瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:阿波の歴史と天空の村のお堂と峠 > 阿波忌部氏

「講座 麻植を学ぶ(歴史篇)」を読みながら考えたことをまとめるために、実際に現場に行ってみることにしました。三頭トンネルを越えて、吉野川の堤防を東へ東へと走る原付ツーリングです。
まず立ち寄ったのが岩津橋です。

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吉野川の岩津橋 中世に遡る川港があった
地図を見れば分かるように、このあたりが吉野川扇状地の起点になるようです。それまでの瀞と瀬が繰り返してきた吉野川が緩やかになる所です。そのため河口から岩津あたりまでは、風を利用した川船の遡行ができました。

吉野川の川船IMG_4161
吉野川の平田船
そのため岩津は吉野川河川交通の重要拠点として栄えたようです。それは中世に遡ると研究者は考えています。
その根拠である「岩津港=惣寺院」説を見ておきましょう。
①岩津は麻植郡川田村と阿波郡岩津の間にある吉野川沿いの重要な川港であった
②吉野川は撫養など河口から三好郡川田(三好市山城町)まで船が遡行可能であった。
③岩津は河口から川田までの中間地点に位置し、古野川船運の重要な港になっていた。
④江戸時代には岩津に関をおき、関銭をとっていた。
⑤『阿波国絵図』(徳島大学付属図書館蔵・元禄年間作成)には、「東川田村之内岩津村」とあり、川筋に「岩津船渡」と記されている。
⑥麻植郡地誌である『川田邑名跡志』(18世紀)には、「惣寺院」は中世においては川田村・川田山の寺をすべてをまとめるおおきな寺院であったと記す
⑦川田村の「市久保」には六斎市が開かれていた交易拠点でもあった。

14世紀半ばの『兵庫北関入船納帳』は、兵庫港(神戸)に瀬戸内海や紀伊水道からこの港を通って難波や京都などに入っていく船から関銭をとるために作成されたものです。そこには船籍地(船の出発点)、船の大きさ、積み荷の品目と数量が記載されています。瀬戸内海・紀伊水道沿いの諸国から畿内にどのような品物が入っていたのか、その一端が分かります。阿波船の船籍地と積載物品を一覧化したのが次の表です
兵庫北関入船納帳 阿波船の船籍と積載物

             兵庫北関入船納帳の阿波船の船籍と積載品一覧

ここからは次のようなことが分かります。
①阿波の船は、南部の那賀川・海部川の河口か、吉野川河口から出発している
②積荷として圧倒的に多いのは「樽」と「木材」で、阿波南部の港から積み出されている
③土佐泊など吉野川河口からは胡麻・藍・麦が出荷されている。
④全体として多様な商品が畿内に向けて積み出されていた
ここで研究者が注目するのは船籍地一覧に出てくる「惣寺院」です。
この港については、どこにあったのか分かっていません。しかし、先ほど見た『川田邑名跡志』には、「惣寺院」は川田村・川田山の寺をすべてをまとめるおおきな寺院があったと記されていました。ここから「惣寺院=岩津」港説を研究者は考えています。

兵庫北関入船納帳の阿波港町
兵庫北関入船納帳に出てくる中世阿波の港
以上から、川田には「惣寺院」という大寺院があり、その周辺では「市」がたっていた。この「市」は川港の物資集積地「川田」「岩津」という地理的な条件があったから開かれていた。『兵庫北関入船納帳』に出てくる「惣寺院」という港は、麻植郡川田村の吉野川沿いの岩津という川港であったとしておきます。
「惣寺院=岩津」だとすると岩津や川田は、阿波でただ一つの内陸部の吉野川沿いの川港であり、船で直接に近畿とつながっていたことになります。また、上郡と呼ばれる美馬郡・三好郡と下郡と呼ばれる吉野川下流域の中継港として、さらには麻植・阿波・名西諸郡の平野地帯や山間部からの産物の集散地として、定期市もたつ繁栄した港町だったとされてきました。
 表の中には積載品として藍があります。
ここからは15世紀半ばには藍が近畿に向けて積みだされていることが分かります。近畿にまで出荷されているので、麻植郡などでは室町中期には藍が相当な規模で栽培されていたようです。これに加えて江戸時代になると川田周辺で急速に発展してくるのが和紙産業だったことは前々回にお話ししました。宝永三年(1706)に徳島藩は、麻植・美馬・三好諸郡の山間部の庄屋に触書をだして和紙を藩の専売にすることを通達しています。ここからは18世紀初頭には、和紙生産が古野川流域の山間部の村々に広がっていたことが分かります。このように繁栄する川田や岩津の人達の信仰のシンボルが高越山であり、高越寺であったということになります。高越寺の住職が和紙産業の人々を信者に組織するために、天日鷲神(忌部神=麻植神)を祭るようになったことが、忌部神社の復活につながったことはこれまでに見てきた通りです。
 そのような和紙産業の勃興と共に、
天日鷲神(忌部神=麻植神)は「和紙の始祖」とされ、美馬郡の貞光や、麻植郡の山崎・川田は和紙の集積地として繁栄するようになります。そして、彼らは共に天日鷲神を祭り、「忌部神社」の本家争いをするようになります。その争論の中で、阿波藩が本家としたのが川田の種穂神社でした。つぎに向かうのは岩津から始まる尾根の上に鎮座する種穂神社です。

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                岩津橋から下流の眺め
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岩津橋の袂に座って、和紙や藍を積んだ船が緩やかなながれとともに吉野川河口に進んで行く光景をイメージしていました。そして浮かんできたのが美馬市郡里の安楽寺です。

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                    美馬市郡里の安楽寺
安楽寺は、千葉から政治亡命してきた千葉氏が守護小笠原氏の保護を受けて、建立した浄土真宗の寺です。その後、三好氏の保護を受けて急速に寺勢を拡大していきます。下図は17世紀後半の安楽寺の末寺分布図です。
四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布
               17世紀後半の安楽寺の末寺分布図
 この分布図からは阿波の末寺は、吉野川流域沿いに集中していて、東部海岸地域や南部の山岳地帯には末寺はないことが分かります。この背景として考えられるのは
吉野川より南部は、高越山などを拠点とする修験道(山伏)勢力が根強く、浸透が拒まれた
②経済的な中心地域である吉野川流域の港町を拠点に、真宗門徒を獲得した
安楽寺は、吉野川流域でどんな人達への伝道に力を入れたのでしょうか? その際に参考になるのは、瀬戸内海の港町での布教方法です。そこで最初に真宗に改宗したのは「わたり」と言われる移動性の強い海運労働者(船乗り・水夫)だったといわれます。吉野川でも、川船の船頭や港湾労働者などが初期の改宗対象ではなかったのかというのが私の想像です。
 どちらにしても瀬戸内海の交易では、寺院が港湾の管理センター的な役割を果たしていました。そのため各宗派は、瀬戸の港町に寺院を建立して交易の利益を確保すると共に、そこを布教拠点ともします。安楽寺も三好氏の保護を受け、吉野川沿いに道場を開き、海運業者の信者を集めた、それが寺院へと発展したという仮説になります。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山 幸彦 麻植郡と小杉𥁕邨 講座麻植を学ぶ
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阿波からの麁服貢進は、応仁の乱前年から途絶えていました。それが復活するのは20世紀になってからのことです。今回は、復活の経緯を追ってみたいと思います。テキストは「長谷川賢二 阿波忌部の近代 大正天皇即位の大嘗祭をめぐって 講座麻植を学ぶ81P」です。

阿波からの色服貢進が復活するのは、大正4年(1915)の大正の大嘗祭からです。

詳しく解説 中断、朝廷再興、神格化…大嘗祭の長い歴史:朝日新聞デジタル

その経過を見ておきます。色服の「復活」は、天皇家や中央から求められたものではなく、徳島県の「復活運動」によって実現したものでした。明治41年(1908)、皇太子(後の大正天皇)が徳島県へやって来ます。その時に忌部神社宮司の斎藤普春は『阿波志料 践酢大嘗祭御贄考』(私家版、1908年)を著し次のように記します。
「我忌部氏力建国己来二千年間践確大嘗祭ノ御贄ヲ貢進セシ光輝アル歴史ヲ憑拠トシテ」、
「色服及び木綿、そして同書をそろえて皇太子に献上する」
意訳変換しておくと
「わが忌部氏は建国以来二千年間にわたり、大嘗祭の麁服を貢進するという光輝ある歴史を持っている」、
「色服と木綿、そして同書をそろえて皇太子に献上する」
これを県知事に願い出ます。この本の内容は『延喜式』の阿波国からの由加物について解説し、また阿波忌部の色服貢納について歴史的経過をたどりながら詳述したものですが、その願いは末尾にありました。
「践確大嘗祭の御贄を復旧し、併せて忌部氏が偉業を顕彰し給はむこと、必ずしも遠き将来にあらざるべし」

ここには色服貢納の実現が強く打ちだされています。
その支援・協力者が「三木家文書」が伝来する三木家当主・宗治郎でした。

阿波忌部氏 三木宗次郎
三木宗治郎
彼については次のように評されています。

宗治郎は22歳で木頭村役場の助役となり、後に村長へ。そして村長時代には山深かった木頭村から吉野川の町、穴吹の方へ道路を開通させるという大事業を行った。当初は地元の反対にもあったが、それは先見の明もあり、結果的には大正大嘗祭「あらたえ」調進用の紡糸を、その道に初めて入って来た県の自動車によって運ばれることとなった。その後の宗治郎は郡会議員、川島町長を歴任し、地域発展のために汗を描き続けたのである。

宗次郎が運動の中心となり、大正3年(1914)には徳島県知事渡辺勝三郎とともに、即位礼・大嘗祭を所管した大礼使に何度も請願しています。大嘗祭が行われる翌年、三木は『三木由緒』並びに『大嘗祭に阿波忌部奉仕の由来』(いずれも私家版、 1915年)という冊子を作成しています。その中に、三木家とのかかわりの中で色服「復活」を「古典復興」と位置づけ、正当性・正統性を主張し、末尾には次のように記します。

「本年秋冬の交行はせられ給ふ大嘗祭に供神の荒妙御衣は古典を復興し史的縁山ある阿波忌部の後裔をして之を奉仕せしめんことを祈願に禁へさるなり」

意訳変換しておくと
「本年の秋から冬に行われる大嘗祭の荒妙御衣は、古典を復興して史的由縁のある阿波忌部の後裔に麁服奉納をさせていただけることを切に祈願する」

このような誓願運動が功を奏して、大礼使から県知事末松階一郎に対し、「適当な調進者」を指定して阿波国より色服を織上調進するよう通牒が送られてきます。それを受けて徳島県は、次のような通牒を三木宗次郎に伝達しています。

阿波忌部氏 三木宗治郎2
三木宗治郎への麁服調進についての通達

ここには次のように記されています。
麁服(あらたえ)貢進については、別紙の命令に従い行う事 
                  大正4年7月21日 徳島県
三木宗治郎 殿
1 調達する麁服については、麻の晒し布4反 寸法幅9寸 長さ2文9尺(ともに鯨尺)
2 織殿は麻植郡山瀬村大字山崎に新築するので、沐浴し身を清めて行い、9月30日までに織り上げること。
3 これ以外のことについては、徳島県の指示に従うこと
ここからは次のような事が分かります。
大正4年(1915年)7月21日に、徳島県知事より大嘗祭「あらたえ」調進の命令書が三木宗治郎に渡されたこと
②織殿を山崎に設置したのは、徳島県の指示に依ること
これを受けて三木宗治郎を中心に、次のように進められます。
①麻の栽培は、海部郡木頭村北川(那賀郡那賀町木頭)
②7月5日  麻植郡山川町の「山崎忌部神社」境内で、織殿の地鎮祭と起工式が行われた。
③7月11日 山崎村有志(山川町)で忌部崇敬會が設立
④8月初旬  木頭村で麻の刈取り、麻皮剥ぎ、麻晒作業
⑤8月10日 木屋平村「谷口神社」の拝殿で6人の麻績女により紡績作業
⑥9月9日  山崎忌部神社に新築された織殿で「織初式」が挙行。織女には山崎村の6名の少女が選ばれた。
⑦10月15日「織上式」挙行。麁服は唐櫃に納められ、列車で徳島駅へ
⑧徳島市の徳島公園内の千秋閣に安置され、2日間の一般公開
⑨10月18日夜航で上京し、19日に京都の「大宮御所」に供納
⑩11月14日麁服が大嘗宮の悠紀・主基両殿の神座に奉られた
               京都の「大宮御所」に供納される麁服

折り上げが行われた山瀬村では、忌部崇敬会が結成されて、有志によるサポート体制が組織されます。こうして見ると山間部を中心に各地を巻き込んでの「参加型イヴェント」として進められたことが分かります。この作業を通じて、山崎忌部神社は明治時代の忌部神社論争で、忌部神社本社として認められなかった山崎の地が、忌部の聖地として復権を遂げる機会が与えられたことにもなります。

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山崎の忌部神社

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            平成・令和の麁服記念碑が建つ山崎忌部神社

これらの動きを、マスコミは次のように報じます
「古代・中世の由加物や色服の貢納という阿波国が担った役割を、今に復活させる名誉ある大イヴェント」
「県の官民此恩命に対し欣喜して措く所を知らず」
 こうして色服貢納を通じて、皇室と徳島を結ぶ縁、そして阿波忌部を「可視化」する演出が続けられます。これを新聞などのマスコミは、こぞって取り上げます。県民のアイデンテイテイ統合の機能としては、充分な働きをしたことになります。大正天皇の即位は、近代最初の代替わりだったので、このときの大嘗祭は大掛かりで華美な演出がされたようです。柳田國男はこれを次のように記します。

「凡ソ今回ノ大嘗祭ノ如ク莫大ノ経費卜労カヲ給与セラレシヨトハ全ク前代未聞

「阿波忌部と色服(麁服)の復活」の舞台としてふさわしかったとしておきます。

麁服4


大正の大嘗祭への色服調進は、徳島県民に誇りと名誉意識を生み出します。

これが徳島県人の歴史認識に新たな要素を付け加えていくことになります。色服調進が行われた大正4~6年(1915~17)に徳島県知事だった末松階一郎は『御大典記念 阿波藩民政資料』上(徳島県、1916年)の緒言に、次のように記します。
                 徳島県知事だった末松階一郎

「阿波国は上占忌部氏の子孫開拓したる地にして歴史上の起原甚多し」

「阿波国は上古忌部氏の開拓したる地にして歴史上の沿革頗る古く神社仏閣名勝旧跡等の観るべきもの少なからず」

戦前の知事は中央政府が任命権を持ち、末松階一郎も福岡県出身の内務官僚です。ことさらに徳島県に思いがあったわけではなかったかもしれませんが、「御大典」に際会し、色服調進をはじめ、さまざまな文化的行事に関わる中で、自分の業績としての誇りと共に、忌部を強調する歴史観を持つようになったことがうかがえます。大正の大嘗祭は、後世にどんな影響を残したのでしょうか?
大正の大嘗祭の後で、徳島県教育会が作成した『徳島県郷土史』(徳島県教育会、1918)を見ておきましょう。
この書は、小学校の歴史教育のための教師用参考書、中等学校生徒の学習参考書として編纂されたものです。ここでの阿波忌部の位置づけは次のようなものでした。第一章「総説」の冒頭に次のように記します。
「阿波国は、遠く神代の頃より其名の見れたる国にして、神武天皇の御代に、天富命が勅を奉じて 天日鷲命の裔なる忌部の民を率ゐて此国に下り、今の麻植・阿波・美馬三郡を中心として吉野川沿岸の地を拓殖し、麻・穀・粟などを植ゑ給へりと伝ふ。かくて此地方を粟の国といひ、南方は別の一国をなして、長の国」

ここでは阿波忌部の拓殖を「粟の国」の始まりとします。「阿波」と「粟」が通じることから、忌部に阿波史の始まりが見出されています。ただ、『古語拾遺』をはじめとする古代史料には、粟の栽培や「粟の国」についての記述はありません。粟は粟氏の由来です。
第3章「上古の阿波」では忌部について重点的に記されています。
神武天皇の時代のこととして、天日鷲命の子孫である忌部が阿波に入り、「今の麻植・美馬両郡地方を中心とし阿波・板野両郡に及び、吉野川中流沿岸の地を開拓して国産を興せり。阿波の開化が歴史に現はれたるは之を以て始めとす」

忌部神社については「阿波の祖神」とし、粟国造家(粟凡直)を「忌部神の子孫」

ここでは、古代阿波の始まりと発展を忌部に求めた叙述が行われるようになっています。忌部氏が阿波の歴史の原動力とする史観が強調されるようになります。これを研究者は「忌部強調史観」と名付けます。

唐樋に納められた荒妙
                   唐箱に納められた麁服

こうして生まれた「忌部強調史観」は、昭和度大嘗祭(1928年)を経て、より影響力を高めていきます。
太平洋戦争が始まる2年前の昭和14年(1939)に制定された「徳島県民歌」は歌詞には、次のようなフレーズがあります。
陽は匂ふ国 阿波国 
忌部 海人部 名に古る代より
承けつぎてわれらにいたる
この「徳島県民歌」は、郷上史研究者の金澤治が作詞し、国民精神総動員徳島県委員会が制定したものです。ここには「忌部」「海人部」の継承者としての徳島県人という意識が歌われています。先ほど見たように「延喜式』の大嘗祭式の由加物(ゆかもの)の規定に、阿波国では麻殖郡の忌部と那賀郡の潜女(当時は海部部を含む)が、それぞれ貢納品を調達することとされていました。大嘗祭への奉仕を古代以来の徳島県の伝統として誇るという内容になっています。それが当時進められていた「国民精神総動員運動」の一環に沿うものであったと研究者は指摘します。

徳島県の麁服出発式
麁服出発式(令和大嘗祭)
戦後、皇国史観とともに、神話を頼りとした歴史認識は退場し、「忌部強調史観」は衰退します。
『徳島県史』第一巻(1964年)には、次のように記します。
「従来の県史は、いずれも「古語拾遺」を絶対のよりどころとしていた。そのために大きな誤りをおかしていた」

「今まで、 一般に県民から深く信じられていたのは、「忌部氏」のことである。徳島県は神武天皇ころから忌部氏によって開拓せられたものとしていた。(中略)

「古語拾遺」を著したものが、長く後世につたわったがためである。(中略)私たちは、この忌部氏の伝承をそのまま信ずるわけにはいかない」

と批判され、戦前・戦中の歴史観の克服が掲げられています。
ところが、21世紀になって平成・令和と大嘗祭が行われると戦前の忌部強調史観が復活したかのような言説がSNSなどでは見られるようになったと研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「長谷川賢二 阿波忌部の近代 大正天皇即位の大嘗祭をめぐって 講座麻植を学ぶ81P」
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今までお話しした忌部神社をめぐる動きを、まとめてみると次のようになります

忌部神社所在地論争1

江戸時代に忌部神社本社を名乗る神社が、山崎・川田・貞光に現れ、阿波藩は川田の種穂神社を本社と認めます。しかし、明治維新になると、それは「ちゃぶ台返し」されます。
明治維新後の新政府の方針は「王政復古」でした。これは律令国家の時代に戻れというもので、神仏を分離し神道に一本化し、すべての国民を神道にまとめるというものでした。その一環として、律令時代の式内社復活が推し進められることになります。具体的には、各県で延喜式内大社・中社・小社を置くことになります。阿波でもその動きが明治5年(1872)頃から始まります。その一環として、式内社忌部神社の所在地決定が進められます。これは藩政下の18世紀半ばに起こっていた忌部神社の本社所在地をめぐる論争の再燃させることになります。阿波藩の決定が「政権交替」で「ちゃぶ台返しとなり、仕切り直されるという図式です。ただ、前回の論争で忌部本社と藩に認定された川田は、今回の論争に加わっていません。山崎と貞光の争いになります。
 この行司役を務めることになったのが名東県の役人としてに出仕していた若き日の小杉榲邨(すぎむら)です。
彼は、穏便に済ませるために新たな神社の設立を県に提案しますが、認められません。あくまで山崎か貞光か、どちらかに決定することが求められます。いろいろな史料を出して並べて考えた上で、小杉が頼るべき史料としたのが三木家文書の中の「山崎の契約」でした。この史料は鎌倉幕府滅亡直前の正慶元年(1332)の文書で、次のように記されています。
契約
阿波国御衣御殿人子細事
右件衆者、御代最初御衣殿人たるうえは、相互御殿人中、自然事あらば、是見妨聞妨へからす候、此上者、衆中にひゃう(評)定をかけ、其可有者也、但十人あらは、七八人議につき五人あらは、三人議付へきものなり、但盗。強盗・山賊、海賊、夜討おき候ては、更二相いろうへからす候上者、不可日入及、そのほかのこと、 一所見妨へからす候、但この中二いきをも申、いらんかましきこと申者あらは、衆中をいたし候へきものなり、此上は一年に三度よりあいをくわへてひやうちゃうあるへく候、会合は二月廿三日やまさきのいち、九月二十三日いちを可有定者也、契約如件
正慶元年(1332)十一月 日
 中橋西信(略押) 北野宗光(略押) 高如安行
 高河原藤次郎大夫 名高河惣五郎大夫 今鞍進十
 藤三郎(略押) 治野法橋(花押) 田方兵衛入道
 赤松藤二郎太夫  永谷吉守  大坂半六
 三木氏村(花押)
  意訳変換しておくと
阿波国御衣御殿人子細事
右の件について衆者が、御代最初御衣殿人(みぞみあらかんど)とされる以上は、御殿人の間で事が起これば、妨害するのではなく、衆中の評定で物事を決めること。例えば、十人の時には、7、8人の賛成で、五人の時には、三人の賛成で決定すること。ただし、盗み、強盗、山賊、海賊、夜討などを起こした際には、互いにかばうことをしてはならない。その他のことについては、相互扶助を旨とすべし。違乱を申すものがあればらは、衆中が集まって評議すること。ついては、一年に2度寄り合いをして評定協議を行うこと。その会合の日時と場所は、2月23日のやまさき(山崎)のいち(市)、9月23三日の定期市とする。契約については件の如し
正慶元年(1332)十一月 日
以下13人の名前と花押

