瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐の戦国時代

    
阿波守護家(讃州細川家)から三好氏へと、阿波勢力による讃岐支配がどのようの進められたかを何回かに分けて見てきました。最後に、「阿波勢力による讃岐支配の終焉」への道を見ておきましょう。テキストは「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」です。
三好氏系図3


三好実休の子・長治の下で阿波・讃岐両国が統治されるようになることは、先に見てきた通りです。しかし、1576(天正4)年11月になると細川真之・一宮成相・伊沢越前守が長治に造反し、長治は横死に追い込まれます。
三好長治墓石
三好長治の終焉の地
そして阿波三好家は、次のように分裂します
①毛利氏と連携する矢野房村や三好越後守らの勝瑞派
②織田氏との連携を志向する一宮・伊沢らの「反勝瑞派」

この対立の中で「勝瑞派」の讃岐への関与を示すのが次の史料です。
【史料1】三好越後守書状 法勲寺村史所収奈良家文書」
御身之儀、彼仰合国候間、津郷内加わ五村進候、殿様(三好義竪?)へ之儀随分御収合申、似相地可令馳走候、不可有疎意候、恐々謹言、
                   三好越後守
天正五年二月朔                 □円(花押)
奈良玄春助殿
御宿所
意訳変換しておくと
【史料1】三好越後守書状 法勲寺村史所収奈良家文書」
御身に、津郷(津之郷)の内の五村を知行に加える。殿様(三好義竪?)への忠節を尽くせば、さらなる加増もありうるので、関係を疎かにせつ仕えること、恐々謹言、
               三好越後守 □円(花押)
天正五年二月朔                 
奈良玄春助殿
御宿所
「勝瑞派」に属する三好越後守は天正5年2月に、香川氏と行動を共にしていた聖通寺山城主の奈良氏に知行を宛行っています。同月には香川氏が讃岐での活動を再開していて、勝瑞派一はかつて讃岐から追われた反三好派国人らとの融和・連携を図っていることがうかがえます。これは「勝瑞派」の戦略が反織田信長なので、織田氏にそなえて讃岐方面での有力武将の支持を取り付けるための方策と研究者は考えています。またこの史料からは、三好越後守が「殿様(三好義竪?)」と、奈良氏をつなぐ役割を果たしています。長治に代わる当主が登場していたことがうかがえます。

戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
戦国時代の阿波・讃岐の武将割拠図
しかし、反三好勢力の頭目であった香川氏との妥協・復権は、それまで阿波三好家に従っていた香西氏や長尾氏などからの反発を生んだようです。このような中で5月に「勝瑞派」は、伊沢越前守を殺害します。先述したように、伊沢氏は滝宮氏や安富氏などの姻戚関係を持つなど、讃岐国人との関係が深かった人物です。その影響力を削ぐために標的とされたと研究者は考えています。
 これに対して伊沢氏と姻戚関係にあった安富氏は「反勝瑞派」の一宮成相との提携を目指して阿波の勝瑞に派兵します。ところが同時期に、毛利氏が丸亀平野に侵入してきます。そして7月に元吉城(琴平町)を確保し、備讃瀬戸通行権を確保します。これは石山合戦中の本願寺への戦略物資の搬入に伴う軍事行動だったことは、以前にお話ししました。
元吉合戦の経過

 丸亀平野中央部の元吉城に打ち込まれた毛利勢力の拠点に対して、安富氏、香西氏、田村氏、長尾氏、三好安芸守ら「讃岐惣国衆(讃岐国人連合軍)」が攻め寄せます。このメンバーを見ると、天霧城攻防戦のメンバーと変わりないことに気がつきます。特に東讃の国人武将が多いようです。私には東讃守護代の安富氏が、どうして元古城攻撃に参加したのかが疑問に感じます。

元吉城 縄張図
元吉城
これに対して、研究者は次の2点を挙げます。
①安富氏と伊沢氏は姻戚関係があり同盟関係にあったこと
②「勝瑞派」による香川氏復権許容に伴う知行再編への反発があったこと

元吉合戦で「讃岐惣国衆」は、手痛い敗北を喫します。
そしてその年の11月には毛利氏と和睦が結ばれ、「阿・讃平均」となります。阿波三好家は三好義堅が当主となることで再興され、讃岐も阿波三好家の支配下に戻ります。
三好氏 - Wikipedia
三好義堅

細川真之は一時的には「勝瑞派」と提携することもありましたが、三好義堅が当主となると「反勝瑞派」や長宗我部氏と結んでおり、讃岐へ影響を及ぼすことはなかったようです。
【史料2】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、
三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
  意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                  細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
この史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が守護代の香川信景に反三好行動を求めたものです。味方につくなら香川氏に「大西跡職」を与えると餌をちらつかせています。大西氏は西阿波の国人ですが、その知行を守護代家の香川氏に与えるというものです。ここからは天正期になっても細川京兆家に讃岐守護家の地位が認められていたことが分かります。つまり阿波三好家は正当な讃岐の公的支配を担うことはできなかったことになります。そこで擁立されたのが十河一存の息子義竪ということになります。この背景には、阿波と讃岐を統合できるのは三好権力であり、讃岐の十河氏を継承していた義堅こそが阿波三好家の当主としてふさわしいと考えられたと研究者は推測します。
【史料3 三好義堅感状「木村家文書」
於坂東河原合戦之刻、敵あまた討捕之、自身手柄之段、神妙之至候、猶敵陣無心元候、弥可抽戦功之状如件、
八月十九日              (三好)義堅(花押)
木村又二郎殿
  意訳変換しておくと
坂東河原の合戦において、敵をあまた討捕える手柄をたてたのは誠に神妙なことである。現在は戦陣中なので、戦功については後日改めて通知する。如件
(天正6年)八月十九日                     (三好)義堅(花押)
木村又二郎殿
この史料からは天正6(1578)年かその翌年に、阿波国内の坂東河原の戦いに讃岐国人の由佐氏や木村氏ら讃岐国人を、三好義竪が動員し、戦後に知行を付与していることが分かります。義堅が讃岐の広域支配権を握っていたことがうかがえます。

脇城および岩倉城とその遺構の実測調査

岩倉城
しかし、その翌年の天正7(1580)年末の岩倉城の合戦で矢野房付や三好越後守ら「勝瑞派」の中核が戦死します。その結果、義堅の権力は不安定化し、義堅は勝瑞城を放棄し十河城に落ちのびることになります。このような阿波の分裂抗争を狙ったように、長宗我部氏の西讃岐侵攻が本格化します。
 これに対して、天霧城の香川氏は長宗我部氏と結んで、その先兵と讃岐平定を進めます。
その結果、天正8(1581)年中には安富氏が織田氏に属すようになり、十河城の義堅に味方するのは羽床城のみという状況になります。天正9年に、義堅は雑賀衆の協力を得て勝瑞城への帰還を果たします。しかし、その後の讃岐国人は個別に織田氏や長宗我部氏と結びます。こうして阿波三好家による讃岐国支配権は天正8年に失われたと研究者は考えています。
以下、阿波三好氏の讃岐支配についてまとめておきます。
①細川権力下では讃岐は京兆家、阿波は讃州家が守護を務めていて、その権限は分立していた
②讚州家(阿波)の被官が讃岐統治を行う事もあったが、それは京兆家が讃州家の力を頼んだ場合の例外的なものであった。
③ただし、細川晴元時代には阿波・讃岐両国の軍勢が「四国衆」の名の下に編成され、讃州家の氏之が西讃岐支配を後援するなど、讃州家の讃岐への影響が拡大した。
④三好長慶の台頭で江口合戦を機に晴元権力は崩壊に向かうが、讃岐では晴元派が根強く、阿波勢の動きを牽制していた。
⑤しかし、三好氏の力が強まると、東讃岐の国人らは徐々に三好氏に靡いていった。
⑥水禄年間になると三好実休・篠原長房による西讃岐の香川氏攻めが始まった。
⑦香川氏が駆逐されると讃岐は阿波三好好家の領国となり、阿波・讃岐国人に知行給付を行った。
⑧その結果、阿波三好家は讃岐国人を軍事動員や外交起用、讃岐国人に裁許を下すなど統治権を握った。
ここで注意しておきたいのは、①の細川時代と⑦三好時代では、讃岐への介入度合いが大きくちがうことです。細川権力下では、京兆家の意を受けた奉書と守護代による書下が併存して讃岐が支配されていました。ところが阿波三好家では当主か重臣が文書発給を行っています。これは讃岐が守護権力によらない支配を受けたと研究者は評価します。つまり、「細川権力と三好権力の間では政治主体・手法の断絶が存在した」と云うのです。これと同じ統治体制が、南河内です。南河内も阿波三好家が由緒を持たないながら公的な支配権を握ったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」

1560年代に三好氏は、天霧城の守護代香川氏を讃岐から追放します。これ以後、香川氏の発給する文書が途絶え、変わって三好氏の重臣・篠原長房・長重父子の発給した禁制が各寺に残されていることがそれを裏付けます。軍事征服によって讃岐の土地支配権は阿波三好家のものとなりました。それは阿波三好家や篠原氏に従って戦った阿波の国人たちが、讃岐に所領を得ることになります。篠原氏の禁制を除くと、阿波国人が讃岐で知行地を得たことを直接に示す史料はないようです。しかし、その一端を窺うことができる史料はあります。それを今回は見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」です。

  【史料1】三好義堅(実休)書下「由佐家文書」
就今度忠節、安原之内経内原一職・同所之内西谷分并讃州之内市原知行分申付候、但市原分之内請米廿石之儀ハ相退候也、右所々申付上者、弥奉公肝要候、尚東村備後守(政定)□□候、謹言、
八月十九日          (三好)義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の忠節について、安原内経内原の一職と同所の内の西谷分と、讃州の市原氏の知行分を併せて論功行賞として与える。但し市原氏の知行分の請米20石については、治めること。この上は、奉公が肝要である、東村備後守(政定)□□候、謹言、
八月十九日             (三好)義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
三好義堅(実休)が戦功をあげた由佐長盛に対し、讃岐の知行を宛行っています。その中に「讃州之内市原知行分(高松市香川町?)」とあります。市原氏は三好氏の被官で、これ以前には阿波国人の市原氏の所領だったことになります。阿波国人に讃岐での所領を与えています。
三好氏系図3
三好氏系図

  【史料2】三好長治書状「志岐家旧蔵文書」
篠原上野介・高畠越後知行棟別儀、被相懸候由候、此方給人方之儀、先々無異儀候間、如有来可被得其意事肝要候、恐々謹言、
 十月十七日       (三好)彦次郎(長治)花押
  安筑進之候(安富筑後守)
意訳変換しておくと
篠原上野介・高畠越後の知行への棟別料の課税を認める。この給付について、先々に異儀がないように、その意事を遵守することが肝要である。恐々謹言、
              (三好)彦次郎(長治)花押
十月十七日                
   安筑進之候(安富筑後守)
この史料は、三好長治(実休の長男)が守護代の安富筑後守に対し、阿波国人衆の篠原上野介・高畠越後の知行分への課役を認めたものです。これらの知行分は、安富氏の勢力圏で東讃にあったはずです。つまり、阿波国人である篠原氏や高畠氏の知行地が讃岐にあって、それを守護代の安富氏に分配していること分かります。

 ちなみに、三好長治(みよし ながはる)は、阿波を治めた三好実休の長男です。1562(永禄5年)に、父・実休が久米田の戦いで戦死したため、阿波本国の家督を相続します。しかし幼少のために、篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導で政治は行われます。

【史料3】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、
三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
  意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
この史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が守護代の香川信景に反三好行動を求めたものです。味方につくなら香川氏に「大西跡職」を与えると餌をちらつかせています。大西氏は西阿波の国人です。その知行を西讃の守護代家の香川氏に与えるというものです。深読みすると、三好方への与力の恩賞として、大西跡職が讃岐にいる大西氏に与えられていたことになります。
以上から篠原氏、高品氏、市原氏、大西氏といった三好氏に近い阿波国人たちが、讃岐に所領を得ていたことがうかがえます。三好氏による讃岐侵攻に従い功績を挙げたため、付与されたと研究者は考えています。

一方で、天正年間に入ると阿波三好家は、三好氏に与力するようになった讃岐国人に知行地を与えています。
阿波三好家は河内にも進出しますが、河内で活動する三好家臣に讃岐国人はいないようです。また、阿波でも讃岐国人が権益を持っていたことも確認できないないようです。ここからは阿波三好家は讃岐国人に対しては、讃岐国内のみで知行給付を行っていたことがうかがえます。
讃岐が阿波・三好家の統治下に入ると、それにつれて讃岐国人の軍事的な編成も進みます。

三好長慶と十河氏

十河一存は、養子として讃岐国人の十河氏を継承します。彼は長慶・実休の弟で、三好本宗家・阿波三好家のどちらにも属しきらない独自な存在だったようです。しかし、一存が1561(永禄四)年に亡くなり、その子である義継が長慶の養嗣子になると、立ち位置が変わるようになります。十河氏は三好実休の子である義堅が継承し、十河氏は阿波三好家の一門となります。これは、別の見方をすると阿波三好家が讃岐の支配権を掌握したことになります。

【史料4」「阿波物語」第二】は、伊沢氏が三好長治から離反した理由を説明したもので次のように記します。

伊沢殿意恨と申すは、長春様の臣下なる篠原自遁の子息は篠原玄蕃なり、此弐人は車の画輪の如くの人なり、然所に自遁ハ長春様のまゝ父に御成候故に、伊沢越前をはせのけて、玄蕃壱人の国さはきに罷成、有かいもなき体に罷成り候、折節讃岐の国に滝野宮戦後と申す侍あり、伊沢越前のためにはおちなり、豊後殿公事辺出来候を、理を非に被成候て、当坐に腹を切らせんと申し候を、越前か異見仕候てのへ置き候、この者公事の段は玄蕃かわさなる故なれ共、長春様少も御聞分なき故に、ふかく意恨をさしはさみ敵となり候なり、

意訳変換しておくと
伊沢殿の意恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)である。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

ここに出てくる「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」については、1458(長禄2)年に讃岐国萱原の代官職を預かっている滝宮豊後守実長が「善通寺文書の香川53~54P」に出てきます。「滝野宮豊後」は実長の後裔で、滝宮城の主人と推測できます。
ここには次のようなことが記されています。
①阿波三好氏を伊沢氏と篠原氏が両輪のように支えていたが、次第に篠権力を権力を独占するようになったこと
②伊沢氏は讃岐の滝宮氏(讃岐藤原氏一門)と姻戚関係があったこと。
③次第に、伊沢氏と篠原氏の対立が顕著化したこと
  



両者の動きを年表化して、確認しておきます。
1573(元亀四)年 三好長治が篠原長房を討とうとした際には阿波南部の木屋平氏からの戦功が伊沢右近大輔と篠原長秀を通じて届いており、伊沢氏と篠原長秀が組み合わされていることが確認できる。
1575(天正3)年 備中の三村元親が三好氏に援軍を要請した際には、讃岐の由佐氏を通じて伊沢氏に連絡が寄せられている。伊沢越前守は右近大輔と同一人物かその後継者と見なせるので、篠原長秀とともに長治を支えている。ここからは伊沢氏は、滝宮氏などの讃岐国人と縁戚関係を持ち、これを擁護する役割があったことが裏付けられます。
この中で研究者が注目するのは讃岐国人の相論を、三好長治が裁いていることです。
その内容は分かりませんが、結果として讃岐の滝宮豊後守は切腹を命じられ、その猶予を願いでたのが阿波の伊沢氏です。こうして見ると、裁判権は全て阿波側が持っていて、讃岐側にはなかったことになります。また、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったされます。安富筑後守は天正年間に備前の浦上宗景と阿波三好家の交渉に関与していて、由佐氏とともに阿波三好家の対中国地方交渉を担う存在でした。そうすると伊沢氏は、中讃の滝宮氏・東讃の安富氏という讃岐の有力国人と姻成関係が結ばれていたことになります。伊沢氏は、讃岐国人と人的つながりを強め、その統治や外交を支えていたと研究者は推測します。
 こうしてみると阿波三好家は、讃岐の土地支配権・裁許権を握り、国人らを配下に編成し軍事動員・外交を行えるようになっていたことがうかがえます。讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっています。そして、元亀四年に、西讃岐侵略を主導した篠原長房が粛正されると、その後は阿波三好家による直接的な讃岐支配が進展します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」
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「細川両家記」によると、江口合戦に際し、阿波・讃岐勢は三好長慶を支持したと記します。しかし、阿波の細川氏之・三好実休が畿内に軍事遠征することなかったようです。三好長慶が求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除でした。そのため四国からは長慶の下剋上ではなく、京兆家の内紛として中立を維持したとも考えられます。

三好長慶の挙兵
三好長慶の挙兵 
江口合戦後の讃岐国人の動きを見ることで、彼らの行動原理や四国情勢を読み取りましょう。まず阿波三好氏の讃岐支配の拠点となったという十河氏を押さえておきます。

十河氏の細川氏支配体制へ

十河氏2

しかし、これらの動きは南海通記など近世になって書かれた軍記ものによって、組み立ててられた者です。ちなみに一存が史料に最初に登場するのは1540(天文9)年です。その時には「三好孫次郎(長慶)弟」「十河孫六郎」と記されています。三好氏から讃岐の十河家に養子に入って以後のことです。そのため十河一存は、十河家当主として盤石な体制を当初から持っていた、そして細川晴元ー三好長慶ー十河一存という臣下関係の中にいたと私は思っていたのですが、どうもそうではないようです。
  【史料1】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」
去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言
八月廿八日              (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
  意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言
八月廿八日           (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
一存が十河城を不当に奪収しようとしているということは、それまで十河城は十河一存のものではなかったことになります。また、後の晴元陣営に一存に敵対する十河一族がでてきます。ここからは一存は十河氏の当主としては盤石な体制ではなかったことがうかがえます。十河一存が、足下を固めていくためには讃岐守護家である京兆家の支持・保護を得る必要がありました。そのための十河一存のとった動きを追いかけます。
  【史料2】細川晴元書状「大東急記念文庫所蔵文書」
就出張儀、其本働之儀申越候之処、得其意候由、先以神妙候、恩賞事、以別紙本知申会候、急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、
八月十八日          晴元(花押)
十河民部人夫殿
意訳変換しておくと
この度の出張(遠征)について、その働きが誠に見事で神妙なものだったので、恩賞を別紙の通り与える。急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、
天文17(1549)年8月18日 
            (細川)晴元(花押)
十河民部人夫(一存)殿
1549(天文17)年8月頃から主君晴元と兄長慶が対立するようになります。このような情勢下で、十河一存は細川晴元に味方し、「本知」を恩賞として認められていることがこの史料からは分かります。ところが、一存は翌年6月までには兄長慶に合流しています。
つまり、細川晴元方だったのに、兄三好長慶が担いだ細川氏綱方へ転じたのです。

細川晴元・三好氏分国図1548年
細川晴元と三好長慶の勢力図(1548年)
①次弟・三好実休率いる阿波三好は江口の戦いには参戦しなかった。
②十河一存は細川晴元側にいたが、長慶が氏綱方と結んだのを契機に氏綱方へ転じた。
ということになります。その背景を研究者は次のように考えています。当初の三好長慶が細川晴元に求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除だけで、晴元打倒ではありませんでした。ところが晴元が瓦林春信を重用するなど敵対的態度をとったので、晴元に代わる京兆家当主として氏綱を擁立するようになります。その背景には、当初は晴元と長慶は和解するものと思って、一存は晴元に味方しますが、長慶が細川氏綱を擁立するようになると、氏綱による十河城の「本知」安堵が可能となります。それを見て一存は晴元の下から離脱し、兄長慶を味方することになったというのです。
 こうして一存は躊躇する兄長慶に対し、晴元攻撃を強く主張するようになります。それは晴元が新たに十河氏の対抗当主を擁立しないうちに決着を付けたいという思惑が一存にあったからかもしれません。その後の一存は、氏綱配下で京都近郊で活動します。ここからは十河一存が京兆家被官の地位を維持していることが分かります。

三好長慶の勢力図3

東讃岐守護代家の安富氏の動きを見ておきましょう。
まず、細川晴元と安富氏の当主・又三郎との関係です。
【史料3】細川晴元吉状写「六車家文書」
為当国調差下十河左介(盛重)候之処、別而依人魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、
四月二十二日           (細川)晴元(花押影)
安富又二郎殿
意訳変換しておくと
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属ししたので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、
四月二十二日                  晴元(花押影)
安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。1557(弘治3)年12月に、晴元は十河又四郎を通じて東讃岐の寒河氏の帰順を図っていますが、これはうまくいかなかったようです。細川晴元の支配下にあった東讃岐の勢力が三好方に靡き始めるのは、この頃からのことのようです。
西讃岐守護代家の香川之景も細川晴元の支配下にあったことを見ておきましょう。
  【史料4】細川晴元書状「尊経閣文庫所収文書」
就年始之儀、太刀一腰到来候、令悦喜候、猶波々伯部伯(元継)者守呼申候、恐々謹言、
二月廿九日            (細川)晴元(花押)
香川弾正忠殿
意訳変換しておくと
年始の儀で、太刀一腰をいただき歓んでいる。なお波々伯部伯(元継)は守呼申候、恐々謹言、
二月廿九日                   晴元(花押)
香川弾正忠(之景)殿
香川之景が細川晴元に年始に太刀を送った、その返書です。両者が音信を通じていたことが分かります。
次の史料は、香川之景が晴元の讃岐計略を担っていたことを示します。
  【史料5】細川晴元書状「保阪潤治氏所蔵文書」
其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠(之景)与相談、無落度様二調略肝要候、猶石津修理進可申候、謹言、
卯月十二日             晴元(花押)
奈良千法師丸殿
意訳変換しておくと
讃岐国については変化もなく、合戦や災害などの別儀もないことを喜入る。領地経営や調略については香川弾正忠(之景)と相談して落度のないように進めることが要候である。なお石津修理進可申候、謹言、
卯月十二日             細川晴元(花押)
奈良千法師丸殿
奈良氏は聖通寺城主とされますが史料が少なく、謎の多い武士集団です。その奈良氏に対して、細川晴元が「別儀」がないことを喜び、香川之景との相談の上で「調略」をすすめることを求めています。香川之景は西讃岐守護代家として西讃岐の晴元方のリーダーでした。以上のように、香川之景は積極的に晴元と連絡を取りながら反三好活動を行っていたことがうかがえます。
このような中で1553(天文22)年6月に細川氏之(持隆)が三好実休と十河一存に殺害されます。
なぜ氏之が殺害されたのか、その原因や背景がよく分かりません。「細川両家記」では、十河一存の「しわざ」とされ、「昔阿波物語」でも見性寺に逃亡した氏之を一存が切腹させたと記します。ここからは、一存が中心となって氏之殺害したことがうかがえます。この背景には、讃岐情勢が関係していると研究者は考えています。多度津の香川之景は氏之の息がかかった人物で、晴元は之景を通じて氏之との関係調整を図っていました。しかし、氏之が晴元派となってしまえば、守護代家が晴元と結んでいる讃岐に加え、阿波も晴元派となります。そうなると、晴元を裏切ったことで十河氏当主の地位を確立した一存は排除される恐れが出てきます。一存には四国での晴元派の勢力拡大を阻止するという政治的目的がありました。これが氏之を殺害する大きな動機だと研究者は考えています。

三好長慶の戦い

 江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。そして、三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。

1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。そして長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味するようです。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。阿波と讃岐の軍勢が一体化が進んでいます。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていくのです。
 その中で香川氏は反三好の旗印を下ろしません。
それに対する三好軍の対香川氏戦略を年表化しておきます
1559(永禄2)年 瀬戸内海の勢力を巻き込んで香川氏包囲網形成し、香川氏の本拠地・天霧城攻撃
1563(永禄6)年 天霧城からの香川氏の退城
1564(永禄7)年 これ以降、篠原長房の禁制が出回る
1565(永禄8)年 この年を最後に香川氏の讃岐での動き消滅
1568(永禄11)年 備中の細川通童の近辺に香川氏が亡命中
ここからは、西讃岐は篠原長房の支配下に入ったと研究者は考えています。
Amazon.co.jp: 戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書) : 和三郎, 若松: Japanese Books

三好支配時期の讃岐に残る禁制は、全て篠原長房・長重父子の発給です。

三好氏当主によるものは一通もありません。ここからは篠原父子の禁制が残る西讃岐は、香川氏亡命後は篠原氏が直接管轄するようになったことが分かります。一方、宇多津の西光寺に残る禁制では長房・長重ともに禁制の処罰文言を「可被処」のように、自身ではなく上位権力による処罰を想定しています。ここからは宇多津は三好氏の直轄地で、篠原氏が代官として統治していたことがうかがえます。ここでは、この時期の篠原氏は西讃岐に広範な支配権をもっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」

       
 前回は、16世紀初頭の永世の錯乱期の讃岐と阿波の関係を三好之長を中心に見ました。今回は阿波の細川晴元を中心に見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」です。

細川晴元
細川晴元
 細川晴元は応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の嫡系(ひ孫)という血筋になります。1507年に政元が暗殺される『細川殿の変』を発端として、永世の錯乱と呼ばれる細川京兆家の家督争いが始まります。
永世の錯乱抗争図3

この争いのなかで、細川晴元の父・澄元は、細川高国に負けて阿波に逃げてきます。その後も高国の圧迫を受けて、すっかり弱ってしまった父は細川晴元が7歳のときに阿波・勝瑞城(しょうずいじょう)で亡くなります。父の復讐を果たそうと晴元は、宿敵・細川高国を討ち果たすことに執着した、というのが軍記ものの伝えるところです。
 14歳になった細川晴元は、阿波国人・三好元長(長慶の父)の助けを借りてクーデターを起こします。
1527年の桂川原の戦いで細川高国が率いる幕府軍を倒し、将軍家もろとも高国を京から追い出すことに成功します。
細川高国・晴元分国図
細川晴元と高国の分国(1530年)

細川晴元と三好元長は、将軍と管領逃げ出してもぬけのからになった京に代わって、摂津の堺さかいに『堺公方府(さかいくぼうふ)』という幕府っぽいものをつくり拠点とします。これは細川晴元をリーダーとした擬似幕府でしたが、2年ほどで三好元長とけんか別れします。すると雌伏していた細川高国が報復の動きを開始します。そこで仕方なく三好元長と仲直りして再度手を握り、1531年の大物(だいもつ)崩れに勝利します。
 こうして、『永正の錯乱』と呼ばれた細川京兆家の内輪揉うちわもめに、父の仇かたきを討って勝利した細川晴元は、室町幕府の最高権力者となります。こうなると晴元にとって堺公方府の意味はなくなります。この結果、堺公方府を自分の権力拠点としていた三好元長との関係が悪化します。

両細川家の戦い
永世錯乱後の細川家の内紛

 そんな中で、河内守護・畠山氏と木沢長政の争いが起こります。
畠山氏の援軍に向かった三好元長に、細川晴元は山科本願寺の一揆軍を誘導してぶつけます。これが1532年の『天文の錯乱』を招く大混乱を招くことになり、この騒動に巻き込まれた三好元長は自害します。ここまでは晴元の策略どおりでしたが、一向一揆軍が暴徒化してしまい手におけなくなります。そこで山科本願寺を焼き討ちにして弾圧しますが、これが火に油を注ぐ結果となり、怒った本願寺と全面抗争に発展してしまいます。

三好家と将軍

細川晴元が巻き起こした『法華一揆』の大炎上を翌年に収束させたのが、三好元長の子・千熊丸(12歳 長慶長慶)です。
この時の千熊丸は、まだ子どもでしたが「これは使える」と思った細川晴元は家臣に加えます。しかし、千熊丸の父・三好元長は細川晴元に裏切られて殺されたようなものです。この子は胸の奥に復讐心を抱いていました。三好長慶(ながよし)と名乗るようになった千熊丸は、幕府をもしのぐ大物になり、細川晴元を京から追放します。
 
細川晴元・三好氏分国図1548年

以上のように、細川晴元は細川高国との争いを制して、室町幕府の中枢に君臨し、幕政を意のままにしました。しかし、細川京兆家の内紛に明け暮れ、盛衰を繰り返すうち、家臣の三好長慶によって政権から遠ざけられ、幽閉先の摂津・普門寺城で亡くなります。1563年3月24日、享年50歳で亡くなります。死因は不明。
   
細川晴元の動きを追いかけてきましたが、ここで讃岐に目を転じます。
晴元が畿内での足場を確かにするようになると、讃岐では守護代家の安富氏や香川氏が次のような書下形式の文書を発給し始めます。

  宇多津 本妙寺
本妙寺(宇多津)  
【史料1】安富元保書下「本妙寺文書」
当寺々中諸諜役令免除上者、□不可有相違状如件
享禄二一
正月十六日            (安富)元保(花押)
宇多津 法化堂(本妙寺)

東讃守護代の安富元保が宇多津の日蓮宗本妙寺(法華堂)の諸役免除特権を書下形式で発給したものです。ここには京兆家当主・細川晴元の諸役免除を前提にする文言はありません。元保は自分の判断で諸役免除を行ったようです。
 ちなみに瀬戸内海交易ルートを押さえるために細川氏や三好氏が着目したのが本門法華宗の末寺から本山に向けた人やモノの流れです。細川晴元が「堺幕府」を樹立しますが、その背景には,日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れの利用価値を認め、法華宗を通じて流通システムを握ろうとする考えがあったことは以前にお話ししました。
 また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
 長慶は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき,法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。その拠点のひとつが宇多津の本妙寺ということになります。
次は三豊の秋山氏の菩提寺である日蓮宗の本門寺を見ておきましょう。
【史料2】香川元景書下「本門寺文書」
讃岐国高瀬郷之内法花堂之事、泰忠置文上以 御判并景任折紙旨、不可有相違之由、所可申付之状如件、
天文八 六月一日         (香川)元景 花押
西谷藤兵衛尉殿
意訳変換しておくと
讃岐国高瀬郷の法花(華)堂(本門寺)について、(秋山)泰忠の置文と(守護代)の香川和景の折り紙を先例にして、諸役免除特権を認める。この書状の通り相違ない。
天文八(1538)年 六月一日                              
             (香川)元景 花押
西谷藤兵衛尉殿

守護代の香川元景が西谷藤兵衛尉に、本門寺(法華堂)について「泰忠置文」と「御判」と香川和景の折紙を先例にして書下形式で諸役免除を認めることを申し付けています。ここでの「御判」は、京兆家当主の文書を指すようで、香川和景の文書と、晴元以前の当主の文書が並べられます。京兆家の文書は、守護代家の当主発給文書と並列される先例で、ここでも讃岐在地の香川元景は、細川晴元の意志や命令に拠らずに、西谷氏に命令していると研究者は評します。

この2つの史料からは、東讃岐守護代家安富氏、西讃岐守護代家香川氏が京兆家当主の晴元からの上意下達によらず、自身の判断によって政治的な判断を下していることが分かります。それでは、晴元の威光が届かなくなっていたのかと思いますが、そうではないようです。
晴元が讃岐の在地支配に関与している例を見ておきましょう。
  【史料3】飯尾元運奉書「秋山家文書」
讃岐国西方三野郡水田分事、如元被返付記、早可致全領知之由候也、乃執達如件、
大永七 十月七日      (飯尾)元運(花押)
秋山幸久丸殿
  「史料4」飯尾元運・徳阿連署状「覚城院文書」
当院棟別事、令免許申上者、更不可有別儀候、恐々謹言、
甲辰
十二月廿日           (飯尾)元連(花押)
                 徳阿(花押)
覚城院御同宿中
発給者の一人飯尾元連は、細川晴元の奉行人です。【史料4】は千支から年次から天文13(1544)年であることが分かります。讃岐仁尾の覚城院に対し、晴元の奉行人が棟別銭の免除を行っています。ここからは大永年間には晴元の奉行人が讃岐の行政を担っていたことが分かります。以上から、細川晴元の讃岐支配には、次の2つのチャンネルがあったことを押さえておきます。
①守護代の安富・香川氏よる支配
②畿内の奉行人による京兆家当主の支配
次に細川晴元が讃岐国人を、どのように軍事編成して畿内に送り込んでいたかを見ていくことにします。

  【史料5】細川晴元感状写「三代物語」
去年十二月六日至三谷弥五郎要害大麻(多度郡)、香西甚五郎取懸合戦時、父五郎四郎討死尤神妙也、謹言、
三月七日           六郎(晴元)花押
小比賀桃千代殿
意訳変換しておくと
昨年12月6日に、大麻(多度郡)の三谷弥五郎との合戦の際に、香西甚五郎とともに奮戦した、(小比賀桃千代の)父・五郎四郎が討死したことは神妙である、謹言、
三月七日           六郎(晴元)花押
小比賀桃千代殿
年紀がありませんが晴元が実名でなく幼名の六郎で花押を据えているので、発給年次は1531年から34年のことと研究者は判断します。宛所は讃岐国人の小比賀氏です。香西甚五郎とともに讃岐国多度郡大麻にある三谷氏を攻撃した際に、父が名誉の戦死をしたことへの感状です。ここからは次のようなことが分かります。
①1530年代に、多度郡大麻には三谷弥五郎が拠点を構え、細川晴元に反抗していたこと
②讚岐国人の小比賀氏と香西氏は、晴元に従軍していたこと

  【史料6】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」
去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言
八月廿八日   晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
  意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく。謹言
八月廿八日             (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪います。これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して忠節を尽くすよう求めています。ここからは讃岐で軍事的行動の命令を発するのは晴元であり、それを東讃守護代安富家が指揮していることが分かります。

細川晴元は、讃岐の兵を畿内にどのように輸送していたのでしょうか
 【史料7】細川晴元書状写「南海通記」第七
出張之事、諸国相調候間、為先勢明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候、猶香川可申候也、謹言、
七月四日        晴元判
西方関亭中
意訳変換しておくと
「京への出張(上洛戦)について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務める(海上輸送)ことが肝要である。香川氏にも申し付けてある」で

日付は七月四日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭中」です。
この史料は「両細川家の争い」の時に晴元が命じた畿内への動員について、香西成資が『南海通記巻七』の中で説明した文章です。宛先は「西方関亭中」とありますが、これが多度津白方の海賊(海の水軍)山地氏のことで、その意味を補足すると次のようになります。
「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」
 つまりこの書状は細川晴元から山地氏への配船依頼状と研究者は考えています。晴元は西讃岐の軍勢を山路氏の船団で畿内に輸送していたことが分かります。西讃守護代(香川氏)とも協議した上での命令であるとしています。海賊衆を動員する際には、香川氏がこれを取り次いでいたことがうかがえます。ここからは、京兆家 → 東西の守護代家 → 讃岐国人という指令回路で軍事動員が行われていたことが裏付けられます。

「琴平町史 史料編」の「石井家由緒書」のなかに、次のような文書の写しがあります。
同名右兵衛尉跡職名田等之事、昆沙右御扶持之由被仰出候、所詮任御下知之旨、全可有知行由候也、恐々謹言。
         武部因幡守  重満(花押)
 永禄四年六月一日       
 石井昆沙右殿
意訳変換しておくと
同名(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田について、毘沙右に扶持として与えるという御下知があった。命の通りに知行するように 

差出人は花押のある「武部因幡守重満」で、宛先は石井昆沙右です。
差出人の武部因幡守は阿波細川氏の家臣で、主君の命令を西讃の武士たちに伝える奉行人でした。
享禄4年(1532)は、細川晴元と三好元長が細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年になります。石井昆沙右らは細川晴元の命に従い、西讃から出陣し、その恩賞として所領を宛行われたことが分かります。石井氏は、永正・大永のころ小松荘松尾寺で行われていた法華八講の法会の頭人をつ勤めていたことが「金毘羅大権現神事奉物惣帳」から分かります。そして、江戸時代になってからは五条村(現琴平町五条)の庄屋になっています。戦国時代の石井氏は、村落共同体を代表する土豪的存在であって、地侍とよばれた階層の武士であったようです。
 以上の史料をつなぎ合わせると、次のような事が見えてきます。
①石井氏は小松荘(現琴平町)の地侍とよばれた階層の武士であった
②石井氏は細川晴元に従軍して、その恩賞として名田を扶持されている。
これを細川晴元の立場から見ると、丸亀平野の地侍級の武士を軍事力として組織し、畿内での戦いに動員しているということになります。そして、戦功を挙げた者には恩賞を与えています。

1546(天文15)年に、対立する細川氏綱が攻勢をかけて苦境に陥ると、晴元はまたもや四国勢を動員します。
8月に十河一存が讃岐国人を率いて畿内に渡海したと「細川両家記」にはあります。しかし、讃岐の軍事動員は東西守護代家が行っていたことは先に見たとおりです。十河一存に軍事指揮権はありません。また、この時期の一存は十河氏の当主の地位すら覚束ない状態です。讃岐国人を率いていたいうのは、一存への過大評価であると研究者は指摘します。これに対して、阿波勢の畿内渡海は10月に細川氏之が指揮権を握って出陣しています。ここからも讃岐と阿波では、軍事指揮系統が異なっていたことが裏付けられます。2つの指揮系統があったのです。
 1547(天文16)年2月以降、翌年4月に終戦し帰国するまで、讃岐・阿波勢は一括して「四国衆」と呼ばれています。
この間は、讃岐衆の香西五郎左衛門と阿波の細川氏之や三好実休は行動を共にしてます。7月の舎利寺の戦いでは、阿波では篠原盛家、淡路では安宅佐渡守、伊予では藤田山城が戦死しています。ここからは、阿波・讃岐・淡路・伊予の細川氏勢力圏の国人たちが「四国衆」として共に軍事行動することはあったことが裏付けられます。しかし、阿波勢を率いるのは細川氏之で、氏之が讃岐勢を指揮したこと史料からは確認できません。この時点でも阿波と讃岐の軍事的連携は強まっていましたが、指揮権は未だ統合されていなかったことを押さえておきます。

以上から次のようにまとめておきます。
①16世紀中頃になっても讃岐は行政・軍事両面ともに京兆家の管轄下にあったこと
②その一方で、「四国衆」のように軍事的に阿波と讃岐を一括視する見方も現れたこと
細川晴元政権の後半になると讃州家(阿波守護)も讃岐に影響力を持つようになること。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)

戦国時代の阿波と讃岐は、細川氏とその臣下の三好氏が統治したために、両国が一体としてみられてきました。そのため讃岐の支配体制を単独で見ていこうとする研究がなかなかでてきませんでした。研究が進むに連れて、阿波と讃岐の政治的動向が必ずしも一致しないことが分かってきます。ここにきて讃岐の政治的な動向を阿波と切り離して見ていこうとする研究者が現れます。今回は16世紀初頭の永世の錯乱期の讃岐と阿波の関係を三好之長を中心に押さえておきます。テキストは「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配  四国中世史研究17号(2023年) 」です。
馬部隆弘氏は、細川澄元の上洛戦を検討する中で、次の事を明らかにします。
①永世の錯乱の一環として讃岐を舞台に高国派と澄元派の戦闘があったこと
②澄元が阿波勢力の後援を受けていたわけではないこと
讃岐は畿内で力を持つ京兆家、
阿波は阿波守護職を世襲した讃州家の分国
で、両家の権限は基本的に分立していたことを押さえておきます。
天野忠幸氏は、もともとは別のものであった阿波と讃岐が、細川氏から三好氏に権力が移る中で、三好氏によって讃岐の広域支配権をめざすようになり同一性を高めていったとします。

讃岐は細川京兆家の当主による守護職の世襲が続きます。

細川京兆家
細川京兆家
他の家に讃岐の守護職が渡ったことはありません。守護代職も東部は安富氏、西部は香川氏が務める分業体制が15世紀前半には成立して、他の勢力が讃岐守護代となることもありませんでした。讃岐は、室町期を通じて守護である京兆家細川氏と二人の守護代によって支配されてきたことを押さえておきます。讃岐に讃州家(阿波守護)が介入してくるのは、16世紀初頭までありません。
讃州家被官系(阿波守護)の人脈が讃岐の統治に介入してくる最初の例が三好之長(みよし ゆきなが)のようです。
三好之長2
三好之長
  三好之長は、三好長慶の曾祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将とされます。之長は、阿波の有力の国侍だったという三好長之の嫡男として誕生し、阿波守護であった細川氏分家・讃州家(阿波守護家)の細川成之に仕えます。

三好家と将軍

ただし、之長ら讃州家から付けられた家臣の立場は讃州家と京兆家に両属する性格を持っていたと研究者は指摘します。当時は、このような両属は珍しいことではなかったようです。

永世の錯乱3

永正の錯乱前後の三好之長の動きを年表で見ておきます
永正4(1507年) 政元・澄元に従って丹後の一色義有攻めに参戦
6月23日 細川政元が香西元長や薬師寺長忠によって暗殺される。
  24日 宿舎の仏陀寺を元長らに襲撃され、澄元と近江に逃亡。
8月 1日 細川高国の反撃を受けて元長と長忠は討たれる
   2日 之長は近江から帰洛し、澄元と共に足利義澄を将軍に擁立     
 この時に京兆家当主となった澄元より、之長は政治を委任されたとされます。しかし、実権を握った之長には増長な振る舞いが多かったため、澄元は本国の阿波に帰国しようとしたり、遁世しようとして両者の間はギクシャクします。阿波細川家出身の澄元側近の之長が京兆家の中で発言力を持つことに畿内・讃岐出身の京兆家内衆(家臣)や細川氏の一門の間で反発が高まっていきます。
そんな中で讃岐に出されているのが【史料1】三好之長書状案「石清水文書」です。
香川中務丞(元綱)方知行讃岐国西方元(本)山同本領之事、可被渡申候、恐々謹言
永正参
十月十二日           之長
三好越前守殿
篠原右京進殿
日付は1506(永正3)年10月12日、三好之長が三好越前守と篠原右京進にあてた文書です。内容は、香川中務丞(元綱)の知行地である讃岐国の西方元山(三豊市本山町)の本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じています。この時期は、政元と阿波守護細川家との間で和睦が成立した時期です。その証として澄元が都に迎えられたのが、この年4月のことです。三好之長から香川中務丞に対して本領が返還されたのは、その和解の結果と研究者は推測します。つまり、政元と阿波守護家とが対立していた期間に讃岐国は三好之長の軍勢によって侵攻を受け、守護代家の香川氏の本領が阿波勢力によっ軍事占領され、没収されていたことを示すというのです。これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 永正2年4月~5月に、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた軍勢が讃岐国へ攻め入っています。
どうして讃岐守護代の香川・安富氏が讃岐に侵攻するのでしょうか。それは讃岐が他国の敵対勢力に制圧されていたことを意味すると研究者は指摘します。このときの敵対勢力とは、誰でしょか。それは阿波三好氏のようです。
  「大乗院寺社雑事記」の明応4年(1495)3月1日には、次のように記されています。
讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子遣之処、両人共二責殺之。於千今安富可罷下云々。大儀出来。ムレ兄弟於讃岐責殺之。安富可罷立旨申之処、屋形来秋可下向、其間可相待云々。安富腹立、此上者守護代可辞申云々。国儀者以外事也云々。ムレ子息ハ在京無相違、父自害、伯父両人也云々。

意訳変換しておくと
讃岐国で蜂起が起こった時に、京兆家被官の牟礼氏を鎮圧のために派遣したが、逆に両人ともに討たれてしまった。そこで、守護代である安富元家が下向しようとしたところ、来秋下向する予定の主人政元にそれまで待つよう制止された。その指示に対して安富元家は、怒って守護代を辞任する意向を示した。

この記事からも明応4年2月から3月はじめにかけてのころ、安富氏の支配する東讃地方では「蜂起」が起こって、三好之長に軍事占領されたいたことがうかがえます。
さて史料1「三好之長書状案」の宛所となっている三好越前守は何者なのでしょうか?
  それを解くヒントが【史料2】三好越前守書状写「太龍寺重抄秘勅」です。
軍陳為御見舞摩利支天之御礼令頂戴候、御祈祷故軍勝手開運珍重候、即讃州於鶴岡五十疋令券進候、遂武運長久之処頼存候、遂所存帰国之砌、知行請合可申候、恐々頓首、
九月         三好越前守
太龍寺
  意訳変換しておくと
舞摩利支天の御礼を頂戴し、祈祷によって勝利の道を開くことができたことは珍重であった。よって讃州・鶴岡の私の所領五十疋を寄進する。武運長久の頼り所については、(私が阿波に)帰国した際に、知行請合のことは処置する、恐々頓首、
九月         三好越前守判
(阿波)太龍寺
阿波の太龍寺から勝利のための祈祷を行ったとの知らせを受けた三好越前守は、それが戦勝に繋がったとして、讃岐鶴岡の所領を寄進しています。ここからは次のような事が分かります。
①「帰国之砌」とあるので、越前守は讃岐に地盤を持ちながらも阿波を本拠地としていたこと
②篠原有京進も讃州家の被官なので、【史料1】の宛所2名はどちらも讃州家(阿波守護)の被官であったこと。つまり、ここからも讃岐が三好之長による侵攻を受けて、一部の所領が奪われていたことが分かります。ここでは、永世の錯乱の一環として讃岐を舞台に高国派と澄元派の戦闘があり、阿波の勢力が讃岐に進出し、所領を持っていたことを押さえておきます。
 こうして阿波勢力の三好氏が京兆家の讃岐に勢力を伸ばしてきます。これに対してする反発も強かったようです。1508(永正五)年に澄元は畿内で勢力を失うと、讃岐経営に専念するようになり、京兆家の讃岐支配を強化する動きを見せます。そんな中で1510(永正七)年に、澄元の奉行人飯尾元運が奉書を発給しています。それを受けて守護代香川備前守に遵行を命じたのは西讃岐守護代家の香川元景で、三好之長ではありません。澄元は讃岐掌握を進める上で、従来の守護代家の香川氏の命令系統を使っていることを押さえておきます。
 永正八年の澄元の上洛戦では、讃岐でも澄元方と高国方の戦闘がありました。
永世の錯乱2

之長はこの時、高国方の西讃岐守護代香川元綱と通じていたようです。その背景には澄元の讃岐経営から排除された不満があったと研究者は推測します。
 三好之長が讃岐進出を進めた背景は何なのでしょうか。
そこには之長が京兆家被官も兼ねていることがあったようです。そのため之長が京兆家から排除されると之長の讃岐進出は挫折します。ところがここで之長にとって、次のような順風が吹きます。
①1511(永正八)年の澄元の上洛戦が失敗
②その直後に細川成之・之持といった当主格が死去し、讃州家が断絶
③そうすると澄元にとって、讃州家再興が優先課題に浮上
④その結果、澄元による阿波勢力掌握が進展
1519(永正16)年の上洛戦で澄元軍の主力は、安富氏・香川氏などの讃岐守護代家と阿波の讃州家被官の混成軍で構成されています。これらの軍勢を率いたのが三好之長です。混成軍だったために主君の細川澄元が病によって動けなくなると、讃州家被官や讃岐守護代家は之長を見捨てて離脱してしまいます。実態は讃岐(京兆家)が阿波(讃州家)を従える形で上洛戦が展開されたことがうかがえます。

