瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 西嶋八兵衛

 香川(かがわ)県 ため池の父・西嶋八兵衛(にしじまはちべえ) | NHK for School
西嶋八兵衛
1631年に満濃池が西嶋八兵衛によって完成したときには、讃岐は生駒氏の単独統治体制でした。
ところが生駒騒動で生駒藩が改易された後は、高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西に分割されることになります。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。今回は、讃岐東西分割に対して、西嶋八兵衛がどんな役割を果たしたのかを見ていくことにします。テキストは、「廃池450余年と西嶋八兵衛の再興 満濃池史76P 満濃池土地改良区50周年記念誌」です。

藤堂高虎の騎馬像(津城跡お城公園内) - No: 4719087|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
藤堂高虎

 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。藤堂高虎の側近で『民政臣僚』のひとりだった彼が、讃岐生駒家にレンタルされることになった背景については、以前に次のようにお話ししました。
①生駒家三代目正俊が36歳で亡くなり、その子小法師(高俊)が11歳で藩主についた。
②高俊の母は藤堂高虎の養女で、祖父が高虎にり、生駒家と藤堂家は深く結ばれていた
③幼年藩主の登場で、幕府から不利益な措置がとられないように、家康の信頼が厚かった藤堂高虎が後見人となり生駒藩を保護しようとした。
④こうして藤堂高虎は若き『民政臣僚』の西嶋八兵衛を讃岐に「客臣」として送り込んだ。
 西嶋八兵衛は、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間に、讃岐に4回派遣され、19年間を過ごしたようです。その期間は次の通りです。
①1回目(1621年)生駒正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者(25歳)
②2回目(1625年)目付役として来讃し、生駒藩奉行に就任。
③3回目(1630年)藤堂高虎没で一時帰国するも、再度派遣。
 3回目の時には、高虎の死を契機に、八兵衛は帰りたがっていたようですが、後を継いだ高次は「生駒家の様子を見ると、当分は西島が目を光らせていたほうがよさそうである」と考えたようです。高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐生駒藩の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。これは、生駒藩の重臣のベスト5に入る高給取りで、家老待遇でした。実際、この時期は生駒藩で中心的な役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

高松城西嶋八兵衛
生駒藩高松城下での西嶋八兵衛邸の位置と広さ(家老級待遇)
 西嶋八兵衛については、讃岐では満濃池築造面ばかりが伝えられていますが、満濃池を造るために讃岐にやって来たのではありません。生駒藩四代の幼君高俊の政務を補佐するため、伊勢藩の藤堂高虎が親戚の生駒藩に送り込んだ客臣です。今で言えば本省から派遣された総務部長兼、農林部長兼、土木部長の要職で、最終的には千石を支給された家老級人物です。彼は自然災害で危機的な状況にあった生駒藩を、藤堂高虎の指示を受けて立て直します。そのひとつが決壊したまま放置され、忘れ去られていた満濃池の再築でした。

西嶋八兵衛による満濃池築造に関する年表を見ておきましょう。
1626 矢原正直が、旧満濃池内に所持の田地を差し出す。(満濃池営築図)
1628 藩主生駒高俊の命により、西嶋人兵衛が満濃池再築に着手。(満濃池営築図)
1631 (寛永8年) 満濃池築造完成(那珂郡満濃池諸色御普請覚帳)
1633 「讃岐国絵図」が作成される。
1635 矢原家、生駒家より50石を与えられ満濃池の池守となる。(矢原家文書)
1640 東西分治に際し那珂郡池御料は幕府の直轄地となる。
1641 分割の執政官として、老中・青山大蔵、勘定奉行・伊丹播磨など来讃、西嶋八兵衛は「案内人」に指名
1641 満濃池配水に関する特別慣行を幕府の執政官に提出、証文揺。幕府が池御料を吟味して水掛石高を定める。
 丸亀藩藩主に肥後天草から山崎氏が決定。
1642 池御料の代官所を苗田村に置き、守屋与三兵衛が初代代官となる。
          高松藩藩主に松平頼重が決定

 寛永十七年(1640) 生駒高俊は、お家騒動を理由に讃岐を追われ、堪忍料一万石で出羽国由利郡矢島に左遷されます。
幕府はそのあとに、讃岐を高松藩と丸亀藩に二分割して統治することにします。翌年に、分割の執政官として讃岐に派遣されたのが、老中・青山大蔵幸成(尼崎藩主)、勘定奉行・伊丹播磨でした。土地にはそれぞれ漁業権や山林の入会権、水利権などが複雑にからんいます。石高だけのソロバン勘定だけで処理すると、あとあと厄介な問題が起きかねず、責任問題にもなりかねません。そのために老中の青山大蔵は、讃岐の事情に詳しい西嶋八兵衛を、伊勢国から高松城に召し出して、「案内役」として事務処理をやらせることになります。これが西嶋八兵衛の4度目の来讃となります。
 西嶋八兵衛が丸亀平野でとりくんだ課題は、次のようなものでした。
①丸亀平野南部の村々の里山の入会権
②満濃池水掛について、
①については、以前にお話したので省略します。②の満濃池の水利慣行については、この時に作成されたA「満濃池水懸申候村高之覚」とB「先規」が以後の管理基準となり運用されます。この記録は寛永18年(1641)10月8日の日付で、満濃池関係の記録としては一番古いものになるようです。Aの「覚」は水掛かりの村々の石高を次のように記します。
満濃池水懸中候村高之覚
仲郡高合 一万九千八百六十九石余         二十一か村   
多度郡高合 一万三千七百八十五石二斗余   十七か村     
鵜足郡高合 三千百六十石                         八か村       
総高   三万五千八百十四石二斗余       四十六か村        一万四千三百六十五石二斗余
右は分木西股へ懸り申候分 一万五千五百十九石余
右は分木東股へ懸り申候分 五千九百三十石余
右は分木より上分、此分は水干にて御座候故、割符の外地水遣され候定に御座候
以上
水利や池の補修については、それまでの慣行を「先規」として次のように記します。
  一、多度郡大麻村と仲郡櫛梨村の両村と毎年替し水の事
大麻村へ懸り申候満濃池の番水を与北櫛梨村へ遣し、与北櫛梨の出水、苗田三田の井の水を池水程分木を据て大麻村へ取替し申候。満濃池水溜まり候へば、苗田三田の井を開き、与北櫛梨へ取り、大麻村へは水遣し申さず候事
  意訳変換しておくと
大麻村に広がっている番水(順番に使用する灌漑用水)を与北・櫛梨村へ送り、与北・櫛梨の出水や苗田・三田の井の水を、池の水程度の分木を据て大麻村へ取り替えること。満濃池の水が止まった際には、苗田・三田の井の分を開いて、与北・櫛梨へ取り送り、大麻村へは水を送らないこと。

