瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:善通寺と空海 > 高野山高野山

「遺告二十五ヶ条」(略称「御遺告」)10世紀半ば成立
       遺告二十五条 巻頭部
「御遺告」は、承和三年(835)2月15日の日付があり、空海が亡くなる直前に書かれたとされてきました。しかし、今では10世紀半ばのものとされています。この中に「入定留身」信仰について、どのように触れられているのかを見ていくことにします。

「遺告二十五ヶ条」巻末に空海・実恵
遺告二十五条 巻尾部

遺告二十五条第1条「成立の由を示す縁起第一」には、次のように記されています。

   吾れ、去(いん)じ天長九年(832)十一月十二日より、(A)深く穀を厭(いと)いて、専ら坐禅を好む。皆是れ令法久住の勝計なり。并びに末世後生の弟子・門徒等が為なり。方(まさ)に今、諸の弟子等、諦(あきらか)に聴け。諦に聴け。(B)吾生期、今幾ばくならず。仁等(なんじたち)好く住して慎んで教法を守るべし。吾れ永く山に帰らん。吾れ入減せんと擬することは、今年三月廿一日の寅の刻なり。諸弟子等、悲泣を為すこと莫れ。吾れ即滅せば両部の三宝に帰信せよ。自然に吾れに代って眷顧を被らしめむ。吾生年六十二、

②吾れ初めは思いき. 一百歳に及ぶまで、世に住して教法を護り奉らんと。(C)然れども諸の弟子等を侍んで、忽(いそい)で永く即世せんと擬するなり。

A・B・Cは、「入定」のことを指す表現とも受けとれます。とくに(B)の「吾れ人滅せんと擬することは」は、「人滅に似せる、人滅をまねる」ともとれます。しかし、「人定」ということば自体は、まだ出てきません。また、自分の入滅日を「三月二十一日」と予告しています。これも今までになかった記述です。
次に、「御遺告」の第十七条を見ておきましょう。
夫れ以(おもんみ)れば東寺の座主大阿閣梨耶は、吾が末世後生の弟子なり。吾が滅度の以後、弟子数千萬あらん間の長者なり。門徒数千萬なりと雖も、併(しかし)ながらわ吾が後生の弟子なり。、租師の吾が顔を見ざると雖も、心有らん者は必ず吾が名号を開いて恩徳の由を知れ。
(D)是れ吾れ白屍の上に、更に人の労を欲するにあらず、密教の寿命を譲り継いで龍華三庭に開かしむべき謀(はかりごと)なり。
(E)吾れ閉眼の後に、必す方に兜率陀天(としつたてん)に往生して、弥勒慈尊の御前に侍すべし。五十六億余の後に、必ず慈尊と御供に下生して吾が先跡を問うべし。亦且(またかつ)うは、未だ下らざるの間は、微雲の菅より見て、信否を察すべし。是の時に勤め有んものは祐を得んの不信の者は不幸ならん。努力努力、後に疎(おろそ)かに為すこと勿れ。

意訳変換しておくと
 私(空海)が目を閉じた後に、以後の弟子が数千万いようとも、門徒が数千万いようとも、それらはすべて私の後生の弟子達である。祖師や、私の顔を見ることがなくても心ある人はかならず私の名号を聞いて恩徳のわけを知るべきである。このことは私が世を去ったことに、さらに人びとのいたわりをのぞんでいるわけではない。(D)ただ密教の生命を護りつないで、弥勒菩薩が下生し、三度の説法を開かせるためのはかりごとからである。
(E)私の亡き後には、かならず兜率天に往生して、弥勒菩薩の御前にはべるであろう。
五十六億七千万年後には、かならず弥勒菩薩とともに下生し私が歩んだ道をたずねるであろう。
ここで研究者が注目するのは、次の二点です。
(D)の弥勒片薩の浄土である兜率天への往生と
(E)②弥勒菩薩ががこの世に下生されるとき、ともに下生せん」の部分
これは『御遺告』で初めて登場する文章です。しかし、ここには空海を「お釈迦さまの入涅槃から弥勒菩薩の出生にいたる「無仏中間(ちゅうげん)」のあいだの菩薩」とみなす考えは、まだ見られません。
 『御遺告』で、空海の生涯が著しく神秘化・伝説化されたことは以前にお話ししました。
今までに書かれていなかった新しい記述が加えられ、新たな空海像が提示されていきます。これは、釈迦やイエスについても同じです。後世の弟子たちによってカリスマ化され、神格化させ、祀られていくプロセスの始まりです。以上からここでは『御選告』の特色として、次の点を押さえておきます。
①第1は「入定」が暗に隠されているふしがみられること
②第2は、兜率天往牛と弥勒善薩との下生説がみられること
③ 第3は、『御遺告』で、空海の生涯が著しく神秘化・伝説化されたこと

『空海僧都伝』

『御遺告』と、ほぼ同じ時代に成立したのが『空海僧都伝』です。

その最後の部分を、六段に分けて見ていくことにします。
 A 大師、天長九年(832)十二月十二日、深く世味を厭いて、常に坐禅を務む。弟子進んで曰く、「老いる者は唯飲食す。此れに非ざれば亦隠眠す。今已に然らず。何事か之れ有らん」と。報えて曰く「命には涯り有りの強いて留まるべからず。唯、尽きなん期を待つのみ。若(も)し、時の至るを知らば、先に在って山に入らん」と。
意訳変換しておくと
A 大師は、天長9年(832)十二月十二日に、深く世情を避けて、常に坐禅をするようになった。弟子が「老いる者はただ飲食のみか、そうでなければ眠るかである。ところが大師は、ちがう。どうしてなのか」と訊ねた。これに大師は、次のように答えた。「命には限りがあり、いつまでもこの世に留まることはできない。唯、尽きない時をまつだけである。もし、自分の死期を知れば、先に高野山に入ろうと思う」と。


B 承和元年五月晦日、諸の弟子等を召して語らく、「生期(吾生イ)、今幾くならず。汝等、好く住して仏法を慎み守れ。我、永く山に帰らん」と。

C 九月初めに、自ら葬処を定む。
D 二年正月より以来、水漿(すいしょう)を却絶す。或る人、之を諫めて曰く、「此の身、腐ち易し。更に奥きをもって養いと為すべし」と。天厨前(てんちゅうさき)に列ね、甘露日に進む。止みね、止みね。人間の味を用いざれ、と.
E 三月二十一日後夜に至って、右脇にして滅を唄う。諸弟子等一二の者、揺病(ようびょう)なることを悟る。遺教に依りて東の峯に斂(おさ)め奉る。生年六十二、夏臓四十一

F 其の間、勅使、手づから諸の惟異(かいい)を詔る。弟子、左右に行(つら)なつて相い持つ。賦には作事及び遺記を書す。即の間、哀れんで送る。行状更に一二ならず。

意訳変換しておくと
B 承和九年(832)五月晦日に、弟子等を召して次のように語った。「私の命はもう長くない。汝等は、仏法を慎み守れ。私は、高野山に帰る」と。

C 九月初めには、自らの墓所を決めた。
D 835年正月から、水漿(=水や塩)を絶った。これを諫めた人に対して、「この身、は腐ちやすい。更に躰の奥から清めなければならない」と云った。滋養のあるものを並べ、食べていただこうとするが「止めなさい。人間の味を使うな」と云うばかりであった.
E 3月21日夜半になって、右脇を下にして最期を迎えた。諸弟子は、揺病(ようびょう)なることを悟る。遺言通りに東の峯に斂(おさ)めた。生年六十二、出家して四十一年

F この間のことを、勅使は「手づから諸の惟異(かいい)を詔る」(意味不明) 弟子、左右に行(つら)なつて相い持つ。賦には作事及び遺記を書す。即の間、哀れんで送る。行状更に一二ならず。

この中には次の4つの注目点があると研究者は指摘します。
①Aは832年に、最期のときを悟ったならば、高野山に入ろうと弟子たちに語ったこと。ここからは、空海が自分の死に場所は高野山だと、生前から弟子たちに語っていたことが記されます。
②C・Dは承和元年(834)年9月はじめに埋葬場所を決めいたこと。翌年正月からは水と塩気のあるものを絶ったこと。つまり、空海は最期に向けて「断食=木食(ミイラ化)」を行っていたこと。これが後の真言修験者の「木食修行」につながっていくようです。
③Eからは3月21日の深夜に、右脇を下にして最期を迎えたこと、そして遺言によって「東の峯に斂めた」とあります。従来は「東の峯=奥の院」とされてきました。本当にそう考えていいのでしょうか。また「斂」は「おさめる」で、「死者のなきがらをおさめる」意と解されていたことがうかがえます。そうだとすると「入定」とは少しかけ離れたことばと研究者は指摘します
④Fの「勅使、手づから諸の惟異を詔(つげ)る」と意味不明部分があること。文脈からすると、葬儀のあいだのできごとをさしているようですが、よく分かりません。

写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

G 雅真撰『金剛峯寺建立修行縁起』(修行縁起) 康保五年(968)成立 
この評伝は、草創期の高野山を考えるうえでの根本史料のひとつになります。そして、ここではじ
めて「入定」ということばが4ヶ所で使われます。長文になりますが見ていくことにします。
A 大師、諸の弟子等に告げて曰く。「吾れ、却世の思いあり。明年三月の中なり。金剛峯寺を以て真然大徳に付す。件の寺の創造、未だ終わらず。但し、件の大徳、自力未だ厚からず。実恵大徳、功を加うべし、と云々。吾れ、初めは思いき、一百歳の間、世に住して密教を流布し、蒼生を吸引せんと、然リと雖も、禅師等、恃(たの)む所の至篤(しとく)なり。吾が願、又足んぬ。仁等(なんじら)、まさに知るべし。吾れ、命を万波の中に忘れ、法を千里の外に尋ぬ。僅かに伝うる所の道教之を護持して、国家を安鎮し、万民を撫育(ぶいく)すべし。」と云々。
意訳変換しておくと
A 大師は、弟子等に次のように告げた。①「私の死期は明年3月半ばである。②ついては金剛峯寺は真然大徳に任せる。寺の造営は、まだ終わっていない。しかし、真然の力はまだまだ弱い。実恵大徳がこれを助けよ。」
「私は、百歳になるまで、長生きして密教を流布し、蒼生を吸引せんと、初めは考えていた。しかし、それも適わぬものであると知った。私の願いは達せられないことを、なんじらは知るべし。私は、命を幾万もの波の中に投げだし、法をもとめて千里の道を長安に訊ねた。③そこから持ち帰った教えを護持して、国家を安鎮し、万民を撫育すべし。」と云々。
以上の部分を整理・要約すると
①死期の預言
②金剛峯寺の後継者を真然(空海の弟)に指名し、それを東寺長者の実恵が助けよ
③教団の団結と教え
B 承和二年三月十五日、又いわく。「(ア)吾れ、人定に擬するは来る二十一日寅の刻なり。自今以後、人の食を用いず。仁等、悲泣すること莫れ。又、素服を着ること勿れ。
 吾れ(イ)入定の間、知足天に往きて慈尊の御前に参仕す。五十六億余の後、慈尊下生の時、必ず須く随従して吾が旧跡を見るべし。此の峯、等閑にすること勿れ。顕には、丹生山王の所領、官持大神を勧請して、嘱託する所なり。
 冥には、古仏の旧基、画部の諸尊を召集して安置する所なり。跡を見て必ず其の体成を知り、音を聞いて則ち彼の慈唄を弁ずる者なり。吾が末世の資、千万ならん。親(まのあ)たり、吾が顔を知らずと雖も、一門の長者を見、及び此の峯に寄宿せん者は、必ず吾が意を察すべし。吾が法、陵遅せんと擬する刻は、吾れ必ず絡徒禅侶の中に交わって、此の法を興さん。我執の甚しきにあらず。法を弘むる計なるのみ。
意訳変換しておくと
B 承和二年(835)三月十五日には、次のように言われた。④私が「人定に擬する」のは3月15日寅の刻である。今からは何も食べず断食に入るが、なんじらは悲泣するな。又、喪服も着るな。
 ⑤私が入定したら知足天に行って慈尊の御前に仕える。五十六億余年の後、慈尊が下生する時、必ず一緒に現れて、高野山に帰ってくる。その時までこの峯を守り抜け。⑥表では、丹生山王の所領、官持(高野)大神を勧請して、守護神としている。裏には、古仏の旧基、画部の諸尊を召集して安置した。その姿を見て必ず体成を知り、音を聞いて慈唄を弁ずるであろう。
 ⑦私に続く者達は末世まで続き、千万人にもなろう。その中には、私の顔を知らないものも出てこようが、一門の長者を見、高野山に寄宿する者は、必ず私の意が分かるはずである。私の教えを陵遅せんと擬する刻は、私は必ず禅侶の中に交わって、この法を興すであろう。我執の甚しきにあらず。教えを弘めることを考え実践するのみである。
この部分を整理・要約すると
④入滅日の予告と断食(木食)開始
⑤入定後の行き先と対処法
⑥高野山の守護神である丹生明神と官持(高野)大神の勧請(初見)
⑦高野山を護る弟子たちへの教えと願い
C 則ち承和二年乙卯三月二十一日、寅の時、結珈朕坐して大日の定印を結び、奄然として(ウ)人定したまう。兼日十日四時に行法したまう。其の間、御弟子等、共に弥勒の宝号を唱う。唯、目を閉じ言語無きを以て(エ)人定とす。自余は生身の如し。時に生年六十二、夏臓四十 。
意訳変換しておくと
C 承和二年(835)3月21日寅の刻、(大師は)結珈朕坐して大日の定印を結び、(ウ)人定した。その後、兼日(けんじつ)十日四時に行法した。その間、弟子たちは弥勒の宝号を唱えた。ただ目を閉じ話さないことを以て(エ)人定とする。それ以外は生身のようである。この時大師齢六十二、出家して四十一年目 。
基本的な内容と論の進め方は、先行する「遺告二十五条」と同じなので、これを下敷きにかかれたものであることがうかがえます。
読んで気がつくのは、「入定」ということばが次のように4回出てくることです。
ア、吾れ、入定に擬するは来る二十一日寅の刻刻なり。
イ、吾れ入定の間、知足天に往きて慈尊の御前に参仕す。
ウ、寅の時、結珈欧座して大日の定印を結び、奄然として入定したまう。
エ、唯、目を閉じ言語無きを以つて入定とす。自余は生身の如し。

