瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近代史 > 讃岐の電力史

香川県ではじめて電灯を灯したのは、牛窪求馬(もとめ)によって設立された高松電灯でした。
髙松電灯社長 牛窪求馬(うしくぼ もとめ) と副社長・松本千太郎

 髙松電灯について、以前にお話したことをまとめておきます。
①明治28(1895)年2月に設立認可、4月に設立、11月3日に試点灯、同月7日開業開始
②当初資本金は5万円で、後に8万円に増額
③社長は髙松藩家老の息子・牛窪求馬、専務は松本千太郎
④高松市内の内町に本社と火力発電所を設置
⑤汽圧80ポンドのランカシャーボイラー2基と、不凝縮式横置単笛往復機関75馬力2基によって、単相交流2線式50サイクル、1100Vスプリング付回転電機子型50 kWの発電機2台で、高圧1000V、低圧50Vの配電で電灯供給
⑥開業当時、供給戸数は294戸、取付灯数は659灯
⑦高松市内の中心部にある官公庁や会社、商店などが対象で、供給エリアは狭かった。 

設立されたばかりの明治期の四国の電灯会社の営業状況を見ておきましょう。
明治期四国の電気事業経営状況
ここからは次のような事が読み取れます。
①資本金に変化はないが、株主数は減少していること。
②架線長・線条長(送電線)は3~5割増だが、街灯基数・需要家数は、明治35年には大幅減となっていること。
③戸数は減少しているが、取付灯数は倍増していること。
こうして見ると、明治末の段階では、電線延長などの運営経費は増えているのに、契約者数はさほど増えていなかったことが見えてきます。出来たばかりの電灯会社は、急速な成長はなく、厳しい船出で「魅力ある投資先」ではなかったことを押さえておきます。

黎明期の電灯会社
黎明期の電灯(気)会社の状況
髙松電灯設立の動きを受けて、旧丸亀藩でも電灯会社の設立の動きが出てきます。 
中讃では電灯(力)会社の設立申請が、次のふたつから出されます。
①多度津の景山甚右衛門と坂出の鎌田家の連合体 
②中讃農村部の助役や村会議員(地主層)たちの「中讃名望家連合」
①の景山甚右衛門は、讃岐鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神の総帥」とも呼ばれ、資本力も数段上でした。それと坂出の鎌田家がの連合です。こちらの方が有利だと思うのですが、国の認可が下りたのは、なぜか②の中讃名望家連合でした。この発起人の中心人物のひとりが増田穣三でした。

大久保諶之丞と彦三郎
大久保諶之丞(右)と弟の彦三郎(左)
当時の会社設立への動きがどんなものだったのかを知る史料は、私の手元にはありません。そこで、約10年前の四国新道建設に向けて地元の意見をとりまとめた大久保諶之丞の動きを参考にしたいと思います。彼が残した日記から、明治17(1884)年11月2日~15日を動きを見てみましょう。この時期は、四国新道のルート決定が行われる頃で、四国新道が通過する地元有力者の意見集約が求められた時期になります。
大久保諶之丞の新道誘致運動
大久保諶之丞の新道誘致をめぐる動き(明治17年11月)

大久保諶之丞が連日のように中讃各地を廻り、有志宅を訪問していること分かります。訪問先を見ると
11月10日 長谷川佐太郎(榎井の大庄屋で満濃池再築指導者)
11日 大久保正史(多度津町大庄屋)景山甚右衛門(後の讃岐鉄道創立者)
12日 丸亀の要人 鎌田勝太郎(坂出の鎌田醤油)
13日 金倉・仲村・上櫛梨・榎井・琴平・吉野上・五条・四条の要人 
14日 宇多津・丸亀・多度津(景山甚右衛門)
15日 琴平・榎井(長谷川佐太郎)
ここからは、地域の有力者を戸別訪問し、事前の根回しと「有志会」への参加と支援依頼を行っていたことが分かります。その手順は、
①最初に、琴平の津村・榎井の長谷川佐太郎、多度津の景山甚右衛門に会って、了承をとりつける。
②次に各地区の要人宅を訪ねて協力依頼。
③その結果を報告するために再度、14日に景山甚右衛門・15日に長谷川佐太郎に訪ねている。ここからは、景山甚右衛門と長谷川佐太郎を、担ぎ上げようとしていたことがうかがえます。
 そして11月15日には、道路有志集会への案内葉書を発送しています。
「南海道路開鑿雑誌」に、「17年11月15日はかきヲ以通知之人名(同志者名簿)」と書かれ、46人の名前が記載されています。その通知の文面も収録されています。通知の日付は11月14日です。その案内状の文面は、次の通りです
拝啓、予而大久保諶之丞 御噺申上候高知新道開鑿之義二付、御協議申度候条、本月十八日午前十時揃、琴平内町桜屋源兵衛方迄、乍御苦労、御出浮被下度、就而者、御地方御有志之諸彦御誘引相成度、同時迄二必御御苦労被降度候、頓首
十七年十一月十四日
長谷川佐太郎
大久保正史
景山甚右衛門
大久保諶之丞
意訳変換しておくと
拝啓、私、大久保諶之丞が高知新道開鑿の件について、協議いたしたいことがありますので、、本月十八日午前十時、琴平内町桜屋源兵衛方まで、ご足労いただきたくご案内申し上げます。各地域の有志の方々にもお声かけいただき、揃って参加いただければ幸いです。頓首
十七年十一月十四日 
 長谷川佐太郎・大久保正史・景山甚右衛門と連名で、大久保諶之丞の名前が最後にあります。彼らの協力を取り付けたことが分かります。案内はがきが発送され、集会準備が整った11月16日には、郡長の豊田元良を観音寺に訪ね、その夜は豊田邸に泊まっています。有志集会に向けた状況報告と今後の対応が二人で協議されたのでしょう。有志会」開催に向けた動きも、豊田元良との協議にもとづいて行われていたことがうかがえます。
 案内状には、豊田元良の名前がありません。しかし、案内状をもらった人たちは、大久保諶之丞の背後には豊田元良がいることは誰もが分かっていたはずです。事前に、豊田元良の方から「大久保諶之丞を訪問させるので、話を聞いてやって欲しい」くらいの連絡があったかもしれません。それが日本の政治家たちの流儀です。そして11月18日には、琴平のさくらやで第一回目の道路有志集会が開催されます。このような形で、四国新道建設の請願運動は進められています。
讃岐鉄道や西讃電灯の設立に向けた動きも、地域の要人の自宅を訪ね歩いて、協力と出資をもとめるという形が取られたようです。
 それから約十年後の増田穣三も名望家の家を一軒一軒めぐって、電灯事業への出資を募ったようです。
その発起人の名簿を見ると、村会議員や助役などの名前が並びます。彼らはかつての庄屋たちでもありました。ここからは、農村の名望家層が鉄道や電力への出資を通じて、近代産業に参入しようとしている動きが見えてきます。
そして、次のように創立総会で決定され操業に向けて歩み始めます。
明治30年12月18日 那珂郡龍川村大字金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認。
資本金総額 十二萬圓 一株の金額 五十圓 
募集株数  二、四〇〇株
払込期限  明治31年5月5日
取締役社長 樋口 治実
専務取締役 赤尾 勘大
取 締 役 山地 善吉外三名
監 査 役 山地 健雄 富山民二郎
支配人、技師長 黒田精太郎(前高電技師長)
明治30年12月28日、西讃電灯株式会社設立を農商務大臣に出願
明治31年9月  西讃電灯株式会社創立。
明治32年1月、発電所・事務所・倉庫の用地として金蔵寺本村に三反四畝を借入
 ところがこれからが大変でした。
 高松電灯は、明治28(1895)年2月に設立認可で、4月に設立、11月3日に試点灯、11月7日開業開始で、設立認可から営業開始まで9ヶ月の短期間でこぎつけています。ところが西讃電灯は、認可から4年が経っても営業開始にたどり着けないありさました。認可から営業開始までできるだけ短期間に行うのが経営者の腕の見せ所です。その期待に応えられない経営者に対して、株主達は不満の声を上げ始めます。
西讃電灯の発起人と役員を見ておきましょう。

