瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:絵図を読む > 弘法大師行状絵詞


大師は高野山の奥の院に生身をとどめ、つぎの仏陀である弥勒菩薩がこの世にあらわれでられるまでの間、すっとわれわれを見守り救済しつづけているという信仰があります。これを「弘法大師の入定留身」と呼ぶようです。この信仰が生まれる契機となったのは、大師への大師号下賜だったとされてきました。それは次のような話です。

  空海は、承和2年(835)年3月21日に入滅した。その86年後の延喜21年(921)年10月27日に、「弘法大師」の諡号が峨醐天皇から下賜されることになった。その報告のため、奥の院に参詣した観賢は、人定留身されている空海の姿を拝見し、その髪を剃り、醍醐天皇から賜わつた御衣を着せて差し上げた。

 26御衣替
奥の院に参詣した観賢が、人定留身の空海と出会う場面

今回はこの「入定留身」伝説を、高野空海行状図画で見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房192P」です。

今生での別れのときが近いことを悟った空海は、承和元年(834)5月、弟子たちを集めます。
そして「僧団のあるべき姿と日々の仏道修行のあり方を、また高野山を真然に付嘱すること」を遺言したとされます。その場面が「門徒雅訓」です。

第九巻‐第2場面 門徒雅訓 高野空海行状図画


門徒雅訓 江戸時代の天保5年(1834)に模写
           門徒雅訓 高野空海行状図画(トーハク模写版)

 この絵図版は、狩野〈晴川院〉養信ほかが、天保5年(1834)に模写したもで、トーハク所蔵でデジタルアーカイブからも見ることができます。原本は、鎌倉時代・14世紀に描かれたもののようです。
 中央の椅子にすわりこちらにむかってっているのが空海です。そして弟子たちがその廻りに座っています。しかし、空海の顔が見えませんし、弟子たちは七人しか描かれていません。

門徒雅訓 高野空海行状図画 親王本
    門徒雅訓 高野空海行状図画(親王版) 十大弟子に遺言する空海
一方、こちらは十大弟子とされる「真済・真雅・実恵・道雄・円明・真如・杲隣・泰範・智泉・忠延」が、空海ののまわりを取り囲んでいます。今の私にはこの絵の中に、誰がどこに描かれているのかは分かりません。悪しからず。
 空海が高野山を開いた当時は、奈良の「南都六宗」の力が巨大で、生まれたばかりの真言宗は弱小の新興勢力でしかありません。そのために空海はブレーンを集めるのに苦労したようです。そこで頼ったの「血縁と地縁」です。実恵は空海の佐伯直本家出身、真雅は空海の弟、智泉と真然は甥、とされます。空海と同じ讃岐の出身者の割合が高いのです。初期の真言集団が、讃岐出身者で固められていたことをここでは押さえておきます。
 祖師に仕える十人の弟子の絵は、何を表しているのでしょうか?
 
これを深読みすると、当時の真言宗の階層性社会が見えてくると研究者は考えています。別の視点から見ると、高野山の伽藍の堂宇は彼らによって造営されたものです。人物は高野山の伽藍を象徴しているとします。僧侶の肖像画は、教団と伽藍を示す暗喩でもあると云うのです。
 また地蔵院流道教方の歴代僧侶画像には「真雅・源仁・聖宝・観賢・淳祐・元杲・仁海・成尊・義範・勝覚・定海・元海・実運・勝賢・成賢・道教」が描かれています。密教では師から弟子へと教えを引き継ぐ儀式を灌頂といい、頭の上(頂)から水を注(灌)ぐように、師の知識や経験、記憶は弟子へと受け継がれていきます。その際には、教えを受け継いできた歴代僧名を記した系譜「血脈(けちみゃく)」が与えられます。そういう意味では、この歴代僧侶画像は「血脈を絵画化」したものと研究者は考えています。
 歴代先師の肖像は、僧侶が受け継いだ教義の道程を示すものであり、僧侶自身が歴史の連続体の中にあることを実感させる道具の役割を果たします。
いわば肖像は、過去から現在へと連なる時間の流れを視覚化するものなのです。並んだ歴代肖像画を見上げる僧侶達は、自分がとどの祖から派生し、どの血脈に賊するかがすぐに分かります。十人の弟子たちが描かれていると云うことは、そんなことも意味するようです。とすれば、トーハク版の法が十人をしっかりと描いていません。原画は、それに無頓着な時代に描かれたことが考えられます。
 またこの十大弟子に、後に孫弟子で「高野山二世」となった真然(しんぜん)と、平安中・後期に高野山の再興に尽くした祈親上人(定誉)の2人が追加され、十二人になります。十二人ですが「釈迦の十大弟子」になぞらえ、人数が増えてもそのままの呼称で呼ばれているようです。

入定留身1 高野空海行状図画
             入定留身

空海は、承和2年(835)3月15日、改めて弟子たちに遺言します。
これが「遺告(ゆいごう)二十五条」とされてきて権威ある文書とされてきました。しかし、近年では空海がみずから書いたものではないとする説が有力のようです。それは別にして、このこの「遺告二十五条」には、この時に空海は次のように云ったと記されています。

私は来る三月二十一日の寅刻(午前4時)に入定し、その後は必ず兜卒天(とそつてん)の弥勒菩薩のもとに行き、お前たちの信仰を見守っていよう。一心に修行するがよい。五十六億年あまりのち、弥勒菩薩とともに、必ずこの世に下生するから、と,(『定本全集』七 356P)

ここからは空海が亡くなったのは、承和2年(835)年3月21日の寅の刻であることが分かります。空海は胎蔵・大日如来の法界定印をむすび最期を迎えます。御歳63歳、具足戒ををうけてから31年目のことになります。
 この時のことを、高野空海行状図画は三場面で描いています。
右は、諸弟子に見守らて最期を迎えられたところです。真ん中にすわる空海となみだをぬぐう十人の弟子たち、
入定留身 高野空海行状図画親王本
 入定留身(高野空海行状図画 親王院本)
中央は、大塔のよこを黒い棺に人れられて運ばれている場面です。目指すのは左の奥の院です。
一説には次のように記します。
「弟子たちは、埋葬後も生前と同じように仕え、49日目に、鬚をそり、衣服をととのえて、住まわれていた住房(現御影堂)から奥の院に移した。後に石室を造り、陀維尼と仏舎利をおさめ、五輪塔をたてた」

ここでは、空海は黒い布が架かられた御簾で運ばれています。
左の奥の院には、一番奥に宝形造りの御廟と灯籠堂が、御廟の右に丹生・高野明神社が描かれています。この奥の院の風景は、平安末から鎌倉時代にかけてのものであり、当時のものではないことを研究者は指摘します。

入定留身 高野空海行状図画 生身の空海
       入定留身(高野空海行状図画模写)
江戸時代末の模写を見てみると、空海はまさに生き身の姿で担がれています。「入定留身」をより印象づける姿です。
入定留身 奥の院 高野空海行状図画
入定留身 奥の院への道には卒塔婆が並ぶ
時衆の開祖一遍も高野山にやってきています。それが  「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれています。そこに描かれた奥の院を見ておきましょう。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院

             「一遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた奥の院
①参道の両脇に立ち並ぶのは石造の長い卒塔婆のようです。
②その途中に右から左に小川が流れ、そこにに橋が架けられています。この川があの世とこの世の結界になるようです。これが今の「中橋」になるようです。
③中橋を渡り参道を登ると広場に抜け、入母屋造りの礼堂に着きます。
④その奥の柵の向こうに、方三間の方形作りの建物があります。これが弘法大師の生き仏を祀る廟所のようです。
⑤周りには石垣や玉垣がめぐらされ、右隅には朱塗りの鎮守の祠が建ちます。
⑥廟所の周りにいるのは烏たちです。カラスは死霊の地を象徴する鳥です。
この絵からは高野山の弘法大師伝説の定着ぶりが確認できます。

空海への大師号下賜


    921年の観賢の2度目の上奏に対して、醍醐天皇は勅書をもって空海に「弘法大師」の諡号を下賜したことが次の史料で裏付けられます。(『国史大系』第。1巻、24P)

己卯。勅す。故贈大僧正空海に論して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり。勅書を少納言平惟扶(これよりともいう)に齋さしめ、紀伊国金剛峯寺に発遣す。

〔現代語訳〕
(延喜21年10月)27日、醍醐天皇は故贈大僧正空海に諡号を下賜され、その贈り名を「弘法大師」とした。このことは、権大僧都観賢からの上表によって実現したことである。 そこで、この贈り名を下賜する勅出を少納言惟扶に持たせて、(その報告のために)紀伊国金剛峯寺にむけて派遣させた。

  このあたりのことを高野山のHPには次のように記します。
10月27日、勅使の平維助卿一行が高野山に登嶺し、厳かに宣命を読み上げられました。その後、東寺の住職、観賢僧正は下賜伝達のため、弟子の淳祐を伴い、高野山へ。入定後初めて御廟の扉を押し開けたところ、そこには深い霧が立ちこめ、お大師さまの御姿を拝することが叶いませんでした。僧正は自らの不徳を嘆き、一心に祈られました。すると霧が晴れ、そこには天皇から聞かされていたとおりのお大師さまの御姿がありました。しかし、淳祐にはどうしてもその姿を拝することが叶いません。そこで僧正は淳祐の手を取り、お大師さまのお膝にそっと導かれます。その膝は温かく、淳祐の手には御香の良い香りが残りました。
 二人は準備しておいた剃刀ていとうでお大師さまの髪や髭を整えると、新しい御衣にお召し替えいただき、大師号下賜の報告を申し上げました。そしていよいよ観賢僧正と淳祐が御廟を退座し、御廟橋の袂たもとで後を振り返ると、そこにはお大師さまのお姿がありました。僧正は御礼を申し上げると、お大師さまは「汝なんじ一人を送るにあらず、ここへ訪ね来たるものは、誰一人漏らさず」と仰せられました。淳祐の手の香りは生涯消えず、持つ経典に同じ香りが移ったといわれております。

贈大師号 高野空海行状図画
          贈大師号 右が空海との対面場面 左が剃髪場面
右の場面は、大師号が下賜されたことを伝えるために、高野山に登った東寺長官の観賢と弟子淳佑(しゅんにゅう)が、奥の院の廟竃を開き、禅定の姿をした空海と対面した所です。
26御衣替
 高野山HPの空海との対面場面 

大師号下賜 親王院本九- 院納院本
贈大師号 高野空海行状図画(親王院本)
親王院本を見ると空海の頭には、長く伸びた髪が描かれています。この時に、姿を見たのは観賢だけで弟子淳佑は見ることはできなかったと記します。そこで観賢は、その姿を分からせるために空海の膝に触れさせようと、手を取って導いています。

大師号下賜 高野空海行状図画親王院本 剃髪

左の場面は、のびるにまかせていた空海の髪を観賢が剃っているシーンです。御髪を剃った観賢は、次のように詠います
たかの山 むすぶ庵に袖くらて 苔の下にぞ有明の月

空海が登場する霊夢を見た醍醐天皇自らが贈られた檜皮色の御衣を着せて、もとのように石室を閉じた、とします。この故事にもとづき、今も高野山では衣服を取り替える儀式が行われているようです。この「お衣替」の儀式は、 甦り、再生の儀式でもあると研究者は指摘します。こうして「空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめておられる」という「人定留身信仰」が生まれます。そして11世紀はじめになると、高野山の性格は「修行の山から信仰の山へ」と大きく変わっていくのです。空海はいまも、「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」との大誓願のもと、われわれを見守りつづけてくださっているというのが高野山の立場のようです。
 研究者が注目するのは、画面に五輪塔が描かれていることです。しかし五輪搭があらわれるのは平安中期以後で、このような大型のものは、奈良西大寺の律宗の布教戦略に絡んで出現します。10世紀前半には五輪塔は早すぎるというのです。
以上を整理・要約すると
①空海は入滅後は、高野山奥の院の霊廟に入定した。
②それから86年後に空海に大師号が下賜された。
③それを知らせに高野山に赴いた東寺の観賢は、霊廟をあけると空海が髪を伸ばして座っている姿に出会った
④そこで髪を剃り、天皇より下賜された服を着せ、霊廟を閉めた。
⑤こうして空海は生命あるものすべてを救済するために、奥の院に生身をとどめているという「人定留身信仰」が生まれた。
⑥この信仰は高野聖などによって各地に伝えられ、弘法大師伝説と高野山を使者供養の信仰の山として
全国に流布することになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」
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飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)

空海が中国の明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。中国で投げた三鈷杵が高野山まで飛んでくるというのは、現在の科学的な見方に慣れた私たちには、すんなりとは受けいれがたいお話しです。ここに、合理主義とか科学では語れない「信仰」の力があるのかも知れません。それはさておくにしても、どうして、このような「飛行三鈷杵」の話は生れたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
まず「飛行三鈷」についての「先行研究」を見ておきましょう。
  ①和多秀来氏の「三鈷の松」は、山の神の神木であった説
高野山には呼精という行事があり、毎年六月、山王院という丹生、高野両大明神の神社の前のお堂で神前法楽論議を行います。そのとき、竪義(りゅうぎ)者が山王院に、証義者が御形堂の中に人って待っていますと、伴僧が三鈷の松の前に立ち、丹生、高野両大明神から御影常に七度半の使いがまいります。そうやつてはじめて、証義者は、堅義者がいる山王院の中へ入っていくことができるのです。これは神さまのお旅所とか、あるいは神さまのお下りになる場所が三鈷の松であったことを示す古い史料かと思います。一中略一
 三鈷の松は、山の神の祭祀者を司る狩人が神さまをお迎えする重要な神木であったということがわかります。(『密教の神話と伝説』213P)
ここでは、「三鈷の松=神木」説が語られていることを押さえておきます。  
  
三鈷宝剣 高野空海行状図画 地蔵院本
右が樹上の三鈷杵を見上げる空海 左が工事現場から出来た宝剣を見る空海

次に、三鈷杵が、いつ・どこで投げられたかを見ていくことにします。
使用する史料を、次のように研究者は挙げます。
①  金剛峯寺建立修行縁起』(以下『修行縁起』) 康保5(968)成立
② 経範接『大師御行状集記』(以下『行状集記』)寛治2(1089)成立
③ 兼意撰『弘法大師御伝』(以下『大師御伝」) 水久年間(1113~18)成立
④ 聖賢撰『高野大師御広伝』(以下『御広伝』) 元永元(1118)年成立
⑤『今昔物語集』(以下『今昔物語』)巻第十  第九話(12世紀前期成立)
これらの伝記に、三鈷杵がどのように書かれているのかを見ておくことにします。
飛行三鈷杵のことを記す一番古い史料は①の「修行縁起」で、次のように記します。

大同二年八月を以って、本郷に趣く。舶を浮かべるの日、祈誓して云はく。

ここには大同2年8月の明州からの船出の時に「祈誓して云はく」と記されています。しかし、「祈誓」が、陸上・船上のどちらで行われたかは分かりません。敢えていうなら「舶を浮かべる日」とあるので、船上でしょうか。
  ②『行状集記』は、次のように記します。

本朝に赴かんとして舶を浮かべるの日、海上に於いて祈誓・発願して曰く。

ここには、「海上に於いて祈誓・発願」とあり、海上で投げたとしています。
  ③『大師御伝』は、
大同元年八月、帰朝の日、大師舶を浮かべる時、祈請・発誓して云はく
これは①『修行縁起』とほぼ同じ内容で、海上説です。

④『御広伝』には、
大同元年八月、本郷に趣かんと舶を浮かべる日、祈請して誓を発して曰く
『修行縁起』『大師御伝』と同じような内容で、海上説です。

⑤『今昔物語』には、
和尚(空海)本郷二返ル日、高キ岸二立テ祈請シテ云ク
ここで初めて、「高キ岸二立ちテ」と陸上で祈請した後で、三鈷杵を投げたことが出てきます。しかし、具体的な場所はありません。以上からは次のようなことが分かります。
A ①~④の初期の伝記では、海上の船の上から「三鈷杵」は投げられた「船上遠投説」
B 12世紀に成立した⑤の今昔物語では「陸上遠投説」
つまり、真言宗内では、もともとは三鈷杵を投げたのは船上として伝えられていたのです。それが、今昔物語で書き換えられたようです。
空海小願を発す。

前回も見ましたが天皇の上表書と共に、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙には、次のように記されています。
①此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院(寺院)を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。
 
意訳変換しておくと
  A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

これを見ると伝記の作者は、空海の上表文や布勢海宛ての手紙を読み込んだ上で、「飛行三鈷」の話を記していることがうかがえます。つまり、「悪天候遭遇による難破の危機 → 天候回復のための禅院(密教寺院)建立祈願 → 飛行三鈷杵」は、一連のリンクされ、セット化された動きだったと研究者は考えています。そうだとすると三鈷杵は当然、船の上から投げられたことになります。初期の真言宗内の「伝記作家」たちは、「飛行三鈷杵=船上遠投説」だったことが裏付けられます。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2

次に、高野山で三鈷杵を発見する経緯を見ていくことにします。    
①の『修行縁起』は、次のような構成になっています。

弘法大師行状絵詞 高野山の絵馬
高野空海行状図画(高野山絵馬)

A 弘仁7(816)年4月、騒がしく穢れた俗世間がいやになり、禅定の霊術を尋ねんとして大和国字知那を通りかかったところ、 一人の猟師に出会った。その猟師は「私は南山の犬飼です。霊気に満ちた広大な山地があります。もしここに住んで下さるならば、助成いたしましょう」と、犬を放ち走らせた。

B 紀伊国との堺の大河の辺で、一人の山人に出会った。子細を語ったところ、「昼は常に奇雲聳え夜には常に霊光現ず」と霊気溢れるその山の様子をくわしく語ってくれた。

C 翌朝、その山人にともなわれて山上にいたると、そこはまさに伽藍を建立するに相応しいところであった。山人が語るには「私はこの山の王です。幸いにも、いまやっと菩薩にお逢いすることができた。この土地をあなたに献じて、威福を増さんとおもう」と。

D 次の日、伊都部に出た空海は、「山人が天皇から給わつた土地とはいえ、改めて勅許をえなければ、罪をおかすことになろう」と考えた。そうして六月中旬に上表し、一両の草庵を作ることにした。

E 多忙ではあったが、一年に一度はかならず高野山に登った。その途中に山王の丹生大明神社があった。今の天野宮がそれである。大師がはじめて登山し、ここで一宿したとき、託宣があった。「私は神道にあって久しく威福を望んでいました。今、あなたがお訪ねくださり、嬉しく思います。昔、応神天皇から広大な土地を給わりました。南は南海を限り、北は日本(大和)河を限り、東は大日本の国を限り、西は応神山の谷を限ります。願わくは、この土地を永世に献じ、私の仰信の誠を表したくおもいます。

F 重ねて官符をたまわった。「伽藍を建立するために樹木を切り払っていたところ、唐土において投げた三鈷を挟む一本の樹を発見したので、歓喜すること極まりなかった。とともに、地主山王に教えられたとおり、密教相応の地であることをはっきりと知った。
 さらに平らなる地を掘っていたところ、地中より一つの宝剣を掘り出した。命によって天覧に供したところ、ある祟りが生じた。ト占させると、「鋼の筒に入れて返納し、もとのごとく安置すべし」とのことであった。今、このことを考えてみるに、外護を誓った大明神が惜しんだためであろう。(『伝全集』第一 53P)

こうしてみると、三鈷杵については、最後のFに登場するだけで、それ以前には何も触れていません。
伽監建立に至る経過が述べられた後で、「樹に彼の唐において投げる所の三鈷を挟むで厳然として有り。弥いよ歓喜を増す」と出てきます。この部分が後世に加筆・追加されたことがうかがえます。ここで、もうひとつ注意しておきたいのは、「彼の唐において投げる所の三鈷」とだけあって、「三鈷の松」という表現はでてきません。どんな木であったかについては何も記されていないのです。この点について、各伝記は次の通りです。
『行状集記』は「柳か刈り掃うの間、彼の海上より投る三鈷、今此の虎に在りし」
『大師御伝』には、高野山上で発見した記述はなし
『御広伝』には、「樹木を裁り払うに、唐土に於いて投ぐる所の三鈷、樹間に懸かる。弥いよ歓喜を増し」
  『今古物語』、三鈷杵が懸かっていた木を檜と具体的に樹木名を記します。
山人に案内されて高野山にたどり着いた直後のことを今昔物語は次のように記します。
檜ノ云ム方無ク大ナル、竹ノ様ニテ生並(おいなみ)タリ。其中二一ノ檜ノ中二大ナル竹股有り。此ノ三鈷杵被打立タリ。是ヲ見ルニ、喜ビ悲ブ事無限シ。「足、禅定ノ霊窟也」卜知ヌ。   (岩波古典丈学大系本「今昔物語集』三 106P
空海の高野山着工 今昔物語25
今昔物語第25巻

