瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ:まんのう町誌を歩く > 借耕牛

借耕牛のことについてお話しすることになったので、改めて「借耕牛の研究」を読んでいます。
借耕牛の研究 四国農業試験場報告(第6巻)

1962年に発表された論文なので60年以上経っていますが、借耕牛についてこれに優るものはありません。読む度に新しい発見があります。改めて気づいたり、「発見」したことを補足しておきます。
借耕牛は、阿波の貸方と讃岐の借方の最短距離に近い峠を越えてきました。

借耕牛 搬入ルート

借耕牛の阿波供給地
丸亀平野には美馬・三好郡のソラの村々の借耕牛がやってきた

5借耕牛 峠別移動数jpg


堀川氏は次のように記します。

「猪鼻峠を汽車が通過するまでは西讃地方の借耕牛は全部各峠を通っていた。その数,何千頭にものぼり、その当時は県道も開通せざりし故俗にいえる往還を毎日毎日14日~15日位,道も通れぬほど,耕牛が続き牛の腹に釣りたる鈴が終日,チリン,チリンと鳴り続けたるを覚ゆなり」

関田氏は次のように記します。

「当日は一大市場の如く牛群の往来を遠方より望むときは恰もキャラパンの如き壮観を呈すると云ふ」

小野蒙古風5

借耕牛 美合口
美合口にやってきた親子連れの借耕牛

借耕牛 塩入
まんのう町塩入に集められた借耕牛
借耕牛 財田戸川
財田町戸川での借耕牛の取引風景

借耕牛の貸出は、かつては博労(ばくろ)の家や仲継所へ牛の持ち主が連れて行きました。しかし、昭和30年代になると、遠い村では頭数がまとまれば、地元業者がトラックに載せて運ぶようになります。
 借耕牛の「追い上げ(貸し出し期間)」は、戦前では次の通りでした。
A 夏は毎年6月1日ころより中日(6月22日)の前日までで、7月3日の半夏の翌日4日まで約1ヶ月間貸借し,4日には必ず返す
B 秋は11月1日ころより約2カ月後の俗にいう「おたんや」の翌日返す
 秋の場合は、かつては麦の除草に牛を使ってから返すのが常でした。それが昭和30(1955)頃になると、レンタル期間は以下のようになります。
借耕牛 貸し出し期間
             借耕牛のレンタル期間
上表からは次のような情報が読み取れます。
①借りた日は6月7日を中心としてその前後数日間で、6月10日以後になることはなかった。
②夏の返却日は7月2~3日が多く、半夏に田植えの足洗いがおわると返却する。
丸亀平野では満濃池のゆる抜きが6月15日でした。満濃池の水がやってくる前に荒起こしをして、水が入れば代掻き → 田植え → 7月4日の半夏の足洗いとなります。その期間がだいたい6月一杯となります。田植えが終わると、牛は阿波に帰っていきます。

田起こし 長崎県佐世保市
牛耕荒起こし(佐世保市)
 秋のレンタルの開始日は11月7日を中心に前後数日間で、11月10月以後にはありません。秋は、稲の収穫が終わった後に、麦を蒔くための田起が行われます。

畝立てと麦まき 白木町
秋の田おこしと麦まき(白木町)

麦まきと畝立て 牛耕
麦まきのための田起こし
秋の返却日には広い幅があります。その中心は12月5日前後ですが、それ以降も相当数が返却されていません。これは麦の牛で中耕を行なってから返すもので、従来は2ヵ月程度のレンタル期間だったようです。それが戦後には1ヶ月程度に、ずいぶんと短くなっています。
借耕牛の秋のレンタル期間が短くなった要因は何なのでしょうか?
これは麦まきが終わってからも中耕のために、その後も約1ヵ月借りておくのが経済的かどうかという次のような要因があると研究者は指摘します。
①讃岐の農家は農作業が終了したら飼料費がかかるので、一日でも早く返したい
②農家によっては少し休息させ飼いなおさないと可愛そうだという心理もある
③阿波の貸方農家の心情としては、大切な牛だから仕事がすめば1日でも早く無事な姿をみたい
④反面少しでも飼いなおして、元の状態にもどして返してもらいたい
返却時期の設定については、双方の複雑な思惑や感情があったことを押さえておきます。

阿波では借耕牛は「米牛」と呼ばれました。それはレンタル料として米俵2俵を背中に乗せて帰ってきたからです。これは春秋で、約一石前後になります。

借耕牛 美合落合橋の欄干
まんのう町明神橋の借耕牛 左右に米俵(60㎏×2)を背負っている。

借耕牛 レンタル料
借耕牛のレンタル料(琴南町誌)

上表のように牛の力量や能力、需給バランスなどによって、価格格差があったようです。
 また、米で支払われていたのは明治末期までで、大正末期にはほぼ現金に代わったことは以前にお話ししました。そして昭和14(1939)年に米穀配給統制法が制定されると、米が国家統制下に繰り入れられます。これによって支払いは総て現金払いとなります。つまり、戦後には米俵を背中に積んで阿波に帰る牛の姿は消えていたのです。 
借耕牛 現金へ
借耕牛レンタル料の米から現金への変化時期

借耕牛は、何軒で利用されていたのか?

借耕牛 荒起こし

借耕牛を何軒もの家で使い回して、その結果痩せ細って牛は帰ってきたという話が伝わっていますが本当だったのでしょうか? これを資料で確認しておきます。
k
上図からは次のような情報が読み取れます。
①昭和28年(第1次調査)では、個人(一戸)利用約36%、共同利用が64%
②昭和32年(第2次調査)では、個人(一戸)利用が24% 共同利用が76%
③2次調査では、3~4戸による共同利用が30%に増えている。
④一戸利用の牛の耕耘面積が6~8反なのに対して、4戸ではその倍近くに増える。
確かに、借耕牛を3~4軒で使い回すことがあったこと、そして耕耘面積も広くなり、牛にとってはハードになることを押さえておきます。

最後に 「借耕牛の研究」の論旨を要約整理しておきます。
①借耕牛は、阿波からの讃岐への「人による出稼 →人畜共稼 →家畜のみの出稼」へと発展ししたもの。
②阿波の 畑作商品作自給農業と、讃岐の水田作副業農業という対照的性格の上に借耕牛は成立した。
③つまり阿波は成牛で生産使役、讃岐は仔牛育成で借耕牛依存という形に発展した
④借耕牛の流通は, 貸方は徳島県三好, 美馬郡で, 借方地帯は香川県の綾歌, 仲多度両郡を中心に東西へ広がった。 
⑤大正初年には3,000頭、昭和5年には5,000頭, 昭和10~15年の最盛時には8,000~8,500 頭が阿讃の峠を越えた
⑥戦後混乱期には急減したが、昭和30年代になると 3000頭近くに復活した。
⑦借耕牛成立の条件として、 阿波と讃岐の農業事情のちがいの上に, 耕耘時期のずれや、借方の讃岐側の仔牛調教のうまさなどがあげられる。
⑧借耕牛の取引慣行については、 阿讃の両方に家畜業者(博労)の存在が大きい。
⑨全体的には借方の讃岐の利益が大きく、そのリードのもとに取引が行なわれていた。
⑩レンタル期間は20~30日で、6月と11月の2回行なわれた。
⑪レンタル料は、昭和32年の平均で夏が5400円, 秋が45000円程度で, 年間米一石と云われた明治以来の価格を堅持していた。
⑫昭和33年頃になると、70%以上の牛が2~4戸の複数農家で共同利用されている。
⑬使用日数は13~15日で,1頭の耕転面積は平均 1~1,2㌶で、共同化が進むにつれて耕作面積も増えている。
⑭1日の仕事量は65~75万kgm で激役の部類に属する。
⑮借耕期間中の体重減少は、調査によると平均7kgで、おおむね良好な飼養がなされている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
借耕牛の研究 四国農業試験場報告(第6巻)

