瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > 仲南エリア

綾子踊公開公演の中止について
下記の通り実施予定だった綾子踊は、台風接近のため中止となりました。残念です。2年後の公開に向けてまた準備を進めていきます。


IMG_6568佐文公民館

       佐文公民館(まんのう町佐文) 火の見櫓
ユネスコ文化遺産に登録されて初めての公開奉納が以下の日程で行われます。
IMG_6569佐文公民館

日 時 2024年9月1日(日) 10:00~ (雨天中止)
場 所 佐文賀茂神社(まんのう町佐文)
日 程  9:00  受付開始
   10:00  公民館前出発 加茂神社への入庭
   10:15  保存会長による由来口上
   10:20  棒・薙刀問答
   10:30  芸司口上 踊り開始
  ①水の踊 ②四国船 ③綾子踊  ④小鼓
 小休止
  ⑤花籠  ⑥鳥籠  ⑦たま坂  ⑧六蝶子(ちょうし)
 小休止                   
  ⑨京絹  ⑩塩飽船  ⑪忍びの踊り ⑫かえりの歌
暑さ対策のために、今年は2回の休憩をとって、3回に分けて踊ります。11:40頃 終了予定 その後出演者の記念写真

「緩くて眠たくなる」とも言われますが、三味線が登場する前の中世の風流踊りの芸態を残しているともされます。この「緩さ・のんびりさ」が中世風流踊りの「神髄」かもしれません。「中世を感じたい人」や時間と興味のある方の来訪をお待ちしています。

① 駐車場については、青い法被を着た係の指示に従ってください。(農道駐車となります。)
② 先着100名の方に、以下のうちわかクリアケースを記念品としてお渡しします。神社の受付まで申し出て下さい。

P1270160
綾子踊のうちわ(4種類)

まんのう町山脇
まんのう町山脇
まんのう町の山脇は、JR土讃線の財田駅の東側に拡がる盆地で、ここには念仏踊りが伝えられています。この念仏踊りがどんな系譜のものだったのかを今回は見ていくことにします。テキストは、「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」です。

最初に滝宮念仏踊りをめぐる動きについて、次のように押さえておきます。
①江戸時代を通じて滝宮では「滝宮神社(牛頭天王社)+天満宮+龍燈院滝宮寺」が神仏混淆的な宗教センターを形成し、龍燈寺の社僧が管理運営を行ってきた。
②その布教活動として社僧(修験者)が、蘇民将来のお札などを配布するとともに、祖先供養のために念仏踊りを村々に伝えた。
③社僧達は「芸能運搬者」として、念仏踊りを村々に伝えた。
④村々は連合して踊組を組織し、夏越しの供養に風流盆踊りを惣社に奉納するようになった。
⑤その踊りは牛頭天王信仰と菅原道真の天神信仰の中心でもあった滝宮にも奉納されるようになった。
滝宮への奉納を行っていたのは、次のような踊組でした。
A北条組念仏踊り(坂出市)
B滝宮組念仏踊り(綾歌町)
C坂本組念仏踊り(丸亀市)
D七箇村組念仏踊り(琴平町+まんのう町)
E南鴨組念仏踊り(生駒藩騒動後、讃岐の東西分離後には停止)
これらの地域は、滝宮牛頭天王社の信仰エリアであったことになります。
 さて山脇集落に話を戻します。山脇はこのうちのDの七箇村組に所属していたことが資料から分かります。それがどうして、「山脇念仏踊」を踊り出したのでしょうか?

