瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の武将 > 安富氏

 天正10(1582)5月7日に、信長は四国遠征を決定します。このとき、三男の織田信孝に対して以下の計画を伝えています。
①信孝を三好康長の養子とする。
②讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。
③伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。
こうして5月11日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日に出発する予定を立てました。このような中で、信長の意向を讃岐の国衆ヘ伝達する役割を担っていたのが安富氏でした。今回は、信長の四国平定策が頓挫した後の、秀吉と安富氏の関係に焦点を当てて見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

信長に代わって権力を握った秀吉は、畿内情勢が落ち着くと四国平定に乗り出します。
秀吉が黒田官兵衛に宛てた書状には、当時の阿波・讃岐の情勢が次のように記されています。

書中令披見候、阿州相残人質共、堅被相卜、至志智被相越候者、尤候、行之様子、委細小西弥九郎(行長)二書付を以、申渡候、能々可被相談候、将亦雑説申候者、沙汰之限候、牢人共申出候者を搦取、はた物二かけさせ候、随而讃州安富人質召連、親父被相越候、彼表行之儀、何も具弥九郎可申候、恐々謹言、
天正九年九月廿四日                          筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

  意訳変換しておくと
書状は拝見した。阿州の人質の扱いについては、丁寧に取り調べて、志智などを見分したうえで、対応を行うのはもっともなことである。委細は小西弥九郎(行長)に書付で申渡した。よく相談して、雑説を申す者には、沙汰限で、牢人共の申出を搦取、はた物二かけさせ候、讃州の安富の人質を召し連れ、親父でやってきた。讃岐のことについては、いずれも弥九郎に伝えてある。恐々謹言、
天正九年九月廿四日         筑前守秀吉(花押)
黒田官兵衛尉殿

  ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉に、阿波や讃岐の多くの武将が庇護を求めて、人質を差し出していたこと
②秀吉は人質の才能・人格チェックを行い、使える者は育てて使おうとしていたこと
③出先の黒田官兵衛との連絡役を務めているのが小西弥九郎(小西行長)であること。
④小西行長が秀吉の「若き海の司令官」として、各地を早舟で飛び回っていたというイエズス会宣教師の報告を裏付けるものであること
⑤同時に、黒田官兵衛に対して小西行長と協議した上で進めることとあるように、行長は戦略立案などにも参画していた。
⑥最後に「讃州安富人質召連」と、多くの人質の中で、安富氏を「特別扱い」していること

⑥からは、安富氏の人質は「利用価値」が高いと秀吉が考えていた節があります。
それは、安富氏の持つ海運力だったと研究者は考えています。安富氏は東讃守護代で、小豆島や東讃岐の港を支配下においていました。そして、引田や志度、屋島の港を拠点に運用する船団を持っていたことは以前にお話ししました。安富を配下に置けば、それらの港を信長勢力は自由に使えることになります。つまり、播磨灘沖から讃岐にかけての東瀬戸内海の制海権を手中にすることができたのです。言い方を変えると、安富氏を配下に置くことで、秀吉は、東讃岐の船団と小豆島の水軍を支配下に収めることができたことになります。これは秀吉にとっては、大きな戦略的意味がありました。こうして秀吉は、戦わずして淡路の岩屋の与一左衛門を味方に付けることで、明石海峡の制海権を手に入れ、安富氏を配下に繰り入れることで、東讃・小豆島の港と廻船を手に入れたと云うことになります。秀吉らしい手際の良さです。
年表をもう一度見てみましょう
1582 9・- 秀吉の命で、仙石秀久が河存保を救うため,兵3000を率い小豆島より渡海.
   屋島城を攻め,長宗我部軍と戦うが,攻めきれず小豆島に退く
1583 4・- 仙石秀久,再度讃岐に入り2000余兵を率い,引田で長宗我部軍と戦う
1584 6・11 長宗我部勢,十河城を包囲し,十河存保は逃亡
6・16 秀吉,十河城に兵粮米搬入のための船を用意するように,小西行長に命じる
1585年4・26 仙石秀久・尾藤知宣,宇喜多・黒田軍に属し、屋島に上陸,喜岡城・香西城などを攻略
以上のように秀吉軍の讃岐への軍事輸送を見ると「小豆島より渡海」とあります。ここからは、 讃岐派遣の軍事拠点が小豆島であったことが分かります。そして、小豆島・塩飽の領主に任じられていたのが「若き青年海軍将校・小西行長」でした。秀吉の讃岐出兵や後方支援を行ったのは舟奉行の小西行長だったことになります。それだけではありません。③には、秀吉から黒田官兵衛への指示書には、小西行長と協議しながら戦略立案せよとありました。
ここでは秀吉は、東讃守護代の安富氏を配下に置くことで、労せずして東讃・小豆島の港を支配下に置き、播磨灘以東の制海権を手に入れたことを押さえておきます。。

【史料14】羽柴秀吉書状写「十林証文」        89p
急度申候、乃去廿三日調略之以子細柴田打果候、近日其国ハ可令出馬候条、右之趣味方申江可被申遣候、猶千石(仙石)権兵衛(秀久)尉可申候、恐々謹言、
成刻                  羽筑   秀吉(花押影)
三月二十四日     
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
急ぎ知らせる。3月23日に柴田勢を打ち払った。ついては、近日中に四国平定を開始するつもりである。このことを味方に急ぎ知らせるように。なお千石(仙石)権兵衛(秀久)には連絡済みである。恐々謹言、
成刻                  羽筑   秀吉(花押影)
三月二十四日     
安富又三郎殿
御宿所
この書簡は、天正11(1583)3月23日に賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を敗死に追い込んだことを秀吉が安富氏に送ったものです。「右之趣味方申江可被申遣候」と、勝利の知らせを味方に伝達せよとあります。ここからは安富氏は、信長時代に引き続いて四国側の情報喧伝の役割を果たしていたことが分かります。
 ここで研究者が注目するのは、安富氏の宛名にいままでの筑後守がなく「又三郎」となっていることです。ここからは、筑後守は死去するか隠居して、又三郎が安富氏の当主になったことがうかがえます。この頃には前年に中富川の戦いで長宗我部氏に敗れ讃岐に逃れていた十河(三好)存保も羽柴氏に属していました。四国の「味方中」へ連絡することが求められていたのは、存保ではなく安富氏であったことを押さえておきます。

【史料15】羽柴秀吉書状写「改撰仙石家譜」
書状之旨、逐一令披見候、
一、去四日至阿州表讃岐十河(存保)・安富合手、河北不残令放火、則河端城押詰、外構乗崩、首八十余討取被指上、実二安度候、
一、今度於阿州表令忠節面々二対し一札被遣候、忠節神妙二候問可被申聞候、猶以入念無越度様分別尤二候、尚寺木口上二相含候、恐々謹言、
十二月十一日               筑前守(秀吉)直判
仙石権兵衛殿
尚以今度高名之もの共、能々書付候而可被参候、来春我々褒美可申付候間、出馬之刻聞届寺木へ申含候、
意訳変換しておくと
書状について拝見し、次のように申し伝える、
一、去る四日から阿波で讃岐十河(存保)・安富と合力して、吉野川河北地方を残らず焼き払い、河端城に押し寄せ、外構を乗崩して、首八十余を討取ったと報告を受けた。これは実に立派な働きである。
一、今度の阿波での軍功に対して、忠節神妙なので一札入れておく。猶以入念無越度様分別尤二候、尚寺木口上二相含候、恐々謹言、
十二月十一日               筑前守(秀吉)直判
仙石権兵衛殿
なお、今回の功名について、それぞれの書付を持参すれば、来春以後に褒美を取らせることにする。やってくる日時などを寺木へ提出すること。
ここからは次のような情報が読み取れます。
①天正11(1583)12月となっても、仙石氏と安富氏・十河存保が羽柴陣営下の一員として、阿波方面で侵入してきた長宗我部元親に対して軍事活動を展開していたこと
②阿波での軍功の褒賞を約束していること
しかし、天正12(1584)6月に、讃岐の十河城が長宗我部元親によって陥落させられます。すると、讃岐における反長宗我部方の活動はあまり見られなくなります。この時期の安富氏が讃岐で活動を続けたのか、それとも落ちのびたのかはよく分かりません。分かっているのは、安富氏が反長宗我部・親秀吉の立場を貫いたということです。これが後の秀吉の「安富氏=忠義の者」という好印象につながったようです。

秀吉の四国平定1

 天正13(1585)になると羽柴秀吉は、それまでの守勢から反撃態勢に出ます。
大軍を動員し、三方から四国に侵入し、またたくまに長宗我部元親の防備ラインを突破していきます。こうして降伏した長宗我部氏の領国は、土佐一国となり、残りの三国は没収されます。
秀吉は「四国国分」の構想を弟秀長に述べていますが、その中で讃岐に関する部分を抜き出したのが次の史料です。
羽柴秀吉朱印状写(部分)「毛利博物館所蔵毛利家旧蔵文書」
一、淡路事ハ心安者を可置候間、野口孫五郎(長宗)儀ハ小六(蜂須賀家政)与カニいたし、只今淡路にて取候高頭辺二弐三千石も令加増、小六与カニ可仕候、其仔細ハ千石(仙石)権兵衛尉二つけて讃岐へ可遣候へ共、さぬきハ安富又(又三郎)・十川孫六郎(存保)両人者為与力、権兵衛二可引廻由申出候、其国ニハ与力類一人も在之間敷候間、担々孫五郎事目をかけ可馳走事、(略)
一、権兵衛可申間儀ハ安富忠切越候間、郡切二いたしいつれの方へ成ともかたつけ安富二遣可申由、前廉に可被申聞候、但於大坂国儀をも聞届、権兵衛安富召寄知行所々可相定事、

  意訳変換しておくと
一、淡路については、信頼できる者を配置したい。ついては、野口孫五郎(長宗)は小六(蜂須賀家政)に味方し、淡路の筆頭知行主となっているが、それにさらに高頭辺りに2,3千石を加増して、小六の与力としたい。仙石権兵衛(秀久)には、讃岐を与え、その与力として安富又三郎・十川存保の両人を配する。讃岐には与力となる者が一人も居ないので、孫五郎に目をかけ褒美を取らせること。(略)
一、仙石権兵衛に伝えることは、安富氏は忠節な働きぶりだったので、讃岐のどこかの郡を分割して、安富に知行させることを前廉に申し聞かせておくこと。ただ大坂のことも聞届け、権兵衛が安富氏を召寄て知行するような形をとること。

ここからは次のような情報が読み取れます。
①秀吉が弟秀長に、讃岐のことについて指示を出していること
②讃岐は仙石秀久に与えるが、地侍で信頼できる者が少ないので、安富又三郎と十河存保を与力と育てること
③安富は「忠切(忠節)」であったので、 一郡を与えて知行を確定するように指示している
④安富・十河の両氏以外に、秀吉の目から見て信頼できる国衆が讃岐にはいなかったこと
仙石秀久的軍裝: WTFM 風林火山教科文組織
仙石秀久

こうして安富又三郎は、十河存保とともに仙石秀久の与力に位置付けられることになります。

結果として両氏は、領主の地位を保つことができました。長宗我部元親の侵攻と、その直後の秀吉の四国平定で、讃岐国内は動乱の舞台となり、多くの国人が讃岐からの離国を余儀なくされました。その中で、安富氏と十河氏だけが讃岐では領主として生き残ったことになります。ただし、讃岐一国を代表する地位は仙石秀久です。安富氏は、それまでの讃岐を代表する地位を失うことになります。

戸次川
四国衆の墓場となった戸次川の戦い 仙石・十河の名が見える
翌年、仙石秀久は九州攻めへ出陣しますが、秀久が率いるのは「四国衆」と総称されます。
そして、天正14年(1586)12月の戸次川の戦いで、仙石秀久が島津氏に大敗し、その責任によって改易されます。同時に、十河氏・安富氏も領主として姿を消します。十河存保が戸次川の戦いで戦死したことは知られています。「十河物語」には、安富氏(玄蕃允?)も戦死したと記されています。「十河物語」は作者も成立年代もよく分からない軍記ですが、長宗我部氏の讃岐攻めでは十河氏と安富氏が協働して戦ったことが記されています。こうした状況から一定の事実性を認めてもよいと研究者は評します。ここでは、安富又二郎も戸次川の戦いで死亡し、後継者が不在か幼かったことにより、改易されたとしておきます。

