瀬戸の島から

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カテゴリ:讃岐の武将 > 秋山氏

香川氏発給文書一覧
香川氏発給文書一覧 帰来秋山氏文書は4通

高瀬町史の編纂過程で、新たな中世文書が見つかっています。それが「帰来秋山家文書」と云われる香川氏が発給した4通の文書です。その内の2通は、永禄6(1563)年のものです。この年は、以前にお話したように、実際に天霧城攻防戦があり、香川氏が退城に至った年と考えられるようになっています。この時の三好軍との「財田合戦」の感状のようです。
 残りの2通は、12年後の天正5年に香川信景が発給した物です。これは、それまでの帰来秋山氏へ従来認められていた土地の安堵と新恩を認めたものです。今回は、この4通の帰来秋山家文書を見ていくことにします。テキストは「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」です。

 帰来秋山家文書は、四国中央市の秋山実氏が保管していたものです。
 帰来秋山家に伝わる由緒書によると、先祖は甲斐から阿願人道秋山左兵衛が讃岐国三野郡高瀬郷に来住したと伝えていています。これは、秋山惣領家と同じ内容です。どこかで、惣領家から分かれた分家のようです。
 天正5(1577)年2月に香川信景に仕え、信景から知行を与えられたこと、その感状二通を所持していたことが記されています。文書Cの文書中に「数年之牢々」とあり、由緒書と伝来文書の内容が一致します。
 秀吉の四国平定で、長宗我部元親と共に香川氏も土佐に去ると、帰来秋山家は、讃岐から伊予宇摩郡へ移り、後に安芸の福島正則に仕えます。しかし、福島家が取り潰しになると、宇摩郡豊円村へ帰住し、享保14年(1729)に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至ったようです。由緒書に4通の書状を香川氏から賜ったとありますが、それが残された文書のようです。帰来秋山一族が、天正年間に伊予へ移り住んだことは確かなようです。伝来がはっきりした文書で、信頼性も高いこと研究者は判断します。
 それでは、帰来秋山家文書(ABCD)について見ていきましょう。
まずは、財田合戦の感状2通です。
A 香川之景・同五郎次郎連書状 (香川氏発給文書一覧NO10)
 一昨日於財田合戦、抽余人大西衆以収合分捕、無比類働忠節之至神妙候、弥其心懸肝要候、謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来善五郎とのヘ
意訳変換しておくと
 一昨日の財田合戦に、阿波大西衆を破り、何人も捕虜とする比類ない忠節を挙げたことは誠に神妙の至りである。その心懸が肝要である。謹言
閏十二月六日   五郎次郎(花押)
            香川之景(花押)
帰来(秋山)善五郎とのヘ
ここからは次のような事が分かります。
①財田方面で阿波の大西衆との戦闘があって、そこで帰来(秋山)善五郎が軍功を挙げたこと。
②その軍功に対して、香川之景・五郎次郎が連書で感状を出していること
③帰来秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたこと
④日時は「潤十二月」とあるので閏年の永禄6年(1563)の発給であること
永禄6年に天霧城をめぐって大きな合戦があって、香川氏が城を脱出していることが三野文書史料から分かるようになっています。この文書は、一連の天霧城攻防戦の中での戦いを伝える史料になるようです。
B 香川之景・同五郎次郎連書状    (香川氏発給文書一覧NO11)
去十七日於才田(財田)合戦、被疵無比類働忠節之至神妙候、弥共心懸肝要候、謹言、
三月二十日                            五郎次郎(花押)
     之  景 (花押)
帰来善五郎とのヘ
文書Aとほとんど同内容ですが、日付3月20日になっています。3月17日に、またも財田で戦闘があったことが分かります。冬から春にかけて財田方面で戦闘が続き、そこに帰来善五郎が従軍し、軍功を挙げています。

文書Bと同日に、次の文書が三野氏にも出されています。 (香川氏発給文書一覧NO12)
去十七日才田(財田)合戦二無比類□神妙存候、弥其心懸肝要候、恐々謹言、
三月二十日                    五郎次郎(花押)
    之  景 (花押)
三野□□衛門尉殿
進之候
発給が文書Bと同日付けで、「去十七日才(財)田合戦」とあるので、3月17日の財田合戦での三野氏宛の感状のようです。二つの文書を比べて見ると、内容はほとんど同じですが、文書Aの帰来(秋山)善五郎宛は、書止文言が「謹言」、宛名が「とのへ」です。それに対して、文書Bの三野勘左衛門尉宛は「恐々謹吾」「進之」です。これは文書Aの方が、「はるかに見下した形式」だと研究者は指摘します。三野勘左衛門尉は香川氏の重臣です。それに対して、帰来善五郎は家臣的なあつかいだと研究者は指摘します。帰来氏は、秋山氏の分家の立場です。単なる軍団の一員の地位なのです。香川氏の当主から見れば、重臣の三野氏と比べると「格差」が出るのは当然のようです。
 この冬から春の合戦の中で、香川氏は大敗し天霧城からの脱出を余儀なくされます。そして香川信景が当主となり、毛利氏の支援を受けて香川氏は再興されます。

文書C  (香川氏発給文書一覧NO16)は、その香川信景の初見文書にもなるようです。讃岐帰国後の早い時点で出されたと考えられます。
C 香川信景知行宛行状
秋山源太夫事、数年之牢々相屈無緩、別而令辛労候、誠神妙之や無比類候、乃三野郡高瀬之郷之内帰来分同所出羽守知行分、令扶持之候 田畑之目録等有別紙 弥無油断奉公肝要候、此旨可申渡候也、謹言、
天正五 二月十三日                       信 景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
意訳変換しておくと
秋山源太夫について、この数年は牢々相屈無緩で、辛労であったが、誠に神妙無比な勤めであった。そこで三野郡高瀬之郷之内の帰来分の出羽守知行分を扶持として与える。具体的な田畑之目録については別紙の通りである。油断なく奉公することが肝要であることを、申し伝えるように、謹言、
天正五 二月十三日                       (香川)信景(花押)
三野菊右衛門尉とのヘ
この史料からは次のようなことが分かります。
①天正5年2月付けの12年ぶりに出てくる香川氏発給文書で、香川信景が初めて登場する文書であること
②秋山源太夫の数年来の「牢々相屈無緩、別而令辛労」に報いて、高瀬郷帰来の土地を扶持としてあたえたこと
③直接に秋山源太夫に宛てたものではなく三野菊右衛文尉に、(秋山)源太夫に対して知行を宛行うことを伝えたものであること
④「田畠之目録等有別紙」とあるので、「別紙目録」が添付されていたこと
 香川氏が12年間の亡命を終えて帰還し、その間の「香川氏帰国運動」の功績として、秋山源太夫へ扶持給付が行われたようです。「牢々相屈無緩、別而令辛労」からは、秋山源太夫も、天霧城落城以後は流亡生活を送っていたことがうかがえます。
これを裏付ける史料が香川県史の年表には元亀2(1571)年のこととして、次のように記されています。
1571 元亀2
 6月12日,足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
 8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
 9・17 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、鞆に亡命してきていた足利将軍義昭が、香川氏の帰国支援に動いていたことがうかがえます。
 
文書Cで給付された土地の「別紙目録」が文書D(香川氏発給文書一覧NO10)になります。
D 香川信景知行日録
一 信景(花押) 御扶持所々目録之事
一所 帰来分同五郎分
   帰来分之内散在之事 後与次郎かヽへ八反田畠
   近藤七郎左衛門尉当知行分四反反田畠
   高瀬常高買徳三反大田畑  出羽方買徳弐反
   真鍋一郎大夫買徳一町半田畑
以上 十拾八貫之内山野ちり地沽脚之知共ニ
一所  ①竹田八反真鍋一郎太夫買徳 是ハ出羽方之内也、最前帰来分江御そへ候て御扶持也
一所 出羽方七拾五貫文之内五拾貫文分七反三崎分
右之内ぬけ申分、水田分江四分一分水山河共ニ三野方へ壱町三反 なかのへの盛国はいとく分
此外②武田八反俊弘名七反半、此分ぬけ申候て、残而五拾貫文分也、又俊弘名七反半真鍋一郎太夫買徳、
但これハ五拾貫文之外也
以上
天正五(1577)年二月十三日         
             秋山帰来源太夫 親安(花押)

 研究者が注目するのは、この文書の末尾に「秋山帰来源太夫」とあるところです。
秋山家文書の中にも「帰来善五郎」は出てきますが、それが何者かは分かりませんでした。この帰来秋山文書の発見によって、帰来善五郎は秋山一族であることが明らかになりました。善五郎が源太夫の先代と推測できます。伊予秋山氏は帰来秋山家の末裔といえるようです。
三野町大見地名1
三野湾海岸線(実線)の中世復元 竹田は現在の大見地区
帰来秋山氏は、どこに館を構えていたのでしょうか。
①②の「竹田」「武田」は、現在の三野町大見の竹田と研究者は考えています。 秋山家文書の泰忠の置文(遺産相続状)には、大見にあった秋山氏惣領家の名田が次のように出てきます。
あるいハ ミやときミやう (あるいは宮時名)、
あるいハ なか志けミやう (あるいは長重名)、
あるいハ とくたけミやう (あるいは徳武名)、
あるいは 一のミやう   (あるいは一の名)、
あるいハ のふとしミやう (あるいは延利名)
又ハ   もりとしミやう (又は守利名)
又は   たけかねミやう (又は竹包名)、
又ハ   ならのヘミやう (又はならのへ名)
このミやうミやうのうちお(この名々の内を)、めんめんにゆつるなり(面々に譲るなり)」

多くの名前が並んでいるように見えますが、「ミやう」は名田のことす。名主と呼ばれた有力農民が国衛領や荘園の中に自分の土地を持ち、自分の名を付けたものとされます。名田百姓村とも呼ばれ名主の名前が地名として残ることが多いようです。特に、大見地区には、名田地名が多く残ります。このような名田を泰忠から相続した分家のひとつが帰来秋山家なのかもしれません。
秋山氏 大見竹田
帰来秋山氏の拠点があった竹田集落

③の「帰来分」は帰来という地名(竹田の近くの小字名)です。
ここからは帰来秋山氏の居館が、本門寺の東にあたる竹田の帰来周辺にあったことが分かります。そのために帰来秋山氏と呼ばれるようになったのでしょう。ここで、疑問になるのはそれなら秋山惣領家の領地はどこにいってしまったのかということです。それは後に考えるとして先に進みます。

もう一度、史料を見返すと帰来分内の土地は、真鍋一郎へ売却されていたことが分かります。それが全て善五郎へ、宛行われています。もともとは、帰来秋山氏のものを真鍋氏が買徳(買収)していたようです。真鍋氏は、これ以外に秋山家惣領家の源太郎からも多くの土地を買っています。
 どうして秋山氏は所領を手放したのでしょうか?
 以前にお話したように、秋山氏は一族が分裂し、勢力が衰退していったことが残された文書からは分かります。それに対して、多度津を拠点とする守護代香川氏は、瀬戸内海交易の富を背景に戦国大名化の道を着々と歩みます。香川氏の台頭により、三野郡での秋山氏の勢力衰退が見られ、 一族が分裂するなどして所領が押領されていった可能性があると研究者は考えているようです。
 戦国期末期には、秋山一族は経済的には困窮していて、追い詰められていたようです。それだけに合戦で一働きして、失った土地を取り返したいという気持ちが強かったのかもしれません。同時に、秋山氏から「買徳」で土地を集積している真鍋氏の存在が気になります。「秋山氏にかわる国人」と研究者は考えているようです。


讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図 大見はかつては下高瀬郷の一部であった
 帰来秋山文書の発見で分かったことをまとめておきます。
讃岐秋山氏の実質的な祖となる3代目秋山泰忠は、父から下高瀬の守護職を継ぎました。ここからはもともとの秋山氏のテリトリーは、本門寺から大見にいたるエリアであったことがうかがえます。それが次第に熊岡・上高野といった三野湾西方へ所領を拡大していきます。新たに所領とした熊岡・上高野を秋山総領家は所領としていたようです。今までは、下高瀬郷が秋山家の基盤、そこを惣領家が所有し、新たに獲得した地域を一族の分家が管理したと考えられていました。しかし、大見の竹田周辺には帰来秋山氏がいました。庶家の帰来秋山氏は下高瀬郷に居住し、在地の名を取って帰来氏と称していました。もともとは、下高瀬郷域は惣領家の所領でした。分割相続と、その後の惣領家の交代の結果かもしれません。
 