増田穣三と電灯会社4
西讃電灯の発起人と役員(村井信之氏作成)
上表からは、次のような事が読み取れます。

①西讃電灯発起人には、都市部の有力者がいない。

②中讃の郡部名望家と大坂企業家連合 郡部有力者(助役・村会議員クラス)が構成主体である

③七箇村からは、増田穣三(助役)・田岡泰(村長)・近石伝四郎(穣三の母親実家)が参加している

④1898年9月に金倉寺に発電所着工するも操業開始に至らない。

⑤そのために社長が短期間で交代している

⑥1900年10月には、操業遅延の責任から役員が総入れ替えている。

⑦1901年8月前社長の「病気辞任」を受けて、増田穣三が社長に就任。

⑧増田家本家で従兄弟に当たる増田一良も役員に迎え入れられている。

営業開始の妨げとなっていたのは、何だったのでしょうか?

増田穣三 電灯会社営業開始の遅れ
電灯会社営業開始の遅れの要因
明治34(1901)年7月7日、讃岐電気株式の株主への報告書  には、問題点として上のようなことが挙げられています。第1には、設立資金が期限までにおもうように集まらなかったことです。そのために発注されていた発電機の納入ができず、再発注に時間が取られます。発注先が確定し、設計図が送られてくるまでは発電所にも本格的な着工はできません。また、電柱を発注しても、それを建てるための土地買収や登記までプロセスが考えられていなかったようです。
 設立当初の社長や経営者達は、他県の人物で香川県にはやって来なかった人もいるようです。技術者たちも頻繁に交代しています。責任ある経営が行えていなかったということでしょう。つまりは、素人集団による設立準備作業だったようです。そのため創業開始は、延べ延べになり、株主達の不満の声は、出資を募った増田穣三に向けられます。増田穣三は、当時は七箇村村長と県会議員を兼ねる立場でした。株主達からは「あんたが責任を持ってやれ」という声が沸き上がります。このような声に押されて、増田穣三が第4代社長に就任し開業を目指すことになります。これが明治35(1902)年8月のことでした。
このような事情を 「讃岐人物評論 讃岐紳士の半面」(明治37年刊行)は、次のように記します。

  入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや

 意訳変換しておくと
  電気会社の社長として、その経営に携わって「水責火責」の責苦や「電気責の痛苦」などの経営能力に絶えうる能力があるのだろうかと危ぶむ声もある。「義気重忠を凌駕」するのも、増田穣三先生の耐忍や勇気であろう。

増田穣三の経営者としてのお手並み拝見というところでしょうか。
 増田穣三は社長就任後の翌年明治36(1903)年7月30日に営業開始にこぎ着けます。この時の設備・資本金は次の通りです。
①発電所は金蔵寺に建設され、資本金12万円、
②交流単相3線式の発電機で60kW、2200Vで丸亀・多度津へ送電
③点灯数は483灯(終夜灯82灯、半夜灯401灯)
この時に金倉寺に増田穣三によって建設された本社と発電所を見ておきましょう。
高松発電所に続いて香川で2番目に建設された金倉寺火力発電所は、金蔵寺駅北側の東隣に隣接して建設されたようです。明治40(1907)年頃の様子が、次のように記されています。
金倉寺発電所(讃岐電気)
金倉寺発電所(西讃電灯)
金蔵寺駅の北側を東西に横切る道より少し入り込んだ所に煉瓦の四角い門柱が二つ立っていた。門を入った正面には、土を盛った小山があり、松が数本植えられていた。その奥に小さな建物と大きな建物があり、大きな建物の屋根の上には煙突が立ち、夕方になると黒い煙が出ていた。線路の西側には数軒の家があったが、東側には火力発電所以外に家はなく一面に水田が広がり、通る人も稀であった。

 この記録と絵からは、次のような発電行程が推定できます。

金倉寺発電所2
金倉寺発電所の発電行程

讃岐電気本社・発電所2
讃岐電灯の本社
どうして多度津や丸亀でなく金蔵寺に発電所を建設したのでしょうか?それは石炭と水の確保にあったようです。

金倉寺発電所立地条件
金倉寺火力発電所の立地条件

石炭は丸亀港や多度津港に陸揚げ可能でしたが、港近くには安価で広く手頃な土地と水が見つからなかったようです。港から離れた所になると、重い石炭を牛馬車大量に運ぶには、運送コストが嵩みます。そこで明治22年に開通したばかりの鉄道で運べる金蔵寺駅の隣接地が選ばれます。
 火力発電は、石炭で水を熱して蒸気力でタービンを廻します。そのため良質の水(軟水)が大量に必要となります。金倉寺周辺は、旧金倉川の河床跡がいくつもあり、地下水は豊富です。金倉寺駅の西1㎞には、以前にお話しした永井の出水があります。金倉寺駅周辺も、掘れば良質な湧き水が得られるとを、人々は知っていました。

文中の「夕方になると煙突から黒い煙が出る」というのは、当時の電力供給は電灯だけで、動力用はありません。そのため社名も「高松電灯」や「西讃電灯」でした。夕方になって暗くなると石炭を燃やして、送電していたのです。つまり、明るい昼間には操業していなかったのです。一般家庭での電気料金は月1円40銭ですの、現在に換算すると数万円にもなったようです。そのため庶民にはほ程遠く、電気需要が伸びませんでした。そのため架線延長などの設備投資を行っても契約戸数は増えず、経営は苦しく赤字が累積していくことになります。
設立当初の収支決算は次の通りです。

