「祖谷紀行」を読んでいると「祖谷八家」という用語が良く出てきます。「祖谷八家」の中には、平家の落人伝説の子孫で、平家屋敷と呼ばれる家もあります。中世の「山岳武士」の流れを汲む名主という意味で、誇りを持って使われていたようです。今回は「祖谷八家」が、中世から近世への時代の転換点の中で、どのようにして生き残ったのか。その戦略や処世術を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」です。
祖谷山は中世に、以下のように東西三十六名の名主(土豪)達によって支配されていました。
西祖谷分として、閑定名・重末名・名地名・有瀬名・峯名・鍛冶屋名・西名・中屋名・平名・榎名・徳善名・西岡名・後山名・.尾井内名・戸谷名・一宇名・田野内名・田窪名・大窪名・地平名・片山名・久及名・中尾名・友行名・
以上の二十四名、東西合わせて三十六名になります。
以上の二十四名、東西合わせて三十六名になります。
この時代は「兵農未分離」で、武力を持つ者が支配者になっていきます。各名主は、力を背景にエリア内では経済的に抜きん出た地位にありました。
曽我総雄氏は、慶長17年の「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」を分析して、次の表を作成しています。(『西祖谷山村史』(大正11年版)
三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳の土地所有関係
この表からは次のような事が分かります。
①50反(五町)以上の土地所有者が名主。②吾橋西の名内全耕地面積は77、8反③名主の所有は反数54反④名全体のの耕地面積の約7割を、名主が所有⑤全戸数12戸の内で8戸は、3反以下の貧農
ここからは、名主が名(みょう)内の経済を牛耳っていたことが分かります。貧農達は独立しては生活できません。何らかの形で名主に頼らざる得ません。これを隷属農民と研究者は呼びます。ここからは、中世から近世にかけての祖谷山の支配構造は、つぎの両極に分かれていたことが分かります。
①各名主階層に隷属する農民②農民の夫役労働力に依存して農地経営をおこなう名主
ここでは名主は、各名単位に経済単位を形成し、名内に君臨していたことを押さえておきます。
蜂須賀家政
阿波一国の主人としてやってきた蜂須賀家政は、近世大名として「領内一円知行」を進めます。
阿波一国の主人としてやってきた蜂須賀家政は、近世大名として「領内一円知行」を進めます。
領内一円知行とは、領主が自分の権力で、領内を自己一人のものとして領有し経営することです。これは中世以来の阿波の土豪衆の存在を否定することから始まります。このために細川・三好・長宗我部の三代に渡って容認されていた土豪からの領地没収が当面の課題となります。
まず蜂須賀家政は、検地に着手します。これによって①耕地面積の確認と②耕作者としての農民の確保、の実現を目指します。そのために「土地巡見使」を派遣します。この役割は、検地施行を前提とする土地の所有状況と実態掌握を行うものでした。これ対して、平野部での検地作業は順調にすすみますが、山間部の土豪達は、抵抗の狼煙をあげます。天正13年(1885)6月から8月にかけて、仁宇山・大粟山・祖谷山などの土豪たちが立ち上がります。これらは内部分裂もあって、短期間で軍事力によって押さえつけられます。
まず蜂須賀家政は、検地に着手します。これによって①耕地面積の確認と②耕作者としての農民の確保、の実現を目指します。そのために「土地巡見使」を派遣します。この役割は、検地施行を前提とする土地の所有状況と実態掌握を行うものでした。これ対して、平野部での検地作業は順調にすすみますが、山間部の土豪達は、抵抗の狼煙をあげます。天正13年(1885)6月から8月にかけて、仁宇山・大粟山・祖谷山などの土豪たちが立ち上がります。これらは内部分裂もあって、短期間で軍事力によって押さえつけられます。
仁宇谷・大粟山の抵抗を一か月余で鎮圧した蜂須賀家政は、祖谷山にその矛先を向けます。
この当時の様子を伝えるものとして「祖谷山旧記」は、次のように記します。
この当時の様子を伝えるものとして「祖谷山旧記」は、次のように記します。
蓬庵様(蜂須賀家政)御入国遊ばせられ候硼、数度御召遊ばせらるといえども、御国命に応じ奉らす、御追罫の御人数を御指向け遊ばせられ候ところ、悪党難所に方便を構え、追て御人数多く落命仕り候。此時に至り、私先祖北六郎二郎、同安左衛門、美馬郡一宇山に罷り在り、兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、降参人の者召し連れ罷出、名職を申し与え、相違なく下し置させられ候。相一坦わざる族は、或は斬拾、或は溺め捕え、罷り出候、
