瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > 満濃エリア

四条・吉野の開発
まんのう町の吉野下秀石遺跡と安造田古墳群と弘安寺をつなぐ
前回は上のように、洪水時には遊水地化し低湿地が拡がる吉野や四条に、ハイテク技術を持った渡来人が入植し開拓に取りかかったという説を考えて見ました。今回は、吉野下秀石遺跡などを拠点とする指導者が埋葬されたと考えられる安造田古墳群を見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺
まんのう町羽間のバイパス沿いに並ぶ安造田古墳群
安造田古墳群は、まんのう町羽間の国道32号バイパス沿いにあります。土器川対岸に吉野下秀石遺跡があります。
安造田古墳群1

氏神を奉る安造田神社にも、開口する横穴式石室があります。その東側の谷に3つの古墳が造営されています。その中の1つです。これらも「初期群集墳」と考えられます。そして土器川の対岸の吉野下秀石遺跡のカマド付の竪穴式住居と、安造田3号墳は同じ時期に造られています。

安造田東3墳調査報告書1991年

  調査報告書はグーグル検索してPDFでダウンロードすることができます。時系列に発掘の様子が記されていて、読んでもなかなか面白いものになっています。調査書を開くとまず現れるのが次の写真です。
安造田3号墳 出土状況
安造田3号墳 羨道遺物出土状況

須恵器などがほぼ原形のまま姿を見せています。最初見たときに、てっきり盗掘されてないのかと思いました。次に疑問に思ったのは「羨道部の遺物出土状況」という説明文です。石室の間違いだろうと思ってしまいました。ところが羨道で間違いないようです。後世の人物が、石室内部の副葬品を羨道部に移して並べ直していたようです。どうして? ミステリーです。 発掘担当者は、次のように推理しています。
①玄室の奥から後世(8世紀前半頃の須恵器と9世紀前半頃)の須恵器(壷)が出土した。
②開口部には河原石が集めて積まれ、その周辺では火を焚いた跡がある。
③ここからは後世に何者かが閉塞石を取り除いて玄室に入って、何かの宗教的行為を行ったと推測できる。
④そのために玄室の副葬品を羨道へ移動させ、行為が終ると再び閉塞石を戻した
⑤開口部の焚き火についても、この宗教行為の一環として行われたのではないか
  以上からは、8・9世紀頃には、横穴式石室内部で特別な宗教的な儀礼が行われていたのではないかと研究者は推測します。その時に玄室の副葬品羨道部に移されたとします。その結果、ほぼ完形の須恵器約50点や馬具・直刀・鍔が並べられた状態で出てきたことになります。追葬時に移されてここに置かれたのではないと担当者は考えています。
 一方、天井石が落ち土砂が堆積していた玄門部も、上層には攪乱された様子がないので未盗掘かもしれないという期待も当初はあったようです。しかし、土砂を取り除いていくと中央部に乱雑に掘り返した盗掘跡が出てきました。この盗掘穴からは蝋燭片・鉛筆の芯・雨合羽片・昭和30年の1円硬貨が出てきています。つまり、昭和30年以後に、盗掘者が侵入していたことが分かります。しかし、幸いなことに盗掘者は玄室の真ん中だけを荒らして羨道部などには手を付けていませんでした。これは、副葬品を羨道部に移動して、閉塞石をもとにもどした8・9世紀の謎の人物のお陰と云えそうです。
横穴式石室の遺存状況は極めて良好だったと担当者は報告しています。

安造田3号 石室構造
安造田3号墳 石室構造

石室の石材は、この山に多く露頭している花崗岩が使われています。担当者は、その優れた技術を次のように高く評します。
 「石室は小振りではあるが構築状況は見事」
玄門部には両側に扁平で四角い巨大な自然石が対象に置かれ、見事な門構造を呈している。
5箇所で墳丘の断面観察を行ったが、小規模な後期古墳としては極めて丁寧な版築土層に当時の高度な土木技術の一端を垣間見ることもできた。

本墳の見事な玄門構造及び中津山周辺に分布する後期古墳の形態等から、この地にこれまで余り知られていなかった九州文化系勢力が存在していたことを如実に示す資料として注目される。

担当者は、ハイレベルな土木技術を持った集団による構築とし、その集団のルーツを「九州文化系勢力」としています。しかし、これを前回見た吉野下秀石遺跡のカマド付竪穴住居や韓式須恵器や、この古墳の副葬品と合わせて見れば、ここに眠っている被葬者は渡来人のリーダーであったと私は考えています。
安造田3号墳 出土状況2
安造田3号墳 羨道部出土状況
羨道の副葬品を見ていくことにします。
須恵器は、南西側の壁沿いに整然と並べられていました。須恵器が多く、その他には、 土師器、馬具(轡金具・鐙・帯金具)、武具(直刀)・装飾品(銀環・トンボ玉・ガラス製臼玉・ガラス製小玉)など多種豊富で「まるで未盗掘の玄室を調査しているかの様相」だったと担当者は記します。直刀と鍔については、他の遺物と分けて北西壁沿いに置かれていました。時期的には、須恵器の形態的特徴から6世紀後半のものと研究者は考えています。これは最初に述べたように、吉野開拓のために吉野下秀吉遺跡が姿を見せるのと同時期になります。
まず完形品が多かった須恵器を見ていくことにします。
安造田3号 杯身
1~ 6・ 8~13は杯蓋、 7・ 14~20は杯身。出土した須恵器全体の量からすれば杯の数は以外に少ない
安造田3号 高杯

21~24は高杯。
25・26は台付き鉢。25は珍しい形態で胎土・焼成とも他の遺物と異なる。他所からの運び込み品?

安造田東3墳 高鉢
28~32は透かしを持つ長脚の高杯、28のみ身部が深く櫛目の模様を持つ。

安造田3号 高杯の蓋
                   有蓋高杯の蓋
33~41は有蓋高杯の蓋。37は欠損部分に煤が付着しており、灯明皿に転用された痕跡を残している。再利用された時期は不明であるが、開口部からの出土であり、中世頃の侵入者の手による可能性がある。

安造田3号提瓶 
48~50は提瓶。肩部の把部はいずれも退化が進んでいる。

安造田3号 台付長頸壺
52~54は台付長顕壷。52の口縁部にはヘラ磨き状の調整、体部にはヘラによる連続刻文の装飾が認められる。また脚部に円形の透しがあり、胎土・焼成ともに他の遺物とは異なる。
安造田3号 甕

55は甕。
56・ 57は短頸壺の蓋。2点の形態は異なり、57にはZ形のヘラ記号が認められる。
58~62は短頸壺、58の肩上部から頸部にかけて(3本の平行線と交わる直線)と59の顎部にそれぞれヘラ記号(鋸歯状文)が認められる。
安造田3号
63~67は平瓶、65の肩部にはコの字形のヘラ記号が認められる。

安造田3号 子持ち高杯
68は子持ち高杯で、蓋も4点(69~72)出土。
これは県下での出土例は少なく、完全な形での出土例はないようです。同じようなものが岡山市 冠山古墳から出ていますので見ておきましょう。

子持ち高杯岡山市 冠山古墳出土古墳時代・6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ 
岡山市 冠山古墳出土 6世紀須恵器高27㎝ 幅36.5㎝ (東京国立博物館蔵)
   東京国立博物館のデジタルアーカイブには次のように紹介されています。

  「高坏という高い脚のついた大きな盆につまみのある蓋付の容器が7つ載せられています。茶碗形をした部分は高坏と一体で作られており、複雑な構造をしています。須恵器は登り窯をつかって高温で焼きしめることにより作られた焼き物で、土器よりも硬い製品です。この須恵器は亡くなった人に食べ物を捧げるため古墳に納められたもので、実際に人が使うために作られたものではありません。5世紀に朝鮮半島を経由して中国風の埋葬法が伝えられると、多くの須恵器を使って死者に食べ物を捧げる儀式がととのい、こうした埋葬用の容器も製作されるようになりました。いろいろな種類の食べ物を捧げ、死後も豊かな生活が続くことを願った古代の人々の暖かな気持ちを、この作品から読み取ることができます。(https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/533792)

安造田3号 台付三連重
 73は台付三連重。
上部は一部分しか残っていませんでしたが、復元するとこのような形になるようです。使われている粘土や焼成は先ほどの子持ち高杯(68)と同じで、脚部の形もよく似ています。同一工房の製品と研究者は考えています。このような当時のハイテクで造られた流行品をそろえるだけの力がこのグループにはあったことがうかがえます。ただものではありません。須恵器は墳丘上からも多数出土しているようですが、その多くは大型の甕の破片です。当初から埴輪的なモノとして墳丘に置かれていたと研究者は推測します。
羨道部からは多数の武具・馬具類も出土しています。
安造田3号 馬具
安造田3号墳の馬具

轡金具(108・109)や兵庫鎖(106・110)・帯金具(119)などです。これらの馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。以前に見たまんのう町の町代3号墳や、山を超えた綾川中流の羽床古墳群、さらには善通寺勢力の首長墓である大墓山古墳や菊塚古墳からも同じような馬具類が出ています。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保と、その飼育・増殖でした。町代や安造田・羽床の被葬者は、周辺の丘陵地帯を牧場として馬を飼育・増殖する「馬飼部」でもあったこと。そして非常時には善通寺勢力やヤマト政権下の軍事勢力に組み込まれたことが考えられます。そんな渡来人勢力が善通寺勢力の下で丸亀平野南部の吉野や長尾に入植して、湿地開拓や馬の飼育を行ったと私は考えています。
安造田3号 出土鉄器
横穴式石室下層埋土のふるいがけで、刀子・帯金具・鉄鏃・刀装具なども出土しています。

モザイク玉 安造田東3

さらにこの古墳を有名にしたのは、副葬品中のモザイクガラス玉です。これは2~4世紀頃に黒海周辺で制作されたものとされます。貴重品価値が非常に高い物だったはずです。同時に、同時期の同規模の古墳から比較すれば副葬品の質、量は抜きんでた存在です。古墳の優れた土木技術による築造などと併せると、ただものではないという感じがします。これらの要素を総合して考えると、ハイテク技術と渡来人ネットワークをもった人物や集団が丸亀平野南部に入植していたとになります。

前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎) 

最後に報告書を読んでいて私が気になったことを挙げておきます。
安造田3号 墳丘面の弥生土器の破片
安造田3号墳の墳丘面出土の弥生土器小片
墳丘調査のためのトレンチ掘削した際に、版築土層中から多量の弥生土器をはじめ石鏃や石包丁片などが出土していることです。土器は殆どが表面に荒い叩き目を持つ小型の甕の破片で、底部や口縁部の形から弥生時代後期末頃のものとされます。墳丘の版築土として使用されている土は、周辺の土です。その中に、紛れ込んでいたようです。周辺の果樹園や畑の中にも、同様の小片が多数散布しているようです。ここからは、この古墳周辺に弥生時代後期頃の遺構があることが推定できます。弥生時代後期には、羽間周辺の土器川右岸(東岸)には弥生時代の集落があった可能性が高いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    
安造田東3号墳 調査報告書
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まんのう町吉野
   吉野は土器川と金倉川に挟まれた遊水地で、大湿原地であった。
まんのう町の条里制跡
大湿地帶だった吉野は古代条里制が施行されず開発が遅れた
まんのう町吉野と四条

前回はまんのう町の吉野が古代の条里制施行の範囲外におかれていたことと、その理由について見てきました。それでは四条や吉野の開発のパイオニアたちは、どんな人達だったのでしょうか。それに答えてくれる遺跡が見つかっています。その遺跡を今回は見ていくことにします。テキストは 「まんのう町吉野下秀石遺跡」です。
まんのう町吉野下秀石遺跡4

  吉野下秀石遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、まんのう町役場と土器川の間にありました。
まんのう町吉野・四条 弘安寺
           吉野下秀石遺跡(まんのう町役場と土器川の間)
吉野下秀石遺跡は、土器川の氾濫原で条里地割区域外に位置するので、遺跡がないエリアと考えられてきました。しかし、地図で見ると次のようなことが分かります。
「白鳳時代の寺院跡」である「弘安寺跡」から約500mしか離れていないこと
土器川対岸の中津山には安造田古墳群など中・後期古墳が群集すること
発掘の結果、弥生時代から平安時代に掛けての住居跡が出土しました。その中で研究者が注目するのは、古墳時代の14棟の竪穴住居です。時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。そして14棟全てに竃(カマド)がありました。「カマド=渡来系住居」の指標であることは、以前にお話ししました。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強いカマド付の住居群の住人たちは渡来系集団であった可能性が高くなります。彼らによって「遊水池化した葦野原」だった四条や吉野の開発がにわかに活発化した気配がします。時期的には「日本唯一のモザイク玉」が出てきた安造田東3号墳の造営と重なります。「吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の渡来系開発集団」が安造田東3号墳の被葬者の拠点集落というストーリーにつながります。だとすれば、吉野や四条の開発は渡来人によって始められたことになります。
想像はこのくらいにして調査報告書で、古墳時代の竪穴住居跡のひとつであるSH04を見ていくことにします。

まんのう町吉野下秀石遺跡 SH04カマド付縦穴式
左上がSH04で、竪穴住居跡の配列は、南北方向に縦長に並びます。これは最初に成立したグループに続いて、後から一定の距離を保って次のグループが住居を建てたためとします。そして各グループに挟まれた空白地域が、「広場」的な共有空間となっています。
吉野下秀石遺跡SB04 カマド付縦穴式
 吉野下秀石遺跡 カマド付縦穴住居 SH04
カマドは住居の壁に据え付けられ、住居外に煙突を延ばす構造です。
①床面部に柱穴跡がないので、柱材は床面に据え置かれていた
②竃(カマド)は、北壁面の北東隅部寄りの位置。
③煙道部の上部構造の一部は、原形を保っていたが、燃焼部、器設部各上部構造は完全損壊
④燃焼部と器設部は、高さ約15cmの下部構造が保存
⑤下部構造の基底部の規模は、原形は幅約50cm、 奥行き約80cm、 高さ約50cmの規模
⑥煙道部は、住居側が地下構造
 吉野下秀石遺跡の竪穴住居跡の竃で、保存状態が良好な竃は次の5基です。
吉野下秀石遺跡 カマド分類

残された下部構造の壁が、直立か傾斜しているかによって「半球型」と「箱型」に復元されました。
以上からは、古墳時代からこの2つタイプのカマドが使用されていたことが分かります。
吉野下秀石遺跡 カマド分類2


カマドは、韓半島から新しい厨房・暖房施設として列島にもたらされたものです。
竪穴式住居内にカマドが造りつけられ、一般化していくのは4世紀末から5世紀だとされます。この時期になると近畿では、カマドと一緒に「韓式系軟質土器」が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」とカマドは、渡来人の存在を知る上で欠かせない指標であることは以前にお話ししました。
このカマドの導入によって食事のスタイルが一変します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器によそって住居中央で食べるスタイルに変化します。そのため個人個人の食器が必要になりました。
竈と共に、次のようなさまざまな食器や調理具(韓式系軟質土器)が登場することになります。
 
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④カマドにかけられた羽釜(はがま)
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑(こしき)
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠

 八尾の古墳時代中期-後期の渡来文化(土器) : 河内今昔物語
⑥の移動式のカマドに、③の長胴甕と⑦の甑
かまど利用の蒸し調理
    韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。
 全羅道出土須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
全羅道出土須恵器(左側)とその影響を受けた列島の須恵器編年試案(中久保2017に一部加筆)
この中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。

SB03とSB04から出てきた土器について、報告書は次のように記します。

吉野下秀石遺跡SB03 遺物
              
①50は、口縁部がラッパ形に開口する大型品である。
②51の外面には、 2本の斜線で構成された大小2種類のV字形の線刻文が施されている。
③53と54の原形は、長胴の形態が考えられる。
④58は、口縁部から把手の接合部までが均整のとれた円筒型の形態である。(→甑)
⑤60は、縁端部が外側の下方向に折り曲げられた後に、先端部が器壁に接着されないままで成形を終えている。
⑥61は全体の器壁が一定の厚さで精巧につくられた資料で、特に口縁部が明瞭な稜線が形成されるように丁寧に仕上げられている。
⑦63と64は65~72に比べて、口縁端部が内側へ折り曲げられるように成形されたために、同部が垂直気味の形態を示す。
58は形状からして、甑(こしき)でしょう。

吉野下秀石遺跡SB03・4 遺物

⑧73~87は、かえし部が短い器形で、同部の内側への傾斜角度が大きい特徴がある。
⑨88の口縁部外面には、矢羽状のタタキロが認められる。
⑩89の片面には金属のヘラ状工具で鋸歯文と斜格子文が線刻されている
調査報告書は、2007年に書かれているので「 韓式系軟質土器」という用語はでてきません。
しかし、「小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑」などのオンパレードです。「カマド+韓式系軟質土器」とともに渡来人の姿が見えてきます。
古代の調理器具

以前に「韓式系軟質土器 + 初期群集墳 + 手工業拠点地」=渡来系の集落という説を紹介しました。
前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎)
次に、渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。
「初期群集墳」は、「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握のひとつの方法として群集墳が出現したと研究者は考えています。[和田 1992]。「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いたヤマト政権は「産業殖産」を次のように展開します。

①5世紀初頭 河内湖南岸の長原遺跡群で開発スタート
②5世紀中葉 生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)、上町台地(難波宮下層遺跡)へと開発拡大
③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)へ進展

①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。これを参考に、四条や吉野で進められた湿地開拓を私は次のように考えています。
①河内湖開拓事業の小型版が丸亀平野南部の四条や吉野でも進められることになった。
②そのために送り込まれ、入植したのが先端技術をもつ渡来人であった。
③彼らは、土器川近くの微高地にカマド付の竪穴式住居を計画的に建てて集落を形成した。
④カマドや
韓式系土器などで米を蒸して食べる調理方法で彼らは用いた。
⑤首長は、土器川対岸の初期群集墳である安造田古墳群に埋葬された。
彼らは、四条方面の開発整備後に、その西側の吉野地区の開拓にとりかかった。
⑦吉野地区の開拓は、その途上で挫折し、吉野が条里制地割に加えられることはなかった。
⑧しかし、彼らの子孫は氏寺である弘安寺を四条に建立した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉野下秀石調査報告書2007年
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丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制跡    

丸亀平野の条里制跡です。これを見ると整然と条里制跡が残っているのがよく分かります。

丸亀平野条里制4

よく見ると条里制跡のない白いスペースがあることに気がつきます。
A海岸線  当時は現在の標高5mの等高線が海岸線であった
B岡田台地 丘陵上で近世までは台地だった
C旧金倉川流路の琴平→善通寺生野→金倉寺の氾濫原
D土器川の氾濫原
Cの旧金倉川については、⑤の生野町の尽誠学園あたりで流れが不自然に屈曲しています。ここで人為的に流路を換えたという説もあります。そのため生野あたりの旧流路は、川原石が堆積して耕地に適さずに明治になるまで放置され大きな樹林帯が続いていたこと。讃岐新道や讃岐鉄道は、そこを買収したために短期間で工事が進んだとされることなどは以前にお話ししました。
今回、見ていくのは丸亀平野南部の①の東側部分です。ここは土器川と金倉川に挟まれた部分で、現在の行政地名は、まんのう町吉野です。ここも条里制が及んでおらず、真っ白いエリアになっています。
それはどうしてなのでしょうか?
   国土地理院の土地条件図を見ると、土器川の旧河道がいくつも描かれています。

まんのう町吉野
吉野付近の旧河道跡
木崎(きのさき)で、それまで狭い山間部を流れ下ってきた土器川が解放されて丸亀平野に解き放たれます。ここが丸亀扇状地(平野)の扇頂で、西方面に向かっていくつもの頭を持つ蛇のように流れを変えながら流れ下っていたことが分かります。
 また金倉川も現在は水戸で大きく流れを西に変えて、琴平方面に西流しています。しかし、もともとのながれは、水戸から北流して四条方面に流れて居たので「四条川」と呼ばれていたことは以前にお話ししました。現在のベーカリー「カレンズ」さんのある水戸で流路変更が行われています。そうすると、土器川と北流する旧金倉川(四条川)に挟まれたエリアは、洪水の時には大湿原となっていたことが予測されます。つまり、現在の満濃南小学校からまんのう中学校、まんのう町役場あたりは、広々とした葦の生える湿原だったのです。だから吉野(葦の野)と呼ばれるようになったと地名研究家は云います。そのために吉野エリアは、古代の条里制施工工事から外されたということになります。以上をまとめておきます。
①土器川は、木崎を扇頂に扇状地を形成している
②吉野には、旧金倉川も含めて網状河川が幾筋にも流れていた。
③吉野は、洪水時には遊水池で低湿地地帯(葦野)であった。
④そのため条里制適応外エリアとされた。
もう一度、条里制施行図を見ておきましょう。
  
まんのう町の条里制跡
まんのう町の条里制跡 吉野には条里制跡はない。四条にはある。
  旧金倉川と土器川に挟まれた吉野はほとんど条里制の痕跡がありません。ところが四条から南側と西側には条里制跡が残っています。その一番東側の微高地に建立されたのが古代寺院の弘安寺です。

イメージ 5

弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
               弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺は、四条の微高地の上に立地します。そこから東は葦原の続く大湿原でした。そういう意味では弘安寺は、四条の開発拠点に建立された寺院という性格も持ちます。どんな勢力が、四条の開発を進め、弘安寺を建立したのかを次回は見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事

  
    まんのう町の古墳を見ています。今回は長尾の町代地区の圃場整理の際に調査された古墳と遺跡を見ていくことにします。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長尾の町代遺跡と古墳群

町代2号墳
町代2号墳

ここにはもともと古墳とされる塚(町代2号墳)があり、その上に五輪塔が置かれるなど、地元の人達の信仰対象となっていたようです。

町代2・3号墳
町代2号墳と3号墳の位置関係
そこで発掘調査の際に、古墳周辺の調査が行われると、新たな古墳(町代3号墳)と住居跡が出てきました。

町代3号墳石室

近世になって耕地化された際に、上部石組みが取り除かれて、2・3段目の石組みと床面だけが残っていました。その上に耕地土壌が厚くかけられたために、床面などはよく保存された状態だったようです。そのため多くの遺物が出てきました。その中で注目されるのが鉄製武具と馬具です。町代3号墳について見ておきましょう。
町代3号墳平面図
町代3号墳平面図
町代3号墳の内部は、中世には住居として使用されていたようです。
その周濠は中世には埋没しています。また、周辺からは中世の住居跡も出ています。ここからは古墳周辺が中世には集落として開発されたことが分かります。その頃は3号墳の石室は、まだ開口していので住居として利用されたようです。その後、江戸時代初期前後頃に3号分は石室を破壊して耕地化をが進められたという経緯になります。それに対して、2号墳は信仰対象となり、そのまま残ったということのようです。おおまかに2つの古墳を押さえておきます。
⓵2号墳は径約16mの円墳で、その出土遺物から6世紀前半頃の築造。
⓶3号墳は径約10mの円墳で出土遺物から2号墳より遅れて6世紀末頃の築造
③3号分の石室内は中世頃住居として使用されたために攪乱していて埋葬面はよくわからない
④下層で小礫を敷詰め1次の埋葬を行ない、さらに追葬の際、平坦な面を持つ人頭大程度の砂岩て中層を敷き、下層よりやや大きめの小礫で上層を形成したようである。
⑤玄室規模は長さ3、75m、幅1、85~1、95mと目を引く規模ではない
⑥石室内からは金鋼製の辻金具を含む豊富な鉄製品や馬具が出土
町代3号墳石室遺物
町代3号墳の遺物出土状況 番号は下記の出土遺物

町代3号墳の古墳の特徴は、多彩な鉄製品や馬具のようです。

町代3号墳鉄製遺物
町代3号墳の鉄製武具NO1

126~135は鉄尻鏃
126~128は鏃身外形が長三角
127・128は直線状。128は大型。
129は鏃身外形が方頭形
130は鏃身部が細長で、鏃身関部へは斜関で続く
131~133は鏃身外形が柳葉形で鏃身関部へは直線で続く。
133は別個体の鉄製品が付着
134・135は鏃身外形が腸快の逆刺
136~130は小刀と思われるが、いずれも破損

町代3号墳鉄製遺物2
            町代3号墳の鉄製武具NO2
140に木質痕が認められる。
146は鎌。玄室最上層の炭部分から出土
147~149は、か具である。148は半壊、
147・148は完存。形が馬蹄形で、 3点とも輪金の一辺に棒状の刺金を掘める形式

町代3号墳馬具

                 町代3号墳の馬具

150は轡と鏃身外形が方頭形で、鉄鏃2本が鉄塊状態で出土
151・152も轡。
155は半壊した兵庫鎖。153と154は、その留金。153は半壊。
156は断面が非常に薄く3ヶ所の円形孔が認められる。

町代3号墳鉄製遺物3
                   町代3号墳の鉄製品
157は4ヶ所の鋲が認められる。
159は楕円形の鏡板で4ヶ所に鋲がある。
160は平面卵形で、断面が非常に薄い。
161・162は辻金具。161は塊状で出土しており、接続部の金具は衝撃で3点は引きちぎれ1点も歪んでいる。いずれも金銅製。
これらの馬具は、どのように使用されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが善通寺郷土資料館の展示です。
1菊塚古墳
善通寺の菊塚古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)

善通寺大墓山古墳の馬具2
大墓山古墳出土の馬具類(善通寺郷土資料館)
ガラス装飾付雲珠・辻金具の調査と復元| 出土品調査成果| 船原 ...
これは馬具や馬飾りで、6世紀の古墳に特徴的な副葬品です。ここからは町代遺跡周辺の勢力が善通寺の大墓山や菊塚に埋葬された首長となんらかの関係を持っていたことがうかがえます。この時代のヤマト政権の最大の政治的課題は「馬と鉄器」の入手ルートの確保であったとされます。それを手にした誇らしげな善通寺勢力の首長の姿が見えてきます。同時に、町代の勢力はそれに従って従軍していたのか、或いは「馬飼部」として善通寺勢力の下で丸亀平野の長尾に入植して、馬の飼育にあたった渡来人という説も考えられます。
辻金具 馬飾り
辻金具

香川県内で馬飾りである辻金具・鏡板が一緒に出ているのは次の3つの古墳です。
A 青ノ山号墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った円墳
B 王墓山古墳は6世紀中葉築造の横穴式石室を持った前方後円墳
C 長佐古4号墳は6世紀後半築造の横穴式石室を持った円墳
辻金具だけ出土しているのが大野原町縁塚10号墳の1遺跡、
鏡板だけ出土している古墳は次の7遺跡です。
大川町大井七つ塚1号墳 第2主体と第4主体
高松市夕陽ケ丘団地古墳
綾川町浦山4号墳
観音寺市上母神4号墳
 同  黒島林13号墳
 同  鍵子塚古墳
これらの小古墳の被葬者は、渡来系の馬飼部であると同時に軍事集団のリーダーであった可能性があるという視点で見ておく必要があります。
以上をまとめておきます。
①古墳中期になると丸亀平野南部の土器川左岸の丘陵上に、中期古墳が少数ではあるが出現する。
②善通寺の有岡の「王家の谷」に、6世紀半ばに横穴式石室を持つ前方後円墳の大墓山古墳や菊塚古墳が築かれ、多くの馬具が副葬品として納められた。
③同じ時期に、まんのう町長炭の町代3号墳からも馬具や馬飾り、鉄製武器が数多く埋葬されてた。
④同時期の綾川中流の羽床盆地の浦山4号墳(綾川町)からも、武具や馬具が数多く出土する
⑤これらの被葬者は、馬が飼育・増殖できる渡来系の馬飼部で、小軍事集団のリーダーだった
⑥快天塚古墳以後、首長墓が造られなくなった綾川中流の羽床盆地や、それまで古墳空白地帯だった丸亀平野南部の丘陵地帯に、馬を飼育する小軍事集団が「入植」したことがうかがる。
⑦それを組織的に行ったのが羽床盆地の場合はヤマト政権と研究者は推測する。
⑧善通寺勢力と、丸亀平野南部の馬具や鉄製武具を副葬品とする古墳の被葬者の関係は、「主従的関係」だったのか「敵対関係」だったのか、今の私にはよく分かりません。

羽床盆地の古墳と綾氏

古墳編年 西讃

古墳編年表2

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

まんのう町古墳3
HPTIMAGE

丸亀平野南部の古墳群は、土器川右岸(東岸)の丘陵の裾野に築かれたものが多いようです。
これは山間部を流れてきた土器川が、木ノ崎で解き放たれると暴れ川となって扇状地を形作ってきたことと関係があるようです。古墳時代になると土器川の氾濫の及ばない右岸エリアの羽間や長尾・炭所などに居住地が形作られ、その背後の岡に古墳が築かれるようになります。丸亀平野南部のエリアには前期の古墳はなく、中期古墳もわずかで公文山古墳や天神七ツ塚古墳などだけです。そのほとんどが後期古墳です。この中で特色あるものを挙げると次の通りです。
①『複室構造』を持った安造田神社前古墳
②「一墳丘二石室」の佐岡古墳
③阿波美馬の『断の塚穴型』の石室構造を持った断頭古墳と樫林清源寺1号墳
④日本初のモザイク玉が出た安造田東3号墳

私が気になるのは③の断頭古墳と樫林清源寺1号墳です。

まんのう町長炭の古墳群
まんのう町長炭の土器川右岸の古墳群(まんのう町HP まんのうマップ)

それは石室が美馬の『断の塚穴型』の系譜を引くと報告されているからです。丸亀平野南部は、阿波の忌部氏が開拓したという伝説があります。その氏寺だったのが式内社の大麻神社です。阿波勢力の丸亀平野南部への浸透を裏付けられるかもしれないという期待を持って樫林清源寺1号墳の調査報告書を見ていくことにします。

樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳

この古墳の発掘は、長尾天神地区の農業基盤整備事業にともなう発掘調査からでした。1996年12月から調査にかかったところ、いままで見つかっていなかった古墳がもうひとつ出てきたようです。もともとから確認されていた方を樫林清源寺1号墳、新たに確認された古墳を樫林清源寺2号墳と名付けます。
樫林清源寺1号墳4
                樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳について報告書は、次のように記します。  
樫林清源寺1号墳
樫林清源寺1号墳 石室構造
埋土中からは黒色土器A類、須恵器壺等が出土しているので7世紀初頭の造営
⓵円墳で、大きさは12m前後
⓶墳丘天頂部の盛土が削られ、平坦な畦道となるよう墳丘上に盛り土がされている。
③墳丘上からは、鎌倉・室町時代前後の羽釜片が出土。
⑤墳丘構築は、自然丘陵を造形し、やや帯状で版築工法を用いている。
⑥横穴式石室で、玄室床面プランは一辺約2m10 cmの胴張り方形型
⑦高さは約2m30 cm、持ち送りのドーム状
ドーム状石室については、報告書は次のように記します。
「ドーム状石室は、徳島県美馬の段の塚穴古墳があり、当古墳はその流れを組むのではないかと考える。」

⑧石材は、ほとんどが河原石。一部(奥壁基底石及び側壁の一部)に花崗岩
⑩羨道部は長さ3m60 cm、幅lm10~2 0cm、小石積みであり、羨道部においても若千の持ち送り
⑪天丼石は持ち送りのため、2石で構成。
⑫床面は、直径2 0cm前後の平たい河原石を敷き、その上に1~2 cm大の小石をアットランダムに敷き、床面を形成していた。
⑬排水溝は、石室の周囲を巡っていたが、羨道部では確認できなかった。
⑭遺物については玄室内から、外蓋・身、高杯不蓋・身、小玉、切子玉、管玉、勾玉、なつめ玉、刀子、鉄鏃、人骨歯が出土
樫林清源寺1号墳 石室内遺物
           樫林清源寺1号墳 石室内遺物
⑮羨道部からは、土師器碗、提瓶、鈴付き須恵器(下図右端:同型の出土例があまりないので、器形については不明)が出土。
樫林清源寺1号墳 羨道遺物

         樫林清源寺1号墳 羨道の遺物

樫林清源寺1号墳 鈴付高杯
                   鈴付き須恵器
『鈴付き高杯』については。
特異な須恵器及び土師器碗の出土から本古墳の被葬者は、近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長であったのではなかろうか。

「近隣の文化とは異なった文化をもつ集団の長」とは、具体的にどんな首長なのでしょうか?
それと「持送りのドーム状天井」が気にかかります。以前に見た段の塚穴古墳をもう一度見ておきましょう。

