瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の四国霊場 > 曼荼羅寺

善通寺宝物館蔵の「一円保絵図」(1307年)には、曼荼羅寺が描かれています。
一円保絵図 5
善通寺一円保絵図(1307年)

ここに描かれているのが東寺の善通寺の一円保(寺領)です。善通寺を中心に、北東は四国学院、南は「子供とおとなの病院」あたりまでを含みます。よく見ると、西側の吉原郷には曼荼羅寺周辺や鳥坂あたりにまでに飛び地があること、曼荼羅寺は我拝師山の麓に描かれ、その寺の周辺には集落が形成されていることなどが見て取れます。

善通寺一円保の位置
一円保絵図の曼荼羅寺周辺部分
曼荼羅寺周辺を拡大してみると、次のような事が見えてきます。

一円保絵図 曼荼羅寺1
一円保絵図の曼荼羅寺周辺(拡大)

①まんたら(曼荼羅)寺周辺にも条里制地割が見え、30軒近くの集落を形成していること
②曼荼羅寺周辺には、「そうついふくしのりょう(惣追副使領?)」「小森」「畠五丁」と註があること。
③火山周辺には、「ゆきのいけの大明しん(ゆきの池の大明神)」「せうニとの(殿)りょうしょ(領所)」と註があること
④一番西側(右)の「よしわらかしら(吉原頭)」が、現在の鳥坂峠の手前辺りであること。

①②の曼荼羅寺周辺については、ここが「小森」と呼ばれ、「畠五丁」ほどの耕地が開かれ、「そうついふくしのりょう(惣追副使領?)」の領地であったことがうかがえます。
③火山の麓にも集落があって、「ゆきのいけの大明しん(ゆきの池の大明神)」という宗教施設とがあり、「せうニとの(殿)りょうしょ(領所)」であったようです。
④の「よしわらかしら(吉原頭)」にも集落がありますが、このエリアの条里制地割の方向が他と違っていることを押さえておきます。
なお、我拝師山周辺に山林修行者の宗教施設らしきものは見当たりません。それはこの一円保絵図が水争いの控訴史料として描かれたためで、それ以外の要素は排除したためと研究者は考えています。

一円保絵図 曼荼羅寺6

善通寺一円保を地図上に置いた資料
  ここで私が注目したいのは、④の「よしわらかしら(吉原頭)」の条里制ラインがズレていることですです。
曼荼羅寺周辺も多度郡の条里制地割ラインとは、異なっていることが見て取れます。この条里制地割のズレについて見ていくことにします。資料とするのは次のふたつです。
A「讃岐善通曼荼羅寺寺領注進状」(1145(久安元)年(1145)
B「善通寺一円保絵図」(1307(徳治2)年
Aには多度郡条里地割の坪付呼称が記され、さらに曼荼羅寺の坪ごとの土地利用状況が記されています。この2つの資料を元に曼荼羅寺周辺の小区画条里坪付けを研究者が復元したのが下図です。

上側が多度郡条里プランで、下が曼荼羅寺寺領になります。
多度郡条里制と曼荼羅寺

ここからは次のようなことが分かります。

①曼荼羅寺周辺の地割(下側)と、一円保絵図の多度郡条里プラン(上側)がズレていること
②曼荼羅寺周辺の地割が東西の坪幅が狭まく描かれていること。
ここからは、先ほど見たように吉原頭以外の曼荼羅寺周辺でも、多度郡条里プランとのズレがあることが分かります。つまり吉原郷には、独自に引かれた条里プランがあったことになります。これをどう考えればいいのでしょうか? 具体的には曼荼羅寺周辺の地割が、いつ頃、どんな経緯で引かれたのかということです。それを考えるために、7世紀後半に讃岐で行われた大規模公共事業をみておきます。
①城山・屋島の朝鮮式山城
②南海道建設
③それに伴う条里制施工
④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加していくことがヤマト政権に認められ、郡司などへの登用条件となりました。地方の有力豪族達は、ある意味で中央政府の進める大土木行事の協力度合いで、政権への忠誠心が試されたのです。これは秀吉や家康の天下普請に似ているかもしれません。讃岐では、次のような有力豪族が郡司の座を獲得します。
①阿野郡の綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城や陶に須恵器生産地帯をつくり、都に提供すること実績を強調。
②三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯で生産した瓦を、藤原京に大量に提供し、技術力をアピール
③多度郡の佐伯氏は、従来の国造の地位を土台に、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示す。
 この時代の地方の土木工事は、郡司や地方有力者が担いました。そうすると多度郡条里制の施行工事も、周辺の有力豪族の手によって行われたはずです。多度郡南部の善通寺周辺を担当したのは佐伯氏でしょう。そして、我拝師山北側の吉原郷を担当したのがX氏としておきます。X氏は、前回述べたように古墳時代には、青龍古墳や巨石墳の大塚池古墳を築いた系譜につながる一族が考えられます。

