江戸時代の農学者、佐藤信淵の著書『草木六部耕種法』には、次のように記します。
我が国へのたばこ伝来について、天文十二(1543)年、ポルトガル人が種子島にやって来て、鉄砲・ソーメン・トウガラシを伝えた。その中に、たばこの種があった。それを種子島で栽培したのが我が国たばこ耕作の初めである。
これに対して寺島良安著『和漢三才図絵』では、次のように記します。
天正年間(1573~91)年に南蛮人がたばこ種をもたらし、これを長崎東大山に栽培したのがのはじまり
佐藤信淵の説を信じるなら「たばこは、鉄砲と一緒に種子島に1543年にもたらされた」ということになります。
それでは、美合地区には、いつごろ、どこからもたらされたのでしょうか?
美合のたばこは阿波葉と呼ばれ、その名の通り阿波から伝えられたものとされます。「阿波葉」は、きせるで吸う刻みたばこが主流の時代、火付きの良さが評判で阿波で作られ全国に出荷されました。それが紙巻きたばこの普及に押されて、2009年には栽培が終わったようです。
端山村政所武田家文書に、武田右衛門が、①天正年間に数種のたばこの種子を②長崎から持ち帰り、③半田奥山で栽培したのがはじめとある。
『香川県煙草三十年史』には、生駒藩時代に美合地区でたばこが栽培されていたこと、その後、瓜峯たばこを藩主の喫煙用として毎年献上していたと記します。以上から美合のたばこは、元和二(1616)年ごろには、阿波端山から美馬郡、三野の野田院を通じて美合に入ってきて栽培されていたと研究者は判断します。
天文年間(1532~54)に、鉄砲と共にポルトガルから種子島に渡来したたばこは、最初は薬用として重宝がられたようです。ところがその麻酔性から一度喫煙すればやめられないようになり、全国に急速に拡がっていきます。江戸幕府は、たばこを絶減しようと慶長6(1609)年に最初の喫煙禁止令を出しました。その理由は、次のように挙げられています。
①都市火災の原因となること②「かぶき者」が長大なキセルを腰に差して風紀を乱すこと=反権力的な動き取締り③たばこ栽培による米の作付面積の減少
この禁止令に伴い、幕府はキセルを収集する「きせる狩り」を行いました。


花魁とキセル
そして、喫煙者を発見し訴え出た者には、売買した双方から没収した全財産を褒美としてつかわすというお触れを出しています。 さらに元和二(1616)年には、たばこを売った者は、町人は50日、商人は30日、食糧自前で牢に入れらました。また自分の支配下の者で、たばこに関する罪人を出した代官は、罰金五貫文を課せられています。しかし、幕府の度重なる禁令にも関わらず、「たばこ」を楽しむ人々は増え続けます。徳川3代将軍・家光の代となる寛永年間(1624〜1645年)に入ると、「たばこ」に課税して収入を得る藩も現れ、「たばこ」の耕作は日本各地へ広まっていきます。やがて、禁令は形骸化し、元禄年間(1688〜1703年)頃には、新たな禁止令は出されなくなりました。つまり黙認されたということです。 阿波の蜂須賀藩は、上畑に耕作することを禁じ、焼畑・畔などにつくるのは暗に許したようです。髙松松平藩は、奨励はしませんが積極的禁止もしていません。そのため藩政時代には、旧勝浦村・川東村ではたばこがある程度裁培され、阿波へ送られていたようです。 こうして「たばこ」は庶民を中心に嗜好品として親しまれながら、独自の文化を形作っていくことになります。
江戸時代後半になると、美合ではたばこ栽培がある程度の規模で行われていたことが次のような史料から分かります。
『讃岐国名勝図絵』の鵜足郡の巻頭には、勝浦村土産品としてたばこの名が挙がっています。
また文化三(1806)年の牛田文書の中に、次のようなたばこに関する記述が出てきます。
また文化三(1806)年の牛田文書の中に、次のようなたばこに関する記述が出てきます。
一紙文書 大西左近より福右衛門ヘ一筆致啓上候。甚寒二御座候所御家内御揃弥御勇健二御勤可被成候旨珍重不斜奉存候。誠二先達てハ参り段々御世話二罷成千万黍仕合二奉存候。然バ御村御初穂煙草丹今参り不申候二付今日態々以人ヲ申上候。此者二御渡シ可被下候。奉願上候。年末筆政所様始御家中江茂宜様二御取成幾重二も宜奉頼上侯。最早余日茂無御座候て明春早々御礼等万々可得貴意候。恐樫謹言大西左近十二月十一日勝浦村蔵元福右衛門様
意訳変換しておくと
一紙文書 大西左近より福右衛門ヘ