以上を整理しておきます
①信長の四国平定政策を引き継いだ秀吉も、讃岐国衆のまとめ役として安富氏を重視した。
②その後も安富氏は十河氏とともに秀吉側に付いて、長宗我部氏と戦い続け、讃岐を追われた。
③その忠節を認めて秀吉は「四国国分」の中で、仙石秀久の与力として領主の地位を十河氏と共に与えた。
④翌年の九州の戸次川の戦いで安富氏又三郎が戦死し、その地位も失われた。

最後に史料から確認できる安富氏の系図を研究者は次のように考えています。
安富氏系図

安富氏系図
①戦国期の安富氏当主は、元家以来の仮名「又三郎」、受領名「筑後守」を通称として使っている。
②彼らを特定する根本史料はないが、前後の当主は親族関係にある。
③南海通記など軍記ものに出てくる当主名と、一次史料の記述は、ほとんど合わない。
④又三郎や筑後守などの伝統的な通称さえ、南海通記には出てこない。
以上から、安富氏については南海通記の記述からは明らかに出来ない研究者は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
関連記事

前回は丸亀平野の元吉城攻防戦が、織田信長と毛利氏の備讃瀬戸の制海権をめぐる抗争の舞台となったことを見ました。阿波三好氏は、そのどちらに加担するかをめぐって混乱状態となります。それを収拾したのが淡路から帰ってきた十河存保でした。彼によって再興された阿波三好家は、足利義昭や毛利氏を中心とする反織田ネットワークに組み込まれます。このため、阿波・讃岐は織田氏や織田氏と結ぶ土佐の長宗我部氏の攻勢に晒されるようになります。この辺りは分かりにくいところなので、最初に信長と長宗我部元親の関係を整理しておきます。

長宗我部元親と明智家の系図
長宗我部元親 石井家文書の意味

元親の正室は美濃の名門土岐一の石谷頼蔵の妹で、頼蔵は明智光秀の重臣です。
土岐家・明智家、光秀と長宗我部家との関係は古く、元親の正室は、土岐の一族である石谷光政の娘でした。さらに、光秀の家臣である斎藤利三の兄、頼辰は石谷光政の嫡男として養子に入っています。
また、光秀と元親の関係は、信長の上洛の前(1568年)からあり、『元親記』には次のように記されています。
長曾我部氏は、信長公とは御上洛前から交流があった。その取り次ぎは明智光秀殿であった

信長の対長宗我部政策の転換
信長の対長宗我部元親政策の転換背景
元親はこの人脈を頼りに織田信長に接近したようです。そして信長に嫡男の弥三郎の烏帽子親になってもらうことに成功します。信長から一字拝領した弥三郎はこれより信親と名乗るようになります。

長宗我部元親と織田信長、豊臣秀吉、明智光秀らの関係をわかりやすく!
長宗我部元親の外交戦略 信長と組んで阿波の三好を攻める

信長という大きな後ろ盾を得た元親は、二方面から阿波に侵攻し、天正7年(1579)に阿波国岩倉城の三好氏を攻め、三好山城守康長の嫡男の三好康俊を降伏させます。
長宗我部元親の阿波侵攻1
『元親記』によると、元親は天正8年(1580)6月に、弟の香宗我部親泰を安土へ送り、信長から四国は元親の手柄次第でいくらでも切り取ってよいという許しを得と南海通記は記します。しかし、先ほど見た石谷家文書からは、これよりも先に、長宗我部元親は信長に接近していたことが分かります。

1579年の四国を巡る勢力諸関係

当時の四国には長宗我部氏への対抗勢力がいくつもありました。伊予国の西園寺公広や河野氏、阿波国の三好康長、讃岐の十河(三好)存保らです。彼らはまずは秀吉に使者を立て、元親の野心を伝え、その脅威を説きます。秀吉の進言によって、信長は「四国=長宗我部元親切り取り自由」容認政策を転換します。つまり、一度は四国を好きに切り取ってよしという許可を与えておきながら、手のひらを返すように三好康長を支援する立場に変わった信長と戦うことを決意したのです。

長宗我部元親の毛利との連携策

このような中で、それまで三好氏に従ってきた安富氏も独自の判断を迫られるようになります。安富氏が織田権力とどのように関係を持ったのかを見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

麒麟がくる」秀吉に四国盗られた光秀!長宗我部と縁/ご挨拶 - 大河 映画 裁判 酒 愛猫“幸あれ…!!”清水しゅーまいブログ

まず備前の宇喜多直家が、小豆島の領主・須佐美紀伊守に宛てた書状を見ておきましょう。
【史料1】宇喜多直家書状「中野嘉太郎氏旧蔵文書」
先日被対左衛門進、如預御内証下警固雖乗上甲斐々敷儀無之、於千今ハ失手成候、殊急度為御先勢、始羽筑(秀吉)歴々被指下候、大坂之義、大概相澄之条、羽筑申談御注進申上候ハ、可被出 御馬之由、御朱印頂戴、此度中国之儀、相澄可申与存候、此等之趣、雨滝(城=安富氏)へも可頂御伝達候、呉々先日御内証快然之至候、猶左衛門進申入之条、不能審候、恐々謹言、
                          宇泉(宇喜多)  直家(花押)
三月二十四日
      須紀 御宿所
意訳変換しておくと
意訳変換しておくと
先日、左衛門進の働きぶりにを見ましたが、警固や乗馬などかいがいしく勤めている。羽筑(秀吉)の働きで、大坂の石山本願寺については、大方決着がついた。そこで羽筑秀吉から次のような指示が送られてきた。 四国平定について御朱印を頂戴したので、中国平定に片が着き次第、速やかに実行に移す。ついてはこの旨を、雨滝(城=安富氏)へも連絡するように伝達があった。呉々先日御内証快然之至候、なお、左衛門進についての申入については心配無用である。恐々謹言、
                          宇泉(宇喜多)  直家(花押)
三月二十四日
      須紀 御宿所
ここからは、備前の字喜多直家が織田氏の武将・羽柴秀吉からの情報を小豆島の領主須佐美紀伊守に伝え、それを「雨滝」への伝達を命じていることが分かります。
 ここからは次のような情報が得られます
①備前の宇喜多直家が織田氏の武将・羽柴秀吉に配下に組み入れられていたこと
②宇喜多直家は、小豆島の須佐美紀伊守を配下に置いて、人質を取っていたこと
③須佐美紀伊守に対して、秀吉の伝令を雨滝城の安富氏に伝えるように命じていること。
ここからは次のような命令系統が見えて来ます
信長 → 秀吉 → 備前岡山の宇喜多直家 → 小豆島の須佐美紀伊守 →
→ 雨滝城の安富氏 → 讃岐惣国衆
 ここに登場する 宇喜多直家について押さえておきます。

YouTube

①美作守護の赤松氏の被官人の浦上氏が前守護代として自立
②浦上宗景(むねかげ)の下で、有力武将に成長し岡山城(石山城)を拠点に勢力拡大
③これが備前福岡などの東部地域から備前中央部の岡山城下へ経済的中心の移動につながる
④主君の浦上宗景(むねかげ)が織田方に付いたのに対して足利義昭の仲介で毛利氏と和議
⑤織田方に付いた備中松山三村元親を、毛利勢と共に攻め落として所領拡大。
⑥さらに主君浦上宗景の天神山城を攻め、美作、播磨まで兵を進めて制圧
⑦下剋上を成し遂げた宇喜多直家は、備前、美作そして播磨の一部を領有する有力大名へ
⑧ところが羽柴秀吉が中国地方攻略に乗り出してくると、直家は秀吉方へ付き、織田方の先鋒として、攻め寄せる毛利の大軍と再三にわたり激戦を展開
この書簡は、直家が秀吉と密に連絡していることや本願寺との交渉を記しているので、天正8(1580)年のものと研究者は判断します。小豆島の領主・須紀(須佐見)を通じて、「雨滝」との連絡が行われていたことが分かります。ここでは1580年には、安富氏は織田方についていたこと押さえておきます。
秀吉の備讃瀬戸・淡路への進出

上の表からは、長宗我部元親の阿波侵攻に対して、篠原氏や安富氏が人質を秀吉に出して保護を求めていることが分かります。秀吉は黒田官兵衛に命じて、篠原氏の木津城や撫養の土佐泊城に戦略物資を容れています。

土佐泊城
撫養の土佐泊城(緑内部)

【史料10】長宗我部元親書状写「土佐国議簡集」
此度申合旨、宜無相違土佐泊之者共悉被討呆旨、安富方同前可被遂御忠儀者、三木郡共外壱郡於隣国可進之候、無異儀御知行候、恐々謹言、
                      長宮 (長宗我部)元親 (花押)      
      九月十六日
篠弾入 御宿所
意訳変換しておくと
この度の約束について以下が相違ないことを明記しておく。土佐泊を討ち取った場合には、安富方の忠儀として、讃岐三木郡とそれ以外の壱郡を知行地として与えることを約束する。恐々謹言、
                      長宮 (長宗我部)元親 (花押)      
      九月十六日
篠弾入 (篠原実長(弾正忠入道)御宿所
ここからは、長宗我部元親が篠原実長に対し、阿波で最後まで抵抗している撫養の土佐泊城を落としたら、讃岐国の三木郡とその他一部を与えることを約束していたことが分かります。篠原実長は阿波三好家の重臣です。その篠原氏を長宗我部元親が調略ができたのは、阿波三好家の内紛で十河存保が讃岐に逃れていた天正8年(1580)のことと研究者は判断します。
 ここで研究者が注目するのは実長に求められるのが「安富方同前」の「忠儀」であることです。ここからは安富氏が長宗我部氏の配下として動いていることが分かります。安富氏は織田方に身を投じながらも、織田氏の同盟者である長宗我部氏と連携していたことがうかがえます。

長宗我部元親の書状です。三好康慶が讃岐の安富氏の居館に下向してくることを伝えています。
【史料11】長宗我部元親書状写(部分)「吉田文書」 

一、三好山城守(康慶)近日讃州至安富館下国必定候、子細口上可申分候、

意訳変換しておくと
一、三好山城守(康慶)が近日中に、讃州の安富氏の居館を訪れる予定である。子細については、使者が口頭で説明する。

この文書には天正8(1580)年11月24日付の書状写の一部とされます。 三好康慶が「安富館」(雨滝城)に下向する予定があると記されます。この他にも、阿波の勝瑞が本願寺の残党によって占拠されていることにも触れられています。こうした状況の中で安富氏の天霧城は、信長勢力の四国での重要拠点としての役割を果たしていたと研究者は考えています。これを裏付けるのが次の書簡です。
【史料12】松井友閑書状「志岐家旧蔵文書」
今度淡州之儀、皆相済申候、於様子者不可有其隠候、就共阿・讃之儀、三好山城守(康慶)弥被仰付候、其刻御人数一廉被相副、即時ニ両国不残一着候様ニ可被仰付候、可被得其意之旨、可申届之通、上意候間、其元□□二□[一、尤専用候、猶追々可中候、恐々謹言、
                    宮内卿法印 友感(閑) (花押)
十一月二十三日
安富筑後守殿
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
今度、淡路平定が完了したので、次の課題となる阿波・讃岐の平定について、三好山城守(康慶)を派遣するので、定められた日時に、定められた兵員数を即時に出兵できるように両国の国衆たちに仰せつけておくように。この申し届けを上意として受け止めた物に対しては、後々に褒美を使わすものである。恐々謹言、
                    宮内卿法印 友感(閑) (花押)
十一月二十三日
安富筑後守殿
安富又三郎殿
御宿所
  送り主の「宮内卿法印友感(閑)」は、信長の側近である松井友閑です。
天正9年(1581)に淡路が羽柴秀吉・池田元助によって平定された後のことで、阿波・讃岐計略について三好康慶が「安富館」(雨滝城)に派遣されること、阿波・讃岐の両国の諸勢が、その指示に従って動くように安富氏に伝えています。この翌年には織田氏は康慶の養子となった信長三男信孝を主将として四国平定を計画します。その計画の初見が、この文書になるようです。
ここに登場する三好山城守(康慶:やすなが)を押さえておきます。

戦国 三好一族 - 探検!日本の歴史
三好康長は阿波三好氏の一門衆で、兄の三好元長が宗家を継ぎ、その子・三好長慶は甥にあたります。畿内で転戦後に、信長の配下となり、阿波に強い地盤を持つ三好一族として影響力を評価され、織田軍の四国攻略の担当に抜擢されます。まず、天正6(1578)年には、淡路の安宅信康に働きかけて自陣に引き込みます。この頃に、三好康長と秀吉は接近しはじめます。秀吉のねらいは、当時交戦中だった毛利氏に対抗するために、三好氏の水軍を味方につけることでした。さらに、康長の子の三好康俊(式部少輔)は長宗我部側にあって、岩倉城主でした。そのため自分の子を織田方へ寝返らせるために、秀吉が送り込んできたようです。その受入口が安富氏の雨瀧城ということになります。天正9(1581年)1月に、康長は雨滝城にやってきて、情報収集や分析を行った後に阿波に入ります。そして長宗我部氏に属していた自分の子の三好康俊を織田側へ寝返らせることに成功します。