これを分類すると、アは「入定に擬する」で、「入定のまねをする」ととれます。それに対して、イ・ウ・エでは「入定の間」「入定したまう」「入定とす」とあって、まさに「入定」です。また(エ)では、「入定」の定義が次のように示されています。

唯、目を閉じ言語無きを以って入定とす。自余は生身の如し。

ここからは、入定とはただ目を閉じ、ことばを発しないだけでって、それ以外は生きているときと同じ「生身の如し」とします。

奥院への埋葬の次第については、次のように記されています。

⑧然りと雖も世人の如く、喪送(そうそう)したてまつらず。厳然として安置す。則ち、世法に准じて七々の御忌に及ぶ。御弟子等、併せ以て拝見したてまつるに、顔色衰えず髪髪更に長ず。之に因って剃除を加え、衣裳を整え、石壇を畳んで、例(つね)に人の出入すべき許りとす。其の上に石匠に仰せて五輪の率都婆を安置し、種々の梵本・陀羅尼を人れ、其の上に更に亦宝塔を建立し、仏舎利を安置す。其の事、 一向に真然僧正の営む所なり。

意訳変換しておくと
⑧(空海は亡くなったが)、世人のような葬儀は行わなかった。ただ厳然と安置した。それは、世法に准じて七日ごとの忌日を務めた。弟子たちが、空海の姿を拝見すると、顔色は変わらず、髪は伸びていた。そこで剃髪し、衣裳を整え、石壇を畳んで、つねに人が出入し世話できるようにした。その上に石工に依頼して五輪の率都婆を安置し、種々の梵本・陀羅尼を入れて、その上に更にまた宝塔を建立し、仏舎利を安置した。これを行ったのは、真然僧正である。

葬儀を筒条書きにすると、次の通りです。
1、通常の葬送儀礼は行わず、厳然と安置した。
2、常の習いに准じて、七日七日の忌日は勤めた。
3、弟子らが拝見すると、この間も大師の顔の色はおとろえず、頭髪・あご髪はのびていた。
4、そこで、髪・鬚を剃り、衣を整え、人の出入りできる空間を残して石壇を組み、
5、その上に、石工に命じて五輪塔を安置し、梵本・陀維尼を入れ、さらにその上に、宝搭を建て
仏合利を安置した。
6、これらはすべて、真然僧正が執り行った。

これらの記述を読んで、次のような疑問が湧いてきます。
①石壇を組んだ場所はどこか
②梵本・陀羅尼を入れたのはどこか
③仏舎利を安置したのはどこか
これらについては示されていません、また、これらをすべて真然が執り行ったとする点と、①で金剛峯寺の責任者に真然を指名したという話については、研究者は疑問を持ちます。

このように『修行縁起』には、はじめて登場する話が数多く載せられています。
別の見方をすると、に遺告二十五条や『空海僧都伝』と、この雅真撰『金剛峯寺建立修行縁起』とのとのあいだには、大きな相違・発展があるということです。分量自体が大幅に増えていることからも分かります。9世紀には一行であった空海の最期についての記述が11世紀になると大幅に増えていることをどう考えればいいのでしょうか。
 これについて、考証学は「偉人の伝記が時代を経て分量が増えるのは、後世の附会によるもの」とします。新たな証拠書類が出てきたわけではなく、附会する必要が出てきて後世の人物が、有りもしないことをあったこととして書き加えていくことは、世界中の宗教団体に残された史料からも分かります。11世紀に「入定」を附会する必要性が高野山側には生まれていたとしておきます。その背景については、また別の機会に・・。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 武内孝善 「弘法大師」の誕生 137P
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奥の院御廟が確認できるのは12世紀以後

前回は空海が「入定」したとされる高野山奥の院の御廟が、いつごろから存在したのかを見ました。今回は「入定」という言葉がいつ頃から史料に登場してくるのかを見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」です。

まず空海の跡を継いだ、実恵の書簡を見ていくことにします。

1 空海系図52jpg
          佐伯直 空海系図 実恵は佐伯直の本家筋にあたる

実恵は空海から見れば「佐伯家本家の従兄弟」にあたり、幼い頃から顔見知りだったかもしれません。空海が唐から帰って京都高雄寺を拠点としていた頃から傍らに仕えていて「空海第一の弟子」とされます。弘仁元年(810年)に、数ある弟子の中から一番早く実恵に胎蔵・金剛両部灌頂を授けていますので、空海の信頼や期待も高かったことがうかがえます。また、高野山開創の際に、空海が先行派遣させているのも実恵と泰範です。弘仁八年(817年)、実恵32歳の時になります。晩年の空海は多忙に追われながら体は悪性の腫瘍にむしばまれ、信頼をおく実恵をかた時も離さなかったようです。
 この実恵の書状は、空海入滅の翌年に、長安の恵果和尚の墓前に報告するために書かれたもので空海の最期を次のように記します。
A 承和三年(836)5月5日付 青龍寺宛て実恵等書状

其の後、和尚(空海)、地を南山に卜して伽藍を置き、終馬の庭とす。共の名を金剛峰寺と曰く。上の承和元年を以って、都を去って行きて住す。二年の季春、薪尽き火減す。行年六二。

ここには簡潔に「新尽き火減す」とあり、新が燃えつきるがごとく、静かな最期を高野山の金剛峯寺で迎えたことが記されるのみです。「入定留身」については何も触れられませんし、どこに埋葬されたかも記されていません。

B 『続日本後紀」の空海卒伝 貞観11年(870)成立
870年に成立した正史の『続日本後紀』の巻第四の承和三年(835)3月庚午(25日)条の「空海卒伝」は次のように記します。
禅関僻左(へきさ)にして、凶聞、晩(おそ)く伝ふ。使者奔赴して荼毘を相助くることあたわず自ら終焉の志あり。紀伊国金剛峯寺に隠居す。化去の時、年六十三。
ここで注目されるのは「荼毘を相助くることあたわず」と「荼毘」ということばがあることです。
ここから歴史学者は「入滅火葬説」をとなえ、真言宗内からは「入定留身:説が唱えられていることは前回お話した通りです。しかし、この史料からも空海は「化去」し、「禅居に終る」とあって、入定については何も触れられていません。しかし、通常とは違うことばで、空海の最期を記録している点に研究者は注目します。

C 聖宝撰「贈大僧正空海和上伝記」(略称:寛平御伝)  寛平7年(895)成立
これは真言宗内で書かれたもっとも占い大師伝になるようです。撰者は、かつては空海の弟の真雅とされてきましたが、今では醍醐寺開山の聖宝(理源大師)とする説が有力です。ここには、次のように簡潔に記します。
承和二年(834)、病に罹り金剛峯寺に隠居す。三年三月二十一日卒去す。

ここからは空海は病を患っていたことが分かります。
   空海の病気については、『性霊集』補闘抄の「大僧都空海、疾(やまい)に嬰りて上表して職を辞する奏状」に次のように記します。
天長八年(831)庚辰(かのえたつ)今、去る月の薫日(つもごりの日)に悪瘡躰(あくそうてい)に起って吉相現せず。両檻夢に在り、三泉忽ちに至る。」

ここには、831年5月の末に「悪瘡」が体にできて直る見込みがなく、「吉相」を見せることができず死期が近づいていることを述べ、淳和天皇に大僧都の職を辞任して自由の身になりたいと願い出たことが記されています。この悪瘡について「大師御行状集記」では「癖瘡(ようそう)」、『弘法大師年譜』には「?恙」と記されます。悪性のデキモノのようです。空海は晩年には悪性の皮膚病で苦しんでいたようです。
「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」からは、空海は自分の意志で高野山に隠居したことが分かります。「卒去」は人の死をあらわす一般的表現です。空海が亡くなって三代あとの時代には、その最期が単に「卒去」と記されています。「卒去」からは「特別待遇」ではなく一般的なニュアンスしか伝わってきません。

D 伝寛平法皇作「諡号を賜らんことを請う表」延喜18年(918)8月11日
寛平法皇が醍醐天皇に空海への大師号下賜を依頼したときのものとみなされてきたもので、次のように記します。
承和二年(834)、病に嬰りて高野の峯に隠肝す。金剛峯寺という是れなり。同三年二月二十一日、和尚卒去す。

この文章については以前にも見た通り、全文が先ほど見たCの『寛平御伝』を下敷きに書かれています。この部分もほぼ丸写しです。寛平法皇(宇田天皇)は、この当時は出家して真言宗教団の中心的存在であったようです。それが「寛平御伝」を下敷きにして、「卒去す」とだけ記していることになります。このこと自体が、この時にはまだ入定信仰について何も知らなかったことを物語ると研究者は考えています。
 添田隆昭師は『大師はいまだおわしますか』(46P)で、次のように記します。

どこにも入定留身したとは書いていない。大師に対する熱烈な思慕を持ち、後世、入定留身説話の主人公となる観賢僧正も、寛平法皇も、まだこの時代には、人定留身というアイデアは生まれなかったと考えられている。

   以上から空海に大師号が下賜される以前の10世紀初めまでは、真言宗内においては、空海の最期を特別視する風潮はまだなかったことが分かります。それが変化し出すのは、大師号下賜以後に書かれた伝記類からのようです。

私が気になるのはCの「寛平御伝」に、「病に嬰りて金剛峯寺に隠居す」とあることです。
この悪瘡について「癖瘡(ようそう)」=「悪性の皮膚病説」があることは先に述べた通りです。
この皮膚病の原因は何なのでしょうか。これは丹生(水銀)と関係あるのではないかとという説があります。これを最後に見ておきましょう。

ミイラ信仰の研究 : 古代化学からの投影(内藤正敏 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋


空海は道教や錬丹術に強い関心をもっていたとされます。
内藤正敏は『ミイラ信仰の研究』の「空海と錬丹術」の中で、次のように記します。
空海が僧になる前の24歳の時に書いた『三教指帰』は、仏教・儒教・道教の三教のうち、仏教を積極的に評価し、儒教・道教を批判しています。が、道教については儒教より関心をもっていたようです。そして、空海は『抱朴子」などの道教教典を熟読し、煉金(丹)術や神仙術の知識を、中国に渡る以前にすでに理解していたとします。
確かに、三教指帰では丹薬の重要性を説き、「白金・黄金は乾坤の至精、神丹・錬丹は葉中の霊物なり」と空海は書いています。白金は水銀、黄金は金です。神丹・錬丹は水銀を火にかけて作った丹薬です。

「空海が中国(唐)にいる頃は、道教の煉丹術がもっとも流行した時代であった。ちょうど空海が恵果阿闍梨から真言密教の奥義を伝授されている時、第十二代の店の皇帝・憲宗は丹薬に熱中して、その副作用で高熱を発して、ノドがやけるような苦しみの末に死亡している。私は煉丹術の全盛期の唐で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはないと思う。ただ、日本で真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかっただけだと思うのだ

また高野山自体が丹生(水銀・朱砂)などの鉱物生産地で鉱山地帯であった可能性があるようです。
そのため空海の高野山の選択肢に、鉱脈・鉱山の視点があったとする研究者もいます。その根拠としては、次のような点を挙げます。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
     重文 弘法大師・丹生・高野明神像 右下が丹生明神
①空海死後ただちに編纂された「空海僧都伝」に丹生神の記述があること、
②高野山中腹の天野丹生社が存在していたこと、
③高野山が丹生(水銀)や銅を産出する地質であったこと
人定信仰や即身成仏信仰の形成、その後の真言修験者の即身成仏=ミイラ化などの実践は、その上に生まれたものだと云うのです。つまり、空海は渡唐して錬丹術を学んで来たこと。鉱脈・鉱山開発の視点から高野山が選ばれたという説です。
丹生明神と狩場明神
重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

 松田壽男も次のように記します。

空海が水銀に関する深い知識をもっていたことを認めないと、水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことや、空海の即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

例えば空海が若い頃に書いた「三教指帰」の中には、丹薬の重要性が次のように記されている所があります。
白金・黄金は乾坤(けんしん)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。服餌(ぶくじ)するに方有り、合造(かつさう)するに術有り。一家成ること得つれば門合(もんこぞ)つて空を凌ぐ。一朱僅かに服すれば、白日に漢に昇る。

意訳変換しておくと
「白金・黄金は水銀と金である。乾坤は天地陰陽のこと、神丹・煉丹は『抱朴子」に『黄帝九鼎神丹経』の丹薬として紹介されている。神丹は一匙ずつ飲めば百日で仙人になれ、煉丹は十日間で仙人になれ、禾(水銀)をまぜて火にかけると黄金になるという丹薬である。
 一家で誰かがその薬をつくることに成功すれば家族全部が仙人になれる。仙人になる描写を白日に漢(=天)に昇る。
ここからは空海が道教の仙人思想と水銀と金の役割を、早くから知識としては知っていたことが分かります。
須恵器「はそう」考

