瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐の武将 > 長尾氏

前回はまんのう町吉野の大堀居館跡について、次のようにまとめました。

大堀居館と潅漑施設

大堀居館5
大堀居館跡の位置
丸亀平野の中世武士の居館跡について、何度か取り上げてきました。しかし、居館跡を広い視野から位置づける視力が私にはありませんので断片的なお話しで終わっていました。そんな中で出会ったのが「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。歴史地理学の立場から中世の居館跡の水堀が灌漑機能をもち、そのことが居館の主人の地域支配力を高めたという話です。何回かに分けて、ここに書かれていることを読書メモ代わりにアップしておきます
①鎌倉期の『沙汰未練書』には次のように記されています。
「御家人トハ、往昔以来、開発領主トシテ、 武家ノ御下文ヲ賜ル人ノ事ナリ」
「開発領主トハ、根本私領ナリ」 
ここから開発行為こそが、御家人(在地領主)の土地所有権の最大の根拠だとしています。そして、領主による開発と勧農を重視しています。讃岐の場合には、絶えず水の確保が大きな課題となります。水の支配権こそが領主支配の根源になっていました。中世の場合は、武士の居館が灌漑用水支配の拠点になっていたと研究者は考えています。

Aまず「館」と「城」の違いを押さえておきます。
 居住機能と戦闘機能のどちらに比重を置くかがポイントにすると、次の3つに分類できます。
A 平時の居住に重きをおくものを「居館」
B 戦闘機能に重心をおくものを 「城」
C その双方の要素を含むものを総称して「城館」
中世は、平常時の居住地としての平野部の居館と、戦闘時の詰城としての山城とがセットになっていたとされています。ここで取り扱うのはAの平時の居住空間としての平野部居館です。

飯山国持居館1
武士の平野部の居館モデル 水堀で囲まれている

中世の平野部居館の特徴の一つは、水堀で囲まれていることです。
空壕や土塁という選択もあったはずですが、水を巡らせたことには、なんらかの意味があったはずです。その理由として考えられるのは
 ①防御機能の強化
 ②低湿地 にお ける排水機能
 ③農業用水への利用
 ④舟運利用 
①の機能は当たり前です。ここでは③の用水支配の関係を見ていくことにします。中世居館は、方形館とも呼ばれるように、水堀で囲まれたその敷地が方形です。 この方形が条里地割に規制されたものが多いことは、丸亀平野の中世居館で以前にお話ししました。方一町の館の場合は、条里地割の坪界線に沿っていて、居館の主人は条里地割型耕地の開発と深く関わっていたと研究者は推測します。

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制 吉野は条里制成功エリア外である。
 条里地割がいつ行われたかについては、丸亀平野の発掘調査からは7世紀末に南海道がひかれ、それに直行する形で条里線ラインが引かれました。しかし、古代に条里制の造成工事が行われたのはごく一部で、大部分が未開発地域として放置されたことも分かっています。開発が進むのは平安時代後期や中世になってからです。土器川や金倉川の氾濫原が開拓されるのは近世になってからだったことは以前にお話ししました。
荘園制内部の在地領主の勢力実態を知るために、居館の規模を見ておきましょう。
家には、そこに住む人の経済力が反映します。居館の規模は、階層差ともとれます。方形区画の規模については、次の2種類があります。
A 方一町のもの
B 半町四方のもの
Aは地頭クラスの居館、Bは村落の公文や土豪層の居館と研究者は考えています。
大山喬平は、荘園的土地所有をめぐる在地での支配階級として、次の二階層があるとします。
C  荘域を管掌する地頭・下司層=在地領主
D  村落を支配対象とする公文層=村落領主
これは、先に見たA・B]の居館規模の階層差と一致します。一括りに「在地領主」と呼ばれてきた領主にも「荘 園」と「村落」という二重構造 に対応した二種の領主階層があったことがうかがえます。 在地領主と村落領主を、居館規模から分類して、それぞれの役割を考える必要があるようです。

それでは「吉野大堀殿」の居館は、どうなのでしょうか?
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m
②堀跡は幅8~10mで、周辺田地との比高差は40~50cm。
ここからは吉野大堀殿の居館は、A・Cの1、5倍で、地頭・下司クラスよりも広いことが分かります。村落規模を超えて大きな力を持っていた「在地領主」であったことがうかがえます。
次に 水利開発の拠点としての中世居館の研究史を整理しておきます。 
A 小山靖憲は、在地領主の勧農機能を説き、「中世前期の居館の堀は農業用水の安定化のためにこそ存在した」と指摘
B 豊田武は「農村の族的支配者としての武士像」を次のように描いた
①用水統御機能を持つ居館を拠点に水田開発が進めらた。
②そこに「領主型村落」が形成され、
③その結果、郡郷内の村々に一族庶子を配置して開発を推進していく「堀ノ内体制」論が展開
東国をフィール ドとして作り上げられたこの2つの理論は、鎌倉期の西遷御家人の西国での開発に対しても適用され、一時は中世前期の在地領主と開発をめぐる「公式」になります。こうして文献史学の立場から「領主型村落」論が示されます。
 ところがその後に中世居館遺構の発掘調査が進むと、考古学の立場から次のような反論が出てくるようになります。
1987年以降の関東での発掘調査の成果から、橋口定志は次のように述べています。、
①12・13世紀の前期居館は周囲を溝で区画したにすぎず、 灌漑機能を持つ本格的な水堀を備えた方形館の出現は14世紀以降であること、
②史料に出てくる「堀ノ内」は領主居館を指すとは考えられないこと
この指摘により中世前期居館の水堀の灌漑機能は否定されます。それを根拠とする 「領主型村落」
論は、根底からの再検討を余儀なくされます。これを承けて「領主型村落」と「堀ノ内体制」論を問い直す試みが始まります。
そのような中で海津一朗は、領主的開発の原動力を次のように説明します。 
①東国領主の堀ノ内は交通路に面した村落と外界の結節点に位置する
②そこに市や宿が建てられ町場が形成され
③そこを基地として、都市と連結した経済活力が新田開拓につながる
④それが「領主型村落」の祖型となる。
 ここでは灌漑力ではなく、交通路の関係が重視されるようになります。 特に前期居館の灌漑機能が否定されて以降、 農業経営以外の要因で居館の立地を説明しようとする傾向が強くなります。これは初期武士団を農業経営よりも、むしろ都市的な富の再分配に大きく依存していた存在とみる見方と重なり会います。
 しかし、「水堀をめぐらす居館は14世紀以前には存在しなかった」という結論に対して、近畿を中心とする発掘調査が進むと反論が出るようになります。
近畿でも和気遺跡・長原遺跡などの中世前期にさかのぼる居館水堀の遺構が出てくるようになります。これらの分析から水堀をめぐらせた居館が12世紀後半には、出現していることが分かってきました。
しかし、12世紀の前期の水堀については、次のような意見の対立があります
A 長原遺跡の水堀は「初期館においては防御を主目的とするものではなく、田畠への水利を目的とするもの」
B 居館水堀の埋土分析から流水状況が認められないとして、水田をうるおす用水路の役割は果たしていなかった
12世紀の前期居館については、このような対立はありますが、中世後期の居館については、水堀が灌漑機能を持っていたことに異論はないようです。
以上をまとめておくと、領主が開発をリードできたのには、次の2つの根拠があると研究者は考えています。
①居館の用水支配に基づく勧農機能
②都市と直結した経済活力の投入
どちらを重視するかによって、居館領主の性格付けは、大きくちがってくることになります。
  居館と灌漑用水について、研究者は次のようなモデルを提示します。
中世居館と水堀の役割
 
 A. 「水堀=溜池」で、旱魃に備えた堀水が、水田へと給水される場合
 B.「 水堀=用水路」で、居館より下流の水田へ の灌漑用水が流れていた場合
 AもBも、用水を提供していたことには変わりありません。
中世居館と井堰型水源

そこでまず考えるべき点は、その水をどこから引いているのかだと研究者は指摘します。つまり、上流にさかのぼって堀水の水源を押さえるるべきだというのです。居館建設に先だって、堀に水を貯めるためには、水源確保がまず求められたはずです。居館建設に先立ってすでに、湧水や井堰などから導入してくる用水供給のためのシステムがあったはずです。さらに用水を 自らの居館に引き込んでいるので、領主が用水の使用権を握っていたことになります。そうだとすると、 水堀そのものに灌漑機能がなくても、用水路網の末端で水を受 けるだけの場合であっても、 居館の主人は用水の支配権を握っていたことになります。ここでは、水堀は防御機能だけで無く、地域の用水システムと深く関わっていたことを押さえておきます。これと最初に述べた勧農権の問題はリンクします。
これを「吉野大堀居館」の主人にあてはまて考えています。

まんのう町吉野

  まんのう町吉野土地利用図を見ると、大堀居館のまわりは土器川と金倉川の扇状地上部で、いくつもの流れが龍のように暴れ回っていたエリアであることがうかがえます。そのため遊水地化し、低湿地が拡がる開発が遅れた地域であったことは以前にお話ししました。そこに承久の乱以後に西遷御家人がやって来て、大堀居館を構えたという仮説を提示しておきます。

