瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の雨乞信仰 > 三豊の風流雨乞踊

佐文綾子踊のルーツを探るために、佐文周辺の雨乞踊を見ていきたいと思います。

讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞踊の分布図
    上図からは次のような事が読み取れます
①東讃・髙松地域には、ほとんど分布していないこと → 大川郡の水主神社の存在(?)
②中讃には滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)に踊り込んでいた風流念仏踊が、いくつか残っていること
③三豊南部には、風流雨乞踊りが集中して残っていること。そして、三豊北部にはないこと。
④中讃の念仏踊系と、三豊の風流系の雨乞踊り境界上に、佐文綾子踊があること
以上からは、佐文綾子踊の成立には、上記の二のエリアの風流踊が影響を与えていることがうかがえます。これをある研究者は、「佐文綾子踊りは、三豊と中讃の雨乞い踊りのハイブリッド種」だと評します。
 以前にお話したように、佐文は滝宮に踊り込んでいた「七箇念仏踊」を構成する中心的な村でした。それが様々な理由で18世紀末頃から次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞踊を取り入れながら、新たな「混成種」を「創作」したのではないかと私も考えるようになりました。  それを裏付ける「証拠」を見ていくことにします。

豊浜町和田の「さいさい踊り」を見ておきましょう。

さいさい踊り 豊浜JPG
さいさい踊(豊浜町和田)
この躍りで、まず注目したいのは隊形です。真ん中で歌い手がいて、二重円で、内側が太鼓、外側が団扇を持った踊り手です。これは盆踊りの隊形です。そして、歌詞の内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。これは先ほど見た綾子踊の地唄と同じです。流行(はやり)歌が盆踊に取り込められていく過程が見えます。さいさい踊り以外の三豊に残る風流雨乞踊りも、もともとは盆踊りとしておどられていたと研究者は考えています。

それでは、この踊りを伝えたのは誰なのでしょうか?

さいさい踊り 薩摩法師の墓碑
豊浜町和田の道溝集落の壬申岡墓地にある薩摩法師の墓碑

墓碑には、上のように記されています。ここからは、つぎのような過程が見えてきます。

さいさい踊り 伝来


 佐文の西隣の麻(高瀬町)にも、綾子踊りが踊られていました。その由来を見ておきましょう。
  ある年、たいへんな日照りがありました。農家の人たちは、なんとか雨が降らないかと神に祈ったり、山で火を焚いたりしましたがききめはありません。この様子に心をいためた綾子姫は、沖船さんを呼んでこう言いました。「なんとか雨がふるように雨乞いをしたいと思うのです。あなたは京の都にいたときに雨乞いおどりを見たことがあるでしょう。思い出しておくれ。そして、わたしに教えておくれ」「 わかりました。やってみます」。           
沖船さんは家に帰るとすぐ、紙と筆を出して、雨乞いの歌とおどりを思い出しながら書きつけました。思い出しては書き、思い出しては書き、何日もかかりました。どうしても思い出せないところは自分で考え出して、とうとう全部できあがりました。綾子姫は、沖船さんが書いてきたものに自分の工夫を加えて、歌とおどりが完成しました。二人は、喜びあって、さっそく歌とおどりの練習をしました。それから、雨乞いの準備に取りかかりました。次の朝早く、村の空き地で、綾子姫と沖船さんは、みのと笠をつけて、歌いおどりながら、雨を降らせてくださいと天に向かって一心にいのりました。農家の人たちも、いっしょにおどりました。すると、ほんとうに雨が降り始めました。にわか雨です。農家の人たちおどりあがって喜びました。そして、二人に深く感謝しました。

 ここには、江戸時代の後半になって京都から下ってきた貴族の娘・綾子姫が下女と一緒に、当時の風流踊りを元にして綾子踊りを完成させて、麻に伝えたという伝説が記されています。雨乞踊の創作過程で、当時京都や麻周辺で踊られていた風流踊りが取り込まれた過程が見えていきます。言い方を変えると、風流踊が雨乞踊りに転用されたことになります。こうして見ると、前回見たように「綾子踊に恋歌が多いのは、どうしてか?」の応えも、以下のように考えることができます。

風流踊りから盆踊りへ

こうして見ると500年前に歌われていた流行(はやり)歌が、恋の歌から先祖供養の盆踊り歌、そして雨乞い踊りと姿を変えながら歌い継がれてきて、それを、今の私たちは、綾子踊りとして踊っていることになります。



それでは、風流踊りを伝えた人達(芸能伝達者)は、どんな人達なのでしょうか。それを一覧表化したものを見ておきましょう。

風流踊りの伝来者

A
 滝宮念仏踊りの公式由緒には「菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られた」とあり、だれが伝えた踊りとは書かれていません。後世の附会では「法然が伝えたの念仏踊り」とされますが、一遍の時衆の念仏阿弥陀聖の踊りが風流踊り化したものと研究者は考えています。
B佐文綾子踊は、綾子に旅の僧が伝えた、それは弘法大師だったとします。弘法大師伝説の附会のパターンですが、これも遍歴の僧です。
Cは、宮田の法然堂にやってきていた法然が伝えたとします。
Dは、先ほど見たとおりです。
ここで由来のはっきりとしている雨乞風流踊りである百石踊りを見ておきましょう。


百石踊の伝来委

兵庫県三田市の百石踊りです。ここでも神社の境内で踊られています。
①下司
は白衣の上に墨染めの法衣を羽織り、白欅を掛け菅編笠を被った旅僧の扮装
②持ち物は、右手に軍配団扇を、左手に七夕竹を持ちます。下司は踊りを伝えた僧形で現れ、踊りの指揮をしたり、口上を述べます。しかし、時代の推移とともに下司の衣装も風流化します。江戸時代になって修験者や念仏聖達の地位の低下とともに、裃姿に二本差しで現れることが多くなります。そして僧形で踊る所は少なくなります。今では被り物と団扇などの持ち物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっています。その中で僧姿で踊る百国踊りは、勧進僧の風流踊りへの関与を考える際に、貴重な資料となります。

それでは、雨乞祈祷を行っていたのは誰なのでしょうか?

「駒宇佐八幡神社調書」には、雨乞祈祷は、駒宇佐八幡神社の別当寺であった常楽寺の社僧が行ったことが記されています。ここでは、駒宇佐八幡神社は江戸時代中期ころには、雨乞祈願に霊験あらたかな八幡神=「水神八幡」として地域の信仰を集めていたことを押さえておきます。これは、次回の述べる滝宮牛頭天王社とその別当であった龍燈院滝宮寺と同じような関係になります。

百石踊り - marble Roadster2

百石踊りの芸司は、黒い僧服姿

 百石踊りの芸態を伝えたのは誰なのでしょうか?

由来伝承には、「元信と名乗る天台系の遊行聖」と記されています。ここからは、諸国を廻り勧進をした遊行聖の教化活動があったことがうかがえます。その姿が百石踊りの新発意役(芸司)の僧姿として、現在に伝わっているのでしょう。これを逆に見ると別当寺の常楽寺は、遊行聖たちの播磨地方の拠点で、雨乞や武運長久・豊穣祈願などを修する寺だったことがうかがえます。そして彼らは、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などを、村々に伝えた「芸能媒介者」でもありました。滝宮の龍燈院も、同じような性格を持った寺院だった私は考えています。

以上をまとめておくと
①三豊南部の雨乞踊を伝えたのは、遍歴の僧侶(山伏・修験者・聖)などと伝えるところが多い
②彼らの進行と同時に、もたらされたの祖先供養の風流盆踊りであった。
③そのため三豊の雨乞風流踊りには、芸態や地唄歌詞などに共通点がある。
④近世中頃までは、雨乞祈祷は験のあるプロの修験者が行うもので、素人が行うものではなかった。
⑤そのため雨乞成就のお礼踊りとして、盆踊りが転用された。
⑥それが近世後半になると、農民達も祈祷に併せて踊るようになり、雨乞踊りと呼ばれるようになった。
⑦近代になると盆踊りは風紀を乱すと取り締まりの対象となり、規制が強められた。
⑧そのような中で、庶民は「雨乞」を強調することで、踊ることの正当性を主張し「雨乞踊り」を全面に出すようになった。
⑨このような動きは、三豊南部で顕著で、それが麻や佐文にも影響し、新たな雨乞取りが姿を見せるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

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山本町大野
大野村(三豊市山本町大野)
       
西讃府誌には、佐文綾子踊の後に、豊後小原木踊が次のように紹介されています。
大野村の豊後踊り
大野村の雨乞い踊り「豊後・小原木踊」
「大野村ノ人雨ラ祈ルニ踊リナス。村人上組下組とニツニワカレ、上ナルヲ豊後、下ナルフ小原木卜琥ク」
「先八幡宮、次に樋盥(ひだらい)、次に澱醸(よどしこ)、次に役場と凡そ六処一日になすと云」
ここからは次のようなことが分かります。
①「村人が上組と下組の二つに分かれ」、それぞれが「豊後、小原木」と呼ばれる2組の踊組があったこと
②大野村の八幡宮、樋盥(ひだらい)、澱醸(よどしこ)、役場などの6ヶ所で踊られたこと
 この踊りについては「西讃府志」が完成した1859(安政6年)頃までは、踊られていたことが分かります。しかし、その後いつころまで続いたかなどは分かりません。西讃府誌に残るだけの謎の雨乞踊のようです。
   西讃府誌に載せられている「豊後踏舞(踊り)」の歌を見ていくことにします。

