瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 秦氏の研究


播磨の大避神社

瀬戸内海の赤穂市坂越の大避神社は秦河勝(かわかつ)を祀る神社です。そして、この神社の周辺や千種川流域には多くの大避神社が鎮座しています。どうしてこれだけの濃密な分布が見られるのでしょうか? それは古代以来の秦氏の活動の痕跡だと研究者は考えています。今回は、大避神社の歴史と秦氏との関係を見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏  396P」です。
まず祭神として奉られている秦河勝を押さえておきます

秦川勝
 秦河勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
秦河勝は飛鳥時代に聖徳太子の最高のブレーンとして朝廷の財務担当責任者として活躍した人物です。彼は新羅使の導者を3回務め、『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。推古21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。その広隆寺と一体で管理されたのが山城国の大酒神社で、山城秦氏の本拠地太秦(うずまさ)の拠点となります。
次に赤穂坂越の大避神社を見ておきましょう。
京都の大酒神社と同じように、秦河勝を氏神として祭ったのが赤穂市坂越(さこし)の「大避大明神」(大避神社)です。神明帳には「元名大辟」と書く「オオサケ神」を「大荒大明神」と記します。周辺には、大酒神社と酒の字をあてる神社もありますが酒の神ではないようです。坂越の大避神社と同じ性格で境の意の「辟」が「酒」になったのであり境界神としての神社名を持つ塞の神、道祖神的な意味をもっていると研究者は考えています。
③『播磨鏡』(宝暦12年(1762)成立)は、大避神社の社伝を引用し、次のように記します。

秦河勝がこの地で没したので、河勝の霊と秦氏の祖酒公を祀り、社名を「大荒(さけ)」「大酒」と称したが、治暦4年(1068)に「大避」に改めた。また、山背大兄王と親しかった河勝が蘇我入鹿の嫉みを受け、ひそかにこの地に難を「避けた」ので、「大避」に改めた

この社名由来は、秦河勝を祀る山城の神社の「大酒」をもともとの表記と思い込み、「大避」と書く理由を述べています。しかし、神名帳の大酒神社の注記からは「酒」よりも「辟」「避」の方が古い表記であることが分かります。
播磨の大避神社と山城国の大洒神社は、同じ秦河勝を祭神にし、社名も同じで、祭祀氏族も秦氏です。しかし、同じ秦氏の氏神と云っても、次のような違いは見られます。
①山城の大洒神社は広隆寺の境内社で桂宮院(太子堂)の守護神、鎮守の性格
②播磨の大避神社は、猿楽との関わりが強い
どうして、播磨の大避神社は猿楽との関係が深いのでしょうか。
世阿弥は『風姿花伝』で、次のように記します。

(申(猿)楽の祖は秦河勝で)、彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上富太子に仕へ奉り、此芸をば子孫に伝え、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦より、うつほ舟に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く。浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変れり。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。
意訳変換しておくと
申(猿)楽の祖は秦河勝で、この河勝は、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上富太子(聖徳太子)に仕えた。猿楽の芸を子孫に伝え、その継承跡を留めないようにと、摂津国難波の浦から、うつほ舟に乗って、風にまかせて瀬戸内海を西に漕ぎ出し、播磨の国坂越の浦に着いた。浦人が舟を上げみると、かたちが人間に変わっていた。そして諸人に奇瑞をもたらしたので、神と崇められて、国は豊かになった。

金春禅竹は『明宿集』で『風姿花伝』と同じような記述をして、更に次のように記します。
坂越ノ浦二崇メ、宮造リス。次二、同国山ノ里二移シタテマツリ、宮造リヲ、タタシクシテ、西浦道フ守り給フ。所ノ人、猿楽ノ宮トモ、宿神トモ、コレヲ申タテマツルナリ。
  意訳変換しておくと
(秦河勝は)坂越の浦に社殿を建立し、次二、同国の山里に移って、宮を正式に建立した。そして、西浦道を守ったので、人々は、猿楽ノ宮とも、宿神とも、この宮を読んで崇拝した。

ここには、秦河勝が建立した神社を「猿楽ノ宮」と呼び、祭神の秦河勝を「宿神」と記します。
大避神社を「猿楽ノ宮」と呼ぶのは、秦河勝を猿楽の祖とみるからでしょう。この猿楽の徒の神「宿神」について、禅竹は『明宿集』で、次のように記します。

「翁ヲ宿神卜申タテマツル」「秦ノ河勝ハ、翁ノ化現疑ヒナシ」

『風姿花伝』は次のように記します。

秦河勝が猿楽の祖といわれるのは、聖徳太子が「六十六番の物まね」を秦河勝に演じさせたからだ。そのとき太子は「六十六番の面」を作って河勝に与えたが、そのなかの一面(鬼面)だけが円満井座に伝えられて重宝になった

初めて一般公開される「蘭陵王の面」など大避神社の宝物
  秦河勝の作とも伝わる「蘭陵王」面(大避神社)
ここでは中世以後に「秦河勝=猿楽の祖」とされ、大酒神社が「猿楽の宮」と呼ばれるようになったことを押さえておきます。

次に播磨国の大避神社(赤穂市坂越)周辺に秦氏がいたことを史料で押さえておきます。
①延暦12 年(793)4 月 19 日付の播磨国坂越・神戸両郷解(げ)には天平勝宝 5 年(753)頃、この地に秦大炬(おおこ)なる人物がいたこと
②「三代実録」の貞観6 年(864)8 月 17 日条には播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麿が外従五位下になったこと。
③赤穂郡の大領が秦造であったということが「続日本紀」にある。大領は郡の長官でもとの国造クラスで、有力な豪族が郡の大領に任ぜられるのが律令制の慣例でした。その大領が秦造になります。
④「平安遺文」の11 世紀後半の東寺文書の中に、赤穂郡の大領秦為辰(はたためとき)が土地の開発領主として開墾していること
⑤長和4 年(1015)11 月の国符に記された赤穂郡有年(うね)荘の文書に寄人41人の連名があり、その中に秦姓を名乗る者が 12人いること
以上から、秦河勝を氏神として祭った大避神社が鎮座する赤穂郡は秦氏の勢力範囲であったこと史料からも裏付けられます。
 赤穂周辺の秦河勝を祭神とする大避神社の分祀は30社あまりあるようですが、その分布は、千種川流域の赤穂郡を中心として佐用郡・揖保郡にまで、秦河勝の伝承が伝えられています。ある研究者は、「旧時、赤穂郡内の神社の1/3は秦河勝を奉祀した大避社であった」と記します。

播磨坂越の大避神社 播磨名所縦覧

坂越の大避神社
坂越周辺の地で祀られる大避神社と秦氏の関係について太田亮は、次のように記します。
「播磨赤松氏は天下の大姓にして其の族類極めて多く、而して一般に村上源氏と称するも、其の発生に関して徴証乏しく、果して然りしや否や証なき能はず。赤穂郡は古代秦氏の繁栄せし地なり。
貞観六年八月紀に『播磨国赤穂郡大領外正七位下秦造内麻呂、借りに外従五位下に叙す』と、有勢なりしや明白なりとす。よりて思ふに此の秦氏、系を雲上家に架して村上源氏と称せしにあらざるか。郡内に大酒神社あり。秦氏の奉斎にかかる」。
『角川日本地名大辞典兵庫県』は、「氏神は大酒神社」と書き、「地名の由来は、秦酒公を祀る大酒神社にちなむと思われる。高瀬舟に従事した人たちの信仰」と記します。
現在の祭神は天照大神・春日大神・大避大神ですが、本来の祭神大避大神は先ほど見た『風姿花伝』『明宿集』には「秦河勝」と明記されていました。大避神社を氏神とする上月町大酒の人たちは、かつて「高瀬舟に従事した人々」とされていますが、彼らは渡守です。白山開基の泰澄は、渡守の秦氏だから、秦氏奉斎の大避神社を氏神とする大酒の人たちも、秦氏及び秦氏と結びつく人たちです。

大避神社2

 もう少し周辺の大避神社を見ておきましょう。
千種川中流の上郡町の金出地(かなじ)は、明治22年まで金出地村でした。
延享4年(1747)に書かれた『播州赤穂郡志』には「金出地八幡宮総山月大避明神」と書かれています。そして、八幡宮の祭神を大避神と記します。金出地の地名について『角川日本地名大辞典・兵庫県』は次のように記します。
山中に溶滓が散在する所」があるから「銅あるいは砂鉄を産出したと伝えられることによるものか

大避神を祀る岩木・金出地以外にも、上郡町旭日には旭山(旭日)鉱山があり、金・銀の採掘をおこなっていました。このように、上郡町は金・銀・銅や砂鉄が産出地でした。岩木・金出地以外に上郡町には大避神社が、大枝新・竹万・休治にもあるので合計5社になります。これは金属の採鉱と精錬にたずさわった人たちが、大避神社を祀っていたからと研究者は考えています。
千種川上流の上月町には、大酒の大酒(避))社以外に、久埼(旧久崎村)、西大畠(旧西庄村)に大避神社が鎮座します。

大酒神社 播磨上郡町

この町は、千種川・佐用川の流域にあり、金属資源にめぐまれていました。千種川上流の千種町も有名な千種鉄・千種鋼の産地です。鉱山と水運という秦氏の職能分野です。

技術集団としての秦氏

中世の赤松氏の菩提寺・法雲寺の境内には赤松円心・則祐・満祐等の五輪等が残されています。上郡町の中心から国道375号線を千種川に沿って北上すると左側に広い沖積地に鎮守の森が見えきます。それが上郡町大枝新の酒神社です。

大酒神社2 播磨上郡町

境内には巨木が何本も生えていて歴史を感じる神社です。

大酒神社3 播磨上郡町
 旧赤松村の岩木にも大避神社があります。
播磨岩木の大避神社
旧岩木村の大避神社
この岩木は「慶長播磨絵図」に載せられている岩木鍛冶屋村を含む旧岩木村です。岩木には良質の銅鉱山の峯尾山がありました。そこに鎮座する大避神社は鍛冶鋳物・採鉱にかかわる人たちが祀っていたのでしょう。岩木鍛冶屋村は鍛冶村とも呼ばれていたようですが、それよりも昔は鍛冶千軒ともいわれていたようです。
千種の鉄山も、中世には秦氏出自ではないかといわれる赤松氏の支配下にありました。
上月町には西新宿の八幡神社も、秦河勝と誉田別命(応神天皇)を祭神にしています。誉田別命は宇佐八幡宮の祭神ですが、上月町早瀬の白山神社の祭神も誉田別命です。白山神社も宇佐八幡宮も秦氏が祭祀する神社です。上月町で、大避神社の祭神秦河勝が八幡神社でも祀られ、八幡神社の祭神が白山神社で祀られているのは、秦氏系氏族との関係なくしては考えられません。

技術集団としての秦氏

相生市にもかつては大避神社が三社あったと伝えられます。

『角川日本地名大辞典・兵庫県』は、相生市北部から南部にかけて、「近世まで六社あった」と書いています。相生市は赤穂郡に属し、平安時代から中世にかけての八野郷・矢野荘が相生市全域とほぼ重なります。
『三代実録』の貞観六年(864)8月条に、赤穂郡大領の秦造内麻呂が従五位下に叙せられたという記事があります。『峰相記』は三濃山には、秦内麻呂が観音寺を建立したとあります。現在は元三濃山求福教寺といわれ、境内に観音堂と大避神社があります。

元三濃山求福教寺2

元三濃山求福教寺
元三濃山求福教寺の観音堂
 秦河勝が大蛇を退治したという似た伝説を伝える相生市若狭野町下上井にも、大避神社があります。この下上井の大避神社を「土田宮」というのは、土地の人たちが河勝を上段座を設けて供応したという伝説からきているようです。
大避神社を氏神とする若狭野町下土井は、鎌倉時代から中世に活躍した寺田氏の本拠地です。
ここには中世矢野荘の鎮守社としてたびたび登場する大避神社が鎮座します。ここにも秦河勝の末裔の秦為辰の子孫と称する家があります。秦為辰は、11世紀に、相生市とその周辺を開発した人物で、国行の大塚と赤穂郡司を兼ねていた人物です。
①為辰の子孫で牛窓荘司であった寺田太郎人道法念は、坂越の大避宮別当神主祝師職
②法念は弘安四年(1281)に山陽海路の警固に動員されており、坂越浦の水軍の長
③法念の子範兼は正和三年(1313)に、長男の範長に大避宮別当神主祝師職を譲っている
④秦氏の末裔の寺田氏によって世襲されていたこと。
以上からは、秦氏の末裔が中世になっても「金属精錬+海野の民としての水運・水軍」などとして活躍していたことが分かります。
大避宮のある坂越の属す赤穂市には、木津・西有年(うね)・中山にも、大避神社があり、木津にも秦河勝の末裔と称する家があります。

大避神社 木津
赤穂市木津の大避神社
木津の地名は、その名前の通り古代に千種川河口で、材木の集散地であったことによるとされます。『角川日本地名大辞典 兵庫県』は次のように記します。

「七世紀中頃、秦河勝に随従した匠(大工)たちが住みついたため、字名に大工山、通称地名に大工村・手能(手斧)村がある。(中略)通称大工村の住人大多数が領内外の寺社建築に携わる」

 この地の秦の民は、上寸大工、宮大工だったようです。

赤穂市西有年にも大避神社があります。
西有年 大避神社
西有年の大避神社
この有年の地も千種川に沿いにあって、有年谷回は江戸時代に高瀬舟による運漕業の拠点でした。上月町大酒の大避神社が、高瀬舟に従事していた人たちが祀っていたことからみて、有年谷回の人たちも、西有年の大避神社を奉斎していたでのでしょう。有年にも、秦河勝の末裔と称する家があります。

以上述べたように、坂越の大避神社を取り巻く状況について整理要約しておきます
①鎌倉時代には、大避神社の別当神主祝師職であった秦河勝の末裔の寺田氏は、「海の民」の末裔として水軍の長として坂越浦・那波浦を本拠に、瀬戸内海の海運を握っていた。
②その時には、大避神社は海運の神だった
③千種川を上下する高瀬舟に従事する秦氏も、それぞれの居住地に海軍の神としての大避神社を祀った
④千種川とその支流で採鉱・鍛冶などにかかわる秦氏や、寺社造営にかかわる秦氏も、大避神社を信仰していた。
⑤これらは猿楽・海運・水運・採鉱・鍛冶・寺社造営などに、秦氏がかかわっていたからである。
⑦大避神社を奉斎する播磨の秦氏は、赤穂郡が本拠地として、周辺に勢力を拡大した。

最後に、広峯神社と秦氏の関係を見ておきましょう。
 飾磨郡の枚野里の新羅訓村のいわれは次のように記します。

「新羅訓と号くる所以は、音、新羅の国の人、来朝ける時、此の村に宿りき。故、新羅訓と号く。山の名も同じ」

「しら」「ひら」は同義ですから「ヒラノ」も「白野」です。「シラクニ」は、今は「白国」と書かれますが(姫路市白国)、「山の名も同じ」といわれる山は、広峯山のことだと研究者は考えています。「広」は「シラ → ヒラ → ヒロ」と転じます。白国(新羅訓)山が白峯山になり、更に広峯山になったことが考えられます。現在ここには広峯神社があります。
廣峯神社 | 観光スポット | ひめのみち
                 広峯神社
この神社はかつては、西方の白幣山にあり、天禄3年〈972に遷座したと伝えられます。秦氏系の赤松氏が城をかまえた白旗山と同じに、白神信仰による名が白幣山と研究者は考えています。幣・旗を神が依代にして降臨することは、山頂の上社(広峯神社)に対する下社が、広峯山の山麓にある式内社の白国神社になります。
白國神社(しらくにじんじゃ、姫路市) : 古代史探訪


同郡の賀野里は「幣丘」と『風土記』には記します。たぶん「幣丘」も「白幣丘」の意なのでしょう。「カヤ」は「伽耶」で、加羅の意ですが、加羅・新羅から渡来して来た秦氏系を中心とする人たちが、飾磨郡には住んでいたことを、この地名は示していると研究者は考えています。

以上見てきたように、赤穂郡を中心に大避神社は佐用郡・揖保郡に分布しますが、いずれも秦氏の伝承があります。一方、飾磨郡の秦氏は広峯(白国)山の信仰が主体で、この秦氏は秦巨智氏と研究者は考えています。どちらにしても大避神社が広く分布するのは、古代における秦氏の活動の痕跡であるとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大和岩雄 秦史の研究 大避(おおさけ)神社 「猿楽宮」といわれる理由と播磨の秦氏  396P」
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京都の養蚕(こかい)神社は、太秦の木島坐天照御魂神社の中にある境内社です。しかし、今では本社よりも有名になっているような気もします。この地は山城秦氏の本拠地で、秦氏は「ウズマサ」とも呼ばれました。古代の秦氏と太秦(うずまさ)関係を、まず見ておきましょう。
『日本書紀』雄略天皇十五年条には、秦酒公について次のように記されています。

秦酒公
秦酒公

詔して秦の民を聚りて、秦酒公に賜ふ。公乃りて百八十種勝を領率ゐて、庸調(ちからつき)の絹練を奉献りて、朝庭(みかど)充積む。因りて姓を賜ひて㝢豆麻佐(うずまさ)と曰く。一に云はく、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、皆満て積める貌なり。

意訳変換しておくと
朝廷は詔して秦の民を集めて、秦酒公に授けた。以後秦酒公は百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)を率いて、庸調(ちからつき)の絹を奉献して、朝庭(みかど)に奉納した。そこで㝢豆麻佐(うずまさ)という姓を賜った。一説には、㝢豆母利麻佐(うつもりまさ)といへるは、絹が積み重ねられた様を伝えるとも云う。

ここからは、秦酒公が絹を貢納して「㝢豆麻佐(うずまさ)=太秦」とい姓を賜ったことが記されています。
その翌年の『日本書紀』の雄略紀16年7月条には、次のように記されています。

詔して、桑に宜き国県にして桑を殖えしむ。又秦の民を散ち遷して、庸調を献らしむ。

  ここには葛野に桑を植え、秦の民を入植させて、庸調として絹を貢納させたとあります。肥沃な深草エリアに比べると、葛野の地は標高も高く水利も悪い所です。当然、葛野の開発は深草よりも遅れたはずです。秦氏の各集団を動員して開拓させても、水田となしうる地は少なく、多くは畦地(陸田)だったことが予想できます。そこで秦氏が養蚕にとりくんだとしておきます。
『新撰姓氏録』(左京諸蕃上)は、太秦公宿爾のことが次のように記されています。

太秦公宿爾(うずまさのきすくね) 秦始皇帝の三世孫、孝武王自り出づ。男、功満王、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝く。男、融通王(一説は弓月王)、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を来け率ゐて帰化り、金・銀・玉・畠等の物を献りき。大鷺鵜天皇の御世に、百廿七県の秦氏を以て、諸郡に分ち置きて、即ち蚕を養ひ、絹を織りて貢り使めたまひき。天皇、詔して曰く。秦王の献れる糸・綿・絹品(きぬ)朕服用るに、柔軟にして、温暖きこと肌膚の如しとのたまふ。仍りて姓を波多(はた)と賜ひき。次に登呂志公。秦公酒、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を委積(うちつ)みて岳如(やまな)せり。天皇、嘉(め)でたまひ、号を賜ひて㝢都万佐(うずまさ)と曰ふ。
 
意訳変換しておくと
太秦公宿爾(うずまさのきすくね)は、中国の秦始皇帝の三世孫で、孝武王の系譜につながる。功満王は、帯仲彦(たらしねひこ)天皇の八年に来朝した。融通王(一説は弓月王)は、誉田天皇の十四年に、廿七県の百姓を引いて帰化した。その際に、金・銀・玉・絹等の物を貢納した。大鷺鵜天皇の御世に、127県の秦氏を、諸郡に分ち置いて、蚕を養い、絹を織る体制を作った。その貢納品について天皇は「秦王の納める糸・綿・絹品(きぬ)を服用してみると、柔軟で、暖いことは肌のようだ」と誉めた。そこで波多(はた)の姓を授けた。次に登呂志公や秦公酒は、大泊瀬幼武(はつせわかため)天皇の御世に、糸・綿・絹吊を朝廷に山のように積んで奉納した。天皇はこれを歓んで、㝢都万佐(うずまさ:太秦)という号を与えた。

ここには次のようなことが読み取れます
①秦氏は、秦の始皇帝の子孫とされていたこと
②一時にやって来たのではなく、集団を引き連れて何波にも分かれて渡来してきたこと
③引率者は○○王と称され、金・銀・玉・絹等をヤマト政権の大王にプレゼントしていること
④ヤマト政権下の管理下に入り、糸・綿・絹品(きぬ)を貢納したこと
⑤それに対して㝢都万佐(うずまさ:太秦)の姓が与えられたこと

秦氏の渡来と活動

『新撰姓氏録』(山城国諸蕃)には、秦忌寸について次のように記されています。
秦忌寸 太秦公宿祓と同じき祖、秦始皇帝の後なり。(中略)普洞王の男、秦公酒(秦酒公)、大泊瀬稚武天皇臨囃の御世に、奏して称す。普洞上の時に、秦の民、惣て却略められて、今見在る者は、十に一つも在らず。請ふらくは、勅使を遣して、検括招集めたまはむことをとまをす。天皇、使、小子、部雷を遣し、大隅、阿多の隼人等を率て、捜括鳩集めじめたまひ、秦の民九十二部、 一万八千六百七十人を得て、遂に酒に賜ひき。
  意訳変換しておくと
秦忌寸(いみき)は、太秦公宿祓と同じき祖先で、秦始皇帝の末裔である。(中略)
普洞王の息子の秦公酒は、秦の民が分散して諸氏のもとに置かれ、おのおのの一族のほしいままに駈使されている情況を嘆いていた。そこで、大泊瀬稚武(おおはつせわかため)天皇に、次のように申し立てた。普洞王の時に、秦の民は総て分散させられて、今ではかつての十に一にも過ぎない数となってしまった。つきては、勅使を派遣して、検索して招集していただきたい。天皇はこれに応えて、使(つかい)、小子(ちいさこ)、部雷(べいかづち)を全国に派遣して、大隅や阿多の隼人等にも命じて、探索活動を行った。その結果、秦の民九十二部1867。人を見つけ出し、秦公酒に引き渡した。
 酒公はこの百八十種勝(ももあまりやそ の すぐり)を率いて庸、調の絹や縑(かとり)を献上し、その絹が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜った
ここでは太秦公宿禰と同祖で、秦公酒の後裔、また摂津・河内国諸番に秦忌寸と同祖で弓月王の後裔であり、養蚕・絹織に秦氏が関係していたことが記されています。