大堀遺跡 まんのう町
大堀居館絵図(江戸時代)
居館の掘には、そこから湧き出す出水が利用されます。それだけでなく土器川に井堰を築造し、導水が始められます。その水は居館の水掘を経由して、下流域に供給されていきます。
そして、灌漑用水の下流域の要所には一族が居館を構え、周辺の開発を行い勢力圏を拡げていくというイメージです。灌漑用水路沿いに一族の居館が設置されていたという事例が近江の姉川水系からは報告されています。そを大堀居館にも当てはめて考えて見ると、大堀居館は土器川からの井堰や吉野の湧き水など取水源を抑える勢力の居館だったことになります。だから先ほど見たように居館規模が大きかったのかもしれません。
灌漑用水網と居館群
灌漑用水路沿いに一族の居館が配置された模式図
大堀居館の下流の居館を見ていくことにします。
琴平 本庄・新庄2

        琴平町の「本庄城(居館)と石川城(居館)の推定地(山本祐三 琴平町の山城)
小松荘琴平町)には、中世の居館跡とされる本庄居館と新荘(石川居館)があります。
荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、上の地図の右下の部分で琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアと考えられています。

DSC05364
新荘の氏神・春日神社の湧水 ここが石川居館の水源
 一方、新庄は春日神社の湧水を源とする用水の西北で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域とされます。春日神社の北側には、丸尾の醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけると石川居館の水堀跡に至ります。こうして見ると、本庄と新荘は小松荘の出水からの水を用水路で取り入れ、早くから開けた地域だったことがうかがえます。同時に、水源地を氏神として信仰の場としています。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)には「本荘殿」「新荘殿」と記されています。ここからは、中世には本荘と新荘の、それぞれに領主がいたことがうかがえます。

 現在では、旧小松荘(五条・榎井)の水源は出水だけに頼っているわけではありません。
満濃池水掛かり図

吉野の①水戸井堰で取水した②用水路の支線が西に伸びて五条や榎井の水田を潤しています。これは、生駒藩時代に西嶋八兵衛の満濃池築造と灌漑用水路の整備の賜と私は考えてきました。しかし、「居館ネットワークによる灌漑水路整備」の実態を見ていると、満濃池が姿を消していた中世に、吉野の大堀居館から小松荘の本庄や石川の居館に水路網が伸ばされてきていたのでないかという疑問が芽生えてきました。最初は、出水利用の小規模水路であったものを、土器川からの取水によって小松荘まで用水供給エリアを拡げる。そして、南北朝にやってきた長尾氏に、この地位は引き継がれていくことになります。こうして長尾氏は、四条や小松荘など丸亀平野南部の土豪たちを被官化して、勢力を拡大するというシナリオになります。

中世居館跡とされる飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)を見ておきましょう。

飯山国持居館2地図
飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)
北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。法勲寺方面から北流してきた旧河道が飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。その流れを掘にするように居館跡があります。現在の飯山ダイキ店にほぼ合致します。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mで、まんのう町の大堀居館とほぼ同じ規模になります。

大束川旧流路
飯野山北土井遺跡から法勲寺も土器川と大束川に囲まれた低湿地帯

土地利用図を見ると、この当たりもかつては洪水時には土器川が大束川に流れ込み遊水地化し、その中野微高地に早くから人々が定住農耕を始めたエリアです。そのため古代には、南海道が東西に走り、鵜足郡郡衙や古代寺院の法勲寺が建立されるなどの先進地帯だった所です。しかし、洪水によって幾度も押し流されたことが発掘調査からも分かっています。そこに現れたのが坂本郷国持に居館を構えた主人です。この国持の地に居館を選定したのも、西遷御家人であり、彼によって周辺開発が進められたと私は考えています。ここでは国持居館と呼んでおきます。
 国持居館と周辺の灌漑用水の関係を見ておきましょう。
坂本郷国持居館と用水路
ここで研究者が注目したいのが東坂元秋常遺跡の上井用水です。       
     上井用水の源流は、近世に大窪池が姿を見せる前は岡田台地の下の出水にありました。古代においては法勲寺周辺の灌漑用水路として開かれたと考えられます。それが中世になって湿原などの開発が進むにつれて、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、下流の東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。いわゆる郷村連合です。
 各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、郷社連合で祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏踊りに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。しかし、用水路の管理整備を下流の郷村のみで行っていたとするのは、私は疑問を感じます。なぜなら、用水路が国持居館を経由しているからです。この居館の主人は、用水路について大きな影響力を持っていたことは、今までの事例から分かります。部分的な用水路であったものを、水源から川津までひとつに結びつけ、用水路網を整備したのは国持居館の先祖とも考えられます。だとすれば、この用水路周辺には、一族の居館が配されていた可能性があります。」

飯山法勲寺古地名大窪池pg

以前に見た大窪池周辺の古地図に出てくる地名を確認します。
ここには東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、近くには「ぞう堂」という地名も見えます。土豪層の存在が見えて来ます。その背後の丘陵地帯の谷間に大窪池があります。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓したのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。

飯山地頭一覧
上表は、飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。鵜足郡法勲寺を見ると壱岐時重が1250年に、法勲寺庄の地頭となっています。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたことが考えられます。そして、国持居館はその拠点であったと私は考えています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

大堀居館 説明版
大堀居館の説明版(まんのう町吉野)
まんのう町吉野の「長田うどん」の約南200m近くの道路沿いに中世の武士居館跡があります。この居館跡については、江戸時代に書かれた「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」という長い名前がつけられた下の絵図が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されていいます。

大堀 
        大堀居館跡は長田うどんの南側 まんのう町吉野

大堀居館5

大堀居館跡5

大堀居館跡(まんのう町吉野) 廻りが水堀で囲まれている
この絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路・飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木などが見て取れます。さらに註として、次のようなことが書き込まれています。
①文字部分は、墨書で絵図名称と方位名
②朱書部分は、構造物と地形の名称と規模
③「大堀」の内側の水田については「此田地内畝六反四畝六歩」と面積が示される。
④堀の外周と内周の堀の「幅」の数値から100㍍×60㍍が館の面積
⑤絵図が書かれた江戸時代には、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰
大堀居館絵図 拡大図
 大堀居館跡 南側拡大図
調査報告書(2005)には、つぎのようなことが報告されています。(要約)
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m、堀跡は幅8~10m
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。③その後しばらくして、堀に石垣が張られた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まり、居館もその役割を終えた。⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
⑤江戸時代には水田となり、堀は灌漑用水路の中に組み込まれた。
私が気になるのは、大堀居館跡は吉野にあり、西長尾城主の長尾氏の勢力エリアにあることです。今回は、長尾氏と大堀居館の関係を見ていくことにします。テキストは「大堀城跡調査報告書」です。
まずは、立地する吉野の地理的環境を押さえておきます。 

まんのう町吉野

大堀居館(城)跡は、まんのう町吉野の緩やかな傾斜の扇状地上にあります。土器川は、それまでの山間部を抜けると、まんのう町木ノ崎付近を扇頂として扇状地を形成します。また、大堀居館跡の西300mには、金倉川が蛇行しながら北流します。地図を見ると分かりますが、このふたつの川が最も近接するのが吉野のこの遺跡付近になります。地質的には地下深くまで扇状地堆積による礫層が堆積しています。耕土直下には「瓦礫(がらく)」と呼ばれる砂礫層が見えているところもあります。しかし、遺跡周辺は後背湿地と呼ばれる旧河川の埋没凹地も多くあります。このような窪地は、古代から中世には安定した用水を確保できる田地でした。最先端のカマド住居を持った吉野下秀石遺跡は、吉(葦)野の開発のために入植した渡来系集団と私は考えています。しかし、発掘現場からは礫層が出てくるので、洪水による被害はたびたび被っていたこともうかがえます。
丸亀平野の条里制.2

まんのう町吉野は条里制施行エリアではない

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制跡
古代の開発は部分的に過ぎなかったようで、中世になっても吉野は湿地帶が拡がるところが残っていたようです。そのため上図をみると四条や岸上は条里制施工エリアですが、吉野は施行外になっています。大堀居館の東側に一部痕跡が残るのみです。そこに西遷御家人としてやってきて、治水灌漑を進めて吉野の開発を進めていったのが大堀居館の主人たちではなかったと私は考えています。彼らのことを「吉野大堀殿」と呼ぶことにします。
この吉野大堀殿と長尾氏の関係は、どうだったのでしょうか?
まず長尾氏について根本史料で押さえておきます。「香川県史の年表」に長尾氏が登場するのは以下の4回です。
①応安元年(1368) 庄内半島から西長尾城に移って代々大隅守と称するようになった
②宝徳元年(1449) 長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進
③永正9年(1512)4月長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物略奪
④天文9年(1540)7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進」 
①については南北朝の動乱期に、白峰合戦で海崎氏は軍功をあげて西長尾(現まんのう町)を恩賞として得ます。こうして庄内半島からやってきた海崎氏は、長尾の地名から以後は長尾氏と名乗り、秀吉の四国平定まで約200年間、この地で勢力を伸ばしていきます。②からは、丸亀平野南部から金倉寺周辺の中部に向けて勢力を伸ばしていく長尾氏の姿がうかがえます。そして、南北朝期になると緊張関係の高まりの中で、西長尾城を盟主にしてまんのう町の各丘陵に山城が築かれるようになります。南海治乱記によれば、土豪武士層が長尾氏に統括された様子が記されています。西讃守護代の香川氏が天霧城を拠点に、善通寺寺領などを押領し傘下に収めていったように、西長尾城を拠点とする長尾氏も丸亀平野南部を勢力下に置こうとしていたことがうかがえます。
 そのような中で讃岐に戦国時代をもたらすのが香西氏による主君細川高国暗殺に端を発する「永世の錯乱」です。
この結果、讃岐と阿波の細川家は、同門ながら抗争を展開するようになります。そして、三好氏に率いられた阿波勢力が讃岐に侵入し、土豪たちを支配下に置くようになります。その先兵となったのが東讃では、三好長慶の末弟・十河一存で、安富氏や香西氏は三好氏に従うようになります。
 一方丸亀平野で阿波美馬との交易活動が真鈴峠や三頭峠越えに行われていたことは以前にお話ししました。このルート沿いに阿波三好氏が勢力を伸ばしてきます。こうして、長尾氏も三好氏の軍門に降ります。それは長尾氏が三好氏に従軍している次のような記録から分かります。
①備中への三好氏に従っての従軍記録
②香川氏の居城天霧城攻防戦へ。三好支配下として香西氏・羽床氏と共に従軍していること
③毛利軍が占領した元吉城(琴平町の櫛梨城)へも香西氏・羽床氏と三好氏配下として従軍
④天霧城の香川氏は、三好氏に抵抗を続けたこと。そのため三好配下の長尾氏と抗争が丸亀部屋で展開されたこと
ここでは16世紀初頭の永世の錯乱以後は、長尾氏は阿波三好氏の勢力下に置かれていたこと、そこに土佐の長宗我部元親が侵入してきたことをここでは押さえておきます。

