瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近世史 > 西嶋八兵衛

郷土史講座 満濃池と西嶋八兵衛

上記講座で使用した資料を中心にアップしておきます。時間と興味のある方は御覧下さい。

満濃池 3人の再築した人物

満濃池は8世紀初頭に築造されたとされますが、何度も決壊しています。空海の修復後も源平合戦頃には決壊したまま放置されます。そのため池跡が開発されて、池之内村ができていたと伝えられます。それが再築されるのは天下泰平になった江戸時代初期です。それを指揮したのが西嶋八兵衛ということになります。今回は、この西嶋八兵衛について見ていくことにします。

西嶋八兵衛 どうしてやってきたのか

これらについては、西嶋八兵衛が藤堂高虎の子飼いの腹心であったためであったと答えられます。まず主君の藤堂高虎を見ておきましょう。

西嶋八兵衛と藤堂高虎


藤堂高虎は、今年の大河ドラマの主役である秀吉の弟秀長に見いだされます。その後、主君を秀吉→家康と乗り換えて、戦乱を生き延びていきます。「戦乱の風見鶏」と評される由縁です。さらに晩年に駿府に隠居した家康の傍らに仕えて、絶大な信頼を得ます。外様大名でありながら譜代大名あつかいとなり、時の老中と親族関係を結ぶなど大きな政治力をもつ存在になっていきます。西嶋八兵衛は、その藤堂高虎に、若い頃に仕官します。英才教育を受けて栄達していきます。それを年表で押さえておきます。

西嶋八兵衛 藤堂高虎の英才教育を受けた

西嶋八兵衛の父は、もともとは藤堂高虎に仕えていましたが病気で浜松に隠居していました。八兵衛が17歳になると、駿府にいる高虎を訪ねています。見所があったのでしょう150石で小姓に取り立てられています。以後、高虎の身近にあって、英才教育を施されていきます。そして高虎の信頼を得た若者に成長していきます。
  
どうして西嶋八兵衛は、讃岐にやってきたのか?

西嶋八兵衛 生駒家と藤堂家は親族

生駒家3代目の正俊が突然若死にします。残された4代目の高俊は11歳の幼年です。この時期の幕府は、難癖を付けては外様大名を取り潰したり、無理難題を押しつけていた時代です。生駒藩も幕府の標的になる可能性がありました。生駒藩の危機です。これを救おうとしたのが伊勢津藩藩主の藤堂高虎です。
 高虎は生駒親正
に深い御儀がありました。高虎には、主君の秀長(秀吉の弟)が亡くなると、無能な主君に仕えること嫌って高野山に出家して隠遁生活を送っていた時期がありました。その時に秀吉への再就職を勧誘・説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名にリクルートできました。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。その後は、上図のように高虎の娘が生駒家に嫁いできていて子どもを産みます。それが生駒家4代目の高俊になります。つまり高俊は高虎の孫でもあったのす。高虎と父正俊から一字ずつもらって高俊です。高虎は、このように親密な関係にあった生駒藩の危機に対して一肌脱ごうとしたようです。そこで全権委任大使として生駒藩に派遣されたのが若き西嶋八兵衛ということになります。
 家老待遇として生駒藩にレンタルされた西嶋八兵衛を待ち受けていたのは大旱魃でした。

西嶋八兵衛来讃時の讃岐は大旱魃


 八兵衛がやってきた
のは寛永二年(1625)ですが、翌年から災害が続きます。旱魃・台風と2年続きの凶作で餓死者がでます。農民達は土地を捨てて他国に逃散するものも現れます。生駒藩存続の危機が訪れたのです。これに対して右往左往する生駒藩の指導者達に対して、藤堂高虎はレンタルしている西嶋八兵衛にやらせろと命じます。こうして西嶋八兵衛を中心としての災害対策、つまりそれは丸亀平野や髙松平野などのの総合開発プロジェクトでした。

 ここで注意しておきたいのは、満濃池だけを西嶋八兵衛は作ったのではないと云うことです。ため池 + 土器川・金倉川の治水工事 + 灌漑用水路の整備という3つの要素を同時に行っているのです。しかもこれを讃岐全土で同時進行で行っています。これは西嶋八兵衛が単なる技術者ではなく、当時の政策担当者の中枢部にいたからできたことです。それを裏付ける史料を見ておきましょう。

大川神社へ寄進された鉦 西嶋八兵衛・尾池玄蕃


これは1628年(満濃池着工時)に、琴南の大川神社(権現)に寄進された鉦です。ここには上記のような文字が刻まれています。ここからは次のようなことが分かります。


①大川神社は権現で、修験者たちの管理運営下にあったこと。


②雨乞い祈願用に、生駒藩奉行(家老)が寄進していること


③それをとりまとめたのが尾池玄蕃であること。


②の三人の奉行の中に西嶋八兵衛の名前があります。彼が生駒藩中枢にあり、政務を担当していたことが裏付けられます。また丸亀平野の担当が尾池玄蕃であったこと、当時の生駒藩が大旱魃に対して、権現の力を借りて雨を降らせようとしていたことも分かります。
それでは、西嶋八兵衛が讃岐にやってきたときに満濃池はどうなっていたのでしょうか?

満濃池営築図2 矢原家
満濃池営築

西嶋八兵衛がやって来た時の満濃池跡です。地元の矢原家に残っていた絵図です。

①の左下から中央を通って上に伸びていくのが金倉川で、川の中には大小の石がゴロゴロと転がっている

②右側が「うてめ」(余水吐)跡で、機能を失って川のように描かれている。

③金倉川を挟んで2つの岡があり、左(東)側が「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる。この岩は今では満濃池に浮かぶ島となっている。

④右(西)側の丘に池の宮(現神野神社)が鎮座している。

古代に空海が再築した満濃池も③と④の二つの丘を堰堤で結んでいたとされています。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿が描かれています。つまり、ここに描かれているのは17世紀初頭の「古代満濃池の堤跡」なのです。


絵図の上方に描かれた堤跡の内側を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 池之内村

④の池の宮の南側(上側)には、民家と農地を区切るあぜ道が描かれています。讃岐国名勝図会(1853年)には、次のように記します。

(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石(25丁㌶)ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。


ここからは源平合戦の頃に決壊した満濃池は、中世には農地化されて、内部に村ができていたことが分かります。これを「池内村」と呼んでいたようです。位置的には現在の神野寺の下あたりになります。ここには豊富な湧水があったようなので、それを水源とする村ができたのでしょう。

 
さらに絵図上部には、文字がぎっしりと書かれています。何が書かれているのか見ておきましょう。

西嶋八兵衛と矢原家

ここには工事が始まる2年前の寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へやってきたことが記されています。矢原家というのは、当時の池の内村の有力土豪だったようです。そして、西嶋八兵衛は当主と那珂郡の毎年の旱害について懇談します。その話を聞いて、矢原正直は池の内に所持している田地(500石=25町)を残らず差し出すことを申し出たと記されています。これに藩主は喜んで、後に褒美を取らせると約束します。ちなみにこれは後の池守となる矢原家にとっては、その正当性をしめす証拠資料ですから、記録として残され大切に保管されてきたようです。つまり、旧満濃池跡地の池之内村の領主が矢原家であったことになります。

 矢原家には、次のような文書も残されています


西嶋八兵衛と矢原家文書
御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、
常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。
よってくだんのごとし。 

寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)  
                  浅田右京 直信(花押)
矢原又右衛門(正直) 
ここからは池跡の25㌶(500石)を、藩に差し出したことへの恩賞として、藩主から代替地を満濃池周辺で与えられたこと、満濃池の池の守(管理人)に任命されたことが記されています。

こうして矢原家の土地寄進を受けて、工事が始まります。先ほどの絵図をトレスしたものを見ると、工期が日程が上段にはびっしりと書き込まれています。

満濃池着工と完成

冒頭の着工日と末尾の完成日時は上記の通りです。こうして西嶋八兵衛によって満濃池は再び姿を見せます。その満濃池を見ておきましょう。
西嶋八兵衛の満濃池
堰堤は、護摩壇岩と池の宮を結ぶようにして築かれています。そして現在の堰堤よりも前方にありました。この堰堤は戦後の嵩上げ工事によって、護摩壇岩だけを残して、今は池の中に沈んでしまいました。西嶋八兵衛が再築した満濃池の約200年後の姿を見ておきましょう。

満濃池遊鶴 
満濃池遊鶴(まんのう町蔵)
護摩壇岩と池の宮を結んで堰堤が築かれています。その向こうに拡がる池面を鶴の群れが飛んでいます。こうして満濃池は名勝地としても知られていくようになります。この絵図の5年後の讃岐国名勝図会に載せられた満濃池も見ておきましょう。

満濃池 讃岐国名勝図会2
ドローンで堤防北側上空から俯瞰した姿が満濃池を描く定番になっていきます。

江戸時代の満濃池は西嶋八兵衛が再築したスタイルが変化することなく踏襲され、維持管理されたことを押さえておきます。それだけ優れた設計だったことになります。これが崩壊するのは、新しい技術を取り入れ底樋を石造化したときに、技術が未熟で決壊します。同じ讃岐国名勝図会に載せられた矢原氏の屋敷です。

矢原邸 讃岐国名勝図会

矢原邸には空海が持ち帰ったかりんの大木があったとされますが、この絵図にはそれは見えません。描かれているのは大きな松の木が2本です。矢原家は移転地として満濃池の下の「池下」や「池尻」などに土地を支給され、江戸時代を通じて存続していきます。今でも満濃池周辺の土地は矢原家が所有しているようです。現在の矢原家周辺を見ておきましょう。


満濃池からの矢原家

満濃池堰堤から見た矢原家跡(こんもりとした森)

西嶋八兵衛は満濃池を再築しただけではない。丸亀平野総合開発プロジェクトを推進した。
地元でも西嶋八兵衛のことを知っている人は、そんなに多くありません。多くの人が空海が作った満濃池が存続していたと思っている人の方が多いように思えます。知っている人も「満濃池再築者」という点に限られています。しかし、彼が築造したのは満濃池だけではありません。同時進行で、次のようなため池の築造を行っています。
西嶋八兵衛 讃岐における業績一覧

これらのため池が西嶋八兵衛が作ったため池とされています。しかし、先ほど見たように彼は生駒藩の三人の奉行のひとりで、藩政の中枢にいた人物です。ただの技術者とはちがいます。各地の築造現場に頻繁に出向くことは難しかったのではないかと思います。また重臣が工事現場に常駐して指揮すると云うことは、当時の建設システムからは考えられません。黒鍬組のような土木技術者集団を引き連れていて、指示を受けた技術者たちが請け負っていたことが考えられます。その際の各地の庄屋たちの協力を取り付けるためのお膳立てはしたかもしれません。しかし、満濃池に西嶋八兵衛がかかりっきりで陣頭指揮をしたとは私には考えられません。問題提起としておきます。

もうひとつの問題提起は、満濃池を作っただけでは丸亀平野に水はやってこないということです。

西嶋八兵衛 丸亀平野総合開発事業の一環としての満濃池

池の水を下流に提供するためには、上記のように治水工事(既存の川の流路変更)と、灌漑用水路の整備がセットで求められます。つまり、丸亀平野の総合開発計画の実行ということになります。これはひとつやふたつの村の協力ではできません。多くの村々の庄屋たちの協力なしではできることではありません。西嶋八兵衛は、藤堂高虎が派遣した目付で、国奉行として藩政の中心にいたことからこそ立案・実行できたのです。満濃池の築造と同時期に行われた治水・灌漑を見ておきましょう。