 永禄年間の三好氏の西讃岐侵攻で、秋山氏の立場は大きく変わっていきます。そこには秋山氏が香川氏の家臣団に組み込まれていく姿が見えてきます。その過程を推測すると次のようなストーリーになります。
①永禄6(1563)年の天霧城籠城戦を境にして、秋山氏は没落の一途をたどり 一族も離散し、帰来秋山源太夫も流亡生活へ
②香川氏は毛利氏を頼って安芸に亡命し、之景から信景に家督移動
③香川信景のもとで家臣団が再編成され、その支配下に秋山氏は組み入れられていく。
④毛利氏の備讃瀬戸制海権制圧のための讃岐遠征として戦われた元吉合戦を契機に、毛利氏の支援を受けて、香川氏の帰国が実現
⑤三好勢力の衰退と長宗我部元親の阿波侵入により、香川氏の勢力は急速に整備拡大。
 この時期に先ほど見た帰来秋山家文書CDは、香川信景によって発給され、秋山源太夫に以前の所領が安堵されたようです。香川氏による家臣統制が進む中で、那珂郡や三野・豊田郡の国人勢力は、香川氏に付くか、今まで通り阿波三好氏に付くかの選択を迫られることになります。三好方に付いたと考えられる武将達を挙げて見ます
①長尾氏 西長尾 (まんのう町)
②本目・新目氏  (まんのう町(旧仲南町)
③麻近藤氏 (三豊市 高瀬町麻)
④二宮近藤氏   (三豊市山本町神田) 
これらの国人武将は、三好方に付いていたために土佐勢に攻撃をうけることになります。一方、香川信景は土佐勢の讃岐侵入以前に長宗我部元親と「不戦条約」を結んでいたと私は考えています。そのため香川氏の配下の武将達は、土佐軍の攻撃を受けていません。本山寺や観音寺の本堂が焼かれずに残っているのは、そこが香川方の武将の支配エリアであったためと私は考えています。

  帰来秋山家文書から分かったことをまとめておきます。
①帰来秋山家は、三豊市三野町大見の竹田の小字名「帰来」を拠点としていた秋山氏の一族である。
②香川氏が長宗我部元親とともに土佐に撤退して後に、福島正則に仕えたりした。
③その後18世紀初頭に松山藩主へ郷士格として仕え、幕末に至った
④帰来秋山家には、香川氏発給の4つの文書が残っている。
⑤その内の2通は、1563年前後に三好軍と戦われた財田合戦での軍功が記されている。
⑥ここからは、帰来秋山氏が香川氏に従軍し、その家臣団に組織化されていたことがうかがえる。
⑦残りの2通は、12年後の天正年間のもので、亡命先の安芸から帰国した香川信景によって、香川家が再興され、帰来秋山氏に従来の扶持を安堵する内容である。
こうして、帰来秋山家は従来の大見竹田の領地を安堵され、それまでの流亡生活に終止符を打つことになります。そして、香川氏が長宗我部元親と同盟し、讃岐平定戦を行うことになると、その先兵として活躍しています。新たな「新恩」を得たのかどうかは分かりません。
 しかし、それもつかの間のことで秀吉の四国平定で、香川氏は長宗我部元親とともに土佐に退きます。残された秋山家は、どうなったのでしょうか。帰来秋山家については、先ほど述べた通りです。安芸の福島正則に仕官できたのもつかぬ間のことで、後には伊予で帰農して庄屋を務めていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
       「橋詰茂 香川氏の発展と国人の動向 瀬戸内海地域社会と織田権力」
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1 秋山氏の本貫地
秋山氏の本貫 甲斐国巨摩郡青島(南アルプス市)

秋山氏は甲斐国巨摩郡を本貫地とする甲斐源氏の出身で、阿願入道光季が孫二郎泰忠とともに弘安(1278~88)年中に来讃したことは以前にお話ししました。鎌倉幕府は、元寇後に西国防衛のために東国の御家人を西国へシフトする政策をとります。秋山氏も「西遷御家人」の一人として、讃岐にやって来た東国の武士団であったようです。秋山氏が、後世に名前を残した要因は次の点にあると私は考えています。
①日蓮宗の本門寺を下高瀬に西日本で最初に建立したこと。
②本門寺を中心に「皆法華」体制を作り上げたこと
③秋山家文書を残したこと
1秋山氏の系図
秋山家系図(江戸時代のもの 下段右端に光季(阿願入道)

秋山氏は三野郡高瀬郷を本拠としますが、高瀬に定着する前には、丸亀市の田村町辺りを拠点にして、他にも讃岐国内に数か所の所領を持っていたようです。讃岐移住初代の光季(阿願入道)に、ついては、江戸時代に作られた系図には、次のように記されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山家系図拡大(秋山家文書)
系図の阿願入道の部分を意訳変換しておくと
讃岐秋山家の元祖は阿願入道である
号は秋山孫兵衛(光季)。甲州青島の住人。正和4年に讃岐に来住。嫡子が病弱だったために孫の孫の泰忠を養子として所領を相続させた。
 阿願入道は、甲斐国時代から熱心な法華宗徒で、孫の泰忠もその影響を受けて幼い頃から法華宗に帰依します。阿願入道は、那珂郡杵原を拠点にして、日仙を招いて田村番人堂(杵原本門寺)を建立します。これが西日本初の法華宗の伝播となるようです。しかし、杵原本門寺が焼亡したため、正中二年(1325)に高瀬郷に移し、法華堂として再建されます。これが現在の本門寺のスタートになります。
秋山氏系図の泰忠の註には、次のように記されています。
   泰忠
「号は秋山孫次郎。正中2(1325)年 法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」
ここからは、下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。同時に、祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠が実質的な讃岐秋山氏の祖になるようです。彼は歴戦の勇士で長寿だったことが残された史料から分かります。
三野・那珂・多度郡天保国絵図
天保国絵図 金倉郷から高瀬郷へ

 秋山泰忠は、どうして金倉郷から高瀬郷へ拠点を移したのでしょうか?
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここには高瀬を「最少」、丸亀平野の下金倉郷を「広博之地」として、金倉郷の優位性を記しています。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため開発が進まずに、古代から放置されたままになっていた地域です。それなのにどうして、秋山氏は金倉郷から下高瀬に移したのでしょうか。
三野町大見地名1
太い実線が中世の海岸線
秋山氏の所領はどの範囲だったのでしょうか?
秋山氏が残した一番古い文書は、次の泰忠の父である源誓が泰忠に地頭職を譲る際に作成した「相続遺言状」で、ひらがなで次のように記されています。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)
   本文              漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、    讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、 (伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし 孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候 (良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの   (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、 (兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、  (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために (知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (戒めの条)、此の如し) 
                    (秋山)源誓(花押)
  元徳三(1331)年十二月五日        
左が書き起こし文 右に漢字変換文
父源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。「讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る」とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎泰忠に、譲られたことが分かります。
 ここで気づくのは先ほど見た系図と、この文書には矛盾があります。江戸時代に作られた系図は祖父・阿願入道から孫の泰忠に直接相続されていました。「父・源誓」は出てきませんでした。しかし、遺産相続文書には、「父・源誓」から譲られたことが記されています。
ここからは、後世の秋山家が「父・源誓」の存在を「抹殺」していたことがうかがえます。話を元に返します。

讃岐国絵図天保 三野郡
天保国絵図の三野郡高瀬郷周辺 赤い実線が伊予街道

 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていました。現在の旧伊予街道が考えられています。その北側の高瀬郷(下高瀬)を、泰忠が相続したことになります。現在、国道を境として上高瀬・下高瀬の地名があります。下高瀬は現在の三豊市三野町に属し、本門寺も下高瀬にあります。この文書に出てくる「下半分」は、三野町域、本門寺周辺地域で「下高瀬」と研究者は考えています。そうだとすると、この相続状で高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことになります。歴史的に意味のある文書です。
 この相続文書が1331年、系図には法華堂建立が1325年とありました。父の生前から下高瀬を、次男である泰忠が相続することが決まっていて、それを改めて文書としたのがこの文書なのかもしれません。文書後半には、兄弟間での対立があったことがうかがえます。
 長男が金倉郷を相続したことも考えられます。
 
三野湾中世復元図
    三野湾中世復元図 黒実線が当時の海岸線 赤が中世地名
 
  秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時の塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

意訳変換しておくと
「讃岐国高瀬郷と新浜の地頭職の事について、当所は親父泰忠が文和二年三月五日に、新浜、東村は源通に、西村は日源、中村は顕泰に地頭職を譲る。

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる
新はま東村(新浜東村)は、①東浜、
西村は現在の②西浜、
中村は現在の③中樋
あたりを指します。下の地図のように現在の本門寺の西側に、塩田が並んでいたようです。

中世三野湾 下高瀬復元地図

他の文書にも次のような地名が譲渡の対象地として記載されています。
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
ここから秋山氏は、三野湾に塩田を持っていたことが分かります。

兵庫北関入船納帳(1445年)には、多度津船が「タクマ(塩)」を活発に輸送していたことが記されています。
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾周辺船籍と積荷

上の表で2月9日に兵庫北関に入港した多度津船の積荷は米10斗と「タクマ330石」です。「タクマ」とは、タクマ周辺で生産された塩のことです。三野湾や詫間で作られた塩は、多度津港を母港とする荷主(船頭)の紀三郎によって定期的に畿内に運ばれていたことが分かります。船頭の喜三郎は、以前にお話しした白方の海賊衆山地氏の配下の「海の民」だったかもしれません。
 また問丸の道祐は、瀬戸内海の25の港で問丸業務を行っている大物の海商です。その交易ネットワークの中に多度津や詫間・三野は組み込まれていたことになります。
 讃岐東方守護代の香川氏と、三野の秋山氏は塩の生産と販売という関係で結ばれ、同じ利害関係を持っていたことになります。これが秋山氏の香川氏への被官化につながるのかもしれません。香川氏が多度津港の瀬戸内海交易で富を蓄積したように、塩は秋山氏の軍事活動を支える基盤となっていた可能性があります。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
  甲州から讃岐にやって来た秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移したのは、塩生産の利益を確実に手に入れるためだった。そのために塩田のあった高瀬郷に移ってきたと私は考えています。

  古代中世の三野湾は大きく湾入していて、次のようなことが分かっています。
①日蓮宗本門寺の裏側までは海であったこと
②古代の宗吉瓦窯跡付近に瓦の積み出し港があったこと
海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことを物語ります。そして中世には、港を中心にお寺や寺院が姿を現します。その三野湾や粟島・高見島などの寺社を末寺として、管轄していたのが多度津の道隆寺でした。下の表は、道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など参加した記録を一覧にしたものです。

イメージ 2
中世道隆寺の末寺への関与
 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部まで末寺があって、広い信仰エリアを展開していたことが分かります。たとえば三野郡関係を抜き出すと
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、詫間・三野庄内半島から粟島・高見島の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
そこには備讃瀬戸対岸の児島五流の修験者たちもかかわってきます。
「熊野信仰 + 修験道信仰 + 高野聖の念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰」という道隆寺ネットワークの中に、三野湾周辺の寺社も含まれていたことになります。

三豊市 正本観音堂の十一面観音像
正本観音堂の十一面観音像(三豊市三野町)