さらに時代を下った『二代実録』仁和三年(887)7月17日条には、従五位下時原宿爾春風が朝臣姓を賜わった記事に、春風が次のように語ったことが次のように記されています。

自分は秦始皇帝の11世孫功満王の子孫で、功満王が帰化入朝のとき「珍宝蚕種等」を献じ奉った。

祖先が「蚕種」に関係したことを挙げています。子孫からしても秦氏と養蚕は切り離せないと思っていたことがうかがえます。

技術集団としての秦氏

『三国史記』新羅本紀には、始祖赫居世や五代婆沙尼師今が養蚕を奨めたと記します。
養蚕神社の祭祀者である秦氏は、新羅国に併合された加羅の地からの渡来人ですから新羅系とされます。『三国史記』の知証麻立14年(503)十月条には、古くは斯麿・新羅と称していた国号を、この年に「新羅」に定めたと記します。そして「新」は「徳業が日々に新たになる」、「羅」は「四方を網羅する」の意とします。しかし、その前から国号を、「シロ・シラ」といっていたので、新羅国は「白国」でした。
 6世紀になると秦氏の族長的な人物として活躍するのが、秦河勝(はたかわかつ)です。

秦川勝
            秦川勝 聖徳太子のブレーンとして活躍
彼は、聖徳太子の側近として活躍する人物で、新羅使の導者を3回動めています。『日本書紀』には、推古11年・24年・31年に新羅王から仏像を贈られたと記します。21年の記事には、仏像を「葛野秦寺」に収めたとあります。これが広隆寺になるようです。24年の記事には新羅仏とあって寺は記されていませんが、『聖徳太子伝暦』『扶桑略記』には蜂岡寺(これも広隆寺のこと)に置いたとあります。また、11年の仏像については『聖徳太子伝補閥記』や『聖徳太子伝暦』に「新羅国所献仏像」とあります。『扶桑略記』は広隆寺縁起を引き、国宝第一号となった「弥勒仏」のことだとします。
3つの半跏首位像 広隆寺・ソウル

大和飛鳥に公伝した仏教は百済系の仏教です。しかし、秦氏はそれ以前から弥勤信仰を重視する新羅の仏教を受けいれていた節が見られます。秦河勝が京都の太秦に広隆寺を建立するが、その本尊は新羅伝来の弥勤半伽思惟像です。平安仏教の改革者となった最澄も渡来系で、留学僧として唐に出向く前には香春神社で航海の安全を祈り、帰国後にも寺院を建立しています。
『広隆寺来由記』には、白髪の天神が広隆寺守護のため新羅から飛来たと記します。こうしてみると「養蚕 ー 新羅 ー 秦氏」は一本の糸で結ばれています。「天日矛の説話を有する地域と秦氏の居住区は、ほぼ完全に重複している」と研究者は考えています。天之日矛は新羅国の皇子です。

古墳時代の養蚕地域

この遺跡分布図は弥生から古墳時代前期の秦氏渡来前の養蚕・絹織地の分布を示しています。
 この遺跡分布図と天之日矛伝承地は、ほぼ重なります。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏の渡来時期のスタートは五世紀前後とされます。天之日矛伝承は垂仁紀のこととして記されています。そこから天之日矛伝承は秦氏渡来以前の新羅・加羅の渡来伝承とされます。そうすると、秦氏も先住渡来人エリアで、養蚕・絹織に従事したことが考えられます。そういう視点からすると分布図からは次のような事が読み取れます。
①北九州や日本海側の出雲・越前に多く、瀬戸内海側にはない。
②新羅系渡来人によって、日本海を通じて古代の養蚕は列島にもたらされた。
③その主役は新羅・秦氏で、それが新羅神社の白神信仰、白山神社の白山信仰につながる

どうして養蚕神社は木島坐天照御魂神社の境内社なのでしょうか?
それは、木島坐天照御魂神社の白日神(天照御魂神)と桑・蚕がかかわるからだと研究者は考えています。
『三国遺事』が伝える新羅の延鳥郎・細鳥女伝説は、つぎのようなものです。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。

養蚕には桑の木が欠かせません。中国では、太陽は東海の島にある神木の桑から天に昇るとされ、日の出の地を「扶桑」と呼びました。『礼記』にも「后妃は斎戒し、親ら東に向き桑をつむ」と記します。桑をつむのに特に「東に向く」のは、扶桑のこの由来からくるようです。
太陽の中に三本足の鳥がいるという伝承は、古くから中国にあり、新羅の延鳥郎・細鳥女も、日神祭祀にかかわる名のようです。このように、桑は太陽信仰と結びついているから、日の出の地を「扶桑」と書きます。

以上をまとめておきます。
①渡来系の秦氏は深草にまず定着し、その後に太秦周辺の開発を進めた。
②水利の悪い太秦地区には、桑が植えられ先端テクノの養蚕地帯が秦氏によって形成された
③秦氏は多くの絹を朝廷に提供することで、官位を得た。
④また、そこに新羅系の白日信仰(日読み)の木島坐天照御魂神社や養蚕神社を建立した。
⑤養蚕や白日神信仰については「新羅 → 日本海 → 出雲 → 越前」という流れがうかがえる。
⑥仏教伝来期には、天皇家や蘇我氏に先行して氏寺を建立していた痕跡もうかがる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 綾氏の研究325P 養蚕(こかい)神社 秦氏と養蚕と白神信仰

木島坐天照御魂神社さんへ行ってきました | 京都市工務店 京町家工房
                   木島坐天照御魂神社

京都の木島坐天照御魂神社は、明治の神仏分離前までは秦氏の氏寺・広隆寺境内の最東端に鎮座してました。広隆寺と引き離されてからは、境内社の蚕養神社の方が有名になってしまって「蚕の社」と呼ばれることの方が多いようです。『延喜式』神名帳には、山城国葛野郡の条に「木島坐天照御魂神社」と記されています。天照御魂神社と称する寺院は、『延喜式』神名帳には、この神社以外には次の3つがあります。
大和国城上郡の他田坐天照御魂神社
大和国城下郡の鏡作坐天照御魂神社
摂津国島下郡の新屋坐天照御魂神社
この三社は、尾張氏と物部氏系氏族が祭祀していました。尾張氏は火明命、物部氏は饒速日命を祖としますが、『旧事本紀』(天孫本紀)は、両氏の始祖を一緒にして、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」
と記します。両氏の始祖を「天照国照彦」といっているのは、「天火明」「櫛玉饒速日」の両神を、「天照御魂神」とみていたからと研究者は考えています。それでは尾張氏・物部氏がという有力氏族が祭祀氏族だった天照御魂神を、渡来系の秦氏がどうして祀っていたのでしょうか? 
その謎を解くのが、わが国唯一とされる「三柱鳥居」だと研究者は考えています。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

「三柱鳥居」は「三面鳥居」「三角鳥居」とも呼ばれますが、現在のものは享保年間(1716~36)に修復されたもののようです。この鳥居については、明治末に景教(キリスト教の異端ネストリウス派)の遺跡で、これを祀る秦氏はユダヤの末裔という説が出されて、世間の話題となったようです。

西安碑林博物馆
          大秦(ローマ帝国)景教流行中国碑(長安碑林博物館)
この説を出したのは東京高等師範学校の教授佐伯好郎で、「太秦(萬豆麻佐)を論ず」という論文で次のように記します。

①唐の建中2年(782)に建てられた「大秦景教流行中国碑」が長安の太秦寺にあること
②三柱鳥居が太秦の地にあること
③三角を二つ重ねた印がユダヤのシンボルマーク、ダビデの星であること
④太秦にある大酒神社は元は「大辟神社」だが、「辟」は「聞」で、ダビデは「大開」と書かれること
以上から、木島坐天照御魂神社や大酒神社を祭祀する秦氏(太秦忌寸)は、遠くユダヤの地から東海の島国に流れ来たイスラエルの遺民だとしました。そして、秦氏に関する雄略紀の記事から、景教がわが国に入った時期を5世紀後半としました。しかし、景教が中国に入ったのは随唐帝国成立後のことで、正式に認められたのが638年のこですから佐伯説は成立しません。また「太秦」表記は、『続日本紀』の天平14年(742)8月5日条の、秦下島麻呂が「太秦公」姓を賜わったというのが初見です。したがって、「太秦」表記を根拠に景教説を立てるのも無理です。三柱鳥居についてこうした突飛もないような説が出るのは、他に類例のない鳥居だからでしょう。
この三柱鳥居は、何を遥拝するために建てられたのでしょうか?
それは冬至と夏至の朝日・夕日を遥拝するためで、その方位を示すための鳥居であると研究者は考えています。三柱鳥居と秦氏と関係の深い山の方位を図で見てみましょう。ここからは次のような事が読み取れます。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

①冬至の朝日は稲荷大社のある稲荷山から昇るが、この山は秦氏の聖地。
②夏至の朝日は比叡山系の主峯四明岳から昇るが、比叡(日枝)山の神も秦氏の信仰する山
③冬至に夕日が落ちる愛宕山は、白山開山の秦泰澄が開山したといわれている秦氏の山岳信仰の山
④夏至には夕陽が落ちる松尾山の日埼峯は秦氏が祀る松尾大社の聖地。
こうしてみると、冬至の朝日、夏至の夕日が、昇り落ちる山の麓にそれぞれ秦氏が奉斎する稲荷神社・松尾大社があり、その方向に、三柱を結ぶ正三角形の頂点が向いています。三柱を結ぶ正三角形の頂点のうち二点は、稲荷と松尾の三社を指し示します。もう一点は双ヶ丘です。

白日神は日読み神

研究者が注目するのは、双ヶ丘の三つの丘の古墳群です。
一番高い北側の一ノ丘(標高116m)からニノ丘・三ノ丘と低くなっていきます。一ノ丘の頂上には古墳が1基、 一ノ丘とニノ丘の鞍部に5基、三ノ丘周辺に13基あります。この内の一ノ丘頂上古墳は、秦氏の首長墓である太秦の蛇塚古墳の石室に次ぐ大規模石室を持ちます。

京都双ケ岡1号墳 秦氏の首長墓

日本歴史地名大系『京都市の地名』の「双ヶ丘古墳群」の項で1号墳について次のように記します。

「他の古墳に比べて墳丘や石室の規模が圧倒的に大きくしかも丘頂部に築造されているところからみて、嵯峨野一帯に点在する首長墓の系譜に連なるものであろう。築造の年代は、蛇塚古墳に続いて七世紀前半頃と推定される」

「一ノ丘とニノ丘の間に点在する古墳及び三ノ丘一帯の古墳は、いずれも径10mないし20mの円墳で、いわゆる古墳後期の群集墳である。(中略) 双ヶ丘古墳群は、その所在地からみて秦氏との関連が考えられ、墓域は若千離れているが、嵯峨野丘陵一帯の群集墳とも深いかかわりをもっているとみてよいだろう」

ここからは、双ヶ丘は嵯峨野一帯の秦氏の祖霊の眠る聖地で、三柱鳥居の正三角形の頂点は、それぞれ秦氏の聖地を指し示している記します。太陽が昇る方位だけでなく、沈む方位や祖霊の眠る墓所の方位を示していることは、この地も死と再生の祈りの地だったと云えそうです。その再生祈願の神が天照御魂神と研究者は考えています。

尾張氏や物部氏が祭祀する天照御魂神を、なぜ、渡来氏族の秦氏が祀るのでしょうか?
それは朝鮮でも同じ信仰があったからと研究者は推測します。白日神の信仰が朝鮮にあることは、『三国遺事』(1206~89)の日・月祭祀の延鳥郎・細鳥女伝承から推測できます。

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三国遺事には祭天儀礼をおこなった場所を「迎日県」と記します。迎日県は現在の慶尚北道迎日郡と浦項市に比定されているようです。向日と迎日の違いはありますが、迎日郡には白日峯があります。向日神社の冬至日の出方位に朝日山があるように、白日峯の冬至日の出方位(迎日県九竜浦邑長吉里)には迎日祭祀の山石があります。
白日神 韓国
                    九竜浦邑(慶州の真東)

この岩は「わかめ岩」と呼ばれ、 この地方の名産の海藻の採れるところだったようです。
『三国遺事』は、この地の延鳥郎・細鳥女伝説を次のように伝えます。
 この地に延烏(ヨノ)という夫と細烏(セオ)という妻の夫婦が暮らしていました。ある日、延烏が海岸で海草を取っていたら、不思議な岩(亀?)に載せられてそのまま日本まで渡って行き、その地の人々が彼を崇めて王に迎えた(出雲・越前?)というのです。一人残された細烏は夫を探すうちに、海岸に脱ぎ捨てられた夫の履物を発見し、同じく岩に載ることで日本に渡り、夫と再会して王妃となりました。
 しかし、韓国では日と月の精であった二人がいなくなると、日と月の光が消えてしまった。それで王が使者を日本に送って戻ってきてくれるようにいうのですが、延烏は「天の導きで日本に来たのだから帰ることはできない」と断ります。代わりに王妃が織った絹を送り、それで天に祭祀を捧げるようにいいます。実際にそのようにすると、光は戻ってきたので、新羅王はその絹を国宝とし、祭祀をした場所を「迎日県」としたというのです。そこは現在の浦項市南区烏川邑にある日月池であるといいます。
□「虎のしっぽの先」から海の向こうの日本を望みました! | 韓国・ソウルの中心で愛を叫ぶ!
     「虎尾串(ホミゴッ)」の海を臨む公園にある「延烏郎(ヨノラン)と細烏女(セオニョ)」の像
延鳥郎は海藻を採りに行き、岩に乗って日本へ渡ったと『三国遺事』は記します。岩に乗る延鳥郎とは、海上の岩から昇る朝日の説話化でしょう。白日峯の冬至日の出方位にある雹岩は、太陽の岩なのでしょう。この岩礁地帯は現在も聖域になっているようです。以上からは、迎日祭祀が朝鮮でおこなわれていたことが分かります。
以上をまとめておくと
新羅の迎日県の白日峯にあたるのは、三柱鳥居の地からの迎日の稲荷山、比叡山系の四明岳
木島坐天照御魂神社の鎮座地は、白日神祭祀の聖地、祭場で、そこに三柱鳥居が建つ
ここでは秦氏が祀る天照御魂神社の三柱鳥居は、朝鮮の迎日祭祀の白日神の信仰と、稲荷大社にみられる祖霊信仰がミックスした信仰のシンボルとされていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究312P 木島坐天照御魂神社 ~三柱鳥居の謎と秦氏~



前回は「志呂志神社(近江日高島郡)の祭神は、賀茂別雷神社の祭神別雷神や兄弟又は伯叔父に当られる白日神と同一神」という説を見てきました。今回は、白鬚(髪)神社(滋賀郡小松村大字鵜川)が比良明神と同一祭神を祀っているのではなかという説を見ていきます。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~」です。

白鬚神社 琵琶湖 秦氏
            白鬚(髪)神社と鳥居

白鬚神社は、比良山系の北端の断崖が琵琶湖の西岸にせまる高島町鵜川の明神崎の突端に鎮座します。湖中に朱塗りの大鳥居があり、国道161号線をはさんで社殿が建ちます。「白鬚さん」「明神さん」の名で広く親しまれ、「近江の厳島(いつくしま)」とも呼ばれているようです。「白家(髪)」という社名は、弘安2年(1280)前後に書かれた「比良荘堺相論絵図」が初見のようです。

比良荘堺相論絵図 白鬚神社
             比良荘堺相論絵図 (白カミ明神と表記されている)
それ以前は白鬚神社は「比良宮」と呼ばれていたことが次の史料からは分かります。
①平安時代中期の文献を編集した『天満宮託宣記』に「比良宮」
②『最鎮記文』(貞元2年(977)には、「近江国高嶋郡比良郷」
③『三代実録』貞観7年(865)正月十八日条に「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」
④社伝にも「天武天皇の御代に比良明神と称した」とあること
⑤保延6年(1140)の『七大寺巡礼私記』古老伝の引用に、比良明神が老翁として現れたとあること。
⑤に描かれた老翁のイメージが、白髪神になるようです。古代は比良明神と呼ばれていたのが、中世になって白鬚神社と呼ばれるようになったことを押さえておきます。

白髪神社 なるこ参り

白髪神社の秋の大祭(9月5日・6日)には、「なる子まいり」という神事が行われます。
数え年で2歳の子どもに神様から名前を授かるのです。子ども連れでお参りし、本名とは別に神様からいただいた名前で3日間その子を呼ぶと、無事に一生幸福の御守護があるといわれています。かつては、北は福井、南は京阪神方面から多くの人が「なる子まいり」に参詣していました。「なる子」は「成る子」です。産屋を「シラ」ということからみても、白(比良)神を祀る白髪神社にふさわしい祭です。
古事記には、この「なる子まいり」の伝承が次のように記されています。

建内宿禰が品陀和気命(応神天皇)を連れて、近江・若狭を経て越前の角鹿に至り、仮宮を造って居たとき、夢の中に伊奢沙和気大神(気比大神)が現れ、神の名を名乗るようにいわれ、名を易えた。

ここでは気比大神と太子が互いに名を交換したとありますが、そうではなくて、太子が気比大神の神名に名を改めたのであり、「なる子まいり」の名替えと同じだと研究者は考えています。白神信仰には「死と再生」観念がテーマとしてありますが、ここではそれが「変身」という形で改名伝承に示されています。
ホムタワケは近江・若狭を巡幸したあと角鹿に仮宮を建てて住んだとあります。仮宮は霜月神楽の「白山」です。死装束をして「白山」に入り、籠りが終わって「白山」から出た人を「神の子」としました。品陀和気命が、仮宮に籠っているときに見た夢の啓示で、気比大神の神名(イササワケ)に改名します。これは白山儀礼と同じ死と再生の儀礼です。「なる子まいり」で別名を名乗ることによって健康に成育し幸福な生涯をおくれるのは、神の子として生まれかわるからです。「成る子」の「成る」は再生の「ナル」と研究者は考えています。このような再生の生命力が、「白神」の霊力であり、神威なのでしょう。
沖縄では、産屋を「シラ」と呼びます。

産屋(そら知らなんだ ふるさと丹後-71-)

白山としての仮宮は、神の子として再生するための産屋と考えられます。日本書紀にも、産屋を海辺に作って鵜の羽で葺いた記事が出てきます。白髪神社があるのは「鵜川」で、鵜の羽で葺いた産屋を川辺に建てたことによる地名と研究者は推測します。そう考えれば、白神が鵜川に鎮座することや、「なる子まいり」の意味が見えて来ます。
  敦賀半島の西北端の敦賀市白木浦の式内社の白城神社の産屋を見ておきましょう。

白城神社[敦賀市白木・式内社]: 神なび

この神社は、かつては鵜羽明神と呼ばれたようです。「鵜羽」は「鵜川」よりもはっきりと産屋の存在を示します。白木では、お産のたびに産屋を焼いて建て直したようです。
  谷川健一は、この習俗を記・紀の火中出生諄に結びつけ、次のように記します。
  どうして産屋に砂を敷くか?それは砂や上の上にワラをおけば、床板の隙間から風が人りこむというような寒い日にあわなくてもすむということがある。その上、砂は地熱をもつ。こうした実際の効用のほかにもう一つの意味がウブスナにはかくされていると私はおもう。
 常宮(白木と同じ敦賀半島にある地名、気比神宮の摂社常宮神社がある)で、次のような話を聞いた。海のなぎさのそばに産屋をたて、砂を床にして子どもを産むのを、まるで海亀のようだと地元の人びとは話しあったという。海亀は季節をさだめて海の彼方からやってき、砂に穴を掘って卵を産みつけ、その卵を地熱によって孵化させる。この海亀を連想したということは、もともとなぎさの近くで産屋をたてて子どもを産むという行為が、海亀や鮫などわだつみを本つ国とする海の動物たちの産卵にあやかったのではないかという類推へと私をみちびく。(中略)
 事実、白木や丹生の定置網には海亀がたまに入ることがあるという。また、この地域では、「砂の上で生まれたので亀の子と一緒」といわれているという。
研究者はこの記述と『日本書紀』の垂仁天皇34年3月2日条の、次の三尾君の始祖伝承を重ね合わせます。
天皇が山城国に行幸したとき、綺戸辺(かにはたとべ)という美人がいることを聞き、矛を執って祈いをして、「必ずその美人に会いたいので、道の途中で瑞兆が現れてほしい」というと、行宮に至るころに大亀が河の中から出てきた。その亀を大皇が矛で刺したところ、たちまち亀が白石に化したので、天皇は側近の者に、「このものによって推しはかると、かならず霊験があるだろう」といった。そして、後宮に召された綺戸辺は、三尾君の始祖の磐衝別命を生んだという。

 大亀が河にいるはずはないから、もともとは海浜の伝承だったのかもしれません。亀が白石になったというのは、亀が海辺に卵を残していたのでしょう。それが亀が矛で刺されて白石に化したという変身・転生説話になったようです。ここにも白神信仰のモチーフである「死と再生」が見られます。

大原の産屋

これは、次の垂仁紀の二年条の大加羅国の王子都怒我阿羅斯等の白石の話と共通します。

ツヌガアラシトが国にいたとき、ある村で自分の牛が行方不明になった。調べてみると、殺されて食われてしまったことがわかったので、その代償に、村で祀っている神がほしいといった。そこで村人は白石を献じた。やがてこの白石が美しい乙女になったので、妻にしたが、いつしかいなくなってしまった。行方をきくと、日本に行ったというので、追って日本へ来たという(この白石は豊国国前郡と難波の比売許曽社の神だとある)。

美人と白石と求婚のモチーフは、どちらの話にも共通しています。たぶん、白石が美人になった話が変型して、三尾君の始祖伝承になったと研究者は考えています。両者の内容を要約すると
①亀が白石になって、白石が美女に変じる転生・変身説話で、白石は卵のイメージ
②三尾君は越前・加賀・能登ともかかわり、ツヌガアラシトは越前・敦賀にかかわること
③越前の気比浦にアラシトは着いたとあること
④気比神宮の摂社の角鹿神社は、ツヌガアラシトを祀っていること
白日神に関わる白石伝承が日本海側の越前から近江に拡がっていたことがうかがえます。

