高越寺は、他にはないような雰囲気を感じ取らせてくれる伽藍です。修行の山で、修験者の拠点だったという感じが強くします。そして、豪壮で力強い山門の前に立った時の印象と、山門をくぐってその前に拡がる伽藍のイメージが大きく違います。それは、入口の木造山門と、伽藍中心に立つ近代的な本堂の落差なのでしょうか。
高越寺の山門
高越寺は、戦前の昭和14(1939)年1月の大火で、ほとんどの建造物が焼失したようです。
残ったのは、本堂と離れていた山門・鐘楼・お水舎の三棟だけでした。それ以外の建物は焼け落ち、戦後になって建てられたものなのです。つまり、伽藍の入口附近は、それまでの古い建物で、それから内側の建物は、戦後に新築されたものなのです。それがさきほどの私がいだくイメージを作り出しているのかもしれません。今回は、高越寺の建築物群を、調査書を片手に見てまわることにします。テキストは、「阿部 保夫 高越山の姿 阿波学界紀要2012年です。
高越寺は、明治の神仏分離以前には「高越権現」と称していますたが、近代になってからは「金剛蔵王尊」を本尊とする真言宗の寺となりました。そして、山門が明治38年、鐘楼が明治42年、手水舎も同時期に建立されます。この3つが明治末の建築物であることを押さえておきます。
それでは、戦前の火災を免れた山門から見ていくことにします。報告書には次のように記されています。
それでは、戦前の火災を免れた山門から見ていくことにします。報告書には次のように記されています。
高越寺の山門・鐘楼・手水舎の平面図
高越山の山門
本堂から40m程東方向に位置し、三間一戸二階二重門で両脇に彩色された仁王像を安置する。下の重は、柱脚部は礎石に礎盤を載せ、柱は円柱(粽)で腰貫、内法貫、飛貫、頭貫、厚台輪で固め、壁は横板張りとする。虹梁、籠彫木鼻、十二支の中備彫刻、彫刻板支輪などで飾る。上の重は、切目縁に擬宝珠高欄を回らし、円柱(粽)を切目長押、頭貫、厚台輪で固め、壁は横板張りとする。開閉装置は桟唐戸、火灯窓を設け、組物は二手先とし、尾垂木、詰組で繋ぎ、中備彫刻で飾る。軒は、放射線状に二軒繁扇垂木で大きく張出す。妻飾は虹梁に大瓶束笈形付で、破風の拝みに飛龍の懸魚を付ける。多彩な彫刻と、礎盤、粽柱、厚台輪、木鼻、板支輪、火灯窓などの禅宗様式が色濃い建物である。
高越山山門
中ノ郷から真っ直ぐに伸びる石段を登っていくと、上から圧倒するように迎えてくれるのがこの山門です。徳島県の五大重層門の一つとされているようです。入母屋造、銅板葺、三間一戸の二重門で軸部は総欅です。
重層な二重軒に繁を扇に打ち、斗拱は出組二手先となっています(写真13)。
壁の中央に板扉を入れて左右には、和様と禅宗様が混交する火燈窓(写真14)があり、擬宝珠高欄を廻らしています。全体に「和様と禅宗様が混交」し、「それがよく融合し,堂々とした風格と威厳に満ちた格調高い建築」と研究者は評します。
見所は彫刻です。特に虹梁の木鼻や、初層の軒下の欄間にの十二支(写真15)に研究者が注目します。これを掘った彫師は、美馬郡脇町拝原の名工三宅石舟斎(九世)で、彼の代表作とされるようです。建築年代は先ほど見たように、明治末期のものになります。
桁行一間、梁間一間、一重、柱脚部は礎石に礎盤を載せる。柱は円柱(粽)で腰貫、内法貫、頭貫、厚台輪で固め、虹梁、籠彫木鼻などで飾る。軒は二軒繁垂木で、屋根形状は入母屋造の銅板葺である。山門と同様に、多様な彫刻が近代的な建物である。
桁行と梁間が等しい四本柱で、入母屋造,銅板葺二重軒,繁内転びの円柱が礎盤に建っており、腰貫と頭貫の間に虹梁を廻らしている。斗拱は出組二手先で詰組となっており、材は総欅である。基壇は花崗岩で精巧な仕上げとなっており、正面には階段が設けられている。軒の出が大きく気品があり、妻飾りなどが何とも言えない重厚さを感じさせる(写真16)。また,精巧で入念な蟇股、木鼻の彫刻が美しい(写真17)。
高越山鐘楼の彫刻 三宅石舟斎(九世)作
この鐘楼も昭和の大火から免れたもので、山門と相前後する明治末期に同じ大工・彫師によって建てられたものと研究者は考えています。
④御水舎は規模は、規模は小さいのですが同じ時期に建てられたものです。
切妻造、銅版葺、一重軒、繁、四本の円柱が内転びに立ち,頭貫と台輪を廻らして斗拱で桁を支えている。すっきりとした美しさの建物で,要所に配する彫物が素晴らしく,建物にも調和している(写真18)。中でも、妻の笈形、四面の蟇股が注目される(写真19)。
