元に求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除だけで、晴元打倒ではありませんでした。ところが晴元が瓦林春信を重用するなど敵対的態度をとったので、晴元に代わる京兆家当主として氏綱を擁立するようになります。その背景には、当初は晴元と長慶は和解するものと思って、一存は晴元に味方しますが、長慶が細川氏綱を擁立するようになると、氏綱による十河城の「本知」安堵が可能となります。それを見て一存は晴元の下から離脱し、兄長慶を味方することになったというのです。
 こうして一存は躊躇する兄長慶に対し、晴元攻撃を強く主張するようになります。それは晴元が新たに十河氏の対抗当主を擁立しないうちに決着を付けたいという思惑が一存にあったからかもしれません。その後の一存は、氏綱配下で京都近郊で活動します。ここからは十河一存が京兆家被官の地位を維持していることが分かります。

三好長慶の勢力図3

東讃岐守護代家の安富氏の動きを見ておきましょう。
まず、細川晴元と安富氏の当主・又三郎との関係です。
【史料3】細川晴元吉状写「六車家文書」
為当国調差下十河左介(盛重)候之処、別而依人魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、
四月二十二日           (細川)晴元(花押影)
安富又二郎殿
意訳変換しておくと
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属ししたので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、
四月二十二日                  晴元(花押影)
安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。1557(弘治3)年12月に、晴元は十河又四郎を通じて東讃岐の寒河氏の帰順を図っていますが、これはうまくいかなかったようです。細川晴元の支配下にあった東讃岐の勢力が三好方に靡き始めるのは、この頃からのことのようです。
西讃岐守護代家の香川之景も細川晴元の支配下にあったことを見ておきましょう。
  【史料4】細川晴元書状「尊経閣文庫所収文書」
就年始之儀、太刀一腰到来候、令悦喜候、猶波々伯部伯(元継)者守呼申候、恐々謹言、
二月廿九日            (細川)晴元(花押)
香川弾正忠殿
意訳変換しておくと
年始の儀で、太刀一腰をいただき歓んでいる。なお波々伯部伯(元継)は守呼申候、恐々謹言、
二月廿九日                   晴元(花押)
香川弾正忠(之景)殿
香川之景が細川晴元に年始に太刀を送った、その返書です。両者が音信を通じていたことが分かります。
次の史料は、香川之景が晴元の讃岐計略を担っていたことを示します。
  【史料5】細川晴元書状「保阪潤治氏所蔵文書」
其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠(之景)与相談、無落度様二調略肝要候、猶石津修理進可申候、謹言、
卯月十二日             晴元(花押)
奈良千法師丸殿
意訳変換しておくと
讃岐国については変化もなく、合戦や災害などの別儀もないことを喜入る。領地経営や調略については香川弾正忠(之景)と相談して落度のないように進めることが要候である。なお石津修理進可申候、謹言、
卯月十二日             細川晴元(花押)
奈良千法師丸殿
奈良氏は聖通寺城主とされますが史料が少なく、謎の多い武士集団です。その奈良氏に対して、細川晴元が「別儀」がないことを喜び、香川之景との相談の上で「調略」をすすめることを求めています。香川之景は西讃岐守護代家として西讃岐の晴元方のリーダーでした。以上のように、香川之景は積極的に晴元と連絡を取りながら反三好活動を行っていたことがうかがえます。
このような中で1553(天文22)年6月に細川氏之(持隆)が三好実休と十河一存に殺害されます。
なぜ氏之が殺害されたのか、その原因や背景がよく分かりません。「細川両家記」では、十河一存の「しわざ」とされ、「昔阿波物語」でも見性寺に逃亡した氏之を一存が切腹させたと記します。ここからは、一存が中心となって氏之殺害したことがうかがえます。この背景には、讃岐情勢が関係していると研究者は考えています。多度津の香川之景は氏之の息がかかった人物で、晴元は之景を通じて氏之との関係調整を図っていました。しかし、氏之が晴元派となってしまえば、守護代家が晴元と結んでいる讃岐に加え、阿波も晴元派となります。そうなると、晴元を裏切ったことで十河氏当主の地位を確立した一存は排除される恐れが出てきます。一存には四国での晴元派の勢力拡大を阻止するという政治的目的がありました。これが氏之を殺害する大きな動機だと研究者は考えています。

三好長慶の戦い

 江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。そして、三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。

1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。そして長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味するようです。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。阿波と讃岐の軍勢が一体化が進んでいます。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていくのです。
 その中で香川氏は反三好の旗印を下ろしません。
それに対する三好軍の対香川氏戦略を年表化しておきます
1559(永禄2)年 瀬戸内海の勢力を巻き込んで香川氏包囲網形成し、香川氏の本拠地・天霧城攻撃
1563(永禄6)年 天霧城からの香川氏の退城
1564(永禄7)年 これ以降、篠原長房の禁制が出回る
1565(永禄8)年 この年を最後に香川氏の讃岐での動き消滅
1568(永禄11)年 備中の細川通童の近辺に香川氏が亡命中
ここからは、西讃岐は篠原長房の支配下に入ったと研究者は考えています。
Amazon.co.jp: 戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書) : 和三郎, 若松: Japanese Books

三好支配時期の讃岐に残る禁制は、全て篠原長房・長重父子の発給です。

三好氏当主によるものは一通もありません。ここからは篠原父子の禁制が残る西讃岐は、香川氏亡命後は篠原氏が直接管轄するようになったことが分かります。一方、宇多津の西光寺に残る禁制では長房・長重ともに禁制の処罰文言を「可被処」のように、自身ではなく上位権力による処罰を想定しています。ここからは宇多津は三好氏の直轄地で、篠原氏が代官として統治していたことがうかがえます。ここでは、この時期の篠原氏は西讃岐に広範な支配権をもっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」

       
 前回は、16世紀初頭の永世の錯乱期の讃岐と阿波の関係を三好之長を中心に見ました。今回は阿波の細川晴元を中心に見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」です。

細川晴元
細川晴元
 細川晴元は応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の嫡系(ひ孫)という血筋になります。1507年に政元が暗殺される『細川殿の変』を発端として、永世の錯乱と呼ばれる細川京兆家の家督争いが始まります。
永世の錯乱抗争図3

この争いのなかで、細川晴元の父・澄元は、細川高国に負けて阿波に逃げてきます。その後も高国の圧迫を受けて、すっかり弱ってしまった父は細川晴元が7歳のときに阿波・勝瑞城(しょうずいじょう)で亡くなります。父の復讐を果たそうと晴元は、宿敵・細川高国を討ち果たすことに執着した、というのが軍記ものの伝えるところです。
 14歳になった細川晴元は、阿波国人・三好元長(長慶の父)の助けを借りてクーデターを起こします。
1527年の桂川原の戦いで細川高国が率いる幕府軍を倒し、将軍家もろとも高国を京から追い出すことに成功します。
細川高国・晴元分国図
細川晴元と高国の分国(1530年)

細川晴元と三好元長は、将軍と管領逃げ出してもぬけのからになった京に代わって、摂津の堺さかいに『堺公方府(さかいくぼうふ)』という幕府っぽいものをつくり拠点とします。これは細川晴元をリーダーとした擬似幕府でしたが、2年ほどで三好元長とけんか別れします。すると雌伏していた細川高国が報復の動きを開始します。そこで仕方なく三好元長と仲直りして再度手を握り、1531年の大物(だいもつ)崩れに勝利します。
 こうして、『永正の錯乱』と呼ばれた細川京兆家の内輪揉うちわもめに、父の仇かたきを討って勝利した細川晴元は、室町幕府の最高権力者となります。こうなると晴元にとって堺公方府の意味はなくなります。この結果、堺公方府を自分の権力拠点としていた三好元長との関係が悪化します。

両細川家の戦い
永世錯乱後の細川家の内紛

 そんな中で、河内守護・畠山氏と木沢長政の争いが起こります。
畠山氏の援軍に向かった三好元長に、細川晴元は山科本願寺の一揆軍を誘導してぶつけます。これが1532年の『天文の錯乱』を招く大混乱を招くことになり、この騒動に巻き込まれた三好元長は自害します。ここまでは晴元の策略どおりでしたが、一向一揆軍が暴徒化してしまい手におけなくなります。そこで山科本願寺を焼き討ちにして弾圧しますが、これが火に油を注ぐ結果となり、怒った本願寺と全面抗争に発展してしまいます。

三好家と将軍

細川晴元が巻き起こした『法華一揆』の大炎上を翌年に収束させたのが、三好元長の子・千熊丸(12歳 長慶長慶)です。
この時の千熊丸は、まだ子どもでしたが「これは使える」と思った細川晴元は家臣に加えます。しかし、千熊丸の父・三好元長は細川晴元に裏切られて殺されたようなものです。この子は胸の奥に復讐心を抱いていました。三好長慶(ながよし)と名乗るようになった千熊丸は、幕府をもしのぐ大物になり、細川晴元を京から追放します。
 
細川晴元・三好氏分国図1548年

以上のように、細川晴元は細川高国との争いを制して、室町幕府の中枢に君臨し、幕政を意のままにしました。しかし、細川京兆家の内紛に明け暮れ、盛衰を繰り返すうち、家臣の三好長慶によって政権から遠ざけられ、幽閉先の摂津・普門寺城で亡くなります。1563年3月24日、享年50歳で亡くなります。死因は不明。
   
細川晴元の動きを追いかけてきましたが、ここで讃岐に目を転じます。
晴元が畿内での足場を確かにするようになると、讃岐では守護代家の安富氏や香川氏が次のような書下形式の文書を発給し始めます。

  宇多津 本妙寺
本妙寺(宇多津)  
【史料1】安富元保書下「本妙寺文書」
当寺々中諸諜役令免除上者、□不可有相違状如件
享禄二一
正月十六日            (安富)元保(花押)
宇多津 法化堂(本妙寺)

東讃守護代の安富元保が宇多津の日蓮宗本妙寺(法華堂)の諸役免除特権を書下形式で発給したものです。ここには京兆家当主・細川晴元の諸役免除を前提にする文言はありません。元保は自分の判断で諸役免除を行ったようです。
 ちなみに瀬戸内海交易ルートを押さえるために細川氏や三好氏が着目したのが本門法華宗の末寺から本山に向けた人やモノの流れです。細川晴元が「堺幕府」を樹立しますが、その背景には,日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れの利用価値を認め、法華宗を通じて流通システムを握ろうとする考えがあったことは以前にお話ししました。
 また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
 長慶は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき,法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。その拠点のひとつが宇多津の本妙寺ということになります。
次は三豊の秋山氏の菩提寺である日蓮宗の本門寺を見ておきましょう。
【史料2】香川元景書下「本門寺文書」
讃岐国高瀬郷之内法花堂之事、泰忠置文上以 御判并景任折紙旨、不可有相違之由、所可申付之状如件、
天文八 六月一日         (香川)元景 花押
西谷藤兵衛尉殿
意訳変換しておくと
讃岐国高瀬郷の法花(華)堂(本門寺)について、(秋山)泰忠の置文と(守護代)の香川和景の折り紙を先例にして、諸役免除特権を認める。この書状の通り相違ない。
天文八(1538)年 六月一日                              
             (香川)元景 花押
西谷藤兵衛尉殿

守護代の香川元景が西谷藤兵衛尉に、本門寺(法華堂)について「泰忠置文」と「御判」と香川和景の折紙を先例にして書下形式で諸役免除を認めることを申し付けています。ここでの「御判」は、京兆家当主の文書を指すようで、香川和景の文書と、晴元以前の当主の文書が並べられます。京兆家の文書は、守護代家の当主発給文書と並列される先例で、ここでも讃岐在地の香川元景は、細川晴元の意志や命令に拠らずに、西谷氏に命令していると研究者は評します。

この2つの史料からは、東讃岐守護代家安富氏、西讃岐守護代家香川氏が京兆家当主の晴元からの上意下達によらず、自身の判断によって政治的な判断を下していることが分かります。それでは、晴元の威光が届かなくなっていたのかと思いますが、そうではないようです。
晴元が讃岐の在地支配に関与している例を見ておきましょう。
  【史料3】飯尾元運奉書「秋山家文書」
讃岐国西方三野郡水田分事、如元被返付記、早可致全領知之由候也、乃執達如件、
大永七 十月七日      (飯尾)元運(花押)
秋山幸久丸殿
  「史料4」飯尾元運・徳阿連署状「覚城院文書」
当院棟別事、令免許申上者、更不可有別儀候、恐々謹言、
甲辰
十二月廿日           (飯尾)元連(花押)
                 徳阿(花押)
覚城院御同宿中
発給者の一人飯尾元連は、細川晴元の奉行人です。【史料4】は千支から年次から天文13(1544)年であることが分かります。讃岐仁尾の覚城院に対し、晴元の奉行人が棟別銭の免除を行っています。ここからは大永年間には晴元の奉行人が讃岐の行政を担っていたことが分かります。以上から、細川晴元の讃岐支配には、次の2つのチャンネルがあったことを押さえておきます。
①守護代の安富・香川氏よる支配
②畿内の奉行人による京兆家当主の支配
次に細川晴元が讃岐国人を、どのように軍事編成して畿内に送り込んでいたかを見ていくことにします。

  【史料5】細川晴元感状写「三代物語」
去年十二月六日至三谷弥五郎要害大麻(多度郡)、香西甚五郎取懸合戦時、父五郎四郎討死尤神妙也、謹言、
三月七日           六郎(晴元)花押
小比賀桃千代殿
意訳変換しておくと
昨年12月6日に、大麻(多度郡)の三谷弥五郎との合戦の際に、香西甚五郎とともに奮戦した、(小比賀桃千代の)父・五郎四郎が討死したことは神妙である、謹言、
三月七日           六郎(晴元)花押
小比賀桃千代殿
年紀がありませんが晴元が実名でなく幼名の六郎で花押を据えているので、発給年次は1531年から34年のことと研究者は判断します。宛所は讃岐国人の小比賀氏です。香西甚五郎とともに讃岐国多度郡大麻にある三谷氏を攻撃した際に、父が名誉の戦死をしたことへの感状です。ここからは次のようなことが分かります。
①1530年代に、多度郡大麻には三谷弥五郎が拠点を構え、細川晴元に反抗していたこと
②讚岐国人の小比賀氏と香西氏は、晴元に従軍していたこと

  【史料6】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」
去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言
八月廿八日   晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
  意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく。謹言
八月廿八日             (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪います。これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して忠節を尽くすよう求めています。ここからは讃岐で軍事的行動の命令を発するのは晴元であり、それを東讃守護代安富家が指揮していることが分かります。

細川晴元は、讃岐の兵を畿内にどのように輸送していたのでしょうか
 【史料7】細川晴元書状写「南海通記」第七
出張之事、諸国相調候間、為先勢明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候、猶香川可申候也、謹言、
七月四日        晴元判
西方関亭中
意訳変換しておくと
「京への出張(上洛戦)について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務める(海上輸送)ことが肝要である。香川氏にも申し付けてある」で

日付は七月四日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭中」です。
この史料は「両細川家の争い」の時に晴元が命じた畿内への動員について、香西成資が『南海通記巻七』の中で説明した文章です。宛先は「西方関亭中」とありますが、これが多度津白方の海賊(海の水軍)山地氏のことで、その意味を補足すると次のようになります。
「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」
 つまりこの書状は細川晴元から山地氏への配船依頼状と研究者は考えています。晴元は西讃岐の軍勢を山路氏の船団で畿内に輸送していたことが分かります。西讃守護代(香川氏)とも協議した上での命令であるとしています。海賊衆を動員する際には、香川氏がこれを取り次いでいたことがうかがえます。ここからは、京兆家 → 東西の守護代家 → 讃岐国人という指令回路で軍事動員が行われていたことが裏付けられます。

「琴平町史 史料編」の「石井家由緒書」のなかに、次のような文書の写しがあります。
同名右兵衛尉跡職名田等之事、昆沙右御扶持之由被仰出候、所詮任御下知之旨、全可有知行由候也、恐々謹言。
         武部因幡守  重満(花押)
 永禄四年六月一日       
 石井昆沙右殿
意訳変換しておくと
同名(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田について、毘沙右に扶持として与えるという御下知があった。命の通りに知行するように 

差出人は花押のある「武部因幡守重満」で、宛先は石井昆沙右です。
差出人の武部因幡守は阿波細川氏の家臣で、主君の命令を西讃の武士たちに伝える奉行人でした。
享禄4年(1532)は、細川晴元と三好元長が細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年になります。石井昆沙右らは細川晴元の命に従い、西讃から出陣し、その恩賞として所領を宛行われたことが分かります。石井氏は、永正・大永のころ小松荘松尾寺で行われていた法華八講の法会の頭人をつ勤めていたことが「金毘羅大権現神事奉物惣帳」から分かります。そして、江戸時代になってからは五条村(現琴平町五条)の庄屋になっています。戦国時代の石井氏は、村落共同体を代表する土豪的存在であって、地侍とよばれた階層の武士であったようです。
 以上の史料をつなぎ合わせると、次のような事が見えてきます。
①石井氏は小松荘(現琴平町)の地侍とよばれた階層の武士であった
②石井氏は細川晴元に従軍して、その恩賞として名田を扶持されている。
これを細川晴元の立場から見ると、丸亀平野の地侍級の武士を軍事力として組織し、畿内での戦いに動員しているということになります。そして、戦功を挙げた者には恩賞を与えています。

1546(天文15)年に、対立する細川氏綱が攻勢をかけて苦境に陥ると、晴元はまたもや四国勢を動員します。
8月に十河一存が讃岐国人を率いて畿内に渡海したと「細川両家記」にはあります。しかし、讃岐の軍事動員は東西守護代家が行っていたことは先に見たとおりです。十河一存に軍事指揮権はありません。また、この時期の一存は十河氏の当主の地位すら覚束ない状態です。讃岐国人を率いていたいうのは、一存への過大評価であると研究者は指摘します。これに対して、阿波勢の畿内渡海は10月に細川氏之が指揮権を握って出陣しています。ここからも讃岐と阿波では、軍事指揮系統が異なっていたことが裏付けられます。2つの指揮系統があったのです。
 1547(天文16)年2月以降、翌年4月に終戦し帰国するまで、讃岐・阿波勢は一括して「四国衆」と呼ばれています。
この間は、讃岐衆の香西五郎左衛門と阿波の細川氏之や三好実休は行動を共にしてます。7月の舎利寺の戦いでは、阿波では篠原盛家、淡路では安宅佐渡守、伊予では藤田山城が戦死しています。ここからは、阿波・讃岐・淡路・伊予の細川氏勢力圏の国人たちが「四国衆」として共に軍事行動することはあったことが裏付けられます。しかし、阿波勢を率いるのは細川氏之で、氏之が讃岐勢を指揮したこと史料からは確認できません。この時点でも阿波と讃岐の軍事的連携は強まっていましたが、指揮権は未だ統合されていなかったことを押さえておきます。

以上から次のようにまとめておきます。
①16世紀中頃になっても讃岐は行政・軍事両面ともに京兆家の管轄下にあったこと
②その一方で、「四国衆」のように軍事的に阿波と讃岐を一括視する見方も現れたこと
細川晴元政権の後半になると讃州家(阿波守護)も讃岐に影響力を持つようになること。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)

戦国時代の阿波と讃岐は、細川氏とその臣下の三好氏が統治したために、両国が一体としてみられてきました。そのため讃岐の支配体制を単独で見ていこうとする研究がなかなかでてきませんでした。研究が進むに連れて、阿波と讃岐の政治的動向が必ずしも一致しないことが分かってきます。ここにきて讃岐の政治的な動向を阿波と切り離して見ていこうとする研究者が現れます。今回は16世紀初頭の永世の錯乱期の讃岐と阿波の関係を三好之長を中心に押さえておきます。テキストは「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配  四国中世史研究17号(2023年) 」です。
馬部隆弘氏は、細川澄元の上洛戦を検討する中で、次の事を明らかにします。
①永世の錯乱の一環として讃岐を舞台に高国派と澄元派の戦闘があったこと
②澄元が阿波勢力の後援を受けていたわけではないこと
讃岐は畿内で力を持つ京兆家、
阿波は阿波守護職を世襲した讃州家の分国
で、両家の権限は基本的に分立していたことを押さえておきます。
天野忠幸氏は、もともとは別のものであった阿波と讃岐が、細川氏から三好氏に権力が移る中で、三好氏によって讃岐の広域支配権をめざすようになり同一性を高めていったとします。

讃岐は細川京兆家の当主による守護職の世襲が続きます。

細川京兆家
細川京兆家
他の家に讃岐の守護職が渡ったことはありません。守護代職も東部は安富氏、西部は香川氏が務める分業体制が15世紀前半には成立して、他の勢力が讃岐守護代となることもありませんでした。讃岐は、室町期を通じて守護である京兆家細川氏と二人の守護代によって支配されてきたことを押さえておきます。讃岐に讃州家(阿波守護)が介入してくるのは、16世紀初頭までありません。
讃州家被官系(阿波守護)の人脈が讃岐の統治に介入してくる最初の例が三好之長(みよし ゆきなが)のようです。
三好之長2
三好之長
  三好之長は、三好長慶の曾祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将とされます。之長は、阿波の有力の国侍だったという三好長之の嫡男として誕生し、阿波守護であった細川氏分家・讃州家(阿波守護家)の細川成之に仕えます。

三好家と将軍

ただし、之長ら讃州家から付けられた家臣の立場は讃州家と京兆家に両属する性格を持っていたと研究者は指摘します。当時は、このような両属は珍しいことではなかったようです。

永世の錯乱3

永正の錯乱前後の三好之長の動きを年表で見ておきます
永正4(1507年) 政元・澄元に従って丹後の一色義有攻めに参戦
6月23日 細川政元が香西元長や薬師寺長忠によって暗殺される。
  24日 宿舎の仏陀寺を元長らに襲撃され、澄元と近江に逃亡。
8月 1日 細川高国の反撃を受けて元長と長忠は討たれる
   2日 之長は近江から帰洛し、澄元と共に足利義澄を将軍に擁立     
 この時に京兆家当主となった澄元より、之長は政治を委任されたとされます。しかし、実権を握った之長には増長な振る舞いが多かったため、澄元は本国の阿波に帰国しようとしたり、遁世しようとして両者の間はギクシャクします。阿波細川家出身の澄元側近の之長が京兆家の中で発言力を持つことに畿内・讃岐出身の京兆家内衆(家臣)や細川氏の一門の間で反発が高まっていきます。
そんな中で讃岐に出されているのが【史料1】三好之長書状案「石清水文書」です。
香川中務丞(元綱)方知行讃岐国西方元(本)山同本領之事、可被渡申候、恐々謹言
永正参
十月十二日           之長
三好越前守殿
篠原右京進殿
日付は1506(永正3)年10月12日、三好之長が三好越前守と篠原右京進にあてた文書です。内容は、香川中務丞(元綱)の知行地である讃岐国の西方元山(三豊市本山町)の本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じています。この時期は、政元と阿波守護細川家との間で和睦が成立した時期です。その証として澄元が都に迎えられたのが、この年4月のことです。三好之長から香川中務丞に対して本領が返還されたのは、その和解の結果と研究者は推測します。つまり、政元と阿波守護家とが対立していた期間に讃岐国は三好之長の軍勢によって侵攻を受け、守護代家の香川氏の本領が阿波勢力によっ軍事占領され、没収されていたことを示すというのです。これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 永正2年4月~5月に、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた軍勢が讃岐国へ攻め入っています。
どうして讃岐守護代の香川・安富氏が讃岐に侵攻するのでしょうか。それは讃岐が他国の敵対勢力に制圧されていたことを意味すると研究者は指摘します。このときの敵対勢力とは、誰でしょか。それは阿波三好氏のようです。
  「大乗院寺社雑事記」の明応4年(1495)3月1日には、次のように記されています。
讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子遣之処、両人共二責殺之。於千今安富可罷下云々。大儀出来。ムレ兄弟於讃岐責殺之。安富可罷立旨申之処、屋形来秋可下向、其間可相待云々。安富腹立、此上者守護代可辞申云々。国儀者以外事也云々。ムレ子息ハ在京無相違、父自害、伯父両人也云々。

意訳変換しておくと
讃岐国で蜂起が起こった時に、京兆家被官の牟礼氏を鎮圧のために派遣したが、逆に両人ともに討たれてしまった。そこで、守護代である安富元家が下向しようとしたところ、来秋下向する予定の主人政元にそれまで待つよう制止された。その指示に対して安富元家は、怒って守護代を辞任する意向を示した。

この記事からも明応4年2月から3月はじめにかけてのころ、安富氏の支配する東讃地方では「蜂起」が起こって、三好之長に軍事占領されたいたことがうかがえます。
さて史料1「三好之長書状案」の宛所となっている三好越前守は何者なのでしょうか?
  それを解くヒントが【史料2】三好越前守書状写「太龍寺重抄秘勅」です。
軍陳為御見舞摩利支天之御礼令頂戴候、御祈祷故軍勝手開運珍重候、即讃州於鶴岡五十疋令券進候、遂武運長久之処頼存候、遂所存帰国之砌、知行請合可申候、恐々頓首、
九月         三好越前守
太龍寺
  意訳変換しておくと
舞摩利支天の御礼を頂戴し、祈祷によって勝利の道を開くことができたことは珍重であった。よって讃州・鶴岡の私の所領五十疋を寄進する。武運長久の頼り所については、(私が阿波に)帰国した際に、知行請合のことは処置する、恐々頓首、
九月         三好越前守判
(阿波)太龍寺
阿波の太龍寺から勝利のための祈祷を行ったとの知らせを受けた三好越前守は、それが戦勝に繋がったとして、讃岐鶴岡の所領を寄進しています。ここからは次のような事が分かります。
①「帰国之砌」とあるので、越前守は讃岐に地盤を持ちながらも阿波を本拠地としていたこと
②篠原有京進も讃州家の被官なので、【史料1】の宛所2名はどちらも讃州家(阿波守護)の被官であったこと。つまり、ここからも讃岐が三好之長による侵攻を受けて、一部の所領が奪われていたことが分かります。ここでは、永世の錯乱の一環として讃岐を舞台に高国派と澄元派の戦闘があり、阿波の勢力が讃岐に進出し、所領を持っていたことを押さえておきます。
 こうして阿波勢力の三好氏が京兆家の讃岐に勢力を伸ばしてきます。これに対してする反発も強かったようです。1508(永正五)年に澄元は畿内で勢力を失うと、讃岐経営に専念するようになり、京兆家の讃岐支配を強化する動きを見せます。そんな中で1510(永正七)年に、澄元の奉行人飯尾元運が奉書を発給しています。それを受けて守護代香川備前守に遵行を命じたのは西讃岐守護代家の香川元景で、三好之長ではありません。澄元は讃岐掌握を進める上で、従来の守護代家の香川氏の命令系統を使っていることを押さえておきます。
 永正八年の澄元の上洛戦では、讃岐でも澄元方と高国方の戦闘がありました。
永世の錯乱2

之長はこの時、高国方の西讃岐守護代香川元綱と通じていたようです。その背景には澄元の讃岐経営から排除された不満があったと研究者は推測します。
 三好之長が讃岐進出を進めた背景は何なのでしょうか。
そこには之長が京兆家被官も兼ねていることがあったようです。そのため之長が京兆家から排除されると之長の讃岐進出は挫折します。ところがここで之長にとって、次のような順風が吹きます。
①1511(永正八)年の澄元の上洛戦が失敗
②その直後に細川成之・之持といった当主格が死去し、讃州家が断絶
③そうすると澄元にとって、讃州家再興が優先課題に浮上
④その結果、澄元による阿波勢力掌握が進展
1519(永正16)年の上洛戦で澄元軍の主力は、安富氏・香川氏などの讃岐守護代家と阿波の讃州家被官の混成軍で構成されています。これらの軍勢を率いたのが三好之長です。混成軍だったために主君の細川澄元が病によって動けなくなると、讃州家被官や讃岐守護代家は之長を見捨てて離脱してしまいます。実態は讃岐(京兆家)が阿波(讃州家)を従える形で上洛戦が展開されたことがうかがえます。

 秋山家文書からも秋山氏が澄元に従っていたことが分かります。
1 秋山源太郎 櫛梨山感状
          細川澄元感状    櫛梨合戦 

    去廿一日於櫛無山
致太刀打殊被疵
由尤神妙候也
謹言
七月十四日         澄元(細川澄元)花押
秋山源太郎とのヘ
読み下し変換しておきましょう。
去る廿一日、櫛無山(琴平町)に於いて
太刀打を致し、殊に疵を被るの
由、尤も神妙に候なり、
謹言
七月十四日
           (細川)澄元(花押)
秋山源太郎とのヘ
 切紙でに小さい文書で縦9㎝横17・4㎝位の大きさの巻紙を次々と切って使っていたようです。これは、戦功などを賞して主君から与えられる文書で感状と呼ばれます。これが太刀傷を受けた秋山源太郎の下に届けられたのでしょう。戦場で太刀傷を受けることは不名誉なことでなく、それほどの奮戦を行ったという証拠とされ、恩賞の対象になったようです。 この文書には年号がありませんが状況から推定して、櫛無山の合戦が行われたのは永正八(1511)年頃と研究者は考えています。「櫛無山」は、現在の善通寺市と琴平町の間に位置する岡で、後の元吉城とされます。 上の感状の論功行賞として出されたのが次の文書です。

1 秋山源太郎 櫛梨山知行
 秋山源太郎 櫛梨山知行

 讃岐の国西方の内、秋山
備前守跡職、所々散在
被官等の事、新恩として
宛行れ詑んぬ、早く
領知を全うせらるべきの由候なり、依って執達
件の如し
永正八             (飯尾)
十月十三日         一九運(花押)
秋山源太郎殿
この文書は、この前の感状とセットになっています。飯尾元運が讃岐守護細川氏からから命令を受けて、秋山源太郎に伝えているものです。讃岐の西方にある秋山備前守の跡職を源太郎に新たに与えるとあります。秋山備前守とは、秋山家惣領の秋山水田のことと研究者は考えているようです。

1秋山氏の系図4
秋山氏系図(Aが源太郎)


この文書の出された背景としては、永世の錯乱で香川氏・香西氏・安富氏などの讃岐の守護代クラスの国人らが、澄之方に従軍して討ち死にしたことがあります。そして秋山一族の中でも、次のような対立がおきていました。
①庶流家の源太郎は、細川澄元方へ
②惣領家の秋山水田は、細川澄之方へ
 この対立の発火点が櫛梨合戦だったようです。澄之方について敗れた秋山水田は所領を奪われ、その所領が勝者の澄元側につき武功を挙げ源太郎に与えられます。ここで秋山家の惣領家と庶流家の立場が入れ替わります。永世の錯乱という中央での争いで、勝ち組についた方が生き残るのです。管領細川氏の相続争いが讃岐の秋山氏一族の勢力争いにも直結しているのが分かります。
 この文書の発給人の飯尾元運を見ておきましょう。。
彼は阿波の細川氏の奉行人である飯尾氏と研究者は考えています。ここからは、秋山家の惣領となった源太郎が、最初は細川澄元に接近し、その後は細川高国方に付いて、淡路守護家や阿波守護家の細川氏に忠節・親交を尽くしていることが分かります。その交流を示す史料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。
 どうして、源太郎は京兆家でなく阿波守護家を選んだのでしょうか? それは阿波守護家が細川澄元の実家で、政元継嗣の最右翼と源太郎は考えていたようです。応仁の乱前後(1467~87)には、讃岐武将の多くが阿波守護細川成之に従軍して、近畿での軍事行動に従軍していました。そのころからの縁で、細川宗家の京兆家よりも阿波の細川氏に親近感があったとのかもしれません。
 淡路守護家との関係は、永正七(1510)年6月17日付香川五郎次郎遵行状(25)からも推察できます。
 高瀬郷内水田跡職をめぐって源太郎と香川山城守とが争論となった時に、京兆家御料所として召し上げられ、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなります。この没収地の変換を、源太郎は細川尚春に求めていくのです。そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせ、臣下の礼をとり尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けます。その礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されているのは以前にお話ししました。これを見ると、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来などが見えてきます

淡路守護細川尚春周辺から源太郎へ宛の書状一覧表を見てみましょう
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧1
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧
まず発給者の名前を見ると大半が、「春」の字がついています。
ここから細川淡路守尚春(以久)の一字を、拝領した側近たちと推測できます。これらの発給者は、細川尚春(以久)とその奉行人クラスの者と研究者は考えているようです。一番下の記載品目を見てください。これが源太郎の贈答品です。鷹類が多いのに驚かされます。特に鷹狩り用のハイタカが多いようです。
 1520(永正17)年の澄元の上洛戦は失敗し、澄元本人もその直後に亡くなってしまいます。澄元陣営は、管轄が違う阿波と讃岐を束ねる必要に迫られます。

【史料三】瓦林在時・湯浅国氏・篠原之良連署奉書「秋山家文書」        讃岐国西方高瀬内秋山幸比沙(久)知行本地并水田分等事、数度被成御下知処、競望之族在之由、太無謂、所詮退押妨之輩、年貢諸公物等之事、可致其沙汰彼代之旨、被仰出候也、恐々謹言、
永正十八九月十三日        瓦林日向守   在時(花押)
              湯浅弾正   国氏(花押)
              篠原左京進  之良(花押)
当所名主百姓中

意訳変換しておくと
讃岐国・西方高瀬内の秋山幸比沙(久)の知行本地、并びに水田分について、数度の下知が下されているが、領地争いが起こっているという。改めて申しつける。押妨の輩を排除し、年貢や諸公物について、沙汰通りに実施せと改めて通知せよ 恐々謹言、
永正十八(1521)九月十三日
        瓦林日向守      在時(花押)
       湯浅弾正   国氏(花押)
       篠原左京進  之良(花押)
当所 名主百姓中

1520(永世17)年には、三好之長が上京しますが、細川高国に敗れます。そして、播磨に落ちのびた澄元は急死します。その翌年の永正18年の讃岐への奉書は、奉行人ではなく新当主の晴元の側近たちによって書状形式で発給されています。別の連状に「隣国」とあるので、彼らは阿波にいたことが分かります。ここからは晴元が京兆家の分国として押さえているのは讃岐で、阿波ではなかったことが分かります。しかし、晴元が幼少であることや阿波勢の離反を防ぐために阿波に拠点をおくことを選択したと研究者は推測します。
 研究者がここで注目するのは、連署している3人の側近メンバーです。
①摂津国人の瓦林氏
②晴元側近として京兆家被官となった湯浅氏
③讃岐家被官の篠原之良
彼らは讃岐とどんな関係があったのでしょうか?
③の篠原氏は讃州家被官の立場で【史料3】に署名していると研究者は推測します。
 この時期の三好氏は、西讃岐進出をねらっています。その動きに篠原氏もそれに従っていたからでしょう。晴元が幼少という政治不安を抱える中で、讃岐支配に阿波勢力を排除すると、阿波勢力の離反を招きかねないため、篠原氏を讃岐支配に関与させたと研究者は推測します。
以上をまとめておくと
①16世紀初頭の永世年間の讃岐の支配権は澄元が握っていた
②それを阿波にいる京兆家被官・奉行人が支配を担当した。
③阿波勢力の協力を得るために讃州家被官を出自とする氏族が讃岐支配に関与することはあった。
④しかし、讃州家が直接的に讃岐支配に関与することはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配  四国中世史研究2023号」
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伊予の河野氏の守護大名から戦国大名への成長についての講演録集に出会いましたので、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは 「永原啓二   伊予河野氏の大名領国――小型大名の歩んだ道  中世動乱期に生きる91p」です。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 戦国時代になると国全体を一人の大名が支配していくようになります。それが大名領国で、これを成し遂げた大名を見ると先祖が守護をつとめている者が多かったようです。それでは伊予の河野氏はどうなのでしょうか?
南北朝の初めに、河野通盛が足利尊氏から守護職を与えられます。まず、その背景を見ておきましょう。

足利尊氏の九州逃避図
足利尊氏の九州逃避と再上洛系図

 これは後醍酬天皇の建武政権に対して、鎌倉に下った尊氏が背いた直後になります。尊氏は鎌倉から京都に攻め上りますが、京都を維持できずに九州まで落ちのびます。しかし、たちまちのうちに勢力を盛り返し、海陸を進んで湊川合戦を経て京都に入ります。このときに、河野通盛は水軍を率いて尊氏を颯爽と迎え、尊氏の軍事力の有力な軍事力の一員となります。それが認められての守護任命のようです。
 足利尊氏は、守護には出来るだけ多く足利一門を任命するという方針を持っていたようです。それからすれば、河野氏は尊氏にとっては外様です。にもかかわらず河野氏を守護任命にしたのは別格の扱いといえます。それほど尊氏にとって、河野氏の水軍は貴重だったことを押さえておきます。
伊予守護職に就いた 河野通盛は、これを契機に本拠を伊予川風早郡の河野郷から松山の湯築に移します。

河野氏居城
伊予河野氏の拠点

「伊予中央部に進出して伊予全体ににらみをきかす」という政治的、軍事的意図がうかがえます。河野氏は南北朝という新しい時代に、水軍力で一族発展の道を摑んだとしておきます。

その後の通朝(みちとも)、通尭(みちたか)の代には、河野氏は波乱に襲われます。
管領職の細川氏が、備前・讃岐を領国として瀬戸内海周辺の国々を独り占めするような形で、守護職を幾つも兼ねるようになります。

管領細川氏の勢力図
         管領職 細川氏の勢力図

上図を見ると分かるように、讃岐・阿波・土佐・和泉・淡路・備中といった国々はみな細川一族の守護国になります。
 足利義満が将軍になったころは、南北朝の動乱の真っ只中でした。義満は父の義詮が早く死んだので、十歳で将軍になります。その補佐役になったのが細川頼之で、中央政治の実権を握っていた時代が10年ほど続きます。長期の権力独占のために、身内の足利一門の中からも反発が多くなり、頼之は一時的に失脚します。そして自分の拠点国である讃岐の宇多津に下り、そこで勢力挽回をはかります。それに、細川の一族の清氏が、幕府との関係がまずくなって四国に下ってきた事件も重なります。
 このような情勢の中で頼之は、讃岐から伊予の宇摩、新居の東伊予二郡へ軍を進めます。それを迎え撃った河野氏の通朝・通尭は、相次いで戦死してしまいます。当主が二代にわたって戦死するという打撃のために、河野氏の勢力伸張は頓挫してしまいます。それでもその後の通義の代にも伊予の守護職は、義満から認められています。この点については、足利義満が戦死した父のあとに河野通尭を守護に補任した文書が残っています。それ以降は、河野氏の守護職世襲化が続きます。

伊予河野氏の勢力図
 守護が世襲化されるようになると、国人・地侍級の武士たちを守護は家来にするようになります。
そうなると国内の領地に対する支配力もますます強くなります。さらに、守護は国全体に対して、段銭と呼ぶ一種の国税をかける権利をもつようになります。「家臣化 + 国全体への徴税権」などを通じて、守護は軍事指揮官から国全体の支配者に変身していきます。これが「守護による領国化」です。
 こうしてみると河野氏には、守護の立場を梃子にして大名領国体制を形成していく条件は十分にあったことになります。しかし、結果はうまくいきませんでした。どうしてなのでしょうか?

