瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金毘羅信仰と琴平 > 金毘羅大権現と天狗信仰

象頭山と愛宕山2

金毘羅大権現(金毘羅神)が登場するのは近世になってからです。天狗信仰の修験者たちによって新しく生み出された流行神(はやりかみ)が金毘羅神です。それがクンピーラの住む山と結びつけられ「象頭山(琴平山)」と呼ばれるようになります。金毘羅大権現が現れる近世以前に、この山を象頭山と呼んだ記録はありません。それ以前は、この山は大麻山と呼ばれ、忌部氏の勢力下にありました。その氏寺が式内社となっている大麻神社です。この神社が鎮座する山なので大麻山です。しかし。近世以後に金毘羅大権現の勢力が大きくなると南側が象頭山と呼称されるようになります。それは、金刀比羅宮のある山の南側が象の頭とされているのもそれを裏付けます。
 金刀比羅宮の鎮座する象頭山から南に伸びる尾根をたどると愛宕山があります。今は忘れられた山となっていますが、神仏分離の金毘羅大権現時代には、この山も金比羅信仰を構成する重要な役割を担っていたようです。今回は、この愛宕山について見ていくことにします。テキストは「羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  羽床正明 ことひら53 H10年」です。
まず、絵図で愛宕山を確認しておきます。
愛宕権現 箸洗池 大祭行列屏風
金毘羅大祭行列図屏風(18世紀初頭) 
この図屏風は下図のように「六曲一双」で、10月10日の大祭の様子を描いたものであることは以前にお話ししました。愛宕山が描かれているのは左隻第六扇になります。一番最後で、象頭山の左端に「おまけ」のように描かれています。
554 金毘羅祭礼図・・・讃岐最古のうどん店 | 木下製粉株式会社

霊山として険しい岩稜の山のように描かれていますが、デフォルメされた姿です。拡大して見ておきましょう。
愛宕山と
愛宕権現と箸洗(はしあらい)池
金毘羅全図 一の橋2
金毘羅全図(1840年代後半)

象頭山と愛宕山の鞍部を伊予土佐街道が抜けています。この峠が牛屋口になります。この絵図には、山頂付近に社が見えます。次に金毘羅参詣名所図会の愛宕山を見ておきましょう。

2-17 愛宕山

2-13 金毘羅愛宕山
金毘羅参詣名所図会に描かれた愛宕山(幕末)

天神社
愛宕町の正面にあり。中央に天満大自在天神、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町より向ふに見ゆる山也。山上に愛宕山大権現の社あり、金毘羅山の守護神すみ給ふ山にて魔所なりといふ。
箸洗池
愛宕の山中に巨巌ありて是に一つの小池あるをいふ。此の水いかなる早魃にも乾くことなし。是十月御神事に供ずる箸をことごとく御山に捨るを、守護神拾ひあつめ此の池にて洗ひ、阿州箸蔵寺の山谷にはこび給ふといひつたふ。ゆへに箸あらひの池と号す。
十二景の内
箸洗清漣(はしあらいのせいれん)             林春常
一飽有余清  波漣源口亨  漱流頻下箸  喚起子十刑情
意訳変換しておくと
天神社(天満宮:菅原道真)
愛宕町の正面に見える神社である。中央に天満大自在天神(菅原道真)を奉り、相殿に愛宕権現、荒神等を祭る。
愛宕(あたご)山
愛宕町から見える山である。山上に愛宕山大権現の社がある。この山は、①金毘羅山の守護神が住む山で、魔所とされている。
箸洗池
愛宕山の山中に巨巌があり、そこにある小さな池のことである。この水はどんな早魃でも干上がることはない。10月10日の大祭の御神事の後の食事で使用した箸は、すべて御山に捨てる。それを守護神(天狗)が拾い集めて、この池で洗い、阿波の箸蔵寺に運び去ると言い伝えられている。そのため箸洗池と呼ぶ号す。
ここで注目したいのは、次の2点です
①愛宕山が金毘羅神の守護神の住む山で「魔所」とされていること
②箸が洗われた後に、阿波修験道の拠点である箸蔵寺に持ち去られること
①の「金毘羅神の守護神」とされる愛宕権現とは何者なのでしょうか?
①修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)の神験に遭って朝日峰に神廟を設立したのが、霊山愛宕山の開基
②愛宕山は修験道七高山の一つとなり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕さんには月まいり」と言われるほど愛宕山は修験道場として栄えた。
③塞神信仰から、愛宕山は京の火難除けや盗難除けの神として信仰された。
④それに、阿当護神と本尊の勝軍地蔵が習合して火防せの神である愛宕権現として、愛宕修験者によって全国に広まった。
⑤愛宕修験でも天狗信仰が盛んだったため、愛宕太郎坊天狗も祀った。
こうして修験者の聖地で、天狗信仰のメッカでもあった金毘羅大権現も、愛宕信仰を受入たようですももうひとつ見ておきたいのは、愛宕信仰は妙見信仰も混淆していることです。

秦氏の妙見信仰・虚空蔵

愛宕山自体が山城の秦氏の霊山で、妙見信仰(北斗星)を基盤にしていることは押さえておきます。それらを混淆して、愛宕山大権現として象頭山にももたらされたとしておきます。

象頭山天狗 飯綱
象頭山の愛宕明神と飯綱明神 火除けの神として信仰されていたことが分かる

知切光歳著『天狗考』上巻は、愛宕天狗について、次のように記します。

天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)
整理しておくと
①愛宕天狗は両翼をもち白狐に乗り、ダキニ天を祀る。
②全国各地の金毘羅社の中には、烏天狗を祀るところが多い。
ここからは、各地の金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕天狗と結ばれていたことがうかがえます。そして、修行・参拝のために天狗になろうとする修験者たちが金比羅の愛宕山を目指したのでしょう。当然、それを迎え入れる愛宕系の子院があったはずです。それが私は多聞院であったと考えています。
京都愛宕山との交流を示す絵馬や記録も残っていることが、それを裏付けます。

『麒麟がくる』ゆかりの地・愛宕山4 勝軍地蔵と太郎坊天狗に祈りを捧げた明智光秀 - れきたびcafe
愛宕天狗
また、逆に愛宕権現と金毘羅大権現が習合して、各地に奉られていくという現象も起こります。
愛宕神社と金毘羅大権現の関係

愛宕神社と金毘羅大権現2 愛知県
        愛知県 井代星越 愛宕神社の奥社として鎮座する金毘羅大権現
上図の愛知県新庄市の愛宕神社では、奥社(守護神)として金毘羅大権現が奉られています。ここでは愛宕神社が本社で、金毘羅大権現が末社となっていて、主客が逆転していることを押さえておきます。このようなスタイルが各地で見られるようになります。

次に、金比羅の愛宕天狗以外の天狗たちを見ていくことにします。
江戸前期の『天狗経』には、全国で名前が知られた天狗がリストアップされています。これらが天狗信仰の拠点であったことになります。

7 崇徳上皇天狗

讃岐に関係するのは、赤い丸を付けた次の3つの天狗達です。
①黒眷属金毘羅坊(くろけんぞくこんぴらぼう) 
②白峯相模坊  天狗になった崇徳上皇に仕える白峰寺の天狗。
③象頭山金剛坊    
①③が金比羅の天狗ですが、このふたつには次のような役割分担があったと研究者は指摘します。
①黒眷属金毘羅坊 全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗。地方の金比羅社
に奉られる天狗で姿は烏天狗
③象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する山伏姿の天狗で、金毘羅大権現の別当金光院が担当
両者の関係は、③の金剛坊が主人で、①黒眷属金毘羅坊はその家来とされました。

それでは、③の象頭山金剛坊を象頭山に根付かせたのは誰なのでしょうか?
江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻79)には、次のように記します。
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、次のように記します。
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、薬師十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったとされています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。

天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月

意訳変換しておくと
天狗道沙門の金剛坊像は、当山中興の権大僧都法印宥盛の姿である。慶長11年10拾月如意月

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰を極め、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
金毘羅大権現の天狗信仰を視覚化した絵図を見ておきましょう。

金毘羅と天狗
金毘羅大権現 別当金光院発行の金毘羅大権現と天狗達
一番下に「別当金光院」と書かれています。金光院が配布していた掛軸のようです。
①一番上の不動明王のように見えるのが金毘羅大権現
②その下の両脇で団扇を持っているのが金剛院で大天狗姿
③その下が多くが黒眷属金毘羅坊で、団扇を持たず羽根のある烏天狗姿
ここからは金比羅の修験者たちは、自分たちは金毘羅大権現に仕える天狗達と認識していたことがうかがえます。近世はじめに流行神として登場した金毘羅神を生み出したのは、このような天狗信仰をもった修験者たちであったと研究者は考えています。
そして、この2つの天狗達に後から仲間入りをするのが最初に見た愛宕山太郎坊になります。
この天狗信仰と金比羅信仰のつながりを、模式化したのが次の表です。

金毘羅の天狗信仰

江戸時代前期 もともとは「①黒眷属金毘羅坊と③象頭山金剛坊」に「愛宕山太郎坊」が追加    
江戸時代後期 ④「象頭山趣海坊」+⑤「安井金毘羅宮」の浸透
④「象頭山趣海坊」とは崇徳上皇の家来です。京都では安井金毘羅宮を中心に、崇徳上皇=金毘羅大権現とする説が普及し、滝沢馬琴も『金毘羅大権現利生略記』の中で崇徳上皇=金毘羅大権現とする説を採用しています。
文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集の中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、終に天狗となったものだと語ったと記されています。
こうして見てくると、江戸時代の金光院などの社僧の僧侶は、根強い天狗信仰をもっていたことがうかがえます。そのような中で、愛宕信仰を持つ影響力の強い修験者がやってきて、金比羅に愛宕大権現を開山し、「金毘羅神」の守護者を名乗るようになったとしておきます。