満濃池水掛かり図.JPG 1870年
この絵図は、明治になって長谷川佐太郎によって再築された満濃池水掛の各村々とそこに至る用水路が水色で書き込まれています。上図を拡大して90度回転させて見てみます。

近世:治水整備後に整えられた灌漑網

これを見ると、用水路が東は土器川の左岸まで、西は金倉川を越えて、善通寺から多度津白方方面にまで伸びていることが分かります。灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。ここからは次のような事が読み取れます。
①満濃池の受益面積は桃色の髙松藩が最も多いこと。最大の受益者は髙松藩。
②土器川から分水導入している用水路は左岸にはないこと 土器川左岸は満濃池に依存していたこと
③金倉川も善通寺・多度津方面以外は、分水を行っていないこと。つまり、土器川と金倉川には灌漑機能はなく、放水路の機能を持たされていたこと。だから白色で描かれている。
④黄色の天領(五条・榎井・苗田)は、丸亀藩の給水分岐点であり、戦略的な意味を持っていたこと。
⑤善通寺・多度津白方方面は苗田村で一度金倉川に水を落とし、その下流で再度導水していたこと
⑥この水掛図で、最も灌漑用水が不足するのが多度津の白方方面であったこと。
このように丸亀平野一円に用水路を張り巡らせるために、どのような治水工事が行われたのでしょうか金倉川から満濃池用水路の導入口の③附近を拡大して見ます。③でそれまでの流路が変更され、新しく金倉川が人工的に作られたと丸亀市史は次のように記します。

西嶋八兵衛 四条川治水と用水路建設
つまり、満濃池再築以前には、③→④→⑤という流路で「四条川」が流れていたのを、③で放水路として金倉川を開削し、丸亀平野の西端に移動させ、中央部を洪水の被害を受けないようします。その上に新たな用水路網を開いたというのです。言い換えれば、満濃池用水は旧四条川の流路変更の上に作られたことになります。この工事が満濃池築造と同時期に、庄屋たちの分担作業で行われていたことが考えられます。その段取りをつけたのが西嶋八兵衛とその配下の土木技術者集団だと私は考えています。

③の金倉川からの分水点である水戸大横井を見ておきましょう。

西嶋八兵衛 水戸大横井

③の水戸大横井堰(まんのう町吉野下)は、パン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に何代目かの堰が今もあります。ここでせき止められた水がコントロールされて用水路に流れていきます。附近には旧四条川の痕跡が残っています。また、金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという手法です。
 ちなみに西嶋八兵衛が伊勢藩に帰国して開いたのが雲出井用水です。規模も建設方法、完成後の管理方法が満濃池用水によく似ていることは前回お話ししました。讃岐での経験が伊勢藩で活かされているように思えます。

西嶋八兵衛の雲出井用水

伊勢の雲出井用水 満濃池用水と類似点が多い

西嶋八兵衛は満濃池を完成させた後も、重臣の座にいながら各地で総合開発プロジェクトを進めます。

西嶋八兵衛の讃岐滞在2

そして満濃池完成後の8年後の1639年に、伊勢藤堂藩に帰ります。この年は生駒騒動が勃発した年です。生駒藩の家臣団の亀裂は深まるばかりで、押さえが効かなくなっていきます。沈み行く船を見捨てての、伊勢藤堂藩への帰国という形になります。彼にしてみれば20歳代後半から20年間に渡って、生駒藩に関わってきました。それが、生駒騒動という形で終末を迎えることにはいろいろな思いがあったはずです。
 ところが帰国した西嶋八兵衛に幕府から呼び出しがかかります。どんな用向きだったのでしょうか

西嶋八兵衛 生駒藩転封後の来讃

生駒騒動で生駒藩が改易された後は、幕府は高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西分割することにします。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。彼は満濃池再築の責任者として、他国人ではありますが庄屋たちからはリスペクトされていたようです。庄屋たちから水利や里山利用の問題点を聞き取り、それを文書化して後に問題が起きないようにまとめて幕府要人に提出しています。そこには例えば満濃池管理について、次のように記されています。

西嶋八兵衛 満濃池水掛村鷹

西嶋八兵衛 満濃池水掛村高末尾鷹

これをまとめたのが西嶋八兵衛です。これを見えも西嶋八兵衛が満濃池の諸問題について、よく理解していたこと、同時に丸亀平野一円の庄屋たちの信頼を得ていたこともうかがえます。西嶋八兵衛の働きぶりに対して幕府要人は、小太刀一振りを与えてねぎらっています。有能な働きぶりだったことが裏付けられます。
伊勢帰国後の働きについては、前回にお話ししたので省略します。最後に西嶋八兵衛の業績と評価を振り返っておきましょう。

西嶋八兵衛 業績と評価

 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。軍用技術の民政への転用というこになります。こうして家臣団の中に『民政臣僚』と呼ばれる集団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。彼の場合は、その場がレンタル客臣として赴いた讃岐で、そこで讃岐平野全体の総合開発事業に家老として関わるようになったのです。そのシンボル的な事業が満濃池再築だったとしておきます。
 それでは西嶋八兵衛の讃岐での満濃池周辺での評価はどうでしょうか。
最初に見たように3人の満濃池再築者の中で、空海には遠く及ばず、長谷川佐太郎よりも知名度は低いといったところでしょうか。それでは西嶋八兵衛があまり知られていないのはどうしてなのでしょうか? 例えば満濃池に空海の銅像や長谷川佐太郎の顕彰碑はあります。これらは20世紀になって姿を見せるようになりました。

満濃池 空海の銅像
満濃池の空海像と長谷川佐太郎顕彰碑
ところが西嶋八兵衛のものは見当たりません。どうしてなのでしょうか?
それには次のような背景が考えられます。

西嶋八兵衛 銅像がないのはどうしてか

第1に西嶋八兵衛が讃岐の人ではなく他国人であったことです。そのために、後世に応援団(顕彰団代やファンクラブ)が育ったなかったことがあります。また、生駒藩がなくなったことです。そのため西嶋八兵衛の業績についての資料の多くが失われました。また、その後にやってきた松平髙松藩では、初代松平頼重がカリスマ化されていきます。その結果、先代の生駒藩の偉人伝は語られることがありませんでした。西嶋八兵衛は江戸時代には讃岐では忘れ去られた存在のようになていました。それが再評価されるのは、近代になってからです。こうして満濃池周辺では銅像も顕彰碑も建てられなかったようです。ただ髙松では、木太北部公園のように地域興し事業の一環として顕彰碑が姿を見せるようになりました。
西嶋八兵衛功徳費 

西嶋八兵衛が満濃池に着工し、完成させた年をもう一度見ておきましょう。

西嶋八兵衛 満濃池再築400周年
2年後が着工400周年 5年後が完成400周年にあたるようです。これを機会に、西嶋八兵衛の再評価が進み、銅像建立につながればと願っている私です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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西嶋八兵衛の讃岐滞在2

西嶋八兵衛は満濃池完成後の8年後の1639年に、伊勢藤堂藩に帰ります。この年は生駒藩では、譜代家臣達が職務を放棄して、讃岐の地を立ち退くという実力行使をとって、生駒騒動が勃発します。生駒藩内の対立は、藩政の中心にいた西嶋八兵衛は充分に分かっていたはずです。藩内の対立を和らげるのも、藤堂高虎が客臣として西嶋八兵衛を生駒藩に送り込んだ要因のひとつだったかもしれません。しかし、生駒藩の亀裂は深まるばかりで、今や沈み行く船となっていきます。そのような中で、西嶋八兵衛は、伊勢藤堂藩に帰ってきたことになります。彼にしてみれば20歳代後半から20年間に渡って、生駒藩に関わってきました。それが、生駒騒動という形で終末を迎えることにはいろいろな思いがあったはずです。

西嶋八兵衛の略歴
 伊勢に帰国した西嶋八兵衛を待ち構えていたのは、またしても旱魃でした。
寛永19年(1642)、伊勢の志郡一帯は大旱魃に襲われ稲は枯死し収穫は皆無になります。さらに3年後の正保3年(1646)にも凶作に見舞われ、農民は餓死寸前に追い込まれます。これに対して二代目藩主藤堂高次は、讃岐で業績を上げて帰国していた西島八兵衛に対策を命じます。今回は伊勢に帰国した西嶋八兵衛が行った灌漑事業を見ていくことにします。テキストは、 雲出井土地改良区のHPです。https://www.zc.ztv.ne.jp/kumozuyu/rekishi.html

HPには次のように記されています。

領内巡視を行った西嶋八兵衛は、雲出井水開鑿の大工事に着手した。正保3年(1646)、水不足に苦しむ雲出・伊倉津地域の農民のために津藤堂藩高次の命を受け、 西嶋八兵衛は2万人以上人夫で3年を費やし、13㎞も離れた上流の戸木村羽野の雲出川から雲出井(くもずゆ)を掘削した。高茶屋四ツ野で三つの水路に分け、14ヶ村600町歩の水田に水の恵みをあたえた。土地の人々は八兵衛を顕彰するため、ここに水分(みくまり)神社を建立した。

西嶋八兵衛と雲出井用水
雲出井用水への着工
西嶋八兵衛の雲出井用水


これは戸木村で雲出川に堰を設けて分水し、水路を掘り進めて、高茶屋で水を3分(高郷井、八寸、揚溝)して、高茶屋、雲出地区まで網の目のように用水路を張り巡らせようとするものでした。これは、丸亀平野の土器川・金倉川を治水して、平野の真ん中に大規模用水路を通す工事と、規模も内容もよく似ています。また工事の進め方も、大庄屋と協議して彼らの協力と取り付けて、工事区間を分割して、それぞれを大庄屋に責任を持たせて進めています。これらのやり方も、満濃池用水路の開削と同じ手法だったのではないかと私は考えています。そして、慶安元年(1648)に完成させています。水路延長は7,200間(13㎞)で、本郷、長常、伊倉津など雲出の村々14ケ村600町歩の田畑が恵みを受け、1万石近くの収穫増につながります。

 《雲出井(くもずゆ)の維持管理》
慶安元年(1648)に雲出井が完成すると、西島八兵衛は雲出村庄屋の笠井又兵衛を井守に命じます。そして、用水管理について次のような細かい指示を出しています。(要約)