大野村の豊後踏舞
豊後踏舞(西讃府誌)
大野村の豊後踏舞2
              豊後踏舞
大野村の豊後踏舞 佐渡島2

歌詞の内容から、綾子踊、さいさい踊、和田の雨乞踊と同じ系統に属するもので、江戸時代初期までさかのぼると、研究者は考えているようです。
次のように「何々をどりは一をどり」という形式の文句が各歌詞に出てきます。
「豊後のをどりは一をどり」
「札所をどりは一をどり」
「佐渡島をどりは一をどり」
「泉水をどりは一をどり」
「忍びのをどりは一をどり」
「天笠をどりは一をどり」
「小笹をどりは一をどり」
「鐘巻をどりは一をどり」
「本蔵をどりは一をどり」
この形式句は、近世初期の歌謡に良く出てくるスタイルです。
また「うらうら(浦々)」には、
あれに見えしはどこ浦ぞ、音に間えし堺が浦よ、
堺が浦へおし寄せて、ひいめがはかをつもろふよ、
いくさのはかをつもろふよこれ
と同じ形式で讃岐の浦、八嶋の浦が歌われいます。瀬戸内海の繁栄する港町の様子がいくつも歌い込まれています。
 構成・扮装・芸態について、「西讃府志」は次のように記します。

  大野村の豊後踊り 西讃府誌
     「豊後・小原木踊」の芸態について(西讃府誌)
  上文を意訳変換しておくと
(芸態は)3の輪を作り、第一輪の中心に傘宮という大きな傘の上に宮を置いて、そこに造花などを飾って。これを数人が持って立つ。第一輪には「花受」と呼ばれる、7・8歳の童子、40人ほどが花笠を被って、扇を持って、化粧し廻りに立つ。その外側の第二輪には、小踊と呼ばれる12歳から15歳ほどの童子が、麻衣の振袖を着て、女帯を結んで、菅笠に小さな赤い絹地を着けたものを被って、扇子を持って40人ほどが輪になって立つ。その外側の第三輪には、警護として20歳ほどの男数十人が、羽織を着て刀を指して大きな団扇を持って周りに立つ。第二輪と第三輪の間には、太鼓打4人、鉦打2人、出音頭4人、付音頭4人が立つ。太鼓と鉦打は、共に陣笠を被り、半臀(はんひ)の裾に鈴が付いたものを着て、草鞋(わらじ)を履いて脚絆を結ぶ。太鼓は胸に結付けて、両手にバチを持って、歌の曲節に合わせて、輪の周りを走り廻リながら打ち鳴す。音頭(芸司)は、金銀の紙で縁どった大きなハ団扇を持って、その傍らに並立つ。先ず音頭(芸司)が謡い出し、
大野村の豊後踊り3
    「豊後・小原木踊」の芸態について・その2(西讃府誌)
上文を意訳変換しておくと
付音頭も第二句から声を合せて共に歌う。 
 踊り初めの時、「先番板」という踏舞(踊り)の次第を書付けた板を会場に立てる。次に追払(ついはらい)という長刀を持った男二人が進みでて、その場を清め開く。次に、修験者三人が法螺貝を吹き、花受・小踊・警護の手引が一人づつ入場する。中には花受ではあるが兜を被り、上下を着、団扇を持ったものがいる。その時に手引の者は、先に入場して、それぞれの位置を定める。踊り終ると、修験者の法螺貝を合図に退場する。最初に八幡宮、次に樋盥、次に換醜、次に役場、など六ケ所を一日で廻ると云う。
これを見ておどろかされるのは、その編成規模です。
①三重の輪踊りで、「花受40人+子踊40人+警固60人=140人」+芸司・太鼓・鉦・芸司・法螺貝吹きなどを合わせると、150人を越える大編成部隊になります。滝宮に踊り込んでいたい念仏踊りの各組の編成規模と同規模です。風流小歌踊系の雨乞踊としては、最も規模の大きなものであったようです。
②「西讃府志」の説明分量も、佐文綾子踊りと同じくらいの記述分量があります。西讃の風流小歌系雨乞踊として、綾子踊と同じ規模と認識されたいことがうかがえます。

讃岐雨乞い踊り分布図

もういちど讃岐の風流雨乞い踊りの分布図を見ておきましょう。
上図を見ると、讃岐の風流雨乞い踊りが三豊南部に集中していること。その東端が佐文綾子踊であることが分かります。ここからは綾子踊の成立には、三豊の風流踊りがおおきな影響を与えていることがうかがえます。
 以前にお話したように、佐文は「七箇念仏踊り」の主要な一員として、芸司や子踊りも出していました。それが19世紀になると次第に、その座を奪われてきます。そのような中で、三豊の風流雨乞い踊りを取り入れながら、新たな踊りを「創作」したのではないかというのが、今の私の仮説です。

大野の小原木踏舞.J 鐘巻PG

大野の小原木踏舞.2J 鐘巻PG

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 豊後・小原木踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」
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財田仲
財田中の入樋
三豊市財田町は、財田上、財田中、財田西に分かれていますが、古くはそれぞれ上の村、中の村、西の村と呼ばれていました。そのうちの財田上の村は多度津領で、さいさい踊が伝わっています。一方、財田中の村は丸亀藩で、弥与苗(やとな)踊・八千歳(やちよ)踊・繰り上げ踊が踊られていました。それ今では、財田中の一集落である入樋に伝承されています。
 弥与苗踊は、「いよいよ苗を与える」踊という意味で名付けられたとされます。それに対して八千歳踊・繰り上げ踊は盆踊で、八千歳踊は祝う心もち、繰り上げ踊は歌や踊のテンポが早くなり次第に興が高まる踊りとされます。この三つをまとめて入樋の盆踊りと呼んでいるようです。 踊りはもともとは、旧七月の旧盆で、今は新盆踊として踊られています。雨乞踊りとして踊られるときには、財田川の上流瀬戸の龍王で踊り、それから雨の宮神社、塔金剛(とうきんこう)の五輪塔の前の3か所で踊ったという。今はエリエールゴルフ場の西側に鎮座する高津神社(王子大権現)の坂の下の入樋公民館の前の広場で踊られています。

財田中入樋の高津神社
高津神社(財田中の入樋)
大正10年頃に大西恭造氏が書いた「弥与苗踊略縁起」を筆写したものには、次のように記されています。

抑当村雨乞の由来を訪ぬるに、人皇第六十一代朱雀天皇の御宇近江の国矢上山と言ふ所に娯蛭ありて人を傷つくる事数多なれ共、之を退治する事叶はす。衆人受ひに沈む事幾年なるを知らず。疑に人職冠藤原鎌足公の後胤俵藤人秀郷なる者、日本無双の英雄にて、龍神より百足退治の詔勅を受け、則ち近江路に到り、瀬多橋より容易く退治給ふ事、沿く人の知る所なり。其時龍神より報恩の為秀郷の望みを叶ふべしとありし時、秀郷日く、吾故郷は、動もすれは早魃多し。人民の飲き聞くに忍びず。願はくは月に六度の雨を降らし給はらば、生涯の本望足に過ぎすとありけれは、龍神願の如く永世の契り諾し給ひけり。其時秀郷は上之村谷道(財田上の村・渓道)の城に有り給ふ。之より財田の私雨と言ふことを世に言はるる事となり、且つ川の名を財田(たからだ)川といふ因縁は此時より始まると申し侍るなり。
其後数代を経て長久四年の春、天下大いに旱りして苗代水なし。其時雨の官に於て有徳の行者、三十七日雨を乞へども、更にその験なし。最早重ねて祈る力なしとて心を苦しむ。折柄其の夜、不思議の霊夢を蒙むり、爾等心を砕きて数日雨を乞ふ志薄からきる事天に通せども、村中衆生の願力薄き故に、雨降り難しと言ふ事を論され、それより時を移さず、村民一同踊を奏し御神意を勇め奉らんと思ひて,則ち踊の手と音頭の文を作りて奏し奉りし時、雨大いに降りて豊作を得たり。苗を与ふると言ふ心を直ちに弥与苗踊と名附けたり。此時都の歌人来り居て、此の不思議の霊験に感じて、
財田や何不足なき満つの秋
と詠みしとなり。其の後も早ありし時踊を奏し奉りて、御利生を蒙むる事皆人の知る所なり。依て略縁起如件 大義
    意訳変換しておくと
そもそも当村の雨乞由来を訪ねると、第六十一代朱雀天皇治政(在位930年10月16日 - 946年5月23日)に近江国矢上山というに娯蛭(大むかで)が現れて、多くの人々に危害を与えた。しかし、退治する者が現れず、人々は長年苦しんでいた。そんな中で藤原鎌足公の子孫で俵藤人秀郷という者が、日本無双の英雄として、龍神より百足(むかで)退治の詔勅を受けて近江路に出向いた。そしてついに瀬多橋で退治したことは、衆人の知るところである。この時に、龍神から報恩褒美として秀郷の望みを何でも適えてやろうと言われた。そこで秀郷は、故郷の讃岐財田は、早魃が多く、人々が苦しんでいます。願わくば、月に六回は雨を降らていただければ、生涯の本望ですと答えた。龍神は、この願いを永世の契りとして聞き入れた。この時に秀郷は、上之村谷道(財田上の村・渓道)の城を居城としていた。そこで、財田に降る雨を「財田の私雨(わたくしあめ)」と、世間では呼ぶようになった。また、川の名を財田(たからだ)川と呼ぶようになったのも、ここから始まると伝えられる。

