
守護小笠原時代の大西氏
細川・三好氏の讃岐侵攻、その後の長宗我部元親の讃岐侵攻を追いかけていると、白地城の大西氏の果たした役割を見逃すわけにはいかなくなります。大西氏がどのようにして勢力を拡大したかについて見ておくことにします。テキストは「白地城大西氏の繁栄 池田町史上巻140P」です。
大西氏は、田井ノ荘の庄官として京都からやってきた時には近藤氏を名乗っていました。
それが、次第に武士化していきます。その過程を、まず追いかけます。
建武二年(1335)年7月12日付で田井ノ庄(三好町と井ノ内谷以西の三好郡)は西園寺家が管領することになり、庄官として近藤氏(後の大西氏)が派遣されます。〔阿波国徴古雑抄所収西園寺家所蔵文書〕
田井ノ荘の本家である京都の西園寺家は、承久の乱で大きな権力を獲得し、その影響は田井ノ荘にも及んだことが考えられます。例えば、小笠原氏が守護として池田大西城に入ったときにも、田井ノ荘に対してはむやみに手をつけることはできなかったと研究者は推測します。当時は守護・地頭の荘園押領は日常茶飯事のことだったので、田井ノ荘にとってはプラスに作用したでしょう。そのうちに小笠原氏と縁組みなどにより親類関係を結び、その一族として協力関係を作り上げていったのでしょう。
田井ノ荘の本家である京都の西園寺家は、承久の乱で大きな権力を獲得し、その影響は田井ノ荘にも及んだことが考えられます。例えば、小笠原氏が守護として池田大西城に入ったときにも、田井ノ荘に対してはむやみに手をつけることはできなかったと研究者は推測します。当時は守護・地頭の荘園押領は日常茶飯事のことだったので、田井ノ荘にとってはプラスに作用したでしょう。そのうちに小笠原氏と縁組みなどにより親類関係を結び、その一族として協力関係を作り上げていったのでしょう。
建武中興によって西園寺家が衰えると、武士の荘園侵略が横行しはじめます。その頃には小笠原氏の支援を受けて、田井ノ荘を自領として確保したのでしょう。南北朝時代になると京都の西園寺家は名目だけの本家として、わずかばかりの貢租を納めるだけになっていたことが推測できます。
正平4年(1349)の紀伊国の野川氏所蔵文書に、「南朝方の野川氏ヘ田井ノ荘の年貢の内30石を宛下さる」とあります。この内容からも西園寺家の田井ノ荘支配は名目的になっていたことがうかがえます。
南朝方に付いていた大西氏は、小笠原氏とともに康永2年(1343)に、細川氏に降ります。そして、小笠原氏が三好と改姓して勝瑞に移ります。これ以後は、近藤氏(大西氏)が池田城を管理するようになり、次第に大西氏を名のるようになります。
一方三好氏は、細川氏の下で阿波の統治権を握るようになります。そして、阿波全域に広がった軍事動員権を通じて己の基盤を強化していきます。例えば、応仁の乱では、細川成之は8000騎を率いて東軍の中心として戦っています。この時に三好氏は従軍しています。三好氏の一族であり、被官でもある大西氏も従軍しているはずです。 応仁記には「細川の陪臣」と記されています。大西氏が三好氏の軍団に属して海を渡り、応仁の乱に参戦したことが分かります。
池田の大西城
一方三好氏は、細川氏の下で阿波の統治権を握るようになります。そして、阿波全域に広がった軍事動員権を通じて己の基盤を強化していきます。例えば、応仁の乱では、細川成之は8000騎を率いて東軍の中心として戦っています。この時に三好氏は従軍しています。三好氏の一族であり、被官でもある大西氏も従軍しているはずです。 応仁記には「細川の陪臣」と記されています。大西氏が三好氏の軍団に属して海を渡り、応仁の乱に参戦したことが分かります。
