瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐うどんの歴史

 讃岐では宵法事や膳部(非時)にうどんやそばなどの麺類が出されています。私の家でも、二日法事の時には、近所にうどんを配ったり、法事にやってきた親族には、まずうどんが出されて、そのあと僧侶の読経が始まりました。法事に、うどんが出されるのは至極当然のように思っていましたが、他県から嫁に入ってきた妻は「おかしい、へんな」と云います。
 それでは讃岐にはいつ頃から法事にうどんが出されるようになったのでしょうか。それを青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家の記録で見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたことを押さえておきます。

歴史的な文書にうどんが登場するのを見ておきましょう。

①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」で、次のように記します。

「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」

⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。
   ここでは、うどんが登場するのは、中世以降のことであることを押さえておきます。 つまり、うどんを空海が中国から持ち帰ったというのは、根拠のない俗説と研究者は考えています。

1 うどん屋2 築造屏風図
築造屏風図のうどん屋

讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、三軒のうどん屋の看板をかかげられています。
1 金毘羅祭礼図のうどん屋2
金毘羅祭礼図屏風のうどん屋

中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。

DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや
         金毘羅祭礼図屏風のうどん屋
藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋の看板 2jpg
 讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。
「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。

1うどん


 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。
氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)などは、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の御馳走として各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れて、つけ汁につけて食べたり、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。

 坂出青海村の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。

慶応4年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)東讃岐の仏事史料には、次のように記します。

うとん 但シ壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候

ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
 その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉  二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への施与されています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。
  ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったことがうかがえます。


次にうどんの薬味について見ておきましょう。
胡椒は買い物一覧に、次のように記されています。
「一 (銀)二分五厘(五分之内)温飩入用 粒胡椒
「一(銀)五分 粒胡椒代」
などの購人記録があります。胡椒は江戸初期の「料理物語(寛永20(1643年)」にも「うどん(中略)胡椒  梅」と記されています。胡椒と梅は、うどんの薬味として欠かせないものであったようです。しかし、胡椒は列島は栽培出来ずに輸人品であったので高価な物でした。そのため渡辺家では、年忌などの正式の仏事では胡椒を用いますが、祥月など内々の仏事には自家栽培可能で安価な辛子を使っています。仏事の軽重に併せて、うどんの薬味も、胡椒と辛子が使い分けられていたことを押さえておきます。
薬味じゃなく、メインでいただこう◎『新生姜』の美味しい楽しみ方 | キナリノ
 
現在のうどんの薬味と云えば、ネギと生姜(しょうが)です。
8世紀半ばの正倉院文書に、生姜(しょうが)は「波自加美」と記されます。生姜は、古代まで遡れるようです。江戸時代の諸国産物を収録した俳書『毛吹草』(正保2(1638)年)には、地域の特産物として、生姜が「良姜(伊豆)、干姜(遠江・三河、山城)、生姜(山城)、密漬生妾(肥前)」として記されています。また『本朝食鑑』(元禄10(1697)は、生姜は料理の他に、薬効があって旅行に携行するとこともあることが記されています。
 生姜は近世の讃岐では、階層を越えてよく使われた薬味でした。
丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)にも、生姜は出てきます。生姜の料理への利用については、鮪、指身などの生物料理に「辛味」「けん」として添えられました。  以上から生姜は、日常的な薬味として料理に使われていたようです。それがうどんの薬味にも使われるようになったとしておきます。
以上をまとめておきます
①近世前期までは、うどんは味噌で味をつけて食べていた。
②だし汁をかけて食べるようになるのは、醤油が普及する江戸時代中期以後のことである。
③『金毘羅祭礼図屏風』(元禄時代(17世紀末)には、三軒のうどん屋が描かれているので、この時期には、讃岐にもうどん屋があったことが分かる。
④江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になり特別な食べ物になっていく。
⑤大庄屋の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されている。
⑥明治になると、これを庶民が真似るようになり、法事にはうどんが欠かせないものになっていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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1うどん

前回は、近世初期の風俗画に描かれたうどん屋について見てきました。
そこからは、城下町などの建設ラッシュの進む都市への人口流入と、それに伴う「外食産業」の発展という流れの中にうどん屋の出現があったことが見えてきました。そして、うどん屋には「烏賊の干し物」のような独特の看板が掲げられていました。この看板については「看板研究史」として、詳しく取り上げられているようです。今回はうどん屋看板の変遷を見ていくことにします。
  テキストは「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年 1 月」です

看板の古典的な研究は、坪井正五郎 『工商技芸看板考』が挙げられるようです。
1 うどん屋の看板qjpg

この中には、うどん屋の看板についても詳しく触れられています。それによると、うどん屋の看板は、この本が書かれた明治20年頃には、すでに東京にはなくなっていたと記します。そして、東海道や中山道の宿場には残っているして、『江戸名所図会』の板橋のうどん屋には描かれていることを指摘しています。さらに、柳亭種彦の考証随筆『用捨箱』に紹介された事例を次のように記します。
 「此看板は元と市中でも用ゐたもので有るが追々に失せて場末の地にのみ存し、今日では夫も跡を絶て宿駅を通行しなければ見る事が出来なひ様になつたのでござります」

つまり、昔は江戸市内でも使われていた、今は街道沿いの旅籠などにに見られるのみとなっていると結論づけます。
用捨箱 柳亭種彦翁随筆 全3冊(柳亭種彦) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

