瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 讃岐の供応食

      
中世以降になると、包丁諸流が奥義を書き伝えた料理伝書を残すようになります。伝書は料理の式法を伝えるもので、その読者は一部の料理専門家など少数の人々でした。また、伝書にはいろいろな故事引用が多く、神話、神道、陰陽道、儒教、仏教などによって権威付けがなされていることがその特徴とされます。その中で、魚介類の格付け(ランキング表)が登場してきます。
 鎌倉時代の『厨事類記 第□』(1295年)には「生物 鯉 鯛 鮭 鱒 雉子 成止鮭絆供幅雉為佳例。」とあり、鯛と鯉が並んでランクされています。また「徒然卓』(第118段)では、鯉が次のように記されています。

「鯉ばかりこそ、御前にても切らるヽものなれば、やんごとなき魚なり」

ここには鯉が「やんごとなき魚」として特別の魚とされ、14世紀初頭の魚ランキングでは、最上位の魚として位置づけられていたことが分かります。それでは室町期の流派相伝書に、鯉がどのように記されているのかを見ていくことにします。
① 『四條流庖丁書』(推定1489)年 
四条流包丁書・四条流包丁儀式|日本食文化の醤油を知る
「一美物上下之事。上ハ海ノ物、中ハ河ノ物、下ハ山ノ物、但定リテ雉定事也。河ノ物ヲ中二致タレ下モ、鯉二上ラスル魚ナシ 乍去鯨ハ鯉ヨリモ先二出シテモ不苦。其外ハ鯉ヲ上テ可置也。」

意訳変換しておくと
「美物のランキングについては、「上」は海の物、「中」は河ノ物、「下」は山ノ物とする。但し、鯉は「河ノ物」ではあるが、これより上位の魚はない。但し、鯨は鯉よりも先にだしても問題はない。要は鯉を最上に置くことである。」


「一美物ヲ存テ可出事 可参次第ハビブツノ位ニヨリティ出也。魚ナラバ、鯉ヲ一番二可出り其後鯛ナ下可出。海ノモノナラバ、 一番二鯨可出也。」

意訳変換しておくと
「美物を出す順番は、そのランキングに従うこと。魚ならば、鯉を一番に出す。その後に鯛などを出すべきである。海のものならば、一番に鯨を出すべし。」
「物一別料理申ハ鯉卜心得タラムガ尤可然也。里魚ヨリ料理ハ始リタル也。蒲鉾ナ下ニモ鯉ニテ存タルコソ、本説可成也。可秘々々トム云々」
 
意訳変換しておくと
特別な料理といえば、鯉料理と心得るべし。里魚から料理は始めること。蒲鉾などにも鯉を使うことが本道である。

以上は、鯉優位が明文化された初見文書のようです。
「料理卜申スハ鯉卜心得タラムガ」「里魚(鯉)ヨリ料理ハ始リタル也」などからは、鯉が最上位にランキングされていたことが分かります。また「ビブツ(美物)ノ位」とあるので、格付けの存在も明らかです。
素材に手を触れずに調理する「大草流包丁式」 - YouTube
 大草流包丁式の鯉さばき

 ①『大草殿より相伝之聞古』(推定1535~73)
「一式三献肴之事 本は鯉たるべし 鯉のなき時は名吉たるべし。右のふたつなき時は、鯛もよく候」

意訳変換しておくと
「一式三献の肴について、もともとは鯉であるべきだ。鯉が手に入らないときに名吉(なよし:ボラの幼魚)にすること。このふたつがない時には、鯛でもよい。

一式三献とは出陣の時、打ちあわび、勝ち栗、昆布の三品を肴に酒を三度づつ飲みほす儀式のことで、これを『三献の儀(さんこんのぎ)』と呼びました。以後は三献が武士の出陣・婚礼・式典・接待宴席などで重要な儀式となります。そこでは使われる魚のランキングは「鯉 → ボラの幼魚 → 鯛」の順になっています。
 
②「大草家料理吉」推定(1573~1643年)
「式鯉二切刀曲四十四在之。式草鯉三十八。行鯉ニ三十四刀也.(下略)」

  ③ 『庖丁聞吉』推定1540~1610)
「出門に用る魚、鯛、鯉、鮒、鮑、かつほ、数の子、雉子(きじ)、鶴、雁の類を第一とす。」
「一、三鳥と言は、鶴、雉子、雁を云也 此作法にて餘鳥をも切る也」
「一、五魚と言は、鯛、鯉、鱸、王餘魚(カレイ)をいふ 此作法にて餘の魚をも切る也。」
ここでは、鯉は五魚並列に位置づけられています。以上からも室町から江戸時代初期までは、魚介類の最上級は鯉であったことが分かります。
古文書 鶴庖丁之大事-魚の部・鳥の包丁の事 絵入1枚モノ 明治頃 : 古書 古群洞 kogundou60@me.com  検索窓は右側中央にあります。検索文字列は左詰めで検索して下さい。(文字列の初めに空白があると検索出来ません)
鶴のさばき方
次に 近世の料理伝書の鯉のランキングを見ていくことにします。
  ①『庖丁故実之書 乾坤巻』成立年不明、伝授年嘉永五年(1852)
「河魚にも鯉を第一之本とセリ」
「水神を祭可申時、鯉・鱸(すずき)・鯛、何れにても祭り可申事同然可成哉、(中略)、鯉の事欺、尤本成べし、鯛・鱸にてハ不可然、但鱸之事は河鱸にてハ苦しからすや、海鱸にてハ不可然(下略)」
「但分て鳥と云へきハ雉子之事なるべし」
意訳変換しておくと
「河魚ではあるが鯉を第一とすること。」
「水神を祭る時に、鯉・鱸(すずき)・鯛のどれにでもかまわないと言う者もいるが、(中略)、鯉を使うこと、鯛・鱸は相応しくない。但し、鱸は河鱸は可だが、海鱸は不可である(下略)」
「但し、鳥と云へば雉子と心得ること」

  ② 『職掌包丁刀註解』、伝授年嘉水五年(1852年)
「包丁手数職掌目録 右三十六数は表也 (中略) 右之外三拾六手之鯉数を合て目録ヲ定、表裏の品ヲ定て習之也」
「一夫包丁は鯉を以テ源トス、(中略)、凡四條家職掌庖丁ハ鯉を第一トス、雑魚雑鳥さまざまに、猶他流に作意して切形手数難有卜、皆是後人の作意ニよつてなすもの也、然共、鱸・真那鰹・鯛・雉子・鶴・雁ハ格別の賞翫也、是又従古包丁有し事上、(下略)」
「一夫包丁ハ鯉ヲ源トス、鯉鱗の長龍門昇進ノ徳有魚也(下略)」
「鯛 一延喜式二此魚を平魚卜云、国土平安の心ヲ取捨日本各々祝儀二も第一賞翫二用之也」
  意訳変換しておくと
「包丁手数職掌目録 これは36六数を表とする (中略) この外に36手の鯉数を合せて目録を定めています。表裏の品を定めてこれを習う」
「包丁は、鯉が源である。(中略)、四條家の職掌庖丁は、鯉を第一とする。雑魚雑鳥がさまざまに、他流では用いられ、形や技量が生まれてきたが、これは皆後世の作意である。しかし、鱸・真那鰹(なまがつお)・鯛・雉子・鶴・雁は格別の賞翫である。これは伝統ある包丁の道でもある。
(下略)」
「包丁は鯉が源である、鯉の鱗は、長龍門を登った徳のある魚である(下略)」
「鯛については、延喜式でこの魚を平魚と呼んで、国土平安の心を持ち、日本のさまざまな祝儀でも第一の賞翫として用いられる。