電灯会社の収支決算 開業年

 収入が支出の三倍を超える大赤字です。
これに対して増田穣三の経営方針は「未来のためへの積極的投資」でした。
 日露開戦を機に善通寺第11師団兵営の照明電灯化が決定し、灯数約千灯が発注されます。これに対して、増田穣三は「お国のために」と採算度外視で短期間で完成させ、善通寺方面への送電を開始します。さらに翌年の明治38(1905)年には琴平への送電開始し、電力供給不足になると150㌗発電機を増設し、210㌗体制にするなど設備投資を積極的に行います。
明治の石炭価格水表
明治の石炭価格推移
 しかし、待っていたのは日露戦争後の石炭価格の高騰で、これが火力発電所の操業を圧迫するようになります。さらにこれに追い打ちをかけたのが日露戦争後の恐慌に続く慢性的な不況でした。会社の営業成績は思うように伸びず、設立以来一度も配当金が出せないままで赤字総額は8万円を越えます。
 ここに来て「未来のための積極投資」を掲げて損益額を増大させる増田穣三の経営方針に対する危機感と不安が株主たちから高まり、退陣要求へとつながります。
増田穣三 電灯会社の経営をめぐる対立
電灯会社の経営戦略をめぐる対立

こうして明治39(1906)年1月に、増田穣三は社長を辞任します。
増田穣三の責任の取り方

そして、2ヶ月後には七箇村村長を辞任し、次の県議会選挙には出馬しませんでした。私は、これは増田穣三なりの責任の取り方であったのではないかと思います。
 「それまでの累積赤字を精算する」ということは、資本金12万から累積赤字84000円が支払われるということになります。そして、残りの36000円が資本金となります。つまり、株主は出資した額の2/3を失ったことになります。    
    電灯会社設立に向けて、投資を呼びかけたのは増田穣三です。「資本減少」という荒治療は、出資者である名望家の増田穣三に対する信用を大きく傷つける結果となります。穣三自身も責任を痛感していたはずです。それが、村長や県会議員からも身を退くという形になったのではないかと私は考えています。これが政界からの引退のようにも思えるのですが、5年後には衆議院議員に出馬し当選します。ちなみに、景山甚右衛門はこの時に地盤を三土忠三に譲って代議士を引退します。そして四国水力発電所の三繩発電所の建設に邁進していくことになります。
増田穣三・景山甚右衛門比較年表 後半

増田穣三と景山甚右衛門の年譜(村井信之氏作成)
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展 四国電力事業史319P
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増田穣三と電灯会社設立の関係年表
1894 明治27年 増田穣三が七箇村助役就任(36歳)→M30年まで
1895 明治28年 近藤秀太郎や増田穣三らによって電灯会社設立計画が進む。
1897 明治30年 西讃電灯会社(資本金12万円)設立 → 開業に手間取る
1899 明治32年 3・7 増田穣三が県会議員に初当選(41歳)
 4月26日 増田穣三が七箇村長に就任(41歳)→M39年まで7年
1900 明治33年10月21日 経営刷新のため臨時株主総会において、役員の総改選
1901 明治34年8月 増田穣三が讃岐電気株式会社の第4代社長に就任 
1902 明治35年7月30日 讃岐電気株式会社が電灯営業を開始(設立から6年目)
11師団設立等で電力需要は増加するも設備投資の増大等で経営は火の車。設立以来10年間無配。
   
1903 明治36 増田一良 黒川橋の東に八重山銀行設立。出資金5000円
1904  明治37年7月 増田穣三が株主総会で決算報告。野心的な拡張路線で大幅欠損
   9月 讃岐電気が善通寺市への送電開始。翌38年8月には琴平町にも送電開始。
1905 明治38年  日露戦争後の不況拡大
   8月 讃岐電気が琴平への送電開始
      電力供給不足のため150㌗発電機増設。新設備投資が経営を圧迫
  11月1日 県会議長に増田穣三選任(~M40年9月)(43歳)
1906 明治39年1月 増田穣三が讃岐電気社長を辞任
   3月 増田穣三 七箇村村長退任    
1907  9月25日 第3回県会議員選挙に増田穣三は出馬せず 
   10月7日 臨時県議会開催 蓮井藤吉新議長就任  増田穣三県会議長退任
    9月 讃岐電気軌道株式会社設立。発起人に、増田一良・増田穣三・東条正平・長谷川忠恕・景山甚右衛門・掘家虎造の名前あり。
1912(明治45・大正1年)5月 第11回衆議院議員選挙執行.増田穣三初当選 景山甚右衛門は、選挙地盤を三土忠造に譲って政界引退


DSC00800景山甚右衛門
景山甚右衛門
多度津の景山甚右衛門が「鉄道・銀行・電力」などの近代産業に、どのように参入していったのかに興味があります。各地方には「○○の渋沢栄一」と称される人物が現れ、近代産業を地域に根付かせていきます。「香川県の渋沢栄一」といえば、多度津の景山甚右衛門になるようです。彼は、次のような基幹産業の設立者です。
鉄道  讃岐鉄道 → JR四国
電力  四国水力発電株式会社(四水) → 四国電力
銀行  多度津銀行
明治の「企業者」は、銀行の設立者であり、鉄道の発起・創設者でもあることが多いようですが、景山甚右衛門もこの例に当てはまります。今回は景山甚右衛門以前の、水力発電開発について見ていくことにします。テキストは「近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展  
 四国電力事業史319P」です。

明治の電気(電灯)事業は、火力発電による電灯への電力供給事業としてスタートします。
電気エネルギー(明治15年)▷銀座の電燈の初点燈 | ジャパンアーカイブズ - Japan Archives
銀座のアーク灯(明治15年)
初めて電灯がともされたのは明治11(1879)年、虎ノ門の工部大学校でのエアトン教授によるアーク灯の点灯です。エアトン教授の指導を受けた藤岡市助が中心となって、大倉喜八郎や渋沢栄一、矢島作郎らの協力を得て電力会社の創立準備が始まったのは明治15年です。同年11月には、宣伝のため銀座で2000燭光のアーク灯をつけて都民を驚かせます。しかし、実際に操業が始まるのは4年後の明治19年で、翌年に本格的な電灯供給という手順になります。東京での動きに刺激を受けて、北海道から九州まで全国にわたって、30社を超える電灯会社の設立が10年間で行われます。
明治30年代初め頃の電灯会社の経営規模と経営状況を見ておきましょう。
明治30年代初め頃の電灯会社の経営規模

この上表からは、次のようなことが読み取れます。
①明治30年代には、事業数で41社、払込資本金の総額で550万円に達し、供給戸数は約3万戸、取付灯数は約14万灯を数えている。
②電力供給戸数と取付灯数の10年間の伸び率は、戸数約360倍、灯数で100倍に達している。

もう少し詳しい状況を表2-2で見ておきましょう。
全国電灯会社状況(明治29年)

