瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近代史 > 讃岐の近代農業

   前回は1920年代の麦稈真田を取り巻く状況について、次のように整理しておきました。
①第一次世界大戦前後の麦稈真田の輸出額は、神戸港ではベスト10に入っていた
②工場で作られた品質の良い麻真田の出現で、麦稈真田は安値低迷に苦しんでいる
③麦稈真田は農家の副業のために、品質向上などへの取り組みが弱く競争力に劣る
④このような状況が麦稈真田の未来を危うくしている。
以上からは、農家の副業として生産される麦稈真田が品質面やデザイン面で改善が見られずに、次第に麻真田に押されてる様子がうかがえます。このような状況を専門家や当事者たちは、どのように考えていたのでしょうか。それがうかがえる新聞記事がありましたので見ていくことにします。

麦稈真田貿易趨勢 1918年神戸新聞

大正7(1918年5月12日 神戸新聞 麦稈真田貿易趨勢
    神戸大学新聞記事文庫 デジタルアーカイブ 麦稈製造業第1巻 
意訳変換しておくと
麦稈真田が海外輸出商品としての地位を得るようになって二十年余りが経過した。(中略)
麦稈・経木真田の現況は、第一次世界大戦勃発以前に既に憂うべき数字を示していた。その上に戦乱の影響で、さらなる苦境に立たされた。これについては、世界大戦という未曾有な混乱が原因で、内地生産だけを原因とすることはできない部分もある。しかし、この機会にこそ自ら省みて挽回と発展の策を講じ、力を尽して本業の将来を繁栄へと導かなければならない。麦稈真田産業が今日の発展を為し得た要因を挙げると、次のようになる。
①先覚者の研究苦心に負う所が多い
②製造方法が手仕事で、我が邦人天賦の技巧に適し、初期投資が少ない
③原料の麦稈を最安価に自給できたこと
④広く山間僻村で生産が行われ、安価な労働力が豊富にあったこと
この記事は簡単な取材や「関係者談」ではなく、現場へ調査や各種報告を分析した上で書かれた内容となっています。第一次世界大戦前後における麦稈真田業界の抱える問題が的確に指摘されています。どんな問題意識を持って、この記事が書かれたのか考えながら見ていくことにします。
世界には、低価格の支那真田、技術精巧な伊太利(イタリア)、仏蘭西(フランス)、瑞西(スペイン)製品などの強敵が控えている。日本の麦稈真田産業の発展は、販路の拡張、技術向上、製品改良などにかかっている。今回の調査で得た研究資料の概要を述べたい。
麦稈真田の生産組織を一言で云うならば「農村における婦女の副業」である。
この麦稈真田産業は工場生産ではなく、農家の副業として製造されてきた。そのため原料は、農家自身が栽培する麦稈を利用し、各農家が随時随所で簡単に加工した。それが農家の副業としては最適な産業であったと云える。従事者の年齢は、12歳以上20歳未満の少年・少女が成人以上に当動力として利用せれている。生産に割かれる時間は、児童の遊戯時間、老人の座談、閑居に空費する時間、家婦の不生産的消費時間なども活用できる。さらには広島県呉市や福岡県八幡市では、各種職工の家族の授産事業としても運営されたり、岡山、香川では小漁村の救済事業として行われているところもある。まさに勤労の美風、風教の改善などにも好影響を及ぼしている。
要点を整理すると、次のような麦稈真田の特徴と利点が指摘されています。
①麦稈真田生産は「農村における婦女の副業」として成り立っていること
②副業として、未成年・婦女子・老人が数多く従事していること。
③農家経営を助けると共に、勤労の美風観を育てることにも役立っていること
このような利点に対して、農家の副業ゆえの問題点を以下のように指摘します。
 麦稈真田生産は、初期設備投資がほとんどいらず小資本で起業できる点が工場生産とは異なるところである。しかし将来のことを考えると、製品改良、技術向上、原料精選などに努めるとともに、消費者に好まれる製品を作り、購買心を刺激しないと麦稈真田の発達はないと云える。業者もその点を分かっていて、多品種化や品質向上などに努めているが、それが欧米人の趣味嗜好にマッチしていないことがある。さらに問題なのは、生産に従事する者の多くは、麦稈真田が国際的な貿易商品であることを理解していないことことである。そのため市場が好況になってよく売れれば粗製乱造に走り、不況で生産が落ち込めば、生産を放り投げてしまう。このため次のような弊害が放置されていることが各県からは報告されている。
①製造後、短尺(「尺切のこと」)が混じっている(製品チェックの不備)
②組流れを、そのまま製造している
③幅員が不揃いなもの
④乾燥が不充分なために腐蝕を招くもの
⑤生産組合の規定である八列九重の仕立方を省略して短尺を図るもの
⑥引延ばすもの
⑦汚損したものを出荷するもの
⑧穴が空いているものを出荷するもの
⑨不良原料を使用したために、製品に欠点がでること、
これらの弊害の原因は次の2点に起因する。
A 生産者が故意に不正し、利を得ようとするものと、
B 生産者の技術拙劣から来るもの
この弊害を更に助長するのが、流通ルートの欠陥である。この改善のためには、まず生産者に対する適切な技術指導と、買い取り方法の改善が求められる。次に生産組合による自主的な取締活動が求められる。指導・取締については、とりあえずは農商務省令の発布の条項に従って行えば良い。
ここでは農家の生産従事者の生産者としてのプロ意識の欠如と、それが製品にどのように悪影響を及ぼしているかが具体的に指摘されています。
以上のような悪癖の改善運動のために、次のような実践例が報告されます
麦稈原料の採取や加工方法は、直接に製品に影響を及ぼす問題である。例えば、麦稈の採取、加工について香川・岡山県は、生産組合の活発に活動して改良に勤めている。また天候や風土によって、刈取時期、野晒方法、撰別、号別などが適当でないために生ずる欠点や弊害も多い。原料の麦稈を自分で栽培せずに、他地域から買い入れている福岡県、広島県の一部、山口県などでは、製造家が粗悪原料の使用を余儀なくされているとの報告もある。
 原料生産地には、改良改善に充分な注意が求められる。特に経木の場合は原料加工、晒白などが採取地の山村で、経験に頼って行われている状態なので、薬液の定量を誤って腐蝕を招く例もあった。原料採取に従う者に対して製造方法を指導し、指示された基準・手順で生産するようなシステムを強制的にも形作っていくことは製品改良の上で必要なことである。 真田の網製は誰にでも簡単に習得できる。そのため未熟者の製造したものが市場に出回ることも多い。常に技術の向上を図り、訓練する必要がある。
ここでは先進的な活動例として香川県のことが紹介されています。これについては次のようなものでした。
 明治31(1898)年に「香川県麦稈業組合」や「麦稗真田販売組合」設立し、生産品の品質保証のために検査制度を設け、規格の統一普及に努めます。具体的には製品に生産作者名を押印した県発行の検印証紙を貼付します。これによって生産者責任を明確にすると共に、粗製濫造を防ぐというものでした。これが香川県産の麦得真田の名声を高めたとされます。こうして、問屋などから大量注文が入るようになり、組合による生産割当が容易になると同時に、仲買人や問屋に対する窓口一本化され、価格交渉が有利にはこべるようになりました。生産技術の安定と向上と共に、流通ルートの改善にも取り組み、それが農民の利益にもつながると高く評価しています。それを全国的に普及していくべきだという提言です。
「精神開発」の必要
真田製造は手指による手工品なので、作る人の人格や観念が知らず知らずのうちに、製品に反映する。例えば中流農家で作られた麦稈真田は、下層農家に比べると入念に作られたものが多いように思える。これは従事者の価値観や世界観の現れであろう。現場の生産者に対して、麦稈真田が国際商品であり、我が國の主要輸出品たることを知らしめなければならない。製品の良否はひいては、我が国の国力の伸長にも関わることを自覚させることが求められている。以上については、なかなか実行するのが難しいものもあるが、既に実行されて効果を上げている例として次のような活動がある
麦稈青刈の奨励
品評会の開設
同業組合に於ける毎反検査の講評
特技者の表彰
協議会の開催
技術講習会
巡回指導員の設置
府県試験場でのその地方に適当な品種や加工法の研究指導
 府県市町村だけでなく、同業組合と連携を図りながら進めていくことが要点である。
麦稈真田の品質向上のためには、生産者のプロ意識が必要として、そのために香川県などで行われている生産組合の行事活動が紹介されています。香川県では次のような技術指導体制が組織されていました
①明治25年、指導者育成を目的に先進地の備中から女工数名を雇い入れ、各町村を巡回指導
②明治37年、「麦得真田伝習所」を設置し、技術普及と地域の指導者を育成
③尋常小学校の手工科の教程(カリキュラム)に「麦得真田組み」を採用させ、児童への啓発展開
④真田組の技術向上のために競技会の各地での開催。
⑤滝宮天満宮の夏の競技会は、県下一円から若い女性たちが集まり日頃の腕を競いあった。それが行事化・イヴェント化して、麦稈真田の普及定着につながった
⑥これを受けて各村々でも行政と生産組合が連携して競技会開催
これを逆手にとってみると、この香川県の取組は先進的で、全国的にはそこまで達していなかったということになります。
売買組織の改善
真田の買い取りについては、生産農家が景気動向や市況のことについて疎いことが多い。これに乗じて中間仲買人の暗躍で生産農家は不利益な取引を余儀なくされ、それが農家の生産意欲を失わせている例もある。また、商況が良好な時には、仲買人は品質を問わずに先を争って均一価格で買い求める。ここにも真田の改良、向上を阻害する要因がある。生産農家の保護、製品の改良は、麦稈真田産業の発展のための避けて通れない問題である。この流通ルートには農家や輸出港での売買などに多くの仲間業者が入り込んで複雑化している。これを簡略化することが価格安価や取引の安全につながる。このような流通ルートの改善については、香川県同業組合や岡山県の一部において、先進的な取組が紹介されている。また、共同販売や輸出港で売買市場の開設などについては神戸、横浜において試験実施が行われている。注目したい試みであるが、その経営は不振で軌道に乗っていないのが残念である。