  これらの伝書は嘉永4年から6年にかけて、飯尾宇八郎より甲斐芳介へ伝授されたものです。この中で「職掌庖丁刀註解』は、何度も鯉を「第一の魚」としています。鯉を第一としつつ「然共、鱸・真那鰹・鯛・雉子・鶴・雁ハ格別の賞翫也、」と鯛なども同列に置きます。さらに、鯛を「祝儀二も第一賞翫二用之也」と祝儀の魚と位置づけるようになります。つまり、鯉の絶対的な優位性は見られなくなり、鯛に並ばれている感じがします。

④ 『料理切方秘伝抄」万治二年(1659)以前成立・四条家由部流の秘伝書     
「一鯛十枚 鮒十枚(喉・唯)何ぞ名魚はこんの字を人て書物也」
「二 唯鯉 一二つ鯉は四条家の秘伝也」
この書も、鯉の鱗の数を切り方の秘伝の数になぞった「三十六之鯉の秘伝」と記されていて、鯉優位を示します。 『料理切方秘伝抄」については、研究者は次のように評します。

「本書は、専門家の包丁人ばかりでなく、公家、武家また裕福な町人、上級文化人の間で読まれたのであろうか、その(端本)流布状態は、当初筆者が考えていた以上に広範囲に及んでいた」

ここからは、中世においては一部特定の人々のものであった伝書が広く流布されていたことを指摘します。

鳥魚料理指南
鳥魚料理指南
⑤『割烹調味抄』亨和2年(1803)以降成立。
ここには250種の料理の製法が載せられていますが、鯉の優位を説く記述はありません。その要因として、「伝書の内容の改変」があったことを研究者は指摘します。
この他にも、近世後半になると次のように鯉に対する否定的な評価が増えてきます。加賀藩四條家薗部流の料理人舟本家の近世成立の「料理無言抄」(享保14年(1729)
「鯉の鮨賞翫ならず。認むべからず」「鯉鮪賞翫ならず。」

「式正膳部集解』、安永5年(1776)成立
「小川たゝきの事 鯉は賞翫なるを以饗応にかくべからず」

御料理調進方』、慶応3年(1866)以前成立)
「塩鯉。江戸にては年頭の進物にする。其外一切賞翫ならず」

以上からは鯉料理に対する否定的な見方が拡がっていたことがうかがえます。
中世に鯉が優位であったというのは本当なのでしょうか?
 将軍御成の献立から供応の場における鯉と鯛の立場を研究者は比較します。
永禄4年(1561)、将軍足利義輝三好亭御成の献立「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」の鯉と鯛の使用状況は、鯉の「こい 三膳」の一回だけに対し、鯛は「をき鯛・式三献」「鯛・二献」「たい・二膳」「たいの子・一七献」の四回です。献立には焼物、和交、鮨など調理法だけの記載もあって、全容は分かりません。
 永禄11年(1568)将軍足利義明朝倉亭御成の献立「朝倉亭御成記」でも、鯉は「鯉・三献」「汁鯉・二膳」の二回ですが、鯛は「汁鯛・四膳」「鯛の子・九献」「赤鯛・九献」の三回となっています。ここからは、使用頻度は鯛の方が頻度が高く、鯉の優位性は見られません。
天正14年(1586)~慶長4年(1599)、茶の湯隆盛のなかで催された『神離宗湛日記献立 上下』の会席での鯉と鯛を比較します。
 使用回数をみると、鯛が64回に対して、鯉はわずか7回です。太閤はじめ諸大名、利体その他歴々たる茶人が名を連ねる茶事は、会席としては同時代の最高の水準と考えられます。このなかで鯉が生物料理だけに用いられ、煮物や焼物には使用されていません。つまり、安土・桃山時代にの上層会席では、鯛が鯉を圧倒するようになっていたと言えそうです。
 この背景には「魚のランキング」よりも、「調理の適正」が魚類選択の基準になっていたことがうかがえます。あるいは魚の格付けそのものが考慮されていない可能性があります。
つぎに、上層間の美物贈答を見ておきましょう。
1430年の足利義教から貞成親王への美物贈答(五回)の魚介類には、鯛4回(25尾と2懸)、鰹(8喉)、以下、鱈、鰆、鱒、鰯、いるか、大蟹、海老、鮑、牡蛎、ばい、栄蝶、海月などです。この中で鯛と鯉を比較すると、鯛がやや多くなっています。
 文明5年(1483)、伊勢貞陸から足利義政への献上品の魚介類では、鯛25回(103尾と2折、干鯛2折)、鯉5国(11喉と2折)、以下、蛸(7回)、鰐(6回)、鳥賊(6日)、海月(4回)、鱸(3回)などが頻度が多い魚です。
この中でも鯛は、回数、数量ともに突出しています。鯛は京都の地理的条件から入手困難だったとよく言われますが、上層階層には地方から毎月多くの鯛が献上されていたことが分かります。
 「山科家の日記から見た15世紀の魚介類の供給・消費」には、
「山科家礼記」などの5つの史料に出てくるの魚類消費の調査報告書です。
そこには、淡水魚介類と海水魚介類の比較を次のように報告しています。
「教言卿記」は淡水魚介類のべ30件、海水魚介類59件
「山科家礼記』は淡水魚介類のべ194件、海水魚介類492件、
「言同国卿記」は淡水魚介類のベ132件、海水魚介類174件
これを見ると、海水魚介類の消費量の方が淡水魚介類に比べて多いようです。また、鯉と鯛の件数比較では、
「教言卿記」は、鯉6件、鯛25件
「山科家礼記」は、鯉43件、鯛155件
「言国卿記」は、鯉19件、鯛84件
で、どれも鯛が鯉を凌駕しています。鯛は全ての魚介類のなかで最も多く出てきます。ちなみに淡水魚だけに限って多い順に並べてみると
「山科家礼記」では、鮎64件、鮒58件、鯉43件
「言国卿記」では、鮎68件、鮒30件、鯉19件
ここでは鯉は淡水魚三種のなかの下位になっています。
これについて研究者は、次のように指摘します。

