瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:天空の村のお堂と峠 > 祖谷山

            
「祖谷紀行」を読んでいると「祖谷八家」という用語が良く出てきます。「祖谷八家」の中には、平家の落人伝説の子孫で、平家屋敷と呼ばれる家もあります。中世の「山岳武士」の流れを汲む名主という意味で、誇りを持って使われていたようです。今回は「祖谷八家」が、中世から近世への時代の転換点の中で、どのようにして生き残ったのか。その戦略や処世術を見ていくことにします。テキストは「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」です。

祖谷山は中世に、以下のように東西三十六名の名主(土豪)達によって支配されていました。
祖谷山三十六名

東祖谷山分として、菅生名・久保名・西山名・落合名・奥井名・栗枝渡名・下瀬名・大枝名・阿佐名・釣井名。今井名・小祖谷名
以上の十二名。
西祖谷分として、閑定名・重末名・名地名・有瀬名・峯名・鍛冶屋名・西名・中屋名・平名・榎名・徳善名・西岡名・後山名・.尾井内名・戸谷名・一宇名・田野内名・田窪名・大窪名・地平名・片山名・久及名・中尾名・友行名・
以上の二十四名、東西合わせて三十六名になります。
 この時代は「兵農未分離」で、武力を持つ者が支配者になっていきます。各名主は、力を背景にエリア内では経済的に抜きん出た地位にありました。
曽我総雄氏は、慶長17年の「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」を分析して、次の表を作成しています。(『西祖谷山村史』(大正11年版)
「三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳」
三好郡祖谷山内吾橋西名検地帳の土地所有関係
この表からは次のような事が分かります。
①50反(五町)以上の土地所有者が名主。
②吾橋西の名内全耕地面積は77、8反
③名主の所有は反数54反
④名全体のの耕地面積の約7割を、名主が所有
⑤全戸数12戸の内で8戸は、3反以下の貧農
ここからは、名主が名(みょう)内の経済を牛耳っていたことが分かります。貧農達は独立しては生活できません。何らかの形で名主に頼らざる得ません。これを隷属農民と研究者は呼びます。ここからは、中世から近世にかけての祖谷山の支配構造は、つぎの両極に分かれていたことが分かります。
①各名主階層に隷属する農民
②農民の夫役労働力に依存して農地経営をおこなう名主
ここでは名主は、各名単位に経済単位を形成し、名内に君臨していたことを押さえておきます。
蜂須賀家政(徳島県・戦国武将像まとめ) | 武将銅像天国
             蜂須賀家政
 阿波一国の主人としてやってきた蜂須賀家政は、近世大名として「領内一円知行」を進めます。
領内一円知行とは、領主が自分の権力で、領内を自己一人のものとして領有し経営することです。これは中世以来の阿波の土豪衆の存在を否定することから始まります。このために細川・三好・長宗我部の三代に渡って容認されていた土豪からの領地没収が当面の課題となります。
 まず蜂須賀家政は、検地に着手します。これによって①耕地面積の確認と②耕作者としての農民の確保、の実現を目指します。そのために「土地巡見使」を派遣します。この役割は、検地施行を前提とする土地の所有状況と実態掌握を行うものでした。これ対して、平野部での検地作業は順調にすすみますが、山間部の土豪達は、抵抗の狼煙をあげます。天正13年(1885)6月から8月にかけて、仁宇山・大粟山・祖谷山などの土豪たちが立ち上がります。これらは内部分裂もあって、短期間で軍事力によって押さえつけられます。
 仁宇谷・大粟山の抵抗を一か月余で鎮圧した蜂須賀家政は、祖谷山にその矛先を向けます。
 この当時の様子を伝えるものとして「祖谷山旧記」は、次のように記します。
蓬庵様(蜂須賀家政)御入国遊ばせられ候硼、数度御召遊ばせらるといえども、御国命に応じ奉らす、御追罫の御人数を御指向け遊ばせられ候ところ、悪党難所に方便を構え、追て御人数多く落命仕り候。此時に至り、私先祖北六郎二郎、同安左衛門、美馬郡一宇山に罷り在り、兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、降参人の者召し連れ罷出、名職を申し与え、相違なく下し置させられ候。相一坦わざる族は、或は斬拾、或は溺め捕え、罷り出候、

  意訳変換しておくと
蜂須賀小六が阿波に入国して、(祖谷の土豪達に)何度か徳島城に挨拶に来るように命じたが、その命に応じない。そこで、追討の兵を差し向けると、悪党(土豪)たちは難所に砦を構え抵抗し、追手側に多くの死者が出た。そのため私の先祖である北六郎二郎、安左衛門が、美馬郡一宇山にやってきて、祖谷の悪徒誅討を願い出た。方便(調略)で、土豪衆の半分を降参させ、その者達を召し連れて、名職を与え、蜂須賀家の下に置いた。ただ従わない一族は、斬首や溺め捕えた。その次第は以下の通りである

 蜂須賀家政は、祖谷の名主たちの抵抗に対して、武力鎮圧を避けようとします。そして、祖谷の名主のことをよく知っている人物に処理を任せます。それが北(喜田)氏でした。
北氏の出自については、よく分かりません。
 ただ、天正十年に長宗我部氏と争って敗れ、本貫地だった阿波郡朽田城から一宇山に退却していたようです。北氏と祖谷山勢とは、もともとは対抗関係にありました。北氏としては、この際に新勢力の蜂須賀氏につくことで、失地回復を計ろうとする目論見があったようです。そのため蜂須賀氏にいち早く帰順したのでしょう。そして、美馬郡岩倉山・曽江山勢の武力反抗の鎮圧に参加しています。その功としてし天正14年には、一宇山で知行高百石余を得ています。これはかつての朽田城城主の地位には及ばないにしても、経済的には祖谷山の名主に優るものでした。
こうして、蜂須賀藩から祖谷山勢の鎮圧を任されます。このあたりのことが次の表現なのでしょう。
兼て祖谷山案内の儀に候えば、悪徒誅討を乞い請け奉り、方便を以、過半は降参仕り候由、

ここからは、北氏は武力一辺倒でなく、北氏の才覚で「名職の安堵」を条件に、祖谷土豪達の懐柔分断策を展開したことが分かります。「名職の安堵」とは、中世以来の名主の地位の容認です。
 ちなみに『祖谷山旧記』は、北(喜多)家の軍功と由緒を記録した「自家褒賞」的なもので、史料としては問題があります。しかし、当時の様子を記したものが他にないので、取扱に注意しながら手がかりとする以外に方法がないと研究者は考えています。

『祖谷山旧記』に書かれた喜田(北)氏の「調略」方法をもう一度見ておきます。
いち早く降服した者は、
菅生名、名主・榊原 織部介
久保名、名主・阿佐 兵庫
西山名、名主・橘主 殿之助
阿佐名、名主・阿佐 紀伊守
徳善名、名主・国藤 兵部
有瀬名、名主・橘  右京進
大窪名、名主・青山 右京
小祖谷 名主・石川 備後
ついで降服した者は、
後山名、名主・国藤左兵衛
片山名、名主・片山 与市
地平名、名主・今井 藤太
閑定名、名主・阿佐 六郎
戸の谷名、名主・川村 源五
名地名、名主・青山 新平
西岡名、名主・堀川 内記
西  名、名主・播摩平太兵衛
中屋名、名主・下川与惣治
友行名、名主・佐伯 彦七
以上18名の名主は、北(喜田)氏の調略を受入て、「御目見仰せ付けさせられ、持ち懸りの名職、下し置させられ(藩主へのお目見えを許された名職」を与えられ、蜂須賀家政に下った者達です。

一方斬首された者は、
下瀬名、名主・大江 出雲
久及名、名主・香川 権大
釣井名、名主・播摩 左近
今窪名、名主・中山藤左衛門
榎  名、名主・三木 兵衛
一宇名、名主・田宮 新平
平  名、名主・八木 河内
この七名は、北六郎二郎・同安左衛門父子の手によって斬首されました。その理由は、「重々御国命に相背き、相随わず、あまつさえ土州方と取持、狼藉」を働いたとされます。また、次の十一名の名主は、前記七名の名主が斬首されたのと前後して、讃州の鵜足に逃げますが、北六郎二郎、同安右衛父子の手によって補えられます。
落合名、名主・橘  大膳
大枝名、名主・武集 平馬
尾井内名、名主・大野 王膳
今井名  名主・黒田 監物
田野窪名、名主・横田 内膳
田野内名、名主・坂井 大学
鍛冶屋名、名主・轟  与惣
峯  名、 名主・影山 将監
奥野井名、名主・松下 平太
栗伎渡名、名主・松家 隼人
重末名、 名主・本多 修理
これを一覧表にしたものが東祖谷山村誌223Pに、以下のように載せられています。
近世祖谷山三十六名の措置一覧
近世祖谷山三十六名の処置一覧表
この中で北氏が斬殺処分にした七名については、次のように記します。
「重々国命に叛いた上に、右七人の者共と徒党を組んで、土州と連絡しながら敵対を重ねた。そこで徒党のメンバー七人の首謀者六郎二郎・安左衛門を斬り亡ぼした。また逃亡した六郎二郎・安左衛門父子を追補し、讃州の鵜足郡にて11人を捕らえた。安左衛門については、ここからすぐに渭津へ囚人として引連れて、早速に成敗が仰せ付けられた。六郎二郎については、上記18人の親族のどのような企みをしていたのかが分からないので、捕縛地の鵜足から祖谷山へ連れて帰り、十八人の一族を総て召し捕えて渭津へ連行し、取り調べを行った上で、罪刑の軽重によって、重い者は成敗が仰せ付けられ、軽い者には、以後は国命に随うとの起請文を書かせて放免とした。

以上を整理して起きます
①蜂須賀家政は、北六郎二郎、安左衛門に、祖谷の土豪抵抗勢力の鎮圧をを命じた。
②北六郎二郎、安左衛門は、方便(調略)で土豪衆を分断懐柔し、半分を降参させた。
③早期に抵抗を止めて従った者達は、名主(後の庄屋・政所)として取り立てた。
④一方、最後まで抵抗を続けた土豪たち18名は厳罰に処した。
⑤こうして中世には36名いた名主は、18名に半減した。
⑥18名の名主の統括者として、喜田(北)氏が祖谷に住むことになった。

祖谷山の名主たちの武力抗争が鎮圧されたのが天正18年(1590)でした。それから20年近く経た元和3年(1617)に、刀狩りが祖谷山でも行われることになります。
祖谷山日記には、刀狩りについて次のように記されています。

「元和三年、蓬庵様の御意として、祖谷中の名主持伝えの刀脇指詮議を遂げ指上げ中すべき旨、仰せ付けられ、東西名々それぞれ詮議仕り、取り揃え指上げ申し候。」

意訳変換しておくと
「元和3年に、藩主の蜂須賀家政様の名で命で、刀狩りを行うことを、祖谷中の名主に伝え、刀脇などを差し出すように申しつけた。東西祖谷山村の名主達は、命に従い刀を取り揃えて提出した。

祖谷山に派遣された刀狩代官は、渋谷安太夫で、政所は喜田安右衛門でした。この二人によって徴発された刀剣は27本と記録されています。その際に、徴発した刀類については、代物、代銀が支払われることになっていたようです。ところ3年経った元和6年(1620)になっても、その約束が守られません。
これに対して、祖谷の名主が不満を表明したのが、刀狩りと強訴一件です。
この事情について「祖谷山旧記」は、次のように記します。
「代銀元和六年迄に御否、御座無く候に付、指上人の内、名主拾八人発頭仕り、百姓六百七拾人召し連れ、安太夫に訴状指上げ、蓬庵様御仏詣の節、途中において、御直訴仕り候」

意訳変換しておくと
「元和6年になっても刀剣の代金が支払われていないことに対して、名主18人が発議し、百姓670人余りを引き連れて、安太夫に訴状を指し上げ、藩主のお寺参りの途中で直訴した

この強訴に対しての、蜂須賀蓬庵(家政)の処置を一覧化したものが下の表です。
祖谷山刀狩りと強訴参加一覧

この表からは次のような事が読み取れます
①天正の一揆では、早期帰順者18名は処分されなかった(○△)
②残りの18名の名主は処分を受けたが、罪が軽いとされた名主は家の存続を許されていた。
③その中で18名の名主が刀狩り強訴に加わり、その中の多くの者がが「成敗・磔罪」に処せられた。
④一揆での早期帰順者は、刀狩りの際に刀剣を供出しているが、強訴には参加していない。
結局、「一揆・早期帰順者と強訴不参加者グループ」が阿波藩からの粛正を免れたことになります。そして彼らが「祖谷八家」のメンバーになっていくようです。

結果的には、この強訴事件を逆手にとって、蜂須賀藩は祖谷への支配強化を図ります。それはある意味では藩にとっては「織り込み済みのこと」だったのかもしれません。これについて東祖谷山村誌は、次のように記します。
藩権力としては、どうしても祖谷山名主層の武力解体は、藩経営のうえからいって、さけることのできないことであった。(中略)
このことは、藩権力のまさに、藩制確立のために、天正の武力抗争への持久力を秘めた処置の姿であり、名主層にしてみれば権力失墜への最後の抵抗も、力の優位の前に敗北という結果となっている。元和四年という年は、阿波藩にとっては重大な時期であり、祖谷山の強訴の落着によっていよいよ藩制の確立が目に見えて強まるのである。
 
  どちらにしても、阿波藩に抵抗せずに温和しくしたがった名主達が生きながらえて、「祖谷八家」と称するようになることを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       「東祖谷山村誌219Pの 蜂須賀氏の阿波国支配」


   寛政5年(1793)の春、讃岐の香川郡由佐村の菊地武矩が4人で、阿波の祖谷を旅行した紀行文が「祖谷紀行」です。この中で雨のために東祖谷の久保家に何泊かして、当主から聞いた平家落人伝説などのいろいろな話が載せられています。その翌日に平家の赤旗がある阿佐家を訪ねています。今回は、幕末に起きた久保家と阿佐家をめぐる事件を見ていくことにします。テキストは、 「阿佐家の古文書 阿波学会紀要 第53号(pp.155―162)2007.7」です。

     阿佐家住宅パンフ
阿佐家パンフレット

阿佐家には「平家の赤旗」2流があり、祖谷平家落人伝説の中心であり、屋敷も「平家屋敷」として名高い旧家です。
平家の赤旗 4
阿佐家の平家の赤旗

平家の赤旗2

阿佐家の平家の赤旗(大旗と小旗)

