瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:讃岐中世史 > 中世の居館

大原氏と出雲堰.JP2G
出雲井堰灌漑と大原氏居館
 今回は前々回に見た出雲井とその灌漑する大原荘を支配した地頭大原氏の関係を、「中世居館ネットワークの形成」という視点で見ていくことにします。テキストは「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。
地頭大原氏は、室町時代には幕府の奉公衆となっています。奉公衆とは、地方の有力な国人領主のことです。大原氏もこの地域の典型的な国人領主であったことが『大原観音寺文書』 からは分かります。
出雲井の灌漑域を分析した下図からは次のような事が読み取れます

出雲井堰灌漑エリア3

i出雲井の中世居館

①烏脇川、野一色川、朝日川などは、段丘面上を臥龍山麓の集落に向けて直線的に流れていく。
②これらは人工的に掘削された水路で、段丘面西端の非水田地帯 (針葉樹林) を乗り越えいる。
③さらにその西側の烏脇・夫馬など臥竜山麓の村落に、出雲井からの用水を供給している

流末の夫馬村では、大原氏居館近くの大原荘総鎮守である岡神社の祭礼に際して寄進が定められています。
姉川 出雲井灌漑 岡神社
大原氏居館近くの大原荘総鎮守である岡神社
それが「井料」とされます。これは用水の管理費的な意味があると研究者は考えています。夫馬村や烏脇村では、居館主導型集村が形成されています。そして集村の核となっている居館は、出雲井からの幹線用水路に面して立地しています。地元では、この居館の居住者を「ようあんろうじん(養安老人)」、そこに住んだ母の姓を「花戸」と伝えています。以上からは、流末の集落は水の支配を通じて、宗教的にも大原氏の総鎮守に編入されたことがうかがえます。

大原氏館より南西にある三島池を見ておきましょう。

出雲井堰灌漑エリア 三島池3
三島池
この池は南側七町ほどを灌漑しますが、地元ではこの池を、大原氏の祖によって築造された人工的な溜池と伝えています。三島池には大原氏館の水堀を経由した出雲井の幹線水路・池下川が流れ込みます。三島池と出雲井は水利システムとして連動しています。地元の言い伝えのように三島池が大原氏の手によって整備されたことが裏付けられます。そして、三島池の水が潤す池下村は居館主導型集村です。 居館の位置は、三島池からの幹線用水路沿いにあり、この水路そのものが水堀だったようです。
次に、これらの村々の居館領主について見ていくことにします。
 『大原観音寺 文書』 には、大原氏庶流や家臣による田畠寄進状や売券が多数含まれています。そこからは居住地や活動年代を知ることができます。文書中に「○○殿 」として表記されている階層が村落レベルの小領主です。その中から大原荘内に居住するものを抜き出したのが第1表です。

大原庄内の村落領主一覧
この表から灌漑用水網に出てくる居館の主人たちと大原氏の関係を研究者は次のように押さえます。
①出雲井流末の夫馬・烏脇・池下の村落に居住していた夫馬氏、烏脇氏、池下氏は、すべて大原氏の庶流
②小田村・野一色村も下線の領主は、大原氏の庶流
③三島池畔には三嶋神社が鎮座し、佐々木秀義や大原氏初代重綱が伊豆三嶋社を勧請したものと伝えられること。
④三嶋池築造の際に、佐々木秀義の乳母比夜叉御前が人柱にたったという伝説があること
⑤竹腰氏、野一色氏も大原氏の一族で、野一色氏は重綱の子秀俊を祖とする早い時期の庶子家
こうしてみると出雲井を支配する国人領主の庶子たちが、出雲井分配システムと連動する形で、灌漑域内の村々に配置されています。庶子達は、惣領家の持つ用水権益の分配にあずかれることで、村落に対して指導的な立場に立つことができたと研究者は指摘します。

『大原観音寺文書』は、12世紀以降の文書がおさめられています。
ここからは、大原氏の庶子家の活動年代は14世紀までさかのぼって確かめられます。そして出雲井流末の村々に庶子が配置されていくのは、やはり村落再編(集村化)の動きが活発化していた時期と重なります。国人領主とその庶子による村落への用水支配が、領主主導型の村落再編成、つまり居館型集村を実現させる基盤となっている事例だと研究者は判断します。ここでは14世紀の庶子家の村落への侵入と、その主導による新しい村立はリンクすることを押さえておきます。
 また、近畿地方の居館主導型集村については、居館領主が14世紀前後に他所から移住してきた伝承が多いようです。それは承久の乱以後の西遷御家人により勧められたことを反映しているのかもしれません。
 惣領家の国人領主が独占する山林・原野の用益を武器として、一族庶子を通じての所領支配を実現する過程が報告されています。
水利支配 についても同じようなことが行われていたのかもしれません。このような動きを、国人領主側 からみれば、次のようになります。 
①用水支配権を武器にして、所領内の村々に庶子を定着させる
②その上で村落支配を深化 し、 所領支配を拡大していく
③このような動きが、「権力の在地性深化」の実態といえる
つまり中世後期の在地領主は、勧農機能をすべて村落に手渡したのではなく、 用水支配権は自らの手中に保持していたことになります。その用水支配権が、中世後期の領主制の根幹となるという考えです。
 橋口定志は中世後期 の関東で「複数の館が用水系を媒介として接続している場合」を指摘します。 
灌漑用水網と居館群
研究者は、出雲井や郷里井など姉川流域の水利システムを紐帯として形成されている居館群のネ ットワーク構造の模式図を上図のように提示します。惣領制的所領拡大を説く小山靖憲以来の「領主型村落」「堀ノ内体制」論は、このような中世後期の婚姻等による擬制的同族系譜の成立と、広域水利システム発達が結びついて形作られたのかもしれません。これは「孤立した武士の舘」という視点からは見えてこないつながりです。これをまんのう町吉野の大堀居館跡で見るとどうなるのでしょうか? それはまた次回に述べるとして、先に進みます。

用水支配を武器にして在地領主が、どのように村落を支配下に置いていったのかを、次のようにまとめておきます。
①中世後期の村落再編には、惣村化とは対照的な領主主導型の集村化事例があること
②それは用水支配を武器に国人領主が、 その庶子を村々に配置して村落支配を強化したこと。
③国人領主の庶子は、その村落名を姓として名乗って、村落指導層となっていること
④これら庶子が「土豪」で、それを「村落共同体=惣村規制内部の存在」と研究者は捉えていること
従来の研究では、「土豪」を惣村内部の代表者とみる見解が一般的です。しかし、用水をめぐる居館と村落の空間構造からは、強力な用水支配に基づいて突出した規模の居住区画を村落内に持っています。これを「共同体規制の枠内の存在」とみるのは無理があると研究者は考えています。「土豪」や「地侍」となどの「中間層」の性格を、どう捉えるかが課題として残ります。
在地領主庶子の村落への侵入については、すべてが成功したわけではありません
 溜池・小湧水など、 いままで通りの村落内での完結的な自給的灌漑で水を確保できる村落では、領主勢力侵入の余地がなかったことになります。このような場合には、強力な村落共同体により惣村が形成されていくものと研究者は考えています。それは典型的な惣村が成立しているのが、多くは漁業・水運、商業などの非農業的生業を持つ地域であったこととも関連することです。
これらの中世の灌漑システムと居館の関係を、丸亀平野でどう考えて行くのかが課題になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献

   中世前期の荘園には、次の2つの階層がいたと研究者は考えています。
A 下司・地頭層  = 在地領主 
B 公文層     = 村落領主
それが中世後期の南北朝以後の在地領主制では、次の2つになります。
C 地頭の系譜を引き、在地領主の発展段階とされる「国人領主」
D 村落 レベルの 「土豪」
 従来の研究では、中世後期になると用水開発・支配の主体は、荘園領主や在地領主の手を放れて、村落に下降してくるとされてきました。Bの公文層以下の有力農民が成長するなかで、村落やそれを主導するDの土豪層が用水路や溜池の修築などを行い、地域開発の担い手として台頭してきます。こうして、Aの在地領主やBの国人領主たちはは農業経営から遊離していくというのが、 従来の考え方のようです。

惣村の構造図
惣村の構造

  Q1 惣村はどのような組織か?
①農耕儀礼や共同作業を通じて結びついた名主層を中心に農民たちの地縁的な自治組織を惣村という。
②惣村は、惣百姓が参加した寄合の決定に基づいて自治が行われ、秩序の維持のため警察権を行使する地下検断や、年貢を領主に一括納入する地下請などを通じて、支配者から自立していった。
③惣村の成立の背景には、農業生産力の向上による農民の成長と、戦乱に対する自衛の必要性があった。名主層の中には、守護と主従関係を結んで侍身分を獲得する者(地侍)もいて、これも惣村が支配者から自立する要因となった。
惣村形成背景

