① 地域の軍事拠点であったこと② 武士集団が武装集団で、暴力装置であったこと③ 周囲の名主や百姓から領主として徴税する権利を得ていたこと
つまり、東国からやって来た武士集団の棟梁は、地域の警察署長と税務署長を兼ねるような存在であったということです。今回は、武士居館の背後に描かれている名主の活動を読みとっていこうと思います。テキストは「帝国書院 中学校歴史教科書 タイムトラベル 中世の農村」です。
武士居館の背後に見える大きな建物は、名主の屋敷です。
街道両側の田んぼは稲刈りが終わって、稲の切り株が綺麗に並んでいます。秋祭りが開かれている②鎮守の岡の麓に、大きな家が建っています。これが③名主の家です。そのとなりに④下僕の竪穴式の小さな家があります。拡大して見ると、名主の舘の前には米俵が積み上げられて脱穀が行われているようです。しかし、右隣の下僕の家には何もありません。両者のちがいがくっきりと描かれています。名主の家の左隣は、鍛冶屋小屋です。この時代は、鍛冶屋職人は有力者に呼ばれて出向いて、そこで鍛冶仕事をしていました。経済的基盤がないと鍛冶屋は呼べません。当然、当時の最先端の農具などを持てるのは、名主などの有力者たちに限られます。こうして百姓の中での階層分化が進みます。
当然、当時の最先端の農具などを持てるのは、名主などの有力者たちに限られます。有力者は、当時ハイテク技術で改良された鋤を先行使用することで、新田開発や治水灌漑工事を進め耕地を増やして行きます。こうして百姓の中での階層分化が進みます。
武士居館の背後に見える大きな建物は、名主の屋敷です。
街道両側の田んぼは稲刈りが終わって、稲の切り株が綺麗に並んでいます。秋祭りが開かれている②鎮守の岡の麓に、大きな家が建っています。これが③名主の家です。そのとなりに④下僕の竪穴式の小さな家があります。拡大して見ると、名主の舘の前には米俵が積み上げられて脱穀が行われているようです。しかし、右隣の下僕の家には何もありません。両者のちがいがくっきりと描かれています。名主の家の左隣は、鍛冶屋小屋です。この時代は、鍛冶屋職人は有力者に呼ばれて出向いて、そこで鍛冶仕事をしていました。経済的基盤がないと鍛冶屋は呼べません。当然、当時の最先端の農具などを持てるのは、名主などの有力者たちに限られます。こうして百姓の中での階層分化が進みます。
当然、当時の最先端の農具などを持てるのは、名主などの有力者たちに限られます。有力者は、当時ハイテク技術で改良された鋤を先行使用することで、新田開発や治水灌漑工事を進め耕地を増やして行きます。こうして百姓の中での階層分化が進みます。
池田町史(上巻190P)には、中世の田井ノ庄(三好市)の農民達の生活が物語り風に次のように記されています。
応仁の乱が終わって間もない時期。
夫婦と子ども三人の百姓の家庭。
子どもも生産のにない手。
田畑五反ほどを耕作している。
常食は麦で、正月や節句には米も食べる。
食事は朝・昼・晩の三食(鎌倉期までは朝晩の二回)。
おかずは、最近このあたりに作られるようになったウリ、ナス、ゴボウ、
特にコイモ(里芋)は保存がきくので評判がよい。
食器は、木地屋から買った木の棚に並べてある。
父が男の子をつれて山へ狩に行く。兎や猫の肉はごちそうである。
中世になると、新たに開発された谷田などでは二毛作が行われるようになります。平地の皿田では排水が難しかったのですが、谷田の場合、排水は比較的容易でした。 そのため谷田の私有田は、二毛作に適していました。二毛作には、麦と米、麦と豆がありました。山村の焼き畑では、奏と大豆の組合せも早くから行われていたようです。古代の稲作が「かたあらし」という隔年で耕作したり、何年も荒らしておいたりしていたのと比べると、二毛作は農民達により多くの収穫物をもたらすようになります。
昔(南北朝ころ)は松の枝をたいて明りをとっていたが、今では油をしぼって燈明にできるので明るいし、目に煙がしむこともないと母親はよく昔話をする。燈明に照し出された家の中を見ると、部屋はふた間で、板の間にむしろが敷いてある。この板の間も、父の自慢のもので、村の半数位の家は土間にむしろを敷いている。土間は広く、この土間で父は仕事をし、母は糸をつむぎ布を織る。糸の原料は梶とひゅうじの皮であるが、ひゅうじの皮を集めるのは、弟妹の役目で長男は父の仕事を手伝う。
土間のすみには①木製の鍬やすきが置かれている。その側に②備前焼の壺が黒光りに輝いている。二、三年前に種物を入れるために、大事にしていた銭を出して、医家大明神の市で買ったものである。種が、いつもねずみに食い荒らされるので、無理をして買ったものである。