阿佐家には28通の文書が残されています。それを研究者が内容別に分類したのが次の表です。 
阿佐文書 郷士身振の件名目録1
阿佐家文書 2

A.阿佐家の当主左馬之助の惣領で,17才となった為三郎の藩主への年頭御目見得関係文書(No.1~7)。
B.阿佐為三郎の政所助役就任関係文書(No.9~11)。
C.阿佐為三郎の御隠居様(蜂須賀斉昌)への御目見得関係文書(No.12~14)。
D.久保名名主代理関係文書。(No.15~26)。
E.外出時における供揃や藩士に出会ったときの挨拶の仕方など,郷士としての格式を記した「郷士身振」
F その他(No.8・27・28)
 ほとんどの文書は幕末の嘉永・安政期が中心です。中世や近世初頭に遡るものはありません。内容は阿佐為三郎に関係するものがほとんどです。この文書群の中で、多くの紙幅が費やされているのがDの文書です。
阿佐家住宅パンフ裏
阿佐家パンフレット(裏)
 安政2年(1855)5月に起きた久保名の名主久保大五郎の出奔事件への対応です。
久保家は阿佐家と同じく郷高取・郷士格となった「祖谷八士」の一人で、阿佐家の分家筋にあたるようです。名主であった久保大五郎が、どうして出奔したのかはよく分かりませんが、久保名の管理・運営に関してトラブルがあったようです。名主がいなくなった久保名を、どうするかについてについて対応が協議されます。まず考えられたのが先例に従って,次の名主が決定するまで喜多源内が管理する案です。しかし,喜多家は重末名(旧西祖谷山村)にあって、久保名とは6里も離れています。日常的な業務に差し障りありとして見送られます。
祖谷山の民家分布

 次に考えられたのが、政所喜多源内・政所助役南乕次郎・同菅生源市郎・政所助役見習喜多達太郎・同阿佐為三郎の5人による共同管理案です。この案が美馬三好郡代から藩に上申されます。この年7月、池田の郡代役所に呼び出された喜多源内ら5人に対して、郡代の上申に沿った措置が当職家老の命令として伝えられます。ここで阿佐名では無役であった阿佐為三郎が、久保名管理の中心となることが想定されていたようです。しかし、共同管理体制というのは、責任の所在が不明瞭で混乱が起きることが多々あります。この場合もそうで、早々に行き詰まります。
そこで、最後の手段として考えられたのが阿佐為三郎が久保名の久保大五郎の屋敷に移住し、政所助役見習と久保名主代理を当分の間兼帯する、そのかわりに四人扶持の扶持米(一人扶持に付き1日に玄米5合が支給)を支給するという案です。これを喜多源内は美馬三好郡代に提出します。ところが、これを徳島藩上層部は却下します。理由は「郷士格に扶持米支給の先例無し」でした。「郷士格に扶持米の支給をしたことはない、先例に無いことは困る」という所でしょう。

阿佐家上段の間
阿佐家 ジョウダンノマ
 久保名を治めるためには、阿佐為三郎の久保名移住・名主代理就任以外に方法はありません。
しかし、四人扶持支給がなければ為三郎の久保名常駐はできません。安政3年12月に、その旨の上申書が美馬三好郡代から城代家老に出されます。この中で三好郡代は、久保名の混乱が祖谷山全体に波及するおそれを強調します。それを防ぐためにも、久保名の早期の安定が必要であることを訴えます。こうして、出奔事件から2年目の安政4年4月になって、阿佐為三郎の久保名主代理就任と久保大五郎屋敷の拝借が藩によって認められます。懸案だった扶持支給については「申出之通承届(許可)」と書かれています。祖谷山の安定を優先させた妥協策が採られたようです。こうして、三好郡代や徳島の城代家老までも巻き込んだ久保名主代理一件は収束していきます。

阿佐家玄関
阿佐家玄関
 ここで研究者が注目するのは,「郷士身振」文書の中に何度も出てくる「(祖谷は)不人気之名柄」という言葉です。
祖谷が「不人気之銘柄」というのは、どういうことなのでしょうか。
 約十年前の天保13年(1842)に、東祖谷の名子が土佐への逃散事件を起こしています。近世後期の祖谷山では、名主の支配に対する名子の不満が蓄積していたようです。そのため名手と名子の関係はギクシャクしていました。それが郡代や政所・名主から見ると「不人気」という表現になると研究者は推測します。久保大五郎出奔の背景に、このような名子との対立があったようです。また「郷士格に扶持米支給の前例無し」という藩側の原則論を崩したのも、「不人気な祖谷山」に対する危機感があったと研究者は推測します。

栗枝渡火葬場

 平家落人伝説が書物に書かれ、それに従って関係する神社や名所が祖谷に姿を現すのは、近世後半になってからのことです。
そして、当時の「祖谷八家」と呼ばれる名主たちは、自らが平家の落人の子孫であると声高に語るようになります。これは自分たちの「支配の正当性」を主張するものとも聞こえます。つまり「(祖谷)不人気之名柄」=「名主の支配に対する名子の不満の蓄積」=「名主と名子のギクシャク関係」に対する名主側からの「世論工作」の面もあったのではないか、「祖谷八家=平家落人の子孫=支配者としての正当性」を流布することで、名子の不満を抑え込もうとしたとも考えられます。このことについては、またの機会にしたいと思います。
研究者は、徳島県立文書館寄託「蜂須賀家文書」の中の次の文書を紹介します。
蜂須賀家政の祖谷久保家への安堵状

①年号は慶長17年(1612)7月8日
②発行主は、阿波藩主蜂須賀家政
③宛先は、 祖谷久保名の久保源次郎
  藩主蜂須賀家政が久保源次郎に出した知行安堵書です。内容は、それまで持っていた名職と久保名内で30石の知行を安堵するものです。研究者は、これは写しでなく原本だと考えています。久保名の名主であり、郷高取・郷士格となった久保家にとって、藩主のお墨付きでもあるこの安堵書は、最も大切な文書であったはずです。
それがどうして藩主の蜂須賀家の手の元にあるのでしょうか
 研究者が注目するのが、この宛行状(判物)の包紙の差出者が阿佐左馬之助と西山内蔵之進(西山氏は西山名の名主で「祖谷八士」の一人)であることです。ここからは久保家の不始末を、わびるために久保家に残されていた宛行状を藩に「お返し」したのではないかと研究者は推測します。なお、この宛行状については宝暦9年(1759)に書かれた『祖谷山旧記』に全文が紹介されています。
以上をまとめておきます。
①「平家の赤旗」が残る阿佐家には、近世後半の多くの文書が残されている。
②その中に安政2年(1855)5月の久保名の名主久保大五郎の出奔事件への対応文書がある。
③それは出奔不在となった久保名の名主を、本家筋の阿佐家の一族が継承就任するまでのやりとり文書である。
④また藩主蜂須賀家政が久保源次郎に出した知行安堵書が、蜂須賀文書に収められていることは、久保家の不始末を詫びるために安堵状が藩主に変換されたことがうかがえる。
⑤当時の祖谷は名主と名子の関係が悪化しており、「不人気之名柄」と認識されていた。
⑥このようなことが久保大五郎の出奔事件の背景にある。

18世紀席末に、「祖谷紀行」を書いた菊地武矩が御世話になった久保家は、その後の約半世紀後に主人が出奔し断絶したようです。そして、入ってきたのが本家筋の阿佐家になるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  阿佐家の古文書 阿波学会紀要 第53号(pp.155―162)2007.7
『東祖谷山村誌』(1978年 東祖谷山村)
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祖谷紀行 表紙

 寛政5年(1793)の春、讃岐の香川郡由佐村の菊地武矩が4人で、阿波の祖谷を旅行した紀行文を現代語意訳して読んでいます。由佐を出発しての前回までのコースは以下の通りでした。
4月25日  由佐 → 鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠 → 貞光
4月26日  貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇 西福寺
4月27日  一宇の西福寺  → 小島峠 → 菅生 → 虹の滝 → 久保 
4月28日  大雨で久保家に逗留し、平家伝説などを聞く
4月29日  雨の中を阿佐家の平家の赤旗を見て返ってくる。
4月30日  大雨で久保家逗留 いろいろな話を当主から聞く
今回は7日目、出発して一週間になります。彼らの帰路ルートを見ていくことにします。

祖谷山の民家分布

祖谷紀行 久保出発
祖谷紀行 5月1日 久保出発

五月朔(1日)になって、天気も晴れた。久保家の主人に長らく御世話いただいた厚意を謝し、いとまこいをして出立した。
 話に聞いていた栗枝渡の宮や平家窟、善徳の鬘橋、剣の峯(剣山)へも行きたいと思っていたが、雨のために長逗留してしまった。故郷に残した用事もあるので、またの機会にすることにして、今回は讃岐に向けて帰ることになった。主人が案内者を付くれて、往路とは異なる①加茂越で帰路に就くことにした。先日に渡った蔓橋を見て、西北に久保川に沿って、山の麓を伝っていくと、大なる巖が出てきた。これが装束岩で、その上の広さは丈余とである。川に臨んでいて、昔の貴人がここで装束したので装束岩と呼ばれるようになったという。この岩から百余歩で姥か渕川の中に、日照りの時にも涸れない淵がある。さらに百歩ばかりで、大山の麓が崩れて岩根が現れている。
祖谷紀行 落合峠1
祖谷紀行 落合
ここが川向で、民家が数軒ある。さらに五百歩行くと高原という谷間の集落があり、民家十軒ばかりがある。ここから一の小坂を下ると、②久保から落合に入る。一の川が東北から流れてきて、久保川と合流するので落合と名付けられたという。坂を下ること百五十歩計にして落合で、ここには喜多磯二郎の家がある。久保より落合まておよそ1里、西北に歩いてきた。

加茂 桟敷峠 落合峠
落合からの加茂越ルート

 落合から讃岐にまで名が知れている③「つくか峯」を登ることになる。しばらく休息して、案内人の先導で登りはじめる。山は八段あって、険しいことは梯立のようである。所々に棧道があり、左右は深く落ち込んでいる。猿射狼、草ハ独活蘭、樹は欅榔櫂櫻などが多い。大木だった松が倒れて、その上に草のが若々しく芽吹いている。これは山が険しく入山して、下草などを刈ることがないためであろう。第七段に達すると、空が近くに見え、阿讃の山川が見えて来て「衆山みな児孫のごとし」である。ただ剣の峯(剣山)だけが孤立して「高き事一層」である。第8段にまで登りたいと思ったが、本当に険しいのでやめた。第八段は、夏中旬までは残雪が残るという。
ここまでの行程を押さえておきます。
①「加茂越」のルートをとって帰路に就くことになった
②「久保 → 装束岩 → 高原 → 落合」を経て、落合から③「つくか峰」に向かって登り始める。
③の「つくか峰」が、私には分かりません。この文面からして、久保から落合に下って、そこから落合峠を越えていくルートだと思うのですが、文中には「落合峠」という地名は出てきません。出てくるのは「加茂越」です。
落合峠地蔵
落合峠の地蔵
 以前に紹介したように、かつて落合にあった「寛政十一年」(1799)の銘がある地蔵尊は、道標を兼ねていて台座に「諸人無難是より里谷峠三十五丁半」と刻まれています。ここからは200年前には落合峠が「里谷峠」と呼ばれていたことが分かります。この時には、落合峠という呼称はなかったことを押さえておきます。
 また「つくか峰」が分かりません。落合峠周辺の山だろうと思うのですがよくわかりません。ヒントになるのは、「山は八段あって・」という記述ですが、「正解」には至りません。「つくか峰七段」が「里谷峠」で、現在の落合峠だと思うのですが、確証が持てません。

安政5年生れで落合で農業を営んでいた栃溝貞蔵さん(当時95才)は、次のように話しています。

 「加茂山の三庄(三加茂)と落合の間には毎日10人位の『仲持ち』という背負運送人が荷物の賃蓮びをしていた。特に塩は、1人1年 に1俵を必要としたので、自分も度々戻り荷に負うて帰った。讃岐塩入(まんのう町)から加茂村鍍治屋敷まで来ている。財田塩を背負う時には桟敷峠を登り、深淵を通って落合峠を越えて帰った。冬の雪の積る頃は、道も氷って大変えらかった。しかも行きに1日,帰りに1日、どうしても2日がかりでないと行けなかった。

  ここからは「三加茂 → 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム)→ 落合峠 → 落合」が加茂越ルートで、讃岐からの塩が運ばれていたことが分かります。
祖谷紀行 落合峠2

つぎに「つくか峰」からの下りについて、見ていくことにします。
落合からここまで(「つくか峰」の第七段)までは、一里足らずというが、実際には一里半はある。まして、要する労力は平地の四・五里分に相当する。ここで暫く休息して、坂を下ると半里ほどで、葡萄が樹にまとわりついて、みち満ちている。しばらくいくと、①渓水の音が聞こえてくる。岩場をつたい落ち、はじけ落ちる清流は、雪のように霧となって飛び散る。白鷺のようでもあり、虹のようでもある。
 さらに行き桟道を渡ると、②芥場といふ所を過て、③「ひちら」という所に至った。
祖谷紀行 深淵木地師
祖谷紀行 木地屋
ここに人家が三・四軒ある。ここの家主が西湖の知人であったので、立ち寄って湯茶を求め、しばらく休息した。前の山に珍しい鳥が樹上にとまっていた。大きさは鳩くらいで、模様は翡翠のようであった。休息した「ひちら」から四、五百歩ばかり行くと、谷川を隔てて④捲胎匠があったので行って見る。その家は黒木で作られていて、屋根は櫻の皮で葺かれていた。人が常住している気配はない。樹木の伐採に応じて、山を移っていくという。家の中に婦姑と思える二人が相向ってお茶を飲んでいた。どこから来ているのかと問うと、土佐から来ていると答えた。祖谷に移り住んで十年近くになるという。
木地師の家 祖谷山絵巻(拡大)
木地屋の小屋(祖谷山絵巻 19世紀前半)

