中熊は、明神の谷川うどんの前から琴南総合センターの前を辿って行くと、すぐに土器川支流の中熊川沿いに南斜面が開けます。中熊は、ソラの集落としては開発にはもっとも条件がよい場所で、早くから開かれた集落だとされています。それでは県史の記述を見ていくことにします。
中熊下 集落の中央に山熊神社が鎮座する ⑤が造田家
(前略) 谷のほとりの幾分平たんな土地へ人々は焼畑を作り、日当たりのよいところへ住まいも建てた。美合中熊の集落も、谷川を前に山の根にしがみついたようなところである。①山熊神社の周りに農家が点在する小集落で、南面し住居のなかで②ひときわ大きい屋敷を地元の人は「土居」と呼ぶ。③造田氏の屋敷なのだが、屋号の土居の方が通りがいい。
香川県史14巻民俗編 546P
土居屋敷の隅に土蔵がある。ここにはシロフスマという妖怪が棲んでいると言う。目が一つの大きなマノモンだと恐れられている。目が一つ、足も一本のシロフスマは、いつもは蔵の中に棲んでいるが、雪が降り出すと屋敷の中を歩きまわる。一本足の足跡が、ぽつんぱつんと雪の中へ残されるが降り積む雪で足跡は消される。土蔵の北隅には④護摩札が祀ってある。この護摩札がじーんと鳴りはじめるとシロフスマが現われると言う。造田家の当主が幼いころはなんとも恐ろしいマモノだったと言うが、このシロフスマは造田家の者にしか見えない。
中熊の山熊神社
この造田家の当主が行かなければ祭りにならないというのが山熊神社の秋の祭りである。⑤造田氏は、羽織袴の正装で神社へ出向き、頭屋の人たちとともに神輿にミタマウツシを行なう。谷川のほとりへはハッタンノボリという白布を八反つづり合わせた大きな幟を立ててある。ヨミヤの日にお旅所と社の前へ立てるもので、遠くからでもよく見える。
祭礼の日、ミタマウッシの後、神輿はお旅所までおみゆきする神輿の先導に立つ若衆は、黄色いたすきを首の両側に垂らして道案内となり、頭屋が白い御幣を、⑥造田氏が五色の御幣を持ってく。
谷川を隔てた対岸には大川山があり、大川神社が祀られている。⑦大川神社の祭神と、山神社の神さまとは姉と妹。山熊神社の玉垣の中で、大川から遊びに来た姉神が妹神と仲よく手まりをついて遊んでいたとか。美しい姫神は、とてもかわいい神であったとも言う
以上からは、次のような情報が読み取れます。
①②③からは、「土居」と呼ばれる中世居館を中心に造田氏が舘を構えたこと。造田氏の氏神として、山熊神社が建立され、周辺に集落が形成されたこと
④からは、土蔵の北隅には護摩札が祀ってあり、修験者による護摩祈祷が行われていたこと
⑤⑥からは、造田氏は祭礼儀式に重要な役割を演じていたこと
⑦からは大川大権現(神社)と山神さまは姉妹関係とされていたこと。
造田家文書によると、山熊神社はもともとは造田一族の氏神として創建されたと伝えます。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。江戸時代の祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷設置が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。山熊神社は造田氏の氏神で、中熊は造田氏によって開発が始まったことが裏付けられます。
それでは、山熊神社の祭礼者たちはどんな人達だったのでしょうか?
①②③からは、「土居」と呼ばれる中世居館を中心に造田氏が舘を構えたこと。造田氏の氏神として、山熊神社が建立され、周辺に集落が形成されたこと
④からは、土蔵の北隅には護摩札が祀ってあり、修験者による護摩祈祷が行われていたこと
⑤⑥からは、造田氏は祭礼儀式に重要な役割を演じていたこと
⑦からは大川大権現(神社)と山神さまは姉妹関係とされていたこと。
造田家文書によると、山熊神社はもともとは造田一族の氏神として創建されたと伝えます。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。江戸時代の祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷設置が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。山熊神社は造田氏の氏神で、中熊は造田氏によって開発が始まったことが裏付けられます。
山熊神社の神木
それでは、山熊神社の祭礼者たちはどんな人達だったのでしょうか?