価格の調節施設
麦稈真田は流行や景気変動の影響を受けやすく、価格変動が大きい商品である。そのことが普及拡大の障害となっていると言われる。これについての防止策としては、一時期に集中する註文を、分散して受けるようすれば、価格変動幅を緩和できるという意見もある。しかし、生産農家にとっての最大の不安は、農家に対して融資をおこなう金融機関が身近にないことである。農家が利用できる金融制度や機関がまず求められている。次いで、価格調節の行える集団を将来的には考えるべきである。

海外輸出状況

麦稈真田輸出額変遷 明治21年以後
麦稈真田の反別・生産額の推移表

麦稈真田が始めて海外に輸出せれたのは明治7年のことである。以来、明治25(1892)年までは統計調査がないので詳しくは分からない。日清戦争勃発時の明治26年には輸出額は37万円に過ぎず、その発展も遅々たつものであった。ところがその5年後の明治30年には、318万円に達している。10倍の驚くべき急成長ぶりである。それ以後は、輸出数量は以下のように増加している。
明治37(1904)年 1300万反  輸出額  516万円
大正元 (1912)年   2400万反、 輸出額 1680万円
この大正元年がピークで、翌年には減退し、大正3(1914)年の第一次政界大戦の勃発で大打撃を受け輸出額は急落した。こうして戦争景気で他産業が好景気に沸く中で、麦稈真田の問屋や仲買業者中は破産や操業停止に追い込まれるところが続出し、惨澹たる悲境に陥った。大正5(1916)年になると、景気は回復傾向に転じ、昨年大正6年には好況の波に乗ったかのように見えるが、これはかつての隆盛には遠く及ばない。対一次大戦勃発前後の麦稈真田の輸出状況をもう少し詳しく見ておくと次のようになる。
大正2年以前の3年間の平均輸出額  1602万円
大正3(1914)年  1435万円
大正4(1915)年    1413万円
大正5(1916)年 1631万円
これを見ると大戦開始から3年間の平均は1522万円で戦前平均額に比較すると約80万円の減少にすぎません。数字的には「第一次政界大戦の勃発で大打撃を受け輸出額は急落」という状況は見えてきません。このあたりが今の私にはよく分からないところです。