一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保絵図を取り巻く郷
私は曼荼羅寺とその周辺条里制の関係について、次のように推測しています。
①7世紀末の多度郡条里制地割ラインが引かれて、その工事を周辺の有力者が担当する。
②その際に、工事が容易な地帯が優先され、河川敷や台地は除外された。
③除外された台地部分に曼荼羅寺周辺のエリアも含まれていた。
④その後、吉原郷のX氏は氏寺である曼荼羅寺を建立した。
⑤さらに寺域周辺の台地の耕地開発すすめ、そこに独自の条里制地割を行った。

平地で造成がしやすいエリアから条里制地割工事は始められ、中世になっても丸亀平野では達成比率は60%程度だったということは以前にお話ししました。一挙に、条里制地割工事は行われたわけではないのです。台地状で工事が困難な曼荼羅寺周辺は開発が遅れたとことが考えられます。ちなみに曼荼羅寺周辺の南北方向の「小区画異方位地割」の範囲は、現状の水田化に適さない傾斜地の広がりとも一致するようです。
 我拝師山のふもとの吉原郷の台地に現れた曼荼羅寺のその後を姿を見ておきましょう。 
11世紀半ばの曼荼羅寺の退転ぶりを、勧進聖善芳は次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」
「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」
「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺に滞在しました。ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
ここからはそれ以前に「五間四面の瓦葺の講堂・多宝塔・別堂」などの伽藍が揃った寺院があったことが分かります。その退転ぶりを見て善芳は涙を流し、何とかならぬものかと自問します。そこで善芳は国司に勧進協力を申し入れ、その協力をとりつけ用材寄進を得ます。その資金を持って安芸国に渡って、材木を買付けて、講堂一宇の改修造建立を果たしたと記します。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動です。
以上を仮説も含めてまとめておくと
①善通寺エリアの佐伯氏とは別に、吉原郷には有力豪族X氏がいた。
②X氏の氏寺が古代寺院の曼荼羅寺である。
③律令体制の解体と共に、郡司クラスの地方豪族は衰退し、曼荼羅寺も退転した。
④退転していた曼荼羅寺を、11世紀後半に復興したのが遍歴の勧進聖たちであった。
⑤その後の曼荼羅寺は、悪党からの押領から逃れるために東寺の末寺となった。
⑥東寺は、善通寺と曼荼羅寺を一体化して末寺(荘園)として管理したので、「善通・曼荼羅両寺」よ呼ばれるようになった。

曼荼羅寺の古代変遷

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

前回は曼荼羅寺が、11世紀後半に廻国の山林修験者たちの勧進活動によって復興・中興されたことを見てきました。その中で勧進聖達が「大師聖霊の御助成人」という自覚と指命をもって勧進活動に取り組んでいる姿が見えてきました。これは別の言い方をすると、「弘法大師信仰をもった勧進僧達による寺院復興」ということになります。それは現在の四国霊場に「弘法大師信仰」が接ぎ木される先例として捉えることができます。そんな思惑で、弘法大師の伝記『行状集記』に載せられている四国の3つの寺、讃岐の善通寺・曼荼羅寺と阿波の太龍寺、土佐室戸の金剛頂寺の11世紀の状況を見ていくことにします。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」です。
この3つの寺に共通することとして、次の2点が指摘できます。
①弘法大師の建立という縁起をもっていること
②東寺の末寺であったこと
まず土佐室戸の金剛頂寺です。
室戸は、空海の口の中に光が飛び込んで来たことで有名な行場です。三教指帰にも空海は記しているので初期修行地としては文句のつけようがない場所です。この室戸岬の西側の行当岬に、空海によって建立されたのが金剛頂寺であることは以前にお話ししました。