 「御衣御殿人」は「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(「荒妙御衣」)のことで、これを製作する者が「御殿人」ということになります。ここからは、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団と従来はされてきました。そして以下のように理解されていきました。
①大嘗祭について麁服(あらたえ)の布を貢納する集団として「御衣(麁服)の御殿人(みぞみのあらかんど)」13人の名前が最後に連署されていること
②いろいろなことを衆中で合議し、多数決制できめること
③ 一年に二度、山崎で市がたつ二月と九月に集まり、その結束を確認すること
④その結束の中心が最後に署名している三木氏であること。
このような理解の上に立って小杉は、この契約状を「荒妙貢進をおこなう集団が山崎の王子神社に集まって、結集していた証拠」とみなしました。そして証拠史料として「古代忌部社は山崎崎の「王子神社」が式内忌部社である」とする意見を政府に提出します。明治政府の教部省政府も。これをそのまま受けいれ「王子神社」が忌部大社と一度は決定されます。

ところがこれに対して美馬郡の貞光は、次のような意見書を出して反撃に出ます。

「貞光は今は美馬郡であるが古代においては麻植郡に属しており、貞光の背後にそびえる端山の友落山に式内忌部社は鎮座していた」

この貞光側の論は江戸時代後半(18世紀段階)の忌部神社本社論争で貞光の神主が主張していたことをそのまま繰りかえしたものです。18世紀の忌部神社本社論争の再燃になります。これだけではありません。貞光側は、この文書は小杉が偽造したものとして、小杉を裁判所に訴えます。その訴状内容は、次の通りです。

この契約状はもともと三木家にあったものだが、三木家の時の当主が小杉から山崎の社を忌部大社にしたいので、自分の作った文書を三木文書に混ぜてくれと言われ、不本意ながらそれにしたがったと自首してきた。

 裁判所は貞光側の訴えを却下します。一方で明治政府の教部省は、小杉の論に間違いがあるとして、忌部大社を山崎においたことを取り消し、貞光に移転させる決定をします。この背後には、貞光側の中央政府への政治的な働きかけがあったようです。こうして明治14(1881)年には、政府の指示に従って、端山に式内忌部社を移動することが決定されます。ところが、今度は、その神社をどこに設置するかをめぐって、端山内部で内輪もめ起こり、泥沼化して動きが取れなくなってしまいます。そのため明治18年(1885)になって、解決のために取られた策が徳島市の眉山山麓に新しく忌部神社を建てることでした。端山には、摂社が建てられることになります。小杉は当初の段階で、争論があるので無理をして決めるのは良くないので、適切な地を選んで立てたらという提案していましたが、結果としてそのとおりになったことになります。
ここで奇妙に思うのは、「小杉による偽作」ということが、三木家当主の自首から始まっていることです。
三木家はもともとは、川田の種穂忌部神社の信者でした。その点では、山崎とも貞光とも関わりがない立場だったはずです。そのため紛争初期には、自分の家にあった三木家文書を小杉に見せたのでしょう。そういう意味では、当初は山崎側に立っていたことがうかがえます。それが、途中から「小杉による偽作」を主張するようになります。ここからは三木家当主が、山崎側から貞光側に立場を変えたことがうかがえます。その詳しい経緯は分かりませんが、地域間の紛争に巻きこまれた結果の行動と研究者は推測します。これらの動きからも明治の紛争は、18世紀にの藩政時代に起こっていた忌部神社本社論争の再燃版で、同じく地域間の紛争に、小杉も三木家当主も巻き込まれた被害者と云えるのかも知れません。

それでは、三木家文書の「山崎の契約書」は、貞光側が訴えたように「小杉による偽造文書」だったのでしょうか?
研究者は、幕末の池辺真榛が阿波の古文書を編集した『阿波国古文書集』のなかに、三木家の山崎の契約書が収められていることを指摘します。つまり、小杉が関わる以前から、この文書はすでに存在したのです。その点で小杉は、不当な言いがかりをつけられたことになります。裁判所の判断は、正しかったようです。

  忌部神社所在地地論争の問題点を、研究者は次のように整理しています。
①江戸時代の所在地論争の中では、古代の郷は条里制が施行された口分田のある平野地帯だけに設定されたもので、山間地帯にはなかったことが前提条件となっていた。
②それを小杉は無視して忌部郷を山間部にあると考えた。
③それは三木家文書の「山崎の市に集まって評議を開くこと」という内容が大きな決め手となった
④貞光側の「貞光はかっては麻植郡であった」という論は無理筋であり、忌部神社が山間部にあったという議論も成りたつ論ではない。

 明治の紛争終結以後についの状況と問題点を見ておきましょう。
貞光説は内紛で忌部社を迎え入れず事が出来ず、貞光から一時は姿を消してしまいます。ところが偽作とされた「山崎の契約書」は、脚光をあびて注目文書となり、偽作か本物なのかの論議が止まったまま放置され、いつのまにか「山崎=忌部郷・忌部神社」を証明する説として定着するようになります。

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山崎忌部神社 右の石柱には「式内大社 忌部神社正蹟」と刻まれている

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山崎忌部神社の説明版
山崎忌部神社の説明版には、次のように記されていました。

その正蹟(所在地)については、神社間に数々争いやもめごともあったが、忌部神社正蹟考の研究資料に基づく各方面からの考察に依って見ても忌部神社の正蹟は山崎の地であることはまず正しいと考えられる。

こうして県史・市町村史では無条件で小杉の「忌部社=山崎説」が採用され、それが拡がっていきます。これを疑う議論はほとんどされていないようです。それに対して、研究者は次のような違和感を表明します。
 ひとつは天皇の即位にかかわる麁服(荒妙)貢進です。
麁服は和紙の原料と同じ格から作り出される布で、古代忌部氏がその職掌として作成していたとされます。しかし、現在麁服貢進といわれているものは18世紀になって、川田の種穂社を通して三木家作ったものを白川家に送っていることがきっかけになったものです。送っていた種穂社は、白川神道に属していました。近世の神道には吉田と白川という大きな流れがありますが、白川家は大嘗祭など朝廷の儀式を司る家でした。そこに三木家の側がその先祖が古代忌部の系譜を引いているとして、布を送っていたことにはじまります。こうしてみると今の大嘗祭の麁服貢進は、江戸時代になって川田の種穂社を舞台に作りだされたものということが分かります。古代のものとは、まったく関係がないものだと研究者は指摘します。これが、明治になってから川田の種穂社から山崎の神社でおこなわれたものに「接木」されます。明治の論争で出された小杉説「忌部神社=山崎説」にもとづいて、20世紀になって新しく語られ始めたものなのです。つまり「忌部神社=山崎説」も改めて検討してみる必要があるというのが研究者の立場です。

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山崎忌部神社の麁服祈念碑

「忌部神社=山崎説」の小杉説について、最近あらためて問い直されているのが先ほど見た「山崎の契約書」です。
この文書が小杉が偽作したものではなく、江戸時代から三木文書のなかにあったことは先ほど見ました。従来は、最後の部分に署名している13人は「御殿人」集団とされ、彼らを麁服貢進の担当者としてきました。しかし、これに対しては最近になって新たな説が提出されています。三木家当主の三木貞太郎が明治2年(1870)5月1日に書いた「乍恐奉上覚」(徳島県立博物館蔵。名西郡大粟山人菜家旧蔵文書中の「古文書綴」収))は、次のように記されています。

「御衣御殿人」という称号で忌部神孫として荒妙貢進を中古以来してきているが、新政府がその称号を認めるなら今後も麻・苧を献上したい。

ここからは、「御衣御殿人」という集団称号は18世紀後期以後三木本家を中心とした三木村和紙の生産・販売をおこなう集団であったこと、川田の種穂神社の講集団の一つとして維新に至るまで活動していたことが分かります。つまり  「御衣御殿人」は、古代の麁服貢進集団ではなく、近世の和紙の生産ギルド的集団だったことになります。そうすると、山崎の契約文書に出てくる「御衣御殿人」の実態は、三木村の近世和紙製造集団を古代にスライドさせた偽作という疑念がでてきます。さらに契約状には、この御殿人集団は、年二回山崎で市のたつ日に「寄合」を開くとありますが、その場所が山崎王子神社で開くとは書いてません。
 以上の情報を並べて考えて見ると、次のような事が見えて来ます。
①麻植郡山間部の和紙は18世紀以後、山崎に集められ、そこで藩の検査をうけた上で販売されていたこと
②御殿人の集団の実態は和紙にかかわり山崎の市で活動する三木家を中心とする和紙の生産・販売にかかわる集団であり、近世になって作られた集団であること。

18世紀末の三木家の分家で庄屋武之丞は、三木家本家救済のために、それまでの三木家文書に新偽作文書をつけ加えて三木家文書を再編成し、それにより三木家が忌部の系譜を引く南北朝期以来の伝統をもつ家であることを証明しようとしていたことは前回お話ししました。この契約状も、この御殿人集団が三木家と同じく南北朝期以来の伝統をもつ集団であることをしめすために、その一環として武之丞のもとで偽作されたものという説になります。つまり、「山崎契約状」は小杉が明治に偽作したものではありませんが、それ以前の江戸時代に作られた偽作の中世文書ということになます。それが後になっても偽作であると見抜けないまま今に至っていたと研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
関連記事


阿波忌部氏と麁服
阿波忌部氏と大嘗祭の麁服(荒妙)との関係

 前回は、中世の阿波忌部氏と大嘗祭との関係を見てきました。阿波忌部氏が姿を消すと、その氏神であった忌部神社も、鎌倉時代までには姿を消してしまったようです。そして、江戸時代になると、それがどこにあったのか分からなくなってしまいます。今回は、どのようにして忌部神社が復活したのか、それがどのような争論を生み出したのかを見ていくことにします。テキストは「丸山 幸彦 忌部大社はどこにあったのか 江戸時代の人々の模索  講座麻植を学ぶ」です。

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種穂忌部神社(山川町川田)

 姿を消していた忌部神社が最初に復活するのは、山川町の川田です。
江戸時代前期に高越寺が忌部神(天日鷲神)を奉るようになったのです。高越山は、霊山として中世以来の修験の山として信仰され、高越寺を中心とする社僧(修験者)たちが先達に率いられた登山参拝者を多数集めるようになっていたことは以前にお話ししました。こうした中で周辺の神社も、高越寺の修験者たちが管理運営していたようです。そんな中で17世紀末の元禄年間に高越寺の住職が、忌部神(天日鷲神)を祀るようになります。

天日鷲神

『日本書紀』には、天日鷲神について次のように記されています。

神代上第七段 一書第三
 粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿
意訳変換しておくと
 粟国(阿波国)の忌部の遠祖である天日鷲が
木綿ゆうを作った。

ここには天の岩戸にまつわる話のなかで、天日鷲が木綿(ゆう)を供えたとあります。「ゆう」とは、綿花から作られる木綿ではありません。木綿が登場するのは江戸時代になってからで、「ゆう」とはちがいます。ここに出てくる木綿(ゆう)は、楮の木の皮を剥いで蒸した後に、水にさらして白色にした繊維から織られた布のことです。そして木綿(ゆう)は神事に用いられ重要な役割を果たす布でもあるようです。
 天日鷲神は、天照大神が天の岩屋戸に隠れた際に、木綿で祈祷用の和幣(にぎて)を作ったとされています。その子孫は荒妙や麻の栽培を仕事とし、麻植神(おえのかみ)とも呼ばれました。ここからは忌部神には2つの顔があったことが分かります。
A 忌部神=阿波忌部氏の祖先神
B 天日鷲神=木綿で祈祷用の和幣(にぎて)を作ったとされる麻植神 

高越山の麓の川田は、近世になって和紙の生産地となり、18世紀初めには急速に発展をとげます。
16世紀末になり、細川氏・三好氏が減亡し、近世大名として蜂須賀氏が阿波に入ってきます。そんな中で平野部における藍生産はさらに発展していくことはよく知られています。同じように、近世麻植郡山間部では吉野川沿いの川田を中心に和紙生産が大きく発展します。宝永三年(1706)に徳島藩は、麻植・美馬・三好諸郡の山間部の庄屋に触書をだして和紙を藩の専売にすることを通達しています。ここからは18世紀初頭には、和紙生産が古野川流域の山間部の村々に広がっていたことが分かります。こうして、和紙の生産・集積・輸送など和紙産業の拠点が形成されていきます。
阿波藩の和紙専売制の管理下では、次のような役割分担がありました。
A 貞光は三野郡山間部の和紙集積地
B 山崎は種子山など麻植群山間部の和紙集積地
集められた和紙に藩は税金をかけて出荷販売しました。この2カ所は美馬郡・麻植郡の和紙の集散地でした。そして川田は、和紙生産の先進地です。山崎や貞光は、この時期に和紙の集積地として、賑わうようになっていたことを押さえておきます。
この経済的な活況と高越山で天日鷲神(忌部神)が復活するのが同時期であることに研究者が注目します。
『古語拾遺』の中には、和紙の起源を天日鷲神に求める説が記されていました。また、木綿(ゆう)は「楮(こうぞ)の木の皮」から作られるとされていました。楮は和紙の原料でもありました。ここからは、高越寺の住職が川田の和紙生産者を、新たに高越山の信者として組織するために紙祖としての天日鷲神を導入したのではないかと研究者は推測します。和紙産業のギルド神として、天日鷲神を新たにお迎えしたとしておきます。これを高越寺の社僧(修験者・山伏)たちが広めていきます。こうして天日鷲神への信仰は和紙生産・販売の中心地であった麻値郡・美馬郡に急速に広がっていきます。すると、天日鷲神(忌部神)を祭る神社の本社を名乗る寺社がいくつもで出来ます。こうして、古代の忌部神社が、どこにあったのかをめぐる紛争が起きます。1740年頃には、次の三社が忌部本社であると主張するようになります。
A 美馬郡貞光
B 麻植郡川田
C 麻植郡山崎

吉野川沿いの美馬郡貞光や麻植郡山崎(吉野川市山川町山崎)は、生産された和紙の集積地として発展します。川田で忌部神社本社が復活されると「忌部神社は我社なり」と、貞光と山崎の神社も名乗りを上げます。研究者が注目するのは、争論に参加していた貞光・川田・山崎の三カ所は和紙の生産・販売の拠点でもあったことです。そこには、紙祖としての天日鷲神の本社(忌部神社)の地位を獲得することで和紙の生産・販売をめぐっての優位性を確保しようとする思惑があったと研究者は指摘します。
 三社の争いに対して、阿波藩は川田の種穂社が本社と認め、貞光と山崎の神主は追放ということで決着させます。こうして政治的には川田の種穂神社が藩から忌部神社のお墨付きをもらったことになります。
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                 種穂忌部神社(山川町川田)
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                  種穂忌部神社の説明版
(もともとは多那穂大権現と称したと記されるので山伏によって開かれた神社だったことがうかがえる。)
 この論争の中で、各神社は自己の主帳を正当化するために根拠のない伝承を持ちだしたり、古代文献をねじまげる解釈をしたり、さらには裏づけになる遺品を偽造したりして、事実とはかけはなれた「由緒書」の世界を作りあげています。自分たちにとって都合のよい「あるべき歴史」の作りあげです。近世後半になると、プロの偽書制作者が現れ、依頼者の求めに応じて偽書が大量に作成される時代になっていたは以前に「椿井文書」でお話ししました。
18世紀という時代の麻値郡について、まとめておきます。
①和紙の生産地としては川田が中心であったが、山間部の三木が新興の生産地として発展していた。
②さらに山崎や美馬郡の貞光も和紙集散地として発展していた。
③これらの和紙産業の地は、和紙の先祖神である忌部神信仰を持つようになり、和紙の生産・販売をめぐっての地域間の対立が生まれていた
④地域間の経済対立を背景に、「あるべき地域の歴史」をめぐって忌部神社本社論争を生みだした。

この時の江戸時代後半(18世紀末)の忌部本社の所在地論争の争点を見ておきましょう。
A 永井精古の西麻植村広堂(吉野川市鴨島町西麻植)説
古代阿波国全体の郡郷配置を、最初に論じた上で、忌部神社は、古代の麻植郡忌部郷の平野部にあったことを主張。その上に立って、忌部郷は麻植郡東部の平野地帯だったとし、西麻値村広堂(吉野川市鴨島町西麻植)に比定
B 多田直清の鴨島村宮地(吉野川市鴨島町鴨島)説
吉野川下流域南岸の麻植郡・名西郡の古代以来の景観復元を現地調査を行った上で、忌部郷と忌部神社を麻植郡東部の平野地帯に求め、鴨島村宮地(吉野川市鴨島町鴨島)に比定。
A永井・B多田の説の前提条件としては
①古代の郷は律令国家が班田制を実施している水田が拡がる平野部にあったこと
②水田のない山間部には、古代の郷は置かれなかったこと、忌部神社も山間部にはないこと
これが忌部神社を平野地帯の鴨島地域に比定した前提条件でした。
C 野口年長の山川町山崎説
 野口年長は古代からさまざまな文献を駆使して阿波の歴史を広い側面からとらえようとした人です。 その見地から、古代忌部郷が山崎にあったとして神社も山川町山崎に比定。山の世界が発達するのは中世以後のことで、古代の忌部郷をみる際には山の世界を組み入れないこと。
野口の論は、忌部問題について押さえなければならない条件を明確にしていること、その条件も現在の歴史学の水準からみても妥当なものだと研究者は評します。しかし、文献史料がなく、位置確定にはいたらず、古代忌部社をめぐっての結論は出ませんでした。

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山崎の忌部神社
明治維新前後に忌部神社論争に関わったのが、久富憲明と生島繁高です。
D 久富の山崎神社説 
 古代忌部郷を麻植郡山間部(種野山)を中心に広がっている郷とし、古代忌部神社を山崎の忌部社に比定。
E 生島の川田種穂神社説 
 古代忌部郷を種野山を中心に比定し、古代忌部社は川田の種穂神社に比定
江戸時代の3人が比定地を平野部にしていたのに、明治のふたりは古代忌部郷を山間部に比定しています。それまでの古代忌部郷・忌部神社は平野部に限定して比定しなければならないという大原則を無視する論が明治になると出されるようになったのはどうしてなのでしょうか?                  