最後に愛宕大名神の現在の姿を見ておくことにします。
琴平愛宕山ルート図

象頭山と愛宕山の鞍部の牛屋口から尾根づたいの整備された道を辿ります。この当たりは、昔は松茸がよく生えていた所で、戦前までは入札していたことが記録に残っています。

愛宕山;石柱:八景山遺蹟。

まず最初のピークに八景山遺構の石碑が立っています。昭和16年(1941)に建てられたものです。次のピークが愛宕山になります。

愛宕山山頂6
愛宕山山頂
山頂には
愛宕山遺蹟の石柱があります。頂上は、整地されていて広く、神社の拝殿などがあったことがうかがえます。

愛宕権現 琴平町
          愛宕山山頂の愛宕社の祠(琴平町)
そこには、いまは石の祠だけが鎮座しています。山頂にあった愛宕大権現の御神体は神仏分離後はふもとの天満宮に下ろされ、天満さま(菅原道真神社)と合祀されているようです。そちらに行って見ます。
愛宕神社・菅原神社の鳥居
金比羅芝居の金丸座の裏からの車道を300mほど行くと、菅原神社の登山口です。鳥居と石碑が迎えてくれまます。

菅原神社・愛宕神社

入口の石碑は菅原神社と愛宕神社がならんで刻まれています。もともとは、愛宕権現のテリトリーに天神信仰の高まりの中で天満宮が勧進されたのでしょう。それが愛宕権現と並んで奉られていたことは、最初に見た金毘羅参詣名所図会に書かれていました。長い階段を登っていくと本殿が見えて来ます。

菅原・愛宕神社
菅原神社・愛宕神社

中央が菅原社、右側が竈神社、左側が愛宕社です。今の主役は菅原道真です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 羽床正明 崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  羽床正明 ことひら53 H10年
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7 安井金毘羅神社1jpg
安井金毘羅宮

京都市東山区の建仁寺の近くにある安井金毘羅宮は、今は縁切り寺として女性の人気を集めているようです。
7 安井金毘羅神社13jpg

しかし、30年ほど前までは、縁結びと商売繁昌祈願の「藻刈舟(儲かり舟)」の絵馬に人気がありました。流行神(商品)を生み出し続けることが、寺社繁栄の秘訣であるのは、昔も今も変わりないようです。
 安井金毘羅宮はかつては「商売繁昌 + 禁酒 + 縁結び」の神とされていました。祇園という色街にある神社ですから「商売繁昌と禁酒と良縁」を売り物とすることは土地柄に合ったうまい営業スタイルです。それでは現在の「縁切り神社」は、どんな由来なのでしょうか。そこで登場するのが崇徳上皇です。崇徳上皇は、全ての縁を絶って京都帰還を願ったということから、悪縁を絶つ神社と結びつけられているようです。これは断酒の場合と同じです。酒を断つという願いから悪縁を絶へと少しスライドしただけかも知れません。。
 今回は、安井金毘羅と崇徳上皇と讃岐金毘羅大権現の関係を見ていきたいとおもいます。テキストは 「羽床正明  崇徳上皇御廟と安井金毘羅宮  ことひら53 H10年」です。
7 安井金毘羅神社jpg

 安井金毘羅宮の近くには「都をどり」の祇園歌舞練場があります。その片隅に崇徳上皇御廟があります。これは明治元年に坂出の白峰から移されたものとは別物です。それ以前からこの御廟はありました。
安井金毘羅宮と崇徳上皇のつながりを見ておきます。
 崇徳上皇は保元の乱という政争に巻き込まれ、讃岐に流され不遇の内に亡くなりますが、その怨念を晴らすために生きながら天狗になったされるようになります。この天狗信仰と安井金毘羅宮は関係があるようです。
 保元の乱に敗れ、崇徳上皇は讃岐に流されます。上皇は6年間の流人生活の後、長寛二年(1164)8月、46歳で崩御し、その亡骸は白峰寺のほとりで荼毘に付され、そこに陵が営まれて白峰御陵と呼ばれるようになります。これについては以前にお話ししましたので省略します。
『保元物語』には、次のように記されています。
 讃岐に流された崇徳上皇は「望郷の鬼」となって、髪も整えず、爪も切らず、柿色の衣と頭巾に身をつつみ、指から血を流して五部大乗経を書写した。その納経が朝廷から拒否されたことを知ると、経を机の上に積みおいて、舌の先を食い破ってその血で、「吾、この五部の大乗経を三悪道に投籠て、この大善根の力を以て、日本国を滅す大魔縁とならむ。天衆地類必ず合力給へ」という誓状を書いて、海底に投げ入れた
「此君怨念に依りて、生きながら天狗の姿にならせ給ひけるが」
ここには崇徳上皇が死後、天狗になったとする説が記されています。
7崇徳上皇天狗

これを受けて作られたのが謡曲「松山天狗」です。
謡曲「松山天狗」の舞台は,崇徳上皇が亡くなった讃岐の綾の松山(現坂出市),白峯です。崇徳上皇と親しかった西行法師が讃岐松山のご廟所を訪ねて来るところから物語は始まります。

7 崇徳上皇松山天狗
松山は草深い里でした。西行は,山風に誘われながらも御陵への道を踏み分けて行きますが,道はけわしく,生い繁げる荊は旅人の足を拒みます。そこへ一人の老翁(実は崇徳上皇の霊)が現れ「貴僧は何方より来られたか」と訊ねるのです。
西行は「拙僧は都の嵯峨の奥に庵をむすぶ西行と申す者,新院がこの讃岐に流され,程なく亡くなられたと承り,おん跡を弔い申さんと思い,これまで参上した次第。 何とぞ,松山のご廟所をお教え願いたい」と案内を乞います。
 やがて二人は「踏みも見えぬ山道の岩根を伝い,苔の下道」に足をとられながら,ようやくご陵前にたどりつきます。しかし、院崩御後わずか数年にもかかわらず,陵墓はひどく荒廃し、ご陵前には詣でる人もなければ,散華焼香の跡さえ見えません。西行は涙ながらに、院に捧げた次のような鎮魂歌を送ります。

よしや君むかしの玉の床とても叡慮をなぐさめる相模坊かからん後は何にかはせん

 老翁は「院ご存命中は都のことを思い出されてはお恨みのことが多く,伺候する者もなく,ただ白峯の相模坊に従う天狗どもがお仕えするほかは参内する者もいない」と言い,いつしか木影にその姿を消してゆきます。
 ややあって何処からともなく「いかに西行 これまで遙々下る心ざしこそ返す返すも嬉しけれ 又只今の詠歌の言葉 肝に銘じて面白さに いでいで姿を現わさん・・・・・」
との院の声。御廟しきりに鳴動して院が現れます。
院は西行との再会を喜び,「花の顔ばせたおやかに」衣の袂をひるがえし夜遊の舞楽を舞う。
こうして楽しく遊びのひと時を過ごされるが,ふと物憂い昔のことどもを思い出してか,次第に逆鱗の姿へと変わってゆきます。その姿は,あたりを払って恐ろしいまでの容相である。
  やがて吹きつのる山風に誘われるように雷鳴がとどろき,あちこちの雲間・峰間から天狗が羽を並べて翔け降りてきます。
7 崇徳上皇相模坊大権現
模坊大権現(坂出市大屋冨町)の相模坊(さがんぼう)天狗像

「そもそもこの白峯に住んで年を経る相模坊とはわが事なり さても新院は思わずもこの松山に崩御せらる 常々参内申しつつ御心を慰め申さんと 小天狗を引き連れてこの松山に随ひ奉り,逆臣の輩を悉くとりひしぎ蹴殺し仇敵を討ち平げ叡慮(天子のお気持ち)を慰め奉らん」と,ひたすら院をお慰め申しあげるのである。
 院はこの相模坊の忠節の言葉にいたく喜ばれ,ご機嫌もうるわしく次第にそのお姿を消してゆく。
そして,天狗も頭を地につけて院を拝し,やがて小天狗を引き連れて,白峯の峰々へと姿を消してゆく。
以上が謡曲「松山天狗」のあらましです。
実際に西行は白峰を訪れ、崇徳上皇の霊をなぐさめ、その後は高野の聖らしく善通寺の我拝師山に庵を構えて、3年近くも修行をおこなっています。時は、鎌倉初期になります。ここからは崇徳上皇の下に相模坊という天狗を頭に数多くの天狗達がいたことになっています。天狗=修験者(山伏)です。確かに中世の白峰には数多くの坊が立ち並び修験者の聖地であったことが史料からもうかがえます。
謡曲「松山天狗」の果たした役割は大きく、以後は崇徳上皇=天狗説 相模坊=崇徳上皇に仕える天狗という説が中世には広がりました。

安井金毘羅社と崇徳上皇御廟の関係を『讃岐国名勝図会』は、次のように記します。
京都安井崇徳天皇の御社へ参詣群集し、皆々金毘羅神と称へ祭りしによりて、天皇の御社を他の地へ移し、旧社へ更へて金毘羅神を勧請なしけるとなん。

意訳変換しておくと
京都安井崇徳天皇御社へ参詣する人たちが崇徳上皇陵を金毘羅神と呼ぶようになったので、天皇の御社を他の場所へ移して、そのの跡に安井金毘羅神社を勧請建立したという

ここからは安井金毘羅神社の現在地には、かつては崇徳上皇陵があったことが分かります。
秋里籠島の『都名所図絵』には、安井金毘羅社の祭神について次のように記されています。
奥の社は崇徳天皇、北の方金毘羅権現、南の方源三位頼政、世人おしなべて安井の金毘羅と称し、都下の詣人常に絶る事なし、崇徳帝金毘羅同一体にして、和光の塵を同じうし、擁護の明眸をたれ給ひ云云。

奥社に崇徳天皇、北に金毘羅権現、南に源三位頼政が祀られているが、京都の人たちはこれを併せて「安井の金毘羅」と呼ぶ。参拝する人々の絶えることはなく、崇徳帝と金毘羅神は同一体である。

と記され、金毘羅権現が北の方の神として新たにつくられたので、崇徳天皇の社は移転して奥の社と呼ばれるようになったことが二の書からは分かります。どちらにしても「崇徳帝=金毘羅」と人たちは思っていたようです。
「崇徳帝=金毘羅」説を決定的にしたのが、滝沢馬琴の「金毘羅大権現利生略記』です。
世俗相伝へて金毘羅は崇徳院の神霊を祭り奉るといふもそのよしなきにあらず。

