西嶋八兵衛
1631年に満濃池が西嶋八兵衛によって完成したときには、讃岐は生駒氏の単独統治体制でした。ところが生駒騒動で生駒藩が改易された後は、高松藩と丸亀藩に2:1の石高比率で東西に分割されることになります。そうすると両藩の境界線が丸亀平野の真ん中に引かれることになります。これは満濃池の水掛かりが、ふたつの藩に引き裂かれることです。水利権の問題は複雑です。後世に問題を残さないように処理することが担当者には求められることになります。讃岐に派遣された幕府要人は、この課題処理のために白羽の矢を立てたのが、生駒藩奉行として満濃池築造するだけでなく、多くの民政に関わった西嶋八兵衛でした。今回は、讃岐東西分割に対して、西嶋八兵衛がどんな役割を果たしたのかを見ていくことにします。テキストは、「廃池450余年と西嶋八兵衛の再興 満濃池史76P 満濃池土地改良区50周年記念誌」です。
藤堂高虎
天下泰平の時代がやって来ると、戦乱からの復興が政策者には求められるようになります。
それまで放置されてきた農業への資本投下がやっと行われるようになります。新田開発と用水の確保はセットで求められますから大規模な治水灌漑工事がどの藩でも行われるようになります。その際に「転用」されるのが築城技術です。石垣などは、堤などにもすぐに転用できます。
大名の家臣でも民衆の生活と深く関わる『民政臣僚』と呼ばれる家臣団が現れます。その走りが藤堂藩で、西嶋八兵衛もそのなかの一人だったようです。藤堂高虎の側近で『民政臣僚』のひとりだった彼が、讃岐生駒家にレンタルされることになった背景については、以前に次のようにお話ししました。
①生駒家三代目正俊が36歳で亡くなり、その子小法師(高俊)が11歳で藩主についた。
②高俊の母は藤堂高虎の養女で、祖父が高虎にり、生駒家と藤堂家は深く結ばれていた
③幼年藩主の登場で、幕府から不利益な措置がとられないように、家康の信頼が厚かった藤堂高虎が後見人となり生駒藩を保護しようとした。
④こうして藤堂高虎は若き『民政臣僚』の西嶋八兵衛を讃岐に「客臣」として送り込んだ。
西嶋八兵衛は、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間に、讃岐に4回派遣され、19年間を過ごしたようです。その期間は次の通りです。
①1回目(1621年)生駒正俊から高俊への領主交替という事務引継ぎの実務担当者(25歳)②2回目(1625年)目付役として来讃し、生駒藩奉行に就任。③3回目(1630年)藤堂高虎没で一時帰国するも、再度派遣。
3回目の時には、高虎の死を契機に、八兵衛は帰りたがっていたようですが、後を継いだ高次は「生駒家の様子を見ると、当分は西島が目を光らせていたほうがよさそうである」と考えたようです。高次は八兵衛に対して、改めて「讃岐生駒藩の用向き」を申しつけて、生駒藩に帰します。これが西嶋八兵衛の3度目に来讃となります。その際に、生駒藩は五百石を加増し、併せて千石待遇としています。これは、生駒藩の重臣のベスト5に入る高給取りで、家老待遇でした。実際、この時期は生駒藩で中心的な役割を果たしていたことは以前にお話ししました。
生駒藩高松城下での西嶋八兵衛邸の位置と広さ(家老級待遇)
西嶋八兵衛については、讃岐では満濃池築造面ばかりが伝えられていますが、満濃池を造るために讃岐にやって来たのではありません。生駒藩四代の幼君高俊の政務を補佐するため、伊勢藩の藤堂高虎が親戚の生駒藩に送り込んだ客臣です。今で言えば本省から派遣された総務部長兼、農林部長兼、土木部長の要職で、最終的には千石を支給された家老級人物です。彼は自然災害で危機的な状況にあった生駒藩を、藤堂高虎の指示を受けて立て直します。そのひとつが決壊したまま放置され、忘れ去られていた満濃池の再築でした。西嶋八兵衛による満濃池築造に関する年表を見ておきましょう。