旧三野湾周辺のお寺やお堂には、次のような中世の仏像がいくつも残っています。
①弥谷寺の深沙大将像(蛇王権現?)
②西福寺の銅造誕生釈迦仏立像と木造釈迦如来坐像
③宝城院の毘沙門天立像
④汐木観音堂の観音菩薩立像
⑤吉津・正本観音堂の十一面観音立像
  伝来はよく分からない仏が多いのですが、旧三野湾をめぐる海上交易とこの地域の経済力がこれらの仏像をもたらし、今に伝えているようです。そのような三野湾の中に、秋山氏は新たな拠点を置いたことになります。
秋山氏が金倉郷から高瀬郷に拠点を移した背景について、まとめておきます。
①西遷御家人として讃岐にやって来た秋山氏は、当初は金倉郷を拠点にした。
②秋山氏は、日蓮宗の熱心な信者で、日仙を招いて氏寺を建立した
③この寺が田村番人堂(杵原本門寺)で、西日本で最初の日蓮宗寺院となる。
④しかし、讃岐秋山家の実質的な創始者は、拠点を金倉郷から三野郡の高瀬郷に移し、氏寺も新たに、法華堂を建立した。
⑤その背景には、三野湾の塩田からの利益があった。秋山氏は塩田の拡張整備に務め、自らの重要な経済基盤にした。
⑥塩田からの利益は南北朝動乱時の遠征費などとして使われ、その活躍で足利尊氏などから恩賞を得て、領地支配をより強固なものとすることができた。
⑦兵庫北関入船納帳(1445年)には、詫間(三野)産の塩が香川氏の配下にあった多度津船で畿内に運ばれていることが記されている。
⑧塩の生産と流通を通じて、讃岐東方守護代の香川氏と秋山氏は利害関係で結ばれるようになっていた。
⑨旧三野湾は、製塩用の薪を瀬戸の島から運んでくる船や、塩の輸送船などが出入りしていた。
⑩海運を通じて、旧三野湾が瀬戸内海と結びつき、人とモノの交流が活発に行われていたことが弥谷寺など旧三野湾周辺のお寺やお堂に、中世の仏像がいくつも残っていることにつながる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐秋山氏の隆盛をもたらしたのは、三代目③秋山孫次郎泰忠(晩年は沙弥日高)でした。その後は、泰忠の直系が棟梁を相続していきます。秋山(惣領家)嫡流である鶴法師は、通称孫次郎で後に⑧二代目泰久(⑤初代孫四郎泰久は水田)を名乗っています。
 秋山家文書「文明六(1474)年6月日付秋山鶴法師言上状」からは二代目泰久が、寒川貞光の理不尽な横領を受け、山田郡東本山郷水田名(高松市)の2/3を奪われ、そのうえに本領である高瀬郷内1/3も失なったことが分かります。さらに管領細川家の内紛に巻き込まれ、近畿への出兵が度重なり経済的にも疲弊します。そして何より「勝ち馬」に乗れず新しい恩賞を得ることができません。これが秋山惣領家の衰退につながることは以前にお話ししました。

1秋山氏の系図4

惣領家嫡流孫二郎泰久に代わって、台頭してくるのがA秋山源太郎元泰です。
源太郎の家筋は、泰忠の子等の時代に分かれた庶家筋と研究者は考えているようです。永正三(1506)年8月29日付秋山泰久下地売券では、惣領家の居館周辺「土井」の土地二反を、源太郎が買い取った記録です。居館周辺の土地までも、手放さざるえなくなった惣領家の窮状を見えてきます。
 その後の秋山家文書は、この源太郎宛てものが殆どになっていきます。源太郎が秋山一族の惣領に収まった事がうかがえます。
秋山源太郎が、勢力を増大した契機は、永正八(1511)年7月21日の櫛梨山合戦の功績です。

1 秋山源太郎 細川氏の抗争
この合戦は、永正四(1507)年の細川政元死後の混乱による細川高国派と同澄元派の抗争の一環として、讃岐で起きたものと研究者は考えているようです。この時期、源太郎は 一貫して澄元派に属して活動していたようです。櫛梨山合戦の功名によって澄元から由緒深い秋山水田(初代泰久の号)分を新恩として宛行われています。この土地は高瀬郷内の主要部分のようで、秋山氏嫡流の⑤備前守(二代目)泰久の跡職に就いたことになります。そして、この水田分は源太郎の死後も嫡子幸久(丸)、後の兵庫助良泰に細川高国によって安堵されています。

この時期に秋山源太郎は、細川澄元に軸足を置いて、阿波守護家や淡路守護家細川尚春にも接近しています。
その交流を示す資料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。阿波守護家は、細川澄元の実家であり、政元継嗣の最右翼と源太郎は考えていたのでしょう。応仁の乱前後(1467~87)には、讃岐武将の多くが阿波守護細川成之に属して、近畿での軍事行動に従軍していました。そのころからの縁で、細川宗家の京兆家よりも阿波の細川氏に親近感があったとのかもしれません。
 淡路守護家との関係は、永正七(1510)年6月17日付香川五郎次郎遵行状(25)から推察できます。
この書状は高瀬郷内水田跡職をめぐって源太郎と香川山城守とが争論となった時に、京兆家御料所として召し上げられ、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなります。この没収地の変換を、源太郎は細川尚春に求めていくのです。そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせ、臣下の礼をとり尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けます。その礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されているのです。これを見ると、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来などが見えてきます
 どんな贈答品のやりとりがされていたのかを見ていくことにします。
   細川氏奉行人薬師寺長盛書状     (すべて読下文に変換)
尚々、委細の儀、定めて新六殿に申さるべく候
御懇の御状畏入り存じ候、依って新六殿御油断無く御奉公候間、千秋万歳目出存じ候、
柳か如在無きの儀申し談じ候、御心安ずべく候、其方に於いて何事も頼み奉り存じ候、ふとまかり越し候也、御在所へ参るべく候、次いであみ給い候、一段畏れ入り存じ候、暮の仰せ承りの儀、最戸(斉藤)方談合申し候て、
披露致すべく候、恐々謹言
(永正十二)                     (薬師寺)
閏二月十九日                長盛(花押)
秋山源太郎殿
御返報
意訳すると
書状受け取りました。詳しいことは新六殿に口頭で伝えておきますのでお聞きください。申出のあった件について確かに承りました。新六殿は油断なく奉公に励んでおり、周囲の評判も良いようです。人柄も良く機転も利くのでご安心ください。諸事について頼りになる存在です。
  あみを頂きましたこと、誠に恐れ入ります。暮れにお話のあった斉藤方との談合について、報告しておきたいと思います。
冒頭の「委細の儀、定めて新六殿に申さるべく候」の「新六殿」とあるは、源太郎の子息と研究者は考えているようです。源太郎は息子を、細川淡路守護家に奉公させていたようです。人質の意味もあります。源太郎は息子新六を通じて、淡路や上方の情勢を手に入れていたことがうかがえます。源太郎からの書状には、どんなことが書いてあったのかは分かりません。推察すると「水田」の所領返還についてのお願いだったのかもしれません
  この書状がいつのものかは、「閏二月十九日」から閏年の永正12(1515)年のことだと研究者は考えているようです。
「あミ」は、食用の「醤蝦」で、現代風に訳すると「えびの塩辛」になるようです。発給者の長盛については、よく分かりません。しかし、淡路守護家に出仕する細川尚春の近習と考えられます
 これらの書状は、どのようにして淡路の守護館から高瀬郷の源太郎のもとに届けられたのでしょうか。
江戸時代のように飛脚はありません。書状の中には、「詳しくは使者が口頭で申す」と記され、
石原新左衛門尉、柳沢将監、田村弥九郎、小早川某、吉川大蔵丞

などの名前が記されています。彼らは、淡路守護細川尚春(以久)の家人や馬廻り衆と研究者は考えているようです。彼らが、以久の直状や以久の内意を受けての書状を、讃岐や出陣先へ運び口上を伝えたようです。淡路から南海道を経て陸路やってきたのでしょうか。熊野と西国を結ぶ熊野水軍の「定期船」で塩飽本島までやってきたのかもしれません。

淡路守護細川尚春周辺から源太郎へ宛の書状一覧表を見てみましょう
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧1
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2

まず発給者の名前を見ると大半が、「春」の字がついています。
ここから細川淡路守尚春(以久)の一字を、拝領した側近たちと推測できます。これらの発給者は、細川尚春(以久)とその奉行人クラスの者と研究者は考えているようです。
一番下の記載品目を見てください。これが源太郎の贈答品です。鷹類が多いのに驚かされます。特に鷹狩り用のハイタカが多いようです。
 中世には武家の間でも鷹代わりが行われるようになります。
信長、秀吉、家康はみんな鷹狩が大好きでした。信長が東山はじめ各地で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことは『信長公記』にも書かれています。
 この表だけでは、当時の武士の棟梁たちの鷹に対する執着ぶりは伝わらないと思います。どんな鷹が秋山家から淡路の細川家に贈られたのでしょうか。実際に文書を読んでみましょう。

細川氏奉行人春房書状                 

猶々御同名細々(再再)越され候、本望の由候仰せの如く、先度御態と御状預かり候、殊に御樽代三百疋、題目に謂わず候、次山かえり祝着の至り候、委細田村弥九郎、小早川申さるべく候、恐々
謹言          春房(花押)
十一月十日
秋山源太郎殿  御返報

意訳しておくと
秋山家からの使者が再再に渡ってお越し頂けるので大変、助かっています。おっしゃる通り、贈答品と書状を受け取りました。また別に樽代として300疋は題目を付けずに書状を添えて献上した旨承知しました。
山かえりのハイタカを頂きましたが祝着の至りです。
詳しいことは使者の田村弥九郎、小早川が、口頭でお伝えします。

後半に使者として名前の出てくる田村弥九朗および小早川については分かりません。小早川は淡路守家にもいたようで、秋山氏との連絡を担当していた奉行人のようです。秋山氏の者が細々(再再)・頻繁に連絡を保っていると最初に記されています。人質として預けられていた源太郎の息子・新六のことだ研究者は考えているようです。
  「題目に謂わず」とは、外題を付けずに書状に添えて献上したということでしょうか。源太郎の経済力がうかがえます。二百疋も、為替によって運ばれたようです。当時は以前にお話ししたように為替制度が整備されていました。
要件を述べた後は、贈答品として送られてきた鷹に話題が移っていきます。

1 秋山源太郎 haitaka
尚春が鷹狩りに使っていたのはハイタカのようです。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられたようですが、源太郎が贈答品に贈っているのはハイタカです。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。源太郎から送られてきたハイタカは「山かえり(山帰り)」で一冬を山で越させて羽根の色が毛更りして見事なものだったようです。
 贈答用のハイタカは三豊周辺で捕らえられ、源太郎家で飼育され、狩りの訓練もされていたのでしょう。尚春に仕えていた新六も、鷹の調教には詳しかったようで、他の書簡には「調教方法は詳しく述べなくても新六がいるので大丈夫」などと記されています。ハイタカの飼育・調教を通じて新六が尚春の近くに接近していく姿が見えてきます。

16 淡路守護細川尚春書状                    
今度御出張の刻、出陣無く候、子細如何候や、
心元無く候、重ねて出陣調に就き、播州え音信せさせ候、
鷹廿居尋ねられ給うべく候、巨細吉川大蔵丞申すべく候、
恐々謹言 
         以久(細川尚春)花押
九月七日 
秋山源太郎殿
意訳すると
今度の出陣依頼にも関わらず、出陣しなかったのは、どういう訳か!非常に心配である。重ねて出陣依頼があるようなので、播州細川氏に伝えておくように、
鷹20羽を贈るように命じる
子細は吉川大蔵丞が口頭で伝える、恐々謹言
先ほど見たように、当時は管領細川政元の3人の養子・澄之・澄元・高国による家督争いが展開中でした。
船岡山
澄元方の播州赤松氏は、播磨と和泉方面から京都を狙って高国方に対し軍事行動を起こします。しかし、京都の船岡山合戦で破れてしまいます。これが永正8(1511)年8月のことです。この船岡山合戦での敗北直後の9月7日に秋山源太郎に宛てて出された書状です。
 内容を見ていきましょう。冒頭に、尚春が荷担する澄元側が負けたことから怒って、秋山源太郎が参戦しなかったのを「子細如何候哉」と問い詰めています。その後でハイタカ20羽を贈るようにと催促しています。この意味不明の乱脈ぶりが中世文書の面白さであり、難しさかもしれません。
秋山源太郎が出陣しなかった理由としては、前回に見た細川澄元感状に
「櫛無山に於いて太刀打を致し、殊に疵を被る」

とありました。前年にあった櫛梨山合戦で、太刀傷を受け療養中だったことが考えられます。

淡路守護細川尚春書状
鵠同兄鷹給い候、殊に見事候の間、祝着候、
猶田村 弥九郎申すべく候、恐々謹言
(細川尚春)
以久(花押)
十二月三日
秋山源太郎殿
意訳すると
  特に見事な雌の大型のハイタカを頂き祝着である。
猶田村の軒については、使者の弥九郎が口頭で説明する、恐々謹言
先ほどの書状が9月7日付けでしたから、それから3ヶ月後の尚春からの書状です。 出陣しなかった罰として、ハイタカ二十羽を所望されて、急いで手元にいる中で大型サイズと普通サイズの2羽を贈ったことがうかがえます。重大な戦闘が続いていても、尚春はハイタカの事は別事のように執着しているのが面白い所です。当時の守護の価値観までも透けて見えてくるような気がします。

