瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の武将 > 阿波三好氏

 長宗我部元親の阿波侵攻1
守護小笠原時代の大西氏

 細川・三好氏の讃岐侵攻、その後の長宗我部元親の讃岐侵攻を追いかけていると、白地城の大西氏の果たした役割を見逃すわけにはいかなくなります。大西氏がどのようにして勢力を拡大したかについて見ておくことにします。テキストは「白地城大西氏の繁栄    池田町史上巻140P」です。
大西氏は、田井ノ荘の庄官として京都からやってきた時には近藤氏を名乗っていました。
それが、次第に武士化していきます。その過程を、まず追いかけます。
建武二年(1335)年7月12日付で田井ノ庄(三好町と井ノ内谷以西の三好郡)は西園寺家が管領することになり、庄官として近藤氏(後の大西氏)が派遣されます。〔阿波国徴古雑抄所収西園寺家所蔵文書〕
 田井ノ荘の本家である京都の西園寺家は、承久の乱で大きな権力を獲得し、その影響は田井ノ荘にも及んだことが考えられます。例えば、小笠原氏が守護として池田大西城に入ったときにも、田井ノ荘に対してはむやみに手をつけることはできなかったと研究者は推測します。当時は守護・地頭の荘園押領は日常茶飯事のことだったので、田井ノ荘にとってはプラスに作用したでしょう。そのうちに小笠原氏と縁組みなどにより親類関係を結び、その一族として協力関係を作り上げていったのでしょう。
 建武中興によって西園寺家が衰えると、武士の荘園侵略が横行しはじめます。その頃には小笠原氏の支援を受けて、田井ノ荘を自領として確保したのでしょう。南北朝時代になると京都の西園寺家は名目だけの本家として、わずかばかりの貢租を納めるだけになっていたことが推測できます。
正平4年(1349)の紀伊国の野川氏所蔵文書に、「南朝方の野川氏ヘ田井ノ荘の年貢の内30石を宛下さる」とあります。この内容からも西園寺家の田井ノ荘支配は名目的になっていたことがうかがえます。
 南朝方に付いていた大西氏は、小笠原氏とともに康永2年(1343)に、細川氏に降ります。そして、小笠原氏が三好と改姓して勝瑞に移ります。これ以後は、近藤氏(大西氏)が池田城を管理するようになり、次第に大西氏を名のるようになります。

池田大西城
池田の大西城

一方三好氏は、細川氏の下で阿波の統治権を握るようになります。そして、阿波全域に広がった軍事動員権を通じて己の基盤を強化していきます。例えば、応仁の乱では、細川成之は8000騎を率いて東軍の中心として戦っています。この時に三好氏は従軍しています。三好氏の一族であり、被官でもある大西氏も従軍しているはずです。 応仁記には「細川の陪臣」と記されています。大西氏が三好氏の軍団に属して海を渡り、応仁の乱に参戦したことが分かります。
馬場の佐々木家には、応永9年の日付のある呪法(?)の秘伝の巻物、室町期の銅銃などともに、佐々木家の系図が伝わっています。

大西家一族 佐々木家の系図
鳥坂城主の流れを汲む系図で、遠祖は源氏の出で詳しくその事情が書かれています。その真偽は別として、系図の終末が戦国末期で終わっていることに研究者は注目します。つまり、この系図は戦国時代に近いころに書かれたもので、その附近の記述は相当正確でないかと考えられるからです。この佐々木系図には、応仁の乱に参戦したことが記述されています。内容は、もちろん出陣し功名をあげたという記述です。この系図の記述も「応仁記」の記述と相応ずるものです。ここからは応仁の乱に際して、大西氏も従軍し、それに伴って田井ノ荘の人たちは兵士として駆り出され、戦傷や戦死者がでたことがうかがえます。遠征のための戦費も当然、農民の肩にかかって来ます。一面、農民は自ら視野を広め、農耕の技術を見間する機会とし、新しい中世の農民の社会や文化を形づくる契機となったかもしれません。

大西氏が畿内に遠征したことが分かるのは、大永7(1527)の桂川原の戦いの時です。

              大永7(1527)の桂川原の戦い
三好元長に従軍して、大西元高が戦死したことを記す文書を見ておきましょう。
去十九日従泉乗寺一取二出於西院口自身手砕則切崩遊佐   弾正忠阿部大西如百餘人討捕之趣忠節無二比類・候或討死  或被庇之族且者感悦者愁歎候弥可被励軍功事尤候恐々 謹言
(年月日なし)        細川道永 (高国)
朝倉太郎左衛門殿
意訳変換しておくと
去る19日に泉乗寺より出撃して、西院口で敵軍を切崩し遊佐弾正忠や阿部大西など百餘人を討捕えた武勇は忠節無比で、感悦する働きであった。この軍功を認める。恐々謹言
(年月日なし)        細川道永 (高国)
朝倉太郎左衛門殿
細川道永とは細川高国の剃髪後の号で、細川氏の敵対者でした。その高国が朝倉氏に対して、遊佐氏や大西氏を撃破したことに出した感状です。この時に敗れた側が細川晴元方の阿波屋形の細川氏であり、三好氏でした。大西氏は三好氏に従軍していました。上の布陣図では青軍になります。両軍は大永7年にも何回か戦っていますが、越前の朝倉太郎左衛門教景が高国側について、三好元長が西院に陣したのは年も押しつまった12月のことです。この戦いに、大西元高が戦死しています。この戦いに参加したのが大西元高とする根拠は、元高の死亡が大永七年であることです。
池田町白地の八幡寺には、この時に戦死した大西元高の位牌がまつられています。

白地八幡寺の大西元高の位牌
この位牌には次のように記されています。

「享坤院天恵祖芳大居士  千時大永七亥天 三位乙暦十一代維遠後胤 七月初八日 故藤原大西出雲守元高 当院中興開基大壇越、

意訳変換しておくと
「享坤院天恵祖芳大居士  大永七(1527)亥天 三位乙暦 十一代維遠  七月初八日
 故藤原大西出雲守元高 は当院中興・開基の大壇越である、

ここからは次のような情報が読み取れます
①大西元高の死亡は大永7(1527)年7月8日であること。
②大西元高の姓が藤原氏であること
③白地の八幡寺は大西元高が中興・開基した寺院であること
先ほど見たように三好元長が応仁の乱で、京都の西院で敗死したのは12月です。この位牌の死亡日時との間にはズレがあります。しかし、元長と高国の戦いは、大永7年の2月ごろから断続的に続いているので、元高の戦死はそうした一連の戦いの中で戦死したことがふたつの史料からはうかがえます。史料には残っていませんが、三好氏の遠征に大西氏がほとんど加わっていたと研究者は考えています。ここでは、大西氏は三好氏の一族であり、忠実な被官であったことを押さえておきます。

白地 八幡寺
白地八幡寺
大西氏は畿内への出兵以外にも、阿波国内や讃岐への遠征にも三好氏に従軍したことが分かります。
次の古文書は、大西氏の被官である佐野氏が三好義賢からおくられた感状です。
「三好郡佐野村百姓卵兵衛所蔵文書 
坂東河原合戦之剋、敵阿助被討捕之、特自身手柄之段、神妙之至候、猶敵陳無覚束候、弥可抽戦功之状如件
八月十九日             義賢 墨印 
佐野次郎左衛門尉殿」 (『阿波国徴古雑抄』所収)


三好氏系図.4jpg

阿波三好氏系図(池田町史上)

三好元長(長基・海雲)が堺で憤死したとき、三好長慶(千熊九)はわず14歳でした。その後、臥薪嘗胆し着々と勢力を増し、父の仇を討つ機をねらっていました。白地城大西氏は頼武の時代になっていましたが、上の系図のように長慶の妹を妻とし、長慶の重臣として深い関係にありました。大西頼武は三好氏の重臣として、勝瑞にあり、さらに長慶に従って畿内で活躍したと研究者は考えています。細川氏も三好氏も阿波と畿内に分かれて「二重生活」で活躍したように、白地城大西氏も、三好氏の被官として勝瑞や畿内で頼武が活躍します。白地城では、弟の元武が幼主大西覚用を補佐して四国中央部で勢力を拡大します。この間も田井ノ荘の人たちは、細川・三好氏に動員され、阿讃や畿内に転戦し、敗れれば大西へ帰って疲れを癒し、また、動員されて出征するという苦しい試練に飲み込まれていたのかもしれません。讃岐の中世武将たちが管領家の細川氏に動員されて、畿内で戦って「細川家四天王」と称されたように、阿波の大西家も阿波細川氏に従軍して畿内で活躍したことを抑えておきます。
大西家系図 池田町史
大西家系図(池田町史)

 大西頼武が勝瑞や畿内で活躍しているころ、白地城では頼武の弟元武が幼主大西覚用(輝武)を助けて、 白地城大西氏の勢力を拡げていました。
もともと大西氏は、西園寺家の荘園田井ノ荘の庄官の出であったことは最初に見ました。そのスタートは、山城地域を拠点にした開墾地私有領から出発し、その範囲も、山城・西祖谷・佐馬地・三縄の一部でした。それが元高のころから、細川・三好氏の畿内転戦に従軍し、軍功を重ね、三好氏の勢力伸張に大きな貢献をするようになります。それと併行して留守をあずかる元武や覚用等は、周辺に勢力を拡げて行くようになります。その方法は、三好氏にならって一族を周辺に配置して勢力拡大の手段にすることです。例えば、次のような拠点が育っていきます。
①頼武の弟の源兵衛を井之内に住まわせ、井之内地方一帯を固める
②田野を井川に住まわせ、井川荘(湯川荘)の中に勢力を植えつける。
③大西田野は、氏神の白地八幡神社の分霊をまつって井川の鎮守とする。これが井川町中村の八幡神社
④池田へは宗安を住まわせたのが、現在の「宗安通り」

「故城記」の勝瑞屋形218家の中には、大西氏の家紋である鳳凰と雁を使用している家が七家あります。
武家家伝_大西氏

「故城記」に記載されているので、三好氏の有力な一員であったことがうかがえます。この七家は大西氏の一族と推測できます。「故城記」所載の七家は次のとおりです。
一、片穂殴 鳳凰 
一、中務殴 鳳胤 
一、大西角用殴  鳳凰・雁
一、忠津川殿
一、片山殿 昼間・雁 
一、大谷殿 池田・雁
一、宗安殿
この七家について、研究者は次のように推測します。
①最初の片穂、中務の館がどこにあったかは分かりません。
②忠津川は、志津川の草書体の写し誤りで、漆川の古名志津川はここから来ている。
③片山については、州津と昼間の境に片山の地称が残っているが、片山殿の館跡は場所不明
④宗安ついては、池田の「宗安通り」あたり

次に大西氏が創建・再建した神社仏閣や、寄進した仏像などを見ていくことにします。
  A 報恩寺創建 
報恩寺銘瓦の拓本が三好郡志に載せられ、現物も田村家に保存されているようです。
「文明癸巳歳十一月吉日 大檀那 藤原之高」 (文明五年(1473) 元高との説あり)

山城梅宮神社

 B 山城梅宮神社創建


山城梅宮神社創建並再建棟札2 大西覚用

B 山城梅宮神社創建・再建棟札

大西家に関わる最古の棟札です。「永正十□酉年」は永正十年癸西年(1513)で報恩寺瓦から30年後のものです。元高が京都で戦死したと言われる大永七年は、さらに14年後になります。「大施主並女大施主藤原□□」とは何者なのでしょうか? 大西氏のことなのでしょうか? 国司やその要(娘)が名目だけに名をつらねたのでしょうか。私には分かりません。彼らが藤原性を名乗っていることを押さえておきます。
  ここには次のような大西覚用の棟札もあります。 
「奉建之梅宮五社大明神御宝殿 天正二(1574)年甲成十二月十二日 大西覚用
 阿波国郡村誌には「梅宮神社天正三(1575)年甲戊十二月十二日 大西覚用祀之」
 