 秋山家文書からも秋山氏が澄元に従っていたことが分かります。
1 秋山源太郎 櫛梨山感状
          細川澄元感状    櫛梨合戦 

    去廿一日於櫛無山
致太刀打殊被疵
由尤神妙候也
謹言
七月十四日         澄元(細川澄元)花押
秋山源太郎とのヘ
読み下し変換しておきましょう。
去る廿一日、櫛無山(琴平町)に於いて
太刀打を致し、殊に疵を被るの
由、尤も神妙に候なり、
謹言
七月十四日
           (細川)澄元(花押)
秋山源太郎とのヘ
 切紙でに小さい文書で縦9㎝横17・4㎝位の大きさの巻紙を次々と切って使っていたようです。これは、戦功などを賞して主君から与えられる文書で感状と呼ばれます。これが太刀傷を受けた秋山源太郎の下に届けられたのでしょう。戦場で太刀傷を受けることは不名誉なことでなく、それほどの奮戦を行ったという証拠とされ、恩賞の対象になったようです。 この文書には年号がありませんが状況から推定して、櫛無山の合戦が行われたのは永正八(1511)年頃と研究者は考えています。「櫛無山」は、現在の善通寺市と琴平町の間に位置する岡で、後の元吉城とされます。 上の感状の論功行賞として出されたのが次の文書です。

1 秋山源太郎 櫛梨山知行
 秋山源太郎 櫛梨山知行

 讃岐の国西方の内、秋山
備前守跡職、所々散在
被官等の事、新恩として
宛行れ詑んぬ、早く
領知を全うせらるべきの由候なり、依って執達
件の如し
永正八             (飯尾)
十月十三日         一九運(花押)
秋山源太郎殿
この文書は、この前の感状とセットになっています。飯尾元運が讃岐守護細川氏からから命令を受けて、秋山源太郎に伝えているものです。讃岐の西方にある秋山備前守の跡職を源太郎に新たに与えるとあります。秋山備前守とは、秋山家惣領の秋山水田のことと研究者は考えているようです。

1秋山氏の系図4
秋山氏系図(Aが源太郎)


この文書の出された背景としては、永世の錯乱で香川氏・香西氏・安富氏などの讃岐の守護代クラスの国人らが、澄之方に従軍して討ち死にしたことがあります。そして秋山一族の中でも、次のような対立がおきていました。
①庶流家の源太郎は、細川澄元方へ
②惣領家の秋山水田は、細川澄之方へ
 この対立の発火点が櫛梨合戦だったようです。澄之方について敗れた秋山水田は所領を奪われ、その所領が勝者の澄元側につき武功を挙げ源太郎に与えられます。ここで秋山家の惣領家と庶流家の立場が入れ替わります。永世の錯乱という中央での争いで、勝ち組についた方が生き残るのです。管領細川氏の相続争いが讃岐の秋山氏一族の勢力争いにも直結しているのが分かります。
 この文書の発給人の飯尾元運を見ておきましょう。。
彼は阿波の細川氏の奉行人である飯尾氏と研究者は考えています。ここからは、秋山家の惣領となった源太郎が、最初は細川澄元に接近し、その後は細川高国方に付いて、淡路守護家や阿波守護家の細川氏に忠節・親交を尽くしていることが分かります。その交流を示す史料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。
 どうして、源太郎は京兆家でなく阿波守護家を選んだのでしょうか? それは阿波守護家が細川澄元の実家で、政元継嗣の最右翼と源太郎は考えていたようです。応仁の乱前後(1467~87)には、讃岐武将の多くが阿波守護細川成之に従軍して、近畿での軍事行動に従軍していました。そのころからの縁で、細川宗家の京兆家よりも阿波の細川氏に親近感があったとのかもしれません。
 淡路守護家との関係は、永正七(1510)年6月17日付香川五郎次郎遵行状(25)からも推察できます。
 高瀬郷内水田跡職をめぐって源太郎と香川山城守とが争論となった時に、京兆家御料所として召し上げられ、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなります。この没収地の変換を、源太郎は細川尚春に求めていくのです。そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせ、臣下の礼をとり尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けます。その礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されているのは以前にお話ししました。これを見ると、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来などが見えてきます

淡路守護細川尚春周辺から源太郎へ宛の書状一覧表を見てみましょう
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧1
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧
まず発給者の名前を見ると大半が、「春」の字がついています。
ここから細川淡路守尚春(以久)の一字を、拝領した側近たちと推測できます。これらの発給者は、細川尚春(以久)とその奉行人クラスの者と研究者は考えているようです。一番下の記載品目を見てください。これが源太郎の贈答品です。鷹類が多いのに驚かされます。特に鷹狩り用のハイタカが多いようです。
 1520(永正17)年の澄元の上洛戦は失敗し、澄元本人もその直後に亡くなってしまいます。澄元陣営は、管轄が違う阿波と讃岐を束ねる必要に迫られます。

【史料三】瓦林在時・湯浅国氏・篠原之良連署奉書「秋山家文書」        讃岐国西方高瀬内秋山幸比沙(久)知行本地并水田分等事、数度被成御下知処、競望之族在之由、太無謂、所詮退押妨之輩、年貢諸公物等之事、可致其沙汰彼代之旨、被仰出候也、恐々謹言、
永正十八九月十三日        瓦林日向守   在時(花押)
              湯浅弾正   国氏(花押)
              篠原左京進  之良(花押)
当所名主百姓中

意訳変換しておくと
讃岐国・西方高瀬内の秋山幸比沙(久)の知行本地、并びに水田分について、数度の下知が下されているが、領地争いが起こっているという。改めて申しつける。押妨の輩を排除し、年貢や諸公物について、沙汰通りに実施せと改めて通知せよ 恐々謹言、
永正十八(1521)九月十三日
        瓦林日向守      在時(花押)
       湯浅弾正   国氏(花押)
       篠原左京進  之良(花押)
当所 名主百姓中

1520(永世17)年には、三好之長が上京しますが、細川高国に敗れます。そして、播磨に落ちのびた澄元は急死します。その翌年の永正18年の讃岐への奉書は、奉行人ではなく新当主の晴元の側近たちによって書状形式で発給されています。別の連状に「隣国」とあるので、彼らは阿波にいたことが分かります。ここからは晴元が京兆家の分国として押さえているのは讃岐で、阿波ではなかったことが分かります。しかし、晴元が幼少であることや阿波勢の離反を防ぐために阿波に拠点をおくことを選択したと研究者は推測します。
 研究者がここで注目するのは、連署している3人の側近メンバーです。
①摂津国人の瓦林氏
②晴元側近として京兆家被官となった湯浅氏
③讃岐家被官の篠原之良
彼らは讃岐とどんな関係があったのでしょうか?
③の篠原氏は讃州家被官の立場で【史料3】に署名していると研究者は推測します。
 この時期の三好氏は、西讃岐進出をねらっています。その動きに篠原氏もそれに従っていたからでしょう。晴元が幼少という政治不安を抱える中で、讃岐支配に阿波勢力を排除すると、阿波勢力の離反を招きかねないため、篠原氏を讃岐支配に関与させたと研究者は推測します。
以上をまとめておくと
①16世紀初頭の永世年間の讃岐の支配権は澄元が握っていた
②それを阿波にいる京兆家被官・奉行人が支配を担当した。
③阿波勢力の協力を得るために讃州家被官を出自とする氏族が讃岐支配に関与することはあった。
④しかし、讃州家が直接的に讃岐支配に関与することはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配  四国中世史研究2023号」
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 滝宮念仏踊りが滝宮牛頭天王社(滝宮神社)に、 各郡の惣村で構成された踊り組によって奉納されていたことを以前にお話ししました。しかし、私には惣村の形成や、その指導者となった名主などの出現に至る経過が、いまひとつ曖昧でした。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

そんな中で出会ったのが永原慶三氏の「中世動乱期に生きる」という本です。この本は講演をベースにしている講演集なので、分かりやすい表現や内容になっていて、素人の私にとってはありがたい本です。永原氏が20世紀末の時点で、中世後半から戦国時代にいたる世界を、どのように描いていたのか、その到達点を知るには最適です。今回は、中世の惣と名主・地侍の出現過程部分について、読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは   「永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法」です。    

これについて大まかなアウトラインを、永原氏は次のように記します。

「富が次第に地方に残されるようになって」きて、「日本の経済社会の全体的仕組みが、求心的で中央集中的な傾向から地方分権的な方向に、次第に性格を変えていった。……そういう動きと連動して守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしてくる」(158P)。そうしたなかで、惣村・郡中惣・惣国といつた「惣型秩序」が形成される。

惣村の小百姓台頭背景
     小農民の台頭をもたらした農業生産力の革新

惣村形成背景
惣村の出現背景

まず、守護や国人は省略して。地侍がどのように現れてきたのかを
見ていくことにします。
戦国時代の身分構成/ホームメイト
地侍は、もともと荘園の地頭級の役人ではありません。
つまり侍ではなかったということです。有力な農民出身の名主は、もともとの身分からいえば百姓です。律令時に百姓と呼ばれた人達が両極分解して、上層部が名主と呼ばれるようになったとしておきます。
名主層の台頭の背景は、何なのでしょうか? 
荘園の年貢は、領主に対してひとりひとりの百姓が納めるものです。しかし、これは集めるのが面倒なので、荘園領主は百姓の要求を受け入れて有力百姓に請け負わせるようにします。これを百姓請けとか地下請けと呼びます。このように年貢の取りまとめや納人の請負をやる有力百姓が名主クラスでした。
 村の耕地を維持していくためには、湛漑用水を確保しなければならないし、山野の利用を秩序だてて行なわなければならないなど、いろいろなことがあります。そういうことの中心になって村を切り盛りしていく役割を有力な名主たちが果たすようになります。他方で、名主層の中には国人や守護と被官関係を結ぶものも出てきます。被官関係というのは主従関係ですから身分的には、いままで百姓だった者が、侍になるということです。そのため地侍は、ふたつの性格を持つことになります。
地侍に2つの側面
地侍の持つ2つの性格
百姓出身とはいえ、地侍となると、やはり名字を名乗るようになります。
名主クラスはもともと姓をもっていたので、名前も漢字二字が多いようです。そういうような人を「侍名字(さむらいみょじ)」ともいいます。そんな人々が次第に農村の中に現れるようになります。これは鎌倉時代には見られなかったことです。この人たちは、村で生活していました。そのため百姓と似たりよったりの生活をしていす。そして地侍は村の耕地や水利施設の管理、年貢徴収などををやるので実力を持っています。国人や守護はうまくこの人々を把握すれば、自分の支配が安定します。しかし、この人々に背かれるとうまくいかなくなります。そういう意味では、地侍層の動きが大名たちの支配の安定、不安定を左右するカギであったと研究者は指摘します。ここでは室町時代から戦国時代にかけては、地侍が時代を動かす重要な役割、時代を社会のどのほうから動かしていく大きな役割を持っていることを押さえておきます。


惣村の構造図
               惣村の構造

 教科書は、惣村の力量の高まりの象徴として土一揆について次のように記します。
「徳政を求めて京都の町になだれ込んで、室町幕府に徳政令の発令を要求し、京都の町にあった土倉酒屋を攻撃し直接借金棒引き、借金証文の返済を求める」

 これだけ読むと農民の動きは、京都を中心にしてその周辺地域にだけあったように思えます。しかし、戦国時代になると地方でも農民闘争が活発におこっていることが分かってきました。京都の土倉ほど大きな規模ではありませんが、地方にも「倉本」が出現します。港町の問丸が倉本を兼業する場合もあります。倉庫業者や金融業者は、「有徳人(うとくにん:富裕層)」の代表です。そういう層に対し、農民が借金棒引きを要求していますし、荘園領主に対しては年貢や賦役の減免を要求して立ち上がっています
惣村の年貢軽減交渉
惣村の年貢軽減交渉
 守護が大名化すると、それまでなかった新しい課税(守護役)を求めるようになります。
その中には、人夫役もあれば段銭という課税もあります。これに対して百姓たちは、それもまけてくれという形で、守護に対する抵抗運動を見せるようになります。その中には、守護方の武力が領内に入つてくるのをやめて欲しい、出ていつてくれというような、政治的な動きも出てきます。
 応仁の乱のころからは一向一揆も起こってきます。
有名なものは加賀の一向一揆で守護の富樫(とがし)氏を殺したのはよく知られています。それだけではなく、近畿地方から信長の本拠である近江・美濃、尾張・伊勢、あるいは播磨のほうにかけ広く一向一揆が起こります。一向一揆は土地の領主には年貞を出さない、本願寺に出すというような動きをとりますが、実際は農民闘争という性質が強いと研究者は考えています。                   
どうして15世紀に新しい社会層が登場してきたのでしょうか。
その要因の一つとして、研究者がとりあげるのが経済問題です。
中世後期の経済社会を次のように簡略化してとらえます。
①従来は地方で生み出された富は年貢として都に集められ、貴族たちが消費しするという律令時代以来のシステムが機能していた
②そのため地方に残る富は乏しく、地頭の分け前程度が残るだけだった。
④地頭も質素な家に住んで、耕地開発に務めるが、まだまだ生活レベルは低く、自給自足的な生活を送っていた
⑤ところが15世紀初めの義満の時代の頃になると、富が地方に残されるようになってくる
 これは別の表現だと「年貢が地方から中央へ送られなくなる」ということになります。
同時に、地方経済の台頭の背景には、地方市場の発達があると研究者は指摘します。

室町にかけての商業・貨幣流通
室町時代の商業活動の発展

例えば農民の中でいろんな農作物を加工して売るような活動が盛んになります。
農民の副業としての農産物の加工業の誕生です。例えば大和あたりの農村地帯では、素麺がさかんに作られるようになります。麦をひいて加工したもので、今でも三輪素麺として有名です。それから油、特に灯油です。これは当時としては非常に重要な商品だったようです。京都から大阪に行く途中の山崎に離宮八幡という神社があります。石清水八幡の離れ宮です。その離官八幡に身分的に所属してこれに仕える神人が、荏胡麻油を絞って京都に売る特権を独占的に手に入れます。座組織をつくって原料買付・絞油を行ない、京都への油の供給はここが一手に掌握します。
 室町時代になると油の需要が高まり、大阪の周辺から播磨とか美濃・近江など至るところで油を絞って、それを商品として売る動きが盛んになります。
そのために離宮八幡の伝統的な座の権利、例えば原料の買人れ、油しぼり、そして商品の販売権などは新しく起こってきた各地の絞油業者、あるいは油の販売業者たちと各地で対立を起こすようになります。そういうことを見ても、絞油業が近畿周辺の農村に、広く展開するようになったことが裏付けられます。

室町時代の特産品
           室町時代の特産品

 地場産業として伝わっている、瀬戸物・美濃紙・越前紙などは、室町時代になって発展したものです。
こうして農村にも富が残るようになります。そうすると、その蓄えた資本で土地を買う、山野利用や用水の権利を握るようになります。財力を踏み台にして村の中で自分の立場を強めるとともに、守護や国人にむすびついて地侍化し、村の中で発言力を持つ者に成長して行きます。
 さらに市場や貨幣との接触が始まると、人々のものの考え方も合理的になっていきます。それが不作のときには年貢の減免というような領主に対する要求を、大胆におし出す動きにつながります。さらには領主が必要な時々にかけてくる夫役なども、銭で済ませることを認めさせます。このように中世の経済的成長で財力を得た富裕層があらたな指導権を握るようになり、農村全体に経済的・社会的な活気が見られるようになったことを押さえておきます。

鎌倉室町の貨幣流通策
鎌倉・室町時代の貨幣流通

 農村に富が残るようになると、いままでは都周辺で活動していた鍛冶犀とか鋳物など職人たちの中には地方にも下ってくるようになります。
それまでの鋳物師は、巡回や出職という型の活動をとっていました。それが特定の農村に定住する者もでてきます。こうして地方が一つの経済圏としてのまとまりを形成していきます。定期市も月三回、六回と立つようになり、分布密度も高くなります。それが地方経済圏の成立につながります。
これは広い視野から見ると、列島の経済社会の仕組みが、京都中心の求心的で中央集中的なシステムから、地方分権的な方向に姿を変えていたのです。そういう中で、守護、国人、地侍、百姓たちが力を伸ばしていくのです。いままでの荘官や地頭は、中央の貴族、寺社、将軍などに仕えなければ、自分の地位そのものが確保できませんでした。それにと比べると、おおきな違いです。
以上をまとめておきます。
①律令国家以来の地方から京都への一方的収奪のいきずまり
②農村加工品や定期市など地方経済の形成
③地方経済の成長とともに、守護・国人・地侍の新しい社会層の台頭
④農村における惣村の形成。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
永原慶二 中世動乱期に生きる  戦国時代の社会と秩序 衆中談合と公儀・国法

河野氏・湯築城年表
戦国初期の伊予

 前回は伊予の河野氏が守護職という地位にありながら、戦国大名としての領国統治策が弱かった要因として、次のような点を挙げました。
①河野氏は、室町幕府の中では家格が低く、相次ぐ中央の戦争に切れ日なく動員されたこと。
②そのため伊予を不在にすることが多く、領国支配体制の強化がお留守になったこと
③別の見方をすると瀬戸内海交易で得た資本が、領国統治強化に使われずに、幕府の軍事遠征費として使用された
 これが河野氏が領国支配体制を強めていくためには大きなマイナス要因になったとしました。

さて、河野氏の室町幕府の将軍とのつきあい方には、ある特徴があると研究者は指摘します。今回は、河野氏の足利将軍との関係について見ていくことにします。テキストは、「永原啓二   伊予河野氏の大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p」です。
河野氏は、守護であるという地位にかなりこだわりを持ち続け、これを自分の立脚基盤にしようとしたようです。
 河野氏は戦国時代の終わりのころになっても、将軍に贈答を送り続けます。
1 秋山源太郎 haitaka

ハイタカ
具体的には「ハイタカ(鷹)」という猛禽類を贈る風習を止めませんでした。鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられましたが、将軍が使っていたのはハイタカでした。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。贈答用のハイタカは領内の森林で捕らえられ、鷹匠が飼育し、狩りの訓練もしたもので、手間暇と費用のかかる最高ランクに近い贈答品だったようです。

地方の大名たちが鷹を捕らえて将軍に送るというのは、ひとつの儀礼で、忠誠心のあかしを示すもので、頻繁に行われていました。
河野氏はハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っています。その結果、将軍とのやりとりが将軍のじきじきの手紙として、河野家関係の文書の中に残っているようです。

湯築城 河野氏
河野氏の居城 湯築城(松山市)
応仁の乱以降、戦国の動乱に入ると、多くの大名たちがこれを機会に幕府体制から離脱するという動きをとりだします。守護クラスの者でも幕府体制からの離脱する動きが増えます。
そんな中で河野氏が戦国時代になっても、将軍とのつながりを大事にしていたのはどうしてでしょうか。
それは幕府との結び付きを持つことによって、自分の立場を有利に計ろうと考えていたようです。河野氏は伊予の守護とは云っても難しい立場にありました。例えば伊予を取り巻く情勢を見てみると、次のような勢力に囲まれていました。

大洲城 ~伊予国攻防の歴史と美しい木造天守 | 戦国山城.com
①東 讃岐・阿波の細川氏という室町幕府で最も大きな勢力をもった勢力の東予侵入
②北 毛利、小早川氏の力の南下
③西 山名・大友の圧力
④南 土佐の長宗我部元親の北上
河野氏は大国の間に挟まれた小国の悲哀を味わい続けます。

それに加えて最初に見たように、幕府の動員に従って対外遠征を繰り返したために、領国支配体制は強化できず、国内はバラバラでした。河野氏は伊予国の守護ですが、実際には国全体に力が及ばないという弱みがあります。そのためにとられのが「幕府と強く結び付く」という外交方針だったのかもしれません。自分を幕府に結び付け、その権威に寄り掛かつて自分の弱い立場を補強しようとする手法を選んだと研究者は考えています。
当時、大名領国を形成しようとする指導者の中には、次の2つのタイプがいました。
①守護職を早くから得た家柄の出身者で、戦国大名として大きくなっても、守護であるということにこだわりを持ち、幕府との結び付きという点に自分の価値を見いだそうとする人。
②早々と幕府体制から離脱して、自分の実力で領国体制を作り出そうとする人
マロ眉&公家風のルックスから劇的変化!『信長の野望』に見る“今川義元”グラフィックの変遷<画像11 / 62>|信長の野望 出陣 Walker
今川義元(公家風衣装)

戦国大名の中で①の例にふさわしいのは、駿河の今川氏でしょう。
今川義元は信長に倒されましたが、南北時代らの駿河の守護でした。室町時代に入ってからは、遠江の国の守護職も手に人れます。今川氏は守護として京勤務が義務づけられていましたから、ずっと都にいて、幕政の中でも重きをなしていました。その一族には今川了俊のような文化人も輩出します。これは都との関係が深いから生まれることです。歴代の今川氏は、京都の公家とも婚姻関係を持ち、文化的なつながりを保ちました。お歯黒をつけて公家風の衣装を纏い、都とのつながりを大事にしました。そして義元は大軍を率いて上洛しようとします。しかし、桶狭間で負けると、その後はほとんど立ち直れませんでした。義元のあと氏真のときには、為す術もない状態で武田氏に占領されてしまいます。これは今川氏の領国支配の根が浅かったからだと研究者は指摘します。
長宗我部元親1

土佐の長宗我部元親を見ておきましょう。
彼も領国支配には相当に力を人れていたようです。例えば、秀吉に征服された1585(天正13)年以降になって、秀吉の意向に沿った形で検地をやります。これは長宗我部自身の独自の検地ですから、秀古の役人が直接入ってきてやったものではありません。その時に作られたのが『長宗我部地検帳』で、土佐一国にわたって綿密に行われています。国内の職人たちが一人ひとり調べ上げて記されています。
長宗我部検地帳2
長宗我部地検帳

例えば「鍛冶職人」の項目を見ると、各郡に鍛冶がたくさんいたことが分かります。それが江戸時代になると「土佐の農鍛冶」として、全国的な市場を視野に入れた商品生産につながったと研究者は考えています。
木挽職人

 その他に「大鋸職人」、「結桶職人」もいます。
酒を入れたり、水を入れるのは、それまでは壷や甕でした。ところが大鋸が登場すると、タテ板製材が容易になります。それ以前は材木をくさびで割って、ちょうなで削っていたわけです。それが大鋸挽きだと、縦の細い材もつくりやすくなります。

樽職人2


そこに「結桶」がひろまると、これは「革新的変革」を引き起こす素地ができます。酒などを人れて運ぶのが壷・甕から木の桶に代ると輸送条件はぐっとよくなります。酒などは檜垣船で長距離輸送が可能になって、全国展開が開けてきます。領国支配というのは、そこまでの視野を持って、職人たちまでをしっかり組織していかないとできるものではないのです。研究者は次のように述べます。「経済力というものは、民衆が担っているものだが、それを組織し掌握するのは大名権力であった。」
 『長宗我部地検帳』からは、そういう方向を長宗我部氏が目指していたことが見えて来ます。だからこそ、長宗我部氏は比較的短期で、あれだけの力を持つことが出来たと研究者は考えています。
それと比べると、河野氏の場合いわゆる大名領国政策らしいものが見えてこないようです。
もちろん河野氏が全然やってなかたということではありません。例えば、応仁の乱が終わったころ、の15世紀後半になると、石手寺を再興したときの作業の分担関係の中に、「河野公の大工」という人物が出てきます。ここからは、河野氏に直属する番匠、大工がいて、職人編成をやっていたとが分かります。16世紀半ばの戦国時代の真っ最中には「段別銭本行役」という役職が出てきます。ここからは河野氏も領内から段銭を取るために「段別銭本行」を置いていたことが分かります。段銭は、守護が領国大名化するとき公的立場をしめすシンボリックな税目でもあります。
 このように河野家の出した文書からは、領国支配のための「本行人の制度」や、「段銭を徴収する体制」、「領国経済を掌握するための御用職人の編成」などがあったことが分かります。何もしていないとは云えないようです。
戦国時代には商人をどう組織するかが、ひとつのキーポイントだったようです。
兵糧や武器を調達することは、一国内だけではなかなか難しくなります。戦争のときには各出先でそれらが調達出来るようにしなければなりません。そのためには、国内を越えた活動範囲を持つ有力な商人を、国内に招致したり、御用商人に編成したりしておく必要がありました。そういう商人は、有力大名には必ずいました。先ほどは領国支配体制が不十分だったとした今川氏も、友野・松本と言う御用商人の活動が知られています。北条氏には賀藤・宇野、上杉では蔵田、越前の浅井氏には橘岸がいました。さらに織田信長には伊藤という商人頭がいて、商人を統括して、戦争のときには各地で兵糧を調達出来るような体制が作られていました。そういう点について、河野氏に関してはいまのところ見られないようです。
 河野氏はどうも守護であるということにこだわることによって、幕府との関係強化=中央権力依存型となり、実力を直接自らの手で作り上げていくという点においては、立ちおくれたと研究者は指摘します。

  以上をまとめておきます。
①河野氏は、戦国時代末になっても、足利将軍との贈答関係を緊密に続けた。
②具体的にはハイタカを、信長に追われた最後の将軍足利義昭のときまで贈っている。
③その背景には、河野氏を取り巻く内外の苦しい状況があった。
④河野氏は幕府との結び付きを強めることによって、自分の立場を有利に計ろうという政治的な思惑があった。
⑤守護へこだわりが「幕府との関係強化=中央権力依存型」志向となり、自分の実力で領国体制を作り出そうとする動きを弱めた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

中世動乱期に生きる : 一揆・商人・侍・大名(永原慶二 著) / 南陽堂書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献       永原啓二   伊予河野氏のの大名領国・小型大名の歩んだ道   中世動乱期に生きる91p
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1 金毘羅 賢木門狛犬1
元親が寄進した賢木門(逆木門) 長宗我部元親の一夜門とされる

讃岐のおける長宗我部元親の評判はよくありません。江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の由来は「長宗我部元親の兵火により焼かれる」「そのため詳しい由来は不明」という記録で埋め尽くされています。今回はどうしてそうなったのかを探ってみたいと思います。テキストは「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」

2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
金毘羅大権現 (金毘羅参詣名所図会 19世紀半ば)
以前に元親が松尾寺に仁王(二天)堂(現賢木門)を寄進したことをお話ししました。
その後、万治三年(1660)には、京仏師田中家の弘教宗範の彫った持国・多門の二天が安置されると、二天門と呼ばれるようになります。この門の変遷を押さえておきます。
 松尾寺仁王堂 → 二天門 → 逆木門 → 賢木門

この二天門について大坂の出版者である暁鐘成が刊行した金毘羅参詣名所図会には、次のように記します。

2-18 二天門
金毘羅参詣名所図会(1847年) 金毘羅大権現の二天門の記述
 二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した
ここには長宗我部元親のことが「元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。」と評価されています。

ところがそれから数年後に、讃岐出身者による『讃岐国名勝図会』は、二天門の建設経緯を次のように記すようになります。

長宗我部元親と二天門 讃岐国名勝図会
長宗我部元親と二天門(讃岐国名勝図会 1854年)
上を書き起こしておくと
「(長宗我部元親の)兵威大いに振ひて当国へ乱入し、西郡の諸城を陥んと当山を本陣となし、軍兵山中に充満して威勢凛々として屯せり。その鋒鋭当たりがたく、あるいは和平して縁者となり、あるいは降をこいて麾下に属する者少なからず。
 これによりて勇猛増長し、神社仏閣を事ともせず、この二天門は山に登る要路なれば、軍人往来のさわりなれどとて、暴風たちまちに起こり、土砂を吹き上げ、折節飛びちる木の葉数千の蜂となりて元親が陣営に群りかかりければ、士卒ども震ひ戦き、その騒動いはんかたなし。
 元親は聡明の大将なれば神罰なる事を頓察し、馬より下りて再拝稽首して、兵卒の乱妨なれば即時に堂宇経営仕らんと心中に祈願せしかば、ほどなく風は静まりけれども、二天門は焼けたりけり。時に天正十二年十月九日の事なり。
 ここにおいて数百人の工匠を呼び集め、その夜再興せり。然るに夜中事なれば、誤りて材を逆に用ひて造立なしける。ゆえに世の人よびて、長宗我部逆木の門といへり。今の門すなはちこれなり」
意訳変換しておくと
「(長宗我部元親の)は兵力を整えて讃岐へ乱入し、讃岐西部の諸城を落城させるために金比羅を本陣とした。そのため軍兵が山中に充満して、威勢は周囲にとどろいた。そのため、ある者は和平を結び婚姻関係を結んで縁者となり、ある者は、軍門に降り従軍するものが数多く出てきた。
 こんな情勢に土佐軍は増長し、神社仏閣を蔑ろにして、金比羅の二天門は山に登る際の軍人往来の障害となると言い出す始末。 すると暴風がたちまちに起こり、土砂を吹き上げ、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親の陣営を襲った。兵卒たちの騒動は言葉にも表しがたいほどであった。
 元親は聡明な大将なので、これが神罰であることを察して、馬から下りて、神に頭を下げ礼拝して、兵卒の狼藉を謝罪し、即時に堂宇建設を心中に祈願した。すると、風は静まったが、二天門は焼けてしまった。これが天正十二年十月九日の事である。
 そこで数百人の工匠を呼び集め、その夜一晩で再興した。ところが夜中の事なので、用材の上下を逆に建てってしまった。そこで後世の人々は、これを長宗我部の「逆木の門」と呼んだ。これが今の二天門である。

これを要約しておくと
1 元親軍が金比羅を本陣となし「軍兵山中に充満」していたこと。
2 軍隊の往来の邪魔になるので、二天門(仁王門)を壊そうとしたこと。
3すると暴風が起き、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親陣営に襲いかかってきたこと
4元親はこれを神罰を理解して、兵士の非礼をわびて、謝罪として堂宇建立を誓った
5 元親は焼けた二天門を一晩で再興したが、夜中だったので柱を上下逆に建ててしまった。
6 そこで人々はこの門を長宗我部の「逆木の門(後に賢木門)と呼んだ。

土佐軍が進駐し、二天門を焼いたので長宗我部元親が一夜で再建したという話になっています。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
   金刀比羅宮 金堂と二天門(仁王堂)(讃岐国名勝図会)

しかし、この讃岐国名勝図会の話は、事実を伝えたものではありません。フェイクです。
二天門棟札 長宗我部元親
長宗我部元親の仁王堂棟札

仁王堂建立の根本史料である棟札の写しがあるので、みておきましょう。表(右側)中央に、次のようにあります。

上棟奉建松尾寺仁王堂一宇 天正十二(1584)年十月九日

そして大檀那として長宗我部元親に続いて、3人の息子達の名前があります。また、大工・小工・瓦大工・鍛治大工などを多度津・宇多津から集めて、用意周到に仁王門を建立しています。長宗我部元親は、4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼のために建立されたのが仁王堂なのです。ここからは、「一夜の内に建てた」というのは「虚言」であることが分かります。す。また、元親が建立寄進するまでは仁王門はありません。ないもの焼くことはできません。元親が火をかけさせたというのは、全くの妾説です。元親は讃岐統一の成就、天下統一の野望を願って、松尾寺の仁王堂を建立寄進したのです。
  ここで私が考えたいのは、次の2点です。
①近世後半の讃岐には、仁王堂建設に関する正しい情報がどうして伝わらなかったのか? 
②事実無根の「逆(賢)木門」伝説がなぜ生まれたのか?
②についてまず見ていきます。『讃岐国名勝図会』の中にも、もうひとつ長宗我部元親と金毘羅の記事が載せられていいます。。

長宗我部元親 讃岐国名勝図会
長宗我部元親 神怪を見る図(讃岐国名勝図会)
ここでは内容は省略しますが、この物語は香川庸昌が書いた『家密枢鑑』(近世中期)が初見で、そこには次のように記されています
元親大麻象頭山に尻而陣取タリシガ 南方ヨリ夥しく礫打、アノ山何山ゾト問フ処 知ル兵ノ金毘羅神ナリト云フ。元親然レバ登山シテ為陣場、此山二陣ヲ移シタ其夜ヨリ元親狂乱七転八倒シテ、ヤレ敵が来ル 今陣破ルル卜乱騒シ、水モ萱モ皆軍勢二見ヘタリ。土佐守ノ重臣ドモ打寄り連署願文ニテ元親本快ヲ願フ。為立願四天王卜門ヲ可建各抽丹誠祈誓シケル無程シテ為快気難有尊神卜、土州勢モ始メテ驚怖セリ」
意訳変換しておくと
長宗我部元親は、大麻象頭山の麓に陣を敷いたところ、南方から多くの小石が飛んでくる。元親が「あの山は、なんという山か」と問うと、金毘羅神の山だと云う。そこで、元親は金毘羅山に登って陣場とした。
 この山に陣を移した夜に、元親は狂乱し七転八倒状態になって「敵が来ル、今に陣破ルル」と騒ぎだし、水さえも軍勢に見える始末であった。そこで、重臣たちが集まって、連署願文を書いて元親の本快を願った。その際に、回復した時には四天王門を建立することを誓願したところ、しばらくすると元親は快気回復した。そこで土佐勢たちも有難き神と驚き怖れた。
要約しておくと
① 元親が金毘羅神の神威で狂乱状態になったこと
② 元親回復を願って四天王門建立の願掛けを行ったこと

この物語の影響を受けて『讃岐国名勝図会』の物語は書かれます。
そこには金毘羅神に乱暴しようとした元親の軍勢が、神罰によって暴風・蜂の大群に襲われた物語となり、あわてて柱を逆さにして建てた逆木伝説が追加されたようです。ここには松尾寺創設過程で長宗我部元親が果たした大きな役割は、まったく無視されています。知らなかったのかもしれません。どちらにしても長宗我部元親を貶め、金毘羅大権現の神威を説くという手法がとられています。200年以上も立つと、このように「歴史」は伝承されていくこともあるようです。
 これは「信長=仏敵説」と同じように、「長宗我部元親焼き討説」が数多く讃岐で語られるようになった結果かもしれません。
江戸時代の僧侶の「元親=仏敵説」版の影響の現れとしておきます。同時に、讃岐の民衆たちのあいだに「土佐人による讃岐制圧」という事実が「郷土愛」を刺激し、反発心がうまれたのかもしれません。それらが「元親=仏敵説」と絡み合って生まれた物語かもしれません。どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、元親悪者説が多いことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①1579年)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を松尾寺に奉納。
②1584年10月9日に、長宗我部元親は「四国平定成就返礼」のために仁王堂(現二天門)を奉納
③長宗我部元親は、松尾寺(金比羅)を四国の宗教センターとして整備・機能させようとしていた。
④それが後の生駒家や松平家との折衝でプラスに働き大きな保護を受けることにつながった。
⑤ところが讃岐の近世後期の書物は「元親=仏敵説」で埋められるようになり、正当な評価が与えられていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」
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16世紀前半の天文年間になると阿波三好氏が讃岐へ侵入を開始し、東讃の国人衆は三好氏の支配下に入れられていきます。その拠点となったのが三好一存を養子として迎えた十河氏です。

十河氏2


十河氏の拠点は香川郡の十河城でした。
こうして十河氏を中心に髙松平野への三好氏の進出が行われます。しかし、この進展を記したものは『南海通記』以外にありません。そして、戦後に書かれた町村史の戦国史は、これに拠るものがおおいようです。また、その後の三好氏による天霧城の香川氏攻めは詳細に記述されているので、軍記物としても読めて人気がありました。しかし、その内容については新たな史料の発掘によって、事実ではないとされるようになっています。今回は南海通記のどこが問題なのかを見ていくことにします。テキストは 橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P

最初に、『南海通記』の三好義賢(実休)による天霧城攻め記述を見ておきましょう。
  (前略)香川五郎刑部大夫景則ハ伊予ノ河野卜親シケレハ是二牒シ合セテ安芸ノ毛利元就二属セント欲ス。是二由テ十河一存ノ旨二与カラス。元就ハ天文廿年二大内家二亡テ三年中間アツテ。弘治元年二陶全菖ヲ討シ。夫ヨリ三年ニシテ安芸、備後、周防、長門、石見五ケ国ヲ治テ、今北国尼子卜軍争ス。其勢猛二振ヘハ香川氏中国二拠ントス。三好豊前守入道実休是ヲ聞テ、永禄元年八月阿、淡ノ兵八千余人ヲ卒シテ、阿波国吉野川二至り六条ノ渡リヲ超テ勢揃シ、大阪越ヲンテ讃州引田浦二到り。当国ノ兵衆ヲ衆ム寒川氏、安富氏来服シテ山田郡二到り十河ノ城二入リ、植田一氏族ヲー党シテ香川郡一ノ宮二到ル。香西越後守来謁シテ計ヲ定ム、綾ノ郡額ノ坂ヲ越テ仲郡二到リ、九月十八日金倉寺ヲ本陣トス。馳来ル諸将ニハ綾郡ノ住人羽床伊豆守、福家七郎、新居大隅守、滝官弥―郎、滝宮豊後守、香川民部少輔、小早川三郎左衛門鵜足郡ノ住人長尾大隅守、新目弾正、本目左衛詞住、山脇左馬充、仲行事、大河、葛西等三好家ノ軍二来衆ス。総テー万人千人、木徳、柞原、金倉二充満ス。一陣々々佗兵ヲ交ス営ヲナス。阿、淡ノ兵衆糧米ハ海路ヨリ鵜足津二運送ス。故ニ守禁ノ兵アリ。 実休此度ハ長陣ノ備ヲナシテ謀ヲ緞クス。
九月十五日実休軍ヲ進メテ多度ノ郡二入ル、善通寺ヲ本陣トス。阿、讃ノ兵衆仲多度ノ間二陣ヲナス。
  ここまでを意訳変換しておくと 
 (前略)香川五郎景則は伊予の河野氏と親密であったので、河野氏と共に安芸の毛利元就に従おうとした。そのため三好氏一族の十河一存による讃岐支配の動きには同調しようとしなかった、元就は天文20年に大内家を滅亡させて、弘治元年には陶氏を滅ぼし、安芸、備後、周防、長門、石見の五ケ国を治めることになった。そして、この時期には尼子と争うようになっていた。毛利氏の勢力の盛んな様を見て、香川氏は毛利氏に従おうとした。
 三好入道実休はこのような香川氏の動きを見て、永禄元年八月に阿波、淡路の兵八千余人を率いて、吉野川の六条の渡りを越えた所で馬揃えを行い、大阪越から讃州引田に入った。そこに東讃の寒川氏、安富氏が加わり、十河存保の居城である山田郡の十河城に入った。ここでは植田一氏族加えて香川郡の一ノ宮に至った。ここには香西越後守が来謁して、戦略を定めた。その後、綾郡の額坂を越えて仲郡に入り、九月十八日には金倉寺を本陣とした。ここで加わったのは綾郡の羽床伊豆守、福家七郎、新居大隅守、滝宮弥―郎、滝宮豊後守、香川民部少輔(西庄城?)、小早川三郎左衛門、鵜足郡の長尾大隅守(長尾城)、新目弾正、本目左衛詞住、山脇左馬充、仲行事、大河、葛(香)等が三好軍に従軍することになった。こうして総勢1,1万人に膨れあがった兵力は、木徳、柞原、金倉周辺に充満した。阿波、淡路ノ兵の兵糧米は、海路を船で鵜足津(宇多津)に運送した。そのために宇多津に守備兵も配置した。 実休は、この戦いででは長陣になることをあらかじめ考えて準備していた。こうして、九月十五日に、実休軍は多度郡に入って、善通寺を本陣とした。そして阿波や、讃岐の兵は、那珂郡や多度軍に布陣した。

内容を補足・整理しておきます。
①天文21年(1552)三好義賢(実休)は、阿波屋形の細川持隆を謀殺し、阿波の支配権を掌握。
②その後に、十河家に養子に入っていた弟の十河一存に、東讃岐の従属化を推進させた。
③その結果、安富盛方と寒川政国が服属し、やがて香西元政も配下に入った。
④しかし、天霧城の香川景則は伊予の河野氏と連絡を取り、安芸の毛利元就を頼り、抵抗を続けた。⑤そこで実休は永禄元年(1558)8月、阿波・淡路の兵を率いて讃岐に入り、東讃岐勢を加えて9月に那珂郡の金倉寺に本陣を置いた。
⑥これに中讃の国人も馳せ参じ、三好軍は1,8万の大部隊で善通寺に本陣を設置した。

これに対して天霧城の香川景則の対応ぶりを南海通記は、次のように記します
香川氏ハ其祖鎌倉権五郎景政ヨリ出テ下総国ノ姓氏也。世々五郎ヲ以テ称シ景ヲ以テ名トス。細川頼之ヨリ西讃岐ノ地ヲ賜テ、多度ノ郡天霧山ヲ要城トシ。多度津二居住セリ。此地ヲ越サレハ三郡二入コトヲ得ス。是郡堅固卜云ヘキ也。相従兵将ハ大比羅伊賀守国清、斎藤下総守師郷、香川右馬助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門栄久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、秋山十郎左衛門其外小城持猶多シ。香川モ兼テ期シタルコトナレハ我力領分ノ諸士、凡民トモニ年齢ヲ撰ヒ、老衰ノ者ニハ城ヲ守ラシメ、壮年ノ者ヲ撰テ六千余人手分ケ手組ヲ能シテ兵将二属ス。香川世々ノ地ナレハ世人ノ積リヨリ多兵ニシテ、存亡ヲ共ニセシカハ阿波ノ大兵卜云ヘトモ勝ヘキ師トハ見ス。殊近年糧ヲ畜へ領中安供ス。
 
 意訳変換しておくと
香川氏は鎌倉権五郎景政が始祖で、もともとは下総国を拠点としていた。代々五郎を称して「景」という一時を名前に使っている。細川頼之から西讃岐の地を給付されて、多度郡天霧山に山城を築いて、普段は多度津で生活していた。(天霧城は戦略的な要地で)ここを越えなければ三野郡に入ることはできない。そのため三野郡は堅固に守られているといえる。香川氏に従う兵将は大比羅(大平)伊賀守国清、斎藤下総守師郷、香川右馬助、香川伊勢守、香川山城守、三野菊右衛門栄久、財田和泉守、右田右兵衛尉、葛西太郎左衛門、秋山十郎左衛門の他にも小城の持主が多い。三好氏の襲来は、かねてから予期されていたので戦闘態勢を早くから固めていた。例えば年齢によって、老衰の者には城の守備要員とし、壮年の者六千余人を組み分けして兵将に振り分けていた。また香川氏の支配領域は豊かで、人口も多く「祖国防衛戦」として戦意も高かった。また。城内には兵糧米も豊富で長期戦の気配が濃厚であった。

こうして善通寺を本陣とする三好郡と、天霧城を拠点とする香川氏がにらみ合いながら小競り合いを繰り返します。ここで不思議なのは、香川氏が籠城したとは書かれていないことです。後世の軍機処の中には、籠城した天霧城は水が不足し、それに気がつかれないように白米を滝から落として、水が城内には豊富にあると見せようとしたというような「軍記もの」特有の「お話」が尾ひれをつけて語られたりしています。しかし、ここには「老衰の者を城の守備要員とし、壮年の者六千余人を組み分けして兵将に振り分けた」とあります。 また、三好軍は兵力配置は、天霧山の東側の那珂・多度郡だけです。南側の三野郡側や、北側の白方には兵が配置されていません。つまり天霧城を包囲していたわけではないようです。籠城戦ではなかったことを押さえておきます。
天霧城攻防図
天霧城攻防図(想像)
南海通記には香川氏の抵抗が強いとみた三好側の対応が次のように記されています。
故二大敵ヲ恐ス両敵相臨ミ其中間路ノ程一里ニシテ端々ノ少戦アリ。然ル処二三好実休、十河一存ヨリ香西越後守ヲ呼テ軍謀ヲ談シテ日、当国諸将老巧ノ衆ハ少ク寒川、安富ヲ初メ皆壮年ニシテ戦ヲ踏コト少シ、貴方ナラテハ国家ノ計謀ノ頼ムヘキ方ナシ、今此一挙是非ノ謀ヲ以テ思慮ヲ遣ス。教へ示シ玉ハ、国家ノ悦ヒコレニ過ヘカラストナリ。香西氏曰我不肖ノ輩、何ソ国家ノ事ヲ計ルニ足ン。唯命ヲ受テーノ木戸ヲ破ヲ以テ務トスルノミ也トテ深ク慎テ言ヲ出サス。両将又曰く国家ノ大事ハ互ノ身ノ上ニアリ。貴方何ソ黙止シ玉フ、早々卜申サルヽ香西氏力曰愚者ノー慮モ若シ取所アラハ取り玉フヘシ。我此兵革ヲ思フエ彼来服セサル罪ヲ適ルノミナリ。彼服スルニ於テハ最モ赦宥有ヘキ也。唯扱ヲ以テ和親ヲナシ玉フヘキコト然ルヘク候。事延引セハ予州ノ河野安芸ノ毛利ナトラ頼ンテ援兵ヲ乞二至ラハ国家ノ大事二及ヘキ也。我香川卜同州ナレハ隔心ナシ。命ヲ奉テ彼ヲ諭シ得失ヲ諭シテ来服セシムヘキ也。

  意訳変換しておくと
こうして両軍は互いににらみ合って、その中間地帯の一里の間で小競り合いに終始した。これを見て三好実休は弟の十河一存に香西越後守(元政)呼ばせて、とるべき方策について次のように献策させた。
「讃岐の諸将の中には戦い慣れた老巧の衆は少ない。寒川、安富はじめ、みな壮年で戦闘経験が少い。貴方しか一国の軍略を相談できる者はいない。この事態にどのように対応すべきか、教へていただきたい。これに応えて香西氏は「私は不肖の輩で、どうして一軍の指揮・戦略を謀るに足りる器ではありません。唯、命を受けて木戸を破ることができるだけです。」と深く謹みの態度を示した。そこで実休と一存は「国家の大事は互の身上にあるものです。貴方がどうして黙止することがあろうか、早々に考えを述べて欲しい」と重ねて促した。そこで香西氏は「愚者の考えではありますが、もし意に適えば採用したまえ」と断った上で、次のような方策を献策した。
 私は現状を考えるに、香川氏が抵抗するのは罪を重ねるばかりである。もし香川氏が降るなら寛容な恩赦を与えるべきである。これを基本にして和親に応じることを香川氏に説くべきである。この戦闘状態が長引けば伊予の河野氏や安芸の毛利氏の介入をまねくことにもなりかねない。それは讃岐にとっても不幸なことになる。これは国家の大事である。私は香川氏とは同じ讃岐のものなので、気心はしれている。この命を奉じて、香川氏に得失を説いて、和睦に応じるように仕向けたい。

要点を整理しておきます。
①善通寺と天霧山に陣して、長期戦になったこと、
②三好実休は長期戦打開のための方策を弟の十河一存に相談し、香西越後守の軍略を聞いたこと
③香西越後守の献策は、和睦で、その使者に自ら立つというものです。
ここに詳細に描かれる香西越後守は、謙虚で思慮深い軍略家で「諸葛亮孔明」のようにえがかれます。このあたりが一次資料ではなく「軍記もの」らしいところで、名にリアルに描かれています。内容も香西氏先祖の自慢話的なもので、南海通記が「香西氏の顕彰のために書かれている」とされる由縁かも知れません。18世紀初頭に南海通記が公刊された当時は、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国(讃岐)の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたことは前々回にお話ししました。

