瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:三豊の歴史 > 三豊市詫間町

 以前に庄内半島の栗島に、20軒を超える廻船問屋が軒を並べていたこと、その中の安田屋には、金毘羅大権現の護摩札をはじめ多くのお札が残されていることを、次のようにまとめました。
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。

 今回は「アミヤ(網屋)」の神棚と御祓箱を見ていくことにします。
テキストは 「織野智子     伊勢御師の御祓箱―粟島旧廻船問屋「網屋」に伝わる伊勢信仰道具 民具集積NO19号(2017年)」です。「アミヤ(網屋)」についての予備知識は、以下の通りです。
A「アミヤ」は、安永7年(1778)の文書に網屋三右衛門が出てくるのが初見。
B 徳茂姓で、他に3軒あって「ジュウエ」・「スケゴ」・「モトョムサン」があった
C 徳重姓の「アミジ」、「カンジュ」の屋号の家は徳茂家の親戚
栗島の廻船問屋の神棚が大きいことは、以前にも紹介しましたが、瀬戸芸会場となっていた旧廻船問屋の神棚を見ておきましょう。

粟島 廻船問屋
粟島の旧廻船問屋旧宅
粟島の廻船問屋の神棚 瀬戸芸会場「この家の貴女に贈る花束 2019年
座敷の上の神棚

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場

①県指定の船絵馬がある伊勢神社を管理する伊勢屋は、九社(神殿数)で幅360㎝、
②徳重家の神棚は十一社で幅360㎝
③「網屋」徳茂家の神棚は、屋根の中央を高くした屋根違いの十三社様式で、幅300㎝
「粟島の神棚(瀬戸内海歴史民俗資料館)」
 「粟島の十三社の神棚 (徳茂キクノ資料:瀬戸内海歴史民俗資料館)

見てまず感じるのは大きくて、横に長いということです。ここに収められているものを確認しておきます。
1 神棚 屋根は中央を高くした屋根違いの十三社様式、神殿も十三。
2 軸 「天照皇大神、八幡大神、春日大神」軸
3 御祓箱 「多賀神社 青龍山般若院 壽命延御守」
4 護摩札 「安政三年六月吉日 九品山極楽寺 奉修不動供養請願成就祈」木札
5 護摩札 「安政五年六月吉日 九品山極楽寺 奉修不動供養請願成就祈」木札
6 護摩札 「金峯山櫻本坊奉修 大峯山上護摩供養祈□」木札
7 御祓箱 「正一位兼道大明神」
8 御祓箱 (紙札等入)
9 玉串 (出雲教大神玉串)
10 護摩札「出雲教大神海上安全守護」木札
11 御師小箱「太神官御師南倉」
12 紙札 「住吉大神宮」
13 紙札 「住吉大神宮神楽」
14 紙札 「住吉大神宮御璽」
15 紙札 「住吉大神宮御祈祷御守」
16 紙札 「水天宮御守」
17 紙札 「厳島神社御守護」
18 小祠 「金毘羅宮御守」
19 小厨子(角箱に御幣・鏡・五銭)
20 「八天杓□□始御前祓」入箱「八天杓□□始御前祓」
21 小祠
22 小祠
23 恵比須(陶製)
24 大黒(陶製)
25 厨子(妙見山本尊厨子)
26 妙見山曼荼羅(板に貼り付けられた紙曼荼羅「摂州能勢郡野□妙見山 □衆生故無量神力 南無妙法蓮華経」)
27 御祓箱(御師祈祷封箱「揚舩御祈祷」)
28 御祓箱(祈祷封箱「伊勢永代五千度御祓」)
『収蔵資料目録7』香川県立ミュージアム
廻船問屋が信仰し、お札などをもらっている寺社が多いことに驚きます。解説には次のように記します。
「豪華さを競った結果なのか、廻船という性格から各地の御神体を納めるために大きくなったと理解すべきか」

私が気になるのは、この徳茂家の神棚には金毘羅大権現のものは、18の「御守」しかありません。以前に見た「安田家」に比べると対照的です。家によって、海の神様として信仰する神仏が異なっていたのでしょうか? 廻船問屋たちが金毘羅大権現一色の信仰ではなかったことを押さえておきます。

ここで研究者が注目するのが「御祓箱」です。御祓箱とは何なのでしょうか?
 
伊勢のお札と御祓箱
一番左の箱が「お祓い箱」で、中に一万度の祓いをしたお札が入っているようです。これについて喜多村庭『嬉遊笑覧』巻之七(文政十三年1830)には次のように記します。

「伊勢の御師が人のもとに送る御祓一万度といふ事、仏家の千部万部の読経にならひ、又年の暮に僧徒が檀家へ巻数を贈ることにならへり。」

意訳変換しておくと
「伊勢御師が人もと(檀那)に送る「御祓一万度」というのは、仏教僧侶の千部万部の読経に習って、年の暮に御師使者が檀家へ巻数を贈ることである。

御祓箱.jpg

伊勢御師の御祓箱(山東京伝の『新造図彙』にある図)


現在の伊勢大社の神宮(御祓)大麻

御祓大麻を『広辞苑』で調べると次のように記します。
御祓 災厄を除くために、神社などで行う神事。また、そのお札。はらえ。
大麻 伊勢神宮および諸社から授与するお札。

『日本国語大辞典』には
御祓 特に伊勢神宮で八度置神事(やつらおきじんじ)の祓をして毎年全国の崇敬者に配った大麻やお札。おはらいぐし。

平凡社東洋文庫『東都歳事記』にある朝倉治彦氏の註には、次のように記します。
太麻 お祓の札。必ずしも伊勢神宮授与のみをいうわけではないが、伊勢のが著名であった。
大麻は、御師が旦那へくばるもので、神宮とは関係なかった。箱祓と剣先祓との二種がある。
伊勢暦は、六折金扉暦、金扉など各種があるが、大抵は上紺、並紺であった。

「大麻=お札」のようです。しかし、幕末の時点では「御祓」と「大麻」は別物であったと次のように考える研究者もいます。
「大麻」は御札、「御祓」は祓えに使った串を紙に包んだもの(剣先祓)
又は箱へ入れたもの(箱祓)、
伊勢大麻(お札)と御祓箱と伊勢御師の関係を、補足・整理しておくと次のようになります。
「御祓箱」というのは、もともとはお祓いの験や神官からいただいた薬種や暦などを入れる箱のことでした。この御祓箱を、もってきたのは伊勢御師です。彼らは諸国の道者(檀那)の家を一軒ずつ訪問し、お札やお土産を配布し、初穂料を集め、伊勢家のお参りを勧誘しました。そういう意味では、御師は下級神職であり、旅行斡旋業を副業としていた者とも云えます。御師は伊勢神宮の内官と外宮に居住エリアを形成して、宇治に190、山田に480ほどいたようです。
 伊勢御師から御祓大麻などを受取り、初穂料を納めるのが信者(道者:旦那:檀家)です。御師にとって、道者が布教地盤となり、その名簿リストも売買対象となりました。讃岐では高松周辺や、三豊・那珂・多度郡の道者名簿リストが残っていることは以前にお話ししました。