「中世社会においては魚介類は儀礼的、視党的な要素の強い宮中の行事食や包丁道の対象としても用いられており、これらの記述からは中世後期において魚介類相互間に人々が設定した一種の秩序意識、鯉を頂点とする秩序意識をも看取することができる」

「(しかし)山科家の日記類のなかには、こうした秩序意識の理解に直接資する記事は少なく、包丁書などで述べられる事柄と交差する点が見いだし難い」

「それぞれの魚介類の記事件数のみを物差しにすれば、鯉よりむしろ鯛の方が贈答されることが多く、重視されているように思われる」

「贈答や貫納の場面では鯛の需要が他の魚種を引き離し食物儀礼の秩序とは異なる構図がみえて興味深い,」

「ここからは「儀礼魚」としての役割が鯉から鯛へと重心移動しつつあった15世紀の現実世界を魚類記録は映し出してくれる」

つまり、従来の説では料理伝書の記述に基づいて「中世における鯉優位」が言われてきましたが、これは伝書、儀礼の場の中だけのことで、一般的な食生活の傾向とは乖離があったということになります。

以上、中世、近世の料理伝書の魚類の格付けをまとめておきます。
①中世の料理伝書には鯉優位のランキングが示されていること
②しかし、これは上層の供応、贈答などの実際の場には反映しておらず伝書の中に留まること
③伝書における中世の鯉優位は近世にも引き継がれるが、出版された伝書が改変が推定される伝書には、中世と異なる鯉への否定的な評価が見られること

それでは中世の鯉優位は、どのように形作られたのでしょうか
通説には伝書の権威付けとして引用されるのが次の中国の故事です。
「龍門(前略)此之龍は出門・津門・龍門とて三段の龍也、(中略)三月三日に魚此龍の下ニ集り登り得て、桃花の水を呑ば龍に化すと云う事あり」(包丁故実之書)

「目録之割 (前略) 鯉鱗の長龍門昇進ノ徳有魚也、毎鱗黒之点有之、鱗数片面三拾六枚有、依之衣共鱗数三拾六手の数ヲ定メ給ふ卜言ふなり」(『職掌包丁刀注解』)
 
意訳変換しておくと
「(黄河の)龍門(前略)の滝は、出門・津門・龍門の三段に流れ落ちる。(中略)三月三日に魚たちは、この滝の下に集まって、この滝を登り得た魚だけが、桃花の水を呑んで龍に変身すると伝えられる。」(包丁故実之書)

「目録之割 (前略) 鯉は龍門の滝を昇進した有徳の魚である。鱗ごとに黒い点があり、鱗数は片面で36枚ある。そのため包丁人は伝書に鱗数と同じ36手の数を定めている。(『職掌包丁刀注解』)

 ここからも「鯉の優位」を説く中世の伝書は、包丁家などに伝わる儀礼的な場面を想定して、鯉を「出世魚=吉兆魚」としていたことが推察できます。「徒然草」の「鯉ばかりこそ、御前にても明らるゝものなれば、やんごとなき魚なり」というのは、包丁人たちによって形成された評価と研究者は考えています。
今日はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」

 江戸時代後半になって婚礼宴会で使用頻度が高くなるのが烏賊(いか)、低くなるのが蛸(たこ)のようです。どうして、烏賊と蛸に「格差」が生じるようになったのでしょうか? 今回は、この疑問を追いかけることにします。テキストは、「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

烏賊と蛸は、近世の料理書などにもよく出てくる魚介類です。
料理物語 - Pasania - パセミヤ

最古の料理専門書とされる『料理物語』にも次のように料理法が記されます。
「たこは 桜いり するがに なます かまぼこ 此外色々 同いひだこ すいもの 同くもだこ さかな」

「烏賊は うのはな なます さしみ なます かまぼこ に(煮)物 青あへ 其外いろいろ」

『古今料理集』にも、烏賊、蛸のいろいろな調理法が紹介されていますが、どれも「賞翫(良い物を珍重し、もてはやすこと。物の美を愛し味わうこと。物の味をほめて味わうこと)」の食品とされています。
 『四季料理献立』には烏賊、蛸の格付けがなされ、ともに「上の中也」で「前頭(まえがしら)」に位置づけられます。
 このように近世料理書では、烏賊と蛸とは他の魚介類とは異なる形状などの類似性から、よく並記されることが多いようです。
 近世の讃岐の婚礼に出された蛸は、次のように6例があります
「いた子せんきり(汁)」
「とふ(豆腐)二手長たこ(大平)」などの汁物や煮物、
「ひかん飯たこからし(辛子)あへ(丼)」
「いかかたこかのあい物(丼)」などの和物
「けづりたこ(指身)」
「たこのすし(皿)」
ここからは蛸は、酒肴の部の料理として出されていたことが分かります。ところが明治以後になると「たこ 小くわい(大平)」「ほせたこ(指身)」の2例だけになってしまいます。
  これに対して烏賊は近世には、次の2例だけでした。
「いかかたこかのあい物(丼)」
「あられいか(壷)」
それが蛸とは対照的に明治以後になると、次のように21例に激増しています。
烏賊の木の芽和え - 作ってみました。「きょうの料理」
いかの木の芽和え
「きのめ和へいか(丼)」
「いかの青和へ (皿)」「小いか、ゆりねごまあへ (丼)」などの和物九例
「いかのつけ焼(丼)」「やきいか(硯蓋)」などの焼物、
「まきいか(さしみ)」「生いか、青のし玉子、針うど(丼)」などの刺身
「塩烹、巻いか、竹の子(丼)」「いか、かんぴよう、しいたけ(坪)」などの煮物
イカの鳴門巻き。大葉&海苔で簡単居酒屋おつまみ。 by akkeyさん | レシピブログ - 料理ブログのレシピ満載!
まきいか
ここからは烏賊には、多彩な調理法があったことが分かります。
加えて烏賊の特徴としては「巻、松笠、鹿の子、紅烏賊」など切り方、彩色などによる細工の多彩さが挙げられます。烏賊の細工の適性、装飾性は、蛸ではできまでん。これが両者を分けるポイントになったようです。
松笠イカ白焼 《冷凍》 - 共栄食品オンラインショップ - 業務用食材・業務用食品の通販
烏賊の松笠焼 
落語食堂】烏賊鹿の子焼き 2012/4/24掲載|00<メディア登場料理>|食のコラム&レシピ|辻調グループ 総合情報サイト
烏賊の鹿の子

明治以後の婚礼供応は、料理人の台頭などもあって、農村部でもプロ化が進みます。
そうなるとプロの料理人は、味だけでなく技巧、見栄えも追求するようになります。こうして讃岐の婚礼献立にも「花こち、花海老、花蕪、松風くわい、紅百合根」などの烏賊料理が登場します。これは前回見たような色とりどりで、さまざまな形をした細工蒲鉾の急速な普及と重なります。
このような傾向が、細工、彩色が容易な烏賊に追い風となります。さらに、調理法が簡便なこと、種類が多くほぼ通年使用可能なことなども増加理由として挙げられます。
 もともと烏賊のランクは、蛸と同じように「上の中」でした。
幕末以降に、江戸庶民間で盛んとなる「魚島料理仕方角力番附」、「日用倹約料理仕方角力番附」などの料理番付にも「いかきのめあい」「たこさくら煮」「すたこ」などの料理が前頭(まえがしら)の番付にあるので、格付けは中位だったことが分かります。婚礼献立では、鯛を主役にして上位の魚を使われてきました。