一、仲郡上分は水千にて御座候に付、苗代水詰り申候節御断申上候へば先年より苗代水被遣候、仲郡下分は出水三つにて御座候に付、外の郡よりは例年先に水遣わされ候、満濃池二番一番の矢倉は仲郡上之郷に留め申し候事
  意訳変換しておくと
仲郡の上分は水が少ない状況に付き、苗代の水が詰まった際には、断りを言った上で先年以来苗代の水を送っていた。仲郡の下分は出水が三つなので、外の郡よりは例年先に水を送っている。満濃池二番一番の矢倉は、仲郡上之郷に留め置くこと」。

一、満濃池浪たたき損候へば、五毛・春日両村の藪にて篠を切り、浪たたき仕置申候。同立木ねた木切り申す山は七箇村西分東分の両山にて切来りいずれも人足は水掛かリヘ仰付けられ候事
意訳変換しておくと
満濃池の浪たたきが損傷した際には、五毛・春日両村の藪竹を切り取って、浪たたきを作ること。同じく立ち木・ねた本を切り取る山は七箇村の西分・東分の一つの山から切って持って来るが、いずれも人足は水掛かりに申し付けること。

一、右の池矢倉はちのこ損候えば、鵜足郡長尾村にて伐木仰せ付けられ候、先代より仕置来申候、人足の義は右同断に御座候
意訳変換しておくと
右の池矢倉のはちのこが損傷した際には、鵜足郡長尾村に伐木を中し付けることは、先代からの仕来りであり、人側については右と同様である。

一、右の池より西の方の村、先代より浪差切に御座候、上は岡と申す山の尾切に御座候、池より東方の村は嶺の道切、上は五毛の川切に仰付けられ候事

意訳変換しておくと
右の池よりも西方の村は、先代から浪差切であり、上は岡という山の尾切である。池よりも東方の村は嶺の道切で、上は五毛の川切に仰せ付けられる。

  右の通少しも相違御座なく候、若し以来此内より新規成義申出候者これあるに於ては、金昆羅の神前にて火罪を取り誤り候へば急度曲事可被仰付候、其時少しも申分御座有る間敷候、井びに堤修復樋揺木損候はば、御知行所御地頭様より、高積りを以て入用被仰付可被下候、後日の為此書上申候 如件
意訳変換しておくと
右の通り少しも相違はありません。もしこの後この内から新たに申し出る者がある場合には、金昆羅様の神前において火罪をとり(烈火の中に手を入れさせて正邪を裁く神明裁判を行い)、誤りがあれば急度曲事(速やかなる処罰)を申し付けるが、その際には少しも申し分(言い分)はあってはならない。井びに堤の修復の樋の本が損傷した際には、知行所の地頭から、石高の状況を計って必要経費を仰せ付けること。後日のために、右に記した通りである。

寛永十八年巳十月八日
      仲郡原田村         大庄屋  又作 印
同郡苗田村         大庄屋  与三兵衛 印
多度郡弘田村       大庄屋  与惣右衛門 印
同郡山階村         大庄屋  善左衛門 印
字多郡岡田村       大庄屋  久次郎 印
同郡小川村         大庄屋  加兵衛 印
御奉行様
以上の「先規」を受けて、幕府執政官は次のように記します。(意訳)
 右の通り村々の灌漑用水の配分については、新たな状況にを穿愁(ほじくり返す)すことが終わり、各村々の同意文書へ印鑑を押したものを満濃池の池守に預けておく。もしも用水配分などで新たな申分(言い分)が出てきた場合には、大庄屋に預けてある書付(証拠書類)の内容に従い、ひいきすることなく判断すること。もし双方で争うようなときには、地頭に検使を申し出て、書付にあるように火罪(烈火の中に手を入れさせて正邪を裁く神明裁判)に処すこと。
 以前からの掟によって池守に支給した給ってきた石高は二十五石であるが、これをそのまま出し与える。しかし、(池の管理について油断や落ち度があれば曲事(処罰)を与えることとする。
  寛永十八年巳十月九日 
     能勢四郎右衛門
                伊 丹 播 磨
                青 山 大 蔵
  右の一札を池守に渡しておく             (「満濃池水懸申候村高之覚」「先規」鎌田共済会郷土博物館所蔵)
満濃池築造やその用水路建設、水掛かりなどを通じて、西嶋八兵衛と丸亀平野の庄屋たちは旧知の間柄で、互いに信頼感もあったのでしょう。「(東西分割という)新たな状況(への対応のため)に(先例慣例)を穿愁(ほじくり返す)」したことが記されています。これは満濃池や灌漑用水路を整備した西嶋八兵衛ならこそスムーズにできたことです。彼は満濃池の水掛かりである鵜足、那珂、多度の三郡四十六か村(35804石)の大庄屋たちに命じて、満濃池掛かりの郡村別石高を記入した「満濃池水懸申候村高之覚」を提出させます。
 そして分割したあと丸亀藩と高松藩との水利紛争を避けるため、末尾に満濃池の用水配分の慣行や、池修繕のときの木材や竹を切り出す山林まで細かく明記します。上申書の末尾には老中青山ほか二名の幕府執政官が署名捺印し、「右の一札を池守に渡しておく」とあるので、一部が満濃池守に預け置かれたことが分かります。対応ぶりに卒がありません。老中青山は、西嶋八兵衛の仕事ぶりを見て、褒賞として太刀一振を与えています。ここで押さえておきたいのは、池守が矢原氏だったとはここでも記されていないことです。

こうして1641年秋、山崎氏が丸亀藩(5,3万石)、翌年松平氏が高松藩(十二万石)に封ぜられます。満濃池の維持管理や配水運営については、両藩の境に残された天領を管轄する倉敷代官所が主導権を握り、水利の一体性がうまく保持されることになります。これらの案を作ったのは、西嶋八兵衛だと私は考えています。
西嶋八兵衛は1631年に、満濃池を完成させるのと同時に、丸亀平野の治水工事を行い、灌漑用水路の整備を行いました。これによって丸亀平野一円への灌漑用水の供給が可能となったのです。それを運用したのは、満濃池掛かりの各村々の庄屋たちです。
 それが大きく変化するのが生駒騒動でした。
生駒藩転封によって「讃岐=生駒一国体制」から「讃岐=東西分治」となます。それは丸亀平野に高松藩と丸亀編の境界線が引かれることを意味しました。これは満濃池の水掛かりも分断することになります。この課題解決のために、再登場するのが満濃池の産みの親である西嶋八兵衛でした。これが八兵衛の4度目の来讃でした。こうして見てくると、現在の満濃池や用水路の原型は西嶋八兵衛が作り出した物であることがよく分かります。空海の満濃池築造がおぼろげで、よく分からないことが多く、現在の満濃池に直接は関係しないことが多いのとは対照的です。「空海が築いたと言われる満濃池」とぼかされるのに対して、「西嶋八兵衛が築いた満濃池」は確かです。満濃池の湖畔の神野寺には、弘法大師1150周年を記念して大きな弘法大師像が建てられています。しかし、西嶋八兵衛の像はありません。西嶋八兵衛によって築造されてから400年後の2032年に、西嶋八兵衛の像が建立されるという話は聞いたことがありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「廃池450余年と西嶋八兵衛の再興 満濃池史76P 満濃池土地改良区50周年記念誌」
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香東川の流域図
西嶋八兵衛による香東川一本化説の説明図

