瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐中世史 > 中世の商人・職人

前回の最後に、備前福岡の市が、山陽道と吉井川の水上交通の交わる地点に立地していたこと。しかし、そこに架かる橋は現在の視点から見れば「粗末な板橋」だったことを見ました。今回は、福岡の市にならぶ「店」をめぐって見ようと思います。テキストは「臼井洋輔「福岡の市」解析 文化財情報学研究 第7号」です。

福岡1
一遍上人聖絵「福岡の市」
 この場面では、追いかけてきた①吉備津彦神社の宮司の子息(武人姿)が黒い僧服を着た一遍に、②切りつけようとするシーンが真ん中に描かれています。その周囲を驚いた人達が取り囲み、成り行きを見守っています。その周囲に、5つの黒屋根が建っています。よく見ると茅葺屋根2棟・板葺屋根3棟です。一遍のことは、以前に見ましたので、今回は、この小屋でどんな商いが行われているのかを、時計回りに順番に見ていくことにします。

福岡 一遍受難と反物屋
      福岡の市 一遍に斬りかかろうとする武士
市の中央では「一遍受難劇」が起きようとしているのですが、その背後では、いつもどおりの商いが行われ、誰も事件には目を向けようともしていないように見えます。
上部の反物屋と履き物の小屋を見てみましょう。
福岡 反物屋
福岡の市 反物屋
①言葉巧みに往来まで出て、色目づかいまでして商品を押し付けている売り子
②売り子から反物を買って、銭を払おうとしている男
③座り込んで、反物を手にとって値踏みしている女
④紐で通したサシと呼ぶ銭を数えている女店主
ここで目に付くのは、女性達の多さと元気さです。この店では、ほぼ全員が女性です。生き生きとした表情で、声が聞こえて来そうな気がします。市全体が賑わいで満ちていたことがうかがえます。
 並べられている反物をよく見ると、丸く巻いたものと、やや平たく巻いた2種類があります。これが丸巻反物と平巻反物で、現在に続くものです。また、着物は売ってはいません。反物を買って、それを自分で縫って着物にしていたようです。時代が下ると、これが呉服屋へと展開していくのでしょう。
 この場面で歴史教科書が必ず触れるのが、銭が使われていることです。
お寿司の一貫は? Part.2 | 雑学のソムリエ
当時の日本では通貨は発行されていませんでした。古代の律令時代に国作りの一環として古代貨幣が造られたことはあります。しかし、それが一般化することはなく姿を消し、そのままになっていました。流通経済が未熟で、貨幣が必要とされなかったのです。銭が流通するようになるのは日宋貿易が始まって以後です。それも宋の銅銭を「輸入」し、そのまま国内で使用します。商品経済が始まったばかりの経済規模は、それで十分だったのでしょう。面白いのは、いろいろな金額を刻印した宋銭が入ってきますが、日本ではどれもが全て一文銭として扱われていたようです。この場面でも、女主人は銭を鹿の革の銭指しに通しているようです。
ここで研究者が注目するのが、②の反物を女性から買っている男です。
足半ばきの男
「足半(あしなが)」履きの船頭?
この男は紐を通した銭と引き換えに、反物を受け取ろうとしています。彼の履物を見てください。よく見ると足全体をカバーせずに、前半分だけしか底がついていない草履です。これを「足半(あしなが)」と呼ぶようです。これは滑りにくく、河船頭達が履いていたようです。つまり、男は、吉井川を上下する高瀬舟の船頭と推測できます。さらに想像を膨らませると、この船頭は、次のような役割を担っていたことが考えられます。
①田舎の者に頼まれ反物を仕入れて持って帰ったり、
②田舎から市場へ反物を持ち込み、委託販売を依頼したり
③田舎の人達から依頼されたものを、市で仕入れて持ち帰る便利屋の役割
彼が買い込んだ上物反物が、女房へのプレゼントである確立は低いと研究者は考えているようです。
建物の左端⑤の人物の前には高下駄が置かれています。反物屋とは、別の履き物屋のように見えます。
福岡 下駄や

 その左側に座り込んだ男は、手に草履を持って、店の女と何やら話しています。この男が履くには似つかわしくないような草履です。この草履は、男が委託販売用に売りに来たと研究者は考えています。当時は、職人が大量に生産するような体制ではなく、家で夜なべに作ったわずかなものを店に並べる程度だったようです。ちなみに、この絵には60人余りの人物が登場しますが、ワラジ、高下駄、つっかけ、草履、そして裸足と履き物はさまざまです。
次の草葺小屋には、俵を積んだ米屋と、魚屋が見えます。
福岡 米屋・魚屋

①青い着物を着た女が魚屋の店先に座り込んでいます。前には空の擂鉢風のものを持参しているので、魚を注文しているようです。よく見ると手元には風呂敷包みのようなものを持っているので、すでに1つの買い物を済ませて、次に魚を買いに来たのかもしれません。その女性客が魚を料理している男を見ています。③男は右手に細い包丁を持って切り込んでいますが、女が何やら話しかけているようにも見えます。「そこのところをもう少し大きく切って頂戴な」とか「もうちょっとまけとき」とでも言っているのでしょうか。
 ②使われているまな板は脚付きの立派なものです。大きさは1m以上はありそうです。まな板の魚は、尻尾がベロッとせず、ピッと細く上下に伸びているので、川魚ではなく海魚だそうです。
⑤女の向こうには上半身裸の男が、吊した魚の重さでしなった棹を担いで出かけています。魚の行商でしょうか。④魚屋の奥の天井には、山鳥と同時に干しダコが吊り下げられています。これは倉敷市下津井の名産・大干しダコとそっくりです。この時代に、その原型はできていて、売られていたことが分かります。
⑥手前の米屋では、米俵が積まれて上半身裸の男が枡を持って米を量り売りしているようです。

福岡 米屋
 福岡の市 米屋
当時の一升枡なのでしょうか。現代の一升枡と比べると、高さ寸法が低いように思えます。これが豊臣秀吉によって、枡制が変更される以前の一升枡の大きさだと研究者は指摘します。秀吉は天下統一後に「升制度量衡改定」で、1升枡の容積を大きくします。これは、入ってくる米の取り分を増やす「増税」になります。
 また、⑧米俵が積まれているので、当時は戦前までと同じで俵詰で流通していたことが分かります。客が持ってきた米袋に枡で量り売りしています。その左側では、口をゆがめた男が順番を待っているようです。
 福岡の市のシーンには、馬の背に俵を載せて運ぶ姿が、2ヶ所で描かれています。これも戦前までは、各地で見られた光景だったようです。今では、紙袋に変わってしまいました。
中段右の板葺小屋を見ておきましょう。

福岡 居酒屋
福岡の市 居酒屋?

 ①足が不自由で歩けないために地車に乗った男が物乞いをしています。②それに応対する店屋の主人らしき男がいます。物乞いする人間がやってきているので、食べ物屋でしょうか。店屋の主人は血色も良く満ち足りてふくよかに、しかも綿入れのような温かそうな着物を着けて手は袖の中に入れて描かれています。物乞いをする男は、素足で上半身裸のように見えます。この対比は、冷酷なほどリアルです。救われなければならない人たちを生んだ社会に、敢えて目を向けさせようとしているようにも思えてきます。
 ここには、③流しの琵琶奏者もいて、昭和の居酒屋と流しのギターの関係と同じです。小屋の中には、④女性が何人かたむろしています。客なのでしょうか、店の人なのでしょうか・・よくわかりません。小屋の右端には、⑤大甕が3個並べられています。ここにはお酒が入っているようです。客に提供する居酒屋としたら、つまみ的なものもあったはずです。そういう目で見ると、四角っぽいやや厚みのある短冊状のものがかすかに見えます。冬の食べ物で想像すると、吉備では切り餅や凍り餅が候補に挙がるようです。
 小屋の左手隅には、⑥面のようなものをぶら下げて売っている男が描かれています。街道をいく旅人のお土産なのでしょうか? よく分かりません。

  最後に広場の下側にある2つの小屋を見ておきましょう。
福岡 大壺・高瀬舟
大壺と高瀬舟

右側の板葺小屋には壁がありません。その下には、大きな壺がいくつも転がっています。先ほどの「居酒屋」も壺のように立てて並べてなくて、まさに転がっているという感じです。これを大壺が商品として売られていると、研究者は考えています。この辺りで、大壺と言えば備前焼です。この壺が登場することで、醤油や漬け物などの食文化が拡大していきます。生活にはなくてはならない必需品です。

小屋の下の「川港」には、高瀬舟が到着して、船頭が何かを抱えて下船しています。
そういえば、魚屋の魚は海の魚でした。河口から高瀬舟で運ばれてきたのかもしれません。また、反物屋で女から反物を買っていた船頭の船が、ここに舫われているのかも知れません。どちらにして、福岡の市が山陽道と吉井川水運の交叉点に開けた定期市であったことが、ここからは見えてきます。

その左手の茅葺小屋は壁があって、何を商っているのかよく分かりません。
しかし、左端に一部、商品らしきものが見えます。 福岡の市では、刀剣類は売られていないとされてきました。刀剣は店先に並べて売るようなものではなく、注文生産だと思われていたからです。しかし、研究者が注目するのは、下段左端の小屋左端の店先に置かれている棒状のものです。これだけでは刀剣だとは云えません。

P1250367
福岡の市 武士が一遍に帰依して剃髪する場面

 裏付け史料になるのが剃髪場面です。ここに描かれている短刀には折り紙のようなものが一緒に添えています。これと同じものが、先ほど見た店の台にも描かれていることを研究者は指摘します。確かに、鞘の色や描き方もまったく同じです。ここからは、刀も商品として市で売られていた可能性が出てきます。
 
 一遍が福岡の市を訪れた季節は、いつなのでしょうか。
落葉した梢、ススキと紅葉した秋草が残って、遠景に雪山を描いているので初冬のようです。しかし、登場人物を見ると上半身が裸の男達が何人もいました。当時の人達は薄着だったのでしょうか? よく分かりません。
 一遍受難事件の発生した時刻は、何時頃なのでしょうか?
 研究者が注目するのは、絵巻の左上の松などの樹木です。その上部の方がぼかされて表現されて、上部が薄く霞むように途切れていると指摘します。これは夕方黄昏時の「昏くらいとばり」が降るように迫ってきていることの表現のようです。一遍上人が危機迫るこの大事件に遭遇しながらも、逆に相手を折伏してし、剃髪が行われたのは夕方近い頃であるとしておきます。

最後に中世の市は、毎日開かれていたわけではありません。期日を決めての定期市だったと教科書には書かれています。それでは、市が立っていない時の様子はどんな様子だったのでしょうか?
それを最後に見ておきます。

備前福岡の市の後に、京を経てやってきた信濃国佐久郡の伴野の市の光景です
P1240533信濃佐久郡伴野の市
信濃国佐久郡の伴野の市
道をはさんだ両側に六棟の茅葺小屋が建っています。附近には家のありません。向こう側の小屋にはカラスが下りてきて餌をあさっています。犬たちの喧嘩に、乞食も目覚めたようです。
こちら側の小屋には一遍一行が座っています。ここで一夜を過ごしたようです。そして、背後には、癩病患者や乞食達の姿も見えます。
 「あら、西の空に五色の雲が・・・」という声で、時衆たちは両手を合わせて礼拝します。そして、瑞雲に歓喜したと詞書は記します。

P1240534

 この絵からは、市が建たない時は閑散としていたこと。そこは乞食たちの野宿するところでもあったこと。そんな場所を使いながら、一遍たちの廻国の旅は続けられていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「臼井洋輔「福岡の市」解析 文化財情報学研究 第7号」
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富士川の船橋2
富士川の船橋(一遍上人絵伝)
前回は富士川の船橋と渡船を見ました。それを次のように、まとめました
①東海道は鎌倉幕府の管理下で、川を渡るための設備が整えられていたこと
②川はこの世とあの世の境に横たわる境界(マージナル)とも意識されていたこと。
DSC03302三島社神池と朱橋
     三島神社前の神池にかかる朱橋(一遍上人絵伝)
②については、当時の寺社の伽藍配置を見ると、本堂や拝殿の前に神池を配して、それを橋で渡るという趣向がとられていたところがあったことが分かります。それでは、中世の橋とは、どんなものだったのでしょうか。今回は、それを一遍上人絵伝で見ていくことにします。テキストは 藤原良章 絵巻の中の橋 帝京大学山梨文化財研究所研究報告第8集(1997年)です。

犀川渡河風景
 信濃・犀川の渡河風景
ここには、信濃・善光寺参りの際の犀川の川越え場面が描かれています。
荷駄を担いで岸沿いにやって来た男が渡岸場所をもとめて立ち迷っているようです。その前には、乱杭が何本も打たれて、氾濫に備えているようです。こちら側に洪水から護るべき土地があるようです。手前側では、米俵を馬の背ではこぶ男がいます。迷った末に、ここから川の中に馬を飛び込ませています。米俵は濡れても大丈夫なのでしょうか?
 この絵からは、川には橋もないところがあったことが分かります。ある意味では、渡河は命懸けの行為だったともいえます。里人にとっては、このような危険を冒してまでして犀川を渡ることは少なかったはずです。命懸けで、渡河しなければならなかったのは旅人・商人・廻国修験者たちだったが多かったようです。しかし、一遍上人絵伝には、ほとんどの河には橋が描かれています。

  奥州の祖父墓参からの帰路に渡った常陸国の橋です。
DSC03286
常陸の橋
 雪景色が一遍の前途に拡がります。うねりながら流れる川の手前に、雪化粧された橋が架かっています。  この橋について『絵巻物による日本常民生活絵事』は、次のように記します。
 この絵図に見るような田舎道にもりっぱな欄干のついた橋が架かっているのは、街道筋のためであろうか。この橋は常陸(茨城県)にあった。(中略)
京都付近の橋のように堂々とした欄干も橋脚も持っていない。しかし、一応欄干はついており、橋板もしかれている。橋はわずかだが上部に反っている。これは他の大きな木橋にも共通している。橋そのものは、擬宝珠ももっておらず、また橋脚なども細く小さく街道沿いの橋としては貧弱といえるが、絵巻の中に出てくる地方の橋の中では、技術的に高いものといえる。
   ここでは京都付近の橋と比較して「街道沿いの橋としては貧弱」とします。それでは、京都付近の橋を見ておきましょう。一遍上人絵伝には、賀茂川にかかる四条大橋が描かれています。それを比較のために見ておきましょう。
 
四条大橋
四条大橋(一遍上人絵伝)
 橋の下には賀茂川が勢いよく流れています。橋の上は、霧が深く立ちこめ牛車を隠すほどです。車輪のとどろかせる音だけが聞こえてくるようです。その背後には、板屋や菜田が見えます。このあたりが上賀茂になるのでしょうか。
 橋の左(西)側に目を移すと霧が晴れて、京の街並みが見えています。見えて来たのが四条大通で、朱塗りの鳥居が祇園社の西大門になるようです。橋の下では、服を脱いで馬を洗っている男達がいます。賀茂川は、馬を洗うところでもあったようです。このような立派な橋は、京都にしかなかったようです。
 橋の構造を見ると確かに「堂々とした欄干と橋脚」「擬宝珠」を持ち「技術的に高く」、しかも美しい橋です。それでは、京都の橋のすべてが四条大橋のように立派だったのでしょうか。

堀川に架かっていた七条橋を見てみましょう。
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 京の堀川と橋
京の市屋道場(踊屋)の賑やかな踊り念仏の次に描かれるシーンです。 踊屋の周囲の賑わいの離れた所には、ここでも乞食達の小屋が建ち並んでいます。その向こうに流れるのが堀川です。上流から流されてきた木材筏が木場に着けられようとしています。

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 堀川に架かる七条橋
 ここで研究者が注目するのが堀川に架かる木橋です。この橋が七条橋になるようです。先ほど見た賀茂川の四条大橋に比べるとはるかに粗末です。京の橋すべてが四条大橋のようにきらびやかなものではなかったことを、ここでは押さえておきます。  
 同時に「粗末な橋」と低評価することも出来ないのではないかと研究者は、次のような点を指摘します。それは、大きな筏がこの下を通過していることです。そうすると、この筏が通過できる規模と大きさと橋脚の高さを持っていたことになります。ここには絵巻のマイナス・デフォルメがあると研究者は考えているようです。実際には堀川の川幅はもう少し広いので、橋も長かったはずだと言うのです。つまり、この橋は実際には、もう少し長く高い橋であったが絵図上では、短く低く書かれているということになります。一遍上人絵伝の橋を、そのままの姿として信じることはできないようです。書かれているよりも大型で長かった可能性があることを押さえておきます。
  四条大橋や宇治橋や瀬戸橋は、今で言えば瀬戸大橋やレインボーブリッジのようなものです。政治的な建築モニュメントの役割も果たしていました。これらの橋と常陸の橋を、同列に並べて比べるのは、視点が間違っていると研究者は指摘します。比較すべきは、当時の地方の主要街道や一般街道に、どんな橋が架かっていたかだとします。
  それでは、地方にかけられていた橋を見ていくことにします。
一遍が石清水八幡参拝後に逗留した淀の上野の里です。

P1240609上野の踊屋と卒塔婆238P
上野の街道と踊屋(一遍上人絵伝)

上野の里をうねうねと通る街道が描かれています。街道沿いの大きな柳の木の下に茶屋があり、その傍らには何本もの祖先供養のための高卒塔婆が立てられています。その向こうでは、踊屋が建てられ、時衆によって念仏踊りが踊られています。それを多くの人々が見守っています。上野の里での踊りも、祖先供養の一環として、里人に依頼されて踊られたという説は以前にお話ししました。
手前の街道を見ると、道行く人も多く、茶店や井戸などの施設も見えます。ここが主要な街道のであることがうかがえます。
 左手中央に、小さな川が流れています。そこに設けられているのが木橋です。
上野の板橋
上野の板橋
縦3枚×横2枚の板橋が、2つの橋脚の上に渡された「粗末」な橋に見えます。しかし、これを先ほど見た堀川の七条橋と比べて見るとどうでしょうか。構造的には同じです。そして、一遍上人絵伝の橋の絵には「マイナス・デフォルメ」がある、という指摘を加味してみると、この上野の橋は案外大きかったのではないかとも思えてきます。橋の上を、赤子を背負った菅笠の女房が橋を渡っています。人や馬は通過できたでしょうが、荷馬車は無理です。ここからは、地方の街道には、「投下資本」が少なくてすむので、こんな板橋が一般的だったことが推測できます。今度は奥州の主要道に架かる橋を見ていくことにします。
 
弘安3(1280)年、 一遍の祖父・河野通信(奥州江刺)の墓参りのシーンです。  
DSC03277江刺郡の祖父道信の墓参

墳墓の手前に白川関からの道が続いています。商人の往来が描かれ、詞書には次のように記されています。

魚人商客の路をともなふ、知音にあらざれども かたらひをまじえ・・」

ここからは、人々が数多く行き交う街道であったことがうかがえます。この街道は「奥大道」かその「脇往還」のようです。この街道の先に架かっている橋がこれです。

奥州江刺墓参の橋
奥州江刺の街道に架かる橋(一遍上人絵伝)
 これだけ見ると、寒村の小道の板橋のようにしか見えません。しかし、これが主要街道に架かる橋だったのです。市女笠の女が胸に赤ん坊抱いて渡ろうとしています。前を行く従者が檜唐櫃(ひかんびつ)を前後に振り分けて担いでいます。そして稲穂が見える田んぼの中に小川が流れ、そこに板橋が架かっています。ここでも川には何本もの杭が打ち込まれています。

「一遍上人絵伝』の中で有名な場面といえば、備前国福岡の市です。教科書の挿絵にも登場する場面です。最初にストーリーを確認しておきます。

備前国藤井の政所で、吉備津宮神主の子息の妻が一遍に帰依して出家します。それを知った子息は怒りに震えながら一遍を追いかけ、福岡の市で遭遇します。そして斬りかかろうとしますが、一遍の気迫に押され、彼自身も帰依して剃髪した