西嶋八兵衛 雲出井水掟書    
       西嶋八兵衛が書いた雲出井水掟書 雲出本郷町 笠井家文書
9ヵ条の内の5ヵ条を見ておきましょう。
一 今瀬せきあげのかげん第一に候、細々見廻候、而、石俵くさり候ハハ取かへ、くずれ候所をばつきなをし、湯流口へ川水よくのり候ごとく可念入事、付大雨ふり可申気色に候ハハ何時も湯流の戸をさし可申、此段、戸木之加兵衛にも申付候間、常々相談可仕候事
一 稲代川のつきあて、其外古川迄の井溝うまり候所有之者、無油断さらへさせ可申候事
一 石せきより雲出までの井溝うまり候所、又ハつつみそこね候所於有之ハ、其領内きりに修理仕候へと、其村々庄やへ申渡し、其方もともどもに肝をいり可念入候、同井水をみだりにいやが上かけ候所有之は其庄やへ相届、我ままにさせ申間敷事
一 四野のわけまたより、北へ水を分候義ハ、その時々此方より可申遣候間、可得其意候、無左候 下としてわけ遣し申間敷候、小森より北郷水つまり申候ハハ急き此方へ可申聞候事
一 戸木より雲出までの間大井手の義ニ付いづれの村にても疎略仕候もの於有之者、有体に此方へ申聞候、少もゑこのひいき仕間敷候事
  意訳変換しておくと
一 用水路の管理については堰の管理が第一である。頻繁に見廻り、石俵や鎖などは定期的に取り替え、崩壊しそうな場所があれば修復し、取り入れ口へ川水がよく流入するようにすること。大雨時には取入口に戸をさして流入を防ぐこと、これらのことは、戸木之加兵衛にも申付てある。常々、協議してメンテナンスを行う事。
一 稲代川や古川までの用水路は、土砂が溜まり所なので、油断せずに定期的に井手浚いをおこなうこと
一 取入口の堰から雲出までの井溝も、土砂が溜まったり、また堤防が痛んだりするところが出てくれば、その区画毎で修理することを、関係する庄屋へのへ申渡し、其方と協力しながら維持管理を行うこと。この用水路について、勝手に改変したりする者があれば、担当庄屋に報告し、自分勝手な運用をさせないこと。
一 四野の分水点より北への分水については、その都度、こちから連絡を取りながら納得のいく形で運用すること。小森より北の郷水についても同様である。
一 戸木から雲出までの間の大井手については、各村で申し合わせ事項を疎略にあつかう者があれば、丁寧に申し聞かせて、えこひいきの内容にないように運用すること。
ここからは雲出井用水の管理について庄屋笠井又兵衛を管理人として、各村々の庄屋と協議しながら運用していくシステムを作っていることが分かります。その後、明暦4年(1658)、延宝8年(1680)にも雲出井手郷中へ「定条々」「定」が出されています。その文書には、庄屋や年寄が署名押印して約束を守ることを明示しています。これも以前にお話しした満濃池水掛申候村高之覚に記された満濃池管理の手法と同じやり方です。讃岐で学んだ治水灌漑の運用システムが、伊勢でも活かされています。

満濃池水懸申候村高之覚

満濃池水懸申候村高之覚」と「先規

 雲出井用水は多くの田畑を潤し、農民達は八兵衛に感謝するようになります。そのため、毎年伊勢神宮に参拝し、神楽を奉奏し大麻を贈ってその健康と子孫繁栄を祈ったと伝えられます。

西嶋八兵衛 雲出井用水 水分け神社5

 西嶋八兵衛が1680年に亡くなると、四ッ野分水点に水分神社(俗称:八兵衛神社)を建立し、感謝と豊作を祈願する祭典を行なうようになります。伊勢では、西嶋八兵衛は神となって、分水地点に祀られたのです。四ッ野分水施設は、昭和47年6月20日、津市教育委員会より史跡に指定されています。

西嶋八兵衛 雲出井水分水点
                     四ッ野分水施設
雲出井用水を管理する土地改良区の会報には、次のような言葉が見えます。
(西嶋)八兵衛の歴史と歩む
今年も4月19日に水分神社で西嶋八兵衛翁の遺徳を偲ぶと共に、五穀豊穣、通水
安全の祈願を行い通水を開始しました

西嶋八兵衛 雲出井用水会報


西嶋八兵衛 雲出井用水会報3
雲出井用水
西嶋八兵衛 雲出井用水会報2
この会報を読むと、用水を開いた西嶋八兵衛の遺徳に感謝しながら、それを未来に繋いでいこうとする願いが伝わってきます。「井戸の水を飲むときには、その井戸を掘った人達の行為に感謝しながら飲まなければならない」という中国の諺を思い出します。
 そして、土地改良区が西嶋八兵衛の業績を伝えるための広報活動を積極的に行っています。その中には、漫画偉人伝の作成もあります。それが、市民による銅像の建立にもつながっているようです。

西嶋八兵衛像

ひるがえって讃岐を振り返ってみると、満濃池周辺には西嶋八兵衛の銅像も石碑もありません。これをどう考えればいいのでしょうか。このことについては、改めて見ていきたいと思います。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
雲出井土地改良区HP https://www.zc.ztv.ne.jp/kumozuyu/rekishi.html

講演会 満濃池と西嶋八兵衛ポスター

今年もまんのう町の町立図書館で、3回のお話しをすることなりました。最初は、満濃池シリーズの3回目で、西嶋八兵衛について上記の通り取り上げます。興味と時間のある方の参加をお待ちしています。

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https://www.youtube.com/watch?v=K0gHOxzXlhw(動画)


歴史の見方

中讃TV「歴史の見方で、満濃池を再築した西嶋八兵衛のことについてお話しました。
2月中いっぱい毎日21:00から放送されるようです。興味のある方で、時間のある方は御覧下さい。
西嶋八兵衛76

Q1西嶋八兵衛は満濃池を造るためにやってきたのではないのですか?
 そうではないようです。西嶋八兵衛は若い頃から藤堂高虎に仕え小姓や右筆として英才教育を施された人物でした。ところが高虎が娘を嫁がせていた讃岐の生駒藩に存亡の危機が訪れるんです。

生駒騒動 関係図1
それは3代藩主の生駒正俊が30歳過ぎで若死にしてしまいます。残されたのは11歳の幼君で、これが高虎の孫で生駒藩を継ぐことになります。当時の幕府は、幼い殿様が継いだ外様藩に対しては、落ち度を見つけては言いがかりをつけては取り潰すことを繰り返していました。生駒藩がその取り潰しのターゲットになったわけです。そんな中で藤堂高虎は家康に気に入られて、幕府からも一目置かれる存在でした。そこで生駒藩を守り、幕府介入の口実を与えないために目付(全権委任腹心)を送り込むことにします。その目付に撰ばれたのが育ててきた西嶋八兵衛だったのです。
 こうして讃岐にやってきた八兵衛は当時は26歳なんですが、今の県庁で云えば総務部・土木部部長に東京出張所所長を兼ねたような権限を持っていたことになります。ちなみに、この時点では、生駒藩の重臣たちは西嶋八兵衛が土木技術者であることはどうも知らなかったようです。西嶋八兵衛はあくまで藤堂高虎が送り込んだ全権委任の家老代理のような存在だったのです。

西嶋八兵衛 来讃理由

Q2 なぜ若い他国者の西嶋八兵衛に大工事を任せたのですか?

生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎
 それは主君藤堂高虎が「築城の名手」であったからです。高虎は、家康の命令で江戸城・二条城・大阪城のなどの天下普請を行っています。そこに八兵衛を参加させ実際に縄張り造り(設計)もやらせています。天下普請は、当時の最大の規模で、最高の技術を競う「土木技術競技会=土木技術コンテスト」のようなものでもありました。そこで西嶋八兵衛は腕を磨いた経歴も持っていました。それを知っていたので旱魃で農民達が逃散する現状打開のために、藤堂高虎は生駒藩の重臣たちに次のように伝えています。
「生駒藩が現在の危機をのりこえるためには、灌漑の便をよくし、百姓共の心をを落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、伊勢藩では郡奉行をつとめ、灌漑土木事業には巧者(たっしゃ)の者である。故、西島と心を合わせて事を運ぶよう」

 こうして生駒藩では西嶋八兵衛を中心に「挙国一致」で体制が整えられます。それが讃岐各地で一斉にため池や用水路の大型土木工事が始まる政治的な背景になります。これを大きな目で見ると天下泰平の世の中になって、城づくりの軍用技術が、治水灌漑などの民政技術に転用される時代がやってきたこと、そのさきがけを告げるもので、その中心に讃岐では西嶋八兵衛がいたという意味づけができます。

矢原邸(現在)
現在の矢原邸跡(まんのう町池の尻 ほたる見公園付近)
Q3 満濃池再築で立ち退きを迫られた人達はどうなったのですか?
このあたりが立ち退きを迫られた池之内村の人達の移転先と伝えられています。満濃池の堰堤の下側に当たるので「池の尻」と呼ばれています。このあたりを描いた江戸末期の絵図がこれです。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
            矢原家(まんのう町池の尻) 讃岐国名勝図会
大きな屋敷と松が描かれています。これが池之内村の名主だった矢原氏の移転後の屋敷になります。その跡がこの森になります。矢原家に残された文書には、西嶋八兵衛とのやりとりが次のように記されています。

   矢原家が満濃池跡に所持する田畠二十五町余を、池の再築のために総て差し出すことを、主君に伝えました。するとその行為についてお喜びの様子でした。いずれかの機会に、何らかの形で矢原家への処遇を考えたいと仰せられていた。讃岐の衆人の見守る中での今回の行い、まことに誉れ有る行為である。

 ここからは、家老待遇の身でありながら西嶋八兵衛が矢原家に何度か足を運んでいたこと、そして満濃池築造の必要性を訴えて協力を求めていたことが分かります。今でも大規模工事をスムーズに進めるには地元の人達の協力が必要です。そういう点で西嶋八兵衛は、矢原家などの同意と協力を得ながら再築を奨めたことがうかがえます。そして矢原家の協力に対して、25石の所領と池の守の役職を与えることで報いています。いろいろな配慮や調整をしながら工事を進める利害関係調整能力や、その人柄までもがうかがえます。
Q4 空海に比べて西嶋八兵衛の業績があまり語られないのは?
満濃池を修復をした人物は3人います。
A 古代の空海
B 近世はじめの西嶋八兵衛
C 明治維新前後の長谷川佐太郎

弘法大師像除幕式 1933年.2JPG
満濃池の空海像 1933年建立

弘法大師像除幕式 1933年

空海については、神野寺に大きな銅像が昭和8(1933)年に建てられています。これが満濃池=空海築造を思い浮かばせるモニュメントとなっています。

長谷川佐太郎顕彰碑
満濃池堰堤の長谷川佐太郎の顕彰碑
長谷川佐太郎については堰堤に大きな顕彰碑が建てられています。ところが西嶋八兵衛については、石碑も銅像も満濃池にはありません。満濃池と西嶋八兵衛を視覚的に結びつけるモニュメントがありません。これがひとつの理由かもしれません。
Q5 どうして西嶋八兵衛の顕彰碑や銅像ががないのでしょうか?
  いろいろ考えられますが、西嶋八兵衛には後世の応援団がいなかったことがひとつの理由だと私は思っています。具体的には、次のような事が考えられます。
A地元讃岐の人間ではなかったこと 伊勢から生駒藩にレンタルされてやって来た客臣だったこと
Bもうひとつは彼が活躍した生駒藩が生駒騒動でなくなったこと。その後やってきた髙松松平藩では、初代の松平頼重がカリスマ化されて、それ以前の偉人に関してはあまり評価されなかったこと。
Cそのため西嶋八兵衛は江戸時代には忘れ去られた存在となっていたこと。彼の業績などが語られることがなかった、蓄積されなかったことが挙げられます。
Q6   西嶋八兵衛の再評価について
  西嶋八兵衛が満濃池を再築したのが1631年です。つまり、5年後に再築400周年をむかえることになります。それに向かって、西嶋八兵衛の果たした業績を、ため池づくりだけでなく、丸亀平野や髙松平野全体から見た治水灌漑プランからもみておくこと、ひいては戦乱から泰平時への移りかわりのなかで生駒藩が讃岐にもたらしたものという視点でとらえることが求められていると思っています。その中で西嶋八兵衛の果たした役割が見えてくるはずです。