「つくか峰(落合峠?)」 → ②芥場 → ③「ひちら」と、渓流から谷川に下りてきます。②か③が現在の深淵ではないかとおもうのですが、よく分かりません。
③の巻胎匠は、ろくろ(轆轤)師のことで、木地師ともよばれました。
祖谷を中心とするこのエリアには、土佐などからろくろ師が入り込んで、半田の敷地屋に白木地を納入していたことは、次の史料からもうかがえます。 享保二十年(1725)11月、土佐韮生(香美郡物部村)久保山に、近江の筒井八幡宮の巡国人が到着し、周辺の木地屋から上納金を集金します。その中に、次のような記録があります。
一、三分  初尾  半田村二而ぬし屋(塗物師) 善六」
『享保二十乙卯九月吉祥日 宇志こか里帳』(筒井八幡宮原簿十一号)
ここからは、善六がもともとは物部の木地師であったのが、半田に移って、「ぬし屋 (塗物師)」となっていたことが分かります。同時に1725年には、半田地方に祖谷周辺の木地師から白木地が送り込まれ、塗りにかけていたことが分かります。これは土佐からの木地師がこのエリアに入り込み、小屋掛けしていたことを裏付ける史料になります。
木を求めて移動する木地師
 
  菊地武矩の祖谷紀行は1793年のことでした。
それよりも35年前の宝暦八年(1758)に、半田漆器業の開祖といわれる敷地屋利兵衛が、半田村油免に漆器の店を開きます。そのころには三好・美馬両郡には、25世帯の木地師が住んでいただけでした。それが開業から42年後には、家族を含め304人に増えています。急速な発展ぶりです。この時期に、土佐などから大量のろくろ師が祖谷周辺に流入したことが考えられます。そのろくろ師の小屋を、菊地武矩は訪ねたことになります。そして、女房達と交わした
「どこから来ているのか?」
「土佐から来ている。祖谷に移り住んで十年近くになる」
という会話を記録したのは、大きな意味を持ってきます。
半田敷地屋の生産関係
半田の敷地屋と木地師の関係
姫田道子氏の「半田漆器レポート」が「宮本常一と歩いた昭和の日本23」に次のように載せられています。
車で降り立ったところは、中屋といわれる山の中腹で陽が当たり、上を見上げると更に高い尾根がとりまいています。
 「あそこは蔭の名(みょう)、おそくまで雪が残るところ、馬越から蔭の嶺へと尾根伝いに東祖谷山の道に通じています。昔、木地師と問屋を往復する中持人が、この下のあの道を登り、そして尾根へと歩いてゆく」
 と竹内さんは説明して下さると、折りしも指をさした下の道を、長い杖を持って郵便配達人が、段々畑の柔らかな畦道を確実な足どりで登って来ました。平坦地から海抜700mの高さまで点在する半田町の農家をつなぐ道は、郵便配達人が通る道であり、かつては木地師の作る椀の荒挽を運ぶ人達の生活の道でもあったのです。
 東祖谷山村の落合までは直線距離で25キロ、尾根道を登り降りすると40キロ。陽の高い春から秋にかけては、泊まらずに往復してしまう中持人もいたとか。さすがプロです。しかも肩に担う天秤棒にふり分け荷物で13貫(約50㎏)という重量があり、いくつも難所があったのに町から塩、米、麦、味噌、醤油、衣料、菓子類までも持ってゆき、そして半田の里にむけての帰り道は木地師が作った木地類を持ち帰ります。運賃の駄賃をもらう専門職でした。

「祖谷紀行」にもどって深淵附近から桟敷峠にかけてを見ておきましょう。
 もとの道に帰り、谷川を右に見て山の中腹を一里ほどいくと、①萱の久保といふ所に出た。
傾斜も緩やかで、人家も多い。里に帰ってきた心地がしてきた。ここから②半田へと通じる道がある。ここに西湖の友人がいて用事があるということで、西湖とはここで分かれた。さて萱の久保から谷を下り、山をよじ登ることしばらくすると峠にでた。ここが③祖谷と加茂との境である。ここで暫く休息した。祖谷の山々をかえりみると、雲霧が立ちのぼり見え隠れする。さて、④坂を下っていくと里は、折しも五月の節句である。これを見て郷愁を感じ、王摩詰の「独在異郷為異客、毎逢佳節益思親」の句を思い出し、吟字ながら行く。早、太陽は西山に傾いた。久保よりの案内者はこの辺りで煙草の用事あるというので、久保家の主人に書簡をしたため厚意を謝し、案内者には少々の引出物を渡した。
 ⑤加茂には旅屋が一軒あった。権二郎が行って一宿を依頼した。しかし、ちょうど妻子が外出中で、しかも明日は田植なので、泊客は断っていると素っ気なく断られた。夜に入て暗くなり、家々の燈の光が灯り始める。権二郎がいうには、ここから東北半里ほどで⑥吉野川に出る。川を渡れば壱里足らずで芝生に着く。⑦芝生は、阿波土佐往末の道で賑やかな町で旅籠もある。そこまで行って泊まろうと云って、先に立て歩き出した。吉野川の渡場に着くと。夜は川船は出せないという船頭を、すかしてながめて、船を出させて芝生に渡った。こうして⑧宮田伯家という「くすしの家」に宿をとった。この日は、着かれていたので、早くから床について寝た。

A ①萱の久保は人家も多く、半田と加茂の分岐点であること
B ①萱の久保からすぐに③祖谷と加茂との境に出たとあるので、ここが③桟敷峠
C ③の桟敷峠の展望を楽しんで、④坂を下っていくと西庄集落
D さらに川を下ると⑤加茂。そこの旅館に宿泊を断られたので、⑥吉野川を渡って⑦対岸の芝生の宿へ

作者らのとったコースを確認すると、次のようになります。
落合 → 「つくか峰(落合峠?)」 → 芥場 → 「ひちら」 → 萱の久保 → 桟敷峠 → 西庄 → 加茂」
これは落合峠・桟敷峠経由の加茂越コースです。しかし、「つくか峰・芥場・ひちら・萱の久保」の地名が、現在のどこにあたるのかは分かりません。今後の課題としておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
東祖谷山村誌258P 祖谷における「ろくろ師」の発生
竹内久雄編集 『うるし風土記 阿波半田』
姫田道子 半田漆器レポート? 宮本常一と歩いた昭和の日本23
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 寛政5年(1793)の春、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文を現代語に意訳して読んでいます。高松の由佐発しての前回までのコースは以下の通りでした。
4月25日
由佐 → 鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠 → 貞光
4月26日
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇 西福寺
4月27日
一宇の西福寺  → 小島峠 → 菅生 → 虹の滝 → 久保
4月28日
大雨で久保家逗留し、平家伝説などを聞く
今回は5日目です。阿佐家に伝わる平家の赤旗が見たいというのが、旅の当初からの目的でした。そのため雨の中を押して、久保から阿佐家を尋ねていきます。その様子を現代語にして見ていくことにします。
祖谷山の民家分布

祖谷紀行 葛橋1
祖谷紀行 4月29日 蔓橋の場面
29日 夜が明けて空を見ると、曇りがちではあるが、かねてからの願いなので、平家の旗を見に行くことにする 。 
久保の前川という谷川を渡る。ここには蔓橋が架かっている。

祖谷の葛橋 阿波名所図会.2jpg
阿波の葛橋 阿波名所図会(久保の蔓橋ではありません)
長几十二三丈、幅四尺計、こちら岸からあちら岸に、几十餘のかつらを引渡して、両岸の大木に結びつけ、そこに長四尺ばかりの丸木や薪を割ったものを、竹ひごように編んで並べてある。左右には欄干をつけて、ひっくり返えっても落ちない備えがされている。
祖谷紀行 葛橋2
祖谷紀行 久保の蔓橋の場面
また蔓を両岸の大木の枝上に蜘手のようにいくつも架け、欄千に結付けている。両岸の大木は、川にせり出していて、その枝々は、川の上で行合うほどになっている。橋を維持し、落ちないような工夫が至るところに見える。その大きさは、高松の常磐橋を少し狭くして、もう少し長くしたようなものである。谷が深く、普通の橋柱(橋脚)が建たないので、上からかつらを結付けて橋としている。これを里人は手荷を担いで渡る。私たちも慣れないことではあるが、左右の手に欄千を握って用心しながら足をゆっくりと置きながら進んだ。半ば当たりの所で、伏せて下を見ると、渓流がさか巻いて、巖にぶつかり、雷のような音が聞こえてくる。蔓橋の間は几そ十四五丈ほどであろうか。目がくらむような気がして、長くはおれずに逃げ出すように渡った。渡り終えて、後の人を見ると雲中を歩む仙人のようだ。

祖谷紀行 葛橋3

 里人が云うには、祖谷には十三の蔓橋がある。
その内で、第1は善徳のもので、第二が久保の西六里にある長二十五六間のものと評す。人に聞いた所によると、どこかで鬘橋を渡らないと祖谷には入れない云う。しかし、これは妄説であることを知った。峠を越えれば蔓橋を渡らなくとも祖谷には入れる。
 また、かずら橋を渡る際には、梶のない船が大海原に漂うように、大揺れするとも聞いた。しかし、まったく揺れないというわけではないが、揺れ幅は一、二寸のものである。これも虚説であった。
 また蔓橋は、そこに生えている鬘を使うと聞いていたが、これも誤りであった。使われている蔓は、すべて他所から切り出され運ばれてきたものであった。そのため毎年掛け替えることはせずに、3年に一度くらいの掛け替えを行っている。こうして見ると、讃岐と2,30里しか離れていない阿波の祖谷のことでも「浮説(フェイク=ニュース)」が多いことに気づかされる。世の中とは、こうしたものであろうか。嘆かわしく感じる。
葛橋は当時から興味を惹く題材で「名勝」であったようです。そのため名所図会などにも取り上げられています。作者のその取り上げ方は、見たことをありのままに伝えようとする姿勢で貫かれています。彼がある意味で、合理的精神の持ち主だったことがうかがえます。また、鬘橋を実際に見てから学んだことで、それまでの自分の旧知の知識を疑い是正しようとしています。これも「近代的精神の萌芽」とも云えそうです。
祖谷山 亀尻峠
久保→ 亀尻峠 → 阿佐 
久保前川の蔓橋を渡って、亀尻峠越えで阿佐家を目指します。

 雨が止まないので、別業(本宅以外の屋敷・別荘?)の西山平助の家に雨宿りさせてもらう。しかし、雨はやまず、ますます強くなる。そこで別業を管理する者は、私たち一人ひとりに笠を借してくれた上に、案内の童を呼んでくれた。厚情に感謝する。傘をさして、谷を下り、岡を昇り、亀尻山(峠)に至る。
祖谷紀行 阿佐家1
祖谷紀行 29日 亀尻峠から阿佐家へ
 まさに久保家の主人が云ったように、道は険しく、汗が流れて衣服の間をつたい落ちる。ようやく鑽までやってきたが、雨はますます本降りになり、休む場もない。雨霧が立ち覆って、先もよく見えない。ただ声がする方向に、坂を下ると棘があり、欝林には、ぶす(ぶと?)という虫が多く、それが手足を噛んで、痛くて堪らない。

亀尻峠から阿佐家への雨の中の下り坂で、棘やぶとに悩まされています。なんとか阿佐家にたどり着きます。
祖谷山阿佐家
阿佐家

こうして坂を下り、谷を巡ってなんとか阿佐家に着いた。案内を請うて、久保家の主人が書いてくれた紹介状を出すと、袴に脇指しの家長と思える人物が現れて、座敷に通された。当主が錦の袋に入った平家の赤旗を軸にしたものを二つ床に架けた。

その赤旗が次のように「祖谷紀行」の中には描かれています。

阿佐家の平家の赤旗1
平家の赤旗 大旗(祖谷紀行)
大旗
総長 鯨尺六尺八寸三分、曲尺 八尺五寸一分五厘、幅二尺七寸
小旗
此幡上下損セリ、幡ノ上二八ノ字アルヘシ、切テ見エス、左ノ大明神ノ上二嶋ノ字チラチラミユル是巖島大明神ナルヘシ、右ハ一向二見エス、楷書古雅唐以上ノ趣アリ、双蝶ノ画工密ニシテ雅ナリ、地ハ明画ノ絹二似夕り、尤旗ニツギテナク、 一幅ノ絹ナリ、阿州蓬奄君見給ヒ、表具シテ錦ノ袋二入テ返シタマフトナリ
意訳変換しておくと
大旗は 総長 鯨尺で六尺八寸三分、曲尺で八尺五寸一分五厘、幅二尺七寸
小旗は、上下に損傷がある。「幡」の字の上には「八」の字があったはずだ。切れて見えない。また左側の大明神の上いは嶋の字がチラチラと見えるので、これは巖島大明神と書かれているのだろう。それに対して、右側は何も見えない。楷書古雅で唐風の趣がある字体である。双蝶の絵は、緻密で優雅である。生地は明画の絹に似ている。なお、旗には継ぎ目がない。一枚の絹である。阿州蓬奄が表具して、錦の袋に入れて阿佐家に返したという。

平家の赤旗 小旗
平家の赤旗 小旗(祖谷紀行)
平家の赤旗2

平家の赤旗3
阿佐家の平家の赤旗(右が大旗・左が小旗)
阿佐家の大小二流の平家の赤旗とよばれるものです。
大旗は、たて、303㎝,よこ111㎝の大きさで、赤、紫二色で交互に染られていましたが、今は変色して色は殆んど残っていません。上辺中央に、八幡大菩薩の墨書が見えます。
 小旗は、たて199㎝、よこ53㎝でやや中央に「むかい蝶」の絞章が墨で画かれ、上辺に、八幡大菩薩の文字を見えます。しかし、いまは、称の両脇の「大明神」も、かつて見えたという「厳島」も見えません。小旗も、赤く染められていたはずですが、今は色を失なって白く見えます。大・小ともに絹製ですが、いたみが激しくて18世紀末に菊地武矩が訪ねた時には、表装仕立てになっていたことが分かります。大旗が本陣用、小旗が戦陣用と伝えられています。

