瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:金毘羅信仰と琴平 > 金毘羅門前町

  前回は金毘羅商人の油屋・釘屋太兵衛が経営拡大のために、周辺の村々に進出して水車経営に参入しようとした動きを見ました。今回は、金融的な進出を見ていくことにします。江戸時代後半になると金毘羅商人たちは、周辺の田地を手に入れるようになります。金毘羅は寺領で、髙松藩からすれば他領に当たります。他領の者が土地を所有するというのは、近世の検地の原則に背くものです。どうして、金毘羅商人たちが髙松藩の土地を手に入れることができるようになったのでしょうか? これを髙松藩の土地政策へ変遷の中で見ていくことにします。  テキストは「琴南町誌260P 田畑の売買と買入れ」です。
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 金毘羅商人が、金融面で郷村に進出するのは、凶作などで年貢が納められずに困っている農民達に、資金を貸し付けるというパターンです。
実際には、借りる側は蔵組頭や庄屋が借り手となって、質入れの形式をとります。その際に、抵当物件として田畑の畝高や石高、自分林の運上銀高を手形に書き入れ、米盛帳(有畝と徳米を記入したもの)を添付しました。これが返済できないと抵当は貸し手の金毘羅商人渡ることになります。そういう意味では「金融面での進出=入作進出」ということになります。しかし、このような百姓への貸し付けが本格化するのは19世紀になってからでした。
それまでは、幕府は寛永20(1643)年2月に田畑の永代売買を禁止していました。
その背景には次のようなねらいがありました。
①凶作などで自作農が田畑を売却して、貧農に転落するのを防止すること
②抵当地の勝手な売買で、領主の領知権と年貢の収納権が侵されることを防止すること
この時点では、質流れによる田畑所有権の移転は認められませんでした。そのため田畑を担保にして百姓に資金を貸すと云うことは大手を振っては行われなかったようです。
  幕府が田畑の永代売買禁止を転換するのは元禄7(1694)年でした。
幕府は質入れの年季を10年に限り、質入れ証文を取り交わしている土地については質流れを許します。つまり、質流れによる田畑の所持権移転を認めるようになったのです。続いて、寛保2(1742)年に制定された「公事方御定書」には、次のように規定されます。
①百姓所持の田畑を質入れし、質流れによって所持権が移転することが法的にも認める
②不在地主が小作地から小作料をとることも公認され保障される
こうして百姓の所持する田畑は、質入れ、質流れの場合は所有権が移転できることになります。その2年後には「田地永代売買禁止令」の違反罰則が、軽微なものに改正されて、実質的に撤回されます。こうなると生産性の高い耕地は有利な投資先と見られ、都市部の富裕層からの融資対象になります。
これを受けて高松藩も、田畑所有権の移転を認めるようになりますが、それには厳しい制限を設けていました。
具体的には、田畑や百姓自分林の質入れ手形に、村役人全員の連署を求めています。時には大政所の奥書きも要求して、田畑や自分林の質流れによる譲渡を押さえる政策をとってきました。
それが転換されるのが文化2(1805)年です。
  高松藩は、財政改革のために年貢の増収を優先させ、田畑が誰の所有であるかは後回しにするような政策をとります。それに伴って新しい順道帳を村々に交付しています。その中には、百姓の田畑所持権が移転した場合の順道帳の取り扱い方についても指示しています。その様式を見ると、売券のそれまでの常用文言であった「年貢上納不罷成」の言葉が、「我等勝手筋有之」に変わっています。これは「年貢が納められられないので土地を手放す」から「勝手都合」で田畑を売買することを容認していることがうかがえます。
文化9(1812)年の勝浦村庄屋日帳(「牛田文書」)に出てくる「永代田地譲渡手形の事」の様式を見ておきましょう。
「右は我等勝手筋有之候に付、此度右畝高の分銀何貫目請取、永代譲渡候間云々」
「田地売主何右衛門」
などと書くことことを指示しています。 ここから「高松藩の田畑譲渡が公認」されたことが分かります。以後、生産性の高い田畑は商人の有望な投資対象となって、田畑や山林の売買が盛んに行われるようになります。次表は、川東村の文化5年から天保10(1839)年までの30年間の「田畑山林永代譲渡手形留」(「稲毛家文書」)を研究者が整理したものです。

「西村文書」享保3年から文化8年までの、通の田畑山林の売買と質入れの証文

川東村の「田畑山林永代譲渡手形留」
この表からは、琴南町の最奥部の川東村でも、多くの田畑の売買が行われていたことが分かります。川東村は畑地が多く、零細な田畑を持つ小百姓が多い所です。この表からは、厳しい自然条件の下で、零細な田畑を耕作し、重税に堪えながら生き続けてきた百姓が、天災や、飢饉や、悪病の蔓延によって、次第に田畑を手放した苦しみが書き綴られていると研究者は評します。