借耕牛 2025老人大学202511月

借耕牛についてお話しすることになりました。興味と時間のある方の参加を歓迎いたします。

小野蒙古風5

借耕牛 岩部

借耕牛 小野蒙古風2

借耕牛 小野蒙古風4

借耕牛 美合口
借耕牛 美合口
借耕牛 美合口2
借耕牛 美合口
借耕牛 美合口3
美合口の博労(ばくろ)の庭先にあつまってきた借耕牛
借耕牛 塩入
塩入に集まってきた借耕牛

借耕牛 財田戸川
財田戸川口で競りにかけられる借耕牛
関連記事

借耕牛 歴史の見方
借耕牛 まんのう町明神の出合橋
以前に借耕牛のことについてお話ししました。それに対して「牛の貸手と借手側の動きについて、もう少し詳しく知りたい」というリクエストがありましたので、そこに重点をおいて見ていくことにします。テキストは「借耕牛 琴南町誌595P」です。

借耕牛 峠道
借耕牛の越えた阿讃の峠と集積地

借耕牛 搬入ルート
借耕牛の越えたルート図

借耕牛は、どのような仕組みで明神に集められたのでしょうか?
それがうかがえる史料が昭和30(1955)年頃に、旧琴南町中通の博労・岩崎春市が得意先の借手の農家に出した次の葉書です。

借耕牛 貸し出し農家への依頼文

昭和三十年代 仲介業者から借手農家への葉書(琴南町誌)
拝啓 時下好季節となりました貴家御一同様益々御清祥奉ます
陳れば例年通りに御引立を蒙ります。耕作牛件に付一般に連絡がおくれて居りますが相変ず追出し御用明下さる事と思ひますので追出期日は秋は十一月一日より夏は六月一日より尚仕り牛は早く来ても都合のよいのが居ります。又賃金(レンタル料)も安く勉強して使用出来ると思いますれば近所誘合せて御出下され。尚小生一度御相談に参上ます積りですが若し行かず共入用事時に連絡が出来れば好都合と存じます
先は取り急ぎ御依頼中止ます           ´   敬 具
昭和  年   月   日      ..
香川県仲多度郡琴南町中通小学校前
家畜商并耕作牛仲介業             岩崎春市
これが琴南町中通の仲介業者が、讃岐の借り手側に送った案内葉書になります。「追出期日」というのが阿波から牛がやってくる日時です。それに合わせて、借手の農民に出された案内状です。気になるのは、「場所」が明記されていないことです。どこで借耕牛の「市(セリ)」は行われていたのでしょうか?。また、「借耕牛」という言葉は出てきません。「耕作牛」が正式の名称だったようです。

今度は阿波側の貸し出し農家から仲介業者(博労:ばくろ)への依頼状です。

借耕牛 貸し出し農家からの依頼文
貸出農家から仲介業者への依頼の葉書(岩崎春市提供)
内容を確認しておきます。
若葉香る良き季節となりました。家族の皆様はご健勝にてお過ごしのことと推察申し上げます。本年度も耕牛を追出す予定と致していますが、期日は何時頃が良いか御一報お願い申し上げます。牛は昨年も世話になった牛で、六歳になっています。先方を選んでいただければ幸いかと思います。先ずは取り急ぎ、右御依頼申し上げます。
早々
これが阿波の貸し出し農家からの仲介依頼葉書です。要点を挙げておくと次の通りです。
①今年も牛を「追い出す(レンタル)」する用意があること
②牛は六歳で、昨年もレンタルしたもの
③レンタル先の確保の依頼
④牛を追い出す日時の確認
などが記されています。
以上からは、借耕牛の仲介を世話したのは、博労(ばくろ)と呼ばれる仲介業者だったことが分かります。6月の田植え時期が近づくと、借方の讃岐の農家は地元の仲介業者に借耕牛の斡旋を依頼します。依頼を受けた仲介業者は、阿波の貸方の家畜商や農家に、日時、場所を指定して牛を連れてくるように依頼します。この通知を受けた貸方の家畜商が阿波のソラの農家を巡って、「今年は米に行くんか、行かんのか」と聞いて牛を集めたようです。

池田町史下巻924Pには、次のような「馬喰(ばくろう)」の回想が載せられています。
借耕牛の世話料は、牛の貸し賃の約一割だった。借耕牛の市は、夏と秋の二回あるが、その一期の値段が戦後では、六千円から一万円くらいだった。問屋と交渉したり、向うの馬喰(ばくろ)と交渉したり、個人同志の貸借りの仲介もあった。
個人の世話をするのに、よう讃岐へ自転車持って行って、丸亀まで送ってもらって、自分は汽車で行って、向うの農家を回る。二晩泊って、西へずうっと回って観音寺まで来て得意先の注文を聞いてくる。そして日を決めて、財田の戸川で両方が会うことになる。戸川の道路のはしに、牛をずらっと並べて交渉するんじゃ。
借りる側は、仕事がようけできんの、足元が悪いの言うて牛の苦情を言う。それに阿波から戸川まで遠い所をやあやあ言うて追うて行くきん、弱っとるわ。讃岐の人は戸川から追うていなないかん。牛がもの喰わな仕事にならんぞ、陽に弱いぞと苦情を言う。そこで、ばくろうが、借り手と貸し手と相談したながら、ばっぱっと決めていくんですわ。多いときには、一期に百二十頭ぐらい世話した。

夏と秋の二回あるんじゃが、秋は日にち(レンタル期間)がちょっと長い。秋に弱る(困る)のは残る(借りてが決まらない)ができるんじゃ。秋は、一日を争うて仕付け(麦)せんでも良いので、安い牛がおれへんかと思うとるかも知れん。戸川で四晩ぐらい泊ったこともある。預った牛じゃきん、貸り手を見つけないかんし、牛には、一日に三べん飼料(はご)やらないかん。向うの百姓は牛のこと知らんきに馬喰つれてくるのもあるが、牛を借りたら使わな損というので、牛はやせるのが普通じゃ。

 馬喰の仕事を長いことしてきたんで、得意先じゃった漆川、昼間、足代などの農家はみな顔なじみになった。ことに、山分の人は、上げ荷というて、全部牛で荷を上げよったし、農耕にも使っていたんで、牛が多かったし、付き合いが深かった。

ここからは次のような事が分かります。
①池田のばくろうが丸亀から観音寺まで、自転車で廻って借り手の注文聞いていること
②期日を決めて、財田戸川に借り手と貸し手が集まってセリを開いていたこと
③その仲介をばくろがおこない、多いときにはシーズンに120頭もあつかっていたこと。
以上を図式化すると次のようになります。

