瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:丸亀市の歴史 > 飯山町

       幕末の農民4
幕末・明治の農民(横浜で売られていた外国人向け絵はがき)
江戸時代の讃岐の農民が、どんなものを着ていたのかを描いた絵図や文書は、あまり見たことがありません。
祭りや葬式など冠婚葬祭の時の服装は、記録として残されたりしていますが、日常に着ていたものは記録には残りにくいようです。そんな中で、大庄屋十河家文書の中には、農民が持っていた衣類が分かる記述があります。それは農民から出された「盗品被害一覧」です。ここには農民が盗まれたものが書き出されています。それを見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。(意訳)
一筆啓上仕り候
鵜足郡西坂元村 百姓嘉左衛門
先日十八日の朝、起きてみると居宅の裏口戸が壱尺(30㎝)四方焼け抜けていました。不審に思って、家の内を調べて見ると、次のものがなくなっていました。
一、脇指      壱腰 但し軸朱塗り、格など相覚え申さず候
一、木綿女袷(あわせ) 壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞、裏浅黄
一、男単物 (ひとえ) 壱ツ 但し紺と紅色との竪縞
一、女単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、男単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、女帯      壱筋 但し黒と白との昼夜(黒と白が裏表になった丸帯の半分の幅の帯)
一、小倉男帯  壱筋 但し黒
一、縞木綿    弐端 但し浅黄と白との碁盤縞
一、木綿      壱端 但し浅黄と白との障子越
一、切木綿    八尺ばかり 但し右同断
一、木綿四布風呂敷 但し地紺、粂の紋付
合計十一品
以上の物品は、盗み取られたと思われますが、いろいろと調べても、何の手掛りもありません。つきましては、嘉左衛門から申し出がありましたので、この件について御注進(ご報告)する次第です。以上。
弘化四年(1847) 4月23日           
           西坂元村(庄屋) 真鍋喜三太
西坂本村の百姓嘉左衛門の盗難届けを受けて、同村庄屋の真鍋喜三太がしたためた文書です。盗難に遭う家ですから「盗まれるものがある中農以上の家」と推測できます。最初の盗品名が「脇指」とあるが、それを裏付けます。ただ盗難品を見ると、脇差以外は、衣類ばかりです。そして、ほとんどが木綿で、絹製品はありません。また「単衣」とは、胴裏(どううら)や八掛(はっかけ)といった裏地が付かない着物のことで、質素なものです。また、「切木綿」のように端材もあります。自分たちで、着物を仕立てていたようです。

幕末の農民
幕末の農民
 こうして見ると、素材は木綿ばかりで絹などの高価な着物はありません。このあたりに、農民の慎ましい生活がうかがえます。しかし、盗品のお上への届けですから、その中に農民が着てはならないとされていた絹が入っていたら、「お叱り」を受けることになります。あっても、ここには書かなかったということも考えられます。それほど幕末の讃岐の百姓達の経済力は高まっていたようです。

幕末の農民5
幕末・明治の農民

 江戸時代には新品の着物を「既製服」として売っているところはありませんでした。
「呉服屋」や木綿・麻の織物を扱う「太物(ふともの)屋」で新品の反物を買って、仕立屋で仕立てるということになります。着物は高価な物で、武士でも新しく仕立卸の着物を着ることは、生涯の中でも何度もなかったようです。つまり、新品の着物は庶民が買えるものではなかったのです。
江戸時代の古着屋
古着屋
 町屋の裕福な人達が飽きた着物を古着屋に売ります。
その古着を「古着屋」や「古着行商」から庶民は買っていたのです。ましてや、農民達は、新しい着物を買うことなど出来るはずがありません。古着しか手が出なかったのです。そのため江戸時代には古着の大きなマーケットが形成されていました。例えば、北前船の主な積荷の一つが「古着」でした。古着は大坂で積み込まれ、日本海の各地に大量に運ばれていました。

江戸時代の古着屋2
幕末の古着屋

江戸や大坂には「古着屋・仲買・古着仕立て屋」など2000軒を越える古着屋があったようで、古着屋の中でも、クラスがいくつにもわかれていました。だから盗品の古着にも流通ルートがあり、「商品」として流通できるので着物泥棒が現れるのです。

古着屋2
古着屋 
古着は何十年にもわたって、いろいろな用途に使い廻されます。
  古着を買ったら、大事に大事に使います。何度も洗い張りして、仕立て直し。さらには子ども用の着物にリメイクして、ボロボロになっても捨てずに、赤ちゃんのおしめにします。その後は、雑巾や下駄の鼻緒にして、「布」を最後まで使い切りました。農村では貧しさのために古着も手に入らない家がありました。農作業の合間に自分で麻や木綿の着物を仕立てたり、着れる者を集めて古いものを仕立て直したりしたようです。

細川家住宅
  『細川家住宅』(さぬき市多和)18世紀中頃の富農の主屋

農民の家については、建て替えの時に申請が必要だったので、記録が残っています。
願い上げ奉る口上
一、家壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行四間半、藁葺き
右は私ども先祖より持ち来たりおり申し候所、柱など朽ち損じ、取り繕いでき難く候間、有り来たりの通り建てかえ申したく存じ奉り候。もっとも御時節柄にていささかも華美なる普請仕らず候間、何卒願いの通り相済み候様によろしく仰せ上られくださるべく候。この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月         鵜足郡西川津村百姓   長   吉
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
一、家壱軒   石据え(礎石) 2間梁に桁行4間半、藁葺き
この家は、私どもの先祖より受け継いできたものですが、柱などが朽ち果てて、修繕ができなくなりました。そこで「有り来たり(従来通の寸法・工法)」で建て替えを申請します。もっとも倹約奨励の時節柄ですので、華美な普請は行いません。何卒、願い出の通り承認いただける取り計らっていただけるよう、この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月        鵜足郡西川津村百姓   長吉
庄屋 高木伴助殿

西川津町の百姓長吉が庄屋へ提出した家の改築願いです。
「有り来たり(従来通の寸法・工法)」とあるので、建て替えの際には、従前と同じ大きさ・方法で建てなければならなかったことが分かります。柱は、掘っ立て柱でなく、石の上に据えるやり方ですが、家の大きさは2間×4間半=9坪の小さなものです。その内の半分は土間で、農作業に使われたと研究者は指摘します。現在の丸亀平野の農家の「田型」の家とは違っていたことが分かります。 「田型」の農家の主屋が現れるのは、明治以後になってからです。藩の規制がなくなって、自由に好きなように家が建てられるようになると、富農たちは争って地主の家を真似た屋敷造りを行うようになります。その第一歩が「田型」の主屋で、その次が、それに並ぶ納屋だったようです。

幕末になると裕福な農家は、主屋以外に納屋を建て始めます。 
弘化4(1847)年2月に 栗熊東村庄屋の清左衛門から納屋の改築願いが次のように出されています。
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き
右は近年作方相増し候所、手狭にて物置きさしつかえ迷惑仕り候間、居宅囲いの内へ右の通り取り建て申したく存じ奉り候。(中略)この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 構造は弐間梁 × 桁行三間で瓦葺き
近年に作物生産が増えて、手狭になって物置きなどに差し障りが出てくるようになりました。つきましては、居宅敷地内に、上記のような納屋を新たに建てることを申請します。(中略) この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋
「近年作方相増し」た西川津村の弁蔵が、庄屋の高木伴助に納屋新築を申請したものです。弁蔵は、砂糖黍や綿花などの商品作物の栽培を手がけ成功したのかも知れません。そして、商品作物栽培の進む中で没落し、土地を手放すようになった農民の土地を集積したとしておきましょう。その経済力を背景に、納屋建設を願いでたのでしょう。それを見ると、庄屋級の納屋で二間×五間の大きさです。一般農民の中にも次第に耕作規模を拡大し、新たに納屋を建てる「成り上がり」ものが出てきていることを押さえておきます。逆に言うと、それまでの農家は9坪ほどの小さな主屋だけで、納屋もなかったということになります。
 今では、讃岐の農家は主屋の周りに、納屋や離れなどのいくつもの棟が集まっています。しかし、江戸時代の農家は、主屋だけだったようです。納屋が姿を見せるようになるのは幕末になってからで、しかも新築には申請・許可が必要だったこと押さえておきます。
最後に、当時の富農の家を見ておきましょう。

細川家住宅32
重要文化財『細川家住宅』(さぬき市多和)
18世紀中頃(江戸時代)の農家の主屋です。屋根は茅葺で、下までふきおろしたツクダレ形式。 母屋、納屋、便所などが並んでいます。
母屋は梁行3間半(6,1m)×桁行6間(12,8m)の大きな主屋です。先ほど見た「鵜足郡西川津村百姓 長吉の家が「2間梁×桁行4間半、藁葺き」でしたから1.5倍程度の大きさになります。

細川家4
細川家内部
周囲の壁は柱を塗りこんだ大壁造りで、戸は片壁引戸、内部の柱はすべて栗の曲材を巧みに使ったチョウナ仕上げです。間取りは横三間取りで土間(ニワ)土座、座敷。ニワはタタキニワでカマド、大釜、カラウス等が置かれています。土座は中央にいろりがあり、座敷は竹座で北中央に仏壇があります。四国では最古の民家のひとつになるようです。

DSC00179まんのう町生間の藁葺き
戦後の藁葺き屋根の葺替え(まんのう町生間) 

 江戸時代の庄屋の家などは、いくつか残っていますが普通の農家の家が残っているのは、非常に珍しいことです。この家のもう少し小形モデルが、江戸時代の讃岐の農民の家で、納屋などもなかったことを押さえておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


高松藩分限帳
髙松藩分限帳
髙松藩分限帳の中には、当時の庄屋や大庄屋の名前が数多く記されています。
法勲寺大庄屋十河家
分限帳に見える上法勲寺村の十河武兵衛(左から4番目)

  その中に鵜足郡南部の大庄屋を務めた法勲寺の十河家の当主の名前が見えます。十河家文書には、いろいろな文書が残されています。その中から農民生活が見えてくる文書を前回に引き続いて見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。
江戸時代の農民は自分の居住する村から移転することは許されていませんでした。
今で云う「移動・職業選択・営業・住居選択」の自由はなかったのです。藩にとっての収入源は、農民の納める年貢がほとんどでした。そのため労働力の移動を禁止して、農民が勝手に村外へ出てしまうことを許しませんでした。中世農奴の「経済外強制」とおなじで、領主の封建支配維持のためには、欠かせないことでした。
 しかし、江戸時代後半になり、貨幣経済が進むと農民層にも両極分解が進み、貧農の中には借金がかさみ、払えきれなくなって夜逃け同然に村を出て行く者が出てきます。江戸時代には、夜逃げは「出奔(しゅっぽん)」といって、それ自体犯罪行為でした。

一筆申し上げ候
鵜足郡上法軍寺村間人(もうと)義兵衛倅(せがれ)次郎蔵
右の者去る二月二十二日夜ふと宿元まかり出で、居り申さず候につき、 一郡共ならびに村方よりも所々相尋ね候えども行方相知れ申さず、もっとも平日内借など負い重なり、右払い方に行き当り、全く出奔仕り候義と存じ奉り候。そのほか村方何の引きもつれも御座無く候。この段御注進申し上げたく、かくの如くに御座候。以上。
           同郡同村庄屋         弥右衛門
弘化四(1847)年三月八日
    意訳変換しておくと
鵜足郡上法軍寺村の間人(もうと)義兵衛の倅(せがれ)次郎蔵について。この者は先月の2月22日夜に、家を出奔にして行方不明となりましたので、村方などが各所を訪ね探しましたが行方が分かりません。日頃から、借金を重ね支払いに追われていましたので、出奔に至った模様です。この者以外には、関係者はいません。この件について、御注進を申し上げます。