福岡の市の場面に出てくる橋を見ておきましょう。
福岡1
①騎馬で追いかけてくるのが吉備津宮神主の子息で、従者が歩行で従います。この道が山陽道。
②市の手前に一筋の川が流れています。これが吉井川で、木橋が架かっています。
ここからは福岡の市が東西に走る山陽道と、南北に流れる吉井川交わる地点に設けられた交通の要衝に立地していたことが分かります。絵には、吉井川に係留された2艘の川船が見えます。水上交通と市が深くつながっていたことを示す貴重な史料ともなっています。それでは山陽道にかけられた橋を改めて見ておきましょう。

P1250364

丸木の上に板橋が乗せられた構造で、橋脚もありません。山陽道の最重要商業拠点に架けられた橋にしてこれなのです。京都の四条大橋には比べようもありません。 こうしてみると、中世の地方の街道には「粗末」な橋しか架かっていなかったことが見えてきます。

P1250355
書写山(姫路)の参拝道の橋

その「粗末」な板橋こそが各地を結ぶ重要な役割を果たしていたことになります。
中世の人達にとって、四条大橋や瀬田橋は瀬戸大橋かベイブリッジのようなもので、滅多に見ることのない橋のモニュメントであり「観光名所」だったのかもしれません。そして、普通に橋と言えば板橋で、それが各地の主要街道に架かっていたことがうかがえます。そういう意味では、最初に見た常陸の橋は、地方では、堂々とした橋で特別な橋であったことになります。この事実を受け止めた上で、認識を次のように改める必要があるようです。
①絵巻の中の街道には、「粗末」で大した技術もなく、見栄えのしない橋しか出てこない。
②しかし、ほとんどの街道の川には橋が架けられていて、川をジャブジャブと渡る姿は少ない。
③技術や見栄え以上に、必要な所には粗末ながらも橋が架けられていたという事実に注目すべきである。
④「粗末な橋」が、一遍一行を始め人々の旅を支える重要な役割を果たしていた。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  藤原良章 絵巻の中の橋 帝京大学山梨文化財研究所研究報告第8集(1997年)
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            日本の絵巻 (5) 粉河寺縁起 | 茂美, 小松 |本 | 通販 | Amazon

 私が好きな絵巻縁起の中に、粉河(こかわ)寺縁起があります。アマゾンで450円で売り出されていたので、買い求めて眺めています。素人が見ていても楽しくて、しかも中世史料としても役立ちます。今回は、この巻頭の猟師の家を見ていこうと思います。テキストは「倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」です。

 この絵巻の前半は、紀伊国那賀郡の猟師大伴孔子古(くすこ)が観音の奇瑞により発心し、粉河寺の本尊千手観音が出現する由来です。『粉河寺縁起』の詞書には、次のように記されています。
〔第一段〕(詞書欠失)  兵火で巻頭焼失
〔第二段〕
さて、七日といふに、件の所に行きて見れば、少し分も違はず、開けたる所もなし。さて、開けて見れば、等人(↓身)におはします千手観音一体、きらきらとして立たせたまへり。仕置きたる童は見え給はず、身を寄せ、すきな口‐‐□物したためたる跡も、屑もなし。猟師あやしみ、深く悲しむ。
 この由を妻に語りて、うち具しつつ参り、近辺の者共にも、この由を言ひちらして、各々参り、帰依し奉りけり。
  第一段を補足して、意訳変換しておくと
  紀伊国那賀部の猟師(大伴孔子古)が、山の木の間に据木を設けて、その上に登り、夜ごとに猪や鹿をねらっていた。ある夜、光り輝く地を発見、そこに柴の庵を建て、仏像を安置したいと願っていた。すると、一人の童(わらわ)行者が家にやって来て、猟師の願いをかなえる、と約束して七日の間、庵にこもった。
…約束の七日日(正しくは八日目)の朝、猟師が庵に行くと、童行者の姿は見えない。扉を開けると、中に等身の千手観音像が立っていた。猟師は喜び、これを妻や近隣の人々に語ったところ、人々が、つぎつぎに参詣した。
山中での狩猟中に光を放つ地を発見した孔子古は、そこに庵を構え、仏像安置を発願します。すると一人の童子の行者が、家にやって来て宿を乞い、その礼に仏像の建立を申し出ます。行者は庵に入り、七日の内に仏像を作るのでその間は見てはならない、完成したら戸を叩いて報せると告げ、庵に籠ります。しかし、ここまでの内容は、巻頭部が兵火で焼けて焼失してありません。

P1250254千手観音出現
          現れた千手観音を拝む猟師

 8日目に庵に行って扉を開けてみると、庵内には等身の千手観音立像が安置され、行者の姿は見えなかった。

P1250259

猟師は近隣にこのことを語り、人々はみな参拝して観音に帰依した。
ここには、猟師の大伴孔子古が童行者の援助によって粉河寺を創建した話が記されています。
焼け残った断片を、つなぎ合わせた猟師の家を見ていくことにします。
冒頭 猟師の家2
猟師の家(粉河寺縁起冒頭) 
最初は、猟師の家にやってきた童行者との対面場面です。拡大して見ましょう。
P1250248

童行者は垂髪を元結で束ね、袈裟を掛け、数珠を持って片膝を上がり框に載せています。当時の上層階級を描く際のお約束である「引目鉤鼻」で上品に描かれています。それに対して猟師は、口髭を生やして萎烏帽子をかぶり、腰刀を差して武骨な感じです。片膝を立てて坐り、両手を擦り合わせてお礼をしているようです。
  この部分の会話は、詞書が焼失していますが、他の史料から研究者は次のように復元します。
猟師は、柴の庵を建てていましたが、まだ本尊がありませんでした。そこへ童行者がやってきて、自分が仏像を七日で造りましょうと提案しているシーンです。猟師は童行者の申し出をありがたがっているのでしょう。
巻物を開いていくと次のシーンは、猟師一家の食事場面です。

猟師の食事と肉2
猟師の食事風景(粉河寺縁起)
玄関の背後は台所で、猟師が家族と食事中です。緑の筵を敷いた上に坐るのが 猟師の妻です。折敷板に載せた椀を前にして、赤子に乳を含ませています。その向かい側に片肌を脱いで、あぐらをかいて坐っているのが猟師です。大きなまな板上に、あるのは鹿肉です。

  猟師の食事と肉
 台所で大伴孔子古の家族が鹿肉をたべています。まな板の上に肉をおき、それを箸でおさえ、小刀で切ります。まるで刺身か寿司のように見えます。孔子古や妻の碗の中には、切った肉が入っています。夫婦の椀に盛られているのは、御飯ではなさそうです。鹿肉どんぶりでもないようです。よく見ると、食卓には肉以外の野菜などの副食物はありません。当時の猟師達にとっては、肉そのものが主食だったと研究者は考えています。
 また、肉を焼いたり煮たりしてたべることも少なかったようです。生でたべるか、あまったものは②串ざしや③薦の上に乾かして乾肉にしています。それが庭先に描かれています。乾したものを鳥獣に食いちらされないように、おどしのための矢がたてられています。

当時の鹿肉の保存方法について、絵巻には次のような情景が見えます。
①庭のカマドで肉を煮る
②肉を串に刺して竈(カマド)の前で炙る
③筵(ムシロ)の上で乾燥する
④串に刺して軒下に吊るして乾燥する
⑤生肉を椀に入れ食べる(膾なます、現代風に言えば鹿刺し)
 「野菜類も含めて栄養のとれたバランスある食事」というのは、高度経済成長後の日本が豊かになった後の食事法です。かつては、能登地方では米がとれると米の飯ばかりたべ、鱈(たら)がとれると鱈ばかりたべたと云います。対馬などでも古風な村では烏賊のとれるときは烏賊だけ、麦のとれたときは麦だけ、芋のとれたときは芋だけ、そのほかに若干の塩分があれば庶民は事足りたのです。主食と副食物を別にし、さらに副食物の数をふやすようになったのは酒を飲むための献立が求められるようになってからのことです。また、塩蔵や発酵による貯蔵が発達しなけらばなりません。中世の猟師は、肉が主食であったことをここでは押さえておきます。
次の場面は、猟師の家の裏です。

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芝垣に干された鹿皮
 柴垣には、鹿皮を干すために、紐を編んで付けた木枠に張られて立て掛けられています。なめし革にしているようです。鹿革は、衣類にされるほか、靴や馬の鞍にされたりする重要素材で、猟師の収入源でした。そのそばでは、犬が何かを食べています。鹿皮から削ぎ落した肉片でも貰ったのでしょうか。

 獣皮をやわらかにする技術は朝鮮から伝えられたことが、「日本書紀」仁賢天皇の六年の条に次のように記されています。

日鷹吉士が高麗から工匠須流枳・奴流枳等をともない帰って献じた。朝廷はこれを大和国山辺郡額田邑においた。熟皮高麗(かわおしのこま)がこれである

「令義解」には大蔵省の条に、次のように記します。

典履典革という役目があり、靴履・鞍具をつくる者をつかさどっていた。靴履・鞍具をつくる者は高麗人・百済人・新羅人などであり、雑戸として調役を免ぜられていた。

これらの人びとの技術が、時代を下ると供に、民衆の間へも伝播浸透していったのでしょう。なめし方については、「延喜式」には、「雑染革・洗革」について、次のように記します。

洗革というのは鹿皮を洗って毛を除き、よくかわかして肉をとり去り、水につけてふやかし、皮をあら削りして草木の汁(成分不明)に和して後に乾す。牛皮の場合は、樫の木の皮が用いられている。樫皮を煮つめてそのタンニンをとり、タンニン液にひたして膠をとり去る

「粉河寺縁起」の場合も、このタンニンなめしであったと研究者は推測します。この絵巻からは、鹿皮の加工過程が見えて来ます。

猟師の家に続いて出てくるのが、この場面です。

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私には、森の木立とした見えませんでした。ここには、猟師の狩の工夫が描かれていると研究者は指摘します。股になった木の間に材木を渡したものがそれです。これが獣道(けものみち)の上に設けられた、据木(スワリギ)と呼ばれる足場で、ここから下を通る獣を弓で射りました。
据木
据木
 猟師が木上上から下を通る鹿をねらいうちしています。少人数で狩をしようとする場合には、動物が通る通路で待ち伏せるのが、最も効率がいいようです。特に、鹿は決まったルートを通ります。「高忠聞書」には「か(狩)りといふは鹿狩の事なり」とあります。こうした野獣の通る道をウジ、ウチ、ウトなどと呼んでいました。山城宇治なども野獣の通道の意であり、それが広域の地名となったと研究者は考えているようです。
 そういうところに待ち受けて狩ることを、ウチマチ、ウジマチなどと云いました。日本の狩猟はこうしたねらい射ちを主として発達します。そこで使われるのが長弓です。長弓は獲物に気付かれないように近くからねらい射ちすることが得手な武器です。
 猟師は、木の上で獲物をまつために、木の股を利用して丸太をわたしてその上に潜みます。詞書には据木(スワリギ)と記します。これをマタギと呼ぶ地域もあるようです。東北地方では、狩のことをマタギとよび、狩人もまたマタギと呼びます。これはウチマチをするための装置からきている言葉と研究者は推測します。

  以上から、平安時代にも肉食で生活していた人がいたことが分かります。ただ、肉は供給量が少なくて大衆に日常食品として出回ることはなかったようです。仏教により肉食が避けられたと従来は言われてきましたが、ほとんど根拠のない俗説と研究者は考えています。
確かに肉食禁止について「日本書紀 29巻 天武天皇四年夏四月」に、次のような詔が記されています。

庚寅の日(17日)、諸国に詔(みことのり)したまひしく、「今ゆ後、諸の漁(すなどり)り猟(かり)する者を制(いさ)めて、檻(おり)穽(おとしあな)を造り、また機槍等の類を施(お)くことなかれ。また四月の朝以後九月の三十日以前には比彌沙伎理(ひみさきり)の梁を置くことなかれ。また牛馬犬猿鶏の宍(にく)を食ふことなかれ。以外は禁例にあらず。もし犯す者あらば罪せむ」と宣りたまひき。

意訳変換しておくと
庚寅の日(17日)、諸国に次のように詔した。「今後、漁業や狩猟する者に対して、檻や穽(おとしあな)を造り、また狩猟のための槍などを置くことを禁止する。また四月の朝以後は、九月三十日以前には川に梁を設置することを禁止する。また牛馬犬猿鶏の肉を食ねることのないように。これ以外の動物については禁例としない。もし犯す者れば罪する。

 研究者が注目するのは、最後の部分の「これ以外の動物については禁例としない」です。つまり、肉食禁止令には、猪、鹿は含まれていません。そして、その後も延喜式には諸国から貢進される産物として、信濃、甲斐などからの調物には肉製品が入っています。肉食によって生きていた人達がいて、その文化があったことは押さえておきます。
 確かに、平安貴族は四つ足の獣は汚れとして忌まわれ、仏教の殺生を禁じる教えもあって鳥肉以外の肉食をほとんどしませんでした。しかし、庶民は別です。肉食をしていたのです。生き物を狩り、それを食するのが猟師です。これは、仏教の教えに背く生業です。粉河寺縁起には、猟師である者でも信心を持てば、救われる存在であることを語っています。本尊の千手観音は、千の手それぞれに眼があり、すべての人を救うとされます。このあたりに、粉河寺の人気の源がありそうです。
P1250260
粉河寺の千手観音(粉河寺縁起)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし
西岡常一『粉河寺縁起絵・吉備大臣入唐絵』 日本絵巻物全集6、p.23~(角川書店)1977

香川の石切場分布図
讃岐の中世石切場
讃岐には中世には、凝灰岩の石切場が各地区に分散してあり、それぞれが石造物を生産していたことがこの分布図からは分かります。この中で有力なのは、東讃の火山と、西讃の弥谷寺・天霧山でした。
  讃岐の中世石造物については、以前に次のように要約しました。
①第一段階に、火山系凝灰岩で造られた石造物が現れ、
②第二段階に、白峰寺や宇多津の「スポット限定」で関西系石工によって造られた花崗岩製石造物が登場し
③最後に、弥谷寺の石工による天霧石製の石造物が登場すること
④天霧石製石造物は、関西系の作品を模倣して技術革新を行い、急速に市場を拡大したこと
⑤その結果、中世末には白峯寺の石造物のほとんどを天霧系のものが占めるようになり、火山産や花崗岩産は姿を消したこと
天霧・火山石造物分布図
天霧系・火山系・花崗岩製石造物の分布図
 
上の鎌倉・南北朝時代の分布図からは、天霧系と火山系の石造物が讃岐を東西に分ける形で市場占有していたことが分かります。その中で、五色台の白峰寺周辺には、櫃石島で作られた花崗岩系の石造物が集中しています。この背景については、以前に次のようにまとめました。
①白峯寺周辺の花崗岩製石造物の石材は、櫃石島の石が使われていること、
②白峯寺十三重塔(東塔)などの層塔は、櫃石島に関西からの何系統かの石工たちが連れてこられて、製作を担当したこと
④櫃石島の石工集団は近江、京、大和の石工の融合による新たな編成集団で、その後も定着し活動を続けたこと。
④櫃石島に新たな石造物工房を立ち上げたのは、律宗西大寺が第1候補として考えられる。そのため傘下の寺院だけに、作品を提供した。そのひとつが白峰寺であった。
  このようにしてみると、中世の讃岐の石造物制作の中心は、天霧山・火山・櫃石島の3つで、その中に豊島石は、含まれていなかったことが分かります。それでは、豊島系石工達の活動は、いつからなのでしょうか?県内で年号の確認できる初期の豊島石石造物は次の通りです。
①高松市神内家墓地の文正元年(1466)銘の五輪塔
②長尾町極楽寺円喩の五輪塔(1497年)
②豊島の家浦八幡神社鳥居(1474年)銘
これらの五輪塔には、火輪に軒反りが見られないので、15世紀中頃の作成と研究者は判断します。豊島石工の活動開始は15世紀半ば頃のようです。しかも、その製品の供給先は高松周辺に限られた狭いエリアでした。それが17世紀前半になると、一気に讃岐一円に市場を広げ、天霧石の石造物を駆逐していくようになります。その原動力になっていくのが17世紀になって登場する「豊島型五輪塔」です。これについては、前回にお話ししたので詳しくは述べませんが、要約すると次のようになります。
①豊島型五輪塔は、今までになく大型化したものが突然に現れること
②それはそれまでの豊島で作られてきた五輪塔の系譜上にはないこと、
③それは天霧系五輪塔を模したものを、生駒氏に依頼されて作成したために出現した

豊島型五輪塔の編年表と各時期の分布図を照らし合わせながら見ていきます。
豊島型五輪塔編年図
Ⅰ期 豊島型五輪塔の最盛期(17世紀)
Ⅱ期 花崗岩の墓標や五輪塔、宝筐印塔の普及により衰退時期へ(17世紀後半)
Ⅲ要 かろうじて島外への搬出が認められるものの減少・衰退過程(18世紀)
Ⅳ期 造立は島内にほぼ限定され、形態的独自性も喪失した、(18世紀後半)

豊島型五輪塔の分布的特徴を見ていくことにします。
豊島型五輪塔分布図
豊島型五輪塔Ⅰ期分布図
1期の分布を図を見て分かることは次の通りです。
①西は琴平町、東は白鳥町にかけて広域的に分布する
②東讃に集中し、三豊地域や丸亀平野には少ない
Ⅰ期に豊島型五輪塔が香川県西部に広がらなかったのは,どうしてなのでしょうか?
それは西讃にはライバルの石工達がいたからだと研究者は指摘します。天霧石を使う「碑殿型五輪塔」を制作する石工集団です。戦国末の戦乱で西讃守護代の香川氏が滅亡した際に、弥谷寺の石工達も四散したようです。近世になって、生駒氏が藩主としてやってきて、弥谷寺を菩提寺として保護するようになると、新たに天霧山東山麓の碑殿町の牛額寺奥の院に新たな石切場を開かせたようです。そして、生駒氏の求めに応じて石造物を提供するようになります。その代表作品が弥谷寺の生駒氏の巨大な五輪塔です。こうして香川県西部では、天霧石を使った近世五輪塔が今でも、多度津町、善通寺市、琴平町、豊中町などに数多く分布しています。これらの石材は、天霧山東麓の善通寺市碑殿か、高瀬町の七宝山の石材が使われたと研究者は指摘します。
碑殿型五輪塔も紀年銘がないものが多くて造立年がよく分かりません。そのため年代確認が難しいのでが、次の点から17世紀の作品と研究者は推測します。

碑殿型五輪塔
          碑殿型五輪塔(天霧石)
①火輪の形態から弥谷寺にある17世紀初頭の生駒親正墓の系統上にあること
②この頃に多く現れるソロバン玉形をした水輪の形
つまり、17世紀初頭には、碑殿型五輪塔が西讃地方の五輪塔市場を押さえていたために、競合関係にあった豊島型五輪塔は西讃への「市場参入」が阻まれたという説です。豊島型五輪塔が西讃市場に入っていくのは、碑殿五輪塔が衰退した後のⅡ期以後になります。

生駒親正夫妻墓所 | 香川県 | 全国観光情報サイト 全国観るなび(日本観光振興協会)
弘憲寺生駒親正の墓
 火輪の形態からは碑殿型五輪塔の系譜は、弘憲寺生駒親正の墓が想定されます。
生駒親正の墓 | あー民のブログ

一方、豊島型五輪塔は志度寺生駒親正墓が想定できます。両者ともに生駒家関係の五輪塔になります。ここにも豊島五輪塔の出現には、生駒氏の関与がうかがえます。
豊島型五輪塔系譜
豊島五輪塔の系譜

豊島型五輪塔のⅡ期の分布図を見ておきましょう。

豊島型五輪塔分布図3
①分布の中心は東讃にあるが、高松地区や三豊地区にも拡大。
②一方で、Ⅰ期に比べると造立数は大幅に減少。
②丸亀平野には、見られない。
特に高松市の姥ケ池墓地では、Ⅱ期になると造立数は激減し、Ⅲ期にはなくなってしまいます。 この衰退背景には、何が考えられるのでしょうか?