粟島の「アミヤ(網屋)」に残されていた御祓箱を見ていくことにします。
粟島 「一万度御祓大麻」御祓箱

 粟島のアミヤ(徳茂家)の「一万度御祓大麻」御祓箱
内箱(真ん中)と外箱(右)について、次のように記します。
①上書中央に「一万度御祓大麻」、その左行に「揚松御祈祷」、下に「御師 南倉」の墨書
ここに記された「揚船御祈祷」については、次のような説があります。
A 船たでなどのメンテナンスのために船揚げをしたときの特定の析祷
B 「船下ろし」に対して「揚船」だとしたら、廃船して解体する際の析祷
どちらにしても史料がないのでよく分かりません。
左端は「祓串」といって御師が使用した祈祷の道具です。幅1cm弱、長さ20㎝ほどの板状のもの数十本が一括りにされています。棒の先には紙垂や麻苧がつけられたものを大麻(大幣)と云いますが、それが小型化したものとされます。大麻と同じように、罪や械れを祓う神聖なものとして扱われてきました。この祓串を納めた箱が「御祓箱」で、「御祓大麻」や「お祓いさん」と呼ばれました。ありがたい御祓箱ですが、新年がくると新しいものと取り替えられます。そこで「祓い」を「払い」(邪魔・不要なものを取り除く)にかけて「お払い箱」の別称でと呼ばれるようになります。そして今では「お祓い箱」といえば、「用済み」の意味で用いられるようになっています。

 もうひとつ御祓箱はあります。これには「五千度御祓大麻」とあり、内箱と外箱からなります。
粟島 「一万度御祓大麻」御祓箱内側
外箱(写真3)はヒノキで、本体と蓋からからなります。表面には「伊勢永代 五千度御祓」、裏面に「此器 安政三(1856年)卯星三月下旬調之」と記されています。内箱(写真2)は紙で封印され、上書きに「五千度御祓大麻 御(以下破れ)」とあります。中には細い祓串が五本(写真4)あります。「五千度」「一万度」というのは祈祷の回数のことだと研究者は指摘します。祈祷は、より多く行えば行うほど霊験が増すと信じられていたようです。

粟島 厨子に入る御祓箱

 埼玉県の伊勢殿神社に、御師が御祓大麻を祈願した机があります。
折り畳み式 八足台 八足案(木印) 高さ1尺1寸6分×巾1.8尺 高さ35cm×巾55cm 八脚案 折りたたみ式 祖霊舎 神徒壇 お供え用の机 日本製
八足案

「八足案」といい、「嘉永五」(1852)の墨書銘があります。八脚の机は組み立て式で、小箱に収納でき持ち運びができます。机上に紙幣と管麻を挟んだ八針串を立て、その前に銭切箱という96枚に切った小片の紙を入れた箱を置きます。板面下の左右に張られた紐には板きれが通され、一定回数拝むとその板きれを移動させ、祈祷の回数をカウントとするしくみです。最下段の脚には八本の祓串が立てられています。こうして、祈祷の数を数えていたようです。

 御師南倉とは何者?
御祓箱が粟島の廻船問屋「アミヤ(網屋)」にあるということは、伊勢御師の南倉太夫が栗島に来ていていたことを裏付ける史料になります。

粟島 伊勢御師南倉

御札箱に入った上の紙製小箱 にも「太神宮 御師南倉」の墨書があります。前々回に見た『白米家文書』からは次のようなことが分かります。
A 天文20(1551)年に、南倉太夫は相模国の道者をある商人に売り渡した
B その後、寛永9年(1642)に、その商人から白米大夫が道者名簿を買い受けた。 
 粟島にやってきていた南倉氏を見ていくことにします。
①南倉氏の旧名は足代氏
②足代氏は、北氏などとともに異姓家(権禰宜の家)の都市地下人で山田三方の重要なメンバー
③足代氏は正遷宮の資金を提供したことで、異例の渡会姓まで獲得
④南倉太夫の檀那の拠点は近江国で、蒲生・甲賀・愛知郡・神崎郡の一部
さらに『愛媛県史』「学問・宗教編」には、明治初年の「伊予廻壇伊勢御師一覧」が載せられていて、そこからは足代式部大夫が、「越智郡、野間郡、風早郡、和気郡、温泉郡、宇和郡」に檀那を持っていたことが分かります。こうして見ると、足代氏は伊予宇摩郡に連なる西讃地方に檀那たちを持っていたことが考えられます。

  以上をまとめておきます
①粟島には廻船問屋が20軒ほどあり、廻船が寄港する交易港であった。
②粟島の廻船問屋は、競うように神棚を大きくし、そこに多くの神社を祀り、お札を集めた。
③その中に、伊勢御師南倉大夫の残した御祓箱がある。
④ここからは、南倉大夫が粟島の廻船問屋の面々と檀那として、お札配布を行い、初穂料を集めていたことが分かる。
⑤南倉大夫は、伊予にも多くの檀那たちを確保していたことが檀那リストからは分かる。
⑥伊予に続く三豊・多度・那珂郡も、南倉大夫のテリトリーであったことがうかがえる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「織野智子     伊勢御師の御祓箱―粟島旧廻船問屋「網屋」に伝わる伊勢信仰道具 民具集積NO19号(2017年)
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  前回は庄内八浦を、ひとつの集団として丸亀藩は捉えていたことを見ました。その中で、幕末には粟島には何軒もの廻船問屋が姿をみせ、対岸の箱浦にも勝間屋(森家)が松前藩と活発な交易活動を行って、富を集積していたことを押さえました。今回は、志々島の「伊勢屋(上田家)」を見ていくことにします。
粟島】香川県の隠れた名観光地!釣りスポットだけじゃない | ARINKO LOG

角川の日本地名大辞典からは、志々島について次のような情報が得られます。
①詫間郷に属す庄内村が幕末に、志々島を含め大浜浦・生里浦・箱,南・積浦・栗島・香田浦・家浦の諸村に分村された。
②村高は、旧領_59石余
③耕地は畑17町8反余。屋敷3反余、
④戸数133・人口673(男329・女334)
⑤漁舟50
⑥泉は水之浦泉
⑦神社は八幡神社・大山祗大明神・十握明神ほか祠6
⑧寺院は利益院(山崎藩時代に京都大覚寺の末寺として創建)
⑨魚業の島として栄え、寛政11年には荘内浦・粟島でナマコ120斤が中国に輸出(詫間町誌)
ここからは幕末には、この狭い島に673人も住んでいて、漁場と廻船に従事していたことが分かります。ただ、廻船に使われた持ち船などは記録には出てきません。

『瀬戸内海 志々島の話』には、伊勢屋(上田家)のことが次のように記されています。(要約)
「志々のいせやか、いせやの志々か」と唄われた。その屋号の由来は、伊勢の大夫の定宿となっていたために「伊勢屋」と呼ばれた。以下の当主が船持ち、船問屋や志々島の組頭として活動した。
享和期頃  上田善八
文政期     勘蔵
嘉永期     森蔵
志々島の廻船問屋の活動を裏付けるのが八幡神社の拝殿内に貼付されている木札で、次のようなことが分かります。
①「奉納随神寄付」(文政12(1829)年)に、大坂雑魚場(雑喉場)の天満屋、尼埼西町の網屋からの寄付奉納が、志々島の花屋、新屋などが引請世話人となって行われた。
②「明神丸」「幸丸」など廻船の船持ちの名前、伊勢屋勘蔵の名前、島の若連中の名前も見え、志々島の廻船問屋が大阪方面とつながっていたこと
①からは、志々島の魚が大阪雑魚場に届けられていたこと、その取引を通じて大阪の網屋とも親密な関係にあったこと、②からは志々島にも廻船問屋が何軒かあり、持ち船も持っていたことが分かります。

伊勢屋の「御客船御祝儀帳」から志々島に来港した廻船を一覧表にしたのが下表です。
志々島廻船来港数一覧
志々島に到着した廻船は、世話料として伊勢屋に「御祝儀」を届けています。それを年次別化すると一番多かったのが嘉永5(1852)の33艘です。幕末から明治にかけての30年間で239艘がやってきています。
 廻船を船籍地別に見ると、摂津の「灘目浦」地区の各湊が98で最も多く、日向・播磨・肥後・伊予などと続きます。こうしてみると瀬戸内海を東西に航行する各地の船が志々島に立ち寄っています。その中には、「因州御手船」「伯州御手船」などもあり、各藩の海上交通の拠点ともなっていたことが分かります。
 また、停泊するのは一泊だけではなく、次のような表現も見えます