①の農具については鎌倉時代には、鉄製の鍬、鎌、馬把などが使われるようになります。
しかし、当時は貴重品で使えるのは名主層だけに限られていました。牛・馬の利用にしても同じで、一般農民は、名主層から借用して利用していたようです。それが室町時代になると、鉄製農具が農民の間に広まり、農耕の効率は高くなります。さらに牛馬が農耕にひろく利用されるようになります。「昔阿波物語」には、盗賊が農家に侵入して牛馬を盗んだ記事が出てきます。ここからは牛馬を農民達が保有していたことがうかがえます。畜力の利用は、農耕の能率を高めるとともに、深耕を可能にして、反当収量の増加にもつながります。ここでは鎌倉時代には鉄製の鋤は、有力者に限定された農具で、それを使用できたものが谷田などを開き、名主へと成長していったことを押さえておきます。
「タイムトラベル中世の農村」には、右奥に谷川沿いに開かれた水田と灌漑施設が描かれています。
水田を開かれた順に3区分すると次のようになります。
しかし、当時は貴重品で使えるのは名主層だけに限られていました。牛・馬の利用にしても同じで、一般農民は、名主層から借用して利用していたようです。それが室町時代になると、鉄製農具が農民の間に広まり、農耕の効率は高くなります。さらに牛馬が農耕にひろく利用されるようになります。「昔阿波物語」には、盗賊が農家に侵入して牛馬を盗んだ記事が出てきます。ここからは牛馬を農民達が保有していたことがうかがえます。畜力の利用は、農耕の能率を高めるとともに、深耕を可能にして、反当収量の増加にもつながります。ここでは鎌倉時代には鉄製の鋤は、有力者に限定された農具で、それを使用できたものが谷田などを開き、名主へと成長していったことを押さえておきます。
「タイムトラベル中世の農村」には、右奥に谷川沿いに開かれた水田と灌漑施設が描かれています。
水田を開かれた順に3区分すると次のようになります。
A 荘園の荘司(上図の大きな屋敷)によって開かれた左岸水系B 名主によって開発された右岸水系C 地頭としてやってきた東国武士(西遷御家人)が開いた下流エリア
Aのエリアは、開発領主としての荘司の館の前に広がる水田の水源は、上流から取水されているようです。不足する用水に対応するために川からの④揚水用水車が登場しています。これは水不足の際には、威力を発揮して、安定生産に貢献したでしょう。それでは、Bエリア(右岸)の水源はどこなのでしょうか。よく見ると定期市の奥に、①ため池が見えます。そこから②用水路が伸びて③「かけい(用水橋)」で川を渡って右岸に水を供給しています。これらは名主によって開かれたことが考えられます。そして、Bエリアが新たな水田地帯として開かれたという筋書きです。
さらにCは、東国からやってきた武士団が進んだ土木技術で治水灌漑工事を行い、谷間出口の扇状地を開発したことが見えてきます。川から取水した用水路は、武士居館の堀に導かれ、下流に分配されていきます。こうしてみると堀は軍事的防御施設としてだけでなく、灌漑用の分水機能を持っていたことになります。
各地の荘園研究からは、荘域と灌漑エリアが一致することが報告されています。
例えば播磨国斑鳩荘や近江国江部荘でも、荘域エリアと、井堰の灌概エリアが一致します。井堰の設置が平安末期にさかのぼる場合は、荘園開発のために開発開削されたこと、その灌概エリアが荘園一円化・荘域確定の際の根拠となっていったと研究者は考えています。ここでは「用水の掌握が領域支配確立の基盤の一つであった」ことを押さえておきます。
これは「中世の灌概用水の管理権・給水権が、領主の中枢的権力を構成する」 と指摘する研究者(宝月圭吾、福留照尚)もいます。戸田芳実氏は、次のように述べます(要約)
在地領主制の根幹たる「所領」「本領」の所有は、単なる小作制に基づく地主的所有制ではなく、下地進止権を本質とし、自らの開発による「直営・勧農を根底 とした領主経営」がその淵源 にあった 。例えば平安中期の大和国の藤原実遠の所領の多くが名張川・宇陀川など大河に接しており、蓄財を投じてその治水・開発・勧農を行うことで実現されたものである。
荘園の安定的な支配のために、灌漑用紙を自らの管理下におくことは大きな意味を持っていたはずです。鎌倉時代の初期の居館が河川の水利開発と深い関わりを示していたこと、 初期在地領主がさかんに用水支配を行う存在であったこと、水利開発と用水支配が「所領」支配の根拠となり、その領主権のひとつの要素 となっていったと研究者は考えています。
このような風景が讃岐で見えてくるのが丸亀平野の土器川と大束川に挟まれた法勲寺周辺です。