一筆啓上します。はなはだ寒い時候ですが、ご家族はお元気にお過ごしのようで安心しております。先日はいろいろとお世話になり、お礼の言葉もありません。ついては御村の上納初穂品として煙草丹今を、そちらに派遣した者に、預けていただくようお願いします。年末には政所様をはじめ御家中始め茂宜様にも歳暮としてお届け予定です。つきましては、日も余りありませんので、明春早々の御礼としたいと思っています。恐樫謹言大西左近(滝宮牛頭天王社神官)十二月十一日勝浦村蔵元(庄屋) 福右衛門様
(牛田文書)
滝宮神社(牛頭天王社)の大西左近という神官が、勝浦の庄屋に上納初穂品として、たばこを至急送れという手紙を勝浦村の庄屋に出しています。滝宮(牛頭天王)社は、丸亀平野の牛頭信仰の拠点で、社僧たちが周辺の村々を廻って牛頭札を配布していました。また、七箇村念仏踊りなども奉納されていたように、密接な関係を周辺の村々と結んでいたことは以前にお話ししました。ここからも19世紀には、琴南町美合地区にはたばこ栽培や製品製造が行われ、それに庄屋たちが関わっていたことが裏付けられます。また、その製品が優良で評価が高かったことがうかがえます。
明治時代に入ると、「営業の自由」が認められたばこ栽培は自由になります。
明治9(1876)年1月に、たばこ税制が実施されます。これは次の二本立て税制でした。
明治9(1876)年1月に、たばこ税制が実施されます。これは次の二本立て税制でした。
A たばこ製造・販売業者に課す営業税B 個々のたばこ製品に貼付する印紙による印紙税
つまり、税金さえ払えば、自分で作ったたばこを自分で売りさばくことができるようになったのです。
明治12年12月の勝浦村戸長から鵜足郡長への次のような照会文書があります。
照 会村民自作のものに限り、そのたばこは無鑑札で里方べ売りさばいてもよいということであるが、外部から買い入れ、自作と称して売ることがあっては不都合である。そこで戸長が調べ自作を確認して、それに添書を交付することにしてもよいか。(意訳変換)
回 答(原文のまま)
他作ノ葉畑草フ自作卜偽ソ売捌者アレハ 其時々証左ヲ取最寄警察署へ告訴スヘシ 依テ其役場ニオイテ現品改メ添書ヲ附スル等一般成規無之二付其義ニ不及候 条精々規則上ヲ説明シ犯則者無之様注意スルニ止ル義卜可相心得候事
意訳変換しておくと
他地域で栽培された葉煙草を、自作として偽って販売する者があれば、その時には証拠を押さえて、最寄も警察署へ告訴すること。よって役場で現品を検査して添書を発行することは、法令にもないので行う必要はない。よく規則を説明し、法令を犯す者のないように注意するに留めることと心得るべし。
ここからも明治16年7月以後は、鑑札を受けて税金を払えば、たばこを売ることも、刻みたばこを製造販売することもできるようになります。これがいわゆる「たばこの民営時代」の幕開けとなります。
沖野の黒川久四郎所有
黒川家には明治20年代に使ったというぜんまい式葉たばこ刻み機が残っていました。その外に「荀一暴」という刻みたばこの包み紙も残っていました。これは木版で図柄をおしたもので、そこには次のように刻印されています。
ここからは美合村川東の黒川家は、「一光」という刻みたばこを製造販売していたことが分かります。量目五十目 定価六銭一光 讃岐鵜足郡美合村川東製造人 黒川久四郎
また、中熊の造田未松も、刻みたばこを製造していました。
阿波葉は刻みたばこ用でした。そのため家の中でたばこを刻み、家の納屋に「切り場」という一間をとっていました。切り場には、 飼い葉切りのような道具があって、切り子という、たばこを刻む専属の職人が、阿波から泊まり込みで来ていました。美合で生産されていた刻みたばこには、 一光、金雲などがあり、その木印が今も残っています。販売のために、陶・羽床方面へ行商に行ったと伝えられます。
阿波葉は刻みたばこ用でした。そのため家の中でたばこを刻み、家の納屋に「切り場」という一間をとっていました。切り場には、 飼い葉切りのような道具があって、切り子という、たばこを刻む専属の職人が、阿波から泊まり込みで来ていました。美合で生産されていた刻みたばこには、 一光、金雲などがあり、その木印が今も残っています。販売のために、陶・羽床方面へ行商に行ったと伝えられます。
たばこ民営時代に、旧琴南町でたばこ製造販売業を行っていたのは次の人々でした。
川東 造田秀太郎 折目文太郎 石井時太郎 黒川久四郎 増田 久吉
勝浦 笠井熊太郎 小野 武平造田 岩崎宥太郎 大野市太郎 「大日本繁昌懐中便覧」
阿波池田の西木弥太郎の「朝雲」 火力利用 ぜんまい切りとある。
ぜんまい切りとは何なのでしょうか?