大戦前の麦稈真田の輸出が好調だったことは間違いありません。その輸出先を新聞は次のように記します。
戦乱勃発前の真田の輸出先は、次の通りである
第1位が英国で、次いで北米・仏蘭西、独逸、伊太利、濠洲、比律賓などが主要な輸出先である。戦乱の結果、輸出額の減少と共に輸出先にも大きな変化が現れた。麦稈真田は北米、英国、仏蘭西、比律賓諸島、濠洲、伊太利、支那の順序に其他十九ケ国に輸出。経木真田は英国、北米、仏蘭西、比律賓など十ケ国、麻真田は北米、英吉利、仏蘭西、濠洲、加奈陀など19ケ国に輸出されている。戦前三ケ年と前時中の平均輸出額品種別推移を見ると
                戦前の輸出額
A 麦稈真田   492万円
B 経木真田   211万円
C 麻真田    866万円
大戦の始まった大正3(1914)年以降、戦乱の影響や流行の変化を受けて麦稈真田や経木真田は衰退傾向を見せ始めます。それに対して麻真田が急速に輸出額を伸ばしています。真田の集散は関東では横浜港、関西では神戸港之が集散市場である。また集散製品にも横浜港は麻真田、神戸港は麦稈、経木真田という棲み分け現象がみられる。麦稈真田総輸出額の9割以上、経木真田の8割以上は神戸港からの輸出で、半ば独占状態となっている。これに対して麻真田は横浜港から輸出されるものがほとんどで、神戸港からの輸出は2割程度である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大正7(1918年5月12日 神戸新聞 麦稈真田貿易趨勢
    神戸大学新聞記事文庫 デジタルアーカイブ 麦稈製造業第1巻
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100105325/?lang=0&mode=0&opkey=R174080246918440&idx=14&chk_schema=20000&codeno=&fc_val=&chk_st=0&check=00000000000000000000 )

麦稈真田沿革史2

前回は麦稈真田の盛衰史を上のようにまとめました。今回は麦稈真田の生産を農家がどう受けいれたのか、また輸出商品としての麦稈真田がどのように生産・加工されていたのかを見ていくことにします。

麦稈真田の種類2

麦稈真田デザイン

さまざまな麦稈真田デザイン これを材料に帽子などが作られた
麦稈真田の生産を県や郡が農家に勧める上で、根拠となった専門家の説明を見ておきましょう。


麦稈真田工業案内 中山悟路
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ

麦稈真田工業案内 中山悟路 家族経営の長所
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 自家製の利益
意訳変換しておくと
    麦稈真田生産の利益は、独特の製法で作られる物なので家族経営でおこなうのが一番利益を上げられる。中でも農家が自分の家で栽培した麦で作れば 利益は大きいものになる。例えば一反当たり50貫の麦稈材料が確保できる。5反の田んぼで裏作に麦を作れば、
麦稈真田工業案内  家族経営の長所

中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 自家製の利益
意訳変換しておくと
50貫×5反=250貫で、これを材料吟味して4割の歩留まりとすれば、約100貫の材料をえることができる。この麦藁材料を用いて平均的な麦稈真田を組むと1貫で7反が作れるので、106貫×7反=742反の真田が作れることになる。平均的出荷額は「1反=30銭」なので、その収入は「742反×30銭=約221円」となる。材料である麦を買うことなく、職人を雇わず家内工業で行えば、これがすべて家族の丸儲けとなる。
 しかし、材料を他から買い入れ、職人を雇い入れたりすれば、このような高利益は上がらない。 1/3程度の利益しか上がらないだろう。まさに麦稈真田生産は農家の余暇を使って営める副業であり、しかも高利益が上げられる。何人も速やかに起業すべきである。

ここでは麦稈真田を家族経営で行う事の有利さが述べられています。零細な5反農家が二毛作で麦を作り、それを材料に真田を編めば、200円を超える利益が上がるとされています。今から百年前の大正末期の物価を見ておきましょう。
①大卒サラリーマンの初任給(月給)は、50~60円
②職業婦人の平均月給はタイピストが40円
③電話交換手が35円
④事務員が30円
副業としての麦稈真田は、零細な農家には「美味しい話」だったようです。
大きな機械が必要ないので初期投資がほとんどかかりません。そのために香川県では、日清戦争後に急速に普及したことは前回お話ししたとおりです。私は、香川県で作られた麦稈真田は、国内の麦藁帽子などに供給されていたのかと思っていました。しかし、麦稈真田の生産高が急速に伸びたのは海外に輸出されていたからでした。国内提供分よりも、はるかに欧米への輸出用が多かったのです。そして日本から輸出された麦稈真田は、アメリカや欧米で帽子に加工されていたのです。帽子のスタイルなどは、伝統文化や流行に左右されるものなので、消費国で作成されます。次に、第一次世界大戦中に輸出商品としての麦稈真田の未来図を論じた新聞記事を見ておきましょう。