   その後、数代を経て長久四(1043)年の春、天下は大旱魃となり苗代の水もない日照りとなった。
そこで雨の宮で、験のある行者(修験者)が37日も雨乞祈祷を行った。しかし。それもむなしく雨は降らない。もはや重ねて祈る力ないと人々は心痛した。その夜、不思議な霊夢で龍王は次のように告げた。爾(なんじ)等の雨を乞ふ気持ちは天に通じている。しかし、村中のひとりひとりの願力が薄いために、雨が降らないのだ。」と。そこで、村民一同で神意を勇めようと思い、踊の手と音頭の文を作って、踊りを奉納した。すると雨が大いに降って豊作となった。人々はこの踊りに、「苗を与ふる」という思いで、弥与苗踊と名附けた。この時に村に滞在していた都の歌人は、この不思議な霊験に感じて次の歌を詠んだ。
財田や何不足なき満つの秋
その後も旱魃があれば、踊りを奉納して、御利生を蒙むってきたことは誰もが知っている所である。依て略縁起如件 大義
この縁起が書かれた大正時代後半は、讃岐を大旱魃が襲って、県が雨乞い踊りの復活実施を各市町村に通達しています。そこで明治以来、踊られることのなかった雨乞い踊りが各地で復活したことは以前にお話ししました。それを記録に残そうと、新たに由来・伝承が書かれます。それは、山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りでも見た通りです。そのような「創作背景」を押さえた上で、内容を見ていくことにします。
前半 
俵藤太秀郷の近江のむかで退治伝説 → 龍神からの褒美として財田の私雨(わたくしあめ)
 川の名を財田(たからだ)川と呼ぶようになったのも、ここから始まる
後半
大旱魃の際に、修験者の雨乞祈祷だけでは龍神に届かなかった。そこで村民の心を一つにして神に伝えるために、踊りを奉納したこと。これが弥与苗踊と呼ばれるようになったこと。
ここで私が注目するのは、「修験者の雨乞祈祷だけでは雨は降らなかった。そこで村民一同で雨乞いのために踊った」という箇所です。
近世前半では、雨乞祈願の主役は修験者や高僧でした。農民達は、それを見守るだけでした。農民達が行うのは、雨乞成就のお礼踊りの奉納でした。祈祷自体は験のある修験者の行う事で、ただの百姓が龍神に祈願しても聞き届けられるはずがないというのが、当時の宗教観だったようです。それが近世末になると、修験者の祈祷を助けるために、自分たちも雨乞い踊りを踊るというスタイルがここには出てきます。そして、大正期に書かれた「伝書」には、雨乞いを後押しするために、村人もみんなで踊るという風に変化していきます。

弥与苗踊は雨乞踊りとしても踊りますが、盆踊りとしても踊っていました。


真中に太鼓をすえてその周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されたことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたのです。以下のような動きを押さえておきます。

風流雨乞い踊りの変遷図

弥生苗(やよな)踊りについて、「香川県の文化財」(昭和46六年香川県文化財保護協会刊)には、次のように記されています。

香川の文化財

「雨乞の折には四隅にしめなわを引きめぐらし、
踊り子は、蓑笠姿、手に団扇を持つ。
一曲を三回繰り返して六曲を雨の降るまで踊りつづけた

六曲とは次の歌です。
1 人葉(いりは)
ざんぎぎんざと いりょかいぐち いてとせきどをあらたみょや
2 弥与蘭
にしはじぐれの かやがやの雨 音はせぬかや 降りかかる
3 長生(ちょうせい)
ここはどこぞと たずねてみれは たからだやまのふるさとや 
音に聞えしたからだ山に 雨が降る 神の御利生か雨が降る
4 御元(おもと)
春は花さく 夏は橘 菊は九月の中の頃 鶯が小簸小校に巣をかけて ひよこ育てて 飛んで来る
5 糸巻き(いとまき)
たなばたの 朝ひく糸の 数々を 綾や錦を織りおろす 秋が来たかえ 鹿が鳴く なぜに紅葉か花が咲く
6 すくい
ひさしおどれば 花か散る つまおれがさに 露がする
弥生踊り
           弥生苗(やよな)踊り

1・2・3は雨をねがう内容のものですが、4・5・6は四季の風情を叙して、優雅な趣がしますが、雨には関係がありません。

弥与苗踊が終ると、八千歳踊へと移ります。
八千歳音頭
八千歳踊は、俵藤太物語の音頭があり、 ついで繰り上げ(クッリヤゲ)にうつっていきます。入樋の「繰上げ」金毘羅御利生
この歌詞を見ても、近世後期のもので、雨乞いとは関係ない内容です。 「讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」は、次のように記します。
八千歳踊は、舞の手が入り、腰や手首を微妙に使い、足を組む所作まであり、扇と手拭を派手に使って踊る。繰り上げ踊になると、テンポも早く、振りも複雑に派手になり軽快な踊となる。踊手は激しさに息をはずませることになる。繰り上げ踊の歌詞は、金毘羅御利生、鈴木主水、佐倉宗五郎、八百屋お七、和尚亀松、俊徳丸、お礼政次などのが登場し、いかにも盆踊にふさわしい。これらの口説を歌い続けて宵から夜が更けてしまうまで踊り興ずるのが音の風であったという。

「いかにも盆踊にふさわしい」の評の通り、まさに盆踊りなのです。輸踊であることもそれを裏付けます。この踊りは、雨乞踊と盆踊との関係を考える上に重要なヒントを与えてくれます。つまり、高見島の「なもで踊り」と同じように、「盆踊化した雨乞踊り」と研究者は考えているようです。しかし、私はそれは逆で「盆踊りが雨乞い踊化」したと考えています。
 なもで踊りの歌詞はすべて近世のものですが、弥与苗踊の六曲には、中世のものが含まれていますが、綾子踊や和田の雨乞踊、財田上のさいさい踊などよりは、内容的には新しいものと研究者は考えているようです。
弥与苗・八千歳踊に熟練し、伝承に熱心であった大木義武氏は次のように語っています。
自分が二十歳そこそこの頃に香川県全般に大早魃があり、豊田村の池の尻(観音寺市)から雨乞のため入樋の雨乞踊を踊ってくれと請われた。しかし踊ったとて降るとは限らぬからと一旦は断ったが、たって乞われたので行って踊った。真光院という寺の境内で踊ったが、始めの頃は星が空一面に出ていたのに、踊が進むにつれて、雨が降り出した。境内の松の露だろうと思って踊っていたが、ほんとうに雨が降り出したのであった。踊り終って小学校の校長先生宅で休んでいると雨は本降りになってきたc
手伝が来て大変なご馳走になり帰ってきたが、入樋の踊で雨が降ったという評判が高くなり、踊れば五遍に三遍は必ず降るものだという自信のようなものができた。
 ここにも大正時代の旱魃の際に、各地の雨乞い踊りが復興し、他地域からの奉納依頼があったことが分かります。これが踊り手達の自身や誇りとなり、記録や由緒などを残そうとする動きが出てきます。大正の大旱魃は、讃岐の雨乞い踊りの復興運動(ルネサンス)を引き起こしたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 弥与苗踊・八千歳(やちよ)踊  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

讃岐の風流雨乞踊りの伝播について、私は次のような仮説を考えています。
滝宮念仏踊りの変遷

①滝宮牛頭天王社(現滝宮神社)の別当寺である龍燈院滝宮寺の社僧達は、蘇民将来の札などを配布することで信仰圏を拡げた。
②その際に社僧達(修験者・聖)たちは、祖先供養として念仏踊りを伝えた。
③こうして滝宮周辺では郷を越えた規模で踊組が形成され、郷社などに奉納されるようになった。
④それが牛頭信仰の中心地である滝宮に奉納されるようになった。
⑤生駒藩は、これを保護奨励したために滝宮への踊り込みは、大きなレクレーションとして成長した。
⑥一方、高松初代藩主・松平頼重は、この踊りを統制コントロールし、「雨乞踊り」として整備した。
⑦そのため滝宮念仏踊りは、もともとは風流念仏踊りであったが、次第に雨乞い念仏踊りとされるようになった。

この中で史料がないのが②です。滝宮念仏踊りの由来には次のように伝えられています。
A 菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになった
B 法然上人が雨乞いのための念仏踊りを伝えた
これでは②の「社僧達(修験者・聖)たちが、祖先供養として念仏踊りを伝えた。」という仮説を裏付けることはできません。そこで「迂回ルート」として、滝宮周辺の念仏踊りや風流踊りについて調べています。今回は、讃岐西端の豊浜の和田・姫浜と大野原の田野々に伝わる風流系雨乞踊りを見ていくことにします。テキストは   「和田雨乞踊り・姫浜・田野々雨乞い踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」です。
この3つの雨乞踊は、伝承系統が同じと研究者は考えています。
それはひとりの「芸能伝達者」によって伝えられたとされているからです。どんな人物が、この地にこれらの風流雨乞い踊りを伝えたのでしょうか。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町和田道溝(みちぶち)
和田の道溝集落の壬申岡墓地に、薩摩法師の宝医印塔と墓碑があります。そこには、次のように記されています。
往古夏大旱、和田村庶民之を憂ふ。法師をして祈らしむ。法師はもと薩摩の人。自ら踊り其の村民に教へて雨を祈り、壬生岡に念ずる頃、 これ天乃ち雨ふり、年則ち大いに熟す。