徳島県 四所神社】銅山川沿いの総氏神三好市 山城町
四所神社(山城町大月名)
C 四所神社(山城町大月名)の棟札には、次のように記されていたとされます。

 「…大檀那大西覚用公 大願主大月寺(現長福寺)現住金智」

この棟札は、安永年中紛失と「古事書上帳」に記されていて今はないようです。四所神社は、大西覚用が大西氏の菩提寺として大月寺(現長福寺)を建立したとき、その守護神として建てたものとされます。大月寺と四所神社は、神仏混淆下では、大月寺の社僧が管理していたはずです。この下を流れる銅山川を遡っていくと、新宮の熊野神社があり、この辺りの熊野信仰の拠点であったことは以前にお話ししました。新宮の熊野神社の別当寺が四国霊場の三角寺でした。この辺りは中世には熊野行者や密教系修験者の活動が色濃く残るところであることは以前にお話ししました。
D 四所神社の別当寺大月寺(現長福寺:山城町大月名)も大西覚用の建立とされます。
「古事書上帳」には大檀那大西覚用の名が正朱で記されていたとします。やはり安永年間に紛失しています。
長福寺の大銀杏
長福寺(大月寺)の大銀杏
現在長福寺には大西覚用が植えたと伝えられる大イチョウが県指定の天然記念物となっています。 なお、覚用自筆の法華経が寄進され、伝えられています。
川崎三所神社の棟札 

山城梅宮神社創建並再建棟札 大西覚用

左の棟札が所蔵されています。三所神社は小笠原長経の創建と伝えられます。それを永禄5年5月1日に「藤原(大西)元武」が再興したということになるのでしょうか。この神社には応永年間の般若心経六百巻が伝わっています。ここからは、この神社が郷社的な存在であったことがうかがえます。
大西覚用系図
 D  中西一宮神社(池田町三繩)には、次の棟札があります。

「上棟一宇大明神天正三乙亥 小春初日 大檀那覚用居士藤原頼武

大西氏の系図は、混乱をきわめ、頼武と覚用が同一人物とするものもあります。しかし、この棟札には、両名の氏名の間に「並」の文字があります。ここからは二人が別人であることが分かります。
一宮神社には、「嘉暦三年(1328)、城主宇清藤太夫信幅宝納」と朱書した鎌倉時代の面(五作の面)が伝えられています。城主についてはよく分かりませんが、これも大西氏の一族でしょう。
   
紫雲山 願成寺 « 紫雲山 願成寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

昼間願成寺へ薬師如来寄進 
「天文十六(1547)丁未六月十七日、当寺住職五叔等川木願三蔵大檀  那(大西)元武

この他にも、雲辺寺鰐口(現在紛失)や、西山密厳寺般若心経20巻なども白地城の大西氏の寄進と伝えられています。このように大西氏は周辺の拠点に、新たに神社や寺院を建立・中興し、自らの支配を根付かせていったことがうかがえます。これらの信仰活動の中心となったのが、熊野行者や真言密教系の修験者たちであったと私は考えています。それは、伊予新宮の熊野神社や、土佐の豊前寺と修験道ネットワークで結ばれていたようです。それが近世になると、箸蔵寺などに姿を変えていくのでしょう。このような濃厚な修験者たちの存在が、美馬安楽寺の浄土真宗興正寺派の教線が三好郡に及んでくるのを妨げたのかもしれません。

 大西覚用は、吉野川市鴨島町の山伏であった十川先達に熊野参詣の費用を支出しています。
白地城城主の大西覚用(1578年没)が、永禄12年(1569)年、熊野三山の御師(祈祷や宿泊の世話などをした宗教者)に渡した費用を書き上げた文書「大西覚用熊野三山御師え渡日記(仙光寺文書)」からは、次のような先達と檀那の「詩壇関係」が見えてきます。

檀那 大西覚用 → 十川先達 → 御師 → 熊野大社

このときに、大西覚用自身が参詣したのか、それとも十川先達が代わって代参したのかは分かりません。しかし、御師に対する負担の実態は分かります。史料には、脇差・舎六、綿、米など、各種の用途に応じた費用が列挙され、最後に合計額428貫100文と記されています。「1石=5万2500円」として、428貫100文を米の量に換算すると、713石になります。これは現在の米価格に換算すると約4000万円ほどになります。これは、熊野の御師に渡したものだけです。これ以外にも、檀那自身、隨行者、先達の装束や経費など、一切を支出しなければなりませんでした。ここからは、大西覚用は大西一族の棟梁として、このくらいの「参拝料」を収める経済力があったことがうかがえます。同時に、大西覚用が熊野信仰を持っていて、熊野行者や修験者を保護していたことも見えて来ます。
 その他の古文書、古記録等より、大西氏の領地、石高、経済力などを見ておきましょう。
伊予西条藩が藩の儒学者日野和煦に命じて編纂した地誌「西條誌」は、次のような記述があります。

西條史 
『西條誌』(伊予西條藩編集)

「大西備中守元武の氏は小笠原氏にて阿州三好郡白地の城主たり。五代の祖左衛門亮勲功あり。足利将軍より阿予の内にて五万石を賜わり、当国宇摩郡桑鳥村にも五百石の領地あり」

ここには大西氏が足利将軍より「阿伊の内にて五万石を賜り」とあります。これはそのまま信じるわけにはいきません。「故城諾将記」には「大西出雲守(頼武)の領地三百貫」と記します。中世の武家の知行高で、一貫は約田畑十石です。三百貫は三千石となり、『西條誌』の「五万石」とは大きな隔たりがあります。しかし、大西氏の領地が、伊予、土佐、讃岐にまたがり、四国中央部を占めていたことは推察できます。また、その領地は石高では測れない「山野の財」を産出したのではないかと私は考えています。それは、古代以来の銅や水銀などの鉱山資源や、木材、木工製品などが考えられます。
 領地を伐り取り、勢力を広めてゆく状況は、「大西軍記」(元武功徳明視録、金記、馬路記)に詳しく述べられています。
大西軍記
大西軍記
『大西軍記』は、大西元武の武勇伝を中心にした軍記物語で、元武の五代の孫武政が元禄時代に、現地を調査して書きあげたものです。軍記ものなので、すべてが史実ではありません。ただ伊予の金川で書かれているために伊予のことは正確で、阿波のことには誤りが多いとされています。元武が、戦いに継ぐ戦いで、最後に、 一族の裏切りに会って戦死するまでの生涯を描いています。
一部を紹介しておきます。
  「大西軍記   巻の六
宇摩郡松尾城合戦斯くて大西備中守源の元武は、竊かに忍ひを以て 土佐守か振舞を探り聞くに、岩倉の城にあつて日ならすして土州へ帰陣の由告け来らは、是れ必す虚実 の計事ならむ、急に当国へ寄来るへし(と)衆臣を 集めて曰、思ふに元親阿州に出張し必す土佐帰陣は 空虚ならん、此時山中の小路より土佐へ討て出、急 に責め立つれは大に利を得む、若元親急に進めは臨機応変の処置し、或は引或は進み、二、三度土佐勢をなやまさは終には勝利となるへし、林密計を語る 所に人あつて当国の諸将残らす変心の由告けゝれ は、元武大に驚き其故を尋るに、真鍋左衛門佐土佐勢の強勇なるを恐れ、義を破り諸将をして元親に一 味同心のよし進めけると聞けれは、備中守大に怒 り、左衛門佐臆病なれは、彼壱名の去就何そ怖るゝ に足らむ、然れ共、衆将を引分る事奇怪なり、不意 に押寄彼れを責取、向後東に帰らむと出陣の用意し けれ共、未夕痛み頻りなれは志摩守を差し向けらる へきよし申しけれは、衆評是非に及はす、急に兵を 調へ松尾の城江押寄せける、其勢弐百五拾には過き さりける、抑伊予国松尾城と申すは、後は大山峩々として山 の流れを切開き尾上に櫓をかけ、東西は谷深ふして 大手斗りの責口と見へにけり、さしもの一城要害は 堅固にして中々容易に落かたく備へたる城なれは、 志摩守の勢をはかつて責寄せける、城中にも兼而存 する事なれは、兵三百余騎を一手になし、城外四、 五丁出てゝ陣を取り待ちかけたり

久米田の戦い…三好長慶が弟の三好実休を失い、三好氏凋落のきっかけとなった合戦 - YouTube


白地城大西氏は、頼武が義兄長慶に従って畿内で活躍しました
その最後の参戦は、三好義賢(実休)が戦死し、三好氏衰亡のきっかけとされる久米田の戦いでした。『南海通記』には「大西出雲守(中略)等七千余人」と記されますが、 この戦いから頼武が白地城に帰ってきたときは、相当の老年になっていて隠退の時期を迎えていたはずです。久米田の戦い以後は、大西氏は三好氏の被官というよりも、独立した戦国大名として動き出すことになります。
 それが三好氏と距離を置いて、毛利氏に接近しながら讃岐への勢力拡大を図ろうとする動きだったようです。ここでは戦国末期の大西氏は、三好氏の意志にも反して行動するようになっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
白地城大西氏の繁栄    池田町史上巻140P
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他国からの侵略者について、悪評が残るのは当然のことです。侵略する方は、「天下布武」「四国平定」「大東亜共栄圏建設」などの大義名分を掲げますが、侵略される方からすればそれは受けいれられるものではありません。讃岐でも、江戸時代後半になると長宗我部元親は「悪役」として語られることが多くなります。その背景を以前に次のようにまとめました。
①「長宗我部元親焼き討説」が広がり、「信長=仏敵説」のように語られるようになった、
②江戸時代の僧侶や知識人が「元親=仏敵説」にもとずく記述を重ねるようになった
③「土佐人による讃岐制圧」とが「郷土愛」を刺激し、長宗我部元親への反発心がうみだした。
どちらにしても讃岐の近世後半の歴史書や寺社の由来書は、「元親=悪者説」が多いのです。それは阿波でも同じようです。今回は阿波での「長宗我部元親=悪役」の背景を探って見たいと思います。テキストは「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究NO11 2011年」です

研究者は長宗我部元親の「悪評」記述を次のように挙げます。
住吉神社/ホームメイト
藍住町の住吉神社

①板野郡住吉村(藍住町)の住吉神社に残る「住吉明神由来書」(1793)年

「住吉明神往古ハ余程之大社二候処 長曽我部兵火二焼失仕候」

 ここには、住吉明神は大社であったが元親軍の兵火で焼失したと伝えています。
②『阿波郡風土記」の香美村の項

「十一社が元親の兵火にあった。八幡祠(寛永元年九月再興(祭神三座 誉田別尊・依姫・神功皇后、門守の神像に焼け損じたる像あり。是は土佐虐乱の兵火にかかりしなりとぞ」

③名東郡上八万村(徳島市上八万町)の宅宮神社や四門寺にも元親軍の侵攻で兵火にあった伝承
④名東郡西須賀村(徳島市西須賀町)の神主冨川石見の書状(1793年付け)

「杉尾山神領所と申す候ハ四国御管領細川家御代々之御間は御室御領之比より相伝仕来り候通無相違乱持隆公之御代後迄社領仕居中趣之所人正年中之騒乱二長曽我部元親名東郡下八万村之内蛭子山楯之城二在陣之間勝浦近郷之在家を不残焼払ハセ候」

意訳変換しておくと
「杉尾山の神領所は四国管領の細川家の所領として騒乱も無く相伝してきた。ところが長曽我部元親の侵攻の際に、名東郡下の八万村の内蛭子山楯之城(夷山城)に布陣した際に勝浦近郷の家々はみな残らず焼払われた。」

ここには夷山城攻撃の際に、その南方にあたる勝浦近郊の家々を長宗我部元親が焼き払ったと伝えています。
⑤「忌部系統写」千日太夫の記述

「此時分乱賊多ク、長曽我部元親ノ神領ヲ押領ス。依テ一門社格身振ヲ失ウ」

吉野川市山川町でも長宗我部元親の侵入で寺社が社領を失い、退転したと記します。

⑦『美馬町史』

この時の長宗我部の兵火によって多くの民家が焼き払われ、由緒ある古寺院もまたその厄にあったと伝えられている。郡里字銀杏木の銀杏庵の周辺にその遺跡を残している郡里廃寺(立光寺とよばれていたともいう)のごときも、七堂を備えた白鳳期の大伽藍であったが、長宗我部の兵火によって焼失したとする伝承がある。『願勝寺歴代系譜』の記述にも長宗我部元親による被害が記されている。しかし真実は見極めがたい。