間人(もうと)というのは水呑百姓のことで、宿元というのは戸籍地のことです。上法軍寺村の間人義兵衛の子次郎蔵が出奔し、行方不明になったという上法勲寺村の庄屋からの報告です。
  次郎蔵の出奔事件は犯罪ですから、これだけでは終わりになりません。その続きがあります。
願い上げ奉る口上
一、私件次郎蔵義、去る二月出奔仕り候につき、その段お申し出で仕り候。右様不所存者につき以後何国に於て如何様の義しだし候程も計り難く存じ奉り候間、私共連判の一類共一同義絶仕りたく願い奉り候。右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくだされ候。この段願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人     倉 蔵 判
意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、私共の倅である次郎蔵について、先月二月に出奔したことについて、申し出いたしました。このことについては、行き先や所在地については、まったく分かりません。つきましては、連判で、次郎蔵との家族関係を義絶したいと願い出ます。このことについて役所へのおとり継ぎいただけるよう願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人      倉蔵 判
庄屋      弥右衛門殿
父と兄からの親子兄弟の縁を切ることの願出が庄屋に出されています。それが、大庄屋の十河家に送付されて、それを書き写した後に高松藩の役所に意見書と共に送ったことが考えられます。
出奔した次郎蔵は親から義絶され、戸籍も剥奪されます。宿元が無くなった人間を無宿人と云いました。無宿人となった出奔人は農民としての年貢その他の負担からは逃れられますが、公的存在としては認められないことになります。そのため、どこへ行っても日陰の生き方をしなければならなくなります。
 次郎蔵の出身である間人という身分は、「農」の中の下層身分で、経済的には非常に厳しい状況に置かれた人達です。
中世ヨーロッパの都市は「都市の空気は、農奴を自由にさせる」と云われたように、農奴達は自由を求めて周辺の「自由都市」に流れ込んでいきます。幕末の讃岐では、その一つが金毘羅大権現の寺領や天領でした。天領は幕府や高松藩の目が行き届かず、ある意味では「無法地帯」「自由都市」のような様相を見せるようになります。当時の金毘羅大権現は、3万両をかけた金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石段や石畳も整備が行われ、リニューアルが進行中でした。そこには、多くの労働力が必要で周辺部農村からの「出奔」者が流れ込んだことが史料からもうかがえます。金毘羅という「都市」の中に入ってしまえば、生活できる仕事はあったようです。こうして出奔者の数は、次第に増えることになります。
      
出奔は非合法でしたが、出稼ぎは合法的なものでした。
しかし、これにも厳しい規制があったようです。
願い奉る口上
一、私儀病身につき作方働き罷りなり申さず候。大坂ざこば材木屋藤兵衛と申し材木の商売仕り候者私従弟にて御座候につき、当巳の年(安永二年)より西(安永六年)暮まで五年の間逗留仕り、相応のかせぎ奉公仕りたく存じ奉り候間、願いの通り相済み候様、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二年巳四月      鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿
   意訳変換しておくと
一、私は病身のために農作業が出来なくなりました。大坂ざこば材木屋の藤兵衛で材木商売を営んでいる者が私の従弟にあたります。つきましては、当年(安永二年)より五年間、大坂に逗留し、かせぎ奉公(出稼ぎ)に出たいと思います。願いの通り認めて下さるように、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二(1773)年巳四月     鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿

岡田下村の貧農から庄屋への出稼ぎ申請です。病身で農業ができないので、出稼ぎにでたいと申し出ています。健常者には、出稼ぎは許されなかったようです。

江戸時代には「移動の自由」はないので、旅に出るには「大義名分」が必要でした。
「大義名分」のひとつが、「伊勢参り」や「四国巡礼」などの参拝でした。また「湯治」という手もあったようです。それを見ておきましょう。
願い奉る口上
一、私儀近年病身御座候につき、同郡上法軍寺村医者秀伊へ相頼み養生仕り候所、しかと御座無く候。この節有馬入湯しかるべき由に指図仕り候につき、三回りばかり湯治仕りたく存じ奉り候。もっとも留守のうち御用向きの義は蔵組頭与右衛門へ申し付け、間違いなく相勤めさせ申すべく候間、右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくださるべく候。願い奉り候。以上。
安永二年巳 四月      .鵜足郡東小川村 政所     利八郎
    意訳変換しておくと
近年、私は病身気味で、上法軍寺村の医者秀伊について養生してきましたが、一向に回復しません。そこでこの度、有馬温泉に入湯するようにとの医師の勧めを受けました。つきましては、「三回り(30日)」ほど湯治にまいりたいと思います。留守中の御用向きについては、蔵組頭の与右衛門に申し付けましたので、間違いなく処理するはずです。なにとぞ以上の願出について口添えいただけるようにお願いいたします。以上。
安永二(1773)年巳 4月      .鵜足郡東小川村政所     利八郎

東小川村政所(庄屋)の利八郎が、病気静養の湯治のために有馬温泉へ行くことの承認申請願いです。期間は三回り(30日)となっています。利八郎の願出には、次のような医者の診断書もつけられています。
一札の事
一、鵜足郡東小川村政所利八郎様病身につき、私療治仕り候処、この節有馬入湯相応仕るべき趣指図仕り候。以上。
安永二年巳四月        鵜足郡上法軍寺村医者     秀釧
ここからは、村役人である庄屋は、大政所(大庄屋)の十河家に申請し、高松藩の許可を得る必要があったことが分かります。もちろん、湯治や伊勢詣でにいけるのは、裕福な農民達に限られています。誰でもが行けたわけではなく、当時はみんなの憧れであったようです。それが明治になり「移動や旅行の自由」が認められると、一般の人々にも普及していきます。庄屋さん達がやっていた旅や巡礼を、豊かな農民たちが真似るようになります。
 有馬温泉以外にも、湯治に出かけた温泉としては城崎・道後・熊野など、次のような記録に残っています。(意訳)
  城崎温泉への湯治申請(意訳)
願い上げ奉り口上
一、私の倅(せがれ)の喜三太は近年、癌気(腹痛。腰痛)で苦しんでいます。西分村の医師養玄の下で治療していますが、(中略)この度、但州城崎(城崎温泉)で三回り(30日)ばかり入湯(湯治)させることになりました。……以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡土器村咤景    近藤喜兵衛
    道後温泉への湯治申請

道後温泉からの帰着報告書 十河文書
 川原村組頭の磯八の道後温泉からの湯治帰還報告書(左側)
願い上げ奉る口上
一、私は近年になって病気に苦しんでいます。そこで、三回り(30日)ほど予州道後温泉での入湯(湯治)治療の許可をお願い申し上げました。これについて、二月二十八日に出発し、昨日の(3月)28日に帰国しまた。お聞き置きくだされたことと併せて報告しますので、仰せ上られくださるべく候。……以上。
弘化四未年二月          川原村組頭 磯八      
ここからは川原村の組頭が道後温泉に2月28日~3月28日まで湯治にいった帰国報告であることが分かります。行く前に、許可願を出して、帰国後にも帰着報告書と出しています。上の文書の一番左に日付と「磯八」の署名が見えます。また湯治期間は「三回り(1ヶ月)という基準があったことがうかがえます。

また、大政所の十河家当主は、各庄屋から送られてくる申請書や報告書を、写しとって保管していたことが分かります。庄屋の家に文書が残っているのは、このような「文書写し」が一般化していたことが背景にあるようです。

今度は熊野温泉への湯治申請です。
願い上げ奉る口上    (意訳)
私は近年病身となりましたので、紀州熊野本宮の温泉に三回り(30日)ほど、入湯(湯治)に行きたいと思います。行程については、5月25日に丸亀川口から便船がありますので、それに乗船して出船したいと思います。(後略)……以上。
弘化四(1848)年  五月     鵜足郡炭所東村百姓    助蔵 判
庄屋平田四郎右衛門殿
熊野本宮の温泉へ、丸亀から出船して行くという炭所東村百姓の願いです。乗船湊とされる「丸亀川口」というは、福島湛甫などが出来る以前の土器川河口の湊でした。
丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の東河口(元禄10年城下絵図より)

新湛甫が出来るまでは、金毘羅への参拝船も「丸亀川口」に着船していたことは、以前にお話ししました。それが19世紀半ばになっても機能していたことがうかがえます。
 しかし、どうして熊野まで湯治に行くのでしょうか。熊野までは10日以上かかります。敢えて熊野温泉をめざすのは、「鵜足郡炭所東村百姓  助蔵」が熊野信者で、湯治を兼ねて「熊野詣」がしたかったのかもしれません。つまり、熊野詣と湯治を併せた旅行ということになります。
病気治療や湯治以外で、農民に許された旅行としては伊勢参りや四国遍路がありました。
願い上げ奉ろ口上
一、人数四人        鵜足郡炭所東村百姓 与五郎
       専丘衛
       舟丘衛
       安   蔵
右の者ども心願がありますので伊勢参宮に参拝することを願い出ます。行程は3月17日に丸亀川口からの便船で出港し、伊勢を目指し、来月13日頃には帰国予定です。この件についての許可をいただけるよう、よろしく仰せ上られるよう願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847)末年三月    同郡同村庄屋    平田四郎兵衛
炭所東村の百姓4人が伊勢参りをする申請書が庄屋の平田四郎兵衛から大庄屋に出されています。この承認を受けて、彼らも「丸亀川口」からの便船で出発しています。この時期には、福島湛甫や新堀港などの「新港」も姿を見せている時期です。そちらには、大型の金毘羅船が就航していたはずです。どうして新港を使用しないのでしょうか?
考えられるのは、地元の人間は大阪との行き来には、従来通りの「丸亀川口」港を利用していたのかもしれません。「金毘羅参拝客は、新港、地元民は丸亀川口」という棲み分け現象があったという説が考えられます。もう一点、気がつくのは、湯治や伊勢参りなども、旧暦2・3月が多いことです。これは農閑期で、冬の瀬戸内航路が実質的に閉鎖されていたことと関係があるようです。

大庄屋の十河家に残された文書からは、江戸時代末期の農民のさまざまな姿が見えてきます。今回はここまで。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

飯山町誌 (香川県)(飯山町誌編さん委員会編 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

参考文献 「飯山町史330P 農民の生活」
関連記事

  
  江戸時代後期になると、賢い庄屋たちは記録を残すことの意味や重要性に気づいて、手元に届いた文書を書写して写しを残すようになります。その結果、庄屋だった家には、膨大な文書が近世史料として残ることになります。丸亀市飯山町法勲寺には、江戸時代に大政所(大庄屋)を務めた十河家があります。ここにも「十河家文書」が残され、飯山町史に紹介されています。今回は、その中から江戸時代の農民の生活が実感できる史料を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。

もともとの鵜足郡(うたぐん)は、次のような構成でした。
 ①津野郷 – 宇多津・東分・土器・土居
 ②二村郷 – 東二(ひがしふた)・西二(にしふた)・西分
 ③川津郷 – 川津
④坂本郷 – 東坂元・西坂元・眞時・川原
⑤小川郷 – 東小川・西小川
⑥井上郷 – 上法軍寺・下法軍寺・岡田
⑦栗隈郷 – 栗熊東・栗熊西・富熊
⑧長尾郷 – 長尾・炭所東・炭所西・造田・中通・勝浦

これを見て分かるのは、江戸時代の⑧の長尾郷は鵜足郡に属していたことです。近代になって仲多度郡に属するようになり、現在ではまんのう町に属するようになっています。しかし、江戸時代には鵜足郡に属していました。そのため長尾郷の村々の庄屋は、鵜足郡の大庄屋の管轄下にあったことを押さえていきます。十河家文書の中に、長尾郷の村々が登場するのは、そんな背景があります。

讃岐古代郡郷地図 西讃
西讃の郷名
近世の村を考える場合に、庄屋を今の町村長に当てはめて考えがちです。しかし、庄屋と町長は大分ちがいます。今の町長は、町民のかわりに税金を払ってはくれませんが、江戸時代の庄屋は村民が年貢を納められない時はかわって納める義務がありました。また庄屋は、今の警察署長の役目も負っていました。例えば、村には所蔵(ところぐら:郷蔵)という蔵があったことは以前にお話ししました。
高松藩領では、村々の年貢は村の所蔵に納め、それから宇多津の藩の御蔵へ運ばれました。所蔵には、年貢の保管庫以外にも使用用途がありますた。それは警察署長としての庄屋が犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場でもあったのです。どんなことをしたら、所蔵
に入れられたのでしょうか。十河文書の一つを見てみましょう。
一筆啓上仕り候。然らば去る十九日夜栗熊東村にて口論掛合いの由にて、当村百姓金蔵・八百蔵両人今朝所蔵へ入れ置き候様御役所より申し越しにつき、早速入れ置き申し候間、番人など付け置き御座候。
弘化四年 二月十二日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
     意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。先日の2月19日夜、栗熊東村で口論の末に喧嘩を起こした当村の百姓・金蔵と八百蔵の両人について、今朝、所蔵(郷倉)へ入れるようにとの指示を役所より受けました。つきましては、指示通りに、両名を早速に収容し、番人を配置しました。
弘化四(1947)年2月22日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
東栗熊村の庄屋からの報告書です。19日夜に百姓が喧嘩騒動を起こしたので、それを法勲寺の大庄屋十河家に報告したのでしょう。その指示が通りに所蔵へ入れたという報告書です。時系列で見ると
①19日夜 喧嘩騒動
②20日、 栗熊村庄屋から法勲寺の大庄屋への報告
③22日朝、大庄屋からの「所蔵へ入れ置き」指示
④22日、 栗熊村庄屋の実施報告
と、短期間に何度もの文書往来を経ながら「入れ置き(入牢)」が行われていることが分かります。村の庄屋は、大庄屋に報告して判断を仰がなければならない存在だったことが分かります。

