瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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  尾池薫陵が京都遊学で学んだものは何だったのでしょうか? 今回は、このテーマを「18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 町泉寿郎(二松学舎大学) 香川短期大学紀要 第45巻、15~28(2017)」をテキストにして見ていくことにします。
薫陵が京都遊学で学んだものを知る手がかりは、彼が残した医学書の写本です。僧侶が経典を写経することが修行のひとつであったように、当時の医学生は、自分の学ぶ医書を書写していました。そのため薫陵がのこした医学書の写本をみれば、彼が興味を持っていた医学分野見えてきます。それらを並べて見ると次のようになります。
①師の後藤一『一隅』・艮山医学の要点をまとめたもので、「医原(養庵先生遺教)」「艾炙」「泉浴」「肉養」「薬療」
②宝暦7年(1757)、加藤暢庵録の後藤艮山の遺著を筆写
5月18日に『師説筆記』136条
10月10日に『病因考』2巻
10月16日に『(先生手定)薬能』『薬能附録』の筆写終了
 ここからは、薫陵が修得した医学は、湯液と灸と温泉浴を中心とした後藤艮山の治療学で、古方系処方と灸治を併用した独特な古方医学であったことがうかがえます。
18世紀の医学界の動きを、研究者は次のように考えています。
①京都など西国の医家の多くは、古方派の医学理論と処方学を基盤にしていた。
②それを基盤に、それぞれ専門科目の医術を付け加えていた
③新たに付け加えられて専門科目とは、1800年頃には荻野元凱の腹診術、華岡流外科、池田流治痘術などで、
④1830年頃になると賀川流産科術、小石元俊らの蘭方であった。
⑤古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。
⑥こうした学び方が、「漢蘭折衷」と言われる医学の普通に見られるスタイルであった
そのような医学界の動きの中で、讃岐の尾池家はどのような対応をしていたのでしょうか?
それも残された資料からうかがうことができるようです。結論から言うと「漢方から漢蘭折衷へ」の移行が見えてくると研究者は指摘します。
尾池家の場合は、次のような傾向があります。
①医業を創始した立誠が京都で後藤艮山に学んでいること。
②その後継者たちが長く後藤艮山流をベースにした医学・医療を行ていたこと。
③尾池薫陵の養子となった桐陽が後藤艮山の外孫であるともされ、京都の古方派諸家と長年にわたって結びつきが深かったこと。
こうした中で従来の後世方医学に代わって新たに古方医学がどのように京都の医学界で台頭してきたのか、それが瀬戸内地域にどのように伝播していったかを知る貴重な史料だと研究者は考えています。

 この頃の京都医学界では新思潮が勃興していたようです。
そのため薫陵は、5年間で学んだ成果にすぐに満足できなくなります。遊学を終えて帰郷した翌年の宝暦9年(1759)7月に、薫陵は京都に再遊しています。この時の京都滞在は30日程度でしたが、その成果を大野原に戻ってから立誠門の先輩である備中総社の赤木簡に宛てて次のような長文の書簡にしたためています。
②尾池薫陵書簡―宝暦9年(1759)10月12日、赤木要蔵宛―(赤木制二氏所蔵)
赤木要蔵様   常
(前略)
御聞及被下候通、小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京仕、古方家先生方へ相見、疑問仕候而得鴻益、大悦御察可被下候。山脇・吉益・松原三家とも豪傑ノ先生ニ而、各所長御座候。傷風寒治療、山脇ハ承気湯類ニ長シ、松原ハ真附・四逆・附子湯ニ長シ候様ニ相見へ申候。何分、三家中ニ而ハ山脇先生術ニ長シ申候様ニ相見へ申候。専ラ艮山先生称シ、古方ノ今日ニ弘リ候も全ク後藤先生輙被レ藉レ口申候。依之、小生義束脩之力也ト、動仕入門仕候。京都ニも三十日斗留滞仕候。晝夜とも山脇家へ相通イ、其暇ニ吉益・松原へ相通、論説とも承申候。扨々面白敷義ニ御座候。傷寒論讀方とも違イ申候義とも御座候。見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難行ハ、術ノコトニ御座候。(後略)
    意訳変換しておくと
お聞きおよびの通り、小生には大望があます。ついては、私は初秋に上京し、古方医学の先生方をお訪ねして、かねより疑問に思っていたところを問い、それに親しく答えていただきました。山脇・吉益・松原三家とも豪傑の方々で、それぞれに長所をお持ちです。傷風寒の治療に関しても、山脇先生は承気湯類に詳しく、松原先生は真附・四逆・附子湯に長じているように思えました。その三家中では山脇先生に一日の長があるように見えます。山脇先生は後藤艮山先生を尊師として仰ぎ、古方医学の今日の隆盛も後藤先生のお陰手であると云います。これを聞いて、小生もその下で学びたいと思い入門いたしました。
 京都には三十日ばかり滞在しました。昼夜なく山脇家へ通い、その間にも吉益・松原先生方も訪ね、お話しをうかがうことができました。その話の内容は、私にとっては興味深いものでした。傷寒論の読み方(解釈)もそれぞれが異なります。
冒頭の「小生義兼々大望御座候ニ付、初秋上京」という言葉が、薫陵の強い修学意欲を伝えています。
この上京に時には薫陵は、山脇東洋(1706~62)・吉益東洞(1702~73)・松原一閑斎(1689~1765)らの古方派諸名医を歴訪して各人の医説の吸収に努めています。そして東洋・東洞・一閑斎をいずれ劣らぬ豪傑と評価して、各人について論評します。とりわけ山脇東洋が医術に長じ、また艮山流の古方医学に最も忠実である点に敬服して、7月18日に正式に入門します。一か月間、昼夜とも山脇塾に通学し、あいまに東洞と一閑斎にも音信を通じています。『傷寒論』の読み方にも三者三様の相違があることなどに強く興味を惹かれています。この書簡からは薫陵の興奮に満ちた修学状況が伝わってきます。
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山脇東洋

                  山脇東洋の『蔵志』
     この時に師事した山脇東洋は、禁制とされてきた人体解剖を幕府の医官として日本で初めて行った人物で、その記録「親試実験」として公表します。彼は日本近代医学の端緒を打ち立てた人物と評され、古方派の五大家(後藤艮山、香川修庵、山脇東洋、吉益東洞、松原一閑斎)のひとりに挙げられています。薫陵が京都に滞在したこの秋には、山脇東洋が『蔵志』を、吉益東洞が『医断』という画期的な両著が刊行されます。東洋の刑屍解剖による日本初の観臓は、薫陵が初めて京都遊学した同年同月の宝暦4年(1754)閏2月のことになります。その興奮が京都の医学界に拡がっていた中に薫陵はいたことになります。

 帰郷後の薫陵は、古方医学に基づく医術の実践に格闘しています。それを次のように記します。

「見識ハ諸先生ノ力ニテ相立申候様ニ被存候へ共、帰郷後扨々難キハレ 行ハ術ノコトニ御座候」
「宋後之書一向読ミ不申候様ニと受レ教ヲ申候。然とも先入為レ主候而、後世方用度所存萌シ出テコマリ申候。宋後之書ナキ世トアキラメ、古方書ノミニテ済シ申度コトニ御座候」

意訳変換しておくと
「見識については諸先生の力で見立てができても、帰郷に見立てに応じた治療方法をどうおこなうのかが難しいのです」
「中国の宋以後の医学書を読んで、教えを受けたことを伝えています。しかし、先の教えと、後世の教えに矛盾が出てきて困っています。宋以後の書はないものとしてして、古方書の教えだけを伝えるようになりました。」
   薫陵は大野原では塾生を抱える立場でした。そのために治療だけでなく、門人に医学を教えなければなりません。「教えることは学ぶこと」で、自分も講義用のノートなどを作っておく必要があったかもしれません。そのような中で、何を教え、何を教えないかの取捨選択に悩んでいたことがうかがえます。ここからは古方医学の斬新さと薫陵が置かれていた模索状態をよく伝えています。
 山脇塾では「吐方」という新しい治療法も学んでいましたが、副作用が強くなかなか実行できなかったようです。書簡の追伸に述べられている処方と生薬に関する記述も、薫陵が吸収に努めた新知識の多さを示していると研究者は評します。
 こうした薫陵の研鑚はすぐに近隣の評判となり、この年から薫陵への入門者が増加します。それを次のように記します。
当夏より隣村及ヒ金毘羅より門人両生石川林之介、三木市太郎投塾、御存之通ノ矮屋、恰如有舟中、紛々罷在候。依之小屋相構申候而、屋敷北ノ方へ結構仕候。二間四間余。大方成就仕候。自今以後、御渡海も被成候ハヽ、御投宿被成候ニも可然ヤトハ御噂申事ニ御座候。当秋より門前観音堂ニ而三 八ノ夜、論語開講仕候処、近隣風靡、聴衆も大勢有之、悦申候。何トソ打續ケかしと所祈御座候。傷寒論も不絶讀申候而、此間より金匱要畧讀申候。上京之節、後藤・香川両家へも相尋申候。両家とも無異事、後藤家繁昌之體ニ相見へ、門生も七人投塾罷在候。香川家も不相替候。
 
意訳変換しておくと
この夏から隣村や金毘羅から門人の石川林之介、三木市太郎が塾生となり、通ってくるようになりました。わが家はご存じの通り、小さな家などで手狭で、まるで舟中にいるがような狭さです。そこで、屋敷の北方へ二間四間の離れを増築しました。今後は、わが家に投宿したときには、お使いいただきたいと思います。
 この秋から門前観音堂で、3日と8日の夜に、論語の購読を開講しました。それが近隣の噂となり、多くの人々がやって来るようになり喜んでいます。これが続いていくことを願っています。傷寒論も何度も読み返し、行間からさまざまなことを学んでいます。上京の節には、後藤・香川両家へも伺いました。両家とも繁昌のようすで、門生も七人抱えています。香川家も変わりありません。

ここからは、塾生を迎えて塾舎を新築していたことが分かります。
また門前の観音堂を会場にして3・8日の夜に『論語』の講義を始めたところ、近郷近在から聴衆が詰めかけます。医者が在村知識人として、社会教育的な役割を果たしていたことがうかがえます。
 記録からは薫陵への入門者は、宝暦9年から明和6年(1759~69)までの間に26人を数えるようです。また明和6~8年(1769~71)には、備中惣社の赤木家7代の浚が大野原に遊学しています。その時に浚が筆写した本に、尾池立誠『傷寒論聴書』、尾池薫陵『経穴摘要』、香川修庵『一本堂行餘医言』等が残っていて、尾池塾における基本的な修学内容がうかがえます。
 薫陵の研鑚の原動力のひとつに、隣村の和田浜の合田求吾の存在があったようです。
 合田求吾(1723~73)は和田浜(観音寺豊浜町)で代々医を業とする家に生れます。
30才のころ京都に遊学し、さらに数年後江戸へ出ます。その際に、参勤交代で長崎から江戸に出て来たオランダ商館長に随行する商館医から和蘭の医療について話を聞く機会を得ます。その話の中に長崎の大通詞で蘭書が解読出来るばかりでなく、医療の経験ももっている吉雄耕牛が彼の家でオランダの医療について講釈してくれることを聞き知ります。これを聞いて、長崎への遊学を決意したようです。
  一旦讃岐に帰った求吾は宝暦12年(1762)になって長崎遊学を実行に移します。そして吉雄耕牛の家塾で毎日時間を決めて、内科を中心にオランダ医療について原書からの和訳を聞きとり、その内容を筆録する日課を続けます。それを二ヶ月半ほどの滞在中に、五冊の冊子にまとめてその第一冊の題目を「紅毛医言」とします。
紅毛医言 合田強

合田 強(通称:求吾  「紅毛医言」 講義録第三巻の解剖図
合田 強(通称:求吾 ) 「紅毛医言」 講義録第三巻の解剖図

 それまでオランダの医療は、外科ばかりと思われていたようです。そんな中で内科も秀でていることを伝えたことは、重要なことでした。しかし、残念ながらこの冊子は幕末に至るまで刊行されることはありませんでした。求吾の周囲、周辺で読まれるだけだったようです。
 オランダ内科の詳細が知られるようになったのは津山藩医の宇田川玄随(1755~94)の「西説内科撰要」(寛政五:1799年刊)以後のことなので、この「紅毛医言」が草稿として纒められたのは、その30年前のことになります。そして昭和初期に呉秀三氏よって、はじめて陽の目を見るようになったようです。合田家に所蔵されていた「紅毛医言」は、今は新設された香川県立歴史博物館(高松市)に寄託保管されているようです。

 「紅毛医言」が著された同時期に、尾池薫陵も古方医学の立場から新著『素霊正語』を著しています。薫陵は、その序文を合田求吾に求めています。求吾は長崎からの帰郷後、名医としてその名が人々の間に知られようになり、遠くからも病人が訪れるようになります。また、自身の知識を伝えようと大勢の弟子も受け入れています。
豊浜墓地公園の合田求吾の墓碑銘には次のように記されています。

和田浜(観音寺市豊浜町)の畏友合田求吾(1723~73)
合田求吾(1723~73)の墓碑(豊浜墓地公園)

「先生は天資温和にして人の善を賞揚し、よく父母につかえ、仁術をもって皆をよろこばせ、郷里の人々によく学問を教えた」

このような合田求吾の姿を追いかけたのが、薫陵だったのかもしれません。ふたりの遊学状況と講学内容(共通点と相違点)からは、互いに切磋琢磨する姿が見えてきます。薫陵編の『諸家文集』には、求吾が諸家から送られた尺牘を多数収録しています。ここからも、両者の交流の深さと薫陵の求吾への関心の高さがうかがえます。
以上をまとめておきます。
①18世紀半ばの京都では、各派は古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学ぶ「漢蘭折衷」だった。
②薫陵が5年間の京都遊学で修得した医学は、湯液と灸と温泉浴を中心とした後藤艮山の治療学だった
は古方派の処方学を基盤に、それぞれの時代の最新の医学知識を刷新しながら加えて学んでいた。
③薫陵が遊学を終えた頃には、山脇東洋が『蔵志』を、吉益東洞が『医断』という画期的な医書が刊行された。
④大野原に帰郷しても豊浜の合田求吾に刺激されて、薫陵の探究心や向上心は衰えなかった。
⑤門下生を受けいれる一方で、地域では論語購読を行うなど社会教育にも貢献した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 町泉寿郎(二松学舎大学) 香川短期大学紀要 第45巻、15~28(2017)」

 江戸時代に讃岐三豊で医業を営んだ尾池家は、丸亀藩医となった尾池薫陵やその養嗣子で漢詩人として知られた尾池桐陽などを輩出しています。また独自の尾池流針灸術の一派を形成したことでも知られています。その縁戚の中澤家(香川県三豊市詫間)には、尾池家の蔵書や文書が数多く残されているようです。今回は、その史料を見ていくことにします。テキストは「町泉寿郎(二松学舎大学 文学部)  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考 讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)」です。
                                                                                        
  まず『尾池氏系譜』を「年表化」して、尾池家の歴史を見ておくことにします。
①室町幕府の将軍足利義輝が永禄の変(1565)に没したとき、懐妊中であった烏丸大納言の女が讃岐に難を逃れ、誕生した義輝の遺子義辰は讃岐の土豪尾池氏に身を寄せ、尾池姓を名乗ったところから始まる。
②尾池氏は讃岐領主となった生駒氏に仕えたが、1640年に生駒騒動により生駒氏は城地没収。
③その時に義辰とその子息たちは浪人となり各地に離散。義辰(通称玄蕃:別号道鑑)は88歳(1566~1653)で没した。
④義辰の子孫は、官兵衛義安(法号意安)→ 仁左衛門(1616~88、法号覚窓休意)→森重(1655~1739) → 久米田久馬衛門、法号遊方思誠)と継承
⑤森重の代に、大野原(現観音寺市大野原)に住みついた。
森重の子が医業を興した立誠(1704~71)で、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学び、加藤暢庵・足立栄庵らと並ぶ艮山門の高弟に数えられた
⑦立誠は、讃岐に帰郷して大野原に開業する傍ら、艮山流古方医学を講じ、讃岐だけにとどまらず瀬戸内各地から遊学する者が多く訪れた。
⑧立誠は四男四女をもうけたが、長男・二男が早く亡くなったため、門人谷口氏を養子とし、二女楚美を娶わせた。
⑨立誠の著書には『医方志『耻斎暇録』『恭庵先生口授』『恭庵先生雑記』等がある。
⑩大野原の菩提寺慈雲寺にある墓碑は、大坂の儒者三宅春楼(艮山と交流のあった三宅石庵の男で
懐徳堂の教授)が撰文
⑪薫陵(1733~84)は、祖父を谷口正忠、父は正直で、16歳(1748)で立誠に入門。
⑫才能を見込まれて21歳(1753)で尾池家の養子となり、京都に5年間遊学(1754~59)し、尾池家を継承。
⑭帰讃後は、邸内に医学塾寿世館を営み、学びに来る者が多かった。
⑮49歳(1781)で丸亀藩主京極高中から侍医として召し出され、丸亀城下に移った。
⑯薫陵の著書に『経穴摘要』『古今医変』『素霊正語(素霊八十一難正語)』『試考方』『古今要方』『痘疹証治考』『脚気論』『医方便蒙』『薫陵方録』『薫陵雑記』『薫陵子』『大原雑記』等がある。
⑰丸亀の菩提寺宗泉寺にある薫陵の墓碑は後藤敏(別号慕庵、艮山の二男椿庵の庶子)の撰文
⑱薫陵が丸亀城下に別家を建てたのち、大野原の尾池家は立誠の三男義永(1747~1810)が継承した。
⑲義永の後、義質(?~1837、号思誠) → 平助泰治(?~1863) → 平太郎泰良(1838~94)と代々医業を継承。
⑳義雄(1879~1941、ジャーナリスト、青島新聞主幹)は、義質の長兄允は尾藤二洲に学んで儒者となり、江戸で講学した。
㉑薫陵が立てた丸亀藩医尾池家は、その門人村岡済美(1765~1834)が薫陵の二女を娶って継承した。
㉒済美の父は丸亀藩士村岡宗四郎景福で、母は村岡藤兵衛勅清の長女で、『尾池氏系譜』に済美を後藤艮山の孫とする。ここからは宗四郎景福は、艮山の血縁者とも推定される。
㉓済美は大坂の中井竹山や京都の皆川淇園に学び、菅茶山・頼山陽・篠崎小竹らとも詩文の交流があった。著書に『桐陽詩鈔』等がある。
㉔済美の長男静処(1787~1850)は、丸亀藩医を継承し『傷寒論講義』『静処方函』『治痘筆記』等の医書を残しています。
㉕静処の弟松湾(1790~1867)は、菅茶山に学び、父桐陽の文才を継いで詩文によって知られた。編著書に『梅隠詩稿』『梅隠舎畳韻詩稿』『蠧餘吟巻』『松湾漁唱』『穀似集(巻1桐陽著、巻2静処著、巻3松湾著)』『晩翠社詩稿』、(京極高朗著)『琴峰詩集』等がある。松

最初の①には、室町幕府の将軍義輝の遺子義辰が讃岐の尾池家の姓を名乗ったとあります。
この話は、どこかで聞いたことがあります。以前にお話しした生駒藩重臣の尾池玄蕃の生い立ちについて、「三百藩家臣人名事典 第七巻」には次のように記します。