DSC04521
      金剛定(頂)寺に現れた魔物を退治する空海

その金剛定寺も11世紀になると、地方豪族の圧迫を受けるようになります。1070(延久二)年に、土佐国奈半庄の庄司が寺領を押領します。それを東寺に訴え出た解案には、次のように記されています。
右、謹案旧記、件寺者、弘法大師祈下明星初行之地、 智弘和尚真言法界練行之砌天人遊之処、 明星来影之嶺也、因茲戴大師手造立薬師仏像安二置件嶺(中略)
是以始自国至迂庶民、為仰当寺仏法之霊験、各所施入山川田畠也、乃任各施本意、備以件地利、備仏聖燈油充堂舎修理 中略……、漸経数百歳也、而世及末代 ……、修理山川田畠等被押妨領  、茲往僧等、以去永承六年十二月十三日相副本公験注子細旨、訴申本寺随本寺奏聞 公家去天喜元年二月十三日停二止他妨
意訳変換しておくと
 謹しんで旧記を見ると、当寺は修行中の弘法大師が明星のもとで初めて悟りを開いた地とされている。智弘和尚も真言法界の修行の祭には天人が遊んだともされる明星来影の聖地であるとされる。それにちなんで、弘法大師の手造りの薬師如来像を安置された。(中略)
当寺は土佐ばかりでなく、広く全国の人々からも、仏法霊験の地として知れ渡っている。各所から山川田畠が寄進され、人々の願いを受けて、伽藍を整備し、聖たちは燈油を備え、堂舎の修理を行ってきた。 中略
それが数百年の長きに渡って守られ、末代まで続けられ……、(ところが)修理のための寺領田畠が押領された。そこで住僧たちは相談して、永承六(1051)年十二月十三日に、子細を東寺へ伝え、公験を差し出した。詳しくはここに述べた通りである。本寺の願いを聞き届けられるよう願い上げる。 公家去天喜元年二月十三日停止他妨
ここからは次のようなことが分かります。
①最初の縁起伝説は、東寺長者の書いた『行状集記』とほぼ同じ内容であること。(これが旧記のこと?)
②智弘和尚の伝説からは、金剛頂寺が修行場(別院)のような寺院であったこと
③そのため廻国の修行者がやってきて、室戸岬との行道修行の拠点施設となっていたこと
④金剛頂寺の寺領は、さまざまな人々から寄進された小規模な田畠の集まりであったこと。
⑥金剛頂寺が、庄司からの圧迫を防ぐために、東寺に寺地の公験を差出したのは、1051(永承六)年のこと

公験とは?

全体としては、「空海の初期修行地」という特性をバックに、東寺に向かって「何とかしてくれ」という感じが伝わっています。
①からは、これを書いた金剛頂寺の僧侶は、東寺長者の書いた『行状集記』を呼んでいることが裏付けられます。①②からは、室戸という有名な修行地をもつ金剛頂寺には、全国から山林修行者がやってきていたこと。しかし、寺領は狭くて経済基盤が弱かったことが④からはうかがえます。『行状集記』の金剛頂寺の伝説には、有力な信者がいないために、沖を往来する船舶にたいして「乞食行」が公認されていたという話が載せられていて、経済基盤の弱さを裏付けます。⑥の公験を差し出すと云うことは「末寺化=荘園化」を意味します。
ところが金剛頂寺では、これ以後は寺領が着実に増えていきます。その背景には、当時四国でもさかんになってきた弘法大師信仰が追い風となったと研究者は考えています。それが寺領・寺勢の発展をもたらしたというのです。それは後で見ることにして・・・。
4大龍寺16
太龍寺
次に、阿波国太龍寺を見ておきましょう。
1103(康和五)年8月16日の太龍寺の所領注進には、次のように記されています。
抑当山起、弘法大師之初行霊山也、……、於東寺別院既以数百歳、敢無他妨哉、 兼又勤仕本寺役耳、