当時使われていた乾燥させた葉を切る機械を見ておきましょう。
江戸時代後期に誕生した細刻みたばこが広く市場に出回るためには、こすり技術に対応できる熟練技術を持つ刻み職人の確保が必要でした。18世紀の半ばになると、従来の夫婦単位の刻みたばこ屋から、複数の刻み職人を抱える刻みたばこ屋が江戸市中にも出現します。同時に、細刻みを職として労賃を稼ぐ「賃粉(ちんこ)切り」職人も登場するようになります。そして19世紀初頭になると、刻み工程に「かんな刻み機[剪台](せんだい)」と「手押し刻み機(ゼンマイ)」という機械が考案されます。
かんな刻み機は、寛政12年(1800)頃、四国の池田地方で北海道の昆布切り機をヒントに考案されたといわれ、その後関西を中心に普及しました。
「かんな刻み機[剪台](せんだい)」(阿波池田たばこ記念館)
原料の葉たばこは、一塊の木材のように硬く固めなくては刻めません。〆台(しめだい)という圧搾機で強く圧搾した葉たばこの塊をかんな刻み機にセットして刻みました。これは一人の労力で1日に約20㎏前後刻める能力がありました。それまでは熟練した職人が手刻みした場合には、3、5㎏程度だったので、5倍強の製造能力です。しかし、圧搾の際、油を塗らなければならなかったので品質が落ち、主として下級品の製造に使われました。でも逆に火付きが良く、瀬戸内や日本海側の漁師に人気があり、讃岐の仁尾や粟島から北前船に乗せられて遠くまで販路を広げました。ぜんまい式葉たばこ刻み機(阿波池田たばこ資料館蔵)
もうひとつがぜんまい式葉たばこ刻み機で、江戸後期(文化年間)に江戸で発明されたとされます。。手包丁で刻むのと同じように刃が上下しながら、原料が一定の速度で送り出されるという機械で、かんな刻み機に比べると生産性は劣ります。しかし、製品の品質がよかったため高級品に使われ、ラベルには「ぜんまいぎり」などと書かれました。明治31年1月に、日清戦争後の財政難への対応策として、政府は「葉煙草専売制」が実施します。
これは葉たばこを政府が生産農家からすべて買い上げて、製造を独占的に管理し、財源とすることを目的としたものでした。つまり、葉たばこ栽培の自家用栽培や民間製造を禁止されます。耕作者が生産した葉たばこは、すべて専売局が買収ることになります。たばこ民営化の時代は終わります。たばこ専売制への転換です。しかし、「葉煙草専売法」は、不正取引や安価な輸入葉たばこの流入を招き、十分な税収が得られませんでした。
そこで日露戦争の戦費調達に迫られた政府は、明治37年に葉たばこの製造・販売までを一手に担う「煙草専売法」を出して、法令を強化します。これによって民間のたばこの製造販売が禁止されました。生産された葉たばこは、総て琴平専売支局まで運び納付することになります。当時は、道が整備さえていなかったので、葉たばこを天稀棒で担ぎ、琴平まで五里余りの道程を、前夜から出発して歩き、帰りは提灯をともして家路についたと云います。その末に買い入れ価格が低かった時には、帰り道の足は重かったと古老は述懐しています。
専売化当時の旧美合村では、約百町歩のたばこ耕作地がありました。
