瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:阿波の歴史と天空の村のお堂と峠 > 徳島県の古墳

忌部山2号墳の羨道部
山川町の忌部山2号墳 石室天井が高く積み上げられドーム型天井になっている

前回は麻植郡が阿波忌部氏の本貫地で、ドーム型天井を特徴とする忌部山型石室の古墳が見られること、これを造営したのが古代の忌部氏に繋がる集団であるという説を見ました。今回は、その忌部山型石室のルーツが、どこにあるのかを見ていくことにします。テキストは  「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」です。
麻植群の忌部山型石室は、美馬郡の段の塚穴型石室からの影響を受けていると研究者は指摘します。
段ノ塚穴型石室は美馬町にある段ノ塚穴古墳(国指定)を盟主とする特異なタイプの横穴式石室です。このタイプの石室は全国的に見ても、非常に珍しいもののようです。段の塚穴古墳に行ってみることにします。
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段の塚穴古墳群の太鼓塚古墳(美馬市坊僧 下が川北街道)
段ノ塚穴には、大鼓塚と棚塚の二つの大きな円墳があります。東側が大鼓塚で、東西37m、南北33m、高さ10mの徳島県最大の円墳です。西隣りの棚塚は、それよりひと回り小さく直径20m、高さ7mの円墳です。

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太鼓塚古墳入口
太鼓塚の石室は、全長13、1m、7、7mの長い羨道を持ち、玄室部4、5m、中央部で高さ4、25mの四国最大級の横穴式石室です。門扉はありますが鍵はないので、自由に入ることができる私にとってはありがたい古墳です。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳石室実測図 玄室の高いドーム型天井が特徴
石室は結晶片岩を用いた両袖式で、段の塚穴型石室と呼ばれる胴張りの平面プランと持ち送り式に積み上げた天井。1951年(昭和26年)、墳丘西裾から須恵器・土師器・埴輪・馬具などが出土し6世紀後
から7世紀初頭のものとされています。

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太鼓塚古墳羨道と玄門 羨道は入口に向かってバチ形に開く
段の塚穴古墳・太鼓塚の玄門g
                  太鼓塚古墳玄門
 玄室の平面形は、中央部が膨らむ胴張り形で、玄室天井部は天井石7石が階段状に持ち送られることによるドーム状です。
段の塚穴古墳天井部
                 太鼓塚古墳の天井部
副葬品としては鉄製品・須恵器などが出てきていて、その出土品の年代判定から追葬がされているようです。石室内部が太鼓のように膨らんでいるので「太鼓塚」と呼ばれてきたようです。

段の塚穴古墳・太鼓塚の石室内部
太鼓塚古墳奥壁前の祠
奥壁前には小さな仏が奉られ、今も賽銭が数多くあげられていました。人々の信仰対象として奉られ、現在まで保護されてきたことが分かります。同時に、優れた築造技術を感じます。

段の塚穴古墳・太鼓塚の石室内部2
太鼓塚古墳玄室から入口方面
確かに太鼓のような膨らみを感じることができる玄室です。なお、玄室内部は暗いので強力な懐中電灯を持参することをお勧めします。入口から出てくると、外に拡がる風景が・・・


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段の塚穴古墳群の前に拡がる美田
目の前には、整備された美田が広がり、その向こうに吉野川が流れ、そして剣山へと伸びていく山脈が続きます。しかし、古代にはこんな風景ではなかったことは以前にお話ししました。古代の吉野川は、今よりも北側を流れ、郡里の寺町の河岸段丘からこのすぐ下まで押し寄せていました。この美田が現れるのは、吉野川の治水が進む近代になってからのようです。

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段の塚穴古墳群の西側の棚塚古墳
 西側にある棚塚を見に行きます。
全長8、5m、羨道部3、7m 玄室部4、5m、幅2m、石室全長:8,6m、高さ2,8m

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棚塚古墳の入口
太鼓塚古墳と構造的には似ていますが異なるのは、次の3点です。
①玄室の平面形は太鼓塚が中央部が膨らむ胴張り形でしたが、棚塚は長方形。
②玄室天井部は天井石5石が階段状に持ち送られることでドーム状にしていること
③玄室奥壁には石棚が付けられていること

段の塚穴古墳 棚塚1
棚塚古墳の奥壁と石棚
棚塚は石室奥壁側に石棚があることから付けられた名前のようです。石棚のある石室は、徳島では段ノ塚穴型石室だけで、七基が確認されています。

段の塚穴古墳 棚塚2
石棚の拡大写真

この太鼓塚と石棚柄の石室は県下で最大級であると同時に、巨石を巧みに積み上げた優れた技法の石室であることです。優れた技術者集団によって、造られたことがうかがえます。2つの古墳共通する特徴を挙げておきます。
①羨道部は入口部が広く、玄室方向に進むに連れて狭まり、玄室部入口の両側に立石が立てられ玄門としている。
②玄室部の平面形は太鼓張りか末広がり
③天井部は忌部山型と同じく玄室入口側と奥壁側から持ち送り、竃窪状とし玄室中央部の天井を最高位としている。
④忌部山型よりも天井部の高さはより高く、石室空間も広く、という意図がうかがえる。
⑤麻植の忌部山型石室と比較すると、段ノ塚穴型石室の構築技術の方がより優れている。
この2つの古墳に代表されるドーム型天井石室を持つ古墳を「段の塚穴型石室」と呼んで分類しています。
段の塚穴型石室をもつ古墳群とと美馬郡にある古墳分布図を見ておきましょう。

段の塚穴型石室をもつ美馬の古墳

段の塚穴型石室をもつ美馬の古墳一覧
美馬郡の段の塚穴型石室古墳の分布図と一覧表
ここからは次のようなが読み取れます。
美馬郡には、段ノ塚穴型石室をもつ古墳が23基あること
段の塚穴型石室をもつ古墳の一番西が大國魂古墳(美馬町城)で、一番東が北岡東古墳(阿波町)
③ 美馬郡の古墳は南岸よりも、北岸に立地するの方が多いこと。北岸優位
④ 段の塚穴型古墳は、山の上の高所立地はあまりなく、北岸の河岸段丘沿いの立地が多いこと
⑤ 敢えて集中地を挙げるなら、郡里と脇町の2つ

一番古いモデル(6世紀中葉)とされる大國魂古墳(美馬市美馬町)を、見ておきましょう。

大國魂古墳kaikoubu 2
大國魂古墳の開口部
この古墳は美馬町・重清西小学校北の大国魂神社の境内にあります。ここも「先祖の墓=信仰対象」として守られてきたのでしょう。この古墳は。段の塚穴型石室の中で、一番西に位置します。開口部は狭いですが、石室内部は完存してます。

段の塚穴古墳棚塚3
                大國魂古墳の玄室から見た開口部

幅2・22m、玄室長2.17m、高さ2.09m。石室全長は4.67m。
床面プランは、やや胴張りですが正方形に近い形式。側壁は下部に砂岩、上部に結晶片岩を用いています。奥壁には石棚がります。