次に、柳亭種彦「用捨箱」 (1841年刊)を、研究者は取り上げます。
この本にも、うどんの看板について項があって、次のように述べています。
〔十五〕温飩の看版芋川
昔ハ温飩(うんどん)おこなはれて。温飩のかたはらに蕎(そば)麦きりを売り。今ハ蕎麦きり盛さかんになりて其の傍に温飩を売る。けんどん屋といふハ、 寛文中よりあれども蕎麦屋といふハ近く享保の頃までも無なし。 悉(み)な温飩屋にて看板に額あるいひハ櫛形したる板へ細くきりたる紙をつけたるを出いだしゝが今江戸には絶えたり。(中略)今も諸国の海道にハ彼幣(しで)めきたる看板ばんありとぞ。 (後略)
意訳しておくと
江戸でも、古くはすべてうどん屋で、蕎麦屋は享保(1716~36)の頃までもなかった。看板として「額」や「櫛」の形をした板に細く切った紙を付けたものを使うが、これは既に江戸では絶えており、諸国の海道(街道)で見られる、
明治の『工商技芸看板考』とだいたい同じ事が書かれています。
ここにでてくる 「額」は、上部が尖り、屋根を付けた絵馬的な形状か、長方形の形状で「うどん」などの文字が書いてあるもので、「櫛形」は、上部がやや丸くなった比較的幅が狭いものを指すものと研究者は考えているようです。
この本にはうどん屋の看板の挿絵として、次の四つの例が載せられています。

1 うどん屋の看板jpg
①図8の右上が井原西鶴『好色一代男』 (天和二年〈1682刊)の「いも川/うむどん」に描かれたものです。東海道の二川付近の宿場「芋川」の名物だったうどんの看板です。尖頭形の板の部分に「いも川 うむどん」と書かれています。
②右中が『人倫訓蒙図彙』 (元禄三年(1690刊) 「旅籠屋」 の挿絵の中に 「うとん/そはきり」 の看板が掲げられていると記されます。板部分が長方形ですが、①の「いも川うどん」とおなじように、宿場の旅籠に吊されています。。
③左上が『道戯興(どうげきょう)』 (元禄11年1698刊)のうどん屋の図です。絵が小さいので読みにくいのですが「うとん/そば切/切むぎ」 と書かれた看板が軒下に掲げられています。 店内では、伸し棒で生地を伸ばす人物と、徳利、盃などと土間に竈があり、見世棚には、角樽と徳利などが置かれていて、うどん・蕎麦と酒を提供する店であることがうかがえます。道戯興は、 寺子屋の代表的な教科書である『実語教』のパロディー版で当時のうどん/そば屋のイメージを描いたものと研究者は指摘します。

④享保年間 (1716~36) 彫折本「江戸八景の内品川の帰帆」 (図8の下)
 品川の宿場にある茶屋か旅籠のもので、板に書かれたも文字は略されていますが、「うどん/そば切」などと書かれていたようです。
1 うどん屋3 『江戸庶民風俗図絵』三谷一馬
『江戸庶民風俗図絵』三谷一馬
江戸庶民風俗図絵には、うどん屋の看板を掲げた店が描かれています。
ここでは、店の外で麺類をどんぶりから立ち食いする男の姿、煮物を手前には薦被りの大きな酒樽が2つ見えます。縁台に座った男が飲んでいるのは、お茶ではなくお酒のようです。その隣では、串に刺された煮物にかぶりつく男があります。真ん中にたつ男が店の主人なのでしょうか。煮物をつぎ分けているようです。その隣の立ち姿の女は、手に勺を持っているのその妻でしょうか。その奥の奥戸さんには大きな二つの鍋が据えられています。ここで煮物は茹でられているのでしょう。手前の座敷敷には食べ終わった男達が休んでいるようにも見えます。持ち物から、彼らは飛脚人夫のようです。街道を急ぐ飛脚のなじみの店で、そこにうどん屋(麺類)の看板が掛けられているとしておきましょう。
ヤフオク! -「三谷一馬」の落札相場・落札価格

以上のように、江戸時代中期の元禄年間には宿場にうどん屋が描かれた事例が多いようです。そういえば、前回見た金毘羅大祭図屏風にもうどん屋が3軒描かれていましたが、この屏風も元禄時代の物です。この頃には、この看板は宿場でよく見られるもの、という認識が書き手にもあったことがうかがえます。

しかし、この看板は江戸中期以降の図絵には見当たらなくなります。
林美一『江戸看板図譜』にも、板に糸状の物を垂らした「烏賊の干し物」のようなうどん屋看板は、寛延・宝暦頃(1748~63)までは、上方では使われていたが、それ以後は市中から消えて行灯型の看板に替わったと記します。
江戸看板図譜 (林美一 著) / 文生書院 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

研究者は次のように、うどん屋看板の変遷をまとめます
1 うどん屋看板変遷図
図9は、17~18世紀頃のうどん屋看板を時代順に並べたものです。上辺が丸みを帯びた「櫛形」の方が古く、尖頭形や長方形で文字を入れた「額形」が後からできたと研究者は考えているようです。そして江戸中期になると、後者が主流になります。糸状の部分は簡略化し、糸というより短冊的なものに変化する傾向があるようです。
「四条河原図巻」の⑤⑥は、製麺を行ううどん屋と祇園社門前の茶屋のうどんの看板です。前者は板部分が細く、後者は尖頭形で板の幅が広い「額型」です。新旧二つのタイプを絵師は店に応じて描き分けられたのでしょう。しかし、時代の経過と鞆に市中では行灯型の文字看板⑦にとって替わられます。そして、糸状の物を下げた旧来の看板は、街道沿いの宿場に残るという変遷を経たと研究者は整理します。
ちなみに⑩の金毘羅大祭図屏風に描かれたうどん屋の看板は、変遷上の一番新しいタイプになるようです。
 それでは、うどん屋看板は、どこで、どのようにして誕生したのでしょうか。
  堀越喜博『満州看板往来』 (1940年刊)には、中国奉天のうどん屋( 「切面舗」 )の看板が3つ載せられています。
1 うどん屋の看板 中国jpg
板状の部分が、 
①一つは模様(蝙蝠)の木彫り
②一つは「金絲切面」(面の異体字で麺の意)
③一つは「銀絲切面」 と書かれている。
中国東北部以外で、この看板が使われていたかを調べたところ、20世紀前半の北京でも、この看板は数多く見られたことが分かっているようです。江戸時代の日本のうどん屋看板と、中国のものは、どこかで共通の起源を持つことは間違いないようです。問題は、いつどのような形で、この看板が日本に伝わったのかです。中国などの風俗画を詳しくみていく他ないのでしょうが、その経緯はまだ分からないようです。
最後に研究者が挙げるのは、「うどん屋と暴力」の問題です。
前回見たように、近世初期風俗画には、うどん屋の主人が暴力的な人間として描かれていることが多いのです。その理由として考えられることを挙げると
①半裸で「のし棒」を使い、力を込めて麺を作る、という所から、棒をもって振り回して暴れるというイメージが出てきた。
②「新規の外食産業」に好奇の目が集まり、勢い偏見も生まれた
 急速に流行し始めたうどん屋に、偏見が集まったのかも知れません。より重要なのは、暴力的場面を好む風潮が当時はあった、ということです。前回に紹介した「築造図屏風」は、慶長12年(1607)の駿府城築城を描いたとされていますが、うどん屋が玉をこねる前では、大勢の人夫達が入り乱れて喧嘩シーンが描かれています。安土桃山時代の風俗画には熱気ある喧嘩シーンは人気があってよく描かれたようです。