内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを次のように記します。
空海は砒素とか水銀などの有毒薬物を悪瘡治療のために服用していたのではないか。さらに悪瘡ができた原因も、水銀とか砒素などの中毒ではなかったか。

「私は空海の悪瘡の話を読むたびに、砒素や水銀の入った丹薬を飲みすぎて、高熱を出し背中にデキモノができて中毒死した唐の皇帝・宣宗の話を思い出す。そして、空海が死ぬ前年に書いた「陀羅尼の秘法といふは方に依って薬を合せ、服食して病を除くが如し……」という『性霊集』の一節も、実は空海自身の姿を表わしているように思えてしかたがない。」
  空海は、当時の最先端技術である錬金術や錬丹術の知識を習得するだけでなく、実践していた節があるというのです。話が大きく逸れたようです。今回はここまでとします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
高野山丹生明神社
   高野山奥の院の御廟に並んで鎮座する高野・丹生明神社

参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房215P」
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空海火葬説
            空海=火葬説
前回は史料からは、空海やその師の恵果が火葬されていることが読み取れることを見てきました。今回は空海が、どこに埋葬されたかについて見ていくことにします。

   空海には今なお生き続けているという入定留身信仰があります。
入定とは禅定(瞑想)に入ることで、空海は入滅(逝去)したのではなく入定しているというのが真言教団の立場です。例えば、次のようなエピソードが語られてきました。

 内閣総理大臣を務めた近衛文麿が、空海の廟所である高野山奥之院に参拝した時のこと。近代真言宗の高僧と呼ばれた金山穆韶師に案内され、「空海は永久に入定したまま、今もなお衆生済度のために尽力している」との説明を受けたのですが、近衛は一笑に付しました。その夕べ、金山師が近衛を訪ね、さらに入定の由縁をじゅんじゅんと説いたところ、近衛は従者にこう話したそうです。「ともかくよくわからないが、老師の努力と信念には感心した」。(「沙門空海」 渡辺照宏・宮坂宥勝著)

これが宗門および大師信者の弘法大師に対する信仰を代弁したものと云えそうです。
  そのため戦前の歴史学者・喜旧貞吉の「空海=火葬説」に対して、真言宗内から多くの反論が出されました。以後、これに正面から答えようという動きはなくタブーとされていた観があります。それが21世紀になってやっと「真言宗内には入定信仰が定着しているが、空海がどのような最期を迎えたかをはっきりさせておくことは、空海の末徒として必要」と考える書物が出されます。それが「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く 朱鷺書房」です。これをテキストにして、今回は空海がどこに埋葬されたのかを見ていくことにします。

「―遍聖絵」(歓善光寺蔵)に描かれた高野山奥の院
一遍絵図の高野山奥の院
空海の廟所については、一般的に次のように云われています。
弘法大師御廟は奥之院の最も奥に位置する三間四面、檜皮葺、宝形造の建物で、一般には御廟と呼ばれている。御手印縁起付載絵図には「奥院入定廟所」と記され、廟堂(宇治関白高野山御参詣記)、高野廟堂(白河上皇高野御幸記)、高野霊廟(鳥羽上皇高野御幸記)とも記される。
空海は承和元年(834年)9月に自ら廟所を定めたといわれ、翌年3月21日寅の刻に没した。七七日(四十九日)を経て、弟子(実恵、眞雅、真如親王、眞濟、眞紹、眞然)によって定窟に奉安され、その上に五輪卒塔婆を建てて種々の梵本陀羅尼を入れ、その上に宝塔を建てて仏舎利を安置した。廟の造営にはもっぱら眞然大徳が当たった。

弘法大師空海-生涯と奥の院の秘密 | やすらか庵
                弘法大師御廟
それでは「奥の院」の廟所の存在が確認できるのは、いつからなのでしょうか。 
言い換えると、いつまで奥の院は遡ることができるかを見ておきましょう。確認できる確実な史料として、研究者が挙げるのが天永4年(1113)5月3日の日付をもつ比丘尼法薬の埋経です。この埋経は1964年の秋・開創1150年の年に、御廟周辺整備の時に出土したものです。そにには次のような語句が出てきます。
斯の経巻をもって高野の霊窟に埋め、云々
② 弥勒慈尊出性の時を期せんが為に、殊に弘法大師入定の地を占す、まくのみ。
③ 仰ぎ願わくは、慈尊兼ねて斯の願を憐憫し、伏して請うらくは、大師常に斯の経を護持し、必ず其れ三会の座席に接せんことを。
ここには「高野の霊窟」「弥勒慈惇出世の時」「弘法大師入定の地」「三会の座席」などの言葉が出てきます。これらは入定留身する大師や奥の院の御廟を意識していることが分かります。出土地が御廟のすぐ横ということからも、平安末の天永4年(1113)には、御廟が現在地にあったことが裏付けられます。
次に奥の院の存在を示すのが「御入定所」と記した「高野山図」です。   211P

高野山図 平安時代
              高野山図
高野山図2
          高野山図 江戸時代の複写

「高野山図」が、いつ成立したものなかのか押さえておきます。
①奥の院入定所が描かれているので、弘法大師御入定説成立以前ではない。
②奥の院御廟の左の丹生・高野両社は、天暦6年(952)6月に奥院廟塔が類焼
③翌7月に執行職に就いた雅真が、翌天暦7年(953)夏に奥院御廟を再興したもの(「検校帳」)
④同時に、それまで御廟橋の近くにあつた丹生・高野両社を御廟の左に移築した(『高野春秋』)ものなので、それ以後のもの
⑤絵図の下石の垣荘は、天慶9年(946)に石垣荘上下二荘に分割して以来のこと(正智院文書)
⑥東搭は天治元年(1124)10月、鳥羽上皇の高野参詣の際に完成したものなので、東搭が描かれているので、絵図の成立をそれ以前に比定することはできない。
以上からは比丘尼法薬の埋経からは、12世紀はじめには御廟はいまの奥の院に存在していたことが裏付けられます。しかし、それ以前に御廟がどこにあったかは分かりません。確かな史料がないのです。
そこで研究者が注目するのは「高野山七廟説」です。

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『紀伊続風土記』の「高野山之部」巻之十の「奥院之五 附録」には、次のように記されています。

①慶安三年(1650)頃初て七廟の名を載て、奥の院(廟所)・高野山とも、是は日本国中の大師の廟門七ヶ所あることにて、当山に七廟ある説にあらず。(中略)

②寛文の頃(1661~73)、或記に初て当山七廟の名を載て、奥の院(今の助所)・高野山)姑耶也)・遍照岡・正塔岡・大塔・御影堂・弥勒石といふ此説ありてより、好事のもの雷同して終に巷談口碑せり。             (『紀伊続風土記』四 189P)

①からは、近世になるまで七廟はなかったこと、②からは17世紀後半になって「七廟」という表現が用いられ始めたことが分かります。ここでは「七廟」というのは、近世以後の表現であることを押さえておきます。
そして「紀伊続風土記」の「高野山之部」の著者道猷も、いまの奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと次のように記します。
是らに因り猶大師の墓所を考ふるに、今山上にて七廟の説を伝ふ。其実は大師の葬処造にかくと定めかたし。或いはここならんといひし所七ケ所ありし中、今の奥院の処と定まりしとなん。然れともし廟の説によりて考ふれば、南谷宝積院の地こそ葬庭ならんかといふ。因りて書して後の考に備ふ。
意訳変換しておくと
①今日、高野山には七廟説が伝わっていて、大師の墓所はここで間違いないと言えるところはない。
②ここだあそこだと言ってきた七廟説のなかで、今の奥の院に落ち着いてきた。
③しかしながらいま一度、七つの候補地を検討すると、大師の廟所としては、市谷の宝積院の地が最も相応しいといえる。
④後世のために、あえて記しておく。        (『続真言宗全書』三六  23P)

とあって、最も有力な候補地として③の「南谷の宝積院の地」としています。さらに、割注でその根拠を次のように挙げています。(要約簡条書)
①今の高野山は、弘法大師の時代にくらべると、百倍も開かれているといえよう。
②奥の院の地は、今日でも中心部からは遠く、幽奥僻遠の地といった感じを強くうける。
③大師在世の時代にあっては、このように幽奥僻遠の地を選ぶ理由などなかったはずである。
④南谷宝積院の地は、大師が生活していた寺の向いで、遍照岡と呼ばれていた。
⑤また宝積院は、ふるくは阿逸多院といい、阿逸多坊とも呼ばれた。
⑥遍照は大師の号であり、阿逸多は弥勒菩薩の梵語である。
⑦この寺名は、大師が入定されたことに由来するとすれば、ここが大師の墓所であったと考えるのが自然である。
⑧宝積院を再建したときの記録には、次のように記されている。
境内を掘つたところ、奇怪な響きがした。寺主は不思議に想つて、さらに深く掘ったところ、五、六尺のところから一つの石函が出てきた。その一辺は一丈ばかりであった。恐れをなして、もとのように埋めてしまった、という。
⑨この記録は、この地が大師の墓所であったことの根拠といえるのではないか。
⑩ただし、今の奥の院が古くから大師の廟堂とされているので、このことは異聞としておく。

以上から道猷は「空海奥の院入所説」に対して、次の3つの根拠を挙げて疑義を表明します。
A ①②③で、開創当時の高野山を考えたとき、奥の院は伽藍建立の地である壇上から遠いこと
B ④⑤⑥⑦で、南谷宝積院の地は遍照岡ともいい、古くはは阿逸多院・阿逸多坊ともいい、大師および弥勒苦薩との関係ががえること。
C ⑧には宝積院を再営したときの記録に、境内から石函が掘り出されたこと

弘法大師が入定した約1300年前の高野山を取り巻く地形を「地形復元」してみると、山上は原生林におおわれていたことが想像できます。奥の院は最初に開かれた壇上伽藍から4㎞東の原始林の中です。そこにいろいろなものを運ぶとなると、多くの困難を伴ったことが想像できます。

高野山建設2
高野山開山 (高野空海行状図画) 原始林を切り開いての建築作業で宝剣出土

しかも、当時の高野山は伽藍の堂搭も、まだほとんどは姿を見せていない「開拓地」状態です。
その際に、参考になるのが高野山第2世の真然が、どこに、どのように葬られたかです。

真然大徳廟

  真然の入滅については「高野春秋編年曹録』巻第3 寛平3年(891)の条に次のように記します。

秋九月十一日。長者真然僧正、愛染王の三摩地に住し、病無く奄然として中院において遷化す。門人、院の東方の原野に賓斂す(中略) 寿八十九   (『大日本仏教全書」131 36P)

意訳変換しておくと

秋9月11日、真然は中院(現・龍光院)の愛染王の三摩地にて、病にかかることもなく忽然と亡くなった。弟子たちは中院の東方の原野に埋葬した。齢89歳であった

ここには「院の東方の原野に埋葬」とあります。大師から50年後の真然の場合でも墓所は、いまの金剛峯寺の裏山です。
空海の甥で十大弟子の一人である智泉(ちせん)の場合を見ておきましょう。

智泉大徳 2月14日は常楽会の日として知られますが本日は智泉大徳のご命日でもあります。 また、本年は1200年目の御遠忌でもあり  智泉大徳は平安時代前期の真言宗の僧で母は弘法大師の姉と伝えられ弘法大師の甥にあたり十大弟子の一人でもあります。若くして病に倒れた甥 ...
                  知泉大徳廟 
彼も讃岐出身で、母は空海(弘法大師)の姉で阿刀氏出身と伝えられます。空海が若くして惜しまれつつ亡くなった智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にあります。知泉は、天長2年(825)に高野山で入滅ししますが、その墓所については次のように記されています。
蓋し大師在世の日には、智泉大徳、此地に一字の僧房を営んで正住し給ふ故に、当院封内羊申の角に、師の墓所あり。此地、東塔の東にして、南は蛇原を限り、東に大乗院あり
                   (『紀伊続風土記』四  375P)
ここからは空海よりも10年前に亡くなった智泉の墓所も、伽藍東塔の東どなりに作られたことが分かります。こうして見ると高野山の開山途上にある時点で、空海の墓所が遠く離れた奥の院の原始林を拓いて作られたという話には疑義があると研究者は判断します。

以上を整理・要約しておきます。
①「空海は永久に入定したまま、奥の院で今もなお衆生済度のために尽力している」という入定留身信仰がある。
②奥の院の御廟の存在を確かな史料で確認できるのは、12世紀初め以後になる。
③17世紀後半になって「高野山七廟説」が説かれ始めるようになる。
道猷は、奥の院が最初から大師の御廟の場所であったどうかは疑わしいと記し、最も有力な候補地として「南谷の宝積院の地」を挙げる。
⑤空海の十代弟子であった知泉や、高野山2世も東塔周辺に埋葬されている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 朱鷺書房 210P」

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弘法大師・丹生・高野大明神像(重文 金剛峯寺蔵)
高野山は、もともとは地主神・丹生津比売命のものであったのを、空海に譲渡したという話があります。この「丹生津比売命の高野山譲渡説」を、今回は見ていくことにします。
高野山譲渡説を要約すると次のようになります。

空海は唐から投げた三鈷杵を探していたとき、 一人の猟師と出会い、ついで山人にみちびかれて高野由にのぼり、その山人からこの地を譲られた。そして、山上に三鈷杵をみつけだし、伽藍を建立するにふさわしいところをえたと大いに喜んだ。