③ここからは、東京・横浜・大阪・名古屋・京都・神戸の6社が全国の取付灯数のうちの約75%を占めていたことが分かります。そういう意味では、明治20年代は、地方への電灯事業はまだまだだったようです。
上表の下から8番目に高松電灯の名前が見えます。
高松電灯は明治28年11月3日に、試験点灯を行っています。これが香川の電気の夜明けになるようです。初代社長の牛窪求馬(うしくぼもとめ)は、高松藩の家老職の生まれで、「ハイカラだんな」と呼ばれたような人でした。高松で最初に自転車に乗り、靴をはき、洋服を着たと言われる人物です。
 求馬は明治26年、数え年31歳の時に、発起人となって電気事業の創設を志して資金集めに東奔西走します。しかし、思ったように資本は集まらず頓挫寸前になります。ここで救世主となったのが、旧藩主の松平家の殿様でした。こうして資本金5万円で、明治28年に高松電灯は発足します。本社事務所と石炭火力発電所を市内寿町(現在の四国電力本店の西で日本銀行高松支店のあたり)におき、50㌗発電機2台でスタート。当初の送電エリアは狭く、丸亀町、兵庫町、片原町という高松市の中心部だけで、電灯を取りつけたのは294戸、灯数は657灯でした。
電灯には半夜灯と終夜灯があり、半夜灯は日没から午後10時まで、終夜灯は朝までついていました。一ヶ月の点灯料(電気料金)は、10燭光(10W程度)の半夜灯で90銭、終夜灯は1円26銭でした。当時の公務員の初任給が10円程度の時代ですから非常に高い料金だったことになります。
 当然、お客さんは、商家や官庁などがほとんどで、その上、人びとは「エリキに触れると死んでしまう」などといってこわがったので、なかなか普及しなかったようです。
 電灯会社設立当初は、発電所から近いエリアの市街地に電灯を灯すことが業務で、その対象は公官庁や高所得者層でした。
そのため小規模で建設費が安い火力発電所を都市周辺に設置することが一般的でした。これに対して、当時の水力発電は、送電技術が未発達で近距離送電しかできません。水力発電が行える所は河川流域上部に限られますが、そこは高い料金の照明用電灯要家の数も少なく、事業としては成り立ちません。
都市近郊に最初の水力発電事業として完成したのが、京都市の蹴上発電所です。
日本初の事業用水力発電所を見に行こう! 関電・蹴上発電所が見学会 - 電気新聞ウェブサイト
京都市の蹴上発電所
この電力開発は、もともとは琵琶湖の水を利用し、疏水によって京都への水運の便、水車動力による工場建設、上下水道、農業用水等の総合的な開発計画の一環でした。ところが工事の途中で、アメリカの水力発電の例を参考にして、水車による水力利用計画を発電に変えることになります。その結果、工事計画を一部変更して水力発電計画を加え、明治24年には送電を開始します。

京都市の蹴上発電所2
               蹴上発電所

最初は、120馬力のペルトン式水車2基で、エジソン型90馬力2基の発電機を稼動して、直流550Vの発電を行い、2 km以内の地域に動力用に供給します。翌年の明治25年末には、交流式1000V90馬力の発電機の増設によって、遠距離送電も可能となります。そこで、京都電灯への卸売供給を始めるとともに、2年後には一般電灯供給も行うようになります。
我が国における本格的な水力発電所建設は、日清戦争後の明治30年代に入ってからのようです。
その理由は、
①送電距離の延長という技術問題が解決したこと
②日清戦争後の石炭価格の上昇で電カコストが高騰し、水力発電への転換が求められたこと
②の石炭価格の上昇を、表2-3で見ておきましょう。
明治の石炭価格水表
この表からは明治24年から31年までの7年間に石炭価格は約2倍になっていることが分かります。このような発電コストの上昇は、火力発電事業の経営状態を大きく圧迫します。表2-4の燃料費の占める割合を見ると
①横浜共同電灯 24%から49%へ
②名古屋電灯  12%から44%へ
と、約4年の間に2~4倍に増大し、燃料(石炭)費が半分近くに達して利益率が挙がりません。そういう中で、全国の電灯会社の経営者が注目したのが、先にも見た京都の蹴上水力発電所です。これが目指すべきモデルケースになっていきます。しかし、人口密度の高い都市の近くに、水力発電所を建設するのは無理だったことは先ほど見たとおりです。
その壁を最初に乗り越えたのが、渋沢栄一を会長として明治30年に設立された広島水力電気です。

広島県広発電所
広発電所
広島水力電気は、広島市と我が国最大の海軍基地のある呉の両市に営業エリアを持っていました。そこで呉の近くの黒瀬川の滝を電源として、広発電所を建設して、発電した電力は変圧器によって11、000Vに電圧を上げ、送電線路で呉市経由で広島までの送電を開始します。この11、000Vの高圧送電線は、わが国では初めてのもので、これが以後の電気事業のモデルになっていきます。この成功を支えたのは藤岡市功などの技術者たちで、すべて外国製の優れた発電設備を輸入しています。
 日露戦争後の明治30年代後半になると、産業資本の確立期を迎えてた産業界は、安くて豊富な新しい動力源を求めるようになります。
すでに先進国では、工業原動力は蒸気力から電力へ移っていました。しかし、火力発電では低価格で電力を供給することは困難でした。そのため、コストの安い水力発電にる電力供給が求められるようになります。 
 わが国の水力発電開発の先陣は、東京電灯による桂川水系開発です。
桂川の電力開発
日露戦争の戦時景気による経済の拡大は、電力需要を増大させます。いままでの火力発電では賄いきれない需要が生まれます。それまでの電灯照明中心から、工場原動力に対する需要への転換が急速に進み、昼夜間を通じて電力供給が求められるようになります。そこで東京電力は、当初予定した千住火力発電所の規模を半減し、山梨県桂川水系の駒橋発電所から15000㌗を55000Vの高圧で83㎞隔てた東京へ送電することに成功します。
明治40年(1907)12月20日に運転開始した駒橋発電所(15,000KW)から東京の早稲田変電所までの約80Kmを高圧送電した「55KV駒橋線(2回線)」です。これが大都市圏への初の送電線となります。

                  鶴川横断地点の鉄塔
この鉄塔は、アメリカからの輸入品です。どの鉄塔もパネル割が同一で、鉄塔高も同じなので、同一仕様のものを22基輸入したものと研究者は指摘します。アメリカ西海岸のカリフォルニア州では、木柱線路の中の長径間箇所用に、この鉄塔を量産していて、それをそのまま輸入して使用したようです。

 この長距離送電の成功を確信した各地の電気事業者や起業者は、積極的に電力消費地の遠隔地域での発電所建設に取り組み始めます。これが、後の大規模水力発電開発へとつながります。
明治の大規模水力発電所一覧
明治期から大正期の大規模数力発一覧一覧
こうして水力発電量は急速に増加し、大正元年には23、3万kWと総発電能力の半分を占めるようになります。高圧送電は7万Vに達し、送電距離も100 kmを超えるようになります。これらの技術革新を受けて、四水も吉野川上流での水力発電事業に乗り出して行くことになります。今回はここまです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
近代産業の発展に伴う電気事業の形成と発展 四国電力事業史319