1 うどん屋 築造屏風図けんか

以上をまとめておきます。
一七世紀の初頭に、城下町などの近世都市の建設が一気に進み、労働者が大量に流入します。そして、単身赴任者でもあった人夫たちを当て込んだ「外食産業」が、東西の別なく流行します。そのトップバッターとして現れたのが、「烏賊の干し物」のような看板とともに現れたうどん屋だったようです。しかし、江戸中期になると蕎麦屋の出現と鞆に、うどん屋の看板は市中からは姿を消し、街道の宿場の風物として残ります。それが風俗画のひとつの素材となったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
  「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年 1 月」

前回は、うどんのルーツを探ってみました。史料にうどんが登場するは次の通りでした。
①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」、
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎学林で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」として、「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」と説明しされています
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも「饂飩」とあります
ここからは「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれた「うどん」が、登場するのは14世紀半ば以降であることが分かります。つまり、空海が唐から持ち帰ったという伝説は成立しないようです。今回は、近世の絵図に「うどん屋」がどのように登場し、描かれているのかを追いかけて見ようと思います。テキストは「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年 1 月」です

  「うどん屋」が風俗画に描かれるようになるのは江戸時代になってからのようです。
江戸時代以前に描かれた「洛中洛外図屏風」には、うどん屋は登場しません。うどん屋が描かれるようになるのは国立歴史民俗博物館(歴博)が所蔵する「洛中洛外図屏風」の一つ(歴博D本、17世紀前期)が一番古いと研究者は考えているようです。
1 うどん屋 洛中洛外
     「洛中洛外図屏風」(歴博D本、17世紀前期)

ここには相国寺とおもわれる寺院の前の家に、軒に突き出した棒の先に、「うとむ」と書かれた看板が見えます。その下に細長いひもが何本もぶら下がっていて、これが当時のうどん屋の看板だったことが分かります。まるで私には「烏賊の干し物」のように見えます。
 しかし、うどん屋の内部は描かれていません。描かれているのは、店の入口で半裸の男が杓子を振り上げて怒っているのを止めにかかっている女達。その外では険しい顔の白い服を着た女が男を指さしているように思えます。研究者はこれをうどん屋の夫婦げんかと考えているようです。
1 うどん屋の看板qjpg

 戦塵の余韻さめやらぬ江戸時代の初期の風俗画には暴力的な場面もしばしば描かれます。その際に、うどん屋の主人がその役を担わされることが多いと研究者は指摘します。その背景は後に考えることにして先に進みます。

古いうどん屋の絵図として、研究者が次に挙げるのは「築城図屏風」 (六曲一隻、名古屋市博物館蔵)です。

1 うどん屋 築造屏風図

この絵図は慶長12年(1607)の駿府城築城を描いたとされ、近世城郭の築城風景を描いた資料として貴重な絵画です。制作時期は、慶長年間の中頃ころとされ、盛んに城下町建設が行われていた時代のものです。この中にも、築城工事の現場近くにうどん屋、餅屋、飯屋の三軒の飲食店が描かれています。うどん屋と分かるのは、先ほど見た「烏賊の干し物」と同じ看板がかかっているからです。
1 うどん屋2 築造屏風図

店内では、 半裸の男がのし棒で生地を伸ばし、その右では朱色の椀を手にした男がうどんををすすっています。見世棚には、外が黒で内側が朱の椀や、全体が朱の椀、盆が重ねて置かれ、栓のある樽もあります。これはお酒でしょう。うどんの他に酒も売っていたようです。
 また、ここでも店の前では喧嘩が起こっています。うどん屋の主人自体が関わっているのではありませんが、「うどん屋=暴力」というイメージがあったことがここからもうかがえます。

