瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の武将 > 細川氏

 阿波国守護の細川氏の拠点としては、勝瑞が有名です。それ以前は秋月に拠点がありました。しかし、「秋月」については守護館跡をはじめ、町場跡や梵光寺跡などの位置が分かっていません。

秋月城4
          秋月城跡 かつては細川氏守護館跡と考えられていた
かつては「秋月城跡」(土成町秋月)を細川氏守護館跡とする説が定説化していました。
ところが発掘調査の結果、秋月城跡からは守護館跡に関連する遺構や遺物が出てきませんでした。その結果、「秋月城跡が守護館跡である可能性なし」との結論に至っているようです。考古学による「通説否定」の上にたって、「秋月」の空間構成を研究者がどのように考えているのかを見ていくことにします。テキストは「福家清司 「秋月」の空間構成  四国中世史研究17号 2023年」です。

秋月 細川氏拠点2JPG

まず最初に研究者が確認するのは「秋月」の領域は、古代和名抄郷「秋月郷」の「秋月荘」の荘域全体に及んでいたことです。そして、守護館・町場跡・梵光寺跡を次のように比定します。
A【守護館】 山野上城(伝細川隠居城・仏殿城・阿波市市場町大野島王子前)

山の上城跡 細川氏守護所跡候補
山野上城跡 細川氏の守護所候補地
秋月城跡が否定された後、新たな守護館候補として研究者が考えるのが「山野上城跡」です。この城は、阿波市市場町大野島の王子神社の北東200mの一帯にあります。中世山城・居館という視点から次のように評されています。

「南側の平野部に突き出した比高5mほどの土手状地形を利用して築かれたもので、東側には小川、西側には切通しの道路が通っており、これによって区画された東西50mほどの部分が城であったようだ。内部にはわずかな段差があり、3つの区画が想定できるが、後世の改変もあり、旧状がこの通りであったかどうかは分からない。」

という評価であまり特徴があるようには見えません。
しかし、明治初期編纂の「阿波郡風土記」は、細川氏の守護所について次のように記します。

「(秋月城には)射場という処もあり。此処は細川阿波守和氏の住まれし古址なるなり。按ずるに、此所分内小際にして北山に迫れり。大国の府城を営みし址とは見えず。「阿波物語」に秋月を守護所と定めらるとあるは此所にはあらで、山の上村成るべし。」

意訳変換しておくと
「秋月城には射場という所もあり、ここは細川阿波守和氏の拠点古址とされる。しかし、ここは後に山が迫り狭い。大国の府城を置いたところとは思えない。「阿波物語」に秋月を守護所と定めるとあるのは、秋月城ではなくて、山の上村であろう。」

『阿波郡風土記』の編者(近藤忠直・浦上利延)は、「射場(的場)=秋月城跡)」を守護館とするには、あまりにも小さく狭いとして、「山野上村の屋形跡=守護館」説を唱えています。「秋月城」説が発掘調査によって否定されたので、「山野上村の屋形跡」説についても改めて検討する必要が出てきます。研究者がこの説に注目するのは、次の3つの理由からです。
①吉野川の段丘を利用した立地条件
②仏殿庵の所在であること
③仏殿庵には「梵光寺観青御宝前」と彫り込まれた寛文4(1644)年の手水鉢があること
③については、仏殿庵は「梵光寺」にあったと伝えられます。梵光寺は秋月荘や守護所の鎮守社である秋月八幡宮別当院で、「秋月」にとって最も重要な寺院です。その梵光寺を「鬼門鎮護の守り」としているのが山野上村の「屋形跡」です。ここから梵光寺が守護する館こそA守護館の可能性が高いと研究者は判断します。