次は村で起きた「密通・不義」事件への対応です。
 一筆申し上げ候
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
右の者共内縁ひきもつれの義につき、右庄次郎後家より申し出の次第もこれあり、双方共不届きの始末に相聞え候につき、まず所蔵へ禁足申しつけ、番人付け置き御座候。なお委細の義は組頭指し出し申し候間、お聞き取りくださるべく候。右申し上げたくかくの如くに御座候。
(弘化四年)七月三日      栗熊東村庄屋 清左衛門
意訳変換しておくと
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
上記の両者は、「内縁ひきもつ(不義密通)と、庄次郎後家より訴えがあり、調査の結果、不届きな行いがあったことが分かりました。そこで、両者に所蔵禁足に申しつけ、番人を配置しました。なお子細については、組頭に口頭で報告させますので、お聞き取りくだい。以上。
弘化四(1847)年7月3日      栗熊東村庄屋 清左衛門

今度は、栗熊東村からの「不義密通」事件の報告です。事実のようなので、両者を所蔵(郷倉)に入れて禁足状態にしているとあります。大庄屋の措置は分かりません。ここからは、所蔵が村の留置場として使われていたことが分かります。
それでは所蔵は、どんな建物だったのでしょうか?
所蔵の改築願いの記録も、十河家文書の中には次のように残されています。
一 所蔵一軒   石据え
  但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き、前壱間下(げ)付き、
一、算用所壱軒    石据え
  但し壱丈四方、一真葺き
右は近年虫入に相成、朽木取繕い出来難く、もっとも所蔵はこれまで藁葺き。桁行三間半にて御座候ところ、半間取縮め、右の通りに建てかえ申したく存じ奉り候。御時節柄につき随分手軽に普請仕りたく存じ奉り候。別紙積り帳相添え、さし出し申し候間、この段相済み候様仰せ上られくださるべく候。願い上げ奉り候。以上。
弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿
  意訳変換しておくと
所蔵と算用所の建て替えの件について
この建物は近年、白蟻が入って朽木となって修繕ができない状態となっています。所蔵は、これまで藁葺きで、桁行三間半でしたが、半間ほど小さくして、右の規模で建て替え建てを計画しています。倹約の時節柄ですおで、できるだけ費用をかけずに普請したいと考えています。別紙の通り見積もり書を添えて、提出いたしますので、御覧いただき検討をお願いいたします。
   弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿

岡田東村からの所蔵の改築申請書です。ここからは。いままでは藁ぶきの「二間×三間半」だったのが、弘化四(1847)年の建替時に、瓦葺きで二間×三間に減築されたことが分かります。「石据え」というのは、柱が石の上に立てられていたこと、「前壱間下付き」というのは、所蔵の建物の表に、 一間の下(ひさしのように出して柱で受け、時には壁までつけた附属構造)が出ていたことです。この下の一間四方分は「番小屋」については、次のように別記されています。

前壱間下(げ)付きにて、右下の内壱間四方の間番小屋に仕り候積り。

ここからは下(げ)の下は、一間四方の間番小屋として使っていたことが分かります。 

 所蔵(郷倉)は、一村に一か所ずつありました。
所蔵が年貢米の一時収納所でもあり、留置場でもあったことは今見てきたとおりです。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。
吉野上村(現まんのう町)の郷倉については、吉野小学校沿革史に次のように記されています。(意訳)
吉野上村郷倉平面図
吉野上村の郷倉
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下(げ)付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
 世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
   明治になって、所蔵(郷倉)の周囲に、学校や交番、そして役場が作られていったことがうかがえます。そういう意味では、江戸時代の所蔵が、明治の行政・文教センターとして引き継がれたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史330P 農民の生活
関連記事

飯山国持居館2地図
    飯山町の飯山北土居遺跡 旧河道に囲まれた居館跡
以前に丸亀市の飯野山南麓の中世武士の居館跡を紹介しました。その時に、この辺りに戦時中に飛行場が建設されたことを知りました。しかし、その実態については分からないままでした。最近、飯山町史(485P)をながめていると、その飛行場のことが出ていましたので、読書ノート代わりに載せておきます。

 1945年春のアメリカ軍が沖縄への上陸作戦を開始する前後の4月末のことです。
坂本村役場の職員が坂出で開かれ た事務打合会に出席した際に、会が終わっても居残るようにと伝えられます。そして、軍関係者より次のような内司を受けます。

「近々貴村に軍の機密施設を造るから、取り急ぎ牛馬車用荷車を80台準備するように」

 追いかけるようにして五月中旬になると、航空総軍司令部から陸軍飯野山飛行場建設命令が下ります。こうして施設部隊帥500部隊長の命により、坂本村隣保館(元坂本村公民館)に帥500部隊丸亀工事隊本部が設置され、5月18日には工事に着工します。その際に、西坂元字国持・山の越・西沖・大字川原字上居の4地区に対して、次のような命令が下されます。

「この地域内にある水田は、麦(未熟)を刈り取り、指示された家屋は全部こわして立ち退くこと」

飛行場予定地の水田の麦を青田刈りして、家屋を壊して立ち退けというのです。以後、昼夜を問わない突貫工事が始まります。
飯野山飛行場は、どこに建設されたのでしょうか
 飯山町史には、次のように記されています。

現在の県道18号線(善通寺‐府中)沿いに、東は川原土居から、西は山根東までの全長約1,5㎞、幅は約100m規模。西の山根東地区では、北側ににごり池があるので、これを避けてその南側にあった。その面積は、約21町6反歩余りにもなる。

この記述に基づいて研究者は次のような位置を考えているようです。

飯山飛行場2
飯野山飛行場の位置
(東は川原土居から、西は山根東までの全長約1,5㎞)
作業手順について、飯山町史は次のように記します。
①まず地域内の全水田の麦の刈り取り(穂は未熟)を行い、立ち退き家屋の解体作業ならびにその用材および瓦の取り片付け、移転先ヘの運搬
②地域内の小川や水路には、飯野山と土器川河岸から切り取った松の丸太を持ち帰り、これを小川や溝に渡してその上に上を敷きつめ、飛行場の原型づくり。
③平坦化した地面に飯野山の山土や、周辺の水田から掘り取った土を積み重ねて敷きつめる。当時の上運搬は「もっこ」をかつぎ、「じょうれん」で運ぶ。人力だけが頼りのたいへんな作業であった。
④土器川から砂や小石を運び、これを拡散して固め、地面を水平固定化。
⑤ 完成した所から敵機の来襲に備え、擬装工作作業として松・かし・くぬぎ等の雑木の小枝を等間隔に挿し木。
以上からは、飛行場建設のために水路が埋められ、田んぼに土器川から運ばれた石が敷き詰められたことが分かります。それは「もっこ」による人力作戦で行われています。ちなみに戦後に行われた水田復元の際には、これらの石が農民達によって取り除かなければなりませんでした。
飯野山飛行場建設のために動員されたのは、どんな人達だったのでしょうか。
①5月19日、陸軍施設部隊一個大隊約500人が到着。
②5月20日、学生勤労奉仕隊到着。
高松中学校291人
三豊中学校153人
坂出工業学校203人
尽誠中学校202人
丸亀中学169人
飯山農業学校300人 
合計1318人を動員。
ここからは、未だ動員されていなかった高松・中讃・三豊の旧制中学の学生達が動員されたことが分かります。高松や三豊の遠方の学生達は付近の学校・公民館・民家等に宿泊し作業に当たったようです。

③5月21日から稜歌・仲多度郡内の一般勤労奉仕隊員約100人を動員。
①②③の合計は「500人 + 1318人 + 100人=約2000人足らず」になります。

6月1日付けで坂本村長協正と役場吏員近藤政義に、次のような辞令が交付されます。

飯山飛行場
飯野山飛行場の工事隊事務嘱託状(飯山町史)
坂 本 村     近藤政義
航空総軍丸亀工事隊事務を嘱託す
昭和二十年六月一日
航空総軍丸亀工事隊本部隊長
陸軍嘱託 横山幹太
⑤6月中旬、三豊郡・仲多度部・綾歌郡内の牛馬車用奉仕隊約80台を動員して土砂運搬および飛行場の権地作業にあたる。
⑥7月中旬、航空隊幹部が現地視察に来て、工事遅延を見て、軍刀を抜かんばかりに激怒して帰る。
以上からは、7、8月の真夏の炎天下に、中学生達の学徒を動員して突貫工事で行われたことが分かります。しかし、完成前に終戦を迎えます。
 飯野山飛行場の施設内訳を見ておきましょう。
1、滑走路総面積 21町六反歩
2、附属施設
格納庫一棟 東坂元三の池、滝房吉所有田
格納庫一棟   西坂元高柳、松永博俊所有田
兵舎一棟    東坂元秋常、高木真一所有田
調理室浴場 東坂元秋常、新池所有山林内
3、家屋の立ち退きを命ぜられた者
(土居)鶴岡森次、平日常三郎、平田利八、平田金八、山口善平、平田平太郎、泉久大、抜井嘉平大、平田イトヱ、沢井一、本条直次、宮井宗義、平田トワ、抜井勝義
 (山の越)東原昌彦
(国持) 金丸弘、村山ワキ、       以上17戸
以上の17戸が家屋を解体され、立ち退かされたことが分かります。
その後、戦後の食糧生産増産運動の中で、滑走路や関連施設などの合計25町歩余は、農家が田畑に復旧します。また、取り壊された家屋は、家族や地区人達の手伝で再建され、1948(昭和23)年末ごろまでには復旧したようです。

飛行場建設部隊の宿舎となった法勲寺国民学校には、この時の記録が残されていますので、長くなりますが紹介しておきます。
陸軍飯野山飛行場の設置について、昭和20年5月航空総軍丸亀工事隊長から、当時の平尾安徳村長に次のように言い渡された。

「近く空第五百七十一部隊五百名を飛行場施設のため貴村へ派遣するので、国民学校等を宿舎として借りたいから五月末までに準備するように」

村長は、学校長・職員と打合せて、児童疎開計画をたて、疎開先の交渉にあたり六月一日、以下のように決定した。
一年生二組 島田寺
二年生二組 原川十三堂
高等科二組 長郷庵
三年生二組 校内での教室移動
六月一日 飛行場予定地で起工式を行い、村長が出席。
六月三日 夜緊急常会長会を開催し、「国民学校を宿舎にするので、蚊帳・釜等借りたいから協力をお願いする」と連絡。
六月四日 空第五百七十一部隊先発隊が来村し、学校内を見てまわり、下のように決定。
講堂と八教室を宿舎と医務室。
理科室を炊事場
倉庫を物資収納庫
授産場を本部と隊長室
駐在所を主計室と下士官集会場(当時巡査は単身赴任で役場二階へ移る)
裁縫室を将校集会場。
役場の倉庫の一部に仮営倉。
八坂神社の神事場を物干場。
六月五日 役場職員と兵隊が手分けして、釜・炊事用具・蚊帳の借入のため村内巡回。
郡町村長会で依頼した蚊帳が、周辺の八か村から次のように届いた。
美合村 4  造田村 12  長炭村 4  宇多津町 4  坂本村  4  羽床上村  4  川津村 4 法勲寺村 蚊帳 18  釜10 炊事用生屯 1 庖丁5 杓子1 その他の用具は学校のものを使用する。

風呂は村内の大工を雇って、ドラムカン五ケを大足川の土手(牛のつめきり場)にすえ、蓋や流しなどを作った。兵士達はこれを「列車風呂」と呼んでいた。上法岡の池へ水浴に行くことを交渉して決める。風呂が出来るまで、西の山・中の坪の家庭の風呂を利用した。ドラムカンの風呂沸しは、学校の上学年の児童が奉仕する日もあった。
水は逆川の水を利用した。飲料水は学校の井戸水では足らないので、西の山の新居久市(現恵)宅から、管を引いて補給した。
将校用宿舎は村内で、吉馴秀雄(現秀則)宅外四戸間借する。
午后になって、軍隊用物資がトラックで、運ばれて来た。
六月六日 松木場隊五百人が来村し、各々宿舎についた。
松木場隊長が学校内で挨拶の時、当時青年学校の教練教師をしていた川井の吉本晴一と逢い、吉本が初年兵の時の教官であった隊長と十年振りの出会となり、それが縁で村長と協議の上、隊の物資(炊事用)購入の交渉係として雇うこととなり、兵二人とその任にあたった。
下士官以下は、特別幹部候補生と志願兵が多く、九州出身者が大半であった。
翌日の六月七日から兵は飛行場へ作業に行く。朝食後に運動場に集り、軍歌を歌いながら持ち場に行進していった。戦時下とはいえ静かな農村が急に軍人の村と化していった。朝は起床ラッパに起こされ、軍靴の音高く軍歌の声を朝夕に聞き、村人達は遥か戦場の父を、夫を我が子を偲び、涙あらたなものがあったと思われる。
暑さの中一日の重労働に空腹を我慢して(飯盒八分目位入ったのが二人分の昼食)の毎日で、日を重ねるにつれて元気がなく足も重かったようであった。
六月十六日 隊と役場合同で、餅揚きをして二個づつ渡す。
  十七日 将校達幹部を招き、村会議員と役場職員で歓迎会を開き、日頃の労をねぎらった。
二十三日 一宮村青年団が慰間に見え、講堂で演劇・歌を発表し隊から飛入りもあって、賑かな夕であった。
七月十八日 松木場隊長司令部付となり、松山市へ転属、
 二十三日 宇佐見隊長着任したが、二十九日兵ともに屋島へ転属した。
  三十日 松原隊となり、高知部隊から召集兵と思われる年輩の者ばかりが来村した。
隊はかわっても、連日の作業は変りなく続き終戦の日を迎えた。飛行場の完成も見ず、行くべき道も見当らず、ただ果然としながら、校舎の整備を終えて故郷へ帰って行った。転属した兵達も、今一度学校へと立寄り、「一言も兵を責め給はぬに生きて帰る不甲斐なさよ」と語って、父母のいる九州へ帰っていった。