大國魂古墳(美馬市美馬町)
大國魂古墳 奥壁の上部にもうけられた石棚 
石棚の位置が高すぎで、天井との空間が狭すぎるような感じがしますが、ここに何かが奉られていたのでしょう。大國魂古墳の特徴をまとめておきます
①段の塚穴古墳群に比べると石室の規模はやや小さい
②玄室の平面プランは胴張りをしているものの正方形に近い
③石室には、奥壁天井部に接する形で石棚が設置(奥行き30㎝、厚さ8㎝の小振りの石棚)
段の塚穴型石室変遷表
段の塚穴型石室の編年試案

初期の大國魂古墳から終期の段の塚穴古墳群を比較して、研究者は次のように指摘します。
①周忌の最終段階の段ノ塚穴古墳までに、石室は長く、高くという意図が働いている
②構築技術の高まりと同時に被葬者の権力的基盤の高まりがうかがえる。
このような石組技術をもった集団が古代の美馬にいて、独特の石室を作り続けたことになります。

段ノ塚穴型石室分布図
段の塚穴型石室と忌部山型石室の分布図

ついでに、ここで段ノ塚穴型石室と忌部山型石室の共通点も見ておきます。
③共に、石室内部をより広く高くするというベクトルが働いていること
④石室内をドーム状にし、天井を穹窪状に持ち送る「ドーム型天井」を採用していること
どちらが先行するかと言えば、段ノ塚穴型石室の初期モデルと考えられる大國魂古墳(5世紀末~6世紀初期)があるので、段ノ塚穴型石室が先と研究者は考えています。段ノ塚穴型石室が先に登場し、続いて忌部山型石室が続くとことを押さえておきます。

それでは段ノ塚穴型石室のルーツは、どこなのでしょうか?
それは、次の二ヶ所が考えられるようです。
①紀伊水道を隔てた和歌山県紀ノ川南岸下流域沿いに分布する岩瀬千塚型石室
②九州の肥後型石室
岩橋型石室 段の塚穴古墳のルーツ?

岩瀬型石室(和歌山)


肥後型石室
この両者は天井部を高く積み上げる点で共通点があります。段ノ塚穴型石室に見られる石棚を持つ特徴は、岩瀬千塚型に共通します。しかし、天井石を前後から持ち送りドーム状にするという手法は見られません。これは阿波で発展した独特の技法です。
 先ほど見た段ノ塚穴型石室の初期モデルとされる大國魂古墳と肥後型石室を比較すると、玄室プランが正方形であること、石棚がある点などでは共通します。そのため近年では、肥後型石室の影響を受けて、天井部を高くする技法が進化し、長方形の胴張り形がミックスされたとする見方が有力なようです。
  ここまでをまとめておきます
①麻植の忌部氏と美馬の佐伯直氏は、とも阿波に移り住んだということが史料からは読み取れる。
②段ノ塚穴型石室、忌部山型石室ともに、そのルーツを辿っていくと九州地域からの影響を受けて作られた可能性が高い。
③これは工人達の移住により構築技術がもたらされたというよりも、高い統率力を持った豪族が集団で移住・入植し、美馬郡、麻植郡を本拠地として活動したと考えられる。
④こうした勢力が、古墳末期から律令期において、美馬・麻殖で、独特のドーム型石室の終末古墳を造営し、引き続いて古代寺院の建立を手がけることになる。

それでは、美馬エリアに段ノ塚穴型石室を造営したのは、どんな集団だったのでしょうか
古墳末期に、横穴式の巨石墳を造っていたエリアでは、7世紀後半の白鳳時代になると古代寺院が現れることがよくあります。つまり、古代の国造クラスの有力者が、中央の支配者を見習って埋葬方法を古墳から寺院に切り替えたとされます。それが国造から郡司への生き残り戦略でもあったのです。彼らは壬申の乱の天武政権において、郡司として地方権力を握るために、中央政府の打ちだす政策に協力していきます。それが、白村江敗北後の国土防衛のための軍事施設整備であり、南海道などの整備、条里制施行の土木工事でした。同時に、郡司として郡衛やそれに付随した施設を整備していきます。つまり8世紀後半に、南海道などの主要道や郡衙・古代寺院がほぼ同時に姿を見せることになります。そのような場所が、美馬の郡里です。ここには、次のような施設がありました。

郡里廃寺2
             古代の美馬・郡里の政治的モニュメント
A 段の塚穴古墳(古墳末期の巨石墳)
B 郡里廃寺(有力豪族の氏寺)
C 美馬郡の郡衙
D 条里制跡
こうして見ると6世紀末に盟主的性格の強い段の穴塚古墳を作った集団は、白鳳期になると郡里廃寺を造営したことが考えられます。ここからは美馬には国造クラスとして活躍し、その後に美馬郡司にスライドしていく有力豪族がいたことがうかがえます。その豪族とは、誰なのでしょうか? 古代史料に美馬郡で活躍する氏族名はあまりいないようです。その中で、研究者は次の記事に注目します。

『日本三代実録』貞観十二(870)年七月十九日の条に、佐伯直氏が登場します。
「阿波国三好郡少領外従八位上仕直浄宗五人。賜姓 佐伯直。」
             (『日本三代実録』前篇、二七六頁、国史大系、吉川弘文館1924年)
ここには阿波国三好郡の少領である「仕直浄宗」以下の五人に佐伯直の姓が与えられたとあります。佐伯直氏は、讃岐では空海を生んだ善通寺の有力豪族で、次のように考えられていることは以前にお話ししました。
佐伯直氏
佐伯氏は3つの氏族がいて「擬似的血縁共同体」を形成していた
  『三代実録』巻貞観三年(861)11月11日辛巳条には、空海の父・田公につながる佐伯直鈴伎麻呂ら11名が佐伯宿爾の姓を賜わり、本貫を讃岐国多度郡から平安京の左京職に移すことを許されたことが記されています。それから9年後に阿波三好郡の「仕直浄宗」以下の五人が佐伯直が下賜され改姓していたことになります。ここからは善通寺の佐伯直氏と阿波美馬の勢力は「佐伯」という同じ姓を持ち、同属意識で結ばれていたことがうかがえます。

奈良時代の平城宮跡二条大路出土の木簡二点にも美馬郡の佐伯直氏が登場します。
A 阿波國美馬郡三野郷戸主佐伯直国分米
B 阿波国美馬郡三野郷  戸主佐伯直国麻呂米五斗
『平城官発掘調査出土木簡概報 二条大路木簡二 24・30P(奈良国立文化財研究所、1991年)
この二つの木簡は荷札木簡で、美馬郡三野郷の戸主佐伯直が税として米を納めたことが記されています。納めた年月は分かりませんが奈良時代の史料であることはまちがいありません。ここからは奈良時代の律令期に美馬郡三野郷に佐伯直氏の集団がいたことが分かります。史料の中に美馬郡域に登場する氏族は、佐伯直氏以外には今のところいないようです。佐伯氏と美馬郡の段ノ塚穴型石室の分布が重なり会う可能性が大きいと研究者は考えています。以上からは次のような説が考えられます。
郡里廃寺 段の塚穴
①麻植郡の忌部山型石室は、忌部氏の勢力エリアであった
②美馬郡の段の塚穴型石室は、佐伯氏の勢力エリアであった。
 『郡里町史』(1957)は、阿波国には、文献から確認できる「粟国」と「長国」のほかに、記録には出てこないが「美馬国」とでもいうべき国があったという阿波三国説を提唱しています。この美馬国は②が実態だったと考えられます。

