瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐近代史 > 讃岐の近代農業

IMG_6883煙草の天日干し
たばこ葉の天日干し(まんのう町美合)

まず、美合にたばこ栽培が、いつころ、どのような形で根付いたのかを押さえておきます。
江戸時代の農学者、佐藤信淵の著書『草木六部耕種法』には、次のように記します。

我が国へのたばこ伝来について、天文十二(1543)年、ポルトガル人が種子島にやって来て、鉄砲・ソーメン・トウガラシを伝えた。その中に、たばこの種があった。それを種子島で栽培したのが我が国たばこ耕作の初めである。

 これに対して寺島良安著『和漢三才図絵』では、次のように記します。

天正年間(1573~91)年に南蛮人がたばこ種をもたらし、これを長崎東大山に栽培したのがのはじまり

佐藤信淵の説を信じるなら「たばこは、鉄砲と一緒に種子島に1543年にもたらされた」ということになります。
それでは、美合地区には、いつごろ、どこからもたらされたのでしょうか?
美合のたばこは阿波葉と呼ばれ、その名の通り阿波から伝えられたものとされます。「阿波葉」は、きせるで吸う刻みたばこが主流の時代、火付きの良さが評判で阿波で作られ全国に出荷されました。それが紙巻きたばこの普及に押されて、2009年には栽培が終わったようです。

たばこ 阿波葉の栽培 口山
2009年 最後の阿波葉 (美馬市口山)

たばこ 調理工程 品質分類
最後の阿波葉の「調理」(2009年)(美馬市口山)
最後の阿波葉 2008年

阿波葉 計量作業
阿波葉の計量と出荷(美馬市口山)
徳島県半田町の町誌は、次のように記します。

端山村政所武田家文書に、武田右衛門が、①天正年間に数種のたばこの種子を②長崎から持ち帰り、③半田奥山で栽培したのがはじめとある。

『香川県煙草三十年史』には、生駒藩時代に美合地区でたばこが栽培されていたこと、その後、瓜峯たばこを藩主の喫煙用として毎年献上していたと記します。以上から美合のたばこは、元和二(1616)年ごろには、阿波端山から美馬郡、三野の野田院を通じて美合に入ってきて栽培されていたと研究者は判断します。
 天文年間(1532~54)に、鉄砲と共にポルトガルから種子島に渡来したたばこは、最初は薬用として重宝がられたようです。ところがその麻酔性から一度喫煙すればやめられないようになり、全国に急速に拡がっていきます。江戸幕府は、たばこを絶減しようと慶長6(1609)年に最初の喫煙禁止令を出しました。その理由は、次のように挙げられています。
①都市火災の原因となること
②「かぶき者」が長大なキセルを腰に差して風紀を乱すこと=反権力的な動き取締り
③たばこ栽培による米の作付面積の減少
この禁止令に伴い、幕府はキセルを収集する「きせる狩り」を行いました。

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花魁とキセル
そして、喫煙者を発見し訴え出た者には、売買した双方から没収した全財産を褒美としてつかわすというお触れを出しています。 さらに元和二(1616)年には、たばこを売った者は、町人は50日、商人は30日、食糧自前で牢に入れらました。また自分の支配下の者で、たばこに関する罪人を出した代官は、罰金五貫文を課せられています。しかし、幕府の度重なる禁令にも関わらず、「たばこ」を楽しむ人々は増え続けます。徳川3代将軍・家光の代となる寛永年間(1624〜1645年)に入ると、「たばこ」に課税して収入を得る藩も現れ、「たばこ」の耕作は日本各地へ広まっていきます。やがて、禁令は形骸化し、元禄年間(1688〜1703年)頃には、新たな禁止令は出されなくなりました。つまり黙認されたということです。
 阿波の蜂須賀藩は、上畑に耕作することを禁じ、焼畑・畔などにつくるのは暗に許したようです。髙松松平藩は、奨励はしませんが積極的禁止もしていません。そのため藩政時代には、旧勝浦村・川東村ではたばこがある程度裁培され、阿波へ送られていたようです。 こうして「たばこ」は庶民を中心に嗜好品として親しまれながら、独自の文化を形作っていくことになります。

 江戸時代後半になると、美合ではたばこ栽培がある程度の規模で行われていたことが次のような史料から分かります。
『讃岐国名勝図絵』の鵜足郡の巻頭には、勝浦村土産品としてたばこの名が挙がっています。
また文化三(1806)年の牛田文書の中に、次のようなたばこに関する記述が出てきます。
一紙文書 大西左近より福右衛門ヘ
一筆致啓上候。甚寒二御座候所御家内御揃弥御勇健二御勤可被成候旨珍重不斜奉存候。誠二先達てハ参り段々御世話二罷成千万黍仕合二奉存候。然バ御村御初穂煙草丹今参り不申候二付今日態々以人ヲ申上候。此者二御渡シ可被下候。奉願上候。
年末筆政所様始御家中江茂宜様二御取成幾重二も宜奉頼上侯。最早余日茂無御座候て明春早々御礼等万々可得貴意候。恐樫謹言
大西左近
十二月十一日
勝浦村蔵元福右衛門様
意訳変換しておくと
一紙文書 大西左近より福右衛門ヘ
一筆啓上します。はなはだ寒い時候ですが、ご家族はお元気にお過ごしのようで安心しております。先日はいろいろとお世話になり、お礼の言葉もありません。ついては御村の上納初穂品として煙草丹今を、そちらに派遣した者に、預けていただくようお願いします。
年末には政所様をはじめ御家中始め茂宜様にも歳暮としてお届け予定です。つきましては、日も余りありませんので、明春早々の御礼としたいと思っています。恐樫謹言
                   大西左近(滝宮牛頭天王社神官)
十二月十一日
  勝浦村蔵元(庄屋) 福右衛門様
   (牛田文書)

滝宮神社(牛頭天王社)の大西左近という神官が、勝浦の庄屋に上納初穂品として、たばこを至急送れという手紙を勝浦村の庄屋に出しています。滝宮(牛頭天王)社は、丸亀平野の牛頭信仰の拠点で、社僧たちが周辺の村々を廻って牛頭札を配布していました。また、七箇村念仏踊りなども奉納されていたように、密接な関係を周辺の村々と結んでいたことは以前にお話ししました。ここからも19世紀には、琴南町美合地区にはたばこ栽培や製品製造が行われ、それに庄屋たちが関わっていたことが裏付けられます。また、その製品が優良で評価が高かったことがうかがえます。
 明治時代に入ると、「営業の自由」が認められたばこ栽培は自由になります。
明治9(1876)年1月に、たばこ税制が実施されます。これは次の二本立て税制でした。
A たばこ製造・販売業者に課す営業税
B 個々のたばこ製品に貼付する印紙による印紙税
つまり、税金さえ払えば、自分で作ったたばこを自分で売りさばくことができるようになったのです。
明治12年12月の勝浦村戸長から鵜足郡長への次のような照会文書があります。
       照 会 
村民自作のものに限り、そのたばこは無鑑札で里方べ売りさばいてもよいということであるが、外部から買い入れ、自作と称して売ることがあっては不都合である。そこで戸長が調べ自作を確認して、それに添書を交付することにしてもよいか。(意訳変換)
回 答(原文のまま)
他作ノ葉畑草フ自作卜偽ソ売捌者アレハ 其時々証左ヲ取最寄警察署へ告訴スヘシ 依テ其役場ニオイテ現品改メ添書ヲ附スル等一般成規無之二付其義ニ不及候 条精々規則上ヲ説明シ犯則者無之様注意スルニ止ル義卜可相心得候事
意訳変換しておくと
他地域で栽培された葉煙草を、自作として偽って販売する者があれば、その時には証拠を押さえて、最寄も警察署へ告訴すること。よって役場で現品を検査して添書を発行することは、法令にもないので行う必要はない。よく規則を説明し、法令を犯す者のないように注意するに留めることと心得るべし。

ここからも明治16年7月以後は、鑑札を受けて税金を払えば、たばこを売ることも、刻みたばこを製造販売することもできるようになります。これがいわゆる「たばこの民営時代」の幕開けとなります。
    沖野の黒川久四郎は、明治20年ごろから、刻みたばこを製造していました。

たばこきざみ機 美合
沖野の黒川久四郎所有

黒川家には明治20年代に使ったというぜんまい式葉たばこ刻み機が残っていました。その外に「荀一暴」という刻みたばこの包み紙も残っていました。これは木版で図柄をおしたもので、そこには次のように刻印されています。
たばこ 一光 美合産
量目五十目 定価六銭
一光  讃岐鵜足郡美合村川東
製造人 黒川久四郎
ここからは美合村川東の黒川家は、「一光」という刻みたばこを製造販売していたことが分かります。
また、中熊の造田未松も、刻みたばこを製造していました。
阿波葉は刻みたばこ用でした。そのため家の中でたばこを刻み、家の納屋に「切り場」という一間をとっていました。切り場には、 飼い葉切りのような道具があって、切り子という、たばこを刻む専属の職人が、阿波から泊まり込みで来ていました。美合で生産されていた刻みたばこには、 一光、金雲などがあり、その木印が今も残っています。販売のために、陶・羽床方面へ行商に行ったと伝えられます。
     たばこ民営時代に、旧琴南町でたばこ製造販売業を行っていたのは次の人々でした。
川東   造田秀太郎 折目文太郎  石井時太郎    黒川久四郎    増田 久吉   
勝浦 笠井熊太郎      小野 武平    
造田   岩崎宥太郎   大野市太郎         「大日本繁昌懐中便覧」
民営たばこ 明治期 民営煙草 包み紙 計1点 阿波国 徳島県 三好郡 池田町 西木弥太郎 商標 朝雲 量目百匁 極撰葉薫製
阿波池田の西木弥太郎の「朝雲」 火力利用 ぜんまい切りとある。