時間と興味のある方はこちらの「歴史の味方(9分)を御覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=K0gHOxzXlhw
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 香川(かがわ)県 ため池の父・西嶋八兵衛(にしじまはちべえ) | NHK for School
西嶋八兵衛
1631年に満濃池が西嶋八兵衛によって完成したときには、讃岐は生駒氏の単独統治体制でした。
ところが生駒騒動で生駒藩が改易された後は、高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西に分割されることになります。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。今回は、讃岐東西分割に対して、西嶋八兵衛がどんな役割を果たしたのかを見ていくことにします。テキストは、「廃池450余年と西嶋八兵衛の再興 満濃池史76P 満濃池土地改良区50周年記念誌」です。

藤堂高虎の騎馬像(津城跡お城公園内) - No: 4719087|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
藤堂高虎

 天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。藤堂高虎の側近で『民政臣僚』のひとりだった彼が、讃岐生駒家にレンタルされることになった背景については、以前に次のようにお話ししました。
①生駒家三代目正俊が36歳で亡くなり、その子小法師(高俊)が11歳で藩主についた。
②高俊の母は藤堂高虎の養女で、祖父が高虎にり、生駒家と藤堂家は深く結ばれていた
③幼年藩主の登場で、幕府から不利益な措置がとられないように、家康の信頼が厚かった藤堂高虎が後見人となり生駒藩を保護しようとした。
④こうして藤堂高虎は若き『民政臣僚』の西嶋八兵衛を讃岐に「客臣」として送り込んだ。
 西嶋八兵衛は、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間に、讃岐に4回派遣され、19年間を過ごしたようです。その期間は次の通りです。
①1回目(1621年)生駒正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者(25歳)
②2回目(1625年)目付役として来讃し、生駒藩奉行に就任。
③3回目(1630年)藤堂高虎没で一時帰国するも、再度派遣。
 3回目の時には、高虎の死を契機に、八兵衛は帰りたがっていたようですが、後を継いだ高次は「生駒家の様子を見ると、当分は西島が目を光らせていたほうがよさそうである」と考えたようです。高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐生駒藩の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。これは、生駒藩の重臣のベスト5に入る高給取りで、家老待遇でした。実際、この時期は生駒藩で中心的な役割を果たしていたことは以前にお話ししました。
 西嶋八兵衛については、讃岐では満濃池築造面ばかりが伝えられていますが、満濃池を造るために讃岐にやって来たのではありません。生駒藩四代の幼君高俊の政務を補佐するため、伊勢藩の藤堂高虎が親戚の生駒藩に送り込んだ客臣です。今で言えば本省から派遣された総務部長兼、農林部長兼、土木部長の要職で、最終的には千石を支給された家老級人物です。彼は自然災害で危機的な状況にあった生駒藩を、藤堂高虎の指示を受けて立て直します。そのひとつが決壊したまま放置され、忘れ去られていた満濃池の再築でした。

西嶋八兵衛による満濃池築造に関する年表を見ておきましょう。
1626 矢原正直が、旧満濃池内に所持の田地を差し出す。(満濃池営築図)
1628 藩主生駒高俊の命により、西嶋人兵衛が満濃池再築に着手。(満濃池営築図)
1631 (寛永8年) 満濃池築造完成(那珂郡満濃池諸色御普請覚帳)
1633 「讃岐国絵図」が作成される。
1635 矢原家、生駒家より50石を与えられ満濃池の池守となる。(矢原家文書)
1640 東西分治に際し那珂郡池御料は幕府の直轄地となる。
1641 分割の執政官として、老中・青山大蔵、勘定奉行・伊丹播磨など来讃、西嶋八兵衛は「案内人」に指名
1641 満濃池配水に関する特別慣行を幕府の執政官に提出、証文揺。幕府が池御料を吟味して水掛石高を定める。
 丸亀藩藩主に肥後天草から山崎氏が決定。
1642 池御料の代官所を苗田村に置き、守屋与三兵衛が初代代官となる。
          高松藩藩主に松平頼重が決定

 寛永十七年(1640) 生駒高俊は、お家騒動を理由に讃岐を追われ、堪忍料一万石で出羽国由利郡矢島に左遷されます。
幕府はそのあとに、讃岐を高松藩と丸亀藩に二分割して統治することにします。翌年に、分割の執政官として讃岐に派遣されたのが、老中・青山大蔵幸成(尼崎藩主)、勘定奉行・伊丹播磨でした。土地にはそれぞれ漁業権や山林の入会権、水利権などが複雑にからんいます。石高だけのソロバン勘定だけで処理すると、あとあと厄介な問題が起きかねず、責任問題にもなりかねません。そのために老中の青山大蔵は、讃岐の事情に詳しい西嶋八兵衛を、伊勢国から高松城に召し出して、「案内役」として事務処理をやらせることになります。これが西嶋八兵衛の4度目の来讃となります。
 西嶋八兵衛が丸亀平野でとりくんだ課題は、次のようなものでした。
①丸亀平野南部の村々の里山の入会権
②満濃池水掛について、
①については、以前にお話したので省略します。②の満濃池の水利慣行については、この時に作成されたA「満濃池水懸申候村高之覚」とB「先規」が以後の管理基準となり運用されます。この記録は寛永18年(1641)10月8日の日付で、満濃池関係の記録としては一番古いものになるようです。Aの「覚」は水掛かりの村々の石高を次のように記します。
満濃池水懸中候村高之覚
仲郡高合 一万九千八百六十九石余         二十一か村   
多度郡高合 一万三千七百八十五石二斗余   十七か村     
鵜足郡高合 三千百六十石                         八か村       
総高   三万五千八百十四石二斗余       四十六か村        一万四千三百六十五石二斗余
右は分木西股へ懸り申候分 一万五千五百十九石余
右は分木東股へ懸り申候分 五千九百三十石余
右は分木より上分、此分は水干にて御座候故、割符の外地水遣され候定に御座候
以上
水利や池の補修については、それまでの慣行を「先規」として次のように記します。
  一、多度郡大麻村と仲郡櫛梨村の両村と毎年替し水の事
大麻村へ懸り申候満濃池の番水を与北櫛梨村へ遣し、与北櫛梨の出水、苗田三田の井の水を池水程分木を据て大麻村へ取替し申候。満濃池水溜まり候へば、苗田三田の井を開き、与北櫛梨へ取り、大麻村へは水遣し申さず候事
  意訳変換しておくと
大麻村に広がっている番水(順番に使用する灌漑用水)を与北・櫛梨村へ送り、与北・櫛梨の出水や苗田・三田の井の水を、池の水程度の分木を据て大麻村へ取り替えること。満濃池の水が止まった際には、苗田・三田の井の分を開いて、与北・櫛梨へ取り送り、大麻村へは水を送らないこと。

一、仲郡上分は水千にて御座候に付、苗代水詰り申候節御断申上候へば先年より苗代水被遣候、仲郡下分は出水三つにて御座候に付、外の郡よりは例年先に水遣わされ候、満濃池二番一番の矢倉は仲郡上之郷に留め申し候事
  意訳変換しておくと
仲郡の上分は水が少ない状況に付き、苗代の水が詰まった際には、断りを言った上で先年以来苗代の水を送っていた。仲郡の下分は出水が三つなので、外の郡よりは例年先に水を送っている。満濃池二番一番の矢倉は、仲郡上之郷に留め置くこと」。

一、満濃池浪たたき損候へば、五毛・春日両村の藪にて篠を切り、浪たたき仕置申候。同立木ねた木切り申す山は七箇村西分東分の両山にて切来りいずれも人足は水掛かリヘ仰付けられ候事
意訳変換しておくと
満濃池の浪たたきが損傷した際には、五毛・春日両村の藪竹を切り取って、浪たたきを作ること。同じく立ち木・ねた本を切り取る山は七箇村の西分・東分の一つの山から切って持って来るが、いずれも人足は水掛かりに申し付けること。

一、右の池矢倉はちのこ損候えば、鵜足郡長尾村にて伐木仰せ付けられ候、先代より仕置来申候、人足の義は右同断に御座候
意訳変換しておくと
右の池矢倉のはちのこが損傷した際には、鵜足郡長尾村に伐木を中し付けることは、先代からの仕来りであり、人側については右と同様である。

一、右の池より西の方の村、先代より浪差切に御座候、上は岡と申す山の尾切に御座候、池より東方の村は嶺の道切、上は五毛の川切に仰付けられ候事

意訳変換しておくと
右の池よりも西方の村は、先代から浪差切であり、上は岡という山の尾切である。池よりも東方の村は嶺の道切で、上は五毛の川切に仰せ付けられる。

  右の通少しも相違御座なく候、若し以来此内より新規成義申出候者これあるに於ては、金昆羅の神前にて火罪を取り誤り候へば急度曲事可被仰付候、其時少しも申分御座有る間敷候、井びに堤修復樋揺木損候はば、御知行所御地頭様より、高積りを以て入用被仰付可被下候、後日の為此書上申候 如件
意訳変換しておくと
右の通り少しも相違はありません。もしこの後この内から新たに申し出る者がある場合には、金昆羅様の神前において火罪をとり(烈火の中に手を入れさせて正邪を裁く神明裁判を行い)、誤りがあれば急度曲事(速やかなる処罰)を申し付けるが、その際には少しも申し分(言い分)はあってはならない。井びに堤の修復の樋の本が損傷した際には、知行所の地頭から、石高の状況を計って必要経費を仰せ付けること。後日のために、右に記した通りである。

寛永十八年巳十月八日
      仲郡原田村         大庄屋  又作 印
同郡苗田村         大庄屋  与三兵衛 印
多度郡弘田村       大庄屋  与惣右衛門 印
同郡山階村         大庄屋  善左衛門 印
字多郡岡田村       大庄屋  久次郎 印
同郡小川村         大庄屋  加兵衛 印
御奉行様
以上の「先規」を受けて、幕府執政官は次のように記します。(意訳)
 右の通り村々の灌漑用水の配分については、新たな状況にを穿愁(ほじくり返す)すことが終わり、各村々の同意文書へ印鑑を押したものを満濃池の池守に預けておく。もしも用水配分などで新たな申分(言い分)が出てきた場合には、大庄屋に預けてある書付(証拠書類)の内容に従い、ひいきすることなく判断すること。もし双方で争うようなときには、地頭に検使を申し出て、書付にあるように火罪(烈火の中に手を入れさせて正邪を裁く神明裁判)に処すこと。
 以前からの掟によって池守に支給した給ってきた石高は二十五石であるが、これをそのまま出し与える。しかし、(池の管理について油断や落ち度があれば曲事(処罰)を与えることとする。
  寛永十八年巳十月九日 
     能勢四郎右衛門
                伊 丹 播 磨
                青 山 大 蔵
  右の一札を池守に渡しておく             (「満濃池水懸申候村高之覚」「先規」鎌田共済会郷土博物館所蔵)
満濃池築造やその用水路建設、水掛かりなどを通じて、西嶋八兵衛と丸亀平野の庄屋たちは旧知の間柄で、互いに信頼感もあったのでしょう。「(東西分割という)新たな状況(への対応のため)に(先例慣例)を穿愁(ほじくり返す)」したことが記されています。これは満濃池や灌漑用水路を整備した西嶋八兵衛ならこそスムーズにできたことです。彼は満濃池の水掛かりである鵜足、那珂、多度の三郡四十六か村(35804石)の大庄屋たちに命じて、満濃池掛かりの郡村別石高を記入した「満濃池水懸申候村高之覚」を提出させます。
 そして分割したあと丸亀藩と高松藩との水利紛争を避けるため、末尾に満濃池の用水配分の慣行や、池修繕のときの木材や竹を切り出す山林まで細かく明記します。上申書の末尾には老中青山ほか二名の幕府執政官が署名捺印し、「右の一札を池守に渡しておく」とあるので、一部が満濃池守に預け置かれたことが分かります。対応ぶりに卒がありません。老中青山は、西嶋八兵衛の仕事ぶりを見て、褒賞として太刀一振を与えています。ここで押さえておきたいのは、池守が矢原氏だったとはここでも記されていないことです。