信長と長宗我部元親 友好から対立へ


信長の幻の四国平定

 天正10(1582)年2月9日、三好康長に再度「三好山城守、四国へ出陣すべき事」の書状が信長から届きます 。今度は長宗我部元親を討つ四国遠征に先んじて再び阿波に渡たります。5月7日付の信孝宛の朱印状には、次のように記されています。
①信長の三男信孝を三好康長の養子とする。
②讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与える。
③伊予国・土佐国については信長が淡路に到着してから決める。
『宇野主水日記』同年6月1日条には、このとき康長が信孝を養子とする事も内定していたと記されています。こうして、5月1日、信孝は丹羽長秀・津田信純・蜂屋頼隆を副将として大坂・堺方面に兵を集結させ、6月3日の出港に向けて準備を進めていました。ところが、6月2日に本能寺の変が起きて信長が光秀に殺されてしまいます。そのため信孝の出征は急遽、中止となります。この時、康長は阿波一宮城と夷山城を攻略中でした。6月3日に知らせを受けると、急ぎ兵をまとめて河内に戻り、上洛します。
 ここでは信長による四国平定の立案責任者が三好康慶であったこと、康慶は安富氏の雨滝城を足場にして阿波に入っていることを押さえておきます。安富氏は阿波・讃岐の親織田勢力のまとめ役を果たしていたことになります。
最後に当時の安富氏の居城とされる雨瀧城を見ておきます。

雨瀧山城 髙松平野での位置
髙松平野の東端に位置する雨瀧城

 「雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」と記されています。室町幕府の最有力家臣は、山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていました。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに通行税を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。その権利を安富氏は持っていたようです。安富氏のもとで、多くの船が近畿との海上交易ルートで運用されていたことが考えられます。
『納帳』には「讃岐富田港」は出てきませんが、富田荘の物資集積や搬入のために、小船による流通活動が行われていたことは考えられます。富田荘の「川港」の痕跡を、研究者は次のように挙げています。

雨瀧山城 城下町富田2 

雨瀧山城 商家町富田 
①「古枝=ふるえだ=古江?」で、港湾の痕跡
②「城前」は、六車城の麓で津田川の川筋で、荘園期富田の中心地。
③「市場」は、津田川の南岸にあり定期市の開催地。
④「船井」は、雨瀧山城の西尾根筋先端にある要地で、船井大権現と船井薬師があり、港湾の痕跡
以上のように津田川沿いには、海運拠点であったと推測できる痕跡がいくつもあります。これらが分散しながら、それぞれに「港」機能を果たしていたことが推察できます。比較すれば、阿野北平野を流れる綾川河口が松山津や林田津などのいくつかの港湾が、一体となって国府の外港としての役割を果たしていた姿と重なり合います。これらの「港」を、拠点とする讃岐富田港船籍の小船が東瀬戸内海エリアで活動していたことが考えられます。つまり、安富氏も瀬戸内海交易の活動メンバーの一員だったのです。
雨瀧城の町場形成に関連する地名には、次のようなものがあります。

「本家」・「隠居」・「南屋敷」・「しもぐら(下倉)」・「こふや(小富屋)」・
「おおふなとじんじや(大舟戸神社)」・「大日堂」

これらの地名がある場所を確認すると、現在の富田神社と旧御旅所・参道を軸線にする両側に散在していることが分かります。。ここからは富田神社の参道を中心軸して、町場が形成されていたと研究者は推測します。

雨瀧山 居館跡奧宮内3
雨滝城 奥宮内居館跡

以上をまとめておきます。
①天正6年(1578)の阿波三好家再興後も安富氏は三好氏に属していた。
②それが1580年頃から羽柴秀吉・宇喜多直家の調略や本願寺が織田氏に屈服したことを受けて織田方として動き始めまる。
③こうした動きは阿波三好家の三好存保(義堅)の指示によるものでなく、安富氏独自の判断によるものであった。
④安富氏は織田方の三好康慶の下向先でもあり、織田氏の意向を讃岐や阿波ヘ伝達する役割を担うなど、信長の四国平定政策の重要な役割を担う一員であった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
関連記事

           
 前回は16世紀初頭の永世の錯乱後の安富氏の動きを次のように整理しました。
①永世の錯乱後の中で、在京の安富氏は没落し、細川晴元についた国元の安富氏が生き残った。
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
③この時期の安富氏は讃岐にあって、宇多津の本妙寺の諸役免除を行うなど港湾都市宇多津の支配権を握っていた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
⑤その一方で安富氏の権益下に、阿波の篠原氏の勢力が及んでくるようになった。
⑥同時期に安富氏は細川晴元より、三好長慶の末弟・十河一存を討つ指揮を求められている。
⑦安富氏は江口の戦い後も細川晴元と結んでいたが、讃岐に進出する三好氏勢力への反発が高まった。

今回は細川晴元失脚後の安富氏について見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号」です。
安富氏は、三好長慶が細川晴元を追放したも晴元側についていたようです。しかし、讃岐東部で三好方と反三好方(晴元方)が軍事衝突したことは史料からは確認できません。時間をかけて、安富氏は三好氏の配下に置かれていったようです。
安富氏が反三好を貫き通すことが出来なかったのはどうしてでしょうか?
考えられることは、安富氏との直接的に利害対立していた十河一存と篠原氏の脅威が取り除かれたことです。十河一存は、弘治年間頃に一存の次男が和泉守護代松浦氏の養子となり、一存も和泉の岸和田城を本拠地とするようになります。つまり、脅威であった十河氏の勢力が東讃から消えたのです。
 もう一方の篠原氏について、以前に次のようにお話ししました。
①天霧城攻防戦の攻め手は、三好実休でなく三好氏の重臣篠原長房であったこと。
②時期は1558年ではなく、1563年であったこと(1558年は三好実休は畿内で転戦中)
③つまり、天霧城を攻め西讃岐守護代家香川氏を追放したのは篠原長房であること。
こうして讃岐西部は篠原長房の支配下に置かれるようになります。そして、篠原氏の管轄エリアが西讃エリアに限定され、東讃にその力を及ぼすことがなくなります。篠原氏の脅威もなくなったのです。こうして「一存の畿内転戦 + 篠原氏の西讃岐進出」=「東讃岐における安富氏との競合の一時凍結」という情勢を産み出したと研究者は推測します。これが安富氏が反三好を貫徹しなかった理由というのです。
次に三好氏の下で安富氏が果たした役割がうかがえる史料を見ておきましょう。
浦上宗景書状写「六車家文書」
猶々、当表任存分候ハヽ、向後対御方別而可遂馳走候、近来依無指題目不申入候、貴国静誰之由珍重候、就中当国之義、字喜多(直家)逆心令露顕、去春以来及矛盾候、手前之儀堅日之条毎々得勝利候、可御意安候、然者□々可預御入魂之旨申入候き、此時之条□□ノ覚と云一廉被不留候、□御賢慮所希候様外見合候、而全可遂一左右候、普伝(日門)上人無御等閑候由、委細可為御伝達候、恐々謹言、
五月二十五日              (浦上)宗景(花押影)
安富筑後守殿
まいる御宿所
意訳変換しておくと
「浦上宗景書状写 六車家文書」
こちら備前では、抜かりなく対応をすすめており、近頃は大きな問題もありません。貴国讃岐も平穏に治まっており喜ばしいことです。当国については、字喜多(直家)が逆心を露わにして昨年の春以来、小競り合いが続いています。しかし、これについても我が方が優勢であり、心配をおかけするような情勢ではありません。
   もし、「当表」を任せてもらえれば、こちら(浦上氏)からも「馳走」させていただきます。また、私は普伝(日門)上人と懇意にさせていただいています。その旨を取り次いでいただけるようお願いします。恐々謹言、
五月二十五日              (浦上)宗景(花押影)
安富筑後守殿
まいる御宿所
これは備前の浦上宗景から安富筑後守に宛てられた書状です。年紀がありませんが宇喜多直家が宗景から離反し、春以来交戦しているという状況から、天正3(1575)年と研究者は判断します。

 浦上宗景は元亀年間に三好氏と同盟関係にあり、その支援を受けていたことが史料から分かります。宗景が「馳走」するとする「御方」は三好氏を指すのでしょう。この史料が「三好=浦上同盟」の延長上に位置することが分かります。そこに安富氏の名前が出てきます。安富氏が浦上氏を三好氏に取り次ぐ役割を果たしています。安富氏が重要なポジションにあったことが裏付けられます。

文書の最後に、宗景は「普伝上人=普伝院日門」と親しいことを三好氏に伝えるように依頼しています。
日門は、三好実休などの阿波三好家が帰依した日班と交流がある僧侶で、堺の講会にも参加しています。ここからは、日門も三好氏と交流があったことが推測できます。三好・浦上間の交渉に日門が登場することは法華宗の流通ネットワークが利用されていたことを示す物です。前回見たように港湾都市宇多津の管理権を握っていたのは安富氏でした。そして、特権を与えていた日蓮宗本妙寺は日班が属する法華宗日隆門流の寺院でした。日隆のネットワークの中に宇多津や安富氏が組み込まれていたことがうかがえます。ここでは、安富氏は三好氏に属しながら、三好氏と同盟する周辺勢力との交渉に関係していたことを押さえておきます。

安富氏と三好氏の関係は、もうひとつの史料で見ておきましょう。

【史料七】三好長治書状「志岐家旧蔵文書」
篠原上野介・高畠越後知行棟別儀、被相懸候由候、此方給人方之儀、先々無異儀候間、如有来可被得其意事、肝要候、恐々謹言、
                   彦次郎 (三好) 長治(花押)
十月十七日     
安筑(安富)進之候
この文書も年紀がありませんが「戦国遺文三好氏編」では、天正3年(1575)とします。
三好長治は「篠原上野介・高畠越後知行」の棟別銭がかけられたことについて、こちらからは異議がないので従来通りにするよう安富筑後守に伝えています。筑後守が棟別銭をかけるのを認めたのでしょう。ここに出てくる篠原上野介と高島越後(越後守?)についてはよく分かりません。ただ両人の名字は阿波国人のもので、篠原名字なので、元亀4年(1573)の篠原長房減亡後、篠原氏が讃岐に持っていた権益が安富氏に与えられた可能性があります。どちらにしても、阿波三好家の当主が安富氏に権益を認めている内容です。ここからは両者には主従関係があったことが裏付けられます。

こうして見ると三好長治の時期にも、安富氏は三好氏に従っていたことが分かります。この年・天正元年(1573)には、畿内の三好本宗家が織田氏によって減ぼされます。その結果、2年後には阿波三好家重臣として河内で抵抗していた三好康長(康慶)も織田氏に属服し、その家臣となります。それでもなお安富氏が三好氏に従い続けたことになります。
その理由として、研究者が指摘するのは反三好勢力による香川氏への支援があったことです。
先ほど見たように1563年に天霧城を拠点とする香川氏は、篠原篠原長房によって攻め落とされます。そのため毛利氏を頼って、安芸に亡命中だったようです。その香川氏の讃岐帰国運動を、細川京兆家の当主・信良(晴元の子)は後援し、讃岐国東六郡を宛行っています。信良は実質的な支配力を持っていたわけではないので、この領知宛行は空手形です。しかし、東六郡に勢力を持つ国人たちとっては、香川氏の復帰を後押しする「毛利=細川京兆家=信長」は、仮想敵国と見えます。そのため安富氏ら東讃岐の国人は三好氏に従う以外に選択肢がなかったようです。また以前にお話したように、安富氏は三好氏の重臣・伊沢氏と縁戚関係がありました。こうした関係性が三好氏配下に留まり続けた理由と研究者は考えています。

以上を整理しておきます
①讃岐に侵攻する阿波三好勢力に、当初は安富氏は抵抗したが、最終的には三好氏に属した。
②その背景には、十河一在や篠原長房の脅威がなくなり、安富氏の権益を三好氏が容認したこと。
③三好氏の配下として、畿内や吉備に関わり、利益を得るようになったこと
④その結果、安富氏が三好氏の軍事行動にどう関与したのかはよく分からないが、三好長治が横死するまで三好氏に属し続けた。
⑤香川氏の西讃帰国運動を支援する毛利氏や細川京兆家や信長などは仮想敵国と受け取られた。
⑤そうなると、頼れるのは隣国の三好氏以外に選択肢が無かった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号