ここでは、一本の檜の股に突き刺さっていたと記されています。ここでも今昔物語は、先行する伝記類とは名内容が異なります。以上を整理しておくと、
①初期の大師伝や説話集では、三針杵が懸かっていた木を単に「木」と記し、樹木名までは明記していないこと
②『今普物語』だけが檜と明記すること。
③「松」と記すものはないこと

高野山三鈷の松
三鈷の松(高野山)

それでは「三鈷の松」が登場するのは、いつ頃からなのでしょうか?
寛治2(1088)年2月22日から3月1日にかけての白河上皇の高野山参詣記録である『寛治二年高野御幸記』には、京都を出立してから帰洛するまでの行程が次のように詳細に記されています。
2月22日 出発 ― 深草 ― 平等院 ― 東大寺(泊)
  23日   東大寺 ― 山階寺 ‐― 火打崎(泊)
  24日  真上山 ― 高野山政所(泊)
  25日 天野鳥居― 竹木坂(泊)
  26日 大鳥居 ― 中院 (泊)
  27日   奥院供養
     28日    御影堂 薬師堂(金堂) 三鈷松 ― 高野山政所(泊)
  29日   高野山政所 ― 火打崎(泊)
  30日   法隆寺 ― 薬師寺 ― 東大寺(泊)
3月 1日   帰洛
これを見ると、東大寺経由の十日間の高野山参拝日程です。この『高野御幸記』には「三鈷の松」が2月28日の条に、次のように出てきます。
影堂の前に二許丈の古松有り。枝條、痩堅にして年歳選遠ならん。寺の宿老の曰く、「大師、唐朝に有って、有縁の地を占めんとして、遙に三鈷を投つ。彼れ萬里の鯨波を飛び、此の一株の龍鱗に掛かる」と。此の霊異を聞き、永く人感傷す。結縁せんが為めと称して、枝を折り実を拾う。斎持せざるもの無く帰路の資と為す。      (『増補続史料大成』第18巻 308P)

意訳変換しておくと
A 御影常の前に6mあまりの。古松があった。その枝は、痩せて堅く相当の年数が経っているように思われた。

B 金剛峯寺の宿老の話によると、「お大師さまは唐土にあって、有縁の地(密教をひろめるに相応しいところ)あれば示したまえと祈って、遥かに三鈷杵を投げあげられた。すると、その三鈷杵は万里の波涛を飛行し、この一本の古松に掛かつていた」と。

C この霊異諄を耳にした人たちは、たいそう感動した様子であった。そして、大師の霊異にあやかりたいとして、枝を折りとり実を拾うなどして、お土産にしない人はいなかった。

これが三鈷の松の登場する一番古い記録のようです。この話に誘発されたのか、白河天皇はこのときに、大師から代々の弟子に相伝されてきた「飛行三鈷杵」を京都に持ち帰ってしまいます。

以上をまとめておきます。
①「飛行三鈷杵」と「三鈷の松」の話は、高野山開創のきっかけとなった、漂流する船上で立てられた小願がベースにあること
②それは初期の大師伝が、三鈷を投げたところをすべて海上とみなしていることから裏付けられること。
③開山以前の高野山には「山の神の神木」、つまり神霊がやどる依代となっていた松が伽藍にあったこと
以上の3つの要素をミックスして、唐の明州から投げた三鈷杵が高野山で発見された、というお話に仕立てあげられたと研究者は考えています。この方が、高野山の開創を神秘化し、強烈な印象をあたえます。そのため、あえて荒唐無稽な話に仕立てられたとしておきます。
 ちなみに高野山御影常宝庫には、この「飛行三鈷杵」が今も伝わっているようです。

飛行三鈷杵2
高野山の飛行三鈷杵
この三鈷杵は、一度高野山から持ち去れてしまいますが、後世に戻ってきます。「仁海の記」には、その伝来について次のように記します。
①南天竺の金剛智三蔵 → 不空三蔵 → 恵果和尚 → 空海と相伝されたもので、空海が唐から持ち帰ったもの。
②その後は、真然―定観―雅真―仁海―成尊―範俊と相伝
③寛治三(1088)2月の白河天皇の高野御幸の際に、京都に持ち帰り、鳥羽宝蔵に収納
④これを鳥羽法王が持ち出して娘の八条女院に与え、次のように変遷。
⑤養女の春花門院 → 順徳天皇の第三皇子雅成親王 → 後鳥羽院の皇后・修明門院から追善のために嵯峨二尊院の耐空に寄進 
⑥耐空は建長5(1253)年11月に、高野山御影堂に奉納
白河天皇によって持ち出されて以後、約130年ぶりに耐空によって、高野山に戻されたことになります。その後、この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。
飛行三鈷杵3

飛行三鈷杵(高野山)
それまで語られることのなかった飛行三鈷杵が、9世紀後半になって語られはじめるのはどうしてでしょうか?
「飛行三鈷杵」の話は、康保五年(968)成立の『修行縁起』に、はじめて現れます。その背景として、丹生・高野両明神との関係を研究者は指摘します。
丹生明神と狩場明神
        重要文化財 丹生明神像・狩場(高野)明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生・高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのが、天徳年間(957~61)のことです。場所は、当初は奥院の御廟の左だったとされます。

高野山丹生明神社
丹生・高野両明神が祀られていた奥の院

この頃のことを年表で見てみると、天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失しています。それを高野山の初代検校であった雅真が復興し、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。これと無縁ではないようです。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の著者とされているのが、この初代検校・雅真だと研究者は指摘します。そして、次のような考えを提示します。

 御廟の復興は、高野山独自で行うことは経済的に困難がともなった。そこで雅真は、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うた。その際に、一つの交換条件を出した。その一つは奥院に丹生・高野両明神を祀ることであり、あと一つは丹生明神の依代であつた「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れることであった。

この裏には、空海の時代から丹生祝一族から提供された物心にわたる援助に酬いるためであったとします。
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弘法大師・高野・丹生明神像

  以上をまとめておきます
①空海は唐からの洋上で、難破寸前状態になり、「無事帰国できれば密教寺院を建立する」という小願を船上で立てた。
②その際に、三鈷杵を船から日本に向けて投げ「寺院建立に相応しい地を示したまえ」と念じた。
③帰国から十年後に、空海は高野山を寺院建立の地として、下賜するように上表文を提出した。
④そして整地工事に取りかかったところ、樹木の枝股にある三鈷杵を見つけた。
⑤こうして飛行三鈷杵は、高野山が神から示された「約束の地」であることを告げる物語として語られた。
⑥しかし、当初は三鈷杵があった樹木は何であったは明記されていなかった。
⑦もともと奥院に丹生・高野両明神を祀られ、丹生明神の依代であつた「松」が神木とされていた。
⑧そこで、その松を神秘化するために、「三鈷の松」とされ伝承されることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
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東博模写本 高野空海行状図画のアーカイブ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/510912

前回は高野空海行状図画には、高野山開山のことがどのように描かれているのかを見ました。ただ絵伝類について研究者はつぎのように指摘します。

絵伝はその性格上、大師の行状事蹟を史実にもとづいて忠実に描写してゆくことを主眼としているのではなく、大師の偉大なる宗教性を強調し、民衆を教化してめこうとするところに、その目的がある。そのためにこれらの本は、至る所に霊験奇瑞が取り入れられているのが常である。
          「弘法大師 空海全集」第8巻 167P


行状図画などの絵巻物は、中世になって作られたもので、弘法大師伝説や高野山信仰を広めるために高野聖が絵解きのために使用されました。そのため後世に附会されたり、創作された部分が数多くあります。今回は、絵巻の作成の際に参考にした空海が残した文書に高野山開山が、どのように記されているのかを見ていくことにします。
まず、「高野山開創」の時期を年表化しておきます。
806(大同元)年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位。
  10月、空海帰国し、大宰府・観世音寺に滞在。
10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。
809(大同4)年 平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位。空海は、和泉国槇尾山寺に移動・滞在
 7月 太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。
 空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。
810(大同5)年 薬子の変で、嵯峨天皇のために鎮護国家のための大祈祷実施
811(弘仁2)年から翌年にかけて乙訓寺の別当を務めた。
812(弘仁3)年11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。入壇者には最澄もいた。  
12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名
815(弘仁6)年春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼。西国筑紫へも勧進をおこなった。
816(弘仁7)年6月19日、修禅道場として高野山下賜の上表文提出
                             7月8日、嵯峨天皇より高野山下賜の旨勅許を賜る。
817(弘仁8)年 泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手
818(弘仁9)年11月、空海自身が高野山に登り翌年まで滞在し伽藍建造プラン作成?
819(弘仁10)年春、七里四方に結界を結び、高野山の伽藍建立に着手。
821(弘仁12)年 満濃池改修を指揮(?)
822(弘仁13)年 太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。平城上皇に潅頂を授けた。
823(弘仁14)年正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。
824(天長元)年2月、勅により神泉苑で雨乞祈雨法を修した。
         3月 少僧都に任命され、僧綱入り(天長4年には大僧都)
空海は唐から帰朝した十年後の弘仁7(816)6月19日付に、嵯峨天皇に高野山の下賜を申し出ます。ここから高野山の歴史は始まるとされます。この願いはただちに聞き届けられ、7月8日、天皇は紀伊国司に太政官符を下し、大師の願い通りにするよう命じています。

空海が高野山の下賜を、嵯峨天皇に申し出た理由として、次の3つの説があるようです。
①空海が少年のころ、好んで山林修行をされていたとき、訪れたことがある旧知の山であり、そのころからすでにこの地に着目していたとする説
②十大弟子のひとりである円明の父・良豊田丸(よしのとよたまる)が、空海が伽藍建設にふさわしい土地を探し求めていることを聞き、高野山を進言したとする説。
③弘仁7(816)年4月、伽藍建立の地を探し求めていたとき、大和国宇智郡でひとりの猟師(犬飼)に出逢い、この犬飼に導かれて高野山にいたり、この地を譲られたとする説。

この3つの説の従来の評価は、次の通りです。
①が史料的にもっとも信憑性の高い説
②は史料的には必ずしも信頼できない説
③は伝説の域をでない説
以上を押さえた上で、空海の残した文章で、高野山の開創を見ていくことにします。
まず、 弘仁7年(816)6月19日付の空海の上表文の全文を押さえておきます。

空海上表文 高野山下賜

高野山下賜を願う空海上表文
紀伊の国伊都の郡高野の峰において、人定の所を請け乞わるるの表
A 沙門空海言す。空海聞く、山高きときは雲雨物を潤し、水積るときは魚龍産化す。是の故に嗜闍(ぎじゃ)の峻嶺には能仁(のうにん)の跡休ず。孤岸の奇峰には観世の跡相続ぐ。共の所由を尋ぬるに、地勢自ら爾なり。また台嶺の五寺には禅客肩を比べ、天山の一院には定侶袖を連ること有り。是れ則ち、国の宝、民の梁(はし)なり,
B 伏して推れば、我が朝歴代の皇帝、心を佛法に留めたまへり。金刹銀台櫛のごとく朝野に比び、義を談ずるの龍象、寺ごとに林を成す。法の興隆是において足んぬ。但だ恨むらくは、高山深嶺に四禅の客乏しく、幽藪窮巌(ゆうそうきゅうがん)に入定の賓希(まれ)なり。実に是れ禅教未だ伝わらず、住処相応せざるが致す所なり。今禅経(密教)の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宜し。
C 空海少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野従り南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地有り。名付けて高野と曰ふ。計るに紀伊の国伊都郡の南に当れり。四面高峯にして人跡路耐えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸の修行者の為に、荒藪を刈り夷(たいら)げて、聊か修禅の一院を建立せん。経の中に戒有り。「山河地水は悉く是れ国主の有なり、若し此丘、他の許さざる物を受用すれば、即ち盗罪を犯す」者(てへり)。加以(しかのみなら)ず、法の興廃は悉く人心に繋れり。若しは大、若しは小、敢えて自由ならず。
D 望みみ請うらくは、彼の空地を賜わることを蒙って、早く小願を遂げん。然れば則ち、四時に勤念して以て雨露の施を答したてまつらん。若し天恩允許せば、請う、所司に宣付したまへ。軽しく震展を塵して伏して深く煉越す。沙門空海、誠惇誠恐、謹んで言す。
弘仁七年六月卜九日 沙門空海上表す       (『定本全集』第八 169~171P
意訳変換しておくと
 紀伊の伊都郡高野の峰の下賜を請願書

A 私・空海は次のように聞いている。山が高いと雲集ま り、雨多くして草木を潤す。水が深いと魚龍集まり住 み、繁殖も盛んである。このように峻嶺たる嗜闊堀山に は、釈迦牟尼が出てその教えが継承され、奇峯たる補陀洛山には、観世音菩薩が追従されている。それはつまり高山峻嶺の地勢が、仏道修行者に好適地であるためである。また台嶺の五寺には、禅客が肩を並べて修行し、天山の一院には、優れた僧侶が袖を連ねています。これは、国の宝であり、民の柱です。
B 還りみると、歴代の天皇は佛法を保護し、壮麗なる伽藍や僧坊は櫛のはのごとくに、至るところにたちならび、教義を論ずる高僧は寺ごとに聚(じゅ)をなしています。仏法の興隆ここにきわまった感があります。ただしかし、遺憾におもえることは、高山深嶺で瞑想を修する人乏しく、幽林深山にて禅定にはいるものの稀少なことでございます。これは実に、禅定の教法がいまだ伝わらず、修行の場所がふさわしくないことによるものです。いま禅定を説く経によれば、深山の平地が修禅の場所として最適であります。
C 空海、若年のころに好んで山水をわたり歩きました。吉野の山より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること二日ほどのところに、高野と呼ばれている平原の閑寂なる土地がございます。この地は、紀伊の国伊都の郡の南にあたります。四方の峰高く、人跡なく、小道とて絶えてございません。いま、上(かみ)は国家のおんために、下(しも)は多くの修行者のために、この生い茂る原生林を刈りたいらげて、いささか修禅の一院を建立いたしたく存じます。
 経典の中に次のような戒めがあります。「山河地水は、総て国主(天皇)のものである。もし、国守の許さない土地を無断で受用すれば、即ち盗罪である。法の興廃は、人心の盛衰に繋がります。貴賤に関わらず、法を遵守することが大切です。
D 高野の地を下賜され、一刻も早く小願が遂げられること望み願います。そうすれば、昼夜四時につとめて、聖帝の慈恩にむくいたてまつります。もし恩顧をたれてお許したまえば、所司にその旨を宣付したまわらんことを請いたてまつります。軽軽しく聖帝の玉眼をけがし、まことに恐れ多く存じます。沙門空海誠惶誠恐(せいこうせいきょう)謹んで言上いたします。        弘仁7年(816)6月19日 沙門空海表をたてまつる
この文章は空海が嵯峨天皇に宛てた上表文で、根本史料になります。後世の高野空海行状図画などの詞書は、この上表文を読み込んだ上で、これをベースにして書かれています。そして、後世になるほど付加される物語が増えていきます。
上表文の中で、空海が高野山のことを書いているのは、次の点です。
①若い頃に山岳修行で、高野山も修行ゲレンデとしてよく知っていた。
②位置は、古野から南へ一日、そこから西に向って三日の行程でたどりつける
③地理的環境は、まわりを高い峰々にかこまれ、まれにしか人の訪れることのない幽玄閑寂な沢地であること
④紀伊国伊都郡の南に位置していること

高野山4


ここで疑問に思うのは、どうして都から逮くはなれた不便な山中に、伽藍を建立しようとしたのかという点です。高野山開創の目的を、空海はDに「一つの小願を成し遂げるため」として、次のように記します。

私のお願いしたいことは、彼の空地(高野の地)を賜りまして、上は国家鎮護を祈念するための道場としての、下は多くの仏道修行者が修行するための道場としての、小さな修禅の密教の寺を建立して、早く小願を成し遂げたいことであります。



空海小願を発す。

 それでは「高野山開創」の小願を、空海は、いつ・どこで立てたのでしょうか?
それが分かるのは、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙です。主殿寮とは、天皇の行幸の際の乗物・笠・雨笠など一切の設営管理を担当する役所であり、布勢海はそこの次官でした。その手紙の全文を見ておきましょう。

A 此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。

B 貧道、少年の日、修渉の次に、吉野山を見て南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原有り。名づけて高野と曰う、計るに紀伊国伊都郡の南に当れり。四面高山にして人亦遙に絶えたり。彼の地、修禅の院を置くに宜し。今思わく、本誓を遂げんが為に、聊か一の草堂を造って、禅法を学習する弟子等をして、法に依って修行せしめん。但恐るるは、山河土地は国主の有なり。もし天許を蒙らずんば、本戒に違犯せんことを。伏して乞う。斯の望みを以聞して、彼の空地を賜うことを蒙らん。若し天恩允許せば、一の官符を紀伊国司に賜わらんことを欲す。
委曲は表中に在り。謹んで状を奉る。不具。沙門空海状す。
布助。謹空                    『定本全集』第七 99~100P
意訳変換しておくと

A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。次第に温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

B 私・空海は、若いときに山林修行を行いました。その際に、吉野山から南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原があることを知りました。この地は高野と呼ばれています。行政的には紀伊国伊都郡の南で、四方が高山で人跡絶えた処です。この地が、修禅の院(寺院)を置くに相応しいと考えています。今考えていることは、本願を遂げるために、小さな草堂を造って、禅法(密教)を学習する弟子等を育て、法に依って修行させたいと思います。しかし、私が恐れるのは、我が国の山河土地は、すべて国主たる天皇のものです。もし、天皇の許しを得ずして無断で、寺院を建立したとなれば、それは国法に違犯することになります。そこで、私の望みを以聞(天皇に伝えて)、彼の空地(高野山)を賜うことを取り計らって欲しいのです。もし、それが許されるのなら、官符を紀伊国司に下していただきたい。詳しくは別添の上表文に書いています。謹んで状を奉る。不具。
沙門空海状す。布助。謹空                    『定本全集』第七 99~100P

この手紙には、日付がありません。しかし、後半部は、先ほど見た上表文と同じ内容の文章があります。ここからは、高野山の下賜を願い出るに当たって、天皇側近の布勢海に、側面からの助力を依頼した私信と研究者は考えています。空海には、天皇側近中にも多くの支援信者たちがいたようです。
 このなか、船上で立てられた「小願」とは、Aの次の箇所です。

もし無事に帰国できたなら、諸々の天神地祇の成光を増益し、鎮護国家と人々の幸福を祈らんがために密教寺院を建て、密教の教えにもとづいた修禅観法を行いたい。願はくは善神われを護りたまい、早く本国に達せしめよ。

その結果、神々の加護をうけて無事帰国することができたのです。帰国後、月日はまたたく間に過ぎ去り、12年が過ぎ去ろうとしています。このときの小願をそのまま放置しておけば、神々をだますことになるので、一日も早く、神々との約束を成し遂げたいと、布勢海に切なる願いを伝えたのでしょう。
こうして、7月8日付で紀伊国司にあてて出された太政官符が以下の内容です。

紀伊国国司への太政官符 高野山
紀伊国司に下された太政官符 空海への下賜が命じられている

それでは、どうして高野山が選ばれたのでしょうか? 
その理由を空海は、上表文の中に次のように記しています。

今、禅経の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宣し。

この時点では、空海は自らの教説を「密教」とは呼んでいません。「密教」という用語が登場する以前の段階です。ここでは「禅経」としています。禅経とは、『大日経』『企剛頂経』をはじめとする密教経論のことのようです。そうすると、密教経論には、密教の修行にもつともふさわしい場所が具体的に記されていることになります。それを確認しておきましょう。
金剛知の口訳『金剛頂喩伽中略出念誦経』巻 には、次のように記します。

諸山は花果を具するもの、清浄悦意の池沼・河辺は一切諸仏の称讃する所、或は寺内に在し、或は阿蘭若、或は山泉の間に於て、或は寂静廻虎、浄洗浴庭、諸難を離るる処、諸の音声を離る処,或いは、意所楽の処、彼に於いて応に念涌すべし。     (『大正蔵経』十八 224P(中段)