香東川については、次のようなことが通説とされてきました。
①西嶋八兵衛による高松城下の治水のために付け替え工事が行われたこと
②栗林公園は、香東川の旧河道上に築かれた公園であること
③付け替え工事地点に、西嶋八兵衛は「大禹謨」碑を建てて工事の安全成就を願った

しかし、このような説に対して近世の讃岐国図などの絵図史料に基づいて批判反論が出されています。それは、絵図資料では江戸時代を通じて、香東川は分流して描かれており、河川の付け替えや一本化工事が行われたことがうかがえないというものです。今回は、西嶋八兵衛による香東川の改修工事が本当に行われたかどうかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明   近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」です。

まず、西嶋八兵衛が改修工事を行ったという史料を見ておきましょう。実は正式な文書に、西嶋八兵衛が香東川改修工事を行ったという記録はないようです。
史料とされるのは、近世前期に地元の庄屋の書いた『大野録』で、次のように記されています。
香渡(東)川は寛永の頃まで、大野の郷の西より二股にわかれて、 一筋は一の宮・坂田の郷をへて室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、いとが浜の西に入りけり。又一筋は弦打山の西にそふて今のごとし。営村の中洲といへるは、則ち両河の間也。寛永中、自然の河瀬深くなりて、東は浅くなりければ、国主生駒公より堤を築きて、東の河筋を畑にひらかせたまひ、古河新開と号す。

意訳変換しておくと
香渡(東)川は寛永の頃までは、大野郷の西で二股に分かれて、東の流れは一の宮・坂田の郷を経て室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、いとが浜(浜の町)西で海に流れ出していた。西側の流れは、弦打山の西に沿って、今の流れと同じであった。大野の中洲と呼んでいるところは、この両河の間に挟まれた地帯のことを指す。寛永年間中に、自然に西側の河瀬が深くなって、東側は浅くなってしまった。そこで、国主生駒公はここに堤を築いて、東の河筋閉じて、その河道跡に畑にひらかせた。そこで、古河新開と号す。

 ここには「国主生駒公はここに堤を築いて、東の河筋閉じて、その河道跡に畑にひらかせた」とあります。それが西嶋八兵衛によるものとは、どこにも書かれていないことを押さえておきます。
また記された内容について検討しておくと、香東川の東の流れ(現在の御坊川)が、一宮・坂田を経て室山の東をめぐっているというのは正しいようです。しかし、石清尾山の下を流れ、糸が浜(現在の高松市浜ノ町)の西で海に流れ込んでいたというのは誤りだと研究者は指摘します。香東川の東の一筋は、御坊川で新川と同じような所に流れ込んでいました。ここからは記述に正確性に欠け、二股の香東川の東の一筋を塞ぎ止めて二つに分けたというのも、間違っている可能性があると研究者は推測します。
 また  『大野録』は、次のように記しています。
村翁伝へ申されしは、大むかしの大河は、井原庄竜満山の麓に沿ひ、夫より大野、浅野の境を経、ももなみの郷に流れて、北方海に入りけり。是に依って、今その筋低うして石尚多し。又浅野分の河跡を今尚河原と号す。大野分の河跡を東原といへるは、いまだ畑にひらかぎる先、荒野なればなるべし。又揖取といえる地の名はそのかみの渡し場にて、舟引き居りし処ならん。(中略)
寛永以来、河跡の荒野を田に開きし時、石をば所々に集めてものらしければ、此の筋今石塚多し.彼の墓土はその石塚をおし平げて則ち葬地になせしぞ。愚案ずるに、右大河ありしは貞観中より昔ならん。
  意訳変換しておくと
 村翁が伝へるところによると、大むかしの香東川は、井原庄竜満山の麓に沿って、大野、浅野の境を経て、ももなみの郷に流れて、北方の海に流れ込んでいた。このため今もそのエリアは、低地で石が多い。また浅野の河跡は、今も河原と呼ばれている。大野の河跡を東原と呼ぶのは、いまだ畑に開くことができず、荒野のままであるからであろう。また楫取という地名は、その上流に渡し場があって、舟引きがいたからではないだろうか。(中略)
寛永以来、河跡の荒野を水田に開いた時に、土の中から出てきた石を所々に集めた石塚がこの筋には多い。またこの地域の墓地は、その石塚を押し広げて葬地にしたものだろう。愚案ずるに、このような大河があったのは、貞観中より昔のことであろう。

『大野録』は、河原・東原・梶取りなど、かつての「大河」があったと示す地名があり、河原石で築造した石塚(積石塚)が見られることを挙げて、大昔の香東川は、現在よりも東を流れていたと推測します。しかし、これも間違っていると研究者は指摘します。また、推測に基づく記事内容が多いのも気になるところです。
『大野録』の記述内容については、近代になるまで余り触れられることもなく、史料として取り上げられることもなかったようです。西嶋八兵衛についても、生駒藩が取り潰され髙松松平藩になると、忘れ去られた存在で、近代の香川県でも、知る人はほとんどいないような状態だったようです。
そのような中で大正元(1912年に『大禹謨』碑が発見されてから風向きが変わります。
この年の大洪水によって、県道岡本香川線の川部橋の北方約400m地点で香東川の堤防が決潰し、その冬に行われた修理中に人夫が数尺下に埋もれていた『大禹謨』碑を掘り出します。発見当初は、誰かの墓でないかとされ、香東川の川東の英師如来のかたわらに置かれました。それに注目したのが、四番丁小学校の校長で郷土史家でもあった平田三郎氏です。平田氏は昭和20(1945)年の高松大空襲のあとで、大野に疎開していて、この『大禹謨』碑に注目します。そして、大野禄と西嶋八兵衛の治水工事と、この碑を相互に関連するものという説を出します。
香東川 分岐説1
『大禹謨』碑付近が分岐点だったとする説
 これを受けて藤田勝重氏は、碑が発見された地点からあまり遠くない上手の川部橋の南方約500m地点に分流点があったこと、碑は西島八兵衛が香東川の東の一筋をふさいで高松城下を洪水から守る治水事業の完成記念として設置されたものだとしました。
 さらに中原耕夫氏は、香東川の川幅は川東の「柳生」から大野にかけて急激に広くなり、御坊川の水源を「柳生」の大久保出水あたりに求めることができ、古老たちが「柳生」が分流点だと言い伝えていることから、川部橋の南方約2,6㎞の「柳生」が分流点であるとしました。
 こうして、香東川が一本化される前の分岐点論争が始まります。
それと同時に、香東川が一本化されたこと、それを行ったのは西嶋八兵衛であること、その成就記念碑が『大禹謨』碑であることが既成事実化されていきます。
 藤田勝重氏は、『大禹謨』碑の文字を三重県の郷土史家の家村治円郎氏に筆跡鑑定を依頼します。その結果は、「八兵衛の真筆」というものでした。それを受けて、昭和37(1962)年に栗林公園事務所長の藤田勝重氏は、栗林公園が西嶋八兵衛の香東川一本化改修工事の結果、東の河道跡につくられたして『大禹謨』碑を、栗林公国内の商工奨励館の中庭に設置し、元の地にはレプリカを作って設置しました。
栗林公園(大禹謨碑)|フォトダウンロード|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット
栗林公園内に移された『大禹謨』碑