最初に見た発掘調査には、吉野大堀殿の居館については次のように記されていました。
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まりその役割を終えた。
⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
ここからは大堀居館跡の出現期と消滅期が次のように分かります。
A出現期が13世紀前半の鎌倉時代の承久の乱前後
B消滅期が14世紀後半の南北朝以後
ここから推論すると、Aからは承久の変以後にやってきた西遷御家人の舘と大堀居館が作られたこと。Bからは、南北朝の動乱期の白峯合戦で長尾氏がやって来ることによって、大堀居館の主人は姿を消したことがうかがえます。
以上を整理しておくと
①承久の乱以後に、東国からやってきた西遷御家人が吉野の湿地帶の開発に着手した。
②その拠点として、湿地帶の中に居館を条里制地割に沿う形で建設した。
③当初は掘水は湧水に頼ったが、その後は土器川からの横井(井堰)を建設した。
④この灌漑用水路は、居館を経由して下流の耕地に提供された。
⑤こうして吉野エリア全体の灌漑権を握ることによって吉野大堀殿は支配体制を固め成長した。
⑥しかし、南北朝時代に長尾氏がやってくることになり、吉野大堀氏は次第に勢力を奪われ衰退した。
⑦そして、14世紀後半には居館は姿を消した。
つまり、吉野大堀殿は、長尾氏以前に吉野の灌漑水利を整備し、吉野の開発を担った勢力ということになります。それが南北騒乱の中で姿を消したと私は考えています。その後は、吉野は長尾氏の勢力下に置かれていったとしておきます。

中世居館と井堰型水源

少し結論を急ぎすぎたようです。次回は中世の居館の堀水が、地域の灌漑システム全体の中でどんな役割をになっていたのか。それが居館主人の地域支配にどんな意味を持っていたのかをもう少し詳しく見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大堀城跡調査報告書」2005年
関連記事

香西成資の『南海治乱記』の記述を強く批判する文書が、由佐家文書のなかにあります。それが「香川県中世城館跡詳細分布調査報告2003年 香川県教育委員会」の中に参考史料として紹介されています。これを今回は見ていくことにします。テキストは「野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」です。

香川県中世城館分布調査報告書
香川県中世城館調査分布調査報告
紹介されているのは「前田清八方江之返答(松縄城主・・。)」(讃岐国香川郡由佐家文書)です。その南海治乱記や南海通記批判のエッセンスを最初に見ておきましょう。
南海治乱記と南海通記

南海治乱記の事、当国事ハ不残実説ハ無之候、阿波、淡路ハ三好記、西国大平記、土佐ハ土佐軍記、伊予ハ後太平記、西国大平記、是二我了簡を加書候与見申候、是二茂虚説可有之候ても、我等不存国候故誹言ハ不申候、当国の事ハ十か九虚説二而候、(中略)香西か威勢計を書候迪、(後略)

  意訳変換しておくと
南海治乱記は、讃岐の実説を伝える歴史書ではありません。阿波・淡路の三好記と西国大平記、土佐の土佐軍記、伊予の後太平記と西国大平記の記載内容に、(香西成資が)自分の了簡を書き加えた書です。そのため虚説が多く、讃岐の事については十中八九は虚説です。(中略)香西氏の威勢ばかりを誇張して書いたものです。

ここでは「当国事ハ不残実説ハ無之候」や「当国の事ハ十か九虚説二而候」と、香西成資を痛烈に批判しています。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・」という文書は、いつ、だれが、何の目的で書いたものなのでしょうか?
この文書は18世紀はじめに前田清八という人物から宮脇氏についての問い合わせがあり、それに対して由佐家の(X氏)が返答案を記したもののようです。内容的には「私云」として、前半部に戦国期の讃岐国香川郡の知行割、後半部に南海治乱記の批判文が記されています。
岡舘跡・由佐城
由佐城(高松市香南町)
 成立時期については、文中に「天正五年」から「年数百二三十年二成中候」とあるので元禄・宝永のころで、18世紀初頭頃の成立になります。南海治乱記が公刊されるのは18世紀初頭ですから、それ以後のことと考えられます。作成者(X氏)は、讃岐国香川郡由佐家の人物で「我等茂江戸二而逢申候」とあるので、江戸での奉公・生活体験をもち、由佐家の由緒をはじめとして「讃岐之地侍」のことにくわしい人物のようです。
 「前田清八」からの「不審書(質問・疑問)」には、「宮脇越中守、宮脇半入、宮脇九郎右衛門、宮脇長門守」など、宮脇氏に関する出自や城地、子孫についての疑問・質問が書かれています。それに対する「返答」は、もともとは宮脇氏は紀州田辺にいたが、天正5年(1577)の織田信長による雑賀一揆討伐時に紀州から阿波、淡路、讃岐へと立ち退いたものの一族だろうと記します。宮武氏が「松縄城主、小竹の古城主」という説は、城そのものの存在とともに否定しています。また「不審」の原因となっている部分について、「私云」として自分の意見を述べています。その後半に出てくるのが南海通記批判です。

「前田清八方江之返答(松縄城主・・)」の南海治乱記批判部を見ておきましょう。
冒頭に、南海治乱記に書かれたことは「当国の事ハ十か九虚説」に続いて、次のように記します。

□(香OR葛)西か人数六千人余見へ申候、葛(香)西も千貫の身体之由、然者高七千石二て候、其二て中間小者二ても六千ハ□□申間敷候、且而軍法存候者とは見へ不申候、惣別軍ハ其国其所之広狭をしり人数積いたし合戦を致し候事第一ニて候、■(香)西か威勢計を書候迪、ケ様之事を申段我前不知申者二て候、福家方を討申候事計実ニて候、福家右兵衛ハ葛西宗信妹婿ニて、七朗ハ現在甥ニて候。是之事長候故不申候、

意訳変換しておくと
南海治乱記は、香西の動員人数を六千人とする。しかし、香西氏は千貫程度の身体にしかすぎない。これを石高に直すと七千石程度である。これでは六千の軍を維持することは出来ない。この無知ぶりを見ても、軍法を学んだ者が書いたとは思えない。その国の地勢を知り、動員人数などを積算して動員兵力を知ることが合戦の第一歩である。
(南海治乱記)には、(香)西氏の威勢ばかりが書かれている。例えば、由佐家については、福家方を討伐したことが書かれているが、福家右兵衛は、葛西宗信の妹婿に当たり、七朗は現在は甥となっている。ここからも事実が書かれているとは云えない。
ここには「香西氏の威勢ばかりが(誇張して)書かれている」とされています。18世紀初頭にあっては、周辺のかつての武士団の一族にとっては、南海治乱記の内容には納得できない記述が多く、「当国の事ハ十か九虚説」とその内容を認めない者がいたようです。

次に、守護細川氏の四天王と言われたメンバーについて、次のように記します。
 讃岐四大名ハ、香川・安富・奈良・葛(香)西与申候、此内奈良与申者、本城持ニて□□郡七箇村ニ小城之跡有之候。元ハ奈良与兵衛与申候、後ニハむたもた諸方切取り鵜足郡ハ飯山より上、那賀郡ハ四条榎内より上不残討取、長尾山二城筑、長尾大隅守元高改申候、此城東之国吉山之城ハ北畠殿御城地二て候、西はじ佐岡郷之所二城地有之候を不存、奈良太郎左衛門七ケ条(城?)主合戦之取相迄□□□拵申候、聖通寺山之城ハ仙国権兵衛秀久始而筑候、是を奈良城ホ拵候段不存者ハ実示と可存候、貴様之只今御不審書之通、人の噺候口計御聞二而被仰越候与同前二て、此者もしらぬ事を信□思人之咄候口計二我か了簡を添書候故所々之合戦も皆違申候取分香西面合戦の事真と違申、此段事長候故不申候   