ぜんまい切りとは何なのでしょうか?
当時使われていた乾燥させた葉を切る機械を見ておきましょう。

刻みタバコの製造工程

江戸時代後期に誕生した細刻みたばこが広く市場に出回るためには、こすり技術に対応できる熟練技術を持つ刻み職人の確保が必要でした。18世紀の半ばになると、従来の夫婦単位の刻みたばこ屋から、複数の刻み職人を抱える刻みたばこ屋が江戸市中にも出現します。同時に、細刻みを職として労賃を稼ぐ「賃粉(ちんこ)切り」職人も登場するようになります。そして19世紀初頭になると、刻み工程に「かんな刻み機[剪台](せんだい)」と「手押し刻み機(ゼンマイ)」という機械が考案されます。
  かんな刻み機は、寛政12年(1800)頃、四国の池田地方で北海道の昆布切り機をヒントに考案されたといわれ、その後関西を中心に普及しました。

かんな刻み機2 池田
「かんな刻み機[剪台](せんだい)」(阿波池田たばこ記念館)
原料の葉たばこは、一塊の木材のように硬く固めなくては刻めません。〆台(しめだい)という圧搾機で強く圧搾した葉たばこの塊をかんな刻み機にセットして刻みました。これは一人の労力で1日に約20㎏前後刻める能力がありました。それまでは熟練した職人が手刻みした場合には、3、5㎏程度だったので、5倍強の製造能力です。しかし、圧搾の際、油を塗らなければならなかったので品質が落ち、主として下級品の製造に使われました。でも逆に火付きが良く、瀬戸内や日本海側の漁師に人気があり、讃岐の仁尾や粟島から北前船に乗せられて遠くまで販路を広げました。

ぜんまい刻み機
ぜんまい式葉たばこ刻み機(阿波池田たばこ資料館蔵)
   もうひとつがぜんまい式葉たばこ刻み機で、江戸後期(文化年間)に江戸で発明されたとされます。。手包丁で刻むのと同じように刃が上下しながら、原料が一定の速度で送り出されるという機械で、かんな刻み機に比べると生産性は劣ります。しかし、製品の品質がよかったため高級品に使われ、ラベルには「ぜんまいぎり」などと書かれました。

明治31年1月に、日清戦争後の財政難への対応策として、政府は「葉煙草専売制」が実施します。
これは葉たばこを政府が生産農家からすべて買い上げて、製造を独占的に管理し、財源とすることを目的としたものでした。つまり、葉たばこ栽培の自家用栽培や民間製造を禁止されます。耕作者が生産した葉たばこは、すべて専売局が買収ることになります。たばこ民営化の時代は終わります。たばこ専売制への転換です。しかし、「葉煙草専売法」は、不正取引や安価な輸入葉たばこの流入を招き、十分な税収が得られませんでした。
 そこで日露戦争の戦費調達に迫られた政府は、明治37年に葉たばこの製造・販売までを一手に担う「煙草専売法」を出して、法令を強化します。これによって民間のたばこの製造販売が禁止されました。生産された葉たばこは、総て琴平専売支局まで運び納付することになります。当時は、道が整備さえていなかったので、葉たばこを天稀棒で担ぎ、琴平まで五里余りの道程を、前夜から出発して歩き、帰りは提灯をともして家路についたと云います。その末に買い入れ価格が低かった時には、帰り道の足は重かったと古老は述懐しています。
たばこ 葉のし 琴南町誌

専売化当時の旧美合村では、約百町歩のたばこ耕作地がありました。
見方を変えれば、畑地の多い美合にとって専売化されたたばこは総てを政府が買いとってくれるので安定作物でもありました。そのため生産者や作付面積も急速に伸びたようです。ただ、道路がなく琴平まで担いで出荷するのは、大変な苦労でした。そこで村長堀川嘉太郎は、村内有志の者と相談して、収納所を美合に設置することを陳情します。代議士三土忠造の協力を得て、地元の費用で建てれば、それを政府で借り入れ使用することになります。こうして耕作者に対し、反当たり6円の出資を求め、総額7000円を集めて、明治42年9月に新しい収納所を尾井出に建てます。これが池田専売局貞光出張所美合取扱所です。以後は、ここに出荷するようになり、琴平までの長く苦しい輸送から解放されます。
 たばこ葉の代金は、農家の最大の現金収入で、これで年内の「店借り」等の決済が行われるなど、地域の経済上にも大きな意味をもっていました。
 
黄色葉の共同乾燥 美合
(琴南町誌563P) 
 明治になって栽培・販売が自由になり、耕作者も増えたこと、さらに明治31(1898)年の煙草専売法によって、栽培農家が保護されると、美合のたばこ栽培は全盛時代を迎えます。
最盛期の明治末から大正の初めには、栽培反別は120町歩、耕作者は600人を越えます。
このような盛況をみた理由を研究者は次のように指摘します。
①美合地区は、温暖小雨であり、日照は豊富、そして土壊は砂質性が強く、水はけがよかった。
②水田でなく高地の畑で栽培可能であった。
③専売制になってから、販売の安定性ができた。
④換金性がよく、収納すれば必ず現金が入った。
⑤労働力を必要としたが、当時は余剰労働力があり、農業経営が可能であった。
美合地区の葉煙草作付け面積・農家数推移
美合地区のたばこ耕作面積と生産農家数の推移(琴南町誌560P)

 その後、太平洋戦争には食糧生産が最優先され減反を強いられ、70町歩に低下します。また、戦後物価の変動で、たばこを耕作して家計を保つことが難しくなり、耕作面積は50町歩までに減少します。戦後の昭和24(1949)年に日本専売公社が発足しますが、 一般物価との均衡がなかなかとれなかったようです。世の中が落ち着いて後に、買い上げ価格を上げるなどの増産対策を推進した結果、昭和40年には、90町歩まで回復しました。以下の推移は次の通りです。

葉煙草耕作面積の推移 美合
美合の葉煙草の作付面積と生産量
以上を整理しておきます。
①たばこは、鉄砲と一緒に種子島に1543年にもたらされた。
②阿波半田の武田右衛門が天正年間にたばこの種子を長崎から持ち帰り半田奥山で栽培した
③元和二(1616)年ごろには、阿波端山から美合に入ってきて栽培されていた
④江戸時代後半には、たばこが勝浦の特産品として紹介されている。
⑤明治の民営化時代には、旧琴南町でたばこ製造販売業が10軒近くあり、滝宮・陶方面で行商していた。
⑥専売制になって価格が保証され、全量買い入れられるようになると生産農家は急増した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌558P

水口祭護符2
全国で行われている水口祭 それぞれの護符(お札)の形がある
私の家もかつては農家で、米を作っていました。そのため家の前の田んぼが苗代で、苗をとっていたことを覚えています。その苗代の一角にお札が竹に挟んで指してあり、その横には花が添えられていました。「何のためのもの?」と訊ねると「苗代の神様で、苗の生長を護ってくれるもの」と教えられた覚えがあります。苗代の水口に護符や花を立てる習俗を「水口祭」と呼んでいます。

水口祭の護符1
水口祭りの護符(熊本の阿蘇神社)

ところで丸亀平野の水口祭については、ある特徴があります。その事に触れた調査報告に出会ったので紹介しておきます。テキストは「織野英史 丸亀平野周辺の水口祭と護符   民具集積22 2021年」です。
民具集積1
民具集積(四国民具研究会)
丸亀平野の水口祭の初見は「西讃府志」安政五年、巻第二「焼米」の項で、次のように記します。

「本稲神ヲ下ス時水口祭トテ苗代ノ水ロニ保食神ノ璽ヲ立蒔餘リクル靭ヲ煎リタキテ供フ、是ヲ焼米ト云う、ソノ余りハ親しき家二贈りナドモスルニ又此日正月ニ飾リタル門松ヲ蓄ヘ置テ山テ雑炊ヲ煮ル家モアリ」

意訳変換しておくと
「この稲神を迎えるときに、水口祭を行う。苗代の水口に保食神の璽(護符)を立てて、余った籾を煎って供える、これを焼米と云う、その余りは、親しい家に贈ったりする。またこの日は、保管してあった正月に飾った松で雑炊を煮る家もある」

ここで研究者が注目するのは、「水口祭」という儀礼の名称と「保食神」という神名が挙げられていることです。ここからは、幕末の安政年間に丸亀平野で水口祭が行われ、保食神の護行を立てたことが分かります。
讃岐の水口祀の護符
水口祭の護符 
  右が丸亀市垂水町(垂水神社配布)で使用された「マツノミサン」と呼ばれる護符です。護符には「保食神」と書かれて、中にはオンマツとメンマツの葉が入れてあります。松の葉を稲にみたてて、よく育つようにとの願いが込められているとされます。左が高松市仏生山町(滕神社配布)の「ゴオウサン」と呼ばれる護符です。護符の中には、白米のほか滕神社の祭神である「稚日女命」の神札も入れられています。このように護符には、いろいろな形や文字が書かれたものがあります。ここで研究者が注目するのは「保食神」と書かれたお札の分布エリアが丸亀平野に限定されることです。
保食神(うけもちのかみ)について、ウキは次のように記します。

日本神話に登場するである。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。次のような記述内容から、女神と考えられる。天照大神月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったのである。