その背景には、種野山の三木家文書の強い影響があったようです。 
種野山は、水田はありませんが多くの山の産物を生み出す社会で、京都の冷泉家が地頭職を持ち、貴重な史料が数多く残されていました。その意味では、三木文書は中世の種野山という山の世界のあり方をしめす、全国的にみてもすぐれた中世文書と研究者は評します。しかし、この文書には18世紀後半になって三木家の先祖が南北朝期にさかのぼる古代忌部氏の系譜を引く在地領主であったことをしめすために偽作文書が混入されていると研究者は指摘します。その経緯を見ておきます。
18世紀後半になると麻植山間部の三木村が川田を追う新興の和紙生産地として成長をとげるようになります。
三木村は中世には三木名と呼ばれ、その中心に座るのが三木家でした。ところが忌部神の本社をめぐる争いがあった頃には、三木本家は衰退していたようです。それに代わって18世紀後半には分家が三代にわたって三木村庄屋役に就きます。この間に三木村は和紙の生産地として大きな発展をとげていきます。さらに三木家の分家は明治維新まで和紙の生産・販売を手がけ、販路を大阪までに拡げ大きな富を築き、本家の三木家を凌駕していくようになります。
寛政期(18世紀末)の文書に、三木家の由緒を紹介したものがあります。

三木家文書表紙

当時、三木家本家は当主と嫡男が他界したため、後継者を親戚の天田家から養子として迎えることになりました。この際に、三木家の女性たちと天田家当主・天田武之丞が、三木家の再興のために由緒に関する複数の文書を作成し、郡代等への提出書類の根拠(説明資料)としています。当時の三木家本家はたいへん苦しい状況にありました。かつては「阿波忌部」の末裔として、また「阿波山岳武士」として威風を誇っていました。ところが18世紀の終わりごろに土地取引に絡む不正事件の監督責任を問われた三木家は、庄屋役とともに身分的諸権利(小家とも夫役免除、藩主御目見等)を失います。その結果、三木家は経済的にも打撃を受け、それに当主の他界・嫡男の早世などが重なり、苦しい状況に追い込まれます。この苦境から三木家を立て直すために、三木家の女性たちは、親戚で庄屋役を引き継いだ天田家から恒太を跡取り養子として迎え、庄屋・天田武之丞を後見人とします。三木家由緒に関する文書は、郡代など諸役人に再興への助力を願い出るための重要な歴史的根拠でした。そこで三木村の庄屋武之丞は本家の三木家救済のために、それまであった文書に新規偽作文書をつけ加えて文書の再編成します。そのねらいは、三木家が忌部の系譜を引く南北朝期以来の伝統をもつ家であることを証明することにありました。こうして、三木家が阿波忌部氏の末裔であることを示す書類が何通か紛れ込んだと研究者は指摘します。その例を見ておきましょう。まず本物とされる太政官符です。

この文書は従来は、次のように説明されてきました。
三木家麁服古文書で最も古いものは、1260年の亀山天皇大嘗祭である。麁服(あらたえ)は、南北朝動乱で調進が中断されるまで、代替りの都度神祇官より太政官へ宣旨し、太政官より太政官符・官宣旨が阿波国司に対して発せられ、国司はそれぞれの写しをもって殿人三木忌部氏に麁服を依頼した。

ここで確認しておきたいのは、これらの文書は本物ではなく京から阿波国司に送られてきた太政官符の写しであることです。


三木文書の鎌倉末期文保二年(1218)九月廿六日の大政官符


               三木家文書 文保二年(1218)
九月廿六日の大政官符
大嘗祭における荒妙御衣の進上を阿波国司に命じていて、中央から従五位下の斎部(忌部)宿禰親能と神部二人が派遣されています。しかし、阿波忌部氏か荒妙を貢進したことは書かれていません。また、三木氏もここには出てきません。ここからは分かるのは、次の4点です。
①大嘗祭の麁服(荒妙)貢進は、鎌倉末期までは形式的には続いていたこと。
②中央の斎部(忌部)氏が使いとして登場しているので。この時期まで存続していたこと
③ここには、阿波忌部氏も三木氏も登場しないこと
④この太政官符の写しが残っているのは三木家であること。(阿波忌部氏の本貫は平地部の忌部郷)
逆に見ると平安時代末までには、阿波忌部と麁服貢進の関係は失われていたことになります。それに代わって作成を担当するようになったのが三木氏ということです。だから太政官符が三木家に大切に保管されてきたのです。そして、この文書からは「三木氏=阿波忌部氏の末裔」であることは証明できません。そこで新たに作られたのが次の文書群だと研究者は指摘します。

三木家文書 偽文書
            近世に作成され偽書とされる中世文書
く正慶元年(1332年)にいただいた太政官符案。光厳天皇の大嘗会に関するもの
 下す   勅使御殿人三木右近胤
右 彼の右近胤においては、往古より勅使御殿人として課役を致す之上は、向後更に長老等の濫妨を致すべからざる之由、御勅使殿仰せ下され被候也。乃て執建件のごとし、
正慶元年(1332年)12月1日  御代官(花押) 
  勅使神祇権少副(しょうふ)斎部(花押)
意訳変換しておくと
  勅使御殿人の三木右近胤に次の通り下す
右近胤は、古くより勅使御殿人として課役(麁服貢進)を果たしてきた。今後も長老等がその職務の遂行を妨害しないように、(京の)御勅使殿より仰せ下された。執建件のごとし。
正慶元年(1332年)12月1日  御代官(花押) 
 勅使神祇権少副(しょうふ)斎部(花押)
ここには勅使神祇権少副である中央の斎部(忌部)氏勅使御殿人」の三木右近胤(三木家)に対して課役(麁服)を貢納するために身分保障していることが記されています。先ほど見たように太政官符には三木氏は登場しません。これがあって、はじめて「三木氏=斎部氏の子孫」が証明されます。しかし、この文書には次のような疑問点があるようです。
①「勅使御殿人」「長老」と云う用語は中世に使われたものではなく、近世の和紙生産者ギルドの長として使われたものであること
②14世紀初めには、「勅使神祇権少副の斎部」氏は姿を消していたこと
③書いているのが地元の「御代官」で、それを認めているのが中央の忌部氏というおかしな形式で、
太政官符よりは、格がはるかに下がること。
④三木家の職務遂行を妨害する勢力があったこと

三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
偽書が作成される経緯については、「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 四国中世史研究14号 2017)」に詳しく記されていますので、そちらを御覧ください。

江戸時代には家の先祖や村の歴史を美化するために由緒書などを偽作することは当たり前のように行われていました。
Amazon.co.jp: 椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) : 馬部 隆弘: 本

延喜式内社をめぐる争論などでは、自社を有利にするための偽文書が組織的に行われ、そのプロもいたことは「椿井偽文書」で明らかにされています。偽文書によって、自分の所の神社が有利になるのなら「やったもん勝ち」でした。考証学が発達していない時代には、それが見抜けなかったのです。自社が延喜式内社の争論などでは、後になっても偽作であると見抜けないままになっていることが数多くあります。戦後に書かれた市町村史などは、史料考証をきちんと行わず従来の説がそのまま転用され、それが今も「定説化」していることが散見します。こうして幕末から明治にかけては、三木文書に偽作文書が混入されていることが分からないままに、真実の中世文書とみなされ重視されるようになっていきます。久富・生島の論も、その延長線上にあると研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①古代の麁服(あらたえ)貢納は、律令行政システムの「神祇官(中央の忌部(斎部)氏 → 阿波国衙 → 麻植郡衙 → 阿波忌部」という指示ルートで動いていた
②しかし、中世になると中央忌部氏が衰退して新たに神祇官に就いた氏族は、阿波に直接使者を派遣して麁服を確保するようになる。
③その際に、麁服制作に当たったのは古代の阿波忌部氏ではなく、山間部の種野山の三木家であった
④三木家にはこの時の太政官符が残されているが、これは三木家が阿波忌部氏の子孫であることを証明するものではなかった
⑤そこで江戸時代後半に三木家が危機的な状況に陥ったのを救うために、三木家が古代忌部氏の末裔であることを阿波藩に討ったえでることになった時に、「三木家=古代忌部氏の末裔」を証明するいくつかの偽文書が紛れ込まされた。
⑥それが後に、「三木家=古代忌部氏」となり一般に拡がった。
阿波忌部氏年表

明治維新を迎えると、明治政府は復古政策のもと『延喜式』に記された古代式内社の復活を目指します。
その結果、阿波でもどこにあるかわからなくなっていた式内社忌部神社の所在地決定が求められます。それに対応することになったのが名東県の役人としてに出仕していた小杉𥁕邨です。彼は式内忌部社を麻植郡山崎の忌部社に決定します。これに対して美馬郡貞光から異論がだされ論争となります。
 これは十八世紀半ばに起こっていた忌部神社の本社所在地をめぐる論争の再燃です。藩の決定が「政権交替」で「ちゃぶ台返し」で、再燃するという図式です。ただ、前回の論争で忌部本社と藩に認定された川田は、今回の論争に加わっていません。山崎と貞光の争いになります。結果は山崎は敗れ、貞光に忌部社は移座されることになります。ところがその後、貞光側の内紛もあり、結局は「中立地帯」の徳島市に移座されることになります。
この論争で小杉は、三木家文書の忌部関係文書を根拠にして、古代忌部郷を種野山という山間部を中心に広がるとしました。つまり「忌部神社=山崎説」です。政治的な決着では、この説は否定されたのですが学問的には、この説はその後の研究者達に受けいれられていき、定説として定着します。これに対して、幕末の野口の原則であった「忌部郷・忌部神社は条里制が施行されていた平地にある」を無視したもので、「学問的には成りたたない論になっている」と研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山 幸彦 忌部大社はどこにあったのか 江戸時代の人々の模索  講座麻植を学ぶ
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 四国中世史研究14号 2017年
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前回は古代の阿波忌部氏についてつぎのようにまとめました。
①阿波忌部氏は、忌部郷だけでなく麻植郡一体に勢力を持っていた
②阿波忌部氏の有力者は、忌部山型ドームを石室に持つ古墳を造営するなど一族意識を持っていた。
③阿波忌部は、大嘗祭に際して中央忌部氏を通じて「荒妙(あらたえ)服」を納めた
④しかし、具体的な内容について記した史料はほどんどなく不明な点が多い。
⑤11世紀になると律令体制が弛緩して、地方の政治体制も不安定になって、朝廷にも力がなくな り大嘗祭も簡略化されていった。
⑥同時に、中央の斎部(忌部)氏や阿波忌部氏も衰退し、その足取りさえつかめなくなる
今回は中世の阿波忌部氏について、次の2点に焦点を当てて見ていきたいと思います。
A「阿波忌部氏」が古代から中世まで一貫して続いていたのかどうか
B「阿波忌部氏の氏役」とされる大嘗祭の荒妙織進についても不変であったのか
テキストは「福家 清司   中世の忌部氏について 講座麻植を学ぶ35P」です。


最初に研究者が確認するのは「阿波忌部氏」と「中央の斎部氏」は別物だということです。
忌部氏の職務分担表

前回もお話ししたように地方の斎部氏は、もともとは中央の斎部氏の部民的な存在でした。それが職務を通じて結びつきを強め「擬似的血縁関係」を形成して一族意識を持つようになります。両者は、もともとは別物だったのです。それを裏付けるのが、中央「忌部氏」が、延暦22年(803)、貞観11年(869)の2度に渡って朝廷に提出している「忌部」から「斎部」への改姓申請です。「斎部氏」は中央豪族の「忌部氏」です。これに対して地方忌部は「斎部」には改姓していません。つまり「阿波忌部」を「斎部」と表記するのは適当でないと研究者は指摘します。
  従来の中世の阿波忌部氏像を見ていくことにします。
徳島県教育委員会編「阿波の中世文書」(1981年)「三木家文書」の解説には、次のように記されています。
「京都の斎部氏には氏姓制時代のままに氏上が氏長ないし氏長者として置かれ、全忌部氏族に対してある種の支配力を行使していたことは驚くべきことです。」

「①斎部氏長者の場合は中央氏族の長が地方氏族を統属させていた古代の遺制を南北朝時代にまで残すものであり、神事にかかわることとはいえ、まことに驚嘆すべきことです。」

「袖判化押の主=①斎部氏長者」と見て、この解説は書かれたようです。しかし、この袖判の主を斎部氏長者とする根拠史料はありませんし、斎部氏に氏長者がいたことを示す史料もないと研究者は指摘します。それでは鎌倉時代末期の中央の斎部(忌部)氏の実態はどうだったのでしょうか? それを次の史料で見ておきましょう。
【史料A】『万一記」正安三年(1301)九月十一日条(『古事類苑』官位部六「神祗官 中臣忌部」)

今日被発遣伊勢幣之間也、神祗権大副忌部親顕息女、昨日他界、働親顕父子三人軽服、今一人触機、此外京都無忌部氏之由、伯卿中之、因姦種々沙汰、可被延引之由有沙汰、爰忌部氏沙汰出之由親顕申之、的所被発遣也

  意訳変換しておくと
今日、伊勢斎宮関連の神事に神祗権大副忌部親顕息女が出発する予定であったが、昨日他界した。そのため親顕父子三人は喪に服し、今一人も差し障りがある。この外に京都に忌部氏はいない。伯卿はこのことを伝えて、種々沙汰によって、伊勢への出発を延期するように願い出た。

【史料B】『伯家部類』正安二年八月(『古事類苑』官位部六「神祗官 神部」)

左右京職使正六位上斎部宿而重□、五畿内使正六位上斎部宿而重延、東海道使従五位下斎部宿而□□、北陸道使正六位上斎部宿爾親有、山陽道使従五位下斎部宿爾親経、

史料Aからは、京都市中の斎部氏一族は4人しかいなかったこと、そのため伊勢斎宮関連の神事派遣などの公務にも影響が生じていたことが分かります。同じ年の史料Bには、合計五名の斎部氏の名前が挙がっています。この内、一人目と二人目の「五畿内使正六位上斎部宿而重延」は同一人物のようです。そうすると京都にいた斎部氏の実数は4名になります。これが当時の斎部氏の成人男子全員と研究者は考えています。そうだとすれば先ほど見た「京都の斎部氏には氏姓制時代のままに氏上が氏長ないし氏長者として置かれ、全忌部氏族に対してある種の支配力を行使していたことは驚くべきことです。」という記述は見直しが必要となります。
室町時代の大嘗祭の記録は『親長卿御記』「文正元年自九月大嘗会雑事」の中に膨大な記録として残されています。ところがここには斎部氏の活動は、ほとんど出てきません。そして後世の史料12には次のように記されています。
【史料C】『大嘗会儀式具釈』六(『古事類苑』官位部六「神砥官忌部代」  元文二年(一七三八)

忌部ハ、中臣卜同ジク、神祗官ノ伴部ニテ、幣畠ヲ斑チ、其外ノ神事ニモ関カリ勤ムル者ナリ、必ズ斎部氏ナルガ故二、中古二至リテハ、其職ノ沙汰二及バズ、只斎部氏ノ人ナレバ、忌部ノ役二充用ユ、今ノ世ハ用ユベキ斎部氏ナキガ故二、他氏ノ人ヲ以テ代トス、当日忌部代トシテ出仕セルハ、宣條、神祗大祐紀春清両人ナリ、

  意訳変換しておくと
忌部(斎部)氏は、中臣氏と同じように神祗官の職務を担当し、その外にも神事にも関わっていた氏族であった。ところが中世になると、その職務を担当することがなくなった。今は斎部氏がいなくなったので、他氏がこれに換わって職務を担当している。大嘗祭の当日に忌部代として出仕するのは、宣條、神祗大祐紀春清の両人である

ここからは当時の人には斎部氏が、次のように認識されていたことが分かります。
①忌部氏はもともとは神祇官として朝廷の神事に関わっていた
②それが中世になると神祗官僚としての出番がなくなり姿を消した。
③元文2年(1738)には「斎部氏」絶えて、他の氏族が神事を担当していた
ここでは近世半ば、京都の斎部氏は神事にも関わることなく、氏族としても姿を消していたことを押さえておきます。

鎌倉末期の正慶元年(1322)の大嘗祭を見ておきましょう。
  【史料D】『宮主秘事口伝』正慶元年(1322)。
荒妙和妙御服者、兼日官方催促也、笈正慶大祀之時、号三河国無沙汰不備進、只竹籠許置案、希代之珍事、臨期之違乱也、
ここには「号三河国無沙汰不備進、只竹籠許置案三河国」とあり、三河からの和妙を調達することできなくて、竹籠を置いて儀式を行ったとあります。このように武士の世の中になると朝廷も経済的に行き詰まり、かつての盛時の規模では実施できなくなったことがうかがえます。また、地方からの由加物なども調進ができなくなり、簡素化が進んだことがうかがえます。これは阿波からの荒妙についても同じなようです。

【史料D】『大嘗会本義』元禄2年(1689)(神道大系編纂会編『神道大系二十巻朝儀 祭祀五 践碓大嘗祭』).
凡大嘗会ハ百四代後土御門院文正元年十一月十三日ノ時被行、其後中絶スル事二百廿三年二及ベリ。

「その後、中絶スルこと223年に及んだ」とあるので、大嘗祭が文正元年(1466)の後土御門天皇から貞享四年(1687)の東山天皇まで200年以上も中断していたことが分かります。当然、阿波からの麁服(荒妙)の貢納もこの期間はなかったことになります。

それでは中世の阿波忌部氏の置かれた状況は、どうだったのでしょうか?
まず『仲資王記』の建久五年(1194)五月十二日条裏書き」を見ておきましょう。この史料は明治2年(1870)成立の生島繁高『忌部社考略記』にも引用されているので、古くから知られている史料のようです。。
【史料E】『仲資王記』の建久五年(1194)五月十二日条裏書き」

阿波国忌部久家、還補氏長者下文依官人致貞申状、今日成下了、件忌部者、大祀之時、織進荒妙御衣之氏云々、致貞、度々為彼使存子細是由

意訳変換しておくと

阿波国の忌部久家を、氏長者に任ずるようにとの推薦依頼が神祇官の致貞から出されたので、これを認める認可状を下す。この件については忌部は、大祀(大嘗祭)の時に、荒妙御衣を貢納する氏族であり、神祇官の致貞は、度々阿波に使者を派遣しており、阿波の事情に詳しい。

この史料からは、次のような情報が読み取れます。
①阿波忌部久家が「氏長者」に選任されたこと
②氏長者は官人の申状に基づいて、神祗伯が推薦したこと
③推薦した神祇官は阿波の事情に精通していたこと
氏長者に任命された忌部久家は、阿波忌部氏の統率者だったと研究者は考えています。この忌部久家が氏長者に選任されるためには、官人致貞の推挙に基づいて神祗伯による補任という手続きが必要であったことが分かります。このような手続きを経て、中央の神祗伯が阿波忌部氏の氏長者の選任権を掌握していたことになります。ここからは次のようなシステム変化が見えてきます。
A 古代の律令体制下 阿波忌部 → 麻植郡衙 → 阿波国衙 → 神祇官
B 中世鎌倉時代初期 「氏人」である阿波忌部氏→ 氏長者 → 神祇官人 →神祇官(伯) 

中央の神祗伯が神祗官人や氏長者を介して、「氏人」である阿波忌部氏を統率下に置くシステムができあがっていたことを押さえておきます。同時に神祇官の役職が忌部(忌部)氏ではなくなっています。
同時に鎌倉時代末期までは、阿波忌部氏の痕跡は追いかけられますが、それ以後は史料的には追いかけられないことを押さえておきます。そして、阿波忌部氏と忌部神社の行方は分からなくなるようです。
私は山川町に「山川町忌部」という地名が残っているので、ここが古代の忌部郷だと思っていましたが、どうもそうではないようです。
忌部荘は江戸時代の編纂物である『応仁武鑑』に「忌部庄三百町」と見えるのが唯一の記録です。
 これを受けて沖野氏は忌部荘について、かつて次のように記していました。

「種野山国衛・川島保・高越寺荘及び美馬郡の穴吹荘・八田荘を含んだ広域荘園で、これはもともと忌部神社の社領であったものが、そのまま忌部荘と総称して持賢の私領としたものであるまいか。その理由は次の通り。
美馬郡の穴吹荘・八田荘はこれを麻植領といって、忌部神社の宮司麻植氏の私領として伝領していたことは天文二十一年の三好康長感状に明らか。周辺はすべて皇室領であるから、忌部神社の社領は早くから皇室領に移されていて、忌部神社の宮司の私領のみが美馬郡の穴吹荘・八田荘として伝領せられたと考えられよう。」

ここでは「麻植や美馬などを含む広域荘園があり、それが忌部神社の社領であった」とされています。これが検討されることなく、かつては一般に拡がっていました。しかし、現在の研究者はこれを「今日の荘園研究に照らすと納得し難いもの」と評します。「山川町忌部」は、忌部氏の拠点(本貫地)とされてきましたが、現在の荘園研究の成果の上では、そこには忌部氏の活動は見えてこないことを押さえておきます。
次に三木家文書の鎌倉末期文保二年(1218)九月廿六日の大政官符を見ておきましょう。

「太政官符 阿波国司…件人差荒妙御衣使発遣如件…」

まず私が疑問に思うのは、太政官符がどうして三木家に残っているのかと云うことです。官府は、中央から国衙に下された命令書です。それが三木家にあるのは不自然です。これは後ほど考えることにして先に進みます。大嘗祭の荒妙御衣の進上を阿波国司に命じていて、中央の忌部氏も派遣されています。ここからは、三木家が荒妙を制作したことは窺えますが、阿波忌部氏が荒妙を貢進したとは書かれていません。三木家と阿波忌部氏をつなぐ線がありません。つまり、阿波忌部氏の姿が見えてこないのです。先ほど見た『仲資王記』建久五年(1194)の記事とあわせ考えると、次のような事が見えて来ます
①大嘗祭の荒妙貢進は、鎌倉末期までは形式的には続いていたこと。
②阿波忌部氏がこの時期まで存続していた可能性があること
③しかし、この時期には阿波忌部は荒妙貢進は行っていなかったこと、
④替わって、三木家が荒妙を制作していたこと
つまり、平安時代末までには阿波忌部と荒妙貢進の関係は失われていたと研究者は考えています。鎌倉末期まではかろうじて続いていた阿波と大嘗祭とのかかわりも、南北朝期以後には大嘗祭時代が行われなくなるので、阿波からの荒妙奉納も姿を消します。
   次に三木氏が担当する以前の麻殖郡現地の氏長者と氏人との関係を見ておきましょう。
【史料F】
左辯官下 阿波国
 応早令織進荒妙御衣事
右権大納言藤原朝臣実泰宣、奉勅大嘗会主基所料、宜仰彼国、依例以忌部氏人、令織備附神祗官之使、早以進上者、国宜承知、依宣行之、会期有限、不得延怠、
永仁六年九月 日   右大史中原朝臣在判
右少排藤原朝臣在判
意訳変換しておくと
阿波の辯官に命じる
 荒妙御衣の作成について、右権大納言の藤原朝臣実泰が命じることは、大嘗会の主基の担当は、先例に従って忌部氏人に命じる、ついては神祗官の使者を阿波に派遣して、この決定を伝えること。会期有限、不得延怠、
永仁六年九月 日   右大史中原朝臣在判
右少排藤原朝臣在判
この文書は、永仁6年(1298)の後伏見天皇の大嘗祭に際に、阿波国に対して「忌部氏人」に、荒妙を織りまいらせしむことを命じた太政官の宣旨の写しです。正式の文書は、在京の阿波守家で保管され、その写しが「阿波国衙 → 麻殖郡衛 → 守護小笠原氏の代官」というルートで交付され、それらの写本が氏長者・氏人(三木家?)にもたらされたと研究者は考えています。三木家文書として今日まで伝来した官宣旨や太政官符は、どれもそうした写本のようです。内容的には朝廷の伝統的様式を踏まえたものであり、十分に信頼できるものと研究者は評します。
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三木家の麁服
今回はこのくらいにして、最初のテーマに従ってまとめておきます。
A「阿波忌部氏」が古代から中世まで一貫して続いていたのかどうか
B「阿波忌部氏の氏役」とされる大嘗祭の荒妙織進についても不変であったのか