郡里廃寺2
徳島県美馬市郡里(こおり)周辺の古代遺跡 横穴式巨石墳と郡衙・白鳳寺院・条里制跡見える
美馬エリアは、後期の横穴式石室の埋葬者の子孫が、律令期になると氏寺として古代寺院を建立したことがうかがえる地域です。古墳時代の国造と、律令時代の郡司が継承されている地域とも云えます。
段の塚穴古墳群の太鼓塚の横穴式石室を見ておきましょう。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
たしかに林清源寺1号墳の石室構造と似ています。阿波美馬の古墳との関連性があるようです。

段の塚穴古墳天井部
太鼓塚古墳の天井部 天井が持送り構造で石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」
共通点は、石室が持ち上がり式でドーム型をしていることです。

郡里廃寺 段の塚穴

この横穴式石室のモデル分類からは次のような事が読み取れます
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
②ドーム型天井をもつ古墳は、美馬郡の吉野川沿いに拡がることを押さえておきます。そのためそのエリアを「美馬王国」と呼ぶ研究者もいます。その美馬王国とまんのう町長炭の樫林清源寺1号墳は、何らかの関係があったことがうかがえます。
「ドーム型天井=段の塚穴型石室」の編年表を見ておきましょう。
段の塚穴型石室変遷表

この変遷図からは次のようなことが分かります。
①ドーム型天井の古墳は、6世紀中葉に登場し、6世紀後半の太鼓塚で最大期を迎え、7世紀前半には姿を消した。
②同じ形態のドーム型天井の横穴式を造り続ける疑似血縁集団(一族)が支配する「美馬王国」があった。
樫林清源寺1号墳は7世紀初頭の築造なので、太鼓塚より少し後の造営になる。
以上からは6世紀中頃から7世紀にかけて「美馬王国」の勢力が讃岐山脈を超えて丸亀平野な南部へ影響力を及ぼしていたことがうかがえます。

2密教山相ライン
中央構造線沿いに並ぶ銅山や水銀の鉱床 Cグループが美馬エリア
三加茂町史145Pには、次のように記されています。
 かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  三加茂の丹田古墳や美馬郡里の段の穴塚古墳などの被葬者が首長として出現した背景には、周辺の銅山開発があったというのです。銅や水銀の製錬技術を持っているのは渡来人達です。
古代の善通寺王国と美馬王国には、次のような交流関係があったことは以前にお話ししました。
古代美馬王国と善通寺の交流

③については、まんのう町四条の古代寺院・弘安寺の瓦(下図KA102)と、阿波立光寺(郡里廃寺)の瓦は下の図のように同笵瓦が使われています。
弘安寺軒丸瓦の同氾
まんのう町の弘安寺と美馬の郡里廃寺(立光寺)の同版瓦
ここからは、弥生時代以来以後、古墳時代、律令時代と丸亀平野南部と美馬とは密接な関係で結ばれていたことが裏付けられます。それでは、このふたつのエリアを結びつけていたのはどんな勢力だったのでしょうか。
最初に述べた通り、忌部伝説には「忌部氏=讃岐開拓」が語られます。しかし、先ほどの忌部山型石室分布からは、忌部氏の勢力エリアは麻植郡でした。美馬王国と忌部氏は関係がなかったことになります。別の勢力を考える必要があります。
 そこで研究者は次のような「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。その具体的な勢力が佐伯直氏だと考えています。そのことの当否は別にして、美馬王国の石室モデルであるドーム型天井を持つ古墳が7世紀にまんのう町長炭には造営されていることは事実です。それは丸亀平野南部と美馬エリアがモノと人の交流以外に、政治的なつながりを持っていたことをうかがわせるものです。
以上をまとめておきます。

古代の美馬とまんのう町エリアのつながり

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
樫林清源寺1号墳・樫林清源寺2号墳・天神七ツ塚7号墳 満濃町教育委員会1996年
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稲毛家文書は阿野郡南川東村(まんのう町川東)の庄屋役をつとめた稲毛家に伝えられた文書です。
その中に髙松藩が各庄屋に廻した次のような文書に出会いました。
那珂郡岸上村、七ケ村、吉野上村辺(五毛か)人家少なにて、自然と田地作り方行届不申、追々痩地に相成、地主難渋に成行、 指出田地に相成、 長々上の御厄介に相成、稲作に肥代も被下、追々地性立直り、御免米無恙(つつがなく)相育候様、作人共えも申渡候得共、元来前段の通人少の村方に付、他村他郡より右三ケ村の内ぇ引越、農業相励申度望の者も在之候得ば、建家料并飯料麦等別紙の通被下候間、望の者共右村方え罷越、 篤と地性等見分の上、村役人え掛合願出候得ば、御聞届被下候間、引越候上銘々出精次第にて、田地作り肥候得ば、其田地は可被下候。又最初より田地望も有之候得は、当時村支配の田も在之候間、其段村々え可申渡候。
但、引越願出候共、人振能々相調、 作方不出精の者に候はば、御聞届無之候間、左様相心得可申候。
別紙
一、銀三百目 建築料
一、家内人数壱人に付大麦五升ずつ。
右の通被下候。
天保十年二月               元〆
大庄屋宛
  意訳変換しておくと
もともと那珂郡の岸上村、七ケ村、吉野上村(五毛)は人家が少く、そのため田地の管理が行届ず、痩地になっている。これには地主も難渋し「指出田地」になって、お上の御厄介になっている所もある。肥料代があれば、やせ地も改善し御免米も無恙(つつがなく)育つようになる。
 そこで、他村他郡からこの三ケ村の(岸上村、七ケ村、吉野上村)へ移住して、農業に取り組もうとする者がいれば、建家や一時的な食料を別紙の通り下賜することになった。移住希望者がいれば、人物と土地等を見分して、村役人へ届け出て協議の上で定住を許可する。また、移住後にその意欲や耕作成績が良ければ、その田地を払い下げること。また最初から田地取得を望むものは、村支配となっている田があるはずなので、そのことを各村に伝えて協議すること。ただし、移住願が出されても、その人振や能力、出来・不向きなどをみて、耕作能力に問題があるようであれば、除外すること。左様相心得可申候。
別紙
一、銀三百目 (住居)建築費
一、家内の人数1人について、大麦五升ずつ。
右の通被下候。
天保十年(1839)2月               元締め
大庄屋宛
ここからは次のようなことが分かります。
①天保10(1839)年2月に髙松藩から各大庄屋に出された文書であること
②内容は金毘羅領や天領に隣接する岸上村・七ケ村・吉野村では、耕作放棄地が出て対応に困っていたこと
③そこで奨励金付で、この三村への移住者募集を大庄屋を通じて、庄屋たちに伝えたこと
 平たく言うと、奨励金付で天領に隣接村への移住者の募集を行っていたことになります。
最初にこれを見たときには、私は次のような疑問を持ちました。江戸時代は人口過剰状態で、慢性的な土地不足ではなかったのか、それがどうして藩が入植者を募集するのか? また、その地が「辺境地」でなくて、どうして天領周辺の地なのかということです。

満濃池 讃岐国絵図

移住奨励地となっている「岸上村、七ケ村、吉野上村」の位置を確認しておきます。岸の上村は、金倉川左岸で丘陵地帯です。七ケ村は旧仲南町の一部にあたるエリアです。吉野上村は土器川左岸ですが、ここでは満濃池の奥の五毛のことを云っているのかもしれません。

満濃池水掛かり図
満濃池用水分水表 朱が髙松藩・黄色が天領・赤が金毘羅領・草色が丸亀藩
この3ケ村には「特殊事情」があったと研究者は考えています。
ヒントは3ケ村が上図の黄色の池御料(天領の五条・榎井・苗田)や赤の金毘羅領に隣接していていたことです。そのため19世紀になると、周辺地から天領や金比羅町に逃散する小百姓が絶えなかったようです。その結果、耕す者がいなくなって末耕作地が多くなる状態が起きたというのです。その窮余の策として、高松藩は百姓移住奨励策を実施したようです。
 建家料銀三百目(21万円)と食料一人大麦五升を与える条件で、広く百姓を募集しています。現在の「○○町で家を建てれば○○万円の補助がもらえます」という人口流出を食い止める政策と似たものがあって微笑ましくなってきたりもします。 この結果、岸上村周辺には相当数の百姓が移住したきたようです。ここで押さえておきたいのは、周辺の村々から金毘羅領や天領への人口流出がおきていたということです。
 金毘羅領や天領は、丸亀藩や髙松藩の行政権や警察権が及ばないところです。
そして、代官所は海を越えた倉敷にあります。その結果、よく言えば幕府の目も届きにくく自由な空気がありました。悪く言えば、無法地帯化の傾向もありました。そんな風土の中から尊皇の志士を匿う日柳燕石なども現れます。尊皇の志士を匿ったのが無法者の博徒の親分というのが、いかにも金毘羅らしいと私には思えます。「中世西洋の都市は、農奴を自由にする」と云われましたが、金毘羅も自由都市として、様々な人々を受入続けていた気配を感じます。これを史料的にもう少し裏付けていこうと思います。
  近世の寺社参りは参拝と精進落としがセットでした。
伊勢も金毘羅もお参りの後には、盛大に精進落としをやっていることは以前にお話ししました。その舞台となったのが、金山寺町です。
金山寺夜景の図 客引き
「金山寺町夜景之図」(讃岐国名勝図会) 遊女による客引きが描かれている

この町の夜の賑わいは「讃岐国名勝図絵」に「金山寺町夜景之図」として描かれています。この絵からは、内町の南一帯につながる歓楽街として金山寺町が栄えたことがよく分かります。一方で、金山寺町には外から流入して借家くらしをしていた人達がいたようです。

幕末の金毘羅門前町略図
           19世紀の金毘羅門前町 金山寺町は芝居小屋周辺
内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
内町の裏通りが金山寺町 そこに芝居小屋が見える (讃岐国名勝図会)

「多聞院日記(正徳5(1715)五来年之部)」には、次のように記されています。
十月三日
金山寺町さつ、山下多兵衛殿借家二罷在候家ヲふさぎ借家かリヲも置不申、段々我儘之事
廿九日
一金山寺町山下太兵衛借家二さつと申女、当春火事己後も焼跡二小屋かけいたし居申候二付、太兵衛普請被致候二付、出中様二と申候得共、さつ小屋出不申由、依之町年寄より急度申付小屋くづし右家普請成就し今又さつ親子三人行宅へはいり借家かりをも置不申、我儘計申由、町年寄呼寄候へ共不来と申、権右衛門多聞院宅出右之入割先町家ヲ出候様二被成被下候と申、段々相談之上さつ呼寄しかり家ヲ出申候
意訳変換しておくと
十月三日
一金山寺町のさつは、山下多兵衛の借家に住んでいるが借家代も支払わず、段々と我儘なことをするようになっている
10月29日
金山寺町・山下太兵衛の借家のさつという女は、この春の大火後も焼跡に小屋がけして生活していた。太兵衛が新たに普請するので立ち退くように伝えたが、さつは小屋を出ようとしない。そこで町年寄たちは、急遽に小屋を取り壊し、普請を行った。さつ親子三人は新たに借家借りようともしないので、町年寄が呼んで言い聞かせた。そして、権右衛門多聞院宅の近くに町家を借りて出ていくことになった。いろいろと相談の上でさつを呼んで言い聞かせ家を出させた

ここでは、火事跡に小屋掛けして住んでいた借家人さつと家主のトラブルが記されています。さつは、「親子3人暮らし」のようです。若い頃に遊女か奉公人として務め、その後は金山寺町で借家暮らしをしていたと想像しておきます。もう少し詳しく金山寺町の住人達のことを知ることができる情報源があります。それはこの町の宗旨人別帳です。それを一覧表化したものが「町史ことひら 近世156P 金山寺町の人々」に載せられています。
金毘羅金山寺町借家人数と宗派別
金毘羅金山寺町の宗派別借家人数

上の表は明治2年(1869)の「金山寺町借家人別宗門御改下帳」より借家人の竃(かまど=世帯)数と人数を示したものです。ここからは、次のような情報が読み取れます。
①竃数(檀家数)59戸、154人が借家人として生活していたこと
②借家数59に対し、檀那寺が40寺多いこと
③男性よりも女性が多いこと
④3年後の史料には、金山寺町の全戸数は137軒、人口296人とあるので、竃数で43%、人数で約40%が借家暮らしだったこと
上の④の「金山寺町の住人の4割は借家暮らし」+②「借家数59に対し、檀那寺40」という情報からは、借家人の多くが他所から移り住んできた人達であったのではないかという推測ができます。つまり、金毘羅への人口流入性が高かったことがうかがえます。

  下表は、人別帳に記載された金山寺町全体の職業構成を示したものです。

金毘羅金山寺町職業構成

一番上に「商人 78人」と記されていますが、その具体的商売は分かりません。この中に茶屋(37軒)なども含まれていたはずです。上段の商人欄をみると、紺屋・按摩・米屋・麦屋・豆腐屋と食料品を中心に生活用品を扱う商人がいます。その中には、商人日雇い7人がいることを押さえておきます。
 職人欄を見ると、諸職人手伝11名を初め、大工8名の外、樽屋・髪結・佐宮・油氏などのさまざまな職人がいます。そして、ここにも「日雇16人」とあります。商人欄の「日雇7人」と合わせると23人(約17%)が「日雇生活者」であったことになります。ここからは、周囲の村々から流れ込んできた人々が、日雇いなどで日銭を稼ぎながら、借家人として金山寺町で生活している姿が見えてきます。この時期は、金毘羅大権現の金堂(旭社)の工事が進んでいて、好景気に沸く時期だったようです。「大工職人8・左官2人」なども、全国を渡り歩く職人だったかもしれません。
また、天保5(1835)年3月23日の「多聞院日記」には、次のように記します。

「筑後久留米之醤師上瀧完治と申者、昨三月当所へ参り、治療罷有候所、当所御醤師丿追立之義願出御無用無之候所、右家内妹等尋参り、然ル所完治好色者酌取女馴染、少々之薬札等・而取つづきかたく様子追立候事」
 
意訳変換しておくと
「筑後久留米の医師上瀧完治と申す者が、昨年の三月に金毘羅にやってきて、治療などをおこなっていた。これに対して当所の御醤師から追放の願出が出されたが放置してしておいた所、右家内の妹と懇意になったり、酌取女と馴染みになり、薬札などを与えたりするので追放した」

  ここからは筑後久留米の医師が金毘羅にやってきて長逗留して治療活動を始めて、遊女と馴染みになり、問題を起こしたので追放したことが記されています。職人や廻国の修験者以外にも、医師などもやってきています。流亡者となったものにとっては、「自由都市 金毘羅」は入り込みやすい所だったとしておきます。

次表は、宗旨人別帳に記載された金山寺町の一家の家族数を示したものです。

金毘羅金山寺町家族人数別軒数

ここからは次のような情報が読み取れます。
①独居住まいが約2割、2人住まいが約3割、4人までの小家族が約8割を占める。
②宗派割合は、一向宗(真宗) → 真言 → 法華 → 天台 → 禅宗 → 天台の順
③一向宗(真宗)と真言の比率は、讃岐全体とおなじ程度である。
①からは、家族数が少ない核家族的な構成で、町場の特徴が現れています。ここにも外部からの流入者が一人暮らしや、夫婦となって二人暮らしで生活していたことがうかがえます。
19世紀前半の天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。

金山寺町火災図 天保9年3
19世紀初めの金山寺町 芝居小屋や富くじ小屋周辺図 細長い長屋も見える ●は茶屋

この芝居小屋は富くじの開札場も兼ね備えていました。「茶屋 + 富くじ + 芝居」といった三大遊所が揃った金山寺町は、ますます賑わうようになります。かつて市が開かれたときに小屋掛けされていた野原には、家並みが建ち並び歓楽街へと成長して行ったのです。こうした中で、金光院当局は次のように「遊女への寛大化政策」へと舵をとります。
天保4年(1833)2月には、まだ仮小屋であった芝居小屋で、酌取女が舞の稽古することを許可
天保5年(1834)8月13日の「多聞院日記」に「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」とあり、平日でも酌取女が化粧して町場徘徊を許可
これが周辺の村々との葛藤を引き起こすことになります。
天保5(1834)8月14日の「多聞院日記」は次のように記します。
「今夕内町森や喜太郎方へ、榎井村吉田や万蔵乱入いたし、段々徒党も有之、諸道具打わり外去り申候、元来酌取女大和や小千代と申者一条也」

意訳変換しておくと

「今夕に内町の森屋喜太郎方へ、榎井村吉田屋万蔵が乱入してきた。徒党を組んで、諸道具を打壊し退去したという。酌取女の大和屋の小千代と申と懇意のものである」
 
このように近隣の村や延宝からやってきた者が、金毘羅の酌取女とのトラブルに巻き込まれるケースも少なくなかったようでです。

金毘羅遊女の変遷

天保13年(1842)には天領三ヶ村を中心とした騒動が、多聞院日記に次のように記されています。
御料所の若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので御料一統連印で倉敷代官所へ訴え出るという動きが出てきた。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に赴き、結局、長谷川の機転のよさで「もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得る。」ということで合意した、

  その時に長谷川喜平次は金毘羅町方手代にむかって次のように云っています。

「御社領繁栄付御流ヲ汲、当料茂自然と賑ひ罷有候義付、一同彼是申とも心聊別心無之趣と。、御料所一統之所、精々被押可申心得」

意訳変換しておくと

「御社領(門前町)が(遊女)によって繁栄しているのが今の現状です。それが回り回って周辺の自分たちにも利益を及ぼしているのです。そのことを一同にも言い聞かせて、何とか騒ぐ連中をなだめてみましょう。

「御料所一統之所、精々被押可申心得」というところに長谷川喜平次など近隣村々の上層部の本音が見えてきます。この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換して、騒動は決着をみています。
注目しておきたいのは、この騒動が周辺農民からの「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多い」という村人の現状認識から起きていることです。「金毘羅の金堂新築 + 周辺の石造物設置 + 讃岐精糖の隆盛」は幕末のバブル経済につながっていく動きを加速させます。そのような中で、金毘羅は歓楽の町としても周辺からの人々を呼び寄せる引力を強めます。その結果、周辺部の村々だけでなく人口流入が加速化したことが考えられます。それが髙松藩の岸の上・七ヶ村への移住者募集につながっているとしておきます。

周辺の丸亀藩や高松藩から金毘羅寺領に、百姓たちが流れ込んでいたことを見てきました。それは「逃散」なのでしょうか、それとも正式な「移住」なのでしょうか。枝茂川家文書「天保三年枝茂川杢之助日記」(町史ことひら 近世237P)を見ておきましょう。

送り手形之事
一 三人             庄五郎  歳四拾
女房    歳三拾
男子卯之助歳七
右の者、今般金毘羅御社領御地方二而借宅住居仕り度き段、願出候二付、聞届け、此方宗門帳差除き候間、自今已後、其御領宗門御帳面へ御書加え、御支配成らるべく候、且又宗旨之儀は代々一向宗二而多度郡弘田村円通寺旦那二而紛れ御座なく候、尤当村に於いて、己来何の故障も御座なく候、送り手形依而如の件し
天保三年壬辰十一月
多度郡善通寺村
組頭 孫太夫
金毘羅御社領百姓組頭
治助殿
治兵衛殿
次郎助殿
意訳変換しておくと
送り手形之事
以下の三人  庄五郎(40歳)・女房(30歳)・男子卯之助(7歳)について、このほど金毘羅寺領地方(町場)に、借宅を借りて生活を始めたことについて願出があった。ついては、こちらの宗門改帳から除き、今後は、そちらの金毘羅寺領の宗門帳面へ書き加えて、支配していただきたい。なお宗旨は、代々一向宗で多度郡弘田村の円通寺の門徒である。また当村では、何の問題もなかったことは送り手形の通りである。
天保三(1832)年壬辰十一月
多度郡善通寺村
組頭 孫太夫
金毘羅御社領百姓組頭
治助殿
治兵衛殿
次郎助殿
ここからは天保三(1832)年に、丸亀藩領善通寺村の百姓庄五郎一家が金毘羅寺領に転入したことが分かります。その事務処理は、通常の宗旨送り手形で手続きが行われています。「其御領宗門御帳面へ御書加え」とあるので、善通寺村の宗門帳から金毘羅寺領の宗門帳へ変更記入を求めています。これは、その他の場合と変わりないようです。このように丸亀藩から金毘羅社領地方への転入は一般的な手続きで手続きが完了したことが分かります。
それでは百姓の町方への転入、百姓身分からの離脱は可能だったのでしょうか。
  送り手形一札之事
一 弐人         口嘉   歳三拾五
    女子そね 歳拾七
右之者今般勝手二付、御町方二而借宅仕り度き段、願出で候二付、聞届け、此の方宗門帳面差除き候間、自今已後、御帳面二御差加え、御支配成らるべく候、尚又宗旨之儀は、代々当所普門院旦那二而紛れ御座なく候、送り手形働て如の件し
             百姓組頭(治) 次助印
天保四(1833)年巳十二月
高藪組頭勘助殿
(枝茂川家文書「天保三~六年枝茂川杢之助日記」)
ここでも通常の移住手続きで処理されています。気になるのは金毘羅寺領(町方)への移住に伴い、百姓身分が変更されたかどうかです。これについて研究者は、文書中の「御支配成らるべく候」が手がかりになると考えています。これが地方(百姓)組頭の支配を離れ、町方支配になることを意味する文言だ云うのです。

金陵金山寺町宗門人別御改下帳

「金陵金山寺町宗門人別御改下帳」には、町場金山寺町内住人の中には、百姓身分であることをうかがわせる肩書きや注記の施されたものはありません。また、この書にの中の「町年寄系譜」には、次のように記します。
浪人与申す義、心得違いニ候、已前ハ少々浪人もこれ有り候而、其の節は宗門帳ニも浪人帳与申し候而これ有り。皆其の義ハ、町人二而、町方町人帳二以前より今に相認め候、勿論皆々屋号を付キ商売方第一仕り候間、外々二而も評判これ有る通、町人ニハ紛れこれ無く候

意訳変換しておくと

浪人とするのは、心得違です。以前は少々の浪人がいて、宗門帳にも浪人帳に浪人と書くこともありました。しかし、今は町人として町人帳に記すようになっています。もちろん皆々が屋号を持ち商売を第一としていて、外部からも評判もありますので、町人に間違うことはありません。

ここには町場の宗門帳には、町人用しかなく、そこに記載されれば町人として認められたことが記されています。金光院が認めた場合には、金毘羅寺領への転入者の場合、身分も百姓から離脱し、町人化した可能性があると研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

まんのう町金剛院が中世の修験者たちによって拓かれた「坊集落」であること、石造十三重塔が鎌倉時代末に、弥谷寺石工によって天霧石によって作成されたことを、前回までに見てきました。今回は、金剛院に残されたもう一つの手がかりである「経塚」について見ていくことにします。テキストは、次の報告書です。
金剛院経塚2018報告書
                   写真は出土した経塚S3

南方に開けた金剛院集落の真ん中にあるのが金華山です。その山に南面した金剛寺が建っています。

イメージ 7
金剛院集落の金華山と金剛寺
位置的にも金華山が霊山として信仰を集め、そこに建てられた寺院であることがうかがえます。この山の頂上には、かつては足の踏み場もないほどの経塚があったようです。経塚とは末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した遺跡のことです。見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地とされる場所に造られます。そのため数多くの経塚が群集して発見されることも少なくありません。その典型例が讃岐では、金剛院になるようです。

金剛寺2 まんのう町

拡大して経塚のある第1テラスと第2テラスの位置を確認します。

金剛院金華山

次に、これまで発掘経緯を見ておきましょう。
金剛院経塚は今から約60年前の1962年9月に草薙金四郎氏によって最初の調査が行われました。その時には2つの経塚を発掘し、次のようなものが出土しています。
陶製経筒外容器7点
鉄製経筒   2点
和鏡     1点

金剛院経筒 1962年発掘
               陶製経筒外容器(まんのう町蔵)

この時には完全に発掘することなく調査を終えています。問題なのは、経筒発見に重きが置かれて、発掘過程がきちんと残されていません。例えば経塚の石組みなどについては何も触れていません。今になってはこの時の発掘地がどこだったのかも分かりません。その後、目で確認できる経塚からは、その都度遺物が抜き取られ本堂に「回収」されたようです。ちなみに経塚には「一番外が須恵器の外容器 → 鉄・銅・陶器などの経筒 → 経典」という順に入れられていますが、地下に埋められた経典は紙なので姿を消してしまいます。経典が中から出てくることはほとんどないようです。

古代の善通寺NO11 香色山山頂の経塚と末法思想と佐伯氏 : 瀬戸の島から
                一般的な経塚の構造と副葬品例 

 金剛院経塚の本格的な調査が始まるのは、仲寺廃寺が発掘によって明らかになった後のことです。
2012(平成23)年度から調査が始まり、次のように試掘を毎年のように繰り返してきました。
2012年度 
第2テラスのトレンチ調査で、柱穴3、土穴1、排水溝1が確認され、山側を切土して谷側に盛土して平坦面を人工的につくったテラスであることを確認
2013年度
石造十三重塔の調査・発掘が行われ、次のような事を確認。
①金剛寺造営の際に、十三重塔周辺の尾根が削られて平坦にされたこと
②両側が石材で縁取られた参道が整備されたこと
③14世紀半ばに参道東側に盛土して、弥谷・天霧山産の十三重塔が運ばれ設置されたこと
④参道と塔の一部は、その後の地上げ埋没しているが当初設置位置から変わっていないこと
合わせてこの年には、第1テラスの測量調査を行い、地上に残された石材群を16グループに分類                 
2015年度
現状記録のために検出状況を調査して、12ケ所で埋蔵物が抜き取られていることを確認
2016年度 
経塚S9の調査を行い、主体部が石室構造で、その下に別の経塚があること、つまり上下二重構造であったことを確認。
金剛院経塚第1テラスS9
 第1テラス 経塚S9(金剛院経塚:まんのう町)

金剛院経塚S9の遺物 
経塚S9(2016年度の発掘)出土の経筒外容器

経塚調査の最後になったのが2017年度で、経塚S3を発掘しています。

金剛院経塚テラスS3
       金剛院経塚・第1テラスの経塚分布と経塚グループS3の位置


金剛院経塚第1テラスS3
             第1テラス 経塚S3(金剛院経塚:まんのう町)
この時は経塚S3の調査を行い、次のような成果を得ています。
①石室に経筒外容器3点が埋葬時のまま出土
②和紙の付着した銅製経筒が出土したこと。これで紙本経の経塚であることが確定。
この時の発掘について報告書は次のように記します。
金剛院経塚出土状況4
経塚S3 平面図
金剛院経塚出土状況2
経塚S3 断面図
金剛院経塚S3発掘状況1
要約しておきます。
①経塚S3の上部石材を取り除くと、平面が円形状(直径1,4m)の石室が見えてきた。
②そこには経筒外容器が破損した土器片が多数散乱していた。
③石室内部からは、土師器の経筒外容器2点(AとB)、瓦質の甕1(C)が出てきた。

金剛院経塚1
     金剛院経塚S3から出土した外容器 土師器質のA・Bと瓦質の甕のC(後方)

この経筒外容器A・B・Cの中からは、何が出てきたのでしょうか。報告書は次のように記します。
金剛院経塚C3出土の外容器
要約しておくと
①外容器Aからは、鉄製外容器が酸化して粉末状になったものと、鉄製外容器の蓋の小片
②外容器Bからも、鉄製外容器の蓋の一部
③外容器Cの甕からは、銅製経筒が押しつぶされた状態で出てきた。その内部には微量の和紙が付着
④最初はAとCしか見えず、Bはその下にあった。つまり石室は2段の階段構造だった
          外容器Cの甕 和紙が付着した銅製経筒が出てきた
発掘すれば、これ以外にもいろいろな経筒がでてくるはずですが、初期の目的を達成して発掘調査は終わりました。ここからは経塚から出てきた遺物は中世鎌倉時代に作られたもので、金華山頂上に連綿と経塚が造られていた事が分かります。金剛院の伝承では、弘法大師が寺院を建立するための聖地を求めて、この地に建立されたとされます。聖地の金華山山頂という限られた狭い空間に、山肌が見えないほどにいくつもの経塚が造られ続けたのです。これをどう考えたらいいのでしょうか?
 比較のために以前にお話しした善通寺香色山の経塚を見ておきましょう。

DSC01066
 
 香色山山頂からは4つの経塚が発掘されています。
香色山一号経塚
香色山の経塚と副葬品
 そのうちの一号経塚は四角い立派な石郭を造り、その内部を上下二段に仕切り、下の石郭には平安時代末期(12世紀前半)の経筒が納められていて、上の石郭からはそれより遅い12世紀中頃から後半代の銅鏡や青白磁の皿が出土しました。上と下で時間差があることをどう考えたらいいのでしょうか?
 研究者はつぎのように説明します。
「2段構造の下の石郭に経筒や副納品を埋納した後、子孫のために上部に空間を残し、数十年後にその子孫が新たにその上部石郭に経筒や副納品を埋納した「二世代型の経塚」だ。

上下2段スタイルは全国初でした。先ほど見たように、金剛院経塚S3も2段構造で追葬の可能性があります。作られたのも同時代的です。善通寺と金剛院の間には、何らかの結びつきがうかがえます。
 1号経塚は上下2段構造が珍しいだけでなく、下の石郭から出土した銅製経筒は作りが丁寧で、鉦の精巧さなどから国内屈指の銅板製経筒と高く評価されています。ちなみに上の段は、盗掘されていました。しかし、下の段には盗掘者は気がつかなかったようです。そこで貴重な副葬品が数多く出てきたようです。
香色山1号経筒 副葬品
香色山1号分の埋葬品

 香色山経塚群は、平安時代後期に造られているようです。
作られた場所が香色山山頂という古代以来の「聖域」という点から、ここに経塚を作った人物については、次のような説が一般的です。

「弘法大師の末裔である佐伯一族と真言宗総本山善通寺が関わったものであることは疑いない。」

しかし、以前にお話ししたように空海の子孫である佐伯氏は本貫地を京に移し、善通寺から去っています。この時期まで、佐伯直氏一族が善通寺の経営に関わっていたとは思えません。そうであれば、もう少し早くから「善通寺=空海生誕地」を主張するはずです。
  どちらにしても世の中の混乱を1052年から末世が始まるとされる「末法思想の現実化」として僧侶や貴族は捉えるようになります。彼らが経典を写し、経筒や外容器を求め、副納品を集めて経塚を築くようになります。その心情は、悲しみや怒り、あるいは諦念で満たされていたのかも知れません。もしかしたら仏教教典を弥勒出世の世にまで伝えるという目的よりも、自分たちの支配権を取り戻すことを願う現世利益的祈願の方が強かったのかもしれません。
 私は経塚に経典を埋めた人達は、周辺の有力者と思っていたのですが、そうばかりではないようです。遙か京の有力者や、地方の有力者が「廻国行者(修験者)」に依頼して、作られたものもあるのです。その例を白峰寺(西院)に高野聖・良識が納めた経筒で見ておきましょう。
 白峰寺経筒2
白峰寺(西院)の経筒
何が書いてあるか確認します
①が「釈迦如来」を示す種字「バク」、
②が「奉納一乗真文六十六施内一部」
③が「十羅刹女 」
④が三十番神
⑤が四国讃岐住侶良識」
⑥が「檀那下野国 道清」
⑦「享禄五季」、
⑧「今月今日」(奉納日時が未定なのでこう記す)
これは白峰寺から出てきた経筒で、⑥の「檀那の下野国道清」の依頼を受けて讃岐出身の高野聖(行人)の良識が六十六部として奉納したものでであることが分かります。これは経筒を埋めたのは、地元の人間ではなく他国の檀那の依頼で「廻国の行人(修験者や聖)」が全国の聖地を渡り歩きながら奉納していたことを示すものです。これが六十六部と呼ばれる行人です。

四国遍路形成史 大興寺周辺の六十六部の活動を追いかけて見ると : 瀬戸の島から
 「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。彼らは日本国内66ケ国の1国1ケ所に滞在し、それぞれ『法華経』を書写奉納する修行者とされます。ここからは、金剛院に経塚を埋めたのも六十六部などの全国廻り、経塚を作り経典を埋めるプロ行者であったことがうかがえます。 
 そのことを金剛院の説明版は、次のように記しています。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
以上をまとめておきます。