「三日、四日逗留」、「死人御座候二付世話料二被下」

来島の「祝儀」の中に葬儀料が含まれています。航行中に亡くなった乗組員の葬儀まで世話しています。

ここで研究者が注目するのは、「たて草代(船を爛でる経費)」や、修理等に使用する「輪木」代金を支払っていることです。
船タデでについては、多度津と櫃石島にタデ場があったことは以前にお話ししました。

多度津港の船タデ場
多度津湛甫に見える船タデと、その背後の造船所(讃岐国名勝図会)
多度津港 船タデ場拡大図
多度津湛甫のタデ場と造船所の拡大図(讃岐国名勝図会)
大型船を潮の干満を利用して浜に引き上げ、輪本をかませ固定して船底を焼いている様子が描かれています。勢いよく立ち上る煙りも見えます。その背後では、船が作られているようです。周囲には用材が数多く並べられています。これは造船所のようです。ここからは、多くの船大工や船職人たちが働いていたことが見てとれます。
 タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。
しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。御手洗が「おじょろぶね」として栄えたのも、タデ場と色街がセットだったからだったようです。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町の繁栄のためには「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。つまり、木造船のメンテナンスに不可欠なタデ場が志々島にはあったことが、廻船を呼び込む要因のひとつだったのです。

本島の塩飽勤番所に残された文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録(坂出市史より引用)です。
与島船タデ場 利用船一覧
ここからは、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かります。
これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。そてして、船タデ経費として次のような項目が請求されています。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用
つまり、船タデには周辺の島々から大量の茅が燃料として持ち込まれていたこと、それを集積運搬する専業船乗りたちもいたことが史料からは分かります。備讃瀬戸には、次の3港にタデ場あったようです。
塩飽の与島
多度津(金毘羅大権現参拝の拠点)
庄内八浦の志々島
志々島にも周囲の島々から船タデ用の茅が大量に運ばれていたはずです。
春に大阪を出た廻船の船頭は、瀬戸内海を出て日本海に入る前にどこかの港で船タデを行って、船底を綺麗にして、船の最高の能力が出せるように準備います。廻船がタデ場のある港にやってくるのは、レースの前に必ずコックピットで整備を行うレーシングカーと同じようなものであったのかもしれません。しかし、志々島のタデ場がどこにあったかは、分からないようです。

志々島は広い漁場を持ち、漁業でも活気を呈していました。
「西讃海陸予答」には次のように記されています。

「此島(志々島)漁事を業とし船待を専とす。水有回船掛りよし。爛(タデ)場所を好み競て寄る。」

ここからは、志々島は、漁業の他に廻船稼ぎが盛んであること、さらに諸国の廻船が立ち寄ることができやすい場所であること、その吸引力のひとつが、廻船航行に不可欠な「爛場(船たで場)」があったことだと指摘します。
 
「庄内八浦」の漁業について、藩の生魚運上徹底の周知文書から研究者が作成したのが次の表です。
庄内八浦 船方運上者

 この史料は、元文元年(1736)10月27日、庄内組大庄屋辻佐右衛門(大浜浦庄屋)に、丸亀藩の代官水野理右衛門・福田定右衛門が奉行衆からの生魚運上徹底を伝えたものです。その後、11月7日、大庄屋が浦方へ読み聞かせを行い、それに対して組内の漁人・生船持・組頭が連判しています。ここからは網方運上を納める漁人が62人、生船を持って運搬している者が8人いたことが分かります。研究者が注目するのは、運上銀の吟味を「問屋藤六」(魚問屋)が行っていることです。浦での魚問屋の占める重要性を研究者は指摘します。

『瀬戸内海 志々島の話』は、志々島の漁業について次のように記します。(要約)

①明治初年までは広範な漁場を一手にして、島は鯛シバリ網の本拠地となり、近在から多くの出稼ぎ者も集まって「金のなる島」と称された。当時この島だけで7~8統のシバリ網元があり、ひとつ80人程度の人手を要するので、この漁だけで五~六百人の人員を必要としたのである。

 また、明治2年の文書(原史料は不明)には次のように記します。

「当嶋(志々島)は漸く高五拾九石九斗六升余之処、家数百五拾軒、人数七百五拾余人相住、迪茂農業一派にては渡世成り難く、旧来漁業専一に相稼ぎ、上は真島上より下は香田浦和田門磯辺迄の網代にお為て四季共繰網、蝶網、打瀬小職に至る迄何等子細屯御坐無く相稼ぎ、御加子、役の者勿論御菜代米物諸運上向滞り無く上納仕り」

意訳変換しておくと
志々島は石高60石足らずで、家数は150軒、750人あまりが住む、農業だけでは渡世できないので、古くから漁業に進出し、東は真島上より、西は香田浦和田門磯辺までを網代としての権利を持って、四季に渡って、繰網、蝶網、打瀬小職までの漁獲方法を駆使して操業しています。加子(水夫)役の者はもちろん、菜代米などの運上も滞りなく上納している」
ここからは次のようなことが分かります。
①石高が少ないが家数や人口は多く、多くは漁業や廻船の乗組員として生計を立てていること
②操業区域として、土器川河口の真島から香田浦かけての広域的な漁業権が藩により与えられており、特に鰭や鯛の宝庫であった
③島の漁業が「繰網、蝶網、打瀬網、小職」であったこと
 この漁場獲得については、江戸時代末期に、丸亀藩の財政逼迫の際に、志々島の「伊勢屋」に借り入れの申し込みがあったときに、「伊勢屋」当主は「藩へお金をお貸しすることはできません。御用金として上納させていただきます」と多額の金子を献納した。その報償としての意味合いがあると伝えられています。

次に、魚運上を記録した249件を分析して、志々島の漁業の特色を研究者は次のように記します。
①漁獲された魚種、それらの搬送方法と搬送先が分かる
②漁獲高は、大蛸・鯛・飯蛸の順
③搬送は地船が多くを占め、対岸の備前や遠く淡路などへも送られていること
④その半分を占める「魚種不明」のものは、地船が51件と最も多く、東瀬戸内海各地に搬送
 以上からは、志々島の漁業は単に讃岐一円に留まることなく、東瀬戸内海という広い範囲に流通していたことが分かります。それは、遠隔地からの出買よりも、地船の活動で可能となったと言えます。その地船の動きは、志々島や庄内浦の役所が把握していたのは、先ほど見たとおりです。こうして見ると、「庄内八浦」というまとまりの中で、各浦の漁業が展開していたことが改めて分かります。
  以上をまとめておくと
①志々島は、特権的な広域魚漁場をもって、多くの網元が操業していた
②大型網による操業は、多くの人手を必要としたため志々島に多くの漁師が集住するようになった
③同時に、西隣の粟島の廻船問屋と同じように大坂商人たちとつながり、交易活動を展開した。
④志々島が諸国の廻船を惹きつける吸引力となったのが、粟島湾の良港と志々島のタデ場であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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近世初頭の生駒藩の時代には、庄内半島の浦々は「庄内八浦」としてひとつに捉えられていたようです。
 
庄内半島 寛永絵図
庄内八浦(天保国図)

 庄内組を構成する村は、大浜浦・積浦・生里浦・箱浦・香田浦・家浦の六浦と粟島・志々島の二島をあわせたもので、「庄内八浦」とも呼ばれていました。それが幕末(天保期)に分村されます。つまり、庄内組は、もともとは庄内浦としてひとまとまりの「浦」社会だったと研究者は考えています。これは次のように裏付けられます。
①「寛永国絵図」に「庄内浦」とあり、各浦が描かれ全体で「高六三八石」と記されている
②寛永17年(1640)の生駒領高覚帳では「庄内中」としてほぼ同高とされている。