そこで研究者が注目するのは、河野氏が日常的にはどこにいたかです。
河野氏は伊予よりも都にいた方が多かったようです。河野氏は将軍の命令で、あっちこっちに転戦していたことが史料からも分かります。
この当時、諸国の守護は、京都にいるよう義務付けられていました。
ただし、九州と東国は別のようです。九州と東国の守護は在京しなくてよいのですが、西は周防、長府、四国から東は駿河までの守護は在京勤務義務がありました。河野氏も在京していたのは、他の守護と変わりありません。
 ところが軍役については「家柄による格差」があったことを研究者は指摘します
在京守護の中で、河野氏は格式が低かったようです。そのため戦争となるとまっさきに軍事動員されていることが史料で裏付けられます。大守護たちは軍事動員されて戦争に行くことを避けようとします。関東で足利持氏が反乱を起こしたときなど、将軍の義教はかなリヒステリックで、すぐ軍事行動を起こそうとします。しかし、畠山や細川など三管領の政府中枢の大守護たちは、できるだけ兵力発動を行わないように画策します。別の言い方をすれば「平和的解決の道」で、軍役負担を負いたくないというのが本音です,
そういう中で河野氏のような外様の弱い立場の守護たちに、まず動員命令が下され第一線に立たされています。
もちろん、河野氏だけが動かされたわけではありません。嘉占の乱の場合には、山陰に大勢力を持って、赤松の領国を取り巻く国々を押さえていた山名氏が討伐軍の主力になります。そして好機と見れば、戦功を挙げて守護国を増やしています。それに比べると河野氏は、いつも割りの悪い軍事動員の役を負わされたと研究者は指摘します。このため河野氏は大変な消耗を強いられます。
当時の合戦は、将軍から命令を受けても、兵糧や軍資金をくれるわけではありません。
自前の軍事力、経済力で出兵というのが、古代の防人以来のこの国の習わしです。河野氏が度重なる動員を行えたというのは、その背景に相当の経済力をもっていたことになります。
以上をまとめておくと
①室町時代半ばになると有力な守護が領国体制を作り上げていた。
②その時期に、河野氏は相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されていた。
③これは河野氏の領国支配体制の強化がお留守になっていたことを意味する。
④別の見方をすると瀬戸内海交易で得た財力が、国内統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用されたことになる。
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったと研究者は指摘します。そう考えると河野氏はある意味で、守護であることによってかえって貧乏クジをひいたともいえます。守護でなければ、国内に留まり、瀬戸内海交易を通じて得た財力で周囲を切り従えて戦国大名へという道も開けたかもしれません。
  こうして見てくると、讃岐に香川氏以外に戦国大名が現れなかった背景が見えてくるような気がします。讃岐も管領細川家の軍事供給として「讃岐の四天王」と呼ばれる武士団が畿内で活躍します。しかし、それは本国の領国支配への道をある意味では閉ざした活動でした。学ぶ点の多いテキストでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」

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前回は、生駒藩重臣の尾池玄蕃が大川権現(大川神社)に、雨乞い踊り用の鉦を寄進していることを見ました。おん鉦には、次のように記されています。

鐘の縁に
「奉寄進讃州宇多郡中戸大川権現鐘鼓数三十五、 為雨請也、惟時寛永五戊辰歳」
裏側に
「国奉行 疋田右近太夫三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛  願主 尾池玄番頭」
意訳変換しておくと
讃岐宇多郡中戸(中通)の大川権現(大川神社)に鐘鼓三十五を寄進する。ただし雨乞用である。寛永五(1628)年
国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛 
願主 尾池玄蕃
ここに願主として登場する尾池玄蕃とは何者なのでしょうか。今回は彼が残した文書をみながら、尾池玄蕃の業績を探って行きたいと思います。
尾池玄蕃について「ウキ」には、次のように記します。
 尾池 義辰(おいけ よしたつ)通称は玄蕃。高松藩主生駒氏の下にあったが、細川藤孝(幽斎)の孫にあたる熊本藩主細川忠利に招かれ、百人人扶持を給されて大坂屋敷に居住する。その子の伝右衛門と藤左衛門は生駒騒動や島原の乱が起こった寛永14年(1637年)に熊本藩に下り、それぞれ千石拝領される。
「系図纂要」では登場しない。「姓氏家系大辞典」では、『全讃史』の説を採って室町幕府13代将軍足利義輝と烏丸氏との遺児とする。永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。
出生については、天文20年(1551年)に足利義輝が近江国朽木谷に逃れたときにできた子ともいうあるいは「三百藩家臣人名事典 第七巻」では、義輝・義昭より下の弟としている。
 足利将軍の落とし胤として、貴種伝説をもつ人物のようです。
  尾池氏は建武年間に細川定禅に従って信濃から讃岐に来住したといい、香川郡内の横井・吉光・池内を領して、横井に横井城を築いたとされます。そんな中で、畿内で松永久通が13代将軍足利義輝を襲撃・暗殺します。その際に、側室の烏丸氏女は義輝の子を身籠もっていましたが、落ちのびて讃岐の横井城城主の尾池玄蕃光永を頼ります。そこで生まれたのが義辰(玄蕃)だというのです。その後、成長して義辰は尾池光永の養子となり、尾池玄蕃と改名し、尾池家を継ぎいだとされます。以上は後世に附会された貴種伝承で、真偽は不明です。しかし、尾池氏が香川郡にいた一族であったことは確かなようです。戦国末期の土佐の長宗我部元親の進入や、その直後の秀吉による四国平定などの荒波を越えて生き残り、生駒氏に仕えるようになったようです。
鉦が寄進された寛永五(1628)年の前後の状況を年表で見ておきましょう。
1626(寛永3)年 旱魃が続き,飢える者多数出で危機的状況へ
1627(寛永4)年春、浅田右京,藤堂高虎の支援を受け惣奉行に復帰
同年8月 西島八兵衛、生駒藩奉行に就任
1628(寛永5)年10月 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手 
     尾池玄蕃が大川権現(神社)に鉦を寄進
1630(寛永7)年2月 生駒高俊が,浅田右京・西島八兵衛・三野四郎左衛門らの奉行に藩政の精励を命じる
1631(寛永8)年2月 満濃池完成.

ここからは次のようなことが分かります。
①1620年代後半から旱魃が続き餓死者が多数出て、逃散が起こり生駒家は存亡の危機にあった
②建直しのための責任者に選ばれたのが三野四郎左衛門・浅田右京・西島八兵衛の三奉行であった
③奉行に就任した西嶋八兵衛は、各地で灌漑事業を行い、満濃池築造にも取りかかった。
④同年に尾池玄蕃は大川権現に、雨乞い用の鉦を寄進している。
3人の国奉行の配下で活躍する尾池玄蕃が見えて来ます。

尾池玄蕃の活動拠点は、どこにあったのでしょうか?
尾池玄蕃の青野山城跡
三宝大荒神にある青野山城跡の説明版

丸亀市土器町三丁目の三宝大荒神のコンクリート制の社殿の壁には、次のような説明版が吊されています。そこには次のように記されています。
①ここが尾池玄蕃の青野山城跡で、西北部に堀跡が残っていること
②尾池一族の墓は、宇多津の郷照寺にあること
③尾池玄蕃の末子義長が土器を賜って、青野山城を築いた。
この説明内容では、尾池玄蕃の末っ子が城を築いたと記します。それでは「一国一城令」はどうなるの?と、突っ込みを入れたくなります。「昭和31年6月1日 文化指定」という年紀に驚きます。どちらにしても尾池玄蕃の子孫は、肥後藩や高松藩・丸亀藩にもリクルートしますので、それぞれの子孫がそれぞれの物語を附会していきます。あったとすれば、尾池玄蕃の代官所だったのではないでしょうか? 
旧 「坂出市史」には次のような「尾池玄蕃文書」 (生駒家宝簡集)が載せられています。
預ケ置代官所之事
一 千七百九拾壱石七斗  香西郡笠居郷
一 弐百八石壱斗     乃生村
一 七拾石        中 間
一 弐百八拾九石五斗   南条郡府中
一 弐千八百三十三石壱斗 同 明所
一 三千三百石八斗    香西郡明所
一 七百四拾四石六斗   □ □
  高合  九千弐百三拾七石八斗
  慶長拾七(1615)年 正月日                   
           (生駒)正俊(印)
  尾池玄蕃とのへ
この文書は、一国一城令が出されて丸亀城が廃城になった翌年に、生駒家藩主の正俊から尾池玄蕃に下された文書です。「預ケ置代官所之事」とあるので、列記された場所が尾池玄蕃の管理下に置かれていたことが分かります。香西郡や阿野南条郡に多いようです。
 生駒家では、検地後も俸給制が進まず、領地制を継続していました。
そのため高松城内に住む家臣団は少なく、支給された領地に舘を建てて住む家臣が多かったことは以前にお話ししました。さらに新規開拓地については、その所有を認める政策が採られたために、周辺から多くの人達が入植し、開拓が急速に進みます。丸亀平野の土器川氾濫原が開発されていくのも、この時期です。これが生駒騒動の引き金になっていくことも以前にお話ししました。
 ここで押さえておきたいのは、尾池玄蕃が代官として活躍していた時代は生駒藩による大開発運動のまっただ中であったことです。開発用地をめぐる治水・灌漑問題などが、彼の元には数多く持ち込まれてきたはずです。それらの解決のために日々奮戦する日々が続いたのではないかと思います。そんな中で1620年代後半に襲いかかってくるのが「大旱魃→飢饉→逃散→生駒藩の存続の危機」ということになります。それに対して、生駒藩の後ろ盾だった藤堂高虎は、「西嶋八兵衛にやらせろ」と命じるのです。こうして「讃岐灌漑改造プロジェクト」が行われることになります。それ担ったのが最初に見た「国奉行 三野四郎左衛門 浅田右京進 西嶋八兵衛」の3人です。そして、尾池玄蕃も丸亀平野方面でその動きを支えていくことになります。満濃池築堤や、その前提となる土器川・金倉川の治水工事、満濃池の用水工事などにも、尾池玄蕃は西嶋八兵衛の配下で関わっていたのではないかと私は考えています。
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以前に紹介したように「多度津町誌史料編140P 南鴨山寺家文書(念仏踊文書)」に、尾池玄蕃が登場します
年記がわからないのですが、7月1日に尾池玄番は次のような指示を多度郡の踊組にだしています。
以上
先度も申遣候 乃今月二十五日之瀧宮御神事に其郡より念佛入候由候  如先年御蔵入之儀は不及申御請所共不残枝入情可伎相凋候  少も油断如在有間敷候
恐々謹言
七月朔日(1日)       (尾池)玄番 (花押)
松井左太夫殿
福井平兵衛殴
河原林し郎兵衛殿
重水勝太夫殿
惣政所中
惣百姓中
  意訳変換しておくと
前回に通達したように、今月7月25日の瀧宮(牛頭天王社)神事に、多度郡よりの念佛踊奉納について、地元の村社への御蔵入(踊り込み)のように、御請所とともに、精を入れて相調えること。少しの油断もないように準備するように。

以後の尾池玄蕃の文書を整理すると次のようになります。
①7月 朔日(1日) 尾池玄番による滝宮神社への踊り込みについての指示
②7月 9日  南鴨組の辻五兵衛による尾池玄蕃への踊り順確認文書の入手
③7月20日  尾池玄蕃による南鴨踊組への指示書
④7月25日 踊り込み当日の順番についての具体的な確認
  滝宮神社への踊り込み(奉納)が7月25日ですから、間近に迫った段階で、奉納の順番や鉦の貸与など具体的な指示を細かく与えています。また、前回に那珂郡七箇村組と踊りの順番を巡っての「出入り」があったことが分かります。そこで、今回はそのような喧嘩沙汰を起こさぬように事前に戒めています。
 ここからは尾池玄蕃が滝宮牛頭天皇社(神社)への各組の踊り込みについて、細心の注意を払っていたことと、地域の実情に非常に明るかったことが分かります。どうして、そこまで玄蕃は滝宮念仏踊りにこだわったのでしょうか。それは当時の讃岐の大旱魃対策にあったようです。当時は旱魃が続き農民が逃散し、生駒藩は危機的な状況にありました。そんな中で藩政を担当することになった西嶋八兵衛は、各地のため池築堤を進めます。満濃池が姿を見せるのもこの時です。このような中で行われる滝宮牛頭天皇社に各地から奉納される念仏踊りは、是非とも成功に導きたかったのでないか。 どちらにしても、次のようなことは一連の動きとして起こっていたことを押さえておきます。
①西嶋八兵衛による満濃池や用水工事
②滝宮牛頭天王社への念仏踊り各組の踊り込み
③尾池玄蕃による大川権現(神社)への雨乞用の鉦の寄進
そして、これらの動きに尾池玄蕃は当事者として関わっていたのです。
真福寺3
松平頼重が再建した真福寺

 尾池玄蕃が残した痕跡が真福寺(まんのう町)の再建です。
 真福寺というのは、讃岐流刑になった法然が小松荘で拠点とした寺院のひとつです。その後に退転しますが、荒れ果てた寺跡を見て再建に動き出すのが尾池玄蕃です。彼は、岸上・真野・七箇などの九か村(まんのう町)に勧進して堂宇再興を発願します。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったようです。ここからは、尾池玄蕃が寺院勧進を行えるほど影響力が強かったことがうかがえます。
 しかし、尾池玄蕃は生駒騒動の前には讃岐を離れ、肥後藩にリクルートします。檀家となった生駒家家臣団が生駒騒動でいなくなると、真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重です。その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。それが現在地(まんのう町岸の上)に建立された真福寺になります。
  以上をまとめておきます。
①尾池玄蕃は、戦国末期の動乱期を生き抜き、生駒藩の代官として重臣の地位を得た
②彼の活動エリアとしては、阿野郡から丸亀平野にかけて活躍したことが残された文書からは分かる。
③1620年代後半の大旱魃による危機に際しては、西嶋八兵衛のもとで満濃池築堤や土器川・金倉川の治水工事にあったことがうかがえる。
④大川権現(神社)に、念仏踊の雨乞用の鉦を寄進するなどの保護を与えた
⑤法然の活動拠点のひとつであった真福寺も周辺住民に呼びかけ勧進活動を行い復興させた。
⑥滝宮牛頭天王社(神社)の念仏踊りについても、いろいろな助言や便宜を行い保護している。
以上からも西嶋八兵衛時代に行われ「讃岐開発プロジェクト」を担った能吏であったと云えそうです。
 尾池玄蕃は2000石を拝領する重臣で、優れた能力と「血筋」が認められて、後には熊本藩主に招かれ、百人扶持で大坂屋敷に居住しています。二人の子供は、熊本藩に下り、それぞれ千石拝領されています。生駒騒動以前に、生駒藩に見切りをつけていたようです。
玄蕃の子孫の中には、高松藩士・丸亀藩士になったものもいて、丸亀藩士の尾池氏は儒家・医家として有名でした。土佐藩士の尾池氏も一族と思われます。
    
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


教科書では、秀吉の検地と刀狩りによって兵農分離が進み、村にいた武士たちは城下町に住むようになったと書かれています。そのため近世の村には武士は、いなくなったと思っていました。しかし、現実はそう簡単ではないようです。

香川叢書
香川叢書
  師匠からいただいた香川叢書第二(名著出版1972年)を見ていると、「高松領郷中帯刀人別」という史料が目にとまりました。
これは、宝暦年間の高松藩内の郷士・牢人などの帯刀人を一覧化したもので、その帯刀を許された由来が記されています。ここには「郷中住居之御家来(村に住んでいる家臣)」とあって、次の12名の名前が挙げられています。

高松藩 郷中住居の御家来
        高松領郷中帯刀人別(香川叢書第2 273P)

郷居武士は、藩に仕える身ですが訳あって村に居住する武士です。
近世初頭の兵農分離で、武士は城下町に住むのが普通です。分布的には、中讃や高松地区に多くて、大内郡などの東讃にはいないようです。彼らは、村に住んでいますが身分的には、れっきとした武士です。そのため村内での立場や位置は、明確に区別されていたようです。 藩士は高松城下町に居住するのが原則でしたが、村に住む武士もいたようです。
どうして、武士が村に住んでいたのでしょうか。
高松藩では、松平家の一族(連枝)や家老などを務める「大身家臣」には、専属の村を割り当てて、その村から騎馬役や郷徒士・郷小姓を出す仕組みになっていたと研究者は推測します。
 高松藩の郷居武士12名について、一覧表化したものが「坂出市史近世編上 81P」にありました。
高松藩の郷居武士1

この一覧表からは、次のようなことが分かります。
①宝暦期と万延元(1860)を比べると、3家(*印)は幕末まで存続しているが、他は入れ替わっている
②宝暦期の郷居武士では、50石を与えられた者がいて、他も知行取である
③これに対して万延元年では、知行取でも最高が50石で、扶持米取の者も含まれている
④ここからは全体として郷居武士全体の下層化がみられる
⑤宝暦期では「御蔵前」(蔵米知行)で禄が支給される者と、本地が与えられている者、新開地から土地が与えられている者のに3分類される
⑥宝暦期は、家老の組織下にある大番組に属する者が多いが、万延元年には留守居寄合に属する者が多くなつている
以上から郷居武士の性格は時代と共に変遷が見られることを研究者は指摘します。
高松藩の郷居武士分布図
郷居武士の分布(1751年) 
郷居武士の分布は高松以西の藩領の西側に偏っています。これはどうしてなのでしょうか?     
特に阿野郡・那珂郡に集中しています。これは、仮想敵国を外様丸亀京極藩に置いていたかも知れません。次のページを見てみましょう。

高松藩帯刀人 他所牢人。郷騎馬
高松領郷中帯刀人別 郷騎馬・他所牢人代々帯刀

次に出てくるのが郷騎馬です。これは武士ではなく帯刀人になります。その注記を意訳しておくと、
(藩主の)年頭の御礼・御前立の間に並ぶことができる。扇子五本入りの箱がその前に置かれ、お目見えが許される。代官を召し連れる。
一 総領の子は親が仕えていれば、引き続いて帯刀を許す。
一 役職を離れた場合は、帯刀はできず百姓に戻る。
郷騎馬は、連枝や家老格に従う騎乗武士で、馬の飼育や訓練に適した村から選ばれたようです。役職を離れた場合には百姓に戻ると書いてあります。郷騎馬として出陣するためには、若党や草履取などの従者と、具足や馬具・鈴等の武装も調えなければなりません。相当な財力がないと務まらない役目です。それを務めているのが6名で。その内の2名が、那珂郡与北村にいたことを押さえておきます。

続いて「他所牢人代々帯刀」が出てきます。

高松藩帯刀人 他所牢人
高松領郷中帯刀人別・他所牢人代々帯刀
牢人は、次の3種類に分かれていました。
①高松藩に仕えていた「御家中牢人」
②他藩に仕えていたが高松藩に居住する「他所牢人」
③生駒家に仕えていた「生駒壱岐守家中牢人」
②の他所牢人の注記例を、上の表の後から2番目の鵜足郡岡田西村の安田伊助で見ておきましょう。
祖父庄三郎が丸亀藩京極家山崎家に知行高150石で仕えていた。役職は中小姓で、牢人後はここに引越てきて住んでいる。

このように、まず先祖のかつての仕官先と知行高・役職名などが記されています。彼らは基本的には武士身分で、帯刀が認められていました。仕官はしていませんが、武士とみなされ、合戦における兵力となることが義務づけられていたようです。
 丸亀藩が長州戦争の際に、警備のために要所に関所を設けたときにも、動員要因となっていたことを以前にお話ししました。藩境の警備や番所での取り締まりを課せられるとともに、軍役として兵力を備え、合戦に出陣する用意も求められていたようです。いわゆる「予備兵的な存在」と捉えられていたことがうかがえます。

牢人たちの経済状況は、どうだったのでしょうか。
坂出市史近世編(上)78Pには、 天保十四年「御用日記」に、牢人の「武役」を果たす経済的能力についての調査結果が一覧表で示されています。
高松藩帯刀人 他所牢人の経済力

これによると、牢人に求められたのは「壱騎役」と「壱領壱本」です。「壱騎役」は騎乗武士で、「壱領壱本」は、歩行武士で、具足一領・槍が必要になります。従者も引き連れたい所です。そうすると多額の経費が必要となります。阿野北郡に住む牢人に「丈夫に相勤め」られるかと問うた返答です。
①「丈夫に相務められる(軍務負担可能)」と答えたのは3名、
②「なるべくに相勤めるべきか」(なんとか勤められるか)」と保留したのが5名
③「覚束無し」としたのが1名
という結果です。ここからは、軍務に実際に参加できるほどの経済力をもつた牢人は多くはなかったことがうかがえます。

次に、一代帯刀者を見ていくことにします。

高松藩帯刀人 一代 浦政所
        高松領郷中帯刀人別 一代帯刀

一代帯刀は、一代限りで帯刀が認められていることです。その中で最初に登場するのが円座師です。その注記を意訳変換しておくと
円座師
年頭の御礼に参列できる。その席順は御縁側道北から7畳目。円座一枚を前に藩主とお目見え。なお、お目見席の子細については、享保18年の帳面に記されている。
鵜足郡上法勲寺 葛井 三平 
7人扶持。延享5年4月22日に、親の三平の跡目を仰せつかる。
ここからは円座の製作技法を持った上法勲寺の円座職人の統領が一代
帯刀の権利をえていたことが分かります。彼は、年頭お礼に藩主にお目通りができた役職でもあったようです。
その後には「浦政所」12名が続きます。
浦政所とは、港の管理者で、船子たちの組織者でもありました。船手に関する知識・技術を持っていたので、藩の船手方から一代帯刀が認められています。一代帯刀なので、代替わりのたびに改めて認可手続きを受けています。
例えば、津田町の長町家では、安永年間(1777~85)中は養子で迎えられた当主が幼年だったので一代帯刀を認められていない時期がありました。改めて一代帯刀を認めてもらうよう願い出た際に「親々共之通、万一之節弐百石格式二而軍役相勤度」と述べています。ここからは、船手の勤めを「軍役」として認識していたことがうかがえます。これらの例からは、特殊な技術や知識をもって藩に寄与する者に対して認められていたことが分かります。

一代帯刀として認められている項目に「芸術」欄があります。

高松藩帯刀人芸術 
      高松領郷中帯刀人別 一代帯刀 芸術
どんな職種が「芸術」なのかを、上表で見ておきましょう。
①香川郡西川部村の国方五郎八は、「河辺鷹方の御用を勤めた者」
②那珂郡金倉寺村の八栗山谷之介や寒川郡神前村の相引く浦之介は、「相撲取」として
③那珂郡四条村の岩井八三郎は、「金毘羅大権現の石垣修理
④山田群三谷村の岡内文蔵は、「騎射とその指導者」

阿野郡北鴨村の庄屋七郎は、天保14(1843)年に「砂糖方の御用精勤」で、御用中の帯刀が認められています。この他にも、新開地の作付を成功させた者などの名前も挙がっています。以上からは、藩の褒賞として帯刀許可が用いられていたことが分かります。
 ここまでを見てきて私が不審に思うのは、経済力を持った商人たちの帯刀者がいないことです。「帯刀権」は、金銭で買える的な見方をしていたのがですが、そうではないようです。

  帯刀人や郷居武士などは、高松藩にどのくらいいたのでしょうか? 
 郷居武士1 宝暦年間
          宝暦(1751年)ころの郡別帯刀人数(坂出市史81P)
ここからは次のような事が読み取れます
①高松藩全体で、169人の帯刀人や郷中家来がいたこと。
②その中の郷中家来は、12人しかすぎないこと。
③帯刀人の中で最も多いのは、102人の「牢人株」であったこと。
④その分布は高松城下の香川郡東が最も多く、次いで寒川郡、阿野郡南と続く
⑤郷中家来や代々帯刀権を持つ当人は、鵜足郡や那珂郡に多い。

郷騎馬や郷侍は、幕末期になると牢人や代々刀指とともに、要所警護や番所での締まり方を勤めることを命じられています。在村の兵力としての位置付けられていたようです。また、領地を巡回して庄屋や組頭から報告を受ける役割を果たすこともあったようです。
帯刀人の身分は、同列ではありませんでした。彼らには次のような序列がありました。
①牢人者
②代々刀指
③郷騎馬
④郷侍
⑤御連枝大老年寄騎馬役 
⑥其身一代帯刀之者
⑦役中帯刀之者 
⑧御連枝大老年寄郷中小姓・郷徒士 
⑨年寄中出来家来 
①~④は藩に対して直接の軍務を担う役目です。そのため武士に準じる者として高い序列が与えられていたようです。
⑤も仕えている大身家臣から軍役が課せられたようです。
⑤⑧⑨は大身家臣の軍役や勤めを補助するために、村から供給される人材です。
弘化2(1845)年に、以後は牢人者を「郷士」、それ以下は「帯刀人」と呼ぶ、という通達が出されています。この通達からも①②と、それ以外の身分には大きな差があったことが分かります。
以上、高松藩の村に住んでいた武士たちと、村で刀をさせる帯刀人についてのお話しでした。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
坂出市史」通史 について - 坂出市ホームページ
坂出市史

参考文献
「坂出市史近世編上 81P 帯刀する村人 村に住む武士」
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       長者の娘を治療する童行者
長者の娘を治療する童行者

前回は、童行者(千手観音の化身)が、粉河の河内の長者の一人娘の難病を治して去っていった話を見ました。童行者は粉河にいると言い残していたので、春が来ると長者家族は、そのお礼に出かけることになります。旅装は整い、今まさに出立しようとするところです。その旅立ちの姿を見ておきましょう。

長者出立1
   河内国讃良郡(さららのこおり)の長者舘から旅立つところ
少し拡大して見ます。 
長者出立1.粉河寺縁起JPG

 縁の上に、立烏帽子、狩衣姿で立っているのが長者です。
靴は乗馬用の毛履で、右手に赤い扇子、左手に念珠がかけられています。妻のほうに向いて、何か話しているようです。「準備はできたか、輿は出立したぞ、早くしなさい」とでも言っているのでしょうか。
長者の馬は、左側に描かれています。
妻と同じ水干鞍が載せられ、美しく飾られています。馬の回りには4人の供人が付き添っています。これからの騎乗を助けるのでしょう。

長者出立 妻の馬周り

妻の方は、もうすでに騎乗しています。
黒駒に、真紅の総(ふさ)、金銅づくりの鐙が華やかさを演出します。妻は、居残る侍女から、上半身を覆う虫の垂れ衣を付けた市女笠をかぶせてもらっています。これは、カラムシ(苧麻)の繊維から作られた薄い布で、顔を隠すとともに、虫除けや日除けにもなったようで、女性の旅装の必需品でした。
妻の馬周りの従者を見ておきましょう。
①直垂姿の男が鞍の具合を確かめ、締め直している
②小袖姿の男は、馬の汗が下袴に付かないように垢取(赤鳥)の布を尻懸にかけている。
③肩脱ぎの馬の口取り役男は、しっかりと馬の差縄を掴んでいる。
従者は、膝までの四幅袴(よのばかま)に草鞋の軽装です。こちらも、もういつでも出発できます。もういちど全体を見てみると、左側には、輿が上げられ出立していきます。

P1250289

この中には、童行者から救ってもらった娘がいるのでしょう。
この輿について、見ておきましょう。
手輿の屋形は二本の轅(ながえ)で固定され、屋根は切妻で、前後に簾、左右は物見(窓)になっています。

輿の種類
輿の種類

これは板輿というタイプに分類される輿のようです。輿の乗降の際は、轅(ながえ)を簀子(すのこ)の上に置いて、室内に突き入れるようにします。こうすると、地面に降りることなく室内から輿への乗降ができます。
長者出立 板輿

 板輿は、脛(すね)に脛巾(脚絆)を巻いて草鞋を履いた小袖姿の七人が取り付いています。このうち、前後の中央にいるのが二人が輿舁になります。よく見ると後ろの輿舁は、首に襟のように見える布が巻かれています。これは担い布で、両端が轅に巻き付けられています。

板輿2
             板輿と輿舁

輿舁は、担い布の中央を首筋にかけ、両手で左右の轅を持つのです。こうすると、輿は安定したようです。残りの者が輿副たちで、輿舁の両側で轅を持っています。輿の側面で「さあ、出立じゃ」と指示をだしているのがリーダーになるのでしょうか。

板輿

次のシーンは、右から出立した板輿が進んできます。

長者出立 輿と武士団


蔵の前の網代塀の横に跪いているのが警固に従う武士団です。色とりどりの甲冑を着込んでの「盛装」姿です。ちなみに棒先に赤い布が垂れ下がっているのは弓袋だそうです。この中には、予備の弓が入っているようです。長旅には、こうした武装した武士の警固が必要だったようです。ここで私が気になるのは、この長者と武士団の関係です。考えられるのは、次の2つだと思います。
①長者が武士団の棟梁で、武士団を率いていた
②地域の有力者(長者)に武士団が従い、軍事力を提供していた(警護役)
もうひとつの疑問は、武士達がどうして騎馬姿でないのかです。今の私には、よく分かりません。
 輿の前には、侍女が乗った白馬が手綱をひかれて先導します。侍女のいでたちは、妻と同じように虫の垂れ絹に身を包んでいます。白馬に乗る侍女の姿は、街道を行く人達の目を惹いたことでしょう。

これが行者一行の先頭になります
長者出発 先頭

先頭を行くのは、髭面の老武者です。彼は弓を抱え、矢を背負い、腰に野太刀をさしています。これを見ても、当時の武士がもっとも頼りにしていたのは太刀ではなく、弓矢であったことがうかがえます。老武者は、長者の傍ら近く永年仕え、信頼をえていた人物なのでしょう。後を振り返りながら荷駄の者どもを励ましながら、一団を進めています。
 その後の唐櫃には、何が入っているのでしょうか。
上に高杯が結びつけられ、前後には酒の壺が振り分けていますので、食料が入っているようです。もうひとつの長唐櫃の上には、宿居袋(夜具を入れる袋)がくくりつけられているので、長者達の衣類や寝具が入っていると研究者は推測します。どちらにしても、従者の軽快ないでたちとくらべると、長者の荷物は引越かと思えるほどの仰々しさです。これが当時の貴族や地方の長者達の旅装であったことを押さえておきます。
 こうして、長者一行は紀州粉河へと向かって旅立っていきました。その道は、かつて貴族達が熊野詣でを行った熊野街道でもありました。

輿 
京都御所の輿
以上をまとめておくと
①粉河寺縁起には、中世の長者の旅の移動手段や旅装が描かれいること
②そこには騎馬や板輿に従事する人達の姿も描き込まれていて貴重であること。
③さらに供人や警護の武士も描かれていること。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」

今回は『粉河寺縁起』に描かれた河内国の長者の舘を見ていくことにします。
この縁起は、次の2つの物語からなっています。
A 粉河寺(和歌山県紀の川市)の起源譚
B 本尊千手観音の霊験譚
前回は、Aの粉河寺の千手観音の登場を見ました。今回は、Bの千手観音の霊験譚です。物語の要旨は次の通りです。
①河内国讃良郡(寝屋川市)の長者の一人娘が難病に罹っていたのを、童行者が祈祷によって治癒
②お礼に両親から提鞘(小刀)と紅の袴だけを受け取り、粉河で会えることを伝えて去る
③翌春、お礼参りに粉河を訪れた長者一行が、庵の扉を開けると千手観音いて、娘の提鞘と袴を持っていた
④童行者は、千手観音の化身と知り、一行の人々はその場で出家して帰依したと
まずは、河内の長者の館前に、童行者が現れる所からスタートです。

P1250262長者への貢納品

右から左へと、貢納物を背負った里人が長者舘を目指しています。
館前の木の下には完全装備の馬と従者が待機し、いつでも出動できる体制です。
長者舘門前 粉河寺縁起
長者舘の棟門前(粉河寺縁起)
門の前は、深い堀になっているようで、そこに丸太の板橋が架かっています。その橋の上にいるのが、袈裟を付け、数珠を手にした垂髪姿の童行者(千手観音の化身)です。長者の娘の病を聞いて訪れ、門番に取り次ぎを頼んでいます。門番は家の中を指差して応対しています。
 内側には竹藪がめぐり、その外を板塀が囲みます。板橋の前が入口で、そこには櫓門が建っています。上の屋形には、矢の束が見えるので、非常時にはここから矢が撃たれるのでしょう。屋形には帷が垂らされています。このような櫓門は、『一遍上人絵伝』巻四の筑前の武士の館にも描かれています。この時期になると、有力者が武装化し武士団が形成されていたことがうかがえます。ちなみに、『粉河寺縁起』は櫓門が描かれた最も古い史料になるようです。そのためこの部分は、小中の歴史教科書の挿絵として、よく登場します。