意訳変換しておくと
そもそも当寺は、弘法大師の初修行地の霊山で・・東寺の別院として数百年の年月を経ている

大瀧寺も『行状集記』の「弘法大師之初行霊山也」以下の記述を、縁起に「引用」しています。この寺ももともとは、行場にやってきた山林修験者たちが宿泊する「草庵」から出発して、寺に発展してきたようです。
大瀧寺は、阿波国那賀郡加茂村の山の中にあります。
寺の周辺を寺域として、広い山域を占有していたことようで、注進文書では寺域内の荒野開発の承認を求めています。そして開発地を含む寺領の免租(本寺役のみの勤任)を、本寺の東寺にたいして要請しています。ここでも、それまでの庵や坊から寺に脱皮していくときに、東寺に頼っています。

 前回見た讃岐の曼荼羅寺と、今見てきた阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の3つの寺は、「空海の初期修行地」とされ、そこに庵や坊が誕生していきます。そのためもともとの寺の規模は小さく、寺領も寺の周りを開墾した田畑と、わずかな寄進だけでした。それが寺領拡大していくのは、11世紀後半になってからで、その際に東寺の末寺となることを選んでいます。末寺になるというのは、経済的な視点で見ると本寺の荘園になるとも云えます。そして、本寺の東寺に対して、なにがしらの本務を担うことになります。
           
東寺宝蔵焼亡日記
          東寺宝蔵焼亡日記(右から6行目に「讃岐国善通寺公験」)

東寺百合文書の中に『東寺宝蔵焼亡日記』があります。

この中の北宝蔵納置焼失物等という項に「諸国末寺公験丼荘々公験等」があります。これは長保2(1000)年の火災で焼けた東寺宝蔵の寺宝目録です。これによると11月25日夜、東寺の北郷から火の手が上がり南北両宝蔵が類焼します。南宝蔵に納められていた灌頂会の道具類は取り出されて焼失を免れましたが、北宝蔵の仏具類のほか文書類が焼失しました。焼失した文書の中に讃岐国善通寺などの「諸国末寺公験并庄庄公験等」があったようです。
ここからは次のようなことが分かります。
①平安時代の東寺は、重要な道具類や文書・記録類は宝蔵に保管されていたこと
②讃岐国善通寺が東寺に公験を提出していたこと。
③阿波国大瀧寺、土佐国金剛定寺の公験はないこと。
つまり、善通寺はこの時点で東寺の末寺になっていたことが、太龍寺と金剛頂寺は末寺ではなかったことになります。両寺は縁起などには古くから東寺の末寺・別院であることを自称していました。しかし、本山東寺には、その記録がないということです。これは公験を預けるような本末関係にまでには、なってなかったことになります。金剛頂寺や大瀧寺が、東寺への本末関係を自ら積極的にのぞむようになるのは、11世紀後半になってからのようです。その背景として、弘法大師信仰の地方への拡大・浸透があったと研究者は考えています。
「寺領や寺勢の拡大のためには、人々の間に拡がってきた弘法大師信仰を利用するのが得策だ。そのためには、真言宗の総本山の東寺の末寺となった方が何かとやりやすい」と考えるようになってからだとしておきます。その際に、本末関係の縁結び役を果たしたのが弘法大師関連の伝説だったというのです。そのような視点で曼荼羅寺の場合を見ていくことにします。
曼荼羅寺の縁起について、1164(長寛二)年の善通・曼荼羅両寺所司の解には、次のように記されています。(意訳)
善通寺は、弘法大師の先祖の建立で、約五百年を経ており、弘法大師自作の薬師仏、自筆の金光明妙文、五筆額を安置する。曼茶羅寺は、大師入唐ののちに建立され、大師自作の七体の諸尊像を納める。


これによると、善通寺は佐伯氏の氏寺であり、曼茶羅寺は、空海建立とします。ふたつの寺が「善通・曼茶羅両寺」として並称され、一体視されるのは、応徳年間(1084年ごろ)以後のようです。それまでは、別々の寺でした。
 善通寺は、十世紀末には東寺の末寺となっていたことは、さきほど見たように公験が東寺に納められていることで裏付けられます。しかし、この時点では曼茶羅寺の名はまだ出てきません。善通寺は佐伯氏の氏寺だったので、そこから寄進された田畑があって、まとまった寺領があったのかもしれません。そのために寺領維持のために、早い時期に東寺の末寺となったことが考えられます。
 