以上からは、「庄内八浦」は「庄内浦」や「庄内中」として、ひとまとまりに捉えられていたようです。
その上で「西讃海陸予答」・「西讃府誌」は、の各浦の特徴を次のように記します。(要約)
①大浜浦は、最も人家が多く漁業が年中盛んで鯛の網代場がある。庄内浦の産土神船越八幡宮が鎮座
②生里浦は、浦の土地が狭く漁業を業とする。そのため、他の浦との衝突をも生む。
③箱浦は、鰯(いわし)漁の網代があり、網元がいる
④積浦には、鯛の網代場があり、漁業が盛んであり、爛(たで)場がある。
⑤香田浦は、番匠(大工)など諸職人がいて、「船手之役(水主役)も多い。そして芸州能地の家船の定住地である
⑥家浦は、燧灘に面しているので仁保(仁尾)村との関係が強い
⑦粟島は、廻運が盛んで、摂津大坂の大船が立ち寄り、各国と交易する廻船問屋が何軒もあること
⑧志々島は、漁事と廻運か盛んで、鮪や蝶が名産で、タデ場もあること

⑦には粟島について、大坂や松前藩の大船が寄港し、廻船問屋が何軒もあると記します。これは前回に紹介しました。しかし、ここには粟島だけでなく⑧の志々島にも船問屋があったことが記されています。粟島以外の交易活動を行っていた浦々を今回は見ていくことにします。

 享保年間の「諸国廻船入船帳」には、入港してきた船について入津年月日・船頭名・船名などが記されています
諸国御客船帳


客船帳
浜田市外ノ浦の旧廻船問屋(米屋)の客船帳
この記録は、船番所というた公的な機関が残したものですが、それがやがて商人が行うようになり、さらに船宿に業務が移っていきます。そして、業務の細分化・複雑化が進むと船問屋が出現するようになります。こうして船問屋が入港船を整理し、今後の経営資料とするために、入津年月日順ではなく国別・地域別に編集し直します。「諸国客船帳」と呼ばれるものです。ここで注意しておきたいのは、これに一旦記載されると船主は勝手に船問屋を変えることはできませんでした。そのため船問屋の方は、船主を大切にしていたようです。
 庄内半島の浦々には、「御客船」として全国の船がやって来ていました。
以前に大崎下島の御手洗でお話したように、廻船が立ち寄るのは、その港に船乗りたちを引き寄せる吸引力があっためです。庄内半島の浦々にはどんな吸引力があったのでしょうか。また、どんな船問屋がいたのでしょうか。浦島太郎伝説の伝えられる箱浦を見ていくことにします。

HPTIMAGE
箱浦の浦島太郎墓碑の由来

まずは角川の「日本地名大辞」で箱浦を調べると次のような情報を得ることができます。
①箱浦の地名由来は箱崎八幡官が鎮座したことにちなむと(西讃府志)
②近代になって浦島伝説が流布されようになり、玉手箱の箱によるという伝えができた。
③馬神塚は畑を荒らす八幡官の神馬を殺した農夫が心乱して狂死し、その後も村内に崇が多く出たので、村人が神馬の骨を埋めて供養した塚である。
④近世の箱浦は詫間郷に属し、庄内村が幕末期に大浜浦・生里浦・積浦・栗島・志々島・香田浦・家浦の諸村に分村して成立。丸亀京極藩荘内組に属す。
⑤村高  102石余
⑥戸数 121(うち加古(水夫)50)
⑦人口 570(男284・女286)
⑧舟   70石1・55石1・50石1・35石1・30石9・15石29
⑨牛  60 
⑩泉は山田泉・石丸泉・新田泉・辻之内泉・平石泉
⑪神社は仲哀天皇・応神天皇をまつる箱崎八幡宮,総社大明神ほか祠7
⑫寺院は地蔵菩薩を本尊とする香蔵寺ほか堂2
⑬丸亀藩の番所が置かれ役人1名が駐在
  箱浦には、守(森)屋という廻船問屋がありました。森家に残された文書目録を見ておきましょう。

讃岐国三野郡箱浦勝間屋森家文書目録 <歴史収蔵資料目録 7>
讃岐国三野郡箱浦勝間屋森家文書目録目次
  船問屋 (一)
一、松前伊豆守領大坂蔵屋敷関係   〔取締役 森歓兵衛〕 〔大森・高橋一件〕
ニ、廻  船
三、航  海  〔長者丸〕〔晴雨録〕
四、経  営  〔圓亀米社〕〔借用金〕
五、役向書状  〔森飲兵衛宛書状〕〔森徳三郎宛書状〕〔森茂平治宛書状〕
 船問屋(二)
一、回  漕  〔肥料〕〔水揚〕〔荷物運賃仕出簿〕〔右近権左衛門船〕 ○森仙吉関係 〔中村三之亟船〕
〔広海二三郎船〕 〔客船ひかえ〕
ニ、経  営 〔煙草〕 〇全国煙草元賣捌人協会、○丸亀煙草元賣合名会社、○多度津支店、○阿州證券
   〔塩〕  ○塩賣買 林田塩田 与島製塩 仁尾塩田
   〔諸取引〕〔證文〕〔日賀恵〕〔金銭出入〕〔差引簿〕〔電信扣〕
三、諸会社   〔丸亀米会舎〕〔三栄組・讃栄社〕〔讃豊合資会社〕〔明治商船合資会社〕〔林兼船舶部〕〔実業会〕・・・・ 六〇 網  元 一、鯛 網  〔縛網〕〔網子〕 
  ○契約勘定 〔造船〕〔作業〕〔網仕込〕〔水揚〕 ○水揚 ○仕切
  〔金銭出入〕 ○諸通帳 ○地子取立
二、朝鮮出漁
三、諸猟漁 〔算用〕〔水揚〕〔賣買〕〔萬覚帳〕
四、漁業組合 〔三豊郡漁業共同会〕〔三崎漁業会〕
五、書  状 〔友八宛書状〕 〔森役太宛書状〕           
以下略

この目次からも分かるように、森家は越前国河野浦の大廻船問屋として有名な右近家と取引をしていた船問屋である一方、網元でもありました。
繁栄したこと。文書からは森家の当主が当主の活動を行っていたことが読み取れます。
①茂平治 → ②善蔵 → ③歓兵衛→ ④徳三郎 → ⑤庄太郎 → ⑥役太

船問屋としての始まりは、文化・文政期頃まで遡ります。天保5(1834)から2年間は、当主の③歓兵衛は北海道松前に住んでいたようです。そして松前藩から直々に「藩の大坂蔵屋敷の取締役になってくれ。」というような話が、丸亀藩を通じてあったようです。病身でもあったので断っていますが、「とにかく是非にというので参加した」というように史料には載せられています。遠く離れた讃岐の商人を、藩の取締役に取立てられるとするのですから松前藩のリクルート戦略も大胆です。
 ②善蔵の時代の弘化2年(1845)には赤間関にも出店して、扇子・大麦・酒・鯛・干鰯・昆布・瀬戸物などを取引しています。さらに明治2年(1869)には多度津にも支店を出しています。
研究者が注目するのは、松前藩御手船の長者丸の動きです。この船は松前藩の御座船で、参勤交代の時には、上に屋形を乗せて江戸に走り、荷物を運ぶ時には屋形を外して廻船の仕事をしています。この船が讃岐にも来港しているのです。北海道とのつながりだけでなく、大坂・下関・兵庫・堺など瀬戸内海各地との取引を行っています。