この物語のように、いまも壇上伽藍の御社には丹生・高野両明神が祀られ、御影堂まえに「三鈷の松」があります。そのため、高野山に参詣して、この話を聞くとすんなりと受け止められます。

 丹生明神からの譲渡説を、最初に記すのは『遺告二十五ケ条』で、以下のように記します。

万事連無しと云うと雖も、春秋の間に必らず一たび往きて彼(かしこ)を看る。山の裏の路の邊りに女神有り。名づけて丹生津姫命と曰う。其の社の廻りに十町許りの沢有り。若し人到り着けば、即時に障害せらる。方に吾れ上登の日、巫祝に託して曰く。
 「妾は神道に在って、威福を望むこと久し。方に今、菩薩、此の山に到りたまへり。妾が幸いなり。弟子、昔現人の時、食国韓命家地を給うこと万許町を以ってす。南限る南海、北限る日本河、東限る大日本国、西限る応神山谷。願わくば、永世に献じて仰信の情を表す」と云々。如今、件の地の中に所有開田を見るに三町許りなり。常庄(ときわのしょう)と名くる、足れなり。
   『定本全集』第七  355~356P)

意訳変換しておくと
さまざまな仕事に追われて暇はなかったが、春と秋に必ず一度は高野山を訪れた。高野山に登る裏道のあたりに、丹生津姫命と名づけられる女神がまつられていた。その社のめぐりに十町歩ばかりの沢があり、もし人がそこに近づけばたちまちに傷害をうけるのであった。まさにわたくしが高野山に登る日に、神につかえる者に託して、つぎのようにお告げがあった。
 「わたくしは神の道にあって、長いあいだすぐれた福徳を願っておりました。ちょうどいま、菩薩(空海)がこの山に来られたのは、わたくしにとって幸せなことです。(そなたの)弟子であるわたくし(丹生津姫命)は、むかし、人間界に出現したとき、(日本の天皇)が一万町ばかりの領地を下さった。南は南海を境とし、北は日本河(紀伊吉野川)を境とし、東は大日本国(宇治丹生川)を境とし、西は応神山の谷を境とした。どうか永久にこの地を差上げて、深い信仰の心情を表したいと思います」云々。
 いま、この土地の中に開田されている田が三町ばかりある。常庄と呼ばれるのが、これである。
これが「丹生津姫命の高野山譲渡説」が最初に出てくる史料です。これに「飛行三鈷杵」が合体された形で最初に出てくるのが『金剛峯寺建立修行縁起』になります。
写本】金剛峯寺建立修行縁起(金剛峯寺縁起)(仁海僧正記) / うたたね文庫 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
金剛峯寺建立修行縁起

この書は「康保五年(968)戊辰6月14日  仁海僧正作」とありますが、実際に書いたのは、仁海の師・雅真のようです。雅真は高野山の初代検校で、天暦6(952)年6月に、落雷によって焼失した奥院の御廟を復興させた人物でもあります。その際に、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。その背景には、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うための、交換条件だったというのです。その交換条件とは、次の2つです。
①奥院に丹生・高野両明神を祀ること
②丹生明神の依代であった「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れること
 
丹生神社本殿た「木造丹生明神坐像

          九度山町丹生神社本殿安置の「木造丹生明神坐像」
それでは、丹生・高野両明神を祀っていた氏族とは、どんな一族だったのでしょうか?
 この点について、触れた史料は何もありません。ただ、それがうかがい知れる史料はあるようです。空海の書簡を集めた『高野雑筆集』巻上に、高野山上の伽藍建設に着手するにあたって、以下の通り紀伊の有力者に援助を依頼した書簡があります。それを見ていくことにします。
①古人言えること有り。胡馬北に向い、越鳥南に栗くうと。西日東に更(かえ)り、東雲西に復る 物的叩、自ら爾(しか)り、人において何ぞ無らん。
②之を先人の説に聞くに、我が遠祖遣馬(佐伯)宿禰は、是れ則ち彼の国の祖・大名草彦の派なり。
③所以(ゆえ)に尋ね謁(まみ)えんと欲すること久し。然れども左右物の碍げあって志願を遂げず。消息何をかを曰わんや
④今、法に依って修禅の一院を建立せんと思欲う。彼の国高野の原、尤とも教旨に允えり。
⑤故に表を修え請わんことを陳ぶ。天恩允許して符を下したまい詑(おわ)んぬ。
⑥故に表を以って一両の草案を造立せんが為に、しばらく弟子の僧泰範・実恵等を差しつかわして彼の処に発向せしむ。
⑦伏して乞う。仏法を護持せんがために、方円相い済わば幸甚、幸甚。
⑧貧道、来年秋月に必ず参ぜん。披調いまだ間あらず。珍重、珍重。謹んで状す。
(『定本企集』第七 100~101P)
意訳変換しておくと
②先人の説によると、私(空海)の先祖である大遣馬宿禰(佐伯直)は、あなたの国の祖である大名草彦のわかれです
③一度訪ねたいと久しく考えているが、あれこれさまたげがあつて、なかなか志を遂げられず、申し訳なく想っていること、
④いま密教の教えに基づいて修禅の一院(密教道場)を建立したいと考えている。その建立の場所として、あなたの国の高野の原が最適と考えている
⑤そのような訳で、上表文をしたため、天皇にに高野山下賜をお願いしたところ、早速に慈悲の心をもって許可の大政官符を下された、
⑥そこでまずは草庵を造立するために、弟子の泰範・実恵を高野に派遣する、
⑦ついては仏法護持のために、僧俗あいともに高野山の開創に助力たまわりたい、
⑧私(空海)は、来年の秋には必ず高野に参りたいと考えている、
この手紙からは、空海の心情や行動がうかがえます。

まず、この手紙がいつ書かれたかを、研究者は押さえていきます。
この手紙には、日付もあて名もありません。そこで、研究者は本文から書かれた上限と下限が次のように推測します。まず、上限については、

「故に人を修え請わんことを陳ぶ。天恩允許して、符を下したまい祀んぬ。」

ここに出てくるの表(上表文)・允許・符などの用語から、「弘仁7年(816)6月19日に提出した上表文と、下賜を維持した紀伊国司宛ての7月8日大政官符を踏まえた上で書かれていることが分かります。以上から、手紙が書かれた上限は、816年の7月頃とします。
 次に下限は、次の文章に注目します。

貧道(空海)、来年秋月に必ず参ぜん。

空海が高野山へはじめて高野山に入ったのは、弘仁9年(818)の冬、11月16日のことです。12月日付の某宛て書状には、次のように記されています。
貧道、黙念せんがんに、去月(11月)十六日此の峯に来住す。山高く雪深くして、人跡一通じ難し。(『定本全集』第七  127P)
ここからは空海が11月16日に高野山に入山したこと、深い雪に遭って苦労されたことが分かります。同時に、有力者への手紙が書かれたのは、勅許後すぐの816年7月から8月にかけてのことだったことが推測できます。

次に、この手紙は誰にあてて出されたものなのかを見ていくことにします。
この問題を解く手がかりは、本文の次の部分にあります。

我が遠祖人遣馬(佐伯)宿禰は、足れ則ち彼の国の祖・大名草彦の派なり。

ここには「大名草彦」は、空海の佐伯直氏と先祖を同じくすると記します。大名草彦を先祖にもつ氏族の記録は、次の3つがあります。
①『新撰姓氏禄(しんせんせいしろく)』    弘仁6年(815)7月成立
②『紀伊国国造次第』              
③『国造次第』      貞観16年(874)頃成立
研究者がここで注目するのは、どれもが紀伊国造家の紀直氏系譜を記す史料であることです。例えば③『国造次第』を見ておきましょう。
国造次第
 日前(ひのくま)国太神宮、天降しし時、天路根(あめのみちね)従臣として仕え始め、即ち厳かに崇め奉るなり。仍て国造の任を賜る。今、員観―六年甲午歳を以て、本書巳(すでに)に損するに依りて改めて写書す。
国造正六位上広世直
第一 天道根
第二 比古麻 天道根の男
第三 鬼刀爾  
第四 久志多麻 鬼刀爾の男 又名目菅
第五 山成国土記ニ在リ  大名草比古(彦) 久志多麻の男
第六 迂遅比古    大名草比古の男
第七 舟本    迂遅比古の弟
第八 夜郎賀志彦 舟本の男
第九 日本記に在り 等与美々 夜郎賀志彦
旗に久志多麻
(『新接姓氏録の研究』 考証篇第四  216~217P)

五代目に「大名草比古(彦)」の名があります。この「大名草比古」は、紀直氏の実質的な始祖とされます。
それでは「大名草彦」にはじまる紀伊国造家とは、どんな氏族だったのでしょうか。
 紀氏は、現在の和歌山市を拠点にした豪族です。その信仰拠点の紀伊国一宮の日前・國懸(くにかかす)神宮です。
日前神宮と國懸神宮
①日前神宮の祭神は、日前大神で天照大神の別名だとされ、神体は日像鏡(ひかたのかがみ)で、思兼命(おもいかねのみこと)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)(鏡作連の祖)も祭られている。
②國懸神宮は國懸大神を祭り、神体は日矛鏡で、玉祖命(たまのおやのみこと)(玉造部氏の祖)と明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)(神功皇后の祖)が祭られている。この二つの鏡は天照大神の八咫鏡と同じものだとされ、社伝にはこれらの鏡を作ったときの逸話が伝えられている。

この両神宮を奉斎するのが紀伊国造家です。天照大神の鏡と同等を主張しているので、天孫族より古い氏族だったことがうかがえます。紀伊国造家は、天道根命(あめのみちねのみこと)の嫡流を主張します。天道根は『先代旧事本紀』にある饒速日とともに来た32神の一人で、『姓氏録』には火明命の後裔とされます。ちなみに、国造制度が廃止された後に国造が許されたのは出雲と紀伊国造家だけでした。

 両神宮の周りにかつてあった秋月古墳群が国造家の墓所とされます。
紀伊氏の古墳
和歌山市周辺の古代地形復元と紀伊氏の古墳分布図

紀伊氏の残した古墳群について要約しておきます。
①秋月遺跡と、紀の川対岸の鳴滝遺跡・楠見遺跡から出土した土器は韓国、釜山の東を流れる洛東江流域に多数出土する
②池島遺跡は庄内期に吉備型甕が多く出る旧大和川沿いの集落のひとつで、古墳時代には滑石製品を作る玉造りの工房や窯跡も多く残っていて、丹後・出雲との関連がうかがえる。
③紀氏でいちばん大きな集団は600基を数える岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群で、安定して古墳を作り続ける。
④秋月に続く最初の前方後円墳は4世紀後半の花山8号墳で、割竹式木棺・粘土槨の埋葬施設をもち、続く古墳群も九州の柄鏡形である。
⑤紀北には5郡、名草・伊都・那賀・有田・海部があるが、その地名は北部九州に由来するものばかり。


木の国の古代・中世
紀伊の郡名

⑥5世紀になると紀ノ川北岸のグループが隆盛し、鳴滝遺跡には大型倉庫群跡が出現する。これは物資貯蔵施設で、大阪難波の法円坂遺跡と同様施設がある。
⑦5世紀後半の車駕之古址(しゃかのこし)古墳(86㍍)からは朝鮮製金勾玉が、大谷古墳(67㍍)からは阿蘇溶結凝灰岩の組合式家形石棺が出てる。

紀国造家の実像をさぐる 岩橋千塚古墳群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」126)
⑧6世紀代の岩橋千塚では、大日山35号墳(86㍍6世紀前半)以下、数基の大型古墳が続けて作られる。
⑨この岩橋千塚勢力の中心は紀直(きのあたい)氏だった。
⑩紀南には日高・牟婁の二郡があり、有田川から南の沿岸地域には、由良町・美浜町・印南町・吉備町と若狭や瀬戸内の地名が並ぶ。
⑪紀氏は鉄の確保のために、瀬戸内海南ルートを開き、讃岐や伊予にも拠点を開き、洛東江流域との交易を行った。
以上からは、紀伊氏が古墳時代からヤマト政権において、瀬戸内海の海上支配を通じて、朝鮮半島の伽耶諸国との外港・交易の中心にいたことがうかがえます。ギリシャのポリスが地中海に植民活動を展開し、ネアポリスを開いて行ったように、紀伊氏も活発な海上交易活動を展開したことが、残された古墳や地名からもうかがえます。独自に朝鮮半島とのつながりを持っていた紀氏は「我こそが王」という感覚を持っていたかもしれません。それが紀伊国一宮の日前・國懸(くにかかす)神宮の由緒に。痕跡として残されているとしておきます。