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櫓門警護の下部たち(粉河寺縁起) 
櫓門には、警護の武士が三人が坐っています。奥の片膝立ちの武士は、胸当を下に着込んでいます。手前の矢を背負った武士は、弓を板塀に立て掛け、その手前の武士は刀を膝に置いています。いずれも武装しています。ここからは、長者の家の門前が武力によって護られていたことが分かります。そういう対処が必要とされた時代になっていたことが分かります。長者は、その後の武士団の棟梁へと成長していくのかもしれません。

長者舘門前の駒
門前前の駒と口取(粉河寺縁起)
丸木橋前の木の下に坐る男は、口取(馬の轡を取って引く者)でしょう。馬はいつでも乗れるように馬具一式を装備しています。轡に付けた手綱が木に結わえられ、鞭が差し込んであります。腹帯が締められ、鞍には敷物に置かれて、鐙が下がっています。水干鞍(すいかんぐら)と呼ぶ馬具になるようです。この馬も長者の武力の象徴で、ステイタス=シンボルでもあります。 

  庭先には長唐櫃(ながからびつ)が2つ据えられています。
長者屋敷の貢納物

縁先の1つは山の幸である柿・栗・梨・柘招などが、所狭しと盛り上げられています。もうひとつ後から運ばれてくる方には、伊勢エビ・大魚・昆布・さざえなどが盛られています。腰刀を差した男が、よいしょと担ぎ寄せます。狩衣の老人が、手ぶりよろしく口上を述べます。その後に、折枝に雉子を結わえて差し出す男。ほかにも、なにやら大事げに箱を棒げる痩せ男。貧富さまざまながら、彼らの表情は、心なしか暗いように見えます。
  縁にどっかと腰を下ろして、目録に眼を通しているのが、この家に仕える家司のようです。家司のニコニコした顔と、里人の浮かぬ顔が対照的に描き分けられています。
 これらの貢納品が長者の富になります。里人たちは、武力によって生業を保証される代わりに、様々な貢物が要求され関係にあったことが見えて来ます。これを支配・非支配の構図とよぶのでしょう。貢納品は、倉に納められていきます。
 
 そんな中で長者の心配は、娘の不治の病でした。
長者の娘を治療する童行者
長者の娘を治療する童行者(粉河寺縁起)
  治療を任された童の行者は、娘の枕頭で千手陀羅尼を一心に祈り続けます。詞書は、次のように記します。


その効があったのか、しだいに膿もひき 悪血も流れ出て、痛みは止んだ。七日めの朝になると、不思議にもすっかりもとの身体にもどった。びっくりしたのは、長者夫婦。これは、これは、いかなる霊験でしょうか。仏さまがおいでになって、娘を祈り生かしてくださったのだ、うれしやな、うれしやな。さあ、さあ、なんでもお礼にさしあげますぞ。皆のもの、蔵の中を開いて、七珍万宝、なんでも出してこい。と、お礼の品を運び出そうとした。

娘の回復
お礼に蔵から出されてきた財物

ところが、童の行者はそれを押し止めた。いや、いや、わたしは財物欲しさに祈祷をしたのではない。ひとえに、現世を悲しむあまりに、不治の病いに困っている人を助けようとしたまでのこと、構えて心配ご無用に願います、 と、出て行こうとした。

   せめてもに、と差し出された提鞘と紅の袴とを受けると、童の行者は立ち上がった。どちらへお越しでしょうか。いや、わたしは、 どこと居所を定めているわけではない。しかしながら、わたしを恋しく思うことがあれば「我は、紀伊国那賀のこほりに粉河といふ所にはべるなり」と、言い残して出ていった。とたんに、その姿はかき消すように失せて、もはや、どこにもみることはできなかった。
詞書には「くらヽとうせぬ」と記します。
今回は、ここまで。この続きは次回に・・・

16世紀前半の天文年間になると阿波三好氏が讃岐へ侵入を開始し、東讃の国人衆は三好氏の支配下に入れられていきます。その拠点となったのが三好一存を養子として迎えた十河氏です。

十河氏2


十河氏の拠点は香川郡の十河城でした。
こうして十河氏を中心に髙松平野への三好氏の進出が行われます。しかし、この進展を記したものは『南海通記』以外にありません。そして、戦後に書かれた町村史の戦国史は、これに拠るものがおおいようです。また、その後の三好氏による天霧城の香川氏攻めは詳細に記述されているので、軍記物としても読めて人気がありました。しかし、その内容については新たな史料の発掘によって、事実ではないとされるようになっています。今回は南海通記のどこが問題なのかを見ていくことにします。テキストは 橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P

最初に、『南海通記』の三好義賢(実休)による天霧城攻め記述を見ておきましょう。
  (前略)香川五郎刑部大夫景則ハ伊予ノ河野卜親シケレハ是二牒シ合セテ安芸ノ毛利元就二属セント欲ス。是二由テ十河一存ノ旨二与カラス。元就ハ天文廿年二大内家二亡テ三年中間アツテ。弘治元年二陶全菖ヲ討シ。夫ヨリ三年ニシテ安芸、備後、周防、長門、石見五ケ国ヲ治テ、今北国尼子卜軍争ス。其勢猛二振ヘハ香川氏中国二拠ントス。三好豊前守入道実休是ヲ聞テ、永禄元年八月阿、淡ノ兵八千余人ヲ卒シテ、阿波国吉野川二至り六条ノ渡リヲ超テ勢揃シ、大阪越ヲンテ讃州引田浦二到り。当国ノ兵衆ヲ衆ム寒川氏、安富氏来服シテ山田郡二到り十河ノ城二入リ、植田一氏族ヲー党シテ香川郡一ノ宮二到ル。香西越後守来謁シテ計ヲ定ム、綾ノ郡額ノ坂ヲ越テ仲郡二到リ、九月十八日金倉寺ヲ本陣トス。馳来ル諸将ニハ綾郡ノ住人羽床伊豆守、福家七郎、新居大隅守、滝官弥―郎、滝宮豊後守、香川民部少輔、小早川三郎左衛門鵜足郡ノ住人長尾大隅守、新目弾正、本目左衛詞住、山脇左馬充、仲行事、大河、葛西等三好家ノ軍二来衆ス。総テー万人千人、木徳、柞原、金倉二充満ス。一陣々々佗兵ヲ交ス営ヲナス。阿、淡ノ兵衆糧米ハ海路ヨリ鵜足津二運送ス。故ニ守禁ノ兵アリ。 実休此度ハ長陣ノ備ヲナシテ謀ヲ緞クス。
九月十五日実休軍ヲ進メテ多度ノ郡二入ル、善通寺ヲ本陣トス。阿、讃ノ兵衆仲多度ノ間二陣ヲナス。
  ここまでを意訳変換しておくと 
 (前略)香川五郎景則は伊予の河野氏と親密であったので、河野氏と共に安芸の毛利元就に従おうとした。そのため三好氏一族の十河一存による讃岐支配の動きには同調しようとしなかった、元就は天文20年に大内家を滅亡させて、弘治元年には陶氏を滅ぼし、安芸、備後、周防、長門、石見の五ケ国を治めることになった。そして、この時期には尼子と争うようになっていた。毛利氏の勢力の盛んな様を見て、香川氏は毛利氏に従おうとした。
 三好入道実休はこのような香川氏の動きを見て、永禄元年八月に阿波、淡路の兵八千余人を率いて、吉野川の六条の渡りを越えた所で馬揃えを行い、大阪越から讃州引田に入った。そこに東讃の寒川氏、安富氏が加わり、十河存保の居城である山田郡の十河城に入った。ここでは植田一氏族加えて香川郡の一ノ宮に至った。ここには香西越後守が来謁して、戦略を定めた。その後、綾郡の額坂を越えて仲郡に入り、九月十八日には金倉寺を本陣とした。ここで加わったのは綾郡の羽床伊豆守、福家七郎、新居大隅守、滝宮弥―郎、滝宮豊後守、香川民部少輔(西庄城?)、小早川三郎左衛門、鵜足郡の長尾大隅守(長尾城)、新目弾正、本目左衛詞住、山脇左馬充、仲行事、大河、葛(香)等が三好軍に従軍することになった。こうして総勢1,1万人に膨れあがった兵力は、木徳、柞原、金倉周辺に充満した。阿波、淡路ノ兵の兵糧米は、海路を船で鵜足津(宇多津)に運送した。そのために宇多津に守備兵も配置した。 実休は、この戦いででは長陣になることをあらかじめ考えて準備していた。こうして、九月十五日に、実休軍は多度郡に入って、善通寺を本陣とした。そして阿波や、讃岐の兵は、那珂郡や多度軍に布陣した。

内容を補足・整理しておきます。
①天文21年(1552)三好義賢(実休)は、阿波屋形の細川持隆を謀殺し、阿波の支配権を掌握。
②その後に、十河家に養子に入っていた弟の十河一存に、東讃岐の従属化を推進させた。
③その結果、安富盛方と寒川政国が服属し、やがて香西元政も配下に入った。
④しかし、天霧城の香川景則は伊予の河野氏と連絡を取り、安芸の毛利元就を頼り、抵抗を続けた。⑤そこで実休は永禄元年(1558)8月、阿波・淡路の兵を率いて讃岐に入り、東讃岐勢を加えて9月に那珂郡の金倉寺に本陣を置いた。
⑥これに中讃の国人も馳せ参じ、三好軍は1,8万の大部隊で善通寺に本陣を設置した。

これに対して天霧城の香川景則の対応ぶりを南海通記は、次のように記します

香川氏ハ其祖鎌倉権五郎景政ヨリ出テ下総国ノ姓氏也。世々五郎ヲ以テ称シ景ヲ以テ名トス。細川頼之ヨリ西讃岐ノ地ヲ賜テ、多度ノ郡天霧山ヲ要城トシ。多度津二居住セリ。此地ヲ越サレハ三郡二入コトヲ得ス。是郡堅固卜云ヘキ也。相従兵将ハ大比羅伊賀守国清、斎藤下総守師郷、香川右馬助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門栄久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、秋山十郎左衛門其外小城持猶多シ。香川モ兼テ期シタルコトナレハ我力領分ノ諸士、凡民トモニ年齢ヲ撰ヒ、老衰ノ者ニハ城ヲ守ラシメ、壮年ノ者ヲ撰テ六千余人手分ケ手組ヲ能シテ兵将二属ス。香川世々ノ地ナレハ世人ノ積リヨリ多兵ニシテ、存亡ヲ共ニセシカハ阿波ノ大兵卜云ヘトモ勝ヘキ師トハ見ス。殊近年糧ヲ畜へ領中安供ス。
 
 意訳変換しておくと
香川氏は鎌倉権五郎景政が始祖で、もともとは下総国を拠点としていた。代々五郎を称して「景」という一時を名前に使っている。細川頼之から西讃岐の地を給付されて、多度郡天霧山に山城を築いて、普段は多度津で生活していた。(天霧城は戦略的な要地で)ここを越えなければ三野郡に入ることはできない。そのため三野郡は堅固に守られているといえる。香川氏に従う兵将は大比羅(大平)伊賀守国清、斎藤下総守師郷、香川右馬助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門栄久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、秋山十郎左衛門の他にも小城の持主が多い。三好氏の襲来は、かねてから予期されていたので戦闘態勢を早くから固めていた。例えば年齢によって、老衰の者には城の守備要員とし、壮年の者六千余人を組み分けして兵将に振り分けていた。また香川氏の支配領域は豊かで、人口も多く「祖国防衛戦」として戦意も高かった。また。城内には兵糧米も豊富で長期戦の気配が濃厚であった。

こうして善通寺を本陣とする三好郡と、天霧城を拠点とする香川氏がにらみ合いながら小競り合いを繰り返します。ここで不思議なのは、香川氏が籠城したとは書かれていないことです。後世の軍機処の中には、籠城した天霧城は水が不足し、それに気がつかれないように白米を滝から落として、水が城内には豊富にあると見せようとしたというような「軍記もの」特有の「お話」が尾ひれをつけて語られたりしています。しかし、ここには「老衰の者を城の守備要員とし、壮年の者六千余人を組み分けして兵将に振り分けた」とあります。 また、三好軍は兵力配置は、天霧山の東側の那珂・多度郡だけです。南側の三野郡側や、北側の白方には兵が配置されていません。つまり天霧城を包囲していたわけではないようです。籠城戦ではなかったことを押さえておきます。
天霧城攻防図
天霧城攻防図(想像)
南海通記には香川氏の抵抗が強いとみた三好側の対応が次のように記されています。
故二大敵ヲ恐ス両敵相臨ミ其中間路ノ程一里ニシテ端々ノ少戦アリ。然ル処二三好実休、十河一存ヨリ香西越後守ヲ呼テ軍謀ヲ談シテ日、当国諸将老巧ノ衆ハ少ク寒川、安富ヲ初メ皆壮年ニシテ戦ヲ踏コト少シ、貴方ナラテハ国家ノ計謀ノ頼ムヘキ方ナシ、今此一挙是非ノ謀ヲ以テ思慮ヲ遣ス。教へ示シ玉ハ、国家ノ悦ヒコレニ過ヘカラストナリ。香西氏曰我不肖ノ輩、何ソ国家ノ事ヲ計ルニ足ン。唯命ヲ受テーノ木戸ヲ破ヲ以テ務トスルノミ也トテ深ク慎テ言ヲ出サス。両将又曰く国家ノ大事ハ互ノ身ノ上ニアリ。貴方何ソ黙止シ玉フ、早々卜申サルヽ香西氏力曰愚者ノー慮モ若シ取所アラハ取り玉フヘシ。我此兵革ヲ思フエ彼来服セサル罪ヲ適ルノミナリ。彼服スルニ於テハ最モ赦宥有ヘキ也。唯扱ヲ以テ和親ヲナシ玉フヘキコト然ルヘク候。事延引セハ予州ノ河野安芸ノ毛利ナトラ頼ンテ援兵ヲ乞二至ラハ国家ノ大事二及ヘキ也。我香川卜同州ナレハ隔心ナシ。命ヲ奉テ彼ヲ諭シ得失ヲ諭シテ来服セシムヘキ也。

  意訳変換しておくと
こうして両軍は互いににらみ合って、その中間地帯の一里の間で小競り合いに終始した。これを見て三好実休は弟の十河一存に香西越後守(元政)呼ばせて、とるべき方策について次のように献策させた。
「讃岐の諸将の中には戦い慣れた老巧の衆は少ない。寒川、安富はじめ、みな壮年で戦闘経験が少い。貴方しか一国の軍略を相談できる者はいない。この事態にどのように対応すべきか、教へていただきたい。これに応えて香西氏は「私は不肖の輩で、どうして一軍の指揮・戦略を謀るに足りる器ではありません。唯、命を受けて木戸を破ることができるだけです。」と深く謹みの態度を示した。そこで実休と一存は「国家の大事は互の身上にあるものです。貴方がどうして黙止することがあろうか、早々に考えを述べて欲しい」と重ねて促した。そこで香西氏は「愚者の考えではありますが、もし意に適えば採用したまえ」と断った上で、次のような方策を献策した。
 私は現状を考えるに、香川氏が抵抗するのは罪を重ねるばかりである。もし香川氏が降るなら寛容な恩赦を与えるべきである。これを基本にして和親に応じることを香川氏に説くべきである。この戦闘状態が長引けば伊予の河野氏や安芸の毛利氏の介入をまねくことにもなりかねない。それは讃岐にとっても不幸なことになる。これは国家の大事である。私は香川氏とは同じ讃岐のものなので、気心はしれている。この命を奉じて、香川氏に得失を説いて、和睦に応じるように仕向けたい。

要点を整理しておきます。
①善通寺と天霧山に陣して、長期戦になったこと、
②三好実休は長期戦打開のための方策を弟の十河一存に相談し、香西越後守の軍略を聞いたこと
③香西越後守の献策は、和睦で、その使者に自ら立つというものです。
ここに詳細に描かれる香西越後守は、謙虚で思慮深い軍略家で「諸葛亮孔明」のようにえがかれます。このあたりが一次資料ではなく「軍記もの」らしいところで、名にリアルに描かれています。内容も香西氏先祖の自慢話的なもので、南海通記が「香西氏の顕彰のために書かれている」とされる由縁かも知れません。18世紀初頭に南海通記が公刊された当時は、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国(讃岐)の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたことは前々回にお話ししました。

 香西越後守の和議献策を受けて、三好実休のとった行動を次のように記します。

実休ノ曰、我何ソ民ノ苦ヲ好ンヤ。貴方ノ弁才ヲ以テ敵ヲ服スルコトラ欲スルノミ、香西氏領掌シテ我力陣二帰り、佐藤掃部之助ヲ以テ三野菊右衛門力居所へ使ハシ、香川景則二事ノ安否ヲ説テ諭シ、三好氏二服従スヘキ旨ヲ述フ、香川モ其意二同ス。其後香西氏自ラ香川力宅所二行テ直説シ、前年細川氏ノ例二因テ三好家二随順シ、長慶ノ命ヲ受テ機内ノ軍役ヲ務ムヘシト、国中一条ノ連署ヲ奉テ、香川氏其外讃州兵将卜三好家和平ス。其十月廿日二実休兵ヲ引テ還ル。其日ノ昏ホトニ善通寺焼亡ス。陣兵去テ人ナキ処二火ノコリテ大火二及タルナルヘシ。

意訳変換しておくと
実休は次のように云った。どうして私が民の苦しみを望もうか。貴方の説得で敵(香川氏)が和議に応じることを望むだけだ。それを聞いて香西氏は自分の陣に帰り、佐藤掃部之助を(香川氏配下の)三野菊右衛門のもとへ遣った。そして香川景則に事の安否を説き、三好氏に服従することが民のためなると諭した。結局、香川も和睦に同意した。和睦の約束を取り付けた後に、香西氏は自らが香川氏のもとを訪ねて、前年の細川氏の命令通りに、三好家に従い、三好長慶の軍令を受けて畿内の軍役を務めるべきことを直接に約束させた。こうして国中の武将が連署して、香川氏と讃州兵将とが三好家と和平することが約束された。こうして10月20日に実休は、兵を率いて阿波に帰った。その日ノ未明に、善通寺は焼した。陣兵が去って、人がいなくなった所に火が残って大火となったのであろう。

ここには香川氏が三好実休の軍門に降ったこと、そして畿内遠征に従軍することを約したことが記されています。注意しておきたいのは、天霧城が落城し、香川氏が毛利氏にを頼って落ちのびたとは記していないことです。

南海通記に書かれている永禄元年(1558)の実休の天霧城攻めの以上の記述を裏付けるとされてきたのが次の史料(秋山文書)です。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2

意訳変換しておくと
今度の阿波州(三好)衆の乱入の際の十月十一日麻口合戦(高瀬町麻)においては、手を砕かれながらも、敵将の山路甚五郎討ち捕った。誠に比類のない働きは神妙である。(この論功行賞として)三野郡高瀬郷の内、以前の知行分反銭と同郡熊岡・上高野御料所分内丹石を、また新恩として給与する。今後は全てを知行地と認める。この外の公物の儀は、有り様納所有るべく候、在所の事に於いては、代官として進退有るべく候、いよいよ忠節御入魂肝要に候、恐々謹言

年紀がないので、これが永禄元(1558)年のものとされてきました。しかし、高瀬町史編纂過程で他の秋山文書と並べて比較検討すると花押変遷などから、それより2年後の永禄3年のものと研究者は考えるようになりました。冒頭に「阿州衆乱入」の文言があるので、阿波勢と戦いがあったのは事実です。疑わなければならないのは、三好氏の天霧城攻めの時期です。

永禄3、 4年に合戦があったことを記す香川之景の発給文書が秋山家文書にあります。
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
秋山家文書(永禄四年が見える)
 先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、こちらは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高めるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。 先ほどの麻口の戦いと一連の軍功に対しての論功行賞と新恩が秋山兵庫助にあたえられたものと研究者は考えています。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦った結果手にした恩賞です。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、ここからは南海通記の記述に対する疑問が生じます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。しかし、秋山文書を見る限り、それは疑わしくなります。なぜなら、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、香川氏は三好氏に従属したわけではないようです。

三好長慶年表3

天霧城攻防戦の時期の阿波三好氏の動き

また、1558年には三好実休は畿内に遠征中で、四国には不在であったことも一次資料で確認できるようになりました。
つまり、南海通記の「永禄元(1558)年の三好実休による天霧城攻防戦」というのはありえなかったことになります。ここにも南海通記の「作為」がありそうです。

それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
 この時点では三好実休は死去しています。三好軍を率いたのも実休ではなかったことになります。それでは、この時の指揮官はだれだったのでしょうか。それは三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢と研究者は考えています。実休の戦死で、その子長治が三好家の家督を継ぎますが、西讃岐へは篠原長房により侵攻が進められます。永禄7年(1564)、篠原長房は大野原の地蔵院に禁制を出すなど、西讃の統治を行っています。年表化しておくと次のようになります
永禄元年 実休の兄長慶が将軍足利義輝・細川晴元らと抗争開始。実休の堺出陣
永禄6年 篠原長房による天霧城攻防戦
永禄7年 篠原長房の地蔵院(観音寺市大野原)への禁制
ここからは『南海通記』の天霧城攻防戦は、年代を誤って記載されているようです。天霧籠城に至るまでの間に、香川氏と三好勢との小競り合いが長年続いていたが、それらをひとまとめにして天霧攻として記載したと研究者は考えています。
   以上をまとめておきます

①讃岐戦国史の従来の定説は、南海通記の記載に基づいて永禄元(1558)年に阿波の三好実休がその弟十河一存とともに丸亀平野に侵攻し、天霧城攻防戦の末に香川氏は降伏し、三好氏の支配下に収められた(或いは、香川氏は安芸の毛利氏の元へ落ちのびた)とされてきた。
②しかし、秋山家文書には、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できる。
③ここからは、永禄4(1561)年になっても、香川氏はまだ西讃地域を支配していたことが分かる。
④また1558年には三好実休は畿内に遠征していたことが一次資料で確認できるようになった。
⑤こうして1558年に三好実休が天霧城を攻めて、香川氏を降伏させたという南海通記の記載は疑わしいと研究者は考えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P
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 南海通記は同時代史料でなく、伝聞に基づいて百年以上後に書かれたものです。誤りや「作為」もあることを前回までに見てきました。  今回は南海通記が西讃岐守護代で天霧城主・香川氏について、どのように叙述しているのかをを見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P」です。

最初に、西讃岐守護代としての香川氏について「復習」をしておきます。
香川氏は相模国香川荘の出身で、鎌倉権五郎景政の後裔なる者が来讃して香川姓を名乗ったとされます。香川氏の来讃について、次のような2つの説があります。
①『西讃府志』説 承久の乱に戦功で所領を安芸と讃岐に賜り移住してきた
②『全讃史』説  南北朝期に細川頼之に従って来讃した)
来讃時期については、違いがありますが居館を多度津に置いて、要城を天霧山に築城した点は一致します。

DSC05421天霧城

天霧城跡縄張図(香川県中世城館跡詳細分布調査報告)

 香川氏が史料上に始めて出てくるのは永徳元年(1381)になります。
香川彦五郎景義が、相伝地である葛原庄内鴨公文職を京都建仁寺の塔頭永源庵に寄進した記録です。(『永源記』所収文書)。細川頼之が守護の時に弟頼有は、守護代として讃岐に在国していて、香川景義は頼有に従って讃岐に在国しています。ここからは、この頃には香川氏は細川氏の被官となっていたことが分かります。

香川氏の系譜2
香川氏の系譜(香川県史)

次の文書は応永7年(1400)9月、守護細川満元が石清水八幡宮雑掌に本山庄公文職を引き渡す旨の遵行状を香川帯刀左衛門尉へ発給したものです(石清水文書)。ここからは、香川帯刀左衛門尉が守護代であったことが分かります。14世紀末には、香川氏は守護代として西讃岐を統治していたとがうかがえます。
『蔭涼軒日録』の明応2年(1493)6月条には、相国寺の子院である蔭涼軒を訪ねた羽田源左衛門が雑談の中で、讃岐のことを次のように語っています。

①讃岐国は十三郡なり、②六郡香川これを領す、寄子衆また皆小分限なり、然りといえども香川とよく相従うものなり、③七郡は安富これを領す、国衆大分限者これ多し、然りといえども香西党首としてみな各々三味して安富に相従わざるものこれ多しなり

意訳変換しておくと。
①讃岐十三郡のうち六郡を香川氏が、残り七郡を安富氏が支配していること。
②香川氏のエリアでは、小規模な国人武将が多く、よくまとまっている
③安富氏のエリアでは、香西氏などの「大分限者」がいて、安富氏に従わない者もいる
15世紀末には、綾北郡以西の7郡を香川氏が領有していたことが分かります。讃岐の両守護代分割支配は、守護細川氏の方針でもあったようです。讃岐は細川京兆家の重要な分国でした。南北朝末以降は京兆家は常時京都に在京し、讃岐には不在だったことは以前にお話ししました。そのため讃岐は守護代により支配されていました。東讃守護代の安富氏は在京していましたが、香川氏は在国することが多かったようです。結果として、香川氏の在地支配は安富氏以上に強力なものになったと研究者は考えています。

天霧城攻防図

天霧城攻防図
香川氏は多度津に居館を構え、天霧城を詰城としていました。その戦略的な意味合いを挙げて見ると
①天霧城は丸亀平野と三野平野を見下ろす天然の要害地形で、戦略的要地であること
②天霧山頂部からは備讃瀬戸が眺望できて、航行する船舶を監視できる。
③多度津は細川氏の国料船と香川氏の過書船専用の港として栄え、香川氏の経済基盤を支えた。
④天霧城の北麓の白方には、古くから白方衆と呼ばれる海賊衆(山路氏)がいて、香川氏の海上軍事力・輸送力を担った持つことが可能になります。
⑤白方衆は、香川氏が畿内へ出陣する際には水軍として活躍した
⑥現在も天霧城跡から白方へ通じる道が遍路道として残されているが、これは築城当時からのものと研究者は考えています。有事の際には、天霧城からただちに白方の港へと下ったのかもしれません。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳に出てくる多度津周辺をを母港とする輸送船一覧

それでは史料に現れる天霧城主の変遷(香川氏系譜)を見ていくことにします。
守護代を務めた香川氏の当主は、日頃は多度津の舘に生活していたのかも知れません。史料上に天霧城主と記された人物はほとんどでてきません。そのため城主の変遷はよく分かりません。そんな中で『道隆寺温故記』には「雨(天)霧城主」と割注が記された人物が何人かいます。その人物を見ておきましょう。
①康安2年(1362) 藤原長景が多度津道隆寺に花会田を寄進。そこに「天霧城主」が出てきます。
②永和4年(1378) 藤原長景が、宝輪蔵を建立し、一切経を奉納して経田を寄付
「道隆寺温故記」に記された記事の原文書が道隆寺に残っているので、その内容を裏付けられるようです。しかし、もともとは香川氏は平姓で、藤原姓を名乗る長景が香川氏一族かどうかは疑問の残るところです。一歩譲って、永景には香川氏が代々もつ景の字があるので、香川氏の一族かも知れないとしておきます。
③永正7年(1510)12月、白方八幡に大投若経が奉納され、そこに「願主平朝臣清景雨霧城主」とあります。
④永世8年(1511)には五郎次郎が混槃田を道隆寺に寄進。そこにも雨霧城主とあります。
⑤天文6年(1537)3月4日、「不動護摩灯明田、中務丞元景寄付給」

④の永正8年の五郎次郎と比べると、両名の花押が同じです。これは、この年に五郎次郎が香川氏の家督を相続して元景と名乗ったものと研究者は考えています。③の「願主平朝臣清景雨霧城主」とある清景の嫡男が五郎次郎(元景)と研究者は推測します。ここからは香川氏が平氏の子孫と自認していたこと、道隆寺を保護していたことなどが分かります。
⑥永正7年6月五郎次郎の香川備後守宛遵行状(秋山家文書)の花押は、五郎次郎のと花押が同じなので、同一人物のようです。五郎次郎は讃岐守護細川澄元の奉書を承けて又守護代の備後守に遵行しています。ここからは五郎次郎が守護代としての権限を持っていたことがうかがえます。
⑦天文8年(1539)に、元景は西谷妻兵衛に高瀬郷法華堂(本門寺)の特権を安堵することを伝えています(本門寺文書)。そこには「御判ならびに和景の折紙の旨に任せ」とあります。「御判」は文明元年(1469)の細川勝元の安堵状で、「和景の折紙」とは同2年の香川備前守宛の和景書下です。和景以来の本門寺への保護政策がうかがえます。この時期から香川氏は、戦国大名への道を歩み始めたと研究者は考えています。

香川氏発給文書一覧
香川氏の発給文書一覧

ところが⑦の天文8年(1539)以後の香川氏の発給文書は途切れます。そして、約20年後に復活するのが⑧永禄元年(1558)の香川之景が豊田郡室本の麹商売を保障したものです。(観音寺市麹組合文書)。

香川氏花押
            香川之景の花押の変遷
この文書には「先規の重書ならびに元景の御折紙明鏡の上」とあるので、それまでの麹商売への保障を、元景に続き之景も継続して保障することを記したものです。ここからは元景の家督を之景が相続したことがうかがえます。同時に、香川氏の勢力範囲が観音寺までおよんでいたことがうかがえます。領域的な支配をすすめ戦国大名化していく姿が見えてきます。
⑨永禄3年(1560)香川之景が田地1町2段を寄進 天霧城主とはありませんが、記載例から見て之景が城主であることに間違いないようです。

天霧城3
天霧城
以上の史料に出てくる天霧城主が南海通記には、どのように登場してくるのか比較しながらを見ていくことにします。
『南海通記』に出てくる香川氏を一覧表化したのがものが次の表です

南海通記の天霧城主一覧表
南海通記に出てくる天霧城主名一覧表

南海通記に、天霧城主がはじめて登場するのは応仁・享徳年間(1452~55)になるようです。そして天正7年の香川信景まで続きます。しかし、結論から言うと、ここに出てくる人物は、信景以外は先ほど見た史料と一致しません。
 南海通記は、老人からの聞き取りや自らの体験を元に書いたとされます。そのために、時代が遡ればたどるほど不正確になっていることが考えられます。南海通記の作者である香西成資は、自分の一族の香西氏についても正しい史料や系図は持っていなかったことは、以前に見た通りです。史料に出てくる人物と、南海通記の系図がほとんど一致ませんでした、それは香川氏についても云えるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P
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香西成資の『南海治乱記』の記述を強く批判する文書が、由佐家文書のなかにあります。それが「香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年 香川県教育委員会」の中に参考史料として紹介されています。これを今回は見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県中世城館調査分布調査報告
紹介されているのは「前田清八方江之返答(松縄城主・・。)」(讃岐国香川郡由佐家文書)です。その南海治乱記や南海通記批判のエッセンスを最初に見ておきましょう。
南海治乱記と南海通記

南海治乱記の事、当国事ハ不残実説ハ無之候、阿波、淡路ハ三好記、西国大平記、土佐ハ土佐軍記、伊予ハ後太平記、西国大平記、是二我了簡を加書候与見申候、是二茂虚説可有之候ても、我等不存国候故誹言ハ不申候、当国の事ハ十か九虚説二而候、(中略)香西か威勢計を書候迪、(後略)

  意訳変換しておくと
南海治乱記は、讃岐の実説を伝える歴史書ではありません。阿波・淡路の三好記と西国大平記、土佐の土佐軍記、伊予の後太平記と西国大平記の記載内容に、(香西成資が)自分の了簡を書き加えた書です。そのため虚説が多く、讃岐の事については十中八九は虚説です。(中略)香西氏の威勢ばかりを誇張して書いたものです。

ここでは「当国事ハ不残実説ハ無之候」や「当国の事ハ十か九虚説二而候」と、香西成資を痛烈に批判しています。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・」という文書は、いつ、だれが、何の目的で書いたものなのでしょうか?
この文書は18世紀はじめに前田清八という人物から宮脇氏についての問い合わせがあり、それに対して由佐家の(X氏)が返答案を記したもののようです。内容的には「私云」として、前半部に戦国期の讃岐国香川郡の知行割、後半部に南海治乱記の批判文が記されています。
岡舘跡・由佐城
由佐城(高松市香南町)
 成立時期については、文中に「天正五年」から「年数百二三十年二成中候」とあるので元禄・宝永のころで、18世紀初頭頃の成立になります。南海治乱記が公刊されるのは18世紀初頭ですから、それ以後のことと考えられます。作成者(X氏)は、讃岐国香川郡由佐家の人物で「我等茂江戸二而逢申候」とあるので、江戸での奉公・生活体験をもち、由佐家の由緒をはじめとして「讃岐之地侍」のことにくわしい人物のようです。
 「前田清八」からの「不審書(質問・疑問)」には、「宮脇越中守、宮脇半入、宮脇九郎右衛門、宮脇長門守」など、宮脇氏に関する出自や城地、子孫についての疑問・質問が書かれています。それに対する「返答」は、もともとは宮脇氏は紀州田辺にいたが、天正5年(1577)の織田信長による雑賀一揆討伐時に紀州から阿波、淡路、讃岐へと立ち退いたものの一族だろうと記します。宮武氏が「松縄城主、小竹の古城主」という説は、城そのものの存在とともに否定しています。また「不審」の原因となっている部分について、「私云」として自分の意見を述べています。その後半に出てくるのが南海通記批判です。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・)」の南海治乱記批判部を見ておきましょう。
冒頭に、南海治乱記に書かれたことは「当国の事ハ十か九虚説」に続いて、次のように記します。

□(香OR葛)西か人数六千人余見へ申候、葛(香)西も千貫の身体之由、然者高七千石二て候、其二て中間小者二ても六千ハ□□申間敷候、且而軍法存候者とは見へ不申候、惣別軍ハ其国其所之広狭をしり人数積いたし合戦を致し候事第一ニて候、■(香)西か威勢計を書候迪、ケ様之事を申段我前不知申者二て候、福家方を討申候事計実ニて候、福家右兵衛ハ葛西宗信妹婿ニて、七朗ハ現在甥ニて候。是之事長候故不申候、

意訳変換しておくと
南海治乱記は、香西の動員人数を六千人とする。しかし、香西氏は千貫程度の身体にしかすぎない。これを石高に直すと七千石程度である。これでは六千の軍を維持することは出来ない。この無知ぶりを見ても、軍法を学んだ者が書いたとは思えない。その国の地勢を知り、動員人数などを積算して動員兵力を知ることが合戦の第一歩である。
(南海治乱記)には、(香)西氏の威勢ばかりが書かれている。例えば、由佐家については、福家方を討伐したことが書かれているが、福家右兵衛は、葛西宗信の妹婿に当たり、七朗は現在は甥となっている。ここからも事実が書かれているとは云えない。
ここには「香西氏の威勢ばかりが(誇張して)書かれている」とされています。18世紀初頭にあっては、周辺のかつての武士団の一族にとっては、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたようです。