そう言われてみれば、彫刻がたくさん彫られています。この建物は山門や鐘楼と共に、明治初めに建てられ、昭和の大火を焼け残った三棟の一つになります。最初に述べたように、入口周辺の3つの建物は、豪壮感あるもので明治末に同一の大工・彫師の手によるものだったことを押さえておきます。
さて、敗戦後すぐに建立された高越寺本堂を見ていくことにします。
高越寺本堂
本堂は、昭和24(1949)年に戦後混乱期に再建されたものです。一見すると本堂には見えず、神社のようにも思えます。この建物は、あまり例のない様式で、本殿に前殿を接合し、さらに前殿に向拝を付けたスタイルで権現造りのように見えます。
高越寺本堂内部 大提灯にはいまも「高越大権現」と書かれている
本堂に祀られているのは次の通りです。
高越山本堂
その権現造りの正面は、入母屋造平入の拝殿の中央に千鳥破風と軒唐破風が付けらています。唐破風は大きく堂々と力強く感じます。同時に、きらびやかな装飾も施されています。まさに、戦後直後という解放感の中で、建築家が蓄積してきた想像力を爆発させたもののように私は感じます。ある意味では「変わった形式の本堂」で「自己主張する建物」と私には見えます。高越寺本堂内部 大提灯にはいまも「高越大権現」と書かれている
本堂に祀られているのは次の通りです。
本尊 金剛蔵王尊(高越大権現)脇仏 千手観音 + 役行者
ここからは「金剛蔵王尊=蔵王権現 千手観音=熊野補陀洛信仰 役行者=修験道」の各信仰の形がうかがえます。
大虹梁の上には形のよい蟇股が配され,向拝の兔の毛通しをはじめ、獅子口、箕甲の線など均整が保たれている。大虹梁の木鼻や蟇股、懸魚などの彫刻が豪華であり、見事な龍の彫刻が左右の柱に刻まれている(写真10)。これらの彫刻は美馬郡(現美馬市)脇町拝原、十世彫師、三宅石舟斎の大作であるが、彫師としては十世をもって終末しているので、石舟斎最後の作品となった。
錫杖塔は、昭和49(1974)年に完成したものです。
この伽藍の中で、他を圧倒する存在です。鉄筋コンクリート石張仕上げで、大きな錫杖が天を指します。その下の塔身は八面で、そこに守り本尊八尊が刻まれていて、塔を廻って巡拝できます。多宝塔でなく、こんな塔を建てた所にも独創性や自己主張を感じます。私が高越寺と聞いて最初に思う浮かべるのは、この塔です。この塔と、山門のコントラストが強烈な印象として残るのかも知れません。
この伽藍の中で、他を圧倒する存在です。鉄筋コンクリート石張仕上げで、大きな錫杖が天を指します。その下の塔身は八面で、そこに守り本尊八尊が刻まれていて、塔を廻って巡拝できます。多宝塔でなく、こんな塔を建てた所にも独創性や自己主張を感じます。私が高越寺と聞いて最初に思う浮かべるのは、この塔です。この塔と、山門のコントラストが強烈な印象として残るのかも知れません。
善通寺の錫杖
心経塔は、信者の納経を納める塔で、錫杖塔の翌年(1975年)に完成したものです。
修行中の空海に飛んでくる宝剣(弘法大師行状絵詞)
これは弘法大師行状絵詞の中に描かれた宝剣をイメージさせます。錫杖や宝剣というのは、弘法大師伝説の重要なアイテムです。ここには、弘法大師伝説をより強く打ちだしていこうとする高越寺の布教戦略だったと私は考えています。
高越寺護摩堂
高越寺 心経塔
宝篋印塔をイメージした塔に宝剣がたっています。修行中の空海に飛んでくる宝剣(弘法大師行状絵詞)
これは弘法大師行状絵詞の中に描かれた宝剣をイメージさせます。錫杖や宝剣というのは、弘法大師伝説の重要なアイテムです。ここには、弘法大師伝説をより強く打ちだしていこうとする高越寺の布教戦略だったと私は考えています。
高越寺護摩堂
高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)には、当時の宗教施設について、次のように記されています。
これと現在の信仰物を対比させてみましょう。
①「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道②「本堂一宇、本尊千手観音」 → 熊野観音信仰③「弘法大師御影堂」 → 弘法大師信仰④「若一王子宮」 → 熊野信仰
⑤「伊勢太神宮」 → 伊勢信仰
⑥「愛宕権現宮」 → 愛宕妙見信仰 → 虚空蔵求聞持信仰
本堂本尊 金剛蔵王尊(高越大権現) → ①脇仏 千手観音 → ②役行者 → ①大師堂 弘法大師 → ③
こうして見ると、④⑤⑥が姿を消しているようです。④⑤は、熊野信仰と伊勢信仰で神仏分離の時に姿を消したのかも知れません。しかし、⑥の「愛宕権現宮」の痕跡がなくなっているのはどうしてなのでしょうか?