借耕牛取引図4
今見てきた琴南や箸蔵の博労たちの活動は、④や⑤のタイプになるようです。

借耕牛の取引システムについて、整理しておきます。
①農繁期が近づくと讃岐の借方農家は、 地元業者(ばくろ)に借牛の斡旋を依頼しる。
②依頼を受けた地元業者は、懇意な口元業者か貸方の業者、あるいは個々の農家に日時、場所を指定して依頼する
③依頼通知を受けた阿波の地元業者はその頭数を集めるためにソラの農家をたずね 「今年も頼みますよ!」と声をかけて歩く。
④仲介業者達は、双方の話が合致すれば、取引の日時と場所をそれぞれの農家に連絡する。
⑤取引当日は、阿波の貸方農家は牛をひいて指定場所までつれいき、借方農家もその場所まで引取りにくる。
⑥そして双方農家と仲介業者が立ち合って, レンタル料を決める。
⑦その際に業者は借り方農家の希望をあらかじめ聞いておいて、その希望に合いそうな牛を斡旋する。
⑧ある意味では「予約制」で、需給にパランスがとれているので、レンタル料は安定している。
⑨取引が成立すると、返却予定日をきめて引渡す。
⑩その時契約書をとり交わすかどうかは、その仲介業者と借方農家の信用度によって決定する。

このような博労(ばくろ)による信用取引が成立するまでには、次のような推移がありました。
明治時代は、ほとんど契約書を取り交わしていました。それが借耕牛慣習が安定化した大正末から昭和初年になると信用取引に変化します。ところが昭和16年以後の戦時下の統制経済の元では、農協が介入し一括して取扱うようになります。そのため仲介業者は閉め出されてしまいました。しかし、この方法では次のような問題点がありました。
①仲介業務を担当することになった村や農協の職員は、牛の良否、能力の判定技術がないこと
②そのため牛の能力に応じた代償額が出せずに公正を欠くようになったこと
③借手側農家の責任感が薄くなり、牛の酷使や過労などが続出して阿波農家が貸出を嫌がるようになったこと
④終戦直後の混乱の中では、牛を酷使するだけでなく、なかには屠殺して肉として売り払ってしまう者まで出てくるようになった。
⑤その結果、借耕牛の流通頭数は激減し、レンタル料は高騰し借り手側農家は困窮した。
⑥こうして敗戦を境として借耕牛システムは終息するかに見えた時期もあった。

そうしたなかで終戦の混乱から世相が安定すると、借耕牛を復活させたのが仲介業者(ばくろ)たちでした。彼らの努力と信用で借耕牛が復活したのです。昭和33年の調査では100%信用取引となっています。これは地元の業者が、各農家の事情をよく捉えていて、農家の信頼を得ているからだと研究者は指摘します。
取引の成立した牛は、讃岐側の農家にひかれて里に下りていきます。
農作業中の全責任は、仲介業者がもつことになっていました。そこで事故疾病などに際しては借方農家から仲介業者へ、 業者は持主に連絡してその処置を協議のうえ補償方法を決定しています。 また農作業が予定日以前に終るような場合には、連絡して日時を早めたり、遅れる場合の連絡なども、すべて仲介業者(ばくろ)が責任をもって行っています。

借耕牛9

 返却日になると、借方農家は牛の弁当 (飼料として普通麦2~3升を煮物にしたもの)を背負わせて、決められた日時に、その場所まで返しに来ます。これを「追い上げ」と云っています。追上げられた牛は双方の業者が立合って、事故の有無をしらべた後で持主に返還されます。その後、代金決済をして取引は終了します。こうしてみると借耕牛システムは、仲介業者(ばくろ)抜きでは成り立たないものであったことが見えて来ます。

借耕牛 レンタル料
借耕牛のレンタル料(琴南町誌)

借耕牛が美合の明神にやってくるまでの光景を見ておきましょう。
①隣人など三・四人が連れ立って、阿讃の峠道を越えて明神に「牛を追い出す」
②明神に着くのは午後3時~5時ごろ
③その夜は明神の宿で泊まり、翌日に取引をする。
④仲介人(ばくろ)が、自分に頼まれた牛を借手に紹介し、値段を交渉して、双方が合意すれば契約成立
⑤レンタル料は米一石(俵2俵:120㎏)前後だが、牛の大小・強弱・鍬の仕込み具合、耕作反別などによって差がついた。
⑥成立すれば契約書を取り交わして、牛は借手人の手に渡される。
⑦追い上げ(牛を返すこと)の場合はこの反対で、牛の背に報酬の米を背負って阿波へ帰っていった。
借耕牛 美合落合橋の欄干
俵2俵を背負って阿波へ帰る借耕牛 阿波では、米を持って帰るので「米牛」と呼ばれた

貸し出す側の阿波の農家は、前日に牛に十分な飼料を与え休養させます。そして、一番鶏が鳴くと同時に追い出します。常着の仕事着に股引をはき、尻をからげて手ぬぐいで頬被りをして出発です。牛の背には弁当と牛の糧(麦を煮たもの)や草履をつけます。

借耕牛 岩部

昭和10(1935)年、セリの前日に明神のある宿の宿泊者名簿に記された出身村名一覧表です。
美合口宿帳1935年 借耕牛
これを見ると、夏は美馬郡の一宇村や八千代村の宿泊者が多かったことが分かります。このふたつの村は、貞光側の最奥部のソラの集落です。山の上には、広い放牧場があって牛を飼うには適していました。供給地と移動ルート、セリなどについては、以前にお話したので、ここでは省略します。
 最後に見ておきたいのが、次の町村別貸出頭数表です。


借耕牛 貸し出側町村名一覧

ここからは、徳島県のソラの集落から借耕牛がやってきていたことが見えて来ます。注意しておきたいのは、香川県内の美合村(旧琴南町)や安原上西村(旧塩江)からも借耕牛はやってきてことが分かります。美合村の昭和10(1935)年夏の飼育頭数は650頭で、そのうち貸出数が450頭に達しています。これは阿波のどの村よりも多いレンタル数です。最後の雌雄島というのは、髙松沖の女木・男木島のことです。ここでは、讃岐にも牛を提供する村々があったことを押さえておきます。

借耕牛の起源についての従来の説は、次のようなものです。
阿波から讃岐の農家に常雇いとして雇われている男を「借子」と呼んだ。阿波山間部では、主食の自給が困難で、讃岐に働きにくることを米の借り出し稼ぎと称していた。また、天保(1830~44)のころは、讃岐には砂糖キビを締める多くの人夫(締子)と牛が必要で、主として阿波の三好・美馬両郡から締子と一緒に牛が出稼ぎに出るようになった。この形態が次第に牛のみとなり、更に農耕用に賃借りする牛のことを「借耕牛」というようになった。(中略)
徳島県は米が少なく、報酬に米が得られることは大きな魅力であり、香川県側は米が豊富で、現金で支払うより現物の方が出しやすかったということが借耕牛の特徴で、「米取牛」「米牛」と呼ばれたゆえんである。
借耕牛 起源

髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。

阿波の国境に近い旧美合の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを放置することはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業の自由」を認められていなかった時代には、藩を超えての借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。
 