うどん屋の光景を、最も詳しく描いているのは 「相応寺屏風」(徳川美術館所蔵)だと研究者は指摘します。

この絵は初期の妓楼遊楽図でさまざまな遊楽の情景が描かれた近世風俗画の名作で、寛永年間(1624~44)頃のものとされます。この屏風にも、遊里の町並みの一画にうどん屋が描かれています。
店の中では、主人が上半身裸でうどんの生地を伸ばしており、その傍にうどんが入った椀がもう一つ置かれている。客の上に描かれた軒先の部分には、例の「烏賊の干し物」のようなうどん屋の看板が掛けられています。
 この絵で研究者が注意するのは、うどん屋の看板の上にさらにもうひとつサインが記されていることです。木の枝を組んだ先には、中央部分を括った形の酒林があり、その下には、ヘラ状のものが下げられ「みそ有」と書かれている。これは擂り鉢から中の物を掻き出すのに用いられる 「せっかい (狭匙、 切匙)」の形です。味噌を連想させる物として、味噌屋の看板に使用されていました。酒と味噌は、両方ともに醸造によって作られます。一つの店で扱かっているのは必然性があります。さらにそこでうどんも提供する、という営業スタイルだったことがうかがえます。当時は醤油がまだ普及していませんでした。そのためうどんの汁も、味噌味であったことを考えると説得力が増します。また、狭匙の柄の部分のまわりには円形のものが描かれています。これは酢の看板です。酒から酢が作られるので、それも販売していたことが分かります。
6「江戸図屏風」 (国立歴史民俗博物館)
江戸図屏風 | 家や学校で楽しむれきはく | こどもれきはく(国立歴史民俗博物館)

この屏風は、明暦の大火(1657)以前の江戸のことが分かる数少ない絵画資料として貴重なものです。この屏風には7軒の「うどん屋」の看板が見えるようです。まず  ①不忍池の南側を見てみましょう。
江戸図屏風(湯島、湯島天神、東照大権現宮、不忍池)
「江戸図屏風」不忍池と寛永寺 
不忍池の南には、道の両側に計七軒の店舗が描かれています。これらの店は寛永寺の参詣客や遊覧客に飲食を提供する茶店のようです。その七軒の内、三軒に例の「烏賊の干し物=うどん屋の看板」が掲げられているのが見えます。向こう側の五軒の両端と、店内は見えない手前側の一軒で、どの店も看板は竹竿で掲げらています。
1 うどん屋の看板1 不忍池 2jpg

店内が描かれた向こう側の店について詳しく見てみましょう。
1 うどん屋の看板 不忍池 2jpg

右端の店には、うどんの生地と「のし棒」が描かれ、うどん屋であること分かります。見世棚を見ると、生け花と徳利と椀、そして角樽が置かれています。酒も出す店のようです。
1 うどん屋の看板 不忍池 3jpg

左端のうどん屋には、店内に黒い角盆に乗せた赤い椀状の食器二つと小皿があります。見世棚にも同様のセットと花器が置かれています。
その右隣の店には酒林が掲げられています。そして店内には徳利と角樽、 見世棚には、赤い盃と、中が赤で外が黒の塗椀もあります。ここも酒と、うどんなどの食事も提供する店であることが分かります。
1 うどん屋の看板 不忍池42jpg
不忍池の左側のうどん屋 竹竿に掲げられた看板があげられている。 
不忍池界隈のお店は、酒も飲めるうどん屋が多かったとしておきます。

近世初期の風俗画に描かれたうどん屋について、まとめておきましょう。
①安土桃山時代の絵図には、うどん屋は登場しない。
②慶長年間の中期ころからうどん屋は描かれ始める
③店の立地としては、寺社門前、遊興地、街道沿い、普請現場、河岸などの多くの人が通る場所が多い
④営業スタイルは、酒屋および味噌・酢販売の店を兼ねていることが多い。
この時期のうどん屋は、江戸の「外食産業」 の走りだった研究者は考えているようです。
食事を提供する店舗としては、 明暦の江戸大火 (1657)からの復興とともに現れた「煮売り茶屋」が有名です。うどん屋の出現と流行は、それよりも半世紀ほど早いようです。大火後の復興で外食産業が発達したとすれば、うどん屋登場の背景は、近世都市の建設に伴う人口流入が考えられます。
1うどん

「築城図屏風」の普請場近くにうどん屋などの飲食店が描かれていることが、それを象徴していると研究者は指摘します。現場労働者は、外から流入した「単身赴任者」が多かったはずです。うどん屋などの「外食産業」発展のチャンスだったのかもしれません。「京都や大坂・江戸の以外の城下町でも、近世初期の都市の拡充と人口の流入・増大は目覚ましいものがありました。それまでの顧客を中心にした営業スタイル違った新しい飲食店が数多く現れたことが想像できます。それが酒と一緒にうどんのような簡単な食事を出したり、味噌も一緒に販売するようなお店だったと研究者は考えているようです。どちらにしても背景には、都市の膨張と都市への流入人口の増加、新たな外食産業の発展という動きが見えてきます。17世紀に入ってから突然うどん屋が現れ、普及していったのは、こんな背景があったとしておきましょう。
1うどん 『諸国道中金の草鞋』より

 元禄時代(17世紀末)に狩野清信の『金毘羅祭礼図屏風』の中にも、うどん屋の看板をかかげた店が門前町に3軒見えます。

1 金毘羅屏風の饂飩屋

1軒目は、右端です。天領の榎井方面から高松街道をやってきた頭人行列の一行が新町の鳥居をくぐったあたりです。
DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや

藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
1 うどん屋2 金毘羅祭礼屏風
2軒目は内町です。こちらでは包丁で、うどんを切っているようです。例の看板が掛かっています。
1 うどん屋3 金毘羅祭礼屏風

3軒目です。これは、何をしているのでしょうか?麺棒らしき物を持っているので、うどん玉を伸ばしているのでしょうか。ここにも、うどんを伸ばす男の上には、看板がかかっています。江戸や大坂の看板が17世紀初めの金毘羅大権現の門前町には、広まっていたことが分かります。これが讃岐で一番古い「うどん史料」になるようです。
1 うどん屋の看板jpg