作者は、平家の赤旗だけを見に来たかのようで、当主とのやりとりや家のことには何も触れていません。「御旗を見終わると、謝意を述べて立ち帰った。」と記すだけです。
ここでは阿佐家のことを、もう少し詳しく見ておきましょう。
近世の祖谷地方は、天正13年 (1585)の祖谷山一揆鎮圧に功績のあった喜多家が政所(庄屋)に就きます。その下で中世以来の系譜を引く名主がそれぞれの名(東祖谷山12名,西祖谷な ご山24名)の農民を名子として支配する独特の方式が続きます。阿佐名の名主・阿佐家は、比較的早い時期に蜂須賀家に服属した家で、そのため郷高取(ごうたかとり)とも呼ばれる武士に準ずる待遇の身居(身分)を与えられます。いわゆる「祖谷八士」の一人で、文政10年(1827)郷士格となっています。

阿佐利昭家住宅(
       阿佐家平面図(東祖谷山村誌674P)
 その屋敷は山地の中としては、広い平担地を敷地としていて、前方が広く開けています。
屋敷の建築年代は文久二年であることが棟札から分かります。徳善家と同じよな玄関・書院風造りの続き座敷がありますが、間取りはかなり違っているようです。この家の特徴を、東祖谷山村誌は次のように記します。
①中廊下があること。家の下手に四室、その中央棟通りに廊下があって、前後二室ずつに分割している。
②上手の奥に隠居がある。上手のジョウダンノマとインキョは、今はどちらも八畳である。しかし、もともとの間仕切は、半間奥にあって、ジョウダンノマは十畳、インキョは六畳であった。インキョには炉が切られ、天丼を張っていない。ここからこの部屋は未完成という感じも受ける。
阿佐家上段の間からインキョ
阿佐家 ジョウダンノマ
平家の赤旗を拝見した一行は、降り続く雨の中を傘をさし、来た道を亀山峠に向けて引き返します。
ここで亀越峠のことを少しお話しします。
祖谷山 亀尻峠3
亀越峠(「阿波の峠歩きより」)
亀越峠は、旧祖谷街道上に位置します。
 阿佐と麦生土と西山や久保を十文字に結ぶ交通の要所でもあります。そのためかつては通夜堂が建っていて、祭りには踊りや相撲大会も奉納されていたようです。この峠には二体の弘法大師像も祀られています。その台座には阿佐、西山、九鬼、麦生土、京上、小川の各名の十数名の名が彫り込まれています。ここからは、この峠にいろいろな集落から人々が集まり、交流や信仰の場となっていたことがうかがえます。
 阿波藩士・大田信上の『祖谷山日記』には、亀尻峠からの展望の良さが記されています。地元の栃之瀬中学校(昭和48年束祖谷中学校に統合)では、遠足に峠まで登っていたようです。今は、植林された樹木が茂って展望は遮られてしまいました。
亀越峠のあごなし地蔵は、歯痛どめの流行神だった。
亀尻峠のあごなし地蔵
ここには「あごなし地蔵」も祀られています。江戸時代後期になると、いろいろな流行神が登場するようになって、「分業」して痛みに対応してくれるようになります。こうして「歯痛専門」の流行神も登場します。そんな仏様が「あごなし地蔵」です。
 亀尻峠のあごなし地蔵の台座には「おきノくに あごなし地蔵」と刻まれています。「おきノくに」とは隠岐のことで、「あごなし地蔵」発祥の地です。あごがなければ歯もないし、歯痛にもなりません。この地蔵尊は、青石で作られていますが、阿波のものではないようです。総高28㎝と小柄なので、隠岐で作られ、背負って運ばれてきて、この峠に勧請されたものと研究者は考えています。歯痛からの解放を願って、この峠に勧進された地蔵尊のようです。それを行ったのは。廻国の修験者たちだったはずです。祖谷には、修験者の活動が色濃く残っているように私は思っています。
亀尻峠から久保までの下り道を見ておきましょう。
亀尻山までやってきた。南北に坂がある。南が来たときの道なので、今度は北への坂道をたどる。少し行くと道のそばに、藁屋の猪小屋があった。猪が山田を荒らさないように監視する小屋らしい。雨が止まないので、ここで休息することにした。休んでいると西湖が、次のような事を話し出した。祖谷では疱瘡を忌み嫌う。そのためか疱瘡患者が少ない。たまたま疱瘡になった者は、こんな猪小屋のようなものを建てて、そこに患者を隔離して、家から食事などを運んで看病する。そのため疱瘡患者は、風雪や療痛の気に犯されて、十に八九は亡くなってしまう。この地の風俗が淳厚だとおもっていたので、これを聞いて心が少し暗くなった。そうする内に、雨もやんだので、猪小屋を出て坂を下った。麓について、もと来た道に出会い、例の鬘橋を渡って、黄昏には久保に帰り着いた。

祖谷の葛橋 阿波名所図会
祖谷の橋(阿波名所図会18)

4月30日、夜明があけても、雨は猶やまない。谷川からは雷のような濁流に石が打ち付けられる音が聞こえてくる。久保家の主人は心配して、もう一泊することを勧めてくれた。その言葉に甘えて、かたじけないと謝しながら泊まらせてもらうことになった。
  こうして降り続く雨に閉じ込められて、翌日も久保家に逗留することになります。その間。主人から聞いたのが祖谷に伝わる怪奇伝説ですが、これは省略して、今回はここまでとします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


 寛政5年(1793)の春、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文を現代語に意訳して読んでいます。高松の由佐発しての前回までのコースは以下の通りでした。今回は、3日目夜の東祖谷の久保盛延を尋ねて、歌人でもある当主とのやりとりや、平家伝説についての話が記されます。それを、現代語訳していきたいと思います。
4月25日  
由佐 → 鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠 → 貞光
4月26日
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇 西福寺
4月27日
一宇の西福寺  → 小島峠 → 菅生 → 虹の滝 → 久保 
祖谷山の民家分布
小島峠から菅生・久保と歩いている

久保家当主への「宿泊依頼」を、菊地武矩は次のように記します。
小坂を下って、山のほらをめぐりめぐって、黄昏に久保という所に着いた。雌雄より久保までは約五里。久保には、久保二十郎盛延という祖谷八士の一人がいる。ここから先、私は西湖に託して大和うた(短歌)を送った。
阿波国の祖谷の山里に久保氏という人が住んでいらっしゃる。門脇宰相平國盛の子孫で、敷島の道にさとく、巧みであると聞ている。そこで、今の私の気持ちを歌に託して送ります。
雲の上にありし昔の月かけを 世々にうつせるわかの浦波、
志き島の道を通ハん友千島いや山川の霧へたつとも、
南天千嶺合、望断白雲中、借間秦時客、柳花幾責紅
( 中略 )これに返書があり、受入OKの歌が詠まれています)

歌人の紀行文は芭蕉の「奥の細道」が模範です。あくまで「歌」が主役です。別の視点から見れば、この歌を紹介したいので、紀行文を書いているともいえるようです。どちらにしても、歌を通じて「一宿一飯」の関係が結ばれていく歌人ネットワークがあったことがうかがえます。これは、当時の蘭学者たち人達にも当てはまることは以前にお話ししました。剣術で云えば「武者修行者」に、宿を提供する道場ともいえます。これが江戸時代後半の学者や文人達の活発な動きを支えていたように思えます。
案内されて久保家の主人とのやりとりが続きます。
 先導した西湖が、私たち一行がやってくることを告げていたので、家僕が家の前に出て玄関まで案内してくれた。この家には阿波の浪士で赤堀権二郎という人が逗留中であった。この人は、阿波侯の家臣(四百五十石)であったが、故あって浪人中で、久保家にやってきていた。互いに名告りあって話していると、当主の長男・友三郎が出て来て、父は少々病気がちで、出迎えや接待ができないことを謝った。  
 しかし、しばらくすると当主の三十郎も現れ、遠路の労を謝し、寝乱髪のままでの不敬を詫びながら、久保家のことについて次のように話し出した。この家は山の麓にあって辰己にむかって建っている。長十一、二間を三、四区に分けて、一間毎に三尺ほどの囲炉裏を設けて、そこで薪を燃やす。山中幽谷で、寒気が厳しいので、寒さから身を守るためだという。時が経ち燈を灯して、物語をしながら膳に着く。飯香が出された。寿香米と云う。これが世にいう「かはしこ米(?)」のようだ。やって来る道筋で見た「志ほててふ草」(?)を羹として出された。その味は蕨によりも美味である。
この家は、現存する阿佐利昭家や喜多ハナ子家の規模とほぼ同じ規模だったようです。
阿佐利昭家住宅(
久保家と同規模の阿佐利昭家平面図

「三四区にわかち」については、よく分かりませんが、桁行方向に三か四室が並んでいたと研究者は推測します。しかし、奥行に一ぱいに拡がる広い部屋が並列するのか、奥行に二室あるいはそれ以上の部屋があるかは分かりません。

徳島・祖谷 平家伝説|地域|NHKアーカイブス
平国盛

膳が運び去られた後で、この家の歴史について主人が次のように話し始めます。
寿永二年に、源平の屋島合戦に破れ、平氏は安徳天皇を供奉し、長門へ落ちのびた。檀の浦でも敗れ、入水したと歴史書には書かれている。しかし、実は安徳天皇は、祖谷に落ちのびてきたと、私たちはの先祖は伝えてきた。
 そのことについては、すでにお聞きして承知していますと答えると、主人は次のように答えた。
 祖先の申伝えてきたことには、寿永二年に讃州屋島で敗れて、門脇宰相平國盛(教盛の弟)は、兵百人ばかりを率いて、安徳天皇を供奉し、讃岐の志度の浦に逃れた。さらに情勢を見て、大内部水主村に移動し、数日後に阿讃国境の大山(大坂越)を越えて、十二月大晦日に、祖谷にやってきた。そしてこの地の荘巖窟の内で越年した。今でも、これを平家の窟と呼んでいる。この時に門松の松がなかったので、とりあえず檜の木を用いた。そこで今でも、阿佐唯之助と某の家では、門松に檜の木を用いていると。


ここからは平家物語の安徳天皇の最期とは、異なる物語が祖谷では流布されていたことが分かります。

平家物語では、平家は1184年壇之浦の戦いに敗れ、幼い安徳天皇は入水したことになっています。その際、平清盛の甥である平教経(後に、幼名の平国盛に改名?)も海に飛び込みました。しかし、祖谷に伝わる落人伝説では、そうは語りません。壇ノ浦で入水したとされる安徳天皇は、実は影武者で、平国盛は本物の安徳天皇を連れて阿讃山脈を越え、山深い祖谷へとたどり着き、この地に潜んだというのです。しかし、安徳天皇は原因不明の高熱で、わずか8歳で亡くなってしまいます。国盛は悲しみ、平家再興を断念し、祖谷で暮らす道を選びます。そして、祖谷で生活をしている
阿佐家を初めとす「祖谷八家」の多くは平家の子孫というのです。近世に書かれた歴史書には、これにいろいろな「尾ひれ」が付け加えられることになります。

美馬郡記
美馬郡記
祖谷紀行の作者・菊地武矩は、ここで美馬郡記の次の部分を引用しています。

 國盛帝を供奉し、此山に分入る、時しも十二月晦日の事なりしか、日も暮けれハあたりに人家もなし、一の岩屋にやとりて、其夜を明さんとす、日かく落ふれたれと、明日元日のことふきに、門松たてよと有けれハ、郎等松を求るに、闇夜にして見え分す、檜の木を切て建つ、明れハ元日山をこえ行に人家有り、元日の雑煮いとなみ給けり、甲冑弓やなくゐ負たる大勢入けれハ、家人恐れて逃隠る、いさ雑煮くハんとて、大勢に行とヽかす、軒に兎ありけるを、幸の事とて、これをもともに喰ける、是よりここに居住し、其後西庄加茂半田、讃岐の寒川香西の地も切従へ、加茂村に城築て住す是を金丸の城といふ、其後阿佐紀伊守の時、天正年中、長曽我部に攻られ落城して、再ひ祖谷山に引こもる、家に平民の赤旗を所持す、其徒祖谷の内所々にわかれ住す、今の二十六名といふもの是也、名主の多くは、その乱後に祖谷に来りにしか、
栗枝渡火葬場
(中略)
文治二年正月朔、天皇崩し給ふ、これを栗枝渡といふ所に葬奉り、帰空梁天大騨門と法号し奉る、後の世よりして其地に社を建て、いつき祭り、是を八幡宮と申、八幡宮ハ応神天皇也、思ふに応神天皇を祭り、安徳天皇を相殿にいハひまつるか、又当時源氏の威を恐れて、 いミかくするにや、
 又別に社建て御鉾を納り(い)こまの鉾大明神これ也―
美馬郡記二云、当社に緋成しの鎧壱領、十五歳許の人のきるへき物也と、又当社に朝千鳥といふ琵琶あり、又の名ハ白瀧、元和二年、澁谷安大夫御意の趣を以被召上、帰空梁天大騨門とある位牌あり、これを御神体とす、実は安徳天皇の御法号なれと、世の憚あれハ、後嵯峨院の御位牌と申なり、社人宮本和泉、別当集福寺、鉾大明神大枝名にあり、帝の御所持の鉾を祭るといふ
意訳変換しておくと
 平國盛が帝を供奉して、祖谷山に分入った。それは折しも十二月大晦日の事であった。日も暮れ、あたりに人家もない。そこで、一の岩屋で、夜を明そうとした。日は落ち暗やみの中ではあるが、①明日は元日なので、門松をたてよとの声がした。そこで、郎等たちが松を探したが、闇夜で見分けがつかない。そこで檜の木を切て門松とした。
 開けて元日に、山を越えて行くと人家があり、住民達は雑煮を食べていた。②そこへ甲冑や弓矢の大勢の落人たちがやってきたので、家人は恐れて逃隠れた。それで残された雑煮を食べようと、大勢で押しかけると、軒に兎がぶら下げてあった。これ幸と、これも雑煮に入れて喰べた。
 こうして、落人達はここで生活することになった。③祖谷を拠点として、その後には、西阿波の西庄・加茂・半田、讃岐の寒川・香西の地も切従えて、加茂村に城を築いた。これを金丸城と云う。その後は、④天正年間に長曽我部に攻られて落城して、再び祖谷山に引こもった。祖谷の有力者の家には、平氏の赤旗がある。それは平氏の子孫が祖谷の各所に分かれ住んだためで、⑤今は「祖谷三十六名」に当たる。名主の多くはその子孫である。