感動の柔らかさ♡蛸の桜煮
蛸のさくら煮
しかし、明治以降には烏賊が急速に増加していきます。この背景には、何があったのでしょうか?
 第一に考えられるのは、烏賊という素材が、料理人の技巧性、装飾性などの技術が生かせる食材だったことです。それが婚礼献立の装飾化という流れに、ピッタリとはまったようです。第2は、明治以後の婚礼供応の階層分化の進行が、価格の安い烏賊を選択する要因となったことです。例えば今から百年前の大正13(1924)年の佐野家の婚礼では「吉辰献立、三日目、道具入、むかへなど七献立中」で、烏賊料理は次のように出されています。
「いかあへもの」
「あへもの いか木の芽(道具入、二十五人)」
「あいもの(八十人位)」
「いか附焼」「内ノ分 四十人分 いか」
いかの湯引きときゅうりの和え物】2人分 | 味の兵四郎(ひょうしろう)公式通販サイト
烏賊の和え物
これを見ると烏賊料理のオンパレードです。
 佐野家の5月19日~26日までの購入記録では合計で、「いか 三〇七杯、もんご 六十四杯」とあり、多量の烏賊が購入されています。ここからは、近代婚礼では烏賊が多量に使用されるようになったことが分かります。烏賊一杯は、12,5銭~16,3銭、もんご一杯は80銭前後で購入していて、鯛などに比べると遙かに安価だったようです。

以上をまとめておきます。
①近世前半の料理書、烏賊と蛸はともに「前頭」で「上の中也」のにランクされていた。
②ところが明治以後の讃岐の婚礼では、烏賊が蛸を圧倒するようになる。
③その背景にはプロの料理人が腕が発揮できる烏賊を好んで使用するようになったこと
④烏賊が調理法が簡便なこと、種類が多くほぼ通年使用可能なこと
⑤こうして大正時代になると、見栄えの良い烏賊料理が数多く婚礼には出されるようになった。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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       秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)

練り製品(ねりせいひん)とは? 意味や使い方 - コトバンク
水産練製品

讃岐の水産練製品の古い事例としては、明和年間(1764年から1772年)の高松藩主の茶会記「穆公御茶事記 全」に、次のような練製品が登場します。
「崩し(くずし)、摘入(つみれ)、真薯(しんじょ)、半弁、王子半弁、蒲鉾、竹輪」

えび真薯
同時期の漆原家の婚礼供応では「巻はんへん、肉餅」の2種が用いられています。その後、文化年間の婚礼では「巻半弁、茶巾玉子、青はしまき、大竃鉾、白焼かまほこ、舟焼」が記されます。ここからは讃岐の水産練製品は、明和年間の18世紀後半頃に登場し、次第に婚礼儀礼などを通じて普及したと研究者は考えています。
幕末の青海村大庄屋・渡辺家の史料には、代官供応、氏神祭礼など計9回の供応献立に、次のような水産練製品が出てきます。

「摘入(つみれ)、小川崩し、すり崩し、しんじょう、半弁、結半弁、大半弁、角半弁、茶巾、小茶巾、箸巻、市鉾、角蒲鉾、小板、船焼、大竹輪、合麹」

摘入/抓入(つみれ)とは? 意味・読み方・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書
摘入(つみれ)
また、嘉永5年(1852)から安政3年(1856)の浦巡検使への供応(4回)には、次のようなものが出されています。
上分には「摘入、しん上、半弁、分鋼半弁、角半弁、竹輪、蒲鉾、鮒焼王子」
下分へは「摘入、半弁、竹輪、蒲鉾」
ここからも幕末には水産練製品が大庄屋などの上層農民に定着していたことが見えてきます。
以下明治以後の讃岐の庄屋で使われている水産練製品を挙げておきます。
①漆原家の婚礼(明治11年)では、以下の12種類の水産練製品
「進上、白子進上、炙十半弁、小判型半弁、茶巾、蒲鉾、舟焼、青炙斗玉子、養老王子、ぜんまい崩し、生嶋崩し、柏崩し」

②中讃の本村家の婚礼儀礼(明治期)には、多量の水産練製品
「生崩し十五杯、白玉九十九個、半弁(丸半弁)四一本、蒲鉾(蒲鉾圧文板)一六七枚、茶巾 十五枚、箸巻(青箸巻)六七本、生嶋崩し十八枚、藤半弁一七枚、相中蒲鉾八枚、花筏四〇枚、合麹二十枚」

ここでは、いろいろな形に成形、彩色した細工蒲鉾類が数多く使われるようになっていることが分かります。
  ③本付家史料は婚礼だけでなく、厄祝、名付、軍隊入営、上棟、新年会、農談会などの供応にも水産練製品が使われています。
  ④明治期に開かれた13回の供応には、次のような水産練製品が使われています
  「摘入、しんじょう、王子しんじょう、安平、半弁、小半弁、雪輪(半弁)、小板、白板、蒲鉾、肉餅、合麹」
 
⑤火事見舞(明治4年)には酒、菓子などの食品・日用品とともに、「竹輪、蒲鉾、紅白板、小板、箱浦鉾」が贈られています。
  以上からは明治期になると、水産練製品が上層農民の婚礼儀礼に使用され、それが庶民へと広がりをみせていたことがうかがえます
  さらに時代が下がると、天ぷら(すり身を平らに調え油で揚げた製品)、安ぺい、篠巻などの製品が増えます。これらの品々は、それまでの儀礼など晴(ハレ)食へとは違って、庶民が日常的に食べるものです。庶民の食生活にも普及する新たなタイプの水産練製品の登場といえます。これが水産練製品の需要の裾野をさらに広げることになります。
  讃岐の水産練製品は、どのように作られていたのでしょうか?
成形方法、加熱方法などから研究者は次のように分類します。
・①蒲鉾(かまぼこ)類
・②細工物、細工蒲鉾類)
・③半弁(はんべん)類
・④竹輪(ちくわ)類
・⑤真薯(しんじょ)類
・⑥舟焼(ふなやき)類                        ・
・⑦天ぷら類
・⑧その他
  それぞれを見ていくことにします。
①の蒲鉾は水産練製品の原型とされます。
その起源は永久3年(1115)に、関白右大臣藤原忠実の祝宴で亀足で飾った蒲鉾の絵が最古とされます。また、「宗五人双紙」(1518年)には「一 かまぼこハなまず本也 蒲のほ(穂)をにせたる物なり」とあり、「蒲のほ(穂)に似せて作られたと、その曲来が記されています。製法は『大草殿より相博之聞書』(16世紀半ば)に次のように記します。
「うを(魚)を能すりてすりたる時、いり塩に水を少しくわへ、一ツにすり合、板に付る也。(中略) あふり(炙り)ようは板の上に方よりすこしあふり、能酒に鰹をけつり(削り)、煮ひたし候て、魚の上になんへん(何遍)も付あふる也`」