当時、坂本国民学校(現飯山北小学校)の3年生だった鶴岡俊彦氏(後の食糧庁長官)は、後に次のように回想しています。

学校の運動場はいも畑に変わり、狭くなった。岡の宮でも松の幹に傷をつけ、傷口の下に空き缶を縛り付け松根湯を採るような時代であった。
県内勤労奉仕の生徒に学校を明け渡すため、私たちは村内の神社やお寺に分散して授業を受ける事とされた。三年生の私は久米氏の八幡様が教室で、机や椅子を運んだ。山の谷から高柳に通じる道路の北側から飯野山の麓まで滑走路となり、私の家を含め、近所の家十三軒が壊される事となった。レールが敷かれ、トロッコで砂利が運び込まれ、整地が進んだ。資材にするために飯野山の松が切り取られたが、今もその跡が鉢巻き状に残っている。
夏になり、順番に家の取り壊しが行われた。私の家の取り壊しは最後で、八月十四日、十五日、正に終戦の日であった。近所の人や父が勤めていた栗熊学校(現栗熊小学校)の高等科の生徒が、大八車を引いて手伝いに来てくれた。終戦の玉音放送は、作業中で誰も聞くことができなかった。壊した木材を岡の宮の東側の引っ越し予定地へ運んだ帰り道、生徒たちから聞いて戦争が終わり負けたらしいことが判った。
 当時の私の目に大人びて見えた生徒達が口々に「放送はおかしい、負けるはずがない」「俺たちが居る。降参はしない」と声高に話すのが頼もしく見えた。午後二時頃、負けたことがはっきりした。取り壊し途中の我が家は一階部分の骨組みを残していたが、台風の心配もあり全部壊した。滑走路造りはその日で終わった。

ここからは飛行場内の最後の家屋取り壊しが終戦の8月15日であったことが分かります。そうしてみると空港は、まだ更地化が終了していない部分もあって、完成までにはほど遠かったことがうかがえます。

  軍は、この時期に各県毎いくつもの飛行場建設を命じています。
香川県で有名なのは林田飛行場(旧高松空港)や詫間海軍航空隊ですが、ほかにも端岡飛行場や屋島飛行場、観音寺柞田(くにた)飛行場が同時に建設されていました。

柞田飛行場
柞田飛行場(観音寺市)の絵本
「本土防衛・制空権奪還」というかけ声は勇ましいものがあります。しかし、飛行機も燃料も、飛行機を造る資材もないのに、軍部はどうして飛行場建設を命じたのでしょうか。軍部には「打ちてし止まぬ・一億総層玉砕」しかありません。そのためにも、空爆で都市が焼け野原になろうとも戦い抜く国民の戦意維持が必要でした。
 「小人閑居して不善を為す」という言葉があります。軍部からすると一方的に空爆を受けたままで放置していたのでは、国民の戦意は消失する。米軍は、都市爆撃によって国民の戦意を失わせ、日本国内での戦争反対運動が起きるのを期待している。それを防ぐためには、戦意維持のために、なんらかの行動を起こさなければならない。今できることは何か? と考えた場合に、できるこては限られています。原材料が届かない戦略的工場はすでに操業停止状態です。また「戦略工場」には女子学徒たちが動員されていました。そんななかで考え出されたのが、未だ動員していない地方の中学生達を動員しての「本土防衛に備えての飛行場建設」だったようです。戦略的に考え出されたものではないのです。「戦意を失わせないために、モニュメント建設(飛行場)に動員しての戦意維持」という「いきあたりばったり戦略」が飛行場建設であり、そこへの旧制中学たちの動員だったと研究者は指摘します。以上をまとめておきます
①終戦直後に、飯野山南麓に軍部の命令で突如、飛行場建設が始まったこと
②そのために地元の人達の家が壊され、農地が接収されたこと
③そこに軍人達がやってきて小学校に寝泊まりし、多くの中学生が動員されたこと、
④それを地元の人達が支えたこと、
⑤しかし、飛行場建設は未完のままで、一機の飛行機も飛び立つことはなかったこと
⑥当時の日本には、飛行場が出来ても飛ばせる飛行機も、燃料も、パイロットもいなかったこと
⑦空港建設は戦意を維持するための、モニュメント建設でもあり、戦術的な意味はなかったこと
⑧戦後の食料増産運動の中で、飛行場は農地に戻され、撤去された農地も早期に復元したこと
⑨飛行場が現れたのは、昭和20年のわずかばかりの期間の「幻の飛行場」であったこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

法勲寺跡 讃岐国名勝図会
飯野山と讃留霊王神社・法勲寺跡(讃岐国名勝図会) 
神櫛王(讃留霊王)伝説の中には、讃岐の古代綾氏の大束川流域への勢力拡大の痕跡が隠されているのではないかという視点で何度か取り上げてきました。その文脈の中で、飯山町の法勲寺は「綾氏の氏寺」としてきました。果たして、そう言えるのかどうか、法勲寺について見ておくことにします。なお法勲寺の発掘調査は行われていません。今のところ「法勲寺村史(昭和31年)」よりも詳しい資料はないようです。テキストは「飯山町史 155P」です。

飯山町誌 (香川県)(飯山町誌編さん委員会編 ) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

ここには、法勲寺周辺の条里制について次のように記されています。
① 寺跡の規模は一町四方が想定するも、未発掘のため根拠は不明
② 寺域の主軸線は真北方向、その根拠は寺域内や周辺の田畑の方角が真北を向くものが多いため
③ 寺域東側には真北から西に30度振れた条里地割りがあるので、寺院建立後に、条里制が施行された
法勲寺条里制
法勲寺(丸亀市飯山町)周辺の条里制復元
②③については、30度傾いた条里制遺構の中に法勲寺跡周辺は、入っていないことが分かります。これは、7世紀末の丸亀平野の条里制開始よりも早い時期に、法勲寺建立が始まっていたとも考えられます。しかし、次のような異論もあります。

「西の讃留霊王神社が鎮座する低丘陵は真北方向に延びていて、条里制施行期には農地にはならなかった。そのため条里地割区に入らず、その後の後世に開墾された。そのため自然地形そのままの真北方向の地割りができた。

近年になって丸亀平野の条里制は、古代に一気に進められたものではなく、中世までの長い時間をかけて整備されていったものであると研究者は考えています。どちらにしても、城山の古代山城・南海道・条里制施行・郡衙・法勲寺は7世紀末の同時期に出現した物といえるようです。

法勲寺の伽藍配置は、どうなっていたのでしょうか? 

法勲寺跡の復元想像図(昭和32年発行「法勲寺村史」)
最初に押さえておきたいのは、これは「想像図」であることです。
法勲寺は発掘調査が行われていないので、詳しいことは分からないというのが研究者の立場です。
法勲寺の伽藍推定図を見ておきましょう。
法勲寺跡
古代法勲寺跡 伽藍推定図(飯山町史754P)
まず五重塔跡について見ていくことにします。
 寛政の順道帳に「塔本」と記されている所が明治20年(1887)に開墾されました。その時に、雑草に覆われた土の下に炭に埋もれて、礎石が方四間(一辺約750㎝)の正方形に築かれていたのが出てきました。この時に、礎石は割られて、多くは原川常楽寺西の川岸の築造に石材として使われたと伝えられます。また、この時に中心部から一坪(約3,3㎡)の桃を逆さにした巨大な石がでてきました。これが、五重塔の「心礎」とされています。
DSC00396法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎(復元)
上部中央には、直径三尺二寸(約96㎝)、深さ三寸(約9㎝)の皿形が掘られています。この「心礎」も、石材として使うために割られたようです。その四分の一の一部が法勲寺の庭に保存されていました。それを復元したのがこの「心礎」になるようです。
 金堂の跡
 五重塔跡の真東に、経堂・鐘堂とかの跡と呼ばれる2つの塚が大正十年(1921)ごろまではあったようです。これが金堂の跡とされています。しかし、ここには礎石は残っていません。しかし、この東側の逆川に大きな礎石が川床や岸から発見されています。どうやら近世に、逆川の護岸や修理に使われたようです。
講堂跡は、現在の法勲寺薬師堂がある所とされます。
薬師堂周辺には礎石がごろごろとしています。特に薬師堂裏には大きな楠が映えています。この木は、瓦などをうず高くつまれた中から生え出たものですが、その根に囲まれた礎石が一つあります。これは、「創建当時の位置に残された唯一の礎石」と飯山町史は記します。

現存する礎石について、飯山町史は次のように整理しています。
現法勲寺境内に保存されているもの
DSC00406法勲寺礎石
①・薬師堂裏の楠木の根に包まれた礎石1個

DSC00407法勲寺
②・法勲寺薬師堂の礎石4個 + 石之塔碑の台石 +
   ・供養塔の台石
DSC00408法勲寺礎石
③現法勲寺本堂南の沓脱石
  
④前庭 二個
⑤手水鉢に活用
⑥南庭 一個
⑦裏庭 一個
他に移動し活用されているもの
飯山南小学校「ふるさとの庭」 二個
讃留霊王神社 御旅所
讃留霊王神社 地神社の台石・前石
原川十王堂 手水鉢
原川墓地の輿置場
名地神社 手水鉢の台
DSC00397法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎と礎石群(讃留霊王神社 御旅所)
五重塔心礎の背後には、川から出てきた礎石が並べられています。
グーグル地図には、ここが「古代法勲寺跡」とされていますが、誤りです。ここにあるものは、運ばれてここに並べられているものです。
 
法勲寺瓦一覧
              
 飯山町史は、法勲寺の古瓦を次のように紹介しています。
①瓦は白鳳時代から室町時代のものまで各種ある。
②軒丸瓦は八種類、軒平瓦は五種類、珍しい棟端瓦もある。
③最古のものは、素縁八葉素弁蓮華文軒丸瓦と鋸歯文縁六葉単弁蓮華文軒丸瓦で、白鳳時代のもので、県下では法勲寺以外からは出てこない特有のもの。
④ 白鳳期の瓦が出ているので、法勲寺の創建期は白鳳期
⑤特異な瓦としては、平安時代の素縁唐草文帯八葉複弁蓮華文軒丸瓦。この棟端瓦は、格子の各方形の中に圈円を配し、その中央に細い隆線で車軸風に八葉蓮華文を描いた珍しいもの。


①からは、室町時代まで瓦改修がおこなわれていたことが分かります。室町時代までは、法勲寺は保護者の支援を受けて存続していたようです。その保護者が綾氏の後継「讃岐藤原氏」であったとしておきます。 
 法勲寺蓮花文棟端飾瓦
法勲寺 蓮花文棟端飾瓦

私が古代法勲寺の瓦の中で気になるのは、「蓮花文棟端飾瓦」です。この現存部は縦8㎝、横15㎝の小さな破片でしかありません。しかし、これについて研究者は次のように指摘します。
その平坦な表面には、 一辺6㎝の正方形が設けられ、中に径五㎝の円を描き、細く先の尖った、 一見車軸のような八葉蓮花文が飾られている。もとはこのような均一文様が全体に表されていたもので全国的に珍しいものである。厚さは3㎝、右下方に丸瓦を填め込むための浅い割り込みが見える。胎土は細かく、一異面には、小さな砂粒がところどころに認められる。焼成は、やや軟質のようで、中心部に芯が残り、均質には焼けていない。色調は灰白色である.