永禄8年(1565年)に将軍義輝が討たれた(永禄の変)際、懐妊していた烏丸氏は近臣の小早川外記と吉川斎宮に護衛されて讃岐国に逃れ、横井城主であった尾池光永(嘉兵衛)に匿われた。ここで誕生した玄蕃は光永の養子となり、後に讃岐高松藩の大名となった生駒氏に仕えて2000石を拝領した。2000石のうち1000石は長男の伝右衛門に、残り1000石は藤左衛門に与えた。二人が熊本藩に移った後も、末子の官兵衛は西讃岐に残ったという。

この話と一緒です。ここからは、尾池玄蕃につながる系譜を持っていたことが分かります。後で見る史料にも次のように記します。
一 尾池玄蕃君、諱道鑑、承應二年卒。是歳明暦ト改元ス。
一 休意公ハ玄蕃君ノ季子也。兄二人アリ。是ハ後ニ玄蕃君肥後ヘツレユケリト。定テ肥後ニハ後裔アラン。
ここでは、尾池家では尾池玄蕃と祖先を同じくするとされていたことを押さえておきます。その後、生駒家にリクルートしますが、生駒騒動で禄を失い一家離散となったようです。その子孫が三豊の大野原に定住するようになるのが⑤⑥にあるように、17世紀後半のことです。大野原の開発が進められていた時期になります。そして、立誠(1704~71)の時に医師として開業します。立誠は、五年間京都に遊学し、後藤艮山(1659~1733、通称・養庵)に医学を学んだ後に、讃岐に帰郷して大野原に開業したようです。艮山流古方医学を講じ、他国からの遊学者も数多く受けいれています。その後、⑪⑫にあるように薫陵が谷口家から尾池家の養子となったのは宝暦3年(1753)、21歳の時です。
その経過を白井要の『讃岐医師名鑑』(1938 刊)は次のように記します。

尾池恭庵(?~1771)は後藤艮山の門人で,実子の義永と義漸が共に早世した。そこで寛延元年(1748)に 16才で入門してきた谷口正常(1733~1784)が秀抜だったため、やがて娘を配した.この養嗣が尾池薫陵で、字は子習という。現存する父子の著述は全て写本で、父の『恭庵先生雑記―方録之部―』(1810 写)、子の『試効方』(1753 自序)・『経穴摘要』(1756自序)・『素霊八十一難正語』(1763自序)・『医方便蒙』(1810写)・『古方要方』・『脚気論治』が残っている。

養子として尾池家を嗣ぐことになった薫陵は京都遊学します。その際のことを『筆記』と題された日記に次のように記します。
①尾池薫陵『筆記』(中澤淳氏所蔵)
一 宝暦三癸酉六月廿五日、有故、師家之義子ト成。(中略)
一 宝暦四甲戌閏二月九日宿本發足。金毘羅へ廻り丸亀ニ而一宿。十日丸亀より乗船、即日ニ下津井へ着、一宿。十一日岡山ニ一宿。十二日三ツ石ニ一宿。十三日姫路ニ一宿。十四日明石ニ一宿。十五日西宮一宿。十六日八ツ時大坂へ着。北堀江高木屋橋伊豫屋平左衛門方ニ逗留。十九日昼船ニ乗、同夜五ツ時、京都三文字屋へ着。同廿七日、香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。同廿四日平田氏東道へ發足

  ここまでを意訳変換しておくと
一 宝暦3癸酉6月25日、故あって私(薫陵)は、師家の義子となった。21歳の時である。(中略)
一 宝暦四(1754)年2月9日に宿本を出発し、金毘羅廻りで丸亀で一宿。
10日に丸亀より乗船し、下津井へ渡り一宿。
11日 岡山で一宿。
12日 三ツ石で一宿。
13日 姫路に一宿。
14日 明石ニ一宿。
15日 西宮一宿
16日 八ツ時大坂着。北堀江高木屋橋の伊豫屋平左衛門方に逗留。
19日(淀川の高瀬舟に)昼に船に乗船し、五ツ時、京都の三文字屋へ着。
27日 香川先生へ入門。即日より後藤家ニ入塾。
28日 平田氏が江戸へ出発。
私が興味があるのは、瀬戸内海を行き交う船の便で、それを当時の人々がどのように利用していたかです。
尾池家の養子となった9か月後、宝暦4年(1754)閏2月9日に薫陵は京都遊学に出発します。その際の経路が記されているので見ておきましょう。伊予街道を東に向かい金毘羅宮に祈願し、丸亀から乗船しています。船で下津井に渡り、岡山、三石、姫路、明石、西宮で宿泊しながら、16日に大坂に達し、19日に淀川を上る川船で京都に到着しています。どこにも寄り道せずに、一直線に京都を目指しています。京都まで10日の旅程です。ここで注意しておきたいのは、丸亀=大阪の金比羅船の直行便を利用していないことです。

IMG_8110丸亀・象頭山遠望
下津井半島からの讃岐の山々と塩飽の島々
大坂と丸亀の船旅は、風任せで順風でないと船は出ません。
中世の瀬戸内海では、北西の季節風が強くなる冬は、交易船はオフシーズンで運行を中止していたことは以前にお話ししました。金毘羅船も大坂から丸亀に向かうのには逆風がつよくなり、船が出せないことが多かったようです。金毘羅船が欠航すると、旅人は山陽道を歩いて備中までき、児島半島で丸亀行きの渡し船に乗っています。児島半島の田の口、下村、田の浦、下津丼の四港からは、丸亀に渡る渡し船が出ていました。上方からの金毘羅船が欠航したり、船酔いがあったりするなら、それを避けて備中までは山陽道を徒歩で進み、海上最短距離の下津井半島と丸亀間だけを渡船を利用するという人々が次第に増えたのではないかと研究者は指摘します。そのため冬期は丸亀ー下津井ルートが選ばれたようです。海路ではなく陸路・山陽道を利用していることを押さえておきます。
京都到着後、すぐの2月27日に香川修庵に入門しています。
そして、艮山の子孫が運営する中立売室町の後藤塾に寄宿したようです。艮山の四子のうち医者として名前が知られていたのは、二男椿庵(1697~1738、名省、字身之、通称仲介)と四男一(名督、通称季介・左一郎)でした。このうち椿庵はすでに亡くなっていたので、薫陵が師事したのは一でした。薫陵が後藤一のもとでの修学したことを、薫陵は「在京之日、後藤一先生賜焉」と記します。
一 三月十一日夜より時疫相煩、段々指重り申候處、新蔵様・宗兵衛様、但州御入湯御出被成ニ付御立寄被下。右御両人様にも様子見捨難、御介抱被成被下候。右御両所より國本へ書状被遣、國本よりも両人伊平治・久五郎、四月十七日罷登り申候。伊平治ハ同廿日帰シ申候。段々快復仕ニ付、御両人様とも四月廿一日京都御發足、但州御出被成候。五月朔日ニ久五郎帰シ申候。
一 右病気ニ付、三月廿七日より外宿。油小路竹屋町下ル所、嶋屋傳右衛門裏座敷にて保養申候。四月廿六日ニ後藤家帰り申候。
一五月十二日平田氏関東より出京被成候。旅宿竹屋町三条上ル所ニ御滞留。六月廿三日京地御發足。
一惣兵衛様、但州にて六月一日より水腫御煩被成候所、段々指重(2a)、同十四日ニ棄世被成候。
拙者も右不幸ニ付、六月廿八日發足、平田氏と大-21坂より同船にて七月二日乗船。同五日ニ帰郷申候。又々同十八日和田濱より出船致候所、時分柄海上悪敷、同廿二日ニ明石より陸ニいたし、廿三日大坂へ着。北堀江平野屋弥兵衛ニ逗留。廿七日夜船乗、廿八日上京仕候。
一八月十三日京都發足、河州真名子氏へ参、逗留仕。十四日夜、八幡祭礼拝見。同十八日ニ帰京。
一九月廿五日、南禅寺方丈拝見。
一十月四日、高尾・栂尾・槙野楓拝見、且菊御能有之候(2b)。
一亥正月十  紫宸殿拝見
一同十七日  舞御覧拝見
一同廿三日  知恩院方丈拝見
一二月五日  今熊野霊山へ見物
一香川先生二月七日御發駕、播州へ御療保ニ被成、御帰之節、丹州古市にて卒中風差發、御養生不相叶、翌十三日朝五ツ時御逝去(3a)被遊候。
同十四日、熊谷良次・下拙両人、丹州亀山迄御迎ニ参申候。
十四日ニ御帰宅、同廿五日御葬送。
一 三月九日、國本より養母病気ニ付、急申来、發足。同十四日帰郷。
意訳変換しておくと
一 3月11日 夜より疫病に患う、次第に容態が重くなり、後藤家の新蔵様・宗兵衛様が但州の温泉治療に向かうついでに立寄より、診断していただいた。その結果、放置できないと診断され、御両所から讃岐の国本へ書状を送った。それを受けて讃岐から伊平治・久五郎が4月17日に上京した。伊平治は20日は帰した。次第に回復したので、御両人様も4月21日京都を出立し、但州へ温泉治療に向かわれた。5月朔日に久五郎も讃岐へ帰した。
一 この病気静養のために、3月27日から、油小路竹屋町下ルに外宿し、嶋屋傳右衛門の裏座敷にて保養した。それも回復した4月26日には後藤家にもどった。。
一5月12日平田氏が関東より京都にやってきて、竹屋町三条上ルの旅宿に滞留。6月23日に京を出立した。
一惣兵衛様が但州で6月1日より水腫の治療のために温泉治療中に、様態が悪化し、14日に亡くなった。拙者もこの際に、国元で静養することにして、6月28日に京を出立し、7月2日に平田氏と供に大坂より乗船。5日に帰郷した。そして、18日には和田濱から出船したが、折り悪く海が荒れてきたので22日に明石で上陸し、陸路で23日に大坂へ着き。北堀江の平野屋弥兵衛に逗留。27日夜の川船に乗、6月28日に上京した。
一8月13日京都出立し、河州真名子氏へ参拝し逗留。14日夜は、八幡祭の礼拝を見学。18日帰京。
一9月25日、南禅寺の方丈拝見。
一10月4日、高尾・栂尾・槙野の楓見物。菊御能有之候。
  宝暦5年(1755)一正月10日 紫宸殿拝見
一同 17日 舞御覧拝見
一同 23日 知恩院方丈拝見
一2月 5日 今熊野霊山へ見物
一香川先生が2月7日に発病され、播州へ温泉治療に行って、その帰路に丹州古市で卒中風が襲った。看病にもかかわらずに、翌13日朝五ツ時に逝去された。被遊候。
同  14日、熊谷良次と私で丹州亀山に遺骸をお迎えに行った。
   24日 御帰宅、同25葬送。
一 3月9日、讃岐の国本から養母病気について、急いで帰るようにとの連絡があり、14日帰郷。

 後藤塾での生活が始まって1ヶ月も経たない3月11日に薫陵は病気になります。
一時はかなり重病で、心配した後藤家の家人が国元に手紙を出すほどだったようです。4月末には、病状回復しますが、静養のためか一旦帰郷して再起を期すことになったようです。6月28日に京都を発し7月5日に帰郷しています。この時の経路については何も記しません。最速で、京都・三豊間が一週間前後で往来できたようです。讃岐で2週間ほど静養し、7月18日に、今度は和田浜より乗船し明石に上陸して、23日大坂到着。28日に京都に戻っています。この時期には、和田浜と大阪を結ぶ廻船が頻繁にあったことは以前にお話ししました。
 体調の回復した薫陵は、毎月京都とその近郊の名所見物に出かけるなど、遊学生活を十分に楽しんでいます。そんな中で師事した香川修庵が、宝暦5年(1755)2月7日に播磨国姫路での病気療養に出かけ、逝去します。73歳のことでした。翌日、薫陵は同門の熊谷良次とともに丹波亀山まで師の遺体を出迎え、修庵の遺体と共に京都に戻り、25日に葬儀が営まれます。結局、師を失った修庵への従学期間は、1年に満たずして終わってしまいます。
 3月には尾池の養母が急病という連絡が入り、14日に一旦帰郷します。国元の岐阜から一旦帰国するように義父から命じられたのかも知れません。しかし、4ヶ月の滞在で、7月には3度目の上京を果たしています。その時の上京のようすを見ておきましょう。
七月六日 國本發足、同九日讃ノ松原ノ海カヽリ、白鳥大明神へ参詣。同日夜俄大風、殊之外難義。翌十日、松原上リ教蓮寺隠居ニ一宿。同所香川家門人新介方ニ一宿。
十四日朝、大坂へ着。
十七日ニ大坂發足、渚ニ一宿。
十八日八幡へ寄、同日晩方京着。
七月廿七日、芬陀院へ尋、即東福寺方丈幷
見。其時、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
同廿八日、嵯峨へ先生墓参。
八月四日、與二石原氏一、之二(4a)。黄檗及菟道一。途中遇雨
八月十日、與吉田元・林由軒、之鞍馬及木舟。
同十三日、嵯峨墓参。
同廿四日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。
廿二六日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山へ行、唐崎遊覧、大津ニ一宿。
廿七日、石山遊行而返ル
八月廿二日、要門様御上京。
九月九日、藤蔵同道、妙心寺方丈拝見。
同廿七日、義空師上京。同廿九日、牧門殿預御尋、
直ニ同道、芬陀院へ参、一宿。
十月四日、歌中山清眼寺へ行。
同六日、養伯子發足。東福寺中ノ門迄見立。東福寺
南昌院へ尋ル。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢
候。
十月十五日、義空師關東へ下向。
同十九日、菊御能拝見。
同廿一日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
十一月廿一日、河州へ下ル。同廿四日、上京。
同廿六日、御入内。
同廿八日、御上使御着。
十二月四日、御参内。
同七日、 兵馬子帰郷。
同八日、 御上使御發足。
宝暦6年(1756)子正月卅日、鹿苑院金閣寺拝見。
二月一日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝見。
四月十九日、入湯御發足。六月十九日、御帰家。
戊寅二月一日、平井順安老、丸亀迄渡海。即日観音
寺浮田氏へ着、滞留。
同九日、丸亀より乗船、帰郷
意訳変換しておくと
 7月6日 ①大野原を出立し、9日に讃岐の松原の海(津田の松原)を抜けて、白鳥大明神へ参詣。その夜に俄に大風が吹き、殊の外に難儀な目にあった。
翌 10日、(津田)松原から教蓮寺隠居で一宿。同所香川家門人新介方で一宿。
  14日朝、大坂着。
  17日に大坂出立、渚で一宿。
  18日に、岩清水八幡に参拝して、同日の晩方に京着。
7月27日 芬陀院を訪問し、即東福寺方丈幷山門拝拝観。、芬陀焼失、南昌院ニ在住。
  28日、嵯峨へ香川先生の墓参。
8月 4日、與二石原氏一之二 黄檗及菟道一。途中遇雨
8月10日、與吉田元・林由軒、鞍馬及木舟(貴船)見学。
  13日、嵯峨墓参。(香川先生)
  24日、與石原生・奥村生・周蔵氏、之愛宕嶽。(愛宕山参り)
  26日、後藤斎子・上山兵馬同道、比叡山参拝、唐崎を遊覧、大津に一宿。
  27日、石山遊行。
8月22日、要門様御上京。
 9月9日、藤蔵同道、妙心寺の方丈を拝見。
  27日、義空師が上京。
  29日、牧門殿預御尋、直に同道、芬陀院へ参拝し一宿。
10月4日、歌中山の清眼寺へ参拝。
   6日、養伯子へ出発。東福寺中ノ門まで見立。東福寺南昌院を訪問。牧門殿之介、仭蔵司留守ニ而不逢候。
10月15日、義空師關東へ下向。
   19日、菊御能拝見。
   21日、真名子要門様、木屋町迄御尋申候。
11月21日、河州へ下ル。同24日、上京。
   26日、御入内。
   28日、御上使御着。
12月 4日、御参内。
    7日、兵馬子が帰郷。
    8日、御上使御發足。
  宝暦6年(1756)正月30日、鹿苑院金閣寺拝見。
  2月1日、三清同道、東山銀閣寺、鹿谷永観堂拝観。
 4月19日、入湯(温泉治療)に出立。
 6月19日、温泉治療から帰宅。
戊寅2月1日、平井順安老、丸亀まで渡海。即日観音寺浮田氏へ着、滞留。
    9日、丸亀より乗船、帰郷
 ①には、7月6日に三豊を出発して、津田の松原を眺めて白鳥神社に参拝し、同門の香川家門人宅に泊まったと記します。門人が各地に散在していて、その家を訪ねて宿としています。幕末の志士たちが各地の尊皇の有力者を訪ね歩いて、情報交換や人脈作りを行ったように、医者達も「全国漫遊の医学修行」的なことをやっています。小豆島の高名な医者のもとには、全国から医者がやってきて何日も泊まり込んでいます。それを接待するのも「名医」の条件だったようです。江戸時代の医者は「旅する医者」で、名医と云われるほど各地を漫遊していることを押さえておきます。そして、彼らは漢文などの素養が深い知識人でもあり、詩人でもありました。訪れたところで、漢詩などが残しています。若き日の薫陵も「旅する医者」のひとりであったようです。

金毘羅航海図 加太撫養1
「象頭山參詣道 紀州加田ヨリ 讃岐廻並播磨名勝附」
 白鳥神社参拝後は、引田港からの便船に乗ったことが考えられますが、はっきりとは書かれていません。引田港は古代・中世から鳴門海峡の潮待ち港として、戦略的にも重要な拠点でした。秀吉に讃岐を任された生駒親正が最初に城下町を築いたのも引田でした。引田と紀伊や大坂方面は、海路で結ばれていました。その船便を利用したことが考えられます。

『筆記』は、その後も宝暦6年(1756)2月頃まで、京都周辺の名所見物の記事が続きます。
しかし、その後は遊学生活にも慣れたのか記事そのものが少なくなります。そして宝暦8年(1758)2月帰郷したようです。ここで気になるのが「9日、丸亀より乗船、帰郷」とあるこです。その前に、丸亀には帰ってきて「滞留」しています。そうだとすると丸亀から船に乗って、庄内半島めぐりで三豊に帰ってきたことになります。急いでなければ、財布にゆとりのある人は金毘羅街道を歩かずに、船で丸亀と三豊を行き来していたことがうかがえます。
こうして尾池薫陵は、3度の帰郷を挟んで足掛け5年に及ぶ京都遊学を終えることになります。そういえば尾池家で医業を興した立誠の京都遊学も五年間でした。義父との間に、遊学期間についても話し合われていたのかもしれまん。それでは、薫陵が京都遊学で学んだものは、なんだったのでしょうか? それはまたの機会に・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
 町泉寿郎  18世紀瀬戸内地域の医学に関する小考―讃岐尾池家、備中赤木家の資料を中心に 香川短期大学紀要 第45巻(2017年)
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中世以降になると、包丁諸流が奥義を書き伝えた料理伝書を残すようになります。伝書は料理の式法を伝えるもので、その読者は一部の料理専門家など少数の人々でした。また、伝書にはいろいろな故事引用が多く、神話、神道、陰陽道、儒教、仏教などによって権威付けがなされていることがその特徴とされます。その中で、魚介類の格付け(ランキング表)が登場してきます。
 鎌倉時代の『厨事類記 第□』(1295年)には「生物 鯉 鯛 鮭 鱒 雉子 成止鮭絆供幅雉為佳例。」とあり、鯛と鯉が並んでランクされています。また「徒然卓』(第118段)では、鯉が次のように記されています。

