瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:阿波の歴史と天空の村のお堂と峠 > 高越山

前回は、高越山のふもとにあった中世の荘園について見ました。「高越寺荘=河輪田荘」について、「福家清司 中世麻植郡の荘園について 講座 麻植を学ぶ105P」は、次のような異論がだされていました。
高越山河輪田荘1
福家清司氏の見解
河輪田荘と高越寺荘が別物であるとすれば、河輪田荘は、どこにあったのでしょうか。
これについても福家清司氏は、講演の中で次のように提示しています。

河輪田荘の名と地名
         河輪田荘本庄年貢未進等注文案(1333年)の地名・人名

ここには「友松」という名主・名田がでてきます。これに研究者が注目します。
友松は現在の山川町村雲や川田のことで、河輪田荘はこのエリアを含んでいたとします。ここは下図のように、現在の吉野川の南岸にあたるところです。

高越山河輪田荘領域


高越山河輪田荘所在地1

次に、「吉野川は岩津から北に向かって流れていた。阿波市林地区に残る川跡湖はその名残」を見ておきましょう。
高越山河輪田荘 川跡湖
            岩津橋上流からの旧吉野川と川跡湖(1964年航空図)

確かに林地区には、川跡湖があり北岸への流れ込みがうかがえます。つまり、この北流する吉野川の南側全体が河輪田荘だった、
「輪田」というのは、「輪中」「川中島」のような地形で、吉野川に囲まれた地形であったと研究者は考えています。これを図示すると次のようになります。

河輪田荘と高越寺荘領域地図
                   河輪田荘と高越寺荘
2つの荘園のエリアを確認しておきます。
A 河輪田荘 川田 + 川中島 + 林 ほたる川の北側 
B 高越山の北側一体で、ほたる川の南側
ここで注目したいのは、ほたる川です。この川は、もともとは川田川の下流域だったようです。

高越山 ほたるかわ
川田川は、今は「瀬詰(せずめ)大橋」の方向に北流していますが、これは1925(大正14年)の河川改修工事によるものです。それ以前は次の通りでした。
①改修以前の川田川は、山川町北島で東流し、「ほたる川」を本流としていた。
②洪水の時には国道に氾濫したり、「前川」「若宮」に流れ込んだり、「瀬詰」方向に北流した。
③そこで約百年前に、北流させ瀬詰大橋附近で吉野川に流れ込む河道変更工事が行われた。
つまり、それまでは川田川は北島付近で流れを変えて東流していたことを押さえておきます。こうしてみると、旧川田川が高越寺荘と川輪田荘の境界だったことが考えられます。

川輪田荘の初見は、永久5年(1117)に再度立荘の際の史料になります。
     民部卿家政所下  阿(河?)輪田庄
可早任庁宣打定四至膀示庄領事
使太政官史生紀為忠
右件四至広博、為国衛有訴、又為庄家、動牢籠出来、働任国司庁宣、在庁人相共行向東西南北肝隠、且任本四至、員縮広博之地、庄家井国衛等、共無後日之訴、定四至、打膀示、永注向後之牢籠、可為御領之状、所仰如件、敢不可違失、故下、永久五年十月十二日
(十一名署判略)
意訳変換しておくと
民部卿家政所下の河輪田庄について
速やかに荘園の区画決定のための四至膀示を庄領に建てさせること
使太政官史生紀 為忠
(先に立荘した河輪田荘については)「四至」が広大で、(境界が不明確であったために)、国衛から訴えが起こされた。そこで関係者が出向いて範囲を縮小するなどの調整を図った結果、「庄家」と国衙の争いがなくなった。そこで改めて東西南北の四至を定め、膀示を打ち、荘領を定める、
ここからは再立荘以前の河輪田荘は、境界が不明確で、その範囲をめぐって国衛との間でトラブルが発生したことが記されています。吉野川の洪水で流路変更し、境界が移動し、紛争の元になったことがうかがえます。
以上をまとめておくと
①高越寺荘と川輪田荘は別物だった
②川輪田荘は、高越寺荘に隣接し、旧吉野川と川田川に囲まれた「川中島」的存在であった
③川輪田荘は、その後の吉野川の流路変更で多くのエリアが川底に沈んだ。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「福家清司 中世麻植郡の荘園について 講座 麻植を学ぶ105P」
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高越山周辺の寺社や行場などを見てきました。今回は麓の旧川田村にあった中世荘園を見ていくことにします。麻植郡の荘園を旧町村別に示したのが次表1です。

阿波麻植群荘園一覧表
ここからは高越山の麓の山川町に次の4つの荘園があったことが分かります。
①高越寺荘
②河輪田荘
③河田荘
④忌部荘
従来は①②③は、同一の荘園とされてきました。それは、約90年前の戦前に出版された本に、次のように記されたからです。
高越寺荘と河輪田荘

ここでは、その名前から「河輪田(かわた)荘 = 高越寺荘(河田荘)」と断定しています。権威ある書籍にこう書かれると、検討されることなく定説化されてきたようです。しかし、21世紀になって、これに異議を唱える説も出てきています。今回は高越寺荘と河輪田荘は別物であるという説を見ていきたいと思います。テキストは「福家清司 中世麻植郡の荘園について 講座 麻植を学ぶ105P」です。
まず、最初に登場してくる高越寺荘を見ていくことにします。
高越寺荘の成立時期については、山永仁元年(1292)8月日「高越荘八幡宮御供頭置文案」(「永仁史料」)に「本庄」・「新庄」と記されています。ここからは遅くとも13世紀末には、高越寺本荘・新荘が成立していたことが分かりますが、それ以上詳しいことは分かりません。史料的には『山塊記』応保元年(1161)8月に「尊勝寺末寺阿波国高越寺」とあるのが初見になるようです。

 尊勝寺 平安京郊外の白河殿に付属した堀河天皇の御願寺。六勝寺の一つ。
現在のロームシアター京都(京都会館)の周辺
この時の領家兼子は、前阿波守説方の妻です。夫の説方は12世紀中頃に阿波守在任だった藤原頼佐(説方と改名)のことです。ここから高越寺が尊勝寺の末寺にされた時期と契機について、研究者は次の2説を考えています。
①頼佐が阿波守の時に、高越寺を尊勝寺末寺にした
②頼佐の先祖に藤原為房の時に、高越寺を尊勝寺末寺にした
②の藤原為房は、院の側近として絶大な権力を持っていた中央権力者です。彼は寛治6年(1092)に阿波権守として阿波に配流され、その後に復権を果たします。その為房が御願寺尊勝寺の創建に深く関わって、阿波配流時の機縁によって高越寺を尊勝寺末寺とした筋書きも考えられます。どちらにしても、12世紀半ば頃には、次のような荘園支配システムがあったことになります。
尊勝寺を本家
仲介した藤原為房が領家
高越寺(僧侶)が現地管理者
そして高越寺荘の領有は、次のように推移します
①尊勝寺から平氏へ
②平氏滅亡後は、鎌倉幕府の没収領となって、関東御領に編入
③その後、源頼朝の妹である一条能保の妻
④その娘の西園寺公経妻全子、
⑤その娘九条道家妻倫子から九条道家へと渡り、
⑥道家から九条忠家へと伝領
以上のように高越寺荘は、鎌倉幕府が平家からの没収後に関東御領としたために、承久の乱以前に地頭が置かれた所になります。最初に地頭職が与えられたのは、源頼朝の側近であった中原親能ですが、建久8年(1198)までに小笠原氏に移ります。小笠原氏は承久の乱後に、それまでの守護佐々木氏に代わって阿波国守護となっていますので、そのときに高越寺荘の地頭職も得たようです。こうして、高越寺荘周辺は、鎌倉幕府の阿波支配の要地となっていきます、
 南北朝期になると、細川氏が阿波国に侵攻してきます。
細川氏の阿波侵攻当初の攻撃目標のひとつが麻植郡だったようです。早い段階で高越寺荘周辺は、細川氏に攻略されています。その背景には、麻植郡が鎌倉幕府の関東御領に準ずる土地であったこと、そして当面の敵であった守護小笠原氏の軍事的・経済的基盤であった守護領であったためと研究者は考えています。その後、南北朝末期になって細川氏が分立化するようになるとと、守護領が分割され、阿波は和泉細川氏の家祖となる頼有の所領となります。それが確認できる史料を見ておきましょう。

細川頼有【今上天皇の直系祖先】 | 歴史ディレクトリ
                      細川頼有
細川頼有から頼長(松法師)への所領譲状です。
【史料1】
ゆつり(譲り)状しょしょ(諸処)のしようりやう(所領)の事
一 ぁハ(阿波)あきつき(秋月)の三ふん一ほんりやう(本領)
一 ぁハはんさいのしものしやうのちとうしき(地頭職)おかのかあと
一 ぁハおえのしやう(麻植荘)のりやうけしき(領家職)内 中分平氏両所これハゆいしょあり
一 ぁハ①かうおち(河内)の御しよう(荘)
一 ぁハこうさとの一ふんのちとうしき よこたのひこ六郎あと
一 ぁハはんさいのかみのしやうの内ふちをか
一 ぁハたねのやま(種子山)こくかしき
(讃岐・伊予の所領略)
これハ頼有ちきやうのしよりやうなり、しかるをしそく松ほうし(法師)にことごとく、とらせ候うヘハ、又よのこともいらんわつらいあるましく候、もしさやうのものあらハ、ふけうの人たるへく候、たたしまつほうしか事ハ、大とのへまいらせ候うヘハ、御はからいたるへく候、又そのみのふるまいによるへく候、後日のためにしたゝめおく状くたんのことし、
かきやうくわんねん十一月廿六日    頼有(花押)
①の「かうおちの御しょう」は、「高落御庄」と同じなので「高越御庄」のことと研究者は考えています。この史料に加え、永仁史料には「高落(越)御庄」「高越庄」と、高越寺に荘号が付けられています。高越庄は建長2年(1250)に九条道家から九条忠家に譲渡されたのを最後に、九条家領としては史料から消えています。藤原氏以来の大貴族の荘園経営が解体し、武士達の時代がやってきたようです。高越寺荘は、細川頼有から所領を譲られた頼長(松法師)以後は、和泉細川氏の所領の一つとして伝領されます。それは戦国時代になって細川氏が衰退して、又代官出身の上肥氏が支配するまで続きます。

川田八幡神社本殿3 山川町
川田八幡神社(旧高越荘八幡宮) 本殿は山川町で一番古い建築物
山川町川田八幡神社本道
川田八幡神社本殿平面図 本殿は鎌倉の鶴岡八幡宮と同じ特異な様式