このように田畑が金毘羅商人などに渡り、急速に入作が増加します。
文政4(1821)年の「鵜足郡山分村村調(西村家文書)よると、その比率は次の通りです。
A 炭所西村村高760石余りのうち、入作は86石2斗  (11%)
B 長尾村村高1029石余りのうち、入作は74石6斗6升(7%)
Bの長尾村の入作の内訳は、次の通りです。
①高松入作  5石4斗6升4合
②金毘羅入作  1石2斗8升2合
③他村入作 13石3斗5升2合
④他郡入作 40石4斗3升5合
⑤池御料榎井村入作 14石1斗3升
これをみると金毘羅・池御料・高松からの入作が見られます。①の高松からの入作については、鵜足郡の大庄屋を務めた長尾の久米家が、高松に移っていたので、その持高のようです。⑤の榎井村からの入作は、榎井東の長谷川佐太郎(二代目)のものです。

西村家の「炭所東村田地山林譲渡並質物証文留」(西村家文書)からは次のような事が分かります。
①金毘羅新町の絹屋善兵衛は二件の質受けと二件の貸銀を行い、その質流れで田畑譲渡を受けた。
②善兵衛は、造田村や川東村でも活発な金融活動を行って、多くの田地を手に入れている。
③池御料榎井村の長谷川佐太郎(二代目)和信も、田畑や山林を抵当物件として、5件の質受けを行っている
これらの質請け(借金)は、年貢を納める12月に借りて、翌年の10月に収穫米によって支払われることになっています。その利率は月一歩三厘~一歩五厘と割高で、数年間不作が続けば、田畑や山林を譲渡しなければならなくなります。
 年貢の納入は個人が行うものでなく村が請け負っていたことは以前にお話ししました。そのため百姓が用意できない未進分は蔵組頭が立て替えたり、藩の御金蔵からの拝借銀によって賄れました。それができない時は、町人から借銀して急場を凌ぐことになります。それが返せないとどうなるのかを見ておきましょう。
鵜足郡造田村造田免(現琴南町造田)の滝五郎は、天保9(1838)年に蔵組頭に選ばれます。
ところが彼は、3年後に病気のため急死してしまいます。この時期は大塩平八郎の乱が起きたように、百姓の生活が最も苦しかった時期で、年貢の未納が多かったようです。そこで滝五郎は、天保11(1840)年7月に、榎井村の長谷川佐太郎から金30両を借り入れます。ところが滝五郎が急死します。そこで長谷川佐太郎は、造田村の庄屋西村市太夫に借金の肩替わりを要求します。市太夫は、天保12年10月に新しく借用手形を入れ、元金30両、利息月1歩3三厘、天保13年5月に元金返済を約束して、今までの14ケ月分の利子を支払っています。そして、市太夫は約束通り、支払期日までに藩からの拝借銀で元金と利子を支払っています。ちなみに、ここに登場する西村市太夫は、金毘羅商人の釘屋太兵衛の義弟で、二人で水車経営などの商業活動を活発に行っていたことは前回にお話ししました。
ここに出てくる榎井村の長谷川佐太郎の持高を見ておきましょう。
天保8年(1837)8月29日付けで、造田村庄屋の西村市太夫から鵜足郡の大庄屋に報告された文書には、造田村への他領民の入作について次のように記します。
一 高拾九石七斗九升七合   造田免にて榎井村長谷川佐太郎持高
一 高壱石四斗弐升九合    内田免にて同人(長谷川佐太郎)持高
 〆弐拾壱石弐斗弐升六合
一 高壱石三斗七升四合    金毘羅領 利左衛門持高
造田村の村高は、891石3斗8升6合です。長谷川佐太郎(二代目)の入作高は、造田と内田で併せて10石あまりだったことが分かります。これは造田村では庄屋の西村市太夫、蔵組頭の久保太郎左衛門に次ぐ3番目の地主になります。このように金毘羅周辺の村々の田地は、担保として有力商人たちの手元に集まっていきます。
高松藩では、弘化2年(1845)7月に、この「緩和政策」を転換します。
次のような通達を出して、他領者の入作と他領者への入質を禁止します(稲毛文書)
郡々大庄屋
只今迄、御領分ぇ他領者入作為仕候義在之、 別て西郡にては数多有之様相間、 古来より何となく右様成行候義、 可有之候得共、元来他領者入作不苦と申義は、御国法に有之間敷道理に候条、弥向後不二相成候間、左様相心得、村役人共ぇ申渡、端々迄不洩様相触せ可レ申候。
(中略)
他領者ぇ、田地質物に指入候義、 向後無用に為仕可申候。尤是迄指入有之候分は、 追て至限月候へば詑度請返せ可申候。自然至限月候ても返済難相成、日地引渡せ可申、至期候はば、村役人共より世話仕り、如何様仕候ても、領分にて売捌無滞指引為致可申候。
意訳変換しておくと
各郡の大庄屋へ