ここからは、蒲鉾の初期の加熱方法は焼加であったことが分かります。
同時期の茶会記などには、次のように記されています。
一カマボコ 二切ホトニ切 ソレヲ三ツニ切タマリ 懸テケシ打チテ温也
一ヘキ足付三ツカマホコ キソク赤白(文禄三年九月二五日昼)
ここからは、いろいろに料理された蒲鉾が出てくるようになっていることが分かります。蒲鉾は、魚肉をすり潰したもので、初期には竹などに塗りつけた蒲の穂型でした。それが次第に板につけた板付蒲鉾に姿を変えていきます。このような板付蒲鉾を讃岐の史料では「板、小板、白板」と呼んでいます。また、肉餅に似ていることから「肉餅」の呼称もあったようです。
  蒲鉾は大小によって「小板三文半、五文蒲鉾、蒲鉾六文板」などのランクに分けられ、上分には六文板、五文板を、下分には三文板など客の階層に応じて出されていたようです。

細工かまぼこ 華ごよみ
細工蒲鉾類
細工物・細工蒲鉾類は、その形を色とりどりに飾って、デザインしたもので、その成形法にはいろいろな技法があったようです。
その製法は経験と熟練による高度な技術が必要な「ハイテク蒲鉾」でした。例えば、
値段はいくらでもいい』裏千家家元夫人の願いでできた、1枚450円の幻の高級笹かまぼこ「秘造り平目」数量限定・期間限定で発売。 | 株式会社  阿部蒲鉾店のプレスリリース
「鹿の子崩し」
⓵蒲鉾の表面にヘラで一つ一つ鹿の子模様を掘り起こした「鹿の子崩し」(ヘラ細工)
②すり身を薄焼卵や黄色の奥斗(すり身を薄く伸ばして蒸したもの)で包んだ「茶巾」「巾着」
③扇面に三菱松、鶴亀、寿などの祝儀の模様を描いた「末広」
④彩色したすり身を組み立て切り口に菊水の文様を写した「菊水崩し」
⑤二色のすり身を巻き切り口に渦巻模様を作る「花筏」「源氏巻崩し」
AR-A15<毎月数量限定>川畑かまぼこ店のうず巻き蒲鉾、ごぼうセット(5種・合計1.8kg)【AR-A15】 - 宮崎県串間市|ふるさとチョイス -  ふるさと納税サイト

⑥すり身と簾盤を合わせた合麹、麹巻
以上のように多彩な製品群が登場し、贈答品としては欠かせないものになっていきます。

【レシピ②】はんぺんフライ

半弁は明和年間に、蒲鉾とともに登場する代表的な水産練製品の一種です。

しかし、その名称と実態がよくわからないようです。史料には濁音符、半濁音符がないので、半弁は「はんペん、はんべん、はべん」とも読め、名称が特定できません。 讃岐の半弁は関東一円に流通するすり身に山芋、でん粉などを加え気泡により独特の軽い食感を持つ「はんぺん」とはまったくちがう製品であることは間違いないようです。
  近世料理書も半弁を特定する記述はわずかで、具体的な加熱、成形方法などもよくわかりません。讃岐のはんぺんは、すり身を巻き賽で巻き締め茄でた製品の総称であり、また、蒲鉾とともに水産練製品の代名詞的に用いられるなど、加賀藩の「はべん」とよく似ているようです。
  半弁は讃岐の近世から近代の史料では、蒲鉾とともに最もよく登場する水産練製品です。しかし、現在では讃岐では、ほとんど見ることができなくなっています。  
讃岐の半弁製法について研究者は聞き取り調査を行って、次のように報告しています。
⓵すり身を整えて巻き簀で巻いて大釜で茄でる
②茄であがった半弁を巻き簀から離れやすくするため巻き簀一面にたっぷりの塩を塗り、巻き締めた後で水洗いして茄でる
③茄で時間は半弁の大きさで異なるが、約70分から100分。
④茄で上がりの判別は叩いて音で聞き分けるが、実際には茄でる前の半弁に松葉(雄松)を刺し、半弁内の松葉が変色するのを目安とする
⑤この手法は生地の内部温度の上昇による松葉の変色を利用したもので、松葉が内部温度計の役割となっていて職人の知恵である。
⑥半弁の重さは製品により異なるが、約二〇〇匁から四〇〇匁(1125g~1500g)⑦巻き簀巾は一定なので、重量の増減により、半弁の直径がちがって、大半弁、並半弁、小半弁など大小が生じる。
水産練製品群は、茄でる、焼く、蒸す、揚げるなどの多様な加熱方法に加え、成形方法、特に細工蒲鉾にみられる複雑な形状、模様は職人の技術に支えられていました。近世の水産練製品が頂点を極めた完成期といわれる所以です。

水産練製品は最初は料理人が手作りしていましたが、そのうちに魚屋などが兼業で作るようになります。
青海村の渡辺家出入りの「多葉粉犀」は高松藩御用達の魚屋ですが、明治13年の渡辺家婚礼には鯛、幅などの魚介類とともに蒲鉾、半弁、茶巾などの水産練製品を大量に納人しています。また、渡辺家の「家政年中行司記」には次のように記されています。
「年暮 煙卓屋二くずし物買物之覚丸半排壱本 箱王子半分 小板三枚 竹わ五拾 半弁三本 小板三枚」(万延元年・1860)
「節季買物 上半弁二本 並雪輪同三本 小板五枚 船焼王子壱枚 竹輪三十本」(慶応四年・1868)
文久四年(1864)には来客に備えて「煙草屋ニ船焼小板等の崩物等誂在之候」と記されています。ここからは渡辺家では正月、祭礼などの折々に煙草屋から「崩し物購人」が行われていたことがわかります。ここからは、魚介類と水産練製品が煙草屋や魚屋の兼業によって作られていたようです。

明治29年婚礼の「生魚久寿し物控 明治十九年旧四月吉日」の水産練製品および価格一覧表を見てみましょう(表2―9).

