瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の戦国時代 > 長宗我部元親


1 金毘羅 賢木門狛犬1
元親が寄進した賢木門(逆木門) 長宗我部元親の一夜門とされる

讃岐のおける長宗我部元親の評判はよくありません。江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の由来は「長宗我部元親の兵火により焼かれる」「そのため詳しい由来は不明」という記録で埋め尽くされています。今回はどうしてそうなったのかを探ってみたいと思います。テキストは「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」

2-20 金毘羅金堂・本社 金毘羅参詣名所図会1
金毘羅大権現 (金毘羅参詣名所図会 19世紀半ば)
以前に元親が松尾寺に仁王(二天)堂(現賢木門)を寄進したことをお話ししました。
その後、万治三年(1660)には、京仏師田中家の弘教宗範の彫った持国・多門の二天が安置されると、二天門と呼ばれるようになります。この門の変遷を押さえておきます。
 松尾寺仁王堂 → 二天門 → 逆木門 → 賢木門

この二天門について大坂の出版者である暁鐘成が刊行した金毘羅参詣名所図会には、次のように記します。

2-18 二天門
金毘羅参詣名所図会(1847年) 金毘羅大権現の二天門の記述
 二天門  多宝塔の右方にあり、持国天、多門天を安置する。天正年間に、長曽我部元親が建立したことが棟木に記されているという。
長曽我部元親の姓は、秦氏で信濃守国親の子である。そのは百済国からの渡来人で中臣鎌足の大臣に仕え、信州で采地を賜りて、姓を秦とした。応永の頃に、十七代秦元勝が土佐の国江村郷の領主江村備後守を養子にして長岡郡の曽我部に城を築きて入城した。その在名から氏を曽我部と改めたという。ところが香美郡にも曽我部という地名があって、そこの領主も曽我部の何某と名乗っていたので、郡名の頭字を添へて長曽我部、香曽我部と号するようになった。元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。後に秀吉に降参して土佐一州を賜わった。数度の軍功によって、天正十六年任官して四品土佐侍従秦元親と称した
ここには長宗我部元親のことが「元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名元親は性質剛毅、勇力比倫で、武名をとどろかせ、ついに土佐をまとめ上げ、南海を飲み込んだ。」と評価されています。

ところがそれから数年後に、讃岐出身者による『讃岐国名勝図会』は、二天門の建設経緯を次のように記すようになります。

長宗我部元親と二天門 讃岐国名勝図会
長宗我部元親と二天門(讃岐国名勝図会 1854年)
上を書き起こしておくと
「(長宗我部元親の)兵威大いに振ひて当国へ乱入し、西郡の諸城を陥んと当山を本陣となし、軍兵山中に充満して威勢凛々として屯せり。その鋒鋭当たりがたく、あるいは和平して縁者となり、あるいは降をこいて麾下に属する者少なからず。
 これによりて勇猛増長し、神社仏閣を事ともせず、この二天門は山に登る要路なれば、軍人往来のさわりなれどとて、暴風たちまちに起こり、土砂を吹き上げ、折節飛びちる木の葉数千の蜂となりて元親が陣営に群りかかりければ、士卒ども震ひ戦き、その騒動いはんかたなし。
 元親は聡明の大将なれば神罰なる事を頓察し、馬より下りて再拝稽首して、兵卒の乱妨なれば即時に堂宇経営仕らんと心中に祈願せしかば、ほどなく風は静まりけれども、二天門は焼けたりけり。時に天正十二年十月九日の事なり。
 ここにおいて数百人の工匠を呼び集め、その夜再興せり。然るに夜中事なれば、誤りて材を逆に用ひて造立なしける。ゆえに世の人よびて、長宗我部逆木の門といへり。今の門すなはちこれなり」
意訳変換しておくと
「(長宗我部元親の)は兵力を整えて讃岐へ乱入し、讃岐西部の諸城を落城させるために金比羅を本陣とした。そのため軍兵が山中に充満して、威勢は周囲にとどろいた。そのため、ある者は和平を結び婚姻関係を結んで縁者となり、ある者は、軍門に降り従軍するものが数多く出てきた。
 こんな情勢に土佐軍は増長し、神社仏閣を蔑ろにして、金比羅の二天門は山に登る際の軍人往来の障害となると言い出す始末。 すると暴風がたちまちに起こり、土砂を吹き上げ、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親の陣営を襲った。兵卒たちの騒動は言葉にも表しがたいほどであった。
 元親は聡明な大将なので、これが神罰であることを察して、馬から下りて、神に頭を下げ礼拝して、兵卒の狼藉を謝罪し、即時に堂宇建設を心中に祈願した。すると、風は静まったが、二天門は焼けてしまった。これが天正十二年十月九日の事である。
 そこで数百人の工匠を呼び集め、その夜一晩で再興した。ところが夜中の事なので、用材の上下を逆に建てってしまった。そこで後世の人々は、これを長宗我部の「逆木の門」と呼んだ。これが今の二天門である。

これを要約しておくと
1 元親軍が金比羅を本陣となし「軍兵山中に充満」していたこと。
2 軍隊の往来の邪魔になるので、二天門(仁王門)を壊そうとしたこと。
3すると暴風が起き、飛びちる木の葉が数千の蜂となって元親陣営に襲いかかってきたこと
4元親はこれを神罰を理解して、兵士の非礼をわびて、謝罪として堂宇建立を誓った
5 元親は焼けた二天門を一晩で再興したが、夜中だったので柱を上下逆に建ててしまった。
6 そこで人々はこの門を長宗我部の「逆木の門(後に賢木門)と呼んだ。

土佐軍が進駐し、二天門を焼いたので長宗我部元親が一夜で再建したという話になっています。

金堂・多宝塔・旭社・二天門 讃岐国名勝図会
   金刀比羅宮 金堂と二天門(仁王堂)(讃岐国名勝図会)

しかし、この讃岐国名勝図会の話は、事実を伝えたものではありません。フェイクです。
二天門棟札 長宗我部元親
長宗我部元親の仁王堂棟札

仁王堂建立の根本史料である棟札の写しがあるので、みておきましょう。表(右側)中央に、次のようにあります。

上棟奉建松尾寺仁王堂一宇 天正十二(1584)年十月九日

そして大檀那として長宗我部元親に続いて、3人の息子達の名前があります。また、大工・小工・瓦大工・鍛治大工などを多度津・宇多津から集めて、用意周到に仁王門を建立しています。長宗我部元親は、4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼のために建立されたのが仁王堂なのです。ここからは、「一夜の内に建てた」というのは「虚言」であることが分かります。す。また、元親が建立寄進するまでは仁王門はありません。ないもの焼くことはできません。元親が火をかけさせたというのは、全くの妾説です。元親は讃岐統一の成就、天下統一の野望を願って、松尾寺の仁王堂を建立寄進したのです。
  ここで私が考えたいのは、次の2点です。
①近世後半の讃岐には、仁王堂建設に関する正しい情報がどうして伝わらなかったのか? 
②事実無根の「逆(賢)木門」伝説がなぜ生まれたのか?
②についてまず見ていきます。『讃岐国名勝図会』の中にも、もうひとつ長宗我部元親と金毘羅の記事が載せられていいます。。

長宗我部元親 讃岐国名勝図会
長宗我部元親 神怪を見る図(讃岐国名勝図会)
ここでは内容は省略しますが、この物語は香川庸昌が書いた『家密枢鑑』(近世中期)が初見で、そこには次のように記されています
元親大麻象頭山に尻而陣取タリシガ 南方ヨリ夥しく礫打、アノ山何山ゾト問フ処 知ル兵ノ金毘羅神ナリト云フ。元親然レバ登山シテ為陣場、此山二陣ヲ移シタ其夜ヨリ元親狂乱七転八倒シテ、ヤレ敵が来ル 今陣破ルル卜乱騒シ、水モ萱モ皆軍勢二見ヘタリ。土佐守ノ重臣ドモ打寄り連署願文ニテ元親本快ヲ願フ。為立願四天王卜門ヲ可建各抽丹誠祈誓シケル無程シテ為快気難有尊神卜、土州勢モ始メテ驚怖セリ」
意訳変換しておくと
長宗我部元親は、大麻象頭山の麓に陣を敷いたところ、南方から多くの小石が飛んでくる。元親が「あの山は、なんという山か」と問うと、金毘羅神の山だと云う。そこで、元親は金毘羅山に登って陣場とした。
 この山に陣を移した夜に、元親は狂乱し七転八倒状態になって「敵が来ル、今に陣破ルル」と騒ぎだし、水さえも軍勢に見える始末であった。そこで、重臣たちが集まって、連署願文を書いて元親の本快を願った。その際に、回復した時には四天王門を建立することを誓願したところ、しばらくすると元親は快気回復した。そこで土佐勢たちも有難き神と驚き怖れた。
要約しておくと
① 元親が金毘羅神の神威で狂乱状態になったこと
② 元親回復を願って四天王門建立の願掛けを行ったこと

この物語の影響を受けて『讃岐国名勝図会』の物語は書かれます。
そこには金毘羅神に乱暴しようとした元親の軍勢が、神罰によって暴風・蜂の大群に襲われた物語となり、あわてて柱を逆さにして建てた逆木伝説が追加されたようです。ここには松尾寺創設過程で長宗我部元親が果たした大きな役割は、まったく無視されています。知らなかったのかもしれません。どちらにしても長宗我部元親を貶め、金毘羅大権現の神威を説くという手法がとられています。200年以上も立つと、このように「歴史」は伝承されていくこともあるようです。
 これは「信長=仏敵説」と同じように、「長宗我部元親焼き討説」が数多く讃岐で語られるようになった結果かもしれません。
江戸時代の僧侶の「元親=仏敵説」版の影響の現れとしておきます。同時に、讃岐の民衆たちのあいだに「土佐人による讃岐制圧」という事実が「郷土愛」を刺激し、反発心がうまれたのかもしれません。それらが「元親=仏敵説」と絡み合って生まれた物語かもしれません。どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、元親悪者説が多いことを押さえておきます。
以上をまとめておきます。
①1579年)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を松尾寺に奉納。
②1584年10月9日に、長宗我部元親は「四国平定成就返礼」のために仁王堂(現二天門)を奉納
③長宗我部元親は、松尾寺(金比羅)を四国の宗教センターとして整備・機能させようとしていた。
④それが後の生駒家や松平家との折衝でプラスに働き大きな保護を受けることにつながった。
⑤ところが讃岐の近世後期の書物は「元親=仏敵説」で埋められるようになり、正当な評価が与えられていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「 羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号」
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 前回は香西成資の南海治乱記と、阿波の三好記に書かれた記述内容を比較してみました。今回は、前回登場してきた岡城と由佐城について、もう少し詳しく見ていくことにします。テキストは「由佐城跡 香川県中世城館調査分布調査報告2003年206P 香川県教育委員会」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県城館跡詳細分布調査報告

南海治乱記の阿波平定に関する記述は、大部分は『三好記』の記述を写しています。しかし、(富)岡城については、次のような記述の違いもありました。
三好記では「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
ここに出てくる「(富)岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。『南海治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、それに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。  岡城について、別の史料で見ておきましょう。
岡城が文書に最初に登場するのは、観応2年(1351)の由佐家文書です。
「讃岐国香川郡由佐家文書」左兵衛尉某奉書写122'
安原鳥屋岡要害之事、京都御左右之間、不可有疎略候也、傷城中警固於無沙汰之輩者、載交名起請之詞、可有注進候也、乃執達如件、
観応二卯月十五日                          左兵衛尉 判
由佐弥次郎殿
   意訳変換しておくと
讃岐香川郡安原の鳥屋と岡要害について、京都騒乱中は、敵対勢力に奪われないように防備を固め死守すること。もし警固中に沙汰なく侵入しようとするものがいれば、氏名を糾して、京都に報告すること、乃執達如件、

 ここには「京都御左右」を理由として讃岐国「安原鳥屋岡要害」の警固を、京都の「左兵衛尉」が命じたものです。文書中の「安原鳥屋岡要害」は、反細川顕氏勢力の拠点の一つで、由佐氏にその守備・管理が命じられていたことが分かります。髙松平野における重要軍事施設だったことがうかがえます。「安原鳥屋岡要害」は、安原鳥屋の要害と岡の要害とは別々に、ふたつの要害があったと研究者は考えています。ここでの岡要害(岡城)は、「安原鳥屋」の「要害」とともに観応擾乱下での讃岐守護細川顕氏に対抗する勢力の拠点だったようで、その防備を由佐氏が命じられています。
 14世紀後半になると、讃岐守護細川頼之が宇多津を拠点にして、「岡屋形」は行業、岡蔵人、岡隼人正行康、岡有馬之允、さらには細川讃岐守成之、細川彦九郎義春がいたとされます。また、「城ノ正南二山有、其山上二無常院平等寺テフ香閣有」とも記され、現在の高松空港方面には無常院や平等寺などの寺院もあったようです。ここでは岡屋形が讃岐の守護所としての機能を持っていたことを押さえておきます。

「岡村」付近のことは「由佐長曽我部合戦記」に書かれています。
「由佐長曽我部合戦記」は、阿波の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落城させ阿波平定を成し遂げた長宗我部軍が讃岐へ侵攻した時の由佐氏の戦いの様子を後世になって記したものです。一次資料ではないので年代や人名、合戦経過などについては、そのまま信じることが出来ない部分はあるようです。研究者はその記述内容の中で、合戦が行われた場所に注目します。主な合戦は、由佐城をめぐって攻める長宗我部軍と防御する由佐軍の対決です。由佐城の攻防に先立って、由佐城の南方において合戦があったと次のように記します。

南ハ久武右近ヲ大将ニテ千人百余騎、天福寺ノ境内二込入テ陣ヲトル、衆徒大二騒テ、如何セント詮議半ナル中、若大衆七八十人、鑓、長刀ノ鞘ヲ迦シ、(中略)、土佐勢是ヲ聞テ、悪キ法師ノ腕達カナ、イテ物見セント、大将ノ許モナキニ、衆徒ヲ中ニヲツトリ籠テ、息ヲツカセス揉タリケル、(中略)、塔中六十二坊一宇モ残ラス焼失セリ、(中略)、僧俗共二煙二咽テ道路二厳倒シ、或ハ炎中二転臥テ焚死スル者数ヲ不知、(後略)、

意訳変換しておくと
由佐城の南は、久武右近を大将にして千人百余騎が、天福寺の境内に陣取る。衆徒は慌ててどうしようかと対応策を協議していると、若大衆の数十人が、鑓、長刀の鞘を抜いて、(中略)、土佐勢はこれを聞いて、悪法師の腕達を物見しようと、大将の許しも得ずに、衆徒が籠城する所に、息も尽かせないほどの波状攻撃を仕掛けた。(中略)、その結果、塔中六十二坊が残らずに焼失した。(中略)、僧侶や俗人も煙に巻かれて、道路に倒れ、あるいは炎に巻き込まれ転臥して焚死する者が数えきれないほど出た、(後略)、

由佐城の「南」、岡屋敷の西側に、「天福寺」があります。そこを拠点にしてに長宗我部軍側と、「天福寺」「衆徒」との間に合戦があったというのです。
岡舘跡・由佐城
由佐城と天福寺

天福寺は、舌状に北側の髙松平野に伸びた丘陵部の頂部にあり、平野部から山岳部に入っていく道筋を東に見下ろす戦略的な意味をもつ場所にあります。そのすぐ北に由佐城はあります。また「岡要害(岡舘)」にも近い位置です。天正10年秋に長宗我部内記亮親康が兄の元親から占領を命じられた「岡城」は、この「岡要害」のことだったと研究者は考えていることは以前にお話ししました。
香川県中世城館跡調査報告書(209P)には「3630-06岡館跡(岡屋形跡)」に、次のように記されています。(要約)
この高台は従来は行業城跡とも考えられていました。しかし、測量調査の結果から岡氏の居館(行業城)とするには大きすぎます。守護所とするにぴったりの規模です。「キタダイ」「ヒガシキタダイ」の小地名や現地踏査結果からこの高台を、今では岡館跡と専門家は判断しています。そうすると従来の「宇多津=讃岐守護所」説の捉えなおしが必要になってきます。

由佐城跡に建つ歴史民俗郷土館(高松市香南町)

次に岡舘のすぐ北側にあった由佐城跡を見ていくことにします。
歴史民俗郷土館が建ている場所が「お城」と呼ばれる由佐城跡の一部になるようです。館内には土塁跡が一部保存されています。

由佐城土塁断面
由佐城跡土塁断面図
郷土館を建てる際の調査では、建物下の北部分で幅3m。深さ1、5mの東西向きの堀2本が並んだものや、柱穴やごみ穴などが出てきています。堀は江戸時代初期に埋められていことが分かりました。調査報告書は、つぎのように「まとめ」ています。
由佐城報告書まとめ
由佐城調査報告書のまとめ
由佐城跡を含む付近には「中屋」というやや広範囲の地名があり、「西門」や堀の存在も伝えられています。郷土館の東には「中屋敷」の屋号もあり、いくつかの居館があった可能性もあります。由佐氏は、益戸氏が建武期に讃岐国香川郡において所領を給されたことによってはじまるとされます。
江戸時代になって由佐氏一族によって作成された系図(由佐家文書)には、次のように記されています。