川田八幡神社は、永仁史料には「高越庄八幡宮」と記されています。

その宮座関係史料である永仁史料には、次のような名前が出てきます。

「徳光・末光・守延・光国・正宗・利弘・時武・石国・依国・行安・時宗・宗安・為吉・宗友・友守・久友・助友・成行・貞友・助安」

これらの名前は「名」の名称と研究者は考えています。そうだとすると、高越寺荘は多くの名によって構成されていたことになります。また永仁史料は、本荘と新荘の別があったものの、重要な行事である八幡宮の祭礼については合同で行っていたようです。川田八幡神社(高越庄八幡宮)は、荘園の鎮守として、歴代の領主に厚く保護されてきた神社ということになります。その社殿は鎌倉の鶴岡八幡宮と同じ特異な様式(『山川町史』)とされます。また、現存する最古の棟札に「右大将軍頼朝公御一門繁栄子孫豊楽」と記されています。これらを合わせて考えると、関東御領である高越寺荘の鎮守として「大檀那小笠原弥太郎長経」が鶴岡八幡宮を勧請した神社であったとも考えられます。
 最初に見た麻植郡の荘園一覧表には、細川氏の所領として高越寺荘以外にも、麻植荘と種野山があります。
麻植郡全体が細川氏の勢力下にあったと研究者は考えています。これらの所領は和泉細川氏の家領として、阿波守護家が統治に当たっていました。その統治拠点として設置されたのが「和泉屋形(泉館・井上城)」と呼ばれている館で、ここに年貢などは集まられ、運び出されていたことが考えられます。和泉細川氏は麻植郡内の所領支配は代官を派遣して支配していましが、よく麻植郡にやってきたりして、禅宗寺院を創建するなど家領経営には熱心であったようです。ここでは室町幕府の時代の麻植郡は、細川氏の支配下に置かれ、その拠点として井上城があったことを押さえておきます。

井上城跡2
井上城跡
井上城跡
井上城の説明版
高越寺荘に続いて現れるのが河輪田荘です。

これを「かわわた」「かわた」と読み、江戸時代には川田村(後に東西川田村)、川田山と呼ばれていた地域の荘園とされてきたことは、最初に見た通りです。
「河輪田荘=高越寺荘」説
従来の河輪田荘についての説明

河輪田荘の初見史料「史料3」を見ておきましょう。
【史料3】
民部卿家政所下  阿(河?)輪田庄
可早任庁宣打定四至膀示庄領事
使太政官史生紀為忠
右件四至広博、為国衛有訴、又為庄家、動牢籠出来、働任国司庁宣、在庁人相共行向東西南北肝隠、且任本四至、員縮広博之地、庄家井国衛等、共無後日之訴、定四至、打膀示、永注向後之牢籠、可為御領之状、所仰如件、敢不可違失、故下、永久五年十月十二日
(十一名署判略)
意訳変換しておくと
民部卿家政所下の河輪田庄について
速やかに荘園の区画決定のための四至膀示を庄領に建てさせること
使太政官史生紀 為忠
(先に立荘した河輪田荘については)「四至」が広大で、(境界が不明確であったために)、国衛から訴えが起こされた。そこで関係者が出向いて範囲を縮小するなどの調整を図った結果、「庄家」と国衙の争いがなくなった。そこで改めて東西南北の四至を定め、膀示を打ち、荘領を定める、
ここからは河輪田荘は、これ以前に立荘されたものの、その範囲をめぐって国衛との間でトラブルが発生し、改めて協議・調整を行って永久5年(1117)に再度立荘されたことが分かります。河輪田荘の立荘時の本家は、民部卿藤原宗通でした。
その後の河輪田荘の変遷を見ておきましょう。
①治承4年(1180)5月11日「皇嘉門院惣処分状」によって、皇嘉門院から猶子の藤原良通に譲渡。皇嘉門院は藤原宗通の孫で、母宗子は民部卿宗通の娘、摂政藤原忠通の室でした。
②藤原良通が21歳で死去し、その家領等は良通の室に継承
③さらにその後は、良通の父である九条兼実へ継承
④元久元年(1204)、兼実から孫道家へと継承
その後も河輪田荘は九条家領として伝領された後に、応永19年(1412)は光明照院領となっています。光明照院については、二条兼基が光明照院と呼ばれたことから、兼基の墓所として営まれた仏堂・寺院です。つまり二条家の菩提寺です。二条兼基は九条道家の次男二条良実の孫ですから、河輪田荘を祖父・父から受け継いだのでしょう。以上が河輪田荘の本家職の伝領経路になります。
です。
河輪田荘と高越寺荘の伝承比較
              高越寺荘と河輪田荘の伝領比較NO1
河輪田荘と高越寺荘の伝承比較2
             高越寺荘と河輪田荘の伝領比較NO2

ここまで見て気づくことは河輪田荘と先ほど見た高越寺荘とは、その成立経緯も領主もまったく異なることです。また、同じ山川町川田に二つの荘園が同時並立していたことになります。これについては、従来は次のように説明されていました。

河輪田荘と高越寺荘 田中省造説
田中省造説 河輪田荘と高越寺荘の同時並立説 
河輪田荘と高越寺荘 田中省造説イメージ
同時並立説のイメージ
これに対して「河輪田荘=高越寺荘」ではなく、両者は別物と考える研究者が根拠とするのが川田八幡神社(高越庄八幡宮)の永仁史料です。ここには、その宮座の名主42名の席順が記されています。

高越寺荘の名と地名

これと現在に残る地名を比較したのが上表です。赤が地名として残っている名です。名は徴税単位でもあり、人名から地名へと、名主の名前が地名として残ります。高越寺荘の名の約半分が現在に残っていることが分かります。これは、高越寺荘が川田村であったことを裏付ける強力な証拠になります。 一方、河輪田の場合はどうでしょうか?
元弘3年(1333)12月日「河輪田日本荘年貢未進等注文案」には、河輪田本荘内の名として、「久末・久次・光末・友松・末吉・行助・行貞・貞恒・重弘・美作」が挙がっています。しかし、これらの名は現在の山川町川田にはない地名です。

河輪田荘の名と地名

つまり、河輪田荘は川田地区とは関係のない場所にあったということが推測できます。
3つ目の河田荘については見ておきましょう。
河田荘は、応永20年(1413)6月15日「室町幕府御教書」に、「建仁寺永源庵領阿波国河田公文職三分一」として初めて出てきます。先の2つの荘園から300年ほど後になることを押さえておきます。
「河田公文職三分一」は、応永24四年史料に永源庵領の一所として見える「阿波国高越寺御庄公文職三分一」に対応するものです。ここからは「高越寺御庄」と同じ意味で「河田」が使われてていたことが分かります。『永源庵師壇紀年録』の宝徳二年(1450)の記録には、はっきりと「河田荘」と記されています。ここからは高越寺荘と同じ意味で河田荘が用いられたことが裏付けられます。これについては、高越寺荘の荘園管理の中枢機関が「河田」にあったので「河田公文職」呼ばれるようになったと研究者は考えています。それが転じて、高越寺荘が河田荘と呼ばれるようになったと云うのです。
 これを裏付ける史料を見ておきましょう。
 
河田荘と高越寺荘の同一性

上の明応4(1495)の「細川元有寄進状」には、「河田荘の中にある高越別当職の任命権と参銭(寺院への参拝料)の徴収権を認めています。下の史料も「高越参銭」とあります。ここからも河田荘に高越山はあったこと、そしてかつて高越寺荘と呼んでいたのを、この時期になると「河田荘」と呼ぶようになったことが分かります。

最後に忌部荘を見ておきましょう。
忌部荘は江戸時代の編纂物である『応仁武鑑』に「忌部庄三百町」と見えるのが唯一の記録のようです。古代の麻植部には「忌部郷」があり、それは現在の山川町忌部あたりが比定されてきました。古代の「忌部郷」が荘園があったとされるのですが、そのことを示す史料は今のところありません。「忌部荘という荘園が実在していたのかどうかも含めて不明とせざるを得ない。」と研究者は指摘します。
 沖野氏は忌部荘について、次のように述べています。

「種野山国衛。川島保・高越寺荘及び美馬郡の穴吹荘・八田荘を含んだ広域荘園で、これはもともと忌部神社の社領であったものが、そのまま忌部荘と総称して持賢の私領としたものであるまいか。その理由は次の通り。
美馬郡の穴吹荘・八田荘はこれを麻植領といって、忌部神社の宮司麻植氏の私領として伝領していたことは天文二十一年の三好康長感状に明らか。周辺はすべて皇室領であるから、忌部神社の社領は早くから皇室領に移されていて、忌部神社の宮司の私領のみが美馬郡の穴吹荘・八田荘として伝領せられたと考えられよう。」

「麻植や美馬などを含む広域荘園があり、それが忌部神社の社領であった」というのは、研究者からすれば「今日の荘園研究に照らすと納得し難いもの」と評します。高越山は忌部修験の中心地で、忌部氏の拠点でもあったと云われてきました。しかし、現在の荘園研究の成果の上では、忌部氏の活動は見えてこないようです。ただ山崎の忌部神社周辺に痕跡が残るのみです。
以上を整理しておきます。
①高越山の麓の山川町には①高越寺荘 ②河輪田荘 ③河田荘 ④忌部荘の4つの荘園があった。
②この内の①と③は同一で、①の高越寺荘が室町時代に細川氏支配下に置かれた頃から「河田荘」と呼ばれるようになった。
③その背景には、麻植郡全体が細川氏の所領となり、その拠点が河田にあったためと研究者は推測する。
④一方、②の河輪田荘は成立・伝領・地名などの面から見ても、他所にあった別の荘園である。
それでは河輪田荘は、どこにあったのでしょうか。そのヒントは名前にあると研究者は指摘します。
「輪田」というのは、「輪中」「川中島」のような地形で、吉野川に囲まれた地形であったとします。

河輪田荘と高越寺荘領域地図
              河輪田荘の推定地 吉野川の「川中島」?

これについてはまた別の機会に・・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「福家清司 中世麻植郡の荘園について 講座 麻植を学ぶ105P」

高越寺は、他にはないような雰囲気を感じ取らせてくれる伽藍です。修行の山で、修験者の拠点だったという感じが強くします。そして、豪壮で力強い山門の前に立った時の印象と、山門をくぐってその前に拡がる伽藍のイメージが大きく違います。それは、入口の木造山門と、伽藍中心に立つ近代的な本堂の落差なのでしょうか。
 
高越山山門4
高越寺の山門

 高越寺は、戦前の昭和14(1939)年1月の大火で、ほとんどの建造物が焼失したようです。
残ったのは、本堂と離れていた山門・鐘楼・お水舎の三棟だけでした。それ以外の建物は焼け落ち、戦後になって建てられたものなのです。つまり、伽藍の入口附近は、それまでの古い建物で、それから内側の建物は、戦後に新築されたものなのです。それがさきほどの私がいだくイメージを作り出しているのかもしれません。今回は、高越寺の建築物群を、調査書を片手に見てまわることにします。テキストは、「阿部 保夫 高越山の姿  阿波学界紀要2012年です。

高越寺は、明治の神仏分離以前には「高越権現」と称していますたが、近代になってからは「金剛蔵王尊」を本尊とする真言宗の寺となりました。そして、山門が明治38年、鐘楼が明治42年、手水舎も同時期に建立されます。この3つが明治末の建築物であることを押さえておきます。
それでは、戦前の火災を免れた山門から見ていくことにします。報告書には次のように記されています。

高越山山門平面図
高越寺の山門・鐘楼・手水舎の平面図
高越山の山門
本堂から40m程東方向に位置し、三間一戸二階二重門で両脇に彩色された仁王像を安置する。下の重は、柱脚部は礎石に礎盤を載せ、柱は円柱(粽)で腰貫、内法貫、飛貫、頭貫、厚台輪で固め、壁は横板張りとする。虹梁、籠彫木鼻、十二支の中備彫刻、彫刻板支輪などで飾る。上の重は、切目縁に擬宝珠高欄を回らし、円柱(粽)を切目長押、頭貫、厚台輪で固め、壁は横板張りとする。開閉装置は桟唐戸、火灯窓を設け、組物は二手先とし、尾垂木、詰組で繋ぎ、中備彫刻で飾る。軒は、放射線状に二軒繁扇垂木で大きく張出す。妻飾は虹梁に大瓶束笈形付で、破風の拝みに飛龍の懸魚を付ける。多彩な彫刻と、礎盤、粽柱、厚台輪、木鼻、板支輪、火灯窓などの禅宗様式が色濃い建物である。

