1560年代に三好氏は、天霧城の守護代香川氏を讃岐から追放します。これ以後、香川氏の発給する文書が途絶え、変わって三好氏の重臣・篠原長房・長重父子の発給した禁制が各寺に残されていることがそれを裏付けます。軍事征服によって讃岐の土地支配権は阿波三好家のものとなりました。それは阿波三好家や篠原氏に従って戦った阿波の国人たちが、讃岐に所領を得ることになります。篠原氏の禁制を除くと、阿波国人が讃岐で知行地を得たことを直接に示す史料はないようです。しかし、その一端を窺うことができる史料はあります。それを今回は見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配 四国中世史研究17号(2023年)」です。
【史料1】三好義堅(実休)書下「由佐家文書」
【史料1】三好義堅(実休)書下「由佐家文書」
就今度忠節、安原之内経内原一職・同所之内西谷分并讃州之内市原知行分申付候、但市原分之内請米廿石之儀ハ相退候也、右所々申付上者、弥奉公肝要候、尚東村備後守(政定)□□候、謹言、八月十九日 (三好)義堅(花押)油座(由佐)平右衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の忠節について、安原内経内原の一職と同所の内の西谷分と、讃州の市原氏の知行分を併せて論功行賞として与える。但し市原氏の知行分の請米20石については、治めること。この上は、奉公が肝要である、東村備後守(政定)□□候、謹言、八月十九日 (三好)義堅(花押)油座(由佐)平右衛門尉殿
【史料2】三好長治書状「志岐家旧蔵文書」篠原上野介・高畠越後知行棟別儀、被相懸候由候、此方給人方之儀、先々無異儀候間、如有来可被得其意事肝要候、恐々謹言、十月十七日 (三好)彦次郎(長治)花押安筑進之候(安富筑後守)
意訳変換しておくと
篠原上野介・高畠越後の知行への棟別料の課税を認める。この給付について、先々に異儀がないように、その意事を遵守することが肝要である。恐々謹言、(三好)彦次郎(長治)花押
十月十七日安筑進之候(安富筑後守)
この史料は、三好長治(実休の長男)が守護代の安富筑後守に対し、阿波国人衆の篠原上野介・高畠越後の知行分への課役を認めたものです。これらの知行分は、安富氏の勢力圏で東讃にあったはずです。つまり、阿波国人である篠原氏や高畠氏の知行地が讃岐にあって、それを守護代の安富氏に分配していること分かります。
ちなみに、三好長治(みよし ながはる)は、阿波を治めた三好実休の長男です。1562(永禄5年)に、父・実休が久米田の戦いで戦死したため、阿波本国の家督を相続します。しかし幼少のために、篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導で政治は行われます。
【史料3】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、三月三日 細川信元(花押)香川中務人輔(香川信景)殿
意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、三月三日 細川信元(花押)香川中務人輔(香川信景)殿
この史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が守護代の香川信景に反三好行動を求めたものです。味方につくなら香川氏に「大西跡職」を与えると餌をちらつかせています。大西氏は西阿波の国人です。その知行を西讃の守護代家の香川氏に与えるというものです。深読みすると、三好方への与力の恩賞として、大西跡職が讃岐にいる大西氏に与えられていたことになります。
以上から篠原氏、高品氏、市原氏、大西氏といった三好氏に近い阿波国人たちが、讃岐に所領を得ていたことがうかがえます。三好氏による讃岐侵攻に従い功績を挙げたため、付与されたと研究者は考えています。
一方で、天正年間に入ると阿波三好家は、三好氏に与力するようになった讃岐国人に知行地を与えています。
阿波三好家は河内にも進出しますが、河内で活動する三好家臣に讃岐国人はいないようです。また、阿波でも讃岐国人が権益を持っていたことも確認できないないようです。ここからは阿波三好家は讃岐国人に対しては、讃岐国内のみで知行給付を行っていたことがうかがえます。
阿波三好家は河内にも進出しますが、河内で活動する三好家臣に讃岐国人はいないようです。また、阿波でも讃岐国人が権益を持っていたことも確認できないないようです。ここからは阿波三好家は讃岐国人に対しては、讃岐国内のみで知行給付を行っていたことがうかがえます。
讃岐が阿波・三好家の統治下に入ると、それにつれて讃岐国人の軍事的な編成も進みます。
