前回見たように滝宮氏の初見史料は、次のA・Bのふたつです。
A 1458年5月3日瀧宮実明,賀茂別雷社領那珂郡万濃池の年貢6貫600文を納入する(賀茂別雷神社文書)B 1458年7月10日瀧宮実長,善通寺誕生院領阿野郡萱原領家方代官職を請け負う(善通寺文書)
同じ年の文書で、Aが京都の賀茂別雷社領の満濃池跡の池之内の請負契約書で、Bが善通寺誕生院領の萱原領家方代官職の契約書です。同じ滝宮氏が請け負っていますが、請負人の名前がAが「実明」、Bが「実長」です。ここからは二つの滝宮家があったことが分かります。南海通記によると、滝宮氏には2つの流れがあり、居館は次の通りです
Aが本家(実明系)で、松崎跡で滝宮豊後守
Bが分家(実長系)で、滝宮城を拠点
今回は滝宮氏の2つの居館跡を見ていくことにします。讃岐中世の居館を見る際に私が愛用している「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」を、テキストにします。
Bが分家(実長系)で、滝宮城を拠点
今回は滝宮氏の2つの居館跡を見ていくことにします。讃岐中世の居館を見る際に私が愛用している「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」を、テキストにします。
滝宮城
西側に綾川が入り込む深い谷があり、その上に拡がる広い微高地に立地していたようです。周辺の地形観察等から研究者は次のように指摘します。
①綾南警察署から100m南で幅の広い谷が川から入り込み、またこの東延長上も堀切状となっている。②この入江は川港の役割も果たしていた可能性がある。③滝宮天満宮正面の東西の道辺りに空堀があったと伝えられる。④滝宮神社を中心とした南北200mx東西150mの台状地形を復元できるが、城域とするには広い。
⑤遺構は未確認である。⑥A地点で行われた試掘調査で、滝宮城跡と同時期とされる柱穴群・土師器・瓦が確認
次に、滝宮城の北方1kmの松崎城(柾木城)跡を見ていくことにします。
松崎城
松崎城は県道184号線沿いにある松崎バス停付近に築かれていたようです。伝承地を地形復元すると綾川に流れ込む南と北の谷に囲まれた段丘状の解析台地上に立地します。府中湖の低地に突き出た舌状地形になっています。古代の綾氏は、陶に最先端の須恵器工場群を造って、水運を通じて綾川河口から畿内へ運び込んでいたとされます。綾川は重要な交通路でした。その綾川を見下ろす丘にお城は築かれいたことになります。また、川港としても利用されていたことがうかがえます。どちらにしても、戦略的な要衝で城を築くには好適の地です。ただ、西側の谷の付け根には堀切の痕跡はないようです。松崎城跡周辺 綾川に面した入江の上に立地する
天正年間に松崎城主として『南海通記』などに登場する滝宮豊後守は、実長の後裔とされます。そこには、次のように記されています。
松崎城主の滝宮豊後守安資は、羽床城主羽床伊豆守資載の女を妻にしていた。ところが同じく羽床伊豆守資載の女を妻に迎えていた勝賀城主香西伊賀守佳清が、天正6年(1578年)に、これを離縁した。これに憤激した羽床氏と香西氏の間で争いが始まり、羽床伊豆守の嫡男羽床忠兵衛が軍勢を率いて柾木城を攻めてきた。滝宮豊後守の軍勢が羽床忠兵衛を討ち取ると、伊豆守が大軍を率いて押し寄せてくるのを恐れ、松崎城から香西氏の勝賀城へ逃れた。
南海通記については、その内容に誤りや作為が多くてそのままは信じることができないと研究者は考えています。しかし、敢えてこれを事実を伝えているとすると、次のような事が読み取れます。
①滝宮氏は、羽床氏と深いつながりがあった
②しかし、羽床氏と香西氏の抗争がはじまると、松崎城主の滝宮豊後守は香西方についた。
③その結果、羽床氏の攻撃を受けて、松崎城を退いて香西氏の勝賀城に身を寄せた。
④一方、滝宮城の滝宮弥十郎は羽床氏に従い、松崎城を攻め勢力を拡大した。
⑤滝宮城の滝宮氏は、その後も羽床氏に従い、長宗我部元親に降伏後は東讃制圧の先兵として活動した。
⑥秀吉の讃岐侵攻後には長宗我部元親に従って土佐に引き上げたとも伝えられるがよく分からない。
羽床城縄張図 滝宮氏の居館と比べると格段の相違
ここには、滝宮氏が香西氏と羽床氏にの抗争に巻き込まれ、一族同士が相争う状態になったと記されています。そういう点からすれば、羽床氏も香西氏も讃岐綾氏の同族の流れを汲む名門武士団です。それが、時の流れの中で相抗争していることになります。
しかし、この記事が本当かどうかは分かりません。私は疑いの目で見ています。
その根拠は、当時の讃岐が阿波三好氏の氏配下にあったという視点がないからです。前回お話ししたように、当時は阿波三好氏の讃岐支配が進展し、讃岐国人の裁判権を三好氏が握っていました。それをもう一度確認しておきます。「阿波物語」第二は、1570年代のこととして三好氏の有力武将であった「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」が次のように出てきます。
伊沢殿の遺恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)のことである。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、これは伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に伊沢越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。
年代的に見てここに出てくる「滝宮豊後殿」は「1458(長禄2)年に善通寺から讃岐国萱原の代官職を預かっていた滝宮豊後守実長の子孫で、当時の松崎城の主人と研究者は考えています。
ここからは滝宮氏と阿波・伊沢氏との関係について次のようなことが分かります。
①滝宮豊後守は三好氏を支える有力者・伊沢氏と姻戚関係を結んでいたこと。
②滝宮豊後守と讃岐国人の争論を、阿波の三好長治が裁いていること
③争論の結果として、讃岐の滝宮豊後守は一度は切腹を命じられたこと
④しかし、親戚の阿波の伊沢氏の取りなしで切腹が回避されたこと
⑤ちなみに、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったこと。
こうして見ると滝宮氏は、三好氏の有力家臣伊沢氏と婚姻関係を結んでいたことが分かります。また阿波三好家は、16世紀後半には讃岐の土地支配権・裁判権を握り、讃岐国人らを氏配下に編成し軍事動員できる体制にあったことも分かります。言い換えれば、讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっていたことになります。こうした中で、三好氏が傘下に置いた羽床氏や香西氏の軍事衝突を許すでしょうか?