意訳変換しておくと
蜂須賀小六が阿波に入国して、(祖谷の土豪達に)何度か徳島城に挨拶に来るように命じたが、その命に応じない。そこで、追討の兵を差し向けると、悪党(土豪)たちは難所に砦を構え抵抗し、追手側に多くの死者が出た。そのため私の先祖である北六郎二郎、安左衛門が、美馬郡一宇山にやってきて、祖谷の悪徒誅討を願い出た。方便(調略)で、土豪衆の半分を降参させ、その者達を召し連れて、名職を与え、蜂須賀家の下に置いた。ただ従わない一族は、斬首や溺め捕えた。その次第は以下の通りである
蜂須賀家政は、祖谷の名主たちの抵抗に対して、武力鎮圧を避けようとします。そして、祖谷の名主のことをよく知っている人物に処理を任せます。それが北(喜田)氏でした。
北氏の出自については、よく分かりません。
ただ、天正十年に長宗我部氏と争って敗れ、本貫地だった阿波郡朽田城から一宇山に退却していたようです。北氏と祖谷山勢とは、もともとは対抗関係にありました。北氏としては、この際に新勢力の蜂須賀氏につくことで、失地回復を計ろうとする目論見があったようです。そのため蜂須賀氏にいち早く帰順したのでしょう。そして、美馬郡岩倉山・曽江山勢の武力反抗の鎮圧に参加しています。その功としてし天正14年には、一宇山で知行高百石余を得ています。これはかつての朽田城城主の地位には及ばないにしても、経済的には祖谷山の名主に優るものでした。
こうして、蜂須賀藩から祖谷山勢の鎮圧を任されます。このあたりのことが次の表現なのでしょう。
ただ、天正十年に長宗我部氏と争って敗れ、本貫地だった阿波郡朽田城から一宇山に退却していたようです。北氏と祖谷山勢とは、もともとは対抗関係にありました。北氏としては、この際に新勢力の蜂須賀氏につくことで、失地回復を計ろうとする目論見があったようです。そのため蜂須賀氏にいち早く帰順したのでしょう。そして、美馬郡岩倉山・曽江山勢の武力反抗の鎮圧に参加しています。その功としてし天正14年には、一宇山で知行高百石余を得ています。これはかつての朽田城城主の地位には及ばないにしても、経済的には祖谷山の名主に優るものでした。
こうして、蜂須賀藩から祖谷山勢の鎮圧を任されます。このあたりのことが次の表現なのでしょう。
兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、
ここからは、北氏は武力一辺倒でなく、北氏の才覚で「名職の安堵」を条件に、祖谷土豪達の懐柔分断策を展開したことが分かります。「名職の安堵」とは、中世以来の名主の地位の容認です。
ちなみに『祖谷山旧記』は、北(喜多)家の軍功と由緒を記録した「自家褒賞」的なもので、史料としては問題があります。しかし、当時の様子を記したものが他にないので、取扱に注意しながら手がかりとする以外に方法がないと研究者は考えています。
『祖谷山旧記』に書かれた喜田(北)氏の「調略」方法をもう一度見ておきます。
いち早く降服した者は、
菅生名、名主・榊原 織部介久保名、名主・阿佐 兵庫西山名、名主・橘主 殿之助阿佐名、名主・阿佐 紀伊守徳善名、名主・国藤 兵部有瀬名、名主・橘 右京進大窪名、名主・青山 右京小祖谷 名主・石川 備後
ついで降服した者は、
後山名、名主・国藤左兵衛片山名、名主・片山 与市地平名、名主・今井 藤太閑定名、名主・阿佐 六郎戸の谷名、名主・川村 源五名地名、名主・青山 新平西岡名、名主・堀川 内記西 名、名主・播摩平太兵衛中屋名、名主・下川与惣治友行名、名主・佐伯 彦七
以上18名の名主は、北(喜田)氏の調略を受入て、「御目見仰せ付けさせられ、持ち懸りの名職、下し置させられ(藩主へのお目見えを許された名職」を与えられ、蜂須賀家政に下った者達です。
一方斬首された者は、
下瀬名、名主・大江 出雲久及名、名主・香川 権大釣井名、名主・播摩 左近今窪名、名主・中山藤左衛門榎 名、名主・三木 兵衛一宇名、名主・田宮 新平平 名、名主・八木 河内
この七名は、北六郎二郎・同安左衛門父子の手によって斬首されました。その理由は、「重々御国命に相背き、相随わず、あまつさえ土州方と取持、狼藉」を働いたとされます。また、次の十一名の名主は、前記七名の名主が斬首されたのと前後して、讃州の鵜足に逃げますが、北六郎二郎、同安右衛父子の手によって補えられます。
落合名、名主・橘 大膳大枝名、名主・武集 平馬尾井内名、名主・大野 王膳今井名 名主・黒田 監物田野窪名、名主・横田 内膳田野内名、名主・坂井 大学鍛冶屋名、名主・轟 与惣峯 名、 名主・影山 将監奥野井名、名主・松下 平太栗伎渡名、名主・松家 隼人重末名、 名主・本多 修理
近世祖谷山三十六名の処置一覧表
