讃岐では宵法事や膳部(非時)にうどんやそばなどの麺類が出されています。私の家でも、二日法事の時には、近所にうどんを配ったり、法事にやってきた親族には、まずうどんが出されて、そのあと僧侶の読経が始まりました。法事に、うどんが出されるのは至極当然のように思っていましたが、他県から嫁に入ってきた妻は「おかしい、へんな」と云います。
青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家
それでは讃岐にはいつ頃から法事にうどんが出されるようになったのでしょうか。それを青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家の記録で見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

それでは讃岐にはいつ頃から法事にうどんが出されるようになったのでしょうか。それを青海村(坂出市)の大庄屋・渡辺家の記録で見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。
近世前期まで、うどんは味噌で味をつけて食べていたようです。
なぜなら醤油がなかったからです。醤油は戦国時代に紀伊国の湯浅で発明されます。江戸時代前期には、まだ普及していません。江戸時代中期になって広く普及し、うどんも醤油で味をつけて食べるようになります。醤油を用いた食べ方の一つとして、出しをとった醤油の汁につけて食べる方法が生まれます。つまり中世には、付け麺という食べ方はなかったようです。これは、そばも同じです。醤油の普及が、うどんの消費拡大に大きな役割を果たしたことを押さえておきます。
歴史的な文書にうどんが登場するのを見ておきましょう。
①14世紀半ばの法隆寺の古文書に「ウトム」
②室町前期の『庭訓往来』に「饂飩」
③安土桃山時代に編まれた「運歩色葉集』に「饂飩」
④慶長八年(1603)に日本耶蘇会が長崎で刊行した「日葡辞書』は「Vdon=ウドン(温飩・饂飩)」で、次のように記します。
「麦粉を捏ねて非常に細く薄く作り、煮たもので、素麺あるいは切麦のような食物の一種」
⑤慶長15年(1610)の『易林本小山版 節用集』にも14世紀以降は「うとむ・うどん・うんとん・うんどん」などと呼ばれ、安土桃山以降は「切麦」と呼ばれていたようです。きりむぎは「切ってつくる麦索」の意で、これを熱くして食べるのをあつむぎ、冷たくして食べるのをひやむぎと呼んだようです。
ここでは、うどんが登場するのは、中世以降のことであることを押さえておきます。 つまり、うどんを空海が中国から持ち帰ったというのは、根拠のない俗説と研究者は考えています。
讃岐に、うどんが伝えられたのはいつ?
元禄時代(17世紀末)に狩野清信の描いた上の『金毘羅祭礼図屏風』の中には、金毘羅大権現の門前町に、三軒のうどん屋の看板をかかげられています。

金毘羅祭礼図屏風のうどん屋
中央の店でうどん玉をこねている姿が見えます。そして、その店先にはうどん屋の看板がつり下げられています。

藁葺きの屋根の下には、うどん屋の看板が吊されています。上半身裸の男がうどん玉をこねているようです。その右側の店では、酒を酌み交わす姿が見えます。うどんを肴に酒を飲むこともあったのでしょうか。街道には、頭人行列に参加する人たちが急ぎ足で本宮へと急ぎます。
讃岐では、良質の小麦とうどん作りに欠かせぬ塩がとれたので、うどんはまたたく間に広がったのでしょう。
「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。
「讃岐三白」と言われるようになる塩を用いて醤油づくりも、小豆島内海町安田・苗羽では、文禄年間(16世紀末)に紀州から製法を学んで、生産が始まります。目の前の瀬戸内海では、だしとなるイリコ(煮千し)もとれます。うどんづくりに必要な小麦・塩・醤油・イリコが揃ったことで、讃岐、特に丸亀平野では盛んにうどんがつくられるようになります。和漢三才図会(1713年)には、「小麦は丸亀産を上とする」とあります。讃岐平野では良質の小麦が、この時代から作られていたことが分かります。
江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になります。
氏神様の祭礼・半夏生(夏至から数えて11日目で、7月2日頃)などは、田植えの終わる「足洗(あしあらい)」の御馳走として各家々でつくられるようになります。半夏生に、高松市の近郊では重箱に水を入れてその中にうどんを入れて、つけ汁につけて食べたり、綾南町ではすりばちの中にうどんを入れて食べたといいます。
坂出青海村の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されています。