1626 矢原正直が、旧満濃池内に所持の田地を差し出す。(満濃池営築図)
1628 藩主生駒高俊の命により、西嶋人兵衛が満濃池再築に着手。(満濃池営築図)
1631 (寛永8年) 満濃池築造完成(那珂郡満濃池諸色御普請覚帳)
1633 「讃岐国絵図」が作成される。
1635 矢原家、生駒家より50石を与えられ満濃池の池守となる。(矢原家文書)
1640 東西分治に際し那珂郡池御料は幕府の直轄地となる。
1641 分割の執政官として、老中・青山大蔵、勘定奉行・伊丹播磨など来讃、西嶋八兵衛は「案内人」に指名
1641 満濃池配水に関する特別慣行を幕府の執政官に提出、証文揺。幕府が池御料を吟味して水掛石高を定める。
丸亀藩藩主に肥後天草から山崎氏が決定。
1642 池御料の代官所を苗田村に置き、守屋与三兵衛が初代代官となる。
高松藩藩主に松平頼重が決定
寛永十七年(1640) 生駒高俊は、お家騒動を理由に讃岐を追われ、堪忍料一万石で出羽国由利郡矢島に左遷されます。
幕府はそのあとに、讃岐を高松藩と丸亀藩に二分割して統治することにします。翌年に、分割の執政官として讃岐に派遣されたのが、老中・青山大蔵幸成(尼崎藩主)、勘定奉行・伊丹播磨でした。土地にはそれぞれ漁業権や山林の入会権、水利権などが複雑にからんいます。石高だけのソロバン勘定だけで処理すると、あとあと厄介な問題が起きかねず、責任問題にもなりかねません。そのために老中の青山大蔵は、讃岐の事情に詳しい西嶋八兵衛を、伊勢国から高松城に召し出して、「案内役」として事務処理をやらせることになります。これが西嶋八兵衛の4度目の来讃となります。
西嶋八兵衛が丸亀平野でとりくんだ課題は、次のようなものでした。
①丸亀平野南部の村々の里山の入会権②満濃池水掛について、
①については、以前にお話したので省略します。②の満濃池の水利慣行については、この時に作成されたA「満濃池水懸申候村高之覚」とB「先規」が以後の管理基準となり運用されます。この記録は寛永18年(1641)10月8日の日付で、満濃池関係の記録としては一番古いものになるようです。Aの「覚」は水掛かりの村々の石高を次のように記します。
満濃池水懸中候村高之覚仲郡高合 一万九千八百六十九石余 二十一か村多度郡高合 一万三千七百八十五石二斗余 十七か村鵜足郡高合 三千百六十石 八か村総高 三万五千八百十四石二斗余 四十六か村 一万四千三百六十五石二斗余右は分木西股へ懸り申候分 一万五千五百十九石余右は分木東股へ懸り申候分 五千九百三十石余右は分木より上分、此分は水干にて御座候故、割符の外地水遣され候定に御座候以上
水利や池の補修については、それまでの慣行を「先規」として次のように記します。
一、多度郡大麻村と仲郡櫛梨村の両村と毎年替し水の事大麻村へ懸り申候満濃池の番水を与北櫛梨村へ遣し、与北櫛梨の出水、苗田三田の井の水を池水程分木を据て大麻村へ取替し申候。満濃池水溜まり候へば、苗田三田の井を開き、与北櫛梨へ取り、大麻村へは水遣し申さず候事
意訳変換しておくと
大麻村に広がっている番水(順番に使用する灌漑用水)を与北・櫛梨村へ送り、与北・櫛梨の出水や苗田・三田の井の水を、池の水程度の分木を据て大麻村へ取り替えること。満濃池の水が止まった際には、苗田・三田の井の分を開いて、与北・櫛梨へ取り送り、大麻村へは水を送らないこと。
一、仲郡上分は水千にて御座候に付、苗代水詰り申候節御断申上候へば先年より苗代水被遣候、仲郡下分は出水三つにて御座候に付、外の郡よりは例年先に水遣わされ候、満濃池二番一番の矢倉は仲郡上之郷に留め申し候事
意訳変換しておくと