戦国時代の讃岐ついては、過去の研究の多くは近世に書かれた軍記物に頼ってきました。しかし、南海通記などの信頼性が失われる中で、一次史料による新たな記述が求められるようになっています。そんな中で、西讃守護代の香川氏については秋山文書などの発掘で、その解明が進み新たな実像が見え始めました。今回は、東讃守護代の安富氏を一次資料で追いかている論文を見つけましたので紹介したいと思います。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」です。

永世の錯乱3
永世の錯乱(1507年)


永正4年(1507)に、細川京兆家の当主政元が、家臣の香西氏によって暗殺されます。これを契機に「永世の錯乱」と呼ばれる権力闘争が細川家内部で開始されます。その余波として、阿波の細川氏が讃岐に侵入し、讃岐はいち早く戦国時代に突入することは以前にお話ししました。この動乱の中に安富氏もたたき込まれていきます。
 当時の安富氏の動きを系図化して見ておきましょう。

HPTIMAGE.jpgy
安富氏の系図(一次史料によるもの)
ず安富氏の系図をみながら当主たちを追いかけて見ます。
①の安富元家は細川京兆家の筆頭内衆で、東讃岐守護代でもありました。
政元が「天狗道」に執着して政治に関心を失う中で、京兆家を主導することもあったので、その地位は高かったようです。しかし、文亀三年(1503)8月安富元家は内衆の制御を図る細川政元によって失脚させられ、翌年七月末に死去してしまいます。元家の東讃岐守護代の地位は、廃嫡されていた②長男元治(又二郎)が継承します。ところが元治も、永正元年(1504)9月、摂津守護代薬師寺元一の反乱の中で戦死します。その後は、元治の弟と思われる③安富元顕(新兵衛尉)が東讃岐守護代となります。しかし、これも永正4(1507)年に細川政元が暗殺されると、元顕は細川澄之に与して動き、澄之とともに討たれてしまいます。
 次に登場するのが永正6(1509)には高国方として④安富元運(又三郎)が確認できます。元運は世代や仮名から元治の遺児である可能性があると研究者は考えています。細川高国が澄元を畿内から追うと、高国は守護代クラスの被官を重臣とする体制の復古に動きます。そこに起用されるのが⑤安富元成(又三郎、元運と同一人物?))です。こうして、元成によって、守護代家としての安富氏は復活します。ところが国元の讃岐には、阿波から澄元方の影響力が及び、元成の東讃岐守護代は実質を伴わなくなったようです。元成は永正11(1514)までに出奔していまいます。
 高国は大永三(1513)に嫡男植国付きとして安富又二郎を配して、守護代家安富氏の復活を図ります。ところが、植国が大永5(1525)年に亡くなると、又二郎は出家してしまいます。こうして、守護代家安富氏の復権は挫折します。なお、守護代家・安富氏の傍流として安富家綱が高国に近臣として仕えています。そして、高国方に見える安富氏は享禄3年(1530)七月の安宮(安富)家綱の後継者と思しい又次郎の戦死を最後に確認できなくなります。つまり、在京の安富氏は永世の錯乱に飲み込まれて姿を消して行ったようです。

永世の錯乱抗争図3
一方、澄元・晴元方についた安富氏を見ておきましょう。
永世17(1520)、三好之長が細川高国と戦った「等持院の戦い」では、三好方に「安富」の名前が見えます。この安富氏は香川氏と並列されているので、澄元によって東讃岐守護代家に立てられたものと研究者は推測します。
澄九・晴元と高国の京兆家をめぐる争いは、結果として細川家の弱体化を招きます。そのような中で、大永7(1527)、高国から離反した波多野几清・柳本賢治兄弟が晴元と結び、高国を破って京都から追放します。高国はその後は京都を奪還できないまま、享禄4年(1531)に敗死します。このような中で、大永7(1527)年以降に晴元方の安富氏が畿内に出陣したかどうかは分かりません。讃岐在国の安宮氏は、晴元方の安富氏のようです。
なお、安富元家は通称を又二郎、新兵衛尉、筑後守と変化させたいます。
これについて川口成人氏は、この通称を仮名の又二郎は安芸守家のもので、受領名の筑後守は筑後守家のものと推定します。元家の父元綱は安芸守家から筑後守家へ養子に入ったため、元家の通称は安芸守家の仮名から比後守家の受領名へ推移するものとなったとします。そして、元家以降は、又三郎が守護代家の正嫡の仮名として定着していきます。守護代家としての安富氏が分裂しても、元家の通称がその正統性を示すものととされていたようです。
 ここでは、安富元家以降、永世の錯乱で両細川が争う中で、安富氏も在京する高国方と讃岐に在国する澄元・晴元方に分裂していったことを押さえておきます。

在京する安富氏は、高い家格を期待されていました。
しかし、国元の讃岐に影響力を及すことはできなかったようです。そのため軍事動員力が機能せず、その地位は安定しません。やがて、高国やその残党の中から安富氏は姿を消します。細川晴元が優位になるにつれて、安富氏の嫡流は晴元方に一元化されたと研究者は考えています。

安富氏が備讃瀬戸の重要港湾都市の支配権を握っていたことを示す文書を見ておきましょう。

【史料1】安富元保書下「本妙寺文書」
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相違状如件
享禄二(1529)正月二十六日     元安(花押)
宇多津法花堂

【史料2】安富政保奉書「本妙寺文書」
当寺々中諸課役事、元保任御免除之旨、得其意候者也、乃状如件、
享禄二年七月二日        安富左京進  政保(花押)
宇多津 法花堂
史料1は享禄二年(1529)に、安富元保が宇多津の日蓮宗本妙寺(法華堂)の諸役を免除したものです。
研究者が注目するのは諸役免除特権が書下形式で発給されていることです。ここには京兆家当主・細川晴元の諸役免除を前提にする文言はありません。安富元保は自分の判断で諸役免除を行っています。宇多津は、この時期には安富氏が管理権を行使していたことがここからは分かります。

DSC08543
              日隆像(宇多津の本妙寺)
 細川晴元の「堺幕府」樹立の背景には、日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れ利用価値を認め、法華宗を通じて流通システムを握ろうとする考えがあったことは以前にお話ししました。また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」を構想していたと考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして自己の影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもありました。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったというのです。三好長慶は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき、法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。そのサテライト拠点のひとつが宇多津の本妙寺ということになります。

史料2は、史料1の「元保書下」を受けて発給された奉書です。
ここに登場するのが「安富左京進政保」です。この人物は、長禄4年(1460)に「安富左京亮盛保」が在国の小守護代として確認できるので、政保は盛保の子孫の可能性があります。元保などの在京の安富氏は、畿内の晴元権力の意思決定には関わることができない存在で、在国の「安富左京進  政保」が国元を動かしていたと研究者は考えています。

本門寺の保護者が安富氏から篠原氏に替わったことを示す文書を見ておきましょう。
【史料三】篠原盛家書状「本妙寺文書」
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富吉筑後守(元保)如折紙、拙者其津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
                    篠原雅楽助  盛家(花押)
天文十(1582)年七月十七日     
字多津法花堂鳳風山本妙寺
          多宝坊
宇多津を支配することになった阿波の篠原盛家が「安富古筑後守(元保)」の折紙を先例として、本妙寺の諸役免除特権を認めています。「安富古筑後守」の折紙とは【史料1】のことでしょう。篠原盛家は本妙寺の諸役免除特権を引き続き認めていますが、これは安富氏の先例を継承するものです。「史料2」も書状形式なので公的な権限に基づくものではありません。
 篠原盛家は阿波守護家の被官で三好氏と深いつながりを持っていました。「右京進」や「大和守」を名乗る篠原氏嫡流と盛家の関係はよく分かりません。しかし天文8年(1529)9月には篠原右京進と盛家が阿波守護家細川持隆の使者となって働いています。ここからは、篠原家の嫡流に近い位置にあったことがうかがえます。またこの文書からは、阿波守護家の被官である盛家が宇多津に進出してきたことが分かります。これは、安富氏にとっては宇多津の伝統的な権益を奪われたことを意味します。安富氏の管轄エリアに三好氏と縁深い篠原氏が進出してきたことは、三好氏への警戒意識を抱かせることになったと研究者は推測します。



【史料4】細川晴元書状「服部玄三郎氏所蔵文書」
去月二十七日砥十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知仔細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及是非候、所詮退治事、成下知上者、安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、恐々、
八月十八日    (細川)晴元 (花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
 意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言
八月廿八日           (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
 宛先人となっている殖田次郎左衛門尉については、よく分かりませんが「山田郡殖田郷」を名字とする国人のようです。
三好長慶と十河氏
三好長慶を支えた弟たち
十河一存は、三好長慶の末弟で讃岐国人十河氏を継いだ人物であることは以前にお話ししました。彼は天文17年(1548)を初見として民部大夫を称するようになります。仮名の孫六郎と書かれてるのでこの文書は、それ以前のものと研究者は判断します。一存が十河城を奪った契機やこの事件がいかにして解決されたかは、史料がないため分かりません。ただ分かるのは、これ以前は十河城は十河一存のものではなかったことです。
一存が十河氏の養子となり相続したという説に疑問符がともります。
【史料4】からは、十河一存の横暴に対して、細川京兆家から命令を受けて対応に当たっているのは安富氏だったことが分かります。
晴元の時代になっても細川京兆家が東讃岐の国人を軍事動員するのは、安富氏が担当していたのです。これは安富氏が東讃岐守護代の地位を細川晴元から認められていたことを裏付ける史料です。その後も十河一存は、細川京兆家のコントロールから離れ、兄の三好長慶側について動くようになります。それを安富氏は次第に制御できなくなります。

細川晴元・三好氏分国図1548年

     【史料5】細川晴元書状写「六事家文書」
為当国調差下十河左介候之処、別而依入魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯考入道(宗轍)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、
四月十二日    (細川)晴元  (花押影)
安富又三郎殿
意訳変換しておくと
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、その方が懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属したので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、
四月二十二日                  晴元(花押影)
安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。

【史料5】については「香川叢書』や「香川県史」は「摂州表之儀過半属本意」に注目して、大永7(1527)年のこととします。しかし、研究者は次の点に注目して異論をだします。
①波々伯部宗徹、田井長次ともに晴元の奉行人であること。
②波々伯部宗徹(元継)が伯守を称し始めるのは天文17(1548)年8月以降であること
以上から、この文書は晴元が三好長慶に敗れ没落する江口の戦い以降の文書とします。

三好長慶の戦い

ここで十河左介が晴元側について活動していることに研究者は注目します。十河左介は十河一存の一族でしょう。江口の戦い後になっても、十河左介は細川晴元に従う武将として三好方と戦い続けていることになります。さらに、安富氏も江口の戦い後も晴元側について動いていたことが裏付けられます。

江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。

そのような中で1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。
そして
長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味すると研究者は判断します。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。これも阿波と讃岐の軍勢が一体化を示す動きです。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていく姿が見えます。
以上をまとめておきます
①永世の錯乱後の中で、在京の安富氏は没落し、細川晴元についた安富氏が生き残った。
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
③この時期の安富氏は讃岐にあって、宇多津の本妙寺の諸役免除を行うなど港湾都市宇多津の支配権を握っていた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
⑤その一方で安富氏の権益下に、阿波の篠原氏の勢力が及んでくるようになった。
⑥同時期に安富氏は細川晴元より、三好長慶の末弟・十河一存を討つ指揮を求められている。
⑦安富氏は江口の戦い後も細川晴元と結んでいたが、讃岐に進出する三好氏勢力への反発が高まり、しだいに反三好勢力となっていった

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021年」
関連記事

 

 
武士に求められた諸要素
  
中世後期になると武士の領域権力化には、次のような要素が求められるようになります
①軍事力(ハードパワー)
②文化力(ソフトパワー)
③それを支える経済力
④それらを総合した政治力(外交力を含む)

これらの要素を総合的に備える武士団が生き残り、戦国大名へと成長して行くようです。そのような中で、讃岐で②の文化力が最も高かったのが東讃守護代を務めた安富氏のようです。今回は安富氏のどんな点が評価されているかに焦点をあてて見ていくことにします。テキストは「溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要」です。