⑧『城跡記』
勝瑞城が陥落して三好(十河)存保が讃岐に逃亡した後も岩倉城は元親軍を防いでいた。そこで

「元親扱ヲ人テ城ヲ請取、城番トシテ長曽我部掃部頭ヲ置、此時当日神社仏閣迄悉ク焼亡ス、不人ノ至哉」

意訳変換しておくと
「元親は兵を派遣した城を奪い取り、城番として長曽我部掃部頭を配置した。その時に、周辺の神社仏閣はすべて焼き払った。この所業は人にあらず」

⑨『矢野氏覚書』の中富川合戦の記述
「さて土佐の軍勢共在家に火をかけ焼払ひ、勝瑞へ押寄、見性寺に陣を取」

ここでも戦闘に先立ち周辺の家々を焼き払ったとあります。

⑩『池田町史 上巻』
長宗我部の侵入の際に、三好郡の神社、仏閣や武士、富裕な農民などの邸宅はすべて焼き払われ、あるいは略奪されたと言い伝えられている。馬場の東福寺、昏石の昏石寺、井ノ久保の大林寺、馬路の明長寺、佐野の最勝寺、野呂内の中蓮寺、大利の真光寺、川崎の安養寺、黒沢の長福寺、新山の法蔵寺、妙蓮寺、州津の奥霊寺等多数の寺々が焼かれたと伝えられている。また、白地城、中西城、漆川城などの城跡周辺には、元親軍との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が点々と残っている。

これらの伝説がどこまで本当のことなのかは確かめようがありません。ただ、板野地区の長宗我部との戦いで戦死した武士の墓と伝えられる塚が町営住宅の敷地になるため発掘調査されました。そこからは寛永通宝が出土しました。つまり、この塚は天正年間にまで遡るものではなかったのです。この例でもわかるように、「長宗我部元親=すべて焼き討ち」説が事実ではないようです。
 しかし、この長宗我部氏の寺院放火伝説は、土佐軍の侵人占領が、阿波の人々に大きな衝撃を与えたことは事実です。例えば池田地方は、戦国の世になっても大きな戦いの戦場になることはありませんでした。そこへ土佐兵が大軍でやってきて、何年間も軍事的占領し駐留したのです。白地城は常時3000の兵がいたと言われます。この城を拠点として、伊予や讃岐、吉野川下流へと兵が派遣・帰還などが繰り返され、池田地方はざわめき立ったことでしょう。食糧や物資の徴発、人夫の強制などは、池田地方の人々の負担となり、のしかかってきたはずです。征服者としての異国の土佐兵の常駐は、あっちこっちで問題を起こしたことが推測できます。八年間にわたる占領下の苦しみが土佐兵に対する憎しみとなり、長宗我部放火説へと転化していたのかもしれません。

『小松島市史 上巻』には、四国八十八番札所の恩山寺について、次のように記します。

「立江寺にも恩山寺にも長宗我部侵攻の際に兵火にかかったと言う伝説がある。新居見には長宗我部軍の職を五月職と見違えたために不運にあったことから、今も五月職の吹流しはつけない風習が伝えられている。新居見城の山麓の清浄寺池には焼いていた途中に襲来したために、半焼の魚がいると伝えられたり、更に清浄寺の坊さんが鐘をかぶって清浄池に飛び込み白なまずになつたとか、いろいろの話が伝えられている」。

阿南市桂国寺(長生町会下)の由緒には、次のように記します。
桂國寺庭園 ― 上田宗箇作庭…徳島県阿南市の庭園。 | 庭園情報メディア【おにわさん】
庭園で有名な桂国寺

桂国寺は、応永20(1413)年に周防国鳴滝から阿波にやってきた泰雲寺の全庵一蘭が隠居所として創建したことにはじまる。永禄年間に兵火によって焼失したが、本庄城主安芸守によって再建された。しかし、天正十(1583)年、長宗我部元親の侵攻によって再び焼失した。天正13年、阿波国に入部した蜂須賀家政は、翌14年に丈六寺の描笑春賀に命じて再興させたと伝えられる。近世初期、牛岐城番で家老賀島家の保護を受け、以後賀島氏の菩提所となったという。

その他、阿波国に近接する阿讃山脈北麓に位置する讃岐国の大窪寺などでも元親の侵攻によって焼失したという伝承があります。
これに対して野本氏は次のように記します。

「元親は四国内の宗教諸勢力の力にも目を付け、国境を越えて教線上に点在する寺院を利用した。曹洞宗の場合、阿波の丈六寺を土佐予岳寺の末寺としたり、伊予の古刹龍沢寺を巧みに土佐の末寺元享院(津野領)の影響下に置くといった事例は、宗派別教線の支配という元親の外交戦の一端を垣間見せる。他にも、一向宗・法華宗などで元親の干渉を推察できる史料がある。彼が阿・讃・予の寺社の大半を故意に焼失させたという伝承の何割かは再検討が必要である」

以上のように、長宗我部元親の侵攻伝承の実態を検討しておく必要を述べています。

そういう目で、文久元(1862)年8月の「箸蔵寺旧記聞伝覚書』の「箸蔵寺由来」を見ていくことにします。
箸蔵寺本殿・護摩殿ライブカメラ | 徳島県三好市池田町 | ライブカメラJAPAN FUJIYAMA
一、上之堂与申者昔長曽我部宮内少輔(長宗我部元親)土州より打出大西家落城迄者箸蔵寺此処二有之候。其砌兵火に焼失仕夫より夜々山中に光りを見付、長曽我部一類之者尋来り樹下に霊像あり、見連バ、当山、権現本尊薬師如来諸眷属火中より出残り深く感歎し、是を宿因とし、右霊像を祭りしが凡三十ケ年にも堂寺無之、庵を結び日を送る
(中略)
一、先代蓬庵公巡国是砌、小庵ニ隠者有之候由、聞召、御登山被為遊候節住持申上候其時々之御領―様、是道者権現本尊江御供田被下置来り、殊更御祈祷、所二相成候義与奉申上虎御高之義ハ不被下候得共、山内七十七町七反四畝被為下置御證文御制札御書判被為仰付、御祈祷所並二御取立二相な有之候本社あり(下略)
意訳変換しておくと
一、上の堂と云うのは昔、長宗我部元親が土州から侵入し、大西城が落城するめで箸蔵寺があったところである。兵火で焼失した後に、夜が来ると山中で光りを発するものを見つけた。長曽我部の家臣が捜し訪ねていくと、樹下に霊像があった。見ると、当山箸蔵寺の権現本尊薬師如来が火中から現れていた。これに深く感歎し、宿因とし、この仏像を祀ったが、凡十ケ年にも堂寺は建立できず、庵に安置されていた。
(中略)
一、先代の蜂須賀家の蓬庵公が巡国の際に、仏像が安置されている小庵に隠者がいることを知って、呼び寄せ住持とした。その時に寺領を拝領し、道者権現の本尊御供田とした。さらに祈祷などに優れた効能があったので、山内に七十七町七反四畝の寺領の證文と制札を下さされるように仰せつかった。この祈祷所と取立の証文は本社(箸蔵寺)にある。

ここには、前半部で長宗我部軍の兵火による箸蔵寺の焼失が、そして、後半部に蜂須賀藩による保護復興と寺領寄進が記されています。これは、長宗我部元親と蜂須賀家を意図的に対照的にかき分けていることがうかがえます。これについて、研究者は次のように指摘します。

これには、藩主蜂須賀家の威徳を奉ると共に、蜂須賀氏との関係を強化・維持しようとする地域社会の動向のなかから生み出されたきた侵攻伝承ではないかと思わせる

ちなみに、元親侵攻と同時代を生きた二鬼島道知の『昔阿波物語』などには長宗我部軍による兵火のことは何も書かれていません。
阿波国海部郡への侵攻に関して『元親記』は、次のように記します。

元親卿、其春の異夢を神主左近合申所の任神慮阿波入を思立、早速得利運たりじ併氏神八幡大菩薩之加護なりとて、帰陣の後社参し給ひて、種ゝ神楽を備へ、神社十十二疋社進し被通夜たり。

  意訳変換しておくと
長宗我部元親は、その春の異夢を神主の左近合が語る所の「神慮が阿波侵攻」求めているという言葉を思い出し、早速に神運がめぐってきたと解釈した。これぞ氏神八幡大菩薩の加護だと云って、帰陣した後に氏神に参拝して、様々な神楽を備へ、神社に奉納した。

ここからは元親が八幡大菩薩を信仰し、その加護を深く信じていたことがうかがえます。
「長宗我部氏掟書」にも「一、諸社神事祭礼等、従先年如相定、不可有退転事」とあります。ここからも社寺の祭礼に気を配り、保護に努めていることが分かります。戦国武将は神仏に保護を加え、その加護を求めるのが普通でした。元親も丈六寺など寺社勢力の掌握にも努めています。寺社に対して、無制限に焼き討ちを行った痕跡はありません。
その他、『阿州足利平島伝来記』は次のように記します。

「長曽我部元親、天正五年阿州へ責来ル時、桑野二陣取テ居ケル時、桑野梅谷寺卜云僧二池田長兵衛卜云者ヲ指添、義助方へ尊公御領分ハ、全異儀御座有間布候トテ、細矢卜名付ル駿馬ノ馬土佐紙等ヲ添テ送、同天正十年ノ秋、元親又当国へ打入、勝瑞三好正安ヲ責シ時モ、夷山二在陣、八万村丹光寺卜云出家二西守腎齋卜云法師武者ヲ相添、引廻ヨキ故二名ヲ小鋸卜云ル馬二、土佐布杯ヲ添テ被送ケリ」
意訳変換しておくと
「長曽我部元親が、天正5(1577)年に阿波に侵入したときに、桑野に陣を置いた。その時に、桑野梅谷寺の僧に池田長兵衛を遣って、そちらの寺領については、すべてを今まで通りに認め保護する旨を伝え、「細矢」卜いう駿馬を土佐紙とともに贈った。また天正10(1582)年の秋に、勝瑞の三好正安を攻略するときには、夷山に陣を敷いた。その時も、八万村丹光寺に西守腎齋という云う法師武者を遣って、「小鋸」という馬と、土佐布を奉納している。

ここからは、長宗我部元親が阿波の拠点寺院を選択的に保護していることがうかがえます。
研究者が注目するのは、次の『長元物語』の記述です。

三好殿家老衆大将ニテ、人数六千余打出テ、岩倉ノ城近邊在々、池田・ヒルマ(昼間)其邊焼働シテ

ここには長宗我部軍に攻めたてられた三好方が、岩倉城周辺や池田・昼間の家々を焼き払ったことが記されています。
『昔阿波物語』には次のように記します。

十河(三好)存保の家臣木村新丞なる人物が「城のうちを出て、勝瑞の町を一間も不残焼払ひ候」

ここには海瑞攻防戦に先立って、三好方の武将が勝瑞の人家をすべて焼き払ったことが記されています。
  戦闘前には家々を焼き払うのが常套戦術でした。三好方の放火もあったもことが分かります。

寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺

美馬市美馬町の『願勝寺歴代系譜』二六代快全上人の項には、次のように記します。

「天正年中土州長曽我部元親ノ兵火二罹り一端無住同断ノ地トナリケルヲ快全上人焦心尽カシテ当寺ヲ再興シ、天正十三年大守蜂須賀家政公御入国以来種々古来ノ由緒ヲ申立先規ノ如ク被仰付御墨附迄拝領シ上郡大地ノ一寺トナルハ是快全ノ功労也」

意訳変換しておくと
「天正年間に土佐の長曽我部元親の兵火を蒙り、一時は無住の寺となった。それを快全上人が尽力して再興した。、天正13年に蜂須賀家政が入国した際に、古来からの由緒を申立てて、従来通りの特権などの御墨附を拝領した。これによって上郡の有力寺院となることができた。これは快全上人の功績である。」
 
ここには長宗我部元親の焼き討ちで退転した願勝寺を、快全上人が復興したことが記されています。そして、それを保護・支援したのは、蜂須賀家初代の家政です。

蜂須賀家政 – 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins)
蜂須賀家初代の家政
この文書は長宗我部侵攻からさほど時間の経過していない文禄三(1594)年の奥書をもつことから、信憑性が高いとされてきました。しかし、この年は蜂須賀家の家老稲田氏から願勝寺が郡中出家取締の役に命じられた年に当たります。蜂須賀家から墨付きを拝領したた願勝寺の立場として、蜂須賀家への「お礼」の思いから書かれた可能性を研究者は指摘します。 さらに『願勝寺歴代系譜』の成立時期については、長谷川賢二氏が式内社忌部神社をめぐる争論に際して、その所在地を美馬郡内とするために明治期にかけて偽作されたものという見解も出されていることは以前にお話ししました。