仲郡の上分は水が少ない状況に付き、苗代の水が詰まった際には、断りを言った上で先年以来苗代の水を送っていた。仲郡の下分は出水が三つなので、外の郡よりは例年先に水を送っている。満濃池二番一番の矢倉は、仲郡上之郷に留め置くこと」。
一、満濃池浪たたき損候へば、五毛・春日両村の藪にて篠を切り、浪たたき仕置申候。同立木ねた木切り申す山は七箇村西分東分の両山にて切来りいずれも人足は水掛かリヘ仰付けられ候事
意訳変換しておくと
満濃池の浪たたきが損傷した際には、五毛・春日両村の藪竹を切り取って、浪たたきを作ること。同じく立ち木・ねた本を切り取る山は七箇村の西分・東分の一つの山から切って持って来るが、いずれも人足は水掛かりに申し付けること。
一、右の池矢倉はちのこ損候えば、鵜足郡長尾村にて伐木仰せ付けられ候、先代より仕置来申候、人足の義は右同断に御座候
意訳変換しておくと
右の池矢倉のはちのこが損傷した際には、鵜足郡長尾村に伐木を中し付けることは、先代からの仕来りであり、人側については右と同様である。
一、右の池より西の方の村、先代より浪差切に御座候、上は岡と申す山の尾切に御座候、池より東方の村は嶺の道切、上は五毛の川切に仰付けられ候事
意訳変換しておくと
右の池よりも西方の村は、先代から浪差切であり、上は岡という山の尾切である。池よりも東方の村は嶺の道切で、上は五毛の川切に仰せ付けられる。
右の通少しも相違御座なく候、若し以来此内より新規成義申出候者これあるに於ては、金昆羅の神前にて火罪を取り誤り候へば急度曲事可被仰付候、其時少しも申分御座有る間敷候、井びに堤修復樋揺木損候はば、御知行所御地頭様より、高積りを以て入用被仰付可被下候、後日の為此書上申候 如件
意訳変換しておくと
右の通り少しも相違はありません。もしこの後この内から新たに申し出る者がある場合には、金昆羅様の神前において火罪をとり(烈火の中に手を入れさせて正邪を裁く神明裁判を行い)、誤りがあれば急度曲事(速やかなる処罰)を申し付けるが、その際には少しも申し分(言い分)はあってはならない。井びに堤の修復の樋の本が損傷した際には、知行所の地頭から、石高の状況を計って必要経費を仰せ付けること。後日のために、右に記した通りである。
寛永十八年巳十月八日仲郡原田村 大庄屋 又作 印同郡苗田村 大庄屋 与三兵衛 印多度郡弘田村 大庄屋 与惣右衛門 印同郡山階村 大庄屋 善左衛門 印字多郡岡田村 大庄屋 久次郎 印同郡小川村 大庄屋 加兵衛 印御奉行様
以上の「先規」を受けて、幕府執政官は次のように記します。(意訳)
右の通り村々の灌漑用水の配分については、新たな状況にを穿愁(ほじくり返す)すことが終わり、各村々の同意文書へ印鑑を押したものを満濃池の池守に預けておく。もしも用水配分などで新たな申分(言い分)が出てきた場合には、大庄屋に預けてある書付(証拠書類)の内容に従い、ひいきすることなく判断すること。もし双方で争うようなときには、地頭に検使を申し出て、書付にあるように火罪(烈火の中に手を入れさせて正邪を裁く神明裁判)に処すこと。以前からの掟によって池守に支給した給ってきた石高は二十五石であるが、これをそのまま出し与える。しかし、(池の管理について油断や落ち度があれば曲事(処罰)を与えることとする。寛永十八年巳十月九日能勢四郎右衛門伊 丹 播 磨青 山 大 蔵右の一札を池守に渡しておく (「満濃池水懸申候村高之覚」「先規」鎌田共済会郷土博物館所蔵)
満濃池築造やその用水路建設、水掛かりなどを通じて、西嶋八兵衛と丸亀平野の庄屋たちは旧知の間柄で、互いに信頼感もあったのでしょう。「(東西分割という)新たな状況(への対応のため)に(先例慣例)を穿愁(ほじくり返す)」したことが記されています。これは満濃池や灌漑用水路を整備した西嶋八兵衛ならこそスムーズにできたことです。彼は満濃池の水掛かりである鵜足、那珂、多度の三郡四十六か村(35804石)の大庄屋たちに命じて、満濃池掛かりの郡村別石高を記入した「満濃池水懸申候村高之覚」を提出させます。