麦稈真田2
麦稈真田

大正3(1914年 麦稈真田好況 輸出復興時代来る  中外商業新報
大正3(1914年 麦稈真田好況 輸出復興時代来る  中外商業新報
(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 )
意訳変換しておくと
  「輸出復興時代来る 某当業者談(上)
数日前の貴紙社説欄に麦稈真田の輸出振興策として漂白輸出を開始すべきだと述べていたことに大に我意を得た思いがする。輸出用の麦稈真田は、発展への今が大きな分岐路になっている。そのために発奮努力して日本麦稈の真価を世界に周知させる時である。①麦稈真田の世界市場での競争者は瑞西(スペイン)と伊太利(イタリア)である。瑞西の麦稈は、日本のものと似て細小である。それに対して伊太利のものは麦稈に穂先だけで組むトスカンと包被部分をも用いた二種がある。②日本麦稈と競合する中国の麦稈の産地は、山東、河南、安徽から揚子江北岸までの間のエリアである。ここの麦稈は伊太利トスカンとは違って、繊緯が強靭にして量目も重く欠点が多いので主に労働者用帽子の原料として使用されている。そのため価格も伊太利トスカンや日本麦稈に比べると低廉である。日本麦稈と同じように、一度欧洲に輸出せられた後に漂白染色して、中米南米方面に輸出されている。これは日本麦稈のライバルではない。
 ③日本麦稈は瀬戸内海の両岸の岡山・香川を主産地とする。繊緯は緻密で軟かく、そのうえ光沢に富み、軽いことを特色として、紳士用の夏帽子や婦人用の四季帽子に使用せられいる。帽子原料としての麦稈に求められる二大要件は、軽いこと、被って気持ちいいことであるが、色彩光沢に富み染上が美しいのは、日本麦稈だけである。この点では、ライバルである瑞西麦稈も伊太利麦稈も我國の麦稈には及ばない。④この真価が次第に世界の製帽家に認識せられるようになって、麦稈輸出が再び復興してきたとと思う。

要約しておくと
①第一次世界大戦直前の1914年1月の記事である
麦稈真田の世界市場でのライバルは、スペインとイタリアであったこと。
③中国の麦稈は品質面で日本麦稈のライバルとはいえない。
④日本麦稈は岡山・香川を主産地として軟かく、光沢に富み、軽いので、紳士用夏帽子や婦人用帽子に用いられている。
⑤この品質が欧米で認められて日本からの輸出が伸びている
ここからは世界の麦稈真田の主要生産地は、スペイン・イタリア・中国・日本で、その中でも品質が優れていると認められた日本製が急速に占有率を伸ばしていきます。
記事の後半「東洋麦稈合同を作れ 某当業者談(下)」を見ておきましょう。
日本の麦稈真田の次の課題は、新たなる飛躍策である。ところが日本麦稈の主産地である岡山・香川の瀬戸内海両岸の地は、⑥麻真田が市場に参入して人気を集めるようになると、生産意欲が萎縮しているように思える。ここには麦稈栽培を専業にする者はいない。そのため生産高が上がらず、品質も降下気味である。これを放置すれば、今後の輸出振興に大きな障害となりかねない。岡山・香川、山口などの主産地はもちろんのこと、⑦その他の各府県に対しても麦稈栽培を奨励し、同時に検査所の権限を拡張し、品質の均一化を計り、輸出振興策を今のうちから行うべきである。
 一方、対岸の支那麦稈は粗悪で改良の余地がある。そこで日本は、技術者や指導者を派遣して播種耕作や乾燥技術などの技術援助を提案する。それが実現すれば、中国でも今まで以上の優良品を生産できるようになり、生産額も増加する。そうなれば我が國のみならず東洋麦稈の改良と産額の増加の実現につながる。これは世界の新需要につながる道となる。日本が率先して漂白輸出の道を開くためには、⑧今は一度欧洲へ運ばれている支那麦稈を隣国の日本で漂白して、日本経由で南米諸国へ輸出することになる。日本は日本麦稈と支那麦稈を双手に握って東洋のルートン、リヨン、もしくはフローレンスへの道を目指すべきである。
 近頃、支那の孫中山(孫文)氏が、やってきて盛に東亜同盟を説きつつある。私の立場からすれば、そのためには先ず実業界において「麦稈トラスト」を組織し、東洋麦稈の商権を伊仏英の手中より奪い、日華両国の支配下に置くことを主張したい。日本と中国の麦稈合同は、日本による漂白輸出の開始を意味する。そうなれば東洋麦稈は数年ならずしてイタリアの麦稈を凌駕するであろう。
要約しておくと
⑥麻麦稈が出現し流行になると、麦稈真田が市場を奪われ、香川の農家の生産意欲が低下していること
⑦打開策の一つとして中国への技術指導を通じて、支那麦稈を日本経由で欧米に売り込むことを提案
⑧日本と中国が「麦稈同盟」を結ぶことがイタリア麦稈の市場占有率を切り崩すことにつながる

ここに出てくる麻真田について見ておきましょう。
  夏帽子の原料である麻真田がイギリスから日本に輸入されたのは日露戦争の始まる前年のことです。明治36(1903)年に、イタリアで製作された「十三打ち麻真田」が、ロンドンから日本へ輸入されます。それが国内で生産されるようになるのは、明治41(1908)年のことです。横浜の上流合資会社が工業化に成功し、豊橋などを拠点にゆっくりと成長して行きます。麻真田はフィリピン産のアパカ植物の葉幹を繊維化したもので、絹のような光沢と耐水性、耐摩擦性に富んでいることから婦人用帽子などに使われました。当初は麦稈真田の影に隠れた存在でしたが、電力使用が普及すると、編織機が手動式から電動式に改良されます。工場生産で、能率が上がり、品質も改善され急速に成長し、第一次世界大戦後には、麦稈真田を圧倒するようになります。

麻真田織機
麻真田織機(豊橋市 石川繊維資料館) 
       次に今から約百年前の神戸又新日報を見ておきましょう。
見出しには「輸出真田の革命的改善機運」とあるので、生産過程などに大きな改善がありそうなことを記事にしているように思えます。早速読んでみます。

麦稈真田の革命的改善機運」

神戸又新日報(大正15年8月12日)(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 )