 香西越後守の和議献策を受けて、三好実休のとった行動を次のように記します。
実休ノ曰、我何ソ民ノ苦ヲ好ンヤ。貴方ノ弁才ヲ以テ敵ヲ服スルコトラ欲スルノミ、香西氏領掌シテ我力陣二帰り、佐藤掃部之助ヲ以テ三野菊右衛門力居所へ使ハシ、香川景則二事ノ安否ヲ説テ諭シ、三好氏二服従スヘキ旨ヲ述フ、香川モ其意二同ス。其後香西氏自ラ香川力宅所二行テ直説シ、前年細川氏ノ例二因テ三好家二随順シ、長慶ノ命ヲ受テ機内ノ軍役ヲ務ムヘシト、国中一条ノ連署ヲ奉テ、香川氏其外讃州兵将卜三好家和平ス。其十月廿日二実休兵ヲ引テ還ル。其日ノ昏ホトニ善通寺焼亡ス。陣兵去テ人ナキ処二火ノコリテ大火二及タルナルヘシ。

意訳変換しておくと
実休は次のように云った。どうして私が民の苦しみを望もうか。貴方の説得で敵(香川氏)が和議に応じることを望むだけだ。それを聞いて香西氏は自分の陣に帰り、佐藤掃部之助を(香川氏配下の)三野菊右衛門のもとへ遣った。そして香川景則に事の安否を説き、三好氏に服従することが民のためなると諭した。結局、香川も和睦に同意した。和睦の約束を取り付けた後に、香西氏は自らが香川氏のもとを訪ねて、前年の細川氏の命令通りに、三好家に従い、三好長慶の軍令を受けて畿内の軍役を務めるべきことを直接に約束させた。こうして国中の武将が連署して、香川氏と讃州兵将とが三好家と和平することが約束された。こうして10月20日に実休は、兵を率いて阿波に帰った。その日ノ未明に、善通寺は焼した。陣兵が去って、人がいなくなった所に火が残って大火となったのであろう。

ここには香川氏が三好実休の軍門に降ったこと、そして畿内遠征に従軍することを約したことが記されています。注意しておきたいのは、天霧城が落城し、香川氏が毛利氏にを頼って落ちのびたとは記していないことです。

南海通記に書かれている永禄元年(1558)の実休の天霧城攻めの以上の記述を裏付けるとされてきたのが次の史料(秋山文書)です。

1 秋山兵庫助 麻口合戦2

意訳変換しておくと
今度の阿波州(三好)衆の乱入の際の十月十一日麻口合戦(高瀬町麻)においては、手を砕かれながらも、敵将の山路甚五郎討ち捕った。誠に比類のない働きは神妙である。(この論功行賞として)三野郡高瀬郷の内、以前の知行分反銭と同郡熊岡・上高野御料所分内丹石を、また新恩として給与する。今後は全てを知行地と認める。この外の公物の儀は、有り様納所有るべく候、在所の事に於いては、代官として進退有るべく候、いよいよ忠節御入魂肝要に候、恐々謹言

年紀がないので、これが永禄元(1558)年のものとされてきました。しかし、高瀬町史編纂過程で他の秋山文書と並べて比較検討すると花押変遷などから、それより2年後の永禄3年のものと研究者は考えるようになりました。冒頭に「阿州衆乱入」の文言があるので、阿波勢と戦いがあったのは事実です。疑わなければならないのは、三好氏の天霧城攻めの時期です。

永禄3、 4年に合戦があったことを記す香川之景の発給文書が秋山家文書にあります。
1 秋山兵庫助 香川之景「知行宛行状」
秋山家文書(永禄四年が見える)
 先ほどの感状と同じく、香川之景が秋山兵庫助に宛てた文書で、こちらは知行宛行状です。これには永禄4(1561)年の年紀が入っています。年号の「永禄四」は付け年号といって、月日の右肩に付けた形のものです。宛て名の脇付の「御陣所」とは、出陣先の秋山氏に宛てていることが分かります。次の戦いへの戦闘意欲を高めるために陣中の秋山兵庫助に贈られた知行宛行状のようです。 先ほどの麻口の戦いと一連の軍功に対しての論功行賞と新恩が秋山兵庫助にあたえられたものと研究者は考えています。兵庫助は、香川氏のもとで軍忠に励み、旧領の回復を果たそうと必死に戦った結果手にした恩賞です。この2つの文書からは、侵入してくる阿波三好勢への秋山兵庫助の奮闘ぶりが見えてきます。
しかし、ここからは南海通記の記述に対する疑問が生じます。
従来の定説は、永禄元(1558)年に阿波の三好氏が讃岐に侵攻し、天霧城攻防戦の末に三豊は、三好氏の支配下に収められたとされてきました。しかし、秋山文書を見る限り、それは疑わしくなります。なぜなら、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できるからです。つまり、この段階でも香川氏は、西讃地方において知行を宛行うことができたことをしめしています。永禄4(1561)年には、香川氏はまだ西讃地域を支配していたのです。この時点では、香川氏は三好氏に従属したわけではないようです。

また、1558年には三好実休は畿内に遠征中で、四国には不在であったことも一次資料で確認できるようになりました。
つまり、南海通記の「永禄元(1558)年の三好実休による天霧城攻防戦」というのはありえなかったことになります。ここにも南海通記の「作為」がありそうです。

それでは天霧城の籠城戦は、いつ戦われたのでしょうか。
それは永禄6(1563)年のことだと研究者は考えているようです。
三野文書のなかの香川之景発給文書には、天霧龍城戦をうかがわせるものがあります。永禄6(1563)年8月10日付の三野文書に、香川之景と五郎次郎が三野勘左衛門尉へ、天霧城籠城の働きを賞して知行を宛行った文書です。合戦に伴う家臣統制の手段として発給されたものと考えられます。
 この時点では三好実休は死去しています。三好軍を率いたのも実休ではなかったことになります。それでは、この時の指揮官はだれだったのでしょうか。それは三好氏家臣の篠原長房に率いられた阿波・東讃連合勢と研究者は考えています。実休の戦死で、その子長治が三好家の家督を継ぎますが、西讃岐へは篠原長房により侵攻が進められます。永禄7年(1564)、篠原長房は大野原の地蔵院に禁制を出すなど、西讃の統治を行っています。年表化しておくと次のようになります
永禄元年 実休の兄長慶が将軍足利義輝・細川晴元らと抗争開始。実休の堺出陣
永禄6年 篠原長房による天霧城攻防戦
永禄7年 篠原長房の地蔵院(観音寺市大野原)への禁制
ここからは『南海通記』の天霧城攻防戦は、年代を誤って記載されているようです。天霧籠城に至るまでの間に、香川氏と三好勢との小競り合いが長年続いていたが、それらをひとまとめにして天霧攻として記載したと研究者は考えています。
   以上をまとめておきます

①讃岐戦国史の従来の定説は、南海通記の記載に基づいて永禄元(1558)年に阿波の三好実休がその弟十河一存とともに丸亀平野に侵攻し、天霧城攻防戦の末に香川氏は降伏し、三好氏の支配下に収められた(或いは、香川氏は安芸の毛利氏の元へ落ちのびた)とされてきた。
②しかし、秋山家文書には、永禄3・4年に香川之景が秋山氏に知行宛行状を発給していることが確認できる。
③ここからは、永禄4(1561)年になっても、香川氏はまだ西讃地域を支配していたことが分かる。
④また1558年には三好実休は畿内に遠征していたことが一次資料で確認できるようになった。
⑤こうして1558年に三好実休が天霧城を攻めて、香川氏を降伏させたという南海通記の記載は疑わしいと研究者は考えるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
          橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P
関連記事

 南海通記は同時代史料でなく、伝聞に基づいて百年以上後に書かれたものです。誤りや「作為」もあることを前回までに見てきました。
  今回は南海通記が西讃岐守護代で天霧城主・香川氏について、どのように叙述しているのかをを見ていくことにします。テキストは「橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P」です。

最初に、西讃岐守護代としての香川氏について「復習」をしておきます。
香川氏は相模国香川荘の出身で、鎌倉権五郎景政の後裔なる者が来讃して香川姓を名乗ったとされます。香川氏の来讃について、次のような2つの説があります。
①『西讃府志』説 承久の乱に戦功で所領を安芸と讃岐に賜り移住してきた
②『全讃史』説  南北朝期に細川頼之に従って来讃した)
来讃時期については、違いがありますが居館を多度津に置いて、要城を天霧山に築城した点は一致します。

DSC05421天霧城

天霧城跡縄張図(香川県中世城館跡詳細分布調査報告)

 香川氏が史料上に始めて出てくるのは永徳元年(1381)になります。
香川彦五郎景義が、相伝地である葛原庄内鴨公文職を京都建仁寺の塔頭永源庵に寄進した記録です。(『永源記』所収文書)。細川頼之が守護の時に弟頼有は、守護代として讃岐に在国していて、香川景義は頼有に従って讃岐に在国しています。ここからは、この頃には香川氏は細川氏の被官となっていたことが分かります。

香川氏の系譜2
香川氏の系譜(香川県史)

次の文書は応永7年(1400)9月、守護細川満元が石清水八幡宮雑掌に本山庄公文職を引き渡す旨の遵行状を香川帯刀左衛門尉へ発給したものです(石清水文書)。ここからは、香川帯刀左衛門尉が守護代であったことが分かります。14世紀末には、香川氏は守護代として西讃岐を統治していたとがうかがえます。

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             蔭涼軒日録

『蔭涼軒日録』の明応2年(1493)6月条には、相国寺の子院である蔭涼軒を訪ねた羽田源左衛門が雑談の中で、次のように讃岐のことを語っています
①讃岐国は十三郡なり、②六郡香川これを領す、寄子衆また皆小分限なり、然りといえども香川とよく相従うものなり、③七郡は安富これを領す、国衆大分限者これ多し、然りといえども香西党首としてみな各々三味して安富に相従わざるものこれ多しなり

意訳変換しておくと。
①讃岐十三郡のうち六郡を香川氏が、残り七郡を安富氏が支配していること。
②香川氏のエリアでは、小規模な国人武将が多く、よくまとまっている
③安富氏のエリアでは、香西氏などの「大分限者」がいて、安富氏に従わない者もいる
15世紀末には、綾北郡以西の7郡を香川氏が領有していたことが分かります。讃岐の両守護代分割支配は、守護細川氏の方針でもあったようです。讃岐は細川京兆家の重要な分国でした。南北朝末以降は京兆家は常時京都に在京し、讃岐には不在だったことは以前にお話ししました。そのため讃岐は守護代により支配されていました。東讃守護代の安富氏は在京していましたが、香川氏は在国することが多かったようです。結果として、香川氏の在地支配は安富氏以上に強力なものになったと研究者は考えています。

天霧城攻防図

天霧城攻防図
香川氏は多度津に居館を構え、天霧城を詰城としていました。その戦略的な意味合いを挙げて見ると
①天霧城は丸亀平野と三野平野を見下ろす天然の要害地形で、戦略的要地であること
②天霧山頂部からは備讃瀬戸が眺望できて、航行する船舶を監視できる。
③多度津は細川氏の国料船と香川氏の過書船専用の港として栄え、香川氏の経済基盤を支えた。
④天霧城の北麓の白方には、古くから白方衆と呼ばれる海賊衆(山路氏)がいて、香川氏の海上軍事力・輸送力を担った持つことが可能になります。
⑤白方衆は、香川氏が畿内へ出陣する際には水軍として活躍した
⑥現在も天霧城跡から白方へ通じる道が遍路道として残されているが、これは築城当時からのものと研究者は考えています。有事の際には、天霧城からただちに白方の港へと下ったのかもしれません。

兵庫北関入船納帳 多度津・仁尾
兵庫北関入船納帳に出てくる多度津周辺をを母港とする輸送船一覧

それでは史料に現れる天霧城主の変遷(香川氏系譜)を見ていくことにします。
守護代を務めた香川氏の当主は、日頃は多度津の舘に生活していたのかも知れません。史料上に天霧城主と記された人物はほとんどでてきません。そのため城主の変遷はよく分かりません。そんな中で『道隆寺温故記』には「雨(天)霧城主」と割注が記された人物が何人かいます。その人物を見ておきましょう。
①康安2年(1362) 藤原長景が多度津道隆寺に花会田を寄進。そこに「天霧城主」が出てきます。
②永和4年(1378) 藤原長景が、宝輪蔵を建立し、一切経を奉納して経田を寄付
「道隆寺温故記」に記された記事の原文書が道隆寺に残っているので、その内容を裏付けられるようです。しかし、もともとは香川氏は平姓で、藤原姓を名乗る長景が香川氏一族かどうかは疑問の残るところです。一歩譲って、永景には香川氏が代々もつ景の字があるので、香川氏の一族かも知れないとしておきます。
③永正7年(1510)12月、白方八幡に大投若経が奉納され、そこに「願主平朝臣清景雨霧城主」とあります。
④永世8年(1511)には五郎次郎が混槃田を道隆寺に寄進。そこにも雨霧城主とあります。
⑤天文6年(1537)3月4日、「不動護摩灯明田、中務丞元景寄付給」

④の永正8年の五郎次郎と比べると、両名の花押が同じです。これは、この年に五郎次郎が香川氏の家督を相続して元景と名乗ったものと研究者は考えています。③の「願主平朝臣清景雨霧城主」とある清景の嫡男が五郎次郎(元景)と研究者は推測します。ここからは香川氏が平氏の子孫と自認していたこと、道隆寺を保護していたことなどが分かります。
⑥永正7年6月五郎次郎の香川備後守宛遵行状(秋山家文書)の花押は、五郎次郎のと花押が同じなので、同一人物のようです。五郎次郎は讃岐守護細川澄元の奉書を承けて又守護代の備後守に遵行しています。ここからは五郎次郎が守護代としての権限を持っていたことがうかがえます。
⑦天文8年(1539)に、元景は西谷妻兵衛に高瀬郷法華堂(本門寺)の特権を安堵することを伝えています(本門寺文書)。そこには「御判ならびに和景の折紙の旨に任せ」とあります。「御判」は文明元年(1469)の細川勝元の安堵状で、「和景の折紙」とは同2年の香川備前守宛の和景書下です。和景以来の本門寺への保護政策がうかがえます。この時期から香川氏は、戦国大名への道を歩み始めたと研究者は考えています。

香川氏発給文書一覧
香川氏の発給文書一覧

ところが⑦の天文8年(1539)以後の香川氏の発給文書は途切れます。⑧永禄元年(1558)の香川之景が豊田郡室本の麹商売を保障しています(観音寺市麹組合文書)。

香川氏花押
            香川之景の花押の変遷
この文書には「先規の重書ならびに元景の御折紙明鏡の上」とあるので、それまでの麹商売への保障を、元景に続き之景も継続して保障することを記したものです。ここからは元景の家督を之景が相続したことがうかがえます。同時に、香川氏の勢力範囲が観音寺までおよんでいたことがうかがえます。領域的な支配をすすめ戦国大名化していく姿が見えてきます。
⑨永禄3年(1560)香川之景が田地1町2段を寄進 天霧城主とはありませんが、記載例から見て之景が城主であることに間違いないようです。

天霧城3
天霧城
以上の史料に出てくる天霧城主が南海通記には、どのように登場してくるのか比較しながらを見ていくことにします。
『南海通記』に出てくる香川氏を一覧表化したのがものが次の表です

南海通記の天霧城主一覧表
南海通記に出てくる天霧城主名一覧表

南海通記に、天霧城主がはじめて登場するのは応仁・享徳年間(1452~55)になるようです。そして天正7年の香川信景まで続きます。しかし、結論から言うと、ここに出てくる人物は、信景以外は先ほど見た史料と一致しません。
 南海通記は、老人からの聞き取りや自らの体験を元に書いたとされます。そのために、時代が遡ればたどるほど不正確になっていることが考えられます。南海通記の作者である香西成資は、自分の一族の香西氏についても正しい史料や系図は持っていなかったことは、以前に見た通りです。史料に出てくる人物と、南海通記の系図がほとんど一致ませんでした、それは香川氏についても云えるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   橋詰 茂 戦国期における香川氏の動向 ―『南海通記』の検証 香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年458P
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香西成資の『南海治乱記』の記述を強く批判する文書が、由佐家文書のなかにあります。それが「香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年 香川県教育委員会」の中に参考史料として紹介されています。これを今回は見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県中世城館調査分布調査報告
紹介されているのは「前田清八方江之返答(松縄城主・・。)」(讃岐国香川郡由佐家文書)です。その南海治乱記や南海通記批判のエッセンスを最初に見ておきましょう。
南海治乱記と南海通記

南海治乱記の事、当国事ハ不残実説ハ無之候、阿波、淡路ハ三好記、西国大平記、土佐ハ土佐軍記、伊予ハ後太平記、西国大平記、是二我了簡を加書候与見申候、是二茂虚説可有之候ても、我等不存国候故誹言ハ不申候、当国の事ハ十か九虚説二而候、(中略)香西か威勢計を書候迪、(後略)

  意訳変換しておくと
南海治乱記は、讃岐の実説を伝える歴史書ではありません。阿波・淡路の三好記と西国大平記、土佐の土佐軍記、伊予の後太平記と西国大平記の記載内容に、(香西成資が)自分の了簡を書き加えた書です。そのため虚説が多く、讃岐の事については十中八九は虚説です。(中略)香西氏の威勢ばかりを誇張して書いたものです。

ここでは「当国事ハ不残実説ハ無之候」や「当国の事ハ十か九虚説二而候」と、香西成資を痛烈に批判しています。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・」という文書は、いつ、だれが、何の目的で書いたものなのでしょうか?
この文書は18世紀はじめに前田清八という人物から宮脇氏についての問い合わせがあり、それに対して由佐家の(X氏)が返答案を記したもののようです。内容的には「私云」として、前半部に戦国期の讃岐国香川郡の知行割、後半部に南海治乱記の批判文が記されています。
岡舘跡・由佐城
由佐城(高松市香南町)
 成立時期については、文中に「天正五年」から「年数百二三十年二成中候」とあるので元禄・宝永のころで、18世紀初頭頃の成立になります。南海治乱記が公刊されるのは18世紀初頭ですから、それ以後のことと考えられます。作成者(X氏)は、讃岐国香川郡由佐家の人物で「我等茂江戸二而逢申候」とあるので、江戸での奉公・生活体験をもち、由佐家の由緒をはじめとして「讃岐之地侍」のことにくわしい人物のようです。
 「前田清八」からの「不審書(質問・疑問)」には、「宮脇越中守、宮脇半入、宮脇九郎右衛門、宮脇長門守」など、宮脇氏に関する出自や城地、子孫についての疑問・質問が書かれています。それに対する「返答」は、もともとは宮脇氏は紀州田辺にいたが、天正5年(1577)の織田信長による雑賀一揆討伐時に紀州から阿波、淡路、讃岐へと立ち退いたものの一族だろうと記します。宮武氏が「松縄城主、小竹の古城主」という説は、城そのものの存在とともに否定しています。また「不審」の原因となっている部分について、「私云」として自分の意見を述べています。その後半に出てくるのが南海通記批判です。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・)」の南海治乱記批判部を見ておきましょう。
冒頭に、南海治乱記に書かれたことは「当国の事ハ十か九虚説」に続いて、次のように記します。

□(香OR葛)西か人数六千人余見へ申候、葛(香)西も千貫の身体之由、然者高七千石二て候、其二て中間小者二ても六千ハ□□申間敷候、且而軍法存候者とは見へ不申候、惣別軍ハ其国其所之広狭をしり人数積いたし合戦を致し候事第一ニて候、■(香)西か威勢計を書候迪、ケ様之事を申段我前不知申者二て候、福家方を討申候事計実ニて候、福家右兵衛ハ葛西宗信妹婿ニて、七朗ハ現在甥ニて候。是之事長候故不申候、

意訳変換しておくと
南海治乱記は、香西の動員人数を六千人とする。しかし、香西氏は千貫程度の身体にしかすぎない。これを石高に直すと七千石程度である。これでは六千の軍を維持することは出来ない。この無知ぶりを見ても、軍法を学んだ者が書いたとは思えない。その国の地勢を知り、動員人数などを積算して動員兵力を知ることが合戦の第一歩である。
(南海治乱記)には、(香)西氏の威勢ばかりが書かれている。例えば、由佐家については、福家方を討伐したことが書かれているが、福家右兵衛は、葛西宗信の妹婿に当たり、七朗は現在は甥となっている。ここからも事実が書かれているとは云えない。
ここには「香西氏の威勢ばかりが(誇張して)書かれている」とされています。18世紀初頭にあっては、周辺のかつての武士団の一族にとっては、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたようです。

次に、守護細川氏の四天王と言われたメンバーについて、次のように記します。
 讃岐四大名ハ、香川・安富・奈良・葛(香)西与申候、此内奈良与申者、本城持ニて□□郡七箇村ニ小城之跡有之候。元ハ奈良与兵衛与申候、後ニハむたもた諸方切取り鵜足郡ハ飯山より上、那賀郡ハ四条榎内より上不残討取、長尾山二城筑、長尾大隅守元高改申候、此城東之国吉山之城ハ北畠殿御城地二て候、西はじ佐岡郷之所二城地有之候を不存、奈良太郎左衛門七ケ条(城?)主合戦之取相迄□□□拵申候、聖通寺山之城ハ仙国権兵衛秀久始而筑候、是を奈良城ホ拵候段不存者ハ実示と可存候、貴様之只今御不審書之通、人の噺候口計御聞二而被仰越候与同前二て、此者もしらぬ事を信□思人之咄候口計二我か了簡を添書候故所々之合戦も皆違申候取分香西面合戦の事真と違申、此段事長候故不申候   

    意訳変換しておくと
 讃岐四天王と言われた武将は、香川・安富・奈良・葛(香)西の4氏である。この内の奈良氏というのは、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。今でもそこに城跡がある。そして、奈良与兵衛を名のっていたが、その後次第に諸方を切取りとって鵜足郡の飯山より南の那賀郡の四条榎内から南を残らずに討ち取って、長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。この長尾城の東の国吉山の城は、北畠殿の城であった。西はしの佐岡郷に城地があったかどうかは分からない。奈良太郎左衛門は七ケ条(城?)を合戦で奪い取った。
 聖通寺山城は仙国(石)権兵衛秀久が築いたものだが、これを奈良氏の居城を改修したいうのは事実を知らぬ者の云うことだ。貴様が御不審に思っていることは、人の伝聞として伝えられた誤ったことが書物として公刊されていることに原因がある。噂話として伝わってきたことに、(先祖の香西氏顕彰という)自分の了簡を書き加えたのが南海治乱記なのだ。そのためいろいろな合戦についても、取り違えたのか故意なのか香西氏の関わった合戦としているものが多い。このことについては、話せば長くなるの省略する。
ここには、これまでに見ない異説・新説がいくつか記されていていますので整理しておきます。まず奈良氏についてです。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から
①讃岐四天王の一員である奈良氏は、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。
②その後、鵜足郡の飯山から那賀郡の四条榎内までを残らずに討ち取った。
③そして長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。
④聖通寺城は仙石権兵衛秀久が築いたもので、奈良氏の居城を改修したいうのは事実でない。
これは「奈良=長尾」説で、不明なことの多い奈良氏のことをさぐっていく糸口になりそうです。今後の検討課題としておきます。

続いて、土佐軍侵入の羽床伊豆守の対応についてです。
南海治乱記は、土佐軍の侵攻に対する羽床氏の対応を次のように記します。(要約)
羽床氏の当主は伊豆守資載で、中讃諸将の盟主でもあった。資載は同族香西氏を幼少の身で継いだ佳清を援けて、その陣代となり香西氏のために尽くした。そして、娘を佳清に嫁がせたが、一年たらずで離縁されたことから、互いに反目、同族争いとなり次第に落ち目となっていった。そして、互いに刃を向けあううちに、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に遭遇することになった。
    長宗我部氏の中讃侵攻に対して、西長尾城主長尾大隅守は、土器川に布陣して土佐軍を迎かえ撃った。大隅守は片岡伊賀守通高とともに、よく戦ったが、土佐の大軍のまえに大敗を喫した。長尾氏の敗戦を知った羽床伊豆守は、香西氏とたもとを分かっていたこともあって兵力は少なかったが、土器川を越えて高篠に布陣すると草むらに隠れて土佐軍を待ち受けた。これとは知らない長宗我部軍は進撃を開始し、先鋒の伊予軍がきたとき、羽床軍は一斉に飛び出して伊予軍を散々に打ち破った。
 これに対して、元親みずからが指揮して羽床軍にあたったため、羽床軍はたちまちにして大敗となった。伊豆守は自刃を決意したが、残兵をまとめて羽床城に引き上げた。元親もそれ以上の追撃はせず、後日、香川信景を羽床城に遣わして降伏をすすめた。すでに戦意を喪失していた伊豆守は。子を人質として差し出し、長宗我部氏の軍門に降った。ついで長尾氏、さらに滝宮・新名氏らも降伏したため、中讃地方は長宗我部氏の収めるところとなった。

これに対して、「前田清八方江之返答」は、次のように批判します。
羽床伊豆守、長曽我部か手ヘ口討かけ候よし見申候□□□□□□□□□□見□□皆人言之様候問不申候) 
(頭書)跡形もなき虚言二て候、
伊豆守ハ惣領忠兵衛を龍宮豊後二討レ、其身ハ老極二て病□候、其上四国切取可中与存、当国江討入候大勢与申、殊二三里間有之候得者夜討事者存不寄事候、我城をさへ持兼申候是も事長候故不申候、■■(先年)我等先祖の事をも書入有之候得共、五六年以前我等より状を遣し指のけ候様ホ申越候故、治乱記十二巻迄ハ見へ不申候、其末ハ見不申候、
            意訳変換しておくと
  長宗我部元親の軍が、羽床伊豆守を攻めた時のことについても、(以下 文字判読不明で意味不明部分)
(頭書)これらの南海治乱記の記述は、跡形もない虚言である。当時の(讃岐藤原氏棟梁の羽床)伊豆守は、惣領忠兵衛を龍宮(氏)豊後に討たれ、老衰・病弱の身であった。それが「四国切取」の野望を持ち、讃岐に侵攻してきた土佐の大勢と交戦したとする。しかも、夜討をかけたと記す。当時の伊豆守は自分の城さえも持てないほど衰退した状態だったことを知れば、これが事実とは誰も思わない。
 我等先祖(由佐氏)のことも南海治乱記に書かれていたが、(事実に反するので)数年前に書状を送って削除するように申し入れた。そのため治乱記十二巻から由佐氏のことについての記述は見えなくなった。

つまり、羽床氏が長宗我部元親に抵抗して、戦ったことはないというのです。ここにも、香西氏に関係する讃岐藤原氏一族の活躍ぶりを顕彰しようとして、歴史を「偽作」していると批判しています。そのために由佐氏は、自分のことについて記述している部分の削除を求めたとします。南海治乱記の記述には、周辺武士団の子孫には、「香西氏やその一族だけがかっこよく記されて、事実を伝えていない」という不満や批判があったことが分かります。

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香西記
このような『南海治乱記』批判に対して、『香西記』(『香川叢書第二』所収)は次のように記します。
  寛文中の述作南海治乱記を編て当地の重宝なり、世示流布せり、然るに治乱記ホ洩たる事ハ虚妄
の説也と云人あり、甚愚なり、治乱記十七巻の尾ホ日我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨と書たり、洩たる事又誤る事も量ならんと、悉く書を信せハ書なき力ヽしかすとかや、
  意訳変換しておくと
  寛文年間に公刊された南海治乱記は、讃岐当地の重宝で、世間に拡がっている。ところが治乱記に(自分の家のことが)洩れているのは、事実に忠実ないからだと云う輩がいる。これは愚かな説である。治乱記十七巻の「尾」には「我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨」と書かれている。

『香西記』の編者・新居直矩は、『南海治乱記』の「尾」の文に理解を示し、書かれた内容を好意的に利用するべきであるとしています。また、『香西記』は『南海治乱記』をただ引き写すのではなく、現地調査などをおこなうことによって批判的に使用しています。そのため『香西記』の記述は、検討すべき内容が含まれています。しかし、『南海治乱記』の編述過程にまで踏み込んだ批判は行っていません。つまり「前田清八方江之返答(松縄城主…)」に、正面から応えたとはいえないようです。
以上をまとめておきます。
①由佐家文書の中に、当時公刊されたばかりの南海治乱記を批判する文書がある。
②その批判点は、南海治乱記が讃岐の歴史の事実を伝えず、香西の顕彰に重点が置かれすぎていることにある。
③例として、奈良氏が長尾に城を築いて長尾氏になったという「奈良=長尾」説を記す。
④聖通寺山城は仙石秀久が始めて築いたもので、奈良氏の城を改修したものではないとする
⑤また、羽床氏が長尾氏と共に長宗我部元親に抵抗したというのも事実ではないとする。
⑥南海治乱記の記述に関しては、公刊当時から記述内容に、事実でないとの批判が多くあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」

 前回は香西成資の南海治乱記と、阿波の三好記に書かれた記述内容を比較してみました。今回は、前回登場してきた岡城と由佐城について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「由佐城跡 香川県中世城館調査分布調査報告2003年206P 香川県教育委員会」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県城館跡詳細分布調査報告

南海治乱記の阿波平定に関する記述は、大部分は『三好記』の記述を写しています。しかし、(富)岡城については、次のような記述の違いもありました。
三好記では「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
ここに出てくる「(富)岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。『南海治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、それに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。  岡城について、別の史料で見ておきましょう。
岡城が文書に最初に登場するのは、観応2年(1351)の由佐家文書です。
「讃岐国香川郡由佐家文書」左兵衛尉某奉書写122'
安原鳥屋岡要害之事、京都御左右之間、不可有疎略候也、傷城中警固於無沙汰之輩者、載交名起請之詞、可有注進候也、乃執達如件、
観応二卯月十五日                          左兵衛尉 判
由佐弥次郎殿
   意訳変換しておくと
讃岐香川郡安原の鳥屋と岡要害について、京都騒乱中は、敵対勢力に奪われないように防備を固め死守すること。もし警固中に沙汰なく侵入しようとするものがいれば、氏名を糾して、京都に報告すること、乃執達如件、

 ここには「京都御左右」を理由として讃岐国「安原鳥屋岡要害」の警固を、京都の「左兵衛尉」が命じたものです。文書中の「安原鳥屋岡要害」は、反細川顕氏勢力の拠点の一つで、由佐氏にその守備・管理が命じられていたことが分かります。髙松平野における重要軍事施設だったことがうかがえます。「安原鳥屋岡要害」は、安原鳥屋の要害と岡の要害とは別々に、ふたつの要害があったと研究者は考えています。ここでの岡要害(岡城)は、「安原鳥屋」の「要害」とともに観応擾乱下での讃岐守護細川顕氏に対抗する勢力の拠点だったようで、その防備を由佐氏が命じられています。
 14世紀後半になると、讃岐守護細川頼之が宇多津を拠点にして、「岡屋形」は行業、岡蔵人、岡隼人正行康、岡有馬之允、さらには細川讃岐守成之、細川彦九郎義春がいたとされます。また、「城ノ正南二山有、其山上二無常院平等寺テフ香閣有」とも記され、現在の高松空港方面には無常院や平等寺などの寺院もあったようです。ここでは岡屋形が讃岐の守護所としての機能を持っていたことを押さえておきます。

「岡村」付近のことは「由佐長曽我部合戦記」に書かれています。
「由佐長曽我部合戦記」は、阿波の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落城させ阿波平定を成し遂げた長宗我部軍が讃岐へ侵攻した時の由佐氏の戦いの様子を後世になって記したものです。一次資料ではないので年代や人名、合戦経過などについては、そのまま信じることが出来ない部分はあるようです。研究者はその記述内容の中で、合戦が行われた場所に注目します。主な合戦は、由佐城をめぐって攻める長宗我部軍と防御する由佐軍の対決です。由佐城の攻防に先立って、由佐城の南方において合戦があったと次のように記します。

南ハ久武右近ヲ大将ニテ千人百余騎、天福寺ノ境内二込入テ陣ヲトル、衆徒大二騒テ、如何セント詮議半ナル中、若大衆七八十人、鑓、長刀ノ鞘ヲ迦シ、(中略)、土佐勢是ヲ聞テ、悪キ法師ノ腕達カナ、イテ物見セント、大将ノ許モナキニ、衆徒ヲ中ニヲツトリ籠テ、息ヲツカセス揉タリケル、(中略)、塔中六十二坊一宇モ残ラス焼失セリ、(中略)、僧俗共二煙二咽テ道路二厳倒シ、或ハ炎中二転臥テ焚死スル者数ヲ不知、(後略)、

意訳変換しておくと
由佐城の南は、久武右近を大将にして千人百余騎が、天福寺の境内に陣取る。衆徒は慌ててどうしようかと対応策を協議していると、若大衆の数十人が、鑓、長刀の鞘を抜いて、(中略)、土佐勢はこれを聞いて、悪法師の腕達を物見しようと、大将の許しも得ずに、衆徒が籠城する所に、息も尽かせないほどの波状攻撃を仕掛けた。(中略)、その結果、塔中六十二坊が残らずに焼失した。(中略)、僧侶や俗人も煙に巻かれて、道路に倒れ、あるいは炎に巻き込まれ転臥して焚死する者が数えきれないほど出た、(後略)、

由佐城の「南」、岡屋敷の西側に、「天福寺」があります。そこを拠点にしてに長宗我部軍側と、「天福寺」「衆徒」との間に合戦があったというのです。
岡舘跡・由佐城
由佐城と天福寺

天福寺は、舌状に北側の髙松平野に伸びた丘陵部の頂部にあり、平野部から山岳部に入っていく道筋を東に見下ろす戦略的な意味をもつ場所にあります。そのすぐ北に由佐城はあります。また「岡要害(岡舘)」にも近い位置です。天正10年秋に長宗我部内記亮親康が兄の元親から占領を命じられた「岡城」は、この「岡要害」のことだったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
香川県中世城館跡調査報告書(209P)には「3630-06岡館跡(岡屋形跡)」に、次のように記されています。(要約)
この高台は従来は行業城跡とも考えられていました。しかし、測量調査の結果から岡氏の居館(行業城)とするには大きすぎます。守護所とするにぴったりの規模です。「キタダイ」「ヒガシキタダイ」の小地名や現地踏査結果からこの高台を、今では岡館跡と専門家は判断しています。そうすると従来の「宇多津=讃岐守護所」説の捉えなおしが必要になってきます。

由佐城跡に建つ歴史民俗郷土館(高松市香南町)

次に岡舘のすぐ北側にあった由佐城跡を見ていくことにします。
歴史民俗郷土館が建ている場所が「お城」と呼ばれる由佐城跡の一部になるようです。館内には土塁跡が一部保存されています。

由佐城土塁断面
由佐城跡土塁断面図
郷土館を建てる際の調査では、建物下の北部分で幅3m。深さ1、5mの東西向きの堀2本が並んだものや、柱穴やごみ穴などが出てきています。堀は江戸時代初期に埋められていことが分かりました。調査報告書は、つぎのように「まとめ」ています。
由佐城報告書まとめ
由佐城調査報告書のまとめ
由佐城跡を含む付近には「中屋」というやや広範囲の地名があり、「西門」や堀の存在も伝えられています。郷土館の東には「中屋敷」の屋号もあり、いくつかの居館があった可能性もあります。由佐氏は、益戸氏が建武期に讃岐国香川郡において所領を給されたことによってはじまるとされます。
江戸時代になって由佐氏一族によって作成された系図(由佐家文書)には、次のように記されています。

「益戸下野守藤原顕助」は代々「常州益戸」に居していたが、元弘・建武期に足利尊氏に属して鎌倉幕府および新田氏との戦いに従い、京都で討死する。顕助の子・益戸弥次郎秀助は、父・顕助への賞として足利氏から讃岐国香川郡において所領を給される。秀助は、細川氏とともに讃岐国に入り、由佐に居して苗字を由佐と改めた。

由佐城についての基本的な史料は次の3つです。
①「由佐氏由緒臨本」の由佐弥二郎秀助の説明
②「由佐城之図」
③近世の由佐家文書

①「由佐氏由緒臨本」には、由佐城について次のように記されています。(要約)
由佐氏の居城は「沼之城」とも称した。城の「東ハ大川」、「西ハ深沼」であり、「大川」は「水常不絶川端二大柳有数本」、「深沼」は「今田地」となっている。外郭の四方廻りは「十六丁余」ある。その築地の内には「三丸」を構えている。本丸は少し高くなっていて「上城」と称し、東の川端には少し下って「下城」と称すところがある。西には「安倍晴明屋敷」と称される部分がある。そして、「外郭丼内城廻り惣堀」である。外郭には「南門」があり、そこには「冠木門」があった。また「南門」の前には「二之堀」と称される「大堀」があった。外郭には「西門」もあり、「乾」(北西)には「角櫓」があった。

由佐城2
由佐城跡周辺地図
「本城」の北には「小山」が築かれていた。「小山」は「矢籠」とも称されていた。「北川端筋F」は「蒻手日」と称され、「ゴトクロ」ともいう。「東丸」すなわち「下城」は「慶長比」に流出したとする。
  安原の「鳥屋之城」を「根城」としていた。
鳥屋域から東へ「三町」のところは「安原海道端」にあたり、そこには「木戸門」が構えられていた。鳥屋城の麓には「城ケ原」「籠屋」と称するところがある。「里城」から「本道」である「安原海道」を通ると遠くなるために、「岡奥谷」を越える「通路」がもうけられていた。

②「由佐城之図」は「由佐氏由緒臨本」などを後世に図化したものと研究者は考えています。由佐城絵図
由佐城絵図
居城の東端部分のこととして次のように記します。
「昔奥山繁茂水常不絶、城辺固メ仕、此東側柳ヲ植、固岸靡満水由処、近頃皆切払大水西へ切込、次第西流出云」(以下略)

意訳変換しておくと
①「昔は奥山のように木々が繁茂して、水害が絶えなかった。城辺を固めるために、東側に柳を植え、岸を固めて水由とした。近頃、柳を総て切払ったところ大水が西へ流れ込んで、西流が起きた。

②居城の西は「沼」と記し、「天正乱後為田地云(天正の乱後は、水田化されたと伝えられる」
③居城全体は「此総外郭十六町、亘四町、土居八町、総堀幅五間深サー間余、土居執モ竹林生茂」。
④外郭南辺には「株木南門」とあり、「此所迫手口門跡故南門卜云、則今邑之小名トス、此故二順道帳二如右記」
⑤外郭内の西北付近は「此辺元之浦卜云、当郷御検地竿始」とあり、検地測量がここからスタートしたので「元の浦」と呼ばれる。
⑥内の城の堀の北辺には小山を描き、「此の築山諺二櫓卜云、元禄コロ迄流レ残り少シアリ、真立三間、東西十余間」
⑦この小山の西側に五輪塔を描いて「由佐左京進墓」と記す。「由佐左京進」は天正期の由佐秀盛のことと研究者は考えています。
⑧ 砦城については、居城の西方に古川右岸に南から「天福寺」「追上原」「西砦城」「八幡」「コゴン堂」と記す。
⑨このうちの「西岩城」については次のように記します。
「御所原也、又一名天神岡卜云、観応中南朝岡た近、阿州大西、讃羽床、伴安原居陣窺中讃、由佐秀助対鳥屋城日夜合戦、羽床氏襲里城故此時構砦」
⑩居城の東の川を挟んで、東側には山並みを描いて「油山」「揚手回」「京見峰」などと記す。
⑪「油山」北端付近には「東砦城也、城丸卜云」と記す。

③文化14年(1817)11月に、由佐義澄は「騒動一件」への対応のために自分の持高の畝をしたためた絵図を指出しています。
由佐城跡畝高図
由佐義澄持高畝絵図(1817年)
絵図は「由佐邑穐破免願騒動一件」(由佐家文書)に収められています。これを見ると、次のようなことが書き込まれています。
①「屋敷」という記入があり
②屋敷の南・西・北に「ホリ」がある。堀に囲まれた方形区画が、本丸跡
③「屋敷」西側の「上々田五畝九歩」と「上畑六畝歩」および「元ウラ」という記載のある細長い区画は、堀跡?
④「屋敷」南の「七畝地」区画も堀跡?