こうして見てくるとホムタワケ(応神天皇)の改名伝承は、白髪神社の「なる子まいり」と重なります。
「なる子まいり」の神事は、転生・変身の「シラ」神事です。改名が健康・招福を約束するように、亀が白石に変ずるのも祥瑞です。これらの伝承が「白」のつく神社にあります。ここには朝鮮半島からの渡来人にかかわっていることになります。加羅・新羅の卵生伝承と亀旨峯降臨神話と、亀が白石に変じた話は、日本海を越えてもたらされた神話だと研究者は考えています。

鵜羽明神と呼ばれる白城神社の祭神について、『特選神名牒』は次のように記します。

「白城は新羅とて新羅の神なるべし。新撰姓氏録に、新良貴。彦波激武鵬鵜草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王之祖也、とみえ、神社頚録に今鵜羽明神と称すとあるを思ふに、新羅の天日矛の後裔此国に留り、其遠祖鵜葺不合尊又は稲飯命を白城神と祭れるならん、地名の白城も新羅人の住ゐより起れる名なるべし」

意訳変換しておくと
白城は新羅で、新羅の神であろう。新撰姓氏録に、「新良貴は新羅の国王で、稲飯命は新羅国王の祖先である」と書かれている。神社頚録には鵜羽明神とあるを見ると、新羅の天日矛の子孫がこの国に留って、遠祖である鵜葺不合尊や稲飯命を白城神として祀ったのではなかろうか。地名の白城も新羅人が住んでいたことに由来するのであろう。

『大日本史』には次のように記します。
「今在・白木浦・称白木明神又鵜羽明神、蓋祀二新良貴氏祖稲飯命ことあり

稲飯命
稲飯命について、紀記は次のように記します。
『日本書紀』は、「剣を抜きて海に入りて、鋤持神となる」
『古事記』は、「批の国として、海原に入り坐しき」

『日本書紀』では、稲飯命は神武東征に従いますが熊野に進んで行くときに暴風に遭います。「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さいもち)の神」になったとします。「鋤持神」については、『古事記』の神話「山幸彦と海幸彦」でも「佐比持神(さいもちのかみ)」が登場します。これらは鰐(わに)の別称とされます。『古事記』の神話では、山幸彦は海神宮から葦原中国に送ってくれたワニに小刀をつけて帰したと記します。ここからは「さい」とは刀剣を指し、鰐の歯の鋭い様に由来すると研究者は考えています。『日本書紀』神代上では「韓鋤(からさい)」、推古天皇20年条では「句禮能摩差比(クレイノウマサヒ)」などが登場するので、朝鮮半島から伝来した利剣を表すともされます。また『新撰姓氏録』は、稲飯命は新羅王の祖であるとする異伝があります。
『古事記』には稲飯命の事績は何も書かれて折らず、稲飯命は妣国(母の国)である海原へ入り坐(ま)したとのみ記されています。
 高句麗の建国神話で、建国の祖・高朱蒙が次のように尋ねます

「私は天孫(太陽の子)で河伯の外孫である。今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚やが浮かんで橋を作り、朱蒙らは川を渡ることができた

この高句麗の建国神話と、山幸彦の話は重なりあうところがあります。

それでは「批の国」は、どこなのでしょうか。

『古事記』は須佐之男命についても、「批の国根の堅州国」へ行ったと記します。『日本書紀』は「根国」と書き一書の四に、「新羅に天降り、五十猛命と船で出雲へ来た」と記します。ここからは、根国を新羅とみていることが分かります。日本海沿岸の人々にとって、批(はは)の国・根の国は日本海の彼方にあり、その地が新羅と考えられていたようです。そのような中で、秦氏は朝鮮半島の神々をこの国に伝え、信仰し、さまざまな神社を建立したことになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髪神社~白神信仰と秦氏~」


『古事記』の大年神神統譜には、兄弟神として白日神・韓神・曽宮理神・聖神が記されています。

伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘

大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた兄弟五神
  この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。今回は、この五兄弟の中の白日神について見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~」です。

西日長男は、白日神と志呂志神の関係について、次のように記します。

式神名帳に所載の近江日高島郡志呂志神社は、日吉三宮と呼ばれ、今、鴨村に鎮座し、その地はもと賀茂別雷神社の社領であったともいうから、神系の上からしても、『白日』が「志呂志」に転訛したものではなかろうか。
 即ち、志呂志神社の祭神は、日吉三宮(今の大宮)の祭神大山昨神や賀茂別雷神社の祭神別雷神や兄弟又は伯叔父に当られる白日神で、そのために日吉三宮と呼ばれたのではあるまいか。そうして、この志呂志神社は滋賀郡小松村大字鵜川に鎮座の白髭神社、即ち、かの比良明神とも同一祭神を祀っているのではなかろうか。而して『比良神」が『夷神』で蕃神の意であろうことは殆ど疑いを納れないであろう。

西田長男のいう「蕃神」は、「新撰姓氏録』が渡来系氏族を「諸蕃」としたことをうけた表現です。
  秦氏らによって信仰された渡来系の神々ということになります。ここでは、「白日が志呂志に転じた」という説を押さえておきます。
志呂志(しろし)神社境内にあった古墳を見ておきましょう。

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志呂志神社の森
高島市南部の鴨川とその北を流れる八田川が合流する南側の小さな森に志呂志神社は鎮座します。
かつての境内の中にあったのが高島市唯一の前方後円墳とされる鴨稲荷山古墳です。明治35年の道路工事中に、後円部の東南に開口した横穴式石室から擬灰岩製家形石棺が発見され、石棺から遺物が出土しました。更に大正12年、梅原末治らによって発掘調査がおこなわれ、石棺内から金製垂飾耳飾、金鋼製冠、双魚侃、沓などの金、金鋼製の装飾品が出土します。
注目したいのは、副葬品が「朝鮮半島直輸入」的なものが多いことです。

伽耶の新羅風イヤリング. 陝川玉田M4号墳jpg
伽耶の新羅風イヤリング(陝川玉田M4号墳)

鴨稲荷山古墳出土の耳飾り

冠(復元品)

                      沓(復元品)
①冠と耳飾りは、新羅の王都慶州の金冠塚の出土品
②沓も、朝鮮半島の古墳からほぼ同類
③水品切子玉、玉髄製切子玉、琥珀製切子玉、内行花文鏡、双竜環頭大刀、鹿角製大刀、鹿角製刀子などのうちで、環頭大刀、鹿角製刀子は朝鮮半島に類似品あり。
④棺外からは馬具と須恵器が出土
京国大学による鴨稲荷山古墳の発掘調査書(1922年(大正11年)7月)は、次のように記します。
被葬者の性別は
「武器などの副葬品の豊富である点から、もとより男子と推測することが出来る。」
「(副葬品については)日本で製作せられたにしても、それは帰化韓人の手によったものであり、その全部あるいは一部が彼の地から舶載したものとしても、何らの異論はない。」
出土品の冠、装飾品が、朝鮮半島に源流を持つ物であるとします。
「(被葬者の出自については)此の被葬者が三韓の帰化人もしくは、其の子孫と縁故があったろうと云ふ人があるかも知れない。しかしそれには何の証拠もない。」
と、朝鮮半島からの渡来人説には慎重な立場を取っています。
そして「当時において格越した外国文化の保持者であり、外国技術の趣味の愛好者であった。」と指摘します。

被葬者についてはよく分からないようです。『日本書紀』継体天皇即位前条には、応神天皇(第15代)四世孫・彦主人王近江国高島郡の「三尾之別業」にあり、三尾氏一族の振媛との間に男大迹王(のちの第26代継体天皇)を儲けたと記します。継体天皇の在位は6世紀前半とされ、三尾氏からは2人の妃が嫁いでいます。そのため被葬者としては三尾氏の首長とする説があります。しかし、高島の地方豪族であった三尾氏の古墳にしては、あまりにも「豪華すぎる」と否定的な意見もあるようです。いろいろな候補者はありますが、本命はいないようです。
 この古墳が鴨稲荷山古墳と呼ばれていたことを見ておきましょう。
志呂志神社はの地名は「高島町大字鴨」で、その名の通りかつての鴨村です。
鴨というのは、上賀茂(賀茂別雷)神社の社領だったからで、上賀茂神社の祭祀に秦氏や秦氏奉斎の松尾大社社司が関わっていました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

また、稲荷山古墳というのも古墳上に稲荷神社が勧進され祀られていたからです。古墳の上に稲荷神社が祀られるのは、伏見大社の修験者たちが「お塚信仰」を拡げ、稲荷神社を古墳に勧進したからだったことは以前にお話ししました。以上のような状況証拠を重ねると、稲荷社や志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀だったことがうかがえます。この古墳の被葬者を、秦氏は自分たちの祖先として信仰していた可能性があります。

  最初に見た「白日神=志呂志神」説を、見ていくことにします。

蚕の社ー木嶋坐天照御魂神社

木島坐天照御魂神社(木島神社)の中にある向日神社は白日神を祭り、秦(秦物集氏)が信仰していたことは以前に次のようにお話ししました。

①向日神社は、朝日山から昇る冬至の朝日、日の岡から昇る夏至の朝日の遥拝地
②朝鮮の慶尚北道迎日郡の白日峯が海岸の雹岩から昇る冬至の朝日の遥拝地

これに対して、志呂志神社から見た冬至日の出方位は、竜ヶ岳山頂(1100m)、夏至日の出方位は、見月山山頂(1234m)になります。志呂志神社も向日神と関係があるようです。
向日神について南方熊楠は、次のように記します。
「万葉集に家や地所を詠むとて、日に向ふとか日に背くとか言うたのが屡ば見ゆ。日当りは耕作畜牧に大影響有るのみならず、家事経済未熟の世には家居と健康にも大利害を及せば、尤も注意を要した筈だ。又日景の方向と増減を見て季節時日を知る事、今も田舎にに少なからぬ。随って察すれば頒暦など夢にも行れぬ世には、此点に注意して宮や塚を立て、其影を観て略時節を知た処も本邦に有ただろう。されば向日神は日の方向から家相地相と暦日を察するを司った神と愚考す」
意訳変換しておくと
「万葉集で家や地所について詠んだ歌には、「日に向ふ」とか「日に背く」という表現がある。日当りは、農耕や木地には大きな影響をもたらすばかりか、様々な点で未熟な時代だった古代には、生活や健康にも大きな影響をもたらし、そのことには注意を払ったはずだ。日の出・日の入りの方向と増減を見て季節や時日を知ることは、今でも田舎ではよく用いられている。とすれば暦の配布などがない時代には宮や塚を立て、その影を観て時節を知たこともあったろう。そうだとすれば向日神は、日の方向から家相地相と暦日を察することを司った神と私は考える」

そして次のようにも記します。(意訳要約)
  オリエンテーションとは、日の出の方向を基準として方位や暦目(空間と時間)をきめること。「方位」という言葉はラテン語の「昇る」からきている。ストーンヘンジについては、中軸線が夏至の日の出線になり、その他の石の組合せによって日と月の出入りが観測できるので、古代の天文観測所とする説がある。また、神殿の集会所とする説もある。

冬至や夏至の「観測」を、わが国では「日読み」といったようです。
「日読み」は重要な「マツリゴト」でもありました。「日」という漢字には「コヨミ(暦)」の意味もあります。『左氏伝』に「天子有・日官、諸候有二日御」とあり、その注に、「日官・日御は暦数を典じる者」とあります。向日神社が「日読み」の神社であることは、冬至・夏至日の出方向に朝日山・日の岡があることからも推測できます。もうひとつは白日神の兄弟神に聖神がいることです。柳田国男は、「聖は「日知り」だと云います。そうだとすれば、「日読み」と「日知り」の神が兄弟神なのは当然です。
秦氏が信仰する木島坐天照御魂神社も、白日神社です。
木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

この神社にある三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」と研究者は考えています。

三柱鳥居 木島坐天照御魂神社
白日神信仰 木島坐天照御魂神社

志呂志神社、向日神社、木島坐天照御魂神社は、かつては川のそばにあったようです。

ここにも朝鮮神話と結びつく要素があります。新羅の白日峯の夏至日の出遥拝線上の基点に悶川があります。朝鮮語の「アル」は日本語の「アレ(生れ)」です。この川のほとりに新羅の始祖王赫居世が降臨します。「赫」は太陽光輝の「白日」のことで、アグ沼のほとりで日光に感精した女の話が『古事記』の新羅国王子天之日矛説話に載せられています。このアグ沼も悶川と同じです。三品彰英は、経井を「みあれの泉」「日の泉」とします。  川・沼・井(泉)などのそばで日女(ひるめ)が日光(白日)を受けて日の御子(神の子)を生むのは、日の御女が「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の人だからと研究者は推測します。
以上をまとめておきます。

白日神は日読み神

①大年神神統譜に出てくる兄弟神「白日神・韓神・曽宮理神・聖神」は、渡来系の神々である。
②『白日神』=「志呂志」=「白髪神」である。
③白日神を祀る近江高島町鴨の志呂志神社は、古墳に葬られた祖先神やお塚信仰への秦氏と鴨(賀茂)氏による祭祀が行われていた
④冬至や夏至の「観測」は「日読み」で、白日神は日読みの神で、聖(日知り)神でもあった。 
⑤「日読み」は重要な「マツリゴト」で、「日」という漢字には「コヨミ」の意味もあった。
⑥ 木島坐天照御魂神社の三柱鳥居は、稲荷山の冬至、比叡山(四明岳)の夏至の日の出遥拝のためにある「日読み鳥居」で、この神社も白日神が祀られていた。
⑦『古事記』の「新羅国王子天之日矛説話」からは、これらの神々が朝鮮半島の神々であったことがうかがえる。
⑧川・沼・井(泉)などのそばで日女が日の御子(神の子)を生むのは、「日読み(マツリゴト)」をおこなう「日知り」の「先端技術知識者」であったから。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 秦氏の研究372P    志呂志(しろし)・白髭神社~白神信仰と秦氏~

福井県立歴史博物館│泰澄展

白山開山者とされる泰澄については、信頼できる基本的な史料が少なく架空の人物であるという説もあるようです。そのような中で白山神社のHPには、泰澄のことが次のように記されています。
長い間、人が足を踏み入れることを許さなかった白山に、はじめて登拝(とはい)したのが僧泰澄です。泰澄は、天武天皇11年(682)に、越前(現在の福井県)麻生津(あそうず)に生まれました。幼いころより神童の誉れ高く、14歳のとき、夢で十一面観音のお告げを受け、故郷の越知山(おちざん)にこもって修行にあけくれるようになりました。
霊亀2年(716)、泰澄は夢で虚空から現われた女神に「白山に来たれ」と呼びかけられます。お告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達。養老元年(717)、泰澄36歳のときでした。
白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治したり、大流行した天然痘を鎮めるなど、華々しい活躍をします。開山から8年後の神亀2年(725)には、白山山頂で奈良時代を代表する名僧行基と出会い、極楽での再会を約束したとも伝えられています。数々の伝説を残し、「越の大徳」と讃えられた泰澄は、神護景雲元年(767)に越知山で遷化。享年86歳でした。
ここには泰澄が秦氏出身であることは、何も触れられいません。『泰澄和尚伝記』には、泰澄は俗姓が三神氏で、越前国麻生津の三神安角の2男とあります。母は伊野氏で白玉の水精を取って懐中に入る夢を見て懐妊し、天武天皇11年(682)6月11日に誕生したと記します。

泰澄和尚伝記』大谷寺本(越知山大谷寺所蔵)
泰澄和尚伝記

次に「泰澄=秦氏出身」説を、別の史料で追いかけます。『白山大鏡』(鎌倉時代成立?)は、泰澄について次のように記します。
越前国足羽南郡阿佐宇津渡守 為泰角於父生古志路行者秦泰澄大徳

意訳変換しておくと

泰澄の父は越前国足羽南郡阿佐宇津の渡守で泰角於である。 古志路行者の秦泰澄大徳

ここからは泰澄の父が阿佐宇津(麻生津)の渡守(津守)で、泰澄にも秦の姓が付けられています。
麻生津とは福井市浅水町付近とされ、その南に泰澄寺(福井市三十八社町)が現存し、生誕の地とされているようです。

泰澄寺
                      
麻生津が文献に登場するのは『和名類聚抄』で、「丹生郡朝津郷訓阿佐布豆」、『延喜式』巻第28の兵部省では「朝津 駅馬 伝馬各五疋」と記します。津という表記と周囲に浅水川があるので河川交通の要所で、北陸道の朝津駅の付近から陸上交通の拠点であったことが分かります。日本海交易の受口として、朝鮮半島などからもさまざまな人とモノが行き交う所であったことがうかがえます。天台宗僧の光宗の著した『渓嵐拾葉集』(正和3年(1314)成立)にも「越州浅津船渡子」と記します。泰澄の父が船守であったという伝承も、麻生津という地域性から来るものなのでしょう。同時に、秦氏は瀬戸内海でも海運業に携わるものが多かったことは以前にお話ししました。日本海交易を通じて、広いネットワークをもっていたことが考えられます。

技術集団としての秦氏

泰澄の生誕地とされる麻生津の地には、今市岩畑遺跡(福井市今市町)があります。
発掘調査により奈良時代の遺構・遺物が数多く発見され、仏教色の強い遺物も含まれていました。研究者が注目するのは「大徳」と記された墨書土器です。これは8世紀のもので、越前町の佐々生窯跡の丹生窯産とされています。大いなる「徳」とすれば、泰澄は「越の大徳」とも称されていました。泰澄の生まれた伝承地で、この土器が出てきたことに意味があります。

『元亨釈書』(巻十五、方応の部)には、泰澄の母伊野は「白玉」が懐に入るのを夢に見て泰澄を身ごもったと記します。
これは朝鮮半島の神話にもよく出てくるパターンだと研究者は指摘します。加羅の皇子・角鹿阿羅斯等(つぬがあらしひと)の妻はもともと白石で、新羅の王子天日矛の妻は赤玉でした。白玉を懐中にして妊娠した伊野は、白石・赤玉から美女になったヒメコソ神と共通します。加羅・新羅の始祖王の卵生伝承の卵が、白玉になったとあります。「白玉伝説」を持つ泰澄が秦氏出身であることがますます深まります。
継体天皇の考察④(越前の豪族)|古代史勉強家(小嶋浩毅)

それでは、当時の足羽郡に秦氏はいたのでしょうか? 
天平神護1年(766)10月の『越前日司解』に、次の氏名が見えます。
足羽郷 秦文鷹秦荒海・秦文、
家郷 秦前田麿、前多鷹(前田麿の子)・秦安倍、
利刈郷 秦井出月魔
伊濃郷 秦八千麻呂
こうしてみると、足羽郡には秦氏一族がいたことが分かります。泰澄が秦角於の子であってもおかしくないようです。
渡来集団 秦氏とは?

泰澄は丹生郡の越知峯に籠って修行したとされます。今度は丹生郡を見ておきましょう。
『越前国司解』には、丹生郡人として泰嶋圭、丹生郡弥太郷に秦得麿の名があります。泰澄の父といわれる茶角於は、阿佐宇津の渡守(津守)ですが、敦賀郡の津守郷には秦下子公麿がいます。『日本古代人名辞典』(第5巻)は、8世紀の越前の秦氏として、秦16人、秦人部2人をあげています。この地域には秦氏の一族が勢力を持っていたことが分かります。

越前の八坂神社
八坂神社
越前の八坂神社・泰澄の道

越知山の麓に鎮座するのが八坂神社です。ここには泰澄伝承はありませんが、越知山信仰圏への入口としてその歴史は古いとされます。牛頭天王を祀る応神宮や境内にはその神宮寺である応神寺があります。また、多数の諸仏群があり、国の重要文化財である。木造十一面女神坐像も末社の御塔神社から発見された像のようです。

越知神社|おすすめの観光スポット|【公式】福井県 観光/旅行サイト | ふくいドットコム
 
 泰澄の最初の修行地とされる越知山の山頂からは近年、奈良時代の須恵器が採取されているようです。丹生窯跡で生産された奈良時代(8世紀中頃)のものなので、誰かが奈良時代に持ってあがったのでしょう。それを残した人物が泰澄かどうかはわかりませんが、奈良時代には越知山周辺では山林修行者が活動していたことが分かります。

最初に見たHPには「白山の開山以来、泰澄の名声はとみに高まり、都に赴き元正天皇の病を祈祷で治した」とありました。京都での活躍ぶりを見ておきましょう。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

京都の木島坐天照御魂神社
(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は木嶋神社(このしまじんじゃ)」や「蚕の社(かいこのやしろ)」とも呼ばれ、古くから祈雨の神として信仰された神社です。境内には珍しい三柱鳥居があることで知られています。この神社の愛宕山は、秦氏の山岳信仰の聖山です。愛宕神社の神宮寺白雲寺の縁起は、大宝年中に役小角と雲遍上人(泰澄)が愛宕山に登り、山嶺を開き、朝日峯に神社を造立したのにはじまると記します。ここに出てくる「予云遍上人」は泰澄のことで、愛宕山も「白山」とも呼ばれます。ここからは山城国の泰氏の本拠地の「白山(愛宕山)」の開山も泰澄とされています。「泰澄=秦氏出身」はますます強まります。
今度は、白山の三つの山(御前峰。大己貴岳・別山)を見ておきましょう。
御前峰に白山妙理大菩薩が鎮座したために、それまでの御前峰の地主神は別山に移ったという伝承があります。これについて、水谷慶一は次のように記します。

「『白山』を現今の朝鮮語の発音でよめば「ペッサン」の声になるが、これが案外、『別山』の名称の起りではなかろうか。朝鮮語では濁音と半濁音の区別がないので、ペッサンはベツサンでもいい。

ここからは次のようなストーリーが考えられます。
①古墳時代に、白山は「ペッサン」と呼ばれた
②奈良時代に仏教が入るとベッサン(白山)神が最高峰の御前峰を仏教系の白山妙理大菩薩に明け渡して鎮座の場所を移した。
③その際に、名称も共に移動して、『別山』と称するようになった
④『泰澄和尚伝』が別山を「小白山」と書いていることがそれを裏付けらる。