中学校の歴史教科書指導書などにも「有力農民に率いられた村落が用水開発の担い手となった」とったと説かれています。これは「惣村」形成へと導くための伏線となっています。そして13世紀後半以降の畿内の惣村は、在地領主から自立し、自治権を持った村落共同体として記されています。
 惣村は「集村」と関連づけて考えられるようです。
集村化とは、それまで散らばっていた屋敷地を一カ所に集めて、集落エリアとと耕作エリアを分離することです。その目的は、土地利用の「高度集約化による村落再編成」だったとされます。その進行時期は、畿内では南北朝の14世紀前後とされます。それでは、この村落再編成のための集村化の原動力は何だったのでしょうか? それは「自立化した農民層の共同体的結合=惣村の規制力」だとされます。その結果、中学校の歴史教科書にも「集村=惣村化」というイメージで提示されています。
 ところがその後の発掘調査で、集村化で形成された集落に接して新たに領主居館も並んで現れる事例が髙松平野などから報告されました。近江国野洲郡からも集村化と新しい領主居館が同一エリアに出現する例が報告されています。これは「盟主層による惣村化」の動きには反するものです。これをどう考えればいいのでしょうか。
  これに対して研究者は集村 には、「惣村化」の他に「居館化」の2つの方向があったと指摘します。
 それでは、この2つの違いはどこからくるのでしょうか?
それは村落の形成過程の違いからくるものと研究者は考えています。同じ規模の屋敷が並ぶ集村は、百姓たちの共同的結合で形成された惣村を示していると考えることができます。しかし、百姓の屋敷地とは大きな格差がある規模の居館を内部に持つ集落の場合は、居館を核として、集村化が行われたと研究者は考えています。つまり、畿内で14世紀前後に進行した集村化には、次の2つのタイプがあったということです。
A 惣の主導型
B 居館領主主導型
 Aの惣村は、在地領主の支配を排除したものでしょう。これに対して、Bの居館型集村の場合に領主が村落再編(集村化)を主導したことになります。それでは領主が集村化できた原動力は何だったのでしょうか?結論からいえば、それが在地領主の用水支配権だと云うのです。今回もその例を近江の姉川流域の灌漑水路と居館の関係から見ていくことにします。テキストは「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。
在地領主が村落再編成に深く関わっている事例として、近江国姉川の郷里井堰を見ていくことにします。ここは前回に見た大原荘の下流域で、臥竜山によって東西に隔てられます。
滋賀県郷里井堰2
郷里井堰と上坂氏舘

まず、上図で上坂氏居館と姉川の灌漑用水の関係について以下を押さえておきます。 
①姉川が平野に流れ出る喉元に「郷里井」と呼ばれる井堰設置
②この灌漑域は344町で、上流の出雲井と並んで姉川筋の二大水利集団を形成
③郷里井は扇型に灌漑エリアが西に拡がり、その範囲は扇状地と一致
④郷里井灌漑エリアには多くの居館型集村があり、扇央部の西上坂村がその中心集落
⑤この西上坂村に国人領主上坂氏の居館跡があり、水堀や土塁などが残っている。
この郷里用水路には上坂氏が、深く関わっているとされます。上坂氏が、いつここに拠点を置いたかについてはよく分かりません。しかし15世紀には京極氏の筆頭家老となって勢力のピークを迎え、戦国期には浅井氏の家臣となっています。扇央部に位置する上坂氏館の水堀には、扇状地上を灌漑してきた郷里井の水が流れ込んでいます。ここからは郷里井からの灌漑システムと扇状地の開発と上坂氏の居館水堀の出現は同時期の工事で連動していたことがうかがえます。このような灌漑用水路と微地形・居館との関係は、前回に見た中世前期の出雲井と大原氏館と段丘下位面開発の構図と同じ手法です。当時の開発プロジェクトの柱となっていたことがうかがえます。
 上坂氏館の年代については、発掘調査がおこなわれていないためよく分からないようです。

上坂氏舘と
               上坂氏居館跡(長浜市東上坂)
しかし、中世後期には上坂氏が郷里井の支配に携わっていたことは確実です。地元では、郷里井は14世紀に上坂氏が開削したものと伝えられています。ただし、郷里井の工事年代年については、その灌漑エリアに10世紀初見の東大寺領「上坂郷」が含まれています。そのため扇状地を開発する用水の原型は東大寺によって、中世前期に開削されていたことも考えられます。そうだとすると、10世紀の東大寺の基本計画の上に、14世紀になって上坂氏による再開発・拡張工事を実施したことになります。

姉川の郷里井と扇状地
          姉川扇状地と郷里井灌漑エリアの関係 
上の図で以下のことを確認しておきます。
①姉川扇状地の上部と郷里井の灌漑エリアは、ほぼ重なること
②郷里井の灌漑エリアは、さらに西側に伸びて二ヶ所張り出した部分があること。
③この張り出しエリアが、北の榎木村南部 と南方の七条村南部。
④両エリアは、もともと扇端部の小規模湧水を利用していたが、郷里井完成後に供給エリアに含まれた。
 つまり、もともとは榎木村や七条村は、湧水のみで狭いエリアの灌漑が行われていたようです。それが郷里井からの灌漑網が整備されて取水量が増大したことを受けて、水田開発が一気に進んだようです。こうしてふたつの村は、井堰灌漑エリアにに取り込まれていきます。よく見ると、この二つの村には、それぞれ居館主導型集村が形成されています。研究者が注目するのは、どちらも郷里井からの幹線用水路が連結される接続点に立地しています。そして集落域内部の居館立地は、用水路の分岐点に当たっています。ここでは居館領主が郷里井灌漑網の結節点を握っていたことを押さえておきます。つまり、上坂氏の周辺郷村の支配拠点として配置されているように見えます。

中世居館と井堰型水源4
居館の水堀を経て下流に用水が提供されている
これら二つの居館主導型集村の中で、 居館遺構がよく残っているのが七条村です。
『農業水利及土地調査書』には、七条村の灌漑には、郷里井 の水 にプラス して小字「養安」にある小湧水が補給水として使われていたと記されています。この小字「養安」は、居館遺構上にある一町四方にあたります。そしてこの湧水は居館の水堀の一部となっています。

滋賀県郷里井堰2
 もう一度、郷里井堰からの灌漑網の地図を見てみます。 
郷里井からの幹線用水路もこの比地条村の居館の水堀に向けて接続されています。地元に残されている慣習には七条村では、村中総出で居館の水堀さらいが行なわれてきました。これを「花戸の井立て」と呼んでいたと伝えられます。「井立て」とは、用水路の修築のことで讃岐で云う「井手さらえ」のことでしょう。つまり、井手(用水路)は居館の主人たちの力で作られ、それで用水が供給されるようになると、百姓たちはその管理・維持に積極的に関わっていく姿が見えてきます。これは、居館主人からすれば、灌漑用水の管理運営を通じて、惣村への影響力や支配力を強めたことになります。言い換えれば、「水の支配を根拠とした居館領主の村落支配」と云えます。そこには、小さな湧水(出水)や溜池などに頼っていた村落が、新たに建設された大規模な井堰灌漑の水利集団に組み込まれていく姿が見えてきます。
中世郷村と用水路
井堰からの水が遠くの村々にも用水路で導かれていく
 これは丸亀平野でも見えた光景だと私は思っています。丸亀平野にも「地域毎の個別の水源=村落内で完結的灌漑システム」段階から、地域を越えた大規模水利集団への参加という段階への移行期があったはずです。ここで大きな力を持つのは、井堰を支配する在地領主(居館主人)です。彼らに背くことは、水の供給を止められることを意味します。水を支配する者が地域を支配するのです。また、上流と下流の水争(水論)が始まります。そのための水利調停も必要になります。その場合も、居館領主が水利調停者としての役割を担うことで、支配力を強めていきます。
灌漑用水網と居館群

用水流末の七条村、榎木村だけでなく居館型集村が用水沿いにあります。井堰から水を引く場合に、「井頭」である国人領主との間に立って水利調停に当たっていたのは、公文などの村落指導層だったでしょう。この場合には、居館領主は、次のように「水の支配」を通じて支配力を強化したことが考えられます。
①国人領主は、旧来の村落領主(名主層)を次第に被官化していったこと
②新たに組み込まれた用水末端の村落では、惣領家の庶子がやってきて新たな村落領主層となっていったこと
③庶子・被官達は、用水権益の分配にあずかれることを武器にして、村落内での指導権を獲得していったこと
用水を掌握していた居館の主人たちは、14世紀前後の村落再編(集村化)の際にも支配力が強く、居館を核とした集住化を主導できたこと。これが居館型集村の形成につながったことを押さえておきます。このような上に立って、まんのう町吉野の大堀居館について、つぎのような仮説を私は考えています。
大堀居館と潅漑施設

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻
関連記事

 鎌倉時代の居館の主人たちが用水支配に積極的に関わっていく姿を見ていくことにします。テキストは  「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 -在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。
まず研究者が取り上げるのは、滋賀県の神崎郡五個荘の宮荘殿屋敷遺跡です。 

滋賀県の神崎郡五個荘の宮荘殿屋敷遺跡
           滋賀県の神崎郡五個荘の宮荘殿屋敷遺跡(琵琶湖東岸)
宮荘殿屋敷は一辺100m前後の水堀を四周にめぐらした方一町の居館で、水堀の幅は3.0~1.8mです。
滋賀県の神崎郡五個荘の宮荘殿屋敷遺跡2

上図は、明治段階の用水路と水源別灌漑範囲を研究者が復原したものです。堀水は、北之荘集落南の湧水「公野湧」から引かれています。公野湧は、小字「殿屋敷」をはじめその西方あわせて23町を灌漑する北之荘村の用水源となっています。湧水からの水の流れを見ておきましょう。
①公野湧からの水流はすべていったん殿屋敷の水堀に集められます。
②その後に、西方耕地の灌漑に用いられる
③ここからは、公野湧の水を自分の居館に引き込んでいる居館領主が、灌漑用水を握っていたことがうかがえる。
公野湧灌漑エリアには小字「門田」も含まれています。門田は居館領主の直営田とされます。灌漑優先順位の高い位置にあることが分かります。水支配と直営田との関係も見えてきます。
公野湧は愛知川扇状地の扇端部に湧出している出水です。扇央部の開発に比べると、開発難度は低く容易で、早い時期に開発されたことが考えられます。居館遺構の周囲一帯にはN34°Eの神崎郡条里が広がっています。居館の水堀もこの方位に従っています。一町の遺構域はちょうど神崎郡条里の九条五里十六坪に相当します。前回にも述べた通り、居館が条里地割の規制を受けている場合、 居館の領主が条里地割型耕地の開発・施工に深く関わっていたと研究者は考えています。まんのう町吉野の大堀居館跡も丸亀平野の条里制ラインに沿って建てられています。湿原であった吉(葦)野の開発者としてやってきたことがうかがえます。
居館がいつ頃に現れたかは分かりませんが、その下限年代から考えると、公野湧灌漑域の条里地割型耕地の施工は、13世紀には始まっていたと云えそうです。宮荘殿屋敷遺跡のある旧北之庄村は、12世紀に現れる鳥羽院領山前荘の北庄の故地になります。この居館遺構も荘域開発を進めた荘官クラスのものと研究者は推測します。