①古代の大嘗祭の麁服(荒妙)貢納は「阿波忌部氏 → 麻植郡司 → 阿波国氏 → 神祇官」という律令システムで運ばれていた。
②そんな中で、律令体制の弛緩と共に上記システムは機能しなくなり、中央斎部も阿波忌部も衰退した。
③斎部(忌部)氏が衰退後に神祇官となり大嘗祭を運営することになった氏族は、新たなシステムを作り出す必要性に立たされた。
④規模を縮小し続けられた大嘗祭では、神祇官は阿波に使者を派遣し、麁服制作集団を確保した。
⑤新たに麁服を作ることにになった集団は、古代の忌部氏とはなんら関係のない集団であった。
⑤それも15世紀半ばに大嘗祭自体が中断すると、阿波と麁服制作との関係は途絶えた。
⑥江戸時代になって大嘗祭が復活したときには、麁服を作る集団もなく阿波には制作依頼も来なかった。
⑦こうして、忌部氏とその氏寺である忌部神社の痕跡すら消えて、それがどこだったのかも分からなくなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家 清司   中世の忌部氏について 講座麻植を学ぶ
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前回は中央の忌部氏と地方忌部氏の関係を次のようにまとめました。

中央忌部氏と地方忌部氏

今回は阿波忌部氏の活動痕跡を史料で追いかけて見ようと思います。テキストは「福家 清司 大嘗祭と忌部氏について  麻植史を学ぶ21P」です。

阿波忌部氏が最初に登場する史料は「正倉院御物絶銘」と「平城宮跡出土木簡」です。
阿波忌部氏の初見木簡

上は、天平四年(732)に、麻植郡川島郷少格楮里の戸主忌部為麻呂が調として「黄施一疋」を納入したが記されています。これは生糸による織物ですから、阿波忌部氏が生糸の生産にも従事していたことがうかがえます。
 下の木簡には、麻植郡川島郷の忌部足嶋が庸米として米六斗を納めたと記します。ここでも阿波忌部氏が麻・生糸以外に米作にも従事していたことが分かります。ここからは奈良時代の天平年間には麻植郡川島郷内には忌部為麻呂を戸主とする課戸が成立していたことが分かります。『古語拾遺』に忌部氏とのかかわりで麻植の郡名由来が語られたり、後世の史料に「麻植忌部」と称されるように、阿波忌部氏の故郷が麻植郡であったことが裏付けられます。

このふたつの史料からは、阿波忌部氏が川島郷にも住んでいたことも分かります。
奈良時代の麻植郡には「忌部郷」「呉島郷」「川島郷」「射立郷」の4つの郷がありました。忌部郷以外にも阿波忌部氏は居住範囲を拡げていたようです。
 ここで研修者が指摘するのは、古代の郷里編成や戸籍への記載は、口分田を支給し、租庸調等を徴収し、兵士役の徴兵のためのものでした。そのため口分田がないところには賦課は出来ないので、郷は作られません。つまり、平野部とその周辺地域のみに郷は置かれました。口分田がない山間地域などは戸籍は作られず、徴税も行われなかったのです。そういう意味では、阿波忌部氏の居住地域は麻植郡の平野部とその周辺地域に限定すべきと研究者は指摘します。

 延喜2年(902)「阿波国板野郡田上郷戸籍断簡」には合計478名の人名が載せられています。

阿波国板野郡田上郷戸籍断簡


この戸籍は偽籍で、実態を伝えるものではありませんが8名の忌部姓の人物が記されています。また、寛治四年(1090)「三好郡司解」には「三好郡傍吏少領忌部近光」と忌部姓の人物が見えます。このように十世紀には婚姻・移住等様々な理由によって、忌部姓の者が麻植郡以外にも居住するようになっていたことがうかがえます。
阿波忌部氏が、どんな歴史的性格の氏族であったかを見ていくことにします。
『記紀』神話では「粟国忌部遠祖天日鷲所作木綿(ゆう)」とあって、阿波忌部氏が「麻」「楮(こうぞ)」の栽培・生産技術に長けた氏族とします。また『古語拾遺』にも阿波忌部氏は「殖麻穀種」「当大嘗之年、貢木綿麻布及種種物」と同じような内容が書かれています。『記紀』神話・『古語拾遺』の中の阿波忌部氏はついては、中央忌部氏が伝えた氏族伝承の中に出てくる阿波忌部氏の姿です。その姿はあくまでも中央忌部氏の立場から見た阿波忌部氏の姿であることに留意しなければならないと研究者は評します。
では、「中央忌部氏の目を通さない阿波忌部氏」の姿とは、どんなものなのでしょうか?
考古学の立場からアプローチしたのが天羽利夫の研究を再度見ておきましょう。
麻植郡内に分布する古墳を分析・検討し、次のように指摘します。
①麻植郡の忌部山型石室をもつ古墳の首長たちが、後の「阿波忌部氏」と系譜的につながる氏族である
②この氏族は渡来系の氏族で、鉄器生産に卓越した氏族であった可能性が高い
郡里廃寺 段の塚穴

この考古学的な見解は、今までの「麻の栽培・製造=阿波忌部氏」という評価とは大きく異なるものです。
【史料】『仲資記』建久五年(1253)6月11日条裏書き。

中臣連静依臣、また静依大人という。浪速の高津宮に、天下治しらし天皇命の御世、山田縣主を賜わりて、仕へ奉りきなり、この静依臣、①栗国麻直縣主の祖、忌部首玉代の女、奴那佐加比売に要て、生める子、静見臣、次に静富臣、次に和加岐奴比売、次に建忍比古

文中①の「栗国」は「粟国」、「麻直」は「麻植」の誤記と研究者は判断します。この記事は古代の山田縣主中臣連静依と麻植縣主忌部首玉代の娘との婚姻を伝えるものです。その年代は「浪速高津宮」の天皇(仁徳)の時のとされます。この年代自体は、信用できませんが①の「粟(阿波)国麻植縣主の祖である忌部首玉代の娘・那佐加比売」という記事は具体的で、内容的にも不自然でありません。そこで、系帳作成の際に、何らかの記録や伝承を参照して書いたものと研究者は推測します。そうすると律令制度以前の麻植郡(評)は、粟凡直氏が国造であった粟国に属し、朝廷の直轄地として縣に編成され、忌部首氏がその縣主となっていた次のような関係だった可能性が出てきます。
「粟(阿波)=粟凡直氏が国造」
「麻植郡(評)=忌部首氏が縣主」
「粟国麻直縣主」という古色蒼然とした表現のために研究者からは「信憑性に問題あり」とされる史料です。それは別にしても、この史料が作られた奈良時代には、忌部氏が麻植郡の「縣主」と記されています。ここからは阿波忌部氏が郡司クラスの氏族として理解されていたことがうかがえます。

史料 「続日本紀」神護景雲2年(768)7月乙西日条   
阿波国麻殖郡人外従七位下忌部連方麻呂、従五位上忌部連須美等十一人賜姓宿爾、大初位忌部越麻呂等十四人賜姓連

 意訳変換しておくと
阿波国麻殖郡の外従七位下・忌部連方麻呂、従五位上・忌部連須美など11人に宿爾の姓を賜う、大初位・忌部越麻呂等14人には連を賜う

ここからは奈良時代後半の神護景雲2年(768)に阿波忌部氏に、新たな姓(かばね)が授けられたことが分かります。それは2つのグループに分けられます。
A 前者の「連」姓から「宿爾」姓に改姓した11名のグループ
B 後者の初めて「連」姓を与えられた14名のグループ
Aは、従七位下、従五位上の外位で、地方としては比較的高位の位階を持った集団で、中央斎部(忌部)氏と同じ「宿禰」姓が与えられています。つまり、朝廷から厚遇されたグループ
Bは初位という低い位階で、初めて「連」姓を与えられたグループ
ここには両者の優劣が、はっきりと官位に出ています。この格差は阿波忌部氏の大嘗祭における役割の軽重から来るものと研究者は推測します。そうすると、Aの厚遇を受けたグループは、経験豊かな長老グループで、Bの「連」姓グループは初めて大嘗祭の由加物等を調進したグループで、若手、後継者グループということでしょうか。このうちAの長老グループの11名は、当然戸籍上では戸主として載せられていたはずです。それに対してBは、その息子達もいたはずです。そうすると阿波忌部氏の氏族集団として、戸籍上に正式に位置づけられた人数(戸主)としては「11名+α」ということになります。
 以前にお話した国宝の「円珍(智証大師)系図」は、讃岐の因支首氏が和気氏に改姓申請のために政府に提出するために作られた系図で、地元の那珂郡で作られたものが円珍の手元に残っていました。この系図には改姓を認められた者の45名の名前が記されています。ここからは那珂郡と多度郡に45人の因支首氏がいたことが分かります。ちなみに、今の小家族制の戸籍と違って、この時代の戸籍上は、百人もの大家族がひとつの戸籍で管理されていました。ここでは大嘗祭の荒妙・由加物等の調進に対する褒賞として、阿波忌部氏に位階・姓の授与が行われていたことを押さえておきます。

大嘗祭 [978-4-585-21057-3] - 4,180円 : 株式会社勉誠社 : BENSEI.JP

それでは阿波忌部氏は、大嘗祭にどんな役割を担っていたのでしょうか?

大嘗祭は天皇即位後最初に行われる新嘗祭のことです。新嘗祭が二日間であるのに対し、四日間と長く、神事の場も大嘗祭の場合は、臨時に設置される斎場で行うなど、はるかに規模が大きく「大祀(だいし)」と称されていました。「践詐大嘗祭」に際しては「悠紀(ゆき)国」「主基(すき)国」については神占いで選ばれて、米粟などを栽培・貢進しました。この時に「悠紀国」「主基国」は、畿内以外の周辺国が割り当てられました。ここからはもともと大和政権への服属儀礼がベースとなったとする説が有力です。
それがどのように記されているのかを『延喜式』の記載で見ておきましょう。

阿波国所献色布一端。木綿六斤。年魚十五缶。蒜英根合漬十五缶。乾羊蹄。躊鴎。橘子各十五籠。巳上忌部所作。阿波国忌部所織色妙服。神語所謂阿良多倍是也。預於神祗官設備。納以細籠。置於案上。四角立賢木着木綿。忌部一人執着木綿之賢木前行。四人昇案。並着木綿髯一。末時以前供物到朱雀門下。神服部在前如初。阿波国忌部引色服案。出自神祗官。就給服案後。立定待内弁畢。衛門府開南三門。如元目儀。神祗官一人引神服男女等。到於大嘗宮膳殿。置酒柏出。又神祗官左右引両国供物参入。(略)到大嘗宮南門外。即悠紀左廻。主記右廻。共到北門。神祗官引神服宿祢。入酋絵服案於悠紀殿神座上。次忌部官一人入尖屁服案於同座上。詑共引出。乃両国献物各収盛殿。詑衛門府開門。

ここには阿波国は「悠紀国」「主基国」の選定とは関係なく、那賀郡・麻植部から「由加物」として各種産物が調進されたこと、その他に、麻植郡の忌部から「阿良多倍(あらたえ)服」(荒妙:麁服:色服)が納められることになっています。
「あらたえ」とは何なのか、 伊勢神宮で年2回行われるの「神御衣祭」で見ておきましょう。
神御衣祭では天照大御神に「和妙(にぎたえ)」「荒妙(あらたえ)」の2種の神御衣(かんみそ、神様がお召しになる衣)が捧げられます。「妙」は布、和妙は目が細かくやわらかな絹布、荒妙は目が粗くかたい麻布です。大嘗祭に調進される麻織物、麁服(あらたえ)の「あら」とは「向こうが透けて見えるという意味」とされます。「大宝律令」の「神祇令」には、朝廷の祭祀をつかさどる神祇官が関与する国家的祭祀として「神衣(かんみその)祭」が挙げられています。「延喜式」には御料(ごりょう、神々や天皇、貴人が使用する物。衣服や飲食物など)の品目、数量や祭儀の詳細が記されています。神御衣祭は、大御神に新たな「お召しもの」を奉ることにより、神威のさらなる高まりを願うものだったようです。

愛知県田原市の神宮神御衣御料所で紡がれた絹糸
「三河赤引糸(みかわあかびきいと)」350匁(1.3㎏)

しかし、阿波忌部氏が荒妙(あらたえ)を納めたことを記した史料はほとんどなく、実態はよく分からないようです。阿波から荒妙(麁服)が奉納されていたことが確認できる最後は長和元年(1012)の三条天皇の大嘗祭です。11世紀になると律令体制が弛緩して、地方の政治体制も不安定になって、朝廷にも力がなくなり大嘗祭も簡略化されていたようです。
平安末期の11世紀前後の大嘗祭の準備が、どのように行われていたかを史料で見ておきましょう。
史料A『小右記』長和元年( 1012)7月5日条。

抜穂事、神服色妙御服事等、早仰国司可令申請、以国解先経奏聞可定申之由、

意訳変換しておくと
抜穂式について、神服色妙の御服などの作成を、早々に国司に命じて、準備を整えさせるように命じた。

史料B 『小右記』長和元(1012)年8月17日条。

以近江阿波国解並神祗官勘申式文等奉左府(略)阿波国中、色妙御服去年織進了、不可重織事申請子細在解状、又三河国糸事、大略同阿波、中納言俊賢云、件両国所中可然、不似近江者、相府有同之気、予申云、阿波色妙御服三河神服糸等、以当年織物可被充用欺

史料C 『兵範記』仁安3年(1168)9月4日条(『古事類苑』神祗部大嘗祭由加物使」)

神祗官差文、 一枚大嘗会神服使、正六位上神服政景、神部二人、一枚③荒妙御衣使、正六位上少史伊岐致頼、神部二人、一枚由加物使等ズ紀伊・淡路(中略)
阿波国少史伊岐致頼、神部二人、一枚戸座使、少史伊岐致頼、神部二人、

上の3つの史料からは次のようなことが分かります。
①11・12世紀段階でも『延喜式』の規定通りに、大嘗祭の準備品として阿波国司に対し、由加物・荒妙・戸座童の調進を命じていたこと
②そのための中央から使者を派遣していたが、そこに中央の斎部(斎部)氏は出てこないこと。
③史料C(仁安三年(1168)には、③「荒妙御衣使」として「伊岐氏」が出てくること。ここからは斎部氏以外の氏族が荒妙貢進に携わるようになっていたこと、つまり中央の斎部(忌部)氏の姿が見えなくなっていることを押さえておきます。
【史料D】『山塊記」建暦元年(1184)8月22日条は、源平合戦の争乱の最中の大嘗祭になります。
予間云、阿波国荒妙神服事、平家在四国、例往返不通、又鎮西不通、有限事等如何、併曰、此事尤可有沙汰事也、未及文書沙汰之間未注出、委注出可経御覧也、

意訳変換しておくと
予間が云うには、阿波国から納められる大嘗祭用の荒妙神服について、平家が四国を支配し、海上交通や鎮西との交通も途絶えていると。いかなる対応をすればよいのか。併せて、このことについての指示もない。

【史料E】「三長記』建暦元年(1184)9月6日条
三河神服、阿波荒妙御衣、三カ国由加物、戸座童使差文等上了、

史料Dからは、源平合戦の騒乱のために交通路が遮断されて、阿波の「荒妙神服」を確保する手立てがないこと、つまり大嘗祭準備が困難になっていることがうかがえます。しかし、同年の史料Eからは、旧来通りの由加物・三河和妙・阿波荒妙・戸座童等の調達ができたことが記されています。この時点でも、源平合戦の中でも大嘗祭は行われ、阿波からの荒妙は納められていたことが分かります。

しかし、平安期の「延久2年(1070)6月28日「太政官符案」(『後二条師通記』)」からは、阿波忌部氏の衰退が見えてきます。
応国司向神祗官受取二月祈念。六月。十二月月次等祭幣物事
忌部神(忌部神社)
天石門別八倉比売神
右検案内、祈念。月次祭者、邦国之大典也、凡畷欲令歳穴不起、時令不徳、然則件祭幣吊、国司一人率祢宜。祝部等、向神祗言可受取之由、先洛後"付柄誠個畳、雨如司者、頃怠不肯定受、徒納官庫、先工為塵埃、誠雖有巳尖之名、殆似無尚饗之賞、如在之札、豊以可然、論之物儀尤為違例、左大臣宣、奉勅、買仰彼国、件幣串送付国司、令奉箕本社、即取社請文、勘会公文者、国冨承知、依宣行之、符到奉行、正四位下左中弁兼安芸介藤原朝臣 左大史正六位上紀朝臣
延久二年六月十八日
意訳変換しておくと
太政官符 阿波国司へ
国司が神祗官から二月祈念・六月・十二月月次等祭物事を受け取ることについて
 忌部神
 天石門別八倉比売神
祈念・月次祭は、国家の大典である。そのため国家が祭祀を行ってきた、それぞれの国から祢宜や祝部などを派遣して、京都の神祗官に出向いて神への捧げ物を受け取ることになっている。ところがその定めにもかかわらずに、(この二社からは)受取に来ないので、いたづらに官庫に保管されたまま、空しく塵となっている。このようなことは誠に嘆かわしいことであると左大臣からの通達を受けた。ついては、阿波国主に命じる。貴国の「忌部神」「天石門別八倉比売神」の神社に対して即刻、受取に来るように伝えよ
正四位下左中弁兼安芸介藤原朝臣    左大史正六位上紀朝臣
       延久二年(1070)六月廿八日
この史料は、2月祈念祭と6月・12月の月次祭の弊物が①忌部神と②天石門別八倉比売神(あめのいわとわけやくらひめしゃ)から納められていないので、早く納めるように阿波国司に督促したものです。

延喜式神名帳阿波


延喜式神名帳阿波2
延喜式の阿波の式内社
この奉弊は各国の大社に対して行われたものですから、阿波国では「忌部神と天石門別八倉比売神」の2社に加えて、大麻社の3社のみが対象になります。その中の大麻社は督促されていません。これは二社だけが「弊物がいたずらに官庫に眠り、空しく塵埃となる」状態であったこよになります。大麻社は国司に率いられた祢宜(ねぎ)・祝部(ほふりべ)一人が、中央の神祗官に出向いて弊物を規定通りに納めていたからでしょう。
どうして、①忌部神と②天石門別八倉比売神は、規定通りの祭祀・神事を行わなかったのでしょうか。
もし、阿波忌部氏の氏族結合が強く、経済的基盤もしっかりとしていれば氏神の祭礼がおろそかにされることはないはずです。ここからは延久2年(1070)頃になると忌部氏の団結力が緩み、経済的にも衰退し、氏神の祭礼も行われなくなっていたことがうかがえます。その時期は中央の斎部(忌部)氏が衰退し、姿を消して行くのと重なります。ここからは、11世紀前半には、律令体制の衰退から大嘗祭も規模が縮小され、中央と地方の忌部氏も衰退し、奉納は行われなくなっていたと研究者は考えています。
  以上をまとめておきます
①阿波忌部氏は、忌部郷だけでなく麻植郡一体に勢力を持っていた
②阿波忌部氏の有力者は、忌部山型ドームを石室に持つ古墳を造営するなど一族意識を持っていた。
③阿波忌部は、大嘗祭に際して中央忌部氏を通じて「荒妙(あらたえ)服」を納めた
④しかし、具体的な内容について記した史料はほどんどなく不明な点が多い。
⑤11世紀になると律令体制が弛緩して、地方の政治体制も不安定になって、朝廷にも力がなくな り大嘗祭も簡略化されていった。
⑥同時に、中央の斎部(忌部)氏や阿波忌部氏も衰退し、その足取りさえつかめなくなる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家 清司 大嘗祭と忌部氏について  麻植史を学ぶ21P
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徳島県民手帳』の「資料編(徳島県の沿革)」には次のように記されています。

「古代、忌部氏が、吉野川流域を開拓したとき、粟がよく実ったので、この地域を粟の国といい」

ここには忌部氏の功績によって、吉野川流域の開発と粟の栽培が行われたので「粟の空」と呼ばれるようになったと書かれています。しかし、かつては阿波国は「粟国造」の「粟(阿波)凡直氏」が阿波国始祖だったので粟(阿波)とされるようになったと語られてきたように思います。徳島県では、粟氏から忌部氏への建国始祖が変更中なのかもしれません。そんなわけで、今回は史料に出てくる阿波忌部氏と中央の斎部(忌部)氏の関係を見ていくことにします。テキストは「福家 清司 大嘗祭と忌部氏について  麻植史を学ぶ21P」です。

斎部広成撰の『古語拾遺』が平城天皇に献上される : ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 忌部氏については、斎部広成(いんべのひろなり)が807年に天皇に提出した『古語拾遺』に詳しく記されています。彼は紀記に記されていない忌部氏独自の歴史を述べた後で、神祇面で中臣氏がしゃしゃり出すぎると不平を言っています。この書が書かれた目的は、ここにあったようです。
 『古語拾遺』の中には、次のような「忌部氏=麻植開拓」伝説が次のように記されています。