「鯉ばかりこそ、御前にても切らるヽものなれば、やんごとなき魚なり」

ここには鯉が「やんごとなき魚」として特別の魚とされ、14世紀初頭の魚ランキングでは、最上位の魚として位置づけられていたことが分かります。それでは室町期の流派相伝書に、鯉がどのように記されているのかを見ていくことにします。
① 『四條流庖丁書』(推定1489)年 
四条流包丁書・四条流包丁儀式|日本食文化の醤油を知る
「一美物上下之事。上ハ海ノ物、中ハ河ノ物、下ハ山ノ物、但定リテ雉定事也。河ノ物ヲ中二致タレ下モ、鯉二上ラスル魚ナシ 乍去鯨ハ鯉ヨリモ先二出シテモ不苦。其外ハ鯉ヲ上テ可置也。」

意訳変換しておくと
「美物のランキングについては、「上」は海の物、「中」は河ノ物、「下」は山ノ物とする。但し、鯉は「河ノ物」ではあるが、これより上位の魚はない。但し、鯨は鯉よりも先にだしても問題はない。要は鯉を最上に置くことである。」


「一美物ヲ存テ可出事 可参次第ハビブツノ位ニヨリティ出也。魚ナラバ、鯉ヲ一番二可出り其後鯛ナ下可出。海ノモノナラバ、 一番二鯨可出也。」

意訳変換しておくと
「美物を出す順番は、そのランキングに従うこと。魚ならば、鯉を一番に出す。その後に鯛などを出すべきである。海のものならば、一番に鯨を出すべし。」
「物一別料理申ハ鯉卜心得タラムガ尤可然也。里魚ヨリ料理ハ始リタル也。蒲鉾ナ下ニモ鯉ニテ存タルコソ、本説可成也。可秘々々トム云々」
 
意訳変換しておくと
特別な料理といえば、鯉料理と心得るべし。里魚から料理は始めること。蒲鉾などにも鯉を使うことが本道である。

以上は、鯉優位が明文化された初見文書のようです。
「料理卜申スハ鯉卜心得タラムガ」「里魚(鯉)ヨリ料理ハ始リタル也」などからは、鯉が最上位にランキングされていたことが分かります。また「ビブツ(美物)ノ位」とあるので、格付けの存在も明らかです。
素材に手を触れずに調理する「大草流包丁式」 - YouTube
 大草流包丁式の鯉さばき

 ①『大草殿より相伝之聞古』(推定1535~73)
「一式三献肴之事 本は鯉たるべし 鯉のなき時は名吉たるべし。右のふたつなき時は、鯛もよく候」

意訳変換しておくと
「一式三献の肴について、もともとは鯉であるべきだ。鯉が手に入らないときに名吉(なよし:ボラの幼魚)にすること。このふたつがない時には、鯛でもよい。

一式三献とは出陣の時、打ちあわび、勝ち栗、昆布の三品を肴に酒を三度づつ飲みほす儀式のことで、これを『三献の儀(さんこんのぎ)』と呼びました。以後は三献が武士の出陣・婚礼・式典・接待宴席などで重要な儀式となります。そこでは使われる魚のランキングは「鯉 → ボラの幼魚 → 鯛」の順になっています。
 
②「大草家料理吉」推定(1573~1643年)
「式鯉二切刀曲四十四在之。式草鯉三十八。行鯉ニ三十四刀也.(下略)」

  ③ 『庖丁聞吉』推定1540~1610)
「出門に用る魚、鯛、鯉、鮒、鮑、かつほ、数の子、雉子(きじ)、鶴、雁の類を第一とす。」
「一、三鳥と言は、鶴、雉子、雁を云也 此作法にて餘鳥をも切る也」
「一、五魚と言は、鯛、鯉、鱸、王餘魚(カレイ)をいふ 此作法にて餘の魚をも切る也。」
ここでは、鯉は五魚並列に位置づけられています。以上からも室町から江戸時代初期までは、魚介類の最上級は鯉であったことが分かります。
古文書 鶴庖丁之大事-魚の部・鳥の包丁の事 絵入1枚モノ 明治頃 : 古書 古群洞 kogundou60@me.com  検索窓は右側中央にあります。検索文字列は左詰めで検索して下さい。(文字列の初めに空白があると検索出来ません)
鶴のさばき方
次に 近世の料理伝書の鯉のランキングを見ていくことにします。
  ①『庖丁故実之書 乾坤巻』成立年不明、伝授年嘉永五年(1852)
「河魚にも鯉を第一之本とセリ」
「水神を祭可申時、鯉・鱸(すずき)・鯛、何れにても祭り可申事同然可成哉、(中略)、鯉の事欺、尤本成べし、鯛・鱸にてハ不可然、但鱸之事は河鱸にてハ苦しからすや、海鱸にてハ不可然(下略)」
「但分て鳥と云へきハ雉子之事なるべし」
意訳変換しておくと
「河魚ではあるが鯉を第一とすること。」
「水神を祭る時に、鯉・鱸(すずき)・鯛のどれにでもかまわないと言う者もいるが、(中略)、鯉を使うこと、鯛・鱸は相応しくない。但し、鱸は河鱸は可だが、海鱸は不可である(下略)」
「但し、鳥と云へば雉子と心得ること」

  ② 『職掌包丁刀註解』、伝授年嘉水五年(1852年)
「包丁手数職掌目録 右三十六数は表也 (中略) 右之外三拾六手之鯉数を合て目録ヲ定、表裏の品ヲ定て習之也」
「一夫包丁は鯉を以テ源トス、(中略)、凡四條家職掌庖丁ハ鯉を第一トス、雑魚雑鳥さまざまに、猶他流に作意して切形手数難有卜、皆是後人の作意ニよつてなすもの也、然共、鱸・真那鰹・鯛・雉子・鶴・雁ハ格別の賞翫也、是又従古包丁有し事上、(下略)」
「一夫包丁ハ鯉ヲ源トス、鯉鱗の長龍門昇進ノ徳有魚也(下略)」
「鯛 一延喜式二此魚を平魚卜云、国土平安の心ヲ取捨日本各々祝儀二も第一賞翫二用之也」
  意訳変換しておくと
「包丁手数職掌目録 これは36六数を表とする (中略) この外に36手の鯉数を合せて目録を定めています。表裏の品を定めてこれを習う」
「包丁は、鯉が源である。(中略)、四條家の職掌庖丁は、鯉を第一とする。雑魚雑鳥がさまざまに、他流では用いられ、形や技量が生まれてきたが、これは皆後世の作意である。しかし、鱸・真那鰹(なまがつお)・鯛・雉子・鶴・雁は格別の賞翫である。これは伝統ある包丁の道でもある。
(下略)」
「包丁は鯉が源である、鯉の鱗は、長龍門を登った徳のある魚である(下略)」
「鯛については、延喜式でこの魚を平魚と呼んで、国土平安の心を持ち、日本のさまざまな祝儀でも第一の賞翫として用いられる。

  これらの伝書は嘉永4年から6年にかけて、飯尾宇八郎より甲斐芳介へ伝授されたものです。この中で「職掌庖丁刀註解』は、何度も鯉を「第一の魚」としています。鯉を第一としつつ「然共、鱸・真那鰹・鯛・雉子・鶴・雁ハ格別の賞翫也、」と鯛なども同列に置きます。さらに、鯛を「祝儀二も第一賞翫二用之也」と祝儀の魚と位置づけるようになります。つまり、鯉の絶対的な優位性は見られなくなり、鯛に並ばれている感じがします。

④ 『料理切方秘伝抄」万治二年(1659)以前成立・四条家由部流の秘伝書     
「一鯛十枚 鮒十枚(喉・唯)何ぞ名魚はこんの字を人て書物也」
「二 唯鯉 一二つ鯉は四条家の秘伝也」
この書も、鯉の鱗の数を切り方の秘伝の数になぞった「三十六之鯉の秘伝」と記されていて、鯉優位を示します。 『料理切方秘伝抄」については、研究者は次のように評します。

「本書は、専門家の包丁人ばかりでなく、公家、武家また裕福な町人、上級文化人の間で読まれたのであろうか、その(端本)流布状態は、当初筆者が考えていた以上に広範囲に及んでいた」

ここからは、中世においては一部特定の人々のものであった伝書が広く流布されていたことを指摘します。

鳥魚料理指南
鳥魚料理指南
⑤『割烹調味抄』亨和2年(1803)以降成立。
ここには250種の料理の製法が載せられていますが、鯉の優位を説く記述はありません。その要因として、「伝書の内容の改変」があったことを研究者は指摘します。
この他にも、近世後半になると次のように鯉に対する否定的な評価が増えてきます。加賀藩四條家薗部流の料理人舟本家の近世成立の「料理無言抄」(享保14年(1729)
「鯉の鮨賞翫ならず。認むべからず」「鯉鮪賞翫ならず。」

「式正膳部集解』、安永5年(1776)成立
「小川たゝきの事 鯉は賞翫なるを以饗応にかくべからず」

御料理調進方』、慶応3年(1866)以前成立)
「塩鯉。江戸にては年頭の進物にする。其外一切賞翫ならず」

以上からは鯉料理に対する否定的な見方が拡がっていたことがうかがえます。
中世に鯉が優位であったというのは本当なのでしょうか?
 将軍御成の献立から供応の場における鯉と鯛の立場を研究者は比較します。
永禄4年(1561)、将軍足利義輝三好亭御成の献立「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」の鯉と鯛の使用状況は、鯉の「こい 三膳」の一回だけに対し、鯛は「をき鯛・式三献」「鯛・二献」「たい・二膳」「たいの子・一七献」の四回です。献立には焼物、和交、鮨など調理法だけの記載もあって、全容は分かりません。
 永禄11年(1568)将軍足利義明朝倉亭御成の献立「朝倉亭御成記」でも、鯉は「鯉・三献」「汁鯉・二膳」の二回ですが、鯛は「汁鯛・四膳」「鯛の子・九献」「赤鯛・九献」の三回となっています。ここからは、使用頻度は鯛の方が頻度が高く、鯉の優位性は見られません。
天正14年(1586)~慶長4年(1599)、茶の湯隆盛のなかで催された『神離宗湛日記献立 上下』の会席での鯉と鯛を比較します。
 使用回数をみると、鯛が64回に対して、鯉はわずか7回です。太閤はじめ諸大名、利体その他歴々たる茶人が名を連ねる茶事は、会席としては同時代の最高の水準と考えられます。このなかで鯉が生物料理だけに用いられ、煮物や焼物には使用されていません。つまり、安土・桃山時代にの上層会席では、鯛が鯉を圧倒するようになっていたと言えそうです。
 この背景には「魚のランキング」よりも、「調理の適正」が魚類選択の基準になっていたことがうかがえます。あるいは魚の格付けそのものが考慮されていない可能性があります。
つぎに、上層間の美物贈答を見ておきましょう。
1430年の足利義教から貞成親王への美物贈答(五回)の魚介類には、鯛4回(25尾と2懸)、鰹(8喉)、以下、鱈、鰆、鱒、鰯、いるか、大蟹、海老、鮑、牡蛎、ばい、栄蝶、海月などです。この中で鯛と鯉を比較すると、鯛がやや多くなっています。
 文明5年(1483)、伊勢貞陸から足利義政への献上品の魚介類では、鯛25回(103尾と2折、干鯛2折)、鯉5国(11喉と2折)、以下、蛸(7回)、鰐(6回)、鳥賊(6日)、海月(4回)、鱸(3回)などが頻度が多い魚です。
この中でも鯛は、回数、数量ともに突出しています。鯛は京都の地理的条件から入手困難だったとよく言われますが、上層階層には地方から毎月多くの鯛が献上されていたことが分かります。
 「山科家の日記から見た15世紀の魚介類の供給・消費」には、
「山科家礼記」などの5つの史料に出てくるの魚類消費の調査報告書です。
そこには、淡水魚介類と海水魚介類の比較を次のように報告しています。
「教言卿記」は淡水魚介類のべ30件、海水魚介類59件
「山科家礼記』は淡水魚介類のべ194件、海水魚介類492件、
「言同国卿記」は淡水魚介類のベ132件、海水魚介類174件
これを見ると、海水魚介類の消費量の方が淡水魚介類に比べて多いようです。また、鯉と鯛の件数比較では、
「教言卿記」は、鯉6件、鯛25件
「山科家礼記」は、鯉43件、鯛155件
「言国卿記」は、鯉19件、鯛84件
で、どれも鯛が鯉を凌駕しています。鯛は全ての魚介類のなかで最も多く出てきます。ちなみに淡水魚だけに限って多い順に並べてみると
「山科家礼記」では、鮎64件、鮒58件、鯉43件
「言国卿記」では、鮎68件、鮒30件、鯉19件
ここでは鯉は淡水魚三種のなかの下位になっています。
これについて研究者は、次のように指摘します。

「中世社会においては魚介類は儀礼的、視党的な要素の強い宮中の行事食や包丁道の対象としても用いられており、これらの記述からは中世後期において魚介類相互間に人々が設定した一種の秩序意識、鯉を頂点とする秩序意識をも看取することができる」

「(しかし)山科家の日記類のなかには、こうした秩序意識の理解に直接資する記事は少なく、包丁書などで述べられる事柄と交差する点が見いだし難い」

「それぞれの魚介類の記事件数のみを物差しにすれば、鯉よりむしろ鯛の方が贈答されることが多く、重視されているように思われる」

「贈答や貫納の場面では鯛の需要が他の魚種を引き離し食物儀礼の秩序とは異なる構図がみえて興味深い,」

「ここからは「儀礼魚」としての役割が鯉から鯛へと重心移動しつつあった15世紀の現実世界を魚類記録は映し出してくれる」

つまり、従来の説では料理伝書の記述に基づいて「中世における鯉優位」が言われてきましたが、これは伝書、儀礼の場の中だけのことで、一般的な食生活の傾向とは乖離があったということになります。

以上、中世、近世の料理伝書の魚類の格付けをまとめておきます。
①中世の料理伝書には鯉優位のランキングが示されていること
②しかし、これは上層の供応、贈答などの実際の場には反映しておらず伝書の中に留まること
③伝書における中世の鯉優位は近世にも引き継がれるが、出版された伝書が改変が推定される伝書には、中世と異なる鯉への否定的な評価が見られること

それでは中世の鯉優位は、どのように形作られたのでしょうか
通説には伝書の権威付けとして引用されるのが次の中国の故事です。
「龍門(前略)此之龍は出門・津門・龍門とて三段の龍也、(中略)三月三日に魚此龍の下ニ集り登り得て、桃花の水を呑ば龍に化すと云う事あり」(包丁故実之書)

「目録之割 (前略) 鯉鱗の長龍門昇進ノ徳有魚也、毎鱗黒之点有之、鱗数片面三拾六枚有、依之衣共鱗数三拾六手の数ヲ定メ給ふ卜言ふなり」(『職掌包丁刀注解』)
 
意訳変換しておくと
「(黄河の)龍門(前略)の滝は、出門・津門・龍門の三段に流れ落ちる。(中略)三月三日に魚たちは、この滝の下に集まって、この滝を登り得た魚だけが、桃花の水を呑んで龍に変身すると伝えられる。」(包丁故実之書)

「目録之割 (前略) 鯉は龍門の滝を昇進した有徳の魚である。鱗ごとに黒い点があり、鱗数は片面で36枚ある。そのため包丁人は伝書に鱗数と同じ36手の数を定めている。(『職掌包丁刀注解』)

 ここからも「鯉の優位」を説く中世の伝書は、包丁家などに伝わる儀礼的な場面を想定して、鯉を「出世魚=吉兆魚」としていたことが推察できます。「徒然草」の「鯉ばかりこそ、御前にても明らるゝものなれば、やんごとなき魚なり」というのは、包丁人たちによって形成された評価と研究者は考えています。
今日はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」

 今の私には、生姜はうどん、山葵(わさび)は刺身やそば・素麺の薬味という意識があります。それでは江戸時代はどうだったのでしょうか。今回は、議岐の婚礼に使用された生姜と山葵を見ていくことにします。
ショウガ栽培&育て方!初心者もプランターでOK、病害虫に強い|カゴメ株式会社
生姜(しょうが)
生姜は江戸時代の讃岐では階層を越えて、よく使われた薬味のようです。
それに対して山葵は、近世にはまったく使わた記録がありません。それが明治になって急速に使用頻度が高くなり、大正・昭和になると使用頻度が低くなります、また身分階層による使用頻度も大きくちがうようです。
山葵」とは何のこと?「やまあおい」ではありません【脳トレ漢字86】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
山葵(わさび)
 例えば、丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)には、生姜は出てきますが山葵は出てきません。両者の間には、普及面での落差が見えます。山葵は九亀藩領内巡視の献上品として、大根、蕪(かぶら)などとともに献上されています。ここからは山葵は、一部の上層の人々が使っていたことがうかがえます。山葵は生姜に比べると、使用階層に格差があると同時に、普及が遅れていたことを押さえておきます。
わさび = 一部の上層階級の使う薬味 
しょうが= 庶民の使う薬味
生姜と山葵は、鮪、刺身などの生物料理に「辛味」「けん」として次のように添えられました
  [近世後半]
生盛(辛子酢、針生姜)
刺身(辛子酢)・刺身(辛子酢、けん生姜)
漆原家(文化年間) 差身(辛子酢) 刺身(辛子酢)
*大喜多家(天保年間) 筏盛(刺身) (煎酒、蓼酢)
  [明治時代]
・皿(けん生姜)  皿(生姜)
・刺身(辛子酢、山葵醤油)
・生盛(辛子酢、山葵将油)
。刺身(辛子、山葵将油)
・刺身(辛子酢) 刺身(生姜醤油)、 刺身(山葵)
 大正・昭和時代
・刺身(辛子酢)・刺身
・刺身(生姜醤油)・刺身(山葵)・刺身(山葵)
からし酢味噌
辛子酢味噌
以上からは次のようなことが読み取れます
①刺身などの調味は、江戸時代後半には酢系統の辛子酢が主で、生姜は針生姜などのけんとして使われていたこと、
②「酢物の三杯酢に生姜」「鯛の浜焼に卸し生姜」などにも使われていること
③生姜は明治になって皿、瞼などにけんとしての使用されるとともに「生姜醤油」などの辛味としても使わるようになった。
④山葵は明治になって、刺身の山葵醤油として使われ始める。
⑤刺身の調味は、近世では辛子酢などの酢系統が主であったが、近代になると山葵醤油、生姜醤油などの将油系統の調味が加わった。
⑥近代の山葵の増加と、生姜の用途の変化(けんから生姜醤油などの辛味)には、醤油の普及が背景にある。
⑦江戸時代後半では、山葵の使用事例は2例だけで、生姜や辛子などの酢系統が主であった。
⑧明治になると、刺身に酢、醤油両系統の2種類の異なる調味が添えられるようになった。
⑨讃岐でも武士階級などの供応には「両酢、いり酒、辛子酢」が使われるようになった。
ポカポカ生姜の醤油漬け
生姜の醤油漬け
近世から近代にかけての刺身の調味の変化について、西讃の山本町河内の大喜多家の史料を見ておきましょう。山本町「ちょうさ祭り」Ⅰ | まほろばの島詩
大喜多家(三豊市山本町河内)
幕末の大喜多家の武士階級への供応には、刺身に辛子酢をはじめ煎酒、三杯酢、蓼酢、山葵酢、辛子酢味噌、辛子味噌、山葵醤油などの多彩な調味が使われています。それが時代と共にどう変化するのかを見ておきましょう。
①明治中期の冠婚葬祭祭には、煎酒、辛子酢、三杯酢などの酢系統の調味
②明治39年以降になると、生姜醤油、山葵醤油の醤油系統が主流となり酢系統と拮抗
③昭和期には山葵醤油が席捲
こうして、現在の刺身に山葵醤油のマッチングが定着したようです。
室町期の「四条流庖丁書」には、次のように記されています。
四条流包丁書・四条流包丁儀式|日本食文化の醤油を知る