④由佐城跡と冠尾(櫻)八幡宮は、近接していて密接な関係がうかがえます。冠尾(櫻)八幡宮の由緒を記した文書には、次のように記されています。
天正度長宗我部宮内少輔秦元親催大軍西讃悉切従由佐城責寄時、先祖代々墳墓有冠山ノ後墓守居住」
「此時八幡社地并二墓所士兵ノ冒ス事ヲ歎キ墓所西側南北数十間堀切土手等ヲ築ク此跡近年次第二開拓今少シ残ス」
意訳変換しておくと
   天正年間に長宗我部元親大軍が西讃をことごとく切り従えて由佐城に攻め寄せてきたときに、由佐氏の先祖代々の墳墓は、冠尾(櫻)八幡宮の後ろの山に葬られていた。」「この時に侵入してきた土佐軍の兵士の中には、八幡社や墓所を荒らした。これを歎いて墓所西側に南北数十間の堀切土手を築いた。この堀切跡は、近年に次第に開拓されて、今は痕跡を残すにすぎない。」

ここには南海通記の記述の影響からか、土佐軍は西讃制圧後に西から髙松平野に侵入し、由佐城にあらわれたと記します。しかし、由佐城に姿を見せたのは、阿波制圧後の長宗我部元親の本隊で、それを率いたのは元親の弟だったことは、前回に見てきた通りです。また長宗我部元親の天正期に、冠尾八幡宮の西側に長さ数十間の堀切と土手がもうけられたとします。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

南海治乱記と南海通記
南海治乱記と南海通記
南海治乱記が天正10・11年の長宗我部元親の讃岐侵攻記事を、どんな資料に基づいて書いたのかを見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年448P」です。
  
南海通記と長元物語比較
南海治乱記と長元物語の記述比較1
 『南海治乱記』のN1部分は、長宗我部元親による阿波平定後の各武将の配置を述べています。この部分は土佐の資料『長元物語』のT1部分を写したもののようです。内容・表現がほぼ一致します。しかし、詳しく見るとT1の7番目の項目「一、ニウ殿、東條殿、(後略)」は省略、『治乱記』の「一ノ宮南城ノ城ヘハ谷忠兵衛入城也」の箇所は『治乱記』編者が他の資料によって付け加えたことを研究者は指摘します。

天正10年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録
『治乱記』のN2部分は、『三好記』のM1部分を写しています。
ただ、『治乱記』N1の記述と重なるM1の「一ノ宮ノ城」の箇所は、省略しています。また、Mlの「大西白地ノ城」「富岡ノ城」「海部輌ノ城」の3箇所は、意図的に省いているようです。
 三好記Mlでは「海部輌ノ城ニハ、田中市之助政吉ヲ置ル」
 南海通記N1の「海部ノ城ハ香曽我部親泰根城也」
と配置された武将名が異なります。
三好記Mlでは「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記N1は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
と記します。前回、お話ししたように「富岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。
岡舘跡・由佐城
岡舘跡と由佐城
『治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、この時期にはそれに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。土佐軍に抵抗し、和議をむすんだと由佐氏の家書は記します。これに配慮したのかもしれません。

南海通記と長元物語比較3

『治乱記』N3部分は、『三好記』M2部分を写したものですが、かなり簡略化しています。
新開道善と一宮成助とを長宗我部元親が討ったことについて、土佐資料『元親記』は「然所に道前と一の宮城主は、其後心替仕に付腹を切せらる」と簡単に記しています。『治乱記』では阿波国寄りの『三好記』の記述を採っています。

南海治乱記と元親記比較
南海治乱記と元親記の比較

 『南海治乱記』の巻十二「土州自阿州発向讃州記」のN4部分は、土佐の『元親記』のS2部分を写したものと研究者は推測します。
S2部分の「そよ越」とあったところは、「曽江谷越(清水峠)」と改められています。「治乱記」N5部分は、『元親記』S1部分を写したものので、十河城の防備施設などに新しく説明を付け加えています。また従軍者名に土佐側資料になかった讃岐の「香西伊賀守」「羽床伊豆守」「長尾大隅守」「新名内膳」「香西加藤兵衛、其弟植松帯刀」の名前を加えています。さらに「大将ニハ長曽我部親政」とします。
『治乱記』のN6部分も、N4部分と同じく『元親記』のS2部分を写したものでしょう。「屋島」での元親の行動や「屋島」自体の説明などを付け加えています。

南海治乱記と元親記比較.4JPG
『治乱記』のN7部分は、『元親記』S3では元親は急ぎ「帰陣有し」と簡単に記します。
ところが南海治乱記では讃岐国内の「春日の海ノ中道」「香河郡」「西長尾城」を経て「大西ノ城二還ル也」とします。この箇所は、『治乱記』の著者による追加です。しかし、先に見てきたように天正十年の長宗我部元親本軍の讃岐香川郡侵攻ルートは、阿波の岩倉城(脇町) → 清水峠 → 十河城でした。帰路もこのルートをとったとするのが自然です。ここにもなんらかの作為があるような気配がします。
元親記
元親記
以上をまとめておきます。
①香西成資は南海治乱記を書くに当たって、先行する阿波や土佐の編纂歴史書を手元に置いて参考にしていた。
②長宗我部元親の阿波制圧や、その後の武将配置などは先行する資料に基本的に忠実である。
③しかし、岡城や由佐城・十河城に関する箇所になると、由佐氏や十河氏に対する配慮があり、加筆や意図的な省略が行われている。
④長宗我部元親の讃岐での行動については、多くの加筆が行われている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

前回は天正10(1582)年の長宗我部元親本隊の阿波占領後の讃岐香川郡への侵攻ルートについて、つぎのようにまとめました。

①天正10年8月に阿波国の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落とした。
②論功行賞として三好氏の勢力下にあった重要地点に土佐側の城将を配した。
③その後、三好義堅(十河存保)が落ちのびた讃岐の十河城を攻める作戦に移った。
④元親は、弟の香宗我部親泰を美馬郡岩倉城(脇町)から、安原を経てを「岡城(岡舘・香南町岡)」に向かわせた。
⑤元親自身は岩倉城を落としてから讃岐山脈に入り「そよ越」を経て讃岐国の十河表に至った。
⑥弟の親泰は「岡城」を攻め落とし
⑦さらに「岡城」の下手にある由佐城を攻めて土佐側に従属させた
⑧由佐氏は土佐側の一員として三好氏側の山田郡三谷、坂本を攻めさせた。
今回は、⑦⑧に出てくる由佐氏について見ておくことにします。テキストは、「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」です。 
最初に由佐氏の由来について見ておきましょう。
由佐氏は南北朝時代の初め頃に、関東から来讃したと伝えられます。
そして、香川郡井原郷を勢力範囲とします。由佐氏の史料的初見は、貞和 4 年(1348)、由佐弥次郎秀助が讃岐守護細川顕氏から与えられた感状です。観応2 年(1351)10 月 2 日には、「一族幷井原荘内名主荘官等」を率いて「安原鳥屋之城」から所々の敵陣を追い払うよう命じられています。ここからは、由佐弥次郎は由佐氏一族の代表と見なされていたことが分かります。この「安原城中」での軍忠に対して、細川顕氏奉行人の生稲秀氏から兵糧料所として「井原荘内鮎滝領家職」が預けられています。この領家職は、以後の由佐氏の代官職確保や所領拡大の契機となります。
 由佐氏は、観応の擾乱後も永享 4 年(1432)に由佐四郎右衛門尉が摂津鷹取城で忠節を行い、応仁の乱では近衛室町合戦に由佐次郎右衛門尉が参加しています。細川京兆家の内衆には数えらいませんが、守護代の指揮下で活動し、讃岐以外でも合戦に参加できる実力を持った国人領主だったようです。
 由佐氏は、寛正元年(1460)には郷内の冠尾神社(元冠纓神社)の管理権を守護細川勝元から命じられています。
こうして神社を媒介として領民の掌握を図り、領域支配を強化していきます。

由佐家文書|高松市
由佐家文書
 由佐家文書は由佐家に残されている文書で、その中に阿波国の三好氏からのものが1点、土佐国の長宗我部元親からのものが2点あります。この3点の文書を見ていくことにします。

①阿波国三好義堅からの「三好義堅知行宛行状」
就今度忠節安原之内型内原(河内原)一職、同所之内西谷分并讃州之内市原知行分申附候、但市原分之内請米汁石之儀二相退候也、右所へ申附上者弥奉公肝要候、尚東村備後守□□候、謹言、
八月十九日                             義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の忠節の論功行賞として①安原の河内原と②同所の西谷分と、③讃州市原の知行を与える。、但し、市原分の内の請米汁石については相退候也、右所へ申附上者弥奉公肝要候、尚東村備後守□□候、謹言、

ここでは、三好義堅(十河存保)が由佐平右衛門に3ヶ所の知行地を与えています。それは①安原の河内原と②同所の西谷分と、③讃州内市原」の知行です。この表現の仕方に研究者は注目します。つまり、市原だけが讃岐内なのです。これは最初に出てくる「安原之内」は「讃州之内」ではないという認識があったことになります。15世紀までは、安原は讃岐国に属していました。ところが阿波細川家や三好家が讃岐東方に力を伸ばすにつれて、阿波勢力の讃岐進出の入口であった塩江から「安原」は、阿波国の一部であると捉えられるようになっていったと研究者は推測します。それがこの表記に現れているというのです。

歴史を楽しむ! 信長の野望 創造 with パワーアップキット 攻略日記
差出人の「義堅」は、十河存保のことです。
存保は三好之康(義賢)の二男で、三好家から讃岐国の十河家に入って「鬼十河」と後世に称された十河一存の養子になっていた人物です。
戦え!官兵衛くん。 番外編04 三好氏家系図
十河存保は、三好実休(義賢)の実子です。十河一存の養子に
後に阿波国の「太守」であった兄の長治が亡くなって、存保が阿波の勝瑞城に入ります。存保は、天正6年(1578)正月に勝瑞に入ますが、一宮成助らに攻められて天正8年(1580)正月から翌年にかけては、十河城へ逃げてきています。その後、天正9年から翌年の8月までは再び勝瑞城に居城しています。
 存保の父・之康は、「阿波国のやかた細川讃岐守持隆」を討って勝瑞城に居城し「義賢(よしかた)を称していました。「義賢」と「義堅」はともに「ヨシカタ」で音が通じます。十河一存は阿波国勝瑞城に入ってから「義堅」を名のったようです。そうだとすると、この文書は、天正6年から10年までの間のものになります。そして、この時期には、由佐氏は阿波の三好氏に従っていたことが分かります。また、十河氏と緊密な関係にあったこともうかがえます。
 文書の終わりの「東村備後守」は、この発給文書を持参して、文書の真意を伝えた人物のようです。
「東村備後守」は、『三好家成立之事』に次の2回登場します。
①中富川合戦で存保が討死になりそうになったときに、それを諫めて勝瑞へ引き取らせた「家臣」として
②『三好記』では同じときに「理ヲ尽シテ」諫めた「老功ノ兵」「家臣」として
天正11年(1583)3月に、「東村備後守政定」は「三木新左衛門尉通倫」と連署をなし、主人たる十河存保の命を施行しています。

この他に由佐家には、次のような長宗我部元親の感状が2通残されています。
由平□(籠?)三谷二構共□打破、敵数多被討取之由、近比之御機遣共候、尤書状を以可申候得共迎、使者可差越候間、先相心得可申候、弥々敵表之事差切被尽粉骨候之様二各相談肝要候、猶重而可申候、謹言
(天正十年)                   (長宗我部)元親判
十月十八日                 
小三郎殿
      「由佐長宗我部合戦記」(『香川叢書』)所収。
  意訳変換しておくと
先頃の三谷城(高松市三谷町)の攻城戦では、敵を数多く討取り、近来まれに見る活躍であった。よってその活躍ぶりの確認書状を遣わす。追って正式な使者を立てて恩賞を遣わすので心得るように。これからも合戦中には粉骨して務めることが肝要であると心得て、邁進すること。謹言

  感状とは、合戦の司令官が発給するものです。この場合は、長宗我部元親が直接に小三郎に発給しています。ここからは小三郎が、長宗我部元親の家臣として従っていたことが分かります。なおこの小三郎は、側近として元親近くに従い、長宗我部側と由佐氏を仲介し、由佐氏の軍役を保証する役を負う人物です。ここから小三郎が、もともとは由佐家出身で人質として長宗我部家に仕えた人物と研究者は推測します。
 この10月18日の感状からは、由佐氏が山田郡三谷城(高松市三谷町)攻めで勲功をあげていたこと、さらに土佐軍の軍事活動がわかります。つまり、この時点では由佐氏は、それまでの三好氏から長宗我部元親に鞍替えしていたことが分かります。長宗我部元親は、岡城(岡舘:香南町)攻撃のために弟を派遣したことは、前回にお話ししました。岡城と由佐城は目と鼻の先です。

岡舘跡・由佐城
岡城と由佐城
それまで使えてきた三好義堅(十河存保)が本城を落とされ、十河城に落ちのびてきています。十河城を囲むように土佐勢が西からと南から押し寄せてきます。由佐氏のとった行動は、その後の行動からうかがえます。
1ヶ月後に、由佐小三郎は、長宗我部元親から二枚目の感状を得ています。
長宗我部元親書状(折紙)
於坂本河原敵あまた討捕之、殊更貴辺分捕由、労武勇無是非候、近刻十河表可為出勢之条、猶以馳走肝要候、於趣者、同小三(小三郎)可申候、恐々謹言
    (長宗我部)元親(花押)
(天正十年)十一月十二日
油平(由佐)右 御宿所
  意訳変換しておくと
 この度の坂本河原での合戦では、敵をあまた討捕えた。その武勇ぶりはめざましいものであった。間近に迫った十河表(十河城)での攻城戦にも、引き続いて活躍することを期待する。恐々謹言

11月18日に、坂本川原(高松市十川東町坂本)で激戦があった際の軍功への感状です。戦いの後に引き上げた宿所に届けられています。この2つの感状からは高松市南部の十河城周辺で、戦闘が繰り返されていたことがうかがえます。

 先ほど見た「三好義堅知行宛行状」では、由佐氏は阿波の三好氏に従っていました。その由佐氏が、三好氏の勢力範囲である山田郡の三谷と坂本を攻めています。由佐氏の山田郡での「武勇」は長宗我部元親によって賞されています。この由佐氏の行動は元親からの命令によるもので、それを由佐氏が果たしたことに対する承認の感状と研究者は判断します。
 元親が「十河表」へ「出勢」したのは、天正10年8月の中富川合戦以後のことでした。
この時に元親は、弟の香宗我部親泰を「岡城」に配しています。「岡城」は、現在の高松空港の北側にあった岡舘跡です。そのすぐ近くに由佐城はありました。この時点で、由佐氏は土佐軍に下り、その配下に入ったようです。とすると、由佐氏に長宗我部元親から感状が出されたのは、ともに天正10年のことになります。由佐氏は、それまで仕えていた三好義堅が落ちのびた十河城の攻城戦にも、土佐軍に従って従軍したのでしょう。
 讃岐側の江戸時代になって書かれた南海通記などの軍記ものには、讃岐に侵攻してきた土佐軍に対して、讃岐の武士団が激しく抵抗した後に降ったと書かれることが多いようです。しかし、土佐側の資料に東讃の武将達が抵抗した痕跡は見えてきません。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」

長宗我部元親の東讃侵攻については、よく分からないことがおおいようです。それは後世の南海通記に頼りすぎてきたこれまでの歴史叙述のあり方にもあるようです。香川県史編纂の中で、南海通記に頼らない一次資料の掘り起こしが進められてきました。その一例を天正10・11年の長宗我部氏の讃岐香川郡侵攻に限定して見ていきたいと思います。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」です。とりあげるのは、次の編纂物史料についてです。
長宗我部元親侵攻資料

まず阿波の『三好家成立之事』・『三好記』の記事です
『三好家成立之事』には、作成者や成立時期については何もかかれていません。一方、16世紀末の『三好別記』は、『三好家成立之事』の「別本」とされているようです。『三好家成立之事』の内容からは、作者が三好家と親密な関係にあったことがうかがえます。また、その叙述態度から一般に見せるために書かれたものではなく、提出を命じられて作成された文書と研究者は推測します。

三好記
三好記序
次の『三好記』は、阿波国の医師・福長玄清によるもので、「序」に寛文2年(1662)成立とあります。
玄清の祖父は、三好家に仕えていたようです。この記録は、版本になり一般に読まれるようになります。この2つの史料から長宗我部氏による三好氏討伐と、その後の城将配置などについて研究者は検討します。
①『三好家成立之事』の記述について
阿波の城
長宗我部元親の阿波侵攻
天正10(1510)年8月27日、長曽我部元親は、弟の親康を南方の大将とし、甥の親吉を上郡の大将として阿波国の中島表へ押し寄せた。翌日の28日、一宮長門守成助と桑野康明とを先陣に黒田原へ押し寄せさせ、中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落として、和談となります。
阿波の城

それでは、勝瑞城を落としたあとの軍勢配置は、どうなったのでしょうか?  軍勢配置については次のように記されています。
本津山城に東條関之兵衛、ただ、関之兵衛の弟・東條唯右衛門は人質として土佐へ送る。
胃山城に吉田孫左衛門親俊、
脇城に長曽我部新右衛門親吉。
大西の白地域に中内長助
岡城に長曽我部内記亮親康。
海部輌城に田中市之助政吉を。
元親は下八幡村夷山城に陣をおいて四国を押領(支配)した
9月16日、「富」の新開遠江守入道道善を討ち
11月7日、一宮長門守成助、同舎弟主計、星相六之進、新開式部少輔、同左近、桑野河内守、野田釆女、川南駿河守などの「頭ヲ上ル程ノ者ドモヲバ方便寄テ討果」した

『三好記』は「三好家成立之事』と、ほぼ同じ事が記されています。
中富川合戦、勝瑞城落城までの経過、そのあとの城将配置、それに平行しておこなわれた新開・一宮氏などの戦いなどは、両書ともにほとんど同じです。しかし、次のような相違点もあると研究者は指摘します。
①「一ノ宮ノ城」への城将配置は、『三好家成立之事』になくて『三好記』にだけあります。
②長宗我部親康が入った城は『三好家成立之事』は「岡城」で、『三好記』は「富岡城」と記します。
③新開遠江守の拠点について『三好家成立之事』は「富」とし、『三好記』は「富岡」とします。
これらのうち②③は単純な誤りかもしれませんが、逆に意図的な書写時の変改の可能性があると研究者は推測します。その検証のために、『三好家成立之事』と『三好記』の該当部分と参考となる『西国太平記』の該当部分を整理したものが次の表です(表2)。
長宗我部元親侵攻資料2

内容、表現ともによく似ており、この3つの資料は近い関係にあるようです。記録の成立時期は、それぞれ寛文期以前、寛支2年、寛文元年なので、『西国大平記』は『三好家成立之事』を親本としているようです。「一ノ宮ノ城」の記述は、『三好家成立之事』にだけありません。
次に、長宗我部親康に関係する城の名称と、討伐された新開遠江守入道道善の拠点名称を検討します。
このうち新開遠江守については、この3書よりも成立の早い『平島記』や『阿州将裔記』では次のように記されています。
「忠元義形妹聟也新開遠江守入道道善也、留岡二居城ス」
「忠之義賢が従弟也、号新開遠江守入道道善、阿波富岡に居城す」
ここからは新開道善が「富岡」に居城していたことは、当時の阿波においてはよく知られたことだったようです。そうだとすると、『三好家成立之事』の(B)の「富ノ」と(C)の「岡ノ」の表現はおかしいことになります。この表現は後に作為されたものと研究者は判断します。(A)と(B)とは連続する箇所で、(A)と(B)とで「富岡」の2字を分け合って1字づつ使っています。これらとは少し離れた箇所の(C)では、(B)と同じ新開道善にかかる記述であるのに、「富岡」の2字を分割して「岡ノ」と表現したようです。(B)と(C)の「新開」の表記をみると、(B)は正しく「新開」とですが、(C)では「新田」となっています。以上から、この違い誤植ではなく意図的な変改によるものと判断します。
『三好家成立之事』で意図的な変改(作為)された理由は何なのでしょうか?
西国太平記」延宝六年刊 ※第7巻のみ写本 10巻揃9冊|和本 古典籍 江戸時代 唐本和刻本 ic.sch.id
西国太平記
それを解く鍵は、『西国大平記』にあると研究者は指摘します。『西国太平記』は、新開道善にかかる拠点名称を正しく「富岡」としています。一方、「香宗我部親泰」にかかる城の名称は「岡ノ城」です。『西国太平記』は、中国地方のことを中心に叙述されています。そのため四国のことは編纂資料としたものを簡略化し、語句は忠実に写し取っているようです。そうだとすると『西国太平記』の「岡ノ城」の表現は、原資料の表現をそのまま記したものなのです。江戸時代の寛文期の阿波国では、「香宗我部親泰」が配された「岡ノ城」について、所在や配されたことの意味が分からなくなっていて、あえて誤記をおこなうか、変改をおこなうことで処理がなされたものと研究者は考えています。
 『西国大平記』が編纂資料として利用したのは、成立時期からして『三好家成立之事』のほうです。これにはもともとは、(A)は「岡ノ城」、(B)は「富岡ノ」と記されていたはずです。そうだとすれば「香宗我部親泰」が配された「岡ノ城」とは、どこのどのような城だったのでしょうか。「岡の城」は、阿波には出てきません。これがあるのは讃岐のようです。今度は土佐側の記録史料から「岡城」を追いかけてみましょう。
複製 注釈 元親記(土佐文学研究会) / 井上書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

土佐側資料の『元親記』・『長元物語』の記事
 
『元親記』は、土佐国長岡郡江村郷の高島正重によるもので、寛永8年(1631)の成立です。この書は、年代順に長宗我部元親の行動を記したもので、永禄3年(1560)の「本山入」にはじまり、文禄5年(1596)の「高麗赤国陣」までが記されています。このうち元親による阿波・讃岐・伊予国攻略経過の部分は次の通りです。
16 阿波入最初之事(天正3年)
17 阿州大西覚用降参之事(天正4年)
18 同覚用心替して人質捨し事
19 大西陣之事(天正5年)
20 阿州川北重清陣之事
21 北伊予三郡之侍共降参之事
22 嘉例之千句之事
23 久武兄内蔵助打死事
24 讃州藤目の城主降参之事(天正6年)
25 藤目の城を取返たる事
26 阿州岩倉合戦之事
27 讃州羽床陣之事
28 讃州香川殿降参之事(天正7年)
29 元親卿息達其外家中の侍の子共に芸能
30 阿州南郡今市鎗之事
31 阿州牛岐の城主新階道前降参之事     
32当国波川謀叛之事(天正8年)         
33 予州北の川陣之事                   
34 大津の城に御座有し一條殿を被流事   
35 信長卿典元親被申通事(天正lo年)    
36 三好合戦之事(天正lo年)            
37 阿州岩倉攻之事                     
38 岩倉の城落去以後直に讃州へ被打越事   (天正10年)             
39   仙石権兵衛と合戦之事(天正11年)   
40   淡州須本の城を取たる事            
41   太閤様三河御陣の跡にて大坂表へ可取掛と催せし事          
42  予州太閤様ゑ降参之事(天正13年)           
43  太閤様ゑ降参之事(天正13年)
阿波の城

この中で38「岩倉の城落去以後直に讃州へ被打越事」が、東讃侵攻に関係する部分です。ここには次のように記されています。

天正10年(1582)の阿波国中富川合戦につづいて元親らが讃岐国へ打越し、「十河の城をば、堀一重にはたけたて」、「東讃岐在々、牟連(牟礼)、高松、八九(八栗)里、矢嶋(屋島)の浦々不残発向した」

この中で研究者が注目するのは、次の記述です。
天正十年十月中旬より、岩倉よりそよ越と云山を越、十川(十河)表へ打出給ふ、則其日西讃岐、予州勢、阿波分の人数一つに成、三ケ国の人数に予州勢、六頭の勢を差加たれは、三万六千の人数彩し、則其日の暮に十川の城へ矢入有、
 
意訳変換しておくと
天正十年十月中旬に、岩倉から「そよ越」という峠を越えて、讃岐の十川(十河)城のある地域に打出した。そして西讃岐、予州勢、阿波分の人数を一つにまとめ、三ケ国の人数に予州勢、六頭の軍勢を加えたので、三万六千の人数になった。その勢いで、その日のうちに十河城へ矢を討ち入れた。

  勝瑞城落城の前日に美馬郡の岩倉城(脇町岩倉)も土佐勢の別動隊に攻め落とされています。その後「十河表へ打出給ふ」と尊敬表現なので、この移動は元親自身のものであることが分かります。同じルートで、元親以外の中富川合戦に勝利して阿波にいた土佐軍も讃岐へ打出たのでしょう。「そよ越と云山」は「曽江山」のことと研究者は考えています。岩倉城は阿讃山脈を越えるための重要な交通路である曾江谷越の阿波側の入口にありました。東を流れる曾江谷川をさかのぼれば、阿波・讃岐を結ぶ曾江谷越(清水峠)です。この峠からそのまま北へ向かえば讃岐国寒川郡へ、一方曽江山から西に折れて川沿に進めば讃岐国の安原山に至り高松平野に下って行きます。安原山と讃岐平野の接点付近には、南北朝期から「要害」として知られる「岡城」があります。これが先ほど出てきた「岡城」と研究者は考えています。

岡舘跡・由佐城
岡城(岡舘跡)周辺
岡城は香川県中世城館跡調査補刻書には「3630-06岡館跡(岡屋形跡)209P」として次のように記されています。場所は香南町岡です。

宅地化や道路。用水路の開発で旧状をうかがいにくくなっているが、屋敷地の範囲を推測すると、北については同集会所北東に東西に長い水田が直線に並ぶものを堀跡と考える。この水田の北に沿って現在も用水路が流れている。南は現在県道及び用水路が東西に走っている高低差数mの低い切り通しを、かつての堀切の痕跡を利用したものと考えた。聞き取りでも、県道を通す以前からここに切り通しの崖面があったと聞いている。高台の西は谷状地形で県道と用水路が南北に走っているあたりがその境になるため、ここを屋敷地の西辺と考える。東限も地形の傾斜により検討し、以上の結果から一辺250m程を屋敷地の範囲と考える。
この高台は行業城跡とも考えられていたが、岡氏の居館(行業城)の規模とするには大きすぎ、また守護所とするに足る規模とも言える。「キタダイ」「ヒガシキタダイ」の小地名及び上記の現地踏査結果から、この高台を岡館跡と判断した。
観応2年(1351)、「岡要害」としてその存在が知られる(由佐家文書)。岡要害は、「安原鳥屋」の「要害」とともに観応擾乱下において讃岐守護細川顕氏に対抗する勢力が拠っていたところである。一方、延文から嘉慶の頃(14世紀後半)には讃岐守護細川頼之が居し、「岡屋形」は同行業、岡蔵人、岡隼人正行康、岡有馬之允、さらには細川讃岐守成之、細川彦九郎義春があったとされる。また、「城ノ正南二山有、其山上二無常院平等寺テフ香閣有」ともする(細川岡城記、讃州細川記).
なお、阿波守護の細川讃州家のものが岡屋形にあって守護的役割を果たしていたということから、
岡屋形は守護所としての機能を有していたとも考えられている。
ついで、天正10年(1582)秋、阿波国勝瑞城を落とした土佐の長宗我部元親は自ら讃岐侵攻に向かうとともに、同弟・長宗我部親康を「岡城」に向かわせている。この時、「天福寺」が由佐城とともに攻略の対象となっている。天正10年10月頃までに、由佐城とともに岡城は長宗我部軍の支配下に入ったものと考えられる。
弟に岡城を攻略させて、元親は十河城に向かったようです。
長宗我部元親は大軍で一気に力押しをしません。兵力の温存を第1に考えていたようです。十河城攻めを一押しした後は、堀などを埋めて丸裸にして無理攻めはしません。「元親矢嶋(屋島)へ見物に渡給ひて、寺の院主に古の事とも語らせ聞給」とあるので、源平名勝めぐりをしたようです。そして、冬が来ると土佐に引き上げます。

次に 『長元物語』を見ておきましょう。
この書は、土佐国幡多郡の立石正賀によるもので万治2年(1659)の成立です。『長元物語』は、叙述形式と内容から次の3つに分けられます。
①1段目は、元親以前の土佐国のこと、元親による土佐国支配のこと
②2段目は、元親による阿波・讃岐・伊予国攻略を国別に記し、さらに秀吉による四国配分のこと
③3段目は、長宗我部一門、家老、侍、元親の男女子のこと
この中で2段目の阿波国攻略の記述は、次の文で終わります。
阿波一ケ国ハ、中富川合戦限テ、不残元親公御存分二成所如件

そのあとで「阿波一ケ国元親公御仕置ノ事」が記されています。そこには阿波国攻略は、「元親公、毎年阿波、讃岐へ御出馬、御帰陣ノアトニテ、御舎弟親泰大将ニテ、方々ノ働度々敵ヲ討取」とあり、元親が先鞭をつけ、そのあとを弟の親泰が確保するというような方法で攻略を進めたとあります。元親による阿波国の仕置は、右腕的存在である弟・香宗我部親泰を牛岐城に入れ、海部城をその根城として阿波国惣頭とします。そして、一宮城へ江村孫左衛門、岩倉城へ長宗我部掃部頭、吉田城へ北村間斎、宍喰城へ野中三郎左衛門を入れます。また「降参ノ国侍」「歴々ノ城持」には「年頭歳末ノ御礼」を行わさせたと記します。
この仕置は、讃岐国の攻略を終えた元親軍が仙石氏による讃岐国侵攻を押し返した時点よりあとで、秀吉軍の阿波国侵攻に備えた天正13年(1585)頃の配置と研究者は考えています。その場合、元親の弟・親泰は土佐国の東側の地点でその守りに当っていたことになります。

 讃岐攻略については、天正5・6年(1577・78)の次のことが記されています。
①藤目城・財田城攻め
②香川氏への養子聟策
③観音寺、石田、砥川、羽床、長尾、北条、香西攻略
しかし、阿波国の勝瑞城を落とした後の讃岐国攻略についての詳しい記述はありません。このあたりが土佐軍の西讃制圧はたどれるのに、東讃については、その侵攻過程がよく見えてこないことの原因のひとつです。最終的に「三好正安枝城」たる十河城を「土佐衆切々相働」いたことにより「此城明退」たとあるだけです。
 ここに書かれている元親の讃岐仕置の記述は次の通りです。
①国吉甚左衛門を那珂郡の長尾城に入れて讃岐国惣物頭とし
②十河城へ長宗我部右兵衛
③財田城へ内藤左衛門父子と源兵衛父子、
④元親の男子で、天霧城の香川氏の養子となった香川五郎次郎には知行を与え
⑤観音寺などの降参衆には知行を与えるとともに「年頭歳暮ノ式礼」を行わさせた
⑥ただ虎丸城のみは「御手ニ不入」
この仕置も、秀吉軍の侵攻に備えたのもので、天正13年頃のものと研究者は考えています。

元親が「十河表」へ「出勢」したのは、阿波国の記録史料でみた天正10年8月の中富川合戦以後になります。
この時に元親は、弟の香宗我部親泰を「岡城」に配しています。先ほど見たように「岡城」は、讃岐の「安原山」の南端部に位置する「要害」です。土佐国の記録史料では、勝瑞城合戦以降に元親自身が「天正十年十月中旬より、岩倉よりそよ越と云山を越、十川表へ打出」たとありました。以上をまとめておきます。
①天正10年8月に長宗我部元親は阿波国の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落とした。
②論功行賞として三好氏の勢力下にあった重要地点に土佐側の城将を配した。
③その後、三好義堅(十河存保)が落ちのびた讃岐の十河城を攻める作戦に移った。
④元親は、弟の香宗我部親泰を美馬郡の岩倉付近から讃岐山脈に入らせ安原山を経て「岡城」に向かわせた。
⑤元親自身は岩倉城を落としてから讃岐山脈に入り「そよ越」を経て讃岐国の十河表に至った。
⑥弟の親泰は「岡城」を攻め落とし
⑦さらに「岡城」の下手にある由佐城を攻めて土佐側に従属させた
⑧由佐氏は土佐側の一員として三好氏側の山田郡三谷、坂本を攻めさせた。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

永正の錯乱以前に、讃岐国人は細川京兆家の繁栄のもとで四天王として勢力を振るってきました。それが永正の錯乱の結果、京兆家の弱体化と香西氏や両守護代の香川・安富氏の減亡により、以後権勢の座を畿内の国人や阿波の三好氏に譲ることになります。香西氏・安富氏など讃岐武士団の主導権は失われたのです。変わって、重要な役割を演じるようになるのが阿波三好氏です。そして、阿波三好氏は、永正の錯乱で敵対関係になった讃岐への侵攻を開始します。こうして讃岐の四天王は、没落し三好氏に従属していくことになります。その過程を押さえておきます。 テキストは「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」です

細川政元政権下で、香西氏と薬師寺氏が内衆の指導権を握ったのはいつでしょうか?
政元暗殺の首謀者である薬師寺長忠と香西元長の二人が京兆家の有力被官で構成される「内衆」の中で指導的立場を確立したのは、永正元年9月に起こった薬師寺元一の謀反の鎮圧によってです。そこに至る経過を見ておきましょう。
永世の錯乱 対立構図
文亀3年(1501)5月、政元は阿波守護細川慈雲院(成之)の孫六郎(のちの澄元)を養子に迎えます。これ以前に政元には後継者として養子に迎えていた前関白九条政基の子九郎(澄之)がいました。その背景を「細川両覆記」は、次のように記します。
この養子縁組は実子のいない政元が摂関家出身の九郎に代えて細川一門から養子を迎えた。ところが京兆家の家督を細川家一族に譲りたいと心変わりしたため、当時摂津守護代であった薬師寺与一が尽力して成立した。

「実隆公記」や「後法興院記」には次のように記します。
細川一門の上野治部少輔政誠や薬師寺与一らが政元の使節として阿波へ下向し、慈雲院に「京兆隠居、相続の事」を「相計ら」うよう伝えた。

   こうして、政元が二人の養子を迎えたことは、二人の後継者を作ってしまったことになります。当然、後継者をめぐって京兆家家臣団の分裂・抗争の激化を招くことになります。その動きのひとつが薬師寺元一の謀反です。謀反当時、摂津半国守護代であった薬師寺元一は、かつて安富元家とともに政元より京兆家の家政を委任された薬師寺備後守元長の長子です。また、政元暗殺の首謀者である薬師寺長忠はその弟になります。阿波守護細川家より六郎を養子として迎えたときの経緯から澄元を押す元一と、なかなか家督相続者を決定しない政元との関係は次第に険悪なものとなります。こうした中で細川政元は永正元年3月に、薬師寺元一の摂津守護代職を罷免しようとします。このときは、元一は将軍義澄の取り成しによりようやく摂津半国の守護代職を維持することができます。(「後法興院記」)。残りの半国守護代に弟の長忠が任命されたのもこの時のことと研究者は考えています。

 薬師寺元一の謀反発覚と鎮圧過程を年表化しておきます。
1504(永正元)年
9月4日、元一の弟で京兆家被官の寺町氏の養子となっていた又三郎の通知で謀反発覚。元一は、淀の藤岡城に籠城
  6日、上野政誠、上野元治・安富元治、内藤貞正らが元一方に味方した京都西岡衆を討伐
  9日、淀で合戦開始し、讃岐守護代の安富(元家)が討死
 17日 西岡衆を討伐した軍勢は、淀へ向かい翌日18日藤岡城を攻め落とし、元一を生捕り。
こうして元一の謀反は失敗に終わります。
薬師寺元一 2つ新
薬師寺元一の辞世の句

しかし、この反乱に加わった者達は広範に及んでいました。「宣胤卿記」の9月21日条には挙兵の失敗について、次のように記します。
元一成囚。去暁於京切腹云々〈十九歳〉。世間静読如夜之明云々。希代事也。同意〈前将軍方)畠山尾張守〈在紀州)。細川慈雲院(在阿波)等出張遅々故也。且又元一弟〈号与次、摂州半国守護代)為京方国勢属彼手故也。京方香西又六、契約半済於近郷之土民悉狩出、下京輩免地子皆出陣。以彼等責落云々。
意訳変換しておくと
薬師寺元一は虜となり、明朝に京で切腹となった。19歳であった。この蜂起については明応の政変で政元に幕府を逐われた前将軍義材派の前河内守護畠山尚順、阿波の澄元の祖父の慈雲院などがも、元一の呼びかけに応じて挙兵することになっていた。阿波からは三好氏が淡路へ侵攻し、紀州の畠山尚順は和泉を攻め上がってくる動きを見せたが、蜂起発覚で遅きに失した。兄元一を裏切った長忠は左衛門尉の官途を与えられ、摂津半国の守護代となった。こうして京の国勢は、薬師寺長忠と京方香西又六が握ることになった。

 この合戦でそれまでの有力者であった薬師寺元一・安富元家という二人の死去します。その結果、京兆家被官(内衆)の中で最大の勢力を持つようになったのが香西氏と薬師寺長忠でした。薬師寺元一の謀反制圧の最大の功労者である長忠と香西元長とが、後に政元暗殺と澄元追放の首謀者となったのは決して偶然ではないと研究者は指摘します。

この事件の結果、都での澄元派は没落します。
「後法興院記」によると、政元は翌2年3月から4月にかけて一ヶ月以上淡路に滞在しています。この淡路下向は阿波の慈雲院討伐の準備のためだったようです。ところが、政元軍の淡路侵攻は見事に失敗してしまいます。
「後法興院記」の5月29日条には次のように記します。
伝え聞く。讃岐え進発の諸勢(淡路・上野・安富・香川)、敵御方数百人誅貌せらると云々ここれに依りまず引き退くと云々。淡路出陣の留守に三吉夜中推し寄せ館に放火すと云々。
意訳変換しておくと
淡路より讃岐へ侵攻した淡路守護家の淡路守尚春・上野玄蕃頭元治・安富元治・香川満景らの軍勢は返討ちに遭い。数百人の敗死者を出して撤退した。その上、守護の留守を狙って三好氏が淡路侵攻し守護の館を焼き討ちしたと伝え聞いた。

ここには、「讃岐え進発の諸勢(淡路・上野・安富・香川)」とあります。逆に見ると、この時点で讃岐は阿波勢の侵攻を受けて占領下にあったことがうかがえます。この敗戦後に、政元は阿波の慈雲院との和睦を図ります。「細川両家記」は永正2年の夏のころ、薬師寺長忠が澄元を京都に迎えるため阿波へ下向したと記します。和解に向けた事前交渉のようです。
  また、「大乗院自社雑事記」や「多聞院日記」には、6月10日ころ、かつて元一とともに謀反を起こした赤沢宗益が政元から赦されています。ここからは6月ころには、政元はそれまでの阿波の慈雲院との敵対関係を止めて、融和策に転じたことがうかがえます。

 これを受けて翌3年2月19日、まず三好之長が上洛します(「多間院日記」)。続いて4月21日には澄元の上洛が実現します。澄元が宿所としたのは「安富旧宅」で、故筑後守元家邸です。「多聞院日記」の5月5日条には、「阿波慈雲院子息六郎殿、細川家督として上洛す。」とあります。澄元は京兆家の家督として迎えられたことが分かります。
この間の事情について「細川両家記」は、次のように記します。

御約束の事なれば澄元御上洛。御供には三好筑前守之長、高畠与三等を召させ給ひ御上洛有ければ、京童ども是を見て、是こそ細川のニツにならんずるもとゐぞとさゝめごと申ける。さる程に九郎殿へ丹波国をまいらせられて、かの国へ下し中されければ、弥むねんに思食ける。
  意訳変換しておくと
約束したことなので澄元は上洛した。御供には三好筑前守之長、高畠与三等を従って御上洛した。これを京童が見て「これで細川氏はまっぷたつ分裂してしまう」とささやき合った。そして九郎殿(澄之)には丹波国への下向を命じた。これは澄之にとっては、さぞ無念なことであったろう。

政元は、阿波守護家との和睦を第一に考え、澄元を京兆家の家督にすえたようです。そして、澄之を丹波に下向させました。それまでの家督候補者であった澄之と彼の擁立を目指していた薬師寺長忠・香西元長らにとっては、政元のこの決断はとうてい受け入れがたいものであったはずです。ここに、政元暗殺の直接的な原因があると研究者は指摘します。
永正の錯乱前の讃岐の情勢は、どうだったのでしょうか?
永正3年10月12日、阿波の三好之長は、香川中務丞(元綱)の知行地讃岐国西方元山(現在の三豊郡本山町付近)と本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じています。(石清水文書)。この時期は政元と阿波守護細川家との間で和睦が成立した時期です。その証として澄元が都に迎えられたのが、この年4月のことです。三好之長から香川中務丞に対して本領が返還されたのは、その和解の結果と研究者は推測します。つまり、政元と阿波守護家とが対立していた期間に讃岐国は阿波細川家の軍勢による侵攻を受け、守護代家の香川氏の本領が阿波勢力によって没収されていたことを示すというのです。これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 永正2年4月~5月に、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた軍勢が讃岐国へ攻め入っています。
当時の讃岐は、安富氏が讃岐の東半部を、香川氏が西半部を管轄する体制でした。讃岐の守護代である香川・安富氏がどうして讃岐に侵攻するのでしょうか。それは軍事行動は讃岐が他国の敵対勢力に制圧されていたことを意味すると研究者は指摘します。このときの敵対勢力とは、誰でしょか。それは阿波三好氏のようです。
  「大乗院寺社雑事記」の明応4年(1495)3月1日には、次のように記されています。
讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子遣之処、両人共二責殺之。於千今安富可罷下云々。大儀出来。ムレ兄弟於讃岐責殺之。安富可罷立旨申之処、屋形来秋可下向、其間可相待云々。安富腹立、此上者守護代可辞申云々。国儀者以外事也云々。ムレ子息ハ在京無相違、父自害、伯父両人也云々。

意訳変換しておくと
讃岐国で蜂起が起こった時に、京兆家被官の牟礼氏を鎮圧のために派遣したが、逆に両人ともに討たれてしまった。そこで、守護代である安富元家が下向しようとしたところ、来秋下向する予定の主人政元にそれまで待つよう制止された。その指示に対して安富元家は、怒って守護代を辞任する意向を示した。

この記事からも明応4年2月から3月はじめにかけてのころ、安富氏の支配する東讃地方も「蜂起」が起こって、敵対勢力に軍事占領されたいたことがうかがえます。
管領細川家とその一族 - 探検!日本の歴史

このころ四国では何が起こっていたのでしょうか。阿波守護細川家の動きを追ってみよう。
明応3年11月27日、阿波守護細川⑦義春(慈雲院の子)は本国の阿波へ下向します。「後慈眼院殿御記」の11月28日・同31日条には、次のように記されています。
昨日讃岐守(義春)下国、不知子細云々。先備前可着小島也。其後可向讃州(慈雲院)云々。当国(山城)守護職相論之事、伊勢備中守復理之間、南都等路次静誌耳。一説.讃岐守下国。之与義材卿依同意、先趣四州云々。

他の関係史料も、義春は山城守護職就任を望んでいたが、将軍義澄に受け入れられなかったことをを恨み、阿波へ下ったことが記されています。義澄に対する反発から、義春は明応の政変で失脚した前将軍義材側についたのです。それは、義材を幕府から放逐した政元に背くことになります。
この結果、政元の守護分国である讃岐と阿波守護家の分国である阿波との間に軍事緊張関係が生まれたと研究者は判断します。
義春自身は、阿波帰国後まもなく12月21日に死去します。しかし、その遺志は父慈雲院(細川成之)が引き継ぎます。翌年春の讃岐での軍事衝突、永世元年の薬師寺与一の謀反への同意もその結果と考えられます。

徳島市立徳島城博物館(公式) on Twitter: "俗に「阿波の法隆寺」とも呼ばれる丈六寺 「徳島のたから」展では「絹本著色 細川成之像」を特別出品✨  応仁・文明の乱をのりこえ、阿波守護をつとめた細川成之は丈六寺を厚く保護します 徳島県内の肖像画では唯一の重要文化財 ...
永正8年9月12日、慈雲院(成之)は78歳で亡くなります。
「丈六寺開山金岡大禅師法語」には、次のように記されています。
「二州(阿波・讃岐)の伊を司どる。」
「門閥二州の都督に備う。」
「二州の釣軸(大臣の意)」
二州とは、阿波と讃岐のことです。ここには当時の人達が慈雲院が阿波・讃岐両国の実質的な守護であったと当時の人達が認識していたことが分かります。この時期に、讃岐は阿波細川氏の侵攻を受けて占領下に置かれたのです。
丈六寺 - Wikipedia
      慈雲院(細川成之)が保護した丈六寺(徳島市)
以上をまとめておきます。

①1493年(明応2)年 明応の政変で細川政元が足利義材を追放=足利義澄の将軍就任
②1501(文亀3)年5月、細川政元が阿波守護細川慈雲院(成之)の孫澄元)を養子に迎える。
③1504(永正元)年9月4日、薬師寺元一のクーデター謀反発覚と失脚 → 香西氏の権勢
④1505(永世2)年春 細川政元の淡路滞在、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた          軍勢が讃岐国へ攻め入り敗北。
④1505(永正2)年夏頃、細川政元が阿波細川氏と和解 阿波の細川澄元を後継者に指名
⑤1506(永正3)年 阿波の三好之長が、香川中務丞(元綱)の知行地讃岐国西方元山(現三豊市本山町)と本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じる。(石清水文書)。これは、阿波占領下にあった土地が和解によって返却されたもの。

⑥1507(永正4)年6月23日夜、細川政元が家臣によって暗殺される。
⑦1508(永正5)年4月9日、澄元と之長は自邸に放火して江州へ脱出=澄元政権の崩壊
⑧1511(永正8)年9月12日、慈雲院成之没(78歳)「二州(阿波・讃岐)の伊を司どる。」、
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

 永正の錯乱については以前にお話ししましたが、それが讃岐武士団にどんな結果や影響をもたらしたかに焦点を絞って、もういちど見ていくことにします。テキストは「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」です。

永世の錯乱1
永正4年(1507)6月23日の夜、管領・細川右京大夫政元は被官の竹田孫七・福井四郎,新名らに殺害されます。この暗殺について「細川両家記」は、次のように記します。
此たくみは薬師寺三郎左衛門(長忠)、香西又六兄弟談合して、丹波におわす九郎殿御代にたて、天下を我まヽにふるまふべきたくみにより、彼二人を相かたらひ政元を誅し申也

意訳変換しておくと
「この企みは此たくみは薬師寺三郎左衛門、香西又六兄弟が談合して、丹波にいた九郎殿御代を細川家棟梁の管領にたて、天下を思うままに動かそうとする企みで、彼二人が密議して主君政元を謀殺したものである」

ここには、政元の有力被官である摂津守護代の薬師寺長忠と山城守護代の香西又六元長らが謀ったものとあります。その目的は実子のいない政元の養子2人のうち、前関白九条政基の子九郎澄之を細川京兆家の家督に擁立し、そのもとで彼らが専権を振るうことにあったというのです。その目的を果たすためには、政元のほかにもう一人の養子である阿波守護細川家出身の六郎澄元をのぞく必要があります。政元殺害の翌日には、香西氏を中心とする軍勢が澄元邸を襲撃します。この合戦は昼より夕刻まで続きますが、澄元は阿波守護家の有力被官三好之長に守られて江州甲賀へ脱出します。このときの合戦では、香西又六元長の弟孫六・彦六が討ち死にします。
永世の錯乱 対立構図
この事件の見聞を記した「宣胤卿記」の永正4年6月24日条には、次のように記します。
去る夜半、細川右京大夫源政元朝臣(四十二歳)。」天下無双之権威.丹波・摂津。大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護也。〉為被官(竹田孫七〉被殺害.京中騒動。今日午刻彼被官(山城守護代)香西又六。同孫六・彦六・兄弟三人、自嵯峨率数千人、押寄細川六郎澄元(政元朝臣養子)相続分也。十九歳.去年自阿波上。在所(将軍家北隣也)終日合戦。中斜六郎敗北、在所放火。香西彦六討死、同孫六翌日(廿五日)死去云々。六郎。同被官三好(自阿波六郎召具。棟梁也。実名之長。)落所江州甲賀郡.憑国人云々。今度之子細者、九郎澄之(自六郎前政元朝臣養子也。実父前関白准后政元公御子。十九歳。)依家督相続違変之遺恨。相語被官。令殺養父。香西同心之儀云々。言語道断事也。
  意訳変換しておくと
  細川政元(四十二歳)は、天下無双の権威で、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護であったが夜半に、被官竹田孫七によって殺害せれた。京中が大騒ぎである。今日の午後には、政元の被官である山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人が、嵯峨より数千人を率いて、細川六郎澄元(政元の養子で後継者19歳。去年阿波より上洛し。将軍家北隣に居住)を襲撃し、終日戦闘となった。六郎は敗北し、放火した。香西彦六も討死、孫六も翌日25日に死去したと伝えられる。六郎(澄元)は被官三好(之長)が阿波より付いてきて保護していた。この人物は三好の棟梁で、実名之長である。之長の機転で、伊賀の甲賀郡に落ちのびた。国人を憑むと云々。

 澄之は六郎(澄元)以前の政元の養子で後継者候補であった。実父は前関白准后(九条)政基公御子である。家督相続の遺恨から、香西氏などの被官たちが相語らって、養父を殺害した。香西氏もそれに乗ったようだ。言語道断の事である。
 
 7月8日には、丹後の一色氏討伐のため丹波に下っていた澄之が上洛してきます。そして将軍足利義澄より京兆家の家督相続を認められます。翌々日10日には政元の葬礼が行われています。この時点では、政元の養子となっていた細川高国をはじめ細川一門は、京兆家被官による主人政元の暗殺と養嗣子澄元の追放を傍観していました。しかし、それは容認していたわけではなく、介入の機会を準備していたようです。8月1日になると、典厩家の右馬助政賢、野州家の民部少輔高国、淡路守護家の淡路守尚春らが澄之の居所遊初軒を襲撃します。その事情を「宣胤卿記」8月1日条は、次のように記します。
早旦京中物忽。於上辺已有合戦云々。巷説未分明。遣人令見之処、細川一家右馬助。同民部少輔・淡路守護等、押寄九郎(細川家督也。〉在所(大樹御在所之北、上京無小路之名所也。〉云々。(中略)
九郎(澄之。十九歳。)己切腹。(山城守護代)香西又六。(同弟僧真珠院)。(摂州守護代)薬師寺三郎左衛門尉。(讃岐守護代)香川。安富等、為九郎方討死云々。此子細者、細川六郎、去六月廿四日。為香西没落相語江州之悪党、近日可責上之由、有沙汰。京中持隠資財令右往左往之間、一家之輩、以前見外所之間、我身存可及大事之由、上洛己前致忠為補咎也。然間京都半時落居。諸人安堵只此事也。上辺悉可放火欺之由、兼日沙汰之処、九郎在所(寺也)。香西又六所等、焼失許也。
意訳変換しておくと
  8月1日早朝、京中が騒然とする。上辺で合戦があったという。巷に流れる噂話では分からないので、人を遣って調べたところ、以下のように報告を受けた。細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督たちが在所大樹御在所の北、上京小路の名なき所に集結し、細川澄之と香西氏の舘を襲撃した。(中略)九郎澄之(十九歳)は、すでに切腹。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等など、九郎澄之方の主立った者が討死したという。

 ここには、細川一門が澄之やその取り巻き勢力を攻撃した理由を、その追放を傍観した澄元が勢力を蓄え、江州より上洛するとのことで、それ以前に澄之派を討伐しみずからの保身を図るためとしています。この時に、澄之派として滅亡したのが、山城守護代の香西元長、摂津守護代の薬師寺長忠、讃岐守護代の香川満景・安富元治などです。永世の錯乱が讃岐武士団も墓場といわれる由縁です。
 翌2日の夜になると、澄元は細川一門に迎えられ5万人と伝えられる軍勢を率いて入京します。即日将軍義澄より京兆家の家督を認められています。8月7日には、右馬頭政賢が澄元の代官として、澄元をのぞく敵方の香西・薬師寺・香川。安富ら41人の首実検を行っています。このような混乱を経て澄元政権は成立します。


 ところが、この政権は成立の当初より不安定要素がありました。
それは阿波細川守護家の重臣で澄元を補佐していた三好之長の存在です。彼の横暴さは都で知れ渡っていたようです。澄元政権下で三好之長と反目した京兆家被官たちは、細川一門の領袖である高国を担ぐようになります。こうして高国は澄元を見限って、政元と対立していた中国の大大名大内義興と連携を計ります。そして政元が明応2年(1493)の明応の政変で将軍職を剥奪した前将軍の足利義材を擁立します。永正5年4月9日、澄元と之長は自邸に放火して江州へ脱出します。澄元政権の崩壊です。つづいて、16日には前将軍義材の堺到着が伝わる騒然とした状況のもとで将軍義澄もまた江州坂本へ逃れます。
この政元暗殺に始まり、澄元政権の瓦解にいたる一連の事件を永正の錯乱と呼びます。
この乱の結果、京兆家の家督は澄元系と高国系とに分裂します。
そして両者は、細川右京大夫を名乗り互いに抗争を繰り返すことになります。これを「細川両家記」には「細川のながれふたつになる」と記します。 今回はここまにします。次回は永正の錯乱を、讃岐との関わりから見ていくことにします。

永世の錯乱3
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「田中健二  永正の錯乱と讃岐国人の動向 香川県中世城館跡詳細分布調査2003年429P」

   南海治乱記と南海通記
『南海治乱記』『南海通記』は、香西氏の流れを汲む香西成資が、その一族顕彰のために書かれた記物風の編纂書です。同時に道徳書だと研究者は評します。この両書はベストセラーとして後世に大きな影響を与えています。戦後に書かれた市町村史も戦国時代の記述は、南海通記に頼っているものが多いようです。しかし、研究が進むにつれて、記述に対する問題がいろいろなところから指摘されるようになっています。今回は「香川民部少輔」について見ていくことにします。
テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
  西讃の守護代は多度津に館を置き、その背後の天霧山に山城を構えたとされます。香川氏のことについては以前にもお話しした通り、今に伝わる系図と資料に出てくる人物が合いません。つまり、史料としてはそのままは使えない系図です。
そのような中で、南海通記は香川氏の一族として阿野郡西庄城(坂出市)に拠点を置いた「香川民部少輔」がいたと記します。
香西成資が「香川民部少輔伝」について記している部分を一覧表化したものを見ておきましょう。
香川民部少輔伝
香川民部少輔伝(南海通記)
香川民部少輔は永正の政変(政元暗殺)以降の初代讃岐守護代香川氏の弟であるようです。彼が西庄を得たことについては、表番号①に永正4(1507)年の政変(政元謀殺)の功によって、細川澄元から西庄城を賜うと記します。しかし、永世の政変については以前にお話ししたように、政情がめまぐるしく移りかわります。そして、細川氏の四天皇とされる香西氏や香川氏の棟梁たちも京都在留し、戦乱の中で討ち死にしています。ここで香西氏や香川氏には系図的な断絶があると研究者は考えています。どちらにして、棟梁を失った一族の間で後継者や相続などをめぐって、讃岐本国でも混乱がおきたことが予想されます。これが讃岐に他国よりもはやく戦国時代をもたらしたといわれる由縁です。そのような中で「細川澄元から西庄城を賜う」が本当に行われたのかどうかはよくわかりません。またそれを裏付ける史料もありません。
表番号2には、香西氏傘下として従軍しています。
そして、阿波の細川晴元配下で各方面に従軍しています。表番号6からは、香西氏配下として同族の天霧城の香川氏を攻める軍陣に参加しています。これをどう考えればいいのでしょうか。本家筋の守護代香川氏に対して、同族意識すらなかったことになります。このように香川民部少輔の行動は、南海通記には香西氏の与力的存在として記されていることを押さえておきます。
最大の疑問は、香川氏の有力枝族が阿野郡西庄周辺に勢力を構えることができたのかということです。
これに対して南海通記巻十九の末尾に、香西成資は次のように記します。
「綾南北香河東西四郡は香西氏旗頭なるに、香川氏北条に居住の事、後人の不審なきにしも非ず、我其聴所を記して後年に遺す。世換り時移て事の跡を失ひ、かかる所以を知る人鮮かられ歎、荀も故実を好む人ありて、是を採る事あらば実に予が幸ならん、故に記して以故郷に送る。」
  意訳変換しておくと
「綾南・北香河・東西四郡は香西氏が旗頭となっているのに、香川氏が北条に居住するという。これは後世の人が不審に思うのも当然である。ここでは伝聞先を記して後年に遺すことにしたい。時代が移り、事績が失われ、このことについて知る人が少なくなり、記憶も薄れていくおそれもある。故実を好む人もあり、残した史料が参考になることもあろう。そうならば私にとっては実に幸なことである。それを願って、記して故郷に送ることにする。」

ここからは香西成資自身も香川氏が阿野郡の西庄城を居城としていたことについては、不審を抱いていたことがうかがえます。南海通記は故老の聞き取りをまとめたとするスタイルで記述されています。しかし「是を採る事あらば実に予が幸ならん」という言葉には、なにか胡散臭さと、香川民部少輔についての「意図」がうかがえると研究者は考えています。

香川民部少輔の年齢と、その継嗣について
南海通記には、香川民部少輔が讃岐阿野北条郡西庄城を与えられたのは、永正4年(1507)と記します。そして彼の生存の最終年紀は、表21・22の天正11年(1583)、天正15年(1587)とされます。そうすると香川民部少輔は、76年以上も讃岐に在国したことになります。西庄城を賜って讃岐へ下国した時が青年であったとしても、齢90歳の長寿だったことになります。この年齢まで現役で合戦に出陣できたととは思え得ません。『新修香川県史』では、数代続いたものが「香川民部少輔」として記されていると考えています。おなじ官途名「民部少輔」を称した西庄城主香川氏が、2~3代継承されたとしておきます。

香川民部少輔は、いつ西庄城に入城したのか、その経過は?
南海通記には香川民部少輔は、香川肥前守元明の第2子と記します。長子は、香川兵部大輔と記される香川元光とします。元光は、讃岐西方守護代とされていますが、文献的に名跡確認はされていません。また、父元光も細川勝元の股肱の四臣(四天王)と記されていますが、これも史料上で確認することはできません。ちなみに、四天王の他の三人は、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安ですが、このうち文献上にも登場するのは、香西氏と安富氏です。奈良氏も、史料的には出てきません。なお、同時代の香川氏には、備後守と肥後守がいて、史料的にも確認できるようです。

もともと香西(上香西氏)元直の所領であった西庄を誰から受領したのか?
第1候補者は、阿波屋形の影響力が強い時期なので、細川澄之の自殺後に京兆家の跡を継いだ澄元が考えられます。時の実権者は、澄元の実家である阿波屋形の阿波守護細川讃岐守成之が考えられます。しかし、讃岐阿野郡北条の地を香川氏一族に渡すのを香西氏ら讃岐藤原氏一門が黙って認めたのでしょうか。それは現実的ではありません。もしあったとしても、名目だけの充いだった可能性を研究者は推測します。
三好実休の天霧城攻めについて
今まで定説化されてきた三好実休による天霧城攻めについては、新史料から次の2点が明らかになっています。ことは以前にお話ししました。
①天霧城攻防戦は、永禄元年(1558)のことではなく永禄6年(1563)のことであること。1558年には実休は畿内で合戦中だったことが史料で確認されました。実休配下の篠原長房も畿内に従軍しています。永禄元年に、実休が大軍を率いて讃岐にやってくる余裕はないようです。
②永正3~4年(1506~07)年に天霧城周辺各所で小競り合いが発生していることが「秋山文書」から見えることは以前にお話ししました。

西庄城主の香川民部少輔は、天霧城の本家香川氏を攻めたのか?