B【補陀寺〈ふだじ):安国寺〉】(秋月城跡周辺)を見ておきましょう。
日本歴史地名大系 「補陀寺跡」には、次のように記されています。
御嶽(おみたけ)山南麓、秋月城の近くに位置した臨済宗寺院。
南明山安国補陀禅寺・安国補陀寺などと称され、阿波国の安国寺とされたほか(光勝院縁起略)、諸山の寺格も与えられた(扶桑五山記)。近接して光勝(こうしよう)院・宝冠(ほうかん)寺が建立された。光勝院は当寺の後身ともいわれ、のち板野郡萩原(現鳴門市)に移されて同地に現存している。
阿波州安国補陀寺仏殿梁牌(夢窓国師語録拾遺)に「阿波州安国補陀寺仏殿」とみえ、暦応二年(一三三九)八月に足利尊氏が造立し、開山は夢窓疎石とされている。しかし夢窓疎石は招請開山で、実際には細川和氏が秋月府内南明山に建立し、和氏の五男、細川頼之の猶子笑山周を開山としたという。また足利尊氏の保護を受け、同年阿波国の安国寺に指定されたとされる(光勝院縁起略)。ただし「夢窓国師語録」「阿波志」は翌三年の創建と伝える。安国寺とともに建立された利生塔は切幡(きりはた)寺に建てられた(贈僧正宥範発心求法縁)。康永元年(一三四二)夢窓疎石の招聘により大道一以が入寺し(禅林僧伝)、以後、黙翁妙誡・大岳周崇・鉄舟徳済・観中中諦などが住持となったという(「夢窓国師語録」「阿波志」など)。出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について
補陀寺は阿波初代守護和氏が夢窓礎石を開山に招いて創建した禅宗寺院で、和氏の墳寺でした。和氏は尊氏の側近として活躍したことから、創建に際しては尊氏からも寄進が寄せられ、後に阿波安国寺に指定されます。補陀寺は夢窓派の重要寺院として、夢窓派の僧侶が住持として派遣され、四国内では唯一の十刹寺院でした。通説では秋月が勝瑞に移転した時に、光勝院と合併して萩原の地に移転されたとされています。しかし、萩原に移転したのは光勝院のみで、補陀寺は守護所移転後も引き続き戦国期に至るまで、秋月にあって法灯を伝えたと考える研究者もいます。

C  切幡寺に建てられたという「利生塔」を見ておきましょう。
 
切幡寺の安国寺利生塔礎石

足利尊氏は全国66ヶ国へ利生塔を建てます。そのねらいは、戦没者の遺霊を弔い、民心を慰撫掌握するとされていますが、それだけが目的ではありません。南朝残存勢力などの反幕府勢力を監視抑制するための警察権行使の拠点置の目的もあったと研究者は指摘します。つまり、利生塔が建てられた寺院は、室町幕府の直轄的な警察的機能を担うことにもなったのです。その利生塔が、阿波安国寺の補陀寺に建立されることになります。その際に供養導師を務めているのが善通寺誕生院の宥範です。これについて『贈僧正宥範発心求法縁起』は、次のように記します。
 阿州切幡寺塔婆供養事。
此塔持明院御代、錦小路三条殿従四位上行左兵衛督兼相模守源朝臣直義御願 、胤六十六ヶ國。六十六基随最初造興ノ塔婆也。此供養暦応五年三月廿六日也。日本第二番供養也 。其御導師勤仕之時、被任大僧都爰以彼供養願文云。貢秘密供養之道儀、屈權大僧都法眼和尚位。爲大阿闍梨耶耳 。
  意訳変換しておくと
 阿州切幡寺塔婆供養について。
この塔は持明院時代に、足利尊氏と直義によって、六十六ヶ國に設置されたもので、最初に造営供養が行われたのは暦応5年3月26日のことである。そして日本第二番の落慶供養が行われたのが阿波切幡寺の利生塔で、その導師を務めたのが宥範である。この時に大僧都として供養願文を供したという。後に大僧都法眼になり、大阿闍梨耶となった。

 ここで研究者が注目するのは、切幡寺が「日本第二番・供養也」、善通寺が「日本第三番目之御供養也」とされていることです。しかし、これは事実ではないようですが、切幡寺や善通寺の利生塔は、全国的に見ても早い時期に建てられていることを押さえておきます。当時の讃岐と阿波は、共に細川家の勢力下にありました。細川頼春は、足利尊氏の進める利生塔建立を推進する立場にあります。守護たちも菩提寺などに利生塔を設置するなど、利生塔と守護は強くつながっていました。ただ「八幡町史」は、利生塔造立地は現在の切幡寺境内ではなく、字観音の「西堂(りじどう)」と呼ばれる地点とします。
D 【守護創建寺1 梵光寺】(阿波市市場町山野上)を見ておきましょう。
秋月には補陀寺以外にも守護創建の十院がありました。その代表的寺院が梵光寺です。しかし、この寺は今となっては、どこにあったのかも分からなくなっています。そんな中で戦前に「再発見」されたのが「秋月荘八幡宮鐘銘」です。この古鐘銘について 阿波学会研究紀の「市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号」は次のように記します。