まずは安富氏の出自と讃岐定住までを押さえておきます。

安富氏2

讃岐安富氏は、下総国の民部太夫照之が祖と伝えます。鎌倉時代の幕府奉行人の中に安富氏が見えるので、下総の安冨氏の一族から室町時代に細川氏の近臣安富氏が起こったようです。室町幕府右筆方奉行人の中に安富行長等幾人かの安富氏一族の名があります。『西讃府志』には、細川頼之に従って応永年間(1368~74)に讃岐に入部し、三木・寒川・大内3郡18か村を領して、後継のいなかった三木氏に代わって平木城主になったと記します。安富氏が細川氏の被官として史料上にあらわれるのは『相国寺供養記』で、明徳3年(1392)の相国寺落慶法要に際して、細川頼元の「郎党二十三騎」の1人として安冨安芸又三郎盛衡が供奉しています。その後、安富氏は讃岐の守護代に任じられ、応永16年(1409)には安芸入道盛家が又守護代の安富次郎左衛門に施行状を下しています。
 以上から14世紀後半に細川頼之に従って来讃した安富氏が15世紀初頭には東讃守護代のポストを得ていることを押さえておきます。

近年の研究で、安富氏は鎌倉時代に六波羅探題をはじめ関東や鎮西探題でも活躍した奉行人だったことが明らかにされています。
建長2年(1250) 六波羅奉行人には安冨五郎左衛門尉・安冨民部大夫、同3年には安冨民部太夫
建治3年(1277) 関東では安富民部三郎入道(泰嗣・法名行位)が引付奉行人に補任
正和5年(1316) 安富行長、文保元年(1317)には安冨兵庫允が補任。
ここからは、安富氏は吏僚としてのスタートを六波羅奉行人から始め、鎮西探題が発足すると鎮西引付奉行人として活躍したことが見えて来ます。特に正和5年(1316)に六波羅奉行人になった安富行長は、室町幕府にも仕え、足利尊氏の側近として彼の右筆を務めた人物として知られています。 
佐藤進一氏は、室町幕府開創期の六波羅探題と室町幕府との連続面に注目して、六波羅評定衆や同奉行人の多くが室町幕府に再出仕していた事実を明らかにしました。室町幕府は六波羅探題の発展型であるということです。それは西国の政治・社会情勢に明るかった六波羅奉行人・在京人の多くは、そのまま足利高氏に掌握され、開創期の室町幕府の主要構成員となったという事実に基づいています。ここでは、室町幕府の諸機関の多くは、鎌倉的幕府秩序の維持者としての性格をもち、その構成員もまた、それぞれの機関の性格にあった階層の文士・武士によって占められていたことを押さえておきます。
安富氏のように前代奉行人の家の出身と推測される者は次の通りです。
足利直義の執政機関の康永3年(1344)の編成表に、1番の安冨孫三郎、2番の安冨進三郎、
貞和5年(1349)の編成表には、4番に安冨三郎左衛門尉の名があります。 
一方、在京人で六波羅探題下に属していた香川氏は、正嘉元年(1257)の新日吉社小五月会の流鏑馬や乾元2年(1303)の幕府御的始において、それぞれ香川新五郎光景、香川五郎が射手を勤めています。こうして見ると安富氏や香川氏は鎌倉時代には洛中警固を主な任務とした武士(武官)としての系譜を持っていました。これが後の讃岐国守護代としての在地支配の在り方や性格にも少なからず影響を与えたのではないかと研究者は考えています。

 15世紀初頭に、東讃守護代として登場してくるの安富宝蜜・宝城兄弟です。
『顕伝明名録』では「宝蜜=周防守入道」で「宝城兄」としています。亡父の追善和歌の勧進等でも宝蜜が主導していることなどから、宝蜜が宝城の兄であるようです。両人の文化的な活動を年表化して見ていくことにします。
絵本太閤記 7 2版にある「光秀連歌の図」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
絵本太閤記 7 2版にある「光秀連歌の図」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

①応永21年(1414)4月17日、讃岐守護の道歓細川満元邸で催された「頓証寺法楽千首和歌」

頓證寺法楽続百首和歌
                  頓證寺法楽続百首和歌
前年が崇徳院250 年遠忌に当たっていたので、その慰霊のための法楽の催しだったようです。詠者の中には、道歓、梵燈、重阿、堯孝、正徹等の他に、満元の被官であった安富宝密・安富宝城兄弟が参加しています。このうち安富周防入道宝蜜は、崇徳院御影堂に掲げる額の字の揮毫を、道歓を介して将軍義持に願い出ています。これに対して将軍は、仙洞の御小松院に執奏して「頓証寺」の勅額を賜っています。(白峯寺)院主御坊宛の宝蜜書状には、次のように記します。

「(前略)百首法楽申候、当座卅首共に一貫にあすかゐ殿遊させ候て、また屋形法楽候一日千首も、此筑後殿に進之候、いつれも箱に入て候、此まゝ御奉納あるへく候」

ここからは、後に催された「頓證寺法楽続百首和歌」「頓證寺法楽当座続三十首和歌」と一緒に、同年12月に「松山法楽一日千首短冊帖」(金刀比羅宮寶書84号)として頓証寺(白峰寺)に奉納されたことが分かります。その橋渡し役を果たしたの東讃守護代の安富氏だったことを押さえておきます。

頓證寺法楽続百首和歌3

頓證寺法楽続百首和歌2
頓證寺法楽続百首和歌

「頓證寺法楽続百首和歌」「頓證寺法楽当座続三十首和歌」(白峯寺蔵)は、飛鳥井宋雅筆と伝えられます。
両者を合わせて1巻として法楽のために頓證寺(白峰寺)奉納されています。この「続百首」の成立は、応永21年(1414)12月8日で、「続三十首」も同じ日に詠まれたようです。「続三十首」の詠者18 名の内、善節1人を除く17名までが「続百首」の作者46名の中に入っているので、おそらく「続百首」の披講を終えた後、その日の出席者のみで「当座三十首」の会がもたれたと研究者は考えています。「当座三十首」の 歌人は、宋雅(飛鳥井雅縁)・雅清(飛鳥井雅世の初名)の飛鳥井家の歌人を筆頭に、道歓(細川満元)・持元・持頼・持之等の細川一族が中心的な位置を占めています。他に(安冨)宝城・(安冨周防入道)宝密・(横越)元久・(秋庭)元継等の細川氏の被官と、正徹・堯孝・梵灯等の歌僧が参加しています。彼らが 細川家の文芸を担った代表的な人物のようです。
②応永22年(1415)9月に成立した「詠法華経品々和歌一巻」(白峯寺蔵)
これは安富宝蜜・宝城兄弟による亡父の追善が目的でした。応永21年4月の「一日千首和歌」、同12月の「法楽百首」「当座三十首」、応永22年9月頃の「詠法華経和歌」の4つすべてに顔を見せているのは、道歓・宝城・之重・宝密・堯孝・正徹・梵灯の7名だけです。彼らは細川道歓の歌壇と深い関係を以ていたことがうかがえます。
 安富宝城は東讃守護代でもあり、連歌を嗜み「北野万句連歌」にも出座するなど、細川歌壇の中で最も文芸を長けた人物の1人だったようです。常建・元資は東寺百合文書に、それぞれ丹波国守護代香西入道・香西豊前守とあり、共に細川京兆家被官の丹波系の香西氏です。之重は、寒川氏のようです。
ここでは15世紀初めには、細川氏参加の讃岐武将の中に連歌を巧みにする者達が登場していたこと、その中でも安富氏は、管領細川家の文化的な中心メンバーであったことを押さえておきます。

安富氏15世紀

 安富氏は東讃の守護代に任じられていましたが、細川氏の身近に仕えるために讃岐を離れ、ほとんど京都に常駐していたことは以前にお話ししました。そのため中央政治においては重要なポストを得て活躍しますが、東讃支配という面では香西・寒川・植田氏などの反抗を受けて戦国大名化を進めることができませんでした。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から

この時期の安富氏の文化的活動を見ていくことにします。
①1454年「細川持之十三年忌引品経和歌」、1458年の「細川満元朝臣三十三回忌品経和歌」に讃岐守護代安富智安が参加。
②1455年 守護代の安富盛保が和爾賀波神社(三木町)に「三十六歌仙扁額」6 枚を奉納
     ここでは社家奉行も兼ねる安富盛保が三木郡の式内社和爾賀波神社に三十六歌仙の扁額を奉納しています。和爾賀波神社は、三木郡井戸郷に鎮座する古社で、貞観2 年(860)に京都男山八幡を勧請したので八幡社と呼ばれていました。末社75を数え、延喜式内讃岐国24社の神として信奉されます。特に室町期には讃岐守護細川勝元の信仰が厚く、その庇護を得て毎年正月の参拝や戦勝祈願参拝にも訪れています。安富氏が来讃した時には、最初は三木郡の平木城主でした。その初期の本貫地にあった、この神社を在地支配の拠点にしようとしたようです。「扁額歌仙絵で社殿の荘厳化を図るなどした、室町後期における中央文化伝播の好例」と研究者は評します。有力寺社に恩を売って、在地支配を浸透させていく宗教政策がとられていたようです。
③1460年「讃岐国一宮田村大社壁書之事」は、讃岐守護細川勝元が同社関係者に対し守るべき事項を26箇条にまとめて奉納。安富筑後入道智安、社家奉行安富山城守盛長、同林参河入道宗宜、同安富左京亮盛保を通じて周知。その14条に法楽千句田に関する規定があり、運営資金調達方法も整備されていたことが分かる
④1463年3月27日、「賦何船  連歌百韻」(香川県立ミュージアム蔵)には、讃岐守護細川勝元が亭主となって、守護代安富智安らの細川京兆家被官や歌人として名高い長谷川正広、連歌師専順などの名が連なる。
⑤1464年 安富盛長が興行した「熊野法楽千句」には細川氏やその重臣が多く参加し、彼の政治的地位や経済力を確認できる。勝元(細川)はこの会の主客として参加。
⑥1485年 管領細川宗家(京兆家)を中心に行われた2月25 日の聖廟千句「細川千句」の連衆の中には、讃州座の守護代安富元家が発句を、香西彦二(次)郎長祐が執筆。
⑦1486年 守護代職を安富智安から引き継いだ元家は、自邸で和歌会が開き、「細川道賢十三回忌品経和歌」に参加。 
⑧1496年 香西元資主宰の法楽連歌会には、香西氏一族や神谷神社近隣の在地武士とその愛童や神官・僧侶たちが参加しています。連衆として、宗堅、宗高、(安富)元家、元親、祐宗、元門、宗清、宗勝、重任、増吉、歳楠丸、増林、増認、貞継、有通、盛興、元資、宗元、宗秀、宗春、元隆、幸聟丸、(安富)元治、寅代、師匠丸、石王丸、土用丸、鍋丸、惣代の29名の名が見えます。ここには東讃守護代で、連歌に熱心であった安富元家・元治も参席しています。
ここからは15世紀後半になると讃岐でも、法楽連歌が国人衆の手によって開かれるようになっていたことが分かります。こうしてみると安富氏は、細川京兆家被官の中でも早くから和歌や連歌などに通じていた一族であったことが分かります。
その背景や要因を、研究者は次のように挙げます。
①安富氏の出自が鎌倉幕府及び室町幕府の奉行人という文人官僚の系譜を持っていたこと
②安富氏は、単なる武力のみを誇示する家系ではなかったこと
③細川氏の内衆として京都在京期間が長く、王朝古典文化や在京文化人に触れる機会も多かったこと
応永・永享期の北山文化時代は、室町将軍御所で月次の歌会や連歌会が開かれるようになります。
参加者達は歌の出来具合を互いに競争し刺激し合います。そして修練のため各自の邸宅で月次の歌会を催したり、王朝古典の書写に力を入れる者も出てきます。北山文化時代の歌・連歌の詠み手は大名・守護たちでした。それが応仁の乱後の東山文化時代になると、大名・守護に代わって守護代層が登場するようになります。さらに国元の国人層も中央文化を吸収することに努めるようになり、京都からの文化的情報に絶えず気を配るようになります。 その文化的情報の媒介者となったのが応仁の乱などの戦乱を逃れて、各国の国人層等から招かれて地方へ下向した公家・禅僧・連歌師・猿楽師等でした。彼らの活動拠点にしたのが「別所」などを持つ白峰寺ではなかったのかと私は考えています。

    戦乱の続いた中世に武家が熱心に和歌を詠み続けたことを知ったときには、私は何か意外で違和感を持ちました。どうして、武家が連歌や和歌にのめり込んでいったのでしょうか。それは、一門や家臣との結束を図り、また合戦を前に神仏と交流することや、他国との交渉などに和歌や連歌が有効であったからだと研究者は指摘します。