表番号6には、香川民部少輔が三好実休に従軍して天霧城を攻めたとあります。これは、南海通記以外の史料には出てきません。永正4年の政変では、讃岐守護代であった香川某が京都で討死にしています。南海通記は、民部少輔の兄香川元光が変後の香川守護代になったとします。確かに、香川某の跡を香川氏一族の中から後継者が出て、讃岐西方守護代に就任していることは、永正7年(1510)の香川五郎次郎以降の徴証があります。そうだとすると、守護代香川氏と民部少輔は、兄弟ということになります。永正4年(1507)以後に、守護代が代替わりしたとしても甥と叔父の近親関係です。非常に近い血縁関係にある香川氏同士が争う理由が見当たりません。香川民部少輔による天霧城攻めは現実的ではないと研究者は考えています。そうすると表番号6の実休の天霧城(香川本家)攻防戦には虚構の疑いがあることになります。
香川民部少輔伝2

元亀2年・(1571)の阿波・讃岐連合の四国勢と毛利勢による備前児島合戦は?
この時の備中出兵も阿野郡北条から出撃ではなく宇多津からです。讃岐に伝わる多くの歴史編纂物は、この合戦に参加した武将に香川民部西庄城主を挙げます。それに対して南海通記は、表番号7~9項のように、香川民部少輔が香西氏らの讃岐諸将に包囲されていると伝えます。ここにも大きな違いがあります。
 さらには1571年中に毛利氏支援によって、香川民部少輔が西庄城帰還に成功したとします。しかし、この時点ではまだ毛利氏には備讃瀬戸地域の海上覇権を手に入れる必要性がありません。未だ足固めができていない状況で讃岐への遠征は無理です。南海通記は「讃岐勢によって西庄城が攻められ香川民部少輔は、開城して落ち延びた」としますが、これは天霧城攻防戦と混同している可能性があります。天霧城落城後に香川某も毛利氏を頼って安芸に亡命しています。

香川民部少輔の西庄城開城と元吉合戦の関連について
表番号15・16と20・21を見ると、香川民部少輔は居城である西庄城を都合4度開城して攻城側に引渡しています。このうち、表15・16と20・21は伝承年紀の誤りで、1回の同じことを2回とカウントしていることがうかがえます。また、過去に毛利氏に援護されて帰城できたことへの恩義のことと自尊心から長宗我部元親への寝返りを拒否したと南海通記は記します。これはいかにも道徳的であり、著者の香西成資の好みそうな内容です。 

順番が前後しますが最後に、元亀年中の表7~11項です。
これは天正5年の元吉合戦の混同(作為)だと研究者達は考えています。香川某の毛利方への退避・亡命は事実のようです。これに対して、香川民部少輔の動きが不整合です。
以上のように南海通記で奈良氏や香西方の旗下武将として描かれていますが、これ著者の香西成資の祖先びいきからくる作為があるというのです。実際は、戦国大名へと歩みはじめた香川氏と阿波三好勢力下でそれを阻止しようとする香西・奈良氏などの抗争が背景にあること。さらに元吉合戦については、発掘調査から元吉城が櫛梨城であると多くの研究者が考えるようになりました。つまり、香川本家の天霧城をめぐるエピソードを西庄城と混同させる作為があること。そして、西庄城を拠点とするさらに香川民部少輔が香西氏傘下にあったことを示すことで、香西氏の勢力を誇張しようととする作為が感じられるということのようです。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」
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綾氏系図 : 瀬戸の島から
南海通記 
   『南海通記』巻之五157~158には、「讃州浦嶋下知記」「海辺の地下人」についての記述があります。内容は次に続く「応仁合戦記」のプロローグで、応仁の乱のために上洛する大内・河野軍を乗せた輸送船団への対応が次のように記されています。
①前段 応仁元年(1467)5月、細川勝元が御教書を発して讃岐のすべての浦々島々に対し、次のように下知した。

「今度防州凶徒有渡海之聞。富国浦島之諸人。堅守定法。不可為海路之禍。殊至海島之漁人者。召集千本浦。可令安居之也。海邊之頭人等営承知。應仁元年五月日.」
意訳変換しておくと
「今度、防州の凶徒(山名氏)が渡海してくると聞く。当国(讃岐)の浦や島の諸人は従来の定法(廻船定法の規定)を堅く守り、防州凶徒(大内氏と河野氏の軍勢)を海路の禍なく無事通過させよ。特に浦々の漁師達は本浦に集合し、身の安全を守れ。以上を海邊の頭人に連絡指示しておくこと。應仁元年五月日.」
 
 私は何度もこの文書を読み返しました。なぜなら細川氏にとって敵対する防州凶徒(山名氏)が船団で上洛しようとしているのです。ところが「戦闘態勢を整え、一隻も通すな」と命じているのではありません。定法(廻船定法の規定)を守り、防州凶徒(大内氏と河野氏の軍勢)を海路の禍なく無事通過させよというのです。これはどういうことなのでしょうか?
②後段は、伊豫の能島兵部大夫(能島村上氏)からの飛船が讃岐の浦長に、制札を廻し「通船」したと、次のように記されています。

「今度大内家、河野家ノ軍兵、君命二依テ上洛セシムル所也,軍兵甲乙人乱妨ヲ禁止ス、船中雑用ハ債ヲ出テ之ヲ償フ、押買ヲ禁止ス、船頭人役者ノ外、船中ノ人衆上陸ヲ禁止ス、海島諸浦ノ人等宜シク之ヲ知ルヘキ也」
意訳変換しておくと
「今度は大内家と河野家の軍兵が、将軍の命に応じて上洛することになった。そこで軍兵による人乱妨を禁止する。船中雑用なのど費用は、きちんと支払う。押買は禁止する。船頭や役人の以外の乗組員の上陸を禁止する。諸浦の者どもに、以上のことを伝えること。

 その結果、讃岐の「海邊モ騒動セス、通船ノ憂モナ」かった。
「海邊ノ地下人ハ但二財貨ヲ通用シテ何ノ煩労モナシ」と記します。大内氏らの制札を浦々島々に掲げ、瀬戸内海航路を無事に通過出来たようです。これが陸上なら「凶徒」が進軍してきて讃岐を通過して、上洛するなら陣地を固め臨戦態勢に入るように命ずるはずです。ところが、「凶徒を無事通過させよ」と命じています。さらには漁業者を各本浦一所に集めて安全を図れともいっています。これは一体どういうことなのであろうか。
 これに対して著者の香西成資は、軍隊の海上移動は細川方も大内方もどちらも「公儀ノ役」であって、これが「仁政」であると評します。つまり公法を守ることが武士道だと云うのです。南海通記が「道徳書」とされる由縁です。

戦国その1 中国地方の雄。覇者:大内義興、大内義隆の家臣団|鳥見勝成

大内・河野氏の輸送船団が讃岐沖を「無事通過」した当時の情勢を見ておきましょう。
 応仁元年(1467)6月24日には讃岐から細川成之に率いられた香川五郎次郎・安富左京亮が入京しています。(『史料綜覧』)。細川成之は阿波守護で、香川・安富は讃岐両守護代です。阿波の守護が、讃岐の両守護代を率いるという変則的な軍編成です。そのような中で、東軍の細川勝元は次のような指示を出しています。
6月26日 小早川熙平の上京を止め大内政弘に備えさせ、
7月27日 大内軍が和泉堺に至ると聞いて斉藤衛門尉を派遣。
これらの指示を見ると、東軍の細川勝元は、幕府の実権を掌握しながら、西軍の援兵に対しても軍配備を怠りなく行っていることがうかがえます。このときすでに大内軍は、7月27日に摂津兵庫に到着し、その軍勢は、河野軍2千余を加え2~3万とも伝えます(『愛媛県史』)。西軍の大軍をみすみす備讃瀬戸を無傷で通過させたのはどうしてでしょうか。
讃岐塩飽の廻船 廻船式目とタデ場 : 瀬戸の島から

その背景には「定法(廻船之定法)」があったからです。
定法は、廻船式目と呼ばれ海路に交通する廻船の作法で、海上法令を条書きしたものです。これは塩飽にも多く残されていることは以前に紹介しました。定法の成立については諸説があり、写本も数系統あって定義の定まらない日本古来の海上法規集のようです。多くの「定法」類の奥書・巻頭に次のように記されています。

「此外にも船の沙汰於有之者、此三十ヶ條に引合、理を以可有之沙汰者也」

ここからは、海上における訴訟を解決するために長い年月をかけてルール化された条文であることが分かります。廻船式目の条文では、船の貸借関係の条項や借船頭の役割などの規定が多くあります。古来船主と雇いや雇われ船頭とのトラブルが多くあった証拠とも云えます。
回船大法考 住田正一博士・「廻船式目の研究」拾遺( 窪田 宏 ) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
例えば「廻船大法」では、次のような条文があります。

一 船を貸、船頭行先にて公事有之、船を留たる時者、船頭可弁事

船は、航海中は船籍地を離れています。そのため寄港先で公事(臨戦状態で平時の廻船を軍用船にしつらえて軍事的調達・徴用・契約)によって、その土地の武将の船団に組み込まれ時には、借船頭が弁済することで裁量を認めたと、研究者は判断します。
 これを、大内・河野軍の輸送船団編成に当てはめると、2万を超す軍勢を乗せた船団は、配下の船舶だけでは足りず、備讃瀬戸海域の船を徴用や契約による動員(借船)したことが考えられます。そうしないと輸送しきれません。その結果、編成された輸送船団は、塩飽・小豆島など備讃瀬戸などのいろいろな船籍が混在していたことになります。そのために讃岐沖を通過する輸送船団には、地元の船も含まれています。そのため輸送船への攻撃は控えることが慣習法化したと研究者は考えています。そして、島々浦々における用船保護のための相互不可侵が「定法」となります。
この相互不可侵は、②の制札にも関係しています。
前半の、軍船に乗船した軍兵甲乙人らの乱妨狼藉を禁止することや、戦略物資準備のための押し買いを規制することも無用の混乱を起こさないための常套策です。要点は後半の「船頭人役者(船頭以外の「船中人衆」=水主)の上陸を禁上していることです。これは、船のクルーたちの中立性を維持するための制限措置と研究者は考えています。これによって、乗組員たちから船の針路などの情報が漏れるのを防ぎ、浦人らとの連絡を防ぐこともできます。

駿河屋 -<中古><<日本史>> 老松堂日本行録 朝鮮使節の見た中世日本 (日本史)

応仁元年(1467)から約40前の応永27年(1420)に、李氏朝鮮の日本回礼使を務めた宗希環が京都を往復しています。その
著『老松堂日本行録』(岩波文庫本)に、以下のような文章があります。

可忘家利に泊す(162)此の地は軍賊のいる所にて王令及ばず、統属なき故に護送船もまたなし。・・其の地に東西の海賊あり。東より来る船は、東賊一人を載せ来れば、即ち西賊害せず。西より来る船は、西賊一人を載せ来れば、即ち東賊害せず。・・・」
(可忘家利は、現広島県安芸郡蒲刈町)

また、銭七貫を代価に東賊を一人雇ったことで、希環ら回礼使たちは無事に瀬戸内海を通過でき帰国しています。ここでも海上勢力(海賊)の海上における相互不可侵の慣行があったことがうかがえます。戦国時代も下っていくうちに、例えば海賊とも呼ばれた海上勢力も、信長・秀吉などの海軍として組み込まれ従属化していくことは、以前にお話ししました。それ以前の塩飽衆や村上氏などの海上勢力(平時の廻船業又は交易集団)は、戦時には周囲の戦国大名である毛利・小早川・大友らの武将と、その時々の条件で随意に与力して活動しています。こうした一見日和見的な海上勢力の動向も船籍船舶の現在位置や配船の状況又は借船の都合・調達の結果などからも左右されていたものと研究者は考えています。
  以前をまとめておきます
①船舶が移動先で「公事(徴用・契約)」された場合が、船頭の責任で運用管理された。
②大軍の海上輸送には多数の船舶が「公事」され輸送船団として組織された。
③そのため輸送船団を襲撃すると云うことは、仲間の船を襲う可能性があった。
④そこで、戦時下においては輸送船襲撃はしないという慣習法ができ、それが「定法」となった。
⑤そのため応仁の乱で、大内・河野軍を載せた輸送船団が備讃瀬戸を通過する際にも、守護細川氏は、襲撃命令を出さなかった。
⑥17世紀後半に成立した南海通記では、これを「武士道」の手本として賞賛している。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「唐木裕志 戦国期の借船と臨戦態勢&香川民部少輔の虚実  香川県中世城館分布調査報告書2003年435P」です。
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   長宗我部元親の四国平定の最終段階で、秀吉が小豆島を拠点に介入してきたことについては以前にお話ししました。しかし、長宗我部元親の東讃地域制圧がどのように行われたかについては具体的なことは触れていませんでした。今回は元親の東讃制圧がどのような経過で進められたのかを見ていくことにします。テキストは「田中健二 長宗我部元親の東讃侵攻と諸城主の動向   中世城郭分布調査報告430P」です。
讃岐戦国史年表3 1580年代
1582年前後の讃岐の動き
1582(天正10)年6月、織田信長が本能寺の変で倒れます。
これを見て、対立関係に転じていた長宗我部元親は、好機到来と阿波・讃岐両国へ兵を進めます。7月20日には、讃岐・伊予・土佐の長宗我部方の軍勢が、西讃の戦略拠点である西長尾城(まんのう町長尾)に集結します。この編成を「南海通記」や「元親一代記」などの軍記物は次のように記します。
総大将は元親の二男で天霧城城主香川信景の養子となった五郎次郎親和
土佐勢 
大西上野介、中内源兵衛、国吉三郎兵衛、入交蔵人、谷忠兵衛
伊予勢 
馬立中務大輔、新居、前川、曾我部、金子、石川、妻取采女
讃岐勢 
香川信景、長尾大隅守、羽床伊豆守、新名内膳亮
総勢1、2万人とします。これらの軍勢は「元親一代記」などの軍記物では「西衆」と呼ばれています。年表化しておくと
7月23日、軍律を定め、長尾大隅守・羽床伊豆守を先導として那珂・鵜足両郡へ出陣
8月 3日 讃岐国分寺へ進み本営設置。
   6日 香西郡勝賀城の城主香西伊賀守が降参し、その兵も西衆に従軍。
  11日 国分寺を立った西衆は阿波三好方の最大の拠点である山田郡十河城へ進軍。
長宗我部元親讃岐侵攻図
長宗我部元親の讃岐侵攻図

一方、長宗我部元親が率いる本隊は、岡豊城を出陣して阿波への侵攻を開始します。
土佐勢は阿波上郡(美馬・三好両郡)と南方(那賀・海部両郡)へと二手に分かれて2万余の軍勢が三好氏の拠点を攻めます。元親の率いる本隊は、8月26日には一宮城(徳島市一宮町)を落とし、三好氏の本拠勝瑞城(藍住町)を目指して北進します。

勝瑞城
勝瑞城
このときの勝瑞城の城主は、三好政康(十河存保)でした。政康は阿波三好氏の義賢(実休)の子で、叔父十河一存の養子となっていました。それが天正5年、兄長治が自害した後は三好氏の家督を継いでいました。「土佐物語」には、政康は長宗我部氏による阿波侵攻に備えるために、8月初めに讃岐高松の十河城より急遽勝瑞城へ移ったと記します。8月28日、三好政康は勝瑞城近くの中富川において元親軍と戦います。その戦いを「阿波物語」に記されていることを意訳要約すると次のようになります。

この合戦において三好政康の率いる阿波勢はわずかに3000余人で、土佐の大軍に踏みにじられてしまった。敗れた政康は残兵とともに勝瑞城に立て籠もったが、9月に入ると水害に襲われ、下郡(吉野川中・下流域)一帯が海と化し、城も孤立した。そこで21日、政康は今後は、元親に敵対することは決してしないとの起請文を捧げて勝瑞城を退去し、讃岐へ逃れた。

脇町岩倉城
岩倉城(阿波脇町)
勝瑞城落城の前日に美馬郡の岩倉城(脇町岩倉)も土佐勢の別動隊に攻め落とされています。
城主は「元親記」には三好式部少輔、「土佐物語」には三好山城守とあります。元親は同城を一族の掃部助に預けます。岩倉城は阿讃山脈を越えるための重要な交通路である曾江谷越の阿波側の入口にありました。東を流れる曾江谷川をさかのぼれば、阿波・讃岐を結ぶ曾江谷越(清水峠)です。この峠からは、香川・山田・三木・寒川・大内の5郡へ通じる道が続きます。戦略的な要衝にもなります。

長宗我部元親侵攻図

 土佐軍に鳴門海峡を経て船で兵を送ると云うことは考えられなかったのでしょうか?
  長宗我部軍が水軍らしい船団を保持していたことは史料には出てきません。また、勝瑞城を包囲していた元親軍は、坂東郡木津城(鳴門市撫養)の城主篠原白遁に対して讃岐の三木郡のほか1郡を与えることを条件に調略を進めていたことが「土佐国壼簡集」所収文書)からはうかがえます。しかし、それには城主は応じなかったようです。天正11年の高野山僧快春書状(「香宗我部家伝證文」所収文書)では、5月21日に元親の弟で淡路攻めを担当していた香宗我部親泰が木津城を攻め落としています。それまでは木津城を拠点にして撫養海域は、三好方の制海権上にあったため、土佐軍が鳴門海峡を通過して讃岐へ侵攻することはできなかったようです。そのために脇町の曾江谷越を選んだのであり、その確保のためには岩倉城を手中|こ収める必要があったようです。

虎丸城

勝瑞城を退去した三好政康は、一旦、大内郡虎丸城に入り、ついで十河城へ移ります。
当時、虎丸城には三好方の安富肥前守盛方がいて、寒川郡雨滝城(さぬき市大川・津田・寒川)を家臣六車宗湛に守らせていました。政康が虎丸条に入ると彼は雨滝城へ帰り、その十河城への移動後は同族の安富玄蕃允が虎丸城を守ったと「十河物語」は記します。

十河城周辺の山城分布図
三好氏が最後の拠点とした十河城と周辺山城

10月中旬になると、阿波を平定した長宗我部元親元親は、岩倉から曾江谷越を経て讃岐へ入り、十河城を包囲していた西衆と合流します。その軍勢は併せて、3,6万ほどに膨れあがったとされます。
この時に元親軍として活躍した由佐家には、次のような長宗我部元親の感状が残されています。
由平、行以三谷二構兵候を打破、敵数多被討取之由、近比之御機遣共候、尤書状を以可申候得共迎、使者可差越候間、先相心得可申候、弥々敵表之事差切被尽粉骨候之様二各相談肝要候、猶重而可申候、謹言
(天正十年)                   (長宗我部)元親判
十月十八日                 
小三郎殿
      「由佐長宗我部合戦記」(『香川叢書』)所収。
意訳変換しておくと
先頃の三谷城(高松市三谷町)の攻城戦では、敵を数多く討取り、近来まれに見る活躍であった。よってその活躍ぶりの確認書状を遣わす。追って正式な使者を立てて恩賞を遣わすので心得るように。これからも合戦中には粉骨して務めることが肝要であると心得て、邁進すること。謹言

  感状とは、合戦の司令官が発給するものです。この場合は、長宗我部元親が直接に由佐小三郎に発給しています。ここからは小三郎が、長宗我部元親の家臣として従っていたことが分かります。
 この10月18日の感状からは、由佐氏が山田郡三谷城(高松市三谷町)攻めで勲功をあげていたこととともに、土佐軍の軍事活動がわかります。その1ヶ月後に、由佐小三郎は、二枚目の感状を得ています
長宗我部元親書状(折紙)
坂本河原敵あまた討捕之、殊更貴辺分捕由、労武勇無是非候、近刻十河表可為出勢之条、猶以馳走肝要候、於趣者、同小三可申候、恐々謹言
    (長宗我部)元親(花押)
(天正十年)十一月十二日
油平右 御宿所
  意訳変換しておくと
 この度の坂本河原での合戦では、敵をあまた討捕えた。その武勇ぶりはめざましいものであった。間近に迫った十河表(十河城)での攻城戦にも、引き続いて活躍することを期待する。恐々謹言

11月18日に、坂本川原(高松市十川東町坂本)で激戦があった際の軍功への感状です。戦いの後に引き上げた宿所に届けられています。この2つの感状からは高松市南部の十河城周辺で、戦闘が繰り返されていたことがうかがえます。

DSC05358十川城
十河城縄張り図

 さらに「讃陽古城記」には、十河氏一族の三谷氏の出羽城や田井城、由良氏の由良山城(由良町)なども長宗我部軍に攻略されたとあります。山田郡坂本郷に当たる坂本は、当時の幹線道路である南海道が春日川を渡る地点で、十河城の防衛上、重要な地点でした。到着した元親は、すぐに、十河城を攻撃して、堀一重の裸城にしています。そして、三木郡平木に付城を造営して、讃岐・伊予の武士を配置し、「封鎖ライン」を張ります。三木町平木にある平木城跡は、南海道のすぐそばです。南方の十河城の動きを監視しながら、補給を絶つという役割を果たすには絶好の位置になります。十河城に対する備えを終えた元親は、屋島・八栗などの源平の名勝地を遊覧する余裕ぶりです。そして、力押しすることなく、包囲陣を敷いて冬がやってくると土佐に帰っていきます。

十河城跡

 翌年1583年の春、4月になると元親は讃岐平定の最後の仕上げに向けて動き始めます。
この時の讃岐進行ルートは大窪越から寒川郡へ入り、大内・寒川両郡境の田面峠に陣を敷きます。これに先立つ2月28日の香川信景書状や3月2日の元親書状(いずれも秋山家文書)には、西讃三野の秋山木工進が天霧城主の香川信景の配下に属し、寒川郡の石田城攻めに参加し、感状を受けています。
DSC05330虎丸条
虎丸城縄張図
石田東に広大な城跡を残す石田城は南海道を見下ろす所にあり、北方に三好方の拠点雨滝城、東方に虎丸城が望めます。元親が出陣してくる以前から元親に下った讃岐衆によって石田城攻めが行われていたことが分かります。

田面峠

なぜ、元親は本陣を大内・寒川郡境の田面峠に置いたのでしょうか。
それは、大内・寒川両郡にある三好方の拠点、虎丸城と雨滝城の分断と各個撃破だと研究者は考えています。
 4月21日、戦いの準備が整う中で、大内郡の入野(大内町丹生)で、突発的に戦闘が始まります。この時の香川信景の山地氏への感状です。
 去廿一日於入野庄合戦、首一ッ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也
  天正十一年五月二日      
                 (香川)信景
山地九郎左衛門殿
意訳変換しておくと
 先月の21日(大内郡)入野庄で合戦となった際に、首一ッを討とった。比類ない働きは、真に神妙である。これからも粉骨邁進するべし
  天正十一年五月二日               (「諸名将古案」所収文書)
これは大内郡入野庄の合戦での山路九郎左衛門の働きを賞した香川信景の感状です。
当時の情勢は、長宗我部元親は阿波から大窪越えをして寒川郡に入り、田面峠に陣を敷きます。入野は田面峠から東へ少し下った所になります。長宗我部勢は十河勢の援軍として引田浦にいた秀吉軍を攻めたようです。この入野での戦いで、長宗我部勢の先兵であった香川氏の軍の中に山路氏がいて、敵方の田村志摩守の首を取ったようです。その際の感状です。
  ここからは天霧城主の香川氏が長宗我部元親に下り、その先兵として東讃侵攻の務めを果たす姿が見えて来ます。
そして、香川氏の家臣山路氏の姿も見えます。この時に香川氏より褒賞された山路氏は、もともと三野郡詫間城(三豊郡詫問町詫間)の城主で、海賊衆でした。芸予諸島の弓削島方面までを活動エリアとしていたこと、それが天正13年に没した九郎左衛門のとき、三木郡池辺城(本田郡三木町池戸)へ移されたことは以前にお話ししました。池辺城は平木城の西方で、十河城を南方に望む位置です。山路氏は、西讃守護代の香川氏の配下でしたから、三好方との戦闘に備えるために香川氏が詫間城から移したと研究者は考えています。このように、香川氏に率いられて西讃の国人たちが東讃へと参陣している姿が見えます。
長宗我部軍と秀吉軍は、入野と引田で軍事衝突しました。
ここにやって来ていた秀吉軍とは、誰の軍勢だったのでしょうか? 

仙石秀久2
仙石秀久
四国の軍記物はどれも、羽柴秀吉の部将仙石権兵衛秀久の名を上げます。
仙石氏の家譜である「但馬出石仙石家譜」には、4月に、羽柴秀吉が越前賤ケ嶽での柴田勝家との決戦直前に、毛利氏の反攻に備えるため仙石秀久を「四国ノ押へ」として本領の淡路へ帰らせたと記します。ただ「元親一代記」は、仙石秀久は秀吉より讃岐国を拝領したが、入国することもなく、「ここかしこの島隠れに船を寄せ」ていただけと否定的に記します。当時の仙石秀久の動きを年表化すると次のようになります。
1582 9・
-仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
1584 6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣・宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略

引田 中世復元図
引田の中世復元図
「改選仙石家譜」には、入野と引田での合戦を次のように記します

秀久は、引田(大川郡引田町引田)の「与次山」(引田古城?)に急造の城を構え、軍監として森村吉を置いていた。田面山に陣取った長宗我部軍が虎丸城を疲弊させるために与田・入野の麦を刈り、早苗を掘り返し、引田浦に兵を出す動きを見せた。そこで秀久は、2千余りの兵を率いて待ち伏せした。思わぬ奇襲に狼狽した長宗我部軍は入野まで退いて防戦した。このときの戦いが入野合戦である。戦況は態勢を立て直した長宗我部軍の反撃に転じた。そのため秀久軍は引田の町に退き、古城に立て籠った。翌22日、長宗我部軍による包囲を脱した秀久軍は船を使って小豆島に逃れた。このときの合戦を引田合戦という。

 中世の引田は阿波との国境である大坂越の讃岐側の出入口で、人やモノの集まる所でした。
また、鳴門海峡を行き交う船は、この湊に入って潮待ちをしたので、瀬戸内海の海上交通上の重要な港であったことは以前にお話ししました。引田の地は東讃の陸上交通と海上交通とが結びつく要衝でした。当時の仙石秀久は淡路を本拠としていました。これは秀吉が仙石秀久に四国・九州平定に向けて、海軍力・輸送力の増強を行い、瀬戸内海制海権の確保を命じていた節があります。そのような視点で見ると、引田は海からの讃岐攻略の際には、重要戦略港でした。そのために足がかりとして引田に拠点を設けていたのでしょう。後にやってくる生駒氏なども、仙石秀久の動きを知っていますので、引田に最初の城を構えたようです。

 話が逸れましたので、長宗我部元親の動きにもどります。
入野において合戦が行われたのと同じ日の4月21日、元親の弟香宗我部親泰は、次のような書状を高野山僧の快春に出しています。
鳴門の木津城を落とし、阿波一国の平定を終えたこと、ついでは淡路へ攻め込む所存であること
(「香宗我部家伝證文」所収支書).
 秀吉が北陸平定を行っていたころ、元親もまた四国平定が最後の段階に差し掛かろうとしていたのです。越前北ノ庄で柴田勝家を滅ぼし、北陸平定を終えた秀吉は近江坂本城へ帰ってきます。その翌々日の5月13日、元親と仙石秀久の合戦結果を書状で知ります。秀吉は秀久に対し、備前・播州の海路や港の警固を命じるとともに元親討伐を下命しています。いよいよ秀吉と元親の軍事対決が始まります。

雨瀧山城 山頂主郭部1
雨滝城

土佐軍はこの時期に、讃岐の三好方の城を次々に落としていきます。
「翁嘔夜話城蹟抜書」によれば、5月に石田城が落城しています。安富氏の居城である雨滝城も家臣六車宗湛の降参により落城し、城主安富肥前守は小豆島へ退去します。小豆島は、秀吉側の讃岐攻略の戦略拠点として機能していたことは以前にお話ししました。
 このような勝利の中で長宗我部方についた讃岐武将への論功行賞が行われます。研究者が注目するのは、論功行賞を長宗我部元親ではなく香川氏が行っていることです。これは讃岐における軍事指揮権や支配権限を香川信景が元親からある程度、任されていたことがうかがえます。それを裏付けるのが、次の元親の書状です。
「敵数多被討捕之由 御勝利尤珍重候、天霧へも申入候 定而可被相加御人数」

意訳すると
敵を数く討ち捕らえることができ、勝利を手にしたのは珍重である。「天霧」へも知らせて人数を増やすように伝えた」

「天霧」とは、香川氏の居城天霧城のことでしょうか、あるいは戦場にいる香川信景自身を指しているのかもしれません。わざわざ天霧城へ連絡するのは、長宗我部氏にとって香川氏が重要な地位を占めていたことを示します。元親は次男親和(親政)を信景の養子として香川氏と婚姻関係を結んでいます。讃岐征服には、香川氏の力なくして成功しないという算段があったようで、香川氏との協力体制をとっています。そして「占領政策」として、香川氏の権限をある程度容認する方策をとったと研究者は考えているようです。
 長宗我部軍による包囲が続けられるなかで、虎丸城も年内には落城したようです。
12月4日の香宗我部耗泰書状(「土佐国壼簡集拾遺」所収文書)には「十河一城の儀」とあります。翌天正12年3月、秀吉は織田信長の二男信雄と対立し、美濃へ出陣します。そして、4月には秀吉は家康に尾張長久手の合戦で破れます。このような中で、長宗我部元親は織田信雄,徳川家康と結び、秀吉と対立します。信雄は3月20日の香宗我部親泰に宛てた書状で、淡路より出陣し摂州表へ討ち入るよう求めています。信雄・家康と連携して、秀吉を東西より挟撃することを考えていたことが分かります。一方、元親にとって秀吉は信長の後継者で、その家臣である仙石秀久とは、すでに入野・引田で一戦を交えた敵対勢力です。引田合戦後に、寒川郡の石田・雨滝両城を落とした元親は、その勢いに乗って山田郡十河城を攻撃します。そして5月になると、元親は三木郡平木に入り、みずから十河城攻めを指揮します。「南海通記」は、その様子を次のように記します。

十河城と云う。三方は深田の谷入にて、南方平野に向ひ大手門とす。土居五重に築て堀切ぬれば攻入るべき様もなし」

ここからは十河城が堅固な守りを備えていたことがうかがえます。しかし昨年来、付城によって海路からの食料の搬入を絶たれていた城内の軍兵は飢餓に陥っていたようです。窮まった三好政康は阿波岩倉城主長宗我部掃部助を通じて、元親に城を開けて降参することを申し出ます。再三にわたる懇願に元親も折れて、政康以下の城兵を屋島へ逃れさせたという(「元親一代記」)。

十河城がいつ落城したのか、その経緯について他史料で見ておきましょう。
①5月20日、元親は讃岐の武士漆原内匠頭に対し、十河合戦での軍功を賞しています。(「漆原系譜」所収文書)
②8月8日書状 徳川家康の部将本多正信が香宗我部親泰に宛てた書状(「香宗我部家伝證文」)には、親泰は、元親軍が十河城を包囲する前夜、政康は逃亡したことを伝えています。
③8月19日の織田信雄書には、親泰は6月11日付けの書状で十河城の落城を伝えています。
④6月16日、秀吉は小豆島の小西行長らに対し、十河城救援のための兵糧米の運送を備前衆と仙石秀久に命じたので警固船を出すよう命じています。が、遅きに失した(竹内文書)とあります。
以上の資料からは、5月下旬から6月初旬の間に十河城は落城していたことが推測できます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 長宗我部元親の東讃侵攻と諸城主の動向   中世城郭分布調査報告430P」
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 中世後期細川氏の権力構造 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

足利幕府のなかで、細川は一族の繁栄のために「同族連合」を形成していました。そのような中で勃発するのが応仁の乱です。10 年以上にわたって続いたこの乱は、足利将軍家での義視 対 義尚、畠山氏での持富対義就のほか、斯波氏、六角氏などでの同族内での主導権(家督)争いが招いた物とも云えます。これに対して細川一族は、内部抗争を起こすことなく、同族が連合することで、乱に対応しその後の発展につなげることができました。
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 応仁の乱の中で京兆家惣領勝元が死亡します。その危機的状況への対応策として生まれたのが「京兆家-内衆体制」だと研究者は考えています。

勝元が亡くなった時、後継者の政元はまだ7歳でした。
問題になるのが、誰に後見させるかです。そこで登場するのが内衆です。内衆とは、側近被官のことで、細川氏(京兆家)では、後醍醐天皇に追われた足利尊氏が九州から上洛する際に、被官化した者たちです。彼らは讃岐・阿波など瀬戸内海沿岸諸国の出身者が多かったようです。この者たちを同族連合の細川氏各家(各分国)の守護代や各種代官等に任命し、分国支配を任せるという統治スタイルです。これは、幕府と守護とが連携して中央と地方を支配するようなもので、京兆家と内衆が細川氏分国(細川同族連合)を連携しながら支配するという方法です。これを研究者は「京兆家-内衆体制」と呼んでいます。
 内衆のメンバーは、奉行人・評定衆・内衆・非譜代衆によって構成されます。そして、幼かった京兆家当主政元をもり立て、細川氏一族の強化を図ろうとします。うまく機能していた「京兆家-内衆体制」に、大きな問題が出てきます。それは政元は天狗道に熱中したことです。天狗になろうとして、修験道(天狗道)の修行に打ち込み、女人を寄せ付けません。そのため妻帯せず、後継者ができません。そこで3人の後継者候補(養子)が設定されます。

永世の錯乱 対立構図
一人目は澄之。
関白を務めた九条政基の子息で現任関白尚経の弟です。関白は天皇の補佐役であり、公家のトップです。関白家出身の養子を後継者とすることで、武家(細川氏)と公家(九条家)が連合する政権構想があったことを研究者は推測します。しかし、これでは、細川氏の血脈が絶えてしまいます。
二人目は澄元。阿波守護家出身。
阿波守護家は細川氏一族では京兆家に次ぐ家格です。細川氏内部での統合・求心力を高めるには良いかもしれません。ところが、政元自身がこれには乗り気でなかったようです。
三人目が高国。京兆家の庶流である野州家の出身
政元が養子として認めたていたかどうかは、はっきりとしません。
どちらにしても、後継者候補が何人もいるというのは、お家騒動の元兇になります。それぞれの候補者を担ぐ家臣を含めたそれぞれの思惑が渦巻きます。互いの利害関係が複雑に交錯して、同族連合としてのまとまりに亀裂を生むことになります。応仁文明の乱を乗り切り、幕府内における優越した地位を保ち続けて来た細川同族連合の内紛の始まりです。これが織田信長上洛までの畿内地域の混乱の引き金となります。これが各分国にも波及します。讃岐もこの抗争の中に巻き込まれ、一足早く戦国動乱に突入していきます。

この口火を切ったのが細川政元の内衆だった讃岐の武将達のようです。
応仁の乱の際に 管領細川勝元の家臣として畿内で活躍した讃岐の4名の武将を南海通記は「細川四天王」と呼んでいます。当時のメンバーは以下の通りでした。
安富盛長(安富氏) - 讃岐雨滝城主(東讃岐守護代)
香西元資(香西氏) - 讃岐勝賀城主
奈良元安(奈良氏) - 讃岐聖通寺城主
香川元明(香川氏) - 讃岐天霧城主(西讃岐守護代)
応仁の乱後に京兆家を継いだ細川政元も、この讃岐の四氏を内衆として配下に於いて政権基盤を固めていきます。中でも香西五郎左衛門と香西又六(元長)は「両香西」と呼ばれ、細川政元に近侍して、常に行動を共にしていたことは以前にお話ししました。それが後継者を巡る問題から、讃岐の「四天王」の子孫は、それまで仕えてきた細川政元を亡き者にします。その結果、引き起こされるクーデーター暗殺事件に端を発するのが永世の錯乱です。今回は、永世の錯乱当時の讃岐武将達の動きを史料でお押さえていきます。

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「足利季世記」は、細川京兆家の管領で細川政元について、次のように記します。長文意訳です。
四十歳の頃まで女人禁制で魔法飯綱の法、愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如きであった。ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、見る人身の毛もよだつほどであった。このような状況であったので、お家相続の子が無く、御内・外様の人々は色々と諌めた。
 その頃の公方(足利)義澄の母は、柳原大納言隆光卿の娘であった。これは今の九条摂政太政大臣政基の北政所と姉妹であった。つまり公方と九条殿の御子とは従兄弟であり、公家も武家も尊崇した。この政基公の御末子を細川政元の養子として御元服あり、公方様の御加冠あり、一字を参らせられ、細川源九郎澄之と名乗られた。澄之はやんごとなき公達であるので、諸大名から公家衆まで皆、彼に従い奉ったので、彼が後継となった細川家は御繁昌と見えた。そして細川家の領国である丹波国が与えられ入部された。
 細川家の被官で摂州守護代・薬師寺与一という人があった。
 その弟は与ニといい、兄弟共に無双の勇者であった。彼は淀城に居住して数度の手柄を顕した。この人は一文字もわからないような愚人であった。が、天性正直であり理非分明であったので、細川一家の輩は皆彼を信頼していた。
 先年、細川政元が病に臥せった時に、細川家の人々は協議して、阿波国守護である細川慈雲院殿(成之)の子、細川讃岐守之勝(義春)に息男があり、これが器量の人体であるとして政元の養子と定めることにした。これを薬師寺を御使として御契約した。これも公方様より一字を賜って細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行われ、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、後には御心も乱れ現なき事を言い出した。
この様では、どうにもならないと、薬師寺与一と赤沢宗益(朝経)は相談して、六郎澄元を細川家の家督を相続させ政元を隠居させることで一致した。ここに謀反を起こし、薬師寺与一は淀城に立て籠もり、赤沢は二百余騎にて伏見竹田に攻め上がった。
 しかし永正元年九月の初め、薬師寺与一の舎弟である与ニ(長忠)が政元方の大将となり、兄の籠もる淀城を攻めた。城内をよく知る与ニの案内が有ったために、城は攻め落とされ、与一は自害することも出来ず生け捕りにされ京へと上らされた。与一はかねて一元寺という寺を船橋に建立しており、与ニはこの寺にて兄を切腹させた。与ニには今回の忠節の賞として、桐の御紋を賜り摂津守護代に補任された。源義朝が父為義を討って任官したのもこれに勝ることはないだろうと、爪弾きに批判する人もあった。赤沢は色々陳謝したため一命を助けられた。
このような事があり、六郎澄元も阿州より上洛して、父・讃岐守殿(義春)より阿波小笠原氏の惣領である三好筑前守之長と、高畠与三が共に武勇の達人であったため。補佐の臣として相添えた。

薬師寺与ニは改名して三郎左衛門と号し、政元の家中において人もなげに振る舞っていたが、三好が六郎澄元の後見に上がり、薬師寺の権勢にもまるで恐れないことを安からず思い、香西又六、竹田源七、新名などといった人々と寄り合い評定をした
「政元はあのように物狂わしい御事度々で、このままでは御家も長久成らぬであろう。しかし六郎澄元殿の御代となれば三好が権勢を得るであろう。ここは政元を生害(殺害)し、丹波の九郎澄之殿に京兆家を継がせ、われら各々は天下の権を取ろう。」と評議一決した。
 1507(永正4)年6月23日、政元はいつもの魔法を行うために御行水を召そうと湯殿に入られた。
そこを政元の右筆である戸倉と言う者が襲い殺害した。まことに浅ましい。
この政元の傍に不断に仕える波々伯部という小姓が浴衣を持って参ったが、これも戸倉は切りつけた。しかし浅手であり後に蘇生し、養生して命を全うした。

この頃、政元は、丹波(丹後)の退治のために赤沢宗益を大将として三百余騎を差し向けていた。また河内高屋へは摂州衆、大和衆、宗益弟、福王寺、喜島源左衛門、和田源四郎を差し向け、日々の合戦に毎回打ち勝ち、所々の敵たちは降参していた。しかし、政元殺害の報を聞くと軍勢は落ち失い、敵のため皆討たれた。
政元暗殺に成功した香西又六は、この次は六郎澄元を討つために兵を向けた。
明けて24日、薬師寺・香西を大将として寄せ行き、澄元方の三好・高畠勢と百々橋を隔てて切っ先より火を散らして攻め戦った。この時政元を暗殺した戸倉が一陣に進んで攻め来たのを、波々伯部これを見て、昨日負傷したが主人の敵を逃すことは出来ないと、鑓を取ってこれを突き伏せ郎党に首を取らせた。
六郎澄元の御内より奈良修理という者が名乗り出て香西孫六と太刀打ちし、孫六の首を取るも修理も深手を負い屋形の内へ引き返した。このように奮戦したものの、六郎澄元の衆は小勢であり、敵に叶うようには見えなかったため、三好・高畠は澄元に御供し近江へ向けて落ちていった。

この時、周防に在った前将軍・足利義材はこの報を聞いて大いに喜び、国々の味方を集め御上洛の準備をした。
中国西国は大方、将軍義材御所の味方となった。安芸の毛利治部少輔(弘元)を始めとして、義材を保護している大内氏の宗徒の大名の多くは京都の御下知に従っていたため、この人々の元へ京より御教書が下された。