 曼茶羅寺はもともとは、吉原郷を拠点とする豪族の氏寺だったと私は考えています。その根拠を以下の図で簡単に述べておきます。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡
旧練兵場遺跡 銅剣出土状況

上の青銅器の出土の集中から旧練兵場遺跡がその中心で、ここに善通寺王国があったと研究者は考えています。しかし、その周辺を見ると善通寺とは別の勢力が我拝師山の麓の吉原エリアにはいたことがうかがえます。
青龍古墳1
青龍古墳(吉原エリアの豪族の古墳)

さらに、古墳時代になっても吉原エリアの豪族は、青龍古墳を築いて、一時的には善通寺エリアの勢力を圧倒する勢いを見せます。古墳時代後期になって、善通寺勢力は横穴式古墳の前方後円墳・王墓山や菊塚を築きますが、吉原エリアでも巨石墳の大塚池古墳を築造する力を保持しています。この勢力が律令国家になっても郡司に準ずる地方豪族として勢力を保持し続けた可能性はあります。そうすれば自分の氏寺を吉原に築いたことは充分に考えられると思います。その豪族が氏寺として建立したのが「曼荼羅寺」の最初の形ではなかったのかという説です。「原曼荼羅寺=吉原氏の氏寺説」としておきます。

青龍古墳 編年表
丸亀平野の古墳変遷
 弥生・古墳時代を通じて、吉原エリアは、善通寺勢力とは別の勢力がいたこと、その勢力が氏寺として建立したのが曼荼羅寺の原型という説になります。律令体制の解体と共に、吉原を基盤とする豪族が没落すると、その氏寺も退転します。地方の豪族の氏寺の歩む道です。しかし、曼荼羅寺が違っていたのは、背後に我拝師山を盟主とする霊山(修行地)を、持っていたことです。これは弘法大師信仰の高まりととともに、空海幼年期の行場とされ、山林修行者にとっては聖地とされていきます。ある意味では、先ほど見た土佐国金剛定(頂)寺、阿波国大瀧(龍)寺と同じように廻国の聖達から見られたのかも知れません。
 曼荼羅寺は、前回見たように11世紀後半には退転していました。それを復興させたのは廻国の山林修行者だったことはお話ししました。そういう意味では11世紀半ばというのは、曼荼羅寺にとっては、地方豪族の氏寺から山林修行者の拠点への転換期だったと云えるのかもしれません。以上をまとめておくと
        
曼荼羅寺の古代変遷

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号(H15年)」
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行当岬不動岩の辺路修行業場跡を訪ねて

曼荼羅寺 第三巻所収画像000007
曼荼羅寺(金毘羅参詣名所図会 1847年)

曼荼羅寺と善通寺は、多度郡の吉原郷と弘田郷にそれぞれあった古代寺院です。曼荼羅寺のことが史料に出てくるのは11世紀以降に書かれた空海の伝記の中です。まず、それから見ていくことにします。
1089(寛治三)年の『大師御行状集記』には、曼荼羅寺や善通寺については何も書かれていません。
同年成立の「弘法人師御伝」
「讚岐国善通寺、曼茶羅寺両寺、善通寺先祖氏寺、又曼荼羅寺大師建立

ここでは善通寺が空海の先祖・佐伯氏の氏寺として建立されたのに対して、曼荼羅寺は空海によって創建されたと記されています。また11世紀には、曼荼羅寺は存在していたことが分かります。

  1118(元永元)年の「高野大師御広伝」

「讃岐国、建立善通寺曼荼羅寺両寺、止住練行、尤聖亦多、有塩峯」「善通曼荼羅両寺白檀薬師如来像、(中略)。手所操庁斧也」

意訳変換しておくと

「空海は、議岐の善通寺と曼荼羅寺の両寺を建立した。ここには行場(塩峰)があり、集まってくる聖も多い。空海はそこに留まり修行を行った。善通・曼荼羅両寺の本尊は白檀薬師如来像で、  これは空海が自ら手斧で掘ったものである。」