先ほど見た西讃府志の編者の一人、秋山椎恭は櫛梨村(琴平町)の在住とされ、この地区の習俗を反映させて「保食神」を登場させたことが考えられます。そこで研究者は、次のような課題を持って周辺調査を行います。
A 櫛梨村周辺に「西讃府志」の「焼米」の習俗が今も行われているかどうか
B 「保食神」の護符が、どの範囲で分布しているのか
そして、まんのう町・琴平町・善通寺市・丸亀市で各農家を訪ねて現在の水口祭の様子を調査報告します。
ここではまんのう町真野の水口祭と「保食神」護符の事例報告を見ていくことにします。
まんのう町真野池下のO家は、満濃池の北約1kmにあり、玄関には神札を貼る厨子があります。家のそばの苗代には、南から満濃池の水を流す水路が通っています。水路が「コンクリ畔」になったのは昭和43(1968年)頃と云います。以下、次のような話を聞き取っています。
苗箱には赤土・肥料・前年の籾摺りで焼いた粗般を入れる。種籾は一週間前に水に浸し、毎日水を換え、1日日前に水から出す。そして5月11日早朝、苗箱定位置に置く。播種の作業が終わると、次のような手順で水口祭の用意を進めます。
①2枚の小皿に洗米、塩を盛ってプラスチック容器に載せる
②ガラス瓶の御神酒も用意する
③メンダケ(女竹)を節三節(30㎝)ほどに切って、上部を割る
④年末に、班ごとに係が回って集金と護符の配布を済ませておく
⑤配布される護符のうち、天照皇太神(神宮大麻)は伊勢伸宮、氏神の神野神社、水口護符の一任は神野神社宮を兼務する諏訪神社宮司が発行する。
⑥神棚から「保食神御守五穀成就」の水口護符「マツノミヤサン」を下ろす(写真37)
水口祭 神棚に供えられていた護符
⑦雨に濡れないようにバランで包んで竹に挟んで輪ゴムで外れないよう止める)
⑦容器に入った洗米、塩と御神酒、竹・葉蘭に秋んだ護符を苗代の水口へ持って行く
⑧容器に御神酒を入れ、護符を土に刺して、その前に洗米、塩、御神酒を供える
⑨花を護符の奥に飾り、30四方くらいの平たい石をお供えの下に敷く
⑨水口の下側を堰き止めて水口へ水を誘導する
⑩水が溝に沿って苗代全体に潅水したことを見届けて、水口に向かって二拝二拍手一拝。
水口祭の護符 まんのう町諏訪神社1
諏訪神社発行の水口祭護符 剣先型

水口祭の護符 まんのう町諏訪神社2

            諏訪神社発行の水口祭護符(実測図)
ここで用いられている諏訪神社発行の剣先形の紙札(護符)を見ておきましょう。
中央に「保食神御守」、右に「五穀」。左に「成就」と黒スタンプが押してあります。研究者は諏訪神社の朝倉修一宮司からの次のような聞き取り報告をしています。
①写真56の護符は高さ19,8㎝
②松業二葉が二本四枚、稲穂二本粗籾十三粒が入る
③護符は無料
④12月初め、神宮大麻(有料千円)とともに総代を通じて配布
⑤氏予約120名で、諏訪神社の氏子真野・吉井・山下・下所の四名の代表に配る
⑥神野神社の氏子の池下は3月に配るという.
『西讃府志』の編者の一人である秋山椎恭が那珂郡櫛梨村の人です。彼は地元で行われている水口祭を「保食神」の護符を祀る習俗として、記録したと研究者は推測します。そして、「上櫛梨の護符には「保食神」の字があり、自分の住む地区の習俗を紹介した」と記します。

水口祭の護符 護符形状分布図

上図は丸亀平野周辺の護符の形の分布図です。▲が「剣先形保食神」護符の分布エリアです。点線が丸亀藩と髙松藩の境になります。ここから次のようなことが分かります。
①「剣先形保食神」の護符は、丸亀藩と高松藩領の境界線を扶む地域に集中分布する。強いて云えば旧髙松藩に多く丸亀藩には少ない。
②これは、満濃池を水源とする金倉川水系と土器川水系に挟まれたエリアと重なる
③土器川より離れた九亀市綾歌町の神名は「保食神」ではなく、「祈年祭」である
④鳥坂峠大日峠麻坂峠など大麻山より西の三豊市のものは「産土大神」「大歳大神」の神名で、保食神」護符は三豊地区では使用されていない。
明治45年刊『勝間村郷土誌」には、次のように記します。

「焼米 春、稲種ヲ下ストキ水口祭リトテ、苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ、蒔キ余レル籾ヲ煎リ、臼ニテハカキテ供フ、共余リハ親シキ家二贈リナドスルモアリ」

大正4年刊「比地 二村郷土誌」には、次のように記します。

「焼米 春稲種ヲドス時水口祭トテ苗代ノ水口二保食神ノ璽ヲ立テ潰籾ヲ煎リテハタキ籾殻ヲ去り之レヲ供ス其ノ余リハ家人打チ集ヒ祝食ス」

これだけ見ると、勝間や比地二村などでは、「保食神」御符が勝間村や比地二村で用いられたように思えます。しかし、その内容は先ほど見た西讃府志の記述内容のコピーです。よって、「保食神」御符が勝間村や比地二村で用いられた根拠とはできないと研究者は判断します。
九亀・善通寺・琴平市街地の山北八幡や、善通寺、金刀比羅宮発行の護符も「保食神」とは記していないことを押さえておきます。
次にこの護符を、どう呼んだかの呼称の問題です。

水口祭の護符 呼称分布図
上の呼称分布図を見ると、「マットメサン」「マツノミヤサン」系統の方名も金蔵川、土器川水系に分布します。そして土器川以東や象頭山西側にも分布地があります。「マツ」は「松」であり、「ミ」は「実」と研究者は推測します。マツトメサンが濁って「マツドメサン」になったり、促音になって「マットメサシ」となることはよくあります。ナ行の「ノ」がタ行の「卜」になることもあります。「マツノミヤサン」の呼称があるため、「ミ」が、「宮」と混同されたものか、んは「宮」であったのかは、よく分かりません。
金刀比羅宮の「マツナエ」=「松伎」の事例や三豊市日枝神社の松枝の枝の間に護符を入れる事例(トンマツ)は、田の神の依代しての松枝を水口に建てたものです。これは「保食神」護符の中に松葉を入れる例につながるものです。広く「マツ」を冠す護符呼称が分布していることも押さえておきます。
  さて以上から何が見えてくるのでしょうか
現在は、水口護符は各神社が配布しています。それでは、神仏分離以前には誰が配布していたのでしょうか? 
考えられるのは護符の呼称や形状が共通であることは、一元的な配布元があったということです。その候補として考えられるのが滝宮牛頭天王社の別当龍燈寺です。龍燈寺と水口護符の関係について、私は次のような仮説を考えています。

龍燈院・滝宮神社
龍燈院は滝宮牛頭天王社の別当であった。

滝宮念仏踊りの変遷

①龍燈院は滝宮氏や羽床氏など讃岐藤原氏の保護を受けて成長した。
②龍燈院は午頭天皇信仰の丸亀平野における中心で、多くの社僧(修験者・山伏)を抱えて、その護符を周辺の村々に配布し、「初穂料」を集めるシステムを作り上げていた。
③龍燈院の者僧たちは、芸能伝達者として一遍の念仏踊りを「風流踊り」として各村々に伝えた。
④生駒藩では西嶋八兵衛の補佐役を務めた尾池玄蕃は、念仏踊りの滝宮牛頭天王社への奉納を進めた。
⑤髙松藩松平頼重は、江戸幕府の規制をくぐって「風流踊り」ではなく「雨乞踊り」として再開させた。
⑥周辺各村々からの滝宮への念仏踊り奉納は、午頭天皇信仰を媒介として、水口祭の護符などで結ばれていた。
 そして水口護符の配布者が龍燈院の社僧(山伏)であった。そのため丸亀平野の髙松藩側には「「剣先形保食神」の分布エリアとなっている。と結びつけたいのですが、この間にはまだまだ実証しなければならないことが多いようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

   前回は1920年代の麦稈真田を取り巻く状況について、次のように整理しておきました。
①第一次世界大戦前後の麦稈真田の輸出額は、神戸港ではベスト10に入っていた
②工場で作られた品質の良い麻真田の出現で、麦稈真田は安値低迷に苦しんでいる
③麦稈真田は農家の副業のために、品質向上などへの取り組みが弱く競争力に劣る
④このような状況が麦稈真田の未来を危うくしている。
以上からは、農家の副業として生産される麦稈真田が品質面やデザイン面で改善が見られずに、次第に麻真田に押されてる様子がうかがえます。このような状況を専門家や当事者たちは、どのように考えていたのでしょうか。それがうかがえる新聞記事がありましたので見ていくことにします。