「大名草彦」を先祖にもつ氏族として丹生祝家(にゅうのほうりけ)もいます。
延暦19年(800)9月16日の日付のある『丹生祝氏文』には、次のように記されています。
始祖は天魂命(あまのむすびのみこと)、次に高御魂命(たかむすびのみこと)の祖、次に血早魂命(中臣の祖)、次に安魂命(やすむすびのみこと)(門部連などの祖)、次に神魂命(紀伊氏の祖)、次に最兄(おほえ)に座す宇遅比古命(うちひこのみこと)の別の①豊耳命(とよみみのみこと)、国主の神(紀伊氏)の女児阿牟田刀自(あむだのとじ)を娶りて生める②児子牟久君(こむくのきみ)が児等、紀伊国伊都郡に伴える侍へる③丹生真人(にうのまひと)の大丹生直丹生祝(あたいにうのほうり)・丹生相見・神奴等の三姓を始め、丹生津比売の大御神(おおみかみ)・高野大明神、及び百余の大御神達の神奴(かむやっこ)と仕へ奉らしめ了へぬ(以下略)
                (『田中車著作集』22 463P)
ここには、次のようなことが書かれています。
①大名草彦の男・宇遅比古命と三代あとの豊耳命の名が出てくること
②豊耳命が伊都那の阿牟田(=奄田)に住んでいた有力家族の女を娶って生れたのが「子牟久君(こむくのきみ)」であること
③子牟久君から丹生祝・丹生相見らがわかれ、それぞれ丹生津比売命・高野明神・百余の大御神たちを祭祀するようになった
これを『国造次第』などを参照しながら、丹生視家の系図を研究者は次のように復元します
丹生祝家系図
丹生祝家復元系図(ゴシックは実在が確実視される人物)

以上をまとめておくと
①「大名草彦」を先祖にもつ氏族に、紀直氏と丹生祝家とがあったこと
②紀直氏と丹生祝家が先祖を同じくすることは、丹生津比売命がいまの社地・天野に鎮座するまでの事跡、および丹生津比売命にたいする祭礼の面からも、跡づけることができる。

丹生神社本殿の木造丹生明神坐像
               木造丹生明神坐像

では、丹生津比売命と紀直氏・丹生祝氏とのかかわりは、いつ、どんな経緯ではじまったのでしょうか。
まず、丹生津比売命の名が出てくる最古の文献である「播磨国風上記逸文」を見ておきましょう。
息長帯日女命(神功皇后)は、新羅の国を平定しようとして播磨の国に下られたとき、多くの神々に戦勝を析願された。そのとき、イザナギ・イザナミ神の子である爾保都比売斜(にほつひめのみこと)は、国造の石坂比売命(いしざかひめのみこと)に神がかりして、「私をよく祀つてくれるならば、よき験を出して新羅の国を平らげてあげましょう」と教え、よき験(しるし)である赤土(=丹生)をだした。白三后は、その赤土を天の逆枠に塗って神舟の艦と舶先にたて、また神舟の裳にも赤上を塗り、御軍の着衣も赤土で染めて出かけたところ、前をさえぎるものなく、無事新羅を平定することができた。帰国後、皇后は爾保都比売命を紀伊の国筒川の藤代(ふじしろ)の峯(現高野町富貴・上筒香に比定)に祀ることにした。         (日本古典文学大系2『風土記』482~483P)
要約しておくと
①神功皇后の「三韓征伐」の際に、播磨で戦勝祈願を行った。
②その際に出された「丹生(朱銀)」によって戦勝した。
③そこで神功皇后は、丹生津比売命を紀伊の藤代の峯に祀った。
その祭祀を任されたのが、紀伊氏ということになります。

本地垂迹資料便覧
丹生大明神

ここで注意しておきたいのは、丹生津比売命がもともとは、丹生(朱砂=水銀)の神であったことです。
「風土記』は、和銅6年(713)の元明天皇の詔にもとづいて編纂されたとされるので、この丹生津比売命が紀伊国に祀られるようになった話は、8世紀はじめには出来上がっていたことになります。このことを踏まえた上で研究者は、丹生津比売命と紀直氏・丹生祝氏とヤマト政権の関係を、次のようにまとめます。
①新羅征討に功績のあった丹生津比売命は、紀直氏(紀伊国造家)に奉ぜらて、紀伊の国名草郡の玉津島に上陸し、国造家によって祭祀されていた。
②その後、紀伊国造家は勢力を拡大するために、伊都郡の有力豪族であった阿牟田(=奄田)と婚姻関係をむすんだ。
③その結果、丹生津比売命はこの婚姻によって出生した丹生祝家によって、丹生都比売神社(かつらぎ町上天野)にも祀られることになり、奄田の丹生酒殿社に遷座した。
④さらに、紀ノ川をさかのぼって大和国の十市・巨勢・宇智部をめぐり、また紀ノ川をくだつて紀伊の国にもどり、那賀・在一有一田・日高郡を遊行し、最後に現在の天野に鎮座した
ここでは、丹生津比売命の祭祀権が、おなじ先祖をもつ紀伊国造家から丹生祝家に移ったことを押さえておきます。それでは最初の疑問に還ります。
「空海が手紙を出し援助を請うた相手」として考えられるのは、次の一族になります。
①紀伊国造家・紀直(きのあたい)氏
②丹生祝家・丹生氏
地理的にみると、①の紀直氏は高野山から少し遠すぎるようです。それに対して、高野山山麓の天野に鎮座する丹生津比売命を祭祀していた②の丹生祝家に援助を請うたとみた方が自然と研究者は考えます。当時の高野山は原生林の山で、たどりつくことさえも難渋をきわめました。その山中に伽藍を建てるというのは、地元の人達からすれば正気の沙汰とは思えなかったかもしれません。道の整備から始まり、工事宿舎の建設、建築資材の運搬・工事、それにたずさわる人たちの食糧確保と運搬など、組織的な取組ができないと前に進まないことばかりです。ヒマラヤ登山に例えると、資材運送のためには現地のシェルパたちの協力なしでは、目的地にも到達できません。空海が第一にとりくんだことは、地元の有力者の協力を取り付けることであったはずです。そうだとすれば、丹生津比売命=丹牛祝家の援助を得るために、空海は当初から細心の注意を払いながら動いたはずです。しかし、空海には援助をとりつける目算があったと研究者は推測します。

瀬戸内海の紀伊氏拠点
瀬戸内海の紀伊氏関係の拠点分布図
それが空海の佐伯直氏と紀直氏の「疑似同族意識」です。
紀伊氏は、早くから瀬戸内海の要衝に拠点を開き、交易ネットワークを形成して、大きな勢力を持っていたこと、空海の生家である讃岐の佐伯直氏も弘田川を通じて外港の多度津白方を拠点に、海上交易を行っていたこと、は以前にお話ししました。そうだとすれば、紀直氏と佐伯直氏は、海上交易ネットワークを通じて交流があった可能性が出てきます。さらに、空海の母の出身氏族である阿刀氏も大和川沿いの河川交易を掌握していた一族ともされます。   こうして見ると「紀伊の紀直氏=讃岐の佐伯直氏=畿内の阿刀氏」は、海上交易ネットワークで結ばれたという仮説が出せます。こうした事情を知っている空海は、「紀伊国造家・紀直(きのあたい)氏や丹生祝家・丹生氏」に、「頭を下げれば必ず支援は受けられる」という目算があったのかもしれません。

丹生明神と狩場明神
            重要文化財 丹生明神像・狩場明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生津比
売命は、高野山の壇上伽藍にいつから祀られていたのか
この問題を考える際には、次の点を抑えておく必要があります。
A 高野山には空海がやって来る以前から、丹生津比売命を祀る祠があったこと
B その祠を目印として、空海は伽藍整地プランを立てたこと。
Aについては、高野山一帯が、丹生津比売命を祭祀していた丹生氏の狩猟の場であったと従来は云われてきました。しかし、高野山は赤土(朱砂=水銀)の採掘地でもあったことが近年分かっています。思い出して欲しいのは、丹生津比売命が初めて登場する播磨風土記です。そこには、次のように記していました。(要約)
(播磨で)よき験(しるし)である赤土(=丹生)をだした。そのおかげで無事新羅を平定することができので、神功皇后は帰国後、丹生津比売命を紀伊の国筒川の藤代(ふじしろ)の峯(高野町富貴・上筒香に比定)に祀ることにした。(日本古典文学大系2『風土記』482~483P)

ここではもともとは丹生津比売命は、朱砂(水銀=丹生)の神だったことを再確認したいと思います。なのです。それが採掘地に祀られていても何の不思議もありません。ここから見えてくることは、高野山は水銀採掘地で、それを丹生祝家が管理・採掘していたということです。とすれば、高野山山上は、当時は原始林の未開地ではなくなります。丹生祝家の水銀鉱山が展開する「鉱山都市」であったことになります。里からの生活物資の荷揚げのための道路も整備されていたはずですし、鉱山労働者を伽藍整地の人夫に転用することも容易です。人夫達の飯場を新たに建設する必要もありません。



若き日の空海は、何のために辺路修行をおこなったのでしょうか?
 それは虚空蔵求聞持法のためだというのが一般的な答えでしょう。
これに対して、修行と同時にラサーヤナ=霊薬=煉丹=錬金術を修するため、あるいはその素材を探し集めるためであったと考える研究者もいます。例えば空海が登った山はすべて、水銀・銅・金・銀・硫化鉄・アンチモン・鉛・亜鉛を産出するというのです。
 また空海が修行を行ったとされる室戸岬の洞窟(御厨洞・神明窟)の上の山には二十四番札所最御前寺があります。ここには虚空蔵菩薩が安置され、求聞持堂があります。そして周辺には
①畑山の宝加勝鉱山
②東川の東川鉱山、大西鉱山、奈半利鉱山
があり、金・銀・鋼・硫化鉄・亜炭を産していました。これらの鉱山は旧丹生郷にあると研究者は指摘します。
水銀と丹生神社の関係図


空海が若き日の山林修行中に、高野山山上で見たものは、丹生祝家のもとで稼働する高野山鉱山だったというのが私の仮説です。そのような状況を知った上で、空海は高野山に伽藍を建設しようとします。空海の高野山伽藍建設のひとつの目的は水銀確保にあったという説にもなります。どちらにしても、空海は高野山開山は、丹生氏の物心両面にわたる援助を受けていたことになります。

高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのは、天徳年間(957~61)のことです。
これは天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失したことと関連があると研究者は考えています。高野山の初代検校であった雅真が御廟を復興し、その左に丹生・高野明神を祀ります。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の実際の著者とされているのが雅真です。彼は丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うとともに、次の2つの交換条件を出したと研究者は推測します。
①奥院に丹生・高野両明神を祀ること
②丹生明神の依代であった「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れること

この裏には、空海の時代から一世紀以上のあいだ、丹生祝一族から提供された物心両面にわたる援助に酬いるためであったのでしょう。こうして「丹生・高野両明神による高野山譲渡説 + 飛行三鈷杵」が生まれます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
武内孝善 弘法大師をめぐる人々―紀氏― 印度學佛教學研究第四十二巻第一号平成五年十二月

         

  
飛行三鈷杵 弘法大師行状絵詞
飛行三鈷杵 明州から三鈷法を投げる空海(高野空海行状図画)

空海が中国の明州(寧波)の港から「密教寺院の建立に相応しい地を教え給え」と念じて三鈷杵を投げるシーンです。この三鈷杵が高野山の樹上で見つかり、高野山こそが相応しい地だというオチになります。中国で投げた三鈷杵が高野山まで飛んでくるというのは、現在の科学的な見方に慣れた私たちには、すんなりとは受けいれがたいお話しです。ここに、合理主義とか科学では語れない「信仰」の力があるのかも知れません。それはさておくにしても、どうして、このような「飛行三鈷杵」の話は生れたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
まず「飛行三鈷」についての「先行研究」を見ておきましょう。
  ①和多秀来氏の「三鈷の松」は、山の神の神木であった説
高野山には呼精という行事があり、毎年六月、山王院という丹生、高野両大明神の神社の前のお堂で神前法楽論議を行います。そのとき、竪義(りゅうぎ)者が山王院に、証義者が御形堂の中に人って待っていますと、伴僧が三鈷の松の前に立ち、丹生、高野両大明神から御影常に七度半の使いがまいります。そうやつてはじめて、証義者は、堅義者がいる山王院の中へ入っていくことができるのです。これは神さまのお旅所とか、あるいは神さまのお下りになる場所が三鈷の松であったことを示す古い史料かと思います。一中略一
 三鈷の松は、山の神の祭祀者を司る狩人が神さまをお迎えする重要な神木であったということがわかります。(『密教の神話と伝説』213P)
ここでは、「三鈷の松=神木」説が語られていることを押さえておきます。  
  
三鈷宝剣 高野空海行状図画 地蔵院本
右が樹上の三鈷杵を見上げる空海 左が工事現場から出来た宝剣を見る空海

次に、三鈷杵が、いつ・どこで投げられたかを見ていくことにします。
使用する史料を、次のように研究者は挙げます。
①  金剛峯寺建立修行縁起』(以下『修行縁起』) 康保5(968)成立
② 経範接『大師御行状集記』(以下『行状集記』)寛治2(1089)成立
③ 兼意撰『弘法大師御伝』(以下『大師御伝」) 水久年間(1113~18)成立
④ 聖賢撰『高野大師御広伝』(以下『御広伝』) 元永元(1118)年成立
⑤『今昔物語集』(以下『今昔物語』)巻第十  第九話(12世紀前期成立)
これらの伝記に、三鈷杵がどのように書かれているのかを見ておくことにします。
飛行三鈷杵のことを記す一番古い史料は①の「修行縁起」で、次のように記します。

大同二年八月を以って、本郷に趣く。舶を浮かべるの日、祈誓して云はく。

ここには大同2年8月の明州からの船出の時に「祈誓して云はく」と記されています。しかし、「祈誓」が、陸上・船上のどちらで行われたかは分かりません。敢えていうなら「舶を浮かべる日」とあるので、船上でしょうか。
  ②『行状集記』は、次のように記します。