高越寺山門6
高越山山門
中ノ郷から真っ直ぐに伸びる石段を登っていくと、上から圧倒するように迎えてくれるのがこの山門です。徳島県の五大重層門の一つとされているようです。

P1280009

入母屋造、銅板葺、三間一戸の二重門で軸部は総欅です。
高越山山門の重層

重層な二重軒に繁を扇に打ち、斗拱は出組二手先となっています(写真13)。
高越山山門の
壁の中央に板扉を入れて左右には、和様と禅宗様が混交する火燈窓(写真14)があり、擬宝珠高欄を廻らしています。全体に「和様と禅宗様が混交」し、「それがよく融合し,堂々とした風格と威厳に満ちた格調高い建築」と研究者は評します。

高越山山門の十二氏彫刻

見所は彫刻です。特に虹梁の木鼻や、初層の軒下の欄間にの十二支(写真15)に研究者が注目します。これを掘った彫師は、美馬郡脇町拝原の名工三宅石舟斎(九世)で、彼の代表作とされるようです。建築年代は先ほど見たように、明治末期のものになります。
高越寺山門の仁王
      高越寺山門の仁王さま 老朽化で立っていられなくなったようです。
建物全体に痛みが目立ち始めています。これを次の時代に残していく智恵が求められています。
次に、山門の隣の鐘楼を見ておきましょう。

高越山鐘楼3

桁行一間、梁間一間、一重、柱脚部は礎石に礎盤を載せる。柱は円柱(粽)で腰貫、内法貫、頭貫、厚台輪で固め、虹梁、籠彫木鼻などで飾る。軒は二軒繁垂木で、屋根形状は入母屋造の銅板葺である。山門と同様に、多様な彫刻が近代的な建物である。
高越山鐘楼9
高越山鐘楼
桁行と梁間が等しい四本柱で、入母屋造,銅板葺二重軒,繁内転びの円柱が礎盤に建っており、腰貫と頭貫の間に虹梁を廻らしている。斗拱は出組二手先で詰組となっており、材は総欅である。基壇は花崗岩で精巧な仕上げとなっており、正面には階段が設けられている。軒の出が大きく気品があり、妻飾りなどが何とも言えない重厚さを感じさせる(写真16)。また,精巧で入念な蟇股、木鼻の彫刻が美しい(写真17)。

高越山鐘楼の彫刻
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           高越山鐘楼の彫刻 三宅石舟斎(九世)作

この鐘楼も昭和の大火から免れたもので、山門と相前後する明治末期に同じ大工・彫師によって建てられたものと研究者は考えています。
④御水舎は規模は、規模は小さいのですが同じ時期に建てられたものです。
高越山手水舎
切妻造、銅版葺、一重軒、繁、四本の円柱が内転びに立ち,頭貫と台輪を廻らして斗拱で桁を支えている。すっきりとした美しさの建物で,要所に配する彫物が素晴らしく,建物にも調和している(写真18)。中でも、妻の笈形、四面の蟇股が注目される(写真19)。

高越山手水舎彫刻

そう言われてみれば、彫刻がたくさん彫られています。この建物は山門や鐘楼と共に、明治初めに建てられ、昭和の大火を焼け残った三棟の一つになります。最初に述べたように、入口周辺の3つの建物は、豪壮感あるもので明治末に同一の大工・彫師の手によるものだったことを押さえておきます。
さて、敗戦後すぐに建立された高越寺本堂を見ていくことにします。
P1280003
高越寺本堂
本堂は、昭和24(1949)年に戦後混乱期に再建されたものです。一見すると本堂には見えず、神社のようにも思えます。この建物は、あまり例のない様式で、本殿に前殿を接合し、さらに前殿に向拝を付けたスタイルで権現造りのように見えます。

高越寺本堂
高越山本堂
その権現造りの正面は、入母屋造平入の拝殿の中央に千鳥破風と軒唐破風が付けらています。唐破風は大きく堂々と力強く感じます。同時に、きらびやかな装飾も施されています。まさに、戦後直後という解放感の中で、建築家が蓄積してきた想像力を爆発させたもののように私は感じます。ある意味では「変わった形式の本堂」で「自己主張する建物」と私には見えます。

高越寺本堂内部
        高越寺本堂内部 大提灯にはいまも「高越大権現」と書かれている

本堂に祀られているのは次の通りです。
 本尊 金剛蔵王尊(高越大権現)      
 脇仏 千手観音 + 役行者 
ここからは「金剛蔵王尊=蔵王権現 千手観音=熊野補陀洛信仰 役行者=修験道」の各信仰の形がうかがえます。
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高越大権現の御真言
本殿入り口の扁額は木彫で、15代藩主蜂須賀茂昭の直筆とされます。(写真9)
高越山文書の中には、蜂須賀家政・第3代藩主蜂須賀光隆・第5代藩主蜂須賀綱矩(つなのり)や家老の蜂須賀山城(池田内膳)からの書簡をつなぎ合わせた巻子もあるので、早い時期から蜂須賀家とのつながりを持ち、保護を受けていたことがうかがえます。

高越寺本堂の扁額
大虹梁の上には形のよい蟇股が配され,向拝の兔の毛通しをはじめ、獅子口、箕甲の線など均整が保たれている。大虹梁の木鼻や蟇股、懸魚などの彫刻が豪華であり、見事な龍の彫刻が左右の柱に刻まれている(写真10)。これらの彫刻は美馬郡(現美馬市)脇町拝原、十世彫師、三宅石舟斎の大作であるが、彫師としては十世をもって終末しているので、石舟斎最後の作品となった。

高越山本道の彫刻

              高越寺本堂向拝部の三宅石舟斎(十世)の龍
錫杖塔は、昭和49(1974)年に完成したものです。
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この伽藍の中で、他を圧倒する存在です。鉄筋コンクリート石張仕上げで、大きな錫杖が天を指します。その下の塔身は八面で、そこに守り本尊八尊が刻まれていて、塔を廻って巡拝できます。多宝塔でなく、こんな塔を建てた所にも独創性や自己主張を感じます。私が高越寺と聞いて最初に思う浮かべるのは、この塔です。この塔と、山門のコントラストが強烈な印象として残るのかも知れません。

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善通寺の錫杖

心経塔は、信者の納経を納める塔で、錫杖塔の翌年(1975年)に完成したものです。

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高越寺 心経塔
宝篋印塔をイメージした塔に宝剣がたっています。

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             修行中の空海に飛んでくる宝剣(弘法大師行状絵詞)
これは弘法大師行状絵詞の中に描かれた宝剣をイメージさせます。錫杖や宝剣というのは、弘法大師伝説の重要なアイテムです。ここには、弘法大師伝説をより強く打ちだしていこうとする高越寺の布教戦略だったと私は考えています。

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                    高越寺護摩堂
高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)には、当時の宗教施設について、次のように記されています。
①「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
②「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
③「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
④「若一王子宮」         → 熊野信仰
⑤「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
⑥「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰 → 虚空蔵求聞持信仰  
これと現在の信仰物を対比させてみましょう。
 本堂
 本尊  金剛蔵王尊(高越大権現) → ①     
 脇仏  千手観音         → ② 
     役行者          → ①
 大師堂 弘法大師         → ③
こうして見ると、④⑤⑥が姿を消しているようです。④⑤は、熊野信仰と伊勢信仰で神仏分離の時に姿を消したのかも知れません。しかし、⑥の「愛宕権現宮」の痕跡がなくなっているのはどうしてなのでしょうか? 
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

「愛宕妙見信仰」や虚空蔵信仰は、渡来人で鉱物資源開発や鍛冶などの技術集団であった秦氏が信仰した信仰です。それが高越山からは消えたことになります。
 高越山が忌部氏の聖地であり、高越寺が忌部神社の別当であったということについては、現在ではいろいろな疑問点が出されています。
それは根拠となる史料がないのです。「高越山=忌部氏聖地」が「あたりまえ」とされていて、それが前提としていろいろなことが語られてきました。「忌部十八坊」と高越山・忌部神社の関係、十八坊の相互関係(山伏結合としての実態)なども、史料から明らかにされていないことは以前にお話ししました。
高越寺の一番古いとされる縁起「摩尼珠山高越私記」(1665年)の構成を、研究者は次のようにまとめます。
A 役行者(役小角)に関する伝承
①「天智天皇の御宇、役行者開基」
②「大和国吉野蔵王権現と一体分身にして、本地別体千手千眼大悲観世音菩薩」
③「役行者が(中略)権現の奇瑞を感じ、この峰(高越山)によじ上る」
ここには高越山が役行者による開基で、蔵王権現(本地仏 千手観音)を本尊とする山で、役行者が全国に六十六ヶ所定めた「一国一峰」の一つであること記される。
B 弘法大師に関する伝承
④「弘仁天皇の御宇、密祖弘法大師、秘法修行の願望有り此の山に参詣す」
⑤「権現感応有りて、彷彿として現る」と、大師が権現の示現を得て、虚空蔵求聞持法等の行や木造二体を彫刻したこと
C 聖宝に関する伝承
⑥「醍醐天皇の御宇、聖宝僧正、意願有り此の山に登る」と、聖宝がやってきて一字一石経塚の造営、不動窟の整備などを行ったこと。
これと先ほど見た宗教施設群を併せて考えると、次のようなことが分かります。
①17世紀後半の高越山は、山岳宗教の霊山としての施設群を有していたこと
②「役行者開基」で、「大和国吉野蔵王権現と一体分身にして、本地別体千手千眼大悲観世音菩薩」
③弘法大師信仰が根付いて、大師堂があり、大師信仰の霊場でもあったこと
しかし、この時点で高越寺で最重視されていたのは、弘法大師信仰ではなく、開基者の役行者や蔵王権現、そしてその本地仏である千手観音でした。それはこれらが本尊として本堂に祀られていたことから分かります。ここでは17世紀後半の高越山では、弘法大師信仰よりも、蔵王権現信仰の方が優勢であったことを押さえておきます。別の見方をすると、高越寺は、大師信仰が後退し、修験道色の濃い霊場となっていたと言えそうです。これが高越寺が四国霊場の札所にならなかった要因の一つと研究者は考えています。
 このようななかで本尊の蔵王権現に、忌部氏の祖先神を「本地垂述」させようとした動きが出てきます。「忌部遠祖天日鷲命鎮座之事」に、次のように記されています。(要約)

「(高越山には)古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座していたが、世間では蔵王権現を主と思い、高越権現といっている。もともとこの神社は忌部の子孫早雲家が寺ともどもに奉仕していた。ところが常に争いが絶えないので、蔵王権現の顔を立てていたが、代々の住持の心得は、天日鷲を主とし、諸事には平等にしていた。このためか寺の縁起に役行者が登山した折に天日鷲命が蔵王権現と出迎えたなどとは本意に背くことはなはだしい」

ここからは信仰対象や由来を巡って、次の二つの勢力の対立があったことです。
①主流派は「役行者=蔵王権現(高越権現)」説であったこと
②非主流派は「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座」していたとして、忌部氏の祖神を地神と主帳
ここからは近世の高越山では「忌部氏の地神」と「伝来神の蔵王権現」の主導権争いがあったこと、て忌部修験と呼ばれる勢力が、蔵王権現に忌部氏伝説を「接木」しようとしている痕跡がうかがえます。