朝鮮には、儒教式祭祀以外に、巫女が主催する別神クッ・都堂クッといわれる部落祭があります。
クッは、儒教の祭に対してシャーマニズム、巫式の祭で、古い型とされます。このクッを、江原道・慶尚道などの日本海側の地域で、特に「別神クッ」「別神祭」と呼んでいるようです。この地域は「狛」とされた地で、日本海を通じて、加賀白山につながります。「別山=白山」とすれば、「別神=白神」となります。
別神祭は、3年か5年ないし10年など周年ごとに営まれる盛大な祭で、この祭には仮面劇がおこなわれます。別神祭の仮面劇には、「死と再生」の場面が含まれていると研究者は指摘します。こうしてみてくると、白山信仰も死と再生の信仰なので、両者がつながります。
 白山の別山を小白山と呼ぶのは、大(太)白山に対しての表現です。
朝鮮の太白山祠について、『東国興地勝覧』(巻四十四。三防祠廟)は、次のように記します。

「太白山祠 在山頂 俗称天王堂」、「春秋祀之」

『虚白堂集』(巻11)には、太白山祠の神は4月8日に村の城陛(部落の聖域)に降臨し、村に留まって村人から旗施鼓笛の盛大な迎接を受け、5月5日に山祠に戻ると記します。4月8日に山の神が里に降りる例は、日本各地にも見られます。ただ、日本の山の神が山へ戻るのは秋です。その点が朝鮮半島とは異なるようです。ただ、太白山神は、普通の山の神ではなく、恐ろしい神のようです。「鬼涯」(『成宗実録』巻236)には次のように記します。

「吉凶立応 前有太守死者数人 皆曰 白頭翁為祟 人心尤畏忌 或曰 夢見白頭者 皆死」(『林下筆記』巻十六)

意訳変換しておくと

「この山の祟りで太守が数人亡くなった。そこで皆が云うには白頭山の祟りであると。人々はこれを非常に怖れた。また、白頭山の夢を見た者は皆死すると」

ここからは太白山神が鬼神・白頭翁と化して崇る神であったことが分かります。これは白山神が陰神、崇神といわれるのと共通しています。このような朝鮮半島の祭祀・信仰は、日本列島と無関係ではありません。

朝鮮半島から日本に入って来た信仰のひとつに韓神(カラカミ)信仰があります。
浅香年木は「韓神からのかみ)信仰」の越前への広がりについて、次のように述べています。
韓神信仰と申しますのは『日本書紀』の皇極天皇元年(642)条に、「村々の祝(ほふり)の教えのままに、或いは牛馬を殺して、諸々の社の神を祭る」という表現で登場する信仰です。(中略)
 この韓神信仰で、注目したいのは分布の特異性にあります。厳しい抑圧の対象とされておりました韓神信仰は、もとより広い範囲に定着していたはずでありますが、延暦十年(791)の禁令が出されている地域は、伊勢・尾張・近江・美濃・紀伊若狭・越前の七カ国、だいたいお分かりと思いますが、紀伊半島から、中部地方の西側を廻って、越前までです。いまの石川県の辺りまでの範囲に相当しますが、この七カ国を対象に特に禁制が強化されております。さらに10年後の延暦20年(801)には、 この七カ国のなかでも、特に北陸道のみに限定して、国家権力が厳しい弾圧令を試みております。ここからは北陸道の、特にこの越前国やその周辺地域において、韓神信仰が広く信仰されていたというふうに理解されるのであります」
ここからは、次のような事が読み取れます。
①韓神信仰は祭礼で、牛馬を殺して神に捧げるものがあり、日本ではたびたび禁止とされていたこと
②延暦十年(791年)の禁令では、伊勢、尾張、近江、美濃、紀伊、若狭、越前の7か国を対象に、特に禁制が強化されていること
③その10年後の延暦二十年(801年)には北陸道のみに限定して厳しい禁制が行われていること
④以上から北陸には根強い韓神信仰があったこと

「日本霊異記」にも、8世紀の中頃、摂津国の金持が、年ごとに一頭の牛を殺して韓神の祭に用いたとことが記されています。このような「殺牛用祭韓神」に対する禁令に、越前の人々が応じなかったことも、白山信仰と韓神信仰が無関係でないことがうかがえます。
どうして、牛を殺していたのでしょうか?
『東国興地勝覧』の太白山祠の春と秋の祭の「繋牛於神坐前、狼狽不顧而走」を、『林下筆記』(巻16)は、「山下人殺食 無災謂之退牛」と記します。ここからは、もともとは牛を殺して食べていたのが禁じられたため、「繋牛於神坐前、……而走」となったようです。これは「山下人殺食……」に続いて次のように記されていることからもうかがえます。

「官荷聞之 定監考曰納於官邑人厭牛会 有山僧沖学 焚其祠 妖祠乃亡 因無献牛之事 監考亦廃」

これを金烈圭は「殺食無災」について、「食べても災がない」と読み下し、これは「たんなる食肉ではない。呪術的食肉である」として、次のように推察します。
生の牛肉を食べることによって、神に接することができると信じた事例があることから、呪術的食肉の傍証が成り立つ。牛を食べるということは、牛が象徴する生成力を所有するようになることを意味する。虎肉を食べて山にはいれば、獣や鬼神を防ぐことができるという俗信も、呪術的食肉から由来したものである。食牛は、2つの意味をもっている。
 第一は、祠神に捧げられたために、祠神の力が加わった牛であるという考えである。この意味からすると、その牛は祠神と同一である。その牛肉を食べるのは、少なくともその祠神の力を分与してもらうことを意味する。
 第二にこの祠神は、白頭翁として象徴される恐ろしい山神である。その山神の患は、虎患であると思われる。山神に捧げられても無事な牛は、その山神に勝った牛である。したがって、その牛肉を食べることは、山神に勝つ力を所有するという意味になる。どちらの食牛の意味をとっても、呪術的食肉は、 マナ(Mana)の所有を意味している。

「牛を殺して韓神を祭るのに用いる」という『日本霊異記』の記事を、牛を生け贄とし捧げたとみる説があります。しかし、もともとは「殺食(食牛)」のためで、越前の「殺牛」も「殺食」だった研究者は判断します。この「殺食」が行われる場所は、「鬼涯」と呼ばれる太白山祠の「山下」でした。「祠神」とは、「鬼涯」の白山神のことです。こうして見ると、「殺食」が越前で盛んにおこなわれたのは、そこが白山の山下であったことが考えられます。金烈圭は「牛食」を死と再生の「生成力象徴」の儀礼とみます。白山信仰の儀礼も死と再生の儀礼ですから、両者の信仰の本質は同じです。韓神信仰と白山信仰はつながります。
もうひとつ秦氏の神々を見ておきましょう。
伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘で、大年神(おおとしのかみ)と結婚して
次の5神を生みます。

伊怒比売(いのひめ)は神活須毘神(かむいくすびのかみ)の娘
大年神と伊怒比売(いのひめ)との間に生まれた兄弟五神

大国御魂神(おおくにみたまのかみ)
韓神(からのかみ)
曾富理神(そほりのかみ)
白日神(しらひのかみ)
聖神(ひじりのかみ)
この兄弟五神については、その神名から渡来系の神とされ、秦氏らによって信仰された神とされます。大年神の系譜中の神々については、農耕や土地にまつわる神が多いのが特徴です。これは民間信仰に基づく神々とする説や、大国主神の支配する時間・空間の神格化とする説があるようです。さらに日本書紀のこの系譜の須佐之男命・大国主神から接続される本文上の位置に不自然さがあり、その成立や構造については、秦氏の関与や編纂者の政治的意図があったことが指摘されています。
 「韓神」の名を持つ神としては、『延喜式』神名帳の「宮内省に坐す神三座」に「薗神社」と共に「韓神社二座」が記されています。
園韓神社 - 園韓神社の概要 - わかりやすく解説 Weblio辞書
平安京の韓神社二座
この神社は『江家次第』『古事談』『塵袋』『年中行事秘抄』などに、平安京以前から鎮座していたことが記されています。この神社を内裏建設の際に、別の場所に遷座させようとしたところ託宣があって、帝王の守護として留まって宮内省に鎮座したと伝わります。そして、その鎮座する大内裏は、もと秦河勝の邸宅跡の地であるというのです。ここからも、これらの神は秦氏の地主神としての性格を持つと考えられます。
秦氏の渡来と活動

秦氏は、渡来系の技術者集団として何波にも分かれて列島にやってきました。それをヤマト政権や各地の勢力は、迎え入れて勢力下に入植させていきます。そこには、人とモノだけでなく信仰ももたらされました。それが八幡・稲荷・白山信仰として定着していきます。そのような延長線上に、秦氏出身の泰澄も登場します。それが白山開山につながると私は考えています。
 もうひとつ私が気になるのが、泰澄と空海の活動がよく似ていることです。どちらも秦氏の支援を受けて布教活動を展開している点など類似点が数多く見られます。それがどうしてなのかは、今の私には分かりません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「大和岩雄 秦氏の研究356P 白山神社~朝鮮の白山信仰と秦氏~」

秦氏の研究 正・続(2冊揃い)(大和岩雄) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋


稲荷大社と秦氏
前々回に、全国の古墳の上に稲荷神社が数多く鎮座することの背景を、次のように見てきました。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?

つまり、稲荷山の「お塚(古墳)信仰=穀物信仰」が修験者や聖によって、全国の古墳に勧進されたという説になります。
 子どもの頃にはいなり寿司が大好きでした。お稲荷さんと云えば狐です。今回は、稲荷神社と白狐のつながりを追いかけてみようと思います。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。
霊狐塚】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet
豊川稲荷
「狐塚」の古墳と狐塚の関係について、柳田国男は次のように記します。
「村の大字又は小字の地名となって残って居るもので、今日は其名の塚があるかないか未定なものまで合すれば、北は奥州の端から南は九州の末までに少くも三四百の狐塚といふ地名がある」
「塚の上に稲荷の小祠があるから狐塚だといひ、又はその祠の背後には狐の穴のあるのも幾つかある。古墳には狐はよく穴居するから、それから出た名とも考へられ、又現実に狐塚を発掘して、古墳遺物を得た例が二三は報告せられてある」
 また、稲荷と狐塚の関係については、次のように記します。

「多くの他の塚と同じ様に、狐神といふ一種の神を祭る為に設けたる祭壇である。狐神は恐らくは今日の稲荷の前身である」

歌川広重の狐
                歌川広重 大晦日の狐火

 このように柳田国男は、「狐神=田の神」で、狐塚は「もともとは田の神の祭場だった」とします。その理由として、山の神が早春に里に降りて田の神となり、秋の収穫後に山に入るのと、山の狐が里に現れることとの共通性を挙げます。その際に、狐が山(田)の神の神使となった理由については次のように記します。
「以前は狐が今よりもずっと多か々 つたこと、彼の挙動にはやや他獣と変つたところがあり、人に見られたと思ふとすぐに逃富せず、却って立上って一ぺんは眼を見合せようとすること、それから又食性や子育ての関係から、季節によって頻りに人里に去来することなどを例挙してもよい」

稲荷の神が山(田)の神だから、狐が稲荷社の神使になったとします。以上のように、柳田は、山の神が田の神となって里に現れるのと、狐が里に現れることの共通性を指摘します。

  柳田國男説
  「狐神=田の神の使者」 → 「狐塚=田の神の祭場」 → 「狐が稲荷神社の神使」説

稲荷大社 狐神

しかし、これに研究者は異論を唱えます。この二つは時期がちがうと云うのです。

古代人の種へのイメージ

山の神が里に現れるのは種まきから収穫まです。その間は里にいて田の神になります。ところが、狐が里に現れるのは、田の神が山に帰った後です。だから、狐が山から里に現れるからと云って、単純に田の神と重ねることはできないと云うのです。里人が狐を見るのは、草木の枯れ伏した後で、白鳥が飛来してくる時期です。とすれば、里人は白鳥と同じイメージで狐を見ていたことになります。

常滑郷土文化会つちのこ, 写真集 つたえたい常滑

狐塚の「狐」に冬、「塚」に死のイメージがあることと、稲荷山の「山の峯」に塚(古墳)と白鳥伝説が重なることは前回お話しました。また、穀霊として登場する鳥が「白」鳥であるように、稲荷神の化身は「白」狐です。「白」には、古代人は死と再生のふたつのイメージを持っていました。そして白狐は「白=再生」「狐=塚・死」のイメージです。そんなことが背景にあって、白狐が稲荷大社の神の化身になったと研究者は考えています。白狐は白鳥と共に、生命の源泉である「種」として、豊饒(福)を約束するものであったことを押さえておきます。

Syusei252b
寒施行(狐施行・野施行・穴施行)シーボルト、文政九年に大阪訪問。
狐の餌が無い寒中、狐が棲む神社・森・藪などに赤飯・餅・油揚げ・野菜天婦羅などを置いて歩く。  稲荷の狐への感謝と・豊作祈願を祈った。

京阪地方の行事に、狐の「寒施行(狐施行)」があります。
旧正月前後の夜、小豆飯とか油揚を、狐のいそうな所に置いてくるのです。また、京都・兵庫から福井・鳥取にかけての農村には、旧正月の年越しの晩に「狐狩り」の行事があります。「狩り」という言葉から、狐の害を防ぐために狩り立てるのだという説もありますが、「寒施行」と同じで「もともとはは年のはじめに、狐からめでたい祝言を聴こうとした一つの儀式」で「福をもたらす狐を招き入れようとする行事」と研究者は考えています。この行事は小正月の行事で、時期的には「寒施行」と同じ時期です。白鳥が豊饒(福)をもたらす冬の鳥であったように、狐も福をもたらす冬の動物として登場しているのです。それが稲荷信仰と、どこかで結びついったようです。ちなみに、秦氏を祀るその他の神社には狐神信仰がありません。狐神信仰があるのは、伏見稲荷大社だけです。これをどう考えればいいのでしょうか?
秦氏には、狐だけでなく狼伝承もあります。
『日本書紀』の欽明天皇即位前紀は次のように記します。
天皇幼くましましし時に、夢に人有りて云さく。「天皇、秦大津父(はたのおおつち)といふ者を寵愛みたまはば、壮大に及りて、必ず天下を有らさむ」とまうす。寝驚(みゆめさ)めて使を遣して普く求むれば、山背国の紀郡の深草里より得つ。姓字、果して所夢ししが如し。是に、析喜びたまふこと身に遍ちて、未曾しき夢なりと歎めたまふ。乃ら告げて日はく、「汝、何事か有りし」とのたまふ。答へて云さく、一無し。
但し臣、伊勢に向りて、商償して来還るとき、山に二つの狼の相同ひて血に汗れたるに逢へき。乃ち馬より下りて口手を洗ひ漱ぎて、祈請みて曰く、『汝は是貴き神にして、麁き行を楽む。もし猟士に逢はば、禽られむこと尤く速けむ』といふ。乃ち相闘ふことを抑止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗ひて、遂に遣放して、倶に命全けてき」とまうす。天皇曰く、「必ず此の報ならむ」とのたまふ。乃ち近く侍へじめて、優く寵みたまふこと日に新なり。大きに饒富を致す。
意訳変換しておくと
天皇が幼いときに、夢にある人が出てきて次のように云った。「天皇が、秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛すれば大きな益をもたらし、必ず天下を治めるようになるでしょう」と告げた。夢から覚めて、使者を各地に派遣して、秦大津父を探させたたところ、山背国の紀郡の深草里にいた。姓字も、夢に出てきたとおりであった。天皇はまさに正夢であったと喜んだ。そこで「汝、何事か吉兆があったか」と問うた。それに秦大津父は、次のように答えた。「臣が伊勢で、商償して帰って来るときに、山の中にで二匹の狼が血まみれになって争っている場面に遭遇しました。そこで、馬から下りて口手を洗ひ浄めて、『汝は貴い神にして、荒行を楽しんでるよようだが、もし猟士がやってきたら速やかに捕らえられてられてしまうだろう。」と告げた。2匹の狼は、それを聞いて闘うことを止めて、血にぬれたる毛を拭ひ洗った。そして、去って行く際に、私たち2匹は命をかけてあなたに尽くす」と云った。これを聞いた天皇は、「必ずその報の通りになるであろう」と云って、近習の一人に招き入れた。その結果、大きな饒富を天皇にもたらした。

ここに登場する2匹の狼について西田長男は、次のように解釈します。
「汝は是貴き神」と云っているので、狼は「神そのものとして考へられていた」とし、秦大津父が「馬より下りて」、狼の「口手を洗ひ漱ぎ」、狼に「祈請みて」言っていることは、「神に就いての作法を語るものに外ならない」と指摘します。そして、「オオカミ」は「大神」だとも云います。
千葉徳爾は、次のように記します。

「日本書紀では狼を大口の真神と呼んだ。(中略) わが国の肉食の猛獣としては人里に現れることの多いものだったから、人間の側からは畏怖すべき存在であった。大口は姿を形容したもの、真神とはその威力をたたえた言葉で、これが縮まって大神、オオカミとなったとみられる」

そうだとするとこの話は、秦大津父が狼を助けて「大きに饒富」したのは、神(オオカミ)を助けたため、神から福と富をさずかった話ということになります。柳田国男も、「秦の大津父の出世諄以来、狼が人の恩に報いた話は算へ切れぬほどある」と述べています。「狼=大神」とすれば、秦大津父に福をもたらした狼は、伏見稲荷大社にとっては「貴き神」の代表で、祀るべき神にだったはずです。
それがどこかで狼から狐に変ったようです。どうしてなのでしょうか?
西田長男は、秦大津父が助けた狼について次のように記します。

「稲荷社の替属たる狐神で、古くはこの狐は狼であったのではあるまいか。若しくは狐と狼とは同類に考えられていたのではあるまいか」

柳田国男は、狐塚で狼を供養する例をあげていますが、古代には狐と狼は同類とみられていたようです。
塚(墓)で狐や狼を供養するのも、死と再生の儀礼です。これについて柳田國男は、狼や狐に小豆飯などを供える「初衣祝」は、「産育の際に食物を求めて里を荒らしにくることをおそれて、人間の誕生と同じ祝いをし、狼や狐の害を防ごうとしたのだろう」と推測しています。しかし、これには次のような反論があります。
伴信友は『験の杉』で、秦大津父の狼の話について次のように書いています。

名神大社:大川神社(舞鶴市大川)
丹後の大川神社 オオカミを使者としてまつる

今丹後国加佐郡に大川大明神の社あり、此神社式に載られたり。狼を使者としたまふと云ひ伝へては縦淵..其わたりの山々に狼多く棲り。さらに人の害をなす事なし。諸国の山かたづきたる処にて、猪鹿の多く出て用穀を害ふ時、かの神に申て日数を限りて、狼を貸したまはらむ事を祈請ば、狼すみやかに其郷の山に来入り居りて、猪鹿を逐ひ治むとぞ。又武蔵国秩父郡三峯神社あり。其山に狼いと多し。これも其神に祈請ば、狼来りて猪鹿を治め、又其護符を賜はりてある人は、其身狭害に遭ふ事なく、又盗賊の難なしといへり。

  意訳変換しておくと
丹後国の加佐郡に大川大明神の社がある。この神社は延喜式に載せられている古社である。狼を神の使者としていたと云ひ伝へていて、周辺の山々に狼多く棲んでいる。しかも、人の害をなす事はない。諸国の山で、猪鹿が出没して被害をもたらすときには、この神社の神に依頼して日数を限って、狼のレンタルと願えば、狼はすみやかに依頼のあった山に入って、猪鹿を退治するという。
また武蔵国秩父郡に三峯神社がある。この山にも狼が多く棲んでいる。ここでも神に祈請すれば、狼がやってきて猪鹿を対峙する。またその護符を賜わった人は、災害が遭う事がなく、盗賊の難もないとされる。
ここでは、狼が神の使者として害獣退治の役割を担っていたことが書かれています。秩父の三峯神社では、狼に小豆飯(赤飯)をあげるのを、「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と表現するそうです。武蔵の狼信仰は、三峯神社を拠点として各地にひろがっています。

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三峯神社のオオカミ

「初衣祝」も「御犬様(山犬、狼のこと)の産養ひ」と同じ行事と研究者は考えています。
これは「寒(狐)施行」「狐狩り」が、狐の害を防ぐことでなく、狐から福をさずかる行事であるように、狼や狐の出産(多産)にあやかった豊饒予祝の行事と云うのです。狼や狐は、山に住む冬の動物というだけでなく、巣穴で子を沢山生みます。そのことも、死(穴こもり)と再生(多産)のイメージにつながります。塚や墓を狐塚といい、そこで狼を供養するのと、狼や狐に小豆飯を供える「初衣祝」「産見舞」の儀礼は一連の死と再生儀礼と研究者は考えています。
 多産な動物は狼・狐以外にもいますが、特に狼・狐が選ばれているのは、山の神の化身とみられていたからでしょう。山の神は、秋の終わりに山へ戻り、春の始めに再び山から里に降りて田の神になるといわれています。狼や狐の寒施行や産見舞は、山の神が里に降りる前の時期におこなわれることからみて、春の予祝行事としての冬(殖ゆ)祭と研究者は考えています。
 白鳥が冬の鳥であるように、狼も狐も冬の動物です。
その点では、狼を助けて「大きに饒富を致」した秦大津父の話は、秦伊侶具が「梢梁を積みて富み裕ひき」の白鳥伝説と同じ、秦氏にとっては大切な話であったはずです。だから、「オオカミ=狐」と姿を変えて伝わったとしておきます。稲荷の狐は「白狐」です。中国では、白狐は吉、黒狐は凶とされました。
『土佐郷土民俗諄』や『南路志』の土佐民話に「白毛の古狼」があります。
狼が鍛冶屋の姥に化けて出てきますが、この民話は「産の杉」という古木のそばで旅の女が子供を生んだ話から始まっています。「白」には死と再生(誕生)のイメージがあります。稲荷大社の創始伝承に登場する白鳥の「白」も、白狼・白狐の「白」と関係がありそうです。冬の鳥である白鳥や白鶴に穂落し伝承があるのも、「白」に死と再生のイメージがあるからだと研究者は考えています。「稲の産屋」を「シラ」と呼ぶのも、「白」のイメージにつながるようです。

三峰神社オオカミ
三峯神社の山犬(オオカミ)
三峰神社の狛犬でなくオオカミ
             三峰神社のオオカミ型の狛犬
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大嶽神社(西多摩郡檜原村白倉)の社伝には、日本武尊と山犬伝承があります。
『日本書紀』の景行天皇四十年条に載る日本武尊の東征伝承に、次のように記します。

山の神、王を苦びしめむとして、白き鹿と化りて王の前に立つ。王異(あやし)びたまひて、 一筒蒜を以て白き鹿に弾けつ。則ち眼に中りて殺しつ。爰に王、忽に道を失ひて、出づる所を知らず。時に白き狗、自づからに来て、王を導きまつる状有り。