ところで「烏賊の干し物」のようなうどん屋の看板は、江戸時代中頃になると京都でも江戸でも、姿を消してしまいます。そして地方の街道宿場などでしか見ることが出来なくなっていきます。どうしてなのでしょうか。それは又の機会に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「小島道裕 近世初期の風俗画に見えるうどん屋について  国立歴史民俗博物館研究報告第 200 集 2016 年
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うどんのルーツと考えられている物には、次の4つがあるようです
その一は、昆飩(こんとん)
その二は、索餅(さくべい)
その三は、饉飩(ほうとん)                            
その四は、不屯(ぶとう)
では、このうちのどれが、饂飩の原形だったのでしょうか。饂飩のルーツを探って見ることにします。テキストは羽床正明 饂飩の由緒と智泉 ことひら65号(2000年)です
伊勢貞丈が1763年から22年間にわたって書き綴った『貞丈日記』には、次のように記されます
饂飩又温飩とも云ふ、小麦の粉にて団子の如く作る也、中にはあんを入れて煮たる物なり。昆飩(こんとん)と云ふはぐるぐるとめぐりて何方にも端のなきことを云う詞なり。丸めたる形くるくるとして端なき故昆飩という詞を以て、名付けたるなり。食物なる故、偏の三水を改めて食偏に文字を書くなり。あつく煮て食する故、温の字を付けて温飩とも云ふなり。是もそふめん(素麺)などの如くに、ふち高の折敷(おしき)に入れ、湯を入れてその折敷をくみ重ねて出す也。汁並び粉酷(ふんさく)さい杯をそへて出す事、さうめんまんぢうなどの如し。今の世に温どんと云ふ物は切麺也、古のうんどんにはあらず、切むぎ尺素往来にみえたり。

ここからは次のようなことが分かります。
①温飩の原形は小麦粉の団子で、中には「あん」を入れた。
②「昆飩」と呼ぶのは、細長くてぐるぐるまきで端がないのでそう呼ばれた。
③食物であるところから三水を食偏に改めて「饂飩」になり、熱くして食べるところから「温飩」と変化した。
④今の「温飩」は「切麺」というのが正しく、昔の「うんどん」とは違うものである
⑤うどんの原形は「饂鈍」である。
  ここで私が興味深く思えるのは、①の「団子の中にあんをいれた」という所です。讃岐の正月には、あん餅入りの雑煮が出てきます。このあたりにルーツがあるのでしょうか。どちらにしても古来の「饂飩又温飩」は、素麺のような切麺ではないとあります。現在のうどんからは想像できない代物であったことがうかがえます。

近世後期の喜多村信節の随筆集の『嬉遊笑覧』には、次のように記されています。
按ずるに、昆飩、後に食偏に書きかへたるなり。煮て熱湯にひたして進むる故、此方にて一名温飩ともいひしなり。今世、温飩は名の取違へなり。それは温麺(うーめん)にて、あつむぎといふものなりといへり。鶏卵うどんといふは、麺に砂糖を餡に包みたるものなり。これらを思ふに、其のもと饂飩なりしこと知らる。名の取違へにもあらず。むかし饂飩にかならず梅干を添えて食したとあって、「昆飩」は食偏に改めて「饂飩」になり、熱湯に浸して食べるゆえに「温飩」となった。

ここからは次のような事が分かります。
①昆飩は、食偏の饂飩に書きかられたのは、煮て熱湯にひたして食べるからである
②今の温飩とは間違いで、正しくは温麺(うーめん=あつむぎ)と書くべきである。
③鶏卵うどんは、麺に砂糖の入った餡に包んだものである。
④ここからは、その根源は饂飩だったことが分かる。名前を取違へているのではない。
⑤むかし饂飩にかならず梅干を添えて食したと言われる。
⑥ここからも「昆飩」が「饂飩」になり、熱湯に浸して食べるゆえに「温飩」となった。
ここにも③④には、餡を入れただんご(餅)をお汁の中に入れて食べていたことが書かれています。
雑煮にあん餅を入れる風習に、何らかの関係があるのかと思えてきます。それはさておき、本論にもどると、喜多村信節も饂飩は「温飩」に由来すると伊勢貞丈の説を支持しています。
  そうだとすると現在のうどんのルーツは、中国・唐菓子の昆飩(こんとん)ということになります。それが「昆飩 → 饂飩 → 温飩 → うどん」と変化してきたというのです。これが戦前までの「定説」だったようです。しかし、これは現在では疑問が持たれるようになっています。
源順が930年代に著した『和名抄』は、饂飩のことが次のように記されています
 饂飩は切り刻んだ肉を水を加えて捏ねた小麦粉で包んで、熱湯で煮たものだ。そして昆飩は豚肉・葱・胡椒などを小麦粉の生地で包んで茄でた中国料理の雲呑(わんたん)のことである。

ここからは昆飩の製造過程の中に「包丁で切る」という工程がないことが分かります。しかし、うどんには「包丁で切る」工程があります。「包丁で切る」という工程を含まない饂飩をうどんのルーツにはできないと研究者は考えているようです。ここから昆飩(こんとん)は、うどんのルーツではないとします。
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次にみていくのが唐菓子の索餅(さくべい)です。
索餅は小麦粉に水を加えて捏ねて手で引き伸ばしたもの二本を撚って縄のようにして、油で揚げた菓子です。奈良時代後期には、索餅は今日の干し饂飩のようなものになり、別名を麦索といい、売買されていたようです。
『正倉院文書』に「索餅茄料」とあり、『延喜式』には「索餅料」として糖(水飴)・小豆・酢・醤・塩・胡桃子をあげています。ここからは、小豆・糖を用いて菓子として食べ、酢・醤・塩・胡桃子などで味をつけて惣莱として食べていたとようです。

索餅も手で引き伸ばしてつくられるもので、製造過程の中に「包丁で切る」という工程はありません。饂飩の原形ではなかったとしておきます。ところが室町~江戸時代に登場する索餅は、その姿を変えて細くて素麺のようなものになっています。
『多聞院日記』文明十年(1418)五月二日条には次のように記されています。
「麦ナワト云フハ素麺ノ如くナル物也」