その半年後の翌年9月には、申し付けられた20羽のハイタカを源太郎が贈ったこととに対する尚春の礼状が残っています。そこには、澄元からの出陣要請にも関わらず船岡山合戦に参陣しなかった源太郎への疑念と怒りが解けたことを伝えています。ハイタカ20羽が帳消しにしたのです。鷹の戦略的な価値は大きかったようです。このような鷹狩りへの入れ込みぶりが当時の武士団の棟梁たちにはあったのです。それが信長や家康の鷹狩り好きの下地になっていることが分かります。
 細川家の守護たちのご機嫌を取り、怒りをおさめさせるのにハイタカは効果的な贈答品であったようです。三豊周辺の山野で捕らえられたハイタカが、鷹狩り用に訓練されて淡路の細川氏の下へ贈られていたようです。

  参考文献
高瀬文化史Ⅳ 中世の高瀬を読む 秋山家文書②

  秋山家文書は、大永7(1527)年から永禄3(1560)年までの約30年間は空白期間で、秋山氏の状況はほとんど分かりません。しかし、この期間に起きたことを推察すると、次のようになります。
①新たに秋山家の統領となった分家の源太郎死後は、一族は求心力を失い、内部抗争に明け暮れたこと
②調停に入った管領細川に「喧嘩両成敗」で領地没収処分を受け、秋山一族の力は弱まったこと。
③そのような中で、秋山氏は天霧城主香川氏への従属を強めていくこと
 秋山氏の「香川氏への従属化=家臣化」を残された秋山文書で見ていくことにします。 テキストは前回に続いて「高瀬町史」と「高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①」です。

  21香川之景感状(折紙)(23・5㎝×45、2㎝)   麻口合戦
1 秋山兵庫助 麻口合戦

 このような形式の文書を包紙と呼ぶそうです。本紙を上から包むもので、さまざまな工夫がされてます。包紙に本紙を入れたあと、上下を持って捻ること(捻封)で、開封されていない状態を示す証拠とされたり、「折封」や「切封」などの方法がありました。包紙に記された「之景感状」とは、当初記されたものではなく、受領者側の方で整理のため後に書き込まれたもののようです。宛人の(香川)「之景」に尊称等が付けられていないので、同時代のものではなく時代を下って書き加えられたものと研究者は考えているようです。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2
  読み下し文に変換します。
今度阿州衆乱入に付いて、
去る十月十一日麻口合戦に於いて
自身手を砕かれ
山路甚五郎討ち捕られる、誠に比類無き働き
神妙に候、傷って、三野郡高瀬
郷の内、御知行分反銭並びに
同郡熊岡・上高野御
料所分内参拾石新恩として
合力申し候、向後に於いて全て
御知行有るべく候、此の外の公物の儀は、
有り様納所有るべく候、在所の
事に於いては、代官として進退有るべく候、
いよいよ忠節御入魂肝要に候、
恐々謹言
(香川)
十一月十五日   之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所
 内容を見ていくことにします
まず見ておくのは、いつ、だれが、だれに宛てた文書なのかを見ておきます。年号がありません。発給者は「之景」とあります。当時の天霧城主で香川氏統領の香川之景のようです。受信者は、「秋山兵庫助殿  御陣所」とあります。
1秋山氏の系図4


秋山氏の系図で見てみると、「兵庫助」は昨日紹介した秋山家分家のA 源太郎元泰の嫡男になるようです。父親源太郎の活躍で分家ながらも秋山氏の統領家にのし上がってきたことは、昨日お話しした通りです。父が1511年の櫛梨山の戦いの活躍で、秋山家における位置を不動にしたように、その息子兵庫助良泰も戦功をあげたようです。
 感状とは、合戦の司令官が、委任を受けた権限の範囲で発給するものです。この場合は、秋山兵庫助の司令官(所属長)は香川之景になっています。ここからは秋山氏が、香川氏の家臣として従っていたことが分かります。
 内容を見ていきましょう
文頭の「今度阿州衆乱入」とは、阿波三好氏の軍勢が讃岐に攻め込んできたことを示しているようです。あるいは、阿波勢の先陣としての東讃の武士団かもしれません。
 「麻口」は、高瀬町の麻のことでしょう。
ここには近藤氏の「麻城」がありました。近藤氏が、この時にどのような動きを見せたかは、史料がないので分かりません。どちらにしても、長宗我部元親の土佐軍の侵攻の20年ほど前に、阿波の三好軍(実態は三好側の讃岐武士団?)が麻口まで攻め寄せてきたようです。その際に、 秋山兵庫助が山路氏を討ち取る戦功をあげ、それに対して、天霧城の香川之景から出された感状ということになります。「御陣中」とありますので、作戦行動中の兵庫助の陣中に、之景からの使者が持ってきて、その場で渡したものと考えられます。この後に正式な論功行賞が行われるのが普通です。

 後半は「反銭」や「新恩」の論功行賞が記されています。
この戦いで勝利を得たのは、どちらなのかは分かりませんが、両軍の雌雄を決するような大規模の戦いでなかったようです。これは、2年後の天霧城籠城合戦の前哨戦のようです。
 それでは、この麻口の戦いがあったのはいつのことなのでしょうか。
『香川県史』8「古代・中世史料編」では、永禄元(1558)年としています。それは『南海通記』に、この年に阿波の三好実休の攻撃を受けた香川氏が天霧城に籠城したことが記されているからです。これは讃岐中世史においては、大きな事件で、これ以後は香川氏は三好氏に従属し、讃岐全域が三好氏の支配下に置かれたとされてきました。『南海通記』の記述を信じた研究者たちは、この文書を永禄元(1558)年の香川氏の籠城戦を裏付ける史料と考えてきたのです。
 しかし、永禄元年に天霧城籠城戦が行われたとする記述は、『南海通記』にしかありません。しかも同書は、年代にしばしば誤りが見られます。秋山文書の分析からは、この文書の年代は、他の史料の検討や之景の花押の変遷などから、永禄三年のものと研究者は考えているようになってきました。
 また、三好側の総大将の実休が、この時には近畿方面で転戦中で四国にはいなかったことも分かってきました。三好軍の讃岐侵入と香川氏の籠城戦は、永禄元(1558)年ではなかったようです。

論功行賞の内容を見ておきましょう
「三野郡高瀬郷の内、御知行分反銭」の「反銭」とは、はじめは臨時の税でしたが、この時代には恒常的に徴収されていたようで、その徴収権です。「熊岡上高野御料所分内参拾石」の三〇石は、収入高を表し、その内の香川氏の取り分を示しています。この収入高は検地を施行するなど、厳密に決められたものではないようです。
「代官として進退あるべく候」とありますので、熊岡や上高野には、秋山氏の一族が代官として分かれ住んだ可能性があります。先ほども確認しましたが、この文書には日付のみで年号がありません。そんな場合は、両者の間の私的な意味合いが濃いとされます。ここからも天霧城主の香川之景と秋山兵庫助が懇意の間柄であったことがうかがえます。
 ここからは秋山氏が細川氏に代わって、香川氏の臣下として従軍していたことが分かります。逆に、香川氏は国人武士たちを家臣化し、戦国大名への道を歩み始めていたこともうかがえます。
 従来は讃岐に戦国大名は生まれなかったとされてきましたが、香川県史では、香川氏を戦国大名と考えるようになっています。

   次に、永禄4年(1561)の香川之景「知行宛行状」を見てみましょう。   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
   
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」2

書き下し文に変換しておきましょう
今度弓箭に付いて、別して
御辛労の儀候間、三野郡
高瀬郷水田分内原。
樋日、三野掃部助知行
分並びに同分守利名内、
真鍋三郎五郎買徳の田地、
彼の両所本知として、様体
承り候条、合力せしめ候、全く
領知有るべく候、恐々謹言
永禄四
正月十三日
(香川)
之景(花押)
秋山兵庫助殿
御陣所

これも先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、これは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高まるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。
  先ほどの麻口の戦いと併せての軍功に対しての次のような論功行賞が行われています。
①高瀬郷大見(現三野町大見)・高瀬郷内知行分反銭と
②熊岡・上高野御料所分の内の三〇石が新恩
③高瀬郷水田分のうち原・樋口にある三野掃部助の知行分
④水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎の買徳地
以上が新恩として兵庫助に与えられています。
 水田名は大永7(1527)年に、幸久丸(兵庫助の幼名?)が阿波の細川氏の書記官・飯尾元運から安堵された土地でした。それが30年の間に、三野掃部助の手に渡っていたことが分かります。つまり、失った所領を兵庫助は、自らの軍功で取り返したということになります。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦う姿が見えてきます。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、視野をもっと広くすると讃岐中世史の定説への疑いも生まれてきます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。
しかし、それは秋山文書を見る限り疑わしくなります。なぜなら見てきたように、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、三好氏に従属したわけではないようです。
 この文書で秋山兵庫助に与えられているのは、かつての三野郡高瀬郷の秋山水田(秋山家本家)が持っていた土地のうちの原・樋口にある三野掃部助の知行分と、同じく水田分のうち守利名の真鍋三郎五郎買得の田地のニカ所です。
 宛行の理由は「今度弓箭に付いて、別して御辛労の儀」とあるとおり、合戦の恩賞として与えられています。合戦の相手は前年の麻口の戦いに続いて、阿波の三好勢のようです。香川氏の所領の周辺に、三好勢力が現れ小競り合いが続いていたことがうかがえます。三好軍が丸亀平野に侵入し、善通寺に本陣を構え、天霧城を取り囲んだというのは、これ以後のことになるようです。
それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。
永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
『香川県史』では、この文書について次のように記します。
「籠城戦が『南海通記』の記述の訂正を求めるものなのか、またその後西讃岐において別の合戦があったのか讃岐戦国史に新たな問題を提起した」

 この永禄6年の天霧龍城こそ『南海通記』に記述された実休の讃岐侵攻だと、研究者は考えているようです。
 この当時、香川氏の対戦相手は、前年に三好実体が死去していることから、三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢になります。善通寺に陣取った三好軍に対して、香川氏が天霧城に籠城するようです。従来の説よりも5年後に、天霧城籠城戦は下げられることになりそうです。
 永禄8(1565)年には、秋山家は兵庫助から藤五郎へと代替わりをしています。
天霧寵城戦で、兵庫助か戦死して藤五郎に家督が継承されたことも考えられます。その後、天正5(1577)年まで秋山文書には空白の期間がります。この間の秋山氏・香川氏の動向は分かりません。この時期の瀬戸内海の諸勢力は、織田政権と石山本願寺・毛利氏との抗争を軸に、どちらの勢力につくのかの決断を求められた時代でした。
以上をまとめておくと次のようになります
秋山氏は鎌倉末期には足利尊氏、南北期には細川氏と勝ち馬に乗ることによって勢力を拡大してきました。しかし、16世紀初頭の細川氏の内部抗争に巻き込まれ、秋山一族も一族間で相争うことになり、勢力を削られていきます。そして、16世紀後半になると戦国大名に成長脱皮していく天霧城主・香川氏に仕えるようになっていきます。そして、失った旧領復活と生き残りをかけて、必死の活動を戦場で見せる姿が秋山文書には残されていました。
 同時に秋山文書からは、阿波三好氏の西讃進攻や支配が従来よりも遅い時期であること、さらに香川氏を完全に服従したとは云えず、西讃地方までも支配下に治めたとは云えないことが分かってきました。
以上です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献
高瀬町史
高瀬文化史1 中世高瀬を読む 秋山家文書①

   甲斐国から高瀬郷の地頭としてやってきた秋山氏を系図で追ってみます。
1秋山氏の系図4

13世紀末に西遷御家人として讃岐にやって来たのは、①秋山阿願光季でした。彼の元で高瀬郷の下高瀬を拠点として居館を構え、新田開発や塩田造成が行われていったようです。その後を継いだのが②源誓のようです。彼からの③孫次郎泰忠への領地の譲状が秋山文書が残っています。ところが、秋山家の正史は、②の源誓の存在を認めません。③泰忠の残した置文や譲り状に、①の祖父光季から譲られたと父を抹消しています。その理由はよく分かりませんが、父の源誓は法華教徒でなかったためかもしれません。
 ③泰忠は、長寿で10歳前後で高瀬郷にやって来て、その後80年以上を過ごしています。その後の活動を年表に示すと、次のようになります。
弘安年中(1178~88)泰忠が祖父や父とともに高瀬郷に来讃。
建武3(1336)年に足利尊氏からの下知状を受け取る
観応2(1352)年の管領細川氏よりの預ヶ状受給
文和2(1353)年 泰忠が最初の置文と譲状を書く
永和 (1376)年 泰忠が最終の置文(遺言)を書く
 泰忠は、最後の置文には「ゆずりはずし(譲外し」を行っています。これは勘当や病気による「廃嫡」で、一旦相続させたものを取り上げることです。相続人としていた嫡男④泰綱を廃嫡し、その次男の⑤孫四郎水田(泰久)を新しい嫡子として、惣領職を相続させることを置文に記しています。泰忠は、この相続のことを「あがん(阿願)のこれい(古例)にまかせて」と記します。祖父阿願から孫である自分に直接譲りを受けた先例を引いて正当化しています。その理由に、孫四郎泰久(水田)の「器量」の良さを挙げ、泰忠にとって「心安」きこと、すなわち、安心を得ることが出来るからであるといっています。
 孫次郎泰忠から孫四郎泰綱への単独相続という形がとられているように見えます。が、その他の息子たちにも土地は譲られ分限に応じて、知行を行っています。兄弟(姉妹)やそれぞれの家人らには各々耕作地があって自営ができるうな体制で、実質的には分割相続です。