その後、藤田氏は『治水利水の先覚者の西嶋八兵衛と栗林公園』を発行しています。こうして「香東川一本化=西嶋八兵衛の改修工事=『大禹謨』碑はモニュメント」という説は、より強固な説になっていきました。

昭和46(1971)年に出された『香川県の歴史』には、次のように記されています。
 長い戦乱で田地は荒廃し、そのうえ雨が少なく、長大な河川に恵まれない讃岐では、農業生産の増大をはかるためには、溜め池を築造して新田を開発することがきわめて重要な事業であった。この目的をもって寛永五年(1628)、生駒第四代藩主高俊は、伊勢より西島八兵衛を招いた。
八兵衛は土木普請のオ能にすぐれ、そのうえ政治・経済にも通じていたので、早速、領内をくまなく見分し、あらたに溜め池をきずき、修築や増築などにも力をそそいだ。450年もの長い間、荒廃したままであった満濃池を復旧し、三谷池(高松市三谷町)・神内池(高松市山田町)・立満池(香川郡香川町)。小田池(高松市川部町)など、今日、香川県下にある著名な池90余を築造あるいは増築して、讃岐のこうむりやすいひでりに備えたことは大きな功績である。そのほか香東川のつけ替えもおこなったのであった。
 ここには、藤堂高虎が目付として派遣した西島八兵衛が、生駒家に仕えて満濃池を初めとするため池を数多く築造し、香東川などのつけ工事も行ったとされています。
 これに対して「見直し」の動きが近年になって出てきています。
平成五年発行の『香川町誌』は、香東川の改修工事ついて、次のように記します。
「付替え説には、証拠となる確たる記録はない。」
「この説は『大禹謨』碑石の発見と、西嶋八兵衛の讃岐国におけるため池築造を中心とする治水・利水の事績をもとに、組み立てられた説である。
  もしかして、香東川は二つの流れではあっても、東の流れは香東川の氾濫原であって、西島八兵衛による香東川の治水工事は川の付替えではなく、氾濫を防ぐための、東岸堤防の構築を中心とした治水工事であった可能性が考えられる。
ここでは、「香東川の一本化付替説」が『大㝢護』碑石発見と西嶋八兵衛の治水・利水の事績をもとに「こうあって欲しい」という願いをもとに組み立てられた机上の空論であると指摘します。

東京教育大学地理学教室は、報告書の中で次のように記します。   
旧流路は自然堤防となって残り、自然堤防は香川町大野より下流の現香東川の流路に沿うものと、この流路に針交して南北に細長くのびる数列の徴高地で、これは御坊川の流路にあたっており、御坊川は香東川の中流で分流した東の筋である。新岩崎橋南方付近で香東川は近世にも現在も二つに分流して流れていて、『大野録』の記述を信用して、分流点論争をすることは無意味と思える。

ここには香東川は昔も今も分流しており、分流点を論争するのは無意味とまで言い切っています。

これに加えて、絵図資料の分析からも香東川の一本化はなかったという説が出されています。それを見ておきましょう。
江戸時代に幕府の命に応じて作られた、讃岐の国絵図には、以下のようなものがあります。
①丸亀市立資料館本 (1633年作成)
②金刀比羅宮本 (1640年作成)
③高松市歴史資料館本 (17世紀後半  元禄年間作成)
④内閣文庫本   (1838年作成 天保国絵図)

これらの国絵図は、幕府が、各藩に作成・提出を求めた国絵で、信頼性が高いとされます。まず④の天保国絵図を見てみます。前回も見たように、グーグルで「讃岐国絵図」で検索し、国立文書館デジタルライブラリーを開いて、天保国絵図を見てみます。

香東川 天保国絵図1 

天保国絵図 国立文書館デジタルライブラリー版

上の地図からは19世紀になっても、香東川は東西に分岐して流れていたことが分かります。そして、高松城を挟むようにして、海に流れ出しています。そして東の流路は、栗林公園を通過していないことを押さえておきます。次に香東川の分岐点周辺を拡大してみます。
香東川 天保国絵図2 分岐点周辺 
        天保国絵図 香東川分岐点拡大図

分岐点は、②の寺井村と③河(川)辺村の間です。小田池からの用水路の合流地点でもあるようです。ちなみに図中の、赤線は街道で、それを挟む形で描かれている2つの黒丸は一里塚の表示だそうです。

それでは、西嶋八兵衛が一本化工事を行ったといわれる後に、松平藩時代になって幕府に提出された「正保国絵図」に、香東川がどのように記されているのかを見てみましょう。

下図は、17世紀前半の「正保国絵図」の香東川の分岐周辺の写図です。
香東川 正保国絵図1 
この絵図でも東の寺井村と西の川部郷の間の②で香東川が東西に分岐しています。分流した川にはそれぞれ次のような注記があります。
①東側の流れについて、
「一ノ宮川 広八間 深六寸 洪水時一町三十間 渡リナシ」、
②西側の流れについて
「圓(円)座川」「川幅六間 深五寸 洪水ノ時広廿間 渡なし」
東側の河道には「香東川」との注記もあります。分かれた川は、それぞれの流域から一宮川と円座側と呼ばれていたようです。成合は、その二つの川に挟まれたエリアであったことが分かります。ここからは、西嶋八兵衛が灌漑工事を各地で行っていた後も、香東川の流れに変化はなかったことが分かります。ちなみに、一の宮村にある「明神」が、現在の田村神社のようです。
  現在の郷東川と御坊川の分岐点を、下の地図で確認しておきましょう。
香東川 現在の分岐点

現在の香東川は新岩崎橋付近で二股に分かれて、東の流れを御坊川と呼び、西の流れを香東川と呼んでいます。ここからは、近世から現在まで香東川は、中流で二股に分かれて流れていとことが分かります。幕府提出用に作成されたという各時代の讃岐国絵図には、香東川の二つの流れを一本化したという工事の痕跡をみつけることはできないようです。
以上から研究者は次のように指摘します。
①  西島八兵衛は香川町大野で二つに分かれて流れている香東川の東の一筋を塞ぎ止め一本化するという付け替えを行わなかった。
②西嶋八兵衛は「大禹謨」碑を建てることもしなかった。
『大禹謨』碑は香東川に堤防を築いた人物が、工事の完成を祝って建立したもので、発見場所から遠くない堤防の上に建てられていたのであった。西嶋八兵衛の利水・治水事業は高松城の安泰をはかるため、東の一筋を寒ぎ止めて西の一筋だけにするという改修工事事を行ったという誤った説を生み出し、更にこの改修工事に伴ってできた東の一筋の廃川敷に栗林公園がつくられたという誤った説を生み出した。
香東川 天保国絵図2河口付近 
天保の讃岐国絵図 現栗林公園付近を流れる川は書かれていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