鵜足郡法勲寺荘(丸亀市飯山町)
法勲寺荘は土器川と大束川に挟まれ、飯野山の南側です。このあたりは古代寺院の法勲寺を中心に早くから開けた地域です。しかし、かつては土器川が流れ込み、大束川と合流し河津方面に流れ込んでいた痕跡があります。
飯野山南側の土地利用図 土器川の流入跡が見られる


この地図からは次のような情報が読み取れます。
①上法勲寺は条里制地割が全域に残り、古代から開発が進んだ地域である②東小川は、土器川の氾濫原で条里制地割は一部のみ③大窪池の谷筋や丘陵地帯も条里制地割は見えない
土器川の右岸は、氾濫原で条里制地割は見えません。古代の開発が行われなかった「未開発地域」だったようです。そこへ中世になると開発の手が伸びていくようになります。地図を見ると、太郎丸・黒正・末広・安家・真定や、東小川の森国・国三郎など、中世の人名だった地名が見られます。これらは、名田を開発したり、経営した名主の名前が付けられたものと研究者は考えています。
東小川を拡大して見ていきます。 まず中方橋のあたりです。
「馬場・馬よけ場」という地名からは、武士集団の存在がうかがえます。彼らによって、いままで放置されていた氾濫原に用水がひかれ水田化したことが考えられます。つまり新田開発のための治水潅漑の土木技術をもった集団の「入植・開発」があったということです。
東小川を拡大して見ていきます。 まず中方橋のあたりです。
「新名出水」という地名は、新しく開発された名田の水源となった出水のことです。土器川の伏流水を利用して、それまで水田化されていなかった氾濫原の開発に乗り出した開発領主がいたようです。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げてみます。
「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」
「馬場・馬よけ場」という地名からは、武士集団の存在がうかがえます。彼らによって、いままで放置されていた氾濫原に用水がひかれ水田化したことが考えられます。つまり新田開発のための治水潅漑の土木技術をもった集団の「入植・開発」があったということです。
中方橋の北側のエリアを見ておきます。
「明光寺又・円明院出水・首なし出水・弘憲寺又・障子又」
地名の後につく接尾詞の「又」とは何でしょうか?
「又」は用水の分岐点です。出水や用水分岐点は、水争いの場所にもなる所で、重要戦略ポイントでした。そんな所は、竜神信仰の聖地としたり、堂や庵などを建立して水番をするなど、農業経営維持のためのしくみが作られていきます。ここにも「堂の元(下)」という地名がみえますからお堂が用水管理のための施設として建立され、時には寝ずの番がここで行われたのかもしれません。こんなお堂がお寺に成長していくことも多かったようです。
東小川の「障子又」は、「荘司」に由来するようです。
荘司は荘園の管理者のことですから彼の屋敷か、直接経営する名田があったのでしょう。居館のそばにお堂があったのかもしれません。そこには宇多津の郷照寺などを拠点として活動する念仏聖が住み着き、阿弥陀信仰や念仏信仰の布教場所になっていきます。同時に、芸能伝播者としての聖から風流念仏踊りなどが地域の人々に伝えられる場所にもなります。
高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
滝宮牛頭天王社に奉納された坂本念仏踊りは、このような時宗系念仏聖によって伝えられたと私は考えています。
下のリストは承久の乱後に地頭として讃岐にやってきた東国の西遷御家人のリストです。
この中に鵜足郡法勲寺領の地頭職を得た壱岐時重が右から4番目にいます。
法勲寺地頭職を得た壱岐時重は、承久の変後に讃岐に置かれた新補地頭の一人です。『吾妻鏡』に、彼の地頭職を巡る判決が次のように記されています。(書き下し文)
廿八日、発巳、讃岐国法勲寺地頭職壱岐七郎左衛門尉時重、本補新補両様を兼帯せしむるの由、雑掌之れを訴え申すに就いて、評定有り、年序を経るの由、地頭之れを申すといえども、其の理無きの間、一方に於いて者停止せらるべし、然らば本司の跡たるべきか、はた又、新補たるべきか、望み申に随って、仰せ下さるべし、一方注中すべきの旨、今日仰せ下され、云々
ここに出てくる法勲寺とは法勲寺領のことで、荘・郷などと同格に扱われています。その地頭職持っていた壱岐七郎左衛門尉時重が「本補と新補」の両方の権利を主張したのに対して、評定では、その理はないので、一方どちらかを選ぶようにとの裁定が降されたとあります。ここからは、壱岐尉時が法勲寺領の地頭であったことが裏付けられます。
それでは法勲寺領の地頭として讃岐にやって来た壱岐時重の居館はどこにあったのでしょうか?
それでは法勲寺領の地頭として讃岐にやって来た壱岐時重の居館はどこにあったのでしょうか?
その候補地の一つが讃岐富士の麓のダイキ飯山店の下に眠っている居館跡です。