と、馬琴は崇徳帝と金毘羅権現を同一とする考えに賛意を表しています。
7 崇徳上皇讃岐院眷属をして為朝を救う図
歌川国芳の浮世絵に「讃岐院眷属をして為朝を救う図」(1850年)があります。最初見たときには「神櫛王の悪魚退治」と思ってしまいました。しかし、これは滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつ ゆみはりづき)』(1806~10年刊行)の一場面を3枚続きの錦絵にしたものです。この絵の中には次の3つのシーンが同時に描き込まれています。
①為朝の妻、白縫姫(しらぬいひめ)が入水する場面(右下)
②船上の為朝が切腹するところを讃岐院の霊に遣わされた烏天狗たちが救う場面(左下)、
③為朝の嫡男昇天丸(すてまる)が巨大な鰐鮫(わにざめ)に救われる場面
ここに登場する巨大な|鰐鮫は「悪魚」ではなく主人公の息子を救う救世主として描かれています。以前にお話しした「金毘羅神=神魚」説を裏付ける絵柄です。

神櫛王の悪魚退治伝説

  また、ここでも崇徳上皇は天狗達の親分として登場します。
 『椿説弓張月』が刊行された頃は、「崇徳上皇=金毘羅大権現}であって、崇徳上皇は天狗の親分で、多くの天狗を従えているという俗信が人々に信じられるようになっていたことが、この絵の背景にはあることを押さえておきます。その上で京都では、崇徳帝御社があった所に、安井金昆羅宮がつくられたということになります。

研究者がもうひとつ、この絵の中で指摘するのは、この絵が「海難と救助」というテーマをもっていることです。
金毘羅宮の絵馬の中には、荒れ狂う海に天狗が出現して海難から救う様子を描いたものがいくつもあります。もともとの金毘羅は天狗信仰で海とは関係のなかったことは、近年の研究が明らかにしてきたことです
船絵馬 海難活動中の天狗達
海に落ちた子どもを救う天狗達(金刀比羅宮絵馬)

「海の神様 こんぴら」というイメージが定着していくのは19世紀になってからのことのようです。その中でこの絵は、金比羅と海の関わりを描いています。絵馬として奉納される海難救助図は、このあたりに起源がありそうだと研究者は考えているようです。

  今度は讃岐の金毘羅さんと天狗との関係を見ていきましょう
7 和漢三才図絵

江戸時代中期(1715年)に浪華の吉林堂から出された百科辞書の『和漢三才図絵』(巻七九)には、
相伝ふ、当山(金毘羅大権現)の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

と記されます。
また、江戸中期の国学者、天野信景著の『塩尻』には、
  讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや。

ここからは江戸中期には金毘羅宮の祭神は、僧(山伏)の姿をしていて団扇を持った天狗で、十二神将のクビラ神とはまったくちがう姿であったことが報告されています。『塩尻』に出てくる修験者の姿の木像とは、実は初代金光院主だった宥盛の姿です。観音堂の裏には威徳殿という建物があって、その中には、次のような名の入った木像がありました。
天狗道沙門金剛坊形像、当山中興権大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月
金毘羅大権現像 松尾寺
松尾寺に伝わる金毘羅大権現 蔵王権現のようにも見える

ここからは宥盛が金毘羅信仰の中に天狗信仰をとり入れ定着させた人物であったことが分かります。宥盛は修験道と天狗信仰に凝り、死後は天狗になって金毘羅宮を守ると遺言して亡くなり、観音堂のそばにまつられます。宥盛は死後、象頭山金剛坊という天狗になったとされ、金剛坊は金毘羅信仰の中心として信仰を集めるようになります。
これは白峰の崇徳上皇と相模坊の関係と似ています。
 戦国末期の金比羅の指導者となった土佐出身の宥厳やその弟弟子にあたる宥盛によって、金比羅は修験・天狗道の拠点となっていきます。宥盛は、初代金光院院主とされ、現在では奥の院に神として祀られています。
江戸前期の『天狗経』には、全国の著名な天狗がリストアップされています。
7 崇徳上皇天狗

これらが天狗信仰の拠点であったようです。その中に金毘羅宮の天狗として、象頭山金剛坊・黒眷属金毘羅坊の名前が挙げています。崇徳上皇に仕えたという相模坊もランクインされています。ここからも象頭山や白峰が天狗=修験者の拠点であったことがうかがえます。宥盛によって基礎作られた天狗拠点は、その後も発展成長していたようです。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現のもとに集まる天狗(山伏)達 別当寺金光院発行

知切光歳著『天狗の研究』は、象頭山のふたつの天狗は次のような分業体制にあったと指摘します。
①黒眷属金毘羅坊は全国各地の金毘羅信者の安全と旅人の道中安全を司る天狗
②象頭山金剛坊は、讃岐の本宮を守護する天狗
そのため②は、金比羅本山で、①は、それ以外の地方にある金毘羅社では、黒眷属金毘羅坊を祭神として祀ったとします。姿は、象頭山金剛坊は山伏姿の天狗で、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の仲間の鳥天狗として描かれます。また、黒眷属金毘羅坊は金剛坊の家来とも考えられました。他に、象頭山趣海坊という天狗がいたようです。
この天狗は先ほどの「讃岐院眷属をして為朝を救う図」にも出てきた崇徳上皇の家来です。

文化五年(1808)の冬、幕臣の稲田喜蔵が神城騰雲から聞き取った『壺産圃雑記』という随筆集があります。その中には、騰雲は趣海坊という金毘羅の眷属の天狗の導きで天狗界を見てきたとか、金毘羅権現は讃岐に流された崇徳上皇が人間界の王になれぬので天狗界の王になろうと天に祈った結果、ついに天狗となったものだと語ったと記されています。。

金比羅には象頭山から南に伸びる尾根上に愛宕山があります。
C-23-1  象頭山12景
右が象頭山、左が愛宕山
この山がかつては信仰対象であったことは、今では忘れ去られています。しかし、この山は金毘羅さんの記録の中には何度も登場し、何らかの役割を果たしていた山であることがうかがえます。この山の頂上には愛宕山太郎坊という天狗がまつられていて、金毘羅宮の守護神とされてきたようです。愛宕系の天狗とは何者なのでしょうか?

7 崇徳上皇天狗の研究
知切光歳著『天狗の研究』は、愛宕天狗について次のように記されています。
天狗の中で、愛宕、飯綱系の天狗は、ダキニ天を祀り、白狐に跨っており、天狗を祭り通力を得んとする修験、行者の徒が、ダキニの法を修し、これを愛宕の法、または飯綱の法と呼ぶ、(以下略)

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
愛宕天狗
とあって、狐に乗りダキニ天を祀る天狗が、愛宕・飲綱糸の天狗だとします。全国各地の金毘羅社の中には天狗を祭神ととしているところが多く、両翼をもち狐に跨る烏天狗を祀っていることが数多く報告されています。金毘羅宮は愛宕山を通じて愛宕・飯綱系の天狗と結ばれていたようです。
7 金刀比羅宮 愛宕天狗dakini
ダキニ天

以上から「崇徳上皇=天狗=金毘羅神」という考えが江戸時代には広く広がっていたことがうかがえます。ところが明治以後は、このような説は姿を消して行きます。その背景には、明治政府の進める天皇制国家建設があったようです。皇国史観に見られるように歴代天皇は神聖化されていきます。その中で天皇が天狗になったなどというのは不敬罪ものです。こうして「崇徳上皇=天狗」は葬られていくことになります。しかし、「崇徳上皇=金毘羅」説は別の形で残ります
金毘羅信仰と天狗信仰
            天狗信仰と金毘羅大権現
以上をまとめると、こんなストーリーが考えられます
①江戸後期になって安井金毘羅宮などで崇徳上皇=天狗=金昆羅権現」説が広まった。
②金毘羅本社でも、この思想が受け入れられるようになる。
③明治の神仏分離で金毘羅大権現を追放して、何を祭神に迎え入れるかを考えたときに、世俗で広がっていた「金毘羅=崇徳上皇」説が採用された。
④こうして祭神の一人に崇徳上皇が迎え入れられ、明治21年には白峰神社が建立された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

天狗の羽団扇
狂言で使われる天狗の羽団扇

近世の金比羅は、天狗信仰の中心でもあったようです。金毘羅大権現の別当金光院院主自体が、その教祖でもありました。というわけで、今回は近世の天狗信仰と金毘羅さんの関係を、団扇に着目して見ていきます。テキストは  羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像     ことひら56号(平成13年)です

天狗観は時代によって変化しています。
天狗1

平安時代は烏天狗や小天狗と呼ばれたもので、羽があり、嘴を持つ烏のようなイメージで描かれ、何かと悪さをする存在でした。そして、小物のイメージがあります。

天狗 烏天狗
烏天狗達(小天狗)と仏たち

中世には崇徳上皇のように怨霊が天狗になるとされるようになります。近世には、その中から鞍馬山で義経の守護神となったような大天狗が作り出されます。これが、結果的には天狗の社会的地位の上昇につながったようです。山伏(修験者)たちの中からも、大天狗になることを目指して修行に励む者も現れます。こうして中世初頭には天狗信仰が高まり、各地の霊山で天狗達が活動するようになります。
DSC03290
金刀比羅宮奥社の断崖に懸けられた大天狗と烏天狗

 整理しておくと、天狗には2つの種類があったようです。
ひとつは最初からいた烏天狗で、背中に翼があり、これを使って空を飛びました。近世になって現れるのが大天狗で、こちらは恰幅もよく人間的に描かれるようになります。そして、帯刀し錫杖を持ち、身なりも立派です。大天狗が誕生したのは、戦国時代のことのようです。
狩野永納の「本朝画史』には、鞍馬寺所蔵の鞍馬大僧正坊図について、次のように述べています。
「(大)天狗の形は元信始めてかき出せる故、さる記もあんなるにや。(中略)太平記に、天狗の事を金の鳶などいへる事も見えたれば、古は多く天狗の顔を、鳥の如く嘴を大きく画きしなるべし、今俗人が小天拘といへる形これなり。仮面には胡徳楽のおもて、鼻大なり。また王の鼻とて神社にあるは、猿田彦の面にて、此の面、今の作りざまは天狗の仮面なり」
意訳変換しておくと
「(大)天狗の姿は(狩野)元信が始めて描き出したものである。(中略)
太平記に、天狗のことを「金の鳶」と記したものもあるので、古くは多く天狗の顔を、烏のように嘴を大きく描いていたようである。世間で「小天拘」と呼ばれているのがこれにあたる。大天狗の仮面では胡人の顔立ちのように、鼻が大きい。また「王の鼻」と呼ばれた面が神社にあるは、猿田彦のことである。この今の猿田彦の面は、天狗の仮面と同じ姿になっている」
ここからは次のようなことが分かります。
①大天狗像は狩野元信(1476~1559)が考え出した新タイプの天狗であること
②古くは烏のように嘴が大きく描かれていて、これが「小天狗」だったこと
③大天狗の姿は、猿田彦と混淆していること
狩野元信の描いた僧正坊を見てみましょう