 

     
西嶋八兵衛60x1053
 
最初に 村治圓次郎の『西嶋八兵衛翁』で彼の略歴を見ておきましょう。
慶長元年(1596)遠州(静岡県)浜松で生まれた(八兵衛自身の由緒書などの史料には記載なし)幼名は之尤(ゆきまさ)で、八兵衛は通称です。木端の名を持ち、晩年は拙翁とも号する文人でもありました。
八兵衛の父は、西嶋九郎左衛門之光で、藤堂高虎に仕えていましたが、年老いたため浜松で隠居生活に入ったようです。
慶長17年(1612)、八兵衛が満16歳の時に、父は息子を高虎へ出仕させようと駿府(静岡市)に行き、家老藤堂古采女(采女元則)の斡旋で、父の跡を継ぐ形で高虎に仕え始めます。父子共に高虎の家臣となります。当時、家康は駿府を隠退の地として、江戸城から移っていました。藤堂高虎もそれに付き添うように、駿府に屋敷を設けていたようです。
生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎

八兵衛は、最初は高虎の右筆(近習役・記録役)として仕えたようです。
 関ヶ原の戦いや大坂の陣で高虎の傍らにあって、戦闘の記録を担当しています。達筆な筆跡の文書が伝わっています。同時に、高虎の身近に仕えて、次第にその信頼を得るようになっていったようです。
 主人の藤堂高虎は、秀吉の弟秀長に仕えていた頃から和歌山城・今治城を築き、次第に「築城の名人」と云われるようになり、家康の下では江戸城・丹波亀山城(京都府亀岡)・安濃津城(三重県津市)・伊賀上野城など数多くの城を築城しています。八兵衛もまた経験豊富な高虎の側に仕え、土木現場の実情や技術者集団に接する中で、築城や土木工事に関わる諸知識を身につけていったようです。
 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。
高虎は、この時に八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。
生駒親正

生駒親正
  生駒家と藤堂家には、強い絆が結ばれていました。
藤堂高虎は仕えていた秀長(秀吉の弟)が亡くなり、その甥で養子の豊臣秀保も文禄4年(1595年)早世すると、高野山で出家して隠遁生活を送っていました。その将才を惜しんで「復職」の説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名に「再就職」することができたのです。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。
  これ以外にも生駒家と藤堂家は秀吉の子飼い大名という出身ながら、関ヶ原の戦い前後の大政治変動を巧みに泳ぎ抜けた経歴などに似通ったところがあります。そして、両藩共に外様ながら家康からも一目置かれる雄藩だったのです。特に藤堂高虎は、秀吉の弟の秀長の家老に任ぜられていましたが、処世にはなかなかの練達者で、秀吉の死後はぴったりと家康に密着し、外様大名の中では最も家康の気に入られる存在になっていきます。この変わり身のうまさを「風見鶏」とも揶揄されたりもするようです。

生駒騒動 関係図1
 生駒・藤堂家の関係は、その後もいろいろな形で婚姻関係が結ばれるようになります。三代目正敏には高虎の養女が嫁いできます。正俊は、藤堂高虎の娘を夫人としていたのです。生駒藩四代目として生まれてきた高俊は、藤堂高虎から見れば「孫」に当たります。両家は親戚で、強いパートナーシップをもつようになります。
そのような中で生駒藩に危機が訪れます。
三代目正俊が元和7年に36歳で亡くなるのです。正俊には、たった一人の男の子・小法師(高俊)がいましたがやっと11歳でした。当時の幕府は家光の「外様取りつぶし策」の全盛時代でした。幼年の藩主の場合には、責任ある統治が出来ないとの理由で大幅に領土を削られた例もありました。
 そこまで至らなくても幼年藩主の場合は、監督のために幕府から毎年国目付をつかわすことになっていました。その際には、歓迎儀式やなどで格式張った気づかいが求められます。どちらにしても生駒藩としては避けたいところです。
 何らかの不利益な措置が幕府によってとられるのではないかという危惧が、生駒藩内に漂いました。そんな中で藤堂高虎は生駒藩のために一肌脱ぎます。自らが生駒藩の幼い藩主(孫)の「後見人」となって、支えることを幕府に申し出ます。家康の信頼の厚かった藤堂高虎の申し出に幕臣達も動けなかったようです。こうして藤堂藩の家臣達が「客臣」(レンタル家臣)として送り込まれることになります。
西嶋八兵衛4
西嶋八兵衛
高虎が家中から選んで、諸事の目付として讃岐につかわしたのが西嶋八兵衛です。
 西嶋八兵衛は讃岐に4回派遣され、19年間を過ごしたようです。
 一番最初に西嶋八兵衛が讃岐にやって来たのは、正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者とでした。そこで、高虎の下で鍛えられた事務処理能力を遺憾なく発揮して、煩雑な事務を処理し、きちんと高虎に報告します。
 その後、後見人である藤堂高虎の目付的な客臣が高松藩に派遣されることになります。その際に、高松藩側からは、この時の手腕や人柄を高く評価して、西嶋八兵衛の再度の来讃を求めたといいます。高虎も西嶋八兵衛は、子飼いの側近で信頼も厚い人物だったので異論はありません。こうして西嶋八兵衛の二回目の来讃が実現します。
 八兵衛の普請奉行としての二回目の来讃は、寛永二年(1625)のことです。
彼が30歳の時のことで、サラリーは500石で、三年間滞在となります。彼の屋敷は、城内には確保することが難しかったようで、当時の城下町最南端であった寺町のさらに南側に構えられました。今の四番丁小学校の西北角に当たります。幕末の「高松城下町屋敷割図」に、大本寺は「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」との注釈がつけられています。
生駒藩 西嶋八兵衛の元屋敷大本寺
大本寺には「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」と記されている
彼は日蓮宗の高僧、日省上人に帰依していたようで、屋敷跡に大本寺は建立されたと寺伝には記されています。四番丁小学校は、そのお寺の境内に明治に建てられます。
生駒 大本寺

ちなみに「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、西嶋八兵衛の屋敷が記されています。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
その位置は、中堀に面する一番西側で重臣層と肩を並べるロケーションです。この屋敷割図が作られた時点では西嶋八兵衛がVIP待遇であったことが分かります。少し回り道をします
「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのかが分かりませんでした。そんな中で、この西嶋八兵衛の屋敷から作られた年代が明らかにされました。その過程を見ておきましょう。西嶋八兵衛は寛永2(1625)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあったこと、その後に大本寺は建立されたことが,大本寺の寺伝にあることは前述しました。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では、寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作されたと研究者は考えています。
 八兵衛がやってきた寛永二年(1625)は、大変な年でした。
「寛永三年閏四月七日大雨あり爾後 雨なきこと九十五日、秋七月十五日に至る田毛皆枯死し民人飢餓に迫りて餓死する者多し」