14世紀頃の連歌会の様子
連歌会
 連歌会は多くの人達が集まって長時間詠むことで、集団の結束を図るのに都合の良い文芸です。
参加者同士が新たな人間関係を結ぶコミュニテイ形成のツールでもありました。そこでは、連帯感や同じ価値観を共有することを認識・確認し合う場にもなりました。また、連歌は祈りを込められて詠まれる場合が多く、追悼・追善の連歌や法楽連歌、戦勝祈願の連歌も少なくなく、これらの連歌会への参加は名誉なことともされました。 
 中世は知識情報は偏在していて、京都とか寺社にいる知識人に会いに行かなければ、知識情報を得ることはできませんでした。今風に云うと「インテリジエンス」を得るためには情報伝達者が不可欠でした。情報伝達者としての連歌師は、地方の守護や国人衆の依頼を受けて、京都在住の能筆公家に書写・校合の依頼をしたり、また、人物の紹介や書状・金銭の伝達、寺院寄進・荘園返還の交渉、合戦の和睦交渉までさまざまな情報伝達を行っています。

職人尽歌合」に見る中世の職業・職人・商人《第二》【みんなの知識 ちょっと便利帳】 さん
連歌師

 連歌師は連歌を教授し、連歌会興行を行うために地方に出向く機会が多く、諸国の事情に精通しその土地の事情に詳しい人物もよく知っていました。当時、連歌師は中立の立場で、敵対する勢力の領国でも通行できる特権を持っていたようです。それは、国境まで双方の勢力に護衛されて送られていることからもうかがえます。このように廻国する連歌師は、情報の伝達者であって高いコミュニケーション能力が必要とされ、公家と武家との斡旋役や、地方に来訪した歌人や連歌師等の文化人を接待する文化的接待役も務めました。
こうして見ると安富氏は早くから在京して、貴族や禅僧、歌人や連歌師、在京する他の武士等との交流の中で、京文化を学び、身に付けていたことが分かります。
安富が讃岐に帰讃することは、文化の担い手が京都から讃岐に移動することを意味したのです。例えば細川頼之が一時的に失脚し、宇多津で生活したことは、宇多津が讃岐の政治・軍事の拠点であるにとどまらず、文化活動の中心となったことを意味します。細川氏や安富氏は、上洛在京中に公家衆と交わり和歌会に列席し、連歌師を招いて連歌会を開き、五山禅僧を訪ねて治国の要を聞き、また能を鑑賞し、蹴鞠の会にも姿を見せていまします。また、讃岐にあっては、中央文化人を積極的に呼び文化摂取に努めています。特に応仁の乱以降は、公家は地方の有力武士を頼って地方へ下り、禅僧・連歌師、芸能人もまた地方へ分散します。それが経済と文化の交流を産みだし、中央文化を摂取・吸収して在国に地方文化圏を成立させていったと研究者は考えています。そのような目で、細川氏や安富氏の動きを見る必要があるようです。

応仁の乱後の明応2年(1493)頃に、細川政元政権下で「守護代・国人体制」が成立したとされます。
守護代・国人体制2

実権を握っていた細川政元の下で細川氏有力内衆によって構成された9~10 名からなる評定衆によって政権運営が行われるようになります。安富氏は一時的には、その評定衆の中で筆頭格的地位を占め、その統括を行うようになります。しかし、その地位は絶えず繰り返される内衆間の抗争で不安定なものでした。その結果、細川高国政権成立後には内衆の再編が行われ、安富氏は畿内からその姿を消し、四国に限定されてしまいます。それまでが安富氏の最も輝いた時期になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
溝渕利博 中世後期讃岐における国人・土豪層の贈答・文化芸能活動と地域社会秩序の形成(中) 髙松大学紀要
関連記事

    讃岐の守護と守護代 中世の讃岐の守護や守護代は、京都で生活していた : 瀬戸の島から
安富氏は讃岐守護代に就任して以来、ずっと京都暮らしで、讃岐については又守護代を置いていました。そのため讃岐のことよりも在京優先で、安富氏の在地支配に関する記事は、次の2つだけのようです。
①14世紀末の安富盛家による寒川郡造田荘領家職の代官職を請負
②15世紀前半の三木郡牟礼荘の領家職・公文職に関わる代官職を請負
香川氏などに比べると、所領拡大に努めた形跡が見られません。長禄四年(1460)9月、守護代安富智安は守護細川勝元の施行状をうけて、志度荘の国役催促を停止するよう又守護代安富左京亮に命じています。ここからは、安富氏が讃岐守護の代行権を握っていたことは確かなようです。一方、塩飽については、香西氏が管理下に置いていたと「南海通記」は記します。安富氏は塩飽・宇多津の管理権を握っていたのでしょうか。今回は安富氏の塩飽・宇多津の管理権について見ておきましょう。テキストは「市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界」です。 
塩飽諸島絵図
塩飽諸島
塩飽は古代より海のハイウエーである瀬戸内海の中で、ジャンクションとサービスエリアの両方の役割を果たしてきました。瀬戸内海を航行する船の中継地として、多くの商人が立ち寄った所です。そのため塩飽には、重要な港がありました。これらの港は鎌倉時代には、香西氏の支配下にあったと「南海通記」は伝えます。それが南北朝期には細川氏の支配下になり、北朝方勢力の海上拠点になります。やがて室町期になると支配は、いろいろと変遷していきます。
讃岐守護であり管領でもあった細川氏の備讃瀬戸に関する戦略を最初に確認しておきます。
応仁の乱 - Wikiwand
細川氏の分国(ブルー)  
当時の細川氏の経済基盤は、阿波・紀伊・淡路・讃岐・備中・土佐などの瀬戸内海東部の国々でした。そのため備讃瀬戸と大坂湾の制海権確保が重要課題のひとつになります。これは、かつての平家政権と同じです。瀬戸内海を通じてもたらされる富の上に、京の繁栄はありました。そこに山名氏や大内氏などの勢力が西から伸びてきます。これに対する防御態勢を築くことが課題となってきます。そのために宇多津・塩飽・備中児島を結ぶ戦略ラインが敷かれることになります。
このラインの拠点として戦略的な意味を持つのが宇多津と塩飽になります。宇多津はそれまでは、香川氏の管理下にありましたが、香川氏は在京していません。迅速な動きに対応できません。そこで、在京し身近に仕える安富氏に、宇多津と塩飽の管理権を任せることになります。文安二年(1445)の「兵庫北関入船納帳」には、宇多津の港湾管理権が香川氏から安富氏に移動していることを以前にお話ししました。こうして東讃守護代の安富氏の管理下に宇多津・塩飽は置かれます。これを証明するのが次の文書です。
 応仁の乱後の文明5年(1473)12月8日、細川氏奉行人家廉から安富新兵衛尉元家への次の文書です。

摂津国兵庫津南都両関役事、如先規可致其沙汰候由、今月八日御本書如此、早可被相触塩飽島中之状如件、
文明五十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
意訳変換しておくと
摂津国兵庫津南都の両関所の通過について、先規に従えとの沙汰が、今月八日に本書の通り、守護細川氏より通達された。早々に塩飽島中に通達して守らせるように
文明五年十二月十日                           元家(花押)
安富左衛門尉殿
細川氏から兵庫関へ寄港しない塩飽船を厳しく取り締まるように守護代の安富氏に通達が送られてきます。これに対して12月10日付で守護代元家が安富左衛門尉宛に出した遵行状です。
 ここからは、塩飽に代官「安富左衛門尉」が派遣され、塩飽は安富氏の管理下に置かれていることが分かります。
安富元家は、守護代として在京しています。そのため12月8日付けの細川氏奉行人の家廉左衛門尉からの命令を、2日後には京都から塩飽代官の安富左衛門尉に宛てて出しています。仁尾が香西氏の浦代官に管理されていたように、塩飽は安富氏によって管理されていたことが分かります。
この 命令系統を整理しておきましょう
①塩飽衆が兵庫北関へ入港せず、関税を納めずに通行を繰り返すことに関して管領細川氏に善処依。これを受けて12月8日 守護細川氏の奉行人家廉から安富新兵衛尉元家(京都在京)へ通達
②それを受けて12月10日安富新兵衛尉元家(京都在京)から塩飽代官の安富左衛門尉へ
③塩飽代官の安富左衛門尉から塩飽島中へ通達指導へ

文安二年(1445)に宇多津・塩飽の管理は、安富氏に任されたことを見ました。それから約30年経っても、塩飽も安富氏の管理下に置かれていたようです。南海通記の記すように、香西氏が塩飽を支配していたということについては、疑いの目で見なければならなくなります。時期を限定しても15世紀後半には、塩飽は香西氏の管理下にはなかったことになります。
それでは、安富氏は塩飽を「支配」できていたのでしょうか?
細川氏は塩飽船に対して「兵庫北関に入港して、税を納めよ」と、代官安富氏を通じて何回も通達しています。しかし、それを塩飽衆は守りません。守られないからまた通達が出されるという繰り返しです。
 塩飽船は、山城人山崎離宮八幡宮の胡麻(山崎胡麻)を早くから輸送していました。そのために、胡麻については関銭免除の特権を持っていたようです。しかし、これは胡麻という輸送積載品にだけ与えられた特権です。自分で勝手に拡大解釈して、塩飽船には全てに特権が与えられたと主張していた気配があります。それが認められないのに、塩飽船は兵庫関に入港せず、関税も納めないような行動をしています。
 翌年の文明6年には、塩飽船の兵庫関勘過についての幕府奉書が興福寺にも伝えられ、同じような達しが兵庫・堺港にも出されています。その4年後の文明10年(1478)の『多聞院日記』には「近年関料有名無実」とあります。塩飽船は山崎胡麻輸送の特権を盾にして、関税を納めずに兵庫北関の素通りを繰り返していたことが分かります。
 ついに興福寺は、塩飽船の過書停止を図ろうとして実力行使に出ます。
興福寺唐院の藤春房は、安富氏の足軽を使って塩飽の薪船10艘を奪います。これに対し、塩飽の雑掌道光源左衛門は過書であるとして、塩飽の人々を率いて細川氏へ訴えでます。興福寺は藤春房を上洛させて訴えます。結果は、細川氏は興福寺を勝訴とし、塩飽船は過書停止となります。この旨の奉書が塩飽代官の安富新兵衛尉へ届けられ、塩飽船の統制が計られていきます。
 細川政元の死後になると、周防の大内氏が勢力を伸ばします。
永生5(1508)年、大内義興は足利義植を将軍につけ、細川高国が管領となります。義興は上洛に際し、瀬戸内海の制海権掌握を図り、三島村上氏を味方に組み込むと同時に、塩飽へも働きかけます。こうして塩飽は、大内氏に従うようになります。自分たちの利益を擁護してくれない細川氏を見限ったのかもしれません。この間の安富氏を通じた細川氏の塩飽支配についてもう少し詳しく見ておきましょう。
香西氏の仁尾浦に対する支配と、安富氏の塩飽支配を比較してみましょう。
①細川氏は仁尾浦に対して、海上警備や用船提供などの役務を義務づける代償に、上賀茂神社から課せられていた役務を停止した。
②そして仁尾浦を「細川ー香西」船団の一部に組織化しようとした
③仁尾町場の「検地」を行い、課税強制を行おうとした。
④これに対して仁尾浦の「神人」たちは逃散などの抵抗で対抗し、仁尾浦の自立を守ろうとした。
以上の仁尾浦への対応と比較すると、塩飽には直接的に安富氏との権利闘争がうかがえるような史料はありません。安富氏が塩飽を「支配」していたかも疑問になるほど、安富氏の影が薄いのです。「南海通記」には、塩飽に関して安富氏の記述がないのも納得できます。先ほど見た「関所無視の無税通行」の件でも、代官の度重なる通達を塩飽は無視しています。無視できる立場に、塩飽衆はいたということになります。安富氏が塩飽を「支配」していたとは云えないような気もします。
永正五(1507)年前後とされる細川高国の宛行状には、次のように記されています。
  就今度忠節、讃岐国料所塩飽島代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申す候、謹言、
高国(花押)
卯月十三日
意訳変換しておくと
  今度の忠節に対して、讃岐国料所である塩飽島代官職を与えるものとする。粉骨精勤すること。石田四郎兵衛尉可申す候、謹言
         高国(花押)
卯月十三日
村上宮内太夫(村上降勝)殿
村上宮内太夫は、能島の村上降勝で、海賊大将武吉の祖父にあたります。大内義興の上洛に際して協力した能島村上氏に、恩賞として塩飽代官職が与えられていることが分かります。高国政権下では御料所となり、政権交代にともない塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったようです。これはある意味、瀬戸内海の制海権を巡る細川氏と大内氏の抗争に決着をつける終正符とも云えます。細川政元の死により、大内氏の勢力伸張は伸び、備讃瀬戸エリアまでを配下に入れたということでしょう。
 ここからは、16世紀に入ると、細川氏に代わって大内氏が備讃瀬戸に海上勢力を伸張させこと、その拠点となる塩飽は、大内氏に渡り、村上氏にその代官職が与えられたことが分かります。
 そして村上降勝の孫の武吉の時代になると、能島村上氏は塩飽の船方衆を支配下に入れて船舶や畿内に至る航路を押さえ、塩飽を通過する船舶から「津公事」(港で徴収する税)を徴収するなど、その支配を強化させていきます。東讃岐守護代の安富氏による塩飽「管理」体制は15世紀半ばから16世紀初頭までの約60年間だったが、影が薄いとしておきます。つまり、細川氏の備讃瀬戸防衛構想のために、宇多津と塩飽の管理権を与えられた安富氏は、充分にその任を果たすことが出来なかったようです。塩飽は、能島村上氏の支配下に移ったことになります。