この中で北氏が斬殺処分にした七名については、次のように記します。
「重々国命に叛いた上に、右七人の者共と徒党を組んで、土州と連絡しながら敵対を重ねた。そこで徒党のメンバー七人の首謀者六郎二郎・安左衛門を斬り亡ぼした。また逃亡した六郎二郎・安左衛門父子を追補し、讃州の鵜足郡にて11人を捕らえた。安左衛門については、ここからすぐに渭津へ囚人として引連れて、早速に成敗が仰せ付けられた。六郎二郎については、上記18人の親族のどのような企みをしていたのかが分からないので、捕縛地の鵜足から祖谷山へ連れて帰り、十八人の一族を総て召し捕えて渭津へ連行し、取り調べを行った上で、罪刑の軽重によって、重い者は成敗が仰せ付けられ、軽い者には、以後は国命に随うとの起請文を書かせて放免とした。
以上を整理して起きます
①蜂須賀家政は、北六郎二郎、安左衛門に、祖谷の土豪抵抗勢力の鎮圧をを命じた。
②北六郎二郎、安左衛門は、方便(調略)で土豪衆を分断懐柔し、半分を降参させた。
③早期に抵抗を止めて従った者達は、名主(後の庄屋・政所)として取り立てた。
④一方、最後まで抵抗を続けた土豪たち18名は厳罰に処した。
⑤こうして中世には36名いた名主は、18名に半減した。
⑥18名の名主の統括者として、喜田(北)氏が祖谷に住むことになった。
⑥18名の名主の統括者として、喜田(北)氏が祖谷に住むことになった。
祖谷山の名主たちの武力抗争が鎮圧されたのが天正18年(1590)でした。それから20年近く経た元和3年(1617)に、刀狩りが祖谷山でも行われることになります。
祖谷山日記には、刀狩りについて次のように記されています。
「元和三年、蓬庵様の御意として、祖谷中の名主持伝えの刀脇指詮議を遂げ指上げ中すべき旨、仰せ付けられ、東西名々それぞれ詮議仕り、取り揃え指上げ申し候。」
意訳変換しておくと
「元和3年に、藩主の蜂須賀家政様の名で命で、刀狩りを行うことを、祖谷中の名主に伝え、刀脇などを差し出すように申しつけた。東西祖谷山村の名主達は、命に従い刀を取り揃えて提出した。
祖谷山に派遣された刀狩代官は、渋谷安太夫で、政所は喜田安右衛門でした。この二人によって徴発された刀剣は27本と記録されています。その際に、徴発した刀類については、代物、代銀が支払われることになっていたようです。ところ3年経った元和6年(1620)になっても、その約束が守られません。
これに対して、祖谷の名主が不満を表明したのが、刀狩りと強訴一件です。
この事情について「祖谷山旧記」は、次のように記します。
「代銀元和六年迄に御否、御座無く候に付、指上人の内、名主拾八人発頭仕り、百姓六百七拾人召し連れ、安太夫に訴状指上げ、蓬庵様御仏詣の節、途中において、御直訴仕り候」
意訳変換しておくと
「元和6年になっても刀剣の代金が支払われていないことに対して、名主18人が発議し、百姓670人余りを引き連れて、安太夫に訴状を指し上げ、藩主のお寺参りの途中で直訴した
この強訴に対しての、蜂須賀蓬庵(家政)の処置を一覧化したものが下の表です。
この表からは次のような事が読み取れます
①天正の一揆では、早期帰順者18名は処分されなかった(○△)
②残りの18名の名主は処分を受けたが、罪が軽いとされた名主は家の存続を許されていた。
②残りの18名の名主は処分を受けたが、罪が軽いとされた名主は家の存続を許されていた。
③その中で18名の名主が刀狩り強訴に加わり、その中の多くの者がが「成敗・磔罪」に処せられた。
④一揆での早期帰順者は、刀狩りの際に刀剣を供出しているが、強訴には参加していない。
結局、「一揆・早期帰順者と強訴不参加者グループ」が阿波藩からの粛正を免れたことになります。そして彼らが「祖谷八家」のメンバーになっていくようです。
結果的には、この強訴事件を逆手にとって、蜂須賀藩は祖谷への支配強化を図ります。それはある意味では藩にとっては「織り込み済みのこと」だったのかもしれません。これについて東祖谷山村誌は、次のように記します。
藩権力としては、どうしても祖谷山名主層の武力解体は、藩経営のうえからいって、さけることのできないことであった。(中略)このことは、藩権力のまさに、藩制確立のために、天正の武力抗争への持久力を秘めた処置の姿であり、名主層にしてみれば権力失墜への最後の抵抗も、力の優位の前に敗北という結果となっている。元和四年という年は、阿波藩にとっては重大な時期であり、祖谷山の強訴の落着によっていよいよ藩制の確立が目に見えて強まるのである。
どちらにしても、阿波藩に抵抗せずに温和しくしたがった名主達が生きながらえて、「祖谷八家」と称するようになることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」