「愛宕妙見信仰」や虚空蔵信仰は、渡来人で鉱物資源開発や鍛冶などの技術集団であった秦氏が信仰した信仰です。それが高越山からは消えたことになります。
「愛宕妙見信仰」や虚空蔵信仰は、渡来人で鉱物資源開発や鍛冶などの技術集団であった秦氏が信仰した信仰です。それが高越山からは消えたことになります。
高越山が忌部氏の聖地であり、高越寺が忌部神社の別当であったということについては、現在ではいろいろな疑問点が出されています。
それは根拠となる史料がないのです。「高越山=忌部氏聖地」が「あたりまえ」とされていて、それが前提としていろいろなことが語られてきました。「忌部十八坊」と高越山・忌部神社の関係、十八坊の相互関係(山伏結合としての実態)なども、史料から明らかにされていないことは以前にお話ししました。
高越寺の一番古いとされる縁起「摩尼珠山高越私記」(1665年)の構成を、研究者は次のようにまとめます。それは根拠となる史料がないのです。「高越山=忌部氏聖地」が「あたりまえ」とされていて、それが前提としていろいろなことが語られてきました。「忌部十八坊」と高越山・忌部神社の関係、十八坊の相互関係(山伏結合としての実態)なども、史料から明らかにされていないことは以前にお話ししました。
A 役行者(役小角)に関する伝承
①「天智天皇の御宇、役行者開基」
②「大和国吉野蔵王権現と一体分身にして、本地別体千手千眼大悲観世音菩薩」
③「役行者が(中略)権現の奇瑞を感じ、この峰(高越山)によじ上る」
ここには高越山が役行者による開基で、蔵王権現(本地仏 千手観音)を本尊とする山で、役行者が全国に六十六ヶ所定めた「一国一峰」の一つであること記される。
②「大和国吉野蔵王権現と一体分身にして、本地別体千手千眼大悲観世音菩薩」
③「役行者が(中略)権現の奇瑞を感じ、この峰(高越山)によじ上る」
ここには高越山が役行者による開基で、蔵王権現(本地仏 千手観音)を本尊とする山で、役行者が全国に六十六ヶ所定めた「一国一峰」の一つであること記される。
B 弘法大師に関する伝承
④「弘仁天皇の御宇、密祖弘法大師、秘法修行の願望有り此の山に参詣す」
⑤「権現感応有りて、彷彿として現る」と、大師が権現の示現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造二体を彫刻したこと
⑤「権現感応有りて、彷彿として現る」と、大師が権現の示現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造二体を彫刻したこと
C 聖宝に関する伝承
⑥「醍醐天皇の御宇、聖宝僧正、意願有り此の山に登る」と、聖宝がやってきて一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったこと。
これと先ほど見た宗教施設群を併せて考えると、次のようなことが分かります。
①17世紀後半の高越山は、山岳宗教の霊山としての施設群を有していたこと
②「役行者開基」で、「大和国吉野蔵王権現と一体分身にして、本地別体千手千眼大悲観世音菩薩」
③弘法大師信仰が根付いて、大師堂があり、大師信仰の霊場でもあったこと
③弘法大師信仰が根付いて、大師堂があり、大師信仰の霊場でもあったこと
しかし、この時点で高越寺で最重視されていたのは、弘法大師信仰ではなく、開基者の役行者や蔵王権現、そしてその本地仏である千手観音でした。それはこれらが本尊として本堂に祀られていたことから分かります。ここでは17世紀後半の高越山では、弘法大師信仰よりも、蔵王権現信仰の方が優勢であったことを押さえておきます。別の見方をすると、高越寺は、大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたと言えそうです。これが高越寺が四国霊場の札所にならなかった要因の一つと研究者は考えています。
このようななかで本尊の蔵王権現に、忌部氏の祖先神を「本地垂述」させようとした動きが出てきます。「忌部遠祖天日鷲命鎮座之事」に、次のように記されています。(要約)
このようななかで本尊の蔵王権現に、忌部氏の祖先神を「本地垂述」させようとした動きが出てきます。「忌部遠祖天日鷲命鎮座之事」に、次のように記されています。(要約)
「(高越山には)古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座していたが、世間では蔵王権現を主と思い、高越権現といっている。もともとこの神社は忌部の子孫早雲家が寺ともどもに奉仕していた。ところが常に争いが絶えないので、蔵王権現の顔を立てていたが、代々の住持の心得は、天日鷲を主とし、諸事には平等にしていた。このためか寺の縁起に役行者が登山した折に天日鷲命が蔵王権現と出迎えたなどとは本意に背くことはなはだしい」
