第3巻は信貴山の中興者(実質的な開山者)の命蓮の姉尼公が、20年間音信のない弟の安否を案じて故郷の信濃国からはるばる大和国まで旅をしてきます。その間にいろいろな人達に消息を訪ね歩く姿が描かれています。そして、東大寺の大仏のお告げによって命蓮が信貴山にいることを知ります。二人は再会を果たし、共に出家生活を営むまでを描いています。巻頭部分から見ていくことにします。テキストは「井上泰 信貴山縁起絵巻 尼公の巻 広島大学教育学部大学院紀要」です。
信濃を出国する尼公と従者(信貴山縁起絵巻第三巻冒頭)
信濃を出国する尼公と従者(信貴山縁起絵巻第三巻冒頭)
場面は、信濃を出国する尼公と従者が描かれています。桟道で補強された切り立った岩の間の道を杖をつきながら歩く蓑笠の従者。その前には、黒駒に乗った尼公がもう一人の従者に牽かれていきます。二人の従者を連れて、馬に乗っての旅ができるということは、尼公の家が信濃の豪族のひとりで経済基盤がしっかりしていたことがうかがえます。だからこそ、命蓮も何十年もの山岳修行生活が送れていたのでしょう。
道の側には、水量ゆたかな川が流れ下っています。 『新版絵巻物による日本常民生活絵引」は、この場面を「木曾路」として次のように記します。
道の側には、水量ゆたかな川が流れ下っています。 『新版絵巻物による日本常民生活絵引」は、この場面を「木曾路」として次のように記します。
もと京師から東国へ行くためには二つの道すじがあり一つは東山道、他は東海道である。 木曽路は東山道に属し、美濃から木曽川の谷を経て鳥居峠を越え松本平に出るまでの間で、木曽川のつくった深い谷間を通り、きわめてけわしく、所々に桟道もつくられていた。しかし古代にはこの道が重要な交通路で、東国の牧から献上せられる望月の駒もまたこの谷を下って美濃の平野に出、近江を経て京都にいたった。
この場面からは次のような事が読み取れます。
①右手に板庇のついた草葺入母屋造の建物がある
②その軒先では、嫗と翁とが笑顔で果物(桃)を鉢に盛っている。
②その軒先では、嫗と翁とが笑顔で果物(桃)を鉢に盛っている。
③灯明、火鉢をもった男女が網代垣を出て、尼公のもとに向かおうとしている
④黒駒から荷物を下ろす従者と、尼公の前にひざまづく二人の従者がいる
⑤縁台に俵などの荷物を下ろし、尼公は履を脱いでいる
ここに描かれている桃と米俵は、投宿の謝礼(宿料)として信濃から持参品と研究者は推測します。桃は信濃の特産品でした。桃をもらった翁嫗の顔に笑みがこぼれています。
尼公は、どんな所に泊まって旅を続けていたのでしょうか?
この宿舎は美濃・信濃の国境にあった「園原の伏屋 (布施屋)」と研究者は推測します。「伏せ屋」について『歌ことば歌枕辞典』は、次のように記します。
和歌で詠まれるのは、歴史文書などで 「布施屋」と表記される、道の難所や渡し場などに設けられた公設の緊急宿泊施設である場合が多い。それは、坂上是則の
「園原やふせ屋におふる帚木のありとは見えてあはぬ君かな」(新古今集・一九九七、 古今六帖・第五・三〇一九) を淵源に、信濃の御坂の麓に設けられた園原の布施屋が詠まれるのが普通であり、「園「原の伏屋」で地名のようにも意識されていた。
さらに、「おろかにも思はましかば東路の伏屋といひし野辺に寝なまし」 (拾遺集・雑賀・一一九八・よみ人しらず)のように、それ自体で地名のように扱われる例も見られる。
『信貴山縁起』の作者も、信濃から奈良に向かう尼公一行の投宿地を美濃・信濃国境の「園原の伏屋」を比定していた可能性が高いと研究者は考えています。しかし、問題があります。そのひとつは「伏屋 (布施屋)」が、尼公のような一般人の宿泊ができたかどうかです。伏屋については次のような見解があります。