麦稈真田貿易趨勢 1918年神戸新聞

大正7(1918年5月12日 神戸新聞 麦稈真田貿易趨勢
    神戸大学新聞記事文庫 デジタルアーカイブ 麦稈製造業第1巻 
意訳変換しておくと
麦稈真田が海外輸出商品としての地位を得るようになって二十年余りが経過した。(中略)
麦稈・経木真田の現況は、第一次世界大戦勃発以前に既に憂うべき数字を示していた。その上に戦乱の影響で、さらなる苦境に立たされた。これについては、世界大戦という未曾有な混乱が原因で、内地生産だけを原因とすることはできない部分もある。しかし、この機会にこそ自ら省みて挽回と発展の策を講じ、力を尽して本業の将来を繁栄へと導かなければならない。麦稈真田産業が今日の発展を為し得た要因を挙げると、次のようになる。
①先覚者の研究苦心に負う所が多い
②製造方法が手仕事で、我が邦人天賦の技巧に適し、初期投資が少ない
③原料の麦稈を最安価に自給できたこと
④広く山間僻村で生産が行われ、安価な労働力が豊富にあったこと
この記事は簡単な取材や「関係者談」ではなく、現場へ調査や各種報告を分析した上で書かれた内容となっています。第一次世界大戦前後における麦稈真田業界の抱える問題が的確に指摘されています。どんな問題意識を持って、この記事が書かれたのか考えながら見ていくことにします。
世界には、低価格の支那真田、技術精巧な伊太利(イタリア)、仏蘭西(フランス)、瑞西(スペイン)製品などの強敵が控えている。日本の麦稈真田産業の発展は、販路の拡張、技術向上、製品改良などにかかっている。今回の調査で得た研究資料の概要を述べたい。
麦稈真田の生産組織を一言で云うならば「農村における婦女の副業」である。
この麦稈真田産業は工場生産ではなく、農家の副業として製造されてきた。そのため原料は、農家自身が栽培する麦稈を利用し、各農家が随時随所で簡単に加工した。それが農家の副業としては最適な産業であったと云える。従事者の年齢は、12歳以上20歳未満の少年・少女が成人以上に当動力として利用せれている。生産に割かれる時間は、児童の遊戯時間、老人の座談、閑居に空費する時間、家婦の不生産的消費時間なども活用できる。さらには広島県呉市や福岡県八幡市では、各種職工の家族の授産事業としても運営されたり、岡山、香川では小漁村の救済事業として行われているところもある。まさに勤労の美風、風教の改善などにも好影響を及ぼしている。
要点を整理すると、次のような麦稈真田の特徴と利点が指摘されています。
①麦稈真田生産は「農村における婦女の副業」として成り立っていること
②副業として、未成年・婦女子・老人が数多く従事していること。
③農家経営を助けると共に、勤労の美風観を育てることにも役立っていること
このような利点に対して、農家の副業ゆえの問題点を以下のように指摘します。
 麦稈真田生産は、初期設備投資がほとんどいらず小資本で起業できる点が工場生産とは異なるところである。しかし将来のことを考えると、製品改良、技術向上、原料精選などに努めるとともに、消費者に好まれる製品を作り、購買心を刺激しないと麦稈真田の発達はないと云える。業者もその点を分かっていて、多品種化や品質向上などに努めているが、それが欧米人の趣味嗜好にマッチしていないことがある。さらに問題なのは、生産に従事する者の多くは、麦稈真田が国際的な貿易商品であることを理解していないことことである。そのため市場が好況になってよく売れれば粗製乱造に走り、不況で生産が落ち込めば、生産を放り投げてしまう。このため次のような弊害が放置されていることが各県からは報告されている。
①製造後、短尺(「尺切のこと」)が混じっている(製品チェックの不備)
②組流れを、そのまま製造している
③幅員が不揃いなもの
④乾燥が不充分なために腐蝕を招くもの
⑤生産組合の規定である八列九重の仕立方を省略して短尺を図るもの
⑥引延ばすもの
⑦汚損したものを出荷するもの
⑧穴が空いているものを出荷するもの
⑨不良原料を使用したために、製品に欠点がでること、
これらの弊害の原因は次の2点に起因する。
A 生産者が故意に不正し、利を得ようとするものと、
B 生産者の技術拙劣から来るもの
この弊害を更に助長するのが、流通ルートの欠陥である。この改善のためには、まず生産者に対する適切な技術指導と、買い取り方法の改善が求められる。次に生産組合による自主的な取締活動が求められる。指導・取締については、とりあえずは農商務省令の発布の条項に従って行えば良い。
ここでは農家の生産従事者の生産者としてのプロ意識の欠如と、それが製品にどのように悪影響を及ぼしているかが具体的に指摘されています。
以上のような悪癖の改善運動のために、次のような実践例が報告されます
麦稈原料の採取や加工方法は、直接に製品に影響を及ぼす問題である。例えば、麦稈の採取、加工について香川・岡山県は、生産組合の活発に活動して改良に勤めている。また天候や風土によって、刈取時期、野晒方法、撰別、号別などが適当でないために生ずる欠点や弊害も多い。原料の麦稈を自分で栽培せずに、他地域から買い入れている福岡県、広島県の一部、山口県などでは、製造家が粗悪原料の使用を余儀なくされているとの報告もある。
 原料生産地には、改良改善に充分な注意が求められる。特に経木の場合は原料加工、晒白などが採取地の山村で、経験に頼って行われている状態なので、薬液の定量を誤って腐蝕を招く例もあった。原料採取に従う者に対して製造方法を指導し、指示された基準・手順で生産するようなシステムを強制的にも形作っていくことは製品改良の上で必要なことである。 真田の網製は誰にでも簡単に習得できる。そのため未熟者の製造したものが市場に出回ることも多い。常に技術の向上を図り、訓練する必要がある。
ここでは先進的な活動例として香川県のことが紹介されています。これについては次のようなものでした。
 明治31(1898)年に「香川県麦稈業組合」や「麦稗真田販売組合」設立し、生産品の品質保証のために検査制度を設け、規格の統一普及に努めます。具体的には製品に生産作者名を押印した県発行の検印証紙を貼付します。これによって生産者責任を明確にすると共に、粗製濫造を防ぐというものでした。これが香川県産の麦得真田の名声を高めたとされます。こうして、問屋などから大量注文が入るようになり、組合による生産割当が容易になると同時に、仲買人や問屋に対する窓口一本化され、価格交渉が有利にはこべるようになりました。生産技術の安定と向上と共に、流通ルートの改善にも取り組み、それが農民の利益にもつながると高く評価しています。それを全国的に普及していくべきだという提言です。
「精神開発」の必要
真田製造は手指による手工品なので、作る人の人格や観念が知らず知らずのうちに、製品に反映する。例えば中流農家で作られた麦稈真田は、下層農家に比べると入念に作られたものが多いように思える。これは従事者の価値観や世界観の現れであろう。現場の生産者に対して、麦稈真田が国際商品であり、我が國の主要輸出品たることを知らしめなければならない。製品の良否はひいては、我が国の国力の伸長にも関わることを自覚させることが求められている。以上については、なかなか実行するのが難しいものもあるが、既に実行されて効果を上げている例として次のような活動がある
麦稈青刈の奨励
品評会の開設
同業組合に於ける毎反検査の講評
特技者の表彰
協議会の開催
技術講習会
巡回指導員の設置
府県試験場でのその地方に適当な品種や加工法の研究指導
 府県市町村だけでなく、同業組合と連携を図りながら進めていくことが要点である。
麦稈真田の品質向上のためには、生産者のプロ意識が必要として、そのために香川県などで行われている生産組合の行事活動が紹介されています。香川県では次のような技術指導体制が組織されていました
①明治25年、指導者育成を目的に先進地の備中から女工数名を雇い入れ、各町村を巡回指導
②明治37年、「麦得真田伝習所」を設置し、技術普及と地域の指導者を育成
③尋常小学校の手工科の教程(カリキュラム)に「麦得真田組み」を採用させ、児童への啓発展開
④真田組の技術向上のために競技会の各地での開催。
⑤滝宮天満宮の夏の競技会は、県下一円から若い女性たちが集まり日頃の腕を競いあった。それが行事化・イヴェント化して、麦稈真田の普及定着につながった
⑥これを受けて各村々でも行政と生産組合が連携して競技会開催
これを逆手にとってみると、この香川県の取組は先進的で、全国的にはそこまで達していなかったということになります。
売買組織の改善
真田の買い取りについては、生産農家が景気動向や市況のことについて疎いことが多い。これに乗じて中間仲買人の暗躍で生産農家は不利益な取引を余儀なくされ、それが農家の生産意欲を失わせている例もある。また、商況が良好な時には、仲買人は品質を問わずに先を争って均一価格で買い求める。ここにも真田の改良、向上を阻害する要因がある。生産農家の保護、製品の改良は、麦稈真田産業の発展のための避けて通れない問題である。この流通ルートには農家や輸出港での売買などに多くの仲間業者が入り込んで複雑化している。これを簡略化することが価格安価や取引の安全につながる。このような流通ルートの改善については、香川県同業組合や岡山県の一部において、先進的な取組が紹介されている。また、共同販売や輸出港で売買市場の開設などについては神戸、横浜において試験実施が行われている。注目したい試みであるが、その経営は不振で軌道に乗っていないのが残念である。

価格の調節施設
麦稈真田は流行や景気変動の影響を受けやすく、価格変動が大きい商品である。そのことが普及拡大の障害となっていると言われる。これについての防止策としては、一時期に集中する註文を、分散して受けるようすれば、価格変動幅を緩和できるという意見もある。しかし、生産農家にとっての最大の不安は、農家に対して融資をおこなう金融機関が身近にないことである。農家が利用できる金融制度や機関がまず求められている。次いで、価格調節の行える集団を将来的には考えるべきである。