1234(文暦元)年の『弘伝略頒抄』

讃岐国善通寺・曼荼羅寺、此両寺、先祖氏寺、又曼荼羅寺、善通寺、大師建」

これらを見ると時代を経るに従って、記述量が増えていくことが見て取れます。後世の人の思惑で、いろいろなことが付け加えられていきます。それが後の弘法大師伝説へとつながっていくようです。研究者が注目するのは、これらの記録の中に出てくる「善通・曼荼羅寺両寺」という表記です。ふたつの寺が合わせてひとつのように取り上げられています。「空海ゆかりの寺院」というだけではない理由があるようです。この過程では、同時に曼荼羅寺の再建・中興が進んでいたようです。それを見ていきたいと思います。テキストは「野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号」、H15」です。

一円保絵図の旧練兵場遺跡
善通寺一円保図
先ほど見たように、もともと善通寺と曼荼羅寺はべつべつの寺でした。
それが11世紀に、ふたつの寺が京都の東寺の末寺になることで、実質的にはその下の荘園とされ「善通・曼荼羅両寺」という表記がされるようになっていったようです。
西岡虎之助氏は「土地荘園化の過程における国免地の性能」のむすびで曼荼羅寺について次のように記します。

「東寺派遣の別当の文献上の初見は、延久四年(1072)」
「両寺所司の同じく文献上の所見は天永三年(1112)である」
「少なくも永久年間(1113~18)ごろには、両寺は組織的結合体をなすにいたった」

以上を補足してまとめておくと
① 初期における東寺の支配形態は、個別的で、両寺が単独にそれぞれ東寺に属していた。
② 12世紀前半に「東寺の一所領(荘園化)」になりつつあった。
③「次期」においては、東寺の住僧が別当として派遣され、 東寺が両寺の寺務を握るようになった。
④その結果、両寺は組織的に一体化したものとして捉えられるようになった。
こうして「善通・曼荼羅羅両寺」と東寺文書は表記するようになったとします。ここでは12世紀初めに、善通寺と曼荼羅寺が東寺によって末寺化(荘園化)されたことを押さえておきます。そのため末寺化過程の文書が東寺に数多く残ることになったようです。

東寺百合文書
東寺百合文書

 私にとっと興味があるのは、この時期に行われた曼荼羅寺の再建活動です。それがどのように進められたかに焦点を絞って見ていくことにします。

曼荼羅寺文書
東寺百合文書の中の曼荼羅寺関係文書一覧
曼荼羅寺再建は、だれが、どのような方法で行ったのか?
その鍵を解く人物が「善芳」です。東寺の百合文書の中には、1062(康平5)年4月から1069年まで20点余りの文書の中に善芳が登場します。「善芳」とは何者なのでしょうか?
文書の中の自称は「曼荼羅寺住僧善芳」「曼荼羅寺修理僧善芳」「修行僧善芳」などと名乗っています。一方、国衙(留守所)では、彼のことを「寺修理上人」「修理上人」「企修造聖人」と呼んでいます。
   善芳の「敬白」の文書(番号18)は、次のように記します。
「為仏法修行往反之次、当寺伽藍越留之間」
「院内堂散五間四面瓦葺講堂一宇手損、多宝塔一基破損、五間別堂一宇加修理企」
「多積頭倒之日新」、「仏像者皆為面露朽損、経典者悉為風霜破」、
意訳変換しておくと
「私(善芳)は各地を遍歴しながらの仏法修行の身で、しばらくの間、当寺伽藍に滞在しました。
ところが院内は、五間四面の瓦葺の講堂は一部が破損、多宝塔は倒壊状態、別堂は修理中というありさまです。長い年月を経て、仏像は破損し、経典は風霜に破れ果てる始末」、
この退転ぶりに、善芳は「毎奉拝雨露難留落涙、毎思不安心肝」(参拝毎に涙を流し、何とかならぬものか)」と自問します。そこで善芳は国司に「勁進(勧進)」して、その協力をとりつけ「奉加八木(用材寄進)」を得て、「罷渡安芸日、交易材木(安芸国に渡って、材木を買付)」て、「講堂一宇」の改修造建立を果たします。それだけにとどまらず、さらに「大師御初修施坂寺三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」を行っています。これが善芳が1062(康平5)年4月から1069年の間に行った勧進活動ということになります。
 ここからは次のようなことが分かります。
①善芳が各地を遍歴する廻国の修験僧であったこと。
②善芳が五岳・我拝師山の行場修行のために、曼荼羅寺周辺に滞在していたこと
③古代に建立された曼荼羅寺が荒廃しているのを見て復興再建を勧進活動で行ったこと
④そのために讃岐国司を説得して建設に必要な用材費の寄進を受けたこと
⑤安芸国に赴いて、用材や大工確保を行ったこと
⑥さらにのために、「大師御初修施坂寺」に「三間葺萱堂一宇」と「如意堂」の「造立」も行ったこと。
 つまり11世紀に退転していた曼荼羅寺の復興活動を行ったのは善芳ということになります。それだけでなく我拝師山の行場近くの施坂寺にお堂と如意堂を建立したとします。施坂寺は、現在の出釈迦寺あたりとされているようですが、私にはよく分かりません
 彼は、廻国の山林修行僧だったことを押さえておきます。正式の僧侶ではないのです。
一円保絵図 中央部
善通寺一円保絵図(拡大) 我拝師山ふもとに曼荼羅寺が見える