「一サシ味之事。 鯉ハワサビズ(酢)。鯛ハ生姜ズ。備ナラバ蓼ズ フカハミ(實)カラシノス。エイモミカラシノス。王余魚ハヌタズ.」

ここには、鯉は山葵酢、鯛は生姜酢と、それぞれの魚に適した辛味が書かれています。このような多様な味の系統が明治期まで引き継がれていたことがうかがえます。ちなみに、大正3年には粉山葵(こなわさび)の製造が始まります。それ以降の「刺身に山葵、山葵将油」の画一化が加速したと研究者は考えています。

常温】粉わさび 銀印 S-5 350G (金印物産株式会社/わさび)
粉わさび
 渡辺家の婚礼に使用される食品の価格記録では、次のように記します。

「山葵(わさび)大上々五本 三十銭、 生姜・十銭、辛子・八銭」

とあります。わさびは上等品5本で30銭、それに対して生姜は10銭、辛子は8銭です。分量の記載が不揃いですが、明治初期には山葵は高価で庶民には手の出ないものあったことがうかがえます。
以上をまとめておきます。
①讃岐では江戸時代は、薬味としては生姜が日常的で、山葵は上層階層が使用するものであった。
②刺身などの調味は、生姜は針生姜などのけんと「酢物の三杯酢に生姜」「鯛の浜焼に卸し生姜」などにも使われていた。
③生姜は明治になって「生姜醤油」などの辛味としても使わるようになった。
④山葵も明治になって、刺身の山葵醤油として使われ始めた。
⑤こうして刺身を醤油で食べるようになると、山葵が刺身の薬味の主流となった。
⑥また、うどんには生姜、そばや素麺には山葵という棲み分けが成立した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)

 讃岐では宵法事や膳部(非時)にうどんやそばなどの麺類が出されています。私の家でも、二日法事の時には、近所にうどんを配ったり、法事にやってきた親族には、まずうどんが出されて、そのあと僧侶の読経が始まりました。法事に、うどんが出されるのは至極当然のように思っていましたが、他県から嫁に入ってきた妻は「おかしい、へんな」と云います。

坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
            青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家
 それでは讃岐にはいつ頃から法事にうどんが出されるようになったのでしょうか。それを青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家の記録で見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたことを押さえておきます。

歴史的な文書にうどんが登場するのを見ておきましょう。

①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」で、次のように記します。

「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」

⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。
   ここでは、うどんが登場するのは、中世以降のことであることを押さえておきます。 つまり、うどんを空海が中国から持ち帰ったというのは、根拠のない俗説と研究者は考えています。

1 うどん屋2 築造屏風図
築造屏風図のうどん屋
讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、三軒のうどん屋の看板をかかげられています。
1 金毘羅祭礼図のうどん屋2
金毘羅祭礼図屏風のうどん屋

中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
         金毘羅祭礼図屏風のうどん屋
藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋の看板 2jpg
 讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。
「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。

1うどん


 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。
氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)などは、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の御馳走として各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れて、つけ汁につけて食べたり、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。

 坂出青海村の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。

慶応4年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)東讃岐の仏事史料には、次のように記します。

うとん 但シ壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候

ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
 その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉  二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への施与されています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。
  ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったようです。

次にうどんの薬味について見ておきましょう。
胡椒は買い物一覧に、次のように記されています。
「一 (銀)二分五厘(五分之内)温飩入用 粒胡椒
「一(銀)五分 粒胡椒代」
などの購人記録があります。胡椒は江戸初期の「料理物語(寛永20(1643年)」にも「うどん(中略)胡椒  梅」と記されています。胡椒と梅は、うどんの薬味として欠かせないものであったようです。しかし、胡椒は列島は栽培出来ずに輸人品であったので高価な物でした。そのため渡辺家では、年忌などの正式の仏事では胡椒を用いますが、祥月など内々の仏事には自家栽培可能で安価な辛子を使っています。仏事の軽重に併せて、うどんの薬味も、胡椒と辛子が使い分けられていたことを押さえておきます。
薬味じゃなく、メインでいただこう◎『新生姜』の美味しい楽しみ方 | キナリノ
 
現在のうどんの薬味と云えば、ネギと生姜(しょうが)です。
8世紀半ばの正倉院文書に、生姜(しょうが)は「波自加美」と記されます。生姜は、古代まで遡れるようです。江戸時代の諸国産物を収録した俳書『毛吹草』(正保2(1638)年)には、地域の特産物として、生姜が「良姜(伊豆)、干姜(遠江・三河、山城)、生姜(山城)、密漬生妾(肥前)」として記されています。また『本朝食鑑』(元禄10(1697)は、生姜は料理の他に、薬効があって旅行に携行するとこともあることが記されています。
 生姜は近世の讃岐では、階層を越えてよく使われた薬味でした。
丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)にも、生姜は出てきます。生姜の料理への利用については、鮪、指身などの生物料理に「辛味」「けん」として添えられました。  以上から生姜は、日常的な薬味として料理に使われていたようです。それがうどんの薬味にも使われるようになったとしておきます。
以上をまとめておきます
①近世前期までは、うどんは味噌で味をつけて食べていた。
②だし汁をかけて食べるようになるのは、醤油が普及する江戸時代中期以後のことである。
③『金毘羅祭礼図屏風』(元禄時代(17世紀末)には、三軒のうどん屋が描かれているので、この時期には、讃岐にもうどん屋があったことが分かる。
④江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になり特別な食べ物になっていく。
⑤大庄屋の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されている。
⑥明治になると、これを庶民が真似るようになり、法事にはうどんが欠かせないものになっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋渡辺家の屋敷(坂出市青梅)

前回は坂出の青海村の大庄屋渡辺家の概略を見ました。今回は、渡辺家の幕末から明治に行われた葬儀に関する史料を見ていくことにします。ペリーがやって来た頃に、渡辺家では次の①から③ような大きな葬儀が連続して行われています。
①「宝林院」(渡辺五百之助妻) 嘉永六年(1953)11月13日没  享年54オ
②「欣浄院」(渡辺槇之助妻) 安政2年(1855)11月 2日没(11月3日葬儀)」享年25才
③「松橋院」(渡辺五百之助) 安政3年(1856) 8月 2日没(8月3日葬儀) 享年62才
④「松雲院」(渡辺槇之助)  明治4年(1871) 5月17日没(5月16日葬儀)」享年44才

まず③の「松橋院」五百之助について、押さえておきます。
1795(寛政7年)生、1856年(安政3)没 
1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。
1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役
1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設
1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任
1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任
   ④の「松雲院」渡辺槙之助(柳平)について
1827(文政10)年生、1871(明治4)年没。
1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中に大庄屋代役就任
1856(安政3)年 父の死後大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
まず③の松橋院(渡辺五百之助)の葬儀を見ていくことにします。
この葬儀は、子の槙之助(28歳)によって行われています。五百之助は、以前から病気療養中で、槙之助が大庄屋代役や砂糖方をすでに勤める立場で、西渡辺家代表として葬儀万般を取りしきることになります。
人の死に際して最初に行われることは「告知儀礼」だと研究者は指摘します。
人の死は、告知されることにより個の家の儀礼を超えて村落共同体の関わる社会的儀礼となります。告知儀礼は、第一に寺方、役所などに対して行われます。具体的には「死亡届方左之通」として、次のような人達に届けています。

郡奉行(竹内興四郎)
郷会所(赤田健助・草薙又之丞)
砂糖方(安部半三郎・田中菊之助)
同役(本条勇七)
一類(青木嘉兵衛・山崎喜左衛門・小村龍三郎・松浦善有衛門・綾田七右衛円)

案内状の文面は、以下の通りです。
郡奉行中江忌引
一筆啓上仕候、然者親五百之助義久々相煩罷在候処養生二不叶相、昨夜九ツ時以前死去仕候、忌中二罷在候問此段御届申し上候、右申上度如斯二御座候以上
八月二月       渡辺槇之助
竹内典四郎様
意訳変換しておくと
郡奉行への忌引連絡
一筆啓上仕ります。我父の五百之助について病気患い、久しく養生しておりましたが回復適わず、昨夜九ツ時前に死去しました。忌中にあることを連絡致します。以上
八月二月       渡辺槇之助
竹内典四郎様
また、同役、親族にも「尚々野辺送之義ハ 明後三日四ツ時仕候 間左様御承知可被下候以上」のように、葬儀時刻なども案内されています。
 これと同時に次のような寺方へも連絡が行われます
①旦那寺行 ②塩屋行 大ばい行 ③専念寺行〆   (下)藤吉  次作
④坂出 八百物いろいろ〆              忠兵術 龍蔵
高松行 久蔵 弥衛蔵 亀蔵
西拓寺行 清立寺 蓮光上寸 徳清寺〆       三代蔵 恭助
正蓮キ案内行〆                  卯三太
林田和平方行                  卯之助 佐太郎
高屋行                      熊蔵
横津行                      関蔵 乙古 伊太郎
この表の左が行き先ですで、右側が連絡係の人足名です。
渡辺家の宗派は、浄土真宗です。①その菩提寺(旦那寺)は、明治までは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。前回お話ししたように、渡辺家は那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやってくるまでの檀那寺が常福寺だったようです。②の「塩屋行」の塩屋は本願寺の塩屋別院のことです。役寺である教覚寺や③瓦町の専念寺などにも案内として派遣されたのが下組の藤吉と次作ということになります。④は葬儀のための買い物が坂出に3名出されたことを示します。その他、髙松や関連寺院へも連絡人足が出されています。
 葬儀の終わるまで葬儀は、喪家の手を離れ、互助組織(葬式組)が担当します。
これを讃岐では、「講中」や「同行(どうぎょう)」と呼びます。青海村では、免場(組)と呼ばれていたようです。免場とは、もともとは免(税)が同率の集合体、すなわち徴税上のつながりでした。それが転じて、地縁による空間的絆、葬儀などを助け合う互助組織として機能するようになります。
青海村の免場は、以下の8つの組からなります。

①向(下、東、西)組  ②上組  ③大藪南数賀(須賀)組  
④大藪中数賀組 ⑤大藪谷組  ⑥鉱 ⑦北山組  ⑧中村組

この中で、渡辺家が属する免場は①の向組でした。
明治4年(1871)5月17日の松雲院葬儀には、次のように記録されています。
五月二十四日之分
免場東西不残朝飯後より
外二折蔵義者早朝より
好兵衛倅与助 半之助 網次
同二十五日之分朝早天より
一 免場東西組不残    勘六 辰次郎 作蔵  (北山)虎蔵・清助・久馬蔵・権蔵 (大屋冨船頭)市助
(惣社)和三郎家内 好兵衛倅半之助  同晰・与助 
  (惣社)網次
二十六日
三拾壱軒 免場不残 おてつ おぬい おいと おしげ おとみ おげん 長太郎 
給仕子供
    兼三郎 (北山)三之丞以下省略(五十七名)
ここには、次のようなことが記録されています。
①24日から26日日までの3日間、向組の免場は東西の組が総出で「朝飯後、朝早天」から葬儀を手伝っていること
②それだけでは賄いきれないので、近隣の免場からも手伝いが出されること。
③なかでも、葬儀当日の26日には青海村の北山組、上組、中村組、大藪組、鎗組など全ての免場や林田村(惣社・惣社濱)などからも女、子供(給仕)までが参加していること
ここからは次のようなことが分かります。
A 渡辺家の属する①向組が中心となって運営する
B しかし、葬儀の規模が大きいので、他の組からの多数の応援を受けて行われている。
C これは葬儀が個の家の宗教的行事の側面だけでなく、社会的儀礼であることを裏付けている
渡辺家葬儀は地域をあげての行事であったことを押さえておきます。 
 ちなみに「村八分」という言葉がありますが、村から八部は排除されても、残りの二分は構成員としての資格を持っていたとされます。それが葬儀と火事対応だったとされます。

大名の葬儀1
大名の葬列
次に向組免場の葬送役割について、見ていくことにします。
葬儀当日には葬送、野辺送りが行われていますが、その関係史料が次のように残されています。
安政三年(1856)松橋院「御葬式之節役割人別帳」(表1ー10)
明治四年(1871)松雲院「野送御行列順次役付人別」(表1ー3)
野辺送り3
葬列

渡辺家 向組免場の葬送役割

①葬列の順序・役割・人数の総数は39人
②一番左が役割、次が衣装です
それぞれの役割に応じて、服装は次のように決められています。
上下(肩衣、袴の一対)、
袴・白かたぎぬ(袖なしの胴着)
かんばん(背に紋所な下を染め出した短い上着)
袴、純袴(がんこ、自練衣の袴)、
かつぎ(かずき。衣被・頭からかぶる帷子)
これらの装束に成儀を正して列に加わります。

野辺送りの道具 多摩市
野辺送りの道具

葬列には導師をはじめ数ヵ寺の僧侶が加わり、位牌は一類の者が持ちます。葬列の後尾の跡押、宝林院の時には当主の槙之助、松雲院では親族の藤本助一郎(後、久本亮平と改名)です。親族は女、男と分けて列の後部に続き、その後に一般の会葬者が続き、長い葬列になります。
 行列のメンバーは、青海村の向(上、西)組、大蔵(須賀)組、錠組、北山組、中村組、上組の各組と林田村の人々で構成されています。
 次に布施(葬儀費用)について見ていくことにします。
庄屋の葬儀について、研究者は次のように指摘します。

「庄摩、大庄屋など農村部の上層の家における冠婚非祭の儀礼は自家の権勢を地域社会に誇示する側面を有するが、他面、華美や浪費により家を傾けることを戒めており、この双方への配慮、平衡感覚の中で行われた」

庄屋たちが気を配ったのは「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスだったようです。それでは渡辺家では、どんな風にバランスが取られていたのでしょうか。
宝林院、欣浄院、松橋院、松雲院の時の布施内容を一覧化したのが次の表です。
渡辺家 葬儀参列者と布施一覧

この表から見えてくるとを挙げておきます。
①渡辺家当主の松橋院、松雲院と、その妻女である宝林院、欣浄院では、大きな格差があること。
②参加寺院についても、布施は均等でなく格差があること
葬儀の格式については、明和年間の安芸国の史料では葬式を故人と当主との続柄によって次のように軽重が付けられています。
大葬式(祖父母、父母、本妻)
小葬式(兄弟、子供、伯父伯母)
渡辺家の格式でも、次のような格差があります。
大葬式では、2ヶ寺で、住職・伴僧・供を含めて15人、布施総額は33匁、小葬儀では、1ヶ寺で、住職その他は1人から4人
また、「天保集成』には次のように記します。

「衆僧十僧より厚執行致間敷、施物も分限に応、寄付致」

ここには参加する僧侶は10人を越えないこと、葬儀が華美にならないように規定されています。 渡辺家でも葬儀に参列する僧の人数は旧例を踏襲しながら、故人の生前の功績なども考慮して、増加する事もあったようです。
 例えば妻女は、一カ寺かニカ寺だけですが、当主であった松橋院、松欣院の時には八カ寺が参列しています。葬儀の際に檀那寺以外から僧侶を迎える慣習が、近世後半に全国的に拡がったっていたことがここからはうかがえます。
これら僧侶への布施を、松橋院(安政3年1856)の事例で見ていくことにします。(表1ー11)。
渡辺家 葬儀参列者と布施一覧

一人の僧侶に、各数名の弟子、若党、中間などがついて、伴僧などを含めると総勢97人にもおよびます。これらの僧侶に対して、布施が支払われます。布施の金額は檀那寺の「金壱一両 銀七拾三匁 五分九厘」が上限です。その他の伴僧はほぼ同格で僧侶、弟子その他を含めて各63匁八分~75匁の布施です。なお、中間は僧侶の駕籠廻4人の他、曲録、草履、笠、雨具、打物、箱、両掛などの諸道共を持つ係です。檀那寺以外の伴僧では弟子、若党、中間ともに人数は少なくなっていて、布施の額も減少します。これらの布施については「右品々家来二為持、 十七後八月十三槙之助篤礼提出候事」とあるので、槇之助自らが寺に敬意をはらい自ら持参したことが分かります。

野辺送り2

さらに、松橋院の葬儀では故渡辺五百之助の生前の功績によって、刀剣料(刀脇指料)として「銀六拾目」を新例として設けています。また寺方についてもこれまでの最高である六カ寺にさらにニカ寺追加して八ヶ寺として、布施も増額するなど特別の計らいをしています。
 それが明治4年の松雲院の葬儀では、特例とされた刀脇指料(一百八拾:金札礼三両)、参列寺数ともにほぼ同数で、前例が踏襲されています。さらに檀那寺へ贈与品に御馬代(一同百八拾:金札.三両)、鑓箱代(同三拾目)が追加されています。こうしてみると布施の「特例」が通例化し、「新例」となっていくプロセスが見えて来ます。
 ここで研究者が注目するのは、同格の松橋院と明治になっての松雲院の布施総額が僅か20年あまりで3倍に高騰していることです。これは幕末から明治にかけての貨幣価値の変動によるものと研究者は指摘します。

野辺送り
 
 野辺送りをイメージすると、檀那寺、伴僧の僧侶は中間のかつぐ駕籠に乗って、仏具を持つ多くの人々を従えて、美々しい行列を仕立て進んで行きます。それは死者を弔いその冥福を祈るとともに、家の格式また権勢を地域社会に誇小する行進(パレード)でもあったようです。
また、布施についても僧侶には銀10匁から15匁、家来には2匁の他に菓子一折、味琳酒一陶などが贈られています。これも幕末の松橋院の六五匁から、明治の松雲院は132匁と約2倍になっています。ここでも物価高騰の影響がみられます。
  以上をまとめておきます
①幕末の青海村の大庄屋渡辺家では、4つの葬儀が営まれていた。
②その葬儀運営のために、村の免場(同行)のほぼ全家庭が参加し、それでも手が足りない部分には周辺からも手助けが行われた。
③ここからは、葬儀が家の宗教的行事だけでなく、社会的儀礼であったことが分かる。
④江戸時代の庄屋の葬儀は、「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスの上に立っていた。そのためにいろいろな自己規制を加えて、華美浪費を避けようとした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
関連記事