文政九(1826)年の人口調によると、各村の牛の保有数と本百姓の牛保有率は以下の通りです。
      村の牛保有数  本百姓の牛保有率
勝浦村  97頭 54%
中通村      105頭  108%
造田村   57頭   29%
この表を見ると勝浦村や中通村は、阿波のソラの集落と地理的条件が似ていて、山間部に放牧地を確保して多くの牛を飼育していたことがうかがえます。しかし、平野が拡がる造田村では、牛を飼育する条件に恵まれず、牛耕ができたのは、一部の百姓に限られていて、大部分の百姓は備中鍬を使って人力で深く耕し、耕作を続けていたことがうかがえます。
  水田の面積が広がり、それだけ水利の便が悪くなると、水持ちをよくして収量を増すために、牛耕に頼ることが多くなります。造田村や下郷の村々では、牛の飼育の条件が悪く、請作に転落した小百姓は、牛を飼育する余裕がありません。牛を飼育していなかった小百姓が、農繁期だけ、中通や勝浦の山間部から牛を借りて耕作するようになります。こうして借耕牛は、高松領内の山分と里分の百姓間で、まず始められたと研究者は指摘します。
 それが借耕牛の需要が多くなると、国境を越えて阿波からの耕牛の導入が始まります。しかし、これは、江戸時代には経済活動の自由が保障されておらず、米の阿波藩への流出を髙松藩は規制していました。この体制下では、阿波牛を耕牛として導入することは難しかったはずです。高松藩では、耕牛の藩内での自給自足を目標にして、牛の飼育を奨励し、潰牛を取り締まり、盗れ牛や放れ牛については、領民同様に、五代官連署の御触れを出して調査を命じ、領内各地に牛の墓も立てられていました。つまり、牛の管理が厳しく行われていたことは以前にお話ししました。こうした中で、天保年間(1830~44)になると阿波からの借耕牛が行われた形跡が見えるようになります。
「稲毛文書」の中に 川東村の忠右衛門と阿波の重清村の藤太との間で結ばれた借耕牛の契約書が二枚残されています。 その内の契約書のうち、阿波の藤太の差し出した契約書を見ておきましょう。

借耕牛 江戸時代の契約書
    覚
一 米 二斗二升也
一 丸札 二匁也
右は此元持牛貸し賃米并追越賃共来る十月十日切、請取に罷越可レ申候為レ其手形如レ件
                          阿州重清村 沼田  藤太
天保十一年六月七日
讃州川東村      忠右衛門殿
意訳変換しておくと
米2斗2升と丸札2匁は、牛貸の賃米と追越賃(輸送費)で十月十日までに、支払いを終えること
 
二枚とも墨で斜線が引かれています。これは何を意味するのでしょうか。髙松藩が認めていない借耕牛の契約書を無効と見せるためのものと研究者は推測します。この契約書の下部に、次のような書き入れがあります
此牛借賃
十月十日藤太罷越、夫々相渡候事にし銀弐匁指支に付米二升、銀弐分相添指引相済候事

意訳変換しておくと

十月十日に沼田藤太がやってきて、米と丸札2匁の契約に基づいて、銀弐匁につき米二升、銀弐分を支払った。

ここからは、一頭の借耕牛が、6月7日に藤太に追われて阿讃の峠を越え、夏と秋の農繁期を働き通したこと、10月10日に米二斗二升を背に載せて、藤太に追われて阿波に帰っていったことが分かります。この牛が、川東村の忠右衛門の家だけで働いたのか、丸亀平野の里分へ又貸しされて酷使されたかは分かりません。
    藩政期の借耕牛に関する文書は、ほとんどありません。ここからは、借耕牛の制度は高松藩によって公認されたものではなかったこと。そのため、借耕牛が盛んに行われるようになるのは、明治維新以後のことと私は考えています。
 阿波からの牛のレンタルは認められませんが、同じ藩内なら話は別です。美合村や安原・男木・女木島は、牛の飼育に適しています。そのため里の農家に牛をレンタルすると云うことが江戸時代の後半には始まったようです。それが明治以後に「経済活動の自由」が認められると同時に、借耕牛需用の増大に伴って、県境を越えて多くの牛がやって来るようになったと私は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
借耕牛 琴南町誌595P 355P
関連記事

借耕牛44

中讃TV「歴史の見方」で、借耕牛のご紹介をしました。
借耕牛 歴史の見方

まんのう町明神は峠を越えて阿波からやってきた借耕牛たちがせりに掛けられ、丸亀平野の村々に引き取られていく所でした。
借耕牛 明神橋

谷川うどんの西側にある落合橋では借耕牛のレリーフが迎えてくれます。
借耕牛 落合橋の欄干

讃岐の平野で1ヶ月働いた牛たちは、米二俵(120㎏)を背にして阿波に帰って行きました。そのため阿波では「米牛(こめ牛)と呼ばれました。

小野蒙古風5

借耕牛 搬入ルート


借耕牛 岩部

借耕牛 小野蒙古風2

借耕牛 小野蒙古風4


興味と時間のある方は、御覧下さい。
動画は
https://www.youtube.com/watch?v=8d2mqvD-MqM
ブログは
https://tono202.livedoor.blog/archives/28412889.html


借耕牛 美合落合橋の欄干
落合橋の借耕牛(まんのう町美合)
最初に見た美合の落合橋の欄干です。向こうに見えているのが谷川うどんになります。この橋は、勝浦からの道と三頭峠からの道の合流点に架かっていて、借耕牛の往来した道とされます。その橋に、さきほどの阿讃君レリーフやこの切絵風デザインが施されています。これを計画・実行した設計者に私は尊敬と感謝の念を抱きます。それでは、どうして借耕牛が讃岐にやってくるようになったのでしょうか。次に、このことについて見ておきましょう。

西讃府誌 牛馬普及率
仲多度・三豊郡の牛馬普及率(西讃府史による)

まず仲多度郡では、牛はどのくらい普及していたのかを見ておきましょう。幕末に丸亀藩が編集した西讃府史には、各村の農家戸数・水田面積・牛や馬の数が、各村ごとに記されています。これを数字化したのが上表です。
①一番上の那珂郡を見ると、牛825、馬100、合計925頭。これを農家戸数で割ると牛馬の普及率は45,9%になります。
②多度郡はもっと低くて、38,8%。
③仲多度全体では約4割。残りの6割の農家には、牛や馬がいなかったことになります。
④三豊全体の平均値は約40%。
讃岐には「五反農家」という言葉がありますが、仲多度郡の一戸辺りの耕地面積を見ると4反未満です。ここからは零細農家が多く、牛や馬を飼うことはできなかったことが考えられます。牛のいない家が、代掻きの時に牛が欲しいと思うのは当然でしょう。牛のレンタル需要があったとしておきます。
 次に、送り手の阿波側を見ておきましょう。
阿波池田の東側に井川町があります。井川スキー場のあるところです。そのスキー場の奥にあるのが腕山放牧場です。

借耕牛 腕山放牧場

阿波のソラの集落には、このような放牧地が山の上にありました。夏はここで放牧するので飼料などは不用です。そのため古くから牛馬の普及率が高かったようです。ここでは阿波の美馬郡や三好郡は、放牧地があって牛の飼育に適していたことを押さえておきます。そしてソラの牛馬は、山を下りて里で運送や田起こし、代掻きなど阿波の中で出稼ぎを行っていたようです。

借耕牛 井内谷村の牛馬保有数
井内谷村の牛馬所有数の推移
この表は井内谷村の牛馬・農家数牛馬所有数を年代毎にしめしてたものです。井内谷村(旧井川町・現在の三好市)は、先ほど見た腕山牧場の下にあるソラに近い集落です。左が年代推移です。
①明和7年(1770)年に329頭だったのが40年後の文化年間には712頭に倍増しています。
②その背景は、藍栽培による好景気がありました。藍栽培が本格化するのが明和時期(1770年)で、これ以後に牛馬の数が急増したことがうかがえます。
③藍運搬などの需要増に答えたのが、ソラの農家だったようです。牛馬所有率を見ると、9割の農家が牛を飼っていたことになります。大正や昭和には、減少しますがそれでも7割近い家が牛か馬を飼っていたことが分かります。
④讃岐仲多度の牛の保有率は4割でした。それにくらべると阿波の保有率は高かったことを押さえておきます。