①平安末期になると末法思想の時代がやってくるという危機感から、仏教経典を後世に伝え残すために、書写した経巻を容器に納め地中に埋納した経塚が作られるようになる。
②その場所は、見晴らしの良い丘や神社仏閣などの聖地に密集して作られることが多い。
③その例が金剛院の金華山や善通寺の香色山の山頂の経塚である。
④経塚造営の檀那は地元の有力者に限らず、全国66ヶ国の聖地に経典を埋葬することを願う六十六部や、その檀那も行った。
⑤白峰寺には、下野国の檀那から依頼された行人が収めた経筒が残されていることがそれを物語る。
⑥このような経典を聖地に埋め経塚を造営するという動きが阿弥陀浄土信仰とともに全国に拡がった。
⑦讃岐でその聖地となり、全国からの行人を集めたのが金剛院であった。
⑧こうして金華山山頂には、足の踏み場もないほどの経塚が造営され、経典が埋められた。
⑨全国からやって来る行人の中には、金剛院周辺に定着し周囲を開墾するものも現れ、「坊集落」が姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 調査報告書 金剛院経塚 まんのう町教育委員会2018年
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 金剛寺(まんのう町長炭)の説明板には次のように記されています。

金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。 

金剛院集落 坊集落
         金剛院集落に残る宗教的用語(四国の道説明版)
坊集落金光院の仏縁地名 満濃町史1205P
金剛院周辺の仏縁地名(満濃町史1205p)
これを見ると丸亀平野からの峠には、「法師越」「阿弥陀越」があります。また、仏教的用語が地名に残っていることが分かります。私が気になるのは、各戸がそれぞれ①から⑧まで「坊名」を持っていることです。ここからは坊を名乗る修験者たちが、数多くいたことがうかがえます。それでは修験者たちは、この地にどのようにして定着して行ったのでしょうか? 中世後半に姿を消した金剛寺には、それを物語る史料はありません。そこで、以前にお話した国東半島の例を参考に推測していきたいと思います。
やって来たのは天念寺に隣接する駐車場。<br />ここから見上げれば無明橋も見えている。
            国東半島の天念寺と鬼会の里
国東半島に天念寺という寺院があります。
背後の無明橋と鬼会の里として有名です。この寺は、中世にはひとつの谷全体を境内地としていました。そのため長岩屋(天念寺)と呼ばれたようです。この寺が姿を見せるようになるプロセスを研究者は次のように考えています。

駐車場から雨雲のかかる嶺峰の奥には六郷満山の峰入り道が見え隠れします。
①行場に適した岩壁や洞穴を持つ谷に修験者がやってきて行場となり宗教的聖地に成長して行く
②長岩屋と呼ばれる施設が作られ、行者たちが集まり住むようになる。
③いくつかの坊が作られ、その周囲は開拓されて焼畑がつくられてゆく。
④坊を中心に宗教的色彩におおわれた、ひとつの村が姿を見せるようになる。
⑤それが長岩屋と呼ばれるようになる

「夷耶馬」にも六郷満山の一つの岩屋である夷岩屋があります。
古文書によれば、平安後期の長承四年(1125)、僧行源は長い年月、岩屋のまわりの森林を切り払って田畠を開発し、「修正」のつとめを果たすとともに、自らの生命を養ってきたので、この権利を認めてほしいと請願します。これを六郷満山の本山や、この長岩屋の住僧三人、付近の岩屋の住僧たちが承認します。この長岩屋においても、夷岩屋と同じようなプロセスで開発が進行していたことが推測できます。

長岩屋エリアに住むことを許された62戸の修験者のほとんどは、「黒法師屋敷」のように「屋敷」を称しています。
他は「○○薗」「○○畠」「○○坊」、そして単なる地名のみの呼称となっています。その中で「一ノ払」「徳乗払」と、「払」のつく例が二つあります。「払」とは、香々地の夷岩屋の古文書にあるように、樹林を「切り払い」、田畠を開拓したところからの名称のようです。山中の開拓の様子が浮かんでくる呼称です。「払」の付い屋敷は、長岩屋の谷の最も源流に近い場所に位置します。「徳乗払」は、徳乗という僧によって切り拓かれたのでしょう。詳しく見てみると、北向きの小さなサコ(谷)に今も三戸の家があります。サコの入口、東側の尾根先には、南北朝後半頃の国東塔一基と五輪塔五基ほどが立っていて、このサコの開拓の古いことがうかがえます。

そして、神仏分離によって寺と寺院は隔てられた。<br /><br />しかし、ここで行われる祭礼は、今でも寺院の手で行われているようだ。<br />その意味では、他所に比べて「神仏分離」が緩やかな印象を受ける。<br /><br />
                鬼会の行われる身禊(みそぎ)神社と講堂

長岩屋を中心とした中世のムラの姿の変遷を見ておきましょう。
この谷に住む長岩屋の住僧の屋敷62ケ所を書き上げた古文書(六郷山長岩屋住僧置文案:室町時代の応永25年(1418)があります。
天念寺長岩屋地区
中世長岩屋の修験者屋敷分布
そのうち62の屋敷の中の20余りについては、小地名などから現在地が分かります。長さ4㎞あまりの谷筋のどこに屋敷があったのかが分かります。この古文書には、この谷に生活できるのは住僧(修験者)と、天念寺の門徒だけで、それ以外の住民は谷から追放すると定められています。ここからは、長岩屋は「宗教特区」だったことになります。国東の中世のムラは、このようにして成立した所が珍しくないようです。つまり、修験者たちによって谷は開かれたことになります。これが一般的な国東のムラの形成史のようです。このようなムラを「坊集落」と研究者は呼んでいます。

このように国東の特徴は、修験者が行場周辺を開発して定着したことです。
そのため修験者は、土地持ちの農民として生活を確保した上で、宗教者としての活動も続けることができました。別の視点で見ると、生活が保障された修験者、裕福な修験者の層が、国東には厚かったことになります。これが独自の仏教的環境を作り出してきた要因のひとつと研究者は考えています。どちらにしても長岩屋には、数多くの修験者たちが土地を開き、農民としての姿を持ちながら安定した生活を送るようになります。
 別の視点で見ると大量の修験者供給地が形成されたことになります。あらたに生まれた修験者は、生活の糧をどこに求めたのでしょうか。例えばタレント溢れるブラジルのサッカー選手が世界中で活躍するように、新たな活動先を探して「出稼ぎ」「移住」を行ったという想像が私には湧いてきます。豊後灘の向こう側の伊予の大洲藩や宇和島藩には、その痕跡があるような気配がします。しかし、今の私には、史料的に裏付けることはできません。
天念寺境内絵図
神仏分離の前の天念寺境内絵図

以上、国東半島の天念寺の「坊集落」を見てきました。これをヒントに金剛院集落の成り立ち推測してみます。

金剛院集落=坊集落説

①古代に讃岐国府の管理下で、大川山の山腹に山林修行のために中村廃寺が建立された。
②山上の中村廃寺に対して、里に後方支援施設として金剛寺が開かれ、周辺山林が寄進された。
③廻国の山林修行者が金剛寺周辺に、周辺の山林を焼畑で開墾しながら定着し、坊を開いた。
④こうして金剛寺を中心に、いくつもの坊が囲む宗教的空間(寺社荘園)が現れた。
⑤金剛寺は、鎌倉時代には宗教荘園として独立性を保つことができたが、南北朝の動乱期を乗り切ることができずに姿を消した。
⑥具体的には、守護細川氏・長尾城主の長尾氏の保護が得られなかった(敵対勢力側についた?)
⑦古代後半から南北時代に、金光院集落からは多くの修験者たちを生む出す供給地であった。
⑧金剛寺が衰退した後も、大川山周辺は霊山として修験道の活動エリアであった。
こうして見てくると、旧琴南など地元寺院に残る「中村廃寺」の後継寺という由緒も、金剛寺とのつながりの中で生まれたと考えた方が自然なのではないかと思えてきます。また、旧琴南地区に山伏が登場する昔話が多く残っているのも、金剛寺の流れを汲む修験者の活動が背景があるからではないか。

金剛院集落 まんのう町
まんのう町金剛院集落(手前は十三重塔)
どちらにしても古代末から南北朝時代にかけて、まんのう町長炭の山間部には金剛寺というお寺があり、周囲にはいくつも坊を従えていたこと。そこは全国からの山林修行者がやってきて写経し経筒を埋める霊山でもあったこと、その規模は、白峯寺や弥谷寺にも匹敵した可能性があることとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「石井進 中世の村を歩く 朝日新聞社 2000年」
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  金剛寺は中世まで遡ることの出来る寺院で、修験者の痕跡を色濃く残します。

金剛院集落と修験道
金剛院部落と修験道

現地の説明版に次のように記します。
金剛院部落の仏縁地名について考える一つの鍵は、金剛寺の裏山の金華山が経塚群であること。経塚は修験道との関係が深く、このことから金剛院の地域も、 平安末期から室町時代にかけて、金剛寺を中心とした修験道の霊域であったとおもわれる。
各地から阿弥陀越を通り、法師越を通って部落に入った修験者の人々がそれぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に籠って、 看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者にことづけを残し次の霊域を目指して旅立っていった。
金剛院説明版
金剛寺前の説明版  
  説明板の要旨
金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、金剛院金華山黎寺と称していたといわれている。楼門前の石造十三重塔は、上の三層が欠けているが、 鎌倉時代後期に建立されたもの。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれており、各所に経塚が営まれていて山全体が経塚だったと思われる。部落の仏縁地名(金剛院地区)や経塚の状態からみて、 当寺は修験道に関係の深い聖地であったと考えられる。経塚とは、経典を長く後世に伝えるために地中に埋めて塚を築いたもの。
要点を整理しておくと次の通りです。
①金剛寺の裏山の金華山は経塚が数多く埋められていること
②これを行ったのは中世の廻国の山林修行者(修験者・聖・六十六部たち)で、書経や行場であった。
③多くの僧侶(密教修行者)が各坊を構えて生活し、宗教的荘園を経済基盤に山林寺院があった。
④石造十三重塔は鎌倉時代中期のもので、修験者の行場であり、聖地であったことを伝える。

ここにも書かれているように金剛院地区は、仏教に関係した地名が多く残り、かつては大規模な寺院があったと語り継がれてきました。しかし 、金剛寺の由来を記した古文書がありません。目に見える痕跡は、門前の田んぼの中にポツンと立つ十三重の石塔(鎌定時代後期)だけでした。今回は、この石造五重塔に焦点を絞って見ていきたいと思います。テキストは以下の報告書です。
金剛院調査報告書2014
まず金剛寺の 地理的環境を見ておきましょう。
金剛院集落は、土器川右岸の高丸山 ・猫山 ・小 高見峰などに固まれ、西に開けた狭い盆地状の谷部にあります。金剛院地区周辺をめぐると気づくのは「阿弥陀越」や「法師越」といったいった仏教的な地名が数多く残っていることです。これらの峠道を通って、峠の北側の丸亀平野との往来が盛んに行われていたこと、そこに廻国の修験者や聖たちがやってきたこと、それらを受けいれる組織・集団がいたことがうかがえます。
イメージ 7
金華山と金剛寺

盆地の中央に金華山と呼ばれる標高約 207mのこんもりと盛り上がった小山(金華山)があります。この前に立つと何かしら手を合わせたくなるような雰囲気を感じます。そういう意味では金華山は、シンボル的で霊山とも呼べそうです。金華山を背負って南面して金剛寺は建っています。

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金剛寺の石造十三重の塔

 その金剛寺前の参道沿いに十三重塔はあります。参道の両側は、今は水田ですが、これは金華山南方の尾根を削平したものと研究者は考えています。そうだとすると、この塔は、境内の中にあったことになり、相当広い伽藍をもっていたことになります。塔身初重軸部より下は、今は土に埋もれています。しかし、笠を数えてみると十三ありません。今は十重の塔です。それがどうしてかは後ほど話すことにして先を急ぎます。
まんのう町周辺の古代から中世にかけての仏教関係遺跡を、報告書は次のように挙げています。

まんのう町の中世寺院一覧表

①白鳳・奈良期の古代寺院である弘安寺廃寺・佐岡寺跡
②平安時代の山林寺院である国指定史跡中寺廃寺跡
③平安時代後期から中世の 山林寺院である尾背廃寺跡
④平安時代後期の経塚群がある金剛寺
⑤弘法大師との関係が深いとされる満濃池
⑥高鉢山の氷室遺跡(修験者との関連)

これらの遺跡をつなぎ合わせていくと、次のような変遷が見えて来ます。
 白鳳・奈良期の古代寺院→ 平安時代の古代山林寺院→ 中世の山林寺院→ 経塚群

これらの宗教遺跡は約10kmの範囲内にあって、孤立したものではなくネットワークを結んで機能していた可能性があることは以前にお話ししました。しかし、文献史料がないためにその実態はよくわかりません。
十三重塔は、貴重な石造物史料ということになります。詳しく見ていくことにします。

金剛寺十三重塔9 
                  金剛寺十三重の塔 東西南北から

さきほどみたように、この十三重塔の一番上の十三重と十二重はありません。崩れ落ちたのでしょうか、金剛寺境内に別の塔の一部として今は使われています。
金剛寺十三重塔 13・12重 

金剛寺十三重塔 13・12重2 

上図のように上と下面に丸い穴が開けられています。上面の穴に相輪が設置されていたようです。他の塔身に比べ縦長です。ちなみに塔身11重は、今は行方不明のようです。
そうすると上から塔身の3つが欠け落ちているので、残された笠は十重になります。それを報告書は次のように記します。
①塔身初重から塔身 5重までは側面が揃うが 、塔身6重は上から見て反時計回りのねじれ 、塔身7~9重は時計回りのねじれがある
②塔身6~10重は南東方向へ若干傾く
③塔身は上層ほど風雨により侵食され、稜線が磨滅している。
④塔身12重は軸部と笠部がかなり磨耗しているため 、減衰率が低くなっている
次に塔身初重軸部を見ておきましょう。

金剛寺十三重塔 
金剛寺十三重塔4 
塔身初重軸部の東西南北

①上面と下面の中央に円筒状の突出部がある
②北側と東側 の側面に梵字が刻印されている 。

北側面の梵字は「アク」(不空成就如来)、東側面の梵字「ウン(阿閥如来)」です。そして研究者が注目するのは、上図のように梵字の方位が金剛界四仏の方位と合致することです。ここからは、この十三重塔は最初に建てられた本来の方位を向いていること、さらに云えば建立当初の位置に、今も建っていると研究者は推測します。ちなみに梵字が彫られているのは、北と東だけで、西側と南側にはありません。

それでは金剛寺十三重塔は、いつ・どこで作られたものなのでしょうか?
①凝灰岩製でできているので、石材産地は弥谷山 ・天霧山の凝灰岩 (天霧石)
②制作時期は塔身形状から仏母院古石塔(多度津町白方)と同時期
と研究者は考えています。
③の仏母院古石塔には石塔両側面に「施入八幡嘉暦元丙寅萼行」の銘があるので「嘉暦元丙寅 」 (1326年)と分かります。金剛寺十三重塔も同時代の鎌倉時代後半ということになります。

西白方にある仏母院にある石塔
             白方にある仏母院にある石塔「嘉暦元丙寅 」 (1326年)
ちなみに、これと前後するのが以前にお話しした白峰寺のふたつの十三重塔です。

P1150655
白峰寺の2つの十三重塔
東塔が花崗岩製、弘安元年(1278)で近畿産(?)
西塔が凝灰岩製、元亨4年(1324)で、天霧山の弥谷寺の石工集団による作成。
中央の有力者が近畿の石工に発注したものが東塔で、それから約40年後に、東塔をまねたものを地元の有力者が弥谷寺の石工に発注したものとされています。ここからは、東塔が建てられて40年間で、それを模倣しながらも同じスタイルの十三重石塔を、弥谷寺の石工たちは作れる技術と能力を持つレベルにまで達していたことがうかがえます。その代表作が金剛寺十三重塔ということになります。しかし、天霧石は凝灰岩のために、長い年月は持ちません。そのために上の笠3つが崩れ落ちたとしておきます。
天霧系石造物の発展2
 天霧山石造物の14世紀前半の発展

白峯寺石造物の製造元変遷
     
ちなみに中世に於いて五輪塔や層塔などの大型化の背景には、律宗西大寺の布教戦略があったと研究者は考えています。そうだとすると、讃岐国分寺復興などを担った西大寺の教線ルートが白峯寺や金剛寺に伸びていたという仮説も考えられます。
      
    周辺で同時代の天霧山石造物を探すと三豊市高瀬町の二宮川の源流に立つ大水上神社の燈籠があります。
大水上神社 灯籠
大水上神社の康永4年(1345)の記銘を持つ灯籠

下図は白峰寺に近畿の石工が収めた燈籠です。これをモデルにして弥谷寺の石工がコピーしたものであることは以前にお話ししました。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
白峰寺頓證寺殿前の燈籠(近畿の石工集団制作

近畿産モデルを模造することで弥谷寺の石工達は技量を高め、市場を拡大させていたのが14世紀です。白峯寺に十三重塔が奉納された同時期に、まんのう町の山の中に運ばれ組み立てられたということになります。同時に、弥谷寺と金剛院の修験者集団のネットワークもうかがえます。弥谷寺の石工集団が周囲に石造物を提供するようになった時期を押さえておきます。

i弥谷寺石造物の時代区分表

白峯寺や金剛寺に十三重塔を提供したのは、第Ⅱ期にあたります。この時期に弥谷寺で起きた変化点を以前に次のように整理しました。

弥谷寺石造物 第Ⅱ期に起こったこと

第Ⅰ期は、磨崖に五輪塔が彫られていましたが立体的な五輪塔が登場してくるのが、第Ⅱ期になります。その背景には大きな政治情勢の変化がありました。それは鎌倉幕府の滅亡から足利幕府の成立で、それにともなって讃岐の支配者となった細川氏のもとで、多度津に香川氏がやってきたことです。香川氏は、弥谷寺を菩提寺として、そこに五輪塔を造立するようになり、それが弥谷寺石工集団の発展の契機となります。そのような中で白峯寺や金剛寺にも弥谷寺産の十三重塔が奉納されます。ここでは金剛寺の十三重塔と、香川氏の登場が重なることを押さえておきます。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
                天霧石産石造物の分布図

天霧石製石造物はⅡ期になると瀬戸内海各地に運ばれて広域に流通するようになります。
かつては、これは豊島石産の石造物とされてきましたが、近年になって天霧石が使われていることが分かりました。弥谷寺境内の五輪塔需要だけでなく、外部からの注文を受けて数多くの石造物が弥谷寺境内で造られ、三野湾まで下ろされ、そこから船で瀬戸内海各地の港町の神社や寺院に運ばれて行ったのです。そのためにも弥谷寺境内で盛んに採石が行われたことが推測できます。ここからは弥谷寺には石工集団がいたことにが分かります。中世の石工集団と修験者たちは一心同体ともされます。中世の採石所があれば、近くには修験者集団の拠点があったと思えと、師匠からは教わりました。
また上の天霧山石造物の分布図は、「製品の販売市場エリア」というよりも、弥谷寺修験者たちの活動範囲と捉えることもできます。そのエリアの中に金剛寺も含まれていたこと。そして、白峰寺西塔に前後するように、弥谷寺の石工集団は金剛寺にも十三重塔を収めたことになります。
別の言い方をすれば、まんのう町周辺は天霧山の弥谷寺石工の市場エリアであったことがうかがえます。

最後に天霧山石造物のまんのう町への流入例を見ておきましょう。
弘安寺跡 十三仏笠塔婆3
まんのう町四条の弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆
 この笠塔婆の右側面には、胎蔵界大日如来を表す梵字とその下に「四條一結衆(いっけつしゅう)并」
と彫られています。
「四條」は四条の地名
「一結衆」は、この石塔を建てるために志を同じくする人々
「并」は、菩薩の略字
  以上の銘文から、この笠塔婆が四條(村)の一結衆によって、永正16(1519)年9 月21日の彼岸の日を選んで造立されたことがわかります。


金剛寺4
金剛寺と十三重塔の位置関係

報告書は、金剛寺の十三重塔造成過程を次のようにまとめています。
①金剛寺が金華山南面に造営された際に、十三重塔付近の尾根も削平された
②続いて、石列と参道への盛士が行われ、金剛寺への参道が整備された。
③石列の一部を除去し盛士造成し、根石を設置した上に十三重塔が建てられた。
④それは天霧山石材を使ったもので弥谷寺の石工集団の手によるもので14世紀のことであった。
⑤天霧山で作られた石材がまんのう町まで運ばれ組み立てられた。
⑥天霧・弥谷寺と金剛院の山林修行者集団(修験者)とつながりがうかがえる。
⑦その後の根石の磨滅で、長期間根石が地上に露出していた
⑧この期間で十三重塔東西の平地は畑地化し、旧耕作土が堆積した。
⑨さらに、2回目の参道盛土が行われ、その際に人頭大・拳大の石が置かれた。
これは畑地化の過程で出てきた石を塔跡付近に集めてた結果である。
⑩さらに3回目の盛土が堆積し、水田化され耕作土が堆積する 。
以上からは、参道部分は何度も盛土が行われきましたが、参道と十三重塔は常に共存してきたようです。それは建立当初の位置に、この塔が今も建っているとから分かります。

香川県内の十三重塔はいくつかあるのですが、きちんと調査されているのは白峯寺の2基だけです。それに続いて調査されたのが金剛寺十三重塔になります。いろいろな塔が調査され、比較対照できるようになれば讃岐中世の石造物研究の発展に繋がります。その一歩がこの調査になるようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
金剛寺十三重塔調査報告書 まんのう町教育委員会
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琴平と高松の人達を案内して、満濃池を「散策学習」することになりました。そのために説明に使う絵図をアップしておきたいと思います。これらの絵図をスマホで見ながら、説明等を行いたいという目論見です。まず、ため池の基本的な施設を確認しておきます。

ため池の施設
ため池の施設
蓄えた水は、③ユル→② 竪樋→③底樋→④樋門を通じて用水路に流されます。また、満水時のオーバーフローから堤防を守るための「うてめ(余水吐け)」が設けられています。

 底樋1
              仁池の底樋

現在のため池に使われている底樋です。コンクリート製なので水が漏れることもありませんし、耐久性もあります。しかい、江戸時代はこれが木製でした。満濃池の底樋や 竪樋の設計図が残されています。

満濃池底樋と 竪樋

文政3年の満濃池の設計図です。底樋にV字型に 竪樋がつながれて、堰堤沿いに上に伸びています。その 竪樋の上に5つのユルが乗っています。別の図を見てみましょう。

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       讃岐国那珂郡七箇村満濃池 底樋 竪樋図
同じ構造ですが、
底樋には木箱のような樋が使われていたことが分かります。そして堤防の傾斜にそって 竪樋がV字型に伸ばされ、丸い穴が見えます。その穴の上にユルからのびた「スッポン(筆の木)」と呼ばれる大きな詮がぶら下がっています。これで穴を塞ぐというしくみです。底樋や竪樋は、当時の最先端技術でハイテクの塊だったようです。畿内から招いた宮大工達が設計図を書いて、設置に携わりました。


満濃池樋模式図
満濃池の底樋と竪樋・ユルの模式図

この模型がかりん会館にはあります。

満濃池 底樋・ 竪樋模型
満濃池の底樋と竪樋・ユル(かりん会館)
水が少なくなっていくと、上から順番にユルが抜かれていきます。満濃池のユルは、どれくらいの大きさがあったのでしょうか
 大正時代のユル抜きシーンの写真が残されています。

大正時代のユル抜き 池の宮
取水塔が出来る以前のユル抜きシーン 後が池の宮

 この写真でまず押さえておきたいのは、ユルの背後に池の宮(現神野神社)の拝殿があることです。池の宮の前に、ユルがあったことを押さえておきます。ユルに何人もの男達が上がってユルを抜こうとしています。赤や青のふんどし姿の若者達が 竪樋に長い檜の棒を差し込んで、「満濃のユル抜き どっとせーい」の安堵に合わせて、差し込んだ棒をゆっくりと押さえて、てこの原理で「スッポン(筆木:詮)」を抜き上げたようです。それを多くの人たちが見守っています。
 ユルがなくなったのはいつなのでしょうか?

P1240742
満濃池の取水塔(1914年)
 取水塔ができるのが大正3年(1914)で、今から約110年前です。それまでは木製ユルが使われていました。

満濃池赤煉瓦取水塔 竣工記念絵はがき1927年
満濃池の赤レンガ取水塔

 次に満濃池の歴史を見ていくことにします。
満濃池は空海が築いたとされます。それを描いた絵図を見てみましょう。

満濃池 古代築造想定復元図2
空海の満濃池改修の想定画(大林組)

 大手ゼネコンの大林組の技術者たちが描がいたものです

A 空海が①岩の上で護摩祈祷していますこの岩は後には、「護摩壇岩」と呼ばれることになります。

B アーチ状に伸ばされてきた堤防が、真ん中でつながれ、③底樋が埋められています工事も最終局面にさしかかっています。

C 池の内側には ④竪樋と5つのユルが出来上がっています。

D 池の中の⑤採土場からは多くの人間が土を運んでいます。E 堤防は3人一組で突き、叩き固められています。

堤防の両側は完成し、その真ん中に底樋が設置されています。 竪樋やユルも完成し、すでに埋められているようです。
 日本略記によると空海が満濃池修復を行ったのは弘仁(こうにん)2年821年の7月とされます。
約1200年前のことです。ところが
、空海が再築した満濃池も、平安末期には決壊して姿を消してしまいます。そして、池のあった跡は「再開発」され、開墾され畑や田んぼが造られ、「池之内村」が出来ていたようです。ここでは、中世の間、約450年間は満濃池は存在しなかったことを押さえておきます。
 17世紀初頭に、その様子を描いたのが次の絵図です。

まんのう町 決壊後の満濃池

 満濃池跡 堰堤はなく、内側には村が出来ている

A ①金倉川には、大小の石がゴロゴロと転がります。

B 金倉川をはさんで左側が④「護摩壇岩」、右側が②「池の宮神社」

C ③が「うてめ(余水吐)」跡で、川のように描かれています。

D 堤防の内側には、家や水田が見える。これが⑤「池之内村」。ここからは、池の跡には村が出来ていたことが分かります。

ここに満濃池を再築したのが西嶋八兵衛です。

西嶋八兵衛

西嶋八兵衛
西嶋八兵衛の主君は、伊賀藩の藤堂高虎です。当時は、西嶋八兵衛は生駒藩に重臣として出向(レンタル)を主君から命じられていました。このような中で、讃岐では日照りが続いて逃散が頻発します。お家存続の危機です。これに対して、藤堂高虎は農民たちの不満や不安をおさめるためにも、積極的な治水灌漑・ため池工事を進めることを西嶋八兵衛に命じます。こうして、西嶋八兵衛のもとで讃岐各地で同時進行的に灌漑工事が進められることになります。彼の満濃池平面図を見ておきましょう。

西嶋八兵衛の平面図2

西嶋八兵衛の築造図

①護摩壇岩(標高143㍍)と西側の池之宮(140㍍)の丘をアーチ型の堰堤で結んでいる。

②底樋が118m、竪樋41m 堤防の長さは約82m

③その西側に余水吐きがある。

こうして西嶋八兵衛によって、満濃池は江戸時代初期に450年ぶりに姿を見せたのです。彼の業績は大きいと私は思っていますが、その評価はもうひとつです。江戸時代は忘れ去れた存在になっていたようで、そのため正当な評価はされていなかったことが背景にあるようです。

満濃池遊鶴(1845年)2
満濃池遊鶴(まんのう町教育委員会)
こうして西嶋八兵衛によって、阿讃山脈の山麓に巨大な池が姿を現します。これは文人達にも好んでとり上げられるようになり、あらたな「観光名所」へと成長して行きます。そして池の俯瞰図が描かれ、その背後に詩文が添えられたものが数多く発行されるようになります。

当時の底樋や竪樋は木製でした。そのため定期的な改修取り替え工事が必要でした。

満濃池改修一覧表
満濃池改修工事一覧表 21回の工事が行われている

底樋を取り替えるためには、堰堤を一番底まで掘り下げる必要があります。そのためには多大の人力が必要になります。満濃池普請には、讃岐全土から人足が動員されました。
その普請作業の様子を見ておきましょう。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
満濃池
御普請絵図
この時の嘉永年間(1848~54)の改修工事は、底樋石造化プランを実行に移す画期的なものでした。そのため工事の模様が数多く残されています。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(護摩壇岩) - コピー
満濃池
池普請 高松藩と丸亀藩の監視小屋

①護摩壇岩側には、「丸」と「高」の文字が掲げられた高松藩・丸亀藩の監督官の詰所

②軒下に吊されているのが「時太鼓」。朝、この太鼓が鳴り響くと、周辺のお寺などに分宿した農民たちが、蟻のように堤防目指して集まってきて仕事に取りかかった。
③小屋の前で座って談笑しているのが、農民達を引率してきた庄屋たち。藩を超えた話題や情報交換、人脈造りなどががここでは行われていた。
④四国新道を築いた財田の大久保諶之丞も、明治の再築工事に参加し、最新の土木技術などに触れた。同時に、長谷川佐太郎の生き様から学ぶことも多かった。それが、後に彼を四国新道建設に向かわせる力になっていく。

満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(底樋) - コピー
底樋に使う石材が轆轤でひかれています

下では石を引いたり、整地する人足の姿が見えます。彼らは藩を超えて讃岐各地から動員された農民達で、7日間程度で働いて交替しました。手当なしの無給で、手弁当で周辺のお寺や神社などの野宿したようです。自分の水掛かりでもないのに、なんでここまえやってきた他人さまの池普請をやらないかんのかという不満もありました。そんな気持ちを表したのが「いこか まんしょか まんのう池普請」でというザレ歌です。
現場を見ると、底樋の石材化のために四角く加工された石柱が何本も運び込まれています。牛にひかせたもの、修羅にのせたものをろくろを回して引っ張りあげる人夫達。川のこちら側では、天下の大工事をみるために旦那達がきれいどころを従えて、満濃池の普請見物にやって来ているようです。

満濃池決壊拡大図 - コピー
満濃池の中を一筋に流れる金倉川と「切堤防」
ところがこの時の底樋石材化プランには、工法ミスと大地震が加わり、翌年夏に堰堤が決壊してしまいます。そして、その後明治になるまで、決壊したまま放置されるのです。上の絵図は、空池となった満濃池跡を金倉川流れている姿です。
IMG_0010満濃池決壊と管製図
満濃池堰堤決壊部分、下が修理後の姿
満濃池が再築されるのは、幕末の混乱を終えて明治になってからです。
再建の中心として活躍したのは榎井の庄屋・長谷川佐太郎でした。
彼は「底樋石材化」に代わって、「底樋隧道石穴化」プランで挑みます。それは、うてめ(余水吐け)部分が固い岩盤であることを確認して、ここに隧道を通して底樋とするというものです。成功すれば、底樋のメンテナンスから解放されます。

軒原庄蔵の底樋隧道
明治の満濃池底樋隧道化案
この経緯については、以前にお話ししたので省略します。完成した長谷川佐太郎の平面図を見ておきましょう。

長谷川佐太郎 平面図
満濃池 明治の長谷川佐太郎の満濃池平面図

①旧余水吐き附近の岩盤に穴を開けて底樋を通した

②そして竪樋やユルも堤防真ん中から、この位置に移した。

③そのため一番ユルは、池の宮前に姿を見せるようになった。

④余水吐きは、現在と同じ東側に開かれた

大正時代になると、先ほど見た取水塔が池の中に姿を見せます。

P1240743
満濃池
取水塔(1914年)

約90年前に姿を見せた取水塔です。この取水塔によって、 竪樋やユルも底樋に続いて姿を消すことになります。引退した後のユルの一部がかりん会館にありますから御覧下さい。


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ユルの先に付けられていたスッポン(筆木)
実際に見てみると、その大きさに驚かされます。また下の 竪樋は厚い一枚板が使用されています。ここからごうごうと、水が底樋を通じて流れ出ていました。
 江戸時代と現在の満濃池の堰堤を断面図で比べて見ます。

満濃池堤防断面図一覧
満濃池堰堤の断面図比較

戦後1959年になると、貯水量の大幅増が求まれるようになります。そのために行われたのが堰堤を6m高くし、横幅も拡げ貯水量を増やす工事でした。断面図で比較しておきましょう

①が西嶋八兵衛 ②が昭和の大改修 が1959年の改修です。現在の堰堤が北(右)に移動して、高くなっています。この結果、池之宮(標高140m)は水の中に、沈むことになります。それよりも高い護摩壇岩(標高143m)は、今も頭だけ残しています。これも空海信仰からくるリスペクトだったのかもしれません。

満濃池 1959年版.jpg2
959年改修の満濃池平面図

①護摩壇岩は小さな島として、頭だけは残した。

池の宮は水没(標高140m)し、現在地に移転し、神野神社と呼ばれるようになった。

③堰堤の位置は、護摩壇岩の後に移され、堤防の長さも81㍍から155㍍へ約倍になった。

そして堰堤のアーチの方向が南東向きから南西向きに変わりました。この結果、堰堤に立つって讃岐山脈方面を見ると正面に大川山が見えるようになった。
最後に、明治初年に満濃池が再建される際に書かれた分水図を見ておきます。

満濃池分水網 明治

満濃池水掛村々之図(1830年)

これを見ると満濃池の分水システムが見えて来ます。
満濃池と土器川と金倉川を確認します。土器川と金倉川は水色で示されていないので、戸惑うかも知れません。当時の人たちにとって土器川や金倉川は「水路」ではなかったようです。
②領土が色分けされています。高松藩がピンク色で、丸亀藩がヨモギ色、多度津藩が白です。そして、水掛かりの天領が黄色、金毘羅大権現の寺領が赤になります。

③私はかつては高松藩と丸亀藩の境界は土器川だと思っていた時代が長くありました。それは、丸亀城の南に広がる平野は丸亀藩のものという先入観があったからです。しかし、ピンク色に色分けされたピンク領土を見ると、金倉川までが高松藩の領土だったことがわかります。丸亀城は高松藩の飛び地の中にあるように見えます。満濃池の最大の受益者は高松藩であることが分かります。

④丸亀平野全体へ用水路網が整備されていますが、丸亀藩・多度津藩は、水掛かり末端部に位置し、水不足が深刻であったことがうかがえます。

まんのう町・琴平町周辺を拡大して見ましょう。

満濃池分水網 明治拡大図


①満濃池から流れ出た水は、③の地点で分水されてます流れを変えられました。ここに設けられたのが水戸大横井です。現在の吉野橋の西側です。パン屋さんのカレンの裏になります。

②ここでは、コントロールできるだけの水量を取り込んで④四条公文方面に南流させます。一方、必要量以上の水量は金倉川に放水します。そのため夏場は、ほとんどの水が④方向に流され、金倉川は涸川状態となります。④方面に流された水は、五条や榎井・苗田の天領方面に、いくつもの小さな水路で分水されます。この絵図から分かるのは、この辺りの小さな水路は満濃池幹線から西に水がながされていることです。

③さらに④の高篠のコンビニの前で分水地点でされます。④南流するルートは公文を経て垂水・郡家・田村・津森・丸亀方面へ水を供給していきます。

⑤一方、④で北西に伸びる用水路は天領の苗田を経て、⑤で再び金倉川に落とされます。そして、⑥でふたたび善通寺方面に導水されます。
 当たり前のことですが用水路が整備されないと、水はきません。西嶋八兵衛の活動は、満濃池築造だけに目がいきがちですが、同時に用水路整備も併行して行われていたはずです。

西嶋八兵衛の満濃池と用水路

西嶋八兵衛の取り組んだ課題は?