最後に「彼に於いて応に念謡すべし」とあり、次のような場所が密教修行には相応しい場所とされています。
①「諸山は花果を具するもの」とは、花が咲き、実を付ける木々が数多くある山
②「清浄悦意の池沼・河辺は一切諸仏の称讃する所」とは、清らかな水が湧き流れていて、そこに足を運ぶと、おのずからこころが楽しくなるような池・沼・川
③「阿蘭若」は争いのないところで、具体的には寺のこと
④「諸難を離るる庭」とは、毒蛇とか毒虫などによって修行が妨げられない所、
⑤「諸の音声を離る処」とは、耳障りな音声・ざわざわした雑踏の音がしないないところ
以上からは、高野山が修禅の道場の建立地として選ばれた理由は、「修禅観法(密教の修行)の地としてもっともふさわしいのは、深山幽谷の平地である」と説く金剛知の『略出念誦経』などの密教経典の教説に従ったと研究者は考えています。

別の視点から見ると、当時のわが国の仏教界に対する批判の裏返しでもあったようです。
上表文の前半部には、次のような部分がありました。

インドの霊鷲山の峻嶺にはお釈迦さまが垂迹されるという奇瑞が次つぎにおこり、補陀洛山には観音善薩応現の霊跡が相ついであらわれている。その理由をたずねると、高山峻嶺の地勢の故であるという。また唐では、五台山・天台山といった山岳に寺院が建てられ、そこには禅観を修する者が多く、それらの修禅者は国の宝、民の梁(国人々の大きな文え)となっている、

これらの霊山に高野山が地に優るとも劣らない霊的にすぐれた聖地であることを主張します。

その一方で、わが国に目を転じてみると、歴代の天皇は仏教を崇拝し、壮麗な寺院が数多く建て、そこには高徳の僧がたくさんいる。仏法の興隆ということからすれば、これでに充分だが、残念なことは、高山峻嶺に人って禅観(密教)を修する人が極めて少ない。それは、修禅観法を説く経典が伝わつておらず、また修禅にふさわしい場所もないからである。

と、わが国の現状を批判します。この批判の背後には、天台・律・三論・法相の諸宗に対する密教の優位性と、正統な密教を請来してきたという空海の自負がうかがえます。
以上をまとめておきます。
①高野山は、帰朝の際に嵐にあって漂流する船上で、無事帰国を願って密教寺院建立の小願を立てた。
②その建立目的は、一つには鎮護国家と人々の幸福で平安な生活を祈念するための道場として
③もう一つの目的としては、諸々の修行者の修禅の道場とするためであった。
④小願達成のために帰国から十年経った時点で、天皇側近で空海シンパの高官を通じて、嵯峨天皇に上表文を提出した。
⑤密教寺院の立地条件としては、金剛知が説くように高山・霊山が第一条件とされ、その結果、空海が若い頃の修行ゲレンデでもあった高野山が選ばれた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


さんこしょを投げる3
第3巻‐第8場面 投椰三鈷(高野空海行状図画 トーハク模写版)
前回に見た明州(現寧波)の港です。帰国することになった空海を見送るため、僧たちが駆けつけています。港の先に立った空海は懐から三鈷杵を取りだし、「密教を弘めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じて、東の空に三鈷杵を投げます。画面は、三鈷杵が空海の手を離れる瞬間です。
 このとき投げた三鈷杵を、空海は後に高野山上で発見します。それが高野山に伽藍が建てられることになるという話につながります。今回は、高野空海行状図画で、高野山開創がどのように描かれているのかを見ていくことにします。
高野上表1
高野山の巡見上表(高野空海行状図画詞書)

高野尋入2 高野空海行状図画
             第七巻‐第1場面 高野尋入(高野空海行状図画)

空海が唐から帰朝して約十年の年月が流れた弘仁7(817)年4月のことです。高野空海行状図画の詞書には次のように記されています。大和国字智郡を通りかかった空海は、ひとりの猟師に呼びとめられます。
「いずれの聖人か。どこに行かれる」
「密教を広めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じ、唐から投げた三鈷杵を探し求めている」と、空海は答えます。
「われは南山の犬飼です。その場所を知っている。お教えしよう」
といい、道案内のため、連れていた2匹の黒犬を走らせた。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2
高野空海行状図画(愛媛県博物館)

この話をのせる最古の史料は、康保5(968)年頃に成立した『金剛峯寺建立修行縁起』です。
そこには、次のように記されています。
①空海から「禅定に相応しい霊地を知らないか」と声をかけられた猟師は、「私は南山の犬飼です。私が所有する山地がびったりです。もし和尚が住んでくださるならば助成いたしましょう」と応えたこと
②猟師がつれていたのが白黒2匹の犬であること
①からは、南山の犬飼は、高野山の地主神であったことが分かります。それが高野空海行状図画では、ただの犬飼になっています。その重要度が、低下していることが分かります。

画面は、空海が猟師が出会ったところです。犬がいぶかって吠えたてますが、空海はやさしく犬を見ています。
高野山巡見上表1 高野空海行状図画親王院版
高野山巡見・上表 高野空海行状図画(親王院本)

詞書は、猟師の身なりを、次のように記します。

其の色深くして長八尺計也。袖ちいさき青き衣をきたり。骨たかく筋太くして勇壮の形なり。弓箭を身に帯して、大小二黒白の犬を随えたり。

意訳変換しておくと
身の丈は八尺あまり、肌は赤銅色で筋骨たくましく勇壮な姿で、青衣を着、弓と箭をたずさえて、黒と白の犬を連れていた。

やはり、もともとは白黒の2頭の犬だったことを押さえておきます。それが黒い犬に代わっていきます。
高野尋入4 高野空海行状図画
第七巻‐第2場面 巡見上表(高野空海行状図画:トーハク模写版)
紀ノ川のほとりで犬と再会した空海は、犬に導かれながら南山をめざして登ります。すると平原の広い沢、いまの高野山に至ります。まさに伽藍を建立するにふさわしい聖地と考えた空海は、弘仁7年(816)6月、この地を下賜されるよう嵯峨天皇に上表します。ただちに勅許が下り、伽藍の建設に着手します。画面は、犬に導かれながら南山に踏み入っっていく空海の姿です。


丹生明神
第七巻‐第3場面 丹生託宣(高野空海行状図画:トーハク模写版)
この場面は、天野に祀られる丹生大明神社の前で析念をこらし、高野の地を譲るとの託宣をきかれる空
海。
遺告二十五ヶ条には、このことについて、次のように記されています。(意訳)
高野山に登る裏道のあたりに、丹生津姫命と名づけられる女神がまつられていた。その社のめぐりに十町歩ばかりの沢があり、もし人がそこに近づけばたちまちに傷害をうけるのであった。まさにわたくしが高野山に登る日に、神につかえる者に託して、つぎのようにお告げがあった。
「わたくしは神の道にあって、長いあいだすぐれた福徳を願っておりました。ちょうどいま、菩薩(空海)がこの山に来られたのは、わたくしにとって幸せなことです。(そなたの)弟子であるわたくし(丹生津姫命)は、むかし、人間界に出現したとき、(日本の天皇)が一万町ばかりの領地を下さった。南は南海を境とし、北は日本河(紀伊吉野川)を境とし、東は大日本国(宇治丹生川)を境とし、西は応神山の谷を境とした。どうか永久にこの地を差上げて、深い信仰の心情を表したいと思います」云々。
いま、この土地の中に開田されている田が三町ばかりある。常庄と呼ばれるのが、これである。
こうして大師は、高野山の地を山王から譲渡された。また、さきに出逢った猟師は高野明神であった、という。


高野山地主神 高野空海行状図画
高野山の地主神と丹生大明神社

空海は、高野山に伽藍を建てるのは、ひとつの「小願」を成しとげるためであると云います。

小願とは唐からの帰り、嵐の船上で立てられた次の祈願です。

「もし無事に帰国できたならば、日本の神々の威力をますために、ひとつの寺を建てて祈りたい。なにとぞご加護を」と

そして弘仁七年(816)7月、嵯峨天皇から高野の地を賜わつた大師は、ただちに弟子の実恵・泰範を派
遣し、伽藍建設にとりかかります。その際に、丹生明神を祀つていた天野の人たちに援助を請います。空海がやって来たのは整地が整った10月です。そして、結界の法を修し、伽藍配置をきめていきます。空海の構想した伽藍配置は、次の通りです。
①中央線上に、南から講堂(いまの金堂)と僧房をおき
②僧房をはさんで東に『大日経』の世界を象徴する大塔
③西に『金剛頂経』の世界を象徴する西搭
これは空海独自の密教理論にもとづくものでした。この基本計画に従って整地作業が始まります。

三鈷宝剣
「三鈷・宝剣」 高野空海行状図画詞書

さんこしょう発見2
              第七巻‐第5場面 三鈷宝剣(高野空海行状図画)

工事を見守っていた空海が頭上を見上げると、一本の松にかかつている三鈷を発見します。それは唐の明州(寧波)から投げた三鈷杵が燦然と輝いていたのです。これをみた大師は、この地が密教相応の地であることを確信し、歓喜します。
 この場面に続いて、原生林が切り払われ、原野が整地されていく様子が描かれます。

高野山建設2
     第七巻‐第5場面 三鈷宝剣(高野空海行状図画) 空海の前の石に置かれた宝剣

 伽藍の作業を行っていると、長さ一尺、広さ一寸人分の宝剣が出てきます。
左手の空海の前に、その剣が置かれています。(クリックすると拡大します)。ここからこの地はお釈迦さまが、かつて伽藍を建てたところであったことを確信したと記します。
    高野山の開創にまつわる「三鈷の松」の伝説では、三鈷杵がかかっていたのは松の木とされ、その松を 「三鈷の松」と称してきました。これはいまも御影堂の前にあるようです。しかし、三鈷杵を投げたことを記す最古の史料『金剛峯寺建立修行縁起』では、具体的にその木が何だったのかは記していません。ただ単に「三鈷杵は一本の樹にはさまっていた」と記します。それでは、いつ、どんな理由で、松の木になったのでしょうか? これについて、次回に述べるとして絵巻を開いていきます。

大塔建設
第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)
朱の大塔の前には満開の桜が描かれています。一遍上人絵伝に描かれた伽藍は、桜が満開だったのを思い出します。

高野空海行状図画の詞書には、次のように記します。
①南天鉄搭を模した高さ十六丈(約48m)の大塔には、一丈四尺の四仏を安置
②三間四面の講堂(現金堂)には丈六の阿しゅく仏、八尺三寸の四菩薩を安置
③三鈷杵のかかっていた松のところに御影堂を建設

画面には、南北朝期以降のこの親王院本『行状図面』が作成された当時の壇上伽藍の建物がすべて画かれているようです。
高野山伽藍 高野空海行状図画親王寺蔵
               大塔建立 高野空海行状図画 親王院本
これを拡大して右から見ていくと

高野山伽藍右 高野空海行状図画
大塔建立 高野空海行状図画 親王院本
東搭 → 蓮華乗院(現大会堂)→  愛染堂→ 大搭 → 鐘楼 → 中央に金堂 → その奥に潅頂堂 → 三鈷の松と御影堂
手前に 六角経蔵 → 奥に准提堂 → 孔雀堂 → 西塔、

高野山大塔 高野空海行状図画

左端に 鳥居 → 山王院 → 御社
研究者がここで注目するのは、御影堂の前の三人の僧と、孔雀堂の前の三人の参拝者です。
高野山伽藍の整備された威容と、そこに参拝する人達というのは、何を狙って書かれたモチーフなのでしょうか。これを見た人達は、高野山参拝を願うようになったはずです。
 各地にやって来た高野聖達が、この高野空海行状図画を信者達に見せながら、空海の偉大な生涯と、ありがたい功徳を説き、高野山への参詣を勧めたことが考えれます。ここでは、高野空海行状図画が、弘法大師伝説流布と高野山参拝を勧誘するための絵解きに使われたことを押さえておきます。そうだとすれば高野聖たちは、ひとひとりがこのような絵伝を持っていたことになります。それが弘法大師伝説拡大と高野山参拝の大きな原動力になったことが推測できます。

伽藍建設1
         第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)

伽藍建設2
          第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)
今回は高野空海行状図画に描かれた高野山開山をみてきました。次回は、空海の残した文書の中に、高野山開山が、どのように記されているのかを見ていくことにします。
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一遍上人絵伝の高野山大塔
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   武内孝善 弘法大師 伝承と史実

弘法大師行状絵詞や高野空海行状図画に描かれた空海の入唐求法を見ています。今回は、長期留学を中止して、タイミング良くやって来た遣唐使船に便乗して帰国することになった場面を見ていくことにします。絵図は「トーハク」の江戸時代の模写版の高野空海行状図画です。

さんこしょを投げる1
高野空海行状図画(トーハク蔵模写版) 大師投三鈷事 明州(寧波)から三鈷杵を投げる

さんこしょを投げる2
高野空海行状図画 第二巻‐第8場面  明州(寧波)の港

この場面は、明州(現寧波)の港です。帰国することになった空海を見送るため、僧たちが駆けつけています。この場面を見ていると、どこかで見た構図であることに気がつきます。

入唐福州着3
往路の福州の港(高野空海行状図画)
往路に到着した福州の港や建物がコピーされ、その周りの人物だけが書き換えられています。こんな「使い回し」が、この版にはいくつかあります。近世の絵師らしい「省力化」が行われています。

さんこしょを投げる3
            大師投三鈷事 明州(寧波)から三鈷杵を投げる
港の先に立った空海は、おもむろに懐から、三鈷杵(さんこしょ)を取り出します。
そして「密教を弘めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じて、東の空に向かって投げます。描かれているのは、空海の手の先から三鈷杵が離れる瞬間です。左上には、雲に乗った三鈷杵が光を放ちながら東国に飛んでいきます。
 さて、寧波で投げた三鈷杵は、どこに飛来したのでしょうか。

さんこしょう発見2
            高野山の松の枝にある三鈷杵を発見する空海
高野空海行状図画には、高野山上の松の枝にある三鈷杵を空海が発見する場面があります。つまり、高野山こそが「密教を広めるにふさわしい所」と啓示され、そこに伽藍が建てられることになります。高野山は、神からの啓示が空海に示された「約束の地」であったことを語る伏線となります。この飛行鈷の話も、後世に創作された伝説と研究者は考えています。

    空海を唐から連れ帰ったのは判官・高階遠成の船でした。
遠成が乗っていった船と出港時期については、次の二つの説があります。
①第四船として出発し、漂流の後に遅れて入唐したとする説(延暦23年出発説)
② 『日本後紀』延暦二十四年七月十六日条記載の、第三船と共に出発したとするもの(延暦24年出発説)
この2つの説について、研究者は次のように指摘します。
高階遠成は、延暦の遣唐使の一員であり、遠成の乗った船は第四船であった。
①遠成を乗せた第四船は、延暦24年(805)7月4日、第三船とともに肥前国松浦郡比良島を出帆した。
②判官三棟今嗣の乗る第三船は、運悪く三たび遭難し、 ついに遣唐使の任務を果たすことができなかった。
③第四船の遠成は遅れて入唐を果たし、皇帝代替わりの新年朝貢の儀への参列と、密教を伝授された空海を帰国させる歴史的な役割を果たすことになった。
   高階遠成がやって来なければ、空海は短期間で帰国することはできなかったのです。 高階遠成を「空海を唐から連れ帰った人物」ということになります。

空海を乗せた船の博多到着と、その後の経過を詞書は次のように記します。
①806(大同元)年10月に帰朝した空海は、持ち帰った経論・道具などを『御請来目録』にまとめ、高階遠成に託して朝廷に上程したこと
②上京の勅許が下るまで空海を観上音寺に住まわせること。
③翌年に、空海が京洛に入ることが許されたこと
しかし、トーハク版模写の高野空海行状図画には、この部分を描いた絵図場面はありません。そこで親王院版の絵図を見ていくことにします。

博多帰朝
高野空海行状図画 親王院版3-9 著岸上表

場面は、九州・博多津に帰り着いた判官高階速成と空海です。
 古代・中世には石垣の港湾施設はなく、津は砂浜でした。そのため本船は沖に停泊し、渡し船で上陸・乗船を行っていたことは以前にお話ししました。また、砂浜には、倉庫などの付帯施設もなく、ただ砂浜があるだけでした。石垣があり、本船が着岸できる中国の福州や寧波とは描き分けられています。しかし、この行状図の遣唐使船は、今までに出てきた遣唐使船に比べるとあまりに小さく貧弱に描かれています。船の屋根も茅葺きで粗末です。左の渡船と比べても、あまり大きさが変わりません。本当にこれが遣唐使船なのか疑問が湧きます。

博多帰朝.2JPG

②上陸した遣唐使たちが左方面に歩んでいきます。中央の2人の僧姿の先頭は空海でしょう。では、空海に従う黒染めの僧は誰なのでしょうか。 橘逸勢がいっしょに帰国しましたが、僧は空海一人でした。後世の史料に空海に同行して入唐したとされるようになる佐伯直家の甥の知泉だろうと、研究者は推測します。
③その左手の3つの小屋と、その後の塀で仕切られた一角は、何の建物なのでしょうか。よく分かりません。こうしてみると、「著岸上表」と題された博多上陸については、詞書と絵が一致していないことが改めて分かります。この不一致は、どこからきているのでしょうか?
そのヒントは、「御招来目録」にあります。この最後を、空海は次のように閉めています。
  空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。が、ひそかに喜んでおりますのは、得がたき法を生きて請来したことであります。一たびはおそれ、 一たびは喜び、その至りにたえません。謹んで判官正六位上行大宰の大監高階真人遠成に付けてこの表を奉ります。ならびに請来した新訳の経等の目録一巻をここに添えて進め奉ります。軽がるしく陛下のご威厳をけがしました。伏しておそれおののきを増すばかりです。沙門空海誠恐誠性謹んで申し上げます。
              大同元年十月二十二日
              入唐学法沙門空海上表

空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。ここには「空海、二十ケ年を期した予定を欠く罪は、死しても余りあります。」と、自らが記しています。国法を破って、1年半あまりで帰国したのです。そのため「敵前逃亡者」と罰せられる可能性も覚悟していたはずです。
そのためにも、自分の業績や持ち帰った招来品を報告することで、1年半でこれだけの実績を挙げた、これは20年分にも匹敵する価値があると朝廷に納得させる必要がありました。そこで遣唐使の高階遠成に託したのが「招来目録」です。ここには、空海が中国から持ち帰ったものがひとつひとつについて記され、その重要性や招来意図の説明まで記されています。それは、必死の作業だったはずです。
 提出した「招来目録」や密教招来の意味が、宮廷内部で理解されるようになるまでに時間が必要だったはずです。最澄の「援護射撃」がなければ、博多での滞在は、もっと長くなっていたかもしれません。九州での空海は、査問委員会のまな板の上に載せられたような立場だったと私は考えています。以上をまとめておくと
①空海は20年の長期留学僧として、長安に滞在した
②しかし、2年足らずで帰国することを選んだ。
③これは国法を破るもので処罰対象となるものであった。
④そこで空海は、自分の留学生成果を朝廷に示すために「御招来目録」を提出した。
⑤このような事情があったために、高野空海行状図画などは「空海=無断帰国」部分について、恵果の指示や遺言に基づくものだったという話を創作挿入した。
⑥一方、査問審査中の九州滞在については、そのあたりの事情をぼかした記述とした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

遺道相伝1 高野空海行状図画
遺具相伝(高野空海行状図画)

高野空海行状図画や弘法大師行状絵詞で、空海の入唐求法がどのように描かれているのかを追いかけています。

遺道相伝2 高野空海行状図画
       高野空海行状図画    第二巻‐第5場面 道具相伝  

この場面は、正統な密教を受け継いだしるしとして、袈裟が恵果和尚から空海に渡されようとしている「遺具相伝」の場面です。

袈裟をもつのが恵果和尚、手を差出して受け取ろうとしているのが空海です。         
この袈裟が御請来目録に、恵果から相伝したとして記される健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)です。健陀とは袈裟の色調を、穀糸は綴織技法を示すとされます。仏教では、捨てられたぼろぎれを集め縫いつないだ生地で作られた袈裟を最上とし、「糞掃衣(ふんぞうえ)」と呼びます。この袈裟も、さまざまな色や形の小さな裂を縫い留めた糞掃衣のように見えますが、実際には綴織に縫い糸を表現する絵緯糸(えぬきいと)を加え、糞掃衣を模した織物であると研究者は指摘します。この袈裟は、今も東寺に保管されているようです。それを見ておきましょう。

健陀穀子袈裟(東寺蔵)
原形をとどめない健陀穀子袈裟(けんだこくしのけさ)

傷みが激しくその原形を留めていないようです。というのも、空海が天皇の五体安穏と五穀豊穣を祈念する始めた後七日御修法(ごしちにちみしほ)には、導師を勤める阿闍梨がこの袈裟を着るしきたりだったからです。そういう意味では、この袈裟は真言宗においては、別格の位置を占める袈裟だったことになります。そのため長年の使用で、原型も留めないほどに痛んでいます。