ここには
「寛永3年(1626)4月、大風雨となり、その後、7月に至るまで雨がなく干ばつとなった。稲は枯死し、人々は飢餓に瀕した。」
とあります。年代順に並べると
寛永2年(1625) 秋に大地震 西嶋八兵衛が来讃
寛永3年 大暴風雨、次いで大干ばつ、三か月という長期日照りで作物全滅、餓死者発生
寛永4年 大地震、暴風雨による風水害、収穫皆無
寛永5年 満濃池再築に着手
と、自然の猛威が連続して襲いかかってきたことが分かります。。稲が実らず、五穀も残らず、百姓らの困苦は一方でなく、他国に逃散する者も出てくる始末です。藩の存亡の危機でもありました。首席家老の生駒将監は、必死に対応に努めたようです。
  このことは藤堂藩から来ている目付の西島八兵衛は、当然に高虎に報告します。それを受けて、高虎は家老の将監や生駒家の重臣らに、次のように指示します。
「今日第一の急務は、灌漑の便をよくし、百姓共を落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、当地にいる頃郡奉行をつとめ、それらのことに巧者の者である故、家老らよく西島と心を合わせて事を運ぶよう」
 生駒家の重臣らは西島に、この指示書を見せて頼みこんだのではないでしょうか。高虎からの指示でもあり、生駒家の重臣らの頼みもあります。また、目の前の百姓らの困窮を視ているし、やれるという自信もあったのでしょう。西島は、
 「かしこまった。やってみましょう」
 と答えたのでしょう。そして、讃岐国内を巡って現地を見た上で、各地のため池と用水路の築造計画を立てます。
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
なぜ短期間に、集中してこれだけの工事が行われたのでしょうか?
それは生駒藩が「自然災害による藩存亡の危機」という状況にあったからだと私は思っています。何もしないで座していたのでは、未来に希望を持てない百姓達は讃岐から「逃散」しています。その流れを食い止めるためにも、後見人の藤堂高虎が西嶋八兵衛にやらせろと命じてきたのです。
 危機の中で、未來に希望の持てる大土木工事を行うというのは、有能な政治家がとる方策です。その危機管理責任者に藤堂藩からレンタル派遣されていた西嶋八兵衛が就いたのです。そして、彼を危機感で団結した家臣団や百姓が担いだのだと私は思います。
 こうして、三谷三郎池(現高松市内)の嵩上げも行われ、続いて寛永5年には源平合戦の中で決壊放置されていた満濃池の修築にかかります。満濃池は400年以上、姿を消し、池の中は再開発され「池内村」が形成されていたのです。この再築については、以前触れましたので、ここでは省略します。
西嶋八兵衛 香東川
 八兵衛は多くのため池を作る一方、讃岐特有の天井川の改修にも尽くしています。
洪水を防ぐために香東川の堤防を付け替えたり、高松の春日新田の開発など、あらゆる方法で開田を進めます。香東川の付け替え、堤防づくりでは堤防に「大萬謨」の石碑を建てた伝えられます。大正時代の水害で河川敷きからこの石碑が出てきました。鑑定などの結果から八兵衛の直筆とされています。 
 満濃池築造のはじまった寛永4年に高俊は15歳になります。
生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
藤堂高虎の子の高次が烏帽子親となって元服させ、一字を与ええて高俊と名乗らせます。そして、高虎は生駒家に対する幕府の覚えをよくするために、高俊と老中首席の土井利勝の女との婚約をとりもちます。後見人としての高虎の生駒家にたいする心づかいは、細やかです。
  若き藩主と幕府老中の娘との結婚が執り行われた年には各地で進めたため池が完成します。水源確保や暴れ川のルート変更などによって新田開発は一挙に進みます。この新田開発を推進したのが、生駒家に再雇用された讃岐侍たちであったことは前回お話ししました。開発した土地が知行地として認められたために、土着勢力は争って新田開発を行います。それが出来ない他国侍からの不満が生駒騒動の要因になっていくのです。
どちらにしても、この時点では生駒藩では太閤検地後の知行制から俸給制への切り替えがきちんと行われていなかったようです。武士達にはサラリーでなく知行地が与えられていることを示す史料が残っています。
生駒藩 西嶋八兵衛知行地
例えば上のグラフは、丸亀平野の苗田村(現琴平町)に知行地を持つ家臣団を示したものですが、西嶋八兵衛もこの村に知行地があったことが分かります。ちなみに西嶋八兵衛が讃岐を去る直前の知行高は1000石にまで加増されています。
生駒藩知行地2

西嶋八兵衛の進める灌漑・治水工事について、批判的な藩士もいたようです。
 「百姓は飢え疲れている七、無用な工事をおこして、民を虐げる」
 「農事の水利のことのみを目的としている故、国の要害はまるで失われてしまう」

1630年に藤堂高虎が江戸で亡くなります。
その前に西嶋八兵衛は、江戸に出向いて讃岐の状況を報告する一方、帰国願いを再度願いでたようです。高虎の後を継いだ高次は、このあたりのことを承知していたようです。しかし、生駒藩で重要ポストを占めるようになった西嶋八兵衛は、後見人である目付としては最適で、これに代わる人物はいません。
「八兵衛は帰りたがっているが、生駒家の様子を見ると、当分は西島がいて目を光らせていたほうがよさそうである」
と高次は考えたのではないでしょうか。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊賀に帰ることが聞き届けられるのは、生駒騒動の勃発直前のことでした。「沈みゆく生駒丸」からの脱出だったのかもしれません
  高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐国の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。
これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。こうして、西島は五百石の加増を受けて、藤堂家からの目付として讃岐駐在をつづけることになります。覚悟を決めた西嶋八兵衛は、いよいよ満濃池再築に向けて動き出すのです。
 西嶋八兵衛のから目から見た当時の生駒藩の政策課題は何だったのか?
それはやはり「知行制からサラリー制へ」の移行、讃岐侍や有力農民による自由な開発に規制をかけること。つまりは家臣団と土地を切り離させること、藤堂藩の事例からそれが藩主権力の強化につながることを熟知していたはずです。そういう目で、生駒藩を見た場合に「危うい藩」と見えたはずです。ため池や治水は完成し、新田開発は行われて石高は増えていますが、それが領主の懐には入ってこないシステムが温存されているのです。これは時代に逆行した制度だったのです。それが保守派の動きで進まない生駒藩は「危うい」と思っていたはずです。
讃岐を去って伊賀に帰った後の西嶋八兵衛は?