近世の氏粟国忌部大将早雲松太夫高房による「高越大権現鎮座次第」は次のように記します。

吉野蔵王権現神、勅して白く一粟国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め、諸神達集る高山なり、我もかの衣笠山に移り、神達と供に西夷北秋(野蛮人)を鎮め、王城を守り、天下国家泰平守らん」、早雲松太夫高房に詰げて曰く「汝は天日鷲命の神孫にで、衣笠山の祭主たり、奉じて我を迎へ」神託に依り、宣化天皇午(五三八)年八月八日、蔵王権現御鎮座なり。供奉三十八神、 一番忌部孫早雲松太夫高房大将にて、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供す。この時、震動雷電、大風大雨、神変不審議の御鎮座なり。蔵王権現、高き山へ越ゆと云ふ言葉により、高越山と名附けたり、それ故、高越大権現と申し奉るなり。

意訳変換しておくと
吉野の蔵王権現神が勅して申されるには、阿波国麻植郡衣笠山(高越山)は、御祖神を始め、諸神達が集まる霊山であると聞く。そこで我も衣笠山(高越山)に移り、神達と供に西夷北秋(周辺の敵対する勢力)を鎮め、王城を守って、天下国家泰平を実現させたい」、
さらに(忌部氏の)早雲松太夫高房に次のように告げた。「汝は天日鷲命の神孫で、衣笠山(高越山)の祭主と聞く、奉って我を迎えにくるべし」 この神託によって、宣化天皇午(538)年八月八日、蔵王権現が高越山に鎮座することになった。三十八神に供奉(ぐぶ)するその一番は忌部孫早雲松太夫高房大将で、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供した。この時、震動雷電、大風大雨、神変不思議な鎮座であった。蔵王権現の高き霊山へ移りたいという言葉によって、高越山と名附けられた。それ故、高越大権現と申し奉る。
この中で作者が伝えたいのは次の2点でしょう。
①吉野の蔵王権現が、阿波支配のために高越山にやってきたこと、
②その際の先導を務めたのが忌部氏の早雲松太夫高房だった。
高越山の蔵王権現と忌部氏が、この物語で結びつけられていきます。しかし、このような由来を史料や現地の痕跡からは裏付けられないのは今まで見てきた通りです。
忌部氏の祖を祀るものが川田にはありません。それは山崎の忌部神社です。
ここでは、先住地神の天日鷲命が譲歩して、蔵王権現を迎えた形になっています。そして、忌部一族を名乗る勢力が、祖先神の天日鷲命を奉り、その一族の精神的連帯の中心としてあったのが山川町の忌部神社とされます。しかし、中世の高越山やその山下の川田には、忌部氏の痕跡はありませんでした。忌部氏の信仰していた神々も出てきません。これをどう考えたらいいのでしょうか? 誰もいない高越寺の伽藍に座り込んで、答えの出ない謎を考えていました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

「阿部 保夫 高越山の姿  阿波学界紀要2012年
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今回はいよいよ高越山山頂の高越寺を目指します。前回の中ノ郷徘徊を終えて、県道248号にもどって舟窪つつじ園へのつづら折れの道を登っていきます。標高差800mあまりの山道を原付バイクはあえきあえぎ登っていきます。がんばれがんばれと応援しながらの山道走行です。途中の「天狗の湧水」で水分補給のために小休止。
 高越山から奥野井山にかけては、修験者の痕跡が色濃く残るところです。権現と名付けられた山々が続き、母衣暮露の滝などの行場も各地に残ります。このあたりが阿波修験道の中心であったというのがうなづけます。

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舟窪ツツジ園からの稜線上の峰峰には「権現」が開かれています。今では、修験者の修行エリアであったことをしめす「道しるべ」でもあります。この林道をたどっていくと迎えてくれるのが・・
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立石峠
 立石峠です。ここには大きな石が立てられています。これが立石峠の謂われのようです。これも自然石と云うよりも修験者達が目印のため、行の一環として行ったとも言われます。東側の木々が刈り払われ、展望がきくようになっています。ここからの展望は素晴らしい。お気に入りのテーブルでおやつです。
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立石峠から高越寺の駐車場まではわずかです。
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高越山駐車場
広い駐車場には誰もいません。ここで足ごしらえをして、高越寺までは約20分程の登山道を歩き出します。
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まず、大きな山門が迎えてくれます。
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巨岩の下には、石仏や祠が安置されています。ここも行場だったようです。

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「やくしだけ」の行場と薬師如来
ここにも断崖の下に石仏が安置されています。説明版には次のように記されています。

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高越山の「やくしだけ」説明版
ここには薬師如来と十二神将が祀られていることが記されています。
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高越山の行場「やくしだけ」の薬師如来
合掌していつものように念じて、廻りを見回しますが十二神将は見当たりません。少し下がってもう一度見上げると・・
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高越山の行場「やくしだけ」の薬師如来と十二神将と鎖
瀧(断崖)の上に向かって、鎖が伸びています。その上に十二神将の一人が見えて来ました。この瀧が「やくしだけ」と呼ばれる行場のようです。

高越山 薬師鎖場
行場「やくしだけ」の鎖場
この鎖場に沿って十二神将は鎮座します。まさに行者たちの行を見守っているのです。そして鎖場のゴールに待ち受けているのが・・・
高越山行場薬師岳の最上部の不動明王
          高越山の行場「やくしだけ」の鎖場最上部の不動明王
鎖場の一番上には、行者達の守護神・不動明王が見守ります。このような行場が高越山の廻りにはいくつもあったようです。一つの行場を終えると、次の行場に向かい、行場を行道しながら修験者たちは
「修行(験を積む)」し、天狗になろうとしたのかも知れません。
 また、真言密教には金剛界と胎蔵界という二つの曼荼羅世界があるとされました。それは行場にも当てはまります。私は、高越山が金剛界で、奥野々山が胎蔵界であったのではと想像しています。そんなことを考えながら平坦なトラバース道の参道を歩いて行きます。歩きながら考えるというのも楽しいものです。
高越山地蔵菩薩

そして最後に登場したのが・・ 
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高越山参道の地蔵尊
高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)には、
山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」と記されています。中世の中ノ郷の宗教施設は、地蔵信仰であったようです。その影響がここにも現れているのかななどと、想像を膨らませます。
この地蔵尊を越えると、向こうに高越寺の鐘楼が見えて来ました。
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                        高越寺

高越寺山門5
高越寺山門
里(山下)の川田からの登山道は、この山門の正面につながります。駐車場からの道は、車社会になってからの裏参道です。そのため山門に横から入ることになります。山門を入ると迎えてくれる光景は・・
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                      高越寺
高越寺ワールドです。次回は。その建物群めぐりを行いたいと思います。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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高越山マップ
                   高越山と中ノ郷への登山コース
「高越山徘徊NO3」は、中腹の中ノ郷を訪ねてみます。まず、中ノ郷の予習をしておきます。
①中世の山岳霊場では、里と山上を結ぶ中間地点に「中宮」が置かれ「聖俗の結界」とされる。
②「中江(中の郷)は、高越寺表参道の登山口である川田と山上のほぼ中間地点に位置する。
③そのため中ノ郷も、聖(山上)と俗(里)の境に置かれた「中宮」だった
④中ノ郷には、貞治二年(1364)、応永六年(1399)、永享3年(1431)の板碑が残る
⑤ここからは、中世には修験者たちによって聖域化されていたことが分かる。
⑥別の見方をすると、14~15世紀には、山麓と山が結ばれ、高越山内は霊場としての体裁が整いつつあったと言える
⑦近世以降に姿を見せるのが、中善寺である。
 このくらいの予備知識を持って、原付バイクで県道248号線を駆け上がっていきます。川沿いに走って行くと、徒歩で尾根沿いの鉄塔線沿いのぼっていく登山口があり、続いて車道の分岐が現れました。
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県道258号から中ノ郷への分岐点
ここから尾根沿いのつづら折れの長い坂道(約11㎞)を登っていきます。

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高度を上げると楠根地集落の家々とススキがおいでおいでしながら迎えてくれます。楠根地の氏神様は白人神社でした。白人神社は、鉱山開発集団だった秦氏一族の信仰する神々を祀る神社のひとつです。
1南予地方秦氏関係神社表
           南伊予の鉱山跡に鎮座する神社と秦氏の相関関係図

同時に、高越山周辺には銅鉱山が開かれ、秦氏がその開発に関わっていた可能性があることは前回お話ししました。ここに白人(白山)神社があるのは、その説を補強するものかもしれません。

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      楠根地集落からの吉野川方面 鉄塔沿いに登山路が中ノ郷へ伸びている
15年近く乗っている原付バイクは、スロットルを一杯に廻しても15㎞以上のスピードはでません。喘ぎながら登っていく相棒にいたわりの気持ちも感じられる年頃に私もなりました。尾根を越えて中ノ郷への下りになるとダートになります。そして、道路の右側に石碑が出てきました。

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行場「のぞき岩」の入口
ここがのぞき岩の入口のようです。整備された藪の中の道をおりていくと、すぐに空間が開けました。

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高越山中ノ郷の「のぞき岩」
岩のむこうはスパッと切れています。近づいて見ると、4本の鉄柱が立っています。これが鉄の梯子です。際まで云って下を見ると、梯子が2つ下まで続いています。行者達は、ここから「捨身行」を行い、この梯子で下に下りていったようです。

高越山覗き岩
高越山中ノ郷の「のぞき岩」の梯子

中世の修験者たちは天狗になるために修行していましたが、天狗の住む天界や地界への入口と考えていたのが次のような場所です。
天上や地下の整地への入口は

このような場所を求めて、高越山周辺をさまよい歩き、相応しい場所を行場として開いて行きます。人気のある行場には、各地から修験者たちが訪れ、お堂や小さな寺院が姿を見せるようになります。この覗岩は上表だと④になるのでしょうか。そして、ここには開けた場所と水場が確保できます。そして、里と山上の中間地点である「中宮」としてふさわしい場所です。中ノ郷が「聖俗の結界」とされた背景を、この岩の上に座ってこんな風に考えていました。
 覗岩からほんの少しでふいご温泉からの登山道と合流し、さらにいくと川田からの表参道と合流します。ここに高越山をバックにして鳥居が建っています。
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              高越山中ノ郷の鳥居(標高555m)
この鳥居が今は「聖俗の結界」になるのかもしれません。鳥居の横には萬代池が水をたたえています。
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                 高越山中ノ郷の萬代池
そして谷からの霊水が引き込まれています。この池で参拝者はコリトリ(禊ぎ)を行ったのかもしれません。ここにもいくつかの子房があり、参拝者達の宿坊の機能を果たしていたことが考えられます。

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池の周辺を散策していると、こんな看板を見つけました。アカガシの巨木があるようです。行って見ます。
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高越山中ノ郷のアカガシ
森の主のように枝を伸ばしています。まさに神が宿る神木に相応しい姿です。前には立石が、根元には板碑が置かれています。異界への入口のひとつが巨木や大きな石であったことは、先ほど見たとおりです。人々の信仰を集めてきたのでしょう。根元を見ると・・・