「益戸下野守藤原顕助」は代々「常州益戸」に居していたが、元弘・建武期に足利尊氏に属して鎌倉幕府および新田氏との戦いに従い、京都で討死する。顕助の子・益戸弥次郎秀助は、父・顕助への賞として足利氏から讃岐国香川郡において所領を給される。秀助は、細川氏とともに讃岐国に入り、由佐に居して苗字を由佐と改めた。

由佐城についての基本的な史料は次の3つです。
①「由佐氏由緒臨本」の由佐弥二郎秀助の説明
②「由佐城之図」
③近世の由佐家文書

①「由佐氏由緒臨本」には、由佐城について次のように記されています。(要約)
由佐氏の居城は「沼之城」とも称した。城の「東ハ大川」、「西ハ深沼」であり、「大川」は「水常不絶川端二大柳有数本」、「深沼」は「今田地」となっている。外郭の四方廻りは「十六丁余」ある。その築地の内には「三丸」を構えている。本丸は少し高くなっていて「上城」と称し、東の川端には少し下って「下城」と称すところがある。西には「安倍晴明屋敷」と称される部分がある。そして、「外郭丼内城廻り惣堀」である。外郭には「南門」があり、そこには「冠木門」があった。また「南門」の前には「二之堀」と称される「大堀」があった。外郭には「西門」もあり、「乾」(北西)には「角櫓」があった。

由佐城2
由佐城跡周辺地図
「本城」の北には「小山」が築かれていた。「小山」は「矢籠」とも称されていた。「北川端筋F」は「蒻手日」と称され、「ゴトクロ」ともいう。「東丸」すなわち「下城」は「慶長比」に流出したとする。
  安原の「鳥屋之城」を「根城」としていた。
鳥屋域から東へ「三町」のところは「安原海道端」にあたり、そこには「木戸門」が構えられていた。鳥屋城の麓には「城ケ原」「籠屋」と称するところがある。「里城」から「本道」である「安原海道」を通ると遠くなるために、「岡奥谷」を越える「通路」がもうけられていた。

②「由佐城之図」は「由佐氏由緒臨本」などを後世に図化したものと研究者は考えています。由佐城絵図
由佐城絵図
居城の東端部分のこととして次のように記します。
「昔奥山繁茂水常不絶、城辺固メ仕、此東側柳ヲ植、固岸靡満水由処、近頃皆切払大水西へ切込、次第西流出云」(以下略)

意訳変換しておくと
①「昔は奥山のように木々が繁茂して、水害が絶えなかった。城辺を固めるために、東側に柳を植え、岸を固めて水由とした。近頃、柳を総て切払ったところ大水が西へ流れ込んで、西流が起きた。

②居城の西は「沼」と記し、「天正乱後為田地云(天正の乱後は、水田化されたと伝えられる」
③居城全体は「此総外郭十六町、亘四町、土居八町、総堀幅五間深サー間余、土居執モ竹林生茂」。
④外郭南辺には「株木南門」とあり、「此所迫手口門跡故南門卜云、則今邑之小名トス、此故二順道帳二如右記」
⑤外郭内の西北付近は「此辺元之浦卜云、当郷御検地竿始」とあり、検地測量がここからスタートしたので「元の浦」と呼ばれる。
⑥内の城の堀の北辺には小山を描き、「此の築山諺二櫓卜云、元禄コロ迄流レ残り少シアリ、真立三間、東西十余間」
⑦この小山の西側に五輪塔を描いて「由佐左京進墓」と記す。「由佐左京進」は天正期の由佐秀盛のことと研究者は考えています。
⑧ 砦城については、居城の西方に古川右岸に南から「天福寺」「追上原」「西砦城」「八幡」「コゴン堂」と記す。
⑨このうちの「西岩城」については次のように記します。
「御所原也、又一名天神岡卜云、観応中南朝岡た近、阿州大西、讃羽床、伴安原居陣窺中讃、由佐秀助対鳥屋城日夜合戦、羽床氏襲里城故此時構砦」
⑩居城の東の川を挟んで、東側には山並みを描いて「油山」「揚手回」「京見峰」などと記す。
⑪「油山」北端付近には「東砦城也、城丸卜云」と記す。

③文化14年(1817)11月に、由佐義澄は「騒動一件」への対応のために自分の持高の畝をしたためた絵図を指出しています。
由佐城跡畝高図
由佐義澄持高畝絵図(1817年)
絵図は「由佐邑穐破免願騒動一件」(由佐家文書)に収められています。これを見ると、次のようなことが書き込まれています。
①「屋敷」という記入があり
②屋敷の南・西・北に「ホリ」がある。堀に囲まれた方形区画が、本丸跡
③「屋敷」西側の「上々田五畝九歩」と「上畑六畝歩」および「元ウラ」という記載のある細長い区画は、堀跡?
④「屋敷」南の「七畝地」区画も堀跡?

④由佐城跡と冠尾(櫻)八幡宮は、近接していて密接な関係がうかがえます。冠尾(櫻)八幡宮の由緒を記した文書には、次のように記されています。
天正度長宗我部宮内少輔秦元親催大軍西讃悉切従由佐城責寄時、先祖代々墳墓有冠山ノ後墓守居住」
「此時八幡社地并二墓所士兵ノ冒ス事ヲ歎キ墓所西側南北数十間堀切土手等ヲ築ク此跡近年次第二開拓今少シ残ス」
意訳変換しておくと
   天正年間に長宗我部元親大軍が西讃をことごとく切り従えて由佐城に攻め寄せてきたときに、由佐氏の先祖代々の墳墓は、冠尾(櫻)八幡宮の後ろの山に葬られていた。」「この時に侵入してきた土佐軍の兵士の中には、八幡社や墓所を荒らした。これを歎いて墓所西側に南北数十間の堀切土手を築いた。この堀切跡は、近年に次第に開拓されて、今は痕跡を残すにすぎない。」

ここには南海通記の記述の影響からか、土佐軍は西讃制圧後に西から髙松平野に侵入し、由佐城にあらわれたと記します。しかし、由佐城に姿を見せたのは、阿波制圧後の長宗我部元親の本隊で、それを率いたのは元親の弟だったことは、前回に見てきた通りです。また長宗我部元親の天正期に、冠尾八幡宮の西側に長さ数十間の堀切と土手がもうけられたとします。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

南海治乱記と南海通記
南海治乱記と南海通記
南海治乱記が天正10・11年の長宗我部元親の讃岐侵攻記事を、どんな資料に基づいて書いたのかを見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年448P」です。
  
南海通記と長元物語比較
南海治乱記と長元物語の記述比較1
 『南海治乱記』のN1部分は、長宗我部元親による阿波平定後の各武将の配置を述べています。この部分は土佐の資料『長元物語』のT1部分を写したもののようです。内容・表現がほぼ一致します。しかし、詳しく見るとT1の7番目の項目「一、ニウ殿、東條殿、(後略)」は省略、『治乱記』の「一ノ宮南城ノ城ヘハ谷忠兵衛入城也」の箇所は『治乱記』編者が他の資料によって付け加えたことを研究者は指摘します。

天正10年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録
『治乱記』のN2部分は、『三好記』のM1部分を写しています。
ただ、『治乱記』N1の記述と重なるM1の「一ノ宮ノ城」の箇所は、省略しています。また、Mlの「大西白地ノ城」「富岡ノ城」「海部輌ノ城」の3箇所は、意図的に省いているようです。
 三好記Mlでは「海部輌ノ城ニハ、田中市之助政吉ヲ置ル」
 南海通記N1の「海部ノ城ハ香曽我部親泰根城也」
と配置された武将名が異なります。
三好記Mlでは「長曽加部内記亮親泰」は「富岡ノ城」に「被居」
南海治乱記N1は「牛岐ノ城ニハ香曽我部親泰入城(後略)」
と記します。前回、お話ししたように「富岡ノ城」とは、阿波にある城でなく讃岐国香川郡の「岡舘(岡城)」(香南町)のことでした。そして、岡城のすぐそばに由佐城があります。
岡舘跡・由佐城
岡舘跡と由佐城
『治乱記』著者の香西成資は、そのことに気づいて、「長曽加部内記亮親泰」が「(富)岡ノ城」に「被居」たことを省略したようです。それは、土佐勢力が岡城を占領支配していたとすれば、その目と鼻の先にある由佐氏は、この時期にはそれに従っていたことになります。それはまずいとかんがえたのでしょう。土佐軍に抵抗し、和議をむすんだと由佐氏の家書は記します。これに配慮したのかもしれません。

南海通記と長元物語比較3

『治乱記』N3部分は、『三好記』M2部分を写したものですが、かなり簡略化しています。
新開道善と一宮成助とを長宗我部元親が討ったことについて、土佐資料『元親記』は「然所に道前と一の宮城主は、其後心替仕に付腹を切せらる」と簡単に記しています。『治乱記』では阿波国寄りの『三好記』の記述を採っています。

南海治乱記と元親記比較
南海治乱記と元親記の比較

 『南海治乱記』の巻十二「土州自阿州発向讃州記」のN4部分は、土佐の『元親記』のS2部分を写したものと研究者は推測します。
S2部分の「そよ越」とあったところは、「曽江谷越(清水峠)」と改められています。「治乱記」N5部分は、『元親記』S1部分を写したものので、十河城の防備施設などに新しく説明を付け加えています。また従軍者名に土佐側資料になかった讃岐の「香西伊賀守」「羽床伊豆守」「長尾大隅守」「新名内膳」「香西加藤兵衛、其弟植松帯刀」の名前を加えています。さらに「大将ニハ長曽我部親政」とします。
『治乱記』のN6部分も、N4部分と同じく『元親記』のS2部分を写したものでしょう。「屋島」での元親の行動や「屋島」自体の説明などを付け加えています。

南海治乱記と元親記比較.4JPG
『治乱記』のN7部分は、『元親記』S3では元親は急ぎ「帰陣有し」と簡単に記します。
ところが南海治乱記では讃岐国内の「春日の海ノ中道」「香河郡」「西長尾城」を経て「大西ノ城二還ル也」とします。この箇所は、『治乱記』の著者による追加です。しかし、先に見てきたように天正十年の長宗我部元親本軍の讃岐香川郡侵攻ルートは、阿波の岩倉城(脇町) → 清水峠 → 十河城でした。帰路もこのルートをとったとするのが自然です。ここにもなんらかの作為があるような気配がします。
元親記
元親記
以上をまとめておきます。
①香西成資は南海治乱記を書くに当たって、先行する阿波や土佐の編纂歴史書を手元に置いて参考にしていた。
②長宗我部元親の阿波制圧や、その後の武将配置などは先行する資料に基本的に忠実である。
③しかし、岡城や由佐城・十河城に関する箇所になると、由佐氏や十河氏に対する配慮があり、加筆や意図的な省略が行われている。
④長宗我部元親の讃岐での行動については、多くの加筆が行われている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献

前回は天正10(1582)年の長宗我部元親本隊の阿波占領後の讃岐香川郡への侵攻ルートについて、つぎのようにまとめました。

①天正10年8月に阿波国の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落とした。
②論功行賞として三好氏の勢力下にあった重要地点に土佐側の城将を配した。
③その後、三好義堅(十河存保)が落ちのびた讃岐の十河城を攻める作戦に移った。
④元親は、弟の香宗我部親泰を美馬郡岩倉城(脇町)から、安原を経てを「岡城(岡舘・香南町岡)」に向かわせた。
⑤元親自身は岩倉城を落としてから讃岐山脈に入り「そよ越」を経て讃岐国の十河表に至った。
⑥弟の親泰は「岡城」を攻め落とし
⑦さらに「岡城」の下手にある由佐城を攻めて土佐側に従属させた
⑧由佐氏は土佐側の一員として三好氏側の山田郡三谷、坂本を攻めさせた。
今回は、⑦⑧に出てくる由佐氏について見ておくことにします。テキストは、「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」です。 
最初に由佐氏の由来について見ておきましょう。
由佐氏は南北朝時代の初め頃に、関東から来讃したと伝えられます。
そして、香川郡井原郷を勢力範囲とします。由佐氏の史料的初見は、貞和 4 年(1348)、由佐弥次郎秀助が讃岐守護細川顕氏から与えられた感状です。観応2 年(1351)10 月 2 日には、「一族幷井原荘内名主荘官等」を率いて「安原鳥屋之城」から所々の敵陣を追い払うよう命じられています。ここからは、由佐弥次郎は由佐氏一族の代表と見なされていたことが分かります。この「安原城中」での軍忠に対して、細川顕氏奉行人の生稲秀氏から兵糧料所として「井原荘内鮎滝領家職」が預けられています。この領家職は、以後の由佐氏の代官職確保や所領拡大の契機となります。
 由佐氏は、観応の擾乱後も永享 4 年(1432)に由佐四郎右衛門尉が摂津鷹取城で忠節を行い、応仁の乱では近衛室町合戦に由佐次郎右衛門尉が参加しています。細川京兆家の内衆には数えらいませんが、守護代の指揮下で活動し、讃岐以外でも合戦に参加できる実力を持った国人領主だったようです。
 由佐氏は、寛正元年(1460)には郷内の冠尾神社(元冠纓神社)の管理権を守護細川勝元から命じられています。
こうして神社を媒介として領民の掌握を図り、領域支配を強化していきます。

由佐家文書|高松市
由佐家文書
 由佐家文書は由佐家に残されている文書で、その中に阿波国の三好氏からのものが1点、土佐国の長宗我部元親からのものが2点あります。この3点の文書を見ていくことにします。

①阿波国三好義堅からの「三好義堅知行宛行状」
就今度忠節安原之内型内原(河内原)一職、同所之内西谷分并讃州之内市原知行分申附候、但市原分之内請米汁石之儀二相退候也、右所へ申附上者弥奉公肝要候、尚東村備後守□□候、謹言、
八月十九日                             義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の忠節の論功行賞として①安原の河内原と②同所の西谷分と、③讃州市原の知行を与える。、但し、市原分の内の請米汁石については相退候也、右所へ申附上者弥奉公肝要候、尚東村備後守□□候、謹言、

ここでは、三好義堅(十河存保)が由佐平右衛門に3ヶ所の知行地を与えています。それは①安原の河内原と②同所の西谷分と、③讃州内市原」の知行です。この表現の仕方に研究者は注目します。つまり、市原だけが讃岐内なのです。これは最初に出てくる「安原之内」は「讃州之内」ではないという認識があったことになります。15世紀までは、安原は讃岐国に属していました。ところが阿波細川家や三好家が讃岐東方に力を伸ばすにつれて、阿波勢力の讃岐進出の入口であった塩江から「安原」は、阿波国の一部であると捉えられるようになっていったと研究者は推測します。それがこの表記に現れているというのです。

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差出人の「義堅」は、十河存保のことです。
存保は三好之康(義賢)の二男で、三好家から讃岐国の十河家に入って「鬼十河」と後世に称された十河一存の養子になっていた人物です。
戦え!官兵衛くん。 番外編04 三好氏家系図
十河存保は、三好実休(義賢)の実子です。十河一存の養子に
後に阿波国の「太守」であった兄の長治が亡くなって、存保が阿波の勝瑞城に入ります。存保は、天正6年(1578)正月に勝瑞に入ますが、一宮成助らに攻められて天正8年(1580)正月から翌年にかけては、十河城へ逃げてきています。その後、天正9年から翌年の8月までは再び勝瑞城に居城しています。
 存保の父・之康は、「阿波国のやかた細川讃岐守持隆」を討って勝瑞城に居城し「義賢(よしかた)を称していました。「義賢」と「義堅」はともに「ヨシカタ」で音が通じます。十河一存は阿波国勝瑞城に入ってから「義堅」を名のったようです。そうだとすると、この文書は、天正6年から10年までの間のものになります。そして、この時期には、由佐氏は阿波の三好氏に従っていたことが分かります。また、十河氏と緊密な関係にあったこともうかがえます。
 文書の終わりの「東村備後守」は、この発給文書を持参して、文書の真意を伝えた人物のようです。
「東村備後守」は、『三好家成立之事』に次の2回登場します。
①中富川合戦で存保が討死になりそうになったときに、それを諫めて勝瑞へ引き取らせた「家臣」として
②『三好記』では同じときに「理ヲ尽シテ」諫めた「老功ノ兵」「家臣」として
天正11年(1583)3月に、「東村備後守政定」は「三木新左衛門尉通倫」と連署をなし、主人たる十河存保の命を施行しています。