 秋山氏は、鎌倉時代から南北朝期のころまでは、分割相続
 一族間で細分化された土地を所有し、それを惣領が統括し、法華信仰による結合力でまとめていこうとしていたようです。しかし、室町時代になると、分割相続をやめます。泰忠直系の惣領による一子相続に変更し、所領の分割を防ぎます。そして所領を集約一元化しながら、一族家人や百姓らをまとめ国人領主として在地領主制を形成していきます。
 この間に秋山氏は、塩浜開発や赤米、エビ等の塩干物、畳表などの地域産品の育成開発を行い、それらの販売を通じて、積極的な商業活動や交易活動を行ったようです。そうした経済力を背景に一族と郷中の発展があったのです。これが本門寺一山の隆盛を実現させ、文安年中(1444年~49)には、11か寺以上の末寺を擁した大寺に育って行きます。
 しかし、秋山氏の嫡流である泰忠の子孫たちにも、15世紀後半がくると危機がやってきます。
 泰忠の後を継いだ⑤水田泰久の傍系・庶流の源太郎の家筋が台頭し主流を譲ることになります。また、上の坊近くの帰来橋の周辺を拠点とする帰来秋山氏も、本家を圧倒していくようになります。

秋山家本家の衰退の背景は、何だったのでしょうか?
  永正三(1506)年 秋山家本家の⑧孫二郎(二代目)泰久は、高瀬郷中村の「土居下地」「二反」分を分家である秋山源太郎に売却しています。その文書を見てみましょう。  
1 秋山氏 永代売り渡し申す高瀬郷中村2

1 秋山氏 永代売り渡し申す高瀬郷中村3
読み下し文に変換してみましょう。
永代売り渡し申す高瀬郷中村土居下地の事
合弐反有坪者(道そい大しんつくり直米四石則時請取分)
右、件の下地は、私領たりといえ共、用々あるによつて、永代うり渡し申す所実正なり、
しかる上は、子々孫々において(違乱)いらん妨げ申す者あるまじく候、若しとかく(書)申す者候はば、御公方へ御申し、此のせう状の旨にまかせ、下地に於いてまんたく御知行あるべく候、依って後日の為、永代の状件の如し
(孫)
               秋山まこ二郎
永正三年ひのえとら八月二九日       泰久(花押)
秋山源太郎殿
「高瀬郷中村土居下地の事」の「下地」とは、土地そのもの、その土地に関わる権利全てという意味です。「坪」が条里制の場所を示します。「直米四石」とは、米四石を契約成立時に、受け取つたことを示しているようです。銭ではなく「直米」で支払われているのは、銭千枚で一貫文なので、大量の銭を揃えることができない地方では、現物で取引されることが多かったと研究者は指摘します。
 「私領たりといえ共、用々あるによつて」とは、「個人の領地であるのだけれども、必要があるので」

ということでしょう。経済的な困窮で、先祖代々の土地を手放さざるえない状態に追い込まれていたことがうかがえます。
差出者は、秋山孫二郎泰久(二代目)で、「秋山まこ二郎」は秋山惣領家系の家督継承者の幼名です。その泰久から庶流家系の源太郎に土地が売却されたことをしめす証文です。

源太郎に売られた「中村土井」は、本門寺の高瀬川対岸で甲斐源氏の祖先神新羅神社が祀られ、中の坊などのある秋山氏の屋敷地の中枢部であったようです。その「土居(居館)」の一部が源太郎の手に渡ったという意味は軽くはありません。これは秋山家本家の没落を人々に印象づけることになったでしょう。そして、源太郎が新たな秋山一族のリーダーとなったことを告げるものでした。

  この背景には何があったのでしょうか。
系図を見ると秋山泰忠の所領は、
⑤泰久(一代目)→⑥有泰→⑦泰弘→⑧孫二郎泰久(二代目)

へと譲り渡されてきます。
1秋山氏の系図4

しかし、応仁の乱以後の混乱の中で、秋山氏一族内で分裂が起きていたようです。応仁の乱から永正の錯乱時期に、畿内への度重なる出陣を細川家から求められます。その経済的な負担と消耗が重くのしかかります。さらに細川氏の内部抗争(両細川の乱)の際に、勝ち馬に乗れなかったことが挙げられます
 他方で、着々と財力を蓄え、同時期の混乱に乗して本家に代わって台頭してくるのが⑤水田泰久の傍系・A 庶流の源太郎元泰です。源太郎は細川氏と誼を通じることで、高瀬郷の大部分を領有し、確固たる地位を築いていきます。こうして、惣領家から源太郎に秋山氏の主流は移っていきます。
それを決定的にしたのが櫛梨山の合戦での源太郎の活躍です。
 細川澄元感状    櫛梨合戦                      52p
1 秋山源太郎 櫛梨山感状

去廿一日於櫛無山
太刀打殊被疵
由尤神妙候也
謹言
七月十四日 澄元(細川澄元 花押)
秋山源太郎とのヘ
読み下し変換しておきましょう。
去る廿一日、櫛無山に於いて
太刀打を致し、殊に疵を被るの
由、尤も神妙に候なり、
謹言
七月十四日
           (細川)澄元(花押)
秋山源太郎とのヘ
 切紙でに小さい文書で縦9㎝横17・4㎝位の大きさの巻紙を次々と切って使っていたようです。これは、戦功などを賞して主君から与えられる文書で、感状と呼ばれます。その場で墨で書かれたものを二つ折りにしたのでしょう。「去十一日」「七月十四日」などの墨が阪大側の空白部に写っています。
 折り目は、まず中央で折ったのではなく、左部分の宛て名のところを残して半分に折り、裏返して折り目の部分から順々に折っていくというスタイルがとられました。そうすると表部分に、一番最後の宛て名のところが上に出る形となります。これが太刀傷を受けた秋山源太郎の下に、届けられたのでしょう。戦場で太刀傷を受けることは不名誉なことでなく、それほどの奮戦を行ったという証拠とされ、恩賞の対象になったようです。こうした家臣団の活動をきちんと記録する専門の書記官もいたようです。
 感状は、後の恩賞を得るための証拠書類になります。
これがなければ論功行賞が得られませんので大切に保管されたようです。そして恩賞として新領地を得た後は、それを報償する絵図も描かれたりしたようです。
  この文書には年号がありませんが状況から推定して、櫛無山の合戦が行われたのは永正八(1511)年頃のようです。「櫛無山」は、現在の善通寺市と琴平町の間に位置する古代の霊山です。麓には式内社の櫛梨神社が鎮座し、ひとつの文化圏を形成していました。中世の善通寺の中興の祖とされる宥範を生んだ岩田氏の拠点とされる地域です。
 上の感状の論功行賞として出されたのが次の文書です。

1 秋山源太郎 櫛梨山知行

 讃岐の国西方の内、秋山
備前守跡職、所々散在
被官等の事、新恩として
宛行れ詑んぬ、早く
領知を全うせらるべきの由候なり、依って執達
件の如し
永正八    (飯尾)
十月十三日 一九運(花押)
秋山源太郎殿
この文書は、この前の感状とセットになっています。飯尾元運が讃岐守護細川氏からから命令を受けて、秋山源太郎に伝えているものです。
 讃岐の西方にある秋山備前守の跡職を源太郎に新たに与えるとあります。秋山備前守とは、秋山家惣領の秋山水田のことと研究者は考えているようです。

この文書の出された背景としては、
応仁の乱の後、幕府の実権を握った細川政元の三人の養子間の対立抗争があります。高国・澄之・澄元の三人の養子の相続争いは、讃岐武士団をも巻き込んで展開します。香川氏・香西氏・安富氏などの守護代クラスの国人らは、澄之方に従軍して討ち死にします。秋山一族の中でも、次のような対立がおきていたようです。
①庶流家の源太郎は細川澄元方へ
②惣領家の秋山水田は細川澄之方へ
1 秋山源太郎 細川氏の抗争

 この対立の讃岐での発火点が先ほど見た櫛梨合戦だったようです。澄之方について敗れた秋山水田は所領を奪われ、その所領が勝者の澄元側につき武功を挙げ源太郎に与えられたようです。ここで秋山家の惣領家と庶流家の立場が入れ替わります。
 管領細川氏の相続争いが讃岐の秋山氏一族の勢力争いにも直結しているのが分かります。
 土地が飽和状態になった段階では、報償を得るためには誰から奪い取らなければなりません。こうして秋山泰忠が願った法華信仰の下に、一族の団結と繁栄を図るという構想は、崩れ去っていきます。 しかし、秋山氏の内部抗争にもかかわらず本門寺は発展していきます。それは、本門寺が秋山氏の氏寺という性格から、地域の信仰センターへと成長・発展していたからです。それは別の機会に見ることにします。
 この文書の発給人の飯尾元運となっています。彼は、室町幕府の奉行人であるか、細川氏の奉行人のどちらかでしょう。飯尾氏は幕府奉行人に数多くく登用されていますが、阿波の細川氏の奉行人となった飯尾氏もいますが、研究者は阿波の飯尾氏と考えているようです。
こうして永正年間には源太郎流が、秋山一族を代表するようになります。
 源太郎は、最初は細川澄元に接近し、忠勤・精励また贈答によって恩賞を受け、のし上がっていきます。その後は、細川高国方に付いて惣領家を完全に圧倒するようになります。秋山源太郎が、細川氏淡路守護家や阿波守護家に忠節・親交を深めていったことが、秋山文書の細川氏奉行人奉書等からうかがえます。
ここからは、従来の讃岐中世史を書き換える構図が見えてきます。
従来の中世の讃岐は
宇多津に守護所を置いた細川京兆家の守護支配下に置かれていた

とされてきました。しかし、細川勝元亡き後の讃岐については、細川氏阿波守護家(官途は代々讃岐守で細川讃州と呼ばれた)の支配が讃岐に浸透していく過程だと研究者は考えるようになっています。阿波守護家が、岡館(守護所=香南町岡)を拠点にして讃岐支配を強めていく姿が見えてくるようになりました。それが後の三好氏の讃岐侵攻につながっていくようです。
 秋山家文書には、源太郎宛の折紙が27点もあります。
発給者は、淡路守護細川(以久)尚春とその奉行人らや阿波守護の奉行人達からの書状群です。これらは、新しい秋山氏の当主である源太郎と在京の上級武士らとの交流の実際を伝えてくれます。源太郎は宇多津を向いていたのではなく、はるか淡路や阿波に顔を向けていたのです。源太郎への指示は岡館(守護所=香南町岡)から出されていたのかもしれません。

 一度一族間で血が流されると、怨念として残り、秋山一族の抗争は絶えなくなります。
源太郎が亡くなると求心力を失った秋山家は、内部抗争で急速に分裂していきます。
一族間の抗争は「喧嘩両成敗」の裁きを受け領地を没収され、細川氏の直轄領とされます。こうして秋山氏は、存亡の危機に立たされます。
 一方、細川氏も内部抗争で弱体化し、下克上の舞台となります。そんななかで戦国大名化の動きを見せ、三野郡に進出してくるのが西讃岐守護代で天霧城主の香川氏です。秋山氏は、香川氏に従属化し家臣団を構成する一員として、己の生き場所を見つける以外に道はなくなって行きます。
 こうして、香川氏の一員として従軍し活躍する秋山氏一族の姿が秋山文書にも見られるようになります。それはまた次の機会に・・・

以上をまとめておきます。
①西遷御家人としてやってきた秋山泰忠は、高瀬郷の北半分を祖父から相続した。
②秋山泰忠は敬虔な法華信者で、下高瀬に法華王国の建設を目指し、本門寺を建立した
③秋山泰忠は孫に所領を相続させたが、その他の子ども達にも相続分は分け与えた
④秋山惣領家は、応仁の乱以後の混乱の中で衰退していく
⑤代わって分家の源太郎が細川氏の内部抗争の勝ち馬に乗ることで台頭してくる
⑥櫛梨山の合戦での源太郎の活躍以後は、源太郎が新たな統領となって仕切っていく
⑦しかし、源太郎以後は内部抗争のために一族は分裂し、領地を没収される危機を迎える
⑧秋山氏は、戦国大名化する香川氏への従属を強めていく。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 高瀬町史