 中世までの土器川や金倉川・四条川は幾筋もの流れを持つ暴れ川でした。これは、下の地図からもうかがえます。それをコントロールして、一本化しないと用水路は引けないのです。

満濃池用水路 水戸
国土地理院地形図 土地利用図に描かれた水戸周辺の河川跡
そのための方法が、それまで土器川と併流していた四条川を③の水戸大横井で西側へ流すための放水路としての「金倉川」の整備です。そして、それまでの四条川をコントロールして、「満濃池用水路化」したと私は考えています。「消えた四条川、造られた金倉川」については、新編丸亀市史の中でも取り上げられています。
さらに推測するなら、空海もこれと同じ課題に直面したはずです。
つまり、用水路の問題です。空海の時代には、大型用水路は以前にお話ししたように丸亀平野からは出てきていません。出てきてくるのは、幾筋もに分かれて流れる土器川、金倉川です。また、条里制も川の周囲は放置されたままで空白地帯です。土器川をコントロールして、満濃池からの水を何キロにもわたって流すという水利技術はなかったと研究者は考えるようになっています。そうすると空海が満濃池をつくっても丸亀平野全体には、供給できなかったことになります。空海が改修した満濃池は、近世に西嶋八兵衛が再築したものに比べると、はるかに小さかったのではないかと私は考えるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

満濃池史 満濃池土地改良区五十周年記念誌(ワーク・アイ 編) / りんてん舎 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 満濃池史 満濃池土地改良区50周年記念誌
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満濃池堰堤図2
満濃池堰堤周辺図
 前回は、説明だけで歩かないまま終わってしまいました。昨日・今日と実際に、琴平や高松の人達と歩いてきたので、その報告記を載せておきます。スタートは堰堤の東端の①余水吐け(うてめ)です。

満濃池余水吐け
満濃池余水吐け 満水時にオーバフローする
満濃池に御案内すると、「今はどのくらい水が溜まっている状態なのですか?」とよく聞かれます。この余水吐けを水が越えていれば満水状態と云うことになります。それでは、ここから流れ出た水は、どこにいくのでしょうか?それをたどって見ることにします。

 満濃池 高松藩執政松崎渋右衛門の辞世の歌
明治の満濃池再築の功労者・松崎渋右衛門の辞世の歌 
余水吐けの後に神野神社への階段があります。その東側に、松崎渋右衛門の歌碑があり、その横に散策路の入口があります。この散策路に入っていきます。      

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堤防から下に続く散策路

標高差30mほどで堰堤から金倉川まで下りてきました。
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満濃池堤防下の遊歩道
堤防の下まで下りてきました。正面に満濃池の堰堤が見えます。


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        下から見る満濃池の堰堤
正面が堰堤です。現在の堰堤は、1959年の嵩上げ工事で、6m高くなり、32mの高さがあります。見上げるような感じです。

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満濃池余水吐の排水口
ここで左手を見上げると、岩盤があり、その上に穴が空いています。これが先ほど見た余水吐きの出口になります。満水で余水吐きを越えた時には、次のような光景が見られるようです。
満濃池余水吐きからの落水
余水吐け出口からの落水(満濃池のまぼろしの瀧?)
この光景は、満濃池が満水になって大雨が降った後でないと見れません。そのため年間で十数回程度で「幻の瀧」とも云われています。興味のある方は、チャンスをみて見に来て下さい。

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      満濃池余水吐からの落水(2024年6月28日)
梅雨の大雨続きで、迫力ある「満濃池のまぼろしの滝」でした。


満濃池 現状図
満濃池堰堤周辺の構造物位置
位置を確認しておくと、③の余水吐きから神野神社の下に掘られたトンネルと経て、この岩場を金倉川に向かって流れ落ちていることになります。さて、正面の堰堤に視線をもどしてみます。


P1260722

 石垣が積み上げられ、穴が空いている部分があります。これが満濃池の⑤樋門です。用水塔から取り込まれた水は、ここから流れ出てくることになります。

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6月13日の満濃池のゆる抜き
IMG_2773
満濃池の樋門
ここで質問 江戸時代の樋門は、堰堤のど真ん中にありました。それが、どうして右端に移されたのでしょうか?
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化4
江戸時代最後となった嘉永年間の工事も、底樋は堰堤の真ん中に据えられています。しかし、現在の満濃池の樋門は西側にあります。

満濃池 1959年版.jpg2
1959年の嵩上げ工事後の満濃池
 それは明治の再建工事の際に、岩盤にトンネルを掘って底樋とする「底樋トンネル化」が採用されたからです。そのため固い岩盤がある現在のルートが選ばれます。上図のように、取水塔と樋門はトンネルで一直線に結ばれるようになります。樋門が西側にやってきたのは、明治の「底樋トンネル化」プランの結果のようです。

P1260730
満濃池樋門(ひもん)と登録有形文化財プレート
樋門の説明文を拡大してみます。
満濃池樋門2
満濃池底樋の登録文化財認定の説明文
ここからは、次のようなことが分かります。
①満濃池の底樋管は、軒原庄蔵によって掘られた。
②全長197mで、取水塔と樋門が底樋隧道で結ばれている
③抗口には列柱レリーフなどの装飾が施されている
①の軒原庄蔵の掘った「底樋隧道」とは、どんなものだったのでしょうか?
軒原庄蔵の底樋隧道
       満濃池 軒原(のきはら)庄蔵の掘った「底樋石穴」
岩盤に底樋用の石穴を開ける工事は、寒川郡富田村の庄屋、軒原庄蔵が起用されます。彼は寒川の弥勒池の石穴を貫穿工事に成功した実績を持っていました。上図を見ると木製底樋に竪樋がV字型に伸ばされ、その上にユルが5つ組まれています。一番上のユルが一番ユルです。それは、「池の宮」の前に位置しています。また底樋トンネルも「池の宮」の地下を通っていることが分かります。
 取水塔が出来る前のユル抜きの写真を見てみましょう。
池の宮の前の一番ユル
       満濃池のユル抜き 取水塔ができる前
①ユルの上に多くの人足が上がって、ユルを抜こうとしている。それを見守る見物人
②背後の建物が池の宮、白い制服姿が官兵・軍人(?) 池の宮の前にユルがあったことが分かる。
③この後、大正14年に取水塔ができて、木製のユルは姿を消した。
満濃池堤防断面図一覧
現在の堰堤(1959年)は、6m嵩上げされている
前回に戦後の改修でも、堤防が嵩上げされたことをお話ししました。その嵩上げ中の写真を見ておきましょう。

満濃池1951年本堤
昭和26(1951)年の満濃池堤防

1952年満濃池
昭和27(1952)年の満濃池堤防
1953年満濃池堤防
昭和28(1953)年の満濃池堤防
堤防が年々嵩上げされていたことが分かります。同時に、堰堤工事のために周辺の山から土が切り出されていたようです。

DSC03848
昭和
26(1951)年 満濃池の工事現場

P1260736
蛍の里公園からの満濃池堰堤
今回は満濃池堰堤の下側を散策してみました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 満濃池史

法然
法然 
浄土教の盛んだった京都黒谷別所の叡空の下で修学した源空(法然房)は、やがて、源信の『往生要集』に導かれて専修念仏にたどりつき、安元元年(1175)ごろまでに浄土宗を開立したと言われます。念仏以外のあらゆる行業・修法を切り捨て次のように宗旨を宣言しています。

「ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申せば、うたがいなく往生するぞ、と思いとりて申外には別の子細候はず。」(一枚起請文)

 こうして浄土教は、一部の知恵者や遁世者、上層階級の者の宗教から解き放たれ、開かれた宗教としての道を歩み始めることになります。しかし、それは苦難の道でした。とくに、南都北嶺の旧仏教勢力からの弾圧を受け続けます。やがて、元久元年(1204)になると、延暦寺衆徒や興福寺などからの専従念仏禁止の運動が活発化するようになります。
 それを庇護したのが法然の下で出家した前摂政の九条兼実の力でした。そのバランスが崩れるのが建永元年(1206)3月のことで、事態は急変します。法然房は、土佐国配流と決まります。土佐国は、九条家が知行国主であったので縁故の土地でもありました。3月16日(旧暦)、京都を立ち、鳥羽から淀川を下り、摂津国の経ヶ島(兵庫)から「都鄙上下の貢船」と呼ばれた海船に乗り換えて、播磨国の高砂そして室津を経て讃岐国塩飽島に到着します。前回までにここまでを「法然上人絵伝」でたどってきました。
今回は、讃岐子松庄の生福寺での様子を見ていくことにします。

子(小)松庄に落ち着き給ひにけり
   35巻第2段 讚岐国子松庄に落ち着き給ひにけり。
当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、念仏の行を勧め給ひければ、当国・近国の男女貴賤、化導(けどう)に従ふ者、市の如し。或は邪見放逸の事業を改め、或は自力難行の執情を捨てゝ、念仏に帰し往生を遂ぐる者多かりけり。辺上の利益を思へば、朝恩なりと喜び給ひけるも、真に理にぞ覚え侍る。
 彼の寺の本尊、元は阿弥陀の一尊にておはしましけるを、在国の間、脇士を造り加へられける内、勢至(菩薩)をば上人自ら造り給ひて、「法然の本地身は大勢至菩薩なり。衆生を度せんが為の故に、此の道場に顕はし置く。我毎日影向し、帰依の衆を擁護して、必ず極楽に引導せん。若し我、此の願念をして成就せしめずんば、永く正覚を取らじ」
とぞ書き置かれける。勢至の化身として、自らその躰を顕はし名乗り申されける、真にいみじく貴き事にてぞ侍りける。

意訳変換しておくと
子松庄の生福寺といふ寺に住居を定めて日夜、無常の理を説き、念仏行を勧めた。すると讃岐の男女貴賤、化導(けどう)に従う者が、数多く現れた。こうして、邪見放逸の行いを改め、自力難行の執着を捨てて、唯一念仏に帰して、往生を遂げる者が増えた。辺境の地である讃岐のことを考えると、まさに法然の流刑は、「朝廷からの朝恩」と歓ぶ者もいたと云うが、まさに理に適った指摘である。
 生福寺の本尊は、もともとは阿弥陀一尊であった。法然上人は讃岐在国の間に、脇士を造ることを思い立ち、自ら勢至(菩薩)を彫った。そして次のような銘文を胎内に書き付けた。「法然の本地身は大勢至菩薩である。衆生を極楽往生に導くために、この道場に作り置く。我は毎日影向して、帰依した者を擁護して、必ず極楽に引導するであろう。もし、この願念を成就しなければ、正覚をとることはしない」
と書き置いた。こうして法然上人は、生福寺に勢至の化身として、自らその躰を現し名乗っている。真にいみじく貴い事である。

小松郷生福寺入口
35巻第2段 子松庄の生福寺の山門に押しかける人々
  生福寺に法然がやって来ると、多くの人が集まってくるようになります。それは日を追う毎に増えていきます。寺の門前は、市が立っているようなありさまです。

生福寺山門拡大
①馬を駆って武士と出家姿の老僧がやってきて賑やかになっています。
②白衣の老婆を背にして門をくぐる若者
③市女笠の赤い服の女房の手をひく男
④大きな黒い傘をもつ旅芸人風の男
門からは多くの人達が、雪崩打つように入ってきます。

小松郷生福寺2
生福寺本堂(法然上人絵伝)
  生福寺の本堂は人で溢れんばかりです。
①本堂の畳の上に経机置かれ、経典が積まれています。その前に法然が座っています
②向かって右側には武士の一団
③左側が僧侶の一団のようで、④尼や女性もいます。僧侶の中には縁台に座れずに立ったままの姿が何人もいます。
⑤の男は顔が青くて、気分が悪いのでしょうか、刀を枕に寝転んでいます。二日酔いかな?
⑥幕の内側からは若い僧侶が、和尚さんをこっちこっちと手招いています。
⑦では、どこかからの布施物者が運び込まれています。
人々は、法然が口を開くのを今か今かと待っています。

小松郷生福寺3
        生福寺本堂後側(法然上人絵伝)

その後からは法然に付き従った弟子たちが、見守ります。
法然の落ち着き先について『法然上人絵伝』は、次のように記します。
①「讃岐国子(小)松庄におちつき給にけり、当庄の内生福寺といふ寺に住」

『黒谷土人伝』には、次のように記されています。
②「同(建永二年)三月十六日二、法性寺ヲ立テ配所二趣玉フ、配所「讃岐国子松ノ庄ナリ」

どちらも配所は「讃岐国子松庄」です。
まんのう町の郷
法然が落ち着いた子(小)松庄(現在の琴平周辺)

法然が落ち着いた子松庄というのは、どこにあったのでしょうか?
 角川書店の日本地名辞典には、次のように記されています。
琴平町金倉川の流域、琴平山(象頭山)の山麓一帯をいう。古代 子松郷 平安期に見える郷名。那珂郡十一郷の1つ。「全讃史によれば、上櫛梨・下櫛梨を除く琴平町全域が子松郷の郷域とされており、金刀比羅官(金毘羅大権現)とその周辺地域が子松と通称されていたという。
中世の子松荘 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 
元久元年4月23日の九条兼実置文に、千実が娘の宜秋門院任子(後鳥羽上皇中官)に譲渡した所領35荘の1つとして「讃岐国子松庄」と見える。
 子松郷は現在の琴平周辺で、郷全体が立荘され、九条兼実の荘園となっていたようです。ここからは法然の庇護者である九条兼実が、自分の荘園のある子松郷に法然を匿ったという説が出されることになります。しかし、注意しておきたいのは子松荘のエリアです。小松庄は、現在の琴平町から櫛梨をのぞく領域であったことを押さえておきます。
   次に、拠点としたという生福寺について見ておきましょう。
法然上人絵伝には「当庄の内 生福寺」と、具体的な寺名まで記されています。しかし、生福寺については、どこにあったのかなどよく分かりません。後の九条家の資料の中にも出てこない寺です。
 九条家の資料に出てくる小松荘の寺院は、松尾寺だけです。子松荘には松尾寺があり、鐘楼維持のための免田が寄進されています。この免田は、荘園領主(九条家)に対する租税免除の田地で、この田地の年貢は松尾寺のものとなります。ちなみに、松尾寺の守護神として生み出されるのが「金毘羅神」で、その神を祀るようになるのが後の金毘羅大権現です。
 どちらにしても生福寺という寺は、法然の讃岐での拠点寺院とされるのですが、その後は忘れ去られて、どこにあったのかも分からなくなります。

  それを探し当てるのが初代高松藩主松平頼重です。
その経緯を「仏生山法然寺条目」の中で、知恩院宮尊光法親王筆は次のように述べています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳変換しておくと
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年(1207)に讃岐に左遷され、しばらく生福寺に滞在した。
②その際に(生福寺)は念仏三昧の道場なり栄えた。
④しかし、その後の乱世で衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。
⑤それを寛永年中に高松藩主として入国した松平頼重は、法然上人の旧跡を復興して仏生山へ移し、法然寺を創建し田地を寺領にして寄進した。
⑥生福寺の移転跡には、新しく西念寺が建立された。
ここには、17世紀後半には生福寺は退転し草庵だけになっていたこと、本尊や法然真影だけが残っていたと記されています。注意したいのは、退転し草庵だけになっていた生福寺の場所については何も触れていないことです。「法然上人絵伝」には「当庄(子松庄)の内、生福寺といふ寺に住して、無常の理を説き、」とありました。生福寺は小松荘にあったはずです。旧正福寺跡とされる西念寺は、まんのう町狹間)なのです。ここからは「西念寺=旧正福寺跡」説を、そのままに受け止めることは、私にはできません。
 松平頼重が仏生山法然寺を創建するための宗教的な意図については、以前にお話ししましたので、要約して確認しておきます。
①藩主の菩提寺として恥じない伽藍を作りあげること。
②それを高松藩における寺院階層のトップに置くこと、つまりそれまでの寺院ランクの書き換えを行うこと。
③徳川宗家の菩提寺が増上寺なので、同じ宗派の浄土宗にすること
そこで考えられたのが法然上人絵図の「法然讃岐左遷」に出てくる生福寺なのでしょう。そして、草庵に退転してた寺を「再発見」したことにして、仏生山に移し、その名もズバリと法然寺に改称します。こうして法然寺は藩主があらたに創建した菩提寺という意味だけでなく、法然上人の讃岐流刑の受難聖地を引き継ぐ寺として、「聖地」になっていきます。江戸時代には法然信者達が数多くお参りする寺となります。このあたりにも、松平頼重の巧みな宗教政策が見えて来ます。

法然が讃岐小松庄に留まったのは、わずか10ケ月足らずです。
しかし、後の念仏聖たちが「法然伝説」を語ったことで、たくさんの伝承や旧蹟が産まれてきます。例えば讃岐の雨乞い踊りの多くは、法然が演出し、振り付けたとされています。
 これについて『新編香川叢書 民俗鎬』は、次のように記します。

  「承元元年(1207)二月、法然上人が那珂郡子松庄生福寺で、これを念仏踊として振り付けられたものという。しかし今の踊りは、むしろ一遍上人の踊躍念仏の面影を留めているのではないかと思われる」

ここからは研究者達は「法然=念仏踊り」ではなく、もともとは「一遍=踊り念仏」が実態であったものが後世の「法然伝説」によって「株取り」されていると考えていることが分かります。一遍の業績が、法然の業績となって語られているということでしょう。そして、讃岐での一遍の痕跡は、次第にみえなくなり、法然にまつわる旧蹟が時代を経るにつれて増えていきます。これは弘法大師伝説と同じ流れです。
 中世には高野聖たちのほとんどが念仏聖化します。
弥谷寺や多度津、大麻山などには念仏聖が定着し、周辺へ念仏阿弥陀信仰を拡げていたことは以前にお話ししました。しかし、彼らの活動は忘れられ、その実績の上に法然伝説が接木されていきます。いつしか「念仏=法然」となり、讃岐の念仏踊りは、法然をルーツとする由来のものが多くなっています。

最後に、法然上人絵伝の讃岐への流刑を見てきて疑問に思うことを挙げておきます。
①流刑地は土佐であったはず。どうして土佐に行かず讃岐に留まったのか。
これについては、庇護者の九条兼実が手を回して、自らの荘園がある子松荘に留め置いたとされます。そうならば当時の讃岐国府の在地官僚達は、それを知っていたのか、また知っていたとすればどのような態度で見守ったのか?
②法然死後、約百年後に作られた「法然上人絵伝」の制作意図は「法然顕彰」です。そのため讃岐流配についても流刑地での布教活動に重点が置かれています。それは立ち寄った湊で描かれているのが、どれも説法シーンであることからもうかがえます。「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」から、讃岐にとっては「法然流刑」は、願ってもない往生念仏の布教の機会となって有難いことだったという結論に導いていきます。そのため、後世の所の中には、これが流刑であることを忘れ「布教活動」に讃岐にやって来たかのような視線で物語る書も現れます。それは、信仰という点からすれば当然の事かもしれません。しかし、歴史学という視点から見るとあまりに史料からかけ離れたことが、史実のように語られていることに戸惑いを思えることがあります。空海が四国88ヶ所を総て開いたというのが「弘法大師伝説」であるように、法然に関わる旧蹟や物語も「法然伝説」から産まれ出されたものと割り切る必要があるようです。
以上をまとめておくと、
①土佐への流刑となっていた法然一行は、塩飽から子松庄の生福寺に入った。
②子松荘は現在の琴平周辺で、九条兼実の荘園があっので、そこに法然を保護したとされる。
③生福寺には、数多くの人々が往生念仏の道を求めてやってきて結縁したと伝えられる。
④しかし、子松庄にあった生福寺については、よくわからない。
⑤生福寺が再び登場するのは、高松藩主松平頼重が仏生山に菩提寺を建立する際に「再発見」される。
⑥松平頼重は、法然の聖地として退転して草庵になっていた生福寺を仏生山に移し、法然寺と名付けた。
⑦これは高松藩の寺院ヒエラルヒーの頂点に法然寺を置くための「演出」でもあった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


  近世になって検地が行われ各村々の石高が決まると、その石高に応じて年貢が徴収されるようになります。年貢は米俵で収められました。それでは、各村々からどのようして年貢俵は、藩に納められたのでしょうか。その動きを今回は、高松藩統治下の旧満濃町10ヶ村でみていくことにします。テキストは「髙松藩の米蔵・郷倉 新編満濃町誌241P」です。
髙松藩には次のような5ケ所に米蔵がありました。
髙松藩米蔵一覧
髙松藩の5つの米蔵
その中で高松城内の米蔵に次ぐ規模が宇多津米蔵だったようです。

どれくらいの俵が宇多津には、集まってきたのでしょうか?
1684(貞享元)年の「高松藩郡村高辻帳」には、字多津の米蔵に納まる年貢米のことを次のように記します。
①鵜足・那珂郡など48ケ村の村高合計20335石、
②その石高の免四つ(免一つは石高一石に対し年貢米一斗)を年貢米とすると12134石
③俵数にすると30335俵
ここからは3万を超える俵が、毎年11月末までに後背地の村々から宇多津の米倉に運び込まれていた事になります。鵜足郡と那珂郡に属する旧満濃町の旧十か村の納入先も、宇多津の米蔵でした。十ヶ村のを数字化したのが次の表です。

旧満濃町10ヶ村石高・年貢一覧
十か村の村高・俵数などの内訳を表にすると、上のようになります。
ここからは次のようなことが分かります。
①満濃町旧十か村の総石高は5695石
②四割が年貢とすると2278石
③俵数にすると約5695俵
④石高が一番大きい村は、吉野村 次が長尾村
五十三次大津 牛車
五十三次大津(歌川広重)に描かれた米俵を運ぶ牛車
これらの俵は、どのようにして宇多津まで運ばれたのでしょうか?
私は最初は、各農家の責任でそれぞれに運んだと思っていました。しかし、そうではないようです。一旦、各村に割り当てられた年貢米は、庄屋の庭先や後には、郷倉に運び込まれて、計量し俵詰めされたようです。それから何回かに分けて、庄屋や村役人の付き添いの下で荷車や牛車で宇多津に運び出されたようです。

宇多津までの輸送ルートは、どの道が使われたのでしょうか
蔵米運搬ルート
旧満濃町の村々からの年貢米輸送ルート
基本的には宇多津・金毘羅街道が使われたようです。
宇多津街道5
右が土器川沿いの宇多津街道

吉野村など土器川左岸の村々から宇多津へは、
①東高篠村上田井の三差路に出で、ここから右に土器川沿いの道をたどって北へ進む。
②垂水村荒井の茶堂前前から土器川を渡り、石ころ道を斜めに東に向かい対岸の岡田西村の成願寺堤に上る。
③ここから土器川右岸を北に向かい、川原の一里塚、樋の日の大川社、飯野山の西を通り、連尺高津街道を横切って丸戸に出て宇多津へ入る。

宇多津街道4
宇多津街道
土器川右岸の村々からの年貢を積んだ車は
①片岡から天神、町代、大原を経て打越番所を通過し、
②追分けで道を左にとり打越池沿いの道へ進み栗熊金昆羅街道を横切って岡田上の赤坂に出る、
③赤坂から西山の東側の道を通って平塚を過ぎ川井に出て宇多津街道に合流し、以下は同じです。
髙松藩米蔵碑
宇多津の髙松藩米蔵跡(現町役場北附近)
 宇多津の米蔵は、町役場の北側にありました。

こめっせ宇多津
こめ(米)っせ宇多津
その一部が「こめっせ宇多津」として、残されながら活用されています。
宇多津 讃岐国名勝図会3
宇多津(讃岐国名勝図会)
もともとこの辺りは古絵図を見ると、大束川河口の船場に近く、周りを雑木林に囲まれた広い敷地で、そこに藁葺の蔵が三棟あり、ほかに蔵番屋敷があったことが分かります。拡大して見ましょう。

宇多津米蔵
宇多津の米蔵(御蔵)
蔵番屋敷は、藩役人の部屋・年貢米検査所・蔵番の部屋などに仕切られていました。年貢が運び込まれるときには、藩の蔵役人が出張してきて、村々の庄屋や組頭と一緒にお蔵米の収納を監督したようです。その期間は納入関係者が民家に宿泊したので、周辺は賑わったと云います。
 高松藩の宇多津米蔵は、先ほど見たように東讃の志度・鶴羽・引田・三本松に比べると、他の米蔵を圧倒する量を誇りました。ここでは鵜足郡や那珂郡の年貢米を管理し、集荷地・中継地としての機能します。17世紀にここに米蔵が置かれると、現在の地割が整備され周囲に建物が増えていったようです。
宇多津のお蔵番はいろいろな引き継ぎ事項があったので、多くは世襲だったようです。
  年貢米は、どのようにして検査されたのでしょうか

年貢取り立て図
年貢取立図

村が納入した俵の中から二俵か三俵を選んで、庄屋や組頭の村役が立ちあいの上で桝取が量ります。枡取は、その中から五合また一升を抜いて役得とするのが公認されていたようです。
一斗枡[四角]|交易|解説・民具100選|展示室|関ケ原町歴史民俗学習館
トカキ棒での計測
桝ごとにトカキを使って五粒の米がこぼれれぱOKだったようです。桝取りは、村全体に大きく影響する責任者でしたから、前日には神社にお参りして身を清め、無難を祈りました。

年貢納入図

貢米検査のときにこぼれ落ちた差米は、検査役人の役得となります。また収納の時の落散米は、下代蔵役の役得です。これは「塵も積もれば・・・」方式で、一藩での合計が数千石にも達することもあったようです。結果として大きな額になります。「おいしい役職」なので、蔵役人の交代や人選には譲渡銀がつきものだったようです。百姓達の怨嗟が集まるのもこの時です。
年貢取り立て図2

村の年貢が皆納されると、それまでに数回に分けて納めた仮受領証と引換に美濃巻紙にしたためた一通の「御年貢皆済目録」が交付されました。皆済目録には、その村の村高・本途物成・小物成・口米・御伝馬入用・水車運上・六尺給米・御蔵前入用・夫食拝借返納等の納入高や引高が列記されます。そして最後に次のように記されています。

「右は去辰御年貢米高掛物共他言面の通皆済に付、手形引上一紙目録相渡上は 重て何様の手形差虫候とも可為反き者也

その上に、年号と代官の署名・捺印をして、庄屋・組頭・百姓代あてに下付されました。
大坂蔵屋敷

  納められた年貢米は、大坂の藩の蔵屋敷に船で運び込まれて、大坂商人によって流通ルートに乗せられていく事になります。

   最後に村の米が集められた郷倉について、見ておきましょう。
郷倉は、一村に一か所ずつありました。これは年貢米の一時収納所でもあり、また軽犯罪人の留置場でもありました。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。旧満濃町旧十か村の郷倉のうちで、記録や古地名によって、その位置が分かっているのは次の通りです。
吉野上村郷倉 大堀一二七八番地
岸上村郷倉  下西村七九五番地
真野村郷倉    西下所一二七四番地
四條村郷倉    大橋七六0番地の二
公文村郷倉      蔵井一九六番地の二
東高篠村郷倉 仲分下一三二0番地
吉野下村郷倉 吉野下村六0四番地
これらの郷倉の規模や、明治以後の転用先についてはよく分かりません。
ただ吉野上村の郷倉については吉野小学校沿革史に次のように記されています。

  明治七年本村字大坂一二七八番地の建物は旧幕時代の郷倉合にして、その敷地八畝四歩、建家は北より西に由り規矩の形になれり。西の一軒は東に向ひ、瓦葺にして桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下付けり。その北に壁を接して瓦葺の一室あり。・桁行三間、梁間二間にして東北に縁つけり。その次を雪隠とせり。北の一棟は草屋にして市に向ひ、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付けり。西の二棟を修繕しスて校本口にえて、北の一棟を本村政務を取扱う戸長役場とせり。時に世は益々開明し、教育の進歩気理に向ひたるを以て生徒迫々増かし、従来の校舎にては大いに教室狭除を告ぐるに至れり。明治八年四月、西棟の市に於て三間継ぎえを弥縫(一時的な間に合わせ)せり。其の当時、庭内の東南隅に東向の二階一棟新築せり。これは本村交番所なり。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付けり。     (以下略)

吉野上村郷倉平面図
吉野上村郷倉平面図

意訳変換しておくと
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
時に世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
    (以下略)
ここからは次のようなことが分かります。
①現在の長田うどんの南側に吉野の郷倉があった。
②郷倉は明治になって、一部が役場、残りが小学校として使用されるようになった。
③生徒数が増えた明治8年には、校舎を増築して教室を増やした。
④同時に、新たに交番を建設した。
郷倉
山形県の郷倉
幕府は、1788(天明8)年2月に「郷倉設置令」を出して、飢饉に備えて村ごとに非常救米の備蓄を命じています。
高松藩や丸亀藩でも一斉に、郷倉が設置されたはずです。それが、明治になって戸長役場に利用されたり、増設して小学校、あるいは交番になるなど、村の中心機能を果たす建物に転用されていた事がうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   髙松藩の米蔵・郷倉 新編満濃町誌241P
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ローマ教皇が長崎で追悼 日本二十六聖人と踏み絵 - BBCニュース
踏み絵
江戸時代の切支丹弾圧の中でよく語られるものに踏絵があります。踏絵は宗門改めの時などに行われていたようです。それでは、宗門改めはどこで行われていたのでしょうか。村のお寺で行われていたのでしょうか。どうもちがうようです。そのあたりがうやむやだったのですが、新編満濃町誌を眺めていると、具体的な史料で分かりやすく紹介していました。今回は、旧満濃町の村々で行われていた宗門改めについて見ていくことにします。テキストは 切支丹衆徒の取締 満濃町誌260P」です。
宗門改め2