古代の善通寺と美馬の交流関係については、以前に次のようにお話ししました。
徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ
                  郡里(こおざと)廃寺
この古代寺院を建立したのは、先ほど見たように佐伯直氏一族と考えられます。またこの廃寺跡からは、弘安寺廃寺(まんのう町)から出てきた白鳳期の同じ木型(同笵)からつくられた軒丸瓦が見つかっています。郡里廃寺建立に、善通寺の佐伯直氏が協力したことが考えられます。

弘安寺軒丸瓦の同氾
弘安寺(まんのう町)軒丸瓦の同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)
さらに、「美馬王国」と「善通寺王国(善通寺旧練兵場遺跡群)には、次のような関係がありました。
古代美馬王国と善通寺の交流


ここから研究者は、次のような仮説「美馬王国=讃岐よりの南下勢力による形成」説を仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

ここでは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説があることを押さえておきます。そうだとすれば、弘安寺(まんのう町)と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 最後に美馬の段の塚穴型型石室を造営した勢力の経済基盤は何だったのかを考えておきます。

大仏造営 辰砂分布図jpg
四国を東西に走る中央構造線の南側は、朱砂(水銀)や銅鉱など鉱物資源の眠るベルト地帯でした。その中でも、徳島の水銀生産の実態が他に先駆けて、明らかになっています。吉野川の南側の山には、鉱物資源を求めて、早くから人々が入り込み水銀を畿内だけでなく各地にもたらしたことが分かっています。そのルートが「美馬 → 善通寺 → 多度津 → 瀬戸内海航路」です。これは、律令時代になってもかわりません。東大寺の大仏鋳造に必要だった水銀と銅鉱の多くは、渡来人の秦氏がもたらしたものとされます。そのために秦氏は、伊予や土佐にやってきて鉱山開発を行っていたことがうかがえます。高越山周辺の銅山でも、秦氏の銘が経筒に残されていることは以前にお話ししました。このように、古代において吉野川の南側は、鉱物資源の生産地として戦略的にも重要地帯であったことがうかがえます。そこに、佐伯氏や忌部氏が入植し、この地を開き、忌部山型石棺や段の塚穴型石棺という独特の古墳を残したというのが私の今の考えです。

 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制形成期に美馬郡司にスライドして、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院郡里廃寺の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった善通寺の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。
⑥中央構造線の南側には鉱物資源ベルト地帯が東西に走り、その開発のために麻植に入植した子孫が忌部氏であり、美馬に入植したのが佐伯氏である
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ
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修験者

古代の阿波忌部氏について、研究者は次のように考えているようです。
①古代の大嘗祭は「太政官→阿波国司→麻植郡司→忌部氏」という律令体制の行政ルートを通じて、麻植郡の忌部氏による荒妙・由加物等の調進が行われた。
②しかし、律令体制が不安定となると、中央の斎部(忌部)氏も衰退し、このルートが機能しなくなった。
③そこで中央の神祗官は、荒妙・由加物の確保のために「阿波忌部」を直接的に配下に置いて掌握するシステムを作り出した。
④そのシステムが、「神祗伯家」→神祗官人(斎部氏か)→「左右長者」→「氏人」である。
⑤中世になると阿波忌部に替わって「氏人」が荒妙の織進や由加物の調進を行うようになった。

「阿波忌部」については、研究者の多くはその本貫地を麻植郡とし、氏神の忌部神社もその周辺にあったと考えていることを前回は見てきました。今回は、考古学者が「阿波忌部」の本貫地に作られた忌部山古墳群を通して、古代の麻植郡をどのように考えているのかを見ていくことにします。
テキストは「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」です。  

徳島県でも6世紀中葉頃になると、それまでの竪穴式石室に替わって、朝鮮半島から伝わってきた横穴式石室を埋葬施設に持つ円墳が登場してくるようになります。竪穴式石室は基本的に首長一人の埋葬ですが、横穴式石室を埋葬施設に持つ古墳のほとんどが10m前後の規模の小さな円墳で、家族墓として複数の追葬が行われるようになります。

阿波古墳編年表
上の徳島の古墳変遷図を見ると、吉野川流域の麻植郡については、次のような情報が読み取れます。
①3世紀から5世紀の前方後円墳に代表される首長墓がないこと。
②6世紀代(10期)になって、円墳で横穴式石室をもつ古墳が登場してくること
つまり、麻植郡は4・5世紀代には、古墳が造られていない「古墳空白地帯」なのです。これは強い力をもつ豪族たちがいなかった地域であった地帯とも言えそうです。

麻植郡域に横穴式石室の古墳が築造されるようになるのは6世紀になってからです。
その代表格が下図の2の忌部山古墳群や4の峰八古墳群、5の鳶ケ巣古墳群になるようです。

忌部山古墳群
麻植の3忌部山古墳群・4峰八古墳群・ 5鳶ヶ巣古墳群

地図を見れば分かるように、山川町忌部の背後の標高200mの山の中にあります。そして、その麓に、山崎忌部神社が鎮座し、その里が山川町忌部になります。「里から見える見える霊山に祖霊は帰っていく。その山や谷が霊山であり、霊域となる。それを奉るために社殿が作られる。」という民俗学者の言葉通りのレイアウトになっています。この里が阿波忌部の本貫地であったことが古墳からもうかがえます。注意しておきたいのは、高越山の麓ではないことです。

200m前後の高い山の上に古墳が作られるのは徳島ではあまり例がありません。徳島県の高所造営の代表的例を挙げると、次の2つです。
①三好郡東みよし町の丹田古墳(全長約25mの前方後円墳、積石塚、竪穴式石室)で標高約220m
②徳島市名東町の八人塚古墳(約全長60mの前方後円墳、積石塚、竪穴式石室?)でや標高130m
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丹田古墳(東みよし町)
山の上に作られた古墳は4世紀代の前期古墳で、尾根の先端部にあって、そこからは平地の集落が見下ろせる位置にあります。つまり首長墓で政治的なモニュメントとして作られています。麻植の忌部山古墳群や峰八古墳群、鳶ケ巣古墳群が高所に造られたのは、前期古墳の首長墓とは性格がちがいますが、家族墓として一族の存在誇示する意図がうかがえます。忌部山古墳群は『和名類緊抄』の郷名「忌部」に、峰八古墳群と鳶ケ巣古墳群は郷名「川嶋」の集落に比定されます。ここには、忌部氏と、隣接した川島にもうひとつの有力者集団がいたことがうかがえます。
忌部山古墳群をもう少し詳しく見ておきましょう。
忌部山古墳群1

            図4 忌部山古墳群の測量図 『忌部山古墳群』(1983年)より

この古墳群は、吉野川市山川町山崎字忌部山123番地の標高約240mにあり、『麻植郡誌』にも載っていて古くから知られた古墳群です。
忌部山2号墳
現在の忌部山2号墳