A 調庸の運脚夫や都の宮殿造営に従事する役民等を宿泊させる施設(平安時代史事典)B 「行旅の窮民」救済施設説で「行基の如きも五畿内に布施屋九所を造て行旅の窮民を救済していた」(綜合日本史大系)C 奈良時代から平安時代にかけて、駅路の諸所に設けられた旅人の接待所(慈恵的旅館)の一種」(和歌森太郎編 『増訂日本歴史事典』)
A 右手の松の木B 中央の井戸汲みと洗濯C 菜園の中で青葉積み
まず、板屋根の民家の前に植えられているのは、A松の木のようです。しかし。よく見ると枝には松葉以外の何かが掛けられています。これは稲束を干しているのだと研究者は指摘します。これがもともとの稲木(稲機)で、後に柵や木組みを使用するようになるようです。この方が積み重ねておくよりも、よく乾きます。こんな方法が平安時代初期には始まっていたようえす。稲以外にも、豆類などもこうして干していました。
次にBの井戸と洗濯です。
右側の小袖に褶を付けた女は、井戸から釣瓶縄をたぐって水を汲んでいます。くんだ水は井桁に置かれた曲物桶に入れられ、隣の女に渡すのでしょう。左側の女は、曲物桶から柄杓で水を汲んでかけ、両足で踏み洗いしています。庶民の衣類は、繊維の硬い麻や苧(からむし)などから作られていたので、手もみ洗いでなく踏み洗いでした。一方、貴族の着る絹製品は、踏み洗いですと生地が傷むので、手洗いだったことが裏付けられます。
次にCの菜を摘む女を見ておきましょう。


①季節は春で、畠にはきれいに畦道が作られている。
②小袖の女が、裸足でしゃがんで菜摘みをして、曲物桶の中には摘んだ菜が見える。
③他の部分にも菜が描かれていたが緑色が剥落した
④庶民の家では畠で野菜類が自給されていて、その管理は女の仕事だった。
水汲みや洗濯、糸紡ぎなども女が担当していたようです。
次の場面には、弟の命蓮の消息を訪ねる尼子が描かれています。
命蓮の消息を訪ねる尼子(信貴山縁起絵巻第三巻)
①頭巾・袿姿で、杖を持ち、数珠を下げて、縁台に座っているのが命蓮の姉の尼君②今までは乗馬の旅で沓を履いていたのが、ここでは徒歩で脚絆に草鞋になっている。
③烏帽子に蓑を着て立つのが、信濃国から同行している従者。馬ともうひとりの従者はいない。
④従者は裾の短い四幅袴、脚絆、草鞋の旅姿、手に尼君の笠を持つ。
⑤従者の蓑が膨らんでいるのは、その下に荷物を背負っているため
⑥衣類の他に、米などの荷物も背負っていたはずです。尼君の旅は、こうした従者の働きがあってこそできたことを押さえておきます。
⑤従者の蓑が膨らんでいるのは、その下に荷物を背負っているため
⑥衣類の他に、米などの荷物も背負っていたはずです。尼君の旅は、こうした従者の働きがあってこそできたことを押さえておきます。
尼君の相手をしている小袖の女は、糸を紡いでいるようです。


糸をつむぐ女
石山寺縁起絵巻の糸を紡ぐ女
右手下に見えるのを、「手すりつむ」と云うそうです。細い棒に車をつけ、回転させて糸を撚りながら巻きつける道具です。ここでは糸が円錐状に巻かれた形で描かれています。巻かれた糸を受けているのが紡錘車です。膝下に見えるのが手押台です。角棒状の片側は薄く板のようになっていて、膝で固定します。その手前の台形状は、手押木で手代木(てしろぎ)とも言います。手押台に手すりつむの軸を横に置き、その上を手押木で押しますと、「手すりつむ」はくるくる回り、糸を巻きつけることができます。さて、この女はどういう作業をしているのでしょうか。
女の左手下にある曲物桶は、苧桶にしていて、中に糸が入っています。手すりつむに巻きついた糸を右手で引き出しながら、左手で撚りをつけて、苧桶に落としていると研究者は考えています。
こうしてみると、尼君の弟を訪ねての長い旅は、人々の援助によって成り立っていたことが分かります。作者は、長い旅であることを示すために、途中で出会った人々の生活まで描きました。それが庶民の仕事ぶりまでが分かる史料となります。