この瓦について井上潔は、次のように紹介しています。
朝鮮の複数蓮華紋棟端飾瓦の諸例で気づくことだが統一新羅の盛期から末期へと時代が下がるにつれて、紋様面の蓮華紋は漸次小形化して簡略化される傾向をとっている。わが国の複数蓮華紋棟端瓦のうちでも香川県綾歌部、法勲寺出土例は正にこのような退化傾向を示す特殊なものである。
‥…このような特殊な棟端飾瓦が存した背景に、当地方における新羅系渡来者や、その後裔の活躍によってもたらされた統一新羅文化の彩響が考えられるのである。この小さな破片から復元をこころみたのが上の図である。総高25㎝、横幅32㎝を測り、八葉細弁蓮花文を17個配列し、上辺はゆるいカープを描いた横長形の棟端飾瓦になる。
古代法勲寺の瓦には、統一新羅の文化の影響が見られると研究者は指摘します。新羅系の瓦技術者たちがやってきていたことを押さえておきます。法勲寺建立については、古代文献に何も書かれていないんで、これ以上のことは分からないようです。
 
讃留霊王(神櫛王)の悪魚伝説の中には、退治後に悪魚の怨念がしきりに里人を苦しめたので、天平年間に行基が福江に魚の御堂を建て、後に法勲寺としたとあります。

悪魚退治伝説 坂出
坂出福江の魚の御堂(現坂出高校校内)
 その後、延暦13年(793)に、坂出の福江から空海が讃留霊王の墓地のある現在地に移し、法勲寺の再興に力を尽くしたとされます。ここには古代法勲寺のはじまりは、坂出福江に建立された魚の御堂が、空海によって現在地に移されたと伝えられています。しかし、先ほど見たように法勲寺跡からは白鳳時代(645頃~710頃)の古瓦が出てきています。ここからは法勲寺建立は、行基や空海よりも古く、白鳳時代には姿を見せていたことになります。また讃留霊王の悪魚退治伝説は、日本書紀などの古代書物には登場しません。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)
 讃留霊王伝説が登場するのは、中世の綾氏系図の巻頭に書かれた「綾氏顕彰」のための物語であることは以前にお話ししました。
悪魚退治伝説背景

つまり、綾氏が中世武士団の統領として一族の誇りと団結心を高まるために書かれたのが讃留霊王伝説だと研究者は考えています。そして、それを書いたのが法勲寺を継承する島田寺の僧侶なのです。南北朝時代の「綾氏系図」には法勲寺の名が見えることから、綾氏の氏寺と研究者は考えています。
 しかし、古代に鵜足郡に綾氏が居住した史料はありません。また綾氏系図も中世になって書かれたものなので、法勲寺が綾氏が建立したとは言い切れないようです。そんな中で、綾川流域の阿野郡を基盤とする綾氏が、坂出福江を拠点に大束川流域に勢力を伸ばしてきたという仮説を、研究者の中には考えている人達がいます。それらの仮説は以前にも紹介した通りです。

最後に白鳳時代の法勲寺周辺を見ておきましょう。
  飯山高校の西側のバイパス工事の際に発掘された丸亀市飯山町「岸の上遺跡」からは、次のようなものが出てきました。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。鵜足郡郡衙跡と考えられる。

 8世紀初頭の法勲寺周辺(復元想像図)
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。「正倉が並んでいたら郡衙と思え」というのが研究者の合い言葉のようです。鵜足郡の郡衙の可能性が高まります。

白鳳時代の法勲寺周辺を描いた想像復元図を見ておきましょう。
岸の上遺跡 イラスト

①額坂から伸びてきた南海道が飯野山の南から、那珂郡の郡家を経て、多度郡善通寺に向けて一直線に引かれている
②南海道を基準線にして条里制が整備
③南海道周辺に地元郡司(綾氏?)は、郡衙と居宅設営
④郡司(綾氏)は、氏寺である古代寺院である法勲寺建立
⑤当時の土器川は、現在の本流以外に大束川方面に流れ込む支流もあり、河川流域の条里制整備は中世まで持ち越される。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
南海道と多度郡郡衙・善通寺の位置関係
以上からは、8世紀初頭の丸亀平野には東西に一直線に南海道が整備され、鵜足・那珂・多度の各郡司が郡衙や居宅・氏寺を整備していたと研究者は考えています。このような光景は、律令制の整備とともに出現したものです。しかし、律令制は百年もしないうちに行き詰まってしまいます。郡司の役割は機能低下して、地方豪族にとって実入の少ない、魅力のないポストになります。郡司達は、多度郡の佐伯氏のように郡司の地位を捨て、改姓して平安京に出て行き中央貴族となる道を選ぶ一族も出てきます。そのため郡衙は衰退していきます。郡衙が活発に地方政治の拠点として機能していたのは、百年余りであったことは以前にお話ししました。

 一方、在庁官人として勢力を高め、それを背景に武士団に成長して行く一族も現れます。それが綾氏から中世武士団へ成長・脱皮していく讃岐藤原氏です。讃岐藤原氏の初期の統領は、大束川から綾川を遡った羽床を勢力とした羽床氏で、初期には大束川流域に一族が拡がっていました。その中世の讃岐藤原氏の一族の氏寺が古代法勲寺から成長した島田寺のようです。

讃岐藤原氏分布図

 こうして讃岐藤原氏の氏寺である島田寺は、讃留霊王(神櫛王)伝説の流布拠点となっていきます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       飯山町史 155P





岸の上遺跡 写真とトレス

岸の上遺跡からは南海道跡が出てきたと云われます。それがどうして南海道と分かるのでしょうか?まず南海道跡される遺跡を見てみましょう。
飯山岸の上遺跡グーグル
岸の上遺跡周辺 手書きの青い斜線部が旧土器川河道跡

飯野山南側には、坂出からの国道バイパスが南に伸びています。飯山高校の西側のバイパス交差点あたりは土器川旧河道の段丘崖で周囲より1mほど微髙地になっています。このエリアの発掘調査で出てきたのが「岸野の上」遺跡です。この遺跡からは大きな発見が2つありました。
A 南海道の道路側溝と考えられる溝群(溝6・溝7・溝8・溝9・溝10・小ピット群)が出てきた。
岸の上遺跡 南海道拡大図

①の推定南海道の両側に溝が掘られていました。これが市道の南側(溝9・溝8)と北側(溝6・7)に当たります。北側と南側の溝の幅は約10m近くあります。そして、溝には次のような特徴があるようです。
①溝底(溝9・溝10)に凹凸があり、水が流れた形跡がないの灌漑用水ではない。
②地表面の起伏を無視し、直線的に並んでいる
③小ピット群は、道本体の土留めのための杭列か?
溝底に凹凸があり、水も流れていないので灌漑水路ではないようです。道路側溝としての性格が高いようです。古代の官道は、幅が約9~10mほどで直線的にまっすぐと作られていることが分かっています。
   下の「古代道路の工法」を見ると路面の両側に溝を掘って側溝としていました。ここから出てきた溝が、側溝にあたるようです。

岸の上遺跡 南海道側溝

  幅10mの大道跡の出現だけで、南海道と決められるのでしょうか?
  古代官道をとりまく発見の歴史を少し振り返ってみます
古代の官道については、江戸時代の五街道でも2間程度の道幅だったのだから、古代駅路の道幅はせいぜ い2mもあれば, 駅馬が通るに事足りていたというのが半世紀ほど前の考えでした。畿内から下ツ道の23m75や難波大道の19m76などが現れても、それは畿内の大道だからで、地方の官道はそんなに大規模な物ではないとされていました。そのような中で、丸亀平野を通っていた南海道も、額坂から鳥坂峠を越えていく近世の伊予街道が考えられていました。
 しかし、1970年代になると道幅10mで直線的に続く古代官道跡の発見が各地から報告されるようになります。それは、航空地図や大縮尺の国土地理院の地形図を読み込むことから発見されることもありました。さらに、条里制痕跡からも古代の官道の存在が浮かび上がってくるようになります。
東藝術倶楽部瓦版 20190508:官道から参詣道へ-「大和の古道」 - 東藝術倶楽部ブログ
 
 まず平城京から伸びる下ツ道と横大路に沿って,1町(約109m)方 格の条里地割の中に一部分だけ幅が異なる部分があることが指摘されました。つまり幅約45m(15丈)分大きいのです。なぜ、そこだけ幅が広いのか、つまり余剰分があるのかという疑問に対して、ここに道路が通っていたからだという仮説がだされます。つまり、道路敷面が45m分あったが、その後の歴史の中で道路部分は水田などに取り込まれて、45mの大道は姿を消し、幅の広い条里として残ったと研究者は考えたのです。
図6の条里余剰帯の模式図で、確認してみましょう。
岸の上遺跡 条里余剰帯

これは、約109mの条里地割が分布しているエリアの例です。
その中に縦の長さだけが124mになる地割列(上から2段目の列)があります。この場合、余剰帯の幅15mと、現在の道幅6mを合わせた、21mの帯状の土地が、かつての官道敷地だったということになります。

これが現在、古代道路検出法の一つとして「条里余剰帯」と呼ばれている手法の誕生だったようです。そして、研究が進められるにつれて条里制工事の手順は、次のように進められたことが分かってきました。
①目標物に向かって真っ直ぐな道の計画線が引かれる。これが基準線となり官道工事が始まる。
②官道は基準線でもあり、これに直角に条里制ラインが引かれた。
③官道は、国境や郡境・郷境ラインとしても用いられた。
④南海道の道幅は約9~10mで、両端に側溝が掘られた
つまり、中央政府からやってきた高級官僚達が官道ラインを引き、その設計図に基づいて郡司に任命された地元有力豪族が工事に取りかかります。讃岐の場合だと、基準線となる南海道が完成すると、直角に条里制工事が進められていきます。つまり、南海道は条里制工事のスタートを示す基準線でもあったし、実際の工事もこの道沿いから始められたようです。
中央の官道についても、次のような役割も分かってきました
①藤原京や平城京のエリアも、計画道路が先に測量され、それを基準に設定されたこと,
②摂津・河内・和泉の国境ラインの一部は、直線的に通る官道によって形成されていたこと
つまり、畿内においては直線道路が古代的地域 計画の基準線となっていたのです。
丸亀平野の条里制 地形図

  条里余剰帯を、丸亀平野で見てみるとどうなるのでしょうか。
丸亀平野の条里地割の中にも南北が10m程度広い「余剰部分」が帯状に見られるところがあるようです。金田章裕氏は、その条里余剰帯を歴史地理学的に検討して、推定南海道を次のように想定していました。
①鵜足郡六里・七里境、
②那珂郡十三里・十四里境、
③多度郡六里・七里境
 讃岐富士の南側から郡家の8条池・宝幢寺池の南を通過して直進的に西進し、善通寺市香色山の南麓にいたると云うのです。香色山南麓に達した南海道は、大日峠を越えて三野郡・刈田郡へと続いていくことになります。
 これはあくまで、想定でした。しかし、推定南海道とされる③多度郡六里・七里境上に、7世紀後半から8世紀に掘られた溝が発掘されたのです。これは四国学院大学の図書館建設に伴う発掘調査からでした。
岸の上遺跡 四国学院側溝跡
四国学院遺跡の東西に伸びる溝
条里型地割の中の平行・直交する2本の溝は坪界溝とほぼ合致することが分かりました。すなわち、東西方向の溝1が里境の溝だったのです。また溝1が、単なる坪界溝ではなく多度郡六里と七里の里境であること、さらにこれに沿って設定された古代南海道の可能性が高くなったのです。そこで、この溝を条里制地図の中に落とし込んでみると次のようになりました。
四国学院側 条里6条と7条ライン

ここで注意しておきたいのは、多度郡郡衙跡とされる生野本町遺跡がすぐ南にあることです。南海道が出来るとその周辺部に、郡衙がつくられたことがうかがえます。さらに、推察するとその郡長が佐伯氏であったすれば、この周辺に佐伯氏の館もあったと研究者は考えているようです。 

この四国学院の中を通る推定南海道ラインを、東に辿っていくとどうなるのでしょうか。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
四国学院のキャンパスの中を抜けて、善通寺一高のグランドを抜けて東に進んでいきます。さらにグーグル地図で見てみましょう。

岸の上遺跡と四国学院遺跡を結ぶ南海道
 
 四国学院から金倉川を越えて条里制ライン沿いに東に進むと、宝幢寺池と八条池の南を通過して、土器川に出ます。そして、右岸から東を進むとその道は飯山高校北側の市道に通じます。
岸の上遺跡 南海道の側溝跡
上の写真の道は、岸の上遺跡を通過していた南海道の現在の姿です。
市道の南側(左)に、発掘で出てきた側溝が見えます。その向こうに見えるのが下坂神社の鎮守の森、そしてはるかに善通寺の五岳の山脈が見える。そこを目指して南海道がまっすぐに続いていたことが分かります。四国学院の古道の側溝跡と岸の上遺跡の側溝、は一直線につながるということになります。これは、いままで「想定南海道」と呼ばれていたものから「想定」の2文字がとれることを意味すると私は考えています。ちなみに四国学院遺跡と岸の上遺跡の直線距離は7,4㎞です。
丸亀平野の南海道と郡衙・古代寺院・有力者の関係を見てみると次のようになります。
     郡衙候補     古代寺院    郡司候補
①鵜足郡 岸の上遺跡   法勲寺廃寺    綾氏?
②那珂郡 郡家(?)   宝幢寺池廃寺   
③多度郡 生野本町遺跡  仲村廃寺・善通寺 佐伯氏