忌部山2号墳の羨道部2
調査時の忌部山古墳2号墳
1976年から3年間の調査で分かったことは、次の通りです。
①5基とも円墳で、墳丘規模は、直径10m前後、高さ2、5m前後で、墳丘規模に大きな格差はない。
②忌部山の尾根に沿って、最高部244mから1号墳、2号墳、3号墳と北方向へと下る稜線上にある。
③尾根上に並ぶ3基の古墳から、南東側の斜面約20m下に4号墳、さらに北東側に12m隔てて5号墳がある。
④ここからは、忌部山古墳群は、頂上部の1~3号墳グループと4~5墳グループに2つに分類できる
⑤忌部山古墳群は全て横穴式石室で、1号墳だけは横穴式石室に隣接して竪穴式の小石室があり、これは追葬用の埋葬施設。
⑥石室を比較すると、1号墳を最大として、次いで2号墳、3・4・5号墳が一回り小さい。
⑦築造順序は、1号墳→2号墳・3号墳 → 4号墳 → 5号墳で、6世紀半ば前後に前後して造られた。    

各古墳石室の開口方向から推測すると、一番上の1号墳から下っていく墓道と2号墳の墓道が繋がり、3号墳の南側を下って3号墳の墓道と繋がり、4号墳の西側から南側を廻って4号墳の石室前へと繋がり、さらに5号墳の石室開口部へと繋がって里へと下っていく墓道があったと研究者は考えています。


忌部山古墳群の横穴式石室は、大きな特徴を持っていると研究者は指摘します。
徳島県の他エリアの横穴式石室は長方形の石室で、天井部は水平で、全体は箱型の石室です。これが全国標準タイプです。ところが忌部山の古墳は、石室をドーム状に積み上げています。


忌部山2号墳の羨道部
      忌部山2号墳の石室と羨道部 ドーム状に高く積み上げられている

石室の底辺部は、入口から奥壁に至る壁面は緩やかな曲線を描き、側壁と奥壁の接点も角張ることはなく丸みを帯びています。天井部は水平ではなく、玄室入り口部と奥壁側から互いに持ち送りしながら、石室ほぼ中央部が最高部になるよう積み上げています。これが特徴です。全国的に見るとドーム状に築かれた横穴式石室は各地にあるようですが、忌部山型石室のように天井まで持ち送りのドーム状にする例はほとんどないようです。こうしたドーム状石室は、忌部山型石室と呼ばれているようです。

境谷古墳のドーム状石室.2jpg
            境谷古墳(山川町境谷)のドーム状石室

この忌部山型石室が麻殖郡内には18基あります。ここからは麻植郡内では、古墳造営に際して独特の基準があり、それを守ろうとする集団間の絆が強かったことがうかがえます。別の言い方をすれば「麻植郡式の葬送儀礼ルール」があったと言えます。そのような集団のひとつが山川町忌部を拠点とする勢力だったことになります。
 それでは忌部山型石室のルーツはどこなのでしょうか?
そのことを探る上で参考になるのが美馬の段ノ塚穴古墳群のようです。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
太鼓塚古墳の石室 ドーム状に高く積み上げられている

これを探るのは次回にして、以上をまとめておきます。
①山川町山崎は忌部の地名が残り、史料的にも「阿波忌部」の本貫地であったことがうかがえる
②山崎の忌部の里の上には、忌部神社が鎮座し、さらに山の上には忌部山古墳群がある。
③忌部山古墳軍は、里の阿波忌部の家族墓として6世紀中頃に、継続して造られたもので、忌部氏の集団がいたことがうかがえる。
④忌部古墳群には、ドーム状石室という独特の構造が見られ、他エリアとは一線を画する出自や交易活動を行っていたことがうかがえる。
②ドーム状石室という点では、麻植と美馬の勢力は共通点を持ち、麻植の影響を受けて美馬でも造り始められたと研究者は考えている。
図6 太鼓塚石室実測図 『徳島県博物館紀要』第8集(1977年)より
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「天羽 利夫 古代阿波の忌部氏 ―考古学からのアプローチー 講座麻植を学ぶ」
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阿波国府周辺
阿波国府周辺の遺跡

 阿波国府推定地については、鮎食川の扇状地上の大御和神社を中心とする地域と観音寺を中心とする地域の二説がありました。そんな中で養護学校近くの舌洗(したあらい)川の旧河道から多量の木簡が出土しました。そこに書かれた記述内容から、この周辺に国府や国衙があることが明らかになりました。今回は、出てきた木簡から、阿波国府の役割や業務などを見ていくことにします。

阿波国府は名東郡にあり 
和名類聚抄の阿波部分 各郷名も見える
テキストは「森 公章 倭国の政治体制と対外関係 300P 国宰、国司制の成立をめぐる問題  ―徳島県観音寺遺跡出土木簡に接して―」です。
倭国の政治体制と対外関係


まず、比較のために木簡を出土する国府関連遺跡を挙げておきます。
①鹿の子C遺跡出上の漆紙文書(約290点)が出てきた常陸国府
②下野国府跡(2300点強)、
③但馬国府跡関連遺跡(約230点)
④出雲国庁跡(15点)
⑤周防国府跡(約20点)
出てきた木簡の特色としては、国関連の施設であったことを裏付ける内容が含まれています。それは国内の各郡からの文書や物品が届けられていることから分かります。例えば出雲国庁跡出土の「大原評 □磯部 安□」とあって、意宇郡にあった出雲国府に大原評(郡)などからの個人情報が集められています。
阿波国府 観音寺遺跡木簡
徳島県観音寺遺跡出土の木簡

 但馬国府跡関連遺跡の木簡には、次のように記されています。
「・朝来郡/・死逃帳/天長□□(右側面)/□□三年(左側面)」
「・二方郡滴田結解/天長□〔四ヵ〕□」
このような個人情報が各郡からの文書が巻子の形で送られてきています。これらをもとにして個別人身支配の基本となる戸籍が作られたのかもしれません。

わかめ朝貢木簡
観音寺遺跡木簡 わかめが貢納されていた

観音寺遺跡から出土した木簡にも、各郡からの運ばれてきた物資の搬入を示すものがあります。
「麻殖評伎珂宍二升」
「□〔評?〕曲マ里五人」
麻殖評(郡)や板野郡津屋郷、美馬郡奏原郷などからの荷札木簡があります。阿波各郡からの物品が、ここに集められていたことが分かります。

阿波国府木簡 ミニエ うにの朝貢
観音寺遺跡木簡 がぜ(うに)も貢納されていた

 木簡には、次のような人名や年齢を記すものがあります。
井上戸主弓金口□□〔片力〕七」(名方(東)郡井上郷?)
「□子見爾年 五十四」
ここからは井上郷では戸籍が実際に作成され、人名・年齢など個人情報を国府が握っていたことが分かります。男女の名前が書かれていまので、庚午年籍の記述とも整合性があります。国司主導の戸籍作成が行われていたことが裏付けられます。
 次の木簡は、国司の国内巡行が行われていたことが分かるものです。
阿波国府木簡4
aには「□(名ヵ)方」「阿波国道口」などとあり、地域の交通要所などが列挙されています。これらの地点を目印や起点にしながら国司の各郡視察が行われていたようです。
bの「水原里」がどこにあったのかは分かりませんが、田地面積と「得」の記載があります。これは職員令大国条の国守の職掌「田宅」の規定通りに、国内巡行による検田作業が行われていたことを示すものだと調査報告書は記します。

木簡の中での徴税に関するものを見ておきましょう。

阿波国府木簡の記載
            観音寺遺跡木簡
c  波亦五十戸税三百□
  高志五十戸税三百十四束   
  佐味五十戸税三□□
古代の郷は50戸をひとつの目安にして編成されていました。
「高志五十戸税三百十四束」は、高志(郷)の50戸の税が稲束340束であったことを記すものです。報告書では50戸に課された額が310束前後というのはやや少ないとして、国府から何らかの稲を下行した記録としています。