健陀穀子袈裟(東寺蔵)復刻
                  健陀穀子袈裟 復刻版

 2023年10月の真言宗立教開宗1200年慶讃大法会の開催に向けて、東寺ではこの袈裟を復刻したようです。それが上記の復刻版になります。紫色や赤などのもっと派手な色使いのモノと思っていたのですがシックです。

招来目録冒頭1
空海の御招来目録
空海の朝廷への帰国報告書である『御招来目録』については、恵果から正式に法を伝授したしるし(印信)として、以下のものを受け継いだと記します。
①仏舎利八十粒(金色の舎利一粒)
②白檀を刻す仏・菩薩・金剛などの像
③白緋大曼荼羅尊四百四十七巻
④白諜金剛界三昧耶曼荼羅尊 百二十巻
⑤五宝三昧味耶金剛       一口
⑥金鋼鉢子一具         二口
⑦牙床子         一口
白螺貝        一口
   これらは金剛智・不空・恵果と相伝されてきたもの8種です。①の仏含利と⑧の白螺貝は東寺に、②は金剛峯寺に、いまも伝存するようです。

白螺貝はシャンクガイ
 白螺貝はシャンクガイのことで、インドでは古くから聖貝として珍重され、メディテーションツールや楽器としても使用されてきました。その中でも左巻きのシャンクガイは特に貴重とされており、宝貝中の宝貝として尊ばれきたようです。
一方、恵果和尚自身が使用していたものは、次の5つです。
⑨健陀穀子袈裟          一領
⑩碧瑠璃供養碗   二口
⑪琥珀供養碗     一口
⑫白瑠璃供養碗   一口
⑬紺瑠璃箸     一具
このうちで、いまも伝存するのは先ほど見た⑨健陀穀子袈裟だけのようです。
空海への潅頂を終えるのを待つように、その年の暮れに恵果は、亡くなります。「恵果御入滅事」は
次のように記します。

恵果和尚入滅1
恵果御入滅

恵果和尚入滅2.jpg 高野空海行状図画
第3巻‐第6場面 恵果入滅 
恵果和尚の人寂場面です。永貞9(805)12月15日のことで、行年61歳でした。
空海の「恵果碑文」(『性霊集』巻3)には、次のように記します。

「金剛界大日如来の智拳印をむすび、右脇を下にして円寂なされた」

しかし、この絵では、智拳印ではなく、外縛(げばく)印となっていると研究者は指摘します。それはともあれ、まん中に恵果和尚、その周りを弟子が取り囲む構図は、お釈迦さまの混槃図にの構図と同じです。その後の鎌倉新宗教の祖師たちの入滅場面も、同じような構図が多いようです。その原形になったともいえるのかもしれません。

恵果和尚伝『大唐神都青龍寺故恵果和尚之碑』には、恵果の遺言が次のように記されています。
 師の弟子、わたくし空海、故郷は東海の東、この唐に渡るのに大変な困難な目に遭った。どれだけの波濤を越え、どれだけの雲山を越えなければならなかったか。(それだけの困難をのり越えて)ここに来ることができたのはわたくしのちからではなく、(これから)帰るのはわたくしの意志ではない。師はわたくしを招くのにあらゆる情報を集め、その情報を逐一検索され、空海計画なるものを実行されたのではないかと思うぐらいだ。わたくしの乗船日の朝から、旅の無事を示す数々の吉兆が現われ、帰るとなった時には師はわたくしのことをずっと以前から知っていたと話されたからだ。
 それは和尚が亡くなる日の夜のことである。死ぬ間際に弟子のわたくしにこう告げられた。
「おまえには未だわしとおまえとの深いちぎりが分かっていない。国も生まれも違うのに、ここにこうして出会い、密教という、これもインドから多くの師を介してこの地に伝わったブッダの教えの本道を、師資相承によっておまえが引き継ぐことになったのには、それなりの過去の原因・条件があり、ここで結びつくようになっていたからだ。その結びつきの機会はもっと以前にも条件さえそろえばあったかもしれないが、お前の原因、条件がそろい、引き寄せられるように、遠くから来唐してくれたから、わしの深い仏法を授けることになった。受法はここに終わった。わしの願いは満たされた。おまえがこうしてわざわざ海を渡り、西方に出向いて師弟の礼をとったからには、つぎにはわしが東方に生まれておまえの弟子とならなければなるまい。そういうことだから、この唐でぐずぐずしているのではないぞ、わしが先に行って待っているのだから」と。
 このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない。
 孔子の『論語』によれば君子は道理にそむいたことや理性で説明のつかないものごとは口にしないとあり、『金光明最勝王経』の「夢見金鼓懴悔品(むけんこんくさんげぼん)」によると、妙幢(みょうどう)菩薩は自らが見た夢の中で、一人のバラモンが光明に輝く金の鼓を打ち鳴らすと、その音色から懴悔の法が聞こえたことをブッダの前で述べ、褒められたというし、また『論語』には一つの教えを受けたら、後の三つは自分で考えよともいうから、師の言葉は絶対であり、その言葉は骨髄に徹し、その教えは肝に銘じなければならないものなのだ。
長々と引用しましたが、この文章の中で伝えたいことは、恵果の次の遺命でしょう。

「あなたには、私の持っているものをすべて伝えた。だから、一日も早く日本に帰りなさい。そうして、この教えをもって天皇にお仕えし、日本国の鎮護を、また人々の幸せを折りなさい」

このように言われると、進退を決めるのはわたくしの意志ではなく、師の指示に従わざるをえない

20年という長期留学僧の年期にこだわらず、早期帰国を恵果も進めた。師の言葉には従わざるえないということです。ここからは短期で帰国することに、強い葛藤があったことがうかがえます。

恵果の蘇り 高野空海行状図画
                第3巻‐第7場面 恵果影現(ようげん)   
恵果和尚が人寂した夜、空海は一人で道場で冥想していると、その場に恵果が現れたという場面です。このとき恵果は、次のように空海に語ったとされます。

あなたと私のえにしは極めて深く、師資(しし)(師と弟子)の関係も一度や二度だけのものではない。このたびは、あなたが西行して私から法を受けられた。つぎは、私が東国に生れ、あなたの弟子となろう」

この夜の出来事が空海をして、留学を打ち切り帰国する決意を固めさせたとされます。国家の定めた留学期間を、個人の判断で短縮することは、許されることではありません。敢えてそれを破ろうとするからには、それだけの動機と理由が必要になります。そのひとつとして「恵果影現」が織り込まれているようです。

 空海は、翌年正月十七日の埋葬の儀の時に、弟子を代表して「恵果碑文」(正式には,「大唐神都青龍寺故三朝の師灌頂の阿闍梨恵果和尚の碑」)を書きます。そこには恵果和尚の人柄を次のように記します。
「…縦使(たとひ)財帛軫(しん)を接し,田園頃(けい)を比(なら)ぶるも,
受くる有りて貯ふること無く,資生を屑(いさぎよ)しとせず。
或いは大曼荼羅(まんだら)を建て,或いは僧伽藍処(そうがらんしょ)を修す。
貧を済(すく)ふには財を以てし,愚を導くには法を以てす。
財を積まざるを以て心と為し,法を恡(を)しまざるを以て性と為す。
故に,若しくは尊,若しくは卑,虚(むな)しく往きて実(み)ちて帰り,
近き自(よ)り遠き自り,光を尋ねて集会(しゅうえ)するを得たり。」
(「遍照発揮性霊集・巻第2」『弘法大師・空海全集・第6巻』筑摩書房所収)
意訳変換しておくと
「(恵果和尚は)…たとえ,数多(あまた)の財宝・田園などを寄進(寄附)されても,
受け取るだけで貯えようとせず,財産作りをいさぎよしとしなかった。
(寄進を受けた財産については)あるいは大曼荼羅の制作費にあて,あるいは,寺院の建設費にあてられた。貧しい方には,惜しみなく財貨を与え,愚民を導くには,仏法を説かれた。財貨を貯蓄しないことを方針とし,仏法の教授に力をおしまないことをモットーとした。それ故に,尊貴な者も卑賤の者も,空虚な身で(恵果和尚のもとへ)出かけて満ち足りて返り,遠近から多くの人々が,光を求めて集まる結果となった。」
恵果のポリシーや生き方がよくうかがえます。このような生き方からも空海は、多くのことを学んだはずです。こうして一連の仏事をおえます。
このタイミングで空海を迎えに来たかのように、行方不明になっていた遣唐使船がやってきます。
空海は、その大使である高階遠成(たかしまとおなり)と共に帰国することを願いでます。これが聞きとげられ、2月初旬には長安に別れをつげ、帰路の人となるのです。向かうは遣唐使船の待つ明州(寧波)です。
今回は、ここまでにしておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
武内孝善/弘法大師伝承と史実 絵伝を読み解く

参考文献 武内孝善 弘法大師 伝承と史実
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弘法大師行状絵詞の詞書 遣唐使帰国後の空海の動静
空海は、遣唐大使の一行が長安を離れた帰国の道に着いた後、805(永貞元)年2月11日、西市の東南の角にあった西明寺の永忠(ようちゅう)和尚の故院に移り住みます。そして、本格的な留学生活に入ります。空海が最初に学んだことは、密教の伝授・潅頂を受けるために欠かせない梵語の習得だったと研究者は考えています。その先生は礼泉寺の北インド出身の般若三蔵とインド出身の牟尼室利(むにしり)三蔵でした。

DSC04587青竜寺での恵果と空海
長安・青龍寺での恵果和尚と空海の出会い(弘法大師行状絵詞)

空海が恵果和尚を訪ねたのは、同じ年の5月末のころのようです。
『御請来目録』には、西明寺の志明・談勝ら数人とともに、青龍寺東搭院に恵果和尚を訪ねたところ、初対面の空海に対して、次のように話したと記します。
我、先より汝が来らんことを知りて、相待つこと久し,今日相見ること大だ好し、人だ好し。報命尽きなんと欲するに、付法に人なし。必ず須く速かに香化を辯じて、潅頂に入るべし、と                       「定本空海全集』一  35P
意訳変換しておくと
①あなたが私のところを訪ねてくる日を、首を長くして待っていた。
②今日、会うことが出来て、とても嬉しく思う。
③私の寿命は、もはや尽きようとしているが、正式に法を授ける人がえられず、心配していた
④いま、あなたと出逢い、付法の人であることを知った。すみやかに潅頂に入りなさい。
こうして空海への潅頂受法が次のように進みます。
6月上旬に入悲胎蔵生
7月上句に金剛界
8月上旬に伝法阿閣梨位
こうしてインド直伝の正当な密教を空海は受法し、「遍照金剛」の湛頂名を授かります。この潅頂名は、6月・7月の2度の潅頂の時に敷曼荼羅の上に花を投げたところ(投花得仏)、二度とも中尊・大日如来の上に花がおらたことによるとされます。これを見て恵果は、「不可思議なり、不可思議なり」と、感嘆の声を発せられたと伝えられます。

潅頂1 高野空海行状図画
空海の潅頂 (高野空海行状図画)

空海の入唐の中で最も重要な成果とされる潅頂受法の場面です。

空海潅頂 青竜寺 高野空海行状図画
空海潅頂(高野空海行状図画) 天蓋の下に描かれるのは空海のみ



高野空海行状図画 潅頂2
青瀧寺での空海潅頂受法(高野空海行状図画)
天蓋をさしかけられ、粛々と湛頂道場にむかう恵果(けいか)和尚。その和尚に付きしたがう空海、
時代が下ると2人になる?

大師長安滞在2
空海の潅頂(弘法大師行状絵詞)
ほら貝・繞(にょう)・銅鑼(どら)などをもって先導する色衆の僧達。向かう先は、青龍寺東塔院の潅頂道場です。
潅頂頂道場について、恵果和尚の直弟子のひとり呉殷の撰『恵呆阿間梨行状』は、次のように記します。
湛頂殿の内、浮屠(ふと)の塔の下、内外の壁の上に、悉く金剛界、及び一々の尊曼荼羅を図絵す。衆聖粛然として、華蔵の新たに開けたるに似たり。万徳輝曜して、密厳の旧き容(かたち)に還る。一たび視、一たび礼するもの、罪を消し福を積む。(『定本全集』第一。111P)

意訳変換しておくと
湛頂殿の内や、浮屠(ふと:卒塔婆)の塔の下、内外の壁面には、すきまなく曼荼羅・諸仏・諸尊が画かれていている。それはあたかも大日如来のさとりの世界が出現したかの観があった。ひとたび、この世界を見たものは罪が消え、福を積む

しかし、潅頂道場は描かれてはいません。

密教ではお経とかテキスト、教科書のようなものだけで勉強しても本質は伝わらないということを重視します。
師から弟子へ教えを受け継ぐ際に行われる儀式が灌頂です。灌頂の「灌」というのは、水を注ぐという意味。頂というのは頭の頂です。師が水をたたえたコップだとします。そのなかに入っている水は密教という教え。それを弟子に受け継ぐときには師匠のコップから弟子のコップに注いで、こぼれないように移すというイメージです。ですから人から人に伝わらないと正式な教えは伝わらないということになります。まさに口伝なのです。

 密教では誰から誰に教えが伝わってきたということを非常に重視します。
たとえば空海が教えを授かるときも、恵果から空海に灌頂というかたちで師匠の器から弟子の器に水を注ぐように密教を教える。同じように空海が実恵とか真雅に水を移すように灌頂を行います。誰から伝わってきたかというのを非常に重視します。こうして師から弟子に教えが受けつがれると血脈(法脈)という系図のようなものが出来上がっていきます。その原型がここに描かれていることになります。真言密教の僧侶が潅頂を受けるときに、思い描いたイメージはここにあるようです。

潅頂式典の後は、青竜寺の食堂での宴が開かれます。詞書には、次のように記します。
「この日、五百の僧、齊をもうけ、遍く四衆を供養したまいし」

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青竜寺の食堂右側

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青竜寺の食堂左 五百人の僧が参加した空海潅頂の宴(弘法大師行状絵詞)

私が気になるのは、「この潅頂の宴の経費は。どこから捻出されたか?」ということです。空海の自腹なのでしょうか、恵果の好意なのでしょうか。普通は灌腸を受けた者が、お礼に設ける席なので空海だと思うのですが、空海にそれだけの経済力があったのでしょうか。この当たりは、また別の機会にお話しします。

一方で、空海への潅頂については、批判や異議を唱えるものもいたようです。

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珍賀怨念(弘法大師行状絵詞)

弘法大師行状絵詞には、恵果和尚の兄弟弟子に順暁(じゅんぎょう)阿閣梨がいて、その弟子に上堂寺の珍賀という僧侶がいました。珍賀は、恵果和尚がいとも簡単に空海に密教を授けようとすることを再三非難して、中止を求めたことが次のように記されています。

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恵果和尚に諫言する珍賀(弘法大師行状絵詞)

門徒でない空海に、どうして密教を伝授なさるのか、このことについては、私は納得ができません。ただちに中止していただきたい。


ところが詞書には、ある夜の夢の中に四天王が現れ、妨害をする珍賀を責め立てたと記します。それがこの場面になります。
弟子のそねみ
「珍賀怨念」 夢の中で四天王が珍賀を責め立てる(高野空海行状図画)
「何とぞおゆるしを」と叫ぶ珍賀の声が聞こえてきそうです。非をさとった珍賀は、翌朝に空海を訪ね、非礼を心から詫びます。それが次のシーンです。

珍賀・守敏
 空海に非を詫びる珍賀
密教僧が守るべき戒である「三味耶戒」では、法を惜しんではならないと厳しく戒めています。また、密教では夢が重要視されました。ちなみに、珍賀の師とされる順暁阿間梨は越州(紹興)で、最澄に「三部三味耶の灌頂」を授けた密教の阿閣梨でもあるようですが、その経歴はよく分かならないようです。 以上からは、空海に対して短期間で潅頂が進められたことについて、周囲からは不満や批判的な声も挙がっていたことがうかがえます。
次の場面は、興福寺の僧守敏の護法(仏法を守護する鬼神)が、恵果和尚からの受法を盗み聞きしているところです。
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            弘法大師行状絵詞 第2巻‐第4場面 「守敏護法」
空海が恵果和尚より胎蔵界の教えを授かっています。赤い経机の上に香炉と仏具を置いて、経典を開きながら教えを授けるのが恵果、その前の香色の僧衣を纏うのが空海。この絵には、壁の外側からのぞき込み鬼神が描かれています。これが興福寺の守敏が長安まで遣わした「護法」だと云うのです。空海は、これを知りながら胎蔵法潅頂のときは見逃してやります。しかし、金剛界法のときは結界を張って近づかせなかったと詞書には記します。

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空海によって張られた結界 弘法大師行状絵詞 第2巻‐第4場面 「守敏護法」
赤い炎が建物の周りをめぐり、結界となって鬼神を追い払っています。ちなみに興福寺の守敏は、八巻の第1段「神泉析雨」第2段の「守敏降伏」にも、雨乞祈祷に登場してきます。空海とたびたび呪術争いを演していて、真言僧侶達からは「敵役」と目されていたようですが、その経歴などについてはよく分からないようです。ここからも、空海の潅頂を巡っては、いろいろな波風が立っていたことがうかがえます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

虚空書字 「高野大師行状図画」 巻第二 
虚空書字(高野空海行状図画)
前回お話しした「五筆和尚」の次に出てくるのが「虚空書字」です。「五筆和尚」として名声を高めた空海に対して、文殊菩薩が腕試しを挑んでくるという設定です。今回は、このお話ししについて見ていくことにします。

虚空書字 「高野大師行状図画」3
「虚空書字」 赤い服を着た文殊菩薩の化身と空海が虚空に文字を書いている(高野空海行状図画)

書の腕前を丈殊善薩の化身である五弊童子と競い合う場面です。赤い服を着た童子が文殊菩薩の化身です。場所は長安城中の川のほとり。そこで童子から、「あなたが五筆和尚ですか。虚空に字を書いでいただけませんか」と声をかけられます。空海が気安く書くと、童子も書きます。すると二人の書いた文字が、いつまでも虚空に浮んでいたという話です。

虚空書字 「高野大師行状図画」4
「虚空書字」 流れる水に「龍」と書く
次に 童子は「流れる水の上にも書いてください」とも云います。空海が書い文字は、形が乱れることなく流れていきます。続いて童子は「龍」の字を書きます。その時に、わざと最後の点を打ちません。「なぜ」と問うと「あなたがどうぞ」と応じます。そこで、空海が点を打つと、「龍」の姿になって、たちまち昇天します。童子は、五台山の文殊杵薩の化身であった、というオチがつきます。
 文殊菩薩の化身である童子が龍を描き、最後に眼に点を入れると本物の龍なる、「画龍点晴」のお話です。これが描かれているのが「虚空書字」です。

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流水書字と龍
「虚空書字」に出てくる文殊菩薩は、学問の仏さまとして受験期には随分ともてはやされる仏さまです。これが書にも通じるとされたいたようです。しかし、どうして、文殊菩薩を登場させるのでしょうか。その疑問は一端おいておくことにして、空海は、長安の高級官僚などの文人や僧侶と、交流を持つようになります。それが垣間見える史料を見ておきます。
M1817●江戸和本●性霊集 遍照発揮性霊集 明治初年 3冊本★ゆうパック着払い
空海の漢詩文集『性霊集』の序文には、泉州(福建省)の別駕(次官)でもあった馬惚(ばそう)から空海に贈られた次のような漢詩が載せられています。
何乃出里来  何ぞ乃高里より来たれる、
可非衡其才  其のオを行うに非るべし
増学助玄機  増すます学んで玄機を助けよ、
土人如子稀  上人すら子が如きは稀なり`
  意訳変換しておくと
あなたは、いかなる理由があつて万里の波涛を越えて唐まで来られたのですか。
その文才を唐の人たちにひけらかすために来られたのではないでしょう
(おそらく、あなたは真の仏法を求めて来られたのでしょうから)
ますます学ばれて、真実の御忠を磨かれんこヒを折ります
唐においてすら、あなたのような天才は稀れであり、ほとんど見当らないのですから

真済の序文には、空海が恵果和尚の高弟の惟上(いじょう)に送った「離合詩」を馬惚(ばそう)が見て、空海のオ能に驚き怪しんで贈ってきた詩とあります。漢詩としては、相手を褒めそやす内容だけで広がりがなく凡庸なもののように私には思えます。しかし、ここには「秘密=遊び心」が隠されていると研究者は指摘します。それが「離合詩」という詩作方法です。
「離合詩」を辞書で調べると以下のようにあります。