十河一存は、養子として讃岐国人の十河氏を継承します。彼は長慶・実休の弟で、三好本宗家・阿波三好家のどちらにも属しきらない独自な存在だったようです。しかし、一存が1561(永禄四)年に亡くなり、その子である義継が長慶の養嗣子になると、立ち位置が変わるようになります。十河氏は三好実休の子である義堅が継承し、十河氏は阿波三好家の一門となります。これは、別の見方をすると阿波三好家が讃岐の支配権を掌握したことになります。
十河一存は、養子として讃岐国人の十河氏を継承します。彼は長慶・実休の弟で、三好本宗家・阿波三好家のどちらにも属しきらない独自な存在だったようです。しかし、一存が1561(永禄四)年に亡くなり、その子である義継が長慶の養嗣子になると、立ち位置が変わるようになります。十河氏は三好実休の子である義堅が継承し、十河氏は阿波三好家の一門となります。これは、別の見方をすると阿波三好家が讃岐の支配権を掌握したことになります。
【史料4」「阿波物語」第二】は、伊沢氏が三好長治から離反した理由を説明したもので次のように記します。
伊沢殿意恨と申すは、長春様の臣下なる篠原自遁の子息は篠原玄蕃なり、此弐人は車の画輪の如くの人なり、然所に自遁ハ長春様のまゝ父に御成候故に、伊沢越前をはせのけて、玄蕃壱人の国さはきに罷成、有かいもなき体に罷成り候、折節讃岐の国に滝野宮戦後と申す侍あり、伊沢越前のためにはおちなり、豊後殿公事辺出来候を、理を非に被成候て、当坐に腹を切らせんと申し候を、越前か異見仕候てのへ置き候、この者公事の段は玄蕃かわさなる故なれ共、長春様少も御聞分なき故に、ふかく意恨をさしはさみ敵となり候なり、
意訳変換しておくと
伊沢殿の意恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)である。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。
ここに出てくる「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」については、1458(長禄2)年に讃岐国萱原の代官職を預かっている滝宮豊後守実長が「善通寺文書の香川53~54P」に出てきます。「滝野宮豊後」は実長の後裔で、滝宮城の主人と推測できます。
ここには次のようなことが記されています。
①阿波三好氏を伊沢氏と篠原氏が両輪のように支えていたが、次第に篠権力を権力を独占するようになったこと
②伊沢氏は讃岐の滝宮氏(讃岐藤原氏一門)と姻戚関係があったこと。
③次第に、伊沢氏と篠原氏の対立が顕著化したこと
両者の動きを年表化して、確認しておきます。
1573(元亀四)年 三好長治が篠原長房を討とうとした際には阿波南部の木屋平氏からの戦功が伊沢右近大輔と篠原長秀を通じて届いており、伊沢氏と篠原長秀が組み合わされていることが確認できる。
1575(天正3)年 備中の三村元親が三好氏に援軍を要請した際には、讃岐の由佐氏を通じて伊沢氏に連絡が寄せられている。伊沢越前守は右近大輔と同一人物かその後継者と見なせるので、篠原長秀とともに長治を支えている。ここからは伊沢氏は、滝宮氏などの讃岐国人と縁戚関係を持ち、これを擁護する役割があったことが裏付けられます。
この中で研究者が注目するのは讃岐国人の相論を、三好長治が裁いていることです。
その内容は分かりませんが、結果として讃岐の滝宮豊後守は切腹を命じられ、その猶予を願いでたのが阿波の伊沢氏です。こうして見ると、裁判権は全て阿波側が持っていて、讃岐側にはなかったことになります。また、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったされます。安富筑後守は天正年間に備前の浦上宗景と阿波三好家の交渉に関与していて、由佐氏とともに阿波三好家の対中国地方交渉を担う存在でした。そうすると伊沢氏は、中讃の滝宮氏・東讃の安富氏という讃岐の有力国人と姻成関係が結ばれていたことになります。伊沢氏は、讃岐国人と人的つながりを強め、その統治や外交を支えていたと研究者は推測します。
こうしてみると阿波三好家は、讃岐の土地支配権・裁許権を握り、国人らを配下に編成し軍事動員・外交を行えるようになっていたことがうかがえます。讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっています。そして、元亀四年に、西讃岐侵略を主導した篠原長房が粛正されると、その後は阿波三好家による直接的な讃岐支配が進展します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配 四国中世史研究17号(2023年)」
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