阿波国府木簡 板野国守
            観音寺遺跡木簡

研究者が注目するのが上の木簡です。
「板野」はやや大ぶりの文字で、「国守」との間には、心持ちスペースがありますので、文章的にはここで切れていると研究者は判断します。報告書では「国守」を国司の長官の守(カミ)のこととします。そして某年四月に行われた板野評への部内巡行に際して、国守と従者の小子に対して支給された食米を記録した木簡としています。そうだとすれば、ここでも国守による国内視察が行われ、それに対して給付金が支給されていたことになります。以上のように国府遺跡から出てきた木簡は、観音寺遺跡周辺に国府があったことを裏付けます。

徳島県国府 矢野遺跡 

それでは律令時代の国司は、どのように生まれたのでしょうか。その形成過程を見ておきましょう。

  国司の古訓は「クニノミコトモチ」で、「国宰」と書かれることもありました。大宝令よりも以前の7世紀の国司は、宰や国宰と記され、長官は頭、次官は助と呼ばれていたようです。この「宰」に関しては、『日本書紀』敏達六年五月丁五条に次のように記されています。
「遣大別王与・小黒吉士・宰於百済国・王人奉命為使三韓、自称為宰、言於韓 蓋古之典乎。如今言使也。余皆倣此 大別王未詳所出也。」

『釈日本紀』巻十一・神功紀の「宰」は、これを次のように解説しています。
「私記曰く、師説、今持天皇御言之人也。故称美古止毛知」

ここからは、「宰」が特定の使命を与えられ、地方や外国などに臨時に派遣される使者がもともとの意味だったことが分かります。
以上をまとめておくと
①臨時に任命され、その時々の政治的使命を果すために地方に派遣された使者を「宰」と呼んだこと
②それが地方監督機能が強化されるにつれて、定期的に任命・派遣されるになったこと。
ここでは中央官人が一定期間・一定地域内に常駐して地方支配を統括するようになり、それが国司制の成立につながることを押さえておきます。
 その過程は、次のような段階を経たと研究者は考えています。
①皇極紀の「国司」や孝徳紀の「東国等国司」など、ミコトモチ的色彩の強い使者派遣の段階
②壬申紀に見える常駐的な「国司」を初期国宰と呼ぶこと
③それは白村江役前後の対外的緊張の高まる時期に派遣されたもので、壬申の乱後の国司に比べて、行政権以外に財政・軍事権も有する強大な存在であったこと、
④天武・持統朝頃の行政権のみを付与された存在になったこと
⑤天武朝末年の国司の管轄領域としての令制国の成立
⑥大宝令制による財政・軍事権付与による律令制的国司制の完成
 次に国府の業務内容が見える木簡を見ていくことにします。
下野国府跡木簡(延暦十年頃)には、次のように記します。

「□□□□(依ヵ)国二月十日符買進□□/□(同ヵ) 六月十三日符買進甲料皮」

ここからは甲冑製造用の皮類を購入していることが分かります。これと次の蝦夷三十八年戦争の時に出された『続日本紀』延暦九年間二月庚午(四日)条の記述内容はリンクします。

「勅為征蝦夷、仰下諸国令造革甲三千領 東海道駿河以東、東山道信濃以東、国別有数。限三箇年並令造詑」
同十年二月丙戊(二十六日)条
「仰京畿七道国郡司造甲。共数各有差」
六月己亥(十日)条
鉄甲三千領、仰下諸国、依新様修理。国別有数」
ここには蝦夷遠征の際に、中央政府は各国に甲冑2000領の提出を命じています。その命に答えるために、下野国府は甲冑用の材料を購入しているのです。中央政権の命令通りに動く国司の姿が見えます。こうして国府の仕事はいろいろな分野に及ぶようになり、そのために大量の文書が作成されるようになります。
 例えば周防国府跡の木簡には「鍛冶」と記して人名を記したものがあります。この「鍛冶」は、鉄器生産の現業部署が国府に直轄していることがうかがえます。鉄器の生産・管理も国府の役割であったようです。
 また下野国府跡の木簡には「造瓦倉所」(2165号)、「造厨」(2662号)、「検領藤所」(1213号)など「所」と書かれたものが出てきています。これらも先ほどの鉄製品と同じように国府の管轄下にあったようです。
阿波国府周辺遺跡航空写真2
阿波国府周辺
 国府と郡衙が、同じ場所にあることの意味を研究者は次のように考えています。
『出雲国風土記』巻末には「国庁意宇郡家」とあって、国府と国府所在郡の意宇郡の郡家が同じ場所にあったと読めます。これは阿波国府と名方評(郡)家の関係と同じです。
 どうして、国府と郡家がすぐ近くに置かれたのでしょうか? 
それは中央からやってきた国宰が国府所在地の評司に頼ることが大きかったからと研究者は考えています。7世紀の国宰は、出雲国造の系譜を引く出雲臣や、阿波国造以来の粟凡直氏を後ろ盾にして、国府の運営を行おうとしていたというのです。これは8世紀以降同じで、文書逓送や部領に充てられるのは、国府所在郡の郡司の例が多く、郡散事も国府所在郡出身者が多いようです。
 『延喜式』巻五十雑式には「凡国司等、各不得置資養郡」とあって「養郡」というものがあったことが分かります。「養郡」についてはよく分かりませんが、国司の在地での生活する上で、郡からの食料などの生活物資の提供に頼っていたことが考えられます。観音寺遺跡木簡からも、板野評から国宰への食米支出があったことが分かります。
 また丹波国氷上郡の郡家付属施設の木簡は、国司が氷上郡に巡行した際に病に倒れ、その病状を見るために浄名という人物(郡関係者?)が使者を派遣したことが記されています。国司が病気になったような場合でも、郡司に頼らなければならなかったのです。初期の在地勢力の制約を抜け出して国宰、国司が、どのようにして独自の権力機構を地方に築いていくかが課題となったようです。。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「森 公章 倭国の政治体制と対外関係 300P 国宰、国司制の成立をめぐる問題  ―徳島県観音寺遺跡出土木簡に接して―」

 アオバト飛来 大磯町・照ヶ崎海岸:東京新聞 TOKYO Web
塩分補給のために深山から岩礁に飛来するアオバト
 四国山脈の奥に棲むアオバトは、塩水を飲むために海の岩礁に下りてきます。野鳥観察が趣味だったころに、豊浜と川之江の境の余木崎にやってくるアオバトたちを眺めによく行きました。波に打たれながら海水を飲むアオバトを、ハラハラしながら見ていたのを思い出します。アオバトと同じように、人間にとっても塩は欠かせないものです。そのため縄文人たち以来、西阿波に住む人間はアオバトのように塩を手に入れるために海に下りてきたはずです。弥生時代の阿波西部は、讃岐の塩の流通圏内だったようです。その交換物だったのが阿波の朱(水銀)だったことが、近年の旧練兵場遺跡の発掘調査からわかってきたことは以前にお話ししました。
 つまり、善通寺王国と阿波の美馬・三好のクニは「塩=朱(水銀)」との交換交易がおこなわれていたようです。阿讃の峠は、この時代から活発に行き来があったことを押さえておきます。
 7世紀後半に丸亀平野南部に建立された弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺の白鳳時代の瓦は、同笵瓦でおなじ版木から作られていたことが分かっています。ここでも両者の間には、先端技術者集団の瓦職人集団の「共有」が行われていたことがうかがえます。以上をまとめると次のようになります。
①弥生時代の阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていた
②善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が運ばれ、加工・出荷されていた。
③丸亀平野南部の弘安寺跡(まんのう町)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われている。
 このような背景の上に、中世になると阿波忌部氏の西讃進出伝説などが語られるようになると私は考えています。 
 そのような視点で見ていると気になってきたのが国の史跡となっている三加茂の丹田古墳です。今回はこの古墳を見ていくことにします。