次に、守護細川氏の四天王と言われたメンバーについて、次のように記します。
 讃岐四大名ハ、香川・安富・奈良・葛(香)西与申候、此内奈良与申者、本城持ニて□□郡七箇村ニ小城之跡有之候。元ハ奈良与兵衛与申候、後ニハむたもた諸方切取り鵜足郡ハ飯山より上、那賀郡ハ四条榎内より上不残討取、長尾山二城筑、長尾大隅守元高改申候、此城東之国吉山之城ハ北畠殿御城地二て候、西はじ佐岡郷之所二城地有之候を不存、奈良太郎左衛門七ケ条(城?)主合戦之取相迄□□□拵申候、聖通寺山之城ハ仙国権兵衛秀久始而筑候、是を奈良城ホ拵候段不存者ハ実示と可存候、貴様之只今御不審書之通、人の噺候口計御聞二而被仰越候与同前二て、此者もしらぬ事を信□思人之咄候口計二我か了簡を添書候故所々之合戦も皆違申候取分香西面合戦の事真と違申、此段事長候故不申候   

    意訳変換しておくと
 讃岐四天王と言われた武将は、香川・安富・奈良・葛(香)西の4氏である。この内の奈良氏というのは、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。今でもそこに城跡がある。そして、奈良与兵衛を名のっていたが、その後次第に諸方を切取りとって鵜足郡の飯山より南の那賀郡の四条榎内から南を残らずに討ち取って、長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。この長尾城の東の国吉山の城は、北畠殿の城であった。西はしの佐岡郷に城地があったかどうかは分からない。奈良太郎左衛門は七ケ条(城?)を合戦で奪い取った。
 聖通寺山城は仙国(石)権兵衛秀久が築いたものだが、これを奈良氏の居城を改修したいうのは事実を知らぬ者の云うことだ。貴様が御不審に思っていることは、人の伝聞として伝えられた誤ったことが書物として公刊されていることに原因がある。噂話として伝わってきたことに、(先祖の香西氏顕彰という)自分の了簡を書き加えたのが南海治乱記なのだ。そのためいろいろな合戦についても、取り違えたのか故意なのか香西氏の関わった合戦としているものが多い。このことについては、話せば長くなるの省略する。
ここには、これまでに見ない異説・新説がいくつか記されていていますので整理しておきます。まず奈良氏についてです。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から
①讃岐四天王の一員である奈良氏は、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。
②その後、鵜足郡の飯山から那賀郡の四条榎内までを残らずに討ち取った。
③そして長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。
④聖通寺城は仙石権兵衛秀久が築いたもので、奈良氏の居城を改修したいうのは事実でない。
これは「奈良=長尾」説で、不明なことの多い奈良氏のことをさぐっていく糸口になりそうです。今後の検討課題としておきます。

続いて、土佐軍侵入の羽床伊豆守の対応についてです。
南海治乱記は、土佐軍の侵攻に対する羽床氏の対応を次のように記します。(要約)
羽床氏の当主は伊豆守資載で、中讃諸将の盟主でもあった。資載は同族香西氏を幼少の身で継いだ佳清を援けて、その陣代となり香西氏のために尽くした。そして、娘を佳清に嫁がせたが、一年たらずで離縁されたことから、互いに反目、同族争いとなり次第に落ち目となっていった。そして、互いに刃を向けあううちに、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に遭遇することになった。
    長宗我部氏の中讃侵攻に対して、西長尾城主長尾大隅守は、土器川に布陣して土佐軍を迎かえ撃った。大隅守は片岡伊賀守通高とともに、よく戦ったが、土佐の大軍のまえに大敗を喫した。長尾氏の敗戦を知った羽床伊豆守は、香西氏とたもとを分かっていたこともあって兵力は少なかったが、土器川を越えて高篠に布陣すると草むらに隠れて土佐軍を待ち受けた。これとは知らない長宗我部軍は進撃を開始し、先鋒の伊予軍がきたとき、羽床軍は一斉に飛び出して伊予軍を散々に打ち破った。
 これに対して、元親みずからが指揮して羽床軍にあたったため、羽床軍はたちまちにして大敗となった。伊豆守は自刃を決意したが、残兵をまとめて羽床城に引き上げた。元親もそれ以上の追撃はせず、後日、香川信景を羽床城に遣わして降伏をすすめた。すでに戦意を喪失していた伊豆守は。子を人質として差し出し、長宗我部氏の軍門に降った。ついで長尾氏、さらに滝宮・新名氏らも降伏したため、中讃地方は長宗我部氏の収めるところとなった。

これに対して、「前田清八方江之返答」は、次のように批判します。
羽床伊豆守、長曽我部か手ヘ口討かけ候よし見申候□□□□□□□□□□見□□皆人言之様候問不申候) 
(頭書)跡形もなき虚言二て候、
伊豆守ハ惣領忠兵衛を龍宮豊後二討レ、其身ハ老極二て病□候、其上四国切取可中与存、当国江討入候大勢与申、殊二三里間有之候得者夜討事者存不寄事候、我城をさへ持兼申候是も事長候故不申候、■■(先年)我等先祖の事をも書入有之候得共、五六年以前我等より状を遣し指のけ候様ホ申越候故、治乱記十二巻迄ハ見へ不申候、其末ハ見不申候、
            意訳変換しておくと
  長宗我部元親の軍が、羽床伊豆守を攻めた時のことについても、(以下 文字判読不明で意味不明部分)
(頭書)これらの南海治乱記の記述は、跡形もない虚言である。当時の(讃岐藤原氏棟梁の羽床)伊豆守は、惣領忠兵衛を龍宮(氏)豊後に討たれ、老衰・病弱の身であった。それが「四国切取」の野望を持ち、讃岐に侵攻してきた土佐の大勢と交戦したとする。しかも、夜討をかけたと記す。当時の伊豆守は自分の城さえも持てないほど衰退した状態だったことを知れば、これが事実とは誰も思わない。
 我等先祖(由佐氏)のことも南海治乱記に書かれていたが、(事実に反するので)数年前に書状を送って削除するように申し入れた。そのため治乱記十二巻から由佐氏のことについての記述は見えなくなった。

つまり、羽床氏が長宗我部元親に抵抗して、戦ったことはないというのです。ここにも、香西氏に関係する讃岐藤原氏一族の活躍ぶりを顕彰しようとして、歴史を「偽作」していると批判しています。そのために由佐氏は、自分のことについて記述している部分の削除を求めたとします。南海治乱記の記述には、周辺武士団の子孫には、「香西氏やその一族だけがかっこよく記されて、事実を伝えていない」という不満や批判があったことが分かります。

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記
このような『南海治乱記』批判に対して、『香西記』(『香川叢書第二』所収)は次のように記します。
  寛文中の述作南海治乱記を編て当地の重宝なり、世示流布せり、然るに治乱記ホ洩たる事ハ虚妄
の説也と云人あり、甚愚なり、治乱記十七巻の尾ホ日我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨と書たり、洩たる事又誤る事も量ならんと、悉く書を信せハ書なき力ヽしかすとかや、
  意訳変換しておくと
  寛文年間に公刊された南海治乱記は、讃岐当地の重宝で、世間に拡がっている。ところが治乱記に(自分の家のことが)洩れているのは、事実に忠実ないからだと云う輩がいる。これは愚かな説である。治乱記十七巻の「尾」には「我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨」と書かれている。

『香西記』の編者・新居直矩は、『南海治乱記』の「尾」の文に理解を示し、書かれた内容を好意的に利用するべきであるとしています。また、『香西記』は『南海治乱記』をただ引き写すのではなく、現地調査などをおこなうことによって批判的に使用しています。そのため『香西記』の記述は、検討すべき内容が含まれています。しかし、『南海治乱記』の編述過程にまで踏み込んだ批判は行っていません。つまり「前田清八方江之返答(松縄城主…)」に、正面から応えたとはいえないようです。
以上をまとめておきます。
①由佐家文書の中に、当時公刊されたばかりの南海治乱記を批判する文書がある。
②その批判点は、南海治乱記が讃岐の歴史の事実を伝えず、香西の顕彰に重点が置かれすぎていることにある。
③例として、奈良氏が長尾に城を築いて長尾氏になったという「奈良=長尾」説を記す。
④聖通寺山城は仙石秀久が始めて築いたもので、奈良氏の城を改修したものではないとする
⑤また、羽床氏が長尾氏と共に長宗我部元親に抵抗したというのも事実ではないとする。
⑥南海治乱記の記述に関しては、公刊当時から記述内容に、事実でないとの批判が多くあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」

前回は天正10(1582)年の長宗我部元親本隊の阿波占領後の讃岐香川郡への侵攻ルートについて、つぎのようにまとめました。

①天正10年8月に阿波国の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落とした。
②論功行賞として三好氏の勢力下にあった重要地点に土佐側の城将を配した。
③その後、三好義堅(十河存保)が落ちのびた讃岐の十河城を攻める作戦に移った。
④元親は、弟の香宗我部親泰を美馬郡岩倉城(脇町)から、安原を経てを「岡城(岡舘・香南町岡)」に向かわせた。
⑤元親自身は岩倉城を落としてから讃岐山脈に入り「そよ越」を経て讃岐国の十河表に至った。
⑥弟の親泰は「岡城」を攻め落とし
⑦さらに「岡城」の下手にある由佐城を攻めて土佐側に従属させた
⑧由佐氏は土佐側の一員として三好氏側の山田郡三谷、坂本を攻めさせた。
今回は、⑦⑧に出てくる由佐氏について見ておくことにします。テキストは、「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」です。 
最初に由佐氏の由来について見ておきましょう。
由佐氏は南北朝時代の初め頃に、関東から来讃したと伝えられます。
そして、香川郡井原郷を勢力範囲とします。由佐氏の史料的初見は、貞和 4 年(1348)、由佐弥次郎秀助が讃岐守護細川顕氏から与えられた感状です。観応2 年(1351)10 月 2 日には、「一族幷井原荘内名主荘官等」を率いて「安原鳥屋之城」から所々の敵陣を追い払うよう命じられています。ここからは、由佐弥次郎は由佐氏一族の代表と見なされていたことが分かります。この「安原城中」での軍忠に対して、細川顕氏奉行人の生稲秀氏から兵糧料所として「井原荘内鮎滝領家職」が預けられています。この領家職は、以後の由佐氏の代官職確保や所領拡大の契機となります。
 由佐氏は、観応の擾乱後も永享 4 年(1432)に由佐四郎右衛門尉が摂津鷹取城で忠節を行い、応仁の乱では近衛室町合戦に由佐次郎右衛門尉が参加しています。細川京兆家の内衆には数えらいませんが、守護代の指揮下で活動し、讃岐以外でも合戦に参加できる実力を持った国人領主だったようです。
 由佐氏は、寛正元年(1460)には郷内の冠尾神社(元冠纓神社)の管理権を守護細川勝元から命じられています。
こうして神社を媒介として領民の掌握を図り、領域支配を強化していきます。

由佐家文書|高松市
由佐家文書
 由佐家文書は由佐家に残されている文書で、その中に阿波国の三好氏からのものが1点、土佐国の長宗我部元親からのものが2点あります。この3点の文書を見ていくことにします。

①阿波国三好義堅からの「三好義堅知行宛行状」
就今度忠節安原之内型内原(河内原)一職、同所之内西谷分并讃州之内市原知行分申附候、但市原分之内請米汁石之儀二相退候也、右所へ申附上者弥奉公肝要候、尚東村備後守□□候、謹言、
八月十九日                             義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の忠節の論功行賞として①安原の河内原と②同所の西谷分と、③讃州市原の知行を与える。、但し、市原分の内の請米汁石については相退候也、右所へ申附上者弥奉公肝要候、尚東村備後守□□候、謹言、

ここでは、三好義堅(十河存保)が由佐平右衛門に3ヶ所の知行地を与えています。それは①安原の河内原と②同所の西谷分と、③讃州内市原」の知行です。この表現の仕方に研究者は注目します。つまり、市原だけが讃岐内なのです。これは最初に出てくる「安原之内」は「讃州之内」ではないという認識があったことになります。15世紀までは、安原は讃岐国に属していました。ところが阿波細川家や三好家が讃岐東方に力を伸ばすにつれて、阿波勢力の讃岐進出の入口であった塩江から「安原」は、阿波国の一部であると捉えられるようになっていったと研究者は推測します。それがこの表記に現れているというのです。

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差出人の「義堅」は、十河存保のことです。
存保は三好之康(義賢)の二男で、三好家から讃岐国の十河家に入って「鬼十河」と後世に称された十河一存の養子になっていた人物です。
戦え!官兵衛くん。 番外編04 三好氏家系図
十河存保は、三好実休(義賢)の実子です。十河一存の養子に
後に阿波国の「太守」であった兄の長治が亡くなって、存保が阿波の勝瑞城に入ります。存保は、天正6年(1578)正月に勝瑞に入ますが、一宮成助らに攻められて天正8年(1580)正月から翌年にかけては、十河城へ逃げてきています。その後、天正9年から翌年の8月までは再び勝瑞城に居城しています。
 存保の父・之康は、「阿波国のやかた細川讃岐守持隆」を討って勝瑞城に居城し「義賢(よしかた)を称していました。「義賢」と「義堅」はともに「ヨシカタ」で音が通じます。十河一存は阿波国勝瑞城に入ってから「義堅」を名のったようです。そうだとすると、この文書は、天正6年から10年までの間のものになります。そして、この時期には、由佐氏は阿波の三好氏に従っていたことが分かります。また、十河氏と緊密な関係にあったこともうかがえます。
 文書の終わりの「東村備後守」は、この発給文書を持参して、文書の真意を伝えた人物のようです。
「東村備後守」は、『三好家成立之事』に次の2回登場します。
①中富川合戦で存保が討死になりそうになったときに、それを諫めて勝瑞へ引き取らせた「家臣」として
②『三好記』では同じときに「理ヲ尽シテ」諫めた「老功ノ兵」「家臣」として
天正11年(1583)3月に、「東村備後守政定」は「三木新左衛門尉通倫」と連署をなし、主人たる十河存保の命を施行しています。

この他に由佐家には、次のような長宗我部元親の感状が2通残されています。
由平□(籠?)三谷二構共□打破、敵数多被討取之由、近比之御機遣共候、尤書状を以可申候得共迎、使者可差越候間、先相心得可申候、弥々敵表之事差切被尽粉骨候之様二各相談肝要候、猶重而可申候、謹言
(天正十年)                   (長宗我部)元親判
十月十八日                 
小三郎殿
      「由佐長宗我部合戦記」(『香川叢書』)所収。
  意訳変換しておくと
先頃の三谷城(高松市三谷町)の攻城戦では、敵を数多く討取り、近来まれに見る活躍であった。よってその活躍ぶりの確認書状を遣わす。追って正式な使者を立てて恩賞を遣わすので心得るように。これからも合戦中には粉骨して務めることが肝要であると心得て、邁進すること。謹言

  感状とは、合戦の司令官が発給するものです。この場合は、長宗我部元親が直接に小三郎に発給しています。ここからは小三郎が、長宗我部元親の家臣として従っていたことが分かります。なおこの小三郎は、側近として元親近くに従い、長宗我部側と由佐氏を仲介し、由佐氏の軍役を保証する役を負う人物です。ここから小三郎が、もともとは由佐家出身で人質として長宗我部家に仕えた人物と研究者は推測します。
 この10月18日の感状からは、由佐氏が山田郡三谷城(高松市三谷町)攻めで勲功をあげていたこと、さらに土佐軍の軍事活動がわかります。つまり、この時点では由佐氏は、それまでの三好氏から長宗我部元親に鞍替えしていたことが分かります。長宗我部元親は、岡城(岡舘:香南町)攻撃のために弟を派遣したことは、前回にお話ししました。岡城と由佐城は目と鼻の先です。

岡舘跡・由佐城
岡城と由佐城
それまで使えてきた三好義堅(十河存保)が本城を落とされ、十河城に落ちのびてきています。十河城を囲むように土佐勢が西からと南から押し寄せてきます。由佐氏のとった行動は、その後の行動からうかがえます。
1ヶ月後に、由佐小三郎は、長宗我部元親から二枚目の感状を得ています。
長宗我部元親書状(折紙)
於坂本河原敵あまた討捕之、殊更貴辺分捕由、労武勇無是非候、近刻十河表可為出勢之条、猶以馳走肝要候、於趣者、同小三(小三郎)可申候、恐々謹言
    (長宗我部)元親(花押)
(天正十年)十一月十二日
油平(由佐)右 御宿所
  意訳変換しておくと
 この度の坂本河原での合戦では、敵をあまた討捕えた。その武勇ぶりはめざましいものであった。間近に迫った十河表(十河城)での攻城戦にも、引き続いて活躍することを期待する。恐々謹言

11月18日に、坂本川原(高松市十川東町坂本)で激戦があった際の軍功への感状です。戦いの後に引き上げた宿所に届けられています。この2つの感状からは高松市南部の十河城周辺で、戦闘が繰り返されていたことがうかがえます。

 先ほど見た「三好義堅知行宛行状」では、由佐氏は阿波の三好氏に従っていました。その由佐氏が、三好氏の勢力範囲である山田郡の三谷と坂本を攻めています。由佐氏の山田郡での「武勇」は長宗我部元親によって賞されています。この由佐氏の行動は元親からの命令によるもので、それを由佐氏が果たしたことに対する承認の感状と研究者は判断します。
 元親が「十河表」へ「出勢」したのは、天正10年8月の中富川合戦以後のことでした。
この時に元親は、弟の香宗我部親泰を「岡城」に配しています。「岡城」は、現在の高松空港の北側にあった岡舘跡です。そのすぐ近くに由佐城はありました。この時点で、由佐氏は土佐軍に下り、その配下に入ったようです。とすると、由佐氏に長宗我部元親から感状が出されたのは、ともに天正10年のことになります。由佐氏は、それまで仕えていた三好義堅が落ちのびた十河城の攻城戦にも、土佐軍に従って従軍したのでしょう。
 讃岐側の江戸時代になって書かれた南海通記などの軍記ものには、讃岐に侵攻してきた土佐軍に対して、讃岐の武士団が激しく抵抗した後に降ったと書かれることが多いようです。しかし、土佐側の資料に東讃の武将達が抵抗した痕跡は見えてきません。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」

永正の錯乱以前に、讃岐国人は細川京兆家の繁栄のもとで四天王として勢力を振るってきました。それが永正の錯乱の結果、京兆家の弱体化と香西氏や両守護代の香川・安富氏の減亡により、以後権勢の座を畿内の国人や阿波の三好氏に譲ることになります。香西氏・安富氏など讃岐武士団の主導権は失われたのです。変わって、重要な役割を演じるようになるのが阿波三好氏です。そして、阿波三好氏は、永正の錯乱で敵対関係になった讃岐への侵攻を開始します。こうして讃岐の四天王は、没落し三好氏に従属していくことになります。その過程を押さえておきます。 テキストは「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」です

細川政元政権下で、香西氏と薬師寺氏が内衆の指導権を握ったのはいつでしょうか?
政元暗殺の首謀者である薬師寺長忠と香西元長の二人が京兆家の有力被官で構成される「内衆」の中で指導的立場を確立したのは、永正元年9月に起こった薬師寺元一の謀反の鎮圧によってです。そこに至る経過を見ておきましょう。
永世の錯乱 対立構図
文亀3年(1501)5月、政元は阿波守護細川慈雲院(成之)の孫六郎(のちの澄元)を養子に迎えます。これ以前に政元には後継者として養子に迎えていた前関白九条政基の子九郎(澄之)がいました。その背景を「細川両覆記」は、次のように記します。
この養子縁組は実子のいない政元が摂関家出身の九郎に代えて細川一門から養子を迎えた。ところが京兆家の家督を細川家一族に譲りたいと心変わりしたため、当時摂津守護代であった薬師寺与一が尽力して成立した。

「実隆公記」や「後法興院記」には次のように記します。
細川一門の上野治部少輔政誠や薬師寺与一らが政元の使節として阿波へ下向し、慈雲院に「京兆隠居、相続の事」を「相計ら」うよう伝えた。

   こうして、政元が二人の養子を迎えたことは、二人の後継者を作ってしまったことになります。当然、後継者をめぐって京兆家家臣団の分裂・抗争の激化を招くことになります。その動きのひとつが薬師寺元一の謀反です。謀反当時、摂津半国守護代であった薬師寺元一は、かつて安富元家とともに政元より京兆家の家政を委任された薬師寺備後守元長の長子です。また、政元暗殺の首謀者である薬師寺長忠はその弟になります。阿波守護細川家より六郎を養子として迎えたときの経緯から澄元を押す元一と、なかなか家督相続者を決定しない政元との関係は次第に険悪なものとなります。こうした中で細川政元は永正元年3月に、薬師寺元一の摂津守護代職を罷免しようとします。このときは、元一は将軍義澄の取り成しによりようやく摂津半国の守護代職を維持することができます。(「後法興院記」)。残りの半国守護代に弟の長忠が任命されたのもこの時のことと研究者は考えています。

 薬師寺元一の謀反発覚と鎮圧過程を年表化しておきます。
1504(永正元)年
9月4日、元一の弟で京兆家被官の寺町氏の養子となっていた又三郎の通知で謀反発覚。元一は、淀の藤岡城に籠城
  6日、上野政誠、上野元治・安富元治、内藤貞正らが元一方に味方した京都西岡衆を討伐
  9日、淀で合戦開始し、讃岐守護代の安富(元家)が討死
 17日 西岡衆を討伐した軍勢は、淀へ向かい翌日18日藤岡城を攻め落とし、元一を生捕り。
こうして元一の謀反は失敗に終わります。
薬師寺元一 2つ新
薬師寺元一の辞世の句

しかし、この反乱に加わった者達は広範に及んでいました。「宣胤卿記」の9月21日条には挙兵の失敗について、次のように記します。
元一成囚。去暁於京切腹云々〈十九歳〉。世間静読如夜之明云々。希代事也。同意〈前将軍方)畠山尾張守〈在紀州)。細川慈雲院(在阿波)等出張遅々故也。且又元一弟〈号与次、摂州半国守護代)為京方国勢属彼手故也。京方香西又六、契約半済於近郷之土民悉狩出、下京輩免地子皆出陣。以彼等責落云々。
意訳変換しておくと
薬師寺元一は虜となり、明朝に京で切腹となった。19歳であった。この蜂起については明応の政変で政元に幕府を逐われた前将軍義材派の前河内守護畠山尚順、阿波の澄元の祖父の慈雲院などがも、元一の呼びかけに応じて挙兵することになっていた。阿波からは三好氏が淡路へ侵攻し、紀州の畠山尚順は和泉を攻め上がってくる動きを見せたが、蜂起発覚で遅きに失した。兄元一を裏切った長忠は左衛門尉の官途を与えられ、摂津半国の守護代となった。こうして京の国勢は、薬師寺長忠と京方香西又六が握ることになった。

 この合戦でそれまでの有力者であった薬師寺元一・安富元家という二人の死去します。その結果、京兆家被官(内衆)の中で最大の勢力を持つようになったのが香西氏と薬師寺長忠でした。薬師寺元一の謀反制圧の最大の功労者である長忠と香西元長とが、後に政元暗殺と澄元追放の首謀者となったのは決して偶然ではないと研究者は指摘します。

この事件の結果、都での澄元派は没落します。
「後法興院記」によると、政元は翌2年3月から4月にかけて一ヶ月以上淡路に滞在しています。この淡路下向は阿波の慈雲院討伐の準備のためだったようです。ところが、政元軍の淡路侵攻は見事に失敗してしまいます。
「後法興院記」の5月29日条には次のように記します。
伝え聞く。讃岐え進発の諸勢(淡路・上野・安富・香川)、敵御方数百人誅貌せらると云々ここれに依りまず引き退くと云々。淡路出陣の留守に三吉夜中推し寄せ館に放火すと云々。
意訳変換しておくと
淡路より讃岐へ侵攻した淡路守護家の淡路守尚春・上野玄蕃頭元治・安富元治・香川満景らの軍勢は返討ちに遭い。数百人の敗死者を出して撤退した。その上、守護の留守を狙って三好氏が淡路侵攻し守護の館を焼き討ちしたと伝え聞いた。

ここには、「讃岐え進発の諸勢(淡路・上野・安富・香川)」とあります。逆に見ると、この時点で讃岐は阿波勢の侵攻を受けて占領下にあったことがうかがえます。この敗戦後に、政元は阿波の慈雲院との和睦を図ります。「細川両家記」は永正2年の夏のころ、薬師寺長忠が澄元を京都に迎えるため阿波へ下向したと記します。和解に向けた事前交渉のようです。
  また、「大乗院自社雑事記」や「多聞院日記」には、6月10日ころ、かつて元一とともに謀反を起こした赤沢宗益が政元から赦されています。ここからは6月ころには、政元はそれまでの阿波の慈雲院との敵対関係を止めて、融和策に転じたことがうかがえます。

 これを受けて翌3年2月19日、まず三好之長が上洛します(「多間院日記」)。続いて4月21日には澄元の上洛が実現します。澄元が宿所としたのは「安富旧宅」で、故筑後守元家邸です。「多聞院日記」の5月5日条には、「阿波慈雲院子息六郎殿、細川家督として上洛す。」とあります。澄元は京兆家の家督として迎えられたことが分かります。
この間の事情について「細川両家記」は、次のように記します。

御約束の事なれば澄元御上洛。御供には三好筑前守之長、高畠与三等を召させ給ひ御上洛有ければ、京童ども是を見て、是こそ細川のニツにならんずるもとゐぞとさゝめごと申ける。さる程に九郎殿へ丹波国をまいらせられて、かの国へ下し中されければ、弥むねんに思食ける。
  意訳変換しておくと
約束したことなので澄元は上洛した。御供には三好筑前守之長、高畠与三等を従って御上洛した。これを京童が見て「これで細川氏はまっぷたつ分裂してしまう」とささやき合った。そして九郎殿(澄之)には丹波国への下向を命じた。これは澄之にとっては、さぞ無念なことであったろう。

政元は、阿波守護家との和睦を第一に考え、澄元を京兆家の家督にすえたようです。そして、澄之を丹波に下向させました。それまでの家督候補者であった澄之と彼の擁立を目指していた薬師寺長忠・香西元長らにとっては、政元のこの決断はとうてい受け入れがたいものであったはずです。ここに、政元暗殺の直接的な原因があると研究者は指摘します。
永正の錯乱前の讃岐の情勢は、どうだったのでしょうか?
永正3年10月12日、阿波の三好之長は、香川中務丞(元綱)の知行地讃岐国西方元山(現在の三豊郡本山町付近)と本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じています。(石清水文書)。この時期は政元と阿波守護細川家との間で和睦が成立した時期です。その証として澄元が都に迎えられたのが、この年4月のことです。三好之長から香川中務丞に対して本領が返還されたのは、その和解の結果と研究者は推測します。つまり、政元と阿波守護家とが対立していた期間に讃岐国は阿波細川家の軍勢による侵攻を受け、守護代家の香川氏の本領が阿波勢力によって没収されていたことを示すというのです。これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 永正2年4月~5月に、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた軍勢が讃岐国へ攻め入っています。
当時の讃岐は、安富氏が讃岐の東半部を、香川氏が西半部を管轄する体制でした。讃岐の守護代である香川・安富氏がどうして讃岐に侵攻するのでしょうか。それは軍事行動は讃岐が他国の敵対勢力に制圧されていたことを意味すると研究者は指摘します。このときの敵対勢力とは、誰でしょか。それは阿波三好氏のようです。
  「大乗院寺社雑事記」の明応4年(1495)3月1日には、次のように記されています。
讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子遣之処、両人共二責殺之。於千今安富可罷下云々。大儀出来。ムレ兄弟於讃岐責殺之。安富可罷立旨申之処、屋形来秋可下向、其間可相待云々。安富腹立、此上者守護代可辞申云々。国儀者以外事也云々。ムレ子息ハ在京無相違、父自害、伯父両人也云々。

意訳変換しておくと
讃岐国で蜂起が起こった時に、京兆家被官の牟礼氏を鎮圧のために派遣したが、逆に両人ともに討たれてしまった。そこで、守護代である安富元家が下向しようとしたところ、来秋下向する予定の主人政元にそれまで待つよう制止された。その指示に対して安富元家は、怒って守護代を辞任する意向を示した。

この記事からも明応4年2月から3月はじめにかけてのころ、安富氏の支配する東讃地方も「蜂起」が起こって、敵対勢力に軍事占領されたいたことがうかがえます。
管領細川家とその一族 - 探検!日本の歴史

このころ四国では何が起こっていたのでしょうか。阿波守護細川家の動きを追ってみよう。
明応3年11月27日、阿波守護細川⑦義春(慈雲院の子)は本国の阿波へ下向します。「後慈眼院殿御記」の11月28日・同31日条には、次のように記されています。
昨日讃岐守(義春)下国、不知子細云々。先備前可着小島也。其後可向讃州(慈雲院)云々。当国(山城)守護職相論之事、伊勢備中守復理之間、南都等路次静誌耳。一説.讃岐守下国。之与義材卿依同意、先趣四州云々。

他の関係史料も、義春は山城守護職就任を望んでいたが、将軍義澄に受け入れられなかったことをを恨み、阿波へ下ったことが記されています。義澄に対する反発から、義春は明応の政変で失脚した前将軍義材側についたのです。それは、義材を幕府から放逐した政元に背くことになります。
この結果、政元の守護分国である讃岐と阿波守護家の分国である阿波との間に軍事緊張関係が生まれたと研究者は判断します。
義春自身は、阿波帰国後まもなく12月21日に死去します。しかし、その遺志は父慈雲院(細川成之)が引き継ぎます。翌年春の讃岐での軍事衝突、永世元年の薬師寺与一の謀反への同意もその結果と考えられます。

徳島市立徳島城博物館(公式) on Twitter: "俗に「阿波の法隆寺」とも呼ばれる丈六寺 「徳島のたから」展では「絹本著色 細川成之像」を特別出品✨  応仁・文明の乱をのりこえ、阿波守護をつとめた細川成之は丈六寺を厚く保護します 徳島県内の肖像画では唯一の重要文化財 ...
永正8年9月12日、慈雲院(成之)は78歳で亡くなります。
「丈六寺開山金岡大禅師法語」には、次のように記されています。
「二州(阿波・讃岐)の伊を司どる。」
「門閥二州の都督に備う。」
「二州の釣軸(大臣の意)」
二州とは、阿波と讃岐のことです。ここには当時の人達が慈雲院が阿波・讃岐両国の実質的な守護であったと当時の人達が認識していたことが分かります。この時期に、讃岐は阿波細川氏の侵攻を受けて占領下に置かれたのです。
丈六寺 - Wikipedia
      慈雲院(細川成之)が保護した丈六寺(徳島市)
以上をまとめておきます。

①1493年(明応2)年 明応の政変で細川政元が足利義材を追放=足利義澄の将軍就任
②1501(文亀3)年5月、細川政元が阿波守護細川慈雲院(成之)の孫澄元)を養子に迎える。
③1504(永正元)年9月4日、薬師寺元一のクーデター謀反発覚と失脚 → 香西氏の権勢
④1505(永世2)年春 細川政元の淡路滞在、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた          軍勢が讃岐国へ攻め入り敗北。
④1505(永正2)年夏頃、細川政元が阿波細川氏と和解 阿波の細川澄元を後継者に指名
⑤1506(永正3)年 阿波の三好之長が、香川中務丞(元綱)の知行地讃岐国西方元山(現三豊市本山町)と本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じる。(石清水文書)。これは、阿波占領下にあった土地が和解によって返却されたもの。

⑥1507(永正4)年6月23日夜、細川政元が家臣によって暗殺される。
⑦1508(永正5)年4月9日、澄元と之長は自邸に放火して江州へ脱出=澄元政権の崩壊
⑧1511(永正8)年9月12日、慈雲院成之没(78歳)「二州(阿波・讃岐)の伊を司どる。」、
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 永正の錯乱については以前にお話ししましたが、それが讃岐武士団にどんな結果や影響をもたらしたかに焦点を絞って、もういちど見ていくことにします。テキストは「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」です。

永世の錯乱1
永正4年(1507)6月23日の夜、管領・細川右京大夫政元は被官の竹田孫七・福井四郎,新名らに殺害されます。この暗殺について「細川両家記」は、次のように記します。
此たくみは薬師寺三郎左衛門(長忠)、香西又六兄弟談合して、丹波におわす九郎殿御代にたて、天下を我まヽにふるまふべきたくみにより、彼二人を相かたらひ政元を誅し申也

意訳変換しておくと
「この企みは此たくみは薬師寺三郎左衛門、香西又六兄弟が談合して、丹波にいた九郎殿御代を細川家棟梁の管領にたて、天下を思うままに動かそうとする企みで、彼二人が密議して主君政元を謀殺したものである」

ここには、政元の有力被官である摂津守護代の薬師寺長忠と山城守護代の香西又六元長らが謀ったものとあります。その目的は実子のいない政元の養子2人のうち、前関白九条政基の子九郎澄之を細川京兆家の家督に擁立し、そのもとで彼らが専権を振るうことにあったというのです。その目的を果たすためには、政元のほかにもう一人の養子である阿波守護細川家出身の六郎澄元をのぞく必要があります。政元殺害の翌日には、香西氏を中心とする軍勢が澄元邸を襲撃します。この合戦は昼より夕刻まで続きますが、澄元は阿波守護家の有力被官三好之長に守られて江州甲賀へ脱出します。このときの合戦では、香西又六元長の弟孫六・彦六が討ち死にします。
永世の錯乱 対立構図
この事件の見聞を記した「宣胤卿記」の永正4年6月24日条には、次のように記します。
去る夜半、細川右京大夫源政元朝臣(四十二歳)。」天下無双之権威.丹波・摂津。大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護也。〉為被官(竹田孫七〉被殺害.京中騒動。今日午刻彼被官(山城守護代)香西又六。同孫六・彦六・兄弟三人、自嵯峨率数千人、押寄細川六郎澄元(政元朝臣養子)相続分也。十九歳.去年自阿波上。在所(将軍家北隣也)終日合戦。中斜六郎敗北、在所放火。香西彦六討死、同孫六翌日(廿五日)死去云々。六郎。同被官三好(自阿波六郎召具。棟梁也。実名之長。)落所江州甲賀郡.憑国人云々。今度之子細者、九郎澄之(自六郎前政元朝臣養子也。実父前関白准后政元公御子。十九歳。)依家督相続違変之遺恨。相語被官。令殺養父。香西同心之儀云々。言語道断事也。
  意訳変換しておくと
  細川政元(四十二歳)は、天下無双の権威で、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護であったが夜半に、被官竹田孫七によって殺害せれた。京中が大騒ぎである。今日の午後には、政元の被官である山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人が、嵯峨より数千人を率いて、細川六郎澄元(政元の養子で後継者19歳。去年阿波より上洛し。将軍家北隣に居住)を襲撃し、終日戦闘となった。六郎は敗北し、放火した。香西彦六も討死、孫六も翌日25日に死去したと伝えられる。六郎(澄元)は被官三好(之長)が阿波より付いてきて保護していた。この人物は三好の棟梁で、実名之長である。之長の機転で、伊賀の甲賀郡に落ちのびた。国人を憑むと云々。

 澄之は六郎(澄元)以前の政元の養子で後継者候補であった。実父は前関白准后(九条)政基公御子である。家督相続の遺恨から、香西氏などの被官たちが相語らって、養父を殺害した。香西氏もそれに乗ったようだ。言語道断の事である。
 