これまで髙松藩領へ他領(金毘羅領)から入作することが、(金毘羅に近い)藩西郡では数多く見られた。 これは慣行となっているが、もともとは他領者が入作することは、国法に照らしてみればあってはならないことである。そこで今後は、これを認めないので心得置くように。これを村役人たちに申渡し、端々の者まで漏れることなく触れ廻ること。
(中略)
他領者へ、田地を質入れすことについても、 今後は認めない。すでに質入れしている田畑については、返済期限が来たときに担保解消をおこなうこと。期限が来ても返済ができない場合は、引き延ばし、村役人の世話を受けても返済すること。いかなる事があっても、領内における担保物権の所有権の移動は認めない。
各郡の大庄屋に対して、今後は他領民(金毘羅領・天領)の請作を禁止し、現在の他領民の耕作地を至急請け返すよう命じています。さらに8月23日付けで、入質している田地が質流れになる時は、村役人がどのようにしてでも、その土地を領内の者が所持するようにせよと命じています。その文中には「たとえ金光院への質物たりとも例外でない」という一文が見えます。これは金毘羅金光院の力を背景とした金毘羅商人の融資事業と、その結果として土地集積が急速に進んだことを物語っていると研究者は判断します。そのために先ほど見た長谷川佐太郎の造田や内田の入作地は、庄屋の西村市太夫が買い戻しています。その代銀3貫500目は、年利1割3歩、期間5ケ年の借用手形に改められています。
しかし、通達だけで実態を変えることはできません。
嘉永2(1849)年十月には、高松藩は、文化9(1812)年以来、田畑譲渡手形の中で使用していた、「田畑売主何右衛門」という字句を、「田畑譲渡主何右衛門」と改めるよう厳命しています。さらに大庄屋の裏判を押すこと入作請返しの借銀を励行させて、他領入作を抑えようとしますが、これも効果がありません。
 こうして一般の田畑売買もますます盛んになって、悪質な土地売買業者が横行するようになります。そこで元治元(1864)年、高松藩は回文を出して、土地仲人者の横行徘徊を取り締まるよう求めています。つまり、手の打ちようがなくなっていたのです。「高松藩の土地政策は、他領者入作によって、その一角が崩壊した」と研究者は評します。こうして幕末にかけて、金毘羅商人たちは、周辺への金融進出(高利貸し)を通じて、田畑の集積を重ね不在地主化していくことになるようです。
以上を、まとめておきます。
①幕府は寛永20(1643)年2月に、田畑の永代売買を禁止していた。
②しかし、凶作が連続すると土地を担保にして資金を借りることは日常的に行われていた。
③そこで、金は借りても担保の土地が質流れしないように、各藩はいろいろな制約を出していた。
④髙松藩では19世紀になると「規制緩和」して、田畑を担保物件とすることを認めるようになった。
⑤これを受けて、金毘羅商人たちは有利な投資先として、田畑を担保とする高利貸しを積極的におこなうようになった。
⑥その結果、周辺の村々の田畑が質流れして、金毘羅商人の手に渡るようになった。
⑦この現状の危うさを認識した髙松藩は、1845年に金毘羅商人への田畑の所有権移動を禁じる政策転換を行った。
⑧しかし、現実を帰ることは出来ず商人の土地集積は止まらなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「琴南町誌260P 田畑の売買と買入れ」
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19世紀になると金毘羅商人の周辺の村々への進出が活発化していきます。そのようすを油屋の釘屋太兵衛の活動で見ていくことにします。テキストは「ことひら町史 近世332P 金毘羅商人の在郷進出」です。
金毘羅門前町の基礎を築いたのは、生駒藩時代に移住した人々でした。
彼らの中には、金光院に仕えて、その重職となった人々もありました。その多くは旅館や商店や酒造業を経営して「重立(おもだち)」と呼ばれました。重立が互選し、金光院の承認によって町年寄が決定し、町政を行うシステムが出来上がります。
元禄年間(1688~1703)以降になると、宗門改めについても抜け道が設けられて、周辺から金毘羅へ移住・流入する人々も増えて、商売を行う人々も増加します。そうなると金毘羅を拠点にした経済活動が活発化して、商圏エリアも拡大していきます。 こうして商人の中には、多額の金銭を蓄積する者も出てきて、その中には金光院に献納したり、大権現の社寺普請に協力して、実力を認められるようになる者も現れます。
そんな商人の一人が釘屋です。
釘屋は、阿野郡南の東分村(綾川町)から元文年間(1736~40)に金毘羅へ移住した油商人で屋号が「油屋」で、代々太兵衛と称します。二代目太兵衛は金光院に対し、次のように定期的に冥加銀を納めています。