近世の墓標
近世墓標の型式

それは花崗岩製の墓標の登場です。
姥ケ池墓地の墓標では、花崗岩製墓標は1640年代から確認され、60年代年代になると数を増します。そして、元禄期の1690年代には一般的に普及するようになります。こうして、18世紀には石材は、ほとんど花崗岩が用いられるようになり、豊島石の墓標は1割程度になります。つまり、この時期に五輪塔から墓標へ、豊島石から花崗岩へと主役が交代したのです。高松市法然寺の松平家墓所には多くの近世五輪塔がありますが、これらは全て花崗岩だと報告されています。
 18世紀のⅢ期の終わりになると豊島五輪塔は、豊島の外には提供されることはなくなります。
   島外に提供された最後の製品とされるのが、長尾町の極楽寺歴代住職墓地と寒川町蓮井家墓地に10基ほどの豊島製五輪塔です。一方でこの墓地には、花崗岩製の墓石も多く立っています。ここにも豊島製五輪塔から花崗岩製の墓石への転換がみえます。
 極楽寺歴代住職墓では、44世宗栄の墓は豊島型五輪塔です。しかし、49世堅確(1737年没)以後の墓は花崗岩製の五輪塔に替わっています。ここからは、豊島型五輪塔が使われたのは18世紀前半までで、それから後は花崗岩製の五輪塔になったことがうかがえます。
 蓮井家墓地を見ておきましょう。
蓮井家は1568年に土佐から讃岐に移り、寒川町の現在地に住んで、江戸時代には大庄屋を務めていた大富農です。蓮井家墓地は11基の豊島型五輪塔があります。家系図と照らし合わせると初代元綱(1603没)から4代家重(1711年没)までは、それぞれの墓標は見つからないようです。墓標があるのは、5代章長(1732)年没、6代孝勝(1768年没)の墓からで、これには砂岩製の宝筐印塔が使われています。7代孝澄(1816年没)以降は砂岩製の墓標になります。ここからは、墓石の見つからない初代から4代までは豊島型五輪塔が用いられた可能性があると研究者は考えています。
 蓮井家墓地の墓石変遷は、極楽寺住職墓と同じように次のようになります。
16世紀前半までは豊島型五輪塔
18世紀中頃からは砂岩製の宝筐印塔
19世紀からは砂岩製の墓標
 長尾町と寒川町のふたつの墓地からは18世紀前半に豊島型五輪塔から花崗岩か砂岩の墓石への変化があったことが分かります。そして18世紀中頃以降は、花崗岩よりも安価な砂岩の普及によって、豊島型五輪塔の販路は絶たれるようです。 そしてⅣ期になると、島外からの注文がなくなった豊島型五輪塔は、豊島内にだけのために作られます。しかし、豊島の石工達は五輪塔や燈籠の製作からは手を引きますが、その他の新製品を開発して販路を確保していきます。

豊島の加工場左
「日本山海名産名物図会」に紹介されている豊島の作業場
 その様子が「日本山海名産名物図会」(1799年刊行)に紹介されている豊島の作業場の姿なのです。ここでは「水筒(⑤⑧⑨)、水走(⑥)、火炉、へっつい(小型かまど④)などの類」の石造物が作られています。そして燈籠③は一基だけです。五輪塔や燈籠生産から日常生活関連の石造物生産に営業方針を切り替えて生き残っていたのです。
以上をまとめておきます
①中世の墓石として、畿内は花崗岩製、阿波や土佐は板碑や自然石塔婆が用いられたが、讃岐では墓石として凝灰岩の五輪塔が主に用いられた。
②特に東讃の火山石と西讃の天霧石製が代表的な五輪塔であった
③その中で、生駒氏の保護を受けた天霧石の石切場が新たに牛額寺奥の院に開かれ活動を開始した
④そこでは生駒氏の求めに応じて巨大化したものが作成されるようになった。
⑤高松に作られた生駒氏関係の五輪塔を任された豊島系石工たちは天霧山の五輪塔を参考に、大型の五輪塔を造り出すようになった。これが豊島型五輪塔である。
⑥豊島型五輪塔の最盛期は17世紀で、この時期は墓標の出現期と重なり、墓制史において重要な画期であること
⑦17世紀中頃から五輪塔に替わって墓標が登場するが、それは花崗岩を用いたものだった。讃岐で最初の墓石は、花崗岩製だった。
こうしてみると、豊島型五輪塔とは中世以来の凝灰岩を用いた讃岐の伝統の中で、最終期に登場したものと云えるようです。凝灰岩の使用を中世的様相、花崗岩の使用を近世的と色分けするなら、中世的様相の最終場面での登場ということになります。

最後に墓制史として墓域(墓地)との関わりを見ておきましょう。
①豊島型五輪塔は、多くが墓地の中に建っている。
②中世五輪塔は、今では墓地機能を失った所に残されていることが多い。
これをどう考えればいいのでしょうか
高松市の神内家墓地では、中世段階の墓域と近世以降の墓域では場所が違います。豊島型五輪塔は、近世以降の墓域の中に建てられています。さらに二川・龍満家の墓地では豊島型五輪塔を中心にして、次世代の近世墓標が形成されています。ここからは豊島型五輪塔が近世墓地の形成の出発点の役割を果たしていると研究者は指摘します。そういう意味では、豊島型五輪塔は中世的性格と、近世的性格を併せて持つ過渡期の五輪塔とも云えます。
 そして、中世五輪塔とくらべるとはるかに大きく大型化します。その背景には五輪塔が個人や集団のシンボルとして受け止める墓への観念の変化があったようです。さらに、刻銘が重視される墓標の出現に向かうことになります。現在の墓標が登場する前の最後の五輪塔の形が東讃岐では、豊島型五輪塔だったとしておきます
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
    松田朝由 豊島型五輪塔の搬出と造立背景に関する歴史的検討  香川県立埋文センター研究紀要2002年
     東かがわ市歴史探究ホームページ     香川県の中世石造物の石材

     前回は瀬戸内海をめぐる石切場や石工集団について見ました。その中で最後に見た讃岐豊島石(土庄町)については、「日本山海名産名物図会」(寛政11年(1799)刊行)に2枚の挿絵入りで紹介されています。
豊島の石切場3
讃岐豊島石「日本山海名産名物図会」
一枚は左側が、洞内から石を切り出している姿が描かれています。右側は切り出された石に丸い穴を開けているように見えます。今回は、豊島石の記事を見ていきたいと思います。テキストは「国立国会図書館デジタルコレクション」の 豊島の細工場『日本山海名産図会』です。
まず、説明文を読んでみます。
  大坂より五十里、讃刕小豆島の邉にて、廻環三里の島山なり。「家の浦」・「かろうと村」・「こう村」の三村あり。「家の浦」は、家數三百軒斗り、「かろうと村」・「こう村」は、各百七、八十軒ばかり、中にも、「かろうと」より出づる物は、少し硬くして、鳥井・土居にこれを以つて造製す。さて、此の山は、他山にことかはりて、山の表より、打ち切り、堀り取るには、あらず。唯、山に穴して、金山の坑塲(敷口?))に似たり。洞口を開きて、奧深く堀り入り、敷口を縱橫に切り拔き、十町(約1㎞91m)、二十町の道をなす。採工、松明を照らしぬれば、穴中、眞黒にして 石共、土とも、分かちがたく、採工も、常の人色とは異なり。かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重にも片(へ)ぎわるのみなり。流布の豊島石は、その石の實なり。
 故に、皮を除けて、堀り入る事、しかり。中にも、「家の浦」には、敷穴、七つ有り。されども、一山を越えて歸る所なれば、器物の大抵を、山中に製して、擔ひ出だせり。水筒、水走、火爐(くはろ)、にて、格別、大いなる物は、なし。「がう村」は漁村なれども、石も「かろうと」の南より、堀り出だす。石工は山下に群居す。ただし、讃刕の山は、悉く、この石のみにて、弥谷・善通寺、「大師の岩窟」も、この石にて造れり。

豊島の石切場
豊島(小豆島土庄町の石切場)
意訳変換しておくと
大坂から五十里の讃岐小豆島の辺りにある周囲三里(12㎞)の島が豊島である。集落は家浦・唐櫃(かろうと)」・甲生(こう)村」の三村がある。その内、家の浦は、戸数三百軒ほどで、その他二村は、各180軒程である。

豊島観光 豊島石採掘場
          豊島石採掘場入口
唐櫃産の石材は、少し硬く鳥居や土居(建物土台)に使われる。豊島の石切場が他と違うのは、山の表面から切り出す露天掘りではなく、金山と同じように「敷口(坑道入口)」から、奧深くに堀り入ってり、十町(約1、1㎞)、二十町の坑道が伸びている。そのため採石のためには、松明を照らすので、洞内は眞黒で、石か土か見分けもつかず、石切工も真っ黒で、普通の人とは顔色が違う。
  「讃岐豊島石」と題された挿絵を見ながら確認していきます。
豊島の石切場左
讃岐豊島石「日本山海名産名物図会」(拡大図)

石切場は坑道の奥深くにあるとされています。坑道内部が真っ暗なので3ヶ所で。松明が燃やされて作業が行われています。
④の石工は、げんのを振り上げて石材に食い込んだのみに振り下ろし、石を割っています
⑤の男は、天井附近の切り出せそうな石材をチェックしているのでしょうか。それを⑥⑪の男が見ています。
⑦の男は、小さなげんのを持ち、⑧の男は棒のようなもので測っているのでしょうか、よく分かりません。
⑨⑩の男達は、のみを持ち切り出した正方形の大きな石に丸い穴を開けているようです。
右側も松明が灯されたそばで②③の男達が四角い石材に穴を開けています。
この絵を見て疑問に思うのは、
A どうして暗い坑道の中で石造物制作作業が行われているのか?
B ここで造られている石造物⑨⑩は、何なのか?

そして、次の説明文が、今の私にはよく読み取れません
かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重にも片(へ)ぎわるのみなり。流布の豊島石は、その石の實なり。
意訳変換しておくと
 こうして、坑道を堀り入って切り出すが、もともと豊島石は側面が硬い。それを「ねぶ川」(根府川石(安山岩)と称して出荷している。この石の加工は、楔で割るのではなく、幾重もの皮状の部分を片(へ)ぎ割るのである。豊島石の石造物は、へぎ残した部分ということになる。

先ほど見た②③や⑨⑩の石工たちが、四角い石に穴を開けていることと関連がありそうですが、よく分かりません。分からないまま意訳変換を進めます。
 家浦には7つの石切場(敷穴)がある。しかし、途中に峠があるのでそれを越えて運び出さなければならない。そのため製品の大部分は、山中で制作して、それを擔(にな)って運び出している。水筒(水道管や土管)、水走(みずばしり:厨の水場・洗い場)、火爐(くはろ:小型のかまど)などの生産が主で、大型のものはない。

もう一枚の「豊島細工所」と題された挿絵を見ながら説明文を「解読」していきます。

豊島の加工場2
        豊島細工所「日本山海名産名物図会」

①⑦は石切場から切石が背負われたり、担がれたりして細工所(作業所)まで下ろされています。説明文の「大抵を、山中に製して、擔(にな)ひ出だせり。」の通りです。

豊島の加工場左
豊島細工所(拡大図)「日本山海名産名物図会」
②は、運搬されてきた切石のストック分が積み上げられているようです。
③は燈籠ですが、描かれている数はひとつだけです。
④が、石切場でも粗加工されていたものの完成版のようです。この用途が分かりません。
⑤は④よりも大きくい四角形の石造物です。これが水走(みずばしり:厨の水場・洗い場)でしょうか。
⑥は、開放型の水筒(水道管や土管)でしょうか。
⑨は臼のようにもおもえますが、石工が中に膝下まで入って削っています。臼だったら、こんなに深く彫る必要はありません。長さが短いですが、土管のように見えます。大名屋敷のような遊水式庭園では、「水筒」やジョイントの器具が使われているようです。

豊島加工場拡大図

⑩は、臼にしては小さいようです。これが説明文に出てくる「火爐(くはろ)=火鉢」かも知れません。
⑪は手水石のようにも見えます。
⑫の石工が造っているのが、先ほど見た④⑪の「火爐(くはろ)」の製造工程のようでが、よく分かりません。

後日に「国立国会図書館デジタルコレクション」の「日本山海名所図絵」を眺めていると、こんなものを見つけました。

豊島産カマド

縁台の上に載せられた小型のカマドに、釜が載せられています。手前には、貯まった灰に火箸が突き刺しています。薪ではなく火鉢のように炭を使っていたようです。大坂辺りでは、こんなカマドが使われていたことが分かります。
 さらに、グーグルで「豊島石 + 竈」で検索してみると出てきたのが次の写真です。
豊島産カマド2
豊島石のかまど(瀬戸内民俗資料館)
瀬戸内民俗資料館の展示物で「豊島石のかまど」という説明文がつけられています。どうやら「日本山海名所図絵」の「豊島細工所」に描かれているのは、このコンパクトかまどに間違いないようです。

 豊島産カマド3

豊島石の五輪塔とか燈籠は、この時期には花崗岩製のものに押されて市場を奪われています。それに代わって、生産し始めたのが円形に掘り抜きやすい特徴を活かして、水筒(水道管や土管)、水走(みずばしり)、火爐(くはろ:小型のかまど)、火鉢などだったのではないでしょうか。
 さきほど分からないままにしておいた 「この石の加工は、楔で割るのではなく、幾重もの皮状の部分を片(へ)ぎ割るのである。豊島石の石造物は、へぎ残した部分ということになる。」という意訳もそう考えると間違ってはなかったようです。
  もうひとつの豊島石の作品として面白いのがこれです。
豊島に行くとよく見かけるものですが、石でできたかまくらみたいに見えます。この中には、仏様やお地蔵さんがいらっしゃいます。地蔵さんの「円形祠」です。これが火鉢やカマドの先なのか、円形祠が先なのかは、よく分かりません。どちらにしても同じ、技術・手法です。軟らかくて加工しやすい豊島石だからこその作品です。

豊島産

こちらは、徳島城にある豊島石の「防火用水槽」です。
豊島産防火用水(徳島城)」

正面には立派な家紋らしきものがあります。特注品だったのでしょう。豊島石は、石と石の間が粗く、浸透しやすいく水に弱いとされていました。防火水槽には向かないはずですが、よく見ると内側は白くモルタルが塗られているようです。
最後の部分を意訳しておきます
甲生村は漁村であるが、唐櫃の南に石切場がある。ここでは石工たちは、石切場の山下に群居している。讃岐の山は石材はこの石だけで、弥谷や善通寺の「大師の岩窟」も、豊島産石材で造られている。

  ここで注目しておきたいのが、讃岐には豊島石以外に石材はないとしていることです。弥谷寺や善通寺の岩窟や石造物も豊島産であるというのです。弥谷寺周辺には中世以来、天霧石で五輪塔などの石造物が数多く生産され、15世紀には瀬戸内海一円で流通していたことは以前にお話ししました。
弥谷寺石工集団造立の石造物分布図
         天霧石産の五輪塔分布図
18世紀末になると、かつての弥谷寺周辺で活動した石工達や、石切場のことは忘れ去られていたようです。また、この記事内容を根拠にして、中世から近世の石造物は豊島石で造られたものとされてきた時代があります。それが天霧石であったことが分かったのは、近年になってからです。その「誤謬」の情報源が、ここにあるようです。
豊島石の産地
豊島石の産地
以上をまとめておくと
①18世紀末に書かれた「日本山海名産図会」からは、当時の豊島石の石切場が坑内の中にあったこと
②石の内部を繰り出し、円形に加工する石造物(火鉢・石筒、かまど)などが生産されていたこと
③18世紀末には、讃岐では製造物生産地としては豊島が最も有名で、天霧石や火山石は忘れ去られた存在となっていたこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
豊島の細工場『日本山海名産図会』「国立国会図書館デジタルコレクション」 

中世の瀬戸内海の海運活動では、為替決済が行われていたことは以前にお話ししました。
古代には、地方の人々は指定された特産物を中央の支配者に直納していました。しかし、中世になるとモノではなく銅銭(カネ)で納入するようになります。地方の人々が産物を販売して得た銅銭を支配者に送付し、支配者の方は入手した銅銭で必要な物を中央で購入するようになったのです。これは、社会的分業と交換が進展していたことを意味します。
 それなら「銅銭建て納入」ということで、瀬戸内海を大量の現金を積んだ船が行き交ったのかというとそうではないようです。これは輸送リスクが大きすぎます。そこで登場するのが「為替」です。商人が地方で銅銭と交換するかたちで放出した為替文書を荘園が購入し、それを領主に送付し、領主が中央で換金するという仕組みが生まれます。それが実際にどのように運用されていたかを今回は見ていくことにします。
『厳島神社蔵反古裏経紙背文書』は、本山寺の本堂が建立された1300年頃の文書で、京都方面と歌島(今の尾道市向島)との間でやりとりされた手紙が中心です。

反古裏文書(紙の裏に書かれた書面)
紙は貴重品だったので、片方だけ使って捨てたりせずに、先に書いた文書を反故(ほご。ひっくり返して無効化)として、裏面に新たな文書を書いて利用していました。反故にされるような内容なればこそ、日常的な生活のリアルな情報が記録されているともいえます。宮島の反故文書には、多くの為替記事があるようです。それを見ておきましょう。中世の為替は、次の2種類に分けられます。

①「原初的替銭のしくみ」
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)
替米

為替取引とは、遠隔地間の貸し借りを決済するのに、現金の輸送ではなく、手形や小切手によって決済する方法のことです。日本で最初の為替取引は、「替米(かえまい)」と言われています。「替米」は、遠隔地に米を送るのに、現物の代わりに送る手形のことです。中世になると為替取引が発展し、鎌倉時代には将軍に仕えた御家人が鎌倉や京都で米や銭を受け取る仕組みとして為替取引が行なわれるようになります。
為替

 この場合、為替をやりとりする者同士には信頼関係があることが前提になります。この信頼関係をもとに、文書が次の人へと手渡されていき、その上で最終的な払出人と文書の持参人の間にも信頼関係がある場合に、払い出しが行われます。しかし、このシステムでは、払出人が為替を持ってきた人を知らない場合には、支払いは行われません。
そこで②「割符」というシステムが登場します。
バンクマップ】日本の金融の歴史(中世・近世)

このしくみでは、最終的な払出場面のおいて信頼関係がない(払出人が持参者と面識がない場合)でも払い出しができます。なぜならば、振出人が割符を振り出す際に、「もう1つの紙切れ」との間で割印を施しておき、その「もう1つの紙切れ」の方を振出人自身(あるいはその関係者)が直接払出人に持ち込めば、払出人は割符と片方文書との割印が合致すものを見て、面識のない持参人が持参した割符が本物であることを確信できるからです。この「もう1つの紙切れ」のことを、片方(カタカタ)と呼んだようです。

SWIFT動向(ISO20022)について | 2021/10/27 | MKI (三井情報株式会社)
割符屋の役割と割符発行

この2つの為替システムの併用版が、「明仏かゑせ(為替)に状」(『鎌倉遺文』24368号文書)に次のように登場しています。

ひこ(備後)の国いつミ(泉)の庄よりぬい殿かミとのヽ御うちへまいる御か□せ(為替)にの事
合拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、
さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

意訳変換しておくと
備後国泉の庄のぬい殿からヽ御うちへまいる御か□せにの事
拾貫文者吐参貫文上、(花押)
右、件御かゑせ(為替)に、このさいふ(割符)ふミたうらい三ヶ日のうち、この御つかいに京とのにし□こうちまちのやと(宿)にて、さた(沙汰)しわたしまいらせられ候へく候、さいふ(割符)のなかにも、せに(銭)のかす(数)を□(か)きつけて候、御うた(疑)いう候ましく□、例かゑ(為)状如レ件、
応長元年七月十二1日         明□(仏))
よと(淀)のうをの市次郎兵衛尉殿