    意訳変換しておくと
 讃岐四天王と言われた武将は、香川・安富・奈良・葛(香)西の4氏である。この内の奈良氏というのは、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。今でもそこに城跡がある。そして、奈良与兵衛を名のっていたが、その後次第に諸方を切取りとって鵜足郡の飯山より南の那賀郡の四条榎内から南を残らずに討ち取って、長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。この長尾城の東の国吉山の城は、北畠殿の城であった。西はしの佐岡郷に城地があったかどうかは分からない。奈良太郎左衛門は七ケ条(城?)を合戦で奪い取った。
 聖通寺山城は仙国(石)権兵衛秀久が築いたものだが、これを奈良氏の居城を改修したいうのは事実を知らぬ者の云うことだ。貴様が御不審に思っていることは、人の伝聞として伝えられた誤ったことが書物として公刊されていることに原因がある。噂話として伝わってきたことに、(先祖の香西氏顕彰という)自分の了簡を書き加えたのが南海治乱記なのだ。そのためいろいろな合戦についても、取り違えたのか故意なのか香西氏の関わった合戦としているものが多い。このことについては、話せば長くなるの省略する。
ここには、これまでに見ない異説・新説がいくつか記されていていますので整理しておきます。まず奈良氏についてです。
中世讃岐の港 讃岐守護代 安富氏の宇多津・塩飽「支配」について : 瀬戸の島から
①讃岐四天王の一員である奈良氏は、もともとは□□(那珂)郡七箇村に小城を構えていた。
②その後、鵜足郡の飯山から那賀郡の四条榎内までを残らずに討ち取った。
③そして長尾山に城を構え、長尾大隅守元高と改名した。
④聖通寺城は仙石権兵衛秀久が築いたもので、奈良氏の居城を改修したいうのは事実でない。
これは「奈良=長尾」説で、不明なことの多い奈良氏のことをさぐっていく糸口になりそうです。今後の検討課題としておきます。

続いて、土佐軍侵入の羽床伊豆守の対応についてです。
南海治乱記は、土佐軍の侵攻に対する羽床氏の対応を次のように記します。(要約)
羽床氏の当主は伊豆守資載で、中讃諸将の盟主でもあった。資載は同族香西氏を幼少の身で継いだ佳清を援けて、その陣代となり香西氏のために尽くした。そして、娘を佳清に嫁がせたが、一年たらずで離縁されたことから、互いに反目、同族争いとなり次第に落ち目となっていった。そして、互いに刃を向けあううちに、土佐の長宗我部元親の讃岐侵攻に遭遇することになった。
    長宗我部氏の中讃侵攻に対して、西長尾城主長尾大隅守は、土器川に布陣して土佐軍を迎かえ撃った。大隅守は片岡伊賀守通高とともに、よく戦ったが、土佐の大軍のまえに大敗を喫した。長尾氏の敗戦を知った羽床伊豆守は、香西氏とたもとを分かっていたこともあって兵力は少なかったが、土器川を越えて高篠に布陣すると草むらに隠れて土佐軍を待ち受けた。これとは知らない長宗我部軍は進撃を開始し、先鋒の伊予軍がきたとき、羽床軍は一斉に飛び出して伊予軍を散々に打ち破った。
 これに対して、元親みずからが指揮して羽床軍にあたったため、羽床軍はたちまちにして大敗となった。伊豆守は自刃を決意したが、残兵をまとめて羽床城に引き上げた。元親もそれ以上の追撃はせず、後日、香川信景を羽床城に遣わして降伏をすすめた。すでに戦意を喪失していた伊豆守は。子を人質として差し出し、長宗我部氏の軍門に降った。ついで長尾氏、さらに滝宮・新名氏らも降伏したため、中讃地方は長宗我部氏の収めるところとなった。

これに対して、「前田清八方江之返答」は、次のように批判します。
羽床伊豆守、長曽我部か手ヘ口討かけ候よし見申候□□□□□□□□□□見□□皆人言之様候問不申候) 
(頭書)跡形もなき虚言二て候、
伊豆守ハ惣領忠兵衛を龍宮豊後二討レ、其身ハ老極二て病□候、其上四国切取可中与存、当国江討入候大勢与申、殊二三里間有之候得者夜討事者存不寄事候、我城をさへ持兼申候是も事長候故不申候、■■(先年)我等先祖の事をも書入有之候得共、五六年以前我等より状を遣し指のけ候様ホ申越候故、治乱記十二巻迄ハ見へ不申候、其末ハ見不申候、
            意訳変換しておくと
  長宗我部元親の軍が、羽床伊豆守を攻めた時のことについても、(以下 文字判読不明で意味不明部分)
(頭書)これらの南海治乱記の記述は、跡形もない虚言である。当時の(讃岐藤原氏棟梁の羽床)伊豆守は、惣領忠兵衛を龍宮(氏)豊後に討たれ、老衰・病弱の身であった。それが「四国切取」の野望を持ち、讃岐に侵攻してきた土佐の大勢と交戦したとする。しかも、夜討をかけたと記す。当時の伊豆守は自分の城さえも持てないほど衰退した状態だったことを知れば、これが事実とは誰も思わない。
 我等先祖(由佐氏)のことも南海治乱記に書かれていたが、(事実に反するので)数年前に書状を送って削除するように申し入れた。そのため治乱記十二巻から由佐氏のことについての記述は見えなくなった。

つまり、羽床氏が長宗我部元親に抵抗して、戦ったことはないというのです。ここにも、香西氏に関係する讃岐藤原氏一族の活躍ぶりを顕彰しようとして、歴史を「偽作」していると批判しています。そのために由佐氏は、自分のことについて記述している部分の削除を求めたとします。南海治乱記の記述には、周辺武士団の子孫には、「香西氏やその一族だけがかっこよく記されて、事実を伝えていない」という不満や批判があったことが分かります。

香川県立図書館デジタルライブラリー | その他讃岐(香川)の歴史 | 古文書 | 香西記
香西記
このような『南海治乱記』批判に対して、『香西記』(『香川叢書第二』所収)は次のように記します。
  寛文中の述作南海治乱記を編て当地の重宝なり、世示流布せり、然るに治乱記ホ洩たる事ハ虚妄
の説也と云人あり、甚愚なり、治乱記十七巻の尾ホ日我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨と書たり、洩たる事又誤る事も量ならんと、悉く書を信せハ書なき力ヽしかすとかや、
  意訳変換しておくと
  寛文年間に公刊された南海治乱記は、讃岐当地の重宝で、世間に拡がっている。ところが治乱記に(自分の家のことが)洩れているのは、事実に忠実ないからだと云う輩がいる。これは愚かな説である。治乱記十七巻の「尾」には「我未知事ハ如何ともする事なし、此書ハ誠ホ九牛か一毛たるべし、其不知ハ不知侭ホして、後の知者を挨」と書かれている。

『香西記』の編者・新居直矩は、『南海治乱記』の「尾」の文に理解を示し、書かれた内容を好意的に利用するべきであるとしています。また、『香西記』は『南海治乱記』をただ引き写すのではなく、現地調査などをおこなうことによって批判的に使用しています。そのため『香西記』の記述は、検討すべき内容が含まれています。しかし、『南海治乱記』の編述過程にまで踏み込んだ批判は行っていません。つまり「前田清八方江之返答(松縄城主…)」に、正面から応えたとはいえないようです。
以上をまとめておきます。
①由佐家文書の中に、当時公刊されたばかりの南海治乱記を批判する文書がある。
②その批判点は、南海治乱記が讃岐の歴史の事実を伝えず、香西の顕彰に重点が置かれすぎていることにある。
③例として、奈良氏が長尾に城を築いて長尾氏になったという「奈良=長尾」説を記す。
④聖通寺山城は仙石秀久が始めて築いたもので、奈良氏の城を改修したものではないとする
⑤また、羽床氏が長尾氏と共に長宗我部元親に抵抗したというのも事実ではないとする。
⑥南海治乱記の記述に関しては、公刊当時から記述内容に、事実でないとの批判が多くあった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 野中寛文   天正10・11年長宗我部氏の讃岐国香川郡侵攻の記録史料 香川県中世城館調査分布調査報告2003年452P」


西長尾城本丸跡2 上空より
西長尾城(城山)上空から望む丸亀平野

西長尾城跡は、レオマワールドの背後の城山(375.2m)にあります。 地元に住みながらも、若い頃の私は「西長尾城=長尾氏の山城」と単純に考えていました。そして、長宗我部元親との戦いで長尾氏が拠点とした山城の遺構が、現在も残っていると思っていたのです。そうではないようです。測量調査などで縄張り図が分かってくると、土佐勢力によって大規模改築が行われ、長尾氏時代の縄張りが分からないほどのリニューアルが行われていることが明らかになってきました。今回は、2004年に、綾歌町によって出されている調査報告書を見ていくことにします。

西長尾城概念図3
丸亀市とまんのう町の境界線の稜線上にある西長尾城

 最初に長尾氏の歴史を振り返っておきます
太平記には、1362(貞治元)年 中院源少将の籠もる西長尾城が、細川頼之に攻められ落城したことが記されています。その6年後に、讃岐守護の細川頼之は、庄内半島の海崎氏に長尾の地を与えます。海崎氏は、長尾の地に入り長尾大隅守を名乗るようになります。以後、西長尾城に山城を築き、丸亀平野への勢力拡大を行っていったようです。しかし、長尾氏がいつここに山城を築いたかなどについてはよく分かっていないようです。
 1579(天正7)年 長尾氏は土佐から侵攻してきた長宗我部氏へ降伏します。
そして西長尾城には、元親の重臣である国吉甚左衛門が西長尾城に入ります。その後、四国平定をめぐって長宗我部元親は信長・秀吉と対立するようになり、それに供えるために、従来の讃岐の山城の防衛強化とリニューアルを行います。それが西長尾城にも見られるようです。
西長尾城概念図
西長尾城 城山から北側と東側へ曲輪群が伸びている