この他に由佐家には、次のような長宗我部元親の感状が2通残されています。
由平□(籠?)三谷二構共□打破、敵数多被討取之由、近比之御機遣共候、尤書状を以可申候得共迎、使者可差越候間、先相心得可申候、弥々敵表之事差切被尽粉骨候之様二各相談肝要候、猶重而可申候、謹言
(天正十年)                   (長宗我部)元親判
十月十八日                 
小三郎殿
      「由佐長宗我部合戦記」(『香川叢書』)所収。
  意訳変換しておくと
先頃の三谷城(高松市三谷町)の攻城戦では、敵を数多く討取り、近来まれに見る活躍であった。よってその活躍ぶりの確認書状を遣わす。追って正式な使者を立てて恩賞を遣わすので心得るように。これからも合戦中には粉骨して務めることが肝要であると心得て、邁進すること。謹言

  感状とは、合戦の司令官が発給するものです。この場合は、長宗我部元親が直接に小三郎に発給しています。ここからは小三郎が、長宗我部元親の家臣として従っていたことが分かります。なおこの小三郎は、側近として元親近くに従い、長宗我部側と由佐氏を仲介し、由佐氏の軍役を保証する役を負う人物です。ここから小三郎が、もともとは由佐家出身で人質として長宗我部家に仕えた人物と研究者は推測します。
 この10月18日の感状からは、由佐氏が山田郡三谷城(高松市三谷町)攻めで勲功をあげていたこと、さらに土佐軍の軍事活動がわかります。つまり、この時点では由佐氏は、それまでの三好氏から長宗我部元親に鞍替えしていたことが分かります。長宗我部元親は、岡城(岡舘:香南町)攻撃のために弟を派遣したことは、前回にお話ししました。岡城と由佐城は目と鼻の先です。

岡舘跡・由佐城
岡城と由佐城
それまで使えてきた三好義堅(十河存保)が本城を落とされ、十河城に落ちのびてきています。十河城を囲むように土佐勢が西からと南から押し寄せてきます。由佐氏のとった行動は、その後の行動からうかがえます。
1ヶ月後に、由佐小三郎は、長宗我部元親から二枚目の感状を得ています。
長宗我部元親書状(折紙)
於坂本河原敵あまた討捕之、殊更貴辺分捕由、労武勇無是非候、近刻十河表可為出勢之条、猶以馳走肝要候、於趣者、同小三(小三郎)可申候、恐々謹言
    (長宗我部)元親(花押)
(天正十年)十一月十二日
油平(由佐)右 御宿所
  意訳変換しておくと
 この度の坂本河原での合戦では、敵をあまた討捕えた。その武勇ぶりはめざましいものであった。間近に迫った十河表(十河城)での攻城戦にも、引き続いて活躍することを期待する。恐々謹言

11月18日に、坂本川原(高松市十川東町坂本)で激戦があった際の軍功への感状です。戦いの後に引き上げた宿所に届けられています。この2つの感状からは高松市南部の十河城周辺で、戦闘が繰り返されていたことがうかがえます。

 先ほど見た「三好義堅知行宛行状」では、由佐氏は阿波の三好氏に従っていました。その由佐氏が、三好氏の勢力範囲である山田郡の三谷と坂本を攻めています。由佐氏の山田郡での「武勇」は長宗我部元親によって賞されています。この由佐氏の行動は元親からの命令によるもので、それを由佐氏が果たしたことに対する承認の感状と研究者は判断します。
 元親が「十河表」へ「出勢」したのは、天正10年8月の中富川合戦以後のことでした。
この時に元親は、弟の香宗我部親泰を「岡城」に配しています。「岡城」は、現在の高松空港の北側にあった岡舘跡です。そのすぐ近くに由佐城はありました。この時点で、由佐氏は土佐軍に下り、その配下に入ったようです。とすると、由佐氏に長宗我部元親から感状が出されたのは、ともに天正10年のことになります。由佐氏は、それまで仕えていた三好義堅が落ちのびた十河城の攻城戦にも、土佐軍に従って従軍したのでしょう。
 讃岐側の江戸時代になって書かれた南海通記などの軍記ものには、讃岐に侵攻してきた土佐軍に対して、讃岐の武士団が激しく抵抗した後に降ったと書かれることが多いようです。しかし、土佐側の資料に東讃の武将達が抵抗した痕跡は見えてきません。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」

長宗我部元親の東讃侵攻については、よく分からないことがおおいようです。それは後世の南海通記に頼りすぎてきたこれまでの歴史叙述のあり方にもあるようです。香川県史編纂の中で、南海通記に頼らない一次資料の掘り起こしが進められてきました。その一例を天正10・11年の長宗我部氏の讃岐香川郡侵攻に限定して見ていきたいと思います。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年442P」です。とりあげるのは、次の編纂物史料についてです。
長宗我部元親侵攻資料

まず阿波の『三好家成立之事』・『三好記』の記事です
『三好家成立之事』には、作成者や成立時期については何もかかれていません。一方、16世紀末の『三好別記』は、『三好家成立之事』の「別本」とされているようです。『三好家成立之事』の内容からは、作者が三好家と親密な関係にあったことがうかがえます。また、その叙述態度から一般に見せるために書かれたものではなく、提出を命じられて作成された文書と研究者は推測します。

三好記
三好記序
次の『三好記』は、阿波国の医師・福長玄清によるもので、「序」に寛文2年(1662)成立とあります。
玄清の祖父は、三好家に仕えていたようです。この記録は、版本になり一般に読まれるようになります。この2つの史料から長宗我部氏による三好氏討伐と、その後の城将配置などについて研究者は検討します。
①『三好家成立之事』の記述について
阿波の城
長宗我部元親の阿波侵攻
天正10(1510)年8月27日、長曽我部元親は、弟の親康を南方の大将とし、甥の親吉を上郡の大将として阿波国の中島表へ押し寄せた。翌日の28日、一宮長門守成助と桑野康明とを先陣に黒田原へ押し寄せさせ、中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落として、和談となります。
阿波の城

それでは、勝瑞城を落としたあとの軍勢配置は、どうなったのでしょうか?  軍勢配置については次のように記されています。
本津山城に東條関之兵衛、ただ、関之兵衛の弟・東條唯右衛門は人質として土佐へ送る。
胃山城に吉田孫左衛門親俊、
脇城に長曽我部新右衛門親吉。
大西の白地域に中内長助
岡城に長曽我部内記亮親康。
海部輌城に田中市之助政吉を。
元親は下八幡村夷山城に陣をおいて四国を押領(支配)した
9月16日、「富」の新開遠江守入道道善を討ち
11月7日、一宮長門守成助、同舎弟主計、星相六之進、新開式部少輔、同左近、桑野河内守、野田釆女、川南駿河守などの「頭ヲ上ル程ノ者ドモヲバ方便寄テ討果」した

『三好記』は「三好家成立之事』と、ほぼ同じ事が記されています。
中富川合戦、勝瑞城落城までの経過、そのあとの城将配置、それに平行しておこなわれた新開・一宮氏などの戦いなどは、両書ともにほとんど同じです。しかし、次のような相違点もあると研究者は指摘します。
①「一ノ宮ノ城」への城将配置は、『三好家成立之事』になくて『三好記』にだけあります。
②長宗我部親康が入った城は『三好家成立之事』は「岡城」で、『三好記』は「富岡城」と記します。
③新開遠江守の拠点について『三好家成立之事』は「富」とし、『三好記』は「富岡」とします。
これらのうち②③は単純な誤りかもしれませんが、逆に意図的な書写時の変改の可能性があると研究者は推測します。その検証のために、『三好家成立之事』と『三好記』の該当部分と参考となる『西国太平記』の該当部分を整理したものが次の表です(表2)。
長宗我部元親侵攻資料2

内容、表現ともによく似ており、この3つの資料は近い関係にあるようです。記録の成立時期は、それぞれ寛文期以前、寛支2年、寛文元年なので、『西国大平記』は『三好家成立之事』を親本としているようです。「一ノ宮ノ城」の記述は、『三好家成立之事』にだけありません。
次に、長宗我部親康に関係する城の名称と、討伐された新開遠江守入道道善の拠点名称を検討します。
このうち新開遠江守については、この3書よりも成立の早い『平島記』や『阿州将裔記』では次のように記されています。
「忠元義形妹聟也新開遠江守入道道善也、留岡二居城ス」
「忠之義賢が従弟也、号新開遠江守入道道善、阿波富岡に居城す」
ここからは新開道善が「富岡」に居城していたことは、当時の阿波においてはよく知られたことだったようです。そうだとすると、『三好家成立之事』の(B)の「富ノ」と(C)の「岡ノ」の表現はおかしいことになります。この表現は後に作為されたものと研究者は判断します。(A)と(B)とは連続する箇所で、(A)と(B)とで「富岡」の2字を分け合って1字づつ使っています。これらとは少し離れた箇所の(C)では、(B)と同じ新開道善にかかる記述であるのに、「富岡」の2字を分割して「岡ノ」と表現したようです。(B)と(C)の「新開」の表記をみると、(B)は正しく「新開」とですが、(C)では「新田」となっています。以上から、この違い誤植ではなく意図的な変改によるものと判断します。
『三好家成立之事』で意図的な変改(作為)された理由は何なのでしょうか?
西国太平記」延宝六年刊 ※第7巻のみ写本 10巻揃9冊|和本 古典籍 江戸時代 唐本和刻本 ic.sch.id
西国太平記
それを解く鍵は、『西国大平記』にあると研究者は指摘します。『西国太平記』は、新開道善にかかる拠点名称を正しく「富岡」としています。一方、「香宗我部親泰」にかかる城の名称は「岡ノ城」です。『西国太平記』は、中国地方のことを中心に叙述されています。そのため四国のことは編纂資料としたものを簡略化し、語句は忠実に写し取っているようです。そうだとすると『西国太平記』の「岡ノ城」の表現は、原資料の表現をそのまま記したものなのです。江戸時代の寛文期の阿波国では、「香宗我部親泰」が配された「岡ノ城」について、所在や配されたことの意味が分からなくなっていて、あえて誤記をおこなうか、変改をおこなうことで処理がなされたものと研究者は考えています。
 『西国大平記』が編纂資料として利用したのは、成立時期からして『三好家成立之事』のほうです。これにはもともとは、(A)は「岡ノ城」、(B)は「富岡ノ」と記されていたはずです。そうだとすれば「香宗我部親泰」が配された「岡ノ城」とは、どこのどのような城だったのでしょうか。「岡の城」は、阿波には出てきません。これがあるのは讃岐のようです。今度は土佐側の記録史料から「岡城」を追いかけてみましょう。
複製 注釈 元親記(土佐文学研究会) / 井上書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

土佐側資料の『元親記』・『長元物語』の記事
 
『元親記』は、土佐国長岡郡江村郷の高島正重によるもので、寛永8年(1631)の成立です。この書は、年代順に長宗我部元親の行動を記したもので、永禄3年(1560)の「本山入」にはじまり、文禄5年(1596)の「高麗赤国陣」までが記されています。このうち元親による阿波・讃岐・伊予国攻略経過の部分は次の通りです。
16 阿波入最初之事(天正3年)
17 阿州大西覚用降参之事(天正4年)
18 同覚用心替して人質捨し事
19 大西陣之事(天正5年)
20 阿州川北重清陣之事
21 北伊予三郡之侍共降参之事
22 嘉例之千句之事
23 久武兄内蔵助打死事
24 讃州藤目の城主降参之事(天正6年)
25 藤目の城を取返たる事
26 阿州岩倉合戦之事
27 讃州羽床陣之事
28 讃州香川殿降参之事(天正7年)
29 元親卿息達其外家中の侍の子共に芸能
30 阿州南郡今市鎗之事
31 阿州牛岐の城主新階道前降参之事     
32当国波川謀叛之事(天正8年)         
33 予州北の川陣之事                   
34 大津の城に御座有し一條殿を被流事   
35 信長卿典元親被申通事(天正lo年)    
36 三好合戦之事(天正lo年)            
37 阿州岩倉攻之事                     
38 岩倉の城落去以後直に讃州へ被打越事   (天正10年)             
39   仙石権兵衛と合戦之事(天正11年)   
40   淡州須本の城を取たる事            
41   太閤様三河御陣の跡にて大坂表へ可取掛と催せし事          
42  予州太閤様ゑ降参之事(天正13年)           
43  太閤様ゑ降参之事(天正13年)
阿波の城

この中で38「岩倉の城落去以後直に讃州へ被打越事」が、東讃侵攻に関係する部分です。ここには次のように記されています。

天正10年(1582)の阿波国中富川合戦につづいて元親らが讃岐国へ打越し、「十河の城をば、堀一重にはたけたて」、「東讃岐在々、牟連(牟礼)、高松、八九(八栗)里、矢嶋(屋島)の浦々不残発向した」

この中で研究者が注目するのは、次の記述です。
天正十年十月中旬より、岩倉よりそよ越と云山を越、十川(十河)表へ打出給ふ、則其日西讃岐、予州勢、阿波分の人数一つに成、三ケ国の人数に予州勢、六頭の勢を差加たれは、三万六千の人数彩し、則其日の暮に十川の城へ矢入有、
 
意訳変換しておくと
天正十年十月中旬に、岩倉から「そよ越」という峠を越えて、讃岐の十川(十河)城のある地域に打出した。そして西讃岐、予州勢、阿波分の人数を一つにまとめ、三ケ国の人数に予州勢、六頭の軍勢を加えたので、三万六千の人数になった。その勢いで、その日のうちに十河城へ矢を討ち入れた。

  勝瑞城落城の前日に美馬郡の岩倉城(脇町岩倉)も土佐勢の別動隊に攻め落とされています。その後「十河表へ打出給ふ」と尊敬表現なので、この移動は元親自身のものであることが分かります。同じルートで、元親以外の中富川合戦に勝利して阿波にいた土佐軍も讃岐へ打出たのでしょう。「そよ越と云山」は「曽江山」のことと研究者は考えています。岩倉城は阿讃山脈を越えるための重要な交通路である曾江谷越の阿波側の入口にありました。東を流れる曾江谷川をさかのぼれば、阿波・讃岐を結ぶ曾江谷越(清水峠)です。この峠からそのまま北へ向かえば讃岐国寒川郡へ、一方曽江山から西に折れて川沿に進めば讃岐国の安原山に至り高松平野に下って行きます。安原山と讃岐平野の接点付近には、南北朝期から「要害」として知られる「岡城」があります。これが先ほど出てきた「岡城」と研究者は考えています。

岡舘跡・由佐城
岡城(岡舘跡)周辺
岡城は香川県中世城館跡調査補刻書には「3630-06岡館跡(岡屋形跡)209P」として次のように記されています。場所は香南町岡です。

宅地化や道路。用水路の開発で旧状をうかがいにくくなっているが、屋敷地の範囲を推測すると、北については同集会所北東に東西に長い水田が直線に並ぶものを堀跡と考える。この水田の北に沿って現在も用水路が流れている。南は現在県道及び用水路が東西に走っている高低差数mの低い切り通しを、かつての堀切の痕跡を利用したものと考えた。聞き取りでも、県道を通す以前からここに切り通しの崖面があったと聞いている。高台の西は谷状地形で県道と用水路が南北に走っているあたりがその境になるため、ここを屋敷地の西辺と考える。東限も地形の傾斜により検討し、以上の結果から一辺250m程を屋敷地の範囲と考える。
この高台は行業城跡とも考えられていたが、岡氏の居館(行業城)の規模とするには大きすぎ、また守護所とするに足る規模とも言える。「キタダイ」「ヒガシキタダイ」の小地名及び上記の現地踏査結果から、この高台を岡館跡と判断した。
観応2年(1351)、「岡要害」としてその存在が知られる(由佐家文書)。岡要害は、「安原鳥屋」の「要害」とともに観応擾乱下において讃岐守護細川顕氏に対抗する勢力が拠っていたところである。一方、延文から嘉慶の頃(14世紀後半)には讃岐守護細川頼之が居し、「岡屋形」は同行業、岡蔵人、岡隼人正行康、岡有馬之允、さらには細川讃岐守成之、細川彦九郎義春があったとされる。また、「城ノ正南二山有、其山上二無常院平等寺テフ香閣有」ともする(細川岡城記、讃州細川記).
なお、阿波守護の細川讃州家のものが岡屋形にあって守護的役割を果たしていたということから、
岡屋形は守護所としての機能を有していたとも考えられている。
ついで、天正10年(1582)秋、阿波国勝瑞城を落とした土佐の長宗我部元親は自ら讃岐侵攻に向かうとともに、同弟・長宗我部親康を「岡城」に向かわせている。この時、「天福寺」が由佐城とともに攻略の対象となっている。天正10年10月頃までに、由佐城とともに岡城は長宗我部軍の支配下に入ったものと考えられる。
弟に岡城を攻略させて、元親は十河城に向かったようです。
長宗我部元親は大軍で一気に力押しをしません。兵力の温存を第1に考えていたようです。十河城攻めを一押しした後は、堀などを埋めて丸裸にして無理攻めはしません。「元親矢嶋(屋島)へ見物に渡給ひて、寺の院主に古の事とも語らせ聞給」とあるので、源平名勝めぐりをしたようです。そして、冬が来ると土佐に引き上げます。