①文治二年正月朔に、安徳天皇が8歳でなくなると、栗枝渡(くりしど)という所に埋葬し、後に神社を建立し栗枝渡八幡宮と呼んだ。これは源氏の威を恐れて、見つからないようにするためだった。
②別に社建て、御鉾を納めたのが鉾大明神である。
鉾神社(ほこじんじゃ)は、安徳天皇の鉾を納めていたという伝説に基づいています。そして伝説に基づき、江戸時代末期の1862年、この神社を正式に「鉾神社」と改称することになったようです。

以上を要約すると次のようになります。
①祖谷山に落ちのびてきたときには十二月大晦日で、門松を造ったが松がないので檜を代用とした。今でも、門松に檜を使う家があるのはこのため。
②元日に、住民の家を襲い雑煮を奪って食べ、祖谷の支配者となった。
③祖谷を拠点に、西阿波から讃岐の寒川・香西の地も従え、加茂に金丸城を築城した。
④長宗我部元親の侵攻で金丸城を落とされ、祖谷に引きこもった。
⑤彼らが祖谷に分かれて住み、祖谷三十六名を構成した。今の名主の多くはその子孫である。

 これを見ると美馬郡記には、祖谷勢力が西阿波から讃岐までを勢力下に置いていたと記されています。祖谷郡記には中世の阿波の三好氏や細川氏の認識がポッカリと抜け落ちていることが分かります。また、近世の祖谷八氏と平家の落人達を、ストレートに結びつけています。
祖谷山 鉾神社
鉾大明神(東祖谷山)
鉾大明神(神社)について、作者は美馬郡記の次の記述を引用します。
当(鉾大明神)社に緋成しの鎧壱領、十五歳許の人のきるへき物也と、又当社に朝千鳥といふ琵琶あり、又の名ハ白瀧、元和二年、澁谷安大夫御意の趣を以被召上、帰空梁天大騨門とある位牌あり、これを御神体とす、実は安徳天皇の御法号なれと、世の憚あれハ、後嵯峨院の御位牌と申なり、社人宮本和泉、別当集福寺、鉾大明神大枝名にあり、帝の御所持の鉾を祭るといふ

意訳変換しておくと
鉾大明神には、鎧一領があるが、寸法が小さく幼年者の着用したものだろう。また、朝千鳥という琵琶があり、又の名を白瀧という。元和二年、澁谷安大夫御意の趣を以被召上、帰空梁天大騨門と書かれた位牌もある。これを御神体としている。これが安徳天皇の御法号である。しかし、世にはばかりがあるので、後嵯峨院の御位牌と称してきた。社人は宮本和泉、別当は集福寺で、鉾大明神大枝名にあって、帝の御所持の鉾を祭るとされる。

栗枝渡八幡神社(祖谷山)
栗枝渡八幡宮

以上のように、作者は久保氏から熱心に平家伝説を聞きとっています。そして帰宅後に、それを「美馬郡記」の記述で裏付けようとしています。ここからは祖谷の平家伝説は、近世後半にさまざまなストーリーが語られるようになり、それを裏付ける神社が姿を現し、定着していったことがうかがえます。
今回は、ここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 













 

 祖谷紀行 表紙

 寛政5年(1793)の春、讃岐国香川郡由佐村の菊地武矩が、阿波の祖谷を旅行した時の紀行文を現代語に意訳して読んでいます。前回は、高松の由佐発して、次のようなコースで一宇の西(最)福寺までやってきたのを見ました。今回は、3日目の一宇から小島峠を越えて、東祖谷山の久保までの行程を見ていくことにします。これまでの行程を振り返っておきます。
4月25日 
由佐 → 鮎滝 → 岩部 → 焼土 → 内場 → 相栗峠 → 貞光
4月26日
貞光 → 端山 → 猿飼 → 鳴滝 → 一宇 →西福寺
祖谷紀行 小島峠へ1
祖谷紀行 西福寺を出発し、小島峠へ
意訳変換しておくと
 4月27日、昨日に案内を頼んだ「辺路」が、早朝に西福寺まで迎えに来てくれた。住持へ厚意を謝して、辰の刻(午前八時)には出立した。谷川を渡って行くと、一里ほどで大きな橡の木が現れた。幹周りが三抱えもあって、枝葉が良く茂っている。この辺りでは「志ほて」と呼ばれる草があって、蕨に似て美しい。その味は、淡いという。
祖谷紀行 小島峠へ2

ひらの木や草杉苔などが多く茂る。橡の巨樹の木陰で休息し、その後は、葛籠折れの羊腸のような山道を捩り登り、をしま(小島)峠に着いた。
小島峠が一宇と祖谷との境である。ここで今までの道を振り返って見ると、讃岐の由佐から相栗峠までは、地勢は南が低く、川は北に流れる。一方、相栗から芳(吉)野川にまでは、川は南に流れる。これは、阿讃山脈が阿波と讃岐の界を分けるためである。吉野川から一宇までは、地勢はますます高くなり、川は北に流れる。そのため、この峠はことさらに高く険しい。これは一宇と祖谷の分岐点界となっているためだ。
東祖谷山地図2
一宇から小島(おじま)峠
①小島峠への道は、西福寺から谷川沿いの道を辿っている。
②道沿いには橡などの巨樹が茂っていた。
現在の小島峠へのルートは、貞光から国道438号を剣山方面へ向い、旧一宇村明谷で明渡橋を渡り、県道261号を車で行くのが一般的です。
令和5年6月25日・小島峠の地蔵祭り - とくしまやまだより2
旧小島峠のお地蔵さん

旧小島峠には、
天明7年(1787)建立の半跏像の地蔵尊が祀られています。台石に「圓福寺現住宥□ 法練道乗居士  菅生永之丞室」の銘があります。これは菅生家11代永之丞の妻が主人の菩提を弔うために立てたものといわれます。ここには氏寺の円福寺の住職名も刻まれています。ということは、一行がこの小島峠を訪れた時には、この地蔵はあったはずなのですが、何も触れられていません。作者の興味は、詩作やその題材となる樹木・山野草に、より強く向けられていたようです。
剣・丸笹・見ノ越
剣山と丸笹山と鞍部の見ノ越(祖谷山絵巻)

小島峠から見える剣山を、「祖谷紀行」は次のように記します。
剣山は、昔は立石山と呼ばれていたが、安徳天皇の御剣を納めたことから、剣の峯と呼ばれるようになったという。美馬郡記には「この山上に剣権現の御鎮座あり、又小篠権現とも云う。谷より高さ三十間計、四角なる柱のごとき巖(神石)が立つ。これを神体とするが、その前に社はない。ここにに剣を納めたが、風雨にも錆ない、神宝の霊剣である。六月七日多くの人々が参詣する。木屋平村よりの道があり、多くの人は、木屋平ルートで参詣し、夜になって帰る」

大剣石 祖谷山絵図
剣の峰と大剣神社(祖谷絵巻)
 天皇の御剣を納めた所は、ミツエという所で、剣の峯ではないという説もある。ミツエは久保の南三里ばかりの所で、その上に、長い戟のような石がある。時に白く、時に黒くなるので、住民はこの石の色で、雨が降るか降らないかを占うという。
モシホ坂・菅生・塔の丸から 
小島峠からのぞむ菅生・久保方面(祖谷山絵図) 

小島峠から東祖谷の菅生への下り道について、次のように記します。
 小島峠で昼食をとり、しばらく休んでから坂を下ると岩休場という所に至る。①ここには二抱えもある楓樹がある。これほどの巨樹は珍しい。半田の山には、七抱えもある「かハけ」の巨樹があるという。いよいよ深山幽谷に入ってきた思いを深くする。
 西湖が云うには、祖谷の西の栗か峯とい所で商人が休んでいると、空からほろほろと降ってくるものがある。衣についたのを見ると血である。空は、晴れて何も見えない。しかし、次のような声が聞こえてきた。「それ追かけよ、土佐のいらす(不入)山へ赴たり」 これは今より三、四年前のことである。これは②天狗たちの相戦う姿だと、人々は噂したという。
 この辺りには③升麻(しょうま)・独活(うど)が多く生えている。ウドは長さ二尺余、これを折れば匂ひが辺りに漂う。柳茸の大きなものもある。士穀とって懐に入れた。
 峠を下り、谷川を渡ると、老翁が蓑笠を着て、岩に腰掛けて④魚を釣る姿が見えた。それは中国の渭水で釣をする雙のように思え、一幅の絵を見るようであった。この釣翁にかわりて「南山節々鳥刷々、青簡空差白髪年、誰識渭濱垂釣者、不語三暑六朝篇」と詠った。
 一の小坂を上ると、地がなだらかになり人家五・六軒が見えて来た。この中に、菅生四郎兵衛の家がある。そのさまは雌雄の南八蔵と同じように、祖谷八士の一人という。 
ここからは以上のことがうかがえます。
①旧一宇村は「巨樹」が多いことで有名。この時期から大きな木が切らずに残されていたこと
②天狗が空中で争うことがエピソードとして語られている。「天狗=修験者」で、修験者たちの活発な動きがうかがえる。
③草木や薬草などや④釣りなどの知識が深い。中国の漢詩などの素養もある。
④菅生には、祖谷八士の菅生四郎兵衛の家があった。
 

祖谷
「菅生の滝」は、現在の「に虹の滝」
そこから百歩程行くと谷川があり、川を右に見て山の半腹を半里いく。さらに谷を下り、山を越え、谷川を渡れば、 一の瀑布が現れる。千筋の白糸が空から連なり流れ下るかのように見える。先に見た鳴瀧に比べれれば、児孫程度だが、郷里讃岐の小蓑瀧に比べれば父母のようである。この滝の名を聞くと、名はないという。山深中で、誰に聞けというのか。
 とや白糸の瀧の波音打志らふらん、
と一首詠んで、白糸の瀧の名と仮にしておく。
   菊地武矩が「白糸の瀧」と詠んだ瀧は、斜めに日がさしこむと、みごとな虹が一面にかかります。そのため「虹の瀧」と呼ばれるようになって、今は公園になっています。

祖谷の虹の谷公園
祖谷菅生の虹の谷公園
祖谷山 虹の滝
虹の滝の説明版
ここから小坂を下って、山のほらをめぐりめぐって、黄昏に久保という所に着いた。
雌雄より久保までは約五里。久保には、久保二十郎盛延という祖谷八士の一人がいる。私は西湖に託して大和うた(短歌)を久保氏に送った。久保氏は門脇宰相平國盛の子孫で、敷島の道にさとく、巧みであると聞ている。そこで、私の今の気持ちを歌に託して詠み送った。
雲の上にありし昔の月かけを 世々にうつせるわかの浦波、
志き島の道を通ハん友千島いや山川の霧へたつとも、
南天千嶺合、望断白雲中、借間秦時客、柳花幾責紅一
かえし
歌のやりとり末に、久保氏の家に泊まることになります。そこで、祖谷の平家伝説が語られることになります。それは、また次回に。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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木地師5
木地師(ろくろ師)
    木地師(きじし)のことが、東祖谷山村誌に載せられていました。これを今回は読書ノート代わりにアップします。まずは、木地師についてのアウトラインを「ウキ」で押さえておきます。
①木地師とは轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品(挽物)を加工、製造する職人で、ろくろ師とも呼ばれた。
②伝説では近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)に隠遁した惟喬親王が、手遊びに綱引ろくろを考案し、周辺の杣人に木工技術を伝授し、日本各地に伝わったと言う。
③惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称する人たちは「朱雀天皇の綸旨」の写しを持って、全国の山々に入り込み、7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を主張した。
④綸旨や由緒書の多くは、江戸時代の近江筒井神社の宮司・大岩助左衛門重綱の偽作であるが、木地師が各地に定住する場合に有利に働いた
⑤木地師は良質な材木を求めて20〜30年単位で、山中を転々と移動しながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。
⑥中には移動生活をやめ集落を作り、焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。
木地師と近江の筒井神社
筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)と木地師
江戸時代に入ると木地師達は、次のどちらかの神社の氏子に登録されていきます
A 惟喬親王の霊社を祀った神祗官の白川家擁する君ガ畑村(東近江市君ヶ畑町)の大皇太神(鏡寺)
B 神祗官の吉田家擁する蛭谷村の筒井八幡(帰雲庵)(東近江市蛭谷町)
両社は、それぞれ自分たちを木地師の氏神と称し、競って自社の氏子に登録していくようになります。これを「氏子狩」と呼んだようです。こうして総代代理と称する勧進僧が近江からやってきて、寄進を募るようになります。これが「氏子駆」で、その寄進の「勧進帳」が両社には数多く残されています。これを見ると幕末には、木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたことが分かります。

祖谷山に木地師がいたことをしめす一番古い史料を見ておきましょう。
 阿波国田井庄中西郷之内轆轤師得銭、取前御方参上、者当知行不可有相違候状如件
康暦二(1343)年十二月十五日
阿波守 花押
国藤治部亮殿
意訳変換しておくと
阿波国田井庄中西郷の内の轆轤(ろくろ)師得銭(徳善)を、御方に与える。よって当知行について相違なきことを記す。如件
①康暦二(1343)年十二月十五日
②阿波守(細川頼之)花押
③国藤治部亮殿

①年号は康暦(こうりゃく)2年で、1380年にあたります。南北朝時代の末期です。
②花押の上には阿波守とあります。当時の阿波守は細川頼之になります。
③宛先の国藤治部亮は、徳善治部の子になるようです。

③の国藤治部亮の父・得善治部は、河内国出身で楠木正成の臣下と称します。南朝のため軍勢を募る目的で阿波にやってきて、西祖谷山に定住し、その開墾地を得銭と名付けます。のちに徳善と改め、徳善氏を名のります。吉野南朝方として活動しますが、康暦二年(1380)に細川頼之の阿波制圧に対して降伏して、安堵状を得たようです。この時に安堵された領地が「阿波国田井庄中西郷内の轆轤(ろくろ)師得銭(徳善)」ということになります。ここからは、南北朝時代に木地師達が祖谷山の徳善に定住していたことがうかがえます。これが最も古い木地屋に関する記録になるようです。ちなみに、この前年は「康暦の政変」で、室町幕府管領の細川頼之が失脚し、讃岐の宇多津に「帰国」した年になります。細川頼之は帰国後に、阿波への南朝残党軍の攻略を進めたとしておきます。
 東祖谷山村誌は、さらに次のような推測をします。
  徳善氏が南朝動乱期において、木地師たちを保護したのではないか。それは、木地師たちの持つ「職業的機動性」と「全国的なネットワーク」を活用し、熊野行者と同じように、南朝の機動部隊として飛耳張目して諜報伝令の役にあたったと研究者は推測します。木地師達は徳善氏の保護を受けて、周辺へと入植していきます。ここでは南北朝時代に、現在の徳善に「ろくろ師」の集落があったことを押さえておきます。
徳善を起点に木地師は、次のように活動エリアを拡げていきます。