鳥坂城主の流れを汲む系図で、遠祖は源氏の出で詳しくその事情が書かれています。その真偽は別として、系図の終末が戦国末期で終わっていることに研究者は注目します。つまり、この系図は戦国時代に近いころに書かれたもので、その附近の記述は相当正確でないかと考えられるからです。この佐々木系図には、応仁の乱に参戦したことが記述されています。内容は、もちろん出陣し功名をあげたという記述です。この系図の記述も「応仁記」の記述と相応ずるものです。ここからは応仁の乱に際して、大西氏も従軍し、それに伴って田井ノ荘の人たちは兵士として駆り出され、戦傷や戦死者がでたことがうかがえます。遠征のための戦費も当然、農民の肩にかかって来ます。一面、農民は自ら視野を広め、農耕の技術を見間する機会とし、新しい中世の農民の社会や文化を形づくる契機となったかもしれません。
大西氏が畿内に遠征したことが分かるのは、大永7(1527)の桂川原の戦いの時です。
大永7(1527)の桂川原の戦い
大西氏が畿内に遠征したことが分かるのは、大永7(1527)の桂川原の戦いの時です。

三好元長に従軍して、大西元高が戦死したことを記す文書を見ておきましょう。
去十九日従泉乗寺一取二出於西院口自身手砕則切崩遊佐 弾正忠阿部大西如百餘人討捕之趣忠節無二比類・候或討死 或被庇之族且者感悦者愁歎候弥可被励軍功事尤候恐々 謹言(年月日なし) 細川道永 (高国)朝倉太郎左衛門殿
意訳変換しておくと
去る19日に泉乗寺より出撃して、西院口で敵軍を切崩し遊佐弾正忠や阿部大西など百餘人を討捕えた武勇は忠節無比で、感悦する働きであった。この軍功を認める。恐々謹言(年月日なし) 細川道永 (高国)朝倉太郎左衛門殿
細川道永とは細川高国の剃髪後の号で、細川氏の敵対者でした。その高国が朝倉氏に対して、遊佐氏や大西氏を撃破したことに出した感状です。この時に敗れた側が細川晴元方の阿波屋形の細川氏であり、三好氏でした。大西氏は三好氏に従軍していました。上の布陣図では青軍になります。両軍は大永7年にも何回か戦っていますが、越前の朝倉太郎左衛門教景が高国側について、三好元長が西院に陣したのは年も押しつまった12月のことです。この戦いに、大西元高が戦死しています。この戦いに参加したのが大西元高とする根拠は、元高の死亡が大永七年であることです。
池田町白地の八幡寺には、この時に戦死した大西元高の位牌がまつられています。

「享坤院天恵祖芳大居士 千時大永七亥天 三位乙暦十一代維遠後胤 七月初八日 故藤原大西出雲守元高 当院中興開基大壇越、
意訳変換しておくと
「享坤院天恵祖芳大居士 大永七(1527)亥天 三位乙暦 十一代維遠 七月初八日
故藤原大西出雲守元高 は当院中興・開基の大壇越である、
ここからは次のような情報が読み取れます
①大西元高の死亡は大永7(1527)年7月8日であること。
②大西元高の姓が藤原氏であること
③白地の八幡寺は大西元高が中興・開基した寺院であること
先ほど見たように三好元長が応仁の乱で、京都の西院で敗死したのは12月です。この位牌の死亡日時との間にはズレがあります。しかし、元長と高国の戦いは、大永7年の2月ごろから断続的に続いているので、元高の戦死はそうした一連の戦いの中で戦死したことがふたつの史料からはうかがえます。史料には残っていませんが、三好氏の遠征に大西氏がほとんど加わっていたと研究者は考えています。ここでは、大西氏は三好氏の一族であり、忠実な被官であったことを押さえておきます。
白地八幡寺
大西氏は畿内への出兵以外にも、阿波国内や讃岐への遠征にも三好氏に従軍したことが分かります。
次の古文書は、大西氏の被官である佐野氏が三好義賢からおくられた感状です。
次の古文書は、大西氏の被官である佐野氏が三好義賢からおくられた感状です。
「三好郡佐野村百姓卵兵衛所蔵文書於坂東河原合戦之剋、敵阿助被討捕之、特自身手柄之段、神妙之至候、猶敵陳無覚束候、弥可抽戦功之状如件八月十九日 義賢 墨印佐野次郎左衛門尉殿」 (『阿波国徴古雑抄』所収)
阿波三好氏系図(池田町史上)