高越山中ノ郷の板碑
中ノ郷のアカガシの根元の板碑
そこには板碑が2枚置かれてきました。いつかは木の幹に包まれていくのかも知れません。このアカガシの周辺からは5基の板碑が出てきています。それを見ておきましょう。
高越山中ノ郷 中善寺版碑

中善寺の板碑(アカガシ周辺)
これらの板碑の概評を調査報告書から引用しておきます。
3-1:
長さ95.0cm,幅35.2cm,厚さ5.6cmを測る五輪塔線刻・五大種子板碑である。「為登大徳哲進仏  果 永享三庚戌十月二日」の銘文が認められるが,碑面に対して大きな文字で彫られており,板碑がつくられた当初のものとは考えにくい。なお,永享三年は西暦1431年である。
3-2:
長さ60.0cm,幅26.0cm,厚さ3.5cmを測る阿弥陀三尊種子板碑である。三尊といっても,キリークが大きく彫られ,アンバランスである。
3-3:
長さ51.0cm,幅26.5cm,厚さ5.5cmを測る阿弥陀三尊種子板碑である。山形で,二線・枠線をもつ定形的な板碑で,「為観阿 應永十六年十一月」の銘文をもつ。下半部が欠落しており,銘文も途中までしかない。應永十六年は1409年である。
3-4:
長さ31.7cm,幅26.8cm,厚さ2.5cmを測る大日種子板碑である。バンの梵字が彫られた山川町唯一の板碑である。山形で,二線・枠線をもつ定形的な板碑であるが,下半部を欠く。

3-5:
長さ47.5cm,幅17.5cm,厚さ3.5cmを測る阿弥陀三尊種子板碑である。山形で,二線・枠線をもつ定形的な板碑である

この5つの板碑の特徴として研究者は次のような点を指摘します。
①中禅寺の標高570mという高地の神木の廻りに5基まとまってあること。
②この中に大日種子(バン)が見られること。
梵字-バン(大日如来) - 石の音ブログ

                     大日種子(バン)
阿波型板碑のなかで、大日種子が刻まれているのは全体の約2割程度と少数派です。中禅(善)寺の板碑周辺には、穴吹町の拝村戸白人神社や仕出原尾下氏ミカン畑のなかにバンの種子板碑があるようです。中禅寺の紀年銘板碑と、時期的に近いものを挙げると次の通りです。
神山町阿川字松尾の1390年
阿川字宮分の1411年
土成町高尾の1400年
上板町聖天堂裏の1398年
大日如来は真言の根本仏です。そういう意味では、大日種子(バン)は真言宗との深い関連を示す種子です。それが高越山周辺や、その中宮とされる中ノ郷にあることについて研究者は次のように記します。
この寺への登山道に造立された板碑群は、高越寺へ入り込んだ真言教団との関連を抜きにしては考えられない。

「真言教団」と記しますが、中世の修験者たちは真言や天台という宗派はあまり気にしていなかったようです。修験者にとっては大切なのは実践・行道なのです。しかし、高野山や醍醐寺系の修験者たちが入り込み、彼らによって弘法大師伝説などが持ち込まれたことは考えられます。
 最後になりました中善寺にお参りします。

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高越山中ノ郷中善寺
建物前に建って感じたことは、すべてが近代風で古いものがなにもありません。戦後になって新しくできたお寺のような風情です。帰って調べて見ると、四国電力の電柱立て替えでそれまでの中禅寺がなくなり、現在地に「中前寺」として新築されたもののようです。その廻りには桜が植えられていて、花見の季節にはいい所だろうと思いました。
 高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、中江(中ノ郷)の宗教施設が次のように記されています。
①山上から7町下には、不動明王を本尊とする石堂
②山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」
③山上から50町の山麓は「一江(川田)」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
②からは中ノ郷について、つぎのようなことが分かります。
A「中江」と呼ばれていたこと
B 地蔵権現社が鎮座していたこと
C「殺生禁断並下馬所」で、「聖俗の結界」の機能を果たしていたこと
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中ノ郷の萬代池と手洗い
今回はここまでです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
吉野川市山川町の板碑 阿波学会紀要 第58号(pp.131-144) 2012.7 131 
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前回は、山川町の高越山登山口の川田庄を散策して、修験者の痕跡を追いかけました。今回は川田川を遡って、中腹の中ノ郷を目指します。川田川沿いの県道248号を登っていくと、ふいご温泉の看板が眼に入りました。
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高越大橋西側のふいご温泉の看板
「温泉」の名に釣られて、のこのこと下りていきます。そそり立つ岩壁の横に温泉があります。
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                     ふいご温泉
中ノ郷を探った後は、高越山の奥の院まで探索予定なので温泉に入ることはできません。誘惑を振り払って、やってきた道を引き返していると、こんな説明版がありました。

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鞴(ふいご)橋と紅簾片岩の説明版
ここには次のようなことが書かれています。
①ここから100mほど上流の左岸に、名越銅山があった
②明治には、良質の班銅鉱を産出し、それを対岸で製錬するためにめに吊り橋を架けた。
③製錬は、人力の鞴(ふいご)で行われたので、この橋を鞴橋と呼んだ。
④また対岸には飯場もあり、鉱夫たちは鞴橋を渡って出勤した。
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鞴(ふいご)橋
ふいご温泉には、銅山があったのです。そのために立派な吊り橋があり、その跡が絶壁の上の芝生のキャンプ場として活用されています。

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鉱山跡にあるキャンプ場
銅鉱山がここにはあったようです。帰ってきて調べて見ると高越山周辺には、銅鉱山が次の3ヶ所あったようです。
高越山周辺の鉱山跡
高越山周辺の銅山跡
①高越鉱山跡本坑口
②久宗坑口(川田エリア)
③川田山坑口(ふいご温泉)
高越山ふいご温泉周辺の鉱山

これらの鉱山からは含銅硫化鉄鉱などを採掘していたようです。

2密教山相ライン
四国の鉱山と山岳寺院の相関関係図
以前に、四国の中央構造線沿いは「鉱物資源ライン」であったこと、鉱山のあった所には有力な山岳寺院があり、修験者たちの拠点となっていたことをお話ししました。簡単に言うと、「霊山に鉱山あり、そして修験者の拠点であった」という相関図が描けることになります。それでは、この相関関係は高越山にも当てはまるのでしょうか。この関係を説明するには、次のようなキーワードを結びつけて行く必要があります。
秦氏 鉱山開発 修験者 愛宕妙見信仰 虚空蔵信仰

まず技術集団としての秦氏集団を押さえておきます。
技術集団としての秦氏

 鉱山開発を担った秦氏集団が信仰したのが、愛宕妙見(北斗七星)信仰であり、虚空蔵菩薩信仰です。その信仰の中心には修験者たちがいました。四国には虚空蔵菩薩を安置する寺院も多くあり、求聞持法の信仰者が多いことは以前にお話ししました。四国の空海伝承に登場する虚空蔵像は、「明星が光の中から湧きたった」「明星が虚空蔵像となってあらわれた」と表現します。
   空海の高弟で讃岐秦氏出身の道昌が虚空蔵求持法の修得のため百日参籠した時「明星天子来顕」と「法輪寺縁起」は記します。この「明星」は、空海が室戸岬で虚空蔵求聞持法を修法していた時、口の中に入ってきたというものと同じものでしょう。 虚空蔵求聞持法と明星とは関係がありそうです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵


ここまでをまとめておくと次のようになります。
①朝鮮半島からの渡来した秦氏集団は、最先端産業である鉱山・鍛冶の職人集団であった
②当時の鉱山集団がギルド神のように信仰したのが星神(明星)である
③彼らは妙見=北極星と考え、妙見神が天から金属を降らせたと信じ信仰した。
④妙見信仰と明星信仰は混淆しながら虚空蔵信仰へと発展していく。
⑤修験者たちは虚空蔵信仰のために、全国の山々に入り修行を行う者が出てくる。
⑥この修行と鉱山発見・開発は一体化して行われる。
⑦こうして開発された鉱山には、ギルド神のように虚空蔵菩薩が祀られ、その山は虚空蔵山と呼ばれることになった。
こうして見ると四国の霊山には、鉱山が多い理由が分かるような気もしてきます。それ媒介をした集団が、空海に虚空蔵求聞持法を伝えた秦氏ではないかという説です。
大仏造営 辰砂分布図jpg

 伊予の辰砂(水銀)採掘に、秦氏が関わっていた史料を見てみましょう。
大仏造営後のことですが、『続日本紀』天平神護二年(766)二月三日条は、次のように記されています。
伊豫国の人従七位秦呪登浄足ら十一人に姓を阿倍小殿朝臣と賜ふ。浄足自ら言さく。難波長柄朝廷、大山上安倍小殿小鎌を伊豫国に遣して、朱砂を採らしむ。小鎌、便ち秦首が女を娶りて、子伊豫麿を生めり。伊豫麻呂は父祖を継がずして、偏に母の姓に依る。浄足は使ちその後なりとまうす。

  意訳変換しておくと
伊豫国の従七位呪登浄足(はたきよたり)ら11人に阿倍小殿(おどの)朝臣の姓が下賜された。その際に浄足は次のように申した。難波長柄朝廷は、大山上安倍小殿小鎌(をがま)を伊豫国に派遣して、朱砂を採掘させた。小鎌は、秦首(はたのおびと)の娘を娶ってて、子伊豫麿をもうけた。伊豫麻呂は父祖の姓を名乗らずに、母の姓である秦氏を名乗った。私(浄足)は、その子孫であると申請した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①難波長柄豊碕宮が置かれた白雉二年(651)から白雉五年(654)に、大山安倍小殿小鎌は水銀鉱(辰砂)採掘のために伊予国へ派遣された
②小鎌は、現地伊予の秦首(はたのおびと)の娘と結婚した
③その間に出来た子どもは、父方の名前を名乗らずに母方の秦氏を名乗った。

  内容は、愛媛の秦氏一族から改姓申請がだされていて、事情があって父親の姓が名乗れず伊予在住の母方の姓である秦氏を名乗ってきたが、父方の姓(大山安部)へ改姓するのを認めて欲しいという内容です。ここからは、伊予で秦氏が水銀採掘に従事し、中央政府から派遣された小鎌に協力し、婚姻関係を結んでいたことが分かります。

 松旧壽男氏は『丹生の研究』で、次のように指摘します。

「伊予が古代の著名な朱砂産出地であったことと、七世紀半ばに中央から官人が派遣され、国家の統制のもとに現地の秦氏やその支配下集団が朱砂の採掘・水銀の製錬に当たっていたことは、少なくとも事実とみることができる」

南伊予の秦氏と神社を一覧化したのが次の表です。

1南予地方秦氏関係神社表
              南伊予の秦氏関連神社と周辺鉱山の産出品

以上から伊予には、大仏造営前から中央から技術者(秦氏)が派遣され、朱砂採掘などの鉱山開発を行っていたと言えそうです。こうした動きは、阿波にもあったと私は考えています。阿波も伊予に続く「鉱山ベルト地帯」で、銅鉱や辰砂(水銀)がありました。そこに秦氏が入ってきて、彼らの信仰である妙見信仰や虚空蔵信仰を勧進したという説になります。
渡来系の秦集団は、戸籍に登録されているだけでも10万人を越える大集団です。

その中には支配者としての秦氏と、「秦の民」「秦人」と呼ばれたさまざまな技術を持った工人集団がいました。彼らの中で鉱山開発や鍛冶などに携わった集団が信仰したのが、虚空蔵信仰・妙見信仰・竃神信仰でした。これらは定着農民の信仰ではなく、農民らから蔑視の目で見られ差別されていた非農民たちの信仰でもありました。一方、八幡神・稲荷神・白山神なども秦氏の信仰ですが、これらは周囲の定着農民も信仰するようになって大衆化します。しかし、もともとはこれらも秦氏・秦の民が祭祀する神の信仰で、虚空蔵・妙見・竃神信仰と重なる信仰であったと研究者は考えているようです。

  それでは、高越山に秦氏や愛宕妙見信仰の痕跡はあるのでしょうか?