大正時代に書かれた「念仏踊り略縁起」には、次のように記されています。
抑此の念仏踊は日本念佛の元祖法然上人の始め給ひしものなり。上人御年七十五歳の御時、流罪の御身となりて建永二年二月二十六日護岐の国塩飽の地頭駿河権守高階保速の方に御着。それより日を経て善通寺並に金昆羅権現へ御参詣の働り南の方を眺め給へば紫の雲のたなびく所あり。定めて有縁の霊地ならんと即ち宮田の西光寺へ歩を運ばせ給ひ御滞留。寒くとも袂に入れよ西の風弥陀の国より吹くと思へばと御詠ありて日夜衆生に念仏を動め給へ共其の頃一般の人心信仰の念薄く念仏を唱ふるもの砂かりき。然るに不思議なるかな上人念仏御修業の御徳にて岸石に泉を得給ひ、或は庭前の松に夜な夜な明星天下りて影向し給へり。又其の年夏照り打続き草木将に枯死せんとするに至りて上人日く念仏を唱ふれば必ず雨降るべしと。それより南方山脇と云ふ在所へ歩を運び給ひ、丘上に衆人を集め手踊りに念仏を合し盛に踊らしめたるに忽ち雨降りければ、人々生還の思ひをなして喜悦すること一方ならず。それより念仏踊りと称して後生に永く伝へられ、封建の昔は非常なる格式を与へられ遠く滝宮に至りて踊るを例とせられ、史実に残る西七ケ村の念仏踊り乃ち之れなり。
上人の衆人を集め給ひし丘山は山脇より阿波の国東山に超ゆる街道の畔の南に轟瀧眼下に上讃本線さぬき財田駅更に西方は遠く遂灘眺望絶佳の地にて法然上人をまつる廣場通称念仏場乃ちこの由緒
を樽へる踊り磯祥の地なり。時うつり世は変りて明治の文化開けて幾星霜全く村人より忘れられ
んとせしが、大正の末期古老有志相諮りて比の曲緒ある念仏躍を復活し、上人の御徳を偲ぶことを得たり。では謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませぅ。合掌
  意訳変換しておくと
そもそも、この念仏踊は日本念佛の元祖法然上人が始めたものである。上人75歳の時に、讃岐流罪となって、建永2年2月26日に護岐国塩飽の地頭である駿河権守高階保速の方に到着した。その後に、善通寺や金昆羅権現へ参詣した際に、南方を眺めていると紫の雲のたなびく所が見えた。これは有縁の霊地だろうと、宮田の西光寺(法然堂)までやってきて留まった。
その時の御詠が
寒くとも袂に入れよ西の風 弥陀の国より吹くと思へば
こうして日夜、衆生に念仏を勧めた。しかし、その頃の人々は信仰の念が薄く、念仏を唱ふるものも少なかった。ところが不思議なことに、上人の念仏修業の徳によって、岸石から泉が湧き、庭前の松に夜な夜な明星が天下りて影向したりした。また、その夏は旱魃で草木が枯れ、作物も育たない有様であった。そこで上人は「念仏を唱えれば必ず雨降るべし」と云い。宮田の南方の山脇まで歩を進め、丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。するとたちまち雨が降り、人々生き返る思いと喜悦した。以後、これを念仏踊りと称して後生に永く伝へることにした。
 江戸時代には、高い格式を与えられ滝宮にも奉納されたと伝えられる。史実に残る西七ケ村の念仏踊りがそれである。
上人が衆人を集めた丘山は、山脇から阿波の国東山に続く街道沿いの岡で、南に轟(とどろき)滝、西には土讃本線さぬき財田駅、さらに遠く燧灘まで見える眺望絶佳の地である。この丘が法然上人をまつる廣場(通称念仏場)であり、この由緒を伝える踊り発祥の地である。時は移り、世は変わってこのことは村人から忘れ去られようとしている。そこで大正の末期、古老有志で相談し、由緒ある念仏踊りを復活し、上人の御徳を偲ぶこととした。謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませう。合掌
以上を要約しておくと
①讃岐に流刑となった法然は紫の雲のたなびくのを見て宮田の法然堂(西光寺)に留まった。
②夏の旱魃に法然は山脇の丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。
③するとたちまち雨が降り、これを念仏踊りと称して後生伝へた。
④これが七箇村念仏踊りの起源で、滝宮へも奉納された格式高い念仏踊りである。
⑤忘れ去られようとしていた念仏踊りを大正末年に復活させ、法然上人を偲ぶことにした。
宮田の法然堂
まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
ここでは山脇念仏踊は、法然上人によって始められたことが強調されています。ちなみに雨乞い踊りの由来に登場する伝播者を振り返っておくと、次のようになります。
A 滝宮念仏踊  菅原道真の雨乞成就に感謝して
B 佐文綾子踊  弘法大師が綾子に伝授
C 山脇念仏踊  法然上人
この「伝書」には、念仏踊りの踊り方や下知役の踊り方などの指南書的な内容になっています。大正末年には、昭和9・14年に匹敵する大旱魃が襲ってきました。そのため県などでも為す術がなくて、市町村に雨乞踊りの復活を通達を出しています。こうして何十年ぶりかに復活した雨乞い踊りを残すための踊り方指南書や、持ち物製作手順や由緒書きなどが新たに書かれます。佐文の尾﨑清甫が最初に綾子踊に関する記録を残すのも大正時代のことでした。ここでは、各地で雨乞い踊復活運動が起こり、新たな記録が残されたことを押さえておきます。

この伝書には「法然が山脇で念仏踊りを始めた。」
「念仏踊りの発祥の地が山脇だ。」、
そして山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊に「発展」したのだとされていました。これを検証しておきます。
まず、七箇村組念仏踊りのメンバーを見ると、「旧仲南町 + 旧満濃町の岸の上・真野・吉野 + 旧天領(五条・榎井・苗田・西山」など、数多くの村々の連合体だったことが次の表からは分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

その中で、山脇村に対しても役割や動員人数が割り当てられています。山脇は西七箇村に属しますが、構成メンバーの一員にしか過ぎません。ここからは、山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊りに成長・発展したとは云えないようです。それよりも踊られなくなった七箇念仏踊りを、山脇だけで復活させたと見た方が良さそうです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

   諏訪大明神(真野諏訪神社)に奉納された七箇村組念仏踊

どうして七箇念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか? 
①滝宮牛頭天王社の龍燈寺が廃仏毀釈運動の中で廃寺となり、滝宮念仏踊りの主催者がいなくなった
②七箇念仏踊自体が「天領+丸亀藩+高松藩」領の寄せ集め集団で内紛が絶えなかったこと
以上の理由から七箇念仏踊りは、空中分解してしまいます。そのような中で、西七箇村の最も西で、三豊郡境に接する山脇集落では、自分たちだけで念仏踊りを復活させようとしたのだと研究者は考えています。これは佐文の綾子踊も同じような歩みを辿ります。佐文の場合は、いろいろな騒動を組内で起こし、主要な役割を失っていきます。そのため佐文単独で風流踊系の綾子踊りを導入していたようです。どちらにしても、山脇と佐文という七箇村組の「西方辺境」の二つの集落が、自分たちだけで雨乞踊りを復活させようとしたのです。

龍燈院・滝宮神社
 滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)と天満宮を管理していたのは龍燈院