  意訳変換しておくと
昔、大旱魃で和田村の人達が苦しんでいると、薩摩の法師が人々に、踊りを教えて壬生岡で雨乞祈願すると、雨が降り、その年は豊作となった。

ここには薩摩法師が歌と踊りを村人に教えて、雨乞祈願させたのに始まるとあります。そして墓の建立世話人には和田、姫浜、田野々の人々の名前が連なっています。

和田・田野々
和田・姫浜・田野々
 以上からは、3つの雨乞踊りが薩摩法師という廻国聖によって運ばれて来たことが裏付けられます。ただ、この「芸能伝播者」が「薩摩法師」だったかどうかについては疑問があるようです。「薩摩法師」説は、歌の中に次のような「薩摩」という歌があることから来ています。
薩摩

内容は、船頭と港の女たちとのやりとりを詠った「港町ブルース」的なものです。この歌詞を早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性を武田明氏は指摘します。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。どちらにしても、和田、田野々などの踊り歌は、遍歴の「芸能伝達者」によってもたらされたことになります。
①踊りの歌詞が共に、慶長年間に和田にやってきた薩摩法師が伝えたとされること。
②曲目も「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられること。
以上を押さえておきます。
和田風流踊り 西讃府誌
    和田雨乞い踊り(西讃府誌)
和田雨乞い踊りについて、西讃府誌は次のように記します。

姫濱和田ナドニモ雨乞ノ踊舞ァリ、姫濱ナルヲ屋形トイヒ、和田ナルフ雨花卜云、踊ノサマハカハリタルコトナケンド、歌ノ、同ジカラズ。其サマ太鼓扱打八人、花笠ヲカツキ、太鼓を胸二結付、蝶脚(ておい)絆ヲナシ、鞋ヲ着テ輪ヲナシテ廻リ立、コレガ間二音頭ノ者数人交リ立テ、鼓ノ曲節ノマヽニウタフ、サテ其外ノ廻リニ、編笠ヲカプキタルガ、数十人メグリ立テ踊ル。其外二童子敷十人、叉編笠ヲキテメグリ踊ナリ、
 
    意訳変換しておくと
姫浜と和田には雨乞踊りがあり、姫浜のものを屋形踊り、和田のものを雨花踊りと呼ぶ。両者の踊りに違いはないが、歌詞が異なる所はある。芸態は太鼓打8人で、花笠を被り、太鼓を胸二に結びつけ、蝶脚(ておい)絆を着けて、鞋を履いて丸く輪を作る。この間に音頭(歌歌い)数人が入って、太鼓に合わせて歌う。その外廻りには、編笠を被った数十人が囲んで踊る。その外に童子が数十人、編笠を着て踊る。

ここからは 太鼓打が八人、音頭の者数人が中央にまとまり、その外側に数十人が輪を作り、その外に子供たちがまた数十人めぐって、二重の円陣の踊ったことが分かります。これは隊形や歌詞などから、もともとは盆踊りとして踊られていたものであったことが分かります。

和田風流踊の歌詞は、近世初期の歌謡だと研究者は指摘します。
その多くが綾子踊と同じ系統の風流小歌踊の歌詞です。第1章「雨花」のなかには、次のように地元の地名が出てきます。
大谷山にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり。
伊吹の嶋にふるしらさめは、あらふるふる、笠の雨の重さや、雨花踊は一をどり一をどり
ここには「大谷山」や「伊吹島」のような地元の地名が出てきて、郷土色を感じさせます。しかし、それ以外には讃岐や三豊の地域性を感じさせるものはありません。各地の港を廻遊する船頭の目から見た「港町ブルース」のような感じです。定住者の目ではなく「旅する者の意識」で歌われていると研究者は指摘します。以下を簡単に見ておくと
第8章の「濃紅」は、寺の小姓との衆道の情調
和田風流踊り 濃紅
第2章の「屋形」・第11章の「めてた」は、屋敷褒めの歌です。
和田風流踊り 11番目立度

「めてた」の中に、次のように「歌連歌」という言葉が出てきます。

こなたのお手いを見てあれは、諸国のさむらひ集りて、弓張りほふ丁、歌連歌、たいこのがくうつ人もあり。

武士が歌連歌に興ずるのは、室町か江戸初期の風俗です。ここからもこの歌詞の時代がうかがえます。また次のような句法は、江戸時代初期の歌謡によく使われたようです。
雨ばなをどりを一をどり一をどり、       (第二章「雨花」)
やかたのをどりを一をどり一をどり、    (第二章「屋形」)
四季のをどりをいぎをどろふや、           (第二章「四季」)
さつまのをどりを一をどり一をどり、    (第五章「薩摩」)
とのこのをどりを一をどり一をどり、    (第九章「御段」)
以上からは、和田の風流踊は中世末から近世にかけて歌われていた風流歌であると研究者は考えています。私が注目するのは、次の記述です。
   (和田の)雨花踊は、雨乞踊というよりも、それ以上に雨乞御礼踊としてよく踊られたという。舞踊の振に舞の手があるといわれ、また子供も交わって踊るはなやいだ気分のものであり、多くの盆踊りと同じく中央に歌い手と囃子がおり、その周囲を踊り手が廻る形である。
ここでは和田の雨花踊は、「①中世の風流踊り → 雨乞御礼踊(成就お礼踊) → 雨乞踊」と変遷してきたことを押さえておきます。

豊浜国友寺
国祐寺(豊浜町台山)
雨乞祈願が行われた国祐寺には、次のような記録が残っています。
第15世松樹院日豊(安永三丙午八月廿六日没)が書き残した「新宮両社建立諸記」に次のように記されています。
宝歴十二壬午五月十六ノ暁ヨリ十八日迄二夜三日台山龍王ニテ雨請ス
同五日廿二日雨請礼踊在之候依之廿日二村之五人頭岡之停兵衛使二而案内申来候而廿一日之昼ヨリ村人足二催領人岡伝兵衛相添寺内之掃除二参申候。(注記「躍子太鼓打昇り持ニハ握飯二ツナラシニ遣シ申候」)
宝歴十二年六月廿五日 雨請之踊在之廿二日之昼五人頭太四郎使二雨申来候掃除人足水打人足如前。
意訳変換しておくと
宝歴十二(1762)年5月16日の暁から18日まで2夜3日に渡って台山の龍王社で雨請を行った。5月22日に雨請成就のお礼踊が行われることになり、20日に五人頭の岡之伝兵衛が、21日昼より国裕寺の寺内の掃除を人足達と行う事を伝えにやってきた。注記、「踊子と太鼓打と幟持には握飯2つを配布すると云った」)
宝歴十二(1762)年6月25日 五人頭の太四郎が使者としてやってきて、雨請踊を22日昼に行う。ついては、掃除人足・水打人足については前例通りと告げた。
台山の龍王社に籠って、雨乞いをして、雨が降ると雨乞成就のお礼として、踊りが踊られています。
明和三戌六月七日雨請踊在之候急之儀二而躍子笠なしにてをどり申候此方二而者宮斗二而済申候八日昼時分より雨ふり申候得共少々斗に而在之候
十日雨請之礼躍在之候
同月十七日之暁より十九日迄ニ二夜三日之雨請也 富山之龍王江籠り申候
六月廿六日礼躍在之候
七月十八日より同廿日迄二夜三日雨請いたし申候―八日七ツ時台山にて躍諸役人中は直に宮江籠申
  意訳変換しておくと
明和三(1783)年6月7日雨乞踊が急遽行われることになり、踊り子の中には、笠がないままで踊った者もいたという。この時には翌日の8日昼頃から雨が降った。しかし、少量であった。
10日に雨乞成就のお礼踊りを行った
6月17日の暁から19日までの2夜3日、当国裕寺の龍王へ籠もり雨乞を行った。
6月26日 (雨が降ったので)お礼踊りを行った
7月18日から20日まで二夜三日、雨請祈願を行った。18日七ツ時に、台山で踊諸役人たちは宮(龍王社)へ籠った。

  ここからは次のような事が分かります。
①18世紀後半に豊浜の和田では、旱魃の時には台山の龍王祠で雨乞いが行われていた
②そして雨が降ると台山の国裕寺の境内で雨乞成就のお礼踊りが奉納されていた
この史料からは、宝暦、明和のころには、国祐寺での雨請祈祷に合わせて、雨乞踊やその御礼踊が盛んに行われいこたことを押さえておきます。