海外輸出状況

麦稈真田輸出額変遷 明治21年以後
麦稈真田の反別・生産額の推移表

麦稈真田が始めて海外に輸出せれたのは明治7年のことである。以来、明治25(1892)年までは統計調査がないので詳しくは分からない。日清戦争勃発時の明治26年には輸出額は37万円に過ぎず、その発展も遅々たつものであった。ところがその5年後の明治30年には、318万円に達している。10倍の驚くべき急成長ぶりである。それ以後は、輸出数量は以下のように増加している。
明治37(1904)年 1300万反  輸出額  516万円
大正元 (1912)年   2400万反、 輸出額 1680万円
この大正元年がピークで、翌年には減退し、大正3(1914)年の第一次政界大戦の勃発で大打撃を受け輸出額は急落した。こうして戦争景気で他産業が好景気に沸く中で、麦稈真田の問屋や仲買業者中は破産や操業停止に追い込まれるところが続出し、惨澹たる悲境に陥った。大正5(1916)年になると、景気は回復傾向に転じ、昨年大正6年には好況の波に乗ったかのように見えるが、これはかつての隆盛には遠く及ばない。対一次大戦勃発前後の麦稈真田の輸出状況をもう少し詳しく見ておくと次のようになる。
大正2年以前の3年間の平均輸出額  1602万円
大正3(1914)年  1435万円
大正4(1915)年    1413万円
大正5(1916)年 1631万円
これを見ると大戦開始から3年間の平均は1522万円で戦前平均額に比較すると約80万円の減少にすぎません。数字的には「第一次政界大戦の勃発で大打撃を受け輸出額は急落」という状況は見えてきません。このあたりが今の私にはよく分からないところです。

大戦前の麦稈真田の輸出が好調だったことは間違いありません。その輸出先を新聞は次のように記します。
戦乱勃発前の真田の輸出先は、次の通りである
第1位が英国で、次いで北米・仏蘭西、独逸、伊太利、濠洲、比律賓などが主要な輸出先である。戦乱の結果、輸出額の減少と共に輸出先にも大きな変化が現れた。麦稈真田は北米、英国、仏蘭西、比律賓諸島、濠洲、伊太利、支那の順序に其他十九ケ国に輸出。経木真田は英国、北米、仏蘭西、比律賓など十ケ国、麻真田は北米、英吉利、仏蘭西、濠洲、加奈陀など19ケ国に輸出されている。戦前三ケ年と前時中の平均輸出額品種別推移を見ると
                戦前の輸出額
A 麦稈真田   492万円
B 経木真田   211万円
C 麻真田    866万円
大戦の始まった大正3(1914)年以降、戦乱の影響や流行の変化を受けて麦稈真田や経木真田は衰退傾向を見せ始めます。それに対して麻真田が急速に輸出額を伸ばしています。真田の集散は関東では横浜港、関西では神戸港之が集散市場である。また集散製品にも横浜港は麻真田、神戸港は麦稈、経木真田という棲み分け現象がみられる。麦稈真田総輸出額の9割以上、経木真田の8割以上は神戸港からの輸出で、半ば独占状態となっている。これに対して麻真田は横浜港から輸出されるものがほとんどで、神戸港からの輸出は2割程度である。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
大正7(1918年5月12日 神戸新聞 麦稈真田貿易趨勢
    神戸大学新聞記事文庫 デジタルアーカイブ 麦稈製造業第1巻
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100105325/?lang=0&mode=0&opkey=R174080246918440&idx=14&chk_schema=20000&codeno=&fc_val=&chk_st=0&check=00000000000000000000 )

麦稈真田沿革史2

前回は麦稈真田の盛衰史を上のようにまとめました。今回は麦稈真田の生産を農家がどう受けいれたのか、また輸出商品としての麦稈真田がどのように生産・加工されていたのかを見ていくことにします。

麦稈真田の種類2

麦稈真田デザイン

さまざまな麦稈真田デザイン これを材料に帽子などが作られた
麦稈真田の生産を県や郡が農家に勧める上で、根拠となった専門家の説明を見ておきましょう。


麦稈真田工業案内 中山悟路
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ

麦稈真田工業案内 中山悟路 家族経営の長所
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 自家製の利益
意訳変換しておくと
    麦稈真田生産の利益は、独特の製法で作られる物なので家族経営でおこなうのが一番利益を上げられる。中でも農家が自分の家で栽培した麦で作れば 利益は大きいものになる。例えば一反当たり50貫の麦稈材料が確保できる。5反の田んぼで裏作に麦を作れば、
麦稈真田工業案内  家族経営の長所

中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 自家製の利益
意訳変換しておくと
50貫×5反=250貫で、これを材料吟味して4割の歩留まりとすれば、約100貫の材料をえることができる。この麦藁材料を用いて平均的な麦稈真田を組むと1貫で7反が作れるので、106貫×7反=742反の真田が作れることになる。平均的出荷額は「1反=30銭」なので、その収入は「742反×30銭=約221円」となる。材料である麦を買うことなく、職人を雇わず家内工業で行えば、これがすべて家族の丸儲けとなる。
 しかし、材料を他から買い入れ、職人を雇い入れたりすれば、このような高利益は上がらない。 1/3程度の利益しか上がらないだろう。まさに麦稈真田生産は農家の余暇を使って営める副業であり、しかも高利益が上げられる。何人も速やかに起業すべきである。

ここでは麦稈真田を家族経営で行う事の有利さが述べられています。零細な5反農家が二毛作で麦を作り、それを材料に真田を編めば、200円を超える利益が上がるとされています。今から百年前の大正末期の物価を見ておきましょう。
①大卒サラリーマンの初任給(月給)は、50~60円
②職業婦人の平均月給はタイピストが40円
③電話交換手が35円
④事務員が30円
副業としての麦稈真田は、零細な農家には「美味しい話」だったようです。
大きな機械が必要ないので初期投資がほとんどかかりません。そのために香川県では、日清戦争後に急速に普及したことは前回お話ししたとおりです。私は、香川県で作られた麦稈真田は、国内の麦藁帽子などに供給されていたのかと思っていました。しかし、麦稈真田の生産高が急速に伸びたのは海外に輸出されていたからでした。国内提供分よりも、はるかに欧米への輸出用が多かったのです。そして日本から輸出された麦稈真田は、アメリカや欧米で帽子に加工されていたのです。帽子のスタイルなどは、伝統文化や流行に左右されるものなので、消費国で作成されます。次に、第一次世界大戦中に輸出商品としての麦稈真田の未来図を論じた新聞記事を見ておきましょう。

麦稈真田2
麦稈真田

大正3(1914年 麦稈真田好況 輸出復興時代来る  中外商業新報
大正3(1914年 麦稈真田好況 輸出復興時代来る  中外商業新報
(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 )
意訳変換しておくと
  「輸出復興時代来る 某当業者談(上)
数日前の貴紙社説欄に麦稈真田の輸出振興策として漂白輸出を開始すべきだと述べていたことに大に我意を得た思いがする。輸出用の麦稈真田は、発展への今が大きな分岐路になっている。そのために発奮努力して日本麦稈の真価を世界に周知させる時である。①麦稈真田の世界市場での競争者は瑞西(スペイン)と伊太利(イタリア)である。瑞西の麦稈は、日本のものと似て細小である。それに対して伊太利のものは麦稈に穂先だけで組むトスカンと包被部分をも用いた二種がある。②日本麦稈と競合する中国の麦稈の産地は、山東、河南、安徽から揚子江北岸までの間のエリアである。ここの麦稈は伊太利トスカンとは違って、繊緯が強靭にして量目も重く欠点が多いので主に労働者用帽子の原料として使用されている。そのため価格も伊太利トスカンや日本麦稈に比べると低廉である。日本麦稈と同じように、一度欧洲に輸出せられた後に漂白染色して、中米南米方面に輸出されている。これは日本麦稈のライバルではない。
 ③日本麦稈は瀬戸内海の両岸の岡山・香川を主産地とする。繊緯は緻密で軟かく、そのうえ光沢に富み、軽いことを特色として、紳士用の夏帽子や婦人用の四季帽子に使用せられいる。帽子原料としての麦稈に求められる二大要件は、軽いこと、被って気持ちいいことであるが、色彩光沢に富み染上が美しいのは、日本麦稈だけである。この点では、ライバルである瑞西麦稈も伊太利麦稈も我國の麦稈には及ばない。④この真価が次第に世界の製帽家に認識せられるようになって、麦稈輸出が再び復興してきたとと思う。

要約しておくと
①第一次世界大戦直前の1914年1月の記事である
麦稈真田の世界市場でのライバルは、スペインとイタリアであったこと。
③中国の麦稈は品質面で日本麦稈のライバルとはいえない。
④日本麦稈は岡山・香川を主産地として軟かく、光沢に富み、軽いので、紳士用夏帽子や婦人用帽子に用いられている。
⑤この品質が欧米で認められて日本からの輸出が伸びている
ここからは世界の麦稈真田の主要生産地は、スペイン・イタリア・中国・日本で、その中でも品質が優れていると認められた日本製が急速に占有率を伸ばしていきます。
記事の後半「東洋麦稈合同を作れ 某当業者談(下)」を見ておきましょう。
日本の麦稈真田の次の課題は、新たなる飛躍策である。ところが日本麦稈の主産地である岡山・香川の瀬戸内海両岸の地は、⑥麻真田が市場に参入して人気を集めるようになると、生産意欲が萎縮しているように思える。ここには麦稈栽培を専業にする者はいない。そのため生産高が上がらず、品質も降下気味である。これを放置すれば、今後の輸出振興に大きな障害となりかねない。岡山・香川、山口などの主産地はもちろんのこと、⑦その他の各府県に対しても麦稈栽培を奨励し、同時に検査所の権限を拡張し、品質の均一化を計り、輸出振興策を今のうちから行うべきである。
 一方、対岸の支那麦稈は粗悪で改良の余地がある。そこで日本は、技術者や指導者を派遣して播種耕作や乾燥技術などの技術援助を提案する。それが実現すれば、中国でも今まで以上の優良品を生産できるようになり、生産額も増加する。そうなれば我が國のみならず東洋麦稈の改良と産額の増加の実現につながる。これは世界の新需要につながる道となる。日本が率先して漂白輸出の道を開くためには、⑧今は一度欧洲へ運ばれている支那麦稈を隣国の日本で漂白して、日本経由で南米諸国へ輸出することになる。日本は日本麦稈と支那麦稈を双手に握って東洋のルートン、リヨン、もしくはフローレンスへの道を目指すべきである。
 近頃、支那の孫中山(孫文)氏が、やってきて盛に東亜同盟を説きつつある。私の立場からすれば、そのためには先ず実業界において「麦稈トラスト」を組織し、東洋麦稈の商権を伊仏英の手中より奪い、日華両国の支配下に置くことを主張したい。日本と中国の麦稈合同は、日本による漂白輸出の開始を意味する。そうなれば東洋麦稈は数年ならずしてイタリアの麦稈を凌駕するであろう。
要約しておくと
⑥麻麦稈が出現し流行になると、麦稈真田が市場を奪われ、香川の農家の生産意欲が低下していること
⑦打開策の一つとして中国への技術指導を通じて、支那麦稈を日本経由で欧米に売り込むことを提案
⑧日本と中国が「麦稈同盟」を結ぶことがイタリア麦稈の市場占有率を切り崩すことにつながる