次に 『長元物語』を見ておきましょう。
この書は、土佐国幡多郡の立石正賀によるもので万治2年(1659)の成立です。『長元物語』は、叙述形式と内容から次の3つに分けられます。
①1段目は、元親以前の土佐国のこと、元親による土佐国支配のこと
②2段目は、元親による阿波・讃岐・伊予国攻略を国別に記し、さらに秀吉による四国配分のこと
③3段目は、長宗我部一門、家老、侍、元親の男女子のこと
この中で2段目の阿波国攻略の記述は、次の文で終わります。
阿波一ケ国ハ、中富川合戦限テ、不残元親公御存分二成所如件

そのあとで「阿波一ケ国元親公御仕置ノ事」が記されています。そこには阿波国攻略は、「元親公、毎年阿波、讃岐へ御出馬、御帰陣ノアトニテ、御舎弟親泰大将ニテ、方々ノ働度々敵ヲ討取」とあり、元親が先鞭をつけ、そのあとを弟の親泰が確保するというような方法で攻略を進めたとあります。元親による阿波国の仕置は、右腕的存在である弟・香宗我部親泰を牛岐城に入れ、海部城をその根城として阿波国惣頭とします。そして、一宮城へ江村孫左衛門、岩倉城へ長宗我部掃部頭、吉田城へ北村間斎、宍喰城へ野中三郎左衛門を入れます。また「降参ノ国侍」「歴々ノ城持」には「年頭歳末ノ御礼」を行わさせたと記します。
この仕置は、讃岐国の攻略を終えた元親軍が仙石氏による讃岐国侵攻を押し返した時点よりあとで、秀吉軍の阿波国侵攻に備えた天正13年(1585)頃の配置と研究者は考えています。その場合、元親の弟・親泰は土佐国の東側の地点でその守りに当っていたことになります。

 讃岐攻略については、天正5・6年(1577・78)の次のことが記されています。
①藤目城・財田城攻め
②香川氏への養子聟策
③観音寺、石田、砥川、羽床、長尾、北条、香西攻略
しかし、阿波国の勝瑞城を落とした後の讃岐国攻略についての詳しい記述はありません。このあたりが土佐軍の西讃制圧はたどれるのに、東讃については、その侵攻過程がよく見えてこないことの原因のひとつです。最終的に「三好正安枝城」たる十河城を「土佐衆切々相働」いたことにより「此城明退」たとあるだけです。
 ここに書かれている元親の讃岐仕置の記述は次の通りです。
①国吉甚左衛門を那珂郡の長尾城に入れて讃岐国惣物頭とし
②十河城へ長宗我部右兵衛
③財田城へ内藤左衛門父子と源兵衛父子、
④元親の男子で、天霧城の香川氏の養子となった香川五郎次郎には知行を与え
⑤観音寺などの降参衆には知行を与えるとともに「年頭歳暮ノ式礼」を行わさせた
⑥ただ虎丸城のみは「御手ニ不入」
この仕置も、秀吉軍の侵攻に備えたのもので、天正13年頃のものと研究者は考えています。

元親が「十河表」へ「出勢」したのは、阿波国の記録史料でみた天正10年8月の中富川合戦以後になります。
この時に元親は、弟の香宗我部親泰を「岡城」に配しています。先ほど見たように「岡城」は、讃岐の「安原山」の南端部に位置する「要害」です。土佐国の記録史料では、勝瑞城合戦以降に元親自身が「天正十年十月中旬より、岩倉よりそよ越と云山を越、十川表へ打出」たとありました。以上をまとめておきます。
①天正10年8月に長宗我部元親は阿波国の中富川合戦に勝利し、勝瑞城を落とした。
②論功行賞として三好氏の勢力下にあった重要地点に土佐側の城将を配した。
③その後、三好義堅(十河存保)が落ちのびた讃岐の十河城を攻める作戦に移った。
④元親は、弟の香宗我部親泰を美馬郡の岩倉付近から讃岐山脈に入らせ安原山を経て「岡城」に向かわせた。
⑤元親自身は岩倉城を落としてから讃岐山脈に入り「そよ越」を経て讃岐国の十河表に至った。
⑥弟の親泰は「岡城」を攻め落とし
⑦さらに「岡城」の下手にある由佐城を攻めて土佐側に従属させた
⑧由佐氏は土佐側の一員として三好氏側の山田郡三谷、坂本を攻めさせた。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

   長宗我部元親の四国平定の最終段階で、秀吉が小豆島を拠点に介入してきたことについては以前にお話ししました。しかし、長宗我部元親の東讃地域制圧がどのように行われたかについては具体的なことは触れていませんでした。今回は元親の東讃制圧がどのような経過で進められたのかを見ていくことにします。テキストは「田中健二 長宗我部元親の東讃侵攻と諸城主の動向   中世城郭分布調査報告430P」です。
讃岐戦国史年表3 1580年代
1582年前後の讃岐の動き
1582(天正10)年6月、織田信長が本能寺の変で倒れます。
これを見て、対立関係に転じていた長宗我部元親は、好機到来と阿波・讃岐両国へ兵を進めます。7月20日には、讃岐・伊予・土佐の長宗我部方の軍勢が、西讃の戦略拠点である西長尾城(まんのう町長尾)に集結します。この編成を「南海通記」や「元親一代記」などの軍記物は次のように記します。
総大将は元親の二男で天霧城城主香川信景の養子となった五郎次郎親和
土佐勢 
大西上野介、中内源兵衛、国吉三郎兵衛、入交蔵人、谷忠兵衛
伊予勢 
馬立中務大輔、新居、前川、曾我部、金子、石川、妻取采女
讃岐勢 
香川信景、長尾大隅守、羽床伊豆守、新名内膳亮
総勢1、2万人とします。これらの軍勢は「元親一代記」などの軍記物では「西衆」と呼ばれています。年表化しておくと
7月23日、軍律を定め、長尾大隅守・羽床伊豆守を先導として那珂・鵜足両郡へ出陣
8月 3日 讃岐国分寺へ進み本営設置。
   6日 香西郡勝賀城の城主香西伊賀守が降参し、その兵も西衆に従軍。
  11日 国分寺を立った西衆は阿波三好方の最大の拠点である山田郡十河城へ進軍。
長宗我部元親讃岐侵攻図
長宗我部元親の讃岐侵攻図

一方、長宗我部元親が率いる本隊は、岡豊城を出陣して阿波への侵攻を開始します。
土佐勢は阿波上郡(美馬・三好両郡)と南方(那賀・海部両郡)へと二手に分かれて2万余の軍勢が三好氏の拠点を攻めます。元親の率いる本隊は、8月26日には一宮城(徳島市一宮町)を落とし、三好氏の本拠勝瑞城(藍住町)を目指して北進します。

勝瑞城
勝瑞城
このときの勝瑞城の城主は、三好政康(十河存保)でした。政康は阿波三好氏の義賢(実休)の子で、叔父十河一存の養子となっていました。それが天正5年、兄長治が自害した後は三好氏の家督を継いでいました。「土佐物語」には、政康は長宗我部氏による阿波侵攻に備えるために、8月初めに讃岐高松の十河城より急遽勝瑞城へ移ったと記します。8月28日、三好政康は勝瑞城近くの中富川において元親軍と戦います。その戦いを「阿波物語」に記されていることを意訳要約すると次のようになります。

この合戦において三好政康の率いる阿波勢はわずかに3000余人で、土佐の大軍に踏みにじられてしまった。敗れた政康は残兵とともに勝瑞城に立て籠もったが、9月に入ると水害に襲われ、下郡(吉野川中・下流域)一帯が海と化し、城も孤立した。そこで21日、政康は今後は、元親に敵対することは決してしないとの起請文を捧げて勝瑞城を退去し、讃岐へ逃れた。

脇町岩倉城
岩倉城(阿波脇町)
勝瑞城落城の前日に美馬郡の岩倉城(脇町岩倉)も土佐勢の別動隊に攻め落とされています。
城主は「元親記」には三好式部少輔、「土佐物語」には三好山城守とあります。元親は同城を一族の掃部助に預けます。岩倉城は阿讃山脈を越えるための重要な交通路である曾江谷越の阿波側の入口にありました。東を流れる曾江谷川をさかのぼれば、阿波・讃岐を結ぶ曾江谷越(清水峠)です。この峠からは、香川・山田・三木・寒川・大内の5郡へ通じる道が続きます。戦略的な要衝にもなります。

長宗我部元親侵攻図

 土佐軍に鳴門海峡を経て船で兵を送ると云うことは考えられなかったのでしょうか?
  長宗我部軍が水軍らしい船団を保持していたことは史料には出てきません。また、勝瑞城を包囲していた元親軍は、坂東郡木津城(鳴門市撫養)の城主篠原白遁に対して讃岐の三木郡のほか1郡を与えることを条件に調略を進めていたことが「土佐国壼簡集」所収文書)からはうかがえます。しかし、それには城主は応じなかったようです。天正11年の高野山僧快春書状(「香宗我部家伝證文」所収文書)では、5月21日に元親の弟で淡路攻めを担当していた香宗我部親泰が木津城を攻め落としています。それまでは木津城を拠点にして撫養海域は、三好方の制海権上にあったため、土佐軍が鳴門海峡を通過して讃岐へ侵攻することはできなかったようです。そのために脇町の曾江谷越を選んだのであり、その確保のためには岩倉城を手中|こ収める必要があったようです。

虎丸城

勝瑞城を退去した三好政康は、一旦、大内郡虎丸城に入り、ついで十河城へ移ります。
当時、虎丸城には三好方の安富肥前守盛方がいて、寒川郡雨滝城(さぬき市大川・津田・寒川)を家臣六車宗湛に守らせていました。政康が虎丸条に入ると彼は雨滝城へ帰り、その十河城への移動後は同族の安富玄蕃允が虎丸城を守ったと「十河物語」は記します。

十河城周辺の山城分布図
三好氏が最後の拠点とした十河城と周辺山城

10月中旬になると、阿波を平定した長宗我部元親元親は、岩倉から曾江谷越を経て讃岐へ入り、十河城を包囲していた西衆と合流します。その軍勢は併せて、3,6万ほどに膨れあがったとされます。
この時に元親軍として活躍した由佐家には、次のような長宗我部元親の感状が残されています。
由平、行以三谷二構兵候を打破、敵数多被討取之由、近比之御機遣共候、尤書状を以可申候得共迎、使者可差越候間、先相心得可申候、弥々敵表之事差切被尽粉骨候之様二各相談肝要候、猶重而可申候、謹言
(天正十年)                   (長宗我部)元親判
十月十八日                 
小三郎殿
      「由佐長宗我部合戦記」(『香川叢書』)所収。
意訳変換しておくと
先頃の三谷城(高松市三谷町)の攻城戦では、敵を数多く討取り、近来まれに見る活躍であった。よってその活躍ぶりの確認書状を遣わす。追って正式な使者を立てて恩賞を遣わすので心得るように。これからも合戦中には粉骨して務めることが肝要であると心得て、邁進すること。謹言

  感状とは、合戦の司令官が発給するものです。この場合は、長宗我部元親が直接に由佐小三郎に発給しています。ここからは小三郎が、長宗我部元親の家臣として従っていたことが分かります。
 この10月18日の感状からは、由佐氏が山田郡三谷城(高松市三谷町)攻めで勲功をあげていたこととともに、土佐軍の軍事活動がわかります。その1ヶ月後に、由佐小三郎は、二枚目の感状を得ています
長宗我部元親書状(折紙)
坂本河原敵あまた討捕之、殊更貴辺分捕由、労武勇無是非候、近刻十河表可為出勢之条、猶以馳走肝要候、於趣者、同小三可申候、恐々謹言
    (長宗我部)元親(花押)
(天正十年)十一月十二日
油平右 御宿所
  意訳変換しておくと
 この度の坂本河原での合戦では、敵をあまた討捕えた。その武勇ぶりはめざましいものであった。間近に迫った十河表(十河城)での攻城戦にも、引き続いて活躍することを期待する。恐々謹言

11月18日に、坂本川原(高松市十川東町坂本)で激戦があった際の軍功への感状です。戦いの後に引き上げた宿所に届けられています。この2つの感状からは高松市南部の十河城周辺で、戦闘が繰り返されていたことがうかがえます。

DSC05358十川城
十河城縄張り図

 さらに「讃陽古城記」には、十河氏一族の三谷氏の出羽城や田井城、由良氏の由良山城(由良町)なども長宗我部軍に攻略されたとあります。山田郡坂本郷に当たる坂本は、当時の幹線道路である南海道が春日川を渡る地点で、十河城の防衛上、重要な地点でした。到着した元親は、すぐに、十河城を攻撃して、堀一重の裸城にしています。そして、三木郡平木に付城を造営して、讃岐・伊予の武士を配置し、「封鎖ライン」を張ります。三木町平木にある平木城跡は、南海道のすぐそばです。南方の十河城の動きを監視しながら、補給を絶つという役割を果たすには絶好の位置になります。十河城に対する備えを終えた元親は、屋島・八栗などの源平の名勝地を遊覧する余裕ぶりです。そして、力押しすることなく、包囲陣を敷いて冬がやってくると土佐に帰っていきます。

十河城跡

 翌年1583年の春、4月になると元親は讃岐平定の最後の仕上げに向けて動き始めます。
この時の讃岐進行ルートは大窪越から寒川郡へ入り、大内・寒川両郡境の田面峠に陣を敷きます。これに先立つ2月28日の香川信景書状や3月2日の元親書状(いずれも秋山家文書)には、西讃三野の秋山木工進が天霧城主の香川信景の配下に属し、寒川郡の石田城攻めに参加し、感状を受けています。
DSC05330虎丸条
虎丸城縄張図
石田東に広大な城跡を残す石田城は南海道を見下ろす所にあり、北方に三好方の拠点雨滝城、東方に虎丸城が望めます。元親が出陣してくる以前から元親に下った讃岐衆によって石田城攻めが行われていたことが分かります。

田面峠

なぜ、元親は本陣を大内・寒川郡境の田面峠に置いたのでしょうか。
それは、大内・寒川両郡にある三好方の拠点、虎丸城と雨滝城の分断と各個撃破だと研究者は考えています。
 4月21日、戦いの準備が整う中で、大内郡の入野(大内町丹生)で、突発的に戦闘が始まります。この時の香川信景の山地氏への感状です。
 去廿一日於入野庄合戦、首一ッ討捕、無比類働神妙候、猶可抽粉骨者也
  天正十一年五月二日      
                 (香川)信景
山地九郎左衛門殿
意訳変換しておくと
 先月の21日(大内郡)入野庄で合戦となった際に、首一ッを討とった。比類ない働きは、真に神妙である。これからも粉骨邁進するべし
  天正十一年五月二日               (「諸名将古案」所収文書)
これは大内郡入野庄の合戦での山路九郎左衛門の働きを賞した香川信景の感状です。
当時の情勢は、長宗我部元親は阿波から大窪越えをして寒川郡に入り、田面峠に陣を敷きます。入野は田面峠から東へ少し下った所になります。長宗我部勢は十河勢の援軍として引田浦にいた秀吉軍を攻めたようです。この入野での戦いで、長宗我部勢の先兵であった香川氏の軍の中に山路氏がいて、敵方の田村志摩守の首を取ったようです。その際の感状です。
  ここからは天霧城主の香川氏が長宗我部元親に下り、その先兵として東讃侵攻の務めを果たす姿が見えて来ます。
そして、香川氏の家臣山路氏の姿も見えます。この時に香川氏より褒賞された山路氏は、もともと三野郡詫間城(三豊郡詫問町詫間)の城主で、海賊衆でした。芸予諸島の弓削島方面までを活動エリアとしていたこと、それが天正13年に没した九郎左衛門のとき、三木郡池辺城(本田郡三木町池戸)へ移されたことは以前にお話ししました。池辺城は平木城の西方で、十河城を南方に望む位置です。山路氏は、西讃守護代の香川氏の配下でしたから、三好方との戦闘に備えるために香川氏が詫間城から移したと研究者は考えています。このように、香川氏に率いられて西讃の国人たちが東讃へと参陣している姿が見えます。
長宗我部軍と秀吉軍は、入野と引田で軍事衝突しました。
ここにやって来ていた秀吉軍とは、誰の軍勢だったのでしょうか? 