意訳変換しておくと
(信濃に入った日本武尊が、信濃坂を越して美濃に出るときのこと)山の神が、王を苦しめようとして、白き鹿に化身して王の前に立った。日本武尊は怪しんで、 一筒蒜(ひる)を白き鹿に放った。それは鹿の眼に当たり殺した。ところが王は、道を失って、山からの出口が分からなくなってしまった。そこへ白き狼がやってきて、王を導き助けた。

ここに登場する「白き狗」は山犬(狼)のことです。この話が秩父と奥多摩の神社の社伝になっています。        
1987年9月23日の朝日新聞には、西多摩郡檜原村の旧家に「魔よけ」にしていた狼の頭骨があったと報じています。景行紀の日本武尊伝承の「鹿」や「狗」も「白き」鹿・狗です。『古事記』では、この伝承は相模国の足柄山での話になっていますが、やはり「白き鹿」が登場します。山村・農村の人々にとって狼が、畑を荒らす鹿や猪を退治してくれることと共通します。白鹿・白狗・白猪が登場する記・紀のヤマトタケル物語では、墓に葬られたヤマトタケルは白鳥になって墓からぬけ出し、墓(白鳥陵)に入り、更に墓から天に飛び去っています。これは白鳥の死と再生の循環を示す物語テーマです。  
 伏見大社と白狐(イナリさま)の関係にも、こんなテーマが背後にあるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社
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伏見稲荷大社について|歴史や概要を詳しく解説
伏見大社(1897年)

伏見稲荷大社の創建を、『山城国風土記』逸文は、次のように記します。

   風土記に曰はく、伊奈利と稱ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)等が遠つ祖、伊侶具の秦公、稻粱(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき。乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利(いねなり)生ひき。遂に社の名と為しき。其の苗裔(すゑ)に至り、先の過ちを悔いて、社の木を抜(ねこ)じて、家に殖ゑて祷(の)み祭りき。今、其の木を殖ゑて蘇きば福(さきはひ)を得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。

意訳変換しておくと

風土記によれば、イナリと称する所以はこうである。秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を矢の的としたところ、餅は白鳥に姿を変えて飛び立ち、この山に降りた。そして山に稲が成ったのでこれを「稲荷(イナリ)という社名とした。(稲が自分の土地に実らなくなったことを)子孫は悔いて、社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。

ここには次のような事が記されています。
①イナリ大社は、秦中家忌寸を祖先神とする秦氏の氏神であったこと
②秦氏がこの地に入って稲作農耕で豊かになったこと
③ところが稲で作った餅を矢の的にしたところ、餅は白鳥に化身して山に帰った。
④子孫は、これを悔いて山の木を抜いて家に持ち帰って植えて毎年祀った

「其の苗裔」とは、伊侶具の子孫の「秦中家忌寸等」のことです。「先の過」(伊侶具が餅を的にした行いのこと)を悔いて、神社の木を家に植えて根づくか枯れるかの祈いをおこなったというのです。ここに登場する「白鳥」については、穀霊の白鳥に穂落し神のモチーフがあると研究者は指摘します。そして、稲荷山の3つの峰の古墳祭祀(お塚信仰)と白鳥伝承は、結びついていると云うのです。

伏見稲荷大社創建伝説
伏見稲荷大社創建説話と白鳥伝説

 また「木を抜じ」とは、死を意味し、餅を的にして射る行為と重なっているとします。そして木の植え替えの記事を「死と再生の説話」と読取り、「稲荷信仰=白神信仰」につながるとします。その根拠を今回は見ていくことにします。テキストは「大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社」です。

まず穂落し神説話を見ておきましょう。これは穀物起源伝承でもあるようです。

ウカノミタマ(宇迦之御魂神)の姿と伝承|ご利益・神社紹介
                 宇迦之御魂神(ウカノミタマ)

稲荷大社の主祭神は宇迦之御魂神(ウカノミタマ)です。「宇迦」は「うけ(食物)」の古形で、穀霊のことです。『日本書紀』は、「倉稲魂」を「子介能美施磨」と注しています。『延喜式』の大殿祭の祝詞にも、「屋船豊宇気姫」に注して、「是れ稲霊なり。俗の詞に宇賀能美多麻」と記します。稲霊としてのウカノミタマは地母神で、『古事記』のオホグツヒメと同性格になります。
ウカノミタマ

『古事記』は、スサノヲが出雲で「大気都比売神」に食物を乞うたシーンを次のように記します。
大気都比売、鼻口また尻より、種々の味物を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐の男の命、その態を立ち伺ひて、機汚くして奉るとおもほして、その大宣津比売の神を殺しきたまひき。故、殺さえましし神の身に生れる物は、
頭に蚕生り。
二つの目に稲種生り。
二つの耳に粟生り。
鼻に小豆生り。
陰に麦生り。
尻に大豆生りき。
故、ここに神産巣日御祖の命、これを取らしめて、種と成したまひき。
『日本書紀』は、月夜見尊が保食神を殺した死体から、穀物・牛馬・蚕が化生した話を載せています。
  こうして見ると「穀物起源説話=死体化生伝承」でもあることが納得できる気がしてきますす。
なぜ穀物起源説話に、神や人間の祖先の死体から穀物などが発生したとする死体化生の神話が登場するのでしょうか? それについて研究者は次のように説明します。
①「種」には「死」が内包するとされていた。
②「種」は、春、土にまかれて「芽」となり、夏に成育・生長し、秋に「実」となり、刈りとられて再び「種」となる。
③土から離れることは死を意味し、死と再生の循環があった。
④「種」の保管場所が「倉」でなので、「種」は「倉稲魂」という神名を与えられた
⑤「倉」にある期間は、種は土から離れた「死」の状態で、この時期が「冬」になる。
⑥「死ー冬―種」は、古代人にとって一連の同義語で、「倉稲魂」も同じ意味になる。
⑦  折口信夫は「冬」は「殖ゆ」だと云う。
このように古代人の死のイメージは、私たちが考える「科学的思考」による終末としての死ではないようです。再生のための死が冬ですから、冬に飛来する白鳥は穀霊のシンボルとなります。穀物が死体から化生するのも、死・冬のイメージからきます。ヤマトタケルが死んで白鳥になるのも、白鳥に死のイメージがあったからです。穀物の死体化生と同じように、白鳥は誕生もイメージします。「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」なのです。 「イネナリ」の白鳥伝説に死と再生のモチーフがうかがえるのも、「白鳥=冬・死・種・倉稲魂」のイメージが重なっているからです。
そこに穀霊伝承としての白鳥伝承とお塚信仰が結びつきます。『山城国風土記』逸文に、次のように記します。
南鳥部の里、鳥部を称ふは、秦公伊侶具が的の餅、鳥と化りて、飛び去き居りき。其の所の森を鳥部と云ふ。
意訳変換しておくと
南鳥部(トリベ)の里を、鳥部と呼ぶのは、秦公伊侶具が矢を放った的の餅が、白鳥に化身して飛び去って、やってきたのがこの森だったので鳥部と云う。

稲荷山の白鳥は鳥部の森へ飛んでいます。現在の鳥部は鳥部北麓の清水寺西南、大谷本廟の墓地の周辺だけを指しますが、もともとはもっと広い範囲だったようです。顕昭の『拾遺抄註』に、次のように記します。
「トリベ山ハ阿弥陀峰ナリ、ソノスソフバ鳥辺野トイフ。無常所ナリ」

鳥辺山=阿弥陀峰で、古代は北・西・南麓の扇状地一帯を指していたようです。そしてそこは「無常所ナリ」とあるので葬地だったことが分かります。
 稲荷山・鳥部のどちらの伝承も、登場人物は秦伊侶具です。葬地としての二つのアジールは、秦氏の勢力下にあったことがうかがえます。鳥部に秦氏がいたことは、天平15年(743)正月7日の『正倉院文書』に、愛宕郡鳥部郷人として「秦三田次」の名があることからも裏付けられます。この地には、鳥部古墳群・梅谷古墳・総山古墳がありますが、どれも後期古墳です。こうした古墳があることから、平安遷都以前からの葬地だったことがうかがえます。こうしてみると白鳥伝承は葬地としての稲荷山と鳥部から生まれたことがうかがえます。

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稲荷社創始の白鳥伝説には、次のように記されていました。

「白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊爾奈利生ひき。遂に社の名と為しき。」

稲荷山の峯に稲が実ったのです。稲荷山の峯には古墳があります。こうして稲荷山山頂の被葬者は穀神(ウカノミタマ・オホゲツヒメ・ウケモチ)になります。稲荷大社の主祭神がウカノミタマなのは、稲荷山山頂に葬られた死者を穀神と当時の里人達が考えていたからと研究者は推測します。ここからは、稲荷山のお塚信仰が穀神信仰から生まれたことがうかがえます。

記・紀は、ヤマトタケルは死んで白鳥になったと記します。
冬に飛来する白鳥は、死霊の化身です。「餅を用ちて的と為ししかば、白き鳥と化成りて」とあったように、弓で射られた餅が白鳥になったというのは、白鳥を死霊と見立てていると研究者は指摘します。
豊後国風土記 肥前国風土記 / 沖森卓也 佐藤信 矢嶋泉 編著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房
『豊後国風土記』速見郡田野の条には、次のように記します。

百姓が餅を的にして射つたところ、餅が白鳥に化して南へ飛び去った後、「百姓死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れ廃てたり」

これは稲荷山の白鳥伝承と重なり会います。ところが「豊後国風土記」は「豊国(豊前+豊後)」の起源説話には、白鳥が北から飛米して餅となり、しばらくして、数千株の里芋に化して「花と葉が冬も栄え」たので、朝廷に報告したら天皇が「豊国」と命名したと記します。
『豊後国風土記』の白鳥となって飛び去り、また白鳥が飛び来ることは、滅(死)と豊(生)をあらわ
すと研究者は指摘します。「山城国風土記」の射られた餅が白鳥になったのは、死であり、その白鳥が稲荷山の峯に飛来したのは、生です。それは、死からのよみがえりの再生です。この死と再生を一緒にした話が、『山城国風土記』の伝承と研究者は考えています。鳥部へ白鳥が飛んで行ったというのも、この場所が葬地だったからです。葬地は再生の場所でもありました。
そう考えると、稲荷のお塚信仰は、単なる祖霊信仰ではなく、稲成りの信仰ということになります。『山城国風土記」の白鳥伝説が、秦伊侶具の「稲梁を積みて富み裕ひき」という話になっているのも、そのことを示しています。稲荷のお塚信仰と白鳥伝承は別個のものと、従来はされてきたようです。しかし、以上のような立場に立つと、稲荷大社の二月の初午祭も、冬(死)から春(再生)への、死と再生の祭りと研究者は考えています。
 なんか分かったような、わからないような展開になりました。民俗学的な話は、どうも私には苦手です。しかし、伏見稲荷大社の白狐伝説を理解する上では、避けては通れない道のようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社

空海と秦氏の関係を追いかけていると出会ったのがこの本です。

秦氏の研究 日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究 / 大和岩雄 著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房

秦氏の渡来と活動


この本の中にある秦氏の神社と神々の中に伏見稲荷大社のことが書かれてありました。興味深かったので、読書メモ代わりに載せておきます。

花洛名勝図会 高瀬川から伏見稲荷への参道
     『花洛名勝図会』高瀬川から伏見稲荷までの参詣道。初午のにぎわい。
伏見稲荷大社の創建は、『山城国風土記』逸文に、次のように記します。

伊奈利と称ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠つ祖、伊侶具(いろぐ)秦公、稲梁(いね)を積みて富み裕(さきは)ひき、乃ち、餅を用ちて的と為ししかば、白い鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊繭奈利生(いねなりお)ひき。遂に社の名と為しき。

意訳変換しておくと
伊奈利(いなり)は、秦中家忌寸(はたのなかつへいきみき)等が遠祖で、伊侶具(いろぐ)秦公が稲梁(いね)を積んで富み栄え、餅を的としたところ、白鳥に化身して、飛び翔って山の峯にとまった。これを伊繭奈利生(いねなりお)と呼び、社の名となった。

ここからは、「稲 → 餅 → 白鳥 → 稲荷山」と穀物信仰と、秦氏の祖先信仰がミックスされていることがうかがえます。

伏見稲荷大社の創建を見ておきましょう。
『二十二社註式』や『神名帳考証』『諸社根元記』は、稲荷社の創祀を和銅四年(711)とします。
『年中行事秘抄』は、神祗官の『天暦勘文』(10世紀中頃)を引用して次のように記します。
  但彼社爾宜祝等申状云、此神、和銅年中、始顕在伊奈利山三箇峯平処、是秦氏祖中家等、(中略) 即彼秦氏人等、為爾宜祝、供仕春秋祭等・。
意訳変換しておくと
  彼社爾宜祝等には、この神は和銅年中に始めて伊奈利山三箇峯に現れ、これを秦氏の祖先が祭ったと記す。(中略) そこで、 秦氏一族は、春秋に祭礼を行う。

 ここにも、稲荷社の創祀は和銅年間とされています。しかし、この「創祀」は秦氏が社殿を建てて「伊奈利(イナリ)社」として祀った時期のことで、それよりも古くから稲荷山の神が信仰されていたことになります。


  研究者が注目するのは、稲荷山には、一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯、荒神峯の山頂に、それぞれ古墳があったことです。『史料・京都の歴史・考古編』は、次のように記します。

伏見稲荷大社|京都|商売繁盛・産業振興、神秘の神奈備「稲荷山」 | 「いにしえの都」日本の神社・パワースポット巡礼
稲荷山古墳群 丘陵斜面 稲荷神社境内 円墳 三基 半壊 横穴式石室 後期
稲荷山一ノ峯古墳 山頂 円墳 全壊 前期
稲荷山ニノ峯古墳 山頂 前方後円墳の可能性あり 半壊 前期
稲荷山三ノ峯古墳 山頂 墳形不明 半壊 竪穴式石室 二神三獣鏡 碧玉白玉 変形四獣鏡片出土 前期
稲荷山の峯には、三基の前期古墳がある。それぞれ継続的に築造されたと考えられ、稲荷山古墳を形成する深草一帯の首長墓である。

『日本の古代遺跡・京都1』は、次のように記します。

「一ノ峰、ニノ峰、荒神峰の頂上『お塚』のあるところが古墳である。『お塚」で古墳は変形されているが、ニノ峰古墳は全長約七〇メートルの前方後円墳、他の三基は直径五〇メートルの大型円墳とみられる。古く鏡、玉類が出土しており、継起的にきずかれた前期古墳とおもわれる。西麓にあった番神山古墳はこれらにつづく首長墓とみられているが、全長五〇メートルの前方後円墳という以外いっさい不明のまま消滅した」

こうして見てくると稲荷山の山頂の3つの古墳は、「秦氏の始祖の墳墓」のように思えてきます。確かに秦氏の稲荷信仰を、稲荷山に対する秦氏の祖霊信仰とする説もあります。しかし、そうではないと研究者は指摘します。
 秦氏が大和の葛城から深草に移住し、更に葛野(嵯峨野)へ入植するのは5世紀後半のことのようです。井上満郎氏は次のように記します。
「嵯峨野の古墳が五世紀末・六世紀初ということは、葬られている人間が生きていたのは五世紀後半ということにならぎるをえない。すなわち、嵯峨野一帯の開発、つまりは秦氏の定着はこのときということになる」
 稲荷山山頂に前期古墳が築かれるのは4世紀後半のことですから、秦氏がやってくる前にあったことになります。秦氏以前の氏族の墓ということになります。

伏見稲荷山周辺の古墳群
伏見稲荷山周辺の古墳群(山頂が前期、山麓が後期古墳群)

ただし、
①西麓の番神山古墳は5世紀末で、
②稲荷山山麓には円墳の山伏塚古墳、谷口古墳、
③深草砥粉山町の丘陵尾根上には、砥粉山古墳群と呼ばれる円墳3基
これらは後期古墳なので、秦氏の墓とできそうです。
 つまり、同じ稲荷山の古墳でも、山頂と山麓では被葬者は別の氏族で、稲荷山山頂の古墳は秦氏
の移住前の首長の墓であることを押さえておきます。
①秦氏以前の氏族は稲荷山山頂の古墳を、祖霊墓のある神聖な山として祭祀
②こうした地元民の祖霊の山の信仰に、秦氏の信仰が接ぎ木され
③現在の稲荷山の信仰へ
という流れを押さえておきます。

『枕草子』の「うらやましげなるもの」の段に、稲荷山参拝が次のように記されています。
稲荷に思ひおこして詣でたるに、中の御社のほどの、わりなう苦しさを念じ登るに、いささかの苦しげもなく、遅れて来と見る者どもの、ただ行きに先に立ちて詣づる、いとめでたし
意訳変換しておくと
思い立って稲荷山に参拝した。中の御社への苦しい登りを念じながら登ると、いささかの苦しみもなく登れた。私が遅れるだろうと想っていた者どもの先に立って詣でることができた。いとめでたし

ここからは、清少納言がニノ峯の中社に詣でていることが分かります。一ノ峯は上社、三ノ峯は下社で、二ノ峰が中社ですが、その他に詣でたことは記されていません。どうしてでしょうか?
 伴信友は『験の杉』で、中社が本社だと書いています。「中の御社」のニノ峯古墳だけが前方後円墳で、他は円墳であることも、稲荷山信仰の原像が「先祖崇拝」であったことがうかがえます。


 全国遺跡地図には「稲荷」のつく古墳名が総計189基が載せられています。
「稲荷」とつくのは、古墳に稲荷社を祀ったためですが、「稲荷」の名のつかない古墳にも稲荷社が祭られているところがあります。例えば、『岡山県埋蔵文化財台帳』には、岡山市高松に竜王山古墳群(十一基)があり、山麓に最上稲荷神社があります。また、茨城県石岡市の山崎古墳、結城市の繁昌塚古墳、滋賀県栗東町の宇和宮神社境内の古墳、京都市右京区太秦の天塚古墳、西京区大枝東長町の福西古墳群、京都府天田郡夜久野町の枡塚古墳にも、稲荷社が祀られているようです。
これは、伏見稲荷山「お塚信仰」と結びついているようです。
上田正昭は、お塚の「塚」の由来について、次のように記します。

「ニノ峰より傍製の二神三獣鏡や変形四獣鏡が出上しており、四世紀の後半頃にはすでにその地域が聖なる墓域とされていたことをたしかめることができる」

ここからは、お塚信仰は、この山頂の古墳祭祀にさかのぼることがうかがえます。

16世紀前半に作られたとされる「稲荷山山頂図」には、山頂に上ノ塚・中ノ塚・下ノ塚・荒神塚などの名が見えます。
上ノ塚は一ノ峯古墳、
中ノ塚はニノ峯古墳  倉稲魂神を主神 佐田彦命
下ノ塚はノ峯古墳
荒神塚は荒神塚古墳
「お塚」は現在、稲荷山に約一万基も立てられていますが、不規則にあるのではなく、 一ノ峯、ニノ峯、三ノ峯の山頂を中心に、それぞれ円陣をえがき、ストーンサークル状に配されています。お塚に詣でることを「お山する」というようです。稲荷山山頂に登ることは、「お塚(古墳)」を拝することでした。この「山の峯」に「社」を作ったと、『山城国風土記』逸文は記します。
当社の社殿は、三つの峰にあったようで『雍州府志』には次のように記します。

山頂有三壇、古稲荷三社在斯所、弘法大師移今地、毎年正月五日、社家登山上拝三壇始依為鎮座之処也。

意訳変換しておくと

山頂には三壇あり、古くは稲荷三社はここにあった。それを弘法大師が今の地に移した。毎年正月五日に社家が山上に登り、三壇に拝する。これが最初の鎮座場所である。

ここからは、山頂の三壇(古墳)が信仰対象であったこと、弘法大師が登場してくるので真言密教の社僧の管理下に置かれたことが分かります。こうして平安時代になると稲荷信仰は真言密教と習合して、修験者や聖などによって各地に広められていくことになります。ここまでをまとめておきます。

全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景は?
                全国の古墳に稲荷神社が数多く鎮座する背景


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             吉田初三郎による『伏見稲荷全境内名所図絵』


今は山麓の稲荷社拝殿から山頂にかけての参拝路には、約二万といわれる朱塗の鳥居が立ち並びます。現在の「お山巡り」も、中世の一ノ塚、ニノ塚、三ノ塚、荒神塚の「お塚巡り」を継承しているようです
以上をまとめておきます
①稲荷山周辺には、有力氏族がいて古墳時代初期に二ノ峰に首長墓である前方後円墳が築いた。
②その後は盟主分と円墳がそれぞれの山頂に継続的に築かれ、祖先神を祭る霊山となった。
③先住氏族に替わって5世紀後半に入植した秦氏も稲荷山に古墳を築き、引き続いて信仰対象とした。
④奈良時代以後も、稲荷山周辺は死霊をまつる霊山として信仰の対象となった
⑤稲荷山参拝は「お塚(古墳)」を拝する「お塚めぐり=お山巡り」という形で受け継がれた。
⑥古代末から稲荷大社では、弘法大師信仰が高まり真言密教系の社僧が管理運営するようになった。
⑦すると、廻国の修験者や高野の聖達によって、「お塚信仰」が全国に展開し、古墳に稲荷神社が勧進されるようになった。

今回、私が興味深かったのは、山の上に造られた古墳が祖先崇拝のシンボルとして、後の人達に受け継がれて、その山が信仰対象として霊山化していく過程やそれが全国展開していく道筋が辿れることです。これを丸亀平野に落とし込んでみると、大麻山の山頂近くに姿を見せる野田院古墳が思い浮かんできます。この古墳が祖先崇拝の対象となり、麓に大麻神社が鎮座し、霊山化し、そこに山林修験者が入ってくる。そして彼らが「大麻山 → 五岳 → 七宝山 → 観音寺」をつないで修行し「中辺路」を形成していくというストーリーです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
大和岩雄 秦氏の研究289P 伏見稲荷大社