天狗 鞍馬大僧正坊図

左に立つ少年が義経になります。義経の守護神のように描かれています。これが最初に登場した大天狗になるようです。頭巾をつけ、金剛杖を持ち、白髪をたくわえた鼻高の天狗です。何より目立つのは背中の立派な翼です。それでは、団扇はとみると・・・・ありません。確かに羽根があるのなら団扇はなくとも飛べますので、不用と云えばその方が合理的です。羽根のある大天狗に団扇はいらないはずです。ところが「大天狗像」と入れてネット検索すると出てくる写真のほとんどは「羽根 + 団扇」の両方を持っています。これをどう考えればいいのでしょうか?
天狗 大天狗

  これは、後ほど考えることにして、ここでは大天狗の登場の意味を確認しておきます。
 小天狗は、『今昔物語集』では「馬糞鳶」と呼ばれて軽視されていました。中世に能楽とともに発達した狂言の『天狗のよめどり』や『聟入天狗』等では本葉天狗や溝越天狗として登場しますが、こちらも鳶と結び付けられ下等の天狗とされていたようです。飯綱権現の信仰は各地に広まります。その中に登場する烏天狗は、火焔を背負い手には剣と索を持っていますが、狐の上に乗る姿をしていて、「下等の鳶型天狗」の姿から脱け出してはいない感じです。
その中で狩野元信が新たに大天狗を登場させることで、大天狗は鳶や烏の姿を脱して羽団扇で飛行するようになります。これは天狗信仰に「大天狗・小天狗」の併存状態を生み出し、新たな新風を巻き起こすことになります。
狩野元信が登場させたこの大天狗は、滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』に日本の天狗のモデルとして紹介されています。
馬琴は、浮世絵師の勝川春亭に指図をして、「天狗七態」を描かせています。そのうちの「国俗天狗」として紹介された姿を見てみましょう。

天狗 滝沢馬琴の『享雑(にまぜ)の記』

 ここでも鼻高で頭巾をつけ、金剛杖持ち、刀をさし、背中には立派な翼を持っています。そして、左手は見ると・・・団扇を持っています。つまり、16世紀の狩野元信から滝沢馬琴(1767~1848)の間の時代に、大天狗は団扇を持つようになったことが推察できます。この間になにがあったのでしょうか。江戸後期になると、天狗の羽団扇をめぐて天狗界では論争がおきていたようです。

天狗 平田篤胤

その頃に平田篤胤(1776~1843)は、『幽境聞書』を書いています。
これは天狗小僧寅吉を自宅に滞在させて、寅吉から直接に聞いた話をまとめたものです。その中で篤胤は、羽団扇のことについても次のようなことをあれこれと聞いています
大天狗は皆羽団扇を持っているか
羽団扇には飛行以外に使い道はあるか
羽団扇はどういう鳥の羽根でできているか
この質問に答えて天狗小僧寅吉は、大天狗は翼を捨てた代りに、手にした羽団扇を振って飛び回るようになったとその飛行術を実しやかに言い立てています。ここからはこの時期に天狗界の大天狗は、翼を捨てて団扇で飛ぶという方法に代わったことが分かります。
そんな天狗をめぐる争論が論争が起きていた頃のことです。
平賀源内(1726~79年)が、天狗の髑髏(どくろ)について鑑定を依頼されます。
天狗 『天狗髑髏鑑定縁起

  源内は、その経験を『天狗髑髏鑑定縁起』としてまとめて、次のように述べています。
夫れ和俗の天狗と称するものは、全く魑魅魍魎を指すなれども、定まれる形あるべきもあらず。然るに今世に天狗を描くに、鼻高きは心の高慢鼻にあらはるるを標して大天狗の形とし、又、嘴の長きは、駄口を利きて差出たがる木の葉天狗、溝飛天狗の形状なり。翅ありて草軽をはくは、飛びもしつ歩行もする自由にかたどる。杉の梢に住居すれども、店賃を出さざるは横着者なり。
羽団扇は物いりをいとふ吝薔(りんしょく)に壁す。これ皆画工の思ひ付きにて、実に此の如き物あるにはあらず。
意訳変換しておくと
 天狗と称するものは、すべての魑魅魍魎を指すもので、決まった姿があるはずもない。ところが、昨今の天狗を描く絵には、鼻が高いのは心の高慢が鼻に出ているのだと称して、大天狗の姿とを描く。また嘴の長いのは、無駄口をきいて出しゃばりたがる木の葉天狗や溝飛天狗の姿だという。羽根があって草軽を履くのは、飛びも出来るし、歩行もすることもできることを示している。杉の梢に住居を構えても、家賃を出さないのは横着者だ。羽団扇は物いりを嫌う吝薔(りんしょく)から来ているなど、あげればきりがない。こんなことは全部画家の思ひ付きで、空言で信じるに値しない。彼らのとっては商売のタネにしかすぎない。

源内らしい天下無法ぶりで、羽団扇も含めて天狗に関するものを茶化して、明快に否定しています。この時に持ち込まれた天狗の髑髏は、源内の門人の大場豊水が芝愛宕山の門前を流れる桜川の河原でひろって持ってきたものでした。その顛末を明かすと共に、天狗の髑髏を否定しています。
  天狗についての考察というよりも、天狗に関する諸説を題材にして、本草学・医学のあり方を寓話化した批評文でしょうか。「天狗髑髏圖」はクジラ類の頭骨・上顎を下から見たもの。「ぼうごる すとろいす」はダチョウ(vogel struis、struisvogel、vogelは鳥)、「うにかうる」はユニコーンのことだそうです。
  合理主義者でありながら「天狗などいない」の一言で、「あっしにはかかわりのないことで」とシニカルに済ませられないところが源内らしいところなのでしょう。しかし、一方では大天狗の羽根団扇をめぐっては、各宗派で争論があり、それぞれ独自の道を歩むところも出てきたようです。
天狗 鞍馬

そのひとつが鞍馬寺です。ここは「鞍馬の天狗」で当時から有名でした。
この寺の「鞍馬山曼茶羅」には、中央に昆沙門天を大きく描かれ、その下に配偶神の吉祥天とその子善弐子(ぜんにし)を配します。毘沙門天の両脇には毘沙門天の使わしめとされる百足(むかで)を描かれます。そして毘沙門天の上方に描かれているのが僧正坊と春族の鳥天狗です。僧正坊は頭に小さな頭巾をいただき、袈裟を着けた僧侶の身なりで、手には小さな棕櫚葉団扇を持っています。しかし、背中に翼はありません。「鞍馬山曼茶羅」は、翼を持たない大天狗が羽団扇を使って飛行するという「新思想」から生まれたニュータイプの天狗姿と云えます。つまり、大天狗に翼は要らないという流派になります。
 しかし、多くの天狗信仰集団は「羽団扇 + 翼」を選択したようです。つまり翼を持った上に団扇ももつという姿です。鞍馬派は少数派だったようです。
以上をまとめておくと、鼻高の大天狗は、戦国時代の頃に狩野元信が考え出したものである。これ以降は大天狗と小天狗が並存するようになった。そして、江戸後半になると大天狗は羽団扇をもつようになる。
それでは、羽根団扇をも大天狗はどこから現れてくるのでしょうか?
 天狗経
天狗経
『天狗経』は密教系の俗書『万徳集』に出てくる偽経です。
その冒頭に「南無大天狗小天狗十二八天狗宇摩那天狗数万騎天狩先づ大天狩」と述べた後で、名が知られていた大天狗48の名を挙げています。この中には「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」の名前も見えます。この「黒眷属 金毘羅坊」「象頭山 金剛坊」で、羽団扇をもつ大天狗が最初に姿を表したのではないかという仮説を羽床氏は出します。
Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現

金毘羅大権現と天狗達(別当金光院)

それは金毘羅大権現の初代院主・金剛坊宥盛の木像に始まったとします。
  江戸時代に金昆羅大権現は天狗信仰で栄えたことは以前にお話ししました。金毘羅大権現として祀られたのは、黒眷族金毘羅坊・象頭山金剛坊の二天狗であったことも天狗経にあった通りです。当時の人々は金毘羅大権現を天狗の山として見ていました。天狗面を背負った行者や信者が面を納めに金毘羅大権現を目指している姿がいくつかの浮世絵には描かれています。
天狗面を背負う行者
金毘羅行者 天狗面の貢納に参拝する姿

近世初頭の小松庄の松尾寺周辺の状況をコンパクトに記して起きます。
 松尾寺は金毘羅大権現の別当寺となつて、金毘羅大権現や三十番神社を祀っていました。三十番神社は暦応年中(1338~)に、甲斐出身の日蓮宗信徒、秋山家が建てたものでした。これについては、秋山家文書の中から寄進の記録が近年報告されています。
 一方、松尾寺は1570年頃に長尾大隅守の一族出身の宥雅が、一族の支援を受けて建立したお寺です。善通寺で修行した宥雅は、師から宥の字をもらつて宥雅と名乗り、善通寺の末寺の大麻山の称名院に入ります。松尾山の山麓に、称明院はありました。松尾山の山頂近くにある屏風岩の下には、滝寺もありましたが、この頃にはすでに廃絶していました。称名院に入った宥雅はここを拠点として、山腹にあつた三十番神社の近くに、廃絶していた滝寺の復興も込めて、新たに松尾寺を創建します。松尾寺の中心は観音堂で、現在の本堂付近に建立されます。