昭和13(1928)年頃、松山市弁天町の善勝寺に日切地蔵尊の釣鐘として使われていたが、少しヒビが入ったので撞かずにしておいた。当時、戦争のため物資が不足し、各寺院では、国防資材として不用のものを供出する運動が起り、この釣鐘も競売してその代価を献納することになった。競売の結果、同市新玉町の古物商亀井季太郎氏の手に落ちた。ところがその釣鐘の銘文を調べてみると、室町時代初期の鐘銘があり、道後湯之町岩崎一高氏が再調査したところ、準国宝級のものとの噂が高まった。そして、これが阿波国八幡の八幡宮の古鐘であることがわかった。この鐘が、どうして善勝寺に入ったかを調べると、昭和13年頃から70・80年前に善勝寺の先々代の稲岡上人が讃岐で買入れたものとわかった。(中略)
 この由緒ある古鐘は、流れ流れて現在は広島県豊田郡瀬戸田町の耕三寺の博物館の所蔵となっており、銘の拓本取りどころか、なかなか細かな調査もできなくなっている。 

以上を整理・要約しておくと、
①幕末の1850年前後に、松山市の善勝寺の住職が讃岐で古鐘を手に入れた。
②日中戦争が激化して金属物の供出運動が起こり、古物商の手に落ちた。
③銘文を改めて調べてみると室町時代初期の阿波国市場の八幡神社の古鐘であることが分かった

 銘文は、4区の面にタガネ刻で次のように刻まれています。
 第1区奉鋳造
   ①大阿波国秋月庄八幡宮
   大檀那
    梵光寺  ②守格
    右京大夫 (細川)頼元
    兵部少輔 義之
第2区右奉為
   金輪聖皇天長地久御願
   円満天下奉平国土豊饒
   殊者大檀那御息災安穏
   増長福寿家門繁栄 并
   結縁奉加之衆現当二世
 第3区願望成就乃至鉄囲沙界
   之情非情悉利益平等敬白
    応永二暦乙亥八月十二日
    勧進沙門金対資頼業敬白
   神主 宇佐輔景宗
   大工 伴左衛門正光
 第4区奉再興
   明月山梵光寺住持②比丘尼守久
   神主 沙弥盛宗
   永享七年(1435)乙卯六月廿九日
   願主 内藤元継敬白
  一打鐘声 当願衆生
  脱三界苦 得見菩提
 この史料からは次のようなことが分かります。
①梵光寺が秋月八幡宮の別当寺であったこと
②住職として「守格」「守久」の名前があること。
③「守格」は細川頼春の子で、梵光寺の開山者。「守久」は頼有の子で、「守格」の後継者として梵光寺に入ったこと。
④守久は尼僧であるので、梵光寺は尼寺だったこと。
⑤大檀那京太夫頼元は阿波国守護の細川頼春の三子で頼之の弟。
⑥義之は細川詮春の次子で、応安3年(1370)官軍の菊池武政を長門で破った武将
阿波市場の八幡神社 
              市場の八幡宮

郷土研究発表会紀要第25号は、続けて次のように記します。
              

市場の八幡宮には、寛永17(1636)9月吉日の棟礼があり、その中に秋月五カ庄、日開谷、尾開、切幡、秋月、日吉、成当、大野島、山野上、浦池、粟島、伊月とあり、秋月郷の郷社であった。

 鐘銘にある梵光寺は、八幡宮の別当で山野上の仏殿庵が鐘銘の梵光寺である。この敷地からは、南北朝時代の古瓦が多く出土して、その中に阿波細川系の寺院特有の青梅波文様の軒平瓦があり、敷瓦も多く発見されている。仏殿庵は、現在敷地が9畝11歩あり、細川頼春の位碑「光勝院殿故四洲総轄宝洲祐繁大居士」の戒名を記したもので、頼春の持仏の如意輪観音菩薩像が祀られていたというが、現在所在不明である。