まんのう町民具館(旧仲南北小学校)の展示室には、山脇念仏踊の鉦がひとつ保存されています。
鉦の縁に「西七ケ村、山脇、香川景親」と彫り込まれています。この鉦の他にも、山脇にはこれと同じ鉦を保管する家が10軒ほどあると聞きます。この鉦からは次のような事が分かります。
①鉦の中側には「池下氏」と墨書があるが、年代がないのでいつのものかは分からない
②鉦の外側に紐をつける耳があり、経の糸を織としてそれに持ち手をつけてある。
③形や大きさは、坂本念仏踊のものと同じもの
なお、七箇念仏踊の「鉦打」は、60人。そのうち山脇が属する西七ケ村には21人が割り当てられています。

以上をまとめておきます
①大正時代に書かれた山脇念仏踊りの由来には、讃岐に流刑となった法然が、旱魃の年に山脇の丘の上に衆人を集めて、念仏踊りを踊らせたと書かれている
②それが山脇念仏踊の始まりで、これが後世に七箇村念仏踊りとして、滝宮へも奉納されるようになったとする。
③しかし、史料的には山脇は七箇念仏踊りの一員に過ぎず、中心的な役割を果たしていたわけではない。
④明治に七箇村組念仏踊が解体した中で、大正期の大旱魃の際に山脇が単独で念仏踊りを復活させたものが現在に継承されていると研究者は考えている。
どちらにしても、明治以後に踊られなくなり、忘れ去られようとしていた讃岐各地の雨乞い踊りが一時的に蘇るのが、大正の大旱魃期でした。県が市町村に、雨乞踊りや祈願の復活実施を指示したのが、そのきっかけです。その結果、多くの村々で雨乞い踊りが復活します。それは山脇や佐文でも同じでした。その際に、きちんとした資料や由来書を残したところが現在にまで継承されているように私には思えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」
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      塩入駅前
 塩入駅にやってきました。
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増田穣三像

ここには駅前広場に忘れ去られたかのように、銅像がポツンと建っています。
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これは戦前に衆議議員を務めた増田穣三の銅像です。
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増田穣三像台座碑文左側
 台座には3面にわたってびっしりと碑文が刻まれています。碑文を、最初に見ておきましょう。
  春日 増田伝二郎の長男。秋峰と号す。翁姓は増田 安政5年8月15日を持って讃の琴平の東南七箇村に生る。伝次郎長広の長男にして母は近石氏なり 初め喜代太郎と称し後穣三と改む。秋峰洗耳は其に其号なり 幼にして頴悟俊敏 日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め 又如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり 
明治23年 村会議員と為り 31年 名誉村長に推され又琴平榎井神野七箇一町三村道路改修組合長と為り日夜力を郷土の開発に尽くす 33年 香川県会議員に挙げられ爾後当選三回に及ぶ 此の間参事会員副議長議長等に進展して能く其職務を全うす 35年 郷村小学校敷地を買収して校舎を築き以て児童教育の根源を定め又同村基本財産たる山村三百余町歩を購入して禁養の端を開き以て副産物の増殖を図れり 45年 衆議院議員に挙げられ 大正4年再び選ばれて倍々国事に盡痙する所あり 其年十一月大礼参列の光栄を荷ふ 是より先四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走効績最も大なりと為す。翁の事に当るや熱実周到其の企画する所一一肯?に中る故に衆望常に翁に帰す。
今年八十にして康健壮者の如く猶花道を嗜みて日々風雅を提唱す郷党の有志百謀って翁の寿像を造り以て不朽の功労に酬いんとす 。 翁と姻戚の間に在り遂に不文を顧み字其行状を綴ると云爾
昭和十二年五月
                東京 梅園良正 撰書
  現代語訳すると
安政元(1854)年8月15日生 昭和14(1939)年2月22日)没
①七箇村春日の生まれで、増田伝次郎の長男。秋峰と号す。
②安政5年8月15日に讃岐琴平の東南に位置する七箇村に生まれた。母は、近石氏。穣三は、若い頃は喜代太郎と称していたが30歳を過ぎて穣三と改名した。秋峰は譲三の号である。幼い時から理解が早く賢く、才知がすぐれていて判断や行動もすばやかった。日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾などに就いて和漢の学を修め、③また如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の奥義を究めた。そして「如松斉流(未生流)」の華道家元を継承し、多くの門下生を育てた。④明治23年に、開設された七箇村の村会議員となり、明治31年には2代村長に推され就任し、琴平・榎井・神野・七箇の一町三村道路改修組合長として、道路建設等の郷土の開発に力を尽くした。⑤明治33年には、香川県会議員に挙げられ当選三回に及んだ。その間に県参事会員や副議長・議長等の要職に就き、その職務を全うした。
 明治35年には、郷村小学校敷地を買収して校舎を築き、さらに児童教育の根源を定めるとともに、同村基本財産となる山村三百余町歩を購入して、山林活用と副産物の生産を図った。⑥明治45年には、衆議院議員に初当選し、大正4年には再選し、国事に尽くした。大正11年1月には大礼参列の光栄を賜った。これより先には四国縦貫鉄道期成同盟会長に推され東奔西走し、土讃線のルート決定に大きな功績を残した。譲三氏は、用意周到で考え抜かれた計画案を持って事に当たるので、企画した物事が円滑に進むことが多く、多くの人々の衆望を集めていた。 
 ⑦増田穣三氏は今年80歳にもかかわらず壮健で、花道を愛し日々風雅を求めている。ここに郷党の有志を募って穣三翁の寿像を造り、不朽の功労に酬いたいと思う。⑧私は翁と姻戚の間にあるので、この碑文選書を書くことになった。
昭和十二年五月 
      東京 梅園良正(註・宮内庁書記官) 撰書
この碑文からは、次のようなことが分かります。
①安政元(1854)年8月15日生で、明治維新を13歳で迎えた。大久保諶之丞より10歳下
②父は七箇村春日の増田伝次郎の長男で、母は近石氏出身
③宮田の法然堂住職の丹波法橋から華道を学び、「如松斉流」の家元を継承
④村議会開設時からのメンバーで、2代目七箇村村長に就任し、県道4号東山線開通に尽力
⑤村長を兼務しながら県会議員を5期務め、議長も経験
⑥衆議員議員を2期務め、土讃線のルート決定に大きな役割を果たした
⑦この像は1937(昭和12)年、生前の80歳の時に建立された。
⑧揮毫は松園良正(宮内庁書記官)で、明治の著名人の碑文を数多く残している著名な書道家