中熊神の観音堂について、佐野家に弘化二(1845)年の由来記には、次のように記されています。
口上
一、中熊寺の前庵に奉納せる弥陀観音勢至三尊仏と申すは、法然上人御直作にて、大川宮別当十二房の内、房久保に御鎮座し、その後土洲長曽我部元親乱入の節、僧房焼き払われ候瑠り、(後略)
意訳変換しておくと
一、中熊寺の前庵に奉納されている弥陀観音勢至三尊仏は、法然上人の自作の仏たちである。もともとは大川宮の別当十二房の内の房久保に鎮座していた。ところが土佐の長曽我部元親の乱入の際に、僧房が焼き払われしまった。(後略)
ここには大川神社(当時は権現)には、別当が12坊あったと記されています。神仏混淆下の大川山は修験者たちによって開山され大川大権現と呼ばれ、役行者や不動明王が祀られた霊山でした。その霊山に仕えていたのが周辺の里に住み着いた修験者たちです。彼らが「別当十二坊」のメンバーたちで、その中に山熊神社の別当をつとめる社僧(山伏)もいたはずです。彼らは、里の拠点として、小さな別当寺を持っていたことが考えられます。
同時に⑦には、「大川神社(大権現)と山神社は姉妹」とあります。各集落の人々と大川権現を結びつけたのも彼らです。彼らは芸能伝達者として、踊りや歌などの芸能を伝えると同時に、平家落武者伝説などの話から、妖怪話などまでいろいろな話を、庚申講などでは寝ないで夜を徹して語ったります。「庚申講=山伏による組織化=妖怪話や民話の豊富さ」が民俗学者からは報告されています。美合のソラの集落に、面白い民話が数多く残されているのは、大川山を中心とする山伏たちの活動が背景にあったと私は考えています。

山熊神社 本殿
山熊神社を考える上で、押さえておきたいのが熊野行者との関係です。神仏分離前に熊野神を祀っていた中讃地区の神社一覧表です。

神仏分離前に熊野神を祀っていた中讃地区の神社一覧表
これを見ると中熊の山熊神社には祭神として、天神地祈(てんじんちぎ)が祀られていたことが分かります。
天神地祇は「天の神」と「地の神」を意味するあらゆる神々の総称で、熊野信仰は神仏習合の思想を基盤とした「甦り(よみがえり)」を願う信仰です。この二つは、日本の古代信仰と神仏習合の過程で深く結びついています。中世では熊野行者が信仰した神です。つまり、ここには熊野行者の痕跡が見られます。また、造田氏が熊野詣でをおこなうなど熊野信仰をもっていたことも推測できます。そして、熊野行者たちが、霊山大川山で活動していた痕跡が見えます。

天神地祇は「天の神」と「地の神」を意味するあらゆる神々の総称で、熊野信仰は神仏習合の思想を基盤とした「甦り(よみがえり)」を願う信仰です。この二つは、日本の古代信仰と神仏習合の過程で深く結びついています。中世では熊野行者が信仰した神です。つまり、ここには熊野行者の痕跡が見られます。また、造田氏が熊野詣でをおこなうなど熊野信仰をもっていたことも推測できます。そして、熊野行者たちが、霊山大川山で活動していた痕跡が見えます。
修験者たちは、どのようにして里に定住するようになったのでしょうか?