土器川の支流が飯野山にぶつかり90度流れを変えるところにある飯山北土居遺跡

グーグルマップで見た飯山北土居遺跡(武士居館跡)

土器川の支流が飯野山にぶつかり90度流れを変えるところにある飯山北土居遺跡

グーグルマップで見た飯山北土居遺跡(武士居館跡)
武士居館の復元モデル
この地図からは土器川支流の河川跡がはっきりとわかります。ここにはいまも伏流水がながれていて、この旧河道沿いに用水路が古代から確保されていたことが発掘調査から分かっています。それが下図の上井用水です
上井用水は、大窪池の下の谷間の出水を水源として、古代寺院の法勲寺や、鵜足郡郡衙跡(推定)を経て河津地区までまで用水を供給していました。古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたようです。これらの治水灌漑工事を中世初期に完成させたのが、飯山北土居遺跡の武士居館の武士集団=地頭としてやって来た壱岐時重であったと私は考えています。

地頭などによって開発された用水路も後世になると、維持するのは各地域の農民達です。潅漑施設の維持管理のために、彼らは共同作業・共同管理を行うようになります。そのために各集落の人々が地域の郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、祭礼をおこなうスタイルが生まれます。滝宮牛頭天王社に踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。
最初の中世の農村イラストは、以上のような潅漑施設の整備を通じて、地域の支配権を強化しようとする名主や武士集団の戦略が見えてもきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「帝国書院 中学校歴史教科書 タイムトラベル 中世の農村」です。
最初の中世の農村イラストは、以上のような潅漑施設の整備を通じて、地域の支配権を強化しようとする名主や武士集団の戦略が見えてもきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「帝国書院 中学校歴史教科書 タイムトラベル 中世の農村」です。













































































