「観中和尚語録』永徳元(1381)年8月6日条には「秋月捻分八幡霊祠」として出てくるのが八幡神社です。守護所が置かれた秋月荘の鎮守社でした。それが近世になっても郷社として、周辺の村々の信仰の中心となっていることが分かります。

 また市場の八幡神社には、次のような梵光寺の銘文のある手洗鉢が本堂の前に残っています。

梵光寺の銘文のある手洗鉢 
この手洗鉢は砂岩製で、横巾55cm、高32cm、厚36cm。
 正面に
  寛文四(1644)甲辰年
   梵光寺
  観音御宝前
   手洗鉢
  願主  山上村八左衛門
   六月十八日造立
寛文4年(1644)の江戸時代には神仏混淆下にあり、別当寺の梵光寺の社僧達の管理下にあったことが分かります。

D【守護創建寺院2 光勝院については、一般的には次のように云われています。
 南北朝時代の歴応2年に阿波細川家の祖となる細川和氏が居城とした秋月に夢窓疎石上人を勧請開山に南明補陀寺として創建された。和氏の5男で細川頼之の猶子笑山周念上人が開山に迎えられた。その後、足利尊氏、義直兄弟が阿波国安国寺に当て、安國補陀寺と改称し幕府の保護を受ける官寺として諸山の寺格を与えた。
貞治2年に幕府管領細川頼之が父頼春(光勝院殿)の13回忌に普明国師を開山に迎えて安國補陀寺の南に光勝寺を創建し、応安年間に頼之の弟詮春が居城を勝瑞に移すと安國補陀寺と光勝寺を合併し現在地に移転して安國補陀寺光勝院と改称し、室町時代の文明18年に十刹に列した。
光勝院は守護頼之が、亡父頼春の十一回忌に際して創建した禅宗寺院です。通説では秋月のBの補陀寺に隣接して建てられたとされています。しかし、研究者の中には補陀寺境内に建てられた仏堂とする説もあります。これも「寺々注文」に出てくる寺院ですが康暦の政変後に、頼之によって板東郡萩原の地に独立移転されたという説もあります。

秋月 細川氏拠点2JPG

E【菩提寺参道】
かつての「大道」とされる旧川北本道から補陀寺山門まで南北方向には、直線的に延びる道です。守護が書提寺補陀寺参詣のために開いた参詣道とされます。
F【大道】
藩政期の川北本道と重なる「大道」です。山野上城跡の市側の河岸段上直下も吉野川沿いの街道とともに中世の守護所設置時期にはすでにあったと研究者は考えています。
H【町場(含む市庭)
秋月八幡宮の周辺に広がる「八幡町」は、近世初期には「郷町」で町場でした。つまり、蜂須賀氏入国以前に町場が成立していたことになります。その起源は補陀寺などの寺院の門前町が町場化したことが考えられます。さらに、町場の起源は、守護所が置かれていた時期まで辿ることができるようです。以上から近世の郷町「八幡町」を守護所に伴う町場の発展型と研究者は考えています。
なお、周辺には「市の本」(阿波市市場町山野上)、近世初期の「古市付」(現在の阿波市市場町市場・香美)があります。「市の本」は古野川水運(地名「渡」)を核として成立した市庭の発展型と考えられます。
秋月荘は古野川に面していたので、当然川湊があったことが推定できます。
その地点は、その後の吉野川の流路変更で、特定することは難しいようです。敢えて探すとすれば、秋月八幡宮から南に直進した地点や市場町香美渡付近あたりが考えられます。

J【外港 引田港】(香川県東かがわ市)
引田 大内郡 正保国絵図
           引田と周辺地域 正保国絵図
「秋月」から最も近い海港は、讃岐国の引田港などになります。引田港は以前にお話したように、中世においては大坂峠を越えて阿波もヒンターランドとしていて、畿内・瀬戸内方面への拠点港となっていたしまた。また阿讃山地沿いに東進すると、撫養港(鳴門市撫養町)に出て、阿波国南部への航路と接続が可能でした。