 ここからは現在の広島県庄原市にあった備後泉庄から京都の領主に送金するために、為替つまり替銭が利用されたことが分かります。最後に登場する「明仏」は、備後国の金融業者で京都の荘園領主とは面識はなかったかもしれません。あるいは、面識があったので、荘園領主から現地での年貞の取立をまかされていたのかもしれません。それについては、これだけでは分かりません。
 この文書の背景には、次のようなやりとりがされています。
①荘園の使者(oR領主)は、備後国で明仏に10貫文(銅銭1万枚)を支払う。
②これに対して明仏は、京都綾小路の宿での払い出しを、淀の魚市次郎兵衛尉に委託する文書である「替状」を使者に渡す。
③その後、使者は淀まで行って魚市次郎を訪ね、京都の錦小路での払い出しを受ける。
④そこで使者は、備後での人金分10貫文を京都で入手する。
ちなみに、当時の米1石の値段が大体1貫文だったようです。10貫文は、米10石に相当します。当時の米10石は、平安時代末期の基準で考えれば、今の米6石(米900 kg)で、現在の米価格を10 kg=4000円で計算すると、10貫文は現在の36万円相当になるようです。
お寿司の一貫は? Part.4(最終回) | 雑学のソムリエ

   ただし、今は米の価値が昔に比べて下がってしまいました。当時の米10石は、もう少し当時は値打ちがあったと研究者は考えています。
 もう一度史料を見てみましょう。この時に3貫文分の割符が同時に送られています。これはどうして分けて発行しているのでしょうか。その3貫文分は魚市次郎が割符屋に持ち込んで、片方文書との間で施された割印が、割符の割印と合致すれば、換金が可能です。割符の方はそれでいいのでしょうが、問題は残り10貫文の方です。これは知らない人間には払い出せないというしくみのはずです。魚市次郎は安心して払い出すことができるのでしょうか。それとも、明仏の書いた文書(替状)を持参してきた使者と面識があったのでしょうか。

この問題について、研究者は次のように考えていきます。
①もし面識があるならば、使者の実名が記されていれば十分で、文書の中に備後国云々まで書く必要はない。
②「御うたかい候ましく」とあるのは、逆に疑わしかった証拠。使者が本当に荘園の使者なのかどうか分からなかった。
つまり、魚市次郎と使者には面識がないことになります。にもかかわらず、明仏が払出の依頼をできたのはなぜでしょうか。

この謎を解く手がかりは、替状と割符とが一緒に送られている事実にあると研究者は指摘します。
つまりこの替状は、単独で持ち込まれたのでは本物かどうか分かりません。しかし、魚市次郎のところに同時に持ち込まれた割符が割符屋で木物と判断されて払い出されれば、魚市次郎は割符屋を通じて、割符主が明仏と取り引きをしたかどうかが確認可能になります。たとえその確認ができなくても、魚市次郎は、筆跡からみても自分の知り合いの明仏のものと思えるその文書は、やはり本物だろうという判断がしやすくなります。
 このように明仏は、魚市次郎に見知らぬ使者に対する払い出しを依頼する際に、額面10貫文の割符を調達できない場合でも、当面入手可能な3貫文の割符を入手して替状に添えて送れば、魚市次郎は払い出してくれるはずだと考えたのです。ようするに、この割符は、持参人と払出人との間の信頼関係がないばあいには機能しない「原初的替銭」に対して、その「弱点」を補完するために利用されているということになります。

こうしてみると、1300年代初めには、為替はさらに進化していたことが分かります。
瀬戸内の物流を担う商人たちが活動するなかで、それを支える金融業者が各港に現れ、円滑な資金移動を支える金融ネットワークが形成されていたことになります。為替が瀬戸内海を結ぶ遠隔地交易の発展を促していたとも云えます。
 為替文書が、交易商人によって生み出されます。最初は「疑わしい紙切れ」だったかもしれません。それを瀬戸内の物流活動が「有価文書」に成長させ、さらには紙幣へと発展せしめることになると研究者は考えています。
 1500年以降に割符はいったん消滅するようです。為替の発展と紙幣の登場は直線的ではないようです。しかし、中世の為替システムは、大きな視点で見ると日本金融のスタートとも云えるようです。

DSC07725
大野祇園神社(三豊市山本町)

最後に讃岐三豊市山本町にあった大野荘で使われていた為替システムを見ておきましょう。

大野庄は、京都祇園宮の社領でした。そのため京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)が産土神と勧進され、毎年本宮の京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。『八坂神社記録』(増補続史料大成)(応安五年(1372)十月廿九日条)には、次のように記します。
西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。

意訳変換しておくと
讃岐の西大野から伊予房が上洛してきた。今年の年貢は二十貫だという。この内の一貫は讃岐での必要経費、又一貫は上洛にかかる経費で差し引くという。伊予房とともに近藤氏の代官が同道して、割符は運んできた。しかし、今日は近藤氏の役人は所用で来れないので、明日諸事務を行うつもりだと伊予房から報告を受けた。

 八坂神社は、京都の祇園神社のことです。一行目に「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」とあります。ここからは祇園神社に納められる年貢は二十貫で銭で納めていたことが分かります。
  伊予房という人物が出てきます。この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来て、京都に帰ってきたようです。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、年貢から差し引かれるようです。
DSC07715
大野祇園神社(須賀神社と八幡神社の2つの社殿が並んでいる)

「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」とある近藤という人物が西大野荘の代官です。

近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符(割符:さいふ)」で年貢を持参して一緒に、上洛してきたようです。
ここまでを整理すると、
①荘園領主の八坂神社の 伊予房が、年貢を取り立てに大野荘にやってきた。
②そこで代官近藤氏が「際符(割符)」で、京都に持参した。
  ここからは、麻の近藤氏が「割符」で八坂神社に年貢を納めていたことが分かります。この割符は、観音寺などの問屋が発行しことが考えられます。その「割符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやったようです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符(割符)」には、次のようなことが書かれていたと研究者は考えています。
①金額 銭20貫文
②持参人払い 近藤氏
③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け
④振り出し人の名前
 ちなみに大野荘の代官を務めた近藤氏は、その後押領を繰り返すようになり、荘園領主の八坂神社との関係は途切れていったようです。

参考文献 井上正夫 中世の瀬戸内の為替と物流の発展 瀬戸内全誌のための素描 瀬戸内海全誌準備委員会)
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修験道の祖 役行者

修験者はさまざまな呪的な技能、技術を身につけていました。
修験者の持つ修法類は、符呪を始めとして諸尊法、供養法、加持など多岐にわたります。しかし、分類すると治病、除災に関するものが圧倒的に多いようです。ここからは、修験を受け入れる側の人々は、病気や怪我などの健康問題の解決を第一に求めていたことがうかがえます。修験側もそれに答えるように、「験」を積み呪的技能、技術に創意と工夫をこらしてきたのでしょう。修験の行う符呪や呪文・神歌・真言の唱言、加持祈蒔のよううなマジカルな方法だけでなく、施楽=薬物的治療の道も開拓していたようです。そういう意味では、修験者は薬学、医学的知識をもって病気治しに従事していたと云えそうです。今回は修験者と製薬との関係を見ておきたいと思います。テキストは「菅豊  修験による世俗生活への積極的関与 修験が作る民族史所収」です。
研究者は、修験者の病気治しを日本の医療史、薬学史の側面からの位置づけます。
その中で古代の禅師、中世の高野聖など修験道につながる民間宗教者が、製薬・医療知識を持っていたこと、さらにその経済活動として製薬などの医療行為を行っていたことに注目します。例えば「狩猟者と修験との同一性」という視点からは、狩猟者が捕らえた獲物から薬を作る姿が見えてきます。そして、修験道系の宗教者が狩猟で捕らえた熊の各部分を薬品として使用し、祈祷時に病人に与えています。これは「呪医」と狩猟者兼修験者が重なる姿です。

北多摩薬剤師会 おくすり博物館 ジェネリック(GE)篇(その8)
熊の肝臓は高級漢方でした

日本の伝統的な民間薬や治療法の由来をたどると、修験者にたどりつくようです。
それを全国的に北から南へと見ていくことにします。
  東北地方では
①葉山修験の影響下にあった山形県上山市の葉山神社はすべての病気を治すといわれた。永禄年中(16世紀中期)の悪疫流行の際には、修験者がこの山の薬草によって、人々の命を救ったと伝えられます。
②出羽三山奥の院・湯殿山の霊湯の湯垢を天日で乾かして固めたものは、万病の薬になるとされ、山伏たちが霞場に配って歩いていました。
③出羽三山修験、とくに羽黒修験が携帯する霊石「お羽黒石」は、中国古代道教で重宝された神仙薬「㝢餘糧」「太一㝢餘糧」でした。ここからは羽黒修験が製薬などの技術もっていたことがうかがえます。

禹余糧 - TCM Herbs - TCM Wiki
㝢餘糧
  関東地方では、埼玉県秩父地方の三峰山で「神教丹」が販売されていました。現在でも三峰神社では、次のような漢方が販売されているようです。
胃痛・下痢などに効く「三峰山百草」
心臓病・腎臓病・疲労回復などに効く「長寿腹心」
眼病・痔疾・便秘症などに効く「家伝安流丸」
胃カタル・胃酸過多などに効く「神功散」
山岳修行の山々には、薬草が多いといわれます。陀羅尼助には、医薬品でもあるオウバク(黄柏:キハダ)が含まれていいます。エンメイソウ(延命草:シソ科ヒキオコシ)は、行き倒れにあった人を引き起すくらい苦くて、起死回生の妙薬とされます。また、日本三大民間薬と言われるセンブリ(当薬)も陀羅尼助に入れられ薬草です。千回振っても、お湯で振り出しても苦さが取れないことから、この名がつけられたといいます。その他には、ゲンノショウコ(現の証拠:フウロソウ科ゲンノショウコの全草)もあります。これら薬草に共通するのはいずれも「非常に苦い」ようです。「良薬は口に苦し」といわれる由縁かも知れません。そして効能が胃腸薬に関するものであることです。どちらにしても、我が国では消化器疾患に有効な薬草が好んで使われているようです。三峰山は、霊山で行場であると同時に、これらの薬草の宝庫でもあったようです。今でもオウバク(黄柏:キハダ)
が数多くみられるようです。

百草とは? | 長野県木曽 御嶽山の麓で胃腸薬「御岳百草丸」を製造販売している長野県製薬の公式サイトです
キハダ(オウバク) 

北陸地方では、富山県の製薬・売薬が「富山の薬売り」として有名です。
冨山の製薬も、そのルーツは修験者にあるようです。越中には立山を中心とする修験者の売薬活動があり、「立山権現夢告の薬」が立山詣でのお土産として信仰を介して広がります。現在、数多くみられる富山売薬由緒書は、立山修験を背景とした修験の唱道文の名残と研究者は考えています。
Amazon.co.jp - イラストでつづる 富山売薬の歴史 | 鎌田元一 |本 | 通販

富山県西部の砺波平野の里山伏は、農耕儀礼の祭祀者であるとともに、民間医療の担い手でもありました。
符呪やまじないなどマジカルな病気治し以外に、施薬、医療も行なっていたようです。次のような薬が里山伏系の寺社で販売されています。
神職越野家(旧山伏清光寺)の貝殻粉末の傷薬、
海乗寺の喘息薬
松林寺の腹薬
利波家の喘息薬
山田家の「カキノタネ」などの下痢止め
富山県/富山県の有形民俗文化財

野尻村法厳寺の薬は神仏分離後に真宗等覚寺に伝授されます。また同村の五香屋の「野尻五香内補散」のルーツも修験に求められるようです。このような製薬・売薬ばかりでなく、修験は医業にも携わっていたようです。例えば川合家(旧円長寺)は医者となり、また上野村養福寺上田家は19世紀初頭、第六代勝竜院順教の頃から開業医となっています。

1855年(安政2)の「石動山諸事録」には、石動山修験の売薬について次のように記されています。
一、旦那廻り与云相廻中寺有之、壱軒米壱升宛貰、三月等祭礼ニハ寺江行賄二預ル、宿料不出、又薬二而も売候得ハ、壱ケ寺拾両も入、越中杯ハ弐拾両斗も受納之寺有之事
一、石動山より売出候薬ハ、五香湯壱服四十文・万金丹壱粒弐文・反魂丹壱粒壱文・五霊散眼薬二而(後略)
(多田正史家文書、鹿島町史編纂専門委員会 1986年)
意訳変換しておくと
一、得意先の旦那廻に出かける修験は、定まった寺に宿泊した。一軒から米一升をもらい受け、三月の祭礼の時には寺で賄いを受けるが、宿料は無料であった。また薬も販売し、ひとつの寺で十両も売れた。越中では二十両も売れた寺もあった。
一、石動山修験者が売出している薬は、五香湯一服40文・万金丹一粒2文・反魂丹一粒一文・五霊散眼薬である(後略)

ここからは、「旦那回り」に出る修験は、 一軒一升のコメを貫い受け、祭礼時には無料で宿泊歓待を受けています。それだけでなく、旦那廻りのついでに売薬活動を行っています。その稼ぎも、10両から20両というのですから高額です。この現金収入は、定着化した里修験にとっては重要な収入源になったでしょう。製薬・売薬が、修験の生活を支えていたことがうかがえます。
富山の売薬にまつわる歴史伝承、反魂丹(腹痛薬)、先用後利(配置家庭薬)、おまけ(土産、進物)、とは(2010.4.14): 歴史散歩とサイエンスの話題
冨山の薬売り(修験者の痕跡がうかがえます。)

明治の神仏分離以降も、製薬・売薬の技法は受け継がれ、石動山修験宝池院の末裔である宝池家では「加減四除湯」「和中散」「退仙散」などの秘伝薬が伝えられていたようです。二蔵坊の後裔である広田家には、1882年(明治15)「紫胡枯橘湯」「清肺湯」「加味三柳湯」など多くの薬の製法、成分、効能書「医要方一覧記」が残されています。
池田屋安兵衛商店でレトロな漢方を買ってきた!in 富山 – Wakutra

 先ほどの文書中に出てくる「反魂丹」は、石動山修験の売薬の中でも「富山の薬売り」を代表する薬だったようです。「富山の薬売り」に立山修験のほか、石動山修験が何らかの関わりをもっていたことがうかがえます。
北陸の修験といえば白山修験ですが、冨山の売薬との関係は、よく分からないようです。ただ白山修験の山伏である越前馬場平泉寺の杉本坊も、丸薬を売り歩いていたようです。その他の白山の修験者たちも製薬、売薬に携わっていた可能性が高いと研究者は考えているようです。
富山の薬屋さん (北陸旅#3) - 気ままに

次に近畿地方をみてみましょう。
伊勢野間家の「野間の万金丹」は、朝熊麻護摩堂明王院に起源するため「明間院万金丹」とも呼ばれていました。やはり修験系統の製薬、売薬です。この「万金丹」の名は、「石動山諸事録」にもでてきます。修験の間で、さまざまな技術、知識の交流があったことがうかがえます。
楽天市場】【指定医薬部外品】伊勢くすり本舗 伊勢ノ国 萬金丹 450丸入 1個(1瓶) まんきんたん 万金丹 和漢 バンキョードラッグ 万協製薬 :  バンキョードラッグ 楽天市場店

 「万金丹」は、滋賀県甲賀郡甲南町下磯尾の小山家でも伝来されています。これはこの地の飯道山修験が朝熊岳護摩堂明王院の勧進請負をやっていることから、修験間で製法の伝授があったと研究者は推測します。
 近世の甲賀地方は製薬、売葉の盛んな地域で、近江商人の売薬は富山の売薬とともに、全国に広がっていました。
「神教はら薬」や「赤玉神教九」「筒井根源丹」という家伝薬は、いずれも神威に関わっていました。その中の「神教はる葉」は、多賀不動院の坊人が多賀大社の布教で諸国巡札した時に持参した土産物とされます。それを後に坊人が甲賀(甲南町周辺)に移り住んで甲賀山伏となって宣伝したものだと伝わります。小山家には、「万金丹」とともにこの「神教はら薬」が伝えられています。
第3類医薬品】陀羅尼助丸 分包 27包袋入り | 吉野勝造商店 | 胃腸薬

近畿地方の修験と薬を考えるなかで、「陀羅尼助」は大きな意味を持つようです。
「陀羅尼助」は、吉野大峰山に伝わるもので、大峰開祖の役小角が吉祥卓寺で作り始めたとされます。これは、修験道の祖が製薬に関わっていたことになります。この薬は、胃腸薬でのみ薬ですが、打撲傷や眼病などの外用にも使われ、まさに万能薬としての名声を得ていたようです。後には、大峰山以外の高野山や当麻寺などでも製造されるようになります。
最後に九州です。
福岡県の英彦山修験が万病の薬として「不老円」を処方して、檀家詣りの際には持ち歩いていたようです。
豊刕求菩提山修験文化攷(重松敏美編) / 氷川書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

また福岡県の求菩提山修験が製薬、および治療に関わり、「神仙不老丹」や「木香丸」などの薬を販売していたことは有名です。
求菩提山修験の修法については『豊務求菩提山修験文化政』に詳しく報告されています。そのなかには「医薬秘事、秘伝」として次の薬の調合書、医学書が収載されています
①「求菩提出秘伝」
②「望月三英、丹羽正伯伝」
③「求菩提山薬秘伝之施」
④「灸」
ここからは、求菩提山修験が製薬に関わっていたことが分かります。
②「望月三英、丹羽正伯伝」の中には、幕府の触書をそのまま書写されています。ここからは修験者たちが様々な知識を吸収し、それを活かそうとしていたことが次のように記されています。

もっと知りたい福岡修験道と薬 ~求菩提山の事例を中心に~ - アクロス福岡

例えば3種の医学書には、それぞれ32例(求書提出秘伝)、20例(「望月三英、丹羽正伯伝」、21例(「求菩提山薬秘伝之施」)、合計73例の薬の調合、治療法が記載されています。そのなかに、薬の加工過程で行われる「黒焼き」と呼ばれる方法が記されています。
 例えば「求菩提山秘伝」では、「雷火のやけどに奇薬」として次のように記されています。
「鮒を、まるながら火にくべ黒焼にして、飯のソクイにおし交てやけどの処につけ ふたに紙を張りおくべし」

ここからは、フナを黒焼きにしてやけど薬として用いていたことが分かります。
「求菩提山秘伝」には、31例中8例、「望月三英、丹羽正伯伝」には20例中2例、「求菩提出薬秘伝之施」には31例中3例の黒焼きの加工法がでてきます。この黒焼きという技法は、皇漢医学や庶民が行なっていた民間医療にもみられるので、修験独自の加工法とはいえませんが、修験製薬の重要な技法の一つであったことは間違いないようです。
  とらや製薬(株):和歌山県製薬協会
  修験と製薬活動のかかわりについて見てきました。
修験者たちは農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動に、深く関わっていました。その関わりを深める中で、里修験として村社会への定着化がが行われたようです。そのプロセスを示すと次のようになります。
①スタートは宗教的な権威を背景にして、自分たちの得意とする儀礼や信仰といった観念世界から村社会に接近。
②修験者が持っていた実用、実利的な技能、技術を提供することで「役に立つ人間」と村人から認識されるようになる
③農耕、狩猟、漁拐・製薬など人々の生産活動のリーダーとなり、指導的な地位を確立
宗教的な指導者であるばかりでなく、現実生活に役に立つ知識・技能を持っていたことが大きな力となったと研究者は考えているようです。
役に立つ技術の一つが製薬、売薬の技術でした。
医者、薬剤師としての姿は、修験者が人々の生活のなかに浸透していく上で有効に働きます。その他にも修験者には、次のような側面を持つことが明らかとされています。
①芸能や口承文芸の形成、伝播に関わった遊芸者としての姿
②市に結びつく商人としての姿
③鉱山を開く山師としての姿
 中世から修験者は、このような経済活動と関わっていて、さまざまな技術や知識を持っていたようです。それが里修験化の過程で、在地の技術、知識、本草学、皇漢医学など、その時代の先端の知識、情報を吸収することで、その技術を再編成し、適応の幅を広げていったと研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 菅豊  修験による世俗生活への積極的関与 修験が作る民族史所収」

中世讃岐の荘園をいくつか見てきました。荘園史料は相伝が主で、誰からだれに引き継がれたかは分かっても、その他のことはなかなか分からないようです。荘園経営やそこで活躍する人物像、建造物などを具体的にイメージできる史料にはなかなか出会えません。
庭訓往来
庭訓往来