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増田穣三像台座プレート 「銅像再建 昭和38年3月」

増田穣三の銅像について
1937(昭和12)年5月 等身大像を七箇村役場(現協栄農協七箇支所)に生前に建立。
1939(昭和14)年2月 高松で歿、七箇村村葬(村長・増田一良)で手厚く葬られた。
1943(昭和18)年5月 戦時中の金属供出のため銅像撤去。
1963(昭和38)年3月 塩入駅前に再建。顕彰碑文は、昭和12年のものを再用。
前回見た山下谷次像と建立された時期を比較すると、競い合うように2つの像は建立されたことが分かります。その経緯を整理すると次のようになります。1936年に山下谷次が亡くなり、十郷村で銅像建立事業が始まる。これに対して七箇村村長の増田一良は、増田穣三像の「生前建立計画」を進めて、一年早く建立。しかし、それも5年後に戦時中の「金属供出」により奪われる。谷次の銅像は教え子達によって昭和27年の17回忌に元の位置に再建された。増田穣三の再建は十年遅れになる。それはもとあった役場前ではなく塩入駅前であった。その際に、台座は以前のものを使って再建された。

イメージ 4
増田穣三(県議時代)

増田穣三の風貌については、当時の新聞記者は次のように記します。
「躰幹短小なるも能く四肢五体の釣合いを保ち、秀麗の面貌と軽快の挙措とは能く典雅の風采を形造し、鼻下の疎髭と極めて稀薄なる頭髪とは相補いてその地位を表彰す」
 
体格は小さいけれどもハンサムで威厳ある風格を示すという所でしょうか。ところがこの銅像はなで肩の和服姿に、左手に扇子を持ち駅の方を向いています。
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扇子をもつ増田穣三像
私の第1印象は、「威張っていない。威厳を感じさせない。政治家らしくない像」で「田舎の品のあるおじいちゃん」の風情。政治家としてよりも、華道の師匠さんとしての姿を表しているように感じます。彼は若い頃は、呉服屋の若旦那でもあったようで着物姿が似合っています。
増田穣三4
左は戦後の再建像(原鋳造にて:三豊市山本町辻) 右は代議士時代

この像は穣三の生前80歳の時に作られたもの。代議士時代の姿を選ばなかったのは、どうしてだろうか。
増田穣三の業績等については、評伝にしるしましたので今回は省略します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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  今から99年前の1923(大正12)年5月21日に、琴平-財田間の鉄道が開通しました。
琴平駅2
財田への延長と供に姿を現した金刀比羅停留所(現琴平駅)
開通を祝する当時の新聞を見ておきましょう。(現代語意訳)
徳島へ・高知へ 一歩を進めた四国縦断鉄道 
琴平・讃岐財田間8里は今日開通 総工費130万円
香川・徳島の握手は大正16年頃の予定。 (以下本文)
 土讃線琴平財田間8里は21日開通となったがこの工事は大正9年3月に起工し、第一工区琴平塩入間四里と大麻の分岐点から琴平新駅まで一哩は京都市西松組が土工橋梁等を25万余円で請負い10年6月に竣工。また第ニ工区塩入・財田間三里九分も同組が43万円で請負、10年2月起工し11年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の最初の主任三原技手後の主任は佐藤技手であった。
 工事の内の橋梁は第一金倉川60尺2連、第二金倉川60尺1連・照井川40尺2連・財田川65尺5連・多治川50尺1連などが大きい方である。切り通しの最高は十郷大口の55尺、山脇の165間などで8ケ所あった。盛土の最高は財田川付近にある。
ここからは、総工費が130万円で3年間の工期の末に、琴平ー財田間が完成したこと、その区間の橋梁や切通部分などが分かります。

 財田に向かう乗客は①新琴平駅で列車を乗り換える。琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ、岸の上を経て真野に抜けて行く。この間は、少し登りで、田園の中を南に進む。左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入り、福良見を過ぎ十郷村字帆山にある②塩入駅に着く。塩入駅は、西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道につながる交通要衝の地に作られている。この駅から満濃池へは東へ約1,7㎞、七箇村の福良見・照井・春日・本目へはわずかである。この附近の産物は木炭薪米穀類である。
 塩入駅からさらに西に向かい十郷村を横断し、後山・大口を経て大口川を越える。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上り、③17mの高い切通し④高い築堤の上を走りつつ、⑤橋上から眺めも良い財田川を渡り、約300mの長い切取しを過ぎて山脇に入る。帰来川を渡ると間もなく財田村字荒戸にある⑥讃岐財田駅に着く…(以下略)
 番号をつけた部分を補足しておきます。