前々回には、祖谷山衆が長宗我部元親にいち早く帰順し、阿波侵攻の先兵として働いたことを見ました。
ところが後世に書かれた『祖谷山旧記』には、祖谷山衆と長宗我部元親の関係については何も触れられていません。あるのは蜂須賀家との関係だけです。ここにも作者の「取捨選択」が働いていることがうかがえます。このように阿波の寺社の近世後期に書かれた「由緒」の多くは、蜂須賀家を称揚し、阿波藩との関係を維持・強化しようとする意図で書かれたものが多いと研究者は指摘します。ここでは、その意図が長宗我部元親を悪者として貶めることで、蜂須賀家の藩祖を神格化・カリスマ化しようとする意図があったことを押さえておきます。

戦国時代の阿波の支配者三好氏についても、同時代に生きていた人々はその権力を肯定的に捉えていました。
例えば、『朝倉宗滴話記』には次のように記します。
日本に国持人つかひの上手よき手本と可申人は、今川殿義元・甲斐武田殿晴信・三好修理大夫殿・長尾殿・安芸毛利殿・織田上総介殿、関東には正木大膳亮殿、此等之事
意訳変換しておくと
統治者として上手な手本としては、今川義元・甲斐武田殿晴信(信玄)・三好修理大夫殿(長慶)・長尾(謙信)殿・安芸毛利殿・織田上総介(信長)殿、関東には正木大膳亮殿、此等之事

統治上手な武将として、三好長慶が挙がっています。
『信長公記」でも「三好修理大夫(長慶)、天下執権たるに依つて」とあります。三好長慶が幕府の実権を握り、京都を差配していたと記されています。
ところが阿波では、三好長慶も江戸も半ば以降になるとその評価が急落します。
その背景にあるのが、藩主蜂須賀氏の治世に対する何らかの配慮が働くようになったからだと研究者は推測します。その背景として考えられるのが幕府による家康の神格化の広がりです。18世紀も半ばを過ぎる頃から家康と同じように、各藩では藩祖を祀る行為が広がり始めます。藩祖の神格化・カリスマ化のために、三好長慶や長宗我部元親などの評価が貶められていくのです。その一例が阿波の寺社に対する「長宗我部元親=焼き討ち説」の記述の増加です。こうして、長宗我部元親にはマイナス評価が固定化されていくと研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①讃岐や阿波では「長宗我部元親=悪役」説が広く流布している。
②その背景にあるのが、近世後半の寺社由緒に長宗我部元親が焼き討ちしたことである。
③しかし、同時代史料からは長宗我部元親が無分別に無差別的な焼き討ちを行った事実は見られない
④当寺は、戦場の建築物を焼くのはひとつの戦術で、これは三好方も行っている。
⑤「長宗我部元親=悪役」の背景には、近世後半の藩祖神格化がある。
⑥藩祖の神格化・カリスマ化のために、同時代の三好氏や長宗我部元親を悪役化された節がある。
⑦寺社の由緒書きの長宗我部元親や三好氏の記述については、マイナス評価された側面があるので取扱に注意することが必要である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「石尾和仁 長宗我部元親による阿波国侵攻の「記録」と「記憶」 四国中世史研究NO11 2011年」
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                  長宗我部元親の阿波侵攻1

長宗我部元親は天正5(1577)年には、海部郡や祖谷山を支配下に収め、さらに池田城主の大西覚用の籠絡にも成功します。大西覚用は元親に甥の上野介を入質として差し出しますが、後に元親を離反し三好方につきます。そこで元親は香宗我部親泰に大将を命じて4月末には池田城侵攻を行っています。その時には、人質であった大西上野介が先導役を勤めています。覚用は敗れて讃岐に逃れ、元親は戦後処理として白地城を築き谷忠兵衛に守らせ、上野介には馬路城を与えます。

白地城

白地城 吉野川水運の終点
この白地の地は、「土佐の豊永と云ふ在所より道のほど二里、讃岐堺(境)なり」(『長元物語』)とされ、土佐国から阿波国に入る玄関口にあたり、吉野川水運の終点でもあり、伊予や讃岐への分岐点で交通の要衝地でした。
天正6年には重清城を陥落させ、翌年の天正7(1579)年には岩倉城を攻略して阿波国西半を手中にします。
岩倉城2
岩倉城(脇町)
   岩倉城は、美馬市脇町の田上にあった城で、文永4年(1267年)に守護としてやってきた小笠原長房が居城としていたとされます。戦国時代に入ると三好康俊が城主となり、脇城と連携して、この地方一帯を支配していました。徳島自動車道の建設に伴う発掘調査では、空堀状の溝や犬走状の遺構が出てきています。本丸曲輪は東西約17m・南北約39m、北側に幅約9mの堀切があります。本丸の周辺には、観音坊や丹波ノ坊など六坊と呼ばれる6つの出城が配され、防御を固めています。城跡北側の真楽寺(真言宗大覚寺派)は、岩倉城廃城後に六坊の1つである北ノ坊に建立されています。

天正7(1579)年のこととして『元親記』には、次のように記します。

「大西の下郡へ打出でらるる処、三好も大西の下、重清と云ふ城まで打出で、川越に戦あり。大西上野守・久武内蔵助先陣して川を渡り、三好方の武者、川へ下り入りて、鎗を合す処に、猛勢に追立てられ数人討たるなり。重清の城へも籠らず、下郡さして敗軍す。その儘重清の城を乗取り、この競を以て則ち下郡岩倉表へ発向すべしと、人数を差向けらるる処、岩倉城主式部少輔の老、大嶋丹波と云ふ者御礼に罷出る。是も実子を召しつれ人質に進る。この度にて上郡二郡分相済み、先づ帰陣ありしなり」
 
意訳変換しておくと
「大西城の下郡へ陣を進めていくと、三好方も重清城までやってきて、川越で戦いとなった。大西上野守・久武内蔵助が先陣として川を渡ると、三好方の武者も川へ入り、鎗を合せた。
しかし、猛勢に追立てられ数人討たれると三好方は、重清城を捨てて下郡へ敗走した。そこで、重清城に入城し、この勢いで岩倉城を目指すべし、軍勢を差向けようと準備していた。すると、岩倉城主の式部少輔の老、大嶋丹波と云ものが使者とやってきた。そして実子を人質に差し出した。こうして上郡二郡を占領下に置いて帰陣した」

康俊と脇城の武田信顕は、長宗我部元親に降ります。そして、三好勢を岩倉城に誘き出し、土佐勢とともに、三好方の多くの武将を脇城下で殲滅します。これが岩倉合戦(脇城外の戦い)です。これによって、天正7(1579)年には岩倉城のある美馬郡まで、土佐軍の占領下に置かれます。

徳島県 – KAGAWA GALLERY-歴史館
三好氏の拠点だった勝瑞城

勝瑞城は「阿州表之儀、重而被申越候、勝瑞弥堅固之由尤候」と言われていました。
ところが天正10(1582)年の本能寺の変を境に、長宗我部氏の侵攻を受けて、にわかに風雲急を告げます。この時期の三好氏をめぐる動向について、藤田達生氏は次のように述べています。(要約)
⓵天正3年10月に、信長が嫡子信親の烏帽子親となり、以降は明智光秀が取次として信長と元親を結びつける。
⓶ところが瀬戸内海での水軍掌握に努めることになった秀吉が、淡路水軍をつかさどる安宅信康に働きかけるとともに三好氏にも接近する。
③そのため、秀吉は三好康長に阿波旧領の回復の助成を行った。
④天正9年6月、秀吉は信長に対しても元親との関係を見直す四国政策の変更を決定させた。
⑤この直後、元親は伊予の金子氏と軍事同盟を結び、讃岐天霧城で毛利氏とも同盟を結び反信長の姿勢を鮮明にしていく。
⑥天正10年8月に中富河の戦いで長宗我部元親は十河(三好)存保を破り、9月に勝瑞城を陥落
藤田氏が「元親は本能寺の変と連動して軍事行動をおこない、短期間で四国統一を実現しようとした」と評価します。
中富川合戦記3
中富川の合戦
中富川の合戦から勝瑞の陥落、三好氏の讃岐敗走にいたる経緯を『南海通記』は次のように記します。
天正十年八月初に、土州元親二万三千の兵を挙げて、阿州牛岐の城に着陣す。同国勝瑞の城主三好存保は、後援信長公莞じ玉ひて、孤独と成て援けなけれども、責め我が一人の上に受けて、撓む気色もなく、勝瑞に住しける。
  凡二万三千余人の着到にて、親泰が居城牛岐に馳集まり、五日の評定有て、八月十六日に打立ち、其日一の宮・夷山両城の間を押通りて、早淵に至る。城より足軽を出し、鉄砲を打ちかくる。天正十年八月廿八日、中富川の戦に元親勝利を得て、直に勝瑞の城に取かくる。此城は上代より屋形構なれば、方一町にして土居堀一重なり.其内に楼十四、五掻双て、僅に五千余人を以て相守る
  (中略)
勝瑞の城は二万余の大兵を以て昼夜とり囲み、攻戦ふ処、六、七日過ぎて大雨ふり、雷動して山を崩す。世人みな、久しく相続したる屋形を攻崩す故に、天の咎かと恐る。元親は一里引取り、黒田原に陣を居へ、存保は勝瑞の城を明けて、九月十一日の夜、東讃岐へ退去す。元親即ち勝瑞の城を破却せらる。  撫養の内に、本津山城には篠原肥前人道自遁が居城なり。いまだ元親にも服せず、三好にも同心せずして、自立の志あり。其後は信長を後盾にて居たりしが、信長崩じ玉ひて後、元親力を得て、四国に横行する故に、城を明捨て、淡州へ退去す。

  意訳変換しておくと
天正10(1582)年8月初に、長宗我部元親23000の兵力で、阿波の牛岐の城を囲んだ。本能寺の変で同盟関係にあった信長の支援が受けられなくなった勝瑞城主の三好存保は、勝瑞を動こうとしない。  23000余人の軍勢が牛岐に結集し、5日に評定。8月16日に出陣し、一の宮・夷山両城の間を押通って、早淵に至る。両城からは足軽がでてきて、鉄砲を打ちかけてくる。天正10年8月28日、中富川の戦に長宗我部元親は勝利して、ただちに勝瑞城の後略に取りかかる。この城は細川氏や三好氏の屋形であったため、方一町で土居堀に囲まれていた。その中には楼十四が建ち並び、五千余人で護っていた。
  (中略)
  勝瑞城を土佐軍二万余の大兵が昼夜とり囲み、攻戦が行われた。六、七日過ぎて大雨が降り、雷動して山が崩れた。これを世人は、長く続いた屋形を攻崩ことへの天の怒りと噂した。 そこで、元親は一里ほど陣を下げて、黒田原に着陣し、城を明け渡すことを求めた。これに対して、存保は勝瑞城を明けて、9月11日の夜、東讃岐へ退去した。そこで元親は勝瑞城の破却を命じた。
  撫養の本津山城は、篠原肥前人道自遁のが居城であったが、元親にも服せず、三好にも就かずに、自立志向であった。そのため信長を後盾にていたが、信長が亡くなった後は、城を打ち捨てて、淡路に退去した。
中富川合戦記2
紫色が土佐軍の動き(二方面から侵攻) 水色が三好方 

以上を整理しておくと
① 1582年 長宗我部元親軍は牛岐城(富岡城)で作戦会議を開いた。
②8月26日 夷山城・一宮城を経て、勝瑞城を目指し、翌27日全軍を集結させた。
③二手に分け、香宗我部親秦が約3千兵を率いて中富川の南岸へ着陣した。
④これより前に十河存保は一宮、夷山の両城を放棄して、勝瑞城に兵力を集中させていた。
⑤28日長宗我部元親は全軍に出撃命令を下し、先陣の香宗我部親秦隊は北岸へ突入した。
⑥十河存保軍はこれに対して勝瑞城を本陣とし、矢上城を先陣とした。
⑦矢上城大手付近に約2千兵、後陣として約3千兵を配して防塞を築いた。

中富川合戦記 

⑧香宗我部親秦隊が中富川を渡り始め、長宗我部本隊が南東より、香宗我部親秦隊は南西より進み両方から攻め立てた。
⑨元親と和讓を結んでいた一宮城主小笠原成助、桑野城主桑野康明らが6千の兵を率いて中富川へ押し寄せた。
⑩十河軍の激しい反撃にあい、元親軍は一時怯んだが、大軍で数の力で勝瑞城まで追い詰め包囲した。
⑪9月5日に大雨が5日間降り続き、後方の吉野川本流と中富川が氾濫。板野平野一帯が大洪水となり戦略は一時休止。
⑫水が引いた後に、中富川を挟んで戦闘が始まり、勝瑞城の内外でも両軍の入り乱れで乱戦となり多くの死傷者がでた。
⑬三好勢の形成は不利で、矢上城主矢野虎村、赤澤、七条、寒川氏らの多くの戦死者を出した。
⑭勝瑞城の明け渡しを条件に讃岐への退去を十河存保は許された。
⑮両軍の死者数の合計は約1500名、重軽傷数はこれらをはるかに上回った。