金毘羅御用商人釘屋太兵衛の寄付記録
天明2年(1782)に銀300目
天明3年(1783)に銀200目
天明5年(1785)に鞘橋の修繕に銀600目
文政12年(1829)12月、三代目太兵衛は金光院の御買込御役所に対し、銀10貫日を献上し、先祖から油の御買い上げについて礼を述べて、引き続いての御用をお願いしています。こうした貢納を重ねた結果、金光院院主に年頭御挨拶に出ることを許されるようになります。天保9年(1838)正月の金光院院主に年頭挨拶できる御用聞きのメンバーは次の通りでした。

金毘羅御用聞商人
 御用聞き 多田屋治兵衛・山灰屋保次・伊予屋愛蔵・屋恒蔵・山屋直之進
 新御用聞き 釘屋太兵衛・金尾屋直七・鶴田屋唯助・福田屋津右衛門・玉屋半蔵・行蔵院
釘屋太兵衛(三代目)の名前が、「新御用聞」のメンバーの一人として入っています。こうして見ると釘屋は東分村から金毘羅にやってきて三代百年で、押しも押されぬ金毘羅商人にのし上がっていったことが見えて来ます。釘屋太兵衛の本業は油屋です。
そのため、いつ頃からか金毘羅に近い那珂郡買田村(まんのう町買田)に水車を持っていました。
この水車は、綿実の油絞り用に利用されていたようです。当事の金毘羅領に供給される油は次の3種類でした
①菜種の年間手作手絞高(年間生産量)は、約20石(菜種油は藩の数量制限あり)
②大坂から買い入れる27石の種子油
③それ以外の油は、買田の水車で綿実から絞った白油
これらの3つからの供給先からの油と蟷燭が金毘羅の不夜城を支えていました。その最大の供給元が釘屋太兵衛だったということになります。

綿実2
     綿実(綿花から綿繰りをして取り出した種)
③の綿実について、もう少し詳しく見ておきます。
実綿(みわた)から綿繰りをして取り出した種〔綿実:めんじつ〕は、搾油器を使って油をしぼり出しました。これが灯し油(とぼしあぶら)として利用されたのです。綿実油(白油)は、菜種油(水油)とともに代表的な灯し油でした。絞り油屋には、圧搾前に臼で綿実や菜種を搗く作業を人力や水車でおこないました。
井手の水車 「拾遺都名所図会」
            綿実を搾る水車 「拾遺都名所図会」(国立国会図書館蔵)
京都の綴喜郡井手村(現在の井手町)には、水流を生かして水車を使用している光景が「拾遺都名所図会」に描かれています。当事の綿実の買い取り価格は、銀30匁ほどだったようです。綿花栽培がさかんになった地域では、糸にする繰綿だけではなく、種(綿実)も地域の絞り油屋に売却し、灯し油などに利用されていたのです。この時代の「讃岐の三白」は、綿花でした。讃岐でも綿実や菜種のしぼりカスの油粕(あぶらかす)は、農作物の肥料として使われていました。綿花が、副産物もふくめて無駄なく循環する形で利用されていたのです。ここでは糸繰り行程で出てきた綿実からは、照明用の白油が、水車小屋で搾り取られていたことを押さえておきます。

行灯と灯明皿
   行灯(あんどん)・灯明皿(とうみょうざら)
行灯は、部屋の明かりを灯す道具で、外側に和紙が張られています。内側には燃料の油を入れる灯明皿をおきます。菜種・綿実・魚などからしぼった油をこの皿に注ぎ、藺草(いぐさ)などから作った芯に火をつけて明かりを灯しました。
水車2

19世紀になると地主や町人が資本を出して、村々で水車を経営するようになります。
ここで当事の水車の設置状況を、琴南町誌380Pの「町人資本の浸透」で見ておくことにします
水車で米を揚き、粉を挽いて利益を上げることが、いつごろから始められたかはよく分かりません。。文政6(1823)年6月に、中通村(まんのう町)の水車持の八郎兵衛と、西村八郎右衛門が連記署名して、造田村の兼帯庄屋小山喜三右衛門と村役人に対して、一札を入れています。(「西村文書」) その内容は、4月から7月まで、5月から8月までの間は、決して水車を回さないことを確約したものです。水田の灌漑中は、水車を回すことはできませんでした。そのための確約書です。
文政11(1828)年12月に、高松藩が無届の水車取締りを大庄屋に命じています。その文書の中に次のように記します。

水車多く候節は、男子夜仕事も致さず風俗の害に相成候由相聞候間、 一通りにては取次申間敷候

意訳変換しておくと
「水車が稼働する期間は、男子が夜仕事せず水車小屋に集まり、風俗の害ににもなっていると聞く。そのために設置状況を調査し報告するように」

水車小屋2


天保5(1834)年の高松藩の水車改めに対しては、造田村は、新開免に次右衛門の経営する水車があって、挽臼二丁、唐臼四丁の規模であることを報告しています。川東村では、本村と明神に水車があるが、無届けであって、休止状況であると報告しています。ここでは水車設置とその運用については、藩の認可が必要であったことを押さえておきます。
天保10(1839)年の水車改めの時に、郷会所手代秋元理右衛門は、次の2ヶ所で無届けの水車があったことを報告しています。
①川東村矢渡橋の水車で、枌所東村の直次郎が資本を出し、挽臼一丁と唐臼四丁
②明神の水車は粉所西村の鶴松の出資で、挽日二丁と唐臼六丁
この水車を請け負って経営していた百姓名や、歩銀の額は記されていません。
以上からは19世紀になると、土器川沿いには水車が姿を見せるようになっていたこと、それを髙松藩は規制対象として設置を制限していたことを押さえておきます。

ここで登場してくるのが造田村庄屋の西村市太夫です。
西村市太夫の姉なおは、金毘羅の油屋の釘屋太兵衛の妻でした。西村家文書の中には、釘屋太兵衛から義弟・西村市太夫に宛てた連絡文120通や、なおが実弟の市太夫に宛た友愛の情のこもった手紙40通などが残っていて、互いに連絡を取り合い情報交換しながら商業活動を展開していた様子が見えてきます。両者の水車経営を見ておきましょう。