以上から研究者は「秋月」の空間構成を次のように考えています。
① 守護所エリアは秋月荘全域。
② 守護所空間は大きく三ケ所
 A 守護役所〈館・被官屋敷等〉空間、B 寺院空間、C 鎮守・町場空間)の空間を核として、有機的に結節。
③ 守護所に付随した町場は秋月八幡宮周辺や古市など吉野川北岸域に成立。
④ これまで守護所とされてきた秋月(旧秋月村)は隣接する切幡(旧切幡村)も寺院空間に含む

こうして見ると、「秋月」は吉野川北岸の街道「大道」沿いの約1㎞の範囲内に「守護役所等」「鎮守社」「町場+市庭」「川湊」などが集中しています。そしてそのエリアから約1㎞北に隔てた山麓部に菩提寺・利生塔を配する寺院空間(奥津城)が配置されています。ある意味で集中性の高い空間構造であったことが見えて来ます。ここからは逆に、細川氏が阿波国守護になった後も国府地域へ進出せずに、引き続いて秋月を守護所としたのはどうしてか?という問題にも答えることができそうです。
 
 阿波国守護細川氏は、和氏・頼春ともに守護職在職当時は阿波国以外での活動に多くの時間を割かざるを得ない状況にありました。
 瀬戸内海・畿内方面への軍事的移動を考えると、その外港は南海道を利用した引田港になります。引田港へは阿讃山脈越えになりますが、大坂峠は低い峠道で古代以来南海道として整備されており、短時間で引田港へ出ることができます。そういう点からすれば、秋月の地は、阿波国府地域よりも瀬戸内海方面への軍事力の移動などにははるかに有利だったと研究者は考えています。
 頼春が観応の擾乱によって京都市中で戦死した後を受けた頼之と、頼之が管領として上洛した後を受けた頼有もまた、阿波一国だけでなく、四国の他国や中国地方の守護などを引き続き兼務していました。そのために「秋月」から守護所を移すことはありませんでした。要するに「秋月」は阿波国守護所であると同時に、瀬戸内海・中国地方での活動などを含めた広域守護細川氏にとっての活動拠点としての適地であったと研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家清司 「秋月」の空間構成  四国中世史研究17号 2023年
阿波学会研究紀 市場町の石造文化財について 郷土研究発表会紀要第25号
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 前回は、16世紀初頭の永世の錯乱期の讃岐と阿波の関係を三好之長を中心に見ました。今回は阿波の細川晴元を中心に見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」です。

細川晴元
細川晴元
 細川晴元は応仁の乱で東軍を率いた細川勝元の嫡系(ひ孫)という血筋になります。1507年に政元が暗殺される『細川殿の変』を発端として、永世の錯乱と呼ばれる細川京兆家の家督争いが始まります。
永世の錯乱抗争図3

この争いのなかで、細川晴元の父・澄元は、細川高国に負けて阿波に逃げてきます。その後も高国の圧迫を受けて、すっかり弱ってしまった父は細川晴元が7歳のときに阿波・勝瑞城(しょうずいじょう)で亡くなります。父の復讐を果たそうと晴元は、宿敵・細川高国を討ち果たすことに執着した、というのが軍記ものの伝えるところです。
 14歳になった細川晴元は、阿波国人・三好元長(長慶の父)の助けを借りてクーデターを起こします。
1527年の桂川原の戦いで細川高国が率いる幕府軍を倒し、将軍家もろとも高国を京から追い出すことに成功します。
細川高国・晴元分国図
細川晴元と高国の分国(1530年)

細川晴元と三好元長は、将軍と管領逃げ出してもぬけのからになった京に代わって、摂津の堺さかいに『堺公方府(さかいくぼうふ)』という幕府っぽいものをつくり拠点とします。これは細川晴元をリーダーとした擬似幕府でしたが、2年ほどで三好元長とけんか別れします。すると雌伏していた細川高国が報復の動きを開始します。そこで仕方なく三好元長と仲直りして再度手を握り、1531年の大物(だいもつ)崩れに勝利します。
 こうして、『永正の錯乱』と呼ばれた細川京兆家の内輪揉うちわもめに、父の仇かたきを討って勝利した細川晴元は、室町幕府の最高権力者となります。こうなると晴元にとって堺公方府の意味はなくなります。この結果、堺公方府を自分の権力拠点としていた三好元長との関係が悪化します。