西嶋八兵衛 伊賀市
 生駒騒動が始まる前に伊賀に帰ってきた八兵衛は、正保2年頃までの5年間ほどを妻子とともに津の妻の実家である藤堂仁右衛門高経(義兄)の下屋敷で過ごしていたとされています。
 この間に、生駒藩は取りつぶしとなり、松平藩への引渡し作業が行われます。その際に、高松城や讃岐のことを熟知する人物として彼に白羽の矢が当たり、上使案内役として讃岐入りします。これが4度目の来讃となります。この時に高松城や城下町、あるいは自分の屋敷跡をどのような思いで見つめたのでしょうか。心血を注いで立て直した生駒藩がなくなったことへの思いは、いかばかりであったことでしょうか。中国の文人達ならその思いを漢詩に託して詠んだことでしょう。しかし、西嶋八兵衛が四度目の来讃で残した俳句は伝わっていません。
正保2年(1645)、八兵衛は、藩主藤堂高次のもと1000石の江戸家老加判役となります
この頃、藤堂藩支配地の伊賀や伊勢でも大干ばつに襲われ、被害も甚大になって農村の疲弊が著しくなります。高虎の跡を継いだ2代目藩主高次は、農村部の復興を目指し、正保3年(1646)に江戸より帰国します。八兵衛も共に帰国し、伊賀でための新設29池、修理14池を行ったと伝えられます。さらに、翌年からは新田開発を始めます。
 その業績を受けて、慶安元年(1648)、52歳で、城和加判奉行に任ぜられました。
これはは大和・山城に広がる藤堂藩領約5万石の支配地を預かる奉行職です。一時、伊賀奉行も拝命したようですが、52歳の慶安元年(1648)から81歳の延宝5年(1677)の引退まで約29年間、城和奉行として執務します。引退して3年経った延宝8年(1680)3月20日、亡くなります。享年84歳。
 ここからは若い時代に藤堂高虎のもとで学んだ築城術を、讃岐の地でため池の築造に活かし、その経験を晩年には、故郷の伊賀の地に還元した姿が見えてきます。
西嶋八兵衛は文人でもあり、俳句や書にも秀でて流麗な筆致を残しています。
 彼の墓は伊賀上野市紺屋町の正崇寺にありますが、脇に正五位の贈位の碑が建っている。大正四年になって香川県の上申で叙位されたようです。ちなみに八兵衛を祭った神社は香川県にはありません。彼が神となって敬われることはなかったようです。ただ、津市高茶屋の水分神社だけです。彼のことが後の讃岐では忘れられた存在となっていたことが分かります。自分の親分の政治家の銅像を建てようとするのは近代に流行になりますが「讃岐の大恩人・西嶋八兵衛」の銅像が讃岐に建てられることはなかったようです。
 満濃池を作ったのは空海と云われますが、これは「空海伝説」です。史料的に、それを裏付けるものは現在の所ありません。研究者は「空海が造ったと云われる満濃池」という言い方をします。その意味では、現在の満濃池の直接の築造者は、西嶋八兵衛に求められると云っても過言ではないように思います。しかし「空海築造」は云われても、西嶋八兵衛による再築を語る人は少ないようです。
 「そんなものだよ歴史は・・・」と八兵衛は、つぶやいているかもしれません。

参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

   

 

満濃池と龍3
 
 満濃池には、古くから龍が住むという伝承があります。
『今昔物語集』には龍の棲む池として、また中世の『志度寺縁起』には、蛇になった志度の猟師当願の住む池として語られています。
『讃岐国名勝図絵』嘉永7年(1854)刊行にも、空海の築堤の説話と、池に棲む大蛇が海に移る際に堤が壊れたと記されます。そのうえで、元暦の大洪水による決壊後は長らく村と化していたが、寛永年間に西嶋八兵衛により再築が行われたことが語られます。

満濃池と龍

 今回は西嶋八兵衛による満濃池再築を見ていくことにします。
「満濃池営築図」原図(坂出の鎌田博物館の所蔵)を見てみましょう。
DSC00813










満濃池営築図 原図(寛永年間)
この図には、中央に池の宮がある小山が描かれ、その左右に分かれて水流が見えています。 ここに描かれているのは、源平の兵乱の中の元暦元年(1184)に崩壊して以来、450年間にわたって放棄された満濃池の再築以前(寛永初め)の景観です。少し見にくいので、トレス版でみることにします。まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 トレス版(寛永年間)
A 左下から中央を通って上に伸びていくのが①金倉川です。川の中には、大小の石がゴロゴロと転がっている様子が見えます。鎌倉時代の崩壊時の時に崩れ落ちた石なのでしょうか。
B金倉川を挟んで中央に2つの山があります。左(東)側が④「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる「聖地」です。現在では、この岩は満濃池に浮かぶ島となっています。川の右(西)側にも丘があり、よく見ると神社建っています。これが②「池の宮」です。現在は神野神社と飛ばれていますが、江戸時代の史料では、神野神社という表記は出てきません。丘の右側の小川は③「うてめ」(余水吐)の跡のようです。「余水吐き」が川のように描かれています。
C古代の満濃池については、何も分かりませんが、この二つの丘を堰堤で結んでいたとされていいます。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿です。つまり、これが「古代満濃池の堤体跡」なのです。そこを上(南)側の旧池地から金倉川流れ落ちて、大小の石が散乱してます。

実は、これは絵図の全てではありません。絵図の上部を見てみましょう。
DSC00814










満濃池営築図 原図(寛永年間)
④旧池内には数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、中世以後旧満濃池を開発して成立していた「池内村」の一部のようです。
⑤さらに上部には、文字がぎっしりと書かれています。
何が書かれているのか見ていくことにしましょう。
この絵図の上側に書かれた文字を起こしてみます。
 満濃池営築図[寛永年間(1624~45)】摸写図
満濃池営築
寛永五辰年 奉行西嶋八兵衛之尤
 十月十九日 鍬初 代官出張 番匠喚
 十一月三日 西側堀除
 十二月廿日 普請方一統引払候
同六巳年
 正月廿八日 取掛
 二月十八日 奉行代官相改
 三月十九日 東ノ分大石割取掛
 四月十日  奉行代官立会相改 皆引取
 八月二日  底土台 亀甲之用意石割掛
 同十五日  西側大石切出済
 十月廿八日 座堀取除出来
 十二月十二日台目取除二掛ル
 同廿二日  奉行一統引払
同七午年
 正月廿八日 取掛
 三月十八日 台目所出来
 四月十日  櫓材木着手
 同十一日  流水為替土手築立
 同十八日  底樋亀甲石垣取掛 ’
       五月廿四日迄二出来
 六月五日  底樋取掛
 同廿九日  一番櫓建立
 七月六日より底樋伏込 同廿九日迄二           
 八月十五日 木樋両側伏込
 十月六日  堤埋立出来 竪樋座堀掛
 同十八日  竪樋下築立 同晦日出来
 十一月十七日 打亀甲石垣
  同廿九日  二番櫓立                                 
 十二月十日 三番櫓立
 同十五日  四番櫓立
 同廿二日  五番櫓立
同八未年    裏
二月五日  堤石垣直シ
同十五日  芝付悉皆出来
上棟式終 普請奉行 下津平左衛門  福家七郎右衛門
那珂郡高合 一万九千八百六十九石余
宇多郡高合 三千百六十石余
多皮郡高合 一万二千七百八十五石二斗余
  三郷合 三万五千八百十四石二斗余
西嶋氏、寛永三年八月、矢原正直方え来、当郡年々旱損二付、懇談御座候付、池内所持之田地不残差出申候
 ここには満濃池再建工事の伸張状況が記されていることが分かります。
 寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、
 同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が書き込まれています。
DSC00881
        満濃池営築図 トレス版