そして分割したあと丸亀藩と高松藩との水利紛争を避けるため、末尾に満濃池の用水配分の慣行や、池修繕のときの木材や竹を切り出す山林まで細かく明記します。上申書の末尾には老中青山ほか二名の幕府執政官が署名捺印し、「右の一札を池守に渡しておく」とあるので、一部が満濃池守に預け置かれたことが分かります。対応ぶりに卒がありません。老中青山は、西嶋八兵衛の仕事ぶりを見て、褒賞として太刀一振を与えています。ここで押さえておきたいのは、池守が矢原氏だったとはここでも記されていないことです。
こうして1641年秋、山崎氏が丸亀藩(5,3万石)、翌年松平氏が高松藩(十二万石)に封ぜられます。満濃池の維持管理や配水運営については、両藩の境に残された天領を管轄する倉敷代官所が主導権を握り、水利の一体性がうまく保持されることになります。これらの案を作ったのは、西嶋八兵衛だと私は考えています。
西嶋八兵衛は1631年に、満濃池を完成させるのと同時に、丸亀平野の治水工事を行い、灌漑用水路の整備を行いました。これによって丸亀平野一円への灌漑用水の供給が可能となったのです。それを運用したのは、満濃池掛かりの各村々の庄屋たちです。
それが大きく変化するのが生駒騒動でした。
生駒藩転封によって「讃岐=生駒一国体制」から「讃岐=東西分治」となます。それは丸亀平野に高松藩と丸亀編の境界線が引かれることを意味しました。これは満濃池の水掛かりも分断することになります。この課題解決のために、再登場するのが満濃池の産みの親である西嶋八兵衛でした。これが八兵衛の4度目の来讃でした。こうして見てくると、現在の満濃池や用水路の原型は西嶋八兵衛が作り出した物であることがよく分かります。空海の満濃池築造がおぼろげで、よく分からないことが多く、現在の満濃池に直接は関係しないことが多いのとは対照的です。「空海が築いたと言われる満濃池」とぼかされるのに対して、「西嶋八兵衛が築いた満濃池」は確かです。満濃池の湖畔の神野寺には、弘法大師1150周年を記念して大きな弘法大師像が建てられています。しかし、西嶋八兵衛の像はありません。西嶋八兵衛によって築造されてから400年後の2032年に、西嶋八兵衛の像が建立されるという話は聞いたことがありません。
生駒藩転封によって「讃岐=生駒一国体制」から「讃岐=東西分治」となます。それは丸亀平野に高松藩と丸亀編の境界線が引かれることを意味しました。これは満濃池の水掛かりも分断することになります。この課題解決のために、再登場するのが満濃池の産みの親である西嶋八兵衛でした。これが八兵衛の4度目の来讃でした。こうして見てくると、現在の満濃池や用水路の原型は西嶋八兵衛が作り出した物であることがよく分かります。空海の満濃池築造がおぼろげで、よく分からないことが多く、現在の満濃池に直接は関係しないことが多いのとは対照的です。「空海が築いたと言われる満濃池」とぼかされるのに対して、「西嶋八兵衛が築いた満濃池」は確かです。満濃池の湖畔の神野寺には、弘法大師1150周年を記念して大きな弘法大師像が建てられています。しかし、西嶋八兵衛の像はありません。西嶋八兵衛によって築造されてから400年後の2032年に、西嶋八兵衛の像が建立されるという話は聞いたことがありません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「廃池450余年と西嶋八兵衛の再興 満濃池史76P 満濃池土地改良区50周年記念誌」
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