讃岐への借耕牛が本格化するのは、明治後半になってからのようです。その背景を考えたいと思います。

借耕牛 増加の背景

阿波の特産品と云えば藍でした。
①ところが、明治34年からの合成藍が輸入解禁になって衰退します。その結果、藍栽培に従事していた牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
②代わって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
③葉煙草の高級品を生産したのがソラの集落です。葉煙草には牛堆肥が最良です。そのため、ソラの農家は牛を飼うことを止めません。牛肥確保のために頭数を増やす農家も出てきます。
④しかし、その出稼ぎ先は阿波にはありません。
藍の衰退による「役牛大量失業 + 葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。阿波の牛は、あらたな働き場を求めていたのです。その受け入れ先となったのが、讃岐でした。以上をまとめておきます。

借耕牛登場の背景

①阿波のソラの集落には広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。それに対して、讃岐は近世になると刈敷や燃料薪などの入会権の設定されて、それまでの牧場が消えていくことは以前にお話ししました。そのため牛や馬にたべさせる飼料が手に入りません。
②また讃岐の農家は、零細農家で牛馬を飼うゆとりはありません。
③このような中で、幸いしたのが田植え時期のズレです。上図の通り美馬や三好地方の田植は5月です。一方、丸亀平野の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったのです。

まんのう町の峠 阿波国図

これは阿波藩が幕府に提出するために作成した阿波国図です。
まんのう町に関係する峠を拡大しています。位置関係を確認すると ①吉野川  ②大滝山  ③大川山  ④三好郡・美馬郡 ⑤赤い線が街道 大川山から東側は、美馬の郡里から各方面に伸びる峠道。 例えば、勝浦への峠道には大川山の東側の西側は三好郡からの峠道で旧仲南へ 何が書いてあるのか、ひっくり返して見ておきましょう。

真鈴峠

⑥真鈴峠には「滝の奥より、讃岐国勝浦村へ十丁 「牛馬道」とあります。それに対して、二双越は、淵野村まで二里「牛馬不通」、三頭越えも同じく「牛馬不通」と記されています。三頭越が整備されるのは幕末、明治になってからで、それまでは牛や馬は通れない悪路であったことが分かります。どちらにしても、まんのう町には、江戸時代から阿波との間にいくともの峠道があったことが分かります。
 
5借耕牛 峠別移動数jpg

左側が讃岐の受入集落名(峠名)です。
①昭和5~10年には、夏秋合わせて8250頭の牛がレンタルされています。②多い順は、1美合 2岩部 3猪ノ鼻(戸川・道の駅)  4 清水口 5 塩入 となります。
②ここからは美合と塩入を合わせると3000頭を越える牛がまんのう町にやってきていたことになります。借耕牛の1/3は、まんのう町に入ってきていたことを押さえておきます。
③右段を見てください。それが戦後の昭和33年には、約1/3に激減しています。この理由は時間があれば考えることにします。

次に、牛たちが阿波のどこからやってきたかを見ておきましょう。

借耕牛の阿波供給地

この図は1935(昭和10年)の牛の供給源と、讃岐のレンタル先を示したものです。編目エリアは100頭以上、斜線エリアは50~100頭の牛を送り出したり、受けいれたりしている村々です。ここからは次のような事が分かります。
①借耕牛の送り出し側は、美馬・三好のソラの集落であったこと。最盛期4000頭の内の9割は美馬・三好郡からの牛です。中でもソラの集落からやってくる牛が多かったことが分かります。
②阿波東部には借耕牛は見られない。同時にも讃岐の大川郡は空白地帯である
③借耕牛の通過は、岩部(塩江)→髙松平野  美合→坂出・丸亀  塩入・山脇・猪ノ鼻 → 丸亀・三豊 
ここで押さえておきたいのは、借耕牛は阿波全体から送り出されていたのではなく、阿波西部の三好・美馬郡に限られることです。さらにそのなかでもソラの集落からやってくる牛が多かったことを押さえておきます。
 もうひとつ注目しておきたいのは髙松沖の女木島からも借耕牛は送り出されていたようです。 
借耕牛 男木島.2JPG

石垣でかこまれた坂道を牛が歩いています。ここは女木島のとなりの男木島です。この島は、古くから島全体が牧場とされてきました。島ですから放し飼いができます。また坂が多く、放し飼いの牛は坂を登り降りし、足腰が丈夫で強く、しかも人なつっこくて、よく云うことを聞くので農耕牛としては借り手に人気があったようです。

借耕牛 女木島

こちらは女木島の牛です。髙松から借耕牛が帰ってきた所です。
後には女木島の石垣に囲まれた家が見えます。船が着くと「ハイヨッ」の掛け声で、揺れる船から板を渡って慣れた様子で、牛たちは下りて浪打際をパシャパシャ・・と歩いています。このように男木・女木島と髙松周辺の農家では、早くから借耕牛システムがあったのではないか、そこに明治になって阿波の牛が参入してきたのではないかと私は考えています。
ここで借耕牛の起源について、考えて起きます。

借耕牛 起源

ひとつは江戸後期説です。これはサトウキビを石臼で絞るために、大型の阿波の牛がやってきたというものです。ここで注意しておきたいのは、田畑を耕すためにやってきたのではないことです。その数も僅かなものです。もうひとつは、明治以後説です。
「藍栽培不振 + 葉煙草栽培の拡大」にともない牛の飼育数は減りませんが、役牛としての働き場はなくなります。そこに目を付けたのが讃岐の博労(ばくろ)たちです。

「阿波の牛を飼っている農家を一軒一軒訪ねては、6月10日に讃岐の美合まで牛を連れてきてくれんか。そうすれば賃貸料が入るようにするから」

と委任を取り付け、讃岐の借り主との間を取り持ったのではないかと私は考えています。明治は、移動の自由、営業の自由が認められ、県境を牛がレンタルのために越えることも何ら問題はありません。
髙松藩は米が不足し騒動が起こることを怖れて、藩外への米の持ち出しを認めていません。
旧琴南の村々に対しては、特別に持ち出しを認めていますが数量制限があったことが琴南町誌には記されています。そのような中で、俵を積んだ牛が何百頭も街道を阿波に向かって移動する光景は、私には想像できません。また、年貢納入を第1と考える村役人達も、自分の村から米が出て行くことを許すことはなかったと思います。江戸時代の「移動や営業のの自由」を認められていなかった時代には、借耕牛というシステムは成立しなかったと私は考えています。

走人協定 髙松藩

例えば「讃岐男に阿波女」という諺が残っています。確かに、旧仲南の財田川沿いの集落には、阿波から牛の背中に乗って、嫁いできたという女性が昭和の時代には、数多くいました。しかし、江戸時代には高松藩は、藩を超えた男女の結婚は、上の「走人協定」で許していません。琴南町誌には、密に阿波の女性と結婚してたカップルが藩の手によって引き離されて、女性が阿波に追放される話がいくつか残されています。
借耕牛の増加には、次のような背景があった私は考えています。
①明治になって「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになって、峠越えの経済活動が正式に認められたこと
②阿波の藍産業の衰退による役牛の大量失業
うして借耕牛は讃岐に来なくなったのか?