  城山山頂の本丸跡は24×31mの広さがあり、天空に向かって広がる広場のようです。北に広がる丸亀平野と、飯野山の向こうには備讃瀬戸を行く船が見え、見晴台としては最高です。本丸跡の周囲は急峻で、西端には虎口状の凹みがあり、西側には西櫓と呼ばれる9×11m程の曲輪があるようですが、素人目にはよく分かりません。西に続く山道は佐岡へと下って行きますが、この先には曲輪はないようです。
西長尾城縄張り図
西長尾城縄張り図

 縄張り図を見て分かることは、本丸跡から北に伸びる2つの尾根上に曲輪が並んでいることです。測量図で見てみましょう。

長尾城10

 本丸跡から北東(1~10郭)と東北東(11~22郭)に伸びる2本の尾根上に、連郭式に曲輪群が配置されています。その曲輪の間を結んで連絡路があり、東側の尾根先端には、大堀切と竪堀が掘られています。ここには、戦国時代末期の城郭技術がふんだんに取り入れられていること、北からの敵を想定していることなどが分かります。これらは以前に紹介した坂出の聖通寺山城と同じです。

西長尾城詳細測量図西北尾根.2jpg
西長尾城 本丸跡から北東曲輪(1~10郭)
     山頂部の本丸跡から北東方向に伸びる2つの稜線の防御施設をもう少し詳しく見ておきましょう。
①東側の尾根上には連郭式郭列が大小合わせて第1~10郭まで、10段設けられ、最下部は堀切によって断ち切られ、その下には土塁が築かれています。
②東側の郭列については、下から3段目で南東肩に高さ1m、長さ30mの土塁があります。
③西側の尾根上にも同じように連郭式郭列が 12段連なっています。
④西側の郭列 についても、同じように北西端にそれぞれの郭を連結するように土塁が設けられています。 
以上から、北からの攻撃に対する防御と併せて、東西側面からの侵攻に対しても防備ラインが設けられています。
 特徴的な曲輪を、見ておきましょう。
第5郭の北端には大きな枡形虎口が作られていて、枡形入口は両側から土塁が延びています。
第8郭は土塁線より南に張り出し、土塁の裾が通路になっています。この土塁線は尾根に沿て直線に築かれ谷筋への大規模な防御施設になっています。
第9郭の西端には、連続した竪堀が掘られて、防御を固めています。
第10郭で土塁は直角に折れ、折れ部は櫓台状に広くなっています。この西下には第9郭に通じる枡形虎口があり、櫓台はすぐ下の堀切や竪堀と連携し合い、四方に睨みを利かす重要な防御地点を形成しています。堀切は北西へ伸びて竪堀となって、井戸側は大土塁になっています。
西長尾城詳細測量図井戸2004年
西長尾城 井戸郭
東西の両尾根筋の間には、唯―の水源となる谷筋があます。
ここは加工されて平坦地になっています。そして、4基の井戸が設けられているので、水の手郭の役目を果たしていたようです。しかし、これらの井戸は、水深がないので湧水を汲み上げるものではなく雨水等を溜めて利用するものだったようです。

西側の連郭式郭列について、見ておきましょう。
西長尾城詳細測量図西北尾根2004年
西長尾城 西北尾根の連郭式郭列

郭と郭の段差は約2m前後で奥行10m、幅15m前後のものが北東に向かつて連続して設けられています。その中間部分にあたる 5段の郭列の西肩部分は土塁によって連なっています。 また、 この上塁からそれぞれの郭に進入できるように通路状になっていることか ら、 この上塁は城内移動用の通路や各郭への虎口も兼ねていたようです。
この西側の郭列からは、西長尾城の旧城から新城への改築の痕跡が見えてくると研究者は指摘します。
特に第17郭から第19郭 については、下段の郭に面する肩部分が直線状に整形されています。その郭は、それぞれが平行に整えられているので、改築時に当初から計画的に手を加えていたことがうかがえます。
 以上からは、各曲輪を結ぶ通路がよく残り、枡形虎口が多用されているなど戦国末期に大改修が行われていると研究者は指摘します。
長尾城全体詳細測量図H16
西長尾城全体図

西長尾城の、本丸跡の東方の小ピーク(341m)にも、ヤグラと呼ばれる主郭があります。これが長尾氏が降伏後に、長宗我部元親から新城主に任命された国吉甚左衛門が新築した主郭のようです。西長尾城詳細測量図ホウジロウ2pg
国吉城の主郭第28郭 ホウジロウと呼ばれた

ここに「ホウジロウ」という地名が残ります。この「ホウジロウ」ピークは、各尾根への要の位置にあり、麓の長尾氏の居館へ城道がここから伸びています。そのため長尾氏時代より曲輪があった可能性はありますが、それは城山の本丸の附属施設で、規模も小さかったことが考えられます。長宗我部元親支配下の国吉期には、本丸の城郭も大改修された他に、「ホウジロウ」ピークを中心に新たな城郭が新築されています。これを国吉城とよぶ研究者もいます。そうすると、長宗我部元親は「西長尾城 + 国吉城」という構成になっていたことになります。
城山本丸の東に新たに築かれた「国吉城」を見ておきましょう。
西長尾城詳細測量図ホウジロウpg
第28郭(ホウジロウ)が国吉城の主郭

鞍部を利用した堀の西側に南北33m、東西22mの平坦地が作られています。これが第28郭で、「ホウジロウ」と呼ばれていた所です。この東端には、東西5m、南北8m、高さ1,5mの高まりがあります。これは、これまでの縄張り図では、単なる土塁と考えられてきました。しかし、精密測量図の形からは、「櫓台」だと研究者は考えています。この「櫓台」周辺の施設について研究者は次のように記します。
 「櫓台」からは南北に土塁が延びる。北西隅には枡形虎口が開き北側下の腰曲輪に下る。下った地点は小さな枡形状に低くなる。帯曲輪は北縁に折れをつけ、東端は土塁で遮断し西端下の土塁は鞍部北の曲輪まで延びる。この鞍部の東側は破壊されているが西側は土塁が喰い違い虎口となり、南に下ると道下に複雑な竪堀があり、この先の曲輪に達する。鞍部から曲輪へは枡形虎口でつなぎ西の土塁が、この地点で広くなり横矢を掛ける。土塁・喰い違い虎口・両側の一段高い曲輪という構成は大きな枡形ともいえる。
 主郭東下には堀切があり、両側に竪堀を落とす。主郭との切岸は5m以上の高さとなる。この東へは平坦に近い尾根が続き、広い曲輪を連続させる。東端の曲輪は先端を土塁で固め北東隅の枡形虎口より長宗我部氏に特徴的な二重堀切の土橋に下る。
  ここからは、ホウジロウには「櫓台」があり、土佐流の築城技術を駆使した防衛施設が作られていたことが分かります。第28郭エリアは、国吉時代の「新城」であったようです。 このエリアは、長尾氏時代の西長尾城跡とは、全く別の新しい城郭で国吉城跡と呼んだ方がいいようです。
それでは、「国吉城」のエリアはどこまでだったのでしょうか

西長尾城詳細測量図ホウジロウ2pg

 第28郭から城山方面には、北西に向かって2段の第27・26郭を経て鞍部に降りていきます。そこから第25・24・23郭の大小3段の郭へと登っていきます。最上段の第23郭は、先ほど見た櫓台のある第28郭と同じ高さになるようです。ここからは、第23から第25郭は、西側の主郭を防御するためのものではなく、第28郭のヤグラに附属する施設と研究者は考えています。つまり「元吉城」は西側は、第23郭までをも含むと研究者は考えています。
「元吉城」の東側を見てみましょう。
西長尾城詳細測量図ホウジロウ以東尾根pg

第28郭の櫓台の下には堀切が掘られています。切岸は 5m以上の高さがあり、その東のに続く削平地とは一線を画しているようです。第28郭の東の第30郭にも、ヤグラと思わせる形状が残っています。第28郭の櫓台ほどの規模ではありませんが、東先端部に高まりがあるようです。これも櫓台だと研究者は考えています。
西長尾城概念図
 
第28郭(ヤグラ)と第30郭(2重空堀)の間には、いくつもの削平地が残されています。
この削平地は、何のために作られたのでしょうか? 数千の兵を居城させるための陣城的要素が強いと研究者は考えています。南海通記には、長宗我部元親が東讃制圧時には、土佐・伊予・西讃から1万規模の兵を西長尾城に集結させたと記されます。そのまま信じられませんが、大規模な軍隊が駐屯できるスペースが確保できていたことが明らかになってきました。
 以上の施設群を研究者は、次のように評価します
「櫓台」のあった「ホウジロウ」エリアの縄張は、枡形虎口、土塁、喰い違い虎口、櫓台と多くの防御施設があり、土佐独自色も随所に見られ長宗我部氏の新城にふさわしい縄張りである。

 西長尾城は2004年の測量調査によって、「戦国期讃岐で屈指の大規模要害」であることがわかってきました。そして、この城が長宗我部氏の讃岐侵攻や経営拠点としてクローズアップされ、文献的にも再評価をされるようになりました。この軍事施設に近接してあった金毘羅堂の役割をもういちど考える契機にもなりました。