天日鷲命之孫、造木綿及麻並織布古語、阿良多倍、依令天富命率天日鷲之孫、求肥暁地遣阿波国、殖麻穀種其裔今在彼国、当大嘗之年、貢木綿麻布及種種物所以郡名為麻殖之縁也、天富命更求沃壌分阿波忌部率往東土、播殖麻穀好麻所生、故謂之結城郡古語、麻謂之総也、今為上総下総二国是也、阿波忌部所居、便名安房郡、今安房国是也、

   読み下すと次のようになります。
天日鷲命の孫、木綿及び麻井びに織布〔古語、阿良多倍(あらたえ)〕を造れり。天富命をして、天日鷲命の孫を率て、肥饒地を求めて阿波国に遣はして、穀・麻の種を殖ゑしむ。其の裔、今彼の国に在り。大嘗の年に当りて、木綿・麻布、及び種々の物を貢る。所以に郡の名を麻殖と為る縁也。(『古語拾遺』新選日本古典文庫 七七~八〇百( 現代思想社 一九七六年)
要約すると、
天日鷲命の孫をが豊穣な阿波国にやって来て、穀・麻を植えて入植したこと。その子孫が、大嘗祭の年には、木綿・麻布など貢納品を納めていること。故に、彼らが住む郡を「麻植(おえ)」よ呼ぶ。

ここからは麻植郡が神により忌部氏に約束された聖地であり、その本貫地であることが記されています。この「建国伝説」は、後世に大きな影響を残します。
実は「古語拾遺」には、この部分の前に次のような文章があります。
太玉命所率神名目①天日鷲命阿波国忌部祖也、②手置帆負命讃岐国忌部祖也 ③彦狭知命紀伊国忌部祖也 ④櫛明玉命出雲国玉作祖也 ⑤天目一筒命筑紫、伊勢両国忌部祖也
(中略)妖気既晴、無都橿原、経常帝宅、働令天富命太玉命之孫率手置帆負、彦狭知二神之孫以斎斧斎鐘鍋、始採山材構立正殿所謂底都磐根宮柱布都之利立、高天乃原爾博風高之利氏阜孫命乃美豆乃御殿子造奉仕也故其裔今在紀伊国名草郡御木色香二郷古語、正殿謂之色香採在斎部所居謂之御木造殿斎部所玉、矛盾、木綿、麻等、櫛明玉命之孫造御祈玉古語美保伎玉、
天日鷲命之孫、造木綿及麻並織布古語、阿良多倍、依令天富命率天日鷲之孫、求肥暁地遣阿波国、殖麻穀種其裔今在彼国、当大嘗之年、貢木綿麻布及種種物所以郡名為麻殖之縁也、天富命更求沃壌分阿波忌部率往東土、播殖麻穀好麻所生、故謂之結城郡古語、麻謂之総也、今為上総下総二国是也、阿波忌部所居、便名安房郡、今安房国是也、
ここには天太玉命を祖神とする中央忌部が、阿波・讃岐・紀伊・筑紫・伊勢などの地方忌部を率いたし、それぞれの始祖神を次のように記します。
忌部一族の祖神は天布刀玉命(あめのふとだまのみこと)
①阿波忌部氏 天日鷲命(あめのひわしのみこと)、
②讃岐忌部氏 手置帆負命(たおきほおいのみこと)、
③紀伊忌部氏 彦狭知命(ひこさしりのみこと)、
④出雲国玉作 櫛明玉命 
⑤筑紫、伊勢両国 天目一筒命
⑥安房忌部氏 天富命(あめのとみのみこと)、
「天富命をして、斎部(忌部)の諸氏を率て、種々の神宝・鏡・玉・矛盾・木綿・麻等を作らしむ。」とあり、地方の忌部氏が「笠・盾・金(金属)・綿・玉」などの祭礼用具を「業務分担」しながら作って、中央忌部(忌部)に納めていたことが分かります。
 忌部氏がどのような仕事をしたかについては、天岩戸のシーンに次のように記します。
①銅を取ってきて鏡を鋳造する
②麻を植えて青幣帛(あおにぎて)を作る
③カジノキを植えて白幣帛(しらにぎて)を作る
④布を織る
⑤玉を作る
⑥木材を採取し、神殿や笠・盾・矛を作る
⑦刀・斧・鉄鐸を作る
⑧榊を取ってきて鏡・幣帛・玉を懸け、称詞を唱える 
ここでは忌部氏が祭祀に関わる一切を作る指揮を執り、祭祀を行う主役だったと主張しています。注目しておきたいのは神殿まで作る木工・大工集団も抱えていたようです。木は植えると一晩で成長したと云います。各地にカジノキ・楮・麻などを植えて育成するために、広大な山林資源を管理していたことがうかがえます。このような祭礼儀式に必要な金属加工技術や織物技術は列島にはありませんでした。忌部氏も渡来系であったと研究者は考えています。
以上から地方の忌部氏集団は、中央の忌部氏に従い、朝廷の祭礼儀式に関係する祭具や建築物の建設などを担当する技術者集団を構成していたことがうかがえます。


忌部氏分布図
                   地方忌部氏の分布図

これを裏付けるのが『日本書紀』第二の一書の次の所です。

即以①紀伊国忌部遠祖手置帆負神、定為作笠者.②彦狭知神為作盾者・③天目一箇神為作金者.④天日鷲神為作木綿者.⑤櫛明玉神為作玉者.(以下略)率手置帆負、彦狭知、二神之孫、以二斎斧斎紺、始採山材・構立正殿

ここに書かれている地方忌部の職務分担を整理すると次のようになります。
 
忌部氏の職務分担表
 
    
  日本書紀の記述からも、笠・盾・金(金属)・綿・玉などの祭礼用具が、各忌部氏によって「業務分担」されて作成したこと、また、紀伊と讃岐の忌部は、木材の切り出しや正殿建築等を通じて密接に結び付いていたことが記されています。また、筑紫や伊勢の忌部が金属器の製造に関係しています。これは、神具としての金属器の製造で、沖ノ島の祭祀遺跡にみられるような、金属製(金・銀・銅)ひながた品の製作などもあったと研究者は考えています。ここからは、地方忌部は中央忌部に率いられ、各種の神具の生産に従事してたことが分かります。ここで押さえておきたいのは、中央に貢納品を納めていたのは、阿波忌部だけではなかったことです。

『延喜式』の臨時祭、梓木の条には、次のように記されています。

凡柿木千二百四十四竿。讃岐国十一月以前差二綱丁進納。

ここには、讃岐国から毎年11月に、柿の木の矛竿が1244本も貢納されていたことが記されています。多くの竿を納めるので讃岐は別名で竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるほどです。この竿(さお)は、武器としても使用されたことが考えられます。先ほど見た日本書紀には「手置帆負(讃岐忌部)・彦狭知(紀伊忌部)の二神の子孫は、神から下賜された斧で木を伐り山材で正殿を建てた」とありました。讃岐や紀伊の忌部氏が山林開発者であったことがうかがえます。

中央忌部(斎部)氏が朝廷の儀式に深く関わっていたことは『日本後記』大同元(806)年8月10日条からも裏付けられます。

中臣忌部両氏各有相訴。中臣氏云、忌部者、本造幣畠、不中祝詞、然則不可以忌部氏為幣畠使、忌部氏云、奉幣祈祷、是忌部之職也、然則以忌部氏、為幣畠使、以中臣氏可預祓使、彼此相論、各有所拠、是日勅命、拠日本書記、天照大神閉天磐戸之時、中臣連遠祖天児屋命、忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇真坂樹、而上枝懸八坂瑣之五百御統、中枝懸八腿鏡、下枝懸青和弊白和弊、相興致祈祷者、然則至祈祷事、中臣忌部並可相預、又祈念月次祭者、中臣宣祝詞、忌部班幣串、践詐之日、中臣奉天神寿詞、忌部上神璽鏡創、六月十二月晦日大祓者、中臣上御祓麻、東西文部上祓刀、読祓詞詑、中臣宣祓詞、常祀之外、須向諸社供幣畠者、皆取五位以上卜食者充之、亘常祀之外、奉幣之使、取用両氏、必当相半、自余之事、専依令條、
 
意訳変換しておくと
(古くからの神祇官である)中臣氏と忌部氏が互いに、その分担をめぐって争った。中臣氏が云うには「忌部は、もともとは幣畠の作成担当で、祝詞には関与しなかった。よって忌部はあくまで幣畠使である」と。これに対して忌部氏が云うには「奉幣し祈祷するのが、忌部の職である。」と。そこで(大同元年8月10日の)の勅裁で次のように決められた。
以下、次のように記されています。
①大同元年頃、神祗官人の忌部氏と中臣氏は、神祗官の職務分担をめぐって対立し、相手を提訴した。
②訴訟については、同年8月10日に勅裁が次のように下された。
③『日本書紀』の記載に基づいて、祈祷については中臣氏と斎部(忌部)の両者が従事すること
④祈念祭・月次(つきなみ)祭については、中臣氏が祝詞を宣し、忌部氏が幣畠を班つこと
⑤大嘗祭については、中臣氏が寿詞を奉り、忌部氏が神璽鏡剣(しんじきょうけん)を奉ること
ここからは大同元(806)年頃には中央忌部氏は、中臣氏と対立して窮地に立たされていたことがうかがえます。
三条天皇の大嘗祭関係の記事を収める『権記』には、次のように記します。

又、云はく、「大嘗会の事、其の子細、式を作る。仁和寺より伝へ取る。四条納言、之を見て云はく、『寛平に作す所か』と。角りて彼の納言、之を『寛平式』と号す。其の故に、元慶・仁和の例、注文に在りと云ふ。其の中に取るべき事有り。廻立殿に御す後、悠紀殿に還御する間、小忌の中少将一人、左右に候ずる事、両三、存す」と云々。即ち先日、見給ふる事有る文を申すなり。近きは忌部、鏡。鋼を奉ること、天長以来、其の事無き由、件の書を見ゆるか、と。

最後の部分に「先日に見た文書には、かつては忌部(斎部)氏が、鏡・鋼を奉じたが、天長年間以来、これがなくなっている」と記されています。ここからは大同元年の勅裁では、中央忌部氏は神璽・鏡鋼奉献ていたが、約30年後の天長の頃には、行われなくなっていたことが分かります。9世紀中頃の天長年間(824~833年)になると、中央忌部氏が大嘗祭に鏡鋼を奉ることがなくなっていたことを押さえておきます。これは中央忌部氏が存続の危機に瀕していたことを示します。
斎部氏への改姓と『古語拾遺』が書かれた時期と、忌部氏の衰退時期は一致します。
それは9世紀前半と云うことです。中央忌部氏はもともと「忌部」を名乗っていましたが、延暦22年880)に「斎部」と改姓します。この改姓理由を分かりやすく云うと「自分たちは地方の忌部緒氏とはちがうんだ。朝廷の儀式を担当してきた伝統的な神祗官なのだ。地方の忌部氏と一緒にしないでくれ」ということでしょうか。言い換えると「地方忌部氏との差別化」のために、それまでの忌部姓から斎部姓に改姓したようです。これと斎部広成が『古語拾遺』を書いた時期は一致します。
       古語拾遺は、平城天皇の求めに応じて大同二(806)年に斎部広成が提出したものとされます。
当時の朝廷祭祀は大化の改新の功労者が中臣氏が主導権を握り、斎部(忌部)氏は衰退気味でした。このような中で、広成は忌部氏が祭祀を司る正当性を訴えます。その心情は、序の「蓄憤(積もり積もった憤懣)をのべまく欲す」という言葉によく表されています。日本書紀の情報を下敷きにして、独自の語源解釈を展開します。例えば、天岩戸の場面で大活躍するのは忌部氏の遠祖太玉命です。
古語拾遺には、次のような2つの目的があったと研究者は指摘します。
①同じ神祗官人である中臣氏との対抗関係で劣勢に置かれていたことに対する己の正当性
②地方の緒斎部氏との差別化を図ること
それでは中央忌部氏と地方忌部氏は、どんな関係だったのでしょうか?
 津田左右吉は地方忌部氏を「部民(べのたみ)」として、次のように規定します。
①朝廷に特殊の地位と職掌を持つ伴造の家が、地方においてそれに隷属する部下を有した
②その部下は、主家と同じ氏の名を称した。
③それらは主家と同じ職掌のものではなかった。
④それらは主家と血族を同じくするものではなかった。
  以上の規定に従って地方忌部氏を次のように理解します。
⑤律令制以前から阿波など六国(阿波・讃岐・紀伊・出雲。筑紫。伊勢)に忌部氏支配下の人々がいたこと。
⑥中央の忌部氏と地方の忌部は、互いに同族と考えていない。
⑦朝廷が祭祀のために中央の忌部氏や地方の忌部を定めた。
この津田氏の考え方が、今でも大筋としては認められているようです。

庚午の年に、わが国最初の戸籍として作成された「庚午年籍」には、紀伊忌部氏の起源が「忌部姓」とされています。ここからは中央忌部氏の「部民」として位置づけられていたことが分かります。これは讃岐や阿波の地方忌部氏においても同じだったはずです。つまり、庚午年籍において、正式に讃岐や阿波の忌部氏は誕生したことを押さえておきます。
例えば空海を生み出した讃岐善通寺の佐伯直氏の場合を見てみましょう。

佐伯直氏

ここからは部民や直として地方に設置された氏族が、職能を通じて中央氏族と結びつき、先祖を同じくする一族として「疑似血縁的紐帯」を形作るようになっていたことが分かります。しかし、実際には、彼らには血縁関係はなかったと研究者は考えています。忌部氏も佐伯氏と同じような「疑似血縁共同体意識=一族意識」で結ばれていたこと、しかし、中央と地方では大きな違いがあったことを押さえておきます。そして、中央の忌部(斎部氏)が衰退すると、地方斎部氏との関係も次第に薄れていきます。そうすると斎部氏に代わって、大嘗祭の準備品を整えなければならなくなった神祇官氏族は、地方忌部に替わる新たなチャンネルを確保するようになったと研究者は考えています。
以上をまとめておきます。
①中央斎部(忌部)氏が、自分の職能や果たしてきた役割を記録したものが古語拾遺である。
②古語拾遺が書かれた背景には、朝廷儀式をめぐる神祇官としての斎部(忌部)氏がライバルである中臣氏に押されて、次第に影が薄くなっていたことが背景にある。
③その打開のために、斎部氏の果たしてきた役割と、地方忌部との違いを明確にするというねらいの下に古語拾遺は書かれた。
④忌部氏は、朝廷儀式に使う祭礼器具などの準備を担当し、それを地方の忌部氏に分担して準備させていた。
⑤中央の忌部氏と地方忌部は、もともとは別集団であるが祭礼用具準備という職務を通じて「疑似血縁集団化して一族意識を持つようになった。
⑥しかし、中央の斎部氏が衰退していくと、この関係は維持できなくなり、地方忌部も祭礼用具や貢納品を準備することはなくなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家 清司 大嘗祭と忌部氏について  麻植史を学ぶ21P
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古代の阿波忌部氏について、研究者は次のように考えているようです。
①古代の大嘗祭は「太政官→阿波国司→麻植郡司→忌部氏」という律令体制の行政ルートを通じて、麻植郡の忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われた。
②しかし、律令体制が不安定となると、中央の斎部(忌部)氏も衰退し、このルートが機能しなくなった。
③そこで中央の神祗官は、荒妙・由加物の確保のために「阿波忌部」を直接的に配下に置いて掌握するシステムを作り出した。
④そのシステムが、「神祗伯家」→神祗官人(斎部氏か)→「左右長者」→「氏人」である。
⑤中世になると阿波忌部に替わって「氏人」が荒妙の織進や由加物の調進を行うようになった。

「阿波忌部」については、研究者の多くはその本貫地を麻植郡とし、氏神の忌部神社もその周辺にあったと考えていることを前回は見てきました。今回は、考古学者が「阿波忌部」の本貫地に作られた忌部山古墳群を通して、古代の麻植郡をどのように考えているのかを見ていくことにします。
テキストは「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」です。  

徳島県でも6世紀中葉頃になると、それまでの竪穴式石室に替わって、朝鮮半島から伝わってきた横穴式石室を埋葬施設に持つ円墳が登場してくるようになります。竪穴式石室は基本的に首長一人の埋葬ですが、横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳のほとんどが10m前後の規模の小さな円墳で、家族墓として複数の追葬が行われるようになります。

阿波古墳編年表
上の徳島の古墳変遷図を見ると、吉野川流域の麻植郡については、次のような情報が読み取れます。
①3世紀から5世紀の前方後円墳に代表される首長墓がないこと。
②6世紀代(10期)になって、円墳で横穴式石室をもつ古墳が登場してくること
つまり、麻植郡は4・5世紀代には、古墳が造られていない「古墳空白地帯」なのです。これは強い力をもつ豪族たちがいなかった地域であった地帯とも言えそうです。

麻植郡域に横穴式石室の古墳が築造されるようになるのは6世紀になってからです。
その代表格が下図の2の忌部山古墳群や4の峰八古墳群、5の鳶ケ巣古墳群になるようです。

忌部山古墳群
麻植の3忌部山古墳群・4峰八古墳群・ 5鳶ヶ巣古墳群

地図を見れば分かるように、山川町忌部の背後の標高200mの山の中にあります。そして、その麓に、山崎忌部神社が鎮座し、その里が山川町忌部になります。「里から見える見える霊山に祖霊は帰っていく。その山や谷が霊山であり、霊域となる。それを奉るために社殿が作られる。」という民俗学者の言葉通りのレイアウトになっています。この里が阿波忌部の本貫地であったことが古墳からもうかがえます。注意しておきたいのは、高越山の麓ではないことです。

200m前後の高い山の上に古墳が作られるのは徳島ではあまり例がありません。徳島県の高所造営の代表的例を挙げると、次の2つです。
①三好郡東みよし町の丹田古墳(全長約25mの前方後円墳、積石塚、竪穴式石室)で標高約220m
②徳島市名東町の八人塚古墳(約全長60mの前方後円墳、積石塚、竪穴式石室?)でや標高130m
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丹田古墳(東みよし町)
山の上に作られた古墳は4世紀代の前期古墳で、尾根の先端部にあって、そこからは平地の集落が見下ろせる位置にあります。つまり首長墓で政治的なモニュメントとして作られています。麻植の忌部山古墳群や峰八古墳群、鳶ケ巣古墳群が高所に造られたのは、前期古墳の首長墓とは性格がちがいますが、家族墓として一族の存在誇示する意図がうかがえます。忌部山古墳群は『和名類緊抄』の郷名「忌部」に、峰八古墳群と鳶ケ巣古墳群は郷名「川嶋」の集落に比定されます。ここには、忌部氏と、隣接した川島にもうひとつの有力者集団がいたことがうかがえます。
忌部山古墳群をもう少し詳しく見ておきましょう。
忌部山古墳群1

            図4 忌部山古墳群の測量図 『忌部山古墳群』(1983年)より

この古墳群は、吉野川市山川町山崎字忌部山123番地の標高約240mにあり、『麻植郡誌』にも載っていて古くから知られた古墳群です。
忌部山2号墳
現在の忌部山2号墳


忌部山2号墳の羨道部2
調査時の忌部山古墳2号墳
1976年から3年間の調査で分かったことは、次の通りです。
①5基とも円墳で、墳丘規模は、直径10m前後、高さ2、5m前後で、墳丘規模に大きな格差はない。
②忌部山の尾根に沿って、最高部244mから1号墳、2号墳、3号墳と北方向へと下る稜線上にある。
③尾根上に並ぶ3基の古墳から、南東側の斜面約20m下に4号墳、さらに北東側に12m隔てて5号墳がある。
④ここからは、忌部山古墳群は、頂上部の1~3号墳グループと4~5墳グループに2つに分類できる
⑤忌部山古墳群は全て横穴式石室で、1号墳だけは横穴式石室に隣接して竪穴式の小石室があり、これは追葬用の埋葬施設。
⑥石室を比較すると、1号墳を最大として、次いで2号墳、3・4・5号墳が一回り小さい。
⑦築造順序は、1号墳→2号墳・3号墳 → 4号墳 → 5号墳で、6世紀半ば前後に前後して造られた。    

各古墳石室の開口方向から推測すると、一番上の1号墳から下っていく墓道と2号墳の墓道が繋がり、3号墳の南側を下って3号墳の墓道と繋がり、4号墳の西側から南側を廻って4号墳の石室前へと繋がり、さらに5号墳の石室開口部へと繋がって里へと下っていく墓道があったと研究者は考えています。


忌部山古墳群の横穴式石室は、大きな特徴を持っていると研究者は指摘します。
徳島県の他エリアの横穴式石室は長方形の石室で、天井部は水平で、全体は箱型の石室です。これが全国標準タイプです。ところが忌部山の古墳は、石室をドーム状に積み上げています。


忌部山2号墳の羨道部
      忌部山2号墳の石室と羨道部 ドーム状に高く積み上げられている

石室の底辺部は、入口から奥壁に至る壁面は緩やかな曲線を描き、側壁と奥壁の接点も角張ることはなく丸みを帯びています。天井部は水平ではなく、玄室入り口部と奥壁側から互いに持ち送りしながら、石室ほぼ中央部が最高部になるよう積み上げています。これが特徴です。全国的に見るとドーム状に築かれた横穴式石室は各地にあるようですが、忌部山型石室のように天井まで持ち送りのドーム状にする例はほとんどないようです。こうしたドーム状石室は、忌部山型石室と呼ばれているようです。