最後の文を専門家は次のように解釈しています。
寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へ来た。
那珂郡の毎年の旱害について懇談がなされた。
そこで、正直は、池内に所持している田地を残らず差し出す旨、申し出た。
 研究者は、この図に描かれた家と農地は、池ノ内側に描かれており、ここが池内村の中心であって、その領主が矢原家であったと推定します。そこで、満濃池の再築のためには、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったというのです。 
 
矢原家が満濃池跡に所持していた田地を池の復興のため差し出したという内容です。これを、裏付けるのが西嶋八兵衛書状(矢原家文書)(a2)8月15日付の文書になるようです。漢文書下文)
先日は、御目に懸かり大慶存じたてまつり候。兼て申し上げ置き候、満濃池内御所持の田畠二十五町余、このたび断りいたし、欠け候のところ、衆寡替えがたく御思召寄す、今日御用にて罷り出で、相窺い候ところ、笑止に思召し候。
いずれも同前の事に候。なお追々存こ畜りこれある趣、仰せられ候。三万石余の衆人上下、承知せしめ候。千載御家たちまちに相聳い候成り行き、何とも是非に及びがたき事候。
恐々謹言        
 八月十五日      西嶋八兵衛之尤(花押)  
 矢原又右衛門様                  
このたびは ぬさも取りあえず 神野なり 
   神の命に 逢う心地せり         
現代語に直し意訳すると次のようになります。なお、括弧内は文意を整えるための補遺です。
 先日は、お目にかかることが出来て大変歓んでいます。兼てから申し上げていた矢原家が満濃池跡に所持する田畠二十五町余を、池の再築のために総て差し出すことを、主君に伝えました。本日、御用で主君に会った折りに、その行為についてお喜びの様子であった。。
 いずれの機会に、何らかの形で矢原家への処遇を考えたいと仰せられていた。三万石余の衆人の見守る中での今回の行い、まことに誉れ有る行為である。

田畑25町を差し出した矢原家とは、何者なのでしょうか
 幕末に成立した「讃岐国名勝図会」には、平安末期の元暦元年(1184)に決壊した満濃池について次のように記します。

「五百石ばかりの山田となり。人家なども往々基置して、池の内村といった」

意訳変換しておくと
(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。

 当時の田1反(10a)当たりの米の収穫量は、ほぼ2石(300kg)です。西嶋八兵衛の書状に見える25町余の田畠は、石高でいえば、500石余にあたります。この石高は、「讃岐国名勝図会」に見える池内村の石高とぴったりと一致しますから、ここからは矢原家は池内村全体の領主であったことになります。
矢原家と池内村との関係を「讃岐国名勝図会」の記事から、探ってみましょう。
矢原家に伝わる「矢原家傅」には、矢原家は神櫛王の子孫酒部黒麿が、延暦年間(782 - 806)に池の宮の近辺に住んだことに始まと伝えます。池の宮(現神野神社)は、時代と共にその位置を変えながら現在でも、満濃池の堤に続く丘の上に鎮座します。
矢原家伝が伝える内容を箇条書きにすると
①貞治元年の白峯合戦では細川清氏方に加担。
②天正12年(1584)、長宗我部氏の西讃侵攻に際しては、矢原八助(正景)が、神野寺に陣取った元親の嫡子信親と戦い、のち和睦。
③豊臣秀吉の部将で讃岐一国の領主となった仙石秀久のとき、正景は那珂郡七ケ村東分で高45石を賜る。
④同13年(1585)、戦国秀久より長男正方と次男猪兵衛に刀と槍を賜わる。
⑤同15年(1587)6月、生駒家より合力米200石を賜り、文禄の役に際しては当主正方の弟猪兵衛が従軍し、
⑥慶長6年(1601)その戦功を賞して、200石の知行地を賜る。
⑦矢原正方は備前国日比家の養子となり衝三右衛門と名乗って宇喜多秀家に仕えた。
⑧宇喜多秀家が没落後は故郷に帰り、元和2年(1616)没。
⑨寛永3年(1626)、正方の子正直が、西嶋八兵衛によるに満濃池再築の際に、正直宅に寄宿して指揮に当たった。
⑩この間の功績により生駒家は正直を満濃池の池守にした。⑪正直は慶安2年(1649)に没した。
 上に述べた内容のうち、
①慶長6年(1601)、生駒親正より200石の知行地を賜った。
②寛永の再築時の功績により、生駒家は正直を満濃池の池守に任じた。
この2件については、矢原家文書の中に該当するものがあります。す。                     
矢原家文書[慶長六年(1601)・寛永十二年(1635)」
  ①慶長六年(1601年十月十四日 生駒一正宛行状 矢原家文書
  扶持せしむ知行所事
   豊田郡 五十七石一斗四升  植田
   香西郡百四十二石八斗六升  中間 ミまや
                 合二百石
 右の分まったく知行せしむべきものなり
   慶長六年十月十四日  生駒讃岐守 一正(花押)
 (日比呉三右衛門)
 ここには、慶長6年(1601)の知行地給付は、正直の父である日々典三左衛門(正方)宛てで給地は豊田郡植田、香西郡中間・御厩の計200石が記されています。
②寛永十二年(一六三五)四月三日 生駒家家老連署奉書 矢原家文書
 御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。よってくだんのごとし。
   寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)
                浅田右京 直信(花押)
 (正直) 矢原又右衛門
【資料 ②】からは、正直が満濃池を管理する池守に任命され、同池上下において50石を与えられたことが分かります。
 また、「讃岐国名勝図会」に収める神野神社の釣燈篭の銘文からは、矢原家の歴代当主が、氏神である神野神社の社殿の造替や堂舎の再建を願主として行っていたことが読み取れます。
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この由緒から次のような事が云えます
①矢原家は、神野寺付近に本拠を持つ小領主で
②戦国時代の末期は長宗我部氏と戦い、
③近世初期には、仙石・生駒藩に臣従していた
④満濃池の再築の功績により、池守に任じられた
矢原家は池内村の領主であったといえるようです。しかし、それがいつまで遡れるかは分かりません。池ノ内村を領有していた矢原家の奉納した池内村は、満濃池ができあがると再び池の中に姿を消すことになったのです。

参考文献 
香川大学名誉教授 田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷
満濃池名勝調査報告 まんのう町教育委員会 2019年3月刊

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