下の表は、箱浦にやってきた船籍別船数です。ここからは次のようなことが分かります。
箱浦の入港船船籍
①大阪と松前船籍の船が同数(27隻)で、飛び抜けて多く、両者で約半数をしめる。
②粟島・仁尾・積・詫間など近隣の港からの入港が13を数える。
③又十柏屋が14隻あるが、よくわからない。
こうして見ると全体で102隻、その内の半分は大阪周辺と松前船籍であったことになります。ひと船入ると、周辺の村々が潤うとされた時代です。102艘もの廻船が出入りした箱浦の繁栄ぶりと、それを差配した船問屋森家にもたらされた富はいかばかりのものだったでしょうか。ここからは粟島ばかりでなく、その対岸の箱浦にも多くの廻船がやってきていたこと、そこには勝間屋(森家)という廻船問屋があり、多くの富を集積していたことが分かります。
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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海岸線が「陸封化」された西讃の海で、自然海岸が残っているのが庄内半島です。ここを原付ツーリングするのが私の楽しみの一つでもあります。この半島を走っていて、それぞれの浦が私には魅力的に思えます。それが歴史的な背景から来ているのではないかと以前から思っていました。そこで改めて庄内半島の浦々のことを見ていくことにします。
まずは粟島の廻船業から船問屋への転進ぶり見ていくことにします。
 享保期になると塩飽廻船が衰退化していくことは以前にお話ししました。それと入れ替わるように、台頭してくるのが粟島の廻船業者です。彼らは、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、最初の最盛期を迎えます。さらに、天明~文化期になると、他国船との競争が激化してくる中で、粟島廻船は野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎えます。この時期に、「資本蓄積」が行われ、廻船の操業ソフトを身につけていきます。それを史料で見ておきましょう。

A 安永五年(1776)の越後の沼垂湊(ぬったりみなと)における越後新発田藩(しばた)の大坂回米船の史料からは、粟島廻船の回送が19艘、丹後湊宮(京都府久美浜町)が18艘で、塩飽広島5艘、摂津大坂4艘、讃岐浜村(高松市庵治町)3艘

B 浜田外ノ浦の客船帳からは、粟島の船問屋・船持には、舛屋・竹崎屋・高島屋・木曽屋・大屋・大和屋・麦屋・岡田屋・浜屋などがあり、小豆や米を売り、干鰯・銅・材木を買い込んだこと

C 隠岐の島前の浦郷の問屋には、粟島の潟地区の伊勢神社奉納船絵馬に粟島の「伊勢屋庄八 末福丸」(20反帆、1400石積)の入港が記録されていること

D 浜田の中村家の客船帳によると、粟島の大和屋福市丸、木曽屋住吉丸なども記録されている。


このような中で、金毘羅大権現の多度津街道の起点である高藪町に、鳥居が姿を現します。

3 高藪町の鳥居
粟島廻船仲間の寄進の鳥居 現在は高灯籠公園

そこには次のような字が見えます。
「天明二(1782)年」「奉寄進 願主粟嶋廻船中」「取次 徳重徳兵衛」

ここからは、粟島の廻船仲間が庄屋の徳重氏の取次で金毘羅大権現へ奉納したことが分かります。場所は、もともとは、多度津街道の起点(ホテル紅梅亭の東側川沿い)に建てられたものです。今は高灯籠に移されています。これに続いて、各街道の起点に鳥居が姿を見せるようになります。その先駆けとなったのが粟島廻船中の鳥居です。以前に見た粟島で廻船問屋をしていた「安田屋」に伝わる象頭山金光院護摩祈祷札も寛政7(1795)年のものが一番古いものでした。鳥居の寄進前後から粟島の廻船問屋の金毘羅詣では始まると私は考えています。

この他にも粟島廻船の全国展開を示す石造物として、寛政元年(1789)に粟島の廻船仲間が、海上安全信仰の神社として大阪の住吉神社に常夜燈を寄進しています。その銘には「讃州粟島廻船中」ではなく、単に「粟島廻船中」と記されています。塩飽廻船と同じように国名がなくても全国に通用するという自負心が現れているように思えてきます。

 しかし、文政期になると、日本海の北前船を中心とする他国船との競争に敗れ、幕末期には粟島船籍の廻船もいなくなります。西讃府志には、五百石を超える船は2艘しか記録されていません。しかし、「西讃海陸予答」には次のように記されています。

「此島水有家居多尤豊に見ゆ。島人多く摂坂の大船にと乗して、北国西国に揖取す。」
意訳変換しておくと
「粟島は海に囲まれた島であるが家も多く、人々の生活も豊なように見える。島人の多くは畿内のの大船の乗組員として、北国や西国に出向く。」

ここには 粟島が北前船による北海道と大坂を結ぶ海上ラインの重要な寄港地となり繁栄し、豊かな生活を送る者が多かったこと、そのため廻船を失った粟島の船主たちは、問屋・仲買人に転業し、粟島寄港の北前船と交易を続けます。また大坂や函館などの廻船に水主・沖船頭として雇われるようになり、多額の金銭を粟島にもたらします。それは、明治になって鉄道網が全国に伸びていくまでは続きました。
幕末に成立した「西讃府志」には、粟島のことが次のように記されています。

「村高174石余。村の広さは東西一里一町、南北二〇町、回り百五十町、丸亀から海路四里、東は志々鳥まで五十町、西は積浦まで三十町、波戸長さ四十間、加子六十戸、耕地四十四町三反余り。(内畑三十九町余、屋敷 町一反余).戸数三百、人口千三百、舟五百石二、二十石二十八、一挺舟五、牛五十。泉は船隠井、島は阿島(周り十九町)、尾元島(周り十町)、神社は粟島大明神、馬木八幡宮 他祠十、寺院真言宗梵音寺

幕末には、五百石船は粟島には2艘しかなく、20石船が28艘です。粟島は塩飽水軍の流れを汲むようで、秀吉による朝鮮出兵・文禄・慶長の役にも水夫として従軍していますし、島原の乱にも塩飽・小豆島の水夫とともに参加しています。そして、「人名」が住む島でした。そのためか江戸初期以降、水夫の多くは海運業に従事し、北前船で北海道へ塩を運び、箱館に出張所を置いています。粟鳥伊勢神宮には航海の安全を祈って、多くの船絵馬が奉納されています。
 さらに文政十年(1837)には島四国八十八ヶ所の石仏が開眼され、大坂達船中が一船一基の本納を行っています。幕末の文久3年(1863)には、幕命で箱館奉行所の水野正太人が軍艦で航海術・運用術の訓練のために樺太・シベリア海の北洋航海を行いますが、その際に栗島出身の中村長松・紅屋清兵衛・枡屋徳太夫の三名が乗船しています。その詳細な記録が「黒竜江誌」として残されています。
 粟島の特色は先祖が塩飽衆であることから、漁師よりも加子が多かったことです。

粟島1
スクリューのように島が連結した粟島 隣が志々島
また、粟島の地形はスクリューのように島が連結し、南面の海は島や半島に囲まれていて風の影響をあまり受けません。 明治14年に開拓使が作成した『西南諸港報告書』には、次のように記されています。(意訳)

「愛媛県下讃岐国三野郡粟島港ハ面積凡半方里島ノ周囲四里、船舶碇泊ニ便ニシテ、風潮二関セス、帆フ張リテ自在二出入スヘシ」
意訳変換しておくと
「愛媛県下(当時は香川県は愛媛に併合中)讃岐国三野郡の粟島港は面積半方里で、島の周囲は四里(16㎞)、船舶の停泊に便利で、風や潮流に関係なく、帆を張って自由に出入りができる」

ここには粟島港は、西風・東風もあまり受けないので、自由に出帆でき「船舶碇泊」に適していたことが記されています。そのため陸上から詫間に集められた物資は須田港から渡舟に荷物を積みかえて、栗島に運び、さらにそれを廻船に積せるというシステムが生まれます。また、栗島だけでなく、東隣の志々島も潮の干満の差が大きく、千潮時には船底の修理や虫食いを駆除する「船たで」の適地で、その作業所があって多くの船が利用するために入港していたようです。こうしてみると粟島は、詫間の須田港や志々島などと併せて、瀬戸内海交易の廻船の集結センターとして機能していたことがうかがえます。
 粟島で船泊り(港)と呼ばれるところは、本浦の入江と、馬城(うまき:長浜側)でした。
島内の廻船は本浦、外来船は、馬城に停泊するという棲み分けが行われていたようです。ただし、波止場は、天保年間でも長さ40間(約72m)と記録されているので、接岸施設はなく沖掛りの廻船が多かったようです。馬城(木)地区については、「西讃海陸予答」に次のように記されています。