   南海通記の「土州の兵将、讃州を退去の記;巻之十四」には、西長尾城撤退について、次のように記します。
此の西長尾城と云は古より名を得たる名城なれども其地には非ずして元親新城を搆へ、兵衆三千人込る積の城也。今集る兵衆一万人に及ぬれば城狭ふして込るべきやうなし。新城なれば山下の屋もなし、野に居て雨を凌ぐもあり、村邑に入て居るもあり、漸く夜を明しにき。明る日、国吉甚左衛門に会して議すれども此の大軍を養べき粮なし。先づ白地へ飛檄をなして元親の命を受んとする處に元親より飛札来て、西長尾城へ粮運送ならず、伊豫讃岐の旗下の面々は先づ我々の在所へ帰て後日の成行を待玉ふべし、と諄々たる厚志なり。これに由て妻鳥采女は河江に帰り香西伊賀守は香西に帰る。然れども京方の聞への為に城へは入ずして山下の宅に居す。

 漸くして元親去る十九日に上方へ降参あり、阿波讃岐伊豫三ヶ国を指上げられたると聞ければ、香川信景雨霧山の城を去て土州へ引取り、長曽我部右兵衛尉が植田城、国吉甚左衛門尉が西長尾の城も明捨て土州へ引取る。北條郡西の庄の城主、山内源五、鷲山の城主、入交蔵人も城を捨て土州へ還る。昨日は力を竭して人城を奪ひ今日は塵芥に比して城を捨て去る、誠に一睡の夢の如し。 

意訳変換しておくと

この西長尾城は古くからの名城であるが、もともとの地にあったものではなく長宗我部元親が新城を搆へ、兵衆三千人を入れた城である。この期に及んで兵衆一万人が籠城し、もはやこれ以上の兵を入れることはできない。新城なので麓に館もなく、雨を凌ぐことも出来ない兵や、村邑に入って居る者もいた。夜が明けると、国吉甚左衛門に会って協議したが、このような大軍を養う兵粮がないとのことであった。そこで、阿波池田の白地へ急ぎ使者を出して、元親の命令を求めようとした。するとその時に、元親からは次のような指示が届いた。
 西長尾城へ兵粮を送ることはしない。伊豫と讃岐の旗下の面々は、先づ自分の在所へ帰って後日の成行を待つべし」との内容であった。これを受けて、妻鳥采女は河江に帰り、香西伊賀守は香西に帰陣した。しかし、京方の聞への為に、城(勝賀城)へは入ずに、麓の居館に入った。
 そのしばらく後の19日に、元親は秀吉に降参した。そして阿波讃岐伊豫三ヶ国を召し上げられたことが伝わると、香川信景は雨霧山の城を去て土州へ引取り、長曽我部右兵衛尉は植田城、国吉甚左衛門尉は、西長尾の城を放棄して、土州へ引き上げた。北條郡西の庄の城主、山内源五、鷲山の城主、入交蔵人も城を捨て土州へ帰った。
 昨日は力を竭して人城を奪ひ、今日は塵芥に比して城を捨て去る、誠に一睡の夢の如し。 
ここからは南海通記の作者が、国吉城を西長尾城とは別の新城で、場所も異なるところに築城されたいたと認識していたことが分かります。そして、讃岐支配のために平時にも3000の兵が駐屯していたこと、それが秀吉勢の侵攻の前に、戦うことなく放棄されたとが記されています。発掘調査からも、焼け落ちた跡はでていないようです。そして、秀吉から讃岐国守に任じられた仙石氏や生駒氏は、この城に関心を持つことはありませんでした。時と供に埋もれていく道をたどったようです。
西長尾城本丸跡1 上空より善通寺方面
西長尾城本丸上空からの櫛梨城・天霧城・善通寺方面

この城からは戦国末期に丸亀平野を囲むようにしてあった次の城郭が見えます
①櫛梨城
②天霧城
③聖通寺山城
このうち②は、長宗我部元親の同盟者である香川氏の居城です。
①や③については、長宗我部元親時代に大改修がされていたことを以前にお話ししました。つまり、これらの城は、北からの侵攻が想定される秀吉に対して「丸亀平野防衛ライン」を構築していたことになります。この防衛ラインの中に金毘羅神は祀られ、讃岐平定の新たな鎮守社として長宗我部元親に保護されていたと私は考えています。長尾城が、讃岐における土佐の最重要軍事拠点であったように、その近くに新たな流行神を向かえて、創建された金毘羅神は、四国鎮守の惣社としての機能と役割を担わすことを長宗我部元親は構想していたと私は考えています。
西長尾城本丸跡1 金毘羅方面g
西長尾城本丸上空からのぞむ象頭山金毘羅宮方面

以上をまとめておくと
①庄内半島の海崎氏は、長尾に領地を得てやってきて長尾氏を名乗るようになった。
②長尾の館の背後の山に、山城を築いたがそれは小規模なものであった。
③長尾氏は土佐から侵入してきた長宗我部元親に降伏した
③讃岐を平定した長宗我部元親は、次第に織豊政権との対立が顕在化した。
④それに対応するために、かつての讃岐の山城を大型化・新鋭化してリニューアルさせた。
⑤その中でも西長尾城は、「戦国期讃岐で屈指の大規模要害」とされる城郭に姿を変えた。
⑥秀吉軍の侵攻を受けて、讃岐の長宗我部・香川同盟軍は戦わずして土佐に引き上げ、西長尾城は放棄された

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
西長尾城報告書

関連記事

   前回は「金毘羅神」創作の中心となった宥雅と法勲寺や櫛梨神社とのつながりを見てきました。今回は、宥雅の一族である長尾氏について、探って見ようと思います。宥雅は、西長尾城主(まんのう町長尾)の長尾大隅守の甥とも弟とも云われています。長尾氏周辺を見ることで、金毘羅神が登場してくる当時の背景を探ろうという思惑なのですがさてどうなりますか。
 最初に、長尾氏の系図を見ておきましょう。

長尾氏系譜 満濃町史1170P
長尾氏系図 満濃町史1170P 慶長7年に書写されたもの
  長尾氏については、多度津の香川氏などに比べると残された史料が極端に少ないようです。また、南海治乱記などにも余り取り上げられていません。ある意味「謎の武士団」で、実態がよくわからないようです。系譜に出てくる人名も残された史料に登場する人名とは一致しません。系譜が書かれた時には、自分の家の系譜は失われていたようです。
 県史の年表から長尾氏に関する事項を抜き出すと以下の4つが出てきました。
①応安元年(1368) 
西長尾城に移って長尾と改め、代々大隅守と称するようになった
②宝徳元年(1449) 
長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進
③永正9年(1512)4月 
長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物
④天文9年(1540)
7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進
荘内半島

まず①の長尾にやって来る前のことから見ていくことにします。
『西讃府志』によると、長尾氏は、もともとは庄内半島の御崎(みさき)に拠点を持つ「海の武士=海賊」で「海崎(みさき)」を名乗っていたようです。その前は「橘」姓であったといいます。讃岐の橘氏には、二つの系譜があるようです。
一つは、神櫛王の子孫として東讃に勢力を持っていた讃岐氏の一族が、橘氏を称するようになります。讃岐藤家の系譜を誇る香西氏に対して讃岐橘姓を称し、以後橘党として活躍する系譜です。しかし、これは、東讃中心の勢力です。
もう一つは、藤原純友を討ち取った伊予の警固使橘遠保の系譜です。
 この一族は、純友の残党を配下に入れて「元海賊集団を組織化」して「海の武士」として各地に土着する者がいたようです。例えば源平合戦の際に、屋島の戦いで頼朝の命を受けて源氏方の兵を集めに讃岐にやって来た橘次公業は、橘遠保の子孫といわれます。橘姓の同族が瀬戸内海沿岸で勢力を持っていたことがうかがえます。海崎氏は、こちらの系譜のように思います。

○○○絶景を求めてドライブ/琴平リバーサイドホテルのブログ - 宿泊 ...
荘内半島から望む瀬戸内海(粟島方面)
 想像を膨らませると、平安時代の末ごろから橘氏の一族が讃岐の西の端に突きだした庄内半島に土着します。あるときには海賊として、あるときには武士団として瀬戸内海を舞台に活躍していた海民集団だったのではないでしょうか。それが、源平の合戦で源氏側につき、海上輸送や操船などで活躍し、軍功として地頭職を与えられ正式な支配権を得るようになったとしておきます。

船越八幡神社 (香川県三豊市詫間町大浜 神社 / 神社・寺) - グルコミ
            船越八幡神社
この地は、陸から見れば辺境ですが、海から見れば「戦略拠点」です。なぜなら燧灘沿岸の港の船は、紫雲出山の麓にある「船越運河」を通過していたからです。興味のある方は、船越八幡神社を訪れると、ここに運河があったことが分かります。仁尾や観音寺、川之江の船は、この運河を通って備讃瀬戸へ出ていたようです。その運河の通行税を、取っていたはずです。それは「村上水軍」が通行税を、沖ゆく船から「集金」していたのと同じです。つまり、三豊南部の海上輸送ルートの、のど元を押さえていた勢力だったと私は考えています。
海崎(新田の)城 お薦め度 低 | 脱サラ放浪記(全国城郭便覧)
庄内半島の海崎(みさき)城跡
 山城の海崎(みさき)城跡は、紫雲出山に連なる稜線上にあります。ここからは360度のパノラマ展望で、かつては沖ゆく船の監視センターの役割も果たしていたのでしょう。
「海の武士」だった海崎氏が、どうして丘上がりしたのでしょうか?
  南北朝の動乱期に、細川頼之が南朝の細川清氏と戦った白峰合戦で、海崎氏は軍功をあげて西長尾(現まんのう町)を恩賞として預けられます。頼之の中国筋から宇多津進出に船団を提供し、海上からの後方支援を行ったのかもしれません。
庄内半島からやってきた海崎氏は、長尾の地名から以後は長尾氏と名乗り、秀吉の四国平定まで約200年間、この地で勢力を伸ばしていきます。