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   高越山山頂の弘法大師像 ここからは「秦氏女」との線刻銘がある経筒が出てきた。
秦氏に関しては、弘法大師像の立つ高越山山頂の経塚がありました。ここから出てきた経筒は、12世紀のものとされ、常滑焼の龜、鋼板製経筒で蓋裏に「秦氏女」との線刻銘があり、白紙経巻八巻などの埋納遺物も出てきています。ここからは、高越山信仰の信者として、秦氏がこの周辺にいたことが分かります。
愛宕妙見信仰にはついては、高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、「山上伽藍」について次のような宗教施設があったと記します。
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
「若一王子宮」         → 熊野信仰
「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰   → 虚空蔵菩薩信仰 → 虚空蔵山
④山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮と鳥居

ここからは山上には、愛宕権現社があり、麓の「一江(川田)には、虚空蔵権現社が鎮座していたことが分かります。以上から高越山にも「秦氏=愛宕妙見信仰=虚空蔵信仰=鉱山開発」という関係が見えます。高越山は甘南備山の姿をした山、行場のある山としてだけでなく、もうひとつ鉱山資源を産出する山として、秦氏が定住し、そこに愛宕妙見信仰や虚空蔵菩薩信仰が根付いた山と言えそうです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究 
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好天の日が続いたので「山のてっぺんで私も考えたシリーズ」の再開です。今回は阿波の高越山の頂上に立って、いろいろと考えるという魂胆です。阿讃山脈を三頭トンネルを越えて原付バイクでちんたらとやってきたは、山川町前川の川田八幡神社です。

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                    川田八幡神社(山川町)
このあたりは高越山から伸びてきた尾根が川田川に消えていくあたりになります。中世の河輪田庄(河田庄:江戸時代の川田村)と高越寺庄にあたります。庄域はよく分からないようでが、中世後期には和泉上守護細川氏の所領となっていて、上守護家の拠点であった泉屋形とされる井上城跡もあります。高越山の山の上のお寺にお参りする前に、里に残る高越山の修験者たちの痕跡を探そうとやってきました。

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まずは川田八幡神社に参拝し、「教え給え、導き給え、授け給え」と祈念します。
この神社は、高越山から伸びてきた尾根の上にあり、50段の石段を登ります。

川田八幡神社本殿3 山川町
川田八幡神社本殿
川田八幡神社(高越庄八幡宮)は、高越寺荘の鎮守として、歴代の領主に厚く保護されてきた神社です。その社殿は鎌倉の鶴岡八幡宮と同じ特異な様式(『山川町史』)とされます。また、現存する最古の棟札に「右大将軍頼朝公御一門繁栄子孫豊楽」と記されています。これらを合わせて考えると、関東御領である高越寺荘の鎮守として「大檀那小笠原弥太郎長経」が鶴岡八幡宮を勧請した神社とする説もあります。少し長くなりますが調査報告書を引用しておきます。

本殿は、三間社流造銅板葺きで、花崗岩の基き壇に建ち、身舎部分は亀腹と地覆延石を回す。円柱(上粽)を地覆長押、切目長押、内法長押で固め、柱頭部は頭貫木鼻(拳)と台輪木鼻が載る。組物は平三斗とし、彩色された中備彫刻を填める。軒は二軒繁垂木とする。妻飾は虹梁の上に笈形付の太瓶束を立て、太瓶束中央部に彩色された鳳凰の彫刻で飾り、その様式から後補されたものと考えられる。内部は、仏教の影響を受け二室に区切られている。奥は一段上げて床を張り、板戸を填める。手前の天井を格天井で仕上げる。

 向拝は、角柱を虹梁形頭貫で固め、獅子の木鼻が付く。身舎と繋海老虹梁で繋ぎ、柱頭部の組物は出三斗とする。柱間には中備彫刻を填める。虹梁形頭貫と繋海老虹梁の絵様の彫りは浅く、形状は簡素であり、下面には錫杖彫を施し、神仏習合の名残が見られる。軒は二軒繁垂木である。縁は四方切目縁とし、擬宝珠高欄を回す。腰は束つか立貫を通す。階は木口階段5級で浜床を張り、随神像を安置する。

山川町川田八幡神社本道
川田八幡神社本殿の平面図

川田八幡神社本殿2 山川町

棟札は9枚残されていて、最も古いものが「建久8年(1197)上棟」の鎌倉時代初期のものです。しかし、元和3年(1617)以前の5枚は、筆跡がよく似ており、元和3年に書き写された可能性があると研究者は指摘します。つまり、この棟札をそのまま信じることは出来ないようです。
本堂の建築年代については、虹梁の絵様や錫杖彫、棟札の再興の記述から、享保16年(1731)とします。これ以後の棟札には、上葺、葺替上棟とあるので、屋根の修理がそれ以後に数度行われていることが分かります。幾度かの改修を経ながら地域の人達が400年以上、守り継いできた建物になります。しかし、この神社からは忌部氏の痕跡は窺えません。
 中世の修験者は、天狗になるために修行していたことは以前にお話ししました。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達(別当金光院発行)

それは讃岐の金毘羅大権現や白峰寺の天狗達と同じです。修験者の山は、天狗の住む山でもあり、そこにはいろいろな天狗伝説が生まれます。ここでも高越山の行場を渡り歩く修験者が数多くいて、中腹の中ノ郷や麓の川田に拠点を設けていました。彼らの経済基盤は、お札の配布や、先達としての高越山参拝にありました。その拠点が、弘田八幡神社周辺と云うことになります。それでは、高越山信仰の痕跡を探して、弘田の里を歩いて見ます。

 弘田八幡神社の参道の鳥居の横に、立派な花崗岩の門柱が建っています。

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       高越山登山道の入口門柱(弘田八幡神社) 側面に「高越山」とある
寄進文から明治38(1905)年7月に北海道の山田正太郎氏が寄進したものであることが分かります。ここには側面に「高越山」と掘られています。ここが高越山への入口起点になるようです。

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               高越山登山道の入口門柱(弘田八幡神社)
ここからは高越山へのスタートは、弘田八幡神社であると当時の人達は認識していたことがうかがえます。ここから伸びる道を進んでいくと、分岐点に「光明真言百万遍」と刻まれた庚申信仰の版碑が建っています。
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             「光明真言百万遍」と刻まれた庚申信仰の版碑
この地域でも幕末から明治にかけて庚申信仰が、盛んに信仰されていたことがうかがえます。ちなみに、庚申信仰へ人々を組織したのも修験者(山伏)であったことは以前にお話ししました。庚申碑を見ていると、田んぼの向こうにも板碑が見えます。さっそく行って見ます。こんな時に原付バイクは便利です。

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大坊の板碑
説明文を読んでおきます。
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「14世紀後半のもので、「追善供養」のために作られたもので「これだけの板碑は、天下広しといえどもないと言われるほどの名品」と書かれています。14世紀後半には、追善供養を行う僧侶(修験者集団)がいたことになります。刈り取りの終わった田んぼの彼岸花を眺めながら棚田の中の道を進んでいくと、鳥居が坂の上に見えてきました。
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高越山への鳥居
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                    高越山への鳥居
鳥居に下を谷から取水した用水路が等高線に沿って流れていきます。この用水路によって、棚田に水が引き込まれています。用水路の完成と棚田開発はリンクしていたはずです。それを担ったのが向こうに大きな屋根が見える明王院のような気がしてきます。後で明王院には立ち寄ることにして、この鳥居をくぐって登っていきます。
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高越山登山口(山川町)の鳥居から
ふりかえると鳥居の向こうには、こんな光景が広がっていました。弘田の里、そしてはるかに吉野川や北岸が見てきます。そして、ここが観音堂になります。

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高越寺(里の観音堂)
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観音堂の弘法大師像と不動明王像
観音堂にお参りして、中をのぞかせて貰うと右に弘法大師像、左に不動明王が祀られています。中央にある閉じられた厨子の中に、本尊の観音さまがいらっしゃるのでしょう。ここからは、これらをもたらした次のような修験者・聖達の痕跡がうかがえます。
観音菩薩  → 補陀洛観音信  → 熊野信仰の熊野行者
弘法大師像 → 弘法大師信仰  → 高野聖
不動明王  → 修験者の守護神 → 役行者と蔵王権現信仰

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高越山への登山口の観音堂の黒松

道の向こう側に新しく植樹された黒松の下に小さな碑が置かれています。そこには次のように記されています。
高越寺コク屋の観音堂は表参道の出発点、昔から多くの先達や一般信者が信仰の祈りを持ち、厳しい山道を遠路徒歩で往来していた。観音堂の前には、先達や信者を迎えに飛来した高越寺の御天狗様等が羽を休めたと伝わる黒松(樹齢約千年)があり、観音堂より山頂へ、帰路へと見守り道案内したと伝わる。

要点をまとめておくと
①観音堂の前の道が高越寺への表参道であった。
②参拝者や先達を迎えに、高越山から天狗が下りてきて、見守り道案内をした。
この松は高越山から飛んできた天狗達が羽根をやすめた所だったというのです。天狗信仰が語り伝えられています。こんな話に出会うとホクホクしてきます。

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
             金毘羅大権現と天狗たち (金毘羅金光院発行)

 権現と天狗達の関係を考えていると、「どちらからですか?」と奥さんから声をかけられました。
お話しをしていると、ここが高越寺の住職の里の住居であることが分かりました。確かに、グーグルマップで「高越山高越寺」を検索すると、ここが出てきます。奥さんの話によると、いろいろな祭礼や行事が、ここでも行われていたようです。例えば観音堂から少し上がった丘では、奉納相撲が行われていて、阿波だけでなく、淡路や讃岐からの参拝者も多かったと云います。また、集団参拝の信者達は先達に率いられて、中ノ郷や山頂などでの行場巡りをしながら「修行」し、2、3泊して下りてきたとも云います。ただ、山頂に登って参拝するだけでなく、行場での修行も行われていたようです。それは、剣山の集団参拝と同じです。ここでは観音院が高越寺の里寺であり、高越山への参拝のスタート地点となっていたことを押さえておきます。そうだとすれば、木屋平の龍光寺と同じように、やってくる信者たちの世話をする宿坊なども里にはあったことが考えられます。
 さて、もうひとつ気になる寺院があります。下の鳥居の向こうに見えた明王院です。

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明王院(山川町川田)四国三十六不動霊場第9番の札所
  この寺の本尊は不動明王で「川田不動」とも呼ばれ、四国三十六不動霊場第9番の札所になっています。修験者の守護神・不動明王を本尊としていることを押さえておきます。縁起には、次のように記されています。
「空海が四国巡錫の折、高越山に立ち寄り開基。1571年(天正2年)要全大徳師を中興の祖とし伽藍を整備し、大聖不動明王法を修して不動明王と毘沙門天を勧請」