  以前に 坂出市史に掲載されている青海村の大庄屋・渡辺家のことを紹介しました。
御用日記 渡辺家文書
大庄屋渡辺家の御用日記

その時は、当主達の残した「御用日記」を中心に、当時の大庄屋の日常業務などが中心にお話ししました。今回は別の視点で、渡辺家と阿野北の青海村について見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世から近代における儀礼と供応食の構造 ━讃岐地域の庄屋文書の分析を通して━

渡辺家は、讃岐国阿野郡北青海付(坂出市青海町)の大庄屋でした。
まず、青海村の属していた阿野郡北を見ておきます。
阿野北は、青海村をはじめ木沢、乃生、高屋、神谷、鴨、氏部、林旧、西庄、江尻、福江、坂出、御供所の村々を構成員としました。

坂出 阿野郡北絵図
阿野北の各村々 下が瀬戸内海

阿野郡北の各村々の石高推移は、以下の通りです。
阿野郡(北條郡)村々石高
         阿野郡(北條郡)村々石高
この石高推移表からは、次のようなことが分かります。
①江戸末期の阿野那北13カ村の村高は、9500石前後であること
②石高の一番多いのは林田村の2157石、最低は御供所村の63石、青海村は563石で9番目になること。
③林田など綾川流域の村々は、17世紀中頃からの干拓工事の推進で、石高が増加していること。
④それに対して、青海・高屋・神谷などは、石高に変化がなく、減少している村もあること。
④については、米から甘藷・木綿などの換金作物への転換が進んだようです。
明治8年の戸数・人口・反別面積です。
坂出市 明治8年の戸数・人口・反別面積
阿野郡の戸数・人口・反別 明治8(1876)年

この表を見ていて、反別面積の大きい林田や坂出の戸数・人口が多いのは分かります。しかし、青海村は耕地面積が少ないのに、戸数・人口は多いのです。この背景には、このエリアが準農村地帯ではなく、塩や砂糖などの当時の重要産業の拠点地域であったことがあるようです。
青海村の産業を見ておきましょう。青海村の産業の第一は糖業でした。

坂出 阿野郡北甘藷植付畝数

上右表からは、阿野郡北の文政7年(1824)の甘藷の植付畝数は157町、その内、青海村は7、3町です。また同時期の阿野郡北の砂糖車株数(上左表)の推移を見ると、10年間で約20%も増加しています。同時期の高松藩の甘藷の作付面積は天保5年(1814)1814)が1120町で、以後も増加傾向を示します。この時期が糖業の発展期でバブル的な好景気にあったことがうかがえます。この時期の製糖業は高松藩の経済を支えていたのです。

塩の積み出し 坂出塩田
塩を積み出す船
砂糖の出荷先は、大阪・岡山、西大寺、兵庫、岸和田、笠岡、尾道、輌、広島、下関、太刀洗、三津浜(伊予)な下の瀬戸内海沿岸諸港の全域におよんでいます。砂糖や塩の積出港として、周辺の港には各地からの船が出入りしていたことがうかがえます。商業・運輸産業も育っていたようです。

 坂出は塩業生産の中心地でもありました。

坂出の塩田
坂出の塩田開発一覧
この地域の塩田の始まりは、延宝8年(1680)の高屋村の高屋塩田創築とされます。操業規模は亨保13年(1728)の「高屋浜検地帳」では「上浜 三町四反壱畝六歩、中浜 二町九反八畝五歩、下浜 壱町三反武畝六歩、畝合七町七反壱畝式拾歩」、それが30年後の宝暦8年(1758)の「高屋村塩浜順道帳」では「畝合拾町八反四畝式拾七歩、うち古浜七町七反壱畝式拾七歩、新浜三町壱反一畝歩」と倍増しています。
坂出塩田 釜屋
坂出塩田の釜屋・蔵蔵
 亨保の検地以降に新浜を増設し、操業釜数は安政2年(1855)には、少なくとも4軒以上の釜屋による塩作りが行われていたことが分かります。亨保13年の高屋浜は塩浜面積に対し浜数は100、これを49人の農民が経営し、経営面積は一戸当たり一反五畝歩の小規模で、農業との兼業が行われていたようです。青海村でも高屋浜で持ち浜四カ所を所持する浜主や、貧農層の者は、浜子などの塩百姓として過酷な塩田労働に従事していました。

製塩 坂出塩田完成図2
坂出塩田
 阿野北一帯は、藩主導の次のような塩田開発を進めます。
文政10年(1827)江尻・御供所に「塩ハマ 新開地 文政亥卜年築成」、
文政12年(1829)、東江尻村から西御供所まで131、7町の新開地
その内、塩田と付属地は115、6町、釜数75に達します。ここに多くの労働者の受け皿が生まれることになります。

入浜塩田 坂出1940年
坂出の入浜塩田 1940年
以上、阿野北の青海村の農村状況をまとめておきます
①水田面積は狭く、畑作の割合が多い。
②近世初頭にやって来た渡辺家によって青海村は開拓進んだため、渡辺家の占有面積が多く、小農民が多く小作率が高い。
③19世紀になって、砂糖や塩生産が急速に増加し、労働力の雇用先が生まれ、耕地は少ないが人口は増えた。

次の阿野郡北の村政組織を見ておきましょう。
農村支配構造 坂出市

郡奉行の下代官職がいて、代官の下の元〆手代が郷村の事務を握っていました。各村々には庄屋1名、各郡には大庄屋が2名ずついました。庄屋以下には組頭(数名)、五人組合頭(―数人)を配し、村政の調整役には長百姓(百姓代)が当たりました。その他、塩庄屋・塩組頭・山守な下の役職がありそれぞれの部門を担当します。庄屋の任命については、藩の許可が必要でしたが、実際には代々世襲されるのが通例だったようです。政所(庄屋)の役割については、「日用定法 政所年行司」に月毎の仕事内容が詳述されているとを以前にお話ししました。 
庄屋の仕事 記帳

渡辺家の残された文書の多くは、藩からの指示を受けて大庄屋の渡辺家で書写されたり、記帳されて各庄屋に出されたものがほとんどです。定式化されて、月別に庄屋の役割も列挙されています。二名の大庄屋が東西に分かれ隔月毎に月番、非番で交代で勤務にあったことが分かります。

青海村の大庄屋・渡辺家について、見ていくことにします。

渡辺家系図1
渡辺家系図
渡辺家は系図によれば大和中納吾秀俊に仕え、生駒藩時代の文禄3年(1593)に讃岐国にやってきたされます。那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、
①万治2年(1659)に初代の嘉兵衛の代に青海村に定住。
②二代善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)に就任
③三代繁八は父の跡を継いだが早世したため、善次郎が再度政所就任
④繁八の弟與平次の3男藤住郎義燭を養子として家を継がせた。
⑤その子五郎左衛門義彬が1788(天明8)年12月阿野北郡大政所(大庄屋)に就役
⑥七郎左衛門寛が1818(文化15)年から大政所役を勤め、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられた。
⑦寛の弟良左衛門孟は東渡辺家の同姓嘉左衛門義信の家を継ぎ、養父の職を継いで政所となった。
寛の子五百之助詔は1820(文政3)年、高松藩に召出されて与力(100石)となり、次のような業績を残しています。
寛政7年(1795)生、安政3年(1856)没 
1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。
1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役
1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設
1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任
1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任

渡辺家系図2

   渡辺槙之助(柳平)について
1827(文政10)年生、1871年没。
1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中の大庄屋代役
1856(安政3)年 大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
  渡辺渡(作太郎)
1855(安政2)年生、山田郡六条村の大場古太郎の長男
1871(明治4)年 17才で渡辺家養子となる
讃岐国第43区副戸長(明治6年)
愛媛県阿野郡青海村戸長(明治12年)
愛媛県阿野郡県会議員(明治15年)
阿野都青海高屋村連合会議員(明治18・20年)
愛媛県議会議員(明治21年)・香川県議会議員(明治37年)などを歴任
明治23年(1890) 松山村の初代名誉村長就任 
渡は経常の才に優れ精業、塩業、製紙、船舶、鉄道、銀行、紡績など各会社の設立しています。また、神仏分離で廃寺となった白峰寺の復興、さらに金刀比羅宮の管轄となった「頓証寺」の返還運動にも力を尽くし、この功績により同境内には顕彰碑が建立されています。

渡辺家の宗派は、浄土真宗です。
常福寺 丸亀市田村町


菩提寺は、もともとは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。先述したように渡辺家は、那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやって来るまでの檀那寺が常福寺だったようです。しかし、明治8年(1885)に加茂村の正蓮寺(常教院)に菩提寺を移しています。墓所は青海村向の水照寺(松山院、無檀家寺)に現存します。

 丸亀市田村町の常福寺には、次のような渡部家の寄進が記録されています。
一、御本前五具足・下陣中天丼・白地菊桐七条  施主 渡辺五郎左衛門
一、御前大卓   施主 渡辺嘉左衛門(五郎左術門女婿)
― 薬医門     文化2年(1805)施主 渡辺七郎左衛門(人目凡四貰目)
一、石灯籠一対   天保5年(1834)施主 渡辺七郎左衛門(代六八0目)
一、大石水盤    天保六年(1835)施主 渡辺五百之助   代十両
一 飾堂地形一式  施主 渡辺八郎右衛門(七郎左衛門改称)
   同 五百之助  地形石20両
   同 良左衛門  10両諸入目
ここからは渡辺家の常福寺に対する深い帰依がうかがえます。

渡辺家平面図
渡辺家平面図(昭和18年頃)
坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
渡辺家の屋敷
江戸時代の渡辺家の土地所有を見ておきましょう。

青海村渡辺家の石高
渡辺家の所有耕地面積とその分布
この表からは、渡辺家の土地所有が青海村以外にも、高屋村、神谷村、林田村な下他村におよび、総〆石数は 285石にのぼることが分かります。青海村の石高が550石ほどなので、その半分は渡辺家の土地であったことになります。
 渡辺家「小作人名」から免場(組)、村別に小作人数をまとめたのが次の表です。
渡辺家の小作人数

ここからは次のようなことが分かります。
①青海村々内の免場(組)小作人は158人(実数は173人)
②他村その他は17人(同21人)
明治4(1871)年の青海村戸数は319人です。青海村の半数以上が渡辺家小作人であったことになります。
 渡辺家では、明治以降になり渡辺渡の代になると、次のような近代産業を興したり、資本参加していきます。
糖業「讃岐糖業大会社」
塩業「大蕨製塩株式会社」
製紙「讃紙株式含社」
船舶「共同運輸会社」
鉄道「讃岐鉄道株式合社」
銀行「株式会社高松銀行」
紡績「讃岐紡績会社」
このような事業の設立・運営などによって資本蓄積を行います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
関連記事

    近世の村支配 庄屋
 
近世の藩と村の支配ヒエラルヒーは、高松藩では次のようになります。
 大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓
 
讃岐では、名主が「庄屋や政所」と呼ばれました。また、各郡の庄屋を束ねるが大庄屋(大政所)とされました。
ここで、注意しておきたいのは、兵農分離の進んだ近世の村には、原則的には代官以下の武士達は村にいなかったことです。そのため村の支配は、庄屋を中心とする村役人で行われました。そのため村で起こったことは、大庄屋に報告し、代官の指示を仰ぐ必要がありました。これらの連絡・指示・報告等は、すべて文書で行われています。今回は、どの程度のことまでを庄屋は、報告していたのか、その具体的な事例を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。

御用日記 渡辺家文書
        大庄屋渡辺家(坂出市)の御用日記

農業は藩の基本でしたから、村の農作業に関する規制や届け出は、細かいことまで報告しています。

田植え図 綾川町畑田八幡の農耕絵図
綾川町畑田八幡神社の農耕絵馬

例えば、田値えが終了したら庄屋は次のように大庄屋に報告しています。
一筆啓上仕り候。当村田代昨十九日までに無事植え済みに相なり申し候間、左様御聞き置きくださるべく候。以上。
(弘化四年)五月二十日        西二村 香川与右衛門
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。当村西二村(現丸亀市西二村)は、昨日5月19日までに、田植えが無事終了しました。このことについて、報告します。以上。
弘化四(1847)年五月十日        西二村 香川与右衛門
川津・二村郷地図
二村郷
西二村は、飯野山南麓の土器川の西側にあった村です。現在は川西町の春日神社を中心とするあたりになります。西二村のこの年の田植終了日時は、旧暦5月20日だったようです。現在の新暦では、約1ヶ月遅れになるので6月20日前後のことでしょうか。西二村の庄屋香川与右衛門が法勲寺の大庄屋に、田植え完了を報告しています。大庄屋は、鵜足郡南部の各村々からの報告をまとめて、藩の役所へ報告する仕組みだったようです。

葛飾北斎る「冨嶽三十六景」「駿州大野新田」現在の静岡県富士市。、

柴を背負って家路を急ぐ牛たち(葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田(静岡県富士市)」
牛の盗難事件についての報告を見ておきましょう。

一、女牛壱疋
但し歳弐才、角向い高いくらい、勢三尺ばかり
右の牛阿野郡南新居村百姓加平治所持の牛にて、牛屋につなぎこれ有り候所、去月二十五日の夜盗まれ候につき、方々相尋ね候えども今に手掛りの筋これ無く候間、その郡々村々これを伝え、念を入れられ、詮儀を遂げ、見及び聞き及び候儀は勿論、手掛りの筋もこれ有り候や。右の者来たる十日までにそれぞれ役所へ申し出ずべきものなり。
(安永二年)巳七月             御 代 官
右大政所中
  意訳変換しておくと
一、雌牛一頭
 牛の歳は2才で、角は向いあって、高いくらい、勢(せい:身長)90㎝ばかり
この牛は阿野郡南新居村の百姓加平治の牛で、牛小屋につないであった所、先月25日の夜に盗まれた。方々を尋ね探したが、手掛がないので、近隣の郡々村々に聞き合わせを行うものである。ついては、見聞したことや、手掛になることがあれば、10日までに役所へ申し出ること。
安永二(1773)年巳七月             御代官
右大政所中
阿野郡南新居村で雌牛が盗まれたようです。そのことについて郡を越えて代官所から大庄屋(十河家)への情報提供依頼が廻ってきています。書状を受けた十河家の主人は、写しを何通かしたため、それと大庄屋の指示書を添えて、鵜足郡の拠点庄屋に向けて使者を遣わします。受け取った庄屋は、リレー方式で通達書を回覧していきます。その際に、庄屋たちは回覧文書を書写したり、自分の意見などをしたためて対応を協議していくことになります。当時の庄屋たちは文書を通じて頻繁にやりとりしています。ここでは百姓が飼っていた牛が盗まれても、代官に報告が上がり、情報的提供指示が出ていることを押さえておきます。
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の「駿州大野新田」の牛の拡大図
葛飾北斎「冨嶽三十六景」の柴を背負う牛の拡大図
今度は、土器川に現れた二頭の離れ牛についてです。
一筆啓上仕り候
一、女牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺九寸、角ぜんまい、歳八才
一、男牛 壱疋
但し毛黒、勢三尺六寸、角横平、歳八才
右は去る二十四日朝当村高津免川堤に追い払い御座候て、村内百姓喜之助・平七両人見付け、私方へ申し出候間、村内近村ども吟味仕り候えども、牛主方相知れ申さず。もっとも老牛にて用立ち申さず、追い払い候義と相見え申しり候間、何卒御回文をもって御吟味仰せ付けられくださるべく候。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四(1847)年 二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛
  意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候
一、雌牛一頭 毛黒、身長三尺九寸、角はぜんまい、歳は八才
一、雄牛一頭 毛黒、身長三尺六寸、角は横平、歳は八才
この二頭の牛が2月24日の朝、土器村の高津免川堤にいるのを、村内の百姓・喜之助・平七の両人が見付けて、届け出た。村内や近隣の村々に問い合わせしたが、牛の飼主は現れない。もっとも二頭共に老牛で使い物にはならないので、「追い払」ったも思える。とりあえず、御回文を送付しますので、吟味いただいて指示をいただきたい。右御注進申し上げたく、かくのごとくに御座候。以上。
 (弘化四年(1847)年  .二月二十八日          
土器村庄屋            近藤喜兵衛

土器川の河原に牛が二頭、放れているとの土器村庄屋からの報告です。村人達は異常があればなんでも庄屋に報告せよといわれていたのでしょう。「放れ牛の発見 → 村民の報告 → 庄屋の近隣村への問い合わせ → 大庄屋 」という「報告ルート」が機能しています。

DSC01302
牛耕による田起こし(戦後・詫間)
このことについて大庄屋の十河家当主は、約2ケ月後の「御用留(日記)」に、次のように記します。
御領分中村々右牛主これ無きやと回文をもって吟味致し候えども、牛主これ無き段申し出に相なり候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
意訳変換しておくと
高松藩の御領分中の村々に、牛の飼い主について問い合わせを回文(文書)で行った。が、牛の飼主であるとの申出はなかった。このことについて、知り置くように。右申し出たくかくのごとくに御座候。以上。  
    (弘化四年)四月二十三日          こなた両人
 年老いた牛が、土器川に放たれていたことについて、大庄屋は回文(文書)を出して、飼い主の「探索」を行っています。牛は農家の宝であり、年老いた牛については殺さずに河原へ追い放したこともあったようです。
最後に、年中行事の中から農民生活に関係の深いものを見ておきましょう。
立春後の第五の戊(つちのえ)の日を春の社日といい、この日には地神祭が行われていました。
徳島県(「阿波藩」)の「地神さん」の祭礼を見ておきましょう。
地神祭 - 日日是好日
徳島の地神祭(日々是好日 地神祭HP)よりの引用
徳島県内のどの神社(村)に行っても、頂上の石が五角形の「地神さん」が見られる。神社の境内に祀られている事が多い。
寛政2年 藩主:蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に「地神さん」を設置させた。「地神塔」を建てると共に、社日には祭礼を行わせた。社日は、春・秋の彼岸に一番近い「戌」の日。その日は、農耕を休み「地神さん」の周りで祭礼を行う。その日に農作業をすると地神さんの頭に鍬を打ち込むことになるといわれ、忙しい時期ではあるが、総ての農家が農作業を休んだ。
「地神さん」の周りには注連縄を張り、沢山の供物が供えられた。時間が来ると、その供え物は子供達に分け与えられる。その日、子供は「地神さん」の周りに集まりお下がりを頂くのが楽しみであった。子供達はこの日のことを「おじじんさん」と呼び、楽しい年中行事の一つとしていた。
日々是好日 地神祭 よりの引用
https://blog.goo.ne.jp/ktyh_taichan/e/3b464e70359f789bb712c67319bd894b
まんのう町新目神社の地神塔
地神塔(まんのう町新目神社)
讃岐鵜足郡の神社で行われた地神祭を見ておきましょう。
口 上
来たる八日社日に相当り候につき、例歳の通り御村内惣鎮守五穀成就地神奈義ならびに悪病除け御祈祷二夜三日修行仕り候間、この段御聞き置きなられくださるべく候。なおなお村々へも御沙汰よろしく,願い上げ奉り候。以上。
(弘化四年)二月              土屋日向輔
  意訳変換しておくと
来たる2月日は社日に当たるので、例年通りに村内惣鎮守で五穀成就の地神奈義と悪病除の祈祷を二夜三日に渡って(山伏たちが)おこなうことについて、聞き置きくださるようお願いします。なお村々へも沙汰(連絡)よろしく願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847年2月              土屋日向輔