大仏造営 知識寺模型
知識寺復元模型 河内国大県郡
大仏造営という国家プロジェクトを進める上で、聖武天皇が参考にした寺があるとされます。そこには「知識」によって盧舎那仏の大仏が造営され、そして運営されていたので知識寺と呼ばれていました。その姿に感銘した聖武天皇が国家的な規模に拡大しての大仏造営を決意するきっかけとなったと云うのです。今回は大仏発願に、秦氏がどのように関わっていたのかを見ていきます。テキストは 大和岩雄 続秦氏の研究203Pです。
大仏造立の発端になったのが河内の知識寺です。    
聖武天皇が大仏造立を発願したのは、河内国大県郡の知識寺の盧舎那大仏を拝した後のことです。それを『続日本紀』天平勝宝元年(七四九)十二月二十七日条の左大臣橘諸兄の宣命には、次のように記します。
去にし辰年河内国大県郡の知識寺に坐す盧舎那仏を礼み奉りて、則ち朕も造り奉らむと思へども、え為さざりし間に、豊前国宇佐郡に坐す広幡の八幡大神に申し賜へ、勅りたまはく。「神我天神。地祗を率ゐいざなひて必ず成し奉らむ。事立つに有らず、鋼の湯を水と成し、我が身を草木土に交へて障る事無くなさむ」と勅り賜ひながら成りぬれば、歓しみ貴みなも念ひたまふる。

   意訳変換しておくと
去る年に河内の大県郡の知識寺に安置された盧舎那仏を参拝して、朕も大仏を造ろうと思ったが適わなかった。そうする内に豊前国宇佐郡の八幡大神が次のように申し出てきた。「神我天神。地祗を率いて必ず成し遂げる。鋼の湯を水として、我が身を草木土に交へてもどんな障害も越えて成就させると念じた。

「去にし辰年」は天平12年(740)年のことで、この年二月に難波に行幸しているので、その時に立寄ったようです。ここにはその時に、河内国大県郡の知識寺の虜舎那仏を見て「朕も造り奉らむ」と聖武天皇は発願したと記されています。

大仏造営 知識寺石神社の境内にある心柱礎石
石神社の境内にある知識寺の心柱礎石
盧舎那仏があった知識寺とは、どんな寺だったのでしょうか。
まず名前の「知識」のことを見ておきましょう。私たちが今使っている知識とは、別の概念になるようです。ここでは「善知識」の略で、僧尼の勧化に応じて仏事に結縁のため財力や労力を提供し、その功徳にあずかろうとする人たちことを指します。五来重氏は次のように指摘します。
「東大寺大仏のモデルとなった河内知識寺は、その名のごとく勧進によって造立されたもので、『扶桑略記』(応徳三年六月)には『長六丈観音立像』とあって、五丈三尺五寸の東大寺大仏より大きい。もっとも平安末の『日遊』には『和太、河二、江三』とあって、東大寺大仏より小さいが近江世喜寺(関寺)のより大きくて、日本第二の大仏であった」

 ここで「和大・河二・江三」と出てくるのは、次の通りです。
「和」は大和の東大寺
「河」は河内の知識寺
「江」は近江の関寺
この記述からも平安末には、知識寺の盧舎那仏も「日本第二の大仏」だったことが分かります。つまり、ドラゴンボールに登場する「元気玉」のように生きとし生けるもののエネルギーを少しずつ分けて貰って、大きなパワーを作り出し「作善」を行うと云う宗教空間が知識寺にはあったようです。そのコミューン的な空間と、安置された大仏に聖武天皇は共感し、国家的なレベルでの建設を決意したということでしょうか。
 「造法華寺金堂所解」(天平宝字五年(761)には、知識寺から法華寺に銅を十二両運んだことが記されています。
天平勝宝四年(752)4月9日に東大寺の大仏開眼供養を行っているので大仏造立の十年後のことになります。東大寺でなく法華寺の寺仏製作のために、知識寺から銅を運んでいます。ここからは知識寺は、金知識衆に依って銅や鋼や水銀などが多量にストックされていたことがうかがえます。

大仏造営 知識寺
南河内の知識寺(太平寺廃寺跡)
知識寺(太平寺廃寺跡)について、もう少し詳しく見ておきます。

  この寺は7世紀後半に茨田宿禰を中心とした「知識衆」によって創建されたと伝えられます。河内国大県郡(柏原市)の太平寺廃寺跡からは白鳳期の瓦や薬師寺式伽藍配置の痕跡などが発掘され、ここが知識寺跡とされています。知識寺の東塔の塔心礎(礎石)と見られる石は、石神社に残されています。この礎石から推定される塔の高さは50mの大塔だったとする説もあります。知識寺は今はありませんが、その跡は柏原市大県の高尾山麓にあり、後に大平寺が建立されました。

知識寺のある高尾山麓は古墳時代以後に渡来系秦氏の定住したエリアで、秦忌寸・高尾忌寸・大里史・常世(赤染)連・茨旧連などの秦氏系氏族の居住地域です。「大里史」の「大里郷」は大県郡の郡家の所在地で、高尾山の西麓にあたります。
続日本紀』天平勝宝八年(756)1月25日条に、考謙天阜が大仏造立のお礼に知識・山下・人里・三宅・家原・鳥坂等の七寺に参拝したとあります。
『和名抄』の大里郷は「大県の里」の意で、志幾大県主の居住地です。『柏原市史』『大阪府の地名』(『日本歴史地名人系28、平凡社』は、大県主・大里史・赤染氏らを、この郷の出身者と記します。大里史は『姓氏録』は秦氏とします。三宅氏や三宅氏の祖新羅王子天之日矛と、秦氏・秦の民の間には深い関係があります。ここに三宅寺があるのも秦氏との関係なのでしょう。
 知識寺の南にある家原寺は観心寺の廃寺跡とされ、秦忌寸の私寺と推測されます。
家原寺の近くにはには五世紀後半から六世紀後半にかけて築造された「太平寺古墳群」があります。六世紀後半に築造された第二号墳の石室奥壁中央の二体の人物像が、赤色顔料で描かれています。この赤色顔料はこの地に居た赤染氏との関係を研究者は推測します。丹生などの水銀製錬技術者集団であったことがうかがえます。

大仏造営 知識寺地図2
 河内六寺 左北北 すぐ南に大和川が流れていた
このように河内六寺はすべて知識寺(柏原市太平寺)の周辺にあります。
五寺は秦氏系氏族か秦氏と関係の深い氏寺です。彼らは知識衆でも金知識衆であり、彼らの財力と技術が知識寺の盧舎那大仏造立の背景にはあったようです。この大仏を参拝して聖武天皇は大仏造立を決意したのです。そのため孝謙女帝も知識寺と知識寺を含む七寺に、大仏造立完成の御礼参りをしています。この知識寺のある地は、河内国へ移住してきた秦集団が本拠地にした大県の地になります。彼らが鉄工から銅工になって知識寺の盧舎那大仏を造り、その大仏を拝した聖武天皇が、さらに大きな慮舎那大仏造立の発願に至るというプロセスになります。
 朝鮮半島から渡来した秦氏の日本での本貫は、豊前の香春山や宇佐神宮の周辺でした。そこは銅を産出し、鋳造技術者も多く抱えていました。彼らが高尾山に拠点を構え、そこに当時の最先端技術で今までに見たことのないような大仏を8世紀初頭には造立していたようです。
渡来集団秦氏の特徴

ここまでをまとめておきましょう
①大和川が河内に流れ出す髙尾山山麓には、古墳時代から秦氏のコロニーが置かれた。
②彼らは様々は面で最先端技術を持つハイテク集団で、大規模古墳の造営や治水灌漑にも力を発揮してきた
③彼らは豊前の「秦王国」で融合された「新羅仏教 + 八幡神」の信者であり、一族毎に氏神を建立していた。
④その中には豊前での銅製法の技術を活かし「金知識衆」の力で造立された盧舎那仏大仏を安置する寺院もあった。
⑤その仏像と「知識」のコミューン力に感銘を受けたのが聖武天皇である
東大寺大仏建立の理由ー聖武天皇のいう「菩薩の精神」とは | 北河原公敬 | テンミニッツTV

聖武天皇がこの地までやってきたのは、どうしてなのでしょうか。

それは、信頼するだれかのアドバイスを受けてのことだったと思われます。研究者は、そこまで踏み込んで推察しています。
聖武天皇に知識寺参拝をすすめたのは、どんな人物なのでしょうか
秦忌寸朝元と秦下嶋麻呂の二人を研究者は考えているようです。

まず秦朝元について見てみましょう。
朝元は父の弁正が大宝二年(702)の遣唐船で入唐し、現地女性と結婚して中国で生まれたハーフです。父の弁正と兄の朝慶は唐で亡くなり、二男の朝元のみ養老二年(718)の遣唐船で帰国します。『続日本紀』養老三年四月九日条に、秦朝元に「忌寸の姓を賜ふ。」とあります。
 
『続日本紀 二』(岩波書店版)は補注で、次のように記します。
「(前略)朝元のみ、養老二年に帰国した遣唐使に伴われ、十数歳の時日本へ戻ったらしい。医術の専門家であるが、その修得は在唐中に行われたらしい。また中国生まれで漢語に堪能だったので、語学の専門家としても評価されていた」

父と兄を失ない、母国語も充分話せない15歳の少年が、帰国して1年の養老3年4月に「忌寸」の賜姓を受けています。これは異例です。3年6月に皇太子(後に聖武天皇)は、「初めて朝政を聴く」とあります。元正女帝から皇太子執政に移る3カ月前に、朝元が「忌寸」賜姓を受けていることと、その後の朝元の出世ぶりを見ると、聖武天皇の意向で、中国生まれの孤児の少年のすぐれた才能を見抜いての忌寸賜姓なのかもしれません。若き英才発掘を行ったとしておきましょう。
その後の秦朝元の栄達ぶりを追っておきましょう。
『続日本紀』の養老五年(721)正月二十七日条は、秦朝元が17歳で、すでに従六位下で、医術において「学業に優遊し、師範とあるに堪ふる者」と正史に書かれて、賞賜を得ています。
天平二年(730)2月には、中国語に堪能であったから、通訳養成の任を命じられ、中国語の教授になっており、翌年(731)には外従五位下に昇叙し、唐に赴き、玄宗皇帝から父の縁故から厚遇され、天平七年に帰国し、外従五位上に昇進しています。生まれ故郷の唐は朝元が少年時代をすごした地であり、二年間の滞在期間には皇帝にも会っています。天皇勅命での唐滞在が公務であったことは、帰田後に昇進していることが証しています。
 聖武天皇の寵臣であったことは『続日本紀』天平十八年(746)2月5日条に、次のようにあることからもうかがえます。

正四位上藤原朝臣仲麻呂を式部卿とす。従四位下紀朝臣麻路を民部卿。外従五位上秦忌寸朝元を主計頭

ここからは746年に朝元が図書頭から主計頭へ移動しているのが分かります。今で云えば部省から財務省の移動ということになります。この背景を加藤謙吉は、次のように推測します。

「秦氏が朝廷のクラ(蔵)と密接にかかわる立場にあつたことは間違いない。ただそれは秦氏が渡来系氏族に共通するクラの管理に不可欠の高度な計数処理能力を有することとあわせて、この氏がクラに収蔵されるミツキの貢納担当者であったことに起因するとみられる。すなわち朝廷のクラの管掌は、ミツキの貢納というこの氏の基本的な職務から派生した発展的形態として理解すべきであろう」

 非農民の秦の民(秦人)の貢納物は、秦氏を通して朝廷のクラヘ入れられます。
大仏造立にあたっては、大量の銅・水銀。金などの資材と、購入のための資金を必要としました。そのような重要な役職を任せられる能力を、秦氏出自の朝元がもっていたから任命されたのであろう。信頼する人物を抜擢して主計頭に就けたのでしょう。

聖武天皇が知識寺に行幸した740(天平12)年は、朝元が図書頭に任命された天平9年から3年後です。以上の状況証拠から秦氏らによる度合那大仏を本尊にした河内の大県にある知識寺を、聖武天皇に知らせたのは秦朝元と推測します。         

聖武天皇に知識寺行幸をすすめたと推測できる人物がもう一人います。秦下嶋麻呂です。
  聖武天皇は740年2月に河内の大県郡の知識寺を参拝し、その年12月に恭仁宮への新都造営を開始しています。『続日本紀』天平十四年(742)8月5日条に、次のように記されています。

「造官録正八位下秦下嶋麻呂に従四位下を授け、大秦公の姓、丼せて銭一百貫、 絶一百疋、布二百端、綿二百亀を賜ふ。大宮の垣を築けるを以てなり。

「大宮」とは恭仁官のことです。
 これを見ると秦下嶋麻呂は「大宮の垣」を作っただけで「正八位下の造宮録」から十四階級も特進して「従四位下」に異例の特進を果たしています。さら大秦公の姓も与えられています。垣を作ったということ以外に隠された理由があったと勘ぐりたくなります。他の秦氏にはない嶋麻呂の家のみに「大秦公」なのも特別扱いです。
嶋麻昌については、特進後の天平十七年(745)五月三日条に、次のように記されています。
地震ふる。造官輔従四位下秦公嶋麻呂を遣して恭仁宮を掃除めしむ。

「秦公」は「大秦公」の略ですが、嶋麻呂は造宮録から造宮輔に昇進しています。地震の際の恭仁宮の復旧にあたっていることが分かります。恭仁官の管理をまかされているので、天皇の信頼が厚かったのでしょう。造宮にかかわる仕事が本職の嶋麻呂は、二年後の天平十九年二月に長門守に任命されます。この九月から大仏の鋳造が始まります。鋳造には銅が必要なことは、前回お話ししたとおりです。
大仏造営長登銅山跡

 長門国美祢郡の長登銅山(山口県美祢市美東町長登)は文武二年(698)から和銅四年(711)に開山されています。この銅山の周辺の秋吉台一帯は、7世紀代の住居跡から銅鉱石・からみ(銅滓)などが検出されています。他にも長門国には銅山がありました。銅の産出国である長門に秦氏一族の嶋麻呂が長門守として任命されているのです。長門国や中国の銅山は、秦氏・宇佐八幡宮とかかわりがあります。それを知った上での秦氏の嶋麻呂が長門守任命と研究者は考えているようです。
ここからは、天平十四年正月の「十四階級特進」という嶋麻呂の栄進も彼が秦氏で、大仏造立にかかわっていたことが背景にあることがうかがえます。以上のような状況証拠を重ねて研究者は次のように推測します。
 朝元は、中国で生まれ中国育ちだった。そのため、河内国人県郡の秦氏・秦の民らが「金知識」になって、盧舎那大仏を本尊にした寺(知識寺)があることは知っていても、天皇を案内するほど河内の秦氏系知識衆と親しくなく、地理も知らなかった。そのために河内国出身で友人であった造官録の秦下嶋麻呂に、天皇の案内と天皇の宿泊場所、また知識寺にかかわった地元の知識衆に対する交渉などを、朝元は嶋麻呂に依頼した。聖武天皇に大仏造立を決意させた知識寺行幸の功労者が嶋麻呂だったから、官の垣を作らせて、そのことを理由に異例の栄進と褒賞になった。
以上が知識寺の盧舎那大仏のことを天皇に知らせたのは朝元で、行幸の実行の功労者は嶋麻呂という説です。

朝元と嶋麻呂が聖武天皇の寵臣だったことは、次の事実から裏付けられます。
藤原不比等の次男の北家と三男の式家が、なぜか朝元と嶋麻呂の娘を嫁にしています。当時最大の実力家で皇后も出す藤原本宗家の嫁に、秦氏の朝元と嶋麻呂の娘がなっているのは、2人が聖武天皇の寵臣であったことが最大の理由だと云うのです。
 喜田貞吉や林屋辰二郎は、藤原氏が朝元と嶋麻呂の娘を嫁にしたのは、二人が巨富をもつ財産家だったからと推論しています。藤原氏が彼らの娘を嫁にした理由として、とりあえず次のふたつをあげておきましょう。
第一に二人が聖武天皇の信任の厚い人物(特に朝元)であったこと、
第二に朝元は資産がなくても主計頭として財務を握っており、嶋麻呂は秦氏集団のボスになっていたこと
朝元、嶋麻呂の朝廷に置ける位置と、秦氏の財力を見ると、縁を結ぶことは将来の藤原氏にとっては利益があると思ったからでしょう。それは大仏造立のプロセスで、秦氏と秦氏が統率する泰氏集団(泰の民)の技術力・生産力・財力・団結力を見せつけられたことも要因のひとつであったかもしれません。「この集団は有能で使える! 損はない」ということでしょう。

技能集団としての秦氏

  以上から聖武天皇の大仏造営については、その動機や実行段階においても秦氏の思惑や協力が強く働いていることを見てきました

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 大和岩雄 続秦氏の研究203P
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大仏鋳造工程 - 写真共有サイト「フォト蔵」

 東大寺の造営は、聖武天皇が国家プロジェクトとして打ち上げたものですが、それがなかなかプラン通りには進まなかったようです。豪族たちの中には「お手並み拝見」と傍観者的対応をとる人たちも多かったようです。そのような中で秦氏が果たした役割は大きかったようです。今回は大仏造営の銅を秦氏がどのように集めたのかを見てみようと思います。
大仏造営 資材一覧

最初に、大仏造営前後の銅生産がどのように行われていたのかを押さえておきます。
山尾幸久は「古代豪族秦氏の足跡」で、次のように述べています。

「『延喜式』主計式には、国家の銭貨鋳造機関に納付する原料銅は、「備中・長門・豊前』三国の負担と定められている。几慶二(878)年には『豊前日規矩郡の鋼を採る』ことについての指示が出されていて、仁和几(885)年には「豊前国の採銅使」のもとに長門から技術指導者が派遣されている。(『一代実録』)

ここには9世紀の段階では、国家管理下の原料銅は「備中・長門・豊前』の三国の負担で、一括管理されていたことを指摘します。そして、ヤマト政権による銅管理は、和銅三(701)年1月、『太宰府、鋼銭を献る』頃に始まったとします。つまり、銅の「国家的採銅」は「六世紀末より古い」と山尾氏は考えているようです。

加藤謙吉は『秦氏とその民』で、次のように述べています。
  「六・七世紀の時点では自然銅採取にかかわる竪穴掘法や、それにともなう本格的な製錬工程も開発されていたと考えてよい。このようなすすんだ生産形態は、渡来系技術の導入によって初めて実現し得るものであるが、香春岳の採鋼に渡来人の専業者集団の存在が想定できる以上、既にそうした段階に達していたと理解するのが適当とみられる。しかも豊前国においてかかる生産形態に質的・量的に対応できる渡来系集団は秦系をおいて他にない。勝姓者の管轄のもと、六~七世紀に、秦人を中心とする秦系集団が豊前の銅生産に従事したと想定して、まず間違いないと思われる」
  
 長門で採掘された銅が大仏造営に大きな役割を果たしたことは考古学的にも裏付けられます。

大仏造営長登銅山跡

1972年9月美東町の山中にある銅鉱山から数片の古代の須恵器が採集されました。これによって長登銅山跡は、日本最古の銅山であることが明らかになりました。また、1988年には、奈良東大寺大仏殿西隣の発掘調査が実施され、この時出土した青銅塊の化学分析の結果、奈良の大仏創建時の銅は長登銅山産であったことが実証されました。
大仏造営 資材一覧2

 東大寺正倉院に残る古文書には、長門国司から26474斤もの大量の銅が東大寺に送られた記録があります。これが大仏鋳造用で長登銅山産出のものと考えられています。26474斤は今の約18tに相当します。これは1回分の船積みの量であり、長登からは数回送付されたと推察できます。

大仏造営 木簡 長登銅山跡
長登銅山跡出土した木簡
 出土した木簡や墨書土器から、長登銅山跡が国直轄の採鉱・製錬官衙であったことが明らかとなりました。
その木簡のうち船舶の通行証をチェックする豊前門司関(海関)に宛てた銅付礼には、次のように記されています。
宇佐恵勝里万呂 九月功
上束
秦部酒手 三月功
上束
これを研究者は次のように解読します
①木簡の書かれた年代は710年代前半から730年代前半まで
②宇佐恵勝里万呂は『宇佐恵』がウジ、『勝』がカバネ、『里万呂』が名
 長門の長登銅山には、大仏造営という国家的プロジェクトのために、官人を初め多数の雑工・役夫が各地から移住してきたと推定できます。それ以前に豊前と長門の鉱山では技術者交流が行われていたようです。ここに名前が出てくる宇佐恵勝里万呂や秦部酒手もそのような鋳工の一人のようです。『宇佐恵』の氏名は豊前国宇佐郡の郡名と関連する氏名かもしれません。

門司関に宛てた船舶の通行証としての木簡ですから、宇佐恵勝も秦部も九州からやってきた人物なのでしょう。「宇佐」「秦」の氏名は、豊前の「秦王国」の人々で、八幡信仰圏の銅採掘・加工の技術者であったかもしれません。豊前の香春神社の香春山の三の岳の元八幡宮の地は、「製鋼所」という。このような事実や、前述した加藤謙吉の見解からみても、  大仏鋳造に用いた「熟銅 七十三萬九千五百六十斤」の供給には、秦氏・秦の民が関与していたことがうかがえます。
 

 聖武天皇は秦氏の官人を長門守に任命派遣しています。    
それが「大秦公」の姓を授けた嶋麻呂です。嶋麻昌については、天平十七年(745)五月三日条に、次のように記されています。
地震ふる。造官輔従四位下秦公嶋麻呂を遣して恭仁宮を掃除めしむ。

「秦公」は「大秦公」の略ですが、嶋麻呂は造宮録から造宮輔に昇進し、地震後の復旧業務にあたらせています。恭仁官の管理をまかされているので、天皇の信頼が厚かったことがうかがえます。その2年後の天平十九年二月に、彼は長門守に任命されます。この年の九月から大仏の鋳造が初まっています。鋳造には銅が必要なことは、前回お話ししたとおりです。
 長門国美祢郡の長登銅山(山口県美祢市美東町長登)は文武二年(698)から和銅四年(711)に開山されています。この銅山の周辺の秋吉台一帯は、7世紀代の住居跡から銅鉱石・からみ(銅滓)などが検出されています。他にも長門国には銅山がありました。最大の銅産出国である長門に嶋麻呂が長門守として任命されます。長門国や中国の銅山は、秦氏・宇佐八幡宮とかかわりがあります。それを知った上での秦氏の嶋麻呂の長門守任命と研究者は考えているようです。
 このように大仏造立において、泰氏集団(泰の民)の技術力・生産力・財力・団結力は充分に発揮されたようです。

以上から次のようなことが推測できます
①豊前の「秦王国」の秦氏集団が、朝鮮伽耶で行っていた採鉄・採銅の新技術を用いて香春岳などでの鋼・金の採掘・鋳造を盛んに行っていたこと
②そのバックに、中央政権の意向があったこと
③その意向は長門だけでなく備中の採銅にも秦氏を関与させていたこと
④大仏造営のために銅生産の増産が求められると、先端技術を持った秦氏・秦の民が技術者・管理者として送り込まれたこと
  大仏造営のための銅の確保は、豊前で実績を積んでいた秦氏が担当したと研究者は考えているようです。
それを裏付けるように、東大寺の大仏開眼の日の詔には、宇佐八幡神が「銅の湯を水となし」と提供したとあります。宇佐八幡神が水のように銅を供給したというのです。これは宇佐八幡信仰圏の銅を貢納したのでしょう。「東大寺要録」に載る銅銘文にも、「西海の銅」を用いて大仏を鋳造し完成したとあります。この「西海の銅」は、豊前や長門など秦人・秦の民が関与した銅と研究者は考えているようです。

大仏造営年表

  大仏造営を支援した秦氏と宇佐八幡は、聖武天皇の信頼を受けるようになります。
大仏造営に宇佐八幡官が直接関係するのは大平十六年(744)九月十六日に、東大寺建立のために字佐八幡宮が建立費を送ったことから始まるようです。そして、東大寺造営を通じて、朝廷より位階や給田・封戸を何度にも分けて贈与され、伊勢神宮をしのぐまでになります。
上田正昭氏は『大仏開眼』で、次のように述べています。

  「伊勢神宮をしのぐものだった。こうして八幡神は中央第一位の神とあがめるれるにいたった。僧の悔過をうけ、大仏に奉仕するたてまえをとって中央神化した八幡神の上昇は、仏法のための神というコースを端的にたどったものである」

「神仏習合」「仏法のための神」は、仏教が一番早く入った豊前「秦王国」で生まれた新羅系仏教と八幡信仰の習合で、秦王国の信仰でした。それが神仏混淆という形で全国化する先触れでもありました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

松尾大社 | いり豆 歴史談義 - 楽天ブログ

 秦氏といえば山城の秦氏が有名ですが、河内にも多くの秦氏がいたようです。京都に行くと、松尾大社・伏見稲荷大社・木島坐天照御魂神社・養蚕神社・大酒神社や国法第一号の「弥勒菩薩半珈思惟像」のある広隆寺などがあります。少し「事前学習」すると、これらの寺社は渡来集団の秦氏に関係したものであったことが分かります。そして、中・高校でも平安京遷都の背景の一つを「山城の秦氏の協力」と習います。そのためか京都が秦氏の本拠地のように思われがちです。
 しかし、これらの神社や寺のある太秦は、河内出身の泰氏が京(左京)に移住し、山城の秦氏と共に祀った神社や寺のようです。
 長岡京や平安京の造営には、河内出身の秦氏が深く関わっていたようです。それなのにどうして、河内の秦氏が無視されるようになったのかを見ていくことにします。テキストは「大和岩雄  正史はなぜ河内の秦氏を無視するのか  続秦氏の研究23P」です。

渡来集団 秦氏とは?