婚礼用水産練製品一覧表 明治29年

この表からは次のようなことが読み取れます。
⓵客の階層は当日上分・人足、以下五階層に区分される
②4月12日当日は本客の上分と人足用で、半弁は「九半弁50銭・下半弁30銭」、蒲鉾も「茶引かまぼこ25銭・下かまぼこ 15銭」と階層の上下によって価格が違う。
③人足には合麹、箸巻(青色)、天ぷらなど比較的安価な製品が使われている
④4月16日の上分の客には、丸半弁、上丸半弁、蒲鉾ともに本客に準ずる価格帯のものが出されている。
⑤以下、源氏巻、合などの細工市鉾類も本客と同等の規格品が用いられている
⑥16日・17日の下作分と手伝人、内々の者などには、半弁、板(蒲鉾)、合麹、箸巻など比較的安価なものが出されていて、客の階層によって製品格差があった
明治になると、水産練製品は上分用だけでなく、下分用の下半弁、下蒲鉾なども製品化されて客の階層に対応する商品ラインナップが進んだことが分かります。
明治32年の婚礼で出された水産練製品全10品について、使用量と価格を一覧化したものを見ておきましょう。
婚礼用水産練製品一覧表 明治32年
この表から分かることを挙げておきます。
⓵種類や使用量・価格などの格差は、階層により異なること
②箸巻(青色)の価格は上位から1本「12銭・10銭・4銭」、半弁は「70銭・60銭」 など、水産練製品の価格ラインナップが細分化していること。
③これら製品格差は本客、友人などの前二立と手伝人、人足の後二献立間で明確であること
④さらに製品格差だけでなく、一人当たりの分量の概数にも差別化が行われていること
そういう意味では、水産練製品は「格差の可視化」のためには有効な機能を持っていたことになります。
 前回は、うどんが讃岐の庄屋層の仏事には欠かせないメニューとして出されるようになったこと、それが明治になると庶民に普及していくことを見ました。蒲鉾などの練り物も、婚礼の祝い物などとして姿を現し、幕末には供応食としてなくてはならないものになります。それが明治には、庶民にまで及ぶようになるという動きが見えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)

 今の私には、生姜はうどん、山葵(わさび)は刺身やそば・素麺の薬味という意識があります。それでは江戸時代はどうだったのでしょうか。今回は、議岐の婚礼に使用された生姜と山葵を見ていくことにします。
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生姜
生姜は江戸時代の讃岐では階層を越えて、よく使われた薬味のようです。
それに対して山葵は、近世にはまったく使わた記録がありません。それが明治になって急速に使用頻度が高くなり、大正・昭和になると使用頻度が低くなります、また身分階層による使用頻度も大きくちがうようです。
山葵」とは何のこと?「やまあおい」ではありません【脳トレ漢字86】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
山葵
 例えば、丸亀藩が編纂した『西讃府志』(安政五年)には、生姜は出てきますが山葵は出てきません。両者の間には、普及面での落差が見えます。山葵は九亀藩領内巡視の献上品として、大根、蕪(かぶら)などとともに献上されています。ここからは山葵は、一部の上層の人々が使っていたことがうかがえます。山葵は生姜に比べると、使用階層に格差があると同時に、普及が遅れていたことを押さえておきます。
生姜と山葵は、鮪、刺身などの生物料理に「辛味」「けん」として次のように添えられました
  [近世後半]
生盛(辛子酢、針生姜)
刺身(辛子酢)・刺身(辛子酢、けん生姜)
漆原家(文化年間) 差身(辛子酢) 刺身(辛子酢)
*大喜多家(天保年間) 筏盛(刺身) (煎酒、蓼酢)
  [明治時代]
・皿(けん生姜)  皿(生姜)
・刺身(辛子酢、山葵醤油)
・生盛(辛子酢、山葵将油)
。刺身(辛子、山葵将油)
・刺身(辛子酢) 刺身(生姜醤油)、 刺身(山葵)
 大正・昭和時代
・刺身(辛子酢)・刺身
・刺身(生姜醤油)・刺身(山葵)・刺身(山葵)
からし酢味噌
辛子酢味噌
以上からは次のようなことが読み取れます
①刺身などの調味は、江戸時代後半には酢系統の辛子酢が主で、生姜は針生姜などのけんとして使われていたこと、
②「酢物の三杯酢に生姜」「鯛の浜焼に卸し生姜」などにも使われていること
③生姜は明治になって皿、瞼などにけんとしての使用されるとともに「生姜醤油」などの辛味としても使わるようになった。
④山葵は明治になって、刺身の山葵醤油として使われ始める。
⑤刺身の調味は、近世では辛子酢などの酢系統が主であったが、近代になると山葵醤油、生姜醤油などの将油系統の調味が加わった。
⑥近代の山葵の増加と、生姜の用途の変化(けんから生姜醤油などの辛味)には、醤油の普及が背景にある。
⑦江戸時代後半では、山葵の使用事例は2例だけで、生姜や辛子などの酢系統が主であった。
⑧明治になると、刺身に酢、醤油両系統の2種類の異なる調味が添えられるようになった。
⑨讃岐でも武士階級などの供応には「両酢、いり酒、辛子酢」が使われるようになった。
ポカポカ生姜の醤油漬け
生姜の醤油漬け
近世から近代にかけての刺身の調味の変化について、西讃の山本町河内の大喜多家の史料を見ておきましょう。
山本町「ちょうさ祭り」Ⅰ | まほろばの島詩
大喜多家(三豊市山本町河内)
幕末の大喜多家の武士階級への供応には、刺身に辛子酢をはじめ煎酒、三杯酢、蓼酢、山葵酢、辛子酢味噌、辛子味噌、山葵醤油などの多彩な調味が使われています。それが時代と共にどう変化するのかを見ておきましょう。
①明治中期の冠婚葬祭祭には、煎酒、辛子酢、三杯酢などの酢系統の調味
②明治39年以降になると、生姜醤油、山葵醤油の醤油系統が主流となり酢系統と拮抗
③昭和期には山葵醤油が席捲
こうして、現在の刺身に山葵醤油のマッチングが定着したようです。
室町期の「四条流庖丁書」には、次のように記されています。
四条流包丁書・四条流包丁儀式|日本食文化の醤油を知る

「一サシ味之事。 鯉ハワサビズ(酢)。鯛ハ生姜ズ。備ナラバ蓼ズ フカハミ(實)カラシノス。エイモミカラシノス。王余魚ハヌタズ.」

ここには、鯉は山葵酢、鯛は生姜酢と、それぞれの魚に適した辛味が書かれています。このような多様な味の系統が明治期まで引き継がれていたことがうかがえます。ちなみに、大正3年には粉山葵(こなわさび)の製造が始まります。それ以降の「刺身に山葵、山葵将油」の画一化が加速したと研究者は考えています。

常温】粉わさび 銀印 S-5 350G (金印物産株式会社/わさび)
粉わさび
 なお、婚礼に使用される食品の価格記録では、「山葵大上々五本 三十銭、 生姜・十銭、辛子・八銭」とあります。分量の記載が不揃いですが、明治初期には山葵は高価で非日常的な食品であったことがうかがえます。庶民的でなかったということになります。