天保6(1835)年6月、金毘羅新町の油屋釘屋太兵衛(三野屋多兵衛)は、義弟の西村市大夫の尽力で鵜足郡東二村(丸亀市飯野町)で水車一軸を買い受けます。
そして、高松藩の水車棟梁であった袋屋市五郎の周旋で、水車株も手に入れます。この水車は、菜種や綿実から油を絞るもので、運用には藩から御用水車の指定を受ける必要がありました。そこで、釘屋太兵衛から資金提供を受けた市大夫は各方面に次のような働きかけをしています。
大庄屋に銀10匁、郡奉行、代官、郷会所元締めに銀四匁、銀二匁か酒二升。秋の松茸一籠、冬の山いも一貫目、猪肉一梱包(代六匁)、ふし(歯を染めるのに使用)一箱
「東二村水車買付に付諸事覚書(西村文書)]

など、金品を贈って運動したことが詳細に記載されています。運動の結果、 東二村の水車は御用水車として認められます。
 先ほど見たように釘屋太兵衛は「油屋」の屋号を持つ金毘羅の油商人です。
上方や予州から油を仕入れて金毘羅で販売していましたが、買田以外にも水車を手に入れ、綿実から油を絞り、生産活動にも進出し経営拡大を図ろうとしたようです。藩の御用水車認可は下りましたが、油屋の水車経営には問題が多かったようです。まず原材料である綿実がなかなか確保できません。その背景には当事の幕府の菜種油政策がありました。天明年間(1781~89)以来、幕府は江戸で消費する莱種油を確保するために、高松藩に対して領内から毎年5000石の菜種を大坂へ積み出すことを命じ、髙松領内での菜種絞りを抑制させていました。つまり、江戸に送るために菜種油が恒常的に不足しており、そのため代用品として綿実から油を絞っていたのです。その結果、綿実も不足気味でした。
 そんな中で天保13(1843)年正月、東二村の水車の綿実を運んでいた馬子2人が、得意先の百姓から菜種を宇足津の問屋へ届けることを頼まれて、上積みしていたのを発見されます。これを役人は油屋の釘屋太兵衛が、菜種を売買して油絞りをやっているのではないかと疑います。この結果、水車の油絞りは差し止められます。西村市太夫と釘屋太兵衛は、たびたび高松へ呼び出されて取り調べを受けますが、疑いはなかなか晴れませんでした。そんな中で、その年の年末11月2日、水車が火災で消失してしまいます。油絞りの差し止めは、その直後の12月7七日に解除になりましたが、これを契機に、西村市太夫と釘屋太兵衛は、東二村の水車を高松の水車棟梁の袋屋市五郎の子久蔵に譲り渡し、水車経営から撤退しています。

それ以前の天保十(1839)年には、西村市太夫は炭所西村間藤(まとう)の水車を買い取っています。
この水車の規模は、挽臼二丁、唐臼四丁で、小麦粉を挽き、米を揚くものであったことが「西村文書」に記されています。展示入れた後は、月一両の歩銀で、弥右衛門、政吉、弥七に引き続いて運用を請け負わせています。その会計関係の帳簿も残されていますが、経営がうまくいかずに天保14(1843)年8月に亀蔵に売却しています。これも金毘羅新町の義兄である油屋釘屋太兵衛と連動したうごきかもしれません。このように釘屋太兵衛は、造田村の義弟で庄屋西村市太夫と協力して、米と綿実の買い付けを行う以外にも、金融活動も手広く行っています。