本朝に赴かんとして舶を浮かべるの日、海上に於いて祈誓・発願して曰く。

ここには、「海上に於いて祈誓・発願」とあり、海上で投げたとしています。
  ③『大師御伝』は、
大同元年八月、帰朝の日、大師舶を浮かべる時、祈請・発誓して云はく
これは①『修行縁起』とほぼ同じ内容で、海上説です。

④『御広伝』には、
大同元年八月、本郷に趣かんと舶を浮かべる日、祈請して誓を発して曰く
『修行縁起』『大師御伝』と同じような内容で、海上説です。

⑤『今昔物語』には、
和尚(空海)本郷二返ル日、高キ岸二立テ祈請シテ云ク
ここで初めて、「高キ岸二立ちテ」と陸上で祈請した後で、三鈷杵を投げたことが出てきます。しかし、具体的な場所はありません。以上からは次のようなことが分かります。
A ①~④の初期の伝記では、海上の船の上から「三鈷杵」は投げられた「船上遠投説」
B 12世紀に成立した⑤の今昔物語では「陸上遠投説」
つまり、真言宗内では、もともとは三鈷杵を投げたのは船上として伝えられていたのです。それが、今昔物語で書き換えられたようです。
空海小願を発す。

前回も見ましたが天皇の上表書と共に、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙には、次のように記されています。
①此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院(寺院)を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。
 
意訳変換しておくと
  A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

これを見ると伝記の作者は、空海の上表文や布勢海宛ての手紙を読み込んだ上で、「飛行三鈷」の話を記していることがうかがえます。つまり、「悪天候遭遇による難破の危機 → 天候回復のための禅院(密教寺院)建立祈願 → 飛行三鈷杵」は、一連のリンクされ、セット化された動きだったと研究者は考えています。そうだとすると三鈷杵は当然、船の上から投げられたことになります。初期の真言宗内の「伝記作家」たちは、「飛行三鈷杵=船上遠投説」だったことが裏付けられます。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2

次に、高野山で三鈷杵を発見する経緯を見ていくことにします。    
①の『修行縁起』は、次のような構成になっています。

弘法大師行状絵詞 高野山の絵馬
高野空海行状図画(高野山絵馬)

A 弘仁7(816)年4月、騒がしく穢れた俗世間がいやになり、禅定の霊術を尋ねんとして大和国字知那を通りかかったところ、 一人の猟師に出会った。その猟師は「私は南山の犬飼です。霊気に満ちた広大な山地があります。もしここに住んで下さるならば、助成いたしましょう」と、犬を放ち走らせた。

B 紀伊国との堺の大河の辺で、一人の山人に出会った。子細を語ったところ、「昼は常に奇雲聳え夜には常に霊光現ず」と霊気溢れるその山の様子をくわしく語ってくれた。

C 翌朝、その山人にともなわれて山上にいたると、そこはまさに伽藍を建立するに相応しいところであった。山人が語るには「私はこの山の王です。幸いにも、いまやっと菩薩にお逢いすることができた。この土地をあなたに献じて、威福を増さんとおもう」と。

D 次の日、伊都部に出た空海は、「山人が天皇から給わつた土地とはいえ、改めて勅許をえなければ、罪をおかすことになろう」と考えた。そうして六月中旬に上表し、一両の草庵を作ることにした。

E 多忙ではあったが、一年に一度はかならず高野山に登った。その途中に山王の丹生大明神社があった。今の天野宮がそれである。大師がはじめて登山し、ここで一宿したとき、託宣があった。「私は神道にあって久しく威福を望んでいました。今、あなたがお訪ねくださり、嬉しく思います。昔、応神天皇から広大な土地を給わりました。南は南海を限り、北は日本(大和)河を限り、東は大日本の国を限り、西は応神山の谷を限ります。願わくは、この土地を永世に献じ、私の仰信の誠を表したくおもいます。

F 重ねて官符をたまわった。「伽藍を建立するために樹木を切り払っていたところ、唐土において投げた三鈷を挟む一本の樹を発見したので、歓喜すること極まりなかった。とともに、地主山王に教えられたとおり、密教相応の地であることをはっきりと知った。
 さらに平らなる地を掘っていたところ、地中より一つの宝剣を掘り出した。命によって天覧に供したところ、ある祟りが生じた。ト占させると、「鋼の筒に入れて返納し、もとのごとく安置すべし」とのことであった。今、このことを考えてみるに、外護を誓った大明神が惜しんだためであろう。(『伝全集』第一 53P)

こうしてみると、三鈷杵については、最後のFに登場するだけで、それ以前には何も触れていません。
伽監建立に至る経過が述べられた後で、「樹に彼の唐において投げる所の三鈷を挟むで厳然として有り。弥いよ歓喜を増す」と出てきます。この部分が後世に加筆・追加されたことがうかがえます。ここで、もうひとつ注意しておきたいのは、「彼の唐において投げる所の三鈷」とだけあって、「三鈷の松」という表現はでてきません。どんな木であったかについては何も記されていないのです。この点について、各伝記は次の通りです。
『行状集記』は「柳か刈り掃うの間、彼の海上より投る三鈷、今此の虎に在りし」
『大師御伝』には、高野山上で発見した記述はなし
『御広伝』には、「樹木を裁り払うに、唐土に於いて投ぐる所の三鈷、樹間に懸かる。弥いよ歓喜を増し」
  『今古物語』、三鈷杵が懸かっていた木を檜と具体的に樹木名を記します。
山人に案内されて高野山にたどり着いた直後のことを今昔物語は次のように記します。
檜ノ云ム方無ク大ナル、竹ノ様ニテ生並(おいなみ)タリ。其中二一ノ檜ノ中二大ナル竹股有り。此ノ三鈷杵被打立タリ。是ヲ見ルニ、喜ビ悲ブ事無限シ。「足、禅定ノ霊窟也」卜知ヌ。   (岩波古典丈学大系本「今昔物語集』三 106P
空海の高野山着工 今昔物語25
今昔物語第25巻

ここでは、一本の檜の股に突き刺さっていたと記されています。ここでも今昔物語は、先行する伝記類とは名内容が異なります。以上を整理しておくと、
①初期の大師伝や説話集では、三針杵が懸かっていた木を単に「木」と記し、樹木名までは明記していないこと
②『今普物語』だけが檜と明記すること。
③「松」と記すものはないこと

高野山三鈷の松
三鈷の松(高野山)

それでは「三鈷の松」が登場するのは、いつ頃からなのでしょうか?
寛治2(1088)年2月22日から3月1日にかけての白河上皇の高野山参詣記録である『寛治二年高野御幸記』には、京都を出立してから帰洛するまでの行程が次のように詳細に記されています。
2月22日 出発 ― 深草 ― 平等院 ― 東大寺(泊)
  23日   東大寺 ― 山階寺 ‐― 火打崎(泊)
  24日  真上山 ― 高野山政所(泊)
  25日 天野鳥居― 竹木坂(泊)
  26日 大鳥居 ― 中院 (泊)
  27日   奥院供養
     28日    御影堂 薬師堂(金堂) 三鈷松 ― 高野山政所(泊)
  29日   高野山政所 ― 火打崎(泊)
  30日   法隆寺 ― 薬師寺 ― 東大寺(泊)
3月 1日   帰洛
これを見ると、東大寺経由の十日間の高野山参拝日程です。この『高野御幸記』には「三鈷の松」が2月28日の条に、次のように出てきます。
影堂の前に二許丈の古松有り。枝條、痩堅にして年歳選遠ならん。寺の宿老の曰く、「大師、唐朝に有って、有縁の地を占めんとして、遙に三鈷を投つ。彼れ萬里の鯨波を飛び、此の一株の龍鱗に掛かる」と。此の霊異を聞き、永く人感傷す。結縁せんが為めと称して、枝を折り実を拾う。斎持せざるもの無く帰路の資と為す。      (『増補続史料大成』第18巻 308P)

意訳変換しておくと
A 御影常の前に6mあまりの。古松があった。その枝は、痩せて堅く相当の年数が経っているように思われた。

B 金剛峯寺の宿老の話によると、「お大師さまは唐土にあって、有縁の地(密教をひろめるに相応しいところ)あれば示したまえと祈って、遥かに三鈷杵を投げあげられた。すると、その三鈷杵は万里の波涛を飛行し、この一本の古松に掛かつていた」と。

C この霊異諄を耳にした人たちは、たいそう感動した様子であった。そして、大師の霊異にあやかりたいとして、枝を折りとり実を拾うなどして、お土産にしない人はいなかった。

これが三鈷の松の登場する一番古い記録のようです。この話に誘発されたのか、白河天皇はこのときに、大師から代々の弟子に相伝されてきた「飛行三鈷杵」を京都に持ち帰ってしまいます。

以上をまとめておきます。
①「飛行三鈷杵」と「三鈷の松」の話は、高野山開創のきっかけとなった、漂流する船上で立てられた小願がベースにあること
②それは初期の大師伝が、三鈷を投げたところをすべて海上とみなしていることから裏付けられること。
③開山以前の高野山には「山の神の神木」、つまり神霊がやどる依代となっていた松が伽藍にあったこと
以上の3つの要素をミックスして、唐の明州から投げた三鈷杵が高野山で発見された、というお話に仕立てあげられたと研究者は考えています。この方が、高野山の開創を神秘化し、強烈な印象をあたえます。そのため、あえて荒唐無稽な話に仕立てられたとしておきます。
 ちなみに高野山御影常宝庫には、この「飛行三鈷杵」が今も伝わっているようです。

飛行三鈷杵2
高野山の飛行三鈷杵
この三鈷杵は、一度高野山から持ち去れてしまいますが、後世に戻ってきます。「仁海の記」には、その伝来について次のように記します。
①南天竺の金剛智三蔵 → 不空三蔵 → 恵果和尚 → 空海と相伝されたもので、空海が唐から持ち帰ったもの。
②その後は、真然―定観―雅真―仁海―成尊―範俊と相伝
③寛治三(1088)2月の白河天皇の高野御幸の際に、京都に持ち帰り、鳥羽宝蔵に収納
④これを鳥羽法王が持ち出して娘の八条女院に与え、次のように変遷。
⑤養女の春花門院 → 順徳天皇の第三皇子雅成親王 → 後鳥羽院の皇后・修明門院から追善のために嵯峨二尊院の耐空に寄進 
⑥耐空は建長5(1253)年11月に、高野山御影堂に奉納
白河天皇によって持ち出されて以後、約130年ぶりに耐空によって、高野山に戻されたことになります。その後、この「飛行三鈷杵」は御影堂宝庫に秘蔵され、50年ごとの御遠忌のときに、参詣者に披露されてきたとされます。
飛行三鈷杵3

飛行三鈷杵(高野山)
それまで語られることのなかった飛行三鈷杵が、9世紀後半になって語られはじめるのはどうしてでしょうか?
「飛行三鈷杵」の話は、康保五年(968)成立の『修行縁起』に、はじめて現れます。その背景として、丹生・高野両明神との関係を研究者は指摘します。
丹生明神と狩場明神
        重要文化財 丹生明神像・狩場(高野)明神像 鎌倉時代 13世紀 金剛峯寺蔵

丹生・高野両明神が高野山上にはじめて祀られたのが、天徳年間(957~61)のことです。場所は、当初は奥院の御廟の左だったとされます。

高野山丹生明神社
丹生・高野両明神が祀られていた奥の院

この頃のことを年表で見てみると、天暦6(952)年6月に、奥院の御廟が落雷によって焼失しています。それを高野山の初代検校であった雅真が復興し、御廟の左に丹生・高野明神を祀ります。これと無縁ではないようです。「飛行三鈷杵」の話をのせる最古の史料『修行縁起』の著者とされているのが、この初代検校・雅真だと研究者は指摘します。そして、次のような考えを提示します。

 御廟の復興は、高野山独自で行うことは経済的に困難がともなった。そこで雅真は、丹生津比売命を祭祀していた丹生祝に助力を請うた。その際に、一つの交換条件を出した。その一つは奥院に丹生・高野両明神を祀ることであり、あと一つは丹生明神の依代であつた「松」を、高野山の開創を神秘化する伝承として組み入れることであった。

この裏には、空海の時代から丹生祝一族から提供された物心にわたる援助に酬いるためであったとします。
狩場明神さまキャンペーンせねば。。 | 神様の特等席
弘法大師・高野・丹生明神像

  以上をまとめておきます
①空海は唐からの洋上で、難破寸前状態になり、「無事帰国できれば密教寺院を建立する」という小願を船上で立てた。
②その際に、三鈷杵を船から日本に向けて投げ「寺院建立に相応しい地を示したまえ」と念じた。
③帰国から十年後に、空海は高野山を寺院建立の地として、下賜するように上表文を提出した。
④そして整地工事に取りかかったところ、樹木の枝股にある三鈷杵を見つけた。
⑤こうして飛行三鈷杵は、高野山が神から示された「約束の地」であることを告げる物語として語られた。
⑥しかし、当初は三鈷杵があった樹木は何であったは明記されていなかった。
⑦もともと奥院に丹生・高野両明神を祀られ、丹生明神の依代であつた「松」が神木とされていた。
⑧そこで、その松を神秘化するために、「三鈷の松」とされ伝承されることになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献        「武内孝善 弘法大師 伝承と史実」
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東博模写本 高野空海行状図画のアーカイブ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/510912

前回は高野空海行状図画には、高野山開山のことがどのように描かれているのかを見ました。ただ絵伝類について研究者はつぎのように指摘します。

絵伝はその性格上、大師の行状事蹟を史実にもとづいて忠実に描写してゆくことを主眼としているのではなく、大師の偉大なる宗教性を強調し、民衆を教化してめこうとするところに、その目的がある。そのためにこれらの本は、至る所に霊験奇瑞が取り入れられているのが常である。
          「弘法大師 空海全集」第8巻 167P