以上をまとめておきます。
①讃岐では江戸時代は、薬味としては生姜が日常的で、山葵は上層階層が使用するものであった。
②刺身などの調味は、生姜は針生姜などのけんと「酢物の三杯酢に生姜」「鯛の浜焼に卸し生姜」などにも使われていた。
③生姜は明治になって「生姜醤油」などの辛味としても使わるようになった。
④山葵も明治になって、刺身の山葵醤油として使われ始めた。
⑤こうして刺身を醤油で食べるようになると、山葵が刺身の薬味の主流となった。
⑥また、うどんには生姜、そばや素麺には山葵という棲み分けが成立した。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)

 
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昭和の嫁入り風景
讃岐では、昔の婚礼は嫁ぎ先の家で、親類や近所を招いた宴会が夕方から夜明けまで続きました。婿の母親が花嫁を仏壇に招いておがませ、納戸で夫婦盃をとりかわします。その後、納戸から座敷に移動すると押しぬきずしなどがでて、宴会のトリにメンカケ(鯛めん)がでました。
鯛そうめん 愛媛県 | うちの郷土料理:農林水産省
鯛めん(鯛+そうめん)
鯛めんのタイは、その家の家格をしめすともされて、大きいほどよろこばれました。鯛めんは鉄鍋に調味料をいれ、ハランを敷いて、タイをのせて20~30分煮ます。大皿にゆでたそうめんを盛り、煮たタイをのせます。しっぼく台に鯛めんをのせて伊勢音頭を歌いながら座敷の中央に運びました。そこで船歌をうたい、そうめんとタイをほぐしてもりあわせ参列者に配りました。
めでたい時こそ豪快に!うどんの上に鯛を乗せた『鯛麺』がウマい理由とは。(オリーブオイルをひとまわしニュース)
讃岐の鯛めん(鯛 + うどん)

 瀬戸内海の沿岸部や島嶼でも鯛めんは、婚礼にかかせないものだったようです。鯛めんには、「タイの大きさが家格をしす」ともされ、家の体面がかかっていたようです。鯛めんは婚礼のほかにも、祭りや新築祝など慶びの会食には欠かせないものでした。鯛が人々に食べられ、それが祝魚となったのは、いつ頃からなのでしょうか。今回は、讃岐と鯛の関係を追ってみたいと思います。テキストは「印南敏秀    祝事と鯛文化  瀬戸内全誌のための素描212P 瀬戸内海全誌準備委員会」です

2 日本列島では、いつ頃からタイを食べてきたのでしょうか。
青森市の三内丸山遺跡からは約50種の魚介類の骨が見つかっています。その中にはタイの骨もあります。ここからは漁具も出てきていて、タイを網漁、釣漁、モリ漁などでいろいろな方法で獲っていたことが分かります。縄文時代からタイは、食べられていたようです。

 弥生時代になると稲作中心になったためでしょうか魚食は、減少するようですが、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『古今集』、『延喜式』などには、タイがよく登場するので、タイは食べ続けられていたようです。例えば『延喜式』には、朝廷に11か国からタイが貢納されるとして、三河、伊勢、志摩の伊勢湾、和泉、紀伊、讃岐の瀬戸内海、若狭、丹後の若狭湾、筑前、筑後、肥後の九州西北部が挙げられています。ここで押さえておきたいのは、和泉だけが鮮魚で、他は都から遠いため加工品で、瀬戸内の紀伊と讃岐は背開きの塩干しが貢納されていることです。
天然真鯛の手作り干物 レシピ・作り方 by ゴイ51 【クックパッド】 簡単おいしいみんなのレシピが378万品
鯛の背開き
 讃岐の貢納品である「背開きの塩干し」は、だれがどこで作ったのでしょうか?
農民には魚は獲れませんし、加工もできません。塩を作り、船を操船し、魚を獲って加工するといのは「海民」たちに相応しい仕事です。備讃瀬戸の塩飽などの島々には、古代から住み着いた海民たちが塩を作りながら、それを各地に運び、交換する交易活動を行っていたことがうかがえます。貢納した以外の加工品は、交易品として流通したかも知れません。
仁尾の蔦島
仁尾沖の蔦島 手前が父母が浜
   仁尾沖に浮かぶ大蔦島・小蔦島は、11世紀末に 白河上皇が京都賀茂社へ御厨として寄進しました。
そして、海民たちが京都賀茂神社の神事に必要なお供え物を貢納するために神人(じにん)として奉仕するようになります。その中に、燧灘で獲れた魚介類があり、タイもふくまれていたはずです。仁尾の神人たちは、次第に賀茂神社の持つ権威や「特権」を背景に、瀬戸内海の交易や通商、航海等に活躍することになります。そして、仁尾浦は海上交易の活動の拠点であるだけでなく、讃岐・伊予・備中を結ぶ軍事上の要衝地・港町として発展していくことになります。仁尾は、賀茂神社に奉仕する人々を中核として浦が形成されていきました。
 つまり、魚介類の貢納が彼らの発展のスタートだったのです。そして、仁尾や塩飽などは海民(あま)の拠点であったこと、それが交易拠点に成長して行くことを押さえておきます。

  仏教思想を受けいれるようになった貴族達は肉食を避けて、儀礼食として魚介類を好むようになります。
はじめは中国の影響をうけてコイなどの淡水魚の利用が多かったようですが、それがしだいに海水魚に代わります。 
  『万葉集』には、柿本人麻呂が明石の漁の様子を次のように詠んでいます。
 あらたへの 藤江の浦に 鱸(すずき)釣る 
 白水郎(あま)とか見らむ 旅行く吾を     
              (『万葉集』巻三 252)

藤江の浦で鱸(すずき)を釣る土地の漁師と人は見るであろうか。官命によって船旅をしているこの私であるのに。〕

726(神亀3)10月10日、聖武天皇の印南野行幸に従ってきた山部赤人は次のように詠みます。
 印南野の 邑美(おうみ)の原の 荒栲(あらたえ)の 
藤井の浦に 鮪(しび)釣ると 海人船騒き  
塩焼くと 人ぞ多(さは)にある (『万葉集』巻六 938部分)

 印南野の邑美の原の藤井(藤江)の浦に鮪(=まぐろ)を釣ろうとして海人の船が入り乱れ、塩を焼こうとして人がいっぱい浜に集まっている。

ここからは、明石の藤江の沖では、すずきやまぐを釣る漁師の船が数多く出漁していたことがうかがえます。同時に、塩が焼かれているので製塩も行われていたことがうかがえます。明石も海民(あま)の拠点だったようです。
   以後の明石を呼んだ歌も見ておきましょう。鎌倉時代には、
 しまかけて おきのつり舟 かすむなり あかしのうらの 春のあけぼの 慈円 『捨玉集』882
 