2月の地神祭りに2夜3日に渡って、村内の鎮守で山伏による祈祷祈願が行われたようです。それには神職ではなく、山伏たちが深く関わっていたことが分かります。当時の戸籍などには、村々に山伏の名前が記されています。また、神事をめぐって、社僧や神職・山伏などの間で、いろいろないざこざが起きていたことは以前にお話ししました。ここでは村の神事は、神仏分離以前は山伏たちによって行われていたことを押さえておきます。

春の市は、今では植木市が中心になっています。しかし、江戸時代は農具市だったようです。観音寺の茂木町の鍛冶屋たちが周辺の寺社に出向いて、農具などを販売していたしていたことは以前にお話ししました。鍛冶市の回覧状を見ておきましょう。(意訳)
一筆申し上げ候。来たる3月18日・19日は、栗熊東村住吉大明神の境内で例年通り農具市が開かれる。ついては、このことについて聞き置き、回覧いただきたい。以上。
  弘化四年三月十六日 くり(栗)熊東村庄屋 清左衛門
 栗熊東村の住吉大明神(神社)で、開催される農具市の案内回状の依頼です。各村々の地神祭や農具市などのイヴェントについては、その村だけでなく周囲の村々にも「庄屋ネットワーク」で情報や案内が流され、村人達に伝えられていたことが分かります。このような情報を得て、周辺の多くの人達が市や祭りに参加していたのでしょう。
田植えが終わると虫がつかないように、虫送りが行われていました。
一筆啓上仕り候。しからば当村立毛(たちげ)虫付きに相なり申し候間、王子権現において御祈祷相頼み、来たる四日虫送り仕りたき段、一統百姓どもより申し出候。もっとも入目(いりめ)の義は持ち寄りに仕り侯段とも申し出候。この段お聞き置きくださるべく候。右申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。しからば当村では稲に害虫がついてしまいました。つきましては、王子権現で(山伏)に祈祷を依頼し、4日に虫送りを実施したいと、百姓どもから申し出がありました。その入目(いりめ:費用)については、各自の持ち寄りとすると申し出ています。この件について、お聞き届けくださるよう申し上げたくかくのごとくに御座侯。以上。
(弘化四年)七月一日           庄屋 弥右衛門
これも十河家に送られてきた虫送り実施の許可願です。どこの村かは書かれていません。当事者同士には、これで分かったのでしょう。こうして見ると、祭りやイヴェントの案内状まで庄屋は作成し、大庄屋に願い出て、地域に回覧していたことが分かります。
  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
   藩からの通達や指示は、文書によって庄屋に伝達されます。また庄屋は、今見てきたようにさまざまな種類の文書の作成・提出を求められていした。文書が読めない、書けないでは村役人は務まらなかったのです。年貢納税には、高い計算能力が求められます。

地方凡例録
地方凡例録
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」
石高や資産も相応で、文章や形成能力も高い者)

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。
このような「17世紀メデイア革命」を準備したのが、村役人になんでも報告を求めた、藩の「文書主義」だったのかもしれません。これに庄屋や村役人が慣れて適応したときに「メデイア革命」が起きたことを押さえておきます。これは現在進行中のメデイア革命に通じるものがあるのかもしれません。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯山町史330P 農民の生活」
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」
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西讃府志 表紙

  かつては、西讃地域の郷土史を調べようと思ったら、まず当たるのが西讃府志だったようです。そういう意味では、西讃府志は郷土史研究のバイブルとも云えるのかも知れません。しかし、その成り立ちについては、私はよく知りませんでした。高瀬町史を眺めていると、西讃府志の編纂についての項目がありました。読んでいて面白かったので紹介します。
西讃府志 讃岐国
西讃府志の第1巻 最初のページ

丸亀藩が支藩多度津藩を含めた領内全域の本格的地誌を完成させたのは、安政の大獄の嵐が吹き始める安政五(1858)年の秋でした。これは資料集めが開始されてから18年目の事になります。『西讃府志』は、最初は地誌を目指していたようで、そのために各村にデーターを提出することを求めます。それが天保十一(1840)年のことでした。丸亀藩から各地区の大庄屋あてに、6月14日に出された通知は次のようなものでした
     覚
加藤俊治
岩村半右衛門
右、此の度西讃井びに網千。江州御領分の地志撰述の義伺い出でられ、御聞き届け二相成り候、これに依り往古よりの名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来都て、御領中格段の事跡何事に寄らず委細調子書、其の村方近辺の識者古老等の申し伝え筆記等、其の組々大庄屋、町方二ては大年寄迄指し出し、夫々紛らわ敷くこれ無き様取り約メ、来ル十月中迄指し出し申すべし、尤も社人亦は寺院二ても格別二相心得候者へ、俊冶・半左衛門より直ち二、応接に及ばるべき義もこれ有るべく候条、兼ねて相心得置き申すべき旨、 方々御用番佐脇藤八郎殿より仰せ達せられ候条 其の意を得、来ル十月上旬迄二取調子紛らわ敷くこれ無き様、書付二して差し出し申さるべく
候、以上
意訳変換しておくと
加藤俊治 岩村半右衛門から提出されていた西讃・播磨網干・近江の京極藩領分の地誌編集について許可が下りた。そこで古代からの名前、古跡、神社鎮座、寺院興立の由来、領内の事跡などについても委細まで調べて書き写し、その村方周辺の識者や古老などの申し伝えや記録なども、その組の大庄屋、町方にあっては大年寄まで指し出し、整理して10月中までに藩に提出すること。
 特に、社人(神官)や寺院については、特に注意しておきたいので、担当者の俊冶・半左衛門が直接に、聞き取りを行う場合もある。事前に心得ておくことを、 御用番佐脇藤八郎殿より伝えられている。以上の趣旨を理解し、提出期限の10月上旬までにはきちんと整理して、書面で提出すること。以上

ここからは次のようなことが分かります。
①加藤俊冶と岩村の提案を受けて、「旧一族の名前、古跡、且つ亦神社鎮座、寺院興立の由来」を4ヶ月後の10月上旬までに提出することを藩は大庄屋に命じていること。
②家老・佐脇藤八郎からの指示であり、藩として取り組む重要な事柄として考えられていたこと
藩の事業として地誌編纂事業が開始されたようです。

  西讃府志 郡名
西讃府志の讃岐の各郡について

これを受け取った大庄屋は、どうしたのでしょうか。
各村のお寺や神社の歴史を調べよというのです。とまどったにちがいありません。今では神社やお寺には由緒書きや縁起が備わっていますが、この時期には自分の村の神社の歴史などは興味もなく、ほとんどの神社はそんなものはなかったようです。書かれた歴史がないものを、レポートして報告せよと云われても困ってしまいます。とにかく大庄屋は、各組の構成員の庄屋に連絡します。和田浜組(三豊市高瀬町)の大庄屋宮武徳三郎は各村へ、藩からの通達文に添えて次のような文章を回しています。

「御別紙の通り御触れこれ有り候間御承知、寺院社人は格別二念を入れ、御申し達し成らるべく候、尚又名所古跡何事に寄らず、委細の調子書早々御指し出し成らるべく候」

意訳変換しておくと
「別紙の通りのお達しがあったので連絡する。神社や寺院は格別に念を入れて調べるようにとのことである。また、名所や古跡などに限らず、なんでも委細まで記して、期限までに提出せよとのことである」

と伝えています。これを受けて丸亀藩の庄屋たちは、自分の村の歴史調べとフィルドワークにとり組むことになります。今風に云うと、レポート「郷土の歴史調べ」が庄屋たちに課せられたのです。
西讃府志 延喜式内社
西讃府志の讃岐延喜式神社一覧

それから9ヶ月後の天保十二(1841)年3月に、大庄屋宮武徳三郎は和田浜組の村々へ次のような通達を出しています。
急キ申し触れ候、然れは昨子ノ六月、御達しこれ有り候御領分地志撰述御調子二付き、名前、古跡、且つ神社鎮座、寺院興立等の由来書付、早々差し出す様御催促これ有り候間、急二御差し出し成らるべく候、右書付二当たり御伺い申しげ候、左の通り
村 南北幾里 東西幾里 高 何石 家数 神社並小祠祭神々 鎮座 年紀 仏寺 本尊 何々 開基 年紀 縁起
宗末寺 山名 川名 池名 古城 名所 旧記 古墓 森
小名 産物 孝子 順拝 義夫 □婦
右、夫々相調子書付二して、指し出し候様仰せ付けられ候間、芳御承知何分早々御取計らい成らるべく候、以上
意訳変換しておくと
急ぎの連絡である。昨年6月の通知で村内の地志撰述の件について、名前、古跡、神社鎮座、寺院興立等の由来の調査し提出するようにとの指示があった。この詳細な調査項目は次の通りである。 村 南北幾里 東西幾里 高 何石 家数 神社並小祠祭神々 鎮座 年紀 仏寺 本尊 何々 開基 年紀 縁起宗末寺 山名 川名 池名 古城 名所 旧記 古墓  森 小名 産物
孝子 順拝 義夫 □婦
これらの項目を調査し、報告書として提出するように藩から再度指示があった。できるだけ早く提出するように、以上

この文書が出されたのは、翌年の3月です。藩から求められたレポート提出期限はその年の10月だったはずです。〆切期限を過ぎて翌年の春が来ても、和田浜組ではほとんどの村が未提出だったことが分かります。そこで、藩からの督促を受けて、大庄屋が改めて、レポート内容項目の確認と提出の督促を行ったようです。
西讃府志5
西讃府志 復刻版

さらにその年の八月には、藩から大庄屋へ次のような通達が再再度出されています。
急ぎ御意を得候、然れは地志撰述の義認め方目録、先達て相触れられ候処、未だ廻達これ無き村々も多くこれ有る由、全く何レの村々滞り居り候事と存じ候、右は在出の節寄々申し承り度き積もリニ候間、早々廻達村々二於いて通り候ハ、写し取り置き候の様、其の内ケ条の内、細密行い難き調子義もこれ有り候ハヽ、品二寄り皆共迄尋ね出し候ハヽ、指図に及ぶべき儀もこれ有り候、何様早々廻達候様御取り計らいこれ有るべく候、以上

意訳変換しておくと
 地志撰述の件について、先達より通達したようにて早々の報告書の提出を求めているが、未だに指示が伝わっていない村々もあると云う。どこの村で滞っているのか、巡回で出向いたときに確認するつもりである。早々に村々に通達を回して、写し取り指示した項目について、細々としたことは調査ができなくても、調査が出来る項目については尋ね聞いて、指図を受けることも出来る。とにかく早々に廻状をまわし、報告書が届くようにとりはかること 以上

 西讃府志 - 国立国会図書館デジタルコレクション
二年後の天保十四(1843)年六月には、次のように記されます
「地志撰述取調書き上げの義、去ル子年仰せ含め置き候得共、今以て相揃い申さず、又は一向指し出さざる組もこれ有る趣二て、掛り御役手より掛け合いこれ有り候」

意訳変換しておくと
「地志撰述の作成提出の県について、3年前に申しつけたのに、今以て揃っていない。一向に提出していない組もあるようだ。組番より各村々に督促するように」

ここからは3年経っても、各村からの地志撰述の提出が進んでいないことが分かります。レポート課題が指示されて3年が過ぎても、地志撰述の作成の通知がいっていない村があるということはどういうことだ、早く報告書を出すように藩から催促されています。督促された庄屋たちもどうしていいのか頭を抱えている様子がうかがえます。
 それまで何も知らずにお参りしていた神社やお寺のことを調べて提出せよと云われても困り果てます。和尚さんや神主さんに聞いても分からないし、史料はないし、レポート作成はなかなか進まない村が多かったようです。
 今までなかった寺や神社の歴史が、これを契機に書かれ始めたところも多かったようです。由緒書きや縁起がなければ、「創作」する以外にありません。またかつて住んでいた旧族についても、調べられたり、聞き取りが行われます。そこには同時に「創作」も加えられました。
その翌年の弘化元(1844)年2月には、次のような通達が廻ってきます。
社人秋山伊豆 右の者兼ねて仰せ達し置かれ候 地志撰述の儀二付き、御掛り置きこれ有り候、これに依り近日の内村々見聞として、御指し出し成られ候段、右御掛り中り御掛け合いこれ有り御聞き置き成られ候」

意訳変換しておくと
社人(櫛梨村神官)秋山伊豆が、地志撰述編纂に関わることに成り、近日中に村々を訪ねて指図することになった。疑問点があればその際に尋ねよ

ここからは櫛梨村の社人(神主)秋山伊豆が地志撰述作成のために、領内を廻って援助・指導することになったようです。4年目にして地志撰述の作業は軌道に乗り始めたようです。こうして各村での「地志撰述」が行われます。現在確認できるのは次の表の通りです。

西讃府志 地誌成立年代表

村によって「地志御改二付書上帳」、「地志目録」など名前が違います。最も古いものは多度津藩領羽方村の天保十二年十月の「地志撰述草稿」です。そして一番最後にできたのが丸亀藩領奥白方村の嘉永三(1850)年六月の「地志撰」、多度津藩領大見村・松崎村の嘉永三年夏の「地志目録」になるようです。
 提出日を見ると、期限どおりに提出されたものはほとんどありません。一番早い羽方村のものでも翌年の10月で、1年遅れです。そして、遅いものは嘉永三年夏ころになりますから、出そろうまでに十年間かかっています。各村から提出された地志撰述をもとにして、『西讃府志』が編集されていくことになります。

西讃府志 目次
西讃府志の多度津藩の村々の目次


 一番早く提出された羽方村の「地志撰述」を見てみましょう。 
     
藩からの指示では「村の広さ、田畝、租税・林・藪床・戸口・牛馬・陵池(はち)・里名庄内郷積浦小名・唱来候地名・神祠・仏寺・家墓・古跡・風俗・物産・孝義・雑記」などの項目がありました。
大水上神社 羽方エリア図
赤いライン内が羽方村 大水上神社の鎮座する村
『西讃府志』に載せられなかった部分には何が書かれていたのでしょうか。
  貞享二(1685)年の検地畝68町余のうち等級を示す位付の面積が次のように記されています。

上田一町五反余、上下田三町三反余、中田六町九反余、中下田五町九反余、下上田八町八反、下田一一町二反余、下々田一六町二反余、上畑二反余、中畑一町一反余、下畑二町九反余、下々畑八町余

ランク付の低い田畑の「下以下」で五五町余を占めており、生産高の低い土地が多かったことが分かります。
  年貢率も次のように記されています。
川北・白坂・長坂 三割七分
瀬丸・二之宮・石仏・上所 四割三分、
村中・下所 三割四分
庄屋分池之内出高 三割
宮奥 二割五分
田畑68町余のほかに、新田として正徳から寛政までの1町3反余、新畑として正徳から享和までの4町9反余が開かれたことが分かります。
惣田畑74町3反余で、石高は519石6斗余で、租税202石3斗余の内訳は、定米(年貢米)176石2斗余、日米5石2斗余、夫米20石7斗余で、ほかに夏成(年貢麦)が12石余となっています。
戸数は156軒で、内訳は本百姓87軒、間人69軒とあります。間人とは田畑を持たない水呑百姓のことで、村の中の階層構成が分かります。
池は17のため池が全て書かれています。一番大きな瀬丸池の池廻りは32町46間で、水掛かり高は上高野村1000石、寺家村300石、羽方村160石となっていて、瀬丸池のある羽方村の水掛かり高は少いことが分かります。次に大きい白坂池は池廻りは11町45間で、水掛かり畝が本ノ大村12町三反余、羽方村3町9反余、上高野村1町9反余、大ノ村1町2反余となっており、白坂池も本ノ大村の水掛かりが多いようです。そして、どちらも樋守給(池守の給料)は羽方村から出されていることも分かります。

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大水上神社(二宮神社)

神祠のうちでは、大水上大明神(二宮社)について詳しく述べられています。
 祭礼・境内諸社を述べた後に「二宮三社之縁起」の全文が載せられています。二宮三社之縁起については以前に紹介しましたが、この時に成立したのではないかと私は考えています。羽方の庄屋から相談を受けた宮司が書いたという説です。そのほか「神事之次第」。「大水上御神事指図之事」・「ニノ宮記」などが添えて提出されています。「仏寺」では、大水上神社の別当寺龍花寺のことにも触れられています。しかし、龍花寺は以前にお話ししたように、祭礼をめぐる神職との対立の責任を取らされ、藩から追放されています。この時期の大水上神社の運営主体は、神職だったと思います。
 こうしてみると羽方村の庄屋が一番早く調査報告書(地志撰述)を提出できたのは、大水上神社に縁起やその他の史料があったこと、別の見方からするとそれが書ける神職がいて、延喜式内社という歴史もあったからとも云えそうです。こんな条件を持っているのはわずかです。その他の多く村々では、中世に祠として祀っていたものを、近世の村々が成立後に社殿が建立された神社がほとんどです。そこには、祀ってある神がなんだか分からないし、縁起もないのが普通だったようです。そこに、降って湧いてきた「寺社の歴史報告レポート」作成命令です。庄屋たちは、あたふたとしながらも互いに情報交換をして、自分の村々のデーターを作り、歴史を聞き取り報告書として提出したようです。それは、藩が命じた〆切までに、決して間に合うものではなかったのです。
 これを契機に「郷土史」に対する興味関心は高まります。
西讃府志は幕末から明治にかけての西讃の庄屋や知識人の必須書物となります。そして、西讃府志をベースにしていろいろな郷土史が書かれていくことになります。戦前に書かれた市町村史は、西讃府志を根本史料としているものがほとんどです。それだけ史料価値も高いのです。手元に置いて史料や辞書代わりに使いたいのですが、いまだに手に入りません。ちなみに古本屋での値段は55000円とついていました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
   参考文献 高瀬町史392P 西讃府志の編纂

まんのう町勝浦 四つ足

琴南町誌には、庄屋たちの家に残されていたいくつかの史料がふんだんに使われていて、地主達の日常業務が見えて来ます。その中からいろいろな出来事に対応を迫られていたことを日記風に記したものに出会いましたの紹介します。
 金毘羅さんの賑わいは、春と秋の大祭の日が一番でした。今年(文化8(1811)も秋の大祭が近づいてきた10月3日のことです。讃岐山脈の阿波との国境の近くの鵜足郡勝浦村の状継(じょうつぎ)福右衛門は、大庄屋の宮井伝左衛門と木村甚三郎の連名の飛脚便を受け取ります。その内容は、金毘羅大祭について参拝者に注意するようにという内容でした。それには髙松藩の郷会所の元締の中村甚三郎と柏原弥六の連名で、走り書きにした大庄屋宛の次のような手紙も添えられていました。