  中富川合戦で三好方の戦死した城主一覧

矢上(矢上虎村)、下六条(三好何右衛門)、板東(板東清利)、七条(七条兼仲)、板西(赤沢宗伝)、保崎(馬詰駿河)、西条(西条益太夫)、北原(北原義行)、知恵島(知恵島重綱)、南島(甘利奥右衛門)、乗島(乗島来心)、高畠(高畠時清)、第十(第十拾太夫)、日開(鎌田光義)、徳里(白鳥左近)、下浦西(田村盤右衛門)、鈴江(鈴江友明)、櫛淵(櫛淵国武)、長塩(長塩六之進)、大寺(大寺松太夫)、野本(野本左近)、大代(大代内匠)、佐藤須賀(佐藤長勝)、瀬部(瀬部友光)、高志(高志右近)、讃岐・大内(寒川三河守)、讃岐・宇多津(奈良太郎左衛門)、飯尾(飯尾常重)、中島(片山重長)、角田(角田平右衛門)、湯浅(湯浅豊後守)、福井(芥川宗長)、大潟(四宮光武)、古川(古川友則)、市楽(石河吉行)、中庄(中庄主膳)、新居(堀江国正)、原(原田信綱)、香美(香美馬之進)、吉田(原田小内膳)、姫田(姫田甚左衛門)、由岐(由岐有興)【長宗我部に味方した阿波の城主】牛岐(新開道善)、一宮(一宮成助)、夷山(庄野兼時)、桑野(東条関之兵衛)【その他】木津(篠原自遁)」      

中富川合戦の戦士将兵の墓石集積(愛染院)
中富川合戦の墓石群(愛染院)
この戦死者名を見ると、板野郡の武将に集中していると研究者は指摘します。
その背景には中富川合戦の段階で、長宗我部元親に敵対するのは勝瑞のある板野郡に限られていたことがうかがえます。つまり、阿波国内の他地域の武将の多くは、この時すでに元親の傘下にあったことになります。
中富川合戦後、反元親の十河(三好)存保は9月21日、三好康俊は10月10日にそれぞれの居城である勝瑞城・岩倉城を明け渡して阿波から撤退しています。富岡城主新開道善は9月16日に、一宮城主一宮成助は11月7日に夷山城で虐殺されます。

十河(三好)存保を讃岐に追放して、阿波のほぼ全域を支配下においた元親は、服属した阿波の諸将に所領の宛行を次のように行っています。
今度及検地内参百町進之候、右之外於河北式千貫、申合之旨、不可有相違候、恐々謹言、
天正十一(1583)年二月十九日
                        長宗我部宮内少輔 元親(花押)
                        長宗我部弥三郎  信親(花押)
一宮民部少輔殿
御宿所へ
これは一官民部少輔に「河北式千貫」を宛行ったものです。その他、戦功のあった諸将を以下のように
配したことが『長元物語』に次のように記されています。
阿波一ケ国元親公御仕置ノ事
牛岐城ヘハ、御舎弟香宗我部親泰入城有テ、阿波一ケ国諸侍物頭二仰付ラルゝ
一ノ宮ヘハ先手物頭ノ江村孫左衛門入城ニテ、組与力此所ニヲイテ知行給ル
岩倉ノ城ヘハ、長宗我部掃部頭入城組与力此所ニテ知行給ル
海部ノ城ハ、香宗我部親泰根城
吉田ノ城ヘハ、北村間斎入城ス
宍喰ノ城ヘハ、野中三郎左衛門人城ス
二ウ殿、東条殿、其降参ノ国侍、歴々ノ城持、前々持来ル知行無相違仰付ラレ、年頭歳末ノ御礼有之事
主要な城主を挙げておくと次のようになります
牟岐城に香曽我部親泰
一宮城に江村孫左衛門
岩倉城に長宗我部掃部頭
古田城に北村問斎
宍喰城に野中三郎左衛門
この書状は天正11年のものとされ、長宗我部元親が阿波国内をほぼ制圧して以後のものです。
元親が阿波一国を征服たのかどうかについては、研究者の意見の分かれる所のようです。
例えば次のような秀吉の書状があります。
八木弐百石、あわとさとまり(阿波国土佐泊)の篠原甚五
はりましかまつにて可相渡者也、
天正十弐
十月十六日     秀吉(花押)
弥ひやうヘ
もりしまのかみかたへ、
この秀吉の書状が示すように天正12年10月の段階で、秀吉は阿波国土佐泊城に籠もる篠原甚五・森志摩守村春に支援を行っています。こうした動きは天正九年の頃から始まっています。

阿波土佐泊城
秀吉からの支援を受けて、長宗我部元親に抵抗を続けた土佐泊城

土佐泊城
撫養港の入口に位置する土佐泊城

同年10月の黒田官兵衛宛ての秀吉書状には、次のように記されています。

木津・土佐泊兵糧之事、申付相渡候、右両城玉葉事、先度書付候分、是又申付候」

ここからは秀吉が三好勢を支える木津や土佐泊の篠原・森両氏への兵糧支援を、この時期にも黒田官兵衛に命じていたことが分かります。そのため長宗我部元親の土佐泊城攻略は、讃岐虎丸城とともに困難をきわめます。ここからは元親は、阿波や讃岐の完全攻略には成功していないと研究者は考えています。
 従来の通説では次の通りでした。

「小牧・長久手の戦いの最中であった天正11(1583)年6月に長宗我部氏が十河勢力を掃討したことで阿波と讃岐を掌中におさめた。」

これに対して津野氏は次のように疑問を呈します。

「実際には秀吉の支援をうける十河勢力が讃岐虎九・阿波土佐泊を拠点に抵抗しており、それは長宗我部氏が同盟者金子氏に加勢を要請するほどの攻勢をとりさえした」

長宗我部元親の阿波・讃岐・伊予侵攻について、野本亮氏の見解を再度挙げておきます。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

以上をまとめておくと
①元親は、土佐から他国への軍事行動について、地理的に困難が伴うことを熟知していた。
②そのため土佐軍による単独の軍事的侵攻を極力抑えていた節がある。
③その方策として、日和佐氏と同盟関係を結んだり、豊楽寺を通して祖谷山衆を傘下に組み込んだりしている。
④侵攻に至るまでに充分な事前の工作と準備を行っている。
⑤このような情報収集や外交交渉を行ったのが長宗我部元親に仕える修験者ブレーンたちであった。

    
阿波守護家(讃州細川家)から三好氏へと、阿波勢力による讃岐支配がどのようの進められたかを何回かに分けて見てきました。最後に、「阿波勢力による讃岐支配の終焉」への道を見ておきましょう。テキストは「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」です。
三好氏系図3


三好実休の子・長治の下で阿波・讃岐両国が統治されるようになることは、先に見てきた通りです。しかし、1576(天正4)年11月になると細川真之・一宮成相・伊沢越前守が長治に造反し、長治は横死に追い込まれます。
三好長治墓石
三好長治の終焉の地
そして阿波三好家は、次のように分裂します
①毛利氏と連携する矢野房村や三好越後守らの勝瑞派
②織田氏との連携を志向する一宮・伊沢らの「反勝瑞派」

この対立の中で「勝瑞派」の讃岐への関与を示すのが次の史料です。
【史料1】三好越後守書状 法勲寺村史所収奈良家文書」
御身之儀、彼仰合国候間、津郷内加わ五村進候、殿様(三好義竪?)へ之儀随分御収合申、似相地可令馳走候、不可有疎意候、恐々謹言、
                   三好越後守
天正五年二月朔                 □円(花押)
奈良玄春助殿
御宿所
意訳変換しておくと
【史料1】三好越後守書状 法勲寺村史所収奈良家文書」
御身に、津郷(津之郷)の内の五村を知行に加える。殿様(三好義竪?)への忠節を尽くせば、さらなる加増もありうるので、関係を疎かにせつ仕えること、恐々謹言、
               三好越後守 □円(花押)
天正五年二月朔                 
奈良玄春助殿
御宿所
「勝瑞派」に属する三好越後守は天正5年2月に、香川氏と行動を共にしていた聖通寺山城主の奈良氏に知行を宛行っています。同月には香川氏が讃岐での活動を再開していて、勝瑞派一はかつて讃岐から追われた反三好派国人らとの融和・連携を図っていることがうかがえます。これは「勝瑞派」の戦略が反織田信長なので、織田氏にそなえて讃岐方面での有力武将の支持を取り付けるための方策と研究者は考えています。またこの史料からは、三好越後守が「殿様(三好義竪?)」と、奈良氏をつなぐ役割を果たしています。長治に代わる当主が登場していたことがうかがえます。

戦国時代の讃岐・阿波の群雄割拠図
戦国時代の阿波・讃岐の武将割拠図
しかし、反三好勢力の頭目であった香川氏との妥協・復権は、それまで阿波三好家に従っていた香西氏や長尾氏などからの反発を生んだようです。このような中で5月に「勝瑞派」は、伊沢越前守を殺害します。先述したように、伊沢氏は滝宮氏や安富氏などの姻戚関係を持つなど、讃岐国人との関係が深かった人物です。その影響力を削ぐために標的とされたと研究者は考えています。
 これに対して伊沢氏と姻戚関係にあった安富氏は「反勝瑞派」の一宮成相との提携を目指して阿波の勝瑞に派兵します。ところが同時期に、毛利氏が丸亀平野に侵入してきます。そして7月に元吉城(琴平町)を確保し、備讃瀬戸通行権を確保します。これは石山合戦中の本願寺への戦略物資の搬入に伴う軍事行動だったことは、以前にお話ししました。
元吉合戦の経過

 丸亀平野中央部の元吉城に打ち込まれた毛利勢力の拠点に対して、安富氏、香西氏、田村氏、長尾氏、三好安芸守ら「讃岐惣国衆(讃岐国人連合軍)」が攻め寄せます。このメンバーを見ると、天霧城攻防戦のメンバーと変わりないことに気がつきます。特に東讃の国人武将が多いようです。私には東讃守護代の安富氏が、どうして元古城攻撃に参加したのかが疑問に感じます。

元吉城 縄張図
元吉城
これに対して、研究者は次の2点を挙げます。
①安富氏と伊沢氏は姻戚関係があり同盟関係にあったこと
②「勝瑞派」による香川氏復権許容に伴う知行再編への反発があったこと

元吉合戦で「讃岐惣国衆」は、手痛い敗北を喫します。
そしてその年の11月には毛利氏と和睦が結ばれ、「阿・讃平均」となります。阿波三好家は三好義堅が当主となることで再興され、讃岐も阿波三好家の支配下に戻ります。
三好氏 - Wikipedia
三好義堅

細川真之は一時的には「勝瑞派」と提携することもありましたが、三好義堅が当主となると「反勝瑞派」や長宗我部氏と結んでおり、讃岐へ影響を及ぼすことはなかったようです。
【史料2】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、
三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
  意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                  細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
この史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が守護代の香川信景に反三好行動を求めたものです。味方につくなら香川氏に「大西跡職」を与えると餌をちらつかせています。大西氏は西阿波の国人ですが、その知行を守護代家の香川氏に与えるというものです。ここからは天正期になっても細川京兆家に讃岐守護家の地位が認められていたことが分かります。つまり阿波三好家は正当な讃岐の公的支配を担うことはできなかったことになります。そこで擁立されたのが十河一存の息子義竪ということになります。この背景には、阿波と讃岐を統合できるのは三好権力であり、讃岐の十河氏を継承していた義堅こそが阿波三好家の当主としてふさわしいと考えられたと研究者は推測します。
【史料3 三好義堅感状「木村家文書」
於坂東河原合戦之刻、敵あまた討捕之、自身手柄之段、神妙之至候、猶敵陣無心元候、弥可抽戦功之状如件、
八月十九日              (三好)義堅(花押)
木村又二郎殿
  意訳変換しておくと
坂東河原の合戦において、敵をあまた討捕える手柄をたてたのは誠に神妙なことである。現在は戦陣中なので、戦功については後日改めて通知する。如件
(天正6年)八月十九日                     (三好)義堅(花押)
木村又二郎殿
この史料からは天正6(1578)年かその翌年に、阿波国内の坂東河原の戦いに讃岐国人の由佐氏や木村氏ら讃岐国人を、三好義竪が動員し、戦後に知行を付与していることが分かります。義堅が讃岐の広域支配権を握っていたことがうかがえます。