DSC01471
1923年完成の金刀比羅停車場(琴平駅)
①の新琴平駅が現在の琴平駅です。それまでは、現在の琴参閣の所にあったものが琴平市街を抜けるために、現在地に移動してきました。
この駅の建築費は13万円で、総工費の1/10は、この駅舎の建築費にあたります。西日本では有数の立派な駅だったようです。
塩入駅

②の塩入駅周辺では、東山峠を越えて阿波昼間との里道が開通したばかりでした。そのため阿波との関係の深い宿場街的な塩入の名前がつけられます。阿波を後背地として、阿波の人達の利用も考えていたようです。
③の切通しは、山内うどんの西側の追上と黒川駅までの区間です。ここから出た土砂がトロッコで塩入駅方面に運ばれ線路が敷かれていきます。
琴平駅~黒川駅周辺> JR四国 鉄道のある風景
黒川駅(黒川築堤の上に戦後できた駅)
④の高い築堤には、現在は黒川駅があります。ちなみに黒川駅が、ここに姿を現すのは戦後のことです。

土讃線財田川鉄橋
黒川鉄橋
⑤は、黒川鉄橋で当時としては最新技術の賜で巨費が投じられました。同じ時期に作られた琴電琴平線の土器川橋梁や香東川橋梁は、旧来の石積スタイルの橋脚がもちいられていますが、ここではコンクリート橋脚がすでに使われています。それが現役で今も使われています。

土讃線・讃岐財田駅-さいきの駅舎訪問
讃岐財田駅
⑥の財田(さいだ)駅が終着駅でした。郵便や鉄道荷物も扱うので、職員の数は45人もいたようです。池田方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えるようになります。その宿場として財田の戸川は、発展していきます。同じように、塩入街道を通じて阿波を後背地に持つ塩入も、この時期に発展します。阿波の人とモノが塩入駅を利用するようになったからです。
 開通当時の時刻表を見てみましょう。
琴平発の始発が5時47分、その列車が財田駅に到着するのが6時10分。折り返し始発便として6時25分に出発します。一日6便の折り返し運転で、琴平と讃岐財田が30分程度で結ばれました。
 これによって、樅の木峠を越えていた馬車は廃業になります。追上や黒川の茶屋も店終いです。交通システムの大変革が起きたのです。
  1923年に財田まで鉄道が延び、現在の琴平・塩入・財田の3つの駅が開業しました。来年は、その百周年になります。20世紀の鉄道の時代から自動車の時代への転換を、これらの駅は見守り続けて来たのかもしれません。
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土讃線が琴平から讃岐財田駅まで伸びたのはいつ? 

明治22(1889)年5月21日に、丸亀・琴平を結ぶ讃岐鉄道が開通します。多度津駅構内での式典に参列した大久保諶之丞は祝辞を述べ「鉄道四国循環と瀬戸大橋架橋構想」を披露します。そして、8年後には多度津から高松へと線路は延びていきます。

イメージ 11
右下に豆機関車が終点琴平駅に煙をあげて走っているのが描かれている

 しかし、琴平から南へ線路は伸びていくのは、約30年後の大正年間になってからです。まずは、琴平ー讃岐財田間の工事が始まります。それが猪ノ鼻トンネルを越えて池田へとつながり、さらに大歩危の渓谷を越えて土佐とつながっていきます。完成は昭和の初めのことになります。土讃線の進捗状況を、年表で確認しておきましょう。
1919 大正8年3月 琴平-土佐山田間の路線決定
1919 9月 実測開始 
1920 2月 高松-琴平間の「コトデン鉄道申請」に免許状の交付。しかし第一次世界大戦の不況下で着工は大幅遅延
1920 4月1日 土讃鉄道工事起工祝賀会開催
1920 4月3日 土讃線琴平~財田着工。
1923 5月21日 琴平-讃岐財田間開通 琴平駅が移転。
1929 昭和4年4月28日 財田-阿波池田間完成。
1935 11月28日 小歩危でつながり、全通。
 路線決定から測量を経て、起工式が行われ着工するのが1920年4月3日でした。その日を間近に控えた琴平では、祝賀のための準備が進められています。当時の新聞は、次のように伝えています。
大正9年(1920年)3月29日付け 土讃鉄道起工決定せる余興と装飾プラン(意訳)
琴平町での土讃鉄道起工祝賀については、理事者を始め一般町民も含めて準備にいそしんでいる。宴会は1日午後1時より町立公会堂で開かれ、鉄道院総裁を始め朝野の有力者300名を招待している。そのための余興及町内の装飾は次のようなものが準備中である
一曰より三曰間煙花百発打揚げ
一曰より三曰間東西両券芸妓手踊
一曰は公会堂、二曰は琴平駅前に花相撲
一曰 昼小学生の国旗行列・夜提灯行列
三曰 本社支局主催のマラソン競争
一曰より三曰間 町内各戸丸金印入の旗を町内的に立て軒提灯を出す
前記の内祝賀宴会は晴雨に拘らず行ふも其他は雨天順延す
坂町の装飾は松の枝に短冊を附し軒下に吊す
内町は町の所に構造電気を作り夫れに千燭光の電燈を点す
小松町は町内軒から軒へ万国旗を廻す
通町は上組は花の棚中組下組は花章
神明町も桜の花傘
金沢町は桜の腹這,
新町旭町は桜の大造花