根本史料ではなく、内容も軍記物語のような語り口ですが、だいたいの大筋を掴むにはいい史料です。次に、根本史料で押さえておきます。
永世の錯乱1
 
『宣胤卿記』(のぶたねきょうき)は、戦国時代の公卿・中御門宣胤の日記です。
1480(文明12)年正月から1522(大永29)年正月までの約40年の京を巡る政局がうかがえる史料のようです。細川政元の暗殺や細川澄元の敗死などの永正の錯乱については、次のように記します。
「宣胤卿記」1507(永正四)年六月二四日条
去る夜半、細川右京大夫源政元朝臣四十二歳。天下無双の権威。丹波。摂津。大和。河内・山城。讃岐・土佐等守護なり。被官竹田孫七のために殺害せらる。京中騒動す。

 今日午刻、かの被官山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人、嵯峨より数千人を率い、細川六郎澄元政元朝臣養子。相続分なり。十九歳。去年阿波より上る。在所将軍家北隣なり。へ押し寄せ、終日合戦す。申斜、六郎敗北し、在所放火す。香西彦六討死す、同孫六翌日廿五日、死去すと云々。
 六郎(澄元)同被官三好(之長)阿波より六郎召具す。棟梁なり。実名之長。落所江州甲賀郡。国人を憑むと云々。今度の子細は、九郎澄之自六郎より前の政元朝臣養子なり。実父前関白准后(九条)政基公御子。一九歳。家督相続の遺恨により、被官を相語らい、養父を殺さしむ。香西同心の儀と云々。言語道断の事なり。
意訳変換しておくと
 細川政元(四十二歳)は、天下無双の権威で、丹波・摂津・大和・河内・山城・讃岐・土佐等守護であったが夜半に、被官竹田孫七によって殺害せれた。京中が大騒ぎである。今日の午後には、政元の被官である山城守護代香西又六(元長)・孫六(元秋)・彦六 (元能)弟三人が、嵯峨より数千人を率いて、細川六郎澄元(政元の養子で後継者19歳。去年阿波より上洛し。将軍家北隣に居住)を襲撃し、終日戦闘となった。六郎は敗北し、放火した。香西彦六も討死、孫六も翌日25日に死去したと伝えられる。六郎(澄元)は被官三好(之長)が阿波より付いてきて保護していた。この人物は三好の棟梁で、実名之長である。之長の機転で、伊賀の甲賀郡に落ちのびた。国人を憑むと云々。
 今回の子細については、澄之は六郎(澄元)以前の政元の養子で後継者候補であった。実父前関白准后(九条)政基公御子で一九歳である。家督相続の遺恨から、香西氏などの被官たちと相語らって、養父を殺害した。香西氏もそれに乗ったようだ。言語道断の事である。
 ここには細川政元暗殺の黒幕として、香西元長とその兄弟であると記されています。
その背景は、細川政元の後継者が阿波細川家の澄元に決定しそうになったことがあると指摘しています。そうなると、澄元の被官に三好之長が京兆家細川氏を牛耳るようになり、「細川四天王」と呼ばれた讃岐の香西・香川・安富・奈良氏にとっては出番がなくなります。また、今までの既得権利も失われていくことが考えられます。それを畏れた香西氏が他の三氏に謀って、考えられた暗殺クーデター事件と当時の有力者は見抜いていたようです。

「細川大心院記」永正四年六月二四日条には、次のように記します。
夏ノ夜ノ習トテホトナク明テ廿四日ニモ成ケレハ巳刻許二香西又六元長、同孫六元秋、同彦六元能兄弟三人嵯峨ヲ打立三千人計ニテ馳上リ其外路次二於テ馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ又六弟二心珠院宗純蔵主、香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕馳集り室町へ上リニ柳原口東ノ方ヨリ澄元ノ居所安富力私宅二押寄ル。
 
意訳変換しておくと
細川政元が暗殺された夜が開けて24日になると、香西又六元長と実弟の孫六元秋、彦六元能兄弟三人は、阿波細川澄元の舘を襲撃した。三千人ほどの兵力で嵯峨を馳上り、その途上で駆けつけた者達の数は分からない。又六元長の弟や心珠院宗純蔵主、香川上野介満景、安富新兵衛尉元顕なども、これに加わり室町へ上リ、柳原口東方から澄元の居所へ安富勢とともに押し寄せた。

ここには細川澄元舘を襲撃した讃岐の四天王の子孫の名前が次のように記されています。
①香西又六元長・弟 孫六元秋(討死)・彦六元能(討死)
②香川上野介満景
③安富新兵衛尉元顕
奈良氏の名前は見えないようです。

細川政元暗殺クーデターの立案について「不問物語」( 香西又六与六郎澄元合戦事)は、次のように記します。
香西又六元長ハ嵯峨二居テ、一向ニシラサリケり。舎弟孫六・同彦六ナトハ同意ニテ九郎澄之ヲ家督ニナシ、六郎澄元并三好之長・沢蔵軒等ヲモ退治セハヤト思テ又六二云ケルハ、「過し夜、政元生害之事、六郎澄元・同三好等力所行也。イカヽセン」卜有間、又六大驚、「其儀一定ナラハ、別ノ子細ハ有マシ。只取懸申ヘシ」トテ、兄弟三人嵯峨ヲ千人余ニテ打立ケリ。於路頭馳付勢ハ数ヲ不知。京都ニハ舎弟心珠院二申合間、香川上野介満景・安富新兵衛尉元顕、室町ヲノホリニ柳原口東ノ方ヨリ澄元屋形故安富筑後守力私宅二押寄、

意訳変換しておくと
香西又六元長は、嵯峨で細川高国暗殺計画について始めて一行に知らせた。舎弟の孫六・同彦六は同意して細川澄之を京兆家の家督として、六郎澄元とその側近の阿波の三好之長・沢蔵軒等を亡き者にする計画を又六に告げた。「夜半に、政元を殺害し、その後に細川・三好等なども襲う手はずで如何か」と問うた。これに又六(元長)は大いに驚きながらも、「それしか道はないようだ、それでいこう、ただ実行あるのみ」と、兄弟三人は嵯峨を千人余りで出発した。道すがらの路頭で馳付た数は分からない。京都には舎弟心珠院がいて、香川上野介満景・安富新兵衛尉元顕が加わり、柳原口東方から澄元屋形へ安富筑後守力私宅二押寄、

「細川大心院記」永正四年七月八日条には、次のように記します。
去程二京都ニハ澄之家督ノ御内書頂戴有テ丹波国ョリ上洛アリ。大心院殿御荼昆七月八日〈十一日イ〉被取行。七日々々ノ御仏事御中陰以下大心院二於厳重ニソ其沙汰アリケリ。香川上野介満景・内藤弾正忠貞正。安富新兵衛尉元顕・寺町石見守通隆・薬師寺三郎左衛門尉長忠。香西又六元長・心珠院宗純o長塩備前守元親・秋庭修理亮元実。其外ノ面々各出仕申。

意訳変換しておくと
 細川政元に命じられて丹波駐屯中であった澄之は京に上がって、細川京兆家の家督を継ぐことになった。その後に大心院殿で(細川政元)の法要を7月8日に執り行った。御仏事御中陰など大心院での儀式については、厳重な沙汰があった。香川上野介満景・内藤弾正忠貞正。安富新兵衛尉元顕・寺町石見守通隆・薬師寺三郎左衛門尉長忠・香西又六元長・心珠院宗純・長塩備前守元親・秋庭修理亮元実。その外の面々各出仕した。

 永世の錯乱3


政元亡き後の京都へ、丹後の一色氏討伐のため丹波に下っていた細川澄之が呼び戻されます。澄之は7月8日に上洛し、将軍足利義澄より京兆家の家督と認められます。そして政川政元の中陰供養が行われます。ここに参加しているメンバーが澄之政権を支えるメンバーだったようです。そこには奈良氏を除く讃岐の「細川四天王」の名前が見えます。こうしてクーデター計画は成功裏に終わったかのように見えました。 ここまでは香西氏など、讃岐武将の思惑通りにことが運んだようです。しかし、細川澄元とその被官三好之長は逃してしまいます。これが大きな禍根となります。そして、香西元長は戦闘で二人の弟を失いました。

  香西家など讃岐内衆による澄元の追放を傍観していた細川一家衆は、8月1日に反撃を開始します。
典厩家の政賢、野州家の細川高国、淡路守護家の尚春などの兵が澄之方を襲撃します。この戦いは一日で終わり、澄之は自害、山城守護代の香西元長、摂津守護代の薬師寺長忠、讃岐両守護代の香川満景・安富元顕は討死にします。それを伝える史料を見ておきましょう。

後の軍記物「應仁後記」には、細川澄之の敗北と切腹について次のように記します。
   細川政元暗殺の後、畿内は細川澄之の勢力によって押さえられた。しかし細川澄元家臣の三好之長は、澄元を伴い近江国甲賀の谷へ落ち行き、山中新左衛門を頼んで
近江甲賀の軍士を集めた。また細川一門の細川右馬助、同民部省輔、淡路守護らも味方に付き、さらに秘計をめぐらして、畠山も味方に付け大和河内の軍勢を招き。程なくこの軍勢を率いて八月朔日、京に向かって攻め上がった。
昔より主君を討った悪逆人に味方しようという者はいない。在京の者達も次々と香西、薬師寺を背き捨てて、我も我もと澄元の軍勢に馳加わり、程なく大軍となった。そこで細川澄元を大将とし、三好之長は軍の差し引きを行い、九郎澄之の居る嵯峨の嵐山、遊初軒に押し寄せ、一度に鬨の声を上げて入れ代わり立ち代わり攻めかかった。そこに館の内より声高に「九郎殿御内一宮兵庫助!」と名乗り一番に斬って出、甲賀勢の望月という者を初めとして、寄せ手の7,8騎を斬って落とし、終には自身も討ち死にした。

これを合戦のはじめとして、敵味方入り乱れ散々に戦ったが、澄之方の者達は次第に落ち失せた。残る香西薬師寺たちも、ここを先途と防いだが多勢に無勢では叶い難く、終に薬師寺長忠は討ち死に、香西元長も流れ矢に当たって死んだ。
この劣勢の中、波々下部伯耆守は澄之に向かって申し上げた
「君が盾矛と思し召す一宮、香西、薬師寺らは討ち死にし、見方は残り少なく、敵はもはや四面を取り囲んで今は逃れるすべもありません。敵の手にかけられるより、御自害なさるべきです。」

九郎澄之は「それは覚悟している」
そう言って硯を出し文を書いた
「これを、父殿下(九条政基)、母政所へ参らすように。」
そう同朋の童に渡した、その文には、澄之が両親の元を離れ丹波に下り物憂く暮らしていたこと、
また両親より先に、このように亡び果て、御嘆きを残すことが悲しいと綴られていた。
奥には一種の歌が詠まれた。

 梓弓 張りて心は強けれど 引手すく無き身とぞ成りける

髪をすこし切り書状に添え、泪とともに巻き閉じて、名残惜しげにこれを渡した。童がその場を去ると、澄之はこの年19歳にて一期とし、雪のような肌を肌脱ぎして、尋常に腹を切って死んだ。波々下部伯耆守はこれを介錯すると、自身もその場で腹を切り、館に火を掛けた。ここで焼け死んだ者達、また討ち死にの面々、自害した者達、都合170人であったと言われる。寄せ手の大将澄元は養父の敵を打ち取り、三好之長は主君の恨みを報じた。彼らは香西兄弟、薬師寺ら数多の頸を取り持たせ、喜び勇んで帰洛した。
澄之の同朋の童は、乳母の局を伴って九条殿へ落ち行き、かの文を奉り最期の有様を語り申し上げた。父の政基公も母の北政所も、その嘆き限りなかった。

一次資料の「宣胤卿記」永正四年八月一日条には、次のように記します。
早旦、京中物念。上辺において己に合戦ありと云々。巷説分明ならず。人を遣し見せしむるの処、細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督也。在所大樹御在所之北、上京小路の名なき所なり。に押し寄すと云々。(中略)九郎澄之。十九歳。己に切腹す。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等、九郎方として討死にすと云々。
意訳変換しておくと
8月1日早朝、京中が騒然とする。上辺で合戦があったという。巷に流れる噂話では分からないので、人を遣って調べたところ、以下のように報告した。細川一家右馬助・同民部少輔・淡路守護等、九郎細川家督たちが在所大樹御在所の北、上京小路の名なき所に集結し、細川澄之と香西氏の舘を襲撃した。(中略)九郎澄之(十九歳)は、すでに切腹。山城守護代香西又六・同弟僧真珠院・摂州守護代薬師寺三郎左衛門尉・讃岐守護代香川・安富等など、九郎澄之方の主立った者が討死したという。


「多聞院日記」永正四年八月一日条には、次のように記します。
今暁、細川一家并に落中辺土の一揆沙汰にて九郎(細川澄之)殿宿所院領(陰涼)軒差し懸り合戦に及ぶと云々。則ち九郎殿御腹召されおわんぬ。波々伯部伯者守(宗寅)・一宮兵庫助その外十人計り生涯すと云々。
薬師寺宿所にては三郎左衛門尉(薬師寺長忠)・与利丹後守・矢倉・香西又六(元長)・同真珠院・美濃(三野)五郎太郎・香西宗次郎か弟・香川(満景)・安富(元顕)その外三十人許り。
  嵐山城則ち焼き払いおわんぬ。
  意訳変換しておくと
本日の早朝に洛中辺土で一揆沙汰があって、細川一家が九郎(細川澄之)殿宿所院領(陰涼)軒を襲撃し合戦になったと人々が云っている。九郎(澄之)殿は切腹されたようだ。その他にも、伯部伯者守(宗寅)・一宮兵庫助など十人あまりが討ち死にしたと伝えられる。薬師寺宿所では、三郎左衛門尉(薬師寺長忠)・与利丹後守・矢倉・香西又六(元長)・同真珠院・美濃(三野)五郎太郎・香西宗次郎か弟・香川(満景)・安富(元顕)など三十人あまりが討ち取られた。
  そして、嵐山城は焼き払らわれた。
  
  日記などの一次資料はシンプルです。それが、後に尾ひれが付いて、周りの情景も描き込まれて物語り風になっていきます。当然、その分だけ分量も多くなります。

嵐山城は香西元長が築いた山城です。
場所は観光名所の桂川を見下ろす嵐山山頂にあります。渡月橋からは西山トレイルが整備されていて、嵐山城址まで迷うことなくたどり着くことができます。山道をひたすら登っていくと、城址最南端に穿たれた堀切が現われ、 そのすぐ上の小山が城址最南端の曲輪で、城址はそこから北方の尾根全体に展開しているようです。


「細川大心院記」永正四年八月一日条で、讃岐内衆の最後を見ておきましょう。
サテ八月朔日卯ノ刻二澄之ノ居所遊初軒ヘハ淡路守尚春ヲ大将トシテ大勢ニテ押寄ル。香西又六(元長) ハ私宅二火ヲ欠テ薬師寺三郎左衛門 (長忠)力宿所二馳加ル。同香川。安富モ一所ニソ集リケル。
(中略)安富ハ落行ケルヲヤカテ道ニテソ討レケル。トテモ捨ル命ヲ一所ニテ死タラハイカニヨカリナン。サレハスゝメトモ死セス退ケトモ不助卜申侍レハイカニモ思慮可有ハ兵ノ道ナルヘシトソ京童申ケル。
  意訳変換しておくと
8月1日卯ノ刻に澄之の居所遊初軒へ淡路守尚春を大将として大軍が押し寄せた。香西又六(元長)は、私宅に火をつけて、薬師寺三郎左衛門 (長忠)の宿所に合流した。また讃岐の香川・安富も同所に集結して防戦した。
(中略)安富は落ちのびていく道筋で討たれた。トテモ捨ル命ヲ一所ニテ死タラハイカニヨカリナン。サレハスゝメトモ死セス退ケトモ不助卜申侍レハイカニモ思慮可有ハ兵ノ道ナルヘシトソ京童申ケル。
細川政元暗殺後、その首謀者の一人であった香西元長は、細川高国らによって討ち取られ、その居城である嵐山城は陥落した。
細川澄之と讃岐内衆が討ち取られた後のことを史料は、次のように記します。

 京都は先ず静謐のように成り、細川澄元は近江国甲賀より上洛された。そして京都の成敗は、万事三好(之長)に任された。これによって、以前は澄元方であるとして方々に闕所(領地没収)、検断(追補)され、逐電に及んだ者多かったが、今は(香西らが擁立した細川)澄之方であるとして、地下、在家、寺庵に至るまで、辛い目に遭っている。科のある者も、罪のない者も、どうにも成らないのがただこの頃の反復である。

両度の取り合いによって、善畠院、上野治部少輔、故安富筑後守、故薬師寺備前守、同三郎左衛門尉、香西又六(元長)、同孫六、秋庭、安富、香河(川)たちの私宅等を始めとして、或いは焼失し、或いは毀し取って広野のように見え、その荒れ果てた有様は、ただ枯蘇城のうてな(高殿)、咸陽宮の滅びし昔の夢にも、かくやと思われるばかりであった。
そして諸道も廃れ果て、理非ということも弁えず、政道も無く、上下迷乱する有様は、いったいどのように成りゆく世の中かと、嘆かぬ人も居なかった。
以前は、香西又六が嵐山城の堀を掘る人夫として、山城国中に人夫役をかけたが、今は細川澄元屋形の堀を掘るとして、九重の内に夫役をかけ、三好之長も私宅の堀を掘る人夫として、辺土洛外に人夫役をかけ堀を掘った。

城を都の内に拵えるというのは、静謐の世に却って乱世を招くに似ており、いかなる者がやったのか、落書が書かれた

きこしめせ 弥々乱を おこし米 又はほりほり 又はほりほり
京中は 此程よりも あふりこふ 今日もほりほり 明日もほりほり
さりとては 嵐の山をみよしとの ひらにほりをは ほらすともあれ

この返事と思しいもので

 なからへて 三好を忍世なりせは 命いきても何かはせん
 何とへか 是ほど米のやすき世に あはのみよしをひたささるらん
 花さかり 今は三好と思ふとも はては嵐の風やちらさん

この他色々の落書が多いと雖も、なかなか書き尽くすことは出来ない。
細川政元暗殺クーデターを起こした讃岐内衆は、阿波の三好氏の担ぐ細川澄元の反撃を受けて、嵐山の麓で敗死したようです。嵐山が讃岐内衆の墓場となりました。そして、このような激動は讃岐や阿波へも波及していきます。
 まず、棟梁を失った香川・香西・安富氏などでは相続を巡って讃岐で一族間の抗争が起こったことが考えられます。また、阿波三好氏は、この機会に讃岐への侵攻を進めようとします。そして、半世紀後には、讃岐の大半は三好氏の配下に置かれることになります。永世の錯乱は、讃岐にとっても戦国乱世への入口の扉をあけてしまう結果を招いたようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 田中健二     京兆家内衆・讃岐守守護代安富元家についての再考察 
香川県立文書館紀要 第25号(2022)
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 南海治乱記
南海治乱記
『南海治乱記』巻之十七「老父夜話記」に、次のような記事があります。
又香西備前守一家・三谷伊豆守一家ハ雲州へ行ク。各大身ノ由聞ル。香西縫殿助ハ池田輝政へ行、三千石賜ル。

意訳変換しておくと
又①香西備前守一家と三谷伊豆守一家は、雲州(出雲)へ行ってそれぞれ大身となっていると聞く。また②香西縫殿助は、備中岡山の池田輝政に仕え、三千石を賜っている。

ここには天正年間の騒乱の中で滅亡した香西氏の一族が、近世の大名家に仕えていたことが記されています。今回は、戦国時代末期に讃岐を離れて近世大名家に仕官した香西氏の一族を見ていくことにします。テキストは、「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」です。
香西記

①の香西備前守については『香西記』五「香西氏略系譜」にも次のように載せられています。

出雲藩の香西氏系図
香西氏略系譜(香西記五)
内容は『南海治乱記』と同様の記事です。同書には、清長(香西備前守)と清正(六郎大夫)の父子は、天正六年(1578)、土佐の長宗我部元親軍が阿波国の川島合戦(重清城攻防戦)で、三好存保方として討死したと記されています。
 残された一族が出雲へ赴むき、その子孫は、出雲松江藩松平家の家臣となり幕末まで続いたというのです。その系譜について調査報告しているのが、桃裕行「松江藩香西(孫八郎)家文書について」です。その報告書を見ていくことにします。
松江藩士の香西氏の祖は、香西太郎右衛門正安になるようです。
彼が最初に仕えたのは、出雲ではなく越前国福井藩の結城秀康でした。どうして、出雲でなく越前なのでしょうか?

福井県文書館平成22年2月月替展示
「藩士先祖記」(福井県立図書館松平文庫)
「藩士先祖記」に記された内容を、研究者は次のように報告します。
香西太郎右衛門(正安)諄本不知  本国讃岐
(結城)秀康侯御代於結城被召出。年号不知。慶長五年御朱印在之。
香西加兵衛 (正之)諄不知 生国越前。
忠昌公御代寛永十三丙子年家督被下。太郎右衛門(正安)康父ハ香西備前守(姓源)卜申候而讃岐国香西卜申所ノ城主ノ由申伝候。其前之儀不相知候。
意訳変換しておくと
香西太郎右衛門(正安)は、(結城)秀康侯の時に召し抱えられたが、その年号は分からない。慶長五年の朱印がある。
香西加兵衛 (正之)は越前生まれで、忠昌公の御代の寛永13(1636)年に家督を継いだ。父の太郎右衛門(正安)は香西備前守(姓源)と云い、讃岐の香西の城主であったと伝えられている。その前のことは分からない。

ここには太郎右衛門(正安)の父は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であったと記されています。松江藩には数家の香西姓を持つ藩士がいたようです。
その中の孫八郎家の七代亀文が明治元年のころに先祖調べを行っています。それが「系図附伝」で、太郎右衛門正安のことが次のように記されています。
 正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁した。その娘(月照院)が結城秀康に召されて松江藩祖直政を生んだ。そのような関係で三谷出雲守長基も、後には松江藩家老となる。大坂の陣では、香西正安・正之父子は秀康の長子忠直の命と月照院の委嘱によって、直政の初陣に付き添い戦功を挙げた。

 ここに登場する結城(松平)秀康(ひでやす)は、徳川家康の次男で、2代将軍秀忠の兄になる人物です。一時は、秀吉の養子となり羽柴秀康名のったこともありますが、関ヶ原の戦い後に松平姓に戻って、越前福井藩初代藩主となる人物です。

『香西記』の「香西氏略系譜」では、備前守清長の娘が「三谷出雲守妻」となり、その娘(月照院)が結城(松平)秀康の三男を産んだようです。整理すると次のようになります。
①清長は、香西備前守で「讃岐国香西と申す所の城主」であった
②清長・清正の父子は、三好氏に従軍し、阿波川島合戦で戦死した。
③正安の姉(松光院)が三谷出雲守長基に嫁して、娘(月照院)を産んだ。
④娘(月照院)は、秀吉政権の五人老の一人宇喜多秀家の娘が結城秀康に嫁いだ際に付人として福井に行った。
⑥その後、結城秀康に見初められて側室となって、後継者となる直政や、毛利秀就正室(喜佐姫)を産んだ。
⑦その縁で三谷・香西両氏は、松江藩松平家に仕えるようになった。

松江藩松平家の4代目藩主となった直政は、祖父が秀吉と家康で、母月照院は香西氏と三谷氏出身と云うことになります。月照院については、14歳で初陣となる直政の大坂夏の陣の出陣の際に、次のように励ましたと伝えられます。
「栴檀は双葉より芳し、戦陣にて勇無きは孝にあらざる也」

そして、自ら直政の甲冑
下の着衣を縫い、馬験も縫って、それにたらいを伏せ墨で丸を描き、急場の験として与えたと伝えられます。
   松平直政が生母月照院の菩提を弔うため月照寺を創建します。これが松江藩主松平家の菩提寺となり、初代直政から九代斎貴までの墓があります。そこに月照院も眠っています。

月照寺(島根県松江市) 松江藩主菩提所|和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
月照院の墓(松江市月照寺)

「雲州香西系図」には、太郎右衛門の子工之・景頼兄弟の子孫も松江藩松平家に仕えており、越前松平家から移ってきたことが裏付けられます。  殿様に見初められ側室となって、男子を産んだ姉の「大手柄」で出雲の香西家は幕末まで続いたようです。

松平直政 出雲初代藩主


今度は最初に見た「池田輝政へ行き、三千石賜」わったと記される「香西縫殿助」を見ておきましょう。
備前岡山藩池田家領の古文書を編さんしたものが『黄薇古簡集』です。
岡山県の中世文書
              黄薇古簡集
その「第五 城府 香西五郎右衛門所蔵」文書中に、1583(天正11)年7月26日の「香西又一郎に百石を宛がった三好信吉(羽柴秀次)知行宛行状」があります。
ここに出てくる香西又一郎とは、何者なのでしょうか?
香西五郎右衛門の系譜を、研究者は次のように復元しています
香西主計
 讃岐香西郡に居城あり。牢人して尾張へ移る。池田恒興の妻の父で、輝政の外祖父荒尾美作守善次に仕える。八七歳で病死。
縫殿介 
主計の惣領。池田勝入斎(恒興)に仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦で討死。又市の兄
又市 (又一郎)
五郎右衛門の親。主計の次男。尾張国知多郡本田庄生まれ。池田勝入斎に仕え、池田輝政の家老伊木長兵衛の寄子であった。天正9年(1581)、摂津国伊丹において50石拝領。勝入の娘若御前と羽柴秀次の婚礼に際し、御興副に遣わされる。天正11年に50石加増され、摂津国で都合100石を拝領。天正12年4月8日、小牧長久手の戦いに秀次方として戦う。翌日、藩主池田勝入とともに討死。三八歳。
五郎右衛門  
父・又市の討死により秀次に召し出され、知行100石を安堵。天正13年、近江八幡山で秀次より百石加増され200石を拝領。文禄四年(1595)7月の秀次切腹後、 11月に伏見において輝政に召し出された。当年50歳。

ここには又市の父香西主計について、「讃岐香西郡に居城あり。牢入して尾張へ移」り、池田恒興の妻の父荒尾善次に仕えたとあります。香西主計の長男・縫殿介は、池田恒興に仕え、1570年の姉川の戦いで討死しています。次男の又市は恒興女子と三好信吉(のちの羽柴秀次)との婚儀に際し御輿副として遣わされ、秀次に仕えます。天正13年に加増されたときの知行宛行状も収められています。又市は、文禄四年の羽柴秀次の切腹後は、池田家に戻り輝政に仕えました。その子孫は池田家が備前に移封になったので、備前岡山藩士となったことが分かります。
  『南海通記』・『南海治乱記』に載せられた「香西縫殿助」を見ておきましょう。
こちらには「香西縫殿助」は、香西佳清の侍大将で天正14年の豊後戸次川の合戦に加わったと記されるのみです。『南海通記』などからは香西縫殿助がどのようにして、池田家に仕官したかは分かりません。これは香西主計の長男縫殿介と戸次川で戦死した「香西縫殿助」を南海通記は混同したものと研究者は考えています。 ここにも南海通記の資料取扱のあやふやさが出ているようです。
 香西氏については、讃岐の近世史料にはその子孫の痕跡が余り出てきません。しかし、近世大名に仕官し、藩士として存続した子孫もいたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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永世の錯乱2
永世の錯乱と細川氏の抗争

1493(明応2)年4月、細川政元は対立していた将軍足利義材を追放して足利義澄を新たに将軍職に就けます。こうして政元は、幕府の実権を握ります。政元は「天狗信者」で、天狗になるための修行を行う修験者でもあり、女人を寄せ付けませんでしたから、実子がいません。そのため前関白九条政基の子を養子とし澄之と名付けました。ところがその上に阿波守護細川成之の孫も養子として迎えて澄元と名付けます。こうして3人の養子が登場することになります。当然、後継者争いを招くことになります。これが「永正の錯乱」の発端です。
 ①1507(永正4)年6月23日、管領細川政元は被官の竹田孫七・福井四郎らに殺害されます。これは摂津守護代の薬師寺長忠と山城守護代香西又六元長が謀ったもので、主君政元と澄元を排除し、澄之(前関白九条政基子)を京兆家の家督相続者として権勢を握ろうとしたものでした。
 ②政元を亡き者にした香西元長らは、翌日には京兆家の内衆とともに細川澄元(阿波守護細川慈雲院孫)を襲撃します。家督争いの元凶となる澄元も亡き者にしようとしたようです。しかし、澄元の補佐役であった三好之長が、澄元を近江の甲賀に落ち延びさせます。この機転により、澄元は生きながらえます。こうして、武力で澄元を追放した澄之が、政元の後継者として管領細川氏の家督を継ぐことになります。この仕掛け人は、香西元長だったようです。このときの合戦で、元長は弟元秋・元能を戦死させています。
 一方、近江に落ち延びていた細川澄元と三好之長も、反攻の機会をうかがっていました。
 ③三好之長は、政元のもう一人の養子であった細川高国の支援を受け、8月1日、細川典厩家の政賢・野州家の高国・淡路守護細川尚春ら細川一門に澄之の邸宅を急襲させます。この結果、細川澄之は自害、香西元長は討死します。これを『不問物語』は、次のように記します。
「カクテ嵐ノ山ノ城ヘモ郷民トモアマタ取カケヽル間、城ノ大将二入置たる香西藤六・原兵庫助氏明討死スル上ハ、嵐ノ山ノ城モ落居シケリ。」

『後法成寺関白記』7月29日条には、次のように記します。
「香西又六(元長)嵐山の城、西岡衆責むるの由その沙汰」

とあることからも裏付けられます。この戦いで讃岐両守護代の香川満景・安富元治も澄之方として討死にしています。この戦いは、「細川四天王」と呼ばれた讃岐武士団の墓場となったとも云えます。この結果、香川氏なども本家が滅亡し、讃岐在国の庶家に家督が引き継がれるなど、その後の混乱が発生したことが考えられます。
永世の錯乱 対立構図

政元暗殺から2ヶ月足らずで、香西元長は澄之とともに討たれてしまいます。
 勝利者として8月2日には、近江に落ちのびていた澄元が上洛します。そして将軍・足利義澄から家督相続を認められたうえ、摂津・丹波・讃岐・土佐の守護職を与えられています。自体は急変していきます。こうして、将軍義澄を奉じる細川澄元が幕府の実権を握ることになります。しかし、それも長くは続きません。あらたな要素がここに登場することになります。それが細川政元によって追放されていた第10代の前将軍・足利義材(当時は義尹)です。彼は周防の大内義興の支援を得て、この機会に復職を図ろうとします④④この動きに、澄元と対立しつつあった細川高国が同調します。高国は和泉守護細川政春の子でしたので、和泉・摂津の国人の多くも高国に味方します。こうして細川澄元と高国の対峙が続きます。

 このような中で、1508(永正5)年4月、足利義材が和泉の堺に上陸して入京を果たします。
足利義材が身を寄せた放生津に存在した亡命政権~「流れ公方」と呼ばれた室町幕府10代将軍 - まっぷるトラベルガイド

このような状況にいちはやく反応したのが京の細川高国でした。
高国は義稙の上洛軍を迎え、義稙を将軍職に復位させ、自らは管領になります。細川澄元・三好之長らの勢力を押さえ込むことに成功しま 
 す。見事な立ち回りぶりです。不利を悟った将軍の足利義澄と管領の細川澄元は、六角高頼を頼って近江に落ち延びていきます。こうして、義材が将軍に復職し、高国が管領細川氏を継ぐことになります。永世の錯乱の勝利者となったのは、この二人だったことを押さえておきます。
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

 このような京での権力闘争は讃岐にも波及します。
 京では讃岐の香西氏と阿波の三好が対立していました。それが讃岐にも影響してきます。阿波の三好氏は、東讃の十河氏や植田一族を配下に入れて、讃岐への侵攻を開始します。こうして讃岐国内では、阿波の細川・三好の後押しを得た勢力と、後盾を持たない香西・寒川氏らの勢力が対峙することになります。そして次第に、香西氏らは劣勢となっていきます。

大内義興の上洛

 そのような中で大きな動きが起きます。それが大内義興に担がれた将軍義稙の上洛軍の瀬戸内海進軍です。
この上洛のために大内氏は、村上水軍や塩飽などを含め、中国筋、瀬戸内の有力な諸氏に参陣を呼びかけます。これに対して讃岐では、香川や香西らの諸将がこれに応じます。香西氏は、仁尾の浦代官や塩飽を支配下に置いて、細川氏の備讃瀬戸制海権確保に貢献していたことは以前にお話ししました。これらが大内氏の瀬戸内海制海権制圧に加わったことになります。こうして、瀬戸内海沿岸は、大友氏によって一時的に押さえられることになります。
  南海通記は、上香西氏が細川氏の内紛に巻き込まれているとき、下香西元綱の家督をうけた元定は、大内義興に属したこと。そして塩飽水軍を把握して、1531(享禄四)年には朝鮮に船を出し交易を行い利益を得て、下香西氏の全盛期を築いたとします。

しかし、香西氏の栄光もつかの間でした。細川澄元の子・晴元の登場によって、細川家の抗争が再燃します。

細川晴元の動き 

1531(亨禄四)年、高国は晴元に敗れて敗死し、晴元が管領となります。晴元の下で阿波の三好元長は力を増し、そして、三好氏と深く結びついた十河氏が讃岐を平定し、香西氏もその支配を受けるようになります。この時点で阿波三好氏は、讃岐東部を支配下に起きたことを押さえておきます。

ここで少し時代をもどって、 永世の錯乱の原因を作った香西元長と讃岐の関係を示す史料を見ておきましょう。
 元長が細川一門に攻められて討死する際の次の史料を研究者は紹介します。
① 『細川大心院記』同年八月一日条
「又六(元長)カ与力二讃岐国住人前田弥四郎卜云者」がいて、元長に代わり彼の具足を着けて討死したこと
ここからは、前田弥四郎が元長の身代わりになって逃がそうとしたことがうかがえます。前田弥四郎とは何者なのでしょうか?
前田氏は「京兆家被官前田」として、次の史料にも出てきました。
②『建内記』文安元年(1444)6月10日条。
香西氏の子と前田氏の子(15歳)が囲碁をしていた。その時に、細川勝元(13歳)が香西氏に助言したのを、前田氏の子が恨んで勝元に切りかかり、返り討ちにあった。このとき、前田氏の父は四国にいたが、親類に預け置かれた後に、一族の沙汰として切腹させられた。そのため、前田一党に害が及ぶことはなかった。
この話からは次のようなことが分かります。
①細川勝元の「ご学友=近習」として、香西氏や前田氏の子供が細川家に仕えていたこと
②前田家の本拠は四国(讃岐?)あり前田一党を形成していたこと。

ここからは、京の細川家に仕えていた香西の子と前田の子は、成人すればそれぞれの家を担っていく者たちだったのでしょう。主家の細川惣領家に幼少時から仕えることで、主従関係を強固なものにしようとしたと研究者は考えています。
 そして「香西元長に代わり、彼の具足を着けて討死した讃岐国住人前田弥四郎」は、京兆家被官で元長の寄子となっていたと研究者は推測します。このような寄子を在京の香西家(上香西)は、数多く抱えていたようです。それが「犬追物」の際には、300人という数を京で動員できたことにつながるようです。

もうひとり香西元長に仕えていた一族が出てきます。
『細川大心院記』・『瓦林正頼記』に、元長邸から打って出て、元長とともに討死した中に「三野五郎太郎」がいたと記します。
『多聞院日記』にも、討死者の一人に「美濃五郎太郎」が挙げられています。これは同一人物のようです。三野氏については以前に「三野氏文書」を紹介したときにお話ししました。源平合戦の際には、平家方を見限っていち早く頼朝側について御家人となって、讃岐における地盤を固めた綾氏の一族とされます。後には西方守護代香川氏の被官し、家老職級として活動します。生駒藩でも5000石の重臣として取り立てられ、活発に荒地開発を行った一族です。三野氏も、香西氏の寄子となっていた一族がいたようです。

古代讃岐の郡と郷NO2 香川郡と阿野郡は中世にふたつに分割された : 瀬戸の島から
『南海通記』に出てくる「綾(阿野)北条郡」を見ておきましょう。
『南海通記』巻之十九 四国乱後記の「綾北条民部少輔伝」
香西備中守(元継)丹波篠山ノ領地閥所卜成り、讃州綾ノ北条ハ香西本家ヨリ頒チ遣タル地ナレ共、開所ノ地卜称シテ官領(細川)澄元ヨリ香川民部少輔二賜ル。是京都ニテ香西備中守二与セスシテ、澄元上洛ヲ待付タル故二恩賞二給フ也。是ヨリシテ三世西ノ庄ノ城ヲ相保ツ。
意訳変換しておくと
香西備中守(元継=元長?)の(敗死)によって丹波篠山の領地が閥所となった。もともとこの領地は、讃州綾北条郡の香西本家から分かち与えられた土地で、先祖伝来の開所地であった。それを官領(細川)澄元は、京都の香西備中守に与えずに、香川民部少輔(讃岐守護代)に与えた。澄元が上洛したときに恩賞として貰った。以後、三世は西ノ庄城を確保した。

 ここからは「元継」は京兆家の家督争いにおいて、澄之に忠義を尽くしたため、澄元方に滅ばされ、その所領の「讃州綾ノ北条」は閥所(没収地)となったこと。そして澄元から、元継に味方しなかった香川民部少輔に与えられたというのです。
  この内容から南海通記の「元綱」が史料に登場する又六元長と重なる人物であることが分かります。
香西氏系図 南海通記.2JPG
南海通記の「讃州藤家系図」
『南海通記』の「讃州藤家系図」には、②元直の子として「元継」注記に、次のように記します。
備中守 幼名又六 細川政元遭害而後補佐於養子澄之。嵐山ニ戦死

この注記の内容は、香西元長のことです。しかし、元長ではなく「元綱」「備中守」と記します。元長の名乗りは、今までの史料で見てきたように終始、又六でした。備中守の受領名を名乗ったことはありません。南海通記の作者は、細川政元を暗殺したのが「又六元長」であることを知る史料を持っていなかったことがうかがえます。そして「元綱」としています。ここでも南海通記のあやふやさが見えます。

今度は『香西記』の香西氏略系譜で、又六元長を特定してみましょう。
香西氏系図 香西史
香西記の香西氏略系譜
南海通記や香西記は、細川四天王のひとりとされる①香西元資の息子達を上・下香西家の始祖とします。

香西元直
②の元直の系図注記には、次のように記します。
「備後守在京 本領讃州綾北条郡 於丹波也。加賜食邑在京 曰く上香西。属細川勝元・政元、為軍功」

意訳変換しておくと
元直は備後守で在京していた。本領は讃州綾北条郡と丹波にあった。加えて在京中に領地を増やした。そのため上香西と呼ばれる。細川勝元や政元に仕え軍功を挙げた。

次の元直の息子③元継の注記には、次のように記します。

香西元継

「又六後号備中守 本領讃州綾北条郡 補佐細川澄之而後、嵐山合戦死。断絶也」

意訳変換しておくと
「又六(元長)は、後に備中守を号した。本領は讃州綾北条郡にあった。細川澄之を補佐した後は、嵐山合戦で戦死した。ここに上香西家は断絶した」

ここからは香西記系図でも③元継が元長、④直親(次郎孫六)が元秋に当たることになります。『細川両家記』・『細川大心院記』には、元長の弟・元秋は永正4年6月24日、京都百々橋において澄元方と戦い討死としているので、これを裏付けます。
 この系図注記には、綾北条郡は在京して上香西と呼ばれたという②元直から③元継が相伝した本領とあります。そして上香西は、元継(元長)・直親(元秋)の代で断絶しています。
また、下香西と呼ばれた元直の弟⑤元顕は、注記には左近将監元綱と名乗ったとされ、綾南条・香東・香西三郡を領有したと記されています。

南海通記の 「上香西・下香西」のその後を見ておきましょう。
元長・元秋兄弟が討死したことで、上香西氏は「断絶也」と記されていました。元長討死の後、次のような史料があります。
1507(永正四)年12月8日に、「香西残党」都において土一揆を起こしたこと、
1508年2月2日には、澄元方から「香西牢人」を捕縛するよう祇園社執行が命じられいること。
ここからは、香西浪人たちの動きがしばらくの間は、残っていたことがうかがえます。
それでは、讃岐在住とされる「下香西」は、どうなったのでしょうか
南海通記や香西史は、下香西は⑤香西元顕(綱)が継いだと注記されています。そして『南海通記』巻之六 讃州諸将帰服大内義興記に、次のように記されています。

永正四年八月、京都二於テ細川澄之家臣香西備中守元継忠死ヲ遂ゲ、細川澄元家臣三好筑前守長輝(之長)等京都二横行スト聞ヘケレハ、大内義興印チ前将軍義材公ノ執事トシテ中国。九国ニフレテ与カノ者ヲ描ク。讃州香西左近持監元綱・其子豊前守元定二慇懃ノ書ヲ贈リテ義材公ノ御帰洛二従ハシム。

  意訳変換しておくと
1507(永正四)年8月、京都で細川澄之の家臣香西備中守元継は忠死を遂げた。細川澄元の家臣三好筑前守長輝(之長)等など阿波三好勢力が京都の支配権を手にした。これに対し、大内義興は前将軍の義材公の執事として中国・九州の有力者に触れ回り結集を呼びかけた。讃州の香西左近持監⑤元綱(顕)・その子の豊前守⑥元定にも助力要請の文書がまわってきたので、それを受けて前将軍義材公の御帰洛に従った。

 先ほど見たように細川高国は、前将軍足利義材を擁する周防の大内義興と連携し、将軍足利義澄に対し謀叛を起こします。これに対して叶わずとみた義澄と家臣の三好之長は8月9日、近江坂本へ落ちのびています。その翌日に、高国は軍勢を率いて入京します。8月24日には義材を奉じて大内義興が和泉堺へやってきます。この史料にあるように、大内義興が香西元綱を味方に誘ったというのが事実であるとすれば、このときのことだと研究者は推測します。

 大系真宗史料 文書記録編8 天文日記 1の通販/真宗史料刊行会/証如光教 - 紙の本:honto本の通販ストア
「天文日記」は、本願寺第十世證如の19年間の日記です。
證如21歳の天文五年(1536)正月から天文23年8月に39歳で亡くなるまで書き続けたものです。その中に、福善寺という讃岐の真宗寺院のことが記されています。 
『天文日記』天文十二年
①五月十日 就当番之儀、讃岐国福善寺以上洛之次、今一番計動之、非何後儀、樽持参
②七月二十二日 従讃岐香西神五郎、初府致音信也。使渡辺善門跡水仕子也。
①には「就当番之儀、讃岐国福善寺」とあります。福善寺は高松市にありますが、この時期に本願寺へ樽を持参していたことが記されています。ここからは16世紀半ばに、本願寺の真宗末寺が髙松にはあったことが分かります。
②には7月22日「従讃岐香西神五郎、初府政音信也」とあります。
これは、香西神五郎が初めて本願寺を訪れたようです。香西氏の中には、真宗信者になり菩提寺を建立する者がいたことがうかがえます。後の史料では、香西神五郎は本願寺に太刀を奉納しています。香西氏一族の中には、真宗信者になって本願寺と結びつきを深めていく者がいたことを押さえておきます。  このように「天文日記」には、讃岐の香西氏が散見します。
1547(天文16)年2月13日条には、摂津国三宅城を攻めた三好長慶方の軍勢の一人として香西与四郎元成の名前があります。ここからは、天文年間になっても畿内と讃岐に香西氏がいたことが分かります。永世の錯乱後に上香西氏とされる元長・元秋の系譜は断絶しますが、その後も香西氏は阿波の三好長慶の傘下に入り、畿内での軍事行動に従軍していたようです。

室町時代から戦国時代初めにかけて、香西氏には豊前守・豊前入道を名乗る系統と五郎左(右)衛門尉を名乗る系統との二つの流れが史料から分かります。また、それを裏付けるように、『蔭凍軒日録』の1491(延徳三)年8月14日条に「両香西」の表現があること。そして、「両香西」は、香西五郎左衛門尉と同又六元長を指すことを以前にお話ししました。この二人は京兆家との関係では同格であり、別家であったようです。
 史料に出てくる香西五郎左衛門を挙げると次のようになります。。
①「松下集」に見える藤五郎藤原元綱
②政元に仕えていた孫五郎
③元継・高国の挙兵に加わった孫五郎国忠
④本太合戦で討死する又五郎
ここからは「五郎左(右)衛」の名乗りは「五郎 + 官途名」であることがうかがえます。そうすると「天文日記」に現れる五郎左衛門は、名乗りからみて五郎左(右)衛門系の香西氏と推察できます。
もう一つ豊前守系香西氏の系譜を、研究者は次のように推測します。
又六元長
元長死後にその名跡を継いだ与四郎(四郎左衛門尉)元盛
柳本賢治の(甥)
その縁者とみられる与四郎(越後守)元成
ちなみにウキには、下香西家について次のように記しています。

天文21年(1552年)、晴元の従妹・細川持隆(阿波守護)が三好長慶の弟・三好実休に討たれると、元定の子・香西元成は実休に従い、河野氏と結び反旗を翻した香川之景と実休との和睦を纏めている(善通寺合戦)。

以上からは香西家には、2つの系譜があったことはうかがえます。しかし、それを在京していた勢力、讃岐にあった勢力という風には分けることはできないようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年」
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 前回は、香西五郎左衛門と香西又六(元長)が「両香西」と呼ばれるほど親密で、彼らが内衆として細川政元を支えていたこと、そのような中で香西五郎左衛門は、1492(延徳四)年に備中の戦いで討ち死にしたことを見ました。今回は、残された香西又(孫)六元長を、見ていくことにします。

香西又六(元長)の出てくる資料を時代順に並べて見ていきます。
34 1489(長享3)年正月20日
  細川政元、犬追物を行う。香西又六(元長)・牟礼次郎ら参加する。(「小野均氏所蔵文書」『大日本史料』 第八編之二十八、198P)

香西又六(元長)が細川政元に仕え始めたことが分かるのは資料34です。そして、この年の夏以後、香西又六の名前が以下のように頻繁に出てくるようになります。
35 1489年7月3日
細川政国、飛鳥井雅親・細川政元ら罫に五山の僧侶と山城国禅晶院において詩歌会を行う。香西又六・牟礼次郎ら参加する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、三巻437P)

36 1489年長享三年8月12日
明日の細川政元の犬追物に備え、香西党三百人ほどが京都に集まる。(「蔭涼軒日録」同前、三巻470頁) 
「香西党は太だ多衆なり、相伝えて云わく、藤家七千人、自余の諸侍これに及ばず、牟礼・鴨井・行吉等、亦皆香西一姓の者なり、只今亦京都に相集まる、則ち三百人ばかりこれ有るかと云々」
  意訳変換しておくと 
例の如く蔭凍軒主のもとを訪れた塗師の花田源左衛門の話が細川京兆家の政元に及んだ。13日の犬追物では、香西党ははなはだ多数であり、伝えられるところでは、(香西氏が属する)讃岐藤原氏は七千人ほどもいて、他の武士団は動員力でこれには適わない。牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者である。現在、京都に集まつている香西一族は300人を越えるのではないかという。
 
都に300人を集めての「犬追物」は、軍事的示威行動でもあります。ここからは「香西一党」は、在京武士団の中では有力な存在だったことがうかがえます。
また「牟礼・鴨井・行吉なども香西と同族の者」とあります。以下の史料で、又六とコンビで登場してくるのが牟礼次郎です。彼も香西一族の一員で、香西氏の最も信頼できる一族だったようです。

笑哭!我身後真的不是桌球拍!不懂別瞎說- 每日頭條
見聞諸家紋
応仁の乱の最中に成立していたとされる『見聞諸家紋』(『東山殿御家紋帳』)は、武将達の家紋集です。
この中に「讃岐藤家左留霊公(讃留霊王=神櫛王)之孫」として、大野・香西・羽床・福家・新居・飯田などの讃岐藤原氏の家紋が集められています。どれも三階松を基調にしたものです。
香西氏 家紋の写真素材 - PIXTA

香西氏については、香西越後守元正の名が見え、三階松並根篠を家紋としています。本書は、当時の応仁の乱に参軍した細川勝元方の武家諸家の家紋を収録したものです。ここからも香西氏が属する讃岐藤原氏が多数参戦していたこと、その指揮権を握っていたのが香西氏だったことがうかがえます。また、彼らは綾氏系図に示すように先祖を神櫛王とする一族意識を持っていたことも分かります。

史料36からは応仁の乱後の香西氏の隆盛が伝わってきます。
香西氏は東軍の総大将・細川勝元の内衆として活躍し、以後も細川家や三好家の上洛戦に協力し、畿内でも武功を挙げます。南海通記には「細川四天王」として、讃岐武士団の、香川元明、安富盛長、奈良元安と並んで「香西元資」を記します。しかし、史料に香西元資が現れるのは、応仁の乱以前です。
 また、この時期の細川政元の周辺には「香西又六・香西五郎左衛門尉・牟礼次郎」の3人の香西氏が常に従っていたことが以下の史料から分かります。

36 1489年8月13日
細川政元、犬追物を行う。香西又六・同五郎左衛門尉・牟礼次郎らが参加する。(「蔭涼軒日録」同前、三巻471P、「犬追物手組」『大日本史料』第八編之二十八、194P)

この日に行われた政元主催の大追物にも、香西又六元長は香西五郎左衛門・牟礼次郎とともに射手の一人として加わっています。
 
細川政元の似顔絵
細川政元

39 1492(延徳4)年3月3日
細川政元、奥州へ赴く。香西又六(元長)・牟礼次郎・同弟新次郎・鴨井藤六ら十四騎が御供する。(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、四巻304P)

   政元は、天狗になるために天狗道(修験道)に凝って、「女人断ち」をしてさまざまな修行を行っていたと云われます。そのため日頃から修験者の姿だったといわれ、各地の行場に出かけています。この奥州行きも修行活動の一環かも知れないと私は想像しています。そうだとするお供達の元長や牟礼次郎兄弟なども修験姿だったのでしょうか? また、彼らも修験の心得があったのかもしれません。そんなことを想像すると面白くなってきます。どちらにしても「政元の行くところ、元長と牟礼次郎あり」という感じです。

41 1492年8月14日
将軍足利義材、来る27日を期して六角高頼討伐のため近江国に出陣することを決定する。細川政元は 26日に比叡の辻へ出陣。「両香西」(又六(元長)と五郎左衛門尉)ら8騎は留守衆として在京する。(「蔭涼軒日録」同前、四巻442P 

ここに「両香西」という表記が出てきます。これを南海通記に出てくる上香西と下香西と捉えたくなるのですが、どうもちがうようです。「両香西」の又六と五郎左衛門は、二人ともに在京していますが、本拠は、讃岐にあるようです。本家・分家の関係なのでしょうか?