仙石秀久2
仙石秀久
四国の軍記物はどれも、羽柴秀吉の部将仙石権兵衛秀久の名を上げます。
仙石氏の家譜である「但馬出石仙石家譜」には、4月に、羽柴秀吉が越前賤ケ嶽での柴田勝家との決戦直前に、毛利氏の反攻に備えるため仙石秀久を「四国ノ押へ」として本領の淡路へ帰らせたと記します。ただ「元親一代記」は、仙石秀久は秀吉より讃岐国を拝領したが、入国することもなく、「ここかしこの島隠れに船を寄せ」ていただけと否定的に記します。当時の仙石秀久の動きを年表化すると次のようになります。
1582 9・
-仙石秀久,秀吉の命により十河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保逃亡する
1584 6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
 1585年 4・26 仙石秀久・尾藤知宣・宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略

引田 中世復元図
引田の中世復元図
「改選仙石家譜」には、入野と引田での合戦を次のように記します

秀久は、引田(大川郡引田町引田)の「与次山」(引田古城?)に急造の城を構え、軍監として森村吉を置いていた。田面山に陣取った長宗我部軍が虎丸城を疲弊させるために与田・入野の麦を刈り、早苗を掘り返し、引田浦に兵を出す動きを見せた。そこで秀久は、2千余りの兵を率いて待ち伏せした。思わぬ奇襲に狼狽した長宗我部軍は入野まで退いて防戦した。このときの戦いが入野合戦である。戦況は態勢を立て直した長宗我部軍の反撃に転じた。そのため秀久軍は引田の町に退き、古城に立て籠った。翌22日、長宗我部軍による包囲を脱した秀久軍は船を使って小豆島に逃れた。このときの合戦を引田合戦という。

 中世の引田は阿波との国境である大坂越の讃岐側の出入口で、人やモノの集まる所でした。
また、鳴門海峡を行き交う船は、この湊に入って潮待ちをしたので、瀬戸内海の海上交通上の重要な港であったことは以前にお話ししました。引田の地は東讃の陸上交通と海上交通とが結びつく要衝でした。当時の仙石秀久は淡路を本拠としていました。これは秀吉が仙石秀久に四国・九州平定に向けて、海軍力・輸送力の増強を行い、瀬戸内海制海権の確保を命じていた節があります。そのような視点で見ると、引田は海からの讃岐攻略の際には、重要戦略港でした。そのために足がかりとして引田に拠点を設けていたのでしょう。後にやってくる生駒氏なども、仙石秀久の動きを知っていますので、引田に最初の城を構えたようです。

 話が逸れましたので、長宗我部元親の動きにもどります。
入野において合戦が行われたのと同じ日の4月21日、元親の弟香宗我部親泰は、次のような書状を高野山僧の快春に出しています。
鳴門の木津城を落とし、阿波一国の平定を終えたこと、ついでは淡路へ攻め込む所存であること
(「香宗我部家伝證文」所収支書).
 秀吉が北陸平定を行っていたころ、元親もまた四国平定が最後の段階に差し掛かろうとしていたのです。越前北ノ庄で柴田勝家を滅ぼし、北陸平定を終えた秀吉は近江坂本城へ帰ってきます。その翌々日の5月13日、元親と仙石秀久の合戦結果を書状で知ります。秀吉は秀久に対し、備前・播州の海路や港の警固を命じるとともに元親討伐を下命しています。いよいよ秀吉と元親の軍事対決が始まります。

雨瀧山城 山頂主郭部1
雨滝城

土佐軍はこの時期に、讃岐の三好方の城を次々に落としていきます。
「翁嘔夜話城蹟抜書」によれば、5月に石田城が落城しています。安富氏の居城である雨滝城も家臣六車宗湛の降参により落城し、城主安富肥前守は小豆島へ退去します。小豆島は、秀吉側の讃岐攻略の戦略拠点として機能していたことは以前にお話ししました。
 このような勝利の中で長宗我部方についた讃岐武将への論功行賞が行われます。研究者が注目するのは、論功行賞を長宗我部元親ではなく香川氏が行っていることです。これは讃岐における軍事指揮権や支配権限を香川信景が元親からある程度、任されていたことがうかがえます。それを裏付けるのが、次の元親の書状です。
「敵数多被討捕之由 御勝利尤珍重候、天霧へも申入候 定而可被相加御人数」

意訳すると
敵を数く討ち捕らえることができ、勝利を手にしたのは珍重である。「天霧」へも知らせて人数を増やすように伝えた」

「天霧」とは、香川氏の居城天霧城のことでしょうか、あるいは戦場にいる香川信景自身を指しているのかもしれません。わざわざ天霧城へ連絡するのは、長宗我部氏にとって香川氏が重要な地位を占めていたことを示します。元親は次男親和(親政)を信景の養子として香川氏と婚姻関係を結んでいます。讃岐征服には、香川氏の力なくして成功しないという算段があったようで、香川氏との協力体制をとっています。そして「占領政策」として、香川氏の権限をある程度容認する方策をとったと研究者は考えているようです。
 長宗我部軍による包囲が続けられるなかで、虎丸城も年内には落城したようです。
12月4日の香宗我部耗泰書状(「土佐国壼簡集拾遺」所収文書)には「十河一城の儀」とあります。翌天正12年3月、秀吉は織田信長の二男信雄と対立し、美濃へ出陣します。そして、4月には秀吉は家康に尾張長久手の合戦で破れます。このような中で、長宗我部元親は織田信雄,徳川家康と結び、秀吉と対立します。信雄は3月20日の香宗我部親泰に宛てた書状で、淡路より出陣し摂州表へ討ち入るよう求めています。信雄・家康と連携して、秀吉を東西より挟撃することを考えていたことが分かります。一方、元親にとって秀吉は信長の後継者で、その家臣である仙石秀久とは、すでに入野・引田で一戦を交えた敵対勢力です。引田合戦後に、寒川郡の石田・雨滝両城を落とした元親は、その勢いに乗って山田郡十河城を攻撃します。そして5月になると、元親は三木郡平木に入り、みずから十河城攻めを指揮します。「南海通記」は、その様子を次のように記します。

十河城と云う。三方は深田の谷入にて、南方平野に向ひ大手門とす。土居五重に築て堀切ぬれば攻入るべき様もなし」

ここからは十河城が堅固な守りを備えていたことがうかがえます。しかし昨年来、付城によって海路からの食料の搬入を絶たれていた城内の軍兵は飢餓に陥っていたようです。窮まった三好政康は阿波岩倉城主長宗我部掃部助を通じて、元親に城を開けて降参することを申し出ます。再三にわたる懇願に元親も折れて、政康以下の城兵を屋島へ逃れさせたという(「元親一代記」)。

十河城がいつ落城したのか、その経緯について他史料で見ておきましょう。
①5月20日、元親は讃岐の武士漆原内匠頭に対し、十河合戦での軍功を賞しています。(「漆原系譜」所収文書)
②8月8日書状 徳川家康の部将本多正信が香宗我部親泰に宛てた書状(「香宗我部家伝證文」)には、親泰は、元親軍が十河城を包囲する前夜、政康は逃亡したことを伝えています。
③8月19日の織田信雄書には、親泰は6月11日付けの書状で十河城の落城を伝えています。
④6月16日、秀吉は小豆島の小西行長らに対し、十河城救援のための兵糧米の運送を備前衆と仙石秀久に命じたので警固船を出すよう命じています。が、遅きに失した(竹内文書)とあります。
以上の資料からは、5月下旬から6月初旬の間に十河城は落城していたことが推測できます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「田中健二 長宗我部元親の東讃侵攻と諸城主の動向   中世城郭分布調査報告430P」
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日枝神社 高瀬町
日枝神社(高瀬町上勝間) 土佐神社が合祀されている

三豊市高瀬町の上勝間の日枝神社には、土佐神社が一緒にまつられているようです。どうして土佐の神社が合祀されるようになったのでしょうか? 「高瀬のむかし話 高瀬町教育委員会」には次のよう記されています。

今から五百年くらい前のことでした。戦国時代のことです。土佐の長曾我部元親は四国全体を自分の領地にしようとして、各地の有力者をせめほろぼしていきました。
元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。
長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。
さて、それからだいぶん年数がたつたころのことです。ある晩、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。はっきり見た人がいたのでまちがいありません。そのことがあって、間もなく、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。ほかにも、またそのほかにもその光を見た人がいて、その人の家も火事で燃えてしまったそうです。
「こりゃ、神さんのたたりでないんじゃろか」
村の世話役たちは相談しました。そして、
「神社をもっと高いところ移して、よくお参りしたらええのかもしれん」
ということになりました。
そこで、神主さんにおがんでもらって、神社を近くの高台ヘ移しました。そして、村の人はよくお参りしました。
けれども、しばらくしたある日、前のときと同じように、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。
村の世話役たちは、また相談しました。そして、
「土地の神さんが怒ってたたりよるのかもしれん。土地の神さんは日枝の神さんじゃ。両方をいっしょにおまつりしたらどうじゃろ」
ということになりました。
そこで、また、神主さんに来てもらって、日枝神社と土佐神社を同じ場所におまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。
ところがまた、しばらくしたある日、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走りました。そして、その光を見た人の家が火事で燃えてしまいました。神社の近くの家はほとんど火事で燃えたそうです。
村の世話役さんはまた相談しました。そして
「八幡さんは、いくさの神さんじゃ。近くに八幡神社を建てたらどうじゃろ」
ということになりました。
村の人びとは力を合わせて、道をはさんで向かいがわに八幡さんをおまつりしました。そして、村の人はよくお参りしました。お祭りの日には白酒を作ってお供えしました。

それからは、土佐神社の社の上から光が立ちのぼって空へ向かって走ることがなくなりました。

日吉神社 土佐神社
日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

この昔話の中には、土佐神社建立について、次のように記されていました。
「元親は、土地をせめとっては、せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです。長曾我部元親は高瀬へもせめてきました。高瀬を守っていた豪族も戦いましたが、とうとう負けてしまいました。やがて元親は、東の方へせめていって、高瀬から去りましたが、土佐神社は高瀬へも残されました。」

というのが、土佐神社建立の理由として地元には伝わってきたようです。「侵略した側は1世代で忘れるが、侵略された側は何世代にもわたって覚えている」という歴史家の言葉を思い出します。江戸時代後半になると、讃岐人の郷土愛(パトリオテイズム)が高まってきて、讃岐を征服した長宗我部元親への反発心が強くなっていきます。その背景のひとつに、「南海戦記」などの軍記ものの流行があったようです。そこでは、土佐軍が寺社を焼き、略奪を行ったことが書かれ、次第に
悪玉=讃岐を侵略した長宗我部元親、
善玉=それを守って抵抗する讃岐国人たち
という勧善懲悪型の歴史観が広がって行きます。そして、昔話も、このような内容のものが伝わることになったようです。

 しかし、本当にそうなのでしょうか? 高瀬町史は「実際は、そうではないで・・・」と、語りかけてくれます。それを以前にお話ししました。今回は、もう少し要約して、かみ砕いて記してみようと思います。
日枝神社 土佐神社合祀
       日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

土佐軍の侵攻以前には、讃岐の国人たちの多くは阿波三好勢力の配下にありました。
三好氏に従属しなかったのが天霧山の香川氏です。その配下には、高瀬の秋山氏や三野氏もいました。こうして香川氏は、東讃や中讃の讃岐国人たちを配下に従えた阿波三好氏の圧迫を受け続け。天霧城に籠城もしています。あるときには、城を捨てて毛利方に亡命したこともあるようです。ここでは、土佐軍の侵攻以前には、阿波三好氏が讃岐を支配下に置いていたこと、そのような情勢の中で、香川氏は劣勢の立場にあったことを押さえておきます。
 例えば土佐軍の侵攻の前年に、丸亀平野のど真ん中にある元吉城(櫛梨城)をめぐって、毛利軍と三好方が戦っています。この時の攻撃方の三好勢側についている讃岐国人武将を見てみると、讃岐の長尾・羽床・安富・香西・田村などの有力武将の名前があります。三豊地方では、高瀬の二宮近藤氏や麻近藤氏・高瀬の詫間氏なども三好方についています。
 いままでの市町村史の戦国時代の記述は、南海通記にたよってきました。これを書いたのは香西氏の子孫で、香西氏顕彰のために書かれたという面が強く「長宗我部元親=悪、香西氏に連なる一族=善」という史観が強いようです。そのためこれに頼ると、全体像が見えなくなります。しかし、他に史料がないので、これに頼らないと書けないという事情もありました。
 その中で、香川氏の家臣団の秋山氏が残した秋山文書が出てきます。この文書によって、三豊の戦国史が少しずつ明らかになってきました。秋山文書を用いて書かれた高瀬町史は、天霧城の香川氏やその配下の秋山氏から見た土佐軍の侵入を描き出しています。それを見ておきましょう。
香川氏から見れば、最大の敵は阿波の三好氏です。
 その配下として、天霧城に攻め寄せていた讃岐国人武将達もたちも敵です。「敵(三好氏)の敵(=長宗我部元親)は、香川氏にとっては味方」になります。元親の和睦工作(同盟提案)は、香川氏にとっては魅力的でした。それまで、対立し、小競り合いを繰り返してきた長尾氏や麻の近藤氏・高瀬の詫間氏などを、土佐軍が撃破してくれるというのです。天霧城に立て籠もり、動かずして、旧来の敵を一掃してくれる。そして、旧来通りの領地は保証され、元親との間に婚姻関係もむすべる。これは同盟関係以上の内容です。
 毛利軍が元吉城から引き上げた翌年に、それを待っていたかのように、土佐軍は三豊の地に侵入してきます。そして、財田の城や藤目城に結集した親三好の讃岐国人勢力を撃破していきます。藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢は三豊地区では次の勢力を撃破しています。
①九十九山城の細川氏政
②仁保(仁尾)城の細川頼弘
③高瀬の爺神城主の詫間弾正、
④高瀬・麻城の近藤氏
⑤山本町神田城の二宮・近藤氏
これらは、香川氏とは敵対関係にあった勢力のようです。
 一方、香川氏配下の三野氏や秋山氏などは攻撃を受けていません。観音寺や本山寺の本堂が国宝や重要文化財に指定されているのは、この時に攻撃を受けず焼き払われなかったためです。それは、そのエリアの支配者が、香川氏に仕える武将達か親香川勢力であったからと私は考えています。ここでは、土佐勢が讃岐の寺社の全てを焼き払ったわけではないことを押さえておきます。それよりも長宗我部元親の戦略は、どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。

大水上神社 神田城
二宮近藤氏の居城・神田城
 一方高瀬町内に支配エリアを持っていた二宮近藤氏と麻の近藤氏の場合を見ておきましょう。
両近藤氏は、反香川氏の急先鋒として、香川氏配下の秋山氏と何度も小競り合いを行っていたことが秋山文書からは分かります。そのため、両近藤氏は攻め滅ぼされ、その氏寺や氏神は悲惨な運命をたどったことが考えられます。こうして、讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。没収された近藤氏の領地はどうなったのでしょうか?

大水上神社 神田城2

『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からやってきた人物です。彼には、次の土地が与えられています。

「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

  これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。
翌年三月には、
「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、
五月には
「財田・麻岩瀬村」
で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
 土佐の武将の領地となった土地には、労働力として土佐からの百姓が連れてこられます。高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。
  先ほど見た昔話には、次のように記されていました。

「せめとった土地の神社を焼き払って、土佐神社を建てさせたそうです。なんとも無茶なことですが、自分の領地の神社はぜんぶ土佐神社にしようと思っていたのです」

 しかし、これはどうも誤りのようです。土佐からの移住者が大量に入ってきて、新たに入植したことが分かります。彼らが入植地に、団結と信仰のシンボルとして勧進したのが土佐神社だったと高瀬町史はは考えています。
 そして、土佐軍撤退の生駒藩の下でも土佐からの移住団は、そのまま入植地に残ったようです。三豊には、近世はじめに土佐からの移住者によって開かれたという地区が数多く残ります。しかし、今まではそれが土佐軍の占領下での移住政策であったとは、考えられてきませんでした。そういう目で、この時期の土佐人の動きを見てみる必要があります。
土佐神社 高瀬町日枝神社と合祀
        日枝神社(三豊市高瀬町上勝賀)

 土佐の移住者たちが住み続けたので、土佐神社は残った。
そして、日枝神社と合祀されたというのは、周辺農民との融合が進んだということになるようです。どちらにしても、二宮近藤氏や麻近藤氏の支配地には、土佐からの移住集団が入り込み、開拓・開発を進めたことを押さえておきます。その痕跡が土佐神社の昔話として残っているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 高瀬町史
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天正三(1575)年に長宗我部元親は土佐国内の統一を果たします。
 翌年には早くも阿波三好郡へ侵入し、白地城主の大西覚養を降伏させます。元親は白地城を拠点として阿波・讃岐・伊予三国への侵攻を開始することになります。

長宗我部元親 地図

天正六(1578)年夏になると、讃岐侵攻を開始します。それは讃岐の藤目城主(観音寺市粟井)の斎藤下総守を調略・降伏させたことに始まります。元親は、藤目城に桑名太郎左衛門と浜田善右衛門を入れて、讃岐侵攻の拠点とします。攻略の手を一歩進めたのです。
 当時の讃岐は阿波の三好氏配下にありました。
群雄割拠と云えば聞こえはいいのですが、実態は中小武将の割拠状態でまとまった勢力がありませんでした。そこへ侵入してきた阿波の三好勢力下の置かれていたのです。しかし、三好氏に反発する香川氏のような勢力もあり讃岐は一枚岩というわけにはいきませんでした。
 讃岐西端の三豊に長宗我部元親によって打ち込まれた布石に対して、阿波の三好存保は配下の聖通寺城主・奈良太郎兵衛勝政に撃退を命じます。奈良氏は、長尾大隅守・羽床伊豆守・香川民部少輔とともに藤目城を攻め、これを奪回します。これらの讃岐衆が阿波の三好氏の指令で動いていることを押さえておきます。