見方を変えれば、畑地の多い美合にとって専売化されたたばこは総てを政府が買いとってくれるので安定作物でもありました。そのため生産者や作付面積も急速に伸びたようです。ただ、道路がなく琴平まで担いで出荷するのは、大変な苦労でした。そこで村長堀川嘉太郎は、村内有志の者と相談して、収納所を美合に設置することを陳情します。代議士三土忠造の協力を得て、地元の費用で建てれば、それを政府で借り入れ使用することになります。こうして耕作者に対し、反当たり6円の出資を求め、総額7000円を集めて、明治42年9月に新しい収納所を尾井出に建てます。これが池田専売局貞光出張所美合取扱所です。以後は、ここに出荷するようになり、琴平までの長く苦しい輸送から解放されます。
見方を変えれば、畑地の多い美合にとって専売化されたたばこは総てを政府が買いとってくれるので安定作物でもありました。そのため生産者や作付面積も急速に伸びたようです。ただ、道路がなく琴平まで担いで出荷するのは、大変な苦労でした。そこで村長堀川嘉太郎は、村内有志の者と相談して、収納所を美合に設置することを陳情します。代議士三土忠造の協力を得て、地元の費用で建てれば、それを政府で借り入れ使用することになります。こうして耕作者に対し、反当たり6円の出資を求め、総額7000円を集めて、明治42年9月に新しい収納所を尾井出に建てます。これが池田専売局貞光出張所美合取扱所です。以後は、ここに出荷するようになり、琴平までの長く苦しい輸送から解放されます。
たばこ葉の代金は、農家の最大の現金収入で、これで年内の「店借り」等の決済が行われるなど、地域の経済上にも大きな意味をもっていました。
明治になって栽培・販売が自由になり、耕作者も増えたこと、さらに明治31(1898)年の煙草専売法によって、栽培農家が保護されると、美合のたばこ栽培は全盛時代を迎えます。
最盛期の明治末から大正の初めには、栽培反別は120町歩、耕作者は600人を越えます。
このような盛況をみた理由を研究者は次のように指摘します。
①美合地区は、温暖小雨であり、日照は豊富、そして土壊は砂質性が強く、水はけがよかった。②水田でなく高地の畑で栽培可能であった。③専売制になってから、販売の安定性ができた。④換金性がよく、収納すれば必ず現金が入った。⑤労働力を必要としたが、当時は余剰労働力があり、農業経営が可能であった。
美合地区のたばこ耕作面積と生産農家数の推移(琴南町誌560P)
その後、太平洋戦争には食糧生産が最優先され減反を強いられ、70町歩に低下します。また、戦後物価の変動で、たばこを耕作して家計を保つことが難しくなり、耕作面積は50町歩までに減少します。戦後の昭和24(1949)年に日本専売公社が発足しますが、 一般物価との均衡がなかなかとれなかったようです。世の中が落ち着いて後に、買い上げ価格を上げるなどの増産対策を推進した結果、昭和40年には、90町歩まで回復しました。以下の推移は次の通りです。
美合の葉煙草の作付面積と生産量
以上を整理しておきます。①たばこは、鉄砲と一緒に種子島に1543年にもたらされた。
②阿波半田の武田右衛門が天正年間にたばこの種子を長崎から持ち帰り半田奥山で栽培した
③元和二(1616)年ごろには、阿波端山から美合に入ってきて栽培されていた
④江戸時代後半には、たばこが勝浦の特産品として紹介されている。
⑤明治の民営化時代には、旧琴南町でたばこ製造販売業が10軒近くあり、滝宮・陶方面で行商していた。
⑥専売制になって価格が保証され、全量買い入れられるようになると生産農家は急増した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌558P
























