 土讃線が財田駅まで伸びて、まんのう町に汽車が走り始めて今年は百年目になることを以前にお話ししました。電灯が仲南に灯ったのも百年目になります。今回は、その経過を追いかけてみます。
 1904年の日露戦争開戦前に多度津に火力発電所が作られ、11師団のある善通寺や琴平までは電線が伸び電灯が灯るようになります。しかし、それから南のエリアに電線が伸びてくるのは20年後のことになります。第1次世界大戦の「戦争景気」で電力需要は、うなぎ登りに伸びます。この追風を受けて電力会社は、水力発電所の開発と送電網整備を進めます。多度津に拠点を置く四国水力電気(四水)も、吉野川沿いに水力発電所を建設し、高圧鉄塔で讃岐へ電力を引いてくることに成功します。その結果、電力が過剰状態になります。
 ところが四水の営業認可エリアは、琴電の線路の北側までとされていたので、それより南には電柱を建てることができません。そこで四水から電力を買い入れ、地元に供給しようとする人たちが現れます。四水も「余剰電力」が売れるのなら渡りに船です。こうして両者の思惑が一致し、小さな電気事業者がいくつも生まれることになります。
 1921年4月に仲南・財田への電力供給のために設立されたのが塩入水力会社です。
社名だけ見ると、塩入に水力発電所を建設したかの印象を受けますが、そうではありません。全電力を四水から「購入」する目論見でした。この事業を興したのが、春日の増田一良です。

増田穣三評伝 2 まんのう町春日と増田家について : 瀬戸の島から
増田一良 旧七箇村村長 県議

彼は七箇村村長を経て県会議員を務めた人物で、諸事情に精通していました。また、従兄弟には国会議員を引退した増田穣三もいました。穣三は、四水と名前を変える前の電力会社の社長を務めていたこともあります。塩入駅前に銅像が建っている人物です。

増田穣三4
増田穣三(左は銅像)
二人の経験と政治力からすれば、四水と交渉したり、電線網を整備したりすることは決して難しい話ではなかったでしょう。
設立された塩入水力電気株式会社は、多度津に本店を置き、買田に配電所を設けて電力供給を始めます。
それが1923年4月のことでした。今年がちょうど百年前になります。営業エリアは、七箇・十郷・財田・河内(旧山本町)の4ケ村で、電灯数は約千戸でした。 ほとんどの家が電球1個(1ヵ月80銭)の契約で、点灯時間は日没時から日の出までの夜間のみです。ひとつしか電灯はないので、コードを長くして家中に引張り廻します。婚礼や法事など、ひとつで足りないときには、臨時灯をつけてもらいました。中には、二股ソケットで電灯を余分につけたり、契約よりも大きい電球をつけるなどの「盗電」をする者もあったようです。そのため電力会社は、年に何回か、不意うちの盗電検査を夜間に行っています。
 当時は、電気製品がありません。電気は単に照明用だけなので、夜間だけの利用でした。敗戦後にモーターが普及するようになると、財田缶詰会社などの要請で、昼夜の配電がはじまります。それは、昭和21年5月のことでした。汽車が走り、電球が灯り目に見える形で「近代」が姿を見せ始めるのは今から百年前頃になるようです。





塩入駅前の増田穣三像

琴平以南に電灯がついたのは百年前、誰が電気を供給したのか?

今から百年ほど前、第1次世界大戦は日本社会に「戦争景気」をもたらしました。工場ではモーターが動力として導入され、工場電化率は急速に高まります。そして家庭の電灯使用率も好景気を追風に伸びます。この追風を受けて、電力会社は電源の開発と送電網の拡大を積極的に進めます。その結果、電気事業はますます膨大な資本を必要とするようになります。第一次大戦前の大正6年頃までは産業投資額は、鉄道業・銀行業・電気事業の順でしたが,大戦後の大正14年には銀行業を追い抜いてトップに躍り出て、花形産業へ成長していきます。

 増田穣三に代わって景山甚右衛門が率いる四国水力電気は、

積極的な電源開発を進めます。吉野川沿いに水力発電所を建設しするだけでなく、徳島の他社の発電所を吸収合併し、高圧鉄塔網を建設し讃岐へと引いてくることに成功します。その結果、供給に必要な電力量を越える発電能力を持つようになります。余剰電力を背景に高松市などでは、料金値引合戦を展開して競合する高松電灯と激しく市場争いを演じるます。

しかし、目を農村部に向けると様相は変わっていました。

 四水は琴平より南への電柱の架設工事は行わなかったのです。
なぜでしょうか?
それは、設立時に認められていた営業エリアの関係です。
四水の前身である讃岐電灯が認可された営業エリアは、鉄道の沿線沿いで、東は高松、南は琴平まででした。そのため四水は、琴平より南での営業は行えなかったのです。そこで、四水から余剰電力を買い入れ、四水の営業認可外のエリアで電力事業を行おうとする人たちが郡部に現れます。四水も「余剰電力の活用」に困っていましたので、新設される郡部の電力会社に電力を売電供給する道を選びました。こうして、県下には中小の電気事業者が数多く生まれます。この時期に設立された電力会社を営業開始順に表にしてみると、次のようになります。
高松電気軌道 明治45年4月  高松市の一部、三木町の一部
東讃電気軌道 大正 元年9月 
大川電灯   大正 5年3月  大川郡の大内町・津田町・志度町・大川町
岡田電灯   大正 9年    飯山町・琴南町・綾上町
西讃電気   大正11年    多度津町と善通寺市の一部
飯野電灯   大正11年    丸亀市の南部
讃岐電気   大正12年    塩江町
塩入水力電気 大正12年4月  仲南町・財田町の一部
 この内、西讃電気、東讃電気軌道、高松電気軌道は自社の火力発電所をもっていましたがその他の電気事業者は発電所を持たない四国水力電気からの「買電」による営業でした。

 このような動きを当時県会議員を務めていた増田一良は、当然知っていたはずです。電灯の灯っていない琴平以南の十郷・七箇村と財田村に、電気を引くという彼の事業熱が沸いてきたはずです。相談するのは、従兄弟の増田穣三。穣三は当時は代議士を引退し、高松で生活しながらも、春日の家に時折は帰り「華道家元」として門下生達の指導を行っていたはずです。そんな穣三を兄のように慕う一良は、隣の分家に穣三の姿を見つけるとよく訪問しました。ふたりで浄瑠璃や尺八などを楽しむ一方、一良は穣三にいろいろなことを相談した。
 その中に、電気会社創業の話もでてきたはずです。穣三は、かつて四水の前身である讃岐電灯の社長も務め、景山甚右衛門とも旧知の関係でした。話は、とんとん拍子に進んだのではないでしょうか。