 藤目城を奪い返された長宗我部勢は、秋には今度は目線を変えて三野郡財田の本篠城(財田町)を攻略します。そして、本篠城を出城にして冬には再び藤目城を攻め、これを再度掌中に収めます。これが元親の讃岐攻略の前哨戦です。これに対して「西讃守護代」とされてきた多度津天霧城の、香川信景は援軍を派遣しません。動かないのです。
長宗我部元親 本篠城
本篠城のあった山(財田町)

 藤目・本篠城攻防の時、なぜ香川信景は援軍を派遣しなかったのでしょうか。
 南海通記には、そのことが語られずに、ただ信景は戦わずして元親に降ったということのみが強調されています。香川氏が援軍を送らなかったことの背景を今回は考えて見たいと思います。  テキストは 高瀬町史139P 長宗我部元親の讃岐侵攻と西讃武士です。 
安藤道啓堂の謎 - カーキーのおもしろ見聞ダイアリー

まずは、土佐軍侵攻の前年からの情勢を年表で見ておきましょう。

  1577 天正5
7月元吉合戦 毛利・小早川氏配下の部隊が讃岐元吉城(櫛梨城)に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う
11月 勝利した毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野
11月 毛利軍、足利義昭の調停により三好方と和し、引き上げる(厳島野坂文書)
阿波白地城主大西覚養、長宗我部氏に攻められ麻城の近藤国久のもとへ亡命(西讃府志)
  1578天正6(戊寅)
  夏 長宗我部元親、藤目城を攻略。
十河存保の命をうけた奈良太郎兵衛尉らこれを奪回する)
長宗我部元親、三野郡財田城を攻略する(南海通記)
長宗我部元親、ふたたび藤目城を攻略する

 永禄年間(1558~70)に、阿波の三好氏の讃岐侵攻が強まります。その結果、香川氏は天霧城龍城戦から敗走し、一時的には毛利氏を頼って国外に亡命しながら抵抗を続けたことは以前にお話ししました。
 天正五(1577)年になると、毛利氏は石山本願寺戦のための瀬戸内海海上覇権確保の一環として、讃岐の元吉城(櫛梨城・琴平町)に軍を送り駐屯させます。同時に、亡命中の香川氏へのてこ入れを行ったようです。こうして、三好配下の讃岐衆との間で、櫛梨城をめぐる攻防戦が展開されます。これが元吉合戦で、毛利氏は勝利します。   
 毛利氏に領土的な野心はなく、瀬戸内海の通行権が確保されると、その年の秋には和約を結び撤退していきます。その後を毛利氏から任されたのが香川氏ではないかと私は考えています。香川氏については、元吉合戦には出てきませんが、同時並行で天霧城を回復し、西讃・三豊における支配権を回復したようです。つまり、香川氏は毛利氏の支援を受けて、天霧城に帰ってきて西讃の支配権を回復しようとしていたのです。
香川氏の仮想敵国は、どこになるのでしょうか?
第一に挙げられるのは、阿波の三好氏です。次に三好氏配下の讃岐衆です。具体的には、羽床氏・長尾氏・近藤氏・大平氏・詫間氏などです。香川氏は阿波三好氏の侵入に苦しみ続けられてきました。香川信景も、三好氏を仮想敵国とする外交戦略を考えることになります。
 具体的には「敵(三好氏)の敵は味方」という法則がとられます。
当時の三好氏は、畿内で信長と対立し、瀬戸内海で毛利と対立していました。そして、さらにここに新たな敵を向かえることになります。それが土佐を統一した長宗我部元親の登場です。
 年表を見ると分かるとおり、長宗我部元親が讃岐侵攻を開始するのは、毛利が元吉城を引き払ったあとです。毛利軍の姿が讃岐から消えたのを見計らうようなタイミングです。ここには毛利と長宗我部の間には密かに「不戦条約」が結ばれていたと考える研究者もいるようです。

このような情勢を天霧山にいた香川信景はどのように見たのでしょうか。
  三好の脅威におびえる信景にとって、毛利撤退後に頼るべき相手として長宗我部元親が見えてきたのではないでしょうか。香川氏には、讃岐守護細川家に仕える西讃守護代としてのプライドもありました。
「自分は細川氏の家臣で、阿波の三好配下ではない」という気構えがあったようです。下克上で主君細川氏にとって替わった三好氏には反発心を持ち抵抗し、三好方の侵攻を何度も受けていることはお話しした通りです。そのために天霧城を包囲されたり、一時的には天霧城からの撤退も余儀なくされています。つまり、香川氏にとっては主敵は三好氏なのです。反三好のために香川氏が選択できる外交戦略は次の通りでした
①織田信長への接近
②毛利元就への接近
③長宗我部元親への接近
それまでに取ってきた同盟関係が①②でした。宿敵三好氏打倒のためには、③の長宗我部元親との同盟をとることに抵抗感はあまりなかったと私は考えています。
  一方、長宗我部元親も力による制圧戦は望んでいません。
土佐勢は兵農分離の進んでいない一両具足の兵達です。長期戦には不向きで、消耗すればなかなか補充がききません。戦わずに陥すのが元親の本心です。
長宗我部元親一領具足

そこで元親が使ったのが細川家の「守護の権威」です
 讃岐と土佐の守護を兼ねていたのは京兆家の当主細川昭元でした。細川昭元は、足利義昭と織田信長が決裂した際に、信長側につきます。昭元は名家の当主として信長に庇護される状態でした。信長は昭元を道楽で保護していたわけではなく、彼には利用価値があるとかんがえていたのです。信長は「対三好包囲網」に香川氏を誘うために細川昭元の守護としての権威を利用活用しています。

長宗我部元親と細川昭元
細川家系図
 天正11年(1583)に細川昭元は香川信景に、讃岐国東部の管轄も任せる旨の書状を発給しています。この昭元の動きの背景には、信長の意向があります。信長は讃岐守護という昭元を利用して、霧城城主の香川氏を取り込もうとします。
  私は、香川氏と長宗我部元親の橋渡しをしたのは、細川昭元ではないかと考えています。細川京兆家は土佐の守護でもあり、讃岐の守護でした。香川氏と長宗我部氏は、同じ主君に仕える身であったことになります。そこで、「三好打倒のために長宗我部とも手を組め。そして逆臣三好を成敗せよ」などという親書が香川氏の下に届けられたのではないでしょうか。これは香川氏にとっては、三好打倒のための最高の大義名分となり、三好に反発をもつ讃岐国衆をまとめる旗印にもなります。それは信長の意向でもあったはずです。

 その調略活動に活躍したのが、元親の右筆(ブレーン集団)として仕えていた土佐の山伏(修験者)たちであったと私は考えています。
 土佐は熊野信仰の修験者たちの多い所です。彼らは先達として、信者達を引き連れて熊野詣でを行いました。そのルートが現在の国道32号線と重なる熊野詣ルートです。ここは辺路ルートでもあり、修験者の行場や古い熊野神社などが点在していることは以前にお話ししました。長宗我部元親のもとで右筆を勤めた修験者たちは、辺路修行や聖地巡礼を通じて四国の隅々まで知り尽くしていました。彼らの情報収集力や修験道を通じた人的ネートワークを、元親は重視し活用したでしょう。阿波への道や讃岐山脈を越える山道も、修験者にとっては修行の場であり、何度も通った道です。
 当時の元親の右筆集団(秘書団かつブレーン)の中で、信頼を得ていたのが南光院でした。
彼は現在の四国霊場39番延光寺の奥社を拠点にした熊野修験者です。その配下には多くの修験者たちをかかえていました。後に、この延光寺が土佐山内藩に宛てた文書には、南光院を修験者集団の「四国の総代表」と記しています。真偽の程は分かりませんが、彼が当時の四国の修験者の中で名前の知れた人物であったことはうかがえます。ちなみに彼は、西讃制圧後に金毘羅大権現を祀る金比羅堂別当職に、元親から指名されます。そして、金毘羅を讃岐平定の総鎮守とすることを託されるのです。
ここからは私の推論を交えながら、小説風に行きます。
元親の意向を受けて、天霧城の香川氏への調略工作を行ったのは、この南光院だと私は考えています。彼のまわりには、次のような山伏(修験者)集団の存在がありました。
①箸蔵周辺の阿波山伏
②雲辺寺・大興寺・観音寺につながる密教系修験者
③尾背寺(まんのう町)・大麻山(後の金比羅山)・善通寺の修験者
④天霧山麓の弥谷寺の修験者・聖集団
(これらの寺院は土佐軍の兵火を受けていない)
これらの集団の中には南光院の息のかかった者が幾人かは送り込まれて「間諜(スパイ)」としての役割を果たしていたとしておきます。雲辺寺→観音寺→弥谷寺というのは彼らの辺路ルートでもありました。山伏姿で、「辺路」ながら情報収集活動をしても何ら疑われることはありません。天霧山の下の谷にある弥谷寺に入った間者の修験者たちは、密かに香川氏に対して同盟を働きかけた私は考えています。その時期は、藤目城の攻防戦以前から始まっていたでしょう。
 思い返せば天正六(1578)年夏に、大西上野介は豊田郡藤目城主の斎藤下総守を調略しています。これに平行して香川氏への働きかけも始まっていたのかもしれません。そして、本格的な攻防戦が始まる前には、長宗我部元親と香川信景のあいだに密約は出来上がっていたと思うのです。天霧城の「不動」の姿からそう私は感じます。だから香川氏は、動かず援軍を送ることもなかったのです。

長宗我部元親讃岐侵攻図1
 
香川氏から見れば、藤目城や本篠城に結集した軍勢は、ある意味で阿波三好氏の手先の讃岐衆です。
かつては天霧城にせめかかってきた輩達なのです。それが長宗我部によって、打ち砕かれるのは香川氏にとっては願うところです。
三好に与する讃岐衆は、土佐軍によって撃破・排除する。
親三好派を排除した後に残った勢力の調略活動は香川氏が行う、

そんな役割分担が讃岐侵攻以前に出来上がっていたかもしれません。こうして、財田の城や藤目城に結集した親三好勢力は撃破・殲滅されていきます。さらに、抵抗を続ける室本や仁尾や二宮・麻の勢力は力で殲滅します。その後の日和見的勢力への「寝返り工作」については、香川氏が担当したとしておきましょう。

藤目城・財田城を力で落とし後、土佐勢の足取りを辿ってみると次の勢力が力攻めで滅ぼされています。
①九十九山城の細川氏政
②仁保(仁尾)城の細川頼弘
③高瀬の爺神城主詫間弾正、長宗我部氏に攻められ滅亡する(西讃府志)
④高瀬の麻の近藤氏、山本町神田の二宮・近藤氏
 三好勢に近く、以前から香川氏との小競り合いを繰り返したいた勢力であることが分かります。

「讃岐の寺社由緒書は、長宗我部元親による焼き討ち被害で充ち満ちている」と以前にお話ししました。繁栄していた寺が土佐勢の兵火に罹って焼け落ち、再建されることなく廃絶したというストーリーです。これは近世後半になって広がった「伝説」です。結果として、長宗我部元親は讃岐では「悪人」として語られることになります。
 しかし、個別の神社の実例を見てみると、どうもこの伝説は事実ではないようです。例えば、中世に遡る建築物を持つ寺社は焼き討ちされていないことになります。本山寺本堂・観音寺本堂などは兵火を免れています。全てを無差別に焼き払ったという痕跡は見当たらないのです。どちらかというと、戦わずして降伏させ、施設や建物、田畑も無傷で回収し、後の占領政策下で役立てていくという方策が見え隠れします。

讃岐の中で最初に長宗我部軍の占領下に置かれたのは、三豊地方でした。
 その多くは香川氏の領地でした。香川氏に従っていた国人層は、香川氏の降伏にともない、長宗我部氏の支配下にそのまま収まります。その形は、直接に元親に服属するのではなく、香川氏に仕えるというままの形で存続したようです。例えば、本門寺を中心とする法華信徒であるで三野の秋山氏も香川氏のもとにそのまま仕えています。これは、香川氏の領地はすべて安堵されたことになります。これは「降伏」というには、あまりに寛大な処置です。
 さらに、香川信景は元親の次男親和を娘婿に迎え入れ、香川家の跡継ぎとします。これは、降伏というよりも軍事同盟の締結といった方がよさそうです。これについてはまた、別の機会にお話しします。
土佐軍と戦った勢力の領土は没収され、検地が行われ占領者に給付されていきます。
『土佐国朧簡集』には三豊市域の地名がいくつか出てきます。
天正9年8月、37か所で坪付け(土地調査)を行い、三町余の土地が吉松右兵衛に与えられています。吉松右兵衛は、元親の次男親和が香川氏に婿入りする際に、付き人として土佐からきた人物です。彼には
「麻・佐俣(佐股)・ヤタ(矢田)・マセ原(増原)・大の(大野)・はかた(羽方)・神田・黒嶋・西また(西股)・永せ(長瀬)」

の土地が与えられています。これらは大水上神社の旧領地で、二宮近藤氏の領地が没収されたものです。翌年三月には、「中ノ村・上ノ村・多ノ原村・財田」で41か所、五月には「財田・麻岩瀬村」で6か所が同じように吉松右兵衛に与えられています。
 これ以外にも土佐から讃岐へ移り住む者が多くいたようで、高瀬町の矢大地区は、土佐からの移住者によって開拓されたとの伝承があり、この地区の浄土真宗寺院は土佐から移住してきた一族により創建されたと伝えられます。最後まで抵抗した勢力の土地は没収されたのです。
 これらの動きを南海通記は、香西氏の立場と郷土愛(パトリオティズム)を織り交ぜて記します。そのため土佐軍を侵略者=悪、それと戦う勢力を郷土防衛軍=善と色分けした勧善懲悪的な軍記物仕立てになっています。そして、土佐軍にいち早く降伏した香川氏は悪者とされることが多かったようです。
 この視点は、物語としては面白いのですが歴史の冷酷さやリアリティーは欠落していくことになります。南海通記の視点を越えた歴史叙述が待たれる由縁です。

 三豊地方を支配下に置いた元親は、天正七(1579)年4月に中讃地方へと侵攻を開始します。
長宗我部軍は、まず羽床攻撃を行いますが、その際の先陣は香川氏傘下の三野菊右衛門と河田七郎兵衛が勤めています。香川氏が土佐軍の先導役を勤める姿がよく見られるようになります。戦いは長宗我部軍の大軍に対して羽床軍は多勢に無勢で敗退し、一族の木村氏の仲介で降伏しています。
 実際の戦いがあってから百年以上経って書かれた讃岐の軍記物「南海通記」には、讃岐武士団の抵抗ぶりが華々しく書かれています。
しかし、根本資料である土佐側の資料には、讃岐の武士団に、必死で抵抗する姿は見えません。形ばかりの籠城と小競り合いの後に降伏するか、無血開城するかのどちらかです。
 この裏では、香川信景による調略工作があったようです。
阿波三好の横暴さと、主君細川氏への裏切りを説き、今こそ阿波侍の首から解放される時が来たと、土佐軍を解放軍として説いたかも知れません。また、占領後の香川氏と長宗我部氏の同盟関係に触れながら、無血入城すれば悪いようにはしないと説いたかも知れません。どちらにしても、「籠城総員討ち死」なんていう姿は見られません。その辺は計算高い讃岐人らしさかもしれません。
 羽床氏は讃岐最大の武士団綾氏の統領でもありました。その羽床氏が降伏すると、滝宮の滝宮弥十郎をはじめとする綾氏一族はそれになびきます。
 私が分からないのは西長尾城の長尾大隅守の動きです。
軍記物では、長尾氏は丸亀平野に入ってきた土佐軍と激しく戦ったとされます。しかし、土佐の資料には長尾氏が抵抗したとの記述は見えません。香川氏の先陣が勤める土佐軍が、西長尾城の下を通って、羽床城を攻め込むのを見送っています。長尾氏が降伏するのは、羽床城陥落後です。
丸亀平野に軍を進めた長宗我部元親が本陣として、軍を進駐させたのはどこでしょうか?
軍記物には金毘羅に本陣を置いたと記すものが多いようです。しかし、大軍を置くにはふさわしくないような気がします。候補地としては、前々年に起きた元吉合戦の舞台となった櫛梨城でないかと私は考えています。毛利軍が三好軍の中讃への侵攻を阻止し、石山本願寺への兵粮輸送ルート確保のために軍を進駐させた城です。ここは土佐藩占領下で大規模改修工事が行われて土佐流の竪堀が掘られていたことが発掘調査から分かっています。
  元親は金比羅堂(琴平)にも参拝し、「四国平定成就」を祈願しています。
金比羅堂や松尾寺は、長尾寺の一族によって数年前に建立されたばかりの新興の寺社でした。金毘羅大権現の別当金光院院主は西長尾家城主の弟(甥)である宥雅が務めていました。宥雅は、土佐軍の侵入を受けて堺に亡命します。つまり、金光院は無住となっていました。その院主を任せたのが先ほど紹介した南光院です。彼が宥厳と名を変えて別当職を務めることになります。その時に元親があたえた課題は、金比羅堂を四国支配の新たな宗教施設とすることでした。そして、四国平定の折には、山門の寄進を約束します。
金毘羅権現
長宗我部元親寄進の二天門