とあります。江戸時代中期の百科辞書「和漢三才図会』にも「按ずるに索餅、俗に素麺と云ふ也」とあって、麦素(索餅)が素麺のようなものであったことが分かります。奈良時代後期にの菓子の索餅から、千し饂飩に似た麺類の索餅に「変身」していたようです。これを別名「麦索」と呼んだようです。江戸時代になっても菓子と麺類、この二つの索餅が食べられていたことがうかがえます。現在、素麺の少し太いものを冷麦と呼んでいますが、室町~江戸時代の麺類の方の索餅は、丁度現在の冷麦のようなものであったと研究者は考えているようです。
3番目の饉飩(ほうとん)を見ておきましょう。
中国で六世紀前半に成立した『斉民要術』は、饉飩(ほうとん)を
「小麦粉に調味した肉汁を加えて捏ね、親指程の大さにして、二寸程の長さに切り、手の平で薄く伸ばして、熱湯で茄でたもの」

である記します。
これが『和名抄』には「干麺方切名也」であるとして、短冊状の扁平なもので、現在の群馬県のひもかわうどんのように長い帯のようなうどんだったことがうかがえます。
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群馬のひもかわうどん

藤原頼長の日記『台記別記』には、
「仁平元年(1151))八月、左大臣で氏の長者でもある頼長が春日大社に参詣した時、参道に問口六間(約11m)の饉飩をつくるための仮の小屋を建てて、伎女十二人を配し、楽人が酎酔楽を演奏するのに合わせて、伎女たちに饉飩をつくらせて、小豆の汁をそえて食べた」

とあります。この小豆の汁は糖(水飴)や甘葛(蔦の樹液を煮つめてつくった甘味料)が使われ、甘くしたことが考えられます。このように、平安末期に頼長の食べた饉飩は菓子としての性格が濃いものであったようです。
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  今でも山梨県では、小豆の汁粉の中に「ほうとう」を入れた「小豆ほうとう」をハレの日に食べる習慣があるそうです。また、ほうとうにはきな粉や飴をまぶして食べることから菓子としての性格があるようです。これは、先ほど見たように古代の貴族達が饉飩を菓子として食べていたことと関係するのかも知れないと研究者は考えているようです。

中尾佐助『料理の起源』(昭和47年)の51Pには、
中国華北ではアズキを軟らかに煮た汁の中にウドンを入れて煮込んだものも見た

あります。ここからは、華北では小豆や大角豆の汁の中に饂飩を入れて、煮込んで食べていたことが分かります。日本でも平安末期に頼長は、ほうとんに小豆の汁をそえて食べ、また、山梨県では今も小豆の汁粉にほうとうを入れて食べています。そして、山梨ではうどんのことを「ほうとう」と呼んでいます。ここからは、どうやらうどんのルーツは、ほうとんの可能性が高いと研究者は考えます。
最後に不屯(ぶとう)をみておきましょう。
うどん=不屯(ぶとう)起源説を紹介する記事が『四国新聞』(2009年2月8日付)に、載せられていました。要約して紹介します。
美作大学大学院の奥村彪生氏は、「日本のめん類の歴史と文化」と題する博士論文の中で、饂飩のルーツを次のように説明します。中国料理では饂飩は雲呑(わんたん)のことで、豚肉や葱、胡椒などを小麦粉でくるんで茄でたもので、昆飩と饂飩とは似ても似つかないものである。それに対して唐代に「不純」という切り麺があつて、これが発展したのが「切麺」で宋代に盛んにつくられた。切麺が13世紀前半に、禅宗の僧侶によって日本に伝えられた。饂飩が初めて文書に登場するのは、南北朝時代の1351年の法隆寺の古文書で「ウトム」とある。その後、饂飩に関する記述は、京都の禅寺や公家の記録に頻出するようになる。饂飩は13世紀の終わり頃に、京都の禅寺で発明された。初めて記録に登場するのは奈良だが、その後の記録の多くが京都に集中しているところから、饂飩の発祥の地は京都だ。
 江戸時代の記録によると、饂飩は茄でて水洗いしてから、熱湯につけて、つけ汁につけて食べていた。現在の「湯だめ」である。禅宗の僧侶が伝えた「切麺」は中細で、湯だめにすると伸びてしまうので、伸びない太い切り麺として発明されたのが饂飩である。不純は湯につけて食べるところから「温屯」になりになり、温の三水を食偏に改めて「饂」と作字し、混飩の「飩」を参考にして「饂飩」と書くようになった(「追跡シリーズ」四五七号、うどんのルーツに新説 中世京都の禅寺で誕生?)。
 ここで奥村氏は饂飩の起源は、13世紀前半に禅僧にによってもたらされた切麺にあると主張します。しかし、これには次のような反論もあるようです。
①切麺という名称があるのにわざわざ「不純」を引っ張り出してうどんの語源とする必要があるのか。
②つけ汁につけて食べるようになったのは醤油が広く普及した近世中期以降の食べ方で、中世にはつけ汁の食べ方はない。なぜなら醤油がなかったから。

中世から近世前期まで、饂飩は味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、饂飩も醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。ここからも「うどん=不屯(ぶとう)」説は成立しないと研究者は考えているようです。
 