ここに出てくる麻真田について見ておきましょう。
  夏帽子の原料である麻真田がイギリスから日本に輸入されたのは日露戦争の始まる前年のことです。明治36(1903)年に、イタリアで製作された「十三打ち麻真田」が、ロンドンから日本へ輸入されます。それが国内で生産されるようになるのは、明治41(1908)年のことです。横浜の上流合資会社が工業化に成功し、豊橋などを拠点にゆっくりと成長して行きます。麻真田はフィリピン産のアパカ植物の葉幹を繊維化したもので、絹のような光沢と耐水性、耐摩擦性に富んでいることから婦人用帽子などに使われました。当初は麦稈真田の影に隠れた存在でしたが、電力使用が普及すると、編織機が手動式から電動式に改良されます。工場生産で、能率が上がり、品質も改善され急速に成長し、第一次世界大戦後には、麦稈真田を圧倒するようになります。

麻真田織機
麻真田織機(豊橋市 石川繊維資料館) 
       次に今から約百年前の神戸又新日報を見ておきましょう。
見出しには「輸出真田の革命的改善機運」とあるので、生産過程などに大きな改善がありそうなことを記事にしているように思えます。早速読んでみます。

麦稈真田の革命的改善機運」

神戸又新日報(大正15年8月12日)(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 )

神戸港の麦稈真田の輸出額は、年々その額を増加し重要物産中でも十指に数えられるまでに至った。近頃は不景気によって打撃は受けているものの、世間ではなお前途は楽観視され、通商発展は有望とされているように見える。しかし、昨今の麦稈真田の安値に市況は一段と沈静し、同業者は悲観の態である。下半期の業績もきびしい状況が予想せられている。これについて当事者の情況分析をを綜合すると、原料安に伴って麦稈帽なども三分の一の市価に落ち込んでいるという。値段が安ければ需要が増える、従って製品の販路は増えるというのが世間の見方だが、近頃の傾向はこれと正反対であるという。安値の藁帽子などは、中流以下の階級者に需要が多く、富裕層は麻真田とか品質のよいものが歓迎されていて、麦稈帽の人気は下落しているという。これは麦稈真田の同業者にとっては聞き捨てならないことである。

 このような状況を打開するために香川県などの生産組合は、製品改良に努め、各地で講習会を開催するとか、技術員を駐在させて麦稈製品の品質改善に努めている。しかし、その効果はあまり現れていない。その要因は、麦稈生産者の多くが農家の副業者であるからだ。技術者が改良を奨励しても、それに応えずに普通の編み上げを続け、何等の改良を加えない農家も多いという。この点を考慮して伊賀上野では、細目の編方を奨励し成果を上げ、非常な好評を博し需用を伸ばしている。改良すれば改良する程、それが副業であろうと本業であろうと、それだけ収入を増加することができる。ところが農家の副業では、技術者の指導を馬耳東風と吹き流し、昔から仕来りの編方を踏襲してなんの改良を加えない。そして、一反25銭の編賃を得て満足しているのである。改良した編方をすれば収入は倍額になるのに、農民たちはそんな手間のかかる仕事は真平御免だと言わぬばかりに一向に改良をしようとしない。こんな様なので、生産組合も今は持て余し気味である。今の状態では麦稈帽の将来は危うい。当業者もこのことに気づいて、大改良を加え品位の向上はもちろん、加工にも十分の注意すべく計画中であという。
麦稈真田に比べて有望視されているのが麻真田である。麻真田は大工業家の手によって生産されているので、品質改良や生産工程の効率化などが着実に進められている。そういう点からすると、現在の麦稈帽は技術も品質も、麻真田に対して優った点を見出す事が出来きない。このままでも労働者の被る麦藁帽子などにも麻真田に奪われて行く可能性がある。今の内に、麦稈真田は改良すべきであるとの意見が昂まって来た」
ポイントを上げておくと
麦稈真田の輸出額は、神戸港のベスト10に入っていた
①麦稈真田業界は、安値低迷に苦しんでいる
②その原因の一つが麻真田の出現である
③麦稈真田が農家の副業で、品質向上などへの取り組みが弱いのに対して、麻真田はて大工業家によって生産されているので、改良・改善に積極的に取り組んいる。
④このような差が麦稈真田の未来を危うくし、麻真田の未来を明るくしている。
記事の題名は「輸出真田の革命的改善機運」でしたが、書かれている内容は麦稈真田の危機的内容で、これらを行わない限り未来は見えてこないというものです。
以上からは、農家の副業として生産される麦稈真田が品質面やデザイン面で改善が見られずに、次第に麻真田に押され、市場を失っていく様子がうかがえます。香川県の農家が盛んに麦稈真田を作っていたのは、日清戦争後から大恐慌の始まる約20年間だったことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ
神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 デジタルアーカイブ
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麦稈真田の生産開始と普及

前回は香川県の麦稈真田の生産開始と、その後の発展ぶりを上のようにまとめました。その中で⑥の明治末から麦稈真田は衰退したという坂出市史の記述について疑問があるとしました。それを今回は、当時の新聞記事で見ていくことにします。テキストは、神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業  
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/search/simple/?lang=0&mode=0&opkey=R174070762695508&start=1&codeno=&req=back 」です。ここでは戦前からの新聞記事がアーカイブスでみられ、私がよく御世話になっている所です。「香川県の麦稈真田」で検索すると、以下のような記事が出てきます。まず、第一次世界大戦中の好景気に沸く麦稈真田の様子を見ておきましょう。
麦稈真田3

各種の麦稈真田
大正5(1916)年10月15日 大坂朝日新聞 景気づける麦稈真田 注文頻繁と来る

大正5(1916)年10月15日 大坂朝日新聞 景気づける麦稈真田 注文頻繁と来る
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業
意訳変換しておくと
香川県の農業は米麦作が主体で、剰余労力が多いので農家副業が欠かせない。香川県の麦稈真田の製造は明治15(1882)年に大阪の商人原田某氏が小豆郡草壁村に、麦稈購入にやってきて真田の製法を村民に伝えたことに始まるとされる。その後、麦作に適した気候風土もあって、麦稈の光沢が美しく、品質優良と認められ世界に販路を広げた。こうして農家副業として近年は急成長を遂げてきた。中でも大正元(1912)年度は、生産額が237万円に達した。①これは、生産額1位の岡山県に次いで、全国第2位になる。
ところが流行の変化で麻真田帽や紙製帽が欧米の流行の中心となると、麦稈真田の需用は急減退し、市価も低落した。そのため②昨年度(1915年)の香川県の生産額は36万円まで落ち込んだ。しかし、③今春以来再び英米の需用が増えて、初夏以来は注文が頻々と舞い込んでいる。そのため業者は目下の所は麦稈真田の製造に忙殺され需用に追いつかないほどの未曾有の活況を呈している。香川県麦稈真田同業組合の小林氏の話によると、麦稈真田の価格は高騰しており、昨年1反9銭だったのが本年は15銭となっているという。特に合九平22粍巾のものは昨年は一反19銭だったのが本年は43銭と、倍以上に高騰して、需用に追いつかない状況にあるという。
 このような時期には、粗製濫造に走る業者も出てくるので、当局側はそれへの対応に追われている。また香川県は、岡山や広島県に麦稈真田の原料を供給している。昨年は1貫目22銭だったのが、今は34銭で取引されている。香川県にとって将来有望な種類は合三平種である。(中略)
合三平四五の巾で一反の売価22銭に対して、コストは組賃9銭、原料7銭、仕立・雑費2銭を除くと4銭の利益となる。目下香川県の麦稈真田界は黄金時代を謳歌している。九月中に同業組合は証紙検印を行うようにして粗製濫造を防止しようとしている。今年の海外輸出反数は、110万反にのぼる予想がでている。
以上を要約しておくと
①大正元(1912)年度の生産額は237万円で、岡山県に次いで、全国第二位の生産地であること
②大戦勃発と麻真田帽や紙製帽の流行で、1915年は麦稈真田の生産額は36万円まで落ち込んだ
③1916年には需用が回復し、生産高・販売額共に高騰し、讃岐の麦稈真田産業は潤っている