丹田古墳 位置
           三加茂の丹田古墳
 三加茂から桟敷峠を越えて県道44号を南下します。この道は桟敷峠から落合峠を経て、三嶺ふもとの名頃に続く通い慣れた道です。加茂谷川沿の谷間に入って、すぐに右に分岐する町道を登っていきます。
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丹田古墳手前の加茂山の集落
 加茂山の最後の集落を通り抜けると、伐採された斜面が現れ、展望が拡がります。そこに「丹田古墳」の石碑が現れました。
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           丹田古墳の石碑 手前が前方部でススキの部分が後方(円)部 
標高220mの古墳からの展望は最高です。眼下に西から東へ吉野川が流れ、その南側に三加茂の台地が拡がります。現在の中学校から役場までが手に取るように分かります。この古墳から見える範囲が、丹田古墳の埋葬者のテリトリーであったのでしょう。

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丹田古墳からの三加茂方面 向こうが讃岐山脈

 この眺めを見ていて思ったのは、野田院古墳(善通寺市)と雰囲気が似ていることです。
2野田院古墳3
     野田院古墳 眼下は善通寺の街並みと五岳山

「石を積み上げて、高所に作られた初期古墳」というのは、両者に共通します。作られた時期もよく似ています。彼らには、当時の埋葬モニュメントである古墳に対してに共通する意識があったことがうかがえます。善通寺と三加茂には、何らかのつながりがあったようです。

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帰ってきてから「同志社大学文学部 丹田古墳調査報告書」を読みました。それを読書メモ代わりにアップしておきます。
丹田古墳調査報告 / 森浩一 編 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

丹田古墳周辺部のことを、まず見ておきましょう。
①丹田古墳は加茂山から北東にのびる尾根の先端部、海抜約220mにある。
②前方部は尾根の高い方で、尾根から切断することによって墳丘の基礎部を整形している。
③丹田古墳周辺の表土は、丹田の地名が示すように赤土である。
④丹田古墳南東の横根の畑から磨製石斧・打製石鏃・打製石器が散布
⑤加茂谷川右岸・小伝の新田神社の一号岩陰からは、多数の縄文土器片が出上
 丹田古墳とほぼ同じ時期に築かれた岩神古墳が、加茂谷川の右岸高所に位置します。丹田古墳と同じ立地をとる古墳で、丹田古墳の後継関係にあった存在だと考えられます。前期古墳が高い所に作られているのに対して、後期古墳は高地から下りて、流域平野と山地形との接触部に多く築かれるようになります。すでに失われてしまいましたが、石棚のある横穴式石室をもった古墳や貞広古墳群はその代表です。貞広古墳群は、横穴式石室の露出した古墳や円墳の天人神塚など数基が残っています。
 以上から三加茂周辺では、初期の積石塚の前方後円(方)墳である丹田古墳から、横穴式石室をもつ後期古墳まで継続して古墳群が造られ続けていることが分かります。つまり、ひとつの継続した支配集団の存在がうかがえます。これも善通寺の有岡古墳群と同じです。

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                                丹田古墳の後円部の祠
丹田古墳の東端には、大師の祠があります。この祠作成の際に、墳丘の石が使われたようです。そのため竪穴式石室にぽっかりと穴が空いています。

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石室に空いた穴を鉄編みで塞いでいる

古墳の構築方法について、調査書は次のように記します。
①西方の高所からのびてきた尾根を前方部西端から11m西で南北に切断されている。
②その際に切断部が、もっとも深いところで2m掘られている。
③前方部の先端は、岩盤を利用
④後円(方)部では、岩盤は墳頂より約2、2m下にあり、石室内底面に岩盤が露出している
⑤墳丘は、岩盤上に積石が積まれていて、土を併用しない完全な積右塚である。
⑥使用石材は結晶片岩で、小さいものは30㎝、大きなものは1mを越える
⑦石材の形は、ほとんどが長方形

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墳丘に使用されている石材

⑧くびれ部付近では、基底部から石材を横に5・6個積みあげている
⑨その上にいくに従って石は乱雑に置かれ無秩序になっていく。
⑩墳丘表面は、結晶片岩に混じって白い小さな円礫が見えます。これは、下の川から運び上げたもののようです。築造当初は、白礫が墳丘全面を覆っていたと研究者は考えています。

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            白く輝く丹田古墳
そうだとすれば、丹田古墳は出来上がった時には里から見ると、白く輝く古墳であったことになります。まさに、新たな時代の三加茂地域の首長に相応しいモニュメント墳墓であったと云えそうです。

⑪古墳の形状は、前方部先端が一番高く、先端部が左右に少しひろがっている箸墓タイプ
⑫墳形については、研究者は前方後方墳か、後円墳か判定に悩んでいます。
次に、埋葬施設について見ておきましょう。
 先ほども見たように、石室部分は大師祠建設の際に台座の石とするために「借用」された部分が小口(30㎝×50㎝)となって開口しています。しかし、石室字体はよく原状を保っていて、石積み状態がよく分かるようです。
丹田古墳石室
丹田古墳の縦穴式石室

①右室底面の四隅は直角に築かれて、四辺はほぼ直線
②規模は全長約4,51m、幅は東端で約1,32m、西端では約1,28m
③石室の底面は、東のほうがやや低くなっていて、両端で約0,26mの傾斜差
④この石宝底面の傾斜は、尾根の岩盤をそのまま、利用しているため
⑤高さは両端とも1.3mで、中央部はやや低く約1,2m
⑥石室底面は墳頂から約2.2m下にあり、石室頂と墳頂との間は約0,85m
⑦石室の壁は墳丘の積石と同じ結品片岩を使い、小口面で壁面を構成する小口積
⑧底部に、大きめの石を並べ垂直に積み上げたのち、徐々に両側の側面を持ち送り、天井部で合わせている。
⑨つまり横断面図のように合掌形になっていて、 一般的な天井石を用いた竪穴式石室とは異なる独特の様式。
⑩については、丹田古墳の特色ですが、「合掌形石室」の類例としては、大和天神山古・小泉大塚古墳・メスリ山古墳・谷口古墳の5つだけのようです。どうして、このタイプの石室を採用したのかは分かりません。
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ここで少し丹田古墳を離れて、周囲の鉱山跡を見ていくことにします。
①からみ遺跡 海抜1300mの「風呂の塔かじやの久保」にある銅鉱採堀遺跡
②滝倉山(海抜500m)
③三好鉱山(海抜700m)跡
①風呂塔かじやの久保は、奈良朝以前の採掘地と研究者は考えているようです。鋳造跡としては長善寺裏山の金丸山があります。ここの窯跡からは須恵器に鋼のゆあか(からみ)が流れついている遺物が発見されています。
 また三加茂町が「三(御)津郷」といっていたころは東大寺の荘園でした。その東大寺の記録に「御津郷より仏像を鋳て献上」とあります。ここからは加茂谷川の流域には、銅鉱脈があり、それが古代より採掘され、長善寺裏山の鋳造跡で鋳造されていたという推測ができます。残念ながら鋳造窯跡は、戦中の昭和18年(1954)に破壊されて、今は一部が残存するのみだそうです。