「馬木の湊は近国第一の湊といふ。大船多く相繋出入時を不嫌」

ここからは粟島廻船が活動していた享保期よりも多くの廻船が来港して賑わっていたことが分かります。その背景には、船乗りたちから評価が高かった港であったことが挙げられます。
馬城海岸の波打ち際には、「享保16(1731)年銘の馬城八幡神社の鳥居が建っています。
粟島馬城神社の鳥居
粟島の馬城八幡神社の鳥居

これは、粟島では最も古い寄進石造物です。この寄進者は「島中」つまり粟島の氏子一同でした。ところが、11年後の寛保二年(1742)2月になって、粟島神社の常夜燈寄進者の中に初めて「舷頭中」および「大坂 讃岐屋勘介」、(馬城)八幡神社の常夜燈寄進者の中に「大坂 讃岐屋勘四良」の名前が出てきます。ここに登場する「讃岐屋勘介」と「讃岐屋勘四良」は同一人物で、大坂新大黒町の船宿で、粟島と積浦廻船の定宿でした。そのためお得意さんの粟島の神社に寄進したのでしょう。粟島の神社へ、船頭仲間や大坂の船宿からの常夜燈寄進が1740年代という早い時期に始まったことに研究者が注目します。その背景には、馬城にあった湊が「近国第一の湊」で、多くの廻船の寄港地であったことも背景にあるようです。
 明治初期の栗島の取扱品目を見ておきましょう。
①積出し品の最大商品は、煙草が5割、塩が約4割
②塩を坂出から、煙草を阿波・伊予国、茶を阿波・土佐から輸入し、北海道に転輸する拠点として機能
③北海道からの物産は大部分が鯡〆粕(にしんしめかす)で、他に数の子などが栗島港に入り、小型船に積み替えられ、三野・豊田郡や岡山へ転販
昆布ロードがもたらした明治維新と食文化│54号 和船が運んだ文化:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター

当時、四百石積以上の北海道へ向かう船は約五百隻いたとされます。大坂で必要な貨物を買積して、各地に寄港しながら北海道へ向かいました。粟島港には毎年2月から4月までと9月から11月までの春秋2回、やってきます。春の滞在期間は前年に大坂で売買契約を結んだ貨物を購入するためで、秋季の滞在は北海道から廻送してきた産物について価格を偵察し、阿波や岡山に向けて売り出すためです。
 北海道産物の千鰯などは米・綿・甘庶の肥料で、これがないと綿花の生産量は増えませんで。そのため綿花栽培地の大坂などで大量に購入されるようになります。そのための在地の肥料問屋が登場するのもこの頃です。
 粟島には、かつての船問屋の屋敷跡が豪壮な石垣とともに残っています。かつては、そこに通じる道には石が敷き詰められていたようです。これは、北前船で帰島した水主が、正月前後に船持や船問屋のために敷き詰めたものと伝えられています。
以上を整理しておきます
①粟島は塩飽水軍に属し、人名の支配する島として自治権を獲得した。
②塩飽廻船が享保年間に衰退していくのに入れ替わるように、粟島廻船が台頭する。
③粟島廻船は、宝暦・明和期に御城米(幕府領の米)、御蔵米(各藩領の米)の廻送によって、
④天明~文化期になると、野辺地・蝦夷地の海産物等の廻送で二度目の最盛期を迎える。
⑤この時期に「資本蓄積」と廻船問屋のノウハウを身につけて、廻船業から廻船問屋へと転進する。
⑥その背景には「西国一と称された粟島港」の存在がある。
⑦こうして18世紀後半には、金毘羅大権現への鳥居寄進などその繁栄の痕跡を各地に残している
⑧明治になっても繁栄は続くが、鉄道網の整備とともに北前船の活動が衰え、粟島にも廻船が立ち寄らなくなって衰退していく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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金光院護摩札 粟島安田屋4
廻船問屋安田屋の金光院護摩札

金光院護摩札 粟島安田屋3
廻船問屋安田屋の一番古い金光院護摩札(寛政7年)
前回は、粟島の廻船問屋安田屋に残された護摩札について、つぎのようにまとめました。
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。

安田家の護摩札を「尊崇対象」で分類すると次のようになります。
不動明王 61点
普賢菩薩   1点、
地蔵大権現    1点、
日天尊   1点
般若経転読   1点、
大乃御柱・地乃御柱1点
大物主命・崇徳帝 1点
大々神楽   1点
祈祷内容で分類すると次の通りです。
海上安全 50点
船中安全  9点
渡海安全  1点
家内安全  3点
願望成就  1点
諸願成就  2点
所願成就  2点
当病平癒  3点
疱鷹如意  1点
金毘羅新造1点
海の平穏についての祈願が60点で全体の約9割を占めます。「当病平癒」や「疱蒼如意」といった変則的な析願がなけれは、この割合はもっと高いものになります。一番最後の「金毘羅新造」というのは、新造船「金比羅丸」の海上安全・船中息災延命の祈願のようです。新造船の名前も「金比羅丸」です。このあたりが廻船問屋らしいところとしておきます。

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場
粟島の廻船問屋の旧家の神棚
 直島のタイ・サワラ網漁の網元であった織田家の110点の祈祷札と比較して見ましょう。
①明治7年から明治末年(1874~1912年)までのものが42件、大正期のものが17件、昭和3年のものが一件。6割以上の祈祷札については祈願年が記載なし。
②祈願内容については、豊漁に関する「漁猟潤澤」「漁業繁榮」「漁業守護」等が117点で全体の6割
③「意願固満」「如意回満」「所願園満」等の諸願成就系統が17点
④「家内安全」「家運長久」等が17点
⑤「海上安全」「船中安全」等が5点、
⑥「武運長久」等が4点
ここからは「海上安全」よりも「大漁満足」に重点を置いた祈願が行われていたことが読み取れます。
安田家が廻船問屋、織田家は網元で立場が異なります。そのため信仰対象は同じでも、祈願内容はちがっています。安田家は海上安穏、漁民は「豊漁」です。同じ海に働く者でも、商いと漁では祈りの内容が違うのが面白い所です。網元の織田家の方が自然条件や運に大きく左右されるので、祈願内容を並列したものが多いと研究者は指摘します。織田家では祈願銘が二つ並立した札もあります。また、織田家の祈祷の時期は正月ではなく、3~4月だけです。これは鯛網開始にあわせて参拝祈願が行われたためのようです。

護摩供養の作法は

それでは安田家や織田池の護摩札は、金毘羅大権現のどこで供養されていたのでしょうか?