南海道沿いに郡衙と想定できる遺跡や廃寺跡があり、郡司と考えられる有力者がいたことがうかがえます。そして、南海道の建設や、その後の条里制工事はこれらの郡司などの有力者の手によって進められていったようです。
①③からして、②の那珂郡の郡衙跡も南海道の直ぐ近くにあったことが考えられます。全国の例を見ても、最初は官道から遠くても建て直される場合には官道近くに移動して建てられている例があるようです。宝幢寺廃寺と同じように、今は池の下になっているのかもしれませんが・・・・
丸亀平野と溜池

  以上をまとめておきます。
①岸の上遺跡からは、幅10m近い大道跡と道路側溝が出てきた。
②これは歴史地理学者が指摘していた条里制の鵜足郡六里・七里境にあたる。
③この大道跡を西にまっすぐに伸ばすと善通寺の四国学院のキャンパス内から出てきた側溝跡と一直線につながる
④以上から「鵜足郡六里・七里境、那珂郡十三里・十四里境、多度郡六里・七里境」上を南海道が通過していたという仮説が考古学的に実証されたことになる。
⑤四国学院と岸の上遺跡の側溝溝は、7世紀後半から8世紀初頭にできたものとされるので、基準線測量が行われ、南海道の工事が行われたのは藤原・奈良時代にあたる。
⑥この南海道に直角や平行にラインが引かれ、条里制工事は進められていくことになる。
⑦その工事を主導したのは郡司たちで、地域の有力者であった。
⑧彼らは郡司として南海道沿いに郡衙や氏寺である古代寺院を建設することによって、かつての前方後円墳に替わるモニュメントとした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
岸の上遺跡調査報告書
四国学院遺跡調査報告書

金倉川 土器川流路変遷図

土器川はまんのう町の長炭付近で平野に出ると扇状地を形成して、流路を西から東へと変えながら次のような河道変遷を経て、現在の流れになったようです。
①一番西側の①紫ルートで現在の金倉川や大束川の流域にも流れ込んでいた
②善通寺生野町・吉田町が堆積物で埋まってくると、与北町付近で、右岸に流路を変えて②橙コースになった
③さらにまんのう町祓川橋付近から東に流路を変えて、法勲寺から大束川に流れ込んで④の緑ルートになった。
④さらに長炭橋から東へ入り込み、長尾・打越を経て岡田方面から大束川に流れ込む④の緑点線ルートの時代もあった
岸の上遺跡 土器川流路⑤

確かに衛星写真を見るとまんのう町の吉野付近から打越池を経て、大窪池にかけては、U字状の谷が見えます。これが流路④の緑点線河道になるという根拠のようです。そうだとすれば大窪池は、まさにその窪みの谷に作られたため池になります。
 地形図に丸亀平野の扇状地を落としてみても、旧河道が何本か浮かび上がってくるようです。

岸の上遺跡 土器川扇状地
④が岸の上遺跡 ①が善通寺 ②が郡家の宝幢寺池

丸亀平野の大部分は扇状地で、それは土器川が西から東へと河道を変えていく中で生まれてきたようです。最初に聞いたときには、信じられずに半信半疑で聞いていました。しかし、考古学的な発掘が進み実際に調査が行われ、その「土地の履歴書」が示されるようになると信じないわけにはいかなくなります。今まで疑いの目で見ていたものが、別のものに見えてくるようになりました。
  例えば生駒時代の中西讃の絵図を見てみましょう。
生駒時代絵図 土器川流路

①古城とあるのが廃城となった丸亀城
②その西側に善通寺の奥から流れ出してきているのが金倉川のようです。
③問題は古城と白峰寺の間の入江に流れ出している川です。
西側の支流は長尾から流域が描かれています。
これは、土器川なのでしょうか、それとも大束川なのでしょうか。
一方東側の支流は、滝宮神社(牛頭神社)付近から流路が描かれています。これは綾川のようです。土器川と綾川が合流して林田港へ流れ込んでいることになります。
 この絵図をみても、近世以前の河川の流れは、私たちの想像を超えていることがうかがえます。これを見たときも、讃岐のことを知らない生駒藩の侍たちの地理的な情報・知識不足と、鼻で笑っていました。しかし、先ほどの土器川の流路変遷図を見ると、笑ってはいられなくなります。実際に、土器川は大束川に流れ込み、さらに綾川と合流していた可能性もあるようです。
 岸の上遺跡 イラスト
  それでは本題の丸亀市飯山町の岸の上遺跡を見てみましょう。
ここからは大きな発見がいくつもありました。その中でも大きな意味を持つのは次の2つです。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。
岸の上遺跡 正倉群
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。これは郡衙以外の何者でもありません。鵜足郡の郡衙発見ということだと私は理解しているのですが、研究者達はあくまで慎重で、「鵜足郡の郡衙と南海道発見!」などというコピーは、報告会では出なかったようです。
 もうひとつ、この遺跡の報告書で驚いたのが、下の地形復元図です
飯山岸の上遺跡地形復元

①が岸の上遺跡です。バイパス工事のための調査ですから道路上に細長い区画になります。
②位置は、飯山高校に西側の交差点周辺です。
③北側には目の前に甘南備山の飯野山が鎮座します。
④西側には下坂神社があり、鎮守の森の中には今も湧水が湧きだしています。
そして、地図上の水色の部分が土器川の支流だというのです。一本の流れとはならずに、何本もの網の目状になってながれていたことが分かります。
飯山岸の上遺跡グーグル

確かにグーグル地図をよく見てみると、飯山高校周辺を旧河道が網の目のように流れていたことが分かります。この河道によって堆積した中州状の微高地上に、丸亀平野の古代のムラは成立していきます。

飯山居館跡

以前に、この北の飯野山の麓で河道跡に囲まれた中世武士の居館跡を紹介したことがあります。その河道も土器川の氾濫河道になるようです。
飯山国持居館3グーグル地図

  旧土器川が現在の河川になったのは、いつからなのでしょうか?
最初に見た生駒藩の絵図には、土器川は大束川と一緒に描かれていました。近世はじめまでは、飯野山の南側の流路は、このような編み目状だったようです。それではいつ変えられたのでしょうか。そこにはやはり西嶋八兵衛の影があるようです。
西嶋八兵衛60x1053

 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。高虎は、この時に側近の西嶋八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
それは、藤堂藩と生駒藩の密接な関係にあったようです。このことについては以前にもお話ししましたので省略します。
 自然災害に苦しむ生駒藩のために、八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。満濃池の再築に伴い、四条川を消し、金倉川を作りだしたことも以前にお話しした通りです。そして、土器川の流路変更も西嶋八兵衛によって行われたというのですが、その根拠になる資料を私は見たことはありません。
大束川旧流路
飯山町付近の土地利用図 旧土器川の流路跡が幾筋も見える

 西嶋八兵衛によるものかどうかは別にして、飯山高校の北側には、平安時代以降に激しく流れていた東西方向の旧河道が残っています。そして「北岸」「南岸」「岸の上」という字名もあります。この旧河道は度々氾濫を起こしていて、発掘エリアからも、氾濫で堆積したと砂層がでてきているようです。その遺物から7世紀の中頃と12 世紀頃に大きな洪水が起き、遺跡が土砂に埋まったことが分かるようです。この河岸丘に建物が建ち始めるのは7世紀中頃からで、南海道が伸びてくるのは8世紀初頭頃からになるようです。 次回は、この前の道がなぜ南海道と言えるのかを探ってみようと思います
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

その後、1995年の川津二代取遺跡の調査報告書の中に、大束川流域の地形復元を行った資料を見つけました。ここには丸亀平野の土器川扇状地の詳細等高線が示されています。ここからは土器川が金倉川や大束川へ流れ込んでいた痕跡がうかがえます。

土器川 流路等高線

さらに、次のような旧河道跡も1995年の時点で指摘されていたようです。
土器川 旧河道(大束川)

ここからは現土器川から東に向かって流れ込む流路や、飯野山にぶつかってから流路を東に取る流路がはっきりと示されています。また、②の大窪池から流れ込んだ時期もあったことが分かります。 
 つまり現場の考古学の研究者は20年前から土器川が流路を替えていたこと、それが弥生や古墳時代以後のことであったことを理解していたようです。知らぬは素人ばかりということのようです。
それでは、いつまで土器川は大束川方面に流れ込んでいたのでしょうか。言い方を変えると現在の流れになったのはいつのことなのでしょうか。それは又の機会に
参考文献

  
丸亀平野の条里制 地形図
 丸亀市飯山町の法軍寺には、中世以来の地名が残っています。
そんな地名を追いかけて見ると何が見えてくるのでしょうか。
地図を片手に、法勲寺を歴史散歩してみます。まずは法勲寺の位置を確認しておきます. 
飯山法勲寺開発1地図

 法勲寺荘は土器川の東岸、飯野山の南側で鵜足郡に属し、古代の法勲寺を中心に早くから開けた地域です。エリアの東側を大束川が北流し、飯野山の東を通って川津方面に流れていきます。今は小さな川ですが、古代においてはこの川沿いに開発が進められたと研究者は考えているようです。古代地名を復元した飯山町史の地図がテキストです。
飯山法勲寺古地名全体
この地図を見て分かることは
①大束川流域の上法勲寺は条里制地割が全域に残り、古代から開発が進んだ地域であること
②西部の東小川は、土器川の氾濫原で条里制地割が一部にしか見えない
③また大窪池の谷筋や丘陵地帯も条里制地割は見えないこと
土器川の右岸は、氾濫原で条里制地割は見えません。古代の開発が行われなかった「未開発地域」だったようです。そこへ中世になると開発の手が伸びていくようになります。地図を見ると、太郎丸・黒正・末広・安家・真定や、東小川の森国・国三郎など、中世の人名だった地名が見られます。これらは、名田を開発したり、経営した名主の名前が付けられたものと思われます。

大束川旧流路
国土地理院の土地利用図です。中世には土器川は大束川に流れ込んでいたことが分かります。
東小川の各エリアを拡大して見ていきます。  まず中方橋のあたりです。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg


新名という地名は、もとからあった名田に対して、新しく開発された所をさします。地図に見える東小川の新名出水は、土器川からわき出す出水があったのでしょう。これを利用して中世になって、それまで水田化されていなかった氾濫原の開発に乗り出した名主たちがいたようです。その新名開発の水源となったので「新名出水」なのでしょう。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げると
「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」

が見えます。新名出水から用水路で誘水し、いままで水が来なかった地域を水田化したことが推察できます。新田の開発技術、特に治水・潅漑にかかわる土木技術をもった勢力の「入植・開発」がうかがえます。
飯山法勲寺古地名2jpg

 さきほどの中方橋のさら北側のエリアになります。ここには
「明光寺又・円明院出水・首なし出水・弘憲寺又・障子又」
などの古地名が見えます。
「出水」は分かりますが「又」とは何でしょうか?
「又」は用水の分岐点です。出水や用水分岐点は、水をめぐる水争いの場所にもなる所で、重要戦略ポイントでした。そんな所は、竜神信仰の聖地としたり、堂や庵などを建立して水番をするなど、農業経営維持のためのしくみが作られていきます。ここにも「堂の元(下)」という地名がみえますからお堂が用水管理のための施設として建立され、時には寝ずの番がここで行われたのかもしれません。こんなお堂がお寺に成長していくことも多かったようです。

 東小川の「障子又」は、「荘司」に由来するようです。
この付近に荘園の管理者、つまり実質的な荘園支配者であった荘司の屋敷か、彼の直接経営する名田があったのでしょう。居館のそばにお堂があったのかもしれません。それが、阿波安楽寺からの伝道者の「道場」となり、農民たちに一向信者が増えると真宗寺院に成長していくというのが丸亀平野でよく見られるパターンのようです。

 土器川東岸の東小川が開発されたのは、いつ、誰によってなのでしょうか?
 飯山町史は鎌倉後期のこと考えているようです。そして、開発の先頭を切ったのは、地頭などとして関東から移住してきた東国の御家人やその関係者であったとします。確かに、彼らは関東を中心とした広大な湿地帯や丘陵地帯で開発を進めてきた経験と新技術を持っていました。それを生かして、自分たちの領域の周辺部の未開拓地であった氾濫原の開発を進めたというのは納得がいく説明です。
飯山法勲寺古地名大窪池pg

この地図は、東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、「ぞう堂」という地名も見えます。その背後の丘陵地帯に大窪池があ。法勲寺跡の南側に伸びていく緩やかな傾斜の谷の先です。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。相争い分立する中世の領主達に、こんな大きな池を作り出す力はありません。彼らには古代律令国家の国司のように「労働力の組織化」ができないのです。満濃池も崩壊したまま放置され、その池跡が開発されて「池内村」ができていた時代です。大窪池のある台地は、「岡田」と呼ばれますが。ここが水田化されるのは近世になってからのようです。話を元に戻します。
 今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。
ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓するしたのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。
飯山地頭一覧
  飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。全てが実際に讃岐にやって来たわけはなくて、代理人を派遣したような人もいます。例えば那珂郡の櫛無保の地頭となった島津氏は、薩摩の守護職も得ています。後に、島津藩の殿様になっていく祖先です。島津氏は、荘官を派遣して管理したようです。その居館跡が「公文」という名前で、現在も櫛無には残っています。
 法勲寺を見ると壱岐時重という名前が出てきます。
彼が法勲寺庄の地頭となったようです。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたのでしょうか? いったいどんな人物なのでしょうか?それはまた、次の機会に・・・
以上をまとめておきます。
①飯山町法勲寺周辺は、条里制地割が全域に残り古代から開発が進んだ地域である。
②それに対して東小川は、土器川の氾濫原のため開発が遅れた
③この地域の開発は、鎌倉中期以後にやってきた関東武士たちによって行われた。
④彼らは出水から用水路を開き新田を拓いた。
⑤それが「出水・又・屋敷・堂・障子」などの古地名として現在に伝わっている
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史