こうしてみると、尼君の弟を訪ねての長い旅は、人々の援助によって成り立っていたことが分かります。作者は、長い旅であることを示すために、途中で出会った人々の生活まで描きました。それが庶民の仕事ぶりまでが分かる史料となります。
峠を越える山道には鹿の群が描かれています。奈良に入ったことが暗示されます。やってきたのは東大寺です。
東大寺大仏の前でぬかずく尼公(信貴山縁起絵巻第三巻)
命蓮の消息をたずねて祈るうちに、尼公は仏前でまどろみます。すると夢枕で大仏に西の方、紫雲たなびく山に命蓮がいることが告げられます。そのお告げに従って西を目指して出立していきます。
この場面では、大仏の前で複数の尼公が描かれています。これが「異時同図法」により時間の変化を表現した最初の作品になるようです。なお、ここに描かれた東大寺大仏殿は、治承4年(1180)に平重衡(しげひら)の南都焼き討ちで焼け落ちる以前の建立当初の姿を描いた唯一の史料です。道中の商家、農家、職人の家と庶民の風俗などとともに、価値が高いと研究者は評します。
弟の命蓮と再会する尼公
尼公は信貴山にのぼり、そこで命蓮に20年ぶりに再会します。その時にお土産として命蓮に渡したのが「たい(祇=僧衣)」です。こうして尼公は信濃に帰らず、命蓮と共に信貴山で信仰生活を送ることになります。姉から贈られた「たい(祇=僧衣)」を命蓮はずっと着続けます。そのためにずたずたに破れてしまいます。人々は、その切れ端をお守りとしたと云います。人びとが命蓮によせる思いが伝わってきます。 こうしてみると命蓮は高僧といわれますが、そうではなかったようです。身分の高い出身で学問のある僧侶でなく、山伏的修行者であったことが分かります。それが庶民信仰にこたえる苦行と説経唱導を行って、民衆の支持を得ていたことがうかがえます。そのために「聖(ひじり)」とよばれたのでしょう。中世の山岳信仰の指導者は、このような人物が多いようです。
信貴山は高い山ではありませんが、大和平野や河内平野から仰ぎ見ることの出来る霊山です。そして人びとが容易に登れる山に、山岳信仰の道場が開かれます。例えば、行基は生駒山に道場をひらいて生馬(いこま)山房としています。このような庶民にしたしみやすい山に庶民信仰の寺が栄えるようです。そういう目で讃岐を見てみると、丸亀平野の奥の大川山の仲寺廃寺や、髙松平野の女体山の大窪寺、三豊平野の雲辺寺なども、山岳修験者の道場として開かれたものがいくつもあります。それに弘法大師伝説や四国巡礼が接ぎ木され、近世になると四国霊場に転化・展開していきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
信貴山は高い山ではありませんが、大和平野や河内平野から仰ぎ見ることの出来る霊山です。そして人びとが容易に登れる山に、山岳信仰の道場が開かれます。例えば、行基は生駒山に道場をひらいて生馬(いこま)山房としています。このような庶民にしたしみやすい山に庶民信仰の寺が栄えるようです。そういう目で讃岐を見てみると、丸亀平野の奥の大川山の仲寺廃寺や、髙松平野の女体山の大窪寺、三豊平野の雲辺寺なども、山岳修験者の道場として開かれたものがいくつもあります。それに弘法大師伝説や四国巡礼が接ぎ木され、近世になると四国霊場に転化・展開していきます。
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参考文献
倉田 実『信貴山縁起』「尼君巻」の「庶民の生活」を読み解く 絵巻で見る 平安時代の暮らし




























































































































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