脇城および岩倉城とその遺構の実測調査

岩倉城
しかし、その翌年の天正7(1580)年末の岩倉城の合戦で矢野房付や三好越後守ら「勝瑞派」の中核が戦死します。その結果、義堅の権力は不安定化し、義堅は勝瑞城を放棄し十河城に落ちのびることになります。このような阿波の分裂抗争を狙ったように、長宗我部氏の西讃岐侵攻が本格化します。
 これに対して、天霧城の香川氏は長宗我部氏と結んで、その先兵と讃岐平定を進めます。
その結果、天正8(1581)年中には安富氏が織田氏に属すようになり、十河城の義堅に味方するのは羽床城のみという状況になります。天正9年に、義堅は雑賀衆の協力を得て勝瑞城への帰還を果たします。しかし、その後の讃岐国人は個別に織田氏や長宗我部氏と結びます。こうして阿波三好家による讃岐国支配権は天正8年に失われたと研究者は考えています。
以下、阿波三好氏の讃岐支配についてまとめておきます。
①細川権力下では讃岐は京兆家、阿波は讃州家が守護を務めていて、その権限は分立していた
②讚州家(阿波)の被官が讃岐統治を行う事もあったが、それは京兆家が讃州家の力を頼んだ場合の例外的なものであった。
③ただし、細川晴元時代には阿波・讃岐両国の軍勢が「四国衆」の名の下に編成され、讃州家の氏之が西讃岐支配を後援するなど、讃州家の讃岐への影響が拡大した。
④三好長慶の台頭で江口合戦を機に晴元権力は崩壊に向かうが、讃岐では晴元派が根強く、阿波勢の動きを牽制していた。
⑤しかし、三好氏の力が強まると、東讃岐の国人らは徐々に三好氏に靡いていった。
⑥水禄年間になると三好実休・篠原長房による西讃岐の香川氏攻めが始まった。
⑦香川氏が駆逐されると讃岐は阿波三好好家の領国となり、阿波・讃岐国人に知行給付を行った。
⑧その結果、阿波三好家は讃岐国人を軍事動員や外交起用、讃岐国人に裁許を下すなど統治権を握った。
ここで注意しておきたいのは、①の細川時代と⑦三好時代では、讃岐への介入度合いが大きくちがうことです。細川権力下では、京兆家の意を受けた奉書と守護代による書下が併存して讃岐が支配されていました。ところが阿波三好家では当主か重臣が文書発給を行っています。これは讃岐が守護権力によらない支配を受けたと研究者は評価します。つまり、「細川権力と三好権力の間では政治主体・手法の断絶が存在した」と云うのです。これと同じ統治体制が、南河内です。南河内も阿波三好家が由緒を持たないながら公的な支配権を握ったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」

1560年代に三好氏は、天霧城の守護代香川氏を讃岐から追放します。これ以後、香川氏の発給する文書が途絶え、変わって三好氏の重臣・篠原長房・長重父子の発給した禁制が各寺に残されていることがそれを裏付けます。軍事征服によって讃岐の土地支配権は阿波三好家のものとなりました。それは阿波三好家や篠原氏に従って戦った阿波の国人たちが、讃岐に所領を得ることになります。篠原氏の禁制を除くと、阿波国人が讃岐で知行地を得たことを直接に示す史料はないようです。しかし、その一端を窺うことができる史料はあります。それを今回は見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」です。

  【史料1】三好義堅(実休)書下「由佐家文書」
就今度忠節、安原之内経内原一職・同所之内西谷分并讃州之内市原知行分申付候、但市原分之内請米廿石之儀ハ相退候也、右所々申付上者、弥奉公肝要候、尚東村備後守(政定)□□候、謹言、
八月十九日          (三好)義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
意訳変換しておくと
今度の忠節について、安原内経内原の一職と同所の内の西谷分と、讃州の市原氏の知行分を併せて論功行賞として与える。但し市原氏の知行分の請米20石については、治めること。この上は、奉公が肝要である、東村備後守(政定)□□候、謹言、
八月十九日             (三好)義堅(花押)
油座(由佐)平右衛門尉殿
三好義堅(実休)が戦功をあげた由佐長盛に対し、讃岐の知行を宛行っています。その中に「讃州之内市原知行分(高松市香川町?)」とあります。市原氏は三好氏の被官で、これ以前には阿波国人の市原氏の所領だったことになります。阿波国人に讃岐での所領を与えています。
三好氏系図3
三好氏系図

  【史料2】三好長治書状「志岐家旧蔵文書」
篠原上野介・高畠越後知行棟別儀、被相懸候由候、此方給人方之儀、先々無異儀候間、如有来可被得其意事肝要候、恐々謹言、
 十月十七日       (三好)彦次郎(長治)花押
  安筑進之候(安富筑後守)
意訳変換しておくと
篠原上野介・高畠越後の知行への棟別料の課税を認める。この給付について、先々に異儀がないように、その意事を遵守することが肝要である。恐々謹言、
              (三好)彦次郎(長治)花押
十月十七日                
   安筑進之候(安富筑後守)
この史料は、三好長治(実休の長男)が守護代の安富筑後守に対し、阿波国人衆の篠原上野介・高畠越後の知行分への課役を認めたものです。これらの知行分は、安富氏の勢力圏で東讃にあったはずです。つまり、阿波国人である篠原氏や高畠氏の知行地が讃岐にあって、それを守護代の安富氏に分配していること分かります。

 ちなみに、三好長治(みよし ながはる)は、阿波を治めた三好実休の長男です。1562(永禄5年)に、父・実休が久米田の戦いで戦死したため、阿波本国の家督を相続します。しかし幼少のために、篠原長房や三好三人衆など家中の有力者による主導で政治は行われます。

【史料3】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」
今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、
三月三日             細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
  意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、
三月三日                細川信元(花押)
香川中務人輔(香川信景)殿
この史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が守護代の香川信景に反三好行動を求めたものです。味方につくなら香川氏に「大西跡職」を与えると餌をちらつかせています。大西氏は西阿波の国人です。その知行を西讃の守護代家の香川氏に与えるというものです。深読みすると、三好方への与力の恩賞として、大西跡職が讃岐にいる大西氏に与えられていたことになります。
以上から篠原氏、高品氏、市原氏、大西氏といった三好氏に近い阿波国人たちが、讃岐に所領を得ていたことがうかがえます。三好氏による讃岐侵攻に従い功績を挙げたため、付与されたと研究者は考えています。

一方で、天正年間に入ると阿波三好家は、三好氏に与力するようになった讃岐国人に知行地を与えています。
阿波三好家は河内にも進出しますが、河内で活動する三好家臣に讃岐国人はいないようです。また、阿波でも讃岐国人が権益を持っていたことも確認できないないようです。ここからは阿波三好家は讃岐国人に対しては、讃岐国内のみで知行給付を行っていたことがうかがえます。
讃岐が阿波・三好家の統治下に入ると、それにつれて讃岐国人の軍事的な編成も進みます。

三好長慶と十河氏

十河一存は、養子として讃岐国人の十河氏を継承します。彼は長慶・実休の弟で、三好本宗家・阿波三好家のどちらにも属しきらない独自な存在だったようです。しかし、一存が1561(永禄四)年に亡くなり、その子である義継が長慶の養嗣子になると、立ち位置が変わるようになります。十河氏は三好実休の子である義堅が継承し、十河氏は阿波三好家の一門となります。これは、別の見方をすると阿波三好家が讃岐の支配権を掌握したことになります。

【史料4」「阿波物語」第二】は、伊沢氏が三好長治から離反した理由を説明したもので次のように記します。

伊沢殿意恨と申すは、長春様の臣下なる篠原自遁の子息は篠原玄蕃なり、此弐人は車の画輪の如くの人なり、然所に自遁ハ長春様のまゝ父に御成候故に、伊沢越前をはせのけて、玄蕃壱人の国さはきに罷成、有かいもなき体に罷成り候、折節讃岐の国に滝野宮戦後と申す侍あり、伊沢越前のためにはおちなり、豊後殿公事辺出来候を、理を非に被成候て、当坐に腹を切らせんと申し候を、越前か異見仕候てのへ置き候、この者公事の段は玄蕃かわさなる故なれ共、長春様少も御聞分なき故に、ふかく意恨をさしはさみ敵となり候なり、

意訳変換しておくと
伊沢殿の意恨と云うのは、長春様の臣下である篠原自遁・その子息は篠原玄蕃(長秀)である。伊沢氏と篠原氏は車の両輪のように阿波三好家を支えた。ところが長秀の父自遁の権勢が次第に強くなり、伊沢越前をはねのけて、玄蕃(長秀)ひとりが権勢を握るようになり、伊沢氏の影響力はめっきり衰退した。そんな折りに、伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮(滝宮)豊後殿の公事の訴訟で敗れ切腹を命じられた。しかし、伊沢越前守の意見によってなんとか切腹は回避された。この裁判を担当した篠原長秀と、それに異議を唱えなかった長治に越前守は深く恨みを抱き敵対するようになった。

ここに出てくる「伊沢越前守の叔父である讃岐の滝野宮豊後殿」については、1458(長禄2)年に讃岐国萱原の代官職を預かっている滝宮豊後守実長が「善通寺文書の香川53~54P」に出てきます。「滝野宮豊後」は実長の後裔で、滝宮城の主人と推測できます。
ここには次のようなことが記されています。
①阿波三好氏を伊沢氏と篠原氏が両輪のように支えていたが、次第に篠権力を権力を独占するようになったこと
②伊沢氏は讃岐の滝宮氏(讃岐藤原氏一門)と姻戚関係があったこと。
③次第に、伊沢氏と篠原氏の対立が顕著化したこと
  
両者の動きを年表化して、確認しておきます。
1573(元亀四)年 三好長治が篠原長房を討とうとした際には阿波南部の木屋平氏からの戦功が伊沢右近大輔と篠原長秀を通じて届いており、伊沢氏と篠原長秀が組み合わされていることが確認できる。
1575(天正3)年 備中の三村元親が三好氏に援軍を要請した際には、讃岐の由佐氏を通じて伊沢氏に連絡が寄せられている。伊沢越前守は右近大輔と同一人物かその後継者と見なせるので、篠原長秀とともに長治を支えている。ここからは伊沢氏は、滝宮氏などの讃岐国人と縁戚関係を持ち、これを擁護する役割があったことが裏付けられます。
この中で研究者が注目するのは讃岐国人の相論を、三好長治が裁いていることです。
その内容は分かりませんが、結果として讃岐の滝宮豊後守は切腹を命じられ、その猶予を願いでたのが阿波の伊沢氏です。こうして見ると、裁判権は全て阿波側が持っていて、讃岐側にはなかったことになります。また、伊沢越前守は、東讃守護代の安富筑後守も叔父だったされます。安富筑後守は天正年間に備前の浦上宗景と阿波三好家の交渉に関与していて、由佐氏とともに阿波三好家の対中国地方交渉を担う存在でした。そうすると伊沢氏は、中讃の滝宮氏・東讃の安富氏という讃岐の有力国人と姻成関係が結ばれていたことになります。伊沢氏は、讃岐国人と人的つながりを強め、その統治や外交を支えていたと研究者は推測します。
 こうしてみると阿波三好家は、讃岐の土地支配権・裁許権を握り、国人らを配下に編成し軍事動員・外交を行えるようになっていたことがうかがえます。讃岐は阿波三好家の領国として位置付けられるようになっています。そして、元亀四年に、西讃岐侵略を主導した篠原長房が粛正されると、その後は阿波三好家による直接的な讃岐支配が進展します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」
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「細川両家記」によると、江口合戦に際し、阿波・讃岐勢は三好長慶を支持したと記します。しかし、阿波の細川氏之・三好実休が畿内に軍事遠征することなかったようです。三好長慶が求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除でした。そのため四国からは長慶の下剋上ではなく、京兆家の内紛として中立を維持したとも考えられます。

三好長慶の挙兵
三好長慶の挙兵 
江口合戦後の讃岐国人の動きを見ることで、彼らの行動原理や四国情勢を読み取りましょう。まず阿波三好氏の讃岐支配の拠点となったという十河氏を押さえておきます。