P1130010
本門寺 西門

 本門寺は、中世に高瀬郷に西遷御家人としてやってきた秋山氏が氏寺として創建した西国で最も古い法華宗寺院です。地元では、高瀬大坊と呼ばれ親しまれています。秋の日蓮上人命日(旧暦十月十三日)に開かれる大坊市は、くいもん市とも呼ばれ、食物を商う露店が多く集まり、近隣各地から多くの参詣者を迎え賑わってきました。
P1130051
本門寺案内図
 境内には、元禄十(1697)年建立の開山堂を始め、本堂・古本堂・庫裡・客殿・鐘楼・宝蔵・山門・西門などの堂字が点在し、いくつもの末坊を擁する大寺院です。

P1130027
開山堂と客殿
 本門寺は、甲斐国から乳飲み子時代にやってきた秋山泰忠(日高)が、建立したと寺院です。彼は、日華の弟弟子を招き、最初は那珂郡杵原郷田村(現丸亀市田村町)に法華堂を建立します。そして、丸亀を拠点として法華宗の流布に努めます。が、兵火で焼け落ちてしまいます。そこで、武元(1334)年 高瀬郷に一堂(後の中之坊)を建立し、日仙を招き法華堂の上棟を目指し、翌年に完成させます。これが現在の本門寺です。このように本門寺は、秋山氏の氏寺として創建されます。
創建者の秋山泰忠は、弘安年間(1278~88)に、西遷御家人の祖父の光季(阿願)と来讃します。
その時の年齢は10歳未満だったと考えられています。
 泰忠の祖父阿願は、甲斐において法華信仰に深く、帰依していました。泰忠はその影響を受け、幼少より法華信仰に馴染んでいたようです。故郷を離れ、遠く讃岐までやってきた泰忠にとっては、年少の頃から南北朝の動乱の戦いを繰り返す中で心を癒すために、法華経に信仰心を傾けていったようです。彼は、晩年に置文(遺言状)を12回も書いていますが、そこには子孫に法華宗への信仰を強く厳命しています。残された置文からは、年を経るに連れて法華宗への信心が深まっていったことがうかがえます。
 泰忠により本門寺は創建され、彼の庇護のもとに領民に法華宗が広められていき、後の高瀬郷皆法華信仰圏が成立するということになります。甲斐からやってきた一人の男の信仰心と強い意志が現在の下高瀬の法華信仰を形作ったのです。本門寺に残された文書から秋山泰忠と本門寺の関係を見ていくことにします。参考文献は「三野町文化史3 三野町の中世文書」  です。

P1130057
本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 本門寺に残された中世文書
 本門寺には桐箱の中の黒漆塗りの本箱に中世文書12が収納されています。その中で分類番号1・2号を読んでみましょう。その前に注意点として
①全文がひらがなで書いているため大変読みづらいので、( )内は漢字変換しています。
②文書の上の方が虫食いで欠けているので読めない部分(空白?)があります。
③当時は濁音表記がありません。想像力で補っていきます。
内容は、沙弥日高(泰忠)の置文で本門寺中に対して出された遺戒です。子孫や郷内の人々に本門寺以外の崇敬を禁ずることを戒めています。本門寺の一番古い文書である沙弥日高(秋山泰忠)置文を見てみましょう。
のためにさためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事
?月十五日は、こハゝにて(故母にて)わたらせ給候人の御めい日(御命日)
???給候、別に月こと(月毎)にそのひ(日)をかき申し???と
???ともその日か(書)き申候事のみ候あいた御???
???のために御はたき(畑)しんたてまつり候 はたけ(畑)あはせて三たん(三段)なり
このところは、あくわん(阿願)よりにんかう(日高)ゆつり(譲り)給ハるなり
しかるを、うは(乳母)にてわたらせ給候人と、はは(母)にてわたらせ給二人の御けふやう(供養)のために、そう(添)ゑ御やしき(屋敷)のためにきしん(寄進)候ところなり、しかるをまこ(孫)七わか(我)ゆつり(譲)うち(内)といらん(違乱)を申事あらは、なかくふけふ(不孝)の人なり ほんかう(本郷)?い 
 しんはま(新浜)とい(土井分)ふんと にんかう(日高)かあと(跡)においてはふん(分)もち(知行)きやうする事あるへからす、もしまこ(孫)七いらん(違乱)を申候はゝ、かの人のふん(分)をは、きやうたい(兄弟)のなか(中)にかみ(上)へ申てちきやう(知行)すへきなり、
 又はそう(僧)お そむ(背)き申候はんすることもまことも(孫共)又は、そうしう(僧衆)のなかにもはしまし候ハんする人とく いんきよ(隠居)し候ハ、ふけふ(不孝)の人としてにんかう(日高)かあとにおいてハ ちきやう(知行)すへからす
御そう(僧)(御僧は百貫坊日仙)より御のちハたいの御そう(僧)一ふんものこさす御あとハ御ちきやう(知行)あるへきあいた、こ(後)日のためにいまし(戒)めのお(置)きしやう(状)くたんのことし
ちやハくねん(貞和9年)十月三日

                      しゃミ(沙弥)にんかう(日高)(花押)
文頭に
「さためをき(定め置き)候てうてう(条々)の事」

とあるので置文だということが分かります。置文とは、将来にわたって守るべき事柄を示したものです。ある意味、遺言のような性格もあります。
 文末署名は
「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」

と記されています。これを「につこう」と読むようです。日高は、前回にお話しした秋山泰忠のことで、彼の法名です。法華宗では法名に「日」の文字を用いることが多いようです。秋山家文書の置文は「秋山孫次郎泰忠」の署名で残されています。一方、宗教関係で本門寺に残された文書には 「しゃミ(沙弥)にんかう(日高)」が用いられて云います。俗と聖を使い分けているようです。それだけの分別ができる人だったようです。
 年紀には、ひらがなで「ちやハくねん」と記されています。当時は濁音がありませんので、これを「じょうわ」と読むようです。
 日高(秋山泰忠)は、60歳を越えたと思われる文和2年(1353)から翌年にかけて置文を多く発給しています。死期を察したのかもしれませんが、実はその後も40年近く生き続けます。そして、息子よりも長生きすることになり、置文を何度も書き直すことになります。結局12通も残しています。
P1130054
本門寺開祖秋山孫次郎 泰忠の墓(本門寺の墓所)

 もう一度置き文に戻りましょう。
文中に「あくわん」と見えますが、これは秋山文書にも登場した「阿願」で、秋山泰忠の祖父・光季のことです。祖父の時代に乳飲み子の泰忠は、「阿願」に連れられて高瀬郷にやってきたことは前回にお話しした通りです。
「しんはまのといふん」とありますが、これは「新浜土井分」です。
新浜には塩浜(塩田)が開発されており、塩の生産が行われていました。秋山家文書にも、新浜の年貢貢進の記事があり、この年貢は塩年貢のことと推定できます。塩田からの収入が秋山氏の経済的な強みであったことは、前回にお話ししました。
 後半では、本門寺と秋山家とは必ず寺檀関係を保つべきことを特に戒めています。これは本門寺が根本檀越であるとの立場を強く打ち出しています。秋山家の身内に残した置文とは、性格が少し違うようです。
「御そう(僧)」は本門寺を開基した百貫坊日仙です。「たいに(第二)の御そう」は日寿で、どちらも本門寺の歴代住職になります。
P1130055
              正面には延文4年 日高大居士(泰忠)
本門寺文書 文書番号2の日高置文 その2を見てみましょう
申しまいらせをきゆつりしやう(置き識り状)にも、いましめの□やうにしのおち(字の落ち)候ところ候は、みな入し(字)をして候、これをうたか事あるへからす候、
ともにもゆつり(譲り)おき候しやううことに志(字)のおちて候ところには、みなみな入しをして候
 かうかしそんの中に大にの御そう(第二の御僧=日寿)のほかに し(師)をとり申候人もし候はゝ、日かう(日高)かあとにをき候ては、 一ふんちきやう(知行)する事ゆめゆめあるましく候、もしも候はゝ、そうりやうみつた(惣領水田)かはからいとして、かみ(上=幕府)へ申て御たう(塔)へきしん(寄進)申へく候

 十三日のかう(講)、又十五日かう(講)の人  ひやくしやう(百姓)も、御めい(命)をそむ(背)き候は、みなみな大はうほうとして、りやうない(領内)のかま(構)いあるましく候 
 ちうふん(註文)やふ(破)れ候ても候はゝ、もと(元)ことくきしん(寄進)申候ところおは、そうりやう(惣領)まこ(孫)四郎まんそく(満足)には(果)すしまいらせ候へいくらも中をきたき事とも、なをもをんて申し候へく候
おうあん五年二月二日    
しやミ日かう(花押)
内容は
 最初に、以前に書いた置文に、字の欠けたところがあったので、その部分を追記した。それをもって偽文書とうたがうことなかれと云っています。この時代にも譲り状に関して、偽物が出回っていたことをうかがえます。自分の書いた譲り状に対しての疑義は認めないという強い意志表明です。

次に、泰忠の子孫は「大弐(二代目)の僧日寿」を本門寺の住持として崇めるよう強く戒めています。
もし、日寿以外を師とする者が出てきたら、泰忠の遺領を知行することは認めない。そしてそのような者は惣領の孫四郎泰久(水田)から幕府へ申し出て、他に堂塔を寄進して新たに寺をおこすようにせよ、と本門寺に対して背くことはならないと戒めます。法華宗の本義としての不受布施の立場を表明したものと研究者は考えているようです。

1 本門寺 御会式

 十三日の講とは、日蓮の命日に行う報恩講のことであり、

秋山一族だけでなく、領内の百姓にまでも絶対に行うよう厳命しています。本門寺を中核とした、秋山一族の結合を図っていこうとするねらいがうかがえます。これについては、
秋山家の惣領家にも次のように置文をのこしています。
秋山家文書 文和二年の源泰忠置文、一ッ書き五条目十月の十三日の御事
十月の十三日の御事をハ、やすたたかあとをちきやうせんするなん志、ねう志、まこ、ひこにいたるまて、ちうをいたすへし、へちに御たうおもたて申、このうちてらをそむきも申ましき事、たといないないハきやうたいとい、又ハいとこ、おちのなか、又ハいとことものなかにも、うらむる事ありといふとも、十三日にハよりあいて、御ほとけ上人の御ため、そう志うおもくやう申、志らひやう志、さるかく、とのハらをも、ふんふんに志たかんて、ねんころにもてなし申ヘきなり、ない〆ハいかなるふ志んありとも、十三日、十五日まで、ひところにあるへきなり
漢字変換すると
(十月の十三日の御事をば)  (泰忠が跡を知行せんする男子)、(女子、孫)  (ひごに至るまで忠を致すべし)  (別に御堂をも建て中し)  (この氏寺を背きも申すまじき事)    (たとえ内々は) (兄弟と言)   (又はいとこ)(叔父の中) (又はいとこ共の中にも)  (恨むる事)(ありというとも)(十三日には寄り合いて) (御ほとけ上人=日蓮の御ため)(僧衆をも供養申し) (白拍子)(猿楽)(殿原をも)(分々に)(従って) (懇ろにもてなし申すべきなリ)  (内々はいかなる不信ありとも)(十三日、十五日まで)(一心にあるべきなり)

ここからは次のような事を指示していることが分かります。
①子孫代々、本門寺への信仰心を失わないこと。別流派の寺院建立は厳禁
②一族同士の恨み言や対立があっても、10月13日には恩讐を越えて寄り合い供養せよ
③13日の祭事には、白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招き、役割を決めて懇ろにもてなせ。
④一族間に不和・不信感があっても、祭事中はそれを表に出すことなく一心に働け。
 十月十三日の日蓮上人の命日法要は、法華信仰を培っていくための重要なイヴェントと考えていたことがうかがえます。この行事を通じて秋山一族と領民の団結を図ろうとしていたのでしょう。
その祭事については
「白拍子・猿楽・殿原をも分々に従って懇ろにもてなし申すべきなリ」

とあり、地方を巡回している白拍子・猿楽・殿原などの芸能集団を招いて、いろいろな演芸が催されるイヴェントであったことが分かります。殿原とは廻国の武芸者のようです。それを今後も続けよと具体的に指示しています。祭事における芸能の必要性や重要性を認識していたのでしょう。