境谷古墳のドーム状石室.2jpg
            境谷古墳(山川町境谷)のドーム状石室

この忌部山型石室が麻殖郡内には18基あります。ここからは麻植郡内では、古墳造営に際して独特の基準があり、それを守ろうとする集団間の絆が強かったことがうかがえます。別の言い方をすれば「麻植郡式の葬送儀礼ルール」があったと言えます。そのような集団のひとつが山川町忌部を拠点とする勢力だったことになります。
 それでは忌部山型石室のルーツはどこなのでしょうか?
そのことを探る上で参考になるのが美馬の段ノ塚穴古墳群のようです。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳の石室 ドーム状に高く積み上げられている

これを探るのは次回にして、以上をまとめておきます。
①山川町山崎は忌部の地名が残り、史料的にも「阿波忌部」の本貫地であったことがうかがえる
②山崎の忌部の里の上には、忌部神社が鎮座し、さらに山の上には忌部山古墳群がある。
③忌部山古墳軍は、里の阿波忌部の家族墓として6世紀中頃に、継続して造られたもので、忌部氏の集団がいたことがうかがえる。
④忌部古墳群には、ドーム状石室という独特の構造が見られ、他エリアとは一線を画する出自や交易活動を行っていたことがうかがえる。
②ドーム状石室という点では、麻植と美馬の勢力は共通点を持ち、麻植の影響を受けて美馬でも造り始められたと研究者は考えている。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」
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端山八十八ヶ所巡礼をしていると「忌部」伝説に、よく出会いました。貞光川流域は、古代忌部氏との関係が深い所という印象を受けました。ところがいろいろな本を読んでいると、古代忌部氏の本貫は麻植郡と考えている研究者が多いことに気がつきました。麻植郡を本願とする忌部氏の氏神である忌部神社がどうして三好郡にあるのでしょうか。そこには、近世と近代の所在地を巡る争論があったようです。それを今回は見ていきたいと思います。テキストは「長谷川賢二  忌部神社をめぐって 講座麻植を学ぶ 49P」です。
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まず忌部氏について押さえておきます。
古語拾遺には「阿波忌部」と麻植の関係を次のように記します。

  天日鷲命の孫は、木綿と麻(を)と織布(あらたへ)多倍)を作っていた。そこで、天富命に日鷲命の係を率いて、土地豊かなところを求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖えた。その末裔は、いまもこの国(阿波)にいて、大嘗奉には木綿・麻布(あらたへ)及種種の物を貢っている。それ故に、郡の名は麻殖(おえ)と呼ばれる。

ここには、阿波忌部が阿波に定着して、穀・麻を播種し、木綿(穀の繊維)、麻の繊維、「あらたえ」といわれる麻布を製作し、これらを大嘗祭の年に貢納したこと、それゆえに阿波忌部の居住する地を麻殖郡と称したことが記されています。ここからは阿波忌部は麻殖郡に拠点を置いていたことがうかがえます。また、承平年間(920年前後成立)の辞書『和名類衆抄』にも、麻殖郡に「忌部郷」があったことが記されています。ここからも麻植が本貫であったことが裏付けられます。

天皇の即位儀礼の大嘗祭に奉仕した阿波忌部の氏神が忌部神社です。
古代の大嘗祭は律令体制下の「太政官→阿波国司→麻植郡司→阿波忌部」という行政ルートを通じて、忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われました。しかし、律令体制が解体すると、このルートは機能しなくなり、忌部氏も衰退します。忌部の後裔を称する人々は中世にもいて、大嘗祭への奉仕も続いたようですが、中世後期には途絶えたようです。やがて大嘗祭自体も行われなくなります。それが復活するのは17世紀後半の東山天皇の即位の時です。
 一方、近世に大嘗祭が復活したときには、阿波忌部は断絶していたので関与できませんでした。
大嘗祭と阿波との関係が「復活」するのは、大正天皇の大嘗祭のときになります。大嘗祭と阿波の関係が途絶えていた江戸時代後半に起きるのが忌部神社所在地論争です。古代の忌部神社の系譜を引く神社がどこにあったのか分からなくなり、考証や論争が繰り拡げられます。

延喜式神名帳阿波
延喜式神名帳の阿波国分

延喜5年(927)成立の『延喜式』神名式(「神名帳」)には、諸国の官社が載せられていて、これを「式内社」「式社」と呼んでいます。
ここに載せられた神社が当時の代表的な神社であったことになります。阿波を見てみると、四十六社五十座の神社が記されています。これらの中には、最有力なのは次の三社です
祈年祭に神祗官か奉幣する官瞥大社として
①麻殖郡の忌部神社
②名方部の天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめ)
③国司が奉幣する国幣大社として板野郡の大麻比古神社(おおあさひこ)
他は国幣小社です。社格からしても忌部神社は古代阿波では代表的な神社であったことが分かります。神名帳によれば、忌部神社は「或いは麻殖神と号し、或いは天日鷲神と号す」と注記されています。ここからも、阿波忌部の祖神である日鷲命を祭神とし、「麻植神」と呼ばれていたことが分かります。忌部神社が忌部郷と考えるのが自然のようです。

延喜式神名帳阿波2
            延喜式神名帳の阿波国美馬郡十二座と麻植郡分
行方知れずとなった忌部神社の所在地考証は、江戸時代後半の18紀以後になると活発化します。
そして所在地をめぐる論争となります。その経緯を見ていくことにします。
文化12年(1815)の藩撰地誌『阿波志』巻七「種穂祠」には、次のように記されています。

「元文中、山崎。貞光両村の祀官、忌部祠を相争ふ。遂に中川式部に命じて此に祀る」

ここには、麻植郡山崎村(吉野川市山川町)と美馬郡貞光村(つるぎ町)の神職の間で相論があって、麻植郡の種穂神社(古野川市山川町)を忌部神社として扱うことになったことが記されています。ここでは、争論となった場所が近代の論争地として再登場することを押さえておきます。以後、忌部神社を名乗る神社が以下のように次々と現れるようになります。
①寛保二年(1742)の『阿波国神社御改帳』には、宮島八幡宮(古野川市川島町所在)、種穂神社が忌部神社を主張
②種穂神社の神主中川家の史料から、嘉永六年(1853)に高越権現が忌部神社を称したこと
③この他にもいくつかの説がでてきますが、ここまでは麻植郡内が候補であったこと
この争論の背景には、国学が知識人の間に広がり古代への関心が高まってきたことと、忌部信仰の興隆・拡大があったようです。

端山忌部神社
端山の忌部神社(つるぎ町)(もともとは東端山村友落神社の奥山絶頂平地の小社)
そして登場するのが貞光周辺、とくに端山(つるぎ町)の忌部神社をめぐる次のような動きです。
①宝暦4年(1754)に、神職宮内伊織広重が忌部神社の系譜を主張し、神宝を「発見」したことが「美馬郡貞光村忌部神社文書.」(徳島県立図書館編出版)に記される。
②寛政5年(1792)『阿波志』編集のために神職らが集めた旧聞等をまとめた『阿波志編纂資料』には、美馬郡西端山には「忌部御類社と申伝」える「蜂巣五社大明神」や、「忌部大神宮社床と申伝」える「古社跡」があった
④類似する内容が民間地誌『阿陽記』などにもあり、西端山の項に「忌部古社」とその関連伝承・遺跡が記載されるようになる
⑤野口年長『式社略考論』は、端山の忌部神社について「いまだたしかなる拠なければ、せむすべなし。或人忌部神社の永禄四年の棟札を持伝へたれど、これにも社の所在の証なし」
⑤永禄4年(1561)の棟札とは、近代の論争において端山側の論拠となった「天日鷲尊四国一 宮」の棟札と同一物を指すようですが、現存せず。
以上のように18世紀後半から「忌部神社=端山」説を主張する動きがあったことを押さえておきます。これが大きな運動になるのが明治維新後です。
        
明治4年(1871)5月、明治政府は、全国の神社を神宮・官国幣社・府藩県社・郷村社と格付分類することにします。
そして中央の神祗官が直接管轄する官国幣社が指定されます。その一環として忌部神社も国幣中社に指定されます。これは先ほど見た『延喜式』の神名帳に従ったもので、その所在場所が分からないままでの指定でした。そのため、多くの神社が「吾こそは式内社としての古代の忌部神社なり」と名乗りを上げます。こうして近代の所在地論争の幕が開きます。

小杉榲邨 - Wikipedia
国学者小杉饂郁
そこで重要な役割を果たしたのが阿波出身の国学者小杉饂郁(すぎむら)でした。小杉の生涯を見ておきましょう。
天保5年(1824)徳島藩中老西尾氏の家臣であった小杉明信の長男として徳島城下の住吉島に誕生
安政元年(1854)西尾氏に従って江戸に出て、
安政4年(1457)江戸の紀伊藩邸内の古学館に入門して国学を学ぶ。
           幕末期には尊王攘夷を唱えたため、藩により幽閉。明治維新に際して藩士に登用され、以後、学者あるいは学術系行政官とし活躍。
明治2年(1869)藩学である長久館の国学助教に就任
明治7年(1874)教部省に出仕し、後に文部省、東京大学、帝国博物館に勤務。『特撰神名牒』『古事類苑』などの編纂に従事
明治34年(1901)文学博士・
明治43年(1910)永眠(75歳)
大正3年(1913) 小杉編『阿波国徴古雑抄』刊行(『徴古雑抄』のうち、阿波の部の正編仝部及び続編の主要史料を収載)

忌部神社の国幣中社指定の年の明治4年(1871)8月に、小杉は、その所在地調査の報告や意見が出されています。これを見ると候補として挙げられている神社は、次の通りです。
①川田村(吉野川市山川町) 種穂社
②山崎村(山川町)忌部社  王子社
③貞光村(つるぎ町)    忌部社(東端山村友落神社の奥山絶頂平地の小社)
④宮島村(吉野川市川島町) 八幡宮
⑤西麻殖村(吉野川市鴨島町)中内明神
⑥上浦村(鴨島町      斎明神
⑦牛島村(鴨島町)     大宮

種穂忌部神社
川田村(吉野川市山川町) 種穂社
このような乱立状態を見て、小杉は「忌部神社新設」案によって打開しようという意見書を県に提出しますが採用されません。そのため官祭を開くことができず混乱が生じます。そのため一時は、忌部神社の指定を撤回し、大麻比古神社に変更するという案も浮上したようです。流石にこれには抵抗があり実現しません。

忌部神社 山崎
忌部神社(山川町山崎)
明治6年になると、小杉饂郁は「山崎村ノ神社ヲ以テ本社トスルニ決定ス」と主張するようになります。
「山崎村ノ神社」とは、②の王子社に祀られていた天日鷲社のことです。そして、翌年2月、教部省に意見書を提出します。この時の小杉の考証根拠は「不可抜ノ証文」で、「三木家文書」のうちの「阿波御衣御殿人契約状」(正慶元年1332)です。この文書は今は写本が残るのみですが、次のようなことが書かれています。(原文は漢文調を読下したもの)
契約
阿波国御衣御殿人子細の事、
右、件の衆は、御代最初の御衣御殿人たるうゑは、相互御殿人中、自然事あらは、是見妨げ聞き妨ぐべからず候、此の上は、衆中にひやう定をかけ、其れ儀有るべき者也、但し十人あらば七、八人の儀につき、五人あらば二人の儀付くべきものなり、但し盗み・強盗・山賊・海賊・夜打おき候ひては、更に相いろうべからず候上は、日入及ぶべからず、そのほかのこと、一座見妨げべかず候、但しこの中にいぎ(異議)をも申、いらん(違乱)がましきこと申物あらば、衆中をいだし候べきものなり、此上は一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也、角て契約件の如し、
正慶死年十一月 日
以下13人の名前
この文書については、研究者は次のように評します。

中世文書としては文面に違和感があるものの、文意は明確であり、在地社会で作成されたものであるがゆえの表現の乱れや写し間違いがあるとするなら、必ずしも否定的にとらえるべきではないと考える。

つまり完全な偽物ではなく、当時の情勢を伝える信用できる内容のものだという評価です。
内容を見ておくと
「御衣御殿人」は通例「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(荒妙御衣)のことで、これを製作する者が「御殿人」です。したがって、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団ということができます。
小杉が注目したのは、次の箇所です。

「一年に二度よりあい(寄合)をくわへて、ひやうぢやう(評定)あるべく候、会合二月廿三日やまさきのいち(山崎の市)、九月廿三日いちを定むべきもの也」

阿波忌部の子孫と称する人々が寄合を開く「やまさきのいち(山崎の市)」とは、忌部神社の門前市のことで、山崎村に忌部神社があったことになります。この「山崎=忌部神社鎮座」説に対しては、5月に異論が出されます。折目義太郎らが小杉に対し、西端山の忌部神社を認定すべきという意見を申し出ます。しかし、教部省による小杉説の検証が行われた結果、12月には大政大臣三条実美の名において、次のような決定が出されます。
「麻植郡山崎村鎮座天日鷲社ハ旧忌部神社クルヲ実検候二付自今該社ヲ忌部神社卜称シ祭典被行候」
意訳変換しておくと
「麻植郡山崎村に鎮座する天日鷲社が旧忌部神社が認められたので、これよりこの社を忌部神社と称して祭典を行うものとする。

これが小杉説に基づく政府決定でした。

これで一件落着のように思われたのですが、問題は終わりませんでした。讃岐国幣中社の田村神社権宮司・細矢庸雄が忌部神社の所在地を西端山とする考証を出して、政府決定に反駁を行い、小杉との論争となります。
さらに、これを支援するように明治10年(1877)になると、西端山を含むつるぎ町貞光一帯から運動が起こり、内務省に願書が提出されます。
その主張の骨子は次の通りです。
「式内忌部神社ノ儀、往古ヨリ阿波国麻殖郡内山吉良名御所平二御鎮座」

これには「忌部郷人民惣代」を称する村雲義直のほか、谷幾三郎、折目栄の連署があり、さらに戸長・副戸長計七名による奥書があります。ここからは個人の意向ではなく、地域有力者の政治運動として展開されたことが分かります。つまり、忌部神社問題が争論から政治問題化したのです。翌年に出された追願書以降は、東京在住の折目栄が「忌部郷惣代」とか「忌部郷諸(庶)民惣代」などと称しているので、彼が運動の中心にいたことがうかがえます。
 忌部神社=端山説の根拠は、次のような「物証」でした
①美馬郡は、もと麻植郡の一部であったとする郡境変更説などが記された『阿陽記』
②その系統の地誌、『麻殖氏系譜』
③永禄年間の「天日鷲尊四国一宮」の棟札
また、小杉が「忌部神社=山崎鎮座」説の根拠とした古文書「波御衣御殿人契約状」を偽文書とする鑑定も出されます。そして考証の結論は、「波御衣御殿人契約状」を偽文書として、「忌部神社=山崎説」を否定するものでした。こうして、明治14年(1881)に西端山御所平が忌部神社所在地と決定されます。
ところが政治問題化した忌部神社の所在地問題は、これでも終結しません。
こうなると学問的考証の手立てはなく、残された選択肢は、かつての小杉の主張であった忌部神社の新設によるしかなくなります。所在地論争は、棚上げされることになります。

徳島市勢見山の忌部神社
 徳島市勢見山の忌部神社

こうして徳島市勢見山に新たな場所が選ばれ、忌部神社を新設して明治20年(1887)に遷座祭が行われます。御所平の神社は忌部神社の摂社となりますが、山崎の神社はその系列からは外されてしまいます。その意味では、端山側の運動は一定の成果を残したと言えそうです。その後、山崎が歴史の表舞台に現れるのは、大正4年(1915)、大正天皇即位の大嘗祭の色服の「復活」の時です。織殿が山崎の忌部神社跡地に設置され、山崎の地も阿波忌部に連なる正統なな忌部神社として復活を遂げます。

忌部神社 徳島
忌部神社(徳島市)
以上をまとめたおくと
①阿波忌部の本貫地は麻殖郡で、そこに氏寺の忌部神社が鎮座していた。
②忌部氏は古代の大嘗祭において、麻などの織物を奉納する職分を持っていた。
③しかし、中世になって大嘗祭が簡略化され、ついには行われなくなるにつれて、阿波忌部も衰退し姿を消した。
④こうして阿波忌部が姿を消すと、氏神である忌部神社もどこにあったのか分からなくなった。
⑤こうした中で江戸時代後期に、国学思想が拡がると忌部神社を名乗る神社がいくつも現れ、争論を展開した。
⑥明治政府は延喜式の神名帳に基づいて、忌部神社を国幣中社に指定したが、所在地が分からなかった。
⑦そこで政府は、小杉饂郁の論証を受けて、麻植郡山崎村の天日鷲社を忌部神社と認めた。
⑧これに対して端山周辺の有志達は、組織的に「忌部神社=端山」説を政府や県に陳情し、政治問題化させた。
⑨その結果、新しく忌部神社を徳島市内に建立し、端山はその摂社とした。

ここには、ひとつの神社がどこにあったかをめぐる争論の問題があったことがわかります。忌部神社が端山にあったということは、周辺住民のアイデンテイテイの根拠になり、地域の一体化を高める動きとなって政治問題化します。このような歴史ムーブメントが端山周辺にはわき起こり、現在でも忌部伝説が語り継がれているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
長谷川賢二  忌部神社をめぐって 講座麻植を学ぶ 49P
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 阿波の霊山と修験道史をまとめた田中善龍は、高越山と忌部十八坊の関係について、かつて次のように記しました。

  高越山周辺地域には、古代に中央から忌部氏の移住があった。さらに、中世にはその後裔と自称する家族による支配があり、彼らは忌部神社のある山崎の地(吉野川市山川町)などで寄り合いを開いた。これら忌部氏、ないしはその後裔と称する集団は、忌部神社を精神的連帯の核としたが、この神社の別当だったのが高越山頂にある高越寺だった。このような阿波忌部の聖地を前提とするのが、地方的な修験である忌部修験であり、大滝山系真言修験と対立関係にあった。

 そして「忌部修験」の内で現存するものは、吉野川市、美馬市、美馬郡、三好市にあり、室町時代に連帯組織を形成したこと、その中でもつるぎ町半田の神宮寺が中心であり、忌部神社を共通の聖地としていたとします。

私も田中氏の説にもとづいて、高越山=忌部修験の聖地と考えてきました。しかし、近年になっていろいろな批判が出ているようです。どこが問題なのか、何が批判されているのかを見ていくことにします。テキストは 長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店 です。
 長谷川賢二の批判点は、以下の四点です。
第1に、高越山が忌部氏の聖地であり、高越寺が忌部神社の別当であったということについて、
この根拠となる史料が示されていない。「あたりまえ」の前提とされている。「忌部十八坊」と高越山・忌部神社の関係、一八坊の相互関係(山伏結合としての実態)や個々の内部構造も、史料から明らかにされていない。
第2に、つるぎ町半田の神宮寺が「忌部十八坊」の中心だったという点について。
 田中説を進めると半田町の神宮寺は、山崎に鎮座する忌部神社の「神宮寺」ということになる。また、忌部神社と高越山とが一体であるなら、神宮寺は高越山が遥拝可能な場所か、高越山周辺にあるのが自然だろう。しかし、半田町にある神宮寺は、いずれの条件も満たさない。高越山をセンターとするはずの山伏集団が、そこから離れた場所に中核寺院をもつのも不自然で疑問に思わざるえない。
以上、忌部修験をめぐる田中の所説には、論拠の不明確さや論理の不整合があり、
忌部神社 ー 高越山 ー「忌部十八坊」

をつなぐ明確なつながりは見えてこないとします。議論の前提として忌部修験の存在が語られていて、それがいかなる存在だったのかが語られていないとします。そこで、長谷川賢二氏は史料をして語らしめるという実証史学の原点に戻ります。「忌部十八坊」について記された史料を見ていくことから再出発します
忌部修験に関する根本史料は①『願勝寺系譜』と②『麻殖系譜」とされます。
①『願勝寺系譜』には、九代神党の項に
「安和二年巳己九月十九日、忌部十八坊ヲ定メ」
②『麻殖系譜』には基光・徳光の項に、それぞれ次のようにあります。
「安和三年己巳九月卜九日、忌部神社ハ坊ヲ別」
「忌部授社本社ノ別当、皆福ノ一字無キ寺ハ、福ノ一字ヲ加エテ寺号ヲ改メシム」
と記され、 一八か寺の名が挙げられています。しかし、これだけなのです。実態は何もわかりません。

1『願勝寺系譜』とは、どんな史料なのでしょうか。
美馬町には、浄土真宗興正寺派の讃岐への布教センターとなった安楽寺や、その分院が大きな屋根を並べる寺町というエリアがあります。このその寺町の一角にあるのが真言宗の願勝寺です。この寺には『願勝寺系譜』という文書が残されています。歴代住持の事績集成という形をとった寺史で、文禄二年(1594)の奥書があるようです。従来は、これが全面的に信頼され同時代史料的な価値が認められてきたようです。
その中に天正三(1575)年に発生した「法華騒動」が記されています。その概略は、阿波国支配の実権を掌握していた三好長治が、国内に日蓮宗への改宗を強制したため、日蓮宗の教線が急速に拡大する。それに危機感を抱いて反発した真言宗など諸宗の僧侶が結集し、三好氏の拠点である勝瑞城下での宗論に至るというものです。史料を見てみましょう。