うどんの歴史文書の初見記録は奈良です。しかし、その後の記録の多くは京都に集中しています。
ここからは、うどんは奈良で発明されて、京都にいち早く伝えられ、京都から全国各地に広がっていったという仮説が考えられます。
平安時代の日本では、中国のように肉食が普及していません。そのため饉飩(ほうとん)も肉汁は使わないで、小麦粉に水を加えてこねて薄く伸ばし、包丁で短冊状に切って熱湯でゆでて、醤や塩で味をつけて惣莱として食べたり、糖や甘葛を用いて甘くした小豆の汁をそえて菓子として食べていたとしておきましょう。
 うどん誕生の背景を、羽床氏は次のようにストーリー化します。
 鎌倉時代に禅宗の僧侶が、点心(食事が朝・晩の二食であった時代に、二食の間に食べた軽い食事)を伝えます。そして、点心の習慣が盛んになった時に、かつては良く食べられいたのに忘れられたようになっていた饉飩(ほうとん)が再び注目を集めるようになり、点心として食べるようになります。饉飩は作業手順が複雑で、簡単につくれるものではありませんでした。それが南北朝時代前半に、奈良のある僧侶が作業工程の効率化を生み出します。それは、水を加えてよく捏ねた小麦粉を薄く伸ばして、乾いた小麦粉を振り掛けて、くっつかないようにしてから折りたたんで包丁で切って、効率よく作れるようにするというものです。これを「ほうとん」と呼んでいました。それがいつしか「ほ」が失われて、「うとん」とか「うとむ」と呼ぶようになります。さらに「と」を濁らせて、「うどん」とか「うどむ」と呼ぶようになります。さらに、うどんは温めて食べるところから「温飩」と書くようになり、食物であるところから三水を食偏に改めて「饂飩」と書くようになったというのです。

 うどんは、小麦粉に水を加えて良く捏ね、様々に成形して加熱した食品です。これは中国の食文化の影響下で成立した食品で、製造過程の中に「包丁で切る」という工程を含むのは唐菓子の饉飩だけです。これが最もうどんのルーツにに近いし、うどんの語源も饉飩(ほうとん)である可能性が高いと羽床氏は考えているようです。
うどんが登場するのは、中世以降のこと 
歴史的な文書にうどんが登場するのを挙げて見ましょう
①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎学林で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」として、「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」と説明
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも「饂飩」
以上から14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは、「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。

讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
DSC01341 金毘羅大祭屏風図 うどんや

元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、うどん屋の看板をかかげられています。中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。この店以外にも2軒のうどん屋が描かれています。


1 うどん屋の看板 2jpg

讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。後に「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。
 江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)など、特別な日の御馳走として、各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れてつけ汁につけて食べ、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。
 それでは、うどんは讃岐へいつ伝えられたのでしょうか。先ほど見たように、「うどん」が日本に登場するのは室町後期の奈良地方です。それが京都で流行し、讃岐に伝えられるのは安土桃山時代と研究者は考えているようです。逆に言うと、空海の時代にはうどんは日本にはなかったのです。うどんについては、讃岐では「空海が唐から持ち帰った」という「空海伝説」が語られています。それを最後にみえおくことにします。
空海の弟子・智泉は讃岐国にうどんをを伝えたか?    
うどんの製法を智泉が讃岐に持ち帰ったというのです。智泉は滝宮天満宮(その別当寺の滝宮竜燈院)出身の僧侶と云われてきました。そのため滝宮を「うどん発祥の地」とする説があるようです。
木原博幸編「古代の讃岐』(昭和63美巧社)256頁には、智泉について次のように記されています。
智泉は延暦八年(789)に讃岐国で生まれた。父は滝宮天満宮の宮司であった菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉であった。九歳の時、空海に伴われて大安寺に入り勤操大徳に師事して延暦23年に剃髪受戒した。天長元年(824)九月には、高雄山寺の最初の定額僧の一人に加えられたが、健康にすぐれず、翌二年二月十四日、37歳の若さで高野山東南院で没した。

「讃岐に生まれた人間。空海 下」(四国新聞『オアシス』第337巻、2005五年、四国新聞社発行)には、
智泉は、滝宮竜燈院(現在の滝宮天満官)に嫁いだ空海の姉の子であり、大師が九歳から奈良に連れてゆき、仏教の勉強をさせた程の器。(中略)
空海は智泉を、将来は教団を任せられる人物のひとりと考えていましたが、健康を害して三十七歳で死去。
  両方とも、智泉を滝宮天満官の宮司家である菅原氏の出身で、その母を空海の姉と記します。しかし、この説には無理があると羽床氏は指摘します。なぜなら智泉が生まれたのは延暦八年(789)で、菅原道真が活躍するのはその百年後のことです。太宰府に左遷された菅原道真がなくなるのは延喜三年(903)です。つまり、智泉の時代には滝宮天満宮はまだありません。存在しない滝宮天満宮の官司家の出身することはできません。また、智泉の母を空海の姉とするのも、根拠がありませんし、年齢的にも無理があるようです。「智泉を滝宮天満宮の宮司家や竜燈院の出身とする説は根拠のない虚説」「智泉は滝宮天満官の官司家や竜燈院の出身ではなかつたし、その母が空海の姉というのも嘘」と厳しく批判します。
 さらに空海が日本にうどんを伝えたという俗説も、饂飩は南北朝時代前半に誕生したもので、空海の時代にはないものであって、空海が伝えたものではないことは、資料で見てきた通りです。智泉の生きた頃にはうどんは、まだ生まれていないのです。空海や智泉の生きた頃には、現在の干し饂飩に似た素索(索餅)や饂飩の原形の饉飩はあったことは資料から裏付けられます。しかし、麦索は饂飩に似ていても饂飩ではなく、空海や智泉を饂飩を伝えた人物とすることはできないのです。「滝宮=饂飩発祥の地」説は、資料に基づいたものではない「虚説」と専門家は批判します。

以上をまとめておくと、うどんはそのルーツを中国に持ち、それがいまのような形になるのは中世以後のことで、付け麺で食べられるようになるのは、醤油が普及する江戸時代後期になってからのようです。