慶応4年の13回忌の法事には「温飩粉二斗前」(20㎏)が準備されています。
明治29年(1896)東讃岐の仏事史料には、次のように記します。
うとん 但シ壱貫目ノ粉二而 玉六十取 三貫目ニテ十二分二御座候
ここからは一貰目(3,75㎏)の小麦粉で60玉(一玉の小麦粉量63㌘)、3貫目の小麦で180玉を用意しています。渡辺家が、準備したうどん粉は20㎏なので約330玉が作られた計算になります。そばも、そば粉一斗を同じように計算すると約260玉になります。うどんとそばを合計すると590玉が法事には用意されていたことになります。参列者全員にうどんが出されていたのでしょう。
その前の文久元年(1861)の仏事では、「一(銀) 温飩粉 二斗五升 但揚物共」とあるので、揚物の衣用の温鈍粉を除いても約300玉以上のうどんが作られ、すし同様に一部は周辺の人々への施与されています。現在のうどんは一玉の重さが200㌘で、約80㌘の小麦粉が使われています。そうすると幕末や明治のうどん玉は、今と比べると少し小振りだったことになります。
ここでは幕末には、うどんやそばなどの麺類が、大庄屋の法事には出されるようになっていたことを押さえておきます。これが明治になると庶民にも拡がっていったようです。
次にうどんの薬味について見ておきましょう。
胡椒は買い物一覧に、次のように記されています。
「一 (銀)二分五厘(五分之内)温飩入用 粒胡椒」「一(銀)五分 粒胡椒代」
などの購人記録があります。胡椒は江戸初期の「料理物語(寛永20(1643年)」にも「うどん(中略)胡椒 梅」と記されています。胡椒と梅は、うどんの薬味として欠かせないものであったようです。しかし、胡椒は列島は栽培出来ずに輸人品であったので高価な物でした。そのため渡辺家では、年忌などの正式の仏事では胡椒を用いますが、祥月など内々の仏事には自家栽培可能で安価な辛子を使っています。仏事の軽重に併せて、うどんの薬味も、胡椒と辛子が使い分けられていたことを押さえておきます。

現在のうどんの薬味と云えば、ネギと生姜(しょうが)です。
8世紀半ばの正倉院文書に、生姜(しょうが)は「波自加美」と記されます。生姜は、古代まで遡れるようです。江戸時代の諸国産物を収録した俳書『毛吹草』(正保2(1638)年)には、地域の特産物として、生姜が「良姜(伊豆)、干姜(遠江・三河、山城)、生姜(山城)、密漬生妾(肥前)」として記されています。また『本朝食鑑』(元禄10(1697)は、生姜は料理の他に、薬効があって旅行に携行するとこともあることが記されています。
生姜は近世の讃岐では、階層を越えてよく使われた薬味でした。
丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)にも、生姜は出てきます。生姜の料理への利用については、鮪、指身などの生物料理に「辛味」「けん」として添えられました。 以上から生姜は、日常的な薬味として料理に使われていたようです。それがうどんの薬味にも使われるようになったとしておきます。
以上をまとめておきます
丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)にも、生姜は出てきます。生姜の料理への利用については、鮪、指身などの生物料理に「辛味」「けん」として添えられました。 以上から生姜は、日常的な薬味として料理に使われていたようです。それがうどんの薬味にも使われるようになったとしておきます。
以上をまとめておきます
①近世前期までは、うどんは味噌で味をつけて食べていた。
②だし汁をかけて食べるようになるのは、醤油が普及する江戸時代中期以後のことである。
②だし汁をかけて食べるようになるのは、醤油が普及する江戸時代中期以後のことである。
③『金毘羅祭礼図屏風』(元禄時代(17世紀末)には、三軒のうどん屋が描かれているので、この時期には、讃岐にもうどん屋があったことが分かる。
④江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になり特別な食べ物になっていく。
⑤大庄屋の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されている。
⑥明治になると、これを庶民が真似るようになり、法事にはうどんが欠かせないものになっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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④江戸時代後半になると、讃岐ではうどんはハレの日の食べ物になり特別な食べ物になっていく。