快弁ハ高野山ニテ法華退治ノ一策ヲ儲ケ、阿波へ帰リテ同意ノキ院ヲ訪ラヒ、阿波国ノ念行者多数ノ山伏ヲ催シ、持妙院へ訴訟シ、日蓮宗へ対シ、不当状ヲ三尺坊二持タセテ本行寺へ遣ス処、妙同寺普伝上人返答延引ヨツテ法華坊主ヲ打殺スベシト(中略)本行寺へ押入り騒動二及フ、共魁トナル人々ニハ大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻殖曽川山、牛ノ嶋ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大栗ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノー願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大店同寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮車寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ、忌部郷忌部十八坊ヲ始、其余ノ神宮寺別当附属ノ修験神坊ノ行者ハ此事二与セスト雖、国中ノ騒動大方ナラス
意訳変換しておくと
願勝寺の快弁は、まず高野山で法華退治の一策を講じて、阿波へ帰ってきて、これに賛同する寺院を訪ねた。阿波国の多くの「念行者」や多数の山伏の賛同を得て、持妙院へ訴訟した。日蓮宗に対して、不当申立状を三尺坊に持参させて本行寺へ遣ったところ、妙同寺の普伝上人は、法華坊主を打殺スベシトという返答であった(中略)
 そこで本行寺へ押入り騒動に及んだ、共に立ち上がったメンバーは次の通りである。
大西ノ畑栗寺、岩倉ノ白水寺、川田ノ下ノ坊、麻殖曽川山、牛ノ嶋ノ願成寺、下浦ノ妙楽寺、柿ノ原別当坊、大栗ノ阿弥陀寺、田宮ノ妙福寺、別宮ノ長床、大代ノー願寺、大谷ノ下ノ坊、河端大店同寺、高磯ノ地福寺、板西ノ南勝坊、同蓮車寺、矢野ノ千秋坊、蔵本ノ川谷寺、一ノ宮ノ岡之坊、此外添山薬師院、香美虚空蔵院等ナリ、
しかし、忌部郷忌部十八坊ヲ始、その他の神宮寺別当附属の修験や神坊の行者は、この騒動に与しなかったが、国を揺るがす大騒動となった。
 ここには、願勝寺の快弁の活躍ぶりがまず描かれています。そして「法華退治ノ一策」への協力要請を受け人れた「念行者」を核とする山伏集団の蜂起と、それに対する「忌部十八坊」などの非協力があったとします。

長谷川賢二氏は『願勝寺系譜』のテキスト・クリニックを行います
①外見的には、書体が稚拙であり、16世紀末の古文書の書体ではないこと
②書き損じとそれに伴う訂正筒所がいくつかあること
③末尾には「法印権大僧都快盤」の署名と花押の位置関係が不自然なこと
以上から、現存本は16世紀末のものではないとの疑義を持ちます。もし、『願勝寺系譜』が文禄三年(1594)の作成としても、現在本は写本であると推察します。
次に、奥書の記載内容から、史料の性格を見ていきます
右、福聚寺殿ョリ御尋二付、当院古来旧記取調、早速其概略ヲ写収候テ奉備高覧、預御感難有仕合候間、為後来之亀鑑控置候者也、

奥書によると「願勝寺系譜』は「福衆寺殿(峰須賀家政の父である正勝)」の求めに応じて、作成したものの控えであると記されています。ここからは、『願勝寺系譜』の原形は、蜂須賀氏の入国後間もない時期に書かれたことになります。ところが、本文中の記事には後世のことが何カ所か含まれていて、奥書の日付をそのまま信じるわけにはいかないようです。
 「奥書にある「文禄三年」は、現実的な年記ではなく、「古さ」を強調するための虚構である可能性が高い」

と長谷川賢二氏は指摘します。なお、前年の文禄二年は、願勝寺が脇城主稲田氏から美馬郡中諸寺の監督を命じられたとされる年です。美馬地域における願勝寺の卓越性の主張を込めた年紀の設定と研究者は考えているようです。

次に『願勝寺系譜』の歴代住職について見てみましょう。ここにも疑義があるといいます。
初代 福明 「阿波忌部ノ正統忌部玉垣ノ宿面ノ庶弟」
二代 福淵 「麻殖忌部布刀淵ノ三男」
三代 人福 「忌部大祭卜玉淵宿爾第ニノ庶子」
四代 実厳 「忌部麻殖正信ノニ男」
六代 智由 「母ハ阿波忌部石勝ノ女」
八代 智光 「忌部高光ノ庶弟」
九代 智党 「忌部氏人麻殖正種二寺」
10代 徳光 「忌部大祭主信光ノ一弟」
11代 随伝 「共姓モ忌部氏」
12代 了海 一麻殖I遠ノ一男」(随伝の項にあり)
14代 行智 「麻殖正径ノ次男」
16代 行真 「忌部大祭寺麻殖親光内室ノ弟」
21代 月心 「忌部大祭主麻殖利光ノ庶弟」
32代 鏡智 父は「忌部ノ祭主麻殖利光ノ家二客タリ」
33代 観月 「阿波忌部大輔成良ノ子田内ノ‐‥工門成直ノ後胤也」
34代 快念 「忌部人祭主麻殖因幡守ヲ頼」
35代 快弁 「麻殖因幡守猶子トログシ」

「忌部」姓、「麻殖」姓、「麻殖忌部」姓、「忌部麻殖」姓が同系とみられます。歴代住職18人のうち17人までが忌部氏との関係が記されています。当時は僧侶は妻帯できませんから世襲ではありません。この姓から住職は選ばれたとします。
『願勝寺系譜』に見られる忌部伝承は、多くの点で「麻殖系譜』と一致するようです。
『麻殖系譜』とは、忌部神社の祭祀に携わり「忌部大祭主」や「麻殖人宮司」などを務めた者が多数いたという麻殖氏なる一族(当然のように忌部氏を称した)の系図です。成立時期は分かりません。『願勝寺系譜』と「麻殖系譜』は、次の項目は一致します
①住職名
②「忌部十八坊」についての記事内容
③願勝寺の名の由来伝承
このように、両系譜の相関性は高いようです。

これは何を意味するのでしょうか・
その手がかりは『麻殖系譜』が式内忌部神社の所在地論争の際に資料として提出されたことにあるようです。この論争は、明治四年(1871)に政府が忌部神社の国幣中社へのランクアップを行おうとしたときに、次の2つの神社間でどちらが式内社の系譜を引く正統な忌部神社であるかめぐって、起こったものです
①麻植郡山崎村(吉野川市山川町)の天日鷲神社
②美馬郡西端山村(つるぎ町貞光)の五所(御所)神社
最終的には、明治18年(1885) に、妥協案として新たに徳島市に社地が選定され、決着がつけられます。
 しかし、古代の阿波忌部の本拠は麻殖部でしたし『延喜式』巻10(神祗10 神名)には、「麻殖郡八座」の一つに「忌部神社」と明記されています。したがって、美馬郡から式内忌部神社の名乗りがあるのは奇妙なことです。
 ところが、これについては、貞観二年に美馬郡が分割され、三好部が置かれたという独特の解釈を加えた説が主張され、美馬郡鎮座説の根拠とされます。つまり美馬部を三好部とし、麻殖郡を分割して美馬・麻殖の2郡としたというのです。この考え方に従えば、式内忌部神社が美馬那であっても、もと麻殖郡であるから、問題ないということになります。その証拠として出されたのが『阿陽記」などの史書です。
これについて、山崎村鎮座説に立つ小杉檻椰(阿波出身の神学者)は、次のように述べて「阿陽記」は証拠としては無意味であると断じています。
「明文トスル所ノ阿陽記・国鏡ノ類ハ(中略)寛政(1789~1801)ノ比二雑録セシ俗書

 これに対して、美馬郡鎮座説を唱え、小杉と対決した細矢席雄(讃岐の田村神社権宮司)は、『阿陽記」等を「文禄(1592~96年―引用註)或ハ大和(1681~84年)ノ旧記」と主張したようです。
 結局は、麻殖郡分割による郡境変更説が古代史料によるものではなく、成立期も不明確な史料を盾にとったものであることを美馬郡鎮座説派も認めていたわけです。今日では『阿陽記』については、明和年間(1764~72年)の成立とされているようです。やはり、江戸時代中期の論争後に「創作」されたものだったのです。
 このような論争のなかで、「麻殖系譜』は西端山村側の証拠資料として提出されたものです。    
これには、次のような郡境変更説が記されています。まず、玉淵の項に
麻殖上郡・阿波寺郡ヲ合シテ美馬郡トス、麻内山ハ神領ナル故、麻殖中郡トシテ之ヲ別」

たとあります。「麻内山」は、別の項目では、「麻殖内山」と記されています。麻殖郡分割説を唱え、神領である地域(忌部神社を含む)のみが一部とされたという説明です。ここからは『麻殖系譜」は「式内忌部神社美馬郡鎮座説」の擁護のために書かれたことがうかがえます。
郡境変更説は「願勝寺系譜」にも受容されます。
『麻殖系譜』のような細かい記述はありませんが、願勝寺10代徳光の項に「麻殖下郡」という地名が記されます。これは麻殖郡の分割があったということをフォローする内容になります。
 また、先ほど見たように『願勝寺系譜』の忌部伝承が『麻殖系譜』と一致することあわせて考えると、その記述は式内忌部神社美馬郡鎮座説を前提としたものであることが見えてきます。しかも、全編にわたって忌部氏との関係などが記されています。初代福明の項には、玉垣宿爾について「阿波忌部ノ正統」とあり、麻殖氏系譜の正統性が強調されています。以上から長谷川賢二氏は次のように指摘します。
  「こうしたことから考えれば、美馬郡鎮座説の影響は、転写過程での部分的な潤色によるものではなく、『願勝寺系譜』全体の成立にかかわって意識的に取り込まれたものとすべきであろう。

式内忌部神社美馬郡鎮座説の正当化するために『願勝寺系譜』や『麻殖系譜』が書かれたものであるとすれば、それが唱えられ始めた時期に着目すれば、両系譜の成立期も自ずと分かってくるはずです。そこで、忌部神社論争の起点を確認します。
  この明瞭な時期は、文化11年(1815)完成の藩供地誌『阿波志』に次のように記されています。
元文中、山崎・貞光両村祀官、相争忌部祠

ここからは元文年間(1736~41年)、麻殖郡山崎村と美馬郡貞光村の神職の間で、忌部神社の所在をめぐり争われていたことが分かります。つまり、近代以前にも忌部神社の所在をめぐる争論があったのです。
 このときの争論では、麻殖郡の種穂神社が忌部神社とされ、寛保三年(1743)完成の『阿波国神社御改帳』には「種穂忌部神社」と記載されています。しかし、種穂神社の神職だった中川氏に伝わつた史料によれば、その後も問題は続いていたことがうかがえます。
 貞光村と西端山村は、近接しています。明治の忌部神社論争においては、貞光村の忌部旧跡も取り上げられ、西端山村と一体となって美馬郡鎮座説の焦点となった地域のようです。
 どうやら18世紀前半の忌部神社=貞光村説は、近代における西端山村説とほぼ同じエリアの中での式内忌部神社の所在地を廻る争論であったようです
 以上から美馬郡鎮座説を正当化する伝承が必要となったのは、18世紀前半のことのようです。都境変更説が記された『阿陽記』の成立は18世紀後半とみられています。忌部神社をめぐる争論との関係からしても、納得がいく時期です。
 このようにみてくると、「願勝寺系譜』『麻殖系譜』の式内忌部神社美馬郡鎮座説を意識した記述は、争論との関係から定形化されるようになってきたと研究者は指摘します。ここからも『願勝寺系譜』を奥書の文禄三年(1594)に成立していたとは、見なせないというのが研究者の結論になるようです。
  『麻殖系譜』についても、近代の忌部神社論争時までには成立していて、論争に利用されました。そのため、江戸時代の論争がはじまった18世紀前半には出来上がっていたようです。しかし、『願勝寺系譜』と比較して、その先後関係は分かりません。
 どちらにしても両系譜は、式内忌部神社をめぐる論争という、きわめて政治的な動きの中で書かれたものであるようです。そのため「創作された伝承」が含まれていることを、想定する必要があります。す。このことについて、長谷川賢二氏は次のように記します

  こうした史料に関する問題を考慮するなら、先に虚構と断定できないとした忌部修験についても、中世史の問題として議論するには慎重を要する。美馬郡鎮座説が本格的に展開する18世紀以後に、当該神社の社会基盤の広がりや権威を誇張するために名目的に創り出された可能性も含んでおく必要があるように思うのである。

以上をまとめておくと
①「忌部修験」は、イメージが先行して、それを証拠立てる史料がないこと
②「忌部修験」の根本史料である『願勝寺系譜』『麻殖系譜』は、式内忌部神社美馬郡鎮座説をフォローするために後世に書かれたもので、18世紀以前に遡るとは考え難いこと
③史料にもとづかないイメージを無理に組み立てても、研究の深化にはつながらないこと
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店


高越寺絵図1
高越寺絵図
高越(こうつ)寺については、阿波忌部の開拓神話の上に、弘法大師信仰や修験道などが「接ぎ木」されてきたことを以前にお話ししました。高越山は「忌部修験」と呼ばれる山伏集団の拠点とされてきました。しかし、この説については、次のような批判も出ています。
「超歴史的であり、史料的な裏づけからも疑問視される」

 さらに加えて近年、九山幸彦は阿波忌部に関する伝承は近世の創作であることを明らかにしています。高越山について、新たな視角が求めれているようです。そのような中で、四国辺路研究とのにもつながりから高越山の歴史を見直そうとする動きがあるようです。今回は「長谷川賢二 山岳霊場阿波国高越寺の展開 修験道組織の形成と地域社会所収」をテキストに、高越山の歴史を見ていくことにします。
高越山 弘法大師
高越山山頂に建つ弘法大師像
 
高越山には、12世紀初頭の早い時期から弘法大師伝承が伝わっています。

古い弘法大師伝説があるのに、四国88か所の霊場(札所)にはならなかった寺です。どうしてなのでしょうか。大師信仰とは別の条件で「霊場の取捨選択」があったと研究者は考えているようです。その条件とは何なのでしょうか?
高越寺が霊場として最初に文献史料に登場するのは、弘法大師信仰とのかかわりについてのようです。
真言密教小野流の一派・金剛王院流の祖・聖賢の『高野大師御広伝』(元永元年〔1118)に次のよう登場します。
〔史料1〕
阿波国高越山寺、又大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々。澄崇暁望四遠、伊讃土三州、如在足下。奉造卒塔婆、十今相全、不朽壊。経行之跡、沙草無生。又有御千逃之額、千今相存。
意訳変換しておきます
阿波国の高越寺は、弘法大師が建立した寺である。ここで大師は法華経を書写し、この峯に埋納した。この地は空気は澄み渡り伊予・土佐・讃岐の三州も足下に望むことができる。大師が造った卒塔婆は、今も朽ちることなくそのままの姿で建っている。経典を埋めた跡は、草が生えない。「御千逃」の額は、いまも懸かっている

ここには大師がこの地にやって来て「高越山寺」を建立し、さらに法幸経を書写し、埋納したことが記されます。
  弘法大師が亡くなって200年ほど経った11紀になると、「弘法大師伝説」が地方にも拡がり、四国と東国は修行地として強調されるようになります。こうした中で高越山でも弘法大師との関わりが語られるようになったようです。数多くの大師伝が残されていますが、高越寺が登場するのはこれだけのようです。
高越寺の霊場化がうかがえる次のような史料があります。
一つは、大般若経一保安三年〔1122)~大治2年〔1127)です。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名が見られます。天台系の教線が高越山におよんでいたようです。
二つ目は、経塚が発見されており、12世紀のものとされる常滑焼の龜、鋼板製経筒(蓋裏に「秦氏女」との線刻銘がある)、白紙経巻八巻などの埋納遺物が出てきています。
 これは先ほど見た大師信仰の浸透と並行関係で進んでいたようです。以上から13世紀に高越寺は顕密仏教の山岳霊場となっていたと研究者は考えているようです。
 近世の縁起『摩尼珠山高越寺私記』(以下私記』)にも弘法大師の高越山来訪が記されます。
『私記』は寛文五年(1665)、当時の住職宥尊が記したもので、高越寺の縁起としては最古のものになるようです。『私記」の内容は、大まかに分けると次の4つになるようです。
  ①役行者(役小角)に関する伝承
「天智人皇御字、役行者開基、山能住霊神、大和国与吉野蔵王権現一体分身、本地別体千手千眼大悲観世音苦薩」
「役行者(中略)感権現奇瑞、攀上此峯」
などと、役行者による開基や蔵王権現の感得が記されています。そして蔵王権現(本地仏 千手観音)の山であり、役行者が六十六か所定めた「一国一峯」の1つに配されたなどとされています。
  ②弘法大師に関する伝承
弘仁天皇御宇、密祖弘法大師、有秘法修行願望、参請此山
権現有感応、紡弗而現」
などと記され、大師が権現の示現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造一体の彫刻をしたとされます。
  ③聖宝に関する伝承
「醍醐天皇御宇、聖宝僧正有意願登此山」

などと記され、聖宝が登山し、一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったとされます。
  ④山内の宗教施設
山上の宗教施設が記されます。「山上伽藍」については、
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」
「本堂一宇、本尊千手観音」
「弘法大師御影堂」
などがあったほか、若一王子宮、伊勢太神宮、愛宕権現宮などとの本社があったようです。さらに
山上から7町下には不動明王を本尊とする石堂
山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)があり、地蔵権現宮があったことが分かります。また「殺生禁断並下馬所」と記されるので、ここが聖俗の結界となっていたようです。
山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮があります。その他には、鳥居があったことが記されます。
以上の記述からは、大師が高越山に現れたとこと、実際に大師堂があったようで、17世紀になっても高越寺は、引き続いて大師信仰の霊場であったことが分かります。

高越山 役行者
高越寺の役行者

しかし、研究者は次のように指摘します。
最重視されていたのは、大師ではないことに注意が必要である。役行者(役小角)の開基とされ、蔵王権現が「本社」に祀られ、その本地仏である千手観音が本尊として本堂にあるというように、役行者にこそウェイトがあることは明らかであろう。したがって、 17世紀の高越寺は、存立の基礎という意味では大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたといえる。


高越山 奥の院蔵王権現
高越山奥の院の蔵王権現

高越山の修験道の霊場としての起点は、いつから始まるのか

ここで研究者が取り上げるのが役行者と蔵王権現です。
役行者は修験道の開祖と信じられており、修験道とは切っても切れない関係というイメージがあります。しかし、歴史的に見ると、これは古代にまで遡るものではないようです。『私衆百因縁集」(正嘉九年〔1257)に
「山臥行道尋源、皆役行者始振舞シヨリ起レリ」

という記載が現れるのは13世紀以後のことのようです。
 また、役行者と蔵王権現のコンビ成立も12世紀頃で、このコンビのデビューは『今昔物語集』が最初になるようです。
一方、13~14世紀は、「修験」は山伏の行と認識されるようになる時代でもあります
「顕・密・修験三道」(近江国国城寺)や部 「顕・密・修験之三事」(若狭円明通寺)などというような表現が各地の寺院関係史料にみられるようになります。四国でも、土佐国足摺岬の金剛福寺の史料に「顕・蜜兼両宗、長修験之道」とあります。こうした状況から「修験道」が顕教・密教と並ぶ仏教の一部門として、認知されるようになってきたことが分かります。
 こうしたことを背景にして役行者は、山伏に崇拝されるようになります。こんな動きが高越寺に及んできたのでしょう。
高越山 権現
奥の院背後の蔵王権現鳥居
奥の院は、中央が「高越大権現」、向かって右が「空海」、向かって左)が「役小角」を祀っている

高越寺には南北朝~室町時代のものとされる立派な聖宝像があります。
これは、中世後期にこの山で聖宝信仰があったことを物語ります。聖宝には、以前にもお話ししましたのでここでは省略しますが、醍醐寺の開祖で、真言密教小野流の祖です。聖宝は若い時代には山林修行を行った修験者でもあったようで、蔵王権現とも関係が深く、『醍醐根本僧正略伝』(承平七年〔937)には、吉野・金峯山に堂を建立したとされます。そのため12世紀後半以降には、「本願聖宝僧正専十数之根本也」と醍醐寺における山伏の祖とされるようになります。
「聖宝像」の画像検索結果
左から観賢僧正、聖宝(理源大師) 神変大菩薩像(役行者) 
上醍醐

 さらには天台寺門系の史料『山伏帳』にも「聖宝醍醐仲正」と記されているので、天台宗からも崇拝されるようになっていたことがうかがえます。弘法大師伝説に続いて、聖宝が信仰対象となるのは13~14世紀のことです。これも、先ほど見たように「修験道の地位向上」と同時進行ですすんでいました。この二つの流れの上に、高越山の聖宝像があるのでしょう。それは高越寺が修験道霊場化していく過程をあらわしたものだと研究者は考えているようです。
醍醐寺の寺宝、選りすぐりの100件【京都・醍醐寺-真言密教の宇宙-】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
聖宝