行状図画などの絵巻物は、中世になって作られたもので、弘法大師伝説や高野山信仰を広めるために高野聖が絵解きのために使用されました。そのため後世に附会されたり、創作された部分が数多くあります。今回は、絵巻の作成の際に参考にした空海が残した文書に高野山開山が、どのように記されているのかを見ていくことにします。
まず、「高野山開創」の時期を年表化しておきます。
806(大同元)年3月、桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位。
  10月、空海帰国し、大宰府・観世音寺に滞在。
10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。
809(大同4)年 平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位。空海は、和泉国槇尾山寺に移動・滞在
 7月 太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入った。
 空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれている。
810(大同5)年 薬子の変で、嵯峨天皇のために鎮護国家のための大祈祷実施
811(弘仁2)年から翌年にかけて乙訓寺の別当を務めた。
812(弘仁3)年11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇。入壇者には最澄もいた。  
12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名
815(弘仁6)年春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩(基徳?)などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼。西国筑紫へも勧進をおこなった。
816(弘仁7)年6月19日、修禅道場として高野山下賜の上表文提出
                             7月8日、嵯峨天皇より高野山下賜の旨勅許を賜る。
817(弘仁8)年 泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手
818(弘仁9)年11月、空海自身が高野山に登り翌年まで滞在し伽藍建造プラン作成?
819(弘仁10)年春、七里四方に結界を結び、高野山の伽藍建立に着手。
821(弘仁12)年 満濃池改修を指揮(?)
822(弘仁13)年 太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。平城上皇に潅頂を授けた。
823(弘仁14)年正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場とした。
824(天長元)年2月、勅により神泉苑で雨乞祈雨法を修した。
         3月 少僧都に任命され、僧綱入り(天長4年には大僧都)
空海は唐から帰朝した十年後の弘仁7(816)6月19日付に、嵯峨天皇に高野山の下賜を申し出ます。ここから高野山の歴史は始まるとされます。この願いはただちに聞き届けられ、7月8日、天皇は紀伊国司に太政官符を下し、大師の願い通りにするよう命じています。

空海が高野山の下賜を、嵯峨天皇に申し出た理由として、次の3つの説があるようです。
①空海が少年のころ、好んで山林修行をされていたとき、訪れたことがある旧知の山であり、そのころからすでにこの地に着目していたとする説
②十大弟子のひとりである円明の父・良豊田丸(よしのとよたまる)が、空海が伽藍建設にふさわしい土地を探し求めていることを聞き、高野山を進言したとする説。
③弘仁7(816)年4月、伽藍建立の地を探し求めていたとき、大和国宇智郡でひとりの猟師(犬飼)に出逢い、この犬飼に導かれて高野山にいたり、この地を譲られたとする説。

この3つの説の従来の評価は、次の通りです。
①が史料的にもっとも信憑性の高い説
②は史料的には必ずしも信頼できない説
③は伝説の域をでない説
以上を押さえた上で、空海の残した文章で、高野山の開創を見ていくことにします。
まず、 弘仁7年(816)6月19日付の空海の上表文の全文を押さえておきます。

空海上表文 高野山下賜

高野山下賜を願う空海上表文
紀伊の国伊都の郡高野の峰において、人定の所を請け乞わるるの表
A 沙門空海言す。空海聞く、山高きときは雲雨物を潤し、水積るときは魚龍産化す。是の故に嗜闍(ぎじゃ)の峻嶺には能仁(のうにん)の跡休ず。孤岸の奇峰には観世の跡相続ぐ。共の所由を尋ぬるに、地勢自ら爾なり。また台嶺の五寺には禅客肩を比べ、天山の一院には定侶袖を連ること有り。是れ則ち、国の宝、民の梁(はし)なり,
B 伏して推れば、我が朝歴代の皇帝、心を佛法に留めたまへり。金刹銀台櫛のごとく朝野に比び、義を談ずるの龍象、寺ごとに林を成す。法の興隆是において足んぬ。但だ恨むらくは、高山深嶺に四禅の客乏しく、幽藪窮巌(ゆうそうきゅうがん)に入定の賓希(まれ)なり。実に是れ禅教未だ伝わらず、住処相応せざるが致す所なり。今禅経(密教)の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宜し。
C 空海少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野従り南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地有り。名付けて高野と曰ふ。計るに紀伊の国伊都郡の南に当れり。四面高峯にして人跡路耐えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸の修行者の為に、荒藪を刈り夷(たいら)げて、聊か修禅の一院を建立せん。経の中に戒有り。「山河地水は悉く是れ国主の有なり、若し此丘、他の許さざる物を受用すれば、即ち盗罪を犯す」者(てへり)。加以(しかのみなら)ず、法の興廃は悉く人心に繋れり。若しは大、若しは小、敢えて自由ならず。
D 望みみ請うらくは、彼の空地を賜わることを蒙って、早く小願を遂げん。然れば則ち、四時に勤念して以て雨露の施を答したてまつらん。若し天恩允許せば、請う、所司に宣付したまへ。軽しく震展を塵して伏して深く煉越す。沙門空海、誠惇誠恐、謹んで言す。
弘仁七年六月卜九日 沙門空海上表す       (『定本全集』第八 169~171P
意訳変換しておくと
 紀伊の伊都郡高野の峰の下賜を請願書

A 私・空海は次のように聞いている。山が高いと雲集ま り、雨多くして草木を潤す。水が深いと魚龍集まり住 み、繁殖も盛んである。このように峻嶺たる嗜闊堀山に は、釈迦牟尼が出てその教えが継承され、奇峯たる補陀洛山には、観世音菩薩が追従されている。それはつまり高山峻嶺の地勢が、仏道修行者に好適地であるためである。また台嶺の五寺には、禅客が肩を並べて修行し、天山の一院には、優れた僧侶が袖を連ねています。これは、国の宝であり、民の柱です。
B 還りみると、歴代の天皇は佛法を保護し、壮麗なる伽藍や僧坊は櫛のはのごとくに、至るところにたちならび、教義を論ずる高僧は寺ごとに聚(じゅ)をなしています。仏法の興隆ここにきわまった感があります。ただしかし、遺憾におもえることは、高山深嶺で瞑想を修する人乏しく、幽林深山にて禅定にはいるものの稀少なことでございます。これは実に、禅定の教法がいまだ伝わらず、修行の場所がふさわしくないことによるものです。いま禅定を説く経によれば、深山の平地が修禅の場所として最適であります。
C 空海、若年のころに好んで山水をわたり歩きました。吉野の山より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること二日ほどのところに、高野と呼ばれている平原の閑寂なる土地がございます。この地は、紀伊の国伊都の郡の南にあたります。四方の峰高く、人跡なく、小道とて絶えてございません。いま、上(かみ)は国家のおんために、下(しも)は多くの修行者のために、この生い茂る原生林を刈りたいらげて、いささか修禅の一院を建立いたしたく存じます。
 経典の中に次のような戒めがあります。「山河地水は、総て国主(天皇)のものである。もし、国守の許さない土地を無断で受用すれば、即ち盗罪である。法の興廃は、人心の盛衰に繋がります。貴賤に関わらず、法を遵守することが大切です。
D 高野の地を下賜され、一刻も早く小願が遂げられること望み願います。そうすれば、昼夜四時につとめて、聖帝の慈恩にむくいたてまつります。もし恩顧をたれてお許したまえば、所司にその旨を宣付したまわらんことを請いたてまつります。軽軽しく聖帝の玉眼をけがし、まことに恐れ多く存じます。沙門空海誠惶誠恐(せいこうせいきょう)謹んで言上いたします。        弘仁7年(816)6月19日 沙門空海表をたてまつる
この文章は空海が嵯峨天皇に宛てた上表文で、根本史料になります。後世の高野空海行状図画などの詞書は、この上表文を読み込んだ上で、これをベースにして書かれています。そして、後世になるほど付加される物語が増えていきます。
上表文の中で、空海が高野山のことを書いているのは、次の点です。
①若い頃に山岳修行で、高野山も修行ゲレンデとしてよく知っていた。
②位置は、古野から南へ一日、そこから西に向って三日の行程でたどりつける
③地理的環境は、まわりを高い峰々にかこまれ、まれにしか人の訪れることのない幽玄閑寂な沢地であること
④紀伊国伊都郡の南に位置していること

高野山4


ここで疑問に思うのは、どうして都から逮くはなれた不便な山中に、伽藍を建立しようとしたのかという点です。高野山開創の目的を、空海はDに「一つの小願を成し遂げるため」として、次のように記します。

私のお願いしたいことは、彼の空地(高野の地)を賜りまして、上は国家鎮護を祈念するための道場としての、下は多くの仏道修行者が修行するための道場としての、小さな修禅の密教の寺を建立して、早く小願を成し遂げたいことであります。



空海小願を発す。

 それでは「高野山開創」の小願を、空海は、いつ・どこで立てたのでしょうか?
それが分かるのは、主殿寮の助・布勢海(ふせのあま)にあてた手紙です。主殿寮とは、天皇の行幸の際の乗物・笠・雨笠など一切の設営管理を担当する役所であり、布勢海はそこの次官でした。その手紙の全文を見ておきましょう。

A 此処、消息を承わらず。馳渇(ちかつ)の念い深し。陰熱此温かなり。動止如何。空海、大唐より還る時、数漂蕩に遇うて、聊か一の小願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生せんが為に、一の禅院を建立し、法に依って修行せん。願わくは、善神護念して早く本岸に達せしめよと。神明暗からず、平かに本朝に還る。日月流るるが如くにして忽ち一紀を経たり。若し此の願を遂げずんば、恐らくは神祇を欺かん。

B 貧道、少年の日、修渉の次に、吉野山を見て南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原有り。名づけて高野と曰う、計るに紀伊国伊都郡の南に当れり。四面高山にして人亦遙に絶えたり。彼の地、修禅の院を置くに宜し。今思わく、本誓を遂げんが為に、聊か一の草堂を造って、禅法を学習する弟子等をして、法に依って修行せしめん。但恐るるは、山河土地は国主の有なり。もし天許を蒙らずんば、本戒に違犯せんことを。伏して乞う。斯の望みを以聞して、彼の空地を賜うことを蒙らん。若し天恩允許せば、一の官符を紀伊国司に賜わらんことを欲す。
委曲は表中に在り。謹んで状を奉る。不具。沙門空海状す。
布助。謹空                    『定本全集』第七 99~100P
意訳変換しておくと

A ここ暫く、消息知れずですが、お会いしたい気持ちが強くなる一方です。次第に温かくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。さて私・空海が、大唐から還る際に、嵐に遭って遭難しそうになった時に、一つの小願を祈念しました。それは無事に帰朝した時には、必ず諸天の威光を増益し、国界を擁護し、衆生を利生するために、一の寺院を建立し、法に依って修行する。願わくは、善神護念して、無事に船を日本に帰着させよと。その結果、神明が届き、無事に本朝に還ることができました。そして、月日は流れ、10年という年月が経ちました。この願いを実現できなければ、私は神祇を欺むくことになります。

B 私・空海は、若いときに山林修行を行いました。その際に、吉野山から南に行くこと一日、更に西に向って去ること二日程にして、一の平原があることを知りました。この地は高野と呼ばれています。行政的には紀伊国伊都郡の南で、四方が高山で人跡絶えた処です。この地が、修禅の院(寺院)を置くに相応しいと考えています。今考えていることは、本願を遂げるために、小さな草堂を造って、禅法(密教)を学習する弟子等を育て、法に依って修行させたいと思います。しかし、私が恐れるのは、我が国の山河土地は、すべて国主たる天皇のものです。もし、天皇の許しを得ずして無断で、寺院を建立したとなれば、それは国法に違犯することになります。そこで、私の望みを以聞(天皇に伝えて)、彼の空地(高野山)を賜うことを取り計らって欲しいのです。もし、それが許されるのなら、官符を紀伊国司に下していただきたい。詳しくは別添の上表文に書いています。謹んで状を奉る。不具。
沙門空海状す。布助。謹空                    『定本全集』第七 99~100P

この手紙には、日付がありません。しかし、後半部は、先ほど見た上表文と同じ内容の文章があります。ここからは、高野山の下賜を願い出るに当たって、天皇側近の布勢海に、側面からの助力を依頼した私信と研究者は考えています。空海には、天皇側近中にも多くの支援信者たちがいたようです。
 このなか、船上で立てられた「小願」とは、Aの次の箇所です。

もし無事に帰国できたなら、諸々の天神地祇の成光を増益し、鎮護国家と人々の幸福を祈らんがために密教寺院を建て、密教の教えにもとづいた修禅観法を行いたい。願はくは善神われを護りたまい、早く本国に達せしめよ。

その結果、神々の加護をうけて無事帰国することができたのです。帰国後、月日はまたたく間に過ぎ去り、12年が過ぎ去ろうとしています。このときの小願をそのまま放置しておけば、神々をだますことになるので、一日も早く、神々との約束を成し遂げたいと、布勢海に切なる願いを伝えたのでしょう。
こうして、7月8日付で紀伊国司にあてて出された太政官符が以下の内容です。