一筆申上候。然ば金毘羅会式につき、西郡の面々心得違無之様 可仕旨被仰出候間、其旨村々え洩れざる様御中渡置可被成候。

意訳変換しておくと
 一筆申上候。金毘羅大祭については、鵜足郡西の面々に心得違いのないように行動すること。その旨を村々へ洩れなく申しつたえるように

去年までは回状で、中通村の肝煎(きもいり)が届けてきた。それなのに、今年はわざわざ飛脚便で知らせてきた。これは昨年の大祭で、勝浦村の若者が間違いを起こしたからだろう。書状を見ながら昨年の苦い思い出がよみがえってきた。
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 勝浦奈良の木坂の孫兵衛は、24才の真面目な働き手です。
去年の大祭に、阿波から参詣する知人に誘われて、初めて金毘羅さんの大祭に行きました。あまりの賑わいに呆然としている所を、すりに狙われます。気がついて、そのすりを大力で投げとばしたところ、稼ぎに来ていたすり仲間と大喧嘩になり、危ない所を金毘羅領の年寄玄右衛門に助けられます。稼ぎを台無しにされたすり仲間の復讐を心配した玄右衛門の計らいで、五日間の入牢を申し付けられ、這々の体で村へ帰ってきた。
そのことを覚えていて藩の役人は、こんな達しをわざわざ回覧したのだろう。さて、昨年のようなことが起きないように、村衆に伝えなければなるまい。さて、どのように話したらよいものか。飛脚便を手にしながら考え込む福右衛門でした。

DSC00830

勝浦神社の狛犬
 それから十日余りたった日の夕方、中通村の肝煎が一通の手紙を届けてきた。
村継ぎの手紙であるので急いで封を切って見ると、柏原弥六の達筆が、躍るように眼にとびこんできた。
一筆申達候
其御村 松五郎
  同 東吉事 秀吉
 右の者饂飩(うどん)・蕎麦(そば)商い申義、金毘羅春秋両度の会式中相済み、已来平日は不相成候段御申渡可被下候以上
  文化八年十月十三日  柏原弥六
佐野直太郎殿(勝浦村の庄屋)
意訳変換しておくと
右の者はうどん・そばの商いを、春秋二回の金比羅大祭の時だけ許している。祭りが終われば、平日の商いは行ってはならない。
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まんのう町勝浦神社

 松五郎と秀吉は働き者で律義者だ。毎年大祭の時に、金比羅でのうどんと蕎麦の商いを許されて、その儲けを足しにして百姓を続けている。大祭が終わるとその翌日には、店をたたんで百姓仕事に精出している。どうして、わざわざこんな通知が届いたのだろうか。商いをすることが許されない村の者が、告げ口でもしたのであろうか。入念な達しに、不安を感じないではいられなかった。当事の村人に、移動・営業の自由はありませんでした。大祭の時にうどんや蕎麦を出すことができるのも許された人間だけでした。
 それにしても、お殿様は昔から商いがお嫌いだ。
百姓が商いをすれば儲けに眼がくらみ、野良仕事が嫌いになり、年貢を納めなくなる者がふえると思っておられるのか。毎年この村で十人以上の者が出店を願い出るのだが、許されるのは二名か三名だけだ。手紙を庄屋日帳に写し取りながら、福右衛門は、働き者で子沢山な東兵衛の腰が少しまがりかけたことや、鉄砲の名人の秀吉が、獲物に狙いをつけた時の精悍な顔つきを思い浮かべていた。
         まんのう町(旧琴南町)勝浦 牛田文書より
藩からの書状は、大庄屋のところへ届けられ、それを大庄屋がいくつか写し取って、決められたルートで各庄屋へ送付しました。受け取った庄屋も、保存用に一部写し取って、次に廻すことになります。これらを残しておくことが役に立つことを体験的に知った庄屋は、日記と共に書状を写し取って保存することが日常化します。そのため、代々庄屋を務めた家には、膨大な藩からの書状が残ることになります。それらが旧琴南町には、牛田・西村・稲毛などに残された庄屋文書になります。もう少し、話を続けます。

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まんのう町勝浦 今は亡き旧長善寺

○お殿様の金毘羅さん御参詣の動員
 天保二年(1831)3月23日の辰の刻、鵜足郡造田村の庄屋西村市太夫は、大庄屋木村甚三郎と宮井清七連署の、山分村々回文を庄屋日帳に書き写して本文と読みあわせてみた。
○以回文申入候。
殿様来る廿六日より同二十八日の内、金毘羅へ御往来共御遠馬にて御参詣被為遊候由、依之御当日御前日共、於栗熊東継更人馬別紙切符の通割紙相回候間、同所より触れ込次第毎々の通、宰領組頭相添御指出可有候。
大抵廿六日中御社参の御様子に相聞候間左様 御心得御取計置可有候。
 一 草履・草軽・馬沓(くつ)並拝駕龍共 明日中に栗熊東馬継所迄 御指越可有候。為其急中入候。
   三月廿三日         木 村 甚三郎
                 宮 井 清 七
   村々庄屋衆中。
意訳変換しておくと 

殿様が来る26日から28日に、金毘羅参拝のために髙松街道を馬で往来することになった。ついては当日・前日共に栗熊東に人馬を別紙の通り準備するように伝える。書状を受け取り次第、宰領組の頭は各組に指示をだすこと。
26日中に参拝予定と聞いているので、そのつもりで準備にあたること 御心得御取計置可有候。
 一 草履(ぞうり)・草軽・馬沓(くつ)や駕龍などは 明日中に栗熊東の馬継所まで運び込んでおくこととの御指図があった。急ぎ申し送る。
   三月廿三日         木 村 甚三郎
                 宮 井 清 七
   村々庄屋衆中。
高松の殿様が3日後の26日~28日に金毘羅さんに参拝することになったので前例通り準備をするようにとの内容です。造田村の割当をもう一度確認する。
 O殿様御遠馬の割当 造田村
  御前日、御当日共。
 一、人足三拾四人。
 一、馬弐疋。
 一、草履六足。
 一、草靫六足。
 一、馬沓弐足。
 書き誤がないことを確かめた市太夫は、末尾に連記された長尾村、炭所東村、炭所西村の次の造田村の肩の所に「(合点(がってん)」を入れます。そして辰の刻と書き込んで仮封をし、肝煎の助蔵を呼び寄せて、大急ぎで中通村の庄屋磯太夫の地下清(じげんじょ)の宅まで届けるよう命じた。

刀剣ワールド】馬具の種類と歴史|武具・書画・美術品の基礎知識
馬沓 馬にもわら草履を履かしていた

 三日前になって突然、殿様の金比羅参拝のための人足と馬・草履などを準備せよとの通達です。ここでも送られてきた書状を写し取り、内容確認の上で、次の庄屋宅へ送り届け指しています。

草履六足、草靫六足、馬沓弐足は明日中に栗熊まで持参せよとのことだ。急がなければならない。前日からは、人足34人と馬2頭を引き連れて行かねばならない。誰を連れて行くのか、どの馬を選ぶのか、頭の中で算段を始めていた。

髙松街道に面する鵜足郡南部の長尾村、炭所東村、炭所西村、造田村、中通村は、一つのグループで、
殿様などのVIPが髙松街道を往来するときには、人馬の提供義務がありました。その数も人足34人です。これを引き連れて栗熊まで出向くことになります。

DSC00849
まんのう町福家神社
お殿様の金比羅詣でが終わったと思ったら、今度は御姫様の金毘羅参詣が通知されてきた。
 4月7日付の大庄屋からの回文によると4日後の11日のことだという。回文が届いた翌日には、金毘羅街道に近い村々の庄屋が、お姫様の御小休所に指定された栗熊西村の浪士平尾庄之進宅へ召し出されて、打ち合わせを行った。終わったのは未刻(午後2時頃)を少し回ったころであった。造田村の割当りは次の通りになた。
O御姫様御参詣に付掛りの物 造田村
 一、興炭 壱俵。
 一、薪  貳束。
 一、草履 四足。
 一、草桂 四足。
   右は九日中に指出候事。
 一、人足三拾人、御前日、御当日。
 一、馬 三疋、右同断。
    但しとゆ持参有之様申越候。
 一、外に壱人、掛り物送り人足。
炭や薪はすぐにでも集まるが、人足を三十人出すのは骨が折れる。殿様の金比羅詣での度に、呼び出されるのはなんとかならないものか。今年は、これで二回目だ。
 
DSC00853

4月23日、大庄屋の宮井清七から3月の殿様御遠馬の入目割当(決算書)が届いた。
〇殿様御遠馬の入目割当 造田村
 一、御遠馬入目割当  銀九匁八分。
 一、御社参の入目割当 銀三十四匁五分。
            〆銀四拾四匁三分。
 殿様の参拝にかかる費用を、どうして村々が支払わなければならないのか。昔からの決まりだと云うが、どうも合点がいかない。浮かぬ顔で市太夫は算盤をとって、弾いて見た。高869石の造田村の割り当りが、44匁3分である。藩全体では、大高を21280石と見て、御遠馬の総入目は、十貫弐百六拾目余かかったことになる。四月のお姫様御参詣の造田村の割当は、六十目を超えるのでないかと案じられた。

DSC00855

 市太夫は、造田村の割当りから、人足賃などを差し引いて、尚七匁九分の銀を、組頭の夫右衛門に持たせて。日限ぎりぎりの27日に川原村の宮井清七の宅へ届けさせた。
                   造田村西村文書より
こうしてみると、庄屋には文書・算用能力が欠かせないものであったことがよく分かります。ちなみに、ここに登場する造田村の庄屋西村市太夫はやり手で、義兄の金毘羅の油屋・釘屋太兵衛と組んで水車経営などのいろいろな事業を展開していたことは以前にお話ししました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 2025/02/11改訂版 
参考文献
 大林英雄 御神徳を仰ぐ人々 こんぴら 昭和60年
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江戸時代の庄屋(村役人)の「日常業務」とは、どんなものだったのでしょうか。

多度津・葛原村の庄屋を長く務めた木谷家には、享保から文政までのほぼ一世紀間、葛原村のさまざまな日常生活の様子が文書として記録されています。木谷家の歴代当主の残した「萬覚帳」をのぞいて、庄屋の日常を垣間見ることにしましょう。

村は警察機能の末端として、今の駐在所のような役目も果たしました。

その一つに、葛原村や千代池で起こる投身自殺の処理について次のような記録が「萬覚帳」に出てきます。
丸亀藩士の下女が千代池で人水自殺し、翌朝発見されたので藩に報告した。多度津藩から通服を受けた兄弟(親藩の足軽)2人がその日の夜半に丸亀から駆けつけ、遺体を引き取って行った。その対応の迅速さに驚いた。
丸亀藩領の他村で起こった身元不明の僧と女性の「相対死」(心中)入水事件に身元確認のために現場に呼ばれた。葛原村の村役人として、顔吟味に参加したが自村のものではないので、代官に当村に該当者無しと報告した。

イメージ 1

千代池

  この文書からは、村には江戸の街のような奉行も岡っ引もおらず、庄屋自らが出向いて、業務にあたっていることが分かります。村には「専従職員」がいないのです。庄屋さんは、村長兼と駐在所員、時には裁判官といくつもの職務を「兼務」していました。村役場も独立したものはなく庄屋宅に置かれていました。

葛原村墓地で博打と強請(ゆすり)が発覚します。

文政2年(1819)4月のことです。
まず庄屋は、藩に内々での処置を申し出て同意を取り付けています。この賭博事件の被害者で、同時に博打禁止の違反者でもあるのは葛原村の五人、加害者、強請った四人中三人は他村の者でした。葛原村の村役人が藩に事件を公にせず内済を望んだ背景には事件全体の違法性と合計銀五〇匁-という被害額、さらに犯人が他村にまたがる訴訟へのためらいがあったようです。

若殿の籠に、投げたものが当たってしまう事件には

同じ年には、藩主の若君がお忍びで葛原村を通った際に、若君の「御犬」が一農民の軒先で竹龍内の白鷺に吠えかかる事件が起きます。追い払おうと農民が犬に投げたものが若君の御駕寵にあってしまったのです。村を訪れる代官を、庄屋はじめ村役人が土下座して迎えるという時代ですから、これは一大事です。
 庄屋の木谷小左衛門(永井)は、早速その農民を郷倉(牢)に入れ「無礼」を罰します。同時に藩の代官と内々の折衝を続け、二日後に「御願書差上」という形で事件を「御代官様お手元切りに相済ます」決着に漕ぎつけています。

庄屋の村人を守るという役割 

このように、村は村内での事件や小犯罪をできるだけ藩にゆだねず、内々に処理しています。事件の処理が藩の手にわたると被疑者は拷問や厳しい追及に苦しみ、そのうえ刑が村外あるいは領外追放など比較的重いものになることが多かったのです。これに対し村の裁量に任された場合は、たいてい郷倉入りや自宅での閉門や禁足ですみました。
 「萬覚帳」に見る限り、郷倉入りで外との行き来を閉ざされたとはいえ、家族から百米麦七合までの「賄い」の差し入れは許されました。もし、家族が貧しい際には五人組や村が代わって負担しています。さらに郷倉入りの本人が高齢のうえ病弱であったりすると、倅が代人を努めることさえ許されています。ここには、藩に対して村人を守ろうとする姿勢がはっきりと読み取れます。

「江戸時代 郷倉」の画像検索結果

さらに、庄屋が身元引受人となっている例です

 村人が多度津藩に小人(使い走り)として奉公する際に、庄屋が身元保証人になっています。それだけでなく、切米(給与)額や休日数などの雇用条件を細く決めた契約書(「御請状」)を、庄屋が身代わりになって藩との間で交わしていることが分かります。
 「萬覚帳」には寛政元年(1789)と同4年、二通の御請状写しがあります。その中の条項には
「奉公人への給米は年二回に分けて先払いされるが、もし期日前に米を返さず退職した場合、本人は立替え分に五割の利子をつけて返済する。
また決まった休日の日数をこえて欠勤する場合も、代人を立て役目に支障が起こらないようにし、それを怠った日数だけ切米は減額される。そして奉公人がその義務を果たさない場合、「御請状」を書いた庄屋が代わって弁済する」
と、現在からすれば「労働者側に不利な勤務条件」が記されています。要するに、庄屋は村出身の奉公人の身元保証にとどまらず、共同体の親として「悴(せがれ)」の不始末の尻拭いを求められていたのです。庄屋の「業務」は、広いのです。 

最後に、葛原村らしい四国巡礼の遍路に対する「業務例」を見てみましょう。

村には、七十六番札所金倉寺から七十七番道隆寺への遍路道は南北にまっすぐ村を貫いていました。その途中、八幡の森は深い木陰ときれいな湧き水で、疲れた遍路に得がたい休息の場を提供しました。森のはずれ、八幡宮参道口近くには旅寵もあり、村人も「お遍路」を心暖かく迎えたました。しかし、病をもつ老遍路のなかには、そのまま立ち上がれなくなる者も出ました。

「萬覚帳」には行き倒れ遍路について藩への届けが八件あります。

持っていた往来手形から名前・年齢・生国がわかり、遺体は国元に通知されることなく、その地に埋葬されました。身元不明の場合、村は丸亀・多度津両藩に通知し、遺体はその場に二、三日保存された後に葬られています。これも庄屋がおこないました。 

遍路が帰国をのぞむ場合は「村送り」による「送り戻し」(送還)を願い出ることもあったようです。

庄屋は、その遍路が「往来手形」で属する宗門が明らかで、多少の路銀をもち、順路の村々に大きな負担を掛けないですむかどうかを考えてから「送り手形」を発行しています。
 病人で歩けない遍路を村境で受け取り、隣の村境まで送り、時には夜宿泊の世話もする「村送り」は、人手の要る作業です。これは藩を超えた村の連帯感と庶民の「御大師信仰」に根ざした「おせったい」の心なしにはできないことです。 

同時に、村送り遍路への措置や手続きから見えてくるのは、 藩が民衆の移動の管理を行っていることです。

幕府や藩は農民が土地を離れ、他郷に行くことを基本的に嫌い、抑制しています。「移動の自由」は保証されていません。村民の一家が他村に引っ越す際にも、転居先の村へ予め「送り手形」を届けるこを求めています。その中で送出す村は、本人に年貢の未納や借財がないことを保障し、自分の村の人別帳からこの一家が抹消された後、相手村の「帳面」に書き加えられるよう依頼しています。また他村への養子縁組でも「送り手形」が相手側に送られています。

村と庄屋の二面性がもたらすものは?

以上見てきたように、村は行政の末端行政組織として藩の触れや法令を伝える支配機構の一部でした。しかし、それだけではなく、村内の争いや事件を解決するため村の掟を造り、司法・警察・消防の役割まで果たす「自治的共同体」の機能も持っています。
つまり二面性があったということです。
そして村には専門の専従者がいたわけでなく、村人は村役人や村寄合の指示に従い、自発的あるいは義務として協力したのです。

このような村民の頂点に立つのが庄屋でした。

庄屋は村役人中でも別格で、百姓身分で村人たちを代表する存在にもかかわらず、領主の意向を代表する任務を負わされています。そして庄屋の私宅は村政の事務所=「政所」となり、村人はここに呼び出されて藩の触れや新法令の発布を知らされました。
 庄屋は村人自身によって選ばれ、村の自治を代表するとはいえ、その任免権は藩の手にあり、領主支配の末端業務の責任を負ったのです。庄屋の役割の二重性は、百姓の共同体であるとともに幕藩体制の末端行政組織という村の二重性をそのまま反映しています。 

領主と農民の間に立ち、対立する利害を調整する庄屋の立場は難しかったようです。

有能な庄屋は双方の立場と要求、力関係をはかりながら妥協と調停の道をさぐります。そのような庄屋の姿勢を指して、
人は「庄屋と屏風はまっすぐでは立たぬ」と云ったのでしょう。
これを現在では、政治力というのかもしれません。

 また江戸時代は、藩と村とのやりとりは細かいことまですべて文書をつうじて行われましたから、読み書きに馴れ、年貢徴収のための計算能力が求められます。場合によっては未進(年貢未納)農民に代わって米や代銀を立て替える財力も必要となります。もっともこの立替えにあたり、未進農民は自分の土地を質地として差し出しますので、土地併合には有利なポジションにあったと云えるかもしれません。

江戸時代の落語でよく登場する「大家さん」と同じように「庄屋さん」も庶民からは、悪者扱いされたり、批判の対象となることが多いようです。その裏で「日常業務」は大変だったことを改めて知りました。

多度津・千代池の改修工事はどう進められたか

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千代池からの大麻山と五岳

前回は金倉川の付け替えによって廃河跡が水田として開発され、
河道を利用してため池が次々と作られたこと、
その開発リーダーが多度津・葛原村の庄屋・木谷家であった
という「仮説」をお話ししました。

今回は、築造された千代池を木谷家が、どのように維持改修したかを見ていくことにします。今回は仮説ではありません。

木谷家には代々の家長が残した記録が「萬覚帳」として残されています。これを紹介した「讃岐の一豪農の三百年」によって眺めていきます。その際に、江戸時代前半と、後半ではため池改修工事の目的が変化していくことに注意しながら見ていこうと思います。
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多度津の旧葛原村には、今でも千代池、新池、中池、上池の四つのため池があります。これらは旧四条川の河道跡に17世紀後半に築造されたものです。その中でも千代池は広さ五㌶、貯水量90万㎥と、多度津町内のため池の中では最大級の池です。  

ため池には、メンテナンス作業が欠かせませんでした。

特に腐りやすい木製の樋管、排水を調整するか水門(ゆる)やそれを支える櫓などは約二〇年おきに取り替える必要がありました。
また粘土を突き固めただけの堤もこわれやすく
「池堤破損、年々穴あき多く、水溜まり悪しく、百姓ども難儀仕り候」

と藩への願書がくりかえし言うように、修理が常に求められたのです。これを怠ると水が漏れ出し、堤にひびが入り、最悪は決壊ということもありました。
「ため池 樋管」の画像検索結果
現在のため池の樋官

それでは、江戸時代のため池改修はどんな風に行われたいたのでしょうか?