借耕牛 45


戦後の高度経済成長前の1960年代(昭和30年代後半)になると、田んぼの主役交代します。

借耕牛と耕耘機

耕耘機の登場です。こうして牛は水田からは姿を消していきます。
トラックに乗る借耕牛

1960年代になっても、山間部の狭い谷田では牛耕が行われ、借耕牛も活躍していたようですが、峠を歩いて越えることはなくなります。トラックに乗せられて借耕牛は運ばれます。

最後に、牛が越えた峠は古代からの阿讃の文化交流の道であったことを見ておきましょう。
峠でつながっていた阿讃の里

①弥生時代には讃岐の塩が阿波西部の美馬・三好郡は、讃岐からの塩が阿讃山脈越えて運ばれていました。その交換品として、何かが阿波からもたらされたはずです。善通寺王国の都(旧練兵場遺跡)には、阿波産の朱(水銀)が出ています。塩の交換品として朱が運び込まれていたと研究者は考えています。
②弘安寺跡(まんのう町四条の薬師堂)と、美馬の郡里廃寺には白鳳時代の同笵瓦が使われています。
 瀬戸内海の港や島々は、海を通じて人とモノと文化が行き来しました。それに対して、美合や塩入は阿讃交流の拠点でさまざまなものが行き交う拠点であったのです。そのような視点が今は忘れ去られています。阿讃の峠越えの文化交流をもう一度、見直す必要えがあると私は考えています。そのひとつのきっかけを与えてくれたのが借耕牛でした。最後に、参考文献を紹介しておきます。

借耕牛探訪記
借耕牛の研究

借耕牛講演会
関連記事

阿讃交流史 阿讃の峠道を越えた借耕牛(かりこうし)
阿讃交流史 まんのう町(旧琴南町)の阿讃の峠
善通寺の古墳NO2 旧練兵場遺跡群と野田院古墳の関係は?
阿讃交流史 まんのう町造田の地鎮祭に、阿波芝生からのデコ人形奉納願いが許されなかった背景は?
幕末の金比羅阿波街道・三頭越のまんのう町のお堂から
阿讃交流史 讃岐山脈の峠を越えた塩・綿
阿讃交流史 江戸時代の絵図に書かれた讃岐山脈の峠道
阿讃交流史 まんのう町勝浦は阿讃の米の道が通っていた

借耕牛講演会ポスター

上記の郷土史講座で借耕牛について、お話しした内容を使った資料と一緒にアップしておきます。

借耕牛 落合橋

     今日お話しするのは、この牛についてです。この牛は美合の谷川うどんさんの上にある落合橋の欄干にいます。阿讃の峠を越えて行き来したことにちなんで私は勝手にこの牛を「阿讃くん」とよんでいます。私の中の設定では「黒毛で5歳の牡」となっています。どうして、そう思っているのかはおいおい話すことにします。阿讃君は美合の橋にレリーフとして、どのようにして登場したのでしょうか。その背景を探ってみることにします

5借耕牛 写真峠jpg

この写真は、徳島と讃岐を結ぶ峠道です。そこを牛が並んで歩いていきます。いったどこに向かっているのでしょうか。
借耕牛7

峠から里に下りてきました。ここでも牛が並んで歩いて行きます。どこへ行くのか、ヒントになる文章を見てみましょう。
 先のとがった管笠をかむって、ワラ沓をはいて、上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから阿波から牛はやってきた。
山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年) 岩部(塩江) 
 今から約100年ほど前、昭和初期の岩部のことが書かれています。岩部は現在の塩江温泉のあたりです。ここに牛追いに追われて、相栗峠を越えて阿波から牛がやってきたことが分かります。やってきた牛の姿を見ておきます。

借耕牛 岩部

塩江の岩部の集落にやってきた旅姿の牛です。上の俳句を私流に意訳しておきます。
 阿讃のいくつもの青い峰を越えてやってきた牛たちよ おまえたちの瞳は深く澄んでいって吸いこまれそうになる。

 この牛が私には最初に見た「阿讃君」に思えてくるのです。

借耕牛9
「借耕牛探訪記」より
首には鈴、背中には牛と人の弁当。足には藁沓を履いています。蹄を傷つけないようにするためです。ぶら下げているのは、草鞋の替えのようです。こうして峠を越えた牛たちは、讃岐の里の集落に集まってきました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
借耕牛の集合地 左が美合、右が塩入
地元の仲介人の庭先に、牛が集められています。この写真の左が美合、右が塩入です。牛がやってきたのは、塩江だけではありません。まんのう町にもやってきたことを押さえておきます。
ところで最近、こんなシーンが映画撮影のために再現されました。 

借耕牛 黒い牛ロケシーン

借耕牛を引き渡すシーン 黒の牛 大喜多邸
 
借耕牛を描いた映画「黒の牛」のロケシーンです。ロケ地は三豊市山本町河内の大喜多邸です。大喜多邸は、三豊一の大地主でした。その蔵並みをバック幟が立てられて、その下で野菜などが売られていいます。小屋の下には、牛たちが集まっています。こんなシーンが美合や塩入や財田の戸川は、見られたのでしょう。それでは、集まった牛たちは、この後どうなるのでしょうか 

借耕牛のせり
借耕牛のせり
 牛がつながれて、その周りで人が相談しているように見えます。何をしているのでしょうか? 
到着した山麓の里は急に騒がしくなる。朝霧の中、牛たちが啼き交い、男たちのココ一番、勝負の掛け声や怒号がとびかう。大博労(ばくろう)とその一党、仲介人、牛追い、借り主の百姓たちが一頭の牛の良し悪しを巡り興奮に沸き立つ。袂(たもと)の中で値決めし、賃料が決まったら、円陣を組んで手打ちする。 「借耕牛探訪記」

 俳句の中には「歩かせ値決め」というフレーズがひっかかります。現在の肉牛の競りならば、歩かせる必要はありません。講牛として使うためには、実際に歩かしてみて、指示通りに動くかどうかも見定めていたことがうかがえます。

借耕牛 せり2

競りが終わったようです。笑顔で手打ちをしています。真ん中の人が「中追いさんやばくろ」と呼ばれる仲介人です。その前が競り落とした人物のようです。
どんな条件で競り落とされたのでしょうか。契約書を見ておきましょう。
借耕牛借用書2


表題は耕牛連帯借用書とあります。
①は牛の毛色や年齢です。 5歳の雄牛です。
 牛の評価額です。 2百円とあります。
②レンタル料 9斗とあります。10斗=米2俵(120㎏)=20円 地方公務員の初任給75円。1ヶ月のレンタル料は、新採公務員の給料1/4ほどで、現価格に換算すると4~5万円程度になります。牛の価格は200円ですから、初任給の3ヶ月分くらいで60万強になります。
③レンタル期間です 昭和3年は今から約100年前です。満濃池のユル抜きが時期から 代掻きはじまり田植えまでの約1ヶ月になります
④レンタル料の受渡日時と場所です。 夏の場合は、7月の牛の返却時ではなく、収穫の終わった年末に支払われていたことが分かります。秋にもやってきていたので、収穫後の年度末に支払われていたようです。
契約書の左側です。
借耕牛借用書3

意訳変換したものを並べておきます。
⑤借り主は木田郡三谷村犬の馬場の片山小次郎
⑥世話人(仲介人・ばくろ)が塩江安原村の小早川波路
⑦貸し主(牛の所有者)が安原村の藤原良平です。
以上からは、塩江安原村の藤原さんの牛が、木田郡三谷村の片山さんに、約1ヶ月、約米2表でレンタルされたことになります。この牛の場合、讃岐の牛です。
今度は、戦後の契約書を見ておきましょう。

借耕牛 契約書戦後
         昭和30年頃の借耕牛契約書
 耕作牛賃金契約書とあります。前側の一金がレンタル料金です。空白部分に金額を書き込んだのでしょう。後は「盗難補償金見積額」とあります。盗難や死んだときの補償金のようです。この契約書で注目したいのは、「金」とあることです。ここからはレンタル料がお金で支払われるようになっていたことが分かります。
それでは、いつ頃に米からお金に替わったのでしょうか? 
借耕牛 現金へ
借耕牛のレンタル料の米から現金への変化時期
横軸が年代、縦軸が各集落をあらわします。例えば、貞安では、大正初めに現金払いになったことが分かります。現金化が一番遅かったのが、滝久保集落で昭和10年頃です。昭和初年には、半数以上はレンタル料は米から貨幣になっていたようです。ここからは米俵を牛が背負って帰っていたという話は、昭和初年までのことだったことが分かります。
天川神社前1935年 