 花火に・芸子の踊り・マラソン・国旗や提灯行列、そして街毎の趣向を凝らした飾り付けと、祝賀式を盛り上げようとするプログラムが目白押しです。そして、当日の起工式の様子は次のように奉じられています。
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着工記念行事 屋台と芸子さんのパレード? 
大正9年(1920年)4月3日付け 起工祝賀会
美を尽くした土讃鉄道起工祝賀会は、春雨煙る琴平の名物呼物のマラソソ競争は三日に挙行 
琴平町は一日午後一時より町立公会堂にて土讃鉄道起工祝賀会が開かれた。公園入口は線門を設け「祝鉄道起工」の扁額を掲げ、公会堂前には高く万国旗を掲げ、その入口は丸金の旗を交叉し、堂内には無数の万国旗を蜘線手に吊り、沢原町長の式辞・来賓の祝辞があり、式は終了した。それより会場を琴平座に移し、宴に入り東西両券芸妓の手踊数番が舞われた。その後、散会したのは午後四時なりし。

 工事はどこを起点にスタートしたの?

 こうして4月3日に、工事は着工します。工事を請け負ったのは京都の西松組でした。工事は、どこから進められたのでしょうか?着工から半年あまり経った進捗状況を次のように伝えています。

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三坂山踏切からの象頭山と土讃線

 大正九年(1920)10月13日付け 土讃線鉄道工事進捗 
土讃線の延長工事は、三坂山から七箇村帆山新駅までの一里半(約6㎞)の工事は、すでに八分程度は終わっている。三坂峠西端から琴平新駅構内までの工事も半分程度は終了している。工事にあたっては三坂山より東の神野方面にはトロッコで土砂を運び、西の琴平新駅方面には豆機関車で運搬している。また、新駅から旧線の分岐点である大麻の工事は、来月下旬頃に着工予定である。
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土讃線の切通作業とトロッコによる土砂の運搬

 この記事からは「三坂山」が起点になっていることが分かります。ここを起点に線路の土盛り用の土砂を「トロッコや豆機関車」で、それぞれ東西に運んで線路を延ばしているようです。そして、新琴平駅から北の旧線路との分岐までは、この時点では未着工で「来月下旬に着工予定」とされています。

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さて、それでは「三坂山」とはどこでしょうか?

三坂山は、琴平の東南の土讃線と現在の国道32号バイパスが交差する辺りの南側にある小さい丘のような山です。すぐ東側を金倉川が流れています。ここは、丸亀平野の南端にもあたり、目の前には平野が広がり、かなたに讃岐富士(飯野山)が見通せる眺めのいい所です。
 現在、この山の裾を走る土讃線に立つと、この三坂山の先端を削って線路を通したことが分かります。その際に、削り取られた土砂が随時伸びていく線路を「トロッコや豆機関車」で運ばれたのです。 「一挙両得」の賢い工法です。

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着工から1年あまり経過した進捗状況を見てみましょう

大正10年(1921年)五月三〇日付け 土讃鉄道工事進捗、
土讃鉄道琴平・財田の5里の工事は、京都の西松組が請負って、昨年3月に起工し、この10月竣工予定である。鉄路の土盛と築堤及橋梁台は殆ど全部終えて、目下の所、新琴平駅の土盛り作業が小機関車に土運車十数輛をつないで三坂山より運搬して、土盛りしている。既に大部分埋立たてられており七月中には竣工予定である。
 また、塩入・財田間約四哩の土工も西松線が請負って、本年3月に起工し、目下各方面に土盛をして軽便軌道を敷手押土運車を運転して土砂を運んでいる。しかし、これから農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定である。
 ここからは「新琴平駅の土盛り作業」が行われていることが分かります。そう言えば、現在の琴平駅は、琴電琴平駅方面から見ると、道が緩やかに上がっています。これは、もともとの自然立地ではなく、この時に「土盛り」作業をして高くしたようです。その土は、三坂山の切通しから「豆機関車」で運ばれてきたものだったのです。

なぜ琴平駅は土盛りし、高くする必要があったのでしょうか?

 コトデンとの関係だったようです。
土讃線の着工前の1919年9月、高松の大西虎之助、多度津の景山甚右衛門、坂出の鎌田勝太郎ら県内の財界人によって高松-琴平間の「電気鉄道敷設免許申請=コトデン」が出され、翌年二月に免許状の交付されます。路線図を見ると、土讃線の新琴平駅とコトデン琴平駅の手前で両線がクロスすることになります。つまり、両線のどちらかを高架させる必要があったのです。そのために土讃線を土盛りして、その下にコトデンを通過させるという案が出されたのではないでしょうか。

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土讃線の下をくぐるコトデン電車 このために琴平駅から北は土盛りされた

その結果、土讃線の新琴平駅は土盛りして高くして、北から入線する線路を迎え入れる構造に設計されたと考えられます。
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「農繁期に入るため当分人夫が集まらず工事は停滞予定」 

新聞記事の後半で、面白いのはこれです。確かに香川用水が確保される前は「5月麦刈り、6月田植え」で農繁期になり、農家はネコの手も借りたい忙しさでした。線路工事は、農家の男達の冬場の稼ぎ場としては、いい働き口でしたが本業の「田植え」が最優先です。そのため工事は「停滞」するというのです。当時の様子がよく分かります。