 聖宝像=醍醐寺=当山派というつながりから、高越寺と当山派を結びつけて考えたくなります。これに対して研究者は次のように、ブレーキをかけます。
①三宝院が修験道組織を管掌するのは江戸時代になってからのこと
②中世に醍醐寺三宝院が山伏と結びついていたと、当山派に直結させることはできないこと
③中世の聖宝信仰は真言宗だけではなく天台寺門派に連なった山伏がいたこと
したがつて、聖宝信仰と修験道の関連は深いとしても、修験道=当山派というとらえ方は取りません。
中世に霊場化していた可能性のある「中江」(中の郷)を見てみましょう。
「中江」(中の郷)は、高越寺表参道の登山口と山上のほぼ中間地点にあたります。近世以降には、中善寺があったようです。ここには、貞治二年(1364)、応永六年(1399)、永享3年(1431)の板碑が残るので、中世にはすでに聖域化していたと研究者は考えているようです。
 また、ここは「聖俗の結界」であったようです。中世の山岳霊場では「中宮」といわれる場にあたります。そうだとすれば、中の郷の結界性も高越山が霊場化していたことを示すものかもしれません。14~15世紀には、山麓と山が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったとしておきましょう。

時代をさらに下って15~16世紀の高越山の様子を史料から見てみましょう
中世後期になると、和泉国上守護細川氏との関係から高越寺のことが分かるようになるようです。

高越山

⑤の細川常有が菩提寺として応仁二年(1468)に建立した瑞高寺に
高越寺井上社之事一円」(文明九年〔1477〕)、

上守護家菩提寺の永源庵に
高越別当職井参銭等」が(明応四年〔1495〕

と、上守護家からそれぞれの寄進が記されています。高越寺が上守護家の所領支配に組み込まれていたことが分かります。

高越山1

上守護家の細川元常が大檀那となり高越寺の造営にかかわった棟札があるようです。
永正11年(1514)の「蔵王権現再興棟札」上守護家の細川元常が大檀那となり、
「御庄代官常直」
「当住持人法師清誉」
「大願主勧進沙問慶善」
らが名を連なります。
「上棟本再興蔵王権現御社一字」
「右意趣者奉為 金輪型阜、天長地久、御願円満、国家安穏 庄園泰平、殊者御檀越等一家繁、子孫連続故造立之趣、如件」
裏面には次のような銘があります
「刑部太輔源朝臣元常」と「丹治朝臣常直」の著判、
「檜皮大工久千田宥円」の名
「御社造立悉皆五百六十二人供也」
この棟札には「蔵王権現御社」としるされます。これが高越山の霊場化が確実視できる初めての史料のようです。「再興」とあるので、これ以前から蔵王権現が高越山に祀られていたようです。銘には「荘園泰平」とあります。ここからは、再興には高越山麓の上守護家領である河輪田庄・高越寺庄の安穏を祈願する願いがあったようです。つまり、蔵王権現社が高越寺の中核的な施設として機能していたことがうかがえます。
高越山 奥の院扁額
高越山奥の院の蔵王権現の扁額

また、「勧進沙門慶善」の名からは、この再興事業には勧進僧が参加し、勧進活動も行われていたことが分かります。棟札の裏面に「御社造立悉皆五百六十二人供也」とあるのが勧進に応じた人数ではないのでしょうか。
 これら事業関係者は「庄園泰平」の祈りに束ねられ、組織統合のシンボルにもなっていきます。こうして高越山は、河輪田庄・高越山庄の鎮守としての性質を帯びて、地域の霊場としての機能していた可能性があります。ただし、これらは高越山の社領ではありません。上守護家の所領支配に組み込まれている荘園なのです。それは上守護家という支えがあって成り立つもので、「御檀越等一家繁昌、子孫連続」とされるべきものなのでしょう。
 裏面には「檎皮大工久千田宥門」という大工の名があります。「久千田」が地名に由来するとすれば、吉野川北岸にあった朽田庄(久千田庄とも。阿波市阿波町久千田)に居住する職人かもしれません。高越寺は山麓一帯だけでなく、古野川の南北にまたがる地域との関係を持っていた気配もします。
高越山 権現2
高越山の蔵王権現
細川常有の「若王子再興棟札」(寛正三年〔1462〕の写し(寛政二年(一七九〇〕)もあるようです。
ここからは熊野十一所権現の一つである若王子が祀られていたことが分かります。つまり、熊野行者などによる熊野信仰も同時に信仰されていたことになります。先ほど見た『私記』には、高越寺には「蔵王権現を中核として、若一王子(若王子)、伊勢、熊野」が境内末社として勧請・配置されていたと記されていました。この棟札からは、15~16世紀には、すでにそのような宗教施設が姿を見せていたようです。
16世紀の「下の房」の空間構成は、どうなっていたのでしょうか。
下之坊のある「河田」は、高越山麓の河輪田庄(河田庄)域と研究者は考えているようです。天明八年(1788)の地誌『川田邑名跡志』(以下「名跡志』)には次のように記されています。
「下之坊、地名也、嘉暦・永和ノ頃、大和国大峯中絶シ 近国ノ修験者当嶺(高越山)二登り修行ス。此時下ノ坊ヲ以テ先達トス。修験者ノ住所也 天文年中ノ書ニモ修験下ノ坊卜記ス書アリ」
意訳変換しておくと
「下之坊の地名である。嘉暦・永和ノ頃に大和(奈良)大峯への峰入りができなくなったために、、近国修験者が当嶺(高越山)に、やってきて修行するようになった。この時に下ノ坊が先達となった。つまり下の房とは修験者の住所である。天文年中の記録にも「修験下ノ坊」と記す記録がある」

ここからは次のようなことが分かります。
①大峰への登拝ができなくなった修験者たちが高越山で修行をおこなうようになったこと
②その際に、下之坊が高越山で先達を務めたこと
また同書の「良蔵院」の項には、下之坊は天正年間、土佐の長宗我部氏の侵攻の前に退去した後、近世に良蔵院として再興された記されます。さらに『名跡志』には、良蔵院以外にも「往古ヨリ当村居住」の「上之坊ノ子係ナルヘシ」という山伏寺の勝明院など、山麓の山伏寺が七か寺あったと伝えます。「下之坊」の名称からすれば、セットとして「上之坊」も中世からあり、また高越山を修行場としたと推測できますが、史料はありません。
 和泉国に残された和泉国上守護細川氏の一次史料からは、高越山の麓は以上のようなことが分かります。これは、従来言われていた「阿波忌部氏の拠点」で「忌部修験の拠点」という説を大きく揺り動かせるものです。「高越山=阿波忌部修験の拠点」説は、阿波側の後世の近世史料によって主張されてきたものなのです。

 高越寺は、山伏をどのように組織していたのでしょうか
高越山に残された大般若経巻の修理銘明徳三年〔1292)には、「高越之別当坊」「高越寺別当坊」という別当が見えます。また上守護家による永源庵への明応四年〔1495)の寄進にも「高越別当職並参銭等」とあり、別当が置かれていたことが分かりますが、詳しいことは分かりません。
 時代を下った『西川田村棟付帳』寛文13年(1671)には、弟子、山伏、下人などが登場します。ここからは次のような高越山の身分階層がうかがえます。
①住学を修める正規の僧職と弟子=寺僧
②山伏=行を専らにする者
③寺に奉仕する下人(俗人)
基本的には寺僧と山伏だったようで、中世寺院の「学と行」の編成だったことが推察できます。しかし、15世紀末には別当職は、山内の実務的統括から切り離されていたようです。大まかには寺僧が寺務や法会を管掌し、そのもとで山伏が大峰修行や山内の行場の維持管理などを行ったとしておきましょう。しかし、地方の山岳寺院でなので、寺僧と山伏に大きな違いはなかったかもしれません。
 確認しておきたいのは『名跡志』では、山麓の山伏は高越寺には属していません。下之坊の伝承にあるように、高越山を修行の場としていたとみられ、山内と山麓をつなぐ役割をもっていたと研究者は考えているようです。


以上をまとめてると次のようになります。
①高越寺が史料に登場するのは13世紀で、弘法大師大師にかかわるものである
②15世紀には、役行者や蔵王権現信仰を中心に修験道の霊場となっていく。
③山内や下の房には、修験者(山伏)の拠点でもあった。
④この時期の高越寺は和泉国上守護細川氏の所領支配に組み込まれた
⑤高越寺は、近世初頭には阿波の有力霊山として広く知られていた

「高越山=忌部修験の拠点」説を、以前に次のように紹介しました
⑥高越山周辺地域を、中世に支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達
⑦忌部一族を名乗る20程の小集団は、忌部神社を中心に同族的結合をつよめた
⑧中世の忌部氏は、忌部神社で定期会合を開いて、「忌部の契約」を結んでいた。
⑨忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
⑩忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達だった。

しかし、今見てきた高越寺の歴史からは⑥⑦は見えてきません。中世の高越山周辺は④で、高越寺は細川氏の庇護下にあったのです。忌部氏の気配はありません。⑧⑨についても、同時代史料からはこのような事実は見られないようです。⑩に関しては、これでいいでしょうが「忌部修験」とすることはできないことは、史料が示すとおりです。
以上から、「高越山=忌部修験の拠点」説には、冒頭で述べたような次のような批判が出されているようです。
①「超歴史的であり、史料的な裏づけからも疑問視」される
②九山幸彦氏は阿波忌部に関する伝承は、近世の創作であることを明らかにした。

最後に、研究者は高越寺が四国辺路の札所に選ばれなかった背景を次のように推測しています
近世初頭に阿波の霊山として認知されていた寺院として、高越寺以外に大龍寺・雲辺寺・焼山寺・鶴林寺を上げます。これらは高越寺以外は、全て四国遍路の札所になっています。しかし、古くからの弘法大師信仰霊場でもあった高越寺が札所に選ばれませんでした。その背景は、高越山が大師信仰の霊場というよりも修験道霊場としての側面が強かったことにあるとします。そして、「開かれた霊場・巡礼地」としての基準に合わなかったというのです。
 別の研究者は、もとは高越寺も四国辺路の「大辺路」の札所であったものが、巡礼経路の変更で外れてしまったという説もあるようです。今は四国遍路道は10番切幡寺で吉野川を遡るのをやめますが、かつては高越寺へも四国辺路の行者達は巡礼していたのかも知れません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「長谷川賢二 山岳霊場阿波国高越寺の展開 修験道組織の形成と地域社会所収」
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高越山11
                                      
 阿波にはいくつかの霊山と呼ばれる山があります。
たとえば、古来祖霊があつまる所とされている神山町の焼山、阿南市の太竜寺山、阿波郡市場町の切幡山、板野郡上板町の大山などが挙げられますし、漁民の信仰をあつめた阿南市津の峯町の津の峰なども霊地です。やがてこれらの霊山の中には、海を越えてやって来た熊野派修験者が、吉野川に沿って活動を展開して、修験の霊山となったところもあります。修験の霊山に「弘法大師伝説」が、付け加えられ四国霊場に「成長」していったお寺もあります。前回は、讃岐山脈の大滝山を取り上げました。そして、大滝山は、高越山と仲が悪かったという話を紹介しました。
高越寺絵図1
 今回は、大滝山のライバルだった高越山を見ていきます。
 高越山は忌部氏とむすびついて「忌部修験」ともいえる独自の修験を生み出した山です。この山の修験道との結びつきは古く、剣山以前から盛えた修験の霊場です。これに対して大滝山は、前回紹介したように空海や聖宝の活躍をとく真言修験の山です。そして、どうやらこの両山は中世から近世にかけて、阿波の修験道を二分する勢力を持っていたようです。
 
高越山1

高越山は吉野川の流れる山川町にそびえ立つ1123メートルの高峰で、古くから「阿波富士」と呼ばれる眺めのいい山です。里の人たちが仰ぎ見る甘南備山として、古くから信仰を集めた霊山であることが一目見ると分かります。今は林道をたどれば里から1時間足らずで山の南側の駐車場にたどり着くことができます。境内から見える景色は絶景で、眼下を「四国三郎」吉野川が西から東へ悠々と流れていきます。遠く鳴門の潮路をへだてて、淡路島の山波や、その向こうの紀伊半島まで望むことができます。
 しかし、昔は下から歩いて登って来ました。

高越山4

途中の「万代池」の周辺には行場が見られます。この池から東に200メートルほど小路を行くと、「覗き岩」の行場があります。これは山腹に数百メートルの岩波があって、岩上に腹這って覗くのでこの名があるそうです。この岩場には鉄梯子が架けられていて、行者や元気な若者はこの梯子で上り下りしていたようです。

高越山3

 本道に戻ってさらに登ると、「黒門」があます。この辺りから左へ小路を入れば、「せり割り」の行場です。十余メートルの二つの大岩がせり割りを造って切立っています。参拝者達は、この割れ目を登り、二つの岩石にかけた丸木橋をわったといいます。これも行の一つだったのでしょう。 ここからは、寺に近く鐘の音が頭上に響いてきます。
高越山5

 山門の下は御影の石段、数十段、仁王の門をくぐると敷石が正面の本堂に通じています。昭和十四年一月二十八日に大火があり、立ち並んでいた本堂・拝殿・回廊・通夜堂・庫裏・大師堂が焼失。わずかに仁王門・鐘楼が災難から免れました。仁王門の階上におかれていた重要文化財「涅槃図」や、その他の寺宝は助かったそうです。

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  この本堂は昭和24(1949)年に戦後の物資の乏しい中、地元の人々の強い願で再建されました。先ず第1に感じるのは、本堂が見慣れないスタイルだということです。よく見ると、本殿に前殿を接合し,前殿に向拝を付けて建立されています。
高越寺2

じっくりと見ていると大きな唐破風は、堂々と力強く感じます。きらびやかな装飾が目をひく本堂には,金剛蔵王尊脇仏として千手観音と修験者のヒーローである役行者が祀られています。本殿入り口の扁額は木彫で,15代藩主蜂須賀茂昭の直筆といわれています。国内安定化の一貫でしょうが、江戸時代には阿波藩からの保護もありました。
IMG_2654

 本堂の彫刻群は美馬郡(現美馬市)脇町拝原,十世彫師三宅石舟斎の大作です。これは石舟斎最後の作品となったようです。山門は,第28世良俊上人の起請によるもので,県下五大重層門の一つとされています。この寺院への人々の信仰の強さが伝わって来ます。

高越寺1

このお寺の「修験道の伝統」は、いつ頃から始まるのでしょうか?
 寛文五年(1665)、高越寺の住僧宥尊によって書かれた「摩尼珠山高越寺私記」には、次のように記されています。

「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」

 ここからは、江戸初頭ころの、この寺の姿がうかがえます。役行者ー吉野蔵王権現という修験道の流れが見られます。      
 
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さて、この寺のことをしるした最初の記録は、密教小野流のうちの金剛王院流の祖として知られる聖賢の『高野大師御広伝」(元永元年[1118])のようです。ここには阿波国高越山寺(現在の高越寺)について、次のように記します。
大師所奉建立也。又如法奉書法華経、埋彼峯云々」

 ここからは高越寺は四国霊場ではありませんが、12世紀初頭に大師信仰の霊場として存在していたことが分かります。大師信仰のあるこの寺が、どうして四国八十八霊場にならなかったのかは、私にとっては大きな謎のひとつです。
高越寺4

次に古い史料は南北朝の14世紀後半のものです。
鎌倉時代から江戸時代にかけて、高越山の麓で高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の所蔵した古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。この文書の最も古いものが、貞治三年(1364)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す」ということで、檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代には、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに連れて行っていく「熊野行者」たちがいたことが分かります。同時に、高越山周辺は修験道の聖地となり修験者達のさまざまな宗教活動が展開されていた事がうかがえます。

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 次に、高越寺の名前が見えるのは、戦国時代の天文二十一年(1551)の「天文約書」のようです。その全文を紹介します。
   定条々
  阿波国 念行者修験道法度之事
一、喧嘩口論可為停止之事  
一 庸賊道衆なふるへがらす之瀋
一、淵国一居住之 山伏駈出之励、於国中二特料仕義可為停止、但遠国之衆各別也
一、其音行者之内、大峰之願参御座侯所、為余人不可到之事                 
一、於念行者之内、何之衆成共、立願被服侯共、其念行者二可被上之事
一 御代参之事、大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越何之御代参成共、念行者指置不可参之事
一、御沙汰事、依方聶買不申、御中評儀次第二可仕侯、此人数何様之儀出来候共、注進次第二飯米持二而可打寄事
右条々、従先年有来候雖為御法度、近年狼二罷成候条、得国司御意相改侯間、此度能々相守候事尤二侯。若、於相背者、御衆中罷出可為停止者也。依而如件。
    天文弐拾壱壬子年十一月七日
 会定柿原別当坊 岩倉白水寺 大西畑栗寺 河田下之坊 麻植曾川山 牛嶋願成寺 浦妙楽寺 大粟阿弥陀寺 田宮秒福寺 別宮長床 大代至願寺 大谷下之坊 河端大唐国寺 高磯地福寺 板西南勝房 板西蓮花寺矢野 千秋房 蔵本川谷寺 一之宮岡之房 合拾九人
  ここでは、阿波の念仏修験道者の法度(禁止)項目が、一堂に会した修験者達によって再確認されています。内容から当時の修験者の様子を知ることができます。ここで注目したいのは。法度6条です。ここには修験者が檀那衆に頼まれて代参する霊山としてあげられているのが「大峰・伊勢・熊野・愛宕・高越」の5つなことです。ここには石鎚や剣はありません。剣山が修験者にとって霊山として開発されるのは近世も後半になってからだったことは、以前に述べました。 
 また合意した19寺の中に、前回に大滝山の下寺的存在であったと紹介した「岩倉白水寺」が2番目に見えます。そして、大滝寺の名前は見えません。

高越山行場入口

 また高越寺には室町時代を降らないと思われる
木造の理源大師像があります。
聖宝(理源大師)NO3 吉野での山林修行と蛇退治伝説 : 瀬戸の島から
醍醐寺の理源大師像
この像は等身大の立派なお姿で、前後の二材矧ぎという古風な寄木造りです。ちなみに理源大師は、醍醐修験道の開山者で、修験者の崇拝を集めていました。こんなに立派な像は、県内には他にはありません。
 また、このころから高越寺は、東の大峯に対して自らを西山と呼びはじめています。
このような「状況証拠」から、高越寺は中世阿波国における修験道のメッカであったと研究者は考えているようです。

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修験道は、どういう風に高越山に根付いたのでしょうか?
高越山をとり巻く地域は、麻植郡山川町・美郷村・美馬郡木屋平村などです。これらの地は古代、忌部氏領域であったとされます。中世にそれらの地域を支配したのは、忌部氏を名乗る豪族達でした。彼らは、天日鷲命を祖先とした古代忌部氏の後裔とする誇りをもち、大嘗祭に荒妙を奉献して、自らを「御衣御殿大」と称していました。これらの忌部一族の精神的連帯の中心となったのが山川町の忌部神社です。

山﨑忌部神社1

忌部一族を名乗る20程の小集団は、この忌部神社を中心とした小豪族集団、婚姻などによって同族的結合をつよめ、おのおのの姓の上に党の中心である忌部をつけ、各家は自己の紋章以外に党の紋章をもっていました。擬制的血縁の上に地域性を加えた結びつきがあったようです。
山﨑忌部神社3 天岩戸神社の神籠石(こうごいし)

 鎌倉時代から室町時代にかけて忌部氏は、定期会合を年二回開いています。そのうちの一回は、必ず忌部社のある「山崎の市」で毎年二月二十三日に開かれました。彼らは正慶元年(1332)11月には「忌部の契約」と呼ばれ、その約定書を結んでいます。それが今日に伝わっています。 このようなことから、忌部一族の結束の場として、忌部神社は聖地となり、その名声は高かったようです。
この忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達でした。
 高越寺の明神は古来より忌部の神(天日鷲命)だったと考えられます。修験道が高越山・高越寺に浸透するということは、とりもなおさず忌部神社と、それをとり巻く忌部氏に浸透したということでしょう。
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 こうして「忌部修験道」とも呼ぶべき修験道の阿波的な形態が生まれます。羽黒山・英彦山・白山などと同じ成行きと言えます。修験道が背負うべき神が、阿波では忌部の神となったのです。
江戸時代に書かれたと思われる「高越大権現鎮座次第」には冒頭に次のように述べています。
吉野蔵王権現神勅に曰く。粟(阿波)国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め諸神達の集る高山なり。我も彼も衣笠山に移り、神達と共に西夷北狭を鎮め、下城を守り、天下国家の泰平を守らんと宣ひ、早雲松太夫高房に詰めて曰く。
 「汝は天日鷲命の神孫にて衣笠の祭主たり、我を迎え奉れ」と、神記にて、宣化天皇午八月八日、蔵王権現御鎮座也。供奉に三十八神一番は忌部孫早雲松太夫高房大将にて大長刀を持ち、御先を払ひ、雲上より御供す。此の時震動、雷電、大風大雨、神変不審議之御鎮座也。蔵王権現高き山へ越ゆると云ふ言葉により、高越山と名附たり、夫故、高越大権現と奉
  中候。……
とあります。「吉野蔵王権現が衣笠山(高越山)に降臨した際、天日鷲命の神孫である忌部の孫の早雲松太夫が御先を払って雲上より御供した」という表現は、先ほど述べた「修験道が忌部の諸神と融合した」ということと重なります。
 江戸期の享保年中(1716~36)に、阿波国内神名帳作成をきっかけとして、「忌部公事」と呼ぶ問題が起きます。これは『延喜式神名帳』の忌部神社の正統を決める事件でした。その際に自らが正統だと名乗り出た多くの神社の中に、高越大権現も入っていました。当時の神仏習合の有り様をよく示しています。

高越山8


参考文献 田中善隆 阿波の霊山と修験道

 

                                     

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