その中で南北朝時代のころに成立した『庭訓往来』の中には、京都の荘園領主が現地で荘園を運営する荘官に宛てた手紙が載せられています。「庭訓往来』は、字引の性格をもった文例集で、これを手習いすることで奇麗な文字が掛け、手紙も書けるようになるというすぐれものです。そのため読み書きの教科書として江戸時代末まで広く使われました。実際には、ここに書かれているとおりのことを荘官が行っていたわけではありません。しかし、当時の人々が、あるべき荘官の任務をどのように考えていたか、荘園とはどのような場であると思っていたかを知ることはできます。今回は、『庭訓往来』に出てくる荘園の様子を見ていこうと思います。テキストは「榎原雅治     中世の村 室町時代の村  岩波新書158P」です。
荘園の荘官と領家
荘官と領家の関係

領下が荘官に宛てた手紙を、要約しながら抜き出して見ていきます。

  ①早く沙汰人らに命じて、地下日録・取帳以下の文書、済例・納法の注文などを、悉く提出させよ。

「地下日録」「取帳」は土地地台帳の一種で、「済例」「納法」は年貢の納入記録のようです。荘園では、耕地の面積が調査され、年貢の基本額と納税責任者が定められています。そのための調査が正検注になります。この台帳をもとに、天候不順などで百姓から減免要求があれば、実際の作柄を見て、その年の年貢額を決めます(内検注)、そして徴収することが荘官の最大の任務になります。
 荘官には、荘園領主から派遣される場合と、現地の有力者が勤める場合の両方があります。いずれにしても荘園に住む人々と領主を結ぶキーパーソンです。現地を代表して、その意向を領主に伝える場面もあれば、領主の意向を現地で執行する場面もあります。
荘園制度はなぜ成立し、どのように発展し、崩壊したのか?わかりやすく紹介

  荘官に対して、文中冒頭に出てくる「沙汰人」は、現地人で、村の代表者的人物になります。
荘官と沙汰人は、時には協力し、時には領主の代即人と村の代表者という立場からの駆け引きを行いながら、両者で検注を行います。そして基本台帳を作成したり、毎年の作柄や年貢納入状況を記録したりして、帳飾を作成していました。これは領主と百姓の間で交わされたある種の契約事項で、簡単に変更できるものではなかったようです。百姓は納入の義務を負いますが、領主側も勝手に増徴や追徴することはできませんでした。
荘園 惣村沙汰人
惣村のリーダー沙汰人
『庭訓往来』を読み進めて行きましょう。

洪水や早魃にあい用水工事の必要が生じたときには、民の役として堤や井溝を整えさせよ。

荘園の耕地開発は、堤や井満(用水路)の整備が基本になります。洪水や旱魃などに対して、郷村の百姓たちを動員して用水工事を行うのも荘官の役目です。こうしたため池や用水などの潅漑施設の維持管理が、継続して続けられていたことが分かります。

佃・御正作はよい種を選んで百姓に種子を与えよ。鋤や鍬などの農具を貸し与え、梗、襦、早稲、晩稲を作らせよ。畠には土地の様子にあわせて蕎麦・麦。大豆などを植え、桑代を徴収せよ。

「佃・御正作」は領主の直営田で、収穫物のすべてを領主が取得する土地になります。そこには地味の良い場所が選ばれていたようです。また、品種改良の実験場となっていたのではないかと考える研究者もいます。
「鋤や鍬などの農具を貸し与え」るのも、荘官の仕事だったようです。このためには鉄製農具の購入や修理も行わなければなりません。移動する鍛冶屋を定期的に荘園に呼んで、鍛冶仕事を依頼するのも荘官の仕事だったようです。
 「梗、襦、早稲、晩稲を作らせよ」ともあります。
いろいろな食用となる果実などを栽培させると同時に、不作に備えて収穫時期のちがう「早稲、晩稲」の栽培奨励をおこなっていたこともうかがえます。また、田だけでなく、畠の産物や桑のような山の木も課税の対象になっていました。漆、栗、蕨なども荘園からの貫納物として、登場するようです。桑代を徴収せよとも指示されています。

イメージ 1
長者の家(『粉河寺縁起』)

『庭訓往来』は、荘園の政所については、次のように記しています。
  御館の作りは特別の工事は必要ない。四方に大堀を構え、その内に築地を用意せよ。
 南向きには笠懸の馬場、東向きには蹴鞠の坪を設けよ。
 客殿に続いて持仏常を立てよ。……その傍らには蔵・文庫を構えよ。
冒頭に出てくる「御館」とは、荘園の現地を治めるための役所である政所のことです。荘園領主から派遣された代官が現地で政務を執り行う役所です。これは荘官の私宅も兼ねていました。そのため役所といっても、建築的には一般的な農家と変わりない建物であったようです。13世紀中頃、丹波雀部荘では新任の代官が大型の政所を造ろうとして住民に反対されています。

新見荘直務代官 祐清の悲劇と「たまかき書状」 – 東寺百合文書WEB
備中国新見庄の政所図面(東寺百合文書)
上図は15世紀半ばの備中国新見庄にあった京都の東寺の政所図面です。
 ここには地頭方の百姓の一人である谷内の屋敷が描かれています。右側(北側)に主殿、左側(南側)に客殿があります。右側の客殿が地頭方の政所として使用されていたようです。この客殿の周りだけ堀があり、右側の主殿には堀がありません。この堀の遺構が現在も残っているようです。
新見荘地頭方政所

これを見ると『庭訓往来』に書かれたとおり、堀と塀に囲まれた空間に客殿、蔵が設けられています。政所には、一定の防御性と文書・帳簿などの保管庫が必要だったことがうかがえます。また「笠懸の馬場」と「蹴鞠の坪」を用意するように記されています。ここからは政所が荘官の属する武士の文化と、荘園領主の属する公家の文化の混じり合う場であったことを象徴的に示しているようです。

Hine no sh remains The preservationexhibitionand restoration of
荘園の政所
政所は支配の拠点であり、百姓たちの納める年貢の集められる場でもあり、同時に裁判の場でもありました。
播磨西部に斑鳩嶋庄という法隆寺の荘園があります。この荘園の政所で行われていた諸事を書きとめた記録が残されています。それを見ると、荘園内で起こった盗み、殺人、喧嘩などの刑事事件が政所で裁かれ、犯人に対する処罰が行われていたことが分かります。処罰や犯人逮捕にあたっては中間、下部などと呼ばれる役職の人々が執行にあたっています。彼らは、地元の住人の中から「職員」として登用された人たちのようです。
  熊野信仰と四国霊場 : 瀬戸の島から
斑鳩嶋庄
政所は支配のための場だけでなく、交流・社交の場でもありました。
正月には沙汰人や殿原と呼ばれる荘園内の有力者たちが、政所に新年の挨拶に訪れています。また節供や暮れなどには、彼らを招待して食事が振る舞われていました。領主と領民の融和の場としても機能していたようです。政所は、役場であり、警察・裁判所であり、地域の交流施設でもあったことになります。いろいろな機能をもった拠点が政所と云えそうです。
新見荘中世1

  政所の中には、どんな備品があったのでしょうか。
東寺・新見庄の史料には、政所の図とともに備品を書き上げた史料が残されています。そこには、書類や塁、硯などの文具や食器類はもとより、蔵の鍵、流鏑馬用の衣装、馬の爪切り、鍋・釜・臼などの調理道具などが備え付けられていたことが記されています。また椀六十、黒椀五十、折敷十九、畳二十枚などともあるので、政所には多数の人々が集い、会食も行われる場だったことも分かります。米一石、麦八斗、大豆一石、味噌五斗などの食糧も備蓄されています。また『庭訓往来』『式条(御成敗式目)』『字尽』などの書物も、ちゃんと備えられていることになっています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「榎原雅治     中世の村 室町時代の村  岩波新書158P」
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    平安時代末期の11世紀中期以降になると、郡・郷のほかに保・名・村・別符その他の称号でよばれる「別名」という所領が姿を見せるようになります。つまり、郡郷体制から「別名」体制に移行していくのです。この動きは、11世紀半ばの国制改革によるもので、一斉に全国に設置されたのでなくて、国政改革以後に漸次、設置されたとされていったようです。
それでは、讃岐には、どんな「別名」が設置されたのでしょうか?
讃岐の「別名」を探すには、嘉元四(1306)年の「昭慶門院御領目録案」がいい史料になるようです。
讃岐国
飯田郷  宝珠丸 氷上郷 重方新左衛門督局
円座保  京極準后     石田郷 定氏卿 
大田郷  廊御方    山田郷 廊御方
粟隅郷  東脱上人  林田郷 按察局
一宮   良寛法印秀国  郡家郷 前左衛門督親氏卿
良野郷  行種    陶 保 季氏
法勲寺  多宝院寺用毎年万疋、為行盛法印沙汰、任供僧
三木井上郷 冷泉三位人道
生野郷 重清朝臣    田中郷 同
「坂田勅旨行清入道、万五千疋、但万疋領状」
梶取名 親行    良野新           
万乃池 泰久勝    新居新          
大麻社 頼俊朝臣    高岡郷 行邦
野原郷 覚守    乃生 行長朝臣
高瀬郷 源中納言有房 垂水郷 如来寿院科所如願上人知行
ここに出てくる地名を見ると、それまでの律令体制下の郷以外に、それまではなかったあらたな地名(別名)が出てきます。それが「円座保  陶保 梶取名 良野新名 新居新名 乃生浦 万乃池」などです。これらの別名の成立背景を、推察すると次のようになります。
乃生浦は海辺にあって、塩や魚海などを年貢として納める「別名」
梶取名は、梶取(輸送船の船長)や船首など水運関係者の集住地
良野新名・新居新名は、本村に対して新たに拓かれた名
万乃池(満濃池)は、源平合戦中に決壊した池跡に、新たに拓かれた土地
それでは、円座保・陶保とは、何なのでしょうか。
今回は、この二つの保の成立背景を見ていくことにします。テキストは「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。

11世紀になると「別名」支配形態の一つとして「保」が設けられるようになります。
保の成立事情について、研究者は次のように考えているようです。
①竹内理二氏、
保の中には在地領主を公権力に結集するため、国衙による積極的な創出の意図がみられる
②橋本義彦氏、
大炊寮の便補保が年料春米制とつながりをもちつつ、殿上熟食米料所として諸国に設定されていった
③網野義彦氏、
内蔵寮が御服月料国に対する所課を、国によって保を立てて徴収している。そのほか内膳保・主殿保など、官司の名を付した保は各地に存在している
 以上からは、は保の中には、国衛や中央官司によって設定されたものがあること分かります。

讃岐の国では、陶保・円座保・善通寺・曼荼羅寺領一円保・土器保・原保・金倉保などがありました。この中で、善通寺・曼荼羅寺領一円保については、以前にお話したように古代以来、ばらばらに散らばっていた寺領を善通寺周辺に集めて管理し、財源を確保しようというものでした。そして、保延4年(1138)に讃岐国司藤原経高が国司の権限で、一円保が作られます。それでは、陶保と円座保は、どのようにして成立したのでしょうか


十瓶山窯跡支群分布図1
十瓶山(陶)窯跡分布図

陶保の成立から考えてみることにします。
陶保がおかれた一帯は、現在の綾川町の十瓶山周辺で奈良時代から平安時代にかけて、須恵器や瓦を焼く窯がたくさん操業していたことは、以前にお話ししました。
平安時代に成立した『延喜式』の主計式によると、讃岐国からは次のような多くの種類の須恵が、調として中央へ送ることが義務づけられていたことが分かります。
「陶盆十二口、水盆十二口、盆口、壺十二合、大瓶六口、有柄大瓶十二口、有柄中瓶八十五口、有柄小瓶三十口、鉢六十口、碗四十口、麻笥盤四十口、大盤十二口、大高盤十二口、椀下盤四十口、椀三百四十口、壺杯百口、大宮杯三百二十口、小箇杯二千口」

これらの「調」としての須恵器は、坂出の国衙から指示を受けた郡長の綾氏が、支配下の窯主に命じて作らせて、綾川の水運を使って河口の林田港に運び、そこから大型船で畿内に京に納められていたことが考えられます。
須恵器 編年表3
十瓶山窯群の須恵器編年表
 十瓶山(陶)地区での須恵器生産のピークは平安中期だったようですが、11世紀末までは、甕・壷・鉢・碗・杯・盤などの、いろいろな器種の須恵器の生産が行なわれいたことが発掘調査から分かっています。
ところが十瓶山窯群では12世紀になると、大きな変化が訪れます。
それまでのいろいろな種類の須恵器を生産していたのが、甕だけの単純生産に変わります。その他の機種は、土師器や瓦器に置き換えられていったことが発掘調査から分かっています。その中でもカメ焼谷の地名が残っている窯跡群は、その名の通り甕単一生産窯跡だったようです。
十瓶山 すべっと4号窯跡出土3

 十瓶山(陶)窯群が綾氏が管理する「国衙発注の須恵器生産地」という性格を持っていたことは以前にお話ししました。陶保は平安京への須恵器を生産するための「準官営工場」として国衙直結の「別名」になっていた研究者は考えています。
そのよう中で窯業の存続問題となってくるのが燃料確保です。
「三代実録』貞観元年4月21日条には、次のように記されています。
河内和泉両国相争焼陶伐薪之山。依朝使左衛門少尉紀今影等勘定。為和泉国之地。

  意訳変換しておくと
河内と和泉の両国は焼須恵器を焼くための薪を刈る薪山をめぐって対立した。そこで朝廷は、朝使左衛門少尉紀今影等に調査・裁定をさせて、和泉国のものとした。

ここからは、貞観年間(859―876)の頃から、須恵器を焼く燃料を生産する山をめぐっての争いがあったことが分かります。
十瓶山窯跡支群分布図2

このような薪燃料に関する争いは、須恵器の生産だけでなく、塩の生産にもからんでいました。
筑紫の肥君は、奈良時代の頃から、観世音寺と結んで広大な塩山(製塩のための燃料を生産する山)を所有していました。讃岐の坂本氏も奈良時代に西大寺と結託して、寒川郡鴨郷(鴨部郷)に250町の塩山をもっています。薪山をめぐる争いを防ぐために、薪山が独占化されていたことが分かります。塩生産において燃料を生産する山(汐木山)なくしては、塩は生産できなかったのです。
 瓦や須恵器、そして製塩のために周辺の里山は伐採されて丸裸にされていきます。そのために、燃料の薪山を追いかけて、須恵器窯は移動していたことは、三野郡の窯群で以前にお話ししました。
古代から「環境破壊」は起きていたのです。
 内陸部で後背地をもつ十瓶山窯工場地帯は、薪山には恵まれていたようですが、この時期になると周辺の山や丘陵地帯の森林を切り尽くしたようです。窯群を管理する綾氏の課題は、須恵器を焼くための燃料をどう確保するのか、もっと具体的には薪を切り出す山の確保が緊急課題となります。

古代の山野林沢は「雑令』国内条に、次のように記されています。
山川薮沢之利、公私共之。

ここからはもともとは、「山川は公有地」とされていたことが分かります。しかし、燃料確保のためには、山林の独占化が必要となってきたのです。陶地区では、須恵器の調貢が命じられていました。そのために国府は、綾氏の要請を受けて窯群周辺の薪山を「排他的独占地帯」として設定していたと研究者は考えています。
それが11世紀半ばになって地方行政組織が変革されると、陶地区一帯は保という国衛に直結した行政組織に改変されたと研究者は推察します。陶地区では、11世紀後半になっても須恵器の生産は盛んでした。その生産のための燃料を提供する山に、保護(独占化)が加えられたとしておきましょう。
それが実現した背景には、綾氏の存在ががあったからでしょう。
陶地区は、綾氏が郡司として支配してきた阿野郡にあります。綾氏が在庁官人となっても、その支配力はうしなわれず、一族の中で国雑掌となった者が、須恵器や瓦の都への運搬を請け負ったと考えられます。このように、須恵器や瓦の生産を円滑に行なうために陶地区は保となりました。
ところが12世紀になると、先ほど見たように須恵器の生産の縮小し、窯業は衰退していきます。その中で窯業関係者は、保内部の開発・開墾を進め百姓化していったというのがひとつのストーリーのようです。
『鎌倉遺文』国司庁宣7578には、建長八年(1256)に萱原荘が祇園社に寄進された際の国司庁の四至傍示の中に、陶の地名が出てきます。ここからは陶保の中でも荘園化が進行していたことがうかがえます。
 最初に見た「昭慶門院御領目録案」嘉元四(1306)年には、「陶保 季氏」と記されていました。つまり季氏の荘園と記されているので、14世紀初頭には水田化が進み、一部には土師器や瓦生産をおこなう戸もあったようですが、多くは農民に転じていたようです。あるいは春から秋には農業を、冬の間に土師器を焼くような兼業的な季節生産スタイルが行われていたのかも知れません。

以上をまとめておくと
①陶保は、本来は須恵器や瓦生産の燃料となる薪の確保などを目的に保護され保とされた。
②しかし、13世紀頃から窯業が衰退化すると、内部での開墾が進み、荘園としての性格を強めていった。
須恵器 編年写真
十瓶山窯群の須恵器

次に、円座保の成立について、見ていくことにします。
もう一度「昭慶門院御領目録案」を見てみると、円座保は「京極准后定氏卿知行」と記されています。ここからは、京極准后の所領となっていたことが分かります。京極准后とは、平棟子(後嵯峨天皇典待、鎌倉将軍宗尊親母)だったようです。
菅円座制作記 すげ円座(制作中)
菅円座
円座保では、讃岐特産の菅円座がつくられていたようです。
『延喜式』の交易雑物の中に、「菅円座四十枚」とあります。
藤原経長の日記である『古続記』文永8(1271)年正月十一日条に、次のように記されています。
円座は讃岐国よりこれを進むる。件の保は准后御知行の間、兼ねて女房に申すと云々。

「実躬卿記」(徳治元(1306)年)にも、讃岐国香西郡円座保より納められた円座を石清水臨時祭に用いたことが記されています。
室町時代に書かれた「庭訓往来」や、江戸時代の「和訓綴」にも「讃岐の特産品」と書かれています。平安時代から室町時代を経て江戸時代に至っても、讃岐の円座でつくられた円座が京で使用されていたことが分かります。鎌倉時代には、円座保のあたりが円座の生産地として繁栄していたことが分かります。

円座・円坐とは - コトバンク
 円座作り
円座が、国に直結する保に指定された背景は、何だったのでしょうか?
それは陶保と同じように、特産品の円座生産を円滑にしようとの意図が働いていたと研究者は考えています。円座は敷物として都で暮らす人々の必需品でした。その生産を保護する目的があったと云うのです。
菅円座制作記
讃岐の円座

このように、陶保と円座保では、須恵器と円座といった生産品のちがいはあつても、その生産をスムーズに行なわせようという国衙の意図がありました。それが「保」という国衙に直結した行政組織に編入された理由だと研究者は考えています。

研究者は「保」を次の三種類に分類します。
①荘園領主のため設定された便補の保
②領主としての在庁宮人が荘園領主と争う過程で成立した保
③神社の保、神人の村落を基礎に成立した保
円座・陶保は①になるようです。中央官庁が財源確保のために諸国に設定した保とよく似ています。中央官庁の命を受けた国司(在庁官人)が①の便補の保として設定したものと研究者は考えています。

以上、陶保と円座保についてまとめておきます。
①陶保と円座保は、それぞれ須恵器と菅円座の生産地として、繁栄していた。
②都における須恵器や菅円座の需要は大きく国衙にも利益とされたので、国衙の保護が与えられるようになった。
③11世紀半ばになって、「別名」体制が生み出された時に、陶保と円座保は国衙によって、保という国衛に直結した行政組織とされた。
④それは「別名」のうちの一つであった
⑤この両保が保とされた直接の原因は、その生産品の生産を円滑にするためであった。
⑥保に指定された陶や円座には、その内部に農地として開墾可能な荒地があった。それを窯業従事者たちが開墾し、農業を始る。
⑦その結果、14世紀には『昭慶門院御領目録案」には荘園として記されることになった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「羽床正明 陶・円座保の成立についての一考察 香川史学 第14号(1985年)」です。
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十瓶山窯跡支群分布図2
十瓶山窯跡群 C地区が西村遺跡