祖谷村徳善
木地師の最初の入植地? 大歩危駅周辺の徳善・榎・西岡
①榎を中心として、吉野川対岸の山城町の六呂木・下名
②榎から北東の吾橋・徳善・西岡と分裂・発展しながら、東北に移動
西岡から東に伸びる尾根づたいに祖谷川に出て、今久保・中尾・閑定の山地に小屋を構え、さらに上流へと移動していきます。彼らの活動が、記録で確認できるのは18世紀になってからです。
木を求めて移動する木地師
木地師の転居
近江筒井八幡宮の「氏子駈帳原簿第十一号」には、氏子駈巡国人が、阿波の「いや谷・一宇山・みふち(深渕)」に、享保二十(1735)年9月に入山したことが記されています。これが「氏子駈」としては、一番古い史料になるようです。そこに記されている「氏子寄進リスト」を見ておきましょう。

元文2(1737年)の寄進リスト
美馬郡一宇山と三好郡祖谷谷の木地師の寄進リスト

元文2(1737年)の深淵山中木屋で、「氏子駈」に対しての寄進リスト
中木屋と木屋平のリスト
   ここからは、深淵・木屋平・美馬郡一宇山・三好郡祖谷山に、これだけの木地師達がいたことが分かります。
ひとりの木地師は「初尾+氏子+きしん(寄進)」の3点セットとなっています。「初尾」は、 神仏に供える金銭や米です。平安時代中期ごろから「初穂」を「はつを」と発音するようになり、中世以降は「初尾」と書くようになります。氏子は「氏子料」・きしんは「寄進料」・えぼしは「烏帽子料」でしょう。
 ここからは、18世紀前半になると伊勢講の御師のように、 近江筒井八幡宮の氏子駈巡国人が祖谷山周辺にもやってきて、木地屋たちから「氏子料集金」を行ったことが分かります。それから百年後の天保3年にも、氏子駈巡国人はやってきて次のような寄進リストを残しています。一番右に「同国美馬郡葛生(葛尾?)山木地師」と見えます。
天保3年9月(1832)筒井公文所氏子駈帳22号簿冊所収3(名頃)
1832年 名頃の木地師の寄進リスト
  
 祖谷山の木地師たちは、どんな生活を送っていたのでしょうか

木地屋の家 歴第60図 祖谷山絵巻
                        木地屋の家  祖谷山絵巻
画題 祖谷山当丸絶頂望菅生名諸山年表秘録に曰く、文政11年9月卯上刻公(蜂須賀斉昌)祖谷山御見分御出。同27日未中刻御帰城。
 |
19世紀前半に、藩主の祖谷山巡回に従った絵師の渡辺広輝(ひろてる)が残した「祖谷山絵巻(17面)」の中には、木地師の家と題された一枚があります。題目は「木地挽小屋全図」で、遠景の註に「土佐境」とあります。この絵図からは次のようなことが読み取れます。

A ①土佐境の祖谷山山中に3軒の木地師の小屋が並んで建っている。
B ②一番右の小屋からは煙が上がり、その前に②干し物が干されている。また周りにはろくろで削った④木屑が盛り上げられている。
C 小屋の周辺には、③のような切株が数多く見えて、材料のために周辺の森が切り倒されている。
D 右から二番目の小屋には、面に⑤木材が数多く立て掛けられていている。乾燥して材料とする木材だろうか?
E 水桶と樋が見えるので、⑥水場が確保できていることが分かる

木地師の家 祖谷山絵巻(拡大)
祖谷山の木地師の家(拡大)
水場などが確保できて、居住環境が良ければ、木々が倒された森は、焼き畑として利用されて、定住していく木地師たちもいたようです。
  この絵に描かれた木地師の家も、主屋・作業小屋・乾燥小屋など、作業用途に応じて建てられていた気配がします。そうだとすると、ここにいるのは一家族だけになります。

御出仏山・明谷山・中野山
御出仏山・明神山方面(祖谷山絵巻)
弘化四年(1847)2月、医師陳々斉の随筆・診療日録『俗話集』には、当時の木地小屋のことが次のように記します。
「はるかの谷間より同じくヲヲイと答えるにぞ嬉しくも、さては是なん木地屋の家居より答えるならんと思ひつつ、行けども行けども時ならぬ霧がくれにして、行先き一向さだかならねども折々人の声も聞へける程に、間ものふ心ざす方へ無恙(つつがなく)当(到か)着して、うろ/ヽ見廻し
見れば、二間半四方程の小屋二軒あり、いづれも桜や槙などの皮にて屋根を葺き、ぐるりの囲いも同じく、殊に滝の端に細長き木にて椰をあみたるうへゝ、彼木の皮をしき、其上へむしろ様の物を並べてある也。さて西方が亀吉とかいふ木地師也。東方は鶴太といふて、則ち此も疱瘡を病居るな
り。いかさま八畳敷程もあるらん、坐の真中に大なるいろりをあけてあり。すさましき措木をくべて、中々暖かなる事なり。肝心の二便場(便所)をととへば、此所は一向、作付植物などいたさぬゅへ、不浄は無用の事故、彼(かの)小屋外の棚端より居捨て給へときけば、おかしくも又恐ろしく、
いかさまと、こはごわ覗けば、誠に波風荒き海原に小船をつけし心地して、几そ二十四五間もあるべき滝下を望めば、中々、二便の気もなくならん」
意訳変換しておくと
「はるかの谷間からヲヲイと答えてくれることが嬉しく、これが木地屋の家からの返答だろうと思いつつ足を運ぶ。しかし。行けども行けども、霧が深く、行先は一向に見えてこない。折々、人の声が聞へてくるので、その声を頼りに、こちらだと思う方へ向かっていくと、なんとか到着した。うろうろと見廻して見れば、二間半四方程の小屋が二軒ある。どちらも桜や槙などの樹皮で屋根を葺いている。周りの囲いは、滝の端に細長き木で棚を編んで、木の皮をしき、その上へむしろのような物を並べてある。二軒の内の西方が亀吉という木地師で、東方は鶴太といい、疱瘡を患っている。中に入ると、八畳敷ほどの広さの坐の真中に、大きな囲炉裏が開けてあります。そこに多くのほだ木がくべられていて、暖かい。
 便場(便所)はどこかと問うと、ここでは一切、作物を作らないので、不浄は無用のことで、この小屋外の棚端からしたらよかろうとのこと。おかしくも恐ろしく、家のそばの滝をこわごわと覗き込んでみると、波風の荒い海原に小船を着けるような心地して、およそ25間も下の滝壺が見えてくる。これを見て、便気もなくなってしまった。」
木地師小屋6

ここからは次のようなことが分かります。
二間半四方の小屋が二軒あって、木地師と疱瘡患者が生活していた
②小屋は樹皮の皮で屋根が葺かれている。
③大きな囲炉裏があって、ほだ木が大量にくべられてる。
④家は滝のすぐ近くに建っていたこと。

モシホ坂・菅生・塔の丸から 
小島峠から菅生・久保方面(祖谷山絵巻)
大正11年(1922)折口信夫は木地屋のたたずまいを、次のように詠んでいます。(『折口信夫全集』第廿六巻 中公文庫版)
   高く来て、音なき霧のうごき見つ
木むらにひびく、われのしはぶき
篇深き山澤遠き見おろしに
頼静音して、家ちひさくあり
澤なかの木地屋の家にゆくわれの
ひそけき歩みは 誰知らめやも
有瀬 宵の岳 祖谷山絵巻
有瀬(祖谷山絵巻)

近世阿波の漆器工業は、美馬郡半田村の敷地屋を中心に展開していきます。
宮本常一編の作品一覧・新刊・発売日順 - 読書メーター

竹内久雄が史料提供し、また自らも執筆した『うるし風土記 阿波半田』を見ておきましょう。享保二十年(1725)11月、土佐韮生(香美郡物部村)久保山に、筒井八幡宮の巡国人が到着し、周辺の木地屋から上納金を集金します。その中に、次のような記録があります。

一、三分  初尾  半田村二而ぬし屋(塗物師) 善六」
『享保二十乙卯九月吉祥日 宇志こか里帳』(筒井八幡宮原簿十一号)

ここからは、善六がもともとは物部の木地師であったのが、半田に移って、「ぬし屋 (塗物師)」となっていたことが分かります。同時に享保の終り(1725年)には、半田地方に各地の木地師から白木地が送り込まれ、塗りにかけていたと研究者は考えています。
 それから約20年後の宝暦八年(1758)に、半田漆器業の開祖といわれる敷地屋利兵衛が、31歳で半田村油免に漆器の店を開きます。その後、七人の兄弟と力を合わせて、家業は軌道に乗せます。そのころには三好・美馬両郡には、25世帯の木地師が住んでいたと云います。それが開業から42年後には、家族を含め304人に増えています。急速な発展ぶりがうかがえます。初代利兵衛は、天明元年に54歳で亡くなると、その子の亀五郎が15歳で稼業を継ぎます。敷地屋の略系を示すと、次頁のようになる。 
敷地屋の略系
  半田の敷地屋略系
    祖谷の木地師たちは、各峠を越えて半田の敷地屋に白木地を納入するようになります。敷地屋による白木地の独占体制ができあがっていきます。半田の漆器工業は、藩の財源増収策の一環として保護され、販路を拡げていきます。2代目亀五郎が41歳の時には、苗字帯刀、大久保姓を許されます。文化8年(1811)には、塗物裁判所を開設し、翌年には亀五郎の長男善右衛門が、漆樹植付裁判役に就いています。
 嘉永3年(1850)、4四代熊太は、江戸への市場拡大を計ります。藍商の志摩利右衛門の力を借りて、藩の御用船による製品の輸送を始め、江戸の霊岸島に支店を置いて、藩の倉庫を使用して営業を行うようになります。
半田敷地屋の漆器全国販路
半田の敷地屋の全国販路(1851年)

こうして4代目の時代には、全国40ヶ所にまで販売網を拡げます。
これは急速な白木地の需要増大を招きます。祖谷山周辺の木地師に大量の注文が舞い込むようになります。半田漆器や木地師の繁栄のピークは、この時期だったようです。

半田 敷地屋

 半田漆器は幕末に一時衰退しますが、明治半ばになって敷地屋の努力で復活します。明治20年の仕入れ帳には、木地挽150戸・塗師40戸・磨師100戸・蒔絵師30戸・指物大工60戸を参加に従え、年間販売高13,8万円とあります。

半田敷地屋2

半田町史には、次のように記されています。

「木地を一字から木地屋の人々が持ってきて、半田の逢坂の一部落は、その塗師の集落であった。それらは、木地と塗料を敷地屋から受取り、家族が仕上加工した。塗るだけではなし、全部半田でするようになった。白木地で庸や箱を作る一種の家具大工と、塗るだけのものが分業し、あるいは両者を兼ねるものに分れ、三者合せて、大正十四年四月の調べでは、専業百戸、副業二〇戸位い」

東祖谷山村落合の木地屋、小椋竹松(1882~1965年)は、1950年4月(69歳)の時に、次のように語っています。

「私の一日の生産 
「からすばち」のときは三〇個、「菓子ぼん」は、二〇〇個、吸物搬で静付で一五〇個ぐらい。背負うときは、小さい「菓子ぼん」なら四〇〇個、もみすくいなら五〇個を背中に負い、落合峠を越え、加茂山峠を経て、半田町の木内に達し、問屋の大久保へ製品を差出した」
「これらの加工品は、すべて米麦と代えていたが、日露戦争の直後、菓子ぼん五寸三分のもので、間屋渡しが一枚五厘であった」

以前に、落合峠は「塩の道」で祖谷村消費する讃岐の塩が運ばれたことをお話しました。しかし、木地師から見ると、名頃や落合の木地師達が作った白木地が半田に向けて運ばれた道でもあったようです。「木地師の道」とも呼べそうです。

敷地屋五代の弁太郎と長男の利美は、相次いで亡くなります。
そこで分家の亀吉の子甚吉が、本家の後継となりますが、漆器工業の前途を見限って、大正15年に廃業します。こうして職人は四散し、半田漆器は衰退します。ここでは半田の漆器工業は、享保から大正末まで、祖谷の木地屋たちから、二百余年にわたって、白木地の提供を受けていたことを押さえておきます。

漆・柿渋と木工 宮本常一とあるいた昭和の日本23』田村善次郎監修他 - 田舎の本屋さん

半田漆器を、姫田道子氏がレポートしたものが「宮本常一と歩いた昭和の日本23」に載せられています。それを最後に紹介しておきます。
 ところが竹内さんの仕事場には、膳などはあっても椀は見ることができません。私はそれが気になりました。どうしてお椀がないのかしら。竹内さんのお話では、椀をつくっていたのは、専ら敷地屋という半田では唯一の漆器問屋だったらしい。そして半田周辺の山や、半田の町なかに住んでいた木地師たちがつくった椀木地は、すべてその敷地屋に納められていたといいます。独占でした。
 また明治20年代の記録では、逢坂には40軒の塗師屋がありましたが、そのうちのほとんどが、敷地屋の賃仕事をしていたといいます。たぶん半田のお椀の大多数は、そういう家々によってつくられたのでしょう。
東祖谷山地図2
    東祖谷山の落合峠と小島峠(東祖谷山村誌)

<木地の道>
 車で降り立ったところは、中屋といわれる山の中腹で陽が当たり、上を見上げると更に高い尾根がとりまいています。
 「あそこは蔭の名(みょう)、おそくまで雪が残るところ、馬越から蔭の嶺へと尾根伝いに東祖谷山の道に通じています。昔、木地師と問屋を往復する中持人が、この下のあの道を登り、そして尾根へと歩いてゆく」
 と竹内さんは説明して下さると、折りしも指をさした下の道を、長い杖を持って郵便配達人が、段々畑の柔らかな畦道を確実な足どりで登って来ました。平坦地から海抜700mの高さまで点在する半田町の農家をつなぐ道は、郵便配達人が通る道であり、かつては木地師の作る椀の荒挽を運ぶ人達の生活の道でもあったのです。
半田敷地屋の生産関係