天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。
天正18年(1590)に、安房国の修験寺院正善院が、配下寺院37カ寺について調査した内容を書き上げた「安房修験書上(37)」という史料を見ておきましょう。

ここには、それぞれの修験寺院について、所在する村、村内で管理する堂社や寺地などについて詳しく記されています。ここからは、次のようなことが分かります。
①修験寺院が村々の堂社の別当などとして活動していたこと②山伏は村内の堂社や付随する堂領などの管理・運営を任されていて、その祭礼などを担っていたこと
戦国期に山伏は、村々の百姓たちを檀那として取り込みながら、村落へ定着していきます。その際の「有力な武器」が、呪術的祈祷や堂社の管理・運営です。その一方で、これまで盛んに行われていた熊野先達業務は、その規模を縮小させ次第に行われなくなったようです。それに代わる霊山として参拝知るようになるのが、伊予では石鎚、阿波では剣への参拝登山ということになります。
もうひとつ大川山周辺の修験者にとって大きな問題がおきます。それが阿波三好氏の保護を受けた美馬の安楽寺の真宗興正寺派の教線の拡大です。三頭越や真鈴越から情熱的な真宗僧侶がやってきて、里の農民達を組織し、道場を開いていきます。これへの対応には苦慮したはずですが、それはまたの機会にします。山神神社と造田氏の関係ついて戻ります。
もうひとつ大川山周辺の修験者にとって大きな問題がおきます。それが阿波三好氏の保護を受けた美馬の安楽寺の真宗興正寺派の教線の拡大です。三頭越や真鈴越から情熱的な真宗僧侶がやってきて、里の農民達を組織し、道場を開いていきます。これへの対応には苦慮したはずですが、それはまたの機会にします。山神神社と造田氏の関係ついて戻ります。
山神神社 拝殿
山熊神社は、造田氏の氏神として創建されたとしました。そのため造田氏による「特権的な祭礼儀礼」が取られてきました。それに対して江戸時代の中ごろになると、台頭してきた高持百姓たちが祭りの運営をめぐって反発するようになり、両者の間でたびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し、裁定を下しています。その文書によると造田氏の棟札特権は、大幅に縮小されています。例えば、棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼時に造田氏に認められていた桟敷も全廃されます。造田氏に認められたのは祭礼儀式の上で一部分だけになります。この動きをまとめておくと
①中世以来の造田氏一族の宮座独占に対する百姓達の発言権の高まり②その反発を受けて「氏神」から「産土社」への転換
この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「脱皮」を遂げたと言えるのかもしれません。県史に語られていた造田氏の役割は、幕末の「祭礼変革」以後に一部残された特権の名残とも言えるようです。
以上をまとめておきます。
①美合の中熊集落は造田氏によって開かれ、その氏神として山神神社が建立された。
②造田氏の入植は、屋敷周辺が「土居」呼ばれるなど中世居館の痕跡を残すので中世に遡ることが考えられる。
③中世から近世にかけて中熊川沿いのエリアが開発され、中熊と呼ばれる集落を形成するようになった。
④江戸時代後半になって、中堅農民が台頭するにつれて造田氏に対する反発が強くなった。
⑤その一例が、造田氏による山神神社の祭礼独占であり、自らの参加を求めるようになった。
⑥これに対して大庄屋の調停で農民達の祭礼参加が認められ、造田氏の権限は大幅に縮小された。
⑦しかし、その後も造田氏は中熊で隠然たる力を持ち続けた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香川県史14巻民俗編546P 造田家
関連記事
まんのう町美合の昔話 大川山にまつわる伝説と四つ足堂
讃岐の祭礼11 七箇村組(まんのう町)念仏踊りは岸の上の久保神社にも奉納されていた
中熊の山熊神社
もうひとつ押さえておきたいのは、中熊の住人たちは大熊神社の氏子となったと同時に、「大川権現の別当12坊」の社僧たちによって、霊山大川山の信者としても組織されていたということです。だから、住人たちは地元の神社の祭礼も執り行うし、共同して大川権現の祭礼にも共同して参加していたことになります。以上をまとめておきます。
①美合の中熊集落は造田氏によって開かれ、その氏神として山神神社が建立された。
②造田氏の入植は、屋敷周辺が「土居」呼ばれるなど中世居館の痕跡を残すので中世に遡ることが考えられる。
③中世から近世にかけて中熊川沿いのエリアが開発され、中熊と呼ばれる集落を形成するようになった。
④江戸時代後半になって、中堅農民が台頭するにつれて造田氏に対する反発が強くなった。
⑤その一例が、造田氏による山神神社の祭礼独占であり、自らの参加を求めるようになった。
⑥これに対して大庄屋の調停で農民達の祭礼参加が認められ、造田氏の権限は大幅に縮小された。
⑦しかし、その後も造田氏は中熊で隠然たる力を持ち続けた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
香川県史14巻民俗編546P 造田家
関連記事































































































































































































































