安政五年に脱稿したという丸亀藩の「西讃府志」に「屋形雨花」として歌詞とともに記録せられています。ここからは安政5年頃にも、和田ではこの踊りが盛大に踊られていたことが分かります。古老の話として伝えられる所によると、和田の風流踊は、もとは和田だけでなく、姫浜および田野々の三地区が一体となって、高尾山の龍王祠で行われたと云います。田野々は高尾山の裏側の大野原町五郷の集落になります。龍王を祀る山の裏と表の両方で、善女龍王信仰が根付き、そこで同じ風流踊りが雨乞いお礼踊りとして踊られていたことを押さえておきます。
  1977(昭和52)年11月23日に行われた香川県教育委員会主催の「ふるさとのつどい」の民俗芸能発表会に出演した記録が次のように残されています。
「奉祈雨元祖薩摩法師和田村道溝講中 ①昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟を先頭に押し立てて、青年団員に指導されて、四十名の小学生の踊り子達が一列に入場して来る。踊子の服装は、紺がすりに赤い欅、日本手繊ざあねさんかぶりをし、ボール紙て作ったたつころばちの形の笠をかぶる。そして赤い手おおいに、水色のきやはんをつけて、胸に締太鼓を掛け、二本の檸を持って、その太鼓を打ちつつ踊る。入場の時には、「宿入り」の歌に合わせて入る。歌い手は、ずっと青年団の者(西原芳正氏)が勤めた。先頭に立った幟持ちが、まず会場の中央に幟を持って立ち、その傍に台に乗せた太鼓を置き、一人の男の打手(青年団)が、二本の標を持って構える。その周囲を四十名の踊子達が円陣に並び、左の方へ右廻りに廻りつつ踊る。歌い手は、円陣の外側正面の所に立って歌う。踊りは、太鼓の、カンカン トコトン トントコトントコ トントコトンという一区切りごとに、同じ振りを繰り返してゆく。踊の歌は十二章まであるが、その一章ごとに踊の振りはかわってゆく。また曲打ちというのがあって、太鼓の曲だけとなりそれに踊を合わせるというところもある。
踊子は男女の子連に少し女子青年も交っていたが、昔は男だけで踊り、ゆかた禅がけでたっころばち(たからばち)も紙製ではなく、本物をかぶったという。歌い手も、円陣の外側に立つのではなく、円陣の中であった。
①「昭和十四年九月吉日」と染めぬいた幟」というのは、昭頭家和の大旱魃の年に、県の通達で雨乞祈祷や踊りを復活実施したときに、作られた幟でしょう。
それより前の大正の大旱魃があった大正12年8月には、御礼踊として、以下の順で奉納されています。
①和田浜の高尾山の龍王桐(八大龍王)の前
②台山の龍王祠(国祐寺の西)の前
③壬生(にぶ)岡墓地の薩摩法師宝筐印塔前
④和田小学校の校庭で総踊り
この四場所が踊の場所として昔から一般的だったようです。

  大正12年の大旱魃の時にも、県が雨乞踊りの復活実施を通達しています。そのため明治以来、踊られなくなっていた雨乞踊りが各地で復活したことは、以前にお話ししました。前回お話した山脇念仏踊りや、佐文綾子踊りもこの時に復活したものです。

大正12年雨乞いの御礼踊に、少年として参加した蔦原寿男氏の言葉が次のように載せられています。
あの時も、たしか二重の輪の踊で、総踊というにふさわしいほどの大勢であった。和田地区は、その中央を流れる吉田川を境に、川東組(雲岡・長谷・道溝・梶谷の各部落)と川西組(太村・大平木・直場・岡の各部落)の二つに分れている。それぞれ60名位の組が、東西の龍王宮に参請し、踊を奉納して下山し、国祐寺で両組が合流し、その西の龍王祠(雨龍神社)に八大龍王の幟を建て、その大前で、踊を奉納、終りに今の豊浜南小学校の校庭で、大円陣を作って踊った。お礼踊であるから近郷近在からの見物人は、秋祭の人出をしのぐ程盛大であった。

  以上 和田風流踊りについてまとめておきます。
①和田・姫浜・田野々の風流踊りは、曲目や歌詞が同じであることから同一系のものであること
②それはどの由来も薩摩(琵琶)法師によって伝えられ、墓標が残されていることからも裏付けられる。
③ここからは廻国の薩摩法師が和田地区に住み着き、祖先供養を行い信者を増やしたこと
④その過程で芸能伝達者として、先祖供養の盆踊りとして風流踊りを伝えたこと。
⑤それが台山の龍王祠でも雨乞成就のお礼踊りに転用され、後には雨乞い踊りへと変化していったこと
風流踊り → 先祖供養の盆踊り → 雨乞成就の返礼踊り → 雨乞踊りへと変遷していく姿が見えてきます。これが財田のさいさい踊りなどをへ影響を与え、佐文綾子踊りへとつながるのではないかと考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年
参考文献 「和田念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」

佐文誌195Pには「綾子踊りと御盥(みたらい)池」と題して、次のように記します。
 昭和14(1939)年の大子ばつ年には、渓道(たにみち)の竜王祠より火をもらい、松明の火をたやさないように竹の尾の山道をかけて帰り、竜王宮の火を燃やし、佐文の人々はお寵りして雨乞いを祈願したのである。機を同じくしてこの御盥池の畔りの凹地に人びとは掛け小屋を作り、行者が一週間一心不乱に雨乞いを祈躊したのである。干ばつにもかかわらず絶えることのないこの池水は、竜王宮の加護であり、湧き出る水のように雨を降らし給えと祈る佐文の人々の崇高な気持ちは、綾子踊とともにこの御盟池にも秘められていることを忘れてはならない。

   ここからは財田の渓道(たにみち)神社から佐文に、龍王神が勧進されていたことが分かります。この祠は、別称で三所神社ともよばれ、今は加茂神社境内に下ろされ「上の宮」と呼ばれています。それでは龍王神は財田の渓道龍王社に、どのような経由で伝えられたのでしょうか。そのルートを今回は、探って見たいと思います。

渓道龍王祠の由来については、「古今讃岐名勝図会」(1932年)には、次のように記されています。(意訳)

古今讃岐名勝図絵

この①龍王祠はもともとは財田上の村の福池という所にあった。その龍王祠のあたりに瀧王渕というのがあったが、そこを村人が田にしてしまったので、時に崇りがあった。その頃、同じ財田上の村の北地という所に観音堂があり、そこに②善入という道心型固(悟りを求め、道心が強くてしっかりしている)住僧がいた。ある時、善入の夢に龍王があらわれて、この福池の土地は不浄であるから、ずっと上流の紫竹の繁っているあたりに祠を移して貰いたいといったのて、善人は謹んでその言葉の通りにした。ところが籠王はさらに`善入の夢にあらわれて、この所はなお川上に人家があり清水が汚れている。だからさらに上流九十九の谷を経て、この川の源の紫竹と芭蕉の生えている所に移してほしいといって、その翌朝、③龍女自らその尊い姿(善女龍王)を現わしたので善人は、また潔斉して七日目に仏の御手を拝み、いよいよ霊験に感じて、さらに上流谷道の方へ九十九谷を究め、紫竹と芭蕉の生えているあたり、深渕あり、雌雄の滝の二丈の高さにかかっている幽逮の所に行きつき、ここに石壇を築き、龍王の祠を移した。これからこの地方には早害なく、雨を乞えば必ず霊験があるということになり、旱魃には龍王を祈るという事になったという。石野の者が、雨乞の時には、ここに仮家を立てて④祭斎(さいさい)踊を行うのはこのためだ。又⑤雨乞のために大般若百万遍修行をするときには、この龍王祠の傍に作った観音堂において行う。

  要約しておくと
①もともとの龍王祠は財田上の村・福池の瀧王渕にあった。
②財田上の村・北地の観音堂の住僧善入の夢枕に、善女龍王神が現れて川上の清浄な地への移転を求めた
③そこで善入は現在地の雌雄の滝(現鮎返しの滝)に龍王の祠(渓道神社)を移した。
④旱魃の際に雨乞祈願を行い、石野の人達は、その後に仮屋を建てて、さいさい踊りを踊った。
⑤龍王祠には観音堂も建てられ、そこでは雨乞のための大般若百万遍修行も行われた。
ここで、押さえておきたいのは龍王神というのは善女龍王のことだということと、渓道神社で踊られたのがさいさい踊りということです。

さいさい踊の由来について、「財田町誌」(稿本)には次のように記されています。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

この「財田町史」の伝えは、今は所在不明になっている稿本「財田村史」に載せられていたようです。
 
 さいさい踊の起りについては、もう一つ伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

  3つの伝説に共通するのは、もともとは財田の川下にあった龍王祠が、戸川の鮎返しの滝付近に移され、渓道(谷道)の龍王と呼ばれるようになったことです。その移動を行った人物は、次のように異なります。
A 古今讃岐名勝図会は、「善入という道心型固の住僧」
B 財田町誌(稿本)は、「仁尾からやってきた山伏
C 詫間から来て猪ノ鼻峠を越えて阿波へ行ったやってきた塩売り
これをどう考えればいいのでしょうか。

中世三野湾 下高瀬復元地図
本門寺(三野町)の西方に見える東浜・西浜

①古代の三野湾は湾入しており、そこでは製塩が行われていたこと
②中世の秋山か文書には、「西浜・東浜」などの塩田の遺産相続記事が出てくるので、製塩が引き続いて行われていたこと
③詫間の塩は、財田川沿いに猪ノ鼻峠などから阿波の三好郡に運ばれたこと
④その際の運輸を担当したのが、本山寺周辺の馬借であったこと
⑤本山寺の本尊は馬頭観音で、牛馬の守護神として馬借たちの信仰をあつめたこと。
以上のように「三野湾 → 本山寺 → 財田戸川 → 猪ノ鼻峠 → 箸蔵寺 → 三好郡」という「塩の道」が形成され、人とモノの行き来が活発になったこと。これらの道の管理・運営にあたったのが本山寺や箸蔵寺の修験者たちであったと私は考えています。まんのう町の塩入が、樫の休場を越えての阿波への「塩の道」であったように、財田戸川も三豊の「塩の道」の集積地であったのです。
 本山寺 本堂
               本山寺本堂
阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場本山寺(豊中町)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
 本山寺の本尊は馬頭観音です。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python