この他にも、次のような修験者や聖がいたことが記されています。

件寺家辺尤縁聖人建奇宿住給、‥…、為宿住諸僧等 御依故不候、 住不給事、……、 大師聖霊之御助成人并仏弟子……
 
意訳変換しておくと

曼荼羅寺の近辺には無縁聖人(勧進聖)たちが仮の住まいを建てて生活しています。宿住の諸僧は、着るものも、住む所にもこだわらず、……、 ただただ、弘法大師の聖霊地の建設のために活動した仏弟子であります。

ここからも曼荼羅寺の勧進活動が「大師聖霊の御助成人」といわれるような廻国の山林修行僧たちによって担われていたことが裏付けられます。そして彼らを結びつけ、まとめあげた力(きずな)が、弘法大師信仰だったと研究者は考えているようです。彼らは先ほど見たように、国衙や東寺からは「修理聖人」と呼ばれる下級僧侶や聖・修験者たちでした。
 以上からは全国廻国の修験者たちが、各地の霊山にやってきて修行を行いながら、退転してた寺院を復興していく姿が見えてきます。同時に、彼らの精神的原動力のひとつが「弘法大師聖霊の御助成人」という自覚と誇りだったようです。 
 この背景にあったのが中央での弘法大師信仰の高まりだったと研究者は指摘します。それが地方の弘法大師にゆかりのある寺院に波及し、そこで廻国聖たちが勧進活動を行っていたという流れを押さえておきます。
弘法大師信仰と勧進聖

 彼らの業績は伽藍堂舎などの修復にとどまりません。
修復財源として寺周辺の田畠の開発も始め、寺領の拡大をもたらします。これに対して東寺は、復興活動を支援するのではなく、新たな田地へからの富の確保を優先します。善芳は東寺の「本寺優先策」に抵抗して、文書による請願行動を始めます。善芳のたたかいは、1062(康平二)年にはじまり1069年の修理終了によって終わったかにみえます。ところが、東寺は善通寺別当に延奥を派遣します。新たにやってきた別当は、善通寺だけでなく曼荼羅寺からの収奪をおこなうようになります。こうして今度は善通寺をもまきこんだ紛争状態へと突入していうことになります。東寺に残る善芳の文書は、この闘いの記録だとも云えるようです。この辺りは、また別の機会にお話しします。
善芳の次に登場してくる善範です。
善範も善芳とともに、曼荼羅寺の勧進活動に参加していた僧侶のようです。1071(延久二・四)年の文書の差出人として、善範が初めて登場します。番号31文書には、次のように自分のことを記します。
右、善範為仏法修行、自生所鎮西出家入道シテ年来之間、五畿七道之間、交山林跡 而以先年之比 讃州至来、有事縁 大師之御建立道場参詣、大師入滅之後、雖経多歳 依無修理破壊、動為風雨仏像朽損、乃修行留自始康平元年乍勧進天……