神戸港の麦稈真田の輸出額は、年々その額を増加し重要物産中でも十指に数えられるまでに至った。近頃は不景気によって打撃は受けているものの、世間ではなお前途は楽観視され、通商発展は有望とされているように見える。しかし、昨今の麦稈真田の安値に市況は一段と沈静し、同業者は悲観の態である。下半期の業績もきびしい状況が予想せられている。これについて当事者の情況分析をを綜合すると、原料安に伴って麦稈帽なども三分の一の市価に落ち込んでいるという。値段が安ければ需要が増える、従って製品の販路は増えるというのが世間の見方だが、近頃の傾向はこれと正反対であるという。安値の藁帽子などは、中流以下の階級者に需要が多く、富裕層は麻真田とか品質のよいものが歓迎されていて、麦稈帽の人気は下落しているという。これは麦稈真田の同業者にとっては聞き捨てならないことである。

 このような状況を打開するために香川県などの生産組合は、製品改良に努め、各地で講習会を開催するとか、技術員を駐在させて麦稈製品の品質改善に努めている。しかし、その効果はあまり現れていない。その要因は、麦稈生産者の多くが農家の副業者であるからだ。技術者が改良を奨励しても、それに応えずに普通の編み上げを続け、何等の改良を加えない農家も多いという。この点を考慮して伊賀上野では、細目の編方を奨励し成果を上げ、非常な好評を博し需用を伸ばしている。改良すれば改良する程、それが副業であろうと本業であろうと、それだけ収入を増加することができる。ところが農家の副業では、技術者の指導を馬耳東風と吹き流し、昔から仕来りの編方を踏襲してなんの改良を加えない。そして、一反25銭の編賃を得て満足しているのである。改良した編方をすれば収入は倍額になるのに、農民たちはそんな手間のかかる仕事は真平御免だと言わぬばかりに一向に改良をしようとしない。こんな様なので、生産組合も今は持て余し気味である。今の状態では麦稈帽の将来は危うい。当業者もこのことに気づいて、大改良を加え品位の向上はもちろん、加工にも十分の注意すべく計画中であという。
麦稈真田に比べて有望視されているのが麻真田である。麻真田は大工業家の手によって生産されているので、品質改良や生産工程の効率化などが着実に進められている。そういう点からすると、現在の麦稈帽は技術も品質も、麻真田に対して優った点を見出す事が出来きない。このままでも労働者の被る麦藁帽子などにも麻真田に奪われて行く可能性がある。今の内に、麦稈真田は改良すべきであるとの意見が昂まって来た」
ポイントを上げておくと
麦稈真田の輸出額は、神戸港のベスト10に入っていた
①麦稈真田業界は、安値低迷に苦しんでいる
②その原因の一つが麻真田の出現である
③麦稈真田が農家の副業で、品質向上などへの取り組みが弱いのに対して、麻真田はて大工業家によって生産されているので、改良・改善に積極的に取り組んいる。
④このような差が麦稈真田の未来を危うくし、麻真田の未来を明るくしている。
記事の題名は「輸出真田の革命的改善機運」でしたが、書かれている内容は麦稈真田の危機的内容で、これらを行わない限り未来は見えてこないというものです。
以上からは、農家の副業として生産される麦稈真田が品質面やデザイン面で改善が見られずに、次第に麻真田に押され、市場を失っていく様子がうかがえます。香川県の農家が盛んに麦稈真田を作っていたのは、日清戦争後から大恐慌の始まる約20年間だったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ
神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 デジタルアーカイブ
関連記事

麦稈真田の生産開始と普及

前回は香川県の麦稈真田の生産開始と、その後の発展ぶりと上のようにまとめました。その中で⑥の明治末から麦稈真田は衰退したという坂出市史の記述について疑問があるとしました。それを今回は、当時の新聞記事で見ていくことにします。テキストは、神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業  
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/search/simple/?lang=0&mode=0&opkey=R174070762695508&start=1&codeno=&req=back 」です。ここでは戦前からの新聞記事がアーカイブスでみられ、私がよく御世話になっている所です。「香川県の麦稈真田」で検索すると、以下のような記事が出てきます。まず、第一次世界大戦中の好景気に沸く麦稈真田の様子を見ておきましょう。
麦稈真田3

各種の麦稈真田
大正5(1916)年10月15日 大坂朝日新聞 景気づける麦稈真田 注文頻繁と来る

大正5(1916)年10月15日 大坂朝日新聞 景気づける麦稈真田 注文頻繁と来る
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業
意訳変換しておくと
香川県の農業は米麦作が主体で、剰余労力が多いので農家副業が欠かせない。香川県の麦稈真田の製造は明治15(1882)年に大阪の商人原田某氏が小豆郡草壁村に、麦稈購入にやってきて真田の製法を村民に伝えたことに始まるとされる。その後、麦作に適した気候風土もあって、麦稈の光沢が美しく、品質優良と認められ世界に販路を広げた。こうして農家副業として近年は急成長を遂げてきた。中でも大正元(1912)年度は、生産額が237万円に達した。①これは、生産額1位の岡山県に次いで、全国第2位になる。
ところが流行の変化で麻真田帽や紙製帽が欧米の流行の中心となると、麦稈真田の需用は急減退し、市価も低落した。そのため②昨年度(1915年)の香川県の生産額は36万円まで落ち込んだ。しかし、③今春以来再び英米の需用が増えて、初夏以来は注文が頻々と舞い込んでいる。そのため業者は目下の所は麦稈真田の製造に忙殺され需用に追いつかないほどの未曾有の活況を呈している。香川県麦稈真田同業組合の小林氏の話によると、麦稈真田の価格は高騰しており、昨年1反9銭だったのが本年は15銭となっているという。特に合九平22粍巾のものは昨年は一反19銭だったのが本年は43銭と、倍以上に高騰して、需用に追いつかない状況にあるという。
 このような時期には、粗製濫造に走る業者も出てくるので、当局側はそれへの対応に追われている。また香川県は、岡山や広島県に麦稈真田の原料を供給している。昨年は1貫目22銭だったのが、今は34銭で取引されている。香川県にとって将来有望な種類は合三平種である。(中略)
合三平四五の巾で一反の売価22銭に対して、コストは組賃9銭、原料7銭、仕立・雑費2銭を除くと4銭の利益となる。目下香川県の麦稈真田界は黄金時代を謳歌している。九月中に同業組合は証紙検印を行うようにして粗製濫造を防止しようとしている。今年の海外輸出反数は、110万反にのぼる予想がでている。
以上を要約しておくと
①大正元(1912)年度の生産額は237万円で、岡山県に次いで、全国第二位の生産地であること
②大戦勃発と麻真田帽や紙製帽の流行で、1915年は麦稈真田の生産額は36万円まで落ち込んだ
③1916年には需用が回復し、生産高・販売額共に高騰し、讃岐の麦稈真田産業は潤っている