こうして1641年秋、山崎氏が丸亀藩(5,3万石)、翌年松平氏が高松藩(十二万石)に封ぜられます。満濃池の維持管理や配水運営については、両藩の境に残された天領を管轄する倉敷代官所が主導権を握り、水利の一体性がうまく保持されることになります。これらの案を作ったのは、西嶋八兵衛だと私は考えています。
西嶋八兵衛は1631年に、満濃池を完成させるのと同時に、丸亀平野の治水工事を行い、灌漑用水路の整備を行いました。これによって丸亀平野一円への灌漑用水の供給が可能となったのです。それを運用したのは、満濃池掛かりの各村々の庄屋たちです。
 それが大きく変化するのが生駒騒動でした。
生駒藩転封によって「讃岐=生駒一国体制」から「讃岐=東西分治」となます。それは丸亀平野に高松藩と丸亀編の境界線が引かれることを意味しました。これは満濃池の水掛かりも分断することになります。この課題解決のために、再登場するのが満濃池の産みの親である西嶋八兵衛でした。これが八兵衛の4度目の来讃でした。こうして見てくると、現在の満濃池や用水路の原型は西嶋八兵衛が作り出した物であることがよく分かります。空海の満濃池築造がおぼろげで、よく分からないことが多く、現在の満濃池に直接は関係しないことが多いのとは対照的です。「空海が築いたと言われる満濃池」とぼかされるのに対して、「西嶋八兵衛が築いた満濃池」は確かです。満濃池の湖畔の神野寺には、弘法大師1150周年を記念して大きな弘法大師像が建てられています。しかし、西嶋八兵衛の像はありません。西嶋八兵衛によって築造されてから400年後の2032年に、西嶋八兵衛の像が建立されるという話は聞いたことがありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「廃池450余年と西嶋八兵衛の再興 満濃池史76P 満濃池土地改良区50周年記念誌」
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香東川の流域図
西嶋八兵衛による香東川一本化説の説明図

香東川については、次のようなことが通説とされてきました。
①西嶋八兵衛による高松城下の治水のために付け替え工事が行われたこと
②栗林公園は、香東川の旧河道上に築かれた公園であること
③付け替え工事地点に、西嶋八兵衛は「大禹謨」碑を建てて工事の安全成就を願った

しかし、このような説に対して近世の讃岐国図などの絵図史料に基づいて批判反論が出されています。それは、絵図資料では江戸時代を通じて、香東川は分流して描かれており、河川の付け替えや一本化工事が行われたことがうかがえないというものです。今回は、西嶋八兵衛による香東川の改修工事が本当に行われたかどうかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明   近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」です。

まず、西嶋八兵衛が改修工事を行ったという史料を見ておきましょう。実は正式な文書に、西嶋八兵衛が香東川改修工事を行ったという記録はないようです。
史料とされるのは、近世前期に地元の庄屋の書いた『大野録』で、次のように記されています。
香渡(東)川は寛永の頃まで、大野の郷の西より二股にわかれて、 一筋は一の宮・坂田の郷をへて室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、いとが浜の西に入りけり。又一筋は弦打山の西にそふて今のごとし。営村の中洲といへるは、則ち両河の間也。寛永中、自然の河瀬深くなりて、東は浅くなりければ、国主生駒公より堤を築きて、東の河筋を畑にひらかせたまひ、古河新開と号す。

意訳変換しておくと
香渡(東)川は寛永の頃までは、大野郷の西で二股に分かれて、東の流れは一の宮・坂田の郷を経て室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、いとが浜(浜の町)西で海に流れ出していた。西側の流れは、弦打山の西に沿って、今の流れと同じであった。大野の中洲と呼んでいるところは、この両河の間に挟まれた地帯のことを指す。寛永年間中に、自然に西側の河瀬が深くなって、東側は浅くなってしまった。そこで、国主生駒公はここに堤を築いて、東の河筋閉じて、その河道跡に畑にひらかせた。そこで、古河新開と号す。

 ここには「国主生駒公はここに堤を築いて、東の河筋閉じて、その河道跡に畑にひらかせた」とあります。それが西嶋八兵衛によるものとは、どこにも書かれていないことを押さえておきます。
また記された内容について検討しておくと、香東川の東の流れ(現在の御坊川)が、一宮・坂田を経て室山の東をめぐっているというのは正しいようです。しかし、石清尾山の下を流れ、糸が浜(現在の高松市浜ノ町)の西で海に流れ込んでいたというのは誤りだと研究者は指摘します。香東川の東の一筋は、御坊川で新川と同じような所に流れ込んでいました。ここからは記述に正確性に欠け、二股の香東川の東の一筋を塞ぎ止めて二つに分けたというのも、間違っている可能性があると研究者は推測します。
 また  『大野録』は、次のように記しています。
村翁伝へ申されしは、大むかしの大河は、井原庄竜満山の麓に沿ひ、夫より大野、浅野の境を経、ももなみの郷に流れて、北方海に入りけり。是に依って、今その筋低うして石尚多し。又浅野分の河跡を今尚河原と号す。大野分の河跡を東原といへるは、いまだ畑にひらかぎる先、荒野なればなるべし。又揖取といえる地の名はそのかみの渡し場にて、舟引き居りし処ならん。(中略)
寛永以来、河跡の荒野を田に開きし時、石をば所々に集めてものらしければ、此の筋今石塚多し.彼の墓土はその石塚をおし平げて則ち葬地になせしぞ。愚案ずるに、右大河ありしは貞観中より昔ならん。
  意訳変換しておくと
 村翁が伝へるところによると、大むかしの香東川は、井原庄竜満山の麓に沿って、大野、浅野の境を経て、ももなみの郷に流れて、北方の海に流れ込んでいた。このため今もそのエリアは、低地で石が多い。また浅野の河跡は、今も河原と呼ばれている。大野の河跡を東原と呼ぶのは、いまだ畑に開くことができず、荒野のままであるからであろう。また楫取という地名は、その上流に渡し場があって、舟引きがいたからではないだろうか。(中略)
寛永以来、河跡の荒野を水田に開いた時に、土の中から出てきた石を所々に集めた石塚がこの筋には多い。またこの地域の墓地は、その石塚を押し広げて葬地にしたものだろう。愚案ずるに、このような大河があったのは、貞観中より昔のことであろう。

『大野録』は、河原・東原・梶取りなど、かつての「大河」があったと示す地名があり、河原石で築造した石塚(積石塚)が見られることを挙げて、大昔の香東川は、現在よりも東を流れていたと推測します。しかし、これも間違っていると研究者は指摘します。また、推測に基づく記事内容が多いのも気になるところです。
『大野録』の記述内容については、近代になるまで余り触れられることもなく、史料として取り上げられることもなかったようです。西嶋八兵衛についても、生駒藩が取り潰され髙松松平藩になると、忘れ去られた存在で、近代の香川県でも、知る人はほとんどいないような状態だったようです。
そのような中で大正元(1912年に『大禹謨』碑が発見されてから風向きが変わります。
この年の大洪水によって、県道岡本香川線の川部橋の北方約400m地点で香東川の堤防が決潰し、その冬に行われた修理中に人夫が数尺下に埋もれていた『大禹謨』碑を掘り出します。発見当初は、誰かの墓でないかとされ、香東川の川東の英師如来のかたわらに置かれました。それに注目したのが、四番丁小学校の校長で郷土史家でもあった平田三郎氏です。平田氏は昭和20(1945)年の高松大空襲のあとで、大野に疎開していて、この『大禹謨』碑に注目します。そして、大野禄と西嶋八兵衛の治水工事と、この碑を相互に関連するものという説を出します。
香東川 分岐説1
『大禹謨』碑付近が分岐点だったとする説
 これを受けて藤田勝重氏は、碑が発見された地点からあまり遠くない上手の川部橋の南方約500m地点に分流点があったこと、碑は西島八兵衛が香東川の東の一筋をふさいで高松城下を洪水から守る治水事業の完成記念として設置されたものだとしました。
 さらに中原耕夫氏は、香東川の川幅は川東の「柳生」から大野にかけて急激に広くなり、御坊川の水源を「柳生」の大久保出水あたりに求めることができ、古老たちが「柳生」が分流点だと言い伝えていることから、川部橋の南方約2,6㎞の「柳生」が分流点であるとしました。
 こうして、香東川が一本化される前の分岐点論争が始まります。
それと同時に、香東川が一本化されたこと、それを行ったのは西嶋八兵衛であること、その成就記念碑が『大禹謨』碑であることが既成事実化されていきます。
 藤田勝重氏は、『大禹謨』碑の文字を三重県の郷土史家の家村治円郎氏に筆跡鑑定を依頼します。その結果は、「八兵衛の真筆」というものでした。それを受けて、昭和37(1962)年に栗林公園事務所長の藤田勝重氏は、栗林公園が西嶋八兵衛の香東川一本化改修工事の結果、東の河道跡につくられたして『大禹謨』碑を、栗林公国内の商工奨励館の中庭に設置し、元の地にはレプリカを作って設置しました。
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栗林公園内に移された『大禹謨』碑

その後、藤田氏は『治水利水の先覚者の西嶋八兵衛と栗林公園』を発行しています。こうして「香東川一本化=西嶋八兵衛の改修工事=『大禹謨』碑はモニュメント」という説は、より強固な説になっていきました。

昭和46(1971)年に出された『香川県の歴史』には、次のように記されています。
 長い戦乱で田地は荒廃し、そのうえ雨が少なく、長大な河川に恵まれない讃岐では、農業生産の増大をはかるためには、溜め池を築造して新田を開発することがきわめて重要な事業であった。この目的をもって寛永五年(1628)、生駒第四代藩主高俊は、伊勢より西島八兵衛を招いた。
八兵衛は土木普請のオ能にすぐれ、そのうえ政治・経済にも通じていたので、早速、領内をくまなく見分し、あらたに溜め池をきずき、修築や増築などにも力をそそいだ。450年もの長い間、荒廃したままであった満濃池を復旧し、三谷池(高松市三谷町)・神内池(高松市山田町)・立満池(香川郡香川町)。小田池(高松市川部町)など、今日、香川県下にある著名な池90余を築造あるいは増築して、讃岐のこうむりやすいひでりに備えたことは大きな功績である。そのほか香東川のつけ替えもおこなったのであった。
 ここには、藤堂高虎が目付として派遣した西島八兵衛が、生駒家に仕えて満濃池を初めとするため池を数多く築造し、香東川などのつけ工事も行ったとされています。
 これに対して「見直し」の動きが近年になって出てきています。
平成五年発行の『香川町誌』は、香東川の改修工事ついて、次のように記します。
「付替え説には、証拠となる確たる記録はない。」
「この説は『大禹謨』碑石の発見と、西嶋八兵衛の讃岐国におけるため池築造を中心とする治水・利水の事績をもとに、組み立てられた説である。
  もしかして、香東川は二つの流れではあっても、東の流れは香東川の氾濫原であって、西島八兵衛による香東川の治水工事は川の付替えではなく、氾濫を防ぐための、東岸堤防の構築を中心とした治水工事であった可能性が考えられる。
ここでは、「香東川の一本化付替説」が『大㝢護』碑石発見と西嶋八兵衛の治水・利水の事績をもとに「こうあって欲しい」という願いをもとに組み立てられた机上の空論であると指摘します。