天狗面2カラー
金毘羅大権現に奉納された天狗面

 さらに宥雅は、元亀四年(1573)に、観音堂へ登る石段のかたわらに、金比羅堂を立てます。
この堂に安置されたのは金昆羅王赤如神を祭神とする薬師如来でした。しかし、長宗我部氏の侵攻で、宥雅は寺を捨てて堺に亡命を余儀なくされます。松尾寺には長宗我部元親の信頼の厚かった修験者の南光院が入って、宥厳と名乗り、讃岐平定の鎮守社の役割を担うことになります。宥厳のあとを、高野山から帰ってきた宥盛が継ぎます。宥厳・宥盛によつて、松尾寺は修験道化されていきます。こうして金毘羅信仰の中心である金毘羅堂の祭神の金毘羅王赤如神は、修験道化によって黒眷族金毘羅坊という天狗におきかえられます。
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 初代金光院院主とされている宥盛の業績には大きい物があります。
その一つが松尾寺を修験道の拠点としたことです。彼は天狗信仰に凝り、死後は天狗として転生できるよう願って、次のような文字を自らに模した木像に掘り込んでいます。
「入天狗道沙門金剛坊形像、当山中興大僧都法印宥盛、千時慶長拾壱年丙午拾月如意月」
という文言を彫り込みます。ここには慶長十一年(1606)10月と記されています。そして翌々年に亡くなっています。
 天狗になりたいと願ったのは、天狗が不老不死の生死を超越した存在とされていたからだと研究者は考えているようです。

天狗 烏天狗 絵入り印刷掛軸
金毘羅大権現と天狗達

『源平盛衰記』巻八には、次のように記されています。
「諸の智者学匠の、無道心にして騎慢の甚だしきなりこ其の無道心の智者の死すれば、必ず天魔と中す鬼に成り候。其の頭は天狗、身体は人にて左右の堂(生ひたり。前後百歳の事を悟つて通力あり。虚空を飛ぶこと隼の如し、仏法者なるが故に地獄には堕ちず。無道心なる故往生もせず゛必ず死ぬれば天狗道に堕すといへり。末世の僧皆無道心にして胎慢あるが故に、十が八九は必ず天魔にて、八宗の智者は皆天魔となるが故に、これをば天狗と申すなり」
象頭山天狗 飯綱

天狗は地獄にも堕ちず、往生もしない、生死を超越した不老不死の存在であると説かれています。天狗が生死を超えた不老不死の存在であったから宥盛は死後も天狗となって、松尾寺を永代にわたって守護しようと考えたのでしょう。この宥盛木像が、象頭山金剛坊という天狗として祀られることになります。
松尾寺の金毘羅大権現像
金毘羅大権現像(松尾寺)
木像はどんな姿をしていたのでしょうか?
木像を見た江戸中期の国学者、天野信景は『塩尻』に次のように記します。
讃州象頭山は金毘羅を祀す。其像、座して三尺余、僧形也。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所載の頭巾を蒙り、手に羽団を取る。薬師十二将の像とは、甚だ異なりとかや

意訳変換しておくと
讃州象頭山は金毘羅を祀る山である。その像は座しいて三尺余で僧形である。すさまじき面貌で、修験者のような頭巾をかぶり、手には羽団扇を持っている。薬師十二将の金毘羅像とは、まったく異なるものであった

「金毘羅山は海の神様で、クンピーラを祀る」というのが、当時の金毘羅大権現の藩に提出した公式見解でした。しかし、実際に祀られていたのは、初代院主宥盛(修験名金剛院)が天狗となった姿だったようです。当時の金毘羅大権現は天狗信仰が中心だったことがうかがえます。

 この木像はどんな霊験があるとされていたのでしょうか?
江戸時代中期の百科辞書である『和漢三才図会』(1715年に、浪華の吉林堂より刊行)には、次のように記されています。
相伝ふ、当山の天狗を金毘羅坊と名づく。之を祈りて霊験多く崇る所も亦甚だ厳し。

ここからは江戸時代中期には金毘羅大権現は天狗信仰で栄えていたことが分かります。その中心は宥盛木像であって、これを天狗として祀っていたのです。天狗として祀られた宥盛木像の手には、羽団扇がにぎられていました。これは「羽団扇をもつ天狗」としては、一番古いものになるようです。ここから羽床氏は「宥盛のもつ羽団扇が、天狗が羽団扇を使って空を飛ぶという伝説のルーツ」という仮説を提示するのです。
丸亀はうどんだけじゃない!日本一のうちわの町でマイうちわ作り│観光・旅行ガイド - ぐるたび
「丸金」の丸亀団扇

羽団扇をもつ天狗姿が全国にどのように広がっていったのでしょうか?

天明年間(1781~9)の頃、豊前の中津藩と丸亀藩の江戸屋敷がとなり合っていました。そのため江戸の留守居役瀬山重嘉は、中津藩の家中より団扇づくりを習って、藩士の副業として奨励します。以来、丸亀の団扇づくりは盛んとなったと伝えられます。丸亀―大阪間を「金毘羅羅舟」が結び、丸亀はその寄港地として繁栄するようになると、丸亀団扇は金毘羅参詣のみやげとして引っ張りだこになります。
 金毘羅大権現の天狗の手には、羽団扇がにぎられトレードマークになっていました。それが金昆羅参詣のみやげとして「丸金」団扇が全国に知られるようになります。それと、同じ時期に。天狗は羽団扇で飛行するという新しい「思想」が広まったのではないかと云うのです。
金毘羅大権現2
金毘羅大権現の足下に仕える天狗達
 
天狗が羽団扇で飛行するという「新思想」は、宥盛の象頭山金剛坊木像がもとになり、金昆羅参詣みやげの丸亀団扇とともに全国に広められたという説です。それを受けいれた富士宮本宮浅間神社の社紋は棕櫚(しゅろ)葉でした。そのためもともとは天狗の団扇は鷹羽団扇だったのが、棕櫚葉団扇が天狗の持物とされるようになったとも推測します。

  富士山を誉めるな。 - オセンタルカの太陽帝国
富士宮本宮浅間神社の社紋

  以上をまとめておくと
①古代の天狗は小天狗(烏天狗)だけで、羽根があって空を飛ぶ悪さ物というイメージであった。
②近世になると大天狗が登場し、天狗の「社会的地位の向上」がもたらされる
③大天狗が羽団扇を持って登場する姿は、金毘羅大権現の金剛坊(宥盛)の木像に由来するのではないか
④金毘羅土産の丸亀団扇と金剛木像が結びつけられて大天狗姿として全国に広がったのではないかい。
天狗の団扇

少し想像力が羽ばたきすぎているような気もしますが、魅力的な説です。特に、天狗信仰の拠点とされている金毘羅と、当時の金剛坊(宥盛)を関連づけて説明した文章には出会ったことがなかったので興味深く読ませてもらいました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献
羽床正明 天狗の羽団扇と宥盛彫像    ことひら56号(平成13年)

1金毘羅天狗信仰 金光院の御札
金毘羅大権現と天狗達 別当金光院が配布していた軸

金毘羅大権現の使いは、天狗であると言われていたようです。
そのためか金毘羅さんには、天狗信仰をあらわすものが多く残されています。文化財指定を受けている天狗面を今回は、見ていくことにします。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G3

おおきな天狗面です。
面長60㎝、面幅50㎝・厚さ48㎝で、鼻の高さは25㎝もあります。檜木を彫りだしたもので、面の真中、左右の耳、そして鼻の中途から先が別々につくられ、表から木釘、裏からは鉄製のかすがいで止めてあります。木地に和紙を貼り、胡粉を塗り、その上から彩色をしていたようであるが、今はほとんどはげていて木地が見えている状態で、わずかに朱色が見えているようです。

1天狗面

 目は青銅の薄板を目の形に形どり、表面から釘で打ちつけてとめてあります。彩色していたようですが、これも剥げ落ちて、元の色は分かりません。口からは牙が出ています。面の周囲や、口の周囲、まゆには動物の毛が植え込んであるようです。

この面だけ見ると「なんでこんなにおおきいのかな、被るしにしては大きすぎるのでは?」という疑問が沸いてきます。

被るものではなく、拝む対象としての天狗面
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4

 この面は、面長35㎝、面幅27㎝、厚さは30㎝、鼻の高さは14㎝で、別材で造ったものをさし込み式にしています。ひたい・あご・両耳の各部も別材が使われています。面は木地に和紙を張り、上に厚く胡粉をぬり、上から朱うるしを塗られています。口には隅取りがあり、ひたいの部分にも隅取りに似た筋肉の誇張と口と同じように朱うるしが塗られています。
 目と歯は金泥で、もみあげからひげにかけての地肌は墨でかかれています。瞳を除く各部には、人間の頭髪が小さな束にして、うえ込まれています。
 この面の面白い所は、「箱入り面」であることです。この箱から出すことは出来ないのです。それは背面を見ると分かります。面が箱に固定されているのです。両耳にあけられた穴に、ひもを通し背負いひもをつけた箱の内に固定されているのです。箱は高さは、54㎝、幅35㎝、厚さ17㎝で、置いたときにも倒れないようになっています。
 箱の上端にはシメ縄をはり、シデを垂らされます。それが面の前にさがっています。この天狗面は被るものでなく、おがむ対象だったと研究者は考えているようです。
 箱の背面には向って右側面と、あごの部分に次のような墨書銘があります。
  人形町
  天明2年(1782)
  細工人 倉橋清兵衛
 一家ノ安全
1金毘羅天狗信仰 天狗面G5

この面は 面長44,5㎝ 面幅34,3㎝、厚さは裏の一枚板から鼻の先までが44,5㎝、鼻の高さだけで28㎝もあります。鼻の部分は別材をつぎたしています。木地に胡粉を塗って、その上に朱うるしを塗っていますが、胡粉を塗った刷毛跡が見えます。目は金泥に、瞳を黒うるしでかき、頭髪とまゆ毛・ひげは人毛と思われる動物質の黒毛をうめ込んでいるようです。眉は、囲まりに毛がが植え込まれ、その内側は黒うるしが塗られています。口はへの字形に結ばれ、ユーモラスな印象を受けます。この面も裏側には、厚手の白木綿の背負いひもを通し、背負って歩けるようになっています。これも背負い面のようです。
面はどのようにして、金毘羅大権現に奉納されたのでしょうか?
これらの面は、今は宝蔵館に保管されていますが、もとは絵馬堂にかかっていたようです。最初に見た天狗面は、天明七年(1787)に江戸から奉納された額にかかっていたことが分かっています。
 
天狗面を背負う山伏 浮世絵

 金毘羅大権現に奉納された天狗面は、背負って歩けるよう面の裏に板をうちつけたり、箱に入れたりしていました。天狗面を背負って歩く姿は、江戸時代の浮世絵などにも見えます

天狗面を背負う行者

 彼らのことを「金毘羅行人(道者)」と呼んでいました。全身白装束で、白木綿の衣服に、手甲脚半から頭まで白です。右手に鈴を持ち、口に陀羅尼などを唱えながら施米を集めてまわる宗教者がいたようです。