ここからは信仰対象や由来を巡って、次の二つの勢力の対立があったことです。
①主流派は「役行者=蔵王権現(高越権現)」説であったこと
②非主流派は「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座」していたとして、忌部氏の祖神を地神と主帳
ここからは近世の高越山では「忌部氏の地神」と「伝来神の蔵王権現」の主導権争いがあったこと、て忌部修験と呼ばれる勢力が、蔵王権現に忌部氏伝説を「接木」しようとしている痕跡がうかがえます。
近世の氏粟国忌部大将早雲松太夫高房による「高越大権現鎮座次第」は次のように記します。
吉野蔵王権現神、勅して白く一粟国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め、諸神達集る高山なり、我もかの衣笠山に移り、神達と供に西夷北秋(野蛮人)を鎮め、王城を守り、天下国家泰平守らん」、早雲松太夫高房に詰げて曰く「汝は天日鷲命の神孫にで、衣笠山の祭主たり、奉じて我を迎へ」神託に依り、宣化天皇午(五三八)年八月八日、蔵王権現御鎮座なり。供奉三十八神、 一番忌部孫早雲松太夫高房大将にて、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供す。この時、震動雷電、大風大雨、神変不審議の御鎮座なり。蔵王権現、高き山へ越ゆと云ふ言葉により、高越山と名附けたり、それ故、高越大権現と申し奉るなり。
意訳変換しておくと
吉野の蔵王権現神が勅して申されるには、阿波国麻植郡衣笠山(高越山)は、御祖神を始め、諸神達が集まる霊山であると聞く。そこで我も衣笠山(高越山)に移り、神達と供に西夷北秋(周辺の敵対する勢力)を鎮め、王城を守って、天下国家泰平を実現させたい」、さらに(忌部氏の)早雲松太夫高房に次のように告げた。「汝は天日鷲命の神孫で、衣笠山(高越山)の祭主と聞く、奉って我を迎えにくるべし」 この神託によって、宣化天皇午(538)年八月八日、蔵王権現が高越山に鎮座することになった。三十八神に供奉(ぐぶ)するその一番は忌部孫早雲松太夫高房大将で、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供した。この時、震動雷電、大風大雨、神変不思議な鎮座であった。蔵王権現の高き霊山へ移りたいという言葉によって、高越山と名附けられた。それ故、高越大権現と申し奉る。
この中で作者が伝えたいのは次の2点でしょう。
①吉野の蔵王権現が、阿波支配のために高越山にやってきたこと、②その際の先導を務めたのが忌部氏の早雲松太夫高房だった。
高越山の蔵王権現と忌部氏が、この物語で結びつけられていきます。しかし、このような由来を史料や現地の痕跡からは裏付けられないのは今まで見てきた通りです。
忌部氏の祖を祀るものが川田にはありません。それは山崎の忌部神社です。
ここでは、先住地神の天日鷲命が譲歩して、蔵王権現を迎えた形になっています。そして、忌部一族を名乗る勢力が、祖先神の天日鷲命を奉り、その一族の精神的連帯の中心としてあったのが山川町の忌部神社とされます。しかし、中世の高越山やその山下の川田には、忌部氏の痕跡はありませんでした。忌部氏の信仰していた神々も出てきません。これをどう考えたらいいのでしょうか? 誰もいない高越寺の伽藍に座り込んで、答えの出ない謎を考えていました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献忌部氏の祖を祀るものが川田にはありません。それは山崎の忌部神社です。
ここでは、先住地神の天日鷲命が譲歩して、蔵王権現を迎えた形になっています。そして、忌部一族を名乗る勢力が、祖先神の天日鷲命を奉り、その一族の精神的連帯の中心としてあったのが山川町の忌部神社とされます。しかし、中世の高越山やその山下の川田には、忌部氏の痕跡はありませんでした。忌部氏の信仰していた神々も出てきません。これをどう考えたらいいのでしょうか? 誰もいない高越寺の伽藍に座り込んで、答えの出ない謎を考えていました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
「阿部 保夫 高越山の姿 阿波学界紀要2012年
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