 7月8日には、丹後の一色氏討伐のため丹波に下っていた澄之が上洛してきます。そして将軍足利義澄より京兆家の家督相続を認められます。翌々日10日には政元の葬礼が行われています。この時点では、政元の養子となっていた細川高国をはじめ細川一門は、京兆家被官による主人政元の暗殺と養嗣子澄元の追放を傍観していました。しかし、それは容認していたわけではなく、介入の機会を準備していたようです。8月1日になると、典厩家の右馬助政賢、野州家の民部少輔高国、淡路守護家の淡路守尚春らが澄之の居所遊初軒を襲撃します。その事情を「宣胤卿記」8月1日条は、次のように記します。
早旦京中物忽。於上辺已有合戦云々。巷説未分明。遣人令見之処、細川一家右馬助。同民部少輔・淡路守護等、押寄九郎(細川家督也。〉在所(大樹御在所之北、上京無小路之名所也。〉云々。(中略)
九郎(澄之。十九歳。)己切腹。(山城守護代)香西又六。(同弟僧真珠院)。(摂州守護代)薬師寺三郎左衛門尉。(讃岐守護代)香川。安富等、為九郎方討死云々。此子細者、細川六郎、去六月廿四日。為香西没落相語江州之悪党、近日可責上之由、有沙汰。京中持隠資財令右往左往之間、一家之輩、以前見外所之間、我身存可及大事之由、上洛己前致忠為補咎也。然間京都半時落居。諸人安堵只此事也。上辺悉可放火欺之由、兼日沙汰之処、九郎在所(寺也)。香西又六所等、焼失許也。
意訳変換しておくと
  8月1日早朝、京中が騒然とする。上辺で合戦があったという。巷に流れる噂話では分からないので、人を遣って調べたところ、以下のように報告を受けた。細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督たちが在所大樹御在所の北、上京小路の名なき所に集結し、細川澄之と香西氏の舘を襲撃した。(中略)九郎澄之(十九歳)は、すでに切腹。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等など、九郎澄之方の主立った者が討死したという。

 ここには、細川一門が澄之やその取り巻き勢力を攻撃した理由を、その追放を傍観した澄元が勢力を蓄え、江州より上洛するとのことで、それ以前に澄之派を討伐しみずからの保身を図るためとしています。この時に、澄之派として滅亡したのが、山城守護代の香西元長、摂津守護代の薬師寺長忠、讃岐守護代の香川満景・安富元治などです。永世の錯乱が讃岐武士団も墓場といわれる由縁です。
 翌2日の夜になると、澄元は細川一門に迎えられ5万人と伝えられる軍勢を率いて入京します。即日将軍義澄より京兆家の家督を認められています。8月7日には、右馬頭政賢が澄元の代官として、澄元をのぞく敵方の香西・薬師寺・香川。安富ら41人の首実検を行っています。このような混乱を経て澄元政権は成立します。


 ところが、この政権は成立の当初より不安定要素がありました。
それは阿波細川守護家の重臣で澄元を補佐していた三好之長の存在です。彼の横暴さは都で知れ渡っていたようです。澄元政権下で三好之長と反目した京兆家被官たちは、細川一門の領袖である高国を担ぐようになります。こうして高国は澄元を見限って、政元と対立していた中国の大大名大内義興と連携を計ります。そして政元が明応2年(1493)の明応の政変で将軍職を剥奪した前将軍の足利義材を擁立します。永正5年4月9日、澄元と之長は自邸に放火して江州へ脱出します。澄元政権の崩壊です。つづいて、16日には前将軍義材の堺到着が伝わる騒然とした状況のもとで将軍義澄もまた江州坂本へ逃れます。
この政元暗殺に始まり、澄元政権の瓦解にいたる一連の事件を永正の錯乱と呼びます。
この乱の結果、京兆家の家督は澄元系と高国系とに分裂します。
そして両者は、細川右京大夫を名乗り互いに抗争を繰り返すことになります。これを「細川両家記」には「細川のながれふたつになる」と記します。 今回はここまにします。次回は永正の錯乱を、讃岐との関わりから見ていくことにします。

永世の錯乱3
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」

   南海治乱記と南海通記

『南海治乱記』『南海通記』は、香西氏の流れを汲む香西成資が、その一族顕彰のために書かれた記物風の編纂書です。同時に道徳書だと研究者は評します。この両書はベストセラーとして後世に大きな影響を与えています。戦後に書かれた市町村史も戦国時代の記述は、南海通記に頼っているものが多いようです。しかし、研究が進むにつれて、記述に対する問題がいろいろなところから指摘されるようになっています。今回は「香川民部少輔」について見ていくことにします。
テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
  西讃の守護代は多度津に館を置き、その背後の天霧山に山城を構えたとされます。香川氏のことについては以前にもお話しした通り、今に伝わる系図と資料に出てくる人物が合いません。つまり、史料としてはそのままは使えない系図です。
そのような中で、南海通記は香川氏の一族として阿野郡西庄城(坂出市)に拠点を置いた「香川民部少輔」がいたと記します。
長くなりますがその部分をまずは、見ていくことにします。
        53『南海通記』巻十三 抜三好存保攻北條香川民部少輔記
元亀年中二好存保讃州ノ諸将二命シテ、香川民部少輔ガ居城綾北條西庄ノ城ヲ囲ム、北條香川(昔文明年中細川政几優乱ノ時香西備中守二同意セズシテ細川澄元阿州ョリ上洛ヲ待タル忠義二依テ本領安賭シ、北條城付ノ知行ヲ加増二賜シカハ、是ヨリ細川三好世々上方二所領有テ相続シ来ル処二、今度信長公京都二入リテ、三好氏族家人ヲ逐フテ其所領ヲ奪ハル、是二依テ公方義昭公ノ御方人トシテ世二立ンコトワ欲ス。其才覚アルコトフ上方ノ三好家ヨリ三好存保ニ告ヶ来ル、是二因テ存保近隣ノ諸将二命シテ、西ノ庄ノ城ヲ囲マシム。香西伊賀守陣代久保三郎四郎吉茂、兵卒千人余を掲げて馳向フ。 羽床伊豆守、長尾大隅守、奈良太郎左衛門、安富寒川人千余人北條二来陣ス。香西陣代久利二郎四郎ハ西庄ノ城東表ヲ囲ム。

意訳変換しておくと
『南海通記』巻十三  三好(十河)存保の北條香川民部少輔・西庄城記攻防戦記

織田信長が上洛を果たした元亀年中(1570~73年)、三好(十河)存保が讃州の諸将に命じて、香川民部少輔の居城である綾北條郡の西庄城を囲んだ。①北條香川氏は文明年中(1469~87年)の細川政元の優乱の時に、香西備中守に反旗を翻して、阿波の細川澄元の上洛を支援した論功行賞で本領が安賭され、さらに北條城周辺の知行が加増された。
 細川・三好家は畿内に所領を以て相続してきたが、織田信長の上洛によって、三好一族は畿内の所領を奪われた。そんな時に公方義昭公が自立の動きを見せて、上方ノ三好家から三好存保に対して支援を求めてきた。そこで、②存保は近隣の諸将に命じて、香川民部少輔の西庄城を包囲させた。香西伊賀守の陣代である久保三郎四郎吉茂は、兵卒千人余を率いてこれに向かい、羽床伊豆守、長尾大隅守、奈良太郎左衛門、安富寒川氏など8千人余りが北條城を包囲して陣を敷いた。この時に香西陣代の久利三郎四郎は、西庄城東表を囲んでいたが、
永世の錯乱3

         讃岐武将の墓場となった永世の錯乱
①北條香川氏が阿野北平野の西庄城を領有するようになったのは「文明年中(1469~87年)の細川政元の優乱の時に、香西備中守に反旗を翻して、阿波の細川澄元の上洛を支援した論功行賞で本領が安賭され、西庄城周辺の知行が加増」のためと説明されています。確かに、この時の騒乱で香川氏や香西氏の棟梁達は討ち死にして、在京の讃岐勢力は壊滅的状態に追い込まれたことは以前にお話ししました。永世の錯乱が讃岐武将の墓場と言われる由縁です。

永世の錯乱2

この史料をそのまま信じると、永世の錯乱の敗者となった西氏や香川氏の勢力が弱まる中で、
勝ち組の阿波守護細川澄元についたのが北條香川氏になります。そして阿野北平野の西庄城を得たということになるようです。「中央での永世の錯乱を契機に讃岐は他国にさきがけて一足早く戦国時代を迎えた」と研究者は考えています。それが阿波の細川澄元やその家臣の三好氏の讃岐への勢力伸長を招く結果となります。その一環として細川澄元や三好側についた香川氏一族が領地を増やすというのはあり得ない話ではありません。それが具体的には香西氏の勢力範囲であった阿野北平野への進出の契機となったということでしょうか。しかし、これには問題点があります。香川一族と三好氏は犬猿の仲です。香川氏の基本的な外交戦略は「反三好」で一貫しています。長宗我部元親の侵入の際にも、対応は分かれます。最後まで両者が手をむすんだことはありません。こうしてみると、香川氏の一族の北条香川氏が細川澄元や三好側についたというのは、すぐには信じられないことです。

次の部分を見ていくことにします。
七月十三日ノ夜月明ナルニ東ノ攻ロヨリ真部弥助祐重、堀土居ヲ越テ城中ニ入り、大音ヲ揚テ名ノリ敵ヲ招ク、城中ノ兵弥介二人トハ知ラズシテ大二騒動シ手二持タル兵刃足二踏ム所ヲ知ズ混乱ス。城中ノ軍司栂取彦兵衛友貞卜名乗テ亘り合ヒ鎗ヲ合ス、弥介戦勝テ構取彦兵衛ヲ討取り、垣ヲ越テ我陣二帰ル。諸人其意旨ヲ知ラズシテ陣中驚キ感ズ。翌日城門ヲ開キ出テ駆合ノ戦有、香川家臣宮武源三兵衛良馬二乗り一騎許り馬ノ鼻ヲ並テ駆出ス。其騎二謂テ日、必ズ馬ヨリ下リ立テ首渡スベカラス。敵ノ背二乗リカケテ一サシニ駆破り引取ルヘシ城門ニハ待受ノ備アリト云間カセテ早々引取シカハ寄手モ互二知レ知リタル、朋友ナレバ感之卜也。然処二寄手大軍ナレバ城中ヨリ和ヲ乞テ城フ明渡ス。家人従類フ片付テ其身従卒廿人許り召具シ甲冑ヲモ帯セス、日来白愛ノ鷹フ壮ニシテ出デバ、敵モ見方モ佗方二非ズ、隣里ノ朋友ナレバ涙ヲ流サヌ者ハナシ.然シテ民部少輔ハ松力浦ヨリ船二乗り塩飽ノ広島へ渡り、舟用意シテ備後ノ三原二到り、小早川隆景二通シテ、帰郷ノコトワ頼ミケルトナリ。

意訳変換しておくと
七月十三日に夜の月が出て明るくなる頃に、東の攻から真部弥助祐重が只一人で堀土居を越えて城中攻め入り、大声をあげて名乗って敵を招いた。城中の兵は弥介一人とは分からずに、大騒ぎになり手に持った兵刃を踏むなどして混乱に陥った。城中の軍司栂取彦兵衛友貞が名乗り出て、互いに鎗を合わした。その結果、弥介が勝って栂取彦兵衛を討取り、垣を越て我陣に帰ってきた。陣中では、この行為に驚き感じいった。翌日には、城門を開いて討って出てきたので、騎馬戦が展開された。香川家臣の宮武源三兵衛は良馬に乗って、10騎ほどの馬が鼻を並べて駆出す。その時に臣下に「馬から下りて戦ってはならない。敵の背に乗りかけて一差しすれば、ただちに城門に引き返すべし。城門には敵を待ち受ける仕掛けを講じている」と。しかし、寄手側もその気配を察知して、策にははまらない。
 こうして大軍の寄せ手に対して、北條香川氏は和を乞うて城を明渡すことになった。家人や従類を落ちのびさせて、その身は従卒20人ばかりと、甲冑もつけないで、日頃から可愛がっていた鷹狩りの鷹を胸に抱いて城を後にした。この時には、隣里の朋友という間柄なので敵も見方も区別なく涙をながさない者はいなかった。こうして香川民部少輔は松カ浦から船に乗って、塩飽の広島へ渡り、そこで舟を乗り換えて備後に向かった。そして、小早川隆景に讃岐への帰郷復帰の支援を求めた。
この前半部は軍記ものには欠かせない功名物語が書かれています。ここで注目したいのは最後の部分です。攻防戦の結果、香川民部少輔は船に乗って三原に渡り、小早川隆景に讃岐への帰郷復帰の支援を求めたとあるところです。その続きには次のように記します。
毛利家ノ記曰く、公方義昭公御内書ヲ賜テ日香川帰郷ノコト頼被成ノ間早々可被相催候、阿波三好事和平フ願可申入候、然就承引不可有候、畿内三好徒堂¨大半令追状候者也.隆景其旨二応ジ、浦兵部太輔井上伯者守二五千余人ヲ附シテ、大船三百余艘二取乗五月十二日三原ヲ発シ、讃州松ケ浦並鵜足郡鵜足津二着岸ス。然シテ西ノ庄ノ城二押寄スル処二、香西伊賀守番勢ノ者トモ城ヲ明テ引去ル。香川ヲ西ノ庄ノ城へ入城セシメ元ノ如ク安住ス.中国ノ兵将香川ヲ本地へ還附
   然トモ敵ハ五千人地衆ハ五百人ナレバ相対スベキ様モナシ。地衆兵引テ綾坂ノ上二旗ヲ立テ相侍ツ。敵モ功者ナレバ川ヲ越エズシテ引去ル。六月一日二中国ノ兵衆二百余人ヲ西ノ庄二残シ置キ、総軍三原二帰ル。是ョリ香川民部少輔ハ毛利家ノ旗下トシテ中国フ後援トスル也。備後ノ三原ハ海上十里二過ズシテ行程近シ、国二事アル時ハ一日ノ中二通ス。故二国中ノ諸将侮ルコトフ得ザル也。
意訳変換しておくと
その当たりの事情を毛利家の記録には次のように記す。公方義昭公は将軍内書を発行して、香川氏の帰郷を支援することを毛利氏に促す一方で、阿波三好氏に対しては、両者の和平交渉を求める書状を送ったが、これは実現しなかった。
 これに対して、小早川隆景は義昭の求めに応じて、浦兵部の太輔井上伯者守に五千余人を率いらせて、大船三百余艘で五月十二日に三原を出港し、讃州松ケ浦や鵜足郡鵜足津に着岸した。そして西庄城に攻め寄せた。これに対して、香西伊賀守の守備兵たちは城を開けて引き去っていた。そこで香川氏は西庄城へ入城して、元のように安住することになった。一方毛利家の兵将は、香川氏を西庄城に帰還させ、その余勢で阿野南条郡にも勢力を拡大させようと、綾川周辺にも押し出そうとした。これに対して、周辺の地侍達は綾坂に守備陣を敷いた。ちょうど季節は5月の長雨時期で、綾川の水量が増え、川を渡ることが出来ずに双方共に綾川を挟んでのにらみ合いとなった。しかし、500対5000という兵力差はいかんともしがたく、地侍衆は兵を引いて綾坂の上に旗を立て待ち受けた。これに対して、敵(小早川軍)も戦い功者で、川を渡らずに引下がった。
 6月1日に中国の兵衆二百余人を西庄に残して、総軍が三原に帰った。これから香川民部少輔は毛利家の旗下として中国(毛利氏)の傘下となった。備後・三原は海上十里ほどで海路で近い。なにか事あるときには一日の内に報告できる。こうして、香川民部少輔は讃岐中の諸将から一目置かれる存在となった。

ここには次のようなことが記されています。

①将軍義昭が対信長包囲網の一環として、香川民部少輔の讃岐帰還を毛利氏に働きかけた
②その結果、毛利配下の小早川軍5000が
香川民部少輔の西庄城帰還を支援し、実現させた。
③以後、香川民部少輔は毛利・小早川勢力の讃岐拠点として、周囲の武将から一目置かれる存在となった。
この話を読んでいると、元吉(櫛梨城)合戦とストーリーが基本的に一緒な事に気がつきます。考えられる事は、元吉合戦から100年後に書かれた南海通記は、古老達の昔話によって構成された軍記ものです。話が混同・混戦しフェイクな内容として、筆者によって採録され記録されたようです。

香西成資が「香川民部少輔伝」について記している部分を一覧表化したものを見ておきましょう。
香川民部少輔伝
香川民部少輔伝(南海通記)
香川民部少輔は永正の政変(政元暗殺)以降の初代讃岐守護代香川氏の弟であるようです。彼が西庄を得たことについては、表番号①に永正4(1507)年の政変(政元謀殺)の功によって、細川澄元から西庄城を賜うと記します。しかし、永世の政変については以前にお話ししたように、政情がめまぐるしく移りかわります。そして、細川氏の四天皇とされる香西氏や香川氏の棟梁たちも京都在留し、戦乱の中で討ち死にしています。ここで香西氏や香川氏には系図的な断絶があると研究者は考えています。どちらにして、棟梁を失った一族の間で後継者や相続などをめぐって、讃岐本国でも混乱がおきたことが予想されます。これが讃岐に他国よりもはやく戦国時代をもたらしたといわれる由縁です。そのような中で「細川澄元から西庄城を賜う」が本当に行われたのかどうかはよくわかりません。またそれを裏付ける史料もありません。
表番号2には、香西氏傘下として従軍しています。
そして、阿波の細川晴元配下で各方面に従軍しています。表番号6からは、香西氏配下として同族の天霧城の香川氏を攻める軍陣に参加しています。これをどう考えればいいのでしょうか。本家筋の守護代香川氏に対して、同族意識すらなかったことになります。このように香川民部少輔の行動は、南海通記には香西氏の与力的存在として記されていることを押さえておきます。
最大の疑問は、香川氏の有力枝族が阿野郡西庄周辺に勢力を構えることができたのかということです。
これに対して南海通記巻十九の末尾に、香西成資は次のように記します。
「綾南北香河東西四郡は香西氏旗頭なるに、香川氏北条に居住の事、後人の不審なきにしも非ず、我其聴所を記して後年に遺す。世換り時移て事の跡を失ひ、かかる所以を知る人鮮かられ歎、荀も故実を好む人ありて、是を採る事あらば実に予が幸ならん、故に記して以故郷に送る。」
  意訳変換しておくと
「綾南・北香河・東西四郡は香西氏が旗頭となっているのに、香川氏が北条に居住するという。これは後世の人が不審に思うのも当然である。ここでは伝聞先を記して後年に遺すことにしたい。時代が移り、事績が失われ、このことについて知る人が少なくなり、記憶も薄れていくおそれもある。故実を好む人もあり、残した史料が参考になることもあろう。そうならば私にとっては実に幸なことである。それを願って、記して故郷に送ることにする。」

ここからは香西成資自身も香川氏が阿野郡の西庄城を居城としていたことについては、不審を抱いていたことがうかがえます。南海通記は故老の聞き取りをまとめたとするスタイルで記述されています。しかし「是を採る事あらば実に予が幸ならん」という言葉には、なにか胡散臭さと、香川民部少輔についての「意図」がうかがえると研究者は考えています。

香川民部少輔の年齢と、その継嗣について
南海通記には、香川民部少輔が讃岐阿野北条郡西庄城を与えられたのは、永正4年(1507)と記します。そして彼の生存の最終年紀は、表21・22の天正11年(1583)、天正15年(1587)とされます。そうすると香川民部少輔は、76年以上も讃岐に在国したことになります。西庄城を賜って讃岐へ下国した時が青年であったとしても、齢90歳の長寿だったことになります。この年齢まで現役で合戦に出陣できたととは思え得ません。『新修香川県史』では、数代続いたものが「香川民部少輔」として記されていると考えています。おなじ官途名「民部少輔」を称した西庄城主香川氏が、2~3代継承されたとしておきます。

香川民部少輔は、いつ西庄城に入城したのか、その経過は?
南海通記には香川民部少輔は、香川肥前守元明の第2子と記します。長子は、香川兵部大輔と記される香川元光とします。元光は、讃岐西方守護代とされていますが、文献的に名跡確認はされていません。また、父元光も細川勝元の股肱の四臣(四天王)と記されていますが、これも史料上で確認することはできません。ちなみに、四天王の他の三人は、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安ですが、このうち文献上にも登場するのは、香西氏と安富氏です。奈良氏も、史料的には出てきません。なお、同時代の香川氏には、備後守と肥後守がいて、史料的にも確認できるようです。

もともと香西(上香西氏)元直の所領であった西庄を誰から受領したのか?
第1候補者は、阿波屋形の影響力が強い時期なので、細川澄之の自殺後に京兆家の跡を継いだ澄元が考えられます。時の実権者は、澄元の実家である阿波屋形の阿波守護細川讃岐守成之が考えられます。しかし、讃岐阿野郡北条の地を香川氏一族に渡すのを香西氏ら讃岐藤原氏一門が黙って認めたのでしょうか。それは現実的ではありません。もしあったとしても、名目だけの充いだった可能性を研究者は推測します。
三好実休の天霧城攻めについて
今まで定説化されてきた三好実休による天霧城攻めについては、新史料から次の2点が明らかになっています。ことは以前にお話ししました。
①天霧城攻防戦は、永禄元年(1558)のことではなく永禄6年(1563)のことであること。1558年には実休は畿内で合戦中だったことが史料で確認されました。実休配下の篠原長房も畿内に従軍しています。永禄元年に、実休が大軍を率いて讃岐にやってくる余裕はないようです。
②永正3~4年(1506~07)年に天霧城周辺各所で小競り合いが発生していることが「秋山文書」から見えることは以前にお話ししました。

西庄城主の香川民部少輔は、天霧城の本家香川氏を攻めたのか?


表番号6には、香川民部少輔が三好実休に従軍して天霧城を攻めたとあります。これは、南海通記以外の史料には出てきません。永正4年の政変では、讃岐守護代であった香川某が京都で討死にしています。南海通記は、民部少輔の兄香川元光が変後の香川守護代になったとします。確かに、香川某の跡を香川氏一族の中から後継者が出て、讃岐西方守護代に就任していることは、永正7年(1510)の香川五郎次郎以降の徴証があります。そうだとすると、守護代香川氏と民部少輔は、兄弟ということになります。永正4年(1507)以後に、守護代が代替わりしたとしても甥と叔父の近親関係です。非常に近い血縁関係にある香川氏同士が争う理由が見当たりません。香川民部少輔による天霧城攻めは現実的ではないと研究者は考えています。そうすると表番号6の実休の天霧城(香川本家)攻防戦には虚構の疑いがあることになります。
香川民部少輔伝2

元亀2年・(1571)の阿波・讃岐連合の四国勢と毛利勢による備前児島合戦は?
この時の備中出兵も阿野郡北条から出撃ではなく宇多津からです。讃岐に伝わる多くの歴史編纂物は、この合戦に参加した武将に香川民部西庄城主を挙げます。それに対して南海通記は、表番号7~9項のように、香川民部少輔が香西氏らの讃岐諸将に包囲されていると伝えます。ここにも大きな違いがあります。
 さらには1571年中に毛利氏支援によって、香川民部少輔が西庄城帰還に成功したとします。しかし、この時点ではまだ毛利氏には備讃瀬戸地域の海上覇権を手に入れる必要性がありません。未だ足固めができていない状況で讃岐への遠征は無理です。南海通記は「讃岐勢によって西庄城が攻められ香川民部少輔は、開城して落ち延びた」としますが、これは天霧城攻防戦と混同している可能性があります。天霧城落城後に香川某も毛利氏を頼って安芸に亡命しています。

香川民部少輔の西庄城開城と元吉合戦の関連について
表番号15・16と20・21を見ると、香川民部少輔は居城である西庄城を都合4度開城して攻城側に引渡しています。このうち、表15・16と20・21は伝承年紀の誤りで、1回の同じことを2回とカウントしていることがうかがえます。また、過去に毛利氏に援護されて帰城できたことへの恩義のことと自尊心から長宗我部元親への寝返りを拒否したと南海通記は記します。これはいかにも道徳的であり、著者の香西成資の好みそうな内容です。 

順番が前後しますが最後に、元亀年中の表7~11項です。
これは天正5年の元吉合戦の混同(作為)だと研究者達は考えています。香川某の毛利方への退避・亡命は事実のようです。これに対して、香川民部少輔の動きが不整合です。
以上のように南海通記で奈良氏や香西方の旗下武将として描かれていますが、これ著者の香西成資の祖先びいきからくる作為があるというのです。実際は、戦国大名へと歩みはじめた香川氏と阿波三好勢力下でそれを阻止しようとする香西・奈良氏などの抗争が背景にあること。さらに元吉合戦については、発掘調査から元吉城が櫛梨城であると多くの研究者が考えるようになりました。つまり、香川本家の天霧城をめぐるエピソードを西庄城と混同させる作為があること。そして、西庄城を拠点とするさらに香川民部少輔が香西氏傘下にあったことを示すことで、香西氏の勢力を誇張しようととする作為が感じられるということのようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」
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原氏は「仁尾浦鴨大明神」の惣官として15世紀を中心に活動しています。

仁尾の港 20111114_170152328
仁尾浦からの燧灘(金毘羅参詣名所図会) 

1481(文明十三)年の沙門宥真勧進状には次のように記されています。(意訳)

仁尾の鴨社の西方には「漫々たる緑海を望み」そこを通過する「客帆」は孤島を模したようである。東方には峨峨たる青山がある。仁尾浦には神殿仏閑が廃興をくり返し、その景趣は他にないもので、「道俗福貴の地」であり、「尊卑幸祐の岐」である。すなわち、仁尾は海と高山の間の狭小な土地であるが、神社仏閣が多く、沖には多くの船が行き通い、海上運輸あるいは商業、さらには宗教的にも繁栄している。
 
 仁尾には土地の売券や譲状などがいくつか残されていることは以前にお話ししました。
1352(観応二)年5月の僧定円田畠等譲状には、家・牛・田畠・荒野・山がセットにされて嫡子徳三に譲与されています。これは農業生産において個人が自立していたと考える材料になります。これに対して農業用水については「池は惣衆の修理たるべし」とあります。池は「惣衆」の共同管理の下にあったようです。
 仁尾浦は京都賀茂神社へ神饌を捧げるための社領として成立し、特権を得た神人達によって運営されていました。それが室町時代になると、パトロンを賀茂神社から細川京兆家へと鞍替えしていきます。そして国役の代わりに「兵船」の役をつとめるようになったことは以前にお話ししました。
 しかし、温和しく指示のままに動いていたわけではありません。浦代官となった香西氏の不当な要求に対しては、神人が共同で訴訟を起こして抵抗しています。このように「惣衆」がいて、神人の団結で仁尾浦は運営されていました。
仁尾賀茂神社
仁尾賀茂神社
仁尾浦の中心が「当浦氏社鴨大明神」(賀茂神社)で、その惣官の地位にあったのが原氏です。
原氏は代々「新兵衛尉」を名のっています。「新兵衛尉」の登場する文書を見ておきましょう。
1391(明徳二)年の相博契約(土地の交換)が行われた時に、「所見」という一種の保証を行った6人の中に「しんひやうへのせう(新兵衛尉)」の名が見えます。
1399(応永六)年 源助宗が 一段の田を「鴨大明神九月九日」に寄進していますが、実際は惣官の新兵術尉の所に付せられています。
ここからは新兵衛尉は原氏のことで、鴨社の代表者として神人たちの上位に位置していたことがうかがえます。また、土地相博の証人も務めるなど信望も得ていたようです。しかし、6人の「所見」人の一人でしかありません。この時点では浦全体の上に立つような存在ではなく、神人の有力指導者の一人という存在だったようです。
県史は、浦人の神人としての特徴を「仁尾浦神人等謹言上」事件から捕らえています
 仁尾浦は、守護細川氏によって京都鴨神社の課役を停止され、代わりに守護細川氏に対して「海上諸役」をつとめることになっていました。細川氏の代官である香西氏は「兵糧銭催促」「一国平均役御催促」の臨時課税を行います。それが讃岐西方守護代の香川修理亮からの出船催促と食い違い、結果的に二重に課役を負担し、しかも手違いを責められ「御せつかん」を受けることになります。さらに「香西方親父逝去之折節」「徳役の譴責」や「陸分内検」など浦代官香西氏の「新政」による制度改革が強行されます。香西氏にしてみれば、仁尾は、東側に拡がる燧灘の拠点港で、伊予・安芸方面への戦略港になります。細川京兆家の戦略の一つは、瀬戸内海交易権の確保でした。吉備と讃岐と、その間の塩飽を押さえて、それは実現できます。次に仁尾を直接的に支配することで、戦略的な価値を高めようとしたことが考えられます。
兵庫北関入船納帳 燧灘
燧灘に向かって開かれた仁尾湊
 この制度改革や新税に対して、神人等は仁足浦が「御料所」「公領」であることを根拠として代官の改替を要求します。同時に、「浜陸一同たり」という特殊性を主張して浦代官香西氏の「陸分内検」を認めません。そのためにとった反対運動が「祭礼停止」です。
 代官の非法に対して、住人は鴨大明神の神人として団結し、抵抗運動を行います。
その神人集団の代表者的存在が新兵衛尉こと原氏でした。しかし、原氏は俗生活上では、先ほど見たように「所見」を行う一人で、「惣衆」の一員でしかありません。これが前回に見た水主神社の水主氏と違うところです。水主氏の地位は『大水主人明神和讃』で、「水主三郎左術円光政」が水主に水をもたらした大水主社祭神百襲姫命の「神子三郎殿」であると讃えられています。つまり、信仰上、水主氏は神と住人を結ぶ媒介者とされ、信者集団の上に立つ存在とされていました。しかし、仁尾の原氏には、そのようなあつかいは見えません。
 仁尾浦は海上運輸や後背地の三豊平野や阿波との交易を生業とする個人が成長し自立化が進んでいました。
水主のような水の管理に伴う共同体規制を受けることは少なかったようです。そのような港町の条件を前提として「惣衆」結合があって、神人集団があったのです。同じ惣官であっても水主氏が宗教上、社領内住人の上に立っていたのに対して、原氏は神人の代表者的地位でしかなかったと研究者は指摘します。
 三好長慶の大阪湾岸の港湾都市とのつきあい方を見ておきましょう。
 四国から畿内に勢力を伸ばそうとしていた三好氏にとって,大阪湾の流通を支配することは最重要課題のひとつでした。しかし,三好氏単独で,流通の結節点となっている自治的都市を支配下に置くのは力不足でした。後の高松城のような城下町建設し、そこに港も作って流通を把握するというスタイルは、まだまだ先の話です。こうした中で,三好氏が採用した対港湾都市戦略は「用心棒」的存在として,都市に接するのではなく,法華宗寺院を仲立ちとした支配を進める方法です。法華宗の寺院や有力信者を通じて,都市共同体への影響力を獲得し,都市や流通ネットワークを掌握しようとします。やげた三好氏は法華宗を媒介とした支配から脱却し,都市共同体に直接文書を発給するようになります。こうした三好氏の大阪湾支配のあり方は,織豊政権の港湾都市の支配の先行モデルとなります。仁尾での香西氏の「新法」による浦代官の権限強化策もこのような方向をめざしていたのかもしれません。しかし、あまりに無骨だったために原氏などを中心とする神人集団の抵抗を受けて頓挫したようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   
香川県史・中世編は、讃岐の領主的な志向をもつ神主として、次の3氏を挙げています。
大水主社(大内郡)の水主氏
田村大社(香川郡)の一宮氏
賀茂神社(三野郡)の原氏
今回は、水主神社の水主氏を見ていくことにします。
水主氏は、一宮田村大社と並ぶとされていた大水主社の「惣官」であり、「地頭」でもありました。水主氏は「惣官源盛政」「水主三郎左衛円尉源盛政」と、源姓を称していますがその出自はよく分からないようです。
讃岐の古代郡名2東讃jpg
大内郡の郷名(与泰が与田)

水主氏が「地頭」として管理していた大水主社領は、大内郡の与田・入野両郷から一部を割り分けるという形をとっていました。そして両郷の残りの部分には「与田殿」「入野殿」「下村御代官」などがの荘園がありました。ここからは、水主神社の社領は、上級領主のいない一円的所領であったことが分かります。

讃岐東讃の荘園
大内郡の荘園
社領内は1386(至徳三)年の奉加帳によると「水水主分・与田郷分・入野郷分」を除いて、以下の8つの集落から構成されていたようです。
武吉・岩隈別所・中村・大古曽・原・宮内・北内・焼栗


水主神社領2

これらの地域を地図上で見ておきましょう。
水主神社領
赤い枠内が水主

三本松湾に流れ出す与田川の水源である焼栗付近から、平野部がはじまる与田寺あたりまでの谷間に当たり、現在の大字水主に相当します。奉加者名が114名いますので、それ以上の戸数があったことが分かります。
 中世になって武吉村などの各集落は、谷沿いに棚田を開いていきます。その際に農業用水確保のために、避けては通れないのが谷頭(たにがしら)池の築造です。与田川支流の小谷の谷頭に小さな池が作られます。その労働力や資金は、各集落内で賄われたはずです。こうして「水確保のための共同体」が各集落に成長します。中世の谷田開発は、このようにして進められて行きます。こうして水主神社の周辺には8つの集落が形成されます。しかし、この地域の住民は「農民」という範疇だけでは、捕らえきれない性格をもっていたようです。

水主神社大般若経と浪花勇次郎
水主神社の大般若経
   水主神社には、「牛負大般若経」と呼ばれ国重文に指定されている大般若経があることは以前にお話ししました。
この大般若経を収めるために、1386(至徳三)勧進された経函には次のように墨書されています。     
一 箱ノマワリノ木、皆阿州吉井ノ木ノミ成法之助成也、
  持来ル事、北内越中公・上総公
一 細工助成、堀江九郎殿ト(研)キヌ(塗)ルマテ、宰相公与田山
一 番匠助成、別所番匠中也
意訳しておくと
1 箱の木は、全て阿波吉井の木で作られ、北内の越中公・原の上総公により運ばれてきた。
2 細工の助成は堀江九郎殿が行い、与田山の宰相公が、「トキ=磨ぎ」、「ヌル=塗る」の漆工芸を担当した。
建保職人歌合 塗仕
塗師
ここからは、経函制作のために地元の信者達が次のように関わったことが分かります。
①経函製作用の桧用材を運送してきたのは北内・原の住人であること。北内・原は先ほど見た水主の集落名の中にありました。わざわざ名前が記されているので、ただの人夫ではないはずです。名前に、公と国名を使用しているので出家者で、馬借・車借などの陸上輸送に従事するものと研究者は考えています。
②堀江九郎殿の「堀江」は地名で、経函の設計・施工を担当した人物のようです。
③水主神社には職人集団が属する番匠中があり、与田山の宰相公は、「トキ」すなわち、「磨ぎ」、「ヌル」すなわち「塗る」で、漆工芸を専業とする職人がいたこと。 
④実際に、経函は桧材を使用し、外面を朱塗りで各稜角を几帳面どりして黒漆を塗っているようです。中央の職人によるものでなく材料も職人も地元の職人によって製作が行われています。ここからは、水主・与田山の文化圏の存在がうかがえます。

第26回日本史講座まとめ①(商工業の発達) : 山武の世界史

 また、中世の引田港の船は畿内に、薪炭や薪を積んで行き来していたことが「兵庫北関入船納帳」から分かります。後背地の山々で採取された薪類が水主の馬借・車借によって集められて、引田港に運ばれていたことが考えられます。同時に彼らは、阿讃山脈を越えて阿波の南部とも行き来していたことが見えて来ます。水主は、人とモノが行き交う経済活動の中心地であったことがうかがえます。

水主氏は地頭として、このような「村」をどのように指導・支配したのでしょうか?
それを示す史料はないようです。しかし、水主氏が神社惣官として、宗教的・イデオロギー的に社領内住人を掌握していたことがうかがえるものはあるようです。
①水主の住人は、1386(至徳3)と1445(文安2)年に奉加行動を行っていること
②水主の谷を囲む山が那智山・本宮山・新宮(虎丸山)と称されていること
などから水主住民にも熊野信仰が強く根付いていたことがうかがえます。
水主三山 虎丸山