三加茂町史 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 三加茂町史145Pには、次のように記されています。

かじやの久保(風呂塔)から金丸、三好、滝倉の一帯は古代銅産地として活躍したと思われる。阿波の上郡(かみごおり)、美馬町の郡里(こうざと)、阿波郡の郡(こおり)は漢民族の渡来した土地といわれている。これが銅の採掘鋳造等により地域文化に画期的変革をもたらし、ついに地域社会の中枢勢力を占め、強力な支配権をもつようになったことが、丹田古墳構築の所以であり、古代郷土文化発展の姿である。

  つまり、丹田古墳の被葬者が三加茂地域の首長として台頭した背景には、周辺の銅山開発や銅の製錬技術があったいうのです。これは私にとっては非常に魅力的な説です。ただ、やってきたのは「漢民族」ではなく、渡来系秦氏一族だと私は考えています。
本城清一氏は「密教山相」で空海と秦氏の関係を次のように述べています。(要約)
①空海の時代は、渡来系の秦氏が各地で大きな影響力を持っていた時代で、その足跡は各地に及んでいる
②泰氏の基盤は土木技術や鉱山開発、冶金技術等にあった。この先進技術を支えるために、秦氏は数多くの専門技術を持った各職種の部民を配下に持っていた。
③その中には鉱業部民もいたが、その秦氏の技術を空海は評価していた。
④空海は民衆の精神的救済とともに、物質的充足感も目指していた。そのためには、高い技術力をもち独自の共同体を構成する秦氏族の利用、活用を考えていた。
⑤空海の建立した東寺、仁和寺、大覚寺等も秦氏勢力範囲内にある。
⑥例えば東寺には、稲荷神社を奉祀している(伏見稲荷神社は泰氏が祀祭する氏神)。これも秦氏を意識したものである。
空海の満濃池改修も、秦氏の土木技術が関与していることが考えられる。
⑧空海の讃岐の仏教人関係は、秦氏と密接な関係がある。例えば秦氏族出身の僧として空海の弟子道昌(京都雌峨法輪寺、別名大堰寺の開祖)、観賢(文徳、清和天皇時、仁和寺より醍醐寺座主)、仁峻(醍醐成党寺を開山)がいる。
⑨平安時代初期、讃岐出身で泰氏とつながる明法家が8名もいる。
⑩讃岐一宮の田村神社は、秦氏の奉祀した寺社である。
⑪金倉寺には泰氏一族が建立した新羅神社があり、この大師堂には天台宗の智証(円珍)と空海が祀られている。円珍と秦氏の関係も深い。

2密教山相ライン
  四国の密教山相ラインと、朱(水銀)や銅などの鉱脈の相関性

以前に、四国の阿波から伊予や土佐には銅鉱脈が通過しており、その鉱山開発のために渡来系秦氏がやってきて、地元有力豪族と婚姻関係を結びながら銅山や水銀などの確保に携わったこと。そして、奈良の大仏のために使用された銅鉱は、伊予や土佐からも秦氏を通じて貢納されていたことをお話ししました。それが、阿波の吉野川沿いにも及んでいたことになります。どちらにしても、阿波の加茂や郡里の勢力は、鉱山開発の技能集団を傘下に抱えていたことは、十分に考えられる事です。

丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。

「天平以前の日本人が「丹」字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は「に」と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ「そほ」には「赭」の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう。

丹田古墳の「丹田」は赤土の堆積層をさします。
ここには銅鉱山や、朱(水銀)が含まれていることは、修験者たちはよく知っていました。修験者たちは、鉱山関係者でもありました。修験者の姿をした鉱山散策者たちが四国の深山には、早くから入っていたことになります。そして鉱山が開かれれば、熊野神社や虚空蔵神が勧進され、別当寺として山岳寺院が建立されるという運びになります。山岳寺院の登場には、いろいろな道があったのではないかとおもいます。  
 同時に、阿波で採掘された丹=朱砂は、「塩のルート」を通じて丸亀平野の善通寺王国に運ばれ、そこで加工されていました。善通寺王国跡の練兵場跡遺跡からは、丹=朱砂の加工場がでてきていることは以前にお話ししました。丹=朱砂をもとめて、各地からさまざまな勢力がやってきたことが、出てきた土器から分かっています。そして、多度津の白方港から瀬戸内海の交易ルートに載せられていました。漢書地理志に「分かれて百余国をなす」と書かれた時代の倭のひとつの王国が、善通寺王国と研究者は考えるようになっています。善通寺王国と丹田古墳の首長は、さまざまなルートで結びつきをもっていたようです。
以上をまとめておきます
①阿波の丹田古墳は高地に築造された積石の前方後方(円)墳である。
②すべてが積石で構築され、白い礫石で葺かれ、築造当初は山上に白く輝くモニュメント遺跡でもあった。
③これは、丹田古墳の首長が当時の「阿識積石塚分布(化)圏」に属するメンバーの一人であったことを示すものである。
④特に、三加茂と善通寺のつながりは深く、弥生時代から「塩=鉱物(銅・朱水銀)」などの交易を通じて交易や人物交流が行われていた。
⑤それが中世になると、阿波忌部氏の讃岐入植説話などに反映されてきた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
徳島県教育委員会 丹田古墳調査報告書
三加茂町史 127P 丹田古墳

徳島県美馬市寺町の寺院群 - 定年後の生活ブログ
郡里廃寺(こおざとはいじ)復元図
郡里廃寺跡は,もともとは立光寺跡と呼ばれていたようです。
「立光寺」というのは、七堂伽藍を備えた大寺院が存在していたという地元の伝承(『郡里町史』1957)により名付けられたものです。何度かの発掘調査で全体像が明らかになってきて、今は国の史跡指定も受けています。
郡里廃寺跡 徳島県美馬市美馬町 | みさき道人 "長崎・佐賀・天草etc.風来紀行"

郡里廃寺跡が所在する美馬市美馬町周辺は,古墳時代後期~律令期にかけての遺跡が数多く分布しています。その遺跡の内容は,阿波国府周辺を凌ぐほどです。そのため『郡里町史』(1957)は、阿波国には,元々文献から確認できる粟国と長国のほかに,記録にはないが美馬国とでもいうべき国が存在していたという阿波三国説を提唱しています。
段の塚穴
段の塚穴
 阿波三国説の根拠となった遺跡を、見ておきましょう。
まず古墳時代について郡里廃寺跡の周辺には,横穴式石室の玄室の天井を斜めに持ち送ってドーム状にする特徴的な「段の塚穴型石室」をもつ古墳が数多くみられます。この古墳は石室構造が特徴的なだけでなく,分布状態にも特徴があります。