丸亀平野の元吉(櫛梨)城をめぐる合戦について毛利方史料には次のように記します。
天正五(1577)年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、猶浄念二相含候、恐性謹言、
意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人ほどです。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
ここには、阿波三好氏の指示で讃岐国衆の「長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000人程」が元吉城に攻めかかってきたと記されています。羽床氏と香西氏は、三好配下にあって元吉攻めに従軍していたことが裏付けられます。ここからも南海通記の記録は、そのままは受け取ることはできません。
滝宮氏が去った後の滝宮城はどうなったのでしょうか。
滝宮神社(讃岐国名勝図会)
ふたつの神社に挟まれた龍燈寺が別当寺で、この社僧達がこれらの宗教施設を管理運営いました。神仏混淆下にあって大いに栄えていたことがうかがえます。この繁栄の基盤は中世の滝宮氏の時代に作られ、それが生駒・松平の保護を受けながら、この絵図の時代に至っていたようです。それが明治の神仏分離で龍燈寺が姿を消して行くことになります。 最後に江戸時代の人々が、滝宮牛頭天王社や龍燈寺をどのように見ていたのか昔話から探っておきます。
山あいの水を集めて流れる綾川は、堤山を過ぎると急に流れを変えて、滝宮の方へ流れます。むかし綾川は、そのまま西へ流れていたそうです。宇多津町の大束川へ流れこんでいたのですが、滝宮の牛頭天王さんが土を盛りあげ、水を滝宮の方へ落してしまいました。
さて、奈良時代のことです。島田寺のお坊さまが、滝宮の牛頭天王社におこもりをしました。祭神のご正体を、見きわめるためだったといいます。おこもりして満願の日に、みたらが淵に白髪の老人が現れました。すると、龍女も現れ、淵の岩の上へともしびを捧げられました。白髪のおじいさんというのが、牛頭天王さんであったようです。龍女が灯を捧げた石を、「龍灯石(りゅうとうせき)」と呼ぶようになりました。しらが淵のあたりは、こんもりと木が茂り昼でもうす暗く気味の悪いところだったと言います。大雨が降り洪水になると、必ず白髪頭のおじいさんが淵へ現れました。このあたりの人たちは、洪水のことを、シラガ水と呼んでいます。まるで牙をむくように水が流れる淵には、大きな岩も突き出ています。岩には、誰かの足跡がついたように凹んでいます。
ここからは次のようなことが推測できます。
①滝宮神社は牛頭天王社であったこと
②牛頭天王社の祭神は白髪老人で牛頭龍王であった
③牛頭天王に灯を捧げたのが龍王で、その場所が龍灯石であったこと
④別当寺龍燈院のいわれは、「龍灯石」であること
⑤牛頭天王が現れるみたらが渕は霊地として信仰されていたこと
以上をまとめておきます
①滝宮氏には、本家分家の2つの流れがあった。
②本家は、松崎城を居館とする滝宮豊後守
③分家は、滝宮城を居城として牛頭天王を奉り、氏寺として龍燈院を建立していた。
④両秋山氏の居館は、古代以来から河川水運として利用されていた綾川沿いに立地する。
⑤周辺の陶は、平安期まで須恵器などの讃岐窯業の中心地で、これらは古代綾氏によって整備された
⑥藤原氏は古代の綾氏が武士団化したものとされるが、その流れを汲むのが滝宮氏や羽床氏だったと推測できる。
⑦南海通記には、天正年間になると両滝宮氏は、香西氏と羽床氏の抗争に巻き込まれ、一族同士が相争うようになったと云うが、それには疑問が残る。
⑧滝宮氏が去った後の滝宮城跡には、牛頭天王社・龍燈院・天満宮が並び立ち、神仏混淆下で牛頭天王(蘇民将来)信仰の拠点となった。
⑨龍燈寺の社僧達は、蘇民将来などのお札を周辺の村々に配布し、牛頭天王信仰を拡げると供に、風流念仏踊り等も村々に伝えた。
⑩牛頭天王社の大祭には、中世の郷単位で構成された踊り手達が「踊り込み」奉納を行った。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「中世城館跡分布調査報告書(香川県) 2018年8月10日」