天狗面を背負う行者 正面

 白装束で天狗面を背負って行脚する姿は、当時は見なれた風俗であったようです。金毘羅さんに奉納されている天狗面は、背負って歩くにちょうどいい大きさかもしれません。金毘羅行人(道者)が金剛坊近くの絵馬堂に納めて行ったということにしておきます。

 金毘羅大権現が産み出された頃、天狗信仰のボスが象頭山にはいました。
宥盛?
宥盛(金剛院)

江戸時代の初期に金光院の別当を務めた宥盛です。宥盛は、金毘羅さんの正史では初代別当とされ、現在は神として奥社に祀られています。それだけ、多くの業績があった人物だったことになります。彼は、高野山で真言密教を学んだ修験者でもあり、金剛坊と呼ばれ四国では非常に有名な指導者だったようです。彼については以前にお話ししましたので省略しますが、慶長十一年(1606)に自分の像を彫った時に、その台座の裏に
「入天狗道 沙門金剛坊(宥盛)形像(後略)」

と、自筆で書き入れたと伝えられます。また彼自身が常用していた机の裏にも、 
某月某日 天狗界に入る

 と書き、まさしくその日に没したといわれます。宥盛と天狗信仰には、修験道を通じて深いかかわりがあったようです。

宥盛(金剛坊)が自分の姿を刻んだという木像を追いかけて見ることにします。
宥盛の木像は、万治二年(1659)以後は、松尾寺の本堂である観音堂の裏に金剛坊というお堂が建てられ、そこに祀られていたようです。ここからも死後の宥盛の位置づけが特別であったことが分かります。ある意味、宥盛は金毘羅大権現の創始者的な人物であったようです。
1観音堂と絵馬堂の位置関係

 本堂・観音堂の建っていた位置は、現在の美穂津姫社のところです。すぐ南に絵馬堂があります。つまり、絵馬堂と金剛坊をまつった堂とは、隣接していたことになります。奉納された天狗面が絵馬堂付近に、多くかかげられたのはこのような金剛坊を祀るお堂との位置関係があったと研究者は考えているようです。
 神仏分離の混乱がおちつきはじめた明治30年には、現在の奥社付近に仮殿をたてて、そこに金剛坊は移されます。神道的な立場からすると修験者であった宥盛を、本殿付近から遠ざけたいという思惑もあったようです。明治38年には奥社に社殿が新築されて、宥盛は厳魂彦命として神社(奥社)にまつられるようになります。
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つまり、宥盛は神として、今は奥社に祀られているのです。
 奥社の建つ所は、内瀧といい、奥社の南側は岩の露呈した断崖です。
DSC03290

水が流れていないのにも関わらず「瀧」と名がつくのは、修験者の行場であったことを示します。ここ以外にも、葵の瀧など象頭山は、かつての行場が数多くありました。象頭山は、山岳信仰と結びついた天狗が、いかにもあらわれそうな所だと思われていたのです。
 今でも奥社の断崖には、天狗と烏天狗の面がかけられています。これが、宥盛と天狗信仰との深い結びつきを今に伝える痕跡かもしれません。
DSC03291

このように、金毘羅大権現のスタート時期には象頭山は天狗信仰のお山だったのです。そして、天狗信仰を信じる行者や修験者たちが、大坂や江戸での布教活動を行うことで都市市民に、浸透していったようです。その布教指導者を育てたのが宥盛だったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
金毘羅信仰と天狗信仰

参考文献        印南敏秀  信仰遺物  金比羅庶民信仰資料集

5金毘羅大権現 天狗信仰1

 広重の東海道五十三次には、沼津(保永堂版)、四日市(狂歌五十三次)などに、蓋のない箱に、大きい天狗面を入れて、背中に負った山伏姿の人物が描かれています。
5金毘羅大権現 天狗信仰2


竹久夢二の「昼夜帯」、「夢二画集旅の巻」にも、同じような図があるそうです。
天狗面を背負った人たちは、どこに向かっているのでしょうか
藤村作太郎氏は「日本風俗史」の中で、天狗面を金毘羅に奉納しに行く姿だと指摘しています。
確かに、金毘羅大権現(現金刀比羅宮)への天狗絵馬の奉納は多かったようです。幕末に編集された「扁額縮図」には、江戸、下総、紀州などから奉納になった天狗面の絵馬約十点が収められています。その中には、金毘羅権現別当金光院の役人矢野延蔵外二名が奉納したものもあります。彼らが天狗信仰=修験者たちであったことが分かります。

天狗面を背負う行者

天保4年には、仙台の三春屋善七が小天狗の面を奉納しています。

金毘羅への信仰が深かった先祖が、狩場で異相の行者から、その信仰を愛でて授かったもので、種々の奇瑞を起こした面だったようです。私蔵するにはもったいないと、千里の道を越えて、奥州仙台から金毘羅さんにやってきて奉納したとの由緒が付けられています。

DSC01239天狗面

金毘羅大権現の霊験記の最初は、南月堂三著作(明和六年)のものとされます。
5金毘羅大権現 天狗信仰3

この中には翼のある天狗が、左手には羽うちわを、右手には子供の襟首を掴んで雲に乗っている図が見開一ぱいに描かれています。雲は雷雲のようで地上には雨と風をもたらしています。ここからは天狗が雨を降らせる雨乞信仰の対象にもなっていたことがうかがえます。どちらにしても金毘羅さんは、
クンピーラ=金毘羅大権現=天狗信仰=山岳信仰=修験者たちの行場・聖地

という風に当時の人々の中では、つながっていたようです。

江戸時代の「日本大天狗番付表」からは、当時の天狗界の番付が分かります。
5金毘羅大権現 天狗番付

 西の番付表を見てみると・・・
横綱   京都 愛宕山栄術太郎
出張横綱 奈良 大峯前鬼・後鬼
大関   京都 鞍馬山僧正坊
関脇   滋賀 比良山次郎坊
小結   福岡 彦山豊前坊
出張小結 香川 白峯相模坊
前頭   愛媛 石槌法起坊
同    奈良 葛城山高天坊
同    奈良 大峯菊丈坊
同    熊本 肥後阿闍梨
同    京都 高雄内供奉
同    京都 比叡山法性坊
同    鳥取 伯耆大仙清光坊
同    滋賀 伊吹山飛行上人
同   和歌山 高野山高林坊
同    広島 厳島三鬼坊
同    滋賀 横川党海坊
同    京都 如意ヶ嶽薬師坊
同    香川 象頭山金剛坊
同    岡山 児島吉祥坊
同    福岡 宰府高垣高森坊
同    滋賀 竹生島行神坊
同   鹿児島 硫黄島ミエビ山王
同   鹿児島 硫黄島ホタラ山王
同    高知 蹉蛇山放主坊
同    香川 五剣山中将坊
同    香川 象頭山趣海坊
  横綱・大関には京都の愛宕山や鞍馬山の名前が見えます。出張小結には、白峯相模坊(坂出市白峰寺)があります。さらに前頭には讃岐から「象頭山金剛坊 五剣山中将坊 象頭山趣海坊」の名前があります。讃岐が天狗信仰が盛んで修験者たちが活発に活動していたことがここからはうかがえます。
 もうひとつ分かることは、象頭山が修験者たちの活動の拠点となっていたことです。金剛坊以外にも趣海坊という名前もあります。白峰寺や五剣山は四国霊場の寺院として、山岳信仰の趣を今に伝えています。しかし、象頭山は明治の神仏分離で修験道が排除されたために、現在の金刀比羅宮の中に天狗信仰を見つけ出すことは難しくなっています。ただ奥社には、金毘羅大権現の開祖とされる修験者の指導者宥盛を神として祀っています。そして宥盛の修行ゲレンデであった奥社の断崖には、天狗面が今でも掛けられていることは以前にお話しした通りです。
5金毘羅大権現 奥社の天狗面
金刀比羅宮奥社の天狗面

 象頭山は、白峰寺や五剣山と並ぶ讃岐の修験者の活動の拠点だったことがうかがえます。ここを拠点に、修験者たちは、善通寺の五岳の我拝師山で捨身修行を行い、七宝山の不動瀧などの行場を経て観音寺までの行場ルートで修行を行っていたようです。これが、西讃地方の「中辺路」ルートであったと私は考えています。近世以前の庶民の四国遍路が成立する以前のプロの修験者による行場巡りでは、象頭山は聖地で霊場であったのです。
天狗像

 霊場江戸初期に善通寺が金毘羅大権現の金光院を、末寺であると山崎藩に訴えています。善通寺の僧侶は金光院を、同じ真言宗の修験道の同類と認識していたことが分かります。彼らは修験者としては修行仲間であったかもしれません。そして、象頭山(大麻山)と五岳という行場を互いに相互に乗り入れていたのかもしれません。

地元の幕末の詩人、日柳燕石は天狗の詩も遺しています。
夜、象山に登る 崖は人頭を圧して勢順かんと欲す、
夜深くして天狗来りて翼を休む、十丈の老杉揺いで声あり
また、老杉の頂上里雲片る。夜静かにして神扉燈影微かなり
道士山を下って怪語を伝ふ、前宵天狗人を擢んで飛ぶ
象頭山の夜は、深い神域の森を天狗が飛び回っているというのです。
私も天狗捜しに何回か夜の金毘羅さんにお参りしました。ソラをゴウー音を立てて飛び交う天狗に出会いましたが、野鳥の会のメンバーに言わせると「それは、ムササビや。金毘羅さんには多いで」とのこと
5金毘羅大権現 天狗伝説9

各地の金毘羅さんは、だれが勧進したのか?
高知県の足摺岬に近い津呂の琴平神社は、もとは、現在の神主の先祖寿徳院が、象頭山を拠点に諸国修行中に、この浦にやってきてた。その際に背負ってきた肩から両翼の生えた山伏像を祀ったのに始まると伝えられています。「両翼の生えた山伏像」とは、金毘羅大権現とも考えられます。
長崎市浦上の金刀比羅神社は、
5金毘羅大権現 長崎の金毘羅大権現