次に、大正6(1917)年3月10日 大坂朝日新聞「香川県の副業」の麦稈真田を見ておきましょう。
大正6(1917)年3月10日 大坂朝日新聞  香川県の副業
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業
意訳変換しておくと
香川県では農家の副業して麦稈真田が根付くことによって貧しかった農村は次第に富裕となってきた。中流以下の農家でも貯金が出来る者が少なからず現れている。もともと香川県は空気が乾燥し、土壌が砂質なので麦稈真田の材料となる麦類栽培に適していた。その上に県民が手工に長ずるという特性も重なって発展してきた。①大正元(1916)年度の産額は1072反・生産額は237万円で、本県の生産品の首位を占めるまでになった。
 ところが1917年度になって関東地方で麻真田が作られ海外に輸出されるようになった。麻真田は軽いので婦人帽子に使われ人気が出た。②そのため麦稈真田は婦人用帽子には使われなくなり、男子帽のみの原料となったために需用は低下し、価格も低落した。その結果、1917年の生産高は641反 売上額は115円と、前年度の半分まで落ち込んだ。本年度も麻真田が人気なので、

麦稈真田の回復の見込みはなく、しばらくはこの苦境がつづくことが予想される。(後略)
 以上を要約しておくと
①1916年には、麦稈真田の生産額は香川県の農業生産品の中で首位となった
②1917年度以後、麻真田に押されて生産額が半減し、麦稈真田は不況期に入った。

次の記事は、ベルサイユ講話条約が結ばれた翌年の1920年の大阪朝日新聞のものです。 
「香川県の麦稈真田 頗る好況」大阪朝日新聞 大正9(1920)年1月16日

香川県の麦稈真田生産 朝日新聞大正9年
          「香川県の麦稈真田 頗る好況」(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 記事番号97)意訳変換しておくと
香川県下では米作に次ぐ農家の収入源となっているのが麦稈真田である。①第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、②休戦成立以後は次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。③香川県下の紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。
 麦稈真田同業組合調査によると昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。(中略)
統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると④戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているという。
以上を要約しておくと
①第一次大戦中には麦稈真田の輸出は途絶えた
②ベルサイユ講話条約締結後、輸出は再開し価格も急騰している
③そのため香川県の女工たちにの中には、勤めていた工場をやめて麦稈真田を織る者もあらわれている
④麦稈真田の価格は高止まり傾向にあり、業界の将来は明るい。
ここでは第一次大戦時の麦稈真田の輸出急減の要因を「船賃の高騰」と指摘しているのがいままでにない所です。ところが、その4年後には自体は急転しています。
大正13(1924)年5月30日 神戸新聞「輸出麦稈真田類不振」を見ておきましょう。

大正13(1924)年5月30日 神戸新聞 輸出麦稈真田類不振

意訳変換しておくと
輸出用の麦稈真田市場は新稈の出廻りを眼先に控えているのに、亜米利加からの註文も手控え状態で取引は極めて閑散としている。岡山・香川の生産地情報によると備後地方は刈取期の本月下旬に降雨が多かったために、品質は極めて低下しているという。それに加えて、前年も品底気味であったので、本来ならば優良品は相当高値になるはずであるが、今後の天候次第である。香川県地方では、岡山に比べて収穫期が遅いため降雨の被害は少い見込みで、昨年より良好とされる。以上から麦稈原料の市価も大した変化はないと見られる

1920年の好景気は、ここでは見られず市場は閑散としていると報じられています。4年の間になにがあったのでしょうか。いまの私にはよく分かりません。時代を進めていきます。

麦稈真田に適した麦
麦稈真田用の麦

そして大正15(1926)年 8月25日 神戸新日報の記事です。
見出しは「海外の注文薄で麦稈真田相場依然として安値へ 粗製濫造防止急務」とあります。


大正15(1926)年 8月25日 神戸新日報)

 意訳変換しておくと

① 麦稈真田の前途については、以前にも報告したように明るい兆しが見られない。同業組合や産地でもさまざまな改善策を講じ、品位向上に努めているが、生産農家が副業であるのがネックとなっていて改善は進んでいないのが現状のようだ。現在は主産地の岡山、広島、香川が盂蘭盆であり、製産品が市場に出廻らず品薄になる時期なので価格上昇が見られる時期である。ところが②海外からの注文薄のため相場は取引数も少なく、安値定着で、同業者は全く閉口している。
 一方相場の安値定着は、生産者に大きな打撃を与えていると思われるかもしれない。けれども副業としている農民たちは、案外のんきな対応ぶりである。(中略)③香川県などでは、麦稈真田を副業そしていた農家の大半が他の副業に転じているようだ。また同業者も対策に相当努力を払っているが、何分にも相場が安いため手の打ちようが無い状態だという。
(中略)
粗製品を売って利益を得ることは得策のように思えるかもしれないが、それは信用を失いて損失を招くことになる。今は輸出業者が団結一致し粗製品の濫造を防止することが必要であろうと同業者は語っていた」        
以上を要約しておくと
①1926年になっても、麦稈真田業界の不況が続いていること
②海外からの注文がなく安値が続き、農家の生産意欲が停滞していること
③香川県では麦稈真田から、叺(かます)などの副業への転進が進んでいること

ここからは1926年段階で、香川の麦稈真田は衰退していたことがうかがえます。そして3年後には世界恐慌が襲ってきます。麦稈真田は、その荒波に飲み込まれていったことが予想されます。
以上から分かることは、以下の通りです
①麦稈真田は日露戦争後には衰退期を迎えていない。
②好況期と不況期を繰り返しながら第一次世界大戦直後に繁栄のピークを迎えていた
③しかし、1920年代後半になると次第に衰退し、世界恐慌でとどめをさされた
ここまで見てきて改めて知ったことは、麦稈真田が輸出商品であったことです。国内だけで使用されていたのかと思っていました。世界的な景気変動や流行によって需用が大きく動き、そのため価格変動も大きかったことが分かります。そして、戦前の香川では、生糸と並ぶ農村の重要な副業であったことを押さえておきます。
香川県の農作物生産変遷表
藁と麦稈真田 滝川村

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
神戸大学新聞記事文庫デジタルアーカイブ 真田製造業  https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/search/simple/?lang=0&mode=0&opkey=R174070762695508&start=1&codeno=&req=back 
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麦稈真田と製品
麦稈真田
「麦稈真田」は「ばっかんさなだ」と読むようです。辞書で調べると次のように記されています。

「麦藁(ばっかん)」とは、麦のクキを日に干したもの、つまり麦わらのこと。それをで真田紐のように編んだもの。夏帽子や袋物の材料に用いる。裸麦・大麦の麦稈を最良として、編み方により菱物・平物・角物・細工物などがある。岡山県・香川県などの産。


麦稈真田に適した麦
麦稈の材料に適した麦
麦藁とは、麦のクキを日に干したもので、
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麦稈真田2
  左から「七猫しちねこ」「五菱ごびし」「四菱しびし」「三平さんぴら」の麦稈真田
一番右端だけは「経木(きょうぎ)真田」といって、麦わらではなく薄く削ったツゲの木を組んだものだそうです。工業的に大量に生産できるため、麦稈真田の安価な代替品として利用されました。 麦稈真田を作る道具や制作行程については、坂出市郷土資料館に展示してありますので、そちらを御覧下さい。(https://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/bunkashinkou/bunbun007.html 参照)

麦稈真田3
さまざまな麦稈真田
G-46 麦稈真田 野良笠(調節機能付き)
 麦稈真田で作られた麦わら帽子

麦稈真田がどこで作られ始めたかについては、「麦稈真田工業案内」(1905年)に次のように記します。

麦稈真田工業案内 中山悟路
 中山悟路著 麦稈真田工業案内(1905年) 国立国会図書館デジタルアーカイブ

香川県麦稈真田の沿革
 中山悟路著 麦稈真田工業案内103P 香川県麦稈真田の沿革 
上記を意訳変換しておくと 
麦稈真田の創業については今から23年前の明治15(1882)年、 大阪の原田某氏が大阪より小豆島の草壁に来て麦わらを買いつけた。何に使うかと問うと、加工して海外への輸出商品にするという。そこで試しに2、3人が作り始めた。これが香川県の麦稈真田業の始まりである。
(明治38(1905)年

  初期の状況
  讃岐の地質は、主に花崗岩で構成され、地勢は南から北に傾斜する乾燥地形で麦作に適している。そのため麦稈にも光沢があり、真田の原料として品質がよく他の生産地に勝る。そのため讃岐産の麦稈を求めて商人たちが押し寄せるようになった。しかし、当時は農家は麦稈のままで出荷し、真田に加工して販売する者はほとんどいなかった。また明治31(1897)年頃までは、麦稈真田に従事する戸数は、全県下で200戸あまりに過ぎなかった。
  近来の状況
  明治32(1898)年頃になると、欧米で麦稈真田に対する需用が次第に高まり、販売数が増大するようになった。麦稈真田が利益率の高い副業であることが分かると、前年までは200戸余りだった生産農家が7倍も増加した。明治35(1902)年には、9350戸に至るまでに急増した。

以上を整理しておくと
①麦稈真田が作り始められたのは、1882年の小豆島
②しかし、長らく生産農家数は増えなかった。
③生産農家が急増するのは日清戦争後のことで、県や村が保護支援することで一気に1万戸近くに急増した。
麦稈真田製造創業者 中川二助 翁 小豆島
       麦稈真田製造創業者 中川二助 翁の碑 (小豆島 土庄町小瀬)
小豆島西部の「重ね岩」で有名な小瀬には、麦稈真田製造創業者の碑があります。小豆島では、この中川二助氏が麦稈真田製造のはじまりとされているようです。
1890年代後半に書かれた県への報告書には、小豆島の現状が次のように記されています。