詩の奇数句において、最初の字の「篇」と「旁」を切り離す。切り離したいずれかを複数句の一字目に用い、それぞれで残った「篇」と「旁」を組み合わせて文字(伏字)を作る、高度な言葉遊びの一種。

これだけでは、分からないので具体的に、空海に贈られた「離合詩」を例にして見ておきましょう。
①一行目の第一文字「何」を、「イ」と「可」にわけ、このうちの「可」を二行目の第一文字に使う。そこで「イ」が残る‐
②三行目の第一文字「増」を「土」と「曽」にわけ、このうちの「土」を四行目の第一文字に使う。
ここでは「曽」が残る‐
③残つた「イ」と「曽」をあわせると、「僧」の字ができる。これで「僧=空海」
これは高度な文人達の言葉遊びです。内容的なことよりも、この形式が重視されます。そのため臆面もなく相手を褒めそやすこともできたのです。空海は、ことばには鋭い感党を持っていたので、遊び心も手伝つて、長安で出会った離合詩を作って、こころやすかった性上に送ったようです。出来映えが良かったので、それが文人達の間を回り回って、泉州(福建省)次官の馬惚にまで伝わり、この「離合詩」が空海の元に贈られてきたようです。

ちなみに、空海が惟上に送った「離合詩」は、次のようなものでした。    
登危人難行  石坂危くして人行き難し、  (「登」の原文は「石+登」表記
石瞼獣無昇  石瞼にして獣昇ること無し¨
燭晴迷前後  燭暗うして前後するに迷う、
蜀人不得燈  蜀人燈を得ず
意訳変換しておくと
あなた(惟上)の故郷である剣南に行くには、危険な石段があって行くことは困難を極め、
険峻な岩山があって獣すら登れない
燈火も暗くて、進むことも退くこともできず迷ってしまう。
蜀の人すら登破するための燈を手に入れていない。

ここにも先ほど見たの「離合詩」の「お約束」は、守られています。この詩の内容を超意訳しておくと

あなたの故郷である剣南への道は、仏道修行のようなものです。私(空海)万里の波涛を越えてやってきて、余す所なく密教を学ぶことができ、これから生きていく上での燈火なるものも、すでに手に人れました。ところで、あなたは長く学んでおられますが、何か燎火となるものは得られましたか。仏法を故郷に伝えるにはきわめて困難がともないますが、法燈を伝えるために、ともに努力しましよう。

「日本から来た若造が、生意気なことを。本物の「離合詩」を見せてやる。」と、空海の「離合詩」への挑戦を、唐の文化人に対する挑発と捉える人達もいたはずです。そんな人の中には、「一度、試してみてやれ」「鼻をへし折ってくれるわ」と空海に近づいてきた人物も少なくなかったと研究者は推測します。そうだとすると、馬惚(ばそう)が空海に贈った「離合詩」には、相手を褒めそやしながら、「本物の出来映えを見せてやる」という意図もあったのかもしれません。このように、空海に対して、書や漢詩などで「お手並み拝見」という徴発は、いたることろで起きた可能性があります。

虚空書字32
虚空書字と画竜点睛
「空海は、どうして文殊菩薩と「虚空書字」を行ったのか争ったのか」という最初の疑問の答えもこの当たりにありそうです。
①長安で異芸・異才の人と評されるように空海に対して、文人達の中には挑発し、腕試しを迫るものも現れた。
②そのエピソードのひとつが「虚空書字」であった。
③しかし、ただの人と競い合うのでは話題性に乏しいために、伝記作者は「文殊菩薩との筆比べ」に変換・創作した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く85P 虚空書字の伝承をめぐって

空海の「五筆和尚」のエピソードを、ご存じでしょうか? 私は、高野空海行状図画を見るまでは知りませんでした。まずは、その詞から見ておきましょう。高野空海行状図画は、何種類もの版があります。ここでは読みやすいものを示します。

五筆和尚 文字

意訳変換しておくと
唐の宮中に2,3間の壁がある。もともとは①晋の王羲之という人の書が書かれていたが、②破損したあとは修理して、そのままになっていた。③怖れ多くて揮毫する人がいない。④そこで皇帝は、空海に書くことを命じた。空海は参内し、⑤左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた。それを見ていた人達は、驚き、怪しんだ。まだ書かれていない一間ほどの壁が空白のまま残っている。それを、どのようにして書くのだろうかと、人々は注目して見守った。
 空海は墨を摺って、⑤盥に入れて壁に向かって投げ込むと、「樹」という文字になった。それを見た人々は、深く感嘆した。そこで皇帝は、「五筆和尚」の称号を空海に与えた。書道を学ぶ者は、中国には数多くいるが、皇帝からの称号をいただいたのは空海だけである。これこそが日本の朝廷の威を示すものではなかろうか。
要約しておくと
①長安宮中に、晋王朝の書聖王羲之が書を書いた壁があった。
②しかし、時代を経て壁が破損した際に、崩れ落ちてしまった。
③修理後の白壁には、お恐れ多いと、命じられても誰も筆をとろうとしなかった。
④そこで、空海に白羽の矢がたち、揮毫が命じられた
⑤空海は、左右の手足と口に5本の筆を持って、五行同時に書き進めた
⑥残りの余白に、盥に入れた墨をそそぎかけたところ、自然に「樹」の字となった

このエピソードが高野空海行状図画には、次のように描かれています。


五筆和尚 右
高野空海行状図画 第二巻‐第7場面 五筆勅号
A 空海が口と両手両足に5本の筆を持って、同時に五行の書を書こうとしているところ。
B その右側の白壁に盥で注いだ墨が「樹」になる
五筆和尚 弘法大師行状絵詞2
五筆和尚(弘法大師行状絵詞)

口と両手・両足に五本の筆を持って、一度に五行の書をかけるのは曲芸師の技です。これが皇帝の命で宮中で行ったというのは、中国の宮中のしきたりを知らない者の空言です。これは、どう考えてもありえない話です。しかし、弘法空海伝説の高まりとともに、後世になるほど、この種のエピソードが付け加えられていきます。それを大衆が求めていたのです。

五筆和尚 左
皇帝から「菩提子の念珠」を送られる空海
上画面は、帰国の挨拶に空海が皇帝を訪れた時に、別れを惜しんで「菩提子の念珠」を送ったとされる場面です。その念珠が東寺には今も伝わっているようです。ここにも、後世の弘法大師伝説の語り部によって、いろいろな話が盛り込まれていく過程が垣間見えます。

唐皇帝から送られた菩提実念珠
            唐の皇帝から送られたと伝わる菩提実の念珠(東寺)

五筆和尚の話は、皇帝から宮中の壁に書をかくよう命ぜられた空海が、口と両手・両足に筆をもち、一度に五行の書を書いたという話でした。

空海の漢詩文を集めた『性霊集』の文章からは、空海が書を書くときには、筆・紙などに細心の心配りをしていたことがうかがえます。その点から考えると宮中で、皇帝の勅命という状況で、山芸師まがいのことをしたとは、研究者や書道家達は考えていないようです。とすると、この話は何か別のことを伝えるために挿入されたのではないかと思えてきます。
 実は、「五筆和尚」という言葉が、50年後の福州の記録に現れます。

智弁大師(円珍) 根来寺
それは天台宗の円珍が残したものです。円珍は853(仁寿3)年8月21日に、福州の開元寺にやってきて「両宗を弘伝せんことを請う官案」(草庵本第一)に、次のようなエピソードを残しています。

(福州の開元寺)寺主憎恵潅(えかん)は、「五筆和尚、在りや無しや」と借聞せられた。円珍はこれが空海であることに気がついて、「亡化せらる」と応えた。すると恵潅は胸をたたき悲慕して、その異芸のいまだかつて類あらざることを、と賞賛された。

意訳変換しておくと
(半世紀前に唐土を訪ねた空海のことを)、開元恵湛が「五筆和尚はいまもお健やかですか」と聞かれた。最初は、誰のことか分からないで訝っていたが、すぐに空海のことだと気がいた。そこで「亡化なさいました」と答えたところ、恵湛は悲歎のあまり胸をたたいて、類まれなる空海の異芸を賞讃した。

空海ゆかりの開元寺を訪ねる』福州(中国)の旅行記・ブログ by Weiwojingさん【フォートラベル】
                      福州の開明寺
 どうして、50年後の福州の僧侶が空海のことを知っていたのでしょうか?

それを探るために研究者は、中国・福州での空海の足跡をふりかえります。遣唐大使・藤原葛野麻呂の帰国報告で、804(延暦23)年7月から11月の空海を取り巻く状況を年表化すると次のようになります。
7月 6日 第一船に大使とともに、肥前国松浦を出帆
8月10日 福州長渓県赤岸鎮の已南に漂着
10月3日  福州到着「藤原葛野麻呂のために、福州観察使に書状を代筆。
10月      福州の観察使に書状を送り、自らの人京を請う。
11月3日  大使一行とともに福州を発ち、長安に向かう。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』(10世紀半ば成立)には、この間のできごととして、次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

この経過については、遣唐大使・藤原葛野麻呂は朝廷への帰国報告書には、何も記していないことは以前にお話ししました。しかし、空海が大使に替わって手紙を書いたという次の草案2通は、『性霊集』巻第5に、載せられています。
A 大使のために福州の観察使に与ふるの書
B 福州の観察使に請うて人京する幣
特にAは、空海の文章のなか、名文中の名文といわれるものです。文章だけでなく、書も見事なものだったのでしょう。それが当時、福州では文人達の間では評判になったと研究者は推測します。それが、さきの忠湛の話から、福州の開元寺の寺主憎恵潅(えかん)の「五筆和尚、在りや無しや」という円珍への問いにつながると云うのです。
 確かに先に漂着した赤岸鎮では、船に閉じ込められ外部との接触を禁じられていたようですが、福州では、遣唐使であることを認められてからは、外部との交流は自由であったようです。空海は、中国語を自由に話せたようなので、「何でも見てやろう」の精神で、暇を惜しんで、現地の僧たちとの交流の場を持たれていたという話に、発展させる研究者もいます。しかし、通訳や交渉人としての役割が高まればたかまるほど、空海の役割は高くなり、大使の側を離れることは許されなかったと私は考えています。ひとりで、使節団の一員が自由に、福州の街を歩き回るなどは、当地の役人の立場からすればあってはならない行為だった筈です。

福州市内観光 1 空海縁の地 開元寺』福州(中国)の旅行記・ブログ by 福の海さん【フォートラベル】
福州の開明寺の空海像 後ろに「空海入唐之地」

 円珍の因支首氏(後の和気氏)で、本籍地は讃岐で、その母は空海の姉ともされます。
因支首氏は、空海の名声が高まるにつれて佐伯直氏と外戚関係にあったことを、折に触れて誇るようになることは以前にお話ししました。円珍もこのエピソー下を通じて、空海と一族であることをさらりと示そうとしているようにも私には思えます。

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福州の人々(弘法大師行状絵詞)

五筆和尚の話は、平安時代に成立した空海伝には、どのように記されているのでしょうか?

写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
      ①968(康保5)年 雅真の『金剛峯寺建立修行縁起』(金剛峯寺縁起)
唐の宮中三間の壁あり。王羲之の手跡なり。破損・修理の後、手を下す人なし。唐帝、大師に書かしむ。空海、筆を五処、口・両手・両足に執り、五行を同時に書く。主・臣下、感嘆極まりなし。今、一間には、缶に墨をいれそそぎ懸けると、「樹」の字となる。唐帝、勅して「五筆和尚」と号し、菩提樹の念珠を賜う。  (『伝全集』第一 51~52P)
② 1002(長保4)年 清寿の『弘法空海伝』63P
 大唐には之を尊んで、通じて日本の大阿閣梨と称し、或いは五筆和尚と号す(中略)
又、神筆の功、天下に比い無し。(中略) 或いは五筆を用いて、一度に五行を成し、或いは水上に書を書くに、字点乱れず。筆に自在を得ること、勝て計うべからず。 『伝全集』第一 63P)
③1111(天永2年)に没した大江拒房の『本朝神仙伝』
大師、兼ねて草法を善くせり。昔、左右の手足、及び口に筆を持って、書を成す。故に、唐朝に之を五筆和尚と謂う。                      
空海御行状集記
          ④ 1089(覚治2)年成立の経範投『空海御行状集記』
神筆の条第七十三
或る伝に曰く。大唐公城の御前に、 三間の壁有り。是れ則ち義之通壁の手跡なり。而るに、一間間破損して修理の後、筆を下すに人無し。今、大和尚之に書すべし、者。勅の旨に依って、墨を磨って盥に集め入れ、五筆を五処に持って、一度に五行を書すなり。殿上・階下、以って之を感ず。残る方、争処日、暫らくも捨てず。即ち次に、盥を取って壁上に沃ぎ懸けるに、自然に「樹」の字と成って間に満つ、と云々。   (『同73P頁)
⑤1113(永久年間(1113~18)成立の兼意撰『弘法空海御伝』
御筆精一正
唐の宮内に三間の壁有り。王羲之の手跡なり。破損して以後、二間を修理するに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下して日本の和尚に書かしめよ、と。大師、筆を五処に執って、五行を同時に之に書す。主上・臣下、感歎極まり無し。今一間、之を審らかにせず。腹千廻日、暫らくも捨てず。則ち大師、墨を磨り盥に入れて壁に注ぎ懸けるに、自然に間に満ちて「樹」の字と作る。唐帝、首を低れて、勅して五筆和尚と号す。菩提実の念珠を施し奉って、仰信を表すなり。(『同右』208P)
⑥1118(元永元)年の聖賢の『高野空海御広伝』
天、我が師に仮して伎術多からしむ。なかんずく草聖最も狂逸せり。唐帝の宮内、帝の御前に二間の壁有り。王義之の手跡有り。一間頽毀して修補を加うるに、筆を下すに人無し。唐帝、勅を下しして大師をして之を書かせしむ。大師、墨を磨り其れを盥器に入れ、五処に五筆を持し、一度に五行を書す。主上・臣下、悉く以って驚き感じて之を見る。目、暫らくも捨てず。いまだ書せざる一字有り。大師、即ち磨りたる墨を壁面に沃ぎ瀞ぐに、自然に「樹」の字と成る。唐帝、勅して五筆和尚と号す。

これらの記録を比較すると、次のようなことが分かります。
A 最初に書かれた①の『金剛峯寺建立修行縁起』を参考にして、以下は書かれていること
B ②③は簡略で、文章自体が短い。
C 内容的には、ほぼ同じで付け加えられたものはない。
D ①⑤は、皇帝から「菩提実の念珠」を賜ったとある。
以上から「五筆和尚」の話は、10世紀半ばすぎに、東寺に伝来していた唐の皇帝から賜わつたという「菩提実の念珠」の伝来を伝説化するために、それ以後に創作されたモノと研究者は推測します。つまり、五筆和尚の荒唐無稽のお話しは、最後の「菩提実の念珠」の伝来を語ることにあったと云うのです。そう考えると、「念珠」に触れているのは、①と⑤のみです。東寺に関係のない人達にとっては、重要度は低いので省略されて、お話しとして面白い「五筆和尚」の方が話の主役になったようです。  
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く80P 五筆和尚の伝承をめぐって
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赤岸鎮から福州・杭州へ
延暦の遣唐使団の経路 福建省赤岸鎮に漂着後の

 福州から長安までの延暦の遣唐使団がたどったルートが、絵図にどのように描かれているのかを見ていくことにします。根本史料となる『日本後紀』の葛野麻呂の報告書を、まずは押さえておきます。

十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

意訳変換しておくと

新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州(福州)から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

空海の入唐求法の足取り

ここから分かる延暦の遣唐使船(第1船)の長安への行程を時系列に並べておきます。
804(延暦23)年
7月 6日  肥前国(長崎県)田浦を出港
8月 1日  福建省赤岸鎮に漂着
10月3日  省都福州に回送、福建監察使による長安への報告
11月3日  福州を遣唐使団(23人)出発 福州→杭州→開封→洛陽→長安
12月21日 長安郊外の万年県長楽駅への到着
福州に上陸したのが10月3日、福州出発までがちょうど1ヶ月です。福州と長安の公的連絡は往復1ヶ月足らずだったことがうかがえます。しかし、遣唐使一行は、長安まで49日かかっています。年末年始の宮中での皇帝と外国使節団との謁見には間に合わせたいと、急ぐ旅立ったようです。
まず、弘法大師行状絵詞には、福州出発の様子が描かれているので、それを見ていくことにします。

  長安からの使者がやってきて出迎えの挨拶を行っている場面です。

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長安からの出迎えの使者を待つ遣唐使団(弘法大師行状絵詞)
服装を整えて、大使と副詞以下の従者が座して待ちます。空海だけが、一番前に立っています。巻物を左に開いていくと見えてくるのが・・・

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長安からきた使節団

「われこそは皇帝の命を受けて、長安からまいった使者です。お急ぎ、御案内申す」
とでも云っているのでしょう。ここでも気になるのは空海の立ち位置です。空海だけが立ち姿で、その他は、日本側も唐側も坐位です。自然と、この場で一番偉いのは空海のように見えます。外交現場で通訳がこんな立ち位置にいることは、現在でもありません。出しゃばりすぎといわれます。この絵巻が「弘法大師=カリスマ化」、あるいは「弘法大師伝説の拡大」を、目的書かれていることがうかがえます。
                   
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                       長安からの迎えの従者達(弘法大師行状絵詞)
従者達は、異国の遣唐使たちを興味深そうに見守ります。その左側では、隊列が準備されています。
まず左側に見えてるのが牛車の引棒のようです。

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長安からの迎えの牛車(弘法大師行状絵詞)
  赤い唐庇の屋根の牛車は、迎えの勅使用です。牛使いが牛を牛車につなごうとしていますが、嫌がっているようです。これは、古代日本では見慣れた風景ですが、中国の唐代の時代考証では「アウト」で論外です。なぜなら、中国では貴人が牛車に乗るということはありません。乗るのは馬車です。これも「日本の常識」に基づいて描かれた誤りと研究者は指摘します。

 絵巻をさらに開いていくと・・・大使達が騎乗する馬が準備されています。
 
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大使・副使・空海などに準備された飾り付けられた駿馬たち(弘法大師行状絵詞) 

詞には次のように記されています。

七珍の鞍を帯て、大使並びに大師を迎える。次々の使者、共に皆、飾れる鞍を賜う

飾り立てられた馬が使者達にも用意されたようです。こうして隊列は整えられて行きます。いよいよ出発です。今度は、高野空海行状図画の福州出立図を見ておきましょう。

福州出発 高野空海行状図画
               高野空海行状図画 福州出立図

一番前を行くのが、長安からやって来た迎えの使者 真ん中の黒い武人姿が大使、その後に台笠を差し掛けられているのが空海のようです。川(海?)沿いの街道を進む姿を、多くの人々が見守っています。ここからは福州を騎馬で出発したことになります。しかし、これについては、研究者の中には次のような異論が出されています。

中国の交通路は「南船北馬」と言われるように、黄河から南の主要輸送路は運河である。そのため唐の時代に、福州から杭州へも陸路をとることはまずありえない。途中、山がけわしく、 大きく迂回しなければならず、遠廻りになる。杭州からは大運河を利用したはず。

「福州 → 南平 → 杭州 → 大運河 → 洛陽 → 長安」という運河ルートが選ばれたと研究者は考えています。しかし鎌倉時代の日本の絵師にとって、運河を船で行く遣唐使団の姿は、思いも浮かばず、絵にも描けなかったかもしれません。イメージできるのは、騎馬軍団の隊列行進姿だったのでしょう。

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                   延暦の遣唐使団の長安への道(福州から長安まで 空海ロード)
次に描かれるのは長安を間近にした遣唐使団の騎馬隊列です。
洛陽から再び陸路を取り、函谷関を越えると陝西盆地に入って行きます。その隊列姿を見ておきましょう。最初に高野空海行状図画を見ておきます。

空海の長安入場
長安入洛(高野空海行状図画)
①上右図が迎客使の到着を待つ空海と大使です。威儀を整えて、少し緊張しているようにも思えます。
②続く下図は左側の先導する迎客使の趙忠の後に、飾り付けた鞍の馬に乗って大使と空海が続きます。
③入京パレードの威儀を、絵伝は「その厳儀、ことばによしがたし,観るもの、路頭になちみちて市をなす」と記します。
④背筋をビンと仲ばした馬上の大使が印象的です。