島原の乱後に、幕府は次のようなことを各藩に命じて、切支丹宗徒を取締るようになります。
①「宗門改役」の設置
②寺請制度によって「宗門人別帳」作成
③五人組制度による連帯責任制の実施
④村々に制札を立て、訴人賞金制による潜伏切支丹の検索強化
⑤鎖国断行
このような中で1711(正徳元)年には讃岐にも次のような訴人札が全国に立てられます。
切支丹制札
1711(正徳元)年の立札
きりしたん宗門は 累年の御禁制たり 自然不審なるも
のこれあらば申出づべし 御褒美として
ばてれんの訴人 銀五百枚
立ちかへりものの訴人 同断
いるまんの訴人 銀三百枚
同宿並宗門の訴人 銀百枚
右の通り下さるべし たとひ同宿宗門の内といふとも申
出る品により銀五百枚下さるべし かくしおき他所よりあ
らはるゝにおいては其の所の名主並五人組迄一類共に罪科
行はるべきもの也
正徳元年二月           奉  行

意訳変換しておくと
切支丹は 長年の御禁制である。もし不審なものがいれば申し出る事。御褒美として以下の通り下さる。
切支丹の密告  銀五百枚
切支丹復帰者の密告 銀五百枚
いるまん(宣教師)の密告 銀三百枚
同宿並宗門の密告   銀百枚
たとえ同宿宗門でも申出た時には、銀五百枚が下される。もし隠していて他所より露見した場合には、名主と五人組まで一類共に罪科を加える。
正徳元(1711)年二月           奉  行

高額の報奨金を背景に切支丹密告を高札で強要しています。もし隠していれば、「一類」におよぶとも脅します。

宗門改めの具体的なやり方を見ておきましょう。    
①村ごとに決められた宗判寺か、庄屋宅へすべての戸主を呼び出す
②大庄屋・庄屋・檀那寺住職・藩の宗門改役立会の前で、
③戸主が世帯の全家族の名前・年齢・続柄等を届け出て、人別帳に記載して戸主がその名に捺印
④檀那寺はその門徒であることを証明し、庄屋・組頭はこれに連署
⑤宗門改役と大庄屋の立会い連署を添付して、切支丹奉行に提出
これが「 宗門改帳(あらためちょう)」として、戸籍制度に転用されていきます。
宗門人別改帳は江戸時代の戸籍?どこで閲覧できるのか | 家系図作成の家樹-Kaju-

いつどこで、宗門改めは行われたのでしょうか?
1821~34年までの旧満濃町エリアにあった村々の宗門改めの行われた場所と期日が満濃町誌262Pに次のようにまとめられています。
宗門改め実施一覧表1

宗門改め実施一覧表2

この表からは次のようなことが分かります。
①旧満濃町の鵜足郡南部エリアの村々の宗門改めの場所は、栗熊村の専立寺で、それは毎年3月5日であったこと。
②那珂郡の村々は高篠村円浄寺が宗門改めの寺で、毎年3月15日であったこと。
③髙松藩では実施場所や日時が一定しているが、天領池御領の村々では、毎年変化していたこと
④天保3年になると「判形(はんぎょう)休(宗門改休)」という表現があらわれること

専立寺
栗熊の専立寺
①に関しては、専立寺は金毘羅街道に面した小さな岡の上にあるお寺です。鵜足郡南部の炭所東村、炭所西村、長尾村の3村が専立寺に行くためには、扇山、鷹丸山、城山等の峠を越道を越えて栗熊に出るか、打越峠を経て金毘羅高松街道に出て栗熊へ向かったことでしょう。

円浄寺

②の那珂郡南部の判形所は、東高篠村の円浄寺で、毎年3月15日でした。この寺が宗門改めの寺として指定されていたのは、東七箇村・真野村・岸上村・古野上村・吉野下村・四條村・東高篠村・西高篠村・公文村の9村になります。3月15日は、これらの村々の戸長は円成寺に向って歩いたはずです。
③の幕領の池御料は、毎年二月ないし四月に行っていますが、実施日は一定していませんし、場所も五條・榎井・苗田西・苗田東と持ち回っているようです。
④後で見るように、髙松藩は宗門改めについて1828(文政11)年以後は、4年毎に行う旨の通達を出しています。これに基づいた措置のようです。しかし、倉敷代官所管轄の幕領では従来通り、毎年実施しています。切支丹政策について、中央と地方とで温度差がでていたことがうかがえます。

宗門改めの厳しさは、宗門相互の間にも見られます。
檀寺は人別帳のうち檀那分の名頭(ながしら)に判形をして、「もしこの判形のうちにて切支丹宗徒これ有り候節は如何ように曲事を仰付らるゝとも異存申す間敷く候」と誓っています。このため寺同士もお互いに監視の眼を光らせ、ルール破りに対しては、絶交するという厳しい社会的制裁を加えてた次のような史料が残っています。
取替一札之事
榎井村 浄願院
苗田村 長法寺
右両寺は此度丸亀御領分宗門人別改の儀に付以来檀家の改方行届き申さず迷惑仕り候に付其御領内一統の寺院より先達て御歌出差上候段年々拙寺共に於ても且家人名並年々増減等の儀も相分ち難きを其侭判形仕候儀は御上様に対し御中訳も御座なく恐入候に付御料所寺院其の段丸亀御役場に歌出申候
衆評一統のところ右両寺は別心の趣別けて去年の秋大判形の節宗門手代衆より当領一統の寺院より宗門の儀に付願の趣これ有り候 御他領の寺院方御指支これなきや相尋候節右浄順院の儀別心これなき趣返答に及び置きながら此度の別心其の意を得ず候 尤も宗門御改の儀は毎歳御大切に仰出され候を其侭捨置く心底にて同心仕らず候段は前書に申す如く甚だ恐多き儀にけ候間拙寺ども一統右両寺には内外とも絶交致し候条右の趣丸亀宗門御改役所にも通申置以後此の事談相済候迄は壱か寺にても和順仕り中さぎる旨堅く取替す一札件の如し
文政七年壬八月
                              光賢寺 印
真楽寺 印
玄龍寺 印
興泉寺 印
西福寺殿

意訳変換しておくと

取替一札の件について
榎井村 浄願院
苗田村 長法寺
 上記の両寺は、この度の丸亀領内の宗門人別改の際に、檀家改方に不備があり私たちの寺は迷惑を蒙りました。従来から丸亀藩領内の寺院では、宗門改めの前に必要書類を提出することになっています。それは家人名と年々の家族数の増減を把握しないと、適切な宗門改めが行えないためです。今回も領内寺院に対して、丸亀御役場に必要書類を提出するように衆評一統していました。ところが両寺は、これを守らずに・・・・(中略) 
もっとも宗門御改については、毎年行われる重要な作業ですので放置するということは、恐れ多い事でもともと考えていません。しかし、両寺に対しては絶交することを、丸亀宗門御改役所にも伝えています。今後はこのことを了承済みとして扱っていただくように申し上げます。
文政七年壬八月
                              光賢寺 印
真楽寺 印
玄龍寺 印
興泉寺 印
西福寺殿
宗門改めの事前準備の資料作成をきちんとしていなかったことを挙げてふたつの寺に対して絶縁宣言を行った事を、4つの寺が西福寺に報告しています。
宗門人別帳
宗門人別帳

「宗門改帳」には牢人帳・僧侶神主山伏帳・医者帳・百姓間人(もうと)帳などがありました。特別な職業に従事するものには、別帳を作成して把握していたことが分かります。そういう意味でも「宗門改帳」を見ると、村々の人国の動き・家族の異動・村内における身分関係などが分かります。まさに、現在の戸籍台帳以上に様々な情報が書き込まれています。そのため統治所極めて貴重な史料であったのです。
宗門改帳、与一兵衛の家族の記録
 
これは明治5年の「壬申戸籍」ができるまで村々の戸籍の機能をも果たしました。庄屋が年々の人口を郡会所へ報告した人数合せは、これをもとにしてはじきだしたようです。切支丹宗門改めも先ほど見たように19世紀半ばになると、だんだん省力化されます。それは、髙松藩が出した次の資料にも見られます

郡々大庄屋共
宗門改帳の義去る亥年(文政十一年)より四年目に相改候様仰出され候得ども軒別人数出入等は是迄通り村役人共へ申渡し毎春厳重に相改め例年指出来り候五人組帳に中二か年は旦那寺の印形共其寺共手元にて見届郷会所へ指出可申候
三月
宗門改の義右の通り申来り候間例年の通故円浄寺判形見届可中候  併し当年は無用に相成る可き意味もこれ有り候に付寺院罷出候義如何に候哉
若罷出申さず候へば指支相成候間何様村々門徒より旦寺へ通達致候様御取計これ有る可く候其為飛脚を以て申入候也
三月        那珂郡大庄屋 岩崎 平蔵
同        田中喜兵衛
東高篠村へ中入れ本文の趣円浄寺ヘ
早々通達これ有る可く候
意訳変換しておくと
各郡の大庄屋へ
宗門改帳の件について、文政11年から4年毎に実施することになった。しかし、家毎の軒別人数増減等はこれまで通り村役人へ通達して、毎春毎に改訂したものを作成すること。五人組帳には、中2か年は旦那寺の印形を見届けて郷会所へ提出すること
三月
宗門改の件について上記の通り通達があった。例年の通り円浄寺の判形を確認することが指示されている。ただし、当年は不用になる事もある。寺院に出向くかどうかについては、もし出向く必要がある場合は、村々の門徒から檀那寺に対して、どのような通達・連絡で門徒に知らせるのか飛脚で問い合わせるようにすること。
三月        那珂郡大庄屋 岩崎 平蔵
同        田中喜兵衛
東高篠村へ申入れ本文の趣円浄寺ヘ
早々通達これ有る可く候

ここからは高松藩は文政11年から4年目毎の実施に「簡略化」し、実施しない年は、軒別人数の異動のみを従来通り、軍会所に報告するようになったことが分かります。

上段が藩からの通達分で、下段がそれを受けて大庄屋が各村の庄屋への具体的な指示を書き込んだものです。これを受けた各庄屋は、素早く書写して、本書文を待っている飛脚や、使いに次の庄屋宅まで持たせたようです。これらの写しが大庄屋や庄屋の家には大切に保存されていました。

以上をまとめておくと
①髙松藩では、各郡のエリア毎に宗門改めを行う寺を決めていて、実施日時も毎年同じであった。
②各村々の戸主は、指定された日時に決められた寺に出かけて宗門改めを受けた。
③19世紀になると髙松藩では4年に1回の実施に「省力化」している。
④寺院は戸籍作成の役割も担い、行政機関の末端を支える役割を果たしていた
⑤宗門改めが行われる寺は、多くの人々を迎える寺であり寺格も高かった。

しかし、疑問は残ります。周辺村々から数多くの戸主がやってきて、それをどのような順番で「宗門改め」を行ったのでしょうか。各宗派の寺院から提出された人別帳に基づいておこなったのか、早く到着した順番なのか? 村ごとに、およその受付時間を指定していたのか、具体的な運営方法には、まだまだ謎が残ります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    切支丹衆徒の取締 満濃町誌260P

      弘安寺跡 十三仏笠塔婆3
まんのう町四条の弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆
  前回に天霧山の麓の萬福寺の十三仏笠塔婆を見ました。これと同じようなスタイルのものがまんのう町四条の弘安寺跡にあることもお話ししました。
十三仏笠塔婆
         弘安寺跡(立薬師堂)の十三仏笠塔婆(まんのう町HPより)

この笠塔婆の右側面には、胎蔵界大日如来を表す梵字とその下に

「四條一結衆(いっけつしゅう)并」

と彫られています。
「四條」は四条の地名
「一結衆」は、この石塔を建てるために志を同じくする人々
「并」は、菩薩の略字
  以上の銘文から、この笠塔婆が四條(村)の一結衆によって、永正16(1519)年9 月21日の彼岸の日を選んで造立されたことがわかります。私が注目するのは「一結衆」です。今回は、この言葉を追いかけて、見えて来た事の報告です。 テキストは「川勝政太良 講衆に関する研究」です。結衆とは何だったのかを押さえた後に、笠塔婆の造立過程を物語り化する事を今回のミッションとします。まずは結衆についての情報収集です。
「結衆」は「講衆」から生まれてきたようです。
「講衆」を辞書で調べて見ると「講義を聞く大衆、講会に集る人衆」から転じて「無尽講や頼母子講など金銭の融通を目的とする講の人々」と転化していったと記されていました。よく分からないところもありますが、古代から中世から間に「仏教講義から俗社会的なもの」に変化していったようです。その間に石造物造立などの「仏教的作善」を行ったグループのことを含めて結衆と呼ぶようです。
まず、結集の起源である「講」を押さえておきます。
奈良時代に行われていた最勝会・仁王会・法華会は、それぞれ金光明最勝王経・仁王般若経・法華経を読論し、これを講義する国家的な大法会でした。平安時代に盛行した法華八講は法華経八巻を朝と夕と各二巻ずつとして四日間に八巻を講読する法会です。経を読み講じ、供養することが目的です。こうした講会は、東大寺などの国家的寺院など大きい寺で行われました。それを真似た大貴族は、自宅の仏堂などで、私的な講を行うようになります。
 鳥羽上皇の女院高陽院泰子主催の阿弥陀講について、平信範の日記『兵範記』(仁平三年(1153)六月十五日条)には、次のように記されています。 (意訳変換)
高陽院の御所は今の堀川西洞院の間、竹屋町椹木町の間の二町四方にあった。その中の御堂において阿弥陀講が営まれた。この御堂は九体の阿弥陀像をまつる九体堂で、中尊は丈六像だった。中尊の前に仏鉢に白飯を盛って供え、九体の像それぞれに香、花、燈明を供えられていた。はなやかに堂内は荘厳され、六人の僧の座の前の机に法華経一部八巻と開経(般若心経)結経(阿弥陀経)各一巻、合わせて十巻の他、阿弥陀講の式文が置かれていた。
殿上人、上達部が多く参列し、午后二時に権少僧都相源など六人の僧が着座すると、院司の顕親朝臣が挨拶し、ついで阿弥陀講がはじまった。相源を導師として、法華経開結十巻が供養され、阿弥陀講の讃文を書いた式文が説かれ、これで講は終了し、導師は座を下り、ついで僧六人に布施を下された。
 ここからは、講が講義よりも仏や経の供養に重点が移っていることがうかがえます。そして飾り立てられてヴィジュアル化した美しい行事になっていたようです。
寺での講の例としては、『大鏡』の物語の舞台に使われた雲林院の菩提講があります。
雲林院は、今の紫野大徳寺のある辺りにあったお寺で、毎年五月に菩提のために法華経を講説する法会でした。講師は、大衆にもわかるような説教をしたようです。「法華経講説」と云えば難しそうですが、要は極楽浄土信仰です。その他にも、人々を集めて弥陀来迎のようすを見せる法会の迎講もありました。それが阿弥陀信仰の広がりと供に、念仏講などの講や講衆を生みだすようです。

講や講衆はいつ、どのようにして生まれてきたのでしょうか。
  その源を研究者は、奈良の元興寺極楽坊に求めます。

奈良元興寺
元興寺極楽坊
 現在の極楽坊の本堂は、鎌倉時代中期の寛元2年(1244)の再建です。その内部の柱に、田地寄進文が刻まれています。その一は、鎌倉時代はじめの貞応元年(1222)に、百日講の御仏供料として田地を寄進した文です。百日講は、百日にわたって法華経を講じた講で、極楽往生の信仰があったようです。寛元2年(1244)の本堂棟札の中には「往生講衆一百余人」とあります。ここからは極楽浄土に生れたいという講衆が百余人、本堂再建に協力していることが分かります。この寺では、このような百日講、往生講などの信者のメンバー(講衆)が育っていたと研究者は考えています。
 しかし、講衆という文字の用いられる例は、鎌倉時代のはじめには少ないようです。「仏教的作善に、多くの人が参加した」という記し方の多いようです。その後の動きを見ておきましょう。

愛知県蒲郡市勝善寺の鐘は、もともとは三河国薬勝寺の旧鐘でした。
愛知県蒲郡市勝善寺の鐘銘
三河国薬勝寺の旧鐘の銘文
承元二年(1230)に「大衆ならびに結縁衆」によって造立されたと銘文にあります。これは梵鐘造立にあたって、大勢の人々が費用を出すことに協力したもので、「事業」に参加することで縁を結ぶ人たちが多くできたという意味合いです。ここで注意しておきたいのは、最初から信仰組織があったわけではないことです。

これに対して、埼玉県の竜興寺の文永八年(1271)の板碑を見てみましょう。
   龍興寺板碑(青石卒都婆)緑泥片岩、高さ 166Cm 下幅 61Cm)

右志者、毎月廿四日結衆奉造立 青石卒都婆現当二世利益衆生也

この石塔は法界衆生の菩提をとむらうために造立され、造立者は「毎月廿四日を期日とする結衆」と記されます。そして、新平三入道以下十二人ばかりの名が見えます。「藤五郎、藤三、三平太」など、姓がない人が多いので、この土地の中級の百姓たちの結衆で建てられたことがうかがえます。この板碑の上部はなくなっているので、本尊の梵字は分かりません。しかし「毎月二十四日」とあるのは、地蔵菩薩の結縁日なので、この結衆は地蔵信仰で結ばれていたと推測できます。地蔵菩薩は六道に迷う亡者を極楽浄土に導くと説かれましたから、浄土信仰につながるものだったのでしょう。
 「廿四日結衆」の場合は、先に結衆という母胎があって、その結衆の作善として板碑が造立されたことになります。日常的に信仰活動を行うグループが作善行為として、板碑を造立しています。
 
群馬県邑楽郡千代田村赤岩の光恩寺板碑も、文永八(1271)年に造立されています。
光恩寺板碑
光恩寺板碑

板碑上部はなくなっていますが蓮座は残っています。身部に地蔵立像、下方に二十人の交名・紀年銘が次のように刻まれています。
   大檀那、阿闍梨、幸海」
藤原吉宜、紀 真正、弥五郎入道、六郎房、日奉友安、伴 吉定、田中恒吉、藤原光吉、藤原友重、藤原貞盛 藤原兼吉、大春日光行、藤原安重、藤原国元、藤原時守、平 貞吉、藤原貞口、田上則房、藤原助吉
 結集、文永八(1271)辛未、八月時正、仏蓮坊、敬白」

ここからは鎌倉時代中期の文永八年(1271)八月彼岸の中日に、大檀郡阿闇梨幸海をはじめとして、藤原吉宣、藤原兼吉、紀真正など19名が結集し造立したことが分かります。名には姓名があるので、庶民ではなく武士層か名主層の人たちの結衆だったことがうかがえます。しかし、富裕な豪族ではなく、中級階層でだったことを押さえておきます。

結衆は、一結衆とも称するようになります。
 高野山金剛峰寺の鐘は、もともとは弘安三年(1280)造立の河内国高安郡(現在八尾市)教興寺にあったものです。この銘文には「一結講衆同心合力」して奉鋳したとし、施主美乃正吉、僧教善など二十三人の名前があります。大勧進浄縁の名があるので、この勧進僧によって誘われた人々が梵鐘奉鋳のために結衆したことが分かります。一結講衆は一結衆と同じ意味です。この頃から一結衆の文字が見られるようになります。
山形県上山市前丸森板碑は、応長元年(1311)の造立です。
上山市前丸森板碑
前丸森板碑
置賜と村山を結ぶ古くからの旧道のある前丸森山の坊屋敷という所あり、高さ98㎝、最大幅52㎝の砂質の凝灰岩の碑で、次のように刻まれています。
辛四十八日念佛結衆
バン(金剛界大日)應長元年八月二十九日
亥二十人面々各々敬白
大旦那有道坊
 結衆の碑としては山形最古のものになるようです。本尊の梵字は金剛界大日如来の「バン」で、「四十八日念仏結衆等二十人面々各々敬白」とあります。阿弥陀の四十八願にならって四十八日念仏の結衆が二十人の人々で結ばれ、この供養のために板碑が造立されたようです。密教の大日を本尊としているので、密教系の念仏講のようです。中世には高野山も時衆僧侶により念仏化し、高野聖がそれを全国に広めたこと、近世最初の四国霊場では念仏が唱えられていたことは以前にお話ししました。修験者たちの廻国僧侶の活動が背景にうかがえます。

寺と密接な関係を示すのが、滋賀県大津市葛川坊町の明王院の宝簾印塔(正和元(1212)年)です。
明王院の宝簾印塔
           明王院の宝簾印塔

基礎の東側に、次のように刻まれています。
「正和元年(1312)壬子、卯月八日、奉造立之、四村念仏講衆等敬白、常住頼玄」

これは坊村ほか付近の四か村の念仏講衆で、明王院は天台宗延暦寺の別院、頼玄は明王院中興者として有名な僧です。その明王院主が念仏講衆の世話をしたことを語る遺物になります。これは天台系の念仏信仰の講衆です。
一結講衆と刻まれたものが出てくるのは、鎌倉時代末頃になってからのようです。

四条畷町逢坂の延元元年(1338)の五輪塔
    大阪府四条畷町逢坂の五輪塔(延元元年(1338)
  大阪府北河内郡四条畷町逢坂の五輪塔は、「大坂一結衆」の造立です。 地輪正面に「大坂一結衆、延元元年(1336)丙子三月日、造立之」の刻銘があります。大坂は逢坂と同じで、この集落の人たちの結衆で、地名をつけた講衆で、まんのう町四条の笠卒塔婆と同じです。

宝福寺宝塔は、永享十一年(1439)
群馬県高崎市町屋の宝福寺宝塔
この宝塔は、永享11年(1439)の造立で、次のように刻まれています。
一郷五種行結衆、村中、三人、同旦那十二人、敬白
永享十一年二月二十八日

これは、一郷の内で、僧侶が三人、村の富裕層の旦那十二人が結衆して、極楽に往生するための五種行を行った珍しいものです。浄土信仰の結衆であることがうかがえます。
  以上をまとめておくと
  ①仏教的作善の参加者は、古代には上級貴族たちのみであった
  ②鎌倉時代になると、経済的に台頭してきた中流階層にも仏教の浸透が進み、講衆(結衆)として石造物造立塔に参加するようになる。

室町時代前期までの結衆や講衆は、仏教信仰に関するものがほとんどでした。それらがやがて庶民の日常生活と結びつくものに変化していきます。つまり民俗要素が強くなります。それは表向きは、信仰のために集まりますが、念仏をとなえたあとは酒食をたのしむといった風です。それが強くなるのは室町時代中期からです。
まず六斎念仏の講衆があらわれます。
六斎日と称して毎月戒を保つべき特定の日を決めて、身をつつしみます。これと念仏とが結びついたのが六斎日の念仏講です。大阪府岸和田市池尻町の久米田寺五大院の石燈籠竿(文安五年1448年)に「六斎衆等」とあります。これと同じようなものが奈良県・大阪府中心に増えてきます。
この他にも念仏講は、さまざまな形をとるようになります。そのひとつが夜念仏です。

永享八年(1436)夜念仏板碑

 夜念仏(よねんぶつ)板碑(永享八年(1436)東京都
①塔身部表面には、周囲に枠線、上部に天蓋・瓔珞(ようらく)
②その下に阿弥陀三尊を表す梵字3字
 「キリーク〈阿弥陀如来種子〉」
 「サ〈観音菩薩種子〉」
 「サク〈勢至菩薩種子〉」
③下部の中央に
 「永享八年丙辰八月 時正敬白」
 「夜念佛供養一結衆修」
 左右に光明真言が梵字24字で陰刻
ここからは、1436年の秋彼岸に人々が集まり、死後の冥福を祈って光明真言を唱える念仏供養を行ったことを記念し造立したことが分かります。国内に残る夜念仏板碑のなかで最古の紀年銘をもつ板碑になるようです。
私の興味がある庚申板碑が現れるのも室町時代中頃からです。
庚申信仰の歴史は古いのですが、民衆に拡がるのはこの時代からです。東京都練馬区春日町稲荷神社にあった長享二年(1488)の板碑には、「奉申待供養結衆」として十四人の農村の人たちを中心とする名前が刻まれています。
以上をまとめておきます
①古代東大寺などで行われていた法会が、大貴族の舘で講としてきらびやかに行われるようになった
②古代の仏教的作善として寺院建立・仏像造営・石造物造立をおこなったのも、大貴族たちであった。
③中世になると石造物造営などの「仏教的作善」を、中層階層が講、結衆、講衆を組織して行うようになった。
④結集は、仏教信仰からスタートし、室町時代になると娯楽的要素が強くなる。
⑤人々は様々な信仰の下に結衆し、各種の石造物を寺院に寄進するようになる。
以上の情報収集をもとに、弘安寺に十三仏笠塔婆が寄進されるまでの経緯を物語風に描いてみます。
時代背景
応仁の乱が終結してからの16世紀初頭の頃のこと、管領家の棟梁は修験道に凝って、自分は天狗になるんだと女人も寄せ付けず修行三昧の日々。そのため世継ぎもできず、養子を迎える始末。それも事もあろうか3人も。3人の世継ぎ候補が現れれば、世継ぎ争いが起きるのはこの世の習い。この結果、細川家は永正の錯乱と呼ばれる泥沼状態にたたき込まれる。讃岐の有力被官香川・安富・香西などの首領も命を落とし、後継者をめぐって一族の対立が起きて、讃岐では他国に先駆けて戦国時代に突入。天霧城の香川氏も一族内紛で混乱状態へ、そこにつけいるのが丸亀平野南部で勢力を拡大していた長尾氏。長尾氏は、これ幸いにと金倉寺から多度津方面へ勢力拡大を目論む。
 讃岐の戦国時代化が進む中の那珂郡四条
16世紀の弘安寺
 白鳳時代に建立された弘安寺は古代有力者の菩提寺として建立されたが、中世になるとパトロンが力をなくし、お堂だけに小規模化し無住になっていた。そこに定着したのが廻国の高野聖。彼は阿弥陀念仏信仰をもつ修験者でもあり、十三仏信仰の持ち主でもあった。彼の同僚の中には、海運業で賑わう塩飽の海運業者を結衆に組織化し、信者を増やしているものもいた。弥谷寺の石工達に十三仏笠塔婆の制作を依頼し、それを本島や粟島に造立もしていた。さらには、天霧山麓の萬福寺や牛額寺にも寄進しているのを、五岳に修行に行った際に見ていた。それを見ていた弘安寺の聖も、布教活動が軌道に乗ると、有力者達に働きかけて十三仏結衆を組織化した。そして、1519年の秋の彼岸の日に、弥谷寺の石工達によって造られた笠塔婆が馬で四条に運ばれ、弘安寺に寄進された。そのモデルになったのは、天霧山麓の萬福寺に10年前に造立されていた十三仏笠塔婆だった。
(あくまで私のフィクションです。)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
川勝政太良 講衆に関する研究 1973年
満濃町の文化と人物 立薬師の十三仏笠塔婆 満濃町誌1005P
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丸亀街道地図 公文周辺
丸亀街道 神野神社より富隈神社まで

赤ルートが金毘羅丸亀街道です。燈籠⑱⑲⑳と道標⑧⑨⑩が集まっているのが前回に見た与北の茶屋でした。ここには5mを越える大燈籠が大坂の順慶町の商人によって寄進されていました。中間地点の与北の茶屋で一服した後で、旅人たちは街道を南に歩み始めます。今の道は、明治になってから県道4号(丸亀・三好線)として整備されたものです。昔は、これよりも狭く、真っ直ぐでもなかったようです。
金毘羅丸亀街道
旧金毘羅丸公文周辺公文周辺

 街道が三叉路になって左右に分かれる真ん中に道標㉓㉔が立っています。
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丸亀街道と大川街道の分岐点にある㉓道標(善通寺与北町)
もう少し近づいてみましょう。
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㉓道標
左面  右 金毘羅
  左 大川剣山     道
右面 右 すぐ丸亀 
と読めます。この周辺の燈籠一覧表で、その他に何が書かれているのかを見てみましょう。
丸亀街道 公文 富隈神社の道標
        丸亀街道道標一覧表(与北・公文周辺)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

㉓道標の建立日が、明治11年11月吉日と彫られています。世話人は、地元与北山下の山口藤兵とあります。この時期になると世の中も落ち着いてきて、幹線道路や里道整備が進められるようになります。それまで屈曲していた丸亀街道が真っ直ぐになり、幅も広げられ、新たに高篠から吉野へ抜けて行く道が整備され、この地点でつながったのかもしれません。
 しかし、目的地が「大川剣山 」というのが私には気になります。どうして、「大川剣山」なのでしょうか?
 大川山は、この地点からも遠く望める丸亀平野の里からの霊山で、雨乞い信仰の山でした。周辺には、山伏の存在がうかがえ、里での宗教活動も行っていたようです。それでは剣山が到達地として書き込まれたのはどうしてでしょうか。ここからは私の仮説です。この道標を建てた人たちは、山伏関係者ではなかったと私は考えています。
 阿波の剣山が霊山として開かれたのは、以前にお話ししてように近世も半ばになってからのことです。木屋平の龍光寺や見ノ越の円福寺の山伏たちによって、行場が開かれ開山されていきます。明治になると、神仏分離によって多くの山岳宗教が衰退するのを尻目に、龍光寺や円福寺は修験道組織の再編に乗り出します。龍光寺・円福寺は、自ら「先達」などの辞令書を信者に交付したり、宝剣・絵符その他の修験要具を給付するようになります。そして、信者の歓心を買い、新客の獲得につなげ教勢拡大を果たしていきます。そのような中で阿波の山伏たちは幕末から明治にかけて、箸蔵寺などと連携しながら讃岐に進出し、剣山への参拝登山を組織するようになります。こうして、彼らは箸蔵道の整備などを行う一方で、剣山への集団参拝を布教活動の一環として行うようになります。そのため伊予街道や金毘羅街道にも「箸蔵寺へ」という道標が出てくるようになります。善通寺の永井にも「はしくらじへ」へと書かれた大きな道標があります。あれは、ある意味では阿波の山伏たちの布教成就を示すものと私は考えています。そういう目で見ると、この「大川剣山」は見逃せない意味があるように私には思えてくるのです。
 さらに公文の地には、木食善住上人の活動の拠点が置かれていました。
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周辺には、山伏の共感者たちのネットワークが形成されていました。そのようなことを背景にして、この道標を改めて見てみると、明治の頃の山伏の活動が見えてくるような気がします。

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山裾に残る丸亀街道の道標兼常夜灯

 丸亀から90丁の地点に発つ㉓道標を右手にとると、街道は如意山の裾野をたどるようになります。この辺りが古い街道跡がそのまま残っている場所になるのかも知れませんが、ルートは寸断されてよく分かりません。先ほどの道標一覧表を見ると、この周辺にあった道標は富隈神社の参道に遷されています。
 富隈神社を描いた金毘羅参詣名所図会を見ておきましょう。
丸亀街道 公文から苗田
公文の富隈神社から苗田まで(金毘羅参詣名所図会)

如意山の山裾を削るようにして付けられた街道が高篠・苗田方面に伸びています。如意山の尾根の先に鎮座するのが富隈神社です。金毘羅街道に面するように鳥居が建ち、その奧に本堂への参道階段が伸びているように見えます。山の向こう側には、式内社の櫛梨神社があります。街道沿いには、東櫛梨の産土社である大歳神社や、苗田の産土社である石井八幡が見えます。ここで私が気になるのは、やはり背景の山々です。このアングルだと後には大麻山から続く、象頭山が描かれていて欲しいところです。この山脈は象頭山には見えません。ほんまに取材旅行にきて、実際にみたんな?と突っ込みを入れたくなります。

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丸亀街道から見上げる富隈神社
  ここからは更にデイープな話になります。
私がお気に入りの眼鏡燈籠が3基あります。
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          眼鏡燈籠(摩尼輪灯) 善通寺東院
 ふたつは、善通寺東院の五重塔の東側にあります。ここからは、本堂が覗き見えます。

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 足下には「岡山家中」と彫られています。最初は、岡山の人が善通寺に寄進した変わった形の眼鏡灯籠やな、くらいにしか考えていませんでした。
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そして、眼鏡を通して見る本堂は絵になるなと、やって来る度にこの眼鏡灯籠から見る本堂を楽しんでいました。

DSC04654櫛梨神社
櫛梨神社参道に立つ眼鏡燈籠 
 ところがこれと同じものを、櫛梨神社の参道で見つけました。眼鏡から見える善通寺の五岳山を眺めていて、じわっと疑問が湧いてきました。下にはやはり「岡山家中」と彫られているのです。なんで同じものが善通寺と櫛梨神社にあるの?   この疑問はなかなか解けませんでした。善通寺や櫛梨神社を散策した時には、眼鏡燈籠の眼鏡を通してみることが、楽しみにもなってきました。
DSC04755櫛梨神社の眼鏡燈籠
眼鏡燈籠越しに見る五岳山 我拝師山
あるとき図書館から借りだした 善通寺文化財協会報のバックナンバーに、 川合信雄氏が木食善住上人について次のように述べていました。
 上人の入定は、地元では大きなニュースとなったこと。各地からの多くの浄財も集まり、入定塔周辺や富隈神社の境内整備にも使われたこと。上人は修験者として武道にも熟練していたので、丸亀藩・岡山藩等の家中の人との交流もあり、人望も厚かったこと。そのため岡山藩の藩士達が、眼鏡灯(摩尼輪灯)2基を寄進設置したこと。