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一直線に描き込まれた土讃線と新駅。

そして、工事開始から4年目の春、

琴平・財田間の開通日を迎えて次のように報じます。

大正12年(1923年)5月21日開業 琴平-財田開通記念間開業  土讃鉄道琴平財田間開通記念版 
徳島へ=高知へ=一歩を進めた四国縦断鉄道
琴平・讃岐財田間は今日開通 香川・徳島の握手は大正十六年頃の予定。
 総工費百三十万円 土讃線琴平財田間8里は21日開通となった。この工事は大正9年3月に起工し、第1工区琴平・塩入間と大麻の分岐点から琴平新駅までは京都市西松組が25万余円で請負い10年6月に竣工。
 また第2工区塩入・財田間も同組が四十三万円で請負い10年2月起工し11年年8月に竣工した。それから土砂撒布と橋梁の架設軌道敷設や琴平塩入財田の三駅舎の新築などその他の設備の総工費130万円を要した。工事監督は岡山建設事務所の大原技師にして直接監督は同琴平詰所の主任三原技手で、途中から佐藤技手に引き継がれた。
 新線は善通寺町大麻の大麻神社前の旧線分岐からスタートして、阿讃国道を横切って東進し、金倉川を横切って琴平山を右手に眺めつつ横瀬の橋上を走って、昨年11月に移転した榎井村の新琴平駅へ到着する。
 この新駅は平屋建てであるが米国式洋風の建物で工費は13万円。これは新線総工賃の1割に当たる。まさに関西以西においてはまれに見る建物である。琴平駅の跨線橋はこの4月に工賃2万円で竣工した。
 
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旧線の分岐点となった大麻神社前の踏切です。それまでは右傾斜していたのが左傾斜に変わりました。ちなみに右側の道路は、旧コトサン電車の路線跡です

総工費130万円の内訳で分かるのは、一割13万円が新琴平駅舎、第1区間(琴平・塩入)が25万円・第2区間(塩入・財田)が43万円・琴平駅の跨線橋が2万円です。
 新琴平駅が「関西以西においてはまれに見る建物」として金比羅さんにふさわしい駅舎として特別扱いで建造されたようです。また、財田川や多治川の鉄橋や大口や山脇の長い切り通し区間があった第2区間の方が経費がかかっています。

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移転した新琴平駅

さらに、琴平以南の土讃線沿線を次のように紹介します。

新琴平駅から財田に向かう乗客は列車を乗り換えて、琴平旭町の道を横切り神野村五条に入り、再び金倉川の鉄橋を過ぎ岸の上を経て真野に達す此間二里半程少し登りつつ田の中を南行する。
左手に満濃池を眺めつつ七箇村照井に入り、福良見を過ぎ十郷村字帆山にある塩入駅に着く。この塩入駅は、里道を西に行けば大口を経て国道に達する大口道、東に行けば琴平・塩入を結ぶ塩入道に達するので便利の地である。この駅から満濃池へは、東方十五六町の距離で七箇村の福良見・照井・春日・本目へは距離がわずかである。
 附近の産物は木炭薪米穀類である。塩入駅から西に向かい十郷村を横断し後山大口を経て大口川を越える。この間は約二哩。それから南に転じて新目に至る。列車は徐々に上りつつ五十五尺の高い切取や高い築堤の上を走りつつ、橋上から眺めも良い財田川を渡り百六十五間の長い切取を過ぎて一哩程進んで西向し山脇に入る。多治川を渡ると間もなく三豊郡財田村字荒戸にある讃岐財田駅に着く…(以下略)
これを読むと沿線沿いの風景が百年前の風景とあまり変わらないようにも思えてきます。

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財田川に架かる土讃線鉄橋工事

開通当時の時刻表は
下り
琴平発 
五時47分▲七時六分▲十時廿五分▲十二時五十分▲四時五十分▲七時廿五分 
塩入発
五時五十五分▲七時廿八分▲十時五十分▲一時八分▲五時十二分▲七時四十三分
讃岐財田着 
六時十分▲七時四十五分▲十一時八分▲一時廿三分▲五時三十分▲七時五十九上り列車
讃岐財田発 
六時25分▲八時廿分▲十一時四十分▲三時三十分▲六時▲八時二十分
塩入発 
六時四十分▲八時三十五分▲十二時二分▲三時五十二分▲六時一五分▲八時三十九琴平着 六時53分▲八時四十八分▲十二時十六分▲四時六分▲六時二十八分▲八時55分

 一日6便の折り返し運転のようです。琴平・讃岐財田が30分程度で結ばれました。これによって財田駅は終着駅・ターミナル駅としての機能をもつ駅として賑わうようになります。人ばかりでなく、郵便も荷物も駅は扱います。この時期の財田駅の駅員数は45名と記録にはあります。池田・高知方面へ向かう人々は財田駅で降りて、四国新道を歩いて猪ノ鼻峠を越えたのです。その「宿場街」として財田の戸川はさらに発展していきます。
 しかし、それはつかの間の繁栄でした。6年後に猪ノ鼻トンネルが完成し、池田への鉄路が開かれると財田駅は終着駅から通過駅へと変わります。人々は列車に乗ったまま財田を通過して行くようになるのです。
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盛土された新線を善通寺に向けて走る蒸気機関車 後には象頭山