西村遺跡は、国道32号綾南バイパス工事にともなう発掘調査で、古代から中世の須恵器・瓦窯跡と集落が一緒に出てきました。そのエリアは道路面なので、陶ローソン付近から東の長楽寺辺りまでに細長く広がる遺跡になります。
十瓶山  西村遺跡概念図
西村遺跡概念図

西村遺跡が、どんな所に立地するのかを見ておきましょう。
 発掘調査によって遺構が確認された範囲は、東西1.1kmになり、遺構も連続しています。遺跡をふたつに分けるかたちで御寺川が東から西へ流れ、北条池の下で綾川と合流します。この谷の北側が、この地区の甘南備的存在である十瓶山から続く南麓斜面になります。谷の南側は、富川との間に挟まれ上面がほぼ平坦な台地(西村台地)が続きます。また谷の両側には御寺川に連なる小さな谷地形がいくつもあります。
 こうしてみると西村遺跡は、地形的には御寺川で西村北地区と山原・川北地区の2つに分けることができます。さらに小規模な谷筋で西村北(西部・中部・東部)に、後者は2群(山原地区・川北地区)に細区分します。西村遺跡は、これらの複合した遺跡群と捉えることができるようです。
各地区の遺構のあった時期を西から順番に、一覧表にしたものが下の表です。
十瓶山 西村遺跡推移標

 この表を見ると、西村北区中部からは西村1~2号窯跡が出土しています。その時期は、11世紀~13半ばまでで、それ以後に窯跡はありません。その東に当たる東部地区からは、窯跡が姿を消した後に建物群が姿を現しています。これをどう考えればいいのでしょうか?
発掘調査を指揮した廣瀬常雄氏は、西村遺跡について次のようにまとめています。
①西村遺跡の性格をよく表しているのは、掘立柱建物と窯跡(西村1~3号窯跡)であり、住居と生産遺構が時代別にあること
②時期的には、窯跡や粘土採掘坑(土坑群)を含めた生産遺構は5期(12世紀後葉)まで、それ以降に居住遺構が認められる。
③建物や溝の方位を規制する地割の存在と近世以前の耕作土の存在から、建物群の形成期には周辺が耕地化されていた。
 ここからは、もともとは西村遺跡は窯業生産地であったが、6期(12世紀末葉)以降は、須恵器生産を終えて周辺一帯の開墾を行い農村へと変貌していったことになります。つまり、窯業地帯から農村への転進が中世初頭に行われたという結論になります。

これに対して、違和感を持ったのが佐藤竜馬氏です。
今回は、西村遺跡を佐藤氏がどう捉えているのかを見ていきたいと思います。テキストは「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討  埋蔵文化センター研究紀要 1996年」です。
先ず佐藤氏は、「生産遺構」についての見直しから始めます。
  上表では12世紀後半に窯跡は消えますが、その後も「土坑群」と「焼土穴」は残っていたことが分かります。土坑穴は、須恵器の原料になる粘土を採集した穴跡で、「焼土穴」も窯の一種と考えられるようになりました。そうすると、西村遺跡では、その後も須恵器生産が続いていたことになります。
 もうひとつは西村遺跡西の特徴的土器とされる「瓦質土器」の存在です。
発掘当時のは穴窯やロストル式平窯しか知られておらず、「瓦質土器」が、どんな窯で焼かれたかは分かりませんでした。1990年代なって各地で、土師質や瓦質焼成の在地土器が「小型窯」で生産されていたことが分かってきました。改めて西村遺跡の遺構をみると、「焼土坑」や「カマド状遺構」とされてきたものが、実は「煙管状窯」であったことが分かってきました。
 西村遺跡からは、中世前期の焼土坑が19基出土しています。その内訳は、西村北地区西部3基、西村北地区山東部6基、山原地区5基、川北地区5基です。これらが煙管状窯だった可能性が高くなります。
「煙管状窯」とは、どんな窯なのでしょうか
十瓶山  西村遺跡出土の円筒状窯
煙管(きせる)状窯
煙管状窯は、円筒形の窯体中位に火格子(ロストル)を設けることで上下に窯室(燃焼部・焼成部)を持つ垂直焔(昇焔)式の窯のようです。須恵器生産地では、燃焼部が窯体手前に袋状に延びたり、焼成部で絞り込まれるものがあります。これは燃焼部内のガス圧を高めて、焔を効率的に焼成部へ吹き上がらせるための工夫と研究者は考えています。

煙管状窯の系譜は、12世紀の東播磨系の窯では穴窯と焼成器種を分担・補完する窯であったことが分かっています。
そこでは須恵器椀・皿、稀に叩き成形の土師質釜が焼かれていて、穴窯と役割分担しながら使われていたようです。この窯で特徴的なのは、窯内の空間が狭いことです。これは窯全体が大型化していく傾向とは逆行します。「大量生産=効率化」と思えるのですが? 

十瓶山 西村 煙管状窯
煙管状窯

ところが、具体的な窯詰め方法を考えると、そうとも云えないようです。煙管状窯では空間利用が非常に効率的に行われていたようです。近・現代の垂直焔構造の窯では焼成部内に隙間なく製品を積み上げて、最上段を壁体よりもさらに上に盛り上げています。木野・伏見・市坂(京都府)、有爾(二重県)、御厩(香川県)などで、 このような窯詰方法が行われているようです。
十瓶山  西村遺跡出土の円筒状窯

田中一廣氏の報告書は、次のように述べています。
「土器を並べて行き5段から6段程積みあげる。各々の土器は窯の中心において底面を合わせる様にして土器をきっちり詰め込む」

土師器皿を7000枚前後詰め込むことができたと報告されています。 研究者は、十瓶山窯の平均的規模の穴窯(焼成部長5.5m、幅1.3m)で試算しています。重ねられた1単位の個体数を平均15個程度ですので、床面に245単位を並べることができたとしても3675個が窯詰めができるだけです。これを焼土坑18の窯詰め量と比較すると、3倍程度にしかなりません。標準的な穴窯の焼成部床面積は7,15㎡です。焼土坑18の床面積はわずかに0,5㎡にしか過ぎません。面積比は14:1になります。しかし、窯詰め比率は3:1なのです。これは煙管状窯が焼成部内の空間をフルに活用できるのに対して、穴窯には「製品を積む高さにも限界が」あり、「窯体容積の割には生産力の低い窯であことに起因する」ことを研究者は指摘します。
 さらに、煙管状窯は容積が小さい上に垂直焔構造のために、害窯よりも燃料効率がよく、温度調節も簡単で、焼成時間も短時間化できたようです。燃料消費量の節約ばかりだけでなく、年間使用回数によっては、穴窯で焼くよりもコストがかからず利便性が高かったことが考えられます。ここからは煙管状窯を「小型」な窯とだけという視点では捉えられないと研究者は指摘します。
 西村遺跡の主生産品である須恵器椀などは低火度還元焔焼成品なので、煙管状窯で焼成する方があらゆる点で効率的だったと考えられます。
 焼土坑は、煙管状窯の基底部との共通点が多いようです。そのため削平された地上(半地上)式の煙管状窯と見倣してよいと研究者は考えます。
これらの焼土坑(煙管状窯)では、何が焼かれていたのでしょうか。
出土遺物で最も多いのは碗のようです。煙管状窯の操業期の12世紀後葉~13世紀後葉には、同じような形態・技法をもつ椀の多くは瓦質焼成です。ここから煙管状窯では、軟質焼成の須恵器椀が生産されていたことがうかがえます。

粘土採掘坑群 
 土坑群は、調査区内で8箇所で見つかっています。その立地は、谷筋に向う傾斜面の縁辺で地山が粘土層の地点です。土坑群が粘土採掘跡であったことの理由について、研究者は次のような点を挙げます。
①地形・地質に左右された立地
②形状・規模に規則性がないこと
③土器が出土した遺構が少なく、出土状況が多様であること
④掘削のために使われた道具が出土した事例があること
⑤窯業生産地に隣接し、操業時期的にも同時代であること
以上の理由から土坑群の多くは、粘上を採掘した跡とします。川北地区の土坑群8からは、多くの遺物が出てきました。これは、隣接する焼土坑18・19から焼土・土器の廃棄が行われたためで、粘土採掘坑が廃棄土坑に転用されたためと研究者は考えているようです。
遺構レイアウトを、山原地区で見ておきましょう。

十瓶山 西村遺跡 山原地区
西村遺跡山原地区の遺構配置

山原地区は、時期幅によって、次の4群に整理されています
①土坑群の掘削された11世紀中葉~13世紀中葉
②西村3号窯跡の操業期である12世紀前葉
③掘立柱建物・溝・墳墓・焼土坑のみられる12世紀末葉~13世紀前葉
④多量の遺物を含んだ廃棄土坑のみられる13世紀中葉
土坑群は継続期間が長く、③の遺構とは同時並行期間があります。出土した遺物は11世紀中葉~12世紀前葉で、建物・溝を破壊した土坑がないようです。ここからは土坑群の大半は③の遺構群の時期よりも前に掘られたもので、③の時期にも掘削が続きますが、次第に低調になったと研究者は考えているようです。以上から12世紀末葉~13世紀前葉の遺構とされています。

建物群は、建物34(J群)、建物35~37(k群)、建物38(i群)、建物39・40(m群)の4グループに分けられます。
建物の主軸は、真北方向を意識しているようで、周囲の地割とほぼ平行になります。建物の規模は15~25㎡前後のものが多く、西村北地区東部の建物群よりも小規模です。ただし建物群の全体が窺えるのは、中央にあるK群(35~37)だけです。K群には廂や床束などの構造的な差異はありませんが床面積45mの建物(建物37)があります。中型建物1棟と20m前後以下の小型建物2棟(35・36)と3つの建物で1セットです。建物の周囲に、雨落ち溝的な小溝が掘られています。建物群には時期差があるようで、K群が13世紀前葉、m群が12世紀末葉~13世紀初とされています。
 一方、研究者が注目するのは墳墓です。
k群に2基、やや離れた所に1基あります。輸入磁器や硯、さらに祭祀に使用されたとみられる小型足釜の出土破片数は、 k群やm群から出土しています。半耐久消費材や祭祀具からみると、m群やk群には高い階層の人々が住んでいたと研究者は考えているようです。
 
 焼土坑は建物40の中から、5基出ています。
焼土坑10はk群に、焼土坑11~14はm群に属しているようです。
このうち焼土坑10・12~14が煙管状窯とされています。焼士坑11は焼土(窯壁)や失敗品の廃棄土坑とされています。削平されていて、遺物はほとんど出土していませんが焼土坑10の周囲の遺構や包含層の遺物は13世紀前葉のものです。また焼土坑11からは12世紀末葉~13世紀初頭の須恵器椀が出土しているので、隣接する焼土坑12~14も同じ13世紀初頭前後を研究者は考えています。
 m群の煙管状窯は、同時期のものとされる建物40溝と13と関連性がうかがえるがある位置関係にあります。建物40と窯が同時にあったとすると、窯の覆い屋的な施設になる可能性があります。
 この他、御寺川の谷斜面に面した土坑5では、13世紀中葉の須恵器椀などが大量に破棄されていました。ここではヘラとみられる竹製工具も出土しています。こうした廃棄土坑があったことは、k群やm群の建物群が廃絶した後にも、付近で土器生産が行われていた可能性があると研究者は考えています。

  以上のように各地区を検討した後に、西村遺跡について研究者は次のようにまとめています。
①西村遺跡では、12世紀中葉~13世紀後葉の間の期間、地上式の煙管状窯b類が各地区に複数あった。ここでは、軟質焼成の須恵器椀・捏鉢、恵器壷や叩き成形の鍋が焼成されていた。
②建物群が初めて姿を見せるのは、川北地区(N群)で11世紀後葉のこと。他地区では12中葉以降に始まり、13世紀後葉になると衰退し、14世紀前葉をもって廃絶する。
③西村北地区東部では建物跡が重っているので、比較的長期間建て替えながら存在した。
④床面積25m以上の大きな建物1棟と、20㎡以下の小型建物1~2棟が同時併存したこと。
「屋敷墓」的な墳墓(土坑)が、それぞれの建物群にあります。ここからは、自立した単位(家族?)の存在が見えてきます。ここから研究者は、家族単位で窯が操業されいたと推測します。

以上から、中世前期の西村遺跡は12世紀中葉以降、急速に遺構群の形成が始まり、13世紀後葉には次第に廃絶に向うことが分かります。その操業単位については、建物群の構成や屋敷墓から見えるようにを自立した家族単位で行われていたと研究者は考えているようです。この時期の遺構は各単位(建物群)が煙管状窯を、いくつか持ち、原料となる粘土採掘場を共有で使うという姿が描けます。西村遺跡では「居住遺構」と「生産遺構」が不可分な関係を持ちながら消長した」と、研究者は記します。以上からは、13世紀中葉~14世紀前葉の西村遺跡は、軟質焼成の須恵器を中心にとした土器生産集団の活動の場であったと結論づけます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「佐藤竜馬 西村遺跡の再検討  埋蔵文化センター研究紀要 1996年」





以前に備中新見荘から高梁川を下って、舟で京都に帰る荘園管理人(僧侶)の帰路ルートを追いかけました。今回は中世の山陽道を旅した僧侶の記録を見てみましょう。 テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。
山陽道斑鳩宿

播磨国斑鳩荘(兵庫県太子町・龍野市)は、法隆寺のもっとも重要な荘園でした。
延徳二年(1490)、法隆寺の僧快訓(かいくん)がこの斑鳩荘に向かう旅をはじめます。快訓は政所として赴任することになったのです。その旅路を「当時在荘日記」には次のように記されています。
僧快は、大和の斑鳩を発って、大和川沿いに河内に入り、山本(八尾市)で、持参した昼の弁当を食べています。その日の夜は、天王寺宿(に宿泊。宿泊料は700文、庭敷銭(にわしきせん)は100文とあります。庭敷銭とは、庭の占有料という意味で、荷の保管料のようです。翌朝、宿で朝食が用意され、快訓には30文、雑用のために従っている下僕たちには25文の食事が出されています。

斑鳩寺 クチコミ・アクセス・営業時間|たつの・揖保川・御津【フォートラベル】
太子町の斑鳩寺
二日目は、天王寺から舟で大阪湾を横切り、西宮宿で昼休み。休憩料は500文、庭敷銭は50文です。宿泊料に比べると休息料が高いような気もします。宿で昼飯をとっていますが、やはり身分に応じて30文と25文のランク分けされた食事が出されています。その日は、兵庫宿(神戸市兵庫区)まで行き、宿をとります。ここの宿泊料は、前回利用したときには700文だったが、値上がりして800文になっていた、ただし庭敷銭、翌朝の朝食代などは値上がりしていなかったことまで記します。
以下の旅程を見てみると次のように記します。
3日目は、大蔵谷宿(明石市)で昼休みし、加古川宿で宿泊、
4日目は国府(姫路市)で昼休みし、その日の夕方に竜野に到着しています。細かな経費は下表のとおりです。
山陽道 宿賃一覧表

これを見ると、宿泊料、食事代などは、全行程ほぼ同額なことが分かります。快訓の旅行記録から、この時代の山陽道では、どこの宿に泊まっても、同じような経費で同じようなサービスが受けられる、というシステムができていたことが分かります。
 中世後期の陸上交通をささえるインフラやシステムについては、まだ分からないことの方が多いようです。「関所が乱立してスムーズな交通が妨げられていた」ように思いがちですが、この記録を見る限りは、案外に快適な旅ができたようです。

   中世山陽道の宿は、どんな人が経営していたのでしょうか?。
朝日新聞デジタル:世界記憶遺産が描く荘園の騒動 矢野荘 - 兵庫 - 地域

播磨西部の現在の相生市に矢野荘がありました。
ここは東寺の荘園で、その史料が「東寺百合文書」の中に残されているので、研究が進んでいるようです。この荘園を山陽道が通っていて、隣の荘園に二木宿がありました。この宿を拠点とした小川氏という一族を追いかけて見ようと思います。小川氏は、南禅寺領矢野別名の荘官を務める武士で、同時に金融活動も行っていたようです。
小川氏の活動とは、どんなものだったのでしょうか? 
 守護赤松氏がとなりの東寺領矢野荘に、いろいろな目的で人夫役を賦課してきたときには、同荘の荘官に代わって守護の使者と減免の折衝をしています。ときには命じられた数の人夫を雇って差し出したりもしています。矢野荘自身が必要とする人夫を集めることもしています。(「東寺百合文書」)。いわゆる人足のとりまとめ的な役割を果たしていたことが分かります。
 そんなことができたのは、小川氏か宿を拠点に持ち、「宿周辺の非農民の流動性のたかい労働力を掌握」していたからできることだと研究者は考えているようです。つまり、一声かけると何十人もの人夫を集めることの出来る顔役であったということなのでしょう。即座に多くの人夫を集めることができる力は、交通・運輸業者としての武器になります。それが小川氏の蓄財の源だったとしておきましょう。
小川氏と交通のかかわりは、それだけではないようです。
 二木宿には時宗の道場がありました。時宗の道場は、安濃津や、東海道の萱津(愛知県海部郡甚目寺町)、下津(同稲沢市)などの例が示すように、旅行者の宿泊所として使われていました。ただの宿泊所ではなく将軍の宿所として利用されることも多く、宿泊所としてはランクの高いものだったようです。二木宿の道場も、格の高い宿泊所だったと推測できます。
 あるとき二木宿の遊行上人(時宗の僧)が勧進活動をはじめます。道場を維持するための勧進だったのかもしれません。このとき小川氏は、周辺の荘園をまわって勧進への協力を求めています。ここからは、二木宿の道場(宿泊所)は、小川氏の保護を受けて維持されていたと研究者は考えいます。小川氏が時宗の保護者であると同時に、宿泊所のオーナーであった可能性も出てきます。
 周辺の人夫を掌握し、宿泊所を維持する、そして金融業を営むほどの財力。これが室町時代の「宿の長者」だったようです。
小川氏と同じような存在は斑鳩荘もいました。斑鳩荘六ヵ村の一つ宿村も山陽道の宿です。

山陽道斑鳩荘マップ1

斑鳩宿と呼ばれていたこの宿の長者は、円山氏でした。
円山氏は、宿の守護神である戎社の裏手に屋敷を構え、宿村を中心に土地を集積する有力者でもあったようです。円山真久は、永正十三年(1516)に行われた斑鳩寺の築地修理のときには、守護や守護代の五倍もの奉加銭を出しています。もともと円山氏は、荘内の人間ではなく、十六世紀になるまでは斑鳩荘の名主職ももってはいなかったようです。それが円山真久は斑鳩寺や、聖霊権現社や斑鳩荘の鎮守稗田神社の修理にも多額の寄進を行い、その功績によって太子講という斑鳩荘の侍衆たちによって構成される講への参加資格を認められます。鎮守の祭礼や造営にお金を出すことは、地域での身分序列を形成・確認するための格好の機会でした。円山氏は、このセオリー通りを利用して「上昇」していきます。円山氏の財力も二木宿の小川氏と同じように山陽道の交通・運輸にかかわることによって獲得されたものと研究者は考えいます。
 円山氏の姻戚関係を知る史料が残されています。
永禄十年(1567)に作成された円山真久(河内守・二徳)の譲状(「安田文書」)によれば、彼には、「妙林・揖保殿・香山殿・神吉殿・平位殿・小入」の六人の娘がいました。揖保と平位は斑鳩の西方、神吉はずっと東方の加古川あたりの、いずれも山陽道に沿った土地の地名です。円山真久は山陽道の交易によって交流を深めたそれぞれの土地の土豪たちに、娘たちを嫁がせていたことがうかがえます。神古郷の近くには加古川宿があるので、神古氏も宿支配関係者だった可能性があると研究者は考えています。
龍野醤油の祖・円尾家の新資料を発見 龍野歴史文化資料館で公開 兵庫 - 産経ニュース
竜野醤油の祖 安政2(1855)年制作の「円尾家当主肖像画」