次に、大正6(1917)年3月10日 大坂朝日新聞「香川県の副業」の麦稈真田を見ておきましょう。
大正6(1917)年3月10日 大坂朝日新聞  香川県の副業
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業
意訳変換しておくと
香川県では農家の副業して麦稈真田が根付くことによって貧しかった農村は次第に富裕となってきた。中流以下の農家でも貯金が出来る者が少なからず現れている。もともと香川県は空気が乾燥し、土壌が砂質なので麦稈真田の材料となる麦類栽培に適していた。その上に県民が手工に長ずるという特性も重なって発展してきた。①大正元(1916)年度の産額は1072反・生産額は237万円で、本県の生産品の首位を占めるまでになった。
 ところが1917年度になって関東地方で麻真田が作られ海外に輸出されるようになった。麻真田は軽いので婦人帽子に使われ人気が出た。②そのため麦稈真田は婦人用帽子には使われなくなり、男子帽のみの原料となったために需用は低下し、価格も低落した。その結果、1917年の生産高は641反 売上額は115円と、前年度の半分まで落ち込んだ。本年度も麻真田が人気なので、

麦稈真田の回復の見込みはなく、しばらくはこの苦境がつづくことが予想される。(後略)
 以上を要約しておくと
①1916年には、麦稈真田の生産額は香川県の農業生産品の中で首位となった
②1917年度以後、麻真田に押されて生産額が半減し、麦稈真田は不況期に入った。

次の記事は、ベルサイユ講話条約が結ばれた翌年の1920年の大阪朝日新聞のものです。 
「香川県の麦稈真田 頗る好況」大阪朝日新聞 大正9(1920)年1月16日

香川県の麦稈真田生産 朝日新聞大正9年
          「香川県の麦稈真田 頗る好況」(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 記事番号97)意訳変換しておくと
香川県下では米作に次ぐ農家の収入源となっているのが麦稈真田である。①第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、②休戦成立以後は次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。③香川県下の紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。
 麦稈真田同業組合調査によると昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。(中略)
統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると④戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているという。
以上を要約しておくと
①第一次大戦中には麦稈真田の輸出は途絶えた
②ベルサイユ講話条約締結後、輸出は再開し価格も急騰している
③そのため香川県の女工たちにの中には、勤めていた工場をやめて麦稈真田を織る者もあらわれている
④麦稈真田の価格は高止まり傾向にあり、業界の将来は明るい。
ここでは第一次大戦時の麦稈真田の輸出急減の要因を「船賃の高騰」と指摘しているのがいままでにない所です。ところが、その4年後には自体は急転しています。
大正13(1924)年5月30日 神戸新聞「輸出麦稈真田類不振」を見ておきましょう。

大正13(1924)年5月30日 神戸新聞 輸出麦稈真田類不振

意訳変換しておくと
輸出用の麦稈真田市場は新稈の出廻りを眼先に控えているのに、亜米利加からの註文も手控え状態で取引は極めて閑散としている。岡山・香川の生産地情報によると備後地方は刈取期の本月下旬に降雨が多かったために、品質は極めて低下しているという。それに加えて、前年も品底気味であったので、本来ならば優良品は相当高値になるはずであるが、今後の天候次第である。香川県地方では、岡山に比べて収穫期が遅いため降雨の被害は少い見込みで、昨年より良好とされる。以上から麦稈原料の市価も大した変化はないと見られる

1920年の好景気は、ここでは見られず市場は閑散としていると報じられています。4年の間になにがあったのでしょうか。いまの私にはよく分かりません。時代を進めていきます。

麦稈真田に適した麦
麦稈真田用の麦

そして大正15(1926)年 8月25日 神戸新日報の記事です。
見出しは「海外の注文薄で麦稈真田相場依然として安値へ 粗製濫造防止急務」とあります。


大正15(1926)年 8月25日 神戸新日報)

 意訳変換しておくと

① 麦稈真田の前途については、以前にも報告したように明るい兆しが見られない。同業組合や産地でもさまざまな改善策を講じ、品位向上に努めているが、生産農家が副業であるのがネックとなっていて改善は進んでいないのが現状のようだ。現在は主産地の岡山、広島、香川が盂蘭盆であり、製産品が市場に出廻らず品薄になる時期なので価格上昇が見られる時期である。ところが②海外からの注文薄のため相場は取引数も少なく、安値定着で、同業者は全く閉口している。
 一方相場の安値定着は、生産者に大きな打撃を与えていると思われるかもしれない。けれども副業としている農民たちは、案外のんきな対応ぶりである。(中略)③香川県などでは、麦稈真田を副業そしていた農家の大半が他の副業に転じているようだ。また同業者も対策に相当努力を払っているが、何分にも相場が安いため手の打ちようが無い状態だという。
(中略)
粗製品を売って利益を得ることは得策のように思えるかもしれないが、それは信用を失いて損失を招くことになる。今は輸出業者が団結一致し粗製品の濫造を防止することが必要であろうと同業者は語っていた」        
以上を要約しておくと
①1926年になっても、麦稈真田業界の不況が続いていること
②海外からの注文がなく安値が続き、農家の生産意欲が停滞していること
③香川県では麦稈真田から、叺(かます)などの副業への転進が進んでいること