半田敷地屋の生産関係図(東祖谷村誌)

 東祖谷山村の落合までは直線距離で25キロ、尾根道を登り降りすると40キロ。陽の高い春から秋にかけては、泊まらずに往復してしまう中持人もいたとか。さすがプロです。しかも肩に担う天秤棒にふり分け荷物で13貫(約50㎏)という重量があり、いくつも難所があったのに町から塩、米、麦、味噌、醤油、衣料、菓子類までも持ってゆき、そして半田の里にむけての帰り道は木地師が作った木地類を持ち帰ります。運賃の駄賃をもらう専門職でした。

 半田から南東の剣山の麓近くの村、一宇村葛籠までは、峠を越え尾根道をゆき渓谷ぞいの道を歩いて25キロ。
竹内さんはここで昔、木地師をしていた小椋忠左ヱ門さん夫妻をさがし当てました。51年の1月と51年の秋に二度訪れております。おそらく阿波の山でこの方ひとりが半田漆器と敷地屋とに、かかわりを持った最後の木地師ではないかと思われます。
東祖谷村の小倉姓一覧
東祖谷村の小椋姓一覧(木地師は小椋を名告った)

木地師の山
木地師の山(岳人)
以上をまとめておきます
①祖谷山の木地師は、吉野川沿いの徳善や榎・西岡に入植した
②南北朝末期の徳善氏の記録に「轆轤師得徳」と地名が出てくることが、それを裏づける。
③以後、切り尽くせば、さらに奥地に良質な木を求めて、祖谷側上流へと移動していく。
④実際の、木地師としての活動がうかがえる史料は「氏子駈帳」で、18世紀の前半に祖谷山村周辺での活動が見えてくる。
⑤19世紀には藩主お抱え絵師が残した「祖谷山絵巻」に、土佐国境附近での木地師小屋が描かれていて、活動の一端がうかがえる。
⑥祖谷山周辺の木地師は、半田の敷地屋に材料を下ろすようになり、安定的な生産活動が始まる。
⑦しかし、近代化の中で漆器の先行きに不安を感じた敷地屋は、今から約百年前の1926年に稼業を畳んだ。こうして、祖谷山村周辺の木地師たちも製品の卸先を失い、衰退していくことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
東祖谷山村誌258P 祖谷における「ろくろ師」の発生
竹内久雄編集 『うるし風土記 阿波半田』
姫田道子 半田漆器レポート? 宮本常一と歩いた昭和の日本23

            東祖谷の峠一覧
旧東祖谷村の峠一覧
「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」 阿波学会紀要 第53号より引用
前回は中世の祖谷地方の峠と交通路を、次のようにまとめました。
①南北朝時代には祖谷地方の峠を越えてつながる山岳道が割拠する「山岳武士」たちを結んでいたこと、
②そして、南朝吉野側の情報・指令を伝えたのが熊野行者に代表される修験者や聖達であったこと
③このような山岳道と道路・通信網があったからこそ、紀伊・阿波・伊予の南朝方は半世紀にわたる抵抗活動がおこなえたこと
こうして、中世の峠や交通路は近世にも引き継がれて行くことになります。今回は近世の祖谷の峠と交通路を最初に見ていきたいと思います。そして、それが近代に道路整備が行われることによって、どう変化したかを押さえたいと思います。テキストは「福井好行(徳島大学教授) 東祖谷山村に於ける交通路の變遷」です。

東祖谷の峠とお堂2

 私には祖谷地方は、剣山西北方面の山脈に囲まれたすりばちのように見えます。ここに入っていくには、どこかで摺鉢のふちを越えるために峠を越えなければなりません。祖谷地方に入るための峠を見ておきましょう。まずは落合峠からです。

2018.8.14 落合峠から落禿と前烏帽子 * 徳島県三好市東祖谷 - Do you climb?
落 合 峠(1520m) 
   三加茂 → 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム)→ 落合峠 → 落合
安政5年生れで落合で農業を営んでいた栃溝貞蔵さん(当時95才)は、次のように話しています。

 「加茂山三庄と落合の間には毎日10人位の『仲持ち』という背負運送人が荷物の賃蓮びをしていた。特に塩は、1人1年 に1俵を必要としたので、自分も度々戻り荷に負うて帰った。讃岐塩入(まんのう町)から加茂村鍍治屋敷まで来ている。財田塩を背負う時には桟敷峠を登り、深淵を通って落合峠を越えて帰った。冬の雪の積る頃は、道も氷って大変えらかった。しかも行きに1日,帰りに1日、どうしても2日がかりでないと行けなかった。

  昭和50年代に東祖谷山村落合の老人は、幼いときのことを次のように話しています
「祖谷山に住む人々の味噌・醤油・漬物の材料としての塩は,殆んどすべて讃岐から運ばれた。
落合一落合峠一深淵一桟敷峠一鍛治屋敷一昼間一塩入」
のルートを使って、三好郡三加茂や昼間の仲継店(問屋で卸売を兼ねる)が間に入り,祖谷山の産物と交換した。山の生産物を朝暗いうちから背負うて山を下り,一夜泊って翌日,塩俵をかついで山に帰った。厳冬の折りには山道が凍って氷のためツルツル滑って危険だった。しかし、塩は必要品だから毎年、塩俵を担いで落合に帰った。それは、大正9年に祖谷街道が開通するまで続いた。」
 ソラの人々は塩を、里に買い出しに下りていき、背負って帰っています。春の3月から5月にかけて、味噌や醤油を作るときや、秋から冬に漬物を漬け込むときには大量の塩が必要になります。その際には、里の塩屋へ買い出しにいきました。手ぶらで行くのではなく、何かを背負って里に下り、それを売って塩を買うか、または塩屋で物と交換したようです。そのためにこの時期には、自然と市が立つことになったようです。
  阿波西部の三好郡は、古くから讃岐から運び込まれる塩を使っていました。
塩の踏み跡が、阿讃山脈を越える峠道となっていったようです。そして、吉野川を渡り、落合峠を越えて祖谷へ続いていきます。まさに阿讃を結ぶ「塩の道」です。ここでは、讃岐の塩の道を次のように。押さえておきます。

丸亀・坂出の塩田 → 塩入(まんのう町) → 東山峠・ → 昼間 → 貞光・辻の塩問屋史→ 桟敷峠 → 深淵(松尾ダム尻) → 落合峠 → 名頃

   落合峠地蔵
落合峠の地蔵尊(大歩危橋東詰めの墓地に移転
「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰  阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7は、落合峠の石造物のことについて次のように記します。

深渕,桟敷峠を経て加茂に通じる落合峠は,落合集落から峠までの道に,地蔵尊4基,大師像と不動明王各1基の石造物があった。現在3基の地蔵尊が残っているが,大歩危橋東詰めの墓地に移転された「寛政十一年」(1799)の銘がある地蔵尊(図2)は,「諸人無難是より里谷峠三十五丁半」と刻まれている。これは道標を兼ねたもので,200年前は落合峠が「里谷峠」と呼ばれていたことを示す貴重な資料である。峠道は県道開通によって廃道となり,石造物も半数が移転された。

  ここでは落合峠が「里谷峠」と呼ばれていて、祖谷への「塩の道」であったことを押さえておきます。

風呂塔-石堂山 稜線歩き
風呂塔から石堂山は、修験者の行道でもあった
私が気になるのは、桟敷峠から落合峠に至るルートの東の山々です
ここには修験者の霊山とされた石堂山があります。そして、多くの信者達が「聖地巡礼」をおこなっていた山であることは、以前にお話ししました。落合峠越えのルートは、修験者が行道に使っていた「風呂塔~石堂山」の行道ルートと併行して伸びています。この両者は、何らかの関係があったのではないかと思えてきます。熊野行者が熊野参拝のために、山岳連絡道を大切に守ってきたことは知られています。そして修験者たちも祖谷と周辺をつなぐ峠道を管理・保護する役割を果たしていたのではないかという「仮説」が湧いてきます。

次に井川町からの水口峠です。
水の口峠地図
井川から水の口峠へのルート
桟敷峠の西の「水ノロ峠」は、西祖谷の「小祖谷」の人々が利用した道筋でした。
辻 → 井内 → 地福寺 → 水ノ口峠(1116m) → 小祖谷 → 寒峰峠 → 東祖谷大枝

小祖谷の明治7年(1875)生れの谷口タケさん(98歳)からの聞き取り調査の記録には、水ノ口峠のことが次のように語られています。

水口峠を越えて、井内や辻まで煙草・炭・藍を負いあげ、負いさげて、ほれこそせこ(苦し)かったぞよ。昔の人はほんまに難儀しましたぞよ。辻までやったら3里(約12キロ)の山道を1升弁当もって1日がかりじゃ。まあ小祖谷のジン(人)は、東祖谷の煙草を背中い負うて運んでいく、同じように東祖谷いも1升弁当で煙草とりにいたもんじゃ。辻いいたらな、町の商売人が“祖谷の大奥の人が出てきたわ”とよういわれた。ほんなせこいめして、炭やったら5貫俵を負うて25銭くれた。ただまあ自家製の炭はええっちゅうんで倍の50銭くれました。炭が何ちゅうても冬のただひとつの品もんやけん、ハナモジ(一種の雪靴)履いて、腰まで雪で裾が濡れてしょがないけん、シボリもって汗かいて歩いたんぞよ。祖谷はほんまに金もうけがちょっともないけに、難儀したんじゃ」

  小祖谷というのは、聞き慣れない地名ですが、松尾ダムの下流になるエリアです。小祖谷に運び込まれた塩は、ここで仕分けされて祖谷各地に運ばれました。「東祖谷にいも1升と弁当で、煙草をと取りに行った(輸送した)」と話していますので、小祖谷は物資の集積拠点の機能を果たしていたことが分かります。

四国百名山 阿波の石堂山に山伏たちの痕跡を探す : 瀬戸の島から
地福寺

 井内の地福寺から水の口峠には2つの道がありました。
一つは旧祖谷街道(祖谷古道)といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に下りていくルートです。このふたつの集落は小祖谷(西祖谷)と縁組みも多く、このルートを通じて交流があったようです。
 もうひとつは、峠と知行を結ぶもので、明治30年(1897)ごろに開かれたようです。
このルートは、讃岐からの米や塩が運び込まれたり、祖谷の煙草の搬出路として重要な道で、多くの人々が行き来したようです。この峠のすぐ下には豊かな湧き水があって、大正8年(1919)から昭和6年(1931)までは、凍り豆腐の製造場があったようで、知行の老人は次のように懐古しています。

「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」

水の口峠 新聞記事jpg


 水ノ口峠から地福寺を経て、辻に至るこの道は、吉野川の舟運と連絡します。
また吉野川を渡り、対岸の昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入(まんのう町)につながります。この道は、古代以来に讃岐の塩が祖谷に入っていくルートの一つでもありました。また明治になると、多くの借耕牛が通ったルートでもありました。明治になって開かれた知行経由の道は、祖谷古道に比べてると道幅が広く、牛馬も通行可能だったようです。

寒峰峠.2JPG
寒峰峠から大枝・奥の井へ(「阿波の峠歩きより」)
水の口峠からは、寒峰(かんぽう)峠を経て東祖谷の大枝への道もありました。 
平国盛の後裔と云う阿佐名の阿佐家系図には、元暦2年に讃岐屋島の壇ノ浦の闘いで敗れた後に、次のように記します。

「井川の庄から水ノロ峠を城え寒峰の嶮を打越えて大枝の窟で越年した」

ここからは、「井川 → 水ノ口峠 → 寒峰(かんぽう) → 大枝」というルートが古くから使われていたことがうかがえます。

     寒峰峠(1495m)は、寒峰の南西約400mにある峠です。
『峠の石造民俗』には、昔は大師堂が建っていたとありますが、今はありません。草付きの広場と囲炉裏の石組二基が残っているだけです。水の口峠とこの峠が井川町の辻と東祖谷山村の大枝を結んでいました。そして、栃ノ瀬を経て土佐へと抜ける交通路でした。
大師堂にあった手水鉢が、お堂を管理していた奥の井の谷家に残っています。楕円の青石製で、正面に「奉水」と刻まれ、辻や大枝の地名が刻まれているので、この街道の出発地と終点の有力者達が寄進したものでしょう。険しい峠道を往来した人々が、手水鉢で手を浄め、旅の無事を析っていた姿が見えて来ます。

まーくつうの登山アルバム 寒峰 登山
福寿草の里 寒峰
 峠から寒峰頂上へは、わずかの距離です。ミヤマクマザサにおおわれた寒峰の山頂からは、剣山、三嶺、天狗塚、牛の背、矢筈山等の360度の大パノラマが楽しめます。今は福寿草の里として、登山者に大人気の山となり、花と展望と伝説に人気コースとなっています。

東祖谷の東北方面には、見の越(1,403m)と小島(おじま)峠(1,380m)があります。

剣・丸笹・見ノ越
見ノ(蓑)越(祖谷山絵巻)

「見の越」は、近世に剣山参拝拠点として修験者たちによって開かれたことは以前にお話ししました。現在では、登山ケーブルがあり、剣山登山の表玄関になっています。ここを東に越えると麻植郡木屋平に出ます。見ノ越は、もっとも古く開かれた峠で、古くから多くの人々に使われていたと研究者は考えています。ちなみに、見ノ越に円福寺が開かれ、剣への参拝拠点になるのは近世後半になってからです。

剣山(1955m) ・見ノ越駐車場より | Bodhisvaha
剣山見ノ越の円福寺

小島峠
小島峠(「阿波の峠歩きより」)

小島峠を利用したのは菅生・名頃の人々たちでした。
落合よりも東の人々は、小島峠で半田・貞光地方と結ばれていました。菅生から池田へは約60㎞ですが、貞光へは28㎞で、距離的に半分以下の上に、峠が低くて雪も少ないようです。そのため日常的に児島峠が使われたようです。

文政八年に祖谷に人った阿波藩士太田章三郎信上の『祖谷山日記』には、次のように記します。
「小島峠にいたる。 一宇山といえる所のさかひ也。」

ここからは、この峠が近世には祖谷に入る主要路であったことがうかがえます。寛政5年 讃岐香川郡由佐邑の菊池武矩が祖谷に遊んだ時の紀行文「祖谷紀行」にも、「郡里・吉野川を渡つて、一宇・小島峠・菅生・阿佐・亀尻峠・久保・落合・加茂 」の道順で廻ったことが記されています。祖谷へは、小島峠が使われています。