⑤大庄屋の渡辺家でも幕末になると宵法事や非時にはうどんやそばが出されている。
⑥明治になると、これを庶民が真似るようになり、法事にはうどんが欠かせないものになっていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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私はいつの頃からか、自称『自然愛好家倶楽部』と『麺類捜査探偵団』の会長に収まっている。
と言っても会員は私一人だけ。
勝手に設立して、勝手に命名し、そして勝手に活動している。
準会員らしき者が二人いるが、それは仕方なく私に付き合わされる妻と長女である。
数年前までは、ねじが吹っ飛んだ機械仕掛けのおもちゃのように、
無軌道にうどんを追って香川県中を東奔西走していた。
まさに「うどん行脚」である。
うどんだけではない。
麺類なら何でもこいであった。
ラーメン然り、パスタ然り。
現在は小豆島に住んでいるので、当然、素麺となる。
とにかく、誰かが「あそこのうどんはうまい」と世間話をしているのを小耳に挟んだだけで、
その次の土曜日か日曜日にはそこへ出かけているという有様だった。
しかし、そうやって噂に上るうどん屋とか、最近のうどんブームに乗って
雑誌に取り上げられる多くのうどん屋というのは、確かに噂にたがわずおいしいことは認める。
だが、と言いたい。
そのほとんどはマスコミに名前が出たということで、少なからず商業路線を意識してか、
うどん屋という昔懐かしいほっとする情緒というものがない。
そもそもうどんというのは、いつでも、どこでも、それも気軽に食べられるというのが、
ここ讃岐にあっては絶対必要な条件なのである。
それとどこか素人っぽい雰囲気、
もしくは現在我々が忘れかけている田舎っぽい感触が味わえる場所なのである。
ところが、バスをチャーターして観光客が大挙して押し寄せたり、
店のテーブルに予約と札が立っていたりするのを見ると、もうこれはうどん屋ではない。
さしずめうどんレストランとでも言えようか。
私の実家のそばに、脳梗塞を患いリハビリを兼ねてうどんを打っているおやじさんがいる。
元々は、奥さんがどうしてもうどん屋をやりたいということで始めたのが事の発端だった。
奥さんの思いが叶って、ようやく小さいがこぎれいなうどん屋を開店したものの、
運命のいたずらか、奥さんは癌を患い開店して一年半くらいで他界してしまった。
さぞかし悔しい思いをしたことだろう、奥さんも、また遺されたおやじさんにしても。
不幸はさらに続いた。
奥さんが他界したことも原因していたのか、今度はおやじさん自身が脳梗塞で倒れた。
命は取り留めたものの、手足に麻痺を残した。
退院して、おやじさんはリハビリのつもりでうどんを打ち始めた。
そして四肢の動きにも少しずつ改善が見られ、天国の妻への感謝の気持ちで一大決心をした。
一年ほど閉めていたうどん屋に、ある日暖簾が掛かった。
「またうどん屋を始めたから、気が向いたら寄ってよ」
それは商売気のない一声だった。
いや、むしろ自分の打ったうどんが果たして客の口に合うかどうかまだ思案している、
そんな口調であった。
つまり、今思い返してみると、一度食して商売になるかどうか味見してくれ。
そう言いたかったに違いない。
そのうどん屋、営業時間は午前十一時から午後の二時まで。
おやじさんの体力からして、それ以上営業するほどまだうどんが打てないのだ。
本当はもっとうどんを打ってできるだけ多くの人に喜んでもらいたいはずなのだ。
実は、亡くなった奥さんが何故うどん屋をしたかったか。
それはまさに商売抜きでできるだけ多くの人に喜んでもらいたい、ただそれだけだったのだ。
清廉で無欲。
老後の暮らしに困らない老夫婦の楽しみごととしては、
美しすぎる余生の送り方になるはずだった。
「このつゆ、鰹がよくきいてておいしい。むかし懐かしい味ね」
妻の言葉を借りればそうなる。
まさにそのとおりだった。
以後、土曜日か日曜日のどちらかは、おやじさんのうどんを食べに行くようにしている。
注文は、かけうどん。
それも打ち立てを暖めずにそのままつゆをかけるやつ。
讃岐でうどんの通は生醤油うどん。
でもだしを味わいたい私はかけうどんとなる。
今は亡き植草甚一は、日曜日の午後は読書と散歩と言ったが、
私の場合は、土曜と日曜の昼はかけうどん。そして午後は自然散策。
とにかくうどんを食べているときが、私の至福のひとときである。
つるっと喉の奥をなめらかに滑り落ちるうどん一本一本に、亡くなった奥さんの想いある。
鰹だしのきいたつゆに奥さんの優しさがある。
そしてどんぶりの中に奥さんの笑顔がある。
これでかけうどん一杯百円なり。
う~ん、これは安い贅沢だ。 