  仲南町誌には、この当たりの事情を次のように紹介しています。
大正10年 増田穣三、増田一良たち26名が発起人となり、大阪の電気工業社長藤川清三の協力を得て、塩入水力電気株式会社を設立。当初釜ケ渕に水力発電所を設設する予定で測量にかかった。しかし資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換した。買田に事務所兼受電所を設置。七箇村、十郷村、財田村、河内村を配電区域として工事を進めた。
「資金面効率面で難点が多く、やむなく四国水力電気株式会社から受電して、それを配電する方策に転換」と書かれていますが、すでに四水からの「受電」方式を採用した電気会社がいくつか先行して営業を行っていました。「自前での水力発電所の建設を検討した」というのは、どうも疑問が残ります。
 また、「水力発電所」建設にかかる巨額費用を穣三は、「前讃岐電灯社長」としての経験から熟知していたはずです。当初から「受電」方式でいく事になっていたのではないでしょうか。にもかかわらず社名をあえて、「塩入水力電気株式会社」と名付けているところが「穣三・一良」のコンビらしいところです。

 1923(大正12)4月 七箇・十郷村にはじめて電燈が灯ります。

 設立された塩入水力電気株式会社は、資本金10万円で多度津に本店を置き、四国水力電気より電気を買い入れ、買田に配電所を設けて供給しました。家庭用の夜間電灯用として営業は夜だけです。営業エリアは、当初は七箇・十郷・財田・河内の4ケ村で、総電灯数は約1000燈(大正12年4月24日 香川新報)でした。
 旧仲南町の買田、宮田、追上、大口、後山、帆山、福良見、小池、春日の街道沿いに建てられた幹線電柱沿いの家庭のみへ通電でした。そして財田方面へ電線が架設され、四国新道沿いに財田を経て旧山本町河内まで、伸びていきます。供給ラインを示すと
 買田配電所 → 樅の木峠 → 黒川 → 戸川(ここまでは五㎜銅線)→ 雄子尾 → 久保ノ下 → 宮坂 → 本篠口 → 長野口 → 泉平 → 入樋 → 裏谷 → 河内(六㎜鉄線)へと本線が延びていました。 
これ以外の区域や幹線からの引き込み線が必要な家庭は、第2次追加工事で通電が開始されました。
そして、同年10月には1500灯に増加し、翌年(大正13年)3月末には、約2000燈とその契約数を順調に伸ばしていきます。
  春日の穣三の家は、里道改修で車馬が通行可能になった塩入街道沿いにあり、日本酒「春日正宗」醸造元でもありました。この店舗にも電線が引き込まれ、通電の夜には灯りが点ったことでしょう。電気会社の筆頭株主は増田一良であり、社長も務めました。穣三は点灯式を、どこで迎えたのでしょうか。華やかな通電式典に「前代議士」として出席していたのか、それとも春日の自宅で、電灯が点るのを待ったのでしょうか。
 かつて、助役時代に中讃地区へ電灯を点らせるために電力会社を設立し、有力者に株式購入を求めたこと、社長として営業開始に持ち込んだが利益が上がらず無配当状態が続いたこと、その会社が今では優良企業に成長していること等、穣三の胸にはいろいろな思いが浮かんできたことでしょう。
 あのときの苦労は無駄ではなかった、形はかわれどもこのような形で故郷に電気を灯すことになったと思ったかもしれません 

家庭に灯った電灯は、どんなものだったのでしょうか?

仲南町誌は次のように伝えます。 
ほとんどの家が電球1個(1ヵ月料金80銭)の契約だった。2燈以上の電燈を契約していたのは、学校、役場、駅などの公共建物や大きい商店、工場と、ごく一部の大邸宅だけであった。
 また、点燈時間は日没時から日の出までの夜間のみであった。一個の電燈で照明の需要をみたすために、コードを長くしてあちらこちらへ電球を引張り廻ったものである。婚礼や法事などで特に必要なとぎには、電気会社へ要請して、臨時燈をつけてもらった。二股ソケットで電灯を余分につけたり、10燭光契約で大きい電球をつけるなどの盗電をする者もたまにあったようで、盗電摘発のために年に何回か、不定期に不意うちの盗電検査が夜間突如として襲いきたものであった。
「盗電検査」があったというのがおもしろいです。

 ちなみに1925(大正14)年10月ごろに塩入電気が、四水から受電していた電力は60㌗アワーでした。最初は、電気は単に照明用として夜間だけ利用されていましたが、終戦後に使用の簡便なモーターが普及するようになります。財田缶詰会社などの要請で電気が昼夜とも配電されるようになったのは、戦後の1946(昭和21)年5月でした。この時同時に、塩入地区へも電気が導入されたようです。

  香川県に、はじめて電灯を灯したのは高松電灯だった。

旧高松藩士 牛窪求馬(うしくぼ もとめ)・松本千太郎

創立者の牛窪求馬は、高松藩の家老職の生まれで、高松で最初に自転車に乗り、靴をはき、洋服を着た人と言われ「ハイカラだんな」と呼ばれた人。この求馬が高松にも電灯会社をつくろうと決心したのは、明治26年、数え年31歳の時だった。幕末生まれで増田穣三とは同じ世代に当たる。発起人となって同志をつのり、旧藩主の松平家から資金援助もあって、資本金5万円の高松電灯が発足したのは、2年後の明治28年4月。その後、配電区域を着実に拡大していく。

旧丸亀藩内でも、電灯会社設立をめざす動きが二つ動き出す。

るいままとしての365日:景山甚右衛門を知っていますか?(多度津町)

一つは、多度津の景山甚右衛門や坂出の鎌田家を中心とするもの
もう一つは中讃の農村部の助役や村会議員の動きである。
後者の中心人物の一人が増田穣三である。設立呼びかけ人には増田穣三の他、当時の七箇村長や春日の名望家の名前も見える。郡部の地主僧を中心に「電灯会社」設立準備へ向けての動きの中心に穣三はいたようだ。
 もうひとつは、坂出の鎌田家と多度津の景山家の連合体だった。そして、認可が下りたのは後者。鉄道会社や銀行を経営し「多度津の七福神」として資本力も数段上の多度津坂出連合ではなかった。譲三が集めた「中讃名望家連合」であった。
 しかし、認可権は得たものの高松電灯のように、殿様の支援があった訳でなく資本も技術も経営術もない素人集団。それが外国から発電機を買い入れ発電所を作り、電線を引いて電気を供給するという仕事に取り組んでいくことになる。当然、難問続出で遅々として営業運転までに到らない。この「電力会社誕生物語」の難産の中に、増田穣三が社長として「火中の栗」を拾わざる得なくなっていくのである。
 実業家 増田穣三の姿は?
 若き日の増田穣三は、華道・浄瑠璃・三味線・書道など文化人としての側面を強く見せていた。村会が開かれた明治23年以後は、七箇村村会議員として村長・田岡泰を補佐してきた。さらに明治27年、矢野龜五郎の退任後には、代わって助役に就任し、政治への関わりをより強めていく。