三好元長(長基・海雲)が堺で憤死したとき、三好長慶(千熊九)はわず14歳でした。その後、臥薪嘗胆し着々と勢力を増し、父の仇を討つ機をねらっていました。白地城大西氏は頼武の時代になっていましたが、上の系図のように長慶の妹を妻とし、長慶の重臣として深い関係にありました。大西頼武は三好氏の重臣として、勝瑞にあり、さらに長慶に従って畿内で活躍したと研究者は考えています。細川氏も三好氏も阿波と畿内に分かれて「二重生活」で活躍したように、白地城大西氏も、三好氏の被官として勝瑞や畿内で頼武が活躍します。白地城では、弟の元武が幼主大西覚用を補佐して四国中央部で勢力を拡大します。この間も田井ノ荘の人たちは、細川・三好氏に動員され、阿讃や畿内に転戦し、敗れれば大西へ帰って疲れを癒し、また、動員されて出征するという苦しい試練に飲み込まれていたのかもしれません。讃岐の中世武将たちが管領家の細川氏に動員されて、畿内で戦って「細川家四天王」と称されたように、阿波の大西家も阿波細川氏に従軍して畿内で活躍したことを抑えておきます。
大西家系図(池田町史)
大西頼武が勝瑞や畿内で活躍しているころ、白地城では頼武の弟元武が幼主大西覚用(輝武)を助けて、 白地城大西氏の勢力を拡げていました。
もともと大西氏は、西園寺家の荘園田井ノ荘の庄官の出であったことは最初に見ました。そのスタートは、山城地域を拠点にした開墾地私有領から出発し、その範囲も、山城・西祖谷・佐馬地・三縄の一部でした。それが元高のころから、細川・三好氏の畿内転戦に従軍し、軍功を重ね、三好氏の勢力伸張に大きな貢献をするようになります。それと併行して留守をあずかる元武や覚用等は、周辺に勢力を拡げて行くようになります。その方法は、三好氏にならって一族を周辺に配置して勢力拡大の手段にすることです。例えば、次のような拠点が育っていきます。
もともと大西氏は、西園寺家の荘園田井ノ荘の庄官の出であったことは最初に見ました。そのスタートは、山城地域を拠点にした開墾地私有領から出発し、その範囲も、山城・西祖谷・佐馬地・三縄の一部でした。それが元高のころから、細川・三好氏の畿内転戦に従軍し、軍功を重ね、三好氏の勢力伸張に大きな貢献をするようになります。それと併行して留守をあずかる元武や覚用等は、周辺に勢力を拡げて行くようになります。その方法は、三好氏にならって一族を周辺に配置して勢力拡大の手段にすることです。例えば、次のような拠点が育っていきます。
①頼武の弟の源兵衛を井之内に住まわせ、井之内地方一帯を固める②田野を井川に住まわせ、井川荘(湯川荘)の中に勢力を植えつける。③大西田野は、氏神の白地八幡神社の分霊をまつって井川の鎮守とする。これが井川町中村の八幡神社④池田へは宗安を住まわせたのが、現在の「宗安通り」
「故城記」の勝瑞屋形218家の中には、大西氏の家紋である鳳凰と雁を使用している家が七家あります。

「故城記」に記載されているので、三好氏の有力な一員であったことがうかがえます。この七家は大西氏の一族と推測できます。「故城記」所載の七家は次のとおりです。
一、片穂殴 鳳凰一、中務殴 鳳胤一、大西角用殴 鳳凰・雁一、忠津川殿 雁一、片山殿 昼間・雁一、大谷殿 池田・雁一、宗安殿 雁
この七家について、研究者は次のように推測します。
①最初の片穂、中務の館がどこにあったかは分かりません。②忠津川は、志津川の草書体の写し誤りで、漆川の古名志津川はここから来ている。③片山については、州津と昼間の境に片山の地称が残っているが、片山殿の館跡は場所不明
④宗安ついては、池田の「宗安通り」あたり
次に大西氏が創建・再建した神社仏閣や、寄進した仏像などを見ていくことにします。
A 報恩寺創建
報恩寺銘瓦の拓本が三好郡志に載せられ、現物も田村家に保存されているようです。
「文明癸巳歳十一月吉日 大檀那 藤原之高」 (文明五年(1473) 元高との説あり)
B 山城梅宮神社創建・再建棟札
ここには次のような大西覚用の棟札もあります。
「奉建之梅宮五社大明神御宝殿 天正二(1574)年甲成十二月十二日 大西覚用」阿波国郡村誌には「梅宮神社天正三(1575)年甲戊十二月十二日 大西覚用祀之」
「…大檀那大西覚用公 大願主大月寺(現長福寺)現住金智」