  結論から言うと、九世紀初頭に完成した『新撰姓氏録』の中に河内国出身の秦氏のことが書かれていないためです。どうして書かれなかったのでしょうか?。その理由は、河内の秦集団は、「雑」に組み入れられていた秦の民(秦人・秦公・秦姓)であったからと研究者は考えているようです。

河内には秦集団の残した仕事がいくつもあります。まずは、その仕事ぶりを見ていきましょう。
百舌鳥古墳群と古市古墳群(ふじいでら歴史紀行27)/藤井寺市

五世紀代の古市古墳群エリア内には「河内古市大溝」と呼ばれる人工河川があります。
古市古墳群 探訪報告 | かぎろひNOW

これは古市古墳群と同時代に、作られたもので野上丈助氏は、次のように述べています。
「『応神陵』を作るとすれば、大水川・大乗川の流路を制御しなければ、古墳自身がもたない地形的な問題があった。そのため大溝は「『仲哀陵』『応神陵』の巨大古墳の築造を契機にして建設され、後に渡来氏族が定着することで大溝の役割・性格が変った」

 渡来氏族のうち、最も多かったのが秦の民であることは、秦の民(秦人)が河内・摂津の河・港の工事をしたことを記す『古事記』の記事からもうかがえます。秦の民が河内開発プロジェクトのパイオニアだったようです。それは、それまでになかった「新兵器」を秦氏が持っていたからです。
森浩一氏は、その「新兵器」のことを次のように指摘します。

「五世紀後半になると鉄製の鍬・鋤が使用されるが、農耕用より河川・池の築堤・灌漑用水路の土木工事などの工事用具として利用された」

真弓常忠も、『日本古代祭祀と鉄』で次のように述べています。
古墳時代の鉄製品は、五世紀初頭を中心とした約一世紀間に構築された畿内の大古墳にもっとも多くの鉄製武器類を副葬することを報告している。それらの鉄製品が、(中略)
 新しい帰化系鍛冶集団の指導によって製作されたことは疑いない。かれらによって古墳時代の生産はさらに一段の進歩を示したであろう。そのことを窺わしめるのが、応神・仁徳朝における河内を中心として集められた大規模な土木工事である。難波堀江・茨田堤・感玖の大溝の築造、百舌鳥古墳群・古市古墳群にみられる巨大な墳丘造築等、五世紀代にこれだけの土木工事が進められるには、絶対に鉄製器具が必要であり、そのためには原始的露天タタラや手吹子による幼稚なタタラ炉ではなく、かなり進んだ製鉄技術があったとしなければならず、その新しい製鉄技術をもたらしたのが(略)韓鍛冶であった。
 最後に記される「韓鍛冶」を、大和氏は「河内の秦の民」と読み替えます。

陪冢出土の工具一覧
5世紀になると上表のように、畿内の古墳からは鉄製工具が出土するようになります。
 その数は河内が最も多く、古市古墳群の陪塚から出土しています。どうして巨大前方後円墳からは出てこないで陪塚から出てくるのでしょうか?
陪塚/羽曳野市
巨大古墳と陪塚

陪塚に埋納されている「農具」は、農業用でなく巨大古墳築造のための土木工事用に用いられた鉄製工具と森浩一氏は指摘していました。単なる「農耕具」ではないのです。渡来人がもたらした新しい鉄製工具は、従来の工具と比べると大きな効果をあげます。陪冢に葬られたのは、このような巨大古墳造営に関わった渡来人と研究者は考えているようです。

神戸市埋蔵文化財センター:収蔵資料紹介:古墳時代収蔵資料一覧:鉄製農工具(てつせいのうこうぐ)
古墳時代の農具・工具 
窪田蔵郎は『鉄の生活史』で、次のように述べています
「農具の鋤、鍬にしても、弥生式文化期より鉄製農具が普及したとはいうものの、庶民にはまったく高嶺の花であって、貴族、豪族から貸与されてその所有地の耕作に従事することがおもで、例外的に自作をする場合には鉄鍬は使わしてもらえず、曲がり木で造った木鍬のようなものが使用されていたようである。(中略)
大古墳を築造するほどの貴族や豪族が、鋤、鍬、のみ、やりがんな、やっとこなどのような農工具類を副葬している理由は、このような生産手段である鉄器の多量な所有者であるというプライドにもとづくものと考えなければ理解できない」
 「プライド=威信財」というによる面もあったのかもしれません。
鉄製の鍬・鋤は農具としてだけの使用されたものではなかったと、森浩一は次のように指摘しています。

河内国の古市古墳群にの大谷古墳出土の鍬・鋤先の幅は76㎜、大和の御所市校上錯子塚古墳の74㎜で、普通より狭いので、「実用品ではなく鉄製模造品とみる説もあるが、鍬・鋤先は農耕以外の土木作業では掘撃する土地条件によっては刀幅の狭いものも必要だから、模造品とはいえない」

 すでに農地化された土地の農作業用は木製品が使われ。荒地を農地にし、水を引く土木作業用に「特殊製品」だったとします。このような新兵器を持って、渡来人達は河内にやって来て、巨大古墳を造営し、河川ルートを変更し、湿田を耕地化していったのです。これは「新兵器」なくしてはできません。そのためには「鍛冶技術」も必要です。彼らは土木技術者であり、そこで使用する工具を自弁する鍛冶集団でもあり、その原料を確保するための鉱山開発者でもあったのです。それが秦の民でした。

技術集団としての秦氏

秦の民は、いつ、どこからやってきたのでしょうか 
秦の民(秦人)の故郷である伽耶の情勢を見ておきましょう。
伽耶の主要国は以下の通りです。
伽耶国家群一覧
朝鮮半島伽一覧表一覧表
朝鮮半島伽耶諸国2
主な伽耶諸国

 金海(官)伽耶国のあった金海市の大成洞古墳群は、1990年から発掘調査が進んでいます。申敬激は金海の大成洞古墳群、東来の福泉洞古墳群の調査から次のように指摘します。

『金海型木榔墓』『慶州型木椰墓』と日本の広域圏での定型化した(朝鮮半島南部における)前方後円墳の出現は、相互に連動するものと理解したい。いいかえれば日本の定型化した前方後円墳の出現契機は、鉄の主な入手源である伽耶地域の深刻な情勢変動とも深い関連があろう。

 「深刻な情勢変動」とは、金海国に対する新羅の圧力です。
倭国が確保してきた鉄が新羅によって脅かされるようになったことを指摘しています。「4世紀には対倭交渉が北部九州から、大和に転換した」とみています。 それまでは倭との交渉は「鉄」をとおしてでした。そのため金海から倭への大量の移住はなかったとします。移住が始まるのは広開王が伽耶まで進出した以後です。新羅が高句麗と組んで真先に侵攻したのは金海の金官国でした。

渡来人増加の背景戦乱

孫明助は5世紀の伽耶の鉄生産について、次のように述べています。
4世紀までは弁韓・辰韓の鉄器文化をそのまま受け継ぎ、伽耶地域では金海勢力が中心になって鉄生産と流通国の掌握がなされてきた。それが5世紀に入り、そのような一律的な体制は崩壊し、新羅勢力の進出とともに伽耶の各国別の鉄生産は本格化されたものと見られる。中略
 5世紀に入り、金海勢力の没落で、鉄生産地は親新羅勢力の東茉の福泉洞勢力の東大地域がその生産流通網を受け継ぐことになり、同時期に咸安と陝川の玉田地域は新しい地域別鉄生産と流通の中心地として浮上する。このような様相は鉄器製作素材の大型鉄挺および有刺利器の出現と独自の形の鋳造鉄斧の製作、新しい形の鉄器製作素材の俸状鉄製品の発生などから見ることができる。
 したがって、伽耶の5世紀の鉄生産は、既存の洛東江の河口域(金海地域)と南旨を境とする南江一帯の咸安圏域、黄江中心の玉田勢力の大伽耶圏域など、大きく三つの生産流通圏を区画することができる。
金海国の製鉄独占崩壊とその後
 

ここには、新羅の進出で、金海での独占的鉄生産が崩壊したことが指摘されています。
そして、金海勢力について次のように述べます。
  「金海勢力の鉄生産は親新羅勢力の東莱の福泉洞勢力がその生産流通権を受け継ぐことになる。とくに、福泉洞22号墳のように長さ50㎝前後の大型鉄挺の出現は、既存の金海勢力が所有していた鉄生産と流通網がそのまま福泉洞勢カヘ移ってきたことを示す」  
 ここには、それまでの金海勢力の鉄生産を担っていた勢力が「親新羅」勢力に取って代わられたことが指摘されています。
それでは「金海勢力」の採掘・鍛冶の鉱人・工人たちは、どこへいったのでしょうか。
その答えが「倭国へ移住」です。「金海勢力」の地は、秦の民の故郷でした。故郷を失った泰の民は、ヤマト政権の手引きで河内への入植を進めたと研究者は考えているようです。それは5世紀前半から6世紀前半までの百年間のことになります。

新羅・伽耶社会の起源と成長 | 「雄山閣」学術専門書籍出版社

李盛周の『新羅・伽耶社会の起源と成長」が2005年に和訳されて雄山閣から出版されています。この本には下図の「嶺南地方の主要な鉄鉱産地と交通路」が載っています。
伽耶の鉄鉱山

これを見ると、鉄鉱産地は金海(官)地域に集中していることが分かります。また各地からの交通路も金海へ通じています。河内の秦の民の多くは、この地からやってきた来たと研究者は考えているようです。
秦の民たちを受けいれたヤマト政権側を見ておきましょう
4世紀古墳時代前期の鉄生産技術は、弥生時代と比べてもあまり進化していないと研究者は考えているようです。ところが5世紀になると大きな変化が見られるようになります。

鉄鍛冶工程の復元図(潮見浩1988『図解技術の考古学』より

村上恭通氏は「倭人と鉄の考古学」で、5世紀以後の製鉄・鍛冶技術の発展段階と技術移転を次のように整理しています。

倭人と鉄の考古学 (シリーズ日本史のなかの考古学) | 村上 恭通 |本 | 通販 | Amazon
  第4段階(4世紀後半~5世紀前半)。
鋳造鍬が流入するとともに、輸入素材(鉄挺)による鍛冶生産が発達。鉄製武具の製作がはじまる。5世紀前半に鉄製鍛冶具が伝播し、生産される(5世紀初めに窯業生産(須恵器)が開始するが、炉の構造・木炭窯など製鉄に不可欠な諸技術の基礎となった。
  第5段階(5世紀後半~6世紀前半)
5世紀後半に製鉄(製錬・精錬)技術が伽耶・百済・慕韓から移転する。大阪府大県、奈良県布留・脇剛。南郷移籍などの大規模な鍛冶集落(精錬・鍛冶。金工)が出現する。専業鍛冶として分業化した。この時期、列島内での製鉄が開始する。
  第6段階(6世紀中葉~7世紀)
岡山県千引カナクロ谷製鉄遺跡など列島各地で、製鉄(鉱石製錬)が本格化し、鍛冶金工技術も発展した。飛鳥時代になると砂鉄製錬が技術移転され、犂耕の普及にともない鋳鉄生産がはじまる。
古代製鉄技術の発展


 4世紀後半から5世紀前半に、鉄挺が輸入され、5世紀前半に鉄製の鍛冶具が伝幡したとします。
朝鮮半島から「秦集団」が渡来するのはこの時期です。この時期がターニングポイントになるようで、次のように指摘します。
「鉄器生産や鉄と社会との関わりが大きく揺らぎはじめる画期はⅣ以後である。畿内では新式の甲冑、攻撃用・防御用武器の変革をはじめとして、初期の馬具、金鋼製品など、手工業生産部門で生産体制の拡充と、新たな組織化があった。問題は素材の供給である。
 この時期の畿内における鍛冶の大集団が、生産規模のみの大きさを示すのではなく、生産工程そのものが分化し、精錬はもちろん、製鉄も想定しうる段階にきている。これらが渡来系技術者によって促進されたことはいうまでもない。この時期の朝鮮半島でも鍛冶技術者の階層化が極点に達し、また半島南部地域(伽椰)を例に挙げても、鍛冶上人集団に著しい分派が起こるという。
  この時期、ヤマト朝廷は国力を誇示すべく、武器・武具の充実を図った点は先学の示すとおりであるが、朝鮮半島における工人集団の動向を十分に認識したうえで、目的的に渡来技術者を大規模に受けいれたのがこの時期なのである。
ここからも新羅の伽耶占領以後に、伽耶の金海地域の人々が「河内王朝」の手引きで倭国にやってきて、指定地に入植したことがうかがえます。
古代の鉄生産と渡来人―倭政権の形成と生産組織 | 花田 勝広 |本 | 通販 | Amazon
  以上をまとめたおくと
①伽耶の金海地方で鉱山開発から鉄生成までをおこなっていたのが秦集団であった
②ヤマト政権は、鉄確保のための「現地貿易商社」を組織し、倭からも多くの人員を送り込んでいた。
③ヤマト政権は秦集団を通じて鉄を入手しており、両者の利害関係は一致することが多かった
④新羅の南下で金海地方が占領下に置かれると、多くの秦集団はヤマト政権の手引きで倭国に移る
⑤ヤマト王権は、彼らを管理下に置き、各地に入植させる
⑥河内に入植した秦集団は、先端製鉄技術で農業工具を作り出し、巨大古墳や運河、湿地開発などを行う。
⑦かつて河内湖だった大阪平野の湿地部は、秦集団によって始めて干拓の手が入れられた。
⑧彼らは、平城京への大和川沿いや平安京への淀川沿いに拠点を構え、そこには宗教施設として、寺院や神社が建立された。
⑨秦集団の信仰した八幡・稲荷・白山信仰や虚空蔵・妙見・竃神信仰の宗教施設が周辺に姿を見せるようになった。

秦氏の渡来と活動

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄  正史はなぜ河内の秦氏を無視するのか  続秦氏の研究23P

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前回は空海と丹生(水銀)との関係を見てきました。その中で松田壽男は次のように述べていました。
「水銀が真言宗で重視され、その知識がこの一派に伝わっていたことは、後の真言修験に関係する重大な問題である。このことを前提としない限り、例えば即身仏の問題さえ、とうてい解決できないであろう」

 今回はこの課題を受けて、空海と錬丹術について見ていこうと思います。テキストは「大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係 続秦氏の研究」です。

ミイラ信仰の研究 古代化学からの投影(内藤正敏) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

 内藤正敏は「ミイラ信仰の研究 古代化学からの投影―』の中で、空海を錬丹術者と位置づけています。
すぐには信じられないので、眉に唾を付けながら読んでいきます。
内藤氏は応用化学を学んだ専門家なので、煉丹術の化学反応を方程式を駆使してくわしく述べます。そして『抱朴子』巻四金丹編の
「世人は神丹を信じないで草木の業を信じている。草木の薬は埋めればすぐ腐り、煮れば爛(ただ)れ、焼けばすぐ焦げる。自らを生かし得ぬ薬が、どうして人を生かし得よう」

という文章を示して「漢方薬が多くつかう草根木皮でできている薬は効きめがなく、鉱物性の薬品を上等のものと考えている」と指摘します。当時の民間医術で用いるのは「草根木皮でできている薬」ですが、それに対して「鉱物性の薬品」は特殊技術なしには作れない業です。その技術を古代人は「巫術」とみていました。これを『日本書紀』は「巫術」と書いています。
 続いて、内藤正敏は、空海の「巫術」について次のように記します。
「丹薬はこれを焼けば焼くほど、変化はいよいよ妙である。黄金は火に入れて百煉しても消えず、是を地中に埋めても永遠に朽ちない。この二薬を服して身体を錬るから、人は不老不死にできるのだ」と「金丹編」には記される。仙薬の中でも丹つまり水銀化合物と金を中心に考えている。その理由は、金はさびることもなく、熱で熔かしてもまた金になり、永久に変化しない。一方、水銀は熱や化学反応によっていろいろと変化し、しかも、多くの金属とアマルガムをつくって、他の金属を熔かす作用がある。つまり、金を不変、水銀を変化の象徴として考え、これに各種の物質を高温で作用させて、人工的に金や、もっと霊力のある神仙の薬をつくろうとしたのである。

 このような視点で空海の書いた『三教指帰』や『性霊集』を読んでみると、空海は確実に中国式の煉丹術を知っていたことがわかった。あの水銀を中心に数々の毒物を飲む中国道教の神仙術を知っていたのである。そればかりか、空海自身も水銀系の丹薬を飲んでいたらしい。今まで「三教指帰」や「性霊集」について論じた学者は多い。しかし、そうしたことに気づかなかったのは、これらの書物を単に、宗教・哲学・思想という面からしか見なかったからであろう」
弘法大師空海『聾瞽指帰』特別展示のお知らせ... - 高野山 金剛峯寺 Koyasan Kongobuji | Facebook
「三教指帰」(題名は「聾瞽指帰」と書かれている)
 
内藤は、「三教指帰」や「性霊集」を「化学書」として読むと、空海の「化学者・薬学者」の面が見えてくると云うのです。その例として挙げるのが「三教指帰」です。この書は、空海が渡唐前の24歳の時に大学をドロップアウトして、立身出世の道を捨て仏道を歩むことを決意するまでの心の遍歴が戯曲ふうに書かれています。しかし、これを化学書として読むと、丹薬の重要性が次のように記されている所があります。

白金・黄金は乾坤(けんしん)の至精、神丹・錬丹は薬中の霊物なり。服餌(ぶくじ)するに方有り、合造(かつさう)するに術有り。一家成ること得つれば門合(もんこぞ)つて空を凌ぐ。一朱僅かに服すれば、白日に漢に昇る。

「白金・黄金は水銀と金です。乾坤は天地陰陽のこと、神丹・煉丹は『抱朴子」に『黄帝九鼎神丹経』の丹薬として紹介されています。神丹は一匙ずつ飲めば百日で仙人になれ、煉丹は十日間で仙人になれ、禾(水銀)をまぜて火にかけると黄金になるという丹薬です。
 一家で誰かがその薬をつくることに成功すれば家族全部が仙人になれる。仙人になる描写を白日に漢(天のこと)に昇ると締めくくっています。
 ここからは空海が『抱朴子』などの道教教典から、神仙術、煉丹術の知識を、中国に渡る以前に、はっきり理解していたことを示していると研究者は指摘します。さらに詳細な記述や熱の入れ方は、空海自身が思想的には仏教を肯定して、道教を否定しようとしながら、体質的には道教の神仙術、煉丹術に異常な興味を示していたことがうかがえると記します。
薬用原料採集補完記録02「錬金術と錬丹術」- 海福雑貨通販部

それでは、これを空海が表に出さなかったのはどうしてでしょうか。
これについては、次のように説明します
「煉丹術の全盛期の唐の長安で、すでに入唐前に強い興味を示していた煉丹術に対して、知識欲旺盛な空海が関心を示さなかったはずはない。ただ、日本では真言密教を開宗するためには、おもてむきに発表するわけにはいかなかったただけだと思うのだ」

空海の死に至る病気について、内藤氏はどのように見ているのでしょうか?『性霊集』の補闘抄には、次のようにあります。
巻第九「大僧都空海、疾(やまい)に罹って上表して職を辞する奏状」に、天長八年庚辰(かのえたつ)今、去る月の薫日(つもごりの日)に悪瘡躰(あくそうてい)に起って吉相現せず。両檻夢に在り、三泉忽ちに至る。」