馬頭観音は、牛馬を扱う運輸関係者(馬借)や農民たちの信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたことは以前にお話ししました。また、滝宮念仏踊りの拠点となった滝宮神社も、神仏分離以前には「滝宮牛頭明神」と呼ばれて、別当寺である龍燈寺の社僧の管理下に置かれていたのと似ています。

本山寺には、県有形文化財に指定された善女龍王の木像(南北朝)が伝わっています。
善女龍王 本山寺
 本山寺の善如(女)龍王像 男神像
一目見て分かるのは女神ではなく男神です。善女龍王の姿は歴史的に次のように変遷します。
①小蛇                          (古代 空海の時代)
②唐服官人の男神          (高野山系) 善龍王
③清滝神と混淆して女神姿。 (醍醐寺系) 善龍王
  ③の女神化を進めたのは醍醐寺の布教戦略の一環でした。そして、近世に登場してくる善女龍王は女神が一般的になります。ところが本山寺のものは、男神なのです。もうひとつの特徴は善女龍王の姿は、絵画に描かれるものばかりです。ところが本山寺には木像善如龍王像があるのです。これは全国でも非常に珍しいもののようです。
  この像については従来は14世紀に遡るものとされ、善女龍王信仰がこの時期に三豊に根付いていたとする根拠とされてきました。しかし、もともと鎮守堂にあったのかどうかが疑われるようになっているようです。つまり「伝来者」という説も出されているのです。

弥谷寺 大見村と上の村組
神田と財田上の村は多度津藩の飛び地だった
財田上の村への善女龍王信仰の伝播ルートとして、考えられるのが弥谷寺です。
丸亀藩は干ばつの時には、善通寺に雨乞い祈祷を命じていたことは以前にお話ししました。財田上の村は多度津藩に属していました。多度津藩が「雨乞執行(祈祷)」を命じられていたのは弥谷寺でした。「此の節照り続き、潤雨もこれ無く、郷中一統難儀たるべし」として、弥谷寺へ雨乞い祈祷を命じ、祈祷料として銀2枚が与えられています。雨乞い祈祷開催については、各村から役人総代と百姓2人ずつを、弥谷寺へ参詣させるように藩は通知しています。その周知方法は次の通りです。
①多度津藩から財田上ノ村組大庄屋近藤彦左衛門へ、
②さらに大庄屋近藤彦左衛門から大見村庄屋大井又太夫へ伝えられ
③上ノ村組の五か村へ通知
ここからは、弥谷寺での雨乞い祈躊が、上ノ村組という地域全体の行事として捉えられていたことが分かります。つまり、江戸時代後半になって、多度津藩の雨乞祈祷を通じて善女龍王信仰が庶民の中にも拡がっていたのです。それが渓道龍王社の勧進という動きになったことが考えられます。
 ここで押さえておきたいのは、善女龍王への雨乞祈願というスタイルが讃岐にもたらされて、庶民に拡がって行くのは、江戸時代後半以後のことであるとです。案外新しい信仰なのです。

以上、西讃地方における善女龍王信仰の広がりをまとめておくと、次の通りです。
①延宝六年(1678)の夏、畿内より招かれた浄厳が善通寺で経典講義を行った
②その夏は旱魃だったために浄厳は、善如(女)龍王に雨乞祈祷し、雨を降らせた
③その後、善如(女)龍王が勧請され、善通寺東院に祠が建設された
③以後、善通寺は丸亀藩の雨乞祈祷寺院に指定。高松藩は白峰寺、多度津藩は弥谷寺
④各藩のお墨付きを得て、善通寺と関係の深かった三豊の本山寺(豊中)・威徳院(高瀬)、伊舎那院(財田)などでも善女龍王信仰による雨乞祈祷が実施されるようになる
⑤また多度津藩の雨乞祈祷には、各村の庄屋たちが参加し、善女龍王信仰が拡がる。
こうして17世紀後半以後に善女龍王信仰は、次のようなルートで財田川を遡って、渓(谷)道龍王が幕末に、麻や佐文に勧進されたことになります。

善通寺 → 本山寺 → 伊舎那院 OR 弥谷寺 → 渓(谷)道龍王社 → 麻(高瀬)・佐文(まんのう町)谷

17世紀以後に善通寺にもたらされたものが、本山寺や弥谷寺の修験者をつうじて三豊に拡がっていったのです。そして彼らは雨乞踊りも同時にプロデュースするのです。それが渓道神社では、さいさい踊りでした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

讃岐の雨乞い踊調査報告書1979年

 前回は 「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」の「念仏踊り」について見ました。今回は「風流小歌踊系」を見ていくことにします。風流小歌踊系の雨乞い踊りは、初期の歌舞伎踊歌を思わせるような小歌が組歌として歌われ、その歌にあわせて踊ります。讃岐に残るものをリストアップすると次のようになります。
綾子踊  まんのう町佐文
弥与苗踊・八千歳踊        財田町入樋   
佐以佐以(さいさい)踊り     財田町石野   
和田雨乞い踊(雨花踊り)     豊浜町和田 
姫浜雨乞い踊 (屋形踊り)    豊浜町姫浜 
田野々雨乞い踊            大野原町田野々
豊後小原木踊              山本町大野 
讃岐雨乞い踊り分布図
讃岐の雨乞い踊り分布図
今でも踊られているのは綾子踊、弥与苗踊、さいさい踊、和田雨乞踊、田野々雨乞踊で、その他は踊られなくなっているようです。また小歌踊の分布は、東讃にはほとんどなく讃岐の西部に偏っています。念仏踊が滝宮を中心とする讃岐中央部に集中するのに対して、風流小歌踊は、さらに西の仲多度・三豊地区にかけて分布数が多いことを押さえておきます。この原因として考えられるのは、宗教圏のちがいです。東讃については、与田寺=水主神社の強い信仰圏が中世にはあったことを以前にお話ししました。この影響圏下にあった東讃には、「雨乞い踊り文化」は伝わらなかったのではないかと私は考えていま す。それでは、雨乞い風流踊りを見ていくことにします。綾子踊については、何度も触れていますので省略します。
佐以佐以(さいさい)踊は、財田町石野に伝承する雨乞踊で、次のように伝えられます。
昔、大早魃の折に一人の山伏がやって来で龍王に奉納すれば降雨疑いなしと言って教えられたのがこの踊りだと伝わる。その通り踊ったところ降雨があった。その山伏は仁保(仁尾町)の人だと言ったので跡を尋ねたが仁尾にはそんな山伏はいなかった。さてはあの山伏は竜王の化身にに違いないと、その後早魃にはその踊りを竜王に奉納していた。

さいさい踊の起りについてはもう一つの伝説があります。

昔、この村の龍光寺に龍王さんを祀っていた。ところが龍光寺は財田川の川下であった。ある日のこと、一人の塩売りがやって来て竜王さんをもっと奥の方へ祀れと言う。そして、そこには紫竹と芭蕉の葉が茂っているのだという。村の人はその場所を探し求めると上流の谷道に紫竹と芭蕉の葉が茂っていた。そこで竜光寺の龍王を、そのところへ移して渓道(谷道)の龍王と呼んだ。それからこの龍王で雨乞踊を奉納することになったと云う。この塩売りは三豊郡の詑間から来て猪鼻峠を越えて阿波へ行ったか、この塩売りはやはり龍王さまご自身だろうと言うことになった。

この伝説からは次のようなことがうかがえます。
①財田下に龍光寺という寺があり、龍王を祀っていたこと
②それが川上の戸川の鮎返しの滝付近に移され渓道(谷道)の龍王
と呼ばれるようになったこと
③三豊の詫間から塩商人が入ってきて、猪ノ鼻峠を越えて阿波に塩を運んでいたこと

また、さいさい踊りの歌詞の中には、第六番目に次のような谷道川水踊りというのが出てきます。
谷道の水もひんや 雨降ればにごるひんや 
うき世にすまさに ぬれござさま ござさま
(以下くつべ谷の水もひんや……とつづく)
また、さいさい踊りという歌もあって、次のように歌われます。

あのさいさいは淀川よ よどの水が出て来て 名を流す 水が出て来て名を流す……

雨乞踊の時に簑笠をかぶって踊れと云われていますが、雨を待ちわびて、雨がいつ降っても身も心も準備は出来ていますよと竜神さまに告げているのかも知れません。さいさい踊りが奉納されたのは、渓道(たにみち)神社で、戸川ダムのすぐ上流で、近くには鮎返りの滝があります。
渓道神社.財田町財田上 雨乞い善女龍王
渓道(たにみち)神社
また、佐文や麻は渓道(たにみち)神社の龍王神を勧進して、龍王祠を祀っていたことは以前にお話ししました。佐文の綾子踊りには、さいさい踊りと同じ歌もあるので、両者のつながりが見えて来ます。

財田町にはさいさい踊りの他に、弥与苗(やおなや)踊があります。
弥与苗踊は八千歳踊と共に入樋部落に伝承されています。この縁起には俵藤太秀郷の伝説がついていて、次のように語られています。