 ここからは、眼鏡灯(摩尼輪灯)3基は岡山藩の家中の中で、木食善住上人と生前に関係の深かった人たちによって送られたことが分かります。それでは摩尼輪灯は、どこに設置されていたのでしょうか。それを教えてくれるのが明治になって発行された原田屋版の「丸亀ヨリ金毘羅善通寺弥谷道案内記」です。高灯籠の右側が公文山になります。  拡大して見ると
丸亀街道 公文眼鏡灯籠

富隈神社のすぐ下の金毘羅街道沿いに眼鏡燈籠が2基並んで描かれています。燈籠建立は上人死後の翌々年のことなので明治5年(1872)になります。ここからこの案内図は明治5年以後の発行であることも分かります。

 上人をともらう人もいなくなった頃に、県道4号線に昇格し、道整備が行われ、その邪魔になったのかもしれません。そこで、ひとつが善通寺へ、もうひとつが式内社の櫛梨神社に引き取られたと推測できます。もともとあった富隈神社に、どうして残せなかったのかと思ってしまいます。文化財の保護のあり方にも関わってくる問題なのかも知れません。摩尼輪灯の由来は解けましたが、以前のように素直に眼鏡燈籠からの景色を楽しめなくなってしまいました。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
 参考文献       川合信雄   木食善住上人    善通寺文化財協会報

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阿波デコ廻し6

  仲南町史や琴南町史、山本町史などを眺めていると、「人形回し」や「箱デコ」が讃岐山脈を越えてやってきて各地を巡回し、公演活動を行っていたことが次のように記されています

やまもと風土記 1984年 でこまわし
 暖かい春になると、どこからともなく「でこ回し」のおじいさんが村へやって来て家々を回ります。てんびん棒で担った大きな箱には、古ぼけた人形がたくさん入っていて、好奇心でいっぱいの子どもたちがぞろぞろと後ろに続きました。家の門口で荷を下ろすとおじいさんがしゃがれた声で浄るりを語りながら木箱から人形をとり出して、しばらく演技をさせては止まり木にかけていきます。うなだれて、じっと動かない人形がおじいさんの手に掛かると、たちまち生命を吹き込まれたように表情を表し、手足を動かすのが魔術師のような魅力でした。
 ひととおり人形遣いがすむと、家の人が小さな盆に白米が小銭をのせておじいさんに出します。米を入れる袋も木箱の中にありました。子供がそれをのぞき込もうすると、にこにこしたおいべっさん(えべすさん)の顔がパクリと大口の恐ろしい表情に変わって、追っ払って来ます。人形はまたボロ布のように折り込んで箱に入れられ次の家に向います。
 「どこから来てどこへ行くのだろう」子供たちは、でこ回しのおじいさんが山向こうの阿波の山村から来るのだと教えられて、さらに空想を広げました。

『琴南町誌』(琴南町、1986年)、894
昔は、正月から春にかけて阿波からデコマワシが来ていたが、デコマワシには稲わらを踏んでもらう。そのわらで田植の折に苗束をくくると稲の出来がよいという。

『白鳥町史』(白鳥町、 1985年)、1181P
(大正時代)その他、阿讃山脈を越えてくるものに、箱まわし人形がある。白鳥では「箱デコ」と呼んで親しんだ。箱デコは人形を入れる櫃を間をあけて置き、棒を立てて天秤棒を渡す。金具で三体ぐらい吊しておき、 一人が人形を遣い、他の一人が三味線を弾き浄瑠璃を語るが、口三味線の人もある。人形は五体くらい持って回る。中尾峠を越えて黒川地区へ入ると、泊る家も決まっていて、そこで座敷を借り近所の人が集まって観る。年に二、三回、昭和二十四、五年まで来ていたという。

久米惣七 『阿波の人形師と人形芝居線覧』(創思社1988年)、100P
阿波の「箱廻し」が讃岐へ出稼ぎに行って泊まる宿は「デコ」の宿があるそうで、何十年もお得意の定宿になって、ドコではドコの宿と定つていた。デコの宿は無料であった。デコ廻しの方はそのお礼の意味で、座敷で大いに熱演し、近所からはデコの宿ヘワンサ、ワンサとつめかけて見物し、薄謝の意味で米を少々ずつもらい、これを「宿まわし」と呼んで年二回は阿波から長炭の種子部落を経て岡田方面へ行ったそうです。

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐山脈を越えてデコ廻したちが讃岐にやってきたこと
②デコマワシに稲わらを踏んでもらったわらで、田植の苗束をくくると稲の出来いいと伝えられ、宗教的な信仰や儀礼につながることがうかがえること
③デコ宿という定宿があり「宿まわし」には、人たちがあつまってきたこと
 阿波デコ箱廻し
デコ廻しの箱

しかし、この言い伝えは昭和初期や大正時代のもので、江戸時代のものではありません。
 阿波のデコ廻したちが讃岐にやって来るようになったのは、いつからなのでしょうか。
デコ廻しは、人形浄瑠璃と違って少人数で「戸別訪問」の「門付け」という形を取りました。そのため文字史料として残ることはほとんどありません。ある研究者は、文政三(1820)年に阿波から伊予大洲藩上野村へ三番叟巡業のために来ていたことを明らかにしていていますが、それは興行記録ではなく、病死記録から分かったものです。そんな中で高松藩のデコ廻しに関する史料を紹介した文章に出会ったので紹介します。テキストは「山下隆章   讃岐高松藩における阿波人形廻し関係史料について   香川大学教育学部研究報告   134郷 2010年」です。
阿波デコ廻し14

琴南町誌に紹介されている阿波人形一座の造田村での公演について、見ていきましょう
   阿州芝生村(三好市三野町芝生)は、三好氏の居城があったところで三好長慶の生地でもあります。幕末に芝生村の庄屋を務めていたのが平尾猪平太でした。猪平太の父・平兵衛は、文政~天保頃の芝生村庄屋で、三村用水(芝生村・勢力村・加茂野宮村)の開削を、先代庄屋の平尾集兵衛から受け継ぎ、文政十(1827)年に完成させた人物です。

芝生 三村用水
三村用水トンネル部復元

この用水は当時は徳島藩で最初のトンネル式用水路(311m)部分があり困難を伴ったようです。しかし、そのおかげで通水は安定し、この地区は屈指の稲作地帯となりました。この用水は、今も現役で田畑に水を送り続け、平兵衛の業績は地元で語り継がれ、小学校の社会科教材ともなっているようです。

阿讃国境地図 琴南の峠2

 平兵衛は、天保12(1841)年正月に亡くなっていますが、生前から気にかけていたことがありました。それが阿讃山脈を越えた讃岐側の鵜足郡造田村内田(現まんのう町造田)の吉田寺大師堂の茶場再建です。
吉田寺
吉田寺 まんのう町造田
この大師堂は、阿波街道沿いにあり阿波の人たちにもよく知られていて、霊験あらたかで、阿波にも信者が大勢いたようです。平兵衛自身も「弘法大師信仰」の持ち主だったようですが、その完成を見ることなく亡くなります。その跡を継いだのが平尾猪平太でした。

猪平太は、造田村の庄屋に次のような書簡を送っています
  三 大師堂茶場再建一件

一筆啓上仕候、先以秋冷相催候得共、其御地御家内様御揃御安康に可被成御座候と、奉珍重候、当方無事に相暮居申候間、御安心可被下候、然ば兼て亡父平尾平兵衛より色々御内談申出候、御地大師御茶場再建御伐組、追々御片付に相成、此度地形に御取懸り被成候由、往来の者共より及承候、右に付ては御承知の通、当国人形回しの者数組、備前表へ渡海も仕申候間、右出掛の道筋故、日数三日計地堅めに三番申又踏せ候様被成候ては如何哉、左候得ば、右御茶場の地堅め、且は五穀成就悪病災難除御祈祷に相成可申候間、近頃御世話増の御義とは奉恐入候得共、右の段一入御取計被成可被下候、尤右様人形回しの者共、罷越し御世話相成候ても、花代並支度向迄当方にて引請、乍失礼御地の御厄介には仕不申候間、何卒御寄進御聞届被下候様、御取計の程、 一入宜奉願上候、亡父心仰の大師様に付、下拙より此段根に入御願申上候間、返す返すも御世話の程、宜奉願上候、右得貴意申上度如斯に御座候以上、八月廿四日     阿州芝生村 平尾猪平太
讃州造田村西村市太夫様
意訳変換しておくと                                                       
一筆啓上仕候、秋冷の候となりましたが御家族のみなさまご健康のようで安心しております。当方も無事に暮らしていますので御安心ください。さて、亡父平尾平兵衛がそちら方に色々と相談して着工した大師御茶場再建について、用材の切組も出来上がり、いよいよ地形(地堅め)に取り掛かる段取りになったと、阿波街道を行き来する者から聞きました。
 ご承知の通り、当国人形廻し数組が、備前表へ渡海するために丸亀に至る道筋にあたります。つきましては地堅めに三番叟を踏せてはいかがかと思います。茶場の地堅めや五穀成就・悪病災難除御祈祷になりますが、経費増しをご心配になるかと思います。これについては、人形廻しの御世話はお願いしても、花代(経費)や交通費は当方にて引請させていただきます。失礼ながら、そちらの御厄介にはならないようにしますので、なにとぞお聞き届いただけるようにお取計の程、お願いいたします。亡父の大師様への信心でもありますので、私よりお願いするものです。返す返すも御世話の程、奉り願上げます。右得貴意申上度如斯に御座候以上、
八月廿四日                
               阿州芝生村 平尾猪平太
讃州造田村西村市太夫様
ここからは、次のようなことが分かります。
①猪平太が父の意思を汲んで「御茶場の地堅め、且は五穀成就悪病災難除御祈祷」のため、阿州の 人形廻しに三番雙を奉納させたいと、造田村庄屋西村市太夫に申し出たこと
②阿波では地堅め(地鎮祭)や「五穀成就悪病災難除御祈祷」の祝い事に三番叟が奉納されていた
③「当国人形廻し数組が、備前表へ渡海」とあり、阿波から備前に人形使いたちが讃岐を通って巡業に出掛けていた
④「亡父心仰の大師様」とあり、民衆の大師信仰が広がっていたこと
阿波デコ廻し12

手紙を受け取った造田村庄屋市大夫は、早速元〆の中村長三郎、川村茂助に三番叟興行の許可を求める次のような書状を書き送ります。
一筆啓上候、然ハ当村方先達御願申上候大師茶場此節地築二取掛リ居申候所、右茶場再建出来候得ハ、阿州之者ヨリ相応手伝も致呉候筈二初発ヨリ申越二御座候所、此節右地築相初居申候義及見付申越候義ハ同国人形廻シ之者共此硼ヶ何連も備前表へ渡海仕候二付、右参掛之道筋故日数三日程之間地堅メ二三番叟申又踏セ候得ハ地堅メ者勿論五穀成就悪病災難除御祈祷二も相成可申候間致セ候而ハ如何哉、尤右様三日之間相勤セ候而も右花代井二支度向等迫阿州ヨリ引請相済呉、少シも土地之物入二者致セ不申義与申越二御座候、併難渋所右様之義ハ奢ヶ間敷相見へ奉恐入候次第ニハ御座候得共、前顕之趣申越候二付先此段御注進申上候間地堅メ並五穀成就悪病災難除御祈祷与申二付而ハ何卒申越之通相済候様二御聞置被為下候得共、却而土地之宜二も相成可申与一統難有かり相願有申候間、右申出之通相済候様二宜御取計被成可被下候、右之段申上度如斯二御座候以上
八月廿六日     造田村庄屋 西村市大夫
中村長三郎様
川村茂助様
  尚々本文之通御聞置二被仰付被為下候得共、廿九日頃相初申度奉存候間、此段共御聞置被成可被下候奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
一筆啓上候、以前から当村の先達の願いで大師堂の茶場再築を進めて参りました。この茶場再建については、阿波の庄屋から相応の支援を受けていますが、この度次のような申し入れを受け取りました、地鎮行事の際に、阿波人形廻しの組が備前へ渡海するために当地通過するのと時期が重なる。ついては道筋がら三日程、三番叟を奉納し、地堅めや五穀成就悪病災難除御の祈祷としたいとのこと。また、三日間の奉納の花代や支度などの費用は、阿波方で負担し、当方に迷惑をかけることはないと申しています。難渋の所、このような件はおこがましきご相談で恐入る次第ですが、地鎮儀式と五穀成就悪病災難除の祈祷ですので、何卒お聞き届けいただき許可願えるようお願いいたします。
八月廿六日              造田村庄屋 西村市大夫
中村長三郎様
川村茂助様
  お聞き届けいただけるようでしたら、この8月29日頃から奉納行事を行いたいと考えています。このことと併せてお聞き置きいただけるように願い奉ります。
市太夫は、芝生村の猪平太からの申し出を受けて、デコ廻しの奉納をやる気だったことが文面からは分かります。村を預かる庄屋としては、新たな施設のための奉納行事が、阿波からの寄進で無償開催できるのですから乗らない手はないでしょう。そして、三日間の興行を、早ければ8月29日から行いたいと最後に記します。この願出を提出したのが26日のことで、開催開始29日というのは、早急です。デコ廻しの一座が、もうすぐにやって来ることになっていたのでしょうか。工事開始が間近に迫っていたのかもしれません。大庄屋の元〆から回答を得て、猪太夫に返書を出し人形廻しが手配されるまで最短の日数が見積もられているように感じもします。どちらにしても急いでいます。
阿波デコ廻し8
デコ廻しの三番叟
さてこの申し出は認められたのでしょうか。認められなかったと研究者は考えています。
地元負担はないので、飛びつきたい申し出です。しかし、高松藩としては、次のような理由で認めることはできないというのです。
①高松藩にも人形廻しを持ち芸とする「乞喰」がいて、各地の地神祭で三番叟を踏んでいる。市太夫の願い出を認めてしまうと、高松藩の「乞喰」の職分、勧進権を侵すことになる。
②地神祭では、一日切興行が基本と藩は規制している。3日興行の申し入れを受けるわけにはいかない。

阿波デコ廻し7
辻などの野外で行われてデコ廻し

  別の史料で、高松藩の他国人形廻しに関しての布令を見ておきましょう。寛文七(1667)年に出された「法然寺法会興行一件」です。
 法然寺法会興行一件(寛文七(1667)年正月六日)
一、籠守市右衛門、作太夫江申渡候ハ、弥乞喰共二ヲ下さセ可申候、他国他領より乞喰参り候ハゝ早束注進可申候、勿論他国よりでく廻シ其外藝者寄セ申間敷候、相皆寄セ申候ハゝ、急度曲事ニ可申付候、惣而郷町江他国よりうさん成乞喰参候ハゝ、致吟味此方江早々注進可申候、品二より御褒美可被下候間、弥失念仕間敷旨申渡候事、
意訳変換しておくと
籠守(牢番)市右衛門、作太夫へ次のように申し渡した。今より乞喰たちに札を交付する。他国他領からの乞喰がやってきた場合には、早々に注進せよ。もちろん以後は、札を持たない他国からの「でく廻シ(デコ廻し)」やその他の芸能は参加させてはならない。
惣而郷町(郡部)への他国よりの乞喰がやって来た場合には、取り調べの後に早々に報告すれば、褒美を下す旨を通知した。失念することのないように以上を申し渡した。

ここからは寛文七(1667)年に、周辺を廻在(芸能などの門付け)する「乞喰」に対して、木札を交付された者だけに認めることとなったことが分かります。そして、札を持たない他国からの「でく廻シ(デコ廻し)」やその他の芸能者「乞喰」の高松領内での活動は禁止されています。阿波からのデコ廻しは、17世紀後半から認められてなかったのです。

阿波デコ廻し5
神社でのデコ廻し

 別の視点から見ると、高松藩の「乞喰」(芸能者)の活動(地域廻在)が保証され、札が交付する体制になっているということは、「乞食」としての身分が確立し、ひとりひとりを把握できるようになったことを意味します。これは「個別人身支配体制」の完成で、言い方を変えると近世「非人」制度確立と研究者は考えています。

 他国者、特に芸能者の排除は、「濃尾崩れ」以後の各藩の宗教政策だったようです。
これはキリシタン政策の一環でもあり、他所からの流入者をあぶりだす体制につながります。高松藩では初代の松平頼重以来、執拗なキリシタン詮索を続けていました。他領からのよそ者の入り込みには、親藩としてより敏感に対応したようです。それでも「でく廻シ其外藝者」排除の布令がこの時期に出ているということは、逆に、芸能者の流入が絶えなかったことがうかがえます。どうも具体的な排除対象者は、阿波・淡路からの「でく廻シ其外藝者」の入り込みを、第一に意識していたと研究者は指摘します。

阿波デコ廻し4

    ここからは高松藩においては阿波人形遣いの藩内での公演活動を認めていなかったことが分かります。
  山間部の公的な目が届かないところでの門付け(戸別訪問)は別にして、庄屋たち村役人のお膝元で人形浄瑠璃の一座が公演すると云うことはなかったとしておきましょう。それが、明治になって移動・経済活動・公演活動の自由が認められるようになって、阿波人形浄瑠璃は讃岐での公演活動を爆発的に増やしていったようです。それが香川叢書民俗編に載せられた史料からもうかがえます。これについては、また別の機会に紹介したいと思います。
阿波デコ廻し10

以上をまとめておきます。
①高松藩は「法然寺法会興行一件(寛文七(1667)年正月六日」で、他国の人形芝居の公演を禁止し、領内の「芸能者(乞食)」だけに認めた。
②幕末に、造田村(まんのう町)の太子堂の附属茶屋再建の地鎮儀式に、阿波芝生の庄屋から人形一座による三番叟奉納寄進の申し出があった。
③造田村の庄屋は、大庄屋に奉納許可願を提出したが認められることはなかった。
④ここには①の高松藩の他国芸能者の領内での活動禁止政策があったためと思われる。
 以前にお話したように高松藩と阿波藩は、国境に関する協定を結んでいました。両藩の間では、峠越えの日常的な往来や行き来はある程度、自由に行われていたようです。しかし、両藩間の結婚などは許されていませんでした。阿波の人形芝居の活動も江戸時代には、公的には認められていなかったようです。
阿波デコ廻し9

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山下隆章   讃岐高松藩における阿波人形廻し関係史料について   香川大学教育学部研究報告   134郷 2010年」です。
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まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦は、同じ木型(同笵)からつくられたものが次の3つの古代寺院から見つかっています。
① 阿波国美馬郡郡里廃寺
②さぬき市極楽寺
③さぬき市上高岡廃寺
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺が郡里廃寺のこと

上図を見れば分かるとおり、同笵瓦ですから同じデザイン文様で、同じおおきさです。ひとつの木型(同笵)が4つの寺院の間を移動し、使い回されてことになります。研究者が実際に手に取り比べると、傷の有無や摩耗度などから木型が使われた順番まで分かるようです。
 木型の使用順番について、次のように研究者は考えています。
①弘安寺の丸瓦がもっとも立体感があり、ついで郡里廃寺例となり、極楽寺の瓦は平面的になっている。
②彫りの深さを引き出しているのは弘安寺と郡里廃寺である
③さらに、両者を比べると郡里廃寺の瓦の方が蓮子や花弁がやや膨らんでおり、微妙に木型を彫り整えている。
以上から弘安寺 → 郡里廃寺 → 極楽寺の順で木型が使用されたと研究者は推測します。

この木型がどのようにしてまんのう町にもたらされて、どこの瓦窯で焼かれたのかなど興味は尽きませんが、それに応える史料はありません。
まずは各寺の同笵の白鳳瓦を見ていきましょう
弘安寺出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」
弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      阿波美馬の郡里廃寺の瓦 上側中央が同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、古代寺院建立者同士の何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ

  郡里廃寺の近くには、終末期の横穴式古墳群があります。
これが郡里廃寺の造営者の系譜につながると考えられてきました。さらに、その古墳が段ノ塚穴型石室と呼ばれ、美馬地域独特のタイプの石室です。墓は集団によって、差異がみられるものです。逆に墓のちがいは、氏族集団のちがいともいえます。つまり、美馬地方には阿波の中で独特の氏族集団がいたことがうかがえます。

段の塚穴

この横穴式石室の違いから阿波三国説が唱えられてきたようです。
律令にみられる粟・長の国以外に美馬郡周辺に一つの国があったのではないかというのです。段ノ塚穴は、王国の首長墓にふさわしい古墳なのです。
 しかし、美馬郡周辺のことは古代の阿波の記録にほとんど登場しません。東に隣接する麻植郡とは大きなちがいです。麻植郡は阿波忌部氏の本拠地として、たびたび登場します。しかし、横穴式石室では,規模,築造数などから美馬郡の方がはるかに凌駕する質と量をもっています。そういう意味では、 段ノ塚穴型石室は大和朝廷とはあまり関係のない一つの氏族集団の墓だったのかもしれません。ところが、その勢力が阿波最古の寺院である郡里廃寺を建立するのです。中央との関係が薄いとされる氏族が、どのようにして建立したのでしょうか。また、造営したのは、どんな氏族なのでしょうか?
この寺の造営氏族については次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②もうひとつは、讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  どちらにしても佐伯氏の氏寺だとされているようです。
ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。
「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 美馬の古代文明が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 しかし前回、まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説をお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏に建立された寺院です。
美馬郡の佐伯氏が讃岐の佐伯氏と、同族としての意識された氏族同士であり、古墳時代以降連綿と交流が続けられてきた氏族であるとすれば、阿波で最初の寺院建立に讃岐の佐伯氏が協力したとも考えられます。
 極楽寺は、さぬき市寒川町石田にあって、寒川郡や大内郡の有力な氏族であった讃岐氏の建立した寺院とされています。
讃岐氏は、このお寺以外にも石井廃寺、願興寺、白鳥廃寺などを建立したとされ、一族の活発な活動がうかがえます。発掘調査によって、単弁蓮花文軒丸瓦6型式が出土していますが。その中のGK101はGK102とともに初期のモデルのようです。
研究者は次のように指摘します。
「他寺の同笵瓦と比べると、平板的で粘土の抜きが十分でなく、 しかも間弁の部分では撫でて整えた印象があります。胎土には石英粒が混じっていて、須恵質の堅い焼き」

弘安寺同笵瓦関係図
弘安寺と同笵瓦の関係図

以上からは同笵の木型は、弘安寺で最初に使われ阿波郡里廃寺から
さぬき市の極楽寺へと伝わっていったことになります。それでは、弘安寺で木型が作られたのでしょうか? それだけの先進性を弘安寺は持っていたのでしょうか? 研究者は、そうは考えないようです。
上の図で弘安寺の瓦に先行する善通寺の瓦を見て下さい。同笵ではありませんが、共通点も多いようです。弁の数を減らし省略化し、製造方法を簡略化したモノが弘安寺の瓦だと研究者は考えています。つまり、この木型が作ったのは善通寺造営に関わった集団だったというのです。善通寺の瓦を祖型とする系譜を研究者は次のような図で表しています。
弘安寺 善通寺系譜の瓦
ここからは善通寺が丸亀平野や東讃の古代寺院建立に、技術提供する立場にあったことが分かります。同時に瓦の木型を提供された側には、善通寺の造営者の佐伯氏との間に、なんらかの「友好関係」や「一族関係」があったことがうかがえます。
それでは、木型を提供した佐伯氏と提供された豪族間の緊密な関係は、どのようにして生まれたのでしょうか?
佐伯氏と因支氏等の場合は、多度郡と那珂郡というお隣関係で、丸亀平野一帯の開発や金倉川の治水・灌漑めぐる日常的な利害の中から生まれてきたものなのでしょう。それが、まんのう町への弘安寺建立になった可能性はあります。
東讃の讃岐氏などの旧国造家とされる有力氏族との関係は、前代以来連綿と続いた様々な交渉事の結果と推測できます。彼らは、白村江の敗北後の危機感の中で、屋島寺や城山の築城や南海道建設など、共通の目標に向けて仕事を進める立場に置かれました。その中で対立から協調・協力関係へと進んだ豪族たちも出てきたのではないでしょうか。
 阿波郡里廃寺の造営主体と見られる佐伯氏については、同族関係に加え、両地域の間で、弥生から古墳時代を通じて文化的交流がさかんであったことが挙げられます。

白鳳から奈良時代前期にかけての時期は、各地で寺院の建立が活発化した時代です。
 高い技術を必要とする造寺造仏のための人材や資材を、地方の造営氏族が自前で準備し、調達できたとは研究者は考えません。確かに飛鳥時代は、蘇我本宗家や上宮王家などに代表される政権中枢の有力氏族の下にだけ技術者集団が独占的に組織され、その支援がなければ寺院の建立はできませんでした。そのためかつては、瓦のデザインだけで有力豪族や有力寺院とのつながりを類推することに終始していた時代がありました。例えば、法隆寺で使われた瓦と同じデザインの瓦が故郷の寺院で用いられていることが、郷土愛を刺激した時代があったのです。
 しかし、7世紀中葉から8世紀初頭のわずか半世紀の間に400カ寺もの白鳳寺院が建立された背景には、 もっと複雑で多元的な動員の形態があったと研究者は考えるようになっています。 
 藤原京に建立された小山廃寺の造営に際しての動員について、近江俊秀氏は次のように指摘します。

瓦工は供給する建物単位で組織され、量の生産とともに解体される。さらに、個々の瓦工は同時期に生産を行なうのではなく、伽藍の造営順に従って、時期を違えて生産を行なうとしている。自前の工人が専従で造営に携わるので.建てものごとの速やかな動員によって建立がなった

これは多くの寺が密集し、幾通りもの工人集団が存在した畿内だからできたことです。地方豪族の佐伯氏が小山廃寺のようなスケールで工人を招集し、造営ができたとは思えません。しかし、善通寺周辺の工人の動向からは、地方にも工人や資材を準備し、供給する機能が整備されてきていたと研究者は考えています。瓦などの木型をはじめ供給する側と、される側の独自の繋がりのなかで地方寺院の建立が行われていたようです。
 もう少し具体的に云うと善通寺を建立した佐伯氏は、その時に蓄積した寺院建立技術を周辺の一族や有力豪族にも提供したということです。その木型が弘安寺 → 阿波の郡里廃寺 → 東讃の極楽寺などに提供され、使い回されたということでしょう。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  蓮本和博  白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで一      香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年
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弘安寺跡 薬師堂
まんのう町四条本村の公民館と立薬師堂
 まんのう町四条本村の公民館と並んで立薬師堂が祀られています。お堂は1mほどの土壇の上に方二軒で南面して建っています。

弘安寺 礎石1
弘安寺廃寺 礎石

土壇に上がって薬師堂の西側を回り込んでいくと、大きな石が置かれています。これが古代寺院「弘安寺」の礎石です。1937年のお堂改築の時に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあると云います。さらに裏側(北側)に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられています。
DSC00923
弘安寺廃寺 礎石 立薬師堂に再利用されている

これらの4つの礎石は移動されずに、そのままの位置にあるようです。礎石間の距離は2,1mです。

弘安寺 塔心跡
弘安寺廃寺(原薬師堂)の塔心(手水石)
 薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が手水石として置かれています。塔の心礎だったようで、中央に径55㎝、深さ15㎝で柄穴があります。この塔心は、この位置に移動されて手水石となっているので、もとあった場所は分かりません。塔があった所は分からないということです。薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があります。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と研究者は考えています。それは布目瓦が出土したエリアとも一致するようです。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区の条里方向とは一致しません。西に15度傾いています。ここから弘安寺は、条里制以前の白鳳時代に建立された古代寺院とされます。

弘安寺について書かれた文章を、戦前の讃岐史淡に見つけました。
讃岐史談(讃岐史談会編) / 光国家書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
讃岐史淡
讃岐史淡は、琴平の草薙金四郎が1936年から1949年まで発行した郷土史研究雑誌です。それを3冊に復刻したものが刊行されています。これも私の師匠から「もっと、勉強せえよ」との励ましとともにいただいて、何年も「積読(つんどく)」状態になっていたものです。やっと開いて見ていて見つけたのが 「 田所眉東 (七)仲多度郡四條村弘安寺に就いて 讃岐史談下巻 第4巻第2号   1939年」です。戦前に弘安寺のことが、書かれた文書はほとんどないので、読書メモ代わりに現代文に意訳変換してたものを以下にアップしておきます。
DSC00924
立薬師堂(まんのう町四条本村)
仲多度郡四條村弘安寺に就いて    田所眉東
愚息を見途り早めに琴平の定宿に入り、草薙金四郎氏を訪ねた。話が四條村の立薬師のことになって、翌日に立薬師に詣でた。立薬師は昔は弘安寺と云ったようである。この弘安寺は医王山浄願院城福寺の末寺となっているが、その際の昭和四年十二月十二日に、両寺の本末決定のための提出明細帳(同五年十二月廿五日許可)には、次のように記されている。
中に本尊薬師立像 行基作三尺六寸
口碑に依れば大同年間、弘法大師の創立弘安寺と称し往古七堂伽藍備はりたるも、天正年間長曾我部の兵火に羅り、遂に復興するに至らす小堂を備へ、本尊を安置したるを当山末寺なりし城福寺獨り存して維持し今日に及びたるものなり。
これ以外の立証資料として、
全讃史に 「弘安寺行基創立本拿薬師如来。今則慶篤小庵」
玉藻集には「薬師一宇方二間四條村弘安寺本箪行基菩薩作」
地元の伝えでは「大門観音堂あり。」
浄願院の文書中には、弘安寺のことが次のように記されている。
「薬師堂弐間四面瓦葺.薬師如来行基之御作、境内東西八間、市北拾間、右弘安寺前々より浄願院支配なきあり。」
「讃岐国中郡有西楽寺一宇改称医王院なり」
当山先師手数の書始めに臀王山西楽寺□□院大同二歳建立内伽藍八丁四方宛二御免地二有之候所 長曾我部燒討相成共後追々致断絶大同年中より寛文迄之累代先佳一墓ニ相約改宥存代寛文ニ城福寺浄願院興右有宥存代より中興一世給也当山先師年敷法印宥存  元禄七戊より百六拾七戊より百六拾五歳也
以上の記述については、浄願院と弘安寺を混同しているところがあり、正確なものではない。弘安寺は、もともとは境内方八町あったと伝わっている。
以上から分かるように、文献史料からは確かな手がかりを得ることはできない。弘安寺の遺物として確かなものは、本堂下の土壇や塔婆石のみである。
弘安寺は、後世には何かの事情で墓地になっていたようで、この墓地の南側に溝があり、それに添って小道がある。その南側に宅地(644ノ第二地番)があり、その間に自然の区画がある。
 これを伽藍配置の南限として、宅地(699地番)と畑地(648地番)の間の畦線と官地(642ノ内地番)の西側の道路の彎曲の頂点を南北に見通し、以上の並行線を北に延長じ道路696ノ8の地面)東北.西北両隅に近い道路の交又点を見通し、最も自然のままの彎曲線を見定め墓(648八)南添の道路と並行に東西に線を引けば、赤丸でかこんだ長方形のエリアを得ることができる。この範囲は東西両側線か40間になるので、南北両側線の長さも自然と決まる。そうすれば塔の土壇は、西塔が建っていた位置と推測できる。何んの伝説もないので、東塔はなかったようだ。そうすると墓地(648番地)辺りに、中門があったことになる。どちらにしても、塔の土壇を廻廊の内へ入れなければ伽藍配置は描けない。
 出土古瓦の文様から、弘安寺は「薬師寺式」を基本として計画したものであろう。
薬師寺食堂の調査(平城第500 次調査) 現地説明会 配布資料(2013/1/26)
薬師寺式伽藍

もとより田舎の事なので、建立にかかったものの、その一部だけしか完成しなかったのかもしれない。畑地(696ノ8)の北側まで、古瓦の破片が散見する。墓地(648)の南側道より約30間位南に離れた田地に大門の地名が残っているのが、南大門の名残であろう。これで弘安寺は平野の真ん中に、南面して建っていたことが分かる。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
出土した古瓦を見ておこう。
立薬師には甲・乙の2つの古瓦が残されている。甲は誰が見ても「白鳳期」のものである。乙は奈良期のものと云いたい所だが、今は平安初期としておこう。この二つの鼓瓦(軒丸瓦)を、突きつけられては、弘安寺は弘法大師によって建立されたとは云えなくなる。なぜなら弘安寺が姿を現したのは白鳳時代の7世紀後半で、空海が登場するよりも百年近く前のことになるからだ。大師が生まれる前に、この寺は出来ていた。大師建立など云うのは、大師の高徳を敬慕するよも勧進開山のためであろう。