東二村の水車を売却した翌年の天保15(1844)年6月15日に、釘屋太兵衛は隠居しています。
68歳でした。その後は、子の精之助が家督を継いで御用聴を命じられます。精之助は金毘羅の高藪に支店を持ち、大麻山の葵ケ谷に別荘を構え、商売も繁昌します。しかし、その後の油類の価格暴騰と品不足に対応を誤り破産します。安政5年(1858)5月に、金光院の特別の配慮で銀10貫目を月利5歩10か年済で拝借して、商売の立て直しを図りますが、失敗が続きます。
 文久2年(1862)6月、精之助は、融通会所へ差し入れてあった拝借銀の抵当物を、無断で持ち出して売却したことが発覚します。その結果、家は欠所、精之助は御領分追放となり悴の忠太郎(13歳)と娘の美春(10歳)、まき(8歳)は、社領内で生活することを許されますが、釘屋一族のその後の消息は分かりません。
 釘屋太兵衛のような金毘羅商人の郷村進出を「藩政の基盤を徐々に蚕食して、その減亡を早めた」と研究者は評します。
しかし、視点を変えてみると彼らの商業活動の大きな制約となっていたのが髙松藩の様々な「規制」でした。この時代に「経済活の自由」は保障されていません。もし、自由な活動が保障されていれば、西村市太夫と釘屋太兵衛の水車小屋経営はもっとスムーズに発展した可能性があります。明治維新による「経済活動の自由」の前に、このような動きがあったからこそ、村の近代化は順調に進んだのではないかと私は考えています。
   金毘羅商人の釘屋太兵衛の商業活動をまとめておきます
①釘屋家はもともとは綾川上流の東分村の油売商人だった。
②それが18世紀前半に金毘羅に移り住み、本業の油生産・販売を手がけるようになった
③18世紀後半には、定期的な献金活動を重ねる中で、金毘羅金光院の御用を務めるようになった④そして三代目釘屋太兵衛の時には、御用商人のメンバー入りを果たし、周辺農村に進出する。
⑤釘屋は買田に水車経営権の特権をもち、そこで生産した綿花油を金毘羅に供給していた。
⑥また、義弟の造田庄屋の情報提供や協力を受けて髙松藩へも政治的な働きかけを積極的に行っていた
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「ことひら町史 近世332P 金毘羅商人の在郷進出」
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稲毛家文書は阿野郡南川東村(まんのう町川東)の庄屋役をつとめた稲毛家に伝えられた文書です。
その中に髙松藩が各庄屋に廻した次のような文書に出会いました。
那珂郡岸上村、七ケ村、吉野上村辺(五毛か)人家少なにて、自然と田地作り方行届不申、追々痩地に相成、地主難渋に成行、 指出田地に相成、 長々上の御厄介に相成、稲作に肥代も被下、追々地性立直り、御免米無恙(つつがなく)相育候様、作人共えも申渡候得共、元来前段の通人少の村方に付、他村他郡より右三ケ村の内ぇ引越、農業相励申度望の者も在之候得ば、建家料并飯料麦等別紙の通被下候間、望の者共右村方え罷越、 篤と地性等見分の上、村役人え掛合願出候得ば、御聞届被下候間、引越候上銘々出精次第にて、田地作り肥候得ば、其田地は可被下候。又最初より田地望も有之候得は、当時村支配の田も在之候間、其段村々え可申渡候。
但、引越願出候共、人振能々相調、 作方不出精の者に候はば、御聞届無之候間、左様相心得可申候。
別紙
一、銀三百目 建築料
一、家内人数壱人に付大麦五升ずつ。
右の通被下候。
天保十年二月               元〆
大庄屋宛
  意訳変換しておくと
もともと那珂郡の岸上村、七ケ村、吉野上村(五毛)は人家が少く、そのため田地の管理が行届ず、痩地になっている。これには地主も難渋し「指出田地」になって、お上の御厄介になっている所もある。肥料代があれば、やせ地も改善し御免米も無恙(つつがなく)育つようになる。
 そこで、他村他郡からこの三ケ村の(岸上村、七ケ村、吉野上村)へ移住して、農業に取り組もうとする者がいれば、建家や一時的な食料を別紙の通り下賜することになった。移住希望者がいれば、人物と土地等を見分して、村役人へ届け出て協議の上で定住を許可する。また、移住後にその意欲や耕作成績が良ければ、その田地を払い下げること。また最初から田地取得を望むものは、村支配となっている田があるはずなので、そのことを各村に伝えて協議すること。ただし、移住願が出されても、その人振や能力、出来・不向きなどをみて、耕作能力に問題があるようであれば、除外すること。左様相心得可申候。
別紙
一、銀三百目 (住居)建築費
一、家内の人数1人について、大麦五升ずつ。
右の通被下候。
天保十年(1839)2月               元締め
大庄屋宛
ここからは次のようなことが分かります。
①天保10(1839)年2月に髙松藩から各大庄屋に出された文書であること
②内容は金毘羅領や天領に隣接する岸上村・七ケ村・吉野村では、耕作放棄地が出て対応に困っていたこと
③そこで奨励金付で、この三村への移住者募集を大庄屋を通じて、庄屋たちに伝えたこと
 平たく言うと、奨励金付で天領に隣接村への移住者の募集を行っていたことになります。
最初にこれを見たときには、私は次のような疑問を持ちました。江戸時代は人口過剰状態で、慢性的な土地不足ではなかったのか、それがどうして藩が入植者を募集するのか? また、その地が「辺境地」でなくて、どうして天領周辺の地なのかということです。

満濃池 讃岐国絵図

移住奨励地となっている「岸上村、七ケ村、吉野上村」の位置を確認しておきます。岸の上村は、金倉川左岸で丘陵地帯です。七ケ村は旧仲南町の一部にあたるエリアです。吉野上村は土器川左岸ですが、ここでは満濃池の奥の五毛のことを云っているのかもしれません。