江戸時代前半は「木製の樋竹・水門・櫓などの修理」に重点

 江戸時代前半期の修築工事は、丸亀藩の意向もあったのか、朽ちた木製の樋竹・水門・櫓などの修理に重点が置かれています。堰堤の補修や補強にはあまり力を入れた形跡がありません。
 木谷家に残る江戸時代前期の資料からは、当主四代、ほぼ六〇年間に行われた計27件の池普請に使われた労働力の内訳が記録されています。それを見ると大工99人、木挽き79人など木製品に関わる職人数が多く、堤の補修にたずさわる人足は延べ604人に過ぎないのです。
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丸亀藩の補修工事には「郷普請」と「自普請」ありました。
前者はため池の水を利用する村(水掛り村)が複数ある場合で、藩が工事を直接指揮監督しました。後者は水掛り一村のみで、藩の援助は無く費用も労力(人足)も、その村が単独で負担しました 
葛原村の池普請は、すべて後者でしたから藩の援助はありません。
その場合でも村役人は大庄屋・代官を通じ藩に、その計画・実施を願い出、許可を受ける必要がありました。そのため「萬覚帳」には、享保(1726)から文政元年(1818)の92年間に計34件の池停請が申請文書が残されています。村にある4つの池で、3年に一度はどれかの池で修築工事が行われていたことになります。
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旧河道に架けられた橋

 木谷小左衛門の試みは、貯水量を増やすこと       

 江戸時代後半になると、村の周囲はほぼ水田化され耕地を増やす余地がなくなってきます。そんななかで、米の収穫量を増やす道は、乾燥田への給水確保以外になくなります。つまり、ため池の貯水量の増量という方法です。そのためには堤防のかさ上げが、もっとも手っ取り早い方法です。
 この「要望」に、対応したのが江戸時代後半に木谷家当主となる木谷小左衛門です。彼は天明八年(1788)に庄屋となると、ため池補修の重点を、池全体の保水量を増やすため、堰堤のかさ上げや側面補強などに移します。彼は、堰堤を嵩上げする作業を「萬覚帳」に「上重(うわがさね)」と記しています。その方法手順は、
1 まずに工事現場に築堤用土を運び上げ、堤敷に15㎝の厚さに撒き、
2 それを大勢の人足が並んで踏みつけながら、突き棒で10㎝ぐらいまでに突き固め、
3 めざす厚さまで何回も積み重ねる
4 そして池底の浚渫・掘り下げです。晩秋、すべての農作業が終わった後、池を空にして底土を堀りおこし池の深さを確保する。
こうして貯水量を増やそうとしたのです。
この工事成否は投入される人足の数にありました。
 小左衛門は寛政三年(1791)から文政元年(1818)まで、28年間に計7件の池普請を願い出ています。
そのうち最も人掛かりなのは寛政7年の千代池東堤(長さ282㍍)の嵩上げと前付け、さらに南・北堤(合わせて長さ430㍍)の前付け・裏付け(両側面補強)に池底の一部(1700㎡)の掘り下げなどを加えたものです。
 これらの工事に投ぜられた人足数は延べ6699人に達しています。先ほど見た江戸時代前期の改修工事の延べ人足数が600人程度であったのに比べると10倍です。このほかの6件も樋・水門・水路などの従来型補修のほかに、堤の嵩上げ、補強、池底掘り下げなどを含む規模の大きな工事です。それらには計13400人の人足が動員されています。結局、全7件の人足総数は延べ2万人を超えました。

「ため池 å·\事」の画像検索結果
人足は、賦役として動員された「ただ働きの人足」だったのでしょうか?
「萬覚帳」によれば、池普請で働く人足一人には一日あたりし7合5勺の米が扶持として給されています。その総量は150石余(375俵)になります。自普請の場合、この費用は名目上は、村が負担しましたが、実は村の納める付加税の四分米(石高の四パーセント)がこれにあてられました。葛原村にとって、それは一年につき38石=95俵になります。
 これは藩にとり付加税収入の減少を意味します。もちろん池普請は毎年あったわけではありませんが、財政窮迫に悩む多度津藩にとって、決して好ましいことではなかったはずです。 
藩の意向にさからってまで、池普請で村を豊かにしようと努めた小左衛門は新しいタイプの庄屋と言えるのかもしれません。
 
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別の視点から池普請を見てみることにしましょう。

 労働力市場から見ると人口800人ばかりの村にとって、農閑期の三、四か月間に参加すれば一人当り米七合五勺を支給される冬場の池普請は、貧しい水呑百姓や賎民たちには「手間賃かせぎ」の好機として歓迎されたようです。今で云う「雇用機会の創出」を図ったことになります。ピラミッドもアテネのパルテノン宮殿も、大阪城も、「貧困層への雇用機会の創出という社会政策面」を持っていたことを、近年の歴史学は明らかにしています。そして、これをやった指導者は民衆の人気を得ることできました。
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こうして、千代池は川下の堤防だけだったのが、周囲全体に堤防が回る現在の姿に近づきました。近年には散策路や東屋も作られ、散歩やジョッキングする人たちの姿を見かけるようになりました。

多度津の豪農木谷家 なぜ安芸から讃岐に移住したのか?

前に書いた「丸亀平野 消えた四条川 作られた金倉川」
で、丸亀市史を参考にしながら次のようなことを書きました。
1 金倉川は満濃池再築以前に、水路網整備のために新たに作られた「人工河川」であること。つまり17世紀半ばの近世に河道が付け替えられ金倉川が生まれたこと
2 それ以前には「四条川」が琴平・多度津間は流れており、この旧河道上に明治になって土讃線、四国新道(現R396号)が建設されたこと。
3 旧四条川の金蔵寺付近よりも下流は、旧河道域を利用して、千代池などのため池群が築造され、水田化も進められたこと
4 旧四条川の地下水脈はいまも、豊富な湧き水をもたらしていること。その典型が、金陵の多度津工場で豊富な伏流水を利用して酒造りが行われていること
これらを書きながら思い出したのが「讃岐の一豪農の三百年・木谷家と村・藩・国の歴史」という本です。
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この本は、戦国末期に安芸・芸予の武士集団・木谷一族が仕えていた毛利・小早川・村上などの諸大名が衰退していく時代の流れのなかで、海を越えた讃岐の多度津・葛原村に新天地を求め、ここで帰農し、庄屋化していくプロセスを追った労作です。小さな本ですが読みごたえがありました。
 それもそのはず、作者は名古屋大学教授の木谷勤氏です。ちなみに彼の専攻は、ドイツ近代史です。そして彼は木谷家の末裔です。讃岐の一豪農の歴史を専門外の大学教授が書いているのです。これだけでも異色です。

今回見ていきたいのは、次の三点です

1どうして、安芸の木谷一族が讃岐の多度津を「移住」先として選んだのか
2帰農定住した多度津・葛原村ですぐに庄屋に成長していった背景は何なのか
3旧四条川の河道変更と、その後の千代池の築造・水田開発のリーダーとして、「移住」してきた木谷家が活躍したのではないか

この本に導かれながら見ていきましょう

1どうして木谷一族が多度津を「移住」先として選んだのか?

 まず、移住以前の木谷家について見ておきましょう。
戦国時代には、安芸や芸予の島にはいくつもの木谷家があり、グループを形成していたようです。それを作者は3つに分類します。
(1)竹原・小早川家の重臣を出した木谷氏主流
(2)村上水軍に属した木谷氏の支流ないし傍流
(3)十三世紀の後藤実基からでた最も旧い木谷氏
多度津にやってきた2つの木谷家のルーツは(1)の主流ではなく、(2)の村上水軍に属した芸予諸島の木谷氏である可能性が一番高いとします。その理由は、当時の政治情勢です。
 木谷家の「讃岐移住」は天正十五年の「刀狩り・海賊禁止令」前後とされます。この時期、小早川家はまだ安泰で、安芸の主流木谷一門に郷土を捨てる動機はなく(1)の可能性は低いのです。これに対し、毛利についた村上武吉のように能島・因島村上側の人々は、秀吉の天下統一が着々と進むなか、その圧力をひしひしと感じ、海賊禁止令のような取締りが強まるのを恐れ、将来への不安が高まったでしょう。特に能島を拠点にする村上武吉の配下では、ことさらだったでしょう。彼らが、山が迫る安芸沿岸や狭い芸予の島々をいち早く見限り、海に近く野も広い西讃岐・葛原村に新天地を求める決断をしても、決して不自然でないと作者は考えているようです。

それでは、なぜ多度津を選んだのでしょうか?

木谷家は、なんらかの関わりが西讃地方にあったのではないでしょうか?毛利側の史料『萩藩閥閲録』には、次のような記録があります。
天正五年(一五七七)、讃岐の香川氏(天霧山城主?)が阿波三好に攻められ頼ってきた。これに対して毛利方は、讃岐に兵を送り軍事衝突となった。これを多度郡元吉城の戦い(元吉合戦)とする。元吉城は善通寺市と琴平町の境、如意山にあったとされ、同年七月讃岐に多度津堀江口(葛原村の北隣)から上陸した毛利勢の主力が、翌月この城に拠って三 好方の讃岐勢と向き合った。毛利方は小早川家の重臣、井上・浦・村上らの率いる援軍をおくり、元吉城麓の戦いで大勝をおさめた。毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた。
 ちなみに元吉城とされる櫛梨山からは山城調査の結果、大規模な中世城郭跡が現れ、これが事実であることが分かってきました。『香川県史・2』はじめ大方の歴史書もこの時期の毛利の讃岐侵攻を「元吉合戦」とするようになりました。

この記述だけでは分かりにくいので当時の情勢を補足します

信長の石山本願寺攻略が佳境に入った頃のことです。この合戦で毛利側が目指したのは、前年に石山本願寺へ兵糧搬人で手にいれたかに見えた瀬戸内東部の制海権が、翌年には信長方の「鉄の船」の出現と反撃で危うくなったのです。これを挽回するため、毛利は海上交通の要である讃岐や塩飽に勢力をのばし、一向門徒の信長への抵抗を「後方支援」しようとしたようです。  
 注目したいのは、『萩藩閥閲録』の最後の部分に
「毛利は三好側と和を結び、一部兵力を残して引き揚げた」
とあります。一部残された残存兵力の中に木谷家の一族がいたのではないでしょうか。あくまで私の想像(妄想)です・・・。

 船乗りにとって海は隔てる者ではなく、結びつけるもの

 秀吉進出以前の小早川・村上水軍は、芸予諸島と塩飽に囲まれた瀬戸内海域を支配し、各所に「海関」を設け、内海を通る船から通行料や警固料を徴収するだけでなく、自らも輸送・通商にたずさわっていました。
 海上の交通は比較的便利で安芸東部と西讃は
「海上一〇里にすぎず、ことあるときは一日の内に通ず
(南海通記)という意識があったようです。いまでも、晴れた日には庄内半島の紫雲出山の向こうに福山方面が見えます。
 その一例として、15世紀半ば京都の東寺は伊予の守護に、弓削島の製塩荘園が押領されたことを訴えています。訴えられているのが安芸小泉氏、能島村上、そして讃岐白方・山地氏の三海賊衆です。(「東寺百合文書」『愛媛県史』資料編古代・中世)。
 白方は弘田川の河口で、古代以来の多度郡の湊があったと目されるところです。山地氏はこの白方を拠点に、天霧山に城を築き、多度津本台山(現、桃陵公園)に館をおく守護代香川氏の水軍として、戦国末期まで活躍します。同時に、能島の村上武吉などとも連携していたことが分かります。このように当時の瀬戸内海では能島・来島・因島の三村上からなる村上水軍を中心に、さまざまな地域土豪の海賊衆が競い合っていたようす。彼らの間には対立と同時につながりや往来が生まれていたのです。
戦国末期に両岸の往来は、江戸時代よりも活発で、西讃沿岸は対岸の安芸の海賊衆にすでになじみの土地だったのかもしれません。それが江戸時代になり、幕藩体制が強化されていくと海を越え藩を超えた自由な往来も難しくなっていたようです。
 ちなみに、信長・秀吉・家康についた塩飽は「人名」として「特権」を与えられ、北前船の拠点として繁栄の道を進むことになります。敗者となった毛利側についた村上水軍の武将達は、散りじりになりました。その後に待ち受ける運命は過酷であったようです。その中に、木谷家のようにふるさとを捨て、新天地を目指す者も現れたのです。
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 木谷一族が葛原村で庄屋に成長していった背景は何か?

 生口島や因島など芸予諸島に住み、村上水軍の武将クラスで互いに連携していた2軒の木谷家は少数の従者を率いて、同じころに、あるいは別々に讃岐・葛原村に移住したのでしょう。そして、北條木谷家が村の中心部に住みつき、別の木谷氏は村のはずれの小字下所前に居を構えます。 一定の財力を持ってやってきた彼らは、新しい土地で、多くの農民が生活に困り、年貢を払えず逃亡する混乱の中で、比較的短い間に土地を集めたようです。そして、百姓身分ながら、豪族あるいは豪農として一般農民の上に立つ地位を急速に築いきます。

特に目覚ましかったのは中心部に住み着いた北條木谷家です、

年表にすると
1611年 村方文書に葛原村庄屋として九郎左衛門(22代)の名があります。
1628年 廃池になっていた満濃池(まんのう町)の改修に着手
1631年 満濃池の改修が完了
1670年 村の八幡宮本殿が建立、その棟札に施主・木屋弥三兵衛(木谷八十兵衛、二十四代)の名が記されています。
そして以後、村人から「大屋」とあがめられた北條木谷家は、明和五年(1768)まで百数十年にわたり、世襲の庄屋役をつとめることになります。

その原動力の一つが「旧四条川河道総合開発計画」ではなかったのかというのが私の「仮説」です
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『新編丸亀市史』は、満濃池の再築の寛永三年(1628)から同五年の間に、事前工事として治水工事として旧四条川の流れを金倉川の流れに一本にする付け替え改修を行ったとします。その後に行われた一連の開発を「旧四条川河道総合開発」と呼ぶことにします。まず、旧流路跡は水田開発が行われます。水田が増えると水不足になるので、廃川のくぼ地を利用して千代池や香田池(買田池)などのため池群が旧河道沿い築造されます。ちなみに買田池は寛文二年(一六六二)築造で、その他の池も、河道変更後の築造です。これらの治水灌漑事業にパイオニアリーダーとして活躍した人たちの中に、木谷家の先祖もいたのではないでしょうか。

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 そして、1670年の八幡本宮建立は「旧四条川総合開発計画」の成就モニュメントとして計画されたのではないでしょうか。残念ながら、この仮説(妄想?)を裏付けるような資料は、私の手元にはありません。今回は、ここまでです。おつきあいありがとうございました。

  讃岐の日照りの時の村役人の対応は?

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綾子踊り(まんのう町佐文 賀茂神社)

雨乞いは雨が降るまで踊っていた?

 雨乞い踊りが2年に1回踊られる地域の住人です。今年は「善女龍王」の幟棹を持って、行列に参加することになりました。雨乞いの役員さんが「雨乞い踊りを踊ったら必ず雨が降る。なぜなら、昔は雨が降るまで踊り続けたから」と言っていたことを思い出します。本当に、雨が降るまで踊っていたのでしょうか?

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大干害が村を襲ったときに、讃岐の村役人はどんな対応をしていたのでしょうか。
それを高松市の南部で仏生山法然寺がある香川郡百相(もあい)村に残る文書から見ていきましょう。今から200年ほど前の文政6(1823年)、この年は田植えが終わった後、雨が降らなかったようです。大干ばつへの香川郡の庄屋さんたちの対応ぶりが「御用日帳」という文書に残されています。5月17日に次のように記されています。
「干(照)続きに付き星越え龍王(社)において千力院え相頼み雨請修行を致す」

5月といっても旧暦ですから実際は6月と読み直した方がよいでしょう。このころから、日照りが続いたために、農作物へ悪い影響が出始めたようです。それで、まず星越龍王社で千力院の修験道者(山伏?)に依頼し、雨乞いを行います。
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綾子踊り行列 
効き目がなかったようで4日後の21日には、大護寺にも雨請を依頼します。大護寺というのは、香川郡東の中野村にあった寺院で、高松藩三代藩主恵公が崇信し、百石を賜り繁栄した寺です。
それでも雨は降らなかったようです。そこで翌23日には、大庄屋(大政所)より村々の庄屋に次のような文書が廻されます。
これだけの干害になっているのであるから、村々から「自願い雨乞い」が申し出るくらいでないといけない。前もってこちらから申し渡したところ、行うと申し出た村はそれほど多くはなかった。村役人や小百姓は、一体どんなに心得ているのか、これほどにひどいわけだから、明日にでも雨乞いを執り行って当然といえる状況ではないか。明日から雨乞いを行うように!
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綾子踊りの子踊り
 この文言から、干害がひどいのに、それにも拘わらず 村の対応の遅さに腹を立てている様子がうかがえます。そして大庄屋が雨乞いの実施を強く督促しています。その上、各村に庄屋から出す雨乞い祈祷の依頼書案文も添えて通知しています。
 これを受けて二日後の25日には、石清尾、一宮、天川と拾力寺(大護寺などの十力寺?)が雨乞いの祈祷を始めることになったとの通知が出ています。

  私は、雨乞いは命じられるものではなく農民達が自然発生的に行い始めると思っていたので、この内容には驚きました。
この資料からは次のような事が分かります
① 大庄屋が公的なルートを通じて各村々の庄屋に雨乞いを行うことを命じていること。つまり、公的な行事として行われていたこと。
②雨が降るまでいろいろなチャンネルとルートを使って雨乞いを行っていること。
一つの集落だけでなく郡単位の雨乞いが行われていること
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香川町鮎滝の童洞淵では、どんなの雨乞いが行われたのか

 それでも雨は降りません。そこで6月からは鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法を命じています。修法とはおそらく祈祷でしょう。
童洞淵での雨乞いは、どんなことが行われていたのでしょうか?
別所家文書の中に「童洞淵雨乞祈祷牒」というものがあり、そこに雨を降らせる方法が書かれています。その方法とは川岸に建っている小祠に、汚物をかけたり、塗ったりすることで雨を降らせるというものです。
 深い縁で大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りを招き、雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが各地で行われています。
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童洞淵での雨乞いが農民にとって最後の頼みだったようです。

6月1日から雨乞い所へ参詣する当番割りが決めらます。
一日が由佐・西庄よ口光の三力村の代表者、
二日が川内原・大野、三日が寺井といった具合です。
さらに雨乞いの人足に各村より赤飯一升を差し入れるように頼んでます。
鮎滝は現在の高松空港の東側です。仏生山から毎日、各村々から当番が参詣し、雨乞いを行ったのです。つまりこの雨乞いは、ひとつの集落だけでなく一郡全体で共同で行われるもので、非常に大規模かつ継続的なものだったのでしょう。
   まさに、雨が降るまで、雨乞いは続けられてたのです。

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参考文献 丸尾寛  日照りに対する村の対応

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