 瓦の裏文様も種々ある。採取した瓦の破片の中には、奈良末期や平安中期のものもたくさんある。縄文様のものは、片面に布目もある。鎌倉時代の瓦はまだ出てこないが、室町時代末のものは、少数ではあるが出てくる。ここからは、この寺院が室町後期までは、なんとか存続していたことがうかがえる。

弘安寺礎石2
立薬師堂と礎石 古代の弘安寺の礎石がそのまま使用されている

土壇の上の塔礎石をもう一度見ておこう。
 礎石の中には元のままの位置にあって、その上に今も薬師堂の柱が載っているものもある。特に北側の4つの礎石の位置は、動かされていないようだ。両端の礎石の距離は15尺(約4、5m)ある。南側は、床下が暗くてよく分からない。その中の西側にある礎石は、東西径6尺南北径3三尺9寸で、これが一番大きい。その中央に今は手洗鉢となっている心礎があったのであろう。心礎以外には加工したものは、今のところ見当たらない。
弘安寺 塔心跡
手水石となっている塔心跡

室町末の唐卓瓦がわずかに出ているので、この寺院の廃絶時期が推察できる。
 弘安寺の廃絶は、長曾我部の兵火と文書史料は記すが、それは巷で伝えられる長曾我部兵火説と同じで事実ではない。弘安寺は何度も火災にあったことが、出てくる燒瓦から分かる。寺院の振興は、それを支える信者集団の有無にある。弘安寺は平安期には火災にあって、再建されている。しかし、鎌倉期には遺物が少なくなる。。ここからは寺運の盛衰がうかがえる。弘安寺には白鳳期の鼓瓦(軒丸瓦)がある。
 弘安寺からさほど遠くない所に讃岐忌部氏の祖神を祀る大麻神社が鎮座する。
その背後の大麻山には、積石塚古墳が数多く造営されている。これらの経済力を持った氏族が氏寺として弘安寺を建立したものと思う。このような豪族の勢力の衰退が中世になって衰退し、弘安寺が廃絶したと考える。

以上が約80年前の研究者の弘安寺廃寺に関する記述です。ここから読み取れることをまとめておくと次のようになります。
①文献史料には、弘安寺について記した同時代史料はない
②弘安寺廃寺の伽藍について、1町(108m)四方の大きさを想定
③塔は西塔だけで、現在の土壇上に建っていたと想定
④手水石は、かつての西塔の心礎でかつては、土壇上の礎石群の真ん中にあったものが、現在地に下ろされ手水石として利用されていると推測。
⑤出土した瓦から創建は、白鳳時代まで遡り、廃絶は室町時代末とされる。
⑥造営氏族は、大麻神社を氏神として祀る讃岐忌部氏を想定。

ここからは、文献史料からは弘安寺の歴史に迫ることはできないようです。考古学的な手法で迫るほかありません。 弘安寺の軒丸瓦については、以前にもお話ししたように、以下の古代寺院から出てきたものと同じ木型が使われていることが分かっています
①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
弘安寺軒丸瓦の同氾
阿波立光寺は美馬町の郡里廃寺のこと
次回は、この瓦を通して弘安寺の歴史に迫ってみましょう。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「 田所眉東 (七)仲多度郡四條村弘安寺に就いて 讃岐史談下巻 第4巻第2号   1939年」

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まんのう町 光明寺

中世のまんのう町岸上(きしのうえ)には、中世に光明寺というお寺があったようです。しかし、このお寺については、金毘羅大権現の多門院に伝わる『古老伝旧記』に次のように出てくるだけでした。
                          
一、岸上光明寺之事
右高松御領往古焼失堂寺も無之、龍雲院様御代当山へ御預け被成、当地より下川師と申山伏番に被遣、其跡二男清兵衛代々外今相勤居申也、本尊不動明王焼失損し有之也、年号不知、右取替り之御状共院内有之由
(貼紙)(朱)
「光明寺高
一、下畑九畝拾五歩、畑方免三つ六歩、高五斗七升
一、下畑三畝三歩、高壱斗八升六合
一、下畑壱畝九歩、高七升八合
畝〆壱反三畝弐拾七歩、高〆八斗三升四合、取米三斗
一、米九合 日米  一、米三升三合 四部米〆三斗四升弐合
一、米四合 運賃米  同八升三合 公事代米同 費用米
一、大麦弐斗九合 夏成年貢   一、小麦壱斗四合 同断麦〆三斗壱升三合也」
意訳変換しておくと
岸上の光明寺について、この寺院は高松御領の岸上にあったが、往古に焼失して本堂などは残っていない。所有権を持つ龍雲院様が、当山金光院に預けていた。そこで当院(多門院)は、下川師(そち)という山伏を番人に派遣していた。今は、その二男清兵衛がつとめているという。本尊の不動明王は焼失し、破損している。いつのことかは分からないが、この不動明王と預条が多門院の院内にある。

 さらに貼紙が付けられ、朱書で光明寺の石高が書かれていますが、水田ではなく「下畑」とあります。「岸上」は、その名の通り金倉川の左岸の「岸の上」の丘陵地帯に立地するエリアです。金倉川からの取水ができないために、灌漑水路の設備が遅れていたようです。
まんのう町 満濃池のない中世地図
金倉川の南側に「岸ノ上」と見える

 多門院が光明寺跡に番人として派遣していたという「下川師(そち)という山伏」を見ていきます。
 初代金光院院主宥盛が高野山での修行・修学が終わり、帰讃する際に,麓の下川村の山伏師坊を召連れて帰った。それが下川師(そち)だというのです。宥盛は、修験者としても名前が知られる存在だったようです。そして、後進の育成にも努めました。その修行を支えるスタッフの役割を果たしていた人物なのではないかと私は考えています。そうだとすると、宥盛と下川師は、精神的にも深いつながりで結ばれていたことになります。宥盛は、金毘羅山を修験道の山、天狗の山にしようとしていた形跡がうかがえます。そのために、土佐の有力修験者を呼び寄せて多門院を開かせています。その多門院の下で、手足となり活動していたのが下川師ではないでしょうか。
 下川家の二代杢左衛門も,はじめは大雲坊という修験者で,金毘羅に近い岸上村の不動堂の番をしていましたが、後に還俗して下川を姓とし,金光院に出仕する役人になります。杢左衛門の長男は我儘者であったので,二男喜右衛門が後を嗣ぎますが病弱で若死します。そこで、妹に婿養子をしたのが四代常右衛門になります。彼は、薪奉行,台所奉行など勤めています。五代杢左衛門は台所奉行から作事奉行にも出世します。六代常右衛門は山奉行,玄関詰,御側加役などを勤めます。そして、七代伴吾の時に、下川の姓から枝茂川と改め、御側加役から買込加役になっています。覚助は書院番などを勤めたが若死にした。養子保太郎が九代となった。十代直一,十一代文一まで金刀比羅宮に奉仕しますが,その後は名古屋へ移住したようです。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納にやってきた金毘羅行者
 ここからは、金毘羅大権現の草創期には各地から修験者たちが集まってきて、この地に定住していったことが分かります。下川家の場合は、金光院に使える高級役人として明治まで仕えています。また、金比羅行者と云われた修験者たちが先達となって、各地の信者達を金毘羅大権現参拝に誘引してきます。その際に、泊まらせたのが彼らの家で、それが旅籠に発展していった店も多いようです。旅籠の主人も、先祖を辿れば修験者だったという例です。
 天狗面を背負う行者 浮世絵2
話が脇道に逸れたようです。本道にもどしましょう。この史料からは光明寺が、かつて岸上にあったこと分かりますが、それ以上のことは分かりませんでした。
別格本山、地蔵院萩原寺(香川県観音寺市)

新しい発見は、観音寺市大野原町の萩原寺に保管されている文書類でした。
ここには、光明寺に関することが書かれていました。

[金剛峯寺諸院家析負輯] 三 本中院谷          
明王院本尊並歴代先師録草稿
(中略)        
  阿遮梨勝義
泉聖房取樹無量壽院長覺阿闇梨灌頂之資。
後花園院御宇永亨十一年戊午九月廿日婦寂○西院付法下云。
讚岐國岸上光明寺櫂大僧都高野山明王院文○秀義考云勝師婦寂之年月恐謬博乎。中院流亨徳記曰。亨徳二年四月十六日於紀伊國高野山金剛峯寺明王院道場。授中院流。心南院博法灌頂入寺重義大法師勝環雨受者。日記大阿閣梨法印櫂大僧都勝義泉聖房(年七十三、明王院)。讃岐國真野郷岸上大多輪息文 既後干永亨十戊午経十有六年。典師所記知謬博也○又大疏讀様高野所博血泳云。明算・良禅・兼賢・定賢・明任。道範・賢定・仁然・玄海・快成。信弘・頼園・長覺・勝義(泉聖房 高野山明王院。讃岐国岸上人也。享徳三年二月二十日入寂。)
重義文同伊豆方所侍血詠云。賞意・賞厳・賞園・全考・宥祥・宥範・宥重・宥恵・勢舜・勝義(泉聖房 讃岐岸上光明院。兼住高野山。享徳三年二月二十日入寂。七十四。)
  後略
  忠義法印
讚岐國岸上之人。字泉行房。勝義遮梨入室附法資也。人王百四代 後士御門御宇頃乎。自勝義賜忠義印信。文明七年文寂日七月十三日 ○覺證院主隆雄。五大尊田地寄附之書物文明十四年文
○法印入滅之歳、雖末分明。恐明應文亀之頃乎。何以知然。自筆玉印砂奥書云。文明十五年秋比。依聞此名。物名字以使者於高雄寺苦努八旬老眼開了忠義財計又三―山―三種秘法印信奥云。明應二年正月十一日博授大阿遮梨忠義上人授興朝盛文西院印信奥云。右明應三年職畝卯月廿八日。於高野山明王院灌頂道場雨部博法職位畢。博法大阿閣梨権大僧都忠義授興朝盛。文血詠年月同印信也。又開眼文一紙。其文日。泉州久米多寺開山行基大士之尊像一證奉開眼所也。高野山金剛峯寺明王院住権大僧都泉行房忠義判。明應七年端歓拾月八日。申剋右勘之自文明十五
(「続真言宗全書」第二十四 所収 町誌ことひら 史料編282P)

ここには、高野山の明王院の住持を勤めた2人の岸上出身の僧侶が「歴代先師録」として紹介されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」と記されます。
忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれたようで、勝義の弟子になるようです。彼も光明院と兼務したことが分かります。
また「析負輯」の「谷上多聞院代々先師過去帳写」の項には、次のように記されています。
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」

 多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。
  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らは出身地の岸上光明寺をも兼住していたこと
③彼らを輩出した岸上の光明寺が繁栄していたこと
④讃岐出身者が高野山で活躍していたことが

それでは、高野山明王院とは、どんな寺院なのでしょうか
 
高野山 明王院の赤不動
明王院 赤不動
明王院は日本三不動のひとつ「赤不動」として知られるお寺で、高野山のなかほど本中院谷にあるようです。寺伝では弘仁7年(816年)、空海が高野山を開いた際に、自ら刻んだ五大明王を安置し開創したと伝えます。
  不動明王を本尊としていることからも修験者の寺であったことが分かります。中世の真野郷の岸上からは、高野山の修験道の明王院の院主を輩出していたことになります。当然、岸上の光明寺も明王院に連なる法脈を持っていたはずです。ここから光明寺は、丸亀平野南部の修験者の活動拠点で、全国を遍歴する修験者たちがやってきていたのではないかと、私は考えています。

 高野山の明王院住持を岸上から輩出する背景は、何だったのでしょうか?
その答えも、萩原寺の聖教の中にあります。残された経典に記された奥書は、当時の光明寺ことを、さらに詳しく教えてくれます。
                                 
一、志求佛生三味耶戒云々
奥書貞和二、高野宝憧院細谷博士、勢義廿四、
永徳元年六月二日、於讃州岸上光明寺椀市書篤畢、
穴賢々々、可秘々々、                                                       
                    祐賢之
意訳変換しておくと
一、「志求佛生三味耶戒云々」について
奥書には次のように記されている。貞和二(1346)年に、高野宝憧院の細谷博士・勢義(24歳)がこれを書写した。永徳元年(1381)6月2日、讃岐岸上の光明寺椀市で、祐賢が書き写し終えた。
 ここからは、高野山宝憧院勢義が写した「志求仏生三昧耶戒云々」が、約40年後に讃岐にもたらされて、祐賢が光明寺で書写したことが記されます。また「光明寺椀市」を「光明寺には修行僧が集まって学校のような雰囲気であった」と研究者は指摘します。以前にお話ししたように、中世の、道隆寺や金蔵寺、そして前回見た尾背寺などは「学問寺」でした。修行の一環として、若い層が書写にとりくんでいたようです。それは、一人だけの孤立した作業でなく、何人もが机を並べて書写する姿が「光明寺椀市」という言葉から見えてきます。
 そして彼らは「不動明王」を守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたようです。その讃岐のひとつの拠点が東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽の活動だったことを以前にお話ししました。光明寺も、与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。そのために優秀な人材を輩出し続けることが出来たのではないでしょうか。
光明寺 法統

上の史料は「良恩授慶祐印信」と呼ばれる真言密教の相伝系譜です。そのスタートは大日如来や金剛菩薩から始まります。そして①長安の惠果 ②弘法大師 ③真雅(弘法大師弟)と法脈が記されています。この法脈の実際の創始者は④の三品親王になるようです。それを引き継いでいくのが⑥勝義 ⑦忠義の讃岐岸上出身の師弟コンビです。さらに、この法脈は⑧良識 ⑨良昌に受け継がれていきます。⑨の良昌は、飯山にある島田寺の住職を兼ねながら高野山金剛三昧院住持を勤めた人物です。
   また、明王院勝義・忠義を経て金剛三昧院良恩から萩原寺五代慶祐に伝えられた法脈もあります。この時期の高野山で修行・勉学した讃岐人は、幾重もの人的ネットワークで結ばれていたことが分かります。この中に、善通寺の歴代院主や後の金毘羅大権現金光院の宥盛もいたのです。彼らは「高野山」という釜の飯を一緒に食べた「同胞意識」を強く持っていたようです。

金毘羅周辺絵地図

 同時に彼らは学僧という面だけではありませんでした。行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされたのです。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。
 岸上の光明院の行場ゲレンデのひとつは、金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルートだったことは以前にお話ししました。また、まんのう町の金剛院には、多くの経塚が埋められています。
大川山 中寺廃寺割拝殿
中廃寺の割拝殿

そこから見上げる大川山の中腹には、中世山岳寺院の中廃寺の伽藍がありました。さらに、西には前回お話しした尾背寺があり、ここでも活発な書写活動が行われていました。大野原の萩原寺には、尾背寺で書写された聖教がいくつも残されています。ここからも尾背寺と萩原寺は人脈的にも法流的にも共通点が多く、中世は修験道の拠点として機能していた寺です。さらに四国霊場の雲辺寺は、萩原寺の末寺でもあり、やはり学問寺でした。
 こうしてみると中世讃岐の修験道のネットワークは金比羅・善通寺から三豊・伊予へと伸びていたことがうかがえます。これが修験者や聖など行者達の「四国辺路」で、これをベースに庶民の「四国遍路」が生まれてくると研究者は考えているようです。

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金刀比羅宮の奥の院の行場跡に掲げられる天狗

 このような修験者ネットワークに変動が起きるのは、長宗我部元親の讃岐制圧です。
ここからは私の仮説と妄想が入ってきますので悪しからず
元親は、宥雅の残した松尾寺や金毘羅堂を四国総鎮守として、讃岐支配の宗教的な拠点にしようとします。その際に、呼び寄せられたのが土佐の有力修験者南光院のリーダーです。彼は宥厳と名前を改めて、讃岐の修験者組織を改編していこうとします。その下で働いたのが宥盛です。長宗我部元親撤退後も、宥厳は金毘羅にのこり金毘羅大権現を中心とする修験者ネットワークの形成を進めます。それを宥盛は受け継ぎます。

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金刀比羅宮奥社の天狗

 新興勢力である金毘羅大権現が新たな修験道のメッカになるためには、周辺の類似施設は邪魔者になります。称名院や三十番社、尾背寺などは、旧ネットワークをになう宗教施設として攻撃・排斥されます。そのような動きの中に、光明院も置かれたのではないでしょうか。そして、廃墟化した後に、番人として宥盛は高野山から連れ帰った山伏を、ここに入れた・・・。そんなストーリーが私には浮かんできます。どちらにしても、金毘羅大権現とその別当金光院にとっては、邪魔な存在だったのではないかと思えます。

4 松尾寺弘法大師座像体内 宥盛記名4
松尾寺の弘法大師座像の中から出てきた宥盛の願文

 そのような金光院の強引なやり方に対して、善通寺誕生院は反撃のチャンスをうかがいます。しかし、生駒藩においては、金光院の山下家と生駒家は何重もの外戚関係を形成して、手厚い保護を受けていました。手の出しようがありません。そこで、生駒騒動で藩主が山崎家に変わると善通寺誕生院は「金光院はの本時の末寺だ」と訴え出ます。これは、善通寺の末寺であった称名寺や尾背寺などへの金光院の攻撃に対する反撃の意味合いもあったと、私は考えています。 

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達

  中世山岳寺院としての尾背寺や修験道の拠点としての光明寺の歴史を探っていると、近世になって登場してくる金毘羅大権現と金光院の関係を考えざる得なくなります。現在、考えられるストーリーを展開してみました。
 最後に、光明寺はどこにあったのでしょうか?
まんのう町岸の上 寺山
明治38年の岸の上村
明治38年の国土地理院の地図を見てみると、現在の真福寺の北辺りに「寺下」「寺山」という地名が見えます。ここが光明寺跡ではないかと私は考えています。現在の真福寺は、初代高松藩主松平頼重によって、法然ゆかりの寺として建立されたとされます。それ以前に、その北側の丘の上に光明寺はあったのだと思います。それが地名としてのこっているという推測です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 
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金毘羅街道百十丁石から望む櫛梨山と公文山

まんのう町公文周辺の丸亀街道と遺跡
公文周辺の旧丸亀街道
  まんのう町の公文山には富隈神社が鎮座します。
幕末に、この神社の下に護摩堂を建てて住持として生活していた修験者がいました。木食善住上人です。上人は、石室に籠もり断食し、即身成仏の道を選びます。当時としては、衝撃的な事件だったようです。今回は、この木食善住上人について探ってみようとおもいます。テキストは「川合信雄   木食善住上人 善通寺文化財協会報」です。

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         まんのう町公文の富隈神社
まずは、現地に行ってみましょう。目指すは、まんのう町公文の富隈神社です。
 社殿の上の丘は、いくつかの古墳があり、埴輪も出土しているようです。櫛梨山から続く、このエリアは古代善通寺王国と連合関係にあった勢力が拠点としたした所なのでしょう。南に開けるエリアの湧水を利用した稲作が早くこら行われたいたようです。中世には「公文」の地名通り荘官がいたようですし、島津家が地頭職を握っていた時代もありました。近世になると、丸亀からの道が金毘羅街道として賑わうようになり、参詣客に「公文の茶室」として親しまれていたようです。
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               富隈神社
金毘羅街道から真っ直ぐに階段が富隈神社に向かって続きます。
 鳥居をくぐり山門に向う参道階段の途中は、金毘羅街道の丁石がいくつか両側に並んでいます。
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金毘羅街道にあったものが、この参道に集められているようです。
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神社にお参りして、さらに上に登っていきます。

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木食善住上人の入定塔への案内板
山頂には、国旗遙拝ポールが立っていますが、ここではありません。
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木食善住上人の入定塔
右手の道に入り込んでいくと、尾根筋に五輪塔が見えてきます。これが木食善住上人の入定塔のようです。「横穴古墳の石室を利用して即身成仏を遂げた」とテキストには書かれています。そうだとすると、この塔は古墳の上に建っていることになります。
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            木食善住上人の入定塔
近づいて文字を確認します。正面に
木食沙門・善住上人・白峰寺弟子
とあります。右側面には明治3年とあります。白峰寺とも関係があったようです。
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左は10月16日と刻まれます。
善住上人は明治3年秋、84歳で入定の業に入り10月15日寂滅します。塔には10月16日と刻まれていますから、翌日には入定塔が建立されたことになります。生前から信徒達によって準備されていたようです。
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台座には「丹後国産」と刻まれています。上人の誕生地である丹後から石が取りよせています。入定中に、準備を進めていたようです。

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木食善住上人は、寛政八年(1796)2月11日、丹後国宮津に生まれています。
24才のときに、金毘羅神に誓って仏門に入ったといいます。名を源心と改め、箸蔵寺・高野山・金剛山等で修業を積み、霊運寺の泰山和尚によって潅頂を受けます。
 修験者として諸国を廻り、嘉永3年(1850)54歳で公文村(まんのう町公文)に、公文の金毘羅街道沿いに護摩堂を建て、不動尊を安置して、諸人のために加持祈語を行います。暇あれば、仏像を彫刻します。名も知れていて、丸亀・岡山両藩からも出入を許されていたようです。

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木食善住上人の説明版
入定塔に手を合わせると、 善住上人のことが知りたくなりました。
残された史料を読んでみます。

善住上人丹後官津之人也、寛政八丙辰二月十一日ヲ以テ誕ス。姓ハ杉浦氏天資猛烈ニシテ好武、十四才ノ冬家ヲ出デ、三都二漂浪シ廿四才ノ春二至り先非ヲ悔ヒ仏門二入り性ヲ全クシ、且ツ多クノ罪悪ヲ贖ハンコトヲ思ヒ、我讚ノ金刀比羅宮広前二於テ祈テ日ク、自今改志向善、神仏二道ノ奥意ヲ発明シ、其術ヲ以テ億兆ノ人ヲ助ケ一天四海二名ヲ揚ゲ天人不ニノ神位二至ラン、伏テ仰願ハクハ、此志願ヲ得サセ給ヘト深ク誓ヒ薙染シテ、阿州箸寺二行テ初門ノ行ヲ修シ名ヲ源心卜改メ、高野山高坂坊ニテ金胎両部ノ大法及ビ不動護  摩供ノ法ヲ修ス。

  意訳変換します
善住上人は丹後の宮津の出身である。寛政八年(1796)2月11日生まれで、姓ハ杉浦氏で生まれながらに猛烈で武を好む性質だった。そのため14才の冬に家を出て、三都の街を漂浪した。24才の春になって、その非に気づき悔い改め仏門に入り、自分の性をただし、多くの罪悪を贖うことを願って、讃州金刀比羅宮の広前で次のよう祈った。これより、志を改め、善に向かい、神仏に道の奥意を発明し、その術で億兆の人を助け、一天四海に名を揚げ、今まで人々がたどり着くことの出来なかった神位をめざす。伏して仰願いますので、この志願をお聞き届けください。
と深く願った。そして、阿波の箸蔵寺で初門の修行を始め、源心と名乗った。その後、高野山高坂坊では、金胎両部(金剛界・胎蔵界)の大法、及び不動護摩を修めた。
この年から稲麦赤白豆黍などの五穀を摂らなくなった。
  14才で丹後の生家を出た少年が、三都の都市で10年間の徘徊・放埒を重ね、24才で仏門の前にたどり着きます。
それが金毘羅さんであったようです。どうして、金毘羅さんだったのでしょうか。想像するなら都市で活動する金比羅修験者との出会いがあったのではないでしょうか。
 当時の金毘羅大権現は、別当寺の金光院院主を領主とする宗教的な領国でした。金光院院主は、もともとは高野山で修行積んだ真言密教の僧侶でもありました。境内では護摩祈祷が行われる神仏混淆の仏閣寺院が金毘羅大権現でした。つまり、運営主体は真言密教僧侶で、彼らは修験者でもあったようです。当時は修験者=天狗とされていましたので、金毘羅大権現はある象頭山は天狗の山としても有名だったようです。そのため全国の修験者たちの聖地でもあったのです。
 江戸時代の「日本大天狗番付表」からは、当時の天狗界(修験者)の番付が分かります。 西の番付表に名前の挙がっている讃岐の天狗を見てみると・・・
横綱   京都 愛宕山栄術太郎
出張横綱 奈良 大峯前鬼・後鬼
大関   京都 鞍馬山僧正坊
関脇   滋賀 比良山次郎坊
小結   福岡 彦山豊前坊
出張小結 香川 白峯相模坊
前頭   愛媛 石鎚法起坊
同    香川 象頭山金剛坊
同    岡山 児島吉祥坊
同    香川 五剣山中将坊
同    香川 象頭山趣海坊
  張出小結には、白峯相模坊(坂出市白峰寺)があります。さらに前頭には「象頭山金剛坊 象頭山趣海坊」の名前があります。ここからは、象頭山が天狗信仰のメッカのひとつで修験者たちが活発に活動していたことが分かります。
善住上人の生まれた丹後は、中世には修験の一大集団の拠点でした。
彼らは独自の経典も持っていて、その中の一つである「稽首聖無動尊経』には、次のように記されます。
「我が身を見る者は菩提心を発し、
 我が名を聞く者は悪を断ち、
 我が説を聴く者は大智恵を得、
 我が心を知る者は即身成仏せん」
 この教えに従い、丹後出身の修験者たちは、多くの木食を生み出し、生きながらにして即身成仏し、入定する道を辿った先達が数多く送りだしています。善住上人も、丹後の先達達の道を辿って、不動明王を守護神として諸人を救済し、最後に即身成仏する道をたどります。それは彼にとっては「自然」な道だったのかもしれません。

善住上人は24才で、そのスタートを金毘羅さんに求めたことになります。
当時、金毘羅大権現で修験道組織を担当していたのは多門院でした。多門院は、江戸時代初期に金光院宥盛が土佐の有力な修験勢力を招いて定住させた子院です。金毘羅さんの民営部門と修験関係のことを担当したと云われます。江戸時代後半に台頭してきた阿波の箸蔵寺の修験者たちを、金光院に最初に顔合わせさせたのも多門院だとされます。当時の金毘羅大権現の天狗会のリーダーだったようです。
 多門院が管轄する修験ネットワークの中に、若き日の善住上人は飛び込んだことになります。
そして、上人の最初の修行地となったのが多門院と関係の深い阿波の箸蔵寺でした。ここで初門の修行を始め、源心と名乗り、その後、高野山高坂坊に転じていきます。
この年から稲麦赤白豆黍などの五穀を摂らなくなったと記されます。「木食」とは米穀などの五穀を断ち、木の実を生のままで食べる修行をすることで、そのような修行をする僧を「木食上人」と呼びます。彫刻仏で有名な円空も「木食上人」です。同じような修行スタイルと志を抱いていたことがうかがえます。
  しかし、この時点では彼はまだ私度僧(しどそう)です。私度僧というのは、正式な許しを得ずに出家したお坊さんのことです。その後の修行生活を見てみましょう。

夫ヨリ大和、金剛山北原ノ大獄ニテ一千日修行、亦泥川ノ岩谷ニテ一日水浴三度シテ一年念仏修業、次二諸国山々滝々霊社ヲ順拝後、四国霊場四度ノ終リニ東京、深川霊運寺泰山和尚卜共二、亦七度順拝其間恵心刻苦シテ暫クモ怠廃セズ、真言密法ヲ授カリ終り霊運寺二従ヒ行キ、棺観頂壇二入リテ黍皆伝法ス。
意訳変換しておきます

 文政二年(1819)の冬、大和、金剛山北原の大獄で千日修行、また泥川の岩谷で一日水浴(瀧行?)三度の一年念仏修業、さらに諸国の山々滝々霊社を順拝後に、四国霊場を四度巡り終えた。その時に東京・深川霊運寺の泰山和尚と共に、7回の巡礼を重ねた。その間の苦難にも、怠廃することなく真言密法を授かり終えた。そこで霊運寺から棺観頂壇で皆伝を受けた。

  金剛山での千日修行、一年念仏修行の荒行を行い、その後に、四国霊場を11回廻っています。そして、深川の霊雲寺泰山和尚から潅頂を受けています。これで、正式な出家をした得度僧(とくどそう)になります。
実復夕四国へ帰り金刀比羅官へ神仏ノ像、千鉢奉仕ラント誓願、裸銑ニシテ人家ノ内二不宿、火食セズシテ四国十遍拝順、今西讃観音寺少し東二生木ノ不動尊アリ、是ハ上人右樹下二宿セントセルニ不図傍二斧アルヲ以テ一夜二彫刻セシナリ如、此霊異ノ事件枚挙ニ違アラズ。
  後東讃自峰寺而住和尚弟子トナリ善住卜改、
白峰、根来ノ間、南條峰二小庵ヲ作り住シ、毎日水浴数度後干亦諸国修行二出デ紀州那智山ニテ三七火滝行。又同山権現二於テ廿一日断食行ヲ為シ、次二志摩国沖ニテ筏二乗り修行ノトキ俄二大風起り洋中へ吹キ出サレ、筏解ケテ丸太ヲ持チ泳ギ居ル時、神来り給ヒ、紀州孤島へ助ケ給フ干時、七福神委ク顕ハレ給フ也、士人三十六才ノ春也。夫ヨリ讃ノ南條二帰ル、今年大早上人大久保一学公ノ命ヲ奉ジ根来ノ北、ジョガ渕二於テ雨ヲ祈り霊現忽二在り。大久保公ヨリ恩賞ヲ賜ハル.
意訳変換すると
   その後再び四国へ帰り、金刀比羅官へ神仏像を寄進することを誓願した。
そして、人家に泊まらずに、煮炊きしたものを食すことなく、四国巡礼を10回行った。今、西讃の観音寺の東に生木ノ不動尊があるが、これは、上人がこの木の中に宿っていた不動尊を、傍らの斧で一夜の内に掘りだしたものである。このように上人の霊異事件は、枚挙できないほどである。
 
その後、白峰寺の住和尚の弟子となり、善住と名を改めた。
白峰寺と根来寺の間の南條峰に小庵を作り住み、水浴を毎日、数度行い身を清めた。その後、また諸国修行に出た。紀州那智山で三十七火滝行。同山権現で廿一日断食行を行い、次に志摩国沖で、筏に乗って修行中に、にわかに大風が起り、大海に吹き出され、ばらばらになった筏の丸太を持って泳いでいると、神が救い給いて、紀州の孤島へたどり着いた。七福神のすべてが現れ救われた。これが上人36歳の春のことである。
 その後に讃岐南條に帰ると、その年は大干ばつであった。そこで、大久保一学公は上人に雨乞いを命じた。上人は根来寺の北のジョガ渕で、雨を祈りたところ霊現あらたかでたちまちに雨が降った。これで久保公より恩賞を賜わった。
近畿での荒行を終えて帰った後も、四国巡礼を繰り返し行っています。
そして「白峰寺の住和尚の弟子となり、善住と名を改めた」とあります。白峰寺は「先ほど見た全国天狗番付の中に西の張出小結に「白峯相模坊(坂出市白峰寺)」とありました。相模坊という天狗の住処として有名でした。この天狗は、崇徳上皇の怨霊と混淆したと物語では伝えられるようになっていました。ここからも善住上人が修験者の道を歩んでいたことが分かります。入定塔にも「白峰寺弟子」とありました。
 当時の四国霊場は修験者の行場の伝統が残っていたようです。
「素人遍路」は、納経・朱印の札所巡りでした。しかし、修験者の四国巡礼は、奥の院の行場での修行が目的であったようです。 さらに熊野行者の本拠地である那智で滝行、熊野権現で断食、志摩で補陀落渡海行をおこなっています。讃岐に帰ると、雨乞い祈願を根来寺で行い、成功させています。空海以来の善女龍王信仰に基づく雨乞祈祷を身につけていたようです。こうして、武士達支配層からの信心も受けるようになっていきます。

上人南條峰ニテ入定セント三十八才、十一月十三日石室二入定有故、翌年二月、八十二日ニシテ被掘出、根来寺来而警之旬有五日ニシテ更二念陽二適ス、然後益爾密法ヲ研究シテ不惜四十一才ノ五月二十三日ヨリ、高野山紀州ノ大門ヨリ奥院マデ無言断食シテ、 一足三拝ヲ三日三夜二勤ム、抑一足三拝ハ弘法大師御入定後、白河法皇御修行、後之ヲ行フ者在ルコト莫シ。依之野山文人々始メ諸国共ニ木食上人卜唱へ敢テ名ヲ云フ者無シ。後テ備州、岡山帰命院、個リノ住職トナリ四十三才ノ春、同宗十二箇寺見分ニテ、一七日ノ間二不動護摩八万本執行、此後、岡山公及ビ丸亀公ノ命ヲ奉ジ、毎事御武運ヲ奉祈、或ヒハ御城内二於テ護摩供ヲ奉修。実上人従十五才今七十五才入定ノ日至ルマデ、毎水浴不怠、寝ルニ横二伏ルコトナク終夜座シテ読経、自昼ハ勿論又仏像彫刻無巨細一夜二必成、之今年二至テ壱千三百有余射彫刻。以是上人修行円満是足終二真言、秘密両部神道ノ奥義、真面ロヲ発悟、諸人尊敬スルコト日々益盛ナリ。