近江国姉川上流域の山東町にある大原氏館を見ておきましょう。
大原氏居館2

大原氏は、鎌倉時代初頭の近江守護佐々木信綱の長子重綱を祖とする佐々木一族の庶流になります。信綱の四人の息子のうち、三男泰綱が惣領家を継いで六角家となり、四男氏信は京極家を立てて近江国 を二分する勢力となります。一方、長男重綱は妾腹のため不遇で、後にようやく近江大原荘の地頭職に補任されて当地に居住し、以後代々大原氏を称します。大原氏は鎌倉後期には在京人として、室町時代には将軍家の奉公衆となっています。「大原観音寺文書』などの史料から16世紀までここに居住したことが裏付けられます。
さて、大原氏の居館を見ていくことにします。居館は市場中村の「大原判官屋敷跡」に現存します。
土塁・堀などの遺構や、多くの墓石が残っています。『大原観音寺文書』により13世紀から大原氏がこの地で居住していたことや、初代重綱の創建でその法名ともなっている大原氏菩提寺 「長禅寺」の場所が、小字「長善寺」として居館跡に隣接していることが、この付近を当初からの拠点が置かれていたことが裏付けられます。
居館周囲一帯の水田は、 北の姉川を水源とする「出雲井」によって灌漑されています。

大原氏舘跡1 

出雲井は式内社伊吹神社裏で取水します。これは姉川に設置される井堰のうちでも最上流に位置 します。そして流域では、最大の灌漑面積722町をもつ水利集団です。

大原氏と出雲堰

出雲井の取水口
出雲井の取水口
近世文書「大原之郷由来出雲井根元記」には、出雲井の開削について次のように記されています。

宝治二年 (1248)、 佐々木重綱が大原荘にやってきたときに、家臣の出雲喜兵衛が行った。そのため出雲井と呼ばれるようになった

これが本当かどうかを確かめるために研究者は、出雲井の旧来の灌漑システムを復原し、居館立地と照合して下図を作成します。
大原氏と出雲堰.JP2G
出雲井堰灌漑エリアと大原氏居館

ここから読み取れる情報を挙げると
①出雲井からの用水配布エリアの大部分は、姉川左岸の段丘下位面にある。
②この水の届きにくい高燥面の水田化は、出雲井が開削される以前は開発困難だった
③大原氏館はこの段丘上に位置し、段丘上を潤してきた出雲井の幹線水路が流れ込んでいる。
④以上から、段丘面の灌漑と同時に居館水堀の水源として出雲井の利用が当初から考えられていた
  ここでは大原氏館の堀水は、出雲井なくしては確保できなかったこと、大原氏館築造時には、すでに出雲井は開削 されていたこと、段丘面開発と居館設置が連動し、どちらもが出雲井開削とその掌握を前提としていることなどから、 大原氏が出雲井を直接支配していたことが裏付けられます。
段丘面が、承安四年 (1174)『大原観音寺文書』官宣旨案に初見の蓮華蔵院領大原荘の荘域であることは、先ほど押さえました。このことは以下の言い伝えと整合性があります。
①宝治二年 (1248)、 佐々木重綱が近江大原荘の地頭職に補任されやってきた
②家臣の出雲喜兵衛に未開発だった段丘面の開発を命じた。
この言い伝えは信憑性がありそうです。出雲井の開削は、大原荘の開発とも、大原氏の居館建設ともリンクしていたことになります。大原荘の立荘の経緯や正確な四至は分かりません。しかし、後世の文書に出てくる故地は、出雲井の灌漑範囲にほぼ一致します。出雲井は大原荘の専用水として、大原荘の開発のために開削された用水で、この出雲井の灌漑可能な範囲を母体に、大原荘の荘域が確定されていったと研究者は考えています。

 出雲井からの用水路を通して段丘面を水田化するという「開発計画」と大原氏の居館設置は、当初から連動して動いていたことを見てきました。しかし、これを実際に行うためには、大原氏が出雲井の用水権利を握っておく必要があります。その障害は越えられるのでしょうか?
 ヒントになるのは13世紀に大原氏は、大原荘の地頭職だったということです。
このことは地頭クラスの荘官として、用水管理権を握っていたことを意味します。ただし、大原氏の場合は承久以降の新補地頭とされます。そのため、大原氏以前の領主によって荘域開発のために開削されていた用水の支配権を受け継いだということが考えられます。このように大原荘の開発は、下司・地頭クラスの在地領主が用水を開削・支配しながら進められたことを押さえておきます。ここにも在地領主層には、開発領主としての性格があったことが見えてきます。
 在地領主制と勧農権について 
 各地の平野部荘園では荘域と灌漑エリア賀が一致する事例が相次いで報告されています。大規模な荘園調査が行われた播磨国斑鳩荘や近江国江部荘でもその荘域が、井堰の灌概範囲に一致します。井堰の設置が平安末期にさかのぼる場合は、荘園開発のために開削されたこと、その灌概エリアが荘園一円化・荘域確定の根拠となっていったと研究者は考えています。「用水の掌握が領域支配確立の基盤の一つであった」ことを押さえておきます。
 これは「中世の灌概用水の管理権・給水権が、領主の中枢的権力を構成する」 とした宝月圭吾、
1)福留照尚らの見解とも重なります。もちろん領主権の中には、徴税・検断など種々の公権が含まれています。用水支配だけを領主制成立の根拠とするわけにはいきません。しかし、荘園下地の治定を実現させるものとして、用水支配が大きな役割を担っていたことになります。
戸田芳実は、次のように述べます(要約)
在地領主制の根幹たる「所領」「本領」の所有は、単なる小作制に基づく地主的所有制ではなく、下地進止権を本質とし、自らの開発による「直営・勧農を根底 とした領主経営」がその淵源 にあった 。例えば平安中期の大和国の藤原実遠の所領の多くが名張川・宇陀川など大河に接しており、蓄財を投じてその治水・開発・勧農を行うことで実現されたものである。
中世成立期の居館が河川の水利開発と深い関わりを示しており、 初期在地領主がさかんに用水支配を行う存在であったことをここでは指摘しています。 このような水利開発と用水支配が、「所領」つ まり領域支配の根拠となり、その領主権を構成する一要素 となっていったと研究者は考えています。

灌漑用水網と居館群

 以上を整理しておくと
①中世前期の水利開発と用水支配の多くは下司・地 頭 クラスの在地領主によって行われている
②用水支配を媒介とする勧農権一が、 これらの階層 に所属していた可能性がある
③古代の国衙の勧農機能を、中世成立期に下司クラスの在地領主 に委譲された
④つまり、中世荘園の開発がら在地領主の手によって行われたことを意味する。
⑤在地領主には、開発領主・農業経営者 としての側面があった
⑥同時に、中世荘園制を構造的に支えている領主制の本来的な担い手は、下司クラスの在地領主 であった
大堀居館と潅漑施設
              まんのう町吉野の大堀居館と水利
  このような動きは当然、中世の丸亀平野にも当てはめられる動きです。まんのう町吉野の大堀居館の主人も灌漑設備を整備する中で、遊水地化し低湿地だった吉(葦)野の開発を行うだけでなく、土器川に井堰(横井)を設けることで、居館の水堀に水を引き、そこを分岐点として下流に用水を提供する。その「勧農」を通じて、下流の灌漑エリアを自己の勢力圏に収めていくという統治戦略を展開したという話になります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

前回はまんのう町吉野の大堀居館跡について、次のようにまとめました。

大堀居館と潅漑施設

大堀居館5
大堀居館跡の位置
丸亀平野の中世武士の居館跡について、何度か取り上げてきました。しかし、居館跡を広い視野から位置づける視力が私にはありませんので断片的なお話しで終わっていました。そんな中で出会ったのが「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。歴史地理学の立場から中世の居館跡の水堀が灌漑機能をもち、そのことが居館の主人の地域支配力を高めたという話です。何回かに分けて、ここに書かれていることを読書メモ代わりにアップしておきます
①鎌倉期の『沙汰未練書』には次のように記されています。
「御家人トハ、往昔以来、開発領主トシテ、 武家ノ御下文ヲ賜ル人ノ事ナリ」
「開発領主トハ、根本私領ナリ」 
ここから開発行為こそが、御家人(在地領主)の土地所有権の最大の根拠だとしています。そして、領主による開発と勧農を重視しています。讃岐の場合には、絶えず水の確保が大きな課題となります。水の支配権こそが領主支配の根源になっていました。中世の場合は、武士の居館が灌漑用水支配の拠点になっていたと研究者は考えています。

Aまず「館」と「城」の違いを押さえておきます。
 居住機能と戦闘機能のどちらに比重を置くかがポイントにすると、次の3つに分類できます。
A 平時の居住に重きをおくものを「居館」
B 戦闘機能に重心をおくものを 「城」
C その双方の要素を含むものを総称して「城館」
中世は、平常時の居住地としての平野部の居館と、戦闘時の詰城としての山城とがセットになっていたとされています。ここで取り扱うのはAの平時の居住空間としての平野部居館です。