昔、俵藤太秀郷は竜神の申しつけで近江の国の比良山にすむ百足を退治しょうとした。その時に秀郷は竜神にむかってわが故郷の讃岐の国の財田は雨が少なくて百姓は早魃に苦しんでいます。もし私がこの百足を退治することが出来たならばどうぞ千魃からわが村を救い給えと祈ってから百足を退治した。竜神はそれ以後、財田には千害が無いようにしてくれた。秀郷は財田の谷道城に長らく居住したが、他村が旱魃続きでも財田だけは降雨に恵まれ、これを財田の私雨(わたくしあめ)とよんでいた。

このような縁起に加えて、今も財田の道の駅がある戸川には俵藤太の墓と伝えるものや、ある家には俵藤太が百足退治に使ったという弓が残っていると云います。弥与苗踊はもともとは、盆踊りとしても踊られていたようです。真中に太鼓をすえて、その周囲で踊る輪おどりなので、盆踊りが雨乞成就お礼踊りに転用されていったことがうかがえます。ここで押さえておきますが、雨乞い踊りが先にあったのではなくて、盆踊りとして踊られていたものが「雨乞成就」のお礼踊りに転用されたと研究者は考えています。

豊浜和田雨乞い踊り
和田の雨乞い踊り(観音寺市豊浜町)
豊浜の和田雨乞踊と姫浜雨乞踊を見ておきましょう。
和田と姫浜とは、ともに豊浜町に属していて、田野々は大野原町五郷の山の中にあります。これらの雨乞踊は伝承系統が同じと武田明氏は考えます。和田の雨乞踊の歌詞は、慶長年間に薩摩法師が和田に来てその歌詞を教えたとされます。それを裏付けるように、歌詞は和田も田野々も、「四季、屋形、雨花、薩摩、目出度さ」は共通で、その踊り方も昔はよく似ていたと伝えられます。和田から田野々へ伝わったようです。
和田の道溝集落の壬生が岡の墓地には、薩摩法師の墓があります。
雨乞い踊りを伝えた薩摩法師の墓
薩摩法師の墓(豊浜町道溝)
その墓の建立世話人には和田浜、姫浜、和田、田野々の人々の名前が連なっています。法師の信者達だった人達が、供養のために建てたものでしょう。この墓の存在も、雨乞踊の歌が薩摩法師という廻国聖によってもたらされたものであることを裏付けます。しかし、「薩摩法師の伝来説」には、武田明氏は疑問を持っているようです。 
さつま(薩摩)小めろと一夜抱かれて、朝寝して、
おきていのやれ、ぼしゃぼしゃと  
さつま(薩摩)のおどりをひとおどり……
この歌詞には「さつま(薩摩)」が確かに出てきます。これを早合点して、遍歴して来た琵琶法師を、四国では薩摩琵琶の方が有名なので、薩摩法師が琵琶を弾きながら語り伝えたように誤解して伝わった可能性があるというのです。琵琶法師は、語りの他にも今様も歌って遍歴したとされます。和田、田野々などの歌は、琵琶法師によってもたらされたものとします。芸能運搬者としての琵琶法師ということになります。琵琶法師も広く捉えると遍歴の聖(修験者)になります。
 和田も田野々も、踊るときにはその前の夜が来ると笠揃えをして用意をととのえます。田野々では夜半すぎから部落の中央にそびえる高鈴木の竜王祠まで登ります。夜明けになると踊り始めて、何ケ所かで踊った後に法泉寺で踊り、最後は鎌倉神社で踊ることになっていたようです。

風流小唄系の踊りに詠われている歌詞の内容については、綾子踊りについて詳しく見ました。その中で、次のようにまとめておきました。
①塩飽舟、たまさか、花かご、くずの葉などのように、三豊の小唄系踊りと共通したものがあること
②歌詞は、雨を待ち望むような内容のものはほとんどないこと。
③多いのは恋の歌で、そこに港や船が登場し、まるで瀬戸内海をめぐる「港町ブルース」的な内容であること。
どうして雨乞い踊りの歌なのに、「港町ブルース」的なのでしょうか? それに武田明は次のように答えています。
もともとは雨乞のための歌ではなかったのである。
それが雨乞踊の歌となったのに過ぎないのであった。
私なりに意訳すると「雨乞い風流踊りと分類されてはいるが、もともとは庶民は祖先供養の盆踊唄として歌ってきた。それが雨乞成就のお礼踊りに転用された」ということになります。

最初に見たように雨乞風流小歌踊は、三豊以外にはないようです。
佐文の綾子踊だけが仲多度郡になりますが、佐文は三豊郡との郡境です。これをどう考えればいいのでしょうか。武田明氏は次のように答えます。

このような小歌を伝承し伝播していた者が三豊にいて、それが広く行なわれているうちに雨乞踊として転用されていったのではないかと想像される。そして前述の薩摩法師と伝えているものもそうした伝播者の一人でなかったかと思われる。

  芸能伝達者の琵琶法師によって伝えられた歌と踊りが、先祖供養の盆踊り歌として三豊一円に広がり。それが雨乞踊りに転用されたというのです。卓見だとおもいます。

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滝宮念仏踊りの各組の芸司たち
念仏踊りや綾子踊りでは芸司(ゲイジ・ゲンジ)・下司(ゲジ)が大きな役割を担います。
これについて武田明氏は次のように記します。

芸司は踊りの中でもっとも主役で、滝宮念仏踊では梅鉢の定紋入りの陣羽織を着て錦の袴を穿いた盛装で出て来る。芸司にはその踊り組の中でも最も練達した壮年の男子が務める。芸司は日月を画いた大団扇をひらめかしてゆう躍して、踊り場の中を踊る。それは如何にもわれ一人で踊っているかの様子である。他の踊り手が動きが少ないのに反してこれは異彩を放っている。土地によっては芸司は全体の踊りを指導するというが指導というが、自からが主演者であることを示しているようにも思える。或いは芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えているのではないかとも思われる。

 ここで私が注目するのは「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」という部分です。各念仏踊りの由来は、菅原道真の雨乞成就に感謝して踊られるようになったと伝えます。しかし、年表を見ればすぐ分かるように、念仏踊りが踊られるようになるのは中世になってからです。菅原道真の時代には念仏踊りはありません。菅原道真伝説は、後世に接ぎ木されたものです。また念仏踊りの起源を法然としますが、これも伝説だと研究者は考えています。45年前に「芸司の踊りが一遍上人などの念仏踊りの型を伝えている」と指摘できる眼力の確かさを感じます。

以前に兵庫県三田市の駒宇佐八幡神社の百石踊の芸司(新発意役)について以前に、次のようにまとめておきました。
百石踊り(駒宇佐八幡神社) | ドライブコンサルタント
百石踊の芸司 服装は黒染めの僧衣
①衣裳は僧形で、白衣のうえに墨染めの法衣を着て、裾をたくって腰までからげ上げる。
②月と日(太陽)形の切り紙を貼った編笠を被り、右手に軍配団扇、左手に七夕竹を持つ。
③踊りが始まる直前に口上を述べ、踊りの開始とともに太鼓役を先導して踊る。
百石踊りの新発意役(芸司)は、実在する人物がいたとされます。それは文亀3年(1503)に、この地に踊りを伝えた天台宗の遊行僧、元信僧都です。元信という天台宗の遊行僧が文亀年間に生存し、雨乞祈席を修したかどうかは分かりません。ただ、遊行僧や勧進聖・修験者・聖などが、雨乞祈祷・疫病平癒祈願・虫送り祈願・火防祈願・怨霊鎮送祈願などに関与したことは以前にお話ししました。百石踊り成立過程において、これらの宗教者がなんらかの役割を果たしたことがうかがえます。研究者は注目するのは、次の芸司の持ち物です。
①右手に金銀紙製の日・月形を貼り付けた軍配団扇
②左手にを、赤・ 青・黄の数多くの短冊と瓢箪を吊した七夕竹
これらを採り物として激しく上下に振りながら、諸役を先導して踊ります。本願の象徴として、以下のものを好んで使用したとされます。
①空也系聖は瓢箪
②禅宗系の放下や暮露は七夕竹と団扇
彼らは人々から頼まれたいろいろな祈願を行う際に、自分たちの属する教団の示す象徴が必要でした。そのシンボルが、瓢箪と七夕竹だったようです。空也系聖と禅宗系聖の両方を混合したのが高野聖になります。ここからは、採り物についても百石踊りの成立過程には、下級宗教者(高野聖など)の関わりがうかがえます。民俗芸能にみられる芸司は、本願となって祈祷を行った修験者や聖の姿と研究者は考えています。
 しかし、時代の推移とともに芸司の衣装も風流化し、僧形のいでたちで踊る所は少なくなったようです。芸司の服装についても変化しているようです。滝宮念仏踊りで出会った地元の研究者が、次のように教えてくれました。

「戦前までは、各組の下司は、麻の裃を着て踊っていた。ところが麻やかすりの裃は、もうない。特注扱いで高価で手がでん。そこで、ある組の下知が派手な陣羽織にしたら、全部右へなれいになりました。」

以上からは芸司の服装には次のような変化があったことがうかがえます。
①古いタイプの百石踊の「芸司」は「新発意(しんほつい)=僧侶」で、法衣のうえから白欅をした僧衣
②それが綾子踊りの芸司は「裃」で、庄屋の格式衣装
③現在の滝宮念仏踊りの芸司は、陣羽織
つまり、中世は僧衣であったものが、江戸時代に「裃」になり、今は金ぴかの陣羽織に変化してきています。今では被り物・採り物だけが、遊行聖の痕跡を伝えている所が多くなっているようです。