ここからは1926年段階で、香川の麦稈真田は衰退していたことがうかがえます。そして3年後には世界恐慌が襲ってきます。麦稈真田は、その荒波に飲み込まれていったことが予想されます。
以上から分かることは、以下の通りです
①麦稈真田は日露戦争後には衰退期を迎えていない。
②好況期と不況期を繰り返しながら第一次世界大戦直後に繁栄のピークを迎えていた
③しかし、1920年代後半になると次第に衰退し、世界恐慌でとどめをさされた
ここまで見てきて改めて知ったことは、麦稈真田が輸出商品であったことです。国内だけで使用されていたのかと思っていました。世界的な景気変動や流行によって需用が大きく動き、そのため価格変動も大きかったことが分かります。そして、戦前の香川では、生糸と並ぶ農村の重要な副業であったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業  https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/search/simple/?lang=0&mode=0&opkey=R174070762695508&start=1&codeno=&req=back 
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麦稈真田と製品
麦稈真田
「麦稈真田」は「ばっかんさなだ」と読むようです。辞書で調べると次のように記されています。

「麦藁(ばっかん)」とは、麦のクキを日に干したもの、つまり麦わらのこと。それをで真田紐のように編んだもの。夏帽子や袋物の材料に用いる。裸麦・大麦の麦稈を最良として、編み方により菱物・平物・角物・細工物などがある。岡山県・香川県などの産。


麦稈真田に適した麦
麦稈の材料に適した麦
麦藁とは、麦のクキを日に干したもので、
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麦稈真田2
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一番右端だけは「経木(きょうぎ)真田」といって、麦わらではなく薄く削ったツゲの木を組んだものだそうです。工業的に大量に生産できるため、麦稈真田の安価な代替品として利用されました。 麦稈真田を作る道具や制作行程については、坂出市郷土資料館に展示してありますので、そちらを御覧下さい。(https://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/bunkashinkou/bunbun007.html 参照)

麦稈真田3
さまざまな麦稈真田
G-46 麦稈真田 野良笠(調節機能付き)
 麦稈真田で作られた麦わら帽子

麦稈真田がどこで作られ始めたかについては、「麦稈真田工業案内」(1905年)に次のように記します。

麦稈真田工業案内 中山悟路
 中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ

香川県麦稈真田の沿革
 中山悟路著 麦稈真田工業案内103P 香川県麦稈真田の沿革 
上記を意訳変換しておくと 
麦稈真田の創業については今から23年前の明治15(1882)年、 大阪の原田某氏が大阪より小豆島の草壁に来て麦わらを買いつけた。何に使うかと問うと、加工して海外への輸出商品にするという。そこで試しに2、3人が作り始めた。これが香川県の麦稈真田業の始まりである。
(明治38(1905)年

  初期の状況
  讃岐の地質は、主に花崗岩で構成され、地勢は南から北に傾斜する乾燥地形で麦作に適している。そのため麦稈にも光沢があり、真田の原料として品質がよく他の生産地に勝る。そのため讃岐産の麦稈を求めて商人たちが押し寄せるようになった。しかし、当時は農家は麦稈のままで出荷し、真田に加工して販売する者はほとんどいなかった。また明治31(1897)年頃までは、麦稈真田に従事する戸数は、全県下で200戸あまりに過ぎなかった。
  近来の状況
  明治32(1898)年頃になると、欧米で麦稈真田に対する需用が次第に高まり、販売数が増大するようになった。麦稈真田が利益率の高い副業であることが分かると、前年までは200戸余りだった生産農家が7倍も増加した。明治35(1902)年には、9350戸に至るまでに急増した。

以上を整理しておくと
①麦稈真田が作り始められたのは、1882年の小豆島
②しかし、長らく生産農家数は増えなかった。
③生産農家が急増するのは日清戦争後のことで、県や村が保護支援することで一気に1万戸近くに急増した。
麦稈真田製造創業者 中川二助 翁 小豆島
       麦稈真田製造創業者 中川二助 翁の碑 (小豆島 土庄町小瀬)
小豆島西部の「重ね岩」で有名な小瀬には、麦稈真田製造創業者の碑があります。小豆島では、この中川二助氏が麦稈真田製造のはじまりとされているようです。
1890年代後半に書かれた県への報告書には、小豆島の現状が次のように記されています。

麦稈真田製造創業者 中川二助 翁 小豆島2
      
意訳変換しておくと
麦稈真田の需用は近年ますます増加の一途にある。特に小豆島では、数年前から苗羽村の田の浦産は最上級品と需用が高い。そのためアメリカやイギリス・フランス・香港などからは需用に追いつかず品不足の様相を呈している。この田の浦は、わずか百戸ばかりの小さな集落に過ぎないが、麦稈真田からの収益金は一戸当たり年間1000円を下らないという。もし、農家の副業として麦稈真田が県下全体に普及すれば、小豆島の1/3としても300円が見込まれる。農家の救済方法を考えることは目下の大きな課題である。麦稈真田が、その救済手段となりえるように、将来に備えて検討していくことが必要である。
ここには「麦稗真円は農家の副業として有益な事業であるので県・郡や町村勧業会などで奨励策を行うべきである」と答申しています。これを受けて、県では指導者育成を目的に先進地の備中から女工数名を雇い入れ、各町村への巡回指導を行っています。
また、生産奨励策として、次のような方策がとられています。
①尋常小学校の手工科のカリキュラムに「麦得真田組み」を採用
②1898(明治31)年「香川県麦稈同業組合」設立と「麦稈真田販売組合」設立
③両組合は、製品の品質保証を目的に検査制度を設け、規格の統一普及に努めた
④製品に製作者名を押印した県発行の検奄証紙を貼付することによって、生産者責任を明確化
⑤同時に粗製濫造を防ぐことになり、県産麦得真田の名声を高めた。
こうして世紀末から、生産農家増大や規格統一・販路網確立が行政主導で整えられて行きます。さらに日露戦争が勃発すると食糧増産強化のために、県は戦時記念事業として「時局注意事項」を出します。そこには次のような項目が並んでいます。