飯山国持居館1
武士の平野部の居館モデル 水堀で囲まれている

中世の平野部居館の特徴の一つは、水堀で囲まれていることです。
空壕や土塁という選択もあったはずですが、水を巡らせたことには、なんらかの意味があったはずです。その理由として考えられるのは
 ①防御機能の強化
 ②低湿地 にお ける排水機能
 ③農業用水への利用
 ④舟運利用 
①の機能は当たり前です。ここでは③の用水支配の関係を見ていくことにします。中世居館は、方形館とも呼ばれるように、水堀で囲まれたその敷地が方形です。 この方形が条里地割に規制されたものが多いことは、丸亀平野の中世居館で以前にお話ししました。方一町の館の場合は、条里地割の坪界線に沿っていて、居館の主人は条里地割型耕地の開発と深く関わっていたと研究者は推測します。

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制 吉野は条里制成功エリア外である。
 条里地割がいつ行われたかについては、丸亀平野の発掘調査からは7世紀末に南海道がひかれ、それに直行する形で条里線ラインが引かれました。しかし、古代に条里制の造成工事が行われたのはごく一部で、大部分が未開発地域として放置されたことも分かっています。開発が進むのは平安時代後期や中世になってからです。土器川や金倉川の氾濫原が開拓されるのは近世になってからだったことは以前にお話ししました。
荘園制内部の在地領主の勢力実態を知るために、居館の規模を見ておきましょう。
家には、そこに住む人の経済力が反映します。居館の規模は、階層差ともとれます。方形区画の規模については、次の2種類があります。
A 方一町のもの
B 半町四方のもの
Aは地頭クラスの居館、Bは村落の公文や土豪層の居館と研究者は考えています。
大山喬平は、荘園的土地所有をめぐる在地での支配階級として、次の二階層があるとします。
C  荘域を管掌する地頭・下司層=在地領主
D  村落を支配対象とする公文層=村落領主
これは、先に見たA・B]の居館規模の階層差と一致します。一括りに「在地領主」と呼ばれてきた領主にも「荘 園」と「村落」という二重構造 に対応した二種の領主階層があったことがうかがえます。 在地領主と村落領主を、居館規模から分類して、それぞれの役割を考える必要があるようです。

それでは「吉野大堀殿」の居館は、どうなのでしょうか?
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m
②堀跡は幅8~10mで、周辺田地との比高差は40~50cm。
ここからは吉野大堀殿の居館は、A・Cの1、5倍で、地頭・下司クラスよりも広いことが分かります。村落規模を超えて大きな力を持っていた「在地領主」であったことがうかがえます。
次に 水利開発の拠点としての中世居館の研究史を整理しておきます。 
A 小山靖憲は、在地領主の勧農機能を説き、「中世前期の居館の堀は農業用水の安定化のためにこそ存在した」と指摘
B 豊田武は「農村の族的支配者としての武士像」を次のように描いた
①用水統御機能を持つ居館を拠点に水田開発が進めらた。
②そこに「領主型村落」が形成され、
③その結果、郡郷内の村々に一族庶子を配置して開発を推進していく「堀ノ内体制」論が展開
東国をフィール ドとして作り上げられたこの2つの理論は、鎌倉期の西遷御家人の西国での開発に対しても適用され、一時は中世前期の在地領主と開発をめぐる「公式」になります。こうして文献史学の立場から「領主型村落」論が示されます。
 ところがその後に中世居館遺構の発掘調査が進むと、考古学の立場から次のような反論が出てくるようになります。
1987年以降の関東での発掘調査の成果から、橋口定志は次のように述べています。、
①12・13世紀の前期居館は周囲を溝で区画したにすぎず、 灌漑機能を持つ本格的な水堀を備えた方形館の出現は14世紀以降であること、
②史料に出てくる「堀ノ内」は領主居館を指すとは考えられないこと
この指摘により中世前期居館の水堀の灌漑機能は否定されます。それを根拠とする 「領主型村落」
論は、根底からの再検討を余儀なくされます。これを承けて「領主型村落」と「堀ノ内体制」論を問い直す試みが始まります。
そのような中で海津一朗は、領主的開発の原動力を次のように説明します。 
①東国領主の堀ノ内は交通路に面した村落と外界の結節点に位置する
②そこに市や宿が建てられ町場が形成され
③そこを基地として、都市と連結した経済活力が新田開拓につながる
④それが「領主型村落」の祖型となる。
 ここでは灌漑力ではなく、交通路の関係が重視されるようになります。 特に前期居館の灌漑機能が否定されて以降、 農業経営以外の要因で居館の立地を説明しようとする傾向が強くなります。これは初期武士団を農業経営よりも、むしろ都市的な富の再分配に大きく依存していた存在とみる見方と重なり会います。
 しかし、「水堀をめぐらす居館は14世紀以前には存在しなかった」という結論に対して、近畿を中心とする発掘調査が進むと反論が出るようになります。
近畿でも和気遺跡・長原遺跡などの中世前期にさかのぼる居館水堀の遺構が出てくるようになります。これらの分析から水堀をめぐらせた居館が12世紀後半には、出現していることが分かってきました。
しかし、12世紀の前期の水堀については、次のような意見の対立があります
A 長原遺跡の水堀は「初期館においては防御を主目的とするものではなく、田畠への水利を目的とするもの」
B 居館水堀の埋土分析から流水状況が認められないとして、水田をうるおす用水路の役割は果たしていなかった
12世紀の前期居館については、このような対立はありますが、中世後期の居館については、水堀が灌漑機能を持っていたことに異論はないようです。
以上をまとめておくと、領主が開発をリードできたのには、次の2つの根拠があると研究者は考えています。
①居館の用水支配に基づく勧農機能
②都市と直結した経済活力の投入
どちらを重視するかによって、居館領主の性格付けは、大きくちがってくることになります。
  居館と灌漑用水について、研究者は次のようなモデルを提示します。
中世居館と水堀の役割
 
 A. 「水堀=溜池」で、旱魃に備えた堀水が、水田へと給水される場合
 B.「 水堀=用水路」で、居館より下流の水田へ の灌漑用水が流れていた場合
 AもBも、用水を提供していたことには変わりありません。
中世居館と井堰型水源

そこでまず考えるべき点は、その水をどこから引いているのかだと研究者は指摘します。つまり、上流にさかのぼって堀水の水源を押さえるるべきだというのです。居館建設に先だって、堀に水を貯めるためには、水源確保がまず求められたはずです。居館建設に先立ってすでに、湧水や井堰などから導入してくる用水供給のためのシステムがあったはずです。さらに用水を 自らの居館に引き込んでいるので、領主が用水の使用権を握っていたことになります。そうだとすると、 水堀そのものに灌漑機能がなくても、用水路網の末端で水を受 けるだけの場合であっても、 居館の主人は用水の支配権を握っていたことになります。ここでは、水堀は防御機能だけで無く、地域の用水システムと深く関わっていたことを押さえておきます。これと最初に述べた勧農権の問題はリンクします。
これを「吉野大堀居館」の主人にあてはまて考えています。

まんのう町吉野

  まんのう町吉野土地利用図を見ると、大堀居館のまわりは土器川と金倉川の扇状地上部で、いくつもの流れが龍のように暴れ回っていたエリアであることがうかがえます。そのため遊水地化し、低湿地が拡がる開発が遅れた地域であったことは以前にお話ししました。そこに承久の乱以後に西遷御家人がやって来て、大堀居館を構えたという仮説を提示しておきます。

大堀遺跡 まんのう町
大堀居館絵図(江戸時代)
居館の掘には、そこから湧き出す出水が利用されます。それだけでなく土器川に井堰を築造し、導水が始められます。その水は居館の水掘を経由して、下流域に供給されていきます。
そして、灌漑用水の下流域の要所には一族が居館を構え、周辺の開発を行い勢力圏を拡げていくというイメージです。灌漑用水路沿いに一族の居館が設置されていたという事例が近江の姉川水系からは報告されています。そを大堀居館にも当てはめて考えて見ると、大堀居館は土器川からの井堰や吉野の湧き水など取水源を抑える勢力の居館だったことになります。だから先ほど見たように居館規模が大きかったのかもしれません。
灌漑用水網と居館群
灌漑用水路沿いに一族の居館が配置された模式図
大堀居館の下流の居館を見ていくことにします。
琴平 本庄・新庄2

        琴平町の「本庄城(居館)と石川城(居館)の推定地(山本祐三 琴平町の山城)
小松荘琴平町)には、中世の居館跡とされる本庄居館と新荘(石川居館)があります。
荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、上の地図の右下の部分で琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアと考えられています。

DSC05364
新荘の氏神・春日神社の湧水 ここが石川居館の水源
 一方、新庄は春日神社の湧水を源とする用水の西北で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域とされます。春日神社の北側には、丸尾の醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけると石川居館の水堀跡に至ります。こうして見ると、本庄と新荘は小松荘の出水からの水を用水路で取り入れ、早くから開けた地域だったことがうかがえます。同時に、水源地を氏神として信仰の場としています。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)には「本荘殿」「新荘殿」と記されています。ここからは、中世には本荘と新荘の、それぞれに領主がいたことがうかがえます。

 現在では、旧小松荘(五条・榎井)の水源は出水だけに頼っているわけではありません。
満濃池水掛かり図

吉野の①水戸井堰で取水した②用水路の支線が西に伸びて五条や榎井の水田を潤しています。これは、生駒藩時代に西嶋八兵衛の満濃池築造と灌漑用水路の整備の賜と私は考えてきました。しかし、「居館ネットワークによる灌漑水路整備」の実態を見ていると、満濃池が姿を消していた中世に、吉野の大堀居館から小松荘の本庄や石川の居館に水路網が伸ばされてきていたのでないかという疑問が芽生えてきました。最初は、出水利用の小規模水路であったものを、土器川からの取水によって小松荘まで用水供給エリアを拡げる。そして、南北朝にやってきた長尾氏に、この地位は引き継がれていくことになります。こうして長尾氏は、四条や小松荘など丸亀平野南部の土豪たちを被官化して、勢力を拡大するというシナリオになります。