次に、弘法大師行状絵詞の方の長安入洛を見ておきましょう。

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長安を目指す遣唐使一行 白馬の空海(弘法大師行状絵詞)
  長安を目指す遣唐使の一行が描かれています。最初に登場するのは美しく飾り立てられた白馬に跨がる空海です。その姿が珍しいのか、多くの住人達が見物に集まっています。しかし、この絵図にも「時代考証的」には、次のような問題点があるようです。
①空海に従う歩行の3人の僧侶の存在。長安への入京を許されたのは、限られた人間だけでした。空海さえも当初は、メンバーに入っていませんでした。それが、ここには3人の僧侶が従者のように描かれています。空海の存在を、高めようとする意図が見られます。

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          長安を目指す遣唐使一行 大使と副使(弘法大師行状絵詞)
空海の前を行くのが大使と副使です。ここが長い行列の真ん中当たりになります。その姿を見ると黒い武士の装束です。この絵図が描かれたのが鎌倉時代のことなので、当時の武士の騎馬隊列に似せられて描かれているようです。時代考証的には、平安貴族達が武士姿になることはありません。

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                     先頭の勅使(弘法大師行状絵詞)
  騎乗隊の先頭は勅使です。後から台笠が差し掛けられています。長安が近づいてきたようです。

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長安の宮廷門(弘法大師行状絵詞)
  勅使の帰還を知って、宮門が開かれます。ここは長安の宮廷門で、甲冑を身につけた武官達が鉾を押し立てて、勅使の到着を待ちます。
 以上、弘法大師行状絵詞に描かれた福州から長安までの行程を見てきました。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献






大師入唐渡海 遣唐使船

東シナ海を行く遣唐使船(高野空海行状図画)

大使と空海の乗った第1船は8月10日に、帆は破れ、舵は折れ、九死に一生の思いで中国福州(福
建建省赤岸鎮)に漂着します。

空海・最澄の入唐渡海ルート
空海と最澄の漂着先
空海入唐地 赤岸鎮
空海入唐之地 赤岸(1998年建立)

正史である『日本後紀』に載せられた大使藤原葛野麻呂の報告書を、まず見ておきましょう。

大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州(福州)之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。


  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。死きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。
「常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。」と。
そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。

唐では許可なく外国船や船籍不明船が、上陵するのは禁止されていました。浜にやってきた県令は「自分には許可を出す権限がない」と、省都福州へ使いを出します。その間、空海たちは上陸も許されないまま、船の中で2カ月間過ごすことになります。役人達は、国書や印を持たない遣唐使船を密繍船や海賊船と疑っていたようです。結局、役人の指示は次のようなものでした。
 
「州の長官が病で辞任しました。新しい長官はまだ赴任していません。だから、われわれは何もしてあげられません。とにかく州都の福州に行きなさい。陸路は険しいので海路にていかれよ」

 
遣唐使 赤岸鎮から福州


一行は、長渓県赤岸鎮での上陸を許されず、観察使のいる福州に向かうことになります。
2ヶ月後の10月3日に、福建省の省都の福州にたどり着きます。福州は、河口から30㎞ほど遡った所にある大都市です。遣唐使船は、その沖にイカリを下ろしたはずです。当時の規則では、外国船は岸壁に着船し、直接に入国することは禁じられています。

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           小舟に乗り換えての福州上陸(弘法大師行状絵詞)

大使藤原葛野麻呂の報告書には、福州でのことが次のように記されています。

十月三日、州(福州)ニ到ル。新除監察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

意訳変換しておくと
新除監察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

ここからは次のようなことが分かります。
①福州の監察使は閻済美であったこと
②長安に使者を出し、23人が遣唐使団と長安に入京することになったこと
③福州到着から1ヶ月後の11月3日に出発して、長安に12月21日に到着したこと

ここには、国書を紛失して不審船と扱われたことや、当初は空海が上京メンバーに入っていなかったこや、空海の活躍ぶりなどには一切触れられていません。

これに対して空海の残したとされる『遺告二十五ヶ条』には、この間のできごととして次のように記されています。
通常は、海路三千里にして揚州・蘇州に至っていたが、今回は七百里を増して福州(原文は衡州)に到った。そこで、大使藤原葛野麻呂は福州の長官に書を呈すること三度におよんだが、長官は開き見るだけで捨て置かれ、船を対じ、人々は湿沙の上に留め置かれていた。最後の切り札として、大使は空海に書状をしたためることを依頼した。空海が書状を呈する、福州の長官は「披(開)き覧て、咲(笑)を含み、船を開き、問いを加えて長安に奏上した。

  「然りといえども、船を封じ、人を追って湿地の上に居らしむ」

とあり、 停泊するや否や、役人が乗りこんできて、乗組員120人ばかりを船から降ろして、船を封印してしまったというのです。役人達は、遣唐使船を密貿易船と判断したようです。もし。国書を亡くしていたとするなら、それも仕方ないことです。正式の外交文書を持たない船の扱いとしては、当然のことかも知れません。しかし、プロの役人であれば、国書は最も大切なモノです。それを嵐でなくすという失態を演じることはないと私は考えています。
空海によると一行は、宿に入ることも、船にもどることも許されず、浜の砂上で生活しなければならなくなります。ここからが高野空海行状図画の記すところです。

「私は日本国の大使である」と蔵原葛野麻呂は、書簡を書いて福州長官に送った。しかし、その文書は、あまりにつたなく役人は見向きもしない。」

文書の国では、国書を持たない外交使節団など相手にするはずがありません。そこで登場するのが空海と云うことになります。誰かが空海の能筆ぶりを知っていて、大使に推薦したのでしょう。空海が大使の代筆を務めることになります。
この場面を描いた高野空海行状図画の福州上陸図を見ておきましょう。

福州漂着代筆 高野空海行状図画
福州での役人とのやりとりと、空海代筆(高野空海行状図画)
①は遣唐使船が岸壁に着岸しています。「沖合停泊」という「時代考証」が無視されています。その姿は大風や波浪で、船上施設が吹き飛ばされて、何ひとつ残っていないあばら舟姿です。
②福州の役人は「厄介者がやってきた、仕事を増やしたくない」との素っ気ない対応ぶりです。
③は、大使みずからが書簡をかいて提出しますが、役人は読み終えると放り出して取り合ってくれないところ。
④万策つきた大使からの依頼で、空海が長官に宛てて書をしたためているところ。
⑤空海がしたためる手もとを見ているのが、福州監察使の閻済美。
⑥中央は、空海の文章と書の力によって、やっと日本からの正式の遣唐使であることが認められ、仮岸の中に通されて、安堵している大使と空海

同じ場面を、弘法大師行状絵詞で見ておきましょう。

福州着岸 代筆. 弘法大師行状絵詞JPG
             福州での空海代筆その1(弘法大師行状絵詞)

港に船着き場はなく、沖合に投錨し小舟で浜にこぎ寄せるスタイルで描かれています。
大使が長官への書簡をしたためているところ
役人が福州長官に見せると、一瞥して「見難い」と書簡が捨てられたところ。これが3度繰り返されます。

福州上陸2
            福州での空海代筆その2(弘法大師行状絵詞)
大使の依頼を受けて空海が「代筆」します。
⑤ その書簡を読んだ福州長官は、書の主を「文人」認め、態度を一変させます。

この時に空海が代筆したのが「大使のために福州の観察使に与うる書」です。
   「賀能(藤原葛野麻呂の別名)啓す」からはじまるこの文章を要約しておきます。

①皇帝に対して、自分たちの入唐渡海がいかに困難なもので、国書や印を失ったこと伝え
②その上で昔から中国と日本が友好関係にあるのに。役人達が自分たちを疑うの何ごとか
③いまさら国書や印符などにこだわる必要はないほど両国は心が通じあっているはずだ。
④しかし、役人である以上はその職務に忠実であらねばならず、その対応も仕方ない
⑤それにしても自分たちを海中におくのは何ごとと攻め、まだ天子のの徳酒を飲んでもいないのに、このような仕打ちをうけるいわれはない
⑥自分たちを長安へ導くことが、すべての人々を皇帝の徳になびかせることではないか

 論理的に、しかも四六駢儷体の美文で、韻を踏んで書かれています。しかも、形式だけではなく、内容的にも「文選」や孔子や孟子の教え、老子の道教の教えなどが、いたるところにちりばめられています。名文とされる由縁です。
   空海は讃岐から平城京にのぼった時に、母の弟・阿刀大足に儒学知識や漢文については、教え込まれたとされます。親王の家庭教師を務めた阿刀大足によって磨かれた素養があったと研究者は考えています。この書を見た長官の閻済美は篤きます。科挙試験を経て、文章でもって出世するのが中国の高級官僚たちですが、これだけの文章をかけるだけの者はいないと思ったと従来の書は評します。この書によって、中国側の対応は一変します。「海賊船」との疑いを捨て、日本からの遣唐使船と再認識し、相応しい仮宿舎を提供します。同時に空海の評価が高まったとされるエピソードです。

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福州に建てられた仮宿舎(高野空海行状図画)

赤字錦を張った仮屋が急ぎ建てられます。束帯で威儀を正した大使と副詞、その後の仮屋には従者達が控えます。国の使者らしい威厳を取り戻します。

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大使達を迎える福州長官(弘法大師行状絵詞)
その向かいに福州長官(監察使)が座し、その前を着替えの衣装や食事が運ばれて行きます。正面に座るのが空海です。まるで、空海に謁見する臣下のような構図です。空海がカリスマ化される要素がふんだんに盛り込まれています。
       
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遣唐使仮屋周辺の福州の人々

日本からの遣唐使がやって来たというので、物見高い人々が集まってきます。
荷駄を運ぶ人や、物売りが行き交います。真ん中のでっぷりと肥えた長者は、モノ読みの口上に耳を傾けているようです。こうして、長安へ遣唐使到着の知らせが出され、それに応じて長安からの迎えの使者がやってくることになります。それは約1ヶ月後のことになります。それまで、一行は福州泊です。
ところが発表された長安入京組名簿の中に、空海の名前がありません。長安に行けないと、入唐求法の意味がなくなります。そこで空海は、長安行きの一行に、自分も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」を提出します。

入京嘆願書1

「福州の観察使に請うて入京する啓」
福州の観察使に請うて入京する啓

 「日本留学の沙門空海、敬す」という文で始まるこの文章を、要約すると次のようになります。
①空海が20年の長期留学僧に選ばれるようになった経緯
②長安への道が閉ざされようとしていることへの思い
③観察使へ上京メンバーに加えてもらえるようにとの伏しての願い
空海は、福州で次の2つの文章を作っています。
A 大使に替わって書かれた「大使のために福州の観察使に与うる書」
B 長安行きの一行に空海の名前がなかったので、空海も加えていただきたいとの嘆願書「福州の観察使に請うて入京する啓」
この2通は『性霊集』巻5に収録されています。前者を以下に全文載せておきます。

「大使のために福州の観察使に与うる書」
                        
「大使のために福州の観察使に与うる書」NO1

「大使のために福州の観察使に与うる書」2
「大使のために福州の観察使に与うる書」3

「大使のために福州の観察使に与うる書」5

「大使のために福州の観察使に与うる書」6

ここからは、福州でのピンチを空海は自らの書と漢文作成能力や語学力で救ったという印象を受ける記述になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」

関連記事 

              


親王院本『高野空海行状図画』と「弘法大師行状絵詞」を見ながら、空海の人唐求法の足跡を追って行きます。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く67P 絵伝に見る入唐求法の旅」です。
入唐の旅は、「久米東塔」から始まります。
絵伝は、右から左へと巻物を開いてきますので、時間の経過も右から左と描かれています。また、同じ画面の中に、違う時間帯のことが並んで描かれたりもします。同じ人物が何人も、同じ場面に登場してきたら、そこには時が流れ、場面が転換しています。

久米東塔
          高野空海行状図画 第2巻第2場面  久米東塔 
この場面は、空海の入唐求法の動機・目的を語る重要場面だと研究者は指摘します。
①空海が建物のなかで、十方三世の諸仏に「我に不二の教えを示したまえ」と祈請しています。
②場所については、ある史料は20歳のとき得度をうけた和泉国の槇尾山寺(施福寺)とし、別の史料では、東大寺人仏殿と記します。
③夢で「あなたが求める大法は『大日経』なり。久米の東搭にあり」と告げられたところです。三筋の光が左上方の仏さまから空海に向かって一直線に差し込みます。

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弘法大師行状絵詞 久米寺

④空海は、久米寺を訪ね、東塔の場所を尋ねているところです。

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⑤東塔の心柱から「大日経」上巻を探し出し、無心に読んでいるところです。しかし、熟読したけれども、十分に理解できずに、多くの疑問が残ります。疑問に答えてくれる人もいません。そこで海を渡り、入唐することを決意したと記されています。

ここからは、空海は人唐前に、『大日経』を目にしていたことが分かります。
ところで『大日経』は久米寺にしかなかったのかというと、そうではなかったと研究者は指摘します。
なぜなら、奈良時代に平城京の書写所で、以下のように大日経が書写されているからです。

1大日経写経一覧 正倉院
大日経写本一覧表(正倉院文書)
正倉院文書によると、一切経の一部として14回書写された記録が残っています。つまり、当時の奈良の主要な寺院には大日経は所蔵されたというのです。特に東大寺には4部の一切経が書写叢書され、その内の一部七巻が今も所蔵されているようです。

 それでは空海の入唐動機はなんだったのでしょうか?
最初に見た『三教指帰』序文三教の中には、次のように記されていました

谷響きを情しまず、明星水影す。

これは若き日の空海が四国での求聞持法修行の時に体感した神秘体験です。それがどんな世界であるかを探求することが求法の道へとつながっていたと研究者は考えています。それが長安への道につながり、青竜寺で「密教なる世界」であることを知ります。その結果が、恵果和尚と出逢いであり、和尚の持っていた密教世界を余すところなく受法し、わが国に持ち帰えります。そういう意味では、空海と密教との出逢いは、四国での虚空蔵求聞持法の修練だったことになります。

求法入唐 宇佐八幡宮での渡海祈願
            高野空海行状図画 第2章 第3場面 渡海祈願 宇佐八幡にて
この場面は、豊後国(大分県)の宇佐八幡宮で、空海が『般若心経』百巻を書写し、渡海の無事を祈っている所です。左手の建物の簾から顔をのぞかせているのが八幡神とされます。
八幡神と空海の間には、次のような関係が指摘されます。
①八幡神は、高雄・神護寺に鎮守として勧請されている
②八幡神は、東寺にも勧請され、平安初期の神像が伝来している。
③空海と八幡神が互いに姿を写しあったとの話が、『行状図画』に収録されている(外五巻第1段‐八幡約諾)
④長岡京の乙訓寺の本尊「合体大師像」は、椅子にすわる姿形は空海で、顔は八幡神である。
お大師様ゆかりの乙訓寺 - 大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

乙訓寺の本尊「合体大師像」(日本無双八幡大菩薩弘法合体大師)
空海が入唐渡海に際して、渡海の無事を祈ったのは高野空海行状図画では、宇佐八幡だけです。宇佐八幡は、もともとは朝鮮の秦氏の氏神様です。空海と秦氏の関係が、ここからはうかがえます。ちなみに、絵伝で空海の宇佐八幡参拝のことが書かれると、後世には「うちも渡海前に空海が訪れた」という由緒をもつお寺さんが数多く出てくるようになります。高野空海行状図画などの絵図が、弘法大師伝説の形成に大きな影響力を持っていたことがうかがえます。

空海の入唐渡海の根本史料は、大使の藤原葛野麻呂の報告書です。
大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

  意訳変換しておくと
大使従四位上の藤原朝臣葛野麻呂が帰国報告を以下の通り上奏します。
私、葛野麻呂は、昨年7月6日に、肥前国松浦郡田浦から4船で出港し、東シナ海に入りました。ところが翌日七日夜9時頃には、第三第四両船の火信(松明)が見えなくなりました。生きるか死ぬかの境を行き来して、波濤の上を漂うこと34箇日。8月10日に、福州長渓縣赤岸鎮の南の湾内に到達しました。対応に当たった当地の責任者である杜寧縣令胡延は、次のように語りました。常州刺史柳は、病気のために当地を離れていて、新除刺史もまだ赴任していない。国家は大平であるが、向州の路は山谷を通り険しく細いので、通行するのは難儀である。と
そこで、船を向州(福州)に廻すことにして、十月三日に到着した。
新除観察使兼刺史閻済美が、長安へ上奏し、23人が入京することになった。11月3日に、われわれ使節団は、長安に向かって出発した。向州(福州)から長安まで7520里にもなる。この道のりを、星が見えなくなる未明に宿を出て、星が現れるまで行軍して宿に入るという強行軍を重ね、やっと12月21日に、都の長楽駅の指定された宿に着くことが出来た。

 高野空海行状図画の詞には、次のように記されています。


DSC04544入唐勅命

意訳変換しておくと
桓武天皇御代の延暦23(804)年5月12日(新暦7月6日)、大師御年31歳にて留学の勅命を受けて入唐することになった。このときの遣唐大使は藤原葛野麻呂で、肥前国松浦から出港した。


遣唐使船出港
  高野空海行状図画  第二巻‐第4場面 遣唐使船の出港(肥前国田浦)

遣唐使船が肥前国(長崎県)田浦を出港する所です。
中央の僧が空海、その右上が大使の藤原葛野麻呂です。当時の遣唐使船は帆柱2本で、約150屯ほどの平底の船として復元されています。1隻に150人ほど乗船しました、その内の約半数は水夫でした。帆は、竹で伽んだ網代帆が使用されていたとされてきましたが、近年になって最澄の記録から布製の帆が使われたことが分かっています。(東野治之説)
 無名の留学僧が大使の次席に描かれているのは、私には違和感があります。

 派遣された遣唐使の総数は600人前後で、4隻に分かれて乗船しました。
そのため別名「四(よつ)の船」とも呼ばれたようです。第1船には、大使と空海、第2船には副使と最澄が乗っていました。この時の遣唐使メンバーで、史料的に参加していたことが確認できるメンバーは、次の通りです。
延暦の遣唐使確定メンバー
              延暦の遣唐使確定メンバー
出港以後の経過を時系列化すると次のようになります。
 804年7/6 遣唐使の一行、肥前国松浦郡田浦を出発す〔後紀12〕
7/7   第三船・第四船、火信を絶つ〔後紀12〕
7月下旬   第二船、明州郡県に到る〔叡山伝〕
8/10   第一船、福州長渓県赤岸鎮に到る。
  鎮将杜寧・県令胡延汚等、新任の刺史未着任のため福州への廻航を勧む
9/1   第二船の判官菅原清公以下二十七名、明州を発ち長安に向かう
9/15   最澄、台州に牒を送り、明州を発ち台州に向かう〔叡山伝〕
出港して翌日の夜には、「火信を絶つ」とあるので、遣唐使船は離ればなれになったようです。そして、福建省の赤岸鎮に約1ヶ月後に「漂着」しています。その間のことを、空海は「大使 のための箔州の観察使に与うるの書」の中で、大使賀能(藤原葛野麻呂)に代わっての次のように記します。

入唐渡海 海難部分

「大使のために福州の観察使に与うる書」3
         遣唐使船の漂流について(大使のために福州の観察使に与うる書)

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龍の巻き起こす波浪に洗われる遣唐使船 舳先で悪霊退散を祈祷する空海(弘法大師行状絵詞)

かつてのシルクロードを行き交う隊商隊が、旅の安全のために祈祷僧侶を連れ立ったと云います。無事に、目的のオアシスに到着すれば多額の寄進が行われたととも伝えられます。シルクロード沿いの石窟には、交易で利益を上げた人々が寄進した仏像や請願図で埋め尽くされています。こうして、シルクロード沿いの西域諸国に仏教が伝わってきます。その先達となったのは、キャラバン隊の祈祷師でした。この絵を見ていると、空海に求められた役割の一端が見えてきます。


こうしてたどりついた福建省で遣唐使たちを待ち受けていたのは、過酷な仕打ちでした。それをどう乗り越えていったのでしょうか。それはまた次回に・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く67P 絵伝に見る入唐求法の旅」
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前回は、大学中退後の空海が正式に得度し、修行生活に入ったと絵巻物には書かれていることを見ました。平城京の大学をドロップアウトして、沙門として山林修行に入った空海のその後は、絵巻ではどのように描かれているのでしょうか。今回は空海の山林修業時代のことを見ていきます。舞台は、四国の阿波の太龍寺と土佐の室戸岬です。
まず、山林修行のことが次のように記されます