この棟札は、安永年中紛失と「古事書上帳」に記されていて今はないようです。四所神社は、大西覚用が大西氏の菩提寺として大月寺(現長福寺)を建立したとき、その守護神として建てたものとされます。大月寺と四所神社は、神仏混淆下では、大月寺の社僧が管理していたはずです。この下を流れる銅山川を遡っていくと、新宮の熊野神社があり、この辺りの熊野信仰の拠点であったことは以前にお話ししました。新宮の熊野神社の別当寺が四国霊場の三角寺でした。この辺りは中世には熊野行者や密教系修験者の活動が色濃く残るところであることは以前にお話ししました。
D 四所神社の別当寺大月寺(現長福寺:山城町大月名)も大西覚用の建立とされます。
「古事書上帳」には大檀那大西覚用の名が正朱で記されていたとします。やはり安永年間に紛失しています。
長福寺(大月寺)の大銀杏
現在長福寺には大西覚用が植えたと伝えられる大イチョウが県指定の天然記念物となっています。 なお、覚用自筆の法華経が寄進され、伝えられています。E 川崎三所神社の棟札
左の棟札が所蔵されています。三所神社は小笠原長経の創建と伝えられます。それを永禄5年5月1日に「藤原(大西)元武」が再興したということになるのでしょうか。この神社には応永年間の般若心経六百巻が伝わっています。ここからは、この神社が郷社的な存在であったことがうかがえます。

D 中西一宮神社(池田町三繩)には、次の棟札があります。
「上棟一宇大明神天正三乙亥 小春初日 大檀那覚用居士並藤原頼武」
一宮神社には、「嘉暦三年(1328)、城主宇清藤太夫信幅宝納」と朱書した鎌倉時代の面(五作の面)が伝えられています。城主についてはよく分かりませんが、これも大西氏の一族でしょう。

昼間願成寺へ薬師如来寄進
「天文十六(1547)丁未六月十七日、当寺住職五叔等川木願三蔵大檀 那(大西)元武」
この他にも、雲辺寺鰐口(現在紛失)や、西山密厳寺般若心経20巻なども白地城の大西氏の寄進と伝えられています。このように大西氏は周辺の拠点に、新たに神社や寺院を建立・中興し、自らの支配を根付かせていったことがうかがえます。これらの信仰活動の中心となったのが、熊野行者や真言密教系の修験者たちであったと私は考えています。それは、伊予新宮の熊野神社や、土佐の豊前寺と修験道ネットワークで結ばれていたようです。それが近世になると、箸蔵寺などに姿を変えていくのでしょう。このような濃厚な修験者たちの存在が、美馬安楽寺の浄土真宗興正寺派の教線が三好郡に及んでくるのを妨げたのかもしれません。
大西覚用は、吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達に熊野参詣の費用を支出しています。
白地城城主の大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げた文書「大西覚用熊野三山御師え渡日記(仙光寺文書)」からは、次のような先達と檀那の「詩壇関係」が見えてきます。
檀那 大西覚用 → 十川先達 → 御師 → 熊野大社
このときに、大西覚用自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって代参したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石=5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは現在の米価格に換算すると約4000万円ほどになります。これは、熊野の御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。ここからは、大西覚用は大西一族の棟梁として、このくらいの「参拝料」を収める経済力があったことがうかがえます。同時に、大西覚用が熊野信仰を持っていて、熊野行者や修験者を保護していたことも見えて来ます。
『西條誌』(伊予西條藩編集)