夕なぎの ふぢ江の浦の 入海に すゞきつるてふ 
あまのをとめ子 衣笠内大臣(藤原家良) 『夫木和歌抄』巻27
 
あかしがた うらぢはれ行く あさなぎに 霧に漕ぎいる あまのつり舟 後鳥羽院 建保2年(1214) 『玉葉和歌集』739
 
 あかしがた 波ぢはるかに なるまゝに 人こそ見えね 
 あまのつり舟 順徳院 建保4年(1216)『玉葉和歌集』2088

 ここからは古代から中世にかけての明石では、「海人(あま)の釣舟」(海民たちの漁船)が出て、魚を捕り続けていた事が分かります。これは、瀬戸内海の島々や沿岸部にいた海民に共通する姿だったのでしょう。

これらの魚介類の中で、人々が別格とランク付けする魚が出てきます。
それがタイでした。タイは、日本周辺に13種類がいて、クロダイなどの黒いタイとマダイなどの赤いタイにわかれます。祝魚として喜ばれたのが、肌の赤色くて、形も美しいマダイです。
真鯛分布図

マダイは暖かい海を好み、北海道南部から本州、四国、九州にまで広く生息しています。マダイは味が淡自で癖がなく、生・焼く・煮るなどのいろいろな調理にもあいました。また身が筋肉質で腐りにくく、変質しにくく、ひと塩すると保存性も増します。こうして、マダイは祝魚の王様として、日本人に最も愛される海水魚になっていきます。
真鯛の産卵場所
マダイの産卵場所
マダイは春に水温があがると、水深100~200mの越冬場から産卵のために浅場へと回遊してきます。
瀬戸内海には、東の紀伊水道と西の豊後水道から産卵のためにやってきます。産卵が活発に行われるのは、水温が15~17°前後のときで、これは瀬戸内海では5月初めの八十八夜頃にあたるようです。産卵期を迎えたマダイは、産卵にそなえて脂がのり、味もよく、赤味もまして色鮮やかになります。桜の開花期にあたるので「桜鯛」、産卵のために群れて島のように見えたので「魚島鯛」とも呼ばれました。

 桜鯛
桜鯛

福山市の瀬戸内海に注ぐ芦田川河口の中洲に、中世の港町・草戸千軒町遺跡が埋まっていました。
中洲のごみ溜からはタイ、カサゴ、ウマヅラハキなどの大量の魚の骨が見つかっています。その中で一番多く出てくるのがタイの頭部のようです。大きなタイは体長1mをこえています。中世の港町の人達が、魚を大量に消費していたことが分かります。これらの鯛も、鞆の沖でとれたものが運ばれてきていたのでしょう。庶民が大量に消費すると同時に、武家社会でもタイは儀礼用として重視されるようになります。
真鯛 - マダイ - | Fのかがやき

 古代は貴族社会では、鯉が最上級の魚だったことは先ほど述べました。しかし。江戸時代になるとその評価は逆転して「鯛は大位、鯉は小位」と云われるようになります。

鯛百珍料理秘密箱
鯛百珍料理秘密箱
 『鯛百珍料理秘密箱』のように鯛専門の料理書まで刊行されています。江戸幕府がひらかれると魚の需要が高まり、江戸の魚を確保するため関東全域から運ばれるようになります。魚が痛みににくい冬は、駿河湾や富山湾らも運ばれました。
                                 イケフネ(活魚運搬船)
江戸時代のイケブネ(活魚運搬船)
江戸初期には瀬戸内海で獲れたタイも、イケフネ(活魚運搬船)で活きたまま江戸に運ばれたこともあったようです。幕府は大坂に10人の担当者をおいて、塩飽諸島の与島に生貴場をつくっています。しかし、イケフネで運ぶ途中で死ぬタイが多く、江戸まで十分な量のタイは送れませんでした。
 また海難事故も頻発に起きます。岡山県笠岡市の真鍋島は3~5月にかけてタイ網魚が盛んでした。延宝年間(1673~81年)に真鍋島のイケフネが、漁の最初と最後に江戸までタイ運んで高収入をえました。ところが1681(延宝9)年にイケフネが熊野灘で遭難して、5艘が行方不明、4艘が破損してしまいます。そのため江戸送りは取りやめになったようです。

イケフネ(活魚運搬船)2
イケブネ(活魚運搬船)
 江戸は無理でも、大坂までは充分に運べるようになります。
イケブネと呼ばれる生き魚専用の運搬船が開発されていたようです。船底に穴を開けて、海上ではそこに海水を環流させながら魚を運んできます。淀川に近づくと栓をして川水の進入を防ぎます。そうして船の上で一匹ずつ絞めて、血抜きをしながら雑喉場(魚市場)に入っていったようです。このイケブネがいたために、家船漁師達は、何日も海の上で操業できるようになります。家船漁師が一本釣りで釣った鯛を、船上で仕入れて大坂に運ぶ業者も現れます。網で獲るよりも、一本釣りで釣った魚の方が商品価値は高かったようです。


 昭和初期のタイの料理法を見ておきましょう。
『日本の食生活全集』(農山漁村文化協会)は、大正末から昭和初期ごろの各県ごとの食事を以下のように聞き取りしてまとめています。
鯛料理別県数
タイの調理と食事の記録は西日本に多く、他の魚と比べて大きな違いは大半が祝事などの儀礼行事に出された点です。日本の三大鯛の兵庫県明石・徳島県鳴門・和歌山県大地で、鯛料理が少ないのは、大坂・京都などの都市部に売られたからでしょう。漁民達にとって鯛は、食べるものではなく売る魚だったようです。
 タイの調理法は焼魚が一番多く、すし、刺身、煮付け、汁物、鯛めんと続いています。
鯛めんはそうめん業が盛んな瀬戸内地方の調理法で、婚礼の席になくてはならないものだったことは、最初に見たとおりです。「めで(タイ)」と、夫婦が仲むつまじく「細く長く(そうめん)」人生がおくれる願いをこめています。
鯛の浜焼」 | 有限会社山家鮮魚

タイの調理法の中に、塩田と結びついた浜焼きがあります。
三豊市の詫間塩田では、塩田経営者が浜子に命じて贈答用に浜焼きをつくらせていたそうです。浜子は昔の浜焼きを次のように述べています。
①鉄の平釜で海水を煮ると約110°Cで結晶はじる。
②結晶しはじめた塩を板囲いの中にいれて、内臓をとったタイをコモで包んで置く。
③その上から塩をのせて1時間おくと浜焼きができる
浜焼きのタイは、ほのかに甘みがあり、締まった身は淡白だと云います。塩味はほとんど感じず、ワサビ醤油や酢の物につけるとおいしいそうです。鯛の獲れる「魚島」の時期でも、浜焼きは浜子の日給以上したようです。そのため浜子が浜焼きのタイを食べることはなかったと述懐しています。
瀬戸内の伝統「鯛の濱焼き」を未来へ繋ぐ「おさかな工房まるせん」@志度: さぬき市再発見ラジオ あそびの達人
浜焼き鯛
  近世から祝い事になくてはならなくなったマダイは高級魚としての地位を確立します。明治になると農民達も、鯛を縁起物として珍重したために魚価は高値安定で高級魚の代表とされてきたようです。そのために、いろいろな料理法も生まれています。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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