中世居館跡とされる飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)を見ておきましょう。

飯山国持居館2地図
飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)
北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。法勲寺方面から北流してきた旧河道が飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。その流れを掘にするように居館跡があります。現在の飯山ダイキ店にほぼ合致します。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mで、まんのう町の大堀居館とほぼ同じ規模になります。

大束川旧流路
飯野山北土井遺跡から法勲寺も土器川と大束川に囲まれた低湿地帯

土地利用図を見ると、この当たりもかつては洪水時には土器川が大束川に流れ込み遊水地化し、その中野微高地に早くから人々が定住農耕を始めたエリアです。そのため古代には、南海道が東西に走り、鵜足郡郡衙や古代寺院の法勲寺が建立されるなどの先進地帯だった所です。しかし、洪水によって幾度も押し流されたことが発掘調査からも分かっています。そこに現れたのが坂本郷国持に居館を構えた主人です。この国持の地に居館を選定したのも、西遷御家人であり、彼によって周辺開発が進められたと私は考えています。ここでは国持居館と呼んでおきます。
 国持居館と周辺の灌漑用水の関係を見ておきましょう。
坂本郷国持居館と用水路
ここで研究者が注目したいのが東坂元秋常遺跡の上井用水です。       
     上井用水の源流は、近世に大窪池が姿を見せる前は岡田台地の下の出水にありました。古代においては法勲寺周辺の灌漑用水路として開かれたと考えられます。それが中世になって湿原などの開発が進むにつれて、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、下流の東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。いわゆる郷村連合です。
 各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、郷社連合で祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏踊りに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。しかし、用水路の管理整備を下流の郷村のみで行っていたとするのは、私は疑問を感じます。なぜなら、用水路が国持居館を経由しているからです。この居館の主人は、用水路について大きな影響力を持っていたことは、今までの事例から分かります。部分的な用水路であったものを、水源から川津までひとつに結びつけ、用水路網を整備したのは国持居館の先祖とも考えられます。だとすれば、この用水路周辺には、一族の居館が配されていた可能性があります。」

飯山法勲寺古地名大窪池pg

以前に見た大窪池周辺の古地図に出てくる地名を確認します。
ここには東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、近くには「ぞう堂」という地名も見えます。土豪層の存在が見えて来ます。その背後の丘陵地帯の谷間に大窪池があります。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓したのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。

飯山地頭一覧
上表は、飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。鵜足郡法勲寺を見ると壱岐時重が1250年に、法勲寺庄の地頭となっています。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたことが考えられます。そして、国持居館はその拠点であったと私は考えています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

大堀居館 説明版
大堀居館の説明版(まんのう町吉野)
まんのう町吉野の「長田うどん」の約南200m近くの道路沿いに中世の武士居館跡があります。この居館跡については、江戸時代に書かれた「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」という長い名前がつけられた下の絵図が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されていいます。

大堀 
        大堀居館跡は長田うどんの南側 まんのう町吉野

大堀居館5

大堀居館跡5

大堀居館跡(まんのう町吉野) 廻りが水堀で囲まれている
この絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路・飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木などが見て取れます。さらに註として、次のようなことが書き込まれています。
①文字部分は、墨書で絵図名称と方位名
②朱書部分は、構造物と地形の名称と規模
③「大堀」の内側の水田については「此田地内畝六反四畝六歩」と面積が示される。
④堀の外周と内周の堀の「幅」の数値から100㍍×60㍍が館の面積
⑤絵図が書かれた江戸時代には、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰
大堀居館絵図 拡大図
 大堀居館跡 南側拡大図
調査報告書(2005)には、つぎのようなことが報告されています。(要約)
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m、堀跡は幅8~10m
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。③その後しばらくして、堀に石垣が張られた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まり、居館もその役割を終えた。⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
⑤江戸時代には水田となり、堀は灌漑用水路の中に組み込まれた。
私が気になるのは、大堀居館跡は吉野にあり、西長尾城主の長尾氏の勢力エリアにあることです。今回は、長尾氏と大堀居館の関係を見ていくことにします。テキストは「大堀城跡調査報告書」です。
まずは、立地する吉野の地理的環境を押さえておきます。 

まんのう町吉野

大堀居館(城)跡は、まんのう町吉野の緩やかな傾斜の扇状地上にあります。土器川は、それまでの山間部を抜けると、まんのう町木ノ崎付近を扇頂として扇状地を形成します。また、大堀居館跡の西300mには、金倉川が蛇行しながら北流します。地図を見ると分かりますが、このふたつの川が最も近接するのが吉野のこの遺跡付近になります。地質的には地下深くまで扇状地堆積による礫層が堆積しています。耕土直下には「瓦礫(がらく)」と呼ばれる砂礫層が見えているところもあります。しかし、遺跡周辺は後背湿地と呼ばれる旧河川の埋没凹地も多くあります。このような窪地は、古代から中世には安定した用水を確保できる田地でした。最先端のカマド住居を持った吉野下秀石遺跡は、吉(葦)野の開発のために入植した渡来系集団と私は考えています。しかし、発掘現場からは礫層が出てくるので、洪水による被害はたびたび被っていたこともうかがえます。
丸亀平野の条里制.2

まんのう町吉野は条里制施行エリアではない

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制跡
古代の開発は部分的に過ぎなかったようで、中世になっても吉野は湿地帶が拡がるところが残っていたようです。そのため上図をみると四条や岸上は条里制施工エリアですが、吉野は施行外になっています。大堀居館の東側に一部痕跡が残るのみです。そこに西遷御家人としてやってきて、治水灌漑を進めて吉野の開発を進めていったのが大堀居館の主人たちではなかったと私は考えています。彼らのことを「吉野大堀殿」と呼ぶことにします。
この吉野大堀殿と長尾氏の関係は、どうだったのでしょうか?
まず長尾氏について根本史料で押さえておきます。「香川県史の年表」に長尾氏が登場するのは以下の4回です。
①応安元年(1368) 庄内半島から西長尾城に移って代々大隅守と称するようになった
②宝徳元年(1449) 長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進
③永正9年(1512)4月長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物略奪
④天文9年(1540)7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進」 
①については南北朝の動乱期に、白峰合戦で海崎氏は軍功をあげて西長尾(現まんのう町)を恩賞として得ます。こうして庄内半島からやってきた海崎氏は、長尾の地名から以後は長尾氏と名乗り、秀吉の四国平定まで約200年間、この地で勢力を伸ばしていきます。②からは、丸亀平野南部から金倉寺周辺の中部に向けて勢力を伸ばしていく長尾氏の姿がうかがえます。そして、南北朝期になると緊張関係の高まりの中で、西長尾城を盟主にしてまんのう町の各丘陵に山城が築かれるようになります。南海治乱記によれば、土豪武士層が長尾氏に統括された様子が記されています。西讃守護代の香川氏が天霧城を拠点に、善通寺寺領などを押領し傘下に収めていったように、西長尾城を拠点とする長尾氏も丸亀平野南部を勢力下に置こうとしていたことがうかがえます。
 そのような中で讃岐に戦国時代をもたらすのが香西氏による主君細川高国暗殺に端を発する「永世の錯乱」です。
この結果、讃岐と阿波の細川家は、同門ながら抗争を展開するようになります。そして、三好氏に率いられた阿波勢力が讃岐に侵入し、土豪たちを支配下に置くようになります。その先兵となったのが東讃では、三好長慶の末弟・十河一存で、安富氏や香西氏は三好氏に従うようになります。
 一方丸亀平野で阿波美馬との交易活動が真鈴峠や三頭峠越えに行われていたことは以前にお話ししました。このルート沿いに阿波三好氏が勢力を伸ばしてきます。こうして、長尾氏も三好氏の軍門に降ります。それは長尾氏が三好氏に従軍している次のような記録から分かります。
①備中への三好氏に従っての従軍記録
②香川氏の居城天霧城攻防戦へ。三好支配下として香西氏・羽床氏と共に従軍していること
③毛利軍が占領した元吉城(琴平町の櫛梨城)へも香西氏・羽床氏と三好氏配下として従軍
④天霧城の香川氏は、三好氏に抵抗を続けたこと。そのため三好配下の長尾氏と抗争が丸亀部屋で展開されたこと
ここでは16世紀初頭の永世の錯乱以後は、長尾氏は阿波三好氏の勢力下に置かれていたこと、そこに土佐の長宗我部元親が侵入してきたことをここでは押さえておきます。

最初に見た発掘調査には、吉野大堀殿の居館については次のように記されていました。
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まりその役割を終えた。
⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
ここからは大堀居館跡の出現期と消滅期が次のように分かります。
A出現期が13世紀前半の鎌倉時代の承久の乱前後
B消滅期が14世紀後半の南北朝以後
ここから推論すると、Aからは承久の変以後にやってきた西遷御家人の舘と大堀居館が作られたこと。Bからは、南北朝の動乱期の白峯合戦で長尾氏がやって来ることによって、大堀居館の主人は姿を消したことがうかがえます。
以上を整理しておくと
①承久の乱以後に、東国からやってきた西遷御家人が吉野の湿地帶の開発に着手した。
②その拠点として、湿地帶の中に居館を条里制地割に沿う形で建設した。
③当初は掘水は湧水に頼ったが、その後は土器川からの横井(井堰)を建設した。
④この灌漑用水路は、居館を経由して下流の耕地に提供された。
⑤こうして吉野エリア全体の灌漑権を握ることによって吉野大堀殿は支配体制を固め成長した。
⑥しかし、南北朝時代に長尾氏がやってくることになり、吉野大堀氏は次第に勢力を奪われ衰退した。
⑦そして、14世紀後半には居館は姿を消した。
つまり、吉野大堀殿は、長尾氏以前に吉野の灌漑水利を整備し、吉野の開発を担った勢力ということになります。それが南北騒乱の中で姿を消したと私は考えています。その後は、吉野は長尾氏の勢力下に置かれていったとしておきます。