こうして牛たちは、土器川や金倉川・財田川沿いの街道を通って、各村々にやってきます。牛たちを待っていたのは、こんな現実でした。

借耕牛 荒起こし

荒起こしが終わり、田んぼに水が入ると代掻きです。
牛耕代掻き 詫間町

ある老人は、当時のことを次のように振り返っています。
  もう、時効やけん、云うけどの 一軒が借耕牛貸りたら、三軒が使い廻すのや。一ヶ月契約で一軒分の賃料やのにのお。牛は休む間も寝る間もなく働かされて、水飲む力も、食べる元気もなくなる。牛小屋がないから、畦の杭につながれて、夜露に濡れ、風雨に晒されたまま毎日田んぼへ出される。        「借耕牛探訪記57P」

休みなく三軒でこき使うのも、讃岐の百姓も貧しく、生きていくために必死だったのでしょう。何事も光と影はできます。中にはこんな話も伝わっています。
「来た時よりも太らせて帰すため、牛の好きな青草刈りに子どもたちが精出した」
「自分の所の牛と借耕牛を一日おきに使い、十分休ませる」
 こうして牛たちは、レンタル先で田んぼの代掻きなど、6月初旬から1ヶ月ほど働きます。代掻きがおわる7月になると、牛たちは集合場所まで追われていきます。そこで借り主に返されるのです。

DSC00661借り子牛
別れを告げ阿波に帰る借耕牛 (塩江町岩部)

牛の手綱を返された飼い主は、牛を追って、阿讃の峠を目指します。この写真は、借耕牛を見送る写真です。向こうの家並みが岩部の集落のようです。迎えにきた持ち主や追手に連れられて、阿波に帰っていきます。私が気になるのは、右端で見送る人です。蓑笠姿です。ここまで牛を連れてきた借り主のようにも見えます。1ヶ月、働いてくれた牛への感謝を込めて見送っているように見えます。

借耕牛に関わる人たちのつながりを整理しておきます。

借耕牛取引図3

一番上が牛を貸す方の農家です。口元行者というのが、讃岐ではばくろ、阿波ではといやと呼ばれる仲介者です。阿波にバクロが訪ねていって、「わしにまかせてくれ」と委任状をもらいます。そして、美合や塩入などに牛を連れていく期日を決めます。ここでは貸方と借り方の農家が直接に契約を結ぶのではなくて、その間に業者(ばくろ・といや)がいたことを押さえておきます。そこで、競りにかけられ、借り主が決まり契約書が交わされるというシステムです。
 この場合に、牛を連れて行くのを地元行者に任せることもあったようです。そのため何頭もの牛をつれて、峠を越えてくる「おいこ」の姿も見られました。しかし、多くは、牛の飼い主が美合や塩入まで牛を追ってきたのです。彼らは、飲み屋で散財するのでなく持参の麦弁当を食べて、お土産を買って帰路についたのです。牛を貸した後、無事に1ヶ月後には帰ってこいよと祈念しながら 麦弁当を木陰で食べる姿が思い浮かびます。 第一部終了 休憩
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
関連記事

 

借耕牛探訪記

借耕牛の研究

下記の通り、借耕牛についてお話しすることになりました。小学生達も参加するようなので、できるだけ分かりやすく、そして楽しく話したいと思います。借耕牛に、興味のある方で、時間の余裕のあるかたの参加を歓迎します。

借耕牛講演会ポスター
借耕牛 落合橋

借耕牛7

借耕牛 美合落合橋の欄干

借耕牛登場の背景

借耕牛 12

借耕牛のせり

借耕牛借用書2

借耕牛8

借耕牛の阿波供給地

借耕牛3
借耕牛 通過峠

借耕牛取引図3

借耕牛見送り 美合

借耕牛5

借耕牛6

関連記事

5借耕牛 写真峠jpg
        阿讃の峠を越える借耕牛
阿波の美馬,三好地方で「米牛」と呼ばれる借耕牛の習慣は,江戸中期から始まったとされています。
農耕用の牛は一年中、働き場所があるわけではありません。春秋の二李,(田植期と収穫期)のみが出番です。そこで、美馬・三好両郡の山分で水田に乏しいソラの農家が,自分の家の役牛を農耕用として讃岐の農家へ貸します。そのお礼に、おいしい「讃岐米」の俵を背に積んで帰ってきました。今回は借耕牛(米牛)について見ていくことにします。テキストは「借耕牛の研究」四国農事試験場報告6号381P~(1962年)」です。これは、PDFfileでダウンロード可能です。

借耕牛が成立するには次のような背景がありました。

借耕牛登場の背景
これに対して、阿波には山の上に広々とした牧場があり、夏はそこで牛を放し飼いにしていました。

借耕牛 美馬郡の腕山牧場
阿波のソラの集落には広い放牧場があった。 
また、美馬や三好地方の田植は5月ですが、西讃地方の田植えは満濃池のユル抜きの後の6月中旬と決まっていました。つまり春には、阿波の田植えが終わってから讃岐の田植えに,秋には阿波の麦蒔がすんでから讃岐の麦蒔きに出掛けるという時間差があったようです。

 そこで、この間を橋渡しする仲介業者が現れるようになります。

借耕牛取引図3

貸方の阿波農家と,借り方の讃岐農家の間に入って牛の仲介する博労を美馬郡では俗称「といや」、さぬきでは「ばくろ」と呼んでいました。「といや」が中に立って牛を連れて行く場所と日時を決めます。
それが讃岐側の塩江の岩部、まんのう町の美合や塩入、財田の戸川でした。そこに借り手と貸し手と牛が集まってきます。ここで仲介人が借賃についての条件を相方に話し、納得の上で讃岐側の借主が牛をつれて帰りました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
  このような光景が、まんのう町の塩入や美合でも見られたのです。

山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年発行)には、塩江の岩部の当時の様子が次のように書かれています。 
 先のとがった管笠をかむって ワラ沓をはいて 上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから牛はやってきた
朝 登校の途中でこの牛の群れに出会うと わたしたちは小さい溝を飛び超えて 山手の方に身を避けた 牛の群れが立てた往還のものすごい土ぼこりを 山から吹きおろした青嵐が次々と香東川の清流の中へ消していった
借耕牛 12
 讃岐にやってきた阿波の牛

 岩部(塩江温泉周辺)の里は一ぺんに活気づいた 牛追いさん 受け取り人 世話人(口入れ人) 牛馬商が集まってきて 道も橋も牛と人で一ぱいになった うどん屋も 宿屋も 料理屋も押し合いへし合いで 昼のうちから三味線の音が聞こえ 唄声が流れた
 
借耕牛 美合
美合(まんのう町)に集結した牛たち
借耕牛のせり
競りにかけられる牛たち

 田植えが済んで牛が帰るころは もうかんかん照りの真夏であった 借耕牛は米牛とも呼ばれ 米を何俵ももらって帰ったものだ 塩ざかなを角に掛けた いわゆる「角みやげ」をもらった牛もいる 
 かわいそうに使いぬかれて やせ衰えた牛もいる 讃岐でお産をして可愛い子牛と一しょに帰る牛もいた  
 それらが帰ってしまうと 岩部の里は 一ぺんに静かになって 長い冬がやって来るのであった
どうして阿波からの借耕牛がやってくるようになったのか?