 研究者が注目するのは、近世脇坂藩の城下町龍野(兵庫県龍野市)の竜野醤油の祖で豪商円尾氏の先祖についてです。
円尾家文書には、円尾氏の初代孫右衛門は、林田川をはさんで斑鳩宿と向かいあう弘山宿の出身であり、二代目孫右衛門(弘治二年〈1556〉生)の母は、「円山河内守」の娘だったと記します。記載された年代からすれば、この円山河内守は、斑鳩宿の円山真久のことのようです。二代目の母が真久の6人のうちのどの娘であるかは分かりませんが、斑鳩宿と弘山宿の有力者同士が縁戚関係にあったことが分かります。さらに真久は東寺領矢野荘の又代官職も手に入れ、矢野荘に土地も所有するようになります。
  
   法隆寺の快訓の播磨への赴任旅程では、どこの宿でもほぼ同額で同じようなサービスを受けられたことを見ました。
こんなシステムができあがっていた背景には、宿の長者同士が婚姻関係などで結ばれた情報交換のネットワークがあったことがうかがえます。そのネットワークが、山陽道沿いの広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していたと研究者は考えいます。

小川氏や円山氏のような宿の長者たちが旅館も経営していたことを見てきました。旅館の経営もただ寐る場所を提供するだけでなく、多角的サービスを提供していたようです。
興福寺大乗院門跡尋尊の日記『大乗院寺事記』の延徳二年(1490)十一月四日条には次のように記されています。
  先年、興福寺の衆徒超昇寺の被官で奈良西御門の住人宇治次郎は、運搬中の高荷を京都・奈良間の宇治で奪われた。近日になってこの高荷を引いていた馬が宇治の旅館扇屋の所有する馬であったことを知った超昇寺は、次郎と扇屋が結託して荷をかすめ取ったのではないかと疑ったのであろう、扇屋を捕らえ、次郎とともに拘禁してしまったという。

以上を整理しておくと次のようになります。
①宇治次郎は、京都と奈良の間の運輸に従事していた馬借である。
②宇治次郎の馬は個人持ちでなく、宇治の旅館扇屋所有の馬で、それを借りて営業していた。
③宇治次郎と宇治の旅館扇屋は結託して、荷主の荷物を奪われたと称してくすねた。
④これを疑った超昇寺被官の奈良西御門が扇屋と次郎を拘禁した
  ここからは、宇治の旅館扇屋が旅行者に宿泊場所や食事を提供するだけはなく、馬を持ち馬借を雇い運輸システムの中に組み込まれた存在であったことが分かります。
奈良の転害大路1
平城京の転害大路は東大寺から西に伸びていた

 奈良の転害大路は京都方面から奈良に入ってきたときの入口にあたり、鎌倉時代の終わりにはすでに多くの旅館が営業していました。
室町時代の中ごろには鯛屋、烏帽子屋、泉屋などの旅館が営業していました。戦国時代になると、旅館業以外の商売にも手を広げていたようです。たとえば、天文十一年(1542)十一月、伊勢貞孝が将軍足利義晴の名代として春日社に代参したときには、転害大路の旅館腹巻屋に、300~400人もの随行者を連れて宿泊しています。この腹巻屋は金融業や酒造業を営む富商でもあったようです(『多聞院日記』天文11年11月15日条ほか)。

奈良の転害大路
転害門

旅館の活動は商売だけではありません。
京都と奈良のちょうど中間に位置する奈島宿(京都府城陽市)には魚屋という屋号の旅館がありました。この魚屋の亭主孫三郎はについて、
「康富記」は次のように記します。
「奈島や木津あたりにある大炊寮惣持院領の年貢米を請け取って、大膳職に渡している人物」
探訪 [再録] 京都・城陽市南部を歩く -3 道標「梨間の宿」・梨間賀茂神社・深廣寺 | 遊心六中記 - 楽天ブログ

京都の近郊には、一つの所領といっても一ヵ所にまとまって存在しているのではなく、耕地があちこちに点在している型の所領が多く、年貢を集めるのも容易ではなかったようです。南山城各地に散らばっている大炊寮領の年貢のとりまとめを、魚屋が請け負っていたというのです。これも多数の馬や人夫、近隣の同業者との連絡網などがあって、はじめて可能なことです。
旅館のこうした機能に、地域的の権力者が目をつけないはずがありません。
播磨の二木宿の長者小川氏は、室町時代にすでに守護赤松氏の被官となっています。そして、みずから赤松氏の人夫催促使を勤めてもいます。人夫の元締めのような存在である小川氏を催促使とし取り込んでおいたほうが領国経営には有益だったのでしょう。

 十六世紀のはじめごろ、摂津の西宮宿には橘屋という旅館がありました。
    天文十二年(1543)、西官の近傍の久代村(兵庫県川西市)に池田氏から段銭が課されます。池田氏とは池田城に拠って北摂津を支配していた国人です。段銭賦課の名目は分かりませんが、おそらく毎年賦課されていた定例の段銭だと研究者は考えいます。暮れになって、段銭奉行の使者田舟五郎兵衛が徴収にまわり、久代村は段銭のほか奉行や奏者への礼銭など合わせて12貫余を納入しています。納入の場所は「西宮橘屋」です。翌年の記録にも、屋号は記されていませんが「西官へ納めた」と記されています(「久代村旧記」)。
ここからは、池田氏の使節は段銭徴収のために領内の村々を巡っていったのではないことが分かります。旅館にやってきて、近くの村々から段銭を持参させていたのです。領内に自前の在地支配の拠点をもたない池田氏は、保護する旅館を利用して、そこで納税業務を処理していたのです。旅館が「納税臨時出張サービス」的な役割を果たしています。旅館にはこのような準公的な顔もあったようです。

以上をまとめておきます
①中世後半のの山陽道には「宿の長者」が経営する旅館が姿を見せるようになった
②「宿の長者」は旅館経営以外にも、人夫の募集や馬借など多角経営を行い金融業者に成長して行く者もいた。
③彼らは街道沿いの同業者と婚姻関係などを通じて人的ネットワークを形成し、広いエリアを円滑に結ぶ陸上交通を実現していった。
④「宿の長者」の持つ力に着目した戦国大名達は彼らを取り込み、支配拠点として利用するようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   テキストは「 日本の中世12 178P 旅の視点から」です。


うどんのルーツと考えられている物には、次の4つがあるようです
その一は、昆飩(こんとん)
その二は、索餅(さくべい)
その三は、饉飩(ほうとん)                            
その四は、不屯(ぶとう)
では、このうちのどれが、饂飩の原形だったのでしょうか。饂飩のルーツを探って見ることにします。テキストは羽床正明 饂飩の由緒と智泉 ことひら65号(2000年)です
伊勢貞丈が1763年から22年間にわたって書き綴った『貞丈日記』には、次のように記されます
饂飩又温飩とも云ふ、小麦の粉にて団子の如く作る也、中にはあんを入れて煮たる物なり。昆飩(こんとん)と云ふはぐるぐるとめぐりて何方にも端のなきことを云う詞なり。丸めたる形くるくるとして端なき故昆飩という詞を以て、名付けたるなり。食物なる故、偏の三水を改めて食偏に文字を書くなり。あつく煮て食する故、温の字を付けて温飩とも云ふなり。是もそふめん(素麺)などの如くに、ふち高の折敷(おしき)に入れ、湯を入れてその折敷をくみ重ねて出す也。汁並び粉酷(ふんさく)さい杯をそへて出す事、さうめんまんぢうなどの如し。今の世に温どんと云ふ物は切麺也、古のうんどんにはあらず、切むぎ尺素往来にみえたり。

ここからは次のようなことが分かります。
①温飩の原形は小麦粉の団子で、中には「あん」を入れた。
②「昆飩」と呼ぶのは、細長くてぐるぐるまきで端がないのでそう呼ばれた。
③食物であるところから三水を食偏に改めて「饂飩」になり、熱くして食べるところから「温飩」と変化した。
④今の「温飩」は「切麺」というのが正しく、昔の「うんどん」とは違うものである
⑤うどんの原形は「饂鈍」である。
  ここで私が興味深く思えるのは、①の「団子の中にあんをいれた」という所です。讃岐の正月には、あん餅入りの雑煮が出てきます。このあたりにルーツがあるのでしょうか。どちらにしても古来の「饂飩又温飩」は、素麺のような切麺ではないとあります。現在のうどんからは想像できない代物であったことがうかがえます。

近世後期の喜多村信節の随筆集の『嬉遊笑覧』には、次のように記されています。
按ずるに、昆飩、後に食偏に書きかへたるなり。煮て熱湯にひたして進むる故、此方にて一名温飩ともいひしなり。今世、温飩は名の取違へなり。それは温麺(うーめん)にて、あつむぎといふものなりといへり。鶏卵うどんといふは、麺に砂糖を餡に包みたるものなり。これらを思ふに、其のもと饂飩なりしこと知らる。名の取違へにもあらず。むかし饂飩にかならず梅干を添えて食したとあって、「昆飩」は食偏に改めて「饂飩」になり、熱湯に浸して食べるゆえに「温飩」となった。

ここからは次のような事が分かります。
①昆飩は、食偏の饂飩に書きかられたのは、煮て熱湯にひたして食べるからである
②今の温飩とは間違いで、正しくは温麺(うーめん=あつむぎ)と書くべきである。
③鶏卵うどんは、麺に砂糖の入った餡に包んだものである。
④ここからは、その根源は饂飩だったことが分かる。名前を取違へているのではない。
⑤むかし饂飩にかならず梅干を添えて食したと言われる。
⑥ここからも「昆飩」が「饂飩」になり、熱湯に浸して食べるゆえに「温飩」となった。
ここにも③④には、餡を入れただんご(餅)をお汁の中に入れて食べていたことが書かれています。
雑煮にあん餅を入れる風習に、何らかの関係があるのかと思えてきます。それはさておき、本論にもどると、喜多村信節も饂飩は「温飩」に由来すると伊勢貞丈の説を支持しています。
  そうだとすると現在のうどんのルーツは、中国・唐菓子の昆飩(こんとん)ということになります。それが「昆飩 → 饂飩 → 温飩 → うどん」と変化してきたというのです。これが戦前までの「定説」だったようです。しかし、これは現在では疑問が持たれるようになっています。
源順が930年代に著した『和名抄』は、饂飩のことが次のように記されています
 饂飩は切り刻んだ肉を水を加えて捏ねた小麦粉で包んで、熱湯で煮たものだ。そして昆飩は豚肉・葱・胡椒などを小麦粉の生地で包んで茄でた中国料理の雲呑(わんたん)のことである。

ここからは昆飩の製造過程の中に「包丁で切る」という工程がないことが分かります。しかし、うどんには「包丁で切る」工程があります。「包丁で切る」という工程を含まない饂飩をうどんのルーツにはできないと研究者は考えているようです。ここから昆飩(こんとん)は、うどんのルーツではないとします。
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次にみていくのが唐菓子の索餅(さくべい)です。
索餅は小麦粉に水を加えて捏ねて手で引き伸ばしたもの二本を撚って縄のようにして、油で揚げた菓子です。奈良時代後期には、索餅は今日の干し饂飩のようなものになり、別名を麦索といい、売買されていたようです。
『正倉院文書』に「索餅茄料」とあり、『延喜式』には「索餅料」として糖(水飴)・小豆・酢・醤・塩・胡桃子をあげています。ここからは、小豆・糖を用いて菓子として食べ、酢・醤・塩・胡桃子などで味をつけて惣莱として食べていたとようです。

索餅も手で引き伸ばしてつくられるもので、製造過程の中に「包丁で切る」という工程はありません。饂飩の原形ではなかったとしておきます。ところが室町~江戸時代に登場する索餅は、その姿を変えて細くて素麺のようなものになっています。
『多聞院日記』文明十年(1418)五月二日条には次のように記されています。
「麦ナワト云フハ素麺ノ如くナル物也」

とあります。江戸時代中期の百科辞書「和漢三才図会』にも「按ずるに索餅、俗に素麺と云ふ也」とあって、麦素(索餅)が素麺のようなものであったことが分かります。奈良時代後期にの菓子の索餅から、千し饂飩に似た麺類の索餅に「変身」していたようです。これを別名「麦索」と呼んだようです。江戸時代になっても菓子と麺類、この二つの索餅が食べられていたことがうかがえます。現在、素麺の少し太いものを冷麦と呼んでいますが、室町~江戸時代の麺類の方の索餅は、丁度現在の冷麦のようなものであったと研究者は考えているようです。
3番目の饉飩(ほうとん)を見ておきましょう。
中国で六世紀前半に成立した『斉民要術』は、饉飩(ほうとん)を
「小麦粉に調味した肉汁を加えて捏ね、親指程の大さにして、二寸程の長さに切り、手の平で薄く伸ばして、熱湯で茄でたもの」

である記します。
これが『和名抄』には「干麺方切名也」であるとして、短冊状の扁平なもので、現在の群馬県のひもかわうどんのように長い帯のようなうどんだったことがうかがえます。
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群馬のひもかわうどん

藤原頼長の日記『台記別記』には、
「仁平元年(1151))八月、左大臣で氏の長者でもある頼長が春日大社に参詣した時、参道に問口六間(約11m)の饉飩をつくるための仮の小屋を建てて、伎女十二人を配し、楽人が酎酔楽を演奏するのに合わせて、伎女たちに饉飩をつくらせて、小豆の汁をそえて食べた」

とあります。この小豆の汁は糖(水飴)や甘葛(蔦の樹液を煮つめてつくった甘味料)が使われ、甘くしたことが考えられます。このように、平安末期に頼長の食べた饉飩は菓子としての性格が濃いものであったようです。
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  今でも山梨県では、小豆の汁粉の中に「ほうとう」を入れた「小豆ほうとう」をハレの日に食べる習慣があるそうです。また、ほうとうにはきな粉や飴をまぶして食べることから菓子としての性格があるようです。これは、先ほど見たように古代の貴族達が饉飩を菓子として食べていたことと関係するのかも知れないと研究者は考えているようです。

中尾佐助『料理の起源』(昭和47年)の51Pには、
中国華北ではアズキを軟らかに煮た汁の中にウドンを入れて煮込んだものも見た

あります。ここからは、華北では小豆や大角豆の汁の中に饂飩を入れて、煮込んで食べていたことが分かります。日本でも平安末期に頼長は、ほうとんに小豆の汁をそえて食べ、また、山梨県では今も小豆の汁粉にほうとうを入れて食べています。そして、山梨ではうどんのことを「ほうとう」と呼んでいます。ここからは、どうやらうどんのルーツは、ほうとんの可能性が高いと研究者は考えます。
最後に不屯(ぶとう)をみておきましょう。
うどん=不屯(ぶとう)起源説を紹介する記事が『四国新聞』(2009年2月8日付)に、載せられていました。要約して紹介します。
美作大学大学院の奥村彪生氏は、「日本のめん類の歴史と文化」と題する博士論文の中で、饂飩のルーツを次のように説明します。中国料理では饂飩は雲呑(わんたん)のことで、豚肉や葱、胡椒などを小麦粉でくるんで茄でたもので、昆飩と饂飩とは似ても似つかないものである。それに対して唐代に「不純」という切り麺があつて、これが発展したのが「切麺」で宋代に盛んにつくられた。切麺が13世紀前半に、禅宗の僧侶によって日本に伝えられた。饂飩が初めて文書に登場するのは、南北朝時代の1351年の法隆寺の古文書で「ウトム」とある。その後、饂飩に関する記述は、京都の禅寺や公家の記録に頻出するようになる。饂飩は13世紀の終わり頃に、京都の禅寺で発明された。初めて記録に登場するのは奈良だが、その後の記録の多くが京都に集中しているところから、饂飩の発祥の地は京都だ。
 江戸時代の記録によると、饂飩は茄でて水洗いしてから、熱湯につけて、つけ汁につけて食べていた。現在の「湯だめ」である。禅宗の僧侶が伝えた「切麺」は中細で、湯だめにすると伸びてしまうので、伸びない太い切り麺として発明されたのが饂飩である。不純は湯につけて食べるところから「温屯」になりになり、温の三水を食偏に改めて「饂」と作字し、混飩の「飩」を参考にして「饂飩」と書くようになった(「追跡シリーズ」四五七号、うどんのルーツに新説 中世京都の禅寺で誕生?)。
 ここで奥村氏は饂飩の起源は、13世紀前半に禅僧にによってもたらされた切麺にあると主張します。しかし、これには次のような反論もあるようです。
①切麺という名称があるのにわざわざ「不純」を引っ張り出してうどんの語源とする必要があるのか。
②つけ汁につけて食べるようになったのは醤油が広く普及した近世中期以降の食べ方で、中世にはつけ汁の食べ方はない。なぜなら醤油がなかったから。

中世から近世前期まで、饂飩は味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、饂飩も醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。ここからも「うどん=不屯(ぶとう)」説は成立しないと研究者は考えているようです。
 
うどんの歴史文書の初見記録は奈良です。しかし、その後の記録の多くは京都に集中しています。
ここからは、うどんは奈良で発明されて、京都にいち早く伝えられ、京都から全国各地に広がっていったという仮説が考えられます。
平安時代の日本では、中国のように肉食が普及していません。そのため饉飩(ほうとん)も肉汁は使わないで、小麦粉に水を加えてこねて薄く伸ばし、包丁で短冊状に切って熱湯でゆでて、醤や塩で味をつけて惣莱として食べたり、糖や甘葛を用いて甘くした小豆の汁をそえて菓子として食べていたとしておきましょう。
 うどん誕生の背景を、羽床氏は次のようにストーリー化します。
 鎌倉時代に禅宗の僧侶が、点心(食事が朝・晩の二食であった時代に、二食の間に食べた軽い食事)を伝えます。そして、点心の習慣が盛んになった時に、かつては良く食べられいたのに忘れられたようになっていた饉飩(ほうとん)が再び注目を集めるようになり、点心として食べるようになります。饉飩は作業手順が複雑で、簡単につくれるものではありませんでした。それが南北朝時代前半に、奈良のある僧侶が作業工程の効率化を生み出します。それは、水を加えてよく捏ねた小麦粉を薄く伸ばして、乾いた小麦粉を振り掛けて、くっつかないようにしてから折りたたんで包丁で切って、効率よく作れるようにするというものです。これを「ほうとん」と呼んでいました。それがいつしか「ほ」が失われて、「うとん」とか「うとむ」と呼ぶようになります。さらに「と」を濁らせて、「うどん」とか「うどむ」と呼ぶようになります。さらに、うどんは温めて食べるところから「温飩」と書くようになり、食物であるところから三水を食偏に改めて「饂飩」と書くようになったというのです。

 うどんは、小麦粉に水を加えて良く捏ね、様々に成形して加熱した食品です。これは中国の食文化の影響下で成立した食品で、製造過程の中に「包丁で切る」という工程を含むのは唐菓子の饉飩だけです。これが最もうどんのルーツにに近いし、うどんの語源も饉飩(ほうとん)である可能性が高いと羽床氏は考えているようです。
うどんが登場するのは、中世以降のこと 
歴史的な文書にうどんが登場するのを挙げて見ましょう
①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎学林で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」として、「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」と説明
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも「饂飩」
以上から14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは、「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。

讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや

元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、うどん屋の看板をかかげられています。中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。この店以外にも2軒のうどん屋が描かれています。


1 うどん屋の看板 2jpg

讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。後に「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。
 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)など、特別な日の御馳走として、各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れてつけ汁につけて食べ、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。
 それでは、うどんは讃岐へいつ伝えられたのでしょうか。先ほど見たように、「うどん」が日本に登場するのは室町後期の奈良地方です。それが京都で流行し、讃岐に伝えられるのは安土桃山時代と研究者は考えているようです。逆に言うと、空海の時代にはうどんは日本にはなかったのです。うどんについては、讃岐では「空海が唐から持ち帰った」という「空海伝説」が語られています。それを最後にみえおくことにします。
空海の弟子・智泉は讃岐国にうどんをを伝えたか?    
うどんの製法を智泉が讃岐に持ち帰ったというのです。智泉は滝宮天満宮(その別当寺の滝宮竜燈院)出身の僧侶と云われてきました。そのため滝宮を「うどん発祥の地」とする説があるようです。
木原博幸編「古代の讃岐』(昭和63美巧社)256頁には、智泉について次のように記されています。
智泉は延暦八年(789)に讃岐国で生まれた。父は滝宮天満宮の宮司であった菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉であった。九歳の時、空海に伴われて大安寺に入り勤操大徳に師事して延暦23年に剃髪受戒した。天長元年(824)九月には、高雄山寺の最初の定額僧の一人に加えられたが、健康にすぐれず、翌二年二月十四日、37歳の若さで高野山東南院で没した。