両細川家の戦い
永世錯乱後の細川家の内紛

 そんな中で、河内守護・畠山氏と木沢長政の争いが起こります。
畠山氏の援軍に向かった三好元長に、細川晴元は山科本願寺の一揆軍を誘導してぶつけます。これが1532年の『天文の錯乱』を招く大混乱を招くことになり、この騒動に巻き込まれた三好元長は自害します。ここまでは晴元の策略どおりでしたが、一向一揆軍が暴徒化してしまい手におけなくなります。そこで山科本願寺を焼き討ちにして弾圧しますが、これが火に油を注ぐ結果となり、怒った本願寺と全面抗争に発展してしまいます。

三好家と将軍

細川晴元が巻き起こした『法華一揆』の大炎上を翌年に収束させたのが、三好元長の子・千熊丸(12歳 長慶長慶)です。
この時の千熊丸は、まだ子どもでしたが「これは使える」と思った細川晴元は家臣に加えます。しかし、千熊丸の父・三好元長は細川晴元に裏切られて殺されたようなものです。この子は胸の奥に復讐心を抱いていました。三好長慶(ながよし)と名乗るようになった千熊丸は、幕府をもしのぐ大物になり、細川晴元を京から追放します。
 
細川晴元・三好氏分国図1548年

以上のように、細川晴元は細川高国との争いを制して、室町幕府の中枢に君臨し、幕政を意のままにしました。しかし、細川京兆家の内紛に明け暮れ、盛衰を繰り返すうち、家臣の三好長慶によって政権から遠ざけられ、幽閉先の摂津・普門寺城で亡くなります。1563年3月24日、享年50歳で亡くなります。死因は不明。
   
細川晴元の動きを追いかけてきましたが、ここで讃岐に目を転じます。
晴元が畿内での足場を確かにするようになると、讃岐では守護代家の安富氏や香川氏が次のような書下形式の文書を発給し始めます。

  宇多津 本妙寺
本妙寺(宇多津)  
【史料1】安富元保書下「本妙寺文書」
当寺々中諸諜役令免除上者、□不可有相違状如件
享禄二一
正月十六日            (安富)元保(花押)
宇多津 法化堂(本妙寺)

東讃守護代の安富元保が宇多津の日蓮宗本妙寺(法華堂)の諸役免除特権を書下形式で発給したものです。ここには京兆家当主・細川晴元の諸役免除を前提にする文言はありません。元保は自分の判断で諸役免除を行ったようです。
 ちなみに瀬戸内海交易ルートを押さえるために細川氏や三好氏が着目したのが本門法華宗の末寺から本山に向けた人やモノの流れです。細川晴元が「堺幕府」を樹立しますが、その背景には,日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れの利用価値を認め、法華宗を通じて流通システムを握ろうとする考えがあったことは以前にお話ししました。
 また四国を本拠とする三好長慶は、東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は、瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。その港湾都市への参入のために、三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
 長慶は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき,法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。その拠点のひとつが宇多津の本妙寺ということになります。
次は三豊の秋山氏の菩提寺である日蓮宗の本門寺を見ておきましょう。
【史料2】香川元景書下「本門寺文書」
讃岐国高瀬郷之内法花堂之事、泰忠置文上以 御判并景任折紙旨、不可有相違之由、所可申付之状如件、
天文八 六月一日         (香川)元景 花押
西谷藤兵衛尉殿
意訳変換しておくと
讃岐国高瀬郷の法花(華)堂(本門寺)について、(秋山)泰忠の置文と(守護代)の香川和景の折り紙を先例にして、諸役免除特権を認める。この書状の通り相違ない。
天文八(1538)年 六月一日                              
             (香川)元景 花押
西谷藤兵衛尉殿

守護代の香川元景が西谷藤兵衛尉に、本門寺(法華堂)について「泰忠置文」と「御判」と香川和景の折紙を先例にして書下形式で諸役免除を認めることを申し付けています。ここでの「御判」は、京兆家当主の文書を指すようで、香川和景の文書と、晴元以前の当主の文書が並べられます。京兆家の文書は、守護代家の当主発給文書と並列される先例で、ここでも讃岐在地の香川元景は、細川晴元の意志や命令に拠らずに、西谷氏に命令していると研究者は評します。