43 1492(延徳四)年3月14日
細川政元、丹波国へ進発する。牟礼・高西(香西)又六ら少々を伴う。(『多聞院日記』五巻166P)

この時の丹波行には、又六は乙名衆ではなく「若者」衆と呼ばれるなど、若年で政元の近習としての役割を果たしています。
そうした中で、トリオの一人だった香川五郎左衛門が備中の戦いで戦死します。
44 1492年3月28日
  細川政元被官庄伊豆守元資、備中国において、同国守護細川上総介勝久と戦い敗北する。元資方の香西五郎左衛門尉戦死し、五郎左衛門尉に率いられた讃岐勢の大半も討ち死にした。
  
 45 1492年4月4日
細川政元、奈良・長谷へ参詣する。香西又六(元長)・牟礼兄弟ら六騎を伴う。(「大乗院寺社雑事記」『続史料大成』本、十巻153頁)

  1493(明応2)年4月、細川政元は将軍足利義材を廃し、義高(義澄)を擁立し、専制政権を樹立。

50 1493年6月18日
蔭涼軒主のもとを訪れた扇屋の羽田源左衛門がいつものように讃岐国の情勢を次のように語ります。
讃岐国は十三郡なり、六郡は香川これを領するなり、寄子衆亦皆小分限なり、しかりと雖も香川に与し能く相従う者なり、七郡は安富これを領す、国衆大分限の者惟れ多し、しかりと雖も香西党、首として皆各々三味し、安富に相従わざる者惟れ多きなり、小豆島亦安富これを管すと云々、(「蔭涼軒日録」『続史料大成』本、五巻369P 県史1062) 

ここには次のようなことが記されています。
①当時の讃岐は13郡であったこと
②西讃の6郡の守護代は香川氏で、国人領主達は小規模な「寄子衆」あるが香川氏によく従うこと
③東讃の7郡の守護代は安富氏であるが「国衆大分限」の領主が多く、まとまりがとれないこと。
つまり、西讃は小規模な国人領主である「寄子衆」が多く、香川氏との間に寄親―寄子の主従関係が結ばれていたようです。それに対して、東讃は大分限者(大規模な国人領主)が多く、香西党や十河・寒川氏等が独自の動きをして、安富氏の統率ができなくなっている、と云います。東讃の「国衆」は、西讃の「寄子衆」に比べて、独立指向が強かったようです。このような中で東讃で台頭していくのが香西氏です。
室町期の讃岐国は、2分割2守護代制で、西方守護代香川氏は、応仁の乱まで常時在国して讃岐西方の統治に専念していたようです。
応仁の乱後に上洛した守護代香川備中守は、京兆家評定衆の一員としてその重責を果たすとともに、讃岐には又守護代を置いて西讃の在地支配を発展させていきます。それに対して、東讃守護代の安富氏は、守護代就任当初から在京し、応仁の乱が始まると又守護代も上洛してしまいます。そのために讃岐での守護代家の勢力は、次第に減少・衰退していきます。
 そのような中で、香西氏は阿野・香川両郡を中心に勢力を築き、牟礼・鴨井両氏と同族関係を結び、国人領主として発展していきます。そして、京都ではその軍事力が注目され、京兆家の近臣的存在として細川氏一族の一般的家臣の中で抜きん出た力を保持するようになったようです。
 大内義興が上洛した頃の当主香西元定(元綱の子)は大内氏に属し、備讃瀬戸を中心とする塩飽水軍を配下に置いて、香西氏の全盛期を築いたと南海通記は記します。
このような中で1496(明応5年)には、香西氏の勧進で、東讃岐守護代の安富元家・元治などの近在の武士や僧侶・神官等を誘って、神谷神社で法楽連歌会を催します。それが「神谷神社法楽連歌」一巻として奉納されます。香西氏は、神谷神社やその背後の白峰寺などの在地寺社の僧侶・神官や在地武士の国人・土豪層を、神谷神社の法楽連歌会に結集して、讃岐国内における政治的・宗教的な人的ネットワークを形成しようとしたものと研究者は考えています。

53 1497年10月
  細川政元が山城国の北五郡(下郡)の守護代に又六元長を任命。
  政元政権において香西元長が頭角を現すようになるのは、このとき以後になります。どうして、又六が起用されたのでしょうか?
山城国は将軍家御料国で、守護は幕府政所頭人世襲家の伊勢氏で当時の守護は備中守貞陸でした。南山城では、守護方と京兆家被官の国衆との武力抗争が続いています。 一方では、前河内守護畠山尚順ら義材派による周辺地域の制圧も進んでいます。このような情勢の中で、政元は内衆の中で最も信頼の置ける香西元長を山城守護代に任命します。そして伊勢氏と協同することで山城国を固め、影響力の拡大を図ろうとしたようです。細川政元が又六元長に期待したのは、「香西一族の軍事力」だった研究者は考えています。

山城守護代としての元長の活動について、見ておきましょう。

1498年2月1日、元長は政元に、山城北五郡内の寺社本所領と在々所々の年貢公事五分一の徴収を提言して認めさせています。これは五分一済と呼ばれる守護の警固得分で、相応の礼銭を収めることで免除されました。1498年2月16日条には、「守護方又六寺領五分一違乱の事」につき、「涯分調法せし」め、「二千疋ばかりの一献料をもって、惣安堵の折紙申沙汰せしむべしと云々。」とあります。ここからは鎮守八幡宮供僧らは、元長に一献料を収めることで、安堵の折紙を得たことが分かります。
 1501(文亀元)年6月21日条には、元長による五分一済について「近年、守護方香西又六、当国寺社本所五分一拝領せしむと称し、毎年その礼銭過分に加増せしむる」とあります。ここからは、毎年免除を名目として礼銭を徴収していたことが分かります。

1500(明応9)年12月20日条には、次のようにあります。
城州守護香西又六、惣国の寺社本所領五分一、引き取るべきの由申すの間、連々すでに免除の儀、詫び事ありといえども、各々給入すでに宛がうの上は、免除の儀かなうべからざるの旨香西返答の間(以下略)

 ここからは又六元長は、寺社本所領についての五分一得分を、自分の給人に給付して勢力を強化していたことがうかがえます。また、東寺側は、元長を「城州守護香西又六」と「守護」と呼んでいます。

1504(永正元)年9月、摂津半国守護代薬師寺元一が、政元の養子阿波細川氏出身の澄元の擁立を図って謀叛を起こします。この時に元長は「近郷の土民」に半済を契約して動員し、「下京輩」には地子(地代)を免除して出陣し、元一方を攻め落としたとされます。これ以降、元長による半済の実施が強行されるようになります。
又六元長の3人の弟、孫六元秋・彦六元能、真珠院宗純を見ておきましょう。
『後法興院記』1495(明応4)年10月26日条には、弟の元秋は、兄・元長が山城守護代に任命されると、その翌月には兄とともに寺社領に立ち入り、五分一済の徴収を開始しています。身延文庫本『雑々私要抄』紙背文書からは、弟元秋が紀伊郡の郡代生夷景秀らの郡代と兄元長との間に立って、香西氏の家政を執っていたことがうかがえます。
 また、九条家文書には、元秋は九条家の申し出をうけ国家領についての半済停止の件を兄元長へ取りついでいます。さらに元能は九条家領山城国小塩庄の代官職を請け負っています。香西兄弟の九条家との関わりは、元長が政元のもう一人の養子九条政基の実子澄之方についていたことを反映していると研究者は考えています。
 ここからも山城の守護代として軍事財源を確保し、「手近に仕える暴力装置の指揮者」の役割を又六元長に期待していたことがうかがえます。

以上を整理しておきます。
①応仁の乱後、管領家を相続した細川政元は天狗道に邁進する変わった人物であった。
②細川政元を支えた家臣団に南海通記は「細川家四天王」と、讃岐の武士団を挙げいる。
③その中でも政元の近習として身近に仕えたのが香西一族の香西又六・香西五郎左衛門尉・牟礼次郎の3人であった。
④香西氏は応仁の乱以後も結束して動き、総動員数7000人、在京300人の軍事力を有していた。
⑤そのため細川政元は、腹心の香西一族の若衆である又六を山城守護代に登用し、軍事基盤を固めようとした。
⑥こうして細川政元の下で、香西氏は畿内において大きな影響力をもつようになり、政治的な発言権も高まった。
⑦その結果、細川氏の内紛に深く介入することになり、衰退への道を歩み始める。
再び家督争いをする細川家 着々と実権を握る三好家
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

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南海通記と南海治乱記

『南海治乱記』巻之十七 老父夜話記には、香西氏の家伝証文が焼失したことについて次のように記します。

又語て曰、天正十三年(1585)五月廿日、香西の城を去て西長尾の城に赴くとき、勝賀山の城に在つる香西家数世の證文・家宝等、根香寺の仏殿に入れて去る。盗賊来て寺内の物を取て仏殿の物を取んとすれとも錠を下して不明。住僧も強盗の難を恐れて下山し山中に人なし。盗賊仏殿に火を放て去る。此時香西家の證文等焼亡す。

意訳変換しておくと
老父が夜半話に次のように語った。天正十三年(1585)五月20日、(長宗我部退却時に)香西の城を出て西長尾城(まんのう町)に赴くとき、勝賀山の城にあった香西家数世の證文・家宝などを、根香寺の仏殿に入れて去った。それを知った盗賊が来襲して寺内の物を取て、仏殿の物もとろうとしたが錠がかかっていて入れなかった。しかし、住僧も強盗の難を恐れて下山して、山中に人はいない。盗賊は仏殿に火を放て去った。この時に香西家の證文などはみな焼亡した。

戦国末期に香西氏の中世史料は失われたようです。香西氏の歴史については後に書かれた近世の編さん物から見ていくしかないようです。今回は、近世史料に香西氏がどのように書かれているのかを見ていくことにします。
香西氏の氏祖は香西資村
香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 翁嫗夜話 巻之一

『翁嫗夜話』巻之一増田休意著。延享二年(1745)成立。
新居藤大夫 香西三郎信資 ー 新居藤大夫資光 ー 香西左近将監資村(三男)
(香西)藤二郎資村、承久の乱に関東に忠あり。鎌倉の命を以って、香川郡の守に補し、左近将監に任ず。香西郡葛西郷勝賀山に城きておる。藤氏以って栄となす。綾藤氏族六十三家、資村これが統領となる。
  意訳変換しておくと
 (香西)藤二郎資村は、13世紀初頭の承久の乱の際に、鎌倉方についた。そのため論功として、鎌倉幕府から香川郡守に補任され、左近将監の位階を得た。そして、香西郡葛西郷勝賀山に城を築いた。こうして讃岐藤氏は栄えるようになり、香西資村はその綾藤氏族六十三家の統領になった。

18世紀のこの書には、次のような事が記されています。
①(香西)資村が13世紀前半の人物であったこと
②承久の乱で鎌倉方について「香川郡守」となって、勝賀城を築いたこと
③古代綾氏の流れをくむ讃岐藤原氏の統領となったこと

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記(香川県立図書館デジタルライブラリー)

「香西記」‐ 新居直矩著。寛政四年(1792)成立。
「阿野南北香河東西濫腸井香西地勢記 名所旧透附録」
○其第二を、勝賀山と云。勝れて高く美しき山也。
一、伝来曰、此山峰、香西氏数世要城の城也。天正中城模敗績して、掻上たる土手のみ残りて荒けり。此東麓佐料城跡は、四方の堀残りて田畠となれり。佐料城の北隣の原に、伊勢大神宮社有。香西氏祖資村始て祀所也。
  意訳変換しておくと
「阿野(郡)南北香河(川)東西濫腸と香西の地勢記 名所旧透附録」
○その第二の山を、勝賀山と呼ぶ。誉れ高く美しい山である。
一、その伝来には次のように伝える。この山峰は、香西氏の数世代にわたる要城の城であった。天正年間に廃城になり、今は土手だけが残って荒れ果てている。東麓にある佐料城跡には、四方の堀跡が残って田畠となっている。佐料城の北隣の原に、伊勢大神宮社がある。これは香西氏祖資村の創建とされている。
香西記

香西記には、次のような情報が含まれています。
①勝賀城跡には18世紀末には土手だけが残っていたこと
②佐料城跡には堀跡が田畑として残っていたこと
③佐料城跡のの東隣の伊勢大神宮社が、香西氏祖資村の創建とされていたこと
藤尾城(香川県高松市)の詳細情報・周辺観光|ニッポン城めぐり−位置情報アプリで楽しむ無料のお城スタンプラリー
藤尾城跡の藤尾八幡 

  「讃陽香西藤尾八幡宮来由記」
抑営祠藤尾八幡宮者、天皇八十五代後堀河院御宇嘉禄年中(1325―27)、阿野・香河之領主讃藤氏香西左近持監資村力之所奉篤勧請之霊祠也実。

意訳変換しておくと
藤尾八幡宮は八十五代後堀河院の御宇嘉禄年中(1325―27)に、阿野・香川郡の領主であった讃藤氏香西左近持監資村が勧請した霊祠である。

ここには藤尾八幡社が14世紀前半に、「阿野・香川郡の領主」であった香西資村が勧請したことが記されています。

つぎに近世に作られた系図を見ておきましょう。
17世紀後半に成立した玉藻集に載せられている香西氏の系図です
香西氏の系図
香西氏系図(玉藻集)
A①資村の父②信資の養子とされています。
B資村の祖父にあたる④資光は新居氏です。
C資村の祖祖父にあたる⑤資高は羽床嫡流とあり、讃岐藤原氏の統領3代目とされる人物です。③資光は羽床氏出身であることが分かります。
D資村の祖祖祖父にあたる⑥章隆が、国司であった藤原家成と綾氏の間に生まれた人物で、讃岐藤氏の始祖にあたる人物です
  この系図だけを見ると香西氏は、国司藤原家斉の流れを引く讃岐藤原氏の一族で、棟梁家の羽床氏から新居氏を経て派生してきたことになります。

「讚州藤家香西氏略系譜」を見ておきましょう。

香西氏系図4
讚州藤家香西氏略系譜

資村については、次のように記されています。
新居次郎 後号香西左近将監。承久年中之兵乱、候于関東。信資資村被恩賜阿野・香河二郡。入于香西佐料城也。本城勝賀山。」

最初に見た『翁嫗夜話』の内容が踏襲されています。
A 資村には「新居次郎」とあり、後「香西左近将監」を名のるようになったと記します。さきほどの系図には「信資養子」とありました。①資村は、新池から②信資のもとに養子に入ったのでしょうか。伯父の③資幸は「福家始祖」とあります。
B 資村の祖父にあたる④資光は新居氏です。
C しかし、ここで気づくのは先ほどの系図にあった羽床家の重光の名前がみえません。この系図では重光が飛ばされているようです。以下は玉藻集系図とおなじです。

最後に綾氏系図を見ておきましょう。
讃岐藤原氏系図1
               綾氏系図

綾氏系図では⑤資高の子ども達が次のよう記されています。彼らは兄弟だったことになります。
羽床家棟梁の重高
新居家始祖・④資幸
香西家始祖・②信資
   資村が最初は「新居次郎」で、後「香西左近将監」を名のるようになったこと、「信資養子」とあることからは、①資村は、新居家から②信資のもとに養子に入ったことが考えられます。

しかし、ここで問題になるのは前回にもお話ししたように「香西資村」という人物は史料的には出てこないことです。近世になって書かれた系図や戦記物と根本史料が合わないのです。前回見たように香西氏が最初に登場するのは、14世紀南北朝期の次の史料です。

1 建武四年(1337)6月20日
 讃岐守護細川顕氏、三野郡財田においての宮方蜂起の件につき、桑原左衛門五郎を派遣すること を伝えるとともに、要害のことを相談し、共に軍忠を致すよう書下をもって香西彦三郎に命ずる。(「西野嘉衛門氏所蔵文書」県史810頁 

2 正平六年(1351)12月15日
  足利義詮、阿波守護細川頼春の注進により、香西彦九郎に対し、観応の擾乱に際しての四国における軍忠を賞する。
 (「肥後細川家文書」熊本県教育委員会編『細川家文書』122頁 県史820頁)
3 観応三年(1352)4月20日         
 足利義詮、頼春の子頼有の注進により、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らの軍忠を賞する。
(「肥後細川家文書」同 前60・61P 県史821P

1は南北朝動乱期に南朝に与した阿讃山岳地域の勢力に対しての対応を、讃岐守護細川顕氏がに命じたものです。
2は、それから14年後には、足利義詮、阿波守護細川頼春から香西彦九郎が、観応の擾乱の軍功を賞されています。そして、その翌年の観応三年(1352)4月20日には、後村上天皇の行在所が置かれていた京都南郊の男山の攻略戦に参加した香西氏同族の羽床十郎太郎・羽床和泉・牟礼五郎次郎入道らが恩賞を受けています。
1や2からは、南北朝時代に守護細川氏の下で働く香西氏の姿が見えてきます。彦三郎と彦九郎の関係は、親子か兄弟であったようです。3からは、羽床氏などの讃岐藤原氏一族が統領の羽床氏を中心に、細川氏の軍事部隊として畿内に動員従軍していたことが分かります。
14世紀中頃の彦三郎と彦九郎以後、60年間は香西氏の名前は史料には出てきません。ちなみ彦三郎や彦九郎は南海通記には登場しない人名です。

  以上、近世になってから書かれた香西氏に関する史料や系図をみてきました。しかし、そこには戦国末期に香西氏が滅亡したためにそれ以前の史料が散逸していたこと、そのために近世になって書かれた香西氏に関するものは、史料にもとづくものではないので、残された史料とは合致しないことを押さえておきます。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       田中健二  中世の讃岐国人香西氏についての研究  2022年
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  室町時代になると、綾氏などの讃岐の国人武将達は守護細川氏に被官し、勢力を伸ばしていきました。それが下克上のなかで、三好氏が細川氏に取って代わると、阿波三好氏の配下で活動するようになります。三好氏は、東讃地方から次第に西に向けて、勢力を伸ばします。そして、寒川氏や安富氏、香西氏などの讃岐国人衆を配下においていきます。

3 天霧山5

そんな中で、三好の配下に入ることを最後まで拒んだのが天霧城の香川氏です。
香川氏には、細川氏の西讃岐守護代としてのプライドがあったようです。自分の主君は細川氏であって、三好氏はその家臣である。三好氏と香川氏は同輩だ。その下につくのは、潔しとしないという心持ちだったのでしょう。香川氏は、「反三好政策」を最後まで貫き、後には長宗我部元親と同盟を結んで、対三好勢力打倒の先兵として活躍することになります。

3 天霧山4
天霧城
阿波の三好氏と香川氏の決戦の場として、語られてきたのが「天霧城攻防戦」です。
今回は、天霧城攻防戦がいつ戦れたのか、またその攻め手側の大将はだれだったのかを見ていくことにします。
3 天霧山2
天霧城

天霧城攻防戦を南海通記は、次のように記します。

阿波三好の進出に対して、天霧城主・香川之景は、中国の毛利氏に保護を求めた。これを討つために、阿波の三好実休(義賢)は、永禄元(1558)年8月、阿波、淡路、東・西讃の大軍を率いて丸亀平野に攻め入り、9月25日には善通寺に本陣をおいて天霧城攻撃を開始した。
 これに対して香川之景は一族や、三野氏や秋山氏など家臣と共に城に立て龍もり籠城戦となった。城の守りは堅固であったので、実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った。10月20日 実休は兵を引いて阿波に還った。が、その日の夜、本陣とされていた善通寺で火災が生じ、寺は全焼した。
 
これを整理しておくと以下のようになります
①阿波の三好実休が、香西氏などの東・中讃の勢力を従え,香川之景の天霧城を囲み、善通寺に本陣を置いたこと。
②香川之景は降伏して、西讃全域が三好氏の勢力下に収まったこと
③史料の中には、降伏後の香川氏が毛利氏を頼って「亡命」したとするものもあること
④善通寺は、三好氏の撤退後に全焼したこと

香川県の戦国時代の歴史書や、各市町村史も、南海通記を史料として使っているので、ほんとんどが、以上のようなストーリー展開で書かれています。香川県史の年表にも次のように記されています。

1558 永禄1
6・2 香川之景,豊田郡室本地下人等の麹商売を保証する
8・- 天霧城籠城戦(?)三好実休,讃岐に侵入し,香川之景と戦う(南海通記)
10・20 善通寺,兵火にかかり焼失する(讃岐国大日記)
10・21 秋山兵庫助,乱入してきた阿波衆と戦い,麻口合戦において山路甚五郎を討つ(秋山家文書)
10・- 三好実休,香川之景と和し,阿波へ帰る(南海通記)
 しかし、近年の研究で実休は、この時期には讃岐にはいないことが分かってきました。『足利季世記』・『細川両家記』には、三好実休の足取りについて次のように記されています
8月18日 三好実休は阿波より兵庫に着し、
9月18日 堺において三好長慶・十河一存・安宅冬康らとの会議に出席
10月3日 堺の豪商津田宗及の茶会記に、実休・長慶・冬康・篠原長房らが、尼崎で茶会開催
つまり、実休が天霧城を包囲していたとされる永禄元(1558)年の夏から秋には、彼は阿波勢を率いて畿内にいたと根本史料には記されているのです。三好実休が永禄元年に、兵を率いて善通寺に布陣することはありえないことになります。

天霧城縄張り図
天霧城縄張り図
 
南海通記は、天霧合戦以後のことを次のように記します。
「実休は香西氏を介して之景に降伏を勧め、香川之景もこれに従うことにした。これにより西讃は三好氏の支配下に入った」

つまり永禄元(1558)年以後は、香川氏は阿波三好氏に従った、讃岐は全域が三好氏配下に入ったというのです。しかし、秋山文書にはこれを否定する次のような動きが記されています。
 1560年 永禄3 
6・28 香川之景,多田又次郎に,院御荘内知行分における夫役を免除する
11・13 香川之景,秋山又介に給した豊島谷土居職の替として,三野郡大見の久光・道重の両名を秋山兵庫助に宛行う
1561 永禄4 
1・13 香川之景,秋山兵庫助に,秋山の本領であった三野郡高瀬郷水田分内原樋口三野掃部助知行分と同分内真鍋三郎五郎買得地を,本知行地であるとして宛行う。
(秋山家文書)
 ここからは、香川之景が「就弓矢之儀」の恩賞をたびたび宛がっていることが分かります。この時点では、次のことが云えます。
①香川之景は、未だ三好氏に従っておらず、永禄4年ごろにはたびたび阿州衆の攻撃をうけ、小規模な戦いをくり返していること
②香川之景は、戦闘の都に家臣に知行を宛行って領域支配を強固にし、防衛に務めていたこと。
つまり、天霧城籠城戦はこの時点ではまだ起きていなかったようです。天霧合戦が起こるのは、この後になります。
1562 永禄5
 3・5 三好実休,和泉久米田の合戦で戦死する(厳助往年記)
                  換わって三好の重臣篠原長房が実権掌握
1563 永禄6
 6・1 香川之景,帰来小三郎跡職と国吉扶持分の所々を,新恩として帰来善五郎に宛行うべきことを,河田伝右衛門に命じる(秋山家文書)
 8・10 香川之景・同五郎次郎,三野菅左衛門尉に,天霧籠城および退城の時の働きを賞し,本知を新恩として返すことなどを約する(三野文書)
この年表からは篠原長房が三好氏の実権を握って以後、西讃地域への進出圧力が強まったことがうかがえます。
永禄6年(1563)8月10日の三野文書を見ておきましょう。

飯山従在陣天霧籠城之砌、別而御辛労候、殊今度退城之時同道候而、即無別義被相届段難申尽候、然者御本知之儀、河田七郎左衛門尉二雖令扶持候、為新恩返進之候、並びに柞原寺分之儀、松肥江以替之知、令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六 八月十日                   五郎次郎 (花押)
之  景 (花押)
三野菅左衛門尉殿進之候

意訳変換しておくと
天霧城籠城戦の際に、飯山に在陣し辛労したこと、特に、今度の(天霧城)退城の際には同道した。この功績は言葉で云い表せないほど大きいものである。この功労に対して、新恩として河田七郎左衛門尉に扶持していた菅左衛門尉の本知行地の返進に加えて、別に杵原寺分については、松肥との交換を行うように申しつける。令異見可返付候、弥御忠節肝要候、恐々謹言、
永禄六(1563)年 八月十日        五郎次郎(花押)
(香川)之 景(花押)
三野菅左衛門尉殿
進之候
ここからは次のようなことが分かります。
①最初に「天霧籠城之砌」とあり、永禄6(1563)年8月10日以前に、天霧城で籠城戦があったこと
②香川氏の天霧城退城の際に、河田七郎左衛門尉が同行したこと
③その論功行賞に新恩として本知行地が返還され、さらに杵原寺分の返附を三野菅左衛門尉殿に命じていること
④三野氏の方が河田氏よりも上位ポストにいること。
⑤高瀬の柞原寺が河田氏の氏寺であったこと

 ここからは天霧城を退城しても、香川之景が領国全体の支配を失うところまでには至っていないことがうかがえます。これを裏付けるのが、年不詳ですが翌年の永禄七年のものと思われる二月三日付秋山藤五郎宛香川五郎次郎書状です。ここには秋山藤五郎が無事豊島に退いたことをねぎらった後に、
「總而く、此方へ可有御越候、万以面可令申候」
「国之儀存分可成行子細多候間、可御心安候、西方へも切々働申附候、定而可有其聞候」
と、分散した家臣の再組織を計り、再起への見通しを述べ、すでに西方(豊田郡方面?)への軍事行動を開始したことを伝えています。
 それを裏付けるかのように香川之景は、次の文書を発給しています。
①永禄7(1564)年5月に三野菅左衛門尉に返進を約束した鴨村祚原守分について、その宛行いを実行
②永禄8(1565)年八月には、秋山藤五郎に対して、三野郡熊岡香川之景が知行地の安堵、新恩地の給与などを行っていること
これだけを見ると、香川之景が再び三豊エリアを支配下に取り戻したかのように思えます。ここで阿波三好方の情勢を見ておきます
 
天霧城を落とし、香川氏を追放した篠原長房のその後の動きを見ておきましょう。
1564永禄7年3月 三好の重臣篠原長房,豊田郡地蔵院に禁制を下す
1567永禄 10年
6月 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書) 6月 篠原長房,備前で毛利側の乃美氏と戦う(乃美文書)
1569永禄12年6月 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1571元亀2年
1月 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書) 5月篠原長房,備前児島に乱入する.
  6月12日,足利義昭が小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡るべきことを要請する(柳沢文書・小早川家文書)
  8月1日 足利義昭が三好氏によって追われた香川某の帰国を援助することを毛利氏に要請する.なお,三好氏より和談の申し入れがあっても拒否すべきことを命じる(吉川家文書)
  9月17日 小早川隆景.配下の岡就栄らに,22日に讃岐へ渡海し,攻めることを命じる(萩藩閥閲録所収文書)
ここからは、次のようなことが分かります。
①香川氏を追放した、篠原長房が、宇多津の「鍋屋下之道場(本妙寺)や聖通寺に禁制を出し、西讃を支配下に置いたこと
②西讃の宇多津を戦略基地として、備中児島に軍事遠征を行ったこと
③「
三好氏(篠原長房)によって追われた香川某」が安芸に亡命していること
④香川某の讃岐帰国運動を、鞆亡命中の足利義昭が支援し、毛利氏に働きかけていること
 同時に香川氏の発給した文書は、以後10年近く見られなくなります。毛利氏の史料にも、香川氏は安芸に「亡命」していたと記されていることを押さえておきます。

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 以上の年表からは次のようなストーリーが描けます。
①三好実休の戦死後に、阿波の実権を握った篠原長房は、讃岐への支配強化のために抵抗を続ける香川氏を攻撃し、勝利を得た。
②その結果、ほぼ讃岐全域の讃岐国人武将達を従属させることになった。
③香川氏は安芸の毛利氏を頼って亡命しながらも、抵抗運動を続けた。
④香川氏を、支援するように足利義昭は毛利氏に働きかけていた
⑤篠原長房は、宇多津を拠点に瀬戸内海対岸の備中へ兵を送り、毛利側と攻防を展開した。
 篠原長房の戦略的な視野から見ると、備中での対毛利戦の戦局を有利に働かるために、戦略的支援基地としての機能を讃岐に求めたこと、それに対抗する香川氏を排除したとも思えてきます。

 天霧城攻防戦後の三好氏の讃岐での政策内容を見ると、その中心にいるのは篠原長房です。天霧城の攻め手の大将も、篠原長房が最有力になってきます。
篠原長房の転戦図
篠原長房の転戦図
篠原長房にとって、讃岐は主戦場ではありません。
天霧城攻防戦以後の彼の動きを、年表化して見ておきましょう。
永禄7年(1564年)12月
三好長慶没後は、三好長逸・松永久秀らと提携し、阿波本国統治
永禄9年(1566年)6月
三好宗家の内紛発生後は、四国勢を動員し畿内へ進出。
三好三人衆と協調路線をとり、松永久秀と敵対。
 9月 松永方の摂津越水城を奪い、ここを拠点として大和ほか各地に転戦
永禄11年10月  この年まで畿内駐屯。(東大寺大仏殿の戦い)。

この時期の長房のことを『フロイス日本史』は、次のように記します。
「この頃、彼ら(三好三人衆)以上に勢力を有し、彼らを管轄せんばかりであったのは篠原殿で、彼は阿波国において絶対的執政であった」

ここからは、阿波・讃岐両国をよくまとめて、長慶死後の三好勢力を支えていたことがうかがえます。
永禄11年(1568年) 織田信長が足利義昭を擁して上洛してきます。
これに対して、篠原長房は自らは信長と戦うことなく阿波へ撤退し、三好三人衆を支援して信長に対抗する方策をとります。2年後の元亀元年(1570年)7月 三好三人衆・三好康長らが兵を挙げると、再び阿波・讃岐2万の兵を動員して畿内に上陸、摂津・和泉の旧領をほぼ回復します。これに対して信長は、朝廷工作をおこない正親町天皇の「講和斡旋」を引き出します。こうして和睦が成立し、浅井長政、朝倉義景、六角義賢の撤兵とともに、長房も阿波へ軍をひきます。

 この間の篠原長房の対讃岐政策を見ておきましょう。
 自分の娘を東讃守護代の安富筑前守に嫁がせて姻戚関係を結び、東讃での勢力を強化していきます。さらに、守護所があったとされる宇多津を中心に丸亀平野にも勢力を伸ばしていきます。宇多津は、「兵庫北関入船納帳」に記されるように当時は、讃岐最大の交易湊でもありました。その交易利益をもとめて、本妙寺や郷照寺など各宗派の寺が建ち並ぶ宗教都市の側面も持っていました。天文18(1550)年に、向専法師が、大谷本願寺・証知の弟子になって、西光寺を開きます。本願寺直営の真宗寺院が宇多津に姿を見せます。

宇多津 西光寺 中世復元図
中世地形復元図上の西光寺(宇多津)

 この西光寺に、篠原長房が出した禁制(保護)が残っています。  
  史料⑤篠原長絞禁制〔西光寺文書〕
  禁制  千足津(宇多津)鍋屋下之道場
  一 当手軍勢甲乙矢等乱妨狼籍事
  一 剪株前栽事 附殺生之事
  一 相懸矢銭兵根本事 附放火之事
右粂々堅介停止屹、若此旨於違犯此輩者、遂可校庭躾料者也、掲下知知性
    永禄十年六月   日右京進橘(花押)
「千足津(宇多津)鍋屋下之道場」と記されています。鍋屋というのは地名です。鍋などを作る鋳物師屋集団の居住エリアの一角に道場はあったようです。それが「元亀貳年正月」には「西光寺道場」と寺院名を持つまでに「成長」しています。
DSC07104
本願寺派の西光寺(宇多津)最初は「鍋屋下之道場」

1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。
翌年には西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、本願寺の蓮如からの支援督促も受けています。
 西光寺は、本願寺の「直営」末寺でした。それまでに、丸亀平野の奥から伸びて来た真宗の教線ラインは、真宗興正寺派末の安楽寺のものであったことは、以前にお話ししました。しかし、宇多津の西光寺は本願寺「直営」末寺です。石山合戦が始まると、讃岐の真宗門徒の支援物資は西光寺に集約されて、本願寺に送り出されていたのです。

DSC07236
西光寺
 石山戦争が勃発すると讃岐では、篠原長房に率いられて、多くの国人たちが参陣します。
これは長房の本願寺との婚姻関係が背後にあったからだと研究者は指摘します。篠原長房が真宗門徒でないのに、本願寺を支援するような動きを見せたのは、どうしてでしょうか?
考えられるのは、織田信長への対抗手段です。
三好勢にとって主敵は織田信長です。外交戦略の基本は「敵の敵は味方だ」です。当時畿内で、もっとも大きな反信長勢力は石山本願寺でした。阿波防衛を図ろうとする長房にとって、本願寺と提携するのが得策と考え、そのために真宗をうまく活用しようとしたことが考えられます。本願寺にとっても、阿波・讃岐を押さえる長房との連携は、教団勢力の拡大に結びつきます。こうして両者の利害が一致したとしておきましょう。
西光寺 (香川県宇多津町) 船屋形茶室: お寺の風景と陶芸
西光寺 かつては湾内に面していた

  石山戦争が始まると、宇多津の西光寺は本願寺への戦略物資や兵粮の集積基地として機能します。
それができたのは、反信長勢力である篠原長房の支配下にあったから可能であったとしておきましょう。そして、宇多津の背後の丸亀平野では、土器川の上流から中流に向かってのエリアで真宗門徒の道場が急速に増えていたのです。

以上をまとめておくと
①阿波三好氏は東讃方面から中讃にかけて勢力を伸ばし、讃岐国人武将を配下に繰り入れていった。
②三好実休死後の阿波三好氏においては、家臣の篠原長房が実権をにぎり対外的な政策が決定された。
③篠原長房は、実休死後の翌年に善通寺に軍を置いて天霧城の香川氏を攻めた。
④これは従来の南海通記の天霧城攻防戦よりも、5年時代を下らせることになる。
⑤香川氏は毛利を頼って安芸に一時的な亡命を余儀なくされた
⑥篠原長房が、ほぼ讃岐全域を勢力下においたことが各寺院に残された禁制からもうかがえます。⑦宇多津を勢力下に置いた篠原長房は、ここを拠点に備中児島方面に讃岐の兵を送り、毛利と幾度も戦っている。
このように、長宗我部元親が侵攻してくる以前の讃岐は阿波三好方の勢力下に置かれ、武将達は三好方の軍隊として各地を転戦していたようです。そんな中にあって、最後まで反三好の看板を下ろさずに抵抗を続けたのが香川氏です。香川氏は、「反三好」戦略のために、信長に接近し、長宗我部元親にも接近し同盟関係をむすんでいくのです。
DSC07103
髙松街道沿いに建つ西光寺
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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日枝神社 高瀬町
日枝神社(高瀬町上勝間) 土佐神社が合祀されている

三豊市高瀬町の上勝間の日枝神社には、土佐神社が一緒にまつられているようです。どうして土佐の神社が合祀されるようになったのでしょうか? 「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」には次のよう記されています。

今から五百年くらい前のことでした。戦国時代のことです。土佐の長曾我部元親は四国全体を自分の領地にしようとして、各地の有力者をせめほろぼしていきました。
元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。
長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。
さて、それからだいぶん年数がたつたころのことです。ある晩、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。はっきり見た人がいたのでまちがいありません。そのことがあって、間もなく、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。ほかにも、またそのほかにもその光を見た人がいて、その人の家も火事で燃えてしまったそうです。
「こりゃ、神さんのたたりでないんじゃろか」
村の世話役たちは相談しました。そして、
「神社をもっと高いところ移して、よくお参りしたらええのかもしれん」
ということになりました。
そこで、神主さんにおがんでもらって、神社を近くの高台ヘ移しました。そして、村の人はよくお参りしました。
けれども、しばらくしたある日、前のときと同じように、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。
村の世話役たちは、また相談しました。そして、
「土地の神さんが怒ってたたりよるのかもしれん。土地の神さんは日枝の神さんじゃ。両方をいっしょにおまつりしたらどうじゃろ」
ということになりました。
そこで、また、神主さんに来てもらって、日枝神社と土佐神社を同じ場所におまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。
ところがまた、しばらくしたある日、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。神社の近くの家はほとんど火事で燃えたそうです。
村の世話役さんはまた相談しました。そして
「八幡さんは、いくさの神さんじゃ。近くに八幡神社を建てたらどうじゃろ」
ということになりました。
村の人びとは力を合わせて、道をはさんで向かいがわに八幡さんをおまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。お祭りの日には白酒を作ってお供えしました。

それからは、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走ることがなくなりました。

日吉神社 土佐神社
日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

この昔話の中には、土佐神社建立について、次のように記されていました。
「元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。」

というのが、土佐神社建立の理由として地元には伝わってきたようです。「侵略した側は1世代で忘れるが、侵略された側は何世代にもわたって覚えている」という歴史家の言葉を思い出します。江戸時代後半になると、讃岐人の郷土愛(パトリオテイズム)が高まってきて、讃岐を征服した長宗我部元親への反発心が強くなっていきます。その背景のひとつに、「南海戦記」などの軍記ものの流行があったようです。そこでは、土佐軍が寺社を焼き、略奪を行ったことが書かれ、次第に
悪玉=讃岐を侵略した長宗我部元親、
善玉=それを守って抵抗する讃岐国人たち
という勧善懲悪型の歴史観が広がって行きます。そして、昔話も、このような内容のものが伝わることになったようです。

 しかし、本当にそうなのでしょうか? 高瀬町史は「実際は、そうではないで・・・」と、語りかけてくれます。それを以前にお話ししました。今回は、もう少し要約して、かみ砕いて記してみようと思います。
日枝神社 土佐神社合祀
       日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

土佐軍の侵攻以前には、讃岐の国人たちの多くは阿波三好勢力の配下にありました。
三好氏に従属しなかったのが天霧山の香川氏です。その配下には、高瀬の秋山氏や三野氏もいました。こうして香川氏は、東讃や中讃の讃岐国人たちを配下に従えた阿波三好氏の圧迫を受け続け。天霧城に籠城もしています。あるときには、城を捨てて毛利方に亡命したこともあるようです。ここでは、土佐軍の侵攻以前には、阿波三好氏が讃岐を支配下に置いていたこと、そのような情勢の中で、香川氏は劣勢の立場にあったことを押さえておきます。
 例えば土佐軍の侵攻の前年に、丸亀平野のど真ん中にある元吉城(櫛梨城)をめぐって、毛利軍と三好方が戦っています。この時の攻撃方の三好勢側についている讃岐国人武将を見てみると、讃岐の長尾・羽床・安富・香西・田村などの有力武将の名前があります。三豊地方では、高瀬の二宮近藤氏や麻近藤氏・高瀬の詫間氏なども三好方についています。
 いままでの市町村史の戦国時代の記述は、南海通記にたよってきました。これを書いたのは香西氏の子孫で、香西氏顕彰のために書かれたという面が強く「長宗我部元親=悪、香西氏に連なる一族=善」という史観が強いようです。そのためこれに頼ると、全体像が見えなくなります。しかし、他に史料がないので、これに頼らないと書けないという事情もありました。
 その中で、香川氏の家臣団の秋山氏が残した秋山文書が出てきます。この文書によって、三豊の戦国史が少しずつ明らかになってきました。秋山文書を用いて書かれた高瀬町史は、天霧城の香川氏やその配下の秋山氏から見た土佐軍の侵入を描き出しています。それを見ておきましょう。
香川氏から見れば、最大の敵は阿波の三好氏です。
 その配下として、天霧城に攻め寄せていた讃岐国人武将達もたちも敵です。「敵(三好氏)の敵(=長宗我部元親)は、香川氏にとっては味方」になります。元親の和睦工作(同盟提案)は、香川氏にとっては魅力的でした。それまで、対立し、小競り合いを繰り返してきた長尾氏や麻の近藤氏・高瀬の詫間氏などを、土佐軍が撃破してくれるというのです。天霧城に立て籠もり、動かずして、旧来の敵を一掃してくれる。そして、旧来通りの領地は保証され、元親との間に婚姻関係もむすべる。これは同盟関係以上の内容です。
 毛利軍が元吉城から引き上げた翌年に、それを待っていたかのように、土佐軍は三豊の地に侵入してきます。そして、財田の城や藤目城に結集した親三好の讃岐国人勢力を撃破していきます。藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢は三豊地区では次の勢力を撃破しています。
①九十九山城の細川氏政
②仁保(仁尾)城の細川頼弘
③高瀬の爺神城主の詫間弾正、
④高瀬・麻城の近藤氏
⑤山本町神田城の二宮・近藤氏
これらは、香川氏とは敵対関係にあった勢力のようです。
 一方、香川氏配下の三野氏や秋山氏などは攻撃を受けていません。観音寺や本山寺の本堂が国宝や重要文化財に指定されているのは、この時に攻撃を受けず焼き払われなかったためです。それは、そのエリアの支配者が、香川氏に仕える武将達か親香川勢力であったからと私は考えています。ここでは、土佐勢が讃岐の寺社の全てを焼き払ったわけではないことを押さえておきます。それよりも長宗我部元親の戦略は、どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。

大水上神社 神田城
二宮近藤氏の居城・神田城
 一方高瀬町内に支配エリアを持っていた二宮近藤氏と麻の近藤氏の場合を見ておきましょう。
両近藤氏は、反香川氏の急先鋒として、香川氏配下の秋山氏と何度も小競り合いを行っていたことが秋山文書からは分かります。そのため、両近藤氏は攻め滅ぼされ、その氏寺や氏神は悲惨な運命をたどったことが考えられます。こうして、讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?