借耕牛 美合落合橋の欄干
美合(まんのう町)の落合橋の欄干
ここには次のような発展段階があるようです。
5借耕牛 発展段階
①江戸時代に、阿波の男達が農繁期に「カルコ」として出稼ぎにやってきていた。
②幕末期に讃岐の砂糖製造が軌道に乗ると、砂糖絞りのための牛の需要が増大した。これには小さな讃岐牛は不適で、大型で力のある阿波牛が適していた。
③「カルコ」たちが牛を連れてやってきて、砂糖絞り車で働き始めた。
 借耕牛以前に「人間の労働力移動(出稼ぎ) → 砂糖牛の移動」という段階があったようです。

明治になって借耕牛が増えたのは、どうしてでしょうか?

借耕牛 増加の背景

次のような背景を研究者は考えているようです。
1 阿波側の藍栽培の衰退
阿波の特産品と云えばでした。しかし、明治34年からの合成藍の輸入で急速に衰退します。その結果、藍輸送用の牛の行き場がなくなります。役牛の「大量失業状態」がやってきます。
 2 代わって明治になって隆盛を極めるのが三好地方の葉煙草です。
葉煙草には、牛堆肥が最良の肥料です。牛肥を得るために、煙草農家は和牛飼育を始めます。こうして三好郡の役牛数は増加します。藍の衰退による「役牛大量失業」と葉煙草のための牛飼育増」という状況が重なります。例えばまんのう町の美合には

煙草作りの牛肥確保のために、讃岐の牛を農閑期に預かっていた

という古老の話が残っています。明治15年頃の話ですが、阿波側は田植えを早く済ませると零細農家の男達もは讃岐へ出稼ぎに行っていたのは、先ほど紹介したとおりです。彼らは牛のいない農家です。そのため田植えが終わって帰る時に、讃岐の雇主の牛を預かって帰り、夏草で牛を飼い堆肥を作って、秋に牛を返すときに自分も働いて帰っていたというのです。牛の飼い賃としては、米・綿・砂糖・煮干しをもらったそうです。
 3 讃岐の農業事情 砂糖・綿花が香川から姿を消すのが明治末。
 藍が衰退したように外国からの輸入で、サトウキビや綿花の栽培も経営が行き詰まります。そこで、綿花や砂糖黍が作られていた土地が再び水田化され、米麦集約栽培の単調な農業経営へ変わって行きます。さらに、満濃池の増築など農業水利の整備で、畑の水田化も進み水田面積が急増します。こうして、牛耕需要は高まります。江戸時代から借耕牛を利用していた家の周辺でも「うちも来年からは、お願いしたい」という声が中継人に寄せられるようになります。

    4 阿波の畜力事情   牛馬の所有率が高い阿波の農家 

借耕牛 阿波の牛馬普及率

上表からは、江戸時代の文化年間(1789~)の阿波の和牛普及率は7~9割で高いことが分かります。特に、ソラの集落では各農家が早くから牛馬のいずれかを買っていました。その背景は、藍による資本蓄積が進んだ明和時期(1770年)に普及率が急増したことがうかがえます。藍バブルで儲けたお金を牛の購入という生産性の向上に着実に投資したようです。
     それに比べて西讃地方の牛普及率はどうでしょうか?

西讃府誌 牛馬普及率

西讃地方の牛馬普及率(西讃府誌

    普及率が高い三野郡でも5割に達していません。平均4割程度で、阿波に比べると牛馬の普及率が半分程度であったことが分かります。この「格差」が牛の移動をもたらした要因のひとつのようです。
  それでは、どのくらいの牛が峠を越えて讃岐に出稼ぎにやってきていたのでしょうか
 
5借耕牛 阿波貸し出し頭数

ここには最盛期の昭和10(1935)年と戦後昭和34(1959)年の三好郡と美馬郡の各村ごとの牛の飼育頭数と貸出牛数が記されています。ここからは次のような事が分かります。
①三好郡と美馬郡でそれぞれ1800頭前後で、合計約3500頭が借耕牛として阿讃の峠を越えていた。
②香川県の美合村や安原村からも借耕牛が出ていた
③三好郡で貸出率が高いのは、三縄・井内谷・箸蔵で7割を越えている
④美馬郡で貸出率が高いのは、端山や一宇でソラに近い村の方が高い傾向が見られる。
 「経済の自由・移動の自由」が保障されるようになった明治になると、借耕牛は急激に増えたようです。そして、戦前直前の1940年頃には毎年約4000頭が阿讃の峠を越えて讃岐にやって来たようです。それは美馬三好両郡で飼育されていた牛の頭数の約半数になるようです。

最盛期の借耕牛の移動を図示化したものです

借耕牛の阿波供給地
借耕牛の移動図

  ここからは、阿波のどの地域からどの峠を越えて、讃岐のどの地域へ借耕牛が貸し出されたかが分かります。そして、次のような牛の移動ルートが見えてきます。
①美馬郡 → 相栗峠→岩部口(高松氏塩江町)
     → 三頭峠→美合(まんのう町)
     → 香川郡 高松平野
②三好郡  →東山峠 →塩入(まんのう町)→綾歌郡
                   →男山峠 →山脇(まんのう町) →仲多度郡
      →箸蔵街道 →財田(三豊市財田町)→三豊郡
 阿波西部の2つの郡から阿讃の峠道を越えた牛たちは、里の宿場に集結し、讃岐の借り手の家に引き取られていきます。

借耕牛 通過峠
(数字は、夏秋の合計)

戦前には約4000前後だったのが,高度経済成長期には約500頭まで激減します。それは耕耘機が現れたからです。いわゆる「農業の機械化」で、水田から牛の姿は消えていきます。

借耕牛のレンタル契約は?

借耕牛借用書2
昭和3(1928)年の借耕牛借用書右部分

借耕牛借用書3
借用契約書左部分
春は6月上旬から7月の半夏(はんげ)の頃まで1ケ月間
秋は11月上旬から12月上旬までの1ケ月間で,
給金として米俵二俵(8斗前後)を背に積んで帰りました。
5借耕牛 賃料の現金化移行写真峠jpg

しかし、上8を見ると分かるように大正時代になると、どの地域でも米から現金に変わっていったことが分かります。貨幣経済が本格的に浸透が、このあたりだったことがうかがえます。
春は1ケ月間,丈夫な牛で最高9,000円~最低4.000円
秋は1ケ月は,丈夫な牛で8,000円弱い牛で約4,000円
借耕牛 レンタル料推移

それでも、手ぶらで帰すのは様にならないので、帰りの牛の弁当として「よまし麦」を牛の荷肩に積むようになったようです。

借耕牛見送り 美合
阿波に帰る牛たちを見送る(まんのう町美合)
  こんな借耕牛の姿が見られたのも1960年頃まででした。農業の機械化が進み耕耘機が登場すると牛耕の時代は終わります。牛たちは田んぼから静かに姿を消しました。そして阿讃の峠を越える牛の姿もなくなったのです。
先ほど紹介した小野蒙古風の「句集 借耕牛」に載せられた句を紹介します  
  借耕牛 青峡下る草鞋ばき
  借耕牛 糶(せ)られつ緑陰に尿太し
  糶る牛 歩かせ値ぎめの指を握りあう
  幾青嶺超え来し牛か澄む瞳して
  牛貸して腰の弁当涼しみ喰う
借耕牛 落合橋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
2024年6月9日改訂版

このページのトップヘ