東京教育大学地理学教室は、報告書の中で次のように記します。   
旧流路は自然堤防となって残り、自然堤防は香川町大野より下流の現香東川の流路に沿うものと、この流路に針交して南北に細長くのびる数列の徴高地で、これは御坊川の流路にあたっており、御坊川は香東川の中流で分流した東の筋である。新岩崎橋南方付近で香東川は近世にも現在も二つに分流して流れていて、『大野録』の記述を信用して、分流点論争をすることは無意味と思える。

ここには香東川は昔も今も分流しており、分流点を論争するのは無意味とまで言い切っています。

これに加えて、絵図資料の分析からも香東川の一本化はなかったという説が出されています。それを見ておきましょう。
江戸時代に幕府の命に応じて作られた、讃岐の国絵図には、以下のようなものがあります。
①丸亀市立資料館本 (1633年作成)
②金刀比羅宮本 (1640年作成)
③高松市歴史資料館本 (17世紀後半  元禄年間作成)
④内閣文庫本   (1838年作成 天保国絵図)

これらの国絵図は、幕府が、各藩に作成・提出を求めた国絵で、信頼性が高いとされます。まず④の天保国絵図を見てみます。前回も見たように、グーグルで「讃岐国絵図」で検索し、国立文書館デジタルライブラリーを開いて、天保国絵図を見てみます。

香東川 天保国絵図1 

天保国絵図 国立文書館デジタルライブラリー版

上の地図からは19世紀になっても、香東川は東西に分岐して流れていたことが分かります。そして、高松城を挟むようにして、海に流れ出しています。そして東の流路は、栗林公園を通過していないことを押さえておきます。次に香東川の分岐点周辺を拡大してみます。
香東川 天保国絵図2 分岐点周辺 
        天保国絵図 香東川分岐点拡大図

分岐点は、②の寺井村と③河(川)辺村の間です。小田池からの用水路の合流地点でもあるようです。ちなみに図中の、赤線は街道で、それを挟む形で描かれている2つの黒丸は一里塚の表示だそうです。

それでは、西嶋八兵衛が一本化工事を行ったといわれる後に、松平藩時代になって幕府に提出された「正保国絵図」に、香東川がどのように記されているのかを見てみましょう。

下図は、17世紀前半の「正保国絵図」の香東川の分岐周辺の写図です。
香東川 正保国絵図1 
この絵図でも東の寺井村と西の川部郷の間の②で香東川が東西に分岐しています。分流した川にはそれぞれ次のような注記があります。
①東側の流れについて、
「一ノ宮川 広八間 深六寸 洪水時一町三十間 渡リナシ」、
②西側の流れについて
「圓(円)座川」「川幅六間 深五寸 洪水ノ時広廿間 渡なし」
東側の河道には「香東川」との注記もあります。分かれた川は、それぞれの流域から一宮川と円座側と呼ばれていたようです。成合は、その二つの川に挟まれたエリアであったことが分かります。ここからは、西嶋八兵衛が灌漑工事を各地で行っていた後も、香東川の流れに変化はなかったことが分かります。ちなみに、一の宮村にある「明神」が、現在の田村神社のようです。
  現在の郷東川と御坊川の分岐点を、下の地図で確認しておきましょう。
香東川 現在の分岐点

現在の香東川は新岩崎橋付近で二股に分かれて、東の流れを御坊川と呼び、西の流れを香東川と呼んでいます。ここからは、近世から現在まで香東川は、中流で二股に分かれて流れていとことが分かります。幕府提出用に作成されたという各時代の讃岐国絵図には、香東川の二つの流れを一本化したという工事の痕跡をみつけることはできないようです。
以上から研究者は次のように指摘します。
①  西島八兵衛は香川町大野で二つに分かれて流れている香東川の東の一筋を塞ぎ止め一本化するという付け替えを行わなかった。
②西嶋八兵衛は「大禹謨」碑を建てることもしなかった。
『大禹謨』碑は香東川に堤防を築いた人物が、工事の完成を祝って建立したもので、発見場所から遠くない堤防の上に建てられていたのであった。西嶋八兵衛の利水・治水事業は高松城の安泰をはかるため、東の一筋を寒ぎ止めて西の一筋だけにするという改修工事事を行ったという誤った説を生み出し、更にこの改修工事に伴ってできた東の一筋の廃川敷に栗林公園がつくられたという誤った説を生み出した。
香東川 天保国絵図2河口付近 
天保の讃岐国絵図 現栗林公園付近を流れる川は書かれていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

 

     
西嶋八兵衛5
西嶋八兵衛(大正時代の絵はがき)
 
最初に 村治圓次郎の『西嶋八兵衛翁』で彼の略歴を見ておきましょう。

西嶋八兵衛伝1
西嶋八兵衛4


西嶋八兵衛年表1


慶長元年(1596)遠州(静岡県)浜松で生まれた(八兵衛自身の由緒書などの史料には記載なし)幼名は之尤(ゆきまさ)で、八兵衛は通称です。木端の名を持ち、晩年は拙翁とも号する文人でもありました。八兵衛の父は、西嶋九郎左衛門之光で、藤堂高虎に仕えていましたが、年老いたため浜松で隠居生活に入ったようです。
慶長17年(1612)、八兵衛が満16歳の時に、父は息子を高虎へ出仕させようと駿府(静岡市)に行き、家老藤堂古采女(采女元則)の斡旋で、父の跡を継ぐ形で高虎に仕え始めます。父子共に高虎の家臣となります。当時、家康は駿府を隠退の地として、江戸城から移っていました。藤堂高虎もそれに付き添うように、駿府に屋敷を設けていたようです。
生駒藩 藤堂高虎
藤堂高虎

八兵衛は、最初は高虎の右筆(近習役・記録役)として仕えたようです。
 関ヶ原の戦いや大坂の陣で高虎の傍らにあって、戦闘の記録を担当しています。達筆な筆跡の文書が伝わっています。
西嶋八兵衛文書2
西嶋八兵衛の若い頃の文書記録
同時に、高虎の身近に仕えて、次第にその信頼を得るようになっていったようです。
 主人の藤堂高虎は、秀吉の弟秀長に仕えていた頃から和歌山城・今治城を築き、次第に「築城の名人」と云われるようになり、家康の下では江戸城・丹波亀山城(京都府亀岡)・安濃津城(三重県津市)・伊賀上野城など数多くの城を築城しています。八兵衛もまた経験豊富な高虎の側に仕え、土木現場の実情や技術者集団に接する中で、築城や土木工事に関わる諸知識を身につけていったようです。
 元和5年(1619)、家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。
高虎は、この時に八兵衛に、その縄張り作成・設計の実務にあたらせます。八兵衛23歳の時のことです。翌年の元和6年(1620)には、夏の陣・冬の陣で焼け落ちた大坂城の修築にも当っています。当時の最高の規模・技術で競われた「天下普請」を経験を通じて、築城・土木技術者としての能力を高めていったようです。
天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
 大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。そのような系列に西嶋八兵衛も立つことになります。そんな八兵衛が、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されることになります。八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃です。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、どうして生駒藩に派遣(レンタル)されたのでしょうか。

西嶋八兵衛 来讃理由


生駒親正

生駒親正
  まず生駒家と藤堂家には、強い絆が結ばれていたことです。
藤堂高虎は仕えていた秀長(秀吉の弟)が亡くなり、その甥で養子の豊臣秀保も文禄4年(1595年)早世すると、無能な主君に仕えることをせずに高野山で出家して隠遁生活を送っていました。その将才を惜しんで「復職」の説得を行ったのが生駒親正です。これによって高虎は秀吉に仕え、伊予宇和島7万石の大名に「再就職」することができたのです。高虎は、親正に大きな恩を受けたことになります。
  これ以外にも生駒家と藤堂家は秀吉の子飼い大名という出身ながら、関ヶ原の戦い前後の大政治変動を巧みに泳ぎ抜けた経歴などに似通ったところがあります。そして、両藩共に外様ながら家康からも一目置かれる雄藩だったのです。特に藤堂高虎は、秀吉の弟の秀長の家老に任ぜられていましたが、処世にはなかなかの練達者で、秀吉の死後はぴったりと家康に密着し、外様大名の中では最も家康の気に入られる存在になっていきます。この変わり身のうまさを「風見鶏」とも揶揄されたりもするようです。

生駒騒動 関係図1
 生駒・藤堂家の関係は、その後もいろいろな形で婚姻関係が結ばれるようになります。三代目正敏には高虎の養女が嫁いできます。正俊は、藤堂高虎の娘を夫人としていたのです。生駒藩四代目として生まれてきた高俊は、藤堂高虎から見れば「孫」に当たります。両家は親戚で、強いパートナーシップをもつようになります。
そのような中で生駒藩に危機が訪れます。
三代目正俊が元和7年に36歳で亡くなるのです。正俊には、たった一人の男の子・小法師(高俊)がいましたがやっと11歳でした。当時の幕府は家光の「外様取りつぶし策」の全盛時代でした。幼年の藩主の場合には、責任ある統治が出来ないとの理由で大幅に領土を削られた例もありました。
 そこまで至らなくても幼年藩主の場合は、監督のために幕府から毎年国目付をつかわすことになっていました。その際には、歓迎儀式やなどで格式張った気づかいが求められます。どちらにしても生駒藩としては避けたいところです。
 何らかの不利益な措置が幕府によってとられるのではないかという危惧が、生駒藩内に漂いました。そんな中で藤堂高虎は生駒藩のために一肌脱ぎます。自らが生駒藩の幼い藩主(孫)の「後見人」となって、支えることを幕府に申し出ます。家康の信頼の厚かった藤堂高虎の申し出に幕臣達も動けなかったようです。こうして藤堂藩の家臣達が「客臣」(レンタル家臣)として送り込まれることになります。

西嶋八兵衛

西嶋八兵衛
西嶋八兵衛年表2

高虎が家中から選んで、目付として讃岐につかわしたのが西嶋八兵衛です。
 
西嶋八兵衛の讃岐滞在

西嶋八兵衛は讃岐に4回派遣され、約20年間を過ごしたようです。
 一番最初に西嶋八兵衛が讃岐にやって来たのは、正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者とでした。そこで、高虎の下で鍛えられた事務処理能力を遺憾なく発揮して、煩雑な事務を処理し、きちんと高虎に報告します。
 その後、後見人である藤堂高虎の目付的な客臣が高松藩に派遣されることになります。その際に、高松藩側からは、この時の手腕や人柄を高く評価して、西嶋八兵衛の再度の来讃を求めたといいます。高虎も西嶋八兵衛は、子飼いの側近で信頼も厚い人物だったので異論はありません。こうして西嶋八兵衛の二回目の来讃が実現します。
 この時の八兵衛の普請奉行としての二回目の来讃は、寛永二年(1625)のことです。
彼が30歳の時のことで、サラリーは500石で、三年間滞在となります。彼の屋敷は、城内には確保することが難しかったようで、当時の城下町最南端であった寺町のさらに南側に構えられました。今の四番丁小学校の西北角に当たります。幕末の「高松城下町屋敷割図」に、大本寺は「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」との注釈がつけられています。