次に、安富氏の宇多津支配を見ておきましょう。
  享禄2(1526)年正月に、宇多津法花堂(本妙寺)にだされた書下です。
当寺々中諸課役令免除上者、柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
意訳変換しておくと
宇多津法華堂を中心とする本妙寺に対して諸課役令の免除を認める。柳不可有相連状如件、
享禄二正月二十六日                      元保(花押)
宇多津法花堂
花押がある元保は、安富の讃岐守護代です。この書状からは、16世紀前半の享禄年間までは、宇多津は安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽の代官職は失っても、宇多津の管理権は握っていたようです。
天文10年(1541)の篠原盛家書状には、次のように記されています。
当津本妙寺之儀、惣別諸保役其外寺中仁宿等之儀、先々安富古筑後守折昏、拙者共津可存候間、指置可申也、恐々謹言、
天文十年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
意訳変換しておくと
本港(宇多津)本妙寺について、惣別諸保役やその他の寺中宿などの賦役について、従来の安富氏が保証してきた権利について、拙者も引き続き遵守することを保証する。   恐々謹言
天文十(1541)年七月七日                   篠原雅楽助 盛家(花押)
字多津法花堂鳳鳳山本妙寺
多宝坊
夫役免除などを許された本妙寺は、日隆によって開かれた日蓮宗の寺院です。尼崎や兵庫・京都本能寺を拠点とする日隆の信者たちの中には、問丸と呼ばれる船主や、瀬戸内海の各港で貨物の輸送・販売などをおこなう者や、船の船頭なども数多くいたことは以前にお話ししました。彼ら信者達は、日隆に何かの折に付けて、商売を通じて耳にした諸国の情況を話します。そして、新天地への布教を支援したようです。
 例えば岡山・牛窓の本蓮寺の建立に大きな役割を果たした石原遷幸は「土豪型船持層」で、船を持ち運輸と交易に関係した人物です。石原氏の一族が自分の持舟に乗り、尼崎の商売相手の所にやってきます。瀬戸内海交易に関わる者達にとって、「最新情報や文化」を手に入れると云うことは最重要課題でした。尼崎にやって来た石原氏の一族が、人を介して日隆に紹介され、法華信徒になっていくという筋書きが考えられます。このように日隆が布教活動を行い、新たに寺を建立した敦賀・堺・尼崎・兵庫・牛窓・宇多津などは、その地域の海上交易の拠点港です。そこで活躍する問丸(海運・商業資本)と日隆との間には何らかのつながりのあったことが見えてきます。
 宇多津の本妙寺の信徒も兵庫や尼崎の問丸と結んで、活発な交易活動を行い富を蓄積していたことがうかがえます。その経済基盤を背景に本妙寺は発展し、伽藍を整えていったのでしょう。ある意味、本妙寺は畿内を結ぶパイプの宇多津側の拠点として機能していた気配があります。
 だからこそ、安富氏は経済的な支援の代償に本妙寺に「夫役免除」の特権を与えているのです。安富氏に代わった阿波三好家の重臣篠原氏も引き続いての遵守する保証を与えています。ここからは、1541年の段階で、篠原氏が字多津を支配したこと、本妙寺が宇多津の海上交易管理センターの役割を果たしていたことが分かります。つまり安富氏の宇多津支配は、この時には終わっているのです。
 またこの文書からは、安富氏も篠原氏も直接に宇多津を支配していたのではないことがうかがえます。
これは三好長慶の尼崎・兵庫・堺との関係とよく似ています。長慶は日隆の日蓮宗寺院を通じての港「支配」を目指していたようです。篠原長房も本妙寺や西光寺を通じて、宇多津港の管理を考えていたようです。
 戦国期になると守護細川氏や守護代の安富氏の勢力が弱体化し、阿波三好氏が讃岐に勢力を伸ばしてきます。そうした中で、安富氏の宇多津支配は終わったことを押さえておきます。
 浄土真宗が「渡り」と呼ばれる水運集団を取り込み、瀬戸内海の港にも真宗道場が姿を現すようになることは以前にお話ししました。
宇多津にも大束川河口に、西光寺が建立されます。西光寺は石山本願寺戦争の際には、丸亀平野の真言宗の兵站基地として戦略物資の集積・積み出し港として機能しています。ここにも「海の民」を信者として組織した宗教集団の姿が見えてきます。その積み出しを、篠原長房が妨害した気配はないようです。宇多津には自由な港湾活動が保証されていたことがうかがえます。
 以前に、細川氏から仁尾の浦代官を任じられた香西氏が町場への課税を行おうとして仁尾住民から逃散という抵抗運動を受けて住民が激減して、失敗に終わったことを紹介しました。当時の堺のように、仁尾でも「神人」を中心とする自治的な港湾運営が行われていたことがうかがえます。だとすると、塩飽衆の「自治力」はさらに強かったことが推測できます。そのような中で、代官となった安富氏にすれば、塩飽「支配」などは手に余るものであったのかもしれません。その後にやって来た能島村上衆の方が手強かった可能性があります。

以上をまとめておくと
①管領細川氏は、備讃瀬戸の制海権確保のために備中児島・塩飽・宇多津に戦略的な拠点を置いた。
②宇多津・塩飽の管理権を任されたのが東讃守護代の安富氏であった。
③しかし、安富氏は在京することが多く在地支配が充分に行えず、宇多津や塩飽の「支配」も充分に行えなかった
④その間に、塩飽衆や宇多津の海運従事者たちは畿内の問丸と結び活発な海上運輸活動を行った。
⑤その模様が兵庫北関入船納帳の宇多津船や塩飽船の活動からうかがえる。
⑥細川氏の備讃瀬戸戦略は失敗し、大友氏の進出を許すことになり、塩飽代官には能島村上氏が就くことになる。
⑦守護細川氏の弱体化に伴い、下克上で力を伸ばした阿波三好が東讃に進出し、さらにその家臣の篠原長房の管理下に宇多津は置かれるようになる。
⑧しかし、支配者は変わっても宇多津・塩飽・仁尾などの港は、「自治権」が強く、これらの武将の直接的な支配下にはいることはなかった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   市村高男    中世港町仁尾の成立と展開 中世讃岐と瀬戸内世界 
関連記事

        雨瀧山城 山頂主郭部1
雨瀧城山頂部主郭部
雨瀧山の頂上にある三角形状の曲輪C1は、近世城郭の本丸にあたる所になります。そのため最大の広さと強固な防禦装置群が構築されているようです。今回は、雨瀧山の主稜線上の防御施設を見ていきます。テキストは、「池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  香川県文化財協会会報平成7年度」です。

まず、虎口とされる①の枡形Ca遺構を見ておきましょう。
雨瀧山城 山頂主郭部1拡大図
         雨瀧山城 山頂部主郭部拡大図
曲輪W2・S2方面からの通路は、曲輪C1の南側を回廊の様に通過します。その中央部辺りに、曲輪C1から南へ突出した①に枡形Ca遺構があります。この突出した地形を通過して曲輪C1へ入っていたようです。曲輪W2方面からCa台地へつづく通路には、横並びに三つ横矢ポイントが連続して並びます。同じように曲輪S2方面から①のCa台地につづく通路に対しても、曲輪C1南南東隅に石垣を使用した上下三段構造による大横矢拠点が待ち受けています。これら二方面からの通路に対して、曲輪C1には強固な防衛拠点の備えがあります。さらに突出させた台地地形構築から推測すると、ここが枡形形状の虎口遺構と研究者は考えているようです。
 もうひとつの虎口とされる②の枡形Cb遺構を見ていくことにします。
 曲輪N2方面からの通路の上に、帯状の空間地形Cbが見られます。曲輪N2からこのCbに登り、さらに東に回り込み、第2次大戦時に構築したと言われる監視所跡の切り込み(坂虎口)から、曲輪C1へ入るルートがあったと研究者は考えています。通路構築状況から見ると、通路の中間部にある帯状の空間地形Cbは、曲輪C1の枡形としての機能を果たし、尾根N方面に対する最終防衛拠点であったとことがうかがえます。
③ 曲輪C1大横矢拠点(堡塁か)
この横矢拠点は、S尾根方面から攻め寄せる敵を迎え撃つために、南南夷隅に石垣で上下三段構造の拠点を構築しています。一方、W尾根方面に対応する西隅は、竪堀と横堀を組み合わせた凸構造の構築がされています。最後の決戦場としての曲輪C1を守る防衛構造物と研究者は考えています。
以上から曲輪C1には、同一パターシ化された防衛構造物が配置されていて、縄張りには「ある一定の法則性」があり、かなり高度な築城技術が使用されていたことが分かると研究者は評価します。

本丸からに西尾根に続く曲輪W群を見ていきます。
雨瀧山城 山頂西部拡大図
雨瀧城 曲輪W群

曲輪W群は、西の寒川方面の尾根からの攻撃を想定しています。曲輪C1防衛のために、曲輪W群にはさまざまな築城技術の使用が見られます。まず曲輪W5直下の尾根地形上の斜面に、堀切状の凹地形を削り出しています。さらに凹地形の南北両端の斜面に竪堀を落としています。これらの一連の構築物は、敵による斜面上の回り込み攻撃を阻止します。正面突破の敵勢力に対しても、凹地形の西側土塁と曲輪W5からの上下2段による横矢迎撃で撃退する備えです。またこの凹地形は、西尾根正面に平虎口を開口させ、その左右を土塁で固めた枡形虎回の機能をもあわせ持つ防衛拠点となっています。
  主郭西部の防禦構造物には、北側斜面上の5本の竪堀があります。
①凹地形の北斜面を遮断する竪堀
②曲輪W5北斜面を遮断する竪堀
③曲輪W2北斜面を遮断する竪堀
④曲輪C1北斜面を遮断する竪堀の西4本
で、北斜面上を攻め登る敵を阻止します。
以上の構造は、この城郭の中では最高の技巧性を見せる遺構だと研究者は評価します。

 南尾根の曲輪S群の虎口と通路について、見ていくことにします。
雨瀧山城 山頂南主郭部1拡大図
雨瀧山城 曲輪S群
曲輪S群は、南方の柴谷尾根方向からの攻撃を想定しています。
この方面の攻防ポイントは堀切S10になります。堀切S10を守るために、まず曲輪S8・7・6が防衛拠点と配置されています。堀切S10から上の通路は、次の2つが考えられるようです
①枡形虎口Sbに入り、曲輪S4下の斜面上を北西へ直進、曲輪S3の「登り石垣?」ラインが斜面を下がってくる地点で突き当たり、そこを折り返して曲輪S4へ登るか
②「登り石垣」部分を越えて直接に曲輪S4へ登る通路が見えてくる。この通路を登る。
 この通路方法からすると、小空地S5は上下一体性のある枡形虎口遺構そのものです。上段の空地は下段の枡形空間にたいして、武者隠し的空間として機能します。さらに西尾根の枡形遺構と同じ様に、曲輪S4と併せると、ここにも上下三段構えの立体防禦装置があったと研究者は指摘します。

南方の曲輪S群には、西尾根曲輪W群には、見られなかった土塁構築があります。
曲輪S6は東斜面側の南北に立つ自然の大岩間に、貴重な土塁構築と枡形虎口Scが作られていますので、何か特別な空間のようです。曲輪S7・8では、虎口Sdが敢えて尾根筋を避けて、西側にずらしています。そして、曲輪S7.8を防禦機能上、一対とした空間として配置しています。そのねらいは、東尾根櫓台地区SEを突破し、なだれ込んできた敵を、ここで阻止するための軍事空間のようです。特に曲輪S8の形を回廊状にしているのは、尾根斜面を登ってくる敵兵に対して、迎撃のための砲列を敷く足場にするためだったと研究者は考えています。

