善通寺宝物館蔵の「一円保絵図」(1307年)には、曼荼羅寺が描かれています。
ここに描かれているのが東寺の善通寺の一円保(寺領)です。善通寺を中心に、北東は四国学院、南は「子供とおとなの病院」あたりまでを含みます。よく見ると、西側の吉原郷には曼荼羅寺周辺や鳥坂あたりにまでに飛び地があること、曼荼羅寺は我拝師山の麓に描かれ、その寺の周辺には集落が形成されていることなどが見て取れます。
一円保絵図の曼荼羅寺周辺部分
曼荼羅寺周辺を拡大してみると、次のような事が見えてきます。②曼荼羅寺周辺には、「そうついふくしのりょう(惣追副使領?)」「小森」「畠五丁」と註があること。
③火山周辺には、「ゆきのいけの大明しん(ゆきの池の大明神)」「せうニとの(殿)りょうしょ(領所)」と註があること
④一番西側(右)の「よしわらかしら(吉原頭)」が、現在の鳥坂峠の手前辺りであること。
①②の曼荼羅寺周辺については、ここが「小森」と呼ばれ、「畠五丁」ほどの耕地が開かれ、「そうついふくしのりょう(惣追副使領?)」の領地であったことがうかがえます。
③火山の麓にも集落があって、「ゆきのいけの大明しん(ゆきの池の大明神)」という宗教施設とがあり、「せうニとの(殿)りょうしょ(領所)」であったようです。
④の「よしわらかしら(吉原頭)」にも集落がありますが、このエリアの条里制地割の方向が他と違っていることを押さえておきます。
なお、我拝師山周辺に山林修行者の宗教施設らしきものは見当たりません。それはこの一円保絵図が水争いの控訴史料として描かれたためで、それ以外の要素は排除したためと研究者は考えています。
ここで私が注目したいのは、④の「よしわらかしら(吉原頭)」の条里制ラインがズレていることですです。
曼荼羅寺周辺も多度郡の条里制地割ラインとは、異なっていることが見て取れます。この条里制地割のズレについて見ていくことにします。資料とするのは次のふたつです。
A「讃岐善通曼荼羅寺寺領注進状」(1145(久安元)年(1145)B「善通寺一円保絵図」(1307(徳治2)年
Aには多度郡条里地割の坪付呼称が記され、さらに曼荼羅寺の坪ごとの土地利用状況が記されています。この2つの資料を元に曼荼羅寺周辺の小区画条里坪付けを研究者が復元したのが下図です。
上側が多度郡条里プランで、下が曼荼羅寺寺領になります。
上側が多度郡条里プランで、下が曼荼羅寺寺領になります。
①曼荼羅寺周辺の地割(下側)と、一円保絵図の多度郡条里プラン(上側)がズレていること
②曼荼羅寺周辺の地割が東西の坪幅が狭まく描かれていること。
ここからは、先ほど見たように吉原頭以外の曼荼羅寺周辺でも、多度郡条里プランとのズレがあることが分かります。つまり吉原郷には、独自に引かれた条里プランがあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか? 具体的には曼荼羅寺周辺の地割が、いつ頃、どんな経緯で引かれたのかということです。それを考えるために、7世紀後半に讃岐で行われた大規模公共事業をみておきます。
①城山・屋島の朝鮮式山城②南海道建設③それに伴う条里制施工④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加していくことがヤマト政権に認められ、郡司などへの登用条件となりました。地方の有力豪族達は、ある意味で中央政府の進める大土木行事の協力度合いで、政権への忠誠心が試されたのです。これは秀吉や家康の天下普請に似ているかもしれません。讃岐では、次のような有力豪族が郡司の座を獲得します。
①阿野郡の綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城や陶に須恵器生産地帯をつくり、都に提供すること実績を強調。②三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯で生産した瓦を、藤原京に大量に提供し、技術力をアピール③多度郡の佐伯氏は、従来の国造の地位を土台に、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示す。
この時代の地方の土木工事は、郡司や地方有力者が担いました。そうすると多度郡条里制の施行工事も、周辺の有力豪族の手によって行われたはずです。多度郡南部の善通寺周辺を担当したのは佐伯氏でしょう。そして、我拝師山北側の吉原郷を担当したのがX氏としておきます。X氏は、前回述べたように古墳時代には、青龍古墳や巨石墳の大塚池古墳を築いた系譜につながる一族が考えられます。
善通寺一円保絵図を取り巻く郷
私は曼荼羅寺とその周辺条里制の関係について、次のように推測しています。
①7世紀末の多度郡条里制地割ラインが引かれて、その工事を周辺の有力者が担当する。
②その際に、工事が容易な地帯が優先され、河川敷や台地は除外された。
③除外された台地部分に曼荼羅寺周辺のエリアも含まれていた。
④その後、吉原郷のX氏は氏寺である曼荼羅寺を建立した。
⑤さらに寺域周辺の台地の耕地開発すすめ、そこに独自の条里制地割を行った。
平地で造成がしやすいエリアから条里制地割工事は始められ、中世になっても丸亀平野では達成比率は60%程度だったということは以前にお話ししました。一挙に、条里制地割工事は行われたわけではないのです。台地状で工事が困難な曼荼羅寺周辺は開発が遅れたとことが考えられます。ちなみに曼荼羅寺周辺の南北方向の「小区画異方位地割」の範囲は、現状の水田化に適さない傾斜地の広がりとも一致するようです。
我拝師山のふもとの吉原郷の台地に現れた曼荼羅寺のその後を姿を見ておきましょう。
11世紀半ばの曼荼羅寺の退転ぶりを、勧進聖善芳は次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺に滞在しました。ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
ここからはそれ以前に「五間四面の瓦葺の講堂・多宝塔・別堂」などの伽藍が揃った寺院があったことが分かります。その退転ぶりを見て善芳は涙を流し、何とかならぬものかと自問します。そこで善芳は国司に勧進協力を申し入れ、その協力をとりつけ用材寄進を得ます。その資金を持って安芸国に渡って、材木を買付けて、講堂一宇の改修造建立を果たしたと記します。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動です。
以上を仮説も含めてまとめておくと
①善通寺エリアの佐伯氏とは別に、吉原郷には有力豪族X氏がいた。
②X氏の氏寺が古代寺院の曼荼羅寺である。
③律令体制の解体と共に、郡司クラスの地方豪族は衰退し、曼荼羅寺も退転した。
④退転していた曼荼羅寺を、11世紀後半に復興したのが遍歴の勧進聖たちであった。
⑤その後の曼荼羅寺は、悪党からの押領から逃れるために東寺の末寺となった。
⑥東寺は、善通寺と曼荼羅寺を一体化して末寺(荘園)として管理したので、「善通・曼荼羅両寺」よ呼ばれるようになった。