生駒藩 西嶋八兵衛の元屋敷大本寺
大本寺には「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」と記されている
彼は日蓮宗の高僧、日省上人に帰依していたようで、屋敷跡に大本寺は建立されたと寺伝には記されています。四番丁小学校は、そのお寺の境内に明治に建てられます。ちなみに「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、西嶋八兵衛の屋敷が記されています。その位置は、中堀に面する一番西側で重臣層と肩を並べるロケーションです。この屋敷割図が作られた時点では西嶋八兵衛がVIP待遇であったことが分かります。少し回り道をします
「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には、製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのかが分かりませんでした。そんな中で、この西嶋八兵衛の屋敷から作られた年代が明らかにされました。その過程を見ておきましょう。西嶋八兵衛は寛永2(1625)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあったこと、その後に大本寺は建立されたことが,大本寺の寺伝にあることは前述しました。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では、寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作されたと研究者は考えています。

 八兵衛がやってきた寛永二年(1625)は、大変な年でした。

飢えに苦しむ人達 江戸時代

「寛永三年閏四月七日大雨あり爾後 雨なきこと九十五日、秋七月十五日に至る田毛皆枯死し民人飢餓に迫りて餓死する者多し」

ここには
「寛永3年(1626)4月、大風雨となり、その後、7月に至るまで雨がなく干ばつとなった。稲は枯死し、人々は飢餓に瀕した。」

とあります。年代順に並べると
寛永2年(1625) 秋に大地震 西嶋八兵衛が来讃
寛永3年 大暴風雨、次いで大干ばつ、三か月という長期日照りで作物全滅、餓死者発生
寛永4年 大地震、暴風雨による風水害、収穫皆無
寛永5年 満濃池再築に着手
と、自然の猛威が連続して襲いかかってきたことが分かります。稲が実らず、五穀も残らず、百姓らの困苦は一方でなく、他国に逃散する者も出てくる始末です。

凶荒図録 飢饉逃散
村を逃げ出す農民達

藩の存亡の危機でもありました。首席家老の生駒将監は、必死に対応に努めたようです。  このことを目付の西島八兵衛は、当然に高虎に報告します。それを受けて、高虎は家老の将監や生駒家の重臣らに、次のように指示します。

「今日第一の急務は、灌漑の便をよくし、百姓共を落ちつかせることである。ついては、目付として遣わしている西島八兵衛は、当地にいる頃郡奉行をつとめ、それらのことに巧者の者である故、家老らよく西島と心を合わせて事を運ぶよう」

 生駒家の重臣らは、この指示書を見せて西嶋八兵衛に頼みこんだのではないでしょうか。高虎からの指示でもあり、生駒家の重臣らの頼みもあります。また、目の前の百姓らの困窮を視ているし、やれるという自信もあったのでしょう。西嶋八兵衛は、

 「かしこまった。やってみましょう」

 と答えたのでしょう。そして、讃岐国内を巡って現地を見た上で、各地のため池と用水路の築造計画を立てます。
寛永3年(1626)4月地震・干ばつで生駒藩存続の危機的状況
寛永4年(1627年)西嶋八兵衛が生駒藩奉行に就任
1628年 山大寺池(三木町)築造、三谷池(三郎池、高松市)を改修。
1630年、岩瀬池、岩鍋池を改修。藤堂高虎死亡し、息子高次が後見人へ
1631年、満濃池の再築完了。
1635年、神内池を築く。
1637年、香東川の付替工事、流路跡地に栗林荘(栗林公園の前身)の築庭。高松東濱から新川まで堤防を築き、屋島、福岡、春日、木太新田を開墾。
1639年、一ノ谷池(観音寺市)が完成。生駒騒動の藩内抗争の中で伊勢国に帰郷。
なぜ短期間に、集中してこれだけの工事が行われたのでしょうか?
それは生駒藩が「自然災害による藩存亡の危機」という状況にあったからだと私は思っています。何もしないで座していたのでは、未来に希望を持てない百姓達は讃岐から「逃散」しています。その流れを食い止めるためにも、後見人の藤堂高虎が西嶋八兵衛にやらせろと命じてきたのです。危機の中で、未來に希望の持てる大土木工事を行うというのは、有能な政治家がとる方策です。その危機管理責任者に藤堂藩からレンタル派遣されていた西嶋八兵衛が就いたのです。そして、彼を危機感で団結した家臣団や百姓が担いだのだと私は思います。
 こうして、三谷三郎池(現高松市内)の嵩上げも行われ、続いて寛永5年には源平合戦の中で決壊放置されていた満濃池の修築にかかります。満濃池は400年以上、姿を消し、池の中は再開発され「池内村」が形成されていたのです。この再築については、以前触れましたので、ここでは省略します。 
 満濃池築造のはじまった寛永4年に高俊は15歳になります。

生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
藤堂高虎の子の高次が烏帽子親となって元服させ、一字を与ええて高俊と名乗らせます。そして、高虎は生駒家に対する幕府の覚えをよくするために、高俊と老中首席の土井利勝の女との婚約をとりもちます。後見人としての高虎の生駒家にたいする心づかいは、細やかです。
  若き藩主と幕府老中の娘との結婚が執り行われた年には各地で進めたため池が完成します。
水源確保や暴れ川のルート変更などによって新田開発は一挙に進みます。この新田開発を推進したのが、生駒家に再雇用された讃岐侍たちであったことは前回お話ししました。開発した土地が知行地として認められたために、土着勢力は争って新田開発を行います。それが出来ない他国侍からの不満が生駒騒動の要因になっていくのです。どちらにしても、この時点では生駒藩では太閤検地後の知行制から俸給制への切り替えがきちんと行われていなかったようです。武士達にはサラリーでなく知行地が与えられていることを示す史料が残っています。

西嶋八兵衛の進める灌漑・治水工事について、批判的な藩士もいたようです。
 「百姓は飢え疲れている七、無用な工事をおこして、民を虐げる」
 「農事の水利のことのみを目的としている故、国の要害はまるで失われてしまう」
1630年に藤堂高虎が江戸で亡くなります。
その前に西嶋八兵衛は、江戸に出向いて讃岐の状況を報告する一方、帰国願いを再度願いでたようです。高虎の後を継いだ高次は、このあたりのことを承知していたようです。しかし、生駒藩で重要ポストを占めるようになった西嶋八兵衛は、後見人である目付としては最適で、これに代わる人物はいません。
「八兵衛は帰りたがっているが、生駒家の様子を見ると、当分は西島がいて目を光らせていたほうがよさそうである」

と高次は考えたのではないでしょうか。ちなみに西嶋八兵衛が伊賀に帰ることが聞き届けられるのは、生駒騒動の勃発直前のことでした。「沈みゆく生駒丸」からの脱出だったのかもしれません.
  高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐国の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。
これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。こうして、西島は五百石の加増を受けて、藤堂家からの目付として讃岐駐在をつづけることになります。覚悟を決めた西嶋八兵衛は、いよいよ満濃池再築に向けて動き出すのです。
 西嶋八兵衛のから目から見た当時の生駒藩の政策課題は何だったのか?
それはやはり「知行制からサラリー制へ」の移行、讃岐侍や有力農民による自由な開発に規制をかけること。つまりは家臣団と土地を切り離させること、藤堂藩の事例からそれが藩主権力の強化につながることを熟知していたはずです。そういう目で、生駒藩を見た場合に「危うい藩」と見えたはずです。ため池や治水は完成し、新田開発は行われて石高は増えていますが、それが領主の懐には入ってこないシステムが温存されているのです。これは時代に逆行した制度だったのです。それが保守派の動きで進まない生駒藩は「危うい」と思っていたはずです。

讃岐を去って伊賀に帰った後の西嶋八兵衛は?

西嶋八兵衛 伊賀市

 生駒騒動が始まる前に伊賀に帰ってきた八兵衛は、正保2年頃までの5年間ほどを妻子とともに津の妻の実家である藤堂仁右衛門高経(義兄)の下屋敷で過ごしていたとされています。
 この間に、生駒藩は取りつぶしとなり、松平藩への引渡し作業が行われます。その際に、高松城や讃岐のことを熟知する人物として彼に白羽の矢が当たり、上使案内役として讃岐入りします。これが4度目の来讃となります。この時に高松城や城下町、あるいは自分の屋敷跡をどのような思いで見つめたのでしょうか。心血を注いで立て直した生駒藩がなくなったことへの思いは、いかばかりであったことでしょうか。中国の文人達ならその思いを漢詩に託して詠んだことでしょう。しかし、西嶋八兵衛が四度目の来讃で残した俳句は伝わっていません。

正保2年(1645)、八兵衛は、藩主藤堂高次のもと1000石の江戸家老加判役となります
この頃、藤堂藩支配地の伊賀や伊勢でも大干ばつに襲われ、被害も甚大になって農村の疲弊が著しくなります。高虎の跡を継いだ2代目藩主高次は、農村部の復興を目指し、正保3年(1646)に江戸より帰国します。八兵衛も共に帰国し、伊賀でための新設29池、修理14池を行ったと伝えられます。さらに、翌年からは新田開発を始めます。

西嶋八兵衛年表4
西嶋八兵衛年表 伊勢帰国後

 その業績を受けて、慶安元年(1648)、52歳で、城和加判奉行に任ぜられました。
これは大和・山城に広がる藤堂藩領約5万石の支配地を預かる奉行職です。一時、伊賀奉行も拝命したようですが、52歳の慶安元年(1648)から81歳の延宝5年(1677)の引退まで約29年間、城和奉行として執務します。引退して3年経った延宝8年(1680)3月20日、亡くなります。享年85歳。
西嶋八兵衛の墓2

西嶋八兵衛の墓
西嶋八兵衛の墓(正崇寺)
 ここからは若い時代に藤堂高虎のもとで学んだ築城術を、讃岐の地でため池の築造に活かし、その経験を晩年には、故郷の伊賀の地に還元した姿が見えてきます。
西嶋八兵衛は文人でもあり、俳句や書にも秀でて流麗な筆致を残しています。
 彼の墓は伊賀上野市紺屋町の正崇寺にありますが、脇に正五位の贈位の碑が建っています。大正四年になって香川県の上申で叙位されたようです。ちなみに八兵衛を祭った神社は香川県にはありません。彼が神となって敬われることはなかったようです。ただ、津市高茶屋の水分神社だけです。彼のことが後の讃岐では忘れられた存在となっていたことが分かります。自分の親分の政治家の銅像を建てようとするのは近代に流行になりますが「讃岐の大恩人・西嶋八兵衛」の銅像が讃岐に建てられることはなかったようです。
 満濃池を作ったのは空海と云われますが、これは「空海伝説」です。史料的に、それを裏付けるものは現在の所ありません。研究者は「空海が造ったと云われる満濃池」という言い方をします。その意味では、現在の満濃池の直接の築造者は、西嶋八兵衛に求められると云っても過言ではないように思います。しかし「空海築造」は云われても、西嶋八兵衛による再築を語る人は少ないようです。 「そんなものだよ歴史は・・・」と八兵衛は、つぶやいているかもしれません。