このような住民の信仰を前提として、水主氏は1444(文安四)年8月吉日に、「大水主社神人座配の事」を「先例に任せて」定めています。水主氏は惣官として神人の座の決定権を握ることで、「村」の住人とはちがう高い位置に立つことになります。水主氏の地位は『大水主人明神和讃』では、「水主三郎左術円光政」が水主に水をもたらした大水主社祭神百襲姫命の「神子三郎殿」であると讃えられています。つまり、信仰上、水主氏は神と住人を結ぶ媒介者とされたのです。
 旧大内郡は、13世紀後半以降は南朝方の浄金剛院領となります。南朝方の荘園であったことが大川郡の宗教的な特殊性を形成していくことにつながったようです。これは鎌倉新仏教の影響を押さえて、水主神社を中心とする熊野信仰の隆盛を長引かせることになります。例えば、神祇信仰関係の文化財を見てみてると、国指定重要文化財だけでも次のようなものが挙げられます。

P1120111 大内 水主神社 大倭根子彦
大倭根子彦太瓊命坐像(水主神社)
倭追々日百襲姫命坐像
倭国香姫命坐像
大倭根子彦太瓊命坐像外女神坐像四体
男神坐像一体、
木造狛犬一対

大水主神社獅子頭  松岡調
木造狛犬一対
 これらは、いずれも平安時代前後のものです。この外にも、県指定有形文化財の木造狛犬一対、木造獅子頭があり、どちらも室町時代の逸品です。これらの文化遺産は、中世村落に神祇信仰の対象として偶像や神殿が造営されていく時期にちょうどあたります。香川県下で、これほど中世以前の神祇信仰遺物を伝えるところはありません。仏教文化だけでなく、神仏混淆の中で神祇信仰も隆盛を迎えていたのです。その保護者であったのが水主氏であったということになりそうです。そして、水主氏は守護であると同時に神官でもあったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    中世讃岐の国人領主 香川県史2 中世347P

 中世後期細川氏の権力構造 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

足利幕府のなかで、細川は一族の繁栄のために「同族連合」を形成していました。そのような中で勃発するのが応仁の乱です。10 年以上にわたって続いたこの乱は、足利将軍家での義視 対 義尚、畠山氏での持富対義就のほか、斯波氏、六角氏などでの同族内での主導権(家督)争いが招いた物とも云えます。これに対して細川一族は、内部抗争を起こすことなく、同族が連合することで、乱に対応しその後の発展につなげることができました。
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 応仁の乱の中で京兆家惣領勝元が死亡します。その危機的状況への対応策として生まれたのが「京兆家-内衆体制」だと研究者は考えています。

勝元が亡くなった時、後継者の政元はまだ7歳でした。
問題になるのが、誰に後見させるかです。そこで登場するのが内衆です。内衆とは、側近被官のことで、細川氏(京兆家)では、後醍醐天皇に追われた足利尊氏が九州から上洛する際に、被官化した者たちです。彼らは讃岐・阿波など瀬戸内海沿岸諸国の出身者が多かったようです。この者たちを同族連合の細川氏各家(各分国)の守護代や各種代官等に任命し、分国支配を任せるという統治スタイルです。これは、幕府と守護とが連携して中央と地方を支配するようなもので、京兆家と内衆が細川氏分国(細川同族連合)を連携しながら支配するという方法です。これを研究者は「京兆家-内衆体制」と呼んでいます。
 内衆のメンバーは、奉行人・評定衆・内衆・非譜代衆によって構成されます。そして、幼かった京兆家当主政元をもり立て、細川氏一族の強化を図ろうとします。うまく機能していた「京兆家-内衆体制」に、大きな問題が出てきます。それは政元は天狗道に熱中したことです。天狗になろうとして、修験道(天狗道)の修行に打ち込み、女人を寄せ付けません。そのため妻帯せず、後継者ができません。そこで3人の後継者候補(養子)が設定されます。

永世の錯乱 対立構図
一人目は澄之。
関白を務めた九条政基の子息で現任関白尚経の弟です。関白は天皇の補佐役であり、公家のトップです。関白家出身の養子を後継者とすることで、武家(細川氏)と公家(九条家)が連合する政権構想があったことを研究者は推測します。しかし、これでは、細川氏の血脈が絶えてしまいます。
二人目は澄元。阿波守護家出身。
阿波守護家は細川氏一族では京兆家に次ぐ家格です。細川氏内部での統合・求心力を高めるには良いかもしれません。ところが、政元自身がこれには乗り気でなかったようです。
三人目が高国。京兆家の庶流である野州家の出身
政元が養子として認めたていたかどうかは、はっきりとしません。
どちらにしても、後継者候補が何人もいるというのは、お家騒動の元兇になります。それぞれの候補者を担ぐ家臣を含めたそれぞれの思惑が渦巻きます。互いの利害関係が複雑に交錯して、同族連合としてのまとまりに亀裂を生むことになります。応仁文明の乱を乗り切り、幕府内における優越した地位を保ち続けて来た細川同族連合の内紛の始まりです。これが織田信長上洛までの畿内地域の混乱の引き金となります。これが各分国にも波及します。讃岐もこの抗争の中に巻き込まれ、一足早く戦国動乱に突入していきます。

この口火を切ったのが細川政元の内衆だった讃岐の武将達のようです。
応仁の乱の際に 管領細川勝元の家臣として畿内で活躍した讃岐の4名の武将を南海通記は「細川四天王」と呼んでいます。当時のメンバーは以下の通りでした。
安富盛長(安富氏) - 讃岐雨滝城主(東讃岐守護代)
香西元資(香西氏) - 讃岐勝賀城主
奈良元安(奈良氏) - 讃岐聖通寺城主
香川元明(香川氏) - 讃岐天霧城主(西讃岐守護代)
応仁の乱後に京兆家を継いだ細川政元も、この讃岐の四氏を内衆として配下に於いて政権基盤を固めていきます。中でも香西五郎左衛門と香西又六(元長)は「両香西」と呼ばれ、細川政元に近侍して、常に行動を共にしていたことは以前にお話ししました。それが後継者を巡る問題から、讃岐の「四天王」の子孫は、それまで仕えてきた細川政元を亡き者にします。その結果、引き起こされるクーデーター暗殺事件に端を発するのが永世の錯乱です。今回は、永世の錯乱当時の讃岐武将達の動きを史料でお押さえていきます。

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「足利季世記」は、細川京兆家の管領で細川政元について、次のように記します。長文意訳です。
四十歳の頃まで女人禁制で魔法飯綱の法、愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如きであった。ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、見る人身の毛もよだつほどであった。このような状況であったので、お家相続の子が無く、御内・外様の人々は色々と諌めた。
 その頃の公方(足利)義澄の母は、柳原大納言隆光卿の娘であった。これは今の九条摂政太政大臣政基の北政所と姉妹であった。つまり公方と九条殿の御子とは従兄弟であり、公家も武家も尊崇した。この政基公の御末子を細川政元の養子として御元服あり、公方様の御加冠あり、一字を参らせられ、細川源九郎澄之と名乗られた。澄之はやんごとなき公達であるので、諸大名から公家衆まで皆、彼に従い奉ったので、彼が後継となった細川家は御繁昌と見えた。そして細川家の領国である丹波国が与えられ入部された。
 細川家の被官で摂州守護代・薬師寺与一という人があった。
 その弟は与ニといい、兄弟共に無双の勇者であった。彼は淀城に居住して数度の手柄を顕した。この人は一文字もわからないような愚人であった。が、天性正直であり理非分明であったので、細川一家の輩は皆彼を信頼していた。
 先年、細川政元が病に臥せった時に、細川家の人々は協議して、阿波国守護である細川慈雲院殿(成之)の子、細川讃岐守之勝(義春)に息男があり、これが器量の人体であるとして政元の養子と定めることにした。これを薬師寺を御使として御契約した。これも公方様より一字を賜って細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行われ、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、後には御心も乱れ現なき事を言い出した。
この様では、どうにもならないと、薬師寺与一と赤沢宗益(朝経)は相談して、六郎澄元を細川家の家督を相続させ政元を隠居させることで一致した。ここに謀反を起こし、薬師寺与一は淀城に立て籠もり、赤沢は二百余騎にて伏見竹田に攻め上がった。
 しかし永正元年九月の初め、薬師寺与一の舎弟である与ニ(長忠)が政元方の大将となり、兄の籠もる淀城を攻めた。城内をよく知る与ニの案内が有ったために、城は攻め落とされ、与一は自害することも出来ず生け捕りにされ京へと上らされた。与一はかねて一元寺という寺を船橋に建立しており、与ニはこの寺にて兄を切腹させた。与ニには今回の忠節の賞として、桐の御紋を賜り摂津守護代に補任された。源義朝が父為義を討って任官したのもこれに勝ることはないだろうと、爪弾きに批判する人もあった。赤沢は色々陳謝したため一命を助けられた。
このような事があり、六郎澄元も阿州より上洛して、父・讃岐守殿(義春)より阿波小笠原氏の惣領である三好筑前守之長と、高畠与三が共に武勇の達人であったため。補佐の臣として相添えた。

薬師寺与ニは改名して三郎左衛門と号し、政元の家中において人もなげに振る舞っていたが、三好が六郎澄元の後見に上がり、薬師寺の権勢にもまるで恐れないことを安からず思い、香西又六、竹田源七、新名などといった人々と寄り合い評定をした
「政元はあのように物狂わしい御事度々で、このままでは御家も長久成らぬであろう。しかし六郎澄元殿の御代となれば三好が権勢を得るであろう。ここは政元を生害(殺害)し、丹波の九郎澄之殿に京兆家を継がせ、われら各々は天下の権を取ろう。」と評議一決した。
 1507(永正4)年6月23日、政元はいつもの魔法を行うために御行水を召そうと湯殿に入られた。
そこを政元の右筆である戸倉と言う者が襲い殺害した。まことに浅ましい。
この政元の傍に不断に仕える波々伯部という小姓が浴衣を持って参ったが、これも戸倉は切りつけた。しかし浅手であり後に蘇生し、養生して命を全うした。

この頃、政元は、丹波(丹後)の退治のために赤沢宗益を大将として三百余騎を差し向けていた。また河内高屋へは摂州衆、大和衆、宗益弟、福王寺、喜島源左衛門、和田源四郎を差し向け、日々の合戦に毎回打ち勝ち、所々の敵たちは降参していた。しかし、政元殺害の報を聞くと軍勢は落ち失い、敵のため皆討たれた。
政元暗殺に成功した香西又六は、この次は六郎澄元を討つために兵を向けた。
明けて24日、薬師寺・香西を大将として寄せ行き、澄元方の三好・高畠勢と百々橋を隔てて切っ先より火を散らして攻め戦った。この時政元を暗殺した戸倉が一陣に進んで攻め来たのを、波々伯部これを見て、昨日負傷したが主人の敵を逃すことは出来ないと、鑓を取ってこれを突き伏せ郎党に首を取らせた。
六郎澄元の御内より奈良修理という者が名乗り出て香西孫六と太刀打ちし、孫六の首を取るも修理も深手を負い屋形の内へ引き返した。このように奮戦したものの、六郎澄元の衆は小勢であり、敵に叶うようには見えなかったため、三好・高畠は澄元に御供し近江へ向けて落ちていった。

この時、周防に在った前将軍・足利義材はこの報を聞いて大いに喜び、国々の味方を集め御上洛の準備をした。
中国西国は大方、将軍義材御所の味方となった。安芸の毛利治部少輔(弘元)を始めとして、義材を保護している大内氏の宗徒の大名の多くは京都の御下知に従っていたため、この人々の元へ京より御教書が下された。

根本史料ではなく、内容も軍記物語のような語り口ですが、だいたいの大筋を掴むにはいい史料です。次に、根本史料で押さえておきます。
永世の錯乱1
 
『宣胤卿記』(のぶたねきょうき)は、戦国時代の公卿・中御門宣胤の日記です。
1480(文明12)年正月から1522(大永29)年正月までの約40年の京を巡る政局がうかがえる史料のようです。細川政元の暗殺や細川澄元の敗死などの永正の錯乱については、次のように記します。
「宣胤卿記」1507(永正四)年六月二四日条
去る夜半、細川右京大夫源政元朝臣四十二歳。天下無双の権威。丹波。摂津。大和。河内・山城。讃岐・土佐等守護なり。被官竹田孫七のために殺害せらる。京中騒動す。

 今日午刻、かの被官山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人、嵯峨より数千人を率い、細川六郎澄元政元朝臣養子。相続分なり。十九歳。去年阿波より上る。在所将軍家北隣なり。へ押し寄せ、終日合戦す。申斜、六郎敗北し、在所放火す。香西彦六討死す、同孫六翌日廿五日、死去すと云々。
 六郎(澄元)同被官三好(之長)阿波より六郎召具す。棟梁なり。実名之長。落所江州甲賀郡。国人を憑むと云々。今度の子細は、九郎澄之自六郎より前の政元朝臣養子なり。実父前関白准后(九条)政基公御子。一九歳。家督相続の遺恨により、被官を相語らい、養父を殺さしむ。香西同心の儀と云々。言語道断の事なり。
意訳変換しておくと
 細川政元(四十二歳)は、天下無双の権威で、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護であったが夜半に、被官竹田孫七によって殺害せれた。京中が大騒ぎである。今日の午後には、政元の被官である山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人が、嵯峨より数千人を率いて、細川六郎澄元(政元の養子で後継者19歳。去年阿波より上洛し。将軍家北隣に居住)を襲撃し、終日戦闘となった。六郎は敗北し、放火した。香西彦六も討死、孫六も翌日25日に死去したと伝えられる。六郎(澄元)は被官三好(之長)が阿波より付いてきて保護していた。この人物は三好の棟梁で、実名之長である。之長の機転で、伊賀の甲賀郡に落ちのびた。国人を憑むと云々。
 今回の子細については、澄之は六郎(澄元)以前の政元の養子で後継者候補であった。実父前関白准后(九条)政基公御子で一九歳である。家督相続の遺恨から、香西氏などの被官たちと相語らって、養父を殺害した。香西氏もそれに乗ったようだ。言語道断の事である。
 ここには細川政元暗殺の黒幕として、香西元長とその兄弟であると記されています。
その背景は、細川政元の後継者が阿波細川家の澄元に決定しそうになったことがあると指摘しています。そうなると、澄元の被官に三好之長が京兆家細川氏を牛耳るようになり、「細川四天王」と呼ばれた讃岐の香西・香川・安富・奈良氏にとっては出番がなくなります。また、今までの既得権利も失われていくことが考えられます。それを畏れた香西氏が他の三氏に謀って、考えられた暗殺クーデター事件と当時の有力者は見抜いていたようです。

「細川大心院記」永正四年六月二四日条には、次のように記します。
夏ノ夜ノ習トテホトナク明テ廿四日ニモ成ケレハ巳刻許二香西又六元長、同孫六元秋、同彦六元能兄弟三人嵯峨ヲ打立三千人計ニテ馳上リ其外路次二於テ馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ又六弟二心珠院宗純蔵主、香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕馳集り室町へ上リニ柳原口東ノ方ヨリ澄元ノ居所安富力私宅二押寄ル。
 
意訳変換しておくと
細川政元が暗殺された夜が開けて24日になると、香西又六元長と実弟の孫六元秋、彦六元能兄弟三人は、阿波細川澄元の舘を襲撃した。三千人ほどの兵力で嵯峨を馳上り、その途上で駆けつけた者達の数は分からない。又六元長の弟や心珠院宗純蔵主、香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕なども、これに加わり室町へ上リ、柳原口東方から澄元の居所へ安富勢とともに押し寄せた。

ここには細川澄元舘を襲撃した讃岐の四天王の子孫の名前が次のように記されています。
①香西又六元長・弟 孫六元秋(討死)・彦六元能(討死)
②香川上野介満景
③安富新兵衛尉元顕
奈良氏の名前は見えないようです。

細川政元暗殺クーデターの立案について「不問物語」( 香西又六与六郎澄元合戦事)は、次のように記します。
香西又六元長ハ嵯峨二居テ、一向ニシラサリケり。舎弟孫六・同彦六ナトハ同意ニテ九郎澄之ヲ家督ニナシ、六郎澄元并三好之長・沢蔵軒等ヲモ退治セハヤト思テ又六二云ケルハ、「過し夜、政元生害之事、六郎澄元・同三好等力所行也。イカヽセン」卜有間、又六大驚、「其儀一定ナラハ、別ノ子細ハ有マシ。只取懸申ヘシ」トテ、兄弟三人嵯峨ヲ千人余ニテ打立ケリ。於路頭馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ舎弟心珠院二申合間、香川上野介満景・安富新兵衛尉元顕、室町ヲノホリニ柳原口東ノ方ヨリ澄元屋形故安富筑後守力私宅二押寄、

意訳変換しておくと
香西又六元長は、嵯峨で細川高国暗殺計画について始めて一行に知らせた。舎弟の孫六・同彦六は同意して細川澄之を京兆家の家督として、六郎澄元とその側近の阿波の三好之長・沢蔵軒等を亡き者にする計画を又六に告げた。「夜半に、政元を殺害し、その後に細川・三好等なども襲う手はずで如何か」と問うた。これに又六(元長)は大いに驚きながらも、「それしか道はないようだ、それでいこう、ただ実行あるのみ」と、兄弟三人は嵯峨を千人余りで出発した。道すがらの路頭で馳付た数は分からない。京都には舎弟心珠院がいて、香川上野介満景・安富新兵衛尉元顕が加わり、柳原口東方から澄元屋形へ安富筑後守力私宅二押寄、

「細川大心院記」永正四年七月八日条には、次のように記します。
去程二京都ニハ澄之家督ノ御内書頂戴有テ丹波国ョリ上洛アリ。大心院殿御荼昆七月八日〈十一日イ〉被取行。七日々々ノ御仏事御中陰以下大心院二於厳重ニソ其沙汰アリケリ。香川上野介満景・内藤弾正忠貞正。安富新兵衛尉元顕・寺町石見守通隆・薬師寺三郎左衛門尉長忠。香西又六元長・心珠院宗純o長塩備前守元親・秋庭修理亮元実。其外ノ面々各出仕申。

意訳変換しておくと
 細川政元に命じられて丹波駐屯中であった澄之は京に上がって、細川京兆家の家督を継ぐことになった。その後に大心院殿で(細川政元)の法要を7月8日に執り行った。御仏事御中陰など大心院での儀式については、厳重な沙汰があった。香川上野介満景・内藤弾正忠貞正。安富新兵衛尉元顕・寺町石見守通隆・薬師寺三郎左衛門尉長忠・香西又六元長・心珠院宗純・長塩備前守元親・秋庭修理亮元実。その外の面々各出仕した。

 永世の錯乱3


政元亡き後の京都へ、丹後の一色氏討伐のため丹波に下っていた細川澄之が呼び戻されます。澄之は7月8日に上洛し、将軍足利義澄より京兆家の家督と認められます。そして政川政元の中陰供養が行われます。ここに参加しているメンバーが澄之政権を支えるメンバーだったようです。そこには奈良氏を除く讃岐の「細川四天王」の名前が見えます。こうしてクーデター計画は成功裏に終わったかのように見えました。 ここまでは香西氏など、讃岐武将の思惑通りにことが運んだようです。しかし、細川澄元とその被官三好之長は逃してしまいます。これが大きな禍根となります。そして、香西元長は戦闘で二人の弟を失いました。

  香西家など讃岐内衆による澄元の追放を傍観していた細川一家衆は、8月1日に反撃を開始します。
典厩家の政賢、野州家の細川高国、淡路守護家の尚春などの兵が澄之方を襲撃します。この戦いは一日で終わり、澄之は自害、山城守護代の香西元長、摂津守護代の薬師寺長忠、讃岐両守護代の香川満景・安富元顕は討死にします。それを伝える史料を見ておきましょう。

後の軍記物「應仁後記」には、細川澄之の敗北と切腹について次のように記します。
   細川政元暗殺の後、畿内は細川澄之の勢力によって押さえられた。しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで
近江甲賀の軍士を集めた。また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって攻め上がった。
昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には自身も討ち死にした。

これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せた。残る香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、香西元長も流れ矢に当たって死んだ。
この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた
「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」

九郎澄之は「それは覚悟している」
そう言って硯を出し文を書いた
「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」
そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、
また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。
奥には一種の歌が詠まれた。

 梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける

髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、尋常に腹を切って死んだ。波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。
澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。

一次資料の「宣胤卿記」永正四年八月一日条には、次のように記します。
早旦、京中物念。上辺において己に合戦ありと云々。巷説分明ならず。人を遣し見せしむるの処、細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督也。在所大樹御在所之北、上京小路の名なき所なり。に押し寄すと云々。(中略)九郎澄之。十九歳。己に切腹す。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等、九郎方として討死にすと云々。
意訳変換しておくと
8月1日早朝、京中が騒然とする。上辺で合戦があったという。巷に流れる噂話では分からないので、人を遣って調べたところ、以下のように報告した。細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督たちが在所大樹御在所の北、上京小路の名なき所に集結し、細川澄之と香西氏の舘を襲撃した。(中略)九郎澄之(十九歳)は、すでに切腹。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等など、九郎澄之方の主立った者が討死したという。


「多聞院日記」永正四年八月一日条には、次のように記します。
今暁、細川一家并に落中辺土の一揆沙汰にて九郎(細川澄之)殿宿所院領(陰涼)軒差し懸り合戦に及ぶと云々。則ち九郎殿御腹召されおわんぬ。波々伯部伯者守(宗寅)・一宮兵庫助その外十人計り生涯すと云々。
薬師寺宿所にては三郎左衛門尉(薬師寺長忠)・与利丹後守・矢倉・香西又六(元長)・同真珠院・美濃(三野)五郎太郎・香西宗次郎か弟・香川(満景)・安富(元顕)その外三十人許り。
  嵐山城則ち焼き払いおわんぬ。
  意訳変換しておくと
本日の早朝に洛中辺土で一揆沙汰があって、細川一家が九郎(細川澄之)殿宿所院領(陰涼)軒を襲撃し合戦になったと人々が云っている。九郎(澄之)殿は切腹されたようだ。その他にも、伯部伯者守(宗寅)・一宮兵庫助など十人あまりが討ち死にしたと伝えられる。薬師寺宿所では、三郎左衛門尉(薬師寺長忠)・与利丹後守・矢倉・香西又六(元長)・同真珠院・美濃(三野)五郎太郎・香西宗次郎か弟・香川(満景)・安富(元顕)など三十人あまりが討ち取られた。
  そして、嵐山城は焼き払らわれた。
  
  日記などの一次資料はシンプルです。それが、後に尾ひれが付いて、周りの情景も描き込まれて物語り風になっていきます。当然、その分だけ分量も多くなります。

嵐山城は香西元長が築いた山城です。
場所は観光名所の桂川を見下ろす嵐山山頂にあります。渡月橋からは西山トレイルが整備されていて、嵐山城址まで迷うことなくたどり着くことができます。山道をひたすら登っていくと、城址最南端に穿たれた堀切が現われ、 そのすぐ上の小山が城址最南端の曲輪で、城址はそこから北方の尾根全体に展開しているようです。


「細川大心院記」永正四年八月一日条で、讃岐内衆の最後を見ておきましょう。
サテ八月朔日卯ノ刻二澄之ノ居所遊初軒ヘハ淡路守尚春ヲ大将トシテ大勢ニテ押寄ル。香西又六(元長) ハ私宅二火ヲ欠テ薬師寺三郎左衛門 (長忠)力宿所二馳加ル。同香川。安富モ一所ニソ集リケル。
(中略)安富ハ落行ケルヲヤカテ道ニテソ討レケル。トテモ捨ル命ヲ一所ニテ死タラハイカニヨカリナン。サレハスゝメトモ死セス退ケトモ不助卜申侍レハイカニモ思慮可有ハ兵ノ道ナルヘシトソ京童申ケル。
  意訳変換しておくと
8月1日卯ノ刻に澄之の居所遊初軒へ淡路守尚春を大将として大軍が押し寄せた。香西又六(元長)は、私宅に火をつけて、薬師寺三郎左衛門 (長忠)の宿所に合流した。また讃岐の香川・安富も同所に集結して防戦した。
(中略)安富は落ちのびていく道筋で討たれた。トテモ捨ル命ヲ一所ニテ死タラハイカニヨカリナン。サレハスゝメトモ死セス退ケトモ不助卜申侍レハイカニモ思慮可有ハ兵ノ道ナルヘシトソ京童申ケル。
細川政元暗殺後、その首謀者の一人であった香西元長は、細川高国らによって討ち取られ、その居城である嵐山城は陥落した。
細川澄之と讃岐内衆が討ち取られた後のことを史料は、次のように記します。

 京都は先ず静謐のように成り、細川澄元は近江国甲賀より上洛された。そして京都の成敗は、万事三好(之長)に任された。これによって、以前は澄元方であるとして方々に闕所(領地没収)、検断(追補)され、逐電に及んだ者多かったが、今は(香西らが擁立した細川)澄之方であるとして、地下、在家、寺庵に至るまで、辛い目に遭っている。科のある者も、罪のない者も、どうにも成らないのがただこの頃の反復である。

両度の取り合いによって、善畠院、上野治部少輔、故安富筑後守、故薬師寺備前守、同三郎左衛門尉、香西又六(元長)、同孫六、秋庭、安富、香河(川)たちの私宅等を始めとして、或いは焼失し、或いは毀し取って広野のように見え、その荒れ果てた有様は、ただ枯蘇城のうてな(高殿)、咸陽宮の滅びし昔の夢にも、かくやと思われるばかりであった。
そして諸道も廃れ果て、理非ということも弁えず、政道も無く、上下迷乱する有様は、いったいどのように成りゆく世の中かと、嘆かぬ人も居なかった。
以前は、香西又六が嵐山城の堀を掘る人夫として、山城国中に人夫役をかけたが、今は細川澄元屋形の堀を掘るとして、九重の内に夫役をかけ、三好之長も私宅の堀を掘る人夫として、辺土洛外に人夫役をかけ堀を掘った。

城を都の内に拵えるというのは、静謐の世に却って乱世を招くに似ており、いかなる者がやったのか、落書が書かれた

きこしめせ 弥々乱を おこし米 又はほりほり 又はほりほり
京中は 此程よりも あふりこふ 今日もほりほり 明日もほりほり
さりとては 嵐の山をみよしとの ひらにほりをは ほらすともあれ

この返事と思しいもので

 なからへて 三好を忍世なりせは 命いきても何かはせん
 何とへか 是ほど米のやすき世に あはのみよしをひたささるらん
 花さかり 今は三好と思ふとも はては嵐の風やちらさん

この他色々の落書が多いと雖も、なかなか書き尽くすことは出来ない。
細川政元暗殺クーデターを起こした讃岐内衆は、阿波の三好氏の担ぐ細川澄元の反撃を受けて、嵐山の麓で敗死したようです。嵐山が讃岐内衆の墓場となりました。そして、このような激動は讃岐や阿波へも波及していきます。
 まず、棟梁を失った香川・香西・安富氏などでは相続を巡って讃岐で一族間の抗争が起こったことが考えられます。また、阿波三好氏は、この機会に讃岐への侵攻を進めようとします。そして、半世紀後には、讃岐の大半は三好氏の配下に置かれることになります。永世の錯乱は、讃岐にとっても戦国乱世への入口の扉をあけてしまう結果を招いたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 田中健二     京兆家内衆・讃岐守守護代安富元家についての再考察 
香川県立文書館紀要 第25号(2022)
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 南海治乱記
南海治乱記
『南海治乱記』巻之十七「老父夜話記」に、次のような記事があります。
又香西備前守一家・三谷伊豆守一家ハ雲州へ行ク。各大身ノ由聞ル。香西縫殿助ハ池田輝政へ行、三千石賜ル。

意訳変換しておくと
又①香西備前守一家と三谷伊豆守一家は、雲州(出雲)へ行ってそれぞれ大身となっていると聞く。また②香西縫殿助は、備中岡山の池田輝政に仕え、三千石を賜っている。

ここには天正年間の騒乱の中で滅亡した香西氏の一族が、近世の大名家に仕えていたことが記されています。今回は、戦国時代末期に讃岐を離れて近世大名家に仕官した香西氏の一族を見ていくことにします。テキストは、「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です。
香西記

①の香西備前守については『香西記』五「香西氏略系譜」にも次のように載せられています。

出雲藩の香西氏系図
香西氏略系譜(香西記五)
内容は『南海治乱記』と同様の記事です。同書には、清長(香西備前守)と清正(六郎大夫)の父子は、天正六年(1578)、土佐の長宗我部元親軍が阿波国の川島合戦(重清城攻防戦)で、三好存保方として討死したと記されています。
 残された一族が出雲へ赴むき、その子孫は、出雲松江藩松平家の家臣となり幕末まで続いたというのです。その系譜について調査報告しているのが、桃裕行「松江藩香西(孫八郎)家文書について」です。その報告書を見ていくことにします。
松江藩士の香西氏の祖は、香西太郎右衛門正安になるようです。
彼が最初に仕えたのは、出雲ではなく越前国福井藩の結城秀康でした。どうして、出雲でなく越前なのでしょうか?

福井県文書館平成22年2月月替展示
「藩士先祖記」(福井県立図書館松平文庫)
「藩士先祖記」に記された内容を、研究者は次のように報告します。
香西太郎右衛門(正安)諄本不知  本国讃岐
(結城)秀康侯御代於結城被召出。年号不知。慶長五年御朱印在之。
香西加兵衛 (正之)諄不知 生国越前。
忠昌公御代寛永十三丙子年家督被下。太郎右衛門(正安)康父ハ香西備前守(姓源)卜申候而讃岐国香西卜申所ノ城主ノ由申伝候。其前之儀不相知候。
意訳変換しておくと
香西太郎右衛門(正安)は、(結城)秀康侯の時に召し抱えられたが、その年号は分からない。慶長五年の朱印がある。
香西加兵衛 (正之)は越前生まれで、忠昌公の御代の寛永13(1636)年に家督を継いだ。父の太郎右衛門(正安)は香西備前守(姓源)と云い、讃岐の香西の城主であったと伝えられている。その前のことは分からない。

ここには太郎右衛門(正安)の父は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であったと記されています。松江藩には数家の香西姓を持つ藩士がいたようです。
その中の孫八郎家の七代亀文が明治元年のころに先祖調べを行っています。それが「系図附伝」で、太郎右衛門正安のことが次のように記されています。
 正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁した。その娘(月照院)が結城秀康に召されて松江藩祖直政を生んだ。そのような関係で三谷出雲守長基も、後には松江藩家老となる。大坂の陣では、香西正安・正之父子は秀康の長子忠直の命と月照院の委嘱によって、直政の初陣に付き添い戦功を挙げた。

 ここに登場する結城(松平)秀康(ひでやす)は、徳川家康の次男で、2代将軍秀忠の兄になる人物です。一時は、秀吉の養子となり羽柴秀康名のったこともありますが、関ヶ原の戦い後に松平姓に戻って、越前福井藩初代藩主となる人物です。

『香西記』の「香西氏略系譜」では、備前守清長の娘が「三谷出雲守妻」となり、その娘(月照院)が結城(松平)秀康の三男を産んだようです。整理すると次のようになります。
①清長は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であった
②清長・清正の父子は、三好氏に従軍し、阿波川島合戦で戦死した。
③正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁して、娘(月照院)を産んだ。
④娘(月照院)は、秀吉政権の五人老の一人宇喜多秀家の娘が結城秀康に嫁いだ際に付人として福井に行った。
⑥その後、結城秀康に見初められて側室となって、後継者となる直政や、毛利秀就正室(喜佐姫)を産んだ。
⑦その縁で三谷・香西両氏は、松江藩松平家に仕えるようになった。

松江藩松平家の4代目藩主となった直政は、祖父が秀吉と家康で、母月照院は香西氏と三谷氏出身と云うことになります。月照院については、14歳で初陣となる直政の大坂夏の陣の出陣の際に、次のように励ましたと伝えられます。
「栴檀は双葉より芳し、戦陣にて勇無きは孝にあらざる也」

そして、自ら直政の甲冑
下の着衣を縫い、馬験も縫って、それにたらいを伏せ墨で丸を描き、急場の験として与えたと伝えられます。
   松平直政が生母月照院の菩提を弔うため月照寺を創建します。これが松江藩主松平家の菩提寺となり、初代直政から九代斎貴までの墓があります。そこに月照院も眠っています。

月照寺(島根県松江市) 松江藩主菩提所|和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
月照院の墓(松江市月照寺)

「雲州香西系図」には、太郎右衛門の子工之・景頼兄弟の子孫も松江藩松平家に仕えており、越前松平家から移ってきたことが裏付けられます。  殿様に見初められ側室となって、男子を産んだ姉の「大手柄」で出雲の香西家は幕末まで続いたようです。

松平直政 出雲初代藩主


今度は最初に見た「池田輝政へ行き、三千石賜」わったと記される「香西縫殿助」を見ておきましょう。
備前岡山藩池田家領の古文書を編さんしたものが『黄薇古簡集』です。
岡山県の中世文書
              黄薇古簡集
その「第五 城府 香西五郎右衛門所蔵」文書中に、1583(天正11)年7月26日の「香西又一郎に百石を宛がった三好信吉(羽柴秀次)知行宛行状」があります。
ここに出てくる香西又一郎とは、何者なのでしょうか?
香西五郎右衛門の系譜を、研究者は次のように復元しています
香西主計
 讃岐香西郡に居城あり。牢人して尾張へ移る。池田恒興の妻の父で、輝政の外祖父荒尾美作守善次に仕える。八七歳で病死。
縫殿介 
主計の惣領。池田勝入斎(恒興)に仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦で討死。又市の兄
又市 (又一郎)
五郎右衛門の親。主計の次男。尾張国知多郡本田庄生まれ。池田勝入斎に仕え、池田輝政の家老伊木長兵衛の寄子であった。天正9年(1581)、摂津国伊丹において50石拝領。勝入の娘若御前と羽柴秀次の婚礼に際し、御興副に遣わされる。天正11年に50石加増され、摂津国で都合100石を拝領。天正12年4月8日、小牧長久手の戦いに秀次方として戦う。翌日、藩主池田勝入とともに討死。三八歳。
五郎右衛門  
父・又市の討死により秀次に召し出され、知行100石を安堵。天正13年、近江八幡山で秀次より百石加増され200石を拝領。文禄四年(1595)7月の秀次切腹後、 11月に伏見において輝政に召し出された。当年50歳。

ここには又市の父香西主計について、「讃岐香西郡に居城あり。牢入して尾張へ移」り、池田恒興の妻の父荒尾善次に仕えたとあります。香西主計の長男・縫殿介は、池田恒興に仕え、1570年の姉川の戦いで討死しています。次男の又市は恒興女子と三好信吉(のちの羽柴秀次)との婚儀に際し御輿副として遣わされ、秀次に仕えます。天正13年に加増されたときの知行宛行状も収められています。又市は、文禄四年の羽柴秀次の切腹後は、池田家に戻り輝政に仕えました。その子孫は池田家が備前に移封になったので、備前岡山藩士となったことが分かります。
  『南海通記』・『南海治乱記』に載せられた「香西縫殿助」を見ておきましょう。
こちらには「香西縫殿助」は、香西佳清の侍大将で天正14年の豊後戸次川の合戦に加わったと記されるのみです。『南海通記』などからは香西縫殿助がどのようにして、池田家に仕官したかは分かりません。これは香西主計の長男縫殿介と戸次川で戦死した「香西縫殿助」を南海通記は混同したものと研究者は考えています。 ここにも南海通記の資料取扱のあやふやさが出ているようです。
 香西氏については、讃岐の近世史料にはその子孫の痕跡が余り出てきません。しかし、近世大名に仕官し、藩士として存続した子孫もいたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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永世の錯乱2
永世の錯乱と細川氏の抗争