〔第二段〕空海の山林修行について
大師、弱冠のその上、章塵(ごうじん)を厭ひて饒(=飾)りを落とし、経林に交はりて色を壊せしよりこの方、常しなへに人事を擲って世の煩ひを忘れ、常に幽閑を栖(すまい)として寂黙を心とし給ふ。
山より山に入り、峰より峰に移りて、練行年を送り、薫修日を重ぬ。暁、苔巌の険しきを過ぐれば、雲、経行の跡を埋み、夜、羅洞の幽(かす)かなるに眠れば、風、坐禅の窓を訪ふ。煙霞を舐めて飢ゑを忘れ、鳥獣に馴れて友とす。
意訳変換しておくと
大師は若い頃に、世の中の厭い避けて、出家して山林修行の僧侶の仲間に入って行動した。人との交わりを絶って世間の憂いを忘れ、常に奥深い山々の窟や庵を住まいとして、行道と座禅を行った。
山より山に入り、峰より峰に移り、行く年もの年月の修行を積んだ。
 夜明けに苔むす巌の険しい行道を過ぎ、雲が歩んできた道跡を埋める。夜、窟洞に眠れば、風が坐禅の窓を訪ねてくる。煙霞を舐めて餓を忘れ、鳥獣は馴れてやがて友とする。
  ここからは、空海が山林修行の一団の中に身を投じて、各地で修行を行ったことが記されています。

   当時の行者にとって、まず行うべき修行はなんだったのでしょう?
 それは、まずは「窟龍り」、つまり洞窟に龍ることです。
そこで静に禅定(瞑想)することです。行場で修行するという事は、そこで暮らすということです。当時はお寺はありません。生活していくためには居住空間と水と食糧を確保する必用があります。行場と共に居住空間の役割を果たしたのが洞窟でした。阿波の四国霊場で、かつては難路とされた二十一番の太龍寺や十二番の焼山寺には龍の住み家とされる岩屋があります。ここで生活しながら「行道」を行ったようです。そのためには、生活を支えてくれる支援者(下僕)を連れていなければなりません。室戸岬の御蔵洞は、そのような支援者が暮らしたベースキャンプだったと研究者は考えているようです。ここからすでに、私がイメージしていた釈迦やイエスの苦行とは違っているようです。

 行道の「静」が禅定なら、「動」は「廻行」です。
神聖なる岩、神聖なる建物、神聖なる本の周りを一日中、何十ぺんも回ります。修行者の徳本上人は、周囲500メートルぐらいの山を三十日回ったという記録があります。歩きながら食べたかもしれません。というのは休んではいけないからです。
 円空は伊吹山の平等岩で行道したということを書いています。
「行道岩」がなまって現在では「平等岩」と呼ばれるようになっています。江戸時代には、ここで百日と「行道」することが正式の行とされていたようです。空海も阿波の大瀧山で、虚空蔵求聞持法の修行のための「行道」を行い、室戸岬で会得したのです。

それを絵詞は次のように記します。
或は、阿波の大滝の岳に登り、虚空蔵の法を修行し給ひしに、宝創(=剣)、壇上に飛び来りて、菩薩の霊応を顕はし,件の例〈=剣〉、彼の山の不動の霊窟に留まれり)、

意訳変換しておくと
あるときには、阿波の大瀧山に登り、虚空蔵の法を修行していると、宝創(=剣)が壇上に飛んできた。これは菩薩の霊感の顕れで、この時の剣は、いまも大瀧山の不動の霊窟にあるという。
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大瀧山の不動霊窟で虚空蔵法を念ずる空海と 飛来する宝剣

空海の前の黒い机には、真ん中に金銅の香炉、左右に六器が置かれています。百万回の真言を唱えれば、一切のお経の文句を暗記できるという行法です。合掌し瞑想しながら一心に真言を唱える空海の姿が描かれます。
  雲海が切れて天空が明るなります。すると雲に乗った宝剣が飛んできて空海の前机に飛来しました。空海の唱えた真言が霊験を現したことが描かれます。雲海の向こう(左)は、室戸に続きます。
室戸での修行
或は、土佐(=高知県)の室戸の崎に留まりて、求聞持の法を観念せしに、明星、口の中に散じ入りて、仏力の奇異を現ぜり。則ち、かの明星を海に向かひて吐き出し給ひしに、その光、水に沈みて、今に至る迄、闇夜に臨むに、余輝猶簗然たり。大凡、厳冬深雪の寒き夜は、藤の衣を着て精進の道を顕はし、盛夏苦熱の暑き日は、穀漿を絶ちて懺悔の法を凝らしまします事、朝暮に怠らず、歳月稍(ややも)積もれり。
意訳変換しておくと
 土佐(高知県)の室戸岬に留まり、求聞持の法を観念していた。その時に明星が、口の中に飛んで入り、仏力の奇異を体で感じた。しばらくして、明星を海に向かひて吐き出すと、波間に光が漂いながら沈んでいった。しかし、燦然と輝く光はいつまでも輝きを失わない。闇夜に、今も輝き続けている。厳冬の深雪の寒い夜でも、藤の衣を着て精進の道を励み、盛夏苦熱の暑き日は、穀類を絶って木食を行って、懺悔法を行うことを、朝夕に怠らず、修練を積んだ。

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 画面は右の太龍寺の霧の海からは、左の土佐室戸へとつながっています。 大海原は太平洋。逆巻く波濤を前に望む岬の絶壁を背にして瞑想するのが空海です。拡大して見ましょう。
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幾月もの行道と瞑想の後、明星が降り注いだと思うと、その中の星屑の一つが空海の口の中にも飛び込んで来ました。空海の口に向かって、赤い流星の航跡が描かれています。このような奇蹟を身を以て体感し悟りに近づいていきます。ここまではよく聞く話ですが、次の話は始めて知りました。
〔第三段〕  空海 室戸の悪龍を退散させる 
室戸の崎は、南海前に見え渡りて、高巌傍らに峙(そばだ)てり。遠く補陀落を望み、遥かに鐵(=鉄)囲山を限りとせり。松を払う峯(=峰)の嵐は旅人の夢を破り、苔を伝ふ谷の水は隠士の耳を洗ふ。村煙渺々(びょうびょう)として、水煙茫々たり。呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」など言ふ句も、斯かる佳境にてやと思ひ出でられ侍り。大師、この湖を歴覧し給ひしに、修練相応の地形なりと思し召し、やがて、この所に留まりて草奄(庵)など結びて行なひ給ひしに、折に触れて物殊に哀れなりければ、我が国の風とて三十一字を斯く続け給ひけるとかや。
法性の室戸と聞けど我が住めば
 有為の波風寄せぬ日ぞなき
又、夜陰に臨むごとに、海中より毒竜出現し、異類の形現はれ来りて、行法を妨げむとす。大師、彼等を退けむが為に、密かに呪語を唱へ、唾を吐き出し給ふに、四方に輝き散じて、衆星の光を射るが如くなりしかば、毒竜・異類、悉くに退散せり。その唾の触るヽ所、永く海浜の沙石に留まりて、夜光の珠の如くして、昏(くら)き道を照らすとなむ。
意訳変換しておきます。
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海の中から現れた毒龍 
室戸岬の先端は太平洋を目の前にして、後に絶壁がひかえる。遠くに観音菩薩の住む補陀落を望み、その遥かに鉄囲山に至る。松を払うように吹く峰の嵐は、旅人の夢を破り、苔をつたう谷の水は行者の耳を洗ふ。村の煙が渺々(びょうびょう)とあがり、水煙は茫々と巻き上がる。
 思わず「呉楚東南に折(↓琢)く、乾坤日夜に浮かぶ」などという句も浮かんでくる。
 空海は室戸周辺を見てまわり、修行最適の地として、しばらくここに留まり修行をおこなうことにした。この周辺は、何を見ても心に触れるものが多く、三十一字の句も浮かんでくる。
   法性の室戸と聞けど我が住めば
         有為の波風寄せぬ日ぞなき
 浜辺の松が、強い海風にあおられて枝が折れんばかりにたわむ。海は逆巻く怒濤となって押し寄せる。そして夜がくるごとに、海中より毒竜がいろいろな異類の姿で現はれて、大師の行法を妨げようとする。そこで大師は、密かに呪語を唱へて、唾を吐き出した。すると四方に輝き散じて、あまたの星の光をのように飛び散り、毒竜・異類は退散した。その唾が触れた所は、海浜の沙石に付着して、夜光の珠のように、暗い道を道を照らしていたという。
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現れた毒龍や眷属に向かって、空海は一心不乱に呪文を唱え、目を見開き海に向かって唾を吐き出します。唾は星の光のように、辺りに四散します。すると波もやみ静かになります。見ると毒龍や異類も退散していました。
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毒龍に向かって唾を吐き出す空海

ここでは「陰陽師」と同じように、祈祷師のようなまじないで毒龍や悪魔を退散させます。まさにスーパーヒーローです。
次は場面を移して、金剛頂寺です。
〔第四段〕
室戸の崎の傍らに、丹有余町を去りて勝地あり。大師、雲臥(うんが)の便りにつきて草履の通ひを為し、常にこの制に住み給ひし時、宿願を果たさむが為に、 一つの伽藍を立てられ、額を金剛定寺と名け給へり。此の所に魔縁競ひ発りて、種々に障難を為しけり。大師、則ち、結界し給ひて、悪魔と様々御問答あり。
「我、こヽに在らむ限りは、汝、この砌に臨むべからず」
と仰せられて、大なる楠木の洞に御形代(かたしろ)を作り給ひしかば、其の後永く、魔類競ふ事なかりき。彼の楠木は、猶栄へて、枝繁く葉茂して、末の世迄、伝はりけり。その悪魔は、同国波多の郡足摺崎に追ひ籠めらると申し伝へたり。
 昔、釈尊、月氏の毒龍を降し給ふ真影を窟内に写して、隠山の奇異を示し、今、大師、土州(土佐)の悪魔を退くる影像を樹下に残して、古今の勝利を施し給ふ。何ぞ、唯、仏陀の奇特を怪しまむ。尤も、又、祖師の霊徳を尊むべき物をや。
  意訳変換しておくと

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金剛定(頂)寺に現れた魔物や眷属達
室戸岬の30町(3,3㎞)ほど西に、景色の良い勝地があった。大師は行道巡りのために室戸岬とここを往復し、庵を建てて住止していたが、宿願を果たすために、一つの伽藍を建立し、額を金剛定寺と名けた。ところがここにも魔物が立ち現れて、いろいろと悪さをするようになった。そこで大師は、結界を張って次のように言い放った。
「我、ここにいる間は、汝らは、ここに近づくな」
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 そして、庭に下りると大きな楠木の洞に御形代(かたしろ=祈祷のための人形)を掘り込んだ。そうすると魔類は現れなくなった。この楠木は、今も枝繁く繁茂しているという。
その悪魔は、土佐の足摺岬に追い籠めらたと伝へられる。
 大師は、土佐の悪魔を退散させ自分の姿を樹下に残して、勝利の証とした。仏陀の奇特を疑う者はいない。祖師の霊徳を尊びたい。
ここには、室戸での修行のために 西方20㎞離れた所に金剛定寺を建立したとあります。ここからは行場が室戸岬で、寺はそこから遠く離れたところにあったことが分かります。金剛定寺と室戸岬を行道し、室戸岬で座禅するという修行が行われていたことがうかがえます。
 絵詞に描かれた金剛頂寺は、壁が崩れ、その穴から魔物が空海をのぞき込んでいる姿が描かれています。退廃した本堂に空海は住止し、日夜の修行に励んだと記されます。
五来重氏は、この金剛定(頂)寺が金剛界で、行場である足摺岬が奥の院で胎蔵界であったとします。そして、この両方を毎日、行道することが当時の修行ノルマであったと指摘します。もともとは金剛頂寺一つでしたが、奥の院が独立し最御崎寺となり、それぞれが東寺、西寺と呼ばれるようになったようです。この絵詞で舞台となるのは西の金剛頂寺です。

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 空海の修行するお堂の周りに、有象無象の魔物が眷属を従えてうごめいています。そこで、空海は修行の邪魔をするな、この決壊の中には一歩も入るな」と威圧します。そして、空海がとった次の行動とは?
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 庭先の大きな楠の下にやってきます。この老樹には大きな洞がありました。大師は、ここに人形を彫り込めます。一刻ほどすると、そこには大師を写した人形(真影)が彫り込まれていました。以後、魔物は現れませんでした。という伝説になります。これは、金剛頂寺にとっては、大きなセールスポイントになります。
 これに続けと、他の札所もいろいろな「空海伝説」を創り出し、広めていくことになります。江戸時代になるとそれは、寺にとっては大きな経営戦略になっていきます。

今回紹介した大師の修行時代を描いた部分は、「史実の空白部分」で謎の多い所です。
それをどのように図像化するかという困難な問題に、向き合いながら書かれたのがこれら絵巻になります。見ているといつの間にか、ハラハラどきどきとしてくる自分がいることに気づきます。ある意味、ここでは空海はスーパーマンとして描かれています。毒龍などの悪者を懲らしめる正義の味方っです。勧善懲悪の中のヒーローとも云えます。それが「大師信仰」を育む源になっているような気もしてきました。作者はそれを充分に若手いるようです。他の巻では説話的な内容が多いのですが、この巻では様々な鬼神を登場させることによって、「謎の修業時代」を埋めると共に、「弘法大師伝説」から「弘法大師神話」へのつないで行おうとしていると思えてきました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
     小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊
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稚児大師像 与田寺

  戦後の空海研究史については、以前にお話ししました。その中で明らかになったのは、空海が一族の期待を裏切るような形で、大学をやめ山林修行の道を選んでいたことです。これは私にとって「衝撃」でした。「空海=生まれながらにして仏道を目指す者」という先入観が崩れ落ちていくような気がしたのを思い出します。
 佐伯一門の期待の星として、平城京の大学に入りながら、そこを飛び出すようにして山林修行の道を選んだのです。これは当時の私には「体制からのドロップアウト」のようにも感じられました。ある意味、エリート学生が立身出世の道を捨てて、己の信じる道を歩むという自立宣言であったのかも知れません。それまでの「弘法大師伝説」では、空海はどのような過程で仏門へ入ったとされていたのでしょうか。
弘法大師行状絵詞に描かれた「空海出家」のプロセスを見て行くことにします。

〔第四段〕             
大師、天性明敏にして、上智の雅量(がりょう)を備ヘ給ふ。顔回(=孔子の弟子)が十を知りし古の跡、士衡(しこう=陸機。中国晋代の人)が多を憂へし昔の例も、斯くやとぞ覚えける。こゝに、外戚の叔父、阿刀大足大夫(伊予親王の学士)、双親に相語りて日く、
「仏弟子と為さむよりは如かじ、大学に入りて経史を学び、身を立て、名を挙げしめむには」と。
此の教へに任せて則ち、白男氏に就きて俗典を学び、讃仰(さんごう)を励まし給ふ。遂に、即ち延暦7年(788)御歳十五にして、家郷を辞して京洛(けいらく)に入る。十八の御歳、大学に交わり、学舎に遊び給ふ。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)に従ひて
「孟子」「左伝」『尚書』を読み、岡田博士に逢ひて、重ねて「左氏春秋」を学べり。大凡(おおよそ)、蛍雪の勤め怠りなく、縄錐(じょうすい)の謀心を尽く給いしかば、学業早く成りて、文質相備はる。千歳の日月、心の中に明らかに、 一朝(↓期)の錦繍、筆の端に鮮やか
  意訳変換しておきます
大師は天性明敏で、向学心や理解力が優れていた。中国の才人とされる孔子の弟子顔回や、陸機の能力もこのようなものであったのかと思うほどであった。そこで、母の兄(叔父)・阿刀大足は、空海の両親に次のように勧めた。
「仏弟子とされるのはいかがかと思う。それよりも大学に入りて経史を学び、身を立て名を挙げることを考えてはどうか」と。
この助言に従って、阿刀大足氏に就いて俗典を学び、研鑽を積んだ。そして延暦7年(788)15歳の時に、讃岐を出て平城京に入った。
十八歳の時には、大学に入り、学舎に遊ぶようになった。直講・味酒浄成(うまざけきよなり)から「孟子」「左伝」『尚書』の購読を受け、岡田博士からは、「左氏春秋」を学んだ。蛍雪の功を積み、学業を修めることができ、みごとな文章を書くことも出来るようになった。
 ここには、空海の進路について両親と阿刀大足の間には意見の相違があったことが記されます
①父母は   「仏弟子」
②阿刀大足大  「経書を学び、立身出世の官吏」
一貫して佐伯家の両親は仏門に入ることを望んでいたという立場です。  それでは絵巻を見ていきましょう。
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このシーンは善通寺の佐伯田公の館です。阿刀大足からの手紙を大師が読んでいます。そこには
「仏門よりかは、大学で経書を学び、立身出世の道を歩んだ方がいい。早く平城京に上洛するように」

と書かれています。
 佐伯直の系譜については、以前にも紹介しましたが、残された戸籍を見ると一族の長は「田公」ではありません。田公には兄弟が何人かいて、田公は嫡子ではなく佐伯家の本家を継ぐものではなかったようです。佐伯家の傍流・分家になります。また、田公には位階がなく無冠です。無冠の者は、郡長にはなれません。しかし、空海の弟たちは地方人としてはかなり高い位階を得ています。

1 空海系図

 父田公の時代に飛躍的な経済的向上があったことがうかがえます。
それは田公の「瀬戸内海海上交易活動」によってもたらされたと考える研究者もいます。このことについても以前に触れましたのでここでは省略します。
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   平城京に向けて善通寺を出発する馬上の真魚(空海幼名)

絵図だけ見ると、どこかの武士の若君の騎馬姿のようにも見えます。叔父阿刀大足からの勧めに従って平城京に向かう真魚の一団のようです。これが中世の人たちがイメージした貴公子の姿なのでしょう。いななき立ち上がる馬と、それを操る若君(真魚)。従う郎党も武士の姿です。
 空海の時代の貴族達の乗り物は牛車です。貴族が馬に跨がることはありません。ここにも中世の空気が刻印されています。また、田公は弘田川河口の多度津白方湊を拠点にして交易活動をいとなんでいた気配があります。そうだとすれば、空海の上洛は舟が使われた可能性の方が高いと私は考えています。
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   平城京での阿刀大足と真魚の初めての出会いシーン

阿刀大足は、伊予親王の家庭教師も務めていて当時は、碩学として名が知られていました。館には、門下の若者達が詰めかけて経書を読み、議論を行ってる姿が右側に描かれます。左奥の部屋では、讃岐から上洛した真魚と阿刀大足が向き合います。机上には冊子や巻物が並べられ、四書五経など経書を学ぶことの重要性が説かれたのかもしれません。この時点での真魚の人生目標は阿刀大足により示された「立身出世」にあったと語られます。
阿刀大足の本貫は、もともとは摂津の大和川流域にあり、河川交易に従事していたと研究者は考えているようです。そのために空海の父田公と交易を通じて関係があり、その関係で阿刀大足の妹が田公と結婚します。しかし、当時は「妻取婚」ではなく、夫が妻の下へ通っていくスタイルでした。そのため空海も阿刀氏の拠点がある大和川流域で生まれ育てられたのではないかという説も近年には出されています。
1 阿刀氏の本貫地
〔第五段〕出家学法 空海が仏教に惹かれるようになったのは?
御入洛の後、石渕(=淵)の僧正勤操(ごんぞう)を師とし仕へて、大虚空蔵、並びに能満虚空蔵等の法を受け、心府に染めて念持し給ひけり。この法は、昔、大安寺の道慈律師、大唐に渡りて諸宗を学びし時、善無畏(ぜんむい)三蔵に逢ひ奉りて、その幽旨を伝へ、本朝に帰り来りて後、同寺の善儀(↓議)大徳授く。議公、又、懃(↓勤)操和尚に授く。和尚此の法の勝利を得給ひて、英傑の誉れ世に溢れしかば、大師、かの面授を蒙りて、深く服膺(ふくよう)し給へり。しかあれば、儒林に遊びて、広く経史を学び給ひしかども、常は仏教を好みて、専ら避世の御心ざし(↓志)深かりき。秘かに思ひ給はく 「我が習ふ所の上古の俗典は、眼前にして一期の後の利弼(りひつ)なし。この風を止めて如かじ、真の福田を仰がむには」と。則ち、近士(=近事)にならせ給ひて、御名を無空とぞ付き給ひける。延暦十六年〈797〉朧月の初日(=十二月一H)、『三教指帰』を撰して、俗教の益なき事を述べ給ふ。其の詞に云ぐ、「朝市の栄華は念々にこれを厭ひ、巌藪の煙霞は日夕にこれを願ふ。軽肥流水を見ては、則ち電幻の嘆き忽ちに起こり、支離懸鶉を見ては、則ち因果の憐れび殊に深し目に触れて我を勧む。誰か能く風を繋がむ。
 ここに一多の親戚あり。我を縛るに五常の索(なわ)を以てし、我を断はるに忠孝に背くといふを以てす。余、思はく、物の心一にああず、飛沈性異なり。この故に、聖者の人を駆る教網に三種あり。所謂、釈(迦)。李(=老子)・孔子)なり。浅深隔てありと雖も、並びに皆聖説なり。若し一つの網に入りなば、何ぞ忠孝に背かむ」と書かせ給へりcこの書、一部三巻、信宿の間に製草せられたり。元は『聾書指帰』と題し給ひけるを、後に『三教指帰』と改めらる。その書、世に伝はりて、今に絡素(しそ)の翫(もてあそび)び物たり。
意訳変換しておくと
「勤操 大安寺」の画像検索結果
空海に虚空蔵法を伝えた勤操(ごんぞう)