意訳変換すると
上人は南條峰で入定を願い三十八才の時、十一月十三日に石室に入定すした。しかし、故あって、翌年2月に82日で石室から掘出された。その後は、密法研究に没入し、四十一才の5月23日から、高野山の紀州大門から奥院まで無言断食で、一足三拝の行を三日三夜勤めた。この一足三拝は、弘法大師入定後は、白河法皇が修行した後は、誰も行ったことのない行であった。この行により木食上人の名声は高まった。これより後は、備州・岡山帰命院の住職となった。43才ノ春、同宗十二箇寺の見分で、17日間の不動護摩八万本を執行し、その後は、岡山藩や丸亀藩の藩主の命を受けて、武運奉祈や城内での護摩供を行うようになった。
 実に上人は15才から75才で入定に至るまで、毎日の水浴を怠らず、寝るときにも横になることもなく、終夜座って読経した。昼は仏像を彫刻し、大小にかかわらず一夜の内に作り上げた。
 今年になるまでに1300体を越える神仏像を彫りあげてきた。以上のように上人の修行は円満で、遂に真言、秘密両部神道の奥義を修得した。そして諸人の尊敬を集めるようになった。
ここからは、上人は38歳の時に、一度入定を試みたことがあったことが分かります。故あって、中断されたことが記されます。一度、死んだ身であるという思いは、持っていたのでしょう。そして、いつかは果たせなかった即身成仏を、果たしたいと念じていたのかもしれません。その後は、名声も高まり岡山藩の信頼も得て、岡山で住職を務めました。同時に、人々の幸福を祈り、数多くの神仏像を彫り上げ、求める者に与えたようです。

公文 木食善住上人の釈迦三尊
 金箔の厨子の中に阿弥陀三尊像が立っています。台座には墨書で『元治二乙成丑二月善住刻七十才 林田村(坂出市)中條時次」と記されます
嘉永庚成年春、東讃藩、伊丹秋山氏等卜相謀テ護摩堂ヲ干此建立ス。上人徳益念盛ニシテ諸家争ッテ奉請故二営寺ニアルコト稀也。上人神祗及仏像彫刻且処々二暫時少滞留其霊験及地名猶又上人ノ
御祈徳二依テ武運長久、家業繁栄、無病延命等ノ如キハ別二霊験記有ルヲ以テ略ノ此篇ハ上人修行ノ一端ヲ云フモノ也。
 姦年希願伐就二依テ寺ヲ以テ真言僧二譲り、二月十一日営奥院ニテ入定菩薩如来卜成仏ナシ給ヒ四海泰平衆生度生ヲ守護ナシ給フナリ、余上人ノ霊徳ヲ蒙ルコト不少且旧好ナルヲ以テ柳其梗概ヲ記シ佗日同志卜共ニ相謀リテ上人伝記ヲ著ハシテ以テ営寺二秘蔵セント欲スト云爾
明治三庚午孟夏上院     復古堂 中條澄靖 謹而誌
猶上人ノ作品其他ノ遺品ヲ挙グレバ
一、仏像(上人七十歳作)綾歌郡金山村            善光寺蔵     
一、仏像(上人六十六歳作) 高篠村                  長谷川節氏蔵 
一、位牌       〃                                                片山甚吉氏蔵 
一、書物二部                                                   片山甚吉氏蔵 
一、ノミ及カンナ                                            山内永次氏蔵 
此外多数アル見込ニテ調査中ナリ
意訳変換すると
嘉永庚戌(1850)年の春、高松藩の伊丹秋山氏等と相談して、公文に護摩堂を建立した。上人の徳益は高かったために、多くの人々が争うように上人を招いたので、寺にいることは稀であった。護摩堂にいるときには、神仏像を彫刻した。その霊験は高く、上人の祈徳で武運長久、家業繁栄、無病延命など現れた霊記も残されているので、多くは語らないが、ここでは上人修行の一端だけを記しておく。
 明治3年、かねてからの願いよって、寺を真言僧に譲り、奥院で入定し菩薩如来としてり、成仏され、四海泰平、衆生度生を守護されいと願われました。私は上人の霊徳を蒙ることが少なくなく、古くから交流があったので、上人の概要を記し、同志と共に上人伝記を著わし、寺に秘蔵したいと思う。
明治三(1870)夏    復古堂 中條澄靖 この誌を謹呈する
なお、上人の作品や遺品をあげると次の通りである。
 
金毘羅丸亀街道
金比羅・丸亀街道の富隈神社付近

  善住上人が公文の地に護摩堂を建立したのは、嘉永年間の54歳の時のようです。
名声が高まってから発心の地である金毘羅大権現のお膝元に帰ってきたようです。金毘羅街道のかたわらの公文山松ケ鼻に護摩堂を建て、不動明王を安置し終の棲家としたようです。

公文山 富隈神社

 毎朝、東を流れる苗田川で水浴し、その後は堂の階上で太陽を拝礼して、祈祷と仏像を彫刻するを日課しました。彫刻中は、食を取らず専念従事して一夜彫りで作り上げたます。彫刻した仏像は堂内に、所せましと並んでいたと云います。

公文 木食善住上人の蓮如像
      坂出市林田町善光寺 善住上人七十才作

 各地からお呼びがかかるので、不在にすることが多かったようです。それでも、お堂にいるときには金毘羅参詣者に湯茶の接待を施し、諸人の願いあれば、祈祷や・予言を行いました。それが霊験あらたかなので、ますます信者は増えます。その名は近郷は言うに及ぼず、丸亀・岡山・江戸深川等に響いたと伝記は伝えます。
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富隈神社下の金毘羅街道 地元の人は「旧道」と呼んでいる

公文の谷くさり鎌の使い手で上人と親交のあった谷口嘉太郎氏は、入定の模様を次のように語っています。
明治三年春になって、護摩堂の後山の富隈神社の鎮座する丘の頂にある横穴式石室を入定地に選んだ。ところがこの時には、盗賊のため引き出され、その目的を達せすことができなかった。秋になって、再度入定の業に入った。五穀を断って、そぱ粉を常食とした。それも断ち、水を飲みながらひたすら経文を唱えて身体の衰弱をはかる。さらに、水の量も減らし、 一滴も飲まず十日。そこで入定室に入り、鐘を振り経文を唱えて死を迎えようとする。
 
各地より、信者が多く駆けつけ、入定室の近くに仮の通夜堂を設け善住上人の振る鐘の音に耳を傾ける。上人の唱える経文に和して、しめやかに経文を唱え続けた。入定室からの鐘の音と経文の声は、日がたつにつれて次第に低くなり、幽かになっていった。ついに十月十五日、途絶えてしまつた。
 人々は善住上人の徳を偲びながら入定室を開じた。その入定の姿は見事な最後であった。翌十六日立派な入場塔を建立した。その石は、善住上人生誕の丹後宮津から運ばれてきた石だった。時あたかも明治維新政府による廃仏棄釈の世なれば、佛閣は荒れ、仏像の多くは野に積まれ、又は焼かれるありさまである。この状態に耐えかねて、仏道ここにありと入定したのではなかろうか。
 上人の入定は、地元では大きなニュースとなったようです。
各地からの多くの浄財も集まり、入定塔周辺や富隈神社の境内整備にも使われたようです。また上人は修験者として武道にも熟練していたので、丸亀藩・岡山藩等の家中の人と往来も多かったようです。
公文 灯籠 木食善住上人

現在、善通寺東院境内にある眼鏡灯(摩尼輪灯)2基は、岡山藩の藩士達が、入定塔周辺に寄進設置したもののようです。それが、いつの時代かに善通寺境内に移されたようです。残りの一基は、今は櫛梨神社の参道にあるようです。
丹後からやってた若者が象頭山の天狗に導かれ、修行に明け暮れひとかどの修験者に成長し、即身成仏する姿を追って見ました。その中で改めて金毘羅大権現の当時のパワーを感じないわけにはいきません。ある意味、都会を捨てたIターン若者を受けいれるだけの包容力が金毘羅さんにはあったのでしょう。同時代の人材を見ても、多くの文化人達が、やってきて周辺に住み着いています。その中には、以前にお話したように、金毘羅街道の整備に尽力する画家や僧侶がいました。
 また、国会議員となる増田穣三に華道を教えた宮田法然堂の僧侶も丹波からやってきた僧侶でした。そのような「よそ者」が住み着けるゆとりが金毘羅さんの周辺にはあったような気配がします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
川合信雄   木食善住上人 善通寺文化財協会報
まんのう町誌
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宗教荘園と修験道の里 まんのう町金剛院

土器川沿いの主要道を走っているだけでは見えてこない光景が、まんのう町にはいくつもある。そのひとつが金剛院。この地名に隠された謎を解きに行ってみよう。

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県道185号を種子から四国の道の看板に導かれて入っていく。

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法師越の道沿いに何体かの石仏が迎えてくれる。

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法師越の石仏は、この峠を越える人々を見守ってきた。
ところでこの峠を越えたのは、どんな人たちだったのだろう。
地元の人たち以外にも、多くの外部者がここには入ってきたという。
それはどんなひとたちだったのか?
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そのヒントは四国の道の看板が教えてくれる。
それは金剛院集落の中心にあるという。そこに行ってみよう。

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金剛院集落の盆地の中央を走る道に下りてきた。周囲を讃岐独特の丸いおむすび山が取り囲む。
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東に位置するた竜王山を盆地の底から眺める。

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そして目的の金剛院。背後が金華山。

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あぜ道のような参道の横に石塔が建っている。

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数えると十層??? 
上部の三層は傷みがひどいので寺内に移され、今は下部の十層だけここにあるそうだ。
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のんびりとした光景が広がるが、今から1000年前の平安後期から鎌倉にかけては、この地は宗教荘園で、そのセンターがこの金剛寺であったという。

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ここには仏教に因んだ仏縁地名が多い。この寺の裏山は金華山と呼ばれる小山を背景建てられている。周囲からは平安末期の軒平瓦、軒丸瓦が発見てされており、建立はその時期まで遡るとされる。
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 金剛寺の裏山の金華山は経塚群だ。経塚は平安中期から始められて、鎌倉時代に盛んとなった仏教の作善業の一つ。1952(昭和27)年の県教育委員会の調査では、この金華山から陶製の外筒六木・鋳鉄製の経筒五本・鏡一面などの経塚遺物が発掘されたという。そのため金華山全山が経塚であると考えられている。経塚は修験道と関連が深く、ここは金剛寺を中心とした修験道の霊域であったと思われる。

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日本全国から阿弥陀越を通り、法師越を通ってこの地区に入った修験者の人々が、それぞれの所縁坊に杖をとどめ、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に参籠し、看経(かんきん)や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者に言伝(伝言山)を残し、次の霊域を目指して旅立って行ったことが想像できる。

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さきほど法師谷から下りてきた道路に沿ったあたりが、王迎と別当である.ここには藤尾坊・華蔵坊・中の坊・別当坊・慈源坊・灯蓮坊の地名があり、今はそこにある民家の屋号のようになっている.
 この道から分かれて、少し上がったところにある砂子谷池の上手には御殿という地名があり、池の近くには一泉・法蔵屋敷・坊屋敷・経塚などの地名がある.こうした地名の分布を見ると、中世の大寺院や神社を中心とした宗教荘園が考えられるという。

坊集落金光院の仏縁地名 満濃町史1205P

行場の一つであった金山神社に行ってみよう。

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栗熊東に抜ける阿弥陀越の林道から明治期に整備された長い長い石段を登ると・・

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金山神社が現れた。
「古今名所図絵」には
「妙見社 炭所東にあり。当社詳細未生、往古は金剛院という寺地なりしが退転の跡、鎮守社の残りしを村民これを拝趨して氏宮とす」
とあり、金剛院の鎮守社で妙見社と呼ばれていたようである。神社の境内からは鎌倉時代の瓦も出土している。
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また、吉野の大宮神社の記録には
「妙見社の御神体は阿弥陀三尊である」
と記されている。明治の廃仏毀釈で三尊の内の観音・勢至菩薩が金剛院に移された。

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 この神社も元々は、猫山の頂上付近にあったと伝えられている。
行者達の行場の一つであったのだろう。猫山から大高見峰に続く行場を「行道」しながら「磐籠」や「龍燈」の行をおこなっていたのかもしれない。そして、行が成就し、写経が終わると次の行場へ向けて出発していく。そういう意味で大山の中廃寺や尾瀬寺とのネットワークの中心部にあたる地位に金剛院はあったのかもしれない。

そんなことを考えながら参道を下り、車道を阿弥陀越えに向かって原付を走らせる。

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 現在の阿弥陀越にはこんな標識があった。
この峠は、鵜足郡栗熊村から金剛院にはいる交通路として藩政期に使用されていた。栗熊西畦田(あぜた)の薬師を祀った丘の麓に、古墳の石室を利用した蒸し風呂があって繁昌した記録があり、一七一七(享保二)年の道標も立っているという。

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ここには幕末期(嘉永)の年号が掘られた石仏が立っていた。

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石仏達は何も語らず、今の金剛寺を見つめていた。

   法然ゆかりのお寺 まんのう町岸上の真福寺 
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 最初にこのお寺と出会ったのは、もう何十年も昔。丸亀平野が終わる岸上の丘の上にどっしりと立っていた。この周辺に多い浄土真宗のお寺さんとは立地環境も、境内の雰囲気も、寺院建築物も異なっており、「なんなのこのお寺」という印象を受けたのを今でも覚えている。境内の石碑から「法然ゆかりのお寺」ということは分かったが、それ以上のことを知る意欲と機会に恵まれなかった。
改めて訪ねて見て「寺の歴史」を書物だけからでも調べておこうと思った。以下は、真福寺に関しての読書メモである

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法然上人御旧跡とあります。
この寺と法然には、どんな関係があるのでしょうか?
1207年2月、専修念仏禁止令が出され、法然は土佐に、弟子の親鸞は越後に流罪となります。しかし、法然を載せた舟は、土佐には向かわず瀬戸内海の塩飽諸島の本島をめざします。その後は、讃岐の小松庄(現在の琴平・まんのう町周辺)に留まる。そして10ヶ月後には赦免され讃岐を離れることになります。
 この背景には、法然の擁護者であった関白藤原兼実(かねざね)の力が働いていたようです。法然が過ごした本島も、小松庄も九条家の荘園で、兼実の庇護下で「流刑」生活でした。そのため「流刑」と言うよりも未知の地への布教活動的な側面も生まれたようです。
4月頃に九条家の小松庄に本島からやって来た法然は、生福寺(現西念寺)という寺院に入ります。
「法然上人行状絵図」には
「讃岐国小松庄におちつき給いひにけり。当座のうち生福寺といふ寺に住して、無常のことはりを説き、念仏の行をすすめ給ひければ、当国近国の男女貴賤化導に従ふもの市のごとし
と書かれています。当寺、生福寺周辺には真福寺・清福寺の2つの寺があり併せて「三福寺」と呼ばれていたようです。
九条家の荘園である小松庄の大寺院は、古代瓦が出土する弘安寺だと思われるのですが、なぜか法然はそこには行きません。小松荘の東端で土器川の川向こうで、西山のふもとの生福寺を拠点にします。そして、周辺の真福寺と清福寺を「サテライト」として活動したとされています。

法然がやって来たときに真福寺は、どこにあったのか?

  真福寺についての満濃町史には「 空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」の地名が残る場所へ行ってみましょう。
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「真福寺森」は、西に象頭山、その北に善通寺の五岳山がのぞめ、北は丸亀平野が広がる田野の中にありました。満濃池のゆるが抜かれて田植えが終わったばかり。
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この集会所の周囲が寺域とされているようです。
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かつての寺院のものとも思われる手洗石造物が残るだけ。
当寺の真福寺を偲ばせるものはこれのみ。
ここでも法然は、念仏の功徳を民衆に説いたのでしょうか?
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しかし、この寺院も長宗我部軍と長尾大隅守との戦いの兵火に焼かれて消失したと伝えられます。復興の動きは江戸時代になってからです。生駒家の家臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願。その後、1662(寛文二)年に僧広誉退休によって、現在の高篠村西念寺の地に再建されたようです。つまり、真福寺は元あった場所ではなく、法然が居住した生福寺(現西念寺)に再建されたようです。


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ところがわずか十余年後に、初代高松松平城主としてやってきた頼重は、再びこの寺を移転させます。それが現在の岸上の岡の上。

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この時に、寺領五〇石の他に仏像・仏具や山林なども頼重から受領しています。
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当時の境内は東西約110㍍、南北約140㍍で、馬場・馬場裏などの地名が残っていると云います。
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広い境内に堂宇が立ち並んでいたのでしょう。江戸時代に、この寺が管理していた寺院は岸上薬師堂・福良見薬師堂・宇多津十王堂・榎井村古光寺・地蔵院・慈光院などであったと云います。まさに高松の殿様の庇護を受けて再建されたお寺なのです。それにふさわしい場所が選ばれ、移ってきたのでしょう。周辺の浄土真宗のお寺とは規模も寺格も異にするお寺さんであったようです。

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ここからは神野・真野・吉野方面が一望できる。支配モニュメントの建設場所としてはうってつけの場所だ。
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頼重の宗教政策の一環として保護を受け再建され、藩政下においては隆盛を誇った寺院。今でも法然由来の寺院として信仰を集めているが訪れる人は少ない。しかし、私はこのお寺の雰囲気と景観が好きだ。



尊光寺史S__4431880

尊光寺史
図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会った。手にとって見ると寺から新たに発見された資料を、丁寧に読み解説もつけて檀家の支援を受けて出版されたものである。この本からは、真宗興正寺派の讃岐の山里への布教の様が垣間見えてくる。早速、本を借り出し尊光寺詣でに行ってみた。

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やって来たのはまんのう町炭所東(すみしょ)の種子(たね)集落。バス停の棚田の上に尊光寺はあった。
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石垣の上に漆喰の塀を載せてまるで城塞のように周囲を睥睨する雰囲気。
「この付近を支配した武士団の居館跡が寺院になっています。」
いわれれば、すぐに納得しそうなロケーション。
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この寺の由緒を「尊光寺史」は
「 明応年間 少将と申す僧  炭所東村種子(たね)免の内、久保へ開基」
という資料から建立を戦国時代の15世紀末として、建立の際の「檀那」は誰かを探る。
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①第一候補は炭所東の大谷氏?

開発系領主の国侍で大谷川沿いの小城を拠点に、西長尾城主の中印源少将を助けた。伊予攻めの際に伊予の三島神社の分霊を持ち帰り三島神社を建立もしている。後に、大谷氏は 敗れて野に下り、新たに長尾城主となった長尾氏への潜在勢力として、念仏宗をまとめてこの地区で勢力温存をはかる。
 つまり真宗興正寺派の指導者となることで、勢力の温存を図ったということらしい。

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 ②第2候補は平田氏

 平田氏は、畿内からやってきて、広袖を拠点に平山や片岡南に土着した長百姓であり、金剛院に一族の墓が残っている。

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最初は建物もない念仏道場(坊)からスタートしたであろう

名主層が門徒になると本山から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間とする。縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行。正信偈を唱え御文書をいただき法話を聞く。非時を食し、耕作談義に夜を更かす。この家を内道場、家道場と呼び、有髪の指導者を毛坊主と呼んだという。

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中讃での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬町の安楽寺である。

真宗興正寺は瀬戸内海布教拡大の一環として、四国布教の拠点を吉野川を遡った美馬町郡里に設ける。それが安楽寺である。当時の教育医学神学等の文化センター兼農業・土木技術研修でもあった安楽寺で「教育」を受けた信仰的情熱に燃える僧侶達が阿讃の山を越えて、琴南・仲南・財田・満濃等の讃岐の山里に布教活動に入って来る。

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安楽寺からのオルグを受けて名主や土侍たちが帰依していく。

中讃の農村部には真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、このようなかつての安楽寺の布教活動の成果なのだ。讃岐の真宗の伝播のひとつは、興正寺から安楽寺を経て広がっていったといえる。
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 その布教活動の様を橋詰茂氏は「讃岐における真宗の展開」で次のように話す。
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと詣藍配置がととのっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、むしろ道場という言い方をします。ちっぽけな掘建て小屋のようなものを作って、そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えるのです。大半が農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そのようにして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていくのです。それが他の宗派との大きな違いなのです。ですから農村であろうと、漁村であろうと、山の中であろうと、道場はわずかな場所があればすぐ作ることが可能なのです。
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 中央での信長の天下布武に呼応して、四国統一をめざす長宗我部元親の動きが開始される。1579年に始まる元親の讃岐侵入と5年後の讃岐平定。そのリアクションとしての秀吉軍の侵攻と元親の降伏。この激動は、中讃の地に大きな怒濤として押し寄せ、在来の勢力を押し流してしまう。

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 在地勢力の長尾城主であった長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働いた。そのためか生駒氏等の讃岐の大名となった諸氏から干される結果となる。長尾一族が一名も登用されていない
 このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入る。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを示す。
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 長尾氏出身の僧侶で尊光寺中興の祖と言われる玄正により総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になる。阿波国美馬の安楽寺を中本山に昇格させ阿讃の末寺統制体制が確立したと言える。このため中讃の興正寺派の寺院は、阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行っていた。
 尊光寺が安楽寺より離脱して、興正寺に直属するのは江戸時代中期の1777年になってのことである。

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「尊光寺史」は、浄土真宗の讃岐での教線拡大のありさまを垣間見せてくれる。

まんのう町吉野の「大堀」とは?

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 まんのう町の吉野字大堀(長田うどんの交差点を満濃池方面に500㍍行ったところ)の県道の東に小さな堀が残っている。説明板には「王堀」と呼ばれ「中世の豪族の館跡」と書かれている。いったいどんな「王堀」なのか、資料に当たりながら実相を見てみよう。
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絵図上の野々井出水にあたる部分だけが残っている

 この堀については
「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」
という長い名前がつけられた資料が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されている。
 絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路の一部としての飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木、輪郭の形状が見て取れる。文字部分は、墨書で絵図名称と方位名を、朱書で構造物と地形の名称と規模が書かれている。
 「大堀」の内側の水田については
「此田地内畝六反四畝六歩」
と面積が示される。そして、堀の外周と内周の「竪長」と、堀の「幅」について数値が記入される。以上から100㍍×60㍍が館の面積となる。また、絵図が書かれた当時は、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰が描かれている。

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大堀絵図
周囲との位置関係を絵図に書かれた文字資料から見ておこう。
①「五毛往来」「五毛」は、満濃池の南東隅にある地名。
②「巳午ノ間満濃池当り」 南南東の方角には、満濃池がある。
③「南」角丸長方形の堀は、二つの対角線が南北方向の線上にのっている。これは、堀の長軸方向が那珂郡条理地割の方位であるN-301Wにのっているため。
④「未方真野村一向宗光教寺」 「光教寺」は、真野字吉井に現存 。同寺は、中世の「文明年中」の建立という由来をもつ。
⑥「西酉方金毘羅社当り」 西の方角には、金毘羅社がある。

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⑦「戌方八幡宮」「八幡宮」は、満濃町大字吉野字八幡にある「八幡神社」が相当。 方角は、およそ北西方向。
⑧北方面は「丑ノ方当新名氏屋敷当几三丁」「黒木玄碩屋敷几八丁」「新名氏屋敷」の2つの屋敷は、当時吉野に存在した屋敷。
「黒木玄碩屋敷」は、大宮神社付近。
以上からこの絵図が「大堀」のかつての姿を写したものであることが分かる。

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⑧「黒木玄碩屋敷」は、この人物の生没年がこの絵図の作成時期をきめる有力証拠になる。が、詳細は不明。しかし「新名」や「黒木」の苗字を有する人物が江戸時代に大庄屋、社人といた。ここから本絵図が江戸時代に作成されただろうことが推測できる。

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 航空写真で見てみると・・・・
 今は王堀の中央を県道が走り、倉庫が建てられて小さな掘だけが残る。ここに立っても当時の様子を偲ぶことは難しい。しかし、グーグルで見てみると長方形の大きな堀跡が読み取れる。堀跡の西・北・東の細長い田地や円弧を描く畦畔として残されている。南辺は幅が狭くなっており、南西隅は宅地のために本来の姿は失われている。土塁は、東辺・南辺の畑や、西辺の草地や畦道がそのなごりを示している。北辺はその痕跡はうかがえない。四周する土塁の内側の田地の畦畔の位置は、絵図のものと一致する。確かに、この地を描いたものだ。

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大掘の西側の堀跡らしき形状
 この堀については、「王堀」「大堀」と呼ばれ、次のような伝承も伝わっている。
 神櫛別命の裔で、那珂郡神野郷を本拠とする豪族の酒部黒麿は、「移りて良野の大堀と云処に居住」した。酒部黒麿の居宅の場所は、「王堀」または「王屋敷」と称していた。王屋敷の東南には「冠塚」「御衣塚」があり、東方には「御殿が岡」があった。

しかし、これは後世の附会で那珂郡に神野郷があったことは史料からは確認できないし、酒部黒麿は近世に書かれた金倉寺縁起に、円珍の因支首氏(和気氏)の祖先として登場する人物だ。近世になって、神櫛王(讃留霊王)伝説と共に流布された話が、この地にも伝わっていたことを示すにすぎない。

 もうひとつの視点としては、近年の中世城館跡の調査研究の成果から考えられる推察である。
中世の武士集団は、まず平地に立地し、方形か長方形の堀と土居をともなう居館を造営し防御性を高める。そして、麓の居館と最寄りの山城とでセットとなる根小屋式城郭の、居館に相当するものであったのではないか。
理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館

 そういう視点でみるならここから3㎞北には、土器川を挟んで長尾山山上に西長尾城がある。県下有数の山城との関係なども想像してみるのも楽しい。
 H16年に県道拡幅の際に一部の調査が行われた結果、普通の農民の住居とは思えない太い柱をもつ建物が出てきている。そして14世紀前半の鎌倉時代で廃墟となっているようである。戦国時代の建物群は今のところ見つかっていない。
 つまり、戦国期を迎える前に周辺勢力との武力抗争で滅び去った武家の居館とも考えられる。滅ぼしたのは長尾氏なのか??? あくまで推理推測である。
 どちらにせよ、この絵図は「田地絵図」という農業的要素よりも、同地の軍事的な価値を記した「館跡絵図」の性格が強い。四国新聞2016年9月14日版「古からのメッセージ」では「大堀城跡」として紹介されたいた。

参考資料
 野中寛文  吉野上村の田地絵図は館跡絵図     香川県立文書館紀要3号

 まんのう町に白鳳期の古代寺院跡があるという。

弘安寺周辺地遺跡図

にわかには信じられなかった。調べて見ると、香川県史にも、新編満濃町誌にも触れられている。そして、礎石と白鳳期の瓦が出土していると書かれている。これは行かねばなるまい。地図で当たりをつけながら四条小学校の西周辺の道を原付バイクで散策。目標は四条本村の薬師堂。すぐそばに公民館も同居と聞いていたが、なかなかわかりにくい。
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薬師堂 まんのう町四条本村

細い道を入り込んでいくと、それらしき空間が開けてきた。高さ1㍍の土壇の上に薬師堂が建てられている。方二間の南面する薬師堂の西側に回り込んでいくと、大きな石が不規則に置かれている。これが古代寺院「弘安寺」の礎石のようだ。1937年に、お堂を改築する際に、動かされたり、他所へ運び出されたものもあるという。

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 さらに裏側に回り込むと、薬師堂の北側の4つの柱は、旧礎石の上にそのまま建てられている。移動されなかったと思われるの四つ礎石についてみると、土壇場にあった旧建物は南面してわずかに西に向いている。礎石間の距離は2,1㍍である。これが本堂跡だろうか。

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薬師堂の下の礎石

以下 満濃町誌によると (満濃町誌107P) 

薬師堂の前に、長さ2,4m 幅1,7m 高さ1,2mの花崗岩が置かれている。塔の心礎であったと思わる。中央に径55㎝、深さ15㎝ の柄穴がある。しかし、塔の位置は確認することができない。

弘安寺 塔心跡
弘安寺 塔心跡

 薬師堂の南方、120㍍の所に大門と呼ばれる水田があるそうだ。土壇とこの水田を含む方一町の範囲が旧寺地と考えられ、布目瓦が出土した範囲とも一致する。
 この方一町の旧寺地の方向は、天皇地区に見られる条里の方向とは一致せず、西に15度傾いている。このことからこの寺の建立は、条里制以前の白鳳時代にまでさかのぼると考えられる。
 本尊の薬師如来は、像高131㎝ 一木作りで大きく内ぐりが施された立像である。各部に大修理が加えられているが、胸のあたりから腹部に流れる衣文の線が整って美しく、古調を漂わせている。
 弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
  弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
           
 境内から出土した瓦のなかには、十六葉単弁蓮華文軒瓦瓦(径19㎝)など、法隆寺系の白鳳時代の瓦が含まれている。
この中で興味深いのは、ここから出土した軒丸瓦とおなじ木型で作られた瓦が以下の寺院から見つかっていることです。

弘安寺軒丸瓦の同氾

①徳島県美馬市の郡里廃寺(こうざとはいじ:阿波立光寺)
②三木町の上高岡廃寺
③さぬき市寒川町の極楽寺跡
これらの寺院ら出土した瓦と同じ木型で作られた瓦が、弘安寺でも使われていたようです。さらに、木型の使用順も弘安寺が一番早く、①②③と木型が使い回されていたことが分かっています。弘安寺とこれらの寺院、造営氏族との関係がどうなっていたのかが次の課題となっているようです。それはまたの機会にすることにして・・


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もうひとつこの立薬師堂で見ておきたいものがあります。
立薬師本堂左には小さなお堂があり、そこには古い石造物が安置されています。
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 弘安寺跡 十三仏笠塔婆
柔らかい凝灰岩製なので、今ではそこに何が書かれているのかよく分かりません。調べてみるてみると、次のようなものが掘られているようです
①塔身正面 十三仏
②左側面上部に金剛界大日如来を表す梵字
③右側面上部に胎蔵界大日如来を表す梵字
④側面下部に銘文 四條村の一結衆(いっけつしゅう)によって永正16年(1519年)9月21日に造立
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弘安寺跡 十三仏笠塔婆
 塔身の高さは58㎝、幅と奥行は28㎝で二段組の台座40㎝の上に立つ。笠と五輪塔の空輪が乗せられて総高は142㎝
この石造物は、中世の16世紀初頭の石造物になるようです。その時代まで、ここには古代創建の寺院が存続していたのでしょうか。そうだとすれば、法然がやってきた13世紀にも、この弘安寺はあったことになります。多分、まんのう町域では、最も由緒ある真言寺院であったことでしょう。しかし、法然の記録には、この寺院のことは出てきません。小松荘で彼が拠点としてのは、別のお寺であったことは、以前にお話ししました。
 四条本町周辺には、条里制施行に先行する7世紀後半の白鳳神社があり、16世紀近くまで存続していたとしておきましょう。四条本町が、このエリアの中心だったことがうかがえます。

白鳳期の丸亀平野南部において、古代寺院を建立した古代豪族とは?
善通寺では,有岡古墳群から古代寺院の「善通寺」建立へと続く佐伯氏の存在が思い浮かぶ。この地域の古代寺院を建立するだけの力を持った豪族とはだれか?

満濃町誌は因首氏(改名後は和気氏)だと次のように推論しています。

 本尊の薬師如来については、枇杷(びわ)の大木を刻んで造ったという『讃留霊王皇胤記』島田本に見られる和気氏の枇杷伝説に付会した伝承がある。また、木徳の和気氏が弘安寺以来の大旦那であったことが語り継がれている。
現在薬師堂に伝わる記録の中にも「和気氏が常に多額の金を寄付して第一の大旦那であった」ことを示す記事がある。この寺は、和気氏の氏寺として建立されたとも考えられる。
 一般の家屋が平床の掘立小屋で、藁や板で屋根を葺いていた当時、弘安寺の瓦が金毘羅山を背景にしてそびえ立つ姿は、美しい一幅の絵であったであろう。仏教は、すぐれた仏教文化の広がりという形で満濃町にも浸透した。

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