「大西備中守元武の氏は小笠原氏にて阿州三好郡白地の城主たり。五代の祖左衛門亮勲功あり。足利将軍より阿予の内にて五万石を賜わり、当国宇摩郡桑鳥村にも五百石の領地あり」
ここには大西氏が足利将軍より「阿伊の内にて五万石を賜り」とあります。これはそのまま信じるわけにはいきません。「故城諾将記」には「大西出雲守(頼武)の領地三百貫」と記します。中世の武家の知行高で、一貫は約田畑十石です。三百貫は三千石となり、『西條誌』の「五万石」とは大きな隔たりがあります。しかし、大西氏の領地が、伊予、土佐、讃岐にまたがり、四国中央部を占めていたことは推察できます。また、その領地は石高では測れない「山野の財」を産出したのではないかと私は考えています。それは、古代以来の銅や水銀などの鉱山資源や、木材、木工製品などが考えられます。
領地を伐り取り、勢力を広めてゆく状況は、「大西軍記」(元武功徳明視録、金記、馬路記)に詳しく述べられています。

大西軍記
『大西軍記』は、大西元武の武勇伝を中心にした軍記物語で、元武の五代の孫武政が元禄時代に、現地を調査して書きあげたものです。軍記ものなので、すべてが史実ではありません。ただ伊予の金川で書かれているために伊予のことは正確で、阿波のことには誤りが多いとされています。元武が、戦いに継ぐ戦いで、最後に、 一族の裏切りに会って戦死するまでの生涯を描いています。一部を紹介しておきます。
「大西軍記 巻の六
宇摩郡松尾城合戦斯くて大西備中守源の元武は、竊かに忍ひを以て 土佐守か振舞を探り聞くに、岩倉の城にあつて日ならすして土州へ帰陣の由告け来らは、是れ必す虚実 の計事ならむ、急に当国へ寄来るへし(と)衆臣を 集めて曰、思ふに元親阿州に出張し必す土佐帰陣は 空虚ならん、此時山中の小路より土佐へ討て出、急 に責め立つれは大に利を得む、若元親急に進めは臨機応変の処置し、或は引或は進み、二、三度土佐勢をなやまさは終には勝利となるへし、林密計を語る 所に人あつて当国の諸将残らす変心の由告けゝれ は、元武大に驚き其故を尋るに、真鍋左衛門佐土佐勢の強勇なるを恐れ、義を破り諸将をして元親に一 味同心のよし進めけると聞けれは、備中守大に怒 り、左衛門佐臆病なれは、彼壱名の去就何そ怖るゝ に足らむ、然れ共、衆将を引分る事奇怪なり、不意 に押寄彼れを責取、向後東に帰らむと出陣の用意し けれ共、未夕痛み頻りなれは志摩守を差し向けらる へきよし申しけれは、衆評是非に及はす、急に兵を 調へ松尾の城江押寄せける、其勢弐百五拾には過き さりける、抑伊予国松尾城と申すは、後は大山峩々として山 の流れを切開き尾上に櫓をかけ、東西は谷深ふして 大手斗りの責口と見へにけり、さしもの一城要害は 堅固にして中々容易に落かたく備へたる城なれは、 志摩守の勢をはかつて責寄せける、城中にも兼而存 する事なれは、兵三百余騎を一手になし、城外四、 五丁出てゝ陣を取り待ちかけたり

白地城大西氏は、頼武が義兄長慶に従って畿内で活躍しました。
その最後の参戦は、三好義賢(実休)が戦死し、三好氏衰亡のきっかけとされる久米田の戦いでした。『南海通記』には「大西出雲守(中略)等七千余人」と記されますが、 この戦いから頼武が白地城に帰ってきたときは、相当の老年になっていて隠退の時期を迎えていたはずです。久米田の戦い以後は、大西氏は三好氏の被官というよりも、独立した戦国大名として動き出すことになります。
それが三好氏と距離を置いて、毛利氏に接近しながら讃岐への勢力拡大を図ろうとする動きだったようです。ここでは戦国末期の大西氏は、三好氏の意志にも反して行動するようになっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
白地城大西氏の繁栄 池田町史上巻140P最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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