「讃岐に生まれた人間。空海 下」(四国新聞『オアシス』第337巻、2005五年、四国新聞社発行)には、
智泉は、滝宮竜燈院(現在の滝宮天満官)に嫁いだ空海の姉の子であり、大師が九歳から奈良に連れてゆき、仏教の勉強をさせた程の器。(中略)
空海は智泉を、将来は教団を任せられる人物のひとりと考えていましたが、健康を害して三十七歳で死去。
  両方とも、智泉を滝宮天満官の宮司家である菅原氏の出身で、その母を空海の姉と記します。しかし、この説には無理があると羽床氏は指摘します。なぜなら智泉が生まれたのは延暦八年(789)で、菅原道真が活躍するのはその百年後のことです。太宰府に左遷された菅原道真がなくなるのは延喜三年(903)です。つまり、智泉の時代には滝宮天満宮はまだありません。存在しない滝宮天満宮の官司家の出身することはできません。また、智泉の母を空海の姉とするのも、根拠がありませんし、年齢的にも無理があるようです。「智泉を滝宮天満宮の宮司家や竜燈院の出身とする説は根拠のない虚説」「智泉は滝宮天満官の官司家や竜燈院の出身ではなかつたし、その母が空海の姉というのも嘘」と厳しく批判します。
 さらに空海が日本にうどんを伝えたという俗説も、饂飩は南北朝時代前半に誕生したもので、空海の時代にはないものであって、空海が伝えたものではないことは、資料で見てきた通りです。智泉の生きた頃にはうどんは、まだ生まれていないのです。空海や智泉の生きた頃には、現在の干し饂飩に似た素索(索餅)や饂飩の原形の饉飩はあったことは資料から裏付けられます。しかし、麦索は饂飩に似ていても饂飩ではなく、空海や智泉を饂飩を伝えた人物とすることはできないのです。「滝宮=饂飩発祥の地」説は、資料に基づいたものではない「虚説」と専門家は批判します。

以上をまとめておくと、うどんはそのルーツを中国に持ち、それがいまのような形になるのは中世以後のことで、付け麺で食べられるようになるのは、醤油が普及する江戸時代後期になってからのようです。

参考文献 羽床正明 饂飩の由緒と智泉 ことひら65号(2000年)
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写経 藤原宮子経典

 前回は経巻写経のプロセスを見てみました。そこには、組織として動く写経プロ集団の存在がありました。記録文書にしっかりと残されて、ひとつひとつの作業が管理されていることが分かりました。国家機能の一端が少し見えてきた気もします。
 さて、今回は、写経所で働いている文字のプロ達の別の姿を見てみようと思います。正倉院には、彼らの給料前借り申請書や、病休願い申請書までのこっているようです。彼らの人間臭い浦の姿を見てみましょう。
写経 給料を支払う
  布施(給料)を支払う
 経巻は出来上がりましたが、案主(監督官)の仕事が終わったわけではありません。例えば経師などへの布施(給料)の支払いが終わっていません。布施の支給額は、それまで記録してきた手実帳(勤務時間記録)にもとづいて算出されます。経師、校生・装黄(表具師)の作業時間を記録した手実帳が、正しいかどうかチェックします。案主は、その数字を各経師ごとに集計します。そして、総労働時間量を算出しています。
 つぎに案主が作るのが「布施申請解(ふせしんせいげ)」です。これは、経師たちに支給する物品を造東大寺司に請求するための文書です。まず案(下書き)を書き、修正を加えてから正文を作成します。布施は、布で支給される場合と銭貨で支給される場合とがありました。布施が布で支給される場合、布を細かく切り分けることを避けるために、できるだけ一端(写経所で布施にあてられる布には、四丈二尺で一端のものと、四丈で一端のものとがあった.)単位になるように操作がなされています。この操作は、なかなか面倒だったようです。知恵の働かせどころだったようです。そのプロセスは次の通りです
①請求書である「布施申請解(ふせしんせいげ)」を造東大寺司に提出
②太政官経由で、発願主である内裏に布施物の支払請求
③内裏から布施物が造東大寺司に送られ、写経所に回送
造東大寺司政所
  こうして内裏からの現物か銭が届けられ、これが布施(給料)として支払われたようです。

  役所から借金する
 平城京では銭の流通が盛んで、経師たちの生活も「貨幣経済の浸透」に巻き込まれていたようです。彼らは、布施だけでは生活が送れなくなると、月借銭(げつしゃくせん)という高利貸に手を出しています。これは、官庁が運営する高利貸しのようなもので、上司に申し込むシステムです。国家が運営しているのです。
 正倉院文書には、百数十通もの月借銭解(借銭帳)が残っています。千年を経た借金帳を公開されるのは、あの世にいる人間にとっては心外な事かも知れませんが、当時の勤務状況や生活を知る上では貴重な史料です。その中の借銭書を見てみましょう。
  ある経師が宝亀三(772)年4月13日に、借金を申し込んだ時の月借銭解です。

写経 月借銭解(継文)

巧清成謹解 申請借銭事
合議五百文  利毎百一月十二文
ここからは、借金を申し込んだのは巧清成であることが分かります。借用希望令額は500文で、これを100文あたり月12文の利息で借りたいと上司に申し込んでいます。月1割の利子ですから今だと「悪徳金融業者」とされそうですが、当時はこれが標準だったようです。質物なしで、給料日に元利をそろえて返済するとし、「證」(証人)を二人立てています。
丈面に朱の合点がつけられ、末尾に朱筆で、次のように記されます
「員(かず)に依りて下し充てよ」

これは、借金申し込みにが審査でパスして、貸し付けられることになったことを示しているようです。最後に未筆で、2ヶ月後の6月23日に元金500文と2ヶ月分の利息130文を返済したことが注記されています。

写経 給料前借り
 この月借銭解で研究者が注目するのは、質物なしで返済を給料日に行っている点です。
これは、別の視点で見ると将来支給される布施を質物の代わりにしたい、と希望していることです。このような返済方法が、普通に行われていたようです。そうなるとこれは給料の前借りということになります。借金前借りは、この時代から行われていたようです。なんだか楽しくなります。
 別の月借銭解の史料には、借金希望金額が一貫文で、家とその土地を質物として一ヶ月間の借用を希望しているものもあります。もし返済できなければ、家と土地を失うことになります。その時には、一家の生活はどうなるのでしょうか。家族離散もあったのかもしれません。
 古代から給料の前借りはあったし、取り立てを廻るトラブルや事件もあったようです。もの悲しい気持ちにもなってきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「古代の日本 文字のある風景」朝日新聞社

  中世の修験者を追いかけていると讃岐水主神社の増吽に行き着き、彼が勧進僧侶として大般若経など写経に関わっていることを知りました。彼は、写経ネットワークの中心にいたことが、勧進を進める上での大きな力となってきたと思うようになりました。しかし、具体的に写経とはどんな風に進められていたのか、なかなかイメージが掴めません。そんな中で図書館で出会ったのが「古代の日本 文字のある風景」です。ここには、奈良時代に国家の政策として進められた写経事業が分かりやすくイラスト入りで説明されています。今回は、それを見ていこうと思います。時代は違いますが、奈良時代の写経事業の様子を見ていこうと思います。

 奈良時代の仏教を押し進めてきた聖武天皇の母は、藤原宮子(みやこ)という女性でした。
写経 藤原宮子系図

彼女は、藤原不比等の長女で、光明天皇の母ちがいの姉にあたり、文武天皇(軽皇子)の夫人として、大宝元(701)年に首(おびと)親王(聖武天皇)を産んでいます。
宮子が亡くなったのは、天平勝宝六(754)年7月19日のことです。正確な年齢はわかりませんが、七十歳前後だったようです。聖武はこの時54歳です。聖武天皇は、この二年前に東大寺の大仏開限会を成功させたあとも、東大寺や国分寺の造営をはじめ、仏教興隆に力を注いでいきます。聖武が没するのは天平勝宝八(756)歳5月2日ですから、母を失った2年後に亡くなります。
写経 藤原宮子像jpg
聖武天皇の母で、不比等の娘である藤原宮子

 藤原宮子が没すると、その直後から、造東大寺司の管轄下にあつた写経所で、梵網経(ぼんもうきょう)100部200巻(一部は上下三巻からなる)など1700巻の大量の写経事業が始められす。これらの書写事業は、宮子追悼のためのものであったようです。


大文化事業である写経行事は、どのようにして行われたのでしょうか?
奈良時代の律令国家には、律令の定めで公的な機関として「写経所」がありました。そこで、国家公務員が大量の経典を写経していました。いわゆる写経のプロ達がいたわけです。正倉院文書には700人を越える写経生の名前があるようです。写経生となるためには試字試験に合格しなければなりません。漢字に早くから親しむ環境が必要だったのでしょうか、その名前から判断すると渡来人やその子孫が大多数のようです。空海の母親の実家である阿刀氏も多くの写経生を輩出しています。写経生になると写経所に出勤して、官給の浄衣をまとい、配給の紙・筆・墨を受け、礼仏師が誦する経を聞き、仏前にたく香を嗅ぎながら筆を執り写経にいそしんだようです。

当時は経巻需要はうなぎ登りでした。全国に展開した国分寺や国分尼寺にも多くの経典が必要です。鎮護国家として仏教の教義的な基礎を支えるために、また、さまざまな仏事に供するためにも、経巻は不可欠です。
 写経所では、写経事業を進める上で事務帳簿を作り、上級官庁の造東大寺司などと文書でやりとりします。その結果、写経所の政所(事務局)には「写経所文書」といわれる文書類が残され、それが正倉院にしまい込まれることになります。正倉院文書の中で、もっとも多くの分量を占めるのが、この写経所文書のようです。この文書の研究が進むにつれて、写経事業がどのように進められていったのか、その実態が明らかになってきました。
 藤原宮子の追善のための写経された経巻の制作過程を見ていくことにしましょう。梵網経は、今では中国で作られた偽経とされますが、この当時には、鳩摩羅什の訳と信じられ、大乗戒の基本的な経典として尊重されていたようです。
写経の準備をする
写経事業は、写経所に対して、GOサインが下りることから始まります。この時には、平勝宝六(754)年7月14日の飯高笠目(ひだかのかさめ)によって指示されています。飯高笠目とは、伊勢同飯高郡から都に出て、長く内裏に勤めていた女性のようです。当時の孝謙天皇に仕える高位の宮廷女官ともいえるのでしょうか。そうだとすると、この写経事業の真の発願主は、孝謙天皇であった可能性が高いようです。孝謙天皇の意を受けて、飯高笠目が写経の指示を与えたとしておきましょう。
写経に至るプロセスを見てみましょう。
①写経所は、写経指示を受けると、筆・墨・紙などの必要物資の見積もりを作成して、上級官庁の造東大寺司に提出
②造東大寺司は、必要経費や必要物資を写経の発願主に請求
③発願主から経費や物資が造東大手司を経由して写経所に送られてくる
④7月25日に、写経用の経紙(色紙336張・穀紙3905張)と凡紙309帳が内裏から運び込まれた。これを櫃(木箱)に入れて運ばれ、写経所の責任者が立ち会って確認した上で、受け取った。
⑤その2日後に、筆と墨が納入された。
巻物は、どのようにして作られたのか
 運び込まれた紙の中で一番多い穀紙(かじかみ)とは、楮(コウゾ)の繊維で作った紙です。写経所に連び込まれた経紙は、1枚ずつバラバラの状態です。これが、案主の上馬養によって、装黄(そうおう) (=表具師)に割り当てられます。これを記録し帳簿も残っています。表具師達は、割り当てられた経紙を「継」「打」「界」の 3工程をへて、経文を書き写せる状態に仕上げ、書写用の巻物にしていきます。
「継」は、20枚の経紙を、大豆糊と刷毛で貼り継いでいく作業
「打」は継いだ紙を巻物にして、それを紙などで包んでたたく作業
「界」は、「継」「打」の工程をへた巻物に、定規を使って罫紙を引く作業
その後、巻物の右端に三分の一の大きさの紙を端継として貼って、それに仮の軸を付ければ、この段階での装満の作業は終わりです
写経1 準備


   写経を指示する
 経師たちに書写を始めさせる前に、大切なものをそろえる必要があります。それは、写すべきテキストです。テキストは「本経」と呼ばれていたようです。案主(写経責任者)は、この写経事業にかかわる経師の数や、それぞれの従事予定期間などを考えあわせて、必要な本経の数を割り出し、それを事前に集めておく必要がありました。案主の犬馬養は、写経所に備えられている梵網経の数を調べ、不足分は、梵網経を所持している寺院などに借りだしを依頼したのでしょう。これに応えて、外嶋(そとしま)院という法車寺の附属施設から本経九巻が届けられた送状が残っています。
 本経が必要部数だけそろうと、案主は、経師たちに筆や塁などとともに、書写用の巻物と本経とをセットで渡しています。これが7月18から8月5日にかけておこなわれたことも記録から分かります。

写経2 指示

この写経事業には、全部で51人の経師が動員されています。案主の上馬養は、「充紙筆墨帳」という帳簿に、何月何日に、どの経師に上下巻それそれ何巻ずつわたしたのか、筆は何本わたしたのかなどを記録しながら、この作業を監督しています。
 上馬養はこれとは別に「充本帳」という帳簿も作っています。こちらには、本経の支給巻数を管理・把握するための帳簿です。このように、案主は、充紙筆墨帳・充本帳という二つの帳簿で、経師たちの作業の内容と進行状況を把握していたことが分かります。

  このシーンは案主が、充本帳と充紙筆是帳に記録しながら、経師たちに書写を指示している場面が描かれています。経師を呼び出して指示を与えます。「長く座って足がしびれる」という表現がみえるので、経師紙は、円座に正座して書写していたようです。

経文を書き写す     

写経所には、経師(きょうし)・装黄(そうおう)・校正与などの写経にかかわる作業に直接従事する人々のほかに、事務を収りしきっていた案主や、雑使・仕丁などの事務作業にかかわる人々もいました。彼らは、家族のもとを離れて、写経所内に建てられていた宿所に長期にわたって寝泊まりしながら、連日、日の出から日没までの長時間、仕事をし続けています。
 このうち「縁の下の力持ち」的な雑使と仕丁についても、研究者は視線を注ぎます。
雑使と仕丁には、衣服や食料などのさまざまな点で経師・装満・校生と待遇に差が付けられていたことが分かります。
 雑使は、案主のもとで、文字通りさまざまな仕事を行いました。案主の手助け、造東大寺司や他の官司などへの連絡、よそから物品を受け取ってくること、市に物品を買い出しに行って運んでくることなどです。
仕丁は、律令の規定では、地方の郷(五〇戸からなる末端の地方行政単位)から 2人ずつ、三年交替で中央に送られて労役に服するものです。中央に集められた仕丁たちは、各官司にわりふられ、そこの仕事に従事しました。写経所では、食事の調理、風呂焚き、物品の運搬、案主の手伝い、その他さまざまな雑務を行っています。装填の仕事である「打」の作業を行うこともあったようです。 経師から雑使までは、ときどき休みを収って家族のもとに帰ることができましたが、地方から出てきている仕丁たちは、「一時帰休」なんてことはできません。ずっと写経所に泊まり込んだままでした。
 経師たちの仕事をみてみましょう。
写経3 書き写し

本経(テキスト)と、書写用の巻物、筆、墨などを案主から受け収った経師たちは、さっそく写経にとりかかります。具体的なことは分かりませんが、下纏(したまき=文字の位置の見当をつけながら、同時に吸取紙の役割も呆たす用具)をあてながら写経したようです。
 作業量については、
①筆の速い経師で 1日に5900字程度、
②おそいものでも2300字ぐらいで、
③平均して一日に2700字ほどを写しています。
奈良朝写経の謹直な字体で、長期間作業を続けていたことを思い浮かべると、かなりたいへんな作業だったと思えます。根気と精神的な緊張感が求められる作業です。いや、作業ではなく仏への奉仕・祈りと考えていたのかも知れません。

経師たちには、食料のほかに、布施(給料)が布(調布=調として徴収された布)、または銭貨が支給されていました。この布施は、時間給ではなく出来高払いでした。そのため多くの布施を受け取ろうとすると、それだけたくさん写経しなければならず、当然労働時間も長くなります。
写経 物資支給状況

 しかし、ただ早く多く書写すればよいとわかではありません。誤字・脱字・脱行に自分で気付いて訂正すればペナルティーはありませんでしたが、それを見逃して後の校正作業で見つかるとペナルティーが科せられたました。給料天引きで布施から差し引かれたようです。

書写が終わると経師達は、本経と共に案主に提出します。この時に残った紙や墨なども記録され返却されています。案主は、受け取ると、これを貼り継いで手実(しゅじつ)帳という記録簿を作っています。そして、その記載に誤りがないかを、提出された経巻や他の帳簿類と突き合わせながらチェックしています。

硯は装飾のあまりない円面硯が用いられたようです。書き誤ったときには、刀子(小刀)で削って訂正しました。そのため机の上には、硯・筆・墨・水滴・刀子などが置かれていたはずです。
 作業の一段落ごとに、書写した経巻と本経は一緒に返却します。この時、経師は自分の仕事量を記した手実(記録)もいつしょに提出しています。案主は、手実を貼り継いで継文とし、その内容を充本帳や充紙筆墨帳などつきあわせてチェックします。細かい点検が行われていることに、驚かされます。

経師による書写が終わると、つぎは校正です。  
写経4 校正

案主に提出された経巻は、すぐに校生による校正作業にまわされます。この写経事業の校正作業は八月四日からはじまり、八月八日に終了しています。チェックしたのは7800になります。これに従事した校生は7人で、初校と再校の2回行われています。案主の上馬養や呉原生人も、校正作業に従事していたようです。
 史料によると、校生たちの 一日あたりの校正紙数は平均して約230張です。一張には、 行17字25行として425字程度が書かれています。そうすると400字詰め原稿用紙約250枚程度になります。今の小説一冊分ほどでしょうか、かなりの作業量です。校正は相当なスピードで行われたことがうかがえます。校正で誤りが見つかるとペナルティーが科されることなっていました。その基準も決められています。
 校正が終わると、校生たちは本経と書写された経巻をまとめて案主に返します。これには、勘出状(校正結果の報告書)が添えられていたようです。案主は、提出された経巻や校帳その他の帳簿類をここでもチェックします。

   経巻に仕立てる                         
写経5 経巻

脱落や誤字の校正作業が終わると、いよいよ経巻に仕上げる最後の工程です。この工程には、ふたたび装黄(表具師)が登場します。記録帳簿よると、仕上げ作業は8月4日から始められています。校正の開始日も同じ日でから、校正がすんだ巻物から流れ作業のようにどんどんまわされてきたことが分かります。作業は8月7日に終了したようです。仕上げの終わった経巻は、案主のもとに返されます。
案主は、経巻を題師にまわして題を書き込ませす。
出来上がった経巻にタイトルを買い込むのは、名誉であると同時に緊張感のある仕事だったでしょう。経師の中で、特にすぐれたものが担当したようです。
 こうして藤原道子追悼の経典写経事業は完了します。
この経過を見て、まず気づくのが組織化された集団がプロとして作業に当たっていることです。写経所という組織が、律令という国家体系に基づいてとして整備されたもので、その国家組織を一部分とりだして見ているような気がしてきます。同時に文書が国家管理手法として大きな役割を果たしていると云うことです。

参考文献
「古代の日本 文字のある風景」朝日新聞社

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