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滝宮念仏踊りの芸司の陣羽織姿
滝宮念仏踊の中で子供が参加するのを子踊りとよんでいます。
いつ踊りだすのかとみていると、最後まで踊ることなく腰掛けています。どうして踊らないのでしょうか? 武田明氏は次のように記します。
子踊りは菩薩を象徴すると言って、入庭(いりは)の際には芸司の後に立つ。すなわち社前の正面で芸司についで重要な位置である。しかし、いよいよ踊りが始まると、社殿に向って右側の床几に腰を下して踊りのすむまでは動かない。その子供達は紋付き袴の盛装でまだ幼児であるために近親のものがつきそっている。子踊りの名称はありながら踊らない。その上、滝宮念仏踊では子踊りの子供は大人によって肩車をされて入庭するのが古くからの慣習であった。これはおそらくはその子供を神聖なものとして考えて踊りの庭に入るまでは土を踏ませないことにしていたのである。古い信仰の残片がここに伝承されていることを私達は知ることが出来る。滝宮を中心とする地方で肩車のことを方言でナッパイドウと言うが、この行事が早くからこの地方にはあったことを示している。

ただ南鴨念仏踊だけで子踊りが芸司の指図に従って踊っていて、それが特色であるように言われているが、私はかって南鴨念仏踊の保持者であり復興者であった故山地国道氏に聞いたことがある。どうして南鴨だけが子踊りが踊るのですかと言うと、山地氏はいやあれは人数が少ないとさびしいので、ああ言う風にしましたと私に語るのであった。その言葉を信じるとどうも復興した折に、ああ言う風に構成したように思われる。
 善通寺市の吉原念仏踊というのは南鴨の念仏踊の復活以前の型をそのまま移したというが、ここの子踊りは子供は踊らず、ただ団扇で足元だけをナムアミドウの掛声に合せて軽く打つ程度の所作しかしなかった。すなわち踊ることなどはしないという。それを以て見ても南鴨念仏踊の子踊りの所作が古型そのままであると考えることは出来ないのである。

子踊りに所作がなく、踊りの庭に滝宮の例のように肩車をして入って来る。また滝宮ではこれを菩薩の化身と見るということは子踊りの子供自体を考える上において極めて貴重な資料である。おそらく子踊りは神霊の依座と考えていたのである。すなわち子踊りの子供に踊りの最中に神霊の依るのを見て、雨があるかどうかを見ていたのである。子踊りは念仏踊りにおいて古くはそのように重要な意味を持つていたのである。

武田明氏は民俗学者らしく小踊りが踊らない理由を「神霊の依座」として神聖視されていたからとします。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組
しかし、七箇村念仏踊りを描いた諏訪大明神念仏踊図(まんのう町諏訪神社)を見ると8人の子踊りは、芸司と共に踊っているように見えます。また、七箇念仏踊りを継承したと思われる佐文の綾子踊りでは、主役は子踊りです。武田氏の説には検討の余地がありそうです。

綾子踊り4
佐文綾子踊りの子踊り

坂出の北条念仏踊には大打物と称する抜刀隊がいます。
その人数は当初は24人で、後には40人に増やされたといいます。どうしてこんな大人数が必要だったのでしょうか。
これについては武田明氏は、次のような「伝説」を紹介しています。

正保年間の念仏踊りの折に七箇村念仏踊は滝官へ奉納のために出掛けて行った。ところが洪水のために滝宮川を渡ることが出来ないでいた。昼時分までも水が引かないので待っていたが、 一方北条念仏踊はその年は七箇組の次番であったのだが待ち切れずに北条組はさきに入庭しようとした。すると、これを見た七箇組の朝倉権之守は急いで河を渡り北条組のさきに入場しようとした事を抗議して子踊り二人を斬るという事件が起った。それから後、警固のために抜刀隊が生れた。

 この話をそのまま信じることはできませんが、武田明氏が注目するのは抜刀隊(大打ち物)の服装と踊りです。頭をしゃぐまにして鉢巻をしめ袴を着て、白足袋で草鞋を履いています。右手には団扇を持ち、左手には太刀を持ちます。そして踊り方は、派手で目立ちます。ここからは抜刀隊(大打ち物)は事件後に新たに警固のために生まれたものではなく、何か「別の芸能」が付加されたものか、もとは滝宮念仏踊とは異なる踊りがあったと武田明は指摘します。
 北条念仏踊には他の念仏踊に見ないもう一つの異なる踊りがあるようです。
それはあとおどり(屁かざみ)と言って、芸司のあとにつづいてゆく者が、おどけた所作をして踊るものです。こうして見ると北条念仏踊は、滝宮念仏踊の一つですが、多少系統を異にすると武田明は指摘します。
 綾子踊り入庭 法螺・小踊り
佐文綾子踊り 山伏姿の法螺貝吹き
法螺貝吹きについては、武田明は次のように記します。
入庭の時には先頭に立って法螺貝を吹きながら行くのである。また、念仏踊りによっては踊りはじめの時に吹くところもある。鉦、筒、鼓ち太鼓などと違って少し場違いな感じがしするものである。法螺貝吹きは念仏踊が修験の影響をうけていることを音持しているのかも知れない。(中略)
 また、念仏踊りでも悪魔降伏のために薙刀を使ってから踊りはじめるのだが、綾子踊では薙刀使いが棒使いが踊りの庭の中央て問答を言い交わす。これはやはり山伏修験がこの踊りに参加していたことを物語るものであろうか。
綾子踊り 棒と薙刀
    薙刀と棒振りの問答と演舞(綾子踊り)
このように滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りと山伏修験との関わりについて、45年前に暗示しています。
これについては、宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」が参考になります。
はなとりおどり・正木の花とり踊り
            はなとり踊り
「はなとり踊り」にも、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に修験者がやっていました。
 はなとり踊りの休憩中には希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。ここからは、はなとり踊が修験者による宗教行事であることが分かります。行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは修験者たちだったことが分かります。里人の不安や願いに応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは修験者たちだったのです。それを民俗学者たちは「芸能伝播者」と呼んでいるようです。

滝宮念仏踊には願成就(ガンジョナリ)という役柄があります。
南鴨念仏踊などでは、この役柄の人が「ガンジョナリヤ」と大声で呼ばわってから踊りが始まります。「雨乞い祈願で、雨が振ってきた。諸願成就したぞ」と大声で叫んでいるようです。そうだとすれば、念仏踊りは雨が降ったための御礼の踊りであったことを示していることになります。
「私雨(わたくしあめ)」ということばが、財田の谷道神社や佐文の綾子踊りの由来には出てきます。 
どんな意味合いで使われているのでしょうか。武田明氏は次のように記します。
旱魃の時に雨が降らなければ村の田畑は枯死する。そこで雨乞い祈願には、その村落共同体のすべての者が力を結集してあたった。雨が降ればその村のみに降ったものとして財田や佐文では「私雨(わたくしあめ)」と呼んだ。この言葉の中には、自分の村だけに降ったという誇りがかくされている。夏の夕立は局地的なもので、これも「私雨(わたくしあめ)」とも呼んでいた。

雨乞い踊りの組織と規模について武田明は、次のように記します。

村に人口がふえてくるにつれて起りはささやかな雨乞踊だったものが次第に大きい規模になっていったことも容易に想像出来る。大きくなっても重要な役割の者はふやすことは難しい。それは芸司(げんじ)のように世襲になっているものもあるし、法螺貝吹きなどのように山伏などの手によらねばならぬものもあった。しかし、外まわりに円陣を作って鉦を鳴らすとか、警固の役の人数はそれ相当に増やすことは出来た。そうすると、分家によって家が増えたり、新しく村入りして来た者があったとしても誰もが参加することが出来た。こうして、もとは少人数であったものが次第に大がかりなものになって来たことが想像される。

 雨乞念仏踊は共同祈願であったためにその村落の結束は非常に強固であった。殊に滝宮へ出向いてゆく踊り組は他の村の踊り組に対して古くは非常な関心を持っていた。そこで争わないように踊りの順番までがはっきりと定められていた。それを破ったというので七箇村組が北条組との間に争いを起したのであった。しかしこのような事件はこれほど大きい事件にならなくても、これに類似した事件は再三起っていたことが記録の上では明らかである。これはどういう事であろうか。やはり踊り組の結束というか、要するに村落共同体の一つの重要な仕事であるだけに他村に対して排他的とは言わないまでも異常な関心を持っていたからであろう。

滝宮への踊り込みを行っていた念仏踊りの各組については、その後の研究で次のようなことが分かっています。
①念仏踊りは、中世に遡るものでもともとは各郷の惣村神社の夏祭りに奉納された先祖供養の盆踊りであった。
②その構成メンバーは宮座制で、惣村を構成する各村毎に役割と人数が配分されていた。
③滝宮への踊り込みの前には、各村々の村社を約1ヶ月かけて巡回して、最後に惣社に奉納された後に滝宮へ踊り込んだ。
④各組は郷を代表するものとしてプライドが高く、争いがつきもので、その度に新たなルールが作られた。
⑤「惣村制+宮座制」で、これをおどることが各村々での存在意味を高まることにつながった。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武田 明  雨乞踊りの分布とその特色    讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)」

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