大水上神社 神田城2

『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からやってきた人物です。彼には、次の土地が与えられています。

「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

  これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。
翌年三月には、
「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、
五月には
「財田・麻岩瀬村」
で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
 土佐の武将の領地となった土地には、労働力として土佐からの百姓が連れてこられます。高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。
  先ほど見た昔話には、次のように記されていました。

「せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです」

 しかし、これはどうも誤りのようです。土佐からの移住者が大量に入ってきて、新たに入植したことが分かります。彼らが入植地に、団結と信仰のシンボルとして勧進したのが土佐神社だったと高瀬町史はは考えています。
 そして、土佐軍撤退の生駒藩の下でも土佐からの移住団は、そのまま入植地に残ったようです。三豊には、近世はじめに土佐からの移住者によって開かれたという地区が数多く残ります。しかし、今まではそれが土佐軍の占領下での移住政策であったとは、考えられてきませんでした。そういう目で、この時期の土佐人の動きを見てみる必要があります。
土佐神社 高瀬町日枝神社と合祀
        日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

 土佐の移住者たちが住み続けたので、土佐神社は残った。
そして、日枝神社と合祀されたというのは、周辺農民との融合が進んだということになるようです。どちらにしても、二宮近藤氏や麻近藤氏の支配地には、土佐からの移住集団が入り込み、開拓・開発を進めたことを押さえておきます。その痕跡が土佐神社の昔話として残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史
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天正三(1575)年に長宗我部元親は土佐国内の統一を果たします。
 翌年には早くも阿波三好郡へ侵入し、白地城主の大西覚養を降伏させます。元親は白地城を拠点として阿波・讃岐・伊予三国への侵攻を開始することになります。

長宗我部元親 地図

天正六(1578)年夏になると、讃岐侵攻を開始します。それは讃岐の藤目城主(観音寺市粟井)の斎藤下総守を調略・降伏させたことに始まります。元親は、藤目城に桑名太郎左衛門と浜田善右衛門を入れて、讃岐侵攻の拠点とします。攻略の手を一歩進めたのです。
 当時の讃岐は阿波の三好氏配下にありました。
群雄割拠と云えば聞こえはいいのですが、実態は中小武将の割拠状態でまとまった勢力がありませんでした。そこへ侵入してきた阿波の三好勢力下の置かれていたのです。しかし、三好氏に反発する香川氏のような勢力もあり讃岐は一枚岩というわけにはいきませんでした。
 讃岐西端の三豊に長宗我部元親によって打ち込まれた布石に対して、阿波の三好存保は配下の聖通寺城主・奈良太郎兵衛勝政に撃退を命じます。奈良氏は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔とともに藤目城を攻め、これを奪回します。これらの讃岐衆が阿波の三好氏の指令で動いていることを押さえておきます。

 藤目城を奪い返された長宗我部勢は、秋には今度は目線を変えて三野郡財田の本篠城(財田町)を攻略します。そして、本篠城を出城にして冬には再び藤目城を攻め、これを再度掌中に収めます。これが元親の讃岐攻略の前哨戦です。これに対して「西讃守護代」とされてきた多度津天霧城の、香川信景は援軍を派遣しません。動かないのです。
長宗我部元親 本篠城
本篠城のあった山(財田町)

 藤目・本篠城攻防の時、なぜ香川信景は援軍を派遣しなかったのでしょうか。
 南海通記には、そのことが語られずに、ただ信景は戦わずして元親に降ったということのみが強調されています。香川氏が援軍を送らなかったことの背景を今回は考えて見たいと思います。  テキストは 高瀬町史139P 長宗我部元親の讃岐侵攻と西讃武士です。 
安藤道啓堂の謎 - カーキーのおもしろ見聞ダイアリー

まずは、土佐軍侵攻の前年からの情勢を年表で見ておきましょう。

  1577 天正5
7月元吉合戦 毛利・小早川氏配下の部隊が讃岐元吉城(櫛梨城)に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う
11月 勝利した毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野
11月 毛利軍、足利義昭の調停により三好方と和し、引き上げる(厳島野坂文書)
阿波白地城主大西覚養、長宗我部氏に攻められ麻城の近藤国久のもとへ亡命(西讃府志)
  1578天正6(戊寅)
  夏 長宗我部元親、藤目城を攻略。
十河存保の命をうけた奈良太郎兵衛尉らこれを奪回する)
長宗我部元親、三野郡財田城を攻略する(南海通記)
長宗我部元親、ふたたび藤目城を攻略する

 永禄年間(1558~70)に、阿波の三好氏の讃岐侵攻が強まります。その結果、香川氏は天霧城龍城戦から敗走し、一時的には毛利氏を頼って国外に亡命しながら抵抗を続けたことは以前にお話ししました。
 天正五(1577)年になると、毛利氏は石山本願寺戦のための瀬戸内海海上覇権確保の一環として、讃岐の元吉城(櫛梨城・琴平町)に軍を送り駐屯させます。同時に、亡命中の香川氏へのてこ入れを行ったようです。こうして、三好配下の讃岐衆との間で、櫛梨城をめぐる攻防戦が展開されます。これが元吉合戦で、毛利氏は勝利します。   
 毛利氏に領土的な野心はなく、瀬戸内海の通行権が確保されると、その年の秋には和約を結び撤退していきます。その後を毛利氏から任されたのが香川氏ではないかと私は考えています。香川氏については、元吉合戦には出てきませんが、同時並行で天霧城を回復し、西讃・三豊における支配権を回復したようです。つまり、香川氏は毛利氏の支援を受けて、天霧城に帰ってきて西讃の支配権を回復しようとしていたのです。
香川氏の仮想敵国は、どこになるのでしょうか?
第一に挙げられるのは、阿波の三好氏です。次に三好氏配下の讃岐衆です。具体的には、羽床氏・長尾氏・近藤氏・大平氏・詫間氏などです。香川氏は阿波三好氏の侵入に苦しみ続けられてきました。香川信景も、三好氏を仮想敵国とする外交戦略を考えることになります。
 具体的には「敵(三好氏)の敵は味方」という法則がとられます。
当時の三好氏は、畿内で信長と対立し、瀬戸内海で毛利と対立していました。そして、さらにここに新たな敵を向かえることになります。それが土佐を統一した長宗我部元親の登場です。
 年表を見ると分かるとおり、長宗我部元親が讃岐侵攻を開始するのは、毛利が元吉城を引き払ったあとです。毛利軍の姿が讃岐から消えたのを見計らうようなタイミングです。ここには毛利と長宗我部の間には密かに「不戦条約」が結ばれていたと考える研究者もいるようです。

このような情勢を天霧山にいた香川信景はどのように見たのでしょうか。
  三好の脅威におびえる信景にとって、毛利撤退後に頼るべき相手として長宗我部元親が見えてきたのではないでしょうか。香川氏には、讃岐守護細川家に仕える西讃守護代としてのプライドもありました。
「自分は細川氏の家臣で、阿波の三好配下ではない」という気構えがあったようです。下克上で主君細川氏にとって替わった三好氏には反発心を持ち抵抗し、三好方の侵攻を何度も受けていることはお話しした通りです。そのために天霧城を包囲されたり、一時的には天霧城からの撤退も余儀なくされています。つまり、香川氏にとっては主敵は三好氏なのです。反三好のために香川氏が選択できる外交戦略は次の通りでした
①織田信長への接近
②毛利元就への接近
③長宗我部元親への接近
それまでに取ってきた同盟関係が①②でした。宿敵三好氏打倒のためには、③の長宗我部元親との同盟をとることに抵抗感はあまりなかったと私は考えています。
  一方、長宗我部元親も力による制圧戦は望んでいません。
土佐勢は兵農分離の進んでいない一両具足の兵達です。長期戦には不向きで、消耗すればなかなか補充がききません。戦わずに陥すのが元親の本心です。
長宗我部元親一領具足

そこで元親が使ったのが細川家の「守護の権威」です
 讃岐と土佐の守護を兼ねていたのは京兆家の当主細川昭元でした。細川昭元は、足利義昭と織田信長が決裂した際に、信長側につきます。昭元は名家の当主として信長に庇護される状態でした。信長は昭元を道楽で保護していたわけではなく、彼には利用価値があるとかんがえていたのです。信長は「対三好包囲網」に香川氏を誘うために細川昭元の守護としての権威を利用活用しています。

長宗我部元親と細川昭元
細川家系図
 天正11年(1583)に細川昭元は香川信景に、讃岐国東部の管轄も任せる旨の書状を発給しています。この昭元の動きの背景には、信長の意向があります。信長は讃岐守護という昭元を利用して、霧城城主の香川氏を取り込もうとします。
  私は、香川氏と長宗我部元親の橋渡しをしたのは、細川昭元ではないかと考えています。細川京兆家は土佐の守護でもあり、讃岐の守護でした。香川氏と長宗我部氏は、同じ主君に仕える身であったことになります。そこで、「三好打倒のために長宗我部とも手を組め。そして逆臣三好を成敗せよ」などという親書が香川氏の下に届けられたのではないでしょうか。これは香川氏にとっては、三好打倒のための最高の大義名分となり、三好に反発をもつ讃岐国衆をまとめる旗印にもなります。それは信長の意向でもあったはずです。

 その調略活動に活躍したのが、元親の右筆(ブレーン集団)として仕えていた土佐の山伏(修験者)たちであったと私は考えています。
 土佐は熊野信仰の修験者たちの多い所です。彼らは先達として、信者達を引き連れて熊野詣でを行いました。そのルートが現在の国道32号線と重なる熊野詣ルートです。ここは辺路ルートでもあり、修験者の行場や古い熊野神社などが点在していることは以前にお話ししました。長宗我部元親のもとで右筆を勤めた修験者たちは、辺路修行や聖地巡礼を通じて四国の隅々まで知り尽くしていました。彼らの情報収集力や修験道を通じた人的ネートワークを、元親は重視し活用したでしょう。阿波への道や讃岐山脈を越える山道も、修験者にとっては修行の場であり、何度も通った道です。
 当時の元親の右筆集団(秘書団かつブレーン)の中で、信頼を得ていたのが南光院でした。
彼は現在の四国霊場39番延光寺の奥社を拠点にした熊野修験者です。その配下には多くの修験者たちをかかえていました。後に、この延光寺が土佐山内藩に宛てた文書には、南光院を修験者集団の「四国の総代表」と記しています。真偽の程は分かりませんが、彼が当時の四国の修験者の中で名前の知れた人物であったことはうかがえます。ちなみに彼は、西讃制圧後に金毘羅大権現を祀る金比羅堂別当職に、元親から指名されます。そして、金毘羅を讃岐平定の総鎮守とすることを託されるのです。
ここからは私の推論を交えながら、小説風に行きます。
元親の意向を受けて、天霧城の香川氏への調略工作を行ったのは、この南光院だと私は考えています。彼のまわりには、次のような山伏(修験者)集団の存在がありました。
①箸蔵周辺の阿波山伏
②雲辺寺・大興寺・観音寺につながる密教系修験者
③尾背寺(まんのう町)・大麻山(後の金比羅山)・善通寺の修験者
④天霧山麓の弥谷寺の修験者・聖集団
(これらの寺院は土佐軍の兵火を受けていない)
これらの集団の中には南光院の息のかかった者が幾人かは送り込まれて「間諜(スパイ)」としての役割を果たしていたとしておきます。雲辺寺→観音寺→弥谷寺というのは彼らの辺路ルートでもありました。山伏姿で、「辺路」ながら情報収集活動をしても何ら疑われることはありません。天霧山の下の谷にある弥谷寺に入った間者の修験者たちは、密かに香川氏に対して同盟を働きかけた私は考えています。その時期は、藤目城の攻防戦以前から始まっていたでしょう。
 思い返せば天正六(1578)年夏に、大西上野介は豊田郡藤目城主の斎藤下総守を調略しています。これに平行して香川氏への働きかけも始まっていたのかもしれません。そして、本格的な攻防戦が始まる前には、長宗我部元親と香川信景のあいだに密約は出来上がっていたと思うのです。天霧城の「不動」の姿からそう私は感じます。だから香川氏は、動かず援軍を送ることもなかったのです。

長宗我部元親讃岐侵攻図1
 
香川氏から見れば、藤目城や本篠城に結集した軍勢は、ある意味で阿波三好氏の手先の讃岐衆です。
かつては天霧城にせめかかってきた輩達なのです。それが長宗我部によって、打ち砕かれるのは香川氏にとっては願うところです。
三好に与する讃岐衆は、土佐軍によって撃破・排除する。
親三好派を排除した後に残った勢力の調略活動は香川氏が行う、

そんな役割分担が讃岐侵攻以前に出来上がっていたかもしれません。こうして、財田の城や藤目城に結集した親三好勢力は撃破・殲滅されていきます。さらに、抵抗を続ける室本や仁尾や二宮・麻の勢力は力で殲滅します。その後の日和見的勢力への「寝返り工作」については、香川氏が担当したとしておきましょう。

藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢の足取りを辿ってみると次の勢力が力攻めで滅ぼされています。
①九十九山城の細川氏政
②仁保(仁尾)城の細川頼弘
③高瀬の爺神城主詫間弾正、長宗我部氏に攻められ滅亡する(西讃府志)
④高瀬の麻の近藤氏、山本町神田の二宮・近藤氏
 三好勢に近く、以前から香川氏との小競り合いを繰り返したいた勢力であることが分かります。

「讃岐の寺社由緒書は、長宗我部元親による焼き討ち被害で充ち満ちている」と以前にお話ししました。繁栄していた寺が土佐勢の兵火に罹って焼け落ち、再建されることなく廃絶したというストーリーです。これは近世後半になって広がった「伝説」です。結果として、長宗我部元親は讃岐では「悪人」として語られることになります。
 しかし、個別の神社の実例を見てみると、どうもこの伝説は事実ではないようです。例えば、中世に遡る建築物を持つ寺社は焼き討ちされていないことになります。本山寺本堂・観音寺本堂などは兵火を免れています。全てを無差別に焼き払ったという痕跡は見当たらないのです。どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。

讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。
 その多くは香川氏の領地でした。香川氏に従っていた国人層は、香川氏の降伏にともない、長宗我部氏の支配下にそのまま収まります。その形は、直接に元親に服属するのではなく、香川氏に仕えるというままの形で存続したようです。例えば、本門寺を中心とする法華信徒であるで三野の秋山氏も香川氏のもとにそのまま仕えています。これは、香川氏の領地はすべて安堵されたことになります。これは「降伏」というには、あまりに寛大な処置です。
 さらに、香川信景は元親の次男親和を娘婿に迎え入れ、香川家の跡継ぎとします。これは、降伏というよりも軍事同盟の締結といった方がよさそうです。これについてはまた、別の機会にお話しします。
土佐軍と戦った勢力の領土は没収され、検地が行われ占領者に給付されていきます。
『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からきた人物です。彼には
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

の土地が与えられています。これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。翌年三月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、五月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
 これ以外にも土佐から讃岐へ移り住む者が多くいたようで、高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。最後まで抵抗した勢力の土地は没収されたのです。
 これらの動きを南海通記は、香西氏の立場と郷土愛(パトリオティズム)を織り交ぜて記します。そのため土佐軍を侵略者=悪、それと戦う勢力を郷土防衛軍=善と色分けした勧善懲悪的な軍記物仕立てになっています。そして、土佐軍にいち早く降伏した香川氏は悪者とされることが多かったようです。
 この視点は、物語としては面白いのですが歴史の冷酷さやリアリティーは欠落していくことになります。南海通記の視点を越えた歴史叙述が待たれる由縁です。

 三豊地方を支配下に置いた元親は、天正七(1579)年4月に中讃地方へと侵攻を開始します。
長宗我部軍は、まず羽床攻撃を行いますが、その際の先陣は香川氏傘下の三野菊右衛門と河田七郎兵衛が勤めています。香川氏が土佐軍の先導役を勤める姿がよく見られるようになります。戦いは長宗我部軍の大軍に対して羽床軍は多勢に無勢で敗退し、一族の木村氏の仲介で降伏しています。
 実際の戦いがあってから百年以上経って書かれた讃岐の軍記物「南海通記」には、讃岐武士団の抵抗ぶりが華々しく書かれています。
しかし、根本資料である土佐側の資料には、讃岐の武士団に、必死で抵抗する姿は見えません。形ばかりの籠城と小競り合いの後に降伏するか、無血開城するかのどちらかです。
 この裏では、香川信景による調略工作があったようです。
阿波三好の横暴さと、主君細川氏への裏切りを説き、今こそ阿波侍の首から解放される時が来たと、土佐軍を解放軍として説いたかも知れません。また、占領後の香川氏と長宗我部氏の同盟関係に触れながら、無血入城すれば悪いようにはしないと説いたかも知れません。どちらにしても、「籠城総員討ち死」なんていう姿は見られません。その辺は計算高い讃岐人らしさかもしれません。
 羽床氏は讃岐最大の武士団綾氏の統領でもありました。その羽床氏が降伏すると、滝宮の滝宮弥十郎をはじめとする綾氏一族はそれになびきます。
 私が分からないのは西長尾城の長尾大隅守の動きです。
軍記物では、長尾氏は丸亀平野に入ってきた土佐軍と激しく戦ったとされます。しかし、土佐の資料には長尾氏が抵抗したとの記述は見えません。香川氏の先陣が勤める土佐軍が、西長尾城の下を通って、羽床城を攻め込むのを見送っています。長尾氏が降伏するのは、羽床城陥落後です。
丸亀平野に軍を進めた長宗我部元親が本陣として、軍を進駐させたのはどこでしょうか?
軍記物には金毘羅に本陣を置いたと記すものが多いようです。しかし、大軍を置くにはふさわしくないような気がします。候補地としては、前々年に起きた元吉合戦の舞台となった櫛梨城でないかと私は考えています。毛利軍が三好軍の中讃への侵攻を阻止し、石山本願寺への兵粮輸送ルート確保のために軍を進駐させた城です。ここは土佐藩占領下で大規模改修工事が行われて土佐流の竪堀が掘られていたことが発掘調査から分かっています。
  元親は金比羅堂(琴平)にも参拝し、「四国平定成就」を祈願しています。
金比羅堂や松尾寺は、長尾寺の一族によって数年前に建立されたばかりの新興の寺社でした。金毘羅大権現の別当金光院院主は西長尾家城主の弟(甥)である宥雅が務めていました。宥雅は、土佐軍の侵入を受けて堺に亡命します。つまり、金光院は無住となっていました。その院主を任せたのが先ほど紹介した南光院です。彼が宥厳と名を変えて別当職を務めることになります。その時に元親があたえた課題は、金比羅堂を四国支配の新たな宗教施設とすることでした。そして、四国平定の折には、山門の寄進を約束します。
金毘羅権現
長宗我部元親寄進の二天門

天正8年には、西長尾に新城を築城し、国吉甚左衛門を置き中讃の拠点とします。
この時に長尾城は土佐風の山城に大改修されます。現在の西長尾城は、長尾氏時代のものではなく、土佐軍が進駐していた時代の山城跡になるようです。

西長尾城

天正9年6月、元親は東伊予・西讃の国侍たちに出陣を命じ、西長尾城に1,2万の軍を集結させます。香川氏に養子に入った元親次男の香川親和を総大将とした土佐軍は、那珂・鵜足郡へ向けて進撃していきます。聖通寺城主奈良太郎兵衛を敗走させ、更に藤尾城の香西佳清を攻めます。ここでも香川氏の斡旋により和議が結ばれ、長宗我部軍に降ります。天正11年 元親軍は再度讃岐へと侵入します。そして十河城に入った十河存保を攻めます。そして天正12年6月十河城を落城させ、存保は播磨へと亡命します。こうして讃岐全土は元親によって平定されます。

元親にとって香川氏の協力なくしては讃岐平定は不可能だったとも云えます。
従来の史書は、香川氏は元親に服属したと記します。元親の次男が信景の養子となり、香川氏の家督を相続したとも思われています。しかし、養子に入った親和は香川氏の歴代継嗣が名乗った五郎次郎を称しますが、単独で発給した書状は少なく、信景との連署状が多いようです。ここからは、実権は信景が依然として握っていたことがうかがえます。引退し、実権を失っていたのではないようです
   香川氏と長宗我部氏の婚姻関係は、香川氏を支配下に置くと考えるよりも、味方につけたと研究者は考えるようになってきています。
香川信景には男子がなく娘だけでした。後継者が必要なため、元親の次男を婿として迎え入れ、香川家を継がせることにした。信景は元親に降伏というより、姻戚関係を結ぶことにより家の存続を図ったというのです。女子を人質で遣わす例は多くあります。男子を跡継ぎといえども遣わすのはある意味では、人質とも云えます。降伏した香川氏に、長宗我部氏が人質を遣わすことは不自然です。輿入れの後、信景が土佐の岡豊城へ赴いた際の歓迎ぶりが次のように記します。
「元親卿の馳走自余に越えたり、振る舞も式正の膳部なり。::五日の逗留にて帰られけり。国分の表に茶屋を立て送り」

盛大な饗応ぶりです。この歓待ぶりは征服者と服属者の関係とはいえないと研究者は指摘します。元親は次男親和を婿入りさせ、信景と同盟者としての関係を持つようになったと解すべきとします。
 その後、秀吉の四国攻めにより、長宗我部元親は土佐一国に封じ込められます。その際の香川信景・親和父子への対応にも現れているといいます。領地を失った香川氏親子を土佐へ迎え、領地を与えています。
   以上をまとめておくと
①天霧城主の香川氏は西讃岐守護代として、守護細川家に仕えて畿内に従軍することも多かった。
②守護細川家に代わって下克上で阿波三好氏が実権を握り、東讃方面から西讃へと勢力を伸ばす。
③香川氏は伸張する阿波三好氏の勢力に押されて、一時的には天霧城を捨て毛利家に亡命することもあった。
④毛利家は元吉合戦の際に、香川氏の天霧城への復帰を支援し、その後の西讃支配を託し撤兵した。
⑤長宗我部と毛利の間には不戦条約があり、毛利撤退後の軍事的な空白を長宗我部が埋めることに問題はなかった。
⑥こうして長宗我部元親と香川信景は密かに同盟を、讃岐侵攻前に結んでいた。
⑦親三好派の讃岐衆は、土佐勢によって撃滅・排除され、日和見勢力に対しては香川信景が調略工作をおこなうことで、讃岐平定はスムーズにすすんだ。
⑧その結果、跡継ぎのいなかった香川信景は元親の次男を婿として後継者に迎えた。
⑨長宗我部元親と香川信景は「降伏」というよりも「同盟関係」にあったというほうが、その後の出来事を捉えやすくする。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   参考文献 高瀬町史139P 長宗我部元親の讃岐侵攻と西讃武士


 宥雅は、一族の長尾氏の支援を受けながら松尾山(現象頭山)に、松尾寺(金毘羅寺)や金比羅堂を建立します。しかし、それもつかの間、土佐の長宗我部元親の侵入によって宥雅は、新築したばかりの松尾寺を捨てて堺への亡命を余儀なくされます。宥雅が逃げ出し無住となった後の松尾寺は無傷のまま元親の手に入ります。元親は、陣僧として陣中で修験者たちを重用していました。そこで土佐足摺の修験者である南光院に松尾寺を任せます。南光院は宥厳と名を改め、松尾寺の住持となります。その際に、元親から与えられた使命は、松尾寺を讃岐支配のための宗教センターとして機能させるようにすることだったようです。そのために宥厳がどのような手を打ったかについては以前に次のようにお話ししました。
①松尾寺から金比羅堂へシフトして、新たな蕃神である金毘羅神の拠点として売り出す
②修験者の「四国総本山」とし、修験者の拠点として修験者の力を利用した布教方法を用いる
宥厳は、もともとは土佐の修験者でしたから修験化路線へのシフト転換が行われたのでしょう。
今回は、南光坊と呼ばれた宥厳の土佐での存在とは、どんなものであったのかを見ていくことにします。テキストは 高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収です。
南光院 南路志

土佐の『南路志』の寺山南光院の条には、  次のように記されています。
「元祖大隅南光院、讃州金児羅(金毘羅?)に罷在候処、元親公の御招に従り、御国へ参り、寺山一宇拝領」
「慶長の頃、其(南光院の祖、明俊)木裔故有って讃岐に退く」
意訳変換しておくと
大隅南光院の祖(宥厳)は、讃州の金毘羅にいたところ、長宗我部元親の命で土佐に帰り、寺山(延光寺)を拝領した」

ここからは次のようなことが分かります。
①慶長年中(1596~)に、南光院は讃岐の金毘羅(松尾寺)にいたこと
②長宗我部元親から延光寺を拝領し、金毘羅から土佐に帰国したこと
南光院 延光寺2
四国霊場 延光寺(寺山) 奥の院が南光院

寺山とは延光寺のことで、現在の四国霊場になるようです。この延光寺のことを見てみましょう。
宿毛市延光寺は、四国三十九番札所ですが、修験道当山派の拠点であったようです。
 四国霊場を考える場合には「奥の院を見なければ分からない」というのが私の師匠の口癖です。そのセオリーに従って、延光寺の背後をまずは見ておくことします。この寺の4㎞ほど東に貝ノ森と呼ばれる標高300mほどの山があります。山頂には置山権現が鎮座し、修験法印金剛院の霊を祀るといわれ、雨乞いの時には、里人が登って祈念していたようです。修験者の修行の山であったことが分かります。
そして、延光寺は行場(奥の院)が里下りして、いつの頃かに麓に下りてきたことがうかがえます。
南光院 延光寺1

この貝の森については、次のような話が伝えられます。
 弘治(1555)の頃、吉野大峰山での修行の際に、予州修験福生院と美濃修験利勝(生)院が口論を起こします。それがきっかけで、宿毛市平田町の貝ケ森で護摩を焚く四国九州の修験者と近江の金剛院の間で大激戦となり、福生院・金剛院ともに死亡します。その争いに巻き込まれた利生院は、この地に蔵王権現を祀るべきことを言い置き亡くなります。こうして貝ケ森に蔵王権現が勧請され、これ以後は「当州当山修験断絶」となった。

 この伝承からは次のようなことが分かります。
①貝ケ森が修験の山で、多くの修験者が集まり護摩も焚かれていたこと
②蔵王権現が勧請される前は中四国の修験霊地として栄えていたこと
③修験者の中には、背後に有力修験者を擁する武士団があり、争乱や武闘もあったこと
 ここでは16世紀半ばに起きた事件を契機に、当山派から本山派へのシフトが行われたとされているとされますが、これは事実とは異なるようです。当山派の延光寺が衰退していくのは、山内藩による本山派優遇策がとられるようになって以後のようです。

周辺の霊山をもう少し見ておきましょう。 佐川山は幡多郡の旧大正町奥地にあります
この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵がいます。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

窪川町と旧佐賀町の境に五在所の峰があります。
 ここにも修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。この地蔵には矢傷があります。そのため「矢負の地蔵」とも呼ばれていたようです。この山はもともとは不入山でした。小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は、修験者たちの祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

 別の見方をすると、霊山に地蔵さんを建立するのは、山伏たちにとってはテリトリー争いを未然に防ぐ方策でもあったようです。その背後には、地元の武士団があったことが考えられます。それ以前には、地域間の抗争があったことが「山頂での相撲や喧嘩」などからうかがえます。
 このような修験道が地域の中に根付いた中で、南光坊(宥厳)は修験者としての生活と修行を行ってきた人物であることをまず押さえておきます。

宥厳は、土佐では南光院と呼ばれていました。
 南光院は延光寺の奥の院だったようです。その院主なので南光院と呼ばれていたようで、地元では有力な修験者のリーダーでした。それが長宗我部元親の讃岐侵攻の際に、無住となってた松尾寺に呼ばれて管理を任されることになります。
延享四年(1747)に延光寺は、次のような文書を土佐藩の社寺方に差出しています。
「私先祖より代々先達之家筋二て、昔時ハ四国並淡州共五ケ国袈裟先達職二て御座腕」

 昔時というのは元親時代のことなのでしょう。延光寺の先祖は代々(当山派)先達を勤め、かつては四国と淡路の袈裟先達職(リーダー)であったと云います。更に続いて、次のようにも主張しています。
延光寺が宿坊十二を擁した頃は、元親から田地の寄付もなされた。南尊上人の住職時代ころまでは、南光院知行共地高五百五十石であった。

というのです。550石といえば土佐・山内藩家臣団の中でも上位に匹敵する待遇です。元親が四国を制摺るに及んで、南光院もまた四国の修験道のリーダー的立場にあったようです。
  つまり、当時の延光寺は四国の先達のトップを勤めていたというのです。その寺から長宗我部元親が呼び寄せたのが南光院(宥厳)ということになります。ここからは、長宗我部元親が新たに手に入れた金比羅の松尾寺をどんな寺にしようとしていたかがうかがえます。それは「四国鎮撫の総本山」です。そのために選ばれたのが南光院であったとしておきましょう。
 長宗我部元親は、秀吉に敗れ土佐一国の領主となると金比羅から南光院を呼び戻し、延光寺を与えます。そのまま讃岐には捨て置かなかったようです。元親の南光院に対する信頼度がうかがえます。その後、延光寺は慶安四年(1651)の遷化まで、修験兼帯の真言寺とし運営されます。そして修験名は南光院が使われます。
南光院の当時の威勢ぶりを、後の史料から見てみましょう。
 南光院は大峰山中に「土州寺山南光院宿」という宿坊を持っていたようです。それは大峰山小笹(小篠)28宿のうちの第三宿で、二間×三間半粉葺の規模でした。延享五年(1748)藩社寺方の記録には次のように記されています。
「右宿私先祖より代々所持仕腕私邸支配之 山伏共入峯仕腕節此宿二て国家泰平万民快楽祈念仕候」

とあって、古くから大峰山に宿を持ち、それが大峰の峰入りの際に、配下の修験者に利用されていたと、由緒が主張されています。確かに延光寺は、清和天皇の御代に禁中の左近之 桜右近之橘を蘇生せた伝わるように、修験道の拠点として中世以来の歴史を持つ寺であったようです。
南光院 延光寺縁起1
延光寺縁起

  以上を時間系列で並べて見ます
1579年 長宗我部元親が西長尾城を攻略。長尾氏一族の宥雅は堺に亡命     土佐から南光院が呼ばれ、宥厳と改名し松尾寺(金比羅寺)に入る
1585年 長宗我部元親が秀吉に敗れ、土佐に退く
1591年 幡多郡大方町飯積寺から南尊上人(慶長三(1593)年没)延光寺に入院
1600年 南光院が長宗我部元親から寺山(延光寺)拝領し入院。南光院は、それまで自分が持っていた「南光院」を奥の院として、延光寺を修験兼帯の真言寺とする。
1651年 宗院遷化以後は修験兼帯を解き、延光寺から南光院は独立

江戸幕府が確立されると本山・当山派は、幕府や藩の御朱印を求めて争うようになります
  長宗我部家の滅亡、南光院は次第にその勢力を失っていきます。
それは、山内家の本山派優先という宗教政策があったようです。享保十四年(1729)の「土州高岡郡修験道名寄帳」には、次のように記されています。
「御国守松平土佐守豊敷公、播州伽耶院大僧正家之寄同行二て、他之先達江附属之修験壱人も無御座腕」
意訳変換しておくと
「土佐藩では山内豊敷公が、播州(兵庫県)伽耶院大僧正家に帰依しているので、他派の先達(修験者)はひとりもおりません」

と高岡郡等覚院の返答です。等覚院は郡下の院数四三、住一七人、合計60人の修験を支配していたようですが全員が本山派に属していたことが分かります。
文久四年(1864)の江戸役所への霞書札にも「土佐・伽耶院」あります。土佐修験は山内藩の下では、天台宗聖護院末播州伽耶院の下にありました。土佐修験が伽耶院配下の本山派となったのは元和年間、藩主忠義が伽耶院に帰依して、大峰山で柴燈護摩祈祷を行わせたことによるとされます。こうした中で長宗我部元親の保護を受けていた当山派の南光院は、山内藩になると衰退していったようです。
 南光院が大峰山中に宿を持って祈祷所としていたことは、先ほど見ました。ところがそれも荒廃したまま放置されるようになります。
 京醍醐寺三宝院御門跡役人中より再興仕侯様卜度々被申付候得とも 私儀至テ貧僧之儀自力難相叶 寛保元年奉願候処 右再興料として御金弐拾両拝領被為仰付 同三年二大峯登山仕再興仕候
意訳変換しておくと
 京都の醍醐寺三宝院御門跡役人より大峰山中の宿の再興について、度々申付けられていますが、私どもの貧僧には自力で再建することは適いません。寛保元年から奉願再興料として金20両を拝領できるように仰せつけていただければ、大峯登山の宿を再興致します

ここからは、醍醐寺からの度々の再建催促にも「貧僧」であるが故に応じられないこと。再建のために土佐藩からの援助を願い出るものです。南光院の零落ぶりがはっきりとうかがえます。これが寛保三(1743)年のことになります。

 凋落する当山派南光院に代って勢力を増してきたのが本山派龍光院です。
龍光院は、もと中村の一条公御家門で中納言住職で寺領百石寺地一石の祈願所でした。それが長宗我部氏になって寺領百石を取り上げられます。長宗我部家が滅亡し、山内家になると御仕置方支配となり、幕末の嘉永安政期には宿毛、中村、西土佐村、十和村に及ぶ修験41名を支配するようになります。この時に、南光院は18名です。
  中世末期から修験者は、武士勢力に隷属するようになるようです。
それは土佐でも例外ではなかったことが南光院の栄枯盛衰からうかがえます。土佐では、山内藩の宗教政策によって「当山派の衰微、本山派の隆盛」という逆転現象をうみだすことになります。
 同時にこの時期から大峰登山や土佐各霊山での修行もみられなくなったと研究者は考えているようです。大峰修行を忘れた修験は、在地で祈祷や札配布を行うようになります。しかし、近世末には、これら祈祷は人心を惑わすものとされ、明治元年高知藩は次のような禁止令をだしています。
 無レ筋祈祷・冗等不二相成儀ハ、兼々御触示被二御付置‘候処、近年予州石鉄山信仰ノ者有之、御境目ヲ潜り致一参詣甚シキュ至りテハ、同先達卜唱、異粧ノ姿ヲ以琳一徘徊動モスレハ無レ筋祈祷・兇等致シ、愚昧ノ者共ヲ為‘一相惑候 者有レ之趣相聞、不心得ノ至二俣。右等ノ儀ハ、地下役共精々取締可レ致、向後違背ノ者於い有レ之地下役共二至迄可為二越度事
意訳変換しておくと
祈祷などを行う事を禁止することは、以前から通達しているとおりである。ところが近年、伊予の石鎚山信仰の先達達(山伏)が、国境を越えて土佐に潜りこんでくるようになった。甚だしいのは先達と称して、異粧の姿で近隣を徘徊して祈祷を行い、愚昧者たちを一層惑わしている者がいると聞く。このような事は、地方役人の取り締まり不足でもある。今後、違反するものがあれば取り締まりに当たる役人の責任問題でもなる。
 このように石鎚信仰の修験者(山伏)たちの祈願祈祷を取締るように命じています。修験道は、神仏分離政策と共に「廃仏毀釈」される邪教として排除されていくことになります。南光院(宥厳)が院主として修験道化を進めた金毘羅大権現は、神道の神社として生き延びる道を選ぶことになります。南光院が金毘羅を離れてから約270年の年月が経ていました。

 最後に宥厳(南光院)が金毘羅大権現の正史には、どのように扱われているのかを見ておきましょう
 江戸時代後半になると長宗我部に支配され、土佐出身の修験道者に治められていたことは、金比羅大権現にとっては、公にはしたくないことだったようです。後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585年までとして、以後は隠居としています。しかし、実際は1600年まで在職していたことが史料からは分かります。そして、江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られてしまいます。元親寄進の仁王門も「逆木門」伝承として、元親を貶める話として流布されるようになるのとおなじ扱いかも知れません。宥厳は宥雅と同じように、歴代院主の中には含まれていません。
「宿毛市南光院」の画像検索結果
四国霊場延光寺 奥の院の現在の南光院

以上をまとめておくと
①長宗我部元親に呼ばれて金比羅の松尾寺住職となったのが土佐出身の南光院であった。
②彼は讃岐にやってくる前は、「四国の総先達」のトップとも云える存在であった。
③南光院は金比羅では宥厳と改名し、松尾寺の修験化と「四国鎮守の寺」化を進めた。
④長宗我部元親は、晩年の宥厳を土佐に呼び戻し、延光寺を与えた。
⑤延光寺は、長宗我部支配下では保護を受けて多くの寺領と配下の修験者を抱える「山伏寺」であった。
⑥しかし、新たに藩主となった山内家は聖護院との関係を重視し、本山派を保護した
⑦その結果、延光寺(南光院)は衰退していくことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました
高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収
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長宗我部元親像
讃岐を征服した長宗我部元親は、支配者としてどのような統治政策をとったのでしょうか。
江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の記録は「天正の長宗我部元親の兵火により焼かれる」という記録で埋め尽くされています。それは、織田信長の「比叡山焼討ち」に対する「罵詈雑言」にも似ています。歴史を書く側の社寺勢力を、敵に回した結果なのかもしれません。「破壊者」のみの側面が強調されているようです。
元親の讃岐支配は、数年という短いものでした。
しかし、元親は新たな讃岐の支配者たらんとしての新たな統治策を打ち出していたことが明らかになっています。新しい時代を開いていくためには「スクラップ & ビルド」で、破壊が必要になる場合もあります。しかし、破壊だけでは新しい時代は生まれません。新たな創造が必要になります。それを織田信長は行ったということが、戦後は認められるようになり「破壊者」から「英雄」へと見方が変わっていきました。元親の征服者としての「新たな創造」とは、なんだったのでしょうか?
金毘羅山への元親の宗教政策を、そんな視点から見ていくことにします。
 阿波三好支配下に置かれていた讃岐武士団は「小群雄割拠」状態で、「反土佐統一抵抗戦線」を組織することは出来ず「各個撃破」で攻略されていきます。
天正七年(1579)四月には、西讃守護代で天霧城主・香川信景は、戦わずして元親と和議を結びます。
 信景は、元親の次男の五郎次郎親和を娘の婿に迎えて、天霧城(多度津町)を譲り、形式的には隠居します。こうして、三豊・丸亀平野を睨む天霧城を戦わずして元親は手に入れます。そして「長宗我部=香川」同盟を形成します。これは、後の讃岐攻略を進める上で大きな役割を果たすことになります。讃岐の武将達は、最初は形だけの抵抗を見せ籠城をする者もいますが、多くの者は香川氏の斡旋を受けいれて元親の軍門に降ります。

土佐軍が丸亀平野に侵攻してきた時に、元親はどこに陣を敷いたのでしょうか?
まず考えられるのは、善通寺です。善通寺の近くには同盟関係を結んだ香川信景の居館や天霧山城が、近くにあります。天霧城攻防戦の時にも、阿波三好氏の本陣は善通寺が置かれました。しかし、善通寺は三好軍退陣の際に燃え落ちたとされます。その後は、江戸時代になるまで再建されずに放置されたままです。大軍を置くには不便なような気がします。
いくつかの歴史書には、琴平山の松尾寺に本陣を置いたと記されています。
それを裏付けるのが天正7年(1579)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を琴平山の松尾寺に奉納していることです。当時、松尾寺の建物群は無傷で残りました。長尾氏出身の宥雅によって建立されたばかりの観音堂も、金比羅堂も無傷で残っていました。
それでは、宥雅は、どうなったのでしょうか。
彼の本家である長尾氏は、一戦を交えた後に元親に下ったようです。しかし、宥雅はそれよりも早く逃げ出しています。後に生駒藩主となる生駒親正が聖護院内桂芳院にあてた文書は次のように記します。

洞雲(宥雅の別名)儀、太閤之御時大谷刑部少輔等へ走入(亡命)

ここからは宥雅が秀吉重臣の大谷刑部少輔を頼って、泉州堺へ逃げ出したことが分かります。院主である宥雅がいなくなった無住の松尾寺に、長宗我部元親は入ったのではないでしょうか。

土佐の『南路志』の寺山南光院の項には、次のように記されています。


「元祖 大隅南光院、讃州金毘羅に罷在(まかりあり)候処、元親公の御招きに従り、御国(土佐)へ参り、寺山一宇拝領

意訳変換しておくと

元祖の大隅南光院は、讃州の金毘羅に滞在中に、元親公の招きを受けて、御国(土佐)へ参り、寺山一宇を拝領した

ここからは、南光院(宥厳)が元親に招聘されて、金毘羅(松尾寺)の院主を任されたことが分かります。つまり、元親の山伏ブレーンの宥厳(南光院)が松尾寺の院主の座についたのです。これが「元親による松尾寺管理体制」の始まりになります。こうして松尾寺では、元親の手によって伽藍整備が次のように進められます。
天正十一年(1583) 松尾寺境内の三十番神社を修造。
  棟札には、「大檀那元親」・「大願主宥秀」
天正十二年(1584)6月 元親による讃岐平定
天正十二年(1584)10月9日 元親の松尾寺仁王堂の建立寄進
先ほど見たように4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼の意味が仁王堂寄進には込められていたのでしょう。その棟札を見ておきましょう。

二天門棟札 長宗我部元親

金刀比羅宮(松尾寺)仁王堂(二天門)棟札 (長宗我部元親奉納)

中央に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
右に 大檀那大梵天王長曽我部元親公、
左に 大願主帝釈天王権大法印宗仁

その下には元親の3人の息子達の名前が並びます。そこには天霧城の香川氏を継いだ次男「五郎次郎」の名前も見えます。さらに下には、大工の名「大工仲原朝臣金家」「小工藤原朝臣金国」が見えます。
「天正十二甲申年十月九日」という日付も気になります。
10月9日というのは、現在でも金刀比羅宮の大祭日です。金毘羅大祭は、もともとは三十番社に伝わるお奉りでした。それを、金比羅堂の大祭に取り込んだことは、以前にお話ししました。その大祭日を選んで、奉納されています。
棟札の裏側(左)も見ておきましょう。

二天門棟札 長宗我部元親

裏側には「供僧」として榎井坊など6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、天狗信仰を持っていた修験者たちの坊や寺だったと研究者は考えています。しかし、よく見ると江戸時代に金光院に仕えることになる院とは違います。長宗我部時代と江戸時代では、一山の構成メンバーが替わっているのです。ここに記されているのは長宗我部元親によってしめいされた「土佐占領下のメンバー」だと私は考えています。
 さらに「鍛治大工図  多度津伝左衛門」・「瓦大工宇多津三郎左衛門」と多度津や宇多津の鍛治大工と瓦大工の名が記されています。
多度津は、長宗我部元親と同盟関係になった香川氏の拠点です。香川氏配下の職人が数多く参加しています。同時に、この時期の伽藍整備が香川氏の手によって進められたことがうかがえます。二天門が香川氏から長宗我部元親への「お祝い」であったと私は考えています。
なお一番下右に「当寺西林坊」とあります。金光院という名前はでてきません。
当時の松尾寺の中心院房は
西林坊であったことが分かります。ちなみに、西林坊は次の宥盛の時代に追放されたとされる院房です。
ここでも土佐軍の引き上げ後に、松尾寺をとりまく勢力が大きく変わったことがうかがえます。土佐派の粛正追放が宥盛によって行われた可能性があります。そして、ここに出てくる修験者や子房は追放され、宥盛肝いりの天狗信仰の修験者たちが取り巻きを形成すると私は考えています。
裏側左には、次のように記します。(意訳)

「象頭山には瓦にする土はないのに、宥厳の加護によってあらわれた。」

土佐出身の宥厳をたたえる表現で、「霊験のある山伏の指導者」としてカリスマ化しようとする意図がうかがえます。同時に、二天門の瓦は周辺の土が用いられたというのですから、近辺に瓦窯が作られたことが分かります。
 研究者が注目するのは、元親の寄進した「天額仕立ての矢」「松尾寺境内の三十番神社」「松尾寺境内の仁王堂」の寄進先が金毘羅堂ではなく松尾寺であることです。ここには「金毘羅」も金光院も登場しません。これをどう考えればいいのでしょうか?
 宥雅が松尾寺の観音堂に登る石段の北脇に、金毘羅堂を建てた元亀四年(1573)のことです。つまり、この時点では金比羅神はデビューから10年しか経っていないのです。知名度はまだまだない「新人」だったのです。この時点では松尾山の宗教施設の中心は松尾寺であったようです。元親の寄進先は、中心施設の松尾寺に向けられたとしておきます。

多宝塔
元禄年間には二天門は、薬師堂の前にあった

さて、仁天門の棟札をもう一度見てみましょう
二天門棟札 長宗我部元親
二天門棟札(讃岐国名勝図会)
棟札の表の檀那と願主に、研究者は注目します。
檀那は「大梵天王 長曽我部元親公」
願主は「帝釈天王 権大法印宗信」
「大梵天王」「帝釈天王」とは何者なのでしょうか?
古代インド神話では、次の三神一体です。
①創造を司る神ブラフマー 梵天
②維持を司る神がヴィシユヌ
③破壊を司るシヴァ神
ブラフマーは、宇宙の創造を司る「世界の主」であり、万有の根源を神格化した神です。これが仏教にとり入れられて梵天となり、釈尊の守護者とされるようになります。そして、梵天は帝釈天と対となって、釈尊のそばに侍するものとされます。梵天の住み家は、須弥山の上の天上で、人間界を支配する神として敬われ、諸天の中で、最高の地位にあるとされたます。
 一方、雷神インドラは帝釈天となり、梵天とともに釈尊のそばに仕えます。帝釈天も住み家は、須弥山上で、その帝釈宮に住みます。日本に伝わった帝釈天は、自然現象を左右する神であるとされ、雨を降らす神だとか太陽神だと考えられるようになります。帝釈天の配下で、須弥山中腹の四門を守るのが四天王で、東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天が配されます。ちなみに北を護る多聞天=毘沙門天であり、多聞天が独尊で祀られる時、毘沙門天といわれるようになります。
 世界の主である梵天にあやかって「大梵天王」と記したのは、元親の宗教的ブレーンたちでしょう。

そして、その中心人物と目される宗信は「大願主帝釈天王権大法印宗信」と自分を帝釈天王と称するのです。元親を世界の主の大梵天王と称させたのは、この人物のようです。宗信は、このような表現で元親に「天下への野心」を焚きつけたのかもしれません。私が元親の小説や映画を作るならば、松尾寺仁王門建立シーンでの元親と宗信のやりとりは是非入れたいところです。 同時に、松尾寺は讃岐における宗教支配の拠点センターとしての役割をになうことが求められるようになります。

土佐出身の山伏指導者による松尾寺の管理・経営
先ほども述べたように元親の軍には、次のように多数の山伏が従っていたことが史料から分かります。
①三十番神社の棟札に名の見える宥秀
②仁王堂の棟札に名の見える宗信・宥厳
③帝釈天王を称する宗仁は、山伏たちを束ねる頭領
 ①の宥秀は幡多郡横瀬村の山本紀伊守の子で、九歳の時、足摺山で出家して僧侶となります。足摺山は補陀落渡海の地で土佐修験道のひとつの拠点です。
 ②の宥厳も大隅南光院と名乗る山伏でした。元親に従軍して松尾寺を任され、名前も宥厳とあらため松尾寺の住職となったことは、先ほど述べたとおりです。
「山伏」というと「流れ者」というイメージが今では広がっています。しかし、当時の山伏(修験者)は「金比羅堂」を創設した宥雅のように高野山で修行と修学を重ねた学僧もいました。中央の学問所で学んだ知識と人的ネットワークを持った僧侶は、祐筆(秘書集団)としてだけでなく戦国大名の情報収集や外交工作には欠かせないものでした。そこから毛利藩の僧侶から戦国大名にまで成り上がる恵瓊のような人物も現れてくるのでしょう。

 長宗我部元親は、僧侶の中でも修験道の山伏を重用したようです。彼らは、四国辺路など修行のために四国中の行場を自由に往来していました。これが敵国に攻め入る際には、情報収集活動や道案内を行うには適任でした。また戦功の記録係りや戦死者の弔い係りの役割も果たします。
 そして、松尾寺は元親に従う山伏達の集結する場となります。
これが、生まれたばかりの金比羅神の「成長」におおきな影響を与えたと私は考えています。
 ちなみに、金毘羅大権現と呼ばれた江戸時代は、阿波三好の箸蔵寺は「金毘羅さんの奥宮」と呼ばれ、非常に強い関係がありました。ここは阿波修験道の中心地であり、山伏がおおく住む拠点でもありました。元親の讃岐・阿波攻略の際に、彼らの果たした役割を考えて見るのも面白い所です。
天正十三年(1582)には、伊予の河野通直を降し、四国統一を成し遂げます。
 このような中で長宗我部元親は、金比羅を四国の宗教センターとの機能をもたせようとします。それを実現するために動いたのが、宥厳を中心とする土佐出身の修験者たちでした。権力者の意向を組んだ宗教センター作りが進められます。宥厳と供に、これを進めたのが宥厳の兄弟弟子である宥盛です。宥盛については、後に話しますので詳しくは述べませんが、この時の体験が讃岐藩主としてやってきた生駒氏との対応に活かされることになります。彼らは保護と寄進を訴えるだけでなく、藩に必要な宗教政策を提言するだけの知識と気力が長宗我部元親とのやりとりの中で養われていたのだと思います。それが生駒氏や松平氏の金毘羅大権現への保護と寄進につながるのでしょう。

参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号

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