十河氏の細川氏支配体制へ

十河氏2

しかし、これらの動きは南海通記など近世になって書かれた軍記ものによって、組み立ててられた者です。ちなみに一存が史料に最初に登場するのは1540(天文9)年です。その時には「三好孫次郎(長慶)弟」「十河孫六郎」と記されています。三好氏から讃岐の十河家に養子に入って以後のことです。そのため十河一存は、十河家当主として盤石な体制を当初から持っていた、そして細川晴元ー三好長慶ー十河一存という臣下関係の中にいたと私は思っていたのですが、どうもそうではないようです。
  【史料1】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」
去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言
八月廿八日              (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
  意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言
八月廿八日           (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
一存が十河城を不当に奪収しようとしているということは、それまで十河城は十河一存のものではなかったことになります。また、後の晴元陣営に一存に敵対する十河一族がでてきます。ここからは一存は十河氏の当主としては盤石な体制ではなかったことがうかがえます。十河一存が、足下を固めていくためには讃岐守護家である京兆家の支持・保護を得る必要がありました。そのための十河一存のとった動きを追いかけます。
  【史料2】細川晴元書状「大東急記念文庫所蔵文書」
就出張儀、其本働之儀申越候之処、得其意候由、先以神妙候、恩賞事、以別紙本知申会候、急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、
八月十八日          晴元(花押)
十河民部人夫殿
意訳変換しておくと
この度の出張(遠征)について、その働きが誠に見事で神妙なものだったので、恩賞を別紙の通り与える。急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、
天文17(1549)年8月18日 
            (細川)晴元(花押)
十河民部人夫(一存)殿
1549(天文17)年8月頃から主君晴元と兄長慶が対立するようになります。このような情勢下で、十河一存は細川晴元に味方し、「本知」を恩賞として認められていることがこの史料からは分かります。ところが、一存は翌年6月までには兄長慶に合流しています。
つまり、細川晴元方だったのに、兄三好長慶が担いだ細川氏綱方へ転じたのです。

細川晴元・三好氏分国図1548年
細川晴元と三好長慶の勢力図(1548年)
①次弟・三好実休率いる阿波三好は江口の戦いには参戦しなかった。
②十河一存は細川晴元側にいたが、長慶が氏綱方と結んだのを契機に氏綱方へ転じた。
ということになります。その背景を研究者は次のように考えています。当初の三好長慶が細川晴元に求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除だけで、晴元打倒ではありませんでした。ところが晴元が瓦林春信を重用するなど敵対的態度をとったので、晴元に代わる京兆家当主として氏綱を擁立するようになります。その背景には、当初は晴元と長慶は和解するものと思って、一存は晴元に味方しますが、長慶が細川氏綱を擁立するようになると、氏綱による十河城の「本知」安堵が可能となります。それを見て一存は晴元の下から離脱し、兄長慶を味方することになったというのです。
 こうして一存は躊躇する兄長慶に対し、晴元攻撃を強く主張するようになります。それは晴元が新たに十河氏の対抗当主を擁立しないうちに決着を付けたいという思惑が一存にあったからかもしれません。その後の一存は、氏綱配下で京都近郊で活動します。ここからは十河一存が京兆家被官の地位を維持していることが分かります。

三好長慶の勢力図3

東讃岐守護代家の安富氏の動きを見ておきましょう。
まず、細川晴元と安富氏の当主・又三郎との関係です。
【史料3】細川晴元吉状写「六車家文書」
為当国調差下十河左介(盛重)候之処、別而依人魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、
四月二十二日           (細川)晴元(花押影)
安富又二郎殿
意訳変換しておくと
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属ししたので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、
四月二十二日                  晴元(花押影)
安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。1557(弘治3)年12月に、晴元は十河又四郎を通じて東讃岐の寒河氏の帰順を図っていますが、これはうまくいかなかったようです。細川晴元の支配下にあった東讃岐の勢力が三好方に靡き始めるのは、この頃からのことのようです。
西讃岐守護代家の香川之景も細川晴元の支配下にあったことを見ておきましょう。
  【史料4】細川晴元書状「尊経閣文庫所収文書」
就年始之儀、太刀一腰到来候、令悦喜候、猶波々伯部伯(元継)者守呼申候、恐々謹言、
二月廿九日            (細川)晴元(花押)
香川弾正忠殿
意訳変換しておくと
年始の儀で、太刀一腰をいただき歓んでいる。なお波々伯部伯(元継)は守呼申候、恐々謹言、
二月廿九日                   晴元(花押)
香川弾正忠(之景)殿
香川之景が細川晴元に年始に太刀を送った、その返書です。両者が音信を通じていたことが分かります。
次の史料は、香川之景が晴元の讃岐計略を担っていたことを示します。
  【史料5】細川晴元書状「保阪潤治氏所蔵文書」
其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠(之景)与相談、無落度様二調略肝要候、猶石津修理進可申候、謹言、
卯月十二日             晴元(花押)
奈良千法師丸殿
意訳変換しておくと
讃岐国については変化もなく、合戦や災害などの別儀もないことを喜入る。領地経営や調略については香川弾正忠(之景)と相談して落度のないように進めることが要候である。なお石津修理進可申候、謹言、
卯月十二日             細川晴元(花押)
奈良千法師丸殿
奈良氏は聖通寺城主とされますが史料が少なく、謎の多い武士集団です。その奈良氏に対して、細川晴元が「別儀」がないことを喜び、香川之景との相談の上で「調略」をすすめることを求めています。香川之景は西讃岐守護代家として西讃岐の晴元方のリーダーでした。以上のように、香川之景は積極的に晴元と連絡を取りながら反三好活動を行っていたことがうかがえます。
このような中で1553(天文22)年6月に細川氏之(持隆)が三好実休と十河一存に殺害されます。
なぜ氏之が殺害されたのか、その原因や背景がよく分かりません。「細川両家記」では、十河一存の「しわざ」とされ、「昔阿波物語」でも見性寺に逃亡した氏之を一存が切腹させたと記します。ここからは、一存が中心となって氏之殺害したことがうかがえます。この背景には、讃岐情勢が関係していると研究者は考えています。多度津の香川之景は氏之の息がかかった人物で、晴元は之景を通じて氏之との関係調整を図っていました。しかし、氏之が晴元派となってしまえば、守護代家が晴元と結んでいる讃岐に加え、阿波も晴元派となります。そうなると、晴元を裏切ったことで十河氏当主の地位を確立した一存は排除される恐れが出てきます。一存には四国での晴元派の勢力拡大を阻止するという政治的目的がありました。これが氏之を殺害する大きな動機だと研究者は考えています。

三好長慶の戦い

 江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。そして、三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。

1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。そして長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味するようです。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。阿波と讃岐の軍勢が一体化が進んでいます。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていくのです。
 その中で香川氏は反三好の旗印を下ろしません。
それに対する三好軍の対香川氏戦略を年表化しておきます
1559(永禄2)年 瀬戸内海の勢力を巻き込んで香川氏包囲網形成し、香川氏の本拠地・天霧城攻撃
1563(永禄6)年 天霧城からの香川氏の退城
1564(永禄7)年 これ以降、篠原長房の禁制が出回る
1565(永禄8)年 この年を最後に香川氏の讃岐での動き消滅
1568(永禄11)年 備中の細川通童の近辺に香川氏が亡命中
ここからは、西讃岐は篠原長房の支配下に入ったと研究者は考えています。
Amazon.co.jp: 戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書) : 和三郎, 若松: Japanese Books

三好支配時期の讃岐に残る禁制は、全て篠原長房・長重父子の発給です。

三好氏当主によるものは一通もありません。ここからは篠原父子の禁制が残る西讃岐は、香川氏亡命後は篠原氏が直接管轄するようになったことが分かります。一方、宇多津の西光寺に残る禁制では長房・長重ともに禁制の処罰文言を「可被処」のように、自身ではなく上位権力による処罰を想定しています。ここからは宇多津は三好氏の直轄地で、篠原氏が代官として統治していたことがうかがえます。ここでは、この時期の篠原氏は西讃岐に広範な支配権をもっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」

戦国時代の阿波と讃岐は、細川氏とその臣下の三好氏が統治したために、両国が一体としてみられてきました。そのため讃岐の支配体制を単独で見ていこうとする研究がなかなかでてきませんでした。研究が進むに連れて、阿波と讃岐の政治的動向が必ずしも一致しないことが分かってきます。ここにきて讃岐の政治的な動向を阿波と切り離して見ていこうとする研究者が現れます。今回は16世紀初頭の永世の錯乱期の讃岐と阿波の関係を三好之長を中心に押さえておきます。テキストは「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配  四国中世史研究17号(2023年) 」です。
馬部隆弘氏は、細川澄元の上洛戦を検討する中で、次の事を明らかにします。
①永世の錯乱の一環として讃岐を舞台に高国派と澄元派の戦闘があったこと
②澄元が阿波勢力の後援を受けていたわけではないこと
讃岐は畿内で力を持つ京兆家、
阿波は阿波守護職を世襲した讃州家の分国
で、両家の権限は基本的に分立していたことを押さえておきます。
天野忠幸氏は、もともとは別のものであった阿波と讃岐が、細川氏から三好氏に権力が移る中で、三好氏によって讃岐の広域支配権をめざすようになり同一性を高めていったとします。

讃岐は細川京兆家の当主による守護職の世襲が続きます。

細川京兆家
細川京兆家
他の家に讃岐の守護職が渡ったことはありません。守護代職も東部は安富氏、西部は香川氏が務める分業体制が15世紀前半には成立して、他の勢力が讃岐守護代となることもありませんでした。讃岐は、室町期を通じて守護である京兆家細川氏と二人の守護代によって支配されてきたことを押さえておきます。讃岐に讃州家(阿波守護)が介入してくるのは、16世紀初頭までありません。
讃州家被官系(阿波守護)の人脈が讃岐の統治に介入してくる最初の例が三好之長(みよし ゆきなが)のようです。
三好之長2
三好之長
  三好之長は、三好長慶の曾祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将とされます。之長は、阿波の有力の国侍だったという三好長之の嫡男として誕生し、阿波守護であった細川氏分家・讃州家(阿波守護家)の細川成之に仕えます。

三好家と将軍

ただし、之長ら讃州家から付けられた家臣の立場は讃州家と京兆家に両属する性格を持っていたと研究者は指摘します。当時は、このような両属は珍しいことではなかったようです。

永世の錯乱3

永正の錯乱前後の三好之長の動きを年表で見ておきます
永正4(1507年) 政元・澄元に従って丹後の一色義有攻めに参戦
6月23日 細川政元が香西元長や薬師寺長忠によって暗殺される。
  24日 宿舎の仏陀寺を元長らに襲撃され、澄元と近江に逃亡。
8月 1日 細川高国の反撃を受けて元長と長忠は討たれる
   2日 之長は近江から帰洛し、澄元と共に足利義澄を将軍に擁立     
 この時に京兆家当主となった澄元より、之長は政治を委任されたとされます。しかし、実権を握った之長には増長な振る舞いが多かったため、澄元は本国の阿波に帰国しようとしたり、遁世しようとして両者の間はギクシャクします。阿波細川家出身の澄元側近の之長が京兆家の中で発言力を持つことに畿内・讃岐出身の京兆家内衆(家臣)や細川氏の一門の間で反発が高まっていきます。
そんな中で讃岐に出されているのが【史料1】三好之長書状案「石清水文書」です。
香川中務丞(元綱)方知行讃岐国西方元(本)山同本領之事、可被渡申候、恐々謹言
永正参
十月十二日           之長
三好越前守殿
篠原右京進殿
日付は1506(永正3)年10月12日、三好之長が三好越前守と篠原右京進にあてた文書です。内容は、香川中務丞(元綱)の知行地である讃岐国の西方元山(三豊市本山町)の本領を返還するよう三好越前守と篠原右京進へ命じています。この時期は、政元と阿波守護細川家との間で和睦が成立した時期です。その証として澄元が都に迎えられたのが、この年4月のことです。三好之長から香川中務丞に対して本領が返還されたのは、その和解の結果と研究者は推測します。つまり、政元と阿波守護家とが対立していた期間に讃岐国は三好之長の軍勢によって侵攻を受け、守護代家の香川氏の本領が阿波勢力によっ軍事占領され、没収されていたことを示すというのです。これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 永正2年4月~5月に、淡路守護家や香川・安富両氏などに率いられた軍勢が讃岐国へ攻め入っています。
どうして讃岐守護代の香川・安富氏が讃岐に侵攻するのでしょうか。それは讃岐が他国の敵対勢力に制圧されていたことを意味すると研究者は指摘します。このときの敵対勢力とは、誰でしょか。それは阿波三好氏のようです。
  「大乗院寺社雑事記」の明応4年(1495)3月1日には、次のように記されています。
讃岐国蜂起之間、ムレ(牟礼)父子遣之処、両人共二責殺之。於千今安富可罷下云々。大儀出来。ムレ兄弟於讃岐責殺之。安富可罷立旨申之処、屋形来秋可下向、其間可相待云々。安富腹立、此上者守護代可辞申云々。国儀者以外事也云々。ムレ子息ハ在京無相違、父自害、伯父両人也云々。