満濃池水掛かり図
満濃池用水分水表 朱が髙松藩・黄色が天領・赤が金毘羅領・草色が丸亀藩
この3ケ村には「特殊事情」があったと研究者は考えています。
ヒントは3ケ村が上図の黄色の池御料(天領の五条・榎井・苗田)や赤の金毘羅領に隣接していていたことです。そのため19世紀になると、周辺地から天領や金比羅町に逃散する小百姓が絶えなかったようです。その結果、耕す者がいなくなって末耕作地が多くなる状態が起きたというのです。その窮余の策として、高松藩は百姓移住奨励策を実施したようです。
 建家料銀三百目(21万円)と食料一人大麦五升を与える条件で、広く百姓を募集しています。現在の「○○町で家を建てれば○○万円の補助がもらえます」という人口流出を食い止める政策と似たものがあって微笑ましくなってきたりもします。 この結果、岸上村周辺には相当数の百姓が移住したきたようです。ここで押さえておきたいのは、周辺の村々から金毘羅領や天領への人口流出がおきていたということです。
 金毘羅領や天領は、丸亀藩や髙松藩の行政権や警察権が及ばないところです。
そして、代官所は海を越えた倉敷にあります。その結果、よく言えば幕府の目も届きにくく自由な空気がありました。悪く言えば、無法地帯化の傾向もありました。そんな風土の中から尊皇の志士を匿う日柳燕石なども現れます。尊皇の志士を匿ったのが無法者の博徒の親分というのが、いかにも金毘羅らしいと私には思えます。「中世西洋の都市は、農奴を自由にする」と云われましたが、金毘羅も自由都市として、様々な人々を受入続けていた気配を感じます。これを史料的にもう少し裏付けていこうと思います。
  近世の寺社参りは参拝と精進落としがセットでした。
伊勢も金毘羅もお参りの後には、盛大に精進落としをやっていることは以前にお話ししました。その舞台となったのが、金山寺町です。
金山寺夜景の図 客引き
「金山寺町夜景之図」(讃岐国名勝図会) 遊女による客引きが描かれている

この町の夜の賑わいは「讃岐国名勝図絵」に「金山寺町夜景之図」として描かれています。この絵からは、内町の南一帯につながる歓楽街として金山寺町が栄えたことがよく分かります。一方で、金山寺町には外から流入して借家くらしをしていた人達がいたようです。

幕末の金毘羅門前町略図
           19世紀の金毘羅門前町 金山寺町は芝居小屋周辺
内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
内町の裏通りが金山寺町 そこに芝居小屋が見える (讃岐国名勝図会)

「多聞院日記(正徳5(1715)五来年之部)」には、次のように記されています。
十月三日
金山寺町さつ、山下多兵衛殿借家二罷在候家ヲふさぎ借家かリヲも置不申、段々我儘之事
廿九日
一金山寺町山下太兵衛借家二さつと申女、当春火事己後も焼跡二小屋かけいたし居申候二付、太兵衛普請被致候二付、出中様二と申候得共、さつ小屋出不申由、依之町年寄より急度申付小屋くづし右家普請成就し今又さつ親子三人行宅へはいり借家かりをも置不申、我儘計申由、町年寄呼寄候へ共不来と申、権右衛門多聞院宅出右之入割先町家ヲ出候様二被成被下候と申、段々相談之上さつ呼寄しかり家ヲ出申候
意訳変換しておくと
十月三日
一金山寺町のさつは、山下多兵衛の借家に住んでいるが借家代も支払わず、段々と我儘なことをするようになっている
10月29日
金山寺町・山下太兵衛の借家のさつという女は、この春の大火後も焼跡に小屋がけして生活していた。太兵衛が新たに普請するので立ち退くように伝えたが、さつは小屋を出ようとしない。そこで町年寄たちは、急遽に小屋を取り壊し、普請を行った。さつ親子三人は新たに借家借りようともしないので、町年寄が呼んで言い聞かせた。そして、権右衛門多聞院宅の近くに町家を借りて出ていくことになった。いろいろと相談の上でさつを呼んで言い聞かせ家を出させた

ここでは、火事跡に小屋掛けして住んでいた借家人さつと家主のトラブルが記されています。さつは、「親子3人暮らし」のようです。若い頃に遊女か奉公人として務め、その後は金山寺町で借家暮らしをしていたと想像しておきます。もう少し詳しく金山寺町の住人達のことを知ることができる情報源があります。それはこの町の宗旨人別帳です。それを一覧表化したものが「町史ことひら 近世156P 金山寺町の人々」に載せられています。
金毘羅金山寺町借家人数と宗派別
金毘羅金山寺町の宗派別借家人数

上の表は明治2年(1869)の「金山寺町借家人別宗門御改下帳」より借家人の竃(かまど=世帯)数と人数を示したものです。ここからは、次のような情報が読み取れます。
①竃数(檀家数)59戸、154人が借家人として生活していたこと
②借家数59に対し、檀那寺が40寺多いこと
③男性よりも女性が多いこと
④3年後の史料には、金山寺町の全戸数は137軒、人口296人とあるので、竃数で43%、人数で約40%が借家暮らしだったこと
上の④の「金山寺町の住人の4割は借家暮らし」+②「借家数59に対し、檀那寺40」という情報からは、借家人の多くが他所から移り住んできた人達であったのではないかという推測ができます。つまり、金毘羅への人口流入性が高かったことがうかがえます。

  下表は、人別帳に記載された金山寺町全体の職業構成を示したものです。

金毘羅金山寺町職業構成

一番上に「商人 78人」と記されていますが、その具体的商売は分かりません。この中に茶屋(37軒)なども含まれていたはずです。上段の商人欄をみると、紺屋・按摩・米屋・麦屋・豆腐屋と食料品を中心に生活用品を扱う商人がいます。その中には、商人日雇い7人がいることを押さえておきます。
 職人欄を見ると、諸職人手伝11名を初め、大工8名の外、樽屋・髪結・佐宮・油氏などのさまざまな職人がいます。そして、ここにも「日雇16人」とあります。商人欄の「日雇7人」と合わせると23人(約17%)が「日雇生活者」であったことになります。ここからは、周囲の村々から流れ込んできた人々が、日雇いなどで日銭を稼ぎながら、借家人として金山寺町で生活している姿が見えてきます。この時期は、金毘羅大権現の金堂(旭社)の工事が進んでいて、好景気に沸く時期だったようです。「大工職人8・左官2人」なども、全国を渡り歩く職人だったかもしれません。
また、天保5(1835)年3月23日の「多聞院日記」には、次のように記します。