増田穣三 讃岐人物評論

増田穣三 「讃岐人物評論」(明治37年)より
もうひとつの側面である「実業家」しての一面である。

それをうかがわせる資料が四国水力発電株式会社(四水しすい)の30年史である。これにより「実業家増田穣三」の姿を見ていきたい。
 「四水」の前身である「西讃電灯株式会社」の株式募集の発起人12名に、増田穣三の名前がある。さらに、穣三の後に村長となる近石伝四郎との名前もある。電力という新規事業に、農村部の若き資産家や指導者が関わっていく姿が垣間見える。

増田穣三と電灯会社
西讃電灯設立への歩み
 電灯会社設立の認可が下りると西讃電灯は金蔵寺の綾西館で創立総会を開き、定款を議定し、創業費の承認を求めた。資本金総額12万円  株金額50円 募集株数2400で、払込期限は、明治31年5月5日とされた。これを受けて明治31年9月に正式に会社が創立される。
 しかし、ここからが大変であった。会社は作ったが、素人集団。経験や技術、そして信用がない。工事は進まず開業の見込みもたたず「開店休業」状態が続く。設立時の社長・副社長は県外人で直接業務に関与せず、責任の取りようもない。このような状況に対して株主の不満は高まり、明治33年10月21日 臨時株主総会において、役員の総入れ替えを行い、同時に社名を「讃岐電気株式会社」と改称した。 何が営業開始の妨げとなっていたのだろうか。株主宛の報告書を少し長いが見てみよう。

明治34(1901)年7月7日、讃岐電気株式の株主への報告書  (四水30年史よりの意訳)

 我々が、前重役諸氏に代わって就任して以後、工事を進捗せしめ、発電機等が到着すれば直ちに据付ができるように準備を進めてきた。しかし、内部の整理に多くの日時費やし、事業の進捗が見られないのが現状である。
電柱が建てられない・・・・
 電柱は、明治32年4月より讃岐鉄道多度津停車場に到着しており、丸亀市や多度津町の市街地において電柱工事に着手し、引続き市外での建設を行い、次に琴平町や善通寺村にも伸張していくつもりである。市外工事は、田野に建設することになるが土地所有者から電柱建設の承諾は得ている。しかし、不動産登記法により地上設定の登記を行わなければならない。これには、該当書類の手続きや押印に時間がかかり大幅な遅れとなり、市外への電柱工事は進んでいない。このため予定通り、市街地内での建設と同時に土地登記を行い、その後に田野に建柱し架線工事を終え、各戸に電燈器具の取附引込を行う手順となる。予定からすれば、今秋には架線工事を完了させるはずだったのに未だ終わっていない。このため工員等を増員しても早期完成を図るべきだと冷評する人もいるが、それは皮相な見方で我社の方針を知らないからである。
また、本社建築についても直ちに着手しないことについて悪評がある。
これもまた我社の方針を知らない者の言である。建築物についてはわずか5,6000円で落成を見ることができる。しかし、機械室に至っては外國より機械据付の設計図及ボートゲージ等が到着しなければ地形杭打煉瓦積工事に着手することができない。従って機械室の建設着手を待たずに、付属建物に着手すれは手直しが必要になる可能性が大である。
発電機械の一部は、請負者が外国に発注しており、遠からず到着の見込みであるが、前重役時代の時のように機械は到着するが株金振込が遅々として進まず、機械の引き取りができない可能性も残る。
 そうなれば、請負者も融通の道がなく手附金の損失となる。機械は、他の会社に廻される不幸の再演を恐れる。そのため全額支払いとせず分割支払いにしていたが、内部整理のために日時は空しく過ぎ、第2回振込期日を3月末と定めたところ第79銀行の破綻となった。我社は別に関係する所ではなかったが経済界不振の状況のため銀行は警戒を強め貸出を躊躇し、第2回株金振込も完結できない状態となり、工期完成を延長せざる得なくなった。
 発電機械の図面がなければ、大きさが分からず家屋をつくれない
その間に、外国より発電機械の図面が到着すれば、直ちに機械室内杭打工事に着手し引き続き煉瓦積を行い、同家屋の起築に着手する。そして、諸機械到着を待って据付工事の準備を行い、一方においては市内の架線工事を行っていきたい。しかし、郊外の田野の架線が出来なければ、雨露に曝して痛みを早めることになりかねない。そのため世評の如何を顧みず架線工事を後にして、来月末日より電燈需要の申込を受付け、各戸の電燈器具取付工事を開始し、秋以後に住宅への架線引込工事に移りたいと考えている。
 以上、述べてきたように工事遅延の理由と、また、今後の運営方針についてご理解頂きたい。
そして、来年4月高松市で開かれる関西府県連合共進会期前には送電を開始したい。そうすれば電燈需要数の増加を見込める。機械発注の請負者に対しても、すでに外国の機械製造所と仮契約をしていることを挙げて、電報で至急調整を促し、来年2月完成、3月中には逓信大臣の免許を受け4月1日より開業を目指したい。
 株主諸君には、これらの事情を充分了解してりて当會社の被るべき風評を退け株金振込についても遅延することなく振り込み願いたい。また振込にあたって遅れる者があれば共済の策をとるなどの方策も採りたい。早く工事を落成させ、萬歳歓呼の間に試運転の好成績を告け、早く幾分の利益配当を得て、本会社の声價を挙くることに勉められんことを
 会社設立後、2年も経っているのに営業運転に入れない理由をまとめると

増田穣三 電灯会社営業開始の遅れ

  以上のような要因が重なり、営業開始が延び延びになり、会社に対しての「非常の悪評」「冷評」が噴出している状況がうかがえる。
 この株主総会で約束した「明治35年4月1日営業開始」も守れず、営業開始への見通しがつかないまま渋谷武雄社長は病気辞職。これが明治35年8月のことである。

代わって、取締役から社長に就任することになったのが穣三である。

増田穣三と讃岐電気
増田穣三と西讃電灯設立
 彼は、2年前から七箇村長、県会議員(参事)を務めていた。
この局面打開に彼の政治力を期待しての社長就任と言うことではなかったかと推察する。しかし、会社の置かれた状況から見て「据えられた社長」的存在だけに留まることは許されなかった。
 社長就任3年後の明治37年に出版された「明治37年出版 讃岐人物評論   讃岐紳士の半面」には、「讃岐電気社長・県参事会員 」の肩書きで増田穣三が紹介されている。
「入って電気会社の事務を統ぶるに及び、水責火責は厭わねど能く電気責の痛苦に堪えうる否やと唱ふる者あるも、義気重忠を凌駕するのは先生の耐忍また阿古屋と角逐するの勇気あるべきや必」
と「実業家としてのお手並み拝見」的な内容である。さてそれでは、増田穣三の実業家としての「手腕ぶり」を見てみよう。