中学生の使っている歴史の資料集を見せてもらうと、中世の武士の居館を次のように説明しています。
飯山国持居館1
武士の居館
武士は、土地を支配するために、領内の重要な場所に、土塁・堀などに囲まれた館を造り住みました。武士が住んでいた屋敷のことを「居館」と呼んでいます。居館は堀ノ内・館・土居などとも呼ばれます。館の周囲に、田畑の灌漑用の用水を引いた方形の水堀を設け、この堀を掘った土で盛り上げた土塁で囲んだ中に、館を構えました。

 ここからは中世の武士たちが用水が引きやすい川の近くに堀を掘って、土塁を築いた居館を構えていたことを子ども達に伝えています。しかし、居館はその後、土に埋もれて忘れられたものが多いようです。そんな中で「丸亀平野の中世武士の居館捜し」を行っている論文を見つけました。その探索方法は、航空写真です。
飯野山の麓の今は忘れられた居館を見に行きましょう。
もちろん航空写真で・・  
飯野山の麓の飯山北土居遺跡
飯山国持居館2航空写真
クリックで拡大します
この写真は1962年に撮影された丸亀市飯山町西坂元付近の写真です。北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。写真中央に南から北へ北流する旧河道が見えます。その流れが飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。この南東側に、周りの条里制遺構とは形が違う小さい長方形地割がブロックのように集まって、大きな長方形を造っているのがよく見ると見えてきます。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mになります。

飯山国持居館2地図

 この長方形の北辺と東辺の北部には、縁取りのような地割が見えます。また、地割ではありませんが長方形の西南部には周囲よりも暗い色調の帯(ソイルマーク)が白く写る道路の南側と東側にあります。これは、城館の堀だと研究者は考えているようです。この堀で囲まれた長方形部分が居館になります。
 北辺はこの撮影後に道路造成で壊されたようですが、その後の水路改修工事の際には、この部分から滞水によって形成されたと考えられる茶灰色粘土質によって埋った溝状遺構がでてきたようです。水路工事は、この下部まで行かなかったので発掘調査は行われなかったようですが、中世の土器片が採集されています。ここからも細長い地割は、中世のものでかつての堀跡と考えられます。周囲に堀を巡らした中世の長方形の区画は、居館跡のようです。この遺跡は飯野山北土井遺跡と呼ばれることになったようです。
 この地域は敗戦直前に、陸軍飯山飛行場が造成されました。
昭和20年5月に国持・西沖を中心とした地に陸軍の飛行場建設が始まり、田畑借上げとともに家屋の立退きが命令されます。借上田畑の面積21町余・立退家屋16で、建設は動員により突貫工事で進められます。8月に敗戦となり、立ち退きを命じられた農家は、滑走路を元の姿に返す作業に取り組まなければなりませんでした。昭和21年に国営開拓事業飯野山地区として指定され、復旧工事は進められ昭和30年頃までには、ほぼもとの水田にかえったようです。かつて滑走路になった所は航空写真からは、その痕跡をみつけることはできません。人々の記憶からも忘れ去られていきます。土地所有者の変動などで旧地名や字名も忘れ去られてしまったようです。ちなみに、この飯山北上居遺跡の所在する小字は「土井」です。
飯山国持居館3グーグル地図

グーグルで飯野山北土井遺跡が、現在どうなっているのかを見てみましょう。
①居館跡の西側はダイキとセブンイレブンの敷地。
②居館跡の北側には町道が通っている
③居館跡の南東角をバイパスが通っている
④旧河道はいまでもはっきりと見える。
ダイキが出来る前には、発掘調査が行われたはずですから報告書がでているはずです。読んでみたくなりました。  私が興味があるのは、この旧河道です。中世城館跡は川の近くに立地し、川筋を軍事用の防衛ラインとして利用していた例が多いようです。この飯野山北土井の城館遺跡も西側と北側は、旧河道が居館を回り込むように流れていきます。川が外堀の役割を果たしているように見えます。
 もうひとつは、この川の源流がどこなのかという点です。
飯山国持居館3グーグル地図2

河道跡ははっきりしていて、グーグルで上流へと遡っていくことができます。行き着く先は、旧法勲寺跡です。ここは大束川の支流が不思議な流れをしている所です。なにか人為的な匂いを感じますが、今は資料はありません。今後の課題エリアです。
5法勲寺images (2)

ここに居館を構えていた武士団とは、何者なのでしょう?
 居館のある飯野山の南麓は、現在は西坂本と呼ばれています。ここは「和名抄」に載せられた阿野郡の8つの郷のうちのひとつ坂本郷のあったところです。

飯山国持居館5鵜足郡郷名
角川地名辞典 香川」は、西坂本について次のように記します。
土器川の右岸,飯野山(讃岐富士)の南に位置する。地名の由来は,坂本郷の西部に位置することによる。すでに「和名抄」に坂本郷とあり、昔,坂本臣がこの地を領していたのに始まるといわれている。地内の国持については、天正19年1日付の生駒近規知行宛行状に・当国宇足郡真時国持村と見えている(岩田勝兵衛所蔵文書 黄薇古簡集」
ここからは次のような事が分かります。
①坂本郷は、古代の「坂本臣」に由来するという伝来がある
②坂本郷が東西に分かれ、近世初頭の生駒藩時代には「国持村」があった。
確かに地図には「西阪本」や「国持」という地名が見えます。
さらに地名辞典には近世の項に次のようなことを記します
③江戸時代は西阪本は、「坂本西分」と呼ばれ、高柳村と国持村に分かれていた。
④神社は坂元神社ほか2社。庄屋は天保9年真鍋喜三太の名が見えるが、多くは川原村か東坂元村の兼帯であった
と記されます。地図に出てくる「国持」は名主名で、戦乱の中で武装化し「武士」になって行くものが多いようです。居館がある所と「国持」は、ぴったりと一致します。我田引水的で申し訳ありませんが、手元にある情報は、今はこれだけなので
飯山北土居遺跡に居館を置く武士団が周辺を開き、その周辺を当時の棟梁名「国持」でよばれるようになった
としておきましょう。
大束川旧流路
飯野山南の土地利用図 旧大束川の流路が記されている
 もう少し、想像を飛躍させて「物語」を創作すると、こんなストーリーになるのかもしれません。
①古代豪族の綾氏が坂出福江湊から大束川沿いに勢力を伸ばし、坂本郷へ入ってきた
②綾氏の一族は、坂本郷に開拓名主として勢力を築き、武士団化
③彼らの結束の場となったのが綾氏の氏寺法勲寺(後の島田寺)
④島田寺の真言密教の修験者は、神櫛王の「悪魚伝説」を創作し、綾氏一族のルーツとする。
⑤その綾氏一族のひとりが「国持」で、彼は飯野山南麓の旧大束川支流の屈曲点に拠点を構えた。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
 木下晴一       中世平地城館跡の分布調査 香川県丸亀平野の事例                      香川県埋蔵文化財調査センター  研究紀要3 1995
 

  

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

       

飯山町三谷寺 なぜこんなに多くの建物が建っているの

イメージ 1
三谷寺入口
初めてこの寺を訪ねたときにはいくつかの驚きがありました。
まず額坂線から鉄門に入り、仁王門から境内に至までの長さです。それは雲辺寺の徳島県側からの参道を思い出させるような道のりでした。「かつての寺域は広いぞ」と予感しました。

イメージ 2
三谷寺山門
そして階段を登り中門を抜けて境内に入ったとき、その広がりと本堂の背後のいくつかのお堂の数に驚かされました。驚きは、疑問に転化します。
なぜ、ここにこれだけの伽藍をもった寺院があるの? 
この寺院に興味を持ちだしたのはそれからです。いくつかの資料を読む中で、おぼろげながら分かりかけてきたことを私なりに書き留めておきたいと思います。テキストは「飯山町史186P 三谷寺の隆盛」です。
イメージ 3
三谷寺境内への階段
この寺は、真言宗御室派に属し、宝珠山世尊院と号し、本尊を十一面観世音菩薩としています。地元の人たちは世尊院と呼んでいるようです。
寺の歴史を知るためにはまずは定石通り、由緒書を見てみましょう。
この寺の由来は「西三谷寺縁起」として、香川叢書第一巻に次のように記されています。
イメージ 4
 
夫れ宝珠山西三谷寺に、開基行基菩薩、皇王の聖武の賜を受けて、教法を揚す。
先に王幾において四十九箇の霊区を営み、後に諸国において幾許の精舎を建つ。中就くに讃州鵜足県東坂元の郷宝珠山は、彼の師の開基する処なり。通れば天平のころ、天下庖癈疾甚だ起て、四民倶に之を愁う。翁(かたじけなく)も聖武帝宣旨を下して、当寺其の懇祈を致す。ここにより甚だ効験を得たり。これより以降八葉山施無畏寺の号、世に声(な)る。
然る後、吾が弘法大師、当寺の境内において、弥勒の宝堂を建て、四十九院を営む。是れ即ち上生経の説、四十九重微妙の宝宮。文。兜率天七宝台の摩尼殿というべきや、
 又、奥の院巌中には薬師の像を安んじ、大師作。護摩山上には不動の梵焼供を修め、宝珠巌下には無償の珍宝を埋む。これいうところの三谷の権輿にして、一山不朽の標幟深いかな。爰に以って寺を弥勒院と称す。
また、皇王が十六代四条院の国母、操璧(草壁)門院の勅願処として、鎌倉の二位の尼公楼門を修建し、梵宇を修理す。この時、弥勒院を転じて浄興院新長谷寺と号す。其の後、後宇多・後嵯峨・亀山の三帝相続いて伽藍の俎壊を補い、又、この代の間、浄興院を異にして、影向山無量寿院と改む。其れ斯の如くの名藍勝地、知らざるべからず、あおがざるべからず。
 近日、天正年中、土佐の長曽我部宮内の少輔元親、乱を企て、坊舎仏閣を臓く焼尽せしむ。比しがたし、安禄山が反逆にも過ぎたり。爾と雖も本尊の霊十一面。今に新たに、擁護の神、古より益々。冥に前の国主生駒一正公に託して、寺院不朽の米穀を寄附せしむ。惜かな、星霜年古、伽藍又亡敗す。悲しいかな、寺跡草生い、仏塔辣 に覆り。(後略)
 
意訳変換しておくと
 宝珠山西三谷寺は、聖武天皇の賜を受けて、行基菩薩が開いた寺院である。勅命によって、全国を四十九ケの霊区に分け、その後に諸国に精舎を建立した。讃州鵜足県東坂元の郷宝珠山は、この時に行基が開基した。天平のころに、庖癈(天然痘)が大流行し、四民は苦しんだ。聖武天皇は宣旨を下して、当寺に祈願を命じた。その時に大きな効能があったので、以降は八葉山施無畏寺の号は、世間に知られるようになった。
 その後、弘法大師が当寺の境内に、弥勒菩薩の宝堂を建て、四十九院の伽藍を調えた。これが上生経の説、四十九重微妙の宝宮。文。兜率天七宝台の摩尼殿と云われるものである。さらに奥の院の巌中には、大師自作の薬師如来像を安置し、護摩山上には不動の梵焼供を修め、宝珠巌下には無多くの珍宝を埋めた。このような三谷の隆盛は、一山不朽のごとく思えた。ここに至って、寺を弥勒院と称すようになった。
 また、16代四条院の国母、操璧(草壁)門院の勅願処となって、鎌倉の二位の尼公楼門を修建し、梵宇を修理した。この時に、弥勒院から浄興院新長谷寺と号すようになった。その後、後宇多・後嵯峨・亀山の三帝が続いて伽藍整備を行った。この代の間に、浄興院から影向山無量寿院と改めた。こうして、当時は名勝地として、知らぬ者がないほどになった。
天正年間になって、土佐の長曽我部元親が、侵攻して当寺の坊舎仏閣をみな焼尽した。これは唐の安禄山の反乱とも云えるものであったが、前藩主の生駒一正公の時に、本尊の霊十一面を新たに安置し、古よりの神々も次第に復活させた。そして、寺院経営のための寺領も寄附された。ところが星霜年古して、伽藍は次第に放置され、悲しいかな、寺跡草生い、仏塔は辣に覆われている。(後略)