麦稈真田製造創業者 中川二助 翁 小豆島2
      
意訳変換しておくと
麦稈真田の需用は近年ますます増加の一途にある。特に小豆島では、数年前から苗羽村の田の浦産は最上級品と需用が高い。そのためアメリカやイギリス・フランス・香港などからは需用に追いつかず品不足の様相を呈している。この田の浦は、わずか百戸ばかりの小さな集落に過ぎないが、麦稈真田からの収益金は一戸当たり年間1000円を下らないという。もし、農家の副業として麦稈真田が県下全体に普及すれば、小豆島の1/3としても300円が見込まれる。農家の救済方法を考えることは目下の大きな課題である。麦稈真田が、その救済手段となりえるように、将来に備えて検討していくことが必要である。
ここには「麦稗真円は農家の副業として有益な事業であるので県・郡や町村勧業会などで奨励策を行うべきである」と答申しています。これを受けて、県では指導者育成を目的に先進地の備中から女工数名を雇い入れ、各町村への巡回指導を行っています。
また、生産奨励策として、次のような方策がとられています。
①尋常小学校の手工科のカリキュラムに「麦得真田組み」を採用
②1898(明治31)年「香川県麦稈同業組合」設立と「麦稈真田販売組合」設立
③両組合は、製品の品質保証を目的に検査制度を設け、規格の統一普及に努めた
④製品に製作者名を押印した県発行の検奄証紙を貼付することによって、生産者責任を明確化
⑤同時に粗製濫造を防ぐことになり、県産麦得真田の名声を高めた。
こうして世紀末から、生産農家増大や規格統一・販路網確立が行政主導で整えられて行きます。さらに日露戦争が勃発すると食糧増産強化のために、県は戦時記念事業として「時局注意事項」を出します。そこには次のような項目が並んでいます。

米作改良、麦作改良、肥料改善、養蚕普及、溜池利用、記念植樹、勤倹貯蓄の普及、
麦得真田の伝習
 
最後に「麦得真田の伝習」が入っています。これを受けて、1904年7月に公設の「麦得真田伝習所」が設置されます。
伝習館で学んだ受講者を地域の指導者に育て、技術普及を展開します。これは、養蚕部門で行われていた手法と同じです。次は「競技会」の各地での開催です。競わせて技術向上を図ろうというねらいです。なかでも滝宮天満宮で夏に行われる競技会は、若い女性たちが日頃の腕を競いあい盛り上がったようです。坂出では西庄村の高照院で、綾北六カ村による競技会(1912年)、坂出公会堂での競技会(1915)などが行われています。
 こうして県や村からの保護され、奨励されることで指導者が育成されていきます。同時に、同業組合の結成や規格の統一など、品質を維持する取組も行われます。そのおかげで香川の一大産業となり、農家の副業として現金収入の柱に成長し、農家の生活向上につながりました。

麦稈真田の生産戸数・産額変遷

麦稈真田の生産戸数・生産額・価格の推移(中山悟路著 麦稈真田工業案内109p)
上表には明治32(1899)年以後の生産戸数・生産高・生産額が示されています。
      明治32年   明治36年
生産戸数  1393戸   15353戸
生産高 124870反 1452227反
生産額  62550円  943947円
ここからは県や郡・村の奨励策によって日露戦争前の5年間で、10倍以上の成長を果たしていることが見えてきます。 
 その後の麦稈真田をとりまく状況は、どう変化したのでしょうか。
坂出市史には、次のように記されています。
①1905年に塩の専売法が施行され、塩の包装が麦稗叺(かます)から稲藁叺に変わった
②その結果、麦稈の需用が減少し、農家は急速に稲藁叺の生産に転換した
③こうして農家の副業の主役は、麦稈真田から叺織りに変わった。
④さらに外国からの安い製品が入るようになると価格競争に押されて、生産意欲は低下
以上のように明治末から大正にかけて、麦稈真田から稲藁かますに主役が交代していったとします。。
しかし、史料を見てみるとそうは云えないようです。例えばネットで調べていると大阪朝日新聞 1920年1月16日(神戸大学新聞記事文庫 真田製造業)には、「香川県の麦稈真田 頗る好況」と題して、次のような記事が載せられています。

香川県の麦稈真田生産 朝日新聞大正9年
「香川県の麦稈真田 頗る好況」(神戸大学新聞記事文庫 麦稈製造業第1巻 記事番号97)
((https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100195597/ 

   「翻刻香川県下に於ける副業中の首位を占め年産額に於て讃岐米に次ぐ数字を示せる麦稈真田は戦乱以来輸出杜絶又は船腹払底の為め久しく悲境に陥り居たりしが休戦以来昨年の春頃より漸次順調に立戻り七月以後益好況に赴き価格の騰貴は未曾有の記録を作り単四菱の如き一斑九十銭内外となり従って之が編賃も騰貴し一日少きも一円五十銭多きは三円内外の収入となるより県下紡績、製糸、燐寸等各工場の女工にして熟練せる工場を捨て自宅に於て賃編に従事するより何れの工場も女工の大払底を告げ三割乃至五割の労銀値上げを為すも応募者なき状況なるが麦稈真田同業組合調査に依る昨八年一月以来十一月末迄の産額は二千六百九十三万七千百三十六反価格八百七十五万九千八百九十五円の多額を示し居れるが大正二年以来七箇年間の産額を示せば左の如し(但し八年は十一月迄)

意訳変換しておくと  
香川県下の副業の中で讃岐米生産に次ぐのが麦稈真田である。第一次世界大戦のために、一時は輸出が途絶え、さらに船便不足で販売が伸び悩んでいたが、休戦成立の昨年より次第に好転し、7月以後は価格も記録的な高騰を見せ、収益も順調に伸びている。「四菱」などは一斑90銭内外となって、織賃も上がって一日で初心者でも1円50銭、熟練者になると3円内外の収入となっている。県下紡績、製糸、燐寸などの各工場の女工たちの中には、それまでの工場を辞めて自宅に帰って賃編に従事する者も現れる始末。そのため工場も女工の賃金を三割から五割上げる対応をとっているが、それでも応募者が現れないような状況が続いている。麦稈真田同業組合調査によと昨年大正8年1月から11月末までの生産高は約2694反で、販売額は876万円に達している。参考までに大正2年以後の7年間の香川県の出荷額は以下の通りである。

大正2(1913)年 6415538反、1153368円
大正3(1914)年 4335724反五、616263円、
大正4(1915)年 3338219反  362952円
大正5(1916)年 5594076反  859919円
大正6(1917)年 6038636反 1045094円
大正7(1918)年 5754223反、1880879円
大正8(1919)年26937136反 8759895円
この統計によれば、前6年の合計生産額が、昨年一年間に及ばない。しかも昨年は11ヶ月間の統計なので、十二月分も合わせれば総額は売上額は千万円を越えたかもしれない。これについて同組合員の談話によると戦前は、輸出運賃単四菱一反で2銭だったのが、大戦開始以後は28銭に高騰したため輸出が途絶え、大きな打撃を受けた。それが平和が回復され船腹確保できるようになって、運賃も低下して、戦前の二銭に戻ってきたので輸出も回復したとみている。目下の所、単四菱一反極上品が90銭、最下等70銭で推移しているが、好況に大変化がない限り、この価格を維持でき、多数の県民福利を増進できると考えている。ちなみに香川県の麦稈真田組合会員数は、製造業者57951人 販売業者208人 仲買業36人であるが、この好況に伴い製造、販売、仲買人ともに大幅に増加しているというし居れりと(高松)」


  この記事からは次のようなことが分かります。
①第一次世界大戦前になっても、生産数はあまり落ちていなかったこと
②第一次世界大戦中は輸送コストが高騰して、生産数が落ちたこと
⑤それが大戦終結の年には、大幅に回復していること
ちなみに、この後に戦後不況がやってくるので、生産量がどうなったのかわ分かりません。しかし、坂出市史の云うように、日露戦争前後に麦稈真田の生産が急速に落ちたと云うことはなさそうです。
先ほど見た「麦稈真田工業」には、明治の輸出量と額の推移が次のように載せられています。
麦稈真田輸出額変遷 明治21年以後

中山悟路著 麦稈真田工業案内100P 香川県麦稈真田の輸出額
主要な年の数字だけを抜き出してみます。
①明治20(1887)年 約110万反
②明治29(1896)年 約550万反
③明治33(1900)年 約882万反
県や郡の麦稈真田への政策的な支援・保護が進む中で、輸出量も急速に伸びています。
香川県麦稈真田同業組合 生産数推移
香川県麦稈真田同業組合の生産量・販売額の推移

そして、先ほどの新聞記事にあった輸出数量を見ても、その数字は減少していないことが分かります。
以上をまとめておきます

麦稈真田の生産開始と普及
香川県の麦稈真田の生産開始と発展
上の「日露戦争前後を機に、明治末から麦稈真田は衰退した」という説は、私は疑問を持ちます。麦稈真田は第一次世界大戦後に好景気にわいて、生産農家が増大していることを当時の新聞記事は伝えているのですから・・・
今回はこのあたりまでで・・最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史 近代編176P 農家の副業と裏作の発達 麦稈真田

麦稈真田(ばっかんさなだ)」について書かれた香川県関係史料 ...

(上をクリックすると香川県立図書館 麦稈真田レファレンスに移動します)



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