1 本門寺 大坊市2

 ちなみにここには芸能集団を「懇ろにもてなし申す」と、宿泊させてもてなすように指示しています。ところが百年後の高松の田村神社文書には「興行が終了したら即座に退去させる」と、芸能集団に対する差別意識が生まれているのがうかがえます。さらには、十三日から十五日の間は「皆心にあるべし」との戒めます。これらの戒めは、本門寺の発展と共に郷内に広まり「皆法華」の宗教圏を形成することとになるようです。
 他に残された置文を見てみると、次のような戒めも記されています
① 泰忠が信仰するのと同様に勤行をしなさい
②「蚊虻浅謀」といって法華宗以外の宗義を信仰することは、蚊や虻のごとき浅はかさである。
 この「十月の十三日の御事」が現在の本門寺門前において市が立つ「大坊市」の起源となっているのです。ひとりの男の思いが引き継がれてきた祭事のようです。
1 本門寺 大坊市


 秋山泰忠は、日仙への帰依することを通じて、戦いで血糊のついた己の姿を清め、武士の安心を得ようとしたのかもしれません。同時に、この法華信仰を媒介として秋山一族、家人や下高瀬郷内の百姓住人すべてを支配することを望んだようにも思えます。

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日仙上人の隠居寺である上の坊の墓
晩年の応安五(1372)年の沙弥日高置文(本門寺)には、本門寺への信仰を次のように求められるようになります。
①開山日仙と共に二代日寿(大弐房、本門寺歴代では、日華の跡の三代目)にも忠孝を尽くし、
②氏寺本門寺の「師」以外に宗教上の「師」を認めず、
③子ども・若党から下々まで不信心者は「大法度」である
と記します。さらに十三日・十五日の講会に参加しない郷民らには「碩びいのか樋い」が許されないとされるようになり、法華信仰の実を見せなければ、実質的には高瀬郷内には生活できなかったようです。その信仰拠点が、大坊本門寺であり、数多く建立された寺内坊や支坊でした。

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日仙上人の墓(上の坊)

次の表からは、幕末の下高瀬住民の法華宗比率は90%を越えていることが分かります。
1 本門寺 皆法華

室町時代以降は、秋山氏が支配する高瀬郷内のすべての住人が皆法華の状況であったようです。
 以上のように、秋山泰忠は法華宗への熱烈な信仰心を持ち、個性的な独特の置文を残しています。そして、讃岐の新しい所領に「郷内皆法華」の法華王国の実現をめざして、強力な宗教政策を展開していきます。
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本門寺本堂
次に、本門寺や子院が果たした役割を、別の視点から見てみましょう。秋山氏は、水利管理についても、寺の力を利用していたことがうかがえます。例えば、高瀬郷領内の要所に本門寺末坊を配置していまが、その配置場所を見てみると
①音田川からの取水源である木寺井近くに上之坊があり、
②高瀬川と音無川の合流地点の荒井及び中ノ井近くに宝光坊、
③その下流の屈曲点の新名井及び額井近くに西山坊、
④そして、高瀬川の旧河口付近に中之坊
  これは井手の分岐点の近くに子院が配置されています。つまり、お寺という宗教組織を通じて、用水管理を行っていたのです。
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本門寺の子院 奥の院

これらの「井手五箇所」は、中世以来の井手(取水堰)です。
そこに配置された子院の住僧には、あらかじめ寺領免田への用水使用の優先権を持たせていたことが秋山文書からは読み取れます。これらの井手からの用水確保は「一日二枚宛」と決め、子院が管理していたのです。この権利を通して、各坊は信者である住人を監督・勧農させていたのです。この体制の下では、本門寺門徒でない非法華信者は、水利権においても差別的な待遇を与えられたことが考えられます。このような経済的な強制も「皆法華」体制を形作る力となったのでしょう。
1 本門寺 子院

  以上をまとめておきます
①鎌倉幕府は西国の防衛力強化のために甲斐から讃岐高瀬郷の地頭として秋山氏を西遷させた。
②少年としてやって来た秋山泰忠は、熱烈な法華信徒になり新天地に法華王国を築こうとした。
③そのために百貫坊日仙を本山から向かえ、氏寺として本門寺を創建した
④本門寺は、秋山泰忠の篤い保護の下に地域の宗教・文化・教育・水利管理センターとしても機能し、寺勢を拡大していった
⑤秋山泰忠は、具体的な信仰実践を子孫に書き残し、戒めとするように伝えている。
⑥秋山泰忠亡き後も、本門寺は教勢を拡大し「皆法華」体制を形作っていく。

          
 讃岐に鎌倉幕府が送り込んだ新補地頭(しんぽじとう)について以前にお話ししました。彼らは、幕府の西国支配強化の尖兵として送り込んできた東国の御家人たちでした。御家人は武装集団で、守護が現在の県警本部長とすれば、地頭は「市町村の警察署長 + 税務署長」といったところでしょうか。その一覧表が次の表です。
 
1 秋山氏 讃岐の地頭一覧
東国から讃岐にやってきた地頭たち
 二度にわたる蒙古襲来を経験した鎌倉幕府は、三度目の来襲に供えるために、東国の御家人を西国に転封させるという軍事力のスウイング戦略を行います。この時に、讃岐に地頭としてやってきた東国武士団が秋山氏です。
今回は、秋山氏について見ていこうと思います。
テキストは高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①です。
寛永五年(1628)に秋山一忠が作成した系図を見てみましょう。

1秋山氏の系図
秋山氏系図
秋山氏の祖は、新羅三郎義光に始まる「本国甲斐国青嶋之者」と記されています。
清和源氏流の「甲斐源氏」は、平安時代後期に源義光の息義清か常陸国から甲斐国八代郡市川荘(山梨県西八代郡市川三郷町)へ入り、甲府盆地一帯に勢力を拡大します。秋山姓は、義清の孫光朝が甲斐国巨摩郡秋山(同県南アルプス市秋山)を拝領し、ここに拠点を構えたことから生まれたと研究者は考えているようです。
   源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵した時に、惣領武田信義が率いる「甲斐源氏」一族は、その大半が勝者の源氏方について参戦します。秋山氏も源氏方に付きます。ところが光朝の妻が平重盛の娘であったことから、頼朝に冷遇され、秋山氏は一時的に没落したようです。
 しかし、光朝は承久三年(1221)武田信光に従い、鎌倉幕府方として後鳥羽上皇方と弓矢を交えます。いわゆる承久の乱です。この戦功によって、秋山氏は武家としての名誉を回復します。その後、光朝の嫡男光季(阿願入道)は、子息泰長(源誓)・孫泰忠(日高)と共に讃岐へやってきます。 蒙古襲来に備え、幕府の命で安芸国へ西遷した武田氏と同じような処遇と研究者は考えているようです。

  秋山氏のルーツとなる甲斐国巨摩(こま)郡秋山を地図で見ておきましょう。
1 秋山氏の本貫地

現在の南アルプス市に「秋山」の字名が残っていて一族の「秋山光朝館跡」も史跡とされています。地元では、ここが秋山氏発祥の地とされているようです。
「秋山家記」(秋山家文書)には「青島」を故地としていますが、それがどこなのかは分かりません。旧甲西町秋山の東南にあたる釜無川と笛吹川の合流地点付近に江戸時代に青島新田という地名が残っています。この新田の開拓者としてスタートしたのかもしれないと研究者は考えているようです。どちらにしても、この地で治水・灌漑工事などを行いながら所領の拡大を行っていたのしょう。それが幕府の「西国防衛力の向上」という政策の中で、讃岐高瀬郷に所領を得て一族の嫡男がやってきたようです。
□中世の高瀬を読む ―秋山家文書(1)~(3) 3冊 高瀬町教育委員会 の落札情報詳細| ヤフオク落札価格情報 オークフリー・スマートフォン版

 このような経緯が分かるのは、「秋山家文書」という中世の置文(遺言・相続状)など多数の文書が秋山家に繋がる家に残されてきたからです。これだけの文書が残されているのは非常にめずらしいことのようです。例えば、後世のものになりますがこのような系図も残されています。
1秋山氏の系図2jpg
秋山氏系図 「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とある

先ほどの系図の下段の一番右側に「讃岐秋山之祖也 阿願入道」とあります。拡大して見てみましょう。
系図的には讃岐秋山氏は、この阿願入道=光朝からはじまります。
入道と称するのは、彼が日蓮宗の熱心な信徒で入信していたためです。その註を見ると、次のように記されています。

号は 秋山又兵衛で、甲州青島の住人である。政和4年に讃岐に来住した。嫡子は病身のため嫡孫泰忠を養子として所領を相続させた。

これには、疑義がありますので後ほど述べます
元寇の頃、甲斐国から来た武士|ビジネス香川
本門寺(三豊市)

実質的な秋山氏の祖 
秋山孫次郎・泰忠は歴戦の勇士で長寿だった
祖父・阿願入道の跡を継いだ孫の泰忠については

「号は秋山孫次郎。正中2年法華寺(本門寺)をヲ建立セリ」

とあります。現在の下高瀬の日蓮宗本門寺を、秋山氏の氏寺として創建したのは泰忠だったことが分かります。孫次郎泰忠は11通もの置文(遺言状)を残しています。その最終年紀は、永和2(1376)年です。仮に弘安最末年の11(1288)年に讃岐へやって来たとしても、通算88年も讃岐で過ごした事になります。
いったい泰忠は何歳で讃岐にやってきたのでしょうか。
乳呑み児で、故郷の甲斐の「青島」を離れ高瀬郷にやってきて、およそ90歳以上生きていたようです。当時としては、祖父の阿願と同じように異常なまでの長寿ということになります。
実質的な讃岐秋山氏の祖になる泰忠について見ておきましょう
 泰忠は、鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱の時期を生き抜いた武将のようです。長い従軍生活の中で、波瀾万丈の人生を送ったようです。彼の実戦での記録は、その片鱗が秋山家文書の中の4通からうかがい知ることができるだけです。秋山氏は、南北朝の争乱期には、北朝方として活動しています。泰忠は病弱の父に代わって、秋山氏惣領として一族と高瀬郷域の武士団を率い、畿内はじめ西国各地を転戦する日々を送ったのでしょう。
秋山文書から泰忠に関する文書を年代順に見ていきましょう。

1秋山氏 さぬきのくにたかせのかうの事
秋山源誓の置文(秋山家文書)

①鎌倉時代末期の元徳三(1331)年十二月五日の年号が入った秋山源誓の置文です。
   本文             漢字変換文
さぬきのくにたかせのかうの事、   讃岐の国高瀬郷のこと 
いよたいたうより志もはんふんおは、(伊予大道より下半分をば)
まこ次郎泰忠ゆつるへし、たたし (孫次郎泰忠譲るべし ただし)
よきあしきはゆつりのときあるへく候(良き悪しきは譲りのときあるべ候)
もしこ日にくひかゑして、志よの  (もし後日に悔返して自余の)
きやうたいのなかにゆつりてあらは、(兄弟の中に譲り手あらば)  
はんふんのところおかみへ申して、 (半分のところお上へ申して)
ちきやうすへしよんてのちのために(知行すべし 依て後のために)
いま志めのしやう、かくのことし        (誠めの条)(此の如し) 
                  秋山)源誓(花押)
  元徳三年十二月五日                 

置文とは、現在及び将来にわたって守るべき事柄を認めたもので、現在の遺言状的な性格を持つようです。財産相続なども書かれています。 この置文は、源誓がその子・孫次郎泰忠に地頭職を譲るために残されたものです。
讃岐の国高瀬郷のこと伊予大道より下半分を孫次郎泰忠に譲る

とあります。ここからは、高瀬郷の伊予大道から北側(=現在の下高瀬)が源誓から孫次郎に、譲られたことが分かります。しかし、これは現在のような土地所有でなく「下高瀬の地頭職」の権利です。
 伊予大道とは、現国道11号沿いに鳥坂峠から高瀬を横切る街道で、古代末期から南海道に代わって主要街道になっていたようです。その北側の高瀬郷(下高瀬)を孫次郎泰忠が相続したことになります。これは高瀬郷が上高瀬と下高瀬に分割されたことを意味します。大見地区は、この時点では下高瀬に属していました。
 同時にこの史料からは源誓が、孫次郎泰忠の父も分かります。秋山氏の家系が
「祖父 阿願 → 父 源誓 → 子 孫次郎泰忠」