元禄期の金毘羅伽藍図


上の元禄期の金毘羅伽藍図を見ると、本社や観音堂(本堂)附近に護摩堂は見えません。よく見ると金光院の境内の中に護摩堂はあります。幕末に書かれた讃岐国名勝図会を見てみましょう。

金光院の護摩堂・阿弥陀堂
金光院の護摩堂と阿弥陀堂
 金光院の黒門から入った所に護摩堂が描かれています。これが護摩札の供養が行われていた所になるようです。金光院の金堂(現旭社)には、金毘羅大権現の権化である丈六の薬師如来坐像が安置されていました。これは現在の善通寺の東塔の薬師像と同規模なものです。薬師如来は菩薩の時に十一の大願を発し、それが現世利益信仰の根本とされます。その権化が不動明王です。
 文化年間(1804~18)に書かれた『金毘羅山名所図会』の護摩堂の項には、次のように記されています。
(前略)此所にて、天下泰平五穀成就、参詣の諸人請願成就のため、又御守開眼として金光院の院主長日の護摩を修る事、元旦より除夜にいたる迄たゆる事なし(後略)

意訳すると
護摩堂では、天下泰平・五穀成就、参詣者の請願成就のため、又御守開眼として、護摩祈願が行われており、元旦から12月の除夜まで、絶えることがない。(後略)

 ここからは護摩堂では、連日護摩が焚かれたことが分かります。そのため、護摩堂のことを長日護摩堂とも呼んだと云います。ここからも金毘羅大権現が真言密教の仏閣で、修験者の僧侶の活動が日常的に護摩祈祷という形で行われていたことが分かります。 もっとも、この不動明王は最初から護摩堂の本尊ではなかったようです。
松原秀明「金毘羅庶民信仰資料集 年表篇』の明暦元年(1655)の項には、次のように記されています。
「従来の根津入道作 護摩堂本尊を廃し、伝智証大師作不動尊像にかえる」

護摩堂は、慶長9年(1604)に建立されていますが、お堂と一緒につくられた不動さんがいたようです。ところが、次第に護摩祈祷に対する人気・需要が高まります。そこで、より優れたものを探させます。その結果、明暦元年(1655)に、京都の仏師が比叡山にあった不動明王を譲り受け、それを以前からあった本尊にかえて安置したのです。それが現在の宝物館の不動像になります。

不動明王3


金光院護摩堂の不動明王 (金刀比羅宮宝物館蔵)
護摩堂というのは、ここで加持祈祷されたお札が参拝客に配布されます。つまり、金毘羅大権現の宗教活動の中心的な場になります。そこに「伝智証大師作不動尊像」が迎え入れられたのです。それは、初代高松藩主松平頼重による伽藍整備の一環だったと私は考えています。増える参拝客・護摩木札を求める参拝客の増大に対応して、相応しい不動明王が迎えられたとしておきます。安田家や織田家の金光院護摩札は、この不動明王に祈祷した後に授けられたものになります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」
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護摩とは
金光院護摩札 粟島安田屋3
金毘羅大権現の金光院護摩札(三豊市詫間町粟島の廻船問屋安田屋)

粟島で廻船問屋をしていた「安田屋」に伝わる象頭山金光院護摩祈祷札です。海上安全・船中安全・渡海安全の願が掛けられたものです。高さ101.8 cm、上幅196 cm、下幅162 cm、厚さ2.O cm、重量1420gです。内容を見ておきましょう。
右に 「寛政第七(1795)年 象頭山」
中央に 「不動明王を表す梵字(カーン)
その下に 「奉修不動明王護摩供二夜三日船中安全 風波泰静祈依」、
左に 「正月吉良日 金光院」
ここからは次のようなことが分かります。
①1795年の正月吉日に、象頭山金光院の護摩木札であること
②不動明王前で二夜三日の護摩祈祷の後に、授けられたこと
③「船中安全 風波泰静」が祈願されていること
トレスされたものを見ておきましょう。

金光院護摩札 粟島安田屋2

左のものは次のように墨書されています。
右側 「寛政第九年 象頭」
中央 「不動明王を表す梵字奉修不動明王護摩供二夜三日海上安全祈(欠)」
左側 「二月吉良日 金光院」
先ほどのものの2年後のものになります。内容的にはほとんど変わりありません。実はこれだけではありません。同じような木札・神札66枚が安田家には保存されていたようです。

金光院護摩札 粟島安田屋4
粟島廻船問屋安田屋の金毘羅金光院の護摩札

この木札に何が書かれているのか研究者が一覧化したのが下図です。

金光院護摩札 粟島安田屋1
粟島の安田屋の護摩札一覧(一部)

これを見ると祈祷内容はほとんど同じで「船中安全 風波泰静」です。同じものがどうして何枚もあるのでしょうか。また、安田家にどうして、金毘羅大権現の木札が残されているのでしょうか? そんな疑問に答えてくれる論文に出会いましたので紹介しておきます。テキストは「綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」です。
不動明王と護摩

 安田家の護摩札等について        

研究者が当主の安田憲司氏から聞き取ったことをまとめると次のようになります。
①護摩札や祈祷札などを、新しく拝受するのは正月と出帆前の6~8月の吉日で年2回
②一年間、船に安置した護摩札は、蔵の天井の梁に挟むようにしていた
④処分に困るが捨ててしまうことはためらわれたので、今に伝えられることになった
ここからは、毎年正月と、廻船が活動を始める6月以後の年2回に、金比羅に参拝し、金光院の護摩札を授かっていたことが分かります。そして、持ち船に安置します。その際に、前年までの古い木札は、倉の天井に保管したこと。そのため毎年、持ち船の数と同じ枚数の護摩札が倉の天井には増えていったようです。

HPTIMAGE

安田家に残っていた76点の護摩札のうち、象頭山金光院のものは次の通りです。
A 縦約百㎝の大木札が47点、
B 約20~70㎝の木札が20点
C 紙製の札や掛け軸等が9点
金光院護摩札 粟島安田屋5


その他に神棚の中には天照大神宮御札、出雲大社御玉串、馬城八幡宮御守等などがありました。これらの配札場所は次の通りです。
金光院 47点
金光院・金毘羅大権現  1点
金毘羅大権現  1点
満嶋山系寺院 13点
地蔵院  1点
住吉大神宮  1点
水天宮  1点
鹿鳥大神宮  1点
石鉄寺(石鎚山)     3点
防州室積寺       1点
こうして見ると、金毘羅大権現の別当金光院関係のものが大部分を占めていたことになります。それ以外にも、瀬戸内海各地の神社のお札があります。これらの札が納められていた神棚を見ておきましょう。
粟島廻船間屋安田屋の神棚jpg

栗島の廻船問屋の神棚は、非常に大きなものです。一例を挙げてみると、
徳重家の神棚は、十一社様式 幅368cm
伊勢屋のものは、九社(神段数) 幅260㎝
粟島の廻船問屋の神棚 瀬戸芸会場「この家の貴女に贈る花束 2019年
粟島 旧廻船問屋旧家の神棚(2019年 瀬戸芸会場)

粟島 廻船問屋の神棚2 2019年瀬戸芸会場
上の拡大

ここからは、栗島の海商たちが神棚の大きさや、そこに収める札の種類や数を競ったことがうかがえます。神棚に各地の「海上安全」などのお札を並べて供えることがステイタスシンボルでもあったのかもしれません。

護摩供養の作法は

金比羅金光院以外のお札を見ておきましょう。
まず粟島古利の梵音寺について。

粟島古利の梵音寺

満嶋山梵音寺は、海岸に面した大通りから数百m内陸部に位置する島内有数の寺院です。その歴史は倭寇の時代にまでさかのぼり、平安中期、粟島島民は藤原純友の配下に属し、海賊活動を行っていたと伝えられます。その範囲は、関門海峡を超えて朝鮮、中国、さらに南進し、東南アジアにまで拡がっていたようです。栗島から倭寇が出ていた証拠とされるのが、梵音寺境内の樹齢四百年以上の「竜眼の木」でとおばれる亜熱帯性の「たぶの木」で南方から持ち帰られたされ、香川の保存木となっています。どちらにしても、粟島は古くから「海民」の活躍する拠点だったことがうかがえます。

粟島梵音寺no
粟島の梵音寺のタブノキ

 梵音寺が鎮座するのが下新田地区です。ここは城山に近い所ですが、城山を満嶋山と呼ぶかどうかは分かりません。安田家に残された護摩札からは、満嶋山には梵音寺の他に松寿院、聖寿院があったことが分かります。その他にも史料的には、阿州極楽寺、観音堂などの堂らしきものが三ヶ所ほど確認できるようです。安田家が護摩札を受けた峯堂地蔵院がこの中にあるのかどうかは、よく分かりません。どちらにしても、修験者たちが構える堂や坊などが粟島にはいくつもあったようです。それを支える経済力もあったということになります。