とします。 阿波郡村誌には「天正2年(1574)2月に、第1世住職要仙が創立」とあります。戦国時代に、不動明王や毘沙門天を勧進して、新たに創建された寺院のようです。

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                明王院(山川町川田)
明王院は井上城の城主であった土肥氏が菩提樹として建立し、保護した寺院のようです。
井上城跡2
井上城跡

この寺の近くに井上城がありました。そこには今は、「土肥右衛門尉源昌秀」と「土肥紀伊守源朝臣庸吉」の墓が建っています。説明版を見ておきます。

井上城跡
井上城跡説明版(山川町井上)

ここには次のようなことが記されています。
①ここに初めて城を築いたのは細川常有で1451年のことで、川田城と称した。
②その後、永禄年間に土肥氏が城主となり井上城と改めた。
③高越山を背負って、この城の下に城下町が形成されていた。

細川元常の時に土肥綱真が功績によりこの地に移ってきて、16世紀半ばの戦国時代に城主になったようです。「阿波志資料書」には次のように記します。

「土肥因幡守源綱真初与七と称し、父秀行と共に讃岐国神崎城に居住し、後の天文年間中川田井上城に移居した云々。」

 ここからも土肥氏が天文年間(1532~1555年)に、讃岐神崎城から川田井上城に移ってきて新たな城主となったことが記されています。土肥氏の知行についてはよく分かりませんが、川田・川田山・拝村などを所領として、相当な勢力があったと研究者は考えています。また金山小路、小川小路などの名が残っているので、城下町形成が行われていた痕跡もあります。
 先ほど見たように明王院は、「天正2年(1574)2月に、第1世住職要仙が創立」とありました。
要仙も高越山で修行を積んだ修験者であったのでしょう。その要仙を土居氏が保護し、菩提樹として、不動明王や毘沙門天を勧進して、新たに創建したのが明王院と私は考えています。しかし、時は戦国時代、土佐の長宗我部元親の阿波侵攻で、時代は大きく動きます。綱真には房実、康信、秀実の三子がありましたが、新右衛門秀実は、天正7年(1579)脇城で長曽我部軍と戦い戦死します。そして3年後には長曽我部元親が阿波を統一して、井上城も落城します。しかし、明王院は長宗我部元親の保護を受けて存続します。ここまでで押さえておきたいのは、この周辺に忌部氏の痕跡はないと云うことです。

   今度は。高越山を史料で押さえておきます。南北朝時代のもので、高越寺の霊場化がうかがえる3つの史料があります。
1つ目は、大般若経一保安三年〔1122)~大治2年〔1127)です。そこには比叡山の僧とみられる円範、天台僧と称する寛祐の名が出てきます。天台系密教の教線が高越山におよんでいたことがうかがえます。
2つ目は経塚です。12世紀のものとされる常滑焼の龜、鋼板製経筒(蓋裏に「秦氏女」との線刻銘)、白紙経巻八巻などの埋納遺物が出てきています。秦氏がこの周辺にいたことがうかがえます。
3つ目は、最初に見た「大坊の板碑」です。これは14世紀後半のもので「追善供養」のために作られたものでした。
以上からは12世紀頃には高越山が修験者によって霊場化していたこと、そして祖先供養なども行っていたことがうかがえます。

次に古い史料は「川田良蔵院文書」の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」(1364(貞治三年)です。「檀那を譲り渡す(名簿売買)」という熊野檀那株の売買契約書で、当時の修験者たちがよくおこなっていたことです。川田良蔵院というのは、高越寺の子院のひとつだったようです。ここからは次のような事が推察できます。
①鎌倉時代から南北朝にかけて、高越山の麓・川田には何人もの修験者がいたこと。
②高越山の里の修験者は、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに「引率」していた「熊野行者」がいたこと
③高越山周辺は、熊野行者以外にも修験者達がさまざまな宗教活動を行っていたこと
次に細川常有の「若王子再興棟札」(寛正3年(1462)の写し(寛政2年(1790)を見ておきましょう。
ここからは熊野十一所権現の一つである若王子が高越山に鎮座していたことが分かります。熊野信仰も引き続いて信仰されて、熊野詣での拠点だったようです。先ほど見た『私記』には、高越寺には「蔵王権現を中核として、若一王子(若王子)、伊勢、熊野」が境内末社として勧請・配置されていたと記されていました。この棟札からは、15~16世紀には、すでにそのような宗教施設が姿を見せていたことになります。
この文書には「下の房」が出てきます。下之坊のある「河田(川田)」は、高越山麓の河輪田庄(河田庄)と研究者は考えています。天明8年(1788)の地誌『川田邑名跡志』には次のように記されています。

下之坊、地名也、嘉暦・永和ノ頃、大和国大峯中絶シ 近国ノ修験者当嶺(高越山)二登り修行ス。此時下ノ坊ヲ以テ先達トス。修験者ノ住所也 天文年中ノ書ニモ修験下ノ坊卜記ス書アリ」

意訳変換しておくと
「下之坊とは地名である。嘉暦・永和の頃に大和(奈良)大峯への峰入りができなくなったために、近国の修験者たちが当嶺(高越山)に、やってきて修行するようになった。この時に下ノ坊が先達となった。つまり下の房とは修験者の拠点住所である。天文年中の記録にも「修験下ノ坊」と記す記録がある」

これは後世の記録ですが、次のようなことが分かります。
①大峰への登拝ができなくなった修験者たちが高越山で修行をおこなうようになったこと
②その際に、下之坊の修験者たちが高越山で先達を務めたこと
また「良蔵院」の項には、下之坊は天正年間、土佐の長宗我部氏の侵攻の際には退去したが、その後近世になって良蔵院として再興された記されます。さらに『名跡志』には、良蔵院以外にも「往古ヨリ当村居住」の「上之坊ノ子係ナルヘシ」という山伏寺の勝明院など、山麓の山伏寺が七か寺あったと伝えます。ここには川田の里は、山伏寺がいくつもあって高越山信仰の拠点となっていたことを押さえておきます。 
 高越寺の縁起としては一番古いとされる『摩尼珠山高越寺私記』(寛文五年(1665)は、当時の住職宥尊によるもので、山内の宗教施設を次のように記します。
「山上伽藍」については、
「権現宮一宇、並拝殿是本社也」 → 権現信仰=修験道
「本堂一宇、本尊千手観音」   → 熊野観音信仰
「弘法大師御影堂」       → 弘法大師信仰
「若一王子宮」         → 熊野信仰
「伊勢太神宮」         → 伊勢信仰 
「愛宕権現宮」         → 愛宕妙見信仰 → 虚空蔵求聞持信仰  
②山上から7町下には不動明王を本尊とする石堂
③山上から18町下には「中江」(現在の中の郷)に地蔵権現宮、また「殺生禁断並下馬所」と記されるので、ここが聖俗の結界
④山上から50町の山麓は「一江」といい、虚空蔵権現宮と鳥居
ここからは戦国時代の戦乱期を経て、17世紀になっても高越寺は引き続いて修験者による山岳信仰の霊場であったことが分かります。さらに、麓は「一江」と呼ばれていたこと、そこには「虚空蔵権現宮と鳥居」があったことを押さえておきます。「虚空蔵権現宮と鳥居」がどこにあったかは、今の私には分かりません。川田八幡神社としたいのですが、それを裏付ける史料がありません。以上を見る限り、従来言われていた「高越山=忌部修験の拠点」という説を裏付けるものは何もありません。
 高越寺は、山伏をどのように組織していたのでしょうか
高越山に残された大般若経巻の修理銘明徳3年(1292)には、「高越之別当坊」「高越寺別当坊」という別当が見えます。また上守護家による永源庵への明応4年(1495)の寄進にも「高越別当職並参銭等」と出てきます。ここからは高越寺には、別当が置かれていたことが分かります。しかし、詳しいことは分かりません。
 時代を下った『西川田村棟付帳』寛文13年(1671)には、弟子、山伏、下人などが登場します。ここからは次のような高越山の身分階層がうかがえます。
①住学を修める正規の僧職と弟子=寺僧
②山伏=行を専らにする者
③寺に奉仕する下人(俗人)
基本的には寺僧と山伏だったようで、中世寺院の「学と行」の編成だったことが推察できます。しかし、15世紀末には別当職は、山内の実務的統括から切り離されていたようです。大まかには寺僧が寺務や法会を管掌し、そのもとで山伏が大峰修行や山内の行場の維持管理などを行ったとしておきましょう。しかし、地方の山岳寺院でなので、寺僧と山伏に大きな違いはなかったかもしれません。
 確認しておきたいのは『名跡志』では、山麓の山伏は高越寺には属していません。下之坊の伝承にあるように、高越山を修行の場としていたとみられ、山内と山麓をつなぐ役割をもっていたと研究者は考えているようです。

以上、川田の里を徘徊して考えたことをまとめておきます。
①高越山は古くからの霊山で、山林修行者が行場として活動していた。
②12世紀頃には山上にいくつも宗教施設が姿を現し、修験者の活動拠点となった。
③14世紀になると、麓の川田庄には熊野先達を行う熊野行者などの修験者が住み着くようになった
④修験者・聖達は、高越山のお札配布や祖先供養なども行い高野山巡礼の先達も務めた。
⑤また戦乱で吉野山巡礼ができなくなると、近国の修験者が高越山で修行を行うようになり、その先達を務めるようにもなった。
⑥こうして、川田には修験者の拠点(山伏寺)がいくつも現れるようになった。
⑦戦国時代には土肥氏が井上城の城主としてやってきて、修験者を保護し明王院を菩提寺として建立した。
⑧長宗我部元親の侵攻で土肥氏は去ったが、明王院は保護を受け存続した。
⑨高越山の宗教施設は、近世になっても存続し、多くの信者の信仰を集め、川田は登山入口として栄えた。
⑩明治の神仏分離も、大権現信仰は大きな影響を受けることなく存続した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 長谷川賢二 阿波国の山伏集団と天正の法華騒動 「修験道組織の形成と地域社会」 岩田書店
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高越寺絵図1
             阿波高越山

阿波の修験道のはじまりは、高越山とされます。高越山修験とは、どのようなものだったのでしょうか。これについては、今までにも触れてきたのですが、今回は「阿波の修験道  徳島の研究6(1982年) 236P」をテキストにして見ていくことにします。

徳島の研究6

高越寺の宥尊が記述した「摩尼珠山高越寺私記」の高越寺旧記(1665(寛文五)年には次のように記します。

「天智天皇の御宇、役行者基を開き、山能く霊神住む。大和国吉野蔵王権現の一体、本地に分身し、体を別って千手千眼大悲観世音菩薩となる」

これに続く部分を要約しておきます。
①役行者が大和国の吉野蔵王権現と一体分身の聖山として、千手観音として高越山を開いたこと。
②高越山が一国一峰の山として開かれたこと。
③弘法大師が修業し、二個の木像を彫ったこと。
④聖宝僧正が修業したその模様。
⑤本山の伽藍、仏像などの五項目についての記録
②の内容をもう少し詳しく見てみると、

役行者行力勇猛、達人神通、自在権化、故感二権化奇瑞、攀上此峯 択地造壇柴燈、 阿祗備行者、有衆生済度志、廻国毎国開二阿祗禰峯、其数六十六箇所、名之謂一国一峯、摩尼珠山配其云々。