とつながっていたようです。
ところが後の秋山氏系図は先ほど見たように「父 源誓」を「病弱者」として無視し、祖父阿願から直接孫の孫次郎泰忠に相続されたとします。そして「父 源誓」の名前は系図からも抹殺されています。
1秋山氏の系図3
秋山家系図

この背景には何があるのでしょうか。今思い浮かぶのは次の2点です。
①「父 源誓」は日蓮信徒でなかったために秋山家の系譜から排除された
②泰忠の相続が孫に相続させるという異例のものであったために「祖父から孫」への「相続先例」を「創出」した
  これくらいしか今の私には、出てきません。系図上での「父 源誓」抹殺の背景はよく分かりません。 最後に

「もし後日に、この地頭職を悔い返す事態が起こったときには、兄弟に適任者がいたならば、申し出て知行するように」

と指示しています。ここからは孫次郎泰忠には何人かの兄弟がいたことが分かります。彼は次男であったようです。次男にもかかわらず秋山家の統領に就いています。
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孫次郎泰忠の墓(本門寺)
 秋山氏の所領開発は、どのように行われたか
圓城寺の僧浄成は、高瀬郷と那珂郡の金倉郷を比べて次のように記しています。
「……於高勢(高瀬)郷者、依為最少所、不申之、於下金倉郷者、附広博之地……」

ここからは、最初に拠点とした丸亀平野の下金倉郷と比べて、高瀬郷が未開発の土地で、しかも狭かったことがうかがえます。中世の「古三野津湾」は、現在の本門寺裏が海で、それに沿って長大な内浜が続いていたことは以前にもお話ししました。そのため古代から放置されたままになっていた地域です。それならどうして、丸亀から下高瀬に拠点を移したのでしょうか。それが次の疑問となっていきます。それは「塩田開発」にあったと研究者は考えています。

三野町大見地名1
太実線が中世の海岸線

 秋山文書の中に「すなんしみやう(収納使名)・くもん(公文)・「たんところみやう(田所名)」といった地名が出てきますが、これは今も三野町内に残る砂押・九免明・田所です。この地域を中心に高瀬郷の大見地区の段斜面を開発したことがうかがえます。
 泰忠が相続したのは「高瀬郷の伊予大道より下半分」の「下高瀬」の土地です。そこには現在の大見も含まれていましたし、三野津湾沿いの「新浜」などの塩浜も地頭職分として含まれています。これが泰忠の領地的なスタートラインだったようです。この最少の土地を、甲斐からやって来きて以後、一族はじめ名主・百姓ら手で懸命に開発したのでしょう。そこには開発に携わった名主たちの名前が地名として残っています。
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孫次郎泰忠の墓 墓碑には延文4年日高大居士と刻まれてい


 秋山氏は三野津湾での塩浜開発も進めます。
当時塩は貴重な商品で、塩生産は秋山氏の重要な経済基盤でした。開発は三野町大見地区から西南部へと拡大していきます。
秋山家文書中の沙弥源通等連署契状に次のように記されています。

「讃岐国高瀬の郷並びに新浜の地頭職の事、右当志よハ(右当所は)、志んふ(親父)泰忠 去文和二年三月五日、新はま(新浜)東村ハ源通、西村ハ日源、中村ハ顕泰、一ひつ同日の御譲をめんめんたいして(一筆同日の御譲りを面々対して)、知きやうさういなきもの也(知行相違無きものなり)」

 泰忠が三人の息子(源通・日源・顕泰)に、それぞれ「新はま東村・西村・中村」の地頭職を譲ったことの確認文書です。ここに出てくる新はま東村(新浜東村)は、現在の東浜、西村は現在の西浜、中村は現在の中樋あたりを指しすものと研究者は考えているようです。
他の文書にも
「しんはまのしおはま(新浜の塩浜)」
「しおはま(塩浜)」
「しをや(塩屋)」
等が譲渡の対象として記載されています。ここから秋山氏は、この辺りで塩田を持っていたことが分かります。作られた塩は、仁尾や宇多津の平山の海運業者によって畿内に運ばれ販売されていたようです。このような経済力が泰忠の軍事活動を支える基盤となっていたのでしょう。その利益は、秋山氏にとっては大きな意味を持っていたと思われます。
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本門寺本堂
      足利尊氏下知案
②建武三年(1336)足利尊氏より勲功の賞として高瀬郷領家職があたえられた文書です。
1秋山氏 足利尊氏no高瀬郷領家職
   足利尊氏下知案(秋山家文書)
書き起こすと以下のようになります。
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、
勲功の賞として宛行う所なり、
先例を守り、沙汰致すべし、
将軍家の仰せに依って、下知件の如し
   建武三年二月十五日
        (細川顕氏) 兵部少輔在御半
        (細川和氏 )阿波守   
   秋山孫次郎殿(泰忠) 
 二行目一番下は「依」で終わっています。そして三行目の「将軍家」と続きます。ここには一字空白があります。これをは「閥字(けつじ)」と云い尊称する場合に、一字から三字の空白、あるいは改行する「平出」によって尊敬の意を表する方法のようです。閥字より平出の方がより尊敬の意を表すといいますが、ここでは両方の方法が採られています。
 「領家」とは、土地の収益に対する権利の意味で、この文書全体の解釈は、合戦の功労賞として土地の収益に対する権利を与えるので、これまでの作法や先例をまもり、権利を執行しなさい」という意味になります。それを将軍足利尊氏に代わって、兵部少輔と阿波守が伝えるという形式です。
「下知状」とは末尾に「下知」と記されていることからきています。
 差出人の二人は、この時期に将軍足利尊氏から四国方面の代官として任されていたために、下知状の差出人となったようです。この後、両名は讃岐国守護・阿波国守護に任命されています。宛所の秋山孫次郎は、泰忠です。
 この文書の背景としては、前年の建武2(1335)年に足利尊氏は畿内から瀬戸内を経て、九州方面に逃走しました。この文書は、尊氏が再び上京するまでの間に、瀬戸内海沿いの武士団の棟梁たちにを味方に付けるために檄を飛ばした文書のようです。つまり、参戦して軍功を挙げれば「高瀬の郷領家職」を宛がうので軍を率いてやってこいということになるのでしょうか。もちろん、泰忠は、尊氏方について参戦したようです。
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本門寺境内の泉

その翌年の建武4(1337)に細川顕氏から秋山孫次郎泰忠に出された細川顕氏書下です。
原本は虫食いで上半分しか残っていませんが、江戸時代に書写された下の文書が残されています。

1秋山氏 細川顕氏から秋山孫次郎泰忠書下

細川顕氏書下(秋山家文書)
讃岐の国財田(の凶徒蜂起の由)、其聞え(之有るの)間、
(月城太郎次郎周頼、助房)宇足津に差し下す所(なり)、
(早く当国に下向せしめ、諸)事の談(合)に加わり、
(在国の一族相催し、且つ)地頭御家人
(相共に誅数に廻らるべきの□)状、此の如く候
建武四(1337)年三月廿六日
          (細川顕氏)
          (兵部少輔)
秋山孫(二郎殿)                   
(  )部分が江戸時代の書写から補った部分です
意訳しておくと
讃岐国財田で南朝方の凶徒が蜂起したと報告が入っている。
阿波の月城太郎次郎周頼、助房らに鎮圧を命じるように宇足津に指示している所である。
早く帰讃して、討伐軍に合流し、作戦計画に加わり、在国の一族を率いて地頭御家人が協力し鎮圧するように命じる。
建武四(1337)年三月廿六日
当時の足利尊氏の動きを年表で確認しておきましょう
1335年8月足利尊氏が征東将軍として鎌倉へ向かい、そのまま建武政権から離反する。
1336年1月尊氏が京都へ入り、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
2月足利尊氏が豊島河原などで敗北し、九州へ敗走。
  3月足利方は筑前国多々良浜の戦いで菊池武敏らに勝利する。
   4月足利方は仁木義長などを九州へ残して再び上京する。
   5月、足利方が湊川の戦いにて新田・楠木軍を破る。
     後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。
   8月 光明天皇が即位して北朝が開かれる。
12月 後醍醐天皇が京都を脱出し、吉野(奈良県)で南朝を開く。

この文書で使われている「建武四年」とは、北朝方の使用した年号で、南朝方はこの前年に「延元」という年号に改元しています。後醍醐天皇の檄により熊野行者たちが支援する南朝方に、阿波や財田の山岳武士団が呼応し、活動が活発化していた時期です。
「月城」は、現在は「つきしろ」ですが、阿波国の月成(つきなり)氏のことのようです。「宇足津」は讃岐国守護が居た場所で、守護所は円通寺付近にあったとされます。差出人の「兵部少輔」は、讃岐守護の細川顕氏です。
「財田凶徒」とは、徳島県の西野氏所蔵文書にも「財田凶徒」の記事が見えることから、南朝方の大規模な勢力であったようです。この時期の讃岐国では、南朝方の勢力が山岳地帯に拠点を持って活動していたことがうかがえます。
 秋山泰忠は、この書状を受け取った時点では讃岐国以外に転戦中だったことがうかがえます。足下の財田方面で南朝が蜂起したので、急いで帰国するように命じられていると解釈できます。それでは「財田の凶徒」の本拠はどこだったのでしょうか。また、その勢力は? このあたりもよく分かっていないようです。
  ここからは室町幕府の成立時に泰忠は足利尊氏軍に従い、国外に遠征していたこと。南朝勢力の蜂起に対して讃岐守護細川氏の命で動いていることは分かります。  

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本門寺境内

③観応二年(1351)には、細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職が兵糧料所として預け置かれた書状です。
1秋山氏 細川頼春から泰忠へ高瀬郷領家職g
細川頼春書状(秋山家文書)
讃岐の国高瀬の郷領家職の事、御沙汰落居の間、
兵糧所として、預け置く所なり、先例任せ、
沙汰致すべきの状、件の如し
観応二年八月十三日  (細川頼春)在御判
                   散位
秋山孫次郎(泰忠)殿
この文書は案文のようですが、直状形式で発給者が直接に秋山孫次郎(泰忠)に対して所領を預けています。文書が出された観応(1351)年は、讃岐武士団が細川頼春・頼有方(主に西讃地方)と同顕氏方に分立している時期で、中央では観応の擾乱が起こっていた頃にあたります。同じ年の9月5日付細川頼春預ケ状(紀伊国安宅文書)と同じ筆跡・スタイル・同じ署名なので、「散位」とは細川頼春で、観応の擾乱の働きに対する恩賞と研究者は考えているようです。
 秋山氏が総領・泰忠の下に、讃岐守護細川氏に従って武功を上げていった結果としての恩賞のようです。足利尊氏から細川頼春・頼有と、「勝ち馬」に乗り続けることによって、秋山氏は三野郡での権益を着実の拡大していたようです。
 ここまで泰忠は、現役であったようです。
この時にすでに60歳を超えていたと考えられます。高瀬郷領家職を得て、郷内の軍勢催促権も獲得しました。父から相続した地頭職と併せて、東本山郷(現高松市水田)内の水田名も泰忠の時の加増地と考えられます。
このように歴戦の強武者として活躍した泰忠も、ようやく引退の時を迎えます。
しかし、必ずしも平穏の毎日ではなかったことが、残された11通の置文・譲状から見えてきます。その最初のものは、文和二(1353)年の置文と譲状です。以後足掛け23年以上の間、合戦による傷に痛みながら時に病床にあっで老骨に鞭打ちつつ置文を書き続けています。老後の泰忠が、子や孫たちに何を言い遺したかは、また別の機会に見ることにします。
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泰忠墓碑の裏面 平成になって改修されたことが分かる

 以上をまとめておきます
①西遷御家人として元寇後に讃岐にやってきた秋山氏は最初は那珂郡金倉郷に拠点をおいた。
②3代目秋山泰忠の時に高瀬郷に拠点を移し、氏寺として日蓮宗本門寺を建立した。
③秋山氏は下高瀬を中核として、塩田開発になど周辺地域に勢力を伸ばした。
④塩生産が秋山氏の財政基盤と成り、南北朝の軍事行動や、本門寺創建などの資金となった。
⑤そして、室町期には細川氏の被官として、国人へと成長を遂げてきた。
⑥しかし、分割相続に伴い一族間の抗争が繰り返されるようになり、所領の細分化が進み、その勢力は衰退していく。
⑦それに引き替え、香川氏は西讃守護代として守護細川氏に代わって勢力を伸ばし、細川氏の御料所を押領するなど戦国大名化への道を歩み始める
⑧戦国期になると、秋山氏は細川氏の被官から香川氏の家臣へと転化する。

最後まで おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高瀬文化史1 中世の高瀬を読む 秋山家文書①

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