参考文献 羽床正明 饂飩の由緒と智泉 ことひら65号(2000年)
関連文献 

『随想 膝の上』第8話 かけうどん
鮠沢 満 作
イメージ 1
 
土曜日もしくは日曜日は私の「うどんデー」。
『サラダ記念日』ならぬ『うどん記念日』と呼んでもいい。
毎土、日曜日が記念日というのもおかしな話だが、これには訳がある。
コーヒーを飲む人がカフェイン中毒になるのと同じで、私は一種のうどん中毒である。
毎日でもうどんを食べようと思えば食べられる。
それも一日に三度。
しかしそこをぐっと我慢して一週間に一度と決めている。
なぜなら、うどん通というのは、
うどんだけでなくだし(つゆ)まで完全に味わい尽くして初めて通と言える。
そういう持論を持っているからである。
ラーメン通が最後のスープの一滴まで味わい尽くすのと同じである。
そういうことで、うどん屋へ行くと必ずだしまで飲み干していた。
毎日うどん屋へ足繁く通って、毎日だしまで飲み干していたのでは、これは塩分の摂りすぎで、
少し血圧が高い私にしてみれば、さらに血圧を高くすることにもなりかねない。
だからうどんは一週間に一度と決めているのである。
そういう訳で、一週間ぶりにうどんを味わえる土、日曜日は、私にとっては記念日なのである。
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 私はいつの頃からか、自称『自然愛好家倶楽部』と『麺類捜査探偵団』の会長に収まっている。
と言っても会員は私一人だけ。
勝手に設立して、勝手に命名し、そして勝手に活動している。
準会員らしき者が二人いるが、それは仕方なく私に付き合わされる妻と長女である。
数年前までは、ねじが吹っ飛んだ機械仕掛けのおもちゃのように、
無軌道にうどんを追って香川県中を東奔西走していた。
まさに「うどん行脚」である。
うどんだけではない。
麺類なら何でもこいであった。
ラーメン然り、パスタ然り。
現在は小豆島に住んでいるので、当然、素麺となる。
とにかく、誰かが「あそこのうどんはうまい」と世間話をしているのを小耳に挟んだだけで、
その次の土曜日か日曜日にはそこへ出かけているという有様だった。
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 しかし、そうやって噂に上るうどん屋とか、最近のうどんブームに乗って
雑誌に取り上げられる多くのうどん屋というのは、確かに噂にたがわずおいしいことは認める。
だが、と言いたい。
そのほとんどはマスコミに名前が出たということで、少なからず商業路線を意識してか、
うどん屋という昔懐かしいほっとする情緒というものがない。
そもそもうどんというのは、いつでも、どこでも、それも気軽に食べられるというのが、
ここ讃岐にあっては絶対必要な条件なのである。
それとどこか素人っぽい雰囲気、
もしくは現在我々が忘れかけている田舎っぽい感触が味わえる場所なのである。

ところが、バスをチャーターして観光客が大挙して押し寄せたり、
店のテーブルに予約と札が立っていたりするのを見ると、もうこれはうどん屋ではない。
さしずめうどんレストランとでも言えようか。
 イメージ 4
私の実家のそばに、脳梗塞を患いリハビリを兼ねてうどんを打っているおやじさんがいる。
元々は、奥さんがどうしてもうどん屋をやりたいということで始めたのが事の発端だった。
奥さんの思いが叶って、ようやく小さいがこぎれいなうどん屋を開店したものの、
運命のいたずらか、奥さんは癌を患い開店して一年半くらいで他界してしまった。
さぞかし悔しい思いをしたことだろう、奥さんも、また遺されたおやじさんにしても。
不幸はさらに続いた。
奥さんが他界したことも原因していたのか、今度はおやじさん自身が脳梗塞で倒れた。
命は取り留めたものの、手足に麻痺を残した。
 退院して、おやじさんはリハビリのつもりでうどんを打ち始めた。
そして四肢の動きにも少しずつ改善が見られ、天国の妻への感謝の気持ちで一大決心をした。
 一年ほど閉めていたうどん屋に、ある日暖簾が掛かった。
「またうどん屋を始めたから、気が向いたら寄ってよ」
 それは商売気のない一声だった。
いや、むしろ自分の打ったうどんが果たして客の口に合うかどうかまだ思案している、
そんな口調であった。
つまり、今思い返してみると、一度食して商売になるかどうか味見してくれ。
そう言いたかったに違いない。
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 そのうどん屋、営業時間は午前十一時から午後の二時まで。
おやじさんの体力からして、それ以上営業するほどまだうどんが打てないのだ。
本当はもっとうどんを打ってできるだけ多くの人に喜んでもらいたいはずなのだ。
実は、亡くなった奥さんが何故うどん屋をしたかったか。
それはまさに商売抜きでできるだけ多くの人に喜んでもらいたい、ただそれだけだったのだ。
清廉で無欲。
老後の暮らしに困らない老夫婦の楽しみごととしては、
美しすぎる余生の送り方になるはずだった。

「このつゆ、鰹がよくきいてておいしい。むかし懐かしい味ね」
妻の言葉を借りればそうなる。
まさにそのとおりだった。
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 以後、土曜日か日曜日のどちらかは、おやじさんのうどんを食べに行くようにしている。
注文は、かけうどん。
それも打ち立てを暖めずにそのままつゆをかけるやつ。
讃岐でうどんの通は生醤油うどん。
でもだしを味わいたい私はかけうどんとなる。
 今は亡き植草甚一は、日曜日の午後は読書と散歩と言ったが、
私の場合は、土曜と日曜の昼はかけうどん。そして午後は自然散策。
 とにかくうどんを食べているときが、私の至福のひとときである。
つるっと喉の奥をなめらかに滑り落ちるうどん一本一本に、亡くなった奥さんの想いある。
鰹だしのきいたつゆに奥さんの優しさがある。
そしてどんぶりの中に奥さんの笑顔がある。
これでかけうどん一杯百円なり。
う~ん、これは安い贅沢だ。 
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