長尾氏 居館
長尾氏居館跡の超勝寺(まんのう町長尾)

 居館があったのは城山の西側の長尾無頭(むとう)地区で、現在の超勝(ちょうしょう)寺や慈泉(じせん)寺付近とされています。この当たりには「断頭」という地名や、中世の五輪塔も多く、近くの三島神社の西には高さ2㍍近くの五輪塔も残っています。           

 どこいっきょん? 西長尾城跡(丸亀市・まんのう町)
西長尾城のあった城山の麓にある超勝寺

 拠点を構えた長尾を取り巻く情勢を見ておきましょう
 この居館の背後の城山に作られたのが西長尾城になります。ここに登ると360度の大パノラマで周囲が良く見渡せます。北は讃岐富士の向こうに瀬戸内海が広がり、備讃瀬戸にかかる瀬戸内海まで見えます。西は土器川を挟んで大麻山(象頭山)がゆったりと横たわります。そして、南には阿讃山脈に続く丘陵が続きます。この西長尾城から歴代の長尾氏の当主たちは領土的な野望を膨らませたことでしょう。しかし、庄内半島からやってきたばかりの14世紀の丸亀平野の情勢は、長尾氏のつけいる隙がなかったようです。

長尾城2
 西長尾城本丸跡からのぞむ丸亀平野
承久の乱から元寇にかけて西遷御家人が丸亀平野にもやってきます。例えば、西長尾城から土器川を挟んだ眼下に見える如意山(公文山)の北側の櫛梨保の地頭は、島津氏でした。薩摩国の守護である島津氏です。その公文所が置かれたので公文の地名が残っているようです。宗教的文化センターが櫛梨神社で、有力地侍として岩野氏がいたこと、その一族から「善通寺中興の祖・宥範」が出たことを前回はお話ししました。どちらにしても「天下の島津」に手出しはできません。
西長尾城概念図
西長尾城概念図 現在残された遺構は長宗我部元親時代のもの

 それでは北はどうでしょうか
西長尾城は那珂郡(現まんのう町)と綾郡(現丸亀市綾歌町)の境界線である稜線上に建っています。その北側は現在のレオマワールドから岡田台地に丘陵地帯が広がります。領地であるこのあたりがに水が引かれ水田化されるのは、近世以後の新田開発によってです。その北の大束川流域の穀倉地帯は、守護・細川家の所領(職)が多く、聖通寺山城の奈良氏がこれを管理支配していました。この方面に勢力を伸ばすことも無理です。

西長尾城縄張り図
西長尾城縄張り図 曲輪は北に向かって張り出している
それでは東はと見れば、
綾川流域の羽床・滝宮は、結束を誇る讃岐藤原氏(綾氏)一族の羽床氏が、羽床城を拠点にしっかりと押さえています。さらに羽床氏は綾川上流の西分・東方面から造田にも進出し在地の造田氏を支配下に組み入れていました。つまり、長尾氏が「進出」していけるのは「南」しかなかったようです。
 この時期の神野や炭所では、丘陵地帯の開発が有力者によってを地道に行われていたようです。中世城郭調査報告書(香川県)には、炭所を開いた大谷氏について次のように記します。
 谷地の開墾 大谷氏
 中世の開墾は、国家権力の保護や援助に依頼することができなかったので、大規模な開墾は行われなかった。平地部の条里制地域の再開墾田は年貢が高く、検田も厳重であった。そこで、開墾は小規模で隠田などが容易な、湧水に恵まれた谷地などで盛んに行れた。
 鎌倉時代になってからまんのう町域でも、平地部周辺の谷地が盛んに開墾されたものと思われる。小亀氏と共に南朝方として活躍した大谷氏(大谷川氏)は、炭所東の大谷川・種子・平山などの谷地を開墾して開発領主となり、惣領が大谷川から大井手(現在の亀越池地)にかけての本領を伝領し、庶子がそれぞれの谷地の所領を伝領して、惣領制によって所領の確保が図られた。
  このように台頭してきた開発領主と姻戚関係を幾重にも結び「疑似血縁関係」を形成し、一族意識を深めていったのでしょう。
  『全讃史』には、長尾元高は長尾を拠点に、自分の息子たちを炭所・岡田・栗熊に分家し、その娘を近隣の豪族に嫁がせて勢力を伸ばしたと記します。長尾氏は、周辺の大谷氏や小亀氏と婚姻関係を結びつつ、岡田・栗熊方面の所領(職)には、一族を配置して惣領制をとったようです。
城山 (香川県丸亀市綾歌町岡田上 ハイキング コース) - グルコミ

西長尾城の西には象頭山があり、その麓には早くから九条家の荘園である小松荘(現琴平町)がありました。しかし、15世紀になると悪党による侵入や押領が頻発化し、荘園としては姿を消していきます。その小松荘の地侍に宛てた「感状」があります。金刀比羅宮所蔵の「石井家由緒書」の「感状」には、次のように記されています。
  去廿二日同廿四日、松尾寺城に於て数度合戦に及び、父隼人佐討死候、其働比類無く候、猶以って忠節感悦に候、何様扶持を加う可く候、委細は石井七郎次良申す可く候、恐々謹言
     十月州日            久光(花押)
    石井軽法師殿
 ここには松尾寺城(小松庄周辺)で、数度の合戦があり、石井軽法師の父隼人佐が戦死を遂げた。その忠節を賞し、後日の恩賞を約束した久光の石井軽法師にあてた感状のようです。久光という人物は、誰か分かりませんが、彼自身によって感状を発し、所領の宛行いも行っているようです。
   この花押の主・久光は、かつて細川氏の被官であった石井氏などの小松荘の地侍たちを自らの家臣とし、この地域を領国的に支配していることがうかがえます。これは誰でしょう。
長尾城全体詳細測量図H16
西長尾城 精密測量図

周辺を見回して、第1候補に挙げられるのが長尾大隅守だと研究者は考えています。九条家の小松荘を押領し、自らの領国化にしていく姿は戦国大名の萌芽がうかがえます。

③については、多度津町葛原の加茂神社所蔵の大般若経奥書に、永正9年(1512)4月の日付で次のように書かれています。

「当社壬申、長尾大隅守衆、卯月二十九日乱入して社内破却神物取矣云々」

 この時期、京都では管領細川氏の内部分裂が進行中でした。山伏大好きの讃岐守護の細川政元が選んだ養子・澄之が殺害され、後継者をめぐる対立で讃岐国内も混迷の仲にたたき込まれました。残された養子である澄元派と高国派に分かれて、讃岐は他国よりも早く戦国の状況になります。多度津の加茂社は、天霧城主の香川氏が実効支配する領域です。そこへ中央の混乱に乗じて長尾氏は侵入し、略奪を働いたということです。これは、香川氏に対しての敵対行為で、喧嘩を売ったのです。
 つまり、丸亀平野南部の支配権を固めた長尾氏が、北部の多度津を拠点とする香川氏のテリトリーに侵入し軍事行動を行ったことが分かる史料です。以後、香川氏と長尾氏は、対立関係が続きます。
 香川氏は西遷御家人で、多度津を拠点とする讃岐守護代で西讃地域のリーダーです。それに対して、長尾氏は、どこの出かも分からない海賊上がりです。そして、香川氏が阿波の三好氏から自立する方向に動き「反三好」的な外交を展開するのに対して、長尾氏は三好氏に帰属する道を選びます。丸亀平野の北と南で対峙する両者は、何かと対立することが多くなります。

浪打八幡宮 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
浪打八幡宮
④は、詫間町の浪打八幡宮に、天文9(1540)年7月11日に調製された「御遷宮奉加帳」が伝えられています
そこには 長尾左馬尉・長尾新九郎など、長尾一族と思われる氏名が記録されています。長尾氏は、もともとは庄内半島を地盤とする「海賊」であったという話を最初にしました。その関係で長尾に移って160年近く経っても、託間の浪打八幡宮との関係は切れていないようです。氏子としての勤めは律儀に果たしていることがうかがえます。あるいは、託間の港関係の利権が残っていたのかもしれません。そうだとすれば、長尾氏の海の出口は三野郡の詫間であったと考えられます。敵対する香川氏に多度津港は押さえられています。
長尾城10
西長尾城 本丸北側の曲輪郡
 『西讃府志』によると、戦国末期の当主高晴の時には、三野・豊田・多度・那珂・鵜足・阿野などの諸郡において六万五〇〇〇石余の地を領したと云います。『西讃府志』には生駒藩時代の慶長二年(1597)に神余義長がその家の覚書によって記したという「高晴分限録」があり、小松荘の地侍らしい名前と石高が次のように載っています。
五〇〇石 石井掃部、
五〇〇石 守屋久太郎、
四〇〇石 三井五郎兵衛、
四〇〇石 岡部重内、
二〇〇石 石川吉十郎
彼らは金毘羅大権現出現の松尾寺の守護神・三〇番社の祭礼の宮座を勤めた姓と一致します。小松庄の地侍たちを長尾氏が支配下においていたと考えることはできるようです。
 65000石と云えば、後の京極丸亀藩の石高に匹敵しますので、そのまま信じることはできませんが丸亀平野で香川氏と肩を並べるまでに成長してきた姿が見えるようです。