意訳変換しておくと
私(善範)は仏法修行者で、生まれの鎮西で出家し、長く五畿七道の山林を廻国して修行を積んできました。先年に讃岐にやって来て縁あって、弘法大師建立の道場である曼荼羅寺を参詣しました。ところが大師入滅後、多くの年月を経て、修理されることなく放置されていたために、建物は壊れ、風雨で仏像も破損する状態を眼の辺りにした。そこで修行中ではりますがこの地に留まり。康平元年より勧進にとりかかりました

さらに番号31文書には、つぎのような箇所があります。
難修理勤念之不怠、末法当時邪見盛也、乃難動進知識 起道心人希有也、因之自去延久元年於曼荼羅寺井同大師御前跡大窪御寺両所各一千日法花講演勤行、本懐不嫌人之貴賤、又不論道俗、只曼荼羅寺仁致修治之志輸入可令御座給料祈持也、此間今年夏程祥房同法申云、仁和寺松本御童為件御寺修遺、令下向給由云 仰天臥地、歓喜悦身尤限、

  意訳変換しておくと

怠りなく修理復興に努めていますが、末法思想流行の中で邪教が人々の中に広がり、資金は集まらず修理は滞っています。道心を知る人達は稀です。そこで打開策として、延久元年から曼荼羅寺と大師御前跡の大窪御寺の両所で、一千日法花講を開いています。貴賤や道俗を問わず、広く人々に呼びかけ、曼荼羅寺の修復のための資金をもとめるものです。今年も開催準備をしていたところ、仁和寺の松本御童がやって来られることになりました。それを聞いて、仰天し地に伏し、歓喜に溢れています。

ここからは次のようなことが分かります。
①末法思想が広がり阿弥陀仏を信仰する浄土信仰が讃岐の人々の心をとらえていたこと
②そのために勧進活動が思うように進まず、修復作業も停滞していたこと
③勧進方針として道俗・貴賤の差別なく、いろいろな層の人達に勧進を呼びかけるために一千日法花講を開催するようになったこと
④それを聞きつけて仁和寺の高僧が支援のためにやってきてくれることになったこと
一千日法花講に参加し結縁した人々には、大師信仰によって約束された現世利益とともに、寺で行なう法華講の功徳をもたらすとされました。実はこのような動きは、土佐国の金剛頂寺の、阿波国の大瀧寺など大師行道所を起源とする寺院も同時進行で勧進活動による復興再建が行われていたことが分かってきました。これも弘法大師信仰の広がりという追風を受けての地方寺院の勧進活動だったと研究者は考えているようです。
曼荼羅寺
曼荼羅寺周辺遺跡図
ここで私に分からないのが「大窪御寺」です。
どこにあった寺なのでしょうか? 四国霊場の大窪寺ではないようです。研究者は、「曼荼羅寺の南西、現在の「火上山」東斜面中腹に伝えられている「大窪寺跡」が相当」と指摘します。
 ここからは先ほど見た「弘法大師が初めて修行した霊場の施坂寺
とともに我拝師山周辺には、山林修行者の行場がいくつもあって、全国から廻国聖達がやってきていたことが改めて裏付けられます。

出釈迦寺 四国遍礼霊場記
四国遍礼霊場記の我拝師山の霊場


 以上をまとめておきます。
①善通寺は10世紀以来、東寺の「諸国末寺」の一つであった
②10世紀中頃に諸国廻国の聖(修験僧)であった善芳は、退転した曼荼羅寺の復興を始める。
③善芳は弘法大師信仰を中心に勧進活動を行い、数年で軌道に乗せることに成功した。
④このような勧進僧侶による地方寺院の復興は、阿波の大瀧寺や土佐の金剛頂寺でも行われていた。
⑤その勧進僧に共通するのは、弘法大師信仰から生まれた「大師聖霊の御助成人」としての誇りと指命であった。
こう考えると弘法大師信仰が高野聖などで地方拡散し、それが地方寺院の復興活動を支えていたことになります。その讃岐における先例が11世紀の曼荼羅寺の復興運動であったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
         野中寛文 曼荼羅寺から善通・曼荼羅両寺へ」香川史学 第三〇号 平成15年

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