空海は入洛後に儒教の経書を学んでいただけではなかった。石淵の勤操を師として、大虚空蔵法を授かり、念持続けるようになった。この法は、大安寺の道慈律師が唐に渡って諸宗を学んだ時に、善無畏(ぜんむい)三蔵から伝えられたもので、帰国後に、同寺の善儀に受け継がれた。それを懃(勤)操和尚は修得していた。英傑の誉れが高い勤操(ごんぞう)から個人的な教えを受けて、大師は深く師事するようになり、仏教に関しての知識は深まった。
 そうすると、儒学を学んでも、心は仏教にあり、避世の志が深かまってきた。当時のことを大師は『三教指帰』の中で、このように述べている
「私が学ぶ儒学の経典は、立身出世という眼前のことだけに終始し、生涯をかけて学ぶには値しないものである。こんな心の風が次第に強くなるのを止めることができなくなった。真の私の歩むべき道とは?」
 そして、近士(=近事)になり、無空と名乗るようになる。延暦十六年〈797〉朧月の初日に『三教指帰』を現して、儒教や道教では、世は救えないことを宣言した。その序言に次のように記した「朝廷の官位や市場の富などの栄耀栄華を求める生き方は嫌でたまらなくなり、朝な夕な霞たなびく山の暮らしを望むようになりました。軽やかな服装で肥えた馬や豪華な車に乗り都の大路を行き交う人々を見ては、そのような富貴も一瞬で消え去ってしまう稲妻のように儚い幻に過ぎないことを嘆き、みすぼらしい 衣に不自由な身体をつつんだ人々を見ては、前世の報いを逃れられぬ因果の哀しさが止むことはありません。このような光景を見て、誰が風をつなぎとめることが出来ましょうか!
  わたくしには多くの親族がいます。叔父や、大学の先生方は、儒教の忠孝で私を縛り、出家の道が忠孝に背くものとして、わたくしの願いを聞き入れてくれません。
  そこで私は次のように考えました。
「生き物の心は一つではない。鳥は空を飛び魚は水に潜るように、その性はみな異なっている。それゆえに、聖人は、人を導くのに、仏教、道教、儒教 の三種類の教えを用意されたのだ。 それぞれの教えに浅深の違いはあるにしても、みな聖人の教えなのだ。そのうちの一つに入るのであれば、どうして忠孝 に乖くことになるだろうか」
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勤操(ごんぞう)の住房 建物の下は懸崖で下は幽谷 

ここで空海は虚空蔵法を学んだとします。
これが善無畏(ぜんむい)三蔵から直伝秘密とされる虚空蔵法じゃ。しかと耳にとめ、忘れるでないぞ。
ここからは弘法大師行状絵詞では、虚空蔵法を空海に伝えたのは、勤操(ごんぞう)としていたことが分かります。

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   和泉国槙尾寺での空海剃髪
廊下から見ているのは都から駆けつけた空海の近習たちという設定。 剃髪の儀式は戒師の立ち会いの下で、剃刀を使う僧が指名され人々が見守る中で、厳かに行われる儀式でした。ここでは左側の礼盤に座るのが勤操で、その前に赤い前机が置かれ、その上で香炉が焚かれています。

巻 二〔第一段〕                      
大師、遂に學門を逃れ出で、山林を渉覧して、修練歳月を送り給ひしに、石渕(=淵)の勤操、その苦行を憐れみ、大師を招引し給ひて、延暦十二年〈793〉、御年二十と申せし時、和泉国槙尾といふ寺にして、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授け奉る。御諄、教海と号し給ふ。後には、改めて如空と称せらる。
 同十四年四月九日、東大寺戒壇院にして、唐僧泰信律師を嘱(↓屈)して伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を卒して潟磨教授とし、比丘の具足戒を受け給ふ。この時、御名を空(海)と改めらる。
しか在りしよりこの方、戒珠を胸の間に輝かし、徳瓶を掌の内に携ふ。油鉢守りて傾かず、浮嚢惜しみて漏らす事なし。大師御草の牒書、相伝はりて、今に至る迄、登壇受成の模範と仰げり。
意訳変換すると
大師は遂に學門を逃れ出て、山林を行道する修練歳月を送りはじめます。師である勤操は、その苦行を憐れみ、大師を呼び戻して和泉国槙尾寺で、髪を剃りて、沙弥の十戒、七十二の威儀を授けます。これが延暦十二年〈793〉、20歳の時のことです。そして教海と名乗り、その後改めて如空と呼ばれるようになります。
その2年後の延暦十四年(795)四月九日、東大寺戒壇院で、唐僧泰信律師を伝戒の和尚として、勝伝・豊安等の十師を教授とし、比丘の具足戒を受けました。この時に、名を空(海)と改めます。
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東大寺の戒壇院の朱塗りの回廊が見え隠れします。
剃髪から2年後に、今度は東大寺で正式に具足戒を受けたと記されます。これを経て僧侶としての正式な資格を得たことになります。
戒壇院の門を入ると、大松明が明々と燃え盛っています。儀式の先頭に立つのが唐僧泰信律師で遠山袈裟を纏っています。その後に合掌して従うのが如空(空海)のようです。

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  切石を積み上げて整然と作られた戒壇の正面に舎利塔が置かれています。その前に経机と畳壇が置かれます。ここに座るのが空海のようです。
 以上をまとめておくと、次のようになるのでしょうか。
①空海は叔父阿刀大足の勧めもあって平城京に上がり、大学で儒教の経書をまなぶ学生となった
②一方、石淵の勤操から虚空蔵法を学ぶにつれて儒教よりも仏教への志がつよくなった。
③こうして、一族や周囲の反対を押し切って空海は山林修行の道に入った
④これに対して、勤操は空海を呼び戻し槙尾寺で剃髪させた
⑤その後、空海は東大寺で正式に得度した
  これが、戦前の弘法大師の得度をめぐる常識であったようです。
しかし、戦後の歴史学が明らかにしたことは、空海の得度は遣唐使に選ばれる直前であって、それ以前は沙門であったことです。
空海 太政官符
延暦24年の太政官符には、空海の出家が延暦22(802)年4月7日であっったことが明記されています。これは唐に渡る2年前の事になります。それまでは、空海は沙門(私度僧)であったのです。
 沙門とは、正式に国家によって認められた僧ではなく、自分で勝手に僧として称している「自称僧侶」です。空海は沙門として、各地での修行を行っていたのです。つまり、「絵詞」などに描かれている④⑤の東大寺での儀式は、フィクションであったことになります。大学をドロップアウトして、山林修行を始めた空海は沙門で、それが唐に渡直前まで続いたことは押さえておきます。

延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
 高野山としては、沙門(私度僧=非公認)という身分のままで各地を修行したというのでは都合が悪かったのでしょう。そこで東大寺で正式に得度したと云うことになったようです。
以上最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

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 空海については、さまざまな伝説が作られ語り継がれてきました。それは、高野聖などによって各地に広められていったようです。では、その原型となったものは何なのでしょうか。それはひとつには、空海の生涯を描いた絵伝巻物ではないかと思います。巻物を通じて空海の生涯は語られ、伝説化し、それを口伝で高野聖たちが庶民に語ったのでないのでしょうか。そこで今回は、絵巻物で空海の生涯がどのように描かれ、語られてきたのかをみていくことです。
テキストは 小松茂美 弘法大師行状絵詞 中央公論社1990年刊です。
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  まずは「誕生霊瑞」の段から見ていきます。

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孝徳天皇の御時、初めて佐伯の姓を賜はれり。其の祖、日本武尊に随ひて東夷(=蝦夷)を鎮めし功勲、世に覆ふによりて、讚岐国に地を班(わか)ち賜ひき。この所に家居して、胤葉相継ぎて、子孫県令たり。尊堂(母)は阿刀の氏の人也。
夢に天(竺国(=インド)より牢人飛び来りて懐に入ると見て、妊胎あり。
光仁天皇の御宇、宝亀五年〈七七四〉に当たりて、十二の建辰を満ち、十指の爪掌を合はせて、辛酉の日を以て誕生の瑞を示せり。懐妊月余つて、佳期歳に満ちしかども、着帯身を苦しめず、出産の事穏やか也。
彼の聖徳太子の斑鳩に述を垂れ、広智三蔵の神竜に生を降し給ひし奇異の佳祥も、知斯くやと覚え侍り。
意訳変換しておきます。
空海の生まれた佐伯直家は、孝徳天皇の時に、初めて佐伯の姓を賜わった。その祖は、日本武尊に随って東夷(=蝦夷)を鎮めた功勲が認められ、讚岐国に所領を得た。ここに家居して、子孫は県令を代々勤めてきた家柄である。母は阿刀氏出身である。
 母親が天竺(=インド)から聖人が飛んできて、懐に入る夢を見て、懐妊したという。
光仁天皇の御宇、宝亀五年〈774〉に、手を合はせて、辛酉の日に生まれるという吉兆を見せた。懐妊して、出産予定日を過ぎても生まれなかったが、母親は着帯などで苦しむことはなく、出産も穏やかであった。聖徳太子の斑鳩での誕生や、広智三蔵の神竜に生を降した出産もこんな様子だったのだろうと思える。
続いて、絵を見ていきましょう
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讃岐国屏風ヶ浦の大師の生家。佐伯直田公の屋敷。多度郡郡司らしい地方豪族の館。
広い庭には犬が飼われています。
けたたましい鳴き声で鳴き立てる犬の声に「何事ぞ 朝早くからの客人か」といぶかる姿
板戸を開けて外をうかがうのが大師の父田公のようです。
その奥に夫婦の寝室が見えます。枕をして寝入るのが大師の母。

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空中に雲に乗った僧侶が描かれます。母君の夢の中に、インドより飛来した聖人が懐に入ろうとするシーンです。
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屋敷の裏手は、下部達の部屋。
寝乱れる男達の姿
早くも起き出した親子の使用人。
父は水を汲み馬屋に運び、子どもは箒で庭掃除
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中庭には厩があり、異変を感じた馬が蹄で床を蹴り上げます。
厩の屋根は板葺きで、重しに木が乗せられています。その向こうには、三鉢の盆栽が並んでいます。この絵巻が書かれたのは14世紀後半のこととされます。その頃には、禅僧達を通じて盆栽ももたらされていたようです。
ここまでの冒頭シーンを見ると、寝殿造りの本宅や厩があり、馬がいます。まるで中世の武士の居館を見ているような気になります。書かれた時代の空気がしっかりと刻印されています。「誕生霊瑞」は、旧約聖書の「マリア受胎告知」を連想させます。空海の誕生が神秘な物として描かれます。

〔第二段〕    大師蓮華座に載って仏と話す

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大師、御年五、六歳の間、夢に常に八葉の蓮花の上に坐して、諸仏と物語すと御覧ぜられけり。
しかあれども、父母にもこれを語り給はず。況や他人をや。
耶嬢(=父母)偏へに慈しみ奉りて、たな心(掌)の玉をも玩ぶが如し。御名をば、多布度(↓貴とうと)物とぞ申しける。
意訳変換しておきます
大師が五、六歳の頃に、いつも夢の中でみることは、八葉の蓮花の上に座って、諸仏と物語することでした。しかし、その夢は父母にも話しませんでした。もちろんその他の人にも。父母は大師を、手の中の玉を玩ぶように慈しみ、多布度(↓貴とうと)物と呼びました。
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蓮華上に座して仏達と夢の中で談話する大師
同じシーンを別の絵巻で見てみましょう。
弘法大師行状図画3
高野大師行状図画  蓮華に乗り仏と語り合うエピソードは「稚児大師像」のモチーフともなっていく
次は泥土で仏を作って礼拝した話です。
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十二歳の御時、父母相語り給ふ様、「我が子は昔の仏弟子なるべし。夢に大竺の聖人来りて、懐に入ると見て妊胎せり。しかあれば、この子を以て仏家に入れ、沙門となして釈氏を継がしむべし」と。幼少の御耳に是を聞き給ひて、深く喜ぶ御心あり。
幼き御歳なれども、更に芥鶏の遊び、竹馬の戯れなくして、常に泥上を以て仏像を作り、卓木を以て童堂を建て内に据へ礼拝するを事とし給ひけり。
意訳変換すると
十二歳の頃には、父母は「我が子は昔の仏弟子なのでしょう。夢の中に天竺からの聖人が飛来して、懐に入るのを見たら懐妊しました。そうならば、この子を仏門に入れ、沙門とて釈氏を継がさせましょうか」と、話し合いました。それを聞いて、大師は深く喜んだようです。
 幼いときから闘鶏や竹馬の戯れなどには興味を示さずに、いつも泥土で仏像を作り、卓木で堂舎堂を建て、内に据へて礼拝していました。
弘法大師 行状幼稚遊戯事
高野大師行状図画の同じシーン
 
 できだぞ! 今日もりっぱな仏様じゃ。早う御堂に安置しよう。
真魚(弘法大師幼名)は、毎日手作りの泥仏を作って、安置する。
その後は地に伏して深々と礼拝します。兄弟達もそれに従います。

〔第3段〕 四天王執蓋事」
朝廷から讃岐国に派遣された巡察使が、他の子どもたちと遊ぶ大師の後ろに四天王が従う様子を見て驚き、馬から降りて拝礼したという場面を描きます。

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されば、勅使を讚岐国へ下されたりけるに、大師幼くして、
片方の章子に交はりて遊び給ひけるを見奉りて、馬より下り、礼拝して日く、「公は凡加人にあらず。その故は、四人天王白傘を取りて前後に相随へり。定めて知りぬ、これ前生の聖人なりといふ事を」と。
意訳変換すると
民の愁いを問ひ、官吏の誤りを糺すために、当時は巡察使を地方に派遣していました。讃岐へ派遣された勅使が、善通寺にもやってきました。大師は幼いので、周りの子ども達と一緒に遊んでいました。それを見た巡察使は突然に、馬を下りて、礼拝してこういったというのです
「あの方は、尋常の人ではありません。四天王が白傘を持って、前後に相随っているのが私には見える。あの方の前生が聖人であったことが分かる」と。
その後、隣里の人々は、この話を伝えて、大師を神童と呼ぶようになりました。
弘法大師 行状四天王執蓋事
「四天王執蓋事」
 画面右には大師の頭上に天蓋を差しかける持国天はじめ、増長天、広目天、多聞天の四天王が大師を守ります。この左側には馬から降りた勅使が拝礼している様が描かれていますが省略します。

   以上が弘法大師行状絵詞の「誕生霊瑞」に描かれた空海の幼年期のエピソードです。
  東寺蔵の「弘法大師行状絵詞」十二巻本は、応安七年〈1274〉より康応元年〈1289〉までの15年の間に制作されたもので、弘法大師の絵伝の中では、もっとも内容の完備したものとされます。しかし、何かが足りないような気がします。
五岳我拝師山での捨身行のエピソードが抜けています。これを補っておきましょう。

弘法大師高野大師行状図画 捨身
      「誓願捨身事」(第四段)

六~七歳のころ、大師は善通寺の背後にある我拝師山から請願して身を投げます。そこに仏が出現して大師を受け止めたというシーンです。ここは熊野行者の時代から行場であったようで、大師がここで「捨身」して、仏に救われたという伝承は平安時代末には成立していたようです。西行や道範らも弘法大師修行の憧れの地であったようで、ここを訪れ修行しています。
 しかし、この弘法大師行状絵詞には載せられていません。

  稚児大師像の成立
 幼年期の空海を描いた像は、独立してあらたな信仰対象を生み出して行きます。それが「稚児大師像」です。幼年姿の空海の姿がポートレイト化されたり、彫像化され一人歩きをするようになります。その例を見ていましょう。
稚児大師像 与田寺
 稚児大師像  興田寺13世紀

画面いっぱいに広がる光輪のなかで、たおやかに花開いた蓮華の上に合掌して坐る幼子。愛らしさとのなかにも気品漂う幼少時の姿です。「弘法大師御遺告」の冒頭に、空海は弟子たちに次のように語ったとされます
「夫れ吾れ昔生を得て父母の家に在りし時、生年五六の間、夢に常に八葉蓮華の中に居坐して諸仏と共に語ると見き。然ると雖も専ら父母に語らず、況や他の人に語るをや。この間、父母ひとえに悲しみ字を貴物と号す。」
 絵詞の文章が「弘法大師御遺告」の文章をそのまま引用しているのが分かります。ある意味、それを絵画で表現するのが弘法大師行状絵詞のひとつの使命であったのかもしれません。
専門家の評価を見ておきましょう。
禿型の髪はきれいに杭られ、白色の肌、上品な衣服が高貴な育ちにあることをイメージさせる。切金で縁どられた光輪の内部は、金泥と群青を塗る。著彩には明度があり裏彩色などの効果かとも思われる。白い小花文を散らした小袖は、褐色の地色の間に金泥を注している.髪部は濃い群青を塗った上に墨で細かく毛筋を描く。肉身を描く線は細く鋭い。目は、瞳を墨でくくり中心に墨をおき、虹彩を金泥で塗り、目尻と目頭には群青をぼかす。実在空海の幼少期の姿が、人間を超えて捉えられる。
 今度は善通寺の御影堂の稚児大師像を見てみましょう。
弘法大師稚児像
善通寺誕生院
 頭髪を美豆良(みずら)に結い、抱衣(ほうい)を着て、腹前に重ねた両手に五輪塔を捧げ持ち、木目をあらわにした着衣部には、金泥で雲文を描いている。美豆良を結った童子形の立像には、聖徳太子十六歳の姿をあらわした孝養太子像の作例が数多く知られているが、本像の形姿はその影響を受けたものと考えられ、また、腹前に捧げ持つ五輪塔は、弘法人師と同体とされる弥勒菩薩の図像に基づく表現とみなされる。ふつくらとした九顔の面相、わずかに厳しさをはらんだ表情などに理想化された弘法大師の姿をみてとることができる。

 寺伝では、大師の叔父・佐伯道長卿の作とされますが、専門家は江戸時代のものと考えているようです。江戸時代になって善通寺で作られた物のようです。 江戸時代になると善通寺では、空海やその父や母の像が作られ始めます。
その背景には、伽藍勧進のための開帳があったことは以前にお話ししました。
京都や江戸で開帳を行う際に、善通寺の呼び物は「空海誕生の地」です。そこで欲しい展示物は? と考えると空海の幼年期の姿や、その父や母の姿ということになります。開帳の目玉として、空海の稚児大師像は展示されるようになり、それが信仰対象にもなっていったようです。弘法大師信仰のひとつの発展系です。そして、父母像も登場します。
空海父 佐伯善通
  空海の父親は、現在の善通寺周辺にあたる讃岐国多度郡を本拠とした当地の有力豪族佐伯直氏の一族田公です。
空海母

 空海の母は、学者の家系である阿刀氏出身の女性とされます。
ちなみに現在も善通寺は父を善通とし、母を「玉寄姫」てしています。そのためこの像も善通公と「玉寄姫」像と呼ばれています。このふたつの専門家の評価を見ておきましょう。
ふたつの像は一木造で、「善通」公像は衣冠東帯を着けた貴族の姿である。母「玉寄姫」像は頭から衣を被り、薄い緑色の地に青海波風(せいがいは)の文様をあしらつた衣を身に着けている。それぞれの厨子には左記の銘文が陰刻され、高祖大師すなわち弘法大師の作とされるが、作風から江戸時代、おそらくは厨子が制作された明和八年(1771)をさほど遡らない時期の作と推定される。

空海の両親像があるのは、善通寺だけでしょう。
まさに誕生院にふさわしい像とも云えます。江戸や上方での開帳の際にも珍しくて人気を集めたようです。イエスとマリアのように母子愛を刺激するのかも知れません。
以上、弘法大師行状絵図の生誕と幼年期について見てきました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 

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