天正8年には、西長尾に新城を築城し、国吉甚左衛門を置き中讃の拠点とします。
この時に長尾城は土佐風の山城に大改修されます。現在の西長尾城は、長尾氏時代のものではなく、土佐軍が進駐していた時代の山城跡になるようです。

西長尾城

天正9年6月、元親は東伊予・西讃の国侍たちに出陣を命じ、西長尾城に1,2万の軍を集結させます。香川氏に養子に入った元親次男の香川親和を総大将とした土佐軍は、那珂・鵜足郡へ向けて進撃していきます。聖通寺城主奈良太郎兵衛を敗走させ、更に藤尾城の香西佳清を攻めます。ここでも香川氏の斡旋により和議が結ばれ、長宗我部軍に降ります。天正11年 元親軍は再度讃岐へと侵入します。そして十河城に入った十河存保を攻めます。そして天正12年6月十河城を落城させ、存保は播磨へと亡命します。こうして讃岐全土は元親によって平定されます。

元親にとって香川氏の協力なくしては讃岐平定は不可能だったとも云えます。
従来の史書は、香川氏は元親に服属したと記します。元親の次男が信景の養子となり、香川氏の家督を相続したとも思われています。しかし、養子に入った親和は香川氏の歴代継嗣が名乗った五郎次郎を称しますが、単独で発給した書状は少なく、信景との連署状が多いようです。ここからは、実権は信景が依然として握っていたことがうかがえます。引退し、実権を失っていたのではないようです
   香川氏と長宗我部氏の婚姻関係は、香川氏を支配下に置くと考えるよりも、味方につけたと研究者は考えるようになってきています。
香川信景には男子がなく娘だけでした。後継者が必要なため、元親の次男を婿として迎え入れ、香川家を継がせることにした。信景は元親に降伏というより、姻戚関係を結ぶことにより家の存続を図ったというのです。女子を人質で遣わす例は多くあります。男子を跡継ぎといえども遣わすのはある意味では、人質とも云えます。降伏した香川氏に、長宗我部氏が人質を遣わすことは不自然です。輿入れの後、信景が土佐の岡豊城へ赴いた際の歓迎ぶりが次のように記します。
「元親卿の馳走自余に越えたり、振る舞も式正の膳部なり。::五日の逗留にて帰られけり。国分の表に茶屋を立て送り」

盛大な饗応ぶりです。この歓待ぶりは征服者と服属者の関係とはいえないと研究者は指摘します。元親は次男親和を婿入りさせ、信景と同盟者としての関係を持つようになったと解すべきとします。
 その後、秀吉の四国攻めにより、長宗我部元親は土佐一国に封じ込められます。その際の香川信景・親和父子への対応にも現れているといいます。領地を失った香川氏親子を土佐へ迎え、領地を与えています。
   以上をまとめておくと
①天霧城主の香川氏は西讃岐守護代として、守護細川家に仕えて畿内に従軍することも多かった。
②守護細川家に代わって下克上で阿波三好氏が実権を握り、東讃方面から西讃へと勢力を伸ばす。
③香川氏は伸張する阿波三好氏の勢力に押されて、一時的には天霧城を捨て毛利家に亡命することもあった。
④毛利家は元吉合戦の際に、香川氏の天霧城への復帰を支援し、その後の西讃支配を託し撤兵した。
⑤長宗我部と毛利の間には不戦条約があり、毛利撤退後の軍事的な空白を長宗我部が埋めることに問題はなかった。
⑥こうして長宗我部元親と香川信景は密かに同盟を、讃岐侵攻前に結んでいた。
⑦親三好派の讃岐衆は、土佐勢によって撃滅・排除され、日和見勢力に対しては香川信景が調略工作をおこなうことで、讃岐平定はスムーズにすすんだ。
⑧その結果、跡継ぎのいなかった香川信景は元親の次男を婿として後継者に迎えた。
⑨長宗我部元親と香川信景は「降伏」というよりも「同盟関係」にあったというほうが、その後の出来事を捉えやすくする。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

   参考文献 高瀬町史139P 長宗我部元親の讃岐侵攻と西讃武士


 宥雅は、一族の長尾氏の支援を受けながら松尾山(現象頭山)に、松尾寺(金毘羅寺)や金比羅堂を建立します。しかし、それもつかの間、土佐の長宗我部元親の侵入によって宥雅は、新築したばかりの松尾寺を捨てて堺への亡命を余儀なくされます。宥雅が逃げ出し無住となった後の松尾寺は無傷のまま元親の手に入ります。元親は、陣僧として陣中で修験者たちを重用していました。そこで土佐足摺の修験者である南光院に松尾寺を任せます。南光院は宥厳と名を改め、松尾寺の住持となります。その際に、元親から与えられた使命は、松尾寺を讃岐支配のための宗教センターとして機能させるようにすることだったようです。そのために宥厳がどのような手を打ったかについては以前に次のようにお話ししました。
①松尾寺から金比羅堂へシフトして、新たな蕃神である金毘羅神の拠点として売り出す
②修験者の「四国総本山」とし、修験者の拠点として修験者の力を利用した布教方法を用いる
宥厳は、もともとは土佐の修験者でしたから修験化路線へのシフト転換が行われたのでしょう。
今回は、南光坊と呼ばれた宥厳の土佐での存在とは、どんなものであったのかを見ていくことにします。テキストは 高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収です。
南光院 南路志

土佐の『南路志』の寺山南光院の条には、  次のように記されています。
「元祖大隅南光院、讃州金児羅(金毘羅?)に罷在候処、元親公の御招に従り、御国へ参り、寺山一宇拝領」
「慶長の頃、其(南光院の祖、明俊)木裔故有って讃岐に退く」
意訳変換しておくと
大隅南光院の祖(宥厳)は、讃州の金毘羅にいたところ、長宗我部元親の命で土佐に帰り、寺山(延光寺)を拝領した」

ここからは次のようなことが分かります。
①慶長年中(1596~)に、南光院は讃岐の金毘羅(松尾寺)にいたこと
②長宗我部元親から延光寺を拝領し、金毘羅から土佐に帰国したこと
南光院 延光寺2
四国霊場 延光寺(寺山) 奥の院が南光院

寺山とは延光寺のことで、現在の四国霊場になるようです。この延光寺のことを見てみましょう。
宿毛市延光寺は、四国三十九番札所ですが、修験道当山派の拠点であったようです。
 四国霊場を考える場合には「奥の院を見なければ分からない」というのが私の師匠の口癖です。そのセオリーに従って、延光寺の背後をまずは見ておくことします。この寺の4㎞ほど東に貝ノ森と呼ばれる標高300mほどの山があります。山頂には置山権現が鎮座し、修験法印金剛院の霊を祀るといわれ、雨乞いの時には、里人が登って祈念していたようです。修験者の修行の山であったことが分かります。
そして、延光寺は行場(奥の院)が里下りして、いつの頃かに麓に下りてきたことがうかがえます。
南光院 延光寺1

この貝の森については、次のような話が伝えられます。
 弘治(1555)の頃、吉野大峰山での修行の際に、予州修験福生院と美濃修験利勝(生)院が口論を起こします。それがきっかけで、宿毛市平田町の貝ケ森で護摩を焚く四国九州の修験者と近江の金剛院の間で大激戦となり、福生院・金剛院ともに死亡します。その争いに巻き込まれた利生院は、この地に蔵王権現を祀るべきことを言い置き亡くなります。こうして貝ケ森に蔵王権現が勧請され、これ以後は「当州当山修験断絶」となった。

 この伝承からは次のようなことが分かります。
①貝ケ森が修験の山で、多くの修験者が集まり護摩も焚かれていたこと
②蔵王権現が勧請される前は中四国の修験霊地として栄えていたこと
③修験者の中には、背後に有力修験者を擁する武士団があり、争乱や武闘もあったこと
 ここでは16世紀半ばに起きた事件を契機に、当山派から本山派へのシフトが行われたとされているとされますが、これは事実とは異なるようです。当山派の延光寺が衰退していくのは、山内藩による本山派優遇策がとられるようになって以後のようです。

周辺の霊山をもう少し見ておきましょう。 佐川山は幡多郡の旧大正町奥地にあります
この山頂には伊予地蔵、土佐地蔵がいます。
旧三月二十四日大正町下津井、祷原町松原・中平地区の人びとは弁当・酒を提げて早朝から登山したそうです。この見所は喧嘩だったそうです。土佐と伊予の人々が互いに口喧嘩をするのです。このため佐川山は「喧嘩地蔵」といわれ、これに勝てば作がいいといわれてきました。帰りには、山上のシキビを手折って畑に立てると作がいいされました。
  このような地蔵は西土佐村藤ノ川の堂ヶ森にもあり、幡多郡鎮めの地蔵として東は大正町杓子峠、西は佐川山、南は宿毛市篠山、北は高森山、中央は堂ヶ森という伝承もあります。また一つの石で、三体の地蔵を刻んだのが堂ケ森、佐川山、篠山山です。これら共通しているのは相撲(喧嘩)があり、護符(幣)、シキビを田畑に立てて豊作を祀ることです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

窪川町と旧佐賀町の境に五在所の峰があります。
 ここにも修験者の神様といわれる役小角が刻んだと伝えられる地蔵があります。この地蔵には矢傷があります。そのため「矢負の地蔵」とも呼ばれていたようです。この山はもともとは不入山でした。小角が国家鎮護の修法をした所として、高岡・幡多郡の山伏が集って護摩を焚く習わしがあったようです。このように山上の地蔵は修験者(山伏)によって祀られ、山伏伝承を伴っています。地蔵尊などが置かれた高峰は、修験者たちの祭地であり行場であったところです。村々を鎮護すべき修法を行った所と考えれば「鎮めの地蔵」と呼ばれる理由が見えてきそうです。昔から霊山で、地元の振興を集めていた山に、新たに地蔵を持込んで山頂に建立することで、修験者の祭礼下に取り込んでいったようです。
「高知県五在所の峰」の画像検索結果

 別の見方をすると、霊山に地蔵さんを建立するのは、山伏たちにとってはテリトリー争いを未然に防ぐ方策でもあったようです。その背後には、地元の武士団があったことが考えられます。それ以前には、地域間の抗争があったことが「山頂での相撲や喧嘩」などからうかがえます。
 このような修験道が地域の中に根付いた中で、南光坊(宥厳)は修験者としての生活と修行を行ってきた人物であることをまず押さえておきます。

宥厳は、土佐では南光院と呼ばれていました。
 南光院は延光寺の奥の院だったようです。その院主なので南光院と呼ばれていたようで、地元では有力な修験者のリーダーでした。それが長宗我部元親の讃岐侵攻の際に、無住となってた松尾寺に呼ばれて管理を任されることになります。
延享四年(1747)に延光寺は、次のような文書を土佐藩の社寺方に差出しています。
「私先祖より代々先達之家筋二て、昔時ハ四国並淡州共五ケ国袈裟先達職二て御座腕」

 昔時というのは元親時代のことなのでしょう。延光寺の先祖は代々(当山派)先達を勤め、かつては四国と淡路の袈裟先達職(リーダー)であったと云います。更に続いて、次のようにも主張しています。
延光寺が宿坊十二を擁した頃は、元親から田地の寄付もなされた。南尊上人の住職時代ころまでは、南光院知行共地高五百五十石であった。

というのです。550石といえば土佐・山内藩家臣団の中でも上位に匹敵する待遇です。元親が四国を制摺るに及んで、南光院もまた四国の修験道のリーダー的立場にあったようです。
  つまり、当時の延光寺は四国の先達のトップを勤めていたというのです。その寺から長宗我部元親が呼び寄せたのが南光院(宥厳)ということになります。ここからは、長宗我部元親が新たに手に入れた金比羅の松尾寺をどんな寺にしようとしていたかがうかがえます。それは「四国鎮撫の総本山」です。そのために選ばれたのが南光院であったとしておきましょう。
 長宗我部元親は、秀吉に敗れ土佐一国の領主となると金比羅から南光院を呼び戻し、延光寺を与えます。そのまま讃岐には捨て置かなかったようです。元親の南光院に対する信頼度がうかがえます。その後、延光寺は慶安四年(1651)の遷化まで、修験兼帯の真言寺とし運営されます。そして修験名は南光院が使われます。
南光院の当時の威勢ぶりを、後の史料から見てみましょう。
 南光院は大峰山中に「土州寺山南光院宿」という宿坊を持っていたようです。それは大峰山小笹(小篠)28宿のうちの第三宿で、二間×三間半粉葺の規模でした。延享五年(1748)藩社寺方の記録には次のように記されています。
「右宿私先祖より代々所持仕腕私邸支配之 山伏共入峯仕腕節此宿二て国家泰平万民快楽祈念仕候」

とあって、古くから大峰山に宿を持ち、それが大峰の峰入りの際に、配下の修験者に利用されていたと、由緒が主張されています。確かに延光寺は、清和天皇の御代に禁中の左近之 桜右近之橘を蘇生せた伝わるように、修験道の拠点として中世以来の歴史を持つ寺であったようです。
南光院 延光寺縁起1
延光寺縁起

  以上を時間系列で並べて見ます
1579年 長宗我部元親が西長尾城を攻略。長尾氏一族の宥雅は堺に亡命     土佐から南光院が呼ばれ、宥厳と改名し松尾寺(金比羅寺)に入る
1585年 長宗我部元親が秀吉に敗れ、土佐に退く
1591年 幡多郡大方町飯積寺から南尊上人(慶長三(1593)年没)延光寺に入院
1600年 南光院が長宗我部元親から寺山(延光寺)拝領し入院。南光院は、それまで自分が持っていた「南光院」を奥の院として、延光寺を修験兼帯の真言寺とする。
1651年 宗院遷化以後は修験兼帯を解き、延光寺から南光院は独立

江戸幕府が確立されると本山・当山派は、幕府や藩の御朱印を求めて争うようになります
  長宗我部家の滅亡、南光院は次第にその勢力を失っていきます。
それは、山内家の本山派優先という宗教政策があったようです。享保十四年(1729)の「土州高岡郡修験道名寄帳」には、次のように記されています。
「御国守松平土佐守豊敷公、播州伽耶院大僧正家之寄同行二て、他之先達江附属之修験壱人も無御座腕」
意訳変換しておくと
「土佐藩では山内豊敷公が、播州(兵庫県)伽耶院大僧正家に帰依しているので、他派の先達(修験者)はひとりもおりません」

と高岡郡等覚院の返答です。等覚院は郡下の院数四三、住一七人、合計60人の修験を支配していたようですが全員が本山派に属していたことが分かります。
文久四年(1864)の江戸役所への霞書札にも「土佐・伽耶院」あります。土佐修験は山内藩の下では、天台宗聖護院末播州伽耶院の下にありました。土佐修験が伽耶院配下の本山派となったのは元和年間、藩主忠義が伽耶院に帰依して、大峰山で柴燈護摩祈祷を行わせたことによるとされます。こうした中で長宗我部元親の保護を受けていた当山派の南光院は、山内藩になると衰退していったようです。
 南光院が大峰山中に宿を持って祈祷所としていたことは、先ほど見ました。ところがそれも荒廃したまま放置されるようになります。
 京醍醐寺三宝院御門跡役人中より再興仕侯様卜度々被申付候得とも 私儀至テ貧僧之儀自力難相叶 寛保元年奉願候処 右再興料として御金弐拾両拝領被為仰付 同三年二大峯登山仕再興仕候
意訳変換しておくと
 京都の醍醐寺三宝院御門跡役人より大峰山中の宿の再興について、度々申付けられていますが、私どもの貧僧には自力で再建することは適いません。寛保元年から奉願再興料として金20両を拝領できるように仰せつけていただければ、大峯登山の宿を再興致します

ここからは、醍醐寺からの度々の再建催促にも「貧僧」であるが故に応じられないこと。再建のために土佐藩からの援助を願い出るものです。南光院の零落ぶりがはっきりとうかがえます。これが寛保三(1743)年のことになります。