意訳変換しておくと
讃岐国で蜂起が起こった時に、京兆家被官の牟礼氏を鎮圧のために派遣したが、逆に両人ともに討たれてしまった。そこで、守護代である安富元家が下向しようとしたところ、来秋下向する予定の主人政元にそれまで待つよう制止された。その指示に対して安富元家は、怒って守護代を辞任する意向を示した。

この記事からも明応4年2月から3月はじめにかけてのころ、安富氏の支配する東讃地方では「蜂起」が起こって、三好之長に軍事占領されたいたことがうかがえます。
さて史料1「三好之長書状案」の宛所となっている三好越前守は何者なのでしょうか?
  それを解くヒントが【史料2】三好越前守書状写「太龍寺重抄秘勅」です。
軍陳為御見舞摩利支天之御礼令頂戴候、御祈祷故軍勝手開運珍重候、即讃州於鶴岡五十疋令券進候、遂武運長久之処頼存候、遂所存帰国之砌、知行請合可申候、恐々頓首、
九月         三好越前守
太龍寺
  意訳変換しておくと
舞摩利支天の御礼を頂戴し、祈祷によって勝利の道を開くことができたことは珍重であった。よって讃州・鶴岡の私の所領五十疋を寄進する。武運長久の頼り所については、(私が阿波に)帰国した際に、知行請合のことは処置する、恐々頓首、
九月         三好越前守判
(阿波)太龍寺
阿波の太龍寺から勝利のための祈祷を行ったとの知らせを受けた三好越前守は、それが戦勝に繋がったとして、讃岐鶴岡の所領を寄進しています。ここからは次のような事が分かります。
①「帰国之砌」とあるので、越前守は讃岐に地盤を持ちながらも阿波を本拠地としていたこと
②篠原有京進も讃州家の被官なので、【史料1】の宛所2名はどちらも讃州家(阿波守護)の被官であったこと。つまり、ここからも讃岐が三好之長による侵攻を受けて、一部の所領が奪われていたことが分かります。ここでは、永世の錯乱の一環として讃岐を舞台に高国派と澄元派の戦闘があり、阿波の勢力が讃岐に進出し、所領を持っていたことを押さえておきます。
 こうして阿波勢力の三好氏が京兆家の讃岐に勢力を伸ばしてきます。これに対してする反発も強かったようです。1508(永正五)年に澄元は畿内で勢力を失うと、讃岐経営に専念するようになり、京兆家の讃岐支配を強化する動きを見せます。そんな中で1510(永正七)年に、澄元の奉行人飯尾元運が奉書を発給しています。それを受けて守護代香川備前守に遵行を命じたのは西讃岐守護代家の香川元景で、三好之長ではありません。澄元は讃岐掌握を進める上で、従来の守護代家の香川氏の命令系統を使っていることを押さえておきます。
 永正八年の澄元の上洛戦では、讃岐でも澄元方と高国方の戦闘がありました。
永世の錯乱2

之長はこの時、高国方の西讃岐守護代香川元綱と通じていたようです。その背景には澄元の讃岐経営から排除された不満があったと研究者は推測します。
 三好之長が讃岐進出を進めた背景は何なのでしょうか。
そこには之長が京兆家被官も兼ねていることがあったようです。そのため之長が京兆家から排除されると之長の讃岐進出は挫折します。ところがここで之長にとって、次のような順風が吹きます。
①1511(永正八)年の澄元の上洛戦が失敗
②その直後に細川成之・之持といった当主格が死去し、讃州家が断絶
③そうすると澄元にとって、讃州家再興が優先課題に浮上
④その結果、澄元による阿波勢力掌握が進展
1519(永正16)年の上洛戦で澄元軍の主力は、安富氏・香川氏などの讃岐守護代家と阿波の讃州家被官の混成軍で構成されています。これらの軍勢を率いたのが三好之長です。混成軍だったために主君の細川澄元が病によって動けなくなると、讃州家被官や讃岐守護代家は之長を見捨てて離脱してしまいます。実態は讃岐(京兆家)が阿波(讃州家)を従える形で上洛戦が展開されたことがうかがえます。

 秋山家文書からも秋山氏が澄元に従っていたことが分かります。
1 秋山源太郎 櫛梨山感状
          細川澄元感状    櫛梨合戦 

    去廿一日於櫛無山
致太刀打殊被疵
由尤神妙候也
謹言
七月十四日         澄元(細川澄元)花押
秋山源太郎とのヘ
読み下し変換しておきましょう。
去る廿一日、櫛無山(琴平町)に於いて
太刀打を致し、殊に疵を被るの
由、尤も神妙に候なり、
謹言
七月十四日
           (細川)澄元(花押)
秋山源太郎とのヘ
 切紙でに小さい文書で縦9㎝横17・4㎝位の大きさの巻紙を次々と切って使っていたようです。これは、戦功などを賞して主君から与えられる文書で感状と呼ばれます。これが太刀傷を受けた秋山源太郎の下に届けられたのでしょう。戦場で太刀傷を受けることは不名誉なことでなく、それほどの奮戦を行ったという証拠とされ、恩賞の対象になったようです。 この文書には年号がありませんが状況から推定して、櫛無山の合戦が行われたのは永正八(1511)年頃と研究者は考えています。「櫛無山」は、現在の善通寺市と琴平町の間に位置する岡で、後の元吉城とされます。 上の感状の論功行賞として出されたのが次の文書です。

1 秋山源太郎 櫛梨山知行
 秋山源太郎 櫛梨山知行

 讃岐の国西方の内、秋山
備前守跡職、所々散在
被官等の事、新恩として
宛行れ詑んぬ、早く
領知を全うせらるべきの由候なり、依って執達
件の如し
永正八             (飯尾)
十月十三日         一九運(花押)
秋山源太郎殿
この文書は、この前の感状とセットになっています。飯尾元運が讃岐守護細川氏からから命令を受けて、秋山源太郎に伝えているものです。讃岐の西方にある秋山備前守の跡職を源太郎に新たに与えるとあります。秋山備前守とは、秋山家惣領の秋山水田のことと研究者は考えているようです。

1秋山氏の系図4
秋山氏系図(Aが源太郎)


この文書の出された背景としては、永世の錯乱で香川氏・香西氏・安富氏などの讃岐の守護代クラスの国人らが、澄之方に従軍して討ち死にしたことがあります。そして秋山一族の中でも、次のような対立がおきていました。
①庶流家の源太郎は、細川澄元方へ
②惣領家の秋山水田は、細川澄之方へ
 この対立の発火点が櫛梨合戦だったようです。澄之方について敗れた秋山水田は所領を奪われ、その所領が勝者の澄元側につき武功を挙げ源太郎に与えられます。ここで秋山家の惣領家と庶流家の立場が入れ替わります。永世の錯乱という中央での争いで、勝ち組についた方が生き残るのです。管領細川氏の相続争いが讃岐の秋山氏一族の勢力争いにも直結しているのが分かります。
 この文書の発給人の飯尾元運を見ておきましょう。。
彼は阿波の細川氏の奉行人である飯尾氏と研究者は考えています。ここからは、秋山家の惣領となった源太郎が、最初は細川澄元に接近し、その後は細川高国方に付いて、淡路守護家や阿波守護家の細川氏に忠節・親交を尽くしていることが分かります。その交流を示す史料が、秋山家文書の(29)~(55)の一連の書状群です。
 どうして、源太郎は京兆家でなく阿波守護家を選んだのでしょうか? それは阿波守護家が細川澄元の実家で、政元継嗣の最右翼と源太郎は考えていたようです。応仁の乱前後(1467~87)には、讃岐武将の多くが阿波守護細川成之に従軍して、近畿での軍事行動に従軍していました。そのころからの縁で、細川宗家の京兆家よりも阿波の細川氏に親近感があったとのかもしれません。
 淡路守護家との関係は、永正七(1510)年6月17日付香川五郎次郎遵行状(25)からも推察できます。
 高瀬郷内水田跡職をめぐって源太郎と香川山城守とが争論となった時に、京兆家御料所として召し上げられ、その代官職が細川淡路守尚春(以久)の預かりとなります。この没収地の変換を、源太郎は細川尚春に求めていくのです。そのために、源太郎は自分の息子を細川尚春(以久)の淡路の居館に人質として仕えさせ、臣下の礼をとり尚春やその家人たちへの贈答品を贈り続けます。その礼状が秋山文書の中には源太郎宛に数多く残されているのは以前にお話ししました。これを見ると、秋山氏と淡路の細川尚春間の贈答や使者の往来などが見えてきます

淡路守護細川尚春周辺から源太郎へ宛の書状一覧表を見てみましょう
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧1
1 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧2
 秋山源太郎 淡路細川尚春書状一覧
まず発給者の名前を見ると大半が、「春」の字がついています。
ここから細川淡路守尚春(以久)の一字を、拝領した側近たちと推測できます。これらの発給者は、細川尚春(以久)とその奉行人クラスの者と研究者は考えているようです。一番下の記載品目を見てください。これが源太郎の贈答品です。鷹類が多いのに驚かされます。特に鷹狩り用のハイタカが多いようです。
 1520(永正17)年の澄元の上洛戦は失敗し、澄元本人もその直後に亡くなってしまいます。澄元陣営は、管轄が違う阿波と讃岐を束ねる必要に迫られます。

【史料三】瓦林在時・湯浅国氏・篠原之良連署奉書「秋山家文書」        讃岐国西方高瀬内秋山幸比沙(久)知行本地并水田分等事、数度被成御下知処、競望之族在之由、太無謂、所詮退押妨之輩、年貢諸公物等之事、可致其沙汰彼代之旨、被仰出候也、恐々謹言、
永正十八九月十三日        瓦林日向守   在時(花押)
              湯浅弾正   国氏(花押)
              篠原左京進  之良(花押)
当所名主百姓中

意訳変換しておくと
讃岐国・西方高瀬内の秋山幸比沙(久)の知行本地、并びに水田分について、数度の下知が下されているが、領地争いが起こっているという。改めて申しつける。押妨の輩を排除し、年貢や諸公物について、沙汰通りに実施せと改めて通知せよ 恐々謹言、
永正十八(1521)九月十三日
        瓦林日向守      在時(花押)
       湯浅弾正   国氏(花押)
       篠原左京進  之良(花押)
当所 名主百姓中

1520(永世17)年には、三好之長が上京しますが、細川高国に敗れます。そして、播磨に落ちのびた澄元は急死します。その翌年の永正18年の讃岐への奉書は、奉行人ではなく新当主の晴元の側近たちによって書状形式で発給されています。別の連状に「隣国」とあるので、彼らは阿波にいたことが分かります。ここからは晴元が京兆家の分国として押さえているのは讃岐で、阿波ではなかったことが分かります。しかし、晴元が幼少であることや阿波勢の離反を防ぐために阿波に拠点をおくことを選択したと研究者は推測します。
 研究者がここで注目するのは、連署している3人の側近メンバーです。
①摂津国人の瓦林氏
②晴元側近として京兆家被官となった湯浅氏
③讃岐家被官の篠原之良
彼らは讃岐とどんな関係があったのでしょうか?
③の篠原氏は讃州家被官の立場で【史料3】に署名していると研究者は推測します。
 この時期の三好氏は、西讃岐進出をねらっています。その動きに篠原氏もそれに従っていたからでしょう。晴元が幼少という政治不安を抱える中で、讃岐支配に阿波勢力を排除すると、阿波勢力の離反を招きかねないため、篠原氏を讃岐支配に関与させたと研究者は推測します。
以上をまとめておくと
①16世紀初頭の永世年間の讃岐の支配権は澄元が握っていた
②それを阿波にいる京兆家被官・奉行人が支配を担当した。
③阿波勢力の協力を得るために讃州家被官を出自とする氏族が讃岐支配に関与することはあった。
④しかし、讃州家が直接的に讃岐支配に関与することはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配  四国中世史研究2023号」
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