江戸時代は無凡山神宮寺と呼ばれていました。その起源は、寛永元年、島原生れの修験常楽院快晴が、金毘羅大権現を勧進し、真言修験の霊場としたことがはじまりです。その後宝永三年に、瓊杵山山頂の石窟に、飯繩、愛宕の2神を併せて祀ったようです。ここは領主の崇敬受け、庶民の信仰を集め、長崎へ往来する中国人からの献納物も多かったようです。ここでも勧進者は修験者です。
 大坂千日前の法善寺の鎮守も、もともとは愛染明王で、役行者と不動明王と金毘羅を併せて三尊を鎮守としてきました。
象頭山からは御札等を受けて安置していましたが、愛染明王、役行者よりは金毘羅神の方が信者が多くなります。燈寵等を献納する者も多く、金毘羅堂と呼ばれていた時期もあったようです。金比羅神をもたらしたのは、ここでも金比羅行者のようです。
最後に横浜のこんぴらさんを見てみましょう
横浜の大綱金比羅神社には「大天狗の像」が安置されています。
5金毘羅大権現 横浜天狗信仰3

この天狗の伝承は、次のように伝えられています。
 江戸の天狗隠者が金毘羅大権現へ大天狗像を奉納しようと、江戸を出発します。天狗像を担いで東海道を歩み始めました。ところが神奈川宿で一泊したところ、翌日には大天狗が岩のような重たさになり、担げなくなってしまいました。
 使者はどうすることもできません。神奈川宿にもう一泊滞在することにしました。するとその晩、使者の夢に天狗様が現れ、
「この地の飯綱神宮に留まりたいので、この地に私を置いていくように」とお告げがあったそうです。それを聞いた使者はそのまま大綱神社に奉納し、「大天狗の像」で祀られるようになりました。

奉納された大天狗像は「聖天金毘羅合社」として境内末社の扱いを受けて祀られるようになります。つまり、「天狗=金比羅さん」というイメージが当時の人たちにはあったことがわかります。飯縄神社も金毘羅さんも「修験道」と関わりが深く、天狗伝説が色濃いところですから、違和感なく習合し、次第に両神社は切り離せないものになっていきます。ここにも、金比羅行者の活躍と布教活動があったことがうかがえます。

5金毘羅大権現 横浜天狗信仰2

 明治の横浜開港後は、海の神である金毘羅信仰の方が人気が高くなります。そこで飯綱権現と金刀比羅が合祀され、大綱金比羅神社となります。しかし、地元の人々からは「横浜のこんぴらさん」と呼ばれるようになっていったようです。後からやってきた金毘羅さんに飯縄さんは乗っ取られた格好になったようです。境内には山岳信仰のシンボルとも言える「天狗像」が今も建っていて、天狗伝説が語り継がれています。

5金毘羅大権現 横浜天狗信仰4
 
このように金毘羅さんの全国展開は、天狗信仰と金比羅行者によるようです。
海の神様として、塩飽の廻船船乗りが全国に広げたというのは、以前にもお話したようにどうも俗説のようです。17世紀の塩飽船主が信仰したのは、古代以来の摂津の住吉神社です。住吉神社に塩飽から寄進された灯籠を初めとする奉納物は数多く見られますが、金毘羅大権現に寄進されたものは数えるほどしかありません。塩飽の地元に残る記録の中にも
「塩飽が昔から海の安全を祈願したのは住吉神社で、金毘羅さんは新参者」
と記したものがあります。
 「海の神様」と認識されるようになるのは、19世紀になってからです。それが全国的に広がるのは海軍の信仰を受けるようになってからのことになるようです。金毘羅さんの海の神様としての歴史は古くはないようです。
17世紀に金毘羅さんを全国展開させた立役者は、金比羅行者たちでした。そして、そのトレードマークは天狗だったのです。

金毘羅信仰と天狗信仰
           天狗信仰から見た金毘羅信仰
 参考文献 松原秀明 金毘羅信仰と修験道

    

 前回までに戦国末期から元禄年間までの百年間に金毘羅山で起きた次のような「変化・成長」を見てきました。
①歴代藩主の保護を受けた新興勢力の金光院が権勢を高めた
②朱印状を得た金光院は金毘羅山の「お山の殿様」になった
③神官達が処刑され金光院の権力基礎は盤石のものとなった
④神道色を一掃し、金毘羅大権現のお山として発展
⑤池料との地替えによって金毘羅寺領の基礎整備完了
 流行神の金毘羅神を勧進して建立された金毘羅堂は、創建から百年後には金光院の修験道僧侶達によって、金毘羅大権現に「成長」していきます。その信仰は17世紀の終わりころには、宮島と並ぶほどのにぎわいを見せるようになります。
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今回のテーマは「金毘羅信仰を広めたのは誰か」ということです。
通説では、次のように云われています。
「金毘羅山は海の神様 塩飽の船乗り達の信仰が北前船の船乗り達に伝わり、日本全国に広がった」

そうだとすれば、海に関係のない江戸っ子たちに金毘羅信仰が受けいれられていったのは何故でしょう? 彼らにとって海は無縁で「海の神様」に祈願する必要性はありません。
 まず信仰の拡大を示す「モノ」から見ていきましょう。
金毘羅信仰の他国への広まりを示す物としては
①十八世紀に入ると西国大名が参勤交代の折に代参を送るようになる
②庶民から玉垣や灯箭の寄進、経典・書画などの寄付が増加
③他国からの民間人の寄進が元禄時代から始まる。
 (1696)に伊予国宇摩郡中之庄村坂上半兵衛から、
  翌年には別子銅山和泉屋吉左衛門(=大坂住吉家)から銅灯籠
④正徳五年(1715)塩飽牛島の丸尾家船頭たちの釣灯寵奉納
 これが金毘羅が海の神の性格を示し始めるはしりのようです。
⑤享保三年(1718)仏生山腹神社境内(現高松市仏生山町)の人たちが「月参講」をつくって金毘羅へ参詣し、御札をうけて金毘羅大権現を勧請。この時に建てた「金毘羅大権現」の石碑をめぐって紛争が起きます。高松藩が介入し、石碑撤去ということで落着したようですが、この「事件」からは高松藩内に「月参講」ができて、庶民が金毘羅に毎月御参りしていることが分かります。

金毘羅大権現扁額1
金毘羅大権現の扁額(阿波箸蔵寺)
地元讃岐で「金毘羅さん」への信頼を高めたもののひとつが「罪人のもらい受け」です。
罪人の関係者がら依頼があれば、高松・丸亀藩に減刑や放免のための口利き(挨拶)をしているのが史料から分かります。
①享保十八年一月、三野郡下高瀬村の牢舎人について金毘羅当局が丸亀藩に「挨拶」の結果、出牢となり、村人がお礼に参拝、
②十九年十二月高瀬村庄屋三好新兵衛が永牢を仰せ付けられたことに対し、寺院・百姓共が助命の減刑を金毘羅当局に願い出て、丸亀藩に「挨拶」の結果、新兵衛の死罪は免れた。
③寛延元年(1748)多度津藩家中岡田伊右衛門が死罪になるべきところ、金光院の宥弁が挨拶してもらい受けた。
④香川郡東の大庄屋野口仁右衛門の死罪についても、金光院が頼まれて挨拶し、仁右衛門は罪を許された。
このような丸亀・高松藩への「助命・減刑活動」の成果を目の前にした庶民は、金毘羅さんの威光・神威を強く印象付けられたことでしょう。同時に「ありがたや」と感謝の念を抱き、信仰心へとつながる契機となったのではないでしょうか。
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金毘羅信仰の全国拡大は、江戸における高まりがあるとされます。
 江戸の大名邸に祀られた守護神(その多くは領国内の霊威ある神)を、江戸っ子たちに開放する風習が広がり、久留米藩邸の水天宮のように大きな人気を集める神社も出てきます。虎ノ門外の丸亀京極藩邸の金毘羅も有名になり、縁日の十日には早朝から夕方まで多くの参詣人でにぎわったようです。宝暦七年(1757)以後、丸亀江戸藩邸にある当山御守納所から金毘羅へ初穂金が奉納されていますが、宝暦七年には金一両だったものが、約四半世紀後の、天明元年(1781)には100両、同五年には200両、同八年からは150両が毎年届けられるようになったというのです。江戸における金毘羅信仰の飛躍的な高まりがうかがえます。
 天保二年(一八三一)丸亀藩が新湛甫を築造するに当たって、江戸において「金毘羅宮常夜灯千人講」を結成し、募金を始め、集まった金で新湛甫を完成させ、さらに青銅の常夜灯三基を建立するという成果を収めたのも、このような江戸っ子の金毘羅信仰の高まりが背景にあったようです。
この動きが一層加速するのは、朝廷より「日本一社」の綸旨を下賜された宝暦十年五月二十日てからです。
さらに、安永八年(一七七九)に将軍家へ正・五・九月祈祷の巻数を献上するよう命じられ、幕府祈願所の地位を獲得してます。もちろんこれは、このころ頻発し始めた金毘羅贋開帳を防止するためでもありましたが「将軍さんが祈願する金毘羅大権現を、吾も祈願するなり」という機運につながります。そして、各大名の代参が増加するのも、宝暦のころからです。
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しかし、それだけで遠くの異国神で蕃神である金毘羅大権現への信仰が広がったのでしょうか。
海に関係ない江戸っ子がなぜ、金毘羅大権現を信仰したのか?ということです。別の視点から問い直すと、
江戸庶民は、金毘羅大権現に何を祈願したかということです。
 それは「海上安全」ではありません。金毘羅信仰が全国的に、広まっていくのは十八世紀後半からです。当時の人々の願うことは「強い神威と加護」で、金毘羅神も「流行神」のひとつであったというのが研究者の考えのようです。
この時期の記録には、
高松藩で若殿様の庖療祈祷の依頼を行ったこと
丸亀藩町奉行から悪病流行につき祈祷の依頼があった
という記事などが、病気平癒などの祈祷依頼が多いのです。朝廷や幕府に対しても、主には疫病除けの祈願が中心でした。ちなみに、日本一社の綸旨を下賜されるに至ったきっかけも、京都高松藩留守居より依頼を受けて院の庖療祈祷を行ったことでした。
「加持祈祷」は修験道山伏の得意とするところです。
ここには金毘羅山が「山伏の聖地」だったことが関係しているようです。祈祷を行っていたのは神職ではなく修験道の修行を積んだ僧侶だったはずです。
「安藤広重作「東海道五十三次」の「沼津」」の画像検索結果
天狗面を背負っている修験者は、何を語っているのか?
広重の作品の中には、当時の金毘羅神の象徴である「天狗面」を背にして東海道を行く姿が彫り込まれています。彼らは霊験あらたかかな金毘羅神の使者(天狗)として、江戸に向かっているのかも知れません。或いは「霊力の充電」のために天狗の聖地である金毘羅山に還っているのかも知れません。
  信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。四国金毘羅山で修行を積んだ修験者たちが江戸や瀬戸の港町でも「布教活動」を行っていたのではないかと、この版画を見ながら私は考えています。