長尾氏の宗教政策
 当時の有力者は、周辺の付近の神社や寺院に一族のものを送りこんで神主職や別当職を掌握するという「勢力拡大策」が取られていました。 前回、お話しした善通寺中興の祖・宥範も櫛梨の名主層・岩野氏出身です。師弟を僧門に入れて、高野山で学ばさせるのは、帰国後有力寺院の住職となり権益を得ようとする実利的な側面もありました。寺院自体が土地や財産を持つ資産なのです。それが、「教育投資」で手に入るのです。これは、日本ばかりでなく、西欧キリスト教世界でも行われていた名家の「処世術」のひとつです。

 「周辺の寺院に一族のものを送りこんで神主職や別当職を掌握」するという「勢力拡大策」の一貫として16世紀前後から長尾氏が取ったのが、浄土真宗の寺院を建立することです。丸亀平野南部の真宗寺院は阿波の郡里(現美馬市)の安楽寺を布教センターとして、広められたことは以前お話ししました。阿波の安楽寺から阿讃山脈の三頭峠を越えて讃岐に広がり、土器川上流の村々から信者を増やしていきました。その際に、これを支援したのが長尾氏のようです。15世紀末から16世紀初頭にかけて、真宗寺院が姿を現します。
1492(明応元年)炭所東に尊光寺
1517(永生14)長尾に超勝寺
1523(大永3年)長尾に慈泉寺
 この早い時期に建立された寺院は、民衆が坊から成長させたものではなく長尾氏の一族が建立したもののようです。ここには、一族の僧侶がこれらの寺に入ることによって門徒衆を支配しようとする長尾氏の宗教政策がうかがえます。
浄土真宗が民衆の中に広がる中で登場するのが宥雅(俗名不明)です。
彼は長尾大隅守高勝の弟とも甥とも云われます。彼は真言密教の扉を叩きます。なぜ、浄土真宗を選ばなかったのでしょうか?
彼が選んだのは空海に連なる真言宗で、一族の支援を受けて地元の善通寺で真言密教を学びます。それ以上のことはよく分かりません。基本的史料は、金毘羅大権現の一番古い史料とされる金比羅堂の棟札です。そこに彼の名前があります。
 (表)上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿」
    当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉」
    于時元亀四年突酉十一月廿七記之」
 (裏)金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師
    高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」
表には「象頭山松尾寺の金毘羅王赤如神のための御宝殿を当寺の別当金光院の住職である権少僧都宥雅が造営した」とあり、
裏は「金比羅堂を建立し、その本尊が鎮座したので、その法楽のため庭儀曼荼羅供を行った。その導師を高野山金剛三昧院の住持である権大僧都法印良昌が勤めた」と記されています。
  宥雅は、象頭山に金毘羅神という「流行神」を招来し、金比羅堂を建立しています。その際に、導師として招かれているのが高野山金剛三昧院の住職です。この寺は数多くある高野山の寺の中でも別格です。多宝塔のある寺と云った方が通りがいいのかも知れません。
世界遺産高野山 金剛三昧院

北条政子が夫源頼朝の菩提のために創建されお寺で、将軍家の菩提寺となります。そのため政子によって大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂などを建立されます。建立経緯から鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として機能し、高野山の中心的寺院の役割を担ったお寺です。空海の縁から讃岐出身の僧侶をトップに迎ることが多く、落慶法要にやってきた良昌も讃岐出身の僧侶です。そして、彼は飯山の島田寺(旧法勲寺)住職を兼務していました。
 ここからは私の想像です
宥雅と良昌は旧知の間柄であったのではないかとおもいます。宥雅が長尾一族の支援を受けながら小松荘に松尾寺を開く際には、次のような相談を受けたのかも知れません。

「南無駄弥陀ばかりを称える人たちが増えて、一向のお寺は信者が増えています。それに比べて、真言のお寺は、勢いがありません。私が院主を勤める金光院を盛んにするためにはどうしたらよいでしょうか」

「ははは・・それは新しい流行神を生み出すことじゃ。そうじゃ、近頃世間で知られるようになってきた島田寺に伝わる悪魚伝説の悪魚を新しい神に仕立てて売り出したらどうじゃ」

「なるほど、新しい神を登場させるのですか、大変参考になりました。もし、その案が成就したときには是非、お堂の落慶法要においでください」

「よしよし、分かった。信心が人々を救うのじゃ。人々が信じられる神・仏を生み出すのも仏に仕える者の仕事ぞ」

という会話がなされた可能性もないとは云えません。
 もちろん宥雅の金比羅堂建立については、長尾一族の支援があってできることです。その参考例は、前回お話しした宥範が実家の岩野氏の支援を受けて、善通寺を復興したことです。その結果、当時の善通寺には岩野氏に連なる僧侶が増え、岩野氏の影響力が増していたのではないでしょうか。それは、高野山と空海、その実家の佐伯家の高野山での影響力保持とも同じ構図が見えます。長尾家も、第二の佐伯家、岩野家をもくろんでいたのかもしれません。
 以上、今回は宥雅登場前後の長尾家とその周辺の様子をみてきました。まとめておきます。
①長尾家は庄内半島の箱を拠点とする「海賊=海の武士」であった。
②南北朝の混乱の中、白峰合戦で細川頼之側につき長尾(まんのう町)に拠点を移した。
③移住当初は、周辺部はガードの堅い集団が多く周囲に勢力を伸ばすことは出来なかった。
④その中で周辺の丘陵部を開発する領主と婚姻関係を結び着実に、基盤を固めた。
⑤細川氏の分裂以後の混乱に乗じて、周辺荘園の押領や略奪を重ね領域を拡大した。
⑥戦国末には、西讃岐守護代の香川氏と肩を並べるまでに成長した。
⑦当時の武士団は、近親者に教育をつけ寺社に送り込み影響下に置くという宗教政策がとられていた⑧その一貫として、小松の荘松尾寺に送り込まれたのが宥雅である
⑨宥雅は金光院主として、金毘羅神を創り出し、金比羅堂を建立する
⑩これは、当時西讃地方で拡大しつつあった浄土真宗への対抗策という意味合いもあった。
⑪しかし、宥雅の試みは土佐長宗我部の讃岐侵攻で頓挫する。宥雅は堺への亡命を余儀なくされる。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 
追加
 室町時代の康正三年(1456)に書かれた金倉寺の縁起を箇条書きにした端裏書に、次のように長尾氏が登場します。
長尾殿従り御寄進状案文」 上金倉荘惣追捕使職事
右彼職に於いては、惣郷相綺う可しと雖も、金蔵寺の事は、寺家自り御詫言有るに依って、彼領金蔵寺に於ては永代其沙汰指し置き申候。子々孫々に致り違乱妨有る可からざる者也。乃状件の如し。
宝徳元年(1449)
徳元年十月 日
長尾次郎左衛円尉 景高御在判
意訳変換しておくと
長尾殿よりの御寄進状の案文 上金倉荘の「惣追捕使職」の事について
この職については、惣郷全体で関わるものであるが、金蔵寺に関しては、寺家なので御詫言によって永代免除と沙汰した。これ以後、子々孫々に致るまで違乱妨のないようにすること。乃状件の如し。
「惣追捕使」というのは、荘役人の一種で、「惣郷で相いろう」というのは、郷全体でかかわり合うということのようです。この文はそのまま読むと「惣追捕使の役は、郷中廻りもちであったのを、金倉寺はお寺だからというのではずしてもらった」ととれます。しかし、それは、当時の実状にあわないと研究者は指摘します。惣追捕使の所領を郷中の農民が耕作していて、その役を金倉寺が免除してもらったと解釈すべきと云います。
 さらに推測すれば、惣追捕使領の耕作は農場のようにように農民が入り合って行うのではなく、荘内の名主にいくらかづつ割当てて耕作させて年貢を徴収していた。そして、金倉寺も貞安名参段の名主として年貢の負担を負っていたと研究者は考えています。その負担を「金倉上荘惣追捕使の長尾景高」が免除したことになります。これで田地の収穫は、すべての金倉寺のものとなります。これを「長尾殿よりの寄進」と呼んだようです。こうして金倉寺は惣追捕使領内に所有地を持つことになりますが、その面積は分かりません。
 注目したいのは寄進者が「金倉上荘惣追捕使長尾景高」であることです。
  長尾景高は、長尾氏という姓から鵜足郡長尾郷を本拠とする豪族長尾氏の一族であることが考えられます。ここからは、応仁の乱の20年前の宝徳元年(1449)頃、長尾氏が金倉上荘の惣追捕使職を有し、その所領を惣郷の農民に耕作させるなど、金倉上荘の在地の支配者であったことがうかがえます。また彼は金倉寺の保謹者であったようです。そうすると、長尾氏の勢力は丸亀平野北部の金倉庄まで及んでいたことになります。
 これと天霧城を拠点とする香川氏との関係はどうなのでしょうか? 
16世紀になって戦国大名化を進める香川氏と丸亀平野南部から北部へと勢力を伸ばす長尾氏の対立は激化したことが想像できます。そして、16世紀になると阿波の三好氏が讃岐に侵攻してきて長尾氏の背後に着くことになります。そのような視点で元吉合戦なども捉え直すことが求められているようです。
参考文献 長尾大隅守の系譜 満濃町史 第4編 満濃町の民俗1169P~

このページのトップヘ