ここには、五月の末に「悪麿」が体にできて直る見込みがなく、死期が近づいていることを述べ、淳和天皇に大僧都の職を辞任して白山の身になりたいと願い出たことが記されています。この悪瘡は『大師御行状集記』では「癖瘡(ようそう)」、『弘法大師年譜』には「?恙」と記されます。悪性のデキモノです。空海は晩年には悪性の皮膚病で苦しんでいたようです。

 大僧都辞任の奉状を提出した翌年の天長9年の11月12日から空海は、穀断を始めたことが「御遺告」には記されます。空海は砒素とか水銀などの有毒薬物を悪瘡治療のために服用していたのではないかと研究者は考えているようです。さらに悪瘡ができた原因も、水銀とか砒素などの中毒ではなかったかと云うのです。そして、次のように続けます。
「私は空海の悪瘡の話を読むたびに、砒素や水銀の入った丹薬を飲みすぎて、高熱を出し背中にデキモノができて中毒死した唐の皇帝・宣宗の話を思い出す。そして、空海が死ぬ前年に書いた「陀羅尼の秘法といふは方に依って薬を合せ、服食して病を除くが如し……」という『性霊集』の一節も、実は空海自身の姿を表わしているように思えてしかたがない。」

以上のように、内藤正敏は、空海と丹生(水銀)が強く結びついていたことを指摘します。
錬金術 仙術と科学の間 中公文庫(吉田光邦) / こもれび書房 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

吉田光邦は「錬金術~仙術と科学の間」で丹生(水銀)の変化について次のように述べています
変化の原因はすべて熱によるものばかりだ。火つまり熱によって、硫化水銀の赤色が、白く輝く水銀となり、ときには酸化して黒くなることも大切な変化と考えられていた。赤は火の色に通じる。そこで火による物質の変化の重要さが、神秘的なものとして認識されることになる。水銀を中心とした色の変化を火の生成や消滅と対応させてゆけば、いっそう複雑な変化の様式を考えることができる。『参同契』のなかに記される錬丹術は、こうしたものである」

煉丹術錬金術違い 錬金術 – Brzhk

鉱物による薬物を記す『神農本草経』(中国の医薬の祖といわれる五世紀中頃の陶引景の著)には、上薬とされる鉱物の薬27種が挙げられています。これらは錬丹術で使われるなじみの薬ばかりです。その中で、不死になるもは水銀だけです。他のものでは効果が見られないと、当時の錬丹術師たちは考えていたようです。その水銀の供給者が秦氏・秦の民だったとしておきましょう。

抱朴子 内篇・外篇 1-2巻 (全3冊揃い)(葛洪 著 ; 本田済 訳註) / ぶっくいん高知 古書部 /  古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

東晋の道教思想家葛洪(かっこう)は「抱朴子」の中では次のように述べています。

三斤の辰砂〔真丹〕と一片の蜜〔白蜜〕を混合して、全部を大麻の実〔麻子〕の大きさの九薬〔丸〕を得るために日光で乾燥すれば、 一年のうちに取れた十粒の九薬は白髪に黒さを回復させ、腐った歯をふたたび生ぜじめるであろう、そして一年以上も続ければ人は不死になるのだ。

「辰砂」は「火に投ずると水銀を造り出す」「死による再生の秘儀」を暗示しているとされています。「白」には、死と再生の意味があったようです。そして「赤」には「不老不死」の常世イメージがあったようです。
丹道篇 外丹 外丹原稱煉丹術,為避免其與內丹相混淆,改稱外丹。 這是以爐鼎燒煉礦物類藥物,製取“長生不死” 仙丹的一種方術。  丹砂(即硫化汞)和汞(水銀)是煉丹的重要原料。 我國的外丹術最遲在秦代已經出現。 道教創立後,道士從方士手裏繼承了煉丹 ...
天工開物に描かれた錬金術と煉丹術

 さらに葛洪は錬金術の理念を、次のように記します
いったい丹砂の性質は、焼けば焼くほど恒久的になり、変化すればするほど霊妙になる。黄金は火の中に入れ、くりかえし精錬しても減少せず、地中に埋めても永久に腐らない。このふたつの物を服用し、人の身体を錬成する。だから人を不老不死にする。

錬金術は錬丹術でもあります。金と丹(丹生)を活用する術だからです。しかし金だけでなく銀・鉛も使います。9世紀の道士孟要甫が残した『金丹秘要参同録』は「修丹の十」には、「坩堝(るつぼ)と炉の制作の規則を知り、そのうえで龍(水銀)と虎(鉛)の法則の学を理解し、鉛と禾(水銀)のもつ究極的な真実の不思議さを認識しなければならない」と記されています。
 ここからは彼らが一定の科学知識と実験精神をもっていたことがうかがえます。そして、丹生(水銀)は錬金術にとって欠かす事の出来ない必需品であったことが分かります。

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空海は、このような当時の最先端技術である錬金術や錬丹術の知識を習得するだけでなく、実践していたと研究者は考えているようです。そして、丹生に深くかかわっていたのは秦氏集団です。アマルガム鍍金法を用いて水銀を大量に生産した技術を持っていたのは、秦氏・秦の民です。空海の虚空蔵求聞持法の師は、伊勢水銀にかかわる泰氏出身の勤操でした。
須恵器「はそう」考

丹生(水銀)は薬として用いられましたが、空海は単なる薬として用いたのではないことは、彼が虚空蔵求聞持法を習得した僧であったことからうかがえます。空海も当時の錬金術という最先端技術の虜になっていたのかもしれません。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究

空海の出身地の讃岐の西隣は伊予です。ここにも、秦氏が多く住んでいたと大和岩雄氏は「続秦氏の研究」に記します。伊予の秦氏の存在を、どのように「実証」していくのか見ていくことにします。

技能集団としての秦氏

最初に、大岩氏が注目するのは大洲市の出石山です。

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この山は地図で見ると分かるように、九州に向けて突きだしたの付け根の位置に当たる所にあります。頂上からは瀬戸内海を行き交う船が見える眺望を持ちます。古代以来、九州と豊後灘を経ての海上交通の要衝の地であったことがうかがえる山です。豊後を基盤とした秦氏も、この山を目指して豊後水道を渡ってきたのかも知れません。この山の頂上には出石寺があります。

愛媛 南予にきさいや! 長浜の出石寺に行ってきました。

 大和氏は「日本歴史地名大系39」『愛媛県の地名』の出石寺(しゅっせきじ)に関する記述を次のように引用します。

「喜多郡と八幡浜市との境、標高812mの出石山頂上にある。金山と号し、(中略)・・大同2年(807)に空海が護摩を修し、当時の山号雲峰山を金山に改めたと伝えられている。「続日本後紀」によれは、空海か四国で修行したのは阿波国の大滝之岳と土佐国の室戸岬であるが、空海自らが記した「三教指帰』には『或登金巌而或跨石峰』とあって、金巌(かねのだけ)に加爾乃太気、石峰に伊志都知能人気と訓じてあるので、金巌は金山出石寺をさすものと解され、空海は金山出石寺と石鎚山に登ったとされている」

 ここには、現在の出石山が石鎚と同様に空海修行の地であったと記されます。空海は、大滝山と足摺で修行したことは確実視されますが、その他はよく分かりません。後世の空海伝説の中で、修行地がどんどん増えて、今ではほとんどの札所が空海建立になっています。その中で、出石山も空海修行地だと考える人たちはいるようです。

金山 出石寺 四国別格二十霊場 四国八十八箇所 お遍路ポータル

 佐藤任氏はその一人で、次のように述べます。

「金巌(かねのだけ)は、この出石山(金山出石寺)か、吉野の金峯山のどちらかと考えられている。近年では、大和の金峯山とみる説が多いというが、同じ文脈に伊予の石鎚山とみなされている石峯が出ているから、伊予の出石山とみることも決して不可能ではない。しかも、どちらも金・銀・銅を産する山である」

 もちろん『三教指帰』の「金巌」は大和国の金峯山とするのが定説です。しかし、伊予の石鎚山に空海が登ったという伝承が作られたのは、伊予が丹生(水銀)産地で、秦の民の居住地だったからというのです。佐藤任氏は、伊予の「金巌」といわれている出石山付近には水銀鉱跡があると指摘します。

山村秘史 : キリシタン大名一条兼定他(堀井順次 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

堀井順次氏は、伊予の秦氏のことを「山村秘史」に次のように記します。
「伊予の秦氏についての詳しい記述があり、伊予の畑・畠のつく地と想定される。(中略)
  まず東予からたずねると、旧宇摩郡(現川之江市)の県境に「新畑」がある。そこは鉱物資源帯で、秦氏ゆかりの菊理媛祭祀神社が周辺地区に残っているが、秦氏伝承はない。同郡内の土居町には 畑野」があり、秦氏開発の伝承があった。越智郡には今治市に「登畑」があり、近くの朝倉村の多伎神社には秦氏伝承があると言う。玉川町の「畑寺」の地名と、光林寺(畑寺)の由緒にも秦氏の名が残っている。
中予地方では旧温泉郡に畑寺・畠田。新畑等に秦氏を想い、立花郷には「秦勝庭」の名が史書記され、この地方も秦氏ゆかりの地と考えられる。伊予市大平地区に「梶畑」(鍛冶畑)があり、「秦是延」の氏名を刻んだ経筒がそこから出土しているから、やはり秦氏ゆかりの地だろう。

南伊には大洲市に「畑・八多浪(畑並)八多喜(秦城)」等があり、南宇和郡には畑地があって高知県の幡多郡に続いている。
秦氏一族が伊予各地に分散していたことは、 一族が関係する産業の分散を示すものである 古代産業の分布状況は古代創祀神社の跡で推定できるだろう。愛媛県を東西に走る山岳地帯は、すべて鉱業地帯である。南予では石鎚山系のいたるところに銅採出跡がある。
(中略)
他に荷駄馬産業を見落してはならない。駄馬は山塊地帯の鉱業には欠かせない資材・鉱石等の搬送機関だった。律令制以後も近代に至るまで物資運送機関として秦氏の独占下にあった。荷駄馬の飼育地を駄場と言う。駄場地名は全国的に見て四国西南部に集中し、四国では南予地方に集中している。そこには必ず秦氏ゆかりの白山比売祭祀神社があった。
 
 以上のような推論を重ねた上で、伊予の秦氏は、南予地方の工業開発にかかわったとします。
そして次に示されるのが「南予地方秦氏関係神社表」です。
1南予地方秦氏関係神社表

この表から堀井氏は、次のように論を進めます。
「南予地方の古代朱の跡を、考古学領域で考えて、弥生時代まで遡上できるだろう。幡多郡五十崎町の弥生遺跡で採収した上器破片には、鮮やかな朱の跡が残っていた。史書で伊予に関る朱砂の歴史を考えると大化年間に阿倍小殿小鎌が朱砂を求めて伊予に下向して以後、天平神護二年の秦氏賜姓の恩典までの百余年間は、朱砂の線で繋がれていると見てまちがいなかろう。
 これを民俗学の領域で見ると、八幡浜市の丹生神社に始まり、城川町から日吉村まで続いている。その分布状況を迪ると、南予地方全域を山北から東南に貫く鉱床線の長さにはおどろかされる。その中で最近まで稼働していたのは日吉村の双葉鉱山だけだが、その朱砂の線上に多くの歴史が埋もれているにちがいない」
ここでは「南予地方全域を山北から東南に貫く鉱床線の長さ」の存在と秦氏の信仰する神社との重なりが説かれます。これは中世の山岳寺院とも重なり合うことが下の図からはうかがえます。
2密教山相ライン

 佐田岬半島の付け根に位置する出石山の頂上には「金山出石寺」があります。この寺の縁起は次のような内容です。
開創は元正天皇の養老二年(718)6月17日で、数日間山が震動して「光明赫灼とした」。そのため鹿を追っていた猟師作右衛門が鹿を見失ったが、「金色燦然たる光」を放って、千手観音と地蔵尊の像が地中から湧出した。作右衛門はこの奇瑞に感じて殺生業を悔い、仏門に入って「道教」と改名し、仏像の傍に庵をつくり、「雲峰山出石寺」と号した。
 その後、大同二年(807)に空海がこの山に登り、護摩ケ石に熊野確現を勧進して護摩供を修し、この山を「菩薩応現の勝地、三国無双の金山なり」と讃嘆した。
 空海がやって来たかどうかは別にして、この地域からは金・銀・銅・硫化鉄が採掘されていたようで、出石山(金山)には水銀鉱の跡があると云います。
また『続日本紀』文武天阜二年(698)9月条に、伊予国から朱砂を献上させたとあります。
これには秦氏・秦の民がかかわっていたようです。この地に弘法大師信仰が盛んなのは、高野山に丹生神社があり、弘法大師信仰には丹生がかかわるからだと研究者は指摘します。 丹生は泰氏集団と空海に深くかかわり、両者を結びつける役割を果たしていたのかも知れません。ちなみに丹生(にゅう)とは「丹(に)」と呼ばれていた水銀が含まれた鉱石鉱物が採取される土地を指す言葉です。

丹生の研究 : 歴史地理学から見た日本の水銀(松田寿男 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 
松田壽男氏は『丹生の研究』で、次のように記します。
「要するに天平以前の日本人が“丹”字で表示したものは鉛系統の赤ではなくて、古代シナ人の用法どおり必ず水銀系の赤であったとしなければならない。この水銀系のアカ、つまり紅色の土壌を遠い先祖は“に”と呼んだ。そして後代にシナから漢字を学び取ったとき、このコトバに対して丹字を当てたのである。…中略…ベンガラ“そほ”には“赭”の字を当てた。丹生=朱ではないが、丹=朱砂とは言えよう
それでは、丹生と空海にはどんなつながりがあったのでしょうか。
それは、また次回に・・・
渡来集団秦氏の特徴

参考文献
大和岩雄 秦氏・秦の民と空海との深い関係(二) 続秦氏の研究


空海に虚空蔵求聞持法を伝えたのはだれか?

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空海の若い時代については分からないことが多いのですが、「大学」をドロップアウトして沙門として山岳修行に入っていくのも一つの謎です。真魚(空海)は、「大学」で学ぶために長岡京に出て、そこで「一沙門=僧侶」に出会い虚空蔵求聞持法を学んだと云われます。空海が虚空蔵求聞持法を学んだ師である「一沙門」とは誰なのでしょうか?

これについては2つの考え方があるようです。

『続日本後紀』や『三教指帰』などには「一沙門」としか書かれていないので具体的な人名は分からないというのが「定説」のようです。

虚空蔵求聞持法
これに対して具体的な空海の師の名前を挙げる研究者もいます。

例えば平野邦雄氏は、次のように云います
「勤操を師としたという『御遺告』の説は『続日本後紀』や『三教指帰』などには、一沙門としかないので、信用できないという人もいるが、道慈-勤操-空海という師承関係はみとめてよいのではないかと思う」
空海の師とされる「道慈-勤操」とは、何者なのでしょうか?
大岩岩雄は大著「秦氏の研究」で、渡来系秦氏の果たした役割を体系的に明らかにして行く中で、空海と秦氏の関係にも光を当ていきます。空海が誰から虚空蔵求聞持法を学んだのかを見ていくことにしましょう。 

まず虚空蔵求聞持法が、いつだれによって伝来したかです。

それが道慈だとされます。彼は大宝二年(七〇二)に入唐し、養老二年(七一八)に帰国しています。入唐中にインドの僧善無量三蔵から虚空蔵求聞持法を伝授されます。道慈は渡来系秦氏と関係の深い額田氏出身です。大和郡山市額田部寺町にある額田寺は、額田氏の氏寺で境内から飛鳥時代の古瓦が出土しています。この寺には道慈が自ら彫刻して本尊にしたとされる奈良時代の乾漆虚空蔵菩薩半珈像(重要文化財)あります。
日本最古の虚空蔵菩薩像のお寺『額安寺』@大和郡山市 (by 奈良に住ん ...
 
この寺に伝わる鎌倉時代の「大塔供養願文」にも、道慈が帰国後に虚空蔵菩薩を本尊にして、額田寺を額安寺に改めたとあります。寺宝の道慈律師画像には「額安寺住職一世」と書かれています。虚空蔵菩薩像を本尊にすることによって、額田寺は額田氏の氏寺から脱皮し、寺号も額安寺となります。 

 道慈については

『続日本紀』の天平十六年十月二日条に、彼が「大安寺を平城に遷し造る」と書き、『懐風藻』の道慈伝も「京師に出で大安寺を造る」とあるように、大安寺を平城京に移築した僧でもあり、山岳密教的傾向が強かった僧侶です。
 南都七大寺 大安寺 | そうだった、京都に行こう(京都写真集)

 山城の秦氏の山岳信仰の山に愛宕権現を祀って、秦氏の愛宕山信仰を発展させたのも大安寺の僧です。
虚空蔵菩薩信仰の成立については、次のような説もあります。


また、貞観二年(八六〇)に宇佐八幡神の分霊を、山城の石清水に遷座したのも、大安寺の山岳密教系の僧です。このように、道慈の虚空蔵求聞持法と道慈が平城京に建てた大安寺は、秦氏と深くかかわっていたようです。道慈は、天平十六年(七四四)に亡くなっています。

勤操は、天平勝宝六年(七五四)に生まれていますから、

この二人の間に直接の師弟関係はありません。二人の間を結ぶのは、道慈・勤操と同じ大安寺の僧、善議(七二九~八二一)です。善議は道慈と一緒に入唐しています。この善議から勤操は、虚空蔵求聞持法を学んでいるようです。
 先ほど紹介した奈良時代に作られた額安寺の虚空蔵像の『造像銘記』には
「この虚空蔵菩薩像は、道慈が本尊としていたもので、入唐求法のとき、善無畏三蔵から虚空蔵求聞持法が伝えられ、帰国後に求聞持法を善議に授け、それは、護命ー勤操ー弘法大師によって流通された」
と記してあり、善議と勤操の間に護命が入っていることを記しています。
 護命は天平勝宝二年(七五〇)生まれで、勤操より四歳年上で虚空蔵求聞持法を、吉野の比蘇寺で学んでいます。
 『今昔物語』巻十一の九の弘法大師の話には、
十八歳のとき大安寺の勤操僧正に会って、虚空蔵求聞持法を学び、延暦十二年に勤操僧正によって和泉国横尾山寺で受戒し、出家した
と書かれています。
南都大安寺 - 勤操忌 勤操忌厳修しました。 勤操大徳は大安寺初代別当 ...

これに対しては、先ほど述べたように『三教指帰』に「一沙門」とあるので、勤操から空海が虚空蔵求聞持法を学んだという文献を認めない人が多いようです。私が今までに読んだ文献も、この立場にたつ書物が多かったように思います。この立場の人たちは、空海の受戒が槇尾山寺で勤操によつておこなわれたという文献も認めません。空海の受戒や師については「ダーク」なままにしておこうとする雰囲気があるように私には思えます。
 仁王門 - 和泉市、槇尾山施福寺の写真 - トリップアドバイザー

空海は唐から帰国後一年か二年余、九州にいて高尾山寺に入るまで槇尾山寺にいました。

唐に渡る以前に空海がこの寺で受戒を受けたという伝承を頭に入れると、この事情はすんなりと理解できます。この辺りの「状況証拠」を積み上げて「勤操は空海の師」説を大和岩雄氏は補強していきます。そして次のように続けます。
「勤操が空海帰国直後から叡山を離れ、最澄の叡山に戻るように云われても、戻らなかったのは九州の空海に会うためとみられる。延暦年間、勤操は槇尾寺で法華経を講じていたというから九州から上京した空海を棋尾山寺に入れたのも、勤操であろう。」
「空海が帰国し、槇尾山寺から高(鷹)尾山寺に移たのも、秦氏出身の勤操をぬきには考えられない」
 空海が帰国後、槙尾山寺-高尾山寺にいるのは、秦氏出身の勤操の存在が大きいと指摘します。 

空海から虚空蔵求聞持法を伝授されたのが讃岐の秦氏出身の道昌です。
法輪寺道昌遺業 大堰阯」の石碑(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 ...

彼は、天長五年(八二八)に神護寺(高尾山寺)で、空海によって両部濯頂を受け、その8年後には、太秦の広隆寺の別当となり、後には「広隆寺中興の祖」と呼ばれるようになります。広隆寺は山城秦氏の氏寺で、新羅から送られたといわれる国宝第一号の弥勒菩薩で有名です。また、道昌は秦氏が祀る松尾大社のある松尾山北麓の法輪寺の開
山祖師
でもあります。

道昌が葛井寺を修営し規模を拡張し、寺号を法輪寺に改めました。『源平盛衰記』著四十の伝承では、この寺は天平年中(七二九~七四九)に建立後、約百年後に道昌が、師空海の教示によりここで、百か日の虚空蔵法を行い、五月に生身の虚空蔵菩薩を体感し、一本木で虚空蔵菩薩を安置し、法号を法輪寺として、神護寺で空海自らこの像を供養したといいます。そして、一重宝塔を建て虚空蔵菩隣像を安置し、春秋2期、法会を設けて、虚空蔵十輪経を転読したとあります。
 道昌は参寵の前年に、空海から両部濯頂を受けていますが、この時に虚空蔵求聞持法を伝授され、百ヶ日の修行に入ったようです。大和の斑鳩の法輪寺には、かつて金堂に安置されていた飛鳥時代の虚空蔵菩薩立像(国宝)があります。この寺は聖徳太子の追善のため建てられた寺で「虚空蔵菩薩像のある寺=法輪寺」から、葛井寺も法輪寺に改めたようです。

以上のように虚空蔵求聞持法の継承ラインは、道慈→善儀→勤操→空海→道昌と続きます。その特徴としては

①すべて大安寺の僧であること、
②そのトップである大安寺の道慈が密教的傾向が強く、その系譜が受け継がれていること
③同時に渡来系秦氏がおおきな役割を果たしていること
最後に虚空蔵菩薩信仰の成立については、渡来集団の秦氏の星座信仰(妙見信仰)が基礎になって成立したという次のような説もあります。
秦氏の妙見信仰・虚空蔵

この方が私にはすんなりと受け止められます。

 どちらにしても若き空海がエリートコースである「大学」をドロップアウトしたのは、虚空蔵求聞持法との出会いでした。それを介した人物がいたはずです。それが誰だったのか。また、その人達の属する集団はどうであったのかを知る上で、この本は私にとっては非常に参考になりました。
虚空蔵求聞持法 - 破戒僧クライマーの山歩録
参考文献 大和岩雄「秦氏の研究」大和書房

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