郡里廃寺 段の塚穴
段の塚穴型古墳の分布図
この石室を持つ古墳は,旧美馬郡の吉野川流域に限られて分布することが分かります。古墳時代後期(6世紀後半)には、この分布地域に一定のまとまりが形成されていたことをしめします。そして、この分布範囲は後の美馬郡の範囲と重なります。ここからは、古墳時代後期に形成された地域的まとまりが、美馬郡となっていったことが推測できます。そして、古墳末期になって作られるのが、石室全長約13mの県内最大の横穴式石室を持つ太鼓塚古墳です。ここに葬られた国造一族の子孫たちが、程なくして造営したのが郡里廃寺だと研究者は考えています。
 
1善通寺有岡古墳群地図
佐伯氏の先祖が葬られたと考えられる前方後円墳群
 比較のために讃岐山脈を越えた讃岐の多度郡の佐伯氏と古墳・氏寺の関係を見ておきましょう。
①古墳時代後期の野田院古墳から末期の王墓山古墳まで、首長墓である前方後円墳を築き続けた。
②7世紀後半には、国造から多度郡の郡司となり、条里制や南海道・城山城造営を果たした。
③四国学院内を通過する南海道の南側(旧善通寺西高校グランド)内の善通寺南遺跡が、多度郡の郡衙跡と推定される
④そのような功績の上で、佐伯氏は氏寺として仲村廃寺や善通寺を建立した。

郡里廃寺周辺の地割りや地名などから当時の状況を推測できる手がかりを集めてみましょう。
郡里廃寺2
郡里廃寺周辺の遺跡
①郡里廃寺跡付近では,撫養街道が逆L字の階段状に折れ曲がる。これは条里地割りの影響によるものと思われる。
②郡里廃寺跡の名称の由来ともなっている「郡里」の地名は,郡の役所である郡衙が置かれた土地にちなむ地名であり,周辺に郡衙の存在が想定される
③「駅」「馬次」の地名も郡里廃寺跡の周辺には残っていて、古代の駅家の存在が推定できる
 このように郡里廃寺跡周辺にも,条里地割り,郡衙,駅家など古代の郡の中心地の要素が残っています。ここから郡里が古代美馬郡の中心地であった可能性が高いと研究者は考えています。そして,郡衙の近くに郡里廃寺跡があるということは、佐伯氏と善通寺のように、郡里廃寺が郡を治めた氏族の氏寺として建立されたことになります。

それは、郡里を拠点として美馬王国を治めていたのは、どんな勢力だったのでしょうか?
 
郡里が阿波忌部氏の拠点であったという研究者もいます。
 郡里廃寺からは、まんのう町弘安寺廃寺から出てきた白鳳期の軒丸瓦と同じ木型(同笵)からつくられたもの見つかっていることは以前にお話ししました。
弘安寺軒丸瓦の同氾
       4つの同笵瓦(阿波立光寺は郡里廃寺のこと)

弘安寺(まんのう町)出土の白鳳瓦(KA102)は、表面採取されたもので、その特長は、立体感と端々の鋭角的な作りが際立っていて、木型の特徴をよく引き出していることと、胎土が細かく、青灰色によく焼き締められていることだと研究者は指摘します。

③ 郡里廃寺(立光寺)出土の同版瓦について、研究者は次のように述べています。
「細部の加工が行き届いており、木型の持つ立体感をよく引き出している、丁寧な造りである。胎土は細かく、焼きは良質な還元焼成、色調は灰白色であった。」

弘安寺同笵瓦 郡里廃寺
      郡里廃寺の瓦 上側中央が弘安寺と同笵

  まんのう町の弘安寺廃寺で使われた瓦の木型が、どうして讃岐山脈を越えて美馬町の郡里廃寺ににもたらされたのでしょうか。そこには、両者に何らかのつながりがあったはずです。どんな関係で結ばれていたのでしょうか。
郡里廃寺の造営一族については、次の2つの説があるようです。
①播磨氏との関連で、播磨国の針間(播磨)別佐伯直氏が移住してきたとする説
②讃岐多度郡の佐伯氏が移住したとする説
  播磨からきたのか、讃岐からきたのは別にしても佐伯氏の氏寺だと云うのです。ある研究者は、古墳時代前期以来の阿讃両国の文化の交流についても触れ、次のような仮説を出しています。

「積石塚前方後円墳・出土土器・道路の存在・文献などの検討よりして、阿波国吉野川中流域(美馬・麻植郡)の諸文化は、吉野川下流域より遡ってきたものではなく、讃岐国より南下してきたものと考えられる」

 これは美馬王国の古代文化が讃岐からの南下集団によってもたらされたという説です。
『播磨国風土記』によれば播磨国と讃岐国との海を越えての交流は、古くから盛んであったことが記されています。出身が讃岐であるにしろ、播磨であるにしろ、3国の間に交流があり、讃岐の佐伯氏が讃岐山脈を越えて移住し、この地に落ちついたという説です。
 これにはびっくりしました。今までは、阿波の忌部氏が讃岐に進出し、観音寺の粟井神社周辺や、善通寺の大麻神社周辺を開発したというのが定説のように語られていました。阿波勢力の讃岐進出という視点で見ていたのが、讃岐勢力の阿波進出という方向性もあったのかと、私は少し戸惑っています。
 まんのう町の弘安寺廃寺が丸亀平野南部の水源管理と辺境開発センターとして佐伯氏によって建立されたという説を以前にお話ししました。その仮説が正しいとすれば、弘安寺と郡里廃寺は造営氏族が佐伯氏という一族意識で結ばれていたことになります。
 郡里廃寺は、段の塚穴型古墳文化圏を継続して建立された寺院です。
美馬郡の一族がなんらかの関係で讃岐の佐伯氏と、関係を持ち人とモノと技術の交流を行っていたことは考えられます。そうだとすれば、それは讃岐山脈の峠道を越えてのことになります。例えば「美馬王国」では、弥生時代から讃岐からの塩が運び込まれていたのかもしれません。そのために、美馬王国は、善通寺王国に「出張所」を構え、讃岐から塩や鉄類などを調達していたことが考えられます。その代価として善通寺王国にもたらされたのは「朱丹生(水銀)」だったというのが、今の私の仮説です。
 以上をまとめておくと
①美馬郡郡里には、独特の様式を持つ古墳群などがあり、「美馬王国」とも云える独自の文化圏を形成していた
②この勢力は讃岐山脈を越えた善通寺王国とのつながりを弥生時代から持っていた。
③「美馬王国」の国造は、律令国家体制の中では郡司となり、郡衛・街道・条里制整備を進めた。
④その功績を認められ他の阿波の郡司に先駆けて、古代寺院の建立を認められた。
⑤寺院建立は、友好関係(疑似血縁関係)にあった多度郡の佐伯氏の協力を得ながら進められた。それは、同笵瓦の出土が両者の緊密な関係を示している。

 善通寺の大麻山周辺に残されている大麻神社や忌部神社は、阿波忌部氏の「讃岐進出の痕跡」と云われてきました。しかし、視点を変えると、佐伯氏と美馬王国の主との連携を示す痕跡と見ることも出来そうです。ここまで見てきて感じるのは、古代の美馬には忌部氏の痕跡がないことです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木本 誠二   郡里廃寺跡の調査成果と史跡保存の経緯
*                                     阿波学会紀要 第55号 2009年
郡里町(1957):『郡里町史』.

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