「筑後久留米之醤師上瀧完治と申者、昨三月当所へ参り、治療罷有候所、当所御醤師丿追立之義願出御無用無之候所、右家内妹等尋参り、然ル所完治好色者酌取女馴染、少々之薬札等・而取つづきかたく様子追立候事」
 
意訳変換しておくと
「筑後久留米の医師上瀧完治と申す者が、昨年の三月に金毘羅にやってきて、治療などをおこなっていた。これに対して当所の御醤師から追放の願出が出されたが放置してしておいた所、右家内の妹と懇意になったり、酌取女と馴染みになり、薬札などを与えたりするので追放した」

  ここからは筑後久留米の医師が金毘羅にやってきて長逗留して治療活動を始めて、遊女と馴染みになり、問題を起こしたので追放したことが記されています。職人や廻国の修験者以外にも、医師などもやってきています。流亡者となったものにとっては、「自由都市 金毘羅」は入り込みやすい所だったとしておきます。

次表は、宗旨人別帳に記載された金山寺町の一家の家族数を示したものです。

金毘羅金山寺町家族人数別軒数

ここからは次のような情報が読み取れます。
①独居住まいが約2割、2人住まいが約3割、4人までの小家族が約8割を占める。
②宗派割合は、一向宗(真宗) → 真言 → 法華 → 天台 → 禅宗 → 天台の順
③一向宗(真宗)と真言の比率は、讃岐全体とおなじ程度である。
①からは、家族数が少ない核家族的な構成で、町場の特徴が現れています。ここにも外部からの流入者が一人暮らしや、夫婦となって二人暮らしで生活していたことがうかがえます。
19世紀前半の天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。

金山寺町火災図 天保9年3
19世紀初めの金山寺町 芝居小屋や富くじ小屋周辺図 細長い長屋も見える ●は茶屋

この芝居小屋は富くじの開札場も兼ね備えていました。「茶屋 + 富くじ + 芝居」といった三大遊所が揃った金山寺町は、ますます賑わうようになります。かつて市が開かれたときに小屋掛けされていた野原には、家並みが建ち並び歓楽街へと成長して行ったのです。こうした中で、金光院当局は次のように「遊女への寛大化政策」へと舵をとります。
天保4年(1833)2月には、まだ仮小屋であった芝居小屋で、酌取女が舞の稽古することを許可
天保5年(1834)8月13日の「多聞院日記」に「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」とあり、平日でも酌取女が化粧して町場徘徊を許可
これが周辺の村々との葛藤を引き起こすことになります。
天保5(1834)8月14日の「多聞院日記」は次のように記します。
「今夕内町森や喜太郎方へ、榎井村吉田や万蔵乱入いたし、段々徒党も有之、諸道具打わり外去り申候、元来酌取女大和や小千代と申者一条也」

意訳変換しておくと

「今夕に内町の森屋喜太郎方へ、榎井村吉田屋万蔵が乱入してきた。徒党を組んで、諸道具を打壊し退去したという。酌取女の大和屋の小千代と申と懇意のものである」
 
このように近隣の村や延宝からやってきた者が、金毘羅の酌取女とのトラブルに巻き込まれるケースも少なくなかったようでです。

金毘羅遊女の変遷

天保13年(1842)には天領三ヶ村を中心とした騒動が、多聞院日記に次のように記されています。
御料所の若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので御料一統連印で倉敷代官所へ訴え出るという動きが出てきた。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に赴き、結局、長谷川の機転のよさで「もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得る。」ということで合意した、

  その時に長谷川喜平次は金毘羅町方手代にむかって次のように云っています。

「御社領繁栄付御流ヲ汲、当料茂自然と賑ひ罷有候義付、一同彼是申とも心聊別心無之趣と。、御料所一統之所、精々被押可申心得」

意訳変換しておくと

「御社領(門前町)が(遊女)によって繁栄しているのが今の現状です。それが回り回って周辺の自分たちにも利益を及ぼしているのです。そのことを一同にも言い聞かせて、何とか騒ぐ連中をなだめてみましょう。

「御料所一統之所、精々被押可申心得」というところに長谷川喜平次など近隣村々の上層部の本音が見えてきます。この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換して、騒動は決着をみています。
注目しておきたいのは、この騒動が周辺農民からの「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多い」という村人の現状認識から起きていることです。「金毘羅の金堂新築 + 周辺の石造物設置 + 讃岐精糖の隆盛」は幕末のバブル経済につながっていく動きを加速させます。そのような中で、金毘羅は歓楽の町としても周辺からの人々を呼び寄せる引力を強めます。その結果、周辺部の村々だけでなく人口流入が加速化したことが考えられます。それが髙松藩の岸の上・七ヶ村への移住者募集につながっているとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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