この2つの史料からは、東讃岐守護代家安富氏、西讃岐守護代家香川氏が京兆家当主の晴元からの上意下達によらず、自身の判断によって政治的な判断を下していることが分かります。それでは、晴元の威光が届かなくなっていたのかと思いますが、そうではないようです。
晴元が讃岐の在地支配に関与している例を見ておきましょう。
  【史料3】飯尾元運奉書「秋山家文書」
讃岐国西方三野郡水田分事、如元被返付記、早可致全領知之由候也、乃執達如件、
大永七 十月七日      (飯尾)元運(花押)
秋山幸久丸殿
  「史料4」飯尾元運・徳阿連署状「覚城院文書」
当院棟別事、令免許申上者、更不可有別儀候、恐々謹言、
甲辰
十二月廿日           (飯尾)元連(花押)
                 徳阿(花押)
覚城院御同宿中
発給者の一人飯尾元連は、細川晴元の奉行人です。【史料4】は千支から年次から天文13(1544)年であることが分かります。讃岐仁尾の覚城院に対し、晴元の奉行人が棟別銭の免除を行っています。ここからは大永年間には晴元の奉行人が讃岐の行政を担っていたことが分かります。以上から、細川晴元の讃岐支配には、次の2つのチャンネルがあったことを押さえておきます。
①守護代の安富・香川氏よる支配
②畿内の奉行人による京兆家当主の支配
次に細川晴元が讃岐国人を、どのように軍事編成して畿内に送り込んでいたかを見ていくことにします。

  【史料5】細川晴元感状写「三代物語」
去年十二月六日至三谷弥五郎要害大麻(多度郡)、香西甚五郎取懸合戦時、父五郎四郎討死尤神妙也、謹言、
三月七日           六郎(晴元)花押
小比賀桃千代殿
意訳変換しておくと
昨年12月6日に、大麻(多度郡)の三谷弥五郎との合戦の際に、香西甚五郎とともに奮戦した、(小比賀桃千代の)父・五郎四郎が討死したことは神妙である、謹言、
三月七日           六郎(晴元)花押
小比賀桃千代殿
年紀がありませんが晴元が実名でなく幼名の六郎で花押を据えているので、発給年次は1531年から34年のことと研究者は判断します。宛所は讃岐国人の小比賀氏です。香西甚五郎とともに讃岐国多度郡大麻にある三谷氏を攻撃した際に、父が名誉の戦死をしたことへの感状です。ここからは次のようなことが分かります。
①1530年代に、多度郡大麻には三谷弥五郎が拠点を構え、細川晴元に反抗していたこと
②讚岐国人の小比賀氏と香西氏は、晴元に従軍していたこと

  【史料6】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」
去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言
八月廿八日   晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
  意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく。謹言
八月廿八日             (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪います。これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して忠節を尽くすよう求めています。ここからは讃岐で軍事的行動の命令を発するのは晴元であり、それを東讃守護代安富家が指揮していることが分かります。

細川晴元は、讃岐の兵を畿内にどのように輸送していたのでしょうか
 【史料7】細川晴元書状写「南海通記」第七
出張之事、諸国相調候間、為先勢明日差上諸勢候、急度可相勤事肝要候、猶香川可申候也、謹言、
七月四日        晴元判
西方関亭中
意訳変換しておくと
「京への出張(上洛戦)について、諸国の準備は整った。先兵として、明日軍勢を差し向けるので、急ぎ務める(海上輸送)ことが肝要である。香川氏にも申し付けてある」で

日付は七月四日、差出人は細川晴元、受取人は「西方関亭中」です。
この史料は「両細川家の争い」の時に晴元が命じた畿内への動員について、香西成資が『南海通記巻七』の中で説明した文章です。宛先は「西方関亭中」とありますが、これが多度津白方の海賊(海の水軍)山地氏のことで、その意味を補足すると次のようになります。
「上洛に向けた兵や兵粮などの準備が全て整ったので、船の手配をよろしく頼む。このことについては、讃岐西方守護代の香川氏も連絡済みで、承知している。」
 つまりこの書状は細川晴元から山地氏への配船依頼状と研究者は考えています。晴元は西讃岐の軍勢を山路氏の船団で畿内に輸送していたことが分かります。西讃守護代(香川氏)とも協議した上での命令であるとしています。海賊衆を動員する際には、香川氏がこれを取り次いでいたことがうかがえます。ここからは、京兆家 → 東西の守護代家 → 讃岐国人という指令回路で軍事動員が行われていたことが裏付けられます。