明治35年8月の株主総会への増田穣三社長の報告書 

当会社事業は、株式不況の現状に加えて軽便電燈の出願があり、大きな影響を受け、営業開始が累々延期を重ね今日に至っている。もはやこれ以上の延期ができない所まで来ている。そのための対応として、工事の速成を計るために請負者才賀藤吉氏を通じて、技師工學士梶平治氏を渡米させる交渉に当たらせ本年9月中旬には諸機械の到着する予定となった。そして、10月の琴平大祭までに開業できる目論見である。開業期日が判然としないため電灯申込者が、現在の所は少いようであるが丸亀の兵営郵便局や昼間の電動力を使用する事業所等とは着々と交渉を進めつつある。
 また、一般需要者に対しても大々的に募集計画を周知しており、その結果坂出町などでは電線延長を申請する動きもあり、開業の暁には香川の地方電燈會社の中では、優に覇たるものになるとと信じている。乞ふ株主諸君開業期間の遅延を咎めさらんことを
 社長に就任した穣三は、技術者を渡米させると共に、善通寺師団等の大口需用者の確保を進め、琴平大祭の十月初旬には「開業せん目論見」であった。しかし、「障害百出」と設計変更に伴う認可申請のやり直しで、半年遅れの明治36年3月15日になって、初めて多度津の町に電灯を灯すことが出来た。送電営業開始は、それから4ヶ月後の7月30日であった。計画から8年、会社設立後5年の歳月を経ての難産ぶりであった。開業に向けて足踏み状態にあった電力事業を、営業運転にまで導いたという評価は出来るだろう。
 しかし、開業から1年目の株主総会。第1期の営業成績は次の通り

電灯会社の収支決算 開業年
讃岐電灯開業1年目の営業成績(1904年)
 収入が支出の三倍を超える大赤字である。これを受けて、増田穣三社長は次のように報告している。
明治37年7月 株主総会における増田穣三社長の報告
営業開始以来いまだ日が浅く、受電所の設備などが未だ完成に至っていないため、師団聯隊等の多数の需用に応ずることできていない。わずかに丸亀・多度津の区域内において零細の申込を受けながら480餘個の点灯数に達しているにすぎない。そして、今後は加入者が増加することが望めるが、現在の発電能力では、すぐに需要をまかないきれなくなることが予想される。設備の不完全が営業の不況を招いている。
 誠に遺憾であるが資本欠乏の状態でかろうじて開業にたどりついた現状では、漸進企画の途上にあり、やむを得ないと云はざる得ない。来年初夏の頃、工事全部の完成になれば我社の営業は近き将来において、一大盛況を呈すであろう。期して待つ可きなり
  営業開始から1年で、点灯受容者は480ヶ餘に伸び悩み、収入は支出の1/4程度。繰越赤字は80000円を超える状態である。
 しかし、現時点の苦境よりも未来を見つめよとし「当会社の営業は近き将来に於て一大盛況を呈す可きや。期して待つ可きなり」と大幅な欠損にもかかわらず、決して悲観せず大いに望を将来に託すべしという言葉で締めている。
増田穣三の方針は「未来のためへの積極的投資」であった。
 例えば、日露開戦を機に善通寺第11師団兵営の照明電灯化が決定し、灯数約千灯が讃岐電気に発注されることになると、お国のためにと採算度外視で対応し短期間で完成させている。さらに、明治38年には琴平への送電開始され、電力供給不足になると150キロワット発電機を増設し、210キロワット体制に設備投資を積極的に行った。
増田穣三 電灯会社の経営をめぐる対立
讃岐電灯経営戦略上の対立
 しかし、日露戦後の景気悪化のため契約数が伸びず、新設備投資が経営を圧迫するようになると、増田穣三の経営に対する不安と不満が起きてくる。 設立以来の赤字総額は8万円を越えていたようだ。

「投資拡大路線」の継続か、欠損金を精算して新体制でのやり直しかをめぐる経営上の対立が激しくなっていった。

 この時期、政治家としての増田穣三は、明治38年11月の第7回通常県会で第13代県会議長に選任されていた。43歳だった。議長としての職責を全うするためか、この時2つの決断を行っている。

増田穣三の責任の取り方
1つは、1906年1月に讃岐電気社長を辞任。
2つ目は、3月には七箇村長を退任
3つ目は、1907年9月の県会議員選挙に出馬せず
こうして、約4年間の増田穣三の「讃岐電気社長」時代は終わる。
増田穣三が去った後の電力会社は?
今までの欠損を、資本金を切り崩すことによって精算する道を選ぶ。 
会社は明治40年5月、12万円の資本金の内の84000円を「減少」して、いままでの損失を補填。残りの36000円を資本金とした。この結果、出資者たちは収支額の約2/3を失うことになった。損害を受けた大口株主として、
「安藤氏に於て8萬六千圓餘、長谷川氏に於て二萬二千円餘、増田穣三氏に於て千圓餘の損失となるも本社の革新を図る主旨により茲に至りたるものなれば、会社か前者に對する功労の偉大なるを認む」
と、新社長景山甚右衛門は株主総会で謝罪している。
 電灯会社設立に向けて、中讃の資産家に投資を呼びかけるなど当初から中心メンバーとして関わってきた穣三が失ったものは投資額の1000円という金額を遙かに超えて大きかった。戦前の地方の名望家達は、ネットワークを形成しており色々な情報・話題が飛び交う。「資本減少」という荒治療は、この電力会社の設立を当初より進めてきた増田穣三への信用を大きく傷つける結果となった。穣三自身も責任を痛感していた。それが、村長や県会議員からも身を退くという形になったのではないか。

多度津の景山甚右衛門を社長に迎えて会社は「資本減少」という「荒治療」と同時に、役員の更迭を行なって、景山甚右衛門を社長に、武田熊造を副社長に迎え、地元多度津の有力者による重役陣体制を作った。その上で、この年の8月の臨時総会で、114000円(2280株)の増資を行った。この増資の引受人は「前項新株式は全部景山甚右衛門、武田熊造、武田定次郎、合田房太郎、磯田岩5郎の5氏に於て引受くるものとす」とされた。結果から見れば後に「四国有数の優良企業」に成長するこの電力会社は、出資者も経営者も多度津関係者で固められることになる。

 この後の技術革新で水力発電で電気を生み出し、高圧送電技術の進歩を受けて遠距離送電が可能になる。新社長の景山甚右衛門は、いち早くこの技術を取り入れ社名も「四国水力電気株式会社」(四水)と改名し、後の四国電力に発展していく。増田穣三が、社長を務めたのはその前史にあたる。

  少年期に「和漢の学」を学び、華道や書道に楽しんだ少年が明治を迎えて、村の指導者として成長して村長職に就く。そこから県会議員や議長にまで成長していく。そして、道路や電気などの当時の最需要インフラ整備に関わっていくことになる。明治という時代は、若き人材を走らせながら育てていく時代なのだと改めて思う。
 さて、譲三は村長と県会議員から身を引き、電力事業からも遠ざかる。45歳である。


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