中世居館と井堰型水源

少し結論を急ぎすぎたようです。次回は中世の居館の堀水が、地域の灌漑システム全体の中でどんな役割をになっていたのか。それが居館主人の地域支配にどんな意味を持っていたのかをもう少し詳しく見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大堀城跡調査報告書」2005年
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  以前に紹介した「琴平町の山城」です。著者は私のかつての同僚で、ライフワークとして讃岐の山城を歩きつぶしていました。退職後はその集大成として、調査した山城の成果を各町毎に次々と出版しています。「琴平町の山城」の中には、私にとっては刺激的な山城がいくつか取り上げられています。そのひとつの櫛梨城は、以前に紹介しました。今回は小松荘(琴平町)の榎井にあった石川城(居館)を、この本を手に散策してみることにします。
 琴平 本庄・新庄
琴平町の山城より引用

 小松荘には「本荘」と「新荘」のふたつの荘があり、そこには、それぞれ有力な地侍がいたことを前回は見ました。それでは「本荘」と「新荘」は、現在の琴平町の、どこにあったのでしょうか。また、その有力者とはどんな勢力だったのかを今回は見ていくことにします。
 荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、下の地図の党利現在の琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアではなかったのかと研究者は考えているようです。
琴平 本庄・新庄2
山本祐三「琴平町の山城」より
 
一方、新庄の地名は残っていません。町誌ことひらは、新荘を大井八幡神社の湧水を源とする用水を隔てた北側で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域と推測します。
 「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)という文書には「本荘殿」・「新荘殿」と記されています。ここからは、本荘と新荘それぞれに領主がいたことがうかがえます。それでは新荘殿とは、どんな武士団だったのでしょうか?
 それを知るために榎井の「春日神社」を訪れてみました。
 
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春日神社(琴平町榎井)
この神社は小松の荘が九条家(藤原氏宗家)の荘園として立荘された際に、藤原氏の氏寺である奈良の春日大社が勧進されたのが創始されたと云われます。しかし、社伝には、そうは書かれていないのです。社伝には、もともとは榎井大明神を称しており、社伝によれば榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられたと云います。そして次のような記録が残ります。
寛元 二年(1244) 新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興
貞治 元年(1362) 新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄十二年(1569) 石川将監が社殿を造営

 新庄氏・本庄氏については、前回に見た観応元年(1350)十月日付の『金毘羅大権現神事奉物惣帳』に、「本庄大庭方」「本庄伊賀方」「新庄石川方」「新庄香川方」などの名前が出てくる一族です。彼らは、もともと小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者で、後に国人土豪層として、戦国期には小松荘を基盤に活動する地侍たちと研究者は考えているようです。
 ここからは、中世に榎井明神(春日神社)の維持管理を行ってきたのは、新庄氏であり、その一族である石川氏であったことがうかがえます。このようにして見てくると、この春日神社は新庄氏、後の石川氏の氏神としての性格を併せ持っていたと町誌ことひらは指摘します。
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春日神社の出水
 春日神社には、神域の中に出水があります。
南の大井神社方面から流れてくる水脈が地下を流れているようです。この出水を中心に古代には、開発が進められたようです。この湧水地に水神や水上神が祀られ、それが祠となり、中世には建造物が姿を現すようになったことが想像できます。それが榎井大明神と呼ばれていたのが、いつの間にか春日神社と名前が変わってしまったのかも知れません。
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春日神社の湧水と水神社
 この神社を訪ねて私の印象に残るのは、本殿の南側の湧水です。底から湧き出す伏流水は青く澄んでいます。ここには水神さんの祠が建てられています。これがこの神社の原初の姿だと私には思えてきます。ちなみに、この透明な湧水で近くの武士団のお姫様が化粧の際には、顔を洗ったので「化粧堀」とよばれているという話が伝えられています。

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 春日神社の北側には、醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけて見ると、下図のように石川氏の居館跡の続きます。
小松荘 石川居館

春日神社の西北には、中世武士の居館跡があったようです。
「琴平の山城」には、上のような地図が掲載され、2つの推定エリアが示されています。小さい「中心部?」という枠で囲まれたエリアが居館跡になるようです。これは、現在では、国道319号によって貫かれたエリアで、コトデンの高架橋の南手前の信号付近になります。
この地図を参考に現地を歩いてみました。居館周囲の堀の痕跡が次のように残っていると指摘します。
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東側の堀跡(隣は長谷川佐太郎の墓地)
①東側の堀が、長谷川佐太郎墓地との墓地の間に

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北側の堀跡
②北側の堀が京金醤油のとの間に残ります。
居館跡の西端には、榎井蔵中の新しい鎮守堂が鎮座しています。
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榎井鎮守堂
この鎮守堂に掲げられた「説明板」には、次のように記されていました。

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当地は石川将監の「石川城址」であり、子孫の豪族石川家が居住し、江戸時代榎井村の庄屋をつとめ、金比羅祭の頭人(とうにん)を出す頭屋(とうや)であった。石川家鎮守は、古代石川城の西に位置し、霊験あらたかな神として万人に崇敬されている。祭神  弁財天
善女龍王(清瀧権現)」

この鎮守堂が建つ所から東側が石川氏の居館跡のエリアになると 「琴平の山城」は記します。

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そして、次のような聞き取り調査の結果を記します。

「この鎮守はもともとは「石川家鎮守堂」ですが、個人名では、一般の人のお参りがしにくいので、今では「榎井町鎮守」として祀られている。7月26日(正当縁日)は、石川氏の命日として、今でも毎年お祭りをしている。

昭和の初めまで、このあたりは樹木と竹藪が覆い茂って「石川藪」と呼ばれていた。東側の外堀(現在は水路)は、春日神社からの清らかな水が流れていて、城の姫はこの水で顔を浄め化粧したと伝えられる。そのためこの水路は、化粧股と呼ばれていた。
 
  中世の武士居館の特徴は、水源開発と絡んで行われることが多かったようです。居館まで水源から用水路を整備し、それを居館周囲の堀として、さらにそこから周辺に用水を供給するというプランです。

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榎井神社からの用水路の又(分岐点)に建つ三十番社

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ここでも榎井大明神(春日神社)の湧水を居館まで用水路で引き、その後に周辺に用水路として農業用水を配布していた地侍達の農業経営の姿もうかがえます。
 この居館の主は、どんな武士だったのでしょうか。
「琴平の山城」は、次のような史料を紹介しています
『讃州府志』1745年
榎井城 榎井ニアリ 石井(川?)将監之二居タリ
『全讃史』1828年(現代語訳) 一古城志一
榎井城  那珂郡榎井村に在る。石井(川?)将監がここに居た。
『讃陽古城記』1846年
 同(那珂郡) 榎井村大屋敷  石川将監居城卜云テ 今有小城ト云
讃岐岐国名勝図絵』1854年
榎井村屋敷跡  同所(榎井村)にあり 石川将監是に居たりしなり。今の地を小城ともいう 
●『新撰讃岐国風土記』1898年
石川城  那珂郡榎井村  石川将監 中町の北裏にあり 石川将監之に居たり。全讃史に石井とあるのは誤りなり。いまは六反ばかりの畑地にして、将監が子孫と云う石川某が屋敷となれり。又北には三方に外堀残れり。また北には樹木茂りて、東には地蔵堂、西には弁天祠あり。
『仲多度郡史』(大正7年(1918)
石川城址  榎井村 中ノ町の北裏に営れる所に在り。石川将監の城址なりと云ふ。現今は六段餘歩の畑地となりて 将監が子孫と称する石川某の屋敷なれり。東北西の三方には外堀残れり。又北には樹木を存し 東に地蔵堂あり、西に弁天祠あり
或記|こ「榎井 石川兵庫助従五位下 七千二十石」と見ゆるは是に由あるか
ここからは次のようなことが分かります。
①榎井の城(居館)の主は、石川氏であること
②明治の中頃には、居館跡とその周囲の六反ばかりは、畑地となっていたこと
③東西北に外堀が残っていたこと
④東に地蔵堂があり(現在はない)、西側に弁天祠があった。これは現在は鎮守堂として残っている。
居館の周辺の施設を確認しておきましょう
①東には三十番神堂、榎井大明神(春日神社)
②東の堀跡に面して、長谷川佐太郎墓地、
③西側に鎮守堂(弁天祠、善女竜王堂)。
④西南には、玄龍寺。

以前にも紹介したように、中世武士の居館は、周囲に堀を巡らし竹木を植えた土塁を○○城と表記していました。石川城址は、百年前の大正時代までは東北西に堀を巡らした、竹木の藪であったことが資料から分かります。これは典型的な中世武士の居館です。このエリアが石川氏の居館である可能性は高いようです。

理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館
中世の居館
石川氏についての史料には、どんなものがあるのでしょうか?
石川氏については、西長尾城主の長尾氏が南北朝時代に軍功を挙げて、庄内半島から長尾(まんのう町)やってきた。その際に、家臣として長尾氏についてやって来て、小松庄に定着したのが石井氏や石川氏であると記す史料があります。これが「石井家系譜」で、町史ことひらにも収められています。