「琴平町史 史料編」の「石井家由緒書」のなかに、次のような文書の写しがあります。
同名右兵衛尉跡職名田等之事、昆沙右御扶持之由被仰出候、所詮任御下知之旨、全可有知行由候也、恐々謹言。
         武部因幡守  重満(花押)
 永禄四年六月一日       
 石井昆沙右殿
意訳変換しておくと
同名(石井)右兵衛尉の持っていた所領の名田について、毘沙右に扶持として与えるという御下知があった。命の通りに知行するように 

差出人は花押のある「武部因幡守重満」で、宛先は石井昆沙右です。
差出人の武部因幡守は阿波細川氏の家臣で、主君の命令を西讃の武士たちに伝える奉行人でした。
享禄4年(1532)は、細川晴元と三好元長が細川高国を摂津天王寺に破り、自害させた年になります。石井昆沙右らは細川晴元の命に従い、西讃から出陣し、その恩賞として所領を宛行われたことが分かります。石井氏は、永正・大永のころ小松荘松尾寺で行われていた法華八講の法会の頭人をつ勤めていたことが「金毘羅大権現神事奉物惣帳」から分かります。そして、江戸時代になってからは五条村(現琴平町五条)の庄屋になっています。戦国時代の石井氏は、村落共同体を代表する土豪的存在であって、地侍とよばれた階層の武士であったようです。
 以上の史料をつなぎ合わせると、次のような事が見えてきます。
①石井氏は小松荘(現琴平町)の地侍とよばれた階層の武士であった
②石井氏は細川晴元に従軍して、その恩賞として名田を扶持されている。
これを細川晴元の立場から見ると、丸亀平野の地侍級の武士を軍事力として組織し、畿内での戦いに動員しているということになります。そして、戦功を挙げた者には恩賞を与えています。

1546(天文15)年に、対立する細川氏綱が攻勢をかけて苦境に陥ると、晴元はまたもや四国勢を動員します。
8月に十河一存が讃岐国人を率いて畿内に渡海したと「細川両家記」にはあります。しかし、讃岐の軍事動員は東西守護代家が行っていたことは先に見たとおりです。十河一存に軍事指揮権はありません。また、この時期の一存は十河氏の当主の地位すら覚束ない状態です。讃岐国人を率いていたいうのは、一存への過大評価であると研究者は指摘します。これに対して、阿波勢の畿内渡海は10月に細川氏之が指揮権を握って出陣しています。ここからも讃岐と阿波では、軍事指揮系統が異なっていたことが裏付けられます。2つの指揮系統があったのです。
 1547(天文16)年2月以降、翌年4月に終戦し帰国するまで、讃岐・阿波勢は一括して「四国衆」と呼ばれています。
この間は、讃岐衆の香西五郎左衛門と阿波の細川氏之や三好実休は行動を共にしてます。7月の舎利寺の戦いでは、阿波では篠原盛家、淡路では安宅佐渡守、伊予では藤田山城が戦死しています。ここからは、阿波・讃岐・淡路・伊予の細川氏勢力圏の国人たちが「四国衆」として共に軍事行動することはあったことが裏付けられます。しかし、阿波勢を率いるのは細川氏之で、氏之が讃岐勢を指揮したこと史料からは確認できません。この時点でも阿波と讃岐の軍事的連携は強まっていましたが、指揮権は未だ統合されていなかったことを押さえておきます。

以上から次のようにまとめておきます。
①16世紀中頃になっても讃岐は行政・軍事両面ともに京兆家の管轄下にあったこと
②その一方で、「四国衆」のように軍事的に阿波と讃岐を一括視する見方も現れたこと
細川晴元政権の後半になると讃州家(阿波守護)も讃岐に影響力を持つようになること。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)

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