 凋落する当山派南光院に代って勢力を増してきたのが本山派龍光院です。
龍光院は、もと中村の一条公御家門で中納言住職で寺領百石寺地一石の祈願所でした。それが長宗我部氏になって寺領百石を取り上げられます。長宗我部家が滅亡し、山内家になると御仕置方支配となり、幕末の嘉永安政期には宿毛、中村、西土佐村、十和村に及ぶ修験41名を支配するようになります。この時に、南光院は18名です。
  中世末期から修験者は、武士勢力に隷属するようになるようです。
それは土佐でも例外ではなかったことが南光院の栄枯盛衰からうかがえます。土佐では、山内藩の宗教政策によって「当山派の衰微、本山派の隆盛」という逆転現象をうみだすことになります。
 同時にこの時期から大峰登山や土佐各霊山での修行もみられなくなったと研究者は考えているようです。大峰修行を忘れた修験は、在地で祈祷や札配布を行うようになります。しかし、近世末には、これら祈祷は人心を惑わすものとされ、明治元年高知藩は次のような禁止令をだしています。
 無レ筋祈祷・冗等不二相成儀ハ、兼々御触示被二御付置‘候処、近年予州石鉄山信仰ノ者有之、御境目ヲ潜り致一参詣甚シキュ至りテハ、同先達卜唱、異粧ノ姿ヲ以琳一徘徊動モスレハ無レ筋祈祷・兇等致シ、愚昧ノ者共ヲ為‘一相惑候 者有レ之趣相聞、不心得ノ至二俣。右等ノ儀ハ、地下役共精々取締可レ致、向後違背ノ者於い有レ之地下役共二至迄可為二越度事
意訳変換しておくと
祈祷などを行う事を禁止することは、以前から通達しているとおりである。ところが近年、伊予の石鎚山信仰の先達達(山伏)が、国境を越えて土佐に潜りこんでくるようになった。甚だしいのは先達と称して、異粧の姿で近隣を徘徊して祈祷を行い、愚昧者たちを一層惑わしている者がいると聞く。このような事は、地方役人の取り締まり不足でもある。今後、違反するものがあれば取り締まりに当たる役人の責任問題でもなる。
 このように石鎚信仰の修験者(山伏)たちの祈願祈祷を取締るように命じています。修験道は、神仏分離政策と共に「廃仏毀釈」される邪教として排除されていくことになります。南光院(宥厳)が院主として修験道化を進めた金毘羅大権現は、神道の神社として生き延びる道を選ぶことになります。南光院が金毘羅を離れてから約270年の年月が経ていました。

 最後に宥厳(南光院)が金毘羅大権現の正史には、どのように扱われているのかを見ておきましょう
 江戸時代後半になると長宗我部に支配され、土佐出身の修験道者に治められていたことは、金比羅大権現にとっては、公にはしたくないことだったようです。後の記録は、宥巌の在職を長宗我部が撤退した1585年までとして、以後は隠居としています。しかし、実際は1600年まで在職していたことが史料からは分かります。そして、江戸期になると宥巌の名前は忘れ去られてしまいます。元親寄進の仁王門も「逆木門」伝承として、元親を貶める話として流布されるようになるのとおなじ扱いかも知れません。宥厳は宥雅と同じように、歴代院主の中には含まれていません。
「宿毛市南光院」の画像検索結果
四国霊場延光寺 奥の院の現在の南光院

以上をまとめておくと
①長宗我部元親に呼ばれて金比羅の松尾寺住職となったのが土佐出身の南光院であった。
②彼は讃岐にやってくる前は、「四国の総先達」のトップとも云える存在であった。
③南光院は金比羅では宥厳と改名し、松尾寺の修験化と「四国鎮守の寺」化を進めた。
④長宗我部元親は、晩年の宥厳を土佐に呼び戻し、延光寺を与えた。
⑤延光寺は、長宗我部支配下では保護を受けて多くの寺領と配下の修験者を抱える「山伏寺」であった。
⑥しかし、新たに藩主となった山内家は聖護院との関係を重視し、本山派を保護した
⑦その結果、延光寺(南光院)は衰退していくことになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました
高木啓夫 土佐における修験  中四国の修験道所収
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長宗我部元親像
讃岐を征服した長宗我部元親は、支配者としてどのような統治政策をとったのでしょうか。
江戸時代に書かれた讃岐の神社仏閣の記録は「天正の長宗我部元親の兵火により焼かれる」という記録で埋め尽くされています。それは、織田信長の「比叡山焼討ち」に対する「罵詈雑言」にも似ています。歴史を書く側の社寺勢力を、敵に回した結果なのかもしれません。「破壊者」のみの側面が強調されているようです。
元親の讃岐支配は、数年という短いものでした。
しかし、元親は新たな讃岐の支配者たらんとしての新たな統治策を打ち出していたことが明らかになっています。新しい時代を開いていくためには「スクラップ & ビルド」で、破壊が必要になる場合もあります。しかし、破壊だけでは新しい時代は生まれません。新たな創造が必要になります。それを織田信長は行ったということが、戦後は認められるようになり「破壊者」から「英雄」へと見方が変わっていきました。元親の征服者としての「新たな創造」とは、なんだったのでしょうか?
金毘羅山への元親の宗教政策を、そんな視点から見ていくことにします。
 阿波三好支配下に置かれていた讃岐武士団は「小群雄割拠」状態で、「反土佐統一抵抗戦線」を組織することは出来ず「各個撃破」で攻略されていきます。
天正七年(1579)四月には、西讃守護代で天霧城主・香川信景は、戦わずして元親と和議を結びます。
 信景は、元親の次男の五郎次郎親和を娘の婿に迎えて、天霧城(多度津町)を譲り、形式的には隠居します。こうして、三豊・丸亀平野を睨む天霧城を戦わずして元親は手に入れます。そして「長宗我部=香川」同盟を形成します。これは、後の讃岐攻略を進める上で大きな役割を果たすことになります。讃岐の武将達は、最初は形だけの抵抗を見せ籠城をする者もいますが、多くの者は香川氏の斡旋を受けいれて元親の軍門に降ります。

土佐軍が丸亀平野に侵攻してきた時に、元親はどこに陣を敷いたのでしょうか?
まず考えられるのは、善通寺です。善通寺の近くには同盟関係を結んだ香川信景の居館や天霧山城が、近くにあります。天霧城攻防戦の時にも、阿波三好氏の本陣は善通寺が置かれました。しかし、善通寺は三好軍退陣の際に燃え落ちたとされます。その後は、江戸時代になるまで再建されずに放置されたままです。大軍を置くには不便なような気がします。
いくつかの歴史書には、琴平山の松尾寺に本陣を置いたと記されています。
それを裏付けるのが天正7年(1579)10月に、元親が「讃岐平定祈願」のために天額仕立ての矢を琴平山の松尾寺に奉納していることです。当時、松尾寺の建物群は無傷で残りました。長尾氏出身の宥雅によって建立されたばかりの観音堂も、金比羅堂も無傷で残っていました。
それでは、宥雅は、どうなったのでしょうか。
彼の本家である長尾氏は、一戦を交えた後に元親に下ったようです。しかし、宥雅はそれよりも早く逃げ出しています。後に生駒藩主となる生駒親正が聖護院内桂芳院にあてた文書は次のように記します。

洞雲(宥雅の別名)儀、太閤之御時大谷刑部少輔等へ走入(亡命)

ここからは宥雅が秀吉重臣の大谷刑部少輔を頼って、泉州堺へ逃げ出したことが分かります。院主である宥雅がいなくなった無住の松尾寺に、長宗我部元親は入ったのではないでしょうか。

土佐の『南路志』の寺山南光院の項には、次のように記されています。


「元祖 大隅南光院、讃州金毘羅に罷在(まかりあり)候処、元親公の御招きに従り、御国(土佐)へ参り、寺山一宇拝領

意訳変換しておくと

元祖の大隅南光院は、讃州の金毘羅に滞在中に、元親公の招きを受けて、御国(土佐)へ参り、寺山一宇を拝領した

ここからは、南光院(宥厳)が元親に招聘されて、金毘羅(松尾寺)の院主を任されたことが分かります。つまり、元親の山伏ブレーンの宥厳(南光院)が松尾寺の院主の座についたのです。これが「元親による松尾寺管理体制」の始まりになります。こうして松尾寺では、元親の手によって伽藍整備が次のように進められます。
天正十一年(1583) 松尾寺境内の三十番神社を修造。
  棟札には、「大檀那元親」・「大願主宥秀」
天正十二年(1584)6月 元親による讃岐平定
天正十二年(1584)10月9日 元親の松尾寺仁王堂の建立寄進
先ほど見たように4年前に讃岐平定を祈って、矢を松尾寺に奉納しています。その成就返礼の意味が仁王堂寄進には込められていたのでしょう。その棟札を見ておきましょう。

二天門棟札 長宗我部元親

金刀比羅宮(松尾寺)仁王堂(二天門)棟札 (長宗我部元親奉納)

中央に「上棟奉建立松尾寺仁王堂一宇、天正十二甲申年十月九日、
右に 大檀那大梵天王長曽我部元親公、
左に 大願主帝釈天王権大法印宗仁

その下には元親の3人の息子達の名前が並びます。そこには天霧城の香川氏を継いだ次男「五郎次郎」の名前も見えます。さらに下には、大工の名「大工仲原朝臣金家」「小工藤原朝臣金国」が見えます。
「天正十二甲申年十月九日」という日付も気になります。
10月9日というのは、現在でも金刀比羅宮の大祭日です。金毘羅大祭は、もともとは三十番社に伝わるお奉りでした。それを、金比羅堂の大祭に取り込んだことは、以前にお話ししました。その大祭日を選んで、奉納されています。
棟札の裏側(左)も見ておきましょう。

二天門棟札 長宗我部元親

裏側には「供僧」として榎井坊など6つの寺と坊の名前が並びます。ここに出てくる坊や寺は、天狗信仰を持っていた修験者たちの坊や寺だったと研究者は考えています。しかし、よく見ると江戸時代に金光院に仕えることになる院とは違います。長宗我部時代と江戸時代では、一山の構成メンバーが替わっているのです。ここに記されているのは長宗我部元親によってしめいされた「土佐占領下のメンバー」だと私は考えています。
 さらに「鍛治大工図  多度津伝左衛門」・「瓦大工宇多津三郎左衛門」と多度津や宇多津の鍛治大工と瓦大工の名が記されています。
多度津は、長宗我部元親と同盟関係になった香川氏の拠点です。香川氏配下の職人が数多く参加しています。同時に、この時期の伽藍整備が香川氏の手によって進められたことがうかがえます。二天門が香川氏から長宗我部元親への「お祝い」であったと私は考えています。
なお一番下右に「当寺西林坊」とあります。金光院という名前はでてきません。
当時の松尾寺の中心院房は
西林坊であったことが分かります。ちなみに、西林坊は次の宥盛の時代に追放されたとされる院房です。
ここでも土佐軍の引き上げ後に、松尾寺をとりまく勢力が大きく変わったことがうかがえます。土佐派の粛正追放が宥盛によって行われた可能性があります。そして、ここに出てくる修験者や子房は追放され、宥盛肝いりの天狗信仰の修験者たちが取り巻きを形成すると私は考えています。
裏側左には、次のように記します。(意訳)

「象頭山には瓦にする土はないのに、宥厳の加護によってあらわれた。」

土佐出身の宥厳をたたえる表現で、「霊験のある山伏の指導者」としてカリスマ化しようとする意図がうかがえます。同時に、二天門の瓦は周辺の土が用いられたというのですから、近辺に瓦窯が作られたことが分かります。
 研究者が注目するのは、元親の寄進した「天額仕立ての矢」「松尾寺境内の三十番神社」「松尾寺境内の仁王堂」の寄進先が金毘羅堂ではなく松尾寺であることです。ここには「金毘羅」も金光院も登場しません。これをどう考えればいいのでしょうか?
 宥雅が松尾寺の観音堂に登る石段の北脇に、金毘羅堂を建てた元亀四年(1573)のことです。つまり、この時点では金比羅神はデビューから10年しか経っていないのです。知名度はまだまだない「新人」だったのです。この時点では松尾山の宗教施設の中心は松尾寺であったようです。元親の寄進先は、中心施設の松尾寺に向けられたとしておきます。

多宝塔
元禄年間には二天門は、薬師堂の前にあった

さて、仁天門の棟札をもう一度見てみましょう
二天門棟札 長宗我部元親
二天門棟札(讃岐国名勝図会)
棟札の表の檀那と願主に、研究者は注目します。
檀那は「大梵天王 長曽我部元親公」
願主は「帝釈天王 権大法印宗信」
「大梵天王」「帝釈天王」とは何者なのでしょうか?
古代インド神話では、次の三神一体です。
①創造を司る神ブラフマー 梵天
②維持を司る神がヴィシユヌ
③破壊を司るシヴァ神
ブラフマーは、宇宙の創造を司る「世界の主」であり、万有の根源を神格化した神です。これが仏教にとり入れられて梵天となり、釈尊の守護者とされるようになります。そして、梵天は帝釈天と対となって、釈尊のそばに侍するものとされます。梵天の住み家は、須弥山の上の天上で、人間界を支配する神として敬われ、諸天の中で、最高の地位にあるとされたます。
 一方、雷神インドラは帝釈天となり、梵天とともに釈尊のそばに仕えます。帝釈天も住み家は、須弥山上で、その帝釈宮に住みます。日本に伝わった帝釈天は、自然現象を左右する神であるとされ、雨を降らす神だとか太陽神だと考えられるようになります。帝釈天の配下で、須弥山中腹の四門を守るのが四天王で、東は持国天、南は増長天、西は広目天、北は多聞天が配されます。ちなみに北を護る多聞天=毘沙門天であり、多聞天が独尊で祀られる時、毘沙門天といわれるようになります。
 世界の主である梵天にあやかって「大梵天王」と記したのは、元親の宗教的ブレーンたちでしょう。

そして、その中心人物と目される宗信は「大願主帝釈天王権大法印宗信」と自分を帝釈天王と称するのです。元親を世界の主の大梵天王と称させたのは、この人物のようです。宗信は、このような表現で元親に「天下への野心」を焚きつけたのかもしれません。私が元親の小説や映画を作るならば、松尾寺仁王門建立シーンでの元親と宗信のやりとりは是非入れたいところです。 同時に、松尾寺は讃岐における宗教支配の拠点センターとしての役割をになうことが求められるようになります。

土佐出身の山伏指導者による松尾寺の管理・経営
先ほども述べたように元親の軍には、次のように多数の山伏が従っていたことが史料から分かります。
①三十番神社の棟札に名の見える宥秀
②仁王堂の棟札に名の見える宗信・宥厳
③帝釈天王を称する宗仁は、山伏たちを束ねる頭領
 ①の宥秀は幡多郡横瀬村の山本紀伊守の子で、九歳の時、足摺山で出家して僧侶となります。足摺山は補陀落渡海の地で土佐修験道のひとつの拠点です。
 ②の宥厳も大隅南光院と名乗る山伏でした。元親に従軍して松尾寺を任され、名前も宥厳とあらため松尾寺の住職となったことは、先ほど述べたとおりです。
「山伏」というと「流れ者」というイメージが今では広がっています。しかし、当時の山伏(修験者)は「金比羅堂」を創設した宥雅のように高野山で修行と修学を重ねた学僧もいました。中央の学問所で学んだ知識と人的ネットワークを持った僧侶は、祐筆(秘書集団)としてだけでなく戦国大名の情報収集や外交工作には欠かせないものでした。そこから毛利藩の僧侶から戦国大名にまで成り上がる恵瓊のような人物も現れてくるのでしょう。

 長宗我部元親は、僧侶の中でも修験道の山伏を重用したようです。彼らは、四国辺路など修行のために四国中の行場を自由に往来していました。これが敵国に攻め入る際には、情報収集活動や道案内を行うには適任でした。また戦功の記録係りや戦死者の弔い係りの役割も果たします。
 そして、松尾寺は元親に従う山伏達の集結する場となります。
これが、生まれたばかりの金比羅神の「成長」におおきな影響を与えたと私は考えています。
 ちなみに、金毘羅大権現と呼ばれた江戸時代は、阿波三好の箸蔵寺は「金毘羅さんの奥宮」と呼ばれ、非常に強い関係がありました。ここは阿波修験道の中心地であり、山伏がおおく住む拠点でもありました。元親の讃岐・阿波攻略の際に、彼らの果たした役割を考えて見るのも面白い所です。
天正十三年(1582)には、伊予の河野通直を降し、四国統一を成し遂げます。
 このような中で長宗我部元親は、金比羅を四国の宗教センターとの機能をもたせようとします。それを実現するために動いたのが、宥厳を中心とする土佐出身の修験者たちでした。権力者の意向を組んだ宗教センター作りが進められます。宥厳と供に、これを進めたのが宥厳の兄弟弟子である宥盛です。宥盛については、後に話しますので詳しくは述べませんが、この時の体験が讃岐藩主としてやってきた生駒氏との対応に活かされることになります。彼らは保護と寄進を訴えるだけでなく、藩に必要な宗教政策を提言するだけの知識と気力が長宗我部元親とのやりとりの中で養われていたのだと思います。それが生駒氏や松平氏の金毘羅大権現への保護と寄進につながるのでしょう。

参考文献  羽床正明       長宗我部元親天下統一の野望 こと比ら 63号

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