要約しておくと
①聖武天皇の賜を受けて、行基菩薩が開いた寺院
②天平年間に、庖癈(天然痘)大流行の時に、祈祷効能を示し世間に知られるようになった。
③弘法大師が弥勒菩薩の宝堂を建て、四十九院の伽藍を調えた。
④弘法大師は、奥の院の巌中に大師自作の薬師如来像、護摩山上には不動の梵焼供を修め修験者の拠点として繁栄した。
⑤北条政子の修復援助を受け、諸国長谷寺のひとつとして存続、
⑦寺名が弥勒院に改名され、さらに、弥勒院から浄興院新長谷寺へと改名
⑧後宇多・後嵯峨・亀山の三帝が続いて伽藍整備が行われ、浄興院から影向山無量寿院と改めた。
⑨天正年間になって、土佐の長曽我部元親が、侵攻して当寺の坊舎仏閣をみな焼尽した。
⑨前藩主の生駒一正公の時に復興され、寺領も寄附された。
⑩以後は寺勢が衰え、伽藍は次第に放置され、寺跡草生い、仏塔は辣に覆われている。

この縁起は、寛政十年(1798)に三谷寺が焼失し、仁王門・鐘楼堂だけが残っていたのを、11世法純によって諸堂が再興された時に書かれたもののようです。

イメージ 5
三谷寺
  最初に開祖として天平年間に行基が出てきて、次に空海が発展させたと説かれます。
私の郷土史の師匠は「行基開祖、空海発展」という由緒書きは後世の作り話が大半。系図作成のように、寺の由緒書きを頼まれた連歌師なんかが使う手口。つまり、資料がない、書くことがないのでこう書かざるえんのや。これは、古今東西一緒。西洋の教会も中国のお寺も同じや」だそうです。
 
イメージ 6
三谷寺境内
私が注目するのは、③④⑤の次の部分です。
「空海(弘法大師)が弥勒堂を建立し、真言密教の修行道場として隆盛」
「護摩山上には不動の梵焼供を修め」
 ここからこの地が不動明王を祭り、護摩を焚く「山伏寺」の性格を持っていたことが分かります。今でもこの寺の奥の院として岩屋薬師の行場があり、ミニ三十三観音等霊場巡りで結ばれています。
三谷寺
三谷寺周辺

 周辺地図を見ても「護摩岳」「宝珠山」「三谷寺奥の院」という行場を示す地名が残っています。また、西北の黒岩天満宮や地蔵堂周辺には「石切場跡」が残っています。石工技術と修験者は、切り離せない関係にあることは以前にお話ししました。「石切場や石造物制作現場」があったところには、多くの石工職人たちがいて、その多くが修験者(衆徒)であったと研究者は考えています。そういう視点で、この寺を見ると、金山から五色台にかけては、中世の石切場が点在しています。それが石造物として周辺ばかりでなく、瀬戸内海を通じて広範囲に提供されていることが弥谷寺などからは分かってきました。同じような動きが三谷寺周辺にも見えて来ます。

 以上から中世の三谷寺は、修験者の拠点となる寺院で、勧進僧達がいくつもの院房を周辺に構えていたこと、彼らの勧進・交易活動で財政基盤が調えられ、伽藍整備が行われたと私は考えています。寺名が変化していくのも、院主たちによる連合経営だったので、各院坊の勢力関係によって、寺号(呼名)が変化していくのは、中世山岳寺院ではよくあることです。
三谷寺をもう少し広い範囲で見ておきましょう。
 三谷寺の背後は城山に続きます。城山周辺の中世修験の行場ルートを、次のように私は考えています。
本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 城山 → 金山 → 八十場 
これが坂出中辺路(坂出修験道ルート)で、そのルート上に三谷寺は位置します。ここでは三谷寺が、中世山岳寺院として修験者たちの拠点寺院となっていたという仮説を提示しておきます。
しかし、これについては次のような疑問が出てきます。
①本島・沙弥島・聖通寺は、醍醐寺の聖宝(理源大師)を重んじますが、城山の三谷寺には、聖宝は登場しません。これをどう考えればいいのでしょうか。
②中世に勢力を拡大していく五色台の白峰寺との関係。どうも白峰寺と三谷寺の修験者たちは、競合関係にあり、白峰寺に勢力を奪われていった気配がします。それが、中世末から近世への三谷寺の衰退と関わっているのではないかと、私は推測します。

イメージ 8
三谷寺大師堂
 城山周辺からは色濃く修験者(山伏)の匂いを感じます
大胆に仮説を立てるなら近世以前は、聖通寺も三谷寺も山伏寺だったのではないかと思うようになりました。ついでに加えると、後の金毘羅さんに「変身」していく小松尾寺の別当金光院にも同じ匂いを感じますし、嶋田寺もそうです。ここに共通することは、高野山で学んだ修験者が住職となっていることが共通します。
  少し筆が走りすぎたようです。
イメージ 9

次に、三谷寺の創建を考古学的に見てみましょう。

 三谷寺からは平安時代後期の瓦窯跡が見つかっています。現在は築石のために見ることはできませんが、坂出市郷土資料館の資料によると窯跡は三基あり、東から1号窯、2号窯、3号窯と名づけられています。この内、1号窯の瓦は均正蓮花文軒平瓦で平安時代後期ころのものされ、創建時の三谷寺の瓦を焼いたものと考えられています。これ以前の白鳳や天平の瓦は境内からは見つかっていません。つまり、この寺の創建は平安後期と考えるのが妥当のようです。

イメージ 10
 三谷寺
その後、北条政子による修復の援助を受け、諸国長谷寺のひとつとして存続したのち、天正ごろ、長宗我部氏の兵火にあって荒廃したと記されています。これに対して飯山町誌は、もうひとつ別の由緒を紹介します。
イメージ 11

それは法然の高弟長西(ちょうさい、元暦元年(1184年) - (1266年2月12日))が讃岐に建立した西三谷寺が、この寺だったのではないかという仮説です。
『本朝高僧伝』覚明の項には、次のように記されています。 
長西、覚明と号し讃岐の人。九歳にして京に上りて業を菅家に聯(なら)う。十九にして世を厭う、源空(法然)を大谷寺に拝して、薙髪従事して六時称号す。時に空公七十。空の帰寂に及び乃ち諸寺に遊で、広く教乗を問う。出雲路の住心大徳に謁して、台教を聴く。泉涌寺俊菖律師にまみえ、止観及び戒範を受く、深草の道元禅師に参り、教外の旨を探る。又、同門衆に依って念仏の法義周遍習串す。後、故郷に還り、西三谷寺を開て浄土の法を弘む。又、京師に上て、城北の九品寺を閥て日夜専修す。都下の絡自憧々として門にそう。(中略)
 釈覚心、惧舎を反覆し、釈論を玩索す。長西の嘱を受けて、西三谷寺に居し、浄土の義を説く。弟子西学兼承有り。
意訳変換しておくと
 長西は覚明と号し、讃岐の人である。九歳で京に上って菅家で学問を習ったが、十九の時に出家した。大谷寺の源空(法然)を師として、髪削ぎ、南無阿弥陀仏を唱える。法然が70歳で亡くなると、諸寺に出かけて、広く知識を得ようとした。出雲路の住心大徳からは、台教を学んだ。泉涌寺俊菖律師からは、止観や戒範を授かった。深草の道元禅師からは、教外の旨を探った。また、同門衆に対しては念仏の法義について述べた。その後、故郷讃岐に還り、西三谷寺を開いて浄土の教えを拡げた。その後再び京に上って、城北の九品寺で日夜専修した。都下の人々は、絡自憧々として門にそう。(中略)
  釈覚心は、師の長西から教えを受けて、その命で、西三谷寺に留まり、浄土の教えを説いた。それを弟子西学が受け継いだ。

ここには「西三谷寺」という寺が出てきます。これは山田郡三谷(現高松市三谷町)に対しての呼称で、江戸期には山田郡にも三谷寺があったので、混同を避けるために「西三谷寺」が使われたと飯山町史は指摘します。
 どちらにしても法然門下の長生は、浄土宗九品流の派祖になった高僧です。
この長西が西三谷に一寺を建立したというのです。それを信じるならば、「法然 → 長西 → 釈覚心 →西学」という浄土宗の流れをひく寺院が三谷寺であったことになります。浄土宗の教えを説く念仏聖(高野聖)たちが、中世には各地で念仏信仰を拡げ、各郷村に信者を増やしたことは以前にお話ししました。そのような念仏聖の拠点でもあったことになります。このことと最初に述べた「修験者の行場としての三谷寺」という性格は、なんら矛盾するものではありません。
 このような念仏聖の活動を背景に、法然の讃岐流配に伴ういろいろな説が生まれてくると私は考えています。これをまとめておくと
①三谷寺は、平安末に遡る山岳寺院で、多くの修験者や聖の活動拠点であった。
②それが高野聖が念仏聖化することで、三谷寺も阿弥陀信仰の拠点寺院となった。
 
イメージ 12
三谷寺
 
 中世に隆盛を極めた三谷寺が、どうして衰退したのでしょうか?
縁起には天正年間のこととして、次のように記します。

「土佐の長曽我部元親、乱を企て坊舎仏閣を臓く焼尽せしむ。比しがたし、安禄山が反逆にも過ぎたり。」

戦国末期の土佐勢力の被害を中国唐王朝の安禄山の乱に例えます。長宗我部元親を悪者に仕立てるのは、江戸時代後半以後の讃岐の歴史叙述パターンです。つまり、「天正年間までは寺社は平穏 長宗我部の兵乱で焼き討ち・荒廃」という形式です。これは「信長の比叡山焼き討ち」への仏教勢力の怨嗟と同じパターンです。
 それは、さておき三谷寺のその後の動きを、飯山町誌は次のように3段階に分けています。
〈衰微期〉 松平氏による寺領の召し上げ、堂塔の破壊、無住時代など、寺が衰微した時期で、ほぼ十七世紀代がこれにあたる。
〈再興期〉 中興八世住職寂巌、十世住職法如の努力による堂塔の修復、松平氏から寺領70石余の寄附、不動院、極楽寺の再興など、昔日の面影を取り戻した時期で、ほぼ18世紀代がこれにあたる。
〈興隆期〉 久米寺の再興、随喜心院の室兼帯など、再興期を経て、寺が興隆した時期で、幕末までの19世紀代がこれにあたる。
イメージ 13
それでは、いつだれが、どのようにして三谷寺を復興したのでしょうか?
 八世住職寂巌が大内郡引田浦の積善坊よりやってくるのは元禄四年(1691)のことです。寂巌は住職にあること24年で隠居しますが、その後も没するまで、半世紀の間三谷寺の復興に邁進します。延享元年(1744)に十世住職となった法如も約50年間、そのほとんどを住職として寺の再興に努めます。つまり寂巌、法如の百年の間に、諸堂の修復が行われ、寺は現在の伽藍の基礎を築いたのです。 

寺の再興は、寺の経済力と結びついています。

まず記録から寺領の拡大を探ってみましょう。
 寂巌が住職になった時、山門内に四反四畝の土地がありましたが、確定した寺領ではありませんでした。そのため寂巌は粘り強く高松藩に働きかけて寺領への認可を勝ち取ります。寂巌はまた、当時の有力寺院が行っていたようように自力での新田開発に努めます。開発した田地は藩の検地を受け、寺領として寄附してもらうことを繰り返しています。
イメージ 14
三谷寺
法如も寂巌の方針に従い、山林の自力開発に努めたようで、宝暦七年(1757)五町二反九畝の新開地が検地を受け、高五七石八升三合が藩の寄附を受けて寺領となっています。
  この寺の「由来帳」には
「寛政十午年火災ニテ焼失スル」
とした書き込みが何カ所かにあります。この時期に伽藍の大半が焼け落ちたようです。しかし当時、寺は経済的に安定していました。
 例えば
天明二年(一七八二)「銀札六十貫目」(金一〇〇〇両)
寛政五年(一七九三)「銀札四十貫目」
を「郷中救方」として藩に差し上げています。
安永八年(一七九七)には不動院
寛政二年(一七九〇)には極楽寺
を再興しています。更に多くの山林を所有していました。また、有能な住職が長きに渡って信者を指導しており、信頼感も得ていました。さらに西日本一帯の修験道の人たちの支援を求める理源大師講等を組織して、広く資金を集める人脈もありました。このような経済的な豊かさが短期間の再建を可能にしたと考えられます。三谷寺は以前にも増した規模で復興するのです。どちらにしても真言系修験者のお寺なのです。
  
イメージ 15

それが今に伝わる三谷寺の伽藍です。
しかし、月日は過ぎ建物郡に痛みが多く見られます。一つの寺と檀家では、維持が難しい規模の建物の数のようにも思えます。この伽藍群が讃岐の宝として、次の世代に伝わっていって欲しいと願わずにはいられません。

参考文献 飯山町誌190P

このページのトップヘ