 石井家系譜

意訳変換しておくと
十一世 石井太郎左衛門  信光
貞和二年(1346年)正月に、三野郡の海崎・詫間両城主の大隅守橘元高(もとたか)に仕えて五百石を受け、馬廻り武士組となった。
 その後貞治元年(1362)に主人の大隅守が北朝の勅命によって、南朝方の長尾城(西長尾城)に遠征し、中院源少将(なかのいんみなもとのしょうしょう)を誅伐し、その勲功によって主人橘元高は讃岐国の奈賀(那珂郡)・鵜足(宇多津郡)の二郡を賜り、學館院領とした。讃岐国で、北朝将軍(足利)義詮公より六万石を賜っている。
 これによって橘元高は長尾に新城を築き、応安元年(1368年)正月七日に海崎城より長尾城へ移り、長尾大隅守と改名した。
 この時に石井太郎左衛門・石河兵庫介・三井大膳守も勲功によって、那珂郡小松庄に領地をもらつた。榎井・五条・苗田の半分の三か所はおよそ學館院領のうち三千石となり、石河兵庫介に下された。石河はすなわち榎井に居城した。また四条本村・苗田本村・松尾本村のおよそ学館院領のうちの二千石は石井太郎左衛門に下された。石井は松尾愛宕山の陣所に居城した。四条半村・松尾半村・大麻上村はおよそ学館院領のうちの二千石となり、三井大膳に下された。三井は松尾西山に居城した。

しかし、これは300年以後の後世の文書で、同時代史料ではありません。石井・石川氏たちが海崎氏(後の長尾氏)に、西長尾城にやってくる以前から仕えていたということが強調された作為が感じられる史料のようです。どちらにしても、小松荘の地侍たちが長尾氏に従っていたことは押さえておきます。
それでは、石川氏が同時代文書に出てくるのはいつ頃からなのでしょうか。 
前回見た「石井家由諸書」には、九条家領のころは、預所のもとで案主、田所、公文などの荘官が中心になって法会を行っていたと記します。それが南北朝時代以後になると、荘内の有力者が頭屋に定められて、法会に奉仕することになったようです。
 南北朝のころになると、民が結合し、惣が作られるようになったとされます。小松荘の惣については、よくわかりませんが、「金毘羅山神事頭人名簿」を見ると、慶長年間には次のような家が上頭人になっています。
香川家が五条村
岡部家が榎井村
石川家が榎井村
金武家が苗田村
泉田家が江内(榎井)村、
守屋家が苗田村、
荒井家が江内(榎井)村
彼らは、それぞれの村の中心になった有力者だったことが想像できます。このような人たちを「地侍」と呼びました。侍という語からうかがえるように、彼らは有力農民であるとともに、また武士でもありました。この中に榎井の石川家も入っています。

 法華八講の法会の頭屋のメンバーによって宮座が作られ、宮座による祭礼運営が行われるようになっていたことがうかがえます。その背景には、南北朝時代から小松荘の領主は、それまでの九条家から備中守護細川氏に代わっていました。しかし、応仁の乱後には、細川氏の支配力は衰退します。代わって台頭してくるのが地侍たちです。戦国時代に小松荘を実質的に支配していたのは、このように宮座などを通じて相互に結び付きを強めた荘内の地侍たちであったと研究者は考えているようです。

次に町誌ことひらの史料編に収められている〔石川家由緒書〕を見てみましょう。
石川九左衛門事
一 曽祖父            改
           石川権兵衛
右者生駒讃岐守正俊様へ被召出地方二而弐百石頂戴、榎井村二住居仕 御番出府仕候
一 祖父        石川六郎兵衛
右者生駒家牢人之後、藤堂大学様へ罷出、中小性役相勤居申候処、病氣二付、御晦申請罷帰り、榎井村二牢人二而住居仕居申候
一 親         石川平八
延宝之頃御料所榎井村庄屋役被仰付候
御預り地之頃る御出入御目見被為仰付候
右平八悴
                          平八
当時御出入御目見被為 仰付候
            倅 弥五郎
当時庄屋役相勤御出入御目見へ被為仰付候
            倅 石川九左衛門
            御駕籠脇組頭役相勤居申候
当時酒井大和守様二相勤御小性役相勤居申候
右之通二御座候 以上                     平八(二代目)
意訳変換しておくと
曽祖父の石川権兵衛は、もともとの名である九左衛門を改名したものです。曽祖父が生駒家から知行をもらいながら、榎井村に住み、御番の際には高松城下に出府していました。
祖父・六郎兵衛は、生駒騒動後に浪人となりましたが、その後は藤堂家に中小性役として仕えていました。しかし、病身のため暇を頂き、榎井村へ帰って牢人していました。
私の父である初代平八は延宝年間に、池御料所の榎井村の庄屋役を仰せつかるようになりました。
そして、享保六年(1721)年から高松藩の預りの池御領に出入り御目見えさせて頂くようになりました。二代平八の私や、倅の弥五郎もそれを引き継いでいます。なお、もう一人の悴である九左衛門は、酒井大和守様に奉公しています。
この由緒書からは次のようなことが分かります。
①祖父母の時代に生駒家に地侍として知行二百石で召し抱えられた。
②しかし、生駒騒動で牢人となった
③祖父の時代に、生駒家の外戚である伊賀藤堂家に召し抱えられたが病弱で帰讃した。
④小松庄に帰った後に。父平八の代には、榎井村の庄屋を務めるようになった。
⑤この由緒書きを書いたのは二代目の平八である。
生駒藩は讃岐の地侍達を数多く召し抱えます。それ以上に、生駒家の重臣達が召し抱えた地侍は多かったようです。以前にもお話ししましたが生駒藩では、家臣達は自分の領地に居着いたままであったようです。石川氏も、長宗我部元親の讃岐侵入をやり過ごし、なんとか戦国末期を乗り切り、生駒氏の地方侍として知行を得る身になっていたとしておきましょう。
 しかし、生駒騒動でお家は断絶し、浪人の身となりますが生駒藩の外戚である伊賀の藤堂家に再就職ができたようです。しかし、祖父が病弱のため暇乞いをして讃岐に帰ってきたと記されます。
 ここで疑問に思えるのは石川氏は中世以来、小松荘の有力地侍であったはずです。前回見たように、「神事記」には石川家の名前は、宮座の構成メンバーとして次のように登場します。
慶長十二年石川庄太郎
元和 三年石川権之進、
寛永十八年石川幾之丞
承応元年(1653)喜太郎子三太郎、
寛文三年(1663)喜太郎子権之介
の名前が見えます。
ここからは、戦国末期からは、石川氏は小松荘の庄官でもあったことが分かります。しかし、提出された由緒書きには、そのことが何も触れられません。庄大郎以前のことは、忘れ去られていたのでしょうか。それとも別系統の石川氏なのでしょうか。今の私には、このたりのことはわかりません。

 豊臣秀吉によって兵農分離政策が進められると、地侍たちは、近世大名の家臣になるか、農村にとどまって農民の道を歩むかの選択を迫られます。この史料からは小松荘の地侍のひとりである石川家は後者を選び、榎井村の庄屋としての道を歩んでいたことが分かります。それが、石川氏の居館跡で、その周囲六反地だったのかもしれません。しかし、石川家が途絶えた後は、居館は堀に囲まれた竹藪と、その周辺の畑地となっていたようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

    参考文献
山本祐三 琴平町の山城 石川城 
町誌ことひら第1巻 室町・戦国時代の小松・櫛梨
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中学生の使っている歴史の資料集を見せてもらうと、中世の武士の居館を次のように説明しています。
飯山国持居館1
武士の居館
武士は、土地を支配するために、領内の重要な場所に、土塁・堀などに囲まれた館を造り住みました。武士が住んでいた屋敷のことを「居館」と呼んでいます。居館は堀ノ内・館・土居などとも呼ばれます。館の周囲に、田畑の灌漑用の用水を引いた方形の水堀を設け、この堀を掘った土で盛り上げた土塁で囲んだ中に、館を構えました。

 ここからは中世の武士たちが用水が引きやすい川の近くに堀を掘って、土塁を築いた居館を構えていたことを子ども達に伝えています。しかし、居館はその後、土に埋もれて忘れられたものが多いようです。そんな中で「丸亀平野の中世武士の居館捜し」を行っている論文を見つけました。その探索方法は、航空写真です。
飯野山の麓の今は忘れられた居館を見に行きましょう。
もちろん航空写真で・・  
飯野山の麓の飯山北土居遺跡
飯山国持居館2航空写真
クリックで拡大します
この写真は1962年に撮影された丸亀市飯山町西坂元付近の写真です。北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。写真中央に南から北へ北流する旧河道が見えます。その流れが飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。この南東側に、周りの条里制遺構とは形が違う小さい長方形地割がブロックのように集まって、大きな長方形を造っているのがよく見ると見えてきます。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mになります。

飯山国持居館2地図

 この長方形の北辺と東辺の北部には、縁取りのような地割が見えます。また、地割ではありませんが長方形の西南部には周囲よりも暗い色調の帯(ソイルマーク)が白く写る道路の南側と東側にあります。これは、城館の堀だと研究者は考えているようです。この堀で囲まれた長方形部分が居館になります。
 北辺はこの撮影後に道路造成で壊されたようですが、その後の水路改修工事の際には、この部分から滞水によって形成されたと考えられる茶灰色粘土質によって埋った溝状遺構がでてきたようです。水路工事は、この下部まで行かなかったので発掘調査は行われなかったようですが、中世の土器片が採集されています。ここからも細長い地割は、中世のものでかつての堀跡と考えられます。周囲に堀を巡らした中世の長方形の区画は、居館跡のようです。この遺跡は飯野山北土井遺跡と呼ばれることになったようです。
 この地域は敗戦直前に、陸軍飯山飛行場が造成されました。
昭和20年5月に国持・西沖を中心とした地に陸軍の飛行場建設が始まり、田畑借上げとともに家屋の立退きが命令されます。借上田畑の面積21町余・立退家屋16で、建設は動員により突貫工事で進められます。8月に敗戦となり、立ち退きを命じられた農家は、滑走路を元の姿に返す作業に取り組まなければなりませんでした。昭和21年に国営開拓事業飯野山地区として指定され、復旧工事は進められ昭和30年頃までには、ほぼもとの水田にかえったようです。かつて滑走路になった所は航空写真からは、その痕跡をみつけることはできません。人々の記憶からも忘れ去られていきます。土地所有者の変動などで旧地名や字名も忘れ去られてしまったようです。ちなみに、この飯山北上居遺跡の所在する小字は「土井」です。
飯山国持居館3グーグル地図