粟島古利の梵音寺no護摩札
粟島の梵音寺・松壽院の護摩札

 安田家のお札の中で研究者が注目するのは、伊予石鉄山前神寺の石鎚講の札です。
粟島廻船間屋安田屋の石鎚山前山寺の護摩札
石鎚信仰といえば、石鎚山を対象とする石鎚神社、前神寺、成就(常住)、弥山(頂上)、瓶ヶ森、笹ヶ峰の東側の峰も信仰対象でした。前神寺が石鎚信仰の支配権を掌握したのは鎌倉時代以降だとされます。前神寺が「先達所」を決定し、村落の指導者層を俗先達に任命し、広域布教のネットワークを形成していきます。それが道後平野や道前平野に定着し、石鎚山参拝登山は村々の若者の通過儀礼的要素も持つようになります。前山寺のお札粟島にあるということは、西讃地域は宇摩郡や越智都、さらには土佐郡などと一つの信仰圏を形成していたことが裏付けられます。このスタイルは、伊勢御師南倉の廻檀地域とよく似ていると研究者は指摘します。
 また木札には防州室積普賢禅寺のものがあります。
 室積は江戸時代に長州藩による港の再開発で室積会所が置かれ、北前船の寄港地として、多くの廻船問屋が軒を並べていた港町です。海商通りについて長州藩は、防長両国を18の行政区両に分け、これを宰判といい、要衝の地に代官所が設置され、それを勘場と呼びました。

普賢寺・普賢堂(山口県光市室積8丁目)- 日本すきま漫遊記
防州室積普賢禅寺
このような海勝通りに海の守護仏の普賢菩薩の縁起が生まれます。普賢縁起には、兵庫県書写山円教寺の性空上人が生身の普賢菩薩を見たいと祈願したところ、室積で漁人が海中から網で引きLげた普賢菩薩に対面したという逸話が残されています。
 海難守護は寄神信仰に基づくものが多いようですが「海の菩薩」として漁民や航海者の信仰を広く集めた普賢菩薩を祀った普賢禅寺もその1つです。粟島の安田屋の持ち船も防州に寄港した時に、その護摩札を得たのでしょう。海の神様は、金毘羅大権現以外にも各地に祀られていたことが分かります。
粟島の神社の祈祷札を見ておきましょう。

粟島馬越神社のお札

馬城八幡は中新田の砂州沿いの道から少し奥まったところにあります。馬城という地名は粟島が古代に牧場であった名残です。700年、諸国に牧地を定めた際、「託磨牧」とあり、栗島が指定されたようです。「詫間(託馬)」も同じ関連と研究者は考えています。865年の続日本紀(865年条)には「停廃讃岐国三野郡託磨牧」とあるので、この時期まで詫間には官営の牧場があり、粟島はその一部だったことが分かります。また「西讃海陸予答」に次のように記します。

「担馬(詫間)木の湊は近国第一の湊といふ。大船多く相繋出入時を不嫌」

そして寛保3年(1742)に大坂の船宿から寄進された常夜燈が建っています。また、享保16(1731)年の銘のある島居からは島中が氏子であったことが分かります。さらに安田家の約20㎝の「八幡宮御祓船中安全海上無難順風□□」とある神札の内部には祓串が一本入っています。これが馬木八幡のものか、どうかは分かりませんが、海難除けの大麻であったことは確かだと研究者は判断します。
 この他にも栗島には次のように多くの神仕があります。一之宮神社、瀧之宮神社、稲荷大明神三社、妙見宮、栗島神社、弾上神社、荒神、蛭子神社、勝佐備神社、その他にも四社あります。これは、「西讃府志」より多い数になります。それは明治の廃物希釈で神社へと転化した寺院があったためのようです。その他、廻船問屋として栄えた伊勢屋の氏神、粟島伊勢仲宮(通称:お伊勢さん)が有名です。
ここには文化期からの船絵馬が15面本納されています。奉納年代は文化3年(1806年)~慶応3年(1867年)のもので、天保年間(1830~1844年)のものが多いようです。奉納者は地元の伊勢屋庄八をはじめ、大坂や堺、さらには「奥州福山城下」・「奥州函館」と記載されたものもあり、北海道まで見られます。その中には堺の糸荷廻船の舟絵馬もあります。糸荷廻船はオランダから長崎に輸入された中国の生糸・絹織物を江戸に運送するため海路で堺へ運ぶ船です。その船が粟島に寄港していたことを示す史料になります。                         

 安田家は、屋号を安田屋として栗島で廻船業を営んでいました。
安永4年(1775)に亡くなった久大夫が最初の船持ちだったと伝えられます。しかし、史料的に、その活動が辿れるのは享和2年(1802)から天保 12年(1841)になってからのようです。この約40年間に、「金毘羅新造(同名船三艘 初代~三代久太郎、兵助)、稲荷丸(重吉)」の名が確認できるようになります。最初の金毘羅新造は、享和3年(1803)のことで、長崎で店船首の程赤城に依頼して、洋中安全祈願の船名入り神号額を揮毫してもらって、八幡神社に奉納しています。三艘目の金毘羅新造は三代目久太郎が27歳で死去した後、泉州堺の鍋屋船万歳丸で沖船頭をしていた兵助(沖船頭名兵右衛門)が家へ帰り、天保十年に購入したものです。五百石積で兵助が船頭のときは久太郎(四代目)、弟が船頭のときは久治郎とそれぞれ先代の船頭名を襲名しています。
 また、稲荷丸(重吉)は分家のもの、重吉が大坂山城屋惣右衛門の伸占丸(十五人乗)に沖船頭として息子の豊占とともに乗り込み、難風で帆柱が吹き折れ、酒田飛鳥へ漂着した記録も残っています(「鈴木家文書」)。安田屋は箱館(函館)を中心に、青森や長崎へも航行しています。函館の長崎屋(佐藤半兵衛)、大津屋(田中茂占)、青森湊の滝屋(伊東善五郎)の客船ともなっていました。
 表出しは先祖久太夫の一字を取つた「列」(カネキュウ印)、重吉は「列」か「コ」(カネジュウ印)を使用しいます。名前は久太夫以後、久太郎、久兵衛、久平次、久次良、久四良と「久」の字が通字だったようです。これらの情報を「隠岐島島前 津之郷 大山明元間屋船帳」にあてはめると久太夫は、安国家の関係者だと研究者は考えています。

以上をまとめておくと
①18世紀後半頃から粟島の安田屋は、3隻の船を持って廻船問屋を営んでいた。
②その船は、瀬戸内海だけでなく日本海や九州北部にも出向き交易活動を展開した。
③安田家は、船の守護のために近隣の「海の神様」とされる社寺に参拝し、木札を授かり持ち船に安置した。
④それは正月と6月前後の年2回行われ、その都度、古い木札と取り替えた。
⑤古い木札は蔵の天井の梁に挟んで保存したので、数十枚分が残った。
⑥木札の大部分は、金比羅金光院のものであるが、その他に粟島の寺社のものや、石鎚山の前神寺のものなども含まれている。
以前に「近世初頭に流行神として登場したときの金比羅神は、海事関係者の信仰を集めていたわけではなく、海の神様とは言えなかった」というお話しをしました。しかし、18世紀後半になると、安田家のような廻船問屋は金毘羅神を深く信仰するようになったことが、残された木札から分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
綾野智子 廻船問屋と海上安全の護摩札    粟島旧廻船間屋「安田屋」に伝わる信仰資料 民具集積21号 2019年 四国民具研究会」
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