米作改良、麦作改良、肥料改善、養蚕普及、溜池利用、記念植樹、勤倹貯蓄の普及、
麦得真田の伝習
 
最後に「麦得真田の伝習」が入っています。これを受けて、1904年7月に公設の「麦得真田伝習所」が設置されます。
伝習館で学んだ受講者を地域の指導者に育て、技術普及を展開します。これは、養蚕部門で行われていた手法と同じです。次は「競技会」の各地での開催です。競わせて技術向上を図ろうというねらいです。なかでも滝宮天満宮で夏に行われる競技会は、若い女性たちが日頃の腕を競いあい盛り上がったようです。坂出では西庄村の高照院で、綾北六カ村による競技会(1912年)、坂出公会堂での競技会(1915)などが行われています。
 こうして県や村からの保護され、奨励されることで指導者が育成されていきます。同時に、同業組合の結成や規格の統一など、品質を維持する取組も行われます。そのおかげで香川の一大産業となり、農家の副業として現金収入の柱に成長し、農家の生活向上につながりました。

麦稈真田の生産戸数・産額変遷

麦稈真田の生産戸数・生産額・価格の推移(中山悟路著 麦稈真田工業案内109p)
上表には明治32(1899)年以後の生産戸数・生産高・生産額が示されています。
      明治32年   明治36年
生産戸数  1393戸   15353戸
生産高 124870反 1452227反
生産額  62550円  943947円
ここからは県や郡・村の奨励策によって日露戦争前の5年間で、10倍以上の成長を果たしていることが見えてきます。 
 その後の麦稈真田をとりまく状況は、どう変化したのでしょうか。
坂出市史には、次のように記されています。
①1905年に塩の専売法が施行され、塩の包装が麦稗叺(かます)から稲藁叺に変わった
②その結果、麦稈の需用が減少し、農家は急速に稲藁叺の生産に転換した
③こうして農家の副業の主役は、麦稈真田から叺織りに変わった。
④さらに外国からの安い製品が入るようになると価格競争に押されて、生産意欲は低下
以上のように明治末から大正にかけて、麦稈真田から稲藁かますに主役が交代していったとします。。
しかし、史料を見てみるとそうは云えないようです。例えばネットで調べていると大阪朝日新聞 1920年1月16日(神戸大学新聞記事文庫 真田製造業)には、「香川県の麦稈真田 頗る好況」と題して、次のような記事が載せられています。

香川県の麦稈真田生産 朝日新聞大正9年
「香川県の麦稈真田 頗る好況」(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 記事番号97)
((https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100195597/ 

   「翻刻香川県下に於ける副業中の首位を占め年産額に於て讃岐米に次ぐ数字を示せる麦稈真田は戦乱以来輸出杜絶又は船腹払底の為め久しく悲境に陥り居たりしが休戦以来昨年の春頃より漸次順調に立戻り七月以後益好況に赴き価格の騰貴は未曾有の記録を作り単四菱の如き一斑九十銭内外となり従って之が編賃も騰貴し一日少きも一円五十銭多きは三円内外の収入となるより県下紡績、製糸、燐寸等各工場の女工にして熟練せる工場を捨て自宅に於て賃編に従事するより何れの工場も女工の大払底を告げ三割乃至五割の労銀値上げを為すも応募者なき状況なるが麦稈真田同業組合調査に依る昨八年一月以来十一月末迄の産額は二千六百九十三万七千百三十六反価格八百七十五万九千八百九十五円の多額を示し居れるが大正二年以来七箇年間の産額を示せば左の如し(但し八年は十一月迄)

意訳変換しておくと  
香川県下の副業の中で讃岐米生産に次ぐのが麦稈真田である。第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、休戦成立の昨年より次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。県下紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。麦稈真田同業組合調査によと昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。参考までに大正2年以後の7年間の香川県の出荷額は以下の通りである。

大正2(1913)年 6415538反、1153368円
大正3(1914)年 4335724反五、616263円、
大正4(1915)年 3338219反  362952円
大正5(1916)年 5594076反  859919円
大正6(1917)年 6038636反 1045094円
大正7(1918)年 5754223反、1880879円
大正8(1919)年26937136反 8759895円
この統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているというし居れりと(高松)」


  この記事からは次のようなことが分かります。
①第一次世界大戦前になっても、生産数はあまり落ちていなかったこと
②第一次世界大戦中は輸送コストが高騰して、生産数が落ちたこと
⑤それが大戦終結の年には、大幅に回復していること
ちなみに、この後に戦後不況がやってくるので、生産量がどうなったのかわ分かりません。しかし、坂出市史の云うように、日露戦争前後に麦稈真田の生産が急速に落ちたと云うことはなさそうです。
先ほど見た「麦稈真田工業」には、明治の輸出量と額の推移が次のように載せられています。
麦稈真田輸出額変遷 明治21年以後

中山悟路著 麦稈真田工業案内100P 香川県麦稈真田の輸出額
主要な年の数字だけを抜き出してみます。
①明治20(1887)年 約110万反
②明治29(1896)年 約550万反
③明治33(1900)年 約882万反
県や郡の麦稈真田への政策的な支援・保護が進む中で、輸出量も急速に伸びています。
香川県麦稈真田同業組合 生産数推移
香川県麦稈真田同業組合の生産量・販売額の推移

そして、先ほどの新聞記事にあった輸出数量を見ても、その数字は減少していないことが分かります。
以上をまとめておきます

麦稈真田の生産開始と普及
香川県の麦稈真田の生産開始と発展
上の「日露戦争前後を機に、明治末から麦稈真田は衰退した」という説は、私は疑問を持ちます。麦稈真田は第一次世界大戦後に好景気にわいて、生産農家が増大していることを当時の新聞記事は伝えているのですから・・・
今回はこのあたりまでで・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史 近代編176P 農家の副業と裏作の発達 麦稈真田

麦稈真田(ばっかんさなだ)」について書かれた香川県関係史料 ...

(上をクリックすると香川県立図書館 麦稈真田レファレンスに移動します)



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