満濃池と龍3
 
 満濃池には、古くから龍が住むという伝承があります。
『今昔物語集』には龍の棲む池として、また中世の『志度寺縁起』には、蛇になった志度の猟師当願の住む池として語られています。
『讃岐国名勝図絵』嘉永7年(1854)刊行にも、空海の築堤の説話と、池に棲む大蛇が海に移る際に堤が壊れたと記されます。そのうえで、元暦の大洪水による決壊後は長らく村と化していたが、寛永年間に西嶋八兵衛により再築が行われたことが語られます。

満濃池と龍

 今回は西嶋八兵衛による満濃池再築を見ていくことにします。
「満濃池営築図」原図(坂出の鎌田博物館の所蔵)を見てみましょう。
DSC00813















      満濃池営築図 原図(寛永年間)
この図には、中央に池の宮がある小山が描かれ、その左右に分かれて水流が見えています。 ここに描かれているのは、源平の兵乱の中の元暦元年(1184)に崩壊して以来、450年間にわたって放棄された満濃池の再築以前(寛永初め)の景観です。少し見にくいので、トレス版でみることにします。まんのう町 満濃池営築図jpg
満濃池営築図 トレス版(寛永年間)


満濃池営築図 寛永複写版鎌田博物館2
提供 中讃ケーブルテレビ 歴史の見方より
A 左下から中央を通って上に伸びていくのが①金倉川です。川の中には、大小の石がゴロゴロと転がっている様子が見えます。鎌倉時代の崩壊時の時に崩れ落ちた石なのでしょうか。

B 金倉川を挟んで中央に2つの山があります。
左(東)側が④「護摩団岩」で空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる「聖地」です。現在では、この岩は満濃池に浮かぶ島となっています。川の右(西)側にも丘があり、よく見ると神社建っています。これが②「池の宮」です。現在は神野神社と飛ばれていますが、江戸時代の史料では、神野神社という表記は出てきません。丘の右側の小川は③「うてめ」(余水吐)の跡のようです。「余水吐き」が川のように描かれています。

C 古代の満濃池については、何も分かりませんが、この二つの丘を堰堤で結んでいたとされていいます。それが崩壊したまま450年間放置されてきた姿です。つまり、これが「古代満濃池の堤体跡」なのです。そこを上(南)側の旧池地から金倉川流れ落ちて、大小の石が散乱してます。

実は、これは絵図の全てではありません。絵図の上部を見てみましょう。

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     満濃池営築図 原図(寛永年間)
④旧池内には数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、中世以後旧満濃池を開発して成立していた「池内村」の一部のようです。
⑤さらに上部には、文字がぎっしりと書かれています。
何が書かれているのか見ていくことにしましょう。この絵図の上側に書かれた文字を起こしてみます。
 満濃池営築図 寛永年間(1624~45)摸写図
満濃池営築
寛永五辰年 奉行西嶋八兵衛之尤
 十月十九日 鍬初 代官出張 番匠喚
 十一月三日 西側堀除
 十二月廿日 普請方一統引払候
同六巳年
 正月廿八日 取掛
 二月十八日 奉行代官相改
 三月十九日 東ノ分大石割取掛
 四月十日  奉行代官立会相改 皆引取
 八月二日  底土台 亀甲之用意石割掛
 同十五日  西側大石切出済
 十月廿八日 座堀取除出来
 十二月十二日台目取除二掛ル
 同廿二日  奉行一統引払
同七午年
 正月廿八日 取掛
 三月十八日 台目所出来
 四月十日  櫓材木着手
 同十一日  流水為替土手築立
 同十八日  底樋亀甲石垣取掛 ’
       五月廿四日迄二出来
 六月五日  底樋取掛
 同廿九日  一番櫓建立
 七月六日より底樋伏込 同廿九日迄二           
 八月十五日 木樋両側伏込
 十月六日  堤埋立出来 竪樋座堀掛
 同十八日  竪樋下築立 同晦日出来
 十一月十七日 打亀甲石垣
 同廿九日  二番櫓立                                 
 十二月十日 三番櫓立
 同十五日  四番櫓立
 同廿二日  五番櫓立
同八未年    裏
二月五日  堤石垣直シ
同十五日  芝付悉皆出来
上棟式終 普請奉行 下津平左衛門  福家七郎右衛門
那珂郡高合 一万九千八百六十九石余
宇多郡高合 三千百六十石余
多皮郡高合 一万二千七百八十五石二斗余
  三郷合 三万五千八百十四石二斗余
西嶋氏、寛永三年八月、矢原正直方え来、当郡年々旱損二付、懇談御座候付、池内所持之田地不残差出申候
 ここには満濃池再建工事の伸張状況が記されていることが分かります。
 寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が書き込まれています。

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        満濃池営築図 トレス版

最後の文を専門家は次のように解釈しています。
寛永3年(1626)8月、奉行の西嶋八兵衛が矢原正直方へ来た。
那珂郡の毎年の旱害について懇談がなされた。
そこで、正直は、池内に所持している田地を残らず差し出す旨、申し出た。
 研究者は、この図に描かれた家と農地は、池ノ内側に描かれており、ここが池内村の中心であって、その領主が矢原家であったと推定します。そこで、満濃池の再築のためには、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったというのです。 
 
矢原家が満濃池跡に所持していた田地を池の復興のため差し出したという内容です。これを、裏付けるのが西嶋八兵衛書状(矢原家文書)8月15日付の文書になるようです。漢文書下文)
先日は、御目に懸かり大慶存じたてまつり候。兼て申し上げ置き候、満濃池内御所持の田畠二十五町余、このたび断りいたし、欠け候のところ、衆寡替えがたく御思召寄す、今日御用にて罷り出で、相窺い候ところ、笑止に思召し候。
いずれも同前の事に候。なお追々存こ畜りこれある趣、仰せられ候。三万石余の衆人上下、承知せしめ候。千載御家たちまちに相聳い候成り行き、何とも是非に及びがたき事候。
恐々謹言        
 八月十五日      西嶋八兵衛之尤(花押)  
 矢原又右衛門様                  
このたびは ぬさも取りあえず 神野なり 
   神の命に 逢う心地せり         
現代語に直し意訳すると次のようになります。
 先日は、お目にかかることが出来て大変歓んでいます。兼てから申し上げていた矢原家が満濃池跡に所持する田畠二十五町余を、池の再築のために総て差し出すことを、主君に伝えました。本日、御用で主君に会った折りに、その行為についてお喜びの様子であった。。
 いずれの機会に、何らかの形で矢原家への処遇を考えたいと仰せられていた。三万石余の衆人の見守る中での今回の行い、まことに誉れ有る行為である。
田畑25町を差し出した矢原家とは、何者なのでしょうか
 幕末に成立した「讃岐国名勝図会」には、平安末期の元暦元年(1184)に決壊した満濃池について次のように記します。

「五百石ばかりの山田となり。人家なども往々基置して、池の内村といった」

意訳変換しておくと
(満濃池)跡地は、(再開墾されて)五百石ほどの谷間の山田となった。人家も次第に増えて、池の内村と呼ばれる村ができていた。

 当時の田1反(10a)当たりの米の収穫量は、ほぼ2石(300kg)です。西嶋八兵衛の書状に見える25町余の田畠は、石高でいえば、500石余にあたります。この石高は、「讃岐国名勝図会」に見える池内村の石高とぴったりと一致します。ここからは矢原家は池内村全体の領主であったことになります。
矢原家と池内村との関係を「讃岐国名勝図会」の記事から、探ってみましょう。
矢原家に伝わる「矢原家傅」には、矢原家は神櫛王の子孫酒部黒麿が、延暦年間(782 - 806)に池の宮の近辺に住んだことに始まと伝えます。池の宮(現神野神社)は、時代と共にその位置を変えながら現在でも、満濃池の堤に続く丘の上に鎮座します。
矢原家伝が伝える内容を箇条書きにすると
①貞治元年の白峯合戦では細川清氏方に加担。
②天正12年(1584)、長宗我部氏の西讃侵攻に際しては、矢原八助(正景)が、神野寺に陣取った元親の嫡子信親と戦い、のち和睦。
③豊臣秀吉の部将で讃岐一国の領主となった仙石秀久のとき、正景は那珂郡七ケ村東分で高45石を賜る。
④同13年(1585)、仙石秀久より長男正方と次男猪兵衛に刀と槍を賜わる。
⑤同15年(1587)6月、生駒家より合力米200石を賜り、文禄の役に当主正方の弟猪兵衛が従軍
⑥慶長6年(1601)その戦功を賞して、200石の知行地を賜る。
⑦矢原正方は、備前国日比家の養子となり衝三右衛門と名乗って宇喜多秀家に仕えた。
⑧宇喜多秀家が没落後は故郷に帰り、元和2年(1616)没。
⑨寛永3年(1626)、正方の子正直が西嶋八兵衛によるに満濃池再築の際に、寄宿して指揮。
⑩この功績により生駒家は、正直を満濃池の池守にした。
⑪正直は慶安2年(1649)に没した。
 上に述べた内容のうち、
①慶長6年(1601)、生駒親正より200石の知行地を賜った。
②寛永の再築時の功績により、生駒家は正直を満濃池の池守に任じた。
この2件については、矢原家文書の中に該当するものがあります。                     
矢原家文書 慶長六年(1601)・寛永十二年(1635)」
  ①慶長六(1601)年十月十四日 生駒一正宛行状 矢原家文書
  扶持せしむ知行所事
   豊田郡 五十七石一斗四升  植田
   香西郡百四十二石八斗六升  中間 ミまや(御厩)
                 合二百石
 右の分まったく知行せしむべきものなり
   慶長六年十月十四日  生駒讃岐守 一正(花押)
 (日比呉三右衛門)
 ここには、慶長6年(1601)の知行地給付は、正直の父である日々典三左衛門(正方)宛てで給地は豊田郡植田、香西郡中間・御厩の計200石が記されています。


②寛永十二年(1635)四月三日 生駒家家老連署奉書 矢原家文書
矢原又右衛門宛の西嶋八兵衛書簡
生駒家家老連署奉書 矢原家文書
 御意として申せしめ候。仲郡満濃池上下にて、高五十石永代に遣わされ候間、常々仕かけ水、堤まわり諸事由断なく、指図つかまつり、堅く相守るべく候ものなり。よってくだんのごとし。
   寛永拾弐年亥四月三日   西嶋八兵衛之尤(花押)
                浅田右京 直信(花押)
 (正直) 矢原又右衛門
【資料 ②】からは、正直が満濃池を管理する池守に任命され、同池上下において50石を与えられたことが分かります。また、「讃岐国名勝図会」に記載された神野神社の釣燈篭の銘文からは、矢原家の歴代当主が池の宮(神野神社)の社殿の造替や堂舎の再建を願主として行っていたことが読み取れると満濃町史は記します。

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
矢原邸 讃岐国名勝図会
以上から矢原家について、まとめると次のようになります。
①矢原家は、戦国時代には満濃池跡に本拠を持つ小領主であった。
②長宗我部氏の讃岐侵入に際し、香川氏・長尾氏に従い抵抗した
③近世初期には、仙石・生駒藩に臣従し、知行地を得ていた
④満濃池の再築の功績により、池守に任じられた
これらを根拠として矢原家は池内村の領主であったといえるようです。しかし、それがいつまで遡れるかは分かりません。池ノ内村を領有していた矢原家の奉納した池内村は、満濃池ができあがると再び池の中に姿を消すことになったのです。

参考文献 
香川大学名誉教授 田中健二 歴史資料から見た満濃池の景観変遷
満濃池名勝調査報告 まんのう町教育委員会 2019年3月刊
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