1493(明応2)年4月、細川政元は対立していた将軍足利義材を追放して足利義澄を新たに将軍職に就けます。こうして政元は、幕府の実権を握ります。政元は「天狗信者」で、天狗になるための修行を行う修験者でもあり、女人を寄せ付けませんでしたから、実子がいません。そのため前関白九条政基の子を養子とし澄之と名付けました。ところがその上に阿波守護細川成之の孫も養子として迎えて澄元と名付けます。こうして3人の養子が登場することになります。当然、後継者争いを招くことになります。これが「永正の錯乱」の発端です。
 ①1507(永正4)年6月23日、管領細川政元は被官の竹田孫七・福井四郎らに殺害されます。これは摂津守護代の薬師寺長忠と山城守護代香西又六元長が謀ったもので、主君政元と澄元を排除し、澄之(前関白九条政基子)を京兆家の家督相続者として権勢を握ろうとしたものでした。
 ②政元を亡き者にした香西元長らは、翌日には京兆家の内衆とともに細川澄元(阿波守護細川慈雲院孫)を襲撃します。家督争いの元凶となる澄元も亡き者にしようとしたようです。しかし、澄元の補佐役であった三好之長が、澄元を近江の甲賀に落ち延びさせます。この機転により、澄元は生きながらえます。こうして、武力で澄元を追放した澄之が、政元の後継者として管領細川氏の家督を継ぐことになります。この仕掛け人は、香西元長だったようです。このときの合戦で、元長は弟元秋・元能を戦死させています。
 一方、近江に落ち延びていた細川澄元と三好之長も、反攻の機会をうかがっていました。
 ③三好之長は、政元のもう一人の養子であった細川高国の支援を受け、8月1日、細川典厩家の政賢・野州家の高国・淡路守護細川尚春ら細川一門に澄之の邸宅を急襲させます。この結果、細川澄之は自害、香西元長は討死します。これを『不問物語』は、次のように記します。
「カクテ嵐ノ山ノ城ヘモ郷民トモアマタ取カケヽル間、城ノ大将二入置たる香西藤六・原兵庫助氏明討死スル上ハ、嵐ノ山ノ城モ落居シケリ。」

『後法成寺関白記』7月29日条には、次のように記します。
「香西又六(元長)嵐山の城、西岡衆責むるの由その沙汰」

とあることからも裏付けられます。この戦いで讃岐両守護代の香川満景・安富元治も澄之方として討死にしています。この戦いは、「細川四天王」と呼ばれた讃岐武士団の墓場となったとも云えます。この結果、香川氏なども本家が滅亡し、讃岐在国の庶家に家督が引き継がれるなど、その後の混乱が発生したことが考えられます。
永世の錯乱 対立構図

政元暗殺から2ヶ月足らずで、香西元長は澄之とともに討たれてしまいます。
 勝利者として8月2日には、近江に落ちのびていた澄元が上洛します。そして将軍・足利義澄から家督相続を認められたうえ、摂津・丹波・讃岐・土佐の守護職を与えられています。自体は急変していきます。こうして、将軍義澄を奉じる細川澄元が幕府の実権を握ることになります。しかし、それも長くは続きません。あらたな要素がここに登場することになります。それが細川政元によって追放されていた第10代の前将軍・足利義材(当時は義尹)です。彼は周防の大内義興の支援を得て、この機会に復職を図ろうとします④④この動きに、澄元と対立しつつあった細川高国が同調します。高国は和泉守護細川政春の子でしたので、和泉・摂津の国人の多くも高国に味方します。こうして細川澄元と高国の対峙が続きます。

 このような中で、1508(永正5)年4月、足利義材が和泉の堺に上陸して入京を果たします。
足利義材が身を寄せた放生津に存在した亡命政権~「流れ公方」と呼ばれた室町幕府10代将軍 - まっぷるトラベルガイド

このような状況にいちはやく反応したのが京の細川高国でした。
高国は義稙の上洛軍を迎え、義稙を将軍職に復位させ、自らは管領になります。細川澄元・三好之長らの勢力を押さえ込むことに成功しま 
 す。見事な立ち回りぶりです。不利を悟った将軍の足利義澄と管領の細川澄元は、六角高頼を頼って近江に落ち延びていきます。こうして、義材が将軍に復職し、高国が管領細川氏を継ぐことになります。永世の錯乱の勝利者となったのは、この二人だったことを押さえておきます。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

 このような京での権力闘争は讃岐にも波及します。
 京では讃岐の香西氏と阿波の三好が対立していました。それが讃岐にも影響してきます。阿波の三好氏は、東讃の十河氏や植田一族を配下に入れて、讃岐への侵攻を開始します。こうして讃岐国内では、阿波の細川・三好の後押しを得た勢力と、後盾を持たない香西・寒川氏らの勢力が対峙することになります。そして次第に、香西氏らは劣勢となっていきます。

大内義興の上洛

 そのような中で大きな動きが起きます。それが大内義興に担がれた将軍義稙の上洛軍の瀬戸内海進軍です。
この上洛のために大内氏は、村上水軍や塩飽などを含め、中国筋、瀬戸内の有力な諸氏に参陣を呼びかけます。これに対して讃岐では、香川や香西らの諸将がこれに応じます。香西氏は、仁尾の浦代官や塩飽を支配下に置いて、細川氏の備讃瀬戸制海権確保に貢献していたことは以前にお話ししました。これらが大内氏の瀬戸内海制海権制圧に加わったことになります。こうして、瀬戸内海沿岸は、大友氏によって一時的に押さえられることになります。
  南海通記は、上香西氏が細川氏の内紛に巻き込まれているとき、下香西元綱の家督をうけた元定は、大内義興に属したこと。そして塩飽水軍を把握して、1531(享禄四)年には朝鮮に船を出し交易を行い利益を得て、下香西氏の全盛期を築いたとします。

しかし、香西氏の栄光もつかの間でした。細川澄元の子・晴元の登場によって、細川家の抗争が再燃します。

細川晴元の動き 

1531(亨禄四)年、高国は晴元に敗れて敗死し、晴元が管領となります。晴元の下で阿波の三好元長は力を増し、そして、三好氏と深く結びついた十河氏が讃岐を平定し、香西氏もその支配を受けるようになります。この時点で阿波三好氏は、讃岐東部を支配下に起きたことを押さえておきます。

ここで少し時代をもどって、 永世の錯乱の原因を作った香西元長と讃岐の関係を示す史料を見ておきましょう。
 元長が細川一門に攻められて討死する際の次の史料を研究者は紹介します。
① 『細川大心院記』同年八月一日条
「又六(元長)カ与力二讃岐国住人前田弥四郎卜云者」がいて、元長に代わり彼の具足を着けて討死したこと
ここからは、前田弥四郎が元長の身代わりになって逃がそうとしたことがうかがえます。前田弥四郎とは何者なのでしょうか?
前田氏は「京兆家被官前田」として、次の史料にも出てきました。
②『建内記』文安元年(1444)6月10日条。
香西氏の子と前田氏の子(15歳)が囲碁をしていた。その時に、細川勝元(13歳)が香西氏に助言したのを、前田氏の子が恨んで勝元に切りかかり、返り討ちにあった。このとき、前田氏の父は四国にいたが、親類に預け置かれた後に、一族の沙汰として切腹させられた。そのため、前田一党に害が及ぶことはなかった。
この話からは次のようなことが分かります。
①細川勝元の「ご学友=近習」として、香西氏や前田氏の子供が細川家に仕えていたこと
②前田家の本拠は四国(讃岐?)あり前田一党を形成していたこと。

ここからは、京の細川家に仕えていた香西の子と前田の子は、成人すればそれぞれの家を担っていく者たちだったのでしょう。主家の細川惣領家に幼少時から仕えることで、主従関係を強固なものにしようとしたと研究者は考えています。
 そして「香西元長に代わり、彼の具足を着けて討死した讃岐国住人前田弥四郎」は、京兆家被官で元長の寄子となっていたと研究者は推測します。このような寄子を在京の香西家(上香西)は、数多く抱えていたようです。それが「犬追物」の際には、300人という数を京で動員できたことにつながるようです。

もうひとり香西元長に仕えていた一族が出てきます。
『細川大心院記』・『瓦林正頼記』に、元長邸から打って出て、元長とともに討死した中に「三野五郎太郎」がいたと記します。
『多聞院日記』にも、討死者の一人に「美濃五郎太郎」が挙げられています。これは同一人物のようです。三野氏については以前に「三野氏文書」を紹介したときにお話ししました。源平合戦の際には、平家方を見限っていち早く頼朝側について御家人となって、讃岐における地盤を固めた綾氏の一族とされます。後には西方守護代香川氏の被官し、家老職級として活動します。生駒藩でも5000石の重臣として取り立てられ、活発に荒地開発を行った一族です。三野氏も、香西氏の寄子となっていた一族がいたようです。

古代讃岐の郡と郷NO2 香川郡と阿野郡は中世にふたつに分割された : 瀬戸の島から
『南海通記』に出てくる「綾(阿野)北条郡」を見ておきましょう。
『南海通記』巻之十九 四国乱後記の「綾北条民部少輔伝」
香西備中守(元継)丹波篠山ノ領地閥所卜成り、讃州綾ノ北条ハ香西本家ヨリ頒チ遣タル地ナレ共、開所ノ地卜称シテ官領(細川)澄元ヨリ香川民部少輔二賜ル。是京都ニテ香西備中守二与セスシテ、澄元上洛ヲ待付タル故二恩賞二給フ也。是ヨリシテ三世西ノ庄ノ城ヲ相保ツ。
意訳変換しておくと
香西備中守(元継=元長?)の(敗死)によって丹波篠山の領地が閥所となった。もともとこの領地は、讃州綾北条郡の香西本家から分かち与えられた土地で、先祖伝来の開所地であった。それを官領(細川)澄元は、京都の香西備中守に与えずに、香川民部少輔(讃岐守護代)に与えた。澄元が上洛したときに恩賞として貰った。以後、三世は西ノ庄城を確保した。

 ここからは「元継」は京兆家の家督争いにおいて、澄之に忠義を尽くしたため、澄元方に滅ばされ、その所領の「讃州綾ノ北条」は閥所(没収地)となったこと。そして澄元から、元継に味方しなかった香川民部少輔に与えられたというのです。
  この内容から南海通記の「元綱」が史料に登場する又六元長と重なる人物であることが分かります。
香西氏系図 南海通記.2JPG
南海通記の「讃州藤家系図」
『南海通記』の「讃州藤家系図」には、②元直の子として「元継」注記に、次のように記します。
備中守 幼名又六 細川政元遭害而後補佐於養子澄之。嵐山ニ戦死

この注記の内容は、香西元長のことです。しかし、元長ではなく「元綱」「備中守」と記します。元長の名乗りは、今までの史料で見てきたように終始、又六でした。備中守の受領名を名乗ったことはありません。南海通記の作者は、細川政元を暗殺したのが「又六元長」であることを知る史料を持っていなかったことがうかがえます。そして「元綱」としています。ここでも南海通記のあやふやさが見えます。

今度は『香西記』の香西氏略系譜で、又六元長を特定してみましょう。
香西氏系図 香西史
香西記の香西氏略系譜
南海通記や香西記は、細川四天王のひとりとされる①香西元資の息子達を上・下香西家の始祖とします。

香西元直
②の元直の系図注記には、次のように記します。
「備後守在京 本領讃州綾北条郡 於丹波也。加賜食邑在京 曰く上香西。属細川勝元・政元、為軍功」

意訳変換しておくと
元直は備後守で在京していた。本領は讃州綾北条郡と丹波にあった。加えて在京中に領地を増やした。そのため上香西と呼ばれる。細川勝元や政元に仕え軍功を挙げた。

次の元直の息子③元継の注記には、次のように記します。

香西元継

「又六後号備中守 本領讃州綾北条郡 補佐細川澄之而後、嵐山合戦死。断絶也」

意訳変換しておくと
「又六(元長)は、後に備中守を号した。本領は讃州綾北条郡にあった。細川澄之を補佐した後は、嵐山合戦で戦死した。ここに上香西家は断絶した」

ここからは香西記系図でも③元継が元長、④直親(次郎孫六)が元秋に当たることになります。『細川両家記』・『細川大心院記』には、元長の弟・元秋は永正4年6月24日、京都百々橋において澄元方と戦い討死としているので、これを裏付けます。
 この系図注記には、綾北条郡は在京して上香西と呼ばれたという②元直から③元継が相伝した本領とあります。そして上香西は、元継(元長)・直親(元秋)の代で断絶しています。
また、下香西と呼ばれた元直の弟⑤元顕は、注記には左近将監元綱と名乗ったとされ、綾南条・香東・香西三郡を領有したと記されています。

南海通記の 「上香西・下香西」のその後を見ておきましょう。
元長・元秋兄弟が討死したことで、上香西氏は「断絶也」と記されていました。元長討死の後、次のような史料があります。
1507(永正四)年12月8日に、「香西残党」都において土一揆を起こしたこと、
1508年2月2日には、澄元方から「香西牢人」を捕縛するよう祇園社執行が命じられいること。
ここからは、香西浪人たちの動きがしばらくの間は、残っていたことがうかがえます。
それでは、讃岐在住とされる「下香西」は、どうなったのでしょうか
南海通記や香西史は、下香西は⑤香西元顕(綱)が継いだと注記されています。そして『南海通記』巻之六 讃州諸将帰服大内義興記に、次のように記されています。

永正四年八月、京都二於テ細川澄之家臣香西備中守元継忠死ヲ遂ゲ、細川澄元家臣三好筑前守長輝(之長)等京都二横行スト聞ヘケレハ、大内義興印チ前将軍義材公ノ執事トシテ中国。九国ニフレテ与カノ者ヲ描ク。讃州香西左近持監元綱・其子豊前守元定二慇懃ノ書ヲ贈リテ義材公ノ御帰洛二従ハシム。

  意訳変換しておくと
1507(永正四)年8月、京都で細川澄之の家臣香西備中守元継は忠死を遂げた。細川澄元の家臣三好筑前守長輝(之長)等など阿波三好勢力が京都の支配権を手にした。これに対し、大内義興は前将軍の義材公の執事として中国・九州の有力者に触れ回り結集を呼びかけた。讃州の香西左近持監⑤元綱(顕)・その子の豊前守⑥元定にも助力要請の文書がまわってきたので、それを受けて前将軍義材公の御帰洛に従った。

 先ほど見たように細川高国は、前将軍足利義材を擁する周防の大内義興と連携し、将軍足利義澄に対し謀叛を起こします。これに対して叶わずとみた義澄と家臣の三好之長は8月9日、近江坂本へ落ちのびています。その翌日に、高国は軍勢を率いて入京します。8月24日には義材を奉じて大内義興が和泉堺へやってきます。この史料にあるように、大内義興が香西元綱を味方に誘ったというのが事実であるとすれば、このときのことだと研究者は推測します。

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「天文日記」は、本願寺第十世證如の19年間の日記です。
證如21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けたものです。その中に、福善寺という讃岐の真宗寺院のことが記されています。 
『天文日記』天文十二年
①五月十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参
②七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
①には「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、この時期に本願寺へ樽を持参していたことが記されています。ここからは16世紀半ばに、本願寺の真宗末寺が髙松にはあったことが分かります。
②には7月22日「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。
これは、香西神五郎が初めて本願寺を訪れたようです。香西氏の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたことがうかがえます。後の史料では、香西神五郎は本願寺に太刀を奉納しています。香西氏一族の中には、真宗信者になって本願寺と結びつきを深めていく者がいたことを押さえておきます。  このように「天文日記」には、讃岐の香西氏が散見します。
1547(天文16)年2月13日条には、摂津国三宅城を攻めた三好長慶方の軍勢の一人として香西与四郎元成の名前があります。ここからは、天文年間になっても畿内と讃岐に香西氏がいたことが分かります。永世の錯乱後に上香西氏とされる元長・元秋の系譜は断絶しますが、その後も香西氏は阿波の三好長慶の傘下に入り、畿内での軍事行動に従軍していたようです。

室町時代から戦国時代初めにかけて、香西氏には豊前守・豊前入道を名乗る系統と五郎左(右)衛門尉を名乗る系統との二つの流れが史料から分かります。また、それを裏付けるように、『蔭凍軒日録』の1491(延徳三)年8月14日条に「両香西」の表現があること。そして、「両香西」は、香西五郎左衛門尉と同又六元長を指すことを以前にお話ししました。この二人は京兆家との関係では同格であり、別家であったようです。
 史料に出てくる香西五郎左衛門を挙げると次のようになります。。
①「松下集」に見える藤五郎藤原元綱
②政元に仕えていた孫五郎
③元継・高国の挙兵に加わった孫五郎国忠
④本太合戦で討死する又五郎
ここからは「五郎左(右)衛」の名乗りは「五郎 + 官途名」であることがうかがえます。そうすると「天文日記」に現れる五郎左衛門は、名乗りからみて五郎左(右)衛門系の香西氏と推察できます。
もう一つ豊前守系香西氏の系譜を、研究者は次のように推測します。
又六元長
元長死後にその名跡を継いだ与四郎(四郎左衛門尉)元盛
柳本賢治の(甥)
その縁者とみられる与四郎(越後守)元成
ちなみにウキには、下香西家について次のように記しています。

天文21年(1552年)、晴元の従妹・細川持隆(阿波守護)が三好長慶の弟・三好実休に討たれると、元定の子・香西元成は実休に従い、河野氏と結び反旗を翻した香川之景と実休との和睦を纏めている(善通寺合戦)。

以上からは香西家には、2つの系譜があったことはうかがえます。しかし、それを在京していた勢力、讃岐にあった勢力という風には分けることはできないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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 前回は、香西五郎左衛門と香西又六(元長)が「両香西」と呼ばれるほど親密で、彼らが内衆として細川政元を支えていたこと、そのような中で香西五郎左衛門は、1492(延徳四)年に備中の戦いで討ち死にしたことを見ました。今回は、残された香西又(孫)六元長を、見ていくことにします。

香西又六(元長)の出てくる資料を時代順に並べて見ていきます。
34 1489(長享3)年正月20日
  細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)

香西又六(元長)が細川政元に仕え始めたことが分かるのは資料34です。そして、この年の夏以後、香西又六の名前が以下のように頻繁に出てくるようになります。
35 1489年7月3日
細川政国、飛鳥井雅親・細川政元ら罫に五山の僧侶と山城国禅晶院において詩歌会を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻437P)

36 1489年長享三年8月12日
明日の細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。(「蔭涼軒日録」同前、三巻470頁) 
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
  意訳変換しておくと 
例の如く蔭凍軒主のもとを訪れた塗師の花田源左衛門の話が細川京兆家の政元に及んだ。13日の犬追物では、香西党ははなはだ多数であり、伝えられるところでは、(香西氏が属する)讃岐藤原氏は七千人ほどもいて、他の武士団は動員力でこれには適わない。牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者である。現在、京都に集まつている香西一族は300人を越えるのではないかという。
 
都に300人を集めての「犬追物」は、軍事的示威行動でもあります。ここからは「香西一党」は、在京武士団の中では有力な存在だったことがうかがえます。
また「牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者」とあります。以下の史料で、又六とコンビで登場してくるのが牟礼次郎です。彼も香西一族の一員で、香西氏の最も信頼できる一族だったようです。

笑哭!我身後真的不是桌球拍!不懂別瞎說- 每日頭條
見聞諸家紋
応仁の乱の最中に成立していたとされる『見聞諸家紋』(『東山殿御家紋帳』)は、武将達の家紋集です。
この中に「讃岐藤家左留霊公(讃留霊王=神櫛王)之孫」として、大野・香西・羽床・福家・新居・飯田などの讃岐藤原氏の家紋が集められています。どれも三階松を基調にしたものです。
香西氏 家紋の写真素材 - PIXTA

香西氏については、香西越後守元正の名が見え、三階松並根篠を家紋としています。本書は、当時の応仁の乱に参軍した細川勝元方の武家諸家の家紋を収録したものです。ここからも香西氏が属する讃岐藤原氏が多数参戦していたこと、その指揮権を握っていたのが香西氏だったことがうかがえます。また、彼らは綾氏系図に示すように先祖を神櫛王とする一族意識を持っていたことも分かります。

史料36からは応仁の乱後の香西氏の隆盛が伝わってきます。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。南海通記には「細川四天王」として、讃岐武士団の、香川元明、安富盛長、奈良元安と並んで「香西元資」を記します。しかし、史料に香西元資が現れるのは、応仁の乱以前です。
 また、この時期の細川政元の周辺には「香西又六・香西五郎左衛門尉・牟礼次郎」の3人の香西氏が常に従っていたことが以下の史料から分かります。

36 1489年8月13日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻471P、「犬追物手組」『大日本史料』第八編之二十八、194P)

この日に行われた政元主催の大追物にも、香西又六元長は香西五郎左衛門・牟礼次郎とともに射手の一人として加わっています。
 
細川政元の似顔絵
細川政元

39 1492(延徳4)年3月3日
細川政元、奥州へ赴く。香西又六(元長)・牟礼次郎・同弟新次郎・鴨井藤六ら十四騎が御供する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、四巻304P)

   政元は、天狗になるために天狗道(修験道)に凝って、「女人断ち」をしてさまざまな修行を行っていたと云われます。そのため日頃から修験者の姿だったといわれ、各地の行場に出かけています。この奥州行きも修行活動の一環かも知れないと私は想像しています。そうだとするお供達の元長や牟礼次郎兄弟なども修験姿だったのでしょうか? また、彼らも修験の心得があったのかもしれません。そんなことを想像すると面白くなってきます。どちらにしても「政元の行くところ、元長と牟礼次郎あり」という感じです。

41 1492年8月14日
将軍足利義材、来る27日を期して六角高頼討伐のため近江国に出陣することを決定する。細川政元は 26日に比叡の辻へ出陣。「両香西」(又六(元長)と五郎左衛門尉)ら8騎は留守衆として在京する。(「蔭涼軒日録」同前、四巻442P 

ここに「両香西」という表記が出てきます。これを南海通記に出てくる上香西と下香西と捉えたくなるのですが、どうもちがうようです。「両香西」の又六と五郎左衛門は、二人ともに在京していますが、本拠は、讃岐にあるようです。本家・分家の関係なのでしょうか?

43 1492(延徳四)年3月14日
細川政元、丹波国へ進発する。牟礼・高西(香西)又六ら少々を伴う。(『多聞院日記』五巻166P)

この時の丹波行には、又六は乙名衆ではなく「若者」衆と呼ばれるなど、若年で政元の近習としての役割を果たしています。
そうした中で、トリオの一人だった香川五郎左衛門が備中の戦いで戦死します。
44 1492年3月28日
  細川政元被官庄伊豆守元資、備中国において、同国守護細川上総介勝久と戦い敗北する。元資方の香西五郎左衛門尉戦死し、五郎左衛門尉に率いられた讃岐勢の大半も討ち死にした。
  
 45 1492年4月4日
細川政元、奈良・長谷へ参詣する。香西又六(元長)・牟礼兄弟ら六騎を伴う。(「大乗院寺社雑事記」『続史料大成』本、十巻153頁)

  1493(明応2)年4月、細川政元は将軍足利義材を廃し、義高(義澄)を擁立し、専制政権を樹立。

50 1493年6月18日
蔭涼軒主のもとを訪れた扇屋の羽田源左衛門がいつものように讃岐国の情勢を次のように語ります。
讃岐国は十三郡なり、六郡は香川これを領するなり、寄子衆亦皆小分限なり、しかりと雖も香川に与し能く相従う者なり、七郡は安富これを領す、国衆大分限の者惟れ多し、しかりと雖も香西党、首として皆各々三味し、安富に相従わざる者惟れ多きなり、小豆島亦安富これを管すと云々、(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻369P 県史1062) 

ここには次のようなことが記されています。
①当時の讃岐は13郡であったこと
②西讃の6郡の守護代は香川氏で、国人領主達は小規模な「寄子衆」あるが香川氏によく従うこと
③東讃の7郡の守護代は安富氏であるが「国衆大分限」の領主が多く、まとまりがとれないこと。
つまり、西讃は小規模な国人領主である「寄子衆」が多く、香川氏との間に寄親―寄子の主従関係が結ばれていたようです。それに対して、東讃は大分限者(大規模な国人領主)が多く、香西党や十河・寒川氏等が独自の動きをして、安富氏の統率ができなくなっている、と云います。東讃の「国衆」は、西讃の「寄子衆」に比べて、独立指向が強かったようです。このような中で東讃で台頭していくのが香西氏です。
室町期の讃岐国は、2分割2守護代制で、西方守護代香川氏は、応仁の乱まで常時在国して讃岐西方の統治に専念していたようです。
応仁の乱後に上洛した守護代香川備中守は、京兆家評定衆の一員としてその重責を果たすとともに、讃岐には又守護代を置いて西讃の在地支配を発展させていきます。それに対して、東讃守護代の安富氏は、守護代就任当初から在京し、応仁の乱が始まると又守護代も上洛してしまいます。そのために讃岐での守護代家の勢力は、次第に減少・衰退していきます。
 そのような中で、香西氏は阿野・香川両郡を中心に勢力を築き、牟礼・鴨井両氏と同族関係を結び、国人領主として発展していきます。そして、京都ではその軍事力が注目され、京兆家の近臣的存在として細川氏一族の一般的家臣の中で抜きん出た力を保持するようになったようです。
 大内義興が上洛した頃の当主香西元定(元綱の子)は大内氏に属し、備讃瀬戸を中心とする塩飽水軍を配下に置いて、香西氏の全盛期を築いたと南海通記は記します。
このような中で1496(明応5年)には、香西氏の勧進で、東讃岐守護代の安富元家・元治などの近在の武士や僧侶・神官等を誘って、神谷神社で法楽連歌会を催します。それが「神谷神社法楽連歌」一巻として奉納されます。香西氏は、神谷神社やその背後の白峰寺などの在地寺社の僧侶・神官や在地武士の国人・土豪層を、神谷神社の法楽連歌会に結集して、讃岐国内における政治的・宗教的な人的ネットワークを形成しようとしたものと研究者は考えています。

53 1497年10月
  細川政元が山城国の北五郡(下郡)の守護代に又六元長を任命。
  政元政権において香西元長が頭角を現すようになるのは、このとき以後になります。どうして、又六が起用されたのでしょうか?
山城国は将軍家御料国で、守護は幕府政所頭人世襲家の伊勢氏で当時の守護は備中守貞陸でした。南山城では、守護方と京兆家被官の国衆との武力抗争が続いています。 一方では、前河内守護畠山尚順ら義材派による周辺地域の制圧も進んでいます。このような情勢の中で、政元は内衆の中で最も信頼の置ける香西元長を山城守護代に任命します。そして伊勢氏と協同することで山城国を固め、影響力の拡大を図ろうとしたようです。細川政元が又六元長に期待したのは、「香西一族の軍事力」だった研究者は考えています。

山城守護代としての元長の活動について、見ておきましょう。

1498年2月1日、元長は政元に、山城北五郡内の寺社本所領と在々所々の年貢公事五分一の徴収を提言して認めさせています。これは五分一済と呼ばれる守護の警固得分で、相応の礼銭を収めることで免除されました。1498年2月16日条には、「守護方又六寺領五分一違乱の事」につき、「涯分調法せし」め、「二千疋ばかりの一献料をもって、惣安堵の折紙申沙汰せしむべしと云々。」とあります。ここからは鎮守八幡宮供僧らは、元長に一献料を収めることで、安堵の折紙を得たことが分かります。
 1501(文亀元)年6月21日条には、元長による五分一済について「近年、守護方香西又六、当国寺社本所五分一拝領せしむと称し、毎年その礼銭過分に加増せしむる」とあります。ここからは、毎年免除を名目として礼銭を徴収していたことが分かります。

1500(明応9)年12月20日条には、次のようにあります。
城州守護香西又六、惣国の寺社本所領五分一、引き取るべきの由申すの間、連々すでに免除の儀、詫び事ありといえども、各々給入すでに宛がうの上は、免除の儀かなうべからざるの旨香西返答の間(以下略)

 ここからは又六元長は、寺社本所領についての五分一得分を、自分の給人に給付して勢力を強化していたことがうかがえます。また、東寺側は、元長を「城州守護香西又六」と「守護」と呼んでいます。

1504(永正元)年9月、摂津半国守護代薬師寺元一が、政元の養子阿波細川氏出身の澄元の擁立を図って謀叛を起こします。この時に元長は「近郷の土民」に半済を契約して動員し、「下京輩」には地子(地代)を免除して出陣し、元一方を攻め落としたとされます。これ以降、元長による半済の実施が強行されるようになります。
又六元長の3人の弟、孫六元秋・彦六元能、真珠院宗純を見ておきましょう。
『後法興院記』1495(明応4)年10月26日条には、弟の元秋は、兄・元長が山城守護代に任命されると、その翌月には兄とともに寺社領に立ち入り、五分一済の徴収を開始しています。身延文庫本『雑々私要抄』紙背文書からは、弟元秋が紀伊郡の郡代生夷景秀らの郡代と兄元長との間に立って、香西氏の家政を執っていたことがうかがえます。
 また、九条家文書には、元秋は九条家の申し出をうけ国家領についての半済停止の件を兄元長へ取りついでいます。さらに元能は九条家領山城国小塩庄の代官職を請け負っています。香西兄弟の九条家との関わりは、元長が政元のもう一人の養子九条政基の実子澄之方についていたことを反映していると研究者は考えています。
 ここからも山城の守護代として軍事財源を確保し、「手近に仕える暴力装置の指揮者」の役割を又六元長に期待していたことがうかがえます。

以上を整理しておきます。
①応仁の乱後、管領家を相続した細川政元は天狗道に邁進する変わった人物であった。
②細川政元を支えた家臣団に南海通記は「細川家四天王」と、讃岐の武士団を挙げいる。
③その中でも政元の近習として身近に仕えたのが香西一族の香西又六・香西五郎左衛門尉・牟礼次郎の3人であった。
④香西氏は応仁の乱以後も結束して動き、総動員数7000人、在京300人の軍事力を有していた。
⑤そのため細川政元は、腹心の香西一族の若衆である又六を山城守護代に登用し、軍事基盤を固めようとした。
⑥こうして細川政元の下で、香西氏は畿内において大きな影響力をもつようになり、政治的な発言権も高まった。
⑦その結果、細川氏の内紛に深く介入することになり、衰退への道を歩み始める。
再び家督争いをする細川家 着々と実権を握る三好家
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

南海通記
南海通記目次
    南海通記に書かれた香西氏系譜は、残された史料に登場する香西氏の棟梁達とかみあわないことを見てきました。ここからは、南海通記に頼らない香西氏系譜を考えていくことが必要なようです。そのために研究者は、香西氏について触れている一次資料を探して、年代順に並べて家譜を作成すると地道な作業を続けて来ました。その中で明らかになってきたことの一つが、香西氏には2つの流れがあったことです。それを今回は見ていくことにします。テキストは、「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です。  

15世紀半ばの香西氏の登場する史料を見ていきます。
18 嘉吉3年(1443)5月21日
 摂津国住吉郡堺北庄の領主香西之長が、内裏御厨子所率分の同庄警固得分五分一を本所に対し請け負う。得分の半分は本所万里少路家が、残り半分は関所の半分を請け負った細川持之の後家がそれぞれ負担する。なお、同年6月1日の持之後家阿茶于書状案に「かうさいの五郎ゑもん」と見える。
(「建内記」『大日本古記録』本、嘉吉三年八月九日条・香西五郎右衛門尉之長請文案6巻59P69P 
ここからは次のような事が分かります。
①香西之長が摂津の住吉郡北荘の領主(守護代?)をつとめていたこと。
②香西之長は「かうさいの五郎ゑもん(香西の五郎右衛門」とも称されていたこと。
今度は4年後の1447年の一連の文書を見てみましょう。
19 1447(文安4)年正月19日
興福寺大乗院門跡経覚、香西豊前入道に樽二荷等を贈る。
 (「経覚私要抄」『史料纂集』本、一巻一四四頁)
20 1447年閏2月16日
興福寺大乗院門跡経覚、香西五郎左衛門(之長)に樽一荷等を贈る。

史料19・20には、興福寺門跡経覚が、香西豊前入道と香西五郎左衛門(之長)に、贈答品を贈っていることが記されています。ここからは、ふたつの香西氏が京都にいたことが分かります。南海通記にも、香西氏は元資以降は、上香西氏と下香西氏の二つの流れに分かれたとありました。

史料20の5日後の文書になります
21 1447年2月21日  
香西五郎左衛門(之長)は、同門跡領越前国坪江郷を年貢65貫文で請け負う。(「経覚私要抄」同前一巻166P)
香西之長は、越前でも興福寺の荘園管理を請け負っていたようです。
もうひとりの香西氏である豊前入道を見ておきましょう。
 この年の5月21日に興福寺学侶衆徒が、坪江郷政所職を請け負いながら年貢を納めようとしない香西豊前入道を改易します。この豊前入道は誰なのでしょうか。時期からみて仁尾浦代官を務めていた香西豊前の出家後の呼び名と研究者は判断します。
香西氏系図 南海通記
南海通記の香西氏系図 史料と一致しない。
 ちなみに、丹波守護代を務めた①「香西元資」も香西豊前を名のっていたことは前々回に見たとおりです。
南海通記は「香西元資」を「細川家ノ四天王」として次のように記します。
享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前守元明、香西備後守元資安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。
意訳変換しておくと
享徳元年から細川勝元は、畠山徳本を拠点に管領職を13年に渡って務めた。この時に。香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安の四人を統領の家臣団として重用した。そこで、世間では彼らを細川家の四天王と呼んだ。
 
 ここでは香西備後守元資として登場します。南海通記は、「香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと」と記しますが、史料に現れる元資が丹波守護代を罷免された事実についても何も記しません。そして「丹波篠山城を得たのは、元資の息子②元直」とするのです。また「丹波守」ではなく「備後守」としています。
   以上からして、史料19・20の15世紀半ばに活躍する「香西豊前入道と香西五郎左衛門(之長)」は、細川家四天王の一人とされる香西元資の子弟達であったと研究者は判断します。

ところが讃岐の陶保をめぐってもうひとりの「元資」が登場します。

22 寛正2年(1461)2月9日
醍醐寺報恩院隆済、細川持之の弟右馬頭持賢に対し、被官人香西平五元資の寺領讃岐国阿野郡陶保の押領を訴える。同4年8月19日の報恩院雑掌申状案によれば、元資は持賢の斡旋により陶保の代官職を請け負っている。(「醍醐寺文書」『大日本古文書』醍醐寺文書6巻293P、同6巻290頁 県史547P)

23 寛正3年(1462)12月
  醍醐寺報恩院、再度、持賢に対し香西元資による陶保の押領を訴える。雑掌の申状案及び元資が持賢の被官秋庭・有岡両氏に宛てた9月27日付けの書状によれば、陶保代官職は元資の曾祖父香西豊前入道 → 香西豊前 →美濃守大几資と受け継がれている。
(「醍醐寺文書」『大日本古文書』醍醐寺文書6巻287) 県史549P
 ここからは、香西平五元資が陶保の代官職を持っていたが、醍醐寺より押領を細川家に訴えられていることが分かります。陶保代官職をめぐる本所の報恩院と代官の香西氏とのやり取りの中で、当事者の代官香西平五元資(幼名元氏)は、次のように述べています。

陶当保の代官職は、
①曾祖父・豊前入道から
②祖父の故豊前
③父美濃守と歴代請け負ってきた」

これを年代的に重ねて、次のように研究者は判断します。
①陶保代官の元資の曾祖父豊前入道は、常建(香西氏の内衆への道を開いた人物)
②祖父の故豊前は元資(常慶:「細川四天王」)
②の「常慶」は、元資の出家名とします。そして、元資以後の系譜を次のようにふたつに分かれたと推察します。  
  A 仁尾浦・坪江郷の代官を務めた豊前(豊前入道)
  B 陶保の代官を務めた美濃守
つまり、仁尾浦の浦代官と、陶保の代官は別の香西家だったというのです。
最初に見た五郎左(右)衛門尉を名乗る流れを見ておきましょう。