意訳変換しておくと

役行者は行力勇猛で、人と神と仏を行き来し、自在に権化(変身)することができた。そこで権化や奇瑞のためには、霊峰にのぼり、その峯の上に護摩壇を築き柴燈を焚いた。 阿祗備行者は衆生救済の志を持ち、全国を廻国し国ごとに阿祗禰峯を開いた。その数は六十六箇所におよび、これを一国一峯、摩尼珠山と呼ぶ。

江戸時代初めには、高越山は以上のように自らの存在を主張していたようです。ここには阿祗爾行者が全国の名山を修験道の山として開いたことが述べられています。全国「六十六山」を「一国一峰」として開いたともあります。修験道も、全国的にその勢力を伸ばす戦略として、大峰山への人山勧誘を行うと供に、教勢拡大のために地方にも霊山を開いて、手近に登って修業のできる「名山」を開拓していたようです。しかし、いつごろから高越山が修験道の拠点となったかについてはよく分かりません。史料的に追いかけることが出来るのは、もっと後になってからのようです。ここには、忌部氏は登場しないことを押さえておきます。
南北朝時代の高越山の修験者が熊野詣でを行っていたことが分かる史料を見ておきましょう。
高越山の麓に高越寺の下寺的存在として活躍した良蔵院と呼ぶ山伏寺がありました。この良蔵院の古文書が「川田良蔵院文書」として「阿波国徴古雑抄」の中に紹介されています。その中の最も古いものが、1364(貞治三年)の「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」です。「ゆずりわたす諸檀那の名のこと」とは、「檀那を譲り渡す(名簿)」ということです。檀那株の売買は修験道の世界で一般に行なわれていました。ここからは鎌倉時代から南北朝にかけて、高越山の麓には何人もの修験道がいて、熊野講を組織して、檀那衆を熊野詣でに「引率」していたことが分かります。高越山周辺は修験道の聖地となり、熊野行者などの修験者達がさまざまな宗教活動を行っていたとしておきます。ここにも忌部修験はでてきません。

高越山文書からは、高越山の修験道が空海・聖宝を崇める真言修験であったことが分かります。
そのため阿波の修験道は、ほとんどが当山派に属して一枚岩の団結があったと思われがちです。しかし、どうもそうではないようです。組張り(霞・檀家区域)の確保・争奪のために、各勢力に分かれて争っていた気配があるようです。

高越山と他の山・神社の争いについて、次のような話があります。

麻植郡川田町から名西郡神山町へ越える山道がある。この間の山の峰々に山の上では見られない吉野川流域の石が散在している。これは神山の上一宮大粟神社の祭神大宜都比売命が夫である伊予の三島神社の祭神大山祗に会うために神鹿に乗って行くのを、高越山の蔵王権現が嫉妬して吉野川の石を投げたからだという。今もその氏子たちは仲が悪く、神山と川田は通婚しないという。

 もう一つは、大滝山と高越山とが、吉野川を挟んで大争闘をした時に、お互に岩の投げ合いをし、両方の山の岩がまったく入れ換わるまで投げ尽してしまったという。

このふたつの説話は、高越山修験道の置かれた状況を物語っていると研究者は深読みします。 この説話からは、阿波一国が単純に当山派に統一されたとは思えません。

南北朝の頃の阿波は、中央の政争の影響をそのまま受けます。
吉野川流域の平野部は、北朝方の管領細川氏の勢力圏です。それに対して剣山を中央にして、東西にのびる山岳地帯には南朝方についた勢力がいました。
一宮城 ちえぞー!城行こまい
小笠原氏の一宮城(神山町・大日寺背後)

そのエリアを見ると東端は一宮城の小笠原氏で、南朝の勢力は鮎喰川をさか上り、川井峠を越えて木屋平に入ります。さらに保賀山峠から一宇に入り、小島峠を越えて祖谷の菅生に至り、祖谷の山岳地帯に広がっていました。
東祖谷山地図2

祖谷の小島峠
祖谷から、さらに中津山、国見山の山脈を越え銅山川沿いに伊予の南朝方へと連らなっていましす。この山岳地帯を往来しながら連絡を取ったのは修験者(山伏)たちだったとされます。彼らは秘密の文書を髪に結い込んで、伊予の西端の三崎半島まで平野に下りることなく、山中を進んでたどり着くことができたと云います。これが修験の修行の道だったのかもしれません。あるいは熊野行者が開いた参拝道だったのかもしれません。四国各地の霊山と行場を結ぶネットワークが、この時代にはあったことを押さえておきます。それをプロの修験者を辿ると「大辺路・中辺路・小辺路」と呼ばれ、近世には「四国辺路」へと成長して行くと研究者は考えているようです。
 どちらにしても、南北朝の政治勢力と阿波の修験道は結びつきます。
これは土佐の長宗我部元親が修験者勢力をブレーンとして身近に置くことにもつながります。そのブレーンの中にいた修験者が、金毘羅大権現の松尾寺を任されることになるのです。話が逸れてしまいました。元に戻ります。
高越山11
吉野川からの高越山

高越山は、山容が美しい山です。
里から見て「おむすび山」に見える山を見上げて、人々は生活し、次第にそれを霊山と崇めるようになるというのが柳田國男の説です。それが素直に、うなづけます。人々が信仰する霊山は、支配者の祈願所にもなります。支配者の信仰を受けるようになると、いろいろな保護と特権を与えらます。南北朝の頃には、中央政権の足利氏や管領細川氏の保護を受けて教勢を拡大させます。これに対して神山の焼山寺の修験道が反抗するようになります。また近世になると新しく開山された剣山修験道が高越山に対立して活動するようになります。この対立は宗派的な対立と云うよりも山岳部と平野部のちがいによる経済的状況の反映だと研究者は指摘します。
 その対立の図式は、高越山と吉野川をはさんで北側の讃岐との境にある大滝山修験道との関係で見ておきましょう。
大滝山は南朝勢力下にあったと云われますが、それを示す証拠はないようです。同じ阿讃山系の城王山には新田氏が拠城を置いて、伊笠山周辺を往来したといわれますが、その南朝勢力が西の大滝山まで及んだとかどうかは分からないと研究者は考えています。大滝山修験者と高越山は宗派的対立よりも、その間に拡がる吉野川流域の霞場(檀那区域)をめぐって対立していたとします。 ここでは、阿波の修験道の勢力構図は、高越山を中心に、それを取りまく諸山の山伏たちの対立として形成されていったことを押さえておきます。 

最初に見た高越寺の寺僧宥尊の「摩尼珠山高越私記」(1665年)には、次のように記されていました。

「役行者=大和国の吉野蔵王権現」一体分身で、
「千手千眼大悲観世菩薩」が本尊

これと忌部氏の祖先神を「本地垂述」させることに、この書のねらいはあったようです。しかし、これスムーズに進まなかったようです。「忌部遠祖天日鷲命鎮座之事」には、次のように記されています。(要約)

「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座していたが、世間では蔵王権現を主と思い、高越権現といっている。もともとこの神社は忌部の子孫早雲家が寺ともどもに奉仕していた。ところが常に争いが絶えないので、蔵王権現の顔を立てていたが、代々の住持の心得は、天日鷲を主とし、諸事には平等にしていた。このためか寺の縁起に役行者が登山した折に天日鷲命が蔵王権現と出迎えたなどとは本意に背くことはなはだしい」

ここからは次のようなことが分かります。
①主流派は「役行者=蔵王権現(高越権現)」説
②非主流派は、「古来忌部氏の祖神天日鷲命が鎮座」していたとして、忌部氏を祖神を地神
この時期になると「忌部氏の地神」と「伝来神の蔵王権現」の主導権争いがあったようです。しかし、こうした争いも蔵王権現優位のうちに定着します。これも山伏修験道の道場としての性格だと研究者は考えています。同時に、忌部伝説を信仰する勢力がこの時期の高野山にはいたこと、忌部伝説が、高越山に接ぎ木しようとする動きは、近世になってからのものであることを押さえておきます。

 粟国忌部大将早雲松太夫高房による「高越大権現鎮座次第」には、次のように記します。

吉野蔵王権現神、勅して白く一粟国麻植郡衣笠山(高越山)は御祖神を始め、諸神達集る高山なり、我もかの衣笠山に移り、神達と供に西夷北秋(野蛮人)を鎮め、王城を守り、天下国家泰平守らん」、早雲松太夫高房に詰げて曰く「汝は天日鷲命の神孫にで、衣笠山の祭主たり、奉じて我を迎へ」神託に依り、宣化天皇午(五三八)年八月八日、蔵王権現御鎮座なり。供奉三十八神、 一番忌部孫早雲松太夫高房大将にて、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供す。この時、震動雷電、大風大雨、神変不審議の御鎮座なり。蔵王権現、高き山へ越ゆと云ふ言葉により、高越山と名附けたり、それ故、高越大権現と申し奉るなり。

意訳変換しておくと
吉野の蔵王権現神が勅して申されるには、阿波国麻植郡衣笠山(高越山)は、御祖神を始め、諸神達が集まる霊山であると聞く。そこで我も衣笠山(高越山)に移り、神達と供に西夷北秋(周辺の敵対する勢力)を鎮め、王城を守って、天下国家泰平を実現させたい」、
さらに早雲松太夫高房に次のように告げた。「汝は天日鷲命の神孫で、衣笠山(高越山)の祭主と聞く、奉って我を迎えにくるべし」 この神託によって、宣化天皇午(538)年八月八日、蔵王権現が高越山に鎮座することになった。三十八神に供奉(ぐぶ)するその一番は忌部孫早雲松太夫高房大将で、大長刀を持ち、みさきを払ひ、雲上より御供した。この時、震動雷電、大風大雨、神変不思議な鎮座であった。蔵王権現の高き霊山へ移りたいという言葉によって、高越山と名附けられた。それ故、高越大権現と申し奉る。

ここには吉野の蔵王権現が、阿波支配のために高越山にやってきたこと、その際の先導を務めたのが忌部氏の早雲松太夫高房だったとします。ここに忌部氏が「忌部氏褒賞物語」として登場します。
ここには忌部信仰をすすめる修験者たちの思惑があったことがうかがえます。
ちなみに、この時代になると阿波忌部氏は姿を消して、氏神の忌部神社がどこにあるかも分からなくなっていたことは以前にお話ししました。

 従来は忌部神社の別当として、神社を支配したのが高越寺の社僧達で、彼らを「忌部修験」と研究者は呼んでいました。そして、「忌部修験=高越山修験集団」とされ、語られてきました。私も「高越山は忌部修験道のメッカ」と書いたこともあります。しかし、これについては近年、疑問が投げかけられていることは以前にお話した通りです。
以上をまとめておきます。
①高越山は山容もよく、古代から甘南備山として信仰対象の霊山とされてきた。
②そこへ役行者が吉野の蔵王権現を勧進し、千手観音として高越山を開山した。
③鎌倉時代になると高越山の麓には、熊野詣での先達を行う熊野行者が集住するようになり、修験者の一大勢力が形成されるようになった。
④中世になると阿波忌部氏は衰退し、氏神の忌部神社の存在すら分からなくなる。
⑤このような状態の中で「忌部修験=高越山修験集団」と考えることには無理がある。
⑥高越山修験の拡大は、大瀧山の修験者勢力などとテリトリー(霞)をめぐる対立をもたらした。
⑦これらを宗派対立と捉えるよりも、信徒集団をめぐる対立と捉えた方がいいと研究者は考えている。
⑧南北朝時代の抗争もその範疇である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   「阿波の修験道  徳島の研究6(1982年) 236P」
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