牛屋口の並び燈籠は、誰が奉納したのか

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伊予土佐街道は,金毘羅さんの石段中腹の坂町から別れ、谷川町筋を旧墓に沿って谷道を登る。この道はカゴノキやカシの巨木に鬱蒼とおおわれ昼でも暗く、時代劇にすぐにも使えそうな雰囲気を残していた。しかし、資生堂のレストラン「椿」の営業と共に道路が舗装され、通行には便利になったが時代劇に使われる雰囲気ではなくなった。残念だ。

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 登り詰めたところが,象頭山と愛宕山との鞍部,172mの牛屋口峠。(別名 御使者口・西口)
 バブルの時代に金比羅方面に急ぐ坂本竜馬の銅像が建てられ、今ではGooglマップには「牛屋口 坂本龍馬像」記されている。その道をレストラン「椿」に向かう車が走り抜けるようになった。時代が流れて行く。

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 ここは江戸時代には土佐・伊予方面から来た参拝者がはじめて金毘羅領に入る所で、茶店なども軒を並べていたという。今も鳥居、狛犬が建ち、並燈が並び、その景観をとどめている所だという。
 これだけの景観からその賑わいを想像するには、相当の想像力が必要だ。まあ、鳥居をくぐって並ぶ燈籠を眺めながら想像力が羽ばたき始めるのを待とう。

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 整然と同じ凝灰岩から同規格で大量生産品のように並んでいる燈籠。金毘羅さんの境内にある大型で手の込んだものとは趣を異にする。
これらはいつ、どんな人たちがたてたのだろうか。

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燈籠のひとつひとつを見ていくといろいろな情報が見えてくる。
ここには、団灯籠 の職域名・地域名 ・講名 ・年代・世話人などが刻まれている。また、献灯者の職業をうかがうこ とができる場合もある。どんなことが分かるのか。見ていくことにしよう。
1 まず奉納者は、どこの人たちか? 
ほとんどが高知県の人たちで、高知市を中心に県中央部にひろがっている。燈籠の竿正面には、
高知講中、材木町講中、梅田橋講中、後免講中、朝倉町講中、押岡講中、鄙野西講中、鄙野村講中、神田・土崎講中、本山多野郷講中、田井講中、中嶋講中、汗見川講中、西和食浦・西分村講中
などの講地名が刻まれている。

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それでは最も多く建立している地域は?
ここには柏栄連と刻まれた燈籠が並ぶ。柏栄連とは伊野で組まれた講名で、12基の燈能を奉納しており、これが最も多い。和紙生産と流通を背景とした当時の伊野の経済力を物語っている。伊野という地域のなかで金毘羅講が高い密度で組織されていたようだ。

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次に多いのは、高知通町。一・二・三・四丁目のそれぞれから一基ずつ奉納している。この講名は長栄講である。金比羅講とはなに?
                                      
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先ほど紹介した伊野の商人たちが組織したのが「柏栄連」である。
例えば江戸千人は、丸亀京極藩が新堀掘鑿のために、江戸商人の金毘羅信仰を利用し、献灯を呼び掛け、その寄金募集のために組織された。世話人は江戸の有力出入商人5名で、わずかの間に講員が3800人にもなり、預金が3000両を越えたという。 これにより天保6年には、丸亀新堀の築造が完成し、さらに海上安全に供する青銅製灯籠の献納も行われたという。
土佐の奉納者の個人的な性格が分かるものは? 
 高知市の下稲荷新地の花山講中には皆登楼、松亀楼などの楼名が記されている。「稲荷新地」は、「玉水新地」とともに高知の二大歓楽街であったところで、遊郭の主人が集まって奉納したようである。

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 荊野村中奉納の燈寵には、世話人6名と、講員20名人の名前が見える。その講員のなかに士族四人が混っている。この村では金毘羅講が維新前からあり、士族と百姓が同じ講中に属していたのかもしれない。土佐藩は、郷士を村に住まわせ土着性が強かったから、郷士と農民で講をくむことがあっだのかもしれない。奉納にいたる事情がいろいろと想像できて楽しくなってくる。
燈籠はいつ頃、奉納されたものなのか?
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 燈籠に刻まれた年代は、一番早いものが明治6年、最後のものが明治9年。わずか4年の間に69基の燈籠が作られた事になる。
年に20基弱のハイペースだ。なぜ、明治初年に土佐の人たちによって短期に集中して作成されたのか?
 
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それは幕末から維新への土佐藩の土・民の各界での躍進を背景にしているのではないか。明治2年から3年にかけて四国内の13藩が琴平に集まり、維新後の対応について話し合う四国会議が開かれた。そこで主導的立場をとっだのは土佐藩であり、徳川幕府の親藩であった伊予の松山藩や、讃岐の高松藩とは政治的立場が逆転した。こうした政治・社会的情況が石燈龍奉納に反映されているのではないか。

それまで伊予土佐街道の燈籠・道標は、松山からの奉納が大部分であった。維新を境に、土佐の燈籠が短期間に並び立つようになる。
明治維新における土佐人の「俺たちの時代が来た。俺たちが四国を動かす」という意気込みが伝わって来そうだ。
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しかし、金毘羅街道に燈籠が寄進され、夜道を明るくし人々を琴平へ導いたのもわずかの期間であった。新しい主役が登場する。
まずは、四国新道。そして鉄道。
この二つにより旧琴平街道は歴史の裏に、立たされていく。
時代が廻ったのだ。
庶民の金毘羅さんに対する信仰のあかしを石燈龍として私たちに伝えてくれる。
参考文献 金比羅庶民信仰資料集第3巻 




里神楽 2017小祭り


2017年賀茂神社小祭り 浦安の舞と獅子舞小祭り

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