グーグルで飯野山北土井遺跡が、現在どうなっているのかを見てみましょう。
①居館跡の西側はダイキとセブンイレブンの敷地。
②居館跡の北側には町道が通っている
③居館跡の南東角をバイパスが通っている
④旧河道はいまでもはっきりと見える。
ダイキが出来る前には、発掘調査が行われたはずですから報告書がでているはずです。読んでみたくなりました。  私が興味があるのは、この旧河道です。中世城館跡は川の近くに立地し、川筋を軍事用の防衛ラインとして利用していた例が多いようです。この飯野山北土井の城館遺跡も西側と北側は、旧河道が居館を回り込むように流れていきます。川が外堀の役割を果たしているように見えます。
 もうひとつは、この川の源流がどこなのかという点です。
飯山国持居館3グーグル地図2

河道跡ははっきりしていて、グーグルで上流へと遡っていくことができます。行き着く先は、旧法勲寺跡です。ここは大束川の支流が不思議な流れをしている所です。なにか人為的な匂いを感じますが、今は資料はありません。今後の課題エリアです。
5法勲寺images (2)

ここに居館を構えていた武士団とは、何者なのでしょう?
 居館のある飯野山の南麓は、現在は西坂本と呼ばれています。ここは「和名抄」に載せられた阿野郡の8つの郷のうちのひとつ坂本郷のあったところです。

飯山国持居館5鵜足郡郷名
角川地名辞典 香川」は、西坂本について次のように記します。
土器川の右岸,飯野山(讃岐富士)の南に位置する。地名の由来は,坂本郷の西部に位置することによる。すでに「和名抄」に坂本郷とあり、昔,坂本臣がこの地を領していたのに始まるといわれている。地内の国持については、天正19年1日付の生駒近規知行宛行状に・当国宇足郡真時国持村と見えている(岩田勝兵衛所蔵文書 黄薇古簡集」
ここからは次のような事が分かります。
①坂本郷は、古代の「坂本臣」に由来するという伝来がある
②坂本郷が東西に分かれ、近世初頭の生駒藩時代には「国持村」があった。
確かに地図には「西阪本」や「国持」という地名が見えます。
さらに地名辞典には近世の項に次のようなことを記します
③江戸時代は西阪本は、「坂本西分」と呼ばれ、高柳村と国持村に分かれていた。
④神社は坂元神社ほか2社。庄屋は天保9年真鍋喜三太の名が見えるが、多くは川原村か東坂元村の兼帯であった
と記されます。地図に出てくる「国持」は名主名で、戦乱の中で武装化し「武士」になって行くものが多いようです。居館がある所と「国持」は、ぴったりと一致します。我田引水的で申し訳ありませんが、手元にある情報は、今はこれだけなので
飯山北土居遺跡に居館を置く武士団が周辺を開き、その周辺を当時の棟梁名「国持」でよばれるようになった
としておきましょう。
大束川旧流路
飯野山南の土地利用図 旧大束川の流路が記されている
 もう少し、想像を飛躍させて「物語」を創作すると、こんなストーリーになるのかもしれません。
①古代豪族の綾氏が坂出福江湊から大束川沿いに勢力を伸ばし、坂本郷へ入ってきた
②綾氏の一族は、坂本郷に開拓名主として勢力を築き、武士団化
③彼らの結束の場となったのが綾氏の氏寺法勲寺(後の島田寺)
④島田寺の真言密教の修験者は、神櫛王の「悪魚伝説」を創作し、綾氏一族のルーツとする。
⑤その綾氏一族のひとりが「国持」で、彼は飯野山南麓の旧大束川支流の屈曲点に拠点を構えた。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献 
 木下晴一       中世平地城館跡の分布調査 香川県丸亀平野の事例                      香川県埋蔵文化財調査センター  研究紀要3 1995
 

  

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

       

まんのう町吉野の「大堀」とは?

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 まんのう町の吉野字大堀(長田うどんの交差点を満濃池方面に500㍍行ったところ)の県道の東に小さな堀が残っている。説明板には「王堀」と呼ばれ「中世の豪族の館跡」と書かれている。いったいどんな「王堀」なのか、資料に当たりながら実相を見てみよう。
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絵図上の野々井出水にあたる部分だけが残っている

 この堀については
「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」
という長い名前がつけられた資料が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されている。
 絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路の一部としての飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木、輪郭の形状が見て取れる。文字部分は、墨書で絵図名称と方位名を、朱書で構造物と地形の名称と規模が書かれている。
 「大堀」の内側の水田については
「此田地内畝六反四畝六歩」
と面積が示される。そして、堀の外周と内周の「竪長」と、堀の「幅」について数値が記入される。以上から100㍍×60㍍が館の面積となる。また、絵図が書かれた当時は、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰が描かれている。

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大堀絵図
周囲との位置関係を絵図に書かれた文字資料から見ておこう。
①「五毛往来」「五毛」は、満濃池の南東隅にある地名。
②「巳午ノ間満濃池当り」 南南東の方角には、満濃池がある。
③「南」角丸長方形の堀は、二つの対角線が南北方向の線上にのっている。これは、堀の長軸方向が那珂郡条理地割の方位であるN-301Wにのっているため。
④「未方真野村一向宗光教寺」 「光教寺」は、真野字吉井に現存 。同寺は、中世の「文明年中」の建立という由来をもつ。
⑥「西酉方金毘羅社当り」 西の方角には、金毘羅社がある。

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⑦「戌方八幡宮」「八幡宮」は、満濃町大字吉野字八幡にある「八幡神社」が相当。 方角は、およそ北西方向。
⑧北方面は「丑ノ方当新名氏屋敷当几三丁」「黒木玄碩屋敷几八丁」「新名氏屋敷」の2つの屋敷は、当時吉野に存在した屋敷。
「黒木玄碩屋敷」は、大宮神社付近。
以上からこの絵図が「大堀」のかつての姿を写したものであることが分かる。

イメージ 5

⑧「黒木玄碩屋敷」は、この人物の生没年がこの絵図の作成時期をきめる有力証拠になる。が、詳細は不明。しかし「新名」や「黒木」の苗字を有する人物が江戸時代に大庄屋、社人といた。ここから本絵図が江戸時代に作成されただろうことが推測できる。

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 航空写真で見てみると・・・・
 今は王堀の中央を県道が走り、倉庫が建てられて小さな掘だけが残る。ここに立っても当時の様子を偲ぶことは難しい。しかし、グーグルで見てみると長方形の大きな堀跡が読み取れる。堀跡の西・北・東の細長い田地や円弧を描く畦畔として残されている。南辺は幅が狭くなっており、南西隅は宅地のために本来の姿は失われている。土塁は、東辺・南辺の畑や、西辺の草地や畦道がそのなごりを示している。北辺はその痕跡はうかがえない。四周する土塁の内側の田地の畦畔の位置は、絵図のものと一致する。確かに、この地を描いたものだ。

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大掘の西側の堀跡らしき形状
 この堀については、「王堀」「大堀」と呼ばれ、次のような伝承も伝わっている。
 神櫛別命の裔で、那珂郡神野郷を本拠とする豪族の酒部黒麿は、「移りて良野の大堀と云処に居住」した。酒部黒麿の居宅の場所は、「王堀」または「王屋敷」と称していた。王屋敷の東南には「冠塚」「御衣塚」があり、東方には「御殿が岡」があった。

しかし、これは後世の附会で那珂郡に神野郷があったことは史料からは確認できないし、酒部黒麿は近世に書かれた金倉寺縁起に、円珍の因支首氏(和気氏)の祖先として登場する人物だ。近世になって、神櫛王(讃留霊王)伝説と共に流布された話が、この地にも伝わっていたことを示すにすぎない。

 もうひとつの視点としては、近年の中世城館跡の調査研究の成果から考えられる推察である。
中世の武士集団は、まず平地に立地し、方形か長方形の堀と土居をともなう居館を造営し防御性を高める。そして、麓の居館と最寄りの山城とでセットとなる根小屋式城郭の、居館に相当するものであったのではないか。
理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館

 そういう視点でみるならここから3㎞北には、土器川を挟んで長尾山山上に西長尾城がある。県下有数の山城との関係なども想像してみるのも楽しい。
 H16年に県道拡幅の際に一部の調査が行われた結果、普通の農民の住居とは思えない太い柱をもつ建物が出てきている。そして14世紀前半の鎌倉時代で廃墟となっているようである。戦国時代の建物群は今のところ見つかっていない。
 つまり、戦国期を迎える前に周辺勢力との武力抗争で滅び去った武家の居館とも考えられる。滅ぼしたのは長尾氏なのか??? あくまで推理推測である。
 どちらにせよ、この絵図は「田地絵図」という農業的要素よりも、同地の軍事的な価値を記した「館跡絵図」の性格が強い。四国新聞2016年9月14日版「古からのメッセージ」では「大堀城跡」として紹介されたいた。

参考資料
 野中寛文  吉野上村の田地絵図は館跡絵図     香川県立文書館紀要3号

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