最後に雨瀧山城が、いつ、誰によって、どのような目的で造営されたのかを見ておきましょう。
 私は先入観から安富氏が、阿波の三好勢力に対して造営したもので、16世紀初頭には原型的なモノが姿を見せ、それが土佐勢侵攻の脅威が高まる中で整備されたものと思っていました。さてどうなのでしょうか。
『雨滝城発掘調査概要』(1982年)の報告によると、山頂部曲輪群からは、礎石と瓦を使用した建物群が出土しています。瓦が出てくる山城は、讃岐ではあまり聞きません。全国の中世城郭で、礎石建物の出土事例の初見は、次のようになるようです。
①横山城の大永年間1520~天文年間1550年
②観音寺城では天文年間1530~永禄年間1558年
③四国では「土佐では16C後半以降」
 そうすると雨瀧山城に礎石建物が建てられたのは、元亀年間(1569)の寒川氏問題での緊張時か、それ以後と研究者は推測します。
 瓦については、『調査概要』や『織豊期城郭の瓦』(1944)の報告によると、瓦制作技法はコビキA手法や紋様等より、織豊期の系譜を持つ瓦と判定されています。とすると、秀吉のもとで、讃岐制圧部隊として活動した仙石氏や生駒氏による改修・増築などが考えられます。その遺構年代は天正13(1585)年前後と研究者は考えています。とすると、安富氏のものか、仙石氏のものかについての判定は微妙な問題になるようです。

 別の視点から見てみましょう。
雨瀧山城の遺構の中で、特に目立つのは8ヶ所ある枡形空間です。城郭遺跡の中で、枡形の構築年代が古いものを並べると次のようになります
①京都嵐山城  永正4(1507)年  『多聞院日記』香西又六元長」
②京都中尾城  天文18(1549)年 『万松院殿穴太記』将軍足利義晴」
③近江小谷城攻の陣城群 天正元年(1571)(織豊期城郭)」
④讃岐勝賀山城 天正7(1579)年   香西氏」
⑤備前国児山城 天正9(1581)年  『萩藩 閥閲録』(宇喜多与太郎基家の陣城 )
これらの城郭との枡形の比較検討からも、雨瀧山城の遺構は天正期頃のものと推測できます。
上記の城の枡形を雨瀧城のものと比べて見ましょう。
雨瀧山城 比較
細川系枡形技法
比較からは、京都嵐山城・讃岐勝賀山城・讃岐雨瀧山城の枡形形状が同類型であることが分かっています。
3つの城の枡形の共通点を見ておきましょう。共通点は、堀切内部の空間を土塁等で一部仕切って、切り離した枡形空地を創出して構築した独特の形の枡形であることです。堀切と枡形を併用した形状の事例は限られます。
 さらに三城郭の共通項を探すといずれも築城者が、香西氏と安富氏という細川京兆家の関係者であることです。ここからは「細川系築城技法」とよべる技法があり、それを持った土木築城集団が細川氏周辺にいたことが見えてきます。
 三城郭の構築年代を考えると、天文年間から天正初期という時代は、信長の上洛以前で、細川・三好の勢力が京畿を支配していた頃になります。畿内で用いられていた築城工法を、香西氏や安富氏は讃岐の城の改修や新築に採用したようです。

 天正3年香西元成が堺の新堀に新城を築城したことが『信長公記』には記されています。
この時期に、香西氏は旧地である京都嵐山城も改修した可能性が高いと研究者は考えています。そうすると香西氏の讃岐の新城と築城された勝賀山城の枡形遺構も天正期あたりの構築と云えそうです。これは三城郭の年代及び築城系譜とも一致します。

以上をまとめておきます。
① 雨瀧山城の東西両尾根上に対象にある「一本橋」と「陣地空地」を結合した複合遺構は、縄張り上で「パターン」を繰り返して使用している。
②畿内などで使用されている防禦施設(枡形)が採用されている。
③全体としても縄張りに「統一性」が見られる。
④雨瀧山城の縄張りは、築城時以前に「縄張図面」があった
⑤この縄張り構想は、細川系築城技法を持つ築城集団によってもたらされた。
そして、頂上の曲輪に建てられた礎石建物は、安富氏か織豊系大名のどちらが建てたものかは微妙な年代だが、建物配置状況や出土した織豊期瓦から織豊系大名によるものと研究者は判断します。具体的には、秀吉の命で天正13(1585)年に仙石氏が讃岐入国後に行った領国経営上の支城網群整備時に築城・改修された城郭群中の一城とします。仙石・生駒期になっても、讃岐の山城は改築・増強され軍事的機能を果たし続けていたのは、最近の勝賀城の発掘からも明らかになっています。
 ここからは、讃岐の中世山城の中には長宗我部元親や信長・秀吉の侵攻で陥落し、そのまま放置されたのではなく、改修・増築が行われ新たな軍事施設としてリメイクされていたことが改めて分かります。西長尾城や聖通寺山などの発掘から分かったことは、土佐軍は、旧来の山城に大幅な手を入れて増強していることです。それが東讃の雨瀧山城にもみえるようです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域  
            香川県文化財協会会報平成7年度

雨瀧山 居館跡2
 雨瀧城 奧宮内居館跡

前々回は、東西尾根上の遺構をみて、雨瀧山城の城郭エリアを確認しました。前回は、居館跡や屋敷地群があった奥宮内エリアの建物群の配置などを見ました。
雨瀧山 居館跡奧宮内3

 居館跡とされる奥宮内を中心に「富田城下町」が形成されと研究者は考えているようです。
しかし、地図や現地を見る限りでは、私には見えてきません。研究者は何を材料にして「城下町復元」を行うのでしょうか。今回は、「城下町富田」の復元過程を見ていくことにします。 テキストは、池田誠  讃岐雨瀧山城の構造と城域 文化財協会会報平成7年度」です。

前回見たように、居館跡は雨瀧山城南側のふもとである奧宮内にあることは、前回にお話しした通りです。
まず、奥宮内を囲む外郭の大堀を次のように想定します。
居館跡東側の「げじょうだに」から「のぶはん」を経て津田川の合流点の「てさき」に走る大溝地形を外堀とします。そして改修した津田川に連結させて、両堀を外郭としたL字ラインの内側に、奥宮内谷居館群とさらに宮内・大船戸両地区を結合させて「戦国期城下町・富田」が形成されていたとします。
 また、城下町の最大の防御網は、東側の大堀遺構と南側の津田川になります。仮想敵勢力が攻め寄せてくるのは、この方向からであったと考えていたことがうかがえます。そうだとすれば、仮想敵勢力は、次のように考えられます。
①城主が安富氏であった時代には、阿波三好勢力や土佐の長宗我部元親
②城主が仙石氏や生駒氏であった時代には、土佐の長宗我部元親
 外郭の大堀に囲まれた城下集落
このエリアには地形を表現した地名には次のようなものがあります。

「ごい」・「みいけ(御池?)」・「いけじり(「池尻)」・「たなか(田中)」・「のぶはん」「げじょうだに(下所谷)」「いずみたに(和谷」・「おおぜつこ(大迫古)」・「てのく」・「西野原」・「うらんたに(裏の谷)」・「すぎのはん」・「しんがい(新開)」等

町場形成に関連する地名には、次のようなものがあります
「本家」・「隠居」・「南屋敷」・「しもぐら(下倉)」・「こふや(小富屋)」・「おおふなとじんじや(大舟戸神社)」・「大日堂」等

これらの地名がある場所を下図で確認すると、現在の富田神社と旧御旅所・参道を軸線にする両側に散在していることが分かります。。ここからは富田神社の参道を中心軸して、町場が形成されていたと研究者は推測します。

雨瀧山城 商家町富田 
           雨滝城城下町
 河川港と港町
津田川に沿った付近には、「しもぐら」・「こふや」・「おおふなとじんじゃ」・「しんがい」等の地名が散在します。
「しもぐら」・「こふや」からは、川港倉庫群の存在
「おおふなとじんじゃ」からは、海上運行の祭祀した船頭や、船戸からは港があったことや、河川港とその港湾に働く人々がいたこともうかがえます。津田川を利用した河川交通の運航が行われ、この周辺には川港的機能を果たしていた「施設」があったと研究者は考えているようです。

雨瀧山城 城下町富田2 


富田荘の物産類が集結したのが船戸神社の下の「しもぐら」・「こふや」の川筋でしょう。ここからは富田庄の流通経済活動拠点とし、大船戸地区が考えられます。また宮内地区には、「本家」・「隠居」・「南屋敷」などの雨瀧山城や「守護代所」に関係した行政・統治機関の人々の居住地があったことが推測できます。
 経済活動の中心地としての津田川流域の大舟戸地区、
 政治的中心地としての富田神社周辺の宮内
それぞれ別の機能を持つ両地区を中心にして、「戦国期城下町」富田が出現したいたというのです。

雨瀧山城 髙松平野での位置
髙松平野の東端に位置する富田

確かに雨瀧山城の南側の富田エリアを巨視的に見ると、髙松平野の東の端にあたります。髙松平野に侵入しようとする勢力が、ここを拠点に勢力を養った例が古代にもありました。津田湾沿岸に古墳を築いた勢力は、ヤマト朝廷に近く、瀬戸内海南航路を紀伊の勢力と共に確保していたとされます。彼らは津田川を遡り、この富田の地で勢力を養い岩清尾・峰山勢力を圧倒していくようになります。その政治的シンボルが、この地にある富田茶臼山古墳とされます。古代においても、津田川は、津田港と富田を結ぶ基幹ルートであったことが推測できます。
雨瀧山城の主は、東讃守護代を務めていたのが安富氏でした。
「兵庫入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」と記されています。室町幕府の最有力家臣は、山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。国料とは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。関所を通過するときに通行税を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。その権利を安富氏は持っていたようです。安富氏のもとで、多くの船が近畿との海上交易ルートで運用されていたことが考えられます。『納帳』には「讃岐富田港」は出てきませんが、富田荘の物資集積や搬入のために、小船による流通活動が行われていたことは考えられます。富田荘の「川港」の痕跡を、研究者は次のように挙げています
①「古枝=ふるえだ=古江?」で、港湾の痕跡
②「城前」は、六車城の麓で津田川の川筋で、荘園期富田の中心地。
③「市場」は、津田川の南岸にあり定期市の開催地。。
④「船井」は、雨瀧山城の西尾根筋先端にある要地で、船井大権現と船井薬師があり、港湾の痕跡
以上のように津田川沿いには、海運拠点であったと推測できる痕跡がいくつもあります。これらが分散しながら、それぞれに「港」機能を果たしていたことが推察できます。比較すれば、阿野北平野を流れる綾川河口が松山津や林田津などのいくつかの港湾が、一体となって国府の外港としての役割を果たしていた姿と重なり合います。これらの「港」を、拠点とする讃岐富田港船籍の小船が東瀬戸内海エリアで活動していたことが考えられます。
讃岐富田荘の港は、一般的には鶴箸(鶴羽)浦か津田浦と考えられています。
雨瀧山城 安富氏と海上交易
兵庫北野関入船納帳に出てくる讃岐の17港
  津田湾周辺では鶴箸(羽)が記されている

鶴箸(鶴羽)浦と津田浦は近世にも繁栄していた港です。特に鶴箸には「江田=えだ」の地名を残す港湾遺構もあり、『納帳』にも出てきます。しかし、富田荘との荷物のやりとりには相地峠を越える必要があります。それを避けるために、津田川を利用し富田荘内に川船を接岸する方法が取られていたことが考えられます。とすれば津田川流域には、河川交通の運用のために「讃岐富田港」があったはずだと研究者は指摘します。富田荘内を貫流する津田川(=富田川)に、「古枝=古江?」や「船井」などの川湊がいくつもあり、それが海岸線の後退に伴い、江戸期の「津田浦」の発展につながったとしておきましょう。

以上をまとめておきます

①雨瀧山城の居館跡は、奧宮内エリアを中心に「舟渡地区(津田川河岸) + 宮内地区(富田神社周辺)」までをエリアとして「城下町・富田」の町割りが行われていた。
②城下町富田の外堀は、「東の大溝遺構 + 南の津田川」であった。
③舟渡地区を中心に定期市が開かれ、川港もあり、ここが経済的な中心地であった。
④城下町富田は津田川を通じて、瀬戸内海東航路に接続していた。
⑤雨瀧山城西尾根筋の先端にある「船井」には、船井大権現と船井薬師があり、往時の繁栄と港湾の痕跡が推定できる。
⑥津田川流域には、河川交通の運用のために「讃岐富田港」があった?

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

このページのトップヘ