この峠に行くには、貞光より国道438号を剣山方面へ向い、旧一宇村明谷で明渡橋を渡り、県道261号をひたすら登っていきます。
黒笠山が見えてくるようになると、現在の小島峠に着きます。この峠は1981年に県道菅生伊良原線の開通で出来た「新」小島峠です。ここにも地蔵尊が祭られていますが、その裏の山道を西へ登って行くと、20分ほどで旧峠に着きます。ここにも小さなお堂があります。中には天明7年(1787)建立の半跏像の地蔵尊が祀られています。台石に「圓福寺現住宥□ 法練道乗居士  菅生永之丞室」の銘があります。これは菅生家11代永之丞の妻が主人の菩提を弔うために立てたものといわれ,氏寺の円福寺の住職名も刻まれています。円福寺は、先ほど見た見ノ越の剣参拝登山をになっていた修験者の寺でもありました。峠の管理などに、修験者の姿が見え隠れします。
小島峠の地蔵
旧小島峠の地蔵尊
 研究者がもうひとつ注目するのは、地蔵尊は右手に錫杖を持つ姿が普通です。しかし、この像は右手に大師が持つ五鈷杵を握っていることです。珍しい地蔵尊です。この地蔵尊にはお参りに来る人があるようで、お酒やお菓子、花などが供えられています。
 お堂横のスギの古本は、風格があります。この峠を行き交った人達を見守っていたのかもしれません。静かに耳を傾ければ、いろいろな話をしてくれそうな気にもなります。
   お堂の前には広場になっていています。峠に着いた人々が腰を下し、ひと息入れた場所だったのでしょう。お堂の脇から、黒笠山への縦走路が伸びています。峠から黒笠山山頂まで4時間ほどです。かつては、修験者の霊山であった石堂山をめぐる修験者の行道ルートであったことは以前にお話ししました。
 新小島峠が開通した時に、コンクリートの新しいお堂と造ったそうです。そして、旧峠のお地蔵さんを下す予定でした。ところが旧峠のお地蔵さんが、新しい峠に下りにるのはどうしても嫌だと言うので、話し合った結果、新しい地蔵尊を下に造ることになったようです。
令和5年6月25日・小島峠の地蔵祭り - とくしまやまだより2

 新小島峠では、毎年6月第4日曜日に、 一宇、東祖谷両村の地元の人々により、地蔵祭りが行われ柴灯護摩が焚かれます。いつもは訪れる人の少ない峠が、大勢の人で賑い、カラオケと歌声が響き、手作りの料理が振舞われ、新・旧のお地蔵さんの前にも沢山のお供物がまつられます。
 
祖谷街道 開通後 百年。1920年(大正9年)開通 - 趣深山のJimdoページ
祖谷街道
東祖谷山に「輸送革命」をもたらしたのが、大正9(1920)年に完成した祖谷街道でした。

約百年前のことになります。祖谷川の「白地の渡し」から久保までの51kmを巾3mの「大道」が完成したのです。これが祖谷川沿いに村内を東西に走る幹線道路の役割を果たすようになります。バスとトラックが輸送の主役になり、輸送量も増えます。そして、峠道を越える人やモノは激減します。人ともモノの動きが一変したのです。これは大正3年の徳島ー池田間の鉄道開通や、大正9年の讃岐土佐間を往復する自動車の新設とリンクして、祖谷に「輸送革命」をもたらしたのです。
 この道路建設は、祖谷川沿いの電源開発計画を呼び込む起爆剤ともなります。若林には大正9(1920)年7月発電所建設が始まります。そして、大正12年から380kWの電力が讃岐に向けて送電されるようになります。大正14年には、下瀬に煙草収納所が設けられ、煙草栽培が広がり、農村の換金作物となり「貨幣流通市場」の中に入っていきますた。
明治17年 「徳島県下駅遞郵便線路図」(三好新三庄村投場所蔵)には、次のように記されています。

徳島からの郵便物は3日かかつて東祖谷山に到達。毎朝5時20分 「辻」から3里の道を「小祖谷」に行き,「大枝」から3里15町、毎朝5峙発で小祖谷へ来た手紙と交換して帰った。

これが祖谷街道が伸びてくると、大正15(1926)年には「京上」に郵便局が「大枝」から移って祖谷バスを利用して運ばれるようになります。徳島から送られてくる新聞もその日の午後には読めるようになります。
 昭和10(1935)年には 「大枝」にあった村役場が「京上」に降りて来てます。こうして「京上」に村役場・気候観測所・村農会・郵便局が出来ます。それにつれて5軒の旅館・歯医者が姿を見せます。こうして「京上」が東祖谷山の中心集落へとなります。逆に、「大枝」は行政的な機能を失います。

明治20年以来の村の戸籍除籍簿を見てみると、道路が開通した大正9年を契機として人口流出者が増えていきます。
これは出稼の増加を示していると研究者は指摘します。地方の期待した道路網の整備は、その余波として人口流出を招くことは、近代化の歴史が示す所です。
 祖谷街道の開通は、従来の「落合峠」「棧敷峠」「小島越」などの峠越えの交通路の「価値喪失」を招くものでもありました。それまでの「仲持ち稼業」は、転業や他府県への移住を余儀なくされます。
これとともに祖谷地方は、池田との経済・流通関係を強めていくことになります
 戦後の昭和25(1950)年の人とモノの流れを見ると、
①東祖谷村の総生産額の97%が池田へ移出
②移入物資として主食米麦2800石,酒類120石,味噌醤油170樽,肥料22000貫
祖谷街道を通じて池田からトラックで運び込まれています。
それまでの祖谷地方の人とモノの流れは、北方の貞光・半田・辻など三野郡の町とつながっていました。それが祖谷街道の開通によって、祖谷地方は「池田」との関係に付け替えられていきます。こうして祖谷は「脇町」中心の美宮郡から、三好郡の池田へと比重を移し、昭和25年1月1日をもって、美馬郡から三好郡へと編入するのです。そして、平成の合併では三好市の一部となりました。
ここでは、もともとの祖谷地方は、美馬郡の一部であり、吉野川南岸の町との結びつきが強かったこと、それが祖谷街道の完成で池田の経済圏内に組み入れられるようになったことを押さえておきます。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
阿波の峠歩き : ふるさとの峠50選
参考文献
  福井好行(徳島大学教授) 東祖谷山村に於ける交通路の變遷
徳島民俗学会 民俗班 橘 禎男・坂本 憲一「三好市「旧東祖谷山村」の峠とお堂と地蔵信仰」    阿波学会紀要 第53号(pp.167―172)2007.7
阿波の峠を歩く会 阿波の峠歩き 平成13年
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ソラの集落の寺社とお堂と庚申塔を訪ねての原付ツーリングが続きます。今回は山城町の白川谷川沿いに、塩塚高原を越えて新宮へのソラの集落をたどるツーリングです。グーグル地図を見ると「小歩危展望台」が追加されています。寄っていくことにします。

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小歩危展望台
三好市では、こんな展望台をあっちこっちに作って、新名所にしようとしているようです。なかなか面白くて、外れがありません。

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 正面真下を吉野川が流れます。この方向から吉野川が見える展望台は初めてです。
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ホワイトウオーターの中を、ラフテングボートが下って行きます。
ここで、休憩して白川谷川に沿って塩塚高原を目指します。

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白川谷川
 開放的で明るい白川谷川をさかのぼって行きます。本殿と拝殿が国の登録有形文化財になっている大日孁(おおひるめ)神社があるのでお参りして行くことにします。川を渡って向こう側の小高い山の上にあるようです。
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当然、長い階段が待ち受けています。一瞬、引き返そうかと思いましたが、そんな失礼はできないと・・覚悟を決めて登り始めます。
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       大日孁(おおひるめ)神社 拝殿
そして姿を現したのがこの拝殿。神域の森の中にひっそりと鎮座して雰囲気があります。河原から運び上げた青石の基壇の上に、すっきりとした拝殿が建ちます。近づいてみます。
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向背虹梁には、見事な龍が巻き付いています。お参りを済ませて、説明版を確認します。
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拝殿の説明版

ここには次のような事が書かれています。
①創建当初は大蛇大明神
②神仏分離後の1874年に大日るめ神社と改名
③拝殿・本殿ともに、1898年に香川県三豊郡の宮大工高橋貞造・棟梁次田弥八の作
④拝殿は、細部まで高度で特徴的な彫刻が施されていること。
背後に回り込み本殿にもお参りします。
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       大日孁神社 本殿


こちらの彫刻も独創的です。手の込んだ造りです。説明版で確認します。
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本殿説明版

①二軒社流造の銅板葺
②尾垂木付の三手先で軒を伸ばして、腰組を出組で受けている。
③頭抜木鼻には人物面が、破風には龍が巻きつく
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大日孁神社本殿
拝殿と本殿に参拝して一番注目したいのは、讃岐三豊の大工が呼ばれて建立していることです。三豊の大工が土佐の嶺北地方で、仕事をしていたことは以前に次のように紹介しました。
  長宗我部元親の阿波への侵攻が本格化する天正八(1580)年の史料に次のように記されています。
土佐国土佐郡森村(土佐郡土佐町)の領主森氏の一族森右近尉が、森村の阿弥陀堂を造立したときの棟札銘です。
 天正八庚辰年造立
 大檀那森右近尉 本願大僧都宥秀 大工讃州仁尾浦善五郎
この時の阿弥陀堂建立の大檀那は森右近尉、本願僧侶は宥秀です。彼らが招いたのが「讃州仁尾浦善五郎」のようです。善五郎という仁尾浦の大工が請け負っています。土佐郡森は四国山地の早明浦ダムの南側にあり、仁尾からはいくつもの山を超える必要があります。ここからは、四国・讃岐山脈を越えて仁尾との間に日常的な交流があったことがうかがえます。讃岐西部-阿波西部-土佐中部のエリアは、仁尾商人や大工たちが入り込み、広く営業活動を展開していたようです。
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           本殿の三手先と彫刻
それが明治になっても、地域の小社を統合してあらたな社殿と拝殿を建てる際に、三豊の宮大工たちが招かれています。ここからは、近世を通じて三豊と阿波西部には日常的な交易活動が明治になっても続いていたことがうかがえます。そして三豊の宮大工は、「大蛇大明神」と呼ばれてきた神社のために、龍(蛇)のデザインで空間を埋めます。
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                 大日孁神社本殿の龍(蛇)のデザイン

 この神社も神仏混淆の時代には、別当寺の社僧が祭礼を担当していたはずです。彼らは真言系修験者でもありました。中世には、彼らと三豊の修験者も教学面などでつながっていたことを示す史料があります。
  三好市池田町の吉野川と祖谷川の合流点に鎮座する三所神社には、応永9年(1402)の大般若経600経が保管されています。
祖谷口の山所神社
三所神社の大般若経の説明版

その中の奥書に、次のように記されたものがあります。

「讃州三野郡熊岡庄八幡宮持宝院、同宿二良恵」

ここからは、祖谷口の山所神社の大般若経の一部が「三野郡熊岡庄八幡宮」の別当寺「持宝院(本山寺)」に「同宿(寄寓)」する「良恵」によって書写されたことが分かります。
良恵は住持でなく聖のようです。与田寺の増吽が阿波の修験者たちとネットワークを形成し、大般若経書写をやっていたのと同じ動きです。讃岐三豊の持宝院(本山寺)と、阿波池田の山所神社も修験道・聖ネットワークにで結ばれていたのでしょう。同時にこのような結びつきは、「モノ」の交易を伴うものであったことが分かってきました。
仁尾覚城院
仁尾覚城院
 仁尾覚城院の大般若経書写事業には、雲辺寺(徳島県三好郡池田町)の僧侶が参加しています。
与田寺氏の増吽で見たように、大般若経書写事業は僧侶たちの広いネットワークがあってはじめて成就できるものです。覚城院と雲辺寺は、写経ネットワークがつながっていたことが分かります。その背景には、雲辺寺が天台・真言の両派の学問寺であったことあるようです。雲辺寺は、西土佐・三豊・新宮・土佐嶺北の学問寺で、写経センターであったと私は考えています。そして、雲辺寺で学んだ密教系僧侶は、「卒業」して各地の寺社に「赴任」していきます。こうして、雲辺寺(後には萩原寺)や覚城院を中心とする密教系修験者のつながりが形成されていたという見通しです。熊野行者はあるときには、真言系修験者で高野聖でもありました。
 15世紀初頭に覚城院を再建したのは、与田寺の増吽でした。
彼は「修験者・熊野行者・高野聖・空海信仰者」などの信仰者の力を集めて覚城院を再興しています。その背後に広がる協賛ネットワークの中に、伊予新宮や土佐郡の熊野系寺社もあったと私は考えています。
P1190402
 社殿に背を向けて帰ろうとすると、眼に入ってきたのが鳥居の隣のお堂です。
最近改修されたようですが、神社の神域の中に建つ観音堂です。神仏分離以前には、これは当たり前の姿でした。それがこの国の伝統だったです。お堂にも参拝します。そして、ここに導いてくれたことを感謝します。
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  白川谷川をさらに上流に進み、とびの巣渓谷と仏子の分岐を右に折れて塩塚高原を目指します。

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仏子の水車
仏子の水車を越えて、原付を走らせます。10年以上乗っている娘のお下がりのバイクですが、喘ぎ喘ぎながらも急な登りを上がって行ってくれます。そして阿波側の最後の集落である落尾の家々が姿を見せ始めます。
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尾又のソラの鐘
ソラの鐘を見上げながら進むとお堂が姿を見せます。
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尾俣のお堂

隣には大きな銀杏。ここからはソラの集落がよく見えます。
尾俣からは植林された杉林の中を登っていきます。台風で落ちた枝などが林道に積もるように落ちています。暗い杉林の中を抜けると、塩塚高原に抜け出たようです。
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塩塚高原のススキ
快適なスカイラインを走って、展望の開けた所で原付を止めます。

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背後の山が雲辺寺です。そして、荘内半島から三豊平野がよく見えます。このエリアのソラの集落が三豊と「塩とお茶と修験者」によって
つながっていたことを改めて実感させてくれる眺めでした。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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