16 1441(嘉吉元)年10月
守護料所讃岐国三野鄙仁尾浦の浦代官香西豊前の父(元資)死去する。(「仁尾賀茂神社文書」(県史116P)

17 1441年7月~同2年10月
仁尾浦神人ら、嘉吉の乱に際しての兵船動員と関わって、浦代官香西豊前の非法を守護細川氏に訴える。香西五郎左衛門初見。(「仁尾賀茂神社文書」県史114P)

 この史料で1441年10月に死去したとされる香西豊前の父が「丹波守護代の常建の子だった元資(常慶)」と研究者は判断します。香西氏のうち、この系統の当主は代々「豊前」を名乗っています。また、春日社領越前国坪江郷の政所職・醍醐寺報恩院領綾南条郡陶保の代官職も請け負っています。
 一方の史料17には、「香西豊前」とともに「香西五郎左(右)衛門」が登場します。
「香西五郎左衛門」が始めて登場するのは、史料16・17の仁尾浦での騒動の時になるようです。香西五郎左衛門というもうひとつの香西氏の一族がいたことが裏付けられます。そして、香西之長も「かうさいの五郎ゑもん(香西の五郎右衛門」を名のっていてことは、最初に見たとおりです。

その後、1486(文明18)年11月27日以後の文書には、実名不明の香西五郎左衛門が次のように登場するようになります。

 28 1486(文明18)年11月27日
  細川九郎澄之、八条遍照院尭光の訴訟の事につき、香西五郎左衛門尉・清孫左衛門尉を両使として相国寺鹿苑院の蔭涼軒の軒主亀泉集証のもとへ遣わす。この件に関わって、五郎左衛門尉は翌月14・17両日も使者となっている。(「蔭涼軒日録」同前、2巻391・398・400P)

30 長享元年(1487)12月11日
細川政元、近江国鈎(曲)の陣へ参り、将軍足利義尚に謁する。香西五郎左衛門尉ら十五騎が、政元の伴衆を勤める。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻38P、「伊勢家書」『大日本史料』第八編之二十一、78P
31 長享2年(1488)6月24日
足利義政臨席のもとに、相国寺普黄院において故足利義教の斎会を行う。細川政元、門役を奉仕する。香西五郎左衛門尉、警護を勤める。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻193P)
32 同年10月23日
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として、相国寺崇寿院領和泉国堺南荘の代官職の件を蔭涼軒主に伝える。(「蔭涼軒日録」同前。3巻269・230P)

33 同年12月13日                
香西五郎左衛門尉、細川政元の使として、真境和尚を鹿苑院後住に定める件につき蔭涼軒主の意向を尋ねる。同月17・24・27の各日条も同じ。(「蔭涼軒日録」同前、三巻293・296・301・304P)

実名不明の「香西五郎左衛門」が登場する史料をまとめると次のようになります。
29 細川澄之の使者
30 細川政元の伴衆
31 将軍足利義教の葬儀に出席する細川政元の警護役
32 細川政元の蔭涼軒主への使者
33 細川政元の蔭涼軒主への使者
ここからは細川政元の使者を務めたり、政元の伴衆に加わっていたことが分かります。「香西五郎左衛門」が内衆の一人だったことがうかがえます。
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また、別の史料には、政元主催の大追物には香西又六(元長)とともに射手を務めていることが次のように記されています。

34 1489(長享3)年正月20日
細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)

35 1489年7月3日  
細川政国、飛鳥井雅親・細川政元ら罫に五山の僧侶と山城国禅晶院において詩歌会を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻437P)

35   1489年長享三年8月12日
 明日の細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。(「蔭涼軒日録」同前、三巻470頁) 
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」

36 1489年8月13日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻471P、「犬追物手組」『大日本史料』第八編之二十八、194P)
以上からは五郎左衛門と元長は同時代人だったことも分かります。もうひとり、よく登場する牟礼次郎は、香西氏の一族で、親密な関係にあったことが分かります。彼らが内衆として細川政元を支えていたようです。
39 1491(延徳3)年3月3日
細川政元、奥州へ赴く。香西又六(元長)・牟礼次郎・同弟新次郎・鴨井藤六ら十四騎が御供する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、四巻304P)

細川政元は変わった所があって、天狗になろうとして修験道に熱中していたようです。ちなみに、この奥州行脚は、政元自らが愛馬の買付に出向いたもので、それに若い近習たちを伴ったものであるようです。
『為広越後下向日記』には「京兆(政元)朝夕雑掌の儀、京都のごとく香西孫五郎基元継なり」とあります。ここからは次のことが分かります。
①孫五郎の実名は元継で、政元に近侍していたこと
②そうすると元忠と元継は父子だということ
 香西氏系図 南海通記

「両香西」と表記される史料を見ておきましょう。
41 1492年8月14日
将軍足利義材、来る27日を期して六角高頼討伐のため近江国に出陣することを決定する。細川政元は 26日に比叡の辻へ出陣。「両香西」ら8騎は留守衆として在京する。(「蔭涼軒日録」同前、四巻442P 

ここに「両香西」という表記が出てきます。これが香西又六(元長)と香西五郎左衛門尉になります。この「両香西」を南海通記に出てくる上香西と下香西と捉えたくなるのですが、どうもちがうようです。南海通記は「上香西が在京で、下香西が讃岐在住」と記します。しかし、史料には「両香西」の又六と五郎左衛門は、二人揃って在京していますが、本国は讃岐だったようです。
細川政元に仕えていた香西五郎左衛門の最後を見ておきましょう。
44 1492年3月28八日
  細川政元被官庄伊豆守(香西)元資、備中国において、同国守護細川上総介勝久と戦い敗北する。元資方の香西五郎左衛門尉戦死し、五郎左衛門尉に率いられた讃岐勢の大半も討ち死にした。
(細川勝久)備中のことにつき、広説ありていわく、去る月二十八日、大合戦あり。太守上総介(細川元治)殿、勝利を獲、庄伊豆守(元資) 、城を捨て没落す。玄蕃、また疵五ケ所をこうむり、庄と同じく没落す。香西五郎左衛門、城において切腹す。讃岐より香西、召具すところの軍兵大半討死す。備前の合力勢、功をいたしかくのごとしと云々。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻576P)

意訳変換しておくと
備中の戦いについては、さまざまな噂が飛び交っているが、3月28日に大合戦があって、太守上総介(細川元治)殿が勝利して、庄伊豆守(香西元資)は、城を捨て落ち逃れたこと。玄蕃は5ケ所の手傷を負って、庄と同じく敗死したこと。香西五郎左衛門は、城で切腹したこと。讃岐から香西氏が動員した軍兵の大半は討死したという。備前の合力勢、功をいたしかくのごとしと云々。

ここからは次のようなことが分かります。
①備中国の守護細川上総介勝久と国人庄伊豆守(香西)元資との合戦があったこと
②香西五郎左衛門は香西元資方として参加し、討死したこと
その様子を、伝え聞いた蔭凍軒主は次のように記します。
①五郎左衛門は敵3人を討ち切腹したこと、
②同朋・猿楽者各一人が相伴して切腹したこと。
③この合戦において「五郎左衛門が讃岐より軍兵を召し具した」こと
③からは、五郎左衛門の本国は讃岐であったことが分かります。

以上から、室町期から戦国初期にかけての香西氏には、次の二つの香西氏がいたと研究者は考えています。
  ①豊前守・豊前入道を名乗る系統
  ②五郎左(右)衛門尉を名乗る系統
南海通記は、在京する上香西氏と讃岐在住の下香西氏がいたとします。しかし、史料からは①と②の両者とも讃岐を本国とし、京兆家内衆として京都に滞在していたことが分かります。香西家には、2つの系統があったが、本国は讃岐にあったとしておきます。
①香西氏は、讃岐では阿野・香川両郡を中心に勢力を築いた。
②牟礼・鴨井両氏と同族関係を結び、国人領主として発展した。
③15世紀には香西常健が丹波守護代に補せられ、細川家内衆としての地盤を固めた。
④その子香西元資の時代に丹波守護代の地位は失ったかが、細川家四天王としての地位を固めた。
⑤細川元資の後の香西一族には、仁尾浦の浦代官を務める「豊前系」と、陶保代官を務める「五郎左(右)衛門尉」系の2つの系統があった。
⑥京都では、香西氏一族は、牟礼・鴨井両氏等も含めてその軍事力が注目され、京兆家の近臣的存在として細川氏一族の一般的家臣の中で抜きん出た力を保持するようになった。
⑦こうして細川氏の後継者争いが起きると、主導権をにぎろうと内紛に積極的に介入していくようになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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       香西氏系図 南海通記

 香西氏系譜
前回に南海通記の系図には、香西元資が細川氏の内衆として活躍し、香西氏の畿内における基礎を築いたとされていること、しかし、残された史料との間には大きな内容の隔たりがあることを見てきました。そして、元資より後に、在京する上香西氏②と、讃岐在住の下香西③・④・⑥の二つの流れに分かれたとしまします。しかし、ここに登場する人物も史料的にはきちんと押さえきれないようです。
例えば下香西家の⑥元成(元盛)について見ておきましょう。
香西元成
香西元成(盛)

元成は、享禄四年(1531)六月、摂津天王寺においての細川晴元・三好元長と細川高国・三好宗三(政長)との合戦で、晴元方として参戦し武功をあげたと南海通記の系図注記に記されています。 いわば香西氏のヒーローとして登場してきます。
 しかし、「香西元成(盛)」については、臨済僧月舟寿桂の『幻雲文集』瑯香西貞節等松居士肖像には、次のように記されています。

香西元盛居士。その父波多野氏(清秀)。周石(周防・石見)の間より起こり、細川源君(細川高国)幕下に帰す。以って丹波の一郡(郡守護代) を領す。近年香西家、的嗣なし。今の府君 (細川高国)、公 (元盛)に命じ以って断(和泉)絃を続がしむ。両家皆藤氏より出づ。府君、特に公をして泉州に鎮じ、半刺史 (半国守護代)に擬せり。

意訳変換しておくと
   香西元盛の父は波多野氏(清秀)である。波多野氏は周石(周防・石見)の出身で、細川源君(細川高国)に従って、丹波の一郡(郡守護代) を領していた。近年になって丹波の香西家が途絶えたために、今の府君 (細川高国)は、公 (元盛)に命じて、香西氏を継がした。両家共に、藤原氏の流れをくむ家柄であるので、釣り合いもよい。そして府君(高国)は公(元盛)を泉州の半刺史 (半国守護代)に補任した。
 
 ここには泉州の香西元盛はもともとは丹波の波多野氏で、讃岐の香西氏とは血縁関係の無い人物であったことが書かれています。確かに元成(盛)は丹波の郡守護代や和泉国の半国守護代を務め、讃岐両守護代香川元綱・安富元成とともに、管領となつた高国の内衆として活動します。
 しかし、1663(寛文3)年の『南海治乱記』の成立前後に編纂された『讃岐国大日記』(承応元年1652成立)・『玉藻集』(延宝五年1677成立)には、香西元成に関する記事は何もありません。もちろん戦功についても記されていません。元成という人物は『南海治乱記』に初めて作者の香西成資が登場させた人物のようです。香西元成は「足利季世記」に見える晴元被官の香西元成の記事を根拠に書かれたものと研究者は推測します。
「南海治乱記」・「南海通記」には、香西宗信の父は元成(盛)とします。
そして、系図には上に示したように三好長慶と敵対した細川晴元を救援するため、摂津中島へ出陣したた際の天文18年(1549)の記事が記されています。しかし、この記事について研究者は、「この年、讃岐香西氏の元成が細川晴元支援のため摂津中島へ出陣したことはありえないことが史料的に裏付けられいる」と越後守元成の出陣を否定します。この記述については、著者香西成資の「誤認(創作?)」であるようです。しかし、ここに書かれた兵将の香西氏との関係は参考にできると研究者は考えています。
今度は『南海治乱記』に書かれた「実在しなかった」元成の陣立てを見ておきましょう。参陣には、以下の武将を招集しています。
我が家臣
新居大隅守・香西備前守・佐藤五郎兵衛尉・飯田右衛門督。植松帯刀後号備後・本津右近。
幕下には、
羽床伊豆守。瀧宮豊後守・福家七郎右衛門尉・北条民部少輔、其外一門・佗門・郷司・村司等」
留守中の領分防衛のために、次のような武将を讃岐に残しています。
①東は植田・十河両氏の備えとして、木太の真部・上村の真部、松縄の宮脇、伏石の佐藤の諸士
②西は羽床伊豆守・瀧宮豊後守・北条西庄城主香川民部少輔らの城持ちが守り、
③香西次郎綱光が勝賀城の留守、
④香西備前守が佐料城の留守
⑤唐人弾正・片山志摩が海辺を守った。
出陣の兵将は、
⑥香西六郎。植松帯刀・植松緑之助・飯田右衛門督・中飯田・下飯田・中間の久利二郎四郎・遠藤喜太郎・円座民部・山田七郎。新名・万堂など多数で
舟大将には乃生縫殿助・生島太郎兵衛・本津右近・塩飽の吉田・宮本・直島の高原・日比の四宮等が加わったという。
以上です。
①からは、阿波三好配下の植田・十河を仮想敵として警戒しているようです。⑦には各港の船大将の名前が並びます。ここからは、細川氏が畿内への讃岐国衆の軍事動員には、船を使っていたことが分かります。以前に、香川氏や香西氏などが畿内と讃岐を結ぶ独自の水運力(海賊衆=水軍)を持っていたことをお話ししましたが、それを裏付ける資料にもなります。香西氏は、乃美・生島・本津・塩飽・直島・日比の水運業者=海賊衆を配下に入れていたことがうかがえます。細川氏の下で備讃瀬戸制海権の管理を任されていたのが香西氏だとされますが、これもそれを裏付ける史料になります。
 この兵員輸送の記事からは、香西氏の軍事編成について次のようなことが分かります。
①香西軍は新居・幡一紳・植松などの一門を中心にした「家臣」
②羽床・滝宮・福家・北条などの「幕下」から構成されていたこと
今度は南海通記が香西元成(盛)の子とする香西宗信の陣立てを見てみましょう。
 「玉藻集」には、1568(永禄11)年9月に、備中児島の国人四宮氏に誘われた香西駿河入道宗信(宗心・元載)が香西一門・家臣など350騎・2500人を率いて瀬戸内海を渡り、備前本太城を攻めたと記します。この戦いを安芸毛利氏方に残された文書で見てみると、戦いは次の両者間で戦われたことが記されています。
①三好氏に率いられた阿波・讃岐衆
②毛利方の能島村上氏配下の嶋氏
毛利方史料は、三好方の香西又五郎をはじめ千余人を討ち取った大勝利と記します。香西宗信も討死しています。
 『玉藻集』と、同じような記事が『南海治乱記』にあります。そこには次のように記されています。
1571(元亀二)年2月、香西宗心は、小早川隆景が毛利氏から離反した村上武吉の備前本太城を攻め、4月に落城させたとします。南海治乱記では香西宗心は、毛利方についたことになっています。当時の史料には、この年、備前児島で戦ったのは、毛利氏と阿波三好氏方の篠原長房です。単独で、香西氏が動いた形跡はありません。作者香西成資は、永禄11年の本太城攻防戦をこのときの合戦と混同しているようです。南海通記には、このような誤りが多々あることが分かっています。『南海治乱記』・『南海通記』の記事については、ほかの史料にないものが多く含まれていて、貴重な情報源にもなりますが、史料として用いる場合は厳密な検証が必要であると研究者は指摘します。戦いについての基本的な誤りはさておいて、研究者が注目するのは次の点です。『玉藻集』には、永禄11年9月に、香西宗信が一門・家臣などを率いて備前本太城攻めのために渡海しています。その時の着到帳と陣立書、宗信の嫡子伊賀守佳清の感状を載せていることです。
その陣立書からは、香西氏の陣容が次のようにうかがえます。
①旗本組は唐人弾正・片山志摩など香西氏の譜代の家臣
②前備は植松帯刀・同右近など香西氏一門
③先備・脇備は「外様」で、新居・福家などの讃岐藤原氏、別姓の滝宮氏
ここからは、香西氏の家中に当たるのは①旗本組②前備に組み込まれている者たちだったことが分かります。この合戦で香西氏・当主駿河入道宗信は討死します。そのため宗信に替わって幼年だった嫡子伊賀守佳清が、植松惣十郎往正に宛てた感状を載せています。住清は、植松惣十郎往正(当時は加藤兵衛)に対し、父植松備後守資正の遺領を安堵し、ついで加増しています。
 『玉藻集』香西伊賀守好清伝・『南海通記』所収系図には、次のような事が記されています。
①往正の父資正はその甥植松大隅守資教とともに宗信・佳清二代の執事を務めていたこと
②往正は天正13年の香西氏の勝賀城退去後は、弟の植松彦太夫往由とともに浪人となった佳清を扶養したこと。
 ちなみに『香西史』所収の植松家系図には、『南海通記』の著者香西成資は、往正のもう一人の弟久助資久の曽孫で、本姓香西に復する前は植松武兵衛と名乗っていたとします。つまり、香西成資は植松家の一族であったのが、後年になって香西氏を名のるようになったとします。
『南海治乱記』には「幕下」が次のように使われています。
巻之八 讃州兵将服従信長記
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降すと聞けれは、同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清、使者を以て信長の幕下に候せん事を乞ふ。香川両使は、香川山城守三野菊右衛門也。
  意訳変換しておくと
天正三年冬、河州高屋の城主三好山城入道笑岩も信長に降ることを聞いて、翌年同四年に讃州香川兵部太輔元景・香西伊賀守佳清は、使者を立てて信長の幕下に入ることを乞うた。この香川両使は、香川山城守三野菊右衛門であった。

   ここでは、香西・香川両氏が織田信長に服従したことが「幕下に候せん」と用いられていると研究者は指摘します。
巻之十 讃州福家七郎被殺害記
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子忠兵衛尉瀧宮にて鉄砲に中り死たるを憤て、香西家幕下の城主ともを悉く回文をなして我が党となす。先瀧宮弥十郎。新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎まで一致に和睦し、国中に事あるときは互に見放べからずと一通の誓紙を以て約す。是香西氏衰へて羽床を除ては旗頭とすべき者なき故也。
意訳変換しておくと
天正七年春、羽床伊豆守は、嗣子の忠兵衛尉瀧宮が鉄砲に当たって戦死したことに憤て、香西家幕下の城主たちのほとんどに文書を廻して見方に引き入れた。瀧宮弥十郎・新名内膳・奈良太郎兵衛尉・長尾大隅守・山田弥七・福家七郎たちは和睦し、讃岐国内で事あるときは互いに見放さないとの攻守同盟を誓紙にして約した。これも香西氏が衰えて、羽床が旗頭となった。

   ここでは「旗頭」に対置して用いられています。本来同等な者が有力な者を頼る寄親・寄子の関係を指していると研究者は指摘します。ここからは「幕下」とは、有力者の勢力下に入った者を指すことが分かります。『日本国語大辞典』(小学館)には、「幕下に属す、参す。その勢力下に入る。従属する」とあります。、
以上から、戦国期の讃岐香西氏の軍事編成を、研究者は次のように考えています。
①執事の植松氏をはじめとする一門を中核とする家臣団を編成するとともに、
②周辺の羽床・滝宮・福家など城主級の武士を幕下(寄子)としていた

しかし、その規模は当時の巨大化しつつあった戦国大名から見れば弱小と見えたようです。毛利軍と讃岐国衆の間で戦われた1577(天正5)年7月22日の元吉合戦に登場する香西氏を見ておきましょう。
毛利氏方の司令官乃美宗勝らが連署して、戦勝を報告した連署状写が残っています。そこには敵方の「国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程」が元吉城に攻め寄せてきたと記されています。ここでは香西氏の立場は、戦国大名毛利氏から見れば、讃岐の国衆の一人にすぎないと見なされていたことが分かります。国衆とは、「戦国大名に服属しつつも、 一定の自立性を保持する領域的武家権力と理解されます。地域領主」とされます。この合戦当時の香西氏は、阿波三好氏に服従していました。国衆は戦国大名と同じように本領を持ち、家中(直属家臣団を含む一家)を形成しますが、その規模は小さなものでした。讃岐では、戦国大名化したのは香川氏だけのようです。
以上をまとめておくと
①細川頼之のもとで活躍し、細川管領家の内衆として活動するようになったのが香西常建である。
②香西常建は晩年の15世紀初めに、丹波守護代に補任され内衆として活動するようになった。
③その子(弟?)の香西元資も丹波守護代を務めたが、失政で罷免された。
④南海通記は、父香西常建のことには何も触れず、香西元資を「細川氏の四天王」と大きく評価する。
⑤しかし、南海通記は香西元資が丹波守護代であったことや、それを罷免されたことなどは記さない。
⑥これは、南海通記の作者には手元に資料がなく基本的な情報がもっていなかったことが推察できる。
⑦香西元資以後の香西氏は、在京組の上香西氏と讃岐在住組の下香西氏に分かれたとするが、その棟梁達に名前を史料で押さえることはできない。
⑧大きな武功を挙げたとされる下香西氏の元成(盛)も、香西氏の一族ではないし武功も架空のものであるとされる。
⑨しかし、南海通記などに残された軍立て情報などからは、香西氏の軍事編成などをうかがうことができる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

南海通記: 史料叢書- NDL Digital Collections

讃岐出身の軍学者香西成資が寛文三年(1663)に著したのが『南海治乱記』で、その増補版が『南海通記』です。この両書には、次のような事が記されていたのを前回は見ました。
①(香西)資村が、香西氏の始祖であること。
②資村は、承久の乱で鎌倉方について「香川郡守」となって、勝賀城を築いたこと
しかし、資村については、史料的には確認できない人物です。香西氏の中で史料的に確認できるのは、14世紀南北朝時代の、香西彦三郎や香西彦九郎ですが、彼らは南海通記などには登場しないことなどを見てきました。以上からは、戦国時代に滅亡した香西氏には、それまでの文書や系譜が失われていたことが考えられます。軍学者香西成資は、手元に史料の無い状態で南海通記を書いたことが考えられます。

 南海通記には15世紀になると香西氏には、在京する一族と、讃岐に在住する一族の上下の香西氏が生まれたと記します。今回はこの、上香西氏と下香西氏について見ていくことにします。テキストは、 「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です

南海治乱記巻之三 植松四郎射芸記
明応年中に、(中略)香西備後守①元資一子備中守②元直在京す。故に上香西と云ふ。次子左近将監③元綱、讃州に在住す。故に下香西と云ふ也。備中守元直か子又六郎元継、後又備中守と号する也。

意訳変換しておくと
明応年中(1492~1501)に、(中略)香西備後守①元資の子である備中守②元直は在京していた。そのため上香西と呼ばれた。次子の左近将監元綱は、讃岐にいたので下香西と云う。備中守元直の子又六郎元継も、後に備中守と称する。

香西氏系図 南海通記
香西氏系図(南海通記)
『南海通記』巻之廿上 上香西・下香西伝
文明九年(1477)二至テ両陣ノ諸将時ノ和談ヲナシ、各下国シ京中ノ陣跡、径卜成ル。其時讃州ノ四臣モ子弟ヲ京都二残テ、管領家ヲ守ラシメ、各下国有り。是二依テ上香西・下香西ノ別有り。
 応仁年中(1467―69)二香西備後守元資、長子備中守元直二丹波ノ采地ヲ譲テ管領家ヲ守シメ、京都二在住セシム。此氏族ヲ上香西卜云。同元資ノニ子左近将監元顕、讃州本領ヲ譲テ、是ヲ下香西卜云。元顕ノ長子豊前守元清、長子越後守元成、元成長子駿河守元載、元載ノ長子伊賀守佳清、是五代也。
     意訳変換しておくと
文明九年(1477)になって両陣の諸将は交渉して和議を結んだ。各軍勢は国に帰り、京中の陣跡は道になった。この時に讃州の細川家の四家臣は、管領細川家を守るために子弟を京都に残して、讃岐に帰った。こうして香西家は上香西・下香西に分かれることになった。
 応仁の乱(1467―69)の戦乱の中で、香西備後守①元資とその長子備中守②元直は丹波に領地を得て、管領家を守って、京都に在住した。この一族を上香西という。元資の子左近将監③元顕は、讃州本領を譲ったので、これを下香西という。元顕の長子豊前守④元清、長子越後守⑤元成、元成長子である駿河守元載、元載の長子伊賀守佳清の五代になる。

『南海通記』巻之二 讃州藤家記
元資 細川勝元、賜諄之一字 備後守法名宗善 加賜摂州渡辺・河州所々之釆地。

意訳変換しておくと
元資は、細川勝元から一字をいただいた名前である。備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得た。

  このように『南海治乱記』・『南海通記』などは、讃岐国外での①元資以後の香西氏の活動を詳細に記します。
以上の資料から元資について拾い出すと次のようになります。
①香西氏の中で、上洛して活躍する最初の人物は香西元資であること。
②香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと
③香西元資の長子元直と、その子孫は在京して上香西と呼ばれたこと、
④丹波篠山城を得たのは、元資の息子元直とすること
⑤次子元綱(元顕)は讃岐の本領を相続して在国し、下香西と呼ばれたこと。

しかし、これも残された史料とかみ合いません。香西元資について残された史料と照らし合わせてみましょう。
 10 応永32年(1425)12月晦日
  丹波守護細川満元、同国大山荘人夫役につき瓜持ち・炭持ち各々二人のほか、臨時人夫の催促を停止することを守護代香西豊前守元資に命ずる。翌年3月4日、元資、籾井民部に施行する。
(「東寺百合文書」大山村史編纂委員会編『大山村史 史料編』232P頁)
11 応永33年(1426)6月13日
丹波守護代元資、守護満元の命により、祇園社領同国波々伯部保の諸公事停止を籾井民部へ命ずる。(「祗園社文書」『早稲田大学所蔵文書』下巻92頁)

12 同年7月20日
  丹波守護細川満元、将軍足利義持の命により、同国何鹿郡内漢部郷・並びに八田郷内上村を上杉安房守憲房の代官に渡付するよう守護代香西豊前守(元資)へ命ずる。(「上杉家文書」『大日本古文書』上杉家文書1巻55P)

13 永享2年(1430)5月12日
  丹波守護代、法金剛院領同国主殿保の綜持ち人夫の催促を止めるよう籾井民部入道に命ずる。(「仁和寺文 書」東京大学史料編纂所所蔵影写本)

14 永享3年(1431)7月24日
  香西元資、将軍義教より失政を咎められて、丹波守護代を罷免される。(「満済准后日記」『続群書類従』本、下巻270P) 

以上からは香西豊前守(元資)について、次のようなことが分かります。
資料10からは  父と思われる香西入道(常建)が亡くなった3年後の1425年12月晦日に、元資が臨時入夫役の停止を命じられています。それを元資は翌年3月4日に又守護代とみられる籾井民部玄俊へ遵行状を出して道歓(満元)の命を伝えています。ここからは、元資が丹波守護代の役目を果たしている姿が見えてきます。
資料11には、元資は幕府の命を受けた守護道歓より丹波国何鹿郡漢部郷・八田郷内上村を上杉安房守憲実代にうち渡すよう命じられています。資料12・13からも彼が、丹波守護代であったことが確認できます。ところが南海通記は「②香西元資は細川勝元より「元」字を与えられ備後守で法名が宗善で、摂津の渡辺や河内に所領を得たこと」と記し、丹波守護代については何も触れません。
南海通記は、資料14の元資が丹波守護代を罷免された事実についても何も記しません。そして「④丹波篠山城を得たのは、元資の息子元直」とするのです。これについて「丹波守護代を罷免されたことを不名誉なこととして、南海通記の作者は触れなかった」という意見もあるようです。しかし、作者が、元資についての正確な資料を手元に持っていなかったと考えた方がよさそうです。

 南海通記は「香西元資」を「細川家ノ四天王」として次のように記します。
享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。

意訳変換しておくと
享徳元年から細川勝元は、畠山徳本を拠点に管領職を13年に渡って務めた。この時に。香川肥前守元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安の四人を統領の家臣団として重用した。そこで、世間では彼らを細川家の四天王と呼んだ。

 ここからは細川勝元の支配は、讃岐出身の「四天王」の軍事力と政治力に支えられていたことがうかがえます。
細川勝元(ほそかわ・かつもと)とは? 意味や使い方 - コトバンク
細川勝元 「讃岐の四天王」に支えられた
『南海通記』は「四天王」の領地とその由来について、次のように記します。
各讃州ニ於テ食邑ヲ賜フ、西讃岐多度、三野、豊田三郡ハ詫間氏カ領也。詫間没シテ嗣ナシ、頼之其遺跡ヲ香川ニ統領セシム、
那珂、鵜足ノ二郡ハ藤橘両党ノ所有也。是ヲ細川家馬廻ノ武士トス、近年奈良太郎左衛門尉ヲ以テ二郡ノ旗頭トス、奈良ハ本領畿内ニアリ、其子弟ヲサシ下シテ鵜足津ノ城ニ居住セシム、綾ノ南條、北條、香東、香西四郡ハ、香西氏世々之ヲ領ス、三木郡ハ三木氏没シテ嗣ナシ、
  安富筑前守ヲ以テ、是ヲ領セシム、香川、安富、奈良ハ東國ノ姓氏也。細川家ニ属シテ當國ニ來リ、恩地ヲ賜フテ居住ス、其來往ノ遅速、何ノ年ト云フコトヲ知ラス、香西氏ハ當國ノ姓氏也。建武二年細川卿律師定禪當國ニ來テ、足利家歸服ノ兵ヲ招キシ時、詫間、香西是ニ属シテ武功ヲ立シヨリ以來、更ニ野心ナキ故ニ、四臣ノ内ニ揚用サラル其嫡子四人ハ香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔也。此四人ハ在京シテ管領家ノ事ヲ執行ス、故ニ畿内ニテ食邑ヲ賜フ、其外在國ノ郡司ハ、大内、寒川二郡ハ寒川氏世々之ヲ領ス、山田郡十二郷ハ、三谷、神内、十河ヲ旗頭トシテ、植田氏世々相持テリ、細川管領家諸國ヲ統領スト云ヘトモ、讃州ヲ以テ根ノ國トス、
意訳変換しておくと
「四天王」はそれぞれ讃州で領地を次のように賜っていた。西讃岐多度、三野、豊田三郡は詫間氏の領地。詫間氏が滅亡して後には、細川頼之は、ここに香川氏を入れた。那珂、鵜足の二郡は藤橘両党の所有であった。そこに近年、細川家の馬廻武士である奈良太郎左衛門尉を入れて、郡旗頭とした。奈良氏は本領は畿内にあるが、その子弟を派遣して鵜足津(宇多津聖通寺)城に配置している。綾の南條と北條、香東、香西の四郡は、香西氏が代々領する。三木郡は三木氏滅亡後は領主不在となったので安富筑前守を入れた。香川、安富、奈良は、東國出身の御家人で、細川家に従って讃岐にやってきて、恩地を得て居住するようになった武士達である。それがいつ頃の来讃になるのかはよく分からない。
 一方、香西氏ハ讃岐出身である。建武二年に細川定禪が讃岐にやってきて、足利家のために兵を集めたときに、詫間・香西はこれに応じて武功を立てて、四天王の一員として用いられるようになった。その嫡子四人とは香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔である。この四人は在京して、管領家を補佐し、畿内に領地を得るようになった。
 その他にも讃岐の郡司は、大内、寒川二郡は寒川氏が代々領する。山田郡十二郷は、三谷、神内、十河などを旗頭として、植田氏が代々領する。細川管領家は、多くの國を支配するが、その中でも讃岐は「根ノ國」とされた。
 ここには細川管領家における讃岐の戦略的な重要性と、各武将の勢力配置が記されています。それを整理すると次のようになります。
香川氏(天霧城)… 多度郡、三野郡、豊田郡
奈良氏(聖通寺城)… 那珂郡、鵜足郡
香西氏(勝賀城)… 阿野郡(綾南條郡、綾北條郡)、香川郡(香東郡、香西郡)
安富氏(雨滝城)… 三木郡
寒川氏(昼寝城)… 寒川郡、大内郡
植田氏(戸田城)… 山田郡
戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
讃岐・阿波の武将勢力分布図

この中で、香川氏・安富氏・奈良氏は、細川氏に従って関東から讃岐へと移住した御家人で、それ以外の香西氏以下は讃岐土着の武士(国人)になります。
細川頼之とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
細川頼之
 讃岐に関東出身の一族が配されたのは、南北朝期に幕府方として西国平定に多大な貢献を果たした細川氏の存在が大きいようです。その中で香西氏は、細川頼之の配下に入り、讃岐の国衆の中で戦功を認められたようです。
  足利顕氏が讃岐守護のときには、讃岐の守護代は桑原左衛門五郎常重、桑島十郎左衛門長範(又守護代は井戸二郎兵衛入道)、粟嶋八郎某、月成(秋月)太郎兵衛尉盛国と頻繁に交代します。この交代理由は、「守護代の勢力増大を防止しようとする意図が強かった」からと研究者は考えています。
 細川氏の人材登用策は、最初は讃岐以外から連れてきた主立った武士団の棟梁を守護代などにつけます。
しかし、明徳・応永年間以降になると、細川氏は清氏系が没落し、顕氏系に代わって頼之系へと勢力交代します。すると、讃岐などで頼之の分国経営に奉仕し、その権力機構に組み込まれた讃岐や阿波の国人の中からも内衆として登用されるものが出てきます。そのチャンスを香西氏はものにしたようです。
内衆として入り込んだ時の棟梁が、香西入道(常建)です。
香西入道(常建)は、香西元資料の近親者(父か兄)にあたることは、前回にお話しした通りです。香西入道(常建)の資料を再度見ておきましょう。
 応永19年(1413)
 香西入道(常建)、清水坂神護寺領讃岐国香酉郡坂田郷の所務代官職を年貢170貫文で請負う。(「御前落居記録」桑山浩然氏校訂『室町幕府引付史料集成』26頁 県史990頁)

 応永21年(1414)7月29日
 室町幕府、東寺領丹波国大山荘領家職の称光天皇即位段銭を京済となし、同国守護代香西豊前入道常建をして、地下に催促することを止めさせる。(「東寺百合文書」『大日本史料』第七編之255P以下)
  1422年6月8日条
「細河右京大夫内者香西(常建)今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」

ここからは、丹波守護代であった常建が61歳で亡くなっていることが分かります。細川京兆家で、一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたことになります。

 ちなみにこれより以前の1392(明徳3)年8月28日の『相国寺供養記』に、管領細川頼元に供奉した安富・香川両氏など郎党二十三騎の名乗りと実名が列記されています。その中には香西氏の名はありません。香西氏は、これ以後の被官者であったのかもしれません。どちらにしても香西氏が京兆家内衆として現れるのは、15世紀半ばの常建が初見になることを押さえておきます。
そして、その子か弟が香西元資になります。

以上をまとめておくと
①南北朝時代に白峰合戦に勝利した細川頼之は、讃岐の支配権を握り論功行賞を行った
②その際に、守護代などに地元讃岐出身の国人武将は登用せずに、外部から連れてきた香川氏や安富氏を配置し、聖通寺城には奈良氏を置いた。
③こうした中で讃岐国衆であった香西氏は、遅れて細川管領家の内衆に加えられた。
④その始まりとなるのが15世紀前半に丹波守護代を務めた香西入道(常建)である。
⑤香西入道(常建)の近親者が香西元資であり、彼も丹波守護代を務めていたが失政で罷免された。
⑥南海通記では、香西元資を「細川四天王」の一員とし、讃岐国人の中から唯一内衆として活躍したのが香西氏であると記す。
⑦元資以後の香西氏は、在京する上香西氏と、讃岐在住の下香西氏の二つに分かれたと南海通記は記す。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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