天狗面を背負う行者
金毘羅神は天狗信仰をもつ金比羅行者(修験者)によって広められた

 修験僧は、町中で庶民の中に入り込み病気平癒や悪病退散の加持祈祷を行い信頼を集めます
そして、彼らが先達となって「金毘羅講」が作られていったのではないでしょうか。信者の中に、大店の旦那がいれば、その発願が成就した折には、灯籠などの寄進につながることもあったでしょうし、講のメンバー達が出し合った資金でお堂や灯籠が建立されていったと思います。どちらにしても、何らかの信仰活動が日常的に行われる必要があります。その核(先達)となったのが、金毘羅山から送り込まれた修験者であったと考えます。信仰心というのは、信者集団の中の磨かれ高められていくものです。そこには、先達(指導者)が必要なのです。
1金毘羅天狗信仰 天狗面G4
金比羅行者によって寄進された天狗面(金刀比羅宮蔵)

 金毘羅神が、疫病に対して霊験があったことを示した史料を見てみましょう
 願い上げ奉る口上
 一当夏以来所々悪病流行仕り候二付き、百相・出作両村の内下町・桜之馬場の者共金毘羅神へ祈願仕り候所、近在迄入り込み候時、その病一向相煩い申さず、無難二農業出精仕り、誠二御影一入有り難く存じ奉り候、右二付き出作村の内横往還縁江石灯籠壱ツ建立仕り度仕旨申し出候、尤も人々少々宛心指次第寄進を以て仕り、決して村人目等二指し加へ候儀並びに他村他所奉加等仕らず候、右絵図相添え指し出し申し候、此の段相済み候様宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、以上
   寛政六寅年   香川郡東百相村の内桜之馬場
     十月          組頭 五郎右衛門
      別所八郎兵衛殿
これは香川郡東百相村(現高松市仏生山町)桜の馬場に住む組頭の五郎右衛門が、庄屋の別所八郎兵衛にあてて金毘羅灯寵の建立を願ったものです。建立の理由は、近くの村に悪病が流行していた時に金毘羅神へ祈願したところ百相村・出作村はその被害にまったく遭わなかった。そのお礼のためというものです。

7 金刀比羅宮 愛宕天狗
京都愛宕神社の愛宕神社の絵馬

 「悪霊退散」の霊力を信じて金毘羅神に祈願していることが分かります。ここには「海の神様」の神威はでてきません。このような「効能ニュース」は、素早く広がっていきます。現在の難病に悩む人々が「名医」を探すのと同じように「流行神」の中から「霊験あらたかな神」探しが行われていたのです。
 そして「効能」があると「お礼参り」を契機に、信仰を形とするために灯籠やお堂の建立が行われています。こうした「信仰活動」を通じて、金毘羅信仰は拡大していったのでしょう。ちなみに、仏生山のこの灯籠は、その位置を県道の側に移動されましたが今でも残されているようです。
 金毘羅信仰は、さらに信仰の枠を讃岐の東の方へ広がり、やがて寒川郡・大内郡へも伸びていきます。そこは当時、砂糖栽培が軌道に乗り始め好景気に沸いていた地域でした。それが東讃の砂糖関係者による幕末の高灯籠寄進につながっていきます。。
天狗面2カラー
金刀比羅宮に寄進された天狗面

 金毘羅信仰の高まりは、庶民を四国の金毘羅へ向かわせることになります
実は大名の代参・寄進は、文化・文政ごろから減っていました。しかし、江戸時代中期以降からは庶民の参詣が爆発的に増えるのです。大名の代参・寄進が先鞭をつけた参拝の道に、どっと庶民が押し寄せるようになります。
 当時の庶民の参詣は、個人旅行という形ではありませんでした。
先ほど述べたとおり、信仰を共にする人々が「講を代表しての参拝」という形をとります。そして、順番で選ばれた代表者には講から旅費や参拝費用が提供されます。こうして、富裕層でなくても講のメンバーであれば一生に一度は金毘羅山に御参りできるチャンスが与えられるようになったのです。これが金比羅詣客の増加につながります。ちなみに、参拝できなかった講メンバーへのお土産は、必要不可欠の条件になります。これは現在でも「修学旅行」「新婚旅行」などの際の「餞別とお礼のお土産」いう形で、残っているのかも知れません。

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丸亀のふたつの金毘羅講を見てみましょう
延享元年(1744)讃岐出身の大坂の船宿多田屋新右衛門の金毘羅参詣船を仕立てたいという願いが認められます。以後、大坂方面からの金毘羅参詣客は、丸亀へ上陸することが多くなります。さらに、天保年間の丸亀の新湛甫が完成してからは参詣客が一層増えます。その恩恵に浴したのは丸亀の船宿や商家などの人々です。彼らはそのお礼に玉垣講・灯明講を結成して玉垣や灯明の寄進を行うようになります。この丸亀玉垣講については、金刀比羅神社に次のような記録が残されています。
    丸亀玉垣講 
右は御本社正面南側玉垣寄付仕り候、
且つ又、御内陣戸帳奉納仕り度き由にて、
戸帳料として当卯年に金子弐拾両 勘定方え相納め候蔓・・・・・
但し右講中参詣は毎年正月・九月両度にて凡そ人数百八拾人程御座候間、
一度に九拾人位宛参り候様相極り候事、
  当所宿余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛
  金刀比羅宮文書(「諸国講中人名控」)
とあって、本社正面南側の長い階段の玉垣と内陣の戸帳(20両)を寄進したこと、この講のメンバーは毎年正月と9月の年に2回、およそ180人ほどで参拝に訪れ、その際の賑やかな様を記しています。寄進をお山に取り次いだのは金毘羅門前町の旅館・余嶋屋吉右衛門・森屋嘉兵衛です。
 玉垣講が実際に寄進した玉垣親柱には「世話方船宿中」と彫られています。そして、人名を見ると船宿主が多いことに気がつきます。
一方、灯明講については、燈明料として150両、また神前へ灯籠一対奉納、講のメンバーは毎年9月11日に参詣して内陣に入り祈祷祈願を受けること、そのたびに50両を寄付する。取次宿は高松屋源兵衛である。
この講は、幕末の天保十二年(1841)に結成されて、すぐ六角形青銅灯籠両基を奉納しています。灯明講の寄進した灯籠には、竹屋、油屋、糸屋とか板屋、槌屋、笹屋、指物屋という姓が彫られていて、どんな商売をしているのか想像できて楽しくなります。玉垣講と灯明講は、丸亀城下の金毘羅講ですが、そのメンバーは違っていたようです。
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瀬戸内海の因島浦々講中が寄進した連子塀灯明堂をみてみましょう
この連子塀灯明堂は、一の坂にあり、今も土産物店の並ぶ中に建っています。幕末ころに作られた『稿本 讃岐国名勝図会 金毘羅之部』に
連子塀並び灯龍 奥行き一間 長十二間
下六間安政五年十一月上棟 上六間
安政六年五月上棟
と記されています。
「金毘羅宮 灯明堂」の画像検索結果
一ノ坂の途中の左側にある重要有形民俗文化財「灯明堂」で、瀬戸内海の島港の講による寄進らしく、船の下梁を利用して建てられています。当時としては、巨額の経費を必要とするモニュメントです。この燈明堂を寄進した因島浦々講中とは、何者なのでしょうか?
 この講は因島を中心として向島・生口島・佐木島・生名島・弓削島・伯方島・佐島など芸予諸島の人々で構成された講です。メンバーは廻船業・製塩業が多く、階層としては庄屋・組頭・長百姓などが中心となっています。因島の中では、椋浦が最も大きな湊だったようで、この地には、文化二年(1805)10月建立の石製大灯籠が残っていて、当時の瀬戸内海の交易活動で繁栄する因島の島々の経済力を示すものです。
生口島の玄関湊に当たる瀬戸田にも、大きい石灯籠があります。
三原から生口島の瀬戸田へ : レトロな建物を訪ねて

これには住吉・伊勢・厳島などと並んで金毘羅大権現と彫られています。自らの港に船の安全を祈願して大灯籠を建てると、次には「海の神様」として台頭してきた金毘羅山に連子塀灯明堂を寄進するという運びになったようです。経済力と共に強力なリーダーが音頭を取って連子塀灯明堂が寄進されたことを思わせます こうして、瀬戸内海の海運に生きる「海の民」は、住吉や宮島神社とともに新参の金毘羅神を「海の神」として認めるようになっていったようです。
金毘羅神
天狗姿の金毘羅大権現(松尾寺蔵)
このような金毘羅信仰の拡大の核になったのは、ここでも金毘羅の山伏天狗たちではなかったのかと私は思います。
金毘羅山は近世の初めは修験者のメッカで、金光院は多門院の院主たちは、その先達として多くの弟子を育てました。金毘羅山に残る断崖や葵の滝などは、その行場でした。そこを修行ゲレンデとして育った多くの修験者(山伏)は、天狗となって各地に散らばったのです。あるものは江戸へ、あるものは尾道へ。
 尾道の千光寺の境内に残る巨石群は、古代以来の信仰の対象ですし、行者達の行場でもありました。また、真言宗の仏教寺院で足利義教が寄進したとされる三重塔や、山名一族が再建した金堂など、多数の国重要文化財がある護国寺の塔頭の中で大きな力を持っていたのは金剛院という修験僧を院主としています。尾道を拠点として、金毘羅の天狗面を背負った山伏達が沖の島々の船主達に加持祈祷を通じた「布教活動」を行っていた姿を私は想像しています。
 そして、ここでは「海の守り神」というキャッチコピーが使われるようになったではないでしょうか。江戸時代の後半になるまでは、金毘羅大権現は加持祈祷の流行神であったと資料的には言えるようです。
金毘羅神 箸蔵寺
阿波箸蔵寺の金毘羅大権現

参考文献 金毘羅信仰の高まり 町史ことひら 91P
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