紀伊国国司への太政官符 高野山
紀伊国司に下された太政官符 空海への下賜が命じられている

それでは、どうして高野山が選ばれたのでしょうか? 
その理由を空海は、上表文の中に次のように記しています。

今、禅経の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅に宣し。

この時点では、空海は自らの教説を「密教」とは呼んでいません。「密教」という用語が登場する以前の段階です。ここでは「禅経」としています。禅経とは、『大日経』『企剛頂経』をはじめとする密教経論のことのようです。そうすると、密教経論には、密教の修行にもつともふさわしい場所が具体的に記されていることになります。それを確認しておきましょう。
金剛知の口訳『金剛頂喩伽中略出念誦経』巻 には、次のように記します。

諸山は花果を具するもの、清浄悦意の池沼・河辺は一切諸仏の称讃する所、或は寺内に在し、或は阿蘭若、或は山泉の間に於て、或は寂静廻虎、浄洗浴庭、諸難を離るる処、諸の音声を離る処,或いは、意所楽の処、彼に於いて応に念涌すべし。     (『大正蔵経』十八 224P(中段)

最後に「彼に於いて応に念謡すべし」とあり、次のような場所が密教修行には相応しい場所とされています。
①「諸山は花果を具するもの」とは、花が咲き、実を付ける木々が数多くある山
②「清浄悦意の池沼・河辺は一切諸仏の称讃する所」とは、清らかな水が湧き流れていて、そこに足を運ぶと、おのずからこころが楽しくなるような池・沼・川
③「阿蘭若」は争いのないところで、具体的には寺のこと
④「諸難を離るる庭」とは、毒蛇とか毒虫などによって修行が妨げられない所、
⑤「諸の音声を離る処」とは、耳障りな音声・ざわざわした雑踏の音がしないないところ
以上からは、高野山が修禅の道場の建立地として選ばれた理由は、「修禅観法(密教の修行)の地としてもっともふさわしいのは、深山幽谷の平地である」と説く金剛知の『略出念誦経』などの密教経典の教説に従ったと研究者は考えています。

別の視点から見ると、当時のわが国の仏教界に対する批判の裏返しでもあったようです。
上表文の前半部には、次のような部分がありました。

インドの霊鷲山の峻嶺にはお釈迦さまが垂迹されるという奇瑞が次つぎにおこり、補陀洛山には観音善薩応現の霊跡が相ついであらわれている。その理由をたずねると、高山峻嶺の地勢の故であるという。また唐では、五台山・天台山といった山岳に寺院が建てられ、そこには禅観を修する者が多く、それらの修禅者は国の宝、民の梁(国人々の大きな文え)となっている、

これらの霊山に高野山が地に優るとも劣らない霊的にすぐれた聖地であることを主張します。

その一方で、わが国に目を転じてみると、歴代の天皇は仏教を崇拝し、壮麗な寺院が数多く建て、そこには高徳の僧がたくさんいる。仏法の興隆ということからすれば、これでに充分だが、残念なことは、高山峻嶺に人って禅観(密教)を修する人が極めて少ない。それは、修禅観法を説く経典が伝わつておらず、また修禅にふさわしい場所もないからである。

と、わが国の現状を批判します。この批判の背後には、天台・律・三論・法相の諸宗に対する密教の優位性と、正統な密教を請来してきたという空海の自負がうかがえます。
以上をまとめておきます。
①高野山は、帰朝の際に嵐にあって漂流する船上で、無事帰国を願って密教寺院建立の小願を立てた。
②その建立目的は、一つには鎮護国家と人々の幸福で平安な生活を祈念するための道場として
③もう一つの目的としては、諸々の修行者の修禅の道場とするためであった。
④小願達成のために帰国から十年経った時点で、天皇側近で空海シンパの高官を通じて、嵯峨天皇に上表文を提出した。
⑤密教寺院の立地条件としては、金剛知が説くように高山・霊山が第一条件とされ、その結果、空海が若い頃の修行ゲレンデでもあった高野山が選ばれた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


さんこしょを投げる3
第3巻‐第8場面 投椰三鈷(高野空海行状図画 トーハク模写版)
前回に見た明州(現寧波)の港です。帰国することになった空海を見送るため、僧たちが駆けつけています。港の先に立った空海は懐から三鈷杵を取りだし、「密教を弘めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じて、東の空に三鈷杵を投げます。画面は、三鈷杵が空海の手を離れる瞬間です。
 このとき投げた三鈷杵を、空海は後に高野山上で発見します。それが高野山に伽藍が建てられることになるという話につながります。今回は、高野空海行状図画で、高野山開創がどのように描かれているのかを見ていくことにします。
高野上表1
高野山の巡見上表(高野空海行状図画詞書)

高野尋入2 高野空海行状図画
             第七巻‐第1場面 高野尋入(高野空海行状図画)

空海が唐から帰朝して約十年の年月が流れた弘仁7(817)年4月のことです。高野空海行状図画の詞書には次のように記されています。大和国字智郡を通りかかった空海は、ひとりの猟師に呼びとめられます。
「いずれの聖人か。どこに行かれる」
「密教を広めるに相応しいところがあれば、教えたまえ」と念じ、唐から投げた三鈷杵を探し求めている」と、空海は答えます。
「われは南山の犬飼です。その場所を知っている。お教えしよう」
といい、道案内のため、連れていた2匹の黒犬を走らせた。

高野山選定 猟師と犬 高野空海行状図画2
高野空海行状図画(愛媛県博物館)

この話をのせる最古の史料は、康保5(968)年頃に成立した『金剛峯寺建立修行縁起』です。
そこには、次のように記されています。
①空海から「禅定に相応しい霊地を知らないか」と声をかけられた猟師は、「私は南山の犬飼です。私が所有する山地がびったりです。もし和尚が住んでくださるならば助成いたしましょう」と応えたこと
②猟師がつれていたのが白黒2匹の犬であること
①からは、南山の犬飼は、高野山の地主神であったことが分かります。それが高野空海行状図画では、ただの犬飼になっています。その重要度が、低下していることが分かります。

画面は、空海が猟師が出会ったところです。犬がいぶかって吠えたてますが、空海はやさしく犬を見ています。
高野山巡見上表1 高野空海行状図画親王院版
高野山巡見・上表 高野空海行状図画(親王院本)

詞書は、猟師の身なりを、次のように記します。

其の色深くして長八尺計也。袖ちいさき青き衣をきたり。骨たかく筋太くして勇壮の形なり。弓箭を身に帯して、大小二黒白の犬を随えたり。

意訳変換しておくと
身の丈は八尺あまり、肌は赤銅色で筋骨たくましく勇壮な姿で、青衣を着、弓と箭をたずさえて、黒と白の犬を連れていた。

やはり、もともとは白黒の2頭の犬だったことを押さえておきます。それが黒い犬に代わっていきます。
高野尋入4 高野空海行状図画
第七巻‐第2場面 巡見上表(高野空海行状図画:トーハク模写版)
紀ノ川のほとりで犬と再会した空海は、犬に導かれながら南山をめざして登ります。すると平原の広い沢、いまの高野山に至ります。まさに伽藍を建立するにふさわしい聖地と考えた空海は、弘仁7年(816)6月、この地を下賜されるよう嵯峨天皇に上表します。ただちに勅許が下り、伽藍の建設に着手します。画面は、犬に導かれながら南山に踏み入っっていく空海の姿です。


丹生明神
第七巻‐第3場面 丹生託宣(高野空海行状図画:トーハク模写版)
この場面は、天野に祀られる丹生大明神社の前で析念をこらし、高野の地を譲るとの託宣をきかれる空
海。
遺告二十五ヶ条には、このことについて、次のように記されています。(意訳)
高野山に登る裏道のあたりに、丹生津姫命と名づけられる女神がまつられていた。その社のめぐりに十町歩ばかりの沢があり、もし人がそこに近づけばたちまちに傷害をうけるのであった。まさにわたくしが高野山に登る日に、神につかえる者に託して、つぎのようにお告げがあった。
「わたくしは神の道にあって、長いあいだすぐれた福徳を願っておりました。ちょうどいま、菩薩(空海)がこの山に来られたのは、わたくしにとって幸せなことです。(そなたの)弟子であるわたくし(丹生津姫命)は、むかし、人間界に出現したとき、(日本の天皇)が一万町ばかりの領地を下さった。南は南海を境とし、北は日本河(紀伊吉野川)を境とし、東は大日本国(宇治丹生川)を境とし、西は応神山の谷を境とした。どうか永久にこの地を差上げて、深い信仰の心情を表したいと思います」云々。
いま、この土地の中に開田されている田が三町ばかりある。常庄と呼ばれるのが、これである。
こうして大師は、高野山の地を山王から譲渡された。また、さきに出逢った猟師は高野明神であった、という。


高野山地主神 高野空海行状図画
高野山の地主神と丹生大明神社

空海は、高野山に伽藍を建てるのは、ひとつの「小願」を成しとげるためであると云います。

小願とは唐からの帰り、嵐の船上で立てられた次の祈願です。

「もし無事に帰国できたならば、日本の神々の威力をますために、ひとつの寺を建てて祈りたい。なにとぞご加護を」と

そして弘仁七年(816)7月、嵯峨天皇から高野の地を賜わつた大師は、ただちに弟子の実恵・泰範を派
遣し、伽藍建設にとりかかります。その際に、丹生明神を祀つていた天野の人たちに援助を請います。空海がやって来たのは整地が整った10月です。そして、結界の法を修し、伽藍配置をきめていきます。空海の構想した伽藍配置は、次の通りです。
①中央線上に、南から講堂(いまの金堂)と僧房をおき
②僧房をはさんで東に『大日経』の世界を象徴する大塔
③西に『金剛頂経』の世界を象徴する西搭
これは空海独自の密教理論にもとづくものでした。この基本計画に従って整地作業が始まります。

三鈷宝剣
「三鈷・宝剣」 高野空海行状図画詞書

さんこしょう発見2
              第七巻‐第5場面 三鈷宝剣(高野空海行状図画)

工事を見守っていた空海が頭上を見上げると、一本の松にかかつている三鈷を発見します。それは唐の明州(寧波)から投げた三鈷杵が燦然と輝いていたのです。これをみた大師は、この地が密教相応の地であることを確信し、歓喜します。
 この場面に続いて、原生林が切り払われ、原野が整地されていく様子が描かれます。

高野山建設2
     第七巻‐第5場面 三鈷宝剣(高野空海行状図画) 空海の前の石に置かれた宝剣

 伽藍の作業を行っていると、長さ一尺、広さ一寸人分の宝剣が出てきます。
左手の空海の前に、その剣が置かれています。(クリックすると拡大します)。ここからこの地はお釈迦さまが、かつて伽藍を建てたところであったことを確信したと記します。
    高野山の開創にまつわる「三鈷の松」の伝説では、三鈷杵がかかっていたのは松の木とされ、その松を 「三鈷の松」と称してきました。これはいまも御影堂の前にあるようです。しかし、三鈷杵を投げたことを記す最古の史料『金剛峯寺建立修行縁起』では、具体的にその木が何だったのかは記していません。ただ単に「三鈷杵は一本の樹にはさまっていた」と記します。それでは、いつ、どんな理由で、松の木になったのでしょうか? これについて、次回に述べるとして絵巻を開いていきます。

大塔建設
第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)
朱の大塔の前には満開の桜が描かれています。一遍上人絵伝に描かれた伽藍は、桜が満開だったのを思い出します。

高野空海行状図画の詞書には、次のように記します。
①南天鉄搭を模した高さ十六丈(約48m)の大塔には、一丈四尺の四仏を安置
②三間四面の講堂(現金堂)には丈六の阿しゅく仏、八尺三寸の四菩薩を安置
③三鈷杵のかかっていた松のところに御影堂を建設

画面には、南北朝期以降のこの親王院本『行状図面』が作成された当時の壇上伽藍の建物がすべて画かれているようです。
高野山伽藍 高野空海行状図画親王寺蔵
               大塔建立 高野空海行状図画 親王院本
これを拡大して右から見ていくと

高野山伽藍右 高野空海行状図画
大塔建立 高野空海行状図画 親王院本
東搭 → 蓮華乗院(現大会堂)→  愛染堂→ 大搭 → 鐘楼 → 中央に金堂 → その奥に潅頂堂 → 三鈷の松と御影堂
手前に 六角経蔵 → 奥に准提堂 → 孔雀堂 → 西塔、

高野山大塔 高野空海行状図画

左端に 鳥居 → 山王院 → 御社
研究者がここで注目するのは、御影堂の前の三人の僧と、孔雀堂の前の三人の参拝者です。
高野山伽藍の整備された威容と、そこに参拝する人達というのは、何を狙って書かれたモチーフなのでしょうか。これを見た人達は、高野山参拝を願うようになったはずです。
 各地にやって来た高野聖達が、この高野空海行状図画を信者達に見せながら、空海の偉大な生涯と、ありがたい功徳を説き、高野山への参詣を勧めたことが考えれます。ここでは、高野空海行状図画が、弘法大師伝説流布と高野山参拝を勧誘するための絵解きに使われたことを押さえておきます。そうだとすれば高野聖たちは、ひとひとりがこのような絵伝を持っていたことになります。それが弘法大師伝説拡大と高野山参拝の大きな原動力になったことが推測できます。

伽藍建設1
         第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)

伽藍建設2
          第七巻‐第6場面 大塔建立(高野空海行状図画 トーハク模写版)
今回は高野空海行状図画に描かれた高野山開山をみてきました。次回は、空海の残した文書の中に、高野山開山が、どのように記されているのかを見ていくことにします。
DSC03